「他サイトおすすめ記事」とは?
このページは、Books&Apps編集部メンバーが特にお気に入りだという記事を、ピックアップしたリンク集です。このキュレーションには3つのルールがあります。

1.個人ブログ、マイナーサイトなどからキュレーションする。大手メディアからはキュレーションしない。
2.個人が本当にオモシロイと思ったものだけを掲載する
3.記事が書かれた時代に関わりなくキュレーションする(古い記事もキュレーションする)

公式Twitter(@Books_Apps)でも毎日発信しています。フォローして頂ければ「他サイトおすすめ記事」を毎日受け取ることができます。

どうか楽しんでいただければ幸いです。
Books&Apps編集部

最近、クライアントの注文で、私は「生産性向上」について、ドラッカーの文献を読みなおしていた。

そこで大変な驚きがあった。

 

世の中で一般的に認識、議論されている

「仕事を早くやって生産性をあげましょう、残業減らしましょう」

は、実は、肉体労働時代の生産性向上のやりかただったのだ。

 

ドラッカーが主張している知識労働時代の生産性向上は、それとかなり大きな隔たりがある。

すなわち、生産性向上は「個人の努力」より「経営判断」で成し遂げられる、という事実だ。

 

あまりにも驚いたので、それについて、書いてみたい。

 

「生産性を向上させよう」に反発する人々

Twitterで、中曽根さんの死去に伴い、「国鉄の民営化」の功罪について議論が紛糾しているのを見た。

そのなかでとくに目を引いたのが、東大の先生の「「生産性の向上」というスローガンを敵視していた人が結構いた」という発言だ。

言われてみれば、この「生産性向上への強い反発」には、私も覚えがある。

 

例えば昔、品質マネジメントのプロジェクトで行った、ある製造業では、部長から

「生産性とか効率とか言う言葉は、極力避けてください。」

と言われたのは、良い思い出だ。

 

「なぜですか?」と聞くと、

「労働強化と捉えられかねません」という。

 

私は不思議に思って尋ねた。

「生産性を向上させれば、労働時間が減って、賃金も上昇するはずですが、それがなぜ労働強化になるのでしょう?」

部長は言った。

「今までよりもたくさん仕事をこなさなければならない上に、余った人はクビになるという誤解があるようです。実際は、クビになんてできないんですが。」

 

加えて、つい最近の、経団連の会長の「生産性を上げる議論を」というのも、文面を読む限りでは、特に間違っているとは思えないが、

発言が頭にきた人がすくなからずいるのか、批判を集めている。

 

弱者のために生産性向上は必要

しかし、本質的には「生産性向上」と「弱者の切り捨て」全く別の話だ。

むしろ弱者のために、生産性向上は必ず行われなくてはならない

 

なぜなら、「生産性向上」が、多くの人を貧困から救い、圧倒的に生活水準を向上させたことは、厳然たる事実だからだ。

生産性の伸びの成果は医療や教育にも現れた。かつてGNP(国民総生産)のほとんど〇%だった医療費が、先進国では八%から一二%に増大した。GNPの二%だった教育費が一〇%以上に増大した。

事実、ピーター・ドラッカーは「生産性の向上が、生活水準の向上をもたらした。その殆どは、労働者の分け前になった」と述べる。

こうして生産性の伸びのほとんどは、テイラーが予言したように労働者、つまりマルクスのいうプロレタリアの分け前となった。

[amazonjs asin="447800210X" locale="JP" tmpl="Small" title="ドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会"]

ハーバード大の経済学者、グレゴリー・マンキューは著書の中で、「一国の生活水準は、生産性による」と述べている。

アメリカ人がナイジェリア人よりもよい生活ができるのはアメリカの労働者がナイジェリアの労働者よりも生産性が高いからである。

日本人がアルゼンチン人よりも生活水準の急速な成長を享受したのは日本の労働者のほうが急速な生産性の成長を経験したからである。

[amazonjs asin="4492314431" locale="JP" tmpl="Small" title="マンキュー入門経済学 (第2版)"]

政府が発行している世界経済白書においても

労働生産性は中長期的な生活水準を規定する要因

とあり、生産性の向上は生活水準の向上とほぼ同義である。

 

生産性向上に反発する人は何を考えているか。

それなのになぜ「生産性向上は、労働者の不利益となる」という理解になってしまうのか。

 

推測だが、これは生産性向上への取り組みが、労働者の技能を陳腐化させるという漠然とした恐れに基づくものだ。

これは「肉体労働時代の合理化」の概念とも言える。

 

例えば、今では信じられないが、アメリカには戦前まで「作業分析を禁止する法律」まで存在した。

仕事は研究され、分析され、一連の単純反復動作に分解されるというテイラーの考えは、まさにこの労働組合に対する正面攻撃だった。

彼らはテイラーを非難中傷するだけでなく、議会に働きかけ、兵器廠と造船所における作業分析の禁止を法制化させた。これは第二次世界大戦後まで続いた。

生産性向上への批判は、今でも同じように考える人が少なくないことを示す。

「生産性向上への取り組み」→「生産性の低い人をクビにする」→ 「切り捨て」

といった図式で理解する人が多く、それが反発を呼ぶのだろう。

 

だがもちろん、これは誤解だ。

作業分析によって労働者の職はなくなるどころか、より高度な生産ラインができ、物価は下がり、我々は誰もが「三種の神器」を手にした。

それは、奇跡的な復興を成し遂げた、日本の歴史が証明している。

 

あるいは、ごく一部の「非効率から便益を受けている既得権者」は強く反発するかもしれない。

 

例えば、タクシー配車アプリのあまりの効率の悪さ(なぜか、わざわざ遠くの車が来るとのこと)に、なかなかタクシーに乗れない知人は、こんなことをSNSに投稿していた。

「白タク」という表現を使って、シェアライドを禁止する妙な制度を早く辞めてほしい。

既存のタクシー業界という票田をベースとし、既得権益保護のために、世界で類を見ないシェアライド後進国状況をさっさと打破してほしい。世界のテクノロジーは、ここでまず社会を変えているのに。

だが、このように一部の既得権のために「全体の生産性が損なわれる」のは、不合理だし、国益に叶うものではないだろう。

 

だが企業も「生産性向上」を誤解している。

このように、「生産性向上」への反発は、多くが誤解とバイアスにより生じている。

 

だが、企業も悪い。

なぜなら企業も「生産性向上」を誤解しており、それが労働者との軋轢を生んでいることも多々あるからだ。

 

その代表が、「生産性向上」を「労働者の時間あたりのアウトプットを増やすこと」と解釈してしまっていることだ。

これは肉体労働時代の生産性向上の概念で、あきらかな間違いである。

 

現代では、個人の仕事をいくら急かせても、それによって増える成果は大したことはない。

また、「個人の成果」を強調している組織であっても、「提案書を早く仕上げた」ところで、

生産性の向上(=売上の向上、コスト減少)には結びつく活動はごく僅かだろう。

 

あたりまえだ。

売上は商品力、マーケティング力に大きく依存するし、事務部門の仕事をいくら急かせても、大部分を占める固定費を削減することはできない。

せいぜい、僅かな残業代を削減できるくらいだ。

そして、労働者は急かされるうえ、給料が減るので、腹が立つ。

当然「生産性向上は迷惑」というわけだ。

 

ピーター・ドラッカーが指摘する、知識労働時代の生産性向上は、そのようなものではない。

彼によれば「生産性向上」は「戦略の変更」である。

 

具体的にはどういうことか。

ピーター・ドラッカーはこれに対して、驚くべき洞察で、答えを用意している。

それは

「生産性向上のために、経営陣への昇進が望める仕事しか、社内においてはいけない。それ以外はすべて、アウトソースすべき」

というものだ。

しかし、さらにはるかに根本的あるいは革命的とさえいえるものは、サービス労働の生産性の向上に必要とされる条件である。

すなわち多くの場合、サービス労働はアウトソーシングされるようになる。(中略)

そして、生産性の向上に対するニーズの最も大きな領域が、トップマネジメントへの昇進が事実上不可能となっている領域である。

[amazonjs asin="447800210X" locale="JP" tmpl="Small" title="ドラッカー名著集8 ポスト資本主義社会"]

これを見て、私は自分の知識の浅さを思い知った。

 

そうだ。確かに生産性向上するためには「雑用」をしてはいけない。

なぜなら、社内で「雑用」と見られる仕事には、改善も付加価値も競争も出世も、ないからだ。

頑張っても、頑張らなくても一緒なら、携わる人々が「生産性向上など無意味」だと思うのも、当然だ。

 

逆に、雑用をアウトソースされた企業は、その仕事を極限まで効率よくやることが、そのまま自分たちの儲けになる。

一つの業務に特化することで、収益性も向上する。

だから「雑用」は、「それを本業とする人たち」に、アウトソースすべきなのだ。

 

では何が「雑用」なのか。

ドラッカーによれば、「雑用」の判断基準は、その仕事をすることで、社内で出世できるかどうかだ。

 

例えば、組織によって当然異なるが、

病院における清掃。

システム会社における経理。

製造業におけるシステム。

設計会社における広報。

ベンチャーキャピタルにおける電話応対。

などは、あまり「出世」とは関係がない仕事かもしれない。

 

 

今年の7月、損害保険ジャパン日本興亜が、大胆な改革案を打ち出した。

介護へ転籍上等!叩き上げ損保マンを舐めるべからず

損害保険ジャパン日本興亜が2020年度末までに、国内損保事業の従業員数を4000人減らし(17年度比で人員の2割弱)、

  • IT(情報技術)の活用で生産性を高める
  • 新卒採用を絞る
  • 介護やセキュリティー事業への配置転換も進める
  • 希望退職は募集しない

といった方針を取ることが分かった。これにより21年度に100億円規模の収益改善効果を見込むが、今後は主力の自動車保険も変化を迫られるため事業の効率化を急ぐ

これは要するに「本体の雑用をしていた人たちを別会社へ切り離し、独立採算化させる」という意思決定だ。

 

介護やセキュリティー事業は、彼らの中核業務ではない。

だから、外に出す。

ドラッカーの言う「生産性向上の施策」とは、本質的にはこのようなものだ。

 

生産性向上とは、結局、強みと儲けの源泉以外の仕事をしないこと。

それはまさに、「経営判断」の領域なのであり、個人の努力と何ら関係のない話なのだ。

 

 

*本記事は、月1万円から「付加価値の低い電話番をアウトソースできる」電話代行サービス【fondesk】のスポンサードによって制作されています。

 

◯著者Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="4534056613" locale="JP" tmpl="Small" title="すぐ「決めつける」バカ、まず「受けとめる」知的な人"]

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

Photo by Isaac Smith on Unsplash

ちょっと前にダイエットの記事を書いた。進展は以下の通りである。

「肥満の原因」にアプローチしたら、1週間で6キロ減量できたのでやったことを書く。 | Books&Apps

どうしたもんかなーと思っていた時、「トロント最高の医師が教える 世界最新の太らないカラダ」という非常におもしろい本を見つけ、この本に書かれた通りに色々やってみたところ見事に1週間で6キロほどの減量に成功したので、ちょっとサクセスポイントやNGポイントを交えて書いていこうかと思う。

詳しいことは前掲した記事を読んでほしいのだが、やった事の要点だけ書き出すとこんな感じだ。

 

・朝起きてギー10g+MCTオイル10g入りコーヒー300mlを飲む(これを飲むと空腹感が消えるので、1日1食生活がラクに遂行できるようになる)

・食事は1日1食夕飯のみ

・平日は自炊。玄米か古代小麦のパンやパスタ(100g程度)+肉魚野菜を食べたいだけ食べる

・週末は外食。好きな物を食べてよい(ただしラーメンだけはNG)

・運動はしない。気が向いたら腹筋ローラーをやる

 

糖質制限なし、運動なしでこの結果である。

全くキツいことをしてない事を考慮すれば、かなり上等な方ではないだろうか?

 

一方、世間では秒速で痩せて、秒速でリバウンドした人がいた。

与沢翼がリバウンドで68kg→80kg台に…。60日間の筋トレ&ダイエットに再挑戦 | 日刊SPA!

2018年6月~8月にかけ断食をして、91.2kgから68kg台まで実に22kg以上もの減量に成功した与沢翼さん。あれから約1年……。「隠してたといえば隠していたのですが、実はすごいリバウンドしてました(笑)」と明かす与沢さんに話を聞いた。

彼と僕の違いが何にあるかというと、僕が生活習慣自体を持続可能な形で”完全に一変”させたのに対して、彼は食事制限や筋トレといった”特別で一過性”の事をやって痩せようとしている部分にある。

 

自分の姿形を構成するのは、結局のところ自分自身の生活スタイルである。

厳しいダイエットが短期的には成功しても長期的にはリバウンドしてしまうのは、そのダイエット法をいつまでも一貫して続けられないからに他ならない。

 

世の中には厳しいことをやらないと結果がでないタイプの物事もあるが、こと減量に関して言えばあれは完全に嘘だ。

 

苦しいことは絶対に持続できない。特に硬い意志を働かせて欲望に逆らうような手法は完全にNG。

己の欲望の強さをなめてはいけない。奴らは絶対にいつか意志の力を乗り越えて征服してくる。

 

継続は力なりである。逆に言えば、継続できないようなスタイルは力にはならない。

一ヶ月だけ頑張ろうとか、そういう期間限定の努力の使い方は、仕事でスキルを身に着けたいとかいった、終わりが見えるタイプのものに限定しておいた方が無難である。

 

顔にはその人の生活が現れる

生活スタイルが結果として出るのは体重だけにおさまらない。

実は顔にもそれはかなり出る。

 

人間の姿形というのは非常に面白い。

僕が医者になった時、認知症が進んだ高齢者の顔がどれもこれも本当に似たような形をしているのをみて衝撃をうけた事がある。

 

これまでの人生において、似た顔をした人をみることはどちらかというと稀な事であった。

クラスメートによく似た顔をした人が1~2組いたが、逆にいえばそれ以外の人の顔はどれも全然違っていた。

 

しかし、認知症の高齢者の顔はかなり似ている。

あの独特の容貌を形成する素因は、やはり生活習慣以外には考えにくい。

 

 

他にも何か似たようなケースは実はある。

例えばダウン症の人の人相は非常にある種の独特の様相がある事が知られている。

 

「ひょっとして、顔の形には何らかの隠れたサインが含まれてるのでは?」

こう思い、僕は診察時に人相に注目するようになった。

 

また、このことに気づき、ある種のトラブルを巻き起こすタイプの人間に対して、ピンとくる事が非常に増えた。

人相、侮りがたしである。

 

病にもその人の生活が現れる

実は病も生活スタイルの宝庫である。

 

例えば糖尿病の患者さんは非常に病気への認識力が薄く、かつ自分に甘い傾向がある。

もちろん全ての人がそうではないのだが、そういう人の数が非常に多いというのは、医療従業者なら誰でも頷くところだろう。

 

糖尿病患者の話は医学部の授業でも出てくるぐらい有名な話なのだが、実はその他の病にも教科書には書かれていないけどある種の性質や性格が偏っている事が多々ある。

 

例えばリンパ腫という血液疾患があるのだが、非常に不思議な事にこの病気にかかる人はIQが非常に高いと思われる人が明らかに他の疾患と比較して多い。

会う人会う人みんながあまりにも頭がいいので、高いIQを構成する何らかの体内構成要素がリンパ腫へのリスクファクターとなってるんじゃないかと疑わずにはいられないほどである。

 

世間では”血液型占い”がしばしば「エビデンスがない」と揶揄されるが、僕は”病気型占い”に関しては実はエビデンスが出せるんじゃないかと思っている。

実はこれも人相と同じく密かにデータを収集していて、いつか表に出せるといいなと思っている。

 

似たような思想の人々も、お互いに似てくるのではないか。

[amazonjs asin="4334044107" locale="JP" tmpl="Small" title="ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から (光文社新書)"]

ルポ 人は科学が苦手~アメリカ「科学不信」の現場から~という本に「知識が増えれば増えるほど、人間はわかりあえなくなる」と書かれてあり衝撃をうけた。

どういう事か、以下に簡単に記載する。

 

エール大学のポール・ブルーム教授が発表した「大人の科学への抵抗は、子ども時代に期限がある」という論文によると、人がエコだとか原始的な生活といった直感的に正しいものに惹かれがちなのは普通の事であり、むしろ科学的な考え方ができる人の方が特殊なのだという。

 

科学的な考え方は教育の賜物以外の何者でもない。

例えば、普通に考えれば「地球が丸い」だなんて、考えられる方がおかしい。

そのまま目に見えたものを信じるのなら、どう考えても「地球は平ら」にみえる。

 

子供が「地球が平らではない」と理解するのは、ロジカルシンキングの結果ではなく信頼できる学校の先生や親から「地球は丸い」と教えられるからだ。

子供はゼロベースでものを学ぶのではなく「信用できる人」が語る言葉を「真実」として受け入れて「常識」を組み上げていく。

 

こうして次第に己の中に「常識」が形成されてゆくと、次第にそれは「直感」へと進化していく。

そして「直感に合う」「信頼できる人から教えられる」という2つの要素が揃ったものしか、人は受け入れられなくなっていくのだという。

 

この結果が「知識が増えれば増えるほど、人間はわかりあえなくなる」だというのだ。

未だに進化論を理解できない人がいるのは、幼少期に信頼できる人から「進化論は嘘だ。サルが進化して人間になどなるはずがない」という知識をありったけ与えられたからである。

 

幼少期に形作られる「常識」の重みは強い。

早期学習の効果については色々諸説あるが、少なくとも子供を科学的に育てたい人は、己の教育環境にはそれなりに気をつけるべきなのかもしれない。

 

そして、「知識が増えれば増えるほど、人間はわかりあえなくなる」を最悪の形で加速している様は実はインターネット上で簡単に確認できる。

 

SNSはネット社会に様々な恩恵をもたらした。

本来ならば繋がるはずのない人たちが繋がり、良い関係を築く事もあったが、逆に言えばカルト的な思想を持つ者共にも”つながり”がもたらされている。

 

例えばインターネット上でアベガーと言われる何でも安倍総理が悪いと意見を形成する人達、一部の過激なフェミニスト達は、「信頼できる仲間」から「直感に合う知識」をグルグル回し、エコーチェンバーといわれる特定の信念が増幅または強化される状況を作り出している。

 

彼らは偏った知識をどんどん身につけ、どんどん偏っていく。

まさに「知識が増えれば増えるほど、人間はわかりあえなくなる」の典型例である。

 

時に対立する人たちとの交流がかわされる事もあるが、彼らが絶対にわかりあう事など一度としてみたことがない。

むしろ敵対心を煽り、お互いの団結力がより深まるだけである。

Twitter等ではおなじみの現象だが、改めてSNSは最悪の人格加速装置だなと思わされる。

 

継続は力なりの原則から考えるに、たぶん、彼らもだんだんと似たような姿形に収束していくんじゃないかというのが僕の推論である。

体重も、顔も、病も、身体に現れる結果が生活習慣にかなり基づくのだから、かなりその可能性は高いんじゃないだろうか。

 

生活習慣というスタイルが、その人の姿かたちを形成する

美しい肉体、魅力ある顔、ユニークな知性などを持つ人は、その特性を非常に称賛される。

 

私達はその”結果”をみて「才能」だとか「あの人は特別。自分には無理」と諦めがちだが、僕が思うに生活習慣というスタイルが、過程として積み重なって、その人の姿かたちを結果として形成されるのだから、実はかなり再現可能なものも多いのではないか、と思う。

 

モノマネも突き詰めればホンモノと区別がつかなくなる。

あなたも、生活習慣を変えてみれば「あの人は特別。自分には無理」と思っていたような人に近づけるかもしれない。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:bagaball

そういえば、「指示待ち族」って、いつから使われるようになった言葉なんだろう。

ゆとり世代が社会に出るようになったころだろうか。

 

先日わたしは、

「後輩が指示待ち族でさぁ。いちいちぜーんぶ確認してくるの。もう自分でやったほうが早いって思っちゃうわ~」

という友人の愚痴を聞きながら、梅酒の水割りを片手に苦笑いしていた。

 

というのも、「指示待ち族」に心当たりがあったからだ。

「指示を待たれるほう」ではなく、「指示を待つほう」に。

 

いまはフリーランスとして自分の裁量で働いているわたしも、学生時代の居酒屋バイトでは、絵に描いたような「指示待ち族」だった。

でもいま思い返しても、それはしょうがないことだったと思ってる。

 

フリーターが仕切る居酒屋では新人のバックれが続出

指示待ち族は批判されがちだし、たしかに褒められることではない。

でも、その人は自分で考えられないから指示待ち族になったのか、それとも考える意義を失ったから指示を必要とするようになったのか。

これがまず大切だと思うのだ。

 

わたしが「指示待ち族」と化したのは、学生時代にアルバイトをしていた大手チェーン店の居酒屋でのこと。

その居酒屋では、店長は基本的にキッチンで料理をつくっていて、ホールは古株のフリーターが仕切っていた(居酒屋あるある)。

 

でもそういった人たちには「マネージメント」という概念はないから、自分の気分で他人に指示をする。

しかも本来だれも指示する権限なんてもっていないから、指示系統なんてものも存在しない。

 

Aさんが「ドリンク運んで」と言うからドリンクを運べば、Bさんに「ドリンクよりまず注文」と言われ、かと思いきやCさんは「料理が冷めるだろ!」と怒鳴る。

四六時中、こんな感じだった。

おかげで、なにをどうするのが正解かわからずウロウロする新人が続出(わたしも最初そうだった)。

 

「質問したいけどあの人の機嫌が悪くて聞けない」

「AさんとBさんとで言うことがちがうからどうしたらいいのかわからない」

「これをお願いしたいけど怒られるかもしれない」

こんな声をなんども聞いた。

 

わたしなりにできるかぎりのフォローをしたつもりだけど、「新人がバックれて音信不通になったから今日出てほしい」という要請はなくならなかった。

 

「バカ」と怒鳴られたので、指示待ち族になりました。

そんななか迎えた忘年会シーズン。居酒屋にとっては書き入れ時である。

その居酒屋は靴を脱ぐ個室式で、お客様が帰ったあとは床を軽く掃くことが決められていた。

食べこぼしやタバコの灰、お箸などが落ちていることがあるからだ。

 

また、開いたメニューの上に飲み物を置く人も多いので、ベタベタしないように1ページずつ拭くことも、マニュアルに書いてある。

年末で満席、お客様が待っている状態でも、わたしはきっちりとマニュアルどおり床を掃き、メニューを拭いた。

注文を取り、ドリンクと料理を運び、てんてこ舞いのなかでも、灰皿交換やおしぼり交換などのできるかぎりのサービスもした。

 

わたしは、「長く待った末に通された席の床に食べこぼしがあったり、メニューが汚れていたりしたら、楽しく乾杯できない」と思っていたからだ。

慌ただしく店員が早足で駆け回る店内では、小さなことで店員を呼び止めづらい。

だからこそ細やかなサービスを大事にしたかった。

 

しかしそんなわたしに、「そんなんやんなくていいから客通せよ!」「ドリンクあがってんのが見えねぇのか、さっさと運べよバカ!」と罵声が飛んできた。

忙しさでイライラがピークに達した、例のフリーターたちである。

 

たしかに、わたしは優先順位をまちがえたのかもしれない。

でも、わたしなりにお客様のためにできることを考えた結果だったのだ。

それなのに有無を言わさず「バカ」呼ばわりされ腹を立てたわたしは、これまでの鬱憤もあり指示待ち族になることを決意。

 

Aさんから頼まれた仕事中にBさんになにか言われても知らんぷりし、機嫌が悪そうなら近づかず最低限のこと以外はしない。

それぞれの指示がちがうときは「店長に聞いてきてください。店長の指示に従います」と保留にして店長に丸投げ。

 

こうしてわたしは、立派な『指示待ち族』になった。

その結果、見事バイトリーダーに「お前、ちょっとは自分で考えて動けよ」と言われるにいたった。

 

考える意義がないと思ったら、人間は考えなくなる

変な意地を張ったわたしにも非はある。むしろだいぶわたしが悪い。

もう少しうまく聞き流して、適当に愛想笑いでもして、丸く収めときゃよかった。

いくら腹を立てていようが、お金をもらっているのだから、もう少しやりようがあったはずだ。それに関しては反省している。

 

でも正直なところ、「自分で考えろ」と言っていいのは、こっちの考えに耳を傾け、尊重する度量のある人だけじゃないか?とも思ってしまう。

人の話を聞かないくせに「自分で考えろ」って、考える意味を奪っているのはそっちじゃないか。

 

なにかひとつでも、わたしに任せてくれたか?

なぜわたしがそうしたのか、聞こうとしてくれたことはあったか?

自分なりに工夫していたのに、自分のやりかたを押し付けてきたのはだれだ?

 

自分もガキだったし、相手が100%悪いだなんてことはまったくない。

とはいえ、あのときあの環境でわたしが指示待ち族になったのは、しょうがなかったとも思う。

だって、自分で考える意義を奪われてしまったんだもの。

 

事実、フリーライターになってからは、受身でいることはなくなった(当然だけど)。

自分で考えて試行錯誤できるし、なにより横槍が入らない。

編集の方と相談することはあっても、気分次第でどうこう言ってくる人や、イライラをぶつけてくる人もいない。

 

考えて行動すれば、そのぶん自分が成長できる。

そう思うから、考えて、動こうと思えるのだ。

 

その指示待ち族の人は、なんで指示を必要とするんだろう?

なんて話を、冒頭の友人に(かなりオブラートに)伝え、こう聞いてみた。

「自分で考えられる後輩を指示待ち族にしてしまっているのは、環境のせいもあるんじゃないかな?」と。

 

指示がおおざっぱだと、どの方法でやればいいかわからず、逐一確認しなきゃいけなくなる。

もし後輩クンがその作業に慣れていない・知らないのであれば、マニュアルをわたしてあげるとか、最初はいっしょにやってみるとか、そういうフォローがあればいいんじゃないだろうか。

 

もしかしたら、勝手に進めたら機嫌を損ねると思っているのかもしれない。

「経過報告はほしいけど基本的には任せるよ」とか、「どういう順番でやるかは自由だけど、この日にこれは終わらせといて」とか、ある程度裁量権をわたしたらどうだろう。

 

指示を求める後輩クンは、「指示が必要」なのではなく、「指示以外のことをやると面倒なことになる」もしくは「他人にごちゃごちゃ言われたとき『この人が言ってました』と責任転嫁できる」と思っているかもしれない。

環境が彼を指示待ち族にしているとしたら、注意しても意味はない。

むしろ「あー怒られた。ミスしないようにだれかに聞こう」となる可能性すらある。

 

いやまぁ、わたしなんかが企業で立派に働いている友人に偉そうに言えた義理ではないのだけど……。

 

でもそれを聞いた友人は怒ることもなく、

「後輩はわたしがOKしなきゃやっちゃいけないって思ってるのかも。どんどんやってくれていいのに。でもそういう話、してなかったなぁ。この仕事はいままで自分ひとりでやってたから全部自己流でマニュアルもないし……。たしかに、指示がないとやりづらい環境だったかもしれないね」

と言ってくれた。

 

「指示待ち族」をうむ環境なら、指示を与える側はそれに対処すべき

念のために書いておくと、「お前が悪いから指示待ち族になったんだぞ!」とまで言う気はない。

そういう状況でも積極的に動き、結果を出せる人がいるのも事実だ。

 

そして、環境いかんに関わらず、指示がないとなにもしないというスタンスの人がいることも知っている。

それはその人の性格と能力の問題だから、まわりがなにしようがどうしようもない。

ただ、「なんでこいつはいちいち言わなきゃ動かないんだ」「もう少し考えるクセをつけてほしい」と思っている相手にも、言い分があるかもしれない。

 

たとえば、「みんな言うことがちがうからだれかからのお墨付きをもらっておきたい」とか、「不慣れな作業でやり方があっているか不安だから思わず聞いてしまう」とか、「自分流でやると怒られるんじゃないか」とか、「後からなにか言われたら面倒だから事前に確認しておこう」とか。

そういう人は、やる気がないわけでも、考える能力がないわけでもない。

ただその人のまわりに、考える意義を奪っている「なにか」があるだけだ。

 

それなら、その「なにか」を取り除くのは、指示を与える側の役目じゃないだろうか。

「こいつ指示待ち族だな」と思ったら、それがその人の性格的なものなのか、それとも環境がそうさせているのか、一度考えてみてもいいかもしれない。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Dennis Sylvester Hurd)

「人を評価し、報酬を決定する」のは、最も楽しくない仕事の一つだ。

だが、組織では誰かが必ずやらなければならない。

 

特に、最近は自社においても「人事」をどのようにやるべきかを考える機会が増えた。

しかし、納得のいく評価は難しい。

制度を作るのは、さらに難しい。

 

そこで、当社の人事施策でやろうと思っていることを、これまでの経験を踏まえて書いてみたい。

 

弊社における、評価の原則

これまでの経験でを総合すると、

弊社のようなスタートアップの人事において、おそらく有効だと言えることがいくつかある。

 

第一に「評価制度はシンプルな方が良い」。

そもそも評価制度は複雑になればなるほど、透明性、すなわち公正さが失われる。

 

これは、Googleが社員から募集した意見とも一致する。

社員は業績管理について真剣に考えていた。

たとえば、業績区分にどんな名称をつけるべきかについて投票を募ると、4200を超える票が投じられた。

そこに見られた何より明らかな傾向は、奇抜なものではなく、まじめで明快なものが好まれることだった。

[amazonjs asin="4492533656" locale="JP" tmpl="Small" title="ワーク・ルールズ! ―君の生き方とリーダーシップを変える"]

事実、Googleは2013年当時、全部で41段階あった評価を思い切って5段階にした。

そして、データを取った結果「少なくともこの2つの評価方式のうちでは、5つの区分のほうが区分をさらに増やすよりも優れていることがわかった。」としている。

 

第二に、会社への貢献度と評価が一致する。

これは一見、自明ではあるが、現実として、評価制度の多くは、必ずしもこうなっていない。

ご存知のように、多くの日本企業では未だに、横並び文化が根強く残っている。

 

だが、知識社会で企業を運営するならば「この人に辞められると困る」位の仕事をする人には、十分な評価と、報酬を渡さなくてはならない。

裏を返せば、評価のかなめは「社員の誰が、どのくらい会社に貢献したか、比較できるようにする」ことだと言える。

 

第三に、「がんばり」ではなく「成果」を評価する

貢献度の比較が評価の本質である以上、貢献度をごまかすことができると、根底が揺らいでしまう。

 

いわゆる「フリーライダー」の問題だ。

進化心理学者のウィリアム・フォン・ヒッペルによれば、我々の本能には「フリーライダー」がいると、それを罰したくなる性質が組み込まれている。

現代の会社でも「フリライダーの評価を下げること」は、組織を維持するために必要だ。

[amazonjs asin="4596551480" locale="JP" tmpl="Small" title="われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか 進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略 (ハーパーコリンズ・ノンフィクション)"]

 

現在でも「頑張ったら評価される」と思っている人も根強くいる。

それは完全に間違いではない。かつて「肉体労働」や「単なる作業」では「がんばり」=「高評価」だった。

 

だが現代の知識労働においては「がんばり」は、評価対象にならない。

知識労働においては、アウトプットが全てで、だからこそ「自由に働ける」という特典があるのだ。

 

第四に、評価者の主観をできる限り小さくする。

私の観察では、有能な人ほど評価には公正さを求め、無能な人はえこひいきを求める。

有能であれば、成果で語ることができるが、無能は温情にすがるしかないからだ。

 

だが往々にして人は「情」に弱い。

したがって「有能な人」を引き止め、無能を排除したいのであれば、評価バイアスの原因である「えこひいき」(もしくは「主観・好き嫌い」でも良い)を極力小さくできるように、設計する必要がある。

 

上を踏まえて、具体的にどのような制度の運用をするか

さて、個人的には、上の条件を満たすためには、今のところ、OKRをベースにする手法が自社では有効だろうと感じる。

 

あまり聞き慣れない言葉かもしれない。

これはインテルのCEOだったアンドリュー・グローブが、ピーター・ドラッカーの目標管理を改良して作り上げた手法だ

OKRとは、目標(Objectives)と主要な結果(KeyResults)の頭文字を取ったもので、企業やチーム、個人が協力して目標を設定するための手順とされる。

[amazonjs asin="4532322405" locale="JP" tmpl="Small" title="Measure What Matters 伝説のベンチャー投資家がGoogleに教えた成功手法 OKR (メジャー・ホワット・マターズ)"]

知識労働の生産性向上において非常に有効なツールとされており、現在ではAOL、ドロップボックス、リンクトイン、オラクル、Slack、スポティファイ、ツイッター、BMW、ディズニー、エクソン、サムスンなどが導入している。

 

では、具体的にはどのような手法なのか。

上で挙げた書籍を参考にして説明する。

 

まずは全社の目標を経営陣が作成し、それを受けて、各部門の目標が決定されていく、という手順は、従来の目標管理制度(MBO)と何ら変わりはない。

逆に、異なるのは以下の項目だ。

(出典:伝説のベンチャー投資家がGoogleに教えた成功手法 OKR)

「早いサイクルで回す」「トップダウンではなくボトムアップ・水平展開」という点で異なるが(報酬との分離については後述)、特に重要なのは「目標」の作り方だ。

 

従来の目標管理制度は、「目標」と「目標を達成するための活動」を定めていた。

しかし、OKRは大きく異る。

 

・目標(O)はゴールと意図を表す。(だから売上だけ、とかはダメ。)

・主要な成果(KR)は、活動ではなく成果を書く。この成果は測定可能で、検証可能でなければならない。また、KRをすべて達成すれば、100%、目標を達成できる。

・OKRは、全員に開示する

 

具体的には、以下のようなイメージだ。

(出典:伝説のベンチャー投資家がGoogleに教えた成功手法 OKR)

このようなやり方には、利点がいくつかある。

 

