人生が競馬の比喩なんだ

しかしうんと短い時間の枠の中だけに限定すれば、とても短い、たとえば自分の馬が走って、それから勝利を収めるほんの一瞬。

そこには何かがある。何かが起こるのがわかる。気持ちが高揚し、陶醉感に襲われる。

馬たちが自分の言いつけどおりにしてくれる時、人生はほとんど会得されうるものとなる。

チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』

競馬場から群衆の姿が消えてしばらく経つ。

それでも騎手は鞭を振るい、馬は走る。

そこにはいないだれかの馬券が当たり、外れ、外れる。

 

寺山修司の有名な言葉に、「競馬が人生の比喩なのではない、人生が競馬の比喩なのだ」というようなものがある。

それはそれで競馬者にとってすばらしい言葉のように思えるが、実際のところ寺山は前者の主体がレースにあり、後者の主体が人生である、ということを言いたかったと記憶する。

 

人生が主語であることがすばらしいと。

 

して、競馬、あるいは博打は人生に似ているのだろうか。

あるいは、人生は博打なのだろうか。

おれはときどきそんなことを考える。

おれの人生に馬券売り場が現れたことがあったろうか。

 

おれはそんなことに気をかけているから、当たり馬券にありつけない。

おれは人生で博打をしたことがあるだろうか。

おれは、勝ったり、負けたりしたことがあるのだろうか。

 

人生で賭けに出て、勝ったことも、負けたこともない。そういう答えになる。

おれの人生にドラマチックな瞬間があったろうか?

人生を左右する決断をしたことがあったろうか?

たぶん、ノーだ。

 

もっとも、そんなドラマチックな賭けをした人間のほうが圧倒的に少ないとは思うが。

 

いや、それもそれぞれの人生だ。

人生の転機というもはあって、なにかを選び、何かを捨てた、そんな経験はありがちなことかもしれない。

決して他人から見て劇的ではなくとも、本人にとってはひどくたいへんな選択。

そして、それに勝ったとか、負けたとか、どっちでもなかったとか。

就活、結婚……おれには縁のない人生。

 

ゲートインすらできない人生

おれはどうも、そういう勝負をしないで生きてきた。

勝負から逃げて生きてきた。

逃げも一つの戦法だと言われればそうかもしれないが、おれは「おれは人生を逃げてきたな」という思いが強い。

 

舞台に上がらなかったな、ゲートインすらしなかったな、ということだ。

喧嘩から逃げ、恋愛から逃げ、大学から逃げた。

まともな人生のレールに乗ることからも逃げた。そしたら、このありさまだ。

 

そうだ、努力をしてなにかを勝ち取ったこともない。

そういう経験に欠けている。

まともに部活などやっていれば、そういった機会があったかもしれない。

 

ところが、おれは帰宅部だった。

帰宅部が勝利をおさめることはほとんどない。せいぜい、ゲーセンの対戦台で勝つことくらいか。

そんなものが勝利と言えるのか。生粋のゲーマーにとってはそうだろうが、おれはそこまでゲーマーでもなかった……。

 

人生を会得するとき

そんなおれでも、競馬をやっているときだけは別だ。アメリカの偉大なる詩人チャールズ・ブコウスキーが言うとおりだ。

おれの選んだ馬が、少し荒れた緑のターフを大外から突っ込んでくる、そのとき。

おれの選んだ馬が、砂を蹴り上げて最終コーナーで後続に差をつける、そのとき。

 

あなたは、そのときを知っているだろうか? そのまま、おれの選んだ馬がゴール板を一着で駆け抜ける、そのときを。

 

それこそ、おれは世界の理を会得したような気分になる。

おれは未来を予知できた。おれは全能だ、万能だ。そういう気持ちになる。

おれは人生の正解を知っていて、おれ以外の間抜けどもはそれを知らなかった。

おれは神のような存在で、世界を睥睨する。ふんぞり返って大笑い、荒い鼻息、六気の辯を御し、以て無窮に遊ぶ者のごとく!

