天皇はキリスト教的な神である

このところ、小室直樹を読んでいる。その中で、天皇について論じた本があった。『天皇畏るべし』である。

小室直樹はなにやらあやしげで、この本もいろいろと話が飛ぶが、十分におもしろかった。

 

して、どこが「おそるべし」なのかというと、天皇というのはキリスト教的な神であるということらしい。そのあたり、世界の皇帝や国王とも違う。

それが明治の近代化、ほかのアジア諸国に先駆けた近代化の成功をもたらしたという。『宗教原論』などもひきつつそのあたりをちょっと。

 一歩進んでいえば、明治政府は富国強兵を目指す国家政策上、宗教を作らねばならなかった。いわゆる天皇を神とした。新しい宗教を作り上げなければならないので、既存の都合の悪いものは全部つぶして新設の天皇教に改めさせた、という構図なのである。筆者が、天皇信仰がキリスト教に似ていると論じたのは、まさにその点にある。
(『日本人のための宗教原論』)

 「大日本国憲法」は、天皇と皇祖、皇宗、皇考の神霊との間の契約(Testimony, Testament)であり、臣民は不在である。
(『天皇畏るべし』)

明治のころ、日本という国をまとめ、列強に食い殺されぬよう、追いつくよう、どうすればよいか。そこに唯一神としての天皇という考えを持ち込んだ。持ち込んだ? いや、復古させたというべきか。

 

そして、儒教では考えられない「臣民」(儒教においては臣と民は別物である)という概念まで作り出した。

 憲法政治を成功させる為には機軸(中心)が必要である。ヨーロッパ諸国には、キリスト教と言う機軸があるのに、我が国にはそれがない。仏教も神道も機軸として機能し得ない。

伊藤博文はこのように問題提起する。

憲法政治を成功させる為には機軸が必要である。ヨーロッパ諸国は、キリスト教を以て機軸とした。然し日本には、ヨーロッパに該当する宗教はない。仕方がないので、天皇を以てキリスト教に替えて、憲法政治の機軸にしようと言うのである。
(『天皇畏るべし』)

ここで、天皇を機軸にしようとしたのは伊藤博文だと述べる。そうなのかもしれない。

 

とはいえ、天皇家というのは長く続いてきたものである。最初のころは神話だろうとか、実は途中で途切れているんじゃないかという話もあると思うが、それなりに古く、いや、世界史を見れば異様に長く続いてきたというのは一つの事実として見ていいだろう。

 

とすると、なぜ、そんなに長く続いてきたのか。そうなると、はるか昔にも「天皇を機軸に」した国造りをしようとした人たちがいるんじゃないのか。そんなふうに思った。

 

ちなみに、天皇がずっと権力の座にあったわけではない。

 しかし、時の執権北条泰時は、鉄心石腸(堅固な意志)、上皇の帰京を許さない。
正に皇をもって民となし、民をもって皇となす。崇徳上皇の誓願(テスティモニー)が実現されたではないか。

その後、北条泰時は『貞永式目』を制定した。これで民をもって皇をなすとの予言(テスティモニー)の実現は完全となった。
民をもって皇をなし、皇をもって民となす。この予言のピークは徳川幕府にある。家康は公家法度を制定して、天皇と公卿の行動を細目に至るまで規制した。

これに反し朝廷は少しも幕府を掣肘する事が出来なかった。
(『天皇畏るべし』)

さあ、『鎌倉殿の13人』の話ですよ、というわけでもないが、そういう話だ。承久の乱は一大事であった。

「天皇は正しい」という価値観から、「よい政治をするものが正しい」という考え方に振れた。そういうところがある。

 

そして、徳川家康もまた、豊臣を滅ぼしたことについて孟子の「湯武放伐論」に深く同意するところがあった。

え、孟子?

 

『「孟子」の革命思想と日本 天皇家にはなぜ姓がないのか』

そこで、おれが手に取った本は松本健一の『「孟子」の革命思想と日本 天皇家にはなぜ姓がないのか』であった。

小室直樹がたびたび言及することに「湯武放伐論」がある。殷の湯王が夏の暴君桀王を放伐し、殷王朝の末期に、周の武王が殷の暴君紂王を討った(ここのまとめWikipediaから)。前者は史実かわからない。

 

いずれにせよ、世の秩序をたいへん重く考える『論語』の世界からは離れている。

たぶん、論語でここに触れたのは「顔淵」の「湯、天下を有ち、衆より選んで伊尹を挙げて……」のところだけじゃないだろうか(ほかにあったら教えてください)。

基本的に、孔子にとって君主は君主であって、君子であるべきなのだ。もし、その君主に値しなくなったら? みたいなことは問わないのである。

 

そこにひとつの答えを出したのが孟子であって、「易姓革命」という考え方につながる。

「徳を持たない君主はやっちゃっていいの?」という問いに孟子はこう答えた。

「仁を賊なう者は之を賊と謂い、義を残なう者は之を残と謂う。残賊の人は、之を匹夫と謂う。一夫紂を誅せりとは聞けども、未だ君を弑したりとは聞かざるなり。」

もう、そんなものは「君」ではないんだよ、と。やっちゃっていいんだよ、と。そこに孟子の「革命思想」がある。

 

