『ゲームの歴史』騒動

少しまえ、『ゲームの歴史』という本について騒動が起こった。

そのタイトルに反し、内容があまりにも不正確だと多くの指摘があった。さらにいえば、100年前の話でもないのだから、バリバリの当事者たちが直接声をあげたりもした。もちろん、史料も多く残っているわけで、出版社は絶版と回収を決めた。

 

そんななか、たまに見かけた意見は、「これがコンピュータゲームの歴史の本と銘打たず、単にゲームの個人史だったらこんな問題にならなかったのではないか」というものだった。あるいは、「ゲームをやってきた世代はなんとなく語りたくなってしまうもの」、と。

 

そんな意見を見て、おれはおれのゲーム人生を振り返り……振り返ったら語りたくなってしまった。

 

というわけで、「おれの」ゲームの歴史をちょっと書き残す。あくまでおれ史観、というか、史観ですらない単なる思い出話。

ゲームの発売時期とかそういうのも、Wikipediaすらあんまり見たりしない(ちょっとは見るかも)。基本、たんに思い出話。

 

そこになにがあるかはわからない。

同世代の人なら、そんな話あったかもな、と思うかもしれない。あるいは、貴重な証言が含まれているかもしれない。いや、それはないか。でも、ファミコン世代だからこそ今のうちに吐き出しておきたいこともある。

 

ファミコン世代

いきなりだが、おれはファミコン世代と書いてしまった。そうだ、おれはファミコン世代だと自分のことを認識している。なぜか?

おれが幼稚園児のころ、ファミコンが発売されたからだ。おれの父親は新しもの好きで、なおかつ子供にものを買い与えるのにあまり躊躇しないタイプだった。なので、ファミコン以前にゲームウォッチというものを与えられたりもしていたし、ファミコンが出たらすぐに買ってきた。

 

ファミコンは衝撃だった。幼稚園児なのでアーケードゲームなどは知らなかったわけだが、『マリオブラザーズ』にもっていかれたといっていい。

『ベースボール』では野球の基礎ルールを学んだ。最初期のファミコン……あれ、あんまり記憶ないな。幼稚園のころだしな。

 

もちろん、ファミコンが出たときに思春期まっさかりだったり、20歳ちょうどだったり、それより上の世代だろうと、自分が「ファミコン世代」だと思えば、それでいい。

 

ドラクエと「ファミコンおばさん」

小学校に入ると、いよいよファミコンは常に遊びの中心になった。

だれかの家に集まってファミコン。「外遊びもしましょう」と言われたりもしていたっけ。

大勢の小学生が囲碁や将棋にはまって外で遊ばない、なんてことはなかっただろうから、そんな呼びかけは歴史上なかったかもしれない。

 

ファミコンをしていたのは子供だけだったか。

そうでもなかった。というか、その当時、中学生や高校生、大学生、その他社会人の知り合いなんていなかったからわからん。わからんけど、おれの母親はファミコンをしていた。

 

なんのゲームを。『ドラゴンクエスト』、これである。

『ドラクエ』の衝撃はいまさらなにを語ろうというところだが、まあおれの母親ですらプレイしていたということだ。

それでもって、そんな大人、親は珍しかったのか、おれの母は友達から「ファミコンおばさん」と呼ばれるようになった。

今の時代、親世代、大人がゲームするなんて当たり前だろうが、当時は珍しかったのかもしれない。

 

ちなみに、「ファミコンおばさん」は子供であるおれと弟が見る「ガンダム」シリーズの再放送などから、富野由悠季の小説版に手を出して、人知れず「ガンダムおばさん」にもなっていた。

『ガイア・ギア』くらいまでは全作品あったような気がする。小説には性的な描写などもあって、それを読んだ小学生のおれはドギマギしたものだが。

 

あ、ガンダムの話になってしまった。しかし、ガンダムでゲームというとSDガンダムの『ガチャポン戦士』(最初『ガシャポン戦記』と書いた。

「カプセル戦記」とごっちゃになった上に、チャとシャも間違っている)シリーズであって、どれだけ時間を費やしたかわからない。SDガンダムにはガン消しとカードダスという存在もあって、すっかり囲い込まれていた。

 

