哲学的な問いです。

一人の時のアナタと、グループの一員として存在している時のアナタ。

果たして同じ人物と言って良いのでしょうか?

 

「当たり前じゃないか」と思うかもしれません。一人でいようが、集団の中にいようが自分は自分、どこにいても変わらない「自分」がいる。

ところが、そうとも言えないかもしれません。

実は、「一人の時のアナタ」と、「グループの一員としてのアナタ」は、異なる存在かもしれないのです。

 

「何を言ってるんだ。私はここにいる。ここに自分という存在がある」

普通はそう言うでしょう。

ところが、そう考えない人たちもいます。

 

その人達はこう考えています。

心は、自分の中には存在していない。実は人と人がやり取りをする、その間に心が立ち現れる

 

例えば、「昨日仕事で失敗したな,どうすればいいだろう」と悩んでいるとします。

一見、一人で悩んでいるだけにも見えますが、そもそも用いている言葉自体が,幼い頃から周囲とのやり取りから学んできた借り物であり、かつ上司や顧客らの顔を思い浮かべながら,彼らに応答しています。

それは「自分の中にある」と言うよりは、上司や顧客との関係の中に「自分というもの」の輪郭がが立ち上がってくるイメージではないでしょうか?

 

つまり、自己の境界は物理的な身体で区切られるのではなく,環境に広がっている、と言っても良いかもしれません。このような人間観を持つ人々を「関係論者」もしくは「状況論者」と呼びます。

彼らはまた、「知識」も心と同じように考えます。すなわち、知識は自分の中にあるのではなく、人と人とのやり取りの中に現れる、というのです。

 

この「関係論」を研究しているのが、青山学院大学社会情報学部の香川秀太先生です。

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―この「関係論」というのは、今ひとつピンときません。このペットボトルは、誰が触ってもペットボトルでしかないと思うのですが……

そうですね、具体的に話をしましょう。

これは「コイサンマン」という古いコメディ映画に出てくるワンシーンをもとにしたお話しです。ある白人パイロットが、アフリカの上空で、飲み終わったコーラの空き瓶を投げ捨てました。

 やがて、そこに住んでいた原住民がその瓶を見つけます。彼らはガラス瓶という素材を初めて見たのでした。そして、「これはきっと、天からの贈り物に違いない」と考え、「神様からの贈り物」としてそれを奉りました。

 それを見たほかの村の人々は、その「神聖なる贈り物」が羨ましくて仕方ありません。そして、一族でそれをめぐって争いが起こっていくという話です。

 

さて、振り返ります。ここにコーラの空き瓶がありました。

 飛行機から空き瓶を捨てた人物にとって、そのガラス瓶は「不要なもの」として意味づけされていました。しかし、原住民にとっては「神聖なる贈り物」という存在として意味づけされていきました。

 このように、同一のものを見ても、その人物が暮らす世界によって、意味や知識は変わります。「物に関する知識、意味」は、固定化されているわけではないのです。

 なお、ここで白人よりも原住民が劣っているなどということをもちろん言いたいわけではもちろんありません。あくまで、集団文化ややり取りによって、ものの意味が変化していくものを説明するのに使った一つの例です

 

このように、同一のものを見ても、その人物が暮らす世界によって、意味や知識は変わります。「物に関する知識、意味」は、固定化されているわけではないのです。

 

これは、日常的には馴染みがない考え方かもしれません。要は「この世は解釈次第、人の関係の数だけ世界がある」と言っても良いでしょう。

これが「関係論」です。

 

 

―愚問かもしれませんが、どういった応用が考えられるのですか?

端的に言うと、まわりとの関係によって自分が変わるのですから

「ある組織や集団におけるやり取りの質やパターンを、普段とは違う形に変えてみること」を通して,

「新しい意味の創造をすること」

「様々な制約やワクを越えること」

につながるのではないかと考えられているのです。

これにより、

「期待された正解に行き着く」や

「教わったことをテストで再現する」

などを目指すような教育の枠組みを超えて、教育の新しいあり方を探ることにつながる、というわけです。

 

 

―人との関係の中で、自分が定まる、ということですね。

そうです。例えば「輪読」という伝統的なグループワークの手法があります。

通常、メンバー一人一人が1章ずつ分担し、順に各章の要約した内容をレジメを使って発表していくルールをとります。ですが、ある時のゼミでは、そうした一般的なやり方を崩してみました。

その時は、全部で6章ある高度な理論本を、いきなり5章、しかも全員がそれだけ読んで、その中の気になる文章を三つだけ挙げて、各々のやり方でプレゼンしてもらって、それをもとにグループで対話していくというやり方をとりました。
途中の章だけ、しかも文章三つだけと断片的なので、素朴に考えると、浅い理解で終わりそうな気がします。

しかし、結果はその逆で、私からのヒントや介入なしにもかかわらず,学生同士の対話を通して、「劇場メタファ」や「弁証法」など、彼らにとって聞きなれないはずの重要概念をピックアップしながら各々の意味を探る発話が続きました。

指定した5章以外の内容が気になって他の章も自分から読んでくる学生が現れたり、「今の話、自分のところに関係するんで、次は自分が発表していいですか?」と発表の順番を入れ替えたりもしていました。

そうして、それら異なる概念と概念の間の意味のつながりやを見出し、最後には「すごい、全部の概念がつながってる!」という発言が現れました。

 

 

―教える側が意図していなかった事が起きる、ということもあるのでしょうか。

当然あります。むしろそれが狙いの一つでもあります。こう言った形でゼミをやると、意外なことの連続です。

他にも単にレポートを書くだけでは面白く無いので、レポートの課題を「未来の自分」と「誰かに向けての手紙」を授業で得られた知識を使って書いてください、ということもやりました。

 

 

―どんな結果になったんですか?

