今日は、精神科外来でときどき印象に残る話のひとつとして、”「昭和」に触れると「令和」が溶ける”問題について書いてみる。

最後に付け加えるが、これは逆も起こることがあって、”「令和」に触れて「昭和」が溶ける”ケースがないわけではない。

 

ここでいう”溶ける”とはもちろん比喩で、これから書くように、メンタルヘルスの問題が生じる事態だと思っていただきたい。

そうした問題が嵩じれば、現代の疾病分類では適応障害やうつ病にカテゴライズされることが多いだろう。

 

つまり、「昭和」に触れた「令和」がメンタルヘルス的に問題のある状態になってしまう、そういう意味合いの強い事例に出会うことがある、といったあるある話をしたいわけである。

たぶん、多くの人にとって既視感のある話ではないだろうか。

 

架空事例1:「昭和」に触れてうつ病になった「令和」の一例

わかりやすさとプライバシーを考慮し、はじめに架空の症例を紹介してみよう。

 

症例は24歳男性。

A県B市の閑静な住宅街で生まれ育ち、中高一貫校に進学し、成績は中の上だった。友人関係は豊かなほうで、高校時代には生徒会役員もつとめていた。一浪ののち都内有名大学に進学、無事に卒業し、B市の隣にあるC市に本社を置くゼネコン企業に就職した。

研修期間中は大過なく過ごせていたが、研修修了後、配属先の上司の一人の言葉遣いがきつく、部署のなかに人のプライベートについて噂話をする先輩がいることにもストレスを感じていた。

それでも約半年は我慢して働き続けていたが、翌年春、上司から「二年目でそれぐらいわからなくてどうする」と叱責されてから出勤前に動悸が起こるようになり、まもなく食欲不振・不眠・意欲低下も出現、3か月間で体重が8kg減少した。

見かねた同期から精神科/心療内科の受診を進められ、受診を決意。うつ病と診断されて療養生活に入った──。

 

どうだろう、これに類する話は本当にどこにでもあるのではないだろうか。

場所も職場とは限らない。学校や地域コミュニティで起こることだってある。

 

この症例を「令和」の側からみた場合、悪いのはどう見ても「昭和」の側である。

「昭和」が言葉の使い方を改めるべきで、「昭和」の加害者が職場から追放されるべき、とみなされるだろう。

状況や文脈によっては、ハラスメントに相当と認定できる可能性もあるに違いない。

 

一方で、「昭和」の言葉の使い方のまま働いている人は思いのほかあちこちに残っている。

ハラスメントと確実に認定される物言いこそ避けているものの、セクハラ未満、パワハラ未満の言い回しが自然に出てくる「昭和」的就労者や、言葉遣いがどことなく険しく、ものの言い方にネガティブな感情の気配が漂う「昭和」的就労者はいるところにはいる。

地方の小さな事業所にだけにいるかと思いきや、ときには東証一部上場企業の重要なポジションにそういう人が居座っていることだってあるし、誰にも修正されないまま、周囲にストレスを振りまいていることだってある。

 

「令和」に就職した人のなかにも、そういう「昭和」的な人が案外平気な人がいないわけではない。

感情のバッファが豊かな人、良い意味で鈍感な人、そしてこれまでの人生のなかで「昭和」的なそうした振る舞いに出会い、付き合い方を心得ている人なら対処できることもある。

そういう人が「昭和」的な人から案外かわいがられることさえあるかもしれない。

 

しかし感情のバッファがあまり豊かではない人、繊細な人、そしてこれまでの人生のなかで「昭和」的なそうした振る舞いに出会ったことがほとんど無い人にとって、「昭和」的な人の言動は青天の霹靂であり、存在するだけでストレスであり、悪意を向けられているわけでなくても脅威とうつる。

 

ここで挙げた架空の事例を生徒会役員経験者としたように、そうした「昭和」に触れてメンタルヘルスを脅かされる「令和」のなかには、同世代のなかではコミュニケーション強者とみなされ、少し前のスラングでいえば陽キャに相当する人も珍しくない。

学生時代をとおして人間関係に恵まれ、コミュニケーション強者とみなされていたはずの彼らが「昭和」に触れると溶けてしまうのだから、これは、範疇的な意味におけるコミュニケーション能力の不足や、個々人の資質の問題として不適応を起こしているとも違うようにみえる。

 

「昭和」でOKだった振る舞いが「令和」にはNGとうつる

ではなぜ、こうしたことが起こってしまうのか?

 

さまざま背景はあるだろうが、ここでは、”「昭和」と「令和」ではコミュニケーションの様式や規範が異なり、同じ振る舞いでも「昭和」と「令和」では受け取り方や意味合いも違ってくる”点に注目したい。

 

「令和」に就職した人のなかには、就職するまでの人生のなかで「昭和」の旧態依然としたコミュニケーションとその振る舞いにほとんど出会うことなく育った人もいる。

ある意味、それはすごく恵まれていると言える──親子の会話、学友との会話、教師との会話のなかで暴力はもちろん、きつい言葉を投げかけられることもなく、さまざまな意味で模範的なコミュニケーションを経験し、それに習熟してきたわけだからだ。

そうしたなかで温和な物腰を身に付けてきた人も多い。

 

しかしだからこそ、社会に出て鮫肌のごとき「昭和」に遭遇した時、その旧態依然としたコミュニケーションを受け止め、好ましいかたちで解釈するノウハウには欠けている。

いや、ノウハウが欠けているという以上に、「昭和」的就労者からのメッセージを誤解してしまう。

 

「昭和」的就労者にとっては何気ない振る舞いのつもりでも、それが「令和」的就労者には攻撃的な言動や不道徳なニュアンス、なんとなればハラスメントに近い表現と受け取られることは十分起こり得る。

