これから、最近読んだキュリー夫人の書籍に感心するやら、ドン引きするやら、とにかく驚いてしまった話を書くのだけど、books&appsの読者の方の多くは「キュリー夫人の伝記なら読んだことがある」「内容はもう知っている」と思うんじゃないかと思う。

私自身、そうだった。実際に、以下の本を読んでみるまでは。

私がこの本を手に取ったきっかけは「みずから授乳し、子をおぶってあやし、ガチに子育てをやってのけた伝記級の偉人は存在したか?」という疑問に応えてくれそうなのがキュリー夫人だったからだった。

 

読み始めてから気づいたが、この『キュリー夫人と娘たち』という本はフェミニズムのアングルからキュリー夫人(マリー・キュリー)とその家族、特に二人の娘の辿った人生についてまとめたものだった。

 

が、それが彼女たちの物語を過度に思想寄りにしているとは感じなかった。

というのも、キュリー夫人たちの生きた時代は男尊女卑がまかり通り、フェミニズムの志は道半ばもいいところ、という状況だったからだ。

 

それで実際、キュリー夫人は子育てをしていたのだろうか?

 

超絶研究者なのに、キュリー夫人は子育てもやっていた!

結論から言うと、「キュリー夫人はみずから子育てしていた」。

 

ある程度予想できた答えだったが、それでも驚いてしまった。

キュリー夫人は超絶研究者とでもいうべき、身を粉にして研究を続けてきた女性だ。子ども向け伝記に登場する彼女はサクランボだけを食べて研究をつづけた挙句、ぶっ倒れてしまう。

その研究の鬼であるキュリー夫人が、いったいどうやって子育てをやる? その間は研究はやめてしまったというのか?

 

『キュリー夫人と娘たち』はこの以下のように記している。

仕事上の喜びに、思いがけない幸運が加わった。マリーは再び妊娠し、今回は無事出産することができた。マリーは、体力が落ちていたが、すぐに仕事を再開した。午前中はアパルトマンにいて二人の娘の面倒を見る。

 

書籍の性格上、キュリー夫人ことマリーがその二人の娘の乳幼児期にどのような子育てを実践したのかについて、この本は詳しく記してはいない。が、少なくとも午前中いっぱい二人の娘の面倒を見ていた程度には娘たちに関わっていたことが読み取れる。と同時に、午後はしっかり研究していたことも窺われる。

 

しかも、これは楽な環境での子育てではなかった。

子ども向け伝記と同じく、『キュリー夫人と娘たち』にもその貧乏な環境は記されていて、子どもが生まれた後も根本的には改善されていない。

 

その貧乏な子育ての最中も研究の手を休めず、次女が生まれた翌年には夫とノーベル物理学賞を受賞し、その後も何事もなかったかのように研究を続けている。

その手が放射性物質による火傷でいっぱいになっても、夫が事故に巻き込まれて早逝してからも、彼女の研究は止まらない。

 

研究者の鑑(かがみ)といった風情だが、そのうえ、子育てまで両立してみせるさまには息を呑むしかない。

 

教育内容についてもキュリー夫人は卓越していた。というか、先見の明があったようにみえる。

 マリーは子供たちにバランスのよい教育を受けさせたかった。健全な精神は健全な身体に宿る。しかし、フランスの中等教育制度は、体操やスポーツにほとんど時間を充てていなかった。マリーには要望があった。娘たちには野外活動をさせないと。彼女たちの子供時代は、時にはへとへとになるほどの長い散歩が繰り返される。ソーの家の庭には、小さな門が据え付けられ、そこでイレーヌとエーヴは、つるつるしたロープや吊り輪の練習をした。

 

この時代、女性に高等な教育を受けさせること自体が先進的だったが、そのうえキュリー夫人は身体能力や運動能力にも目配りし、みずから娘たちにそれを伝授していた。

アラン・コルバン編『身体の歴史』によれば、ヴィクトリア朝時代のヨーロッパでは「健全な精神は健全な身体に宿る」というスローガン自体がまず男性のもの、特にブルジョワ男性とその子弟のもので、女性へのスポーツ教育はハイレベルな学校でようやく提供され始めたばかりだった。

そしてこの先進的な教育指針によって培われたバイタリティは、のちのち、娘たちの活躍を下支えすることになる。

 

こんな具合に、キュリー夫人は子育てする母としても傑物だった。私はこれを読み、思わず「チートマザーは本当にいた!」と叫んでしまった。

チートマザーとはゲーム業界のスラングを用いた言い回しで、翻訳するなら「どこかでインチキしているのでなければ成り立たないようにみえるぐらい凄いマザー」といった意味だ。

 

私はかつて、この言葉をアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』を観た時に思いついた。

同映画の主人公である花が、子育てをしながら開墾をやったり独学で科学的知見を身に付けたりしているさまを観て、「こんな怪物じみた母親はいねえよ」と突っ込みたくなったから花のことをチートマザーと揶揄したのだった。

 

ところが花よりもっとチートマザーと呼びたくなるようなスーパーマザーが現実に存在していた! その名はマリー・キュリー、すなわちキュリー夫人!

