いまどきは首都圏や近畿圏に限らず、大きめの地方都市にまで中学受験が広まっている。

良い大学を目指し、小学生時代からやたら勉強する小学生たち。

問題集に出てくる「こんなものが解けてなんになる」と言いたくなるような設問。

それらを見ていると、中学受験のない世界で育った私は良くない感情を持たずにいられない。

 

生徒の選別という目的のために、中学受験制度が奇形化したプラクティスを子どもに強いているように見えて、ならないのだ。

とはいえ熱心な親御さんは熱心である。

 

良い中学は良い高校に、良い大学や良い就職先にも繋がるというわけだから熱意は理解できる。

進学するメリットを知っているからこそ親御さんは大枚を払うし、進学する雰囲気ができあがっていれば子どもは奇形化したプラクティスにも果敢に挑む。

 

一方、進学に不熱心な親御さんも存在する。

最近、はてな匿名ダイアリーでバズっていた『日本から捨てられた土地に生まれて』という文章には、進学に不熱心な親御さんのいる風景、中学受験を知らない世界の風景が活写されている。

日本から捨てられた土地に生まれて

周りの大人は中卒と高卒しかいなかった。学校を出れば男は工場だの大工だの漁師だの農家だのになるもの、女はさっさと結婚して子供を2、3人は生むのが当たり前で、勉強なんてする必要のないものだった。

スーツを着る仕事といえば役場の人か車のセールスマンぐらいだった。親も親戚も半分高卒もう半分は中卒という環境だったから、私は突然変異のなにかだったのだろう。私が勉強ができることを何か嫌な目で見ていた。私は親から勉強をしているところを見られるのが嫌で家で勉強をすることが全くできなかった。

この長文で記されている風景は、私の子ども時代の郷里にある程度似ていた。

もちろんここまで極端ではなかったが、大学に進学するメリットを知っている人は少なかったし、大学進学後に何ができるのか、どんな選択肢があるのかを具体的に説明できる人は皆無と言って良い状態だった。

 

冒頭で紹介した、”田舎、「学校の成績がいいとなれる職業」の例がマジで「医者」しか上がらないというのが地味にキツイ”というツイートはまさに私に当てはまる。

 

私は大学で何ができるのかわからないまま子ども時代を過ごしていた。

親の勧めに乗っかるかたちで、なりたかったわけでもないのに医者になってしまった。

幸い、医者になった後にやりたいことが見つかり、そのとおりに生きる道が見つかったから結果オーライだけど。

 

大卒の少ない郷里にもあった「進学するメリット」

私が生まれ育った北陸の田舎町は、田舎なりに豊かな土地だったのだと思う。

当時は伝統工芸や繊維産業がまだ盛んで、自宅にコンピュータを持っている家もかなりあった。

地域社会が機能していたため、子育てに親がかかりっきりになることもなかった。

そういう田舎町で子ども時代を過ごせたことを、私個人は良かったと思っている。

 

それでも、大学進学という点では不毛の土地だった。

大学が何をする場所で、どんな人が行くところなのか情報が乏しく、「勉強をたくさんして、大学へ行こう」という機運が乏しかった。

いちおう「東大」という言葉は知られていたけれども、それは、ほとんど空想上の存在だった。

 

中学はいわゆる”荒れた公立中学”で、勉強ができることをダサいとみなす生徒も多かった。

「勉強をするとダサくなる。」「勉強しないほうが恰好良い。」「勉強なんてしてなんになるの。」──高校受験の直前になるまで、そういう雰囲気が蔓延していた。

 

私の父は、そんな地域では数少ない大卒者だった。

自宅の本棚には難しい学術書がいくらか残されていて、かつての名残をとどめていた。

そんな父がいたものだから、自宅では「大学へ進学を」という言葉を耳にする。

 

ところが学校では勉強はダサいとみなされているので、私には「大学へ進学しろ」という言葉がむなしく無意味なものにしか聞こえない。

親が言っていることと学校で耳にすることが食い違っているのに、親の言うことを真っすぐに信じるのは私には無理だった。

むしろ、周りの言っていることのほうが正しいように思われた。

 

それでも私が勉強をやめなかったのは、私の不登校のきっかけになった連中が勉強が得意ではないと判明したからだ。

勉強ができるメリットは結局卒業まで理解できなかったが、「進学校に進めば嫌な奴らに会わなくて済む」ということはわかったので私は勉強した。

 

それでも中3の3学期を迎えた頃には高校受験の雰囲気ができあがってきて、それぞれが志望校に向かって勉強するようになった。

同学年でも勉強のできる何人かは私と同じ進学校を志望したが、やがて、同じぐらいの学力の何人かが違う進路を目指していることが次第にわかってきた。

 

