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この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。

 

・名著「はじめてのおつかい」などの絵本を描かれた林明子先生の訃報に接しました

・林明子先生の絵本には私も妻も子どもたちも大変お世話になったので、とても寂しい気分です

・「はじめてのおつかい」について家族でわいわい話していたら、ベスト絵本についての議論になりました

・「はじめてのおつかい」を始め、しんざき家メンバーそれぞれのベスト絵本について紹介したいと思います

・しんざきチョイスの「あおくんときいろちゃん」は、恐ろしい程の視覚的分かりやすさと「色の混じり合い」を展開に取り込んだ、天才的な発想の絵本だと思います

・子どもたちには「何かを作る」あるいは「色んなところを旅する」絵本が全体的に人気である様子です(あとでかいものを料理して食べる絵本)

 

以上です。よろしくお願いいたします。

ということで、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

しんざき家は5人家族、子どもが3人います。上のひとりは長男、今春から大学生。下のふたりは中学生の双子姉妹。おかげさまで、皆仲良く過ごしています。

子どもたちは全員、幼少の頃から絵本が大好きで、小学校くらいまでは毎晩のように、寝る前の絵本の読み聞かせをしていました。

 

一度の読み聞かせで大体3、4冊は読まされるので、長男の幼少期から通しで考えると、軽く数千回は読み聞かせをしてるんじゃないでしょうか。

おかげで、「ぐりとぐら」やら「ノラネコぐんだんパンこうじょう」やら、頻繁にリピートする絵本については、ほぼ全文を丸暗記してしまいました。今でも暗誦できます。

 

子どもたちが自分で字が読めるようになってからも、かなり長い間、読み聞かせの習慣は続きました。

次女によると、「みんなで読めるから、自分で読むのと読み聞かせは別なの」だそうで、自分ひとりでの体験と複数人での体験は別コンテンツ、ということでしょうか。

 

しんざきも妻も本をなかなか捨てられない性分で、絵本も児童書も、かなりの冊数が本棚に残っています。これは正直良し悪しで、本棚がいつ倒壊するか怖くて仕方がないので、四次元ポケットの早急な商品化を祈るばかりです。

 

***

 

先日、「はじめてのおつかい」や「こんとあき」など数々の絵本作品を描かれている、林明子先生の訃報に接しました。

「はじめてのおつかい」は1976年の作品で、しんざき家の子どもたちは言うまでもなく、私や妻も幼少期から何度も読んでいる一冊で、とても寂しい気持ちになった次第です。

 

とはいえ、「はじめてのおつかい」を今読み直してみると、改めて作中世界の広さというか、描写の圧倒的な「詳細さ」と「広さ」に驚かされます。

5歳になる「みいちゃん」が初めて牛乳を買いに行く話なのですが、作中スケールがちゃんとみいちゃんの視点になっていて、とにかく何もかもが大きく見えるんですよね。

 

例えばみいちゃんが筒井商店にたどりつくページ、恐らく描写からするとそこまで大きな店ではないと思うんですが、道も店もやたら広く思えますよね。

坂道の表現なのか、ちょっと見上げるような視点なのも、自然と街や看板が大きく感じられて素晴らしい。

しかも林明子先生の描写って一見シンプルなようでよくみると細部まで分かりやすく描き込まれていて、本当に自分が5歳の子どもになって作中世界に入り込んでいるような気がしてくるんです。

上記の場面でも、木や看板の書き込みとか、影の部分と日のあたる部分の色使いの濃淡とか、物凄くリアルに思えますよね。店の中の商品の描写、色使いの微妙な濃淡で色んな商品が並んでるように思えるところ、あまりにも表現が上手すぎる。

 

夕飯の後に家族でダベっている際、「絵がお上手過ぎる……!!」とみんなで戦慄するばかりでした。

 

あと、作中で「たばこ!!」とだけ怒鳴るおっさん、大人になって読むと「ああ、昭和の頃ってこういうおっさんいたわー…」となって、現代的感覚だとあんまりいい印象ないんですが、みいちゃんが牛乳を買うまでのプロセスで必要だったイベントでもあるので仕方ありません。

 

そのような次第で、「はじめてのおつかい」をみんなで覗きこんでいると、その場で昔よく読んでいた絵本の話になりました。

あの本が面白いこの本がお気に入りと皆でああだこうだ言い合い、それぞれのベスト絵本をチョイスする流れになったので、もちろん「はじめてのおつかい」はオールタイムベストとして、この場をお借りして各人のチョイスをご紹介したいと思います。

 

「色の擬人化」という絵本として天才的な発想、「あおくんときいろちゃん」

私があげたのは、レオ・レオーニ作、「あおくんときいろちゃん」。1959年の作品でして、しんざき自身ちっちゃい頃から読んでいる名著です。

この作品、登場キャラクターが「色」でして、一見するとページに無作為に色が落とされているだけのように見えるんですが、この「色」のキャラクターたちが文字通り入り交じって、ちゃんとお話を展開するんですよ。作中世界に入り込むと、ただいろんな色の丸が描いてあるだけなのに、みんなで仲良く遊んでいるように見えてくるので不思議です。

 

中でもしんざきのお気に入りポイントは、「混色」という現象を完全にストーリーに取り込んでいること。

表紙でも「あおくん」と「きいろちゃん」がちょっと混ざって緑になっていますが、この二色、作中でも混ざって緑になってしまって、それが起こすトラブルが話の主な展開になっています。

 

絵本ならではのシンプルな展開の中でも、きちんと「事件」と「その解決」が描写されていて、しかもそれが「混ざることで色が変わる」という現象に基づいたものであるところ、当時すごくユニークに感じられまして、しんざき自身何百回も鬼リピしてました。

しんざきが「色の変化」というものを覚えたのは間違いなくこの作品の影響でして、小学校の図画工作の時間で絵の具と絵の具を混ぜた時は、「これ絵本で読んだ!」と大納得した次第です。まあ、絵心はあんまり身につかなかったんですけど。

 

絵柄がシンプルでもちゃんと「キャラクター」と「お話」は作れる、ということを示した作品でもあると思っていて、これにインスピレーションを受けて色んな「お話」を作った子どもも多いんじゃないかなあ、と思う次第です。

いたずらっぽいおじいちゃんのユーモアとほんの少しの怖さ、「ベッドのしたになにがいる?」

こちらは妻のピックアップ。2007年、ジェームズ・スティーブンソンの作品です。

祖父の家に泊まりにいったルーイとメアリーが、怖い話を聞いた夜、目に入るものがなんでもお化けに見えてきて眠れなくなり、おじいちゃんにお話を聞きに行きます。するとおじいちゃんは、自分が子どもの頃、同じように夜眠れなくなった話を始めて……というストーリー。

このおじいちゃんがちょっととぼけた感じの人で、幼少期の描写の筈なのになぜか口ひげが生えていることを始め、大げさな物言いをルーイやメアリーにいちいち突っ込まれています。

「こわいことが起こっているようで、実際には大したことじゃない」という、子どもなら誰でも経験したことがあるような場面が何度も繰り返されます。

 

絵本の大部分が「おじいちゃんによる語り」であることが「読み聞かせ」としてのひとつのポイントで、「怖い話が始まるのかな…?」と子どもを身構えさせておいて、すぐにオチがついてそれが解除されるというお話の起伏が、しんざき家では大ウケしていたんですね。

 

「怖い場面」を読む時にちゃんと怖い口調を作るのも子どもたちにとっては楽しかったらしく、しかも妻はそれが超上手い。時には、おじいちゃんの台詞を私が読んで、ルーイやメアリーの台詞を長女や次女が読む、なんてこともありました。妻にとっては、そういう風情も含めての選択だった模様。

文字通り起伏のある展開と、「でかいものをみんなで料理する」ロマン、「もぐらバス」

長男チョイスは、佐藤雅彦さんの「もぐらバス」。

とある町の地下に広がっているもぐらのトンネル、その中を運行しているもぐらバスを、実は街の動物みんなが使っていた…!というストーリーのお話です。

私、この絵本で一番好きなのってこの「トンネルの地図」の描写でして、迷路のような構造が広がっているというだけで十分わくわく感があるんですが、一方バス停の名前が「だれかんちのにわ1ちょうめ」とか、「いぬのいるいえ2ちょうめ」とか、ちゃんと動物視点になっているところもユーモラスかつ妙なリアルさがあって面白い。

 

この地図自体ちゃんとその後の展開に沿った描写がきちんとされているところもあって、ここを読むだけで宝探しのような楽しさが味わえます。

長男がちっちゃい頃も、なんどもページに指を落として、バスのアナウンスの真似をしながら道路をなぞったりしました。その辺、鉄道好きな長男の血が騒いだ側面もあるのかも知れません。

 

この絵本、話のオチが「埋まっていた巨大なタケノコを重機で掘り出して、皆で料理して食べる」というものなんですが、ここも当時の長男にはツボだったようで、「ショベルカーで芋煮を作ってるってニュースみた時、まずこのシーンが頭に浮かんだ」って言ってました。

「ぐりとぐら」のカステラもそうでしたが、でかい器ででかい料理を作ることには何らかのロマンがありますよね。

帽子を飾り付けることに「ものづくり」の楽しさが詰まっている、「どんぐりむらのぼうしやさん」

長女の推し絵本。なかやみわさんの、「どんぐりむらのぼうしやさん」。

どんぐりたちの村で帽子を売っていた三人組が、売れ行きが悪くなったので旅に出て、新たな売り場を開拓する、という筋書のお話ですね。

 

長女は元々ミニチュアとかお人形とか、「小さいもの、細かいもの」が大好きで、かつそれを飾り付けるのも大好きなので、この作品での「帽子を自分たちの好きなようにアレンジする」というのは、好みど真ん中だったようです。

一時期、長女自身、リカちゃん人形やらメルちゃんやら、人形に色んなアクセサリーを手作りしてあげる遊びにハマっていたんですが、その明確なルーツのひとつがこの絵本だったと思います。

 

「村の中では過去の帽子がもうみんなにいきわたってしまって需要がない」

「既存の帽子にアレンジを加えて、付加価値をつけて売る」

という側面でいうと、実は案外ちゃんと経済活動をしている絵本でもあります。その辺、「視点を変えて違う楽しみ方ができる」というのも絵本の価値のひとつであって、大人になって読み直す時の醍醐味でもあります。

夢の中での奇想天外大冒険、「こんやはどんなゆめをみる?」

次女が選んだのは、工藤ノリコさんの「こんやはどんなゆめをみる?」です。

五匹のこぶた兄弟が、寝る前に「どんな夢をみたいか」について話し合うという設定なんですが、その夢が例えば海賊の大航海だったりジャングル探検だったり南極での釣りだったり、とにかくバラエティたっぷりの大冒険なんですよね。

 

この絵本の最大の特徴は、「とにかく夢の描写内のこぶた達がすげー楽しそう」なこと。それぞれの「夢」の描写は見開き2ページが丸々使われてたっぷり描写されているのですが、どうもこぶた達の好みは5匹それぞれなようで、みんな夢の各所で好き勝手やっていて、そこに感情移入して「自分ならこの夢の中でどう遊ぶか」を考えるのがとても楽しいらしいです。

様々な地域の描写がある、という点では「旅」「旅行」の楽しさも凝縮されていそうで、その辺は旅行好きな次女の好みも反映されているかも知れません。

文章量はそこまででもないので、読み聞かせの時にちょっと楽ができるというのも、親にとっては密かなポイント。

 

ということで、しんざき家チョイスとして5冊の絵本をあげてみました。他にも色んなタイトルがあがりはしたんですが、さすがにきりがないのでまた別の機会でも。

私、児童書を読むのは趣味のひとつで、大人になってからも色んな児童書を読んでいるんですが、「絵本」というのもなかなかどうして、今改めて読み直してみると、本当それぞれの面白さがあって超楽しいです。

気軽に読める長さでもありますし、皆様もぜひ、懐かしの絵本を久々に手にとってみていただければ、と思う次第です。

 

林明子先生の作品をきっかけに、久しぶりに家族みんなで昔の絵本を広げて、ああだこうだ語り合う時間が持てました。

子どもたちは大きくなりましたが、絵本が家族に残してくれた時間は、今でもちゃんと続いているんだなあ、と改めて感慨深かったわけです。

 

末筆になりますが、林明子先生が安らかにご永眠されますよう、謹んでお祈り申し上げます。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

photo:Michael Pointner

「男の人に一目惚れして、電車で声を掛けたことがあるんです」

先日、女優の岡田結実さんがドラマの制作記者会見でそんな発言をして、場をわかせることがあった。

声を掛けられた男性もまんざらではなく、その場で連絡先までゲットできたのだという。

 

真偽はともかく、モデル・女優として1流に昇りつめるような女性からの声掛けであれば、多くの男性が鼻の下を伸ばすのも無理はないだろう。

眩しいやら羨ましいやらのお話だが、しかし言うまでもなくこんな“奇跡”は、岡田結実さんだから起こりえた超レアケースというものだ。

もっともオッサンの場合、若く美しい女性からの声掛けなど恐怖でしかなく、私なら全力で逃げ出してしまうが。

 

まして男性からの声掛けであれば、高橋恭平さんクラスのイケメンであっても多くの女性には、間違いなく恐怖だろう。

「一目惚れしたので声を掛けました!」

そんなコミュニケーションが意味するものは「一方的な認知」であり、不審人物という自己紹介に等しい。

「とても美味しいので、これ食べてみて!」

海外旅行先の屋台で、青色に光る生魚やピンク色のキノコ料理を差し出された時よりも数十倍、怖い。

 

しかし日本企業では、そんな恐怖の儀式にも近いことが近年まで堂々と行われていたといえば、言い過ぎだろうか。

 

“優秀さの物差し”

「当社では、どんな仕事をしたいと思っていますか?」

話は変わるがもうずいぶんと昔、新卒の採用面接をしていた時のこと。

大手商社を定年でリタイアし転職してきた事業部長が学生にそんな質問をして、驚いたことがある。

 

「当社のどういったところに魅力を感じたのでしょうか」

そんな質問も重ねるが、全く意図が理解できない。

そのため採用面接が一通り終わった後に、問いかける。

 

「部長、あれはいったい何を知るための問いかけだったのですか?」

キョトンとする事業部長。いったいお前は何を言っているんだと、不思議なものを見る顔で不快感をにじませる。

 

「志望動機とか、入社後の仕事の意欲を聞くなんて当然やないか。やる気のない学生を採ってどうするねん」

 

20年以上も前、2000年代初頭の頃あいである。

大手や、少し気が利いている中小企業ならwebサイトはかろうじてあったが、作って終わりの静的ページでしかない。会社案内はまだまだ、紙が主流という時代のことだ。

 

「うーん…。では逆にお聞きしますが部長、ご自身は入社前、ウチの魅力をどうやって調べたのでしょう」

「…社長と直接会って、話した。幹部採用なんやから当たり前やろ。一緒にすんなや」

「その通りです、学生にそんな機会はありません。ウチに対して当たり前に魅力を感じているという、ありえない前提での質問に違和感があります」

 

今でこそ、新卒学生の採用はインターン経験などを通して、双方向の理解が進むように設計が為されている。

しかしほんの20年も遡ると、浅はかな質問で学生を“品定め”する、前時代的な価値観のリーダーが溢れていた。

そんな違和感を婉曲に伝えたつもりだったが、激しい口論になってしまう。

 

「だから会社案内があるんやろ!会社が出してる情報を勉強してない学生なんか、やる気がないと判断して当然やないか」

「キレイごとしか載せていない会社案内を記憶するなど、優秀であるかどうかの判断基準になりません。仕事ができるかどうか、ポテンシャルを推し量る上でも無意味です」

 

「ほなら、なにを基準に質問するねん」

「正直私も試行錯誤しています。しかし少なくとも、学生さんが“ウチを熱望している”ことを前提にする質問は間違えています。前提がおかしいので、茶番でしかありません」

 

もしここで、事業部長がこんなことを回答したらきっと、口論にならなかっただろう。

「組織に順応できる能力を見るために、建前のキレイごとも言えるか試している」

適切かどうかはともかく、質問の意図と知りたい答えが一応、矛盾していないからだ。

 

しかし何年前のものかすらわからない会社案内を記憶しているかを“優秀さの物差し”にするなど、気が狂っている。

人としてもビジネスパーソンとしても、学生さんを理解するうえで全く意味がない。

 

就職氷河期の走り、私のような昭和40年代後半あたり生まれの世代には、こういった「ガチ昭和」の狂ったリーダーとともに一緒に仕事をした記憶が、いまも色濃く残っている。

新卒の時、採用面接では数少ない情報から会社の魅力を“創造”し、おべんちゃらを言う技術がマニュアルのようになっていたほどだ。

 

しかしありていに言って、優秀な人材であればあるほど、会社など踏み台程度にしか思っていないものだ。

まして、会社から大した魅力も情報も発信していない未上場の中堅企業では、「数万社のうちの1つ」という前提で学生さんに接するのが現実的というものである。志望動機や、入社後にしたい仕事を質問するなど100年早い。

 

だからこそ、採用責任者として私はいつも学生さんに、こうお伝えしていた。

「数ある会社の中から、本日は弊社に面接に来て下さって本当にありがとうございました」

当たり前ではないか。

 

“どこを好きになったのですか?”

話は冒頭の、「恐怖の儀式」についてだ。

どんな非常識が、日本企業では最近まで常識であったのか。

一昔前の面接での常識をお話した後に多くの言葉は要らないだろうが、そうもいかないので少し補足したい。

 

令和の今、社会でリーダー的な地位にある40代半ば以上の世代にとって、新卒採用は「会社が若者に恩恵を施すもの」という、体験的に刷り込まれた価値観が今もなお残っている。

大手ではさすがに改善しているように思うが、地方のワンマン中小企業ならむしろ、まだまだ常識だろう。ひと世代上のリーダーたちから、自分たちがそのように扱われてきたためだ。

 

ビジネス小説家として一時代を築いた清水一行さんの作品だったと思うが、若い頃に読んだ今も忘れられない大企業の描写がある。

「仕事を教えて下さった上に給料まで下さって、会社には心から感謝しています!」

朝礼時に毎朝、そんなことを唱和させられる一コマである。

 

令和の若者にはにわかに信じられないだろうが、昭和生まれの世代は多かれ少なかれそんな青年時代を過ごし、影響を受けてきた。

そしてそんな価値観に色濃く影響を受けたリーダーや経営者は、今も平然と、採用面接でこんなことを言う。

「当社を志望した理由を聞かせて下さい」

「ウチに入社してやってみたい仕事は何ですか」

 

トヨタ自動車さんの「トヨタイムズ」のように、自社メディアにお金も人員も割いて情報発信をしている会社であれば、そんな質問も成立するだろう。

「自分たちはこんな価値観で、会社を運営しています」

「入社後のキャリアパスはこのように、多くの選択肢があります」

それをわかりやすく、巨額の資金をかけて発信しているからだ。

 

しかし給与と年間休日の多さだけで受けてみた会社の採用面接で、志望動機ややりたい仕事などを質問されたら、適当なキレイごとを言うしかないだろう。

「俺に一目惚れしたの?どこを好きになったのか上手に説明できれば、付き合ってあげてもいいよ」

電車の中でたまたま目が合った若い女性に、中年のオッサンがそんな声掛けをするのに等しい。

岡田結実さんからのナンパですら恐怖なのに、もはやホラーですらある。

 

そんな質問に、“一目惚れした理由”を上手に回答する儀式を、日本では「就職活動」と称してきた。

会社に一目惚れしたことを前提の愚問で、“優秀な学生”を選別したつもりになっていた。

どんな価値観の社長であり会社であるのか、どんなキャリアパスを描けるのかといった情報など無いままに、“見た目”という上辺だけで好きになったと言わされる儀式である。

 

令和になりようやくそんな時代は変わりつつあるが、当たり前ではないか。

誰かに選んでもらったり好きになってもらうためには、会社も個人ももっともっと、自分を知ってもらう努力をしなければならない。

好きになってもらう努力を怠っているのに、“一目惚れして当然”という前提の質問をしてくる会社など、人手不足の時代には早々に、淘汰されるだろう。

 

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

偉そうなこと書きましたが、井川遥さんのような女性なら何歳になっても一目惚れしてしまいそうです…。

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo:Crystal Jo

ぼくは長い間「父」でしかなかった

結婚して20年近くになる。

わりとすぐに子どもが生まれたこともあり、妻とぼくは「夫婦」というよりも、子どもの「父母」である時間のほうがずっと長い気がする。

 

告白するが、ぼくはずっと「良い夫」ではない人生を送ってきた。

それでも妻が「夫婦」を続けてくれていることに対してぼくはもっと感謝するべきだし、そんな彼女の気持ちに応えるべく、家庭のことにもっと集中するべきなのだ。

 

なのに、ぼくときたら、いつも自分のことばかり考えている。

自分がどうすれば納得いく人生を送ることができるのか、そればかり考えている。

50歳を目前にして、いまだに承認欲求にまみれ、自分らしさとか、自己表現とか、そんなことばかり考えている。

それどころか、恋愛小説やラブコメマンガを夢中で読んだりしている。

 

結婚して、子どもがいて、「夫」というよりも「父」である時間のほうがずっと多く、恋をすることなどない自分をそうやって慰めようとしているのかもしれない。

 

また給料が下がった

先日、会社の評価面談があり、給料が下がることになった。

この物価高にも関わらず、給料は年々下がっていっている。

妻が働いていなければ、とっくに詰んでいる。

ああ、これはまずいなあ…と思って、久しぶりに吐きそうになった。

 

吐きそうになりながら妻に伝えると、もうその年齢で大きく成長することはないので、給料を戻そうとか上げようとか無駄な努力をするよりも、家の用事をちゃんとやるべきではないか、と言われた。

ぼくはただうなずく以外にできることはなかった。

彼女の話をじっと聞いていた。

そして、ふと思った。

一体、オレは何がしたかったんだ。

 

こんなどうしようもない自分とまだ一緒にいてくれる人のことを大事にせず、他にやるべきことなんてあるのだろうか。

いや、まあ「やるべきこと」は色々あるかもしれないけど、「やりたいこと」はどうだろう。

自分にとって大事な人を大事にする。

それ以上に「やりたいこと」なんてあるのだろうか。

そう思った。

 

まあ、もしあるとしたら、こうやって文章を書くことぐらいだ。

それはいつでもできる。

 

「恋」と「愛」は何が違うのか

自分にとって大事な人を、大事にする。

言葉にすると、とてもシンプルだ。

だけど、これはけっこう難しい。

 

まず、これはあくまで「自分にとって」大事なだけなのである。

では、ぼくも、相手にとって大事な存在なのだろうか。

世の中の多くの「恋」は、ここでつまずくのである。

 

昨日、会社の大先輩が「恋と愛は何が違うか」という往年のテーマについて語っていた。

彼が言うには「恋は、相手にも同じものを求める」が「愛は、相手から見返りを求めない」だそうだ。

 

正論だとは思う。

しかしまあ、まとめて「恋愛」と呼ばれるぐらいである。

この2つはそんなに簡単に線引きできるものではないようにも思う。

 

「恋」だけだと、相手にも同じものを求めるあまり、勝手に腹が立ったり、悲しくなったり、急にうれしくなったり、情緒が忙しくなって疲れる。

「愛」だけだと、なんだか悟りを開いてしまったような境地である。

 

悟りを開くことが悪いとは言わないが、そうすると煩悩が去ってしまう。

すると相手のことを「好き」と思う気持ちも限りなく薄くなっていって、「人類愛」みたいなものになってしまう。

それでいいじゃないかという方は好きしていただければいいけど、少なくともぼくはイヤだ。

 

いやまあ、百歩譲って、自分自身が相手に対して普遍の「人類愛」を与え続けるとして、それはまだ耐えられるかもしれない。

だが想像してみてほしい。

あなたの恋人や配偶者が、あなたに対して、普遍の「人類愛」のような態度で接してくるのを。

その人は、あなたにも、それ以外の人にも、平等に、同じように、見返りのない愛を与えてくれる。

 

…ぼくは無理だ。

ちなみに、アイドルとかタレントとかそういう「推し」の話ではない。むしろ今ぼくが話題にしているのは「推し」の概念とは正反対のものである。

 

「推し」だけじゃ足りない

今ちょうどいい感じで「推し」という言葉が出てきた。

そうなのである。

結婚して、子どもができると、ぼくたちは子どもの「推し」にならざるをえない。

常に与え続けるだけである。

それはとても素晴らしい経験だし、見返りなく誰かを愛することで得られるものはたくさんある(もっと言えば、見返りなく誰かを愛する、ということ自体が、かけがえのない経験である)。

ただ、ぼくはそれだけでは足りないのだ。

彼女は、オレのことを本当はどう思っているのだろうとか、あの時あんなことを言ったのは間違いだったのではないだろうかとか、そうやって情緒が揺れ動く時間も、とても大切だと思うのだ。

 

ぼくは社会人を長くやっていく中で、そういう「揺れ」をできるだけ小さく制御するような工夫をしてきたように思う。

できるだけ、他人から見返りを求めない。

できるだけ、他人に期待しない。

できるだけ、誰に対しても同じように接する。

それは、長い人生を生きていくための生存技術の一つだと思う。

 

だからこそ、もう一度、恋をしたい。

妻の反応にいちいち一喜一憂したり、考えすぎて不安になったり、ちょっとした一言に有頂天になったり、そんな時間をすごしたい。

情緒の忙しい日々を送りたい。

50歳を前に、そんな風に思っている。

 

え?なんか気持ち悪い?

はい。

恋って、もともと、そういうものじゃないですかね。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:いぬじん

プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。

だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。

プロフィールって、むずかしい。

ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。

Photo by:

ここ数年、大企業の方や公的機関の方とお話をする機会が増えてきて、娑婆のぜんぜん知らなかった領域が眼前に開けてきた思いがします。

今日は、そこで出会ったエリートなサラリーマンの方々についておしゃべりしたく思います。

 

オフ会で出会ってきた人々とはちょっと違う人々

私は30年近くインターネットで遊び続け、色々な職種の人と出会ってきたつもりでいました。

とはいえオフ会で出会ってきたのは良くも悪くもネットカルチャーに親和性のある人々、インターネットが社会のインフラと認められる前からインターネットに入れ込んでいなければならない人々でしたから、世間のマジョリティとは言えない人々だったように思い出されます。

このことに関連して、『ニコニコ動画』の創設にかかわったかわんご氏は、かつて以下のようなことを述べていました。

東大卒に限らず、当時のオフ会にわざわざ集まってくるほどネットカルチャーに親和性があった人々は、それぞれの領域で周縁部に位置し、主流派でもサラブレッドでもなかった人々だったと、今は推測されます。

 

ところがインターネットが次第に社会のインフラとみなされるようになるなかで、私がオフ会で出会う人々の性質も少しずつ変わってきました。

2010年代のオフ会では、1990年代や2000年代に比べて主流派っぽい雰囲気をたたえた人々に遭遇するようになりました。

 

さらに2020年代に入ると、私はもっと幅広い職種の方々からもご依頼をいただくようになりました。インターネット・オタク的な雰囲気とも、出版業界の雰囲気とも違った感じのサラリーマンな人々との接触は、私にとって未知との遭遇でした。

 

そうした主流派のサラリーマンの人々から私が感じ取ったことの第一は「礼儀作法の水準の高さ」を、第二は「そうした礼儀作法が空疎なものでなく、実務ときれいに繋がっていること」でした。

メール上のやりとりでも、実際にお目にかかってのやりとりでも、そうした方々の礼儀作法の水準は抜きんでて高い、と感じました。

なんて言えばいいんでしょうか、敬語や丁寧語の使い方が完璧すぎて私のメールや言葉遣いが恥ずかしくなる感覚です。

 

私もいちおう社会経験を積み、文章を書き続けている手前、いちおうの心得があるつもりでしたが、大企業のサラリーマンの方々からいただくメールの礼儀作法の完璧さにはまったく追いつける気がしません。

 

服装や物腰も凄いと感じます。TPOに妥当する服装であるのは当たり前のこと、そのうえで、好感が持てて個性さえ感じ取れる服を巧みに選択してらっしゃるようにみえました。

 

少し控えめなほうが良い状況では少し主張の控えめな服装を、少し華やかなほうが望ましい状況では少し華やかな服装を、驚くべき精度でやってのけたうえで個性の片鱗を感じさせるチョイス。

落ち着いた、聞こえやすい声音と豊かな表情なのは言うまでもありません。現代日本のホワイトカラーな人々にふさわしいコミュニケーションの精髄をみるような思いがしました。

 

こう書くと、意地悪な人は「礼儀作法だけの人間ではないか」と思うかもしれません。

ところがそうじゃないんです。丁寧な礼儀作法は、理想的なコミュニケーションをやってのける必要条件ではあっても十分条件ではありません。

礼儀作法だけ丁寧でも、実務に役に立つ文面・会話でなければ仕事にはならないのです。ですが、この点に関しても彼らのメールや会話には疎漏がありません。

 

つまり、仕事相手としての私に対してどのようなミッションを期待しているのか、いつまでに期待しているのか、そういったことがらについて誤解の余地のない文章をアウトプットするのも異様にうまいのです。

たとえば締め切りの日時について読み間違える余地のある書き方をしないのは当然として、商売相手としての私・交渉相手としての私に何を伝えたいのかが吟味され、その吟味に対応した最も的確な単語を選択して文章を構築している感じがビリビリと伝わってきます。

 

私の好きな例で言うなら、「正確」と「精確」を使い分けるような感じでしょうか。

正確を精確と書かなければならない必要性はほとんどの文章にありませんが、それでも精確と書いたほうがよりニュアンスが精確に伝わる場面ってのはあるでしょう。

同じことが、「特徴」と「特長」の使い分けや「言及」と「論及」の使い分けなどにも言えるでしょう。

 

別に、どちらを使ったってそこまで大きなニュアンスの違いはありません。それでも、その文章・その文脈に似つかわしいほうを選択できる人は、そのぶんだけ文章を読みやすくしたり、文章を精確に受け取りやすくすることができます。

彼らのリテラシーは異次元だ

こんな具合に、エリートなサラリーマンの人々はメールの文面でもリアルの対面でもこうした語彙の選択が抜群にうまいのです。

読みやすく、わかりやすく、長すぎず、それでいて精確に伝わるメッセージを完璧な礼儀作法のプロトコルに乗せてやってのけるのは相当なトレーニングが必要なことだと私は思っていますが、実際、彼らは精度高くやってのけているのです。

 

そうした能力は間違いなく実務を助けているでしょう。

あいまいな表現を残すべきところはあいまいにし、厳格な表現が必要なところは厳格な表現を選択する。

そのうえで完璧に礼儀作法を守ってみせ、自分が望むとおりの精度の高い文章をメールや契約書に書き、仕事を遂行していくってのはすごいことだと私は思います。

 

のみならず、実際にお会いして話し言葉でやりとりしても、ぼろが出る気配がまるでない。

メールの文面だったら書いたり消したりできますが、リアルタイムの話し言葉ではそうはいきません。

だというのに、○○社の担当者の方や××社の担当者の方の言葉遣いのうまさったら、目ん玉が飛び出るほど洗練されていて、余裕すら感じられる物腰で、私はたまげてしまいました。人間、ここまで言語操作のレベルが高くなるものなのか、と。

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文章を読み書きする能力、言語を操ってみせる能力は、一般に「リテラシー」といいます。

 

よく、「リテラシーが足りない」とか「リテラシーを身に付けなさい」と言われる時、そこでいう「リテラシー」は、しょうもないデマに惑わされないようにしなさいとか、スパムメールに騙されないようにしなさいとか、怪しい健康食品を買わないようにしなさいとか、そういったものでしょう。

この「リテラシー」でいうと、エリートサラリーマンな人々のそれも確かに「リテラシー」には違いありません。

 

が、その次元は異次元の水準、けっして不躾にも高圧的にもならない丁寧な文章のなかで、述べたいことを必要十分に述べ、着実に伝えるべきことを着実に伝達できるよう、完璧なやりとりをやってのけているのです。

 

エリートなサラリーマンの人々がエリートであるゆえんは様々でしょうけど、こと、「リテラシーの高さ」に着眼する限り彼らの優秀さは明らかで、それはバーバルなやりとりだけでなく、ノンバーバルなやりとりもカバーできなければならないようです。

彼らの優秀さを物語る着眼点は他にもいろいろあるでしょうけど、私は、そういうところにいつも感銘を受けています。

 

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:

「これ、使って下さい」

「え? 2本もお持ちなんてすごい偶然!使わせてもらいますね!」

少し以前の事だが飲み会の後、お店を出ると予報外の雨に降られることがあった。

 

