アヒル口という言葉は、すでに下火になっているのか。
時勢に疎い人間だから、そのあたりはわからない。
しかし、とりあえず定義しておこう。
アヒル口というのは、おもに人間の若い女が、自分のくちびるをアヒルの口に近づけようとする行為のことである。なぜそのような行為をするのか?
口の形をアヒルに似せることで、他人にカワイイという印象を与えることが可能になり、異性および同性からの評価が上昇するからだ。以上、定義終わり。
なぜ突然、アヒル口の話などするのか。
スタバでアヒル口をしている女を見かけたからだ。それが強烈なアヒル口だった。強い意志によって維持された不自然なアヒル口だった。私は感動とともに凝視してしまった。だから書いておきたいのだ。
言うまでもないことだが、人間はアヒルではない。よって、アヒルのような口を実現・維持するためには、不断の努力が必要とされる。自分ではない何者かになろうとする行為、それは基本的に何らかの無理を通そうとする行為だが、人類ですらないもの(鳥類)に近付こうとするのだから、そこに努力があるのは当然だろう。
さらに、アヒルのような口を作るにも向き不向きがあり、私がスタバで見た女は、生まれつきアヒル口に向いていなかった。それでも、「私はアヒル口をせねばならぬ」という思いこみ、いや、強迫観念はあるようだった。
結果、女は口まわりの筋肉を不自然に緊張させていた。上くちびるがめくれていた。下くちびるもめくれていた。口元に何本もしわが寄っていた。そのすべてが口まわりの筋肉が酷使されていることを伝えていた。どちらかといえば、それはアントニオ猪木の口元に似ていた。カワイイというよりはコワイ。それが正直な感想だった。「鬼気迫る」という表現が本当にしっくりくるのだ。
不自然な口元を維持したまま、女はカウンター前でドリンクの完成を待っていた。私は釘付けになっていた。女はドリンクを受け取り、店員と笑顔をかわした。瞬間、口元はさらに猪木に似た。女は強い意志でアヒル口を維持したまま店内奥に消えていった。私はその後ろ姿を見つめていた。頭のなかで『燃える闘魂』が流れ続けていた。
さて、これは笑い話だろうか?
チンピラになろうとして修行僧になった男
最初、私は女の姿を面白がっていた。それは否定できない。しかしすぐにゾッとした。自分の過去の失敗を思い出したからだ。といっても、アヒル口になろうと努力していたわけではない。私は三十すぎの男だ。カワイイの獲得に興味はない。
数年前、発作的に坊主にしたことがあった。同時にアゴひげも生やしはじめた。眉毛も薄く剃っていた。「マッチョでいかつい男」にあこがれていたからだ。しかし私はヤセ型で、肩幅がせまく、胸板もうすい。当時はとくにそうだった。身長172cmで体重52kg。そんな状態で「いかつい男」のうわべだけを真似ようとした。
結果、私は修行僧のような見た目になっていた。ガリガリなのに坊主でアゴひげを生やせばそうなる。自分の中のイメージは「厄介な街のチンピラ」だったんだが、客観的に見れば、「断食修行もいよいよ佳境」という感じだっただろう。
あらためて自分に問いかけた。
強い意志でアヒル口を維持する女を、私は笑えるか?
アヒルと修行僧に共通するあやまち
人は「イメージ」に幻惑される。私たちはいつも外見を「どこかで見たイメージ」に合わせようと努力している。そして、その努力が見当違いなものだったとき、あの女のアヒル口や私の修行僧のような「まぬけな姿」が生まれるのだろう。
「センスがいい人」に関する個人的な定義がある。「自分に馴染むもの」をしっかりと理解している人のことだ。メディアに流通する無数のイメージに幻惑されない人。自分の外見、自分の性格が最初にあって、それに似合うものを適切に選ぶことのできる人。そんな人を見ると、ふっと緊張がとけた気持ちになる。そこに「無理」がなく、控え目でさりげない美しさが感じられるからだ。
強い意志でアヒル口を維持する女に欠けていたもの。チンピラになろうとして修行僧になった私に欠けていたもの。それは「自分からはじめる」という当り前のことだ。女はアヒルからはじめた。私はチンピラからはじめた。人生というすごろくは「自分」からはじめるしかないのに。
だから私は、数年前の自分の姿、修行僧のようになった姿で女に話しかけたかった。もちろんこれは空想にすぎない。しかし、ガリガリのまま坊主になり、アゴひげを伸ばし、眉毛まで剃った姿で彼女に話しかけたかった。「あなたは私と同じ過ちをおかしています」と。「口元の緊張をゆるめなさい」と。「置かれた場所で咲きなさい」と。
「アヒルのことは、アヒルに任せておきなさい」と。
そしたら彼女は言うだろう。
「偉いお坊さんなんですか?」と。
私は答えるだろう。
「いや、ただのチンピラの失敗作です」と。
結果的に妙な勘違いをされた可能性は高いが、話しかけたかった。自分から始めましょう、と。
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著者名:上田 啓太
1984年生 京都在住 居候&執筆業
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