 

苦学に苦学を重ねた果てにノーベル賞を二度受賞し、そのうえ子育てもぬかりなかったキュリー夫人こそ、スーパーマザーという言葉にふさわしいし、凡俗である私はチートマザーじゃないの? と言いたくもなる。

もちろん現実にあった出来事だから、インチキもチートもそこにはない。ただキュリー夫人が凄かっただけである。『キュリー夫人と娘たち』を読むと、その凄さにあちこちで声を失う。こんな人間が存在していたこと自体が信じられない。

 

男尊女卑の時代というハンディキャップ

キュリー夫人のような女性が現代にいたとしても、それは大変なスーパーマザーなのだけど、彼女の凄まじさを際立たせているのが、男尊女卑の時代ゆえのハンディキャップだ。

 

なにしろ、女性の社会進出がうさんくさいものとして眺められていた時代のことである。

彼女は同時代の男性たちと学業面でも業績面でもフェアに戦わせて貰えていない。彼女がノーベル物理学賞を受賞した際も、栄誉の重心は夫に置かれていて、キュリー夫人が十分に讃えられているとはいい難かった。

 

次のノーベル賞、ノーベル化学賞は彼女自身のものになったが、その頃の彼女はスキャンダルに巻き込まれ、頑丈な彼女が病に伏すほど苦しめられた。

 

ノーベル賞を二度受賞し、なお科学と人類への貢献に燃えるキュリー夫人にもかかわらず、フランスの学界の反応は冷淡で、その後も研究所設立に際して、キャリアの獲得に際して、たびたびキュリー夫人は苦しめられた。

なぜか? 女性だったからだ。女性だからというだけで、人並み外れた科学業績を挙げていてもなお、男性支配の続く学界はキュリー夫人を冷遇し続けた。

 

さきに触れたように、『キュリー夫人と娘たち』はフェミニズムのアングルからキュリー夫人たちについて記された書籍だが、男性原理の社会を砕氷船のように突き進もうとしていくキュリー夫人の姿は英雄的にうつる。

二人の娘たちもそれぞれ、男性原理の社会がもうけた「ガラスの天井」に立ち向かい、それを突き破っていき、同じく英雄的だ。

 

それだけではない。彼女たちは女性の教育にも心を砕いている。そうしたエピソードの数々を読むと、キュリー夫人と娘たちの伝記がフェミニズムのアングルから記されていることにまったく違和感をおぼえなくなる。

 

人間離れしたタフネスゆえに、彼女はロールモデルに適さない 

このほか、第一次世界大戦に際しては戦傷者をレントゲン撮影できるインフラのために奔走し、多くのフランス軍兵士を救うなど、研究や子育て以外でも彼女は偉業をなしている。

 

登場する周辺人物も華やかだ。アインシュタイン、エジソン、ボーヴォワール、セオドア・ルーズベルトとその夫人、等々。

19世紀~20世紀という、ジェンダーによる不平等がきわめて重たい時代のなかで見事に花開いてみせたキュリー夫人には、偉人という言葉がよく似合う。

 

紙幅の都合で省略するが、二人の娘、イレーヌとエーヴの物語も同書には記されていて、彼女たちもまた当代一流の傑物だった。

その傑物たる娘たちを育てたのも、キュリー夫人なのだ。科学的業績に比べてあまり注目されていない気がするけれども、二人の娘を育て上げた点も、キュリー夫人の偉業としてもっと知られていいように思う。

 

そんなわけで『キュリー夫人と娘たち』は偉大な女性たちの伝記物語としてオススメできるのだけど、一点だけ、断っておきたいことがある。いや、断らなくてもここまで読んだ人なら感じ取ってくれているかもしれないが。

 

それは「キュリー夫人をロールモデルにしたら命がいくつあっても足りないよ」ということだ。

 

キュリー夫人のタフネス、あまりにもあんまりにも強すぎる。

 

彼女の科学者としての素養、母親としての素養、それらはまだ理解できるかもしれない。だけどあのタフネス、特に身体的タフネスは理解不能だ。

最終的にキュリー夫人は放射性物質による弊害によって命を削られ、ついに力尽きるのだけど、そもそもそこまで研究が続けられたこと自体、驚異的だ。

 

もし、並みの人間がキュリー夫人の真似事をしたら、栄養失調で気を失った苦学生時代や、研究をバリバリしながら子育てもバリバリしていた時代に身体を壊すと思う。

当時は抗生物質も無く、衛生状態もまだまだで、栄養状態も悪かったから、結核にやられたり、スペイン風邪で命を落としたりしてもちっともおかしくない。

 

ところが彼女は感染症に命を持っていかれなかった。「天は二物を与えず」というけれども、キュリー夫人が天からたくさんのものを授かっている。

そのなかで最も人間離れした授かりものは、実のところ、あのボロゾーキンのように自分自身を酷使しても命を落とさないタフネスではないか、と個人的には思う。

 

そのタフネスに支えられてはじめて、彼女の意志の強さが活き、研究者としての素養が開花したのだから、鋼鉄のタフネスを持ち合わせていない凡人はこれをロールモデルにすべきでなく、遠くからリスペクトすべき人物だと思う。

 

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo:Mike Linksvayer