ほか、小学生のころ思い出すといえば、『ファミスタ』になるだろうか。『ベースボール』に比べて、『ファミスタ』はどんなに革新的ですごかったものか。ついでにいえば、攻略本という名前の選手名鑑的なものがどれだけ面白かったことか。

おれは『ファミスタ』得意で、「きたへふ」のカーブで打ち取ってやろうかという気分だ。『ファミスタ』で野球のルールや、プロ野球のチームや選手を知った子供も少なくないのではないか。

 

となると、『桃鉄』で日本の地理を学んだとか、ちょっとあとの話になれば『三国志』シリーズで中国の主な大都市の場所と大きな川の位置関係を知ったとか、わりとどうでもいい「ゲームが勉強になった話」が出てくるかもしれない。

いや、『桃鉄』シリーズは教育用ゲームとしても現在進行系なのだっけ。

 

「ファミコン村」のこと

おれが小学生の頃というと、当然インターネット通販なんてものは存在しなかった。どこでゲームを買っていたのだろうか。

 

おれが住んでいたのは神奈川県の鎌倉市という、都会とはとても呼べないが、田舎と呼ぶとそれもちょっと違うような場所であった。

その鎌倉市の藤沢市寄りに住んでいて、まあちょっとした街というと藤沢駅あたりということになる。藤沢あたりのゲーム屋……ゲーム屋なんてあったっけ。今みたいに超大型家電量販店なんてものはなくて、うーん。

 

ただ、身近なところは覚えている。

一つは「信州屋」という名前の駄菓子屋だ。これが『こち亀』で両津勘吉がGIジョーのレア物を探すような昭和の駄菓子屋らしい駄菓子屋で、駄菓子はもちろん、ガンプラなんかのおもちゃも売っていたし、はやりのファミコンも売っていた。

そうだ、なかなか手に入りにくい『ドラクエ』を、当時問題になっていた「抱き合わせ」(他の人気のないゲームとセットで高く売る)で売ったりしていた。ちょっと偏屈なおっさんが店主だった。

 

そして、もう一つゲームを売っているところがあった。いや、ゲームしか売っていなかった。「ファミコン村」である。

そう呼ばれていたが、それが正式な店名かはわからない。湘南モノレールの西鎌倉駅の近くにあった小さな店だ。焼き鳥屋とかがあった並びだ。あれは完全にゲームショップだった。

 

中古の売買もしていたと思う。ちょっと怪しげな夫婦がやっていた。ただ、怪しいというのは後付けかもしれない。とにかく怪しかったのはディスクシステムだった。

父がそう指摘したのか、友人のだれかが言ったのかどうだったかわからないが、小学生のおれは「ファミコン村」が扱っているディスクシステムは任天堂の正規品ではない、と信じ切っていた。今でもそう思っている。

 

なんか、正規品とはディスクの色とか形とかがちょっと違って、たぶん書き換えマシンもなかったかなんかで、しかもすごく安かった。

今、ディスクシステムで調べると、海賊版の話が出てくるが、おれの記憶しているそれとはちょっと違うようで、それでいて、やっぱり海賊版は存在したんだなという確信もある。もしもおれの見当違いだったらファミコン村に謝りたい。

 

しかしなんだ、子供のころどこでゲームを買っていたかなんてことも忘れてしまうものだ。というか、子供のころ、ゲームは「親に買ってもらう」ものだったから、おれがあまり覚えていないのも当然か。

 

中学、スト2、対戦台

先ほどからファミコンの話ばかりしてきたが、たとえばアーケードゲームはどうだろう。

信州屋にゲーム筐体はあったろうか。あったような気もするし、なかったような気もする。駄菓子屋やおもちゃ屋の前においてあるゲーム……。

 

激? ……『火激』! そういうゲームがあった。不良が殴り合うだけのゲームだ。

これと出会ったのは大船駅の……やはりなにかの店の前に置いてある筐体だった。中学受験のための予備校に行く前に、友達と立ち寄っては五十円玉を投じていた。

 

そして、おれはいつの間にかこのゲームが非常にうまくなってしまい、なかなかゲームが終わらないという事態に陥ってしまった。

 

