『安楽死が合法の国で起こっていること』という本をご存じだろうか。
筆者の児玉真美さんは障害者やその家族の立場に立って活動しているベテランの著述家だ。その著者が、安楽死の議論と実践が進んでいるオランダやカナダなどの現状を伝え、議論のたたき台としてまとめたのが本書、ということになる。
安楽死・尊厳死・自殺幇助といったまぎらわしい語彙を理解するにも向いているだろう。
いわゆる人権先進国で安楽死が急増している
人の生死を扱う書籍だけに、『安楽死が合法の国で起こっていること』にはドキドキする話題やセンシティブな議論が多い。なかでも強い印象を受けたのは、カナダやベルギーやオランダやスイスで安楽死が合法化され、しかも急速に広がっているという話題だった。
たとえばカナダでは2016年に安楽死が合法化されたが、少なくとも当初、その条件は慎重に設定されていた。
カナダは2016年に合法化した際には「死が合理的に予見可能」すなわち終末期で「本人が許容できると考える状況下では軽減不能な」耐えがたい苦痛のある人に限定されていたが、2021年にカナダ政府は「死が合理的に予見可能」の要件を撤廃し、障害や不治の病がある人にも安楽死への道を開いた(終末期の人は手続き期間が短いためFast TrackあるいはTrack One、新たに対象となった非終末期の人はTrack Twoと称される)。
この時、精神障害や精神的苦痛のみを理由に安楽死を希望する人については、十分なセーフガードを設けるべく追加の議論が必要として2年間の猶予を置くことが決まった。期限を迎えた23年春、さらに慎重な議論が必要として再度1年の延期がきまったところだ。
─『安楽死が合法の国で起こっていること』より
この条件で十分に慎重と言えるか否かにも議論の余地はあるだろう。が、ともかくもカナダ政府はこのように安楽死の条件を考えたはずだった。
ところが合法化されてみると、どんどん安楽死が増え、安楽死者が総死者に占める割合が高まっていったという。
またカナダでは、合法化当時は終末期の人に限定されていた対象者が合法化からわずか5年で非終末期の人へと拡がった。2021年3月の法改正で新たに対象となったのは、不治の重い病気または障害が進行して、本人が許容できる条件下では軽減することのできない耐え難い苦しみがある人だが、前述のように2024年には精神障害や精神的な苦痛のみを理由にした安楽死も容認される方向だ。
カナダの安楽死者は2021年の対象者拡大から増加し、保健省のデータによると2021年は2020年から32.4%の急増となった。2021年、2022年にそれぞれ1万人超える。……もともとカナダの一連の動きを強力に牽引してきたケベック州では安楽死者が総死者数に占める割合は5.1%(7%というデータもある)に及ぶ。
─『安楽死が合法の国で起こっていること』より
カナダの総人口は日本の3分の1以下だから、日本でいえば毎年3万人以上が安楽死しているぐらいの数字だ。また、医師だけでなく上級看護師にも安楽死の実践が可能だったり、通常の標準治療や緩和ケアで軽減可能な苦痛でも本人が許容できないと言えば安楽死の対象になり得たりと、カナダでは安楽死のハードルがどんどん低くなっている。
どうやらカナダでは、安楽死は例外的措置ではなく、よくある死のひとつとして制度化され、実践されようとしているっぽいのだ。
著者は、カナダでの安楽死の法制化は医師による例外的にきわどい行為というコンテキストから、患者の権利としての安楽死の容認というコンテキストに飛躍してしまったのではないか……と述べている。
カナダに続いて、ベルギー、オランダ、オーストラリアといった国々の安楽死も紹介される。そこでも、自殺ツーリズム・機動安楽死チーム・親の同意に基づいた乳児への安楽死、といった日本では考えられない語彙が次々に登場する。
これらの国々は日本の人権感覚の遅れをバッシングする際に引き合いに出されがちな、人権先進国のはずである。ところがそれらの国々で安楽死が驚くべきスピードで広がっているのだ。
それなら、私たちは彼らを真似て安楽死を合法化すべきなのか?
