フリーランスのライター。

なんだか自宅でパソコン1台でマイペースに稼いでるイメージがあるだろう。

 

実際はそこまで気楽な稼業でもないが、確かに、毎日決まった満員電車に乗り、自分の体内時計を無視することを強いられ、余計な電話を取り、オフィスではなんとなく笑顔でいなければならない、そんな世界とは違う。

 

特に余計な電話、余計な人間関係はかなり削がれてコンパクトになる。

自分あての電話しかかかってこないし、居住地に関係なく仕事をしていると連絡のメインはチャットツールである。

 

わたしは比較的穏やかな性格、というか「イラッとしたり怒ったりするエネルギーがもったいない」という考えの持ち主だが、それでもわたしをかなり強くイラつかせる人が時々いる。

直接会話していなくてもストレスになるのだから、オフィスでこれらの人々が隣に座っていた日にはたまらないだろう。心から同情する。

 

わたしなりのライター観

納品した原稿の修正作業。

この仕事をしていればよくあることだ。

 

なんだかんだいって、私は「自分のブログ」を書いてお金をいただいているのではない。

クライアントさんの意図を反映し、クライアントさんのためになるようなものを書いてこそ「仕事」になるのである。

 

この点を勘違いしておられる方もたまにお見受けするが、自分が書くものは「商品」である、ということが分かっていなければこの仕事で食っていくなんて論外だ。

 

もちろん、ポリシーがないわけではない。

わたしの場合は、そのクライアントさんと読者さんの「架け橋」になりたいというのが第一だ。

 

自分が書いたものを読んでくださった人がほんの少しでも「おもしろかった」「ためになった」と思ってくだされば、それがクライアントさんを利することである。

よって書くにあたっても一定の枠組みはある。

 

しかし、マスコミ時代に比べればこの世界は表現の自由度がそうとう高い。

なのでクライアントさんの業界問わず、わたし個人の持論を展開する余白を頂いているということはライター冥利に尽きる。

「量産型」ではない仕事になってくればこの世界は楽しい。

 

ただ、持論が行き過ぎてしまうこともあるだろう。

繰り返すが、掲載先は自分個人のブログではない。

だから、ある程度の修正や加筆を求められることじたいには何も感じない。決まった枠の中で要望に応えるものを作ることが仕事だからである。

 

しかし、そういった立場関係を差し置いても、「それ必要ですかね?」と思うことがいくつかあった。

 

意図を理解できない修正

Googleドキュメントを頻繁に使う人ならわかるだろうが、文章編集にあたって「提案モード」がある。

これを使うと、下の文章に別色で打ち消し線が引かれ、提案者の文章がその色で表記される。

 

認識の違いやトーンのずれがあれば、それを修正するのは仕事として当然のことである。

しかし、とりあえず目を閉じて10秒、心を鎮めてからでしか作業に取りかかれない、あるいは後回しにしてしまったことが何度かある。

 

打ち消し線と上書きで画面がカラフルになりすぎて、見るだけでもクラクラするような無惨な姿になって戻ってきたのである。

 

なぜこんなにカラフルになるのか?

一例を挙げると、文章の意味もトーンも全く変わらないレベルの修正を求められた場合だ。

 

正直、わたしはマスコミ時代からすればもう20年以上文章に携わっている。そして文章についてひとつの考え方を持っている。

 

それは、活字であっても「音読したときに息切れするような文章になっていないか」ということである。

テレビ出身という影響もあるだろう。

 

テレビニュースの原稿はアナウンサーが読み上げるが、新聞とテレビの大きな違いは「巻き戻しがきかない」ことである。

 

よって、耳で聞いて一発で理解できる文章を書かなければならない。新聞のように、ちょっと前から読み返す、といったことができないのだ。

わたしはこの長い経験から、ひとつの仮説にたどり着いている。

 

活字といえども、人は文章を頭の中で「音読」して理解している部分があるのではないか?

ということである。

 

小説家は時に、その原理を利用して、あえて息継ぎができない長い一文を使う演出をしている。ヘンリー・ミラーや村上龍にわたしはその一端を感じていた。

ただ、私が仕事として扱っているのは小説ではない。物事をわかりやすく伝えるための文章である。

そんな意識を持っているのに、しかもそれを変更したところで全く文意は変わらないのに、極論をいえばいわゆる「てにをは」を何十か所と訂正されたことがあった。

 

申し訳ないがわたしは、漠然と文章を書いているわけではない。音読ということまで自分なりに考えて、句読点の場所までそれなりに考えている。

 

そんなものは下請けの自己満足と思われてもわたしは立場上何も言えないが、それにしたって文章の意味が変わらない修正とは何なんだろう。

あるいは、漢字をひらがなに修正したり、ひらがなを漢字に修正したり。

表記上問題のないものを他の漢字に差し替えたり。

 

