おれはこの前、小室直樹の本を読んだ。

読んで、「これはなんかすごいぞ」と思った。思って、立て続けに読んだ。これはもう、令和の小室直樹ブームが来るんじゃないかと思った。いや、そんなブームが来るかどうかはしらない。おれのなかでブームが来た。

二重三重の早とちりに独学の限界を思う

 

どのようなブームか。比較宗教学的ななにかだ。

おれは仏教を中心にいろいろな本を読んではいた。しかし、小室直樹の本を読んで、それこそ、ハッとしたのである。ほかの宗教と比べてどうか、日本におけるその場所はどこか。

 

小室直樹がはたしてどんな一般的な評価を得ている人かおれにはよくわからない。

なにやら右派への接近と言うか、取り込まれみたいなものもあるように思うが、どうにもそんなもの突き抜けたようななにかがあると感じた。

 

というわけで、おれは数冊の小室直樹の本で、「要諦である」と語られたいくつかの要素を、それぞれの宗教、思想に割り振って、その見方をまとめてみた。

むろん、ここに引用したのはおれであり、なにか誤解を生むとしたらおれの責任である。

 

キリスト教

神の命令は絶対である。絶対に正しい。
となれば、異民族は鏖にしなくてはならない。殺し残したら、それは神の命令に背いたことになる。それは罪だ。
したがって、「ヨシュア記」を読むと、大人も子供も、女も男も、一人残さず殺したという件がやたらと出てくる。
「イスラエル人は、荒野に追撃してきたアイの住民をことごとく野で殺し、つるぎをもってひとりも残さず撃ち倒してのち、皆アイに帰り、つるぎをもってその町を撃ち滅ぼした。その日アイの人々はことごとく倒れた。その数は男女あわせて一万二千人であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸ばした手を引っこめなかった」(第八章 二四~ニ六)
『日本人のための宗教原論』

小室直樹がキリスト教(ユダヤ教)の神の絶対性について述べるとき、引き合いに出すのが「ヨシュア記」である。異教徒は皆殺しにしてよい。この根本があるからこそ、奴隷貿易も成り立った。

 

そして、奴隷貿易の先にあるのは資本主義である。資本主義が奴隷貿易を作ったのではない。奴隷貿易が資本主義を作った。……って、これは栗原康の本から知ったことだったか。

まず、イエス・キリストという神様がある。キリスト教というのは、神であるイエスの教えである。だから、何よりもまず前に神が先にある。その後に神が説いた神の命令、すなわち法がある。つまる、「神前法後」という構造なのである。

『日本人のための宗教原論』

これもキリスト教の神の絶対性を述べるときによく出てくる言葉である。

神がまずあって、法はその後についてくる。ついてくるというか、神の述べた法こそが根源であって、他に法があるというわけではない。

 

この点で、仏教において釈迦牟尼が法(ダルマ)を悟ったのとは話が違う。もちろん、人の世の道徳や善悪の観念が神の法に先んじることもない。

また、これはキリスト教における予定説につながることでもあろう。

キリスト教の要諦は「行為ではなく、すべて信仰」ということにつきる。
ここが仏教やイスラム教、ユダヤ教、他の諸宗教とも根本的に違う。
いかなる修行も善行も少しも必要ではない。いや、そんなことに煩わされて神への信仰が揺らぐようだと、かえって有害でさえありうる。それこそ、かのマルチン・ルターが、修道院で刻苦勉励して修行を重ねた末に到達した結論でもある。
このキリスト教の蘊奥を、パウロはキリスト昇天の直後にすでに明言しているのである。
その救済は信仰によってだけ得られるのである。では、何をどう信ずればよいのか。

「イエスは主であると口で言い表し、神はイエスを死からよみがえらせたもうたと心で信ずるならば、あなたは救われる(「ローマ人への手紙」第一〇章九」
『日本人のための宗教原論』

キリスト教の要諦は、結局のところイエスの復活を実際に信じられるかどうかというところにある。

その他、イエスの起こした奇蹟も実際にあったことだと信じられるかどうか。そこにファンダメンタリストかどうかという際がある。

 