だから、やばい。簒奪者にとっては孟子の考え方は有用だ。林羅山と話した徳川家康にとってはこれをたたえる。

しかし、世の中が治まってくると、この革命論はやっかいなものになる。そこに荻生徂徠のような考え方が出てくる。……らしい。が、今は古代天皇の話に向かって進もう。

 

いずれにせよ、天皇には「易姓革命」になるような「姓」がない。だれかがそうしたのだ。

孟子の考え方を知った上で、天皇を特別な存在にしようとした。それはだれなのか。

 

松本健一はこう述べる。水戸学の学者も、江戸時代の国学者たちは壬申の乱から世が乱れ始めたという。そのために孟子批判もした。が、だ。

 ところが天武自身は、自分が兄の天智と対立し、天智の長子の大友皇子を殺して王位を「簒奪」し新しい飛鳥浄御原朝を立てたわけですから、それはいわば革命政権で、『孟子』の湯武放伐革命論、易姓革命の思想を実践したことを知っているわけです。
(『「孟子」の革命思想と日本』)

というわけで、天武天皇だ。天武天皇は孟子の考えを「密教」化して、大宝令を作って律令国家を目指す。

そういう国家支配の体制を作っていった。

 

そして、天武天皇の時代に「日本」という国号、「天皇」という称号も決まった。ここに日本の土台ができたという。

 

そして、天皇は姓を持たず、ただ姓を与える側になった。

松本健一はこう推測する。

 日本に中国のような「易姓革命」を起こさないためには、どうすればよいか。そのことを、いつ、誰が考えたかのは分からない。分からないけれども、日本の皇室、つまり天皇家から姓をなくしてしまえば、「易姓革命」はついに起こらない。そのように考えた誰かがいたことは、たしかである。

そのことと、日本という国号を考え、その国の統治者に天皇という、秦の始皇帝が使いはじめた皇帝と天子(天の声をきく人)とを一体化した称号をつくり出した誰かとは、同じ人物のような気がする。

これが、「日出る国」の天子、という名乗りを考えだした聖徳太子(最近じゃ実在しないらしいですね)なのか、それとも公式に天皇と名乗りはじめ、『日本書紀』の編さんを命じた天武天皇なのか、そのあたりの誰かなのか、それが分からない。分からないけれど、日本の古代国家において、そういう虚構をつくりあげた人物(もしくは組織)があったことは、たしかである(現在の私は、その人物が天武であり、その協力者が藤原不比等だったのではないか、と考えている)。

この本では吉田松陰、西郷隆盛、北一輝が『孟子』の愛読者であったことなど、近代への興味深い話もあるが、おれはここからどうも心が「日本の古代国家」に向かってしまった。

 

『古代天皇の誕生』

日本の古代? どのへんから? 縄文時代とかになるとちょっと行きすぎだ。というわけで手に取ったのが『古代天皇の誕生』だ。

これはもう、思想や思想史から歴史の本になったな、という感じだ。

たとえば、あなたは「帥升」という人物を知っているだろうか?

 次に倭国の王が、後漢の安帝にまみえたのが、二世紀初頭の『後漢書』の記事である。
(2)安帝の永初元年、倭国王の帥升等、生口百六十人を献じ、請見せんことを願う。
(『古代天皇の誕生』)

「次に」で「(2)」なのは、最初が『後漢書』東夷伝に記されているあれだからだ、あれだ、「漢委奴国王」の金印のやりとりがあったとされている。

 

そして、次に出てくるのが倭国王「帥升」だ。Wikipediaなどの記述によると「西暦107年に後漢に朝貢した。日本史上、外国史書に初めて名を残した人物。」だ。

 

いや、おれは知らなかったよ。中高と世界史選択で(中高一貫で「中学から世界史やっておけば大学受験で有利、という世代だった」、まじで初めて知った。ある意味では、最初の「日本人」かもしれない。

いや、もちろん当時は「日本」自体がなかったわけだし、「今、日本と呼ばれる範囲に住んでいたと考えられる人」なんだけど。

 

ちなみに、「帥升」(唐代の『通典』では「師升」)が、中国風の姓名なのか、渡来人だったのか、それとも姓ではなかったのか、官職名だったのかよくわかっていないらしい。

そりゃ昔だからわからんよな、とか言ってたら歴史学も成り立たないのかもしれないが。

 

それから、「倭の五王」なんてのも初めて知った。たぶん、日本史の時間に寝ていたのだろう。

 

倭の五王の記述が見えるのは中国の宋の時代。『宋書』倭国伝には遣宋使の記述が多くあるという。最初の記述は永初(さっきの永初とは偶然一緒なだけ)二年。

   詔して曰く、「倭讃、万里貢を修む。遠誠は宜しくかんがうべく、除授を賜うべし」と。

なんだかよくわからんが、注目するのは「倭讃」だ。

 この条文に「倭讃」とみえるのは、高句麗王が国名の一字「高」を姓としたのと同じように、倭国の国名「倭」を一字の姓として、讃という名前を付したのである。つまり倭(姓)・讃(名)ということになる。中国と冊封関係にある朝鮮の事例をみならったとはいえ、倭国王が姓を名乗ったのは五世紀をおいてほかにない。『宋書』では、この後の倭国王は個人名しか登場せず、珍・済・興・武の四人の倭国王が続く。このように『宋書』に五人の倭国王がみえるので、彼らを「倭の五王」とよんでいる。
(『古代天皇の誕生』)

