高卒
インターネットで持続性のあるハンドルをもって情報を発信し続けている人は、大学卒業者以上である比率が高い。
ソースは……ない。
おれが二十年くらいネットをやってきた、電子肌感覚である。
「そんな電子肌なんてSFっぽい感覚などあてになるのか」と思うあなたは、やはり大学を出ていないだろうか?
というわけで、おれは珍しいとはいかないまでも、少数派の高卒インターネット人である。
高卒が少数派なのは、たしかネットに限らずリアルな数だとしてそうだったと思う。
少し前、鳥貴族で飲んでいてそういう話題になって、おれは「まだ、大卒の方が少数派ですよ」と言って携帯端末で調べたら、違った、というのがソースだ。
そのときおれはビール的なもののアホみたいにでかいジョッキを一杯飲み干したあとだったので、正確かどうかはわからない。たしかちょっとだけ大卒の人が多かった。
したがって、ここでおれは高卒してすぐに働きに出た人間の社会経験を……語れない。
おれは一応は大学進学までした中退者であって、なんの目的もなく中退し、ニートをやったあと、実家がなくなり、しかたなく就労し、無賃金、低賃金を繰り返しながら今日に至る、だ。
高卒の夢
夢の話をする。将来の夢の話ではない。夜、寝ているときの夢の話だ。
夢判断などというものはあまりあてにならないと思うが、人が、似たような夢を見る傾向というのはあると思う。
街なかでなぜか靴を履いていない、服を着ていない。
あるいは、学校で必要とされる課題が提出されない……。
この「課題」について、大学などを出た人は論文とかそういうものになるだろう。
社会人になって何十年も経つのに、未だに論文の夢を見る。そんな話だ。
おれの場合はどうなるか。
「高校が卒業できない」という夢になる。
そもそも小学生、いや、幼稚園児の頃から不登校気味の社会不適合者であるおれ、出席日数が足りない、そんな理由で高校に行けない夢を見る。
高校に行っても、下駄箱(今でも下駄箱というのかな?)の場所がわからない、教室の場所がわからない。
このままでは卒業できない。……夢から覚める。
安心しろ、大丈夫だ、もう学校に行く必要はない。試験もなんにもない。
というわけで、高卒者の見るおれの夢は、やはり高校を卒業できるかどうか、というところが焦点になる。
一方で、頭の中で「おれは一回大学に受かっているのだから、高校を卒業すれば、次はまた大学にも入れるはずだ」などとわけのわからない思考も入り込む。
おれは友人ができても喧嘩別れして別れたままになってしまう人間だったから、幼稚園から中退した大学まで99%の同級生の顔を覚えていない。
だから、高校の夢に小学生時代の同級生の顔が再利用されたりする。そうでなければのっぺらぼうだ。
おれは算数ができない
そして、おれが高校の夢で見る……悪夢で見ることの大部分が「数学」についてだ。おれは数学ができなかった。
数学の単位が足りない。高校が卒業できない。
行かなくてはならないが、もう登校時間を過ぎてしまっている。先週も行かなかったような気がする。
大学に一回入ったのだから、高校は卒業しなくてはいけない。数学、数学……。
おれが数学の落ちこぼれになったのはいつだったろうか?