して、行為と内心である。キリスト教はこれを分けた。これにより、近代資本主義が成立するに至った、というのがマックス・ヴェーバーの考え、らしい。

 

そして、このような「信仰のみ」の考え方は、日本仏教においては浄土宗、浄土真宗の考え方に近いところがある。近くても異なるが、近いところはある。

中世のキリスト教会は、信者に聖書を読ませないほど本来の姿から外れていた。「信仰のみ」(心でキリストを信じさえすればよい)であるべきキリスト教が、外面的行動(overt behavior)である善行や修行を重んじるようになっていた。もっと悪いことに、カトリック教会は、外面的行動に他ならない秘蹟という儀礼によって、信徒に神の恩恵を与え、救済を保証することにもしていたのであった。
『日本人のための宗教原論』

して、「信仰のみ」のはずのキリスト教も、宗教社会学的にはそこから逸脱していく。かなり早い段階で。

予定説も一般的に受け入れがたい。因果応報というものを、洋の東西を問わず人間は信じやすい。

 

ゆえに、修道院における修行というようなものも出てくるし、儀礼による救いも出てくる。

本来のキリスト教から離れていく。それは、宗教改革よりもかなり早く現れはじめていた。

人間の内外の峻別は、後世、近代デモクラシー発祥の前提となった。近代デモクラシーはいくつかの自由が確保されることによって成立する。これらの諸自由のなかでも、一番大切なのが良心の自由(信仰の自由)である。良心の自由が確保されれば、その他の諸自由は次々と成立してくる。
『日本人のための宗教原論』

内外の峻別の内。それが良心の自由(信仰の自由)。

これを表現の自由と一体であるという考えを最近見かけたが、それはどうなのかわからない。ただし、いろいろの諸自由の根源にあるのは良心の自由、これにあるという。

また、資本主義の精神(The Spirit of Capitalism, Der Geist des Kapitalismus)が生成され、発育してゆくためにも、人間行動の内外が峻別されていることが肝要である。人間の内外が峻別され、外面の行動から人間の内面の自由(良心)が切り離されていれば、いかなる宗教の下においても資本主義的な目的合理的行動は成立しうる。プロテスタントでもカトリックでも、はたまたあるいは……日本教であっても、目的合理的行動は構成されうるのである。
『日本人のための宗教原論』

資本主義における目的合理的行動。ここに至るには人間の内外の峻別が必要だということだ。

実際、資本主義に至るに十分な技術であるとか富の蓄積であるとか、そういったものが揃っていても、資本主義に移行できなかった社会は多くある。

 

なにが違うのか。小室直樹≒マックス・ヴェーバーは人間の内外の峻別であるという。……のだとおれは解釈している。

 「権威」(authority)とは、神に依る正統性の想像(creation of legitimacy)である。即ち神は、天地万物とその間のすべての物を創造したと言う事の系(コロラリー)として、正統性(レジティマシー)をも創造した。
換言するとこうなる。
神は、是非善悪をも創造したのである。
『天皇畏るべし』

いずれにせよ、キリスト教においては「神前法後」。是非善悪も神が創造した。

「なぜ?」と問いかけること自体が本来は瀆神である。この峻烈さの上にキリスト教は存在する。このごろはカトリック教会もかなり世俗の議論におもねるところがあるように見えるが(キリスト者でもないのに偉そうなことは言えないが)、本来のところはすべて神にある。母の胎内にあるだけのエレミヤを預言者にしたのも、ただ神がそうしたからにすぎない。理由はないのだ。

 

イスラム教

小室直樹はイスラム教こそが宗教というものを一番よく表しているというようなことを言う。宗教らしい宗教とでも言うべきであろうか。

 キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教、儒教、このなかでいわゆる天国と地獄がある宗教をすべて挙げよ。
答えは出ましたか?
正解は、天国と地獄があるのはイスラム教だけである。
『日本人のための宗教原論』

