自分に向ける刃が他人に向かう

佐藤優と斎藤環の対談本である『なぜ人に会うのはつらいのか』にこんなやりとりがあった。

斎藤 ……で、そんな彼らも、実は優生思想を自ら振りまいている部分があるんですよ。自分が疎外されたと感じた時に、彼らが必ずと言っていいほど口にするのが、「俺なんか生きていてもしようがない」というひと言なのです。なぜなら、金も稼げない、生産性もない、何の役にも立っていないのだから……。しかし、そうやって並べていくロジックの全てが、「役に立たない人間は生きているな」という優生思想に、見事に収斂されてしまう。

佐藤 往々にして、そうやって自分に向ける刃は、他人にも向くことになります。

おれは、これについて思い当たるところがあった。

おれは常々、自虐を振りまいている。振りまいている自虐の「自」からはみ出ないように気をつけてはいる。

しかし、気をつけたところで受け取り手が「これは自分のことだ」と思ってしまえばそれまでだ。それを止める術はない。

 

たとえばおれはおれを金も稼げない、生産性もない、何も役に立っていない赤字人間だと思っている。

自らのなかから生まれ、シオランなどによって裏打ちされた半出生主義者でもある。

前者は、この世に少なくない赤字の人間に対する攻撃になっているかもしれないし、後者はそれこそ優生思想に接近する危険があるものだ。

 

おれはそれに気をつけているつもりだ。いや、つもりではなく、気をつけている。

主語は小さく、それこそおれ一人。おれ一人についてのこと。そう気をつけてものを書いている。

 

が、そうはいかないのだ。おれがおれに突き立てる刃が、他の人を刺してしまうこともある。

これは、避けられない。知らないうちに、他人を巻き添えにしてしまっているかもしれない。

 

たとえば、おれと同じ精神障害を持っている、おれと同じ貧乏人である、おれと同じ高卒である、おれと同じ中年独身男性である、おれと同じ……、挙げだせばきりがない。

おれと完全に同じ構成の属性の人間は存在しないだろうが、部分的に重なることはある。

 

おれがおれを自虐することによって、おれ以外のだれかを傷つける可能性もある。

 

おれと逆のだれかを傷つける可能性もある

おれはおれと同じような属性を持つだれかを傷つける可能性はある。

さらに一方で、逆の属性を持つだれかを傷つける可能性もある。

独身子なしのおれの文言は、子育て中のだれかを傷つける。

おれの低身長話は、高身長のだれかを傷つける。おれの貧乏話は金持ちのだれかを傷つける。

 

……貧乏人が金持ちの誰かを傷つける? そんなことあるザマスか? いや、あり得るかもしれない。

金持ちの人には、金持ちの子には、金持ちにしかわからない苦悩があるかもしれない。

本音を言えば、そんなこと知った話じゃねえというところだが、その可能性もある。そんな可能性からは、逃げられない。

上下左右、あらゆる人間に対してあらゆる攻撃になってしまう可能性がある。

 

そうだ、そんな可能性からは逃げられないのだ。物言う限り、逃げられない。

ならば、口を閉ざし、黙り込むのがよいのか。それはたいへん賢い選択だ。

沈黙は金だか銀だか、このご時世において、このインターネット空間において、黙っているのが一番賢い。

だったら、黙っているのが一番いいということなのだろうか?

 

物言うことの暴力性

さて、話はまた最初の本に戻る。戻ってしまった。斎藤環医師はこう述べている。

斎藤 実は一般的な概念としての「他者に対する力の行使」は、社会の至るところにあるのです。人と人とが出会うことや、集まって膝を交えて話すことも、まさにそれに該当する。身体的・物理的な暴力はもちろん、目の前にいる人の態度や言葉に一切の攻撃性が見当たらなかったとしても、そこには常にミクロな暴力ないし暴力の徴候がはらまている、と私は考えるのです。

ここで語られている「暴力」は、「他人と会うこと=暴力」であるという、コロナ禍にあってあらわになったことである。

なるほど、おれも人と会うのは苦手なタイプだし、人と会うことに圧を感じる。それを暴力というのかもしれない。

 

とはいえ、今は、その話ではない。

ネットに公開される文章、あるいはSNSなどによるやりとりも「暴力」ではないか、ということだ。

いや、暴力になり得るだろう。

 

それはおそらく、美談やいい話についても言えることだ。

たとえば、「両親とのいい話」によって傷ついてしまう、両親のいない子や、両親がろくでもない人間である子などもいるだろう。

どんな肯定的な話にも、それを共有できない境遇の人がいるかぎり、それはその人を傷つける。暴力になりうる。

 

「では、なにも言えなくなるではないか」という声もありそうだ。

だが、それを認めた上で、「暴力」を認めた上で、人間は言うことを言うしかないのではないかと思う。

だれかにとっての「暴力」であることを自覚したうえで、なんか言うしかない。

 

いい話をしたい、人をほっこりさせたいというときにも、その覚悟が必要だ。

覚悟とまで言うといいすぎかもしれないが、自覚は必要とされるだろう。

 

それが嫌なら黙っている方がいい。

でも、それじゃつまらない。

だったら、「暴力」を振り回すしかねえ。

 

とはいえ、とはいえだ。なにここまで言っといて日和ってんだって言われるかもしれないけれど、不要な暴力をあえて使うこともない。

社会的にどう考えてもアウトだろうという表現は、どうしても使う必要がないのであれば、避けてもぜんぜんいいだろう。

 

というか、避けろ、使うな。

本当に言いたいことがそれでなければ、余計なところを燃やす必要はない。炎上させる必要はない。

今のところ、燃えてしまった人間がどう復活できるのかどうかわかっちゃいないんだ。

下手すれば人生そのものが台無しになるぞ。

 

だから、暴力そのものとみなされる言葉については気をつけろ。どう気をつける?

