定年後 50歳からの生き方、終わり方 (中公新書) | 楠木新という本がある。
定年後 50歳からの生き方、終わり方 (中公新書)
- 楠木新
- 中央公論新社
- 価格¥841(2025/03/30 22:38時点)
- 発売日2017/04/25
- 商品ランキング17,711位
この本は40代でうつ病を発症し、会社で働く事の意味を見失った著者による定年後のリアルを書いたものだ。
著者いわく、定年後に自由を手に入れたとしても、実際に定年生活を楽しめる人は全体の15%しかいないという。
残り85%の人間は退職すると、最初は溢れんばかりの開放感に浸るものの、その後は退屈で全く楽しくない生活を送るようになるのだそうだ。
僕はこの本を読み思ったのは「ああ…これがFIREのリアルなんだろうなぁ」である。
FIREは蜃気楼のようなもので、それを追い求めている時は幸せだが、実際にやってみると、その実態は重い。純粋に時間だけを与えられて、それを有効活用するのは非常に難しい。最初の頃は遊んだりしていると「最高だな!」となるものの、そのうち遊びは飽きる。
時間を与えられ、それを有効活用する事ができる人は、時間の使い方を身につけられた人だけだ。
故に楠木新さんはこの本の中で、サラリーマンをやりつつも同時並行でライフワークの獲得に勤しむ事を推奨されている。
それを手人れる事ができた人だけが、定年退職後に与えられる黄金のように自由な10年間を本当の意味で楽しめるというのである。
勤め人は意外と学びが多い
この本が面白いのは、そうやって自分自身の人生のライフワークが獲得できるようになると、逆にそれまで全く何の面白みも見いだせなかったサラリーマンという職業にありがたさを感じられるようになると説いている点にある。
例えば何らかの発表の機会を与えられるという事は、人前で喋る事の練習になるし、会社で様々な人間関係の調整を経験する事で、様々な人間の行動原理を間接的に理解し、周囲の人間とどうやって上手くやっていけるかを修練できるというわけである。
勤め人は成長の機会が豊富で、それらは会社という組織が無ければまず得られないような性質のものだというこの意見を聞いた時、僕は目からウロコが落ちるような気分になった。その観点を手に入れてから、僕は会社で組織人をやるのをやっと楽しめるようになった。
仕事の報酬は仕事である
様々な仕事を与えられると、やる前までは物凄く億劫でも、それが終われば必ず何らかの学びや満足感が得られるという事に何となく気がついてはいた。
とはいえ、以前まではそういった仕事について「やろうがやらまいが給与に変化がないのなら、やる意味などなくないか?」としか考えられなかった為、労働がどうにも好きにはなれなかった。
ただ、最近になって「仕事の報酬は仕事であり、それを通じて成長過程を楽しめる事に、真の意義がある」と気がつけるようになり、働く事を嫌に思わなくなってきた。そこに時給が発生するかしないかは考えるだけ無駄であり、自分自身が精神的に成長できるのなら、全ての仕事には意味はあるのである。
実際、何かを本当の意味で真面目にやりたいのなら、そこにカネは意識しないほうがよい。これを他の例で例えるのなら、義務教育期間中の部活動なんかはその最たるものだろう。
部活は純粋に考えれば、どう考えても家で勉強していたり、アルバイトにでも勤しんでいた方が、カネという観点だけで言えば明らかに期待値は高い。
しかしこの年になると、カネを目的に勤しんでいた事に対する思い出は妙に薄い。逆に部活はやっている時は大変な思いしかしなかったように記憶しているのだが、中年になってからそれを思い出すと、温かで心地よさを感じるのだから、不思議なものだ。
苦労を乗り越えることでしか、人は自分自身を自由にはできない
もちろんこれは、苦労した思い出を美化しているという事もあるとは思う。ただ、それ以上に最近になって自分が実感するのは、結局は人間が強くなるという事は、何らかの面倒な試練を乗り越えるという事と同義だという事である。
例えばつい先週、自分は大雨の中、フルマラソンを完走した。
この日は寒く、雨もそれなりには降っていたので、ぶっちゃけ最初は出場しないでおこうかと迷ったのだが、せっかく申し込んだという事もあるし、とりあえず行くかと家を出た。
そうやって会場についてみると…似たような考えの人が多かったからなのか、意外と参加者は多く、会場には人の山ができていた。
結局、僕はそのままマラソンを走りきり、結果として「大雨の中でフルマラソンを完走するという事がどういう事なのか」を肌感覚で理解した。
この行為をどう評するかは、本当に人それぞれだろう。ある人は参加費を払って42キロも走って、休日を潰す愚かな行為と言うかもしれない。僕自身も数年前まではそういってこの行為を馬鹿にしていたように思う。
しかし走った当人の中では、これが実にいい思い出なのである。バタバタと周りの人が低体温でリタイアしていく中で、寒さに震えながらギリギリで完走まで出来た事は大変に幸運な事だったと思うし、この試練を乗り越えた事で、どんなに面倒な仕事を与えられようが
「ま、あの日の雨のフルマラソンよりは、こんなのは楽勝だろう」
と、いい意味での自分の中での比較対象が作れたなと思う。少なくとも、これからは晴れの日のフルマラソンが、以前とは比べ物にならない位には楽に感じられるだろう事は間違いない。
何を自分自身がカッコいいと思うかが、鍵なのだろう
なぜ、雨の中でも負けずにフルマラソンを走りきった事がいい思い出になっているのかといえば、極論すればそれを自分が自分でカッコいい事だと思っているからだろう。
人間は自分自身がカッコいいと思っている事はイキイキとやれるが、カッコ悪い事は誇らしくは出来ない。
それ故に、困難を乗り越えたという思い出は、カッコいい自分が想起されるだけに、懐かしさのようなものを感じ取りやすい。逆に試練から逃げたり、楽をしてしまったという思いは、恥ずかしい事として記憶の奥底に追いやられてしまう。
自己肯定感やら自尊心というものは、結局は自分で自分の事を誇れるかという問題に帰着する。だから大体の面倒くさい事は、それを乗り越えればカッコいい自分が手に入るので、やるメリットがある。
逆に面倒事から逃げ出す事は、恥ずかしい行いなので、それを良い思い出とするのは難しい。
恐らくそれをやり続けていくと、被害者意識だけが拗れる事になり、最後の最後には性格が悪くなって、自分を含めて誰からも尊敬されない存在に成り下がるだけだろう。誰もがそういう人間を、一人か二人は思い浮かべられるのではないだろうか?