とりあえず天国と地獄。これ、ちゃんと啓典で述べられているのは、このなかではイスラム教だけらしい。

もちろん、ほかの宗教にも地獄のイメージはある。でも、たとえばダンテの『神曲』は文学作品のイマジネーションにすぎない。

コーランではアッラーが最後の裁判をして「有罪」は地獄行き、「無罪」は緑園行き。そう定められている。

 

生身の肉体が天国や地獄へ行く。そして、天国なら天国の叙述も詳細だ。

(主に男性にとってだが)イスラム教における天国がいかなるものかは、イスラム原理主義(という呼び方が適切かどうかはべつとして)についてマスメディアが説明するときに述べられることが多いであろう。飲んでも酔わない美酒、永遠の処女。

 「アッラーの路に斃れた人々(「聖戦」すなわち異教徒との戦いにおいて戦死した人々)のことを死人などと言ってはならぬ。否、彼らは生きている。ただ汝らにはそれがわからないだけのこと。」

この件は、イスラム教理解にとってべらぼうに大事である。
アッラーのために戦い、聖戦(ジハード)で死んだ者は死んだことにならない。いや、生きているのだ。
最後の審判のとき、イスラム教徒はすべて肉体を持って生き返ることは記した。そして、審判を受ける。しかし、聖戦で倒れた者は、すでに生きて天国に入ることができる。
『日本人のための宗教原論』

というわけで、聖戦(ジハード)で死ぬことにためらいがないという信者もいるわけだ。

想像しにくいことだが、そういう環境下に生まれ育てば、それはわれわれの日常の規範と同じような感覚によって受け取られるものなのであろう。

 

そのあたりの認識の差というものは感じとらなければいけないかもしれない。むろん、ムスリムのなかにも濃淡はあるが。

イスラム教では「宗教の戒律」、「社会の規範」、「国家の法律」が全く一致している
『日本人のための宗教原論』

さて、ここがイスラム教が最も宗教らしい宗教であるというところだろう。

これも国によって濃淡はあるだろうが、基本的にそうなのだ。ゆえに、下手にコーランに対して侮辱的な行為を行えば、それは外交問題に直結する。

 

日本などは国教といっても定めがたく、政教の分離などが望ましいとされているが、そうでない論理で動く国もある。そこのところの理解が必要なのだろう。

 ここで誰もが抱く疑問がある。なにゆえそれほど精緻であったイスラム教が近代国家を作れず、矛盾に満ちたキリスト教が近代の覇者たりえたのか。これはまさにその宗教体系ゆえに起きた。
答えから先にいえば、近代国家を形成するにあたり、イスラム教には決定的な弱点があった。それは、マホメットが最後の預言者であったことである。
したがって、新しい預言者が出てきてマホメットが決めたことを改訂するわけにはいかない。つまり、神との契約の更改・新約はありえない。未決事項の細目補充は可能だが、変更は不可能。このような教義から、イスラムにおいては、法は発見すべきものとなり、新しい立法という考えは出にくくなった。必然的に中世の特徴である伝統主義社会が形成され、そこを脱却できる論拠を持ちえなかった。これが、イスラムが近代を作れなかった最大の理由である。
『日本人のための宗教原論』

さて、よく知られるようにイスラム社会はヨーロッパの暗黒の中世(というのもどうかよくわからないが)の時期に、古代ギリシア、ローマの文明を取り入れて、世界最先端の学を有した。

 

しかし、近代資本主義社会には入れこめなかった。いや、アラブの王族といえば、それはもう石油をもとに世界的な大金持ちだし、みんなサウジに行ってしまうのでフェブラリーステークスの面子が揃わなかったりしているが、資本主義として強力なわけではない。

 

たまたま石油が足元にあっただけのことである。そして、すべての国民が富んでいるか、自由主義社会から見た自由があるかどうかはべつのことだ。

 

