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Books&Apps編集部

去年の10月、動物愛護団体から、ルーマニアで保護された野犬を引き取った。

わたしがクロの飼い主になって、もう1年が経つ。

 

夫が仕事から帰ってきてうれしさのあまりドアに激突するところとか、雷が鳴ると怖くて震えるところとか、夜に歯を磨いているとベッドの上で待っているところとか、もうかわいくてかわいくて。

毎日が幸せだ。

 

さて、「犬の飼い主」として他の人と関わるようになってから、いくつか気づいたことがある。

犬を飼う前は気づかなかったけど、犬連れだとこう思うんだなぁ……という、いわば「犬を飼っていないみなさんへのお願い」だ。

犬を飼っていない人にこそ、ぜひ伝えたい。

 

犬の気持ちを無視して自分勝手に触るのはNG

多くの人は「イヌ」という生き物を、「人に撫でられるのが好きで人懐っこいかわいい生き物」だと認識していると思う。

 

でも、そうではない。

正確にいえば、「そういう犬は多いけどみんながみんなそうではない」。

 

クロは長いこと野犬として暮らしていたからか、臆病で警戒心が強く、「撫でられるのが好きな人懐っこいワンちゃん」ではなかった。

でもまわりの人はそんな事情を知らないわけで、クロの前に屈んで通せんぼしながら撫でようとしたり、飼っている猫のお菓子をあげようとしたり、「お手!」と言いながらクロの前脚を掴んだりする。

 

そういう人には、正直困った。

下の階のご近所さんは初対面のクロの口元をいきなり触り、クロが驚いて吼えると、「あらぁちゃんとしつけしないとねぇ」なんて言ったくらいだ。

(わたしが断ればよかったんだけど、クロに人慣れしてほしかったし、ご近所さんにもクロを受け入れてほしかったから、様子を見てしまった)

 

もちろん、その人がわざとやってるわけではないのも、クロがかわいいのもよくわかる(親バカ)。

でも犬にも個性があるし、わたしたちが何気なくする行為が犬にとって嫌なことかもしれない。

 

犬に触るなら飼い主にひと言声をかけるべきだし、犬と触れ合いたいのであれば、犬にとって嫌なことや正しいあいさつなどをわかったうえでやるべきなのだ。

まぁこれは犬を飼ったからこそ思うことで、わたしもいままでかわいい犬を見かけたら不用意に近づいちゃってたから、相手を責めるつもりはないんだけども。

 

犬は身近な存在だけど無警戒でいいわけじゃない

クロは最初、子どもや自転車、すぐそばを通りすぎる人、あらゆるものによく吼えていた。

しつけ方法を調べて実践したり、ドッグトレーナーをお願いしたりして、いまは問題ないけどね。

 

当時はまだヒトとの生活に不慣れで、すべてが「得体の知れない怖いもの」に映ったのだろう。

「ちゃんとしつけなければ」と神経を尖らせながら散歩するなかで、いかに人間が犬に対して無警戒かを思い知った。

 

ある日、クロが電柱のにおいを嗅いでいると、なにやら叫びながら子どもが駆け寄ってくる。

「クロは人慣れしてないからそれ以上近づかないで! ストップ!」

そう言っても子どもはクロに興味津々で、どんどん近づいてくる。

で、親はといえば、ママ友としゃべりながら、にこやかに見ているだけ。

 

無理やりにでもリードを引っ張って距離を取ったから、幸いクロが子どもに危害を加えることはなかった。

でももしクロが吼えたら? 飛びかかろうとしたら? それに驚いて子どもが転んで怪我でもしたら?

そう考えると、気が気じゃない。

 

自転車だってそうだ。

ベルを鳴らさず、原付バイクよりも速い速度のマウンテンバイクが後ろから通り過ぎるたび、心臓が縮み上がる。

 

犬というのは、夢中になって葉っぱのにおいを嗅いでいたかと思いきや、いきなり全然ちがうものに興味を示してあらぬ方向に走り出すこともある。

いま大人しく道の脇にいたとしても、1秒後もそこにいるとはかぎらない。

クロが突然方向転換して、自転車にぶつかってしまったら?

 

もちろん、不慮の事故が起こらないように気をつけるのは飼い主の役目だ。

子どもが近づいてきたら一声かけるし、自転車が来るなら「待て」をさせて端に避ける。

とはいえつねに全方向を警戒できるわけじゃないし、すぐに犬を連れて安全な場所に移動できるわけじゃない。

 

だから、

「犬はまっすぐ道を歩くはず」

「おとなしくそのままでいるはず」

「飼い主が100%コントロールできるはず」

と、不用意に子どもを犬に近づけたり、ベルを鳴らさず自転車で追い抜いたりしないでほしい。

 

……まぁこれも、犬を飼ってわかったことなんだけどね。

わたしだって、自転車で犬の横を通るとき、毎回特別注意を払っていたわけではないし。

 

でもそれって、危ないことなんだ。本当は。

だから、「良い意味」で、犬に対して少し警戒してもらえるとうれしい。

 

歩きスマホ、スマホ運転はダメ、ゼッタイ。

最後に、一番言いたいこと。

歩きスマホは、絶対にやめてくれ。

 

クロは鼻が長いタイプの子で、散歩中くしゃみを連発したとき、アスファルトに勢いよく鼻をぶつけて流血したことがあった。

クロの出血を見たわたしはパニックで、とにかく帰ろうと方向転換。

しかしクロはもっとお散歩がしたいと血を滴らせながらグイグイと引っ張る。

 

しかたない、ムリにでもとりあえず家に帰らせて……と思っているところで、クロが行こうとしている方向の角から、若い女性が歩いてきた。スマホを見ながら。

その人に気づいてもらおうと、あえて大きい声で「クロ、今日はおうち帰ろうね」と言う。

それでもその人は気づかず近づいて来るので、「もしもし?」と言うもこっちを見ない。

 

ぶつかる!というくらいの距離まで来てはじめて、こっちに気づくありさまだった。

(横はフェンス、もう片方は路上駐車の車に挟まれていたので、わたしも身動きがとれなかった)

 

ほかにも、交差点の角でクロと車が通り過ぎるのを待っていたとき、スマホ運転の自転車が目の前を通り過ぎたことがあった。

角に立っていたわたしたちが急に視界に入ってきて驚いたのか、バランスを崩して車道に飛び出し急ブレーキ。

わたし、結構前から角に立ってたんだけどね。

 

「交通ルールを守るべき」だなんてみんなわかっているはずなのに、「まぁ大丈夫だろう」「ちょっとだけ」「ちゃんと前も見てるし」と、スマホ歩きやスマホ運転しちゃうんだろうなぁ……。

自分だけに被害がある自損事故なら、好きにすればいい。

でも巻き込まれるほうは、たまったものじゃない。

 

道には、犬を連れた人だけでなく、ベビーカーを押している人、車椅子に乗っている人、白杖を持っている人、歩行器を使っている人、いろんな人がいる。

ほんの少しの不注意が、取り返しのつかない大事故につながるかもしれない。

 

歩きスマホ、スマホ運転はするな。しないでくれ。絶対に。

自分が思っているよりもずっと、まわりのことが見えてないから。

 

犬を飼ってはじめてわかった「みなさんにお願いしたいこと」

犬は愛らしい見た目をしているし、人懐っこい子が多いし、パートナーとしてともに暮らすのに最適の動物だ。

 

でも、だからといって、すべての犬が人間に慣れていて、人間が大好きで、よくしつけされているわけではない。

たとえそういう犬であっても、突然走り出したり、なにかのきっかけで噛み付いたりするかもしれない。

 

犬がみんな、つねに、「人間にとって安全なイキモノ」というわけではないのだ。

 

犬を飼う前であれば、他の人の犬を見たら撫でたくなったし、自転車で犬の横を通り過ぎるときもたいして警戒しなかったし、歩きスマホも「危ないなぁ」と眉をしかめる程度だった。

でも実際犬といっしょに外に出てみると、不用意にクロに触る人には困るし、犬に対してまったく注意を払わない人たちが怖いし、交通ルールを守らない人がいるとひやりとする。

 

大切なパートナーだからこそ、犬が、クロが、だれかを傷つけてしまったり、傷ついたりしてほしくないから。

 

もちろん、そうならないように最善を尽くすのは、飼い主であるわたしの義務だ。

できるかぎりまわりに気を配り、しつけをする努力を怠るつもりはない。

 

でもつねに、最初から完璧にできるわけではないし、こっちが気をつけているだけじゃどうにもならないこともある。

だから、新米飼い主として、今日お伝えした3つを少しだけ頭の隅に置いておいていただけると、うれしく思う。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Justin Veenema

ネット上で広く拡散され、真実だと信じられている嘘はとても多い。

例えば、「自動車事故では絶対に100:0はありえない」という”定説”も、おそらくその一つだろうか。

 

グーグルで「交通事故 責任割合」と検索すると、関連検索に

「動いている車同士の事故に100:0はありえない」

とサジェストされるのだから、そのように信じている人はよほど多いのだろう。

なぜこのような嘘が本当だと信じられているのかよくわかないが、これは真実ではない。

上記のサジェストをクリックしても多くの弁護士が否定する記事を書いているものに行き当たるが、そもそも私自身も2回事故を経験し、相手の過失割合100%で決着している。

 

1回目は国道を走行中、対向車がセンターラインを越え突っ込んできて、車の右前部が大破したケース。

2回目は信号待ちで停車中に後ろから突っ込まれ、車後部が大破したケースだ。

もっとも2回目は停止中なので、上記の定義にはあてはまらないのかも知れないが。

 

そんな話を知人にすると「それは弁護士を立てたからだろう。個人で保険会社と交渉しても絶対に100:0にはならない」と反論されたこともあるのだが、それも違う。

1回目の事故では弁護士を立てる前に、相手方保険会社から自主的に100:0の申し出があったほどだ。

何の落ち度も無いのですから当然ですと、やたら丁重すぎて拍子抜けをしたくらいである。

 

そんなわけで、「自動車事故で100:0はありえない」という”定説”は嘘ですよ、と言い切れるわけだ。

 

が、だからといって、実は「被害が0」だったわけでない。

いずれの事故でも私自身、大きな被害を受け、それを自分で賄って後始末せざるを得ない結果になってしまっている。

 

証明できなければ”正義”ではない

話は変わるが、私はかつて7,000万円余りを取り立てるための民事裁判を起こしたことがある。

 

地方のメーカーで経営再建に携わっていた時のことだが、元々の発端は、奇妙な営業権資産の存在をバランスシート上に見つけたことだった。

初期の評価額は1億円を超えるかなりの高額なものだったが、現在の評価額は7,000万円余り。

だが、それに見合う権利の存在が確認できない。

 

不思議に思い経理担当に聞けば、前の代表取締役が取引先に事実上、貸し付けたお金ではないかと言う。

そこで前の代表者に聞いてみると、言いにくそうに口を開いた。

 

「それは・・・一応は実体のある営業権資産です。ウチの商品をまとまった額、継続的に仕入れてもらうために、先方に渡したものです。」

「営業権として1億円もの金額を設定したのですか?」

 

「はい。しかし毎年、一定以上の仕入れをして貰うことでそれ以上の利益が出ますから、問題は無かったと認識しています。」

 

要するに、毎年2,000~3,000万円の利益を出してくれる大口の取引先があったので、今後も取り引きを継続して貰うために先方に渡した “袖の下”であったという主張だ。

そして上がった利益のうち毎年1,000万円ずつ、営業権資産として償却し、10年ほどで0になるという設計のようだった。

しかしその時はもはや、その会社からの利益はそこまでの金額を見込めるほどの取引規模ではなくなっていた。

 

元々の動機を理解できなくはないが、今は取り引きを解消してでも、帳簿上の残高である7000万円余りを返済してもらう方が、遥かに利益が大きい。

そのため交渉を始めようと、前代表に依頼し先方に連絡を取ってもらうことにする。

しかし返ってきた答えは、意外なものだった。

 

「1億円は全額もらったものであり、返済すべき性質のものではない」

 

当社の経営危機は既に業界に知れ渡っていたので、完全に足下を見られていたのだろう。

まもなく潰れるであろう会社だし、放っといても消えて無くなる。

そんな会社にエサを与えてどうするのかと、裁判を起こす体力もないだろうから無視しろと言わんばかりの対応であった。

 

当然のことながらそのような対応は見過ごせないので、弁護士に依頼し交渉を重ねる。

しかし相手は貰ったお金と言い張り、やむを得ず裁判に訴えざるを得なくなったということだ。

 

契約書上では前代表が言っているような内容になってはいたが、“途中解約”の際の取り扱いがないなど覚書レベルのものであり、決め手を欠いていた。

そのため争点整理の段階でも相手方は主張を変えず、双方の主張は完全に対立し続けた。

 

そして始まった裁判では、先方の取締役が裁判官からの質問に、証人として証言する。

「これは贈与されたお金ということですが、間違いありませんか?」

「はい、神に誓って言えます。もらったお金です。天地神明、死んだオヤジに誓っても間違いございません。」

 

「原告は営業権の対価であり、返還を受けるべき残高が残っていると主張していますが。それについてはいかがですか?」

「お金に困って嘘をついているんでしょう。当社は原告なんかと取引したくなかったのですが、多額の贈与をするというので嫌々取引を始めたんです。それを返せとは、失礼極まりない訴えです。」

 

概ねこのような主張を述べたが、いくらなんでも荒唐無稽に過ぎるだろう・・・。

2000~3000万円/年の利益しか上がらない取引先に対して、前払いで1億円をくれてやる会社があるものか。

しかも、いつ取り引きを解消しても返さなくても良い性質などと、そんなお金があるものかと。

 

そして当社も一通りの主張を返し、当然のように勝ちを確信していたが、その日のうちに裁判官から提示された和解案は意外なものだった。

「被告が原告に3,500万円を支払い、和解するという内容は受け入れ可能か検討して下さい。」

 

さらに追い打ちをかけたのは、弁護士からのアドバイスだった。

「いい和解案です。早々に受け取って終わらせましょう。」

「ちょっと待って下さい。今の会社の状況で、3,500万円分もの債権を放棄するようなことはできません。」

 

「元々の契約内容が、それだけザルだったということです。和解案を断って判決を待っても、内容が変わることは期待できませんよ。」

「しかし客観的に見て、こんなことが・・・」

 

「その客観的に見てというのは、桃野さんの主観に過ぎません。裁判においては、証拠を提示できない客観性はありません。」

「・・・」

 

「継続を希望されるならやりますが、1年2年と続ければ、うちの事務所への報酬が1,000万円、2,000万円とかさんでしまいます。それだけの上乗せは相当困難ですが、いいですか?」

「・・・わかりました。基本的に和解案を受け入れる方向で、交渉を終わらせて下さい。」

 

「それが賢明だと思います。お金なんてものは、また儲けたらいいんです。」

 

全く納得がいかなかったが、確かに弁護士のいう通りだ。

ここで和解するほうが完全に合理的であり、そうするのが賢い対応なのだろう。

最終的に弁護士が頑張り、和解条件はより良いものにはなったが、それにしたところで数千万円の損失である。

 

当たり前の話ではあるが、民事の争いに絶対の正義などというものはなく、それぞれの立場で考える「願望」があり、それを正義と呼んで戦わせるだけのことだ。

そんなことを改めて思い知り、世の中の非情さを肌感覚で勉強させてもらった、悔しくも貴重な記憶になってしまった。

 

それでも信じるメリットは大きい

話は冒頭の、100:0の交通事故に戻そう。

 

1回目の事故の際、右前方から突っ込まれた私の車は自走不能なほどに足回りが大破していたので、結局修理を諦めた。

そしてディーラーに引き取りを依頼したのだが、まだ購入して2年ほどの新車は足回りが大破した事故車としての評価しかされず、悲惨な下取り額になってしまった。

さらに保険会社から支払われるのは足回りの修理代見合いの金額だけであり、同じ車を新車で買うには、相当な追加費用を負担することになる。

 

結局のところ、100:0というのは免許証に傷がつかないというだけであり、それ以上に何の意味も無かったということだ。

事故車になった車の評価損、仕事の段取りが狂ったリスケジュール、警察署での面倒な手続き時間などは全て自腹であり、相当まとまった物心の損失を被る結果に終わっている。

 

2回目の事故ではさらにケガまで負ったので、それ以上にエライ目に遭ったが詳細は割愛する。

そういった意味では確かに、「自動車事故では絶対に100:0はありえない」。

 

裁判の和解の話も同じだが、仮に自社に本当に落ち度がなかったとしても、それは直ちに損害が無いことを意味するわけではない。

詐欺や泥棒は相手が120%悪いに決まっているが、犯人が逮捕されたとしても、失われた損害を100%回復できないことに似ている。

 

世の中には、赤信号でも突っ込んでくる車もあるし、最初から騙すつもりで近づいてくる悪意のある人間も存在する。

だから、基本的に人は疑ってかかるべきだろう。

まして、人に裏切られた時の代償が大きすぎる経営者やリーダーであれば、容易に人を信用すべきでないことだけは間違いない。

 

とはいいながら、やはり人を信じ、仕事を任せ、体を預けあえる関係を作り上げられた時は人生で何ものにも代えがたい喜びがあるのもまた事実だ。

だから私は、何度だまされ痛い目にあっても「騙されるまでは、相手を信じる」という生き方を、今のところ止められそうにない。

 

もしかしたら人の力量や懐の深さは、騙された回数に比例して大きくなるのかも知れないと、死なない程度に騙され続けよう。
そんなふうに思っている。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

人生で、何年経っても恥ずかしい思い出というのは誰でもあるものだと思います。
私はもう30年近くも前、大学の授業で「松下村塾(まつしたむらじゅく)」と読んでしまい大爆笑された悪夢を今でも夢に見ます。
学生の皆さん、しっかり勉強して正しく覚えて下さい。

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

Photo by:Mike Steele

今回は、企業にとって未来の従業員である学生もSDGsやESGをモノサシとして優良企業を見定め始めていることを捉えたい。

 

Z世代はSDGsネイティブ

Z世代は、1990年代後半から2000年代に生まれた世代で、日本では多感な子ども時代に東日本大震災を経験していることから社会課題に対する関心が強いことが特徴の一つとして挙げられる。

また、学校教育の中でも開発教育/国際理解教育の文脈でSDGsが盛んに取り上げられるようになった世代でもある。

 

私立中学の入試問題では、早くから社会課題に関連する問題が出題される傾向にあり、中学受験指導を行う日能研は私立中学の入試問題とSDGsの関連性をまとめていた。

このようにZ世代はSDGsネイティブであるといえるだろう。

 

就職先を決める理由は「社会貢献度の高さ」

こうしたZ世代の若者はどのような観点で就職する企業を選んでいるのだろうか。

就職活動を行う大学生向けの雑誌『未来を変える会社 2020年度版』では、企業を選ぶキーワードとしてSDGsが特集され、優良企業を見定めるモノサシとしてESG、ダイバーシティ経営、健康経営が紹介された。

 

同じく2021年度版では業績や財務状況に限らない「非財務価値」にも焦点が当てられ、ESG対応の優れた企業を測定するFTSE Blossom Japan Indexや経済産業省が選定する新・ダイバーシティ経営企業100選、ホワイト500のランキングが取り上げられた。

こうした特集が組まれること自体、Z世代の価値基準を反映しているといえるだろう。

 

では、実際に就職した大学生は、本当にこうしたモノサシで企業を見定めているのだろうか。

就職支援サイトキャリタスを運営する株式会社ディスコが、2021年3月卒業予定の大学4年生約850名を対象に実施した調査では、社会貢献を重視する学生の傾向が明らかとなった。

 

就職先企業に決めた理由を30 項目の選択肢の中から選んでもらう質問では、「社会貢献度が高い」という項目が最もポイントを集めている。

複数選択であるため、社会貢献度の高さが第一優先であるとは言えないが、得票数から最も多くの学生が選択基準の一つとして、仕事を通じた社会貢献を重視しているといえる。(参考:就活生の企業選びと SDGs に関する調査|キャリタス就活

 

同調査では、76%がSDGsについて知っていると回答、企業の社会貢献度が志望度に影響したという学生も65%を超えており、今後もこうした比率はより高まっていくことが予想される。

 

SDGsを経営に実装するコマニー

石川県小松市に本社を構えるコマニーは、業界トップクラスのシェアを誇るパーティションメーカーである。

同社は、2018年にSDGsを経営に実装した価値創造モデル「コマニーSDGs∞(メビウス)モデル」を発表し、すべての意思決定において「関わるすべての人の幸福に貢献する経営」に資するものか否かを判断基準の一つとしている。

出所:同社ウェブサイトhttps://www.comany.co.jp/recruit2/about/sdgs/

 

同社は、採用サイトにおいてもこの価値創造モデルを大きく取り上げ、サステナビリティ経営に対する方針を鮮明に打ち出している。

同社のこうした取り組みは、採用面でも成果につながっているようだ。

就職情報サイトのマイナビが行う就職企業人気ランキングでは、北陸地方において、常に上位にランクインしている(参考:2021年卒版 就職企業ランキング地域別ランキング|マイナビ)。

 

2019年のランキングでは2位を獲得しており、「関わる人全員を幸せにする」という企業理念に惹かれたという社員の声もある。

もちろん事業内容や企業自体が魅力的であることは言うまでもないが、コマニーの事例は、SDGsへの取り組みが人材獲得にもプラスの影響を与えている好例といえるだろう。

 

試されるのはSDGsへの本質的な取り組み

最近では、大学生が企業活動に対してSNSを通じてアクションを起こす、高校生が環境に配慮した製品を販売してほしいと働きかけるといったケースも、ニュースで取り上げられるようになってきた。

採用面接で人事担当者が「御社のSDGsに関する取り組みを教えてください」と問われることも増えてくるだろう。

忘れてはならないのが、彼らは学校教育から継続してSDGsを学び、社会課題に対する眼差しを持っていることだ。

 

採用目的のための広報的な取り組みやブランディング目的の「SDGsウォッシュ」的な施策であれば、彼らは簡単に見抜くだろう。

人事担当者こそ企業におけるSDGsの本質を理解し、自社の取り組みを説明することができなければ、SDGsネイティブであるZ世代の人材確保に苦戦する可能性もある。

自社の将来のビジネス基盤を強固にするためにも、SDGsを経営のコアに取り込んでいくことが必要だ。

(執筆:本田 龍輔)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

Photo by Hannah Busing on Unsplash

毎日3.5キロ走り続ける生活が4ヶ月を突破した。

最初はキツくて全く楽しくなかったこの作業だけど、今となっては毎日の楽しみとなる有様である。

走るのがこんなに楽しいアクティビティだったなんて、走る前は全く想像もできなかった。

人生というのは不思議なものである。

 

ランニングは楽しいのみならず、肉体的にもよい効用を提供してくれる。

走ると頭がスッキリし、メンタルもかなりタフになる。

メンタル面だけではなく、好き放題食べても体重が全く増えなくなるなど、肉体的なメリットも大きい。

かなりオススメなアクティビティである。

 

今の時期は暑くも寒くもないし、ランニングを始めるのに実に丁度いい季節だ。

なので今日はこれからランニングをやってみようという人に向けて、知っておいたら役に立ちそうな知識をまとめて紹介しようかと思う。

 

現代ではランニング界のF1クラスのシューズを誰でも買えるのをご存知ですか?

いうまでもなくランニングにおいて靴は物凄く大切で、変な靴を履いて走るとそれだけでもうシンドイ。

 

逆にいい靴を履くと…もうそれだけで走るのは楽しくなる。

というわけでさっそくだが個人的なオススメのシューズを紹介しよう。

ナイキ ズームX ヴェイパーフライ ネクスト% 2である。

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2.6万円程度と少々値が張ってしまうのが難点だが、その価値は十分ある。

実はこの靴、先の東京オリンピックで優勝したケニアのエリウド・キプチョゲ選手が使用したものである。

つまり車で言うところのF1で、そんなものを一庶民が手軽に買えてしまうのだから…いやはや、いい時代に生まれたものである。

 

ヴェイパーフライの特徴はシューズ自体が走り手に走り方を指定してくる事だ。

靴自体に力がキレイに抜ける方向がある程度指定されていて、ランナーはそれに沿って走る事で自動的に正しい走り方が身につくようになっている。

 

走りながら足裏の感覚を研ぎ澄ますと、どう走ったら楽に走れるかを靴自体が教えてくれるという、教師役も兼ねた実に興味深い一足である。

 

ヴェイパーフライは脚にとても優しい

ヴェーパーフライは実に柔らかな造りをしており、踵や膝といったダメージが蓄積しやすい部分をガッチリと守ってくれている点も実に素晴らしい。

僕もランニングが4ヶ月目に突入してから少々左膝が痛む時があったのだけど、ヴェイパーフライを履くようになってから、ほぼ痛みが消失した。

 

やはり思い切っていい靴を買うものである。

このようにヴェイパーフライは本当に素晴らしいシューズなのだけど、難点はやはり値段である。

 

個人的には初心者こそヴェイパーフライを履くべきだとは思うが、どうしても2.6万は出せないというのならナイキには別レーベルでペガサスという1.4万円程度の汎用シューズがあるので、そちらを選択肢に入れるのもありだろう。

[amazonjs asin="B08C9YTBQR" locale="JP" tmpl="Small" title="ナイキ NIKE エア ズーム ペガサス 37 AirZoom Pegasus 37 ホワイト/バイオレット/スプルースオーラ/フラッシュクリムゾン CK8474-100 ナイキジャパン正規品 25.5cm"]

なおナイキの公式通販でセール品としていずれのシューズもかなり格安で出品される事があるので、興味がある人は要チェックである。

 

技術書はみやすのんきさんの一連のシリーズがわかりやすい

続いて走り方自体をどこから学ぶかである。

僕は毎日走りつつランニングの技術書をかなり読み漁ったのだけど、人によって言うことがかなりバラバラでとても困った。

 

中には

「初心者はフォームなんて気にするな。走れ」

なんて書かれているものもあり

「確かにそうかもしれんが…本を書いといてそりゃねぇだろ」

と思ったものまである。

 

そんな中でたまたま手にとったみやすのんき氏の書かれた”走れ!マンガ家ひぃこらサブスリー”シリーズが非常にハイクオリティな本で、やっと僕の技術書ジプシーに終止符をつけられた。

この記事を読んだ人は是非最初からこれを買って読むべきだ。

[amazonjs asin="B01E8KWTCE" locale="JP" tmpl="Small" title="走れ!マンガ家ひぃこらサブスリー"]

この本が素晴らしいのは人体構造に基づいてどういう風に身体を操作すればいいのかを淡々と書いている点だ。

非常にロジカルな本で、ここまでロジカルにランニングに切り込んだ本もそうない。

 

一連のシリーズを通して足運びだけでなく、胴体の傾け方や腕の振り方といった一般の本では適当に書かれがちな部分も詳細に検討が加えられいる点もまた素晴らしい。

読んでいてまさに目からウロコがポロポロと落ちるような気持ちになる事間違いなしである。

 

著者はかつて肥満体で運動音痴だったのにも関わらず、独自に研鑽を重ねて50歳過ぎでフルマラソンを3時間切りで完走する(フルマラソン”完走”男性の2.9%)までに至ったというが、彼の書いた本を読むと実に丁寧にランニングの技術を解析しており、素人でもこうやればそれなりの高みに登れるのだなぁと実に勇気づけられる。

 

この本は単にタイムをあげたいという人にも役立つが、毎日のランニングを”楽”にしたいという人にこそ個人的にはオススメである。

以下で後述するが、ランニングは努力や根性で走るのではなく、最も楽な動作でもってどれだけ最速ペースを維持できるかというのが本質だからである。

 

長距離走者がみんなホッソリしているのには理由がある

重いものを何度も持って、腕が疲れてしまった経験は誰にでもあるだろう。

筋肉は疲れて限界を迎えると動かせなくなる。

この現象をパンプアップというのだが、これは力む事で早々に生じる現象である。

 

筋トレなんかだとパンプアップする≒筋肉が太くなるという風にむしろ逆に狙ってやるタイプのものなのだけど、ランニングはむしろこのパンプアップを徹底して避け続ける事に本質がある。

50m走なんかなら全身の筋肉を使って全身全力で走る事もできるが、長距離走でこれをやるのは絶対に無理だ。

 

じゃあどうすればいいかというと、とにかく走って生じるエネルギーが摩耗しないように”力まないで”エネルギーを推移させるのだ。

こうして”頑張って力まない”で運動できるようにすると、筋肉は肥大せずに逆にホッソリとなる。

 

これは運動により生じたエネルギーに”抵抗”せず、逆に効率よくエネルギーが推移できるように体が適応する事により生じる現象だ。

つまり…ランニングは組織生理学的にも間違いなく”細くなる”運動であり、ダイエットには最高のアクティビティなのである。

 

ランニングの頑張り方は、人生にも通じるものがある

改めて考えて欲しいのだが、トップクラスの長距離ランナーはみな筋骨隆々ではない。というか逆にむしろ細い。

あれはなにも運動のし過ぎで痩せているのではなく、逆に長距離を速く走る過程で肉体がああいう風に適合されたのだ。

 

例えば有森裕子さんやQちゃんこと高橋尚子さんの全盛期の姿をみると、とてもじゃないが42キロ走れそうにはみえないぐらいホッソリとしているが、むしろあのホッソリさこそが非常に効率のよい動きができる”パンプアップしない”肉体である証明だ。

 

実はランナーだけではなく、尋常ではないぐらい働ける人の中にもこの手の肉体を持つものがいる。

 

僕が個人的に知る医者の中で「なんでこの人、こんなにアホみたいに働けるんだ?」という人間が何人かいるのだが、彼・彼女らは何も運動等をしていないのにとにかく細い。

昔は「きっと代謝が物凄く高いんだろうな…」と思っていたのだが、走るようになった今では「とんでもなく効率のいい肉体の動きを生得的にやっているからこその細さなのだ」と理解した。

 

逆に言えばである。

ランニングを通じて効率の良い動きをマスターできれば…あのアホみたいなエナジーを後天的にインストールできる可能性もある。

 

ランニングでもって、”パンプアップしない”肉体を手に入れられれば、あなたもいつか異常なまでにエネルギッシュな超人になれるかもしれない。

というか皆、それがわかっているから過労気味の社会人は走って効率のよい動きを身に着けようと試行錯誤しているのだろう。

 

スマートウォッチの本領発揮はランニングにある

装備、技術が揃ったら、あとは記録である。

これもストップウォッチのような前時代なものを用いるのはナンセンスである。

現代らしくIT技術を導入しよう。

 

昨今は便利なアプリが多いのでスマートフォンを使って走行記録を付けることもできるが、個人的にはスマートウォッチを使っての記録がオススメだ。

操作が簡単だし、なにより身軽になれるのがいい。

 

なおスマートウォッチは運動の記録にも役立つが、目覚まし時計としても非常に優秀だ。

 

僕はいわゆる目覚まし時計の類が非常に嫌いなのだけど、スマートウォッチの振動だけはあまり不快にならずに起床を促してくれるので好んで使っている。

目覚まし時計のピピピみたいな音で起こされるのが不快な人は、是非とも一度試してみてほしい。

物凄く気持ちのよい目覚めがえらえる事を保証しよう。

 

時計はどこのものを使っても正直いいとは思うのだが、僕はファーウェイのものを使っている。

GPSでもって走行距離やキロあたりの時速など、いろいろな尺度で評価してくれるので成長が記録でもって追えるのが実に良い。

 

この手の新しいデバイスは使い方を誰も教えてくれないので、使う側にセンスが求められる。

結構いろいろと試行錯誤するのが好きな人にはいいアイテムだけど、多くの人には無用の長物となってしまう。

 

だが、使いこなせるようになると生活の幅が非常に広がる。

そこに人生の妙がある。

お金を使って、新しいものを取り入れて、人生の幅を拡張させるのはこの世で最も贅沢な行いの1つである。

 

お金をかけて買ったもので、お金では買えないものを手に入れるのが一番の贅沢だと思う

靴、技術書、そしてスマートウォッチ。これらを揃えれば、後は淡々と継続あるのみである。

 

現代はこのように色々なものがお金で買えるけど、こうしてお金をかけて買ったものを使って何かを獲得する為には、最後の最後で自分の意思の力が必要となる。

お金使って最先端の技術を自分の生活に導入し、その上でお金では買えないものを手に入れる。

僕が思うに、この行為こそがこの世における一番の贅沢だ。

 

靴も技術書も時計もお金を出せば誰だって買えるが、いくらお金を払っても他人に走ることを代行させる事はできない。

 

こうやって、しっかりと手に入れられる範囲では最先端のモノを揃えつつ、最後の最後で土臭く”やる”。

こうして単なるランニングが、極上のアクティビティとなる。

 

走るという一見すると単純な作業ですら、このように己のセンス次第でいくらでも創意工夫を働かせる事が可能だ。

己がやる体験を、どうやって豊かにするか。そこに現代社会の妙がある。

結局、何をするにしてもだ。楽しくやれるかどうかは、全て自分次第なのである。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Jon Tyson

言葉を一生擦ってる

しばらく前に、ネットである言葉の用法が話題になっていた。

それは「一生」である。「一生○○していた」、「一生○○している」のように用いる人たちがいる。

この場合の「一生」は「ずっと」とか「長い間」という意味を誇張したものだろう。

「週末は一生寝ていた」、「この動画で一生笑ってる」、「すばらしいストライクウィッチーズのフィギュアを買うか一生悩んでる」……。

 

「ずっと」とか「長い間」を「一生」と表現すること自体は、べつに珍しくもない。

「一生愛し続ける」、「一生ものの逸品」、「一生のお願い」、「くだらないことに一生悩んでろ」。

もちろん一生ではない。いや、一生のこともあるかもしれない。

 

が、どうも、最近の使われ方には違和感がある。

一生には生というはじまりと死という終わりがある、期限の区切られたものだ。

それをある種の過去形や現在進行的に用いると、なんか変だ。うーん。

 

使っているのは主に若い人たちだが、格闘ゲーム界隈では昔から使われていたともいう。

もちろん、格ゲーというものが大流行したのが1991年の『スト2』だとして、そのころからあったとしても(おれは「ゲーメスト」を買うくらい直撃した世代だけれど、知らなかったが。ずっと続けてきたわけじゃないので、最近はのことはさっぱり知らない)たかだか30年といえば30年だが。

