とある殺人事件の途中経過
2026年3月の終わりから4月にかけて、ある事件が世の中を騒がせた。……と、書くべきなのかもしれないが、事件の内容に触れるので、はっきり書く。
京都府南丹市で男子小学6年生が行方不明になり、結果として継父(この件についてはあとで触れるのであえてこう書く)が逮捕された事件だ。
結果として? 結果というのはおかしい。まだ裁判すら始まっていない。おれは推定無罪というものを大切なものだと思っている。なので、表現には気をつけたい。
とはいえ、これを書いている現時点では、逮捕が最新の情報だ。そして、殺人に関与したという供述があったという報道。
もちろん、警察のリーク情報がどこまで正しいかなんてわかりはしない。
おれはそんなに警察もマスメディアも信用していない。
でも、語るうえでその情報を自分が知っているということをごまかすわけにもいかない。
これから書くことが、その流れに乗ってしまう可能性を最初に警告しておきたい。
もちろん、今後の捜査の進展や、あるいは裁判でまったくべつの事実がわかる可能性もある。
ただ、今回おれが書きたいのは「事件の真相」の話ではない。なので、この時点で書きたいものを書く。それに「事件の真相」はあまり関係ない。
おれとワイドショー
さて、おれはこの事件、発端はよく知らない。気づいたら、なにか世の中で小学生が行方不明になっていた。
テレビで、行方不明者の服の特徴と、山だか森だかの映像を見た。「山だか森だかは行方不明になるとたいへんだからな」とか、そんなことを思った。
……が、おれはいま、週の半分くらいリモートワークをしている。
希少がんとその治療の後遺症みたいなものがある。体調が悪いと出社できない。もとから精神疾患で午後から出社があたりまえになったりしていたが。まあ、人生初リモートワークだ。
で、リモートワークをしながら、テレビを垂れ流しにしている。
そして、ワイドショーが垂れ流しになっている時間が多い。
世の中にはワイドショーが多い。一時期減ったとかいう噂を聞いたが、想像以上にワイドショーだらけだった。
夕方のニュースとかいうものも、えらく長時間になって、ワイドショーと見分けがつかない。
平日にテレビを見ない人が想像する以上に多いと思う。もっとも、いまどきテレビなんて持ってない人も多いだろう。
で、おれはどうもこの行方不明事件の報道量がちょっとすごいな、とようやく気づいた。
なにやら、ちょっと不自然な感じでランリック(ランリュックとも……というランドセルにかわる通学用バッグ。わりと歴史がある。世の中、ランドセルやめてみんなこれにすればいいのにと思ったが、まあ今回は関係ない)が見つかったりしたらしい。
ミステリー的に話題になっているのか? それとも劇場型犯罪なのか?
そう思ったが、ネットで見てみると、どうも継父が盛大に疑われていた。
なにか状況的にいろいろ考えると、怪しいぞということだった。かなり決めつけに近い書き込みもあった。
え、そうなの? おれがテレビを見ている分には、そんな情報ぜんぜんなかったぞ。
マスメディアとネットの情報に乖離があった。おれはそう感じたので書いておく。
それで、ちょうどリモートワークしているときに事件に進展があって、「ご遺体」(と、テレビは言うのだが、昔から使ってきた言葉だったろうか?)が見つかり、継父が逮捕されるにいたった。
それはもうすごい情報量だった。夜のニュース(報道ステーション)でも30分以上やっていたんじゃないだろうか。
おれはそんななか、ほかならぬワイドショーの中で、報道のあり方に対する二つの異議を見た。
「報じない」という選択がもたらすもの
一つ目は、「マスメディアが報じないこと」についての異議だった。
コメンテーターとして出演していた、どこかの大学の女性教授で、たぶん弁護士の資格も持っている人のコメントだったと思う。父親の逮捕後のコメントだった。
曰く、「マスメディアが家族や継父の件についてまったく報道しないことで、逆にネット上で不確定でいいかげんな情報が氾濫している」と。
マスメディアも継父に対して疑いを持ち、たくさんの取材を進めていたのは確かだろう。
逮捕されたと同時に大量の情報が放出されたからだ。
そこまでいろいろなことを調べておきながら、今回の事件については、普通の殺人事件ではありえないほどに被害者の家族関係に触れていなかった。不自然なほどに触れていなかった。あるていど確定して問題のない情報は出すのが、メディアの役割ではないのかと。
さきほど書いた通り、おれはテレビ報道ばかり見て、そのあとネットの情報に触れて、その落差に驚いた。
なので、テレビが不自然なまでに最後の目撃者であり、被害者を車で送っていた継父に触れていないのは、確かだ。
そして、ネットで不確定情報が溢れていたのも本当だ。その多くは継父を犯人視するものであったが、なかには継父の国籍がどうこうという話まで出ていた。
結果的に(あくまで逮捕まで、だが)、前者のネット探偵の推理は正しかった。一方で、国籍がどうのこうの、具体的に言ってしまえば中国籍だという説は、現時点ではどうもデマの可能性が高いように思える。
もちろん、メディアが継父の国籍を調べ上げているかどうかわからないのでなんとも言えない。
ただ、あまりにも報じなさすぎるために、その不自然な空白が、たとえば犯人であることの確定情報としてネットを駆け巡ってしまったのは否めないかもしれない。
もちろん、情報を出すことで、火に油という可能性もある。むずかしいところだが、マスメディアとネット、情報がどうあるべきか考えることはたくさんあるだろう。
事件の詳細を報道する「メリット」とは?