ある男子学生は、学校の教室風に学ランを着て、先生と生徒役になってレポートを発表していました。

別の女子学生は、男子学生宛に手紙を書いたのですが、「女子から男子は恥ずかしいから、男子役になって手紙を読みます」と宣言して、レポートを読んでいました。

図1

単なるレポートの発表ですが、「即興劇」のように行うことで、普通にレポートを提出するだけでは得られないような鋭い意見や考察が出てきていたと思います。

これも一つの「学習」の姿ではないでしょうか。

 

 

―なるほど、そうすると学校のレポートは絶対に「コピペ」にはならないですね。

そうです。

他にも事例があります。若年層を相手にユニークな社会活動を展開しているPIECESという団体があり、大人と子どもをマッチングさせて学校にはない学習環境をつくることを実践していて、私も関わっています。

あるとき、その団体から、将来スタイリストになることに関心がある男子高校生S君を紹介されました。

一方で、たまたま私の研究室に所属する卒研生の中に、プロの指導を受け、かなり本格的なファッションショーを行うサークルに所属している学生が二人いて、一人がモデルとして、もう一人はDJとして活動していました。

そこで、私たちが卒研生に、「高校生と一緒にショーを企画してみない?」と持ち掛けたのですが、卒研生は最初、自分たちの高度なショーをイメージして「人手が足りない」「無理だ」「できない」という応答でした。

しかし、その後、ショーに関しては全く素人である、後輩の3年生や高校生らも企画作りに加わると、卒研生たちも乗り気になり、彼らのサークルとは全く違う色のオリジナルのショー(全員参加型ファッションショー)ができあがりました。

図2

 

これは非常に興味深い事例です。

まず、卒研生、PIECES、高校生,3年生、さらに私という、立場も経験も考え方も異なる人々が、「ショーの企画」という共通の対象を結節点として、新たにつながった、もしくはつながりを再編したということ。

またこのとき、互いの「資源」で使えそうなものを掘り起こしながら交換していったということ。

資源とは、培ったスキルや経験だけでなく、「やったことがない」ということも逆に資源になりえることがわかりました。様々な人々が混ざることで、卒研生が感じていた「無理だ」という限界感情を乗り越えることもできたのです。
この「限界感情」は卒研生だけでなく、高校生も、3年生も、団体の方も、そして私も当初感じていたものです。「実現できるかどうかわからない」「自分だけではできない」という感情ですね。
活動が行き詰ったときが、むしろ創造的飛躍のチャンス。それを示した一つの事例ではないかと思っています。もちろん、こうしたことは、若年層支援やゼミの活動に限らず、様々な組織や活動に言えることです。

 

 

―かなり変わったテーマでの研究ですが、先生はどのようにこの道に入られたのですか?

高校生の時に遡るのですが……。当時受けていた受験教育に疑問を持ったのがきっかけかもしれません。当時、学ぶことの本質が問われないまま、偏差値や点数が軸となって様々なヒエラルキーが決まっていく姿に強い疑問を持ちました。

たとえば、ある授業で、先生からAかBかの選択肢を与えられた時、「どちらでもない」と答えて、違う問い方が必要ではないかといったような論述してしまい、ゼロ点をつけられ、先生に怒られたこともありました。まあ面倒くさい生徒ですね(笑

 

ですが、今思えば学問の世界ならば「問い方」を「問う」ようなことはよく行われますし、このときはなぜ叱られたのかがよく分かりませんでした(笑)そういったところからです。「学習」に興味を持ちだしたのは。

 

―大学では何を勉強されたのですか?やはり「教育学」を専攻されたのでしょうか?

「教育学」というより、もっと「心とは何か」の本質を知りたいと思い、「心理学」を専攻しました。そこで出会ったある先生が、こんなことを言ってたんです。

「心」とは内面のことではなく、人間同士の関係の中に立ち上がるものだ。

と。えらくそれに感銘を受けまして……。この道にすすんだ、というわけです。

 

―高校の時の体験が、大きな影響を今に及ぼしているのですね。

そうです。

 

 

―香川先生、どうもありがとうございました!ご興味のある方は、こちらのページよりコンタクトをお取りください。

 

関連する文献
越境やネットワークと学習の詳細は、香川秀太・青山征彦編「越境する対話と学び:異質な人・組織・コミュニティをつなぐ」(新曜社)を、インプロについては、ロイス・ホルツマン著/茂呂雄二訳「遊ぶヴィゴツキー:生成の心理学へ」をご参照ください。

 

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