 

あと、ここ一年だかそのくらいでよく見るようになった言葉が「擦る」だ。

いや、「擦る」という意味での「擦る」は知らないわけじゃないけれど、なんかちょっと違うな、という。

 

調べてみると、芸人用語で「同じネタを擦る」というように使うようだ。

そういう業界用語がテレビを通じて伝わったのか。

あるいは、また、格ゲー界隈の言葉だという話もある。

格ゲーという(以下略)だが。いや、また格ゲーか。

 

インターネットと言葉たち

いずれにせよ、かつては限られた人たちの言葉のみが活字となり、世の中に広まったわけだが、今は違う。

インターネットを通じて、たくさんの人の言葉が行き交うようになった。それはもう……すごくたくさんだろう。

 

そんでもって、あるジャンルの中だけで使われていた言葉が、誰かの目にとまって、そのジャンルとは違うところに広まることもあるだろう。

ネットは言葉の坩堝といってもいい。

あるいは、言葉のサラダボウルだろうか。わからんが。

 

いずれにせよ、インターネット登場より前の時代に比べたら、言葉自体の変化も、用法の変化も、新語の登場もずっとスピーディになっているのではないかと想像する。

 

そうだ、想像するだけだ。

おれは高卒のおっさんであって、言語学に通じているわけでもない。

あるいは、Twitterで使われている単語を抽出し、統計を取り解析すると……という技術者でもない。なんとなくの、話だ。

 

言葉は変化する、が

で、若者の言葉だとか、新しい言葉の話になると、「言葉は変化するものだから、正しい言葉なんてものはない」という意見が出てくる。

それはそのとおりだ。

もしも正しい言葉というものがあって、それが守られてきたのであれば、おれたちは……何時代の言葉をしゃべっているのだろうか。まあいい。

 

とはいえ、ちょっと引っかかりも覚えるのである。

「たしかに正しい言葉なるものはないとしても、新しく変化したからといって、べつにそれを支持する理由にもならないよな」と。

 

新しい言葉は生まれる。それはそういうものだ。

とはいえ、べつにそれに忌避感を示すのも、使用を拒否するのも、べつに「正しくない」ことではない。

 

以前、『俗語発掘記 消えたことば辞典』(米川明彦著)という本を読んだことがあるが(オストアンデル! 『俗語発掘記 消えたことば辞典』を読む/関内関外日記)、いかにいろいろの俗語が生まれ、消えていったかということがわかる。

そして、明治、大正時代の人間と、現代人のセンスがたいして変わらないな、ということも。

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いずれにせよ、新しく生まれる一方、「消えたことば」、「死語になることば」も出てくるわけだ。

 

言葉の淘汰

というわけで、新しい言葉が見つかったからといって、べつにその時点でそれを認め、受容する必要もないのだ。

「文法的におかしい」、「語感が気持ち悪い」、そんな理由で新しい言葉を否定してもいいはずだ。

「その言葉づかいはおかしい」と積極的に言葉にして否定してもいいだろうし、「自分は使わない」という行動で拒否してもいいだろう。

 

あるいは、その言葉を使っていた人たちが「使い飽きた」、「流行が終わった」、「ダサくなった」、「広まりすぎた」などという理由で、使わなくなるということもあるだろう。

 

これが、圧だ。

淘汰圧というのか、選択圧というのか、これまた進化論に通じているのではないのでわからないが、ともかく突然変異して偶然生まれた言葉であれ、(これは自然とは違うところだが)誰かが考えて生み出した新語であれ、こういう圧を受けることは避けられない。

 

それを運良く生き延びたものだけが、定着して使われる。

あるいは、「死語辞典」に載るだけでもたいしたものだろう。

 

そしてまた、強いものが生き残るわけでもない。

たとえば、「新語・流行語」に選ばれるような言葉などは、あるていど多く使われたものだろうが(たまに「それなに?」というのもあって、社会や世代の分断を感じたりもするが)、生き残って使われつづけるとは限らない。

むしろ、すぐに「死語辞典」に行ってしまうような印象すらある。

 

というわけで、新しい言葉がすべて受容されるべきでもないし、そうなるわけでもない。

言語使用者として否定したっていい。

適語生存、おれ一人がどうしようと、生き残るものは勝手に生き残る。

 

だから、気に食わない言葉に、おれは「圧」をかけるぜ、と、そんな姿勢でいこうと思っているわけである。

 

ところで、こういう言葉の生き残りについて、ダーウィニズム的な考え方があるのかな、と思って調べてみたのだが、無学ゆえにわからなんだ。

Wikipediaには「進化言語学」という項目があるが、どうも人間言語の起源に関わる学問のようだ。

おれの考える新語の淘汰なんてものは、まあ「ミーム」の一言で済ましていいのかもしれない。

 

方言や希少言語などについて

などとネット発で広まった言葉だとか、テレビで流行った言葉(けど、CM発の流行語とか最近あまり見なくなったよな)、若者言葉、そんなものについては、みんな好き好きに使ったり使わなかったり、あるいは批判したっていいと思うのだ。

 

が、この言葉ダーウィニズムというのもやや危険な場合があるのかな、と思ったりもする。

社会ダーウィニズム(社会進化論)が、危険な思想に結びついていったように。

 

たとえば、方言だ。おれは南関東は神奈川育ちで、方言というものを意識したことがない。

せいぜい語尾に「べ」とか「だべ」とかつくくらいだ。

元SMAPの中居正広がテレビで喋っているのを聞くと「この感じ」と思う。

でも、たいして標準語と呼ばれるものと遠いとは感じない。

 

が、もっと東京から離れた地方の言葉、祖父母がなにを喋っているのか都会育ちの孫にはわからない、というような方言はどうだろうか。

おそらく滅びつつある。世の中のコンテンツというものは、基本的に標準語で作られているし、標準語を用いることができたほうが、子供の人生も生きやすい。そちらの方が利便性が高い。

標準語の方がこの社会に適しているので、この社会に適している(適者生存のトートロジー)。

 

さらにいえば、少数言語はどうだろうか。

Wikipediaの「少数言語」に載っている定義などより、もっと少数の、消滅しそうな言語をイメージしてほしい。

消滅危機言語といったほうがいいだろうか。

たとえばアイヌ語は消滅危機言語だという。

 

ともかく、文字を持たない言語は、文字のある言語の利便性に負けて滅んでいくかもしれない。

千人に通じる言葉より、百万人に通じる言葉を身に着けた方が、その人の世界は広がる。

そして、生きていた言葉は失われる。

 

その適者生存はどうなのだろうか。

利便性や合理性のもとに、ある文化の基盤をなす言語が消滅してしまう。

むろんそれは単なる利便性の問題ではなく、背景には暴力を伴った侵略や、経済による圧迫などもあるだろう。

意図的に文化を消滅させようという意思が働くこともあるだろう。

たとえば、新疆ウイグル自治区での漢語教育とか。

 

これらについては、単純に「淘汰圧、選択圧に負けたからなくなるのも当然」と言い切っていいものかどうか。

どう表現していいかわからないが、そう簡単な話じゃねえな、と思える。

 

たとえば、日本でも「フランス語公用語化論」はあったし、今現在でも「英語公用語化論」は生きているかもしれない。

「第二公用語」とかになると、また話はやっかいになるから無視するとして、もし世界とやりあっていくには日本語なんて捨ててろとなったらどうする。

子供には英語しか教えない、そしておまえもNHKのニュースキャスターも政治家も今日から英語で喋れ、となったら、反発するよな。

「いや、問題ないけど?」という英語オッケーな人もいるだろうが。

 

他人、とくに体制から強制される言葉については、ちょっと注意したい。

 

忌まわしき「ねさよ運動」の思い出

体制から強制される言葉、で急に思い出に火がついた。

おれの通っていた小学校では「ねさよ運動」というものが行われていた。

一介の公立小学校で行われていたものにも関わらず、ネットで検索すると出てくるだろう。

語尾に「ね、さ、よ」を用いる言葉は汚いので、使うのをやめましょうという運動だ。

 

具体的には、七夕の短冊のようなものに「汚いと思う言葉」を書かされて、それを燃やすという行事が行われた。1980年代中盤から後半のことである。

おれは小学生ながら、これに非常な反発を覚えた。

 

おれが小学生時分、語尾に「ね、さ、よ」をつけていたかどうか、よく覚えていない。

しかし、こんなふうに言葉を燃やしていいものかと憤慨したのだ。小学生なりに。

今現在、おれの母校で行われているかは知らない。でも、あれは間違っていると、今現在のおれは言い切れる。

 

とはいえ、「言葉狩り」と揶揄されるものでも

が、いわゆる「言葉狩り」と呼ばれるものについて、おれはその対象について、ときどきに賛成したり、反対したりする。

たとえば、クレヨンや色鉛筆の「肌色」の名称が廃される。これについては妥当だと思う。

精神障害者や身体障害者への差別的用語がマスメディアで使われなくなる。それも悪くない。

それが差別を助長、あるいは容認しているのならば。

 

もっとも、おれが患っている精神障害である双極性障害も、「躁うつ病」と言ったほうが通りがよく、べつに「躁うつ病」が差別的とは思えない。

さらには「双極症」という用語も使われるようになってきているらしい。

これはべつに差別用語どうこうというより、元となる英語のdisorderやdiseaseやdisabilityの翻訳に関わる問題らしく、そういうケースもある。

 

それはともかく、偏見が根付いてしまった言葉を言い換えることにつて、おれはすべてについて単純に「言葉狩り」とは言いたくない。

社会の常識や、理想とするところについて、言葉も寄り添っていくべきだと思うからだ。そこは、柔軟に行きたい。

「これはポリティカル・コレクトネスだな」と思う用語について、納得できればそれを使う。

 

ただ、たとえば古い作品で用いられている表現について、それをあとから修正するかどうかといった問題については敏感でありたい。

直さないことによって、本質的な部分の毀損を避けられることもあるだろうし、直したことによって本来のメッセージが失われることもある。ケース・バイ・ケースだ。

 

一生擦っていく

というわけで、結局のところ、ケース・バイ・ケースなのだろう。

ただ、「圧をかけていく」というときに、それが言語帝国主義的でないか気にする必要もあるだろうし、「圧をかけられた」というときに、実はそれが現代的に真っ当な指摘であるかもしれない、そんな想像も必要だろう。

 

実にやっかいだぜ言葉。

 

でも、こういう考えは、一生擦っていくしかないのだろう。

(などと遅れてきたおっさんが使うようになると、もうこれらの言葉は使われなくなるかもしれない)

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Volodymyr Hryshchenko

わたし、買い物がヘタになったかも……。

 

ステイホームを続けるなか、ちょっとした用事があり、先日約2年ぶりに街に出た。

 

徒歩圏内の村のスーパー以外に行くのは久しぶり。

せっかくなら、仕事に必要なノートや文房具、ずっと切らしていた化粧水や乳液も買ってしまおう。

ついでに、ちょっとお高いオーガニックシャンプーも。

 

長らく離れていた外の世界に少し緊張しながら、街で一番大きなドラッグストアへ向かう。

香水の匂いが漂う店内には、ブランド別に分けられたさまざまなスキンケア商品がずらり。

ああ、なんだか懐かしいなぁ。

久しぶりの買い物に心が踊る。

 

……で、なにを買えばいいんだろう?

 

そういえばここのところずっと、買い物はamazonのおすすめやレビューを見て適当に決めていた。

いざ商品棚の前で「どうぞ好きなものを選んでください」と言われても、なにを手がかりに決めればいいのかがわからない。

 

ネットを使った便利な買い物に慣れきっていたわたしは、いつのまにか「自分の好きなものを選び取る能力」を失ってしまったみたいだ。

 

選ぶことをやめた人が頼るのは、AIと口コミ

あまりにも日常的すぎて深く考えていなかったが、「買い物」という行為は、ここ最近急速にかたちを変えているらしい。

 

それを丁寧に解説しているのが、『2025年、人は「買い物」をしなくなる』という本だ。

そこには、わたしたちが「選ぶ」という面倒くさい作業を避けるようになったことが書かれている。

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たくさんの中から一つの商品を選ぶことも、実は面倒くさい作業の連続なのである。

価格を比べ、機能を比べて、店員に意見を求めることもある。その一連の流れは、時間もかかるし、頭も使う。モノによっては数日間、悩みっぱなしということもあるかもしれない。
「一カ所に多くの商品が集まっている」ことは、現代の忙しい消費者にとって魅力的ではなくなっているのだ。
(……)
すでに選ぶことをやめた人たちは、どんな情報を頼りに、買うか買わないかの判断をしているのだろうか?
彼ら(もはや「私たち」と言ってもいいかもしれない)が信頼を寄せる情報源は2つある。”AI”と”口コミ”である。

わたしたちは「自分で選ぶ」という面倒な作業をやめ、だれかが良いと保証してくれたものを買うようになっているというのだ。

「他人に判断を委ねている」と言い換えてもいいだろう。

 

そういえば以前わたしは、『本屋さんには「本が選べる・買えること」以外の本質的な価値がある。』という記事を書いた。

2018年、もう3年も前のことだ。

 

本屋をぶらぶらしていると、ふだん読まないジャンルのおもしろい本と出会うことがある。

気になる本を並べて試し読みして、一度本屋を出てランチ中にどちらを買うか考えて、また本屋に行く……なんてこともしょっちゅうだ。

そうやって、好きな本を買っていた。

 

でもamazonで本を買うとなると、画面のおすすめに出るのは、自分の趣味志向に沿ったもの、もしくは売れ筋の商品だけ。

商品にはレビューがついてて、おもしろそうだと思っても、レビューが☆1だと途端に興味をなくしてしまう。

自分の好きなものを自分で見極めるために、本は本屋で買いたい……という内容だった。

 

「選ぶことをやめてだれかに選んでもらうようになった」というのは、3年前、わたしも思ったことなのだ。

 

たしかに、amazonは買い物における「面倒くさい」を減らしてくれた。

でもそのぶんわたしは、わたしたちは、「良いものであるという他人からの保証」がなければ、自分で選ぶことができなくなってしまったらしい。

 

買い物の大前提である「買って手に入れる」すら壊したサブスク

サブスク(定額制サービス)に関する記述もおもしろいので、紹介したい。

サブスクのメリットは、「好きなものをどれだけ使っても料金は一定である」という点だ。中には買い取り形式のものや、回数制限のあるサービスもあるが、一回ごとに商品の値札を見て、財布と相談する必要はない。
サブスクが省略している買い物プロセスとしては、店舗への移動・決済・商品の包装・受け渡しなどが挙げられる。また、「選ぶ」についても、長い時間をかけて検討することはあまりない。いろいろなものを実際に使ったり、食べたり、試したりすることができ、また多くの場合は解約も簡単なので、たとえ商品選びに失敗しても、それほど痛手ではないだろう。

いわれてみればたしかに、サブスクはさまざまな「買い物の面倒くさい作業」を減らしてくれた。

だからこそ、面倒くさいことを嫌うわたしたちの生活に受け入れられたのだ。

 

サブスクがウケた背景には、「所有の概念の変化」があるという。

20世紀後半の高度成長期には、「高価なものを所有すること」が一つのステータスだった。(……)
しかし今は、所有することだけではなかなか喜びを見出せない時代なのだ。むしろサブスクやレンタル、シェアなどで、所有することのリスクやコストを減らしたいという人が増えている。自動車や電化製品を所有していないからといって「恥ずかしい」という感覚を持つことも、あまりないのではないだろうか。

「買ったら自分のものになる」というのが、買い物の大前提だった。

 

でもいまは、「自分のもの」にこだわる人は減っている。

むしろレンタルのほうが、かさばらないし、維持費もかからないし、気分で選べるし、お得ですらある。

買ったとしても、気に入らなきゃメルカリで売るだけ。

 

自分のものじゃなくていい。ほしいときにだけ手元に置きたい。都合よく利用したい。

買い物の面倒くさい作業はどんどん減り、「所有」という大前提すら崩れているのが、いまの買い物事情らしい。

 

たくさんの制約のなかで、それでもほしかった漫画

話は変わるが、これは2021年現在、我が家(ドイツ)のわたしの本棚である。

この『神風怪盗ジャンヌ』は1998年から2000年に『りぼん』で連載された人気漫画で、小学生だったわたしが初めて本気でハマった少女漫画だ。

「おもしろいから」というより、もはや「大切だから」という理由で、わざわざドイツにまでもってきた。

 

うちは父親が本好きだということもあり、親の方針で「本は漫画も含め好きなだけ買っていい。ただし、漫画は1日2冊まで」という決まりがあった。

 

本屋に行くのはだいたい週末だから、漫画は1週間に2冊。

当時『ONEPIECE』のアニメがグランドラインに突入したタイミングで勢いがあり、『ONEPIECE』の漫画も集め始めていた。

でもジャンヌもほしい。

 

なけなしのお小遣いでジャンヌを買うか?

でも今月の『りぼん』のぶんのお小遣いも確保しなきゃいけないし、来週末はプリクラを撮りに行く約束があるし……。

 

いくら「好きなだけ」と言われても、さすがに本棚から溢れるのは困る。

新しく漫画を買うのであれば、なにかしらBOOKOFFに売らないと。

コナンの特別編を切るか? いや、それなら『ケロケロちゃいむ』が先か?

 

あしたもお父さんとお母さんがお出かけするなら、それについていけばもう一度本屋に行けるかもしれない。

それならONEPIECEは明日にして、今日はジャンヌを買ってもらうか……。

 

小学生のわたしには、買い物にたくさんの制約があった。

親にお店まで連れて行ってもらわなきゃいけないし、予算も収納スペースも限られている。

だから買い物ではつねに、「そこまでして手に入れたいか」を問われていた。

 

テニプリの新刊を諦めてまでジャンヌを読みたいか?

ケロちゃを売ってまで続きが気になるか?

プリクラを我慢する覚悟があるか?

 

手に入れたものはすべて、そういった質問を押しのけてでもほしかったものばかりだ。

そのなかでもジャンヌはとくに思いいれがあるから、kindleを買えば手軽に読めるとわかっていても、わざわざドイツまで現物を持ってきたのだ。

だって、一番好きな漫画だったから。

 

自分の好きなものを探すのが「面倒くさい」になった結果

買い物は、「制約」と「好き」の戦いだ。

 

大人になったいまだって、所有スペース、維持費、予算などなど、買い物にはいつもなにかしらの制限がある。

その制限と、「これがほしい」という気持ち、どっちが勝つか。その戦い。

 

「自分がなにをどれほどほしいのか」を考えるということはつまり、「自分が好きなものを選び取る」ということでもある。

 

そう考えているわたしは、この部分にちょっと違和感を覚えた。

先ほど、封を開ける瞬間が一番楽しいのではないかと述べたが、人によっては、店の雰囲気を楽しんでいるという人や、買い物中の会話を楽しんでいる人だっているだろう。

わずらわしい買い物のプロセスを省略していくことで、人々はもともとあった「買い物の本当の楽しさ」に再び気づくことになるのである。

 

そうだろうか。

amazonやサブスクサービスで面倒くさい買い物の作業を減らした結果、わたしたちは買い物をもっと楽しめるようになるのだろうか。

 

人によっていろんな意見があるだろうけど、少なくともわたしは、そうは思わない。

だってわたしたちが「面倒くさい」と排除したその手間は、「自分の好きなものを探す時間」だったはずだから。

 

好きなものを探し、選び、それを大切にする。

その過程を簡略化、省略したうえで気づける「買い物の本当の楽しさ」ってなんだろう?

 

なんで開封が楽しいのか? それは自分がほしいものをやっと手に入れたからだ。

なんで店の雰囲気を楽しむのか? それはゆっくりと自分の好きなものを探せるからだ。

なんで買い物中の会話を楽しんでいるのか? それは大切な人と自分の好きなものについて話せるからだ。

 

そういった楽しみは全部全部、「好きなものを選び取る」ための過程にある。

 

アルゴリズムによるおすすめや他人のレビューで選び、家の中でワンポチで注文。

サブスクで気になったものをつまみ食いしてすぐにポイ。気に入らなければメルカリで即日さよーなら。

気軽で気楽、自分をわずらわすものはなにもない。

 

制約もなければ覚悟もいらない。

そんななかで、「選び取る」「楽しさ」なんてあるのだろうか?

 

自分の「好き」の価値を下げないためにすべきこと

買い物が面倒くさければ面倒くさいほど、わたしたちは自分の「好き」に真剣になる。

「そこまでしてほしいか」を、つねに考え続けるから。

 

逆に、買い物がかんたんで手軽になればなるほど、わたしたちは自分の「好き」を適当に扱うようになる。

「他の人がおすすめしてるものでいいや」

「気に入らなきゃ売ればいいや」

と、自分の「好き」の価値を、自分で下げてしまう。

自分が本当に「好き」なものはなんなのか、わからなくなってしまう。

 

もちろん、口コミで話題の小説を買うのだって、ネトフリで最新アニメを見るのだって楽しい。

 

「新たな買い物体験」を否定するわけではないし、この買い物の形式が成立している現在だからこそ、ステイホームしながら生き延びることができたのも事実だ。

でもこのままではいずれ、「自分がなにを好きかわからない」状態になってしまうかもしれない。わたしは、それが怖い。

 

自分の好きなものは、自分で探して、見つけて、買って、並べて、にんまりしたい。

自分のことは、自分で喜ばせてあげたい。

 

だからわたしは、お手軽な買い物もいいけど、「面倒くさい買い物」も楽しみたいと思うのだ。

自分の「好き」が、わからなくならないように。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Bianca Lucas

以前勤めていた会社で、会話の時には「ちがう」と言ってはいけない、というルールがあったことを6月ごろに書いた。

コンサルタントやってた時、重要な対人技術として『「ちがう」と言うな』と習った。

コンサルタントのころ。対人技術を教わった。

様々なものがあったが、その中でも群を抜いて重要な技術の一つは

「会話の時、人の話を否定しない」こと。

具体的には、人に『ちがう』と言ってはいけなかった。

コンサルタントというのは、クライアントの力を借りないと、何もできない仕事だ。

本当に、何一つできない。

だから、クライアントとの人間関係はとても重要だった。

 

その「人間関係」の構築において、最も重要な事柄の一つが、上の「ちがう」に代表されるような、言葉の使い方だ。

 

言葉は使い方によって、人間の意識を変え、行動を変える。

だから、仕事では、面倒くさがらず「適切な言葉を選ぶこと」が極めて重要だった。

 

 

例えば当時、私が在籍したコンサル部門ではなく、会計監査の部門では、「お客さん」と言わず「クライアント」と呼称していた。

また、仕事を取ってくる部署を、「営業」ではなく「開発」と呼んでいた。

 

「開発」と言うと、通常はシステム開発のことを想像する人が多いと思うが、監査では「営業部門」のことなのだ。

なんか変だなあ、と思って、私は上司に聞いてみた。

 

「なんか、意図があるのですか」と。

 

上司は言った。

「監査は、監査先の企業からお金をもらってる。でも、「お金をもらって監査」なんて、普通に考えたらおかしい。客観性が疑われてもおかしくない。」

「ですね。」

「だから、「お金は受け取ってますけど、我々はあくまでも第三者ですよ」と強調するために、「お客さん」とは呼ばない。「クライアント」だ。」

「……マジすか。」

「本当だ。営業を「開発」と言うのも同じ理由。お客さんじゃないから、営業でもない。」

 

私は思わず

「クダラネー」

と言いそうになったが、上司の真面目な顔にビビってしまい

「よくわかりました」

とおとなしく答えた。

 

ただ、それを聞いても私は「変なところにこだわるなあ、細かい言葉のちがいなんて、どうでもいいっしょ」と思っていた。

 

 

だが上司は、非常に言葉にうるさかった。

 

例えば「問題」と「課題」のちがい。

これは専用のテキストまであり、「絶対に混同して使うな」と教えられた。

 

これはのちに、小難しい議論を好む人ほど

「問題」じゃない、「課題」だ

と強く主張することが結構多く、「厳密に教えてもらっていてよかった」と強く思った。

 

あるいは「失敗」と言うな、「成長ネタ」と言いなさい、とも言われた。

正直なところ、「馬鹿馬鹿しい」と最初は思った。

 

小学生じゃあるまいし、「失敗」と言って何が悪い、と。

 

しかし、「失敗」の発表の場で、誰が発表したいと思うだろうか。

社長が「成長ネタ」を披露してください、とコンサルタントに言い、事例の共有がなされるにつれ、「成長ネタ」という言葉が、心理的安全性を作っていることに、やがて気づいた。


私が考えていた以上に、「失敗」と言わないことは重要だったのだ。

 

 

あるいは、客先で、「経営方針」について議論するミーティングに出ていた時のこと。

 

創業からだいぶ時間がたち、事業も変化をしてきたので、方針を時代に合わせたい、という話が出た。

ところが、根本の部分、「何のための事業なのか」というところで、彼らは躓いた。

議論が一向にまとまらないのだ。

それまでは「顧客第一主義」といった、テンプレート通りの方針しか持たなかった彼らは、自分たちの事業の定義がうまくできなかった。

 

そして、会議が停滞してきたとき、クライアントの一人から言われた。

「安達さんのところの、方針を見せていただけないですか」と。

 

当時、我々は中小企業向けのコンサルティングを行っていたため

「大企業的」な「小難しい」雰囲気を持つ方針は排除されていた。

そのため、「お客様を元気にする」という表現を使っていた。(クライアント、ではなく)

 

正直なところ、私はその響きを「かっこ悪いのでいやだなあ」と思っていた。

ところが、このお客さんには、驚くほど刺さった

 

「この表現、いいですね!」と大変褒められた挙句、その会社の方針には、元気にする、を少しもじった「顧客をエンパワーする」と言った文言が含められた。

 

なんだか悪いことをしたような気がしたが、「表現」がマッチすると、皆がとても前向きになったのだ。

それは、「クライアントの協力を仰ぐ」上では、確かに素晴らしいことだった。

 

そして、私は体面ばかりに気を取られていた自分を恥じた。

「一見かっこ悪くとも、言葉、そしてそのニュアンスをしっかり練ることで、人の行動や印象は大きく変わるのだ」と、認識したのだ。

 

 

今は、何の因果なのか、こうして文章を書く仕事をしている。

が、表現と、そのニュアンスについては、考えれば考えるほど奥深く、かつ難しい。

 

しかし、うまくいったときには、強大な力を持つものだ。

そう知ってから、言葉をつくるには、自分の力は不完全ではあると認識しつつも、「表現を練る」際に、手抜きだけはするまい、と思うのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo by Jason Rosewell

コロナ禍×DXで変わる課題の本質

コロナ禍でテレワークが進むなか、HRM(Human Resource Management)のあり方も見直しが迫られてきている。

メンバーの状態が見えない、わからないので評価(特にプロセス評価)ができないというものや、対面コミュニケーション機会が減っているため指導(育成)がしにくいといったものだ。

 

結果、テレワークからオフィスワークに戻そうという動きや、この機に成果主義、ジョブ型に一挙に舵を切るべきだという動きも出てきている。

 

ただ、いずれの動きもイシュー(本質的課題)をしっかりおさえておかないと、アクションしても求める成果は得られない。

 

平時から潜在的に課題があったとしたら、コロナによってそれが顕在化したに過ぎない。

したがってその根本を治療せずしてオフィスワークに戻しても、生産性は一向に上がらない。

逆に、コロナ禍でも生産性と働きやすさの両方を向上させている組織もある。

そういう組織に共通するのは、目的や成果目標/実現プロセスの明確化と心理的安全性の重要性を強く自覚しているリーダーの存在だ。

 

さらに難易度を上げているのが、DXによって業界の競争のルールが大きく変化している最中だということ。

そこにコロナによる人々の生活様式の変化が拍車をかけている。要は、これまでの戦い方では勝てない。

 

新たな業界のKSF(Key Success Factor)に合った新たな事業戦略を打ちだしたうえで、それを実現するためのあるべき人材像(役割定義やスキル・価値観)と、その戦略実現に必要な人々の行動プロセスを再定義することが必要である。

それなくして既存の枠組みの中での成果の定義や職務をベースに成果主義やジョブ型を進めても結果は出ない。

本稿では、生命保険業界を例に、これらの動きを考えてみたい。

 

生命保険業界の事業特性とHRMの変化―成果主義からの転換

生命保険会社は、確率論にもとづき将来の保険金の支払いを行うため、一定の規模が必要とされる。

多くの契約者との保険契約を成立させるために、営業職には成果主義を徹底してきた。その厳しさから、生命保険の営業職員は2年以内に6割近くが離職するという。

これまでの生命保険会社は、厳しい成果主義による高い離職率をはじめから見込んで大量採用を基本としてきたのだ。

 

ところが、足元に変化の動きが見られる。

第一生命は「21年度の採用計画を前年比3割減とし、かつ採用は四半期別に改める」ことを発表した。

従来までの高い離職率を前提にした大量採用を見直す動きだ。

 

さらに先日、「2022年度から営業職の成果給の割合を引き下げる」方針を発表した。

冒頭に述べたように、コロナで多くの企業が再び成果主義へのシフトの意向をみせているなかで、それとは一見逆行するHRMの制度変更には、どのような背景と狙いがあるのだろうか?

 

生命保険業界を取り巻くマクロ環境の変化としては、国内の人口減少や若者の保険離れなどにより、市場はシュリンクしていると言われる。

 

一方で、国の社会保障の一端を担う役割はますます高まってくるとも考えられる。

ただし、従来までのいわゆる生保レディによるGNP営業(義理・人情・プレゼント)は通用しなくなってきているのは事実だ。

 

その変化のなかで、DXをいかに組み込むべきかという議論はコロナ前から既に行われてきていることではあった。

商品の複雑性による対面営業の有効性もコロナ禍では発揮できず、オンライン対応などの方策に打って出ている。

ただ、多くの生命保険会社では、新たなビジネスモデルを構築すべくまだ模索している状態だ。

 

まさに業界のKSFの変化に対応した新たな戦略構築と、それを実行できる新たな生命保険人材の育成のあり方が課題だ。

第一生命にみられる従来までの大量採用や成果主義に対する方針転換は、上記課題の解決策と考えられよう。

 

HRMでおさえるべきステップ

生命保険業は、その特性からして長いスパンでの経営の安定性が求められる。医療技術・デジタル技術の進化により、今後ますます人々のあらゆるデータを常時把握でき、病気の可能性もより高い確度で予測できるようになる。

こうなると人々の保険に対するニーズはどう変化していくのか?

様々なシナリオを考えながら生命保険会社の経営はかじ取りせねばならない。

 

そのうえで、これからの生命保険の営業職員の役割を再定義する必要がある。

これまでの保険を売る役割から顧客に価値を提供する役割へと見方を変えなければならない。

では、顧客に提供したい価値は何なのか? それを定義するには、顧客インサイトを洗い出し、顧客体験(CX)をいかに高めていくか? そして顧客にどうなって欲しいのか?

それは営業職員の働き甲斐にも通ずるとても大事な要素である。

 

さらに、その役割を果たすために必要な人材の要件定義を行う。

まずどのようなスキルが必要か?

従来までの保険の知識やコミュニケーション力に加え、デジタル情報を活用しながら顧客理解を深め適切なアプローチを選択していくためにはITリテラシーは不可欠となろう。

 

次にどのような価値観を重視するのか?

やってはいけないことといった倫理面だけでなく、人材確保のためにも多様性を受け入れながらも、営業職員共通に持っていて欲しい前向きなエネルギーの源泉になるもの、すなわち、顧客のために尽くしたいなどといった理念を改めて明確にする

そしてそれに強く共感する人材に仲間になってもらう。

 

一般に、金銭的報酬だけでは持続的な動機づけ要因となりにくいと言われているからだ。

また、理念が真に共有されている集団は、それに基づいた行動が習慣となり組織の文化になっていく。

 

あえて自社の色を明確にしていくべき時代である。

戦略は模倣できるが、戦略の実行力を決める文化は模倣しづらく競争優位になる時代だからだ。

そして、その文化醸成のためにも評価制度があることは忘れてはならない。

 

そのうえで、デジタルプラットフォームを利活用した新たな営業プロセスの型をつくりなおし再教育する。

そして、その理念を踏まえた新たなプロセスの範囲内(フェアウェイ)であれば、個々の生命保険の営業職が個客に対してベストだと考えるアプローチを自立的に考え、フルスィングして行動できるような環境を整えることが必要だ。

ただ、ここには2つの実行上の難所が想定される。

 

HRMの実行上の2つの難所

①スキルシフトへの心理的抵抗と顧客主義への意識変革

ひきつづき(生保の)営業職員を価値提供の要とするという前提で考えれば、スキルと意識改革が必要となる。

営業職員の高齢化が進むなか、高齢者顧客のインサイトについては、我が事として想像できるだろう。

 

一方で難所としては、今後顧客に対する提供価値を高めるための武器として常備しなければならないデジタル情報技術への心理的抵抗が予想される。

人間は過去に長い経験を積んでいるほど、その習慣を変えることを嫌うからだ。

 

さらに、行き過ぎた成果を称賛する文化が不祥事を生んできたように、これまでは収益一辺倒だった。

それを「真に顧客主義を貫くことが収益にもつながるんだ」という風に営業職員の意識を転換できるか?

 

そもそも生命保険の前身は、中世ヨーロッパで組織された同業者組合「ギルド」で始まった相互扶助の仕組みである。

いまも多くの生命保険会社が株式会社ではなく相互会社の形態をとっているのはそこにある。

デジタルという時代の流れを踏まえたなかで、「そもそも保険とは?」の存在意義に立ち返り、仕事として誇りを持てるか?

