心情的な赤字です

赤字の零細企業で働く、ある人間、すなわちおれの心情というものを書きたいと思う。

 

赤字企業というと、「全国の企業の六割だとか七割だとかは赤字だ」とか、「節税目的であえて赤字にすることもある」などと言われそうだ。

だが、おれの言う「赤字」とは、心理的、心象的、お気持ち的な赤字のことと断っておく。

 

というのも、万年赤字だったわが零細企業は、親会社的なところができて、そことの関係上、数字的には黒字企業だからである。

とはいえ、親会社的なところに対しては赤字の存在であって、大赤字の存在であって、結局のところ、赤字なのである。

生殺与奪の権は親会社の社長の一存であって、その一存というのも親会社のステークホルダーによって左右され、結局のところ赤字なのだ。

 

赤字的個人の心情

というわけで、おれは赤字的存在である。

おれはおれの生活を成り立たせるための、十分な生産をしていない。

これが厳然たる事実であって、おれはおれが食うに値するだけの労働をできていない。

だれかの、すなわち親会社のだれかの労働や、銀行の資産によって生かされているだけなのである。

 

これをもってして、おれはおれ自身が生きていると思えない。

ゾンビ企業という言葉があるが、おれはゾンビ人間、いや、ゾンビはそもそも人間だから変か?

でも、世の中にはゾンビシャークも存在する。存在するのか、ゾンビシャーク?

 

ゾンビシャークはどうでもいい。おれはおれが生きられるだけの働きをしていない。

「一日なさざれば一日食らわず」、いや、これは仏道に生きる人間の言葉だから違う、ともかく、「働かざる者食うべからず」の価値観で言えば、赤字である以上「働いても食うべからず」なのだ。

 

おれは、食っていてはいけない。食うべき存在ではない。生きる資格がない。生きる価値がない。生きる価値を生み出せていない。生きていてはいけない。これが率直な感情である。

 

生きる価値のないおれというもの

そんな存在が、生きつづけている。

この瞬間も、隙間風吹く安アパートで、暖房をつけながらも冷えた指先でなんとかキーボードを叩いている。これが許されることなのか。

今まさに酒を飲んで頭の中味をふっとばそうとしているし、明日には競馬という博打に興じてうつつを忘れようとするかもしれない。まったく許されない。

 

これが、どうにもおれには許されてならないような気がしてならない。

人の金で生かされている。なぜかわからないが、とりあえず飯が食えて、屋根のある部屋で生きている。

これが許されることだろうか。許されるべきことではない。

ゼロではない、マイナスの存在なのだ。おれは社会にとって害悪であり、排除されるべき人間だ。

 

それでも、今すぐに自分で自分に始末をつける覚悟が持てない。

これはおれの弱さそのものであって、労働力としての薄弱さ以上に問題とされるべきことかもしれない。

いや、そういう問題なのだ。問題そのものなのだ。

 

おれはおれの生というものを肯定すべきものではないと感じているし、それが真実であると信じて疑わない。

それなのに、生の最終的な否定、決定的な決断を下せない。

この意志の弱さというものは、さらにおれの生を否定する。毎日毎日、毎時毎時、毎秒毎秒、おれを苦しめる。

苦しいけれど決着をつけられない。本当に弱いと思う。

 

感謝されざる労働

おれが食っていけないということは、おれの労働がおれが生きるに値するだけの価値を生み出せていないということである。

おれは人に感謝されるような価値を生み出せていない。

 

おれの能力なりに、精神障害者としてのおれの限界なりに働いていても、価値を生み出せていない。

感謝されない人間というのはなんであろうか。存在していてはいけない存在である。

 

正真正銘の黒字企業や、数字上は赤字であっても未来ある新興企業で働いている人間は存在していてもよいのだろう。

そういう自己肯定感あって生きているのだろう。

エッセンシャルワーカーと呼ばれる職業、あるいは医師などの医療従事者なども、働けば働くほど人から感謝され、相応の報酬を受ける。

 

いや、エッセンシャルワーカーと呼ばれる職種であっても、相応の報酬は受けてないよ、という声もあるだろう。

その声に世間は金銭的に応えるべきであることに疑問の余地はない。

 

とはいえ、彼らが最低限でも生きられる稼ぎを得ているということは、その報酬を受け取る資格があるのであって、生きるに値するということである。

 

その意味において、エッセンシャルでもない仕事に従事し、なおかつ赤字の人間のどこに価値があるのだろうか。

二重の意味で生きるに値しない。

感謝されざる人間が、相互扶助によって成り立つ社会において生きているのは誤りだ。

 

無気力の人生

さて、話は冒頭に戻る。

日本の企業の六割だか七割は赤字だという。

それが数字上の赤字だとしても、おれのように真に赤字的存在として生きている人間も何割かはいると思う。

 

おれのような存在に、他人の価値をはかる資格はない。

なので、おれはおれについてしか判断を下せない。

 

もしもおれのような人間がほかにいるとしても、それぞれに価値観があって、ゼロだろうマイナスだろうと生きていて苦しくないという人もいるだろう。

それを否定することはできない。マイナスでないと思えばマイナスではないのだ。

 

