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『なぜ星付きシェフの僕がサイゼリアでバイトするのか?』(村山太一著・飛鳥新社)という本を読みました。

[amazonjs asin="B08G7XQGKV" locale="JP" tmpl="Small" title="なぜ星付きシェフの僕がサイゼリヤでバイトするのか? 偏差値37のバカが見つけた必勝法"]

著者は、イタリアの「26年間三ツ星を保ち続けている、伝説のレストラン」で、創業者の一族以外ではじめての副料理長に抜擢されるという輝かしいキャリアを積み、東京の「ラッセ」というイタリアンレストランを経営しているのです。

 

『note』の記事が話題になり、書籍化されたこの本。

正直なところ、僕の第一印象は、あまり良いものではなかったのです。

ああ、また奇抜なことをわざわざやって、話題づくりをしようとしている人の本か……サイゼリアでバイトしている時間があるなら、自分の店のことをなんとかすればいいのに……って。

 

この本のなかでは、自らの行動指針としている

「サバンナ思考」(危機感を持ち続け、一つでも多くのことに気づき、すぐに行動する、というサイクルをなるべく早く繰り返していく)と

「マヨネーズ理論」(自分でマヨネーズの作り方を一から研究するよりも、美味しいマヨネーズを作れる人に、作り方を教えてもらうほうが早い、という「すごい人のやり方を丸パクリして最速最短で成長するメソッド」)

が紹介されています。

 

この「マヨネーズ理論」についての話、「そんなの当たり前のことなのでは……」と思いながら読んでいたんですよ。

でも、著者が、その「丸パクリ」のやり方について語っているところを読んで、昔の自分の失敗を思い出さずにはいられなくなったのです。

尊敬する誰かを素直にコピーできる人は超強いです。

一流料亭吉泉での3年間はまさに、料理長であるオヤっさんをひたすらコピーし続ける日々でした。

当時の料理人の世界では「教えない」のが普通でした。師匠や先輩のしていることを見て、マネながら習得していかなければならなかったんです。だから、教わらないと何もできないような人はあっという間に淘汰される、弱肉強食のサバンナでした。

 

ここでも、サバンナ思考の「危機感×気づき×即行動」が重要になります。

僕はオヤっさんを必死で観察しました。何を見て、どう感じて、どう動いているのか。オヤっさんと同じように見て、感じて、動くようになりました。

 

ある日、オヤっさんの食材の買い出しに同行させてもらい、京都中央市場に行きました。僕はじっとオヤっさんを観察していました。何度か連れていってもらううちに、どの店で、どういう魚を選んで、どの順番で買うのか、だいたいわかるようになりました。

ルートがわかっていたから、僕は自然と先回りをして、次の店に行ってお店の人と準備を進めて、またオヤっさんのところに戻る。そんな風に市場まわりをするようになりました。

 

僕が入って半年くらい経ったとき、オヤっさんが珍しく弟子全員で市場への買い出しに行こうと言い出しました。仕入れが半分くらい終わったころ、オヤっさんは弟子たちに言いました。「お前ら村山の動きを見ろ」と。10年以上いる兄弟子もそこにいました。

僕は何のことかわかりませんでしたが、後から同期に聞いたところ、「僕が先回りしているところを見せたかった」とのことでした。

一流を徹底的に観察して、完コピする。そのうえで、先回りする。このやり方で間違っていなかったんだと、僕は確信しました。

こんなやり方、誰にだってできるっていうものじゃないだろ!

師匠の完コピがうまくなっても、自分のオリジナリティがないから、この人のレストランは星1つだけなんじゃないか?

そんな否定的な感情も、読みながら生まれてはいたのです。

 

でも、それは、僕自身が「自分を指導している人たちを、うまく『見る』ことができなかった」というコンプレックスに基づく反感でした。

 

 

医学部の学生って、病棟実習に出ると、外科の手術であるとか、指導してくれる先生の外来を「見学」する時間がけっこう長いのです。

晴れて医師免許を取り、さまざまな治療や処置をする際にも、まず、指導医や先輩の手技を「見る」ことから始まります。

 

その日、僕は手術場でやる、簡単な処置に、助手として付くことになりました。

これまで、何度も「見て」きた処置です。

このくらいなら、自分でもできるだろう、いやでも、人間相手だからなあ……と、やたらと緊張していたのを覚えています。

 

患者さんに麻酔がかけられ、術者が「じゃあ、準備して」と僕に言いました。

そこで、僕は患者さんの身体をイソジンで消毒し、身体を覆う、滅菌シーツを手にとり……手にとり……

 

僕はそこで、固まってしまったのです。

このシーツ、どんなふうに掛けるのが正しいのだろう?

