保守主義の本来

このごろの日本において、「自分は保守だ」といえば、「自民党支持」とイコールでほぼ繋がれてしまうかもしれない。

いや、近ごろは野党にも保守を称するものが出てきているので、そうとも言い切れないが。

 

いずれにせよ、現実の政党名と結び付けられてしまう。おもしろくない話だと思う。

そりゃあもちろん、現実の社会に現実の政治というものがあって、現実の政治家が政治をしている。

現実のわれわれは現実の投票行動などの政治活動をして、その結果、そうなっている。現実とは無縁でいられない。

 

とはいえ、保守主義というものがあったとして、現実の諸問題に対するスタンスがそれに先んじて出てきて、賛成と反対で色分けされて、「じゃあお前は保守」、「君は革新」と分別されるのはどうなんだ。

現実の諸問題を考える前に、とりあえず保守主義って本来なんだろうかって考えたほうがいいんじゃないのか。

なんとなくの雰囲気で、保守だの右派だの言うのは、はっきりいって不毛じゃないのか。おれはそう思う。

 

まず、左翼とはなにか

さて、「本来の保守主義」というところで、おれのなかでいくらかまとまった考えはあるけれど、おれが言ったところでしょうがないので、読んでみて「これだよな」という本に頼りたい。

 

中島岳志『リベラル保守宣言』、これである。

本書では本来リベラルと保守が決定的に対立するものではなく、保守主義にこそリベラル的な思想が必要だというようなことが語られている(のだと思う)が、とりあえず、スタンダードな保守思想について参考にしたい。

 

まず最初に、保守的でない、ところの「左翼思想」についての了解からはじめる。

 「左翼」という思想を最大公約数的に定義すると「人間の理性によって、理想社会を作ることが可能な立場」ということが言えるでしょう。彼らは、人間の理知的な努力によって理想社会の構想を設計し、それを実現することによって、未来に進歩した社会が現前すると仮定しました。人間の努力によって、世の中は間違いなく進歩するというのが、左翼思想の根本にある発想です。

「理性」への信頼、確信、これである。彼らはときに「科学的」という言葉を使ったりする。あるいは、「反知性的」という言葉を、批判的な文脈で用いたりもする。

 これは、人間の「完全可能性」に対する信頼を彼らが有しているからこそ、出てくる発想でしょう。人間は知的にも道徳的にも、努力次第で「完成形」に到達できるという確信が、ヒューマニズムというイデオロギーを基礎として生み出されます。

 

さて、このあたりの、人間の自力、はからいを信じるというあたりは、左右の問題ではなく、たとえば戦前の革新右翼にも見られるという話は、同じ著者の『親鸞と日本主義』のなかでも語られていた

その場合は親鸞ではなく日蓮主義に多く見られることだけれども。

 

まあ、そういうわけで、人間の理性を信じる、人間が発見した科学を信じる、人間の自力を信じるというのが左翼、非保守の考え方だとする。

 

じゃあ、保守とはなにか

となると、その逆を行くのが保守ということになる。

 保守は、このような左翼思想の根本の部分を疑っています。つまり「人間の理性によって理想の社会を作ることなど不可能である」と保守思想家は考えるのです。
まず、保守の立場に立つものは人間の完成可能性というものを根本的に疑います。
人間は、どうしても人を妬んだり僻んだりするものです。時に軽率で、エゴイズムを捨てることができず、横暴な要素を持っています。そんな人間は、永遠に完成することなどできず、不完全な存在として生き続けるしかありません。
保守は、このような人間の不完全性や能力の限界から目をそらすことなく、これを直視します。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦念を共有します。

人間の不完全性、これである。

おれは親鸞の思想に触れるまでもなく、自分は愚かで弱いものであるという実感がある。

愚かで弱く、卑怯で怠惰だという実感だ。そして、おれのような人間がそれほど少なくない、あるいは多くの人間がそうなのではないかという期待すら持っている。

 

