いきつけの薬局、処方薬が用意されるまで、おれは室内に貼られたポスターをポケーっと見ていた。
一つのポスターに「うっ」となった。
そのポスターには、面接やプレゼン、人が緊張するイラストが今風の絵柄で描かれていた。
なかでも私が目を引かれたのは、「教室で先生に当てられて困惑する子供」だった。
おれは薬局に行くたびそのポスターを見ては、「うっ」と思う。べつに見なけりゃいいんだが。
シーンは学校の授業、先生が生徒を指名して、進行中の授業の答えを求める。ありきたりな風景だ。
とくに、漫画やアニメ、ドラマなんかで、主人公が授業をサボって別のことをしているときに、当てられる。
その主人公なり誰だかは、学校の授業以外に興味を持てなかったのだな、と視聴者にわからせる。
逆に、スラスラと答えさせて、「勉強ができる子なのだな」という演出にもなる。
周りの友人が助けるとか笑うとか、人間関係の演出にもなる。
ともかく、少なくとも日本の学校において、教師が生徒を当てることによって、なんらかの状況が生まれるというのは、ありがちなことだ。
あるいは、最近みた韓国の映画でもそのようなシーンがあったので、現代的な「教室」のなかでは当たり前の光景なのかもしれない。
「先生に当てられる」のが嫌だった
むろん、多くの人にとって「先生に当てられる」ことは嫌なことだろうとは思う(もちろん自分から手を挙げるタイプの人間がいないわけでもない)。
とはいえ、その「嫌なこと」の度合いにはグラデーションがある。
おれは徹底的に当てられるのが嫌だった。それこそ、学校に行きたくないくらい嫌だった。
だからといっておれが「社交不安障害」や「回避性パーソナリティ障害」だと言うつもりはない(後者については主治医から「そうかもしれない」と言われたが)。
それにしても、なにごとにも病名がついてしまう時代だ。
「あがりやすい」、「緊張しやすい」性格も、病名がついてしまう。
おれの患う双極性障害なんてわかりやすいものだ。
機序がわかってないので寛解もほとんどないのだが。
まあでも、もしもそういった障害の基準に適合する人が、薬物によっていい感じに自分をコントロールできるなら、それに越したことはない。
で、おれはグラデーションのどのへんか?
言うまでもない、色で言えばC100、M100、Y100、K100の4色ベタだ。
CMYKがわからない? いまあなたが使っている便利な箱で調べればいい。
まあとにかく真っ黒だということだ。リッチブラックなんかじゃない、黒塗りだ。嫌で、嫌で、嫌だった。
それにしてもだ、おれの記憶によれば、「わかるひと!」と挙手を促す先生に対して、みながすすんで手を挙げるという授業の記憶がない。
うまいこと先生と生徒のあいだによい空気が形成されていれば、活発なやりとりが行われることもあるだろう。
でも、そんな教室って、あるのだろうか。
先生が挙手を促しても教室は静まり返り、地獄のような指名が行われる、そんなイメージしかない。
まあ、おれは教員でもないので、これについては、一回きりの生徒、学生生活を通じて抱いた一例にすぎないわけだが。
ああ、しかし、本当に嫌なものだった。
薬局でいつもポスターを見ながら(だから見なければいいのだが)、いつもおれは思い出す。
遠い昔の苦痛が思い出される。やっぱり社交不安障害の薬も処方してもらおうかとすら思う。
おれは基本的に文系とされるものについては、平均以上の学力を持っていたと思う。そういうことにしておいてくれ。
一方で、理系、すなわち算数や理科については、これはもう、なにもわからなかった。
なにがわからないかわからない、というレベルでわからなかった。
だから、教室の白昼夢悪夢のなかで思い浮かぶのは、やはり理科や算数だ。
あとは、おれに音楽性というものがないから音楽だ。
小学校のころのクラスメイトの顔と名前もほぼ忘却しているのに、理科や算数、数学、音楽についての嫌な記憶は消え去らない。
なんなら、名前すら覚えていない嫌な教師の顔だけは思い浮かぶ。
なんでそんな苦痛が必要なのか。
教師が生徒を当てて、その生徒の理解を確かめる。あるいは、授業に集中していない生徒を矯正する、そんな意図はあるだろう。
そのように学習指導のためのマニュアルもあるのだろう。
一方的に教師が板書し、教科書を読み上げるのはよい授業ではない、というのは自分の子供のころからあったような話だ。
おれは教育学について学んだこともないので、「当てる」行為が、たとえば双方向的で活発な教室につながるものなのか知らないけれど。
なんであれ、おれにとっては教師が「当てる」行為は死ぬほど嫌なことであった。
「当てる」教師もいれば、「当てない」教師もいる。次の授業が「当てる」教師だったら気が気ではない。
席順に当てていく教師であれば、今回自分に回ってくるだろうか? ランダムに当てる教師なら、もう避けようがない……。
そしておれは理科や算数、数学あるいは音楽の授業がますます嫌いになった。
苦手で、忌避すべきものになった。「私には当てないでください」カードなんかがあればよかったと思うくらいだ。
ドラえもんの秘密道具か? 石ころ帽子ほしかったな。
手を挙げない子に「当てる」先生。
そういえば、こんなこともあった。
