最近、親ガチャ、というネットスラング(俗語)を見かけることが増えた。
親ガチャというスラングは、ソーシャルゲームなどのガチャにかこつけて、望ましくない親元に生まれたことを呪ったり嘆息したりするために使われる。
私の観測範囲では、親ガチャというスラングは前から使われていたし、実際、googleトレンドでも2010年代から地味に使われていた様子がうかがえる。
しかしこのグラフが示しているように、親ガチャはまだメジャーではなく、最近になってこれを知った人も多い様子だった。
NEWS小山「嫌な言葉ですね」 若者層で流行の“親ガチャ”に不快感、「親はショック」と苦言
9月9日放送の『バラいろダンディ』(TOKYO MX)で、「親ガチャ」の話題となった。これは、親は自分で選べず、どういう家庭に生まれるかは運次第であり、ソーシャルゲームの「ガチャ」のようなものであるといった意味。若者層では、現状を変えようのない諦めの象徴として捉えられているという。
先日、TOKYO MXの番組とそれを紹介するexiteニュースで親ガチャが紹介されていた。
これらがきっかけとなってこのスラングに触れた人も多いようだ。
上掲記事に対するネット上の反応をみるに、このスラングに共鳴する人がいる一方で、不快感やショックを隠せない人も多い様子だ。
ところで、なぜ今、親ガチャなのだろうか?
似たようなネットスラングとして、2010年代には「毒親」が流行った(現在でもこちらのほうがメジャーだ)。
毒親は、その出自がアメリカのカウンセラーが書いた本『毒になる親 一生苦しむ子供』に紐付けられていることもあり、賛否はともかく、国内のメンタルヘルスの専門家が言及する程度には知られたスラングとなった。
いわゆる”毒親本”が書店の一角を占めていたのも記憶に新しい。
このように、親ガチャが広まる前から、毒親という強力な先発スラングが幅をきかせていたのだ。
にもかかわらず、親ガチャというスラングが広まろうとしている。
ネットスラングの流行り廃りについて考えてもしようがない、という人もいらっしゃるだろう。
しかし私は、その流行廃りのうちに時代性や今日性を透かし見たくなる。
そういった趣旨のもと、親ガチャというスラングがどうタイムリーなのか、毒親と比較しながら言語化してみたい。
親ガチャと毒親の大きな違い
ここから、毒親と親ガチャの違っているポイントを確認していく。
この2つのスラングは、親の選択不能性を嘆いたり呪ったり憎悪したりするのに使える。
その点では共通しているのだが、ルーツや用法やニュアンスを比べると、かなり違っていると言わざるを得ない。
さきに述べたように、毒親というスラングはアメリカのカウンセラーが著した書籍にルーツがある。
この書籍の筋は「親の悪い振る舞いが子どもの人格形成を妨げ、それで子どもが不幸になる」といったもので、20世紀以前の臨床心理学のパラダイム、なかでも「親の悪い振る舞いに由来する、子の生育環境の悪さ」に病理の起源を見出すパラダイムに基づいていた。
こうしたルーツを反映してだろうか、毒親には「悪い子育てで子どもをダメにする親」「子育てがマトモにできない親」といったニュアンスが濃厚だ。
毒親がメジャーになる以前から、親や生育環境に病理の起源を見出す視点自体は存在していたが、親をストレートに悪者扱いするのはタブーだった。
このタブーを破ったという点において、毒親というスラングは確かにひとつの画期だった。
だが、逆に言えば、子育てが人並みにできているならそれは毒親ではない、ということになる。
また、親が毒親であるという時、子どもの側の病理性が顧みられることは少ない。
一方、ソーシャルゲーム等のガチャを起源とする親ガチャには、このようなルーツは無い。
親ガチャに言及する人が、必ず親子関係のこじれた家の出身とは限らない。
たとえば虐待やネグレクトを受けていない人が「親ガチャ失敗」と述べたとしても別に不自然ではない。
ここに、毒親と親ガチャの第一の違いがある。
毒親は、とりわけ子育てのできない親、子どもに悪い生育環境をもたらす親を指すスラングだが、親ガチャ失敗という場合、その親が毒親に該当している必要はない。
