「ナッジ」とはなにか

ナッジとはなにか。

そんなものは検索したらわかりやすい解説がたくさん出てくる。でも、おれは親切なのでいくつか例を書く。

 

たとえばタバコのパッケージに「生々しい」写真を印刷することを義務付けて喫煙率を減らす。

大学のプリンターの初期設定を「両面印刷」にして紙の消費量を減らす。

空港の男子用小便器に蝿の絵を印刷して、飛び散る汚れを減らす(これは人類のだいたい半分にしかわからないのではないかと思うが)……。

そんな仕掛けである。GPSによる経路検索、食品のカロリー表示、テレビのリモコンについたオンライン配信メディアのボタン……。

 

もともとは「そっと後押しする」というような意味らしいが、ともかく行動科学とか心理学とかそういうものに基づいて政策とかを仕掛けるぜ、という話だ。言い出しっぺの定義によればこうなるらしい。

選択を禁じることも、経済的なインセンティブを大きく変えることもなく、人々の行動を予測可能な形で変える選択アーキテクチャーのあらゆる要素

うむ、なんかわかるようでわからないけれどちょっぴりわかるだろう。わからんか。でも、なんかそういう話だ。

 

で、おれはなんかわからんが「ナッジというのは今後の社会において大きな影響を持つのではないか」と思うところがあり、その言い出しっぺのキャス・サンスティーンの本を読んでみた。

『ナッジで、人を動かす 行動経済学の時代に政策はどうあるべきか』だ。

 

ナッジは信用できるのか

この本はどうも二冊目というか、ナッジの考え方に対する反論に対する再反論みたいな本だ。

でも、そのあたりまで話が進んでいる方がわかりやすいかもしれない。

というか、ナッジのあり方のどのあたりに批判があって、それに対してナッジを使うべきだという著者の意志がよく出ている。

 

やや著者が政策にまで関わったアメリカ国内の話(共和党支持者と民主党支持者の対比)なども多いが、そのあたりは適度に読み飛ばせばいいだろう。

 

でもって、おれはどう思ったのか。

全体の、ざっくりした感想を先に述べてしまうと、「ナッジ、なんかやばくね?」である。

残念ながらサンスティーン先生のご意見よりも、「なんかやばくね?」の感情が上回ってしまった。

 

だいたい学も能もないおれは、書いてあることに言いくるめられてしまうのが常だが、いったいこれはなぜなんだぜ。

 こうした動き(引用者注:貧困と開発に関する問題で行動科学によるアプローチが効果を出しているということ)があるにもかかわらず、ナッジや選択アーキテクチャの利用は時に強い反対に遭う。特に強いのは、市民が無能扱い、または子ども扱いされて、利用されたり、軽視されたりすることを懸念する人々からの反対だ。

おれはそういう「人々」なのだろうか。たぶん、そうなのだろうが。

 

ナッジが成り立つためのこと

 ……多くの人は、政治家は人心を弄ぶようなことはすべきでないと、一般論では信じている。とすると、人心操作とは何か。政府からの影響力については、どのような倫理的な縛りがあるのだろうか。
この疑問に答えるためには、枠組みが必要である。倫理的な国家は何よりもまず、(1)「福利」(ウェルフェア)、(2)「自律」(オートノミー)、(3)「尊厳」(ディグニティ)、(4)「自治」(セルフガバメント)の四つの価値を大事にする。

まあしかし、サンスティーン先生も無制限にナッジによって政策を実行せよなんて言ってるわけではない。むしろ、国家にこのような価値がなければならんとする。

倫理的な国家のあり方だ。これが成り立つ国家においては、ナッジが用いられても倫理的に問題はない。

政府の活動は、強制力を行使するにせよ、単に影響力を及ぼすにせよ、この四つの価値に拘束される。

逆にいえば、これに「拘束」されない国家によるナッジは認められない。というか、国家としてよくないくらいの、アメリカ的な考え方が根底にあるように見えた。

 

