ウサギと戦争反対

ネットの話題は移ろいやすい。その速度は上がる一方だ。SNSでは反射神経だけが求められる。なにかものを言おうとすると、もう話題は通り過ぎている。ただ、いつ通り過ぎた話題を語るのも勝手だ。

 

Xでの話だ。あるイラストレーターが「世界中から戦争がなくなりますように」というコメントとともにウサギのイラストを投稿した。

これが炎上した。イラストレーターは自分がおかしくなった、暴走したと謝罪し、最後にはイラストも謝罪文も削除してXから去った。

 

正直、書いていて意味がわからない。おれは今そう思った。

実のところ、最初のポストを見たときも、それに最初についたであろう批難の声を見たときもそう思った。そうだ、おれはわりと移ろいゆく話題を追いかけてはいる。

 

そのときは最初の批難に対する批難、が多かったように見えた。そりゃそうだろうと思った。おれはそれで目を離した。が、ちょっと目を離しているうちに炎上、謝罪の流れになった。

なぜ炎上したのか。無責任に見えるからか? 現実の暴力に対して軽すぎるからか?

 

そりゃおかしいだろう、という声も広まった。ウサギと戦争反対のイラストをアップするべつのイラストレーターも出てきた。「#NOWARBUNNY」というハッシュタグも作られた。これが読まれている時点で流行っているかどうかわからない。

 

ただ、話の根っこは流行っているかどうかではない。戦争の話だ。なぜ人は人を殺すのか。人類の文明や文化につねにつきまとってきた話だ。

そして、今なぜ「世界人類が平和でありますように」(文言がちょっと違うか)という願いが炎上するのか。これは考えるに値する。

 

東浩紀『平和と愚かさ』を開く

「考えるに値する」のでおれはじっくり考えはじめた……わけではない。まず東浩紀の『平和と愚かさ』という本を開いた。そこに、「これ」に関する考察が書かれていたっけと思ったからだ。

 

ちなみに、『平和と愚かさ』はおれがそうとう久しぶりに買った本だ。いつ以来、なに以来か思い出せない。

おれは貧乏人で安いアパートの部屋も狭く、図書館通いをしていたからだ。

 

そして、何ヶ月ぶりにか読んだ本でもある。

希少がんになって2025年12月に入院することになり、図書館通いが途絶えた。退院後も図書館に通う体力がなかった。

そして、2026年2月、二度目の入院となった。今度はWi-Fiの弱い古い病院だったので、なにか本を読もうと思った。そこで買ったのが『平和と愚かさ』だった。

病気になって酒も飲めなくなり、Xのスクロールに没頭するようになったおれは、よく目にする東浩紀のポストに「いつも真っ当なことを言う」という印象を持った。たまには、本を買おう。新しく書かれた本を読もう。そう思った。

 

入院中、この本を読んでいるとき、アメリカとイスラエルによるイラン攻撃が始まった。病院でスマートフォンを見るだけでは、どういう規模の話かいまいちわからなかった。

昭和生まれのテレビの子であるおれは、テレビがどのくらい報じるかでニュースの規模をはかる。

 

ただ、結局のところ退院して一ヶ月経ったいまも、これが戦争なのか、なにかべつの規模のものなのか、よくわからない。

ロシアによるウクライナ侵攻は「この時代に国家間戦争が起きるのか」というたいへん大きな驚きがあった。それで感覚が麻痺してしまったのか、自分には戦争というものがよくわからなくなってしまった。

アメリカによるベネズエラ攻撃も国家間戦争だったのか? そもそも戦争の定義とはなんだろう。おれには学がないので、そんなことも知らない。

 

そんなおれが『平和と愚かさ』を読んだ。とても難しい言葉で書かれていたらどうしよう、という思いはあった。

おれには読める本と読めない本の境目がわりとはっきりあって、たとえば同じ著者の『動物化するポストモダン』はまるで読めなかった。

 

一階建ての本と二階建ての本というものがあって、あれは二階建てだと思った。

しかし、『平和と愚かさ』は一階建てだった。これはおれの「感じ」の話だ。あと、読めるけど意味がわかったとはいえない「広すぎる一階建て」の本とかもある。いつか話そう。

 

いま平和を語りにくいわけ

話がそれた。話を戻す。『平和と愚かさ』の最初のほうに、こんなことが書かれている。

戦争はよくない。あらためて繰り返すが、それはじつに単純なメッセージだ。
にもかかわらず、ぼくがそんな単純なメッセージから本書を始めるのは、それこそがいま素直に思考し表明できなくなっているものだからである。

反戦ウサギの話に直結する話ではないか。そして、こう続く。

戦争はよくない、停戦するべきだ。開戦からしばらくのあいだ、そう発言するだけで、おまえはロシアの侵略を許容するのかと批判される状況が続いた。

少なくとも日本のSNSではそうだった。本書が出版される二〇二五年の時点では、多少状況は改善している。けれどもそれは戦争への関心そのものが落ちていることを示しているにすぎない。

