もう30年以上も前、大学生だった頃のことだ。

アルティメットというスポーツで西日本代表に選抜され、横浜スタジアムで開催されるオールスター東西対抗戦に出場することがあった。

 

とはいえ、アルティメットなど当時も今も、知っている人のほうが圧倒的に少ないマイナースポーツである。

そのため、京都から横浜までの移動費すら自腹で、主催者からもらえたのは数千円の手当のみ。

貧乏学生だったこともあり、夜行バスで移動しスタジアム近くに到着すると、試合時間までマクドナルドで過ごすことにする。

 

朝マックをホットコーヒーで注文し、3時間くらい過ごしただろうか。

会場入りの時間も近づいてきたので、トイレに行き用を済ませる。

すると個室から出てきた時、入れ違いで高校生くらいの若い兄ちゃんと肩がぶつかってしまった。

 

目も合わせずお互い、なんとなく謝罪の会釈だけかわす。

その後、席に戻りコーヒーを飲み干すと試合に向け、気持ちを高めようとしていたその時だ。さっきの兄ちゃんが、慌てたように小走りで店内を通り抜け、あたふたと出て行くのが視界に入った。

 

(ん…?“大”なのになんでそんなに早いんだ…?)

そんな違和感を覚えつつ目で追うと、兄ちゃんは店を出る間際にこちらを一瞥し、ほんの僅か口元を緩めた。

 

「あ!!!」

ジーパンの後ろポケットに手をあてるが、そこにあるべき財布が無い。

トイレの個室棚に置きっぱなしにしていたことに気がつき、慌ててトイレに駆け戻ったが、もはや何も残されていなかった。

 

「あっんのクソ野郎~~~~!!」

食べ残しのハッシュドポテトやトレーもそのままに、カバンを引っ掴んで店を飛び出す。

しかしもはや、どちらに向かって逃げたのかもわからない。

とりあえず人の多そうな方に向かって追いかけてみたが、見つけることなど到底できなかった。

(アカン…こんな都会のど真ん中で、無一文になってしまったやんけ…)

 

令和の今と違い、タッチレスどころかガラケーすら無い、平成はじめの頃だ。

財布を失うことは、現金、スマホ、クレカなど、あらゆる決済手段を失うことに等しい。10円玉すら無いので、誰かに電話をかけることもできない。

しかも、財布の中には帰りの夜行バスのチケットも入っていたので、文字通り途方に暮れる。

 

(…そう言えば選手IDも、財布の中やん)

出場すらやべえ…。そんな絶望的な思いのまま足を引きずり、とりあえずスタジアムに向かうことにした。

 

その後、何があったか。

結論から言うと、30年以上の時が経った今も、この時の出来事を心から“良かった”と思えている。

なんなら、私の財布を置き引きしたあの兄ちゃんにすら、うっすらとした感謝を覚えているほどだ。

どういうことか。

 

「なんで俺が怒られなアカンねん」

話は変わるが昔、地方のメーカーでCFO(最高財務責任者)をしていた時のことだ。

消耗品の減り方がおかしい工場があり、調査に行くことがあった。

 

「工場長、棚卸はどれくらいの精度でされてますか?他工場に比べて、消耗品費に気になるところがあるんです」

「仕入れ額の3%を毎月の期末在庫として、機械的に引き当ててるだけやで。それでええって、前の経理部長がいってたさかいにな」

「え、全品目についてですか?では棚卸をしている品目はまったく無いんですか」

「できるかいな。開きかけの箱とか、どうやって数量をカウントするんよ」

確かに、持ち出しも難しいような工業製品の場合は、仕入れの一定割合を機械的に在庫とみなし、棚卸の手間を省くのは一般的なセオリーだ。

リスクが少なく、異常値が出てから対応しても遅くないので、現実的で合理的な管理手法である。

 

しかしその時、工場で出ていた異常値を品目レベルまで調べてみると、

・一般家庭でも消費するもの

・換金が比較的容易なもの

といった在庫に偏っていた。

そのためそんな事情を説明し、改めて工場の“空気感”を聞いてみることにする。

 

「正直、悪いことしてるヤツがいてもわからへんなあとは思ってた。どうしたらいい?」

「全ての在庫に管理番号をつけさせて下さい。点数が多いので詳細の把握までは困難ですが、出納記録を自分たちでつけさせることで、どうなるか様子を見たいんです」

すると翌月には、早くも結果が出る。

異常値が出ていた品目について、仕入れ額・数量が目に見えて減り、なんなら他工場よりも低くなったのである。

数ヶ月様子をみたが、その傾向は明らかだった。そのため役員会に工場長も出席するよう依頼し、意見を求めることにする。

 

「ご存知のように、工場長の足元でおそらく横領行為が続いていたと思います。在庫管理を全工場共通で仕組み化したいのですが、お力を貸して頂けないでしょうか」

「そんなこと言っても、前の経理部長がそれでいいって言ったからそうしてただけですやん。それから、素直な意見を言ってもええんですか?」

「工場長の責任を追求する場ではないのですが…。ただ、ご意見はもちろん歓迎します」

「管理責任とか、結果責任というヤツの意味がホンマにわからへんのですわ。私は何も悪いことしてへんのですよ。なのになんで、私が責任を追求されるような空気になってるんですか?」

 

“上司だからといって、なんで全ての責任を取らなければならないのか”

