マイナスからのキリスト教

おれはかつて、このサイトでキリスト教(宗教)についていくつか記事を書いてきた。書いてきたうえで思うのだが、おれのキリスト教理解は足りていない、不十分だ、それどころか間違ってさえいるかもしれない。

 

小室直樹に、キリスト教、イスラム教、儒教、仏教の違いを学ぶ。 _ Books&Apps

おれたち日本人には「信仰」がわかるのだろうか? _ Books&Apps

 

「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」という。過ちかどうかわからないが、おれのキリスト教についての理解について、違うところが出てきたので、それを記しておきたい。

前提として、おれは極めて雑に浄土真宗、親鸞の教えを支持するものであって(信仰ではない)、キリスト教者ではない。

 

で、キリスト教マイナス理解のおれがまずマイナスから学ぼうと思った本はなんであろうか?

『ふしぎなキリスト教』、これである(以下『ふしキリ』)。

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

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かなり売れた本だが、キリスト教理解にあまりにも誤りが多いので、ネット上でも炎上していたのを思い出す、そんな本だ。当時は「そんな本もあるのか」と思って気にしていなかった。

 

して、その本の横に並んでいたのがこちらの本である。

『『ふしぎなキリスト教』と対話する』来住英俊(以下『対話する』)。

ふしぎなキリスト教と対話する

ふしぎなキリスト教と対話する

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来住英俊カトリック司祭の本である。『ふしぎなキリスト教』で挙げられている疑問について、30年の信仰生活と、カトリックの神父としてのきちんとした神学教育を受けた人間として、オーソドックスな教義で答えている。自らの立場は、あくまで一人の信仰者である。

 

自分はこの名前に見覚えがあって、調べてみたら『禅と福音』という南直哉さんとの対談本を読んでいた。なんとなく信頼できる書き手というのは、なんとなく頭に残っているものである。

『禅と福音 仏教とキリスト教の対話』を読む – 関内関外日記

禅と福音 仏教とキリスト教の対話

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というわけで、こちらの本だけ読めばいいのかな? と、思ったが、新書なのだし『ふしぎなキリスト教』も読むことにした。

で、来住さんの本を読もうと思ったきっかけは、冒頭にこう書いてあったからである。

 最初に旗幟を鮮明にしておきますと、私の『ふしぎなキリスト教』への評価は高いです。少なくとも、プラスです。

 

誉めるにしても、酷評するにしても、評価には「基準」というものがあります。私の基準は次のようなものです。広い意味での宣教的観点からの評価です。基準が違う人(学術書としての正確さを重視する)には、違う評価があるでしょう。

A 普通の日本人にキリスト教を知ってもらうために、この本は有益か?
B この本を、単体としてではなく、先に書かれた本があり、後に続く本があることを前提に評価する。

誤りはたしかに多い。誤りだらけだ。けれど、これだけキリスト教の本が売れたことは大きい。あえて教理に踏み込んでいる。グルーヴ感がある。そして、読後に悪い印象、誤った知識を植え込むほどのものではない。

 

なるほど、そういう態度で書かれた本であるならば、「対話」にもなっているだろう。あまり一方的な批判ばかり読むというのも、それはそれで弱いものいじめを楽しむ感覚に近いものがあるだろうが、しんどいところもある。

さらにいえばおれはキリスト教の知識に乏しい。そんな人間が勝馬に乗るように本を読むのもよくないだろう。できるならば、友好的な雰囲気で知識は得たいものだ。

 

が、この来住さんが『対話する』のなかで三回も危険な本としているものがある。小室直樹の『日本人のための宗教原論』、これである。おれがたいへんおもしろがって読んだ本だ。その感想は上のリンク先にある。

その意味で、クリスチャンとしての私が危険だと思うのは、小室直樹氏の『日本人のための宗教原論』です。これはキリスト教についての一貫した鮮明なイメージを読者に残す可能性があり、しかも、そのイメージは間違っているからです。そして、小室氏は現在活躍している社会学者たち(橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司)の師匠格であり、また敬愛を寄せられている学者なので、この本の内容に信頼を置く人はかなりいると思います。

なんと、『ふしキリ』の著者二人とも、だ。……というか、おれが『ふしぎなキリスト教』を読んだ感想には、「(宗教)社会学者がキリスト教について語り合っているな。小室直樹みてえだな」というものがああった。ヴェーバーの話もよく出てくるし。

 なお、小室直樹氏の『日本人のための宗教原論』のキリスト教解説はほぼ100頁ありますが、「神の全権」だけが強調されていて、「神と人との対話」についてはまったく言及がない。本を批評するのに「ないものねだりはいけない」と言いますが、事柄によりけりです。キリスト教の解説において「神との対話」という要素が扱われないのは致命的だと思います。小室氏の影響はかなり大きいと思うので、しつこいようですが、一言しておきます。

というわけで、おれはオーソドックスなキリスト教からすると「危険な本」の影響を受けてしまったようだ。

でも、「キリスト教=予定説」と断じているところについては、感想を書いていてちょっと調べて、「あれ、予定説を重視している宗派は少ないのでは?」と思ったりはした。あと、でも『ふしキリ』は「神との対話」についてはちゃんと繰り返し記述されています。

