悲劇のフロス

ある夜の晩のことだ。おれはフロスで歯間のお掃除をしていた。日々の習慣だ。

いつものように、歯間をきれいにして……いたら、銀歯が取れた。ひっかかって、銀歯が取れた。

 

取れた銀歯をおれは見た。歯の上部を覆っていたキラキラの銀歯。

銀歯の表面はキラキラで、「これ、ピアスにできねえかな」とか思った。現実逃避である。おれは歯医者に行かなくてはならなくなった。

 

予約するのも面倒くさい。時間も取られる。金も取られる。

……でも、まあ、銀歯をつけるだけなら、痛くないよな。そうだ、この銀歯をつけてくれた歯医者は無痛治療なんだ。

 

そう思って翌日、歯医者に電話した。電話したら、話し中だった。しばらく待って、また電話した。また話し中だった。そして、もう一度。

あれ、おかしいな? ウェブサイトはあるのに。でも、Googleマップに出てこない。おかしい。そこでマップで入居しているはずのビルを調べてみると、べつの歯医者が入っている。

 

その歯科医のレビューを読むと、おれの通っていた歯医者が昨年末に閉院していることを知った。

まあいい、場所が同じならここに行くか……と思ったら、気になるレビューがあった。予約を入れようと連絡して、最後に「前にあった◯◯歯科に行っていた」むねを告げると、「当院では◯◯歯科の患者さんは受け付けていません」と、一方的に断られたというのである。

 

事の真相はわからない。わからないが、「同じ場所にある」という理由だけで行こうとしていた歯医者に、どのようなわけであれ、同じ場所にあった歯科の患者を拒否しているという情報があったら、そりゃ行く気はなくなるよな。

 

というわけで、おれは新しい歯医者を探すことになった。

 

歯科恐怖症のレクター教授

……などと、おれはつとめて精神の平常を保って歯医者の話をここまで書いた。が、現実を見るとおれはやや手に汗をかいている。額にしわよせて、苦しい表情になっている。だって、歯医者の話をしているのだ。

 

というわけで、おれは歯科恐怖症である。「歯科恐怖症」という病気が正式に存在するのか知らないが、そのような言葉はあるようだ。

歯が原因ではない痛み(歯科恐怖症) – 歯とお口のことなら何でもわかる テーマパーク8020

日本歯科医師会のサイトにこんな記述があった。

歯科治療恐怖症(歯科診療恐怖症)の方は、以前に受けた歯科治療が精神的外傷(トラウマ)になり、恐怖症になっている方の状態です。歯科の診療は成人でも好きな人はいないと思います。しかし、お口の中や周囲に不具合があれば、歯科を受診し、多少怖くても我慢して治療を受けます。最近ではいろいろ患者さんにリラックスしていただいた状態で診療を行う歯科医院も増えています。 しかし、一度精神的外傷(トラウマ)になってしまうと、不安が強くなり、歯科に行くことを想像しただけで息が苦しくなる、などの症状が起きてきます。自分では歯科治療が必要であることが分かっていながら、身体が反応し、歯科受診までなかなか踏み切れない方々です。

このような方の治療では、徐々に歯科治療に慣れて頂く方法(脱感作)を行います。この方法は患者さんの努力も必要で時間もかかりますが、後々その方が歯科受診することを考え、歯科に慣れていただく方法です。一刻も早く歯の治療が必要な場合は、薬物や笑気ガスで感覚を鈍くした状態の下で歯の治療を行う精神鎮静法や、どうしても無理な方では全身麻酔下で歯科治療することもあります。勇気を出して歯科医院に相談なさってください。

はい、おれは歯医者にトラウマがあります。ありますとも。ああ、もう、子供のころの話だ。それゆえに、恐怖が根強い。

 

まあ、「歯科の診療は成人でも好きな人はいないと思います」と歯科医師も認めているのだ。これが子供ならなおさらだろう。

おれはもう、歯医者が怖くて、怖くて、痛いのが死ぬほど嫌で、嫌で、どうしようもないくらい行きたくなかった。

 