二つ目は、「事件を詳細に報道して視聴者がえるメリットはなにか?」という問いだった。
これは、脳科学者の中野信子さんによる発言だった。
「中野信子だったかな?」と思っていたが、なかなかインパクトのある発言だったので、発言がネットにまとめられていたので確定情報として書く。新聞記事にもなっていた。
これに中野氏は「これは本当に嫌なニュースで、なるべく見ないようにしていた」といい「いつ、どこで亡くなったか興味があるかもしれないが、分かったところでなんなのよ、と思う」とコメント。
そして「このニュースをお届けする側に立っているものが言うべきではないかもしれないが」と前置きし、「見ている方は、このニュースを見て得られるメリットって何かしらと思ってしまう」とも吐露。
「お母さんは子供がいたら再婚するなっていうメッセージなんでしょうか。それともお父さんは子供を殺すなよってことですか?」と訴え「私はちょっとそういうの、どうかと思いますし、この事件が多くの人に知られている事件ですが、再婚して幸せに暮らしている人もいっぱいいるでしょうに。
再婚している人は皆そういう目で見られるんでしょうか。野次馬根性を満足させるためだけのニュースならどうかと思う」と語った。
(デイリー)
この発言をしているときの中野氏は、かなり悲痛な表情をして、悲痛な語り方をしていた。
悲痛というのが正確かわからない。「泣きそうな」が近いかもしれない。
ともかく、おれはこの発言を見て、「おお、よく言った」と思った。
おれが同意するのは、「分かったところでなんなのよ」というところだ。
これはおれがそれこそ子供のころからといっていいほど昔から思っていたことだ。
殺人事件があった。たとえばそれは男女の痴情のもつれの結果だとする。
それについて、事細かに報じる理由はどこにあるのだろうか? それを聞いた人間はなにを思うべきなのだろうか? 暴力はよくないです?
たとえば、ある詐欺の手法が多くの人に被害を与えている。それなら、詳細を報じる必要がある。
その手法を周知させることによって、新たな被害が防げるからだ。
あるいは、介護殺人が増えている、というニュースならどうだろう。
これも一つの社会問題として、介護退職や老老介護の問題などについて人々に示唆を与える。場合によっては福祉の制度を改正する道につながるかもしれない。
ストーカー殺人のニュースも、色恋営業からの刃傷沙汰も警察の対応を変えたかもしれない。そう、ときには法律が変わるきっかけになるかもしれない。
で、この事件になにかそういうメリットはあるのだろうか。おれにはないように感じられた。
まあ、行方不明の小学生がいる、ということを報じることは情報を集めるのに役に立つだろう。だが、継父が殺人の犯人かもしれないということになんのメリットがあるのか。
これについて、Yahoo!ニュースで「シンママ」(シングルマザー)の恋愛や結婚を否定する流れになってはならない、というような内容の記事が出た。
それに対する、ヤフコメの反応はどうだったろうか。
ほとんどが「シングルマザーは恋愛も結婚もするべきではない」という意見で埋め尽くされていた。
たまに継父が連れ子を虐待したり殺害したりことをあげつらい、シンママは自分一人で子供を育てるだけの技能、才能、努力が必要であると言う意見だらけであった。中野信子の懸念どおりではないか。
ちなみに、おれはこのシングルマザー批判はまったく想像していなかった。想像力の欠如だ。
そして、こんなところに人のヘイトが火を吹くのかということも想像できなかった。とはいえ、「法律的に規制するほど事件発生率が高い」というのであれば、それも一つの議論だろうが。
いずれにせよ、「なんのメリットがあるのか」というのも一つの問いだ。
そもそも報道とはなんのためにあるのか、メリットのためなのか、という問いもありうるだろう。
でもまあ、できれば広く社会にとってなにかメリットがあったほうがいいようには思う。少なくともだれかが報道で傷つくのはよくない。
人ひとりの死を報じ、論じることについて
また、一つおれは思ったことがある。この間、一冊の本を読んだ。東浩紀の『平和と愚かさ』という本だ。その本の主題については前に書いた。
おれはけちなので一冊の本からいろいろなことを取り出す。
おれが事件のニュースを見ていて思ったのは、批評家の笠井潔の探偵小説についての主張を紹介したこの部分だ。
探偵小説の起源は、一般には一九世紀前半のエドガー・アラン・ポーに求められる。けれども笠井によれば、ほんとうの起源は第一次世界大戦にある。
第一次世界大戦は人類がはじめて経験した総力戦であり、多くの人々が殺された。無数の人々が、集団的に、匿名的に、本論でここまで使ってきた言葉でいえば、まさに「ゴミのように」殺された。