その際、参加者の一人が傘を持ってなかったので、どうぞ使って下さいとお渡しした時のこと。

そんなお礼を言われる。

 

共感してもらえるかどうか自信がないが、私は地元にお迎えする人のためにホテルを探したり、飲み会の会場を探すのが大好きだ。

駅近で17㎡以上、大浴場があり…などなど自分が嬉しいパラメーターを予算内で満たそうといろいろ考え、ワクワクする。

当然のようにカバンの中にはいつも、万が一の雨に備え傘を予備で入れている。

 

とはいえ地元であれば、当然のことながらホテルに泊ったことなどない。

ゲストのホテルを探すというのに、ネット情報に頼らざるを得ない。

部屋の内装、清潔さや口コミなどを慎重に確認し、喜んでもらえそうな施設を必死になって探す。

 

「ありがとうございました、とてもいい部屋でした!」

そんなこともあり後日、こんなメッセージを頂けるととてもテンションが上がる。

 

しかしいったいなぜ、こんな“何の意味もない”ことに時間と手間を費やしているのかと、我ながら頭がおかしいと思うことがある。

 

貧乏暇なしなので、決して時間に余裕などない。

傘など自分用だけでいいし、ホテルなどyahooトラベルあたりで、一定以上の評価と予算の範囲でソートし適当に決めてしまえばいいのに。

 

「大人になればわかるよ」

そんなことを思いつつ、“無駄な手間と時間”を使うことをやめられないままだった昨今。

いい年になったので無理もないのだが、老母を見送ることがあった。

 

父は若い頃にすでに鬼籍に入っているので、これで何とか三途の川だけはすんなりと渡してもらえそうだ。

不摂生な生き方をしている自覚があり、賽の河原での石積みを覚悟していたので妙に安堵している。

 

そんなある日、実家の荷物を整理していた時のこと。

食器棚の最奥から、とても懐かしいラーメンどんぶりが“出土”することがあった。

(初めて自分で料理したラーメン、この丼で食べたな…)

 

おそらく小学3年生、1983~4年くらいのことだろう。

亡父に教えられながら初めてガスコンロの前に立ち、水を計量し、火をつけ、サッポロ一番塩ラーメンを作った。

 

「なんでスープの粉は、火を止めてから入れないとダメなの?」

「ヤケドして危ないからだよ」

 

今から思えば、オヤジの料理の教えはそんな感じで適当でデタラメだった。

加えてオヤジは毎回、どんぶりに移したラーメンに生卵を落とし入れることにこだわった。

「これが美味しいんだよ!」

 

ラーメンに生卵を入れるやり方を美味しいと思ったことは、一度もない。

とはいえ、10歳児が親父に逆らうことなどできないので、美味しいねと同調する。

どんぶりを手にした瞬間、そんな遠い日の思い出が鮮明によみがえり、“付喪(つくも)神”のイタズラなのだろうかと鳥肌が立つ。

 

どんぶりの付喪神に魅入られたのか、さらに記憶がよみがえる。

おそらくこれも、小学生時代の記憶だ。

 

夜の9時30分ごろに唐突に、オヤジが聞いてくることがあった。

「ラーメン食べたいか?」

「夜ご飯食べたし、お腹いっぱいだよ」

「西大津駅近くに、新しくラーメン屋さんができたんだよ。美味しいって評判だよ?」

「え!?連れて行ってくれるの!!」

 

昭和50年代といえば、まだまだ外食など貴族のたしなみの時代だ。

少なくとも、決して裕福ではないうえに3人兄弟だった我が家では、外食の記憶など数えるほどしかない。

嬉しさに舞い上がり、駅近のラーメン屋さんに向かう。

「そこのラーメンどんぶりとお盆を持ってきな」

「・・・?」

(ラーメン屋さんに行くのに、なんでラーメンどんぶりを持っていくんだろう…)

 

言われるままにどんぶりを抱きかかえるとオヤジの助手席に乗る。

程なくしてラーメン屋さんに着き入店すると、オヤジは思いがけないことを店主に告げた。

「ラーメン1個、持ち帰りできますか?」

「申し訳ありません…持ち帰りはやってません。容器もありませんし」

 

「家からどんぶり持ってきました。固めに茹でてラップをかけてくれればいいです」

「それならできますが、早めに食べて下さいね」

 

店内の客が一斉にこちらを見る。

そりゃそうだろう、どんぶり持参のラーメン持ち帰り客など、令和の今まで私自身、見たことがない。

オヤジ自身はラーメンを食べる気が無いので、席に座るわけにはいかない。

だから私の為に1杯だけテイクアウトし、家で食べさせるという魂胆であった。

 

恥ずかしいやら嬉しいやらの思いでラーメンを受け取ると、家に戻る。

リビングの自席に座り、人生で初めての外食(?)ラーメンをすする。

薄切りチャーシューにネギがたっぷり、プロが作る塩ラーメンの美味しさに感動し、夢中になってほおばった。

「美味しいか?」

「うん、美味しいよ!」

オヤジはただ、ウイスキーグラスを傾けながら満足そうに見ているだけだった。

 

「なんでお父さんの分は買わなかったの?」

「お父さんはいつも、外で美味しいものを食べてるからいいんだよ」

 

「じゃあなんで、連れてってくれたの?」

「大人になればわかるよ」

 

「・・・ふーん、変なの」

 

そんなやり取りが昨日のことのように、鮮明によみがえった。

そしてオヤジの言う通りいい年の大人になった今、その理由がよくわかる。

 

「思ったより嘘が下手なんだね!」

話は冒頭の、ゲストを迎える時の作法についてだ。

傘など自分用だけでいいし、ホテルなどyahooトラベルあたりで評判のいい上位から適当に決めてしまえばいいのに、なぜできないのか。

 

茶の湯を大成したことで知られる千利休の残した教えに、利休七則というものがある。

茶は服のよきように
炭は湯の沸くように
夏は涼しく、冬は暖かに
花は野にあるように
刻限は早めに
降らずとも雨の用意
相客に心せよ

茶道を学ぶ人なら誰でも最初に教わるであろう、一期一会の覚悟をわかりやすくまとめたものだ。

 

ゲストを迎える主人であれば、来客には真剣勝負で向き合えといったところだろうか。

もちろんこれらの心遣いに、見返りなど求めるものではない。

一期一会とは、そういうものだ。

 

しかしどうしようもない俗物の私は、「一期一会」のつもりでゲストをお迎えした時、わかって貰えると正直言って嬉しい。

というよりも、誰かに喜んでもらうことが嬉しいのであって、それが一期一会の真似事なのかと、後付けで納得したくらいのものだ。

 

そしてきっとオヤジも、そうだったのだろう。

僅かであったであろう小遣いを“無駄に使って”でも、子供の喜ぶ顔を見たい。

そのために、仕事に疲れ帰ってきた後でも、ラーメンどんぶりを抱えた私をラーメン屋さんに連れて行ってくれた。

 

思えば先日亡くなった母も、裕福ではない中でもできる限り、お金のかからないお出かけに連れて行ってくれた。

おそらく50年近く前だと思うが、夜桜を観に行こうと京阪電車に乗り、大津から蹴上まで出かけた日の事は鮮明に覚えている。

実家のラーメンどんぶりから不意に現れた付喪神は、そんな懐かしい記憶の数々を呼び起こしてくれた。

 

「え? 2本もお持ちなんてすごい偶然!使わせてもらいますね!」

だからこそ、予備の傘を出した時にそんなお礼を言われると、嬉しいかといえば正直微妙だ。

 

しかし私には、そんなゲストを批判する資格などないだろう。

「なんでお父さんの分は買わなかったの?」

「お父さんはいつも、外で美味しいものを食べてるからいいんだよ」

「ふーん、お父さんって思ったより嘘が下手なんだね。ありがと!」

 

私自身、そんなふうに感謝の言葉を伝えることができなかったのだから。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

部屋の大掃除で、懐かしいアルバムなどが出てきて掃除がはかどらないという経験をした人は多いと思います。
実家の整理、こんな感じでその100倍、時間がかかります汗

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo:Crystal Jo

こんにちは、しんざきです。

今日書きたいことは、大体以下のようなことです。

 

・昔、「お前は部下を叱れない」と上司から何度も怒られました

・確かに「叱責」とか「注意」はとても苦手で、今でもあまりできません

・ただ、いつの間にか「ちゃんと叱れ」と言われることはなくなり、部下のケアや心理的安全性、他部署との調整が求められ、評価されるようになりました

・これは、「時代が変わって厳しい上司から優しい上司が求められるようになった」なんて単純な話ではなく、「単に部下を管理できるだけではなく、組織を機能させることが要求されるようになった」ということだと思います

・上司やマネージャーの仕事は、どんどん変化・増殖し続けているようで、適応するのも大変です

・これは単なる予想ですが、生成AIの台頭もあり、今後は「適切な評価をし、適切にフィードバックできる」能力が最重要視されていくようになっていくんじゃないかなーと思っています

・マネージャーの皆様、大変ですが頑張りましょう。私も頑張ります

 

よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

「ちゃんと叱れ」と言われなくなってきた話

何度か書いていますが、しんざきはシステム開発の会社で働いているシステムエンジニアです。

元々はDB屋だったんですが、いつの間にかインフラ寄りの何でも屋になりまして、そのうち中間管理職になりました。

現在はそんなに大きくないチームでマネジメントの仕事をやりつつ、無茶な納期を提示してくる営業さんを威嚇したり、脆弱性パッチ当てを渋るメンテナンスチームと変顔にらめっこ大会をする仕事で主に生計を立てています。がんばって生きています。

 

で、中間管理職というのは、部下もいるけど上司もいる、という立場です。部下の人たちを管理し、評価しないといけないのと同時に、上司に評価され、叱られる立場にもあります。

昔所属していた会社で、「しんざきは叱るのが苦手過ぎる」「叱るべき時はちゃんと叱れ」と上司から怒られたことが何度かあります。

 

つまり、部下が何かミスをした時に、それが重大なミスなら、きちんと叱責しないといけない、と。

ある程度強い言葉で言わないと、相手は「何がダメだったのか」ということが分からない、と。

叱るべき時、きちんと叱ることは上司の仕事の一つだ、と。

 

それはそうかも知れないと思っていて、私、基本的に部下のミスに対して「整理」しか出来ないんですよね。

つまり、「今回のミスは多分これとこれが原因でしたね」「だから今後はこうするといいかも知れないですね」という程度で、まあミスによって発生した事態のフォローはしますが、部下に対してはそれ以上何も言わないんです。

 

とにかく「相手の責任を問う」って苦手なんですよ。大人なんだからそれくらい言わんでも分かるやろ、いちいち詰めるの面倒くせえ、となってしまう。

それが、当時の上司にとっては「ことなかれ主義」に見えたのだろうし、正直そう見られてもしょうがないな、と思う側面もあります。

 

で、その後1,2回転職をしたこともあるんですが、少なくともIT業界では、どの職場でも以前ほど「ちゃんと叱れ」とは言われなくなりました。

マネージャー研修でも、「叱り方」ということが議論されることはまずなくなり、「部下の心理的安全性」や「再発防止のためのコーチング」というような話が増えました。どちらかというと、私の以前からのやり方に寄ってきたような印象があります。

 

誤解を招かないように強調しておきたいんですが、「叱責」はそもそも不要だった、叱責なんてしない方がよかった、私のやり方が正しかった、という話では「ない」んです。

 

重要なのは「行動に対するフィードバックをどう受け入れ、改善してもらうべきか」ということであって、「叱責」も「整理と説明」も、そのための選択肢の一つに過ぎません。

選択肢は複数持っていた方がいいに決まっています。

 

もちろん、「叱責」を強め過ぎてしまうとパワハラに繋がってしまう可能性はあって、それが忌避されるようになった側面は会社によってはあるかも知れませんが、それは単なる程度問題であって、「叱責をしてはいけない」ということにはなりません。

 

多分、「叱責」が最適な場面も、叱責が最適な相手もいるだろうし、その「叱責」という選択を極めて苦手としているというのは、現時点でも私の弱点なのでしょう。

そして、私が「叱責」ができなかった為に改善に真剣に取り組むことが出来ず、結果的にもっと仕事が出来る筈だったのにその芽を摘んでしまった、というケースもおそらくあるのでしょう。それについては申し訳なく思っています。

 

とはいえ、

「行動に対するフィードバックの方法として、様々な他の手段が認知された」

「それ以外にも、上司のやるべきことが山ほどあることも一般的に認識された」

「そのため、「叱責が苦手」という弱点が昔ほどは目立たなくなった」

という要素はおそらくあるんだろうなーと。

 

そのひとつのエビデンスというか、象徴として、昔Googleがやっていた「Project Oxygen」があると思っています。

 

上司がやらないといけないことが時代と共に変化・多様化している

みなさん、「Project Oxygen」ってご存知でしょうか?

「マネージャーって本当に必要なのか?」

「優れたマネージャーは、どんな特性を持っているべきか?」

というようなことを、2008年くらいから整理していたプロジェクトのことなんですが。

 

確か、一回Googleが「マネージャー不要論」をぶち上げて、そのあと「やっぱりマネージャー必要だった」ということで実施された調査だったと思います。

 

この時Googleは、優れたマネージャーが持っているべき特性として、以下のような要素をあげていました。最初は8つでしたが、後から10に増えました。

・良いコーチであること
・マイクロマネジメントせずチームに権限を与えること
・誰もが尊重されるチーム環境を作ること
・生産性と成果に重点を置くこと
・効果的にコミュニケーションすること
・キャリア開発を支援し、業績についてしっかり話し合うこと
・明確なビジョンと戦略を実行すること
・重要な技術スキルを持つこと
・社内で連携・協力すること
・しっかりとした意思決定を行うこと

くらいなんですが、細かくはGoogle発表のこちらを読んでみてください

これ読んだ時、私正直「……多くね?」と思いました。

そりゃ重要な話ばっかりなんだろうけど、一人の人間ができることには限界があるし、私自身こんなの全部満たせって言われても無理だよな、と。いやー、「これ全部ちゃんとできてます」って自信をもって言える人、世の中に何人いるんでしょうね。

 

この「Project Oxygen」はひとつの象徴だと思うんですが、「マネージャーに求められる仕事って、昔よりずっと多様化してる」んですよ。

少なくともIT業界では、「部下と進捗をちゃんと管理しておけばいい」という仕事ではなくなりました。

 

いや、タスク管理やスケジュール管理は基本のキであって、それ自体は当然できないといけないんですが、それ以上に「組織を機能させる」ことが求められるようになってきた。

 

だから、「部下を叱るか叱らないか」なんてのは正直枝葉の話で、それより組織のバリューを高めることに時間を使え、という話になりつつある。

つまり、昔は「部下をうまく動かすこと」が優秀なマネージャーの条件だったのが、最近、少なくともこの10年くらいは「複数の部下が最大限動きやすい環境を整えること」が大事である、という認識に変わりつつある。

心理的安全性や失敗のケア、権限移譲なんかは、その過程で一般的な要素になってきたんだと思います。

 

まあ、人間にできることには限界があるので、私もこれらの要素を全て追い求めようなんて思ってもいませんし、できる範囲でできることをやります、というだけなんですが。

皆様にも、あんまりGoogleの言うことを真に受けず、できることをやっていくことをお勧めいたします。

 

じゃあ、今後「上司」「マネージャー」は何をしないといけなくなるのか

ともあれ、「時代と共にマネージャーに求められる役割が変わりつつある」「おそらく今後もマネージャーの役割は変わる」というのはおおかたの共通認識だろう、と思います。

 

これは単なる私の予想なんですが、これから先、「適切な評価をすること」「その評価を適切に言語化すること」が、マネージャーにとって重要な能力になっていくんじゃないかなあ、と思っています。

 

生成AIが一般に普及して、今後、仕事の場でも生成AIが大いに活用されていくだろう、ということは既に既定路線です。

恐らく、仕事の成果を出す際にも生成AIはある程度必須のものとなっていくでしょうし、生成AIを上手く使いこなすのは必須のテクニックとなっていくでしょう。

つまり、単純なタスク消化の速度や成果物の質で人を測ることはできなくなっていく。一方で、すべてをAI任せにできるわけでもなく、成果物に責任をもち、成果物の方向性を定める人間の役割は残る。

 

するとマネージャーにとって何が難しくなるかというと、「適切に評価をして、そのフィードバックに納得してモチベーションを高めてもらうこと」がめちゃくちゃ難しくなるんですよね。

 

評価って、単に「この人はどれくらい能力をもっているか」を測る行為じゃなくって、

「あなたは組織にとってどれくらい重要だよ」

「あなたの優れた部分はここで、苦手な部分はここだよ」

ということを伝えて、モチベーションにしてもらうためのツールでもあります。

 

人間が仕事をする以上、そういう評価をきちんと文脈を踏まえた上で納得してもらうという仕事は、まだ人間にしかできません。それを、「成果物の質、進捗具合」という分かりやすい指標とは別にやらないといけない。

 

それをできるのはマネージャーしかいない、というわけで、今後は「適切な評価をする能力」「その評価を言語化する能力」というのが無茶苦茶重要になっていくんじゃないかなあ、と私は考える、というわけなのです。

 

特に「評価の言語化」というのは、個人的には一番アツいテーマでして、「何が良いと思ったか」「それを他人に説明できるか」って普遍的な能力だと思うんですよね。

つまり、仕事ばかりではなく、日常生活とも、趣味の世界とも通底している。

 

私、「このコンテンツは何が良かったのか」ということを言語化するのがとても好きだし、それを仕事に応用できないか、応用していこうって試みはずーっと続けているんですよね。

その辺が今後広まっていくと楽しいなあと思いますし、皆様にも「何がよかったかの言語化」はガンガン試みていって欲しいなあ、と考えるばかりなのです。

 

取り急ぎは、最近超面白そうだと思ったSF小説、「マイボディ・オン・ザ・ムーン」を二冊セットで買ってきたので、徹夜で読んで感想を言語化していきたいと、そう決意していく次第なわけです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

photo:Michael Pointner

「あぁ、まったく。これだから昭和の婆さんは嫌いなんだよ」

と毒づいては

「いや、そんなことを思っちゃいけない。AIどころかパソコンすらまともに使えない世代では、これが精一杯だったんだ」

と打ち消すことを、1日に10回は心の中でしている。

 

会社の経理担当者が社長夫人とのトラブルで辞めることになり、仕方なく私が経理業務を引き継ぐことになった経緯は以前書いたが、その引き継ぎが始まってから、およそ2ヶ月が経った。

 

辞めることになった前任者はまだ若いのだが、もともとこの会社で経理を担当していたのは70代の高齢女性だったのだ。

ご高齢を理由に昨年ついに退職されたが、経理の業務フローはその高齢女性のやり方がそのままの形で引き継がれていた。

 

「パソコンは苦手だから」と言い、令和になってもまだコクヨのノートに手書き、計算はカシオの電卓が頼りという昭和スタイルで仕事をしている姿を私も見ていたので、ある程度の予想はしていたものの、いざこれまでの業務フローの実態を知ると仰天の連続だった。

「すげぇな」という驚きと、「マジかよ」という苛立ち。それに加えて「またかよ」という腹立たしさと、泣きたいような諦めの気持ちが食道からせり上がってくる。

 

「デジャブかよ。クソがっ!」

と叫んで、引き継いだコクヨのノートを床に叩きつけたい衝動に何度もかられた。

しかし、自分の置かれた状況に絶望せずにいられるのは、「同じ状況をすでに一度乗り切った」経験と、その経験から来る自信があるからだ。私なら、きっとまた切り抜けられる。

私は、前職でもヒドイ目に遭った。その時のことは記事にしてある

 

この時と違うのは、今の会社はキャッシュリッチで、少なくともお金が足りないという心配だけはないことだ。

では、どこに既視感があるのかというと、頭痛がするほどのどんぶり勘定である。

 

「これをどんぶりと言わずして、いったい何をどんぶりというのか?」と思うほど仕分けがテキトーで、最初に帳簿を見た時は鼻血が出そうだった。

なぜこんなことになってしまうのかというと、昭和世代のお婆ちゃんが紙と鉛筆で仕事をしてきたからなのだ。

 

今どき、クラウド会計ソフトを使えば一瞬にしてできることや、簡単に自動化させられることでも、昭和のやり方で仕事をしていれば、どうしても作業量が膨大になる。

そこで、お婆ちゃんなりに効率化を考えた結果、あるべきものをないことにしたり、まとめてはいけないものをまとめてしまったり、対応しなければいけない法改正を無視してしまったりしてきたのだ。

 

真面目にやっていたら手間が増えるばかりだから、わざとそうしていたのだろう。面倒だから。

 

今回、特に笑ってしまったしまったのが、経費の大部分を「雑費」で仕分けてあることだ。

クラウドストレージの追加料金や、各種SaaSの利用料、ドメイン代が雑費に仕分けされているのは、まだ心情的に理解できる。

Googleが何なのかも分からないお婆ちゃんなのだから、「理解できないものは、とりあえず雑費にしておこう」というルールだったに違いない。

 

けれど、税理士や社労士など士業への支払い報酬も雑費。専門家への業務委託費も雑費。本社からの出向社員たちの給料も雑費。各種会費も雑費。複合機のリース料も雑費。とにかく雑費。なんでもかんでも雑費に放り込んである。

 

いや、これは流石におかしいだろう。誰かツッコめよ。

これに疑問を感じないのだとしたら、経営陣が決算書をまともに読んでいないのが丸わかりだ。

 

よくこの内容で確定申告が通ってきたなと逆に感心するが、代理申告を依頼している税理士は

「まあ、経費は経費ですよ。大雑把にくくればみんな販売管理費なのですから。ちゃんと勘定科目を分けたところで、納める税金の額が変わるわけじゃないですし」

と、のたまう。はぁ? 何だそりゃ? それでいいの?

 

「でも、何でもかんでも雑費にしていたら、決算書が経営分析をするための資料にならないじゃないですか。今の状態じゃ、人件費が一体いくらないのかも正確に把握できていませんよ。

今はまだ黒字だからいいようなものの、今後いざ状況が変わった時、これでは経営の見直しができません。管理会計はどうなります?」

と聞こうとして、口をつぐんだ。

 

愚問である。この会社では、誰も経営分析などしないのだ。管理会計など思いつきもしないのだろう。

ついでに「勘定科目もテキトーなら、税区分の仕分けも間違いが多いですけど、税理士先生は今までいったい何をチェックしていらっしゃったの?」

という嫌味も飲み込んだ。

 

結局のところ、社長が「親の代からの付き合いだから」という理由で顧問を頼んでいる税理士も仕事がテキトーなのである。

テキトーな相手に細かいことを言っても仕方がない。これで通用してしまうのが田舎のレベルの低さというものだ。

 

創業からこれまでに一度も税務調査が入っていないことも、杜撰さが放置されてきた理由だと思うが、調査が入っていたとしても、おそらく運用は変わらなかっただろう。
こういうことは、担当者にスキルがなければどうしようもないからだ。

高度化が進む時代に、複雑な経理処理を70代のパート社員に任せてきたことがそもそもの間違いなのであって、これは担当者個人に責任があるのではなく、経営の問題である。

 

時代に合った適切な知識とスキルを持つ人間に対し、相応しい給料を払おうという意識が経営者にないのだ。

問題点や改善点を指摘しても、危機意識がないので、まともにとりあってもらえない。

「まあ、いいさ。どうせこの会社は遠からず潰れるんだろう」

と、口には出さないが、確信はしている。

 

良い時代に「稼げるシステム」を作り上げ、しっかり金を蓄えてあるので、そう簡単に倒れはしないだろう。

しかし、地道に数字を読み解いていると、徐々に会社の内情が分かってきた。この会社に将来性はないし、すでに翳りは見えている。

 

第一、いまだに平成どころか昭和を引きずっているボケた経営陣が、変化のスピードが増すばかりの令和を生き抜いていけるはずがないのだ。

などと他人事のように思うのは、会社が潰れたところで私個人はちっとも困らないからだ。

 

最近では、紙の帳簿と伝票からクラウドソフトにデータを手打ちで入力しながら、「もういっそ、これを仕事にしようか」などと考えている。

この会社で3年ほど経理経験を積み、その間に日商簿記2級も取ろう。

そして、デジタル化やAI活用の進んでいない中小企業の実務補助を請け負うのもいいかもしれない。

 

もし、私が旅立つ予定よりも早く勤め先が潰れるのだとしたら、ますます面白いじゃないか。

会社は、起こす時よりも潰すときの方が大変だと言うけれど、それはそれで貴重な経験が積めるチャンスだ。きっと、私のスキルと経験値を大いに引き上げてくれるだろう。

ついでに、寄稿記事のネタにも困らなくなって助かるな。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

ブロガー&ライター。

リンク:https://note.com/flat9_yuki

X:https://x.com/flat9_yuki

photo:

みんなお金の話ばかりしている

最近、同僚と話していると、すぐにお金の話になる。

あるいは、電車でひどく熱心にスマホをのぞきこんでいる中年男性の画面がちらっと目に入る。

 

スマホの画面では、YouTuberが、YouTubeを使ったお金の稼ぎ方について説明している。

そして、中吊り広告では「かしこくポイントを貯めましょう」と何かのキャラクターがしゃべっている。

家の中でも、給料が少ない、学費がかかる、電気代が上がっている、食費が高すぎる、そんな話ばかりだ。

最近の大人は、お金の話ばかりしているような気がする。

 

「最近の」と言ったけれど、それはいつと比べてなのか。

まあ、ぼくの場合は、自分の新入社員だった2000年代前半と比べている。

当時は就職氷河期で、多くの人が仕事に困り、お金に困っていた。

もちろん、みんな日々の売上や収益に追われていた。仕事では数字の話ばかりしていた。

 

なのに、当時、先輩たちに飲みに連れていってもらったり、同僚と仕事の愚痴を言いあったりしていても、お金の話ばかりしていたような記憶がないのだ。

それよりも、夢について語り合っていた。

クリエイターとして有名になりたいとか、あのタレントと仕事をしてみたいとか。

 

その延長線で、独立して金持ちになるんだという話はしている人もいたけど、それは夢としての話だ。

いや、もちろんその時から「財テクはちゃんとやっておけよ」と言っている先輩もいたし、実際にそれで大儲けして会社を辞めた人もいた。

いたけど、それもある種の「夢」の話の範疇だった。

今はとにかく、金がない、金が欲しい、どうやったら金が増えるのか、ひたすらそういう話ばかり、大人がしている気がする。

 

どでかいブーメランだった

なんて言うと、時代錯誤だとか、現実が認識できていないとか言われそうだ。

まあ、実際にそうなのかもしれない。

たぶん、ぼくはさみしいだけなのだ。

 

若い頃のように、歳を取っても、「夢」や「好きなこと」について語り合っていたい。

実際に、ぼくの周りにはそういうことについて語り合える人たちがそれなりにいると思う。

でも、昔はもっとたくさんいたような気がするのだ。

面白いこと、ワクワクすることを仕掛けている大人たちが。

KPIとか根拠とかロジックとかリスクとか、まあそれはそれとして、それでも一つでも爪痕を残そうとする、大人げない大人たちが。

 

さて、ここまで書けばもう十分だろう。

そう、これは特大のブーメランだ。

今、現役世代で一番ボリュームが多いはずの、ぼくたちの世代がつまんない大人になってしまっているからだ。

いや、違う。

ぼくが、つまんない大人になっているから。

お金のことばかり心配していて、やりたいことを見失ってしまうから。

それに尽きる。

 

アホな大人であり続けたい

じゃあ、どうしたらいいのか。

お金のことなど気にせずに、チャレンジばかりすればいいのか。

もちろん、そういうわけにはいかない。

 

だけど、ここは歯を食いしばって、めっちゃ楽しそうに生きたい。

周りがうらやましがるくらい、楽しい大人でいたい。

そう思う。

 

これは、戦いである。

金がなくて、歳を取って、能力も低下し続けるばかりで、どうにもならない現状。

それでも、夢を見て、想いを語り、変なことを企て、実際にやらかす。そうやって、アホなことをやり続けようと思う。

 

やればやるほど、色んな人にボロクソに言われるだろう。言われたからなんだというのだ。

もう他人のことを批評してばかりの生活はごめんだ。

あいつはバカだ、こいつは下手くそだ、そういつは悪手だ、そうやって批評してばかりの大人でい続けるよりも、ぼくは批評されるほうの大人でいたい。

人生は一度きり。

踊れるまで、踊り続けたいと思う。

 

本当につまらないのはぼく自身

ところで、ぼくは、なんでそんなことを急に言い出したのか。

色々と理由はあると思うけど、結局、踊り続けるためにはお金が必要だと思うからだろう。

お金の話ばかりしている大人のことが気になるのは、自分がお金のことを気にしているからだ。

そして、おもろいことをやるには、お金も必要なのである。

 

もっと言えば、最近は、ぼくは金策に走り回ってばかりいる。

資金やら協賛金やら寄附金やら、あちこちに出向いて、お金を集めてばかりいる。

お金のことばかり考えていて、企画をする余裕がない。

手段にばかりとらわれていて、本当にやりたいことに十分に力を入れることができていない。本末転倒になっている。

 

「お金がないと大きい企画ができないから」「お金がないと持続可能にならないから」と言い訳をしている。

そう、お金のことばかり考えている自分を、やりたいことに正面からチャレンジしない理由にしている気がする。

 

わ、つまんない企画だな、と思われるのが怖い。

お金を集めて、誰か別の人に企画をしてもらって、うまくいかなくてもその人のせいにすればいいとすら考えている可能性もある。

つまりは、勝負することを恐れているのである。

ああ、つまらない大人になってしまったな…と思う。

 

常に飢えたまま生きる

そこでふと思い出したのだが、若い頃、『海の上のピアニスト』のDVDをレンタルしたつもりで、間違えて『戦場のピアニスト』を借りてしまったことがある。

ナチス・ドイツに占領されたポーランドが舞台で、主人公のピアニストはボロボロになりながら、とにかく逃げ続ける。

あれ、こんな話だったっけと思って、すぐに間違いに気づいたのだが、まあいいやと最後まで観た。

 

それで、ひどく印象に残っているのが、とにかくピアニストは常に飢えていることである。

基本的に、考えているのは、食べ物のことばかり。

どうやって食べ物を手に入れるかについて、文字通り必死になっている。

ピアノを弾くシーンなんてほとんどない。なんだこの映画は、と思った。

 

だけど今、自分の状況を省みると、構造はあまり変わらない。

お金を集めるので必死で、やりたいことをする余裕なんてない。

いつも頭の中で、お金、お金と唱えている。

こんなことで、本当に自分らしく生きていると言えるのか。

 

いや、むしろ、それが「自分らしく生きる」ということなのかもしれない、とふと思う。

ひょっとしたら、このまま、やりたいことを十分にできないまま人生を終えてしまうかもしれない。

お金、お金、と唱えながら、ついに道の途中で力尽きてしまうかもしれない。

 

それでも、その人生を選んだという一点だけで、ぼくは「自分らしく生きた」と言えるのではないだろうか。

そんな日を迎える時までは、歯を食いしばって、しかし、めっちゃ楽しそうに生きたいなと思うのである。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者:いぬじん

プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。

だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。

プロフィールって、むずかしい。

ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。

Photo by:

「センスないですね」

と言われたことはあるだろうか。

 

例えば、

「服のセンスがない」

「日本語のセンスがない」

「料理の盛り付けセンスがない」

「資料のセンスがない」

といった具合だ。

 

私もセンスのなさには自覚があるが「センスがない」と言われて傷つく人も多いようだ。

 

例えば、ちょっと前に、おじさんの服装センスについて、ずいぶんと盛り上がっていた。

 

おじさんが特に「ダサい」と言われることに対して、

「そういうふうにおじさんを馬鹿にするの良くない」

という人がいたり、

「こうしたらいいんじゃないか」

というアドバイスをしたりする人もいて、なかなかカオスだった。

 

そして、これに対して、面白い見解が流れてきた。

「イオンモールおじさんコーデ」が嫌われる理由を調べたら、2013年の女子ウケ最適解だった話

もしそれが今になって“清潔感がない”とされるのだとしたら、問われるべきなのは個人の美意識だけではなく、10年単位で「普通」を作り替えてきたファッション業界の側なのかもしれない。少なくとも、当時のファッション誌は彼らに合格点をつけていた。

今は「ダサい」と言われる服装は、かつての「正解」だったというのだ。

 

では、なぜ「正解」がダサくなったか。

その理由は、「差別化できていないから」

お洒落は差異化・差別化。ファッション業界はわかりやすいアイテムを売り出した。差別化競争が始まったのだ。

 

なるほど、と思う。

 

簡単に言えば、みんなが同じカッコをしたら、そのカッコは「ダサく」なる。

同じことをしたら、その活動は「ダサく」なる。

ゆえに、センスがない、というわけだ。

 

実際、立命館大学の千葉雅也は、著作「センスの哲学」の中で、センスについて、次のような定義を行っている。

では、全芸術と生活において、面白いと言えるような並び =リズムとは何なのか。それがわかること、それを作り出せることが、センスの「良さ」であるわけです。
「リズムが面白いとはどういうことでしょうか。  基本は、反復があって差異があること、です。同じことですが、言い換えると、規則があって逸脱があること、です。差異 =逸脱に「あれっ」と反応するわけです。」

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服装には「定番」があり、それに対して、差別化たる「逸脱」があると、センスがあるように見えるということだろう。

 

確かに、能楽の始祖、世阿弥は「面白さは珍しさから生まれる」と述べている。

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珍しさとはすなわち、差別化だ。

だから、差別化できる力が、センス、というわけだ。

 

したがって、

「差別化できていない格好をしているおじさん」

は、センスがない、ダサい、というのは、的を射ているのかもしれない。

 

センスがあるということは「差別化できる」ということ。

スポートなどをやるとき、

「サッカーのセンスがある」

と言われたら、「他のプレイヤーと差別化できる能力」をイメージすればよい。

 

ただ、一つ疑問が残った。

 

「センス」は身につくのか?

