おれは信号無視をしない

おれは歩行者として信号無視をしない。

しないんじゃないかな。ちょっとくらいはするかもしれない。まったくしないとは言わない。けれど世の中の平均からすると、相当にしない方だと思う。

 

なぜならば、もしも横断歩道を歩いていて車に轢かれたりしたとき、歩行者信号が青だった場合と赤だった場合では、青信号でしっかり渡っていた場合のほうが、得だからだ。

信号無視して轢かれたのでは、車の責任が少し軽くなって、損だ。……そんな損得勘定する前に、轢かれて死んだらそれでおしまいだけれど。

 

まあそういうところもある。そういうところもあるが、一番の理由としては、いちいち判断するのが面倒くさいのだ。

右見て、左見て、出発進行。そんなことにいちいち頭を使いたくない。そんなことに自分の「決断」をいちいち使いたくない。

 

……などという姿勢は、トルシエに「日本人は車がいなくても赤信号を……」などと言われてしまうかもしれない。

けれどおれはサッカー選手でもなければ、急にボールが来るストライカーでもないので、どうでもいいのである。そして、話が古い。

(赤信号の話はこの本に載っているらしいですが、未読です)

 

あと、おれは外国に行ったことがわからないけれど、歩行者と自転車はわりと信号守ってないと思います。

とくにスポーツ自転車乗ってたころに感じた、ローディの信号無視率の高さには本当に驚いた。

 

ちなみに、おれは「よきスポーツ自転車乗り」でありたいと思っていたので、自転車では違反的な乗り方をしていなかったという自負はある。

遠乗りの見知らぬ場所でうっかりミスしたことはあるかもしれないが。

 

まあ、自転車の交通ルールのことはどうでもいい。知りたければこの本を読めばいい。

 

形而下のことは召使いどもに任せておけ

「生きることは召使いどもに任せておけ」と書いたのはヴィリエ・ド・リラダンだったかと思うが、違うかもしれない。

「生きる」を「形而下のこと」と訳したのは澁澤龍彦だったかもしれないが、違うかもしれない。

 

まあともかく、実際に形而下のことを抜かしてわれわれの生は成り立たない。とはいえ、「この歩行者信号を守ろうか、どうしようか」という些細な問題などに人生の貴重な時間、価値あるおれの脳のリソースを割くのはバカバカしい。

え、おれの人生のどこが貴重で、脳のどこに価値が? あ、えーと、たとえば、「貴重なあなたの人生」と置き換えてください。

 

たかだか数秒だが、その数秒でも、もっと世界平和のこととか考えていたほうが有意義じゃないか。あるいは、なんか楽してお金儲けできる方法とか。

 

というわけで、おれは現実の信号機のほかに、心の中に信号機を設置するべきだと言いたい。

と、試しに「心の信号機」と検索してきたら、なにか中学校の道徳の教材が出てきた。「思いやる心を伝えよう」とか書いてある。

 

それは、知らない。偶然の一致だ。おれが言いたいのは、判断をオートマチックにしようということだ。いちいち頭を使わなくてはいけないことを、できるだけ自動化しようということだ。

 

たとえば、人によって考え方は違うかもしれないが、食べ物についておれは自動化をしている。

行きていける栄養さえ摂れればいいだろうということだ。季節によって蒸し野菜、冷しゃぶサラダ、お好み焼き、鍋を繰り返している。

日々変えるのではない。季節ごとだ。飽きて、もう食べられないと思うまで、同じものを毎晩食べる。自炊しつづける。

 

これも判断の自動化である。おれが独身者であるということで可能になっている面もある。こんな同居者に料理を任せる人間はいないだろう。

それでおれは、考えることなくスーパーで食材と調味料を買い、同じものを作りつづける。メニューにおけるなにかの食材が気候などの状況ですごく高くなっていれば赤信号。

しかし、そうでもなければ、心の信号機のグリーンランプが灯ったままだ。これは楽だ。「今晩の献立はどうしよう?」と悩む家族持ちの料理担当は大変だろう。

 

人がどこまで自分のなかに信号機を設置するべきか、それについておれは口出しできない。

だが、できるだけ信号機が多いほうが、日々の生活は楽ですよ、と言うだけだ。

 

話は交通に戻ったりするが、自動車の自動運転化なども、人間がやらなくてはいけないわずらわしさからの解放だろう。

自動車の運転も楽しいものだと、免許を取ってから少しだけ車を運転していた自分は思うが、それが何十年ともなると、もう惰性で危ないだけになるのかもしれない。

だったら、自動運転のほうがましだ。運転の信号は、心の信号に任せておけ。

 

信号機任せの世界

とはいえ、「自動運転、AIに任せるのは危なくないか?」というような疑問の声も出てくるだろう。

おれの考える「心の信号機」についても、例えば歩行者信号にすべて行動をアウトソーシングしてしまうのも危険だということだ。

 

たしかに、それはそうだ。歩行者信号が青、自動車信号が赤というときに、ろくでもない自動車が突っ込んでくる可能性は否定できない。

青信号でも「右見て、左見て」が必要だ。ちょっと確認するだけだ。歩行者信号が青だからといって、ちょっとした確認もせずに一歩踏み出して轢かれていてはつまらない。

ちょっとだけは、自力が必要になる。ゼロか百かではなく、自分の意識による判断が少しが必要だということだ。

 

