生成AIとおれ、おれと生成AI

おれは以前、Adobe Photoshopが搭載したAI機能について書いた

 

2023年9月の話だ。

その翌年の2024年はどうだったか。さらに生成AIとともにあった。画像加工よりも、むしろ文章について多く使った。ちょっとしたキャッチコピーの千本ノックとか、人間にはさせられないことを要求できる。

 

おれはべつに言葉や文章を苦手とする人間ではないつもりだ。だが、考えつくアイディアには限りがある。

べつにAIにすべてを委ねるわけではない。ただ、思いつかなかった単語があれば、それを使ってみる。発想は広がる。

 

仕事で言えば、コードを書かせたことが何回かある。生成AIが存在していないころは、それを書ける人に依頼したものだ。もちろん有料だ。しかし、「この依頼なら、生成AIに書かせることができるのでは?」と考えるようになった。とりあえず、依頼を受けたら、自分でやってみる、というかAIにやらせてみる。すると、できる。そのコードが正しいものか、美しいものか、おれにはわかりゃあしない。でも、動いたら勝ちだ。

 

AIは人間の仕事を奪うのか? 奪うに決まっている。おれは奪った。おれもいつか奪われるかもしれない。

 

遊びでは、イラストを描かせていた。おれは毎晩のように鍋(鍋に限らず毎日同じなにか)を作っていた。「鍋作り中」などとXに書き込んでは、挿絵をAIに描かせていた。アニメ絵というか、そういう感じのイラストだ。

AIにイラストを描かせること(AIが人のイラストを無断学習させること)については賛否両論あって深くは触れないが、おれが鍋を作るたびにイラストを無料ですぐに描いてくれる人はいないので、おれはAIを使った。

 

ほかにもこんな遊びをしたことがある。クヌート・ハムスンというノーベル賞作家(だけど、ナチスドイツを賞賛したためにキャンセルされた)の作品を、AIに翻訳させようとしたのだ。

ハムスンの作品は『飢え』と『ヴィクトリア』はなんとか手に入るが、肝心のノーベル文学賞受賞作の『土の恵み』がほとんど入手不能になっていたのだ。

ただ、英語版が著作権フリー(Project Gutenberg)で公開されていた。おれには英語が読めない。いくつか機械翻訳を試してみたが、ChatGPTに「この英文をハードボイルド風に翻訳してください」と指定したやつがばっちりに思えた。

 

そしておれは、761,000文字の小説を一気に翻訳させる方法からAIに相談した。Pythonというわけのわからないものの環境を設定して翻訳を試み……、トークンの量の前に失敗した。とはいえ、PythonのコードはOpen AIのAPIにアクセスしてなんらかの処理をしてくれた。そのことはブログに書いて、そこそこ読まれた。

 

結局、データ量の大きさの前に敗れた形になった。そのあと、読者の人から国立国会図書館デジタルコレクションで読めるという情報を得て、国立国会図書館デジタルコレクションにアクセスできるアカウントを作ってみたら、たしかに読めた。だからといって読んでいない。読めるとわかったので安心してしまったのだ。

 

おれは、そんなことをした。

 

生成AI翻訳

仕事でも翻訳が必要になることがある。パンフレットや屋外サインの注意書きなどで、多国語が要求されるからだ。基本的には、そのシチュエーションを翻訳屋さんに伝えて、人力で翻訳してもらう。

 

しかし、あまりにも短い文などは、機械翻訳に頼っていたこともある。もちろん、シチュエーションの理解などもできない機械翻訳に頼ることはできない。

 

では、どうするのか? 出てきたテキストで画像検索するのだ。それで、外国の実際の看板画像が出てきたらオーケーだ。まあ、そんなことも英語でくらいしか確かめようがない。アルファベットは読める。逆に、日本語を知らない人間に同じことをしろというのは無理だ。

もちろん、公共の仕事が多いので、基本は人間の翻訳屋さんに頼んでいる。頼んでいるが、そのチェックに生成AIを使う。人間は人間のやることで、スペリングのミスがまったくないわけじゃない。

 

Google翻訳やDeepLはスペリングのミスにやや寛容なところもある。生成AI翻訳も寛容だが、「スペリングをチェックしてください」と頼めば、そういう目で読んでくれる(可能性が高まる)。英語ならばおれの目でもミスに気づくことができるが、ハングルなどについてはまったくのお手上げだから、チェックはAI頼みだ。

 

クヌート・ハムスンの翻訳にしろ、仕事の翻訳にしろ、AI翻訳は役に立つ。

 

して、翻訳について、先日こんなnoteの記事が話題になった。

もうすぐ消滅するという人間の翻訳について

 

筆者の平野暁人さんは、主に舞台芸術などのフランス語、イタリア語の翻訳、通訳をされている方らしい。そして、その仕事が、なくなったというところから話は始まる。円安、世界における英語の支配……、そこにAI翻訳の話も入ってくる。文体にくせがあり、長い文章なので自分にはすべてを掴みかねたように思う。残念ながら、おれは舞台芸術をまるで知らない。

 

ただ、次の箇所がおれには気になった。この箇所をブックマークした人はけっこういた。

 

その箇所を引用させていただく。

それではなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。
それでもなぜ、人間の翻訳は終わってゆくのだろうか。

ほかでもなく、人間の側が翻訳に対する要求水準を下げ始めたからである。
「(ちょっと変だけど)これでもわかるし」
「(間違いもあったけど)だいたい合ってるし」
「(この程度の修正でなんとかなるなら)わざわざ専門家に発注しなくても」

機械の意図を汲みにゆくことで
機械の精度に合わせて降りてゆくことで
人間が人間を終わらせ始めている。
貧困に煽られたコストカットの誘惑と
タイムパフォーマンスの強迫がそれを後押しする。
あらゆる意味において展開される貧困の前に
機械翻訳の進化はもはや副次的なファクターに過ぎない。