まずはシンプルであること。

知識労働で必須とされる、自分の努力を何にフォーカスしなければならないか(逆に言えば、何を捨てなければならないか)の認識が、とてもわかりやすい。

 

つぎに、KRが測定可能、検証可能なので「貢献度」が明確で、個々人のパフォーマンスを極めて測定しやすい。

「パフォーマンスとは、何をやったかではなく、何を結果として残したか」という、結果重視の意図を強く感じる。

 

そして最大のポイントは、全員に開示されることだ。

低すぎる目標や、価値のない目標は一目瞭然であり、「ズル」ができず、達成、未達成の判定が容易である。

報酬のバランスの調整もしやすい。

 

このような理由から、私は現在自社で行っている「タスクリストを基にした業績判定」と相性が良いと感じた。

 

予想される困難

逆に、いくつか予想される困難もある。

 

例えば、質の高いOKRを作るには、2つの困難がある。

一つは、「良いO」を作ること。

良いOは、会社の経営戦略そのものである。

だが、会社の戦略を一点に絞り込むのは、そうかんたんなことではない。

 

もう一つは、「KR」が作れるかどうか。

例えば、下の図は「悪い」「ふつう」「良い」OKRがある。

だが、熟考無しでつくってしまうと「悪い」OKRになりがちではないだろうか?そもそも、OKRを作るには、ある程度の能力が必要だろう。

(出典:伝説のベンチャー投資家がGoogleに教えた成功手法 OKR)

 

そしてもう一つの大きな困難として、「報酬」とOKRは分離しなければならない、という注意事項だ。

下の図の下から2行目の欄を見てほしい。(再掲)

(出典:伝説のベンチャー投資家がGoogleに教えた成功手法 OKR)

これは「達成できる目標しか設定しない」という従来の目標管理制度の大きな弊害をなくすための注意事項である。

 

したがって、OKRの達成度は、評価とは直接結び付けず、純粋に「KRの内容」と「達成したこと」の両方を見て、全社への貢献度、事業へのインパクトを総合的に経営陣、管理職が討議し、決定していくというプロセスが必要となる。

このあたりがきちんと社員に理解されていないと、OKRが縮こまってしまい、本来の役割を果たせないだろう。

 

逆にOKRを野心的に設定するのであれば、「成果が出ない」メンバーを補佐し、成果が出るように導くのは、上司の重要な役わりだ。

それを部下の怠慢のせいにしてはならない。

だからこそ「部下へのサポート」は、今まで以上に重要となる。

 

OKRは「ツール」なので、使い方を練習しないとダメ

人事における、あらゆる制度は「ツール」、つまり道具である。

道具は、使い方を練習して初めて、本来の性能を引き出せる。

 

したがって、4サイクル〜8サイクル(つまり1年〜2年程度)ていど、評価と全く関係ない使い方をして、

使い方が成熟してきた頃、徐々に評価の材料として使っていく、助走期間が必要だろう。

 

なお、本記事において紹介した以下の本は、いろいろ調べた結果、とても良い本だと思うので、お勧めしておく。

特に、アンドリュー・グローブが、ピーター・ドラッカーのMBOからこれを派生させた部分については、目からウロコの連続だった。

[amazonjs asin="4532322405" locale="JP" tmpl="Small" title="Measure What Matters 伝説のベンチャー投資家がGoogleに教えた成功手法 OKR (メジャー・ホワット・マターズ)"]

 

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="4534056613" locale="JP" tmpl="Small" title="すぐ「決めつける」バカ、まず「受けとめる」知的な人"]

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

Photo by Startaê Team on Unsplash

丸山ゴンザレスさんの本を読んでいて、非常に懐かしい気持ちが沸き上がってきた。

[amazonjs asin="4062206250" locale="JP" tmpl="Small" title="世界の混沌を歩く ダークツーリスト"]

丸山ゴンザレスさんはこれらの本を通じて私達を見たことがない異世界へと旅立たせてくれる。

 

例えば世界の混沌を歩く ダークツーリストではラスベガスに住むホームレスの話が出てくる。

このホームレスがいわゆる私達の想像する浮浪者のようなものとは全然違って、凄く普通風の人なのである。

 

僕はよもやラスベガスなんていうカジノのイメージしかない場所に、家賃が高すぎてバカバカしくなって路上生活をキメた人が沢山いるだなんて思いもしなかった。

日本はアメリカの10年後を追いかけるだなんて言葉があるけど、今後日本も普通の人が家賃を払う事からイクジットする新しいタイプの生き方をする人が出てくるかもしれない。

 

他にもGONZALES IN NEW YORKに出てくるゾンビ・マクドナルドのエピソードなんかもぶっ飛んでてなかなかに気持ちいい。

ニューヨークにはジャンキーの巣窟となっているマクドナルドがあるようで、そこに足を踏み入れると、まるでバイオハザードのゾンビがウロウロ徘徊しているかのような雰囲気が醸し出されているのだというのである。

 

世界は広い。本当に広い。

こういう奇想天外な話を聞くたびに、自分がいかに狭い世界でしか生きていないか思い知らされる。

 

インドの思い出

「インドは一度行くとハマるか、もう二度と来たいと思わないかのどちらかだ」

 

大学生の頃、海外旅行にでかけたという人を捕まえては色々な話を聞いていたのだが、このような表現で説明される国はインドだけであった。

果たしてインドはどのような国なのか興味が尽きず、僕は社会人二年目に1人で訪れた。

 

インドでとにかく驚いたのが、街を歩いていると、どこからともなくインド人が現れて話しかけられる事だ。

やれどこの国から来たやら、観光案内はいるかとか。

 

日本で他人から声をかけられる機会なんてまずない。

よくもまあ、ここまで他人に話しかけるハードルが低く設定できるもんだと妙に感心してしまったものである。

 

ボッタクリは金銭面ではなく、ナメられてるのが腹立たしい

旅行に来ているわけだから、いろいろな買い物やツアーなどをしたいわけだが、当然のごとくタクシーやリキシャといった乗り物は相場の数倍の値段をふっかけてくる。

 

日本にいた頃は

「数倍の値段をふっかけられようが、日本でやるのと比較すれば安上がりでサービスが利用できるのなら別に構わなくないか?」

と思っていたのだが、いざ現地でボッタクリを経験すると何に腹がたつのかがよくわかった。

相手がこっちの事をナメてかかってきてるのが腹立たしいのである。

 

「どうせ相場も知らないツーリストだろ?」

 

変な思い込みなのかもしれないけど、そういうニュアンスの目で1円でも多くの金をぶん取ってこようとする人間を相手にするときほど、自分がナメられてると感じたことはない。

そしてその目線に晒される事が何よりも人としての尊厳を傷つけられるのである。

 

「なるほど、現地に適応した人が100円単位でも値段交渉するのは、オレのことを舐めるな!という意思表示だったのか」

この事を理解してから、いち早く現地の空気になれて相場を掴み、ナメられないような存在になろうと奮起したものである。

 

インド人はどこからともなく現れる

インドのある観光地での事だ。

そこでリキシャというバイク便を捕まえた僕は、運転手のインド人から「へいジャパニーズ、観光しようぜ。値段はお前の言い値でいいからさ」と提案された。

 

こいつぼったくる気満々やろと内心思いつつ、中途半端に現地人との交渉に慣れてきた僕はそれにのっかった。

金を稼げるとわかった時のインド人の陽気っぷりは半端ない。

どう考えても普通ではないオベンチャラを雨あられのように投げかけられ、2~3の観光地を回った後に、僕は値段交渉に取り掛かった。

 

向こうが提示してきた金額はもう忘れてしまったのだが、相場と比較してかなり高かった。

現地感覚になれてた僕は「ふざけんな、高すぎるだろ」と英語で切り捨て、「そんな高いならここで500円払ってお別れだ」と最終通告を出したのだが、ここにきて完全に相手の調子が変わった。

 

金を稼げないとわかった時のインド人の顔は恐ろしい。

完全に頭が逝ってしまったんじゃないかというような目をひん剥いた彼は、Fワードと共に大声でわめき始めた。

 

当然、僕もまけじと大声で罵りあったのだが、するとこれがまあ不思議な事にワラワラとどこからともなくインド人が湧き出てくるのである。

 

「おい、どうした日本人」

「まあまあ、落ち着けって」

 

お互いの陣営を取り囲む数多のインド人。

確かそこまで人通りが多い場所ではなかったはずなのだが、彼らはいったいどこから現れたのか。謎である。

 

結局、一時はつかみ合いになりそうな剣幕までいったのだが、最終的には僕がプラス数百円か払う形い、モブインド人が怒れるインド人をなだめすかせる形で決着がついた。

 

若さというのは大したものである。いまならあんな少額を争うだなんてことはまずやるまい。

 

ひょっとしたらあの時、死んでいたかもしれない。

とまあ、今では温厚な僕もインドではこんな若気の至りみたいな事をやっていたのだが、丸山ゴンザレスさんのアジア「罰当たり」旅行 改訂版を読んで、冷水を浴びさせられるような気持ちになった。

 

この本で、ゴンザレスさんと同年代の日本人旅行者がガンジス川のふもとでインド人と言い争いになり、殴り合いの喧嘩に発展した結果、最終的にインド人の報復にあい殺されてしまった話がでてくる。

 

このエピソードを読んだ時、10年ぶりに僕がインドで遭遇していたかもしれない未来の伏線回収が自分の中でなされ、文字通りゾッとした。

あのモブ・インド人は僕を助けようとしてくれたのではなく、仮に言い争いで済まずに殴り合いに発展した時・・・ひょっとして僕をリンチできるぞとワラワラと集まってきたんじゃないか・・・

 

まるで騙し絵のように観る角度で風景が異なるが如く、僕の思い出はこのエピソードを読んで天使が悪魔になったかのように一変した。

ひょっとしたら、あのとき死んでいたのかもしれないな・・・ミステリー小説のトリックが解説されるかのような、長い長い伏線回収にただただ圧倒された一時だった。

 

古典的名著の条件は読む年齢で感想が変わること

なぜ一部の古典は長く読みつがれるのか。

これに対して、かつてある人が僕に「ホンモノの古典というのはね、読む年齢によって感想が変わるんだ」と言った事があった。

 

例えば太宰治の人間失格。初めて僕があれを読んだのは確か高校生の頃だったけど、あのときは本当に意味がわからなかった。

一ミリも面白いと思えなかったのである。

 

つい最近になり、気が向いて読み返してみたのだが「えっ?こんな話だったっけ?」と驚くほどに読後感が異なっていた。

なるほどなぁ。古典というのは、立ち位置でこんなにも読んだ時の風景が変わるからこその古典なのか、と妙に納得してしまったものである。

 

その時、突然何の脈絡もなく「ひょっとして、旅行ってのはある意味では古典に近いものがあるのではないか」とピンときた。

あのときは若気の至りだった行為が、何年もたって様々な知識が身につき、別の角度から見直すと命の危機になる。

 

なるほどな、インドにハマるってのは、たぶんこういう事なのだろう、と遅まきながらようやく納得した。

今では僕が初めて訪れた時と比較して、随分様相が違うだろうけど、時間ができたらまたインドに行こう。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Nakatani YOshifumi

身も蓋もない話をします。

先日、fujiponさんが書かれた、こちらの記事を拝読しました。

結局「とにかく面倒くさいことを進んでやる」人が、組織で評価される。

「そんなに働きたくはないけれど、肩身が狭い思いをするのは嫌だなあ」というのが僕の本音なのですが、そんな「いいとこどり」は難しいのです。

「権利」が整備されたとはいうけれど、まともに仕事もせずに自分の権利ばかり主張する人がうまくやっていけるはずもありません。

『働かない技術』という本の紹介を主軸にした内容で、大変分かりやすかったですし、面白そうだったので私もポチってみました。

まだ届いてませんが。(漫画以外の本は電子書籍ではなく実物で欲しい派)

 

fujiponさんの所感についても全体的に首肯するところなのですが、一点だけ、ちょっと違う感想をもった点がありました。

全体の流れの中では傍流の部分なので申し訳ないんですが、「面倒くさいことを進んで対応して部長に抜擢された」という人の話についての部分です。

みんなが効率的な働き方を追い求める時代だからこそ、こういう「誰かがやらなければならないのに、みんなが『自分にはメリットがないから』とやりたがらないことを進んでやってくれる人」が評価されることもあるわけです。

これなんですけどね。

 

身も蓋もない話ですが、「誰もがやりたがらない仕事を進んでやって評価される」には、ある程度のテクニック、ないし戦略が必要です。

ただ「誰もやりたがらない」仕事をひたすら拾って真面目にこなしているだけでは、残念ながら評価につながらない可能性が高いです。

 

何故かというと、評価されるためには、当然ながら評価する立場の人に認知される必要があるから。

それも、「あいつは誰もやりたがらないが、実は重要な仕事をこなしている」という認識つきで。

 

いや、道徳論としては、「みんながやりたがらない仕事を進んでやって、いつか誰かが評価してくれる」って完璧に正しいんですよ。

日の当たらない場所で必死に頑張る、縁の下の力持ち。

 

誰からも評価されていなかったその人を、ある時会社の偉い人が見かけて、「実はこの仕事はあいつがやっていたのか!」と認識される。

今まで報われなかった努力が、ある時の評価で突如大幅なプラスポイントになる。

美しいですよね。

とても良い話ですし、世界そうなって欲しいとも思います。

 

例えばここが教育現場であれば、上のロジックでなんの問題もないんです。

ただ、現実問題としては、「みんながやりたがらない」仕事にはそれぞれ皆がやりたがらないだけの理由があるものでして、代表的なものとしては以下のような例があります。

・仕事自体の重要性が認識されておらず、アピールポイントにならない

・ただひたすら面倒くさく、される評価の割に合わない

・難易度が非常に高く、高い能力的コスト・時間的コストを必要とする

・本当に誰も注目していないフィールドの仕事である

こういった仕事を積極的に拾うのであれば、やはりそれなりの戦略は持っておいた方が、結果的に「美しいエピソード」を再現できる可能性は高まるんじゃないかなあ、と、少なくとも私なんかは思うんですよ。

 

例えばの話、fujiponさんの文章では、こんなエピソードが引用されています。

とにかく面倒くさいことを進んで、腹を括ってやった。たとえば全体集会の時に、マイクの調子が悪かったとする。

その時、自分は直しにかかった。もちろん、後ろでふんぞり返っている同僚もいた。

これ、全体集会という場面の話な訳ですよ。

つまり、社長役員始め、社員が皆その場に集まっている。「調子が悪いマイクを直す」ということがどの程度の「面倒くさい仕事」なのかは置いておくとして、少なくとも「全社員の目がある場所」での話な訳です。

 

「あいつは皆がすぐに動かない時でもぱっと動くことが出来る、使えるヤツだ」という評価を、それも経営層の目の前でアピール出来る場面だった、ということなんですよね。

それは、一般的に言うところの「誰もやりたがらない面倒くさい仕事を進んでする」ということのイメージとは、もしかするとちょっと違うかもな、と私は思ったんです。

 

***

 

大変嫌らしい話で誠に申し訳ないんですが、「誰もやりたがらないような面倒くさい仕事を進んでやって評価される」為には、恐らく下記の諸要素の内のどれか、出来れば複数を満たす当てを作っておいた方がよろしいのではないかなあ、と思うんです。

・その仕事が「実は必要不可欠な重要なものである」ということが何らかのタイミングで評価者に認知される

・自分がその仕事をこなしているということが、何らかのタイミングで評価者の耳に入る

・自分の仕事ぶりを目にした人が、評価者にそれをエスカレーションしてくれる

・その仕事が為されないことによって生じるリスク、コストがどこかのタイミングで可視化される

これらは勿論、職場環境によっても変わってきますし、その仕事内容によっても、人間関係によっても変わってきます。

一概に「どんな風にやろう」ということをノウハウ化することは難しいです。

 

ただ、ある程度一般的な話をするならば、「当事者以外からのエスカレーション」というのは重要な要素の一つではありまして。

あの人があんな仕事してましたよ、あの仕事がないとホントは回りませんよ、という話が、複数のルートから上に上がった場合、評価者にはかなり重大な圧がかかることになります。

 

その点、「評価者だけではなく、その周囲にも自分の働きを認知してもらう」ということは、一面意識しておいた方がいいかも知れないです。

 

私の同僚には非常にその辺要領がいい人がいまして、彼が言うには

「会社には必ず、色んな噂話を色んな人と話すという形で、情報のハブになっている人がいる」

「自分からアピールしにくい場合には、まず情報のハブになっている人を探して、その人と仲良くなる」

「で、お互いに仕事の大変さを話し合う(愚痴ではなく)という形で、自分が何をしているか知ってもらう」

「そうすると大抵評価者に届く」

ということでして、これには私もなるほどなあと思ったんですが。

 

まあ、仕事なんだから、別に日の当たらない場所でわざわざ仕事をする必要はなく、直接「ここに日を当てろ!」と会社にアピールしてもいいんじゃないかとは思うんですけどね。

自分がコツコツやっている仕事の重要性をアピールするのは、ビジネスパーソンとしての重要な要件でもあることですし。

それを拾えるかどうかはマネージャーの器でして、どうしても評価してくれないならエスカレーションのルートを再検討した方がいいです。

 

***

 

ただ、更にこれは上記の「いやらしい話」以前のちゃぶ台返し的な放言なんですが、「誰もやりたがらない面倒くさい、けど重要な仕事」を進んでやって、かつ評価されていない人がいたとしたら、それは実はマネジメント層の問題なんですよね。

部下の働きやこなしているタスクを正しく認識して、その重要性に応じて適切に評価するのがマネージャーの一番重要な仕事なのに、それほっといて何やってんだよ、という。

 

会社の偉い人がたまたま見かけて評価する前に、ちゃんと直属のマネージャーが評価しとけよって話ですよね。

「ただ面倒くさいだけで重要でない仕事」だとしたら、その仕事はそもそもカットするべき対象ですし、それもまたマネージャーの仕事です。どっちにいっても「マネージャー仕事しろ」という話になりかねないんですよ、これ。

 

結局のところ、「誰も注目しない面倒くさい仕事をひたすらこなして、けど評価されない」という人がある時評価されるという、そういう美談が存在する裏には、実はマネージャーの怠慢がありますよと。

どちらかというとマネジメント層に属する人間としては、そもそもそういう「美談」自体発生する必要がない環境を整えていかなくてはなー、と、そんな風に思った次第なんです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Heather Kennedy

コンサート、演劇、トークイベント。

そういったライブには、ライブならではの良さがある。

 

プロのライブともなると、演者の情熱だけでなく、技能の卓越を見ずにいられない。

演奏や身のこなし、トークに感動させられるだけでなく、「鍛えられた人間の技能」の可能性について考えさせられる。

録画やDVDで観るより、目の前でリアルタイムに演っているのを見たほうがインパクトが強い。

 

で、最近私は、「鍛えられた人間の技能」をライブで楽しめる新しいチャンスを発見した。

それは「政治家のお祝いの言葉のライブ」である。

 

たとえばNHKの国会中継を見ていても、答弁する国会議員や官僚に凄さや面白みを感じない。

言葉尻を捕らえられないよう、役人言葉を使いこなしてみせる様子には技能の卓越を感じなくはないけれども、TV越しに見ているせいか、ピンと来るものがない。

 

ところが市議や県議のお祝いの言葉をライブで見ると、話が違ってくる。

ああ、政治家って政治のプロフェッショナルなんだという実感が沸く。

地域でめでたいイベントがあると、会場にはしばしば市議や県議がやって来る。

そしてお祝いの言葉を述べるわけだが、これが凄い。

 

しっかりとした姿勢。

訓練された頭の下げ方。

にこやかな表情。

抑揚のしっかりした、よくとおる温かな声。

 

言葉の選び方も見事で、誤解のされにくい、反感を買いにくいボキャブラリーを徹底させながら、主宰者、会場に集まった人々に祝辞を伝えると同時に、さりげなく市政や県政にも言及している。

 

こういった卓越を一身に集めた政治家が、NHKの国会中継のような遠い世界ではなく、目の前で、私たちに向かって語りかけているのだ!

どこをどう見ても良い人、市民や県民の代表にふさわしい人にしか見えないのである。

 

新聞や雑誌ではしばしば「政治家の失言」がスキャンダルとして報じられ、インターネットの床屋談義では「政治家は失言ばかり」と耳にする。

政治家でも失言することはあるし、それが政治生命を左右することがあるのは事実ではあろう。

 

ところがライブで見る政治家は、いつも失言からは最も遠い、スキルフルなプロフェッショナルにみえてならない。

「まさかこの人が失言するなんて」と思わせるような、圧倒的なコミュニケーション能力を感じずにいられない。

政治家の失言がスキャンダルたり得るのは、それが常態ではなく、例外だからではないだろうか。

 

細かな言葉遣い、身振り手振りの巧さに神は宿る

こうした政治の卓越、コミュニケーションの卓越を感じさせてくれるのは、もちろん政治家だけではない。

マイクを持っているときのアナウンサーの喋りは、キー局のアナウンサーはもちろん、地方局のアナウンサーでも素晴らしい。

抑揚。活舌。表情。言葉遣い。そういったものに隙が無く、不審感を与えない滑らかなコミュニケーションをやってのけている。

 

芸能人は怪物じみている。

内容としてはたいしたことを言っていない時でも、トークのテンポやスピード感で大勢をアトラクトするだけの何かがある。

あれは訓練の賜物なのか、それとも野生の本能によるのか。

 

大学教授のスピーチなどもいけている。

話題の順序やボキャブラリーの選択が淀みないだけでなく、聴衆の理解力にあわせて論旨をわかりやすく要約してみせる。

 

彼らの話しぶりは、なんとなく真似できそうにみえる。

ところが実際にやってみようとすると、うまくいかない。

アナウンサーや芸能人は、そこらのおじさんやおばさんでも言えそうな内容しか話していないことも多い。

ところがその内容を、アナウンサーや芸能人のように私たちが話せるかといったら、そうはいかないのである。

 

政治家やアナウンサーや芸能人の凄みは、彼らが語る文章の内容にあるのでない。

彼らの話しぶり、彼らの話の伝え方のなかにある。

だから私は思わずにいられない。

政治力の神は、コミュニケーションの細部に宿っているのだ、と。

 

たとえば、クラスメートから「これから高田馬場まで飲みに出ないか」と連絡が入った時に、LINEに「じゃあ7時半に行きます」と書くのと「7時半からなら、自分も行けます」と書くのでは、相手が受ける意味も印象も違ってくる。

前者の答えかたでは、相手は時間を指定されていると感じる可能性が高く、後者の答えかたでは、選択肢を提示されていると感じる可能性が高いだろう。

 

あるいは付き合い始めたばかりの異性とレストランで食事をして、「すごくおいしいお店だった」と表現するのと「すごくおいしい晩飯だった」と表現するのでも、相手が受け取る印象は変わり得る。

どちらが必ず正解、ということはないけれども、相手や状況や雰囲気によってはどちらかのほうが正解に近く、どちらかのほうが拙い。

気の利いた男性や女性ほど、こういう細かなボキャブラリーの違いに気を回すのが上手い。

 

コミュニケーションの細部が上手い人がいるということは、下手な人がいるということでもある。

ほとんど同じ内容のことを言っても、どうしても棘のある言い方になってしまう人、反感や誤解を招きやすい表現になってしまう人というのはいる。

言い回しのほんの僅かな違い、選んだ形容詞のちょっとした違いなどによって、相手が受ける印象やプレッシャー、解釈可能性がかなり変わることを、彼らは知らないか、知っていても気を回せないのだろう。

 

政治家、アナウンサー、芸能人、大学教授といった人々は、まさにこの、コミュニケーションの細部のレギュレーションがズバ抜けている、と私は感じる。

ボキャブラリーのチョイス、話題の順序、滑舌・表情・身振り手振りといったものの総体として、彼らは誤解を与えにくく、伝えるべきメッセージを正確に伝えるコミュニケーションをやってのけている。

 

敵をつくりにくく、味方をつくりやすく、誤解を与えにくく、心に響きやすいコミュニケーションをやってのけていれば、そりゃあ人望も集まるだろう。

あのアナウンサー、あの芸能人、あの大学教授のコミュニケーションの細部には、コミュニケーションの神が宿っておられる。

 

容姿だって「コミュニケーションの細部」

 

このツイートに記されているように、ときには「何か言っているようで何も言っていないコミュニケーション」が必要になる場合もある。

そのとき、空っぽのコミュニケーションの脇を固めるのは、ここまで述べてきたコミュニケーションの細部だ。

ここで挙げられている某若手政治家のコメントも、まさにそうしたコミュニケーションの細部によって脇が固められていた。

 

で、某若手政治家の場合、顔がとてもいい。

「ただしイケメンに限る」というネットスラングもあるけれども、実際、容姿もまたコミュニケーションの細部をかたちづくる要素のひとつだ。

容姿に優れていれば、それだけで良い心証を得やすくなる。

哲学者のショーペンハウエルも「美は事前に人の歓心を買う公開の推薦状である」と言ったではないか。

 

某若手政治家は、だから公開の推薦状をぶら下げて政治活動していると言っても過言ではないし、彼の容姿は、政治家としての資質の一部である。

彼ほど顔がいいわけではない市議や県議にしても、人前で話す時には身なりを整え、良い心証を得やすい外見づくりに余念がない。

女性政治家の身に付けているものも興味深い。よくよく選んで外見をつくっているのがみてとれる。

 

「コミュニケーションは内容こそが肝心だ」という人もいるかもしれない。

だが良きにつけ悪しきにつけ、他人の心証、とりわけ不特定多数の心証は、内容以上に形式・外観・レトリックによって左右される。

いまどきは、"「何を言っているか」よりも「誰が言っているか」が重要"とよく言われるが、その延長線上として、「どう言っているか」も同じぐらい重要だ。

 

そして某若手政治家が環境問題についてコメントした時のジェスチャーから想定するに、たぶん「誰が言っているのか」「どう言っているのか」さえ整っていれば「何を言っているのか」についてはあまり考えない人が、世の中には結構いたりするみたいなのだ。

 

もちろん「何を言っているのか」が問われる場面もあるから、コミュニケーションの内容を考える力が要らないわけではない。

けれどもコミュニケーションの内容だけで勝負していても政治力はなかなか獲得できないし、どんなに良い内容を用意した志の高い人でも、コミュニケーションの細部に宿った神に背を向けていては、渡世はおぼつかない。

 

たかが形式、たかが外見、たかがレトリックと馬鹿にするのでなく、そういった部分にしっかりと注意を払っている人に、コミュニケーションの神は微笑むのだと思う。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="4781616380" locale="JP" tmpl="Small" title="「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Jonas Bengtsson

いま、「副業」が、けっこう話題になっていますよね。

 

給料はなかなか上がらないし、いつまで働けるかもわからない。

少しでも稼げるときに稼いでおきたい、と、あんまりキツイことしたくないな、ラクに生きたいな、がせめぎ合いながら、僕も日々を過ごしています。

そんななかで、『「複業」で成功する』(元榮太一郎著/新潮新書)を手に取りました。

[amazonjs asin="4106108380" locale="JP" tmpl="Small" title="「複業」で成功する (新潮新書)"]

 

著者の元榮太一郎(もとえ・たいちろう) さんは、1975年生まれ。

旧司法試験に合格後、大手法律事務所に 勤務したものの起業を目指して三年で独立し、弁護士ドットコムを創業して、上場企業に育てた方です。現在は、参議院議員も務めておられます。

 

世の中には、すごい人もいるなあ、としか言いようのないところもありますし、読むと、「複業」というか、「弁護士ドットコム」の起業物語ではないか、という気もするのです。

 

「弁護士」は、みんなが憧れる職業であり、多忙でもあるはずで、そのなかで、新しいことをしようとする人は、ほとんどいなかったそうです。

「副業」としての、「本業」の宣伝にもなるテレビ・ラジオ出演や本の出版ならともかく、本格的な「起業」となればなおさら。

長く”複業という生き方”を実践してきたので、メリットの大きさを実感しています。弁護士の顔がなければ経営する会社は立ち行かず、会社が成功しなければ参議院議員になることもなかった。

現役の経営者と弁護士という生の経験が参議院議員としての政策や活動に活きてくる。その事実は間違いありません。

私のようなケースに限らず、誰でもその人なりの複業のあり方を考えられる時代です。むしろ、考えなければならない。

サラリーマンをしながらコンビニでアルバイトをする人もいれば、週末起業から会社を興して成功した人もいます。試行錯誤しながらでも、自分なりの道をみつけていくべきです。

著者は、2019年5月に、中西宏明経団連会長が「終身雇用を前提に企業運営、事業活動を考えることには限界がきています」と発言したことを紹介し、「終身雇用、年功序列、企業別組合」が三種の神器だった日本型雇用システムが限界にきていることを指摘しています。

これはもう、いまの20代、30代くらいの人にとっては、「当たり前のこと」のはずです。

 

会社や組織が自分を守ってくれるわけではない時代を生きるには「自衛」するしかない。

「複業」にも、「収入を増やして生活をラクにするためのダブルワーク」もあれば、「本業」を活かしたり、相乗効果が期待できたりするものもある。

私がやろうとしていたサービスについては「絶対にムリだ!」という言葉をずいぶん聞かされました。

当時の弁護士は、どちらかというと依頼者と仕事を選べる立場にあったといえます。いわゆる「一見さんお断り」の世界でした。

そのため弁護士ドットコムのようなサービスに登録して選ぶ立場ではなく選ばれる立場になることを受け入れる弁護士は現れるはずがないと考えられていました。

常識に反すると見られていたわけです。

ところが、2000年頃からの司法制度改革で、2004年には法科大学院がつくられ、2007年からロースクール1期生が弁護士市場に参入してきたことによって、弁護士人口は右肩上がりに増えていくのです。

これまでは「弁護士がお客さんを選ぶ」のが当たり前だったのが、競争の激化により「仕事がなくなった弁護士」も生まれてきます。

顧客のほうも、より手軽に弁護士にアプローチする方法として、ネットを利用するようになりました。

 

著者は、まさにその「常識が転換するタイミング」で、「弁護士ドットコム」を創業したのです。

 

もしあと何年か遅かったら、同じことを考えて起業する人やネットサービスが現れていた可能性が高かったと思われます。

他人が「そんなのムリだよ」とか「弁護士だけで食べていけるのに、そんなリスクを冒さなくても……」というタイミングだったからこそ、成功できたのです。

 

今から考えると、「なぜ、あのとき他の人は、こういうサービスを思いつかなかったのだろう?」と疑問になるくらいなのですけどね。

その「弁護士ドットコム」も、創業からしばらく赤字が続いて、生活のためのお金にも困った時期があった、と著者は述懐しています。

弁護士ドットコムは8年間、実質的な赤字が続きました。

弁護士と利用者をつないだときに紹介手数料を取れば弁護士法に抵触するので、そこでは手数料を発生させていません。つまり私たちのビジネスモデルでは、サービスの核となる部分を収益につなげられなかったということです。

 

広告収入しかない時期が長く続きました。それもわずかな額です。最初はサイトに張りつけたグーグルのネット広告だけだったので、月に5万円程度でした。それが弁護士ドットコムに入ってくる収益のすべてだったのです。

500万円の創業資金が毎月減っていくだけだったのは当然です。

そんな状況が続いて事業をあきらめようかと悩んだことがあるかといえば、一度もありません。収益はなくても利用者が徐々に増えていったからです。(中略)

 

起業段階で200万円の貯金しかなく、毎月、諸経費が出ていく一方になっていれば、会社を存続させるのは不可能です。どうして8年間も耐えられたのかといえば、法律事務所オーセンスの存在に助けられました。

独立1年目は法律事務所のほうは開店休業になっていたのに、資金が切れかかってきたとき、「自分は弁護士だった、やるしかない!」と一念発起したのです。

 

最初は私1人でしたが、そのうち所属弁護士が増えていき、法律事務所オーセンスと名前を変えました。

弁護士ドットコムの赤字が続いていた8年間は、こちらの業務が本業に近い役割を果たしてくれたのです。

 

こうしたところに複業の強みがあります。独立後の私はまさしく複業状態にあり、弁護士としても仕事をしていたので助かったということです。

弁護士としての顔まで捨てて起業家の顔だけでやっていく完全なハードランディングにしていたら、赤字の8年を乗り切る体力はなかったでしょう。こうした経験からいっても、私自身、複業の強みをよく実感しています。

「副業」というと、「足りない収入を補填する」というイメージがあるのですが、著者のように「自分がやりたいことを実現する(あまりお金にならない)活動を続けるために、生活を支える仕事をする」という「複業」もあるのです。

せっかく弁護士という強い資格を得たのだから、と考えてしまうのだけれど、強くて稼げる資格があったからこそ、赤字続きだった「弁護士ドットコム」の創業期を支えることができた。

 

著者は、「弁護士ドットコム」の初期には、知り合いの弁護士に頼んで登録してもらったそうです。

面識のない、他業種の人に「うちに登録してください」と頼まれても警戒する人が多かったでしょうから、著者が「弁護士」としてつくってきた人脈が大きかったのです。

 

「弁護士ドットコム」がうまくいかなかったら、全盛期の『新日本プロレス』での稼ぎを自らの事業「アントン・ハイセル」につぎこんで会社を傾けてしまったアントニオ猪木みたいになりかねない話でもあるのですが。

 

「弁護士ドットコム」には、創業時のスタッフは残っていないそうなのですけど(IT企業にはよくある話です)、結果的に大成功をおさめたから良かったものの、著者の複業の損失補填に利益を使われていた弁護士事務所のほうにも、いろんな思いはあったのかもしれません。

 

こういうのは、著者のような「大きな起業」だけではなくて、会社を辞めてフリーランスで働くことを目指す、という場合でも、「いきなり辞めるのではなくて、まず仕事を続けながら副業を試してみる」という応用のしかたもあるはずです(というか、起業よりも、そちらのほうが事例としては多いでしょう)。

経済的に苦しくなると、選択肢が限られてしまったり、お金のためにやりたくないことをやって、自分の価値を下げてしまうという悪循環に陥りがちですし。

 

「そんないい仕事(いい会社)なら、副業(複業)なんてしなくて良いんじゃない?」って言われるような立場にある人だからこそ可能な「複業戦略」もある。

 

著者は稀有な成功例であり、ここまでやれる人は少ないと思います。

とはいえ、どんな会社も組織も「終身雇用」が難しい時代だからこそ、こういう戦略も知っておいて損はないはずです。

この本のなかには、法的に「副業(複業)」が問題になる場合や、そうならない場合なども紹介されていて、「複業をやってみたい」という人にとっては、知っておいたほうが良い知識も散りばめられています。

 

「やりたいことをやる」と「生活を破綻させない」は、うまくやれば、両立できるのです。

さすがに、「起業のための生活の基盤として弁護士になる」というのは、あまりにハードルが高くて、できる人は限られているだろうけど。

 

医者の場合でも、「やりたいことをやるために医師免許を取って、健診とか当直のアルバイトで稼ぎながら起業する」というのも可能だとは思います。

僕だったら、起業するより、それでラクに、自由な時間をたくさん持って暮らせればいいか、と考えてしまうのですが。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Guido van Nispen

すこし前の話。

 

あるサービス業の現場で、経営者が「顧客満足を徹底せよ」という方針を打ち出していた。

朝礼でも、役員会でも、部長会でも、課長会でも、グループミーティングでも、その話は伝達されたため、末端の社員までメッセージは確実に届いていたようだ。

 

無論、現場は反対する理由もない。

だれだって、会社に勤める人間なら知っている。

お客さんの満足は必要だ。

 

「そりゃそうだよな」と納得し、誰もトップの言うことに対して疑問を持つ人はいなかった。

もちろん経営者も「方針が徹底された」との手応えを持っていたようだ。

 

ところがその後。

経営者が、得意先の社長とたまたま会食したときのこと。

 

彼は思わぬ事実を、聞いた。

曰く、

「最近は現場同士の交流が少ないので、ウチの若い連中を、飲みに誘ってあげてください」と。

 

経営者は驚いた。「顧客満足」をあれほど徹底せよと言っていたのに。

お客さんと飲みにすら行っていないのかと。

経営者は得意先に「ご忠告をいただいてありがとうございます」と丁重に礼を述べた。

 

だが、彼は内心、腹が立ってしょうがなかった。

あれほど言ったのに……と。

 

経営者は翌日の朝、全社にメールを飛ばした。

「顧客満足をあれほど徹底せよと言っていたのに、私はたいへん嘆かわしく思う。お客さんの接待を怠る担当者は言語道断である。今度こそ顧客満足を徹底するように」と。

 

 

さて、もちろん多くの人が気づく通り、これは完全に経営者が悪い。

なぜかといえば、「顧客満足」の言葉の意味を明確にしていないからだ。

 

たとえば現場の経験上、少なくとも、企業が施策として顧客満足を打ち出す場合には、

 

1.「顧客満足」を適用する範囲(どの顧客の、どのサービスの満足度についての話か?)