上司と部下、教師と教え子、サービス提供者とお客さんの間でもそれは起こり得ることだ。

 

この数十年の間に、私たちに期待されるコミュニケーションの様式や規範はかなり変わった。

 

学校で教師が生徒を平手打ちすることなどなくなり、大学生の先輩が後輩に飲酒を強制することもなくなった。いや、そうしたことは今でもどこかで起こっているかもしれない。

しかし当たり前ではなくなったし、そんなことが発覚すれば事件になるぐらいには世の中は変わった。

 

のみならず、何かをアドバイスする仕草、何かを指摘する仕草、何かを指導したり指導されたりする仕草も変わっている。

昭和時代にはどこの学校や職場にもあった仕草の多くが、今では感情的過ぎたり言葉遣いが悪すぎたりするとみなされている。

世の中全体としてみれば、そうした昔ながらの仕草は駆逐されつつあり、「昭和」の人とて、程度の差はあれど仕草を今風に改めてきてはいる。

 

しかし、いくら仕草を今風に改めるといっても、かつてそうした仕草に馴染んできた人間が、生まれながらの「令和」と同じ風に振る舞えるかといったら、それはなかなか難しい。

模倣の精度には個人差もある。そうした古い仕草の残るひとりひとりを残らず職場から追放するのも、できるようで簡単ではない。

コンプライアンスのまともな組織であれば、社員を教育する機会は提供できても、社員を職場から追放するというデシジョン自体、そう簡単には振り回せない。

 

こうして、一応は今風に改変したとはいえまだまだ「昭和」や「平成」を引きずっている人と、いわば「令和」のほとんど純粋培養な人が出会ってしまう状況が発生してしまう。

でもってそのコミュニケーションのアウトプットとインプットを巡って誤解や摩擦が生じ、「令和」の人がしばしば深く傷ついてしまう。

 

もし、「昭和」を引きずっている人が一瞬にして「令和」と全く同質のコミュニケーションの様式や規範を身に付けられるならば、「令和」のコミュニケーション強者が「昭和」に遭遇してメンタルヘルスを削られてしまうなどといった出来事は起こらないだろう。

しかし実際にはそんなことは出来ないし、かといって少しでも古臭いコミュニケーションの様式や規範が残っているという理由で年長者を全部社会から追放するのも不可能なので、こうしたことはどうしても起こってしまう。

 

では個別の「令和」側が、受けるダメージを少なく済ませるにはどう育てばいいのだろう?

 

難しい。

 

「昭和」や「平成」のコミュニケーションの様式や規範を悪しきものとしている私たちが、子どもにそうしたものをわざわざ経験させるのはどこかおかしいように思う。

子どもの健全な育成と、そのためのリスクマネジメントの精神を持つ限りにおいて、我が子を好んで「昭和」や「平成」のコミュニケーションの様式や規範に晒したいと思える親がいったいどれぐらいいるだろうか? 仮にそんなことができるとして、それを子育ての秘訣と称して勧められるものだろうか?

 

そこまで考えると、この問題はいかにも面倒なもののように思える。

コミュニケーションの様式や規範が変わり続けていく限りにおいて、上の世代からの言葉が下の世代のストレスになるのは避けがたいのではないか。

 

もちろんこれは今に限った問題ではなく、人類史に普遍的な問題だと指摘されればそのとおりかもしれない。がしかし、その変化のスピードが急激であればあるほど様式や規範のギャップも大きくなり、そこで問題になるストレスも大きなものになる。

そして私のみる限り、昨今の日本社会はコミュニケーションの様式や規範の変化のスピードが急激な部類であるようにうつる。

 

「令和」についていけないと悩む「昭和」だっている

なお、ここまでは「昭和」に遭遇してメンタルヘルスを削られてしまった「令和」を中心に書いてきたが、逆も本当は問題であることに最後に触れておきたい。

ここまでにも言及したとおり、コミュニケーションの様式や規範の変化に対して、「昭和」や「平成」の人々も何もしていないわけではない。

 

彼らなりに「令和」風にみずからの振る舞いや仕草を近づけようと努めてはいる。

努めた結果として、苦労やストレスに直面することもある。自分では努力しているつもりなのに、周囲の「令和」からは時代遅れとみなされ続ける人もいるだろう。

 

そうしたなか、自分がついていけていないこと、周囲からの厳しい目線に曝されていることに自覚的な「昭和」や「平成」のなかには、自分は社会についていけていない・迷惑をかけていると悩む人だっている。

そうした「昭和」や「平成」が悩みぬいた末に精神科外来を訪れ、問診や検査などを経た結果として(たとえば)発達障害が見つかることだってあるにはある。

しかしそうした発達障害の診断学的問題だけに留まらない、長年頼ってきたコミュニケーションの様式や規範が通用しないことへの戸惑いや、自分が変わっていけないことへの悲哀が感じられることもある。

 

こうした「令和」への不適応を想起させる「昭和」の症例は、その「昭和」に触れてストレスに溶けてしまう「令和」の症例に比べれば少ない。

とはいえ、年下とのコミュニケーションに気を遣い、うまくいっていないと感じている人はそれほど珍しくもあるまい。というより、今どきの中年のなかには、あまりにも古い「昭和」とあまりにも新しい「令和」の、双方のコミュニケーションの様式や規範のあいだで呻吟している人も多いのではないだろうか。

 

こうしたことを、たかが世代の差と切って捨てる人もいるだろうが、私には、これも生きていくうえでの難しさの無視できない一部のように思えてならない。

 

 

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安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
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(2025/6/2更新)

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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