休暇中に安達さんの”人生がうまくいかないと感じる人のための超アウトプット入門”を読み返した。

実はこの本は出た当初に一度読んだのだけど、その時はそこまで響かなかった。

 

「まあ、仕事ではアウトプット大事だよね。インプットだけだとあんまし身につかないし」

 

正直、読んでもこれぐらいしか思わなかった。

なんかちゃんと読めてないなとは思ったのだが。

 

仕事ができるのは単に生存者バイアスなだけだと思っていたが…

偶然といえば偶然なのだけど、僕はその頃いろいろあってウルトラブラック病院に転職する事になった。

ここは本当にハチャメチャなのだけど、生き残った人達は本当に仕事ができる人達ばかりだった。

自分も例にはもれず一年ほどたった結果、赤い彗星のシャアのように以前の3倍速ぐらいで仕事ができるようになっていた。

 

本当に…信じられないぐらい成長した。

36年生きてきて一番成長した1年だったと思う。顔つきも性格もめっちゃ変わった。

 

この現象を当初は

「環境の力って凄いな。まあ生き残れない人達は去るしかないから、単に生存者バイアスなだけだろう」

と思っていたのだけど、改めて振り返ってみると自分はこの一年間、本当にアウトプットだけな日々を過ごし続けていた。

 

ここでのアウトプットは単に生産を意味するものではない。

どちらかというと切磋琢磨のような意味のほうが近い。以下、ちゃんと書いていこう。

 

人間は本質的に物凄くお節介

人は本質的にお節介である。

ゼロから何かを始めるのは億劫なのだけど、目の前で何かされたりしたら「ここはもっとこうした方がいいんじゃないか」と頼まれずともアドバイスが口を出る。

 

このお節介な性質は仕事で実によくワークする。

人は自分で自分のミスを発見するのは不得意だが、他人のミスをみつけるのは実に得意である。

故に仕事のクオリティを速攻であげたいのならば…とりあえず自分で手を動かして、そのあと外野からバンバン批評してもらうのが手っ取り早い。

 

その指摘が全て正しいとは限らないが、少なくとも一人でグネグネするよりかはよっぽど手早くいいものができる。

アドバイスの力は本当に偉大である。

 

指摘の内容以上に、何かを突っ込んでもらう事が大切

繰り返しになるが、この手のアドバイスは常に100%正しいとは限らない。

だけど不思議な事に…こういう他人からのツッコミに対応すると、ほぼ間違いなく成果物のクオリティは上がる。

 

逆に言えば他人から何の反応も得られない場合、基本的には人間の成果物は全く改善しない。

むしろどんどん酷くなる傾向がある。

 

なぜそんな現象が生じるのか。

これは一つにはツッコミが複眼的な思考だからである。

 

人間は一つの対象物に対し、複数の着眼点でもってモノを同時に考える事はできない。当たり前だけど、Aというプログラムを走らせたらAが立ち上がるし、Bというプログラムを立ち上げたらBが立ち上がる。

このように自分一人でAとBのプログラムを同時進行させる事は不可能だが、2人3人と集まって試行錯誤をすれば、AとBのプログラムを同時に走らせる事はそう難しくはなくなる。

そしてその相乗効果で歪みの少ない成果物ができあがる。

 

この歪みの少ない成果物ができるという点に、ツッコミの利点が集約されている。

人間は一人だと簡単に歪んでしまう。それを修正するのは、いつだって他人の目なのである。

 

”正しさ”というものは一人だけの力では達成困難なもの

集合知という言葉がある。

僕はこの言葉を以前は「みんなの力を合わせれば、物事が手早く進む」ぐらいのニュアンスでしか捉えられていなかったのだけど、今はどちらかというと「独りよがりにならない」という部分が重要なように思う。

 

独りよがりで出来上がったものは見るに耐えないものばかりである。

例えばチェックの入らない論文は再現不可能な超常現象ばかりで溢れかえったとしても、誰も修正できない。

 

逆に言えばである。集合知は良くも悪くも成果物の形を整える、少なくとも異形にはしない。というかめっちゃ整形する。

そしてそれは大体において”もっと正しい”。

 

”正しさ”というものは一人だけの力では達成困難なものであり、難しいものであればあるほど集合知の力無くして実現困難なものだ。

アウトプットの最大のメリットはここにある。

 

インプットとは独りよがりである

インプットというのは極論をいえば「究極の独りよがり」である。

 

小説を読んで「あー面白かった」と独りごちれば、誰にも傷つけられる事はない。

しかしそこにお節介さんを一人挟むだけで、その面白かったはどんどん展開する。

「何が面白かったの?」「どう面白かったの?」とツッコミをいれてもらえば急に思考が展開し始めること間違いない。

ちょっと頭が回る人なら、それだけでツラツラと能書きをたれられるだろう。

 

そこまで口が回らない人でも、思考を展開させる糸口ぐらいなら必ず開く。

「いや、雰囲気がいいんだよ」ぐらいしか出せなくても

「雰囲気って何?ラブコメなの?和風ファンタジーなの?それとも終末モノ?」だとか「他の作品だと何が近い?」とかツッコミをいれてもらえばより深く思索できるようになる。

 

自分の中で雰囲気がどのように形成されるかや好きな作風の共通点など、探究するにあたっては他人の手引きが何よりの手助けになる。

独りよがりだとこれを淡々と継続し続ける事は難しい。

 

アウトプットとはより深く考える為のヒントであり、探究のための道しるべである

アウトプットとは何か。

僕なりに定義づけするならば…それは傷つきを対価としてより深くモノを考える為のヒントを得る糸口であり、より人生の深淵を探究する為の道しるべである。

思考も仕事も形として外に放出するとビックリするぐらい先に進む。

 

