「心を込めて仕込み中!」
居酒屋さんなど準備中の立て看板で、最近見かけるフレーズのひとつだ。
お客さんを想い、誠実に串打ちをしているのだろうか。
そんな光景が目に浮かぶので、「準備中」というお知らせよりもずっと気持ちよく心に響く。
そんなこともあるのだろう。
「心を込めて 社訓」でgoogle検索をしてみると、とても多くの企業がこの“心を込めて”というフレーズを経営方針に取り入れていることがわかる。
「心を込めて接客しましょう」
「心を込めて作りましょう」
「心を込めて人と社会に尽くしましょう」
そんなニュアンスの社訓が数多くヒットする。
そのためきっと多くの人が日々、「心を込めて」仕事に取り組んでいるのではないだろうか。
しかしこの「心を込めて」という言葉。
実はこれこそが、間違った仕事を生み出す元凶ではないのか。
さらに言えば、従業員の心を壊し、組織を破綻させかねない危険なフレーズとすら考えている。
「気が緩んでるからだ!」
話は変わるが、米国史上最凶の悪人といえば、多くの人がアル・カポネを思い浮かべるのではないだろうか。
1920年代の禁酒法時代、密造酒で財を成し、殺人、暴行、売春など悪事の限りを尽くして「暗黒街の帝王」と呼ばれた男だ。
1929年2月14日、抗争相手のギャングを襲撃した「バレンタインデーの虐殺」は今もたびたび話題になるなど、100年近くの時を超え今もなお、多くの人の記憶に残り続けている悪党である。
そんな彼だが、実はその自己認識は、一般市民とは全く異なるものだった。
以下、ビジネス書の名著として知られる、「人を動かす」(D・カーネギー著)も参考にしながら、少しお話したい。
アル・カポネ自身は大まじめに、自分のことを慈善事業家と考えていた。
世の中の求めるものを提供しているだけなのに、なぜ認められないのかと嘆き、
「働き盛りの大半を世のため人のために尽くしたのに、なぜ犯罪者という烙印を捺されなければならないのか」
と、晩年まで憤っていたという。
「極悪人だけに、思考回路もイカれてただけでは?」
多くの人が、そう思うかもしれない。
しかしニューヨークに所在するシンシン刑務所の元所長は同著で、こんなことを述べている。
「受刑者の中で、自分のことを悪人だと思っている人はほとんどいません」
そして自分の犯した犯罪について、驚くほど理路整然と、その正当性を述べる。
自身の信じる正義に従っただけであって、「犯罪者扱いされるなんて不当だ」と考えている。
「いやいや、だからそういうイカれた思考回路だから、犯罪に手を染めるのでしょう」
確かに、そうなのかもしれない。
しかしこれを、私たちの日常に置き換えてみたらどうだろうか。
例えば昨日、上司から叱責された仕事の失敗や不手際について。
「確かに自分がマヌケだった」
「失敗したのだから、怒られても当然だ…」
そんな思いで、上司の説教に感謝の気持ちを持てた人などいるだろうか。
(それ、お前の指示でやったんだけど…)
(失敗を叱責するくらいなら、やる前に止めるのがあなたの仕事では?)