「滑りやすい坂道」問題と「日本人にとって自由とは何か」問題
いや、何も考えずに真似するものでもあるまい。
著者は「滑り坂」という言葉を使って、それらの国々で起こっている出来事を説明している。
つまりこうだ。
ある方向に足を踏み出したら最後、滑り坂を転がり落ちていくように議論と実践が止まらなくなってしまう、そんな社会変化が安楽死が合法の国々で起こっているのではないか、と。それらの先進国でも「滑り坂」を危惧する声はもちろん上がっている。
が、たとえば先ほど紹介したカナダはものすごい勢いで安楽死の「滑り坂」を転がり落ちているようにみえるし、歯止めがかかっているようにはみえない。
比較的最近まで、私自身は安楽死そのものには賛成だった。いや、今でもいくらかは賛成である。
安楽死が合法化されるべき状況・個人はあり得ると想像しているし、そもそも人は生まれて死ぬものだとみなしたうえで、生の自由のなかにはリスクを冒したり死を受け入れたりする自由が含まれていなければおかしいのではないか、とも思っている。
だが、『安楽死が合法の国で起こっていること』を読んでなお、安楽死に賛成だと言い続けるのは難しい。
民主的で人権先進国といわれる国々でさえ数年程度で「滑り坂」を転げ落ち、日本の年間自殺者を上回るパーセンテージの安楽死者を出すに至っているとしたら、それは危険な兆候ではないだろうか。
それからもうひとつ。
私自身が日本への安楽死導入に際して気にかかっているのは「日本において個人の自由意志がどこまで本当に自分のもので、どこから家族や社会や世間のものなのかがわかりにくい」点だ。
さきほどから私は、カナダなどを人権先進国と表現しているが、実際、それらの国々では個人の自由が日本よりも重視されているようにみえる。
ただし、それは「人命を日本より大切にしている」という意味ではない。たとえばコロナ禍に際して、欧米諸国は日本よりずっと個人の自由が尊重される社会としてコロナ対策を実施していた。個人の自由が重視されているからこそロックダウンという措置が必要になり得たし、それでもあちこちでコロナパーティーが繰り広げられたりもした。
しかし日本では、欧米諸国ほど個人の自由はくっきりとしていない。日本は全体主義の国ではないが、それでも日本人は世間や空気を意識する。
コロナ禍の盛期において、ときの政府が「自粛要請」という「お願い」で日本社会を御し得たのも、ロックダウンという措置が不要だったのも、日本社会や日本の個人主義が欧米諸国とどこか違っていることを示唆している。
その観点でいうなら、カナダやオランダで安楽死の議論と実践が先行することに、私はむしろ納得感をおぼえている。
なぜなら、個人主義と個人の自由が峻厳な国々(個人の自己責任も峻厳だ)において、死の自己決定権は日本以上に個人自身のものであるはずだし、個人の権利の一環として人生の終末が議論されるのも自然に思えるからだ。
こうした欧米と日本の違いは、精神医療の制度とその実践をみていてもうかがわれる。
日本には医療保護入院という制度もあります。これは、資格を持った精神科医1名の診断と家族や市町村長などの同意によって患者さん(以下、患者と表記)を強制入院させることのできる制度で、国内の強制的入院の半分以上がこの制度に基づいています。
しかし、この制度は患者の人権と自由に十分配慮できておらず、濫用されているという批判が国内外から集まっていました。
─『人間はどこまで家畜か』より
日本には精神科病院に長期入院している患者さんが多く、その法的根拠である医療保護入院という制度は批判の対象となってきた。
欧米人からみれば、家族や行政の同意に基づいて何ヵ月も、ときには何年も入院を余儀なくされる患者さんがいるのは個人の自由を侵害しているとうつるにちがいない。
また、日本では個人の責任と家族の責任の境界も曖昧で、たとえば事件を起こした犯人の家族が世間に謝罪したり、コロナ感染者の家族に嫌がらせが行われたりすることがある。
犯人にせよ感染者にせよ、行動とその責任の主体は本人にあって家族にはないのだから、これは欧米目線ではおかしい。
それどころか、たとえば問題行動を繰り返す患者さんの責任が行政や国に及ぶことすらある。
たとえば、「あの、退院してくるたびに通学路で子供の手を握ってまわる患者さんを何とかしろ」と言われる先は、当の患者さん自身以上に、おそらく家族、おそらく精神科病院、おそらく地元の行政当局である。
こうしたケースに対して行政当局は無責任を決め込むことができず、何かあった時には批判の矢面に立たなければならないので、結果として行政も患者さんの行動の責任の一部を負うことになる。厚労省が医療保護入院の撤廃を検討してもうまくいかない背景には、この、個人~家族~行政~国まで責任が繋がりあう曖昧な構造が存在するからではなかったか。
