私はいろんな土地の景色を見るのが好きだ。
その土地の子どもの暮らしを眺めるのも、日帰り温泉や居酒屋に立ち寄って地元の人の話を聞くのも好きだ。
東京湾岸のタワーマンションが林立するエリアには立派な公園が併設されていて、週末ともなると親子連れの姿で賑わう。
高収入な人達が住んでいるためか、ラフではあってもなかなかオシャレな恰好をしたお父さんお母さんで、子ども達の服装にも行き届きが感じられる。
公園のつくりも洒落ていて、木で出来た遊具、曲線的で高低差のつくられた広場などは、遊び甲斐があるようにみえる。実際、そういった遊具を子ども達は楽しんでいる。
タワーマンションエリアのコンビニも面白い。
コンビニの看板が目立たないのも趣深いが、置いてあるアルコール類の“意識が高い”。
オーガニックなビール。どれを飲んでも美味そうなスパークリングワイン。こういった品揃えは、住んでいる人間の嗜好を反映しているのだろう。
つまり、このタワーマンションの住人は、スパークリングワインの良し悪しや値打ちがだいたいわかっている。
少し陸地に入った巨大マンション群も、観ていて美しい。
計画的につくられた道路網には余裕があり、緑が溢れている。
首都圏の緑、特に新興のマンションの緑は「人工的」と批判されることもあるが、地方の郊外の緑だって大半は「人工的」だ。棲む側としては、美しい並木道であればそれで良いのである。首都圏の緑でも、夏になれば蝉が鳴き、秋になればコオロギが鳴く。そのうえ冬にはLEDの灯りがきらめく。
巨大マンション群の合間の土地には、小さな居酒屋・美容院・パン屋といったお店が並んでいて、土地区画がキチンとしているおかげか西洋の街並みのように整然としている。
その整然とした街並みを、これまた整然とした服装の中高生が行き来している。
だからといって、私が暮らしているような、地方郊外の生活空間がダメだと言いたいわけでもない。
空き家が目立って隙間も多い雑然とした旧市街と、曲線的な道路に沿って一戸建て住宅が並ぶ新市街が混じり合って、地方の郊外には一種独特な風情ができあがっている。
近所の寺社には伝統が残り、数百年をなんなんとする祭事が今でも執り行われている。地元の子どもは旧市街も新市街も合同で祭事に参加して、その土地の風習や文化を吸い込んでいく。
言うまでもないことだが、こうした地方郊外で住まいにかかるコストは大都市圏の比ではないし、待機児童問題などどこ吹く風である。
いずれも、良いところもあれば、悪いところもある
ここまでは良いところばかりを挙げてきたが、良いところと悪いところは表裏一体だ。
確かに湾岸のタワーマンション暮らしは豊かさに満ちている。
子育て環境としてたくさんの工夫が為されているし、稽古事や塾の選択肢もたくさんあるだろう。
反面、住まいそのものも含めて、あまりにも高コスト体質過ぎるそれは、圧倒的な高収入が約束されていなければ維持できないわけで、華やかな生活環境で暮らし続けるために必要な資質は並大抵ではない。
途中で働けなくなったら“都落ち”せざるを得なくなるだろう。
彼らの暮らしぶりが羨ましくもあるが、ガラスのロープの上に成り立った繁栄というか、親御さん達の背負っているものの大きさを思うと、大変だなぁと思わずにいられない。
急激にマンションが林立したエリアでは保育園の不足も深刻で、待機児童問題にも直面しなければならない。
いや、これとて札束さえあれば解決できるのかもしれないが、なにもかも札束頼みというのも、それはそれで一般庶民にはキツい。
また、湾岸部に限らず、新興の秩序だった生活環境はどこでも、隙間というものが感じられない。
「ここは大人と子どもが一緒になって過ごす場所」
「ここは子どもが通う場所」
「ここは大人が運動する場所」……と、すべてが棲み分けられている。
棲み分けられているということは、意想外の出会いが起こらないし、考えに入れられていないということでもある。
そういった棲み分けが、新興の生活空間に秩序と快適さを提供しているのは間違いなかろうが、子ども時代のうちに雑多な環境を雑多に体験する度合いは、昔の市街地や集落とは比較するべくもない。
地方なら子どもが育てやすいかというと、さあ、どうだろう?