それによりこれからの営業職員の社会的地位も変化していくであろう。

 

②マネジメントが組織文化をつくれるか

マネジメントする側にも難所がある。

マネジメントサイドはどうしても様々な管理項目(KPI)を設定して、営業職員を過度にコントロールしがちになる。人はコントロールしたほうが楽だからだ。

 

しかし、それは新たな理念というフェアウェイのなかで、営業職員が自立的に顧客のためにフルスィングすることを阻害してしまうことになり、モチベーションに影響する。

組織をマネジメントする側が誰よりも理念の体現者であること。それなくしてありたい文化はつくれない。

組織のリーダー(究極は経営者)の日々の言動をメンバーはよく観察しているがために、それが文化になっていくからだ。

 

以上述べてきた課題は、生命保険業界にとどまらない。

 

DX/コロナによる大きな変化により、業界のKSFの変化→企業の存在価値の再定義→新たなビジネスモデル/戦略構築→あるべき人材像の定義(スキル/価値観)→戦略を実現する行動習慣/文化の変革(そのための評価制度など)という変革の連鎖をどこの企業も迫られている。

そして、もはやデジタル技術を武器として携えるのは必要条件であり、そのうえでいかに顧客体験(CX)を最大化する価値を人が創りだせるか?

企業間での人財力の差がより企業格差を生み出していく時代になろう。生命保険業界もしかりである。

(執筆:芹沢 宗一郎)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

Photo by Towfiqu barbhuiya

「期待値を考えればパチンコは絶対に損をする」

「それなのにパチンコなんてやってる連中は頭が悪いとしか思えない」

かつてこんな感じの言説をよく聞いた。

 

それを聞いて僕は「確かに」と思う一方、この手の言葉がパチンコをやっている人達に「こいつはなんもわかっちゃいねぇ」という風に全く刺さっていないようにも見えた。

 

「パチンコにハマる奴はただの馬鹿と切って捨ててしまうのは物事の本質をみていないのではないか?」

 

そもそも人間は数円単位でケチをする生き物であり、少額でも損をしたら物凄く落ち込む生き物である。

そんな損が大嫌いな人間が、果たして絶対に損をするとわかっている行為にこんなにも夢中になるのだろうか…

 

その長年の疑問に最近ようやく回答が得られた。

そして冒頭の期待値云々の話は完全に誤りであった事を理解したので、今日はその話をしよう。

 

スロットマシンで超簡単に”ゾーン”に入れる

「デザインされたギャンブル依存症」という本に出てくるエピソードを紹介しよう。

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以下はニューヨーク大学准教授ナターシャ・ダウ・シュールが実際にラスベガスにてスロットマシンにドハマリしている人にインタビューしたものである。

これを読むと多くの人は衝撃をうけるはずだ。

「スロットマシーンで大勝したかったのか」と聞くと、彼女は短い笑い声をあげ、片手を振って否定した。

「初めのころは勝とうっていう意気込みがあったけど、賭けつづけていくうちに自分にどの程度勝算があるかぐらいはわかるようになったわ」

「ただ、それがわかっていてもやめることができなくなっていました。今では勝ったら勝っただけ、そのままマシンにつっこみます」

「人からは理解されないんですが、私は勝とうとしてスロットマシンをプレイしてるんじゃないんですよ。プレイしつづけるため…ほかの一切がどうでもよくなるハマった状態、”ゾーン”に居続けるためにスロットマシーンをプレイするのです」

これはこの本の冒頭場面だが、僕はこれを読んでぶったまげてしまった。

 

それまではゾーンというと、将棋やスポーツといった崇高な活動を通じる事のみで入れる深い集中の事で、とても神聖で高貴なものだと思っていた。

だが、世の中にはそんな事をしなくてもゾーンに入る方法があったのである。スロットマシーンにコインを入れてリールを回すだけ。この作業を繰り返すだけで人間はゾーンに入り込めるのである。

 

現代ギャンブルはハラハラ・ドキドキではなくゾーンを提供している

かつてはギャンブルというと、一点に大きく賭けてダイスを振ったり、当たれと念じてカードをめくったりといったハラハラ・ドキドキを楽しむものだった。

このようなアドレナリンがどっと駆け巡る血湧き肉躍るようなホットなもの。

それが多くの人が思うカジノにおけるギャンブルの像ではないだろうか?

 

ところが、現代のギャンブルではそういう熱狂的なものは既に時代遅れなモノだそうだ。

淡々と目の前のマシンに没頭し、ひたすら回転を続けるリールが生み出すなめらかな無感覚状態に没頭し、ただひたすらクールに”ゾーン”に入り続けるもの。これが現代カジノのメインストリームだというのである。

 

先の本はアメリカの研究事例なので日本とは少々事情が異なるが、日本でもこれと全く同じ現象がおきている。そう、パチンコである。

パチンコ屋で淡々と過ごしている人達は、ある意味では現代ギャンブルにおける最先端ランナーである。彼らは傍からみる分には黙々としているだけだが、その実はチベットの修行僧もビックリな程に深い深い集中状態に入り込んでいたのである。

 

ゾーンは人をひきつけて、そこにくっつけてしまう

かつてのギャンブルはお金を欲しがる人の為のものだった。

しかし現代におけるマシンギャンブルが提供するものはお金ではない。”無”だ。ゾーンに入り込む事で人は「ほかの一切がどうでもよくなる」状態に居続ける事が可能となり、それがある種の人達にはお金以上に求められているのである。

「マシンを一度まわせば…没頭して、トランス状態が永続する」

「すると主観が停止して感情が落ち着く。それはまるで…世界が溶けて消えていくような感覚」

「この感覚に入り込める。それだけで十分報われるんだ」

ある者はマシンギャンブルにハマる理由を尋ねられこう述べたという。

 

こう聞けば冒頭の期待値のロジックがとんでもなくずれている事に誰だって気がつくだろう。

誰もお金なんて目的にしていなかったのだ。皆が欲していたのは深い深い集中状態で、それにスゥッと入る為にお金を湯水の如くぶちこんでいたのである。

 

隣で人が倒れても、全く助けようとも思わない

何かに深く集中しすぎて、周りのものが目に入らないような状態というのがある。

一般的にはこれは美談として語られる事の多いもののように思うが、カジノではこの現象が驚くような形で起きている。

 

既に述べた通り、カジノではにゾーンに釘付けになってスロットマシンに延々と興じ続ける人がたくさんいる。

何も飲み食いせずにあまりにも長時間プレイに没頭する人も多数いるからか、中には心臓発作を起こして倒れる人もいるのだという。

 

この心臓発作が起きた場面の描写が実に凄い。カジノに置かれたビデオを分析すると、多くの人は意識不明の人間が自分の足元に倒れ込んだとしても、そのままギャンブルに興じ続けるのだという。

 

なぜか?言うまでもなくそれは彼らが真に深い”ゾーン”に入り込んでいて、深く深く集中しているからだ。

多くの人はせっかく入れたその深く集中した気持ちの良い状況から抜け出す事をひどく嫌がり、隣の人が命の危機に瀕していようが”ゾーン”から抜け出る事を選ばないのである。

こういう風に聞くとゾーンの末恐ろしさのようなものを感じてしまわないだろうか?

 

現代社会において”何かに没頭して深く集中する事”は称賛されるべき事となっているけれど、本当にそれはよい事なのか…改めていろいろ考えさせられてしまう。

 

マシンに没頭していれば、嫌なことでも全てが忘れられる

かつて生活保護をうけている人が昼からパチンコをしている事に憤る言説を目にした事があった。

僕も当時はこれを聞いて微妙な気持ちになったように思うのだが、この本を読んでその認識はかなり改められた。

 

南カリフォルニアのボウリングチャンピオンだった男の話だ。

彼は以前は悩みがあったらボウリングのレーンに向かってゲームに集中したり、友人たちとしゃべったりして気を紛らわせていたという。

それが今では悩み事があるとカジノに来るのだという。

うまくいかない人間関係。

それにより生じるどうしようもない孤独感。

そして薬物依存。

 

これらの大人になって直面するようになった己の厳しい現実を、スロットをプレイする事で一切合切忘れられるのだというのである。

人生がうまくいっていた頃は、ボウリングや友人といった”社会的によいとされる対象”を通じて何かに夢中になり、嫌な現実から目を一時的に離すことができた。

それが大人になって、そういう”社会的によいとされる対象”が手の中から離れた人に残った気晴らしの対象は、お金を入れれば絶対に動くスロットマシンしかなかったのである。ギャンブルが生み出す”ゾーン”は弱い人の為の心の鎮痛薬だったのだ。

 

彼はスロットマシンについてこう語る。

「 いわば俺にとってマシンは恋人であり、友人であり、デートの相手ともいえる」

「だけど本当はそんなもんじゃない。 掃除機だよ。俺から人生を吸い込む、 人生から俺を吸い込むものなんだ」

 

夢中になれる事は何よりも尊いことではあるのだが

何かに夢中になれるというのは大変に尊い事だ。

自分自身も、趣味や仕事といったものに時を忘れて没頭していると

「やっぱし世の中お金じゃないよなぁ」

なんて事を考えてしまうのだけど、改めて考えてみるとポリコレ作法に則って誰からも後ろ指をさされずに”ゾーン” に入り込めるのは特殊な特権階級に位置する人だけだろう。

 

どんな勝ち組に位置する人であろうが、退屈というのは耐えがたい程に苦痛なものである。

じゃあ負け組の人の退屈は…もう言うまでもないだろう。少なくともそれ以上に苦しいものである事だけは間違いない。

 

少なくとも生活保護をうけている人が昼からパチンコにいっているのを仮に目にしたとして、それを「ふざけるな」と怒るのは色々な意味で物凄く筋違いな怒りだという事だけは間違いない。

その行為を笑顔でニコニコ許容しなくてはいけないとまでは言わないが、難しい感情に囚われるぐらいには多角的な思慮をしたいものである。

 

いやはや、世の中は本当に難しい。誰もが尊敬される形でゾーンに入れるような社会が、くればいいんですけどねぇ…。

 

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

 

Photo by Hello I'm Nik

この世はリスクに満ちており、「万が一」の事態がいつ訪れるかわからない。それに備えるために、私たちは保険に入る。

 

しかし、究極のリスク、例えば船の沈没や、大規模テロのような事故に対してまで、保険の補償は及ぶのだろうか。

例えばタイタニック号の沈没や、米国における9.11の事件のように。

 

実は、これらの大惨事に際しても保険会社は加入者への支払いが可能だった。

 

なぜ保険会社は、巨額の補償が可能だったのだろうか。

その背後には「最後の砦」としてのロイズ保険市場の存在がある。

 

「サッカー選手の脚」や「ギタリストの手」に保険がかかる

ロイズは世界最大の保険市場であり、そこで取引される保険は通常では考えられないような特殊なリスクまで引き受ける。

例えば「サッカー選手の脚」や「ギタリストの手」といったもの。

 

確かに、アスリートやミュージシャンの手足は重要な「商売道具」である。

しかし、それと、実際に保険がかけられるかどうかは別問題だ。

しかし、ロイズではそれが流通する。

 

世界的サッカープレイヤーのデビッド・ベッカム氏は、自分の脚に1億ポンド(152億円)の保険をかけて世界を驚かせた *1。

 

ロックバンド「ローリングストーンズ」のギタリストであるキース・リチャーズの手にも160万ドルの保険がかけられている *2。

図1 ロイズビルディング(中央)
(出所:「Images of the Lloyd's building」LLOYD’S

 

ロイズにおいて、こうした特殊リスクの保険引受を判断するのが、アンダーライターと呼ばれる人々だ。

 

彼らはこれまで、コメディアンの鼻、女優の脚、クリケット選手の口ひげ、料理家の味覚にかける保険などを次々に引き受けてきた *3。

 

この他にも、テロ保険、陸上戦争危険、専門家賠償責任保険、興行中止保険、リコール費用保険等々、特殊なハイリスク保険を引き受けている *4:p.12、p.15。

 

例えば、専門家賠償責任保険は、弁護士、会計士、税理士、弁理士、建築設計士、医師などが、その専門的なサービス、アドバイス、デザインなどにおいて職務遂行上の過誤を犯した際に補償が受けられる保険で、第三者への経済的な損害賠償だけでなく、訴訟や抗弁費用までもがその対象に含まれる。

 

また、リコール費用保険とは、製造・販売した製品が原因で、火災が発生したり第三者がけがを負ったりした場合に、製品の回収によって負担する費用を補償する保険である。

 

それは一軒のコーヒーハウスから始まった

ロイズの始まりは、17世紀のロンドンにあった、一軒のコーヒーハウスだった(図2)。

図2 ロイズ発祥のコーヒーハウス
(出所:「Through the ages」LLOYD’S

 

貿易の中心地になっていた当時のロンドン市内には多くのコーヒーハウスがあり、人々の社交や商談、情報収集の場であった。

 

そんな中、1688年にエドワード・ロイド(Edward Lloyd)がテムズ河畔の船着場に近いTower Streetに開いたコーヒーハウスは、海運業者や貿易商、海上保険業者の溜まり場になり、店内では船舶や積み荷の売買、海上保険の取引が盛んに行われていた *5。

 

そして、ロイドのコーヒーハウスはその抜群の情報収集力で他のコーヒーハウスを凌駕するようになる。

 

1696年には、船舶や積荷、気象など海運貿易に関する情報を集めたロイズ・リストが発行された。このリストはすぐに海運業界で認識されるようになり、購読料を払う熱心なファンが店に集まった。

ロイズリストは、300年以上経った今でも毎週の出荷ニュースを提供している。

 

1730年代になると、ビジネス界の中心であるロンドンの16 Lombard Streetにロイズ(Lloyd’s)が店を出したことで、ロイズは、個人による海上保険引受の場所として存在感を増していく。

そして、ロイズの店を拠点とする保険業者は、次第に「Underwriters of Lloyd's Coffee House」として知られるようになった。

 

やがて、1770年代のアメリカ独立戦争と1800年代初頭のナポレオン戦争が40年以上にわたって猛威を振るう中、ロイズは世界の海運保険業界で重要な役割を果たした。

 

戦争になれば商船が敵国艦船に捕獲されるリスクが高まり、海運保険のニーズが増大するからである。

 

また、この間、ロイズは英国海軍と緊密な関係を築き、愛国基金を設立した。

この基金は、軍の慈善団体と協力して、緊急に支援を必要としている人々とその家族を支援するものだった。

 

ロイズの情報収集力には依然として定評があり、特に船の動きに関する情報収集力は海軍より優れていた。

それがロイズの信用を高め、やがて世界規模で海上保険を支配することになっていったのである。

 

「再保険」の引受を担うロイズ市場

冒頭に述べたように、ロイズ市場は歴史的な事故にも数多く携わっている。

 

それらの巨大リスクにあたってロイズがどのような役割を果たしたのか、そこにロイズの真骨頂をみることができる。

 

歴史的惨劇とロイズ

1912年、タイタニック号が沈没した。この巨大船には、船体そのものだけで100万ポンド(現在の価値で約9500万ポンド:144億4000万円)という巨額の保険がかけられていた。

当初、各保険会社はタイタニックを「沈むことのない船」と考えていたため、喜び勇んでタイタニックへの保険に参入したためだ(図3)。

図3 タイタニック号の保険伝票に名を連ねる保険会社
(出所:「Lloyd's and the Titanic」LLOYD’S)

 

しかし、タイタニック号は沈没した。巨額の補償にもかかわらず、各保険会社は30日以内に保険金を全額支払ったという *6。

これほど莫大な現金をすぐに用意することができたのはなぜだろうか。

 

その陰には抜群の情報収集力がある。ロイズのアンダーライターたちがいち早く掴んでいた情報をもとに、引き受け会社はすぐさま再保険の取引を開始し、資金調達を始めることができていた。

図4 氷山に衝突し沈没しているとのタイタニックからの無線連絡について記載されたメモ。
沈没翌日にロイズのアンダーライターはこの情報を独自入手している
(出所:「Lloyd's and the Titanic」LLOYD’S)

 

ロイズ市場は2001年の9.11テロの際にも同様の役割を果たしている*7。

 

「再保険」を支えるロイズ市場の仕組み

ここで、タイタニック号沈没や9.11テロという大事件にあたって各保険会社が活用した「再保険」について押さえておこう。

 

各保険会社が保険金を支払いきれないという状況に立たされた時、「最後の砦」となるのがロイズである理由は、ここにある。

 

実は、ロイズは保険会社ではなく、独特な構造と仕組みをもつ保険市場であり、「保険の保険」、つまり「再保険」引受の場を提供している組織なのである。

 

保険会社は加入者に自社の保険商品を提供するが、万一、大災害や大事件などで加入者が大きな損害を被った場合、自社の財力では支払う保険金が賄いきれない危険性がある。

 

そこで、こうしたリスクを分散・分担するために、共同で再保険を成立させれば、それぞれの保険会社に万一のことがあっても損害を補填することができる。

 

ここで、ロイズ市場での取引がどのように行われるのか簡単にみてみよう *8:pp.55-56、p.61、pp.65-66。

図5 ロイズ市場の全体像
(出所:損保総研「損保総研レポート 第90号:現代のロイズ - ロイズの組織とその仕組み -」p.56 「図表2」を筆者加工

 

上の図5はロイズ市場の全体像であるが、保険取引に関する部分を赤枠で囲った。

まず、赤枠内のステークホルダーについて押さえておこう。

 

ロイズ市場で保険または再保険を引き受けるためには、いずれかの「シンジケート」に出資し、そのシンジケートが引き受けるリスクについて、それぞれの出資割合に応じた保険責任のみを負担する。こうした出資者が「メンバー」である。

つまり、引き受けた保険のリスクは、資金を供給した複数のメンバーが分担するのである。

 

次に中央の「マネージング・エージェント」はメンバーに代わってシンジケートを管理・運営するための組織であり、アンダーライターを雇用する。

 

アンダーライターは、リスクの引き受け判断をし、契約の可否などを審査し、保険の引受業務を担う。

 

ロイズ市場で取引を行うのは、保険契約者に代わってアンダーライターとの契約交渉などを行う「ブローカー」である。

 

まず、ブローカーは契約の概要を記した契約書のドラフト(スリップ)を作成し、多くのシンジケートのアンダーライターの元に行き、保険料率見積などで引受条件を引き出す。

 

そして、その中から最も良いものを選択し、その条件をスリップに記載して、その見積を出したアンダーライターのもとへ持って行く。

 

アンダーライターはスリップの内容を確認した上でそのスリップに引受割合を記入し、署名してシンジケートのスタンプを押す。

一旦、この行為が行われると、その引受割合には契約の拘束力が発生する。

 

このとき、もしアンダーライターがその契約の100%を引き受けなかった場合、ブローカーは引受割合の合計が 100%に達するまで他のシンジ ケートのアンダーライターをまわり、引受キャパシティを確保することになる。

図6 ロイズのアンダーライティングルーム
(出所:「Images of the Lloyd's building」LLOYD’S)

 

こうして再保険契約が成立すると、予期しない巨大リスクが生じたときにも、保険会社は必要な財源を確保することができ、加入者への保険金支払が可能になる。

逆にいうと、こうした仕組みがなければ、リスクに際して保険会社は破綻し、加入者もいざというときに保険金を受け取ることができないという事態が生じてしまう。

 

したがって、再保険の引受が行われるロイズ市場は保険制度を支える重要な役割を果たしているのである。

 

P2P保険の原点はロイズ市場にあり

最近はスマホやSNSの普及によって、ニッチな保障ニーズに適合する保険商品の提供も始まっている。

その1つがP2P保険だ。

 

これは、加入者がスマホやSNSを使って、インターネット上に少人数の共済グループ(コミュニティ)を作り、グループ内で少額の掛け金を拠出してプールし、リスクに備える保険である *9。

 

そして、これらP2P保険の源流はロイズにあるといっても過言ではない。

 

共済グループは仲間同士で構成され、グループ内で保険金の支払いがあるときには、加入者が支払った保険料の一部が財源となる。

皆で少しずつリスクを分担する仕組みで、いわば相互扶助的な特徴をもつ。

 

だが万が一、プールした保険料を越える請求が発生した場合は、どうするのだろうか。

 

その際の保険金は、P2P保険の提供会社が加入している再保険で賄うことになっている。

P2P保険の提供会社がその再保険を引き受けることも可能だ。

 

例えば、2020年に金融庁が行ったP2Pの実証では、共済グループのオーナーは、加入保険会社が提供するカバー保険に加入して、万が一のリスクに備えた *10:p.1。

 

こうした原理は、ロイズ市場で行われている再保険の引受と同じだ。

 

P2Pは小規模だが、ロイズ市場は巨大な組織である。そのため、別モノと捉えられやすいが、やっていることは基本的に同一とみなせる。

保険の原点、いわば究極のP2Pを実現している保険市場、それがロイズなのである。

 

(本記事はFrichオフィシャルブログからの転載です)

 

 

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【著者プロフィール】

Frich(フリッチ)は、P2P互助プラットフォームを提供するインシュアテックスタートアップです。

市場規模が小さいなどの理由で成立しなかった「ニッチなほけん」を開発しています。

https://frich.jp/ 

https://frich.co.jp/

Photo by Michal GADEK

 

 

 

【参考文献】

*1、2、3「Going out on a limb - body parts and others」LLOYD’S

*4 JEIBジャパン株式会社「ロンドン、リスクを取る人たち~英国保険市場から学ぶもの、ロイズの活用~」

*5「Corporate history」LLOYD’S

*6「Lloyd's and the Titanic」LLOYD’S

*7「2001 September 11 attacks」LLOYD’S

*8 損保総研「損保総研レポート 第90号:現代のロイズ - ロイズの組織とその仕組み -」

*9 野村総研「インシュアティック」

*10 金融庁「個人が少額を拠出し合って相互扶助するP2P保険に関する実証」

自分は中国で暮らして3年ほどになるが、日本の知人にしばしば聞かれるのは「中国ってどんな国?」という極めてアバウトな問いである。

何しろやたらと巨大な国だけに、ひと言で答えるのは難しい。

しかし、あえて自分が一番伝えたい点を挙げるなら、次のようになる。

 

「中国とは、路上を歩いていると捨てられた便器を普通に見かける国です」

 

いやあなた、3年も暮らして出てくる答えがそれですかーーといった反応が返ってくることは承知している。

しかし、自分がわざわざ便器に着目するのは、それなりに理由がある。

 

結論から先に言うと、街歩き中にふと見かける路傍の便器から、景気動向や人々の生活水準など、さまざまなことを読み取れるからだ。

いわば中国の路上放置便器とは、日本でいうタクシーの運ちゃんが語る景況感のようなもの。

 

かっちりとした統計ではないが参考に値する情報ソースであり、中国の経済・社会を映し出す鏡でもある。

ゆえに、自分と志を同じくする中国在住便器ウォッチャーたちは、「いい便器」を見つけた日には即座に情報をシェアすることを常としている。

何しろ中国は秘密主義のお国柄であり、その実態は現地にいても掴みにくい。

 

だからといって便器からこの国の姿を読み取るのは、いくらなんでも飛躍しすぎではーー?

 

そんな疑問をお持ちの方に語る、中国便器論。

汚い話と敬遠せず、ぜひお聞きいただきたい。

 

なぜ中国では路上で普通に便器を見かけるのか?

こちらに住んでいると、年に何度も騒音で起こされる。

賃貸用や分譲を問わず、中国では物件が売れたら内装全とっかえが当たり前で、それこそ壁に穴を空ける勢いで徹底的に工事をやる。

 

最初は文句を言っていたが、口喧嘩で中国人の右に出る者はなく、基本的に無駄な労力。

仕方ないので放っておくと、やがて大量のゴミがマンションの敷地内や路上にうず高く積まれる。

そしてそこには必ずと言っていいほど、便器がまるっと置かれているのだ。

 

初めて見た時は、カルチャーショックを受けた。

日本であれば、まず内装で出たゴミを路上放置する時点でアウト。

いやそれ以前に、自分が長年使い込んだ便器をご近所さんの目に晒すこと自体、羞恥の極みである。

 

 

ところが中国の人々にとってはどうでもいいことらしく、多い時には1日に2〜3個遭遇してしまう。

物珍しさから見つけた便器は必ず写真を撮るようにしていたら、ある時、上海で暮らす中国在住10年、大手企業の中国支社で代表を務める現役第一線のビジネスマン、青木氏が全く同じことをしていると判明した。

 

彼からは、便器と中国経済の関連性を教えられた。

いわく、路上放置便器とはマンション販売の良し悪しを表すものだという。

「確か2013年から2015年くらいだと思うんですが、とにかく街中でやたらと便器を見かけたんですね。

当時中国経済はイケイケで、自分のビジネスも前年比200%とかそんな勢いで伸びていました。

爆買いっていう言葉が出だしたのもこの頃で、日本ではインバウンドばかり注目されていましたが、中国国内ではマンションがバカ売れしていたんですよ。

肌感覚とはいえ、不動産や景況感に関しては便器を見るのが早いですね」

中国とは国際総生産に占める不動産セクターの比率が極めて高い国。

中国国家統計局の2020年のデータによると、建設業まで含めた不動産部門のGDPシェアは約15%に及び、投資や関連サービス業といったところまで含めるとさらに膨れ上がる。

 

要は世界の工場と言いつつも国内経済、そして景気はマンション販売次第、みたいなところがあり、不動産業は重要なチェックポイントなのである。

ただ、いくら中国とはいえ政府発表の各種経済指標があり、結局ビジネスで頼りになるのは感覚ではなく統計なのでは、という疑問もなきにしもあらず。

 

それでも便器に注目する理由を、引き続き青木氏に説明してもらった。

「中国の公式データというのはまず数字ありきで、『こういう結果にまとめろ』っていう上からの指示が感じられるものも少なくありません。

さらに何でも大きく言う文化なので、仮に本当は正しいものだったとしても身構えてしまうんですね。

この国では必要な情報は自分で集めないとだめで、ちゃんと本腰を入れてやるという前提付きですが、日本に比べてむしろデータが取りやすい国でもあるんです。

僕の場合アンテナを張っていたらそこに便器も引っかかった、ということです。

あと、肌感覚というか勘も中国では大事ですよ。

例えば、判断に悩んでいることをこっちの人に相談すると、メンツがあるから分からなくても答えちゃうんですよ。

しかも、それが自信満々なんですね、根拠があろうがなかろうが。

そうなると最後に信じられるのは自分だけで、感覚的なことも結構大きいんです」

 

在中日本人(の一部)が中国トイレに注目する理由とは

世界第二位の経済大国でありながら、中国は今も不思議の国。

街に便器が放置されていることもあれば、管理室付きの公衆トイレに清掃員が夫婦で住んでいることもある。

 

前出の青木氏によれば、街のトイレがある日いきなり住宅に改造されて、そこに家族が暮らし始めたのも見たという。

 

多くの駐在や留学生などはスルーするであろうそれらのカオスな事象に、あえて目を向ける。

そうすることで中国の等身大の姿が見えてくることもある。

「捨てられている便器の価格帯で生活水準が見えてきますし、便器が拾われていくことから中国のリサイクル意識のすさまじさにも気付かされます。

確かに、中には『これ換える必要あるの?』って思うものもありますし、ハイソな場所の放置便器は輝いて見えるんですね。

とはいえ便器は便器ですから、少なくとも日本では持って帰ろうって話にはならないじゃないですか。

中国というのは使えるものは何でも徹底的に再利用する国で、換金できるものは真っ先に持っていかれますし、拾ったチョーヤの梅酒の瓶を水筒代わりに使っているおばさんを見たこともあります。

つまり、一般に持たれるイメージとは真逆のある意味SDGs先進国で、中国便器はそういう気付きも与えてくれます」

 

 

これは全く青木氏の言う通りで、こちらでは食品の浪費といった問題がある一方、リサイクル熱は極めて高い。

 

北京の官庁街や上海の高級住宅街であってもゴミ収集を生きがいとする住人が必ずと言っていいほどいて、拾ったダンボールに水を染み込ませて重くし、少しでも高く売ろうとしている場面に遭遇する。

 

それで得られるのはわずかな金。

しかし、そういう人に限って意外に自宅持ちで、下手すれば「売れば億」という物件に住んでいる。

金に対するあくなき執着と、使えるものはとことん使うという意識が相まって、中国は便器すらカバーするリサイクル大国となっているのだ。

「結局、便器に注目するのは中国理解の一助になるからです。

日本と中国では常識にずれがあって、こちらでビジネスをする以上、そのギャップを把握していないと市場で受け入れてもらえません。
よく日本から来たばかりの人が『日本ではこうだから』とか言いますが、それって通用しないんですよ。

ちなみにコロナ後、めっきり便器を見かけなくなって、実際景気は中国政府が言っているほど良くありません。厳しい中で生き残るために、これからもしっかりこの国に根ざしてビジネスをしていきたいですね」

 

それにしても、なぜ便器ウォッチャーたちはそれほどまでこのテーマで熱くなれるのか。

いや、何も便器に限らない。

中国を語る上で、トイレの話題は避けて通ることができないもの。

 

壁のない「ニーハオトイレ」は日本でも知られているが、それ以外にも一歩足を踏み入れたらそこは異次元、みたいなところはごまんとあり、中国在住者同士であればお手洗いトークで数時間はつぶせるのが普通である。

自分の見立てでは、街の放置便器にしろ気絶しそうになるトイレにしろ、発展とともに失われていく「古き良き中国」の原風景であるからだ。

 

長年この国と付き合ってきた日本人の心の内には、全員とは言わないもののルール無用でカオスに満ちた中国に対する憧憬がある。

世の中無茶苦茶、でも明日は今日よりきっとよくなると皆が思えた時代が懐かしいのだ。

それが今や、都市によっては日本が後進国と感じられるほどインフラが整備され、高層ビルが立ち並ぶ。

 

その街並みに現代アートのごとく鎮座する便器ーー。

「やはりこの国は、こうでなくては」

中国に魅せられた、もしくは取り憑かれた者たちが便器に思わず注目してしまうのは、そんな思いもあるのかもしれない。

 

 

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【プロフィール】

御堂筋あかり

愛媛県松山市出身。スポーツ新聞記者、月刊誌編集長を経て現在は中国にて編集・ライター業を営む。廃墟と紙一重の中華アパートで猫とふたり暮らし。

Photo by : Michael Coghlan

人には、持って生まれた「行動ポイント」のようなものがある

人間には、どうも持って生まれた行動ポイントというようなものがあるように思える。

「行動力」とすると、ちょっと意味が広がりすぎてしまうので、あくまでゲーム的な「ポイント」だ。

1ターンの間に1回行動できます、あるいは2回行動できます、それとも、10回?