それは「センスがない人」救いはあるのか、身につくのかという話だ。

 

ただ、これは明確に答えがある。

結論としては、時間をかければ、誰でもおそらく「ある程度は身につく」。

 

これについては、一度過去に触れている。

例えば、ゲーム会社の経営者が「センスは伸びる」と言い切っている。

「行動力がある」とは、いったいどういうことか。

僕がずっと誤解してたのは、行動力とか営業力のほうが伸びると思っていましたが、実はセンスのほうが伸びるんですよ。だから、行動力が高い人を採用するようにしたんです。

(中略)

センスというのは、いろんな過去の経験からいろんなパターンを蓄積していって、年齢を重ねれば重ねるほどにそのパターンの中から適当にピックアップするが上手くなることなんです。

だから、若い人にセンスの高い人があまりいないのは、経験がないからですね。

 

センスが伸びるのは結局、「パターンの蓄積」によって、「定番」を学習できるから。

定番を知れば、何を、どこを逸脱して、差別化すればよいかを判別できるようになるからだ。

 

例えば、日本語のセンスを鍛えるには、そこから「逸脱」を画策できるようになれるくらい、日本語をたくさん読み書きし、「定番」を身につける必要がある。

 

資料がダサいのは、資料をたくさん見て、作って、「定番」を身につけてないからだ。

「ここをあえて崩しました」と言えるようになるためには、パターンへの深い洞察が必要となる。

 

 

こう考えていくと、他のセンスに比べて「服装のセンス」が問題になりやすいのはなぜなのかも、よくわかる。

 

それは「意図せず、他者の評価の対象になってしまう」からだ。

上のイオンモールの事例のように。

 

意図的に提出するもの、たとえばデザインや文章、スポーツ競技などであれば、それは本人も「評価の対象」となっていることが明確にわかる。

であれば、

・センスのある/なし

と言われることについて、「意図しない外部評価」はあまり発生しない。

 

が、「服装」はそうではない。

「着るもの」について、差別化など考えたこともなく、「失礼にならなければどうでもいいです」程度の認識しかもっていない人も多い。

あるいは、時間をかけたくない、と思っている人のほうが圧倒的に多いだろう。

 

であるがゆえに、頓着がない人は「普通の」格好をするために、センスを身につけるのではなく、

皆と同じような、

「とりあえず店が勧めたもの」

「とりあえず雑誌に載っていたもの」

「とりあえずみんなが来ているものと同じもの」

を採択する。

 

ただし、それは実は「ダサい」の本質である。

 

ただ、面と向かって「ダサい」と言われると、それはそれで、「そんな形で、突然評価されるとは思っていなかった」という反発につながる。

というわけで、「服装なんてどうでもいいと思っている人」と、「ダサい服装が気になる人」の争いは終わらない。

 

センスのない人に、救いはあるのか。

 

「ダサい」と思われたくなければ、服装について学習すればよい。

そして、周囲との差別化を図ること。

 

まあ、「ダサいよね」と言われることが気にならない人のほうが圧倒的に多いのかもしれないが。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」92万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

〇まぐまぐ:実務で使える、生成AI導入の教科書

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Photo:

先日、精神科に限らず「カウンセリング」なる行為について適切な注意喚起をしていると感じるポストをで見かけた。

ここで、すきえんてぃあさんがおっしゃっている「精神療法」とは、精神科医が患者さんと診療上の目的から会話するもの、あえて雑駁な言い方をすれば精神科医によるカウンセリングみたいなものと考えていただきたい。

そのカウンセリングが侵襲的であるとは、患者さんに負荷をかけたりダメージを与えたりする場合があるということだ。

 

「手術と同じく」という比喩も事態をよく示している。たとえば開腹手術は腹部を切るわけだから、患者さんの身体にダメージを与える。もし患者さんの身体がダメージに負けてしまったら死んでしまうかもしれない。

同様に、カウンセリングも患者さんの心身にダメージを与える側面があり、であるなら、それは適切かつ患者さん自身の回復に資するものでなければならない、というわけだ。

 

カウンセリングに関しては、しばしば「傾聴」ということがいわれている。傾聴といって私が真っ先に思い出すのは、カール・ロジャースの来談者中心療法だ。

患者さんのなかでも口をきくエネルギーがそれなりに残っている人は、話を聞いてもらうことを心地よく感じる。最近の進化心理学では話をきいてもらうこと、目と目をあわせることでも人間は脳内麻薬的な物質が分泌されると知られているので、傾聴されれば患者さんは気持ちいいだろう。

 

すきえんてぃあさんはそのあたりを「術野の消毒」と比喩しているが、確かに傾聴はカウンセリングが佳境に入っていく下準備としてあって良いものだと思う。

精神科医や心理師なら、ただ傾聴しているのでなく何を話しているのか・どう話しているのかを意識し、所見としてまとめながら傾聴するだろう。

傾聴は情報収集の一環にもなり得るし、クライアントとセラピストとの関係性にポジティブな影響を与えることが多い。

「与えることが多い」などとわざわざ書くのは、傾聴も過ぎればかえって面倒なことになる場合があること、傾聴をとおして気持ちよくなりたいだけの患者さんに傾聴するのはあまり意味のないことで、実地の精神医療ではそんなことに時間を使う余裕が乏しいことを踏まえてのものである。

 

さて、傾聴などを経由したうえで、やがてカウンセリングは山場や谷底にたどり着くだろう。世の中にはカウンセリングとは気持ちよくて副作用が少ないものと思い込んでいる人がいるが、私が見たところ、そんなカウンセリングはあまりない。

傾聴だけから成るカウンセリングが存在するならそうかもしれないが、そんな傾聴だけのカウンセリングは床屋で肩もみや耳かきをしてもらって気持ちよくなるようなもの、それこそ、「術野の消毒」程度のものに過ぎないと思う。

 

カウンセリングの山場や谷底で登場するのは、患者さん自身のあまり直視したくないものや、わかっちゃいるけどやめられないものや、今まで盲点となっていて気付かなかったもの、等々だ。

患者さんが今まで直視していなかった事柄や話し合ってこなかった事柄には、そうするだけの理由や背景が伴っている。

普段は避けていたり気付いていなかったりすることに患者さんが直面すれば、もちろんストレスが伴う。長年引っかかっていたことを話題にしたり苦手意識を思い出したりするのも、いい気がするとは限らない。

 

そうした難しい話をやっていく際にいくらか援助になる、というかカウンセリング過程がコースアウトしてしまうリスクを減らす一助になるのは、さきほど挙げた傾聴を含め、それまでに積み重ねておいたやりとりの量だ。

やりとりがうまく積み重なっていた場合、いくらかでも信頼関係ができあがっていようから、少しは込み入った話がしやすくなる。

 

相手が精神科医や心理師だからといってはじめから全裸のごとく話始める患者さんも稀によくあるが、そういう人は心配だ。

少し信頼関係ができあがってから本題を少しずつ明らかにしてくれるぐらいの患者さんのほうが、やりとりしていて頼もしいように思える。で、そうして積み重なった信頼関係が、カウンセリングの山場や谷底を通過する際には助けになる。

 

関連して、山場や谷底にさしかかるタイミングにも気を配りたい。身体の手術においてもタイミングが大事だと聞く。

身体が侵襲に耐えられるタイミングなら手術に適しているが、身体が侵襲に耐えられないタイミングでやる場合は、術中に耐えられないリスクや術後の回復がうまくいかないリスクが高くなる。

それに似て、カウンセリングも山場や谷底に相当するやりとりをするためには諸条件が整っていなければならない。

 

たとえばうつ病のどん底と言える病状の人に、世間の人が空想するようなカウンセリングを始めるなど、無意味というより有害ですらある。そんなのは、術野を消毒もせず身体の状態も顧慮せずに大規模な手術を始めるようなものだ。

 

うつ病のどん底に期待されるのは、心身を守ること、回復への保証について伝えること、自殺はしないことを押しつけがましくないかたちで確かめること、等々だろう。

同様に、急性期の統合失調症による幻覚や妄想が著しく、それによって恐慌や興奮に陥っている患者さんにもカウンセリング「らしい」ことを始められない。

まずは恐慌や妄想や幻覚や妄想をいくらかでも改善させなければ、会話が患者さんに入っていけないだろう。統合失調症の場合、思考障害といってそもそも思考全体が混乱し、頭のなかの交通整理がついていない症状もしばしば伴う。

そうした、本当の本当に心身の状態が悪い時に、カウンセリングのような会話式のやりとりが助けになる範囲は思うほど広くない。

 

そのカウンセラーは有益か?有害か? (AI含めて)

こんな具合に、精神医療の現場で繰り広げられる心理療法や精神療法、雑駁にいうところのカウンセリングは、必ず気持ち良いわけでも、必ず安全なわけでも、なんら副作用がないわけでもない。

だからまともな精神科医や心理師なら、多かれ少なかれカウンセリング的な行為のベネフィットだけでなくリスクやコストについてもいつも考えているはずだ。

患者さんの悩みや問題の核心に迫るような瞬間においてはとりわけそうだと言える。少なくとも何の懸念も持たずに"心の開腹手術"に相当するような、侵襲性の高いカウンセリングをやるべきではない。

 

ときには「この患者さんのこの問題は(今は)触れない」という判断も必要だろう。そうした判断のできる/できないも術者の技量のうちではなかったかと思う。

 

さて、このことを踏まえたうえで世にはびこるさまざまな自称カウンセラーについて考えてみたい。

 

あれこれの自称カウンセラーたちのカウンセリングは安全だろうか? 副作用のないものだろうか? 侵襲性のないものだろうか?

もしそれが、傾聴だけから成っているなら比較的有害度は低そうに思える。が、傾聴ばかりに傾いたカウンセリングにも問題点はあり、傾聴されて気持ち良くなることにだんだん頼り始めたり、傾聴されているのをいいことに自分だけの思い込みが間違っていないと思いこんだりする人もいるかもしれない。

まっとうなカウンセラーなら、そうした状況に対してなんらか歯止めをかけるよう意識が働くだろうが、他所の界隈には、そんなことお構いなしの自称カウンセラーもどうやらいるようである。

 

世の中には、カウンセリングとかカウンセラーと銘打たれたやりとりや人物がごまんと存在している。化粧品を買う時、金融商品を買う時までカウンセリングという言葉を用いているのを見ると、私は気味が悪くなる。

しかしカウンセリングという言葉が古代ローマのコンスルに由来していることを思えば、それらの言葉が広く使われることを悪くいうことはできない。

 

だが、そうした数多存在するカウンセリングとカウンセラーがどれぐらい安全なのかは、私のいる位置からはわからない。

たとえば美容の領域、たとえば金融の領域におけるカウンセリングは、必ず安全で、副作用がなくて、侵襲性のないものだろうか? そうではないと思う。金融の領域でたとえるなら、カウンセリングは人の財布の中に手を突っ込んでぐるぐるかき回してみせたうえで自己決定を促すことではないのか。

それは本当に安全で、副作用がなくて、侵襲性のないものと言い切れるのだろうか?

 

世間では、カウンセリングという言葉に「安全」「気持ちよさそう」「副作用がなさそう」といった先入観が、べったりとこびりついているようにみえる。

そのうえで、インターネットを介してずぶの素人がカウンセリングをやると言い出したり、患者さんが患者さんにカウンセリングをやると称しているものもあるようだ。

さらにAIを使ってカウンセリングを受ける、といった話も増えている。AIはいっけん無害そうにみえるが、ユーザー自身とAIとの関係性を調整する機能がないから、それはそれで、傾聴オンリーのカウンセリングに似た副作用をもたらす気もするし、いざそうなっても誰も止めてくれない・止められない気がするので心配である。

 

こうしたわけだから、カウンセリングだから安全、カウンセリングだから副作用や侵襲性はないと思い込むのは即刻やめていただきたい。カウンセリングも、それはそれでリスクをはらんだ行為であることは今日は憶えていただけたらと思う。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Priscilla Du Preez 🇨🇦

高3のこの時期に突然の進路変更宣言

高校3年生の上の子が、この時期になって突然、進路変更をしたいと言い始めた。

 

それまで国公立大学の理系学部を受験する予定だったのが、美大に行きたいと言う。

本人はちゃんと絵を描いてきたわけでもないし、美大の美の字もこれまで聞いたこともなかった。

ただ、思いつきで言っている感じではなかったし、決意は固そうだ。

 

それから毎晩、家族会議が続いた。

が、結局は本人の意志が決まっているので、答えははじめから出ているようなものだ。

念のため、それが一時的な気まぐれではないかとか、受験から逃げたくて言っているのではないかとかを確認する作業をしただけだ。

 

もっと言えば、ぼくは、好きにしたらいい、と思っている。

もう18歳だ。

自分の進む道は自分で決めればいい。

 

だが、どうも近年は、親が大学受験にも口を出すようだ。

かく言うぼくも、少し前までは、子どもがあまりにも受験について情報を集めないので、予備校等の受験説明会に連れて行って、一緒に話を聞いていたりした。

 

だが、そういうことをすると、子どもはそれ以上自分で何かを調べようとしなくなる。

受験に対して受け身な姿勢のままで、固定されてしまう。

どうやら固定されてしまったことに本人も、親も気づかないまま、数年すごしてきてしまって、そしてこの土壇場での進路変更になったわけだ。

 

もっと早くに変更していれば、色々と対策することができた。

美大に必要な実技の訓練もさっさと始めることができた。

「たられば」はいくらでも言える。

 

だけど今は、本人がそう決めたのだ。

じゃあ、進めばいい。

そう思う。

 

◆しかもデザインの仕事とか…うーん

ところでなぜ美大に進みたいかというと、デザインの勉強をしたいらしい。

これについても、もちろん言いたいことは山ほどある。

 

まずは、やっぱりAI時代だということ。

簡単なビジュアルを作るだけなら本当にAIで十分な時代になってしまった。

 

広告会社で働いているぼくが、毎日のようにAIでイラストを作成し、音楽を作り、アイデアの壁打ちもしているのである。

当然ながら、企業の広告やマーケティングの担当者は自分で制作ができてしまう。

 

あるいは、受発注は引き続き発生するとしても、AIをうまく使いこなせる新しいプレイヤーが参入して、あっという間に状況が変わってしまうだろう。

まあ、AIは、本質的なアイデアを考えるのはまだ苦手だと感じる。

人間に対する理解が浅い。

もっと言えば、人間の欲望、執着、汚い部分、しょうもなさ、といったあたりへの視点が弱い。

AI自身が何かを欲望することができないからなのかもしれない。

 

だが、それは人間でも同じかもしれない。

そこまで到達できているプロの制作者がどのくらいいるのか、という話である。

…というと、ぼくは到達できている、と言っているように聞こえるかもしれないが、ぼくもその領域に踏みこむことができたり、できなかったりをずっと繰り返している。

 

また、そうやって苦心して出したアイデアであっても、状況によってはAIに負けることもあるかもしれない。

特に、公共性の高い仕事や、各方面に気を使うあまりに思いきったことができない仕事で、クライアントが勝負しない場合は、「そんな仕事、それこそAIでいいんじゃないの?」と思ってしまったりする。

 

まあ、本来はそういう現場でこそ、それでもアイデアで突破しようと悪あがきするのが楽しかったりするのだが。

…昔話はやめよう。

とにかくAIのおかげで、表面的な「デザインっぽい」仕事というのはどんどんなくなっていくだろう、ということだ。

 

そして、それがもう一つのぼくが言いたいことだ。

結局、AIによって「なんとなく仕事っぽかったもの」がなくなっていくように思う。

 

意思決定者が、判断するための情報収集や、論拠・根拠等を用意する作業。

関係者のスケジュールを調整したり、情報を整理したり、会議の準備をしたりする作業。

担当者の忍耐力を試されるような、ひたすら同じことを繰り返し続ける不毛な作業。

 

これらのいわゆる「ブルシットジョブ」がなくなったとき、ぼくらは自分の仕事は一体何なのか?ということを突きつけられるようになる。

今までは「とりあえず、これやっといて」と押しつけられてきた、そんな仕事がなくなる。

 

となると、より本質的なことだけが残っていく。

今、何をやればいいのか、という気づき。

これをやるべきかどうか、という判断。

そもそも自分は何をするべきか、という問い。

 

誰もが主体者となる。

「代理店」とか「代理人」みたいな仕事なんて、全部なくなる。

そう思うのだ。

 

…いや、まあごちゃごちゃ書いたが、要は「こんな時代にデザインを仕事にしようとするとかマジ??」と父親としては焦っている、とうことである。

 

◆「受験代理人」からの脱却

ただまあ、そんなことを今、子どもに言ったところで、だから何だと思うだろう。

それでいいのだと思う。

デザインをやりたい。

それでいい。

その瞬間、その人は主体者になっている。

少なくとも、親が言うから受験する。という「受験代理人」ではなくなっている。

 

ぼくなんか、自分が本当にやりたいことに気づいたのは21歳の時だ。

高校生のあいだにやりたいことが見つかったのだから、もう何も言えることはないのだ。

 

もちろん、そのやりたいことはまた変わるかもしれない。

それも、別にかまわない。

大事なのは、まずはそうやって一歩、自分の足で踏み出すことだ。

一度それができれば、そのまま突き進むことも、方向転換することも、なんだってできる。

この一歩が、すごく大きいのだと思う。

 

よく、自分は「やりたいこと」なんてない、という人がいる。

若い人だけではない。

ベテランになっても、そんな人はいっぱいいる。

ぼくだって、周りからはわりと「やりたいこと」がある人だと思われているけど、本当は「いやあ、実はそこまで何が何でもやりたいことがあるかというと微妙だなあ…」と思うのである。

じゃあ実際のところ「やりたいこと」って何なのだろう?

 

◆そもそも「やりたいこと」とは何か

ぼくが思う「やりたいこと」というのは、要は、それをするためにすでに何らかの行動をはじめているかどうか、ということだ。

「あーいつかカフェとかやってみたいんだよねえ」とか「そのうち独立できたら、なーんてね」とか言っているあいだは、「やりたいこと」ではないと思う。

カフェがやりたいと思って、とりあえず間借りで週末だけのカフェをやってみた。

独立の練習と思って、とりあえず個人で仕事を受けてみた。

その瞬間、それは「やりたいこと」に転じる。

 

なんというか、そういうことは、無理してやるものではないと思う。

それどころか、止められても、反対されても、それでも勝手に始めてしまうもの。

だから、何もすごいことでも、賞賛されることでも、なんでもないと思う。

 

ぼくも、広告会社に入社してから、仕事の隙を見つけてはコピーを書く練習をしていた。

すると、いろんな人たちからたくさん嫌味を言われた。

早くあきらめろとか、そんなことするヒマあったらもっと目の前の仕事しろとか、いいかげんにしろとか。

 

でも、止められなかったのだ。

一番しんどかったのは、ぼくだ。

自分の執着と折り合いをつけて、さっさと目の前の仕事に向き合うべきじゃないかとずっと思っていたから。

でも、あきらめられなかった。

なので「あきらめること」をあきらめるしかなかった。

そんなもんだ。

とても褒められるようなことではない。

 

だけど、あれから20数年経って、自分の子どもが「やりたいこと」と向き合っている様子を見ていると、当時のことを思い出さざるをえない。

そして、その思い出は妙にキラキラと輝いて見えるから厄介だ。

 

まあ、悪い気はしないが。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:いぬじん

プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。

だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。

プロフィールって、むずかしい。

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東海林さだおの死

漫画家・コラムニストの東海林さだおが亡くなった。2026年4月5日のことだったという。

大げさでもなんでもなく、「一つの時代が終わった」と思った。あるいは過ぎ去ったのだと。

 

おれにとって東海林さだおは、コラムを通じて日本語の文章というものを教えてくれた人であり、漫画を通じて自分の知らない昭和サラリーマン世界を教えてくれた人である。

おれにとってどれだけ大きな存在であったかは、いくら書いても書き足りない。

 

とはいえ、連載を欠かさず読む、単行本をしっかり買う、よき読者ではなかった。

連載していた雑誌を読まなくなると、自然とコラムは読まなくなってしまった。漫画本を買う習慣がなくなると、ショージ君の漫画を読むこともなくなった。

それでもどこかで、令和の今でも東海林さだおが世界を見ているという思いはあった。

 

東海林さだおは基本的に世界の片隅を見る人なので、「世界の大局が安心だ」という思いにはほどとおい。

ただ、東海林さだおのような人がいてくれることが、そのファンがいてくれることが、日本社会の小さくて確かな安心だったと、そう思う。

 

こちらに掲載された記事でも、東海林さだおの文章を取り上げたことがあった。

『令和の日本には「貧乏」がない』

 

「なに、貧乏がない? ケシカラン!」と憤るまえに、中身を読んでほしい。

東海林さだおの後半生(人間のどこからが後半なのだろう?)はたぶん貧乏とは程遠かったとは思うが、決して「ビンボー」の視点を失うこともなかっただろうと思う。東海林さだおは偉大なる小市民であった。

 

令和の今も、若くして東海林さだおのような感覚を持って生きている人はいると信じたい。

少なくとも、高級ではない素朴でB級グルメの世界には、東海林さだおが見出して広めた「感じ」が生きているように思う。

 

「十代よ大志を抱け」

おれが東海林さだおの訃報を聞いて、最初に行ったのが、ゴミ部屋の中から本を探すことであった。

小さなころに父から与えられて、実家を失い一家離散となったときも、手放すことなく持ちつづけたおれにとっての最初の一冊、『ショージくんのコラムで一杯』だ。

むろん、おれが持っているのは文庫本ではなく単行本だ。カバーはすでになくなっていた。

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あらためて読み返して、やはり東海林さだおは文章がうまいし、着眼点も冴えているし、なにより人間くささがにじみ出ていていいなあと思った。

そう思うと同時に、幼い自分の生き方に影響を与えていたのではないかという一編も出てきた。

 

そのタイトルは「十代よ大志を抱け」というものである。

その昔、クラークおじさんは言った。「少年よ、大志を抱け」と。

これは、これから大人になってゆく青少年を励ますための言葉である。

ところが、この言葉のために、いかに多くの青少年の心が傷ついてきたか、クラークおじさんは知らないであろう。

励ますつもりの言葉が、逆に多くの青少年を絶望の淵においやったのである。

少年よ、大志を抱け。

青少年は、すべからく大志を抱かなければならない。

大志を抱けないような奴は、ロクなものにならんぞ、クラークおじさんは、暗々裏にこう脅迫していたのである。

 

「少年よ、大志を抱け」が、令和の今も青少年向きの名言として流通しているのかどうかは知らない。

ただ、少なくとも自分の時代には流通していた。その言葉を、東海林さだおは真っ向から否定するのである。

おれのようなこれから大きくなる子供に対してである。いや、当時の自分は想定読者ではなかったかもしれないが。

 

まあいい、「Boys, be ambitious」である。

Wikipediaなどを読むと実際に言ったかどうかとか、まあ言ったんじゃないかなとか、「Boys, be ambitious like this old man」だったとか、「Boys, be ambitious in Christ」だったとかいろいろ書かれているが、まあクラークおじさんがアンビシャス好きな人だったのはたしかなようだ。

晩年は山師のようなことをして失意のうちに死んだ。

 

それはそうとして、この言葉を「大志を抱けないようなやつはろくな人間になれない」という脅迫と受け取るのは、まあちょっと盛っている。

盛っているが、一方でおれのような小人物は「そうだよな」と納得してしまうところがある。

小志はいかん、とこう言っていたのである。

ささやかな人生でいい、市井の片隅の人生で十分、どう考えてもこういう結論しか出てこない青少年は、ここのところで早くもいじけてしまうのである。

「おれのはどうせ小志だ」

だが、もともと志には、大も小もありはしないのだ。

大切なのは志そのものなのである。

大きい志だの、小さい志だのと、そういう区別をすることがすでに間違っているのだ。

ビヤホールのジョッキじゃあるまいし、大と小とを区別して、「大のほうにしなさいね」などと、クラークおじさんは余計なことを言ったものである。

 

そうだ、おれは子供心にも小志の持ち主だった。

べつに東海林さだおに感化されたわけじゃないと思う。

なんとなく生きていれば、なんとなく生きられるのではないかという、ぬるい楽観主義者だった。

 

自分のことは悲観主義者だと思っているわりに、「人生」とか大きなスケールになると、なんともいえぬ楽観があった。

普通に高校に行って、普通に大学に行って、普通にサラリーマンになって、普通に結婚して、普通にマイカーを買って、普通にマイホームを持つ、そんな人生。

 

……はい、昭和の空気。バブルが弾ける前の日本の空気。それに染まっていた。

でも、そういう時代もあったのだ。そして、実際にそう生きてきた昭和の人たちもいる。

むろん、昭和には昭和の、今じゃ考えられない苦労も競争もあったろう。競争に参加させてもらえない人たちもたくさんいただろう。ただ、昭和の終わりごろに子供だった自分、バブル崩壊前を知っている自分には、そういう昭和の楽観があった。

 

その後のおれの人生といえば、バブル崩壊の余波を受けた父が事業に失敗し、実家も失い、一家離散し、社会の底の方を生きてきた。

おれは就職氷河期世代でもあった。あったが、それとおれとは関係ないところもあって、それは前に書いたとおりだ。

「氷河期からドロップアウトできた人生」

まあ、おれは普通に大学を卒業できなかったし、普通にサラリーマンになれなかったし、普通に結婚できなかったし、普通にマイカー持ってないし、普通にマイホームを持っていない。

四十代の半ばを過ぎて、東海林さだおが得意分野の一つとしていた、「ビンボーな大学生」のような生活をしているといってよい。

毎日雪平鍋でうどんを茹でて食べる毎日です。

 

こんな世界にだれがした?

さて、話を「十代よ大志を抱け」に戻そう。東海林さだおはこのようなことを書く。

人間の歴史は、小志の連中が大志の連中に舵取りをまかせてやってきたわけである。

その結果が、今日のこの地球の姿である。人類は、あと数十年しか生きられないであろうという悲惨な情況になってしまっているのである。

大志の果ての連中にまかせたばっかりに、とんでもないことになってしまったのである。

クラークおじさんに代わって、今度はぼくが断固として言う。

「少年よ、大志を抱くな」と。

 

この原稿の最後には「49.1」とあった。昭和49年1月に書かれたものだろう。

昭和49年の数十年後に人類が滅ぶとは、どの終末論だろう。ローマクラブの「成長の限界」がこの二年前くらいに出ている。

それに限った話ではなく、人口爆発や環境汚染への不安が世界を覆っていたのもまた一つの事実だろう。あるいは冷戦、核戦争もあるか。戦後の昭和は決して明るい未来へ邁進していただけの時代でもなかった。

 

して、「人間の歴史は、小志の連中が大志の連中に舵取りをまかせてやってきたわけである」という物言いをどう思うだろうか。

「少なくとも民主主義の社会では一人ひとりが舵取りの主体であって、このような他人事の考え方は許されない!」と怒る人もいるにちがいない。

 

しかし、おれはこれにも同感なのである。だいたい、民主主義で舵取りをしようと、たとえば政治家になろうと手をあげようという人間は、一般的な人間像と一致するだろうか。

思い出してほしい。学生時代に、クラスのほとんどの人間が学級委員長になろうと手をあげたり、全校生徒のほとんどが生徒会長になりたいと手をあげたりしただろうか。そんなのは、ごく一部のやつだった。

 

なんならちょっと真面目すぎるとか、変わり者だとか、そんなふうに思われてはいなかっただろうか。

真面目な人間を冷笑するのは昭和の昔も、令和の今も良いことではないだろうが、やはり少数派だったはずだ。

 

そういう意味で、やはり民主主義にあっても、小志の人間が大志の人間に舵取りをまかせてきてしまったというのは正しい歴史観のように思える。

あるいは、歴史を遡れば、民主主義がありながらもヒトラーのようなカギ括弧付きの「大志」を持った人間にまかせてしまったこともある。

 

とはいえ、だ。このコラムが逆説と絶望だけで終わっていないところがある。

「あるいは、小志の人間が社会をうごかせば、とんでもないことにはならないのではないか」という点だ。

 

でも、実際、どうなのだろう。聖人君子が国の舵取りをしたこともあれば、悪逆非道な人間が国の舵取りをしたこともある。

思想や設計が正しいと信じ込んだ指導者たちによって、ひどいことになったこともある。でも、やっぱり小志の人間が舵取りをした例はないんじゃないかな。今後も、たぶん。

 

小志すら抱けなくなった時代に

そんな「小志」の思想を令和のいま読んだ。大きな共感がまだそこにはあった。

が、正直にいえば、やっぱり「小志」も今や贅沢な望みだよな、と思う自分がここにいる。

 

「ささやかな人生でいい、市井の片隅の人生で十分」。これ自体、なかなか困難なことだ。

片隅とはいえ、まずは「市井」の中にぶらさがっていなくてはならない。

いまの時代、市井、すなわち庶民や大衆でいることは、なかなか大変なことだ。

 

先に「貧乏がなくなって貧困や困窮がなりかわった」ことについての記事を紹介したが、それと同じように「片隅」もなくなってしまったのではないか。

庶民や大衆でいることのハードルが高くなって、大志とはいえなくとも、金を稼ぐ人間としての有能さを抱いていなくては、小志の人生も歩めない。

 

もちろん、昭和の昔は福祉もなにも今に比べて充実していなかった。

とはいえ、どこか貧乏であることの余裕、片隅にいる余裕があった。そのような幻想がおれにはある。

そして、今はもう、市井の真ん中にいられなくなったら終わりだ。市井の下に追いやられる。そこは地下だ。落ちたら終わりだ。その嫌な緊張感がこの社会を覆っている。そんな気がしてならない。

 

そんな令和らしく、AIにも「少年よ、大志を抱け」について聞いた。そしたら、こんなことを返してきた。

令和の若者からすると、

「大志は抱くとして、その前に家賃と奨学金と物価をどうにかしてくれ」

という感想もありそうだ。

現実的なやつだ。

 

大志を抱くにしても、あるていど余裕があったほうがいい。

もちろん、立志伝中の人はものすごい底から這い上がったりしているが、それは稀の稀だ。

 

そして、稀でない小志の人にとって、家賃や奨学金や物価はものすごく重要だ。

べつに高望みはしない。ただ、人間、せめて小志くらいは抱いていいはずだ。

 

できれば、そのくらいの余裕のある世界であってほしいが、舵取りをしている大志の人たちはどう感じているのだろうか、おれにはよくわからない。

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :wikipedia

「転売ヤーだけは許せない」

そう考える人は多いが、なぜ転売で金儲けするのはダメなのだろうか。

 

「需給を乱して、流通や社会の秩序を混乱させるから」

間違いなくその通りだが、では需給を乱さず流通や社会を混乱させない転売なら、なんとも思わないだろうか。

きっと、なんとも言えないモヤモヤ感があるだろう。右から左にモノを流す「不労所得」で稼いでいるように感じるからだ。

 

他人のすることなら、多くの人がそんな嫌悪感を持つ。

不労所得という行為に、卑しさを感じる。

しかしそれが自分事になると途端に、その価値観に鈍感になる人はとても多い。

 

「転売と商売の違い」を自分の言葉で語れる人は、いったいどれだけいるだろうか。

 