たしかに、ケマル・アタテュルクは礼拝の回数を変えはしたが、果たしてもっと根本的なところに変革があったのかどうか。

とはいえ、近代資本主義がすべて正しいとも言い切れないが。

 アラブ人は、いくたびとなく、外国人の支配をうけた。が、征服者を教化してイスラム教に入信せしめた。宗教的には「アラブ化」したことである。征服者も大アラブ共同体の一員となり、イスラム教の命じるところに従ってアラブ人のごとく生きる。
支配者も、アラブ人に連帯せしめられたことから、彼らに対する聖戦コンプレックスを育成せしめる契機とはならない。
唯一の例外を除いて。
例外とは、ヨーロッパのキリスト教徒である。
十字軍としてアラブへ攻めてきたヨーロッパ人は、目くるめくほど高いアラブ文明に驚き、急いで輸入につとめはした。しかし、彼ら野蛮なるキリスト教徒どもは、イスラム教に改宗しようとはしなかったのであった。
何という蒙昧なる瀆神者だろう。
『世紀末・戦争の構造』

して、アラブ社会にはこのような遺恨がある。このことも肝に銘じておかねばならないかもしれない。

どうにも現代日本人は西洋社会を第一の規範、先達者として見てしまうが、歴史的に見てずっとそうだったわけでもないし、いろいろな社会もあるだろう。むろん、早く西洋化への舵を切った日本についても、見直すべき点はあるかもしれない。

 

儒教

儒教は宗教なのかどうか。小室直樹も日本人は儒教を宗教と思っていないと述べる。

しかし、人々のエートスにおいてやはり儒教は宗教なのである。あるいは、奇瑞なんてものも出てくるし、孔子もそれに巡り合わないことを嘆いている。

 

また、日本人が儒教を宗教と考えないのは、儒教式の葬式をしないからじゃないか(中国や韓国では一般的らしい)、なんて推論する。まあ、ともかく小室直樹は儒教を宗教として考える。

 儒教の論理は何か。
微視的(マイクロ)には予定説、巨視的(マクロ)には因果律である。
『天皇畏るべし』

微視的には予定説。たとえば孔子の弟子である顔回。貧困のなかで死んだ。孔子は「天はわれをほろぼした」とすら言って嘆いた。

とはいえ、顔回に天の救いはなかった。孔子の弟子のなかでも随一の秀才であり、人格的に優れていても、だ。

 

「死生命あり、富貴天に在り」。生死も天が決めたこと、その人が富もうが貧しかろうと天が決めたこと。

これが微視的な儒教の論理。

 

一方で、巨視的に因果律とはどういうことか。それは優れた君主が統治を行えば、国は栄え、人々は幸せになる、という因果だ。儒教は君主にそれを説く。

この二つの層への考えがはっきり分かれているのが儒教。

 官僚制がまともに動くための条件の一つとして必要不可欠なものは、官僚制と競合するカウンターバランスである。
中国において、科挙のみに基づいたた官僚制が千年近く続いたのは、このカウンターシステムがあったからで、それがなければ腐敗と消滅はもっと早い時代に訪れていたことであろう。
そのカウンターバランスとは何か。
ズバリ、宦官である。
『日本人のための宗教原論』

その儒教が生まれた中国で、同じく早い時代から生まれたのが官僚制だ。少し儒教の話とは離れる。官僚制は腐敗と消滅するが、宦官という別のパワーがあったから千年続いたという。むろん、悪しき宦官がはびこって滅びた王朝もあろう。

 

官僚制の特徴としては科挙があって、貴族でなくとも絶大な権力を持つ官になりうる。

血縁とは切り離されたその制度の先進性は、それを知った西洋を驚かせたという。まあ、科挙もだんだんと制度疲労を起こしていくのだが。

 

仏教

さて、仏教だ。なぜ、「さて」なのかといえば、おれは仏教に興味を持ち、本を読み、自分の信仰がどこにあるのかと問われれば、親鸞あたりにある、と答えるだろう。さて、仏教はどんな宗教であるのか。

