『あのこは貴族』を観る
映画『あのこは貴族』を観た。劇場で観たわけではない。
原作小説は読んでいない。
おれはなぜ、この映画を観ようと思ったのか、よくわからない。
おれは社会の底辺を這いずる底辺層である。どういう展開になるかわからないが、「貴族」階級の姿など見たくもない。
おれが見たいのはおれと同じか、おれより下の階層である。ノンフィクション番組で言えば、フジテレビの『ザ・ノンフィクション』である。
松濤に住む箱入り娘を演じる門脇麦が気になったから、かもしれない。
おれにとって門脇麦といえば、白石和彌が監督した『止められるか、俺たちを』であの若松プロダクションの助監督である主演をつとめた門脇麦なのである。
革命的女性闘士から、松濤のお嬢様? それを見たかった?
いや、違うな。再生してみて、「あ、門脇麦」と思ったくらいだからだ。
やはりなにか、耳にしたことある山内マリコ原作の、現代的な問題を描いた作品を観たかった、ということになるかもしれない。よく、覚えていない。
貴族の世界とそうでない世界
貴族の世界の門脇麦(おれは役名を覚えること、あるいはそれでイメージすることができないので、役者名でいきます)は、松濤生まれの松濤育ちで、開業医のお金持ちの箱入り娘である。
家事手伝いなどしているが、結婚に焦りを抱いている。これが、一方の主人公ということになる。
もう一方の主人公、というものがいる。水原希子演じる、地方出身の女性である。
決して裕福でない漁師の娘だが、勉強を頑張って慶應義塾大学に入る。上京する。上京して、まず大学で格差を感じる。
慶応幼稚舎上がりの内部生に比べて、大学から入ってきた外部生の水原希子。親から学費を出せないと言われ、水商売でバイトするも、結局は中退してしまう水原希子。それでも東京に食い下がる水原希子……。
そして、この二人が、一人の男を軸に邂逅する。Wikipediaに家系が載っているような男。
門脇麦のようなお嬢様たちの世界からしても、クラスに一人いるような(一人いるだけでもすごいのだろうが)、本当の貴族の男。門脇麦にとっては運命のような人。
水原希子にとっては、腐れ縁のような人。それを演じるのは高良健吾。あの若松孝二監督の『戦年の愉楽』で主役を演じた……(以下略)。
さていきなり、おれの話をする
さて、いきなりおれの話をする。
おれは知らなかったが、この作品にはおれと重なるところがあった。
「外部生として慶應義塾大学に入り、中退する」というところである。
となると、おれも地方出身の貧しい出で、勉強をがんばって慶應に入ったということだろうか。
そこがそうでもない。地方といっても神奈川県出身で、貧しいといっても鎌倉市の一軒家に住んで、中高一貫校の私学に通っていた身分だからだ。
貴族とはいえないかもしれないが、おれよりも恵まれていない人もたくさんいるというのもわかる。
都会でもないけれど、本当の田舎(というのも人によって変わってくるところだろうが)でもないところ出身である。なんともいえない、微妙な階層出身なのである。
これが、おれの父方の祖母となると、かなり貴族に近くなる。白金に住み、関東大震災のときにはひと足早く外国の客船に逃げ、戦時下においては防災訓練に「ねえや」が代わりに出たという階層である。
親戚に山本五十六がいるといった具合である。父方の祖父は京都大学で化学の博士号持ちであった。
が、そのくらいでは、貴族になれない。せいぜいが、温室育ちである。
一貫校の中学の最初の担任はこう言ったものである。
「お前らは温室育ちだが、べつに世間の荒波にあえて触れる必要はない。温室育ちを享受しろ」と。
とはいえ、おれの通っていた中高一貫校は、県下において偏差値最下位クラスだったのだけれど。
今はいくぶんましになったようだが、よく知らない。
温室育ちのおれが、慶應に入った。
入ってみて、「塾高上がり」の存在を知った。正確には、映画でいうところの幼稚舎上がりなのかもしれない。
なにかこう、もう、存在が違った。「あいつは大学進学記念にフェラーリを買ってもらったらしい」とかいう世界である。
「ああ、これは違うな」と思った。
そして、塾高上がりは、どうにも学力に劣るような印象を受けた。
もちろん、『あのこは貴族』の高良健吾のように、後に東大大学院に入り、弁護士になるような優秀な人間もいるのだろうが、授業を受けているなかでは、「え?」と思うこともあった。
が、ひとのことはいえない。
おれもフランス語の活用を覚えられず(覚える気もなく)、大学になっても「二人一組になって課題を」というのに嫌気をさして(一人も友達がいなかったので)、行くのをやめてしまった。
実家も傾いていたので、ある程度は水原希子に近いが、おれから辞めて、おれから引きこもり、ニートになったというのが正確である。
そのあと、おれがファミスタとダビスタを極めたあとに、父が会社の経営に失敗して一家離散となった。
おれは鎌倉から横浜、横浜はドヤ街寿町の近くに流れ着いて、二十年経った。
上級国民とは、いるものだよ
とはいえ、おれの人生の絶頂において、少しばかり「貴族」を目にしたのは確かだ。
今では少し古い物言い、しかしその頃からすればまだまだ先の言葉、上級国民というやつだ。
ただ、おれにとって、門脇麦と高良健吾の区別はつかなかった。
松濤の箱入り娘レベルと、代議士を輩出するレベルの違いである。
……と、ここまで書いてきたが、あくまでフィクションの話ではある。
原作者の山内マリコも富山出身であって、どちらかといえば水原希子側の人間のように思える。