違う進学先の名前は、石川高専という。

 

「みんなの高校情報 石川」をみればわかるように、石川高専は、現在でも高偏差値校である。

私の学年で勉強のできる男子生徒の多くは高専を目指し、なかには進学校を滑り止めとして高専を第一志望とする者さえいた。

 

後から振り返ると、彼らは手堅い選択をしていたといえる。

高専、なかでも国立高専は就職率が良く、バブル崩壊後の「失われた20年」の渦中でも堅調だった。

 

大学に比べて学費が安く済み、早くから就職できる。

もっと学問がやりたくなったら大学編入という選択肢もある。

郷里からも遠くはないし、なんなら寮を利用するという手もある。

 

高専という進学先は、いまどきの、中学受験させたがる親御さんが想像する「進学のメリット」とは異なっていると思う。

高専は大学より選択肢が狭いと考える人だっているだろう。

 

しかし就職率の高い高専を目指すのも「進学するメリット」に違いないし、高専にだって選択肢は少なくないのだ。

そのメリットを間近なところで共有し、励まし合って進学していった同窓生たちは幸いだった。

 

”孤軍奮闘”なんて、できたものじゃない

中学受験から高校大学へと進むのか。

それとも手堅く高専を目指すのか。

 

時代や地域により、示される「進学のメリット」はさまざまだ。

だがどうあれ、そうしたメリットが可視化されること、周囲の同学年とシェアできることの値打ちは計り知れない。

 

くだんのはてな匿名ダイアリーの筆者のような

「学校を出れば男は工場だの大工だの漁師だの農家だのになるもの、女はさっさと結婚して子供を2、3人は生むのが当たり前で、勉強なんてする必要のないもの」

という環境で、どれほど進学が困難なのか想像に余りある。

 

ここまで書いたとおり、私はそれを部分的には知っているが、あくまで部分的にしか知らない。

なぜなら私の郷里では大学進学のメリットは知られていなかったが、国立高専を目指すメリットなら知られていたからだ。

 

親が、周囲の大人が、クラスメートが「進学のメリット」を知っていて共有しているほど、勉強することの意味やメリットは伝わりやすくなり、勉強するモチベーションが得られるようになる。

 

進学校や塾や予備校に通うのだって、半分以上は「進学のメリット」を周囲とシェアするためではないだろうか。

進学のメリットを共有する者同士が助け合ったり、ときにはライバル同士として切磋琢磨しながら勉強する──そういう雰囲気があるのとないのでは、子どもの勉強への身の入れ方、勉強をしなければならない必要性の理解がぜんぜん変わってくる。

 

もし「『進学のメリット』のシェア」を共有財産とみなすなら、地方と中央、勉強のできる学校とそうでない学校の間には大きな格差があるのだと思う。

地域共同体が希薄になってしまった現在では、地域差や学校差だけでなく、親の社会関係も格差の一部をなしているだろう。

 

たとえば親ぐるみで交流する家庭が軒並み「進学のメリット」を知っている場合と、そうした交流が乏しく、親自身も「進学のメリット」をよくわかっていない場合では、勉強に対する子どもの意識や、進学という概念の見え方がぜんぜん違うだろうからだ。

 

卑見では、日本の地方の多くは公共工事などによって経済的に支えられ、流通インフラやインターネットなどによって生活水準もよく維持されていると思う。

そういう意味では、日本の地方の大半はまだ見捨てられているとは言えない。

 

しかし、「『進学のメリット』のシェア」という共有財産に関していえば、地方と中央、過疎地と最新のニュータウンでは無視できない格差が存在している、と思う。

たくさんの生徒が勉強に価値を見出し、そのメリットを享受しようとしている場所で生まれ育つのと、生徒のほとんどが勉強に値打ちを認めず、ひそかに勉強を疎んでさえいる場所で生まれ育つのでは競争の土台が違い過ぎる。

 

そして、進学のメリットがシェアされていない土地では、図書館や書店といったインフラにも力が入れられていないのである。

 

これらをもって地方出身者が「日本に見捨てられている」とみなすのは、それでも誇張が過ぎるのかもしれない。

が、恨み節を言いたくなる気持ちは、私にもわかる気がする。

なぜなら、ロールモデルも理解者も乏しいなかで勉強を続けなければならない境地には特有の辛さがあり、それは中央で生まれ育った人にはあまりわかってもらえそうにないからだ。

 

 

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(2021/9/15更新)

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo :David A Ellis