2.「顧客満足」の定義(何を持って、顧客が満足したとみなすか?)

3.「顧客満足」の実現方法(接待をする、クレームの迅速対応、サポートの強化……など)

 

の3つについて決定し、かつ、それらが現場の行動に落ちているかをモニタリングする必要がある。

 

もちろん、経営者が「単なるスローガン」を打ち出すときもある。

だが、それが現実的には一部の「自発的な社員」以外には、何の効力も持たないことは、すこし考えればわかることだ。

 

殆どの人は、指示を受けても、それがあいまいであれば、行動に転換したりはしない。

仮に「自発的な社員」が自主的に動いたとしても、その社員が考えたことが、経営者のイメージに一致しているとは限らない。

 

もちろん、「言葉の定義が重要」なのは、上の話だけではない。例えば

議論をする場合。

指示を人に与える場合。

誰かしらを説得する場合。

なんであれ、なによりも「言葉の定義」を大事にする人の仕事は非常にやりやすいし、成果も出しやすい。

 

逆に、言葉を大事にしない人との仕事は非常にやりづらい。

「曖昧な」議論。

「人により異なる解釈」が発生する指示。

「何について話しているのかはっきりしない」説得。

そうした、共通認識が存在しない状態での仕事は、極めてやりにくいし、そもそも成果が何なのか、よくわからないままウヤムヤになるのがほとんどだ。

 

だから上の経営者は知る必要がある。

「あいまいな言葉で指示を出したのだから、実行されなくても、それは指示を出した側の責任だ」と。

 

 

「定義することが重要」

これは、日々の仕事だけではなく、何かしらのイノベーティブな仕事をするときにも、言うことができる。

例えば。

 

マネジメントの祖である、ピーター・ドラッカーは、企業におけるマネジメントの必要性を説くために、「企業とは何か」「企業の目的とは何か」と言葉の定義を行うところから議論を開始している。

この定義は非常にエレガントなもので、私はこの一文を読み、「この本には究極的に重要なことが書いてある」と確信するに至った。

企業とは何かを知るためには、企業の目的から考えなければならない。

企業の目的は、それぞれの企業の外にある。企業は社会の機関であり、その目的は社会にある。

企業の目的の定義は一つしかない。それは、顧客を創造することである。

[amazonjs asin="4478410232" locale="JP" tmpl="Small" title="マネジメントエッセンシャル版 - 基本と原則"]

 

歴史の教科書にも出てくる「能」を大成した世阿弥は、著書「風姿花伝」で「良い能」の定義を最初に行っている。

さて、よい能というのは、典拠が正統的で、新鮮味のある趣向を凝らし、山場があって、作風が優美であるようなのを、もっとも優れたものと考えてよい。

[amazonjs asin="B00F5P42EA" locale="JP" tmpl="Small" title="風姿花伝・三道 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)"]

 

幾何学の祖であるユークリッドがなぜ「祖」なのかといえば、「定義」と「公理」を用いるルールを精密に決めたからだ。

ユークリッドの著書「原論」では「点とは何か」「線とはなにか」「面とはなにか」といった定義を出発点とし、そこから高度な数学の議論を行っている。

[amazonjs asin="4774165360" locale="JP" tmpl="Small" title="ユークリッド原論を読み解く ~数学の大ロングセラーになったわけ~ (数学への招待)"]

 

 

Googleがなぜ検索技術でwebを支配できたのかといえば、「ページの価値」をページランクという技術で、新しく定義しなおしたからだ。

ガレージで活動していたグーグルは、その4年間のハンデを克服し、すでにポピュラーになっていたLycosやAltaVistaを検索品質の面でどのようにして出し抜いたのだろうか。この問いに簡単な答えはない。

しかし、検索産業の初期の時代ということを考えると特にそうだが、もっとも重要な要素の1つは、グーグルが検索結果のランキングのために使っていた革新的なアルゴリズムだったことは間違いない。それは「ページランク」と呼ばれているアルゴリズムである。

[amazonjs asin="B00FR78X64" locale="JP" tmpl="Small" title="世界でもっとも強力な9のアルゴリズム"]

 

哲学者ジョン・スチュワート・ミルの偉業の一つである「自由論」の書き出しはこうだ。

本書のテーマは、いわゆる意志の自由ではない。本書で論じるのは、誤解されやすい哲学用語でいう必然にたいしての意志の自由ではなく、市民的な自由、社会的な自由についてである。逆にいえば、個人にたいして社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界を論じたい。

[amazonjs asin="B00H6XBJJ0" locale="JP" tmpl="Small" title="自由論 (光文社古典新訳文庫)"]

 

新しい定義が、新しい認識を生み出し、それは時としてイノベーションとなる。

 

もちろん、自由闊達な議論をしたい、アイデアがほしい、発想を広げたい、等の場合には、あえて「何も定義せず」に指示を出したり、ディスカッションをしたりすることもある。

 

ただ、それは過程で重要なだけであって、人の行動や、学問の基礎となるためには、最終的に明確な「定義」が必要だ。

 

 

思い起こすと昔、コンサルタント時代の上司は、言葉の使い方に関しては人並み外れたこだわりを持っていた。

 

例えば、「問題」と「課題」のちがいについて、何時間も議論した。

あるいは、「コミュニケーション」と安易にいわず、「会話」のほうが適切だと直された。

または、「失敗」ではなく「成長ネタ」と訂正された。

「実行しやすい」という提案書の言葉を、「かんたん実行」とキャッチに作り直した。

 

私には最初、その価値がわからなかった。

駆け出しの私には「些細な違いだろう」としか思えなかったのだ。

 

だがお客様先で、話をすると、練られた言葉と、そうではないことばでは、恐ろしく相手に与える印象が変わることを、身を持って知った。

「言葉一つで、こんなに相手の行動が変わるのか……」と、何度思ったことだろう。

 

実際、コンサルティングの現場では「言葉のつかいかた」や「定義」がすこしずれただけで、大問題となることも多い。

「ウチは特殊だからね、「顧客満足」の意味が違うんだよね〜」

と、コンサルタントに絡む人もいた。

 

上司はまた、社内の勉強会では、必ず「辞書」を持ち込むことを要請した。

「勉強会には必ず、電子辞書をもってこい」と彼は口を酸っぱくして言っていた。

そして、

「理念とはなにか」

「目標とはなにか」

「品質とは何か」

「顧客満足とは何か」について、延々と数時間も議論をした。

それらはすべて、血肉となっている。

 

 

厳密に定義された言葉は、行動を促し、正確に意図を伝える大きな助けとなる。

 

 

優れた思考は、練られた言葉に現れる。

私は現場の仕事で、痛いほどそれを感じた。

 

だから思う。成果を上げる仕事をしたいなら、上司が「しっかりやれ」と言ったら、「「しっかり」とはどういう意味ですか?」と聞きかえすくらいの癖をつけたほうがいい。

 

もちろん短期的には「面倒なやつだ」と、嫌われるかもしれない。

だが、その厳密さと、言葉の持つ影響力を知る人のみが、力を持つのだ。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

[adrotate group="46"]

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="4534056613" locale="JP" tmpl="Small" title="すぐ「決めつける」バカ、まず「受けとめる」知的な人"]

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

Photo by Patrick Tomasso on Unsplash

今日は、「効率的な効率化」について書きたい。

 

わたしは常々思っていたのだ。

効率化の必要性を強調しているわりに、それを個人に押しつけすぎじゃないか?と。

 

個人で省略できる作業や時間短縮できる場面なんて、かなり限られている。

より多くのムダを省きたいのなら、個人の努力をアテにするより、ムダなく機能する組織になるべきだ。

 

効率的な効率化には、「個人」の努力ではなく、「組織」の改革のほうが必要なはずだろう。

 

効率化の主語が常に「個人」なのは、おかしくないか?

「日本人の働き方は生産性が低い」「非効率だ」という指摘は、もう何百回も聞いた。聞き飽きたくらいだ。

いたるところでそれを裏付けるデータが紹介されているから、たしかにそういう現実があるのだとは思う。

 

同じ時間、同じ人数で働くなら、10の仕事より100の仕事が終わったほうがいい。そりゃ当然だ。

だから、「効率的に働く方法」が注目されるのはもっともだと思う。

 

でもそこで挙げられる方法が、もっぱら「個人」単位の話でしかない。

集中しろ、優先順位を考えろ、スケジュール管理を丁寧に……などなど。

あくまで、「効率的に働く人になるためには」という話ばかりしているのだ。

 

組織を変えることはむずかしいから、「まず個人でできる範囲で効率化しよう」というのは、一見理にかなっているように思える。

 

でも、一個人のパフォーマンス力がちょっと上がったところで、いったいどうなるというのだろう。

そもそも、「非効率」と言われまくっている日本人だけど、みんながみんなダラダラ働いているわけじゃない。

むしろ、マジメに働いている人ばかりだ。

 

それなのに「非効率」なのであれば、それは「個人」ではなくむしろ、「マジメに働いていても結果が出ない効率が悪い仕組み」にあると考えるべきじゃないか?

 

「個人が努力すればいい」が効率化の最適解だとは思えない

効率の悪い仕組みを個人に帰結している例を挙げよう。

 たとえば、午後4時に怖い顔をした上司が目の前にあらわれ、「これを今日中に終わらせてほしい」と言って、新しい仕事を押し付けてきたとします。

その仕事を終わらせるには、5時間はかかりそうです。ですが、午後7時から飲み会の予定が入っているとしたら、どうしますか?
知的生産という概念がない人、つまり「考えない人」は、頭の中で「4+5=9」という計算を行います。

[……]

けれど、飲み会が好きな僕なら、こう考えます。
「仕事と飲み会のどちらが大切かといえば、もちろん飲み会だ。飲み会に参加するには、5時間かかる仕事を3時間以内に終わらせなければいけない。今までと同じやり方だと3時間では終わらないので、違ったやり方を考えてみよう。
[amazonjs asin="4534056680" locale="JP" tmpl="Small" title="知的生産術"]

はいでたー! ほらきたー!

定時直前に今日中にやるべき仕事を与えることはもちろん、「怖い顔」で「押し付ける」なんて、明らかに上司のほうに問題があるよね!?

 

なぜそんなにギリギリになったのかを明らかにすべきだし、ほかの人は手伝えないのか、その仕事の優先度がどれくらいなのか、そういうことを踏まえてスケジュールを組みなおすべきだ。

 

「効率的にやれば早く終わるはず、そこで頭を使う人間が結果を出せる!」って、そもそも話がおかしくないか?

まず上司が頭を使ってマネージメントしろよ、という話にはならないのか?

いや、たしかに急ぎの仕事が入ることはあるだろう。でもそれを、「個人の効率化」でカバーしようとするのはちょっと筋違いだ。

 

「そういうことが今後起こらないような仕組み」を考えなければ、いつまでたっても「個人ががんばれば仕事は早く終わる」という根性論から抜け出せないじゃないか。

みんなが常にうまく効率化できるわけではないし、個人のリカバリーに甘えて理不尽がまかりとおるのもまた本末転倒だ。

 

個人の努力はもちろん大事。

でも個人の努力次第の効率化は不安定で、単純に「非効率」だと思う。

 

効率化のために時間と労力を使うのは本末転倒

「オフィスがガヤガヤしていて集中できず、デスクが狭くて書類が散乱。そんななかでも効率的に働くために、こうしましょう!」

だなんて提案を見ると、ちょっとため息をつきたくなってしまう。

 

そんな個人の努力に期待せず、「集中できるようにオフィスのレイアウトを考え、自分のスペースがしっかり確保できる仕事場」にするほうが、効率的に効率化できるとは思わないんだろうか。

たとえば、オフィスビルの一角で働いている人たちがいっせいに昼休みにはいるから、12時ごろはエレベーターが混んでいて毎日5分も10分も待たなきゃいけないとする。

 

「その5分や10分で午後の仕事の段取りを考えておこう! それで午後の仕事がやりやすくなる!」

というくらいなら、

「それぞれ好きなタイミングで昼休みをとれるようにしたほうがいいじゃん」

と思う。

 

「ムダな作業やストレスを減らすために個人が工夫する」より、「ムダな作業やストレスが生まれない組織」のほうが、絶対に働きやすいじゃないか。

効率的に働くためにそれぞれが時間と労力を使うなんて、それこそ時間のムダだ。その時間と労力を仕事内容につぎ込める環境をつくるほうが、何倍も「効率的」なはずである。

 

みんなダラダラ働いているのにドイツはなぜ「効率的」だと言われるのか

わたしが住んでいるドイツは、「効率的に働く国」としてよく例に挙げられる。

たしかに、データを見ればそうなのかもしれない。

でも、実際に役所の窓口にでも行ってみてほしい。

みんながどれだけダラダラ働き、雑談をし、適当な対応をしているかを、ぜひその目で見ていただきたい!

 

いや、本当にびっくりする。

保険の契約中、「子どもから電話が」とわたしの書類を作りながら電話をとって冷凍ピザの場所を説明しはじめたり、わたしを待たせながら同僚と最近できたレストランの話で盛り上がっていたりする。

 

それがふつうのドイツが「効率的に働く国」っていったい何の冗談だよ、と思わないでもない。

でもそれは、個人の働き方ではなく、組織の機能の仕方の問題なんだろうなぁと悟った。

 

ドイツは担当がはっきりしているから、日本ほど「報・連・相」が重視されない。

自分の仕事は自分に裁量権がある。他人の仕事がまわってきたら、「それは自分の仕事じゃないので」とばっさり。

1人~数人の広々とした部屋で働くことが多く、机がずらーっと並んだ狭くて窮屈で雑多なオフィスはまず見ない。

 

受けた職業教育のレベルや学歴で階層があり、それぞれのステータスに見合った仕事をするので、不相応にむずかしい仕事で困ることや、ハイスペックなのに雑務ばかりで能力を活かせないということもあまりない。

 

そうやって、自分の仕事に集中しやすい環境があるから、当人たちが多少ダラダラ働いていても、組織として効率的に機能しているのだろう。

それを見ていると、「やっぱり個人ができる効率化って限界あるよなぁ」とつくづく思うわけだ。

 

効率的な効率化は、個人の努力ではなく組織の改革

先日、当サイトで『システムの穴を「運用でカバーする」っていう思考法やめようよ、と強く強く思った話。』という記事が公開された。

「情報漏えいの可能性がある」に対し、「守秘義務を徹底」で対応するのはそりゃムリだろ頭んなかお花畑か、という愉快なツッコミ記事である。

 

「システム上起こりうるヒューマンエラーを防止するのはムリだから、システムそのものを見直すべき」というのは、とてもまっとうな主張だ。

そしてこの話は、みんな大好き「効率化」の話でもいえる。

 

「仕事」という大きな枠組みのなかで、非効率な作業や時間、環境はいくらでもある。

そういった仕組みの問題を、「個人が最善を尽くす」という対処法でどうにかしようとするのは、あまりに無謀だ。

 

決まらない会議や二度手間になる承認過程、たいして使わないのに作らなきゃいけない資料、集中できないオフィス動線、共有されない社内情報、とりあえずチェックの量の多さ……。

個人ではどうにもならない仕組みにこそムダが潜んでいるわけで、それを放置しておきながら「効率的に個人が働けばうんぬん」は都合が良すぎる。

 

「非効率なことは個人が効率化すればいい」なんて非効率なこといってないで、「非効率なことが起こらないように仕組み自体を効率化すべき」なのだ。

 

あーもう、「効率化」って言いすぎてよくわからなくなってきた。

 

結論としては、「効率的な効率化は個人の努力ではなく組織の改革なのでそこんところよろしくお願いします」って感じです。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:gdsteam)

「距離が近い人とは仲良くしましょう、親しくしましょう」という考え方、

もちろん間違いではないんですが、それだけだと色々としんどい弊害が出てしまいそうな気がしているんですよ。

 

順を追って書きます。

 

最近ふと気づいたことなんですが、今私がいる職場で、「仲が良い人」「親しい人」っていないなあ、と思いまして。

例えばプライベートのことまでよく話す人とか、ちょくちょく飲みに行く人とか、なんなら休日に一緒に遊ぶ人とか、昔と違ってあんまりいないんです。

 

ただ、それで仕事がやりにくいことがあるかとか、職場で上手く人間関係が回らないところがあるかっていうと、これが全っっっ然そんなことがないんですよね。

 

むしろ人間関係については過去最高レベルでやりやすい。

ちゃんと仕事上のコミュニケーションも取れているし、特段話しにくい人もいないし、情報共有の齟齬もないし、報告はちゃんとあげてもらえるし、実に快適に仕事が出来ているんです。

 

仕事上のコミュニケーションで必要なのは、「相手に対する尊重」であって「親しさ」「仲の良さ」ではないよなあ、という気がしています。

相手にも都合があり、立場があり、また知識・能力のレベル差がある。

 

それは悪いことではなく、ただ「お互いに認めなくてはいけないこと」だと。

その為に「相手と仲が良いこと」が必要かっていうと、実は別に必要ないよな、と。

 

逆に、感情的な意味での親しさやらしがらみやらない方が、余計な感情抜きに、客観的に相手と自分の関係をとらえることが出来る気がしているんですよ。

「親しい関係」なんて、趣味やプライベートの場だけで十分だよなあと。

 

要は

「一緒に仕事をしていく上では、どんなに近い関係でも、別段仲良くなくてもなにも問題ねーよな」

「むしろ中途半端に仲良い方がやりにくいよな」

と最近は感じている、という話なんです。

 

ただ、ふと振り返ってみると、今までの人生でそういう、

「幾ら近い関係だからって、別段仲良くなくてもいいんだよ」

「仲良くしないまま付き合う方法、お互いを尊重する方法もあるんだよ」

と教えてくれた人、教えてくれた場所って、どこかあったかなあ?と。

 

むしろ今まで、およそどんな場所でも、「近い関係の人とは仲良くしましょう、親しくしましょう、親睦を深めましょう」と言われ続けてきたような気がしているんですよ。

 

***

 

私が小学生の頃、クラスの標語は、「明るく、仲良く、楽しく」でした。

「お友達と仲良くする」こと自体が、日々の生活の目標の内に含まれていたんです。

 

で、これは多かれ少なかれ、中学校だろうが、高校だろうが同じだったような気がします。

チームプレイにおいては、とにかく「仲良く」が最優先される。

大学ではそういう空気が薄くなりましたが、今度はチームプレイの機会が殆どなくなりました。

 

確かに、友人と遊ぶのは楽しいですし、仲が良い友人は終生の財産になり得ます。

だから、「お友達を作って仲良くなる」というスキルを身に着ける、その練習を子どもの頃にするのは全く正しい。

それについては何の文句もないんです。

 

ただ、それが余りにも「唯一解」として教えられ過ぎているんじゃないかなあ、と。

「お友達と仲良く」ということを、ただ一つのゴールとして認識させてしまうのはちょっとまずいんじゃないかなあと。

しかもこれ、教えられる子どもどころか、教師の側まで唯一解として認識してしまうケースがあるような気がするんですよ。

 

以前、こんなことを書きました。

教師がクラスの「いじめ」への対処を誤ってしまう理由。

だから、先生は基本的に、「みんなが仲良く楽しく過ごせる」クラスの運営を目指す。これ自体は当たり前のことのように思えます。

ただ、その目標を堅持している場合、いじめが発生した時にどうするか。

「いじめた子がいじめられた子に謝って、反省して、仲直りして、またクラス皆が仲良く過ごせる状態を目指す」ことになる訳です。つまり、「いじめを乗り越えて、また仲良く一つになったクラス」を目指す訳です。これが彼の言う「ゴール設定」。

いじめの問題って多分象徴的だと思うんですけれど、いじめられた上でも、最終的に「仲直り」を求められてしまうのって本当に物凄く辛いんですよね。

 

仲直りどころか存在自体思い出したくもないのに、「みんな仲良く」というゴール設定の為に、自分の自尊心を犠牲にして、「仲直りして水に流す」ことを求められてしまったりするんです。

それによって、いじめられた側の自己肯定感はズタボロになるのに、クラスだけは表面上の「仲良し」でそのまま運営されていく。

 

こういう、「仲良くしよう」が求める弊害って、色んなところで現れているような気がします。

 

例えば、特に友人関係を作らずに一人の時間が好き、という在り方を否定して、「ぼっち」などと揶揄してしまったり。

例えば、行きたくもない職場の飲み会で「親睦を深める」ことを強要されたり。

 

それって多様性の否定の最たるものじゃないかなあ、と思ったりするんですよ。

冒頭で書いた、「職場に親しい人がいない」という状態すら、私自身は至極快適なんですが、観る人によっては「非コミュ社会人がぼっちを正当化している」とでも思われてしまうのかも知れません。

 

「相手を尊重する」「相手を認める」というのは、もしかするとある程度人格が成熟してからでないと分かりにくい概念なのかも知れません。

だから、小学校くらいでは分かりやすい「みんな仲良く」という概念を教える。繰り返しになりますが、それは別に構わないんです。

 

ただ、それでもどこかで、ちょっとくらいは

「すぐ傍にある関係でも、別に仲良くしなくても構わないんだよ」

「仲良くしないまま上手くつきあう方法も、本当はいくらでもあるんだよ」

「その為に必要なのは、ただ「相手を尊重する」ということだけなんだよ」ということくらいは教えてあげてもいいんじゃないかなあ、と。

 

少なくとも自分の子どもくらいには、どこかで「仲良くしない付き合い方」についても、少なくともそういう概念があるんだってことくらいは教えたいなあと。

それが子どもの心を救うことも、もしかしたらあるのかも知れないと。

 

そんな風に思う次第なんです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Duy Pham

『働かない技術』(新井健一著/日本経済新聞出版社)という本を読みました。

[amazonjs asin="4532264073" locale="JP" tmpl="Small" title="働かない技術 (日経プレミアシリーズ)"]

 

タイトルをみて、ああ、仕事をせずにクビにもならず、給料をもらい続けるテクニックについて解説したものなのだな、と、少し嬉しくなりつつ手に取ったのです。

『釣りバカ日誌』のハマちゃんのような、周囲に波風を立てない「給料ドロボー」になれたらいいなあ、って僕もけっこう真剣に思っているので。

 

しかしながら、この本は「サボりたい人」のためのものではなかったのです。

人生100年時代のキャリアを再点検するために必要なこと、それは将来予測と歴史認識、そして働き方改革の本質をどう見極めるかだと筆者は考える。

 

本書では、そのタイトル「働かない技術」(=業務削減・効率化)のための考え方とともに、これからの時代に「企業人」として生きていくための心構えや、今後必要とされる「真の働く技術」を、一部、課長に昇格した2人の人材のその後をストーリー形式でたどりながら解説・提案していく。

本書で想定する読者は、特に30代後半~40代のミドル世代、働き方改革のキーマンとなる課長世代だ。

 

筆者は、自らの、あるいは自社の働き方について、いま最も真摯に考えるべきなのは、若手でも経営陣でもなく、ミドル世代だと思っている。この世代が、働き方改革の本質を見極め、改革を正しい方向に導かなければ、日本も日本企業も凋落の一途をたどるだろう。

僕もこの「ミドル世代」にあてはまるのです。

50代以降の人たちに、いまさら変化を求めるのは酷だし、若手は、すでに「新しい働き方」にシフトしつつある。

そんななかで、「24時間戦えますか」と「定時に帰りたい」の両極に挟まれたミドル世代は、悩ましい立場ではあるんですよね。

 

この本で語られているのは、「ムダに働かない」というか、「効率的に働く」技術なんですよ。

僕が期待した「うまくサボる」なんて話は、全く出てきません。

働き方改革の本質、それは「個人の尊厳と生涯キャリアの自己管理」である。

個人の尊厳は、日本国憲法が実現すべき根本目標であり、ワーク・ライフ・バランスの実現はその目的に敵っている。パワハラ防止義務法制化なども同じ目的に適っていると言える。

 

そして、キャリアは誰のものかという問題。これまで日本企業で働く企業人は、自らのキャリアを他律的に管理されてきた。

だが先日、経団連の中西宏明会長は、企業が今後「終身雇用」を続けていくのは難しいと述べ、雇用システムを変えていく方向性を示した。その一方で、国も企業も企業人が多様な働き方を選択できるよう、施策を講じている。

 

日本の企業人は、ハラスメントに異議を唱える「権利」を得た。その他にも、企業人の「権利」は30年前とは比べものにならないほど整備されつつある。そのような「権利」をもって、たとえば今後、海外勤務や転居を伴う人事異動のない地域限定社員を、積極的に選択する新人もますます増えることだろう。

そうして、多様な働き方を選択することができる「自由」を得た。

 

だが、「権利」というコインの裏側は「義務」であるし、「自由」の裏側は「自己責任」だ。この「義務」とは、自ら自律的に研鑽し、企業人として成果を出すことであるし、「自己責任」とは生涯キャリアを自ら管理し、人生100年時代を生き抜くことである。

 

最近、企業の人事担当者から、「権利」や「自由」ばかり主張して、自らのスキルを積極的に磨いたり、改善しようとしない若手社員の話をよく聞く。

それはそれで構わない、これが筆者の主張だ。

ただ、これから広がる企業内の教育格差、その若手社員はどちらの立場にいたいのだろうか? と問うてはみたい。

「そんなに働きたくはないけれど、肩身が狭い思いをするのは嫌だなあ」というのが僕の本音なのですが、そんな「いいとこどり」は難しいのです。

「権利」が整備されたとはいうけれど、まともに仕事もせずに自分の権利ばかり主張する人がうまくやっていけるはずもありません。

 

どんな恵まれた環境のなかでも「ダメな人」「できない人」として生きていくのは、けっこうつらいものです。

能力はありそうなのに、仕事を効率化したり、物事をうまく進めたりすることに活かせない人というのも多い。

またこんなこともあった。ある企業で経営計画の策定にかかるワークショップを実施した際、集まった役員のひとりに「そうはいっても、一方で──」というフレーズをやたらと口にする人物がいた。

その人物は他の役員がどんな前向き、建設的な発言をしても、「そうはいっても、一方で──」と切り返すことで、意思決定を避けようとするのだ。

 

ちなみに、その人物は非常に博学であり、自社を取り巻く環境認識や親会社の歴史に至るまで、もてる知識を惜しみなく披露するのだが、コトが意思決定に向かう流れになると、手を大きく広げて「そうはいっても、一方で──」と煙に巻くのである。

 

まさに、ハイスペックだが、意思決定には何の役にも立たないガラパゴス知識でその場を混乱させ、ストレスフルなものにしていた。

しかもその役員こそが、親会社から出向してきた「社長」だったため、他のプロパー役員とともに暗澹たる気持ちになったことをいまでも覚えている。

こういう人って、いますよね……

ネガティブな立場から物事を見る人というのも、全体のバランスをとるためには必要なのですが、その人がトップだったら、周りはもうどうしようもありません。

 

しかし、親会社は、どうしてこういう人を社長として出向させてきたのでしょうか。使い方が間違っているよなあ。

やたらと会議の時間が長かったり、ポストが多すぎて責任の所在があいまいだったり、「おつきあい残業」が常態化していたりする企業は、いまでも少なくありません。

 

日本の製造業は「生産性が高い」と言われてきたけれど、オフィスでの生産性は、なかなか改善されないのです。

ちなみに、仕事を最も効率的に進めるための優先順位づけだが、縦軸に「重要度」、横軸に「緊急度」をとった際、最優先すべきは「重要度」「緊急度」ともに高い業務である。

これは衆目の一致するところだが、では二番目に優先すべき業務は次のうちどれだろうか。

 

「重要度」が高く、「緊急度」は低い業務

「重要度」が低く、「緊急度」は高い業務

(答え)「重要度」が高く、「緊急度」は低い業務

 

二番目に優先順位が高いのは、「重要度」が高く、「緊急度」は低い業務である。なぜならこの範疇に属する業務は、取りかかると重たいが、「緊急度」が低いために、後回しにされがちだからだ。

そうして、いつの間にか納期が迫り、一番優先度が高い業務に格上げされる。

 

このような業務を一番よくコントロールしなければ、「時間でなんとかする働き方」から脱することはできないし、仮に当該人材が管理職になれたとしても、ダメな管理職になりやすい。

それは、管理職としての職場マネジメントが、目先の緊急度や経過に振り回され、成果や働き方「改革」につながる重要な業務に、いつまでも着手できないからである。

 

そして、そんな管理職に限って、自分で仕事を抱え込み、いずれは社内事情に明るいことしかアピールポイントのないガラパゴス人材になっていくのだ。

ああ、僕もこれは思い違いをしていたのです。

「緊急度」が高いものを先にやるのが当たり前だと考えてしまうけれど、「緊急度」が高いものは次から次へと出てくるし、「重要度が高いけれど、めんどくさいもの」は、つい後回しにしてしまう。

 

その結果、時間はなくなり、重要で緊急度が高くてめんどくさいものが残ることになるのです。

このパターンで、今まで何度つらい思いをしてきたことか……

こういう「仕事の優先順位」を知っておくのは、非常に大事なことですよね。

 

あと、この本のなかで印象的だったのは、大企業の課長だったものの、リストラ寸前で他事業部に引き抜かれ、そこでの仕事を評価されて部長に抜擢されたという人のこんな述懐でした。

──企業人に求められる資質、いま振り返って?

 

「不運にへそを曲げてしまったら、課長にすらなれなかった。曲げても何も良いことはないから。会社で8時間過ごすわけだから──。

とにかく面倒くさいことを進んで、腹を括ってやった。たとえば全体集会の時に、マイクの調子が悪かったとする。

その時、自分は直しにかかった。もちろん、後ろでふんぞり返っている同僚もいた。

他にも、職場で何か困ったことが起こった時や、厄介な相談を持ちかけられた時に、逃げなかった」

 

彼は、頭の片隅で、またリストラを告げられるかもしれないと思いながら、いつも仕事をしていた。

彼の上司は、そんな彼の一体何を見ていたのだろうか?

みんなが効率的な働き方を追い求める時代だからこそ、こういう「誰かがやらなければならないのに、みんなが『自分にはメリットがないから』とやりたがらないことを進んでやってくれる人」が評価されることもあるわけです。

 

「価値のある働き方」にも、いろんな形があるのです。

仕事の優先順位をしっかり決めて、みんなをフォローしつつ、ムダに働かせない。

 

ものすごい能力があるけれど、周囲に当たり散らしてみんなのやる気を削いでしまう人よりも、目立たなくても他者を尊重し、働きやすい環境をつくってくれる上司のほうが、組織にとっては価値が高くなってきています。

 

ミドル世代のひとりとして、自分の働き方を見直す良いきっかけになる本だと感じました。

これからは、周りの人や仕事に丁寧であったり、礼儀正しくふるまえることのほうが、「自分自身の仕事を効率よくこなせる」ことよりも重視される時代になっていくのでしょうね。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Mark Turnauckas

日曜日の昼下がり。11月下旬ともなれば、ドイツはもう完全なる冬モード。

毎日どんよりとした天気でお天道様は長期休暇中、日中でもたったの5℃しかない。寒い。

 

そんななか、自宅の窓からもうずいぶん葉っぱが落ちた落葉樹を眺めつつ、さてどんな記事を書こうかと考えていたときのこと。

夫が、「今日のお昼ご飯なににする?」と話しかけてきた。

 

「いま仕事中だからちょっと待って」と答えれば、「え、ボーっとしてるだけじゃん」と言われてしまった。

ボーっとしてたんじゃなくて考えてたんだよ!