……どうしようもない? そんなわけでもない。聡明な子供であったおれは、歯をチュイーンと削られない方法を見つけた。

手を出すのである。高速回転するドリルの前に手を出す。泣きわめきながら手を振り回す。手を削って怪我をさせるわけにはいかない。それに気づいた。気づいた結果、「当院では手に負えないのでほかに行ってください」となった。

 

おれは逃げられた、と思った。思ったが、親が探した次の歯医者は、歯医者嫌いの子供を得意としていた。

どのようにしたのか? おれに心理的なリラックスを与えたのか? 違う。診療台に座ったおれをベルトで完全に固定したのである。映画『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士の固定具を思い浮かべてほしい。まさにあの状態である。手も足も動かせない。逃げるすべはない。

そして、おれは歯を削られた……。おれはレクター博士より先にレクター博士になっていた。『羊たちの沈黙』を見て、「あ、あのときのおれだ」と思った。すごいだろう。

 

というわけで、死ぬほど怖かったし、痛かった。

人生にはいろいろな恐怖のときがあると思うが、ある意味では一番の恐怖であったと今でも言える。思い出すだけで嫌な汗が出てくる。

 

歯医者の治療は怖い。痛い。確実に痛い。神経を直接攻撃してくる。痛いに決まっている。歯から脳への距離は近い。ひどく不快な音もする。ああ、もう、こんな思いをするなら、歯なんて生えてこなければよかったのに。

 

もう一つの歯科治療恐怖症

まあいい。おれは新しい歯科医を探さなくてはならなくなった。

そこで、大人になった自分の新たなる恐怖症が出現する。それはなにか? 「歯医者が自費治療をすすめてくる」というものである。

 

おれには金がない。「長期的に見たら安上がりですよ」と言われても、目先の金がない。無理なものは無理なのである。保険治療でお願いします、なのである。そんな人間が「保険治療? うちは自費治療しかやっていないよ!」みたいな歯医者に迷い込んでしまったらどうなる? ひどく恥をかく。

 

が、彼女の人から同じようなシチュエーションの話を聞いたことがある。詰め物が取れたので、初めての地味な歯医者に行ってみたら「保険治療なんてやってないよ」と言われたという。が、「まあ仕方ねえから、そんなの無料でやったげるよ」と、無料で治療してくれたというのだ。昭和の話だが、法的に「無料治療」というのは合法なのだろうか。

 

まあ、そんな変な歯医者もいる。おれが前に通っていた歯医者はどうだったか。ネット検索して探した。もちろん審美治療とかを全面に押し出してはなかった。とはいえ、自費治療の技術も押し出していた。でも、決定打となったのは、「無痛治療」をアピールしていたことだった。最初に行ったのも、やはり中学生時代くらいにはめた銀歯が外れたことだったろうか。

 

その歯科医はなんだ、なんか細野晴臣っぽい感じの飄々とした人で、「せっかくだから歯、白くしない? 10万だよ」とか聞いてくるくらいで、とくに自費治療を勧めてこなかった。そして、おれが子供のころとはちがって、痛くない麻酔で、痛くない治療をしてくれた。

 

さあ、どうしよう。自費治療を前面に押し出しているところは論外だ。虫歯を治す歯科であってほしい。最近はGoogleのレビューがある。レビューはまるまる信用できないが、情報にはなる。もちろん、場所なども大きな要素だ。

 

そんななかで、自宅とアパートの真ん中、というか、毎週通っているスーパーと同じビルにある歯科を見つけた。

内観はむちゃくちゃゴージャスだ。なんかすごいメカとかをアピールしている。とはいえ、「保険診療にかぎらず~」という文言があった。もちろん、アピールしたいのは「かぎらず」のあとに続く自費治療だろう。とはいえ、「かぎらず」と言っているのは「保険診療やっていますよ」と読んでいいだろう。