たとえば、親の経済状況が優れないと感じる場合や、親から受け継いだ容姿が良くないと感じる場合も、「自分は親ガチャ失敗だった」と愚痴ることができる。
つまり親ガチャ失敗というスラングは、毒親というスラングよりも適用範囲が広く、カジュアルに用いやすい。
毒親は、子育てが常軌を逸していると感じる場合以外には用いにくいのに対し、親ガチャ失敗は、親が平凡だったり子育て上の過失が乏しかったりする場合も適用できてしまうのである。
そもそも、ガチャ、特にソーシャルゲーム的な意味のガチャとは、ごく一部のアタリくじ以外は「悪い」というより「平凡」にあたる。
上位数パーセントにも満たないごく一部をアタリとみなし、そういうごく一部のアタリを「人権」だの「環境」だのと褒めそやし、それ以外をことごとくハズレとみなすソーシャルゲーム的尺度で親を寸評できてしまうのが、親ガチャというスラングなのである。
なかには「はっきり悪い」親もいるとはいえ、このソーシャルゲーム的尺度で自分の親を寸評し、「アタリ」や「SSR」と思い込める人がいったいどれだけいるだろうか。
それだけに、親ガチャというスラングには潜在性がある。
毒親のもとに生まれたとまでは感じていなくても、経済力や遺伝素因や文化資本など、よその家庭を嫉視する余地のある人なら誰でも、親ガチャ失敗と言えてしまうのだ。
第二の違いは、親ガチャは発達障害以降の社会に対応できている点である。
さきに私は、毒親が「親の良くない振る舞いに由来する、子の生育環境の悪さ」に病理の苗床を見出すパラダイムに基づいていると書いた。
つまり毒親が指し示す「親の毒」とは、後天的な親の振る舞いに焦点づけられている。
親から子へと引き継がれた遺伝的・先天的性質が良くないことを「親の毒」に含むような文脈は無い。
毒親は、親の子育てのまずさを言い表すに過ぎないため、親から引き継いだ自分の血潮を嘆いたり呪ったりするには向いていない。
対して親ガチャというスラングは、後天的か先天的かを云々しない。
子どもの発達心理を取り扱う学問領域では、「育ちか、生まれか」といった議論が盛んで、さきにも触れたように20世紀においては後天的側面に焦点が集まった。
しかし発達障害が知られていくパラダイムシフトのなかで、後天的側面を重視する考え方は批判されるようになり、先天的側面を重視する考え方が人気を博するようになった。
たとえば「発達障害は親の子育てが原因ではなく、先天的な問題です」……といったような。
回り道を承知で断っておくと、一流の専門家たちが発達障害を完全に先天的・遺伝的問題とみなしているわけではない。
発達障害の先天的・遺伝的側面は明らかだが、子育てなどの後天的側面も無視できないことを彼らはアナウンスしている。
しかし発達障害が世間に知られていくなかで、先天的側面に比較して後天的側面が周知されているとは、私には思えない。
まっとうな専門家は必ず発達障害の後天的側面にも言及するけれども、先天的側面に比べて大きな声では言及されないし、世間に同じ度合いで知られているとは思えない。
実際、発達障害について啓蒙活動をしている人が先天的側面を声高に述べ立て、後天的側面を遅れたパラダイムとして批判しているのを私は何度も見聞したからだ。
実のところ、「発達障害といえば先天的・遺伝的」と鵜呑みし過ぎている人が少なくないのではないだろうか。
本題に戻ろう。
こうした先天的・遺伝的側面に着眼されやすい状況でも、親ガチャならノープロブレムに適用できる。
考えようによっては、発達障害が有名になったことで親ガチャというスラングが登場する素地ができあがった、とも言えるかもしれない。
というのも、後天的側面に専ら注目する20世紀以前のパラダイムが続いていたなら、毒親とは似て非なる親ガチャというスラングが登場する余地は乏しかっただろうからだ。
第三の違いは、人生に対するあきらめの気持ちの広がりである。
「AC(アダルトチルドレン)」から「毒親」へ。そして、「反出生主義」「親ガチャ」へ。というのはまさに宿命論的な考え方に近づいていっているのかなと思う。「文化資本」という言葉が日常語として流行っているのも同じ感じがするし、もっと広げれば進化心理学のブームも?