 

たとえ頭の中で仕事をしていても、他人からすればただなにもしていないようにしか見えない。

「頭の中でできる仕事」が増えているのに、「手を動かしていないと働いていることにならない」という認識は、いまだ根強いらしい。

 

「頭を使って働いている時間」が認められない現実

最初に断っておくと、わたしの夫は、わたしの仕事をよく理解してくれている。

とはいえ、ボーっと窓を眺めている人が「いま仕事中です」と言ったらどうだろう。

「いやいやなんもしとらんやんけ」と思う気持ちもわかる。逆の立場だったら、わたしだってそう言うかもしれない。

 

でも、頭の中でする仕事、いわゆる知的労働の範囲はどんどん広くなっているし、それに従事する人も増えている。

「どういう方法がいいかな」

「どっちの案がいいかな」

「なんて伝えようかな」。

手を動かす作業時間ももちろん大事だけど、手よりも頭を使って働いている人は、このご時勢、たくさんいるのだ。

 

でもその人が頭の中でどんな仕事をしているかを、他人は判断できない。

だから世の中は、「成果主義」を求める。

 

「手を動かした回数」で判断しようとすると、時間をかけて手間を増やしたほうが高評価を得やすい。

だから必然的に長時間労働になり、非効率なやり方がまかりとおる。

 

でもそれは、頭の中でする仕事とは相性が悪い。

知的労働では、作業数自体の優先度は低いのだ。

だから、「労働時間が長いことを評価せず、成果で判断しよう」という主張が支持されるようになったのだろう。

 

でも、現実はどうだ。

「手を動かさずに頭を動かしている時間」や「頭を働かせるために行う気分転換や休息」は、ちゃんと評価され、認められているんだろうか?

 

タバコ休憩はズルイ=作業していない人はサボり

そこで思い出すのは、定期的に持ち上がる「タバコ休憩は不公平」論だ。

「タバコ休憩で1日合計30分くらい席を離れているやつがいる。なんでそれが許されるんだ」。

こんな怒りコメントからはじまり、喫煙者へのバッシングが続くのは、ツイッターやらネット記事なんかで定期的に見る光景である。

 

でもわたしは毎回、ふしぎに思うのだ。

「ちょっと気分転換することすら許されないの?」と。

2時間に1回、5分や10分席を離れただけで「不公平だ」と言われる職場って、どんだけ窮屈なんだろう。

 

タバコの健康被害やら臭いやらは別として「席を離れてリフレッシュする」ことに関していえば、そんなに責めることでもないじゃないか。

非喫煙者だって、堂々と近くのカフェにコーヒーを買いに行ったり、軽くストレッチしたり、窓から道行く人をボーっと眺めたりすればいいのに。

 

タバコ休憩を叩くのは、「喫煙」のような大義名分がないと、少し離席して気分転換するのすら遠慮する職場だということだ。

そうでなければ、「自分はタバコを理由に休めないのに喫煙者はズルイ」という認識になんてならない。

でもそれって結局、「実際に手を動かしていないとダメ」「長い時間働いているほうがえらい」という、長時間労働や非効率的作業につながる考えと同じじゃないか?

 

「手を動かしていなければサボり」とタバコ休憩を叩きまくってる人が「成果主義」を叫ぶのは、なんだかなぁ~という気持ちになる。

 

「手を動かしていないからダメ」は、知的労働の世界ではもう古い

念押ししておくと、わたしはタバコ休憩を普及させたいわけではない。

むしろ喫煙はやめたほうがいいと思う。

 

ただ、

「頭の中でできる仕事が増えている現在、手を動かす作業をしていない=サボりってわけじゃないよね」

「っていうか100歩譲って休憩してても、それで頭がすっきりして集中できるならそれでいいんじゃないの」

というだけだ。

 

わたしのようなしがないライターだけでなく、なにやら優秀そうな人もそう書いている。

僕は、これまでモルガン・スタンレーやグーグルなどのグローバル企業で働いてきました。

なかでも、シリコンバレーにあるグーグル本社社員の働き方は非常に印象的でした。

真昼間から、大の大人たちが会社でバレーボールをして遊んでいたり、近くをランニングしていたりする。

グーグルの人たちはなんて気楽で恵まれているんだろう。超大企業で儲かっているから、あんなふうに遊んでいられるに違いない――。

 

そう思う人もいるかもしれません。

けれど、そうではないんです。

 

労働生産性は、時間当たりにどれだけの付加価値を生み出せたかを示す値だと述べました。

つまり、仕事で重要なのは、付加価値、アウトプットがいかに大きいかであって、どれだけ長時間職場にいたかではありません。

グーグルの社員たちは、何もしなくても給料がもらえるから遊んでいるのではなく、最大限のアウトプットを出せるよう、心と体の状態を整えるために休息しているのです。

つまり、バレーボールをすることも、実は仕事に直結しているのです。

[amazonjs asin="B079Z4523C" locale="JP" tmpl="Small" title="Google流 疲れない働き方"]

労働時間ではなく成果で評価される環境では、ぶっちゃけ昼寝してようがマンガを読んでようが、どうでもいい。

タバコ休憩でパフォーマンスが向上するのであれば、なんら問題ない。それが「成果主義」であり、「知的労働」の世界なのだ。

 

むしろ、「パソコンの前で手を動かしていないと仕事をしていない」と認識している人は、長時間労働を推進する邪魔者でしかない。

実際に手を動かすことを軽んじるわけではないけど、「手を動かしていないからダメ」はもう古いのだ。

オフィスワークを中心とする多くの職場において。

 

頭の中でできる仕事が増えた以上、成果で評価されるのが健全である

長時間労働主義に嫌気が差し、成果主義を渇望する人は多い。

その一方で、「手を止めるのは許さん。なにか作業していない人はサボり」という人もまた、たくさんいる。

というか、「長く働いている方がえらいという風潮があるから長時間労働になるんだ」と批判した同じ口で、「タバコ休憩で10分席を外しているなんてズルイ」と言う人の多いことよ。

 

「長く働くことがいいこと」という価値観に反対するなら、(就業規則に抵触しないかぎり)他人がどう働いていようが口を出すべきじゃない。だって、成果を出せばいいんだから。

 

いやまぁ、わかる。わかるよ。気持ちはわかる。

 

喫煙者が働いていない30分、早く家に帰らせてほしいよね。

いつもぺちゃくちゃおしゃべりしてるやつのほうが給料もらってるとテンション下がるよね。

自分が一生懸命パワポで資料つくってるとなりで、コーヒー片手に音楽聞いてる後輩が斬新なアイディアでさくっと契約とってきたりしたらさ。なんだよちくしょうってなるよね。

 

わかるよ。わかるともさ。

でも、しょうがないのだ。「じゃあ長時間働けば評価される職場がいいのか」と聞けば、そういうわけじゃないのだから。

頭の中でできる仕事が増えた以上、実質労働時間よりも成果を評価されるのは、むしろ健全だ。

 

それでもわたしたちの頭の中には、「手を動かしている人間が働いている」という認識が、思っている以上に強く刷り込まれている。

喫煙者の10分やそこらの離席で目くじらを立てる人が多いのが、その証拠だ。

そこから脱却しなければ、「成果で判断してほしい」だなんて言う資格はない。

 

だから、あえて言おう。

「タバコ休憩はズルイ、だなんて言わせない職場が、いい職場である」と。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Vaping360)

管理職は人を使うのが仕事だ。

ただ、誰もが人をうまく使えるわけではない。

「人を使う訓練」を受けたことのある人は極めて少数のため、その成果は個人の素養に大きく依存している。

 

したがって、管理職の悩みが「的はずれ」であることが頻繁に見受けられる。

そのうちの一つが「部下に自主性がない」、または「部下が自走しない」という悩みだ。

 

 

以前、「どうも部下が、自主的に動かないんですよね。そう言う人って、どうすればいいですかね?」という相談を受けたことがある。

彼は管理職になって2年目、現場での成果が認められて抜擢された若手管理職だ。

 

だが、この手の主観的な悩みは扱いが非常に難しい。

「自主的」という言葉が何を意味しているのか、人によって相当異なるからだ。

この場合、何を持って「自主的ではない」と彼が考えているのか確認をする必要がある。

 

私は尋ねた。

「自主的に……と申しますと?「自主的」かどうかに、なにか組織としての基準があるのですか?」

 

彼は言った。

「特に、基準はないのですが……、自分から動いて仕事をしない、というイメージです。」

「なるほど……」

 

これは多分、厄介なやつだ。

私は重ねて質問をした。

「えー、それは「部下のやりたいようにやってほしい」ということですか?」

 

彼は怪訝な顔をした。

「勝手にやられるのは困ります。」

 

私は辞書を確認した。

「自分から動く、というのは「勝手に動く」のと何が違うのですか?」

辞書によれば、「自主的」というのは、ほかからの干渉を受けずに自分で決定して事を行うこと、とある。

彼は「面倒だな」といった顔をした。正直な人だ。すぐに顔に出る。

 

が、彼は答えた。

「ちがいます。「自分から動く」というのは、逐一こちらの指示を待たなくても動ける、ということです。

自主性ではなく、自走する、というべきでしょうか。」

 

正直、この人の言う「ちがい」が、私には全くわからなかった。

私は質問した。

「上司の言うことに干渉されず、指示を待たなくても動くのは、「勝手」ではないのですか?」

「うーん、ちょっと違うんですよね……。こちらの意図をくんで動く、というか。」

「なるほど。」

 

彼に質問しても、これ以上は何も出てこないだろう。

おそらく、彼は自分の要求をまだ言語化できていない。言語化できてないことを、人にやらせるのは無理である。

 

部下が彼の指示に戸惑うのは当然だ。

 

 

そこで、私は聞き方を変えることにした。

「具体的にどんな事があったか、教えていただけないでしょうか。」

 

すると、彼はスラスラと答えた。

「私は自部署の特定の製品のマーケティングを任されました。メンバーは私を除いて3名です。」

 

「つまり、部下が3名ですね。」

「そうです。」

 

「先を続けてください。ちなみに、マーケティングはどういった成果を求められているのですか?」

「一番わかり易いところで言えば、問い合わせの増加です。目標値もあります。」

 

「いつまでに、どれくらい、といった数値はありますか。」

「今期中に、前年対比◯%アップ、という形であればあります。」

 

なるほど、そこは明確になっている。

「では、「部下が自主的に動かない」と判断した理由をいただけますか?」

「3人をそれぞれ、問いあわせのチャネル別に、ウェブ担当、既存客担当、代理店担当、としています。既存客担当と代理店担当は良いのですが、ウェブの担当の動きが悪いです。」

 

「具体的には?」

「ウェブは大きく分けると、ホームページからの問い合わせ、広告からの問い合わせ、メルマガからの問い合わせと3つの施策を動かしているのですが、広告とメルマガは外部の協力会社を使っているので、あまり心配はない状況です。」

 

「すると、ホームページですね。」

「そうです。期首にホームページのリニューアルをしよう、という方針を固め、その部下に任せることにしました。ところが進捗が悪く、こちらが逐一指示を出さないと、何もしないのです。」

 

「その担当者は、指示がないと動けない、ということでしょうか。」

「そうです。」

 

なるほど。

大体の状況はわかった。

だが、もう少し確認が必要だ。

「その人は、ホームページのリニューアルを以前にやったことがあるのですか?」

「ウチでは初めてです。ただ、前に居た会社で多少やった、と言ってたと思います。だから任せました。」

 

私は思い切って尋ねた。

「その仕事を、結局、任せられなかったのが、課題なのですね?」

「できれば任せたいのですが、もう少しでも自主的に動いてくれればいいのに、と思っています。」

 

 

事の本質は、簡単なのだ。

要するにその仕事を遂行するだけの知識と能力が、その部下になかった、という話であり、それを「自主性」という言葉で覆い隠しているだけである。

 

単純に、部下はホームページのリニューアルに関して、

・何をすべきか

・何を調べればよいか

・誰に聞けばよいか

など、仕事に必要なタスクがわかっていない。

上司に先んじて確かめたり、交渉したり、質問する力量もない。

だから仕事がスタックする。

 

そして、スタックしたことを上司に言うと、自分が馬鹿だと認識される(と思っている)ので、相談もしづらい。

そうして「自主性がない」という評価に落ち着くというわけだ。

 

だから、彼に必要なのは「自主性を身につける」ことではない。

現実に「何から手を付けて、何をなすべきか」を逐一教えることである。

 

 

そうした話を、その管理職にすると、彼は言った。

「どうすればいいかなんて、自分で調べたり、聞いたりすればわかるじゃないですか。」

私は首を振った。

「知識がある程度ないと、調べることもできないし、あなたのように怖い人に聞くのは難しいですよ。」

 

彼はまだ、納得していないようだった。

少なくとも彼は「ずっと自主的に動いてきた」という自負があるのだろう。

そして、それが功を奏したからこそ、その地位にいるのだ。

 

私は言った。

「部下の彼が、あなたと同じくらい優秀であれば良かったですね。」

 

実際、相手がとびきり優秀なら、

営業 → 売上を上げろ
技術者 → 納期に間に合わせろ
マーケター → 引き合いの数を増やせ

で、問題なく終わってしまう。

 

そして、上司は楽ができる。ビジョンを語っていれば良いからだ。

実際、そう言う人ばかりで固められた会社もまあ、無くはない。

 

だが、相手が普通のレベルの人なら、逐一指示が必要だし、仕事がスタックしていないかどうか、見張る必要がある。

 

 

行動経済学者のチップ・ハースは、著書の中で次のように述べている。

多くのリーダーが、おおまかな方向性を定めて満足している。「私はビジョンは定めるが、詳細には立ち入らない」。

確かに、次の章でも説明するように、魅力的なビジョンは重要だ。しかし、それだけでは十分とはいえない。

おおまかで放任的なリーダーシップは、変化の場面ではうまくいかない。

変化のもっともむずかしい部分、つまり麻痺を引き起こす部分は、まさに詳細のなかにあるからだ。

[amazonjs asin="4152091509" locale="JP" tmpl="Small" title="スイッチ!"]

そう、彼の部下はまさに「麻痺」していた。

 

曖昧な指示、大きな指示を出されると、普通の人は動けなくなる。

それは時に「自主性がない」「抵抗している」とみなされるが、実はその人は戸惑っているだけであり、細かい指示を必要としているだけだ。

 

チップ・ハースはこんな事例を引き合いに出している。

 

ウェストバージニア州の研究者たちは、住民に「健康的な食生活をおくる」という目標を達成してもらうために何が必要なのかを考えていた。

「健康的な食生活をおくってください!」と叫ぶだけでは、誰も動かないからだ。

 

そこで研究者たちはターゲットを絞り、住民たちに向けて「低脂肪乳を買おう」というキャンペーンを打った。

アメリカ農務省の推奨する飽和脂肪の摂取基準を、日常生活の普通の牛乳から置き換えるだけで満たすことができるからだ。

 

このわかりやすく、メッセージ性の高いキャンペーンは当たり、住民の多くに「健康的な食生活」を提供することができた。

 

これを受けてチップ・ハースは

「壮大な目標よりも、日常の行動から指示せよ」

「行動するためには、あいまいさは敵である」

という。

必要だったのは、壮大な目標を日常的な行動のレベルに落としこみ、健康的な食生活を送る数多くの複雑な選択肢を仕分け、手軽な開始点を提案してくれる人だったのだ。

あいまいさはその敵だ。変化を成功させるには、あいまいな目標を具体的な行動に置きかえることが必要だ。簡単に言えば、変化を起こすには、「大事な一歩の台本を書く」ことが必要なのだ。

 

そう言う意味で、部下が特に優秀でもないのに、「マイクロマネジメントは嫌だ」と、大まかな指示だけをして、ビジョンばかり語る

「ビジョナリー・上司」は迷惑な存在だ。

 

 

結局のところ、「部下の自主性」を上司が期待するのは的外れだ。

多くの場合「仕事が滞る」のは自主性ではなく、能力に起因する問題だし、「自主性」という曖昧な概念は上司の主観に依存するので、「お前は自主性がない」など言われても、部下は戸惑うだけだ。

 

だから、自走する部下がほしい、なんて言わないでほしい。

 

仮にいたとしても、自走する部下は、その人の元からすぐに去るだろう。

なぜなら、上司を必要としてないからだ。

部下はほぼ100%、「細かい指示を必要としている」と、まずは割り切ること。

そのあと、仕事がうまくいくようなら、手を離しても大丈夫だ。

 

最初から細かい指示を必要とせず、勝手に仕事を遂行してくれる人については、

「指示していないことまでやってくれるのは儲けもの。彼は早く管理職になるべき」

くらいに考えておくのが、丁度いい。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="4534056613" locale="JP" tmpl="Small" title="すぐ「決めつける」バカ、まず「受けとめる」知的な人"]

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

 

Photo by Amy Hirschi on Unsplash

 

ほんらい、「キモい」とは他人を貶める言葉、つまり加害の言葉であるはずなのに、現実には「キモい」は被害を受けた被害者の言葉として用いられている。

そして二つ目の引用ツイートにあるように、このような「キモい」の用法が皆の常識になってしまうと、「キモくない」身なりを整えることが皆の義務になってしまう。

 

私がみるところ、日本社会はまさにそうなっていると思う。

 

貴族社会のようなエクスクルーシブ(排他的)な場では、それでも構わないのかもしれない。

だが、日本社会全体がそうなってしまったら、「キモくない」身なりを整えられない人、頑張っても「キモい」と言われがちな人は永遠に加害者扱いされ、疎外されることになる。

 

不審な中年男性の発見

「キモい」という言葉を私が再認識するようになったのは、割と最近のことだ。

 

私は街並みを眺めるのが好きで、最近につくられたタワーマンション街も、昭和風の住宅街も、それぞれに魅力があって見応えがあると思っている。写真に撮って残しておきたくなる風景も多い。

そうやって全国各地の住宅街を歩き回っているうちに、私は気づいてしまった。

 

「俺は今、不審な中年男性とみられていないか?」

 

山村ならともかく、東京のような大都会は匿名性がしっかりしているから、他人の恰好なんて誰も気にしないだろう──そう思い、街並み探検に際しては「機能性重視」の恰好にしていた。

いや、それは半分ウソで、汗をかいたり汚れたりしても構わない恰好をしていた、というべきだろう。

まあその、お金のかかっていない恰好をしてうろつきまわっていたわけだ。

 

すると、どうも人々の見る目が険しい気がしてならない。

面と向かって「おまえはキモい」とか「おまえは不審だ」と言われることは無い。

けれども、チラッとこちらに投げかけられる一瞥が厳しい、ような気がする。

山の手の高級住宅街ではもちろん、下町といわれる墨田区や江東区でもそれは変わらない。

お金のかかっていない恰好をして街並み探検をしている中年男性に対する人々の視線は、厳しいものであるらしいことを私は肌で感じた。

もっとパリッとした格好をして、たとえば赤坂や表参道を歩いている時には、こんな視線を感じたことはないのだが。

 

ひょっとしたら、これは人々の視線が険しいだけでなく、私の自意識が、勝手に罪悪感や羞恥心を疼かせているのかもしれない。

もしそうだとしたら、私の心の中に「キモいのは良くない」「キモいのは不審」といったイメージが内面化されているのかもしれない。

 

十分あり得ることだ。

なぜなら小学校時代からこのかた、私たちは「不審者」のイメージを親・教師・世間から何重にも教え込まれていて、そのイメージとは、基本的に怪しげな中年男性のものだからだ。

 

街並み探検をしている最中にも「不審者注意!」という立て看板をあちこちで見かけるわけだが、そこに描かれている「不審者」の外観は、いかにも怪しげな男性だ。

丸の内のオフィス街で見かけるような外観の人物や、麻布のレストランで見かけるような外観の人物が「不審者」として描かれていることは無い。

 

そんな「不審者」のイメージを刷り込まれてきたのだから、中年男性になった私が、色褪せたパーカーを着てちょっと汗をかきながら住宅街を徘徊すれば、それはもう「不審者」のイメージどおりと言わざるを得ないのである。

 

"「不審者」が見たいか? よろしい、ならば鏡を見てみたまえ。そこの映っているおまえが不審者だ。"

 

コストをケチると、中年男性はたちまち「キモく」なってしまう

三十代の約十年間、私は自分が「不審者」たりえることを忘れていた。

[amazonjs asin="4274066193" locale="JP" tmpl="Small" title="脱オタクファッションガイド"]

ドラマ『電車男』がヒットする前後の頃の私は、オタクでも外観で差別されないよう、身なりを整えるために労力を割いていた。

 

脱オタクファッションをスタートしてだいたい数年で、街の人々からの視線がだいぶ和らいだように感じて、私は「キモい」という言葉に怯えなくて済むようになった。

服を選ぶ楽しさや合わせる楽しさも理解でき、はっきりとQuality of Lifeが向上したように思う。

 

しかし四十代になってから、私は身なりに対して手抜きをするようになった。

子育てが始まり、養育費がかかるようになってくると、お金をそちらに回さざるを得ない。

 

そのうえ私はワイン沼という、危ないホビーに魅了されてもいた。

「子育てを始めると、冴えない普通のおじさんになる」とはよく聞くが、少なくとも私は、三十代の頃ほど身なりに対してコストを支払わなくなってしまった。

 

当たり前のことだが、身なりを整えるにはコストがかかり、コストをケチれば身なりは悪くなる。

服装のクオリティだけでなく、服選びのセンスや意識も鈍くなる。

もし、入浴や洗髪、フレグランスにも気を遣わなくなったら、もっともっと身なりは悪くなるだろう。

 

逆に言うと、身なりの整っている世間の人々はそれだけ身なりに時間やお金を支払っている、ということでもある。

こぎれいな恰好をした人々は皆、身なりを整えるためのコストを支払っていて、小汚い恰好をした人々は皆、そのためのコストを支払っていないか、支払えないということだ。

 

かつて、オタクがキモいと言われたのも、オタクたちが身なりを整えるためのコストを支払わず、お金も時間も趣味にすべて使ってしまっていたからに他ならない。

いまではそのようなオタクは少数派になってしまったが。

 

中年男性やオタクに限った話ではないが、もし「キモい」と言われずに済むような身なりを保ち続けたいなら、ずっとコストをかけ続け、メンテナンスし続けなければならない。

ボヤボヤしていたら、あなたも私もたちまち不審者になってしまうだろう。

 

ということはだ。

この社会で疎外されないためには、老若男女を問わず、身なりを整えることに一定のコストを支払い続けることが、いわば義務になっているも同然ではないだろうか。

 

もちろんこれは、法的に課せられた義務ではない。

それでも、「キモい」と思った側が被害者のような顔をしていて、「キモい」と思わせた側が加害者のような気持ちになってしまう現代の習慣のなかで、その習慣に逆らって生きるのは簡単でも居心地の良いことでもないはずである。

 

人並みの社会生活を続けようと思うなら、私たちは身なりにコストをかけ続け、メンテナンスしていくしかない。

それができるのにやらないのは、怠慢と言われても仕方がないかもしれない。

だが、やろうとしてもできない人、それだけのコストをかけ続ける余裕のない人は?

 

社会から疎外されるしかないのだろうか?

 

カフェより吉野家

こういうことを考えるようになってから、ふと、魅力を感じるようになった場所がある。

それは駅前の繁華街だ。

 

閑静な住宅街では道行く人々がこちらにチラリと目を向け、身なりを確かめる。

儀礼的無関心を貫いているようで、彼らは視界の隅に私の姿をとらえ、決して気を許さない。

 

それとは反対に、駅前の繁華街のなかではお互いがお互いの身なりに注意を払わない。

よほど身なりが整わないか、よほど行儀が悪いかしない限り、繁華街の雑踏では「キモいか否か」を問われずに済む。

ここでは誰も私を見ていないし、私も誰も見ていない。

吉野家、日高屋、ちょっと油っぽい中華料理屋などもいい。

儀礼的無関心を装った、それでいて射るような検閲のまなざしはここには差し込んでこない。

お洒落なカフェなどと違って、若くてハキハキした店員のノリに付き合わされる心配もない。

パリッとした恰好で武装している必要がないどころか、むしろ武装解除しているほうが似つかわしいぐらいだ。

 

「カフェより吉野家のほうがホッとする」

 

これが、現在の私の気持ちの到達点だ。

この気持ち、果たしてわかってもらえるだろうか。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="4781616380" locale="JP" tmpl="Small" title="「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Emiliano Vittoriosi

アラサーにもなると、会社勤めの友人たちは、ぼちぼち後輩を指導する立場に就きはじめる。

他人に教えることのむずかしさは承知しているつもりだから、苦労もあるだろう。

 

そこでよく聞くのが、「どうやって後輩をやる気にさせればいいのかわからない」という悩みだ。

「もっとちゃんとやれよ」と言えばいいものでもないし、「すごいねぇ」と褒めちぎるのもどうなんだろう。

でもなんだか、やる気とか熱意が伝わってこないんだよなぁ。

とまぁ、こんな感じである。

 

同じ悩みを抱えている人は、古今東西山のようにいるだろう。

だから、「いかに部下やチームメイトのやる気を引き出すか」という本や記事がたくさんあるのだ。

 

わたしも気になってそういうものにはよく目を通すのだが、たいていの場合、わたしが一番大事だと思う要素が抜けている。

それは、「その人の役割を用意し、任せ、認めること」だ。

 

「お前はなにもしなくていいよ」と言われてクリアしても、うれしくない

オンラインゲームで他プレイヤーと協力して敵を倒すとき、プレイヤーがそれぞれ役割分担することがある。

たとえば、タンク、アタッカー、ヒーラー。

タンクというのは、敵の注意を引く盾役。タンクが敵を引きつけているあいだにアタッカーが攻撃して、味方がダメージを食らったらヒーラーが回復する。

そうやって、うまく支え合って敵を倒していくのだ。

 

わたしがとあるオンラインゲームをはじめたばかりのころ、うまい人たちが「強いモンスターを倒しに行こう」と言ってくれたことがあった。

「こっちで全部やるから、死なないようにしてくれればそれでいい。こいつを倒すといいアイテムが手に入るから」と。

正直それはどうなんだろうなぁとは思ったけど、相手は好意で言ってくれていること。

無下にするのも悪いと思い、わたしは当時の自分の実力に対し、不相応に強いモンスターと戦いに行った。

 

タンクもヒーラーもできないので消去法でアタッカーになったはいいものの、ぶっちゃけ攻撃なんてほとんどできなかった。

ジャマにならないように逃げ回っているあいだに、さくっと討伐完了。

ゲームのシナリオは進んだし、お金もたくさんゲットしたし、いいアイテムも手に入れた。

のだが……

 

正直、あんまり楽しくはなかった。

だって、わたしがいなくてもよかったんだもん。

 

わたしはその場では無価値で、いてもいなくてもいい存在で、自分が「強いモンスターを倒してクリアした」だなんてまったく思えなかった。

 

久しぶりに燃えた瞬間、目標タイムの達成

一方で、ものすごく達成感を味わったことがある。

それは、よく遊ぶメンバーで、タイムアタック(どれだけ早く敵を倒せるか)をしたときだ。

 

みんなわたしと似たり寄ったりの実力で、正直そんなにうまくはない。

でもお互いのできることを確認して役割を分担し、戦術を練って、敵の行動を把握して、何度も何度もやり直して、試行錯誤を重ねた。

 

自分がもっとうまくなって、1秒でも早く倒せるようになりたい。わたしの役割は、わたしがしっかりやらないと。

ふだん闘争心とは無縁のわたしだけど、使命感と責任感で、めずらしく燃えていた。

いろんな動画を見たし、ソロ(ひとりプレイ)で練習してチームに貢献できるように努力もした。

 

その結果、見事目標タイムを達成したのだ(超ギリギリだったけど)。

タイム自体は決して早くはない。うまい人からすれば、鼻で笑っちゃうレベルだ。

でもわたしの心は、達成感でいっぱいだった。

 

そしてそれは、みんなも同じこと。全員が自分の役割を果たすために努力し、味方を信頼したからこそ達成できたタイムだ。

タイムを確認した直後、お互いを気持ち悪いくらい褒めあった。

 

「あのときのサポート最高だった!」

「いやいや、お前の回避もナイスだったよ!」

「アタッカーの実力あってこそだね」

「いやぁこれはみんなの勝利だ!」

 

あのときの達成感というのは、人生でもなかなか味わえないものだと思う。

オーバーに聞こえるかもしれないけれど、本当に、それくらいうれしかったのだ。

 

他人のモチベーションを上げたいなら、役割を用意し、任せ、認めればいい

この経験を通じて思うのは、「モチベーションに火を付けるのは、役割を与え、任せ、認めること」だということ。

人間は、「自分には価値がない」と思った瞬間、なにもしなくなる。

でも「自分にしかできないことがある」と思えば、めちゃくちゃ燃えるものなのだ。

 

「いかに部下やチームメイトをうまく使うか」という問いには、さまざまな答えがあるだろう。

たとえば、

・具体的な目標を共有してゴールを明確に

・みんなの前で褒め、注意するときは人がいないときに

・失敗をフォローできる体制にし、挑戦しやすいように

などなど。

 

でもやっぱり、人間が一番燃えるのって、「お前が頼りなんだ! 任せたぞ!」って状況じゃないだろうか?

「その人の役割」というのは、「代わりがいない専門性の高い作業」に限らない。別に、ほかの人ができる内容でもいい。

ただ、「これはあなたの役目なので任せましたよ」と言うことが最重要。

 

ほかの人に押し付けられない「自分の仕事」だと自覚した瞬間に、人はやる気を出すし、責任を感じるのだ。

だからこそ、成し遂げたときは達成感を得て、自分の実績を誇り、成長を実感し、次につなげられる。

 

単純なことだけど、自分の仕事を与えられ、任され、認められれば、たいていの人間はやる気を出してがんばるものだ。

逆にいえば、「自分の役割がなく、なんの仕事も任されず、だれからも認められない」状況であれば、「やる気を出せ」というほうがムリだろう。

 

実際、仕事を自分の手から離さず過剰に干渉してくる人や、自分の気に入らない方法でやっている部下にダメ出しをする人、労いの一言もかけない人は、他人のやる気をそいでいるはずだ。

 

役割分担が機能すれば、モチベーションは上げられる

「役割分担なんて当たり前すぎてなにをいまさら」と思うかもしれない。

でも実際、集団において「自分の役割はこれで、ここを任されている」と自覚して自らの作業を行っている人って、どれくらいいるんだろう?

とくに、日本のように決定権や裁量権があいまいになりやすい環境では、案外少ないんじゃないか?

