先日、旧知のブロガーの方とzoomをやる機会があり、昨今のインターネットや新型コロナウイルス感染症について、いろいろな意見交換をした。

そうしたなかで、何の脈絡か、宗教の代替物の話になった。

 

たとえばニセ科学が宗教の位置におさまっていたり、ときには科学そのものが宗教の位置におさまっていることがあるよね、といった話でひとしきり盛り上がったのだった。

と同時に、戒律を伴った正真正銘の宗教は、欧米のキリスト教離れにせよ日本の仏教離れにせよ進んでいるよね、なんだか戒律の乏しいスピリチュアルなものが流行っているよね、といった話も出てきた。

 

宗教には色々な役割があるが、一般に、現世利益や来世利益をうたっているだけではない。

宗教は、その信徒に守るべき戒律を与える。

戒律には宗教団体や宗教共同体を守る機能だけでなく、信徒自身の社会生活や社会的評価を守る機能もある。

なんにせよ、宗教というからには戒律がついてまわり、その宗教にふさわしい生活習慣や生活態度を謳っているのが一般的だ。

 

ところがその宗教がどんどん廃れている。

島谷裕巳『捨てられる宗教』によれば、日本では諸宗教の信徒数がすごい勢いで減少しており、たとえば仏教系の信徒数はここ30年で2300万人程度も減ったという。

欧米でも事情はそう変わらない。キリスト教の日曜礼拝への出席者は、右肩下がりの状態が続いている。

日曜礼拝の閑散っぷりが象徴しているように、宗教が衰退するとその宗教の戒律も衰退する。そうして、人々の暮らしや意識から宗教色が失われていく。

 

衰退した宗教の代替物:崇拝という観点から

でもって冒頭でも触れたように、衰退した宗教のニーズを埋めるように、さまざまなものが宗教の代替物として崇拝、または消費されている。

 

一番わかりやすいのはニセ科学だろうか。

なんの効果も無い飴玉や液体に呪術的な効果を期待し、拝むようにそれらを消費する人々。

それらを売る側も、どこかシャーマンじみている。神道にも仏教にもキリスト教にもゆかりのない人々が、そうやって原始呪術めいた科学もどきに入れ込む姿は、今日ではあちらでもこちらでも見かける。

 

じゃあ、科学を信奉している人々はどうだろう。

本来、科学とは信奉するものではない。

科学とは第三者にも実証可能な、最も確からしいメソッドであって、ご利益を期待するものや崇拝するものではないはずだ。

まともな科学者なら、そんなことは当然わかっているはずである。しかし。

 

しかし世間の人々が皆まともな科学者なわけもなく。

科学の体系を拝まずにいられない人々、科学のプロダクツを偶像を拝むように拝んでしまう人々はひきもきらない。

 

約10年前、小惑星探査機「はやぶさ」が地球に帰ってきた時もそうだった。

探査機を拝み倒す人々を見て、私は思わずブログにこんなことを書いた。

科学的精査が終了したら、はやぶさのパーツの一部を、いっそ、何処かにお祀りしてはどうだろうか。

この国にはマンガ神社やら鉄道神社やら色々あるのだから、ロケットをお祀りする神社がつくられたって不自然ではない。

もちろんこれは冗談だが、はやぶさを拝まずにはいられなかった人達の心的ニーズをセーフティーに充たすには、科学的知識ではなく、神社のような“装置”が必要だろう。

本来、科学とそのプロダクツは宗教とは関係がない。

にもかかわらず、宗教不在の状況では崇拝や神秘の対象になり得る。

アニミズムの国である日本では、いとも簡単に科学とそのプロダクツがアニミズム的な崇拝の対象に──神に──なってしまう。

 

そしてマンガ神社や鉄道神社の存在が暗に示しているように、趣味の対象とされる広範な領域も崇拝の対象となり、人々の崇拝欲を惹きつける。

アニメの舞台となった街を訪れることを「聖地巡礼」と呼ぶようになったのは、偶然にしてはできすぎている。

 