 キリスト教をクリスチャニティというのはいいけれど、仏教をブッディズムというのはとんでもない誤訳である。
というのは、仏教は釈迦の教えではない。
西洋人は仕方ないとしても、日本人のほとんどの人が誤解しているのではないか。これは本当のことで、では誰の教えかというと、客観的に存在している法(ダルマ)のことを指す。仏教でいう「法」とは、行動の規範を示し、慣例、風習、義務、法律、真理、教説など、さまざまな法則を指している。自然法則も超自然法則も釈迦が発見して衆生に伝えたのであるから、釈迦が発見しようとしまいと「法」というのは厳然としてそこにある。だから釈迦の教えが正しいというのは、本当の法を発見したのだから正しいのであり、釈迦自らの教えだからではない。
これを説明すると、仏教の道理は「法」がまず前にあって、「仏」は後についてくる。いわば「法前仏後」という構造である。
『日本人のための宗教原論』

この説明は実にしっくりくる。

しかし、何冊仏教の本を読んできたといっても、おれにはこのようにズバッと言い切ることはできなかったであろう。

 

そして、キリスト教と対比して「法前仏後」、法が先にあるとする。この構造化がしびれる。

さらにいうと、日本人(日本教)は「人前神後」であるらしい。われわれの神や仏(と並べてしまう時点で)への扱いを見ていると、さもありなん、だ。

天上の住民である神々といえども、汚れもあり、利己心もあり、煩悩もある存在にすぎない。ゆえに、煩悩を断ち解脱し、悟りをひらくためには、説法も聞き修行もしなければならない。兜率天の弥勒菩薩の仕事は、神々に説法することなのである。釈迦が、王舎城の霊鷲山で説教をなさるのだと聞けば、神々も争って駆けつけて、独覚や声聞の下座で説法を聞く。
『日本人のための宗教原論』

天人五衰。すべては悟りを得るまでは終わらない。凡夫が修行して悟りを得て、成仏する。輪廻転生から自由になる。涅槃に入る。

これが仏教の骨格だろう。天に生まれ変わったとしても、そこがゴールではない。

 

すなわち仏教は法が前にあり、仏も人も後にある。そして、実体というものを認めない。

では、なにがあるのか。南直哉の本(『超越と実存「無常」をめぐる仏教史』)にはこう書かれていた。

「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである。すなわち、「仏」は「仏になろうとする」主体の実存様式である以外に、現実化しないのだ。

さあ、この考えはどうだろう、とか言い出すとまた長くなるのでいつか。

 キリスト教では、罪が死の原因である。
これとまさに対蹠的に、仏教では罪が生の原因である。
『日本人のための宗教原論』

で、キリスト教と比べてみるとこうも言える。知恵の実を食べた人間は楽園を追放される。生命の実は得ることができない。人類に与えられたのは死である。

 

一方で、仏教では罪が生の原因だ。まるで違っている。おれは仏教について初めて知ったころから思うことがあるのだが、あらゆる人々が仏に帰依して、僧になろうとしたらどうなるのか。

 

喜捨する人もいなくなり、僧伽も維持できないだろう。が、それがそうなって、子供が生まれなくなり、人類が滅んでも、法があればそれはよい、といったら行き過ぎだろうか。いずれにせよ、考えていきたいところである。

 

他文化の理解なんか無理だろうが

かように、大きな宗教を取り上げてみても、考え方は大いに違う。

考え方、ではない。エートスというのか。生きる様式の根本が違う。違うといっても、こうして世界の距離が縮まり、交わるなかで、違うから知らない、縁を切るというわけにもいかなくなってしまっている。

 

なので、他文化の理解を、という話にもなろうが、理解とはなにか。根本のところで理解できるもののようにも思えない。

しかし、どっかで落とし所を探らなければいけないはずだ。すんなりいくはずもないが、いきなり「人類みな兄弟」などと言わず、まったく違う人間がいる、と意識するところからはじめなくてはならないのだろう。

 

……などと、近所のインド・ネパールカレー店の店員以外、外国人と接することのないおれが言ったところでしょうもないが。

以上。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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