「どうやって利益出すねん」

そんなことを思い知らされたのがもうずいぶん前、友人と一緒に飲んでいた時のことだ。

「頑張って4000万円の資産を作ったねん。Fire(早期リタイア)にはまだ心もとない金額なんで、起業しようと思っている」

 

大手企業に勤める友人が、そんなことを話す。

独身ということもあり、都内での勤務時には実家から通っていたと聞いていたので、かなり余裕があったのだろう。

気がつけばひと財産になっていたというのは、なんともうらやましい話だ。

 

「帰れる実家があるうえに一人なら、それだけあれば人生逃げ切れそうやん。致命傷にならん範囲で起業してもええんちゃう?」

「そうやねん、でも何していいのかどうもわからなくてな…」

 

大手で長い間勤め上げた知人からよく聞く、典型的な“起業相談”だ。

お金に余裕ができたので、勤労意欲を維持することが難しい。

 

会社を興すことに漠然とした想いがあり、最低限というには十分な資本金がある。

しかし大手で務めていたがゆえに、自分の強みが何なのかよくわからない。

 

営業職であればどうにでもなるが、技術職の彼がひとり親方で独立したところで、販路をつくることは難しいだろう。

まして彼の技術は大企業の環境ありきで、工場や研究設備を持たない個人の起業で仕事を貰えることは考えづらい。

そんなこともあり、本来なら止めるべきなのかもしれないが、そうもいかないのでこんなアドバイスをする。

 

「自分で営業も販路開拓もできないなら、すでにマーケットが十分に認知されている領域でしか無理やん。小売りとか飲食のような、大きな努力なしで売り物を認知してもらえる業態のことやけど」

「どういうことや?」

 

「よく知っている商品やサービスを、“少し安くて少し良い商法”で提供するなら、少なくとも消費者に興味は持ってもらえるってことや」

 

そんなものは、右から左にモノを流すだけで何の付加価値も生み出さないじゃないかと不満そうな友人。

少しでも付加価値を生み出していることを実感したい、そんな商売をしたいという。

 

しかし営業力や販売力がないということは、顧客の付加価値を想像できないということでありムチャである。

「なら本当にキャリアとは畑違いになるけど、少し本気で修行して飲食をやるしかないんちゃうかな」

「いや、それは無理やろ」

 

「なんでや?」

「飲食って、そもそも俺は食材を安く仕入れるルートを持ってないやん。どうやって利益出すねん」

 

「…それ、本気で言ってるんか?」

彼のように、飲食業を勘違いしている人は本当にとても多い。

 

「小さな居酒屋をやりたいんだけど、安い仕入先ってどうやってみつけるの?」

かつて、そんな質問をされたこともあるほどだ。

こう考える人は、起業そのものに向かないのでやめた方がいい。なぜか。

 

考えてもみて欲しいのだが、飲食ほど過酷に「付加価値」を要求される業界はない。

自炊なら500円で十分満足できる“食事”という行為に、800円、3000円、時に1~2万円を出してもらわなければ成立しない商売だからだ。

 

牛丼800円であれば、美味しいうえに料理や後片付けの時間と手間を削減できること。

焼肉とビール3000円であれば、それに加えプロならではの技術と味、外食らしい満足感を楽しめること。

フレンチのコースとワイン2万円であれば、それに加え非日常の空間とサービスによるもてなしを堪能できること。

 

それに満足することができてこそ初めて、500円で済む食事という行為に2万円を出していいと思える付加価値がつく。

 

言い換えれば、ビール大ビン1本を400円で買えることなど良く知っている顧客に、喜んで700円出してもらうのが飲食業だ。

700円で満足してもらえるアテやサービスを先に考えるのが筋であり、「安い仕入れルート」を語るなど100年早いというものである。

 

そんなことを話したうえで、改めて聞く。

「例えばお寿司屋さんが朝から市場に仕入に行くのは、スーパーよりも安くマグロを仕入れる為じゃないやん。むしろスーパーで売ってるより高価な本マグロを仕入れてるんやぞ」

「…確かにそうやな」

 

「どんな分野でもそうやけど、安く仕入れるルートを確保して、それを消費者価格で販売するだけで儲かり続ける商売なんか存在しないんちゃうかな」

「わかった、少し冷静になって考えてみる」

 

未開封のガンプラ

話は冒頭の、「転売と商売の違い」についてだ。

結局彼は独立することなく、その後もずっと同じ会社で仕事をしているが、本当に良かったと思っている。

自分の思考ルーティンが「転売」の発想でしかないことに、気がつくことができたからだ。

他人の転売行為には嫌悪感を持ちながらも、自分で起業を考えた時にはこれほどに、転売の発想から抜けきれない人はとても多い。

 

そもそも、「安定的に安く仕入れるルート」などというものは、成功し強者に昇りつめたものだけに、事後的にもたらされる特権でしかない。

そんなことは、私たちも日常、コストコや業務スーパーに行けば肌感覚で知っているだろう。

鶏もも肉を2㎏買えば100gあたり100円で買うことができるが、400gの小口パックだと120円になる。

 

会社経営でも同じで、例えば毎月3000万円の決済額の小売店の場合、カード手数料で3%持っていかれる。

しかしこれが1億円の決済額になると、決済代行会社が営業に来るようになる。

「1.8%にしますので、ウチに乗り換えて下さい!」

高い仕入れでも顧客を満足させる付加価値を生み出し続けた、その先にある結果の果実でしかない。

 

「転売と商売の違い」を考える上で飲食ほど、わかりやすい業界はない。

誰でも簡単に手に入れることができる400円の瓶ビールに、700円出してでも行きたい付加価値を提供できるお店に育てることができれば、それは誇るべき商売だからだ。

顧客のニーズに応え続ける限り、安定的な再現性があるのだから。

 

希少性や時限性のあるものを仕入れ、それを高値で売る「転売」には、安定的な再現性が全く存在しない。

「せどり」と呼ばれる行為も同様で、地域や販売店で価格差のあるものを見つけ出し、安く仕入れて高く売る儲け方にも安定的な再現性がない。

そんなものは、商売ではない。

 

「そんなこと言ったら、中古車や貴金属の買取業だって、規模を大きくしただけで再現性がないので転売じゃないか」

そんなお叱りを受けるかもしれないが、安定的な再現性があるということは間違いなく、誰かの付加価値になっている。

 

「親が集めていた未開封のガンプラ」は、昭和のオッサンには宝物だが、令和の若者には無価値なゴミでしかない。

無価値に感じる人から価値があると感じる人への橋渡しには安定的な再現性があり、誰かの幸せになっている。

 

再現性を失えば、事業が潰えるというだけに過ぎない。

転売行為が長続きしないように、社会から必要とされなくなったということである。

 

人によって言語化に差はあるだろうが、「転売と商売の違い」とはおそらく、そういうことではないだろうか。

少なくとも、400円の瓶ビールを700円で売る方法すら見当がつかない人に、起業は向かない。

 

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

偉そうなこと書きましたが、なんせ起業するようなヤツは総じてどこか頭がおかしいです。

X(旧Twitter) :@ momod1997

facebook :桃野泰徳

Photo:Crystal Jo

ここ数年、進化生物学の書籍を年に数冊は読むよう心掛けているのだけど、20年前からは随分進歩したことを言っていて、たとえば過去に話題になった『銃・病原菌・鉄』もだいぶ遠くになったなぁと思ったりする。

 

特に最近の私が特に関心をもって眺めているのは、人間の子どもがきわめて未熟である点だ。

人間が、それ以前の人類と比較して幼若な状態で生まれてくる傾向があるのは20世紀から言われていたことだ。いわゆる「ネオテニー」という現象である。

 

旧い種だったら未熟すぎる状態で生まれてきて、成長してもその幼若さの面影が残るネオテニーは、ホモ・サピエンスと旧人類を分ける大きな特徴のひとつだった。

が、そのネオテニーに関連して、そもそもホモ・サピエンスの新生児が自力では首すら持ち上げられないほど未熟な状態で生まれてくる:このことに私は関心を持ち続けている。

 

なぜなら、ホモ・サピエンスの新生児がとりわけ未熟な状態で生まれてくるとは、生まれてきた段階では神経発達、特に脳の神経発達がまだまだの段階にあるってことだからだ。

 

人間は脳の神経ネットワークが未完成な状態で生まれてきて、その後、乳幼児期から思春期にかけては身体的な発達と並行して神経ネットワークも発達させていく。

そうであるなら、人間の神経ネットワークの形成のある部分は先天的だとしても、ある部分からは後天的な刺激や環境要因によって左右されるはずである。

 

この「人間の神経ネットワークの形成のある部分は先天的だとしても、ある部分は後天的な刺戟や環境要因によって左右されるはず」の部分についてアップトゥデートな見解を持っておくことが、臨床的にも、子育てのうえでも、本当は大事ではないかと思えてならない。

 

生まれたての脳は脆弱で発展途上

人間は非常に大きな脳を持って生まれてくる動物で、そのことが女性の骨盤のかたちや難産的傾向の背景ともなっている。

手許の成書によれば、生まれたての新生児の脳のサイズは350gで、成人になる頃には1450gにまで成長する。当然、その間は神経細胞の数が増え続けるし、神経ネットワークも拡大し続ける。

 

中途からは増大と拡大だけでなく、神経細胞や神経ネットワークの“刈り込み”も行われる。そうして人間の脳が解剖学的にも機能的にも拡大し続けることが知られている。

 

実際に子育てをしてみると、人間とその脳がいかに発展途上な状態で生まれてくるのか、うかがい知ることができる。

生まれてきて間もない赤ちゃんの頭はふにゃふにゃとしていて柔らかく、壊れ物のように扱わなければならない感じがする。

 

頭がふにゃふにゃしていることは、狭い産道を通過するにあたっては有利だろう。この、ふにゃふにゃとした頭のつくりは大泉門と小泉門という頭蓋骨の隙間によるものだ。

隙間のある頭蓋骨は、赤ちゃんが産道を通り抜けるうえで有利なのに加えて、巨大化していく脳にあわせて頭蓋骨を拡張していくにも適したつくりになっている。

 

そうした頭の隙間が閉まるか閉まらないかぐらいの時期の赤ちゃんの頭を触ると、心臓のような拍動を感じる。

赤ちゃんが何かに夢中になっている時には、頭のてっぺんが少し紅くなって熱を持ち、すごい量の汗をかいたりする。

 

そのとき赤ちゃんの脳は膨大なエネルギーを消費し、五感や身体を稼働させるのと同時に神経ネットワークを急速に構築しているのだろう。

頭のてっぺんが熱を持つ現象は小学校低学年ぐらいまで持続し、『マインクラフト』のようなゲームをプレイしている時などは、頭から湯気が出るのではないかと思うほど激しく汗をかいていたものだ。

 

ハードウエアとしての脳の発達と並行して、ソフトウェアとしての脳も発達していく。

精神分析的な発達理論によれば、乳児期から幼児期にかけては心理発達にとってきわめて重要で、養育者との情緒的な結びつきや超自我の形成など、その後の対人関係や社会適応の基礎を身に付けていく時期とみなされている。

この時期に虐待やネグレクトがあったり、望ましいコミュニケーションの応答ができなかったりした場合には、後にさまざまな精神疾患の呼び水たり得るとされている。

 

「精神分析など古臭い」、と思う人も当然いよう。しかし、これとコンパチブルな話を進化心理学の著作物で見かけることが最近は増えてきた。

たとえばケヴィン・レイランド『人間性の進化的起源: なぜヒトだけが複雑な文化を創造できたのか 』には、子どもが親の目線や指差しに早い段階から反応し、親と視線を共有するさま等、ホモ・サピエンスの赤ちゃんが親から学習する能力の高さが記されている。

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そうした学習内容のなかには、精神分析でいう超自我に相当するエッセンスも含まれている。

同書には、人間が協力的な集団を作って暮らすためにも幼い頃から規範を学ばなければならず、また、大人たちはそれを教えなければならないと記されている。

 

またジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』によれば、人間の幼児は3歳の段階でもその場の社会規範を読み取り、それに違反している者に抗議することができるという。

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言葉を話したり、身体を動かせるようになったりするだけが発達なのではない。

社会規範を読み取り、目の前の人間がそれを遵守しているか否かを判断するのも、これはこれで高度な社会的認知能力を要する能力だ。

先人がエディプス期と呼んだ時期には、このような社会的認知能力、かつては超自我とも呼ばれた能力も、神経ネットワークの形成と同時進行で育っていく。

 

環境への再注目としての「逆境体験」と「保護的・補償的体験」

ネオテニーな人間が、脳が未完成の状態で生まれてきて、脳のサイズも神経ネットワークも発達させながら学習能力や社会的認知能力をフル活動させて成長していくのだとしたら、月並みだが、生まれた後の学習環境、いわゆる後天的な学習環境がもたらす影響はけっして軽視してはいけないはずだ。

 

動物を観察した実験では、環境からの適切な学習や刺激が得られなければ神経ネットワークがうまく形成されない例が見つかる。

たとえば生まれたばかりでまだ目のみえない子猫に目隠しをしっぱなしで育てると、視力を獲得する機会は永久に失われる。

ラットの母親が赤ちゃんに哺乳する行為も、赤ちゃんからの哺乳刺激が不十分な場合、ラットの母親の母性本能は発現せず、赤ちゃんを殺してしまう転帰を迎える。

 

こんな具合に、動物の行動や能力のなかには、遺伝子には問題なくても、適切な環境や刺激が欠如していればうまく発達しないものが少なくない。

そして人間は他のいかなる動物と比べてもよく学び、よく教え、よく環境に適応する生物だから、生育環境や学習環境の良し悪しによって発達の程度がかなり変わる生物と推定される。

 

精神分析が流行に乗っていた時代には、この、後天的環境がもたらす影響が過大に喧伝されたという。

子どもが上手く育たなかったり精神病になったりした時、病気の原因とみなされたのは親の子育て、とりわけ母親の子育てだった。

 

ところが21世紀になり発達障害ブームを迎えてからは、これと正反対のことを言い出す人も出てきた。

つまり、子どものメンタルヘルスの問題を先天的要素や遺伝的要素に還元しすぎるような、極端な意見を述べたてる人々を私はSNS等でときどき見かけた。

私はそれを、「そこまで言い切ってしまうのは腑に落ちないな」と思いながらずっと見つめ続けてきた。

 

たとえば発達障害として知られるASDやADHDは、先天的要素や遺伝的要素の大きさが統計的に知られている。

統合失調症や双極性障害なども先天的要素や遺伝的要素の関与が大きいとされ、そのことを示すエビデンスも多い。

正真正銘の精神疾患の多くについて、先天的要素や遺伝的要素を意識するのは至当である。

 

他方、正真正銘の精神疾患未満の領域、それこそスペクトラムな診断基準にかするかかすらないかの状態や悩みに関しては、どこまで先天的要素や遺伝的要素で、どこから後天的要素や環境的要素によるのかは、判然としない。

カナー型自閉症のような、発達障害の中核群なら議論するまでもないとしても、たとえば昨今、ブロードバンドに判定される発達障害スペクトラムのグレーゾーンに関しては、どこまでが遺伝的要素によるもので、どこからが環境的要素のよるものだろうか?

 

たとえば、まともな生育環境で育つことができなかった生活歴を抱え、知的発達症のグレーゾーン、ASDのグレーゾーン、ADHDのグレーゾーン、双極性障害のグレーゾーンといったグレーゾーンそろい踏みと喩えるべき状態の症例に出会った時、その人のそうした状態がどこから遺伝に由来し、どこから環境に由来するのか、本当は私にはよくわからない。

 

環境への再注目といえる動きもある。最近は、小児期の逆境体験(Adverse Childhood Experiences: ACEs)や保護的・補償的体験(Protective Childhood Experiences: PCEs)に注目する専門家もいる。

小児期の逆境体験とは、虐待やネグレクトやトラウマになりそうな状況だ。

 

[amazonjs asin="4750355011" locale="JP" tmpl="Small" title="小児期の逆境的体験と保護的体験――子どもの脳・行動・発達に及ぼす影響とレジリエンス"]

『小児期の逆境的体験と保護的体験』に記載されているイギリスにおける研究では、高学歴で中流階級の中年の3分の2は逆境体験を体験したことがあるという。

 

小児期の逆境体験は、肥満や心臓病のリスク、心臓病やがんのリスク、さらに薬物乱用のリスクや自殺未遂のリスクをも高める。

体内のストレスホルモンであるコルチゾールの分泌パターンを逸脱させることもあるという。

 

環境が悪ければ悪いほど、メンタルヘルスだけでなく身体的なリスクも含めて悪影響が出るという研究結果は、多くの医療関係者や福祉関係者が予感していたものだろうが、それをきちんと統計的に検証したところにこの研究の価値があると思う。

 

と同時に、同書は小児期の保護的・補償的体験についても述べている。

さきにも挙げたように、小児期の逆境体験はありふれていて、体験したことのない人のほうが少ないぐらいだ。

それでも多くの人が成人後もどうにかやっていけるのは、逆境体験に対して保護的・補償的に働く体験、レジリエンスを高めるほうに働く体験があればこそだ。

 

友人がいること、コミュニティや集団の一員であること、生活が規則正しいこと、メンターがいること、教育を受けること、趣味を持つことなどは保護的・補償的に働く体験にあたる。

音楽やダンス、武術などをやることもそうだ。

 

本書を読みどころは、こうしたことを昔ながらの精神分析的な発達論から説き起こし、統計的な研究結果を踏まえて神経発達の生物学的理論と接続させている点にあると私は感じた。

こうした温故知新な知見を踏まえるにつけても、やはり、環境は子どもの人生を左右するきわめて重要な要素と考えずにはいられないし、そこで子どもが体験すべきことは多岐にわたると思う。

 

昨今、子どもの学習や環境を考えるといって難しい勉強をさせたりハードな習い事をさせたりする向きがあるが、そうしたことが教育虐待にあたり、ここでいう小児期の逆境体験に相当するようでは本末転倒だと思う。

何をもって逆境とするか、何をもって順境とするかという難しい問題はあるにせよ、ともあれ、環境が子どもにもたらす影響には敏感でありたいものだ。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Ben Wicks

また髪の話してる

気づいたら、このところ床屋に行っていない。いつ以来だろう。よくわからない。

おれはべつに「おしゃれのため」に髪を切らない。髪を洗っていて、「なんか多くてうっとうしいな」と思ったら切る。それだけの話である。

切るときは舐達麻のDELTA9KIDくらいの短いツーブロックにする。気づいたら伸びている。その繰り返しだ。ちなみにメガネもDELTA9KIDに寄せている。

 

それはいい。ともかく、「あれ?」と思うほど髪が伸びない。ただ、襟足にピョコンと伸びている部分があったり、もみあげにビョーンと伸びてきた毛があったりして(それぞれに処理はした)、やっぱり前の散髪から時間が経っているのではないか、と思った。

 

いよいよ、おれもはげてきたか。この間、おれの父親の直葬があった。

25年以上見ていなかった父を、死体という形で見た。だれ? というくらい面影もなかった。

 

死に化粧で妙に若々しくされていた部分もあるだろう。ただ、一つ見ずにはおれなかったのは頭である。頭髪である。

一緒に住んでいた弟から「はげ散らかしている」と聞かされていたので、「そうなのか?」と確認したかったのだ。結果……、散らかりは整えられていたのかもしれないが、はげていた。

 

そうか、いよいよ来たか、という気になった。とはいえ、父がはげ散らかしはじめたのはもっと先の年齢での話だ。おれくらいの歳にはふさふさしていた。

ふさふさといえば、ずいぶん前に亡くなった母の父も、真っ白な髪ではあったが、死ぬまでふさふさしていた。あきらめるにはまだ早い。

 

というわけで、おれはAIにこんなことを聞いた。

「抗がん剤とか関係なく、大病で髪が伸びるのが遅くなるとかそういうことはあるだろうか?」

 

これに対してAIは心強いことを答えてきた。

「あります。いくつかの経路で起こりえます。」

 

AIは人に寄り添い過ぎで危ないというが、やはり寄り添いすぎではないのか。

でも、寄り添われようが、突き放されようが、おれの髪に影響はない。で、いくつかの経路ってなんなんだ?

・栄養・代謝の問題
・手術侵襲によるストレス反応
・全身性炎症
・ホルモン・自律神経の乱れ

こんなことを言ってきた。それぞれの説明付きで。

12月に大手術、その後も2月にストーマ閉鎖と、身体への負荷が断続的に続いていたわけで、栄養もホルモンも「まだ有事モード」が続いていた期間が長かった。髪に回す余裕がなかった、というのは理にかなっています。

 

うん、そうかもしれない。そう思おう。「休止期脱毛(テロゲン・エフルビウム)」なんて言葉もあるらしい。

調べたら「抜け毛」という形で出るらしいので、自分は違うのかもしれない。

まあしかし、大病、入院手術2回、大きかった心理的ダメージ、楽しかった修学旅行、それぞれがおれの髪の毛の成長を遅らせるということもありうるだろう。

 

ところでおれは精神障害者なのだが

というわけで、おれはなんとなく気楽に大腸内視鏡検査を受けたら、NET G1という希少がんが見つかった。

「希少がんがほぼ確定して地獄のなかにいる」

 

そして、ダ・ヴィンチによる6時間の直腸とリンパ腺摘出手術、人工肛門の一時造成、人工肛門の閉鎖手術と、それなりにいろいろあった人間である。

去年の秋から今年の3月はじめまでの話である。そして、5月になった今も手術痕の引きつりと、LARS(「低位前方切除術後症候群」)という排便障害に苦しんでいる。

 

LARSは直腸が無いことによる障害なので、一生治らない。直腸って生えてこないんだぜ。

「人工肛門の一時造設で休戦できたと思ったのは浅はかだった」

 

そんなわけで、今もたまに起こる強烈な手術痕の引きつりで身体がビクンとなって、「アヒャー」となり、そして結局はトイレのことばかり考えている毎日だ。

「結局トイレのことばかり考えている。」

 

……でも、忘れちゃいけないことがある。おれは手帳を持っている精神障害者なのである。おれは双極性障害II型だ。躁うつ病だ。

「おれが抑うつ状態になったときのことを書き留めておきたい。」

「長めの抑うつで失うものを知らせたい」

 

べつに「双極性障害が自分の唯一無二のアイデンティティ」とは思っていたわけではない。

しかしながら、自分の精神、自分という人間を構成する大きな要素だと日々感じて生きてきた。日々感じては、ベッドの中にふせって、会社に「すみません、午後から出ます」とLINEを入れていたのである。

 

それが今、この時点、というか、希少がんがわかったあとはどうだろうか。

正直に言うと、どっかに行ってしまった。そういう感覚だ。

 

もちろん、その期間も月一の精神科クリニックへの通院は欠かさなかった。主治医にも病気の話はした(「今はこっちの問題どころじゃないよね」)。入院中だって、毎日精神科の薬は飲んだ。

 

ただ、薬を飲んだうえで出るのが抑うつの症状であり、薬により寛解しない(ケースがほとんど)なので「障害」なのだ。

いや、そうじゃないよ、そうじゃないから「双極症」だよ、というのが最近の流れらしいのだが、一当事者のおれにその実感はないので「双極性障害」という言葉を使っている。

 

なのにまあ、希少がんとなったらそのショックで「自分という人間を構成している小さくない要素」であるはずの双極性障害がどっかへ行ってしまったのだ。

 

もちろん、その間に、たとえば希少がんのステージ(のようなもの)が決定するまでは「地獄のなか」のような苦しみのなかにいたし、人工肛門がどうしても合わないときも、極度の「ノイローゼ」(という言葉は古いのかもしれないが実感としてはこの言葉がしっくりきた)になって追い詰められていた。

いずれも「抑うつ」といえば「抑うつ」状態だろう。

 

でも、はっきりとした理由のあることだ。

大きな不幸やトラブルにみまわれた人間が一時的に「抑うつ」状態になるだけでは、「うつ病」とは言わない。

そこからどうしても回復しないと「うつ病」ということになる。「大うつ病性障害」ということになる。あるいは、なにも理由らしい理由がないように見えるのに「抑うつ」状態になるのも障害といっていいだろう。

 

おれがおれの双極性障害(躁うつ病)に感じるのは、その最後のやつで、理由を探せばあるにはあるに違いないくらい順調さを欠いた、未来もない人生ではあるものの、「理由のない抑うつ」という印象が強い。

あくまで自分の場合は、だ。まあともかく、希少がんという明確すぎる原因があっての精神が不調をきたすのはある意味「道理」のようなものだ。

それを「道理」といっていいのかはわからないが、「これは双極性障害の症状だ」とそのとき思わなかったのは確かだ。

 

あ、おれ「うつ」の話ばかりしているな。おれの「躁」ってなんなのというと、軽躁もいいところで、派手な散財とか、犯罪行動とか、そういうのが一切なくて、なんとなく不機嫌になって、歯ぎしりをして、イライラを周りちょっとぶつけるくらいで、しかもすごく短い。

なので、たまにおれは自分に躁があるのかどうか疑問に思うことがあると告白しておく。

 

肉体は精神を凌駕するのか

そして今だ。「気づいたら髪伸びてないような気がする」と同じく、「気づいたら抑うつになっていないような気がする」感じがしている。

おれの今の日々は、傷跡の引きつりや皮膚の敏感さ(この「引きつり」という言葉もなにかよい医学用語みたいなのがあればよさそうだが、いくつかあってなにが適切かわからないのでこのまま使う)、そしてLARS、トイレのことばかりだ。

 

これは、身体が、肉体が、精神というものを凌駕している証拠なのではないか? そんなことが頭に浮かんだりする。

 

「筋肉はすべてを解決する」という言い回しがある。言い回しは嫌いじゃないけど、事実、真実として言っている人がいると少しうんざりする。

うんざりするといっておいてなんだが、たとえば自分のような緊急時においては、肉体が精神を上回るんじゃないかと、そういう気持ちになる。

 

もっと平穏なときは違う。ただ、がんとかいう命の危機になると、肉体と精神では肉体の方にリソースを取られる。傷の修復のために、髪の成長が止まるように。

 

まあそうだ、これをして肉体が精神を凌駕するとはいえない。ただ、精神疾患が雨漏りだとすると、がんという巨大台風が来たら、とりあえず雨漏りよりべつの心配をする。

人間の注意資源とかいうものは有限らしいし、一人の人間のなかで注意資源の競合というものが起これば、その優先順位は生命活動の維持のほうに向けられる。そういうことかもしれないし、たぶんそういうことに過ぎないだろう。

 

これからどうなるかもわかったものじゃない。LARSは治らない(コントロールできるようになる、という可能性はある)が、手術痕のほうの問題は解決していくだろう。少しマシになってきている感覚はある。

それでもまだ、喪服を着るのにひさびさにベルトをしたらひどい感じになったりはしたが、まあそれでもだ。

 

そうなったとき、注意資源とかいうものが、ちょっと双極性障害に向けられるかもしれない。

おれはまた、これといった理由もなく身体が動かなくなり、ベッドの中で動けなくなることがおこるかもしれない。その可能性はある。なんともいえない。

 

おれは最初の手術のあと、しばらくリモートワークをしていた。

単純に手術で身体が衰弱(衰弱というのにふさわしい)していたこともあるし、人工肛門をつけた状態で外に出る、文字通りドアを開けて外に出ることに大きな心理的負担があった。

リモートワークはリモートワークで、これはコロナのころもやっていなかったはじめてのことで、いずれなにか書くかもしれないが、それはそれで一つなにか朝から働ける感じもあった。

 

その後、ぽつぽつと出社するようになって、この頃は毎日のように午前中から会社に行くことができる。

いや、おまえ、朝から会社に行くのは普通だろうというご意見もあるだろうが、おれにとってはたいへんなことなのである。

 

でも、なにがそれを可能にしているかといえば、率直にいえば「便意」だ。

便意で朝早く目覚める。トイレに行く。ここからがLARSだ。それが連続で起こる。1時間の間に5〜10回とか行く。「もう出し切ったかな」と思ってトイレから出ても、その瞬間に切迫した便意がくる。「便意」だけならともかく、ちゃんと出る。こま切れで出る。

 

そんな状態になるとどうなるかといえば、眼が覚める。これだけたくさんトイレに行って、眠気を持続できる人間はまずいないだろう。

そうして、たくさんトイレに行った分は遅くなるが、午前中に会社に行けてしまう。これを「疾病利得」というと意味が違いすぎるが、まあしかしLARSのおかげで寝込むことはなくなった。

 

もちろん、夜にLARSの波がくることもあって、朝もそうなると睡眠時間は短いし、何度もトイレに行くのは率直に言ってしんどい、つかれる。

便の状態をどうにかまとめられないか、いろいろ調べたり、AIに聞いたりして食事を考えている。LARSも改善するかもしれない。しかし、改善すると、双極性障害が戻ってくるかもしれない。そのあたりはわからない。いいのかどうかもわからない。

 

あるいは、希少がんがわかった時点から、今までずっと「躁」だったのかもしれない。

日々の検査、診断、入院というイベントへの準備、入院生活、医師や看護師とのやりとり、人工肛門のケア、そのすべてに対して、「躁状態」で乗り切った可能性、それもある。

だって、それらに対して「鬱」で寝込んでいるわけにはいかなかったのだから。

 

「肉体の大病による躁状態は抑うつを駆逐するのか」としたほうがよかったかもしれない。

そのあたりも、精神腫瘍科(サイコオンコロジー/がん患者の精神的な問題を扱う専門領域)の話なのだろうか。

おれのような例がどれだけあるか知らないが、似たような人がいたらどうなのか知りたいところだ。

 

最後に、なんか精神と肉体の二元論というか、人間がその二つで構成されているような書き方をしてきたが、あくまで便宜的なものだと思っていただけると幸いだ。

その二つのほかにも「霊性」のようなものがあるかもしれない。あるいは、心身相互の関係を切り分けることが誤りであって、統合体そのものが人間なのかもしれない。

 

そのあたりは勉強が必要だと思うので、今後の課題としたい。……って、そんなことに割く注意資源があればのことだけれど。

 

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Gabriel Matula

『よふかしのうた』ロスになっています

『よふかしのうた』(コトヤマ,小学館,2019-2024)というマンガを読み終えた。

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アニメのPVか何かを見かけて、よくあるバトルものだと思って敬遠していたのだが、実際に読んでみたら、わりと純然たるラブストーリーであり、ジュブナイルだった。

 

マンガにせよ、小説にせよ、いい作品は読み終えた後に、ああ物語が終わってしまった…まだ終わってほしくなかったのに…という軽い「ロス」状態になることがあるが、『よふかしのうた』を読み終えた後の「『よふかしのうた』ロス」あるいは「ナズナちゃんとコウくんロス」がけっこうキツくて、2週間くらいもぬけの殻だった。

 

それじゃ、一体何が「ロス」の原因になったのかというと、たぶんナズナちゃんとコウくんの「夜の時間」から、読者である自分だけが置いていかれてしまった、と感じるからかもしれない。

 

もっと二人が夜の街を歩き続けているのを見たかった。

あるいは、ずっと部屋でゲームしてるだけの二人を、おいおいそれでいいのかよとヤキモキしながら見ていたかった。

 

そういった二人の「関係性」から切り離されてしまったことに強い喪失感を覚えていたわけである。

 

そのくらい『よふかしのうた』の登場人物たちは魅力的で、まるで本当に彼らと一緒に同じ時間をすごしてきたと感じさせる力があるのだろう。

そして、そこにはストーリーだけではない、マンガならでは体験があるのだとも思う。

 

たとえば、賛否あると思うが、ナズナちゃんはちょっと個性的すぎる格好だし、やせすぎている気もする。

コウくんの14歳という年齢も、見た目も、「夜の時間」を背負うには、ちょっと幼すぎる気もする。

 

だけど、そんな不完全な二人だからこそ、周りの人たちは「ああ…もう…違う、違う…」と身もだえしながら、しかし辛抱強く見守っているわけである。

 

僕はいわゆる「推し活」というものがよくわからない。

あえて「推し活」というならば、子どもたちの応援をするだけでもう手一杯だ。

 

ただ、この吸血鬼の少女と吸血鬼になりたい少年が、ゆっくりとお互いの想いを育んでいく様子だけは、もっと見守り続けていたかったな、とも思った。

そして、この感情は一体何なのだろうとも思った。

 

何かを喪失することは、不可逆な変化を引き受けること

一方で、人間は定期的に(いや、不定期でもいいのだが)喪失を体験したほうがいいのではないか、とも思った。

そうでないと、本当に大きな喪失に出くわしたときに、耐えられなくなるのではないだろうか。

 

人は、突然大切なものを失う。

それは人かもしれないし、モノかもしれないし、それ以外のことかもしれない。

自分が生きていた世界そのものが失われることだってあるだろう。

 