人には、持って生まれた「行動ポイント」のようなものがある── 先月、そのような投稿記事を読ませていただいた。

 

ある程度はそのとおりだし、実際、「行動ポイント」の限界は多くの人にとって切実なものだろうと思う。

ちなみに、ここでいう「行動ポイント」とは、【1日・1週間・1か月のうちにその人がこなせる総タスク量=行動ポイント】と考えていただいて差し支えない。

 

で、世の中には「行動ポイント」の高い人もいればそうでない人もいる。

筆者の黄金頭さんは、「行動ポイント」があまり多くないご自身のライフスタイルと「行動ポイント」がすごく高い人、たとえばスティーブジョブズやザッカーバーグのライフスタイルには共通点がある、とも書いておられる。

ジョブズは同じ眼鏡、同じ服を着つづけたし(同じといっても、同じものの新品をたくさん蓄えていたわけだが)、ザッカーバーグは朝食などについて、小さな決断で時間を無駄にしたくないといったという。

あいにくおれは、ビジネス書など読まないから、ネットで得た伝聞、知識にすぎないのだけれど。
これは、へんな話だ。

世界有数の大金持ちと、地を這ってせいぜい生活を保つのに精一杯の貧乏人が、同じようなことをしている。
これは、なんなのだろう。

私はこれに疑問を感じないし、へんな話にもみえない。

 

黄金頭さんのライフスタイルと、ジョブズやザッカーバーグのライフスタイルを繋ぐキーワードは「やりくり」だと私は言いたい。

「行動ポイント」が生来的に少なめの人も、生来的に多めの人も、自分自身の「行動ポイント」をぎりぎりまで使い込んで生きようとすれば、「やりくり」が不可欠になる。

その結果、たとえば同じ服を着るとか同じ朝食を摂るだとか、決断や判断の負荷を減らし、「行動ポイント」を効率化するための共通の工夫が現れてくる。

 

「行動ポイント」をやりくりしていると「選択と集中」が欠かせなくなる

「行動ポイント」のやりくりについて、もう少し言葉を費やしてみたい。

 

「行動ポイント」の多寡は先天的な個人差にもよるが、後天的な要因によってもかなり左右される。

つまり、肉体的バイタリティ・精神的バイタリティ・性格・要領の良さ・手先の器用さ・(経済力も含めた)周囲の人への影響力・文化資本やハビトゥス、等々によって「行動ポイント」は多くなったり少なくなったりする。

 

たとえば肉体的・精神的バイタリティに恵まれている人は、1日・1週間・1か月のうちにこなせるタスク総量が大きい。

そうでない人は、もっとたくさん休みを入れたり娯楽を楽しんだりしなければならないだろう。

 

また、要領が良かったり手先が器用だったりする人は、ひとつひとつのタスクを平均的な人の50~80%ぐらいの「行動ポイント」で片づけてしまえるかもしれない。

(経済力も含めて)他人への影響力がある人、たとえば執事やメイドを雇える人などは、タスクの一部を彼らにアウトソースすることで「行動ポイント」の制約を軽くすることもできる。

 

では、そうやって「行動ポイント」に恵まれている人が「行動ポイント」に余裕を感じながら生活できるかといったら、たぶんNoだ。

たぶん、ジョブズやザッカーバーグは行動ポイントのない人ではない。
人類のほとんどよりたくさんの行動ポイントを持ち、さらにそれを一極に集中させたことによって、世界有数の人物になったのだ。
そしてそれはたぶん、そうしようと考えたのではなく、自然とそのようなったのだろうと思う。

ジョブズやザッカーバーグは人並み以上の行動ポイントを持っているだろうが、それでも小さな決断を避けるなどして行動ポイントを節約し、集中すべきタスクに行動ポイントを費やした。

そして世界有数の人物になったとある。きっとそうだろう。

だけどこれって、もっと無名の人も結構やっているもののように、私にはみえる。

 

子育て中の親はその典型だ。

どんなに行動ポイントに恵まれている親でも、子育てに力を注げば行動ポイントの選択と集中について考えないわけにはいかない。

子育ては、体力も精神力も判断力も必要だから、行動ポイントのやりくりができないと他のことが何もできなくなってしまう。

仕事と子育てを両立しようと思えば尚更だ。子育てを始める前のやりくりのままでは、行動ポイントは必ず足りなくなる。

 

子育てしていない人でも事情はそれほど変わらない。

その人の性格や野心、バイタリティの許すなかで誰もが精一杯やりくりしているのではないだろうか。

たとえば南の島のリゾートに毎年行かずにいられない人を行動ポイントの選択と集中の乏しい人だとみるのは、違うと思う。

その人の肉体的・精神的バイタリティをかんがみた時、年一回のリゾートはきっと必要不可欠なのだ。

 

夏と冬にコミックマーケットに行かずにいられない古強者のオタクにしてもそうだ。

やりくりの胸算用を透視できるわけではないけれど、とにかく、やりくりの帰結として夏と冬のコミックマーケット行きがあるとみるべきで、そういう人を「何も考えていない人」「何もやりくりしていない人」とみるのは適当ではない。

 

こんな具合に、きっとほとんどの人が自分の行動ポイントの限界いっぱいに活動し、その限界いっぱいのところで行動ポイントの選択と集中をやっているとみたほうが、実地に近いのではないだろうか。

 

「行動ポイント」を増やす(か、効率的にやりくりする)

とはいえ行動ポイントによる制約を減らしたい人、もっと行動ポイントを増やしたい人もいるだろう。

 

さきほど私は「『行動ポイント』は肉体的バイタリティ・精神的バイタリティ・発揚気質・要領の良さ・手先の器用さ・(金銭面も含めた)周囲の人への影響力・文化資本やハビトゥス、等々によって左右される」、と書いた。

このどれかに働きかければ、行動ポイントは多少なりとも増えるか、効率が良くなる。以下のような方法はどうだろうか。

 

・作業に取り掛かりやすい環境をつくる

やるべき作業に着手するのに時間がかかる人は多い。

これは、ある程度までは先天的問題だが、環境をいじったり習慣を習得したりすることでも結構変えられる。

 

なかでも環境は、いじれば効果がすぐ現れるので、工夫のしがいがある。

たとえば気が散ってしまわない環境を整えるだけでも作業への着手は簡単になる。

作業用のPCに余計なアプリやSNSを持ち込まないのもいいだろう。

 

ときには他人にお金を払い、監督官をしてもらってでも環境を変えたほうが良いこともある──たとえば予備校生の塾通いには、そうした環境へのアプローチという側面もある。

コンテンツを作っている人の場合は〆切を決めるのもひとつの手だ。

創作の世界には「〆切は創作の母」という言葉があるそうだが、言い得て妙である。

 

また、こちらの記事に書いてあるさまざまな「やる気」の操作方法も参考になる。

手帳、タイマー、ヘッドホン、等々の環境ツールのなかから自分に合ったものを選べれば、手頃な投資で行動ポイントを節約できる。

 

・なすべきことをキチンとやる習慣を身に付ける

習慣、なかでもハビトゥスと呼ばれるような、すっかり身体化してしまった習慣の威力はバカにならない。

なすべきことをキチンとやる習慣のトレーニングは、一般に、子ども時代から始まっている。

 

宿題や課題をきちんとこなす習慣、予習や復習をする習慣などは、教育期間が終わった後もずっと役立つし、本当は教科書の内容よりも大切な習得目標かもしれない。

そしてこうした習慣は、社会人になる頃には身に付いているよう期待されている。

 

実際には、なすべきことをキチンとやる習慣が身に付かないまま就学期間を終える人も多い。

たまたま人より勉強が得意で、受験勉強なども真面目にやらず、合格できそうな大学に願書を書いて合格したような人は、せっかくの勉強の得意さが、この習慣の不在によってスポイルされていたりする。

なすべきことをキチンとやる習慣が身に付いていない人は、なすべきことをキチンとやるための行動ポイントがめちゃくちゃ割高になってしまい、一日、一週間、一か月の間にこなせるタスクの総量が著しく少なくなってしまう。

 

この習慣の不在は、ちょっと地頭が良い程度では埋め合わせることはできない。

小中学生のうちに身に付けておきたいし、身に付いていない人は遅くからでもいいから身に付けておきたい習慣だ。

 

・スケジュールを管理する

スケジュールを工夫することでも、一日にこなせるタスクの総量を増やせる。

以前私は、スケジュール管理について以下のようなことを書いた。

私が実践している「テトリス的スケジュール管理」の方法。

仕事そのものの精度をあげたり速度をあげたりするのももちろん重要だ。
が、それだけでなく、スケジュール管理も自分自身の精度や速度を支える固有の技術的課題として上手くなっておくにこしたことはないように思う。
(休む時間も含めて)みっちりスケジュールを埋められる人は、そうでない人に比べて、一日/一週間/一か月/一年のなかで消化できるタスクを増やせる。
Duty なタスクや休みのタスクに加えて、何かを習ったり学んだりするタスクを余計にねじこめるだろう。
人と人の輪をつくるタスクを入れたっていい。
なんにせよ、こなせる総タスク量が増えれば選択肢は広くなる。

作業ひとつひとつの行動ポイントを節約するだけでなく、スケジュール管理を工夫することでも行動ポイントは節約できる、というわけだ。

スケジュールを管理する際には、もちろん休む時間や遊びの時間も想定しておく必要がある。

詳しいことは、上掲引用先をご覧いただきたい。

 

・行動ポイントを食うものをパージする

黄金頭さんもおっしゃっていたが、自分の生活や目標に不可欠でないものをパージしたり節約したりするのもひとつの方法だ。

掃除や片付けをやる範囲、飲食にかける手間暇、等々。

 

ちなみにソーシャルゲームやSNSは行動ポイントをたくさん食ってしまうだけでなく、それらに行動ポイントをつぎ込む習慣を作り上げてしまう性質まで持っているので、ぼんやり付き合っていると行動ポイントがたちまち底をつく。

無為無策のまま付き合うと、スマホを操作しているのでなくスマホに操作されている状態になってしまうかもしれない。

 

・健康を心がける

行動ポイントは肉体的バイタリティ・精神的バイタリティによって左右されるため、肉体的・精神的健康も重要だ。

健康も、こだわり過ぎればかえって行動ポイントがかさむことになるが、夜更かしを避ける・暴飲暴食を避ける・インフルエンザや新型コロナウイルス感染症にならないように注意を払う、等々の健康対策はほとんどの人がやって損がない。

 

行動ポイントは手段であって目的ではない

こうして列挙してみるに、行動ポイントの高低や効率性は、処世を、ひいては人生を左右する大きな変数だと思わずにいられない。

行動ポイントが多い人はひとつの人生のなかでさまざまのことを経験できるし、達成できるだろう。

反対に行動ポイントが少ない人は、ひとつの人生のなかで経験を増やすのも、何かを達成するのも容易ではない。

 

だから大筋としては「人は行動ポイントを増やすような習慣や環境を求めたほうが良く、ひとつひとつのタスクに必要な行動ポイントを節約できたほうが良い」、と言えそうだ。

 

実際私も、こうした行動ポイントがより高くなるように努力しているし、たぶん、その恩恵にもあずかっている。

 

しかし一方でこうも思うのだ。

行動ポイントが高くなるよう努めるのは、あくまで手段の習熟であって、これ自体は目的にはなり得ないな、とも。

 

行動ポイントが高くなるような習慣を身に付け、最適な環境を準備できたとしても、そうやって稼いだ行動ポイントをつぎ込める、目的格に相当する何かがなければ人生はむなしい。

その目的格に相当する何かは、人それぞれだろう──勉学が目的になる人もいれば、家庭が目的になる人もいるだろう。

まだ見ぬ景色を見ることが目的の人、一生の間に食べたサーロインステーキの枚数が目的の人がいてもおかしくない。

 

自分の目的を果たせる程度に手段に習熟すればそれで良いのであって、私たちが全員、行動ポイントの向上と節約に不断に努めなければならないと考えるのも、それはそれで間違いだと私なら思う。

あなたならどう思うだろうか。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Veri Ivanova

令和元年のテロリズム

磯部涼『令和元年のテロリズム』という本を読んだ。

はて、「令和元年のテロリズム」はなんだろうか? あるいは、どれだったろうか?

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川崎殺傷事件

取り上げられているのは、まず「川崎殺傷事件」。これについては、あまり記憶になかった。

朝、私立小学校のバス待ちの列に包丁を持った男が襲いかかり、児童一名、その児童とは別の児童の保護者一名の生命を奪った。

ひょっとすると、覚えている人はあまり多くないかもしれない。

 

なぜならば、犯人が事件直後に自殺しており、なおかつその犯人は実社会にもネットにもなんのつながりもなく長年引きこもっていたからだ。

捜査関係者が「本当に実在したのか」と言うくらい、なんの人生の痕跡も、犯行への意思も残されていなかった。

生まれ育ちからある程度はストーリーが構築できないではないが、直接的な動機については謎である。

 

元農林水産省事務次官長男殺害事件

とはいえ、この事件の影響があったと言われる事件が4日後に起こる。

「元農林水産省事務次官長男殺害事件」。

ネットをいくらか見ている人なら、すぐに思い浮かぶかもしれない。

ネットゲームにアクセス状態のまま殺害され、その後しばらくゲーム上で蘇生魔法をかけられつづけた「彼」の話だ。

 

この事件はメディアも大きく取り上げた。

犯人である元事務次官曰く、近所の小学校の運動会の音に対して、ひきこもりであった息子が「うるせえな、ぶっ殺すぞ」と言ったという。

そして、先の川崎殺傷事件のようなことが起こる前に息子を殺害したのである。

これについて、川崎殺傷事件の際にテレビなどで語られた「一人で死ねばいいのに」という意見がある意味で反映され、この元事務次官をかばう世論も出た。

 

果たして、殺された「彼」は、殺されても仕方ないような人生を歩んできたのだろうか。

殺されても仕方ないような人間だったのだろうか。

 

著者は「彼」の残したTwitterの書き込みなどを丹念に追う。

面識のあった人間に話を聞く。あるいは、犯人である老いた父親と「彼」とのTwitterのやりとりを。

 

そういえばおれも、事件当時にTwitterのログや、イラストを公開したホームページなどをずいぶん読んだ。それを思い出した。

 

京都アニメーション放火殺傷事件

三つ目に取り上げられているのは、「京都アニメーション放火殺傷事件」。

これは説明不要といっていいのかどうかわからないが、36人の死者を出した大事件である。

逆恨みというか、思い込みによって、アニメーションスタジオでガソリンに着火。

 

犯人も致命的な火傷を負うが、困難な手術を施され、命に別状がない程度に回復した。

転院の際に「人からこんなに優しくしてもらったことは今までになかった」と漏らしたという。

精神鑑定では異常と認められなかった。して、そんな犯人の人生とはどのようなものであったか?

 

それにしても、この三つの事件、令和改元からわずか三ヶ月足らずで起きたというのだから驚きだ。

 

東池袋自動車暴走死傷事件

最後に取り上げられているのは、「東池袋自動車暴走死傷事件」。時系列的には平成の終わりということになる。

87歳の老人が運転する自動車が暴走し、若い母親と小さな娘を轢き殺した。

しかし、老人は逮捕されなかった。

 

これは彼が通産省の研究機関で院長にもなり、さまざまな団体で役職を歴任し、大企業の副社長も務め、瑞宝重光章を受賞した「上級国民」だったからではないか、と言われた。

今でも「上級国民」といえばまずこの老人、裁判でも無罪を主張し続けるこの老人を思い浮かべる人が多いだろう。

ちなみに暴走事故が起きたのは平成31年、「上級国民」という言葉のきっかけになったオリンピックのロゴ問題が起きたのは平成27年だ。

 

テロってなんだっけ

……と、ここまで読んで、とくに最後の事件をもってして「テロリズム」と呼べるのだろうか? と思った人も少なくないだろう。

いや、そもそも、最初の通り魔事件からして、学説上の狭義のテロリズムからは外れていると著者も書く。

しかし、ひきこもりの問題……80/50問題も、立て続けに起きた高齢者ドライバーの問題も、社会がわかっていながら放置してきたことだと書く。

 

テロ。

なにを思い浮かべるだろうか。

まず、9.11のような、組織による大規模なテロを思い浮かべるかもしれない。

一度に大量の被害者を出す、爆弾テロ、自爆テロ……。

 

かなり時代をさかのぼれば、帝政ロシアの内務大臣のプレーヴェや、モスクワ総督のセルゲイ大公が社会革命党戦闘団に爆殺されたテロなどを思い浮かべる人もいるだろう(……というのは嘘で、おれがその実行者である「秘密警察のスパイ」(!)エヴノ・アゼフにたいへん興味があるだけだが。いや、興味深い人物なので気になったら検索してください)。

 

話が逸れた。我が国での最後の反体制的な大規模テロといえばオウム真理教事件になるだろうし、少し時代をさかのぼれば、たとえば日本赤軍や連合赤軍、東アジア反日武装戦線などの左派によるテロを思い浮かべる人もいるだろう。

さらに遡って、アナーキストの大杉栄一派残党とギロチン社による報復テロ、あるいは右からのテロである昭和維新、五・一五事件、二・二六事件もあった。

 

安田財閥の創始者を殺害した、朝日平吾のこと

と、昭和維新までさかのぼったところで、一人のテロリストの名前を出す。

朝日平吾である。

実のところ、おれは『令和元年のテロリズム』という書名を最初に見たとき、なぜか思い浮かんだのは朝日平吾のことであった。

 

朝日平吾のことを知っているだろうか。

そういうおれも、中島岳志『朝日平吾の鬱屈』という本を読んだだけにすぎない。

あ、『日本暗殺秘録』という、ちょっとすごい映画にも出てきたか。演じたのは菅原文太。

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なにか、本のタイトルが似ていたのかと思ったが、ぜんぜん違う。

しかし、『令和元年のテロリズム』を読み終えて、おれの勘のようななにかはわりと合っていたな、と思ったのである。

 

朝日平吾は明治に生まれ、大正に死んだ右翼のテロリストである。

裕福な家に生まれるも継母などとの折り合い悪く実家を離れ、第一次世界大戦に従軍し、満州浪人的なものになるも、大陸にいられなくなり、日本に戻り、右翼の大物の……とかなんとかWikipediaでも読んでください。

で、貧民救済事業をしようと渋沢栄一から金を引っ張り出したりしてたけど、いろいろうまくいかず、最終的には安田財閥の創始者である安田善次郎を殺し、斬奸状を残して自らも命を絶った。

 

単なる、といってはなんだけれども、単なる思想犯では片付けられない。

朝日平吾は「いろいろうまくいかない」人生を送ってきた。

だからこそ「鬱屈」なのだ。

 

労働運動もうまくいかず、宗教に行こうにもいけず、社会事業も失敗した。

職も安定せず、人と衝突を繰り返した。

それが大きな格差を生んでいた当時の社会への恨みともなり、その対象が安田善次郎になった。

 

そこに、生きづらい自我というものがあった。

承認されない人間の自我と鬱屈、その暴発。

それは平成の「テロ」でもあった「秋葉原通り魔事件」の犯人にも似ている。

『朝日平吾の鬱屈』の著者である中島岳志はそう書いていた。

 

秋葉原事件とその後

平成二十年の「秋葉原通り魔事件」、あるいは平成十三年の「附属池田小事件」。

これらについて、「テロ」とみなす人は少なくないと思う。

 

とくに前者について、事件当初は非正規雇用で経済的に恵まれない人間による格差社会へのテロだという言説が多く見られたと思う。

裁判などを通じて、ネット掲示板をめぐる問題など、もっと犯人の個人的な問題だということが明らかになった(犯人が主張)けれども、未だ「負け組」による「勝ち組」へのテロである印象も残っているのではないだろうか。

 

先も書いたが、これは承認の問題だと中島岳志は書いた。

人間が社会にその居場所を感じられないという問題。

自らの価値を自分で認められないという鬱屈した感情……。

 

これは、『令和元年のテロリズム』にも通じるところがあるだろう。

川崎殺傷事件はちょっとわからないところがあるけれど、事務次官の長男(被害者なんだけど)、京アニ事件の犯人。

 

その鬱屈が社会に向く。そんな彼らを生み出した背景には、持って生まれた個人の性格や障害もあるが、生きてきた家庭環境もあり、その家庭を取り巻く社会というものもある。

社会と完全に切り離された、生まれついての純粋な怪物というものもいるにはいるだろうが、やはりフィクションじみているように思える。

 

とすれば、彼らが社会に牙を向くとき、それを「テロ」とみなしてもおかしくはないかもしれない。

とはいえ、「悪しき帝政を打倒する」とか「君側の奸を取り除く」とか、「教祖の導きにより不信者を制裁する」とか、明確な動機や対象は見えない。

 

『令和元年のテロリズム』の著者はこう書く。

「令和元年のテロリズムは、テロリストという中心がぼやけている」

そして、ぼやけた中心について、マスメディアもインターネットも、ああだこうだと物語を作り、レッテルを貼り、その反響ばかりが残る……。

 

「上級国民」ひとつをとっても、息子を殺した方は同情さえされ、暴走した方は家族まで苛烈に叩かれる。

 

果たして、ある「テロ」について、その犯人の内面を探るべきなのか、あるいは社会問題を掘り下げるべきなのか、それとも、あまりにも物語的にするべきではないのか。難しい問題だろう。

 

とかいってるおれは、なんと書かれるのか

……などと他人事のように書いているおれはどうなのか。いや、おれはまだテロを起こしていない。

しかし、いつか起こすかもしれない。おれも決して恵まれた人生を送っていない。いろいろな鬱屈も抱えている。

われは知る、テロリストの

かなしき心を―

と、『ココアのひと匙』の石川啄木でもないけれど。

というか、啄木の書く「真面目にして熱心なる人」もなければ、「はてしなき議論」もないのが現代日本のテロリズムだ。

 

そして、そういう令和のテロリストになりかねない自分というものを、おれはつねに監視している。

今も貧しいおれが、さらに貧しかったころ、おれの心には平成のテロリストの言葉が、乾いた砂に水が染み込むように届いてしまった。

かなしき心ではない、ろくでもない社会への憎悪、単純すぎる悪意だ。

だが、そんな気持ちに人間がなるということを、おれはそんな気持ちになった人間として理解できる。

 

今のところは、落ち着いている。感情の波のようなものに病名が与えられ、投薬もうまくいっている。

かつてに比べたら、少しだけ生活も落ち着いた。

今、おれのなかで「テロリスト濃度」は低い。

 

が、明日どうなるか、一ヶ月後どうなるか、一年後どうなるかわからない。

なにせ、今はコロナウイルスという、ひょっとしたら人間のテロリズムよりも話の通じない、恐ろしいものが社会を壊している。

 

壊れた社会で経済活動は滞る。なにも飲食店に限った話ではない。ミュージシャンに限った話ではない。

そんななかで、吹けば飛ぶような零細企業は、文字通り吹き飛んでなんの不思議もない。

そして、精神を患った手帳持ちで、なおかつ労働者としてほぼ無能にしてやる気もない近い自分には、行き場がなくなる。

頼れる親族もない。なにせ、借金の問題で一家離散しているのだ。

 

と、こうなるとおれがなにかをした場合、マスコミやネットの人たちにとって物語を紡ぎやすい人間だな、と思えてくる。

 

「祖父は京大卒の化学博士、父は会社経営の比較的裕福な家に生まれるが、小学生のころから不登校気味であった。中高一貫校の私学に進むが、一人の友人も残せずに卒業。慶應大学に進学するも一年で中退し、家にひきこもるようになる。ほどなくして、親の借金問題で一家離散、無賃労働者から零細企業勤務になるも、生活は貧しく、次第に社会に対して恨みを持つようになる。現実での友好関係はほとんどなく、ネット上では主にブログで社会に対する恨みや、犯罪者への共感、反出生主義などの極端な考え方を書き連ね、社会的孤立を深めていった。一方で双極性障害を患い、生活は博打と多量飲酒によりさらに荒み、ついにはコロナ禍によって職を失うと……」

 

おわり。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

 

Photo by Soroush golpoor

京セラの創業者である、稲盛和夫氏の本を読んでいて、一つのエピソードが目に留まった。

稲盛氏が若いころ、松下幸之助の講演会に出たときの話だ。

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松下幸之助は講演会で、景気が悪くなった時のことを考えて、余裕のある時に蓄えをする「ダム式経営」をしなさい、と述べた。

ところが質疑応答の時、一人の中小企業経営者がこう言った。

 

「ダム式経営をしなければならないことはよくわかります。何も松下幸之助さんに言われなくても、中小企業の経営者はみんなそう思っています。しかし、それができないので困っているのです。どうすれば余裕のある経営ができるのか、その方法を具体的に教えてもらわなきゃ困ります。

 

すると松下幸之助は、たいへん戸惑った顔をして、しばらく黙った。

そしてポツリと言った。

「いや、それは思わんとあきまへんなぁ」

 

すると、聴衆のあいだから「答えになってないよ」と、失笑が漏れたそうだ。

 

この話を読んで、強く思い出した。

「昔、私もそんな感じのことを言われたな。」

と。

 

本気ではない人に、いくら教えても、無駄なんで

新人の時、私は先輩コンサルタントが主催する勉強会に出た。

詳細は忘れてしまったが、読書についてだったと記憶している。

 

だが、当時の私は、読書の時間を作っていなかった。

そこで、先輩にそれを質問した。

「忙しい時に、どうやったら本を読む時間を作れますか」と。

 

ところが、その主宰者は言った。

「時間は作りなさい。」

 

あまりにも抽象的だと思ったので、私は言った。

「そのやり方を、具体的におしえてほしいのです。」

 

ところが先輩は言った。

「本当に私が言ったとおりにやりますか?」

 

先輩に詰められ、私はドギマギしてしまった。

「え……、参考にします。」

 

先輩は冷たく言った。

本気ではない人に、いくら教えても、無駄なんで。

 

甘さを見抜かれた

私は先輩に「くだらない質問をするな」と怒られたのだと理解した。

仮にも、コンサルタントという職業に就いた人間が、「本を読む時間を作るにはどうしたら良いですか」など、聞くべきではないのだ、と。

 

しかし、時間がたつと、もう少し本質的なものが見えた。

要するに、私の甘さを、先輩は見抜いていたのだ。

 

確かに、本気の人物は「時間が作れない」などとは、言わない。

何が何でも、本を読もうとするはずだ。

 

稲盛和夫氏の上のエピソードも、「できればいいなあ」という程度であるならば、絶対に高い目標や夢は成就しない、とつづられている。

しかし、私はその瞬間、身体中に電撃が走るように思いました。

幸之助さんのつぶやきとも取れる「思わんとあきまへんなぁ」という一言に込められた、万感の思いのようなものに打たれたのです。

 

「思わんとあきまへんなぁ」──この一言で、幸之助さんは、こんなことを伝えようとしていたのではないでしょうか。

 

「あなたは、そういう余裕のある経営をしたいと言います。でも、どうすれば余裕ができるかという方法は千差万別で、あなたの会社にはあなたの会社のやり方があるでしょうから、私には教えることができません。しかし、まずは余裕のある経営を絶対にしなければならないと、あなた自身が真剣に思わなければいけません。その思いがすべての始まりなんですよ」

 

つまり、「できればいいなあ」という程度であるならば、絶対に高い目標や夢は成就しない。

余裕のある経営をしたいと本気で思っているかどうか。本気であれば、そのための具体的な方策を必死で考え、必ず「ダム」を築くことができるということを、幸之助さんは言いたかったのです。

経営者たちが「具体的にどうすればいいか教えてください」などと、子供のように松下幸之助に尋ねている。

それがあまりにも稚拙だったので、松下幸之助は戸惑ったのだろう。

「君たちは子供か」と。

 

ただ、松下幸之助は優しい人だったのだろう。

「本気ではない人に、いくら教えても、無駄なんで。」と言わず、「思わんとあきまへんなぁ」と言ったのだ。

 

やってから聞け

それ以来、大事なことを人に聞くときには「やってみて困った部分を具体的に」聞くようにした。

 

そうすれば、相談される側も、具体的なアドバイスが可能だ。

先輩の時間も無駄にしない。

 

「抽象的な質問には、抽象的な回答だけがある」

が、「具体的にやってみたことに対しては、具体的な返答が得られる」のだ。

 

 

最近では新人に対しては「気軽に聞いて」という風土のほうが良い、とされているケースも多いと聞く。

確かに、作業のとっかかりなどは、そのほうが良い時も多いのだろう。

 

が、どんな場面でも、それは妥当ではない。

特に、本気度が問われるとき。

 

「本気でない人には、いくら教えても、無駄なんで。」

は、私の心にずっと残っている、先輩の名言である。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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新型コロナウイルスの流行により、多くの企業が在宅勤務を導入しました。

在宅勤務が性に合っていて快適に働けているという人もいれば、「ストレスだらけでしんどい...」という人もいるのではないでしょうか。

本記事では、在宅勤務でどのようなことがストレス要因になりうるのか、そして、ストレスの発生を未然に防いだり解消していくにはどうしたらよいのかについてご紹介します。

 

在宅勤務が増えている背景

大きく2つの流れが影響しています。

 

働き方改革の一環

リモートワークは、ワークライフバランスの促進離職率の低下など、働き方改革や人材確保の観点でメリットがあります。

そのため、コロナ流行前も、場所に縛られずに作業が可能なIT企業などを中心に、在宅勤務を取り入れる企業が少しずつではありますが増えていました。

 

新型コロナウイルスの流行

リモートワークが普及した大きな要因は、やはりコロナの流行です。

コロナの予防対策として、業種を問わず多くの企業が一気に在宅勤務へ切り替えました。

「在宅勤務を余儀なくされた」という表現の方が正しいでしょう。

 

おそらくコロナ終息後も、こうした働き方の変化は「何らかの形で残っていくのではないか」と思われます。

詳しくは後述しますが、個人・企業ともに在宅勤務を経験することで、様々なメリットを享受したからです。

そのため、コロナが落ち着いた後も、一定数の企業で在宅勤務が働き方の形態が引き続き取られていくと予想されます。

 

在宅勤務のメリット

在宅勤務の導入は、個人と企業、双方にメリットがあります。

 

個人のメリット

個人にとっての在宅勤務の最大のメリットは、働く場所に縛られないということです。

オフィスに通うことを前提としたら、自宅から通える距離にある企業にしか勤めることができませんが、リモートワークであれば住居の場所を気にせずに「働きたい」と思える企業に勤めることができます。

また、通勤時間が無くなるため、浮いた時間をスキルアップや趣味、家族との時間などにあて、プライベートの時間を充実させることもできますし、成果さえ出せば自分のペースで仕事ができるため、リモートワークの方が伸び伸びと働けるという人も少なくありません。

 

企業のメリット

企業がリモートワークを導入するメリットの1つは、人材の確保です。

自由な働き方を望む優秀人材へのアピールポイントになりますし、育児や介護など家庭の事情で従来の働き方をし続けることが困難になった人の離職を防ぐ効果があります。

また、コロナの流行によって一部の企業では借りていたオフィスを返したり、地価が安いエリアへオフィスを移す動きもみられましたが、そのような場合、オフィスにかけていた分の賃料が浮くためコスト削減になります。

 

在宅勤務におけるストレスの発生要因

「在宅勤務の方が快適に働ける」という人がいる一方で、ストレスを感じ心身共に疲弊してしまう人も少なくありません。

在宅勤務における代表的なストレス要因を5つほどご紹介します。

 

成果へのプレッシャー

まず1つ目は、成果を出すことへのプレッシャーです。

上司からすると部下の普段の仕事ぶりが見えにくくなるため、どうしても仕事の成果に重きを置いた評価にならざるを得なくなります。

そうすると部下は、「上司にちゃんと評価してもらえているのか」と不安を感じたり、「結果を出さなくては」と過度なプレッシャーを感じてしまうようになります。

 

ONとOFFの切り替えが上手くいかない

在宅勤務だと、どうしても生活空間の一部で働くことになります。

さらに、出勤や退社といった良い意味で気持ちの切り替えになる行動がなくなるため、就業時間を過ぎてもついだらだらと仕事をし続けてしまい、オフィスで働いていた時よりも結果的に長時間労働になっているという人も少なくありません。

 

運動不足により心身の不調

通勤やオフィス内の移動などがなくなった分運動不足になった、という話もよく耳にします。

私自身もそうですが、在宅勤務だと意識して運動しなければ1日200歩くらいしか歩かない日もあるんですよね。

 

運動不足は、疲れやすくなったり筋力が衰えたりと、健康面でデメリットがあるのはもちろん、メンタル面の不調も引き起こしやすくなります。

運動をすると、気分がリフレッシュしたり、精神の安定や安心感につながるセロトニンと呼ばれる脳内物質が分泌されストレスが緩和されやすくなりますが、運動不足だとこうした機会が減ってしまうので、気分が落ち込みやすくなってしまいます。

 

コミュニケーション不足による閉塞感・孤独感

職種や同居人の数によるかもしれませんが、「今日一日、誰とも話さなかった」という日がある人もいるかもしれません。

在宅勤務だと、同僚と雑談をしたり、上司に気軽に相談したりなど、直接会話する機会がぐっと減ってしまいます。

さらに、成果を出さなければならないというプレッシャーを感じながら一人黙々と作業をしなければならないため、孤独感や閉塞感を強く感じやすくなります。

 

働く環境が整っていない

自宅が働く場所として最適化されていないというのも、ストレスを招く大きな要因の1つです。

例えば、机や椅子がそもそも長時間作業するのに適していないものだったり、家族に気を使いながら仕事をしなければならなかったりと、集中できない環境で仕事をしなければならないことに悩んでいる人も多くいます。

 

在宅勤務でストレスを貯めない方法

では、なるべくストレスを感じずに自宅で働くためには、どうしたらよいのでしょうか。

おすすめの方法を5つご紹介します。

 

セルフマネジメント能力を高める

セルフマネジメントとは、その言葉の通り「自分自身を律し、管理すること」です。

ストレスを貯めにくい状態を作っていくためには、まずは心身ともに健康であることが重要です。

 

運動習慣がない、栄養バランスが偏った食事が多い、つい遅寝・遅起きしてしまうなど、もし現状あまり健康に良くない生活を送っているならば、一つずつ見直し改善していくようにしましょう。

また、セルフマネジメント能力を高めるコツについては、こちらの記事で詳しく紹介していますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

セルフマネジメント能力とは?必要とされる理由と高める方法

仕事のパフォーマンスを上げていくうえで欠かせない「セルフマネジメント能力」を高めていくコツについてご紹介します。

 

社内コミュニケーションを増やす

コロナの流行により、「雑談」の重要性が注目を集めました。

雑談は、その行為自体が気分転換になりますし、お互いを知り信頼関係を築いていく手段にもなりえます。

 

仕事の場でも、ちょっとした雑談の時間を取り入れていくことで在宅勤務による孤独感や閉塞感が緩和されていきます。

例えば、ミーティングの場では業務報告や議題に関することだけでなく、ちょっとしたアイスブレイクや雑談の時間を取り入れてみたり、チャットツールで気軽に相談できるチャンネルを作成したり、オンラインランチや飲み会を企画したりなど、同僚と会話する機会を意識的に増やしていってみましょう。

 

社外コミュニティに参加する

社内のコミュニケーションを増やすといっても、限度があったり、企業によっては難しかったりします。

そのため、社外のコミュニティに所属するという方法もおすすめです。

例えば、趣味の集まりに参加するというのでもいいですし、自己研鑽もかねてビジネススクールやプロボノを始めてみるのもいいかもしれません。

情報収集や社外の状況を知る機会にもなるので、閉塞感や不安の解消にもつながります。

 

ゴールを意識し、スケジュールを組む

出勤・退勤の概念が希薄になることで、つい遅くまでだらだらと仕事をし続けてしまうという人は、毎日のタイムスケジュールをきちんと組むようにしてみましょう。

時間の使い方が上手くなるコツについては、こちらの記事で詳しく紹介していますので、ぜひ合わせて読んでみてください。

 

時間の使い方が上手くなる4つの方法と時間を捻出するコツ

時間の使い方が上手くなる方法や、忙しい人が時間を捻出するコツについて紹介します。

 

仕事に集中できる環境を作る

仕事とプライベートの空間をしっかりと区切るということも、ストレスを貯めないために重要なポイントです。

自宅で作業となると、どうしてもプライベートゾーンと近接になり、仕事のONとOFFがつけづらくなってしまいます。

しっかりと仕事モードに切り替えるため、空き部屋があれば書斎にしたり、それが難しければパーテーションで区切ったり、生活感のあるものは収納するなどして、作業に集中できる環境にしましょう。

 

まとめ

今後、在宅勤務という働き方は今まで以上に「当たり前のもの」になっていくと予想されます。

これからの時代、環境に順応しつつ成果を出していくことがビジネスパーソンとして活躍していくための必須条件かもしれません。

ぜひ在宅勤務によるストレスに上手く対処しつつ、セルフマネジメント能力を高めていってください。

(執筆:村尾 佳子)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

Photo by Elisa Ventur

この記事で書きたいことは、大体以下のような内容です。

 

・先日東洋経済さんで、「受験生の親に実践してほしい10大ルール」というような記事を読みました

・ただ、幾つかの点から、私はその記事をどちらかというと批判的な視点で見ています

・一つは「統計的に妥当だと言える内容ではないこと」

・一つは「家庭それぞれ、子どもそれぞれの適性というものがあるのに、それを無視して受験家庭を一般化していること」

・上記を考慮すると、タダでさえ大変な受験家庭の親御さんに、余計なルールを増やしてプレッシャーを与える側面の方が強いように思います

・私としては、受験家庭に「ルール」があるとすれば、「ルールは無理をしない範囲で柔軟にとらえて、守れなくても重たく考えない」というものが唯一ではないかと思います

・その家庭それぞれに合った「ルール」をいいとこどりで模索していけるといいですよね

 

よろしくお願いします。

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまいましたので、あとはざっくばらんにいきましょう。

こちらの記事を拝読しました。

東大生が力説「親子で朝食とると成績上昇」のなぜ  受験生の親に実践してほしい10大ルール

「一緒に朝ご飯を食べること」
「何か1つでも家事をさせること」
「適度に運動させること」
「毎日同じ時間に風呂に入らせること」
「体調が悪いときは無理させず、休ませること」
「リビングはいつでも片付けておくこと」
「勉強に口出しをしないこと」
「夫婦仲を良くすること」
「月に一度家族で外食すること」
「この10カ条を父親と共有すること」