またどこかで新たな戦争が起これば、やはり同じように、正義の側について戦うのか悪の側について戦わないのか、どちらかを選べという空気が支配的になるだろう。これはたいへん不自由な状況だ。そしてぼくはここにはとても重要な哲学的問題が隠されていると感じている。本書はその探究を主題としている。

ロシアの侵略からその空気はあった。そして、言葉どおり、新たに不自由な状況が生まれている。言葉通りだ。

なので、どういう立場からであれ、あのウサギの炎上に興味を持った人は、『平和と愚かさ』を読んでみるといい。その探究の本といってもいいからだ。おれの文章など読んでいないで、今すぐ買って、そして読め。以上。

 

……といって終わってもいいが、まあこちらはこちらで話を進めさせてもらう。

おれは先ほど、「戦争の定義を知らない」と書いた。なんらかの国際法に書いてあるかわからない。AIに聞いてみたら、1945年の国連憲章以来、国家間の戦争というもの自体が禁止されているので、明確に定義されていないと言ってきた。

国際人道法が問題にするのは「武力紛争」らしい。なので「宣戦布告」というものも存在しないらしい。今ならあいさつなしにパールハーバーに行ってもいいのだろうか。よくわからない。

 

本書では、現代においては平和とされている状況で行われている「認知戦」も、広義の戦争ではないかという考え方が紹介されていた。

ひょっとしたら、日本だってすでにネット上でどこかの国と戦争をしているのかもしれない。

 

そして、それゆえに「平和」が厄介な概念だという。認知戦まで戦争だとすると、平和とはなんだということになる。

戦争と平和を単純に対立させていいのだろうか。その境界はじつはあいまいではないのか。そこに、平和というものの概念に弱さがあるのではないか。

 

そこで著者は「平和とは戦争が欠けている」のだと定式化する。欠けているのは「思考」だとする。

多くのひとが平和だと感じる状況においては、ひとは戦争を戦っていないだけではない。そもそも戦争について考えていない。少なくとも考えないことが許されている。それが重要なのではないか。

平和の本質は戦争をしないことにあるのではない。戦力を放棄することにあるのでもない。戦争について考えないことが許されることにある。

だから逆に、いったん戦争が始まると、平和について語ることは原理的にはむずかしくなってしまう。戦争が始まるとは、すべての人が戦争について考えねばならなくなること、つまり戦争について考えないことが許されなくなることを意味するからだ。

これはとても具体的な話である。平和から戦争に移行するとは、「戦争について考えないことが許される」状態から、「みなが戦争について考えねばならない」状態に移行するということである。そしていったんそのような移行が完了してしまうと、もはやかつての平和は悪の放置にしか感じられなくなってしまう。なにも考えないで敵国民と共存し、平和を享受していた過去は欺瞞にしか感じられなくなってしまう。

ザ・ブルーハーツは「爆弾が落っこちるとき、すべての自由が死ぬとき」と歌った(と、思ったが、いま歌詞を確認したら微妙に記憶違いであった。なので、これは歌詞の無断使用にはあたらない)。

その自由のなかに、「戦争について考えない自由」も含まれる。なるほど、そういうことか。

 

そして、そこに平和についての大きな考えが示される。

平和は「考えないこと」の広がりで定義される。だから、平和について考えるとは、「考えない」ことについて考えるということでもある。

ほんとうに、そうなのだろうか?

たとえば、過去の戦争について加害者だった側が「考えない」ことは許されるのだろうか。

 

そのあたりについては、著者が旅(この著者の用語でいえば「観光」なのかな)をしながら考察しているので、そちらをあたってもらいたい。答えがあるとはいわないが、考えるきっかけはたくさんある。

さて、おれは「考えないことについて考える」という点について考えたい。

 

「妙好人」の境地

著者は「考えないことについて考える」ことを、「ほとんど自己矛盾のような作業」と書いている。

おれがそこで思い浮かべたのは、「禅問答みてえだな」だった。

 

おれは西洋哲学というものがわからない。いまはなんの時代だか知らないが、ポストモダンを学ぶには、モダンを知らなければならないだろう。

では、なにが近代を成立させたか、その前の時代を知らなくてはいけないだろう。西洋思想の基盤の一つであろうキリスト教について知らなくてはならないだろうし、古代ギリシア、ローマまで遡る必要があるだろう。おれは西洋哲学というものを学ぶ気力がない。

 

なので、まだ仏教思想の切れ端を読んでいるほうが楽だ。仏教にだって長い歴史、積み重ねがあるのだろうが、なんというか一階建てだ。

思想と宗教という違いがあるのかもしれない。たとえば、思想は思想でも東洋思想となって、自己矛盾にしても「絶対矛盾的自己同一」とかいわれると困る。

 

