少し前のことだが、電車の中で大学生らしい二人の、こんな話が聞こえてくることがあった。

「今度のバイト、ものすごく楽勝やねん。控室でスマホいじってるだけで時給1,500円やぞ」

 

ほうほう、そんな夢のような仕事があるのかと耳をそばだてていると、どうやら学習塾で子どもたちを駅からアテンドする役割だそうだ。

そして帰りも駅までアテンドするわけだが、その間は控室で遊んでいてもOKというものらしい。拘束時間や体への負担という意味だけでは、確かに“楽”そうだ。

 

するとそんな自慢をされたもうひとりの学生も、負けじと応戦する。

「そんなん大したことないな。俺はカテキョ(家庭教師)で時給3,000円やぞ。2時間で6,000円も稼げて、しかも晩ごはんも食べさせてくれるねん」

 

学生らしい会話にほっこりするが、しかしこの会話を聞きながら少し、別のことを考えていた。

(楽にたくさん稼げる仕事って、つまりどういうものなんだろう…?)

 

おそらく彼らは、精神的・肉体的にストレスがなく、僅かな時間でたくさんのお金をもらえる仕事という意味で話している。

言い換えれば、時間も労力もかけず、お金だけたくさん欲しいというような願望だ。

 

しかしそれは、キツい練習はしたくないがワールドカップで優勝したいと望むようなものであり、実現困難なことは誰だって知っているだろう。

それでも、誰だってそんな方法があればやってみたいと願っている。

 

ではこの、「時間も労力もかけず、たくさんのお金を稼げる仕事」の正体とは、いったい何なのだろうか。

 

「たまには思い出してな!」

話は変わるが、私は幼い頃から「人との別れ」というものが極端に苦手だった。

夏休み、遠方のいとこの家にお泊りするのを嫌がったのは、面倒くさいからではない。お別れの時が辛いからである。

 

それは中学や高校になっても変わらず、女の子を好きになりかけた時は積極的に嫌われるようなことをした。辛くなる前に、関係を切ってしまいたかったからだ。

 

人懐こく、誰とでもすぐに仲良くなってしまう性格を自覚していたので、

「そうか、なら最初から仲良くなるのをやめてしまえば良いんだ」

と考えた、子供なりの苦肉の策である。

 

そして大学生になり、バイトを探すようになると、なるべく人間関係が希薄な仕事をと、考えるようになる。

 

最初に選んだのは、交通警備のアルバイトだ。

通行止めの入り口に一人で立っているだけとか、交通整理で旗を振っているだけとか、これなら誰とも仲良くなってしまう心配はないだろう。しかしこれは、甘い考えだった。

 

誤解を恐れずにいうと、平成はじめ頃の景気が良かった時代、この仕事は“ワケアリ”の人が最後にたどり着く職場であったように思う。

そのため変わり者、いつまでも夢を追いかけているようなオッサンミュージシャン、ビールを飲みながら車を運転する“無敵の人”など、強烈なキャラばかりである。

 

警備会社の社長は、いわゆる「裏ビデオ」を500本、「表ビデオ」を2,000本持っていることが自慢の、ド変人であった。

とはいえこれはこれで、ジャンルはともかくネットもない時代なので、ものすごいことではある。

 

「桃野くん!キミ、裏ビデオってどこで手に入れるか知ってるか?」

「知りません…一体どこでそんなもの、それだけの数、買えたんですか?」

「ほら、家に届く怪しいビデオのパンフレットあるやろ?」

 

40代以上の男性であれば記憶に残っていると思うが、昭和~平成初期の頃、どこで調べたのか高校生や大学生にもなると、自宅にエッチなビデオの通販チラシが届くようになる。

 

「担当者がうっかり消し忘れた逸品です」

「裸をぶつけ合う真剣勝負」

 

などという煽り文句が並ぶが、消し忘れたアニメが少し入ってたり、大相撲を録画しただけのビデオだったりするアレである。

社長は、それのことを言っている。

 

「あれな、騙されることを承知で何度も何度も買い続けるねん。そしたら業者がそのうち、1本だけ本物を混ぜてくるのよ」

「へー…」

「それでも注文を続けて、相手が警察じゃないとわかると、そのうち本物のパンフレットを送ってくれるんやわ」

 

(やべえ世界だ…)

 

「ええか、桃野くん。騙されても騙されても、相手を信じ続けたら、最後は誰でも心を開いてくれるねん。人を信じる力を、大事にするんやぞ」

 

いや、結論だけ聞くと良いこと言ってるけど、なんか色々おかしいやろ。

とはいえ、心からの親切心で言ってくれていることだけは、よく伝わった。

 

そしてこのような、「何かからドロップアウトした人たち」は、一度仲間認定した相手には、本当に情が深かった。というよりも、何らかの理由で傷を負った心を癒やすのに、濃い人間関係を求めていたのかも知れない。

 

「寒いやろ、味噌汁とオニギリ持ってきたぞ!」

夜勤の警備現場にふらっと現れた、60過ぎのアル中のオッサン。

パチンコで勝ったと言ってはいつも、山程のお菓子を事務所に持ってくるチンピラ上がりの兄ちゃん。

 