だから個人的には、面倒事は面倒でも自分に降りてきてしまったのなら、キチンと自分で処理をした方がよいように思う。何らかの理由をつけて眼の前の課題から逃げ出す事は、少なくとも良い思い出にはなるまい。
良い思い出にならないような事は、自分の人生を全く豊かにはしない。それこそ、人生でも最たる”時間の無駄”である。
何かをやってみてわかる事は、本当に人それぞれ。だから万人向けの言語化はできない
試練は自分自身の中での武勇伝のようなものとなるだけでなく、それを乗り越える過程で様々な知恵や技術も身につく。
そういう生きた知恵は、残念ながらソファに座って本を眺めているだけでは決して身につかないし、生きた知恵を手に入れる事で世の中の見え方は随分と変わる。
例えば結婚して子供を作り、家庭を築き上げるという事は、純粋な金銭・体力的な観点だけで言えば明らかに徒労的な行いだが、実際にやってみてこれを心の底から後悔したという人を、僕は見たことがない。
夫婦付き合いは独り身と比較すれば気苦労も多いが、パートナーの考えをお互いに影響を与えながら受け取れるという事の価値は人生を2人分やるぐらいの価値があるし、子供に純粋な好意を向けられると、こんなにも純真に人に慕われるという事が満たされるものなのかと、大変に味わい深い。
面白い事に、こういう頭で考えると苦労だけが多そうな事というものをやる意味というのは、誰かに聞いてもあまりスッと心の中に染み入るような答えは手に入らないのである。
自分も昔は何で誰も子供を持つことがこんなにも楽しいし無限に語り尽くせるような事なのに、みんな
「子供は作った方がいいよ」
ぐらいのフワッとしたワードしか出せないのだろう?と疑問だったのだが、最近になって意味や意義というのは、試練を通過した人それぞれが手に入れる個性的な答えでしかなく、そこに一般回答のようなものは無いのだと気がついた。
意味や意義にすら、個性は出る
面白い小説や漫画を読んで他人の感想を聞くのが楽しいのは、それが自分にはまず無い観点から語られた感想だからに他ならない。
試練や苦労を乗り越えて眺める風景もまさにそうで、意味や意義は通過した人だけが自分自身が100%納得できるだけの答えを手にする事ができる。
そう、何かをやる意味や意義というものにすら、実は個性は出るのである。だからよくわからないけど、多くの人がやっている事は、あまり小難しく考えすぎずにやってみた方がよい。それをやる意味は、やり終わってから納得できる答えという形で手に入る。
そうして手に入れた答えを自分の人生録として蓄積し続けていくと、そのうちある程度のボリュームにまとまってきて、それが自分自身の人生の軌跡として眺められるようになる。
僕はこれこそが、結局のところ丁寧に生きる意味の集大成だと思う。
人生の軌跡を誇らしく愛でられるのは、真面目に人生をコツコツやった人間だけの特権である。かつ、それは絶対にお金では買えない唯一無二のものだ。むしろお金を稼ぎきってしまった後でも実績を有意義に積みたせる、素晴らしい指標だとも言える。
生きる意味を事前に見出すのは凡人には難しいが、生きた意味なら積み上げた軌跡が全てを物語る。
そうやって最後まで丁寧に誠実に自分自身の物語を組み上げて、自分の人生を自分で誇らしく思えるようになった時、人は初めて自分自身の生の意味のようなものを知るのだと僕は思う。
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コピーライター / ワークワンダース株式会社 取締役CPO(Chief Prompt Officer)
武蔵野大学アントレプレナーシップ学部 教授
代表作:ジョージア「世界は誰かの仕事でできている。」、タウンワーク「バイトするなら、タウンワーク。」ほか
著書『「言葉にできる」は武器になる。』(シリーズ累計35万部)
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(2025/3/18更新)
【著者プロフィール】
都内で勤務医としてまったり生活中。
趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。
twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように
noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます
Photo by:Nathan Dumlao