それでも、なお、やはり、自動化は必要なことであろう。

交通などに関しては、道路を走るすべての自動車、二輪車がAIによって操作されるのが望ましいことだろう。

すべての情報が集約し、的確に分配される。これは人間の知性には無理なことだ。いつの話になるかわからないが、交通といったものはすべてAIに任されることになるだろう。

 

「え、運転する楽しさは?」となると、それはもう「サーキットかなにかで趣味としてやってください」ということになるだろう。近い未来とも言わないが、遥か彼方の未来とも言えない。

 

いずれにせよ、そのとき、心のなかの信号機は、現実の信号機と合一し、人間はもっと楽になるだろうと思う。

それをディストピア的だと思う人もいるだろうが、おれはどちらかといえば楽観的である。

人間は、人間以外にできる判断を、召使いに任せてしまえばいい。

 

人間は楽をしたがっている

とはいえ、「単純労働をAIを任せることによって、人間はより創造的な仕事をすることができる」というような物言いには反対したい。

反対というか、反感を持つ。人間みんな、そんなに創造的な存在じゃないよな。人間ならではのアイディアが出てきて、独創的な、人間らしい仕事ができるわけじゃないよな、ということだ。

そうできる人間は、そうすればいい。それで世の中に貢献すればよい。しかし、そういう能力に欠けた人間の居場所はどうなるのだ。機械に取って代わられるような仕事しかできない人間は。

 

そう考えると、おれは不安になるのだ。

機械によって人が楽できるようなるかといえば、もっと高度なところで苦労しなくてはならなくなった。簡単な仕事で生きていける、存在価値が認められる、そういった場が失われていく。

それは正しいのか。どうも違うように思える。新しいラッダイト運動が必要じゃないのか、という気にすらなる。

 

簡単な労働で生きていける人間の場を奪うな。さもなければ、簡単な動労を人間のために残しておけ。

 

心の信号機は弱者の味方

とはいえ、おれが最初から書いている「心の信号機」は、あくまで人間の中で成立するものだ。機械による判断に委ねることとはべつのことだ。この現代、どうしてもAIの進歩と無縁ではいられない。

そこに「自動化」が引きずられるのはしかたない。しかたないが、それ以前に、とりあえず人間の「心の信号機」の設置だ。

 

あらためて整理すれば、おれの言う「心の信号機」は、人間にとって本来どうでもいいことについて、判断を省略できるというものだ。

赤信号なら止まる。それは交通の赤信号に任せるということであり、ほかにもたとえば、消費期限が切れた食べ物をどうするか、それはもう食べられそうだとしても表記に従うだとか、そんな話だ。休みの日の昼食はカップ焼きそばだけで青信号だとか、そういうことだ。

 

これは、たとえば「丁寧な暮らし」を実践できる人には、かなり話が変わってくるだろう。朝から出汁をとったお味噌汁を作れるような人には話が別だ。

できることの範囲が違う。能力が違う。そういう人は、べつに自動化なんて必要ないかもしれない。それが、できるからだ。

だから、そういう人に信号機があったとしたら、おれのような生活の行動には赤信号が灯りつづけることだろう。逆に、おれにとって面倒くさくてできもしないような、複雑な状況について青信号がつく。もしも彼らが自動化できているなら、そういうことになる。

 

というわけで、精神障害を持ち、生来めんどくさがりやのおれにとって、「丁寧な暮らし」は程遠い。

そういう生き方ができる人は、たくさんのことができる。仕事も私生活も、上質な人生を送れる。

 

一方で、本来、なにもできない。なにもできないは言い過ぎかもしれないが、やることなすことに苦労が伴う、そんな人間もいる。

簡単な青信号ばかりの信号機を設置する。それでできるだけ楽をする。そういう人生だ。

 

そういう人間にとってこそ、信号機は必要だといいたい。

判断する知能や決断力に欠ける人間には、自動化こそ必要なのだ。

その都度、判断できる、決断できる能力の持ち主には、関係ないことだろう。

 

日常のささいなこと、どうでもいいことに、いちいちリソースを割いていられない。

割いていたら、生きていられない。そういう状況がわかるだろうか。

そういうことにかかずらっていたら、最低限の生活も送れない。もう、すべて諦めてしまって、ベッドの上から出てこられない。

 

行動の絶対量が、足りていない。決断する力の絶対量が、足りていない。そういう人間もいる。

そういう人間に、丁寧さを求めないでほしい。きちんとした生活を求めないでほしい。

無理なのだ。努力だとか、意識の持ちようとかではどうにもならないことがある。

 

そういう人間にこそ、自動化が必要だ。信号が必要だ。頭を使わず、行動できる指針が必要だ。

そして、そのハードルは低くなくてはならない。そうでなければ、信号機の前に立つこともできない。ずっと横たわっている。

 

弱い人間への助けは、大きなところでも必要だ。生きるのに重要なことについて支援が必要だ。

一方で、日常のささいなこと、小さなこと、どうでもいいこと。そこにひっかかってしまい、もっと大切なことについて考えられない、決断できない。そういうこともある。

 

それを助けるのは、やはり自分で決めたルールか、人に教わるルールか、あるいはいずれAIかわからない。ただ、助けがいる。

そういう人もいる。そういうおれもいる。

そのあたり、できる人にはちょっと心に留め置いてもらいたい。

べつに、できない、したくないというなら、それでもいい。勝手に自分の信号機を見て生きるだけだ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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