 

キリスト教のパラドックス

さて、内容に入る前に……、というか内容なのだけれど、『対話する』の第3章のタイトルが「パラドックスについて」なのだ。対話の準備として必要なことだという。

 

キリスト教を批判的に見る人からは、さまざまな矛盾を指摘されるという。しかし、キリスト教はそのパラドックスを内包しているものというのである。

 

たとえばなんであろうか、いちばんわかりやすい例として「イエス・キリストは神であり、また人である」が挙げられている。

われわれの主イエス・キリストは唯一の同じ子である。彼は神性を完全に所有し、同時に人間性を完全に所有する。真の神であり、同時に理性的魂と肉体とから成る真の人間である。

と、カルケドン公会議で長い論争の果てに結論づけられた。うん、たしかにわからん。

 

ほかにも「神の全権」と「人間の自由」というパラドックスもある。「すべては神の意志による」という命題と、「人間は努力しなければならない」。これも並び立たない。「神の全権」だけ述べれば極端な予定説となる。でも、そうではない。

 

あるいは、神義論の問題。「神は全能である」と「この世界には悲惨がある」という現実にある矛盾。

 

これについて、たとえば「神の全権」と「人間の自由(意志)」について、来住さんはこう述べる。

 どう解決されるのか。論理的思考をバージョンアップすることによってではありません。どちらの命題も「本気で生きる」ことによってです。キリスト教のパラドックスは、思考世界だけにあるものではなく、人間の現実世界の矛盾です。

うーむ、そういうものなのか。「パラドックスは解決するものではなく、それを格闘し、それを生きるべきものです」と。

このあたりはなかなかにわかりにくい。現実世界がパラドックス(二律背反)に満ちているからといって、ならば宗教世界は一本筋を通してほしいという、勝手な願望のようなものがある。それは無信仰者の宗教的無知あるいは無感覚、あるいは傲慢によるものにすぎないのだが。

 

信仰の立場とそうでない立場

キリスト教、あるいはなんらかの宗教が持つパラドックスを認められるか。それを指摘することによって、その宗教を「論破」するようなことはできるのか。それはおそらくできない。

 

さらに「論破」できないものがある。それは、その人の、あるいはその集団の信仰、「信」そのものということになるだろう。

 

この『対話する』でも、来住さんは非常に誠実にノン・クリスチャンに対しても語りかけてくれている。やさしく、といっていいかもしれない。

理性的で論理的だと感じる。信頼できると感じる。が、たまにあるラインを越えると、そこには圧倒的な壁なり線なりが存在することに気付かされる。

 

たとえば、ユダヤ民族が旧約聖書に書かれている神をなぜ信仰したのか。『ふしキリ』では「戦争に強い神だったからではないか」などの説を披露します。

大澤 ……すでに信仰の立場に入っている人の論理としてはもちろん、そのような超越的な神がいることが、人の生の前提になって、そこから演繹される説明というものがあります。しかし、経験科学の立場からすると、実は、何らかの社会・心理的な要因が積み重なっていって、人々は――この場合にはユダヤ人が――このような前提を受け入れるようになったはずです。

これに対して、来住さんは「私は、アカデミズムの作法と、人間がよく生きるために一緒に現実を検討する現場を区別したい」として、次のように述べる。

社会学の論文としては「ユダヤ教の神は本当に存在していて、その神は素晴らしい高貴な考えを与えてくれたので、ユダヤ人たちはその神を信じた」というような説は、仮説としてさえ提出できないでしょう。

しかし、アカデミズムの世界がすべてではない。

その中では「旧約聖書が描いているような神が本当に存在するから、ユダヤ人たちはその神を信じた」という答えは、無視できない一つの選択肢ではないでしょうか。

ここが難しい。われわれ……というか、たとえばおれ。おれはアカデミズムの人間ではない。かといって、信仰者でもない。信仰と世俗で分けるならば、アカデミズムの考え方になると思う。

しかし、そうではない来住さんの分け方でいくと、いろいろな信仰を持つ人間が混在する俗世(「人間がよく生きるために一緒に現実を検討する現場」)においては、なるほど信じていない神の存在を想定するのが誠実なあり方なのかもしれない。

 

同じように、たとえば大震災が起こったときの話。

 問題は、「神には自然の悪を抑える力があるのか? ないのか?」ということです。私を含めて、クリスチャンの標準的な答えは「神にはその力が当然ある」というものです。ただ、人間には分からない理由があって、神はこの災害を抑制しない。「神は惨事を望まれるのではないが、それが起こることを許す」。私たちは神の究極的な善意を信じて、災害の翌日から、また努力して生活を立て直すのだ!

