40代以上のオッサンであれば、おそらく誰もがハマったであろう不朽の名作「初代ドラゴンクエスト」。

昭和61年(1986年)にEnixから発売されたRPGの金字塔だが、子どもの頃にプレイしたゲームで一番思い出深いタイトルという人も、多いのではないだろうか。

 

しかし令和の今、復刻版をプレイしても何が楽しかったのか、正直さっぱり思い出せなかった。

ゲームに興じる年齢でなくなったことを差し引いても、楽しめたのはせいぜい最初の5分だけだ。

 

それでも記憶を頼りに、お宝やアイテムを回収し竜王の城に乗り込んで、35年ぶりに世界に平和を取り戻してみた。

残念ながら、子どもの頃の達成感やワクワクを最後まで感じること無く、

「いい思い出として、残しておくべきだったな・・・」

と思いかけた時、ふと一つの事実に気がつく。

 

「もしかして、ドラゴンクエストが不朽の名作になったのは、メタルスライムのおかげだったのではないだろうか…」

 

そしてメタルスライムこそ、日本が誇るべき昭和のクリエイターたちの、日本的な「コンパクト文化」の象徴だったのではないだろうか、と。

 

「デートなんて、1年も経てば忘れる」

話は変わるが、私には一つの忘れられない言葉がある。

高校の時、陸上部の夏合宿で長野県の霧ヶ峰に行った時のことだ。

 

事前に予告されていたメニューは、とても消化できると思えないような練習量が並ぶ。

令和の今ではおそらく否定されるようなものだろうが、6泊7日の合宿中、朝9時から夕方6時までほぼ、走りっぱなしだ。

しかも時代は昭和から平成になったばかりの頃なので、お約束のように「練習中の給水禁止」である。

そんな練習メニューを片手に指導顧問が合宿初日、こんな事を言った。

 

「いいかみんな。友達とカラオケに行ったとか、恋人と楽しくデートした思い出なんてものは、1年も経てば忘れてしまうもんだ。しかし、必死になってやり遂げた過酷な練習は、一生の思い出に残る。何歳になっても忘れない。そうできるかどうかは、自分次第だ!」

 

(・・・冗談じゃない。そんな精神論を説かれたところで、こんな練習量を消化できるもんか。それに女の子と楽しく過ごす時間の方が、想い出に残るに決まってるだろう)

内心、そんなことを毒づきながらいよいよ合宿が始まる。

 

しかし一日ほぼ走りっぱなしで、夜は夜で体育館で筋トレという日程は想像以上に過酷だった。

余りの練習量にメシも喉を通らず、3日もすると体重が数kg単位で落ち、体調を崩す仲間も出始める。

当時は「日射病」「熱射病」という言い方をしていたような記憶があるが、スポ根ロジックで練習を指導する昭和の指導者は、本当に容赦がない。

熱中症のような症状で気を失って脱落するような選手もいたが、そういう生徒は「根性が足りない」と、反省会で針のむしろに座らされた。

 

そして迎えた最終日。「毎年恒例」という名の、最後の非常識な練習が始まる。

100m×30本のビルドアップ走、間100mジョグ(ジョギング)、というものだ。

ビルドアップ走とはどんどん強度を上げていくトレーニングで、最初の10本は13.5秒、次の10本は13.0秒、最後の10本は12.5秒の設定タイムが課される。

切れなかった場合、その分の本数がペナルティで上乗せされ、間に休憩を取ることも許されないというものだ。

いわば緩急をつけながら、最低でも6000mの全力ダッシュとジョグを繰り返す無理ゲーである。

 

当然のことながら、初日からの疲労もあり10本、15本と本数を重ねていくにつれ一人、また一人と脱落していった。

 

「こんな練習できるわけないやろ!」と座り込み、子どものように泣き出すもの。

“給水禁止”を無視し、水道にかじりつき倒れ込むものなど、なかなかにカオスな光景だ。

 

(倒れ込んだら、俺も楽になれる・・・)

体に染み付いている100mの距離感すら掴めなくなり、暑さと脱水もあって命の危険すら感じる。

よく知っている距離・メニューの強度を30本もビルドアップさせるとは、ここまでキツイことなのかと、心身が悲鳴を上げ続ける。

周りを見れば、メニューに参加した30名が7名にまで減っていた。

 

そしてなんとか30本を消化し終えた時、ゴールに倒れ込んで、感極まって大声で泣いた。

トラックを外れ、地面を掴んで号泣し盛大に涙を流した。

するとそこに、先に30本を消化した藤田先輩が駆け寄り私の肩を掴む。

 

「どうしたんや!走りきったのに何を泣いてるんや!」

 

そう言われても、正直なぜ泣いているのか、自分でもよくわからない。

おそらく、やりきった瞬間にあらゆる感情が制御できなくなったのだと思うが、うまく言葉にできない。

 

「自分の足の遅さが悔しいんです!」

「そうか、ならもっと走ろう!一緒に強くなろうぜ!」

 

藤田先輩はそんなカッコいいことを言って私を引っ張り起こそうとしたが、冗談はヤメロ。

しかし、藤田先輩も最後まで走りきった直後でフラフラのなか、私に駆け寄ってきてくれた時の顔は今も、記憶に焼き付いている。

その様子を撮影してくれたマネージャーのスナップ写真は、今でも私の最高の宝物だ。

あれから30年以上の時が経ち、あの時の顧問の言葉を思い出す。

 