そのことに鈍感になれということではない。

むしろその喪失に向き合い、味わい、ちゃんと悲しみ、ちゃんと苦しみ、少しずつそれらが身体を通り過ぎていくのをじっと待つ。

そういう時間の過ごし方を知っておいてもいいのではないか、と思うのである。

 

じゃあその方法とは具体的に何か。

それは言ってしまえば、「時が過ぎるのを待つこと」でしかない。

どのくらいの時が必要なのかは、その状況や内容、その人によって違うだろう。

 

一生戻ることはできないかもしれない。

ただ、喪失とは、そういうものなのだ。

 

一度それを失う経験をしたら、それよりも前の自分に戻ることはできない。

つまりは、そうやって変わってしまった日常にどうやって順応していくか、そのプロセスを否応なしにでも経験する。

それが喪失の意味なのだと思う。

 

失うこととは、変わること。

生きることとは、その変化を受け入れていくことなのだ。

 

さよならだけが人生だ

ぼくの小さな人生の中でさえ、「喪失」は不可逆な変化をもたらしてきたように思う。

例えば、大学受験に失敗して、それと同時に当時付き合っていた子にフラれた。

わかりやすい喪失である。

 

ぼくはそこでいくつかの重要なことを学んだ。

努力したって報われないこともあること。

それでも報われたいなら、自分がイメージしている努力よりも、圧倒的に上回る努力をしないといけないこと。

人の心は変わるものであること。

そして、これについてはいくら努力したって、もう元に戻ることはないということ。

 

この最初の喪失については、初めての経験だけにかなり引きずった。

たぶん、3年くらい引きずった。

浪人して余計に成績が下がり、不本意な大学に入学した。

 

そこで気持ちを切り替えられたらよかったのだが、ぼくは心を閉ざしたままだった。

ただ、そのおかげでコピーライターという仕事に出会った。

あるいは文章を書く、ということに出会った。

 

自分の中で起きている変化を文章にすることで、その状況を知ることができるようになった。

やっと、何かを失うことで起こる不可逆な変化を、自分自身で見ることができるようになったわけである。

 

そこから、またぼくは色んなものを失い続け、そして変化し続けていった。

変わらないものを見つけるほうが難しいくらい、たくさん。

だけど、冷静に振り返ってみれば、何も変わっていないんじゃないと思うくらい、ほんの少しだけ。

いずれにしても、人生というのは失うことの連続なのだと思うのだ。

 

出会った瞬間から別れは決定づけられている

『よふかしのうた』は、きわめてピュアなボーイミーツガールの物語である。

少女と少年は、それぞれ違う理由で、恋をすることから距離を置いている。

きっと、彼らはそれが不可逆なものだとわかっているのだ。

 

一度誰かを好きになった後は、もう元には戻れないことを、本能的に知っているのだ。

だからといって進まないわけにもいかない。

物語は始まってしまっているから。

 

これは彼らだけの身に起きることではない。

ぼくたちの誰もが、自分以外の誰かと出会ってしまった瞬間、不可逆な変化は起きてしまっているのだ。

それが恋人であろうと、家族であろうと、会社の同僚であろうと、なんだろうと同じことだ。

 

ChatGPTは何度でも反応をやり直させることができるが、人間はそうはいかない。

その人と出会った瞬間に、その人との別れは決定づけられてしまっているのだ。

「さよならだけが人生」なのだ。

 

まあ、だからといって悲観することは全くないとも思う。

誰かと別れても、そこで起きた不可逆な変化はぼくたちの身体の中に刻みこまれたままだ。

その人はぼくの中で生き続けるのだ。

ナズナちゃんも、コウくんも、二人と一緒に夜ふかしを楽しんだあの時間も。

 

これほど自分を変えてくれる出会いが、残りの人生の中でどのくらいあるのだろうか。

わからない。

わからないけど、ぼくの物語はもうとっくに始まり、終わりに向かって進み続けている。

立ち止まるわけにもいかなさそうだ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:いぬじん

プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。

だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。

プロフィールって、むずかしい。

ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。

Photo by:Rico Zamudio

私のウォッチャーライフにも、いよいよ終わりが見えてきたようだ。

 

昨年は「そろそろ終わりが近い」という記事をBooks&Appsに寄稿した。

"語ることで食べていく"時代の終わり──プロブロガーとスピリチュアル教祖の転落 | Books&Apps

 

今回の記事は、その続編である。

私はこれまで12年以上も「子宮系スピリチュアル」の観察を続けてきたが、その開祖であり、「子宮委員長」を名乗っていた女性が、実質的に活動休止状態になっている。

 

彼女のブログは、3月31日を最後に更新が止まった。

Instagramやfacebookでは化粧品の宣伝が細々と続いているが、本人による私生活の開示を含めた近況報告などは上がってこない。

 

数年前から実業家を気取るようになっていた彼女は、昨年「電気代が払えない」と資金ショートを明らかにした。

それからの展開は早く、今年の2月には離婚を発表し、続けて経営していたカフェの休業も発表された。プロデュース&販売していた雑貨や著書もセールで在庫処分されたり、レーベルの終了が告知されたりしている。

 

自宅に隣接した店舗(雑貨店)の在庫を整理して、空いたスペースをアトリエにして絵を描くと言うが、島の駅「壱番館」(産直市場)の経営からはまだ手を引けていないのに、画家を気取って絵なんか描いてる場合なのだろうか。

 

彼女は活動を停止したわけではないし、本人にもそのつもりはないだろう。まだ何か企んでいる風ではある。

けれど、無理になってきているのだ。おそらく彼女の精神が、もはやこれまでの活動を継続できる状態にないのだと私は見ている。

ブログは彼女の生命線だったのに、それに手がつかないのは重症だ。

 

これまでの彼女なら、どんなに困難があろうと、どれほど精神が落ち込んでいようと、すべてを洗いざらい文字にして、ブログだけは書き続けていた。

「ブログに思いの丈を綴ること」が、彼女の生きる術だったのだから。

 

彼女はスピリチュアル教祖と言われているけれど、スピリチュアルの皮を剥いた実態は、ただのブログ芸人である。

元はと言えば、人気ブロガーとして注目を集め、世に出た人だ。

全盛期には、彼女の著書が書店の平台を埋めていたし、著名人とも交流して、テレビ出演もしていた。

 

インフルエンサーとして落ち目になった要因は、アンチやウォッチャーによるバッシングや彼女自身の魅力と能力の限界もあったのだろうが、ブログというメディアそのものが衰退したことも大きい。

活字メディアの衰退と共に、彼女の発信内容がカモに届かなくなっていったのだ。

 

令和の時代にまだアメブロを読んでいる人間なんてほとんどいない。かつて彼女の主張に夢中になり、顧客となったようなバカ女たちは、もはや娯楽として活字を読まなくなっている。

まともではない商売は、バカを引っ掛けられなくなったら終わりである。

 

彼女は決して、座して死を待っていたわけではない。

facebookとアメブロのコンボで無双できていた時代が終わりを迎えると、すばやく軸足をInstagramへ移していたし、YouTubeにもチャレンジしていた。

ただ、ブログの時ほど人気が出なかっただけだ。彼女が才能を発揮できる場所はブログに限られていた。

 

新しいメディアで新規のカモを引っ掛けることはできなくても、アメブロに馴染んだ既存の顧客を繋ぎ込めていれば細々と食いつないでいけるはずだが、彼女はもう2ヶ月もブログを休んでいる。もはや書くための気力が湧いてこないのだろう。

 

電気代も払えないほどなのだから、島の駅「壱番館」は利益が出る体質ではなく、かなり厳しい状況にあるにちがいない。

このさき彼女が浮上することがあるのか、それともこのまま消えてしまうのか、答えが出るにはもうしばらく時間が必要だ。

 

そして、同じく子宮系スピリチュアルの教祖であった假屋舞にも動きがあった。

昨年、競売にかけられそうだと書いた壱岐島のリトリートハウス「マノア」が、ついに競売にかけられたのだ。建設費に1億6千万円かかった物件の競売価格は、たった1,928万円である。

 

假屋舞は物件を取り返そうと、あわてて集金プロジェクトを立ち上げたが、資金の応援を頼むブログ記事についた「いいね」の数は、涙を誘うほど少ない。

かつてなら同じ呼びかけで何百といいねがついて、実際にお金も集まっていたはずだが、数字がすべてを物語っている。彼女に共鳴するファンは、もはや残っていないのだ。

競売の入札期間が6月5日までなので、この件に関してはもうじき答えが出る。

 

私はなぜ、12年以上も彼女たちの観察を続けてきたのか。

きっかけは、親しかった友人が子宮系スピリチュアルにハマったことだった。当時の知人たちにも、スピリチュアルに傾倒する者が少なくなかった。

 

なぜあんなばかげたものに夢中になるのか、子宮系女子と呼ばれた人たちの心理が、私にはどうしても理解できなかった。その謎の答えを探ろうとしたのだ。

しかし、長期に渡り観察を続けても答えは出なかった。仲間のウォッチャーたちの考察も面白かったが、これだという答えにはなっていなかった。

 

けれど、その答えを一冊の小説が教えてくれた。

今年の本屋大賞を受賞した朝井リョウの「イン・ザ・メガチャーチ」は、推し活をテーマにした作品だ。読みながら、子宮系スピリチュアルにハマる女性たちもまた、推し活をしていたのだと気づいた。

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作中に登場する国見という人物は、アイドルをプロデュースする側の人間だ。ファンを熱量の高い信者「花道」へと変える仕掛けを作る。

その国見が、こんなことを言う。

決して少なくない人が、自ら何らかの中毒に陥りたがっているということです。

何でもいいんです。とにかく、何かに対して熱量を高めていたい、何かに時間や労力や資金を注いでいたいという人はとても多い。

それは多分、我を忘れて何かに夢中になっている方が、楽だからです。

ずっと我に返ったまま生きるにはこの世界は殺伐とし過ぎていますし、人間の寿命は長すぎますから。

そして国見は続ける。

私たちはこれまでもこれからもずっと、花道から何も搾り取ってはいません。

花道に、自分自身を使い切らせてあげているんです。

皆、自分を余らせたくないんです。

(中略)

自分を過剰に消費していた何かがなくなったところで、それに自分を注いでた人たちは別の何かで自分を過剰に消費するしかありません。

1番のタブーは、自分が余ることなんです。

自分を使い切ることが今の時代に手に入れられる唯一の正解であり、幸せなので。

だから私たちは、花道から無理やり何かを搾り取っているわけじゃないんです。

一度何かを幸せだと認識させたのなら、最後まで自分を使い切らせてあげないといけないんです。

何かの拍子に視野が広がって自分を客観視してしまわないように。

 

これが、私が探していた答えだった。

子宮系スピリチュアルにハマっていた女性たちも、同じことだ。

中毒症状に陥っていた方が人生は楽だから、自ら狂いに行く。

目を覚ましたくないし、現実の声など聞きたくないから、目も耳も塞ぐ。教祖たちの無謀な事業に大金を投じるのは、自分を余らせたくないからなのだ。

教祖たちはそれを本能的に分かっているから、罪の意識などないどころか、むしろ自分を奉仕者だと認識しているのだろう。

 

いや、ひょっとしたら、教祖たち自身も信者たちと同じなのかもしれない。

無謀なことを次々と繰り返すのは、自分を余らせたくないがために、自ら狂いに行っているのかもしれない。

 

私はどちらかというと、まやかしの希望より厳しい現実の方がマシだと考えている人間だ。

歯を食いしばり、運命が与える試練を乗り越えてこそ、自分らしく生きていける。

 

そんな私に子宮系女子たちの心情など分かるはずがなかったのだ。12年かけて観察しても答えが出なかったのは、当然のことだった。

答えがわかった今、これで心置きなく観察を終えられる。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

ブロガー&ライター。

リンク:https://note.com/flat9_yuki

Twitter:https://twitter.com/flat9_yuki

 

photo:Edwin Andrade

「子供の頃に観た映画の中で、一番記憶に残っている作品は?」

40~60歳くらいの世代の人にそう質問したら、おそらく少なくない人がこう答えるのではないだろうか。

「『震える舌』だけはトラウマ。あれを観て、砂場遊びすら怖くなった…」

 

少しだけご紹介すると、「震える舌」は自宅近くで泥んこ遊びをしていた女児が落ちていた釘でケガをし、破傷風を発症してしまう物語だ。

激しいけいれんを起こし、舌を噛み切ってしまうなど、破傷風とのすさまじい闘病の様子が描かれている。

 

必死に看病する両親だったが、激しい症状で愛娘が壊れていく中、やがて精神を蝕まれていく。

その様子がとにかくリアルで、恐怖でしかなかった。

 

おそらくあれを観たのは小学校で、教育委員会か何かの推薦映画になっており、半ば無理やり観せられた記憶がある。

なんであんなもん子供に観せんねんと、今でも恨みに思っている。

 

その上で、昔から疑問に思い続けていたことがある。

もう40年以上も前に観た映画なのに、なぜあんなにも鮮明に記憶に焼き付いているのだろうか。

悪夢の始まり、古釘が女児を傷つけ血が出たシーンまで明確に覚えているほどだ。

 

「子供の頃の記憶はそれほどに強烈」ということなのかと思っていたが、きっとそれだけではない。

 

「なんでこんなボロクソに言われなアカンねん…」

話は変わるが、私は人生で1度だけ、空から焼き鳥に襲われたことがある。

ネギマの塩串だっただろうか、会社からの帰り道、JR鶴見駅から独身寮に向かって歩いている時だった。

 

「うわ、なんや!」

とっさに飛び跳ねかわすと、周囲を見回した。

住宅街の小道だったので、どこかの窓から投げつけられたのかと睨みつける。

 

しかし時間は、すでに終電近く。

5月末の涼しい日だったので開いている窓もなく、電気が消えている部屋も多い。

(変なことするやつもいるもんだな…)

 

そんなことを思いつつ歩き出そうと足元を見たのだが、焼き鳥なんか転がってなかった。

幻覚だった。

 

当時、駅からの道すがら、歩きながら寝るような毎日を送っていた。

「証券外務員Ⅱ種試験に落ちたら、試用期間でクビにする」

新卒で入社した大和証券で、入社して間もなく、集合研修でそう言い渡される。

気楽な学生からいきなり、朝から深夜まで詰め込み勉強の毎日。“クビ”というプレッシャーもありとにかくキツかった。

 

さらにその試験に合格すると翌日、また集合研修で伝えられる。

「2週間後、全員に簿記3級試験を受けてもらう。もちろん、これも落ちたら試用期間でクビにする」

一息つく間もなく、また地獄のような睡眠不足の毎日が始まる。

 

焼き鳥の幻覚を見たのはその翌日、会社からの帰路だった。

とにかくキツかったが、この時期に学んだことはその後、長く記憶に焼き付き役立つことになる。

 

しかしそんな新入社員時代の「寝る間もなく勉強」などという“地獄”は、言うまでもなく人生の入り口でしかない。

縁あって29歳の頃に就いたTAM(ターンアラウンドマネージャー:事業再生責任者)のポジションのことは、今思い出しても酸っぱいものが喉まで上がってくる。

 

「桃野さん、これで何回目のリスケ(リスケジュール:返済の繰り延べ)やと思ってるんですか?」

「大変申し訳ございません。どうかこの経営計画に基づいて、お力をお貸し下さい…」

しかしその債務(借り入れ)は、前の経営陣が作ったものだ。私がお願いしたリスケなど、これが初めてである。

 

「御社への2億円の出資金、全額損金処理することになりました。それがどれだけのことか、理解できますか?」

「…今期の業績見込みでは、そうせざるを得ないかと拝察します。心からお詫びします」

株主も同じで、彼らが出資してくれた資本金など、すでに前の経営陣が溶かしきっている。

その出資に見合うバランスシートなど、私が来た時にはもう存在していない。

 

にもかかわらずTAMは、まるで自分が作った借入金と、自分が溶かした資本金であるかのように責められる。

「まじめに働いてるのに、なんで給料をカットされるんですか!私もう、これ以上頑張れません…」

 

従業員も同様で、若手社員が涙を流しながら、悲痛な抗議をぶつけてくる。

賞与0、給与カットなど通知されれば当然とはいえ、普通の感情を持っていれば心が削られる。

 

事業再生の責任者といえば、日産のカルロス・ゴーン氏や、JALにおける稲盛和夫氏を思い浮かべる人が多いかもしれない。

しかしどこにでもあるような中堅企業の場合、こんなもんだ。

そんな時、自分で選んだ道とはいえ、いつもこんな言葉が心に浮かぶ。

(なんで俺が、こんなボロクソに言われなアカンねん…)

 

しかしながら、再生に失敗したら自分も1年後、路頭に迷ってる可能性が高い。

選んだ道への疑問を考えている暇があったら、会社と自分が死なずに済む方法を必死で考えて、手足を動かした方が100倍マシだ。

そうやって連日、深夜の3時まで株主から会議室で詰められ、そのまま応接室のソファーで休むと、朝にはトイレの手洗い場で身支度を整えるような仕事をした。

 

「失敗したら死ぬ」

結果としてこの会社では、経営の立て直しにある程度成功し、債務は全て通常通り履行を果たせる流れに乗る。

株主には出資額の1/3程度が回収できるイグジット(出口)を示すことができ、事業を譲渡して会社を去った。

 

しかし今もなお、振り返って疑問に思うことがある。

「なんで、何とかなったんだろう…」

会社の立て直しを学んだことなど、一度もない。

財務の専門家でもなく、銀行もさじを投げた会社だった。

 

「ダメもとで、あいつにやらせてみよう」

そう言われ、どうせ無理だろうと皆が思っている中で就いたポジションだった。

 

思うにこの時、いつも「失敗したら死ぬ」という恐怖があった。

自分だけでない、800人いる従業員の生活ごと全てだ。そして私は、会社を潰した戦犯になる。

そうなると、「どうやって生き残るか」という最優先事項に、価値観も考えも行動も全てが収斂していく。

 

「たまにはゆっくりしたい」という感情は、「足を止めたら死ぬ」に上書きされる。

「なんで俺がやらなあかんねん」という不満は、「俺がやらなきゃ死ぬ」に上書きされる。

 

そうなると、学習能力も行動力も、タガが外れてえげつないことになる。

生き残りに必要な仕事に集中するために、会社中のブルシットジョブを叩き潰して回る。

なんのことはない、成果に集中できる環境を整え、経営を定量化・可視化しただけの事なのだが、実はそれだけで多くの会社は、どうにでもなるということである。

 

思うに人は、命の危険を感じてやっと、無意味な感情が削ぎ落され、結果を求める行動の純度が上がる。

なぜ結果を出せたのかと聞かれたら、きっとその答えはこんなところなのだろう。

「命の危険を感じれば、きっと誰にでもできると思います」

 

「空から焼き鳥が降ってきた」時も同様で、あの時はあの時なりに「命の危険を感じるほど辛かった」ので、知識や経験が血肉になったのだろう。

令和の働き方改革の時代、決しておススメできるわけではないが、そんな経験も悪くはないのかもしれない。二度とやりたくないが。

 

そして話は冒頭の「震える舌」についてだ。

40年以上も前の映画が、なぜ今も深く記憶に焼き付いているのか。

 

「子供の頃の記憶はそれほどに強烈」ということもあるだろうが、あれは子供心に「命の危険を感じる」物語だったからなのだろう。

砂場でただ遊んでいるだけで、破傷風になりこんなえげつないことになるのかと、自分ごととしての恐怖だった。

にもかかわらず、有効な対策もないので、この恐怖から逃れる方法がない。

 

命の危険を感じるのに逃げ道はなく、打つ手もないなんて、怖いに決まっている。

そんな心理を映画に使うとは、本当に勘弁して欲しい。っていうか二度とするな(泣)

 

そういえば高校時代、陸上部の顧問だったオッサンが夏合宿の初日に、こんなことを話していた。

「みんなで楽しくカラオケに行った想い出なんか、オッサンになれば忘れる。でも、必死になって限界まで自分を追い込んだ記憶は、一生消えない。自分を追い込め、そういう合宿にしろ!」

 

最終日、最後のメニューを消化してフィールドに倒れこみ、草を掴んで号泣した時の事は、今も鮮明に覚えている。

「いい思い出」というのは案外、命の危険を感じるほどの苦難を乗り越えた先に、あるものなのかもしれない。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
陸上自衛隊で空挺レンジャー(もっとも過酷なレンジャー課程の一つ)バッジを持っている友人と話していた時のこと。
「100万円貰えるなら、もう一度空挺レンジャー行きますか?」
「絶対に行きません」
「1000万円なら?」
「お断りです、絶対に嫌です」
「1億円では?」
「ん…嫌です」

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Photo:Javad Esmaeili

「貯金は増えているはずなのに、なぜか生活が楽になった気がしない」

そう感じたことはありませんか。

 

給料や預金残高の数字は増えているのに、食費や光熱費、サブスク代、海外製品の価格も少しずつ上がっている。

結果として、「前よりお金が増えたはずなのに、使えるお金はあまり増えていない」と感じる人も多いでしょう。

 

この記事では、ビットコインを「投資するもの」としてではなく、「円の価値を考えるためのものさし」として見る考え方を紹介します。
難しい操作は何も必要なく、ビットコイン 円のチャートを週に一度眺めるだけでも、自分が置かれた経済環境が少し違って見えてきます。

 

 

円で見た資産に、違和感を覚えるようになった

少し前、久しぶりに海外出張に出かけると数年前に泊まっていたホテルの宿泊費が、明らかに別の数字になっていました。

 

現地の物価もじわじわと上がっていて、以前と同じ行動をとっているだけなのに、手持ちの円が前より早く消えていく感覚がありました。

 

帰国後、ふと「昔は銀行に預けておけばよかった。利子がつくから」と親が言っていたことを思い出す。

 

今はそういう時代ではないと頭ではわかっていますが、あらためて言葉にされると、少しひっかかりを覚えます。自分は何を根拠に「資産が増えている」と思っているのだろう、と。

 

通帳の残高は確かに増えています。

給与も、数年前より名目上は増えました。しかし同じ生活を維持するために必要なお金も、気づけば増えていました。

 

例えば、サブスクリプションの料金や海外の商品、子どもの習い事費用——全部が少しずつ高くなっています。

額面の数字は増えていても、その数字で買えるものが変わっているとすれば、「増えている」という感覚は正確ではないかもしれません。

 

そこで私は、ビットコインのチャートを開いてみました。

2026年4月時点で1BTC=約1,000〜1,100万円台。2025年10月に記録した史上最高値(約1,897万円)からは調整が入っており、価格自体は大きく上下しています。ただ、価格の上下よりも、「円以外の物差しが存在している」という事実そのものが、自分には新鮮でした。

 

「円だけで資産を測る」ことが、以前より難しくなっている

日本で暮らす以上、給与も家賃も税金も円で計算されますし、円を捨てる理由は何もありません。

 

しかし、円の対外的な購買力が歴史的な水準で低下していることは、統計上も明らかです。対ドル、対ユーロのいずれでも、10〜20年単位で見れば円は大幅に弱くなっています。

 

輸入に依存している品目ほど値上がりしやすく、家電、食料品、エネルギー、デジタルサービス——日常生活に深く関わる領域が軒並み影響を受けてきました。

 

「預金は減らない」という命題は、額面のうえでは事実です。

しかし購買力という観点からは、インフレが続く環境において預金の実質価値が目減りしているのも事実です。

 

これは誰かを批判するような話ではなく、純粋に構造的な話です。

中央銀行が金融政策を運営する以上、通貨の価値は固定されない——それが「管理通貨制度」の原理です。

 

海外の資産形成リテラシーの高い層では、1つの通貨に資産を集中させず、複数の物差しで自分の経済を眺める習慣が一般的です。

 

ビットコインには「投資先」と「物差し」という2つの顔がある

ビットコインには、大きく2つの見方があります。

 

  • 投資先 :価格変動が大きく、短期売買にはリスクがあります。保有するかどうかは、各人のリスク許容度によります。
  • 物差 :発行上限は約2,100万枚と決まっており、政策判断で増やすことはできません。国家や機関の都合に左右されにくい、独立した尺度として見ることができます。

 

私が注目しているのは後者です。「1BTC=いくら円か」を見るだけでも、世界のリスクマネーの動きや金融政策が市場にどう反映されているかが見えてきます。

 

円高なら円建て価格は下がりやすく、円安なら上がりやすい。

そうした動きは、円の状態を別の角度から知る手がかりになるでしょう。

 

近年は、Morgan StanleyやBlackRockなど大手金融機関もビットコインETFに参入し、以前のような投機的なイメージは薄れつつあります。

 

まず「買う」前に、「眺める」から始める

おすすめしたいことはシンプルです。ビットコインの円建て価格ページをブックマークし、週に1度でも開いてみる。それだけで、円との距離感は少しずつ変わってきます。

 

眺めているうちに、「なぜ今このタイミングで価格が動いたのか」と気になるかもしれません。

米国の金利政策、地政学リスク、機関投資家の動向など調べていくと、世界経済の構造が少しずつ立体的に見えてくることがあります。

 

一方で、特に関心が持てなければ、それでも問題ありません。

「見てみたけれど、自分には必要ない」と判断するのも、十分に価値ある意思決定です。

 

もし「少額から試してみたい」と思ったら、まずは金融庁登録の暗号資産取引所を選ぶとよいでしょう。たとえばBinance Japanのように、PayPayから入金できるなど、日本の決済環境に対応したサービスも増えています。無理のない範囲で試してみるのがよいと思います。

 

【記事提供】

Binance Japan株式会社

 

【写真提供】 

Mariia Shalabaieva

まず始めに、「スーファミ版のストII」の話から始めさせて欲しい。

皆さんよくご存知の通り、「ストリートファイターII」は対戦格闘ゲームの金字塔であって、色んな人たちがゲーセンに通い詰めては遊びふけるようなゲームだった。

当時は、どのゲーセンに通っても、ストIIの台には人が行列を作っていて、遊ぶ時間を作るのも大変なことだった。

 

そんな折に、「スーファミでストIIが出るらしい」という話になった。もちろん話題になった。

スーファミのスペックでストIIの面白さが再現できるのか?という話ももちろん多かったが、「家で対戦できるじゃん!」という声の方が圧倒的だったと記憶している。

スーファミ版ストIIの発売日は1992年6月10日、既にゲーセンでは同年4月に「ダッシュ」が出ている時期でもあり、対戦台も既に一般的に流通していた。それを自宅で楽しめるというのは、それこそ圧倒的なメリットだった。

 

しんざきは当時中学1年生、怖いお兄さんたちの存在に怯えながらも、あちらこちらのゲーセンを渡り歩いている頃だった。

もちろんストIIは大好きで、少しでも列が短い対戦台を見かけたら即並んで、大体の場合1コインで負けていた。使用キャラはリュウだったり、E.本田だったり、ブランカだったりしたと思う(余談だが、当時は「春麗をゲーセンで使うのは恥ずかしい」という意識が中学生男子にはあったのである)

 

そんな私にとっても、「家でストIIが遊べる」というのは、もちろん一つの福音だった。

兄と二人で、親にねだり倒して買ってもらった。

 

「家にゲーセンが来た」。当時は本当にそう思った。

もちろん、若干見た目や操作感が異なる部分もあるにはあったが(ダルシムステージの象が少なかったりとか)、そんなことは本当に些細なことで、基本的には「ゲーセンそのままじゃん!!」としか当時の私には思えなかった。

「春麗を使っても恥ずかしくない!」となって、ひたすらスピニングバードキックを使っていた時期もあった。空中投げの判定のあまりの広さに感動した。

 

しかしここで私は、多分生まれて初めて、「入力端末の圧倒的な環境差」という深刻な問題に直面する。

みなさん、スーファミのコントローラーの形を思い出して欲しい。以下は任天堂のサポートページである。ここに画像がある。

 

もちろん、まず十字キーの問題がある。

当時、コマンド入力がようやくスティックで上手くいき始めていたところ、「十字キーでコマンドを入れないといけない」というのは大きなハードルだった。

まず波動コマンドが出なかった。昇竜も無理だった。練習して1p側では出せるようになっても2p側では無理、なんてのもよくある話で、スクリューなんて夢のまた夢だった。

 

ただ、これは練習で解決する問題だ、と私にもすぐ分かった。

問題はボタン配置の話だ。

 

XYABボタンに、左右のLRボタン。そう、確かに6ボタンがある。

ストIIの「小パンチ、中パンチ、大パンチ、小キック、中キック、大キック」と同じだ。

しかし、「Lボタンは押し辛かった」。そう、私にとっては本当に押し辛かったのだ。

 

ただでさえ、子どもの手は小さくて指も短い。おまけに利き腕ではない左手の人差し指が置かれるところだ。

格ゲーの忙しい操作を左手の親指で入力しつつ、人差し指で、必要なタイミングでLボタンを押す、なんて芸当は、とても当時の私にできることではなかった。

確かストIIの少し後にHORIからファイティングスティックも発売された筈だが、もちろんそんなものを買う金銭的な余裕もなかった。

 

ストIIではボタン配置のエディットができた。

そこで私は、あるいは当時の多くのファミっ子たちは、「どのボタンをLボタンに割り振るか」の判断を強いられた。

 

ちょっと考えてみて欲しい。皆さんなら、「ストIIでどれか一つのボタンが使えない」と言われたら、どれを切り捨てるだろう?

デフォルトで振られているのは大パンチ。これは大波動や大昇竜を出すための必須パーツだった。

 

しゃがみ大キックは相手が転ぶし、小キックは足払いでの連打が利く。小パンチは連打で暴れたり突進技を撃墜する時に使う。

しゃがみ中キックはリーチが長いし、その後波動拳を出すとなんか連続して当たる(当時はまだ「キャンセル」の概念をよく理解していなかったが一応使ってはいた)。

 

じゃあ中パンチ。

一番要らなそうだから。

 

これが当時の私の判断だったのだ。

私は、Lボタンに中パンチを割り振って、事実上中パンチを封印する道を選んだ。中パンチを、よりによって中パンチを、「一番要らない技」として切り捨てたのだ。

これは、ずっと長い長い間、私の思考に尾を引く呪いとなる。

 

呪いの効果はすぐに現れた。

なんか勝てないのだ。ゲーセンで勝てないのは普通のことだったが、まず兄に勝てない。

5歳上の兄は弟に対して一切の情け容赦をしない男で、例えば信長の野望で「神保強いよ」とか私に言っておいて自分は武田を使うような男なのだが、もちろんストIIでも一切容赦はなかった。

恐らく、100回やったら100回負けたのではないだろうか。

 

同年代の友人にも勝てない。なんならお隣の家で私より3歳年下の小学生さとしくんにもちょくちょく負ける。

もちろんただ単に下手、と言ってしまうのは簡単なのだが、当時の私の最大の問題点が、「通常技の性能や役割を一切分析・把握していない」ということであって、その端的な表象が「中パンチ切り捨て」ということだったのだろう、と今では思っている。

 

もちろん、格闘ゲームには色んなタイトルがあり、色んなキャラクターがいる。

それぞれシステムも違うし、技の性能も違う。そもそも6ボタンでないゲームも多く、SNKのネオジオ系列では大体4ボタンだ。それをひとくくりに議論することには無理がある。

 

だが、それらの事情全てをひっくるめた上で無理やり四捨五入すると、

「しゃがみ中パンチは実はめちゃくちゃ強い」

という結論が出る。これは、ある程度格ゲーを遊ぶ人なら誰でも持っている共通認識の筈だ。

 

様々なタイトル共通の話として、格ゲーの通常技は、ざっくりと

弱攻撃:暴れ・刻み・ヒット確認の起点
強攻撃:隙に刺してのリターン・差し返し・中距離のけん制
中攻撃:その中間

になりやすい(かなり乱暴なくくりだが勘弁して欲しい)のだが、しゃがみ中パンチは「中距離の万能枠」になりやすい。

 

しゃがみ姿勢で被弾面積が小さい、発生が比較的早い。

硬直差が優秀になりやすい、判定が強いことが多い、ヒット確認からのコンボや押し付け行動が強い、取り敢えずで振れる。

 

近年のタイトルではスト5が最も「しゃがみ中パンチのユーティリティ性」を強く表現したゲームだったと思うが、別にストリートファイターシリーズに限った話ではなく、「中攻撃」がシステム上存在する多くの格闘ゲームでそうだったろう。

 

先ほど私は「呪い」という言葉を使った。この「呪い」の意味は二つある。

一つ目は、「地味な通常技の性能について突き詰めないことに疑問を抱かない」という呪いだ。

 

本来、ゲームには様々な学びがあり、

「一見地味な技でも、いざ使ってみるといくらでも役割がある」

「勝負を決めるのは、技の振り合いと読み合いによる有利不利の積み重ね」

というのもその重要な一要素なのだが、私がこれに気付くのはずっとずっと後、「ギルティギア ゼクス」というゲームにどっぷり浸かった頃のことだった。

私はこのゲームで、「強い通常技を押し付けることがいかに凶悪な効果を発揮するのか」ということを嫌という程思い知らされることになるのだが、まあそれは別の話だ。

 

そして、呪いのもう一つの意味は、「単に「押し辛いから」というだけで、そのボタンを有効利用するための訓練、という思考にたどり着けなかった」ことだった。

 

SFC版ストIIは、かつて小学校で一般的だった、「お互いの家に遊びにいってゲームをする」という文化をもう一度開花させた。

「ストIIやろうぜ」という言葉を合言葉に、クラスで何人ものゲーム仲間ができた。

 

そんな中の一人、ここではTくんとするが、Tくんはオプションというものを一切見ない男で、そもそもボタン配置が変えられることを知らなかった。

「配置変えないの?」という私の言葉に、彼は「配置って何?」と答えた。そのあとすぐ、私はザンギエフを選択した彼のプレイを見て驚愕することになる。

 

皆さん思い当たるところもあるだろうが、SFC版ストIIの頃、大体クラスにひとりは「コントローラーで立ちスクリューができるヤツ」がいて、スクリューが出せるというそれだけでちょっとしたヒーローになっていた。T君はそのひとりだったが、

彼は「Lボタンに大パンチを設定したまま、立ち大スクリューが出せていた」。

 

この異常性は、恐らく当時SFC版ストIIを遊んでいた人でないと理解できないと思う。

「スクリュー(レバー1回転)をジャンプせず地上で出すだけでも神業なのに、左手で十字キーを回しながら、同時に左手の人差し指でLボタンを弾くように押す」という、脳のバグを疑うような指の独立性が求められる技だ。

 

私はTくんのボタン配置を何度も何度も確認して、その上で聞いた。「なんでLボタンで立ちスクリュー出んの!?」と。

Tくんはひとこと、「練習した」とだけ答えた。

 

これだ。これが、愚かにも中パンチを切り捨てた私と、そもそも「切り捨てる」必要すらなかったTくんの差だ。

 

世の中には二種類の人間がいる。スーファミのザンギで、デフォルト配置のまま立ち大スクリューを出せる人間と、相手が強いザンギだとダルシムに逃げる人間だ。

この時私は即座に後者の人間になって、一生ザンギを立ち小と立ち大で落とす作業に移行するわけだが、当時の私はつくづく小物オブ小物だったと思う。

 

あれから35年近くの時間が流れた。

当時の私は中パンチの強さに気付けなかったし、中パンチを使えなかった。

 

今の私はどうだろう?地味な技にこそ強さと独自の役割があること、地味な技を突き詰めることで異常な場所にまでたどり着けることを、理解し、実践できているだろうか?