この手の記事って毎年観測することが出来まして、受験という一大イベントに試行錯誤しつつ苦しんでいる親御さんに、「何か指針を」というニーズが強くあるんだろうなーと推測出来ます。

 

「ドラゴン桜」作中でも紹介されていたものですが、「ルール」の内容自体は比較的よく見る「やった方がいいこと」に「東大生」という冠をつけてまとめ直したもののように見え、一見すると「まあ少なくとも害にはならないよね」という感じなので目くじらを立てるようなものではないようにも思えます。

 

リビングが片付いていて悪いことはないですし、夫婦仲が良くてマイナスになることもまあないでしょう。

それについて文句はないんです。

ただ、「「ルール」とか「〇箇条」という言葉は、「受験」というイベントを抱えた家庭に投げかける言葉としては聊か強すぎる」「その割りに統計的な論拠は薄い」ということが、ちょっと指摘しておきたい問題です。

 

まず論拠の話。

例えばの話、まずタイトルでいきなり「親子で朝食とると成績上昇」とか言ってしまっている「一緒に朝ご飯を食べること」のルール。

 

朝食を食べる頻度と学力に相関があることは良く知られていますが、これについては疑似相関である可能性が従前からたびたび指摘されています。

参考論文として、山岸直基先生の下記論文をリンクします。

脳と行動の相関関係について心理学からいえること (流通情報学部開学15周年記念論文集)

所得の低い世帯では,習慣的朝食欠食者の割合が多くなるのである。さらに,世帯年収と子どもの学力との間に相関があるとの報告もある(石田, 1989)。したがって,朝食摂取と学力は,ともに世帯年収とも相関関係にある。この3つの変数(学力,朝食摂取,世帯年収)の間のどこに因果関係があるのかは現時点では不明であるが,朝食摂取が世帯年収に影響を与えると考えるよりは,世帯年収が朝食摂取に影響を与えると考えるほうが,説得的であろう。

要は、「朝食を食べること」が学力に直接影響を与えているわけではなく、裕福な家庭には朝食を食べる習慣が強く、また裕福な家庭であるが故に塾教育などで学力が高くなる、という話ですよね。

 

この指摘は色んな人が行っているのでちょっと皆さんも検索してみてください。

「因果関係と相関関係の違い」を説明する時によく使われる定番ケースです。

その割りに今でも「朝食習慣による学力増進」とか言っちゃう人がしばしば観測出来ますけど。

 

これ以外の「ルール」についても似たような話でして、「何か一つ家事をさせること」と学力を直接紐づける研究もないですし、毎日同じ時間に風呂に入ることと成績を直接相関させる統計も、探してみた限りでは見つかりませんでした。

体調が悪い時に無理をさせても何もいいことがないのは恐らく事実でしょうが、これはちょっと東大生のルール以前の話です。

 

いや、いいんですよ?重ねていいますが、どれも「悪いこと」ではないですし、家庭によっては実際、家事に参加したり、リビングを片付けるようにすることで成績が改善する受験生もいるかも知れません。

朝食時のコミュニケーションでメンタルを良化させる受験生だっているでしょう。それを否定するわけではないんです。

 

ただ、繰り返しになりますが、「どんな「ルール」が適合するかは家庭次第受験生次第で本来一般化出来るものではない」上に、「「ルール」とか「〇箇条」という言葉は、「受験」というイベントを抱えた家庭に投げかける言葉としてはいささか強すぎる」んです。

 

***

 

自分の属性を明示しておくと、私は東大の卒業生で、塾講師のアルバイト時代色んな家庭の受験を眼前で見てきて、かつつい先日自分の子どもの中学受験を経験した身でもあります。

 

で、その個人的な経験の上で言いますと、「受験」って家庭全体にめっちゃ負荷がかかるイベントです。

本人も大変ですが親もすげー大変です。

もちろん塾や模試の費用の問題もありますし、生活スタイルの変化、本人や家族へのプレッシャー、学力面でのサポートにメンタル面でのサポートにと、まあ「受験は親と子どもの二人三脚」というのはよくいったものです。

 

こういう時、例えば受験生本人の成績が伸び悩む。あるいは勉強に身が入らない、学習習慣が根付かない。

そうすると親は当然、「どうすればいいんだろう」「何がいけなかったんだろう」と考えてしまうんですね。

で、色んなところからかき集めてきた、「受験の為の〇〇のルール」を導入して、頑張ってそれを守ろうとしたりしてしまうんです。

 

ただ、上記でも書いた通り、「受験の為の〇〇のルール」的なものは往々にして十分な統計的根拠を備えていません。

そんなのは当たり前で、受験生も家庭も「人それぞれ」分が非常に強い以上、皆に当てはまって「それを守れば成績が上がる」なんてルールが存在するわけはないんですよね。

 

例えば胃腸が弱くて、朝ご飯を食べるとお腹を壊しがちになる子に無理やり朝食を食べさせてもいいことはないですし、家事の手際が悪くって親と衝突して集中力が削がれることだってあり得る話です。

「ちょこちょこ勉強に口出ししてもらわないと継続出来ない、集中出来ない」という子だって実際にいますし、「ちょっとくらい部屋が散らかっていた方が集中出来る」という子だって中にはいるでしょう。

 

ただ、受験家庭の親子というものは非常にナイーブなものなので、「ルール」という言葉があると「ルール」を守れなかったことによってお互いを責め合ってしまったりするんですよ。

更には、成績が上がらない原因を「ルール」を守れなかったことに求めてしまって、肝心の学習の方の見直しをおろそかにしてしまったりすることもあるんです。

 

結果的に、「ルールを守れない」ことで家庭内が険悪になって、受験生のメンタルに却って悪影響を及ぼす。

そういう本末転倒なケース、全然珍しくありません。私自身、山ほど見てきました。

 

冒頭記事でも書いてある通り、受験というのは短距離走ではなくマラソンです。

ただしこれは、「子どもにとって」だけではなく、「親にとって」も同じことです

そして、マラソンを走り切る為に一番必要なことは何かと言うと、「荷物を減らすこと」です。

精神的負荷は少なければ少ない程いいですし、ストレス要因も少なければ少ない程いいです。

 

となると、「ルール」とか「〇か条」とかいう言葉で家庭の負荷を増やすのは、受験家庭に対するアドバイスとしてはちょっとどうなんだろうなあ、と私なんかは考えてしまうんですよ。

 

***

 

私の考えとしては、また過去色んな受験生の親御さんにアドバイスしてきた身としては、受験生の親のスタンスというものは「成功例のいいとこどり」かつ「出来るところだけやる、出来なくても気にしない」でいいと思っています。

 

こういうやり方がある、こういうやり方もある。

その中で「いいな」と思ったやり方があれば、無理なく取り入れられそうな部分だけを無理のない範囲で取り入れる。

出来なさそうだったら固執せずに他の方法を模索する。

まあその程度でいいんじゃないのかなあ、と。

 

そういう意味で、「サンプル提示」とか「こういうやり方で上手くいったよ」というのはガンガン参考にしていっていいと思うんですが、「〇箇条」的なものはあんまり真に受けなくていいんじゃないかなあ、というのが、今回一番書きたかったことです。

別にn=1であーだこーだいうわけではないんですが、上記10箇条、殆ど当てはまってない私みたいなのも東大生にはそこそこいますし。

 

ちなみに飽くまで一つのサンプルとして、しんざき家には色んな生活習慣のルールがありはするんですが、無理のないようにちょくちょく見直しています。

就寝時間も21時と決めていたんですが、塾やら何やらいろいろあって最近は21時半になりましたし、「夕飯後の宿題残業禁止」というルールも夏休みにはケースバイケースです。

 

ただ、その際必ず子どもと「今出来ているか」「今後出来そうか」「無理ならどうするか」という合意をとるのが一つの個人的なポイントで、納得した上で「ルール」として受け入れてもらうのが大事なんじゃないかなあ、と。

まあこの方針も一般化するつもりはないんですが、今のところしんざき家ではそこそこうまくいっているような気がします。

 

来年受験の皆さまは、このコロナ禍の中様々に大変なことだろうと拝察するのですが、まずとにかく「走り切る」ことだけを念頭に、健やかに過ごして頂ければなあと思うばかりです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Bernard Hermant

夏休みを利用して富士山に登ってきた。

「せっかく日本人に生まれてきたんだし、一生に一回ぐらいは富士山に登ってみたいなぁ」

こう思っている人は多いだろう。

 

だが、なんとなく富士登山には宿泊が必須なんじゃないかとか、そもそもムチャクチャにハードなんじゃないかと思いこんでて「自分には無理だろう」と思っている人も多いのではないだろうか。

 

僕も「富士山なんてキツそうだし時間もないしで自分には無理ぽ」と思い込んでいたうちの一人だったのだが、色々と調べてみるうちに

「これひょっとして日帰りでいけんじゃね?」

という事に気が付き、自分で実践してみた。そして結果的にはイケた。

僕が知る限り、日帰り富士登山に関してわかりやすく整備された情報源があまりないので、今回はそれについて書き、実際に登る価値があるかどうかに関しても記載する。

 

富士山は新宿から直行でいける

富士山は登るにあたって複数のルートがあるのだけど、最も初心者向けとされている五合目の吉田ルートへは新宿より直行便がでている(web予約で片道2650円。安い)

バスの始発は6:45発(五合目9:20着)で、最終便は17:00発(新宿19:35着)である。

 

つまり理論上は到着してから7時間30分以内に登って帰ってこれれば、日帰りが可能な場所なのである。

 

「あれ、ひょっとして日帰りイケんじゃね?」

 

そう思いGoogle先生に尋ねてみたところ、Google先生も「理論上は可」との回答である。

先生いわく…理論上は登りは3時間10分で

 

下りは2時間半程度との事である。

 

合計で5時間40分。

これなら道中に休憩をいれても”理屈の上では”達成可能だ。なら…やるしかねぇ。

 

お鉢めぐりをやらなければ、達成難易度はそう高くない…と思う

実際のタイムはどうだったかというと、登りは休憩を入れて4時間20程度で、下りは1時間30分程度であった。

これにお鉢巡りといって山頂をぐるりと一周する行為が1時間20分程度加わり、合計タイムは上図の通り7時間10分である。

 

参考までに僕の肉体スペックを書いておくと、登山趣味は無く、いわゆる山登りの経験はほぼ無い。

毎日3.3キロのランニングを約3ヶ月やっていたので、一般人と比較すれば体力はある方だろう。

 

「えっ、それじゃあ毎日走らないと富士登山ムリなんじゃね?」と思われる方もいるかもだが、体感的にはお鉢めぐりという山頂を一周する行程を省略すれば普通の人でも制限時間内での登り下りは可能だと感じた。

吉田ルートの登山コースはとても整備されており、いわゆる難所はほぼ無い(まあ楽ではないが)

 

せっかく山頂まで登ったんだからお鉢めぐりもやりたいという人は走り込み等を行ってそれなりに準備すべきだろうが、単に山頂まで行って来いをやりたいというだけならばそこまでムチャクチャに達成難易度は高くはない。

 

だから興味がある人はぜひともチャレンジしてみて欲しい。

後でまた書くが、富士登山は非常に良い思い出となるし、人生観が変わる。マジで。

 

最重要アイテムは靴。そして雨の日は登らないこと

さて、続いて装備について書こう。

最も重要なのは靴だ。

他の何を省略してでも、靴だけはちゃんとしたものを履いたほうがいい。

 

ぶっちゃけ最悪それさえあれば他にはお金だけでも何とかなる。

「スニーカーでもいけるやろ」みたいな甘い考えは開始10分で絶対に後悔するからマジでよした方がいい。

 

僕は今後トレイルランをやろうと思ったのでMERRELL社のTRAIL GLOVE 6という靴を履いたが、普通の人は長靴状の登山靴を選んだ方が無難だと思う。

 

富士山は火山で砂が細かく、踵が低い靴を履くと砂や小石がムチャクチャに入り込む。

後半になって脚が棒になると、砂や小石を取り除こうとする動作ですら超苦痛になるので、極力最初から砂の入り込みは避けておいた方が無難だ。

 

なお登山靴を買うのが嫌だという人は事前申し込みでレンタルも可能らしいので、そっちもありだろう。

 

あと服装も肝心だ。

具体的にはツバの長い帽子と薄手の長袖・長トレパンあたりを用意しよう。

なお綿パンやジーンズでのチャレンジは汗で張り付いて大変らしいので、避けたほうが無難だそうだ(僕はユニクロ ウルトラアクティブ ジョガーパンツを使った。これは良かったと思う)

 

なお、夏だからといって半袖半ズボンはやめておいた方が無難である。

真夏でもだいたい八合目を堺に富士山は随分と寒い。

気温は昼でも8~13℃で、障害物が皆無な事から風がビュービュー吹いてて、これがまたエグい。それと日焼けがエグい。

 

なので日に当たる箇所は極力少なくし、それでも当たる場所は日焼け止めクリームを塗っておくのが無難だ。

雲という遮蔽物のない環境下における直射日光の暴力は凄い。

日焼け対策を怠ると、後でむっちゃ痛い。

僕は半袖で通したが、今になって大変に後悔している。

 

そもそもの大前提として晴れの日に登るのが何より重要だが、山の天気は変わりやすいので念の為にもレインスーツを用意しておいた方がいい。

買うならミズノのベルグテックEXストームセイバーVI レインスーツがいいと思う。

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軽いしウインドブレイカーとしても使える(なお、折りたたみ傘は山では強風で壊れるのでNG)

 

水と食料はそんなに必要ない

飲食物についても書こう。

水は1000mlもあれば十分。

 

食料は僕は登る前におにぎりを2つ食べたのと持ち込んだチョコを少量食べたのに加え、道中で富士山限定販売のクリームパンとアンパン食べたぐらいで、そこまで腹は減らなかった(なおパンはとても美味しいのでオススメ)

僕は特に欲しくならなかったが人によってはカルパスのような塩っぱい食べ物を美味しく感じるらしいので、持っていってもいいかもしれない。

 

吉田ルートは山小屋が道中結構あって色々と物品の購入が可能なので、荷物を少なくしたい人はほぼ何も持ち込まないのもありだと思う。

参考までに水は一本500円程度である。

下界と比較すれば高いが、リュックの総重量を減らせると思えば安い。

 

なおリュックは肩だけではなく腰で固定できるのを使うのがいい。

圧倒的に動きが楽になる。

僕はsalomon社の20Lのものを使った。日帰りなら容量的にはこれぐらいあれは十分である。

 

ちなみに売店では酸素とかカップラーメン、お菓子や食事類・酸素も売ってる。

だからあれもこれもとそんなにアイテムを持ち込む必要はマジでない。

それよりも道中のトイレの使用に100円玉が必要となるので、10枚程度くずしておく方が大切である(参考までに僕は登り下りで1回づつトイレを利用した)

 

富士山は観る山であって、登る山ではない?

「富士山は外から眺める山であって、登ってて楽しい山ではない」

「日本には他にもっと美しい山が沢山ある。これを機に登山に興味を持ったら他の山の美しさもぜひ知って欲しい」

 

富士山について色々と調べる中で、このような意見がある事を知った。

<参考 山と食欲と私 9巻>

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実際、富士吉田ルートの山道は単なる岩景色である。

富士山はあまりにも標高が高いので森林限界といって草や木がほぼ育たない。

景観自体も最初から最後までほぼ同一で、山頂以外で圧巻されるような景色を目にする事は無い。

 

新幹線や飛行機で外から眺めているとあんなにも美しいのに、実際に登るとかなりの殺風景続き。

それが富士山だといえば、確かにそうとも言えよう。

 

じゃあ登っててつまらなかったかというと、そんな事はない。

むしろかなり楽しかったし、心の底からやってよかったなと思う。

 

何がよかったかというと、日常生活では絶対に無理な強度で己に向き合えたという事と登らなかったら絶対に得られなかった観点を持てた事である。

ハウトゥーはこの辺で終え、以下では僕が富士登山を通じてどう考えに変化が生じたのかを書く。

 

登山は山を征服するようで、山に征服されていく喜びがある

若い頃は登山に対して

 

「山登りなんて、脚が痛くなるだけじゃん」

「それこそ他にすべき事は山ほどある」

「わざわざ自分から疲れにいくとか、ばっかじゃないの!?」

 

と思っていたが、この年齢で始めた登山は全然違う風景を僕にもたらした。

山登りの面白さは己と必然的に向き合い続ける部分にあるように思う。

 

己の行く道をしっかりと見つめ、どういったルートを選べば自分の肉体が効率よく動くか。

 

このように自分の体や脚が限界を迎えていないかなどを常に客観視し続ける作業には、心理学でいうところの内観的な行いがある。

己の内側を覗き続けるのはとても楽しく、この内観的な作業を通して山を征服してゆく作業には強い達成感が伴う。

 

それに加え、山を征服しつつもまた自分の一部が山に征服されていくという感覚には不思議な歓びがある。

富士登山を通じて、僕は自分の中に今までは無かった大きな何かが宿った感覚を手にした。

 

傍からみれば単なる肉体疲労しただけとも言えるのかもしれないし、そういうモノの見方も僕は否定しないけど、個人的にはこんな面白いモノを単なる肉体疲労と切って捨てるにはあまりにももったいないと思う。

 

富士山に登ると、人生観が一変する

これに加えて富士山に登る事で何が得られるかといえば、やった人生とやらない人生の可視化である。

これは内在感覚としても間違いなく己の内に宿る。

 

例えば今後、僕が新幹線や飛行機でもって眺める富士山の景色は、富士山に登る前にみた景色とは完全に異なったものとなる。

外からみた富士山は銭湯の絵みたいだけど、あれを見ながら殺風景な岩景色や山頂の青さと白さを想起できるのは、登った事がある人間だけだ。

 

外側の美しさと内面の殺風景さ。

この二面性は実際に登った人だけが得られる心の目である。

文字や映像では絶対に得ることができない。

 

単に美しい景色や知識といったものなら誰でも得ることができるけど、この真理だけは富士山に登った事がある人間しか手に入れる事ができない。

 

ここにある種の人生の本質がある。

世の中にはこういった類のモノが実にたくさんある。

 

傍観する人生と、やる人生。あなたはどちらがお好きですか?

経験はとても尊く、人生をとても色鮮やかにしてくれる。

 

例え話を一つしよう。学園の美しいマドンナをみて

「あんな美しい人と付き合えたら死んでもいい」

というだけの傍観する人生と

 

実際に勇気を出して告白し、付き合って結婚し、子供を産み育て

「いや、まあ実際に腰を据えて付き合うとなると、結構大変だったよ」

と言う人生。

 

富士山を登ったか登らないかは、この2つの人生と同じぐらいの格差がある。

この理論を頭で理解するのは誰にでもできるかもしれないが、心の底から理解できるのは”やった側”の人間だけだ。

 

「富士山は外から眺める山であって、登ってて楽しい山ではない」

実際に、登った人がそういう感想を持つのはいい。

それはその人にとっての真理だからだ。

 

ただ、やってもいないくせに「富士山に登る意味なんてない。単なる殺風景な山でしか無いんだし」と斜に構え、したり顔でもって”やらない”人生を堂々と主張し始めるのは、とても損だ。

そういう態度は人生を物凄く毀損する。

 

富士山に登れば、あなたは今すぐにでも”やった側”に立つ事ができる。

そう考えると、なんだか登らない事が物凄く損に思えてこないだろうか?

 

さあ、あなたも富士山に登ってみよう。大丈夫、絶対に損はしないから。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Leon He

『ソニー再生 変革を成し遂げた「異端のリーダーシップ」』(平井一夫著/日本経済新聞出版)を読みました。

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ソニーの「V字回復」を成し遂げた平井一夫・元社長自身による回顧録です。

ソニーが低迷期からプレイステーションやイメージセンサーのおかげで「復活」してみると、「やっぱり『SONY』は底力があるな」なんて納得してしまうのですが、プレステもイメージセンサーも、ソニーにとっては「異端の製品」ではあったのです。

参考リンク:【読書感想】ソニー半導体の奇跡―お荷物集団の逆転劇

 

そして、平井さん自身も、「異端」の人生を歩んできた、と述懐されています。

平井さんは、子供時代に親の海外赴任に同行した際に、アメリカやカナダで生活したときの言葉の壁に苦しみ、やっと日本に帰ってきたら、今度は日本の学校の慣習に馴染めなくて、自分の居場所はどこにあるのか、と困惑していたそうです。

 

帰国子女のなかには、その経験を活用して海外で働こう、という人もいるのですが、平井さんは、ずっと日本にいて、日本人として生活していきたい、と若い頃は考えておられたのだとか。

そんな平井さんが就職先として選んだのが、CBS・ソニーだったのです。

振り返れば数奇な運命をたどった会社員人生である。学生時代に好きな音楽を仕事にしたいと門をたたいたのが、CBS・ソニーだった。

海外からやって来るアーティストの売り込みに奔走したり、通訳にかり出されたり、その頃、親会社にあたるソニーは世界的なエレクトロニクス・ブランドへと駆け上がっていたが、そんなことはどこか他人事だった。

 

そもそもソニーが親会社だという意識さえない。CBS・ソニーのオフィスがあった市ヶ谷からソニーが本社を構えていた五反田まで、距離にすると10キロほどだろうか。

当時の私にとっては、たった10キロ先にある「親会社の本社」がまったくの別世界に思えた。自分が働く会社に、たまたま「ソニー」の名前も入っているという程度の認識だった。

 

音楽業界の仕事は面白かった。ただ、当時から私は仕事とプライベートをはっきりと分ける主義だった。結婚してからは会社から遠く離れた宇都宮の郊外に家を買って新幹線で通勤した。

休日になれば大好きなクルマでドライブに出かけたり、自分で組み立てたラジコンを近所の公園で走らせて遊んだり。出世競争なんてまったく興味がなかった。会社への貢献は、肩書でするものでもないとも思っていた。

 

それが人との巡り合わせを重ねるうちに、気づけばソニーの社長になってしまっていた。
まさに人生の不思議である。

この本は、平井さん自身の視点で書かれているのですが、読んでいると、『課長・島耕作』よりも数奇な会社員人生というか「事実は小説より奇なり」とはこういうことなのか、と思わずにはいられません。

 

アメリカのCBS・ソニーで働いていた平井さんは、アメリカでのプレイステーションの立ち上げに人手が足りないからということで加わり、ソニー・コンピュータエンターテインメント・アメリカ(SCEA)を経て、ソニー・コンピュータエンターテインメント(SCE)本社の社長として45歳で日本に帰国します。

野心的な試みではあったものの、初期は大赤字を垂れ流すことになってしまったプレイステーション3を立て直し、2012年にソニー本社の社長に指名されたときには、そのキャリアから、「エレクトロニクスがわからない人間はソニーの社長にふさわしくない」という批判も浴びていたそうです。

 

いろんな人に課せられた「宿題」をこなしていたら、いつのまにか自分がいちばん上に立ってしまった、そんな感じなんですよ。

そもそも、最初に音楽産業のCBS・ソニーに入社して、ニューヨークで久保田利伸さんのマネージメントを一生懸命やっていた人が、ソニー本社の社長になるなんて、ありえない話ですよね。

 

あらためて考えてみると、平井さん自身の「人を惹きつけ、組織をまとめる能力」とともに、大きな反発があったとはいえ、結果的に平井さんのような「異端の人」をトップとして受け入れることができたソニーという会社の懐の深さと、平井さんを見いだし、バックアップした先輩たちの慧眼にも驚かされます。

 

ソニーと同じ、日本を代表するエレクトロニクス企業だったシャープや東芝は、「有能だったはずの人たち」「社長になりたい、自分がなるべきだ、と信じていたエリートたち」の派閥争いで弱っていき、創造力を失っていったのです。

参考リンク:【読書感想】シャープ崩壊−−名門企業を壊したのは誰か

 

本社のエリートコースに乗っていたわけではなく、外部から抜擢されて組織の舵取りを任され、それを成し遂げた人として、僕が真っ先に思い浮かべたのは、任天堂の故・岩田聡社長でした。

平井さんや岩田さんは、「ちゃんと相手の話を聴くことができるリーダー」であるのと同時に「自分にできない、あるいは不向きなことは適切な人に任せる、ただし、その結果に対する責任は自分で引き受ける」という共通点もあるのです。

参考リンク:素晴らしいことに、任天堂の岩田聡さんは「人間を説得して動かすのも、プログラミングと同じこと」と考えていた

 

平井さんは、自分の手柄話や「仕事のなかでの具体的なエピソード」は、ほとんど書かれていません。

まだ社長を退任されて時間も経っておらず、「書けない」こともたくさんあるのでしょうけど。

 

そんななかで、平井さんは、あえてこんな話をされているのです。

リーダーとして最もつらい仕事のひとつが、「卒業」の宣告である。ここでは経営層のリストラになる。つまり、会社を辞めてもらうこと。

 

「あの人は政治的なことばかりやっている」と社員から見られるような人を会社に残して足の引っ張り合いを放置してしまえば、社員が安心してパフォーマンスを発揮できる環境には絶対にならない。

それに、前述の通り私はすでに追い込まれている。ここでバットを振らなければゲームセットだ。嫌な仕事だからといってためらっている余裕などない。

SCEAを去ってもらう人には、ハッキリと告げた。

 

「君はこの会社とは縁がなくなる。辞めてもらう。今日はもうこのまま帰っていい。明日の朝6時以降に会社に来てもらえればセキュリティーと同行で部屋に入れるようにしてある。私物だけ持って帰ってくれ」

非情な宣告である──。これは人事部門などの人に任せず、必ず自分自身で行った。クビを宣告する相手と一対一で向き合って。

これは後々まで私が経営者として貫き通したポリシーだ。少なくともマネジメントの一員として自分より先輩の方には、つまり経営層として自分より長く組織に貢献してくれた人には、直接会って一対一で「卒業」を促す。

 

理由は大きく言ってふたつある。第一に、やはり会社に貢献していただいた人に対する敬意を示すためだ。

そして第二に、こんな気乗りしないつらい仕事を人任せにするようなリーダーに、人はついてこないと考えるからだ。

 

例えば、人事部門の人がこんな仕事を振られたら「平井さんは良い時は表に出てくるくせに、嫌な仕事だけは我々にやらせるんですね」と思ってしまう。そう思われてしまったらもう、人は動いてくれない。

経営者になると日々、様々な判断を迫られる。ほとんどルーティン化した決裁もあれば、非常に厳しい判断、痛みを伴う決断を下さなければならないことも多い。

 

私の場合、大きく言えば、このSCEAを振り出しに、この後には東京のSCE本社、そしてソニーと三つのステージで「経営再建」という課題に取り組み、そのたびにいくつものつらい決断を下してきた。

SCEAの頃はまだまだ手探りだったが、この時の経験から後々まで絶対に替えることがなかった経営者としての大原則がある。それは、難しい判断になればなるほど、特に心が痛むような判断であればあればそれだけ、経営者は自らメッセージを伝えなければならないということだ。リーダーはそういうシーンで、逃げてはならない。

言われてみれば、当たり前のように聞こえるのですが、こういう「気が重い仕事」「悪者になること」は、誰だってやりたくないのが本音でしょう。

平井さんは、だからこそ、それを「リーダーがやるべきこと」だと考えていたのです。

 

僕はこれを読んで、以前、中国の史書で読んだエピソードを思い出したのです。

暗愚な君主に、ある家臣が、こんな申し出をしました。

 

「皇帝陛下、家臣に褒賞を与えるときは相手に感謝されますが、叱責したり、罰を与えたりすると嫌われたり、恨まれたりします。ですから、陛下は臣下に感謝されることだけおやりになり、彼らを断罪する役割は私におまかせください。そうすれば、陛下は嫌な思いをせずにすみますし、みんなに好かれます」

 

暗愚な皇帝はその提言に従ったのですが、その結果、人々はみんな刑罰を担当する家臣の言いなりになり、皇帝は置物になってしまったそうです。

平井さんは、「嫌な仕事を経営者として引き受けていた」のですが、自らの手で「卒業宣告」を行うというのは、最終的な人事権を自分で掌握する、ということでもあったのです。

 

平井さんは、他人の話をよく聴く人であり、社員の集まりなどでも気さくに声をかけ、なるべく「壁」をつくらないようにしてきたのです。

会社のイベントなどにも積極的に参加し、各地の社員食堂では「みんながふだん食べているものを食べたい」とリクエストしていたそうです。

 

そんな、「親しみやすく、つねにチームに向かってフラットな目線でメッセージを発し続けるリーダー」ではあったけれど、けっして、甘いだけ、気さくなだけの人ではなかったのだと思います。

 

それまでのソニーの盛田昭夫さんや井深大さんのような「カリスマ」ではない、新時代のリーダーとして、平井さんは大きな仕事を成し遂げました。

でも、それは、平井さんが自分自身にも他者にも「厳しさ」を併せ持った人だったからなのだと僕は感じました。

 

平井さんのような「異端の人」を抜擢できたソニーや任天堂には、そういう企業風土があったのか、先人に見る目があったのか、それとも、運が良かっただけなのか?

 

結局のところ、僕にはよくわからないんですけどね。これまでの人生でも、権力を握ったり、立場が変わったりした途端にダメになってしまう人を大勢(そして、立場が変わったおかげで予想を超える能力を発揮した人を少数)みてきましたし。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo by Nikita Kostrykin

 

仕事が「好き」と仕事が「楽しい」は、全く別の話

私が新卒だったころ。

日々、新しい仕事を得て、成長を実感していた私は、仕事が楽しかった。

 

ある時、私は同行した先輩に、それを言った。

「コンサルティングの仕事は、面白いですね」と。

 

ところが先輩は、私にいった。

「今はやったことのないことを覚えて、楽しいだけ。」

 

「どういうことでしょう?」と聞くと、彼は言った。

「プロの仕事は、だいたい楽しくないってことだよ。」

 

意外だった。

仕事は楽しくやろうよ、とでも言いそうな人だったからだ。

「じゃ、先輩はこの仕事が嫌いなんですか?」

 

彼は言った。

「仕事が「楽しい」と、仕事が「好き」とは、全く別の話なんだよ。今はわかんないと思うけど、あと10年したらわかるよ。仕事は楽しくない。つらい。けどこの仕事は好き。」

 

「仕事 したくない」

検索窓に「仕事」と入れると、悲しい世相が浮かび上がる。

 

 

辞めたい、行きたくない、やる気でない、したくない、できない……。

気の滅入るキーワードが並ぶとおり、仕事は多くの人にとって、苦行である。

 

もちろん、中には「毎日仕事が楽しみです」とか「楽しく仕事をしています」とかいう人もおり、彼らはいかにも人生が充実しているように見える。

 

が、それを真に受けて

「仕事は楽しくあらねばならない」と考えてしまう人もいる。

しかも、会社の中には、

「やりがいがあって楽しい」とか

「楽しく前向きに仕事をしよう」とか

「仕事は楽しく」とか

そういったキャッチを掲げている会社が数多くある。

 

だが、現実には、ほとんどの仕事は楽しくない

 

ハイクオリティな商品・サービスに慣れ切った顧客の目は極めて厳しい。

経営者も業績を追及し、労働者に強いプレッシャーをかける。

 

もちろん、それらに応えることが、労働者が対価をもらうための条件であるから、

「楽しくないので、そんなん、どうでもいいですよ」

と言う労働者は、カネがもらえない。

カネがもらえないということは、生活できないわけだから、楽しくなくとも、全力は尽くさなくてはならない。

 

実際、松下幸之助や、稲盛和夫ら、昭和の経営者たちは「全力でやれ」という。

「苦労であっても、それをやることにしなければ一人前になれんのだ」ということを、常に先輩に聞かされていますと、それは苦痛でなくなってくるんであります。(松下幸之助)

「せっかくこの世に生を受けたにもかかわらず、果たして本当に価値ある人生であったのか」と問うてみたい。いや、問うだけではなく、そのような若い人たちに、なんとしても、私の考える正しい「働き方」を教えてあげたいのです。 働くことの意義を理解し、一生懸命に働くことで、「幸福な人生」を送ることができることを――。(稲森和夫)

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要は、「仕事は基本的には、楽しいどころか、えらく厳しい。」これが原則なのだ。

 

なぜ仕事は厳しいのか

一体なぜ、仕事はこれほどまでに厳しいのか。

それはすべて、現代社会が「専門分化」していることに起因する。

 

企業は、顧客から選択されるために、何かしらのスペシャリストにならねばならない。

「何でもできます」という企業は、存在を許されない。

だから、その下で働く労働者も同じく、「何でもできます」という労働者は事実上、「何もできない」のと同じになる。

 

だから現代の企業社会は。個人が何らかのスペシャリストになるための「スキル磨き」が不可欠になった。

 

しかし、スペシャリストになるためには、そのための鍛錬が必要だ。

 

世界一の腕前になる必要はない、唯一無二の存在になる必要もない。

ただ、マーケットにおいて、顧客が「お金を払おう」と、満足するレベルにはならなければダメだ。

 

だが、それは、決して簡単ではない。

ジョフ・コルヴァンは、著書「究極の鍛錬」において、素人と達人のちがいは、「特定の専門分野で一生上達するために、考え抜いた努力をどれだけ行ったか」にあると述べている。

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これは、スキル獲得が要求される、あらゆる職業に就く人に「考え抜いた努力」が要求されていることを意味する。

だがこの「考え抜いた努力」は曲者だ。

コルヴァンによれば、「考え抜いた努力」は、自分の弱点にフォーカスして行わなければならないため、

 

1.精神的にはとてもつらい

十分ではないと思う成果の要因を継続的にかつ正確に、厳しい目で洗い出し、懸命に改善しようとしなければならないため

2.あまりおもしろくない

不得手なことにしつこく取り組むことが求められる

 

という特性を持つ。

 

スキル獲得のためには、自分を「快適な状態」から、あえて追い出さないといけない

常に「できない」と向かい合って、学びを得なければ、徐々に仕事を頼む人はいなくなる。

これが、仕事が厳しい所以である。

 

仕事は登山に似てる

これは、登山に似ているかもしれない。

 

私は登山が好きだが、「楽しい」と思うことは、あまりない。

基本的に登山は、その最中では「なんでこんなことしてるんだろ」と、苦しいだけだ。

 

時折、高みまで登ってきたことでの達成感は得られるが、基本的には苦しみの連続になる。

 

しかし、その苦しさを超えて、頂上から風景を見たとき、そしてその登山から帰ってみると、それは素晴らしい思い出になっている。

「苦しいだけだったはずなのに、終わってみると素晴らしい体験だった」と思うのだ。

 

好きでも、楽しくもなんともない。
好きでも、つらい。
好きでも、面倒くさい
好きでも、イヤになる
好きでも、苦しすぎる

 

こういったことはよくあり、「好き」と「楽しくない」は矛盾しない

 

 

以前、「今は、好きなことをしないと豊かになれない時代だ」という記事を書いた。

いつの間にか「好きなことをしていい」時代から、「好きなことをしないと豊かになれない」時代に変わった。

「好きを仕事にしないと豊かになれない」世界は、「主体的に動く人だけが豊かになれる」という、残酷な世界だ。

自分で選びとらない限り、何も手に入らない世界。

「考えたくねえ」

「受け身でいいだろ」

「決められねえ」

「正解を教えろ」

「リスクを取りたくねえ」

が、貧しさの象徴になった世界。

これは、一片たりとも、人に優しくない。

「自由に生きられる」は、いつの間にか「自由に生きねばならない」に変わっていた。

現在の世界が、主体的に動かねばならない世界だからだ。

 

だれも人生を与えてくれない。

であれば、「好き」を軸に動くしかない。

「仕事は全く楽しくないけど、好き」と言っていた先輩は、そんな世界で必死に生き伸びようとしている人だったのだ。

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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戦国武将好きなら一番に思い浮かべる人も多いであろう織田信長だが、信長の凄さと言われて一番に何を思いつくだろう。

 

天下統一に片手を掛けたこと。

海外から最新の情報を仕入れ、時代の最先端を行っていたこと。

楽市楽座などの経済政策・・・

 

多くのことが思い浮かぶかと思うが、中でも桶狭間の大勝利を一番に挙げる人も多いのではないだろうか。

一応の通説とされているものは、信長軍2~3,000人の兵力で、2万とも3万とも言われる今川義元軍を打ち破ったという戦国最大の大逆転劇だ。

その勇気、決断力、危機にあってのリーダーシップなど、多くの人が信長の凄さを語る上での定番になっている出来事である。

 

確かに、2,000~3,000の兵力で10倍の敵を打ち破ったのは凄いことだろう。

どうしようもない状況に心折れず、最後まで諦めず戦った姿勢もとても素晴らしいことだ。

 

しかしだからこそ、この戦いは信長本人にとっては、実は人生でもっとも恥ずべき戦いの一つになっていたと考えている。

それはどういうことか。

 

「踏んだり蹴ったり」の思い出を聞いてほしい

話は変わるが、私は中学高校と、とても「運が悪い」少年時代を過ごした。

特に思い出深いのは、中学と高校の部活の引退試合だ。

 

中学3年生の時、円盤投げの選手であった私は引退試合を前に、戦い方を悩んでいた。

円盤投げは通常、3回の試技で予選が行われ、上位8人が決勝に進みもう3回、投げることができる。

そして上位に入った3名が、その上の大会に進むことができる仕組みだ。

 

この際、私の実力では決勝に残るのがやっとだった。

但し、成功率10%程度の必殺技が決まれば、決勝どころか近畿大会に進めるかも知れない奥の手を隠し持っていた。

その必殺技とは、「秘技・フルターン投法」である。

 

円盤投げには3つの投げ方がある。

通常、中学生レベルで一般に使われるのは、腕の力と腰のひねりだけで投げる「立ち投げ」だ。

野球の横投げのように、横に振りかぶって投げるシンプルな投法である。

 

それに対しフルターン投法はオリンピックなどでよく見られる投げ方で、サークルの中で1回転半のターンを付けて遠心力で投げる。

言うまでもなく、腕力に腰のひねり+遠心力が加わるので、圧倒的に飛距離が伸びる。

但し、習得が非常に難しく、今はどうか知らないが当時は中学生で使っている選手などいなかった。

 

本来の自分の実力では、とても勝つことなどできない。

であれば、一か八かフルターン投法だ!

