おれのおれによるおれのためのゲーム

土曜日だったか日曜日だったか忘れた。おれは図書館に行くことにした。

図書館は無料で本を借りることができる。

もちろん借りた本は返さなければいけない。それが契約というものであり、仁義というものだ。

あなたは図書館を知っているか? 仁義を知っているか?

 

さて、おれは図書館に向いて歩きはじめた。自転車でも行ける。

しかし、おれはあえて歩く。医者にもウォーキングを勧められている。

歩くことは健康につながる。健康は悪くない。そういうことになっている。

 

安アパートの門を閉めてあるきはじめたおれは、ふと思った。

「おれが図書館に歩いて行き、本を返し、本を借りて、歩いてアパートに帰る間に、いったい何台の外車を目にするのだろう?」。

 

おれは考えた。

10台? 10台では少ないような気がする。

20台? いや、どうだろうか。

30台、そうだ、30台くらいだ。

そのくらいがぎりぎりのラインだ。おれはそう思った。

おれは「30台」にベットした。おれは30台の外車のカーを見る。それに賭けた。

 

いや賭けるっていっても胴元も相手もいない。ゆえにリターンもない。

不毛。

 

そして、即座におれのなかで追加のルールができた。

「明らかに外車であるもののみをカウントする」、「駐停車している車もカウントに含める」。以上だ。

 

今世界に酔者幾人

そしておれは歩き始めた。

ベンツ、1台。BMW、2台。駐車場にアウディ、3台。

あの後ろ姿は……フォルクスワーゲン、4台。

 

おれはそんなふうにして道を歩いた。おれは道行くカーを見た。駐車場のカーを見た。あくまで即物的である。

いったい、おれは何台の外車を見るだろう。

「今世界に酔者幾人醒者幾人あるか」
「酔者三萬三千三百三十三人醒者三萬三千三百三十三人あります」

……とは『現代相似禅評論』(禅問答のあんちょこのような本があるのです。大正五年出版)に載っていたやりとりだが、おれはが求めるのは30台の外車だ。

 

不毛。

まるっきり不毛。

そんなんお前に言われんでもわかっとるわ。

 

それでもおれはボケーッと歩いているよりましなような気がした。

こんなことでも街の見え方は変わる。

道行く車が、駐車場の車が、とたんに意味のあるものに変わる。

レクサスに用はないんだ。ベンツ来い、ベンツ!

 

やはり不毛。

それにしても不毛。

おれはおれに問いかける。

「不毛じゃないか」

 

不毛にて夢中になれるゲーム

それでもおれはおれの発明したばかりのゲームに夢中になった。

 

「この街区はガラが悪いが、ガラが悪い外車というのはべつに矛盾していないのではないか」。

「なぜか2台続けて外車が来ることが多い。見逃さずカウントしろ」。

 

それにしてもなんだ、おれは原動機付自転車を買えるかどうかもわからない貧乏人だが、外車は違うな。

外車というのは見てすぐにわかるな。

たとえばおれのルールが「トヨタ車」だったら、台数以前に、トヨタの車を見分けることができなかっただろう。

車好きには申し訳ないが。

 

そして、目に入る車を瞬時に外車かどうか判断していると、自分が学習中のAIかなにかのように思えてくる。

パッと見た映像から外車を判断して、カウントする。おれはマシーンだ。

とはいえトヨタとホンダの車の区別はつかない。

ラジオのコマーシャルは車を売れというばかりで、買えとはいわない。おれに日本車の区別はつかない。

 

その日おれは図書館に行き、図書館から帰った。

おれが見かけた外車は35台だった。

すごいじゃないか。おれの推定は、それほど悪くなかった。

これがフェルミ推定だったら上出来だと言われるかもしれない。

 

フェルミ推定? 知らないね

フェルミ推定?