 

僕はその手技で、患部を処置するための機械の操作法とか、手技の手順とか、合併症を起こさないための注意点とかをけっこう予習していたつもりでした。

でも、その手技を行うまでの下準備が、全然頭に入っていなかったのです。

そういう下準備を「自分でやること」がイメージできていなかった。

 

「この布、どういうふうに患者さんに掛ければいいんでしょうか……」

「しょうがないなあ、今までずっと、何を見ていたんだお前は!」

 

本当に「何を見ていたんだ」ですよね……

 

今まで、「見学」で、「処置中の術野」とか「エコーの画面」とかを眺めているだけで、「見て学んでいるような気分」になっていたことに、このとき、ようやく気づいたのです。

病巣を取り除いたり、血を止めたりするような「わかりやすい、何かをやっているような場面」だけを見て、「見学」したと思い込んでいた。

 

まさに「お客さん気分」ですよね。

自分が術者になるときには、下準備ができなければ、そこから先には進めないのに。

 

僕は本当に「見ていた」だけで、「自分が術者になったら、どう動くべきなのか」への意識が決定的に欠けていた。

「見学」していると、どうしても派手なところ、わかりやすいところに目が行くのですが、実際の「勘どころ」は、それ以外のプロセスにある、ということも、少なからずあるのです。

 

採血や点滴ルートの確保は、「細い血管に、いかにうまく針を刺すか」という技術の優劣が問われると自分でやるまでは思っていたのです。

しかしながら、「卓越した技術がなくても簡単に刺せるような血管をうまく探し当てること」のほうが、「難しいことをやってみせる技術自慢」よりも、はるかに採血がうまくいく可能性を高めるのです。

 

プロ野球選手でも、「難しい球をうまく打つ」のが良い打者だと思われがちですが、長いシーズンでより良い成績を残せるのは「選球眼が良く、自分が打てる球を逃さずに確実にヒットにできる選手」なのだと思います。

エコーやモニターの画面よりも、検査をしている人の手元の動きや、患者さんの反応から得られる情報は多いのです。

 

この「名人の動きを完コピする」というのは、ものすごく前時代的な印象を受けるかもしれません。

しかし、少なくとも初心者は「自分の価値基準で要点をつかもうとする」よりも、「完コピする」ほうがはるかに有益だと僕も思います。

 

自分のオリジナリティは大事だけれど、型ができていない素人に「型破り」はできないのです。

なぜこんなことをやるのか、効率が悪いのではないか、と疑問になっても、実際にその動きをトレースすることによって、その動きの「意図」が理解できることもありますし。

 

 

著者は、「サイゼリアでアルバイトをして学んだら、人時生産性(従業員1人の時間当たり生産性)が約3.7倍になって、劇的に経営を改善できたそうです。

それまでは、長時間労働で、多くの従業員がいたレストランだったのですが、サイゼリアを参考にして、動線や道具を工夫し、少人数で効率よく動き、早く仕事が終わるようにしたら、人間関係も良好になったのです。

新型コロナウイルス禍でも、スタッフが、さまざまなアイデアを出して、著者をサポートしてくれてもいるそうです。

 

『サイゼリア』は、全国にたくさんの店舗がありますし、そこでは、大勢の店員やアルバイトが、「ごく普通の職場」として働いています。

一般的な感覚でいえば、ミシュランで星がつくようなレストランのほうが、よほど「特別な場所」なはず。

 

この本を読んでいて痛感するのは、「学べる環境」というのは身近なところにもたくさんあるのだけれど、そこで素直に学ぼうという姿勢でいるのは本当に難しい、ということなんですよ。

同じ環境にいても、そこから得られるものは、人それぞれ。

「見学」しているつもりが、「ただその場にいて、眺めているだけだった」自分のことを思い返すと、なんて勿体ないことをしてしまったのだろう、と情けなくなります。

 

ただ、著者が、自分のレストランで苦境に陥ったあと、サイゼリアで学んだように、実際にその仕事を経験してみることで自分に足りなかったものに気づき、あらためて学び直すというやり方もあるのです。

「自分はちゃんと『見て』いなかった」ことがわかってからどうするか、そこが勝負の分かれ目なのだと、今の僕は思っています。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo by Piron Guillaume on Unsplash

少し前に”仕事辞めて数年経った友人が老害みたいになってきてつらい”という記事を読んだ。

仕事辞めて数年経った友人が老害みたいになってきてつらい

最初の1年ぐらいは楽しげに趣味に生きてて「いいなー、羨ましいなー」とか話してたけど、2年目の途中ぐらいから如何にもネットがどこかで拾ってきたような浅い知見を披露することや、著名人を含め他人を非難するような発言が増えてきた。

3-4年ぐらい経った今となっては話しててもすぐに何かの批判になったり、自分の経験だけから何かを決めつけるような発言が増えて、話すのもしんどくなってきた。

表題通りなのだが、一応あらすじを簡単に述べよう。

知り合いが仕事を辞めてアーリーリタイアをキメたところ、最初の1年ぐらいはマトモだったのに3~4年でいわゆる老害になり、一緒に居てキツくなってきたという話である。

 