おそらく多くの人がそんな想いで、猛烈な不満を心の奥底に潜ませながら上司のたわごとを聞いていたはずだ。
断言してもいいが、仕事や会社を潰してやろうなどという思いで仕事に取り組んでいるビジネスパーソンなど、ほとんどいない。
そんな部下に対しリーダーが、
「なんてことをしたんだ!」
「気が緩んでるからそんなことになるんだ!」
などと感情論で叱責したところで、何のプラスになるだろうか。
そしてこれこそ、無能リーダーが「仕事をしたつもりになって」やっている、説教という名のルーチンである。
確かに、極悪犯罪者と一般のビジネスパーソンの思考を、全て同列に語ることは難しい。
その上でこの、アル・カポネやシンシン刑務所長の話から得るべき教訓は、
「極悪人ですら、自分の誤りを認めることはこれほどまでに難しい」
という事実についてだ。
まして、誠実に仕事に取り組んでいる部下を感情論で叱責したところで、
「そうだ、悪いのは自分だった」
などと思うわけがないだろう。
人間関係を悪化させ、上司自身が仕事と組織をぶち壊しているに過ぎないということだ。
人は決して、叱責で行動を変えることなどない。
リーダーと呼ばれるポジションに就いた人がまず知るべきは、そんな「説教や叱責の無意味さ」ではないのか。
そんな教訓を学ぶべきエピソードであると信じている。
間違えているのは常に、上司自身
話は冒頭の、「心を込めて」という言葉についてだ。
日本的な“もてなしの心”にも通じるこの価値観の、いったい何が問題というのか。
想像してほしいのだが、「心を込めて仕事をしなさい」と言われて、例えば自分なら、具体的に何を思いつくだろう。
丁寧な言葉づかい、笑顔での接客、電話は3コール以内に出る…
人により立場により、いろんな事を思いつくはずだ。
つまりこの指示は、「自分の判断で、良いと思うことをしなさい」と同義ということである。
であれば、一体何が起こるか。
私がコンビニの店員さんであれば、
「お客さんとの近い距離感の演出こそ、心の込もったサービス」
などと考えるかもしれない。
そしてお客さんにタメ口を聞き、手を握るように商品を渡し始めたら悲惨である。
客はファミチキとビールが欲しいのであって、中年のオッサンとの近い距離感など誰も求めていない。
「注文を受けてから粉をつけて、アツアツ揚げたてのから揚げを楽しんでもらおう」
オフィス街のコンビニでそんなサービスを始めたら、多くの客にはありがた迷惑だろう。
最優先順位は時間であり、そこそこの味、安価な値段で空腹を満たしたいのであって、完全にニーズを外している。
つまりこの「心を込めて」とは、自分の気持ちに向き合うベクトルが働く言葉ということだ。
自分の価値観というフィルターを通して顧客ニーズを解釈しなさいと、部下に対し相当大きな裁量権を与える指示と言ってもいい。
そのリスクをリーダーが背負えないのであれば、
「心なんか込めなくてもいいから、顧客ニーズに真剣に向き合うように」
と指示したほうが100倍マシである。
そして話は、アル・カポネについてだ。
歴史に名を残す極悪人ですら、自分の過ちを認めることなど無いというのは、先述のとおりである。
にもかかわらず、「心を込めて接客しましょう」という指示の下、顧客にタメ口を聞き、アツアツのから揚げを出し始めた部下を叱責したら、悪いのは上司に決まっている。
裁量権を委ね、その範囲で真剣に仕事に取り組んでいる部下を頭ごなしに怒るのだから。
(指示通りに心を込めたのに…)
(仕事を任せたくせに、責任から逃げるクソ上司め)
そう思って当然であり、こうして多くの仕事で上司と部下の認識のズレが発生する。
「心を込めて」という価値観が悪いのではない。
「大きな裁量を与えていることに無自覚な上司」が悪いという話だ。
そしてそのことに気がつけない上司もまた、アル・カポネのように自分の過ちを認めることなど無い。
このようにして、「使えない奴め」「このクソ上司め」という人間関係が出来上がる。
いうまでもなくこれは、「心を込めて」だけではない。
大なり小なり、部下のよくわからない行動の根本的な原因は、上司の指示にこそあるものだ。
だからこそ、部下の判断が間違っていると思った時はまず、自分の指示に原因があったのでは無いかと、考えなければならない。
叱責や説教で人の考えや行動を変えることなど、できないこと。
明確な指示を出し、部下の仕事に責任を取りきること。
それを理解し実践できれば、きっと誰もが、部下から尊敬される上司に一歩近づけると信じている。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
内陸で育ったせいか鮎やアマゴなどの川魚がとても好きなのですが、なかなか理解してもらえません。
ブリやマグロのほうが美味しいといわれると、ぐうの音も出ない。
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