それはもう、感じ取るしかないだろう。社会の空気を、常識を。

そんなのつまらない? それはそうかもしれない。

でも、楽しみたいなら仲間内だけの、それこそ膝を交えてのオフラインだけにしておいたほうがいい。

 

こんな偉そうなことを言っているおれだって、掘り返したらいくらでも致命的な発言が出てくるかもしれない。

しかし、もうそういう時代だ。そういうインターネットの世界だ。うまくやっていくしかない。

安全運転に徹してもいいし、際どいところを攻めてもいい。そもそも車に乗らなくなっていい。好きにすればいい。

 

暴力に傷ついたらどうするの

して、このように世の中は暴力によってのみ成立している。

おれにとってそうでなくてもあなたにとってはそうかもしれない。

あなたにとってはそうかもしれないが、おれにとってはひどいダメージだ。その可能性を避けることはできない。

 

では、ダメージを負ったらどうすればいいのか。

まず、暴力の質にもよるだろう。その言論プラットフォームの規約に反しているような物言いであれば、プラットフォームに抗議するのは正当だ。

もちろん、この国の法律に反しているような物言いであるのならば、然るべき法的手続きをとるのも正当だ(そのハードルが高い可能性はあるのだが……)。

 

そういう、目に見えてアウトな言葉遣いをしているのならば、できることも目に見える。

が、問題は、自分の気に食わない意見、反論したい意見、そんなものを目にしてしまったらどうするか、だ。

 

まず第一に、「見なかったことにする」というのが挙げられる。

消極的かもしれないが、一番穏当だ。穏当だし、最終的にはいいところに行くかもしれない。

 

「見なかったこと」にしても、やはり脳の中のどこかには残りつづけてしまうだろう。

折に触れて思い出されるかもしれない。そのたびに考えてしまうかもしれない。

だが、それがいい。時間をかけて、何回も考えたほうが、反射的に反応するよりずっといい。

それによって自分の考えの及んでいなかったところに気づけるかもしれないし、気に入らなかった意見のさらなる欠点を見出すこともできるかもしれない。そんなに、急ぐ必要はない。

 

とはいえ、反射的に反応してしまうのが悪いかといえば、そうとばかりは言えない。

いきなり書き手に脅迫文を送ってしまうようなことは無駄で無益でしかないが、短文で反応してみること、同じくらいの長さの文章で反論してみること、悪くない。

自分で言葉にすることによって、「暴力」に対するむかつき、イライラ、不愉快さが形になる。

 

形にしてみないと見えないことがある。形にすることは、言葉にすることは、文章にすることは、感情を整理することになる。

それによって、自分の考えのおかしさに気づくこともあるだろうし、さらなる問題点に、別の視点に気づくことがあるかもしれない。

それも悪くない。反射的であれ、言葉にしてみるワンクッションを挟むくらいの余裕はあっていい。

いきなり包丁で刺さなければ気がすまないというのであれば、そうすればいいが。

 

最初はだれにも読まれなくたって

とはいえ、「ネットで自分の意見を発表したところで、だれにも読まれない」という意見もあるだろう。

それはもう、仕方がない。そもそも有名人であるとか、医師や弁護士、起業家であるとか立派な肩書きがあるとか、そうでなければネットで注目を浴びることはむずかしい。

 

とはいえ、発表するしかない、書くしかないのだ。

書いていれば、自分の意見に賛同してくれる人も出てくる、自分の感性に同感してくれる人も出てくる。そう信じるしかない。

 

おれだって、べつになにかの分野で有名なわけでもないし、立派な肩書きもない。まったくなにもない、高卒の底辺労働者だ。

有名人の知人もいない。知人すらほとんどいない。

それでも、書きつづけてきたら、いくらか人に読まれるようになった。ただそれだけのブロガーだ。

 

もちろん、単著があるわけでもないし、ぜんぜんたいしたことのない「いくらか」だ。

世論に影響力があるわけでもないし、あなたになにも感じさせない場合がほとんどだ。ただ、自虐的なことを書くばかりだ。

 

それでも、書くしかない。書いて、みじめな暴力をふるって、少数の人のヘイトを買って、それでも、なにか言いたいことがあるから書く。

自虐でもって自分の傷を晒したいから晒す。

黙っていたほうが賢いかもしれない。見なかったことにしたほうが賢いかもしれない。

そうとわかっていても、書かなければ気がすまない。

 

もしも、これを読んだせいであっても、そうでなくても、あなたが少しでも「なにか言いたい」と思ったならば、もう書くしかないだろう。

はじめはだれも読まない。断言してもいい。いや、なにがバズるかわからないのでなんともいえないし、バズったことのないおれにはなんともいえないが。

ただ、最初はひたすらの虚無に向かって言葉を投げつける日々が続くかもしれない。

 

それでも、いつかは読んでくれる人が、自分の意見に賛同してくれる人が出てきてくれるかもしれない。人生に、そのくらいのことはあってもいい。

たとえ暴力によって構成される世界にあったとしても、それは悪くないことのように思える。どうだろうか?

 

 

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(2024/3/26更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Moritz Mentges