 

「自分の仕事なのに自分の判断を信じてもらえない」

「あいつはサボっていたのに、優秀なやつと同じチームだからって評価を上げるなんてずるい」

「ほかの人がやってくれているんだから自分ががんばらなくても」

「だれかやるだろうから放置でいいや」

「これはだれの決定かわからないけど、先輩あたりが責任を取るだろう」

と考えている人だって、めずらしくはない。

 

もちろん、なかには「仕事を任せられない理由がある」と思うような人もいるかもしれない。

でもそういう人が役に立てる仕事を与える采配も、リーダーの仕事だ。

役割を与えてもやらない人間もなかにはいるが、それなら「任せたのに」としっかり責任を追求することもできる。

 

というわけで、やる気を出してもらいたいなら、「その人の役割を用意し、任せ、認める」ようにすればいい。

他人のモチベーションを上げることに関してわたしが行き着いたのは、こんな簡単な結論だった。

もちろんそこには、「相手の適正と能力を鑑みた役割分担」が必要不可欠で、理不尽な押し付けがあってはならないのだけど。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:John Jewell)

ちょっと前に友人に勧められて「サードドア」という本を読んだ。

[amazonjs asin="4492046534" locale="JP" tmpl="Small" title="サードドア: 精神的資産のふやし方"]

この本は18歳の米国の学生が、ウォーレン・バフェットやらビル・ゲイツといった著名人達に「人生の成功の秘訣」をインタビューし、それを一冊の本にまとめるというミッションに挑むものである。

 

彼は色々と試行錯誤してこのミッションに打ち込み、その過程で様々な人と出会った結果、19歳でベンチャーキャピタリストとなり、27歳でフォーブス誌の「30歳未満の最も優れた30人」に選出されるにまで至った。

 

たかだが19歳の若者が、普通の人なら絶対にたどり着けないような経済的成功を何故おさめられたのか。

その秘訣は正攻法(ファーストドア)で頑張るのではなく、裏道(サードドア)を開けというわけである。

 

こう書くと実にアメリカンな人生サクセスストーリーっぽいが、その過程は結構土臭く、読中の印象はこれとは随分と異なる。

ノンフィクションとしても結構読み応えがあるので、興味がある人は手にとってみるといいだろう。

 

僕がこの本を読み終えて思ったのは、この本は読む年齢でかなり読後感が変わるだろうなという事だった。

具体的にいうと、たぶん19歳の頃にこれを読んだら筆者の生き方に憧れるかもしれないが、35歳ぐらいになってからこの本を読むと、成功することの負の側面のようなものが見いだせてしまうのだ。

 

どういう事か。以下に続けていこう。

 

成功者は人生にノイズが大量に入るようになる

この本の筆者であるアレックス・バナヤンは執筆当時、UCLAというアメリカの一流の大学生ではあったが、成功者にインタビューできるようなツテがあったというわけではない。

 

彼は著名人に「人生の成功の秘訣」を聞き出そうと、いろいろなルートでリストアップした人にインタビュー依頼のメッセージを送るのだが、これをみて僕がまず思ったことは「送られる側からしたら、これめっちゃタルいだろうな」という事だった。

 

氷山の一角という単語があるが、当然この本の筆者であるアレックス・バナヤン以外にも様々な目的で成功者にアプローチしてこようとする人は数多いるだろう。

自分のメールホックスがこんな感じで知りもしない人から「お話を伺いたいです」なんてメッセージで毎日あふれるだなんて、考えるだけで僕は吐き気がする。

 

確かに成功し、莫大な名声と金額が自分に転がり込むのは気分がいいだろう。

しかし、その引き換えにこんなノイズが自分の人生に入るようになると考えると

 

「成功者って、成功してからも結構大変なんだな・・・」

 

と思ってしまうのである。

 

有名になると、良くも悪くもいろんなフックが人生にやってくる

つい先日、芸能人の田代まさしさんが覚醒剤使用で5度目の逮捕となった。

いまの若い人は田代まさしさんの事をあまりよく知らないかもしれないが、かつて彼はテレビで第一線を張っていた一流の芸能人であった。

当然、お金も莫大にあっただろうし、物凄くモテただろう。彼は、まごうことなき成功した人である。。

 

当時の彼に憧れた人はそれこそ山程いたのは言うまでもないが、じゃあいま現在の彼になりたい人がいるかというと・・・ぶっちゃけ、全然いないだろう。

彼が転落し、薬物からなんとか抜け出そうとし、それでもまた転落していく有様は以下の本に詳しいが、これをみると本当に薬というものは怖いものだと心底痛感する。おそろしい、おそろしい。

<参考 マーシーの薬物リハビリ日記>

[amazonjs asin="4803006725" locale="JP" tmpl="Small" title="マーシーの薬物リハビリ日記"]

もちろん、成功した芸能人みんながみんなこんな風な顛末を迎えるわけではないし、田代まさしさんの例はどちらかといえばレアケースだろう。

けどそれでも思うのだ。仮に未来が見えたとして、田代まさしさんは「テレビで成功した自分」と「テレビで成功しなかった自分」、どっちを選んだのだろうか、と。

 

経営者になると性格が悪くなる

フェイスブックの創業顛末を書いたソーシャルネットワークという映画がある(原作はfacebook ベン・メズリック)

[amazonjs asin="B00FW5SMX0" locale="JP" title="ソーシャル・ネットワーク (字幕版)"]

この映画では若き日のマーク・ザッカーバーグが描かれており、僕はいろいろと興味深くみたのだが、これをみた僕の友人が

「こんなん、慶応のSFCにいりゃ嫌というほど似たような光景ばっかみるよ。どこもかしこもベンチャーって、こんなんばっかだぞ」

と感想をつぶやいたのが妙に感慨深かった。

 

あの映画から10数年の時がたった。僕が真面目にサラリーマンとして働く一方で、独立し会社を立ち上げ、僕の数百倍速で資産を形成していった人もチラホラいた。

正直、働き初めの頃は彼らを羨ましく思ったのも事実である。ただ、ここ最近になってからは随分とまた様相が変わり始めた。

 

お金の力は恐ろしい。利益分配をめぐり、創業当時はあんなにも仲良く頑張ってた社内メンバーと血みどろの社内政治を繰り広げ、果てに人間関係に疲弊するような有様に至る様を何度も何度も見聞きするようになり、僕はだんだんと

「独立もラクじゃないんだな・・・」

と思うようになった。

 

インターネット上では「○○円稼いだ!」と謳う胡散臭い人が山程いる。

僕は最近になって、あれらの人たちは結局のところ人間不信をこじらせすぎて、お金以外のものが心の底から信じることができなくなったのだと今更気がついた。

 

あれだけ硬い結束で創業当時一緒に頑張った人と、数年たっただけで顔も見たくなくなるぐらい恨み合うような経験なんてしてしまったら・・・そりゃ世の中カネと拝金主義になるのも無理ないわなぁ、という感じである。

 

ドワンゴの川上さんもインタビューで「起業すると性格が悪くなる」と仰っていたけど、やっぱり世の中にはうまいだけの話はないのである。

経営者になるまで、僕ほど性格がいい人はいないと思っていた。|川上量生の胸のうち|川上量生|cakes(ケイクス)

ドワンゴ会長・川上量生さんはインタビューなどで「経営者になると性格がわるくなる」と言うことがあります。これはどういうことなのでしょうか。自分を善人だと信じていた川上さんが、経営者になって直面した現実とは。

 

転落したくなかったら・・・先達の声を聞くしかない

なお、当然の話だけど、独立した人みんながみんなこんな有様なわけではない。

いろいろトラブルはあっただろうが、それなりに上手に上手くやっていってる人もいる。

 

性格がネジ曲がり拝金主義者に落ちぶれてしまった人と、それなりに上手に上手くやっていってる人の違いが気になり、後者何名かにインタビューをしてみたところ、彼らが口を揃えていっていたのが”先達にかわいがってもらえ”ということであった。

「エスタブリッシュにかわいがってもらえれば、自分が今後直面するである困難についてのアドバイスが雨あられのように降り注いでくる」

「それを真摯にうけとめて、キチンと恩返しをする」

「結局、上に好かれない奴は短期的に成功できても、長い目でみたら破綻する」

 

先輩の経験に学ぶだなんてのは、当たり前にもほどがありすぎて意外でもなんでも無い話ではある。

結局、稼げる金額の多い少ないはあれど、独立も務め人も成功する人の人生は同じようなものなもので、連綿と続く人の流れに上手にコミットできるか否かだけなのである。

 

成功するよりも、成功したあとの方がよっぽど大事

話が長くなったのでまとめるが、サードドアを読んで僕が何を一番思ったかというと、結局のところ成功は人生の一つのイベントでしかないという事だ。

若い頃は「派手に一発当てたらそれで人生最高!」で終わると思いがちだけど、ぶっちゃけ人生は成功してからの方が全然長い。

 

「独立して、縛られずに自由に生きる!成功者に、オレはなる!」

みたいな壮大な夢を持つのは本当に大切なことだとは思うのだが、それが仮に成功した所でやってくるのがワケのわからない大学生からのメールの嵐だったり、薬物へのいざないだったり、唯一無二の親友との絶縁だったりするのが人生なわけで。

 

まあなんていうか、成功教ってやつの呪いは結構大きいよな、と思ってしまったわけである。

たぶん、ある程度年齢を重ねた人は、なんとなくわかってもらえるんじゃないですかね。

人生、成功した後の方がよっぽど大切だって。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:William Murphy

今日はここスティーブ・ジョブズシアターに集まってくれてありがとう。

とても綺麗なシアターだよね。

誇らしいね。

自分の名のついたシアターで新製品の発表ができるなんて。

 

このシアターがあるアップルパークの設計は私の最後の仕事の一つだったんだ。

細部にまで妥協せずデザインしたアイブ(※ジョナサン・アイブ)はじめアップルスタッフ、

随分喧嘩したんだけどこの広大なオフィスの建設に

許可をくれたクパチーノ市議会に感謝するよ。(※1)

 

本当にありがとう。

とても理想的なオフィスができたよね。

 

環境に配慮した、いや配慮したなんてもんじゃないね!

なんせ太陽光パネル設備やバイオガス燃料によって

100%再生可能エネルギーによる発電ですべて賄ってんだから。(※2)

 

Appleは常にクリエイティブで洗練された人々が集まる場所にしたいと思っているんだ。

 

そう、大学のキャンパスのような場所にね。

若い頃、僕も一応大学には行ってたんだ。卒業はしなかったけどさ。

 

でも、辞めた後も自分の心に赴くままに面白いと思う授業に出てたんだ。

まあ、おおらかな時代だったからね。

 

先人の知恵が集積されているってことにワクワクしたもんだよ。

アップルパークもそんな場所になって欲しいと思っている。

---

今日は新製品の発表をしたい。

素晴らしい製品ができたからね。

 

だから、この場に戻ってきたんだよ。

 

まずはその前に、アップルがこの40年間世界に革新を与え続け、

いかに様々な業界の「あり方そのもの」を変えて来たかを振り返ってみよう。

 

今から43年前。1976年。我々Appleを創業した時だ。

 

まだコンピューターがIBMなど大企業に占有されていた時代に、

まあ、この辺一体がようやくシリリコンバレーとも言われ始めた頃なんだけど、

当時大親友だったウォズ(※スティーブ・ウォズニアック)と共に

メンローパークで「ホームブリューコンピュータークラブ」という、

自作パソコンのギークの集まりに参加してたんだ。

 

ウォズはそこでギークたち誰もが驚く小さなパーソナルコンピューターを自作したんだ。

 

でオレはそれを量産するために材料の仕入れ先を見つけ、そして売り捌いた。

 

それがAppleⅠだ。

 

ちなみにAppleという名前、リンゴ園の帰り道に思いついたんだ。

それで会社名はApple computer .incって名前にした。(※3

 

パーソナルコンピューターに需要があると見込んだ我々は、

その資金でAppleⅠを大幅に進化させたAppleⅡを作った。

 

設計はハードウェアもソフトウェアもウォズさ。

ヤツは本当に本当に天才なんだ。

 

それはもう売れに売れた。

 

我々の会社はその勢いで株式公開までできたんだよ。

その時の時価総額17億9000万ドル。

たった4年間の出来事だった。(※4)

 

企業向けではなく、

個人向けコンピューターで成功した最初の企業になったんだ。

 

それが我々アップル最初の飛躍だ。

---

でも、それ以降のことを考えると

本当にはじめの一歩に過ぎなかったんだ。

 

次に我々Appleが飛躍を遂げるきっかけとなったたのは1984年にリリースしたMacintoshだ。

 

MacintoshはGUI(グラフィカルユーザインタフェース)とマウスを搭載して販売されたApple史上2番目の製品だ。(※5)

 

何が凄いって?

 

デスクトップのアイコンをマウスで操作することだよ(笑)

だって、そんなパソコンを個人消費者向けに量産してるメーカーはApple以外なかったんだから。

 

まあ、その市場があるとわかった後にIBMが参入して来たり、マイクロソフトを創立したビル(ゲイツ)がMacをまんまパクったWindowsで世界中を席巻したこともあったけど。

(※7)

 

今では「Mac」は、パーソナルコンピューターを代表する製品となり、使いやすさや性能もさることながら、

世界で最も美しいラップトップとノートブックコンピューターになった。

 

Macintoshがパーソナルコンピューターの未来を切り開いたことに異論はないだろう。

---

それから次に革新をもたらしたのは、今から約20年前。2001年のことだ。

 

それはたった一つのポータブルミュージックプレーヤーから始まった。

 

iPodだ。

 

当時はソニーのCD・MDウォークマンが世界を席巻していて、iPodは誰もがすぐにでも欲しがる製品ではなかった。

iPodはコンピューターメーカーから突如現れたミュージックプレーヤーに過ぎないと思われた。

 

まあ簡単にいうと、オレの思いつきに思われたんだ(笑)

 

でも、iPodはそのウォークマンを完全に駆逐したんだ。

実際にはいつでもどこでもほぼ「全ての曲」を持ち出せるミュージックプレーヤーはなかった。

大容量HDに音楽を保存し外に持ち出すことなんて想像はできても誰もやろうとしなかった。

でも我々はすでに成功のレシピを持っていた。(※6)

 

決定的だったのはオンラインでメジャーレコードレーベルの曲をダウンロード販売可能にしたiTunes Music Storeだ。

iPodはMacやPCを介してオンライン上の音楽データとシームレスに繋がり、2インチ程の小さなディスプレイとクリックホイールによって、めちゃくちゃ簡単にあらゆる曲を探せる機能を持つことで爆発的にヒットした。

 

人々の音楽体験を変え、音楽業界全体を変えてしまうほどの大きなインパクトだった。

 

しかし、それはその以降の時代を生きる人々のライフスタイルを変えてしまう製品の序章に過ぎなかったんだ。

 

その製品とは

そう、もちろんiPhoneだ。

 

初代iPoneをリリースしたのが今から12年前の2007年。

 

当時すでに普及しつつあった高速携帯ネットワーク網が最後の1ピースとなり、

インターネット、コンピューター、そしてモバイル(携帯電話)が融合したんだ。

 

実際はOSXを実装したコンピューター、

つまり小さなMacだった

 

いくつもの革新的製品を生み出して来た我々に抜かりはなかった。

 

MacintoshのマウスやiPodのクリックホイールが製品の本質を引き出し、

それによってユーザーはその製品をより深く理解し、

シンプルな操作を通して製品の心地良さを感じることを知っていた。

 

だから我々は初代iPhoneからマルチタッチスクリーンを搭載することに拘ったんだ。

 

スマートフォンが本当にスマートになったのは、我々がiPhoneにマルチタッチスクリーンを搭載したからだ。

 

その後販売されるあらゆるメーカーのスマートフォンは全てマルチタッチスクリーンになっただろ。

偶然ではない。

我々はすでにその時から正解を知っていたのさ。

 

そしてスマートフォンによってコンピューターがギークや技術者そしてプロフェッショナルだけのものではなく、

真の意味であらゆる人々のものになったんだ。

 

つまりiPhoneによって、

我々は世界中のあらゆる人々のライフスタイル全般の向上に貢献することができるようになったんだ。

 

はじめてiPhoneを発表した時のことを覚えているかい?

当時の社名「Apple Computer, inc」からcomputerをとり、「Apple, inc」にしたんだ。

 

今ならその意味わかるよね?

---

さて、我々Appleが革新的製品によりいくつもの業界をより善い方向へ変え、人々のより豊かな生活へと貢献したかを理解してもらえたと思う。

 

でも、なぜ我々が世界有数のこんなにも巨大なブランドになったのかを

本当に理解してるかい?

 

それは我々Appleは人々に愛される製品を生み出してきたからだよ。

 

 

それは決してテクノロジーが素晴らしいから、だけではない。

Facebookが愛されているかい?

アイツらは人々の個人情報を握って人々を翻弄し過ぎている。

 

なぜ愛されるのか?

我々Appleの製品が愛されるのはどの製品もめちゃくちゃ使いやすいからなんだ。

 

めちゃくちゃ使いやすいとは何か?

それは「洗練されている」ということなんだ。

 

プロダクトの存在意義を見極め、究極の機能性を極限まで追求にすることにより、

目の前に突如あらわれる「機能美」。

 

それが「Sophitication(洗練)」だ。

 

MacもiPodもiPhoneもiPadも全ては「洗練」されているんだ。

 

オレが死んだ後にリリースされたApple Watchだってそうさ。

 

だから、愛される。

それは人間の本能なんだよ。

 

そして今日新しく発表する製品は、

そんなAppleのアイデンティを受け継ぐ、

メチャクチャ洗練された製品だ。

 

それは、新しいAirPodsだ。

 

AirPodsはあっという間にワイヤレスヘッドフォンの世界を変えた。

まさに我々はワイヤレスヘッドフォンの再発明をしたんだ。(※8)

 

 

まさにAppleらしい洗練された製品だ。

2016年に販売を開始したAirPodsは、世界中で5000万台以上販売されたんだ。(※9)

 

しかしAirPodsがリリースされてまだ3年足らずだ。

Appleの数ある革新的製品に比べれば歴史は浅い。

まだまだ進化できる。

 

それに強力なライバルがいるんだ。

ソニーだ。

 

いつも素晴らしい製品を出すよね。

ソニーには良いプロダクトを生み出すDNAが根付いているんだろうな。

 

iPodでウォークマンを駆逐し、

iTunes Music Storeによってオンライン音楽プラットフォームの覇権を我々が完全に制した。

にも関わらず、彼らは倒しても倒しても気付いたらまたすぐ近くにいる。

 

このワイヤレスイヤフォン製品、デザインはAirPodsに遥かに及ばないが、AirPodsにはないある機能を備えているんだ。

ソニー SONY ワイヤレスノイズキャンセリングイヤホン WF-1000XM3 : 完全ワイヤレス/Bluetooth/ハイレゾ相当 最大6時間連続再生 2019年モデル ブラック WF-1000XM3 B

(Sony WF-1000XM3

 

ノイズキャンセリング機能だ。

 

ただ、我々がノイズキャンセリング機能つきのワイヤレスヘッドフォン製品を持ってないわけではないんだ。

 

Appleのプレミアムなヘッドフォンブランド「Beats」にはもちろんあるんだよ。

Beats Studio3 Wireless Beats Solo Pro Wireless だ。

Beats Studio3 Wireless ワイヤレスノイズキャンセリングヘッドホン - Beats Camo Collection - フォレストグリーンBeats Solo Pro Wireless ワイヤレスノイズキャンセリングヘッドホン - アイボリー

 

特に音楽好きな若者に大人気だ。音質がめちゃくちゃ良いからね。

 

ただしAirPodsにはBeats製品とは違う役割がある。

AirPodsは、ほぼ必ずiPhoneと共に使われるんだ。

 

だからAirPodsの役割は音楽を聞くだけじゃない、電話もするし、Siriとの会話もある、

自分の家だけでなくオフィスでも使用する、散歩やランニング、ショッピング中だってつけたままなんだ。

 

つまりAirPodsは利用者が限られない。しかも一日中ずっとつけっぱなしだ。

 

それが、AirPodsなんだ。

 

そこで、我々は現状のAirPodsの良さをそのまま残した上で、

ノイズキャンセリング機能を実装することに挑戦した。

 

それが新しいAirPods、

その名も「AirPods Pro」だ。

ノイズキャンセリング機能が実装されているんだが、

以前より小さくなったことがわかるかい?

AirPodsからAirPods Proのエクステリアデザインが大きく変わったのは、

耳に接触する部分がオープン型から音を密閉しやすいカナル型へと変わったからだ。

 

Appleが独自に開発したアクティブノイズキャンセリング機能が実装されているんだが、

それを最も効果的に生かすためには音を密閉しやすいカナル型なんだ。

 

ただし、カナル型は耳の形状に合わせてぴったりフィットしないと使いにくいという声がある

 

大丈夫だ。

 

AirPods Proには3種類の大きさのソフトで柔軟なシリコーン製イヤーチップを用意している。

我々はiPhone、いやiPod時代からイヤフォンの形は研究に研究に重ねて来ている。

現状のiPhoneのイヤフォンは世界中のあらゆるイヤフォンよりも人々の耳の形にもあうデザインを採用してきているんだ。

間違いなく誰でもフィットするAirPods Proになるはずさ。

 

コンパクトでもこんなに凄い機能が実装できるのは、

サウンドからSiriまですべてを動かすApple製のH1チップを中心に様々なモジュールを搭載するために

設計されたSiP(System in Package)デザインのおかげだ。

 

例えば、この中にはノイズを消すために2つのマイクロフォンが仕込まれている。

 

1つめは外向きのマイクロフォン。外音を検出しそれを相殺するアンチノイズを作り出すことで外音を消しさる。

2つめは内向きのマイクロフォン。耳に向かって音を拾い残りのわずかなノイズを相殺する。

しかも、それらノイズキャンセリングは一秒間に200回行われ。

H1チップの中にある10個のオーディオコアによって驚異的なレイテンシ(遅れ)の低さを実現してるんだ。

 

つまり、いつどんな時でもリアルタイムでノイズキャンセリングを通して、

自分の聞きたい音だけが耳に入ってくるわけさ。

 

もちろん音質もApple史上最高。

Beatsで培った技術を惜しげもなく投入しているからね。

 

低音域部分と中音域部分をリスナーの耳の形に合わせて自動的に調整するアダプティブイコライゼーションと

ハイダイナミックレンジアンプの驚くほどクリアでピュアなサウンドで

豊かで没入感の深い最高なリスニング体験になること間違いなし。

煩わしいケーブルのない「完全ワイヤレス

ノイズキャンセリングとBeats譲りの「最高の音質

誰でにも耳にぴったりフィットする「快適性

 

完璧だったAirPodsを超えたAirPods Proはめちゃくちゃ凄い完璧なヘッドフォンになった。

 

しかし、たった一つだけ完璧すぎるが故にデメリットがある。

 

それは、もはや外す理由がないんだ…

 

あまりに快適過ぎる上に、ノイズキャンセリングによって外の音が聞こえないと耳から外すことを忘れてしまうんだ。

 

人と会話する時など、例えばスタバでラテを頼む時なんかも一度耳から外さなくてはいけないんだよね。

面倒だ。快適で心地よい体験を邪魔したくない。

 

我々は諦めない。

 

もちろん外さなくても良いようにした。

 

我々がとった最高の解決方法は

 

「外部音取り込みモード」機能の実装だ。

AirPods Proを装着したままでも周りの声が聴けるようにしたんだ。

 

素晴らしいアイデアだろ。

 

それは冗談(笑)

それだけではAppleらしいとは言えない。

 

我々がやるからにはそれが実用的であるように超簡単に操作できるようにすることだ。

そこに徹底的にこだわるのが凡庸な他メーカーと我々の違いだ。

 

では、ここで実物をお見せしようか。実はもう持っているんだ。

ここにしまってたんだ。

キュートだろ(笑)

ジーンズのコインポケットに入る大きさだ。もはや伝統だね。(※10)

 

AirPods Proのケース「AirPods Pro with Wireless Charging Case」はAirPodsよりも少し大きくなったが、それでもソニーに比べると圧倒的にコンパクトだ。ソニー製はコインポケットに絶対に入らない。

もちろん、このケースは充電ドックになっている。

一緒に持ち歩けばAirPods Proは24時間使用可能さ。

充電はワイヤレスのQi規格とLightningコネクタ対応している。

 

さて、AirPods Proを耳に装着する時だが、

iPhoneと完璧な連携をする。

ケースをiPhoneに近づけた瞬間にブルートゥース自動接続する。

実ははじめて利用する時はイヤーピースが耳にあっているかどうかを判定してくれる。

音が漏れてるとノイズキャンセリング機能が台無しだからね。

あってなければ、他のサイズのイヤーピースを試せばいいんだ。必ずあるはずだ。

 

全ての操作はこの軸の部分をつまむ。

ここには光学センサー、動きと音を感知する2つの加速度センサー、そして感圧センサーが組み込まれている。

 

iPhoneでお馴染みTapicEngine搭載していて、

つまんだ時には反応がわかりやすく返ってくる。

 

長押しすれば「ノイズキャンセリング」「外部音取り込みモード」を簡単に切り替えることができる。

超簡単。

もちろんiPhoneやApple Watchからでも操作は可能さ。

 

AirPodsで最もよく使われる操作は、なんといっても音楽再生だ。

 

1回つむめば再生、2回つまめば次の曲へスキップ、3回で前の曲に戻る。

もちろん電話もかかって来た時は1回つまめば応答できる。

じゃ、誰かに電話をかける時は?

 

もちろん、Siriにお任せ。

AirPodsからおなじみの技術デュアルビームフォーミングマイクロフォンが自分の声を聞き取ってくれる。

 

「Hey, Siri! ティムに電話」

「ハロー、スティーブ!!!久しぶりだね」

「やあティム(クック)、元気かい?」(※11)

「あー元気だよ」

「業績良いみたいだね。」

「スティーブのおかげだよ」

「時価総額が1兆ドル(約110兆円)超えたんだってな」

「あー、そうなんだ。Appleが世界初だったんだ。」

「おめでとう。所詮は小売の仲介屋でしかないAmazonに先越されなくてよかったよ(※12)」

「ハハハ、スティーブ相変わらずだなあ。そちらはどうだい?」

「天国っていい奴ばかりで暇なんだ。ビル(ゲイツ)やGoogleのような刺激的な敵が欲しよ。」

「それは贅沢な悩みだ(笑)」

「じゃあなティム。また凄い新製品出してくれよ」

「スティーブが見てくれる限り出し続けるさ」

「じゃあな」

「また来てよ」

 

どうだい?完璧だろ?

こんな完璧なヘッドフォンが今までにあったかい?

Appleらしい、めちゃくちゃ洗練されているもの凄い製品だ。

 

Macでパーソナルコンピューターの未来を切り開き

iPodで音楽業界のあり方を変え、

iPhoneで世界中の人々のライフスタイルそのものを変えた。

 

そして今、ヘッドフォンで人々の生活をより豊かにするんだ。

 

これが我々Appleだ。

Apple AirPods Pro価格は249ドル(日本では¥27,800 税別 )

Apple AirPods Pro

北米、ヨーロッパ、日本を含むアジアなど25の国と地域のapple.comおよびApple Storeで販売を開始する。

 

今日はこれでおしましいだ。

ここまで聴いてくれてありがとう。

Appleからいい製品が出ればまたやってくるよ。

 

みんなも精一杯「現世」を生きてくれ。

オレは天国にいる。

待っているよ!

 

オレのスティーブシリーズ)

 

[adrotate group="46"]

【著者プロフィール】

Books&Apps運営ティネクト株式会社

取締役 楢原一雅

Facebookアカウントはこちら

twitter:@kNarah

Books&AppsのラジオをYouTubeで配信しています。

 

 

(参考)

※1アップル新本社「宇宙船」は非常識の塊だった (東洋経済オンライン)

※2  Apple、 再生可能エネルギーで 世界的に自社の電力を100%調達 (Appleプレスリリース2018/4/10)

※3,4,7 スティーブ・ジョブズ 1スティーブ・ジョブズ II (ウォルター・アイザックソン著)

※5 GUIとマウスを搭載して販売されたApple史上1番目の製品はLISA(Wikipedia

※6  【保存版】スティーブ・ジョブズによる、革新の原点「初代iPod」のプレゼン - 「実はポケットにあります」(ログミー)

※8 Apple、AirPodsによってワイヤレスヘッドフォンを再発明(Appleプレスリリース2018/9/7)

※9 もし、AirPodsが1つの会社だったら。企業価値は全米32位の大企業に匹敵(iPhone Mania)

※10 【詳報】iPod nano発表会レポート──「ポケットの1000曲がすべてを変えた。さあもう一度」(ASCII.jp

※11 現Apple CEO ティム・クック(Apple HP)

※12 アマゾンも時価総額1兆ドル超え アップルに続き2社目(朝日新聞 DIGITAL)

こんな記事を拝読しました。

“記述式問題” 事業者が事前に正答例把握 大学入学共通テスト

国語と数学に記述式の問題が導入されますが、採点を任された民間事業者に、大学入試センターから問題と正答例が試験を実施する前に知らされる仕組みになっていることが分かりました。センターは、採点を迅速に行うためとしていますが、専門家は、「試験の前に、民間事業者に問題などが知らされれば、漏えいなどの懸念がある」と指摘しています。

これについて、NHKは採点の手順などを大学入試センターが記した「仕様書」と呼ばれる資料を入手しました。

そこにはベネッセの関連会社が試験を実施する前に、正答例や採点基準の作成に関与すると明記されていました。つまり、民間事業者は、試験前から問題と正答例が知らされる立場にあるということです。

大学入試センターは、こうした方法でなければ、20日間という短期間で大量の採点を行うことはできないとしたうえで、守秘義務などを厳守してもらうことで、問題の漏えいなどを防ぎたいとしています。

皆さん色んな場所で情報に触れられているかと思いますが、この「大学入学共通テスト」については各所から様々な批判が寄せられております。

最初に立ち位置を明示しておくと、私自身導入に反対の立場です。

 

ただ、一旦今指摘されている問題点を全部脇に置いておいて、この話一点だけをクローズアップしたとしても、「これはない」と断言出来ます。

多分、ある程度セキュリティに通じた人を対象とした場合、100人に聞けば100人そう答えると思います。

 

何故かというと話は簡単で、これが「問題の漏えい」という仕組み上の瑕疵を「守秘義務の徹底」という人間の運用でカバーしようとする施策であって、かつ「ヒューマンエラーを運用で100%防止することは不可能」だからです。不可能です。

 

ちょっと、産業技術総合研究所の中田亨先生の論文を引用させていただきます。

ヒューマンエラー抑止のための理論と実践

安全工学界では「ヒューマンエラーは,事故の通過点に過ぎず,事故の原因として扱ってはならない」という見解が優位を占めつつある.いかに努力しても発生確率をゼロにはできないヒューマンエラーの責任を問うても確率が大して減るわけもなく無意味である.
ヒューマンエラーの発生確率を抑える責任の根本は,もっぱら工程の段取りや機械のデザインの方にある.

これ、システム業界にいると常識だよなあという感覚なんですが、どうも色々読んでいると、世間的にはそんなに常識でもないんですかね?

今でも、例えば「トリプルチェックで事務事故の防止を」とか、「情報漏洩防止の為に倫理規定の周知徹底を」みたいな話、しばしば聞くんですよ。

 

ご存じな方には大変今更な話で申し訳ないんですが、まず

「人が絡む運用は丸々セキュリティホールと考えるべき」

「ヒューマンエラーを運用で防止することは不可能」

という、当然と言っていい前提があります。

 

つまり、人間は長い目で見れば必ず、絶対にミスや過ちを起こす生き物である、と。

まずこれを当たり前のこととして認識する必要があると。

だから、工程の中で人間の手が絡む部分は、長い目で見れば必ずいつか瑕疵を発生させるものである、と。

それを運用だの、人間のモラルだの、そんな適当なもので防止することは絶対に、絶対にできないのだ、と。

 

仕組みの瑕疵を運用で100%カバーすることは不可能であって、ヒューマンエラーをなくしたいならヒューマンが関わる部分を最小にしなくてはなりません。

つまり、仕組みの方できちんと対応しない限り、瑕疵はなくなりません。

 

これら、私の感覚で言うと、いちいち繰り返すなってレベルの当たり前の話なんですけど、皆さんの感覚だとどうですかね?

少なくとも、上の施策を考えた人にとっては、これが「当たり前」ではなかったようなんですが。

 

断言しますが、これ、本当にこのまま運用開始したとしたら、その内絶対に、確実に問題と正答例の漏えいが発生して大問題になります。確実です。

 

そもそも「NHKは採点の手順などを大学入試センターが記した「仕様書」と呼ばれる資料を入手しました」とかさらっと言ってること自体いいのかよって思わないでもないんですが、まあそれに目をつぶったとしても、「守秘義務などを厳守」とかいうことで漏えいを防げると思っているとか、端的に言って頭がお花畑過ぎる。

今の時代、情報を漏えいさせる為のインフラがどれだけ種々様々整ってると思ってるんだよ、って話です。

 

というか、ベネッセ自身2014年に個人情報流出事件を起こしている訳で、漏えいを防ぐ難しさ、それを運用に頼ってはいけない理由を十分理解している筈なんですが、なんでこんな話引き受けてるんですかね?