「必死になってやり遂げた過酷な練習は、一生の思い出に残る。何歳になっても忘れない」

これは本当に正しかった。

 

高校生の頃、友人たちとカラオケに行った想い出は途切れ途切れのセピア色だが、あの地獄のビルドアップ走だけは今も、カラー動画で脳に焼き付いている。

倒れ込んだ時の土の味、草の匂いまで昨日のことのように思い出せるほどだ。

 

令和の今、あんなスポ根の練習メニューを肯定するつもりもないし、やるべきでないのは間違いない。

しかしそれでも、最後までやりきったことは私のささやかな誇りになっている。

陸上選手として大した記録は残せなかったが、それよりも大事なものを得られたかけがえのない、幸せな時間であった。

 

昭和のクリエイター、本当にすごかった!

話は冒頭の、「メタルスライムこそ、日本のコンパクト文化の象徴」という話についてだ。

なぜ、メタルスライムがいなければドラクエはありふれたRPGの一つとして終わっていたと考えているのか。

 

ご存知のように、あの頃のゲームの開発容量は相当に貧弱だった。

初代ドラクエは、その総容量は実に64kbである。令和のパソコン事情で置き換えると、小さめの画像1枚分程度しかない。

そのためカタカナは50音全てを使うことができず、わずか20文字で表現するなどあらゆる工夫がなされ、あそこまでの世界観を作り上げた。

 

そんな中では、モンスターデザインも当然、相当な制約を受ける。

ゴテゴテした派手な敵キャラを次々に登場させれば物語は盛り上がるが、そんなことは当時のマシンスペックからできるわけがなかった。

そこで開発陣が思いついたのが、まったく同じキャラを色違いで「ビルドアップ」させることだった。

 

物語序盤、青色のキメラで驚かせると、中盤には黄色のメイジキメラを登場させ、さらに最終盤ではピンク色のスターキメラが主人公の行く手を阻む。

しかしこの敵キャラ、デザインは全く同じただの色違いで、強さのパラメーターを上げただけである。

にもかかわらず、同じ敵でありながら「この色はヤバい!」と直感的に感じさせる配色で、子どもたちをドキドキさせた。

同様に、ドラゴンに驚いていたらそれよりもヤバいピンク色のキースドラゴンに遭遇し、竜王の城では茶金色のダースドラゴンに襲いかかられ絶望し、逃げ回った記憶がある人も多いだろう。

これらの敵は全て同じデザインで、ただ色をどんどんヤバめに変え強度を上げただけだったが、それが逆に子どもたちに「現在地」をわかりやすく認識させ、恐怖を誘った。

 

思えば陸上の夏合宿でもそうだったが、よく知っているはずの練習を徐々にビルドアップさせ、エスカレートさせる目的は、実は精神的負荷への挑戦だったのだろう。

“その先”にある体への負担が容易に想像できるので、ビルドアップが進むほどに足がすくみ、心を折られそうになる。

今でも耐えられないほどキツイのに、この先もっとキツくなるのだから、恐怖で足が止まってしまうということだ。

 

ドラクエとは、実はこういうトレッキングの”冒険心と恐怖心”をくすぐる仕掛けだったのか・・・。

35年以上も経ってやっと、そんな初代ドラクエの仕掛けに気がついて、今更ながら

「昭和のクリエイターマジですげえ!」

と感動している。

容量の限界をものともせず、与えられた条件の中で最大限のパフォーマンスを見せてくれたということだ。

 

そしてその集大成こそ、メタルスライムなのではないだろうか。

スライムという青色でかわいい最弱キャラ、その次に弱いオレンジ色のスライムベス。

ゲーム序盤で見かけたこの愛らしいキャラの仲間が、ゲーム最終盤で無機質・無感情なグレー色になって登場する。

しかしその存在は「ものすごく強い恐怖のキャラ」ではなく、ご褒美キャラとしての制作陣の遊び心だった。

 

ただ色違いで恐怖を煽るだけではなく、こういう異端のキャラを入れることでレベル上げが楽しくなり、ドラクエと他のRPGとの違いを決定的にしてみせた。

工夫の中にも遊び心を入れ、そして子どもたちを「どのように楽しませるか」、こだわり抜いたということだ。

そんな初代ドラゴンクエストが、不朽の名作になったのも当然だろう。

「制約条件は創造力の翼」

ということをこれ以上はない形で証明した、歴史に残る名作だった。

 

楽な仕事より、苦しんで乗り越えた仕事こそが一生の想い出になり、心の糧になる。

制作陣のそんな誇らしげな想いが、透けて見える気がする。

昭和のレトロゲームからこそ多くのことが学べることに気が付かされた、とても有意義な「ムダな時間」だった。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
私は甘いものは食べないのですが、ティラミスとモンブランだけは大好きです。
はじめて女の子とデートした時に、はじめての喫茶店で食べたケーキでした。
なんだデートの記憶も、オッサンになっても体に染み付いて忘れてないじゃん・・・。

twitter@momono_tinect

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Photo  by:Elmira College