おれは昔、自分のブログにこんなことを書いた。

 でもさ、人類の人種も文化もなしにさ、どっかしら人間同士の落としどころみてえなもんはあると思うよ、俺はそう思う。そう妄想する、そう希望する。
で、それはなにかっていうと、愛、だとか、正義、だとか、思想、だとか、あるいは科学、とかでもなしに、もっとろくでもないもの、人間の弱さ、卑怯さ、怠惰、汚さ、ずるがしこさ、いい加減さ、そんなもんじゃねえのかって。強さより弱さ、正しさより間違い、美しさより醜さ、そっちで手を繋げるんじゃねえかって妄想だ。そこが落としどころじゃねえのって。俺はそんな夢を見る。

これが人間の、魂の落としどころじゃないのか、と。

人間は弱い、不完全だ。そんな人間が、立派な理想によってつながるなんてことはあるのか。そういう疑問だ。

 

おれはこのとき、とくに思想について考えていたわけではない。実感から出た言葉だった。

そしてこれは、今もっておれの考え方のベースにある。過ちと弱さによる人類の共存、これである。

 

と、この考え方は、どちらかというと左翼思想よりも保守思想に近いのではないか。

おれに人間の高邁な理想や理念が遠すぎる。真摯な理想を語る人にたいして、「人間なんてそんなたいしたものじゃないだろう」という思いを抱く。それは「おれがたいしたものではない」という確信に基づくものだ。

 

たとえば、戦争になって、占領されたときに「非暴力抵抗」を貫こうという考え方に対して、自分は弱虫で怖がりで死にたくないから「非暴力服従」を選ぼうという考え方になる。

銃をつきつけられたら、おれは服従する。絶対に服従する。拷問するぞと脅されても服従するし、強制収容所送りだと言われても服従する。

おれは弱い。果てしなく弱い。弱い生き物だ。その上に卑怯者である。自分の命のためなら、同邦人の子供を殺せと言われたら殺すだろう。協力するやつは助ける、と言われたら、積極的に手を挙げるだろう。

祖国回復のあかつきには、敵国協力者として真っ先に吊るされるようなやつ、それがおれだ。

これが保守? 現実的には勇ましく銃を取るべきとか言ってそうな保守? と思われるかもしれない。

 

しかし、おれのなかではこれは保守的な態度であって、理性や理知、高邁な理想を信じてそれに殉じられるほど人間は強くない、ということになる。

おれは不完全であり愚かゆえに暴力にも屈する。自分の理知だのなんだのを信じていない。そういう意味で、非左翼的といっていい。

 

保守のようで保守でないもの

さて、保守というと、とくに現実的な政党の言い分などを見ていると、復古主義や反動といった言論も見える。

革新ばかりでなくこれも、保守的な考えではないという。

保守は「進歩」という立場をとることができません。残念ながら、未来の人間社会も欠陥だらけの代物にすぎず、すべてが満たされた世界などを人為的に構築することはできません。そのような社会を理性の乱用によって作り上げることができるという進歩思想には、間違いなく理性への傲慢が潜んでいます。保守は、そのような立場を懸命に避けようとします。
しかし、真の保守は、純粋な「復古」という立場もとることもできませんなぜならば、未来の人間が不完全であるのと同様に、過去の人間も不完全であったと考える他ないからです。
同様に、真の保守は「反動」という立場もとることができません。過去も未来も人間が不完全であることと同じ理由で、現在の人間および人間社会も不完全であると見なさざるを得ないからです。
保守は現状追認ではあり得ません。現状にもやはり問題が潜んでいるのと共に、現状は常に変化にさらされ続けているからです。絶えざる社会変化の一切を止めることなどできません。

復古でも、反動でもなく。

つまり保守は「人間及び人間社会の完成可能性」を否定し、歴史の中に生きながら漸進的な改革を志向する存在なのです。

われわれ人類は、馬鹿。過去、現在、未来、馬鹿。これを繰り返し歌うのが保守なのかもしれない。

 

それでも、現状維持も復古も許されていないから、漸進的に変わっていくしかない。

それはまどろっこしいし、遠回りかもしれないけれど、一発やってみて大失敗する可能性のある革新に比べたらマシなことかもしれない。やってみて大失敗した例は、歴史の中にある。

 

おれは保守主義者なのか?