その答えは数学の過程にない。算数にまで遡らねばならない。小学生のころだ。
おれは「算数のできない子」だった。まるでだめだった。
おれが「自分は算数ができないなあ」と気づいたのは、先生が班ごとに課題として出した、ある問題だった。
「15人の生徒がいます。2つの班に別れて、教室の掃除と校庭の掃除をします。校庭の掃除をする人は、教室の掃除をする人の2倍にするためには、どう計算すればよいでしょう?」
おれにはさっぱりわからなかった。
おれもさっぱりわからなかったが、おれの属していた班の面々もわからなかった。
よくわからない答えをだした。もちろん不正解だった。
正解を出した班があった。班というか、その班のそいつがわかっていた。
3つに割って、1:2にすればいい。目から鱗が落ちた。
そしておれは算数に興味を持った、のではなかった。
「あ、これはおれに向いていない」と思ったのだ。確信に近かった。
おれの確信が正しかったのか、誤った確信という思い込みをしてしまったから苦手になったのか。
今となってはわからない。おれは算数ができない子になった。
べつにあの問題に答えられたあいつが、予習なりなんなりをして、解き方を知っていただけかもしれない。
しかし、おれには発想できなかったという点が大きかった。
そして、おれは算数を苦手にするようになった。
苦手といっても、公立小学校の算数にはなんとかついていけた。単純な計算ミスは多かったが。
ただ、中学受験のための予備校に通うようになって、その悲惨さが浮き彫りになった。
国語と社会はわりとよくできた。だが、算数と理科が悲惨だった。
と、ここで不思議に思うのだが、なんで算数が苦手だと、理科までだめなのだろうか。たまたまの組み合わせなのだろうか。
たまたまおれは算数と理科で、場合によっては算数と社会が苦手で、国語と理科はよくできた、という可能性もあったのだろうか。
これは自分の体験でしか感じられないことなので(教育者にはまた見えるところがあるだろうが)、どうにも算数と理科は分かち難いもののように思える。
おれが鶴亀算をできないのと、おれが月の満ち欠けについて理解できないのは、同根だと思うのだ。
要するに、人によって文系と理系に分けられるのではないか、ということだ。
今日、この考え方は否定されつつある。というか、否定すべきことになりつつあるようだ。
曰く、そんな分類は日本だけのものだ、曰く、文理融合こそが求められる人材だ……。
またあらためて触れることになるかもしれないが、果たしてそうなのだろうか。
どうしておれは数学を乗り越えたのか
さて、おれはなんとか滑り止めの中高一貫校に入ることができた。滑り止めの滑り止めだ。
思うに、算数と理科が悲惨だったのだ。それでも、なんとか私学に拾われることができた。
おれは嫌われ者でいじめられてもいたので、地元公立中学校に行くことは死んでも嫌だったので、少し救われたかもしれない。
とはいえ、私学である。レベルが高くない学校で、校風も自由だった。
ただ、「ここは望んで来ている人間の場所だから、ほかのやつの迷惑になるような非行に走ったり、必要な勉強しなかったりするやつは中学生でも普通に退学になるから、そのつもりで」という注意書き付きだった。
実際に、犯罪的行為で中学からいなくなったやつもいる。
ただ、勉強についていけなくなっていなくなったやつは……いなかったような気がする。
となると、おれも勉強についていけなくなっていなくなった人間ではなかったということだ。
詳しいことは覚えていないが、定期試験で赤点を何度取るとか、再試験でだめとか、なにかしら明確な基準があったと思う。
おれは赤点を取った覚えがない。
算数が数学になり、理科は物理とか化学とかになり、さらに難易度を増したのに、なんとか乗り越えたのだ。
べつに勉強に取り組んでいたわけではない。
ゲーセンで格闘ゲームの対戦台に打ち込み、家では競馬ゲームにのめり込んでいた。
予習や復習という習慣は一切なかった。
おれには理系科目を乗り越えた記憶がない
それでも、なんとか乗り越えた。
どうやって。これがもう、記憶の彼方で、まったく覚えていない。
覚えているのは、情けないことに高校の夏休みの課題とかを母親に手伝ってもらったことと(考えてみると母親すげえな)、数学の「公式」とかいうやつだけをひたすら文字列として丸暗記して、テスト開始と同時に名前より先にそれを書いて、それに適合する基礎的問題だけ解いた、ということだ。
それでも単純な計算問題を間違えたりした。
化学、物理についてはまったくもう、なにがなんだか覚えていない。
なにがなんだかまったく覚えていないくせに、今のおれはSFが好きだ。とくにハードSFを好むような傾向すらある。
まったくわかっていないからこそ、出てくる言葉(フィクション)すべてをすんなり飲み込んで、本気になって楽しめるからじゃないかと思うのだが。
いずれにせよ、高校を卒業して二十数年経つおれは、おれが高校を卒業できたことが不思議でならない。
どうしても数学ができない人間でも赤点を取らないような仕掛けがテストにあったのか。
それとも意外におれ、数学できたのか?