そう決めた私は、本番1ヶ月前くらいから付け焼き刃でフルターン投法の練習を始めた。

その結果、10本に1本くらいの成功率で前に飛ぶようになり、なおかつ余裕で自己ベストを更新できてしまったのだった。

 

この状況で迎えた大会当日、私には2つの選択肢があった。

3本のうち1本は立ち投げで記録を残し、残り2本でターン投法に挑むか。

もしくは記録無し(失格)覚悟で、3本ともターン投法で投げるかである。

ただでさえ成功率が低く、3本投げて1本前に飛ぶかどうかなので悩みどころだ。

 

そして始まった試技。

1本目・・・ターン投法で投げ、真横にぶつけて失格。

2本目・・・ターン投法で投げ、勢い余ってサークルを飛び出し失格。

予想以上に酷い。というか、緊張で体が動かない。

 

この状況に、3本目を前にさすがに悩んだ。

3年間の集大成が記録無しなんて、あまりに辛い・・・どうするか。

いや待て、日和るな。ここで立ち投げで平凡な記録を残して、満足なのか?

敗けていい思い出を作るために、俺はやってるんじゃない・・・!

 

そう決めてゲートに入ると、私は3本目も堂々と、フルターン投法のポジションに立った。

心なしか、私の決断に審判員が驚いた顔をしている。

他の選手も「マジか・・・」と言いたげにこっちを見ている。

 

私はゆっくり深呼吸をしながら、気合を入れるためにハチマキに手を当てた。

他の選手や審判の顔を見る余裕が、今の自分にはある。大丈夫だ。

次は、必ず前に飛ぶ。そして俺は、近畿大会に行ける・・・!

 

そう信じ、ターンを開始して足がもつれて転んだ。

こうして、私の3年間は終わった・・・。

ゲートを出る時、審判員のオッサンが私の目を見てもう一度、赤旗(失格)をピラピラっと振って見せた。

苦笑いをしながら。

 

なんて運が悪いんだ。

この世には神様なんていないし、努力なんて無意味なんだ。

 

さらに高校の引退試合の時の話だ。この時の運の悪さはもっと酷い。

私は短距離の選手に転じており、専門は400mH(ハードル)だった。

地区予選は順調に通過したものの、府の予選はさすがに壁が厚く、今のままでは敗退は見えていた。

 

しかしせめて、準決勝くらいには残って盛り上がったレースで引退を迎えたい。

陸上では、決勝はもちろん盛り上がるが準決勝も、決勝のレーンが決まるレースなのでかなり盛り上がるのだ。

そのため、残り1ヶ月でなんとか1秒、タイムを縮められないか悩んでいた。

 

そして一つの答えに行き着いた。「秘技・両足踏み切り」である。

もはや嫌な予感しかしないだろうが、もう少しお付き合い願いたい。

 

ハードル選手は通常、利き足というものを持っている。

利き足は踏み切る方の足で、その逆が振り上げる方の足だ。

これはお箸の右持ち左持ちと同じようなもので、両利きの選手はなかなかいない。

 

そして400mHでは通常、一流選手はハードル間を13歩で疾走し、バテる後半を15歩に切り返る。

私を含む一流とは言えない選手は15歩で、後半は17歩だ。

この際、なぜ奇数かと言えば、利き足で踏み切るためである。偶数歩になると足が逆になってしまうので、奇数しか選択肢がないのだ。

 

するとこの際、17歩に切り替える時に、必ず詰まってしまうという問題が発生する。

15歩では届かないが、17歩ほどはバテていないハードルを越える際、「チョコチョコ走り」で歩幅を調整する必要があるためだ。

 

当然のことながら、短距離走でチョコチョコ走りなど入れると、無視できないほどの大きなタイムロスになる。

逆に言えばこの際、切替時に「16歩」、つまり利き足とは逆の足で踏み切ることができれば、この詰まりを解消でき、大幅なタイムの短縮が見込めるという理屈だ。

 

さらにこの時、友人の両足ハードラーから、「俺の場合、両足踏み切りを習得して1.5秒縮んだ」と聞かされた。

 

「もはや、最後の手段はこれしかない・・・!」

そして私は、引退試合の1ヶ月前から両足踏み切りの練習を開始し、大会2週間前に逆足で転んで足の骨を折った・・・。

しかしそれでも諦めきれない私は、ギプスで固められた足を擦りながらかかりつけ医に必死になって訴えた。

 

「先生!引退試合を失格どころか棄権なんて、辛すぎます!大会当日の朝、ギプスを外して痛み止めの注射を射ってくれませんか?」

「桃野くんねえ・・・オリンピックの決勝なら100歩譲って考えるよ?でも君、準決勝に行きたくてそんなことするの?しかも府の予選で(苦笑)」

 

「・・・」

「そんなことして、骨に一生の異常が残るようなことできるわけ無いでしょ。はい却下。次は2週間後に来てね。」

 

こうして私の引退試合は、棄権という形で幕を閉じた。

なんて運が悪いんだ。

この世には神様なんていないし、努力なんて無意味なんだ。

 

「奇跡の勝利」を信じてはいけない

話は冒頭の、信長の桶狭間の戦いについてだ。

私は信長の凄さを一つ挙げろと言われたら、桶狭間の戦いを成功体験ではなく失敗の教訓として学習したことだと思っている。

それはどういうことか。

 

桶狭間以降の信長の戦略は常に、「勝てる戦しかしない」というスタイルを貫いている。

別の言い方をすれば、「必勝の環境が整うまでは、ひたすら耐える」というスタイルだ。

 

政略を仕掛け、同盟を結び、兵力を蓄え、勝てる環境が整って初めて戦争を仕掛けている。

たったの一度も、桶狭間のように「10回やったら9回は敗ける」ような戦いに、家運を委ねてなどいない。

だから信長は、桶狭間の戦いを失敗の教訓として恥じていたのではないかと考えているということだ。

 

戦争は力自慢の武術大会でもなく、次がある格闘技の試合でもない。

やるからには必ず勝たなければならず、勝てなければどんな手段を使ってでも避けなければならない。

それがリーダーの仕事というものだ。

そのリアリズムにこそ、信長の凄さがある。

 

翻ってみて、学校教育の歴史で教える信長像はどうだろうか。

「桶狭間の凄さ」など、果たして教える価値があるだろうか。

 

むしろ、ポルトガルの宣教師を取り込んだ目的とその効果、他の大名がそれをできなかった理由。

楽市楽座の経済効果と領域のGDPの伸び、そして兵力との関係。

その結果としての、信長の戦略の変化と版図拡大の時系列の方が、よほど学習価値が高いのではないだろうか。

 

にも関わらず、歴史の教科書には桶狭間の奇跡の勝利、楠木正成の赤坂城の戦い、源義経の一ノ谷の戦いなど、「奇跡の勝利」ばかりが踊る。

なおかつこれらの話には多くの創作要素があり、史実として学ぶ価値があるのかも怪しい。

 

このような教育の影響を受けてしまえば、中二病を発症して「無茶をしてチャレンジする俺カッコイイ!」となってしまうに決まっているではないか。

そして私はそんな教育を真に受け、すっ転び、骨を折ってしまったのである。

言うまでもなく、運が悪かったのではなく、頭が悪かったというだけだ。

 

歴史から学ぶべきは、

・正しい選択と努力をすること

・間違った選択と努力は、間違った結果にしか繋がらないこと

・奇跡の勝利は再現性が低く、真に受けてはいけないこと

ということではないのかと、声を大にして言いたい。

 

しかしその上で、江戸四大剣術のひとつ、心形刀流の第10代師範・伊庭想太郎は

「万策尽きて窮地に追い込まれたら、一瞬も迷わず捨て身の行動に出よ。それがわが流派の極意だ」

と門下生に説いている。

 

この考えは、今も私の行動指針の一つになっている。

結局、頭の悪さはオッサンになっても治らなかった。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

六花亭のバターサンドと言えば、昔は全く美味しいと思わない有名菓子の定番でした。

しかし今では、アソートボックスを頂いたらバターサンドから食べてしまいます。

味覚の変化で、オッサンになったことを感じる今日この頃です。

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

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「同僚と折り合いが悪い」

「新しい職場の雰囲気に慣れない」

 

日々の生活を送っているうえで、人間関係の悩みは尽きませんよね。

特に仕事の場合は、苦手な人がいたとしても、業務上の関係で避けることが難しいケースが多々あります。

本記事では、職場の人間関係に関するモヤモヤを楽にするコツをご紹介します。

 

職場の人間関係で悩む人は多い

仕事は一日の大半を占めるものです。

職場で人間関係の悩みを抱えていると、それが本人にとって大きなストレスになることも頷けます。

実際に、労働政策研究・研修機構が21~33歳を対象にした調査結果によると、3割近くが人間関係を理由に退職をしています。

 

【参照元:『若年者の離職状況と離職後のキャリア形成』のグラフを加工し作成】

 

心理的ストレスは、目に見えないからこそ要注意

人間関係の悩みを代表とする心理的ストレスは、じわじわとメンタル面や仕事のパフォーマンスに負の影響を与えます。

ひどい場合は、うつ病に発展するケースもあります。

大きなストレスへと育っていく前に、対処していかなければなりません。

 

また、チームを束ねる立場にある人の場合は、自分だけでなく、メンバーのストレス状態にも気を配る必要があります。
チーム全体の生産性に影響を及ぼす可能性があるからです。

しかし、他者の心理的ストレスの度合いを正確に感知することは、思っている以上に難しくもあります。

突然退職を切り出され、「元気そうに見えたのに...」ということもありえます。

心理的ストレスで押さえておきたいポイントを、2つご紹介します。

 

ポイント①:目の前にストレス源がなくても、ストレスを感じてしまう

みなさんは、このような経験はありませんか?

 

対人関係で嫌なことがあった時、後から何度もそのことを思い出して、さらにムカムカする。

上司に厳しく怒られた会議室に足を踏み入れただけで、なんだか気持ちが落ち込む。

 

このように私たちは、たとえストレス源となる出来事が目の前で発生していない時でも、ストレスを感じてしまいます。

 

ポイント②:心理的ストレスは、増強されていく

ストレスを専門とされている田中正敏先生(久留米大学名誉教授)による研究で、興味深いものをご紹介します。

マウスに肉体的ストレス(電撃)と心理的ストレスを与え、違いを比較するという実験です。

各ストレスは、1日1時間、5日間連続で与えられ、ストレスレベルは「ノルアドレナリン(※)の放出量」で計測します。

(※)不安や恐怖を感じると放出される脳内物質

 

電撃ストレスを受けたマウスの場合は、1日目でドーンとノルアドレナリンが上昇するのですが、2日目以降は徐々に低下していきます。

一方で、心理的ストレスを受けたマウスの場合は、1日目のノルアドレナリン量は、電撃ストレスよりも少ないのですが、2日目、3日目...と徐々に上昇していき、4日目になると、ついに電撃ストレスでの放出量を越してしまいます。

 

この実験から、心理的ストレスは日を追うごとに増強されていくことが分かります。

そして、職場の例でいうと、上司や同僚との折り合いが悪く、日々ストレスを感じていると、そのストレスがどんどんと増強されていく可能性があることが示唆されます。

 

人間関係の悩みが生じる理由

そもそも、なぜ人間関係による悩みは発生するのでしょうか?

人間関係の基本は、コミュニケーション(言語+非言語)です。

私たちは、コミュニケーションを通じて、互いに情報のやりとりをしています。

 

コミュニケーションの基本プロセス

コミュニケーションは、図のようにSTEP1~6から成り、このサイクルをぐるぐると回すことで行われます。

このサイクルが上手く回ると、互いに心地の良いコミュニケーションに感じ、信頼関係が構築されていきます。

 

 

人間関係こじらせの原因は、「つまづき」が解消されないことにある

この6STEPの中のどこかで「つまずき」が起こることがあります。

つまずきが解消されないまま「負のループ」がぐるぐると回ると、人間関係がこじれていく原因となります。

人間関係を改善するには、「負のループをどこかで断ち切る」必要があります。

 

 

 

人間関係の悩みを解消する3つの基本原則

相手の行動や感情を完全にコントロールすることは、至難の業です。

「相手に完全に非がある」場合もありますが、自分でコントロールできる領域で、負のループを食い止める努力をしていくことが、解決への近道です。

 

【自分でコントロールできる領域】

 

①自分の考え方

②自分の行動

③ストレッサー(ストレス源)の対処の仕方

 

とくに、①③で肝になるのが、「認知の仕方」です。

同じ出来事が起こっても、それがストレスになるかどうかは、人によって異なる(=認知の仕方によって異なる)からです。

 

 

人間関係の悩み解消法①:「自分の考え方」を変える

 

自分の考え方に原因があるケースは、大きく2パターンあります。

 

パターン①:知らず知らずのうちに「ネガティブな感情」を抱いている

パターン②:相手を気にしすぎてしまう

 

パターン①:知らず知らずのうちに「ネガティブな感情」を抱いている

1つ目は、自分の「ネガティブな気持ち」が、人間関係こじらせの根本原因であるパターンです。

一見「相手が悪い」と思える場合でも、知らず知らずのうちに抱いていた「自分の中のネガティブな感情」が発端で、負のループに入ってしまっていた、ということが往々にしてあります。

相手に対する行動(言語、態度、表情)をポジティブなものに変換し、相手に悟らせない方法もありますが、自分の気持ちと反する行動をし続けると、それ自体がストレスになっていきます。

なので、ここでは根本原因である「自分の考え方」から変えていく方法をおすすめします。

 

【ケース別対処法】

☑ケース1:相手に嫉妬心を持っている

「なんだか気に食わない」「やる事なす事、すべてにケチをつけたくなる」という人が、あなたの身近にいたとします。

その場合、相手への「嫉妬心」が原因かもしれません。

無意識のうちにケチをつけ、"相手を下げる"ことで心の安定を保とうとしている可能性があります。

まずは、自分の中に「嫉妬心」がないかを確認し、ある場合は「自身が嫉妬していること」を自覚してみましょう。

そのうえで、相手の優れている点を素直に認め、「学ばせてもらおう」というポジティブな気持ちで接するようにしてみてください。

相手に対する感情や行動は、自然と変わっていきます。

 

☑ケース2:信頼できない/心を許せない

信頼関係とは、すぐに構築できるものではありません。

互いを知る時間が積み重なって、できあがっていくものです。

接する時間や回数が少ない人に対して信頼できないというのは、ある意味当然です。

また、「信頼できない」というのは、「この人が言っていることは本当なのだろうか?」という疑いの気持ちがあるためです。

本心で話し合うことができる関係を望むならば、まずは自分から自己開示し、相手が安心して本音で話せる空気づくりをしていきましょう

 

☑ケース3:嫌い/苦手

対処法の1つは、相手を気にしすぎないことです。

相手は、こちらが思っているほど気にしていない可能性もありますので、負の感情に振り回されすぎないようにしましょう。

また、嫌いな人に対して、私たちは相手の嫌な所ばかりに目を向けがちです。

人はいろんな側面を持っており、表に現れているのは、ほんの一部です。

完全に「悪」という人間は、ほぼいません。

意識的に相手の「長所」を見つけるようにしたり、「良いエピソード」をメモしていくようにすると、だんだんとフラットな気持ちで向き合えるようになります。

 

パターン②:相手を気にしすぎてしまう

相手を気にするあまり、自身が疲弊してしまうというパターンです。

 

【ケース別対処法】

☑ケース1:人の意見に流されてしまう

自分の考えや決断に自信がないことが原因かもしれません。

客観的な意見を聞きながら判断することも大事ですが、あくまで参考程度にとどめておきましょう

アドバイスには、その人自身の価値観や感性が反映されるため、必ずしもあなたにとって良い選択肢とは限りませんし、他人はけっして「あなたの人生」の責任を取ってはくれません

関係性にもよりますが、無責任なアドバイスをされていることも往々にしてあります。

 

☑ケース2:他人に嫌われるのが怖い

前提として、「全員に好かれる」ことは不可能です。

どんなに人柄がよく非の打ちどころがない人でも、相手からの「嫉妬」で嫌われることはあります。

ある程度"しょうがないもの"として受け入れていく必要があるでしょう。

 

人間関係の悩み解消法②:「自分の行動」を変える

 

けっして自分に悪気がない場合でも、相手からはネガティブな行動として捉えられているケースがあります。

相手から微妙なリアクションをされる場合は、相手目線で不快な行動をとっていないか、振り返ってみましょう。

 

【ケース別対処法】

☑ケース1:感情が分かりづらい/出しすぎてしまう

まったく感情を表に出さない人は、なんとなく近寄りがたいですよね。

感情表現は、コミュニケーションの1つであり、人間関係構築において重要な要素です。

一方で、怒りや悲しみといったネガティブな感情をすぐに表情や態度に出したり、爆発させてしまう人に対しても、周囲の人はどう接していいか分かりませんよね。

心当たりがある人は、「この感情を表に出したら、何を失うか?」と一歩踏みとどまる癖をつけましょう。

 

☑ケース2:相手の話を聞かない

コミュニケーションは、「双方的なもの」です。

人は、自分の話を聞いてくれないと感じると、尊重されていないと受け取ります。

普段の会話を思い出して、「自分ばかり話しているかも...」という人は、相手の話にも耳を傾けるように意識してみましょう。

 

☑ケース3:ネガティブな発言が多い

愚痴や不平など、ついネガティブな話題ばかりをしていませんか?

話に乗っかるタイプの人もいる一方で、「どう反応していいか分からない」と困る人もいますので、気をつけましょう。

 

人間関係の悩み解消法③:「ストレッサー(ストレス源)への対処の仕方」を変える

 

人間関係こじらせの原因で、どうしても「相手の行動に問題がある」場合もあります。

しかし、このケースも自分でコントロールできる領域でなんとか解決していくしかありません。

「なるべく関わり合いをもたない」という手もありますが、業務の都合上、そういうわけにもいかないことも多々あるでしょう。

 

【ケース別対処法】

☑ケース1:あからさまに敵意を向けてくる

心当たりが全くないのに、相手から一方的に敵意を向けられる場合は、嫉妬されている可能性が高いです。

あなたが悲しんだり、落ち込んだりすると、相手は喜ぶので、極力フラットな対応をしましょう

攻撃し返すのは、相手がさらに過激な言動や行動に移る可能性があるので、のぞましくありません。

丁寧な対応をして適度にかわしつつ、相手があきらめるのを待ちましょう。

 

☑ケース2:相手に変わってほしいのに、変わってくれない

「なんでこの人は、いつもこうなんだ!」という人もいるでしょう。

先述したように、相手の行動や性格を変えることは至難の業です。

子どもの頃に、先生や親から「宿題をやりなさい!」と言われてやる気が出た、という人はいないのではないでしょうか。

ここでのポイントは、「相手に自分で気づかせる」「適度に支援する」「変わっていくことを気長に待つ」の3つです。

相手がのぞましい行動を少しでもとったら、肯定的な反応をするなど、無理強いするのではなく、信頼し見守る姿勢でいましょう。

 

☑ケース3:いやがらせをしてくる(悪口や業務妨害など)

もはや自分でどうにかできる範囲で対処できないほど相手の行動がひどい場合は、一人で抱え込まずに人事部や周囲の信頼できる人に相談し、第三者の手を借りながら解決していくことも、手段の1つです。

 

生まれつき、"超繊細な人"が5人に1人いる

ここまでは、自分を変えていくことで、人間関係の悩みを解消する方法をお伝えしました。

しかし、中にはHSP(Highly Sensitive Person)と呼ばれる、生まれつき「周囲のことに対して敏感すぎる人」がいます。

HSPの人の場合は、異なる対処法も考えていかなければなりません。

 

HSPとは

HSPとは、心理学者であるエレイン・N.アーロン博士が提唱した概念で、「視覚や聴覚などの感覚が敏感かつ感受性が豊かで、周囲からの刺激を受けやすい人」のことを指します。

ささいな刺激もキャッチしてしまいますので、人間関係で悩み、疲弊することも少なくありません。

一方で、その共感力や感性を活かして、サービス業やクリエイティブ業で活躍されている人も多くいます。

 

HSPの人がどうしようもなく人間関係で悩んだら...

HSPは、本人の性質によるものなので、変えることは困難です。

なので、職場の人間関係でどうしようもなく悩んでいる時の対処法としては、

 

・居心地のよい職場へ転職する

・リモートワークで働き、周囲からの刺激を減らす

・働く場を選べるフリーランスで働く

 

など、心地よく働ける環境に身を置く、もしくは自分で作っていく選択肢も検討していく必要があります。

 

まとめ

人間関係の悩みという普遍的なテーマの解決法を紹介しました。

自分で変えられる所に目を向け、改善していきましょう。

(執筆:新宅 千尋)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

 

Photo by christopher lemercier

先日安達さんが寄稿した『「心理的安全性」という概念は、まだ、日本人には早すぎる。』という記事がよく読まれていた。

 

みなさんの反応を見てみると、どうやらこの一文が多くの人の心を捉えたようだ。

日本人は、反対意見と、人格攻撃を区別できない人が多い。
だから、知識労働者に必要とされる「率直な物言い」が、そのまま対人トラブルにつながる。

 

わたしもずいぶん前に『「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ。』という記事を書き、大きな反響をいただいて新聞にまで転載された。

 

どうやら、「日本人はちがう意見の人とうまく付き合えない」というのは、多くの人が抱いている思いらしい。

 

でも日本でそうなるのはある意味当然で、理にかなっているのだ。

だって日本は、「全会一致」を目指すから。

 

「異なる意見を出しても拒絶されない」という心理的安全性

「心理的安全性」という言葉は安達さんの記事を読んではじめて知ったのだが、どうやらこういう意味らしい。

心理的安全性とは、対人関係においてリスクある行動を取ったときの結果に対する個人の認知の仕方、つまり、「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうかを意味します。

出典:「効果的チームとは何か」を知る

つまり、「人間関係が悪くなるかもしれないけど、モノゴトをよくするためにこういう行動をしたい。

このチームのメンバーならそれをわかって受け入れてくれるはず」という信頼感、安心感のことを指すようだ。

 

チームの心理的安全性を調べるのには、以下の7つの要素が評価軸になるとのこと。

わたしは英語が不得手なので、心理的安全性を提唱したエドモンソン氏の説を紹介している、前述のGoogleのページから引用したい。

1.チームの中でミスをすると、たいてい非難される。

2.チームのメンバーは、課題や難しい問題を指摘し合える。

3.チームのメンバーは、自分と異なるということを理由に他者を拒絶することがある。

4.チームに対してリスクのある行動をしても安全である。

5.チームの他のメンバーに助けを求めることは難しい。

6.チームメンバーは誰も、自分の仕事を意図的におとしめるような行動をしない。

7.チームメンバーと仕事をするとき、自分のスキルと才能が尊重され、活かされていると感じる。

今回注目したいのは、3つ目の「チームのメンバーは、自分と異なることを理由に他者を拒絶することがある」という部分だ。

「異なる意見を出しても受け入れてもらえるという信頼」が心理的安全性のひとつの要素なら、反対意見=人格攻撃として否定されがちな日本は、「心理的安全性が低い」と言えるだろう。

 

「んじゃいろんな意見を出しやすい環境にすればいーじゃん!」と思うのだが、そうもいかない。そうはならない。

なぜなら日本では、心理的安全性が低いほうがうまくいくから。

 

全会一致を目指すなら異分子排除が効率的

日本では主に、「全会一致」を目指す。

みんな同じ意見をもち、みんなが賛成し、みんなが「自分だけで決めたんじゃない」と安心できる状況が「良い」のだ。

 

率直な意見は、波風立てるだけのジャマなもの。

そんなのないほうがいいのに、なんであの人は余計な反論をするの?

ほーら、空気が悪くなった。あの人っていつもそう。

わかるわかる、前からデリカシーないと思ってたんだよね。空気読めって感じ。

この前だってわたしの化粧に文句つけてきたんだよ。

なにそれサイテー……。

 

こんな感じで意見と人格がごちゃまぜになり、反対意見=こっちを否定した悪い人として、「協調性なし」の烙印を押される。

 

それがイヤだから、たいていの人は余計なことは言わず、多数派に流れていく。

異なる意見を出す反乱分子は「オカシイ人」としてちゃちゃっと排除、平和に、滞りなく、「全員賛成」に着地して大団円。

みんな一緒で安心安全、最高の結果である。

 

もし「異なる意見を出しても大丈夫」なんていう心理的安全性を保証してしまったら、せっかくの「和」が乱れてしまう。

全会一致から遠のいてしまう。それはイカン。

 

全会一致に対する手段として考えれば、心理的安全性は低いほうがいいのだ。

 

自分の意見がいかに優れているかをプレゼンするドイツ

では、「いろんな意見をバンバン出そうぜ!」という環境ではどうなるのか。

例として、わたしが住んでいるドイツを挙げたい。

 

ドイツの大学でゼミに行ったとき、みんなが口げんかしているように思えた。

みんな自分の言いたいことばっかり言って、他人の意見を否定ばっかりするからだ。

 

ほかの人が話してるのにかぶせて話すし、一度話し始めたら止まらないで気が済むまでずーっとしゃべってるし。

「その統計は信用できるのか」「君はなにもわかっていない」「基本的なことを見落としてるじゃないか」「それはまちがっている」なんて、かなり挑発的な表現もよく耳にした。

 

その勢いに最初はビビっていたけど、だんだんわかってきた。

この人たちの目標は「一番いい意見を採用する」ことだから、自分の意見をプレゼンしているだけなんだ、と。

 

「俺を納得させろ、納得させられないなら俺が正しい」と自分の意見をプレゼンし、自分が反論できなくなれば「相手のほうが上手だった」と白旗を上げるだけ。

押し勝ったほうの意見が正しくなるのだから、そりゃ強気でいくわ。

 

「どの意見が一番いいのかを決めるプレゼン大会」だと思えば、心理的安全性確保が大切になるのもうなずける。

だってみんなが同じ意見になったら、そもそもプレゼンする意味がなくなっちゃうもの。

意見を言わない人間は、話し合いで存在する価値がないのだ。

 

もちろん、比較検討した結果全会一致になることもあるし、多くの人が賛成する=一番いい意見、という側面もある。

しかし、「結果的にみんなが納得する」のと、「みんなが同じ意見になることを目標にする」のはちがう。

 

日本で「異なる意見を言ってもいい」という心理的安全性が低いのは、日本が遅れてるというわけではなく、単純に「全会一致という目的に対する手段として心理的安全性が不要。むしろないほうがいい」から。

 

ドイツで意見が言いやすいのは、「さまざまな意見を聞いたうえで最善を選びたいから」。

要は、話し合いに期待するものがちがうのだ。

 

目的を変えなければ手段は変わらない

とはいえ、「だから日本で異なる意見を言えないのはしょうがない」と納得していいものか……。

さまざまな意見が尊重されない社会はきっと、とても息苦しい。

少しでも異端になれば、すぐにつまはじきにされるから。

 

「じゃあ『日本でも異なる意見を言えるように心理的安全性を確保しましょう』と言えばなにか変わるのか」といえば、まぁ変わらないだろう。

全会一致を目指すなかでは、「異なる意見が飛び交う環境」なんて必要じゃないもの。

 

戦争が科学を発展させたように、必要になれば技術は発展するし、需要がなければいつまで経っても進化しない。

つまり、「心理的安全性が必要な状況」がなければ、それは発展しないのである。

 

だから一番最初にするべきは、「異なる意見を言ってもいいですよ」と言うことではなく、「全会一致ではなく、たくさんの意見を比較検討し一番いい意見を採用する」のを話し合いの目的に据えることだ。

全会一致方式から抜け出せば、おのずと、気兼ねなく意見をいう心理的安全性が必要になるのだから。

 

心理的安全性を高める2つのカギ

全会一致方式から抜け出すポイントは、ふたつあると思う。

 

一つ目は、決定権を明確にすること。

「みんなで決める」の一番のメリットは、責任の分散だ。

多数派に合わせておけばたいした責任をとらなくて済むから、適当なイエスマンが増える。反論すると責任が発生するからだんまりになる。

 

それを回避するために、決定権を明確にするのだ。

その場にいた全員の意見がどうであれ、決定の責任を負うのはたったひとり。

 

判断を一任される責任者の心理的プレッシャーは、かなり大きいだろう。

だからこそ、毒にも薬にもならない適当なイエスマンより、ちゃんと考えて意見を率直に言ってくれる人をとなりに置きたくなるはずだ。そのために意見を言いやすい環境を整えるだろう。

(なかには「俺が決めるからお前ら黙ってろ!」というパワハラワンマン社長的な人もいるだろうが、その人はそもそも話し合いを求めていないので棚上げしておく)

 

二つ目は、話し合いをコンペのように捉えることだ。

ドイツで経験した議論は、話し合いというより、自分の意見をみんなにプレゼンして、まわりがそれらを比較検討するコンペみたいだった。

 

「自分はこう思うからこれがいい」に始まり、「あなたの意見はここがダメ」「いいや、そっちだってデータが足りない」「でも実践ではこうなんだ」「再現性はあるのか」と、どっちのほうが説得力があるかの勝負をしている感じ。

 

決定権をもつ人に「なるほど」と思わせれば、勝ちだ。

このやり方が優れている、というわけではないが、少なくとも「いろんな意見を出す心理的安全性の確保」という点では、相性がいいと思う。

 

全会一致を目指すのであれば、心理的安全性は必要ない。

でもいろんな意見を聞きたい、異なる意見も受け入れたい、それができる環境の方が健全だ、と思うのであれば、「全会一致」から「一番いい意見の採用」を目指していくべきだと思う。

 

そのために、「決定権を明確にした」「コンペ形式」というのは、ひとつの例になるんじゃないだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Michal Matlon on Unsplash

とても素晴らしい映画をみた。映画大好きポンポさんだ。

恐らく本年度の映画No.1だろう。

可愛い絵柄のアニメーション映画だけど、テーマはゴリッゴリに本格である。

まだみてない人は是非とも近くの映画館に出かけて見るべきだ。

 

この作品の特徴を一言でいえば”人が人と働く意味”である。

もっと言えば「なんで他人と働くの?面倒事がこんなにも多いのに」だ。

 

現代日本は極めて豊かであり、それこそ生きていくだけであれば一人であろうが何も問題はない。

というか一人の方が明らかに気楽だが、それにも関わらず私達の多くは一人でいる事をあまり良しとは思えない。

 

この相反する2つの感情の落とし所は極めて見極めが難しい。

この映画はそのヒントとなるようなものが詰まっており、そこにこの映画の価値がある。

 

以下、僕がこの映画をみて感じた事を色々と書いていく。

 

成長とは自分だけではなく世代を通じて行われる作業

仕事というのはなんらかの共通の目的に向かって、様々な人が手と手を取り合って、作業をするものだ。

その結果として、自分ひとりでは決してできない成果をあげることができる。

 

これは仕事のわかりやすい産物だが、それよりももっと大きなモノを仕事は生み出している。

それが人と人の系譜である。

集団としての成長といってもいいかもしれない。

 

よく仕事のやりがいの一つとして成長をあげる人がいるけれど、成長というのは実のところ自分ひとりの中だけ起きるものではない。

むしろ本質的には集団の中でより発生しやすいものだ。

 

私達は有限の生を持つ生き物であり、親から子、そして孫へと命が引き続かれていく。

この生命のリレーでもって、命は良くも悪くも様々な様相を示し続いていく。

 

ダメ親から優秀な子が生まれたり。

その優秀な子が成長し、親の本当の凄さを改めて実感したりなどなど…。

 

人間というものにはドラマがある。

個人だけならこんな煌めくような展開にはそうはならないだろうという展開を、集団は作る。

 

この世代交代のサイクルは家族関係に限ったものではない。

仕事だって起こす。私達は好む好まざるとに関わらず、誰かに仕事を伝授され、そしてその仕事を誰かに伝授し、技能のリレーをつないでいく。

 

こうして私達は人と働くという事を通じて、後の世にも繋がる大きな何かの一部へと組み込み・組み込まれていく。

後述するが、この大きな何かというものに自分が入り込めたかどうかという自意識が人生に対する満足度に直結する。

 

意図して描かれる権威の意味

個人的にこの映画で最も面白いなと思った部分にキッチリと権威の御来光を出している事がある。

これはとても意図的な演出で、この意義を読めると作品への理解がグッと深まる。

 

まず映画の舞台がハリウッド(ニャリウッド)だ。

単に面白い映画をとるだけなら、それこそ渋谷の雑居ビルが舞台でもいいわけだが、この作品は”あえて”ハリウッドを舞台としている。

 

何故か?