そんな人間関係は、期間工で入ったエアコン工場でも変わらなかった。

流れ作業のライン工だから、人間関係が濃くなることもないだろう。そう思っていたが、こちらも大誤算の職場に足を踏み入れてしまう。

 

数百ボルトの高電圧機器をショートさせ、工場を停止させてしまったことが自慢のヤバいオッサン。

工作機械に指を2本飛ばされたことを勲章にしている兄ちゃんなど、独特の世界である。

そんな彼らとの、夜勤の3時~3時30分の休憩タイムは、本当に濃い時間が流れた。

 

ただでさえ心身ともにキツい工場の立ち仕事であり、夜勤である。大げさに言えば、“戦友”に近い感覚を、皆が仲間に対して持っていたのだろう。

希薄な人間関係を求めていたのに、気がつけば一番ヤバいところでばかりバイトをした大学生活になってしまった。

 

そして、私がもっとも苦手な“別れの時”である。

できれば気が付かれずに、そーっといなくなりたい。間違っても、送別会のようなことはされたくない。

 

そんなことを考えていたが甘かった。

 

警備員最後の日には事務所でお別れの打ち上げをされ、工場最後の出勤日には朝から開いている安飲み屋に拉致され、しこたま飲まされた。

きっと私は、最初から最後まで涙ぐんでいたような気がする。

 

そんな2つの職場だが、酔っ払ったオッサンどもが揃って言っていたのは、こんなことだった。

 

「桃野くんは夢も希望もある学生なんだから、しっかり頑張るんだぞ!」

「人生でもう二度と会うこともないんだろうけど、ここでのことをたまには思い出してな」

 

いい年になったオッサンになった今ならわかるが、これは本当に心からの言葉だったのだろう。

 

「無限の可能性がある若さ」

はそれほどに、うらやましく眩しい。

 

多くの”別れ”を経験し、また肉親の見送りすら繰り返した今、さすがにもう「別れ」は自然体で受けいれられるようになった。

それでも、バイトを卒業したこの時の別れは今も変わらず、人生で指折りの切ない思い出になっている。

 

”楽にお金を稼げる仕事”の正体

話は冒頭の、「時間も労力もかけず、たくさんのお金を稼げる仕事」についてだ。

このような仕事の正体とは、一体何なのだろうか。

 

言うまでもなくそのようなものは、本質的に存在しない。

しかし「より少ない手間で、多くのお金を稼げる方法」なら、きっと存在する。

 

「やるべきことは、今すぐやる」

「今やれることを考え抜き、やり尽くす」

 

そんな原則を徹底すること。おそらくそれが唯一の解なのだと、信じている。

 

喩えるなら、掛け算の勉強よりゲームが楽しいと放置してしまい、3年生になってしまったら、割り算についていけないようなものだ。

そこで慌てて掛け算からやり直し、割り算も学ぼうとしても、絶対に2倍の苦労では済まない。

 

目先の楽しさや気楽さを選んだら、多くの場合、利息を伴う“人生の借金”になってしまうということである。

 

その一方で、“人生の貯金”とはたくさんの経験を先取りし、許されるうちに多くの失敗を経験し、たくさんの人と出会い、別れを繰り返すことなのだろう。

 

それは時に、大きな心身のストレスを伴うものになるが、必ず貯金になって生きてくる。

だからこそ、学生には「心身ともに楽勝な仕事」を選ぶのではなく、居酒屋の揚げ場やワカメの収穫のような修羅場にこそ突っ込んでいって欲しい。

そんなことを思わされた、束の間の出来事になった。

 

そして話は、私の学生時代のバイトの話についてだ。

私自身、「別れが苦手」という理由で選んだバイトだったので、偉そうなことなど、とてもいえない。

 

しかしあの時の経験は結果として、私の価値観を大きく変えてくれた。

「別れが苦手なので、濃い人間関係をつくりたくない」という考えよりも、「別れが辛いのは、それまでの時間が充実していた何よりの証拠」と思えるようになった。

 

正直今も、人とのお別れは何よりも辛く避けたいイベントだが、

 

「やるべきことは、今すぐやる」

「今やれることを考え抜き、やり尽くす」

 

という一期一会の想いで相手を思いやり、過ごすことができていれば、後悔することはない。

やりきった満足感とともに押し寄せる別れの寂しさは、それもまた良いものだと思えるようになった。

 

心身ともにキツかった学生時代のアルバイトだったが、”人生の貯金”として多くの利息収入をもたらしてくれていること、そして出会えた多くの人に、今も感謝している。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

先日、待ち合わせの時間調整でフラッと大阪梅田の某ホテルラウンジに入ったのですが、コーヒーが1杯2,000円でした。
しかし、金粉もかかっておらず、ダイヤモンドも入っていないただのコーヒーでした。
そういう発想をするから、いつまでも貧乏なのだと思い知りました。

twitter@momono_tinect

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