欧米はいざ知らず、少なくとも日本では、アニミズムの神々とアニメの人気キャラクターたちとの境目はあいまいだ。

そしてアニメキャラクターのなかでもトップクラスの偶像(と書いてアイドルと読む)たちは、実際に大勢の信者を集め、たくさんのお金を集め、たくさんのイラストやグッズをとおしてますますプレゼンスを獲得している。

そのプレゼンスは八坂神社や熊野神社といった最大級の神社には及ばなくとも、そこらのマイナーな神社をゆうに上回る。

そして、ニセ科学や崇拝対象としての科学と同じく、人々の心のよりどころとなっている。

 

このように、崇拝の対象としての宗教の代替物は、21世紀においてもたくさんある。というより、これらは宗教と競合する存在として信心やお布施を奪い合い、既存の宗教を圧排しているようにさえみえる。

もちろんこれらは体系を欠いた、いわば宗教の断片のようなものでしかなく、葬祭を司る機能も欠如している。

が、ともかくも宗教が担っていたスピリチュアルな機能の相当部分は、今日、こうした宗教の断片によって肩代わりされている。

 

衰退した宗教の代替物:「戒律」という観点から

では、宗教の代替物としての戒律は、いったいどこへ行ってしまい、何が肩代わりしているのだろうか。

 

ごく最近まで私はこの答えがわからずにいて、せいぜい「宗教の断片化が進んだ21世紀は、戒律なき時代になっている」と思っていた。

ところがブログの人たちとzoomで話しているうちに、「いや、宗教のかわりに『戒律』になっているものって結構あるじゃないか」という話が意外なほど盛り上がったのだった。

 

どういうことか。

宗教の戒律が近代以降の生活態度と結びついている話で有名なのは、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だろう。

 

ウェーバーはこの『プロ倫』のなかで、資本主義の利潤追求の精神を、プロテスタントの倫理と関連づけて語った。

むしろこの「倫理」の最高善は、あらゆる無邪気な享楽を厳しく退けてひたすら金を儲けることにある。

そこにはいかなる幸福主義的な観点も、快楽主義的な観点も存在しないのであって、これが純粋な自己目的として考えられているのである。

これは個人の「幸福」や「利益」などをまったく超越したものであり、およそ非合理的にみえるほどである。

利益を獲得することが人生の目的そのものと考えられているのであって、人間の物質的な生活の欲求を充足するという目的を実現するための手段としては考えられていないのである。

お金を儲けること・利潤をもうけるシステムを回すことは、個人の幸福追求という観点でみればかならずしも合理的ではなかったはずだ──ウェーバーは、報酬の増大ではなく仕事の減少に関心をもつ旧来の労働者を比較に出しながらそう論じる。

そして資本主義のもとで生きる人々の背後にあるプロテスタントの倫理を詳らかにしていく。

 

とはいえ『プロ倫』がそっくりそのまま当てはまるような、資本主義のストイシズムの権化のような人物は(たとえば日本では)けして多くない。

宗教ではなく資本主義が世界を動かす歯車になっているからといって、誰もが資本主義の修行僧になりきれるわけではないのだ。

 

じゃあ、資本主義の修行僧になりきれない、私たちのような凡俗には「戒律」に相当するものは無いのか?

これこそ、zoomで会話しているうちに気づいて「そういえばあるじゃないか」と気付きを得たものだ。

私たちのような凡俗のための、もっとイージーな「戒律」があっちこっちに存在しているじゃないか!

 

たとえばピーター・ドラッカー。

ドラッカーの語る言葉は、現代の金言として広く知られ、組織や個人の生産性向上に資するとされている。

ドラッカーはストイックな資本主義の修行僧になれと命じているわけではないが、現代社会において好ましいとされる働き方を説き、たくさんの人がこれを良いものとして受け取ったのも事実だ。

 

ということはだ、ドラッカーの言葉は、資本主義で回っている現代社会に生きる私たちに、資本主義の「戒律」の一部分をわかりやすく説くものではないだろうか?