もちろん、同じような政治思想をもとに成り立っている日本にも言えることだろう。そして、実態がどうかはまたべつのことであろう。

 多くの人は政府を信用していない。これもまた真実だ。政府は偏っている。無知である。あるいは、強力な利益団体に食い荒らされていると思っている。強制でも影響でも方法が何であれ、政府には人々の生活向上についてなどあまり考えてほしくないと感じている。それは個人と自由市場の領分であって、官僚が出しゃばることではない。だが、その考え方は極端なもので、一理はあるにしても、所有権の保護や契約履行義務などの基盤を確立するのは政府の役目だ。基盤を固めるには強制力や影響力を行使しなければならず、最低限の国家の存在は認められるべきで、その評価は別の形態の国家との比較に基づくべきだ。

とはいえ、このように、「別の形態の国家」と比較したときにどうかと問われれば、アメリカ人はアメリカに、日本人は日本に、それぞれ国家の価値を認めるであろう。

もちろん、中国やロシアといった、「別の形態の国家」と比べたときには。……って、おれ、自分で自分のことアナーキストとか言ってなかったっけ。まあいいか。

 

福利厚生のため

さて、では、ナッジはなんのために用いられるべきか。

地球環境のため、そして、福利厚生のためだったりする。

福利厚生は、どのように定義されるにしても、空から降ってくるものではない。自治は何かしらの設計を必須として達成される貴重な成果である。暴力にさらされている人々、教育を受けられない人々、あるいは貧困に陥ってる人々は自律が難しく、自律の恩恵を享受することもできない。尊厳のある生活というのは、それを支える背景や社会支援を必要とするのである。

福利厚生が、空から降ってくるものではない、というのはなんというか、まあそうだよなということだ。

なんとなくアメリカンだなという感じもするが、そりゃそうである。

 

とはいえ、福利厚生が完全に整備され、清潔さが強制されるような世界が望ましいのか。

ときにそれを人はディストピアと呼ぶ。伊藤計劃の描いた社会を想像してもいいだろう。

 

本書ではSFの古典、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』からの引用がある。サヴェジは「野蛮人」をも意味する。

 「よくわかった」と、サヴェジは挑むように言った。「私は不幸になる権利を要求する」。
「老いぼれ、醜く、不能になる権利、梅毒や癌になる権利、飢え苦しむ権利、ろくでなしになる権利、明日のことをびくびくしながら生きる権利、腸チフスにかかる権利、筆舌に尽くしがたい痛みに苛まれる権利」。
長い沈黙が続いた。そして、サヴェジがついに口を開いた。
「それらすべてを、私は要求する」。

これは、ディストピアに対する人間の叫びの源流のようなものであろう。なんとなく、同感してしまうところはないだろうか。

この時代に、ちょっと前の時代に作られてきた、数々の物語が、このサヴェジのようなことを言ってきたのではないか。

そして、このような価値観はかなり一般的に共有されているのでは……?

 このような抗議を美化したり(ハクスリーはそうしようとした)、強調しすぎてはならない。梅毒や癌、チフスや拷問、食糧がないなどという状況は、それを経験したことがない人間でなければ「要求」するものなどではない。

が、著者はこう言ってのける。ぐっ、これは正論。

たしかに、おれが「野蛮人」の言うことに同意するのは、梅毒にも癌にもチフスにもなったことがなく、拷問されたこともないからだ。

 

とはいえ、ろくでなしで、明日のことにびくびくすることは現に経験しているぜ。……って、それでもまだ恵まれている日本でのことか。

それに、言うたら、べつにおれは自分がろくでなしの赤字人間であることを要求しないし、明日のことにびくびくなんかしたくない。5000兆円欲しい。双極性障害にもなりたくなかった。まったく。

 

というわけで、少なくともはっきりした福利厚生のためなら、ナッジも用いられてしかるべきなのか……?

 

なにがナッジで、なにがナッジでないのか

して、ナッジの有効性を認めるとして、なにがナッジで、なにがナッジでないのか。

ナッジが倫理的に問題がなく、よく用いられるものだとしても、それがナッジなのかどうか見極めなくてはならない。

 介入行為がナッジとして成立するためには、相当規模の物質的インセンティブを伴ってはならない。補助金はナッジではないし、税金も罰金も懲役刑もナッジではない。ナッジであるためには、選択の自由を保持しなくてはならない。ある介入行為が選択する側にとってかなりの物質的コストを伴うものである場合、その行為自体は正当化できるかもしれないが、ナッジではない。

