ちょっととりとめもない話をさせて欲しい。
バーの二階に住んでいたことがある。まだ高校時代、名古屋にいた頃だから、20年くらい前の話だ。
6畳の和室、狭い部屋だった。風呂なし、シャワーなし、トイレはバーのトイレと共用だが、夜バーが開いている間は使えないので、わざわざ近所の公園のトイレを使わなくてはいけなかった。
シャワーについては、学校のシャワー室に私用のシャンプーを持ち込んでそこで済ませていた。稀に銭湯に行くこともあった。
当時の私は、ちょっとした事情で、親元から離れて暮らしていた。
下手をすると学生の分際でホームレスになりかねないところだったのだが、友人からの人づてでそのバーのマスターを紹介してもらっていて、バーの2階に転がり込ませてもらった。
元々はバーの仮眠所だか、店員の部屋だかだったらしいのだが、光熱費に毛の生えた程度の家賃で住ませてもらっていた。
当時の私は、草の根BBSからのツテでゴーストライターのような仕事をさせてもらっており、一応それで最低限の生活が出来る程度の収入はあった。
それでも、当時マスターに会えていなかったら、今頃私がどうなっていたかは分からない。
人間というのは、どこですっ転んで、どこで救われることになるのか分からないものだとつくづく思う。なるべく誠実に人と接してさえいれば、どこかですっ転ぶことになってもまあなんとかなるという、私の基本認識はここで出来たものである。
マスターは、多分当時にしては珍しく、同性愛者であることを公言している人だった。初めてあった自己紹介の時にそう言われたので、正直ちょっと驚いた。
LGBT、という言葉はまだ当時一般的でなかったように思うが、ゲイという言葉はその時知った。店は名古屋駅の近く、と言ってしまうとバーを特定出来てしまう人もいるかも知れないが、まあ今更構わないだろう。
マスターにはパートナーがおり、普段はそのパートナーと一緒に暮らしていたようで、バーにいる時は常に仕事モードだった。当時、まだ40にならないくらいだったのだと思う。
私は、多分一度も、マスターの私生活姿というものを見たことがない。マスターも、私の私生活には何の興味もなかったようで、「店に火ぃつけなければ何やっててもいい」というのが彼の口癖だった。
幸いにして、私の部屋にはガスコンロどころかエアコンやストーブすらなかった。冬はやたら寒かったし、夏はやたら暑かった。
バーは、昼には定食屋のようなこともやっており、といってもメニューはカレーとチキンライス他数点だったが、私もちょこちょこ店を手伝うことがあった。
そんな時には近所の水商売のお姉さんたちが食事に来ることがあり、私のような小僧がいるのは珍しかったのか、時折客の愚痴やら仕事の愚痴を聞かされることもあった。
当時の私はわけもわからず、半口を開けてほへーと聞いているばかりだった。随分過激な話を聞いた気もするが、まあ昔の話だ。
カウンター席が6つと、小さなテーブルが3,4席という、小さなバーだった。タイだかバリだかベトナムだか、東南アジアの色んな木像のようなものが飾っており、よくわからない雰囲気だったと思う。
数人で来るお客さんというのはほぼおらず、1人か2人で飲みにくるお客さんというのが殆どだった。必然、マスターとお客さんが話す機会が増える。当時の常連さんは、大体がマスターに愚痴を聞かせにくるお客さんだったのではないだろうか。
マスターは、相手が話したがっているのか、そうでないのかを見分けるのが天才的に上手い人だった、と思う。
マスターに言わせると、「聞き上手でないとバーのマスターなんてできない」ということらしいのだが、彼の考える「聞き上手の定義」は、「聞くのをやめることも出来る人」だった。
「会話というのは、欲求の読み合い」というのが彼の言葉だ。
どこまで話したいのか。どこまで聞いて欲しいのか。どこからは話したくないのか。それは結局、考えと考えを交錯させたいという「欲求」であって、時には本人も自覚していなかったりする。
会話の中で、「ここまでは聞く」「ここからは話させる」「ここから先まではいかない」という線引きが出来ることが「聞き上手」ということだ、と、マスターはそんな風に言っていた。
それをどう見分けるのかはよく分からなったし、正直今でもよく分からないのだけれど。
バブルがはじけた後の、長い景気後退期だった。バーのお客は、じりじりじりじりと、潮がゆっくりと退くように減っていった。
冬は寒くて夏は暑いそのバーの2階で、私はゲームをやったり勉強したり、時折水商売のお姉さんの愚痴を聞いたりしていた。色々大変だったが、人生初めて親元を離れていたこともあり、底抜けに楽しい時期でもあったと思う。
ある春、私は何かの間違いで大学に受かり、東京に行くことになった。
「ありがとうございましたホント」と、私はマスターに言った。
「よくあんなクソ部屋にこんな長いこといたね」というのがマスターの返事だった。
その内、余裕が出来たら挨拶に来ますから。
酒飲めるようになったら飲みにきたらいいよ。金はとるけど。
これが、私とマスターが交わした、最後の会話だ。
そのずっと後、7,8年ぶりくらいに名古屋駅を訪れた時、駅の周辺は全く様変わりしていた。
名古屋駅の裏には見たこともないでかいデパート(確か生活倉庫だった。今はもうない筈だ)が出来ており、私が一時期暮らしたバーは影も形もなかった。
バーの電話番号は勿論つながらず、当初マスターを紹介してくれた友人の連絡先も分からなかった。
そして、つい最近、本当にひょんなことから、マスターが亡くなったことを知った。もう1年以上前のことだそうだ。
私にマスターの訃報を教えてくれた人は、ずっと名古屋に住んでいる仕事の関係の人で、そのバーにも行ったことがある人だった。
不景気で店を畳んだマスターは、また別のバーで、恐らく雇われマスターとして働いていたということだが、ある時何かの病気で入院して、そのまま亡くなった、ということらしい。
あーー、と思った。
私は結局、「余裕が出来た」後もマスターの店に行くことが出来なかった。マスターも、間違いなく私の人生を救ってくれた恩人の一人であって、一度くらいお礼を言いにいきたかった。
また一つ、守れなかった約束を増やしてしまった。生きるということは、「また会える」という可能性に、一つ一つ墓を建てていくことでもあるのかも知れない。
一つの訃報を聞いて、心の整理をすると共に、マスターのことをどこかに書き残しておきたくなった。
こんな人が、ある時こんなところにいたんだ、と。
こんな生活が、ある時あんな場所にあったんだ、と。
その程度のことを、どこかで誰かが心に残して頂けるのであれば、幸いなことこの上ない。
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【プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
(Photo:Garrett Ziegler)