僕は毎週原稿を書いているけど書き終わるとまず間違いなく自分の想定外の方向に文章が帰着するし、医者としての熟達も常に自分が予想していたものとは異なる風景が目の前に広がる。

そうして自分なりに全力を尽くして「もうこれ以上は無理!」という段階まで練り上げたとしても、他人の目は本当に容赦がない。

 

記事も本も自分では考えもしなかった指摘が絶対に返ってくる。

医者としての仕事も同様で、一流どころに話を持っていけば情け容赦ない批判がクソミソに降り注ぐ。

 

いいアウトプットの最大の特徴。それは痛みだ。

気持ちよくなったりラクができるようになってしまったら…ぶっちゃけた事をいえばそれは独りよがりなインプットと何も変わらない。

 

窮鼠猫を噛むということわざがあるが、あれは正しい。

これらのツッコミは本当に痛い。モノによってはグッサグサ心に突き刺さって、しばらく抜けない。

だが…抜けないからこそ、人はそれを抜こうと必死になる。

 

そして必死になった人間というのは強い。

窮鼠猫を噛むということわざがあるが、経験上あれは正しい。

逆にいえば安楽椅子に座っているネズミは絶対にネコを噛めない。

 

僕はブラック病院での勤務があまりにも過酷過ぎたが故に、それをどうにかこうにか修正する為に早寝早起きやランニング、瞑想、断酒といった厳しい修練を習慣化する事に成功した。

以前の自分だったら絶対に取り組まなかったであろうアクティビティにコミットするようになったが、これこそ傷つきを対価として得たより人生の深淵を探究する為の道しるべだろう。

 

追い詰められた人間は本気にならないと死ぬから、本当に強い。

もちろん死ぬ気でいつまでも居続けるだなんて事は現実的ではないので、ある程度まで成長できたら少しは休むべきなのだけど。

 

痛みは人生である

生きることは苦そのものである。

 

これは仏陀が至った悟りの一つなのだけど、この一年間のブラック病院での日々を思い返すと本当にそうだなと首がもげるほどにうなずいてしまう。

この1年を振り返ると…そこにあるのは確かに生きたという実感だけだ。

 

あまりにもひどすぎて若干記憶が曖昧な部分もあるし、苦しすぎて記憶がロックされている領域もあるのだけど、不思議な事に確かに生きたという実感だけはとても強い。

もちろんこれは乗り越えた苦労を肯定的に見たいという脳の認知の問題もあるのだろうが、それ以上にやはり苦が自分を強くするためのヒントを芳醇に与えてくれた面も多いと思わずにはいられない。

 

冒頭に紹介した安達さんの本でも、上司役である冷泉さんが部下がプロジェクトを破綻させる直前まで絶対に手助けしないという一文が書かれている。

これは多分、実際にあった事をベースに書いているのだと思うのだが、現実問題として人間は地獄の淵に立たされないと本質を全然理解できない。

 

世の中には2つのタイプの人種がいる。

地獄の淵に立たされた時に”真理”をみてしまうタイプの人間と”真理”から目を背けて逃げてしまう人間だ。

 

この”真理”だが実は同じようにみえて人それぞれで、少なくとも言葉に出して一般化させて説明できる性質のものではない。

痛みという強い限定条件に晒された環境下でなければ理解できない”真理”。そういう物事は世の中には結構ある。

その痛みを死なないギリギリの強度で与えてあげる事が、良い指導者としての仕事であり役割なのだろう。

そしてその痛みの用意は別に他人じゃなくたってできる。自分だって運命だって、痛み≒アウトプットの宝庫である。

 

本当の人生は痛みからしか始まらない。

だからホンモノが欲しいなら…アウトプットしよう。傷口を開いて血を流そう。そしてまなこをカッと開いて”真理”をみよう。

そこにきっと、貴方だけに用意された本当の人生があるはずだ。

 

人生に疲れた時は、別の仮面をかぶってインプットに励もう

そして本当の本当に痛くてシンドくなったら…その時は今の役割を剥ぎ捨てて、躊躇なくインプットに励もう。

 

ここまで色々とアウトプットの良い面について書き連ねてきたが、当然と言うかアウトプットには悪い面もある。

これ…全然落ち着けないのだ。

 

PDCAサイクルという有名な言葉がある。

これは何かを生産するにあたっては良くワークするものだけど、突き詰めてしまえばそれは破壊と再生の繰り返しに他ならない。

 

世の中には破壊と再生とは相性があまり良くないものも当然ある。

家族や友人関係なんかはまさにそういう関係だし、私生活においてもそういう領域は多々ある。

 

落ち着いた関係で最も求められている事…それは誤りが許され、そのままの形で内包されるという事だ。

例えば「仕事だと完璧超人なAさんの家が、実は汚部屋」なんてのは「人間…間違っていたっていいんだよ」という感じがして、何かホッとさせられないだろうか?

 

他にも「昨日こんなミスしちゃってさー」と友人知人と話している時、突然目をキラキラされて眼の前で詰められたら…その日の酒がマズいのは言うまでもないだろう。

そういう愚痴タイムな時に大切なのは破壊と再生ではなく、受容と包容の関係だ。

みなで淡々と独りよがりをして、それを”そういうもの”としてただ受け入れる。

 

そこに生産性や改善ポイントの指摘などはいらない。

ただただ目的も目標もなく、歪んで混沌としたものがインプットされる事の方がむしろ肝心である。

 

人間は正しさだけではできてはいない。むしろ間違いだって内包できるという点に、人間の本当の強さがある。

アウトプットでより”美しく正しい”ものを生産し、インプットで”歪んだ誤り”も内包して安心安全を形作ってゆく。

そうやって複雑で異常な人生を、みんなでワイワイと形作れるようになればいいのではないかと自分は思う。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Victoria Priessnitz