もう40年ほども前の話だが、小学校の運動会で経験した忘れられない記憶がある。
その年、4年生には「5本綱引き」というちょっと変わった種目が導入されることになった。
お互いの陣地の真ん中に長さ3mほどの縄が5本置かれ、「ヨーイドン!」で駆け寄り、奪い合うという競技だ。クラス対抗で、3本以上を自陣内に取り込めば勝ちというルールである。
力勝負の単純な綱引きと違い、奪い合いになる縄もあれば、足の早い子が一人で自陣に持ち帰ってしまう縄もある。
小学校4年生にさせるには「勝つための戦い方」が求められる、なかなかおもしろい競技だった。
しかしこの時、我が4年2組は予行演習で何回戦っても他組に勝てなかった。
足の速い子がおらず、総合的な体力も劣っていたのだろう。事前練習では1回も勝てない悲惨な状況である。
悔しさの余り私は、運動会前日の“帰りの会”で挙手をし、こんな提案をした。
「このままでは、明日の運動会本番でも勝てないと思います。作戦を決めませんか?」
この時に私が提案したのは、“2本の縄は最初から無視する”という作戦だった。
勝つための条件は、3本以上を自陣に持ち込むことだ。であれば、クラス40人が無策に5本に分散するより、最初から3本に人数を集中しようと言う提案である。
そうすれば、体力に劣っていても勝てる可能性が高まるだろう。
にわかにクラスが盛り上がり、「いいやんけそれ!」「お前天才やん!」という悪ガキどもの応援が入る。
しかしそこに、先生の鶴の一声が入りこの空気を一瞬で断ち切った。
「卑怯な作戦を考えるな!」
…結局私たちは本番でも、為す術もなく順当に敗れた。
この悔しい記憶は40年経っても未だに消えないが、とはいえ小学校などそんなもんだろう。
大したことだと考えていなかったが、しかしいい年をしたオッサンになった今、実はこれは、大変なことだったと思っている。
大げさなことをいうようだが、私たちの世代がこんな教育を受け社会に出たから、“失われた30年”で日本はここまで没落したのではないのか。
今の日本をこんな国にしてしまったのは、私たちの世代の体たらくと、こんな教育に原因があるのではないのだろうか、と。
「小銃を海に捨てよ!」
話は変わるが、「キスカ島撤退作戦」と聞いて詳しく知っている人は、どれだけいるだろうか。
キスカ島は日本とアメリカの中間ほどの位置、アリューシャン列島の真ん中に位置する米国領だ。
1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦の陽動作戦として日本軍が上陸・占領した小さな島である。
しかし肝心のミッドウェー海戦に敗れ、また翌年の1943年2月には戦略上の要衝・ガダルカナル島を米軍に奪われると、日本軍の劣勢は色濃くなり始める。
さらに4月には、連合艦隊司令長官(海軍現場トップ)である山本五十六・大将が移動中に撃墜され戦死するなど、もはや日本軍に積極的な攻撃を仕掛ける意志は失われようとしていた。
ことここに及んでは、もはやこの占領地を維持する意味がないだろう。
そう考えた日本軍は、陸海軍6,000名からなる守備隊を同島から撤退させることを決め、同年5月から始まったのがキスカ島撤退作戦である。
しかし一度、劣勢になり始めた日本軍に襲いかかる米軍の勢いは止めようがなかった。
自国領を占領された怒りもあり、この時もはやキスカ島は米軍の艦船により、何重にも包囲されていたのである。
加えて、レーダーの実戦配備を終えていた米軍の監視網は厳重であり、日本海軍の救出艦隊は島に近寄ることすらできない。
実際に日本軍は、夜陰に紛れて潜水艦による接近を何度か試みたが、その多くが撃沈され、守備隊6,000名の救出はほとんど進まなかった。
しかしここで一つ、疑問に思われることがあるのではないだろうか。
一般に“人命軽視”と言われることが多い日本軍がなぜ、そこまでの困難と代償を支払ってまで、守備隊の撤退に必死になったのだろうかと。
実際にこの撤退作戦の直前、同じアリューシャン列島に所在していたアッツ島守備隊2,400名は玉砕を命じられ、米軍の上陸とともにほぼ全員が、命を落としている。
実はこの撤退作戦の検討に際し、アッツ島守備隊を“見殺し”にされたことを陸軍中将・樋口季一郎は激怒し、以降海軍とは協力できないとまで突き放す出来事があった。
陸海軍の“縄張り意識”は日本軍に限らず世界共通のものだが、海軍にすればなぜ、陸軍将兵を救うために海軍の戦力を投入しなければならないのか、そう考えてのことだったが、アッツ島の2,400名を見殺しにした上に、キスカ島の6,000名を見殺しにすれば、もはや陸軍との関係は破綻すると考えたのだろう。
キスカ島守備隊の半数は海軍兵という事情もあったのだと思うが、いずれにせよこのようにして、多大な犠牲を伴うであろう「キスカ島撤退作戦」は開始されることになった。
そして日本陸海軍は持ちうる限りの気象観測技術を動員し、この海域に濃霧が発生するであろう日時を期して救出艦隊を出動させる。
いくら米軍のレーダー技術が発達していても、視界の利かない濃霧の中では砲雷撃が困難なため、発見されても逃げ切れると考えたためだ。
そして予測通りの濃霧が発生した当日、救出艦隊は目論見通り奇跡的に、キスカ島の港に近接することに成功した。
ところがここで、大きな問題が発生する。
