やりがいは個人の願望に基づく

「やりがいのある仕事をしたい」という人は多い。

だが「やりがい」という言葉はきわめて抽象的なので、それが一体何を示すのかを

はっきりと言える人は少ないだろう。

 

例えば「とらばーゆ」というリクルートの運営するサイトでは、アンケート結果に基づいて、やりがいのある仕事ランキングが表示されている。

 

それによると、上位5位は

1.美容師

2.貿易事務

3.看護師

4.エステティシャン

5.アパレルショップ店員

となっている。

 

これは、2009年時点で、20〜30代の働く女性1033人にアンケート調査をした結果だと示されている。

だが、例えば男性の30代では全く違った結果が出るだろうし、50代以上の人が考えている「やりがいのある仕事」も違っているだろう。

つまり「やりがい」とは仕事に紐づくものではない。

個人の願望に基づくものである。

 

極端な話、どんな仕事であっても「やりがい」は得られる。

「フロー理論」の提唱者として知られる心理学者、ミハイ・チクセントミハイの著作には、

収入にも地位にも興味を持たない、一介の機械工が、いかに仕事にやりがいを見出しているかというエピソードが登場する。

 

彼は純粋に「動かないものを修理すること」に惹かれ、「自分でものづくりをすること」に惹かれ、「勝手に」仕事にやりがいを見出しているのだ。

 

そしてもう一つ重要なのは、「やりがい」の感じ方は変化するということだ。

同一人物であっても、20代にやりがいを感じていた仕事に、30代半ばを過ぎてもやりがいを感じられるかどうかは疑わしい。

なぜならそれは上で述べたように、「個人の願望」が変化するからである。

20代で望むことと、30代半ばを過ぎてから望むことが同じである蓋然性は低い。

 

したがって「やりがい」とは「ある時期」の「個人の願望」に大きく依存している。

世の中に「やりがいのある仕事」なんてものはなく、「やりがいを感じる人」がいるのみなのだ。

だから「やりがい」とは極めて私的な感覚であり、他者に「やりがいないでしょー」とか

「やりがいある?」とか、批判めいたことを言われる覚えはないのである。

 

やりがいは、自ら作り出す必要がある

このように見ていくと「やりがい」に実体はなく、他者が設定するような性質のものではないことが良くわかる。

例えば小説家の森博嗣は、著作「「やりがいのある仕事」という幻想」において、次のように言っている。

 

「やりがい」というのは、他者から「はい、これがあなたのやりがいですよ。楽しいですよ、やってごらんなさい」と与えられるものではない。そんなやりがいはない、というくらいはわかるだろう。

ところが、今の子供たちは、すべて親や学校から与えられて育っている。ゲームもアニメも、他者から与えられたものだ。ほとんどの「楽しみ」がそうなのだから、「やりがい」もきっとそういうふうに誰かからもらえるものだと信じている。

どこかに既に用意されていて、探せば見つかるものだと考えている。 そんな若者が、会社に入って、やりがいがもらえないか、と人を見て、やりがいはどこにあるのか、と周囲を探す。でも、誰もくれないし、どこにあるのか見つけられない。

 

文にある通り、やりがいは個人の願望に基づくものであるから、必然的に「誰も用意してくれない」。

自分で設定し、自分で感じなければならない。

 

そしてここからが問題の核心なのだが、だからこそ「やりがい」の議論は、必然的に「やりがい」を得られにくい不幸な人を生み出す。

平たく言えば、「自らの願望」を他者の評価に依存している人は、「やりがい」を得にくい。

 

単純に言うと

「他者にうらやましがられることがやりがい」

「他者に称賛されることがやりがい」

「人より抜きんでることがやりがい」

となってしまう人たちだ。

 

彼らは「人より」高給を得ること、「人より」羨望を集めやすい仕事に就くこと、「人より」知名度の高い企業に入ることが、「やりがい」の源泉になってしまっているがゆえに、その相対的な地位が上がらないかぎり、やりがいを感じられない。

こういう人は、仕事そのものからやりがいを引き出しているのではなく、「世間的な評価」からやりがいを引きだしているので、自分の力でやりがいをコントロールできず、悩みがちである。

 

「やりがい」ではなく「成果」を追求する

つまり、私が言いたいのは、幸福を追求するのであれば「やりがい」を求めるのは、お勧めできないということだ。

やりがいは単に現在の願望に基づく幻想のようなもので、実態はなく、時とともに移ろう。

 

中身はない。

他者の評価に根ざしているとすれば、なおさらだ。

だから、それに基づいて仕事をホイホイ変えたり、人のアドバイスに右往左往して、一喜一憂していたのでは、何も得ることがなく、人生が終わってしまうだろう。

 

では、何をターゲットにすべきかというと、これはもう、仕事においては圧倒的に「成果」を追求するべきだ。

仕事なんてものは、成果が出れば楽しく、手ごたえを感じられるものであって、おまけにカネも稼げる。

逆に成果が出なければ時間の無駄で、虚しいものだ。

 

誓ってもいいが、どんな仕事であっても「成果」を自ら設定して、それを自分のコントロールによって成しえたときには、楽しくなる。

それはまさに、ゲームと同じだ。

ゲームと違うのは、ゲームはそういった「成果」をスコアやストーリーの進み具合などで、わかりやすく示してくれるが、仕事はそれを自分で決めなければならない点だ。

 

もちろん、会社が成果を示してくれる時もある。

だが、その成果は「自分のコントロール下にない」ことも多い。

 

売り上げを目標とすれば、商品の良さに左右されるし、業務スピードを目標とすれば、自分以外の業務のスピードも問題になるだろう。

だから、まずは「自分で何とかできる範囲」でやれること、その中で自分自身で「これだけは達成しよう」と設定することで、仕事はがぜん面白くなる。

ゲーム性が増し、期せずしてやりがいを感じられるシーンも増える。

そうして頑張って、何にも成果が出ないときは、仕事を変えてもいいと思う。

 

向いていないことだって、世の中には多いのだ。

でも、もし自分の思い通りに成果が出せることが増えてくれば、少しずつ、自分以外のことにも目を向けられるかもしれない。

頑固な上司をどうしたら動かせるか、わがままなクライアントをどうしたら説得できるか。

 

そういう「攻略要素」が仕事をもっと面白くする。

それこそ「やりがい」の本質と言ってもよいかもしれない。

 

「成果」を追求すると、他者の評価が気にならなくなる

そして何より、奇妙に思うかもしれないが、「成果」を追求することで、他者の評価に依存せずに済むことになる。

 

このように言うと、

「会社からの評価が気になるのでは?」と思う方もいるだろう。

しかし、それは違う。

 

会社の評価というのは、成果の一側面に過ぎない。

もちろんこれを追及することで、会社内での立場や収入を上げることができる「ゲーム」に参加できる。

だが、真の意味での仕事の成果は「人生における幸福への寄与」というスパンで見なければならない。

 

転職に有利か、自分の得意なことを見つけることができるか、学ぶ機会は得られるか、それは今働いている一社だけで判断すべきことではない。

だからこそ自分の中で「成果」を設定し、そこについては妥協しないこと。

その結果、得られるのが「やりがい」という結果なのだ。

 

やりがいは、目的ではなく、結果にすぎない。

成果にこだわれば、きっとやりがいはついてくる。

 

 

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【著者プロフィール】

株式会社識学

人間の意識構造に着目した独自の組織マネジメント理論「識学」を活用した組織コンサルティング会社。同社が運営するメディアでは、マネジメント、リーダーシップをはじめ、組織運営に関する様々なコラムをお届けしています。

webサイト:識学総研

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