さきほど私は、地方には土地の風習や文化が残っていると書いたが、旧市街と新市街が重なり合うような地域では、たいてい、それらは過去の残滓であり、形骸化した何かでしかない。
山間部や離島地域に行けば気合いの入った風習や文化が残っているが、そのような地域は過疎化が不可避となっているし、風習や文化が本物であるだけにしがらみも大きい。
また、少子高齢化に伴う「少ない若者がたくさんの高齢者を支える構図」を辛い意味で先取りしているというのもある。
地方では住宅にかかる費用が少ないのは本当だし、都会の山の手に比べれば衣類や食品にかかる費用もおそらく安上がりだろう。
そのかわり収入も少なめだし、生活には自動車が不可欠だし、子どもに何かを習得させたければ結局のところ有料となる。
地方の子どもなら、自由に外遊びができると思ったら大間違いだ。都会の公園よりもずっと狭くて貧相な公園で、すし詰めになったように遊ぶ、地方の子ども達。
「街の子どもは、街全体を遊び場として好きなように遊んで構わない」という、途上国では当たり前の風習は、現在の日本のほとんどの地域で禁止されている。
地方には空き地や雑木林や沼沢地などがまだまだ残っているが、そこは危ないとか、そこは私有地だとか、責任はどうなるんだとかいった諸々の決め事によって、それらは子どもの生活空間から切り離されている。
子どもの側も、禁じられた遊びを抑圧と自覚することすらなく、あらかじめ棲み分けられた空間の秩序を当然のものとして毎日を生きている。
だから、「地方では生活コストが、ひいては子育てにかかるコストが小さい」というのは一面としては事実でも、子どもを無料で放っておいても何かを学び取って成長してくれるほど都合が良いわけではないのだ。
少なくとも、私が小学生時代に地域から学び取ったほどには、スキルやノウハウを吸収できるわけではない。
地方は地方でも、まだ牛や馬を飼っているようなド田舎に行けば、子どもが山野を自由に駆け巡れる風習が残り、棲み分けの秩序も緩いのかもしれない。
とはいえ、そこまで田舎に引っ込むと仕事もモノもなくなるし、山野には、熊や猿やイノシシといったそれなり危険な動物が、かなりの頻度で出没する。
「住めば都」が一番。
結局、都会には都会のメリットとデメリットがあり、地方には地方のメリットやデメリットがある。
どこに住んでいるのであれ、カネやコネや知識やコミュニケーション能力を持っている人間が暮らしやすく、持っていない人間が暮らしにくいという点は変わらない。
むろん、都心のタワーマンションで暮らしやすい人間と、牛や馬を飼っているようなド田舎で暮らしやすい人間では、求められるリソースに違いはあるだろう。
だが、どちらにせよ、隣の芝は第一印象ほどには青々とはしていないし、メリットだけを見て引っ越しする人は、その土地の思わぬデメリットに不意打ちされかねない。
タワマンでよろしくやっている親子も、郊外でウェイウェイしている親子も、大自然に囲まれて暮らしている親子も、それぞれの境遇に見合った苦労を重ねながら、それぞれのメリットを享受している。
それでいいのだろうし、そういうものなのだろう。よほどのトラブルに見舞われているのでない限り、「子育てしやすい地域」なんてのは空想上の存在だと割り切って、いま自分達が暮らしている土地、いままさに子どもが育っている土地を愛して、そこに最適化していくのが、精神衛生上も社会適応上も好ましいように思う。
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(文責-ティネクト株式会社 取締役 倉増京平)
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。
twitter:@twit_shirokuma ブログ:『シロクマの屑籠』
(Photo:Jeremy Brooks)