映画の監督である岨手由貴子も上級国民かどうかはわからない。少なくとも松濤の生まれ育ちではないようだ。
となると、おれは映画のフィクション世界にのめり込みすぎているだけかもしれない。
婚約者を紹介する席で、敷居をまたぐ前に頭を下げ、「入ってよい」と言われてはズリッ、ズリッと進んで、座布団の横で頭を下げ、「座ってよい」と言われて、ズリっと座布団の上に座るあの所作など、取材やマナー講師の指導によるものかもしれない。
それでも、ランチで五千円の世界は実在するのだろうし、そういう階級がいることは間違いないのだと信じる。寿町の近くからそう思う。
シスターフッド
ただ、本作はシスターフッド物といっていい、この日本社会における女性の立場というものも描かれている。
貴族階級も、そうでもなくとも、女性としての役割を果たさねばならない窮屈さ。
それについては、登場人物の一人が、はっきりとノーをつきつけているし、話全体もその方に進む。
ただ、おれはその方に明るくないし、当事者でない男がなにか言えるようなものでもないので、あまり触れない。
逆に高良健吾も不自由だよ、親の人生をなぞるだけだよと言われても、まあそんな上級国民のことはわからねえしな、というところである。
というか、男性の友人すらいないおれには、人間関係というものが不全であって、まったくわからねえしな、というところである。
劇中でも慶應で幼稚舎上がりの男たちがウェーイとやっている場面と、富山の地元でマイルドヤンキーらしき男たちがウェーイとやっている場面があり、その奇妙な相似形が描かれているわけだが、おれはそこにも入れない人間である。
ウェーイってやってみたかっただけの人生だった。いや、そうだろうか?
日本の上級国民はWhoで動いているのではないか
このあいだ、「Whatに熱くなる都市、Whoに熱くなる地方」という記事を読んだ。
「こと」の都会と「ひと」の地方。そういう傾向はあるように思う。
むろん、おれは都会とも地方ともいえない中途半端ところで育ち、横浜というまた中途半端なところで生きているので、実感はないのだけれど。
だが、と思った。こんな映画を観たら、都会(東京)の上流階級は「Who」で繋がり、「Who」で動いているのではないか、と。
景気くらいにはまったく左右されない盤石の富。そんなものを背景にした金持ちたちは、同じ階級の金持ちたちと婚姻関係を結び、さらにその地位を盤石としていく。
そして、それはわれわれ平民(これを読んでいるあなたは上級かもしれないが)、下級階層の目には触れない。
成り上がりの金持ちというのものは目につく。
起業家でも芸能人でもいいが、成り上がりはマスメディアに取り上げられる。
だが、そうではない、本当の上流。そういうものがいるか、いないか。たぶん、いる。いや、いるに違いない。
政治家などでも、明治やそれ以前からの名家の出という存在がいる。そういうものはWikipediaで確認できる。
主に野党の政治家が、なんか変な方向に走ってしまうのは、そのような階級への太刀打ちできなさなのかもしれないなどと想像してしまう。
あるいは、与党においてそういった上流階級になびいて子分になってしまう政治家がいるのは、そういう階級のすごさに打ちのめされてしまった結果なのではないかなどと思う。思うだけで、底辺からの想像にすぎない。
だが、あるのではないか。
この国の二極化はどこまでいくのだろう
というわけで(どういうわけ?)、どうもこの国の二極化は進んでいくような気がしてならない。
大量の中流階級が(かつてはおれもそこに属していたのだろう)いなくなり、一部の上級国民、上流階級、本当の貴族と、本当の下層、この二極化。
上流階級はその閨閥を発展させるために子供作るだろうし、下層は下層であまり考えもなく子供を作る。
中流というものはもう生まれない。日本というのは、そういう国になる。
映画『あのこは貴族』で描かれたような、少しのシャッフルも起こらない。せいぜい、おれのような温室育ちが、底辺に落ちるくらいのことであろう。
もちろん、一気に成り上がって宇宙まで行ってしまう新興の大金持ちなんてもんもいるけれど。
そのような社会が、そのような日本がどうなるのか。おれにはわからない。
「希望は、戦争」ではないけれど、いっそのこと無茶苦茶になってしまえという思いもあるが、そんな思いがどうにかなるわけでもなく。かといって、貴族階級打倒の革命を起こすような気力もなく。
聖書における「タラントンのたとえ」は、実に現実的なものであって、持っているものはさらに与えられ、持っていないものはさらに奪われる。べつに信仰心の比喩など必要なく、それはそのままの真実であろう。
そのような真実を含んでいるからこそ、聖書というものは命脈を保ってきたと、非キリスト教者のおれは思うのだが、まあそれはいい。
それが現実的だというだけだ。この二十一世紀においても、自由と民主と資本主義の世界においても。
そのような世の中が、発展するのか、衰弱するのか、おれにはわからない。
もちろん、衰弱してしまえというルサンチマン的な思いはあるが、おれにはわかりはしない。
もう、勝手にしてくれ。頼むから静かにしてくれ。ぜんぶ黒く塗りつぶせ。
底辺を生きるおれは、ただただ、そんなふうに思う。それだけだ。
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【著者プロフィール】
著者名:黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by Daniel Davis