6,000名もの将兵を港から艦まで輸送するに際し、ダイハツ(上陸用ボート)の輸送能力では、時間がかかりすぎることが明らかになったのだ。
このままでは程なくして濃霧が晴れてしまい、守備隊は救出艦隊もろとも米軍に発見され、全滅してしまうだろう。
しかし実は、この状況を先述の陸軍司令官、樋口季一郎・中将は既に予見していた。
そのため将兵に対し、あらゆる荷物だけでなく、兵士にとって命とも言える小銃までをも海に投棄してからダイハツに乗るよう、命じていたのである。
当時の軍規では、小銃を放棄する行為は状況により、死刑にも相当する重罪である。
しかし樋口は、どこまでもリアリストであり、合理的な軍人であった。
そのため非常時に際して、「規則を守ること」と「本来の目的」を天秤にかけ、独断で小銃の海洋投棄までをも命じたということだ。
そんなこともあり、キスカ島の将兵6,000名は濃霧の数時間の間に極めて迅速に、一人の犠牲者を出すこともなく脱出することに成功する。
かくして、戦史上の奇跡とも言われる「キスカ島撤退作戦」は成功し、多くの人命が救われ、本土への帰還を果たした。
さらに話はこれで終わりではない。
程なくしてキスカ島に上陸した米軍の攻撃部隊は、すでに島がもぬけの殻であることに驚くが、司令部跡地を探索中に通訳兵がとんでもないものを発見する。こんな看板である。
“ペスト患者収容所”
「皆さん!ここはペスト患者の収容所跡地です!なにも触らないで、すぐに外に出て下さい!」
実はこれは、日本軍が残した最後の意地のイタズラであったが、米軍は大混乱に陥る。
そして結果的に、多くの将兵がペスト感染のリスクありとして隔離され、一時的な戦線離脱を余儀なくされた。
劣勢になったがゆえに、本質に立ち返り果敢にリスクを取って”奇跡”を生んだ日本軍。
優勢になったがゆえに、リスクに過剰に反応して実利を取れなかった米軍。
余り知られていない太平洋戦争の「激戦地」だが、その教訓が今に残すものはとても多い。
「まったく最近のオッサンは・・・」
話は冒頭の、運動会を巡る記憶についてだ。なぜ私が今になって、こんな教育を受けた私たちの世代には、深刻な問題があると危惧しているのか。
実はこの時、「卑怯な作戦を考えるな!」と指示した先生は、その理由をこう説明した。
「そんな作戦で勝つ子どもたちをみて、気分を悪くするお父さん、お母さんがいたらどうするんだ」
なるほど、それは確かに100人の親がいたら1人くらいは、そう感じるのだろう。
だからそのリスクに配慮して、自然に戦い素直に負けろと言うロジックは、1mmも共感はしないがわからないでもない。
そしてこのロジック、多くのビジネスパーソンにとっても、聞き覚えがあるのではないだろうか。
「万が一失敗したら、責任を取れるのか」
「そんなことして、気分を悪くするお客様がいたらどうするんだ」
思えば私たちオッサン世代は、このようにリスクばかりが強調され、忌避される教育と価値観の中で仕事をしてきた。
そして大手マスコミも、失敗はどんな小さなことでも徹底的に叩き続け、「歪んだ批判文化」が社会に根づく国になった。
こんな社会では、リスクを取ることは全否定され、リターンに目を向ける人材が育つ訳がないではないか。
かくして日本は衰退し、「失われた30年」を経験しているという仮説は、あながち的外れなものではないだろう。
そして話は、キスカ島撤退作戦についてである。
この際、追い詰められメンツや組織の利益などに構っていられなくなった日本陸海軍は協働し、やっと合理的な判断を下すことができた。
陸軍中将・樋口季一郎のような重職にある最高幹部ですら「小銃を投棄せよ」と、異例の軍規違反を命じたほどである。
これらは全て、「利益が不利益を上回る」合理的な判断からであった。
あるいは移動中に撃ち合いが発生するリスクもあり、軍規違反がもたらす悪影響も懸念されただろう。
だからといって「リスクがあるからそんなことをしてはいけない」などと樋口が命じればきっと、6,000人の将兵は全員、命を落としていた。
現代を生きる日本のリーダーが「リスクのあることをするな!」と命じるのはまさに、このような愚行である。
「利益が不利益を上回ってもやるな」
「10,000円儲かっても、100円のコストがかかるならやるな」
と言っているに等しい。
私たちにはことさらに、日本軍のリーダーたちを笑う風潮があるが、本当にその資格があるだろうか。
「まったく最近のオッサンは・・・」と若い世代に見限られないためにも、心当たりのある人はぜひ、自分のリーダーシップを見直して欲しいと思う。
責任を担う覚悟がなく、またリスクを取る意志のないリーダーなど、年を食っただけで幼児性の抜けない、無能な40歳児、50歳児である。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
天ぷらダネで一番美味しいのはレンコン。
おでんダネで一番美味しいのはコンニャク。
20代の頃からそういい続けていますが、未だに同志に出会ったことが一度もありません。
かわいそうに、美味しいレンコンとコンニャクを食ったことがないんだな(泣)。
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Photo by:Elmira College