著者はこう述べる。「補助金はナッジではない」となると、たとえばマイナンバーカードを作るのにポイントという名の現金が支給されたり、コロナ対策として旅行に補助金が出るのもナッジではない。

税金も罰金もとなると、たとえばスーパーやコンビニでのレジ袋有料化もナッジではない、のか。

それは、そうであるようだ。マイナンバーカードにしても、レジ袋にしても、もっと小粋でスマートなやり方があれば、それがナッジだろう。

 

では、ナッジが奏功するのはどんなときか。

 ナッジが功を奏する要因には、人々に情報を与えるというものがある。あるいは、選択を簡単にするというのもある。人間は最も抵抗が少ない道を選びたがる。デフォルトルールのようなナッジが有効なのは、惰性と先延ばしの力のおかげだ。社会的影響力のおかげで上手く行くナッジもある。他人の行動を聞かされると、それならいいことだと考えて自分もやるということもあるだろう。確信がなくても、社会規範を破りたくないために、同調するかもしれない。デフォルトルールが有効なのはまさにそれで、暗示の力があるからだ。他人の行動についての情報だけでなく、すべきことだと「考えられてる」ことについての情報も含まれる。惰性と暗示が重なると、強力な効果を発揮する。

これである。「人間は抵抗が少ない道を選びたがる」とか、たぶん人間心理の簡単にして明確なところをついていると思う。

「惰性と先延ばし」。なんとかバイアスとか言うのだっけ。ちょっと信頼がおけないかもしれない心理学の実験とかでも明らかになっているのだろう。進化心理学とかでも説明できるかもしれない。

 

「デフォルトルール」というのは、まあ文字にある通りのことだ。惰性と先延ばし、抵抗が少ないということで、人間は初期設定を選びがちだ。

だから、日本でも「年金の受給開始を70歳でデフォルトにしよう」みたいな案が出たと、本書の解説では述べられている。これは多くの人にとって不利益なため、実現されていない。このようなナッジの悪用を「スラッジ」というらしい。

 

そうだ、ナッジは悪用されうる。

 ナッジや選択アーキテクチャの中には、確かに、深刻な倫理的問題を生じる可能性があるものもある。たとえば、人種、性別、宗教を理由に差別することを奨励するナッジを政府が行ったとしたらどうだろう。ファシスト政権はどれも(ほぼ例外なく)ナッジを利用する。ヒトラーは「ナッジ」したし、スターリンもした。

ヒトラーやスターリンの「すばらしい新世界」。ナッジに対する批判は、このようなところにも起因しているのだろう。

人は人で簡単に操られたくないと思っているが、簡単に操られてしまう事実も知っている。

とくに、心理学などが発達している現代においては、ヒトラーやスターリンよりうまくやられてしまうのではないかという恐怖がある。

これを、先に引用した「四つの価値」を尊重している国家なら大丈夫だよ、ハハッ、と言われてすぐに納得はできないのである。どうだろうか。

 

効率化のためのナッジ

一方で、ナッジはもっと日常的な選択を簡略化するとも言う。バラク・オバマの話を引用している。アメリカ大統領が日常的な日常を送る人間かどうかはわからないが。

「皆さんは、私がグレーかブルーのスーツしか着ないことに気づくだろう。決めるものを少なくしようとしている。何を食べるか、何を着るかについてまで決めることはしたくない。私には他に決めなくてはならないことがたくさんあるのだ」。

これは自らを自動化したナッジといえるかもしれない。……というか、おれは先にナッジに批判的な感情を抱いたというが、このあたりについては同感せざるをえない。

 

「おれは、いちいち頭を使わなくてはいけないことを、できるだけ自動化したい。」とか言ってる。

人には、持って生まれた「行動ポイント」のようなものがある

さて、このような話から、スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグを思い浮かべる人はいるだろうか。

おれはちょっとだけ思い浮かべる。

ジョブズは同じ眼鏡、同じ服を着つづけたし(同じといっても、同じものの新品をたくさん蓄えていたわけだが)、ザッカーバーグは朝食などについて、小さな決断で時間を無駄にしたくないといったという。

オバマではないが、スティーブ・ジョブズ(同じ服とメガネ)やザッカーバーグ(朝食)の生活の仕方について同感している。

もちろん、社会の底辺からではあるが。「他に決めなくてはならないこと」などないが、生来の、そして精神疾患の行動力のなさから、「決めること」を避けようとしているのである。

 

あ、そうか、おれは、もとからある意味、ナッジのある側面の支持者であったのだ。そうとは知らずにそうであった。いやはや。

 

というわけで、もし、「決めること」なく、よりよい道に惰性によって乗せてくれるなら、それも悪くない……?

