日本社会というものはいくらか前よりずっと健康的で清潔になった。

道徳的で秩序ある社会になったといっていい。

でも、そこについていけない人がいるんじゃないのか。

かつてのある意味ゆるい世界ではいるべき場所があった人間の居場所がなくなってしまっているんじゃないのか。

この社会はこのままでいいのか? この本は、そういうことが言いたいのだ。

 

……って、簡単にまとめてしまっていいのだろうか。

ある意味で、いいのだとおれは勝手に思っている。

なにせタイトルがタイトルだ。そういう意図あってのことと思う。

著者はおいしいワインを片手に、インターネットで若い人の自意識の発現を貪り食いながら(そうだったっけ?)これを書いたのだと思う。

 

一読者、おれの居場所

さて、おれはこの本をどう読んだのか。

それは、おれの人生の今の位置を顧みなくてはならない。

そうだおれが暮らしているのは、ちょっと不健康で不潔で、非道徳的で不秩序な街だ。

 

すなわち、横浜市は中区、日本三大ドヤ街に数えられた寿町周辺の人間なのだ。寿町の人間ではない。

だが、寿町の近くに住み、寿町近くの職場に通う二十年近くそうしてきた。

https://suumo.jp/town/entry/kannai-goldhead/

 

ドヤ街といっても、たとえば大阪の西成のような物騒さというものはもう存在しない。

ただ、年老いて身寄りのない老人たちが、朝から晩までウロウロしている、そんな感じですらある。

 

最寄り駅はJR石川町駅。

副名称は元町・中華街だ。

この駅の周辺は不思議だ。

 

元町側は、いくらか知られた横浜元町の商店街に近く、たしか日本で一番大勢の女学生が利用する。

山手の山の上の女子校の生徒たちが、ぞろぞろ、ぞろぞろと狭い路地を埋め尽くす。

朝夕には、そういった学校が雇ったと思われる警備員の姿などもある。

もっとも、生徒たちを誰かから守るというより、生徒の交通整理をしているようなのだが。

 

そんな光景から見えるのは、なるほど健康的で清潔である。

道徳的で秩序あるようにも見える。

いや、やはり質から数への転化というものがあって、秩序があるかどうかはわからないが、それでも実に健康的である。

 

一方で、中華街側はどうだろうか。

すぐそこにラブホテル群がある。

寿町から出てきたじいさんたちがうろついている。車椅子の人も少なくない。

ヤクザの事務所がある。

コロナの影響ですっかり見なくなって久しいが、外国人バックパッカーたちの姿も見られた。なにやら混沌としている。

 

そんな場所を通り過ぎるおれは「健康的で、清潔な、道徳的で秩序ある」街というものを見つつ、一方で「それほどでもねえよな」という街を通り過ぎる。

おれがどちらに属している人間かというと、後者に属していると言いたい。

耳に三つピアスつけて、小汚い古着のジャージ着てずったらずったら歩いているんだ。

おれはこちらの街に合うように自らを形作ってきた。

とはいえ、上品な方の街を通り過ぎても、通報されないていどに。

 

とはいえ、おれが本書の述べるところがわからないというと、嘘になる。

とても細かいところに目が行き届いている。

たとえば、こんなところ。

 そういえば、昭和時代の百貨店では迷子の子どものアナウンスがよく流れていたが、いまどきのショッピングモールではあまり耳にしなくなった。週末のスーパーマーケットでお菓子をねだって泣く子どもも、なかなか目にしなくなった。子どもならではの無秩序さ、無軌道さを見かけなくなったことも、この美しい国を成立させる無視できない要素と言えるだろう。
P.21

そうだ、迷子のアナウンスというものを聞かなくなった。

これには「ハッとした」という今どきの表現を使ってもいいくらい「ハッとした」。

あ、いや、おれだってショッピングモールに行くことくらいあるので。

もっとも、迷子についてなにかべつのシステムが働いているのかもしれないが……。

 

あるいはこんなところにも目をつけている。

 また東京の市民は立小便をしない。立小便は、田舎育ちの昭和生まれには珍しくなかったし、地方の町村部や発展途上国では現在でも頻繁に見られる。だが、東京で立小便を見かけるのはほとんど不可能だ。
P.200

これもそうだ……とは、おれが横浜市の中区に引っ越してくる前なら言ったことだろう。

鎌倉、藤沢付近に住んでいたころならば。それから、二十年くらい経つ。

 