— ホリィ・セン (@holysen) September 13, 2021
この、ホリィ・センさんのツイートにあるように、親ガチャという語彙には宿命論的なニュアンスが含まれている。
ガチャの結果が人為ではどうにもならないのと同じように、どんな親のもとに生まれてくるかは人為ではどうにもならない。
そして努力や工夫次第でなりたいものになれる、少なくともその可能性があるという希望が失われて久しい。実際、内閣府が公開している資料を見ても、日本の若者の意識にはあきらめムードが漂っている。
それもそうだろう。歯止めのかからない少子高齢化に加え、学歴以外も含めて、さまざまな次元で格差が目に付く世の中で生まれ育っているのだから。
親ガチャというあきらめスラングは、そうした世相といかにも親和性が高い。
「人生のネタバレ」というネットスラングが流行るような世の中なら、親ガチャというネットスラングが流行ってもおかしくはないだろう。
そういう意味では、親ガチャというスラングは、たとえば橘玲『上級国民/下級国民』がよく売れる世相と照応するものがあるように思う。
逆転のきわめて難しいハイパーメリトクラシー化した社会に、親ガチャというスラングはいかにも似つかわしい。
そして親ガチャというスラングを用いる人が「親ガチャを否定できるやつは親ガチャに勝てたやつだけ」と述べるように、このスラングは格差にもとづいた分断を煽るような効能もある。
分断を煽るような効能もまた、今という時代によく合致している。
親ガチャという言葉が広がる社会の未来は暗い
親ガチャは、毒親と比較してもニヒリスティックだ。このことについて最後に触れておきたい。
親ガチャというスラングには、親に対する否定的ニュアンスに加え、自己否定のニュアンスが宿っている。
毒親の場合、親を否定するとはいっても、それは自分がより良く生きていくための前提だった。
しかし親ガチャはそうではない。
誰かが親ガチャに敗けたという時、親を否定するだけでなく、そこから生まれた自分自身までもが否定されている。
この点において、親ガチャ敗北という自覚は、自分の親は毒親だという自覚よりももっとニヒリスティックだ。
でもって、親ガチャに敗けたと自覚する人は、そんな自分が子を育てようなどと思えるものだろうか。
毒親本を眺めていると、親を毒親とみなした当人が子育てを始め、毒親の連鎖を自分の代で断ち切ろうと決意表明する場面がしばしば登場する。
毒親というスラングが親の後天的問題に注目している以上、これは自然な決意表明だろう。
毒親というスラングになじんだ人が、決意のもと、子育てをはじめることに不思議はない。
ところが親ガチャというスラングは後天的問題と先天的・遺伝的問題の両方を含んでいる。
親ガチャに敗けたと自覚している人が親ガチャ敗北を自分の代で断ち切ろうとするなら、確実な手段は子どもをもうけないことである。
親ガチャは、先天的・遺伝的問題と後天的問題の両方を射程におさめたスラングだから、毒親と違って、決意や後天的努力だけでどうにかできると考える余地が乏しい。
だから親ガチャは、じわじわとネットで流行りつつある反出生主義という概念とイコールではないとしても、近しさがある。
反出生主義において、子どもをもうけないことが最も道徳的であるのと同じく、親ガチャに敗けたと自覚している人にとって最も道徳的なのも、子どもをもうけないことなのである。
現段階では、親ガチャは毒親と比較してメジャーとは言えない。
しかし、親ガチャ概念を知った時に「自分も親ガチャ敗者だ」と頷く潜在的マスボリュームはかなり大きいのではないだろうか。
たとえば自分の身の上を憂いたうえで、不幸を自分の代で終わらせることを最も合理的で道徳的だと感じている男女はいまや少なくない。
そのような男女にとって、親ガチャは自分自身をニヒリスティックに顧みるうえで便利なスラングたり得るだろうし、より多くの人が自分自身をニヒリスティックに顧みて、より多くの人が挙児を回避する名分ともなり得るだろう。
なにせ毒親と違って、親ガチャは「親ガチャ アタリ」や「親ガチャSSR」ではないあらゆる身の上を否定できてしまうのだから。
それにしても、親ガチャというスラングが響く社会の、なんと暗いことだろう!
親ガチャに勝ったと思えるほんの一部が希望をもって子を育てたいと願う一方で、親ガチャに負けたと思ってしまったより多くの人が希望を見失い、子を育てまいと決心する社会に未来があるとは思えない。
にも拘わらず、この、親ガチャというスラングを巡っても、肯定派と否定派がわかりあう余地は乏しく、議論など到底困難であるようにみえる。
そして「親ガチャ」に関連したスラングとして、「顔ガチャ」「身長ガチャ」などといった用例もあるという。
いったいこの国の未来はどうなってしまうのだろうか。
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著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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ブログ:『シロクマの屑籠』
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