念のために言っておくが、ここでいうマイナスとは、本来プラスになりうるかもしれないだけの心身を持っていることを前提としている。

社会福祉によって救われるべきだと判断された人は、社会福祉という皆の多数決によって生きることを肯定されているのであって、生きる価値と資格を認められているといっていい。

この社会に対して支払い能力があるといっていい。

 

問題なのは、無気力、無向上心ながら生きているおれである。

おれはおれの現状を脱するために、能力を向上させようとか、資格を取ろうとか、職場を変えようとか思わない。思えない。

おれのような人間。そんな人間が生きている社会、存在している社会とはなんなのであろうか。そこのところがわからない。

 

そもそも人間に生きる価値があるのか

というか、そもそも人間に生きる価値があるのか。

生きる価値とはなにか、簡単には答えられない話ではある。

 

とはいえ、エッセンシャルではない人間を大量に抱えてしまっているのが、現代の人間社会ではある。

黒字人間であろうと、真にエッセンシャルではない職種の人はたくさんいる。

 

真に人間がエッセンシャルであるということは、一個人が一個人を養うということに尽きるのかもしれない。

すなわち、自給自足。自分で自分が食うだけのものを栽培なり飼育なりして、自分で食う。そこに尽きる、のかもしれない。

 

とはいえ、人類はそのままではいられなかった。どういう宿命かはわからない。

そのままではいられないからこそ、人類は知性を得て、霊長類とか言って世界にのさばっているのかもしれない。

原因と結果の関係はわからない。

 

もしも、余剰や無駄が人類を人類たらしめているならば、エッセンシャルでない人間は、人間を人間たらしめている必然、といえるかもしれない。

 

とはいえ、その上で、赤字で生きて、こんなに苦しい。みなは苦しくないのか。よくわからない。

おれが価値を生み出せる人間であれば、苦しくなかったのかもしれない。

余剰や無駄が人類を人類たらしめているのだとふんぞり返っていられたかもしれない。

 

しかし、赤字人間のおれは苦しい。

それが人類の宿痾か、資本主義社会の宿痾か、おれ個人の唯一の宿痾かわからない。

だが、おれはおれについて知ってしまっている。

 

そんなおれが、おれという個人を出発点に考えると、やはり人間全部に生きる価値があるのかという思いにとらわれる。

 

人間に生きる価値はない

畢竟、人間に生きる価値はない、と言えるかもしれない。

「生きる価値はない」というと意味が偏りすぎる。

生きるべきかどうかとはかるべき基準はない、と言うべきだろうか。

 

人間はこのように生きているのである。

「である」から「べき」は導き出せない。

漫然と人間は人間を再生産して、このようである社会を作ってしまった。

そこに肯定もなければ、逆に否定もない。神の意思なんてものはないし、人類の意志なんてものもない。

 

それが、せめてもの救いであろうか。そう考えることが、せめてもの救いであろうか。

 

なんと報われない。報われないのが人生か。

報われている人もいるのだろう。おれにとっては想像上の生き物だ。

自らの人生に価値や意味を見出している人間と、そうでないおれにはそのくらいの断絶がある。

 

断絶したこちら側の意見を述べる。もう、これ以上、おれのような不幸を再生産するのはやめよう。

どのような人間にも、おれのような境遇に陥る可能性はある。

ゆえに、おれのような人間とはすべての可能性を持ったものであって、あらゆる人間の生産は止めてもいいのではないか。そのように思う。

 

人類は人類の不幸を解決せずにここまで来てしまった。

だからといって、このまま進む「べき」ということにはならない。

人類が得た知性というものをもって、いったん止まってみてもいいではないか。

少なくとも、今、生きている人類すべてに救いもないのに、新しい人類を作り出すのは望ましいことだろうか。

 

どんな人間も望んで生まれてきたわけではない。

芥川龍之介の『河童』のように、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ」と問われて答えて生まれてきた人間はいない。

 

人間が人間の理性をもって、いったん止めてみてもいいはずだ。産んで、増やしたところで栄えないのが人類だ。

 

おれのようにかろうじて先進国である日本に生まれた人間であってもつらい。

衣食住のもっと足りていない世界に生まれてきてしまう人間もいる。そんな世界で生きざるをえない人間もいる。

 

かれらは黒字だろうか、赤字だろうか。

おれにそれを断じる資格はない。

だが、赤字人間になって生きる苦痛を味わう可能性があるかぎり、人間の不幸は尽きない。

 

人間が人間によって新たに生じる不幸を絶てるとすれば、それは悪くないことだ。

それによって人類が滅んでも、それはそれで仕方ない。

 

マイナスを生きている人間が見る世界とはこのようなものだ。

おれは弱いし、正直、救いを求めている。

その弱さに絶望し、救いがないことも承知している。ただ、WhyにもHowにも答えようがない人生を、これからも長くつづけることは、かなりつらいことに思えてならない。

いずれにせよ死ぬにせよ。人生は絶望だ。絶望そのものだ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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