二十年前のおれなら、「立小便、見なくなったよな」と言えただろう。

だが、今は言えない。だって、そこらの路肩で、カップ酒飲んで、立小便してるんだもの。

え、こっち側からは背を向けてるけど、向こう側からは丸見えじゃないの。

はじめはギョッとしたが、もう慣れてしまった。

 

もちろん、信号なんて守らない。

寿町あたりを車で走る人は覚えておいたほうがいい。

あと、その路駐しているベンツは反社だぞ、注意しろ。

 

まあ、東京も発展途上国も知らないおれにはなんとも言えない。

東京は(といっても、東京も広いと思うのだが)、そうなのかもしれない。

 

今を残すための使命感

いずれにせよ、本の著者であるシロクマ先生(熊代亨氏)は迷子の呼び出しや立小便などを記しておくべきだと思っているのだろう。おれはそう感じた。

ちょっと前と今、この変化、この細かな変化、これについて記録しておかなければいけない。

この社会がそのようになってしまっているのだと、同時代の言葉を残しておかなければいけない。

一種の使命感にすら思える。

 

精神科医という著者の立場を利用すると言ってはなんだが、利用してしまえば、複数の患者の悩みを合わせたり、改変したりして、「このような例もある」ということもできたろう。

だが、それをしないのだな。読み物としてはそっちのほうが面白かっただろうにも関わらず。

いいワイン片手に(まだ言うか)、街を見る、人を見るのだ。

 

あとがきでこう記している。

 それでも私は、この違和感はひとまとまりの意見にしたほうが良いと思い、世に問うてみることにした。
P.283

おれは寡聞にして知らないが、日本という国の、平成から令和に移り変わるこの時代の変化、ジェントリフィケーションなどについてまとめられた本がないのであれば、この本には価値がある。

 

そこまでの変化と比べるべきかわからないが、たとえば渡辺京二が江戸から明治に移り変わる際に失われた文明を蒐集した『逝きし世の面影』のようなものかもしれない。

<リンク 『逝きし世の面影』>

 

当事者としての精神医療

と、先に「精神科医という著者の……」と書いたのだが、第二章のタイトルは「精神医療とマネジメントを望む社会」なのだから、本業と関係ないことだけ書いているわけではない。

あくまで、具体例的に書いていないだけだ。

 

と、ここで、おれという一介の雑魚ブロガーの属性に当事者性が生じる。

おれは双極性障害を患った、手帳持ちの精神障害者なのである。

となると、おれはこの社会の秩序ある社会から排斥される障害者でもあるのだ。

 医療や福祉は確かに人を救う。診断・治療サポートといった次元では、個人の多様性に寄り添うよう、最善が尽くされていると言って良いと思う。その一方で被―救済者が向かうべき方向を、それこそ「自立支援」という言葉に庵に示されるような方向へと均一化し、正規雇用―障害者雇用―福祉的就労―障害年金からなる「一億総活躍社会」という社会のアドレスのどこかへと再配置する役割を(自覚的にか、それとも無自覚のうちにか)引き受けている。
P.33

「自立支援医療」、これである。精神障害の通院者について、負担額が減る。

精神科に通院中のあなた、これは利用したほうがいい。

 

まあ、それはともかくとして、自分もこの制度を知ったとき、ちょっと妙な名称だと思ったものだ。

そうか、「一億総活躍社会」に居場所を与えようと、自立を支援しようというのだ。

補助でも援助でもなく、自立支援なのだ。自助が第一だ。

 

おれのようなポンコツは、べつに活躍しなくてもいい、社会の片隅でひっそりと生かしてくれたら問題は起こさない。

一人で勝手に酒を飲んで、寝てしまおう。

そう希ったところで、そうはさせてくれない。

健常者と同じように働け、自立しろ。

 

それでおれは今日も低賃金労働に従事するのだ。

まるで障害など持たないような顔をして。

活躍なんて……してねえな。

というわけで、そんなこぢんまりとした不健康な世界も許されない。

 有史以来、最も健康長寿となった現代社会の通念には、死生観というものが見当たらない。どうしても生きて何かを成し遂げならねばならないということがあり、その目的のために健康に気を配っている人は現代では少数派だ。大多数は、とにかく健康でいなければならないちという強迫観念に基づいて、あるいは健康が当たり前だからという漫然とした思い込みのうちに、健康に時間とお金を費やし続けている。
P.40