それは権威が映画業界にとっては何よりも大切だという事をキチッと示したいからである。

 

劇中でポンポさんはハリウッドの売れっ子プロデューサーとして伝説級の人物である事が明示されており、その師である祖父もまた伝説級の人物とされている。

そこに未だ無名である主人公が先人に導かれ、アカデミー賞(ニャカデミー賞)を獲得し、一角の人物になるまでがこの映画の筋書きなのだけど、この権威が人から人へと続いていく事に集団で成し遂げる”仕事”の本質のようなものが詰まっている。

 

どういう事か?

それは権威こそがメリトクラシー社会である現代における王の冠のようなものとして作用しているという事である。

 

権威とは王の冠である

この映画の主人公である青年ジーンはポンポさんに”死んだ目を持っているから”という理由で選ばれる。

この選定自体はポンポさんの勘で行われたものだが、この時点では青年ジーンはポンポさんに選ばれた後継者候補の一人でしかなく、周りからは正当な後継者として実は認められていない。

 

ではどうやったら正当たる後継者となれるのか。

それがアカデミー賞を受賞する事である。

あの儀式を通じて、映画のプロフェッショナル達は連綿なく続く伝統の系譜を”血統”とは異なる能力主義という純血でもって綴り続けているのだ。

 

消費者からみたら正直、何の意味があるのかさっぱりわからない映画のアカデミー賞だけど、あれはメリトクラシー社会における王位継承権のようなものだ。

この映画は全編を通じて王族貴族における戴冠式のようなものが、映画プロデューサーという仕事においてはどのように行われるのかを描いたものといえる。

 

映画の最後で青年ジーンがアカデミー賞を受賞するのは、彼が単に「いい映画を作った」という演出ではない。

あれはポンポさんから青年ジーンへと、権威の引き継ぎがキッチリと執り行われたという、戴冠式の場面なのである。

 

権威は引き継いでこそ、真の価値がある

劇中でポンポさんは祖父から偉大なる遺産を全て引き継ぎ、その上で業績を積み重ね、業界で一角の人物となった事が示されている。

そして彼女はその信用の価値を決して己のつまらない欲なんかで毀損させずに、高い位置で保ち続け、それを躊躇なく青年ジーンへと全力で引き継がせている。

 

なぜか?

それは権威とはキチンと引き継がなければその本当の価値を失ってしまうものだからだ。

 

大きな仕事を成し遂げる事を通じて、人は象徴の一部となる事ができる。

ポンポさんにおけるその象徴はハリウッドでありアカデミー賞だが、こういった巨大な象徴の一部となるという幻想を持つ事で、人はアイデンティティという一つの帰属意識を獲得し、不死なる存在を己の内に宿す事ができるようになる。

 

人間は命に限りがある生き物だが、この世には自分よりも長生きをするものがたくさんある。

その代表的なものが伝統や系譜といったもので、そういう大きなものの一部に自分の一部を組み込ませる事に人は強い執着心を示す。

 

ある程度年齢を重ねた人が、日本人である事に誇りを持つようになったり、所属する組織や出身大学といったものに強い愛着を示す姿をみたことがある人も多いだろう。

 

これは「いつか訪れる死への恐怖」を和らげる為の心の一つの防御機構だという事がわかっている。

人は自分よりも大きなものに包まれるという認識を通じて、死の恐怖から逃避するのである。

<参考 なぜ人は困った考えや行動にとらわれるのか?: 存在脅威管理理論から読み解く人間と社会>

[amazonjs asin="4908736154" locale="JP" tmpl="Small" title="なぜ人は困った考えや行動にとらわれるのか?: 存在脅威管理理論から読み解く人間と社会"]

 

人間は必ず死ぬ。そして生物である限り、その死の恐怖は必ず刻々と迫ってくる。

その差し迫ってくる恐怖に対抗する為に私達ができる事は、個人から概念やシステム、象徴といったものに自己を投影する事だ。

 

そしてその投影する概念やシステム、象徴といったものに新しい命を与えられるかどうかは、自分の後継者に貰ったもの以上のモノをキチンと与えられるかどうかで決まる。

だから”王位は”キッチリと後継者に引き継がなければいけないのである。

 

王の冠がしっかりと後継者へと引き継がれる事で、自分だけでは決して達成し得ない”不死”が達成される。

この”不死化”こそが人が人に仕事を教える本当のインセンティブで、教育というのは教える事を通じて教えられる側が実は救われる作業なのである。

 

そういう観点でみると、ポンポさんは青年ジーンを何も優しさや善意でもって導いたというわけではない事も理解ができる。

キッチリと自分の後を引き継ぐ人間に、アカデミー賞という公の場で戴冠式を執り行えられるぐらいには自分の弟子を育ておえられたと確信できたからこそ、彼女はようやく映画を席を立たずにエンドロールまで見続けられる位には”肩の荷が下りた”のだ。

 

成長には2つの段階がある

2021年は成長をテーマにした作品が評判となった年だったように思う。

 

ジャンププラスにて掲載された藤本タツキさんのルックバックは個人の成長をテーマにして描かれた作品だ。

表現者は巧みな演出や仕組まれたギミックの妙に感心しつつ、消費者は「夢中で頑張る事の尊さ」のようなものを感じ取り、そこにある種のカタルシスを感じていた。

<参考 ルックバックを読んでのあれこれ|takasuka_toki|note

 

ルックバックはとても内向きな作品で、漫画というテーマに向かって、個人がどのように向かっていくかが延々と書き綴られている。

それに対して、映画大好きポンポさんは”そこから先”が描かれている。

 

実のところ仕事において”何かができるようになった”というのは成長における初段階でしか無く、その先にある”できるようになった事でより多くの人を巻き込んで、もっと大きな事をする”というもう一つの成長の始まりにすぎない。

 

さて、ここで冒頭に書いた「なんで他人と働くの?面倒事がこんなにも多いのに」という問いに対して答えよう。

それは他人働くことで、私達は共同体や権威といった不死なるファンタジーな存在を皆に宿す事が容易になるからだ。

 

もちろん個人だってキリストや手塚治虫のように仕事のみを通じて”神”となり系譜を作る事も可能ではあるが、そういうのは偉人クラスの業績だ。

普通の人にはまず無理である。

 

人は、人をよりたくさん巻き込む事で、より巨大なアイデンティティを形成する事ができる

仕事に他人を巻き込めるようになると、概念の出現がとても容易になる。

 

例えばこの映画に登場した出資シーンをみてみよう。

見方によってはニャリウッド銀行は青年ジーンの作る映画に出資しただけだが、その出資という作業を通じて、出資に関わった人もあの映画の一員となる事ができた。

 

お金を出すという仕事だって映画制作という巨大なファンタジーの一部に繋がる事ができる。

だからハリウッドという巨大な街がアメリカの地に概念として存在し得るのである。

 

人は、人をよりたくさん巻き込む事で、より巨大なアイデンティティを形成する事ができる。

それが組織としての成長の本懐であり、個人の成長ではたどり着けない強固で長寿なアイデンティティの形成へと繋がる。

そうして人は、やっと孤独である事から癒やされるのだ。

 

この映画をみることで、人は仕事を通じてより大きなものの一部になれる事が理解できるようになる。

 

この大きなものに包まれる為の功徳を積む事こそが、個人としての成長に限界を感じた人が向かうべき先であり、その先にこそ人が働いたり家族を形成したり友人の輪を繋げたりといった活動の本当の価値に気がつけるのである。

 

というわけで映画大好きポンポさんは本年度最高傑作なので、ぜひキチンと劇場でみる事をオススメします。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Emilio Labrador

おれは数字が苦手である。もちろん、その先の数学も苦手である。

となれば、経済が取り扱う数学というものもまったくわからぬ。

わからないが、現代社会を生きるのに、経済というものを少しは解さなければいけないという思いにもかられる。

 

というわけで、図書館で経済あたりの棚を見ていて目に入ったのがこの本である。

[amazonjs asin="4480843116" locale="JP" title="不平等論: 格差は悪なのか? (単行本)"]

とハリー・G・フランクファートによる著書である。

 

「格差は悪なのか?」と言われると、なかなか挑発的なような気もする。

ぱらぱらめくってみると、次のような文章が目に入った。

道徳性の観点からすると、万人が同じだけ保有するというのは重要ではない。道徳的に重要なのは、万人が十分に保有することだ。

まあ、そりゃそうだよな。

そう思って、おれはこの薄い本(翻訳部分と解説が拮抗している)を読んでみることにした。

翻訳者の山形浩生いわく、この本はピケティの柳の下のドジョウだが、そのドジョウも自ら訳したのだと。

 

格差とはなんだろう?

というか、格差とはなんだろうか。

正社員と非正規社員の格差もあるし、年収200万円台の人と500万円台の人にも格差はある。

男女の格差もあるし、国による大きな格差もあるだろう。それらも格差だ。

 

でも、とりあえず、おれが思い浮かべるのは、地球上における2千数百人の富が46億人の富に匹敵するというレベルの「格差」だ。

 

おれは一人暮らし中年として家賃五万円の木造アパートに住んでいるが、同い年の人間がどこぞの湾岸エリアのタワーマンションを所有して、家族とともに住んでいる、というくらいのものではない「格差」を想定したい。

 

無論、格差は金ばかりの問題ではないという意見もあるだろう。

金銭的に貧しくとも、親の文化的資本の違いであるとか、もっと直接的に言えば、遺伝される才能(今の社会に適した才能)というものもあるだろう。

 

まあ、そこはとりあえず、おいておく。

ビル・ゲイツとそこらへんを歩いているおれやあなたやその他のおっさん、おばさんの格差みたいなものとしておく。

 

ケーキの平等

とか言っておいて、いきなりケーキの平等の話に飛ぶ。

アイザイア・バーリンは次のように書いたという。

ここででの想定は、平等には理由などいらず、不平等のほうこそ理由がいるのだ、というものだ。(中略)もしケーキを持っていてそれを10人で分け合いたいと思ったら、みんなにきっちり10分の1ずつあげた場合には、特にそれを正当化する説明は、少なくとも自動的には要求されない。だが私が均等な分割の原理から逸脱したら、それなりの特別な理由を挙げる理由を挙げるように求められる。

ケーキを切れない非行少年たち……という話もあるが、それはそうとして、とにかくケーキを分け与える場合には、それが平等である以外には特別な理由があるべきで、本来は同じ量だけ与えられるべきだという論であろう。

基本的には、同じ量のケーキを割り与えられるべきだという。

 

これについて、著者のフランクファートは反論する。

この種の説明は多くの人によって魅力を持つ。実際、これは初歩的な常識で裏付けられると広く考えられている。だが実は、バーリンが述べている想定はまちがっている。平等性は、不平等性に対して何ら本質的な道徳的優位性を持たない。

この条件でバーリンは、ケーキを分かち合う人々が、均等な分け前を正当化する形で似ているのか、ちがう大きさのケーキを正当化するような形でちがっているのか、何も知らないということだ。これらの人々について、関連情報をまったく持っていいないのだ。

すなわち、ケーキを分かち合う人々についての、個々の事情についてなんにもわかっていないじゃないか、ということだろう。

 

おれが考えるに、たぶん、人によっては少食だから少なくてもいいだろうし、ダイエット中だから多くなくていい、アレルギーがあるからそもそもケーキはいらない、そんな人もいるということだろう。

おれはこの比喩について、そんなふうに考えたのだが。

 

で、著者はアイザイア・バーリンの考えを「不偏不党性による平等」といい、それぞれの人による事情、敬意を無視したものだという。

 

おれは、どうも、それはまっとうな考えなように思える。

個々人の事情を無視した、平等主義というものだ。

 

「主義」とはなにか。

おれは大学受験のための予備校の現国か小論文の講師が言っていたことを思い出す。

「主義という言葉が出てきたら、それを一番重要なものとするという考え方だ」と。

 

おれはその単純で簡単な解説に感じいった。

「なになに主義」という言葉を見るたびに、そう言い換えてみた。

わかりやすい。自由主義、自由をもっとも重要とする。平等主義。平等をもっとも重要視する。

 

それらが組み合わされたりするし、標榜するそれとまったく違うじゃねえかという例もあるとは思うが、とりあえず、それを言う主体はそれを目的としているということだ。

 

平等主義とその否定

となると、格差を否定する平等主義は、平等であるところを第一に考え、それをお目的とする考え方となる。

悪くない考え方だとは思う。

だが、第一の目的、究極の目的かどうか言われると、ちょっと待ってくれと言いたいところがある。

 

平等とはなにか。「EQUALITY」と「EQUITY」で画像絵検索すると出てくる、よく知られた画像がある。

それも考えどころだろう。

とはいえ、いずれにせよ平等というものが、最後の目的かどうかというと、どうだろうか。

 

それは、この本の著者であるフランクファートが指摘するところでもある。

平等はそれ自体として価値があるわけではなく、重要なのはそれぞれの個別性のなかにおいて十分な扱いを得ることではないか、と。

 

これについては、わからないでもない。

求めるところが少ない人間にとっては、べつに巨万の富はいらないのだ。

 

これについては、おれについてもそうだ。

おれは、この現代日本という状況下において、それなりの労働をして、それなりの対価を得て、それなりの持続性をもって、少なくとも明日の食べ物、明日の住処を心配しないで生きていきたい、ということだ。

 

それは、日本よりもっと貧しい国の人にしてみれば、たいへんに恵まれた人間の戯言にすぎないのかもしれない。

そう言われればそうだろう。とはいえ、おれはたまたまこのような国に、たまたまそれなりの情況で生まれてしまったのだ。

おれに選択の余地はなかった。

 

この個別性というものは、今のところ人類から避けられないもののように思う。

生まれてくるところは選べないし、国や地域による格差は現実として存在する。

この選択、もっとくだいた言い方で言えば「ガチャ」から、人類は今のところ逃れられてはいない。

 

とはいえ格差の解消により恵まれぬものは得るべきだ

究極のところ、平等主義というものは、目的にならない。おれはそう思う。

個々人の求めるところに応じて、得られるものが十分であればよい。冒頭で引用した「万人が十分に保有すること」が重要だ。

 

が、しかし。現実的にはどうだろうか。

これは訳者である山形浩生が解説で指摘するところでもあるが、著者の考え方はいささか現実離れしている。

哲学の領域のものであるといえるだろう。

形而上的すぎるというかなんというか。

 

現実問題として、あまりにも富を得ている人間から、あまりにも富を得られてない人間に、その富は分け与えられるべきだろう。

 

平等主義が個々人の個別性を無視しているという意見はありうるし、同意もするが、現実問題としてはどうだろう。

あまりにも富を得すぎた人々が、いくらかでもその富を分け与えることによって、どれだけの人間が救われるだろう。

 

どうにも、「トリクルダウン」というものが、うまくいってねえな、という感じもする。

富めるものはのはさらに富み、貧しいものはもっているものまで奪われるという、タラントンの例えが現実化しているような気がする。

このあたり、おれは単なる無学の貧乏人であって、「気がする」しか言えないのだけれど。

さあ、有識者はどう主張するのだろう。

 

ともかく、哲学的、形而上学的な領域において、平等主義というものは本質的ではないし、平等を最終目的として追求するべきものではないとしても、現実としてはどうなんだい。

 

このあたりは、長い解説で訳者が述べる疑問点でもある。

 

そこのところを考えると、やはり現状の格差なるものはすごく大きなところから、あるいはちょっとしたところまで問われるべきものであって、ちょっといったん富というものを均すことも大切じゃないかと思うのである。

 

平等よりも大切なものとは

で、目前のものとして格差を否定し、平等を重視しつつ、べつになにか追い求めるべきものがあるのだろうか。

 

おれが考えるに、「自由」の二文字である。

自由主義、といってもいいだろうか。

そこには、貧困からの自由もあれば、思想の自由もある。

格差からの自由もあるだろう。

フリーダム、リバティ、そのあたりの使い分けはよくわからない。

ともかく、人間は自由であれ、と思うところがおれには大きい。

 

優雅で感傷的なアナーキストである大杉栄はこう書いた。

思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

おれは自由の二文字が好きだ。

平等も嫌いではないけれど、それは自由に至る過程のように思う。

究極的には自由を求める。

自由は安心をもたらす。そのように思う。

 

あなたはどうだろうか?

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

 

Photo by Jeena Paradies

ビジネス書を、知人が薦めていたので、読んでみた。

著者は経営共創基盤の木村尚敬氏。

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「修羅場」とか「ケース」とか、少し思い出したことがあったので、書いてみたい。

 

 

コンサルティング会社に在籍していた時は、修羅場ではないが、確かに「きわどい」ケーススタディをよくやった。

例えばこんな具合だ。

 

 

〇都内の印刷業の経営者が、あなたに何気なく

「ウチの役員のYさん、次の社長候補なんだけど、どう思う?」

と聞いてきた。

なお、あなたのYさん評価は、「経営者のお気に入りで口は達者だが、経営者としては力不足」だ。

どう回答するか?

 

〇青森の建設業。あなたはその経営者と個人的に親しい。

ただ、最近耳にした噂で、経営者がどうも談合に関与しているらしいことがわかった。

ただし、今のところ証拠はない。

あなたは上司にそれを報告するか?

 

 

もちろん、上だけでは足りない情報がたくさんある。

「これだけでは何とも……」と言ってしまいそうになる。

 

だが、コンサルタントは「その情報だけではわかりません」とは言ってはいけないことになっていた。

ここは学校じゃない、と。

足りなければ仮定せよ、質問せよ、と。

 

現場ですべての情報が入手できるわけではない。

自分で想像を巡らせて、状況を仮定して自ら補完し、回答をだす。

それも、コンサルタントに必要なスキルだとみなされていた。

 

そうして、一通りディスカッションが終わったら、実際にこのプロジェクトにかかわった人から、実際に現場で起きた「解答」の発表がある。

 

私の回答ではトラブルを大きくしそうだな、と言う時もあり、現場の知恵とは、本当にすごいものだ、と私はいつも感心していた。

 

仕事はきれいごとだけでは済まない

ケースは、ほとんどがきれいごとだけでは済まないシーンをクローズアップしたものだった。

大きな金や地位、名誉、責任、そして犯罪など。

しかもこれらは、現実に起きたことだ。

 

例えば、上の最初のケースで挙げた

「社長候補についてどう思う?」

と言う質問。

これは、シンプルな質問だが、回答はとてもシビアだ。

 

社長との付き合いを今後も続ける場合、「良いと思います」というウソは危険だ。

目が曇っている、とみなされかねない。

 

だが逆に、「力量不足だと思います」と素直に述べた場合も問題がある。

例えば、社長が「コンサルが、Yは力不足だと言っていた」と口を滑らせた場合、今後の活動に支障をきたす。

 

事情はどうあれ、Yさんはウチを間違いなく嫌うだろう。

また、結果的にYさんが降ろされた場合、「コンサルがYさんを更迭せよと言った」などと、濡れ衣を着せられかねない

 

だから、この場合に正解なのは、「人事には口を出すな。話を聞くだけにとどめよ」と私は教わった。

 

「社長候補をどのような考え方で選んでいるのか知りたく……」とか、

「初めて伺いました。なぜYさんなのですか?」とか。

 

こういったスキルは、「論理的思考」や「プレゼンテーション」といった、「表のスキル」は異なる。

これは、人の悪意を回避するための、裏スキルだ。

 

だから利害渦巻く、コンサルティングの現場では、必須のスキルだった。

 

こういったスキルは昔からその重要性が強調されている。

例えば、マキアヴェリの「君主論」だ。

人が現実に生きているのと、人間いかに生きるべきかというのとは、はなはだかけ離れている。

だから、人間いかに生きるべきかを見て、現に人が生きている現実の姿を見逃す人間は、自立するどころか、破滅を思い知らされるのが落ちである。

なぜなら、なにごとにつけても、善い行いをすると広言する人間は、よからぬ多数の人々のなかにあって、破滅せざるをえない。

 

したがって、自分の身を守ろうとする君主は、よくない人間にもなれることを、習い覚える必要がある。そして、この態度を、必要に応じて使ったり、使わなかったりしなくてはならない。(太線は筆者)

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人の悪意や嫉妬などの「暗い欲望」を無視して、マネジメントはできないというのは、今昔変わらず、上に立つ人物の偽らざる本音だろう。

 

自分を大きく見せようとする人間をあつかうのは、簡単だよ。

なお、コンサルティングの現場には、口が達者で、自分を大きく見せるため、あれこれ噂を流したり、特定の人にウソを吹き込んだりする人たちがいた。

彼らは往々にして、現状が維持されることを強く望むので、プロジェクトの邪魔をしてくるのだ。

 

だが、そういう人にこそ、このスキルは生きる。

一人の先輩はこういった。

「自分を大きく見せようとする人間は、逆に扱いが簡単なんだよ。」と。

 

先輩はこう言った。

「プライドが高いから、彼らを絶対に無視しないこと。」

「どうすれば?」

「悪い話は、絶対にその上司から言わせること。ウチは人物評価は仕事じゃない。もう一つ、彼とは会話を頻繁にしなさい。こちらから話しかけてあげるだけで、彼は満足するから。それはプロジェクトの運営コストに含めていい。あと……」

「あと?」

「絶対に人の悪口を陰で言わない事。そうしたら君も同じ穴の狢だ。それは彼に伝わると思ったほうがいい。」

 

私はこうして、会社で「悪意を回避する方法」を少しずつ知っていった。

そして何より「組織で働く」というのは、そういう人たちとも付き合っていかなければならない、と言うことを強く実感したのだった。

 

冒頭の本を読んで、そんなことを思い出した。

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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コンサルタントをやっていたころ、日本全国の、大きな会社から小さな会社まで、本当に様々な会社を見ました。

 

国内の大手で、非常にのんびりしたカルチャーを持つ会社。

トップがころころ変わる、高給だが、激務の外資系企業。

社内で派閥闘争が激化しているスタートアップ。

社長一族が牛耳る地方の老舗企業。

 

「ここで働きたいなー」と思える会社も多かったですが、「ここは絶対に嫌だ」という会社も、それ以上にたくさんありました。

 

もちろん、企業の良しあしの基準は人それぞれなので、私がとやかく言う話ではありません。

ただ、一般的な傾向として「低賃金」「長時間労働」「パワハラ横行」というキーワードが並ぶ会社で働きたいと思う人は、あまりいないでしょう。

もちろん、私もそういう会社は嫌です。すぐに辞めると思います。

 

「低賃金」「長時間労働」「パワハラ横行」だけど人は辞めない

そして、読者の皆様は、そういう会社は、さぞかし離職率が高いのだろう、と思われるのではないでしょうか。

ところが、実態は、必ずしもそうではないのです。

「低賃金」「長時間労働」「パワハラ横行」の企業でも、離職率はさほど高くないことが往々にしてあります。

 

例えば、あるソフト開発会社はパワハラがひどく、長時間労働が常態化していたのですが、離職率は、全国平均よりもかなり低い値でした。

優秀な方も少なからずいて、「この人のスキルなら、もっと高給が取れて、人間関係もいい会社に転職できるのになあ」と、何度も思うことがありました。

 

もちろん私は当時、外部の人間として会社に訪問していたので、

「転職したらどうです?」

といった話はもちろん、できません。

むしろ、離職率の低さからして、社員の方々は現状にそれほど不満を持っていないのかもしれない、この会社には、何か良いところもあるのだろう、と思っていました。

 

しかし、待遇、という話になれば、転職活動の一つでもしてみれば、すぐに他の会社の条件の良さには気づくでしょう。

給与が安い、とこぼす人ももちろん、いましたので、「一体なぜ、この人は、さっさと辞めないのか」という疑問は、常に付きまとっていました。

 

そこで、私はそういった会社を観察しました。

そして、知りました。

そうした会社の人たちは、そもそも「辞める」という選択肢がないのです。

 

彼らはそもそも「辞めようと思わない」

辞める、辞めないの話になると、「スキルが低くて辞めたくても辞められないんでしょう?」と言う方がいますが、スキルが理由で辞めない人は、あまりいませんでした。

そもそも「辞めようと思わない」というのが正確なところです。

 

一体なぜ、そんなことになっているのか。

実は、「待遇が悪くても、人が辞めない会社」には、ある程度共通項があるのです。

 

1.新卒を中心に採用する

新卒は入社3年以内に1/3が辞めてしまう、という話を聞いたことはないでしょうか。

厚生労働省のデータ*1によると、事業所の規模別に20%~50%と、かなり開きがありますが、全体として3割程度、というのは間違っていないでしょう。

逆に言えば、7割近くの人は、新卒採用された会社に3年以上とどまっている。

これが新卒採用を行っている全企業の平均であることを考えれば、恐ろしく高い数値です。

 

ちなみに、個人的には、私が新卒で入社した会社は、低賃金ではありませんでしたが、毎日帰宅は夜中という長時間労働で、何よりパワハラがひどい会社でした。

例えば、勉強会で回答を間違えると「罰金」が課される。

顧客アンケートの結果が少しでも悪いと、全体会議でつるし上げ。

売上未達は怒号が飛び交う会議で詰められる

など、極端なことも行われていました。

 

もちろん、それはトップの熱心さゆえだったのですが、今ではそんな会社があること自体、考えられません。

ただ、私は「コンサルティング会社なら、こんなものなのだろう」と思い、辞めようとおもわなかったのです。

 

後からその話を人にしたところ、「すぐに辞めたほうがいい」と引かれましたが、わたしは新卒の当時、「何処へ行っても同じだろう」と思っていました。

つまり、「転職」のハードルが高い、というよりは、他社を知らない新卒は、自分の環境が劣悪であることに気づかない。

 

「最初の会社のカルチャーは、その後の仕事人生に大きな影響を与える」という話を、コンサルタントの先輩に聞きましたが、まさに「最初のカルチャー」がその人の仕事の標準になるのは間違いありません。

言ってしまえば、新卒採用を中心にすると、「酷い会社」なのに、「酷い」と思わない人が増えるのです。

 

これは経営サイドにとってみれば、「劣悪な環境でも、従順でやめにくい社員」として、使えるので、いい話ではあります。

実際、あるブラック企業の社長は、「中途はこらえ性がなくてダメだね。やっぱり新卒だね。」と繰り返し言っていました。

 

2.保守的な人を採用している

もう一つの特徴は、保守的な人を採用している、ということです。

保守的、というのは言い換えると、「現状を変えることに消極的な人」と言ってもよいでしょう。

 

前述したソフト開発会社の経営者は、「どこでも通用しそうなヤツは採用しない」と言っていました。

「重要なのは、我慢強いかどうか。関心があちこちにあって、優秀で、弁が立つヤツはダメ。」とも。

要するにこれは、「能力が高いかどうかではなく、辞めないかどうかを優先して採用している」ということです。

 

3.昇給は毎年必ず、ほんの少しずつ

さらに、こういう会社は低賃金ではありますが、「昇給」はきちんとやります。

彼らはほんの僅かであっても、「昇給している」という事実が、人の定着にかなりの影響があることを、知っているからです。

前述した会社では、「全員」が「必ず昇給」していました。いわゆる、年功型の賃金です。

 

それだけ聞くと、非常に良い会社だと思うかもしれませんが、年間の昇給額は、せいぜい数千円でした。

勤続10年でも、年収は数万円あがるくらい。薄給は変わりません。

 

彼らは、どれほど優秀な社員であっても「思い切って給料を上げる」ことは絶対にしません。

コストパフォーマンスが悪いからです。

 

実はこれには根拠があります。

幸福経済学を専門とする行動経済学者、ニック・ポータヴィーは、お金がもたらす「幸福」の持続時間について、「世帯収入の50パーセント増に人々が完全に慣れるまでにはたった4年しかかからない」と言っています。*2

 

年収が1.5倍になっても、幸福は4年しか続かない。

年収300万円から450万円に大きく引き上げても、効果はたかが知れている。

だったら、大きく給与の額を上げるよりも、少しずつ、できるだけ小刻みに昇給させ、幸福が持続する期間を長くすることが合理的です。

 

このように言うと、「パフォーマンスの高い社員ほど、報われないと感じるのでは?」という疑問が浮かぶのではないでしょうか。

 

大丈夫です。

その点も彼らはぬかりありませんでした。

そういう会社では、パフォーマンスの高い人には、「肩書」を乱発します。

「マネジャー」「リーダー」「サブリーダー」

という肩書を持つ人が、社内にあふれていました。

 

そして、昇給額もほんの少しだけ、大きくする。

そうすることで、「社内の序列」が、優秀な人たちの優越感を生み出すのです。

これは、定着率の上昇に大きく寄与していました。

 

つまり「昭和型」の会社

ここまで来て、読者の皆様ももう、お気づきでしょう。

新卒採用中心、保守的な人、そして横並びの年功型賃金と肩書乱発。

これらはすべて、「昭和型」の会社の典型です。

 

実際、昭和の時代には、「低賃金」「長時間労働」「パワハラ横行」は、ほとんどすべての会社に当たり前のように行われていました。

それでも多くの人々は、転職を良しとせず、一つの会社に勤めあげたのです。

「今はもう、そんな時代ではない」と主張する方がいるかもしれません。

 

しかし、経営者が「昭和型の経営」を未だに引き継いでいる会社は、それほど珍しいものではありません。

低賃金でパワハラが横行しているのに、人が辞めない会社は、まだ世の中にたくさんあります。

そして、中の人々は「別の選択肢がある」ということにすら気づいていないことも多いのです。

(執筆:安達 裕哉)

 

 

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【著者プロフィール】

ナレビ編集部(ナレビ

マイナビバイトが運営する「全国のアルバイト採用情報を届けるメディア」。

アルバイト人材市場の調査データだけでなく、募集・採用に関わるお役立ち記事や視野が広がるコラム記事など、 採用担当者をはじめ、経営層にも楽しんでいただけるコンテンツをお届けしています。

Twitter:@mynavi_nalevi

 

 

【参考文献】

*1 厚生労働省「新規学卒者の離職状況」
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000137940.html

*2 ニック・ポータヴィー
幸福の計算式 結婚初年度の「幸福」の値段は2500万円!?
CCCメディアハウス

 

「学歴で人を判断するのはよくない」と言えば、おそらく多くの人が同意をしてくれるのではないだろうか。

もっとも、良い大学に行き良い会社に入れば一生安泰などと言うのは遠い昔の話なので、もはやそれどころの話ではないのだが。

 

しかしここで、一つの数字を見てほしい。

適当にまとめたものなので間違いはあるかも知れないが、中央省庁の事務次官もしくは相当職にある幹部の、出身大学別の人数だ。

言うまでもなく事務次官とは、日本の政策を意志決定する事実上の最高責任者である。

2021年8月現在、東大出身者がほとんどとなっている。

 

東京大学 ・・・13人
京都大学 ・・・1人
一橋大学 ・・・1人
慶応大学 ・・・1人

 

さらに言えば、13人のうち11人が東大法学部の出身だ。おそらく過去に遡っても、この傾向は間違いなく同じだろう。

むしろ、慶応とはいえ私学出身者がいることに、「時代は変わったなー」と思えるほどだ。

 

とはいえこれは、学歴で人を判断したわけではなく、優秀な人を選んだらたまたま東大法学部出身だっただけかも知れない。

そもそも、国家公務員のキャリア試験合格者が東大出身者ばかりなので、そうならざるを得ないということもありそうだ。

 

いずれにせよ、日本という国は一つの大学、一つの学部出身者に偏って国家としての意思決定がなされていることだけは、間違いなさそうだ。

多くの人が「学歴で人を判断するのはよくない」という価値観を共有しているであろうにも関わらずだ。

 