姓の話が出てきた。後には「倭王倭済」などという書き方もされている。

ちなみに「倭」という言葉について古代日本がどう考えていたかなども本書では検討されている。

倭国王は倭讃の時期から宋へ入朝し、称号を授与された。これ以降、倭国王は代替わりごとに入朝をくりかえし、宋との冊封関係を続けることになった。代替わりごとの入朝なので、前王との血縁関係が問われることになる。血縁関係がないとすれば新しい王朝の成立を意味する。中国では「天命が革まる」革命思想が肯定されているから、いずれにせよその由来を説明することになる。『宋書』には「讃死す。弟珍立つ」と記されているので、讃の没後、弟の珍が即位したことになる。
(『古代天皇の誕生』)

おっと、ここでも革命思想が出てきた。易姓革命だ。でも、弟の珍立つだから、そういうことはない。

後の王も……と言いたいところだが、珍と済の血縁関係は明確に記されていない。ここに一ついろいろな説があったらしいが、細かいので省く。

 

いずれにせよ、当時の倭人には個人名しか存在しなかったものの、宋との外交においては「倭」を名乗った。

 

しかし、五世紀末から氏とカバネ(姓)の秩序が形成されると、王とその一族はどちらも使わなくなったという。

『隋書』倭国伝では「姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)」などと処理されているが、アメタリシヒコは人名ではなく「天児」のことだったりするとか。対外的にも、姓を名乗らなくなったのだ。たぶん。

 

ちなみに、「倭の五王」はそれぞれどの天皇にあたるのか、というのも議論の的らしい。

 稲荷山鉄剣名にみえる「辛亥年」は西暦471年にあたるが、銘文に記された「獲加多支鹵(ワカタケル)」がオホハツセノワカタケルと称された雄略天皇であることはほぼ確定した。……(略)……実名を避ける諱の慣習がなく、ワカタケルの核ともいうべきタケルの言葉を「武」の漢字に表記したのである。このように個人名から一字の好字が選ばれた。
(『古代天皇の誕生』)

というわけで、倭の五王の武は雄略天皇ではないかと推定されるらしいのだが、かといって決定打でもない。ほかの四王についてもいろいろな説があってよくわかっていないのが現状らしい。

 

で、「王」とかいってるが、まだ「天皇」ではないのだな。さっきの『隋書』の記述のあとにはこう続く。

「姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(あへけみ)と号す」。

 

阿輩雞弥。これは「オホキミ」で、「王」の和語だとする説と、「アメキミ」で、「天王(天君)」ではないかという説があるらしい。

いろいろと難しい。しかし、昔の中国の書物から日本語を類推するなんてのもおもしろい。

 

して、天皇の神格化となると、本書では『万葉集』を引き合いに出している。「大君(皇)は神にしませば」という歌が六首あるという。

その大君は天武天皇を指していたと考えられ、このころに天皇は神扱いされることになった、というか、「した」のだろう……といっていいのかな。

近年では壬申の乱後に天皇神格化が強まったとする見解が、有力である。
(『古代天皇の誕生』)

「天皇」という言葉についても本書ではさまざまな検討が紹介されているが、いずれにせよ、おれが最初に求めていた話はこのあたりが一つの落とし所なのかもしれない。

もちろん、歴史学のなかでは、「天皇」という言葉と同じく、「日本」という言葉も単に大宝律令で決めたわけではなく、それ以前にも……みたいな話があって、歴史畏るべしという感じではある。

 

……というわけで、おれが興味を持って三冊の本を読んできたことをここにメモした。

無論、この文字数でなにか語りきれることなどない。それにおれは日本史について無知なものであって、ひどい間違いをおかしているかもしれない。

 

とはいえ、今さら自分が古代日本に興味をもって、『古代天皇の誕生』みたいな遺跡やら古書やらを多く取り扱うような本に興奮できたというのは驚くべきことである。とはいえ、山岸凉子の『日出処の天子』なんて大好きな漫画だし、水樹和佳子の『イティハーサ』……はちょっと時代が違いすぎるか。まあいい。

そして次は、どこへ行こうか。『古代天皇の誕生』に出てきた古代日本と中国の関係、あるいは蝦夷や隼人、粛慎といった「多民族の日本」的ななにか、そのあたりが気になる。気になるといえば、「孟子」の革命思想が北一輝に与えた影響というのを通して、また北一輝を読んでみようかなどとも思える。

 

こうして、一つのところに留まれないから、なにかの専門的な知識を得ることはできないが、おもしろくもないのに本を読むのは絶対によくない。

思うがままにあさっていこう。どのみち、現世で金儲けにつながる本に興味は持てそうもないし。いや、古代日本に興味が持てたんだ。いずれは、ひょっとして……なんてね。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

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