 

私がTくんになれないのは仕方ないことだが、せめてあの日かかった二つの呪い――「地味なものの価値を軽視する呪い」と「不自由さを訓練で超えようとしない呪い」――くらいは完全に解呪して、地味なりの役割、地味なりの価値というものを、泥臭く突き詰めていきたい。

 

そんな風に考えながら、私は今日もスト6を遊んでいるわけである。

今日書きたいことはそれくらい。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

photo:

世の中には勉強になることが溢れている、というより、何事も勉強するつもりで眺めると見え方が違ってくるものだ。

たとえば、一時期まで有名だったボジョレーヌーボーの売り文句。

 

 

これは、日本有数のワインショップ「エノテカ」さんから引用したものだが、まあその、どの年もとてもおいしそうに読める。

事情を知らない人々がこれを見て、

「ボジョレーヌーボーのキャッチコピーは褒めてばかりだ」

「嘘やインチキじゃないの?」

と疑ってかかっても無理からぬことだろう。

 

もともと、その年のブルゴーニュワインの作柄を占うものとされてきたボジョレーヌーボーが毎年こんなに素晴らしい出来だったら、ブルゴーニュワインも毎年素晴らしくて、当地には不作なんて存在しないみたいに思えるじゃないですかー。

 

ついでにボジョレーヌーボーに占われる側、本命であるブルゴーニュワインの売り文句をワインショップのウェブサイトで確認してみると、やっぱり悪いことは何も書いてない。

「溌剌としたフレッシュ感」

「がっしりとしたボディ」

「長期熟成できそう」

とか。

 

ときどき「フェミニンな」とか「男性的な」といった、何が言いたいのかわからない売り文句も混じっているが、とにかく、ワインを讃えるセンテンスがびっしりと貼り付けられている。

 

かつて、2ちゃんねるを立ち上げたひろゆき氏は「嘘を嘘と見抜けない人には(インターネットは)難しい」と言ったという。

 

ところがオンライン上のワインショップに並ぶ売り文句を眺めている限り、嘘を嘘と見抜ける気がまったくしない。

実際に買ってみて、飲んでみて、寸評してみなければワインショップの華美な売り文句の真贋は掴めそうにない。

 

ワインショップは嘘を……ついていなかった!

で、私はワイン愛好家の端くれになり、そういった華美な売り文句の貼り付けられたワインを飲む側に回った。

良い作柄の年のものも悪い作柄の年のものも、作り手が信頼できるものも、ワインがひどいことになっているものも、1000本、2000本と購入して飲んでみた。

 

そうして骨身にしみて理解したのは、「ワインショップは嘘をついていない」ということだ。

華美にもみえるワインの売り文句は、実際、ワインの性質をよく言い当てていると思う。

 

私はワインショップの売り文句をあてにしていないので、何が書いてあるのかを確認するのはワインを飲んでしまってからのことが多い。

で、飲んでからそれらを読むと、なるほど、ワインの特質をうまく言語化していると感心させられたのだ。

 

酸味の利いているワインはそのように書いてあるし、スパイシーな風味を伴うワインにも必ずそういうことが記されていた。

プロが品定めして書いているだけあって、私には気づけなかった特徴も表現されていて、読んだうえで残りのワインを飲んでみると「なるほどー」と唸らされることも多い。

 

じゃあ、たいして良くないワインの売り文句はどうなのか?

これがまた、飲んだ後に読むと「なるほどー」と思わされることが少なくないのである。

 

たとえば一般に不作の年とされるヴィンテージの、酸っぱくて水っぽい赤ワインがあったとする。

するとワインショップの売り文句はこのようにワインを賛美する:

「すぐに飲めて、酸味がよく利いていて、繊細な味わいです!」

 

なるほどー! 物は言いようってわけか!

 

ハズレ年のワインは寝かせておいても熟成可能性が乏しいばかりか、次第にショボくなっていくものが少なくない。

だから「すぐに飲める」。

酸っぱいワインは「酸味がよく利いている」と表現できるし、水っぽければ「繊細な味わい」と来るわけだ。

 

厄介なことに、これらは出まかせってわけでもない。

 

熟成だなんて、まどろっこしいことを言ってられない人にはハズレ年の早く飲むべきワインこそがお勧めかもしれない。

「酸味がよく利いている」は酸っぱいワインが好きな人にはポジティブな情報だろう。

水っぽいワインなんてろくでもないように思えるかもしれないが、例年より水っぽいおかげで、普段は意識できなかったことが意識できる場面がワインには稀によくある。

そういう意味では、「繊細な味わい」と言われたら嘘だと否定するのも難しい。

 

その延長線上として、一本1000円以下の、馬の骨みたいなメーカーが作っているなんだかよくわからない激安ワインの売り文句たちを眺めてみよう。

 

うーん、嘘はついていない……かもしれない。

(2026年の相場で)一本800円前後ぐらいのワインになると、たいていの品は長所よりも短所のほうが挙げやすかったりする。

 

それでもワインショップはどうにか売り文句をひねり出さなければならない。

短所だらけの激安ワインに華美な売り文句を与えるには、ワインの性質をよく確かめたうえで、語彙力をフルパワー全開にする必要がある。

 

そこでは力任せなワインが「豪快」だったり、甘ったるいワインが「ジューシー」だったり、渋いうえに酸っぱいワインが「タンニンと酸のバランスがとれていたり」する。

毒にも薬にもならない水っぽい白ワインが「どんな食事にもぴったり」的なレコメンドをされていることだってある。

 

ファー! どんな食事にもぴったりですかぁ。

 

あと、水っぽい白ワインを「ピュア」とかいうの、やめてもらえませんか。

ピュアな白ワインって言ったらさあ、よくできた甲州とか、よくできたピュリニーモンラッシェとか……。

 

失礼、ちょっと血圧が上がってしまいました。

 

とにかく、ワインショップの言うことにゃ、世の中にはまずいワインは存在せず、そのうえでワインショップは嘘を言っているわけではない。

しかし、そこでは言葉の綾というか、欠点をギリギリ褒め言葉に転換するような言葉の錬金術、いや言葉のメッキが行われていて、あばたをえくぼと評してワインが売られているのである。

商魂たくましいことだと、言わざるを得ない。

 

「褒め言葉からワインの欠点を連想する」

しかし、こうしたワインショップの能書きのメカニズムをいったん理解してしまえば、色々なことがわかってくるし見えてくる。

つまり、ワインに寄せられた褒め言葉を透かしてみれば、そこから弱点や欠点もある程度まで推定できるようになるのである。

 

つまり「ピュア」で「繊細」なワインは、水っぽいワインであるリスクが高そうだし、「豪快」で「野趣あふれる」ワインは濃すぎたり雑なつくりだったりするかもしれない。

 

もちろん、実際にそれらが讃えるべき長所といえるワインがないわけではない。

たとえばボルドーやブルゴーニュやカリフォルニアの超高級価格帯で「豪快」で「野趣あふれる」と記されていたら、それが正真正銘の長所である可能性もある。

 

しかし1000円前後の価格帯のワインに関しては、それらの売り文句がどこまで長所で、どこから弱点の裏返しなのかはわからない。

 

で、売り文句が短所のほのめかしだったワインに一杯食わされてみると、ワインに対する解像度はともかく、ワインショップの売り文句に対する解像度は高くなる。

日本語に対する解像度も高くなるかもしれない。

 

落胆させられるようなワインを掴まされた時は、ワインショップのウェブサイトでどんな売り文句が添えられているのか、ぜひ確かめてみていただきたい。

なにかの理由でボトルそのものが駄目になっているとかでない限り、「なるほどー」と膝を打つ部分が見つかるはずだ。

 

そして売り文句を検証していくなかで「ああ、ワインショップは短所を長所としてそれとなーく書いて、おれたちワインマニアにこっそり知らせてくれているんだ」と感じるようになってくる。

そうなるとますます、ワインショップの売り文句が嘘ではなく、トゥルースの一種であるように思われてくる。

 

「嘘はついていない。少しだけ尾ひれはひれをつけて褒めているだけ」という世渡り

してみれば、ワインショップの売り文句は、嘘か本当かという尺度で評価すべきものではない、と言わざるを得ない。

 

言葉巧みにワインについて口上を述べたてるそれは、本当であり、嘘ではなく、長所はもちろん短所すら率直に述べ立てたものだが、ところが全体としては売り文句として成立している。

ワインショップの売り文句は、どんなにひどい出来栄えのワインですら、センテンスのうえでは優れたワインであるかのように述べたてる。

 

これは正真正銘、言葉の錬金術、または言葉の幻惑術ではないだろうか。

けだし、このような言葉の幻惑術を用いて、本当であり、嘘ではなく、長所はもちろん短所すら率直に述べ立てたものが世の中にはたくさんあるのだろう。

 

いわゆるマンションポエムなども、こうした言葉の幻惑術の領分ではないか? と眉に唾を付けて眺めたくなる。

しかし、嘘ではなく短所すら実は述べ立てているわけだから、嘘と言ってもはじまらない。

ワインショップの売り文句やマンションポエムを読解する際には、ひろゆき氏の「嘘を嘘と見抜けない人には~」も通用しない。

 

これは非常に厄介なことだ。

しかし、ファクトかフェイクかといった二分法が通用しない領分が世の中には存在していること、それが一種独特な文法を形成し、流通している領分が存在していることを知っておくことは、娑婆の知識として役立つし、なんならワインショップの売り文句からテクニックを学び取り、みずから言葉の幻惑術を習得することさえ可能かもしれない。

 

こういう目線でワインショップの売り文句を眺め直すと、彼らの言葉運びの巧みさ、言葉の幻惑術の巧さにびっくりさせられると同時に、身が引き締まる思いがする。

娑婆にはこのような技芸のうまい人間とそのプロダクツが少なからず存在しているので、世渡りの一助として勉強してみるのもいいかもしれない。

 

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Hermes Rivera

少し前に、あるお母さんが、子供にこんな事を話していました。

「今、我慢すれば、後で楽しいことが待ってるよ」

 

おそらく、子供が勉強しないことに対する言葉だったのだと思います。

 

この言葉の根底にあるのは、

-苦しいことをしておかないと、楽しいことはない。

そんな考え方かもしれません。

 

子供の話だけではありません。

これは、「FIRE」(Financial Independence, Retire Early)や「倹約」にも見られる傾向ではないかと思います。

 

いまをできる限り切り詰めて、可能な限り投資に回す。

30代、40代で資産を築いて、FIREする。

するとそこから、ようやく楽しい人生になる。

そんな発想です。

 

「不安を消す」ための人生

私も学生の時、借金を抱えていましたので、その考え方は非常によく理解できます。

というのも、とにかく、将来が不安なんですよね。

 

知人の「ママ友」「パパ友」の中にも、

 

・良い中学・高校に入れないと、良い大学に行けない

・良い大学に入れないと、就職に困る

・大企業に入れないと、お金に困る

・収入を貯蓄や投資に回さないと、老後に貧困になる

 

ということを熱心に語る人がたくさんいます。

そして、その不安を消そうとして、「今は我慢」を自分(または子供など)に言い聞かせるんです。

 

例えば、東京とその近郊では、中学受験をするためには、多くの人は小学校4年生から、塾に通います。

大好きなゲームも、思い出になる家族旅行も、友達との遊びも控えて、受験にコミットする。

 

もちろん、中学生、高校生になっても大学受験のために、塾に通う。

休日は図書館通い、部活も趣味にも没頭せず、来たるべき受験に備える。

 

大学生になっても同じです。

今度は「就職」に備えて、授業はサボらず、就職のために情報収集。

 

「面接で話せるネタ」を作るために、奔走します。

語れるようなネタがある。人と違う「何か」を求めて。

それが充実した学生生活って、言われるんです。

 

就職してからも安心できません。

今度は「老後」のために、長い長い「我慢」が始まります。

 

外食せず、旅行も趣味にも、恋愛にも家族にもお金を使わず、ひたすら「貯蓄」と「投資」。

そして積み上がる貯蓄残高。

 

……と、極端ですが、こんな構成が

「不安を消す」ための人生

の典型です。

 

社会心理学者ヘールト・ホフステードによる国際比較研究では、「不確実性回避(Uncertainty Avoidance)」という指標で各国の不安耐性が測定されています。
日本のスコアは92点(最高100点)で、世界で最も不確実性回避の高い国の一つに分類されます。

・日本:92
・アメリカ:46
・世界平均:64 ResearchGate
・シンガポール:8(最低)

この指標が高い文化では、ルールや構造化された状況を好み、不安を最小化するために様々な対処をする傾向が見られます。

 

こうしたことから、日本人は「不安を消すための人生」を選択することが多いのかもしれません。

 

「「安心」にそんな価値がある?」

私も、そんな感じの人生を考えていました。

老後のための人生。

不安を消すための人生。

 

ところが、私には転機がありました。

 

先輩のコンサルタントと、お客さんの帰りに、「借金を早く返したいし、将来に備えて、ほとんど貯金してます」といった話をしたところ、

「将来っていつ?それって楽しいの?」

と言われたのです。

 

こまりました。

不安を消すための人生において、

「楽しいからする」という発想は、辞書にはありません。

 

また、「老後に困らない」という発想でやっているのです。

そこで言いました。

「今は我慢して老後に備えるのの何が悪いんですか。」

 

すると、先輩は言いました。

「いや、まったく悪くないよ。でも……」

 

「でも?」

「60歳?70歳?いや、40歳でもいい、中年以降の「安心」にそんな価値がある?」

 

ただ、その場では、私はその質問の意味が良くわかりませんでした。

安心に価値があるのは当たり前だと思っていたからです。

 

「将来の安心」に価値はあるか

しかし、後日。

将来ばかり気にして、「今」を有効に使えていないのではないか「今」を犠牲にしすぎているのではないか、という疑問が浮かびました。

 

友人に贈り物をする。

パートナーと、高級ホテルでお茶をしてみる。

僻地の海外に行ってみる。

高級車を買ってみる。

広い家に住んでみる。

飲み歩いてみる。

子供と遊園地に行ってみる。

会社を興してみる。

習い事をしてみる。

 

そういう選択肢をとれる人生にするには、直ぐに行動を起こさねばなりません。

また、ため込むばかりではなく、お金を使う必要があります。

仕事ばかりしているわけにもいきません。

 

そもそも、40代以上になってからではできないことも数多くあります。

例えば、家のローンを組んだり、結婚して家族を持ち、子供や孫を持ったりするには、生物学的に明確にタイムリミットがあります。

 

漠然とした将来の不安に負けて、「今」にフォーカスしていなかったことで、逃したチャンスがどれほど大きいか。

 

実際、私は若い時に「我慢」を優先したため

「なんで、若いときに、やっておかなかったのだろう」

と、後悔していることがたくさんあります。

 

「今」を積み上げたものが人生

その先輩は、こんな事を言っていました。

人生って「将来」じゃなくて「今」を中心に考えないと、すげえつまらない人生になるんだよね。お金より圧倒的に貴重なのが、時間だから。」

 

私は聞きました。

「いま我慢」しても、将来、楽しいことは来ないってことですか?」

「いや、正確に言うと、そういう思考をするひとは「今、我慢」がずっと続く人生になるってこと。」

 

DIE WITH ZEROという本があります。

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この書籍は、まさに「人生を楽しくすることのほうが、蓄財するより大事だ」と言い切っているのです。

 

その一節にこんな文章があります。

「私たちは、できる限り人生を充実させるにはどうすればよいか、という問題に取り組んでいる。もう一度繰り返そう。私たちの問題は「できる限り人生を充実させるにはどうすればよいか」だ。

見境なく豊かになることではない。つまり、この本の目的は、富の最大化ではなく、人生の喜びを最大化するための方法を探すことだ。この2つは根本から違う。」

 

確かに我々は、将来の不安をなくすために生きているわけではありません。

40歳、50歳からが人生、なんて寂しすぎる。

 

「不安を消すための人生」

「ガマンを優先する人生」

 

とは、決別しよう。そう思ったきっかけ。

それが「中年以降の「安心」にそんな価値がある?」という質問だったのです。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」92万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

〇まぐまぐ:実務で使える、生成AI導入の教科書

[amazonjs asin="4478116695" locale="JP" tmpl="Small" title="頭のいい人が話す前に考えていること"]

Photo:

歴史上最大の文化交流がまさに始まった

Xのポストが、AIによって自動的に多国語に翻訳されるようになった。日本でそのアップデートが行われたのは2026年3月30日のことだ。わざわざ日付を記すのは、なかなかな記念日だと思うからだ。

 

最初に結論から書く。おれはXのこの機能に賛成している。やってくれたな、イーロン・マスクという気持ちだ。

イーロン・マスクにも言いたいことはいろいろあるが、いや、あんまりないかな、まあこの機能はよかったぜ、と言いたい。

いまXというサービスが世界でどれだけの影響力があるのかは知らない。Twitter時代のほうが大きかったかもしれない。そのあたりは数字の見方にもよるだろうから調べない。

でも、それなりに影響力はあるはずだ。いろいろな国において、日本でほど存在感はなくとも、まあ一応は世界中の人間が使っている、といってもいいだろう。たぶん。

 

そこで、言語の壁が壊された。やや表現が大げさかもしれない。

とはいえ、まだそれがはじまってから一ヶ月か、というくらいにはいろいろの話題があった。

もちろんいい話題もあるし、悪い話題もある。しかし、いい話題もあれば、悪い話題もあるというのは、べつにインターネットなんかができる前から、世界はそうだった。

 

おれはインターネットのない世界を知っている世代だ。高校のころだろうか、親の始めたパソコン通信からネットに入った老人だ。まあとにかく、インターネットの黎明期を知っている。

インターネットのはじまりごろにあった、新しい世界の夢を知っている。

 

それがだんだんと消えていき、インターネットもすっかり日常の一部になった。世界とつながる夢も、金儲けと詐欺と認知戦にまみれたろくでもない現実に塗りつぶされた。

もう、インターネットとはこのようなものかと思いつつあった。

 

が、Xが言語の壁を壊した。AI翻訳が新しいとはいえ、既存の技術の組み合わせに過ぎないのは確かだ。

ひょっとしたら、類似のSNSは存在していたかもしれない。でも、Xがやってのけた。おれはなにか、「インターネットで世界とつながる」という大昔の夢を、ちょっぴり思い出した。それをまず言っておきたい。

 

単言語話者と世界

おれは単言語話者だ。日本語しかわからん。

「え、おまえは本当に日本語をわかっているの? この言葉を文法的に説明できるの? 外国語話者に教えられるの?」と言われると、「すみません、日本語もわからん」ということになる。

しかし、日常生活で困っていないくらいには話しているし、書いているので、単言語話者ということにしてくれ。

 

もちろん、まあ、中学、高校、そして中退した大学で英語教育は受けてきた。大学ではフランス語もちょっぴり学んだ。

とはいえ、「おれは英語もわかります」とはとうてい言えない。現在完了形や過去完了形を説明しろと言われてもまったく答えられない。たぶんいま、中学の英語のテストを受けたら涙目になる。

おれはペーパードライバーだし、ペーパー英検準二級(持っていても価値のないレベルだが)といってよい。

 

だけどまあ、英語はちょっとわかることもある。ファッキン・ジャップくらいわかる。

日本人にありがちな、「簡単な読み書きはできても聞き取れない、話せない」タイプだろうと思う。

もっとも、おれは英語話者とコミュニケーションを取ることなんてないのだが。

 

昔、大阪の西成のディープなところを歩いていたら、観光客らしき白人男性から英語で

「なぜこの街の飲食店は昼間なのに開いていないんだ?」

というようなことを聞かれたことがあり、おれは西成についてもわからないし、英語についてもわからないので、二重にとんちんかんな答えを言った記憶がある。

 

あとはあれだ、なじみのインネパ屋で店員からネパール料理についてのクイズをスラスラと英語で出されて、こっちがキョトンとすると、

「あれ、おまえら英語話せないの?」みたいな顔をされたこともあったっけ。

まあ、英語はわからん。

 

ただ、必要に応じて使わなくてはいけないときもある。

若い頃は、インターネットでエロいなにかのために、必死に英語にくらいついた記憶もある。そのころは機械翻訳サービスすらなかった。直感に頼っていた。AI翻訳のあるいまなど、スラングですらスラスラ訳してくれるに違いない。

 

そういうわけで、おれは世界を知らない。英語以外ももちろんわからんからだ。

とくに英語の話になってしまうのは、「言語帝国主義を内面化しているのではないか」と自己批判を求められるかもしれないが。

ともかく、そんな人間の世界は狭い。おれは日本から一歩も出たことがないし、このまま出ないで死ぬだろう。

 

とはいえ、世界に興味がないわけではない。他言語の音楽も聴くし、映画も観るし、文学にも接する。

……音楽はともかく、映画? 文学? そうだ、なにかすばらしい能力の持ち主たちが日本語に翻訳してくれるからだ。

 

たとえばおれがチャールズ・ブコウスキーのことを大好きだといったところで、それは日本語に翻訳してくれただれかのおかげだ。ちなみに、「詩はやはり原文にあたるべきなのでは?」と詩集を何冊か買ったが、よけいわからんよな。

 

そうだ、日本の単言語話者は世界の中でも恵まれている方だ。もちろん、圧倒的に英語世界の人間のほうが恵まれているだろうが(ここでいう「恵まれている」とは、多文化に触れやすいとか、そのていどのことと思ってください)、ボケっとしていてもだれか優秀な人が翻訳してくる。

フリオ・コルタサルだってイワン・ゴンチャロフだってフェルナンド・ペソアだって読める。ありがたい話だ。ありがたいと思うくらいには、異国の文化に興味はある。それと同時に、異国の文化のなかにも、自分の魂のようななにかと通じるものを見つけて楽しくなる。

 

が、おれは勉強も努力も嫌いだ。昔あった、あやしげな睡眠学習で英語がマスターできるというのであればやってもよかったが、そんな都合のよいものは存在しない。

地道に外国語を習得するためにがんばろう! という気にはならない。まったくならない。

仕事で英訳が必要になれば翻訳会社に頼るし、簡単なものであればAI翻訳と画像検索(海外で実際に使われている看板の文言を見るなど)でなんとかなってしまう。

 

だからたぶん、おれは死ぬまで日本の地から外に出ることはないだろうし、外国の言葉を学ぶこともないと思う。

とはいえ、世界のことは知りたいし、なんなら「翻訳する価値がある」と思われていないような、どうでもいいこと、しょうもないこと、とくに書くでもない日常のことも知りたい。

留学や移住でもしないかぎり、それは難しい。それがなんだろう、日常のつぶやきが、いちいち翻訳作業を通さずとも、あたかも同じ言葉で書かれたように伝わってくるのは、それはたいしたことだろう。

 

誤訳なんて些事だ

むろん、今回の件を手放しで喜べない、問題もたくさんあるという声もある。

そりゃ、あるだろう。たとえばAI翻訳による誤訳問題だ。意味を逆に取り違えてしまうこともあるだろうし、もうちょっと微妙なニュアンスが伝わらない、スラングが伝わらない、そこで誤解が起きる、摩擦が起こる、対立が起こる……。

 

とはいえ、それってAI翻訳だけの問題だろうか。プロの通訳でもその文化のすべてを知り尽くしているわけでもないし、間違えることもあるだろう。

 

翻訳にしたってそうだ。モスクワ留学の経験がある人から聞いたことがあるが、ドストエフスキーのような有名な文豪の翻訳にしても、いろいろの翻訳者がいつも同じところで誤訳している、なんて話もあるらしい。人間も間違える。AIも間違える。

 

で、間違ったところで、訂正すればいい。簡単に誤解が解けることもあるだろうし、なかなか通じないこともあるかもしれない。

あるいは、誤解して憎しみ合ったまま相互ブロックに至ることもあるだろう。でも、だからなんだ。SNSは、一歩間違ったら戦争になりかねない外交交渉の場ではない。

いや、そんなふうに使っているアメリカ大統領を一人だけ思い浮かべることができるが、しかしまあ、たかだかSNSだ。

 

そもそも、べつに日本語同士でやり取りしていても、ほんとうにしょうもない言い争いなんていくらでもある。

単言語話者同士でもろくにわかりあえないというのが、SNSが可視化したことの一つじゃないか。

 

それが世界規模になったところでなんだ。日本語話者にもわからんやつはいるし、スペイン語話者にもわからんやつはいる。

実際、「これはべつに文化の違いとか、翻訳の話じゃなくて、こいつがわからん人間というだけだよな」という、しょうもないやりとりも目にした。

 

だからもう、ちょっとしたロスト・イン・トランスレーションはいいやってことにしよう。

もとからわれわれはわかりあえない。そのくらいの心持ちで、それでも言葉の壁を超えて、「それ、わかる」とか、「これ、おもしろいよな」が共有されたらいいことだ。

 

日本にナチがいるからって、それを隠すべきなのか?

「Xの日本語が世界各国語に訳されることによって、日本の排外主義者の差別的な言葉が世界に知られるようになってしまった。これまで日本が築き上げてきた世界への信用を損なうものだ!」

という批判もある。実際、自動翻訳化で、外国人が「日本人はナチ」だとわかったみたいな書き込みも見た。

 

だが、それはそれで、悪くないことなんじゃないのか。

言語障壁があったから、日本人はなんかいいやつだと思われていた。そういうイメージがあった。それはそれでいいだろう。

でも、実際には排外主義者も差別主義者もたくさんいるじゃないか。日本語のネットにはヘイトがあふれていたじゃないか。現実でもそういう勢力が政治に食い込もうとしているじゃないか。それが日本の現実だろう、リアルだろう。

 

「そういう存在が外国にバレてしまうー!」と嘆いている人間は、恥は隠せばいい、隠したうえで、しらんぷりして他者とつきあえばいいと思っているのだろうか。それはちょっと不誠実じゃないだろうか。

 

もし自分が「日本人である」ということでメリットを享受しているというのであれば、「日本人である」ということのデメリットも引き受ける必要がある。

日本人がよいことをしたと得意げになるなら、一方で日本人が悪いことをしたら引け目を感じるべきだ。いいとこ取りは卑怯だ。

 

このあたり、歴史認識などで揉めるところでもあるが、もし日本の歴史を誇り、先人に感謝するのであれば、一方で過ちに関しても反省のような心をもつべきだ。

それは同時に成り立つ。

 

まあとにかく、自分の気に入らない思想を持った人間も存在するのが日本だ。

日本水準でも、世界水準(水準というものがあるのかしらんが)でも、どう見ても差別主義者のやつだって存在する。でも、それを隠して、いないことにして、「日本人は人種差別なんてまったくしませんよ」って顔をしているのは、これはいささか欺瞞がすぎるのではないか。

 

「もちろん、日本にもそういうやつはいるよ。でも、自分は違うよ」と、それはもう自分なりの意見を述べていくしかないだろう。

どんな立ち位置にあるやつだってそうするしかない。他人が自分の意見に賛同しないのは、自分に人徳がないというだけの話だ。おれは政治というのも究極はそこだと思っている。そういう点で、設計主義的ではない人間だと自覚している。

政治の究極のところは「人徳」ではないのか?