しかしその上で、「だから間違っている」などというつもりは、実は全く無い。

むしろ、これはある意味で素晴らしい結果であり、学歴主義とは素晴らしい考え方なのではないか、という話をしてみたい。

 

それはどういうことか。

 

会社はなぜ儲からなくなるのか

話は変わるが、私はかつてある中堅メーカーの経営再建に携わったことがある。

創業社長が30年で育てた会社で、従業員数も1000名近くまで成長させるなど、業界では知られた会社だった。

 

しかし事業の拡大に伴い経営管理が行き届かなくなり、やがて売上は伸びるのにそれ以上の赤字を垂れ流す危機的な状況に陥る。

さらに何が原因で経営が悪化するのか、何をすれば状況が改善するのかを把握できずに混乱しているような状態だった。

 

このような状況で経営企画の責任者に就くと、私が最初に取り組んだのは業務を数字で可視化することであり、可視化するための業務フローの整理だった。

この過程では多くの発見があったが、一番驚いたのは工場の給与総額だっただろうか。

過去の推移を日別で集計しグラフ化してみると、売上にも生産量にも連動していないのである。

 

それどころか、生産量の少ない暇な日にパート・アルバイトへの支払いが増加し、月末の多忙な日に減る傾向があった。

そしてその多忙な日に社員の残業手当が増加し、減ったパート・アルバイトの穴埋めをしているであろうことを数字は示していた。

 

数字から見て、シフト管理が目的的になされていないことは明らかだ。

そのためさっそく工場長のもとに行きこの状況を説明すると、意外な回答が返ってきた。

 

「数字は正しいと思います。パートやアルバイトは本人の希望を聞いた上で、入れる日に入ってもらうシフトを組んでいます。特段の工夫はしていません」

「ありがとうございます。しかしそれでは楽な日に人が集中し、忙しい時を皆が敬遠して、パートさんに働いてもらう目的が薄れてしまいます。いかがでしょうか」

 

「その通りです。しかし忙しい日も暇な日も同じ給料では、パートさんに頼みづらいのが正直なところなんです。さらに言えば、こうして数字を見るまで、ここまでの問題だと正直思っていませんでした」

「・・・なるほど、よくわかります」

 

工場長は、問題があることもこのままではいけないことも、長年の現場感で概ね正確に理解していた。

しかし頑張ってくれる人もそうでない人も同じ給料なら、「忙しい日にこそ入ってほしい」とは言い辛かったのだろう。

 

さらに言えば、正確な数字がわからないのであれば工場を安定的に稼働させるバッファを多く取ることだけ考え、人を配置していたことも理解できることだ。

これは現場の責任よりも、漫然と人を採用するばかりで、状況を数字で可視化していなかった役員の怠慢こそ問題にすべきだろう。

 

このような問題は他でも見られ、月次棚卸しが為されていない工場の在庫は、パート・アルバイトが持ち帰り放題になっていた。

さらに開封済みの同じ原材料がいくつもあり、また発注が重ねられているなど無駄に無駄が積み上がっている状態だった。

これでは、いくら優良なビジネスモデルを展開しても穴の空いたバケツで、儲かるものも儲かるわけがない。

 

状況を把握すると私はさっそく、各現場の責任者と一緒になって「当たり前のこと」をルール化することに着手した。

・多忙な日の出勤には時給を上積みし、負荷によって給与に差をつけること。
・在庫棚卸しを実施して備品の持ち帰りを禁止し、発注ルールを取り決めること。
・ずるい人が得をするあらゆる仕組みを許さないこと。

など、誰もが当然と思っていたのに、やろうとしなかったことばかりである。

 

すると3ヶ月もすると目に見えて効果が現れ、給与総額は生産量に連動するようになり、大幅な圧縮を達成することになる。

さらに、あらゆる数字を可視化することで様々なコストが勝手に下がり、キャッシュの流出が止まり、1年後には黒字化を達成するまでに状況が改善した。

 

この時、工場に足を運び「工場長!すごいじゃないですか!」と声を掛けた時の、少し赤らんだ誇らしい笑顔は忘れようがない。

ほんの少し習慣を変えるだけで成果は大きく変わり、心が動き出して、良い方向にものごとが進むことを実感した瞬間だった。

そんなことを肌感覚で体験できた、本当に印象深い出来事になっている。

 

多少乱暴に話を省略しているが、この時に私がしたことは、本質的にはこの程度である。

誰もが問題意識を持っていたのに、「まあいいか」と漫然と流されていた課題を机に上げ、可視化しただけのことだ。

そしてただそれだけのことで数字が改善し、まるで私の手柄であるかのように株主からは評価され、驚かれた。

 

飛躍するようなことを言うようだが、日産自動車を立て直したカルロス・ゴーンなど経営の「立て直し屋」と呼ばれる人たちも、大したことをしているわけではない。

 

組織とは、長年に渡り変化に晒されないままだと「社内既得権益」が生まれてしまうものだ。

そして、責任を取らないのに決裁権を持つ上司、無駄で無意味な社内ルールとその責任者、何の役にも立たない報告書の作成担当といった「仕事をしているフリで給料をもらえる人たち」が積み重なり、利益を食い潰す。

 

それらをぶち壊し、誰もが当たり前と感じるルールに整理し直すだけで、多くの組織ではびっくりするくらい利益が生まれ、優良企業になれる可能性を秘めている。

 

しかしそのようなぶち壊し役は、生え抜きの人間には難しい。

組織文化に染まり会社のやり方が当たり前になると、非常識なことに慣れ、常識に鈍感になってしまうからだ。

 

だからこそ、組織というものは常に多様なものの見方をする「壊し屋」に仕事をさせ続ける必要がある。

そして意図的に組織を流動化させ、特に役員などのエラい人たちに緊張感を強制しなければならない。

 

このような「創造的破壊」を機能として持ち合わせていない会社や組織は、時間の経過とともに必ず硬直化してしまう。

そうなると、環境に適応できず淘汰されることは、多くの歴史が証明している通りだ。

 

結局学歴主義は素晴らしいのか

話は冒頭の、「学歴主義って素晴らしい」という話についてだ。

確かに、日本で最高の意思決定を担う中央省庁の事務次官は、東大出身者ばかりだろう。

 

逆に言えば、東大を出ているかも知れないが、大富豪の家系であったり、旧華族の出身であったりなど、「特別ななにか」を持ち合わせているわけではない人たちばかりとも言える。

シンプルに言えば、勉強を頑張り、東大に入り、仕事を頑張れば国の中枢を任される人にもなれるということだ。

 

この仕組みは元々、明治新政府が誕生した際に、深刻な人材難を背景に生まれた制度だった。

新しい国を作り新しい組織を作ろうとしているのに、全くそれを担う人材がいない。

 

であれば、武士階級だろうが農民出身であろうが、優秀な人間を次々に取り立てて、仕事を任せるしか無かった。

武士階級でなければ指導者になれないなどと、そんな無意味な社会の硬直化を徳川幕府から継承する余裕など無かったということである。

 

そしてこの際、「優秀な人間」の尺度になったのが学歴、すなわち「学習した知識の再現性が高い人」だった。

そして、年齢や身分の垣根を超えて多様な人材が次々に流入する国の中枢は絶えず「創造的破壊」を強制され、緊張を強いられ、既得権益にしがみつく人に安住を許さなかった。

結果として組織は強さを積み重ねていき、日本が急速な近代化を遂げる大きな原動力となっていく。

 

翻って今、学歴主義はこのように機能しているだろうか。

学歴・学閥が社会の既得権益として機能し、「学習した知識の再現性が高い人」だけが求められる価値観ではない今、既に最初の目的を失っているのではないだろうか。

まして、親の年収が子の学歴に影響を与えるような情勢であれば、むしろ「社会の硬直化」を助長する仕組みにすらなっていると言えないだろうか。

 

学歴主義が本来持っていた目的を考えると、もはやその役割は確実に終わっている。

そしてその目的とは、能力主義であり、多様な価値観やものの見方が流入し続ける仕組みであり、組織に継続的な創造的破壊をもたらすことであったはずだ。

そのような原点に立ち返り、諸々のエラい人たちにはぜひ、組織運営にあたって欲しいと願っている。

 

あ、学生にとって勉強は何よりも大事なことなので誤解なきよう、念のために。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

先日、18年間家族でいてくれたウチのワンコが旅立ちました。

早朝にふと目がさめ様子を見に行くと、微かに頭を上げて尻尾を振り、そのまま呼吸が止まりました。

最後のお別れのために、頑張って待ってくれていたのだと思います。

本当にありがとう。。

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

 

photo by : Richard, enjoy my life!

日々仕事をこなすうえで、プレッシャーを感じる場面は多々ありますよね。

適度なプレッシャーは、自己成長やモチベーションの向上につながる一方で、大きすぎるプレッシャーは、ストレスの原因になります。

 

本記事では、プレッシャーを感じやすい人の特徴と、克服するための方法を解説していきます。

 

プレッシャーを感じやすい仕事のタイプ

プレッシャーとは、一言でいうと「精神的な圧力(重圧)」のことです。

大きく2種類あり、他者からもたらされるものと、自分で作り出すものがあります。

プレッシャーを感じてしまう仕事には共通点があり、代表的なタイプを4つ紹介します。

 

未経験の仕事

「上手くいかなかった最悪のケース」を想像し、どんどん不安になってしまうタイプの人にとって、未経験の仕事は大きなストレスとなります。

また、自分だけ初心者で、ベテランの人に囲まれている場合、スキルや成果に差が出ることへの焦りが、プレッシャーになることもあります。

 

チャレンジングな仕事

経験が全くないわけではないけど、現状の能力以上を求められるような仕事に対しても、「自分の手に負えるだろうか」という不安な気持ちが、プレッシャーとなります。

 

周囲の期待が大きい仕事

社運を賭けたプロジェクトといった、多くの人に注目されるような仕事に対して、「ちゃんと結果を出せるんだろうか」「失敗して周囲にがっかりされないだろうか」という恐れの気持ちが、プレッシャーになります。

 

ミスが許されない仕事

ミスが大きな事故につながったり、納期が厳しくリカバリーが困難だったりと、ミスがもたらす影響が大きいような仕事に対しても、常につきまとう「失敗できない」という緊張感が、プレッシャーとなります。

 

プレッシャーを感じやすい人の特徴

誰もが仕事上で何かしらのプレッシャーは感じていると思いますが、過剰ににプレッシャーを感じやすい性格の人がいます。

 

心配性な性格

「もし失敗したらどうしよう」と、まだ起こっていない将来のことに対して悲観的に考えてしまうタイプです。

 

完璧主義

プライドが高い完璧主義の人も、人一倍プレッシャーを感じやすいです。

完璧主義には、自分に厳しすぎるストイックタイプの人と、「周囲からダメな人と思われたくない」という思いが強いタイプの人がいます。

 

責任感が強すぎる

「失敗して周りに迷惑をかけたくない」「任された仕事はきっちりとこなさなければ」といった、真面目で責任感が強い人も、プレッシャーを過剰に感じてしまいます。

 

プレッシャーが引き起こす仕事への悪影響

大きなプレッシャーは、プライベートはもちろん、仕事へもネガティブな影響を与えます。

 

心身の疲弊

メンタル面での疲弊を引き金に、体調不良や睡眠障害、食欲不振など、フィジカル面での健康も阻害されていきます。

 

パフォーマンスの低下

①に関連しますが、心身ともに不健康だと、集中力や判断力、体力が落ちるので、仕事のパフォーマンスも下がってしまいます。

そして、ミスが増え、成果が上がらないことが、さらなるプレッシャーを引き起こすという負の循環に入ってしまうこともしばしばあります。

 

周囲への伝番

焦りや不安は、知らず知らずのうちに周辺に伝播していきます。

とくに、メンバーを束ねる立場にいるリーダーが①②のような状況になった場合、チーム全体のパフォーマンスが低下するといったことも起こりえます。

 

適度なプレッシャーはメリットもある

プレッシャーの負の側面ばかりを伝えてきましたが、「適度なプレッシャー」にはメリットがあります。

「心地の良い緊張感」と言い換えれるかもしれません。

適度なプレッシャーは、自分への期待を育んで、それを成長機会に変えていきます。

 

そして、「困難を乗り越えた」という経験が、自信へとつながっていきます。

「自分ならきっとできる」という自己肯定感も育まれていくので、さらに前向きに物事に取り組めるという、グットサイクルに入っていくことができます。

 

仕事でプレッシャーを克服する方法

適度なプレッシャーを上手く活用していくと、仕事へも良い影響を与えます。

しかし、大きすぎると、心身ともに健康を害してしまいます。

プレッシャーを強く感じてしまいがちな人に、ぜひ取り入れてほしい克服方法を紹介します。

 

方法①:紙に書き出す

プレッシャーに強い人というのは、そのプレッシャーの正体を自分でよく理解しています。

プレッシャーを感じたら、「何がプレッシャーなのか」ということを言語化し、紙に書き出してみましょう。

例えば、「上司の期待」や「失敗することの恐れ」、「周囲からのダメな人認定を避けたい」など、人によって様々なプレッシャー要因があると思います。

 

そういった「自分を不安にさせているもの」を、どんどん書いてみてください。

そして、改めて見返して「それは本当に実在するものなのか」を考えてみましょう。

もしかすると、自分自身が勝手に作り出した妄想や思い込みであることも少なくありません。

 

方法②:他者に相談してみる

メンターや信頼できる同僚、上司、社外の友人など、他者に話すことも非常に大事です。

話す行為自体が、ある種のストレス発散となって気持ちが楽になることもありますし、第三者からの冷静なアドバイスにより、解決へと近づくこともあります。

 

方法③:成功までのプロセスを具体化する

人は、「漠然としているもの」に対して、不安を感じてしまいます。

成功のイメージを明確にし、そこに至るまでのプロセスとやるべきことを具体的に整理していきましょう。

そして、「これならできそうかも」という感覚が掴めたら、プレッシャーも少しずつ緩和されていきます。

 

まとめ

大きなプレッシャーは問題がありますが、適度なプレッシャーにはメリットがあります。

自分なりの上手なプレッシャーとの付き合い方を見つけ、成長の糧にしていってくださいね。

(執筆:村尾 桂子

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

Photo by Gift Habeshaw

今日はこの場を借りて、Books&Apps編集部の方々に、反省の意を伝えたい。

 

2017年、4年前の話だ。

フリーランスになってまだ間もない頃で、当時のわたしは「有名になるぞ!」と鼻息を荒くし、「自分の価値は強気にアピールしていくべし」という巷のフリーランスノウハウを鵜呑みにしていた。

 

だから、たくさんの人に記事を読んでもらえたとき、ここぞとばかりに言ったのだ。

「原稿料をあげてくれませんか」と。

 

いま考えると、とんだ思い上がりだったと思う。

 

新人ライターがバズを経験し、勢いあまって給料交渉

2016年、わたしはまだ駆け出しフリーライターで、たいした実績もなかった。

そんななかどこかに寄稿できないかと調べたところ、『Tatsumaru Times』というブログが寄稿記事を募集していることを知り、勢いで応募。

 

公開された記事はBLOGOSやハフィントンポストに転載され、厚切りジェイソンさんやなんだか有名そうな教授などに拡散していただき、人生初の「バズ」を経験した。

その実績をひっさげ、わたしは愛読していたBooks&Appsのお問い合わせフォームから、「記事を書かせてください」と連絡。

 

ありがたいことに、「自分も雨宮さんの記事を読んでおもしろいと思っていました。ぜひ」というお返事をいただいた。

こうしてわたしは、このBooks&Appsのライターとなったのだ。

 

はじめて寄稿した記事が公開されたのが、2017年6月30日。

そして、3記事目となる『「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ。』という記事が、びっくりするほどバズった。

朝日新聞に載せていただくほどだったからね。そりゃびっくりもするよね。

 

ライターとして活動をはじめた直後にバズを何度か経験したわたしは、「これはいけるぞ!」と前のめりだった。

だから、3記事目でバズったことを理由に、さっそく原稿料アップの交渉に踏み切ったのだ。

「原稿料をあげていただくことは可能ですか?」と。

 

新卒フリーランスの波に乗り野心に溢れ強気になっていた

4年前の当時は、「新卒フリーランス」という言葉が流行りだし、平成生まれの同世代がブログで生計を立て、ネット上で目立っていたタイミングだった。

「ノマド」という言葉がもてはやされたり、オンラインサロンが注目を集めたり、とにかくそこらへんの界隈に勢いがあったのだ。

 

わたし自身もそういう人たちの影響を受け、同世代のフリーランサーがいう

「自分を安売りするな」

「自分の値段は自分で決めろ」

「ちゃんと評価してくれる人と仕事をすべき」

という言葉を真に受けていた。

 

だから、たくさんの方に記事を読んでいただいたとき、まっさきに思ったのだ。

「これはもっとお金もらっていいんじゃない!?」と。

 

でも、そもそもPV(ページビュー、記事が何回読まれたか)というのは、一過性で運要素も強い。

偶然インフルエンサーに見つかって注目されることあれば、面倒な人に絡まれて突然炎上することもある。

話題になった記事の関連記事だったという理由で、公開から半年後に急に拡散されることもある。

 

いい記事が読まれやすいのはもちろんだが、記事が読まれるのにはさまざまな要因があるわけで。

結局のところ、だいたいはそのメディアのもともとの影響力と、拡散してくれる人の影響力のおかげなんだよね。

 

それなのにわたしは、ちょっと記事が話題になったからってそれを「自分の実力」だと勘違いし、「自分の手柄だ! もっと金をくれ!」とお願いしてしまった。

どれだけ自分は思い上がってたんだ、調子に乗っていたんだ、という話ですよ。

 

もう4年も前の話になるけど、わたしはこの件を、いまだに申し訳なく思っている。

(それを伝えたことはないから、この記事を受け取った編集の方は驚いているかもしれないけど)

 

「結果が出なくても大丈夫」という言葉のおかげでいまのわたしがいる

読まれる記事がある一方で、当然ながら、読まれない記事もある。

ほかの人の記事は読まれているのに、自分の記事だけ明らかに数字が低い……というのは、ライターならだれしもが経験したことがあるだろう。

PVがすべてではないとはいえ、「どれだけ読まれたか」を気にしない書き手なんていないと思う。

 

そんなわけで、記事の納品の際、何度か編集部の方に

「最近なかなかPVが伸びずすみません……」

と言ったことがあった。

 

それに対していただく言葉はいつも同じで、

「お気になさらないでください。いいと思うものを自由に書いていただければ!」

である。

 

フリーライターなんて掃いて捨てるほどいるんだから、わたしじゃなくてもいいはずなのに。

それなのに、「数字として結果が出なくても大丈夫」だと言ってくださるわけですよ。

 

それに引き換え、わたしときたら!

ちょっと数字がよかっただけで原稿料アップの交渉をするなんて!

 

本当にもう、自分のことしか考えてなくて恥ずかしい。

4年経ったいまになって改めて記事にしちゃうくらいには、この件をずっと忘れられずにいた。

 

赤字はスルー、黒字は「自分のおかげ」は自分勝手

さてさて、そんななか、先日公開された『面倒な人の欲求を「察してあげる」と、増長してさらに扱いづらくなる』という記事は、久しぶりに多くの方に読んでいただいた。

4年前は、「うっしゃバズったぜ~。うへへ、原稿料の交渉だ!」と目を「¥」にしていたわたし。

 

しかしいまは、

「お世話になってるメディアにちょっとでも恩返しできてよかった~! いつも本当にありがとうございます! これからもがんばります!」

と、180度ちがう態度でその数字を受け止めた。

 

当時はわかっていなかったけど、成功って、「結果を出せないあいだも見放さないでいてくれる環境」があってこそなのだ。

 

ライターに限らず、仕事をしていれば、「元が取れない」ことはある。

つねに利益を出せればいいのだが、打率10割なんてできっこない。

そんなとき多くの人は、「そういうときもあるよ」と肩をポンポンして励ましてくれるよね。

そして、見放さないでもう一度チャンスをくれる。

 

結果を出せるのは、そうやって待っていてくれた人のおかげ。

「自分の手柄」なんて、成功のうちのほんの何割かだけなんだよ。きっとね。

 

当時のわたしは、他の人がフォローしてくれていること、長い目で見てチャンスをくれていることに、とんと無自覚だった。

だから、少しうまくいっただけで、それを自分の力だと思い上がってしまったのだろう。

 

こういう若気の至りならぬ若気のイキリは、たぶん多くの人に心当たりがあるんじゃないかな、と思う。

たとえば、「会社は自分を評価してくれない! 自分にはもっと価値がある!」と仕事を辞める人とか。

 

右も左もわからない新人を雇うのって、企業からしたら赤字だよね。

でも「将来ペイしてくれるだろう」という期待を込めて、面倒を見る。

それなのにちょっとばかし結果を出したらそれを自分の能力だと勘違いし、「正当な評価」を要求してしまう人は、きっと少なくない。

「正当な評価」なんてされたら、もっと早い段階で切られていたのにね。

 

最初なんてみんな足手まといでさんざんフォローしてもらってるわけで、会社からしたら「マイナスだったものがようやくゼロになった」ってだけだし。

(本当に不当評価の場合もあるから、あくまで例だけど)

 

「育ててもらった恩」だなんて、この時代「古い」と言われるかもしれない。

でも「うまくいかないあいだも見放さないでくれた人、助けてくれた人」がいてこそ「成功」できるのは、まちがいない。

それを忘れるのは、ちょっと不義理だよね。

 

うまくいったときにこそ、まわりに感謝を

結果を出して自信につなげるのは大切だし、野心があることは悪いことじゃない。

自分を安売りしない意識は必要だし、仕事に対して対価を求めるのもまた当然。

お世話になっているからって、不当に低い給料で働くことが正義だとは思わない。

給料交渉や自己アピールがダメだとも思わない。

 

でも、「結果を出したんだから評価しろ」と言うのであれば、結果を出せなかったときは相応のものを失う覚悟をするべきだったなぁ、とは思う。

そんな覚悟もなくうまくいかなかったときのことを考えず、そのくせ手柄だけは自分のものだなんて。

ああ、薄っぺらい。ぺらっぺらだったよ、本当。

 

マイナスを出したら個人で補填すべき!だなんて思わないけど、自分が出したマイナスには無頓着でプラスにはがめついのはちょっとね……。

給料交渉は、そういったことを理解したうえで、「それでも自分は継続的に安定して対価以上の利益をもたらした」と胸を張って言えるようになってからすべきだった。

 

自分の売り込み方、自信のつけ方をまちがえると、うまくいかないときに手を差し伸べてくれる人たちに不義理をしてしまう。

それが、4年前わたしが学んだことだ。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

Photo by Ben Allan

ちょっと「言語化能力」とダライアス外伝についての話をさせてください。

 

この記事で書きたいことは、大体以下のような内容になります。

 

・言語化能力は非常に重要ですよね

・言語化の際に意識するべきなのは「明確さ」と「再現性」

・その為にテンプレートを用意しておくことが非常に有効

・ところで私は言語化能力をダライアス外伝の攻略で身に着けました

・ダライアス外伝めちゃくちゃ面白いので皆遊んでください

 

以上です。よろしくお願いします。

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまいましたので、後はざっくばらんにいきましょう。

先日、安達さんがこんな記事を書かれていました。

今の世の中は、「言語化する能力」が高い人が、有利に事を運べる

今の世の中は、「言語化する能力」が高い人が、有利に事を運べる。

とくに知的な仕事では、自分の思考を、他者に理解させ、そして動かす力が、とても重要だ。

要求を伝えること

アイデアを交換すること

組織や人のつながりを作ること

これらすべてにおいて「言語化能力」は、重要であり、「賢さ」の要件の一つであることは間違いない。

ビジネスにおいて言語化はとても重要であること、しかし言語化には高いコストが必要であり、言語化を怠る人も多いこと。

その為、言語化を習慣化して身に着ける必要があること。

 

それぞれもっともだと首肯するところなのですが、この記事への反応を見ていると、「でも結局言語化能力ってどうすれば身につくの?」とか、「言語化能力の定義が曖昧」「具体例が欲しい」みたいな言葉もちょこちょこ見受けられました。

その為、私なりの言葉で「言語化」について書いてみたくなりました。

 

一言で「言語化」と言っても、言語というのは非常に幅広いものでして、同じ「言語化」でも例えば詩作と科学論文の作成では要求される能力がだいぶ違いますし、「自分の願望を伝えたい時」と「状況の報告を行う時」でも若干スコープは変わってくるでしょう。

それは前提として、ここでは「ビジネス上でのやり取りで一般的に必要とされる言語化能力」くらいに話のスコープを置きたいと思います。

 

私が考える限り、「ビジネスにおいて価値の高い言語化」というものは、二つの要件を必須としています。

それは、「明確さ」と「再現性」です。

 

そもそも「言語化」というものは、「曖昧な状況、想い、願望といったものを言語の形にする」という行為です。

つまり、「曖昧」な状態を「誤解されにくい、なるべくはっきりとした」形で表現しなくてはいけない。

だから、シンプルな表現、単一の解釈に落とし込みやすい論理構造が尊ばれます。

 

そして再現性。これはつまり、「多少時間軸や登場人物が変わっても、同じような状況なら同じようにその言葉を利用することが出来る」という意味です。

一度明確な言葉で言語化をすることが出来れば、何度もその言葉を使い回すことが出来る。

これは、「その後の言語化のコストを丸々省略することが出来る」ことを意味していて、ビジネス上非常に価値が高いです。

 

これらを実現する為に、使うと便利なのが「テンプレ」とか「型」です。

世の中には、「この型に落とし込むと、曖昧なものを綺麗に言語化出来るよ」というテンプレートがたくさん流布されています。

 

たとえば「5W1H」なんて、状況を言語化する為の一番基本的な型の一つですよね。

kpt法だってYWTだって高橋メソッドだってロジックツリーだって、要は「この形に落とし込むと「伝えたいこと」を言語化しやすいよ、というテンプレートの一種です。

こういうテンプレートをなるべくたくさん知っておいて、利用するべき場面で利用することで、「言語化」は一気に楽になります。

 

まずは、「言語化には明確さと再現性が非常に重要で、その為に何らかのテンプレートを用意して都度利用出来ると適切な言語化がしやすくなりますよ」ということが、一般的な結論として言えます。

 

安達さんは「言語化には習慣化が重要」という話をされているんですが、本当この習慣、大人になってから身に着けるのって大変なので、自分の子どもには口すっぱく「どんなことでもなるべく言葉にしようね」と伝えています。

その為に、例えば5W1Hとか、「何のために何がしたいのか」といったテンプレートを伝えて、それに当てはめる形でなるべく言葉にしてもらっています。

 

親の言うことなんてどこまで残るか分かったもんじゃありませんが、積み重ねればなにがしかは人生で有益なこともあるんじゃないかなあ、と。そんな風に思っているのです。

 

***

 

ところでここからが話の本題というか、書きたかった「具体例」なのですが、私はこの「明確さ」と「再現性」のある言語化というものについて、「ダライアス外伝」というゲームを攻略する上で学びました。

 

皆さんご存知ですか?ダライアス外伝。

魚の形をした滅茶苦茶かっこいい敵機と戦う横スクロールSTG「ダライアス」シリーズの3作目でして、STG史上に残る大傑作です。

 

以前も書いたことがあるのですが、私は20数年前の一時期、ダライアス外伝というゲームに惚れこんで、徹底的にドハマリしていました。

プレイ時間が一日5時間を割ることはほぼ無く、休日には比喩抜きで日がな一日ダライアス外伝を遊んで、ゲームの合間の空き時間に生存の為最低限必要なことをする、というような生活でした。

多分、後にも先にも、あれだけ一つのタイトルを突き詰めて遊ぶことはないんじゃないかと思います。

 

一体何のためにこんなことをしていたのかというと、それは「一度でいいから全国一位のスコアをとってみたかったから」であって、とあるアーケードゲーム雑誌で行っていたハイスコア集計で、ほんの1回だけ私はその夢を実現させるのですが、それはそうと「攻略」という話です。

私にとって、「ダライアス外伝の攻略」とは、ひたすら「言語化を繰り返す」行為でした。

 

以前、シロクマ先生がこんな記事を書かれていました。

それは「成功」か、それとも「事故寸前」か、認識できていますか。

 

記事全体から見ると枝葉の部分なのですが、以下引用、

たとえばシューティングゲームのハイスコア稼ぎでも、「なんとなく難しい局面をこなして、なんとなく高得点が得られた」のままでは最終的なハイスコアは伸びない。

「なんとなく難しい局面をこなして、なんとなく高得点が得られた」とは、ハイリスクなブラックボックスを分析しないままの高得点、アクシデントを招きやすい成功でしかなく、そのようなプレイを1面から最終面まで続けていれば、どこかでアクシデントが生じてスコアが下がってしまうだろう。

単に高得点が得られるかどうかでなく、どういうメカニズムで高得点が得られるのか、アクシデントが発生し得るとしたらどこがネックになっているのかをちゃんと言語化し、実践できなければハイスコア稼ぎはおぼつかない。

これについては本当、「そうそう、そうなんですよ」と当時膝を打ちまして。

 

STGが上手い人には色んな人種がいまして、中には「感覚任せのアドリブだけで安定してノーミスクリア出来てハイスコアまで出せてしまう」という生まれながらの超サイヤ人みたいな人もいるのですが、私のような凡人が攻略をしていると、すぐに「セオリーを徹底的に安定させないとスコアが伸びない」という厳然たる事実をつきつけられるんですよ。

 

基本的な弾避け能力や反射神経がそこまで優れていないので、アドリブではまるでプレイが安定しない。

一回上手くいったとしても、次の回では同じことが出来ない。

ようやくノーミスノーボムでシャコを倒せた…!と思っても次のプレイでは2回くらい死んでボンバーまで吐かされる。

 

クリアだけならまだそれでも出来ないことはないんですが、ハイスコアというのは「全てのハードルを安定して越えた上で、更に一番の上振れを引く」というようなことが出来ないと手が届かない世界です。

ハードルが50個くらいある時、「3回に1回は引っかかるハードル」があちこちにあったら、記録どころか完走自体おぼつかないじゃないですか?

 

そこで何をしたかというと、

「今、何故自機は死んだのか?」

「今、何故自機は生き残れたのか?」

「今、何故得点が伸びなかったのか?」

「今、何故得点が伸びたのか?」

「今、何故敵の処理が遅れてしまったのか?」

「今、何故アイテムを上手く処理できなかったのか?」

こういった問いを用意して、「プレイ一回一回、徹底的にそれらの答えを明確にする」ということをやっていたんです。

 

これらは全て、「もやっとしたものに明確な形を与える為の問い」です。

私は、「ハイスコアを出す」というただ一つの目的の為に、これら全ての問いに答えなくてはいけませんでした。

当時、ノートを何冊もゲーセンに持ち込んで、汚い字で「今何が起きたか」を書きまくりました。

 

シューティングゲームのプレイってものすごーーーーく多面的なテクニックの集積ですから、漫然とやっていると自分でも曖昧な状態のまま、「何度もプレイして何となく身につくのを待つ」みたいな攻略になりがちなんです。

 

ハイスコアの世界って凄い人たちがたくさんいて、ぼやっとしてると自分なんかまるで追いつけない速さでスコアを上げていってしまうので、ちょっとでも追いつこうとしたら「何となく身につく」なんて到底待っていられませんでした。

私がようやく1コインクリアが出来るようになった頃、既にタイタニックランスの復活砲台稼ぎのパターンを確立させていた人たちです。

 

ですから、曖昧な部分は発見次第叩きつぶさないといけないし、一度明確にした部分は可能な限り再現し続けなくてはいけませんでした。

上手くいったところは二度目のプレイでも同じように出来なくてはいけませんし、ダメだったところは二度と繰り返してはいけない。

 

例えば「今自分が死んだのは、画面の端まで位置を下げる判断が遅く、高速放射弾の隙間を無理やり抜けるという苦し紛れの選択をせざるを得なかったからだ」とか、

「今得点を稼ぎ切れなかったのは、時間稼ぎが甘くてランクが上がり切らず、ヒレ(得点が高い部位)を壊し切る前にボスを倒してしまったからだ」とか、

「今赤勲章をとってしまった(パワーアップアイテム。ある状況だと取らない方が良い)のは、その後の敵弾を失念していて位置取りを失敗してしまったからだ」

みたいなセオリーとノウハウが蓄積されていって、最終的には明確なパターンに落とし込まれる。

 

それを繰り返して繰り返して、自分に可能な限りのスピードでスコアを上げていきました。

後から考えるとこれ、まさに「言語化」のサイクルそのまんまなんですよね。

 

「曖昧な状況を明確にして」

「後からでも再現可能な言葉で言語化する」

「その為に適切な「言語化の型」を用意する」

攻略中ずーーーーっとこのサイクルを回していたんです。

 

私に多少なりと言語化のスキルがあるとすれば、その根っこには多分この経験があるんじゃないかなあ、と。

どんな分野だろうと、「曖昧なものを徹底的に言葉にする」という経験があると、それ以降の色んな分野で応用が利くかも知れない、と。

そういう話だったわけです。

 

ダライアス外伝自体は、本当今遊んでもめちゃんこ面白いゲームであることは保証出来まして、特に最終ステージの「始まって数十秒BGMが無音になって、激しい敵の攻撃をかわし続けていると静かに最終ステージのBGM「SELF」が流れ始める」という演出は本当にSTG史に残る傑作演出でして、これを自分の目と耳で味わうというだけでも今からダライアス外伝を遊び始める価値はあると断言しますしSwitchの「ダライアスコズミックコレクション」というゲームでダライアス外伝が遊べまして初期verだと色々問題があったんですがアップデートでほぼ改善されまして現在はほぼ完全移植といっていい出来になっているので皆さんにも全力でお勧めしたい次第なのですが最初は「A→B→D→H→L→Q→V」ルートが良いと良く言われますが個人的には「A→B→E→I→N→S→Y」ルートの方をお勧めしますYゾーンが背景もグラフィックも演出もボスも本当滅茶苦茶にすばらしいので。

ほんっっっっっっとーーーに。最後に虹が立つ演出、本当今見ても泣く。

 

下記リンクはもし必要があればご参照ください。

1コインクリアの為のダライアス外伝講座

 

今日書きたいことはこれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

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