この部分だけあえて抜き取らしてもらえば、わかりやすい一節だ。おれが仕事でしていること、翻訳に限らず生成AIを使ってやっていることは、「これ」だ。「これ」の一部に違いない。

 

もしも、業務としての公共施設やパンフレットの翻訳ではなく、自社の商品解説などで翻訳が必要になるのならば、この零細企業、翻訳にお金はかけないだろう。ちょっと変でも、だいたい通じればいい。そういう方向にかじを切る。まあ、外国に売り込む商品やサービスはないのだけれど。もちろん、お金に余裕があれば翻訳屋さんに頼む。しかし、お金に余裕がなければ、そうするだろう。コストカットの誘惑。コストカットの必要。

 

……だが、同時にこうも思ってしまった。「要求水準を下げ始めた」のか? いや、もとより低かったのではないか。

 

コミュニケーションに必要なコストとリターン

要求水準はもとより低かった。が、これは「ある分野において」だ。文化の背景や歴史を知り、文章としてのセンスが求められる文学の翻訳に、読者は高い水準を求める。

 

翻訳作品は一つの作品だ。リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』であると同時に、藤本和子の『アメリカの鱒釣り』なのだ(……とか言いつつ、おれは英語も読めないので、「翻訳」としていかにすばらしいのかは、信頼できる翻訳家や作家がそう言っているから、という受け売りだ)。

誤ってはいけない翻訳もある。医療など命に関わるものや、国同士の交渉なんてものもあるだろう。法律に関する翻訳もあるだろう。むろん、そういった決まり切ったものこそ、機械的な正確さが重宝されるということもあるかもしれない。人間は間違えるからだ。

 

とはいえ、やはり優秀な人間が察知している前提や流れというものにも頼りたくなるだろう。そういう実務的なものについては、機械が先で人間があとでも、人間が先で機械が後でもいいだろう。いずれにせよ、まだAIだけに任せるのは躊躇するところはある。

 

とはいえ、たとえば観光で異国の地を訪れたときはどうだろう? そういう領域だ。だいたいわかればいい。右と左が取り違えられてなければいい。AI翻訳に至らぬところあろうとも、「ありがとう」と「殺すぞ、この野郎」を取り違えたりはしない。「誠に感謝いたします」と、「ありがとね」くらいのニュアンスの違いは、まあいいじゃないか。

 

あるいは機械の言葉だってそうだ。世界の片隅のほんの小さな修正が、プログラミングの原理原則に則った美しいコードである必要はない。動けばそれでいい。そういうレベルの低い場所は実在する。

 

もちろん、それこそは貧しさ。ただし、貧しい世界もある、それも現実だ。お金に限った貧しさではない。そこには知識や知能、感性などさまざまなものが含まれている。芸術の水準も、実務の水準もそんなに求められないプアな世界はある。そしておれは、そういう世界のプアな人間だ。

 

万国のプアな人間よ

プアな人間も生きていていいのではないか。そして、プアな人間同士が、この現世のプアな人間同士が、プアな方法でコミュニケーションできるのも悪くない。

 

プアな人間は外国語を知らない。単語も文法も発音も知らない。もちろん、聞き取ることもできない。

語学は難しい。外国語を学ぶことは、単語や文法、発音、聞き取りについて学ぶことだけではないだろう。背景となる文化や歴史まで学んでこそだろう。だが、それ以前の問題というものもある。

 

そんな人間でも、外国語の人とやり取りができるのならば? そこにはおもしろいなにかがあるかも知れない。現に、そういうコミュニケーションは、ネット上において出現している。元インプレゾンビだったり、そうでなかったりするアフリカの人が、日本で人気の配信者になったりしているじゃないか。

 

彼らの精神のあり方がプアだとは言わない。だが、やり取りされるお互いの言葉は、プロの翻訳家や通訳によるものより、はるかにプアだろう。それでも、通じるし、楽しいなら悪くない。

 

英語が支配する世界で、AIの言葉が共通語になる。あたらしいエスペラント語になる。そのとき、言葉とはいったいなにになるのだろう。母国語というものはどういう存在になるのだろう。おれには想像もつかない。

 

われわれの陳腐でうすっぺらい言葉が、われわれのなかに存在すらしていない言語に翻訳され、知り合うことがなかったであろう世界のだれかと知り合うとは、どういうことだろうか。そこで交わされる言葉とはなんだろうか。なにか起こるのだろうか。

 

なにも起こらないかもしれない。そもそも、プアで実用的なツールがあったところで、プアなことしか言えない人間の言葉はだれにも届かないかもしれない。

しかし、それは母国語が同じ人間の間でも起こり得ることだ。「ひたすら少数の者たちのために手紙を書くがいい」と詩人の田村隆一は書いた。ほとんどの人間に無視される言葉も、だれかには届くかもしれない。

 

おれが拙い言葉で手紙を書くとき、数少ない宛先は日本語を読める人間だけだった。だが、もし、なんらかの変容が起きて、世界に向けて書くことになったら? 悪い気はしない。世界のどこかに、おれのように弱く、しょうもない、下らない人間がいて、おれの言うことに共感してくれたら、それはそれで楽しい。

 

おれに偉大な言葉はいらない。おれたちプアな人間の言葉には、考慮しなければいけないような文化的背景もなければ、理解しなければいけない民族の歴史もない。

 

「こんばんは。今日はどんな失敗をしましたか? 私は抑うつで寝込んでいた。私は昨日の夜も酒を飲んだし、今夜も飲むでしょう。ところで、おまえは元気か?」

 

 

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(2024/12/6更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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