 

あるいは、アブラハム・マズロー。

マズローといえば、現代人のモチベーションの源をあれこれモデリングし、自己実現欲求などで知られる心理学者だが、このマズローの仕事が脚光を浴びたのはメンタルヘルスの方面ではなく、経営・ビジネスの方面だった。

マズローの言説もまた、良いモチベーションで働くための「戒律」を、より成長志向に働くための「戒律」を心理学的な装いで説法するものではなかっただろうか。

 

成長できる経営者のための言葉や、良いモチベーションの労働者のための言葉や、イノベーティブな生き方のための言葉──これらこそが、宗教なき社会において(資本主義や民主主義や個人主義などに根差した)「戒律」を説き、私たちを導いているものではないだろうか。

 

そういった意味では、書店に平積みされているさまざまな自己啓発書も「戒律」の書であるといえる。

手帳術・片付け術・マナーの手引き等々をとおして、私たちは沢山の「かくあるべき」を受け取っている。

もちろんそこで語られる「かくあるべき」は旧来の宗教の戒律のような厳めしい筆致ではないのだけど、現代社会にふさわしい生き方や考え方を説いているとはいえる。

 

ニコラス・ローズ『魂を統治する 私的な自己の形成』には、こうした、私たちをいつの間にかふさわしい生き方や考え方へと導く、さまざまな「戒律」の系譜が記されている。

そうした「戒律」は専ら、心理学とそれに関連したテクノロジーとして記述されていて、その時代の産業や社会的要請、あるいは倫理とがっしりと結びついている。

人間関係の心理学においては、労働それ自体が、個人の社会的ニーズの充足のための特権的な空間になった。

自己実現の心理学においては、もはや労働は、必ずしも個人の潜在能力を発揮する自由を、精神のエコノミーによる自律性、創造性、責任の追及を通して、制限するものではない。

労働は、自己達成への道の不可欠な要素である。

今では経済的なるもの、心理学的なるもの、社会的なるものの間に、いかなる障害もない。

労働への適応の管理と、労働によって得られる報酬の追求との対立は、一生懸命働くことが心理的な報酬を生み、心理的な報酬が勤労を引き出すことで、乗り越えられる。

今や労働の統治は、私たち全員がそれぞれ望むものを手に入れるための心理学的な努力なくしては考えられないのだ。

そうした「戒律」をとおして整形されているのは働き方だけでない。

子育てや家族、民主主義社会の市民としての心のありようなども「戒律」をとおして律されている。

 

繰り返すが、これらは旧来の宗教の戒律とイコールではない。

だけど私たちが戒律的なものから自由かといったら、そうではないだろう。

 

個人の生産性や効率性を向上させ、より倫理的に暮らすための沢山の考え方やメソッドに包囲されながら生きる私たちは、案外たくさんの「かくあるべき」を「戒律」を与えられ、より資本主義や個人主義や社会契約にふさわしい個人へと導かれていく。

それどころか、自由な生き方や自由な働き方の想像の範囲までもが「戒律」をとおしてチューニングされていくのだから、こうした「戒律」の持つ力は大きなものだと考えざるを得ない。

 

「戒律」に身を委ねられない人はどうなる?

こうやって現代社会ならではの「戒律」を数え上げていったとき、この社会にもたくさんの伝道師や修道士が存在し、さまざまな説法や説話を説いていることにはたと気づく。

たとえばセミナー、たとえばセラピー、たとえば自己研鑽をとおして、「戒律」は個人に植え付けられ、支持され、ありがたがられている。

 

そしてたいていの「戒律」のバックには、心理学や、心理学の派生物の影が見え隠れしている。

 

だから悪い、とは言うまい。そうやって、さまざまな「戒律」に耳を傾け、身を委ねたほうが社会適応しやすいだろうからだ。

しかし、もし「戒律」に耳を傾けられず、身を委ねられない人がいるとしたら、その人はどうなってしまうのだろうか?

 

宗教が強い力を持っていた頃、「破戒」している人々は心理的にも社会的にも厳しい境遇に置かれていた。

だとしたら、宗教に代わる別の何かが強い力を持っているこの時代に「破戒」している人々もまた、心理的にも社会的にも厳しい境遇に置かれているのではないだろうか。

 

zoomを終えてからずっと、私はそのことを考え続けている。

答えは見つからない。

ただ、以前よりもたくさんの見えない糸が自分の周りに張り巡らされていると感じるようになった。

そして自由とは何かが、前以上にわからなくなってしまった。

 

 

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(2021/10/26更新)

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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