 

ナッジと尊厳

おれがおれの自動化について考えるとき、それを認めるのは、それがどうでもいいことだというときである。

おれにとって、おれの飯はどうでもいい。そういうことだ。

 

ある意味で、そのどうでもよさがナッジのありようではないかとも思うが、どうだろうか。

反論の効力はナッジの具体的な形によるという、本書全体を通しての私の主張に立ち返ろう。GPSは誰の尊厳も侵害しない。申請書類がわかりやすくても尊厳は侵されない。事実に関する情報が開示されても――まして、その情報が有益で、人々がそれを必要としているという誤った、そして人を馬鹿にしたような前提に基づいているのでなければ――

尊厳を侵害するものと思われることはない。請求書の支払期限が近いとか、医者との予約が明日だとかについて知らされることについて、尊厳にかかかわる問題というのはかなり奇妙な話だ。

と、こう言われてしまうと、なるほどそうだと思ってしまう。

「 GPSは誰の尊厳も侵害しない」。……あ、でも、GPS嫌いの人っていなくはないよな。

そのあたり、おれはそう感じないけれども、そう感じる人もいるんじゃないかなと、疑問をさしはさんでおきたい。

 

なにが人心操作で、なにが人心操作でないのか。

人々の行動に影響を与えようとする行為であるという理由だけでは、その行為を操作的と見なすことはできないということは明らかにしておこう。車に同乗していて、運転者に衝突しそうだと注意することは、操作ではない。請求書の支払期限が近いと知らせるのも同じだ。カロリーやエネルギー効率を表示するラベルは典型的なナッジだが、通常、操作の一種とは思われない。

このあたりはどうか。コンビニの弁当に表示されるカロリー。おもに低カロリーが強調される。

逆に、ボリュームたっぷりのやつはボリュームが強調されて、カロリー表示は控えめだ。

それもナッジではあるが、選択するための情報を与えられていると感じる。

 さらに人々は、無意識あるいは潜在意識に作用するのではなく、意識的な熟慮を促進するようなナッジを好む傾向にある。もちろん、前者を無視するわけではなく、そちらの効用を認めてはいる。すなわち、人は、システム1ではなくシステム2へのナッジを好むが、システム1へのナッジの方が効果的だとわかれば、そちらの方向へ動くということだ。

これである。あ、システム1? 2?

行動科学の分野では、人間の認知作用に見られる二種類の動きを区別することが当たり前になっている。「システム1」は速く、自動的で、直感的であるのに対し、「システム2」はゆっくりと、計算し、熟慮する。人間の知的プロセスには熟慮型と自動型の区別があることを踏まえて、ナッジについても、システム1に訴えるものとシステム2に訴えるものの二種類を区別して考えてみるといいかもしれない。

おれは行動科学(行動経済学?)のことはまったく知らないが、そのようなものであるらしい。

ビジネスに取り組んでいる人には当たり前の話かもしれないが。というか、ナッジを操れる人間は、金持ちになれるよな……。ビジネスチャンス!

 

まあ、しかし、人間の認知がこのように分けられると言われても、当たり前かなと思うところではある。

 

ともかく、いくらかの調査によれば、人は自分が考えて選択していると感じる方をよいと思う。

無意識とか直感で操作されていると思うのを嫌う。それ自体が、ナッジへの批判的な感情であろう。

ナッジに対する強い反対論の多くは、「システム1型」ナッジに注目していて、明らかに敵視している。政府や民間部門が、自動的なシステムをターゲットにしたり、それに付け入るようなことをしたり、あるいはその偏向傾向を利用したりしたら、人心操作を行っているようで、人々に敬意を持って接していないように思える。人々が自ら意見を述べる力を軽視しているようにも見える。この見方では、システム2に訴えるナッジの方が望ましい。人々に考える余裕を与え、熟慮する力を高めることにつながるからだ。