困るので、「禅問答」というところに落ち着く。そしてさらに、おれは禅から浄土真宗に飛んで、こんなフレーズが思い浮かんだ。

「たりきには じりきもなし たりきもなし ただ いちめんの たりきなり」

だれの言葉だろう。妙好人・浅原才市の言葉である。

 

妙好人とは、浄土宗、浄土真宗の在俗の篤信者のことを指す。修行に打ち込むでも、学識を積み上げるでもなく、一つの悟りのような境地にいたった人たちのことだ。

東方正教会には「聖なる愚者」という言葉があるが……それとはちょっと中身が違うな。でも、字面のイメージは近いかもしれない。妙好人はあくまで市井の人であり、そのあつい信仰と人柄によって周りの人から尊敬された人たちである。

 

それについて研究して本を出したりしたのが鈴木大拙だ。

「他力宗の生命は実にいかめしい学匠達や堂々たる建築の中に在るのでなくして、実は市井の人、無学文盲ともいわれ得る、賤が伏屋に起臥する人達の中に在る」という。曽我量深も小学校を出ただけのお百姓さんの日記を読み「ああいう立派な文章でも、内容でも、自分など書けるものではない」と書いた。

 

むろん、妙好人の味は鈴木大拙や曽我量深の研究文にはない。その言葉そのものにある。

いや、じっさいのところは、その人に接して生きるなかにあるのだろうが、周りにはいないし、残された文章で知るしかない。

 

話が長くなった。おれは平和について、さっきの浅原才市の言葉を連想した。

「平和には 戦争もなし 平和もなし ただ一面の平和なり」

 

戦争について考えないということは、行き着くところこういう境地ではないのか。そんなふうに思った。

平和について考えると、もはや「考える」の世界に入ってしまう。「考える」世界はより賢さが求められる。東浩紀はSNSとAIにより賢さへの強迫が加速しているのが今の時代だという。

そこでは「考えない」という平和は許されない。状況が状況であれば、「反戦」という「戦い」に参加しなくてはならない。

 

だから、平和すら考えない、それで済む、それが人類究極の目的かもしれない。そんなことを考えた。

 

……考えたが、それはあまりにも非現実的すぎる。ジョン・レノンくらいドリーマーだ。

人類全員がそんな境地に至ればいいが、そんなことはありえない。邪悪な人間がひとりでも出てきたら、なにも考えない人はあっさりとだまされてしまうし、世界が間違った方向に行ってしまうだろう。

 

たとえば、上の本に妙好人・小川仲造のこんな言葉が見受けられる。

◯此度も身こそろしやにゆかずとも、銃(つつ)はろしやにむけまする、心の国が一大事。
◯御国の為に、法の為、ここが御恩の報じどき、すすんで、てつだい、いたしましょ。

明治三十七年二月日露戦争んつき、国債応募のよろこび
よろこべよろこべ、もろともに、
ほとけが陛下と御出世か、
大臣軍人みな神か。
ろしやのあくまを、ごうぶくし、
せかいのわざわい、はらはんと、
とうとい御徳があらはれて、
あさ日が山ばにおあがりで、
せかいに光がかがやいた。

これでは、あまりよくない。

もちろん、彼らは知の人ではない。市井の雰囲気や報道を素直に信じ込んでしまう。

 

いや、知の人ですら、いざ戦争の世の中になるとどうなるかわからない。たとえば、日本で宗教の戦争協力というと神道のイメージがあるが、縁遠そうな浄土真宗ですら接近、合一してしまう。

政治と宗教を考える『親鸞と日本主義』を読む

 

「考えないことについて考えつつ考えないことにはおちいらない」。

その塩梅のむずかしさ。「政治的な思考停止の領域についての合意の広がり」の塩梅のむずかしさ。

 

それでもおれは、東浩紀の言う「考えないこと」の価値を論じることが重要であるという指摘を、単に「勉強したり、考えたりするのはめんどくせえな」(まあそれも本心であって、なおかつ許されるべきなのだが)と受け取るだけでなく、考えてみる価値があるものだと感じた。『妙好人』でも鈴木大拙がこう言っていた。

禅者の言葉に「教壊」というがある。これは、教育で却って人間が損なわれるの義である。その実、内面の空虚なものの多く出るのは、誠に教育の弊であるといわなくてはならぬ。

 

『平和の愚かさ』の帯には「ぼくたちは政治について語りすぎている。そのせいで平和から遠ざかっている」とある。

 

まあおれもSNSでブログでこのサイトで語りすぎているような気がする。なんならこの文章もそうだろう。

「高卒のわりにそこそこ賢いだろう」という態度が透けて見えるかもしれないし、それは正しい。

 

どうやってここから横超するのか。それは自力ではどうにもならぬから、他力本願といくしかないのか、考えていても答えは出ない。

ただ、おれが文章を書くのをやめないことだけはわかっている。

 

 

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(2026/4/7更新)

 

 

 

【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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