これは「ヨブ記」についての記述の一部からだが、やはりここにも信仰者とそうでないものの壁があるように思える。神義論というものになると思うが、「全能の神」はなぜ世界の悲惨を許すのか。ノン・クリスチャンからすれば、「なぜあなたの神は全知全能のはずなのに、これだけ人が死ぬのを見逃すのか」ということになる。神の全能と同時に、人を救わないことを許す。やはりそこにはパラドックスがあって、外からは伺いしれない。

福音書に語られる「奇跡」についても、キリスト者は「とうぜん可能だ」というのが前提で、その上で、「人となった神がそんなことをしていいのか?」という疑問が少しあって答えにくいという。

 

このわからなさをアカデミックに否定するのではなく、人が生きる場としてその可能性を尊重する。

ただ、クリスチャンとぼんやりとしたノン・クリスチャンならばそれでいいかもしれないが、異教徒同士となったらどうだろう。そこには二つやそれ以上の信仰が否定しあうことになるだろうし、止揚できる問題でもない。できるのはかぎりない対話だけだろうか。

 

結局キリスト教の要諦ってなんだっけ?

キリスト教をマイナスから学び直そうとしたのに、それには触れず、やはり信仰の話になってしまった。

三位一体も贖罪の話も『対話する』には丁寧に説明されているので、そちらを読んでください。東西両教会分裂のもとになった「聖霊はどこから発出するのか」問題とかもわかります。

 

で、キリスト教の要諦はなんなの? というところだけメモしておく。これを見た博識者も、「これならばだいたい同意できるのではないか」と言ったので、キリスト教の大枠といっていいものだと思う。

 キリスト教の教理は複雑多岐にわたりますが、大筋を定式化することは可能です。

(『ふしぎなキリスト教と対話する』P.395より)

 

 神は人となって、人のところに来て、人と共に住んだ。

それは人を一緒に神のもとに連れて行くためであった。

図Aを観てください。神は人となって、人のところに来た。それがイエス・キリストの降誕です。「人と共に住んだ」(受肉)とは、2000年前の33年の地上の生涯、そして、復活・昇天のあと、聖霊の働きによって、信者の生活の中に現存することを言っています。そして、おもむろに、イエスは人間の手を取って、立ち上がる。それから、神に向かって、共に旅をする。そして、人間が本来そうあるはずのものに変貌していく。それを「神化」(divinization)と呼ぶこともできます。
しかし、方向転換が可能になるためには、まずイエス・キリストは、じっくりと人間と共に住まなければならない。「神から来て、神へ帰る」という図式はキリスト教に特有のものではないでしょう。キリスト教のキリスト教たるゆえんは、人になった神が人と共にじっくり住むという部分にあります。まず、神があるがままの人間とともに生きてくれるので、一緒に立ち上がって、歩み始めることが可能になる。この方向転換が「回心」と呼ばれるものです。

なるほど。これが基本ということらしい。無論、信仰の内側から見たキリスト教の定式ということになる。ただ、このくらいの基礎をわかっていなければ、社会の中にある一宗教としてのキリスト教を論じることも難しいだろう。

しかし、この「共に旅をする」というイメージはなかなかノン・クリスチャンには湧きにくいような。いや、仏教でも同行二人とかいうか。「神から来て、神に帰る」も、たとえばキリスト教と浄土真宗と比較するような本はいくつもあるだろう。

 

正直なところ、たとえばキリスト教の文化圏が世界を席巻し、現代社会の普遍的とされる思想のベースになったことを考える場合、信仰の内側の言葉に耳を傾けることは難しいかもしれない。

小室直樹が世界を植民地化できた背後にキリスト教があるといったとき、信者は否定するかもしれないが、本当に関係がなかったのかは考える余地があるように思えてしまう。あるいは、現在進行系のガザで行われていることに、ユダヤ教という背景を考えることは許されないのかどうか。

 

このあたりはむずかしい。むずかしいが、宗教の影響を簡単につなげることも、あるいは切り離すこともできないのだろう。

『対話する』でも述べられていたが、人々が思い浮かぶキリスト教への疑問など、2000年前からぶつけられつづけてきたのである。いろんな賢い人が矛盾点を指摘したり、大災害が神への疑義を抱かせたりしても、それでもキリスト教は存在している。その理由は宗教社会学やいろいろの文明論が説明を試みてきたことであろう。

 

だが、その一方で、「本当に神がいるからかもしれない」という想像くらいは持ってみてもいいかもしれない。信仰者とそうでない人間の間は、それぞれの山を登るだけかもしれない。その間には深くて暗い川が流れているだけかもしれない。

それでも、自分の世界から否定、排除するのではなく、別の可能性としての存在を認める。そんなのは、あくまで想像にすぎないのだが、そんなことも考えている。

 

 

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安達 裕哉(あだち・ゆうや)
ティネクト株式会社 代表取締役/ワークワンダース株式会社 代表取締役CEO
Deloitteにてコンサルティング業務に従事後、監査法人トーマツの中小企業向けコンサル部門立ち上げに参画。大阪・東京支社長を経て、2013年にティネクト株式会社を設立。
ビジネスメディア「Books&Apps」運営。2023年には生成AIコンサルティングの「ワークワンダース株式会社」も設立。
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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

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