いや、それはないな。
数学は悲惨な悪夢でしかない。
あるいは、早々に理系科目を捨てて文系に絞った人間に対する理系は、少しやさしかったのか?
算数のできない人間の末路
まあともかく、おれは大学受験の科目から理系を一掃して、「小論文、英語(辞書持ち込み可)、世界史」によってそこそこの大学に入った。
入ったが、学校というものに嫌気が差して、耐えられなくなってすぐに辞めた。
やめて、楽しくニートをしていた。
楽しいことは長く続かない。おれは働くことになった。
ばりばりの文系だから、文章を書く仕事に就いたのか?
否、なぜかAdobe Illustratorを主に使う、DTPの仕事をするようになった。
Illustratorは基本的に描画ソフトであって、基本的にベクターデータを扱う。
ベクトル? それって、理系じゃないのか。まったく。
でも、おれが計算する必要はなくて、実際に図形を書いてしまえば長さも角度も出してくれる。
それにまあ、イラストを描く仕事ではなく、文章のレイアウトも多かったし、文章も書いてきた。
いくらかは文系の素養も役に立ったというべきか。
と、ここで思うのだが、文系の素養というものは存在するのだろうか。
たまたま生まれてきた場所の母国語を使うことに、素養はあるのだろうか。できて当たり前ではないのか。
むしろ、数学ができなかった人間の残り滓が「文系」と呼ばれるのではないか。おれにはどうもそう思えてならない。
これは、よくわからない。おれが圧倒的に「理系」について壁を感じているせいかもしれない。
しかし、「理系」の人間が「文系」について壁を感じる要素があるのかどうかおれにはまったく想像できない。
理系と呼ばれる人間というのはそもそもが文理融合の人材であって、両取りしているだけではないのか、ということだ。
僻み、妬み、嫉み、そして誤解。
そうなのかもしれないが、どうにもおれはそこが気になる。
理系科目のできなかった人間が文系であって、理系というのはそもそも両方できるのだろう、と。
と、「文系」も「理系」もねえよ、というレベルで勉強が苦手な人もいるだろう。
その根源は、読解力とかそういうものだ、という話もがそのあたりはよくわからない。
そのあたりについては語れない。おれは教育者ではないし、そういう人と接する機会なく生きてきたのは否めない。
みなが幸せになるために
で、話を文系と理系に戻せば、やはり今の世の中は理系の社会なのだろうと思う。
経済を、金融をやるにしても(なぜ経済学部って文系扱いなの?)、ITをやるにしても、とにかく理系の才覚が必要だ。
とくに後者だ。数学が必要だ。
機械の言葉を解するには、やはり理系の才覚と知識が必要だ。それは否めない。
そして、機械の言葉がわかれば食いっぱぐれることはないだろうし、うまく行けばかなりの富裕層になることもできる。
その確率は残り滓の「文系」に比べれば相当に高いだろう。
フィリップ・K・ディックの「まだ人間じゃない」では、12歳で代数ができなければ人間と見なされない世界が描かれていたと思うが、それに近いのが今の世だ。
では、みなが幸せになるために、みなが理系の人間になるためにはどうしたらよいのだろうか。
これがおれにはもうわからない。
ひょっとしたら、プログラミングの能力などはあまり理系とは関係ないかもしれない。
だとすれば、プログラミングの早期教育が有効かもしれない。
ただの推測で、それがそうなのか、まったくわからない。
それこそ、だからこそ、優秀な理系の人よ、人類を導いてくれないか。
これ以上の悲惨をもたらさないために。
全人類を理系に。
そのために、なんだ、ほら、AIとか使って、うまいぐあいに、ぱーんとやっちゃってくれ。頼んだぜ。なっ。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
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