そんな趣旨の、素朴だがわからなくもない疑問だ。

言い換えれば、責任者というだけでなんで俺が、何でもかんでも怒られなアカンねん、ということを言っている。

 

「工場長、繰り返しますがここは工場長の責任を問う場ではありませんので、そう感じさせてしまったのであればお詫びします。その上で質問にお答えすると、本来的には、工場長の責任は重大です」

「だからなんでですの、教えて下さいよ」

「仕事を任せたからです。責任を取る気がないのに、責任も仕事も部下に任せたのですか?」

「…?」

「横領できる余地があることを知っていながら、材料や備品の管理を部下の裁量にしたという話です。その結果、その通りになったことについて知らないは、本来的には筋が通りません」

「そんなこと言っても、細かいことまで目が行き届かへんのです」

「それをもっと言って下さい。どんな理由でどこに目が行き届かないのかを教えて下さったら、解決するのは私の仕事です。相談して下さったのに、解決できなかった上での横領なら当然、私の責任です」

「…わかりました、今後そうしますわ」

 

明らかに納得していない。

理屈ではわかるけど気に入らない、という不満が顔色から窺える。

 

(どうすれば伝わるだろうか…)

工場長の責任追及の場であると勘違いされたことを含めて、空気もかなり悪い。

考えあぐねた私は、一つの苦い思い出を話した。

 

なぜそこに財布が…

話は冒頭の、横浜スタジアムの件についてだ。

なぜ財布を置き引きされたことを、むしろ良かったとすら考えているのか。

 

当時の私は、合皮の長財布を愛用していた。そのためトイレに入った時、「大」ではポケットから出して、適当な場所に置くのが常だった。

言い換えれば、「トイレに入るたびに、棚に置き忘れる可能性」を、「忘れないようにする注意力」で補っていたのである。

これは、リスク管理の考え方として最悪だ。

 

“立っている物は倒れる”

“吊っている物は落ちる”

がKY(危険予知)の基本であり、いつか必ずそうなることを前提にしなければならない。

 

その解決方法として、

“倒れないように工夫する”

“落ちないようにしっかりと縛る”

は一義的に正しいが、リスク管理としては何もしていないに等しい。

“ポケットから出したものは置き忘れる”

を前提に、リスクを最大限に評価して管理をしなければならないということである。

 

結果、この事件以降、私は小さな折りたたみの財布と小銭入れを2つ持ち、常に前ポケットにいれることにした。

ズボンの前ポケットがいつも2つ、大きく膨らんでいるのは正直、カッコいいものではない。

しかしトイレに入った時に出す必要が無く、置き忘れリスク管理としては完璧だったため、大学卒業までそのスタイルで通す。

 

さすがに社会人になって以降は別のやり方にしたものの、痛い目にあったことはリスク管理の原点になったという話だ。

言い換えれば、学生時代の“僅かな”損失でそれ以上の経験知を得たということである。

もっとも、当時は悶え苦しむほどの損失だったが。

 

そして話は、工場長との会話についてだ。

私は学生時代の思い出をそのままに、当時の感情を含めてお伝えした。

 

「大事なことは、再発しない仕組みを作ることです。しかし工場長は、再発防止の意欲すらお持ちなのか疑問です」

「…そんなことありません。なんでですの」

「工場長が、横領で失われたお金に痛みを感じていないように思えるからです」

「…」

「お子さんが工場長の財布から1万円を抜いたとして、細かなことまでわからないと無関心になるでしょうか。家の秩序を保つためにも、子供の教育のためにも、必死に対策を考えるはずです」

「…それはそうやな、そう思う」

 

そして工場長に対し、減給や懲戒などといった“痛み”でわかってもらおうなどと思っていないこと。

その上で、財布を置き引きされ泣きそうになった自分の経験になぞらえて、組織の痛みを自分の痛みとして理解して欲しいとお話しした。

どこまで納得してもらえたのか本当のところはわからないが、最終的にその工場は工場長の下で、全くケチのつけようのない成果が上がる。

 

余談だが、財布を置き引きされてから2年後のこと。

大学卒業間際に、滋賀県の米原警察署から自宅に電話があった。

「もしもし、桃野さんですか?あなたの財布が新幹線の米原駅構内で拾得されまして、そのご連絡です」

「え…?私、米原駅で乗り降りしたことなんかありません。どういうことでしょう?」

 

訝しく思いつつ、電車を1時間以上も乗り継ぎ赴くと、そこにあったのはまさに、横浜スタジアム近くのマクドで置き引きされた財布だった。

お金はすべて抜かれていたが、それ以外のものは全部当時のまま残されていた。

 

横浜で盗まれたものが滋賀県で見つかるとは、一体どういうことなのか…。

もしかして、あの時に置き引きした兄ちゃんが財布の中身を見て滋賀県在住だと知り、なにかの通りがかりで、新幹線のドアから米原駅に放りだしたのだろうか。

 

僅かな贖罪の意識からなのかもしれんが、だが兄ちゃん…。

西大津駅(現大津京駅)と米原駅って、京都駅から神戸駅よりも時間かかって、同じ滋賀県と思えへんくらい遠いねん(泣)

せめて京都駅前に捨ててくれてたら、もう少し助かったわ…。

 

 

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(2024/12/6更新)

 

 

【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

トイレの置き忘れ防止に、いまではボディバックを愛用しています。
さすがにここまで大きいので、忘れたことはありません。
しかし置き忘れリスクが0ではないことに、未だに怯えてます…

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo by:Jonas Gerlach