 

そしておれはTwitterで「斎藤くん(騎手名)愛してる!」などと叫ぶ。

 

……叫んだあとに、「もっとたくさん賭けておけば」とか、「もっと絞って買っておけば」などという、勝利の後悔を味わう。

すぐに落ちる。これもおれの双極性障害の一つの出方なのか? たぶん違う。

 

なさけないことに、おれは競馬で最高の勝ちというものをほとんど経験したことはない。

まったくないわけでもないが、たいていはしょうもない金額を賭けて、そこそこしょうもない払い戻しを受けるだけだ。

だから、勝ったら勝ったで、その額の少なさに後悔を覚える。

 

負けることすらできない者こそ

偉大なる競馬評論家の清水成駿は、「負けたら本当に痛いと思うような金を賭けてみることだ」というようなことを言っていた。

おれは清水成駿を尊敬している。

だれだか知らない? あなたが今使ってるその箱で検索してみればいい。

 

で、おれにそのような度胸はない。

結果的にずるずると「わりと痛いな」と思うような負け方をするのは毎週のことだが、かといって生活に困るような負け方をしない。

 

おれは勝つこともできなければ、負けることもできない。

その情けなさは、酒を飲んで飛ばしてしまうしかない。

負けることすらできない者こそが、本当の、敗者。

 

おれは結局、破滅が怖い。おれは度胸なしだ。

そのわりに蓄える、という能力に欠ける。

ただ、かりそめの勝利、一瞬の麻薬。そのために、おれは馬券を買う。

 

そうだ、おれは金を稼ぐために馬券を買うわけじゃない。その一瞬の快楽のために馬券を買う。

おれが年間を通して馬券でプラス収支を記録したことは、一度か二度だろう。

もちろん、負けたいわけはない。できたらプラスを計上したい。

 

とはいえ、おれのような勝っても負けても後悔するような性格だから、競馬を続けてこられたというのはある。

今は新型コロナウイルスの影響で人のいない競馬場、場外馬券売り場。

 

でも、いずれはそこに戻ってくる老人、あるいは馬券購入のためにスマートフォンを使いこなすようになった老人。

あいつらは、たぶん人生の勝者ではないけれど、負けない術を、競馬をつづけられるていどに負けない方法を知っているのだ。

尊敬しても、見下してもいい。おれがどう見るかは、言うまでもないだろう。

 

人生の人生を生きる人、生きられない人

それにしても、世の中の人というものは、人生の日々において、そんな一瞬、「そのとき」を得ることがあるのだろうか。

あるのかもしれない。

なにかしら仕事で成果をだした、大きな契約がとれた、大作をものにした、研究がうまくいった……。

おれの貧困な想像力ではよくわからないが、なにかあるのかもしれない。

 

そのような人にとって人生は美しい。

人生の人生を生きている。おれは拍手する。

そして羨ましくも思う。生きるに値する人生というものがそこにはあるのだろう。

 

おれは人生の人生を生きていない。

おれが世界の真なるものに触れられると感じるのは、おれの選んだ馬が馬券になってくれたときだけだ。

おれは博打に人生を求めている。

 

ちょっと言い過ぎた。

やはりそれは嘘だ。なにが人生を求めている、だ。

 

だいたい、走っているのは馬だ。考えてみろ、動物だぞ。

本当はその競走で一番強い馬だって、「今日はなんか寝不足で走る気がしないんだよな」と思えばおしまいだ。

馬の心なんてわかりはしない。おれにとってまったくもって知ることのできないことだ。

 

その上、その上にやはりなにを考えているかわからない騎手とかいう人間が乗って

「このレースはどのあたりでスパートしようかな。それよりなんかこないだの合コンで会った子、LINEに既読つかないな」

とか考えている。

 

結局のところ、動物の心も人の心もわかりはしない。

向こうにとってこっちは他人事だし、こちらからみてもそうだろう。

おれは馬券を買うだけで、なんの関与もできない。

 

とはいえ、競馬がまったくランダムなものかというとそうでもない。

傾向というものは存在する。

そうでなくては、一番人気の馬の来る確率の高さは説明できない。

最近ではAIのようなものでトータルで勝つような買い方もあるようだ。

おれは機械に疎いのでよくしらないが。

まったくの宝くじではないよ、ということで。まあ念のため。

 

まあそうか、これが例えばべつの博打だと、また話は違うかもしれない。

運の要素はあるとはいえ、麻雀はどうだ。

 

ド素人がまぐれで半荘勝つことはっても、回を重ねれば強いものが勝つ。

将棋や囲碁の真剣ともなれば、それこそド素人が勝つ可能性はない。

それは勝負だ。

パチンコやスロットはまったく知らない。

そこで勝ったら本当に震えるだろうな。

たぶん、それは人生の人生に似ている。あ、違法賭博はやめましょうね。

 

博打は人生に似ているか?