塾の時間が迫る。一緒にいた友人たちは「先に行くね」と言っていなくなってしまう。なのにおれは『火激』で敵を次々に倒していく。塾に行かなくてはいけないのに、ゲームで負けられない。結局、おれはゲームを放り出して塾に走った。ひょっとしたら、生涯で唯一アーケードゲームをワンコインクリアできる機会だったかもしれないと、今でも思う。

『火激』の話が長くなった。検索したら、その、プレイ動画みたいなのが出てきてしまったので。

 

で、ゲーセンの話をしたい。令和の今、現在ゲーセンとはどのような場なのだろう? おれにはさっぱりわからない。

わからないが、おれが中学生のころはいまだに昭和の「不良のたまり場」のイメージが色濃く残っていた。小学生のころは、とてもじゃないが入れない場所というイメージだった。

が、中学に入ってしばらくしてからだろうか、どうしてもゲーセンに行かなくてはならなくなった。そこに『ストII』があったからだ。

 

『ストII』とおれ、おれたちと『ストII』。出会いはどこだったのだろうか。

私立中学校に通うようになったおれは、湘南モノレールに乗って大船に行き、そこで横須賀線に乗り換える、というような生活を送るようになっていた。

住宅街であった狭い地元より、いくらか行動範囲は広くなった。そんななかで、たぶん最初に出会ったのは逗子銀座の商店街のなんらかの店の前にあった『ストII』の筐体だ。昔、ゲームというものはなんらかの店の前に置いてあったものなのだよ。

 

情報としてどこで出会ったのかは覚えていない。ただ、最初にプレイしたのは、とにかく、なんらかの店の前にあった筐体だった。きれいなグラフィックに、ボタンもたくさんあって、最初は必殺技なんて出せなかった。

でも、『ストII』は当時の自分たちには画期的なゲームで、ゲーム機に50円玉を並べて順番待ちをし、飽きることなくプレイしたものである。

 

……と、言いたいところだが、『ストII』はえらく人気だったし、そこは通学路も通学路だったので、多くの生徒で溢れかえっていた。

いや、それ以前に、学校帰りにゲームなんかしていいはずがない。学校で禁止されていた。それは確かだ。いつ教師に見つかるかわからない。

 

そこで、おれたち『ストII』好きは大船のゲーセンにたどり着いた。とりあえず大船で乗り換える連中。

ここなら先生の目にもとまるまいと、半ば恐る恐るゲーセンに立ち入るようになった。駅前のパチンコ屋の2階、あと、商店街の奥の方にある店。そっちにはビリヤード台なんかもあったか。

 

当然、自分たちはやわな私立中学通いのおぼっちゃんたちだ。ゲーセンには不良もいるに違いない。

しかし、『ストII』の魅力には抗えなかった。それに、そのころにはそれ目的の似たような制服姿の学生が多く、いわゆる見るからに不良、ヤンキーというものはいなかった。

 

そして、われわれは対戦台に50円玉を並べつづけた。……って、今の若い人は対戦台って通じる? まあ、通じなくてもいいか。

筐体が背中合わせに2台設置されていて、向こう側の顔の見えない人間とやり合うのだ。それにしても、50円玉を置くだけできちんと順番が守られて、謎の秩序があった。もちろん、知らない学校の者同士が話すことなんてないのに。

 

秩序といえば、初期の格闘ゲームにありがちだった、飛び蹴りをガードさせた硬直時間に投げ技を食らわせる違法(?)行為、あれも見知らぬ者同士で発生してしまった場合、やってしまった側がノーガードになって一回投げ返されるという暗黙のルールもあった。詳しくはおれのブログを読んでほしい。

 

その後、SNKから『餓狼伝説』 や『龍虎の拳』などが出たり、どっかから『大江戸ファイト』(地蔵が真っ二つになって血が噴き出る)が出たりして、格闘ゲームは一大ブームとなった(とか適当なこと書くと突っ込まれそうだが、とにかく『ストII』が最初にあった)。

 

おれたちは『ゲーメスト』を買うようになり、インド人を右にした。なかにはNEOGEOを買うやつまで出てきたりして、休日、そいつの家に集まって徹夜で対戦を繰り広げたりもした。

おれたちは電車通学者だったので、帰りに誰かの家に寄って、というのは無理だった。だからゲーセンという場所が必要だったのだ。

 