個人の健康や生命を誰もケツ持ちしてくれない社会
個人の自由が日本以上に尊重されているアメリカでは医療保護入院に相当する制度はなく、患者は1週間以内に退院できます。退院した患者は自由であると同時に責任の主体でもあり、家族や行政や国がその責任を肩代わりすることはありません。こうした文化の違いは社会的ひきこもりに対する日米の温度差にも現れ、たとえば家に居続ける子どもを親が裁判をとおして追放した事例が、アメリカ社会の個人と家族の関係を象徴しています。
─『人間はどこまで家畜か』より
最も個人の自由の峻厳なアングロサクソンの国々、なかでもアメリカでは医療保護入院という制度はなく、家族や国が患者さんを長期間保護することはない。イギリスはもう少し日本寄りだが、それでも患者さんが長期入院する割合はずっと少ない。
そのかわり、その自由は社会に適応しづらい患者さんがホームレスになったり刑務所になったりすることと表裏一体である。
大勢の人がオピオイド依存やアルコール依存による緩慢な死に至るのを黙認することとも表裏一体かもしれない。少なくともアメリカでは、患者さんの脱入院化という美名のもと、精神医療は大きく後退し、大勢の患者さんが困窮することになった。
もちろん、精神病院からの解放が状況の改善に貢献した事例とてまったくなかったわけではない。……だがそんなふうに穏便に事が進んだ事例は、飽くまでも例外にすぎなかった。
重度慢性患者の退院後の処遇としては、やはり家族の許に戻ったケースが最もうまくいったように見えるが、そのことをもってこの種の脱施設化が円滑に進み、なんの問題も生じなかったと考えるなら、それは大きな間違いというものである。家族は仮に苦悩と悲惨を抱えていたとしても、そうそう外に漏らしたりはしない。そして、まさにそうした消極的傾向こそが、病院からコミュニティへの転換がもたらした効果について誤った楽観論を蔓延させる原因となったのである。しかしかれらの被った困難がいかなるものであったにせよ、人数的にはかれらを遥かに凌ぐ身寄りのない患者、あるいは家族に引き受けを拒まれた患者を待ち受けていた境遇に比べれば、よほどましであったと言わざるを得ない。誰からも救いの手を差し伸べられることのないホームレスの狂人、路傍の精神病者は、すでに現代の都市風景の一部と化している。
─『狂気 文明の中の系譜』より
欧米諸国における個人の自由とその責任は、日本よりもずっとクリアカットだが、そのぶん厳しい。
個人の行動の責任、ひいては個人の健康や生命を誰かがケツ持ちしてくれる度合いは日本よりもずっと少ない。精神医療もそれを反映して、大勢の患者さんが自由になると同時に路上に放り出されたり刑務所や怪しげな施設に収容されたりするに至った。
こうした精神医療を巡る自由と責任のありようは、ほとんどの日本人の大半には苛烈なものとうつるだろう。
だが同じく、日本の自由と責任のありようは、アングロサクソンの国々からは不明瞭にみえるだろうし、日本の精神医療は家父長制的で許しがたいものとうつるに違いない。
こんな自由と責任の建付けで安楽死の合法化はあり得るのか
こうした認識があったものだから、『安楽死が合法の国で起こっていること』を読んだ私は安楽死の導入に大きな不安を抱くようになった。欧米、とりわけアングロサクソンの国々で安楽死が制度化されるのはまだ理解できる。
だが、日本のように自由と責任の建付けの曖昧な国で安楽死が制度化したら、その安楽死はいったい誰の自由意志によるものなのか、その安楽死はいったい誰のためのものなのか、やっぱり曖昧になるだろう。
日本には何事につけ「欧米にならえ」と主張する人がいるし、安楽死についてもそう言いたい人がいるのはみてとれる。
しかし制度だけ真似しても真似しきれないものはあるし、へたに真似た結果、とんでもないことが起こる可能性もある。日本社会の家父長制的なところは、患者さんの健康や生命のケツ持ちという点ではやさしい。
しかし、安楽死というイシューに際して、同じくやさしい顔をしているのかは、誰にもわからない。
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著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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ブログ:『シロクマの屑籠』
Photo:Marcelo Leal