というわけで、このような考え方を見ていると、おれは実に保守主義に近い人間のようだと考えられる。

第一に、人間の不完全性というものがあって、おれはそれを信じている。おれがおれを信じられない存在と見なしているという出発点はあるとして、おれは同じように他人のことも信用していない。他人の述べる理知による理想も信じられない。

 

また、そのようなおれより優れた人間に付き従えばいいという心持ちにもなれない。

おれは傲慢なので、おれより賢い人間がいたとしても、従いたいという気にはなれない。

おれは保守主義の不完全な人間像というものに共感する。

 

が、しかし、だ。

 

おれはこのような保守主義の思想について何ら異議を唱えようという気がおこらないのに、心がぜんぜん楽しくない。魂が縛られているような気すらする。

こんな重苦しい重力に心を囚われて、面白いとはぜんぜん思えない。心がぴょんぴょんせんのじゃあ。

 

アナーキー!

そこで、おれの心を躍らせる思想があるのかというと、アナーキズムということになる。

この本の著者によればアナーキズムも人間の理知により国家を否定する(……共産主義も本来は最終的に国家解体を志向する)ものとして扱っているが、どうも違うんじゃないのか。そんなふうに思う。

 

おれは、古いアナーキストの言葉に心震える。

そこには「それはやはり理性主義のなすところだよ」と言われる部分もあるかもしれないが、もっと根源的に魂の部分で揺さぶるものがある。

 僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。
この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。
僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

これは、大杉栄の『僕は精神が好きだ』の全文である。

 

おれが心躍るのはこれである。人間の盲目的行為、精神そのままの爆発。それでいったい、社会がどうなるのか。

そんなことはわかりゃしない。それでも、「集合的な経験値」なんて知った話か、という態度がいい。姿勢がいい。魂がいい。優雅で感傷的な日本のアナーキストの魂がいい。

 

そんな魂は、現代にも生きている。

栗原康の『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』にはこうあった。

 えっ、秩序をはみだすのは、犯罪だって? みんなにきらわれてしまうって? 上等だよ、上等だよ、ひらきなおるわけじゃねえが。現にあるものをブチこわせ。主人でもない、奴隷でもない、民衆の生をつかみとれ。新天地にむかってあるきだせ。それはとても孤独なことなのかもしれない。おいら、ゴロツキ、はぐれもの。でも、ひとたびその一歩をあゆみだせば、かならずあのメロディがきおけてくる。もうなんにもこわくない。過去の民衆たちがおどりだす。おいらもいっしょにおどりだす。つられて、だれかもおどりだす。ユートピアだ。コミュニズムとは絶対的孤独である。それは現にある秩序をはみだしていこうとすることだ。かぎりなくはみだしていこうとすることだ。あらゆる相互扶助は犯罪である。アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きてゆきたい。

アナーキーについて触れたければ、クロポトキンやプルードン、バクーニンを読むのもいいし、大杉栄は青空文庫でも読める。

 

でも、今なら栗原康を読んで損はない。どの本でもいい。

して、おれは、どうにもこちらに魂を惹かれてしまう。理知もぶち壊せ、保守もぶち壊せ、その先になにがあるかなんて知らねえぜ。その態度である。

 

その態度をとってどうなることか、おれにはわからん。

おれのなかには人間の理知を信用する左翼主義への根本的な疑念がある。

 

一方で、保守主義にも堅苦しさ、重苦しさを感じてしまう。

かといって、アナーキーの行き先は知らない。ただ、知らないほうが面白いこともある。そんなんじゃ、いかんですかね?

 

 

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(2022/11/25更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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