システム1への干渉は多くの場合、人を不愉快にさせる。

おれも自分で自分の行動の簡略化、自動化を好むが、それは自分で選んだことであり、だれかにそうさせられていると思えば不愉快であろう。それは著者も当然理解している。でも、こう述べる。

 

「だが、人は本当に、その違いを気にしているのだろうか」

 

これである。アンケート調査などによれば、たとえばタバコのパッケージの生々しい写真(システム1に訴えるものだ)などについては、多くの人が賛成する傾向にある。むろん、喫煙者は別だろうが。

 

とかいうおれも二十年以上前は喫煙者であって、値上げによる経済的な理由で吸わなくなったのだが(増税はナッジでは……ない)、心は喫煙者寄りである。

それでも、「それで他人のタバコの煙を吸う機会が減るならいいじゃん」とか思うし、「健康保険料によい効果があればいいじゃん」とも思う。思ってしまう。

 

「大学でプリンターのデフォルト設定を両面印刷にしたら紙の消費量が明確に減った」とかいう話も、すげえいいなと思う。

べつにそれほど紙資源の節約に関心があるわけでもないが、へんに環境のお説教をされるより、クールでスマートだと思うわけだ。

もっとも、おれはデザイン、DTPという職業柄、校正するのに両面印刷で出力されれると舌打ちしてしまうのだが。いや、製本されてない両面印刷の用紙って見にくくない?

 

……と、思う人もいるのだろうが、結局はデフォルトルールが勝ってしまう、というのがナッジなのだが(もちろん勝たない場合もある)。

 

すべてはナッジ

まあ、しかし、生活のあらゆるところにナッジはある。遍在している。というか、たとえば商売におけるナッジの利用など、この世界に商店が生まれた瞬間から存在していたのだろうし、あらゆるビジネスの成功者は意図してかしないかわからないが、ナッジを活用しているに違いないのだ。

まあそれはナッジとは呼ばず、行動経済学的になにか呼び名はあるのだろうけれど。

 

基本、ナッジは政策、行政についての話としたほうがいいのかもしれない。まあともかく、ナッジは社会に遍在する。

 ナッジと選択アーキテクチャそのものについて倫理面から反論することに意味はない。人はそれらのない世界では生きられない。社会規範はナッジであり、社会は規範なしに存在しない。社会規範の多くは、生きることを楽にするだけでなく、生きることそのものを可能にしてくれる。人が人をいじめたり、虐げることがないようにし、人々の命を縮めたり、悲しませたりするような集団行動の問題も解決する。そのような規範は、私たちが気づいていなくても、毎日私たちに影響を及ぼしている。

著者は、われわれを生かすものを社会だといい、社会規範だという。

そして、社会規範がナッジであると言う。好むと好まざるとにかかわらず、われわれが人間社会を営んで、そのなかで生きる、できれば苦しまないで生きたいと思う。

そうなると、好むと好まざるとにかかわらず、ナッジの影響を受ける。ならば、それを人間の幸せのためにこそ使うべきである、ということになる。

地球環境、福利厚生……。とはいえ、そんな大げさなお題目ではなく、プリンターの両面印刷、ネットでクレジットカードを利用したときに、デフォルトが「リボ払い」になっていないということ。そんな単純な後押し、初期設定。

 

悪くない話だ。だが、やはり頭をよぎるのは、ヒトラーやスターリン、あるいはかつてのこの国だって権力がナッジを利用して国民を不幸にしたという事実。

 

そして、一人の人間として、自分の無意識を利用されたくないという自意識。

無知で無能な人間でも、せめてシステム2を働かせたいという自尊心。システム1の脆弱さを突かれたくないという防衛反応。これがある。

 

この反感のようななにかは、野蛮人としてどこかにくすぶりつづける。

 

とはいえ、著者の述べるように社会が、社会規範がナッジそのものであるというのであれば、もう逃れようはないということになる。

ならばせめて、ナッジを知り、それを用いようとするものに透明性を求め、いくらかのシステム2を働かせるしかない。

それができるかどうかは別として、そうあるべきなのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Tom Barrett