おれはタイトルに「博打は人生に似ているか?」と書いた。とりあえず、書いた。なんとなくそんな言葉が浮かんだからだ。

勝利も敗北もないそれは、少なくとも「おれの人生に似ている」んじゃあないか。

「博打はおれの人生に似ている」、否、「おれの博打はおれの人生に似ている」

 

そして、おれの知らない世界、人生の人生をいきられる人間は勝負しているし、自力というものに頼る博打で生きている人間は、やはり人生を生きているのだろう。

それらは似ている。あるいは同じものだ。

 

本当の人生があり、偽物の人生がある。

本物の博打があり、偽物の博打がある。

 

畢竟、人間、おのれの器でしか生きられない。

そいつが博打をするなら、そいつなりの博打になってしまう。

そいつが生きるなら、そいつの器でしか生きられない。単純な話だ。

器の大きい人間は槍が降っても気にしない。

おれは少しの雨でも傘をさす。最近は日傘もさすようになった。

 

ただ、偽物だとしても、一生において、おれの選んだ馬が先頭でゴール板を駆け抜けること以外に、おれが人生を会得するような瞬間はあるのだろうか。

いや、馬連を買っていて一着に穴馬が来てもいいのだろうけど、そういうことを言い出すと面倒くさい。

おれの馬が一着でゴール板を駆け抜ける、そのときのこと。

 

ただ偽物の勝利のために

勝利、勝利、勝利が欲しい。でも、そんなに勝てないのよな。

でも、人生において「勝ち」を意識できるのは、ただただ馬券で勝つときだけだ。

それ以外になにがあるのだろうか。

おれはあまりに虚しい人生を送っているようだ。

 

たとえば、おれは広島東洋カープというプロ野球チームを大の贔屓にしている。

カープが勝てばうれしい。うれしいが、それだけだ。それはおれの勝ちではないな、と思ってしまう。

おれが応援する棋士、おれが応援するサッカー・メキシコ代表。勝てばうれしい。

でもおれのものではない。そういう意識がある。

 

カープが勝つときと、馬券で勝つときには、決定的な違いがある。

馬券を買う、人生を買う。いや、偽物の人生を買う。

 

おれは高給取りでもないし、やりがいのあるエッセンシャル・ワーカーでもない低賃金労働者だ。

何者かになるには遅すぎる年齢。何者かになるには何も持ち合わせもない身の上。

そのうえ精神障害者で、薬なしにはまともに起き上がることもできない。

巨額の遺産が転がり込んでくる予定もないし、毎週なんとかくじを自動購入しているが、たまに千円当たるだけ。

何度「当選メール」に小躍りして、口座にアクセスしてがっかりしたことか。

 

それよりなにより、やる気がないということだ。

自分を高めようという意識を持ったことがない。

おれの座右の銘は尊敬する辻潤からもらった。無為無作。

うん、偽物の勝利を、人生を求めるあたり、おれはまだまだその境地にたどり着けない。まったくなっていない。

辻潤は最後ほんとうになにもしないで飢えて死んだ。

 

これはもう、かなり虚しいことだ。

えらい斤量を背負わされてしまってる。それでも、夢くらい見させてくれ。刹那の勝利というものを味わわせてくれ。

だからおれは馬券を買う。

美しいサラブレッドと、それにまたがる鮮やかな勝負服を着た小悪魔たち、おれはそれを託すのだ。

それ以外になにがあるっていうんだ。

 

馬は何のために走る? バラのために走る。

おれは何のために賭ける? 偽物の人生のために賭ける。

あんたはどうだい?

その男はただ競馬場にいたいだけなのだと思う。

気がつけば足を運んでいる。

たとえ負けっ放しだとしても、彼にとっては何らかの意味があることなのだ。

いるべき場所。ひどくばかげた夢。しかしそこはうんざりさせられる場所でもある。不確かな場所。自分だけがものの見方をわかっていると誰もが思っている。

チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』

 

 

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著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo:roger blake