これには自分も既視感を覚える事が色々ある。

仕事を辞めると、人は劣化する。

 

いったい、私達は仕事を通じて何を得ているのだろうか。

最近、この事について自分の中で一つの答えが出たので、今日はこの話をしようと思う。

 

人はみな、老害になりたい願望が自分の中にある

「最近の若者はけしからん。俺が若い頃は…」

 

いかにも現代的なワードにもみえるが、この言葉は数千年前のエジプトのものだ。遺跡から発掘された粘土板に書かれていたのだという。

現代では”老害”という単語でいやらしいタイプの大人が侮蔑されているが、上のエジプトの粘土板に書かれたような立ち振る舞い方はまさに”老害”だ。

 

「こんな大人にはなりたくない…」

 

私達は誰しもが若かりし頃、こんな願望を持っていたはずだ。

それにも関わらずである。老害化は数千年前から繰り返し繰り返し起きているのである。

 

 

なぜそんな事が起きるのか。

考えられる結論は一つしかない。

それは「実は私達は誰もが老害になりたい」という願望を持っているという事だ。

 

「えええっ?」

 

最初にこの考えを知り合いから聞いた時、僕は心底ビックリした。

あんなにも嫌っていたはずの存在に、実はみんながなりたい願望があるだなんて……

 

けど、そう考えると確かにものすごくシックリくる。

人間は本当にやりたくない事は基本的にはやれない。

 

老害的立ち振舞いだって、本当の本当にやりたくないのならやらないはずだ。

が、それでもやってるという事はだ。人に老害願望があるというのは理にかなっている。

 

「老害とは、ある種の人間の理想が行き着いた先なのではないか…」

その着眼点にたどり着けた事で、僕はようやく老害の本質が理解できた。

 

老害とは、他人の目をうかがわなくてよくなった、人間の行きつく先なのだ。

この事を理解する為には、人間が社会で生きる動物であるという事をまずはおさえる必要がある。

 

「誰の目も意識せず、自分の好きをやる」のはヤバい

人間は社会的動物だ。その人の評価は他人からどうみられているかで決まる。

 

「あの人は仕事が凄くできる」

「立派な人だよ…あの人は」

 

こう言ってもらえると、人は物凄く満たされる。というかそう言ってもらいたいからこそ、人は色々と頑張れる。

そのためにはやりたくない事だったり面倒事すら引き受けられる程である。

 

「みんなに自分の事を良く意識して欲しい」

私達は誰しもがそう思っている。

 

けど…他人の目ばかり気にするのは疲れる。だから

「もう誰の目も意識せず、自分の好きにやりたい」

という願望も同時に持っている。

 

他人に良く意識して欲しい…けど、人の事を考えないで自分の好き勝手もしたい。

 

多くの人は様々なしがらみもあって、後者の願望のみを自由気ままには行使できない。

けど、十分なお金が手に入ってアーリーリタイアをキメられるような人や年金生活者は話が別だ。

 

この手の人達には経済的自由があるから 「他人の目を気にせず、自分の好きな事だけをやる」という権利のみを行使できるようになる。

 

「ああ羨ましい。組織のしがらみにとらわれず、自由気ままに生きられるだなんて…」

誰もがそう思うだろう。が、事はそう単純ではない。

 

人の目を気にしなくなったら、人から評価されるポイントが意識できなくなる

私達が人の目を意識して行動していたという事はだ。

逆説的に言えば他の人もあなたの事を少しは意識していてくれたという事だ。

 

組織の中にいるからこそ、私達は他人が何をして欲しいかを態度や言葉で言ってもらえる。

結果、私達は他人が何をやってもらったら喜ぶかが理解できる。

 

じゃあ逆はどうだろうか?

仕事を辞めて、組織から逸脱するという事はだ。誰もあなたの事なんて意識しなくなるし、何をして欲しいかなんて全く教えてもらえなくなるという事だ。

 

結果、あなたは他人が何をしてもらったら喜ぶかがどんどんわからなくなる。

人の目を気にしなくてよくなった人は、それまでなら察知できた人に評価される為のポイントが見えなくなり、結果として他人が何をして欲しいかの焦点がどんどんズレていく。

 

これはかなりマズい。こんな風になってしまったら、いくら頑張ろうが他人から評価されなくなる。

だってこの人は相手が欲しいものを、与えられないのだもの。

 

老害とはウォーリーを探せなくなった人

ここで例え話を一つしよう。

僕が小学生の頃、ウォーリーを探せという本が流行っていた。

知らない人用に説明すると、これはある種のモノ探し本で、見開きの中に隠れているウォーリーを探し出す本だ。

 

