オンラインでもオフラインでもしばしば思うことがある。
今日の日本社会では、ネットであれテレビであれ
「バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だ
と言いたくなる風景がしばしばみられる。
なにか不祥事や事故があったら、法的責任が問われるだけでは済むとは限らない。
その責任者は罵倒され、ときには土下座させられる。
法的責任を追求するのとは別に、“感情を納得させる”ために罵倒すること・土下座させることを正義とみなす空気が発生することもある。
もちろん、そうした罵倒や土下座に警察が口出しをすることはない。
最近になってようやく、マスメディアが苦言を呈するようになったぐらいだ(ただし、マスメディアが煽ることもまだある)。
罵倒や土下座強要は、被害届を受理するほどのものではないし、仮にそれで誰かがうつ病になったようにみえても、「因果関係は不明」であれば、責任と呼ぶべきものの所在はわからない。
バッシングが公認される大義名分がある限り、バッシングされてもしようがない・罵倒させられたり土下座させられたりしても仕方がない、といった不文律が存在するかのようだ。
インターネット上での“炎上”もこれに似ている。
失言・過失・違法行為があったと判明した相手に対しては情け容赦が無い。
叩かれるに値する大義名分を背負った相手なら、罵倒も、嘲笑も、プライベートの暴露さえもやって構わない、という空気がネットに滞留している。
そのようなバッシングは、ときには世直し気分さえ伴って行われている。
「バッシングされる大義名分を背負った人間は、法的責任を追及されるだけでなく、罵倒しても構わないし、土下座させても構わない」
というのが、今日のオトナ世界のコンセンサスらしいのだ。
無慈悲であり、不寛容であり、あまり上品でもない不文律だが、とにかく、オトナの世界はそんな風に回っている。
オトナ世界の不文律と、「いじめ」との共通点
で、そんなオトナ世界をずっと眺めながら、子ども達は育っていくわけだ。
子ども達は学習能力に優れているので、社会の規範意識をしっかり把握して、正確にインストールしながら成長していくだろう。
・叩いてOKと公認された相手は、罵倒しても土下座させても構わない。
・訴訟にならない範囲なら、過失・落度のあった者をリンチして構わない。
・いったん悪者認定された相手に慈悲をかける必要は無い。
・叩かれた相手が後でうつ病になるかどうかなんて考える必要は無い。
どれもオトナがやっていることであり、テレビやネットを通して日常的に観察される風景である以上、それらを子どもが模倣し、身に付けていくのは自然なことだろう。
こうした”ジャスティス”は大人から子どもへと引き継がれ、そして子ども自身の手によって実行されていく。
すべてのいじめがこうだとは思わないが、少なくないいじめには、こうした無慈悲な規範意識が潜んでいるのではないのか。
もちろん子どもの場合、こうした身振りはオトナほど洗練されていないし、様式化されてもいない。
どこまでが訴訟になって、どこまでが訴訟にならないかもよくわかっていないだろう。
だからボロが出ることもあるし、ヒートアップし過ぎて相手を怪我させたり自殺させたりするかもしれない。
少なくともいじめとして発覚し、大人たちの介入を呼んだようないじめに関してはそうだろう。
それでもなお、相手が不登校や胃潰瘍になる程度なら“因果関係は不明”のままで警察や弁護士が登場することもなかなか無いので、オトナ世界の”ジャスティス”とそんなに違わないよねー、という理解に終わってしまいそうである――少なくとも当人達の主観レベルでは。
この視点から眺めた場合、子どものいじめは「バッシングして構わない大義名分さえあれば徹底的に叩いて構わない。それが社会だ」の劣化コピー版、のように見える。
少なくとも、オトナ社会の劣化コピーと呼ぶにふさわしいいじめは存在するだろう。
「こいつはみんなに迷惑をかけているやつ」「こいつはバッシングされても仕方のないやつ」と認定するバッシングの大義名分は幼稚で、オトナ社会からみて筋が通っていないと判定されるかもしれないが、背景に潜む倫理感覚や道徳感覚のロジックには、現代のオトナ社会に共通するものがあるようにみえる。
そして、あえて意地悪な見方をするなら、これから社会に出て行く予行練習として、子どもはいじめにまつわる諸現象を体験する、とさえ言えるかもしれない。
いじめられて再起不能になった犠牲者を除いて、いじめの現場に立ち会った全員は、バッシングをどう回避すれば良いのか・どういう時なら安全にバッシングできるのかを身近な問題として学習するだろう。
ひどい話だが、なかにはいじめを主導することにより、さらに狡猾で、さらに無慈悲で、さらに安全にいじめる手法(……というより、いじめやハラスメントと絶対にみなされないまま誰かをバッシングしたり排除したりする手法)を身につけて社会人になる人すらいるかもしれない。
子ども達は、オトナ達にいじめと判定されたいじめから多くのことを学ぶだけではない。
オトナ達がいじめと判定しなかった、いわば、いじめ未満とオトナが判定した諸々からも多くのことを学び、倫理感覚や道徳感覚に磨きをかけていく点にも注意が必要だ。
そのような学びを積み重ねた子ども達がオトナになり、次の世代の子ども達の規範意識・倫理感覚のインストール元になっていく。
いじめを減らしたいなら、まずオトナが慈悲深くなるべきでは
以上を踏まえると、いじめを減らすための長期戦略のひとつとして、オトナ達の規範意識・倫理感覚・身振りを変えていくことが重要に思えてくる。
“バッシングして構わない過失や落度のある相手なら、どれだけ叩いても構わない”という社会的コンセンサスをなくすか、せめて、緩和する必要があるのではないか。
だから、オトナ達が子どもに向かって口で注意する前に、まず、オトナ達自身が、慈悲深い身振りを実践してみせる必要がある。
そして落ち度や迷惑のあった相手をバッシングしすぎないよう、心がける必要がある。
気長な話に思えるかもしれないが、長い目で見れば結局、これが一番有効ではないだろうか。
オトナ達の、「大義名分さえあるなら、無慈悲にバッシングしても構わない」という後姿を見ている限り、子ども達は「いじめは良くない」ではなく「大義名分の立たないいじめは良くない」、または「大義名分が立つなら、それはいじめ未満である。とことん叩いても構わない」のほうをインストールしてしまうだろう。
それでいいんだ、いじめ未満は叩いて構わないと子どもは学習すべきだとおっしゃる人もいるかもしれないが、私には、それは違う気がしている。
落ち度のあった人・迷惑のあった人に対しても最低限の慈悲・寛容・礼節をもって接する後姿をこそ、子ども達には見せるべきではないだろうか。
年長者が手本を示せないようでは、子どもがついてこない。
もちろんこれは、とても難しい課題だと思う。
オンラインでもオフラインでも、結局オトナ達は大義名分の立つ限りにおいてバッシングできるものをバッシングしてやまないからだ。
それでも、大義名分さえ立つならバッシングしていいという無慈悲の悪循環はどこかで断ち切らなければならないし、そのためにも、各人が心のブレーキをできるだけ意識しておく必要があると思う。
私もそのオトナの一人として、気をつけていかなければならないと思っている。
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出典――『シロクマの屑籠』セレクション(2012年7月7日投稿) より
【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』
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