「広辞苑をもとに修正しました」と言われればさすがに頭を下げるが、そうでもないのだ。

なにか、守らなければクビにでもなる、社内独自の国語辞書でもあるのか?と言わんばかりである。

 

だったらその辞書ごと最初に寄越してくれ、いや待て、ひとつの企業にしか通用しない辞書を読んでいる暇はない気もする(それは報酬によりますよ、というのはどのフリーランスだってそうだけれど)。

それこそ生産性というやつだ。わたしたちだって必死なのである。

 

失礼を承知で言えば

正直、めちゃくちゃ失礼なのを承知で言えば、そんな修正箇所を血眼で探す、それって「ブルシットジョブ」なんじゃないだろうか。

その作業がなくても、何のためにこのコラムを掲載するかの意図は全く変わらない。内容も伝えたいことも変わらない。トーンも変わらない。

 

「なんかようわからんけど、まあそうおっしゃるのなら仰せのままに」

そんなモチベーションの書き手を求めているのなら、私は口を挟む立場にはない。

しかし自分なりに、それなりに長い経験から得た技術を駆使しているつもりだ。なのに、根拠のわからない形、それも文字単位で修正されてしまうと正直、報われない気持ちになってしまう。

 

まあ、そんなことは個人的な感情の域を出ないのだが、純粋な興味が湧いてしまう。

このやりとりを見ている上司の方っていらっしゃるのだろうか?見て何を思うのだろうか?

ということである。

 

余計なお節介だと言われればそれまでの話だが。

 

なまこを獲りにいこうぜ!

ここまでに書いたような話を、少し前に友人と酒の肴にしていた。

それってどこの会社にもあって、みんな思ってることだよね、という結論になった。

 

そんなときに私がふと思い出したのは、「なまこ理論」である。

京都大学の酒井敏教授がだいぶ前から提唱している話だ。

例えば、10人でお米を作っていたとしましょう。これを一生懸命効率化して5人で作れるようになった。5人で作れるようになったこと自体は素晴らしいことですが、問題は余った5人も一生懸命米を作ると、20人分できちゃう。余ってしまうから売れない。もっと安くしないと売れないので、どんどん値下げをしていきます。そうするとまた売れなくなってくるので、もっと効率化して3人で作るようになると。これはもう悪循環です。
(出所:https://ocw.kyoto-u.ac.jp/omorotalk02/ )

では、どうするか。

そもそも余った5人が米を作るからいけないので、余った5人は米なんて作らず、海にでも遊びに行って、なまこでも取ってこい。あれが食えることを発見した人は偉いんでしょ。それでなまこを取ってきてですね、真面目に米を作っている人に、お米だけだと寂しいですよねと、これうまいんですよと言って高い金で、高い金でっていうのがポイントなんだけども、売りつけて、そのお金でお米を買って、初めて経済が回るわけなんですよ。だから米を作ってはいけない。
(出所:https://ocw.kyoto-u.ac.jp/omorotalk02/ )

わたしはなまこが大好きだ。コリコリした食感は酒のアテに最高である。

ポン酢にもみじおろし。少し海臭くて、でもそれも愛おしい。

居酒屋のメニューで見かけたら必ず注文する。

 

この至福は、あんなグロテスクな見た目のものを食べてみようと思った人のおかげだ。

多少割高でもこの幸せには負ける。これが付加価値というやつだ。

その分酒も進む。好循環だ。

 

さて、一緒に飲んでいた友人にこの「なまこ理論」を紹介したところ、

「それだ!わかりやすい!俺もその話使うわ!」

と、かなり納得していた。

彼のモヤモヤを一瞬で解消したのである。

 

そうなのだ。そういうことなのだ。だからわたしはこの理論が大好きだ。

 

AIに怯えるのではなくて

なお、生成AI時代にはもっとこの傾向が強くなるんじゃないかと思っている。

同じことができる人材がたくさんいたとしても、AIで効率が良くなれば、結果、人間の給料が下がる。

そんな悪循環を打破するには、なまこを獲りにいく姿勢が必要だ。

 

では、さて、現代における「なまこ」とはどんなものだろう。

一見グロテスクな見た目をしているのに、しかしびっくりするほど美味しいもの。

安売りになっているものとセットにすることで、付加価値を生み出すもの。

なお「セットにする」というのは重要なことだと思う。既存のものを全部捨てるのはやりすぎだ。

 

次世代のなまこ。

わたしにもそれが何かはわからないが、少なくとも「食わず嫌い」はいつまでも続けていてはいけないということだとは思うし、なまこは閉鎖空間には見つからないことだろう。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

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