 

で、レビューはどうなのか。これがかなりの高評価だ。とても丁寧だ、腕がいい……。そんななかに「保険診療では申し訳ないくらいに」というようなレビューがあった。これに、歯科医が返答のコメントをして、「保険診療でも自費診療でも最善の……」みたいなことを書いていたのだ。うーん、ここなら保険診療してくれるのかな? してくれるだろう。そう思ってウェブから初診の予約を入れた。偶然翌日空いていた。その先も予約で埋まっていたので人気はあるのだろう……。

 

新しい歯医者

行くまで、おれはなんどもその歯医者のサイトを見た。できてまだ新しい。ゴージャスだ。ピカピカだ。メカもすごそうだ。「やっぱりやめて、もっと地味なところを探そうかな」とか思った。思ったが、いや、やはりあの医療ビルに入っているくらいだから、そこまで大きくないだろう、とか悩みつつ、「銀歯いれるくらいなら、適当にやってくれるだろう」と信じて行ってみた。

 

行ってみて、プロのフォトグラファーすげえな、と思った。すげえゴージャスに見えるようなサイトの写真、嘘はないけれど、写真から受けるくらいの威圧感はなかった。少し安心した。

 

初診なので、問診票を書いた。いや、タブレットに入力した。これを問診票と呼んでいいのかわからん。まあ、前の歯医者でもそうだったが、「保険診療のみを希望」、「費用はかかっても最善の治療をしたい」、「相談して決めたい」みたいな選択肢もあって(四つあったような気がするが、もう一つはなんだったっけ?)、まあもちろん「保険診療のみを希望」にチェックを入れた。ナッジを使えばもっと自費診療に誘導できそうなのに、そうでなかったので少し安心した。

 

で、呼ばれて、診療室に入った。まず、歯科衛生士の人にいろいろ聞かれて、答えた。まだ余裕はある。次に、レントゲンを撮った。レントゲンを撮るとき、耳のピアスを取れないか言われたので、「耳たぶのは簡単なんですが」といったら、それだけでいいと言われた。

 

そして、また診察室に戻って、歯科衛生士の人に歯を見られた。虫歯のほか、歯周病のチェックとして、歯周ポケットになんかチクチクされた。まだ余裕がある。

 

「歯のケアはたいへんよくされています」と言われた。よかった。前の歯医者でもそう言われた。すごく褒められた。

おれは歯医者に行きたくなくてしかたないから、歯磨きもフロスも欠かさない。何事にも怠惰な自分だが、そんなものより「歯科治療恐怖症」が上回る。ちょっと前、芸人の粗品のYoutubeを見ていたら、「親知らずの件で歯医者に行ったら、二十個も虫歯があった」なんて話していたので、ちょっと警戒はしていた。

 

が、前の歯医者でしなかった、歯周病のチェックというのにひっかかった。歯の一覧表みたいなのが目の前の大型モニタに表示されて、「4」という数字が並んでいた。歯周ポケットの距離が3mmなら健康なのだが、4mmだと「歯周病とは言い切れないのですが」とのことだった。

銀歯の処置のあと、歯周病対策のなにかをするような話になりそうだった。それは保険診療ですか? とまで聞けなかった。なんや、保険診療の患者でも回数を稼ぐということなのだろうか。

 

その後、歯科医が来た。若くて、ハキハキしている先生だった。歯を見ると、「上の親知らずが左右ともちょっとだけ虫歯になりかけているかもしれないけれど、頑張って磨いていただいて経過観察でいいでしょう」などと言う。たしかに、自覚はなかったが、レントゲンの親知らずはエグい方向に生えている。

 

しかし、それより、「銀歯の下にあったこの部分、虫歯ですので全部削ります。神経に近いので削ったあとにどういう詰め物をするか判断します」などと言う。

 