頼む方も、2014年の事件をちょっとくらい思い出してもいいんじゃないのって話でもあるんですが。

Wikipedia:ベネッセ個人情報流出事件

 

個人的には「システムの瑕疵を運用でカバーするっていう思考法やめようよ…」

「仕組みに瑕疵があるならちゃんと仕組みの方を見直そうよ…」って強く強く強く思うこと大なんですが、一方でこういう記事も観測出来ました。

 

記述問題採点のベネッセ関連会社「3人採点でミス防止」

この中では、模擬試験などで年間3000万枚の採点を行うなど、会社には採点業務のノウハウがあるとしています。そして、共通テストでは、設問ごとにアルバイトの学生などを3人以上割り当てることで、採点ミスが起きないように取り組むとしています。

あーこれ見たことあるー。事務事故防止の為に何故か「人間によるトリプルチェック」とか言い出して、結果的に運用部署だけがひたすら疲弊して、しかも結局事務事故自体防ぐことが出来てないヤツだー。

まさに「あ、これチャレンジでやったヤツだ!」と言いたい話であって、それを体現する辺りは流石ベネッセですね。お見事です。

 

とにかく個人的には

「頼むからこの制度全体見直してください…」

「センター入試とかいう重大なところで訳分からん制度持ち込んで受験生振り回すのやめてあげてください…」

とただひたすら願うだけであって、自分自身今後大学入試に臨むであろう子どもたちを育てている身として、せめて反対の声については適宜挙げ続けていこうと思う次第なのです。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Ben Mullins

安達さんの記事を読んで、久しぶりに昔やったミスを思い出して古傷が傷んだ。

なぜ「事実」と「意見」を区別して話せない人がいるのか。 | Books&Apps

 

特に冒頭のこの部分が実によく刺さる。

過去に部下だった人のひとりが、ちょうど「事実」と「意見」の切り分けができない人だった。

例えば、こんな具合だ。

「昨日の営業、途中退席してごめん。お客さん、ウチに依頼するか、決めてくれた?」

大丈夫だと思います。

「大丈夫って……決まったのか、決まってないのかが、知りたいんだけど。」

「あ、まだ決まってないです。」

実は自分もかつて似たような事をやった事がある。

 

ある寒い冬の日の話だ。

 

僕は救命救急センターにて夜間診療をやっていた。

実は夜中に救急外来を訪れる人の多くは「自宅で寝てたらなおる」ような方が非常に多い。

 

僕も働き初めの頃は

「なにか見逃したらどうしよう……」

という恐怖心があり適当な診療行為なんて絶対にやれなかったのだが、だんだん中途半端に慣れてくると

「どれもこれも、病院にくるような症状じゃない。ぱっとみてサッと帰宅させ、仕事をラクにしよう」

という下心がムラムラと生まれてきてしまっていた。

 

あの頃の僕は、ちょうど医者として悪い意味での慢心と仕事をラクにさばきたいという下心がブレンドされていた時期だったと思う。

そんな時期に指をぶつけたという、ある患者さんが訪れた。

 

現実をありのままに見続けるのは、結構難しい

僕は見る前から「指をぶつけたって、どうせ打撲だろう。痛み止めを出しておしまいだな」とタカをくくっていた。

まあ一応念の為、レントゲン写真ぐらいはとっておくかと指示を飛ばし、写真をひと目みて「大丈夫ですよ。腫れがひどくなったら明日整形外科を受診してくださいね」と診察を高速で終わらせた。

 

カンのいい読者はもう気がついただろうが、僕はこのとき見事に骨折を見落としていた。

しかも、ぶっちゃけ結構わかりやすく折れてたのである。

次の日に整形外科の大先輩から大目玉を食らったのはいうまでもない。

 

当時は自分が誤診をしてしまったという事による罪の意識が強く、この事例を冷静には反省できなかったのだが、いま思うと

「どうせ折れてない」という風に結論を決めつけた目でレントゲン写真をみていた事が一番の敗因だったと思う。

 

実際のところ、夜間の救急外来で骨折事案にぶち当たる可能性はかなり低い。

ヘタにそういう経験を積み、更に後ろに控える膨大な救急外来を訪れてる患者さんを一刻も早くさばきたいという下心があったあのときの僕の目は、間違いなく非常によくない方向に歪んでいた。

 

事実を、自分の望むような方向に解釈を加えず、淡々とあった事を見続けるのは実はものすごく難しい。

上の安達さんの部下との会話を読んで

 

「ああ、この人めっちゃラクしたいんだろうな・・・」

「めっちゃ現実を自分に都合のよいように”解釈”しちゃってるな・・・」

「かつて自分がやった事やん。鬱だ~」

となってしまったのである。

 

負けず嫌いを使用して、慢心をいさしめる

さて、恥ずかしい告白はここまでにしておくとしよう。

次は僕がこの慢心やラクをしたいという気持ちをどう克服していったかである。

 

はっきりいうが、人間のラクをしたいという気持ちは非常に強い。

「次は気をつけよう」というような意識改革が「ラクをしたい」という下心に何度も駆逐される様を何度も経験し、ヒヤリハットを複数やらかした自分がいうのだから、間違いない。

 

さて、では自分はこの「ラクをしたい」をどう封じ込めたか。

 

それは「ゲームで負けたらめっちゃ悔しくなる」のいう気持ちの応用であった。

 

僕に限らずみんなそうだと思うのだが「ゲームに負ける」というのは非常にイライラする事である。

かつてYou tubeでキーボードクラッシャーというドイツの14歳の子供が、ゲームでうまくいかずに大癇癪を起こす様がバズった事があったが、実は僕もTVゲームの対人戦で負けるとあれぐらいには心はざわつく。

この事に気がついてから、僕は診察で自分がみえてない現実を歪めて見出したり、ラクな方向に流れたら「負け」という風に、自分の診療行為をゲーム化した。ある種のゲーミフィケーションといえるだろう。

 

心のなかにキーボードクラッシャーを飼う事で、僕は常に「負けたくない」という気持ちだけで最後の一線を踏ん張り続ける事に成功している。

この仕組み化で、かなり慢心やラクをしたいという気持ちは低減できているように思う。

 

プロフェッショナルの根源も、たぶん「負けず嫌い」

仕事柄、いわゆる達人と言われているタイプの外科医と何度か一緒に働く事があった。

 

この手の人達の凄さは一見するとわかりにくい。

別に魔法のように派手な演出があるわけでもないし、アッと驚くような超絶技巧をするわけでもない。

 

ただ一つだけ、ハッキリと異なる部分があった。

彼らは、普通の人なら面倒くさくて嫌がるような事を、常に手を抜かずにキチンとやり遂げるのだ。

 

以前はあの完璧主義的な行いの動機がどこにあったのかサッパリわからなかったのだが、あれはたぶん”面倒くさい”という仮想敵と常に戦ってるのだ。

 

彼らは「面倒くさい」という自分の気持ちに”負けてしまう”のが何よりも嫌だったのだろう。

普通の人ならラクに逃げたくなってしまう部分を突っぱね続けられたからこその、圧倒的な結果だったのである。

 

万人があそこまで全てを仕事に打ち込むは難しいだろうが、要所要所で参考になる事はあろう。学びたいものである。

 

神トレーダーだっていつか相場から退場する

cisさんというインターネット上で非常に有名なトレーダーがいる。

 

彼が”一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学”という本を出版された時、出版記念でトークイベントをされたので聞きにいったのだけど、会場における彼のやり取りは非常に印象的だった。

[amazonjs asin="4041069696" locale="JP" tmpl="Small" title="一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学"]

内容は主に株式のデイトレード関連の事が多かったのだけど、彼の受け答えは全てにおいて非常に細かく、質問のほぼ全てを「このトレードは勝つ確率が何%で~」という風に全て期待値に落とし込む様は異様であった。

 

彼のトレードには一つとしてカンのようなふわっとしたものは無く、僕はその完璧主義っぷりに圧倒されると共に

「自分のような根がテキトーなギャンブラー気質の人間はデイトレーダーになったら期待値の海に沈みボロ負けするんだろうな」

と思わされたものであった。

 

そんな超完璧主義である彼が、会の最後に

「自分もいつか相場で勝てなくなる日がくる。いつ株式市場から退場するかの見極めもしなくてはならない」

というような趣旨の事を言ったのが非常に印象的であった。

 

考えてみると、自分だっていつまでも第一線で働き続けられるわけではない。

たぶん、僕もいつしか若手に席を譲るハメになる。

 

人生の結構な時間を使って習得した技能が、時代遅れとなり使い物にならなくなる瞬間を目にするのはたぶん物凄く苦しいだろう。

 

日々、討ち死にしていく相場という戦場で戦う人だからこそ引き際も考えるのだろうなとは思ったが、自分もゆっくりとだが職業人として衰退するという現実を改めて実感し、少しだけ物哀しい気持ちになった。

 

去り際まで美しくいられればいいのだけど。

世の中、なかなか儚いものですねぇ。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Owen Beard

こんなツイートが、支持を集めているのを見た。

曰く、

調子が悪くても、「努力(と成果)を評価」してくれる。

何度ミスしても、「カバー」してくれる。

だから、頑張れよ。そう言ってくれる上司は、素晴らしい。

 

確かにそうかもしれない。

 

だが、私はすこし違う見方をしている。

おそらくこの上司はとても「いい」だ。

だが、本当に「良い上司」だろうか?

 

 

まだ私が会社員だったころ。

「面倒見の良い上司」が周囲に結構いた。

コンサルタントという職業上「大人」が多い会社だったというのもあるだろう。

一般的なコンサルタントの冷たいイメージとは異なり、人を無下に扱う上司は少なかった。

 

経営トップから「部下の面倒を見ること」が、上司のミッションとして与えられており、ミッションを無視するわけにはいかない、というのも大きかっただろう。

そう言うわけで、部下にきっちり教えたり、部下の話を熱心に聞いて、相談に乗ったりと、上司は「部下に成果をあげさせる」ことにかなり熱心だったと記憶している。

 

まさに、上のTweetにあるような

調子が悪くても、「努力(と成果)を評価」してくれる。

何度ミスしても、「カバー」してくれる。

そんな上司がいた会社だった。

 

 

「さぞかし良い会社で、皆モチベーション高く働いていたのでは」

と思う方もいるかも知れない。

 

が、客観的に評価すると、必ずしもそうとは言えなかった。

例えば、当時の「若手の離職率」は、上司が熱心な指導をしている割には結構高く、年間三割に達したこともある。

鬱になって辞めてしまう人。

疲れ切って辞めてしまう人。

独立してしまう人。

辞める理由は様々だったが、少なくとも定着率が良い会社ではなかった。

 

「コンサルティング会社なのだから、離職率が高いのは普通では?」

という人もいるかも知れないが、3割代の離職率は、コンサルティング会社であってもあまり褒められたものではない。

 

ダメ上司はごく少数。

皆「マネジメント研修」の講師を勤めるほどの知識もあり、給料も悪くない。

そんな組織で、なぜこんなにも離職率が高かったのか。

 

結論から言うと、これは「責任感の強い、いい人が上司であることの弊害」ではないかと踏んでいる。

 

 

すこしまえの話になる。

ある会社のリーダー職の方から、相談を受けた。

曰く、

「どうしても、部下がちゃんと仕事をできるようにならない」

とのこと。

 

状況を聞くと、

「新人の子なので、ある程度マニュアル化できているような、難易度の低い業務をやらせている。」

「質問があれば、いつでも受けているし、こちらから困っていないかどうかは見ている」

と、特に目立った問題はない。

 

「何の仕事をやってもらっているのですか?」と聞くと、

「簡単な仕事から、ということで、最初は協力会社からの納品物をチェックする役割を与えました。」という。

 

たしかに見る限り、アルバイトでも十分できそうな仕事だ。

新人だということで、やってもらっているのだろう。

 

ところが、「細かい仕事ですが、これくらいなら、ちゃんとやれそうですね」というと、リーダーは困ったように

「いえ……抜け漏れが結構あって、「マニュアルにかいてある」と言っても、なかなかミスが減らない状態でして……なんとかミスを無くすように色々教えているのですが……」という。

 

確かに、性格的に細かなチェックに向いてない人も多数いる。

そこで、

「なるほど。細かい仕事が苦手なのかもですね。」というと、リーダーの方も

「そうなんです。私もそう思って、今度は、お客さんのヘルプデスク業務の一部をやらせたんです。定型的なものが多いのですが、わからない時は「報告してください」と指示しました。」

 

「それはどうだったんですか。」

「残念ながら……お客さんを何度か怒らせてしまって……。」

「なるほど……。お客さん相手は難しいですかね。」

「ただ、他の新人は皆できているのに、その子だけどうしてもできないんです。どうやって改善させればよいのか……」

と、リーダーは悩んでいる。

 

私が

「今後、どうしようと思ってますか?」

と聞くと、そのリーダーは

「つきっきりで指導するしかなさそうですね……。側にいて、ちゃんとできるようになるまで手取り足取り指導したほうがいいのかな、と思っています。」と言った。

「つきっきりで指導してほしい、と、その方から言われたのですか?」

「いえ……、でもあの子の育成に責任がありますから。」

 

うん、このリーダーは、責任感が強くていい人だ。

 

だが、私は昔の会社を思い出して、そのリーダーに言った。

「その子、つきっきりで指導すると、たぶん……辞めちゃいますよ。それでもいいなら。」

 

すると、リーダーは驚いたようだった。

「なぜですか?」

「だって、その子明らかに能力低いですよね。他の人が普通にやっていることができない。」

「はい。」

「だからです。」

「どういうことですか?」

「リーダーのあなたが求める成長のスピードと、その子の能力が明らかに噛み合ってないです。つきっきりで指導されるプレッシャーに負けて、だいたい鬱になって辞めてしまいます。マニュアルや指導法を工夫しても、無理は無理です。」

 

 

そう。

会社で一番つらいのは、「自分が無能だ」と思い知らされることなのだ。

 

「それよりも、リーダーが他にやんなきゃならないことは、たくさんあるでしょう。そっちに時間を割かないと、他の人の不満が溜まって、チームがぶっ壊れます。」

「その子はどうするんですか?」

「放っておけばいいんです。」

「でも、冷たくないですか?」

「「できるようになれ」と、せっつかれる方が、よほどつらいと思いますよ。能力を高めるのは、時間がかかるんです。」

「……。」

 

「上司は、客観的でいいんです。できないものはできない。克服には時間がかかる。「できない、あ、そう。じゃ、別のことやって。」でいいんです。」

「それで、成長するんですか?」

「どんな人でも成長しますよ。時間が解決します。」

 

リーダーはまた言った。

「別のこともできなかったら?」

「また別のことをやらせてください。」

 

「やらせられる仕事がなくなったら?」

「人事に言って、配置転換を求めてください。」

 

「あの子の評価がさがってしまいますけど……」

「それの何が問題ですか?」

「……。」

 

 

「人が良く、熱心な上司」は、しばしば全力で、部下の応援をする。

それはたしかに素晴らしいことではあるし、感謝されることもある。

 

だが、「能力が足りない人に、あらゆる手段を通じて頑張らせる」のは、長期的に見ると、結構問題も多い。

それは「上司の期待に応えられないあまり、仕事が苦しくてしょうがない状態」を作り出してしまうことだ。

 

冒頭の上司は明らかに「いい人」だ。

だが、実際に下で働いてみると、最初は「なんていい上司なんだ!」と感動するが、これが、1年、2年と続くうちに、能力不足のメンバーは精神的に不調に陥ることが多い。

 

調子が悪くても、「努力(と成果)を評価」してくれる。  →  こんなに見てくれているのに、成果出せてない。ああああ……

何度ミスしても、「カバー」してくれる。 → また上司にミスをカバーしてもらった、申し訳ない。ああああ……

と、なりがちである。

 

だから、殆どの場合において

「部下を早く成長させよう」

「頑張れるように応援しよう」という、邪念は捨てたほうがベターだ。

 

それは多くの場合、

「部下に認められたい」

「尊敬されたい」

「嫌われたくない」

という、無意識の私的な欲求から出ている。

 

実際に、成長のスピードは「その人の能力」と「その人の工夫」に依存し、上司がそれに関わる割合は極めて少ない。

だから「努力を評価しよう」という姿勢も捨てていい。

努力を評価すると、大体において途中で息切れし、鬱になる。

 

結局、私が昔いた組織は、人材育成についてこんな方針に変わった。

「リーダーはメンバー育成に責任があります。ただし「部下を育てる」とは思わないこと。上司の「育てる」という強い思いは、メンバーにとって大抵は、余計なお世話です。」

 

 

いい人は責任感が強いので、「育てよう」と思ってしまう。

が、大体の場合、良い上司は「ま、勝手に育つだろ」とあまり部下の成長に拘泥しない。

 

もちろん、助けを求めている部下がいる時に、助け船を出すのは上司の役割だ。

だが、最終的に「成長」に関して責任を負うのは、上司ではなく、本人である。

 

結局、

「仕事の成果を明確にする」

「客観的に評価する」

「話を聞く」

「成果が出てないなら、他の仕事をやらせる」

程度が、「良い上司」の仕事である。

それ以上は、部下にとっても、余計なお世話だ。気にしなくていい。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

[adrotate group="46"]

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="4534056613" locale="JP" tmpl="Small" title="すぐ「決めつける」バカ、まず「受けとめる」知的な人"]

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

Photo by Andrew Neel on Unsplash

それはやけに暴力的なものだったように思う。

 

とっくの昔に終電も行ってしまった午前2時。歌舞伎町。そこには暴力があった。

 

やはりこの街は眠らない街らしく、こんな深夜であってもメイン通りはひっきりなしに人が歩いていた。

この人たちはこんな夜遅くに何をやっているんだろうか、そう思うほどに人々の活動がそこにあった。

それらが全てエキストラであると考えれば気が楽だが、これら一人一人に意思があり、何らかの目的や理由があってここにいると考えると、少しゾッとした。

 

僕はというと、それこそ自分自身がエキストラではないかと思うほどに虚無で、これから始発が動くまで数時間を無為に潰すことが確定しつつあった。

何かないかとその深夜の繁華街を徘徊していたのだ。

 

下を見ると、よくもまあここまで散らかしたものだと感心するほどのゴミが散乱しており、上を見るとうっすらと闇夜に浮かぶ巨大なゴジラの模型があった。

近代的なホテルを背景にこちらを覗き込むゴジラ、歌舞伎町のランドマークになりつつあるこれを見に来る外国人観光客も多いと聞く。

 

どれだけのお金を使えばあれが作れるのだろうか、そう考えると少しクラクラした。

それに、ゴジラがのぞき込むあの高級ホテルの宿泊料金はおいそれと泊まれるような値段ではないはずだ。

それでもゴジラと目が合う部屋は大人気だそうだ。あるところにはある、それがお金というものなのだろう。

 

反面、地面にはコンビニチキンの空き袋が風に吹かれてカサカサと震えており、寝る場所がないのか店の軒先に陣取っているホームレスもカサカサと震えていた。

なんだかゴジラとそれらが妙に対照的で、何かが捻じれているようにすら感じられた。

 

 

そのゴジラの模型を抱えるビルに到着すると、そこには映画館があった。

入り口部分の間口が広くなっており広場のようになっていたのだ。

誰かを待つ人、行くあてもなく立ち尽くす人、恋人同士で語り合う人、と様々な人が終電後の歌舞伎町を生きていた。

 

エスカレーター前にモニターがあり、そこに映画の上映時間が表示されている。

もう午前2時だ、いくら眠らない街といえども映画やってないだろうなあと覗き込むと、やっていた。

週末ということもありオールナイトで上映しているようだ。ちょうど30分後の2時30分から「ジョーカー」を上映するらしい。

ジョーカーとは、2019年10月に日米同時公開となった映画だ。

アメリカンコミック「バットマン」に登場した悪役、ジョーカー、その誕生を描いた作品で公開直後から様々な話題を呼ぶ大ヒット映画だ。

 

映画自体の出来が素晴らしいのは勿論だが、この作品が持つメッセージ性が観た人を「語らずにはいられない」状態にしているのだろう。

現に、SNSではこの映画に対する多くの意見表明が活発に交わされている。それらは社会現象といっても過言ではないだろう。

 

それら様々な議論を眺めながら「そろそろ観なきゃなあ」とは思っていたが、なんだか心の奥底に拒否する感情みたいなものがあった。

なぜなのかは分からない。話題作なので観たいという感情もあったが、観てはいけないという感情も居座っていた。

 

「まあ、これもそういう運命なのかも」

 

けれども、その拒絶は強いものではなかった。念を押すが「なんとなく」なのだ。そこに理由もない。

ならば終電後の暇な時間帯、上映まであと30分、そんな巡り合わせでここに来たことは何かあるのだろう。

そんな理由で鑑賞することを決意した。

 

「よし!」

 

チケット売り場は、掲示板の横にある長いエスカレーターを登った先にある。

こんな長いエスカレーターが階段だったら大変だなあと思いつつ、移動しようとすると突如として怒号が聞こえてきた。

 

「ふっざけんなよ!」

 

反射的にそちらに注目する。

 

見ると、劇場前の広場のような場所で男女が喧嘩をしていた。

どうやら女性に対して男性が怒りを顕わにしているようで、腕をつかんで怒鳴りつけている。

女性の方は憮然とし、男性を睨みつけている。

 

「お前マジでふざけんなよ!」

 

もう一度、怒号が響いた。

 

エスカレーターに向かっていた僕の足が止まった。見ると、男性は女性の胸倉を掴んでいる。

あたりは騒然となった。いままで何もすることがなく、ただ漠然とそこに立っていたエキストラたちが、遠巻きに二人の様子を見守るエキストラに変わっていった。

もちろん、僕もやや遠巻きに陣取りエキストラとなった。

 

 

落ち着いて見ると、なかなか特徴的な二人だ。

男性の方は高そうなスーツを身にまとい、細身体型、アクセサリーをじゃらじゃらつけてファイナルファンタジーのクラウドみたいな髪型をしている。たぶんホストなのだろう。

女性の方は、やや太め、秋口となりまあまあ寒い気温なのにミニスカート姿で、ペラッペラのサンリオキャラのパーカーを着ていた。おそらくだけど、ホストの客なのだと思う。

 

現に「店が」だとか「指名が」みたいな単語が男性の口からポンポン飛び出しているので、十中八九ホストとその客、店でのいざこざで揉めているとい見て間違いないだろう。

ホストは人目も気にせず大声でそのサンリオパーカーの子を怒鳴りつけていた。

 

「なんで!? こんなに尽くしているのに!」

 

パーカー女子のセリフが物悲しい。

ホストは怯むことなく怒鳴りつけていた。完全にバイオレンスだ。

 

当然、多くの人が二人に注目する。やばいんじゃないか。警察を呼んだ方がいいんじゃないか。漠然とそんな雰囲気が流れるが、誰も動かなかった。

僕はというと、もちろんその二人に注目していたのだけど、同時にそれを少し遠巻きに見ていた別の二人組にも注目していた。

 

その彼らは“若者”という範疇からギリギリ外れそうな年齢の男性二人組で、薄ら笑いを浮かべながらホストたちを見守っていた。

それは嘲笑に近い笑いだったように思う。そして、片方の男性がこう口にしたのだ。

 

「それでもさ、ああいう暴力的な男ってモテるよな」

 

こういっては失礼だろうけど、もちろん僕もそうなので遠慮なく言わせてもらう。

嘲笑していた二人はホストからは程遠い感じだった。あまりモテないのかもしれないと思える雰囲気があった。その彼らがそう言ったのだ。

 

「尽くすほどに虐げられ、暴力をふるうほどに崇められる」

 

その言葉が僕の頭によぎった。この真理を彼らは見たのではないだろうか。

 

“こんなに尽くしたのに”という彼女のセリフから見るに、パーカーの彼女はホストに尽くしていたのだと思う。

けれども今こうやって虐げられることになった。

そして、このホストはこうやって暴力的に振舞うことで女性を手懐けている節がある。

なにか手慣れたものを感じるのだろう。それが男たちのセリフに現れていた。

 

このアンバランスさはなんだろうか。

アンバランスだけどこの世はそういうものだ、男たちはそう笑っていたように見えた。

けれども普通に考えれば尽くすほどに優しくされ、暴力をふるうほどに疎まれねばならないのではないか。

けれどもそうなってない。それはいったい何なのだろうか。

 

一生懸命、真面目に、誰も傷つけず、優しさを持って生きている人が苦しみ、誰かを傷つけ、誰かを嘲笑し、誰かから奪う人が面白い人、すごい人、と持ち上げられる。

そんな光景はこの世に山ほど展開されている。そんな摂理の中で奪う側、暴力をふるう側に回ろうとするのは自然なことなのかもしれない。

 

なんだかやるせない気持ちみたいなものが生まれてきた、そんな気がした。

 

 

ホストとパーカーの痴話喧嘩はまだ続いていた。

いつの間にか広場から道路を渡り、寿司屋の前あたりで小競り合いが展開されていた。

女性は腕組みでホストを睨みつけ憮然としている。

ホストは時折、女性の顎を掴む素振りを見せていた。遠巻きの連中もさりげなくそちらに移動して見守っている。

 

「だからいってんじゃん」

 

半身を街灯の柱に預けながらパーカー女性が言った。

ただ、ホストも手慣れたものでその反撃は織り込み済みだ。打ち消すようにさらに大声を上げる。

二人は次第にヒートアップしていった。

 

同時に、それを見守るガヤたちもヒートアップしていったが、反面、僕の心の中には一つの疑問が浮かんでいた。

 

「なぜ彼女は帰らないのだろうか?」

 

ホストは腕を掴んだり、顎を掴んだり、服を引っ張ったりとなかなかに暴力的だが、決定的な暴力というわけではない。

おそらくその辺の線引きはきっちりできていて、そこまで強引なことはしない。

つまり、彼女がホストを振りほどいて帰ることは比較的簡単なのだ。なのに彼女はそれをしない。

 

「もしかして彼女も楽しんでいる?」

 

普通に考えると、いくら深夜とはいえこんな繁華街の中心で喧嘩などしたくないはずだ。

なのに堂々とおっぱじめ、やめようともしない。

そこでふと考えが浮かんだ。これ、ワザとなんじゃないだろうか。

 

もしかしたら、彼女は怒られることでホストからの愛を感じているのかもしれない。

そのためにワザと怒られるようなことをする。

ホストもホストで、彼女がそうやって愛を確認していることを察していて、本気で怒っているわけではないけど怒っているふりをしている。

 

そう考えると二人のやり取りは喜劇のように見えてくる。

キングオブコメディがみせるコントみたいな趣があるのだ。何が現実で何が虚構なのか分からなくなってくる。

 

「やめろ! やめろ!」

 

そこに正義感の強そうな男が現れた。見るからにザ・正義といった佇まいの男だ。

通りかかった男性が、見るに見かねて二人の喧嘩に割って入った格好だ。

ホストの肩を掴んで女性から引き離し、「暴力をふるっちゃだめだ」みたいなことを諭している。

 

突然に正義の力が行使されたことによりホストは戸惑っていた。

パーカー女もこの隙に逃げればいいものの、呆然と正義の男とホストを見守っていた。やはり、そうなのだろうと思う。

 

ただ傍観していただけの僕たちに比べて、この止めに入った正義の男は明らかに立派なのだけど、「もしかしてこの二人、喧嘩を楽しんでない?」と気づいてしまった今となっては、明らかにピエロだ。

本当にその正義感は素晴らしいのだけど、完全にピエロだ。

 

実のところ、こういった事象はこの世に数多く存在する。

正しい、正義と思った事象はある側面からだけのもので、別の角度から見ると全く異なることがあるのだ。

正義感ゆえの彼の行動も、ホストや彼女がただのポーズで喧嘩を楽しんでいるのだとしたら、それはもう邪魔者でしかない。

 

正義なんてそれぞれの主観でしかないじゃないか。

ついついそう呟いていた。

 

 

映画「ジョーカー」の上映開始時間である2時30分が近づいてきた。そうだ、僕はこのジョーカーを観ると決めていたのだ。

よく分からない二人の痴話喧嘩を眺めている場合ではない。いますぐにあのエスカレーターを駆け上がってチケットを買わなくてはならない。

 

ただ、どうしても二人から目が離せなかった。

たとえそれが本気の喧嘩でなくとも、二人のポーズであっても、どういう結末を迎えるのか気になって仕方なかった。

どうしても見届けたかった。

 

「ジョーカーはまた今度にするか」

 

言うなれば、ジョーカーはいつでも観ることができる。ただこの二人はいつでも観ることができない。その違いは大きい。

 

さて、また二人に視線を移す。

止めに入った正義感ピエロはホストを少しだけたしなめた後に夜の街へと消えていった。

そうなるとホストはまたパーカー女に詰め寄って再戦だ。パーカー女も待ってましたとばかりに迎え撃つ。

 

「お前マジでふざけんなよ!」

「そっちだってふざけないでよ!」

 

また激しく言い合っているが、僕から見ると双方がふざけているので、まあ、お互いに鏡に向かって話しかけているようなものだ。

 

二人の喧嘩に少しだけ変化が訪れた。

 

パーカー女のほうがプイッと帰る素振りを見せ始めたのだ。

そしてしばらく歩いて「ちょ、まてよ」と木村拓哉ばりの動きを見せるホストに引き留められる。

もちろんこれも予定調和なのだけど、この帰るかもしれないぞムーブを何度か見せることにより、徐々に戦いの場を移動させていった。

 

そうなると僕としても徐々に移動しつつ二人を見守っていくのだけど、そこまでするエキストラは僕だけだった。

あんなにいた傍観者たちも、さすがに移動してまでは見守らないらしい。

僕なんて観るつもりだった映画をキャンセルまでしているのに。

 

何度も何度も移動、木村拓哉を繰り返し、ついに戦いの舞台は大通りに移った。

ここは頻繁にタクシーが通るので、タクシーに乗って帰る帰らないという小競り合いが始まる。

タクシーを停めたりキャンセルしたりし始めたので、タクシードライバーとしては本当に迷惑な話だと思う。

 

ただ、このタクシーに乗る乗らないの小競り合いは二人としても本意ではないのだと思う。

いうなればここは崖の縁だ。ちょっとした手違いで女がタクシーに乗って喧嘩が終わってしまう。

それを恐れたのか、「ちょっとこっちこいよ」「なによ! ちょっとやめてよ!」といいつつ合意の上で移動し、また最初の場所に戻ってきた。映画館前の広場だ。また長いエスカレーターが見えた。

 

 

ここに戻ってくると、またエキストラのガヤたちが形成された。そして二人も繰り返しのように喧嘩を始める。

もう完全に映画ジョーカーの上映時間だ。

今ならまだ予告編とかその辺かもしれない。急げば間に合うかもしれない。けれども二人から目が離せなかった。

 

「なんであんなこと言ったの?」

 

パーカーがそう言った。

そしてホストが押し黙る。この反応を見るにどうやら喧嘩の核心に触れてしまったらしい。

たぶん、ホストが何か失礼なことを言ってパーカーが怒っているのだろう。

 

「だからそれは誤解だって言ってんだろ!」

「もういい!」

「ふっざけんなよ!」

 

ついにクライマックスを迎えた感じがした。

興奮したホストがさらに暴力性を増す。パーカーの腕を掴んでグイングインと振り回し始めた。

 

お前らまだいたのかよという感じだけど、そこに序盤のモテない感じの二人が言葉を投げかけた。

 

「格差だねえー」

 

その言葉の意味はよく分からない。

けれども、その表情を見るに、背中にそびえる高級ホテル、その天上から見下ろす富裕層と、地上でよく分からない痴話喧嘩をするホストとパーカーを思い、そんな言葉がでたのかもしれない。

あるいは、そんな痴話喧嘩を寒空の下、ずっと見てるだけの自分自身を揶揄したのかもしれない。

 

緊迫した空気があたりを包んだ。

 

「どうせわたしのお金だけが目当てなんでしょ!?」

 

パーカーが突如としてブチ切れた。なにか起爆剤となる言葉がそこにあったのかもしれない。

とにかく突如として豹変した。いよいよフィナーレが近い。そう予感させるものがあった。

 

ブチ切れたパーカーがついに切り札を出してきた。

そう、きっとそうなのだ。ホストはたぶんお金とかそういうものが目当てなのだ。僕の少ないホスト知識を総動員すると、きっとお金目当てなのだ。

けれども、それを言ってはいけないのではないか。それは切り札だけど、たぶんジョーカーだ。

 

たぶん、彼女はきっとそれに気づいている。気づいているんだ。

でもそれを言っちゃあおしめえだよ。それは言っちゃダメなやつだろ。

ホストが気分を害するからじゃない。キミが悲しくなるからだ。

ジョーカーを切るってのはそういうことだ。

 

「俺は人としてお前を正してやろうとしてんだ!」

 

ホストも負けていない。食い下がる。けれども、ジョーカーと化したパーカーはひるまない。

 

「都合のいい時だけ連絡してくるホスト風情に人として正してもらう必要はない」

 

すごいことになった。

突如としてリミットブレイクしたパーカー、その向こう側でネオンが激しく瞬いており、まるで後光が差したかのようだった。

モノクロの世界から色鮮やかな世界へと徐々に変化しているように感じられた。それくらい“それ”は鮮烈なものだった。

 

 

ホストとパーカー、この二人のやり取りをみなさんはどう思うだろうか。

この二人のやりとりは観る人によって感じ方が違うのではないか。

 

ただの恋愛のいざこざに見える人もいれば、暴力と献身の歪を見るかもしれない。

ホストと客による騙し騙され合戦に見える人もいるだろう。

ただの喜劇に見える人もいれば、格差社会の象徴に見える人もいるかもしれない。

そして、ついにパーカーがホストに反撃したー、やったーとヒーロー譚のように見える人もいるかもしれない。

 

誰もがホストに騙され、パーカーになりえる、なんて感想を抱く人だっているかもしれない。

 

おそらくであるが、それらはきっと鏡なのだろうと思う。

心の奥底で求めているものを二人に投影しているのではないだろうか。

言い換えると“そうであって欲しい”という願望がそう見せている可能性があるのだ。

 

格差社会の象徴のように見えたのなら、たぶん安心して格差社会を見ていられる立場の人なのだろう。

格差社会を表現されて安心するのは格差の上にいる人だけだ。

 

喜劇に見えたのならそういう人間関係にいる人なのだろう。

ヒーロー譚に見えたのなら、どこかにあなたを抑圧する何かがあるのかもしれない。それを突破する何かを望んでいる。

 

そう、これは鏡なのだ。そうであって欲しいという望む心がそう見せている。

僕は二人に注目していて鑑賞できなかったが、多くの考察を読むに、ジョーカーとはそういう映画ではないのだろうか?

 

 

さて、実際の二人はどうなっただろうか。

 

あれだけブチ切れていたパーカーだったが、ちょっと目を離したすきにホストに言いくるめられ、抱き寄せられていた。

本気の喧嘩だったのだろう、ホストもパーカーも汗だくだ。汗だくすぎてパーカーの化粧が落ち始めていた。

 

「勘違いだったみたい」

 

彼女はそう言った。

 

「俺がお前の手綱を握ってやっから」

 

ホストは満足気な顔でそう言って、パーカー女のパーカーの紐を握って見せた。

さながらじゃじゃ馬を乗りこなす騎手の気分なのだろうか。

 

そして、パーカー女も笑っていた。

 

「ふざけたことしてっとまたブチ切れるからな!」

 

ホストの言葉にまたパーカー女が笑った。

 

彼女は笑っていたけど、汗だくになって化粧が落ち、マスカラが剥げたのか青黒い液体が頬をつたっていた。

僕にはそれが涙のように見え、無理やり作った笑いをせ見るピエロのようにも見えた。

 

そう見えるということは、たぶん僕もそうなのだろう。

 

さて、そろそろ始発が動き出しそうだ。駅へと向かう。

映画「ジョーカー」は、観ないでおこうか。特に理由はないが“なんとなく”そうしたほうが良い気がした。

ビルの上から覗き込むゴジラと目が合ったような気がした。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【プロフィール】

著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

 

(Photo:Fabrizio Chiagano)

先週の話なんですが、ドワンゴさんに絡んで、三つ程記事を拝読しました。

退職しました

2019/10/31 を持って8年間勤めてきたドワンゴを退職しました。

ドワンゴ退職エントリの旬は過ぎているよう気もしますし、こんな何年も放置していたブログで今更何をと思わなくもないですが、なんとなく自分の気持ちの整理もかねて適当に綴ってみようと思います。

現職エントリ

自分の仕事やチームが好きなので、私は楽しく働いてるよーって伝えたくて書いてみます。

退職エントリを書くのは自由なのかも知れないし、書いた人の率直な気持ちだから全くもちろん良いわけなのですが、私みたいに心の弱いヤツは読んだらめちゃくちゃズーン😢てなっちゃうので。

ドワンゴ現職エントリ(別の視点から)

昨日からのドワンゴ退職エントリからの現職エントリの流れに思うところがあり書かせてきただく。

はじめに断っておくが、私は件の現職エントリで言う所の「営業」(非エンジニアの企画職)にあたる職種である。

その視点からのエントリであり、エンジニアの視点ではないことをまずご了承いただきたい。

ドワンゴを退職した人の退職報告記事と、それに反応して書かれたと思しきカウンター記事ですね。

はてな界隈で話題になっていたので、ご覧になっていた方も多いのではないかと思います。

 

前者は最終エントリから7年半くらい放置されていたブログなのですが、後者二つは記事が当該記事1つずつのみで、その後も追加の記事が投稿される気配はありません(11/4現在の話)。

わざわざカウンター記事を投稿する為だけに開設されたブログであることが伺えます。凄い愛社精神ですよね。

 

この記事、退職した人がエンジニアで、それに対するカウンター記事がいずれも非エンジニアの方の記事ということで、ちょっと個人的に興味深い論調が見られたので触れてみたくなりました。まずそれぞれの記事の内容を概観してみます。

 

***

 

一つ目の記事は、ドワンゴに8年勤めていたという方の退職報告記事で、結構強い論調で「ニコニコがもうダメ」など、ドワンゴの批判をされています。

印象的な部分を引用してみますと、

業績が上がっていないからコスト削減をしなければならない。だから直接お金を稼ぐことができていないゲームデバイス開発を縮小する。それはわかります。

ですが、手元でできる何を提案してもそれを却下し、何もするなという指示をしておいて、なんの業績も上げていないという評価を下して辞めるのを待つというやり方は果たしてコスト削減なのか。

細かい問題はいくらでもありますが、一つにまとめてしまうと、

専門知識を持っていない中途半端に偉い人が自分に口出しできる部分に口出しをすることで仕事をした気になって本来するべき意思決定をどこまでも先送りする。

部下はそれに振り回され、そういう状態に対抗する手段が存在しない。

そういう組織になってしまったことが問題なんじゃないかと思います。

なるほど。

 

ここからは、自部門における

「評価プロセスに対する深刻な不信感」

「意思決定プロセスに対する強烈な反感」を読み取ることが出来ます。

まあ、この二つがそろっていれば、それはその組織で働きたくなくなることもむべなるかなとは思えます。

 

「専門知識を持っていない中途半端に偉い人が自分に口出しできる部分に口出しをすることで仕事をした気になって」辺りは正直身につまされる方も多いだろうなあと思いました。

割と良く見る例であるような気がします。胃が痛い。

 

続いて、二つ目の記事についてです。

少なくとも私の部署や周りの同僚は、会社がより黒字化して、結果として良いサービスになるようにに仕事に取り組み、売上を立てています。

勿論もっともっとがんばりますが・・・。楽しい環境に甘んじて脳死してるわけじゃないんです、主張のパートです。

正直、エンジニアさん達との交流ほぼ無いのでソチラの事はわからないのですが、私はこんな感じです!