おれはべつに入社試験を受けたわけじゃねえんだ。

おれのゲームを遊んでただけだ。

 

けれど、賢い人ならばなんらかの論理的推定から「30台」を引き出せたかもしれない。

おれのは単なる直感だ。

なにも学ぶところはない。反省するところもない。

というか、直感なのでフェルミ推定でほめられない。

 

して、このゲーム、いくらでも応用が効く。

カーに詳しい人なら「トヨタの車」、でもいいだろう。

おれにはわからんので、たとえば「タクシー」、というのもいいだろう。「白い車」なんかもありだ。

 

べつに車に限る必要はない。

というわけで、おれは雨時々曇りの予報の日、「こんな天気でも自転車に乗っているやつは何人いるか?」という問いを出して図書館に向かった。

出発するとき、雨は止んでいた。

あんた、図書館のことはもう知っているだろう? まあいい、20人。どうだ。

 

あんがい、いない。そうなると、あせる。

このゲームのペナルティは、ない。

ただ、おれがおれを間抜けの鈍いやつと判断するだけだ。

が、それでも、少し栄えた辺りに出てくると、数台、自転車を見かけた。

寿町系自転車じいさん、そして、ああ、飲食店から各家庭に四角いカバンを背負って食べ物を運ぶ人たち。

 

そして、おれは帰り道にきっちり20人目を見た。

雨なのにロードバイクで疾走する人だ。

タイヤによっては滑って死ぬし、泥除けもない。なのに、あんたは走ってくれた。感謝する。気をつけろ。

 

とはいえ、ぴったり賞も出ない。

おれの自己満足だ。だが、満足のなにが悪い。

生きていて満足できることなんて、だいたい三十三回くらいだろう。

 

ゲームが役に立つってことはあるのかい?

それにしても、やはり不毛は不毛だ。

この遊びはなにかの役に立たないか?

いや、おれには無理だ。だが、優秀なビジネスパーソンによっては、どうだろう。

 

「この地区の車庫には意外に高級車が多い。客単価の高いおしゃれな店を出したらいいのではないか?」

「この弁当屋には自転車で訪れる人が多い。もう少し住宅地の近くに弁当屋を出したら儲かるのでは?」

「ここは飲食店から各家庭に四角いカバンを背負って食べ物を運ぶ人たちがやけに多い。デリバリー専門のゴースト・レストランでも初めてみるか」

 

……うーん、どうだろうか。

やっぱりおれ、ビジネスわかんねえわ。

つーか、こんなんでなんかできるくらいだったら、いまごろおれももう少しましな人生を送っていたことだろう。

少なくとも、徒歩で図書館に通うのではなく、通販で好きなだけ本を買っていたろうよ。

 

というか、優秀なビジネスパーソンが小一時間歩くとしたら、完全ワイヤレスイヤホンで英語学習やビジネス書や自己啓発本のオーディオブックでも聴いてるんじゃないだろうか。

英語が話せるようになってビジネスのパワーがアップして自己が啓発される。

あらゆる地球生命と一体になれる。いや、それはなれない。

でも、キャリアアップで収入アップだ。

 

そうだ、アホみたいに「お、外車、また来たぞ」とか考えながら歩いていない。幼稚園児か。

「天気悪いからって長い傘持って自転車乗るのは怖くないのかな」とか考えない。考えても無益だからだ。

外車を見るたびに1ドル貰ってたら……それは私のベンツですよ。

 

ちなみに、中の見えない自動車より、いろいろな生活を想像できる自転車をカウントした方が楽しいぞ。

すこし信号をフライングしたから、天気を気にしているのだろうとか、どうしても自転車の速さで行く必要があるようだとか、まったく濡れるのを気にしていないようだ、とか。

 

歩いてる人というのは少し難しい。

「道を歩いている男性と思しき人、女性と思しき人」とかにすると、人通りのない場所ならともかく、カウントで大変なことになって疲れてしまうだろう。

人をカウントするのなら、メガネをかけた人とか、カップルとか、三人家族とかそのあたりでいいのではないか。

いまどき「マスクをしていない人」というと「1人」に賭けたいところだが勝算は薄いかもしれない。

ただ、「鼻を出してマスクをしている人」ならもう少しいるかもしれない。

もっとも、人の顔をじろじろ見るのはあまり行儀がよくない。

 

結局人生は暇人のもの

……しかし、おれは、どれだけ、暇人なのか。

というか、いよいよここまで脳が退化したのかという気になる。

もう少し若いころは、もう少しなにか世界に対するいくつかの疑問を取り出しては、それを眺め、やはりわからずまたポケットに押し込んだりしていたような気がする。

 

それが、ミニカーで車の種類を覚えたばかりの小さな子供のように、外車を数えて喜んでいる。

いや、喜んじゃいねえが、そんなことを気にしながら道を歩いている。

そんなことしてたって、外車どころかミニカーも買えねえぜ。

 

もうちょっとグレードアップできないか。

そうだな、たとえば自動車のナンバーを暗算で足していくとか、掛け算していくとか、2つの立方数の和として n 通りに表される最小の正の整数を探すとか

。いや、おれ、算数できねえんだ。

でも、「17-29」って希望番号にしてる理系のやつとかいるだろ?