「……え、虫歯? 痛くないですよ? 痛くないのに虫歯って?」と心の声。で、チュイーンが始まる。はじめは痛くない。痛くなったら手をあげてくださいと言われる。チュイーンが進む。進んできて。ギャヒー。おれは左手をあげた。

すぐに止めてくれた。「ああ、やっぱり」みたいになって、痛くない麻酔をしてくれた。麻酔をしたあと、しばらく待ってくださいと診療室に放置された。目の前のモニタには夕方のワイドショーが映っていた。

 

そんなもの、目に入らない。おれはもう、手に汗、額に汗、足は変に力を入れてしまっていたので、ふくらはぎが痛くなっている。

 

「ああ、早く帰ってきてくれないか。麻酔が切れてしまったらどうするんだ?」と、「いやいや、麻酔が効くのには時間がかかるに違いない。麻酔が効く前にチュイーンされては困る」という思いで悩む。悩んでいてもしかたない。

 

やがて、医師と衛生士の人が帰っていて、麻酔が効いた上でチュイーンが始まる。また「痛ければ手をあげてください」と言われる。チュイーン。脳に響く。「虫歯が除去できたかちょっと見てみますね」。ブシュー。頼む、終わってくれ。「まだあるので削りますね」。チュイーン。あ、痛い。痛いです。で、でもよ、麻酔効いているのに、これ以上「痛くしない」はできねえよな。かといって、虫歯が残ってしまっていては、将来的に危ないよな。これは耐えるしかないのか? もうおれは泣いていたんじゃいのか。いい歳をして、それでも、神経を直接攻撃されて……。

 

日本の現代歯科医療の問題点

いや、どうも、おれはチュイーンの体験について書きすぎた。本当は、「もう一つの歯科治療恐怖症」の方について書きたかった。

要するに、国民皆保険制度のなかにあって、歯科治療費だけは低額に抑えつづけられていて、それゆえに先進国では当たり前の先進治療なども保険診療ではできない。

銀歯なんてものも時代遅れでデメリットばかりだが、安いから患者はそちらを選ぶ(こちらhttps://dentis-cloud.com/blog/medical-treatment-self-payによると自費診療の割合は21.4%らしい。おれは意外に高い数値だと思う)。

 

クリニック運営にとって保険診療だけでは赤字なくらいだ。歯科医としては、エビデンスのある確実に良い自費診療をしてほしいと思っている。それは医療者としての良心とお金という現実的な問題両面からくる話だ。

 

なにも自費診療で金儲けをしたいばかりではない。そのあたりのことは、いろいろなクリニックの記事などを読むと痛いほどわかる。わかるが、おれには目先の金がない。恥ずかしく思う。今回だって、銀歯じゃなくてセラミックにしたほうが虫歯の再発率は低いのだろう(見た目はどうでもいい)。

だが、しかし、「被せ物は金属でいいですね?」、「あひ」(精神状態と麻酔のせいでろれつが回っていない)ということになる。

 

これはね、どうなんだろうね。国が歯科というものにもっと理解を示して、古いやり方を更新する方向に、保険診療を進歩させるべきなんだろうね。でも、保険料高くなるんかな。もちろん、診療費も。

でもね、無痛とはいわないけど、麻酔とかよくなってるよ。おれが子供のころよりはましになっているよ。なんでもいいから、もう、もっと完全に無痛にしてほしい。全身麻酔でもいい。でも、そこまで保険でやってられんよな。

 

まあ、そういうわけで、まだおれのふくらはぎは筋肉痛だし、銀歯跡には仮の詰め物が入っている。おれはまだ歯医者に行かなければならない。

また、麻酔をして、詰め物のために神経近くを削るらしい。チュイーンってやるんやで。歯医者がいなかった時代は虫歯で地獄だったろうが、歯医者のある現代も地獄であることにかわりはない。歯医者の人には悪いんだが、ほんまおれ、怖いんや……。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Caroline LM