正直昼間からSLACKで雑談ばかりしてる人たちは、何してんだろ…?仕事してるのかな…?と思っちゃうところもあります。SLACKはまだ難しいです;;

正直なところ、この方が書いている内容は特段一つ目の記事に対するカウンターとして動作してはいないというか、全然別の話を個別にしているだけのように見えもするのですが

「非エンジニアの方が、エンジニアの仕事に対してあまり理解をもっていないのだな」

「状況によっては「仕事してんのか」といった印象を持ちがちなんだな」

ということは伺えます。

 

ここに見られるのは、「エンジニアと非エンジニアの意識の断絶」です。

違う言い方をすると、一つ目の記事との関係性において、それくらいしか読み取れるものがありません。

 

最後に三つ目の記事ですが、これについてはもうちょっと典型的な部分があるなーと個人的に思いました。

職種が違い、エンジニアには専門技術もあり、業務内容が全く違うので当然である。自分はアプリ開発者志望であったこともありそのあたりには理解があると思っている。

 

他の退職エントリで皆様がご存知の通り、彼らは彼らで悩み、あがき、ニコニコをよくしようとしていたことは存じている。

だが、身を粉にして自分たち、「営業」がお金を稼ぎ、コンテンツを排出して支える中、ニコニコ本体は改善が行われず、状況は徐々に悪くなっていき鬱屈した感情をどんどん抱えて行くことになった。

 

ドワンゴのエンジニア諸氏は存じ上げないかもしれないが、実は我々「営業」職も定期的にアプリやシステムの企画を出し、前社長や旧エンジニア上位層に企画提案をしていた。

 

なお、当時の返答はまとめると概ね以下の通りである。

「我々には余力がなくそのようなことをしている暇はない。」

「企画は前会長氏の考えるものであり我々や諸君らが考えるものではない。」

なるほどなあ。

 

「身を粉にして自分たち、「営業」がお金を稼ぎ、コンテンツを排出して支える中、ニコニコ本体は改善が行われず」というあたりからは、割と営業さんとしての典型的な意識が見てとれます。

飽くまでお金を稼いでいるのは自分たちである、という意識は営業さんとしての当然のプライドでもあるのでしょう。

 

一方、ニコニコの改善が行われないことへの言及やら、「エンジニア諸氏は存じ上げないかもしれないが」といった表現からは、自分たちが会社を支えていることに比してのエンジニア部門に対するいら立ちが読みとれます。

つまり、「自分たちはちゃんと仕事してるのにエンジニア部門がちゃんと仕事してない」という含意を読み取れるように思うんですね。

 

この後者二つの記事について、一つ明確に言えることは

「カウンター記事の体裁をとってはいるが、別にいずれも一つ目の記事を否定する内容にはなっていない」ということです。

 

一つ目の記事が、飽くまでエンジニアの方の、エンジニア部門から見た会社の意思決定プロセスの問題点について書いているのに対して、二つ目・三つ目の記事は「エンジニア部門の外から見たエンジニア部門への批判的な視点」を基調としています。

繰り返しになりますが、ここから読み取れることは

「非エンジニア部門とエンジニア部門の間に深刻な意識の断絶と相互不理解の兆候がある」

という一点のみです。

 

一つ目の記事にカウンターをしたければ、少なくともエンジニア部門の内情が分かる方が、「そんなことないよ」と言ってあげられる材料を提示してあげなくてはいけなかったのではないかなあ、と思ったりもしています。

 

まあ、外野からはドワンゴの内実は分かりませんので、これら三つの記事が妥当なのかどうか(それ以前に本当に社内の人が書いたのかどうかすら)も当然、我々からは分からない訳なのですが

「わざわざカウンター記事として書かれたっぽいのに全くカウンターになってない」

ということ自体興味深い事象ではあります。

 

もうちょっとこう、「どんな記事を書けばカウンターになるか」をエンジニア視点で適切に判断出来る人はいなかったんでしょうか。

 

ちょっとここから、話を自分の経験談、及びそこからの一般論にシフトします。

 

***

 

「営業部門とエンジニア部門の深刻な意識の断絶」というものは、私も何度か見聞したことがあるのですが、ことに印象が強烈なのは昔働いていたSI会社での話です。

 

当時私がいた会社は、元々はエンジニア出身の社長が作った会社だったものの、ある時営業出身の社長に代替わりして以降、急速に営業へのリソースを優先し始めました。

このこと自体社内では色んな議論になったのですが、後々問題になったのが

「元々営業畑の専門家で、エンジニアの視点を持たない人が外部から来て要職に採用され始めた」

「結果として、営業部門内部での中間管理職から、エンジニア出身の人材が排斥されてしまった」

ということです。

 

当初「営業に力を入れたいが、営業の専門家がいなかったので仕方なくエンジニアが営業もやっていた」

というような状況だったところ

「ちゃんと営業の専門家を雇って営業をやらせよう」という方針転換があったことが基点だったように記憶しています。

 

勿論、これ自体は一つの戦略としておかしい話ではなかったとは思うのですが、少し変化が急激過ぎたかも知れない、とも思います。

 

ここから何が起きたかというと

「エンジニア経験がある人が、営業部署のマネジメント層に存在しなくなってしまった」

ということ。

営業にシステムの話をしても全く話が通じなくなったことから、現場でも強い違和感を感じ始めました。

 

この後、職場では更に色々なことが起きました。

 

・無理な納期・意味がよく分からない仕様変更の案件が頻発するようになった

・かつ、それらの納期や仕様変更に対する現場の声が反映されにくくなっていった

・エンジニア部門に人が回ってこなくなった

・その為、開発はおろか保守運用に対するリソースすら不足し勝ちになっていった

・開発部門のコストも厳しく管理されるようになり、納期や予算を達成できなくなると厳しく詰められるようになった

・結果的に、ますます開発部門の発言力が落ちていった

 

物凄く典型的な悪循環ですよね。

 

いや、勿論、コスト管理をきちんと行おうとか、部分的には理解出来るところもあるんです。

ただ、それでも当時は、「腕を縛られて戦ってるのに、不利になるともっと強く腕を縛られるってなんの罰ゲームなんだよ」と思わざるを得なかったことも事実です。

 

これと前後して、「金を稼いでいるのは営業なのに、開発部門は何をやってるんだ」みたいな声を、私自身実際に、自分の耳で聞くようになりました。

 

この時起きていたのは、大筋

 

「営業部門のシステム開発知見不足によって、システムの状況を無視した案件が増える」

「それを弾くべきシステム部門の発言権が落ちているので、案件をブロック出来ず現場が疲弊する」

「また、システム自体の肥大化によって、仕様変更、追加開発時の影響調査だけでも膨大な手間になる」

「リソース不足によって、既存システムの保守や運用が手いっぱいになる」

「自分たちや顧客の要望がシステムになかなか反映されないことに営業部門が強い不満を持つ」

「営業がシステム部門の批判をする頻度が増える」

「営業部門とシステム部門の意識の断絶が進む」

 

というプロセスだったように思います。今思い出すだけで胃が痛くなるんですが、このプロセス自体は割と、色んな会社で一般的に観られるものだったんじゃないかなあ、というような気もします。

 

これ自体は、恐らく「営業部門とエンジニア部門の相互不理解が行きつくところまで行ってしまった」ことがその直接的な要因だったのだろうと理解しています。

 

非エンジニア部門のマネジメント層に、ちょっとでもエンジニアとしての知見があればこんなことにはならなかったんじゃないかと思うんですよね。

しかもこれ、別に営業の会社じゃなくて、SI会社での話ですよ?自分たちの商品について全く知識がない人が、その商品で商売しに行ってたんですよ。

 

別段「誰が悪い」という話ではなく、企業の両輪が相互不理解のまま突っ走っていればそりゃすっ転ぶよな、というだけの話なんですが、私自身はこのちょっと後に会社を辞めてしまいまして、その後も色々改善しようという試みはあったみたいなのですが、残念ながらもう当該企業はこの世に存在しません。

一種の寓話ですね。

 

ちなみに、それ以前の一般的な問題としてもう一つ、元来「システム開発のコスト」ってシステム的な知見がない人にとっては理解し辛いという問題もあるんですよね。

テスト工数だとか、影響範囲調査工数だとか、要件の規模とはあまり関係なく一定の工数がかかるんですが、それが非常に理解され辛い。

 

これについては以前こんな記事を書きました。興味がある方は読んでみてください。

なぜシステム会社の見積りが「ボッタクリ」に見えるのかを、きちんと説明する。

 

だから、営業側にシステムの知見が完全に欠如していると

「なんでこんだけの要望でこんなに時間がかかるんだよ」とか

「こんな簡単な要件なんだからもっと納期早くしろよ」

みたいな苛立ちを持ってしまいがち、というのは、割と一般的に言える話なのではないかと思います。

 

以来色んなところで、機会がある度に「非エンジニア部門にも開発経験やエンジニアとしての知見がある人材を配置するべき」という話をしていますし、自分自身色んなところに顔を突っ込んだりもしています。

それで色々面倒ごとを抱え込んだりもしているんですが、まあそれは別の話です。

 

***

 

上の話は単なる私の経験談に過ぎないので、これをそのまま他に適用する気はないのですが

「非エンジニア部門とエンジニア部門の相互不理解」という点については、私は割と強く企業のアラートとして受け取るべきだと考えています。

 

それは、単なる個人レベルの不満の表出というだけの話ではなく、企業の飯のタネの土台が揺らいでいることの証拠である場合があるからです。

 

なので、冒頭の記事もあまり他人事ではなく、もしも事実に即した記事であるのなら早急に相互理解の為の手を打った方がいいんじゃないかなあ、などと思ったりもするんですが、まあ全てが全くの創作話である可能性もあるので深くは突っ込まないでおきます。

 

ドワンゴ様始め、皆様のご清栄とご発展を強く祈念しつつ当エントリーを閉じさせて頂きます。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Frank Busch

 

皆さんは、昭和時代の暮らしのことを覚えていますか?

 

最近、私は諸般の事情があって昭和時代の暮らしについて調べているのですが、先日、昭和40年代の少年漫画のアーカイブを掘り当ててしまい、そこでカジュアルに暴力が描かれていることに驚いてしまいました。

 

暴力の描写じたいは、昭和60年代以降の少年漫画でも珍しくありません。

それでも、後の時代に描かれる暴力は「非日常の暴力」といいますか、カジュアルではない、暴力が暴力として特別扱いされているように見受けられるのでした。

 

たとえば昭和60年連載開始の『シティハンター』では、暴力は危険な戦闘として、そうでなければスケベな主人公をヒロインが懲らしめるラブコメとして描かれていました。

『ダイの大冒険』では専らバトルとして。『スラムダンク』に登場する暴力も、不良による非日常として、部活動とは切り離された出来事として描かれていました。

『ONE PIECE』や『進撃の巨人』ともなれば、もう遠い世界のファンタジーです。

 

ところが昭和40年代の少年漫画はそうではなくて。

殴ったり蹴ったりが戦闘やコメディや非日常やファンタジーとして描かれるのでなく、日常の一部として、それかコミュニケーションのチャンネルのひとつとして描かれているのです。

 

『夕やけ番長』のような喧嘩っ早い作品はもちろん、サラリーマンが主人公の漫画でも、ギャグマンガでも、とにかく、ごく自然に人が人を叩いたり蹴ったりしていて、そのことを咎められる様子もありません。

学校教師も、生徒の叩いたり蹴ったりを黙認していて、ときには平然と体罰をやってのけたりしています。

 

そういえば、私たちのよく知っている作品にしても、昔のアーカイブを見るとなかなか暴力的で、驚かされます。

現在、AmazonPrimeでは『サザエさん』の1969年のアーカイブが提供されていますが、令和時代の『サザエさん』よりもワイルドで、取っ組み合いや拳骨がしばしば登場します。口調もセリフもどこか刺々しい感じがします。

 

『こちら亀有公園前派出所』の連載初期も、良く言えば"下町人情風"、悪く言えば粗暴な昭和の警官とその周辺といった雰囲気で、平成以降とはだいぶカラーが違っていました。

 

手塚治虫先生の作品も、ときどきバイオレンスなシーンがありますよね。

『火の鳥』とか、はなはだしい暴力が何食わぬ顔で描かれていたりしてギョッとすることがあります。

 

数十年前のこうした作品を振り返ると、「こういう作品を当時の子どもは楽しんでいたのかぁ……」と驚かずにいられません。

 

A町内には「よそ者に石を投げる子ども集団」がいた

じゃあ、現実ではどうだったのか。

少なくとも私の小学生時代を思い出す限りでは、令和時代よりも暴力的な、野蛮がまかり通っていたように思います。

 

私は昭和50年代の田舎町で生まれ育ったので、それなりに、昭和っぽい子ども時代を過ごしたつもりです。

私が通っていた小学校では、子ども同士が取っ組み合いの喧嘩をすることは珍しいことではありませんでした。

 

また、今でも忘れられないのですが、小学校1年生の頃、私が住んでいる町内から少し離れたA町内に出かけていった時に、そのA町内の子どもたちに集団で石を投げられたことがありました。

「よそ者は来るな」と言って彼らは集団で石を投げつけ、手足や顔に石をぶつけられました。

 

その後、「A町内の奴等にはよくあること」と同じ町内の年上から教えられ、それからはA町内の子ども集団には注意するようになりました。

「よそ者は来るな」という理由で子ども集団が子どもに石を投げるなんて、令和時代にはあり得ないでしょう。

 

学校教師や父兄の暴力に対する態度も、良くいえばおおらか、悪くいえば鈍感だったと記憶しています。

大人が子どもの喧嘩に介入するのは、大人が止めなければならないと判断するに足る時だけでした。

その大人たちもまた、子どもに対して体罰を当たり前のようにふるっていました。

 

大人も子どももそれらを暴力とはあまり認識しておらず、喧嘩や体罰をコミュニケーションの一部とみなしているふしがありました。

 

もちろん当時も校内暴力やいじめといった言葉は知られていて、ときには問題視されました。

ただしそれは、誰かが怪我をするような喧嘩や、集団的で執拗ないじめが問題視されていたのであって、怪我をしない喧嘩が校内暴力とみなされることも、一時的な無視や悪口がいじめとみなされることもありませんでした。

 

どこまでがコミュニケーションで、どこからが暴力やいじめなのか?

──このセーフかアウトかの"判定"が現代よりもずっと緩かったのが私の小学生時代のリアルだったのです。

昭和40年代の少年漫画もまた、そうしたリアルを反映していたのでしょう。

 

もっとバイオレンスな中世ヨーロッパ

「令和より平成、平成より昭和が暴力的で野蛮だったとしたら、もっと昔の人々はもっと野蛮だったのでは?」

 

そう思い。中世ヨーロッパの遊びと暴力を紹介している『賭博・暴力・社交』という本を読んでみたのですが、やはりというか、相当に野蛮でした。

遊びと暴力とコミュニケーションの境目があいまいな社会だったことが窺われます。

[amazonjs asin="4062580047" locale="JP" tmpl="Small" title="賭博・暴力・社交―遊びからみる中世ヨーロッパ (講談社選書メチエ)"]

ごく簡単に結論だけを述べれば、まさに社交性 (遊び) は攻撃性 (暴力行為) と表裏の関係にあったのである。

後期中世から近世にかけての悲惨な状況のなか、人々は、一方で遊び躍り歌い、地方で喧嘩・暴力にうったえることで、たまりたまった鬱屈を晴らした。

これらの好意は抑圧された情熱の発散にとどまらず、自己表現、他人との位置関係の設定・確認の意味があった。

つまり、己れが肉体的にも社会的にも存在することを確認する手段であったといえばよかろうか。

暴力的な遊びに「自己表現、他人との位置関係の設定・確認の意味」の意味があったということは、中世ヨーロッパの人々にとって、喧嘩や暴力はコミュニケーションの一部だったのでしょう。

昭和時代の子どもが取っ組み合いの喧嘩をとおしてお互いの立場を確認しあい、それがコミュニケーションとしてまかり通っていたのと同じように。

 

しかし、こんな社会は現代人にはとうてい耐えられそうにありません。同書によれば、

都市は、しばしば暴力の坩堝と化した。掠奪・殺人・喧嘩・党争・暴動・凌辱・反乱などなど、暴力沙汰はたえまがなかった。

これらの暴力を抑えこむために、都市は警察に取り締まらせるのとならんで、それらを一定範囲に囲い込んで許容し、自ら管理経営する策を講じた。また、暴力管理には、隣人関係に期待するところが大きく、それにたよって風紀や秩序を保とうとした。

暴力だらけの都市の風紀や秩序を守るべく、”隣組”制度が行われていたのだそうです。同調圧力や相互監視は日本のムラ社会の特徴と言われますが、中世ヨーロッパの社会も似たり寄ったりだったのかもしれません。

加えて、

都市当局はまた他方で、若者の粗暴な大騒ぎやカーニヴァルの騒動に目をつぶり、裁判所もシャリヴァリ(注:再婚夫婦などを標的にした若者の乱痴気騒ぎ)や「若者法廷」に寛容だった。

年齢と浮動する境涯がもたらす若者の暴力本能は、押さえられないからできるだけ無害な「遊び」に向かわせなくてはならない。

狂人やユダヤ人をかれらが面白おかしく囃し立てながら追いたて都市から追いだしたり、再婚夫婦をコケにして大騒ぎするくらいは、構わないではないか。

若者の暴力本能が抑えきれず、差別が横行していたと。

これに比べれば昭和時代の日本もたいしたことはありませんし、なるほど、人類は進歩したのでしょう。

 

暴力がなくなったはずなのに、いじめは増えている

こうした過去を振り返ると、なんとも平和で非暴力的な時代になったものですね。

うちの子どもから聞くところによれば、いまどきの学校では、クラスメート同士が取っ組み合いの喧嘩をしようものなら、大変な出来事として捉えられるのだそうです。

 

現代人は、幼い頃から暴力をしないように(されないように)育てられ、叩いたり蹴ったりをしない人間として育っていくのですね。

 

しかしそうなると不思議に思いたくなるのが、統計上の暴力やいじめの増加です。

 

文部科学省が発表した「平成29年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」によれば、平成9年度から平成29年度にかけて、小・中・高生の暴力は2倍以上の件数になりました。

いじめの認知件数に至っては、平成9年度から平成29年度にかけて10倍(!) にまで膨れ上がっているのですからびっくりです。

 

私たちの社会は昭和時代よりもずっと非暴力的になっているはずなのに、どうしてこんなことが起こり得るのでしょうか。

これは、暴力発生件数についてのグラフですが、愚直にこれを読むと、平成24年以降に小学生の暴力が急増していることになります。

しかし、少年漫画の暴力描写からも、子どもから聞く令和時代の学校の様子からも、実際には暴力は減っているはずです。

 

ということは、むしろこのグラフは、私たちが非暴力的になり続けたことによってセーフかアウトかの"判定"が厳しくなって、学校も父兄もミクロな暴力を見過ごせなくなったさまを表しているのではないでしょうか。

いじめに関しても同様です。

 

いじめの認知件数はその定義が拡大するたびに急増し、平成24年度以降はとりわけ急激に上昇しています。

平成24年度以降に増加したいじめのかなりの割合は、小学生、それも低学年によるものです。

 

リンク先で小学生のいじめの態様(内容)を確かめると、全体の8割以上が「冷やかしやからかい、悪口を言われた」「軽くぶつかられたり、遊んだふりをして叩かれたり蹴られたりした」によって占められているとのことでした。

いじめに関しても、セーフかアウトかの"判定"が厳しくなったことが窺われます。

 

もし、現代の暴力やいじめの"判定"で私の小学生時代の小学校をチェックしたらどうなるでしょう?

たぶん、私はいじめられていたと同時にいじめていて、暴力の被害者であると共に加害者でもあると"判定"されることでしょう。学校教師の多くも体罰を行う問題教師と"判定"されるに違いありません。

令和時代の基準でみれば、昭和時代の学校はどこも暴力やいじめの巣窟と”判定”されるのではないでしょうか。

 

私個人は、小学生、とりわけ低学年は社会的訓練がまだ十分ではないので、冷やかし・からかい・悪口を言ってしまったり、ときに身体をぶつけたり叩いたり蹴ったりが発生してもおかしくないと思っています。それを修正していくのも教育の役割でしょう。

 

ところが現代社会という、暴力やいじめが徹底的に追放されなければならない社会では、そういった行動をコミュニケーションの一端として許容することも、遊びの一部とみなすことも、もはやできません。

小学校低学年のからかいや叩いたりぶつかったりを、暴力やいじめとして”判定”せずにはいられないところまで社会は進歩してしまいました。

 

社会が進歩し、暴力やいじめが追放されなければならなくなったのだから、そのように子どもを教育しなければならない──その基本方針じたいには異存ありません。

 

だからといって小学生の行動が暴力やいじめとして逐一カウントされ、特に低学年で急増しているとみなされるのは、何かが行き過ぎていることの現れではないでしょうか。

 

暴力を追放し、大人も子どもも安全に暮らせるようになったのは喜ばしいことですし、昭和時代の日本や中世ヨーロッパの社会に還るべきだとはまったく思いません。

さりとて、小学校低学年の行動の多くが暴力やいじめとして統計的に”判定”されてしまうのも、どこか変です。

 

今日は、昭和40年代の少年漫画の世界から令和時代の現実世界に立ち戻った時に感じたことを書いてみました。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="4781616380" locale="JP" tmpl="Small" title="「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:photographymontreal

このところ、「好きなことを仕事にしよう」という声が日に日に大きくなってきている。

いや、もはやそんなおだやかな主張ではない。

 

「好きなことを仕事にしないと幸せになれない」

「好きなことを仕事にしないかぎり人生が充実しない」

かのように言われはじめている。

 

「好きなことを仕事に」が豊かになるための絶対条件なのであれば、それはもう「呪い」だ。

そうじゃなければ幸せになれない、ということなのだから。

 

そりゃたしかに、好きなことを仕事にしたほうがいいだろう。

でもわたしは、「好きなこと仕事に」しなくとも、割り切って「好きなことのために仕事を」するのも、おおいにアリだと思っている。

 

「好きなことを仕事に」は豊かになる絶対条件である、という主張

先日アップされた安達さんの記事も、「好きなことを仕事に」がテーマだった。

最近では、「好きなことをする」「いや、仕事はそういうものではない」は議論の対象ですらない。

高度に専門化された社会では、好きなことをして、特定の分野を極めないと、豊かになれないのである。

……

「好きを仕事にしないと豊かになれない」世界は、「主体的に動く人だけが豊かになれる」という、残酷な世界だ。

出典:『いつの間にか「好きなことをしていい」時代から、「好きなことをしないと豊かになれない」時代に変わった。』

「豊かになるためには好きなことを仕事にすることが必須である」というこの主張は、多くの人に読まれ、そして同意を得ていた。

 

しかしわたしが気になったのは、この記事の結びだ。

ただ、このような生き方に適合できない方もたくさんいるだろう。

結果として、「自由を謳歌できた人々」は、そのような方に手を差し伸べる義務を負うと私は考える。

「好きなことを仕事にした特権階級」による「それ以外の人たちへの手助け」というノーブレスオブリージュ的な考えは、ちょっと衝撃的だった。

 

「好きなことを仕事にできなかった人=手を差し伸べられるべき人」という考えが、わたしにはまったくなかったからだ。

 

「好きなことを仕事に」せず、人生を謳歌する人々

学生時代、同じ居酒屋でフリーターとして働いていたAの話をしよう。

 

Aは金髪に近い髪色でつけまつげをバッチリつけたギャルで、気は強いが面倒見もいい人だった。

その人はブライダル系の専門学校を出て一度結婚式場に就職したというから、「好きなことを仕事に」した人だ。

 

それなのになぜ、Aは「好きなこと」を辞め、フリーターとして居酒屋で働いていたのか?

 

答えはかんたん、彼女がHey!Say!JUMPの熱心なファンだからだ。

イベントがあれば、いついかなるときも、それこそチケットを持っていようが持っていまいが駆けつける。

夜行バスでの遠征もめずらしくない。

 

そんな彼女にとって、シフト制のフリーター、そして深夜も働ける居酒屋は、時間的融通がきくうえ結構実入りのいい魅力的な働き方・仕事なのだ(居酒屋は夜メインなので、お金が足りなければ日中日雇いで働ける)。

 

一方で、びっくりするほどの給料をもらっている、大手企業勤務のBもいる。

バンドマンだったBは、「好き」を活かせる有名楽器店に勤めるも、薄給を理由に現職場へ転職。

 

仕事自体にはたいして魅力を感じていないが、「仕事はカネのため」と割り切っているから、「給料がいい=いい仕事」という認識らしい。だからいまの仕事に不満はないそうだ。

 

ああ、そういえば、なにがなんでも定時で帰りたい友人Cもいる。

Cは、給料が低くとも、上司がちょっと嫌なヤツでも、面倒な仕事が舞い込んでも、定時で帰れればそれでオーケー。

 

彼女は筋金入りのゲーマーで、1秒でも早くPS4のスイッチを入れたいらしい。だから、定時退社が最重要。

「これ終わればゲームできるって思うと、多少のイヤなことはスルーできる」とのこと。でも別に、ゲーマーとして生計を立てる気はないのだそうだ。

 

「好きなことを仕事に」ではなく、「好きなことのために仕事を」

こういう人たちは、「好きなことを仕事に」してはいない。

「好きなことのために仕事を」している人たちだ。

 

Aにとって大事なのは「Hey!Say!JUMPを追っかけられる働き方」だし、Bにとって大事なのは「給料」だし、Cにとって大事なのは「定時退社」。

 

仕事に期待するのは、自分のやりたいことができるかでも、仕事を通じて成長できるかどうかでもなく、自分の楽しみを邪魔しない待遇や環境かどうか。それだけ。

 

わたしのまわりにはこういう「好きなことのために仕事を」タイプのほうが多いくらいだから、「好きなことを仕事にできた人はそうじゃない人を助けてあげよう」という主張に、ちょっとびっくりしたのだ。

 

「手助けなんて求めていない人もいっぱいいるんじゃないか?」と。

 

もちろん、好きなことを仕事に「できなかった」人と「しなかった」人のあいだには、大きなちがいがあることは承知している。

ただ、「好きなことを仕事にしたか否か」が「人生の豊かさ」に必ずしも直結するわけじゃない、ということをお伝えしたいのだ。

 

「好き」を仕事内容に限定する必要はない

「好きなことを仕事に」は、たしかに素晴らしい考えだと思う。

わたし自身、「文章を書く」という、好きで好きでしょうがないことを仕事にしているから、よくわかる。

 

嫌いなことをするより好きなことをしたほうが人間がんばれるし、楽しいし、やりがいがある。

これからの時代、そういった姿勢がよりいっそう大事になってくるというのも、まちがいないだろう。

 

でも、「なにを優先するか」は人それぞれだ。

 

好きなことを仕事にすることで自己実現を目指す人もいれば、融通が効く労働時間、高い給料、定時帰宅が、仕事内容より大事な人だっている。

自分にとって「好きな仕事」より「定時退社」が大事なのであれば、それもおおいに結構。なんの問題もない。

 

実際、AもBもCも、「好きなことを仕事に」はしていないけれど、「好きなことのために仕事をする」ことで人生を楽しんでいる。

 

もちろん、職場や仕事内容に「好き」がなにひとつとして見出せず、出勤するたびに胃痛を訴えるような状況であれば、考えなおしたほうがいい。

でも、「好きなことを仕事にしているか否か」は、かならずしも「人生が豊かになるか否か」と同義ではないはずだ。

 

人生の豊かさは仕事内容だけで決まるものではないし、好きなことを仕事にせずとも、好きなことのために仕事をして人生を豊かにすることは可能なのだから。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:bruce mars)

おそらく僕だけではないと思うのだが、昔、宗教がものすごく嫌いだった。

 

「なんでみんなこんな古臭くてうさんくさいものをありがたがってるんだ?」

「ってか、寺に通ってお経となるとか面倒くさいし、お布施とかマジでお金の無駄使いじゃん」

「自由な世の中に生まれてきたにもかかわらず、宗教に入信するなんて自分の脚に鎖をつけるようなものじゃないか。なんでわざわざ自分から不自由を選ぶのか、サッパリ理解できない」

 

高校生の頃の僕は、宗教に対してこんな事を思っていたように思う。

 

ただ、その一方で奇妙な魅力を感じていたのも事実だ。

 

「なんでこんなに個人にとってデメリットしか感じられないシステムが根強く生き残っているのか」

 

最近になって、ようやくその正体がうっすらと見えてきたので今回はこの話をしようかと思う。

 

モンゴル帝国が破綻したのは民に宗教を押し付けなかったから

いまでは見る影もないが、かつてモンゴルは世界最大の大国だった。

その優れたシステムについては、遊牧民から見た世界史 増補版 (日経ビジネス人文庫)に詳しい。

[amazonjs asin="4532195993" locale="JP" tmpl="Small" title="遊牧民から見た世界史 増補版 (日経ビジネス人文庫)"]

 

栄枯盛衰とはいうが、歴史を勉強すると「なぜこんなにも大勝ちしたのに、最終的には衰退してしまうのだろう?」という事例が跡目をたたない。

特に帝国はその最たるもので、常識的に考えてローマやらオスマントルコやらが現代でも全てを総取りし続けてても何もおかしくないと思うのだが、結果はごらんの有様である。

 

僕は遊牧民から見た世界史をはじめて読んだ時、モンゴルというシステムの凄さにただただ感心させられた。

「こんなにも優れたシステムを持った国が、なぜ崩壊してしまったのか」

 

この疑問はかなり長い間ぼくの中でくすぶり続けていたのだけど、つい先日、アジア近現代史 「世界史の誕生」以後の800年 (中公新書) を読んでようやくその疑問が氷解した。

[amazonjs asin="4121025385" locale="JP" tmpl="Small" title="アジア近現代史-「世界史の誕生」以後の800年 (中公新書)"]

 

モンゴル帝国が支配民に宗教を押しつけなかったのが致命的に駄目だったのだ。

 

暴力やカリスマだけでは全てを統率し続けられない

かつてモンゴル帝国は非常に強大で、周辺諸国を次々と平定していったのだという。

しかしあまりにも相手に対して理解がありすぎたのか、モンゴル帝国は降伏した相手を宗教や言語も元のままで支配下においていた。

 

人は一時的には強大な支配者に従う事はあれど、その影響力が弱まれば虐げられていた記憶とともに民は強い反発心を抱く生き物だ。

こうならない為に、普通は強大な帝国は支配した国を「自民族」へと洗脳しようとする。

 

たとえば現在、中国はモンゴルや香港といった地区に住む人々を「中国人」として取りまとめようとする一つの中国制度を推し進めている。

なんでここまでそれにこだわるかといえば、自治権を与えたが最後、固有の文化を持つ者共はいつか必ず離れていくからにほかならない。

 

権力者は残念ながら永遠の命をもたない。人間の死亡率が100%である以上、権力者のカリスマで民を支配し続けるのには限界がある。

暴力も手の届く範囲は支配できるが、逆に言えばそうでない範囲には有効性がない。

 

力は有限だ。しかし・・・たった一つだけ、例外がある。

それは信仰の力だ。この強烈なウイルスにより、恐ろしい事に人は簡単に心を支配されてしまうのである。

 

実は日本人は宗教に熱心である。しかも何の疑問におもわないレベルで

例えば、私達は日本人であるという強い仲間としての認識がある。

昨今もワールドカップで日本ラグビーチームがベスト8へと勝ち進んでいったが、あのとき我が国は奇妙な一体感が醸し出されていた。

 

しかし冷静に考えて欲しいのだが、ラグビーチームがいくら勝とうが本来ならそれは他人事である。

それなのになんでこんなにも心地よい高揚感がうまれるかといえば、私達の心に「日本人」という強烈な認知が根ざしているからにほかならない。

 

この「日本人」という認知、いったい何がそう思わせているのかはものすごく興味深い。

因子としては使用する言語や似た顔の様相など共通事項は色々あるだろうが、最も根底にあるのはおそらく天皇を象徴とする日本固有の宗教から沸き起こる同胞意識だろう。

 

宗教心に薄いといわれている日本人だけど、元号の改定やら即位の礼での祝日を何の疑問もなく受け入れているように、実はアイデンティティレベルで神道が心に根付いている。

私達は無意識レベルで神道に支配されているのである。

 

こうしてみると、宗教のすざまじい力を改めて感じてしまう。

かつて日本にもキリスト教宣教師がやってきて布教活動を行おうとした事があったけど、宗教心を多くの人の心にインストールさせる事に成功したら、もうそれは実質的には国を支配したのと同じようなものなのだ。

 

大国は何度も滅びているが、宗教は不滅である

冷静に考えると、日々変わり続けているこの世の中でキリスト教やイスラム教といった宗教がいつまでたっても消えないのは本当に凄い。

何度も国は滅びているのに、宗教だけは全く滅びる兆しすらみえない。

 

作家ミシェル・ウエルベックが服従という本でヨーロッパがイスラームに支配されるという話を描いて一大ムーブメントをおこしたが、欧州に住む人々の恐怖心をリアルに感じたいのなら、我が国でイスラム教が一般化していくような話だと置き換えて読み解けばいい。

 

天皇陛下の代わりにアッラーが讃えられるような社会に日本がなったら、まず間違いなく国家は転覆する。

 

イスラム教が布教し、私達の心から本当の意味で神道が離れていったら・・・たぶん天皇制は崩壊する。

そして私達から日本人であるという認知はきれいさっぱりアンインストールされるだろう。

 

国を滅ぼすのには軍事力とかカリスマ、ましてマネーなんてまったく必要ない。

宗教こそが史上最強のマインド・コントロール兵器なのである。

 

企業のエライ人も宗教に首ったけ

なにも国家レベルでなくても、たとえば企業レベルでも宗教を上手に活用している様もいくつもある。

 

例えば京セラの会長である稲盛和夫氏の哲学は非常に宗教的であると有名だ。

なんで彼のもとに中小企業の社長が熱心に集まるのかと言えば、教祖となるためのヒント欲しさだろう。

 

宗教システムを上手に用いればお金やら強大な権力のような維持するのが難しいエネルギーを用いることなく社員を支配し続けられる。こんな魅力的な技を使わない手はない。

 

お金は……奪われればなくなる。

権力は……強き者共に超えられればなくなる。

しかし唯一神だけは……絶対に人の心からなくならない。宗教は国家レベルでなくとも、やはり最も維持コストが少ない世界最強の人心掌握支配システムなのである。

 

己の信仰心を自覚してみよう

宗教のヤバさを理解せず「なんかキモチワルイ」と拒絶するのは、大変に恐ろしい事だ。

なぜか?それは自分の心を無防備で晒し続ける事とほぼ同義だからである。

 

あなたは自分だけは絶対に変な宗教になんて入らないと思っているかもしれないが、オウム真理教の例を持ち出すまでもなく、世の中は本当に何がおきるかわかったものではない。

 

ほころびというのは自分が気が付かないところで始まるものである。

かつて強大な権力を振るっていたモンゴル帝国が滅びの道を歩み始めたのも、見方によっては絶頂期がその第一歩ともいえる。

 

宗教システムを利用する人もいれば、利用される人もいる。

一度自分の信仰について、真剣に向き合ってみてはどうだろうか?