おれは「何かを成し遂げならねば」という信念は、ない。

一方で、健康であらねばならぬという思い込みは……不健康な生活を送りながらも「とらわれているな」という意識が無いわけでもない。

「病むべくして創られ、健やかにと命ぜられ」とはだれのなんの言葉だったか。

 

まあともかくとして、われわれは健やかに生きねばならぬ。健やかに他者とコミュニケーションをとらねばならぬ。

 ……つまり、現代社会の多様性や社会参加は、清潔で行儀が良く、落ち着きがあってコミュニケーション能力があり、効率的かつ持続的に経済活動ができる自立した個人を基本としているのではないか――ハンディを補った社会参加とは、ハンディがそのまま露わになったかたちで社会に参加することではなく、ハンディを治療や福祉や法制度によってサポートしたうえで、この高度な秩序にふさわしい一員として参加することにほかならない。
P.81

そうなのだ、おれは自立支援をされた以上、ハンデ差を活かして、ほかの馬とタイム差なくゴール板を駆け抜けなければならない。

あ、いつから競馬の話になった? まあいい。

 

私たちは不断のコミュニケーションを求められている。

そこにおれは疲弊し、潰れてしまった。

あるいは、潰れてしまった人間がそういうところに放り込まれて病んだのか。

どちらとも言えるだろう。わかりはしない。

 

病、そして死

生老病死、その最後の「死」についても述べられている。

 現代の日本人の日常生活のなかには、死が垣間見える場面はほとんどない。病ですら、ある程度はそうである。
P.118

われわれの社会から死が隠されていること。

これは何十年も前に呉智英の本で読んだような気がする。

あるいは、もっと昔の、すばらしい詩人である田村隆一の「立棺」でも読んでみよう。

 

人は自宅で死ななくなった。

もっとも、自宅で死んだら警察が念のためにいろいろ調べるので、あからさまに死んでいても救急車を呼んだ方が楽、ということもあるだろうけど(これ、ライフハック、いや、デスハック? ね)。

 もし、現代の人間が本当に自由とするなら、リスクを冒してでも生きたい生を生き、生ききって死ぬような人生も肯定されて然るべきであり、そのような人生を”愚行権”のひとことで片付けてはならない。ましてや、健康が人生の主として振る舞い、私たちの行動や通念を支配し、あまつさえ他人の行動選択をののしり、軽侮するための大義名分になってはならないはずである。
P.126

酒や煙草をどこまで肯定するか。

これについて著者はこのように述べる。

「他人に危害を加えない限りにおいて」、不健康な選択も許されるべきだと言っている……のだろう。

 

行きつく先は伊藤計劃の『ハーモニー』の世界なのか。それは望ましいものなのか。

なるほどちょっと考えてみるべきことだろう。

もっとも、頭がアルコールでよいよいになっているおれにはよくわからないが。

<伊藤計劃『ハーモニー』リンク>

 

リスクとしての子育て、少子化という帰結

……というのは本書第四章のタイトルである。

 子育てにかかるコストが増大し、リスクも増大し、子どもをもうける適齢期がたった一〇年かそこらしかない以上、子育てを始めない、始められない男女が続出するのは当然というほかない。
P.160

著者は、子育てについて素晴らしいものとしながらも、資本主義や契約社会のロジックを内面化している現代人に認識できるかどうか問うている。

おれなどは資本主義のロジックを内面化しすぎているうえに、配偶者など求めることのできない落伍者ゆえに、お国の少子化対策などに貢献できるわけもない。

 

そして、おれは反出生主義というべきものに走ったわけだが、著者はそこまで踏み込まない。

そこに医師である地位と収入がある著者と自分との断絶を感じるわけだが、「少子化も当然だよね」というところでは一致しているのではないだろうか。

 

人生は不幸である。不幸をあらたに生み出す必要はない。違うか。

 人は生きて、必ず死ぬ存在である。だが健康リスクをそれほどまでに減らしたいのなら、いっそ死んでゼロリスクにするしかない。健康リスクを減らす究極の方法は死であり、これはナンセンスなのだが、かといって健康を至上とし、病と死が日常から切り離されている現代社会の通念は、死を念頭に置いたうえで健康リスクについて考えることを難しくしてしまう。
P.125

「健康のためなら死ねる」というのはナンセンスだ。

だが、おれなどは「ならばせめて新たに生み出さなければいい」という不生、未生の選択、反出生主義を思うのだが、このあたりは著者と考えが違うのだろう。違うのだろうか?