 

というわけで、変化を見ていこう

まあそんなところだ。とりあえずの興奮を書き残しておいた。書き残していたら、noteが同じようなことを始めると発表した。

悪くないと思う。同じようなことが世界で起こればいいと思う。

 

「そんなことをしたら、ネットがAI翻訳のゴミであふれてしまう!」と心配する人はいるだろうか。

もう、とっくにネットはゴミだらけだ。AI生成のしょうもないゴミもとっくに、たくさんあふれかえっている。

 

だったら、まだ人間が書いたものが放流されるほうがいい。

デマや扇動? そんなものとっくにあった。情報戦、認知戦、そんなものもとっくにあった。

 

だから、べつにあまり変わらんといえば変わらんと思う。いいことも悪いこともある。

これで世界の人たちが自由に意思疎通できるようになるとも言わない。平和がわかりあえて平和になるとも言わない。

 

とはいえ、これを見て怒り狂い、人々のこの意思疎通を破壊できるだれかさんもいない。

というわけで、どうなるか見ていこうじゃないか。そんなふうにインターネット古代人は思う。

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Kelly Sikkema

この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。

 

・次女とFC東京-川崎フロンターレ戦にいったら次女がサッカーにハマりました

・私も巻き込まれて、これまで殆どサッカーの話題が出ない家だったのに、いきなりサッカーブームが起きています

・一方長女は、演奏会で先輩が綺麗だったことに憧れたらしく、最近急に身だしなみに気を遣うようになりました

・長男にも共通することですが、自分で「好きなこと」「好きなもの」を見つけた瞬間の子どものパワーって強烈です

・「これが好き」が多ければ多いほど生きる力が強くなる、というのは、自分でも体感しています

・それに対して、親に出来ることは、たまたま「好き」に出会う確率を少し上げることくらいで、あとはそれを邪魔せず一緒に楽しむことくらいなのかな、とも思います

・今後とも、無理のない範囲で子どもの「好き探し」をサポートしていきたいと思います

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

ここ最近、子どもを見ていて興味深いなーと思ったことがいくつかあったので、ちょっと書かせてください。

しんざき家には、子どもが3人います。長男、春からの大学一年生。長女次女、中学三年の双子。

 

昨年まで、しんざき家ともっとも縁がないものといえば「スポーツ観戦」でした。

しんざき自身はそこそこスポーツ好きでして、学生時代に長距離走をやっていた頃から、やるのも観るのもわりと好きなんですが、妻はおよそスポーツと名の付くコンテンツにはほぼ一律で興味ゼロで、長男も大体それに準ずる傾向がありました。

 

それに対して長女と次女は、ここ最近、色んな漫画を読み漁る過程でスポーツ漫画にも突き当たっていまして、特に「ハイキュー!!」「ブルーロック」「メダリスト」あたりにはかなりどっぷりハマっていました。

で、漫画だけにおさまらなかった次女が、「バレーボールかサッカーかフィギュアスケートを観てみたい!」と言い出したわけです。

GWにたまたま私と次女の空き日程が被ったので、ちょうどよくチケットが空いていたサッカーを観にいくことにしました。

 

ということで、行ってきました味の素スタジアム、FC東京-川崎フロンターレ戦。私自身、Webでの中継などは見ていたものの、Jリーグの観戦に来るのは初めてで、スタジアムの雰囲気も含めて目いっぱい楽しめました。

【FC東京×川崎フロンターレ|ハイライト】明治安田J1百年構想リーグ 第14節

野澤の得点の前の佐藤龍之介の縦パスが物凄かったですよね。FC東京こんなに強くなってたんだ、知らなかった……

 

この時の試合は2-0でFC東京の勝ちだったんですが、サッカーと言えばブルーロックしか知らなかった次女が、「サッカーってチーム戦なんだね……!!」とか「みんなボール持ってない時も滅茶苦茶走っててすごい!!」とか、よく分からないところで感動したりしていました。

いやまあ確かに、ブルロはチーム戦を体感する素材としては若干偏ってるかも知れないが、最後日本代表と試合したりはしてたろ確か。

 

で、この試合がよほど衝撃的だったらしく、次女がいきなりサッカーにドハマりしてしまいました。

私におねだりしてDAZNを契約させたのを皮切りに、色んな過去の試合を観たり、選手のインタビューを聴き漁ったり、FC東京のチャントを覚え始めたり。

おかげで、私の脳内でも延々チャントが流れています。

 

どうも次女の同級生にもかなり強火のFC東京サポがいるようで、サッカー見始めて数日なのに「パパ、佐藤龍之介が海外いっちゃったらどうしよう……!?」とかいきなり言い始めました。

サッカーを観始めてから、その心配に至るまでの期間が短い。選手の海外移籍は暖かく応援するんやで、と言い聞かせておきました。

 

一方。次女のサッカーとは全然別の話として、これがまた個人的には驚きだったんですが、長女が身だしなみに気を使い始めました。

以前まで長女はあんまり見た目に気を使わない方で、髪型も殆ど素のままだし、小学校の頃の服がほつれていても全然気にしないでずっと着ておりました。

これは私に似てしまったかなーと申し訳なく思っていたのですが、最近になって急に服や髪形をちゃんと整え始めまして、どうしたのかなーと思っていたら「演奏会で先輩が綺麗だったから」と。

 

長女、昨年10月くらいから、「文化祭での演奏がかっこよかったから」ということで楽器(マンドリン)を始めまして、つい先日部活の定期演奏会があったんですが、そこで憧れの先輩が凄く綺麗な装いをしていたらしいんですね。

身だしなみについてはこれまでもちょこちょこ言ってはいたものの、全然馬耳東風だったところ、「こうなりたい」という憧れがあるとこんなにも一瞬で行動が変容するのか、と。

 

ちなみに長女、昨年までは寝坊が多くて遅刻しがちだったところ、それも楽器を始めてからほぼ一切なくなりまして、理由は何かというと「部活の練習があるから」と。

長男についても同じようなことは直近起きていて、高2まではあまり勉強に対してモチベがなかったところ、ある時点からいきなり受験スイッチが入って勉強し始めまして、これが何故かというと大学の授業を聴講しに行ったからなんです。

どうも高校の授業があまり性に合わなかったところ、「こういう授業なら聞いてみたい!」ってなったことが、彼にとっては勉強のスイッチになったみたいなんです。

 

次女による家全体のサッカー熱、長女の憧れによる行動変容、そして長男の受験勉強のきっかけ。「好き」ひとつで、子どもの行動が激変する瞬間。

これらはほんの一例で、他にも「これが好き」から子どもたちのスイッチが入ったものって色々あるんですが、何が共通してるかって「自分で見つけた」「自分で探し当てた」ことだ、って話なんですよね。

 

もちろん、「何か好きなものが見つかれば」っていうのは親として昔から考えてきたことで、今まで色々機会作りはしてきたものの、親主導で何かさせようとしても、まあやっぱりそんなに長続きしないんですよ。

例えば長男も一時期サッカーに興味を示したことはあって、小学校のサッカークラブに入ったりもしたんですが、あんまり長続きしませんでした。長女にも次女にも似たようなことはありまして、親の「お膳立て」がある程度以上になると、どうも強烈なパワーを生み出しにくいような気がする。

 

「親として、子どもにしてあげられること」って何なのかな、と、育児生活が20年近くになる今でも時々考えます。

親なら誰でも、一生涯考え続けることなのでしょう。

 

もちろん、身の回りの世話とか勉強の補助輪とか社会的なルールの教育とか、親の役割なんて山ほどあるんですが、根本的な「生きる力」みたいな話についていうと、結構親ができる範囲って限定されているかも知れない、と。

 

「好き」を見つける、というのは人生において根本的に大事な話で、「好きなこと」「やりたいこと」があればある程、生きる力は強くなります。

デスマで毎日午前2時まで働いた時、「これが終われば新作が遊べる」「帰りにちょこっと新作が読める」ということが唯一の心の支えになることもある。

これは私自身が体感していることで、家族の存在と同じくらい、私はゲームと楽器とSF小説に救われてきました。

 

一方、趣味とかコンテンツって、親が「好きになれ」って言ってなるようなものじゃなく、ただし子どもたちが自分一人でたどり着ける範囲にも限界がある。

「こういう選択肢がある」「こういうのが面白い」っていう、いわば趣味のカタログみたいなものは誰かが提示してあげなくてはならず、けれど「そこに飛び込む」というスイッチについては子どもそれぞれのタイミングやらバランスみたいなものがあって、最後は自分自身でスイッチを入れなくてはいけない。

 

となると、親にできることって、「提示」と「共感」までで、その後は時の運なのかもな、と思います。

こういう趣味があるよ、こういうコンテンツがあるよ、ということまでは提示してあげる。何かを選んで楽しみ始めたら、一緒に楽しむ。せいぜいそこまでなのかもな、と。

 

エンジンが駆動した後、オイルをさしてあげる役。いわば整備士。それが親の最大の役割なのかも知れないと、そんな風に思うわけです。

 

取り急ぎは、先刻エンジンが起動したばかりの次女のサッカー熱、そして長女の楽器熱が、もしも本人たちが望むならそのまま続けられるように、親としては一緒に楽しんでいければなーと思う次第なのです。

 

当面FC東京の新参サポとして、味スタにもちょくちょくお邪魔しようと思っていますので、皆さんよろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

photo:Vienna Reyes

長年、何かを表現することから逃げてきた

新入社員の頃、広告に関するエッセイを書かないといけなくて、何を書こうか迷ったあげく、「これからはすべての人がクリエイターになれる時代が来る」という話を書いた。

25年前の話だ。

 

当時、その文章を、ぼくは広告会社で働きはじめた人間としての立場から書いた。

インターネットはさまざまな人に対して表現の場所を提供する。

だから、広告メディアを使って表現することができていたクリエイターは専門職でもなんでもなくなる。

 

そんな中で、広告会社の人間は、自分たちのいる場所を飛び出して、大胆に未来を描くことしかできることしか残されていないのではないか。

そんなことを書いた。

 

そのあとすぐにインターネットは本当に広告ビジネスを飲み込みはじめ、さまざまなデジタル技術が生まれていき、広告やマーケティングの世界はすっかり変わってしまった。

ぼくはその変化の中で翻弄されて、いつのまにか何かを表現することから逃げるようになった。

 

コピーも、デザインも、ムービーも、何もかもから逃げた。

そして、細々とブログという場所から文章を書き、何かをやっているフリをして、自分を納得させるようになった。

 

AIが表現の楽しみを思い出させてくれた

そして2026年。

生成AIを誰でも手軽に使えるようになった。

 

ぼくも、はじめは「100日行」なる内省作業の補佐役として使っていたけれども、多くの人たちと同じように、今は本当に色々な目的のために使っている。

特に今は画像作成に熱中している。

 

ちなみに、ぼくは文章を書くのに、できるだけAIを使わないようにしている。

特に、ブログや企画書など、自分自身の考えについて伝えるときは、考えるときの整理には使ったとしても、最後のアウトプットは自分で書く。

ぼくにとって文章は自分の身体にかなり近い気がしていて、そこをAIに触らせるのにすごく抵抗があるのだ。

 

はっきり言って、ぼくが書いている文章なんて、人から見れば、AIとたいして変わらないだろう。

むしろAIのほうが論理的で、わかりやすい文章を書く。

それでも、自分が書いたものではない文章を、自分の文章として出すのにひどく抵抗がある。

 

一方で、画像の作成をAIに頼むのはびっくりするくらい抵抗がない。

望み通りの絵が出てこないという話も聞くが、ぼくはあまり気にならない。

ぼくにとってAIによる画像作成は、何かを作るとか描くというよりも、カメラで撮影するのに近い。

 

欲しい画像を考えたら、とりあえずラフ画像を作ってもらう。

オーディションみたいなものだ。色んな役者さんに来てもらって、それぞれの考える演技を見せてもらう。

そして、とりあえず撮影する。

 

そのうえでまた考える。

こういうことはリアルな制作ではなかなか難しい。

よほどの制作費がないとできないことだし、だいたい同じ役者さんに大量に演技をしてもらって全部ボツにする、とかいうことはすごく気を使う作業だ(役者さんにも、スタッフにも)。

それが延々と、納得するまでできるなんて、なんて楽しいんだろう。

 

で、試しに作ったものをイベント告知のバナーにしてみたら、さっそく周りからいい反応をもらえた。

それについても、あ、これAIで作ったんです、って堂々と言える。

まあ、もともと、誰かの力を借りないと何も作れない世界でやってきたからか、不思議とまったく抵抗がないのである。

 

今度こそ本当にすべての人がクリエイターになる?

インターネットの台頭によって、自己表現ができる場所がすべての人に開かれた。

それだけでも、たくさんの人たちが挑戦をはじめ、新しいタイプのクリエイターたちはどんどん増えていった。

 

でも、まだ「技術」は閉じられたままだった。

もちろん、表現を助けてくれるさまざまなデジタルツールは増えたけど、それでさえ、使えるようになるために習熟が必要だった。

 

その習熟こそが表現そのものだという考え方もあるだろう。

ピアノの演奏を聴く人は、その音のすばらしさだけでなく、ピアノの弾き手がこれまで取り組んできた並々ならぬ努力のプロセスを想って、さらに感動するわけである。

それはとても大切なことだと思う。

 

だけど、そういった習熟に必要な時間が、多くの人には足りない。

まして、ピアノのように幼少の頃からやっておかないと身につかないとか言われると、どうにもならない。

 

しかし、AIはこの時間の壁を超えるかもしれない。

ピアノをまったく弾いたことがない人でも、その人が普段やっている表現方法を用いて、あるいはちょっとした手続きを踏むだけで、美しい楽曲を奏でられるようになるかもしれない。

ついに本当の意味で、すべての人がクリエイターになれる道が開かれたのかもしれない。

 

「できない理由」という鎖が解かれていく

25年前のぼくは、そんな「誰もがクリエイターになれる時代」が来るのを、危機感を持って、見守っていた。

 

今は逆だ。

やっと自由になれる時が来たのだ。

プロじゃないとできない、技術がないとできない、努力していないとできない、そう思っていたさまざまな表現手段が解放されていくのである。

 

ぼくはこれまでずっと「〇〇じゃないとできない」といって、自分ができない理由を探してきた。

その「できない理由」という鎖が今、ひとつずつ解かれていっている感覚がある。

 

絵が描けなくても、ChatGPTやPixAIを使えば、言葉からでも絵が作れる。

楽譜が読めなくても、SUNOというアプリを使えば、鼻歌だけで曲が作れる。

コーディングができなくても、Caludeを使えば、エンジニアと打合せをしているような感覚でWEBサービスが作れる。

 

いくらでもやりようはある。

「できない理由」がどんどんなくなっていくのである。

 

もちろん、それでも、AIではここが違うとか、こんなことができないとかいって「できない理由」を捻出することはできるだろう。

だけど、それはもうその人のこだわりにすぎない。

そこまでこだわるなら、AIを使わなくても、ちゃんとトレーニングを始めればいいだけだ。

 

そして、これからもAIを使わずに自力で何かを表現できる技術を持っている人は尊敬され続けるだろう。

 

そして世界はもっとエモいものに変わっていく

ちょっと飛躍する。

たぶん、ぼくが言いたいのは「いや~誰でも手軽に絵を描いたり音楽を作ったりできる便利な時代になりましたね~」ということではない。

そうなったからこそ、ぼくらはもっといけるぞ、ということなのである。

 

誰もが自由に自己表現ができるからこそ、もっと楽しく、もっとやわらかな方法で、他者に感情を伝えることができるようになる。

あるいは、自分だけでなく、他者を楽しませるためにはどうすればいいか、もっと本気で工夫できるようになる。

 

クリエイティブとは思いやりだ、とぼくは師匠から教わった。

伝える相手のことを想像してアイデアを練り、それがちゃんと届くように工夫することが、クリエイターの仕事なんだと言われた。

 

もし、すべての人がクリエイターになったなら。

世界は多様な表現と思いやりにあふれるものに変容していくのではないかと思っているのである。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:いぬじん

プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。

だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。

プロフィールって、むずかしい。

ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。

Photo by:Jakob Owens

GWのようなまとまった休みには、子どもたちと一緒によく出掛けた。

といっても観光地や大都市には向かわない。GWは駅も高速道路も混雑し、疲れる割に楽しめないからだ。

 

それより好ましく感じられるのは、近場でお金のかからない、けれども身体を動かし五感を刺激するような遊びだ。

 

今の季節だと田んぼにはゲンゴロウやミズスマシがいて、さまざまな種類の蝶も舞っている。実家近くの海では、のしのしと歩くアメフラシを捕まえることもできる。

アメフラシを不気味がる人もいるけれども、よく眺めるとカタツムリに似た姿恰好をしていてかわいげがあり、そっと触れるぶんには紫色の色素を放出することもない。

 

子育てには、子ども時代をもう一周できる特典がついてくる

「子育てをしてみて良かった」と思うことは色々あるけれど、そのひとつは「もう一回子ども時代を追体験できること」だったと思う。

「子どもの遊びをもう一周させてもらえる」というか。

社会通念上、子どもの遊びとみなされていることを大人が堂々と再体験できるチャンスを子どもはくれるのだった。

 

たとえば虫取り網を持って里山を巡ること。

私の子ども時代に比べると、里山の昆虫も少なくなり、地球温暖化のために夏休みの昼間に外で活動するのは不可能になっている。

 

平野部では、一番暑い時間帯になると蝉たちも鳴くのをやめてしまい、死の世界のようになってしまう。

が、GWの頃はこの限りではないし、夏でも朝夕には狙い目の時間帯がある。

 

日本社会では、虫取り網を中年男性が振り回しているのは奇妙なこととみなされている。中年女性が振り回していても同様だろう。

ところが子どもと一緒に虫取り網を振り回すぶんには、気にしなくてもいい!

高いところにとまっていて子どもには手が出せない蝉などは、大人の出番だ。時を越えて虫取りのスキルが蘇る。

子どもと虫取りをしていてなにより嬉しいのは、子どもがトンボや蝶をキャプチャーした時に目を輝かせる様子がみてとれること、その繰り返しをとおしてみるみる上達していくことだ。

たとえば子どもが初めてキアゲハをキャプチャーし目を輝かせる時、脳内ではドーパミンが遊離して報酬系がドライブしている。

単にうれしいだけでなく、それが(この場合は虫取り網を使う時の)技能習得にも繋がっていく。

 

このことは虫取りに限らない。

子どもと生活していれば、そうしたことが生活の全方位・全場面で起こり続ける。

初めてのソフトクリーム、初めての運動会、初めての新幹線。なにもかもがそんな調子だ。

 

勉強も、子どもをとおして追体験できる。

小学校の授業では『スーホの白い馬』や『ごんぎつね』が登場し、中学校の授業では化学式や天気図が登場した。

高校なら古文や対数関数、種類が増えてきて手ごわくなった英単語やイディオムたちだ。

子どもと教科書や参考書をシェアしてみると、忘れてしまっていたことや間違って覚えていたことが幾つも見つかり、それも面白い。

コロナ禍で学校授業がストップしていた頃は、私が自宅で授業をやった。昭和時代に受けた授業を思い出しながら、どうやって子どもの集中力を教科書に向けるのか、学習指導要領に妥当するかたちにやるのか、自分なりにあれこれ考えた。

 

それは、煩わしい時間であると同時に豊かな時間だったと思う。

子どもがいなかったら、こんな時間は絶対に過ごせなかった。

乳幼児期から思春期までの少なくとも一面を、駆け抜けるように再体験させてもらったと感じている。

 

人生はライフコースではなくライフサイクル、そしてライフチェーンだ

子どもと過ごし、親の立場から子ども時代を追体験すると、人生が死に向かう直線的なものではなく、円環的なものとして捉えられる。

人生をライフコースと呼ぶのは適切ではなく、ライフサイクルと呼ぶのが適切だとも感じられる。

発達心理学の古典であるE.エリクソン『幼児期と社会』には、上掲のような年齢ごとの発達課題を示した図表が登場する。

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”幼児期には幼児期の、思春期には思春期の、前期成人期には前期成人期の発達課題がある”といった趣のこの表は、エリクソン自身の記述とはちょっと違ったかたちで一人歩きしてきた。

 

つまり、上掲の右側で×をつけて否定したように、彼の発達課題の図表を見て、人生の発達課題は階段状で、ひとつの段階をクリアしたらそれっきりの不可逆な進行だと考える人は少なくない。

だがエリクソン自身は、それぞれの時期の発達課題はあくまでその年齢における中心的課題であって、左側の図のように、それ以前~それ以後にも発達課題が潜在していて、まったく無視できるわけではない、といった風のことも述べている。

 

たとえば乳児期の発達課題は「基本的信頼」を母親(的養育者)との間で構築していくことだが、実際に子どもを育ててみると、1歳に近づく頃には次の発達課題である「自律性」が始まりつつあるのが感じられる。

あるいは前期成人期の発達課題である「親密さ」がうまくできるか否かは、それ以前の課題である「アイデンティティの構築」や「勤勉さ」や「自発性」などがどれぐらいできていたかにかなり左右される。

だから前期成人期における「親密さ」はその年頃の中心的かつタイムリーな課題として受け止めるぐらいが穏当で、それ以前の発達課題が無視できるようになったわけではない、と読むべきだろう。

 

そのうえ、親が子どもに関わっていると、親の発達課題が子どもの発達課題をとおしてリフレインされる。(下図)

上掲は、思春期の学生とずっと年下の幼児と祖母の発達課題が、それぞれに重なり合いながら進行しているさまを示したものだ。

 

たとえば子どもがまだ乳幼児期の頃には、親は親の立場から乳児期や幼児期をリフレインする。

このとき、親は乳幼児期を親の立場から追体験するだけでなく、親自身の「基本的信頼」や「自律性」や「自発性」の達成具合が子どものそれらの達成を助けるのか、それとも妨げるのかにかかわる変数となるだろう。親自身の乳幼児期の達成や未達成は、子育てにはなんらかのかたちで忍び込んでくる。

 

地域共同体や血縁共同体が健在だった頃は、親自身がそのように問われる度合いは低かっただろう。

なぜなら子育てはもっと集団的な営みだったからだ。

しかし核家族化が進んでいる現在は、親自身の発達課題の達成度合いは子どもの発達課題の達成難易度を相当左右するだろうと私は推定している。

 

図表のように、祖父母が健在なら、ここに祖父母までもが関わってくる。

祖父母が孫と一緒に過ごす時、彼らは半世紀以上前の子ども時代を、いわば三度目のものとして体験する。

 

老年期の発達課題は「統合」といわれ、やがて死んでいく自分自身と死後も残されるはずの世界とのつじつま合わせ的な一面もある。

そのつじつま合わせの作業に、三度目の子ども時代、ひいては自分よりもずっと未来を生きていく孫世代との関わりが果たす役割は小さくないように思える。

 

エリクソンの論述どおりに考えるなら、子どもの幼児期は親の幼児期でもあり祖父母の幼児期でもあり、世代間のかかわりをとおして人生は円環の理をなしている、ということになる。

乳児期や幼児期、ひいては子どもの時間全般は、子ども自身のものであると同時に親のものでもあり、うっすらと祖父母のものですらある。

元来は、そこに境目などなかったはずである。

 

だから、子ども世代、親世代、祖父母世代の人生はライフコース的ではなくライフサイクル的で、もっと言えばライフチェーン的だったはずなのだ。

子育てをとおして子どもと親と祖父母、それぞれの人生は接続しあい、グルグルと円環運動を続けてきた。

 

資本主義や個人主義に根差した人生観が直線的かつライフコース的であるのに対し、子育てにフォーカスした人生観はライフサイクル的・ライフチェーン的だ。

エリクソンを批判して「人生はライフサイクルではなくライフコースだ」と言い放った人々は、このことを忘れているか、忘れたふりをしようとしているように思う。

 

人ひとりの人生は一度きりだが、世代が連なれば人生はチェーンのように連なる。

地域の繋がりなどがあれば、その連なりは血縁の枠組みを越えて、横にも広がるだろう。

 

子ども時代は、形を変えて何度も蘇る。

子育ては、この、生物としての人間にとって当たり前だったはずのことを思い出しやすい活動で、自分の人生の過去と現在、それから死後の先の未来についてまで展望させる。

 

もし、このようなビジョンが昨今の思想的潮流のなかで忘れられているとしたら、大変な損失であるように思う。

現代人はもう一度、ライフサイクル、ひいてはライフチェーンをなんらかのかたちで思い出さなければならない。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Braedon McLeod

「お前にはこの美しさがわからないだろ?」

中学生ぐらいの頃、親にインドネシアに連れられて旅行に行った事があった。

 

その時に、棚田という山を階段状に切り崩して水田にし、米を育てている場所に連れて行かれたのだが、そこで親は僕に対して冒頭の言葉を投げかけた。

夕焼の空を背景に、金色の光が水田に降り注ぐその姿は、いま思うと確かに美しい自然の風景であったように思う。

 

しかしその当時の僕は、その光景が大変にツマラナイもので、親が何に惚けているのかが、サッパリ理解できなかった。

 

子供は山の景色を美しいと思わない?

ちょっと前に家族旅行に出かけた時の話だ。

その道中で田舎道の途中にポツンとあるベーカリーに立ち寄り、表のテラスで買ったパンを食べる事にした。

 

そこではまあ、美しい群馬の山々があり、僕は晴れたその天候の中でパンをかぶり付く事に、尋常じゃない喜びを感じていた。

一方で子供はまるで自然に興味を示さなかった。ふと、冒頭の場面が頭をよぎった僕は、子供に

「この山、美しくない?」

と聞いてみたのだが、子供は「全然そう思わない!ツマンナイ」と全力で言い放ち、ニンテンドースイッチのあつまれどうぶつの森に夢中になっていた。

 

自然は何も面白くない

ジブリの宮崎駿さんが、かつて「子供には野山で駆け巡って欲しいのに、自分が作ったトトロや天空の城ラピュタに夢中になって、家でテレビに夢中になっていると言われるのが辛いんだ」というような事を仰っているのをみた事がある。

 

こういう主張を宮崎駿さんがされる事は何となくわかるのだが、じゃあ自分が子供だった頃を振り返ってみると、ぶっちゃけまるで自然に興味など無かった。

 

子供の頃の僕は家でテレビやゲームに夢中だったし、漫画にも夢中になっていた。たまに自然を誰かに強制されて見にいかされる度に「なんでこんな退屈な場所に来なくちゃいけないんだ」と苦痛で苦痛で仕方がなかったぐらいである。

 

なんで自然が苦痛で、人工物は楽しかったのかを考えると、人工物はそこに意味が見出せたからだと思う。

テレビやゲームは何をすればよいのかを常に提示してくれたし、漫画はちゃんと次のページに人間を引きつけるぐらいには、キチンとしたストーリーや演出がある。

 

一方で自然はどうかというと、別にそこに派手な演出やストーリーはない。

厳密にいえば、ちゃんと歴史とか動物や植物とかに詳しくなれば、そこに何らかの意義は見いだせるのだが、子供がそんなものを知るわけがない。

 

意味や意義は考える人もいるし、考えない人もいる

個人的には、この演出とか意味に強くこだわるのは、僕自身の発達気質がだいぶ影響しているようには思う。

 

僕はどうも昔から意味とか意義のようなものに対して強いこだわりがあり、それが無いものに対して価値を感じられない傾向があった。

だから自分の行いは常に意味や意義を考え抜く傾向があったし、他人にもそれを強く求める傾向が高かった。

 

この気質は、こうやって文章を書いたりするのには強く役立つが、一方であまり難しい事を考えずに社会をやれてしまっている人や、権力をふりかざすタイプの人には嫌われる傾向が高かったように思う。

 

「うるさい、つべこべ言わずに、言われたことをやれ」

こういう事を言う人の事が、昔から本当に嫌いだった。

今はまあ、丸くなったのに加え、多くの人は僕のように全てのものに意味や意義を見出したいという狂った執着は持たないのだと理解したので、あまりカドを立てないようにしてはいるが。

 

人は、結論だけで生きている

脊髄反射という言葉がある。

かつて女の人が「私、生理的に受け付けない」と言ってキモい人間の事をバッサリと切り捨てているのをみた事があるが、僕はこの「生理的に受け付けない」という言葉が前から不思議だった。

 

そりゃ、僕にだって異性の好みみたいなのはある。

だからパット見で惹かれる人間もいれば、あんましタイプじゃないなーという人もいる。

 

じゃあタイプじゃない人間の事を好きになれないかというと、そんな事はない。

ちゃんと相手の事を理解さえすれば、だいたいの人の事は、僕は好きにはなれた。

 

意味や意義さえ感じられれば、ありとあらゆる苦行であっても僕は遂行する事はできる。

だから、生理的に無理だという主張は、単なる自分の努力不足を誤魔化しているだけのようにしか、感じられなかったのである。

 

快・不快の脊髄反射で人は動く

しかしそれから長い年月を経て、僕は「別に異性の好みに限った話ではなく、多くの人は脊髄反射だけで快・不快をベースに動いているだけだ」という事を徐々に理解するようになった。

 

耳に心地よい音楽が”いい”音楽である事は誰もが疑わないと思うが、これが耳に心地よい”言葉”だとどうだろうか?

 

「カッコいい!」あるいは「カワイイ」でもいいが、こういう言葉を言われて悪い気持ちになる人間なんて、ほとんどいない。

逆に「頭悪い」とか「ブサイク」という言葉を、不快感なしに受け入れられる人間はほとんどいない。

 

この事から分かる通り、人は何らかの刺激に対して、常に快あるいは不快の反応を発生させて生きている。

そしてその刺激に対して一定の脊髄反射が発生しており、そこから次の行動を発生させて生きている。

 

人は幸福になるためには生きてはいない?

この事自体は単なる現象を切り取った説明に過ぎないが、じゃあこれを積分させるとどうなるだろうか?

前から思っていたのだが、人間は口ではみな「幸せになりたい」というのに、どう考えても幸せになろうという行為を主目的には誰も動いてはいないのである。

 

この言行不一致が僕は前から不思議で仕方がなかったのだが、最近になって「人間の行動ベースは快・不快を総合させた積分量にある」事にふと気がついた。

 

例えばちょっと前にストロングゼロが覚醒剤よりもキくなんていう発言をインターネット上でみかけた事があった。

その発言者は確かちょっと社会的にシンドそうな立場にいる人だったように記憶しているのだが、その人にとってストゼロは確かに辛いことを緩和させてくれるような作用があるだろうな、とは何となく思いはした。

 

不快だけにとどまる事は、人間には難しい

精神科医の松本俊彦氏は薬物などの依存症を「意志の弱さ」ではなく「生きる苦痛を緩和するための病気(慢性疾患)」と主張するが、自分も辛いことから逃げ出したい時ほど、快楽を強く追い求める傾向は高かったなと思う。

 

そもそも僕は快楽がかなり好きな人間であった。

性的快楽は言わずもがな、美食やサウナ、ランナーズ・ハイのような、気持ちのよいとされるタイプのものがあれば、どれも積極的に突き進んでいたように思う。

 

しかし今の僕は快楽にはさして興味が無い。これは単に中年になって心が摩耗したというのもあるとは思うが、それ以上に「生きるのが楽になったので、心にカンフル剤をわざわざ打ち込む必要がない」というのが大きいように思う。

 

僕は少し前に「多くの人間は、結論だけで生きている」と書いたが、そういう意味では僕は「生きる事自体が苦しすぎるので、快楽による除痛」を目的として”生きていた”。

 

しかし生きる事が苦しくなくなった僕は、快楽は快楽として過度に神聖視しなくなった。

今でも性的快楽にしろ美食にしろアルコールによる陶酔にしろランナーズ・ハイにしろサウナでのととのいにしろ、やればちゃんと「気持ちはいい」のだが、心の痛みに対して鎮痛剤として「無くてはならないもの」としては欲してはいない。

 

そう、かつての僕は苦しさから逃げ出すのを目的に生きていたのである。自分はちゃんと物事に意義や意味を見出すタイプの人間だと思っていたが、肝心の自分自身の行動原理について理解したのは、40年もの月日が必要であったわけだ。

 

退屈さを、愛せるようになった

冒頭の自然の話に戻ろう。

今の僕が自然に美しさを見いだせるようになったのは、一つには加齢に伴う知識による補正が働いているのだとは思う。

 

赤城山という名前を知ることで読みとける景色の情報量は、なにも知らない子供の脳とは前提条件が異なる。

大人の僕にとっては興味深い景色も、子供にとっては単なる起伏でしかない。そして単なる起伏に、面白さは無い。

 

だが、それ以上に影響しているであろう事は、大人としても僕の感性が、素直な子供と比較してヒネクレているという事があるように思う。

良くも悪くも、大人の世界は擦り切れている。単純な勧善懲悪のような分かりやすい世界ではこの世はなく、故に僕はこの世界をとても曲がったものとして、当たり前のように受け入れている。

 

そういう歪んだ眼鏡をかけて生きている今の僕にとって、ありのままの自然法則を堂々と提示される事は、なんていうか曲がった心を真っ直ぐに伸ばしてもらえるような、不思議な清涼感が感じられるのである。

 

そこにあるのは、ある意味では演出やストーリーとは無関係な、退屈な世界である。

赤城山が割れて中から世界の巨悪が出現したり、あるいは天から天使が舞い降りてきたりだなんていう”余計さ”はありえないし、特に必要はしない。

 

むしろ逆だ。退屈だからこそ、いいのである。その退屈さが、心にとても、響くのだ。

ひねくれる事なく、退屈に退屈に日々を堅実に積み重ねるその所業こそが、わかりやすい興味深いイベントに満ち溢れた刺激的な日々よりも尊く感じる。

 

そういう”結論”でもって生きる事を全力で肯定できるようになった事に、僕は喜びを感じるのである。

 

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

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とある殺人事件の途中経過

2026年3月の終わりから4月にかけて、ある事件が世の中を騒がせた。……と、書くべきなのかもしれないが、事件の内容に触れるので、はっきり書く。

京都府南丹市で男子小学6年生が行方不明になり、結果として継父(この件についてはあとで触れるのであえてこう書く)が逮捕された事件だ。

 

結果として? 結果というのはおかしい。まだ裁判すら始まっていない。おれは推定無罪というものを大切なものだと思っている。なので、表現には気をつけたい。

とはいえ、これを書いている現時点では、逮捕が最新の情報だ。そして、殺人に関与したという供述があったという報道。

 

もちろん、警察のリーク情報がどこまで正しいかなんてわかりはしない。

おれはそんなに警察もマスメディアも信用していない。

 

でも、語るうえでその情報を自分が知っているということをごまかすわけにもいかない。

これから書くことが、その流れに乗ってしまう可能性を最初に警告しておきたい。

 

もちろん、今後の捜査の進展や、あるいは裁判でまったくべつの事実がわかる可能性もある。

ただ、今回おれが書きたいのは「事件の真相」の話ではない。なので、この時点で書きたいものを書く。それに「事件の真相」はあまり関係ない。

 

おれとワイドショー

さて、おれはこの事件、発端はよく知らない。気づいたら、なにか世の中で小学生が行方不明になっていた。

テレビで、行方不明者の服の特徴と、山だか森だかの映像を見た。「山だか森だかは行方不明になるとたいへんだからな」とか、そんなことを思った。

 

……が、おれはいま、週の半分くらいリモートワークをしている。

希少がんとその治療の後遺症みたいなものがある。体調が悪いと出社できない。もとから精神疾患で午後から出社があたりまえになったりしていたが。まあ、人生初リモートワークだ。

 

で、リモートワークをしながら、テレビを垂れ流しにしている。

そして、ワイドショーが垂れ流しになっている時間が多い。

 

世の中にはワイドショーが多い。一時期減ったとかいう噂を聞いたが、想像以上にワイドショーだらけだった。

夕方のニュースとかいうものも、えらく長時間になって、ワイドショーと見分けがつかない。

平日にテレビを見ない人が想像する以上に多いと思う。もっとも、いまどきテレビなんて持ってない人も多いだろう。

 

で、おれはどうもこの行方不明事件の報道量がちょっとすごいな、とようやく気づいた。

なにやら、ちょっと不自然な感じでランリック(ランリュックとも……というランドセルにかわる通学用バッグ。わりと歴史がある。世の中、ランドセルやめてみんなこれにすればいいのにと思ったが、まあ今回は関係ない)が見つかったりしたらしい。

ミステリー的に話題になっているのか? それとも劇場型犯罪なのか?