 

己をきちんと理解してみると、意外と自分が特定の何かに強く信心深い事に気がつくはずだ。

そして今までみえなかった脚についてる鎖がみえるようになったとき、改めてこう思うはずだ。

 

宗教あまりにも強すぎるだろ、と。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Essam Saad

『ネットは社会を分断しない』(田中辰雄、浜屋敏著/角川新書)という本を読みました。

[amazonjs asin="4040823036" locale="JP" tmpl="Small" title="ネットは社会を分断しない (角川新書)"]

 

インターネットにより、人々は「自分に都合の良い、あるいは、自分の政治信条に合った情報」ばかりに触れやすくなり、さらに「分断」が進んでいく。

これが、いまの「定説」だと僕は思っていたのです。

 

ところが、この新書では、10万人規模の大規模調査(ネットでのアンケートで、どのくらいの人が正直に答えるものなのだろうか、と疑問ではあるのですが)によって、その「定説」に反論しているのです。

図1は、我々が行ったアンケート調査で、「ネットで実りある議論をするのは難しいと思うか」を尋ねた結果である。調査は2017年8月に実施し、サンプルはウェブモニター調査会社のモニター1890人である。

「ネットで実りある議論をするのは難しいと思う」という人が、47%と半分に達している。難しいと思わない人はわずか7%にとどまっており、圧倒的多数派がネットの議論は不毛だと考えていることになる。

ネットでの議論が相互理解に向かわず、不毛な言い争いばかりが続いているというのは、いまや人々のほぼ共通認識であろう。

「ネットでは、まともな議論ができない」と、だいたい2人に1人くらいが考えているわけです。

 

「ネットによって、人々が立場を超えた自由な議論をし、相互理解が進んでいく」という「ネット黎明期の理想」を信じている人は、もうほとんどいないのではないかと思われます。

こんなはずでは、なかったのに。

 

著者は、さまざまな調査結果から、近年、アメリカでの共和党と民主党、日本では「右派」と「左派」のどちらかを「極端に支持」するようになっている人が増えてきていることを指摘しています。

ただ、この「分極化」というのは、誰かに強要されたものではなく、環境の影響はあるとしても、本人にとっては自分の意思で選んだものではあるわけです。

 

この「分極化」が進んだ時期が、ネットの普及と同じタイミングであったため、「ネットによって社会の分断が進んだ」と指摘されるようになり、それを裏付けるような調査結果も発表されてきたのです。

 

ネットの利用度合いと政治的な過激さ(分極化)には正の相関がある、と著者は指摘しています。

すなわち、SNSや個人のニュースサイトの利用頻度の高さと極端な政治信条の持ちやすさには相関があるのだ、と。

 

この本によると

「憲法9条を改正するべきだ」

「夫婦別姓を選べるようにするべきだ」

「学校では子供に愛国心を教えるべきだ」

「現政権は日本を戦前の暗い時代に戻そうとしている」

の4つの質問に対して、ネットの利用頻度が高いほど「強く賛成」「強く反対」の両極の回答をする人の割合が増えたそうです。

この問題が深刻なのは、自由と民主主義が矛盾する構図になっていることである。

ネット上で自由な言論活動を許せば、社会の分断が起こり民主主義が機能不全を起こす。

では自由を制限するのか?

 

しかし、言論の自由と民主主義は互いに強めあるものだったはずである。

自由な言論あってこそ民主主義であり、民主主義は自由を励ますものだった。

その自由と民主主義が矛盾するとすればどうすればよいのか。

たとえ社会が分断され、民主主義が機能不全に陥っても言論の自由を維持するべきなのか。

 

人々が極端な政治思想のグループに分かれて罵倒と中傷を繰り返すだけになっても、それは自由のコストとして受け入れるべきなのか。

それとも、社会の分断を防いで民主主義を機能させるため、言論の自由を制限するのもやむをえないのか。

それは結局は中国の言論統制と大同小異になりはしないのか。これはつらい問いであり、答えることは大きな決意とストレスを伴う。

 

著者たちは、この問いに対して、こう答えているのです。

本書の答えは極めて簡明である。それはネットは社会を分断しない、である。したがって自由と民主主義は矛盾せず、どちらかを捨てる必要はない。

このあと、さまざまな分析結果を用いて、「分極化」しているのは中高年層であり、よりネットの使用頻度が高いはずの若年層は、むしろ穏健化していることが紹介されています。

 

また、自分の見たいものしか見えなくなってしまう」と危惧されがちなSNSでも、実際は、(その「政敵」を批判する目的も含めた)引用やリツイートで、異なる価値観に触れる機会がかなり多くなるのです。

 

SNSをやっていて、それなりの数のフォロワーがいると、「何これ?」と思うような呟きがリツイートされてくることは、たしかにありますよね。

反論したり、嘲笑するための引用やリツイートも、読んでみたら、「いやこれ、引用先の人のほうがまともじゃない?」って思うことが少なくないのです。

 

そして、ネットが人々を分断しているというよりは、政治的に極端な考えを持った人たちのほうがネットで積極的に発言しようとし、強い言葉を使うので注目を集めやすいだけではないか、と述べられています。

今も昔も、若者は、政治よりも、もっと自分にとって大事なことがある、と考えがちですし、さまざまな価値観を取り入れる柔軟性も持っているのです。

 

SEALDsがあれだけ話題になったのも、あのデモに参加していたのは中高年層がほとんどで、若者が珍しかったからだ、という指摘もなされているのです。

インターネットネイティブの若者たちは、「ネットの理想」を信じていたはずの中年層よりもずっと、ネットに対してフラットで、期待はしていないけれど、簡単に騙されることもない、ということなのでしょう。

 

僕みたいに、ネットにばかり触れているオッサンは、「ネットのせいで社会は分断されている」と思いがちだけれど、じゃあ、身の回りに極端な政治信条を振りかざす人が激増したか、と問われると、普段の生活ではそんな感じはしないですし。

「中国、韓国嫌い」を、酒の席などで口にする人は、増えたのではないか、と感じることはありますが。

 

ネットメディアの利用開始前と開始後を比較して、分極化が進んだかどうかを検討した。政治的動機を外して推定した結果
次の3点に要約される。

(1)ネットメディア利用開始後に分極化は低下傾向である。すなわちネットメディア利用開始で人々は過激化せず、穏健化する傾向にある。

(2)有意な結果に限ると、穏健化するのは20代~30代の人がブログを使い始めた時、女性がブログを使い始めた時、元々穏健だった人がツイッターを使い始めた時である。

(3)逆に有意に過激化するケースは、元々過激だった人がツイッターを使い始めるケースである。

全体として見た場合、穏健化が優勢である。有意な結果だけに限っても、(2)の女性は全体の半分であり、元々の穏健派全体の8割であるのに対し、(3)の急進派は2割に過ぎない。

正直、僕はこの本を読み終えたあとでも、「書いてあることはわかった。でもこれ、本当にそうなのかな……」という気分ではあるのです。

 

でも、違う立場の人が読めば、「ネットが社会を分断するなんて、考えすぎだと思っていた」と納得できるのかもしれません。

興味を持たれた方は、ぜひ、読んでみてください。

 

もしかしたら、我々の「分断」は、ネットのおかげで、このくらいで済んでいるだろうか……。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:International Railway Summit

前職、まだ私が「オフィス」と「デスクトップパソコン」で仕事をしていたときのこと。

一つの大きな悩みのタネがあった。

 

それは、「集中しているときに話しかけてくる人」と「電話してくる人」だ。

私はとにかく、この2つが苦手だった。

理由はシンプルで、「作業を中断しなければならない」からだ。

 

「作業を中断するくらい」という方もいるかも知れないが、私にとってそれは重大な問題だった。

なにせ、作業を一度中断すると、また再度「没頭する」までにとても時間がかかるからだ。

 

実際、中断をはさみながら作業をするのと、中断なく仕事をするのとでは、賞味の時間だけをカウントしても、前者のほうが2倍から3倍、多く時間を要した。

 

これは決して大げさな話ではない。

マネジメントの祖であるピーター・ドラッカーも著書の中で「時間は、大きなまとまりにする必要がある。小さなまとまりでは、いかに合計が多くとも役に立たない。」と述べている。

仕事の多くは、たとえごくわずかの成果をあげるためであっても、まとまった時間を必要とする。こま切れでは、まったく意味がない。何もできず、やり直さなければならなくなる。

報告書の作成に六時間から八時間を要するとする。しかし一日に二回、一五分ずつを三週間充てても無駄である。得られるものは、いたずら書きにすぎない。

ドアにカギをかけ、電話線を抜き、まとめて数時間取り組んで初めて、下書きの手前のもの、つまりゼロ号案が得られる。

その後、ようやく、比較的短い時間の単位に分けて、章ごとあるいは節ごと、センテンスごとに書き直し、訂正し、編集して、筆を進めることができる。

[amazonjs asin="4478300593" locale="JP" tmpl="Small" title="プロフェッショナルの条件――いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))"]

そのため、私は集中して作業しているときは誰からも話しかけられたくなかったし、電話を受けたくもなかった。

 

特に、口頭で「要領を得ない話」につきあわされるのは凄まじく苦痛だったため

「メールで送ってもらえないですか。時間のある時に対応しますから」

と話しかけてきた人に返答したことも数多くある。

 

実際、今でも

「記録として残り」

「なにをすべきかが明確で」

「いつ、誰からの依頼か」

がはっきり残るように、今でも依頼者にはそうしてお願いをしている。

妻からの買い物の依頼も「LINEかメッセンジャーで」とお願いをしているくらいだ。

 

 

さて、仕事場であまりにも遠慮なく話しかけてくる人が多かったため、次第に私は「ヘッドホン」をして作業をするようになった。

要するに「話しかけないでくださいませ」というサインを出して、周りにわかるようにした。

これは当時の会社のトップが「ヘッドホン」をして仕事をしていたことが多かったから真似をしただけなのだが、私もそれに習った格好である。

 

だが、それでも「話しかけてくる人」が居た。

何という無遠慮な輩だろう、と思ったが、怒るわけにもいかない。

 

私はついに「空いている会議室」にノートPCを持ち込んで、誰にも邪魔されないように自分を隔離し、仕事をするようになった。

実際、こうして仕事をすることで能率は凄まじく上がった。

 

 

ところが、である。

 

しばしばクライアントなどから

「仕事の能率を高めるために、何かなさってますか?」

と聞かれたとき、無邪気に上のような話をすると、怪訝な顔をされたのだ。

 

まるで

「仕事のこと、何もわかってないでしょ、アンタ」

と言われかねない表情だった。

別の会社では絶句されたこともある。

 

たびたびそんな事があったので、仲の良いクライアントから

「ウチは、仕事中のヘッドホンは駄目なんですよ」

と言われた時、私は「なぜですか?」素朴に聞いてみた。

 

するとそのクライアントは

「けじめです」という。

「けじめ……というと?」

「プライベートと、仕事の線引がありますから。仕事中はヘッドホンは禁止です。」

 

正直に言えば、意味不明な回答だし、おかしいのではと思った。

が、これ以上追求して相手を困らせても仕方ないので、

「そうですね」

と適当に流した。

 

それ依頼、いろいろな「ヘッドホン禁止」の会社で、理由を聞いてみたところ、大まかに分けて

 

・いつ呼ばれても対応できるようにしておく

・電話に出られるようにしておく

・職場で音楽を聞くべきではない(風紀の問題)

 

という考え方の会社が、ヘッドホンを禁止していることがわかった。

実際、「ヘッドホン」に対して否定的な人は思ったよりも多いようだ。

オフィスで仕事中にイヤホンで音楽を聴いている人は5人に1人!でも同僚の半数はソレを「不快」と思っている!?―国内調査

仕事中に同僚が「マイ音楽」をしていることについて、「不快」「止めて欲しい」と答えた人は約半数の48.8% 。つまり、2人に1人は「止めてくれ」と否定的に捉えていることがわかる。

その理由で最も多かったのは「ビジネスマナーとして良くないから」(64.6%)。常識的に考えたらNGと思う人が多いようだ。

Twitter上でも、「ウチの会社は禁止」といった声がある。

 

まあ、「ヘッドホン禁止」については、様々な意見もあろう。

私も他社の方針についてとやかく言うつもりはない。

 

しかし、正直なところ、私にとって見れば、「中断によって、仕事の能率を下げる」ことを問題視していないことが、逆に結構な驚きだった。

 

百歩譲って「考える必要のない仕事」をやっているのであれば、中断の影響も少ないだろう。

ただ、思考を要する仕事をしている人にとっては、個人的な体験からしても、明らかに中断はデメリットだ。

 

今でも、私は文章を書くときは、SNSの通知をすべて切り、メールを閉じ、電話も切断する。

そうしないと、文章がかけないのだ。

 

実際、ジョージタウン大のカル・ニューポートは、著書の中で「電話等による中断」はかなりの悪影響があるとの見解を示している。

イギリスのテレビ番組『オフィスビルの秘密の生活』のためにおこなわれた実験に携わった神経科学者は言う。

「仕事に夢中になっているとき、不意に電話が鳴ったら、集中していたことが台無しになる。たとえそのときには気づかなくても、脳はその影響を受ける」

インスタント・メッセージの台頭にも同じことが言える。カリフォルニア大学アーバイン校の情報科学教授、グロリア・マークは「注意力の断片化(attentionfragmentation)」の科学の専門家である。

マークと共著者たちがおこなった研究で、よく引き合いに出されるものだが、オフィスで働く知的労働者たちの観察から、たとえ短時間でも仕事を中断すると、かなりな割合で完了が遅れることがわかった。

[amazonjs asin="4478068550" locale="JP" tmpl="Small" title="大事なことに集中する―――気が散るものだらけの世界で生産性を最大化する科学的方法"]

 

また、「話しかけられないこと」や「オフィスでのプライバシー」も生産性にとって重要だ。

「オープンなオフィス」は、逆にコミュニケーションの量が減り、生産性が低下することがわかっている。

オフィスが「オープン」な設計だと、生産性が低下する──企業での実験の詳細と、そこから見えてきたこと

論文は、オープンプランのオフィスは本来の目的から見れば逆効果になると結論づけている。

はっきりとした理由はわかっていないが、バーンスタインとターバンは、従業員は職場では他者とのコミュニケーションを制限したいのではないかと示唆する。仕事をするうえで適切な環境をつくるには、「境界」が必要になるというのだ。

またプライヴァシーも重要な要素だ。論文では以下のように述べられている。

全体の観察が容易であり「透明性」の高いオフィスレイアウトでは、従業員同士の対面でのやりとりは減少する傾向にある。これは、プライヴァシーの確保という人間の基本的な欲求に加え、個人的な空間を設けることが生産性の向上に寄与するという前述のエヴィデンスとも一致する。

要は、他者とのコミュニケーションを制限したほうが、生産性にとっては良いことも多いのだ。

 

 

上のように合理的に考えれば、集中を要する仕事をしている時には「SNS」「電話」「会話」などをすべて、シャットアウトしたほうが、絶対に良い。

 

「社内のコミュニケーションが滞る」という意見もあろう。

だが、私はむしろ「きちんとまとめられた」「記録に残る」、メッセンジャーやチャットで依頼をかけてもらったほうが遥かに仕事はやりやすいし、アイデアが必要なときには、別途そのような場所を設ければよいだけだ。

 

あるいは「お客様からの電話はどうするんだ」という意見もいただくかも知れない。

だがそれこそ、付加価値のない仕事は外注すれば良い。webチャットで対応しても良いし、方法は様々だ。

貴重な能力を持つ「社員」という戦力を、そんなことに割く必要はまったくない。

 

「失礼だ」とか「会話が減るのでは」などという、不合理な思い込みを捨てて、生産性の高い方向に働き方をシフトする。

それほど難しいことではないと思うが、どうだろうか。

 

 

*本記事は、月1万円から「煩わしい仕事の中断をなくす」電話代行サービス【fondesk】のスポンサードによって制作されています。

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="4534056613" locale="JP" tmpl="Small" title="すぐ「決めつける」バカ、まず「受けとめる」知的な人"]

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

ちょっとまえ、面白い記事をツイッターで拝見した。

企業の採用担当が、面接時に見ているポイントを端的に表現したものだ。

 

曰く、「事実と意見を分けて説明できるかは圧倒的に重要で、これができない人はかなり厳しい。」とのこと。

彼がこれを重視する理由としては

事実と意見を分けて説明するのがうまい人が書いた障害報告書は読みやすい」とある。

確かに読みやすい文章を書く人は、知的能力が高い事が多いので、採用の精度は良いのではないかと推測する。

 

ただ、この文章を読んで感じるのは、

「なぜ「事実」と「意見」を区別して話せない人がいるのか。」

という疑問だ。

 

 

過去に部下だった人のひとりが、ちょうど「事実」と「意見」の切り分けができない人だった。

例えば、こんな具合だ。

 

「昨日の営業、途中退席してごめん。お客さん、ウチに依頼するか、決めてくれた?」

大丈夫だと思います。

 

「大丈夫って……決まったのか、決まってないのかが、知りたいんだけど。」

「あ、まだ決まってないです。」

 

「そうか、決まるかなと思ってたけど……。お客さん、何か懸念事項について言ってた?」

金額について不満そうでした。

 

「もう一度聞くけど、不満だと「言った」の?」

「いえ、たしか……言ってないかと。」

 

「じゃ、なんで不満だと言えるの。」

「えーと…」

 

「もう一度聞くけど、なんて「言ってた」?」

「ええー……確か、金額については交渉の余地がありますか、と言ってました。」

 

「交渉ね……、なんて回答したの?」

「私の一存で決められませんので、持ち帰りますと。」

 

「そしたらお客さんはなんて言った?」

納得してくれたみたいでした。

 

「だ、か、ら、お客さんはなんて言ってたの?」

「あ、すみません。えーと……確か、わかりました、と言ってました。それと、今思い出したんですけど、見積もりを指定の様式にして欲しいとも言ってました。」

 

 

彼から話を聞くと、状況を把握するのに通常の3倍の時間がかかる。

何度かこのようなことが続き、私は彼に訓練を施して、きちんと「意見」と「事実」を区別できるように話せるまで、現場を任せてはいけない、と感じた。

 

こういった人は結構多く、以前に書いた記事に登場する「話のかみ合わない人」にも通じるものがある。

「話の噛み合わない人」は何の能力が不足しているのか。

上司:「昨日、顧客訪問が3件あったと日報に書かれてるけど、今期の受注に繋がりそうな成果があれば、報告してもらえる?」

部下:「あ、一つ困ったことがありまして。お客さんから会社の概要について詳しくわかる資料はないか、と聞かれたんですよ。」

 

上司:「(成果を報告しろと言ったのに……)会社案内なら、この前発注をかけたので、後ろの棚に入ってるよ。」

部下:「いえ、あれじゃダメなんです。」

 

上司:「なぜ?」

部下:「違うのがほしいということでした。」

 

上司:「(は?質問に答えろよ……)いえ、私が聴いているのは、「なぜダメなのか」だから、理由を教えてもらえる?」

部下:「うちの会社案内、サービス案内が不十分だと思うんですよね。」

 

上司:「あなたの意見ではなく、お客さんがなんと言っていたかを教えて。」

部下:「ですから、違うのがほしいと。」

 

上司:「(イライラ)いや、お客さんが、なぜこの会社案内がダメだと言っていたのか、聴いてないの?」

部下:「えーと、さっきも言ったとおり、サービス案内が不十分だったと思いますが。」

 

上司:「(イライライライライライラ)だーかーらー、あなたの感想ではなく、なんてお客さんが言ってたんだよ?」

部下:「あ、それは聴いてません。でも多分サービス案内のせいだと思います。」

 

上司:「(結局聴いてないのかよ)……わかりました。聴いてないと。ではなぜ、サービス案内のせいだと?」

部下:「会社案内を見せたら、サービス案内のところを見て色々と質問してきたからです。」

これらは、企業におけるコミュニケーション能力に関してのクリティカルな欠点だ。

だが、残念ながら、何回言ってもできない人は全くと行ってよいほどできないので、解消に向けて動くべく、何回かその理由を考えたことがある。

 

 

色々と文献を漁っていくと、ノーベル経済学賞受賞者の、ダニエル・カーネマンが、私の疑問に対してそれなりに明確な答えを用意していてくれた。

[amazonjs asin="4150504105" locale="JP" tmpl="Small" title="ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)"]

彼の著作によれば、

「人は、出された質問が難しいと、それを簡単な質問に置き換えてしまう」

という、人間の脳のつくりに依る。

 

例えば、以下の表を見てほしい。

(出典:ファスト&スロー(上))

 

例えば、「現在の生活はどのくらい幸福か?」と聞かれた人がいるとする。

正確に回答をしようとすれば、「幸福」の定義を行い、過去の幸福度を算定し、現在の幸福度と比較して算出しなければ回答できないはずだ。

 

ところが、それはとても面倒で難しい。

だから多くの人は、脳内で勝手に「いまの自分は気分がいいか?」という質問に置き換え、

「まあまあ幸福です」

などと回答してしまう。これが「ヒューリスティックス」と呼ばれる、脳の働きだ。

「事実」と「意見」を区別できていない人は、無意識にこれを行ってしまっている。

 

上の会話の事例では

お客さん、ウチに依頼するか、決めてくれた?」という質問に対して、

本来であれば

「その場では決めてくれませんでした。金額について「交渉の余地はあるか」と聞かれましたので。ただ、金額の折り合いさえ付けば、残りの課題は解決しているので、受注可能です。」

と回答しなければならない。

 

だが、そのような回答は「考えるのがとても面倒くさい」

だから彼は、質問を

「お客さん、ウチに依頼するか、決めてくれた?」から、「受注できるかどう思う?」という質問に勝手に置き換えて、

「大丈夫だと思います」

という、自分の気持だけを答えたのだ。

 

これが「事実」と「意見」の切り分けができない人の正体である。

 

 

では、このようなコミュニケーション特性は直るのだろうか。

 

個人的な考えでは「直すことは可能」である。

というのも、これは「賢さ」というよりも「注意力」の問題だからだ。

 

ダニエル・カーネマンによれば、ヒューリスティックは脳の「早い思考システム」(≒直感的なもの)が担当している。

だが、それを口に出してしまうと「意見」を言ってしまう。

 

だから、それが「意見」か「事実」かを検証するために、脳の「遅いシステム」(≒論理的なもの)の方を使えば良い。

つまり、注意力を働かせて、「回答しようとしたことをチェックする訓練」を受ければ、直すことは可能だ。

 

コンサルティング会社で働くには、これができないと致命的なため、新人の時には上司から事あるごとに矯正された。

 

報告がわかりにくい時 → 「結論から言って。」

話がまとまっていない時 → 「これに書いてみて。」

上司やお客さんに大事なことを伝える時 → 「言葉にこだわって。」

記憶があいまいな時 → 「会議や営業の記録は必ず当日中にまとめなさい。」

 

この4つだけでも、かなり「回答する時に注意する」ことに繋がり、結果としてこれは、「事実」と「意見」を区別する訓練にもなる。

 

また、その時に上司にとても感謝したのは、「早くしろ」と急かされなかったことだ。

私の考えがまとまるまで、紙に書き上がるまで、上司は10分でも、20分でも待ってくれた。

上司のスケジュールの過密度を考えれば、本当に感謝しかない。

 

 

冒頭の面接官は、こんなことを記事の最後に追記していた。

社内に下書きを公開したところ『この公開によって「面接対策される」みたいな懸念ってありますか?』と聞かれたので、『対策してきて、しっかりした受け答えができる人が応募してくれるのはウェルカムです!』と返答しました。

そう、「注意を働かせる」のは、誰でもできる。

対策、訓練で「事実」と「意見」は誰でも区別して話せるようになるのだ。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

[adrotate group="46"]

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="4534056613" locale="JP" tmpl="Small" title="すぐ「決めつける」バカ、まず「受けとめる」知的な人"]

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

 

Photo by John Schnobrich on Unsplash

次女に作文の書き方を教えてみました。

以前も書いたんですが、長男長女次女が通っている小学校は、そこそこ宿題の量が多い小学校でして、低学年から割と計画的な宿題実施が求められます。

 

まだ幼稚園とそれ程変わらないような時期にあんまりタスク詰めるのもどうかな、と思う一方

「計画を立ててそれを実施する」

「計画が上手くいかなかったときのリカバリ方法を考える」

という経験が早い内から出来るのは悪くないかなと思って、ちょこちょこフォローしつつ様子を見ていたんです。

 

で、最近ぼちぼち小学二年生の長女・次女にも「作文」の宿題が出るようになりまして。

何かのイベントの振り返りとか、遠足の思い出についてとか、原稿用紙の前でうんうん唸る機会が段々増えてきたんです。

 

皆さん、子どもの頃作文って得意でした?400字詰め原稿用紙って、子どもの頃はめちゃ広大に見えましたよね。

今になって振り返ってみると、「これ早口系本気ツイートだと3つ収まらないやん」っていう程度の文字数なんですけど。むしろどうやって400文字に収めていたのかを思い出せない。

 

で、長男、長女、次女と、3人も小学校生活を見ていると、段々パターンも読めてくるものでして。

 

予想通り長女も次女も、「さくぶんかけない…」としかめっ面をするようになってきたので、ちょっと簡単に作文指導をしてみることにしてみたんです。

で、長女はさらっといけたんですが、次女がちょっとひっかかって教え方をカスタマイズしてみたところ、予想よりもだいぶ刺さったんで書いておきたくなりました。

 

いつも通り、ヒアリングから始めました。

 

「なんの作文書かないといけないんだっけ?」

「運動会のふりかえり」

 

「書くの困ってる?」

「うん」

 

「次女ちゃん、何に一番困ってるかな」

「書くこと思いつかないの…」

 

「そっかー。運動会楽しかった?」

「楽しかった!」

 

「色々お話してくれたもんねー。覚えてる?」

「うん!」

 

「じゃあ、その楽しかったことを書けばいいんじゃないかな」

「けど何書けばいいか分かんないの」

 

なるほど。

 

これ、結構多くの子どもに当てはまることじゃないかと思うんですが、子どもが「書くこと思いつかない」って言った時、それって必ずしも「話題がない」とか「トピックがない」という意味ではないんですよね。

むしろ、実際には「書きたいこと」「話したいこと」自体は頭の中にたくさんあったりする。

 

この場合、次女には「運動会が楽しかった」という記憶と、それに関するトピックはたくさんあるわけです。

それを他の人に伝えたい、お話したい、という欲求もちゃんとある。つまり素材はそろっている。

 

ただ、子どもってまだ頭の中を整理するのが苦手なので、その「楽しかったこと」「話したいこと」が非常に曖昧模糊とした状態で頭に詰め込まれていて、カオスになっていたりするんです。

で、そのカオスな状態を、子どもは四捨五入して「書くこと思いつかない」「何書けばいいか分からない」って表現するんです。

 

こういう時必要なことは、「何があったかを思い出させる」ことではなく、「頭の中を整理させる」ことです。

 

次女もこの状態にあることが把握できたので、「じゃあテーマを頭の中で整理するノウハウがあればいいのかなー」と考えました。

 

次女には

 

・ごっこ遊びが好き

・お芝居ごとが割と好き

・テレビを割と見る

 

という特徴があります。その上で、「テーマを整理する類型」として一番適切なのは何かな?と考えていったところ、「ニュース番組のインタビュー」という形式に思い当たりました。

 

「じゃあ次女ちゃん、インタビューごっこやってみない?」

「インタビューごっこって?どんな?」

 

「ニュースとかでインタビューあるでしょ。今のお気持ちはーみたいなヤツ」

「うん」

 

「次女ちゃんがレポーターやるの。インタビューされる人も自分で、テレビに映す質問を考える」

「自分で自分に質問するの?」

 

「そう。一人二役。パパがカメラでちゃんと録画してあげる。やってみる?」

「やってみる!」

 

モチベーションが出来ましたので、まず「自分に質問したいこと」を考えさせました。

「運動会は楽しかったですか?」とか、「どの種目を一番頑張りましたか?」「嬉しかったですか?悔しかったですか?」みたいな、そういうヤツ。

 

「質問という形式にする」かつ「聞く側、というペルソナになる」というのが重要で、「振り返り」とか「感想」とかいう言葉だとある程度思考回路が出来ていないとそれに対応するのが難しいんですが、単に「聞く」というだけだと案外ぽんぽん質問が出てくるんですよ。

そりゃそうですよね、「聞く」というだけなら普段から散々やってるんですから。普段からニュースやら報道番組やらで「インタビュー」というものに触れているから、ということもあると思います。

 

で、当然のことながら、これってそのまんま作文の段落、段落ごとのテーマになるんですよね。

なんなら、語尾をちょっと変えて、「運動会で、一番頑張ったことはなんだったかというと」というくらいで、もう段落の書き出しになる。

そこから「その質問への答え」を書くだけで作文は勝手に完成するんです。

 

つまり、「作文の構成を考える」のではなく、「自分に対する質問を考える」という風に、頭を切り替えてもらったら、これが結構刺さったんです。

 

この時、考えた「質問」はちゃんとメモしてもらって、それを読み上げる形式にしてみました。

 

で、ちゃんと「インタビュー」をやらせてみたんですが、この時

「形式上、インタビューは次女お気に入りの縫いぐるみ(ルルーちゃん)に対して行っているという形にする」

「パパがカメラマンになってちゃんと録画する」

という方式をとりました。

 

で、その後、録画した内容を観ながら、ちょこちょこ語尾の変更だけさせてあげて、そのまま400字詰め原稿用紙に書かせてあげたら、振り返り作文は完成しました。

きゃっきゃ喜んで、録画を何度も見直していたので、一応成功例と考えてよいと思います。

 

長男も長女もそうだったんですが、作文って、「構成を考えて文章を書く」ということの重要な練習になる一方、「ノウハウが分からないととてつもなくハードルが高い」行為でもあるんですよね。

ここでの第一印象とか、最初の入り口って結構大事だと思うので、それについてはいい経験をさせてあげられたかもなーと。

 

飽くまで次女の例なので、他の子どもで上手くいくかはちょっと分からないんですが、カスタマイズすれば他でも応用出来そうな例だったのでちょっと書かせて頂きました。

よろしくお願いします。

 

ちなみに長女と次女は最近スプラトゥーン2を始めまして、最初はナワバリバトルですらまごまごしていたところ、今では立派にガチバトルにも突っ込むようになりました。良いことだと思います。けどお風呂場の入浴剤で色水作って床やら壁に塗り始めるのはやめて欲しい。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

[adrotate group="46"]

 

 

【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Ben Mullins