ずっと前から言語化しようしようと思っていたことを言語化する糸口がやっと見つかったので、今日はそれを書いてみよう。

どういうことかというと、「発達障害には”嫁”が必要だ」、といった内容だ。

先日、ツイッターのタイムラインで上掲ツイートを発見した。

いまどきの医者にはコミュニケーション能力が求められてやまず、聞き取れない唸り声をあげる医者、空気や文脈の読めない医者、まともにインフォームドコンセントを進められない医者は、良くないとされている。

 

ところがひと昔前までは、医者自身にコミュニケーション能力が欠如していても、外来の看護師さんや事務員さんがコミュニケーションをある程度まで取り持ってくれていた──この投稿は、そのように指摘している。

 

実際、そうだったのだ。

私より年上の医者のなかには、コミュニケーションがろくにできない、医療技術はあるのだろうけれども現代人としては欠点のはっきりした、そういう人も混じっていた。

カウンセリングのオーソリティーとして名を馳せた某先生も、早口でモニョモニョと喋っていて聞き取るのが大変だったという。

 

そういうコミュニケーション能力の欠如した医者も、周囲の人がサポートすることで医療の前線を支えたり、しかるべき分野のオーソリティーになったりすることがそれほど珍しくなかった。

 

ところが現代では、自分と社会を繋いでくれる看護師さんはなかなか見つからない。

看護師さんからすれば、「なんで私がカバーしなきゃいけないのですか」と言いたくもなろう。

コミュニケーション能力に支障のある医者は、困るままになるしかない。

 

こうした構図は、医者に限ったものでも男性に限ったものでもあるまい。

サラリーマンでも、研究者でも、自営業者でも、コミュニケーション能力は期待されて当然のものになり、誰かがコミュニケーションを取り持ってくれる可能性は低くなった。

控えめに言っても、そのようなことを無条件では期待できな世の中になったとは言えるだろう。

 

今の世の中では、あらゆる立場や職業の人にコミュニケーション能力が期待され、欠如していれば”コミュ障”などといった言葉があてがわれてしまう。

そしてコミュニケーション能力に限らず、いろいろな能力の欠如や苦手が障害といった言葉に回収され、個人の能力的瑕疵とみなされることは実に多い。

たとえば発達障害、といった具合に。

 

嫁のおかげで大活躍している、たぶん発達障害の人たち

結果、コミュニケーション能力の足りない個人、さらに発達障害の診断基準に該当し、なんらかの医療的関与を受けている個人のかなりの割合が、自分の苦手なものに足を引っ張られ、社会適応に苦戦していたりする。

 

一方、そうした苦戦する人々を尻目に、案外うまく社会適応している発達障害の人もいたりする。

発達障害の人がうまく社会に溶け込んでいるパターンには色々なものがあるが、なかでも黄金パターンのひとつと思われるのが、「嫁がいるおかげで大活躍している」というパターンだ。

 

【補足】なお、断るのも無粋ではあるけれども、嫁という漢字はジェンダー的な偏りを含んでいるが、私は、ここでいう嫁が女性である必要性はまったく感じていない。

実際には「おとこへんに 家」でも構わないし、女性にだって「嫁がいれば大活躍できる人」はたくさんいると感じている。※

 

たとえばある研究職の人は、コミュニケーション能力が乏しいけれどもたぐいまれな才能を買われて、ものすごく大事にされている。

彼と仕事、彼と職場を取り持ってくれる人がいるだけでなく、なんと、彼の私室の掃除まで代行している人がいるのだという。

まさに「嫁がいれば大活躍」の人だし、彼の才能を最大限に生かす方法を察知し、それを実践した企業の側もたいしたものである。

 

女性でも「嫁がいれば大活躍」な人を見かけることがある。

たとえばメディア人士として活躍しているある人は、不注意だったりスケジュール管理が不得手だったりする部分をパートナーに援助してもらって、それで仕事を破綻させずに済んでいる。

料理や後片付けもパートナーのほうが上手で代行してもらっているから、彼女も「嫁がいれば大活躍」の典型といえよう。

 

こうした、小さくない苦手があっても「嫁がいるから大活躍」している人々を眺めていると、世の中の生きづらさや発達障害的な諸問題のいくらかの割合は、嫁的存在によって緩和されるか、チャラにできる可能性すら含んでいるのではないかと思いたくなる。

 

もちろん嫁的存在とは、現代社会の価値基準では好ましい生き方や働き方とみなされにくいかもしれない。

嫁的存在が強制された立場で、その人の自由な生き方を阻害している場合はとりわけそうだ。

けれども強制されざる嫁的存在、当人同士がwin win になれると確信して結びついた嫁的存在ならば、そう悪いものではないのではないだろうか。

 