……少子高齢化という視点で見れば、東京の合計特殊出生率の低さは破滅的な数値だが、資本主義と社会契約のロジックに誰もが忠実で、それに基づいた子育て観を持ち、コストやリスクを負担しきれないと判断した者が子育てを避けているという点では、このような通念や習慣の徹底を象徴している。
P.160

いや、この「健康的で清潔で……」の社会にあって、子育てはリスクだ。リスクにほかならない。

これは、おれのような持たざるもの、持ちえぬものの「すっぱいぶどう」だろうか。

そうかもしれない。しかし、そうでないかもしれない。親類縁者や地域コミュニティが存在する地方ならともかく、都会の核家族で、一般的な夫婦が子を持つことはそうとうの負担であろうと想像する。

 

ネットでも断絶し

して、「健康社会」はなにもわれわれの三次元の社会においてのみ存在するわけでもない。

いま、あなたが見ているインターネットでもそれは存在しつつあり、また、断絶しているといってもいい。

 

「インターネットでは自分の選択したアカウントや話題しか見えない」という。

そのようなコミュニケーションが何年も積み重なった結果として、思想信条の似た者同士がますますお互いをフォローしあい、異なった意見や立場を持った者同士がますますお互いを敵視しあう――私たちがSNS上でこの一〇年以上続けてきた営みは、そのようなものである。
P.227

エコーチェンバーというやつだろうか。

それにしたって、おれの知ってるアングラ(死語……2ちゃんがあるかないかのころだよ)のネットのころとはずいぶん景色が変わった。

「普通」の人がネットを占領し、そして、飽くことなく対立している。

 

実名を基本とするFacebookのアカウントからでも、相当に極端な偏見を述べて平然としている。

ネットは匿名(=非実名)だろと思うおれなどからすると、面食らうといっていい。はたして、それはあなたの意見なのか。

これほど不自由な今日のインターネットのなかで、しっかりと自分の頭で考え、物事を認識し、自由に行動を選択できていると言える人が、いったいどれぐらいいるだろうか?
P.51

ミハイル・バクーニン(急にすごい名前が出てきたな)は、「自立して願望し、自主的に思考する、と言えるような人間は、千人のなかでかろうじて一人あるくらいなものであろう」と『神と国家』で述べている。

おそらくは、千人ではなく、一万人にひとりかもしれない。

そして、おれは「おれはその一万人に一人だな」と思いこんで、こんな文章を打っている。むろん、誤謬である可能性は高い。

 

じゃあ、どうするっていうのさ

さて、それそろお別れの時間だ。

最後に、「じゃあ、どうするっていうのさ」という話をしようか。

本書はこの社会がもたらす自由と不自由とを論じるたたき台にしてほしいというスタンスである。

この「健康的で清潔で……」社会のこれが問題であるからして、このような方法で解決するべきだ、という処方箋を出しているわけではない。

 

じゃあ、どうするっていうのさ。

浅学非才、それについてはおれもわからない。

街角の監視カメラの目は日毎に強まり、ネットではちょっとした誤りすらすぐに燃やされてしまう。

それはある種のユートピアに向かっている、ということは、同時にディストピアに向かっているということでもあろう。

 

そして、このような社会のなかで居場所のない人間はどうしたらいいのか。

これはおれという人間に突きつけられた問題でもあり、実存を左右することでもある。

ITについての高度な能力を持った人間か、コミュニケーションに長けた人間か、いずれにせよ一握りの人間しか求められなくなったいま、そこからおちこぼれた人間はなにをするのか。

 

なにができるのか。権藤成卿や石川三四郎が論じたように(だから、出てくる名前が古いのだって)、ついていけぬ人間は農業でもやろうか。

二十一世紀の農本主義だ。

少なくとも、自分が食えるものを自分で作るというのは無理がない。

だが、やはり飯だけで生きていけるわけでもない。電気もガスも必要だ。まったく、厄介だ。

 

おれなども、一日中かごを編んだり、森でどんぐりを拾う仕事をしていたいのだが、そういうものは多分存在しないし、あったとしても競争率が高そうだ(そうか?)。

刑務所に入ればそういう労働ができるのかもしれない。

 

基本的に、この社会は良い方に向かっている。

少年の犯罪率を見てもそう言える。だが、それでも、どうなるのか。どうするべきなのか。

この問いかけには、簡単に答えられそうにない。自由か、不自由か、決を採る、そういうわけにもいかない。

 

少なくとも、自分は生きる。死んでもいいかもしれないけど、どう生きる。そう問われている。

 

 

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(2021/04/12更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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