笠井はその言葉を「大量死」と呼び、探偵小説はその経験への抵抗として生まれたジャンルだと主張している。彼はつぎのように記している。「戦場の現代的な大量死の経験は、もはや過去のものかもしれない尊厳ある、固有の人間の死を、フィクションとして復権させるように敷いた。
機関銃や毒ガスで大量殺戮され、血みどろの肉屑と化した塹壕の死者に比較して、本格ミステリの死者は、二重の光輪に飾られた選ばれた死者である。
犯人による、巧緻をきわめた犯行計画という第一の光輪、それを解明する探偵の、精緻きわまれない推理という第二の光輪。第一次世界大戦後の読者が本格ミステリを熱狂的に歓迎したのは、現代的な匿名の死の必然性に、それが虚構的にせよ渾身の力で抵抗していたからではないか」。
おれはべつに、現実に起きた殺人事件(であろう)を、ミステリとして見ているわけではない。
ただ、大量死に対する固有の死というものを思い浮かべた(さらに話を進めた「大量生」の話にはここでは触れない)。
さきほどおれは、痴情のもつれのような殺人事件を報じるにどれだけの価値があるのか、と書いた。
しかし、一方でそれは大量死ではない死にほかならないのも確かだろう。だからといって、光輪のある死とは決して言わぬ。言わぬが、一つの死を軽んじることもまたなにか違うのか? という気になった。
そしておれは、言語の壁が崩されたX(これついてはまたなにか書きたい)で見かけたポストを思い浮かべた。
Hey I’m mahdi, 22 years old, I don’t want to die in Gaza and I’m not a number, I just want a good life pic.twitter.com/gVpEKjM4e3
— 𝐌𝐚𝐡𝐝𝐢 🇵🇸 (@m60r_) April 1, 2026
ねえ、俺はマフディ、22歳だ。ガザで死にたくないし、俺はただの数字じゃない。ただ、良い人生を歩みたいだけなんだ。
AIによって翻訳された言葉に、一人の青年の自撮りが添えられていた。「俺はただの数字じゃない」。
ガザで行われていることが国際法的にジェノサイドにあたるのかどうかおれにはわからない。ただ、おれはジェノサイドだと思っている。
マフディが直面しているのは、自分一人の死であると同時に、数字として処理されてしまう大量死の一つだ。もちろん、人は固有の死であれ、大量死の一つであれ、殺されたくはない。良い人生を歩みたい。それはマフディも、京都で亡くなった中学生も一緒だ。
今の日本国内に大量死は存在していないといっていい。でも、世界では違う。
そこでわれわれは人の死をどう扱うべきなのだろうか。どう思うべきなのだろうか。
マスコミはそこまで考えて、人の死を報じてほしい。大手のマスコミを「オールドメディア」などと揶揄する言葉も多く見るが、今のところ事件をリアルに取材して、報じられるのはマスコミだけだ(迷惑系YouTuberの突撃がその代わりになるとは思えないが)。
そのバランスを間違えないかぎり、マスコミには存在価値があるし、そうあってほしいと思う。
たとえば、今回は「報じなさすぎる」という意味で逆に目立たせてしまったが、誰かを犯人と決めつけて報道する、メディアスクラムみたいなものは、松本サリン事件や和歌山のヒ素カレー事件のときからはよくなっているとはいえる。
今回、ワイドショーで中の人からの批判も見た。それを予定調和という人もいるかもしれないが、やはりそれでも中から批判が出るのはいいことだろう。
少なくともおれは、「本日、某県で殺人事件があり、容疑者が逮捕されました。事件の詳細は伏せさせていただきます」というニュースだけの世界は、警察権力へ国民の監視が成り立たないという意味でよくないと思う。
かといって行き過ぎもよくない。そのバランスは難しい。最適解があるのかも想像はつかない。でも、なんとかやってほしい。
そして、インターネット、SNSというものによって、ひとりひとりがメディアとなったわれわれも、なにをどう表現し、発信するのか、しないのか、それも突きつけられている。
おれがここに書いたことは大きな誤りかもしれない。だとすれば、これを踏み台に、大いに論じてよい方向に進めばいいと思う。
たぶん、それしかない。それくらいしか「メリット」はない。
そう思っている。
【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
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