 

そう思ったが、ネットで見てみると、どうも継父が盛大に疑われていた。

なにか状況的にいろいろ考えると、怪しいぞということだった。かなり決めつけに近い書き込みもあった。

 

え、そうなの? おれがテレビを見ている分には、そんな情報ぜんぜんなかったぞ。

マスメディアとネットの情報に乖離があった。おれはそう感じたので書いておく。

 

それで、ちょうどリモートワークしているときに事件に進展があって、「ご遺体」(と、テレビは言うのだが、昔から使ってきた言葉だったろうか?)が見つかり、継父が逮捕されるにいたった。

それはもうすごい情報量だった。夜のニュース(報道ステーション)でも30分以上やっていたんじゃないだろうか。

おれはそんななか、ほかならぬワイドショーの中で、報道のあり方に対する二つの異議を見た。

 

「報じない」という選択がもたらすもの

一つ目は、「マスメディアが報じないこと」についての異議だった。

コメンテーターとして出演していた、どこかの大学の女性教授で、たぶん弁護士の資格も持っている人のコメントだったと思う。父親の逮捕後のコメントだった。

曰く、「マスメディアが家族や継父の件についてまったく報道しないことで、逆にネット上で不確定でいいかげんな情報が氾濫している」と。

 

マスメディアも継父に対して疑いを持ち、たくさんの取材を進めていたのは確かだろう。

逮捕されたと同時に大量の情報が放出されたからだ。

そこまでいろいろなことを調べておきながら、今回の事件については、普通の殺人事件ではありえないほどに被害者の家族関係に触れていなかった。不自然なほどに触れていなかった。あるていど確定して問題のない情報は出すのが、メディアの役割ではないのかと。

 

さきほど書いた通り、おれはテレビ報道ばかり見て、そのあとネットの情報に触れて、その落差に驚いた。

なので、テレビが不自然なまでに最後の目撃者であり、被害者を車で送っていた継父に触れていないのは、確かだ。

 

そして、ネットで不確定情報が溢れていたのも本当だ。その多くは継父を犯人視するものであったが、なかには継父の国籍がどうこうという話まで出ていた。

結果的に(あくまで逮捕まで、だが)、前者のネット探偵の推理は正しかった。一方で、国籍がどうのこうの、具体的に言ってしまえば中国籍だという説は、現時点ではどうもデマの可能性が高いように思える。

 

もちろん、メディアが継父の国籍を調べ上げているかどうかわからないのでなんとも言えない。

ただ、あまりにも報じなさすぎるために、その不自然な空白が、たとえば犯人であることの確定情報としてネットを駆け巡ってしまったのは否めないかもしれない。

もちろん、情報を出すことで、火に油という可能性もある。むずかしいところだが、マスメディアとネット、情報がどうあるべきか考えることはたくさんあるだろう。

 

事件の詳細を報道する「メリット」とは?

二つ目は、「事件を詳細に報道して視聴者がえるメリットはなにか?」という問いだった。

これは、脳科学者の中野信子さんによる発言だった。

「中野信子だったかな?」と思っていたが、なかなかインパクトのある発言だったので、発言がネットにまとめられていたので確定情報として書く。新聞記事にもなっていた。

これに中野氏は「これは本当に嫌なニュースで、なるべく見ないようにしていた」といい「いつ、どこで亡くなったか興味があるかもしれないが、分かったところでなんなのよ、と思う」とコメント。

そして「このニュースをお届けする側に立っているものが言うべきではないかもしれないが」と前置きし、「見ている方は、このニュースを見て得られるメリットって何かしらと思ってしまう」とも吐露。

「お母さんは子供がいたら再婚するなっていうメッセージなんでしょうか。それともお父さんは子供を殺すなよってことですか?」と訴え「私はちょっとそういうの、どうかと思いますし、この事件が多くの人に知られている事件ですが、再婚して幸せに暮らしている人もいっぱいいるでしょうに。

再婚している人は皆そういう目で見られるんでしょうか。野次馬根性を満足させるためだけのニュースならどうかと思う」と語った。
デイリー

この発言をしているときの中野氏は、かなり悲痛な表情をして、悲痛な語り方をしていた。

悲痛というのが正確かわからない。「泣きそうな」が近いかもしれない。

 

ともかく、おれはこの発言を見て、「おお、よく言った」と思った。

おれが同意するのは、「分かったところでなんなのよ」というところだ。

 

これはおれがそれこそ子供のころからといっていいほど昔から思っていたことだ。

殺人事件があった。たとえばそれは男女の痴情のもつれの結果だとする。

それについて、事細かに報じる理由はどこにあるのだろうか? それを聞いた人間はなにを思うべきなのだろうか? 暴力はよくないです?

 

たとえば、ある詐欺の手法が多くの人に被害を与えている。それなら、詳細を報じる必要がある。

その手法を周知させることによって、新たな被害が防げるからだ。

 

あるいは、介護殺人が増えている、というニュースならどうだろう。

これも一つの社会問題として、介護退職や老老介護の問題などについて人々に示唆を与える。場合によっては福祉の制度を改正する道につながるかもしれない。

ストーカー殺人のニュースも、色恋営業からの刃傷沙汰も警察の対応を変えたかもしれない。そう、ときには法律が変わるきっかけになるかもしれない。

 

で、この事件になにかそういうメリットはあるのだろうか。おれにはないように感じられた。

まあ、行方不明の小学生がいる、ということを報じることは情報を集めるのに役に立つだろう。だが、継父が殺人の犯人かもしれないということになんのメリットがあるのか。

 

これについて、Yahoo!ニュースで「シンママ」(シングルマザー)の恋愛や結婚を否定する流れになってはならない、というような内容の記事が出た。

それに対する、ヤフコメの反応はどうだったろうか。

 

ほとんどが「シングルマザーは恋愛も結婚もするべきではない」という意見で埋め尽くされていた。

たまに継父が連れ子を虐待したり殺害したりことをあげつらい、シンママは自分一人で子供を育てるだけの技能、才能、努力が必要であると言う意見だらけであった。中野信子の懸念どおりではないか。

 

ちなみに、おれはこのシングルマザー批判はまったく想像していなかった。想像力の欠如だ。

そして、こんなところに人のヘイトが火を吹くのかということも想像できなかった。とはいえ、「法律的に規制するほど事件発生率が高い」というのであれば、それも一つの議論だろうが。

 

いずれにせよ、「なんのメリットがあるのか」というのも一つの問いだ。

そもそも報道とはなんのためにあるのか、メリットのためなのか、という問いもありうるだろう。

でもまあ、できれば広く社会にとってなにかメリットがあったほうがいいようには思う。少なくともだれかが報道で傷つくのはよくない。

 

人ひとりの死を報じ、論じることについて

また、一つおれは思ったことがある。この間、一冊の本を読んだ。東浩紀の『平和と愚かさ』という本だ。その本の主題については前に書いた。

おれはけちなので一冊の本からいろいろなことを取り出す。

 

おれが事件のニュースを見ていて思ったのは、批評家の笠井潔の探偵小説についての主張を紹介したこの部分だ。

探偵小説の起源は、一般には一九世紀前半のエドガー・アラン・ポーに求められる。けれども笠井によれば、ほんとうの起源は第一次世界大戦にある。

第一次世界大戦は人類がはじめて経験した総力戦であり、多くの人々が殺された。無数の人々が、集団的に、匿名的に、本論でここまで使ってきた言葉でいえば、まさに「ゴミのように」殺された。

笠井はその言葉を「大量死」と呼び、探偵小説はその経験への抵抗として生まれたジャンルだと主張している。彼はつぎのように記している。「戦場の現代的な大量死の経験は、もはや過去のものかもしれない尊厳ある、固有の人間の死を、フィクションとして復権させるように敷いた。

機関銃や毒ガスで大量殺戮され、血みどろの肉屑と化した塹壕の死者に比較して、本格ミステリの死者は、二重の光輪に飾られた選ばれた死者である。

犯人による、巧緻をきわめた犯行計画という第一の光輪、それを解明する探偵の、精緻きわまれない推理という第二の光輪。第一次世界大戦後の読者が本格ミステリを熱狂的に歓迎したのは、現代的な匿名の死の必然性に、それが虚構的にせよ渾身の力で抵抗していたからではないか」。

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おれはべつに、現実に起きた殺人事件(であろう)を、ミステリとして見ているわけではない。

ただ、大量死に対する固有の死というものを思い浮かべた(さらに話を進めた「大量生」の話にはここでは触れない)。

 

さきほどおれは、痴情のもつれのような殺人事件を報じるにどれだけの価値があるのか、と書いた。

しかし、一方でそれは大量死ではない死にほかならないのも確かだろう。だからといって、光輪のある死とは決して言わぬ。言わぬが、一つの死を軽んじることもまたなにか違うのか? という気になった。

そしておれは、言語の壁が崩されたX(これついてはまたなにか書きたい)で見かけたポストを思い浮かべた。

ねえ、俺はマフディ、22歳だ。ガザで死にたくないし、俺はただの数字じゃない。ただ、良い人生を歩みたいだけなんだ。

AIによって翻訳された言葉に、一人の青年の自撮りが添えられていた。「俺はただの数字じゃない」。

 

ガザで行われていることが国際法的にジェノサイドにあたるのかどうかおれにはわからない。ただ、おれはジェノサイドだと思っている。

マフディが直面しているのは、自分一人の死であると同時に、数字として処理されてしまう大量死の一つだ。もちろん、人は固有の死であれ、大量死の一つであれ、殺されたくはない。良い人生を歩みたい。それはマフディも、京都で亡くなった中学生も一緒だ。

 

今の日本国内に大量死は存在していないといっていい。でも、世界では違う。

そこでわれわれは人の死をどう扱うべきなのだろうか。どう思うべきなのだろうか。

 

マスコミはそこまで考えて、人の死を報じてほしい。大手のマスコミを「オールドメディア」などと揶揄する言葉も多く見るが、今のところ事件をリアルに取材して、報じられるのはマスコミだけだ(迷惑系YouTuberの突撃がその代わりになるとは思えないが)。

そのバランスを間違えないかぎり、マスコミには存在価値があるし、そうあってほしいと思う。

 

たとえば、今回は「報じなさすぎる」という意味で逆に目立たせてしまったが、誰かを犯人と決めつけて報道する、メディアスクラムみたいなものは、松本サリン事件や和歌山のヒ素カレー事件のときからはよくなっているとはいえる。

 

今回、ワイドショーで中の人からの批判も見た。それを予定調和という人もいるかもしれないが、やはりそれでも中から批判が出るのはいいことだろう。

少なくともおれは、「本日、某県で殺人事件があり、容疑者が逮捕されました。事件の詳細は伏せさせていただきます」というニュースだけの世界は、警察権力へ国民の監視が成り立たないという意味でよくないと思う。

かといって行き過ぎもよくない。そのバランスは難しい。最適解があるのかも想像はつかない。でも、なんとかやってほしい。

 

そして、インターネット、SNSというものによって、ひとりひとりがメディアとなったわれわれも、なにをどう表現し、発信するのか、しないのか、それも突きつけられている。

おれがここに書いたことは大きな誤りかもしれない。だとすれば、これを踏み台に、大いに論じてよい方向に進めばいいと思う。

 

たぶん、それしかない。それくらいしか「メリット」はない。

そう思っている。

 

 

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【著者プロフィール】

黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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この記事で書きたいのは、大体以下のようなことです。

 

・昔の部下に、「他者への連絡・相談」が絡むタスクを必ず遅らせてしまう人がいました

・「叱られないか、どう反応されるかに対する不安」「相手の時間を奪ってしまうことへの罪悪感」「相談するタイミングの見極めが苦手」「過去の上司に対話を拒絶された経験」などが主な問題だったようです

・心理面とインフラ面の両方から、なんとか解決できないか、上司・同僚として色々試行錯誤しました

・しんざきのチーム内で一番効果があったのは「エスカレーションの単純化」と「エスカレーションルールの設定と周囲への共有」でした

・「部下のコミュニケーションコストをどう下げるか」というのはマネージャーにとって重要な仕事のひとつです

・一方、「連絡・相談が気軽にできる」というのが、ビジネスパーソンとして非常に強力なスキルになることも確かです

・特に4月からの新人の皆様には、「こまめな相談・連絡は何より自分を守るためのもの」「新人期間は、相談スキルを身につけるための無敵タイム」ということを覚えておいていただきたいです

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

何度か書いているんですが、しんざきはDBを中心に色々やるITエンジニアです。部下をマネジメントしつつ自分でもタスクをこなす、いわゆるプレイングマネージャーの立場で20年近く働いています。

 

とはいえ最近はDBというよりクラウド絡みの仕事ばっかりやってまして、

「えっ!?メインフレームで独自実装してたレガシーシステムをモダナイズしつつ四カ月でフルクラウドに!?」「できらあっ!!」

みたいな会話してるところに横から慌てて突っ込みを入れる仕事で主に生計を立てています。

ドキュメント皆無なのに大丈夫なのかな、あのシステム。

 

それはそうと。皆さん、「他人への連絡・相談」ってお得意でしょうか?

例えば、

ドキュメントの不明点についての確認。

スケジュール調整とミーティング設定。

他部署との利害調整と依頼前の頭出し。

単なる進捗の報告から資料のレビュー依頼まで、「人への連絡・相談」が絡むタスクというものは、仕事をしていれば山ほど発生します。

 

もちろん人によって、業種によって、タスクによって全然変わってくる話ではあるのですが、しんざきの経験上は、「連絡・相談」が絡むタスクの得意不得意って、人によってだいぶ違いがあるような気がしています。

 

かつ、(私も含め)どちらかというと連絡・相談に苦手意識、心理的障壁がある人の方が多いような気がしています。

報連相、「社会人の基本」みたいな顔してますけど、案外難易度高いスキルですよね。

 

そりゃ、「報連相してもただ聞き流すだけで、なんのフォローもしてくれない」なんてなったら連絡も相談もしたくなくなります。そりゃそうです。

 

***

 

さて。

昔私がいた会社で、「連絡が絡むタスクが極端に苦手」という人がいました。仮に名前をAさんとします。当時3~4年目くらいだったでしょうか。

 

単にタスク遂行速度の話であれば、速い人も遅い人もいるのですが、Aさんの特徴的な点は、

「人との連絡や相談が絡むタスクと、そうでないタスクのスピードにものすごい落差がある」ことでした。

 

例えば定型の事務処理とか、ドキュメントの整理とか、独力で片付けられる仕事なら、Aさんは何の問題もなく、前倒し気味にどんどん仕事を進められるのです。

 

ただ、「誰かに連絡・相談しないといけない」というタスクについては、必ず後回しにしてしまい、大抵の場合期限から大幅に遅らせてしまうという傾向がありました。

特に、「自分が作った成果物のレビューを受ける」という段階になるとその傾向が顕著で、手元で抱えたまま何の報告もせず、気付いたら当初の予定から2週間遅延、なんてこともありました。

 

これ、管理側として、いくつか選択肢はあるんですよ。

 

もちろん、「単純に管理強度を上げて、細かい進捗まで逐一見る」という手段は、大変ですけどまあ、解決方法として成立します。

Aさんが明確に「ひとりで完結しないタスク」を苦手としているのは確かなので、「そういう仕事は可能な限り回さない」という選択肢も、もちろんあったでしょう。

 

ただ、「完全にひとりで完結するタスク」ってとても幅が狭いですし、定年間近な人ならまだしも、社会人としてまだまだこれからのAさんにとって、「できるタスクが超限定される」という状況も、その状況に慣れてしまうのもあまりよくないことです。

 

「連絡が苦手」という人の中には、成功体験を積むことで改善する人も、「コツさえつかめばできるようになる」という人もいます。

本人と話してみると、Aさん自身「ダメなのは分かっているんだけど、つい遅れてしまって……」という感じだったので、なんとかできないかなーと色々試行錯誤しました。

 

***

 

Aさんと話したり、Aさんの仕事の傾向を観察していてちょっとずつわかったことなんですが、Aさんが「連絡・相談」タスクを遅らせてしまう理由には、大きく5つくらいがあるようでした。

 

1.叱られないか、どう反応されるかに対する不安
2.相手の時間を奪ってしまうことへの罪悪感
3.相談するタイミングの見極めが苦手
4.相談内容を言語化するのが苦手
5.相談しても状況が改善しないことによる学習性の無力感

 

1つめとして、何と言っても「叱られることを想像してしまう」こと。

2,3とも関連するんですが、とにかく「こんなこと言って怒られないかな、呆れられないかな」という恐怖や不安がとにかく大きいんですよね。

もちろん、叱られるのは誰にとってもイヤなことですが、Aさんの場合、後述の経験もあってか、特に「こんなことも分からないの?」的な反応を受けることに対する不安感、恐怖感が大きいようでした。

 

2つめと3つめは関連しているんですが、「相手の状況を見極めようとし過ぎてしまうこと」。

もちろん「相談」というのは、一時的には相手に時間をとってもらうことですし、忙しそうにしている人には話しかけにくいし、メールやチャットで時間を奪うのも申し訳ない。

そういう心理的な遠慮が働いてしまう点も大きいようでした。

 

あと、特にPC仕事だと「相手が何の作業をやってるのかよくわからん」という状況も頻繁にありますし、そこで「今相手にコンタクトをとるのは正解なのか?」という疑問が大きくなってしまうことが、Aさんの抱える問題の一つのようでした。

 

更に、「相談」って、しないまま時間が経てば経つほどしにくくなっていくものなんですよね。

「なんでいままで言わなかったの!?」とか、「こんなに時間かけてこの状態!?」とか言われるんじゃないか、という恐怖感がどんどん大きくなってしまう。「相談できなかった」ことが、そのまま不安を蓄積させていくわけです。

 

4点目、そもそも「何を相談すればいいんだ?」というのを言葉にするのが苦手。

まあ、これは仕方ないこともありまして、「分からないこと」「煮詰まっていないこと」は、相手に伝わるように言語化すること自体が一苦労でして、これを解決するには「慣れる」しかありません。ある程度ベテランの人でも、「分からない」を言葉にするのが苦手な人は全然います。

 

5点目として、私以前の上司のスタンスが問題になっている部分も大きいように見えました。

相談してみたものの、「そんなこと自分で判断しろ」と言われてしまう。あるいは、進捗遅れに対してフォローしてもらえない、他部署との調整をエスカレーションしてくれない。「相談」に対する失敗体験ですね。これが、1点目の「相談することに対する恐怖感」を助長しているように見えました。

 

この辺、単に「私はちゃんとやるから相談してくださいね」のひとことで済めば問題ないんですが、そこそこ根深い問題のような気がしたので、色々と対策を試行錯誤してみることにしました。

 

***

 

大きく考えた方針は三点で、

・「連絡・相談に対する心理的負荷をなるべく減らして、相手の反応を警戒しなくて済むようにする」
・「連絡・相談自体を「ルール」として部署全体で共有して、他のメンバー含めて「相談するのが当然」という状況にする」
・「相談してうまくいった、という成功体験を積んでもらう」

この三つを実現できる方法を色々考えました。

 

当時はまだコロナ以前の話で、チャットソフトによる業務的なやり取りがまだそこまで一般的にはなっていなかったのですが、例えば「相談アリ/なし」というトリガーだけを伝えられるチャットルームを用意して、中身については私(上司)が自分から確認にいく、というシステムにしてみました。

 

これなら、相手が都合のいい時に見に来てくれるので、「相手の時間を奪ってしまう」という不安はだいぶ軽減されます。

また、「分からない」自体を言語化しなくても、ヒアリングでこちらから補助しつつ徐々に拾ってあげられるので、言語化の練習にもなるかなーと思いました。

 

また、相談や連絡について、エスカレーション自体にルールを設けました。「10分考えて結論が出なければエスカレーションする」とか、「自分一人で解決しないタスクについては、最初からチャットのメンバーに関連メンバーを入れておく」とか、そういうのです。

これ、「ルールとして全体に周知」というのが重要で、自分だけでなく相手も「ルール」として認識しているので、「連絡したら怒られる」という不安はかなり軽減されます。「だってルールだし」の精神です。

 

あとは、もちろん口頭でも色々話しました。

「相談っていうのは、何より自分を守るためのことですよ」とは、結構口酸っぱく言ったような記憶があります。

つまり、相談しないで自分一人で抱えてしまうと、それは自分の責任になってしまう。相談して、相手にも状況を周知しておくことで、相手にも責任を共有することができる。

 

上司なんて責任を押し付けるためにいるんだから、がりがり相談してもらって構いません、とかいった記憶があります。

 

「40%の出来でもってきてください」とも言いました。「完成形」までもっていくのって物凄く大変ですし、人に見せる時の心理的ハードルも上がるので、先に「30~40%」と指定してしまうことで、速いうちに方向性の修正をする練習ができないかなーと思いました。

 

コロナ後、リモートワークが主体になってからは、割と普通に行われることも多くなったような気はしますが、当時は「何が利くのかなー?」とあれこれ悩みながら色々やりました。

 

***

 

色々やっているうちに、Aさんの状況についてはちょっとずつ改善していって、普通の連絡・相談タスクならほぼ遅れない、くらいにはなったように思います。

この時、Aさんの場合は「ルール化」の影響が一番大きかったようには思えまして、「もうルールとして決まっているならやるしかない、相手が怒ったとしても自分のせいじゃない」というように頭を切り替えることに成功したみたいです。

 

相談自体を「ナシ/あり」のスイッチだけにする、というのもそこそこ大きかったのか、とは思います。やっぱり「相談内容を言語化する」って大変ですしね。

この辺、何が刺さるかってのは人それぞれなので、単純に色々試したのが良かったんだと思うんですが、「気軽に相談できるインフラを整える」っていうのは、上司の重要な仕事の一つだよなーと考えた次第です。

 

上でも書きましたが、コロナ以降、リモートワークがメインになって、この辺の「連絡・相談」の事情もだいぶ変わりました。

連絡自体のコストはだいぶ下がっている一方、「相談しなければいけない点の言語化」についてのハードルはむしろ上がっているような気がします。

チャットソフトで、「何を相談しなければいけないか」というのを整理するのって多分滅茶苦茶大変で、そのためだけに生成AI使うのもナシではないと思うんですが、ここ最近でも手こずっている人は多くみられます。

 

自分の手が届く範囲ではなるべくフォロー・サポートしつつ、皆が気軽に相談できる環境が作れるといいなあ、と思っている次第なのです。

 

***

 

ここから先は、私の話というより、この四月から新社会人になった皆様へのおっさんからの助言、という感じなのですが、

・「進んでない」とか「うまくいってない」というのは、一番言いにくいですが、上司にとって一番重要な情報です
・新人の内は進んでないっつっても大した影響が出ることはないので、遠慮なく「進んでません」と言える練習をしておいた方が良いです
・上司が相談しにくい人であれば、他に相談しやすい人をみつけておくのが良いです
・なによりも自分を守るために、気軽に軽率に「連絡・相談」していきましょう

以上になります。

 

とにかく、「連絡・相談」が苦手だと何が起きるかっていうと、「色んなことを抱え込みやすくなってしまうし、問題が大きくなるまで発覚しなくなってしまう」んですよね。

そこをなんとかするのは上司の仕事ではあるんですが、それでも上司の目が常に全体に行き届いているかっていうとそうでもないので、問題をなるべく小さいうちに人に投げられるに越したことはありません。

 

マネジメント上、一番困るのは「実は進んでませんでした」ということを知るのが遅くなることで、フォローのための手段がどんどん限定されていきます。

だからこそ、まだ芽が小さい内から気軽に「ごめんなさい進んでないです」と言えるのが良いですし、それが一番上司も助かります。

 

新人期間というのは、「どんな大失敗しても業務にクリティカルな影響を与えることは(普通は)ない」という、一種の無敵期間なので、この無敵タイムの間に、是非「気軽に相談できる」という社会人としての重要な強みを身につけていっていただければ、と考える次第なのです。

 

まあ、社会は広いので、中にはいきなり金融機関の結構重要な現場に配属されて、失敗したら即プロジェクトにでかめなダメージが発生する仕事を押し付けられる、みたいな例もあるみたいですが(私とか)。

そういう会社とは付き合い方自体を考えるべきなので、相談連絡自体の重要性が下がる話ではありません。気楽にいきましょう。

 

ということで、4月からの新人さんにもそうでない人にも、「気軽にエスカレーションしつつ楽しく働きましょう」という程度の結論をもって、この記事を閉じたいと考える次第なのです。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

コンサルタント、という仕事は、初対面の、様々な人と話すことが必要な職業です。

しかし、不特定多数を相手にする接客業(例えばホテルや飲食店)が接客する相手を自由に選ぶことができないように、コンサルタントも大体において「話をしなければならない人」は、自分で選べません。

 

どんな嫌味な人であっても。

どんなに話を聞かない人でも。

どんなにワガママな人でも。

「その人に合わせた対応」を、その場で考えて行う必要があります。

 

しかし、私が個人的に苦手だったのは、上のような人々ではありませんでした。

正直なところ、話を聞かなかったり、ワガママであったりする人でも、「接し方」のコツさえわかってしまえば、対して困ることはありません。

 

それよりもずっと難しいのが「賢い人たち」と話すことです。

 

賢い人は、怖い

「本当に賢い人」に接したことはあるでしょうか。

 

別に「IQが高い」とか、「勉強ができる」とか、そういった話ではありません。

そういう人は、正直なところ、世の中に結構います。

 

では、最も希少で、最も「賢い人たち」は、どのような人たちか。

それは、人の心理を読むのことに、異常に長けた人たちです。

 

人の心理をコントロールして、大きな組織をつくります。

人々に支持される、それでいて独創性のある作品を作ります。

世の中で何が売れるのかを察することができます。

目の前の相手を安心させます。

つながりを作るのがうまく、強力な人的ネットワークを持っています。

 

そして、彼らの最も大きな特性として、

「こちらの考えていることは見透かされてしまうのに、相手の考えていることはわからない」

があります。

 

私は何度か、そういう人に出会いました。

例えば、こんなことがありました。

 

「管理職育成プログラム」の一環で、合計で10人ほどの管理職に対して、インタビューを行ったときのことです。

私は管理職たちに部署の課題や人事の悩みを聞き、あるいはその内容から、管理職としての適性を量る、といった任務を与えられていました。

 

インタビューは全員に対して、ほぼ同じ設問で行われます。

回答の内容のばらつきを抑え、比較をしやすくするためです。

 

私が怖いな、と思ったのは、5人目くらいの方だったと思います。

私が部署の課題について尋ね、目標の達成状況について聞き取りを行い、内容をメモして、

「何か質問はありますか?」と聞きました。

 

すると、その方はこう言いました。

「そうですね……、安達さんの仕事って、何をすることなの?」

 

私は答えました。

「貴社から頂いたテーマがこちらです」

そして、「管理職育成」プロジェクトの資料を見せました。

 

すると彼はこう言いました。

「うんうん、それは知ってます。でも、私の質問の回答にはなってないですよね?」

 

*

 

こういうインタビューでは、

「用心深く、ほとんど話をしてくれない人」

「こちらを敵視する人」

「俺は優秀だぞアピールをする人」

「見下してくる人」

「無関心な人」

というのは、数多くいます。

 

彼らはみんな、「自分」しか見えていない。

話し相手については、全く興味がないのです。

そして、そういう人の扱いは、簡単です。

彼らが望むような回答をすればいい。

 

しかし、賢い人の多くは、相手自体に興味をもち、探ろうとしています。

そして、「あなたと話す価値はあるの?」と、こっそりと、逆に値踏みしてくるのです。

しかも、表面的にはとても紳士的にふるまうので、腹の中が読めない。

 

上の彼が聞きたいのはありきたりの「プロジェクトの内容」ではありませんでした。

私がどのような人間で、どのような基準で仕事をしているのか、それを返答から知ろうとしていたのです。

 

具体的には、

・どんな管理職を「優秀だ」と思っているのか

・どんな行動を「良い」と思っているのか

といった、私の「個人的な考え方」に属するようなことです。

これは非常にこたえづらい。

 

当時の我々の考え方として、上のような話は、そもそもコンサルタントが決めるものではありませんでした。

・経営者がどう思うか?

・現状の評価基準がどうなっているか?

・一般的な評価基準に照らし合わせた時にどうか?

・他社ではどうか?

などの基準を総合的に加味して、最終的には、その会社自身が決めるものだとしていました。

我々の役割は、事実の収集と、その話の内容の報告です。

 

その話をしたところ、彼は言いました。

「でもさ、安達さんだって、いろいろ話を聞いて、「この人は優秀だなあ」とか、思うんでしょ?そっちのほうに興味があるんだけど。」

 

彼は背景を知りつつ、私にあえて、「個人的にはどう思う?」と、聞いたのでしょう。

 

ただ、私は、そのような場合に「リスク回避的な回答」をするように訓練されていましたので、

「それは、私が決めることではないと思います。」

と答えました。

 

彼はちょっと笑って

「ごめんね、安達さんと話したくてね。」

と言いました。

 

私は戦慄しました。

人当たりがいいのに「実はものすごく怖い人たち」」の気配を感じたからです。

話を続けるとおそらく、「彼の思い通りに話を引き出されてしまう」でしょう。

 

「隠し事」ができない

子供がいる人ならわかると思いますが、子供の隠し事は稚拙です。

言動や、様子から「何を隠しているか」は、親からすればすぐに読めてしまう。

 

おそらく、それと同じことです。

私が何を考えているか、彼には簡単に読めたことでしょう。

 

繰り返しますが、この「こっちからは相手が何を考えているかわからないが、相手からは簡単に読まれてしまう」

という状態が、「賢い人の怖さ」の正体です。

 

例えば、世界一の名探偵、といえば、シャーロック・ホームズの名前を思い浮かべる人も多いでしょう。

彼は助手のワトソンが考えていることを言い当て、驚かせます。

ホームズは黙り込んだまま、その細く長い身体を猫背にして、何時間も化学実験室に向かっていた。

何かひどくいやな臭いのするものを生成しているのだ――深々とうつむくその様が、私には、ひょろ長い怪鳥けちょうに見えた。くすんだ灰色の毛と、黒い鶏冠を持った怪鳥――

「だからワトソン――」とホームズが突然口を開く。「君は、南アフリカの証券への投資を思いとどまった。」
私は驚きのあまり身を震わせた。このホームズの不思議な力に慣れているとはいえ、どうして私の胸のうちの考えに潜り込めたのか、皆目見当がつかなかった。

「いったい、どうしてそのことを?」と、私は聞き返す。
ホームズは椅子をくるりと回し、手に試験管を持ったまま、その深くくぼんだ瞳を面白そうに輝かせるのであった。

「さあワトソン、ぐうの音も出まい」
「まったくだ。」

「では、この件について、君に証文を書いてもらわねば。」
「なぜかね?」

「五分後には、君はきっと『ひどく簡単な話だ』などと言うからだ。」

(踊る人形 青空文庫

 

このような人と同居するのは、普通の人であれば、さぞかしストレスでしょう。

なんでも見透かされてしまうのですから怖いです。

 

人の心を読み、人を動かす能力を「社会的知性」と呼びます。

(これは詳しく本にも書きました。)

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この社会的知性が高い人は、一般的にとても仕事ができます。

他者が考えていることが、手に取るようにわかるので、当然です。

悪用すれば、人を操ることもできる。

 

それを知っていると、上の私のように

「この人にはすべて読まれてしまう」

という恐怖がわいてきます。

 

相手がたまたま良い人であればいいですが、そうでない場合は……。

発言には、くれぐれも用心せねばなりません。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」92万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

〇まぐまぐ:実務で使える、生成AI導入の教科書

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