この本だが「ウォーリーを探せ」と言われれば私達は絵の中からウォーリーを面白がってみつける事ができる。

けど「ウォーリーを探せ」と言われなければ、誰もあの本を同じようには面白くは読めないはずだ。

多分、ものすごく退屈なイラスト集にしか見えないだろう。

 

このように”目的”の有無は本当に大きい。そしてそれは”他人の目”を気にして生きるという事にも同じ事がいえる。

 

組織で他人の目を気にして生きていた人が、他人の目から解き放たれる事を選んだ瞬間、もうその人の中からウォーリー的何かは雲散霧消し消えている。

 

その人はもう二度とウォーリーは探せなくなり、後には無目的で退屈なイラスト集だけが残る。

それまで他人の目を気にして築き上げてきた社会的評価は、その人が本当の意味で人の目を気にせず、自分の好きにやる事で維持できる程には容易いものではない。

 

「前と同じような事をしている”はず”なのに、なんでみんな評価してくれなくなったんだろう?」

 

自由気ままにをキメた人は当然そう考えるのだけど、行動基軸がブレてるのだから同じことをやってる”つもり”でも実際にやってる事は全然違う。

こうして、他人の目から解き放たれた人からは能力が消える。

それに伴って、自尊心もなくなってゆき、だんだんと良心やモラルといったものが崩れ落ちてゆく。

 

その結果どうなるのか?それが老害だ。

老害とは”他人の目をビクビクと気にしたくない”という、私達の”なりたかった姿”の果てなのだ。

 

他人の目を強く意識する動物だったからこそ、ヒトは地球の覇者となりえた

私たち哺乳類は、元々がビクビクしないと生きていけない生物だった。

 

太古の昔は被食者だった私達の祖先は、本当の意味で好き勝手やってたら恐竜や肉食獣といった捕食者にガブリとやられて死んでいた。

そうして身の回りを強く意識する事を通じて、私達は社会性を獲得するに至った。

 

だが、敵は何も外からやってくるだけではない。

身内だって、時には敵となり立ちはだかってくる事もある。

そういう他人の目を強く意識する動物だったからこそ、ヒトは地球の覇者となりえた。

 

高度に政治的な立ち振舞いをして国家元首に上り詰めようという野心を抱いたり。

他人よりもいち早く真実を見つけ出して歴史に名を残すような大発見を成し遂げようと、知恵をフル回転させたり。

若き私達の心の中には常に目に見えない”他人”がいる。

 

あるいは

「組織や業界内でよりよく生き抜く為には、何をすればいいだろうか?」

このような意識を持ち続ける人に対して、 目に見えない”他人の目”は常に味方として立ち振る舞う。

その人に良心を授け、人に評価される為の指針を与える。

 

けど

「他人の目を気にせず、自分一人で好きにやろう」

こう思ってしまった人の元からは、心の中にあった”他人の目”は旅立ってゆく。

そしてその人の中から”人としての面白さや良心はいつしか崩れ去り、一人の老害がまたこの世に爆誕する。

 

ちょっとくらい他人の目を気にしてビクビクしている位が、たぶんヒトとして丁度いいのだ。

それが私達の本当の意味での親友といってもいい存在を、心の中に映し出してくれる。

 

”他人の目”というイマジナリー・ベストフレンド

普通を逸脱して、それでもなお普通の人以上に立派に生き続ける事は本当に難しい。

かつてサラリーマンはオワコンだといって、高知の山奥に自らを追い込んでいった人がいた。

 

「満員電車にゆられて、東京で消耗するような生き方してて、何が楽しいの?」

 

一見すると、非の打ち所がない、本当にごもっともな意見である。

しかし個人的な意見ではあるのだけど、そのごもっともな意見を言い放った人の今の生き様を僕はあまり美しいとは思わない。

 

その一方で、満員電車にゆられて東京で消耗している僕の友人たちは本当に見事に”立派”をやっていけてる。

満員電車にのって、会社にいって、同僚や部下、上司にあう。

傍から見れば、それは確かに馬鹿げていることなのかもしれない。

苦痛に身を投げているだけの、愚かな行いなのかもしれない。

 

けど、それは目に見えない”他人の目”というイマジナリー・ベストフレンドを私達に授けてくれる。

それは金銭や情報のような分かりやすい”良いもの”ではない。

けど、それがあるから私達は”立派な大人”をやっていけてる。

 

”組織で働き続ける”

若い頃はそんなものに何の価値も見いだせなかった。

けど、歳をとったいまなら、それが本当に尊いものだという事が嫌というほどよくわかる。

 

「勤め人はいい事ばかりではないけれど、まだもうちょっと頑張って働いてみるかな」

そんな事を、僕はやっとこさ考えられるようになってきた。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

個人的な最近のビッグニュースは、

「多くの人が『自分は理性的でデマなんかにまどわされない』と思っているけど、