ん? 家で格闘ゲームというと、『ストII』のスーパーファミコン版ということにもなるか。順序がわからない。というか、スーファミが出たときの話もすっぽかしているな。

ただ、とにかくスーファミ版の出来は『ストリートファイター』(Iのことです。ゲーム機はなんだっけ?)とは比べ物にならないほどよく、「家でできる!」と夢中になった覚えもある。四天王が使える隠しコマンドはなんだっけ。上X下B……。

 

とはいえ、ゲーセンで格闘ゲームだけしていたかというとそうでもなく、家ではできないようなハンドル付き筐体の……そう、レースゲームというよりドライビングゲームの感じもあった『アウトラン』とか、本当はプレイしちゃだめだけど脱衣麻雀のゲームとか、『ぷよぷよ』みたいな落ちゲー……、なんだっけ、『コラムス』! とかもやっていたと思う。主に格闘ゲームが混んでいるときなどに。

 

あのころのゲーセンは楽しかった。とはいえ、大船でゲーセンに入るのを教師に目撃されて職員室に一同呼び出されることなどもあるにはあったが(それで懲りるということはなかった)。

 

ソニーはクソニー

さて、話はゲーセンの話と前後するが、世の中に次世代ゲーム機と呼ばれるものが発売された。

ソニーのプレイステーションと、セガ・サターンである。どっちが先に発売されたか? 各自調べられたい。

我が家では、新しもの好きの父が「ソニーという企業がゲームに参入するからには、これからはプレイステーションの時代だ」と、自分ではゲームなどやらないくせにいきなり買ってきた覚えがある。

 

そうなると、おれはプレステ派ということになる。

そうだ、なぜか派閥のようなものができたのである。プレステ派とサターン派だ。

 

「そういうものって実際にあったの?」という若い人もいるかもしれないが、少なくともおれは実体験としてあったと言える。

だいたい、ゲーム本体を2台持ち、というのはほとんどありえなかったように思う。そこでプレステ派とサターン派ということになる。

 

もちろん、冗談半分というか、ごっこ遊びのようなものだ。「いや、本気でおれはセガを……!」という人もいたかもしれないが。

で、そんななかでサターン派から投げかけられたのが「ソニーはクソニー」という言葉だった。

 

「クソニー」。今、インターネットを検索してみると「インターネットスラング」という解説付きで出てくる。

しかし、当時はインターネットなんてものはなかった。なかったけれど、一人のサターン派からは「クソニー」という言葉が飛び出したのである。

 

おれはあまり2ch文化に詳しくなく、ゲーハーと言われてもよくわからないが、ゲーム機にはなにかそういうものにユーザーを駆り立てるものがあったのかもしれない。

ちなみに、公民の教師が3DO派であり、ときおり熱弁をふるっていたが、内容はまったく覚えていない。

 

その後のおれとゲーム

さて、おれのゲームの歴史について半分くらいまで来たが、長くなってしまってもはや誰も読んでいないと思われるのでおおいに端折る。

 

その後おれというか、わが家というか、おれと弟はプレステ派になった。自然とそうなった。

新しいプレステが出るごとに『リッジレーサー』をやったような気もするが、気のせいかもしれない。いつの間にかその座は『グランツーリスモ』に取って代わられた。

 

格闘ゲームはいわゆる3Dの時代になった。『バーチャファイター』を初めてプレイしたときの驚きといったらなかった。

見た目は決して魅力的とはいえないごつごつのポリゴンを操作してみると、これはもうすげえなと。いや、SNKの『K.O.F』シリーズとかも人気だったから、両立していたのだっけ。

うーん、記憶は曖昧。調べるのは面倒。そりゃ『ゲームの歴史』なんて書くのは大変だ。

 

しかし、いずれにせよ、おれは知らん間にゲーセン通いもしなくなり(いろいろあって友達がいなくなったからか)、格闘ゲームから離れてしまった。

 

とはいえ、ゲームにはのめり込みつづけた。『ファイファン』(と呼ぶ派だったというか、周りはみんなそう呼んでいたような気がする)のナンバリングタイトルは4以降やり続けたし、もちろん『ドラクエ』もどこかまではやった。『ファイファン』が4からなのは、スーファミになってから、ということで、ファミコン時代は『ドラクエ』派、だったのだ。

 