また、お互いを嫁的存在とみなしているカップルや夫婦だってあるだろう。

一方がコミュニケーション能力の不足を補い、もう一方が片付けやスケジュール管理の能力の不足を補う──たとえばそんな夫婦なら、それはお互いに嫁をやりあっていると言える。

 

こうしたさまを見知っているから、私はときどき呟かずにはいられないのだ──「発達障害には嫁が必要だ」と。運命が運命なら精神科病院を受診し、専門的な診断と治療を受けなければならないような人が、まさにその嫁に相当するような人と巡り合い、関係性を深めているから発達障害と診断されることも治療を受けることもなく過ごせている、そういう類例は結構たくさんあるよう、私にはみえる。

 

発達障害と個人のアトム化、細分化

ところで、発達障害が障害として診断されなければならなくなったのは何故だっただろうか。

一部のツイッター愛好家に知られているラジ先生は、こんなことをおっしゃっていた。

ここではコミュニケーションの障害について記されているが、実のところ、ADHD(注意欠如多動症)やSLD(限局性学習障害)についても大同小異と言える。

というのも、第三次産業が産業の中心になればなるほど、ADHDの座学に不向きな点や、SLDの数式や書字の苦手な点が、障害として問題視されやすくなるからだ。

 

コミュニケーションの困難としてのASD(自閉スペクトラム症)。

座学やデスクワークの困難としてのADHD。

文理のリテラシー習得の困難としてのSLD。

 

こう書き並べてみると、発達障害とは、第三次産業の台頭が必然的に生み出した疾患カテゴリーではないかと思わずにいられなくなる。

就職先として第三次産業のウエイトが日に日に大きくなっていくなかで、その枠組みにおさまらない人々が種々の発達障害というカテゴリーにまとめられ、新たな治療対象としてクローズアップされていったという構図がここでは浮かび上がる。

 

しかしそれだけでもあるまい。

この文章が「発達障害には嫁が必要」と銘打たれているように、大きな苦手のある人でも、苦手を埋め合わせてくれる人とちゃんと噛み合えば活躍できる可能性は案外あったりする。

ところが私生活においても公の生活においても、今の世の中ではコミュニケーションから家事や自己管理まで、すべてができてやっと一人前の個人とみなされるきらいがある。

 

現代社会のお題目として、しばしば多様性というボキャブラリーが用いられるが、しかし実質的には、一人前の個人というハードルをクリアした人間の多様性が称揚されているにすぎない。

何かできないところのある人間が多様性の輪に加わるためには、結局、障害の治療や援助をとおして、一人前の個人というハードルを越える準備を整えてからようやく仲間入りといった不文律がまだそこらじゅうに残っている。

 

発達障害に限らず、誰にだって苦手はあるし、能力の凹凸があるのも当たり前のことなのだが、ところが現代社会は、(とりわけ)第三次産業の従事者に期待されるような能力をまんべんなく期待し、それができていない個人を浮かび上がらせてしまうのだ。

 

そうなってしまうのは、個人主義化がきわまったことに加え、リスクマネジメントの視点が普及した結果でもあるだろう──職場でも私生活でも、お互いがお互いの苦手や欠点を認めあったり埋め合わせあったりするより、お互いを値踏みし、スクリーニングし、苦手や欠点を見つけてはリスクとして敬遠しあうようになれば、自他のできないところに敏感にならざるを得ない。

 

だから発達障害概念がクローズアップされるようになった理由の一端には、産業構造の変化に加えて、個人主義の浸透とリスクマネジメントの浸透によってもたらされた、お互いの値踏み化やスクリーニング化、そして誰もが第三次産業に適合するような汎用性の高い労働装置として機能しなければならない、そんな社会的要請があってのことだと私は理解している。

 

世知辛い話ではある。

そうだからこそ、「発達障害には嫁が必要」というフレーズで比喩できるような社会関係には千金の値打ちがあるし、そのような社会関係を生む場所・才能・幸運にあやかりたいと人は祈りもする。

お互いをお互いの嫁と言い合えるような、そんな高度かつ柔軟な分業が可能な関係は、とりわけ貴重で希少である。

 

一般的な発達障害の治療論や支援論もいいが、そういった一般化にけして馴染まない、貴重で希少な関係についても、私はもっと知りたいし、追いかけて言語化していきたいなと思う。

実際、”嫁”のおかげで大成している発達障害ライクな男女は、いる場所にはいるものだからだ。

 

 

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(2024/1/22更新)

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Carly Rae Hobbins