 

それじゃあ、文系らしく、ナンバーの「あいうえお……」から……シェイクスピアの作品が完成するのを待つとか。

え、無限の猿定理ってやっぱり算数寄りですか。哲学ですか。

つーか、そんなん、おれは無限に近い自動車の列を無限に近い時間見続けなければいけなくなる。

どんな地獄だ。無限列車だ。

おれはそんなに悪いことをしたつもりはない。弁護士を呼んでくれ。

 

ああ、なんというか、どうにも無駄なゲームを考えてしまった。

いや、遊びというのもおこがましい。

「なぐさみ」くらいのものだ。

 

とはいえ、人間は遊ぶものだ。ホモ・ルーデンスだ。

あんたはゲームメーカーにもなれるし、ゲームチェンジャーにもなれるし、ゲーマーにもなれる。

 

だいたい考えてみろ、もしもおれがはまったのが携帯端末のソーシャルゲームだったとしたら。

おれはお金をたくさん失っていたことだろう。

恐ろしい、恐ろしい。え、競馬? なんのことですかな?

 

まあ、結局、人生は暇人のものだ。なんか変な物言いか?

人生はしょせん死ぬまでの暇つぶしとはよく言ったものだ。

ヴォネガットもそんなこと言ってたっけ。

いずれにせよ、ビデオゲームをするのも、道路を走る外車を数えるのも、たいした違いはないんだ。

 

しかしまあ人生に意味があっても悪くない

しかしまあ、べつに人生に意味や意義があっても悪くないだろう。

たとえば、せめてなにか、人間一人に一生かけて解くような問いが与えられないものだろうか。

生まれたときに、神様みたいなやつから与えられる。

べつに遊んで暮らしても、ガツガツ働いてもいいけれど、頭のどこかに鎮座して、ときどき「ちょっと考えろよ」って言ってくれるようなやつ。

そんな課題をランダムに与えられるってのも面白くはないか。

 

それでときどき、街なかで「解けたー!」って叫ぶおっさんとかいる。

みんなおっさんを囲んで拍手する。

新型コロナウイルスが流行ってなければ、みんなで抱き合って、胴上げしたっていい。……なんだその世界。

 

まあ、その問い自体を見つけるのが人生というものなんだよ、とか言っておくか。

それでときどき、街なかで「見つけたー!」って叫ぶ……のはもういいですか。

でも、なんか問いがあればいいよね。革命前夜にはチップスがあればいいよね。

 

と、そんなふうに思うおれはなんか性根がひん曲がってるんだろうか。

みんな答えが欲しいのか。それでいいのか。……いいよな。

とくに馬券の答えとか事前に知りたいよな。

 

ともかく生きるのに苦労はしたくないよな。

この場合の生きるってのは、金を稼ぐってことだ。

金の不安がないってことだ。

 

そしたら、永遠の生命を得て、もっと自由に思考を巡らせて、サルがシェイクスピアを書き上げるころには、おれの精神年齢も中学生くらいになっていることだろう。

それで、神様に与えられた問いだって解いてしまって、暑くもなく寒くもない、朝だか夕だかわからないときに、少し風の吹く草原に歩み出して……バッタの数を数えるんだ。25匹!

 

「天上の星の数幾何ぞ」

「五つ六つもありませうか、其とも十二三もありませうかい」

 

※路上観察行為は周囲の迷惑にならないよう行いましょう。

※歩きスマホはたいへん危険ですのでやめましょう。

※おれの考えたゲームでオーディオブックのスキルアップが阻害されても、苦情は受け付けません。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Greg Gjerdingen