しかし、それよりもおれが膨大な時間を費やしたのがシミュレーションゲームであり、なかでも競馬ゲームに相当な時間を使った。それははじめ『ダービースタリオン』シリーズだった。

おれは『ダビスタ』を毎日熱心に語る友人の話を聞いて、ふと日曜日にテレビの競馬中継を見てから競馬にのめり込んだ。

 

スティールキャストという馬が大逃げを打って、実況が「あのプリティキャストの息子です!」と言った。

すべての競走馬に母と父がいて、その母と父にもさらに名前のある親がいるのだ……と、衝撃を受けたのだ。

その後、なぜか実際の種牡馬の写真が掲載された成沢大輔のダビスタの攻略本(と呼べるのかどうか。分厚い種牡馬カタログだ)片手に、馬を生産しまくった。後に、それは『ウイニングポスト』シリーズに代わった。

 

騎手になれるゲームにも相当時間を使った。『ギャロップレーサー』、『G1ジョッキー』。令和の今、実際にジョッキーカメラが話題になっているが、「あ、これ、ゲームで見た画面そっくりだ」と思ったものだ。

つーか、今、ジョッキーのゲーム出したら売れるんじゃねえか。おれはやりたくなった。

 

また、話が長くなる。競馬、ゲーム、……現在に飛ぶ。『ウマ娘』か。『ウマ娘』の裁判か? おれはひたすら『ファミスタ』→『ワースタ』シリーズを極めてきたので、『パワプロ』のことは一切知らん。

『ウマ娘』は好きだ。ただ、おれはもうゲームをやっていない。時間がない。いや、根気がないのか。どちらもないのか。『ウマ娘』すらできない。

 

あと、おれは「ネトゲー」ができない。苦手だ。画面の向こうに人がいるのが耐えられない。対戦台とはまったく違う。

おれはもう、一人で黙々と一人の世界に没入できるゲームが好きになってしまい、ただでさえ苦手な対人コミュニケーションを、なんでゲームの世界でまでやらなければならんのだ、という気持ちになる。

 

でも、たまにはゲームをやることもある。PS4なら持っている。任天堂? Xbox? 知らないな。まあ、発作的に『シュタインズ・ゲート』シリーズをやってみたり、『FF』(さすがに最近は「ファイファン」とは言わないです)のナンバリングタイトルをやってみたりすることもある。

でも、そのプレイ中は熱中できるものの、サブクエストやなにやらの「やり込み要素」を満たそうという熱量はない。ゲームに対する、熱量はもう使い果たしてしまったのかもしれない。

 

ゲームの終わりに

というわけで、おれはもうゲームに対してほとんど興味を失ってしまっている。いや、興味はあっても身体がついていかない。

ただ、思い出だけはある。それをちょっと書こうと思ったらこのざまだ。

 

本当はもっともっと色んなゲームの思い出話をしたい。

『オウガバトル』シリーズ、『ネオ・アトラス』(これをやり続けると死ぬ、と思って唯一自分で封印したゲーム)、それにそれに……と、きりがない。あ、弟に隠れて、人から「布教用」のを借りてプレイした『ときメモ』の話する? 中高男子校の人間にあれは薬だったのが毒だったのか、とにかく脳がおかしくなりそうだったな。

 

いや、まあそんな話だ。おれより5年後に生まれた人間、10年後に生まれた人間、30年生まれた人間にも、それぞれゲームの個人史はあるだろう。

いや、ゲームやらない人もいるか。いたな。でも、ともかくおれはゲームやる人間だった。過去形なのは少し寂しいが、語ることについての熱量はまだまだあるみたいだ。

 

それだけ多くの時間を、おれはゲームに費やしてきたのだ。今のおれは携帯端末で『ぴよ将棋』をプレイするのがほとんどになってしまったが。

 

しかし、ゲームに費やしてきた時間は、おれの孤独や空白、なにせニート時代すら埋めてきてくれたんだ。

「なんて膨大な時間を無駄にしたんだ」とは思わない。どうせ生きていたってやるべきことなんてない。

ありあまらせていた若いころの時間、死ぬまでの長い暇つぶし、ゲーム、ゲーム、ゲームがあったからこそおれはやり過ごせてきたのだ。それは間違いない。よかったら、あなたの昔話も聞かせてほしい。

 

 

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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)

 

 

 

【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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