中学受験のための塾通い、夏休みの講座だったか。苦手な算数の日だった。
教師はというと数人がランダムに教えるから、事前にだれが教壇に立つかわからない。
ある算数の日、おれは家を出て何歩か歩いたそのとき、「今日の算数は当てる先生の日だ」と、なぜか確信した。
雷に打たれたような確信だった。
うまれて初めての感覚。
どの教師が担当するか、行ってみなければわかりない。そういうシステム。それなのに逃れられない運命のように思った。
仮病を使って帰ろうかとも思った。
しかし、一方で、「単なる気のせい、予感じゃないか」とも思った。思おうとした。
で、おれが重い足取りで塾に行ってみれば、その日はやはり「当てる」先生なのだった。
とくに意地悪で、大嫌いな、そいつが教室に入ってきた。
どす黒い気持ちに沈み込んだ。
おれは人間に超能力があるかどうかと言われると懐疑的な態度を取る。
でも、まったくなにもないのか? というと、ちょっとなんかあるんじゃないかと密かに思っている。この経験によって。
それほど強烈で、嫌な体験だった。
知ってる人は、渋川剛気の護身の極みを思い出してください。
あんなんだ。『バキ』、読みましょう。
あと、こんなことの予感が働くなら、大人になったあと競馬新聞読んでるときで起こってくれればいいのにな。
して、その「当てる」教師は、その日も見事に生徒を当てて、血祭りにあげていく。
「今の説明でわからなかった人?」と聞いて、だれも手を挙げない。
そこで生徒たちの顔色を見て、わかっていないのに手を挙げない子を「当てる」。
この能力はすごかった。
なにせ、わからないのに挙手しなかったおれを、見事に当てて見せた。
心底自分の「嫌な予感」を信じて、家に帰ればよかった……。
「わかりません」
「なんで手を挙げないんだ?」
「……」
そしておれは、恥をかくことになる。二重、三重の恥。
こんなことが繰り返されて、おれは本当に算数が嫌いになった。
同じように理科も嫌いになった。
さらには教室というものが嫌になり、塾も学校も嫌になった。
人間の集団というものが心底嫌になった。
小学六年の最後、おれはほとんど学校に行かなくなってしまった。
なにが私をこうさせたのか
しかし、不思議といえば不思議なことだ。
こんなおれはいつ、どこで、教室で「当てられる」ことが嫌になったのか?
教室のなかで、先生に当てられて、答えられなくて、恥をかく。
いつ、自分はそうなったのか。多大な恐怖を感じるようになったか。
幼稚園では、そのような場面はなかったように思える(もっとも単に昔過ぎて記憶が欠落している可能性はある)。
とすると、なんの経験もなく、ともかく小学校にあがって、もうそのときには恥をかきたくなかった。そうなのか?
これは、この日本という国の、日本人というものの特性なのだろうか。いきなり話が飛躍した。
でも、おれが幼稚園で、あるいは小学校の早いうちに、トラウマになるような体験なしに、「当てる」先生が嫌だったのはどういうことなのか、恥をかくのを極端に避けるようになったのか。
恥をかくな、恥をかくくらいなら腹切って死ぬ、という日本文化が物心つくまえから自分に染みついたのか。
それも誤チェストか。
早生まれのゆえに、だいたい周りの子より一年遅れていたという、致し方ないハンデがあった。そのうえずっとチビだった。
一方で、いくらか小賢しいガキではあって、周りの子の知能や知識をバカにしていたところもある。
そういった、ひねくれた人間だから、恥を恐れるようになった。
あるいは、自分自身ではなくとも、教室の誰かが当てられて恥をかく、そういう姿を見たりするうちに、だんだんと形成されていったのかもしれない。
その方が、説明としてはシンプルだ。オッカムも納得するだろう。
「当てる」必要は本当にあるのだろうか。
まあ、ともかく、私は一枚のポスターでこんなにも人生の苦痛が引き出せる。
私は高卒なので、大学一年のことまでしかしらない。
ただ、大学の一般教養の授業で「当てる」が続いていたのも知っている。
そうなると、大学のゼミだの研究室だのでは、さらなる苦痛がそんざいしたはずだ。想像にすぎないが。
研究発表するなんてとんでもないことだ。卒論? 就活? 想像すらしたくない。
しかして、再度述べるが、「当てる」必要は本当にあるのだろうか。
おれにはわからない。でも、たぶん何%かの、おれのように心が折れてしまう人間を生み出すしてしまう。
もちろん、授業に意識を向かわせるための有効な手段なのかもしれない。
秤にかけて、ある教師は「当てる」方を選ぶ。おれはさされて血を流す。
でも、それで、あんたが想像する以上に、取り返せないダメージを与えられてしまう子供もいることは、わかっておいてほしいよなぁ。
おれのような中年の「内なる子供」はそう言っている。
人間、老いも若きも、そんなに嫌な思いをする必要はないんじゃないの? もちろん、そうでもしなけりゃ自分の授業を聞いてもらえない先生の気持ちも考えるべきかもしれないのだけれど。
コロナの時代で
ところで、今は新型コロナウイルスの流行で、学校の授業もオンラインになっているという話だ。
授業に出られないから苦しい、という話がある一方で、オンラインだと文字ベースなので発言がしやすいという話も見た。
なるほど、文章でなら打ち込みやすいだろう、とおれは思う。
もちろん、文字ベースでのやりとりを苦痛に感じるやつもいるだろう。
ただ、座学ならともかく、実験だの実習だの現地調査だのが必要される分野、それはそれでどうなっていくんだろうな。
仮におれがコロナ下のオンライン大学生だったら、嫌気をさして中退することもなかったのだろうかね。
よくわからない。でも、文字を打つことで完結するのであれば、という、益体もない妄想はする。
今でも復学しなければという悪夢を見ることはある。
大卒という学歴があればと思うことはある。
そうだ、このおれ、発言するのが、発表するのが、恥をかくのがいやだといいつつ、インターネットを通して、言いたいことを書き連ね、公開している。
先生に「当てられる」どころか、だれにも呼びかけられていないのに、手を挙げて勝手に喋っている(……とか言いつつ、もしもあなたがこれをおれのブログ以外で読んでいるのだとしたら、おれはちょっと当てられて、緊張しながら書いているということです)。
本当はなにかを言いたいのに、恥ずかしくて皆の前ではなにも言えなかった。
そこに少なからぬ葛藤だかストレスがあった。そういうことかもしれない。
おれは文字ベースなら、なにか言うことができる。
ただし、教室で「当てられた」ら、なにも言えず黙ってしまう。小さな声で「わかりません」と言うのが精一杯だ。
あるいは、答えてしまったあと、「なんであんなことを言ったのだろう」という後悔を抱く。
おれがそういった教室から抜け出たのは二十年以上前だ。
それでも、おれはその恐怖を覚えている。とても、とても、嫌な感じ。
鶏か卵か親子丼か
おれはもともと遺伝的ななにかから「当てられる」ことに恐怖を感じる人間だったから、そのようになったのか。
あるいは、学校での嫌な体験によってそのようになってしまったのか。それはわからない。
そしてたとえば、日本の小中高生の自己肯定感、自尊心が他国に比べてけっこう低いという話などもある。
はたして、もとから自尊心が低いから「当てられる」ような、発言するようなことを忌避するのか。
それとも、日本の学校の教室というものが、自尊心の低い子を作ってしまうのか。
鶏が先か、卵が先か、ちょっとよくわからない。むろん、親子丼で提供される苦痛なのかもしれない。
とはいえ、近年では自己肯定感が上がってきているというデータもあるようなので、おれの知らない「アクティブ・ラーニング」だかなにかが奏功しているのかもしれない。
苦痛を感じる子供が少なくなるのであれば、それは悪くない。
ただ、自己肯定感ばかりが高ければ高いほどいいということもないだろう。
もし自己肯定感でハッピーになれるのであれば、アメリカ人が病んでいるように見えるのはなぜか、ということだ。
さいごにおねがい
さあ、もうそろそろ、お時間です。
あなたは、積極的に手を挙げる生徒でしたか? 当てられて内臓に染み入るように嫌な気分を感じる生徒でしたか?
人生、うまくいったり、いかなかったりしているでしょうか。
おれはどうもうまくいっていない。そんなものだ。
もしもあなたが教育者や教育学に関わる人であるならば、「こいつはわかってないのにごまかそうとしているな」という子を血祭りにあげないでもらいたい。
そういう方向でいってほしい。わからないものはわからんのだ。
皆の前で恥かかせて、その分野に激しい憎悪と劣等感をもたせる必要はないんじゃないか。
おれは自分から手を挙げることもなく、当てられることがとてもとても嫌いだった。
そして人生に失敗して、あまりうまくいっていない。
はたして、あの教室での苦痛がその原因だったのか? あるいは自分がもとからそうであったから、教室で失敗し、人生に失敗したのか? いったいどちらなのか。
今さら知ったところで、まったく意味のないことであることだけは確実なのだが。
【安達が東京都主催のイベントに登壇します】
ティネクト代表・安達裕哉が、“成長企業がなぜ投資を避けないのか”をテーマに東京都中小企業サイバーセキュリティ啓発事業のイベントに登壇します。借金=仕入れという視点、そしてセキュリティやDXを“利益を生む投資”とする考え方が学べます。

こんな方におすすめ
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【登壇者紹介】
安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
著書『頭のいい人が話す前に考えていること』(ダイヤモンド社)は累計82万部突破。2023年・2024年と2年連続で“日本一売れたビジネス書”に(トーハン/日販調べ)。
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お申し込みはこちら東京都令和7年度中小企業サイバーセキュリティ啓発事業「経営者向け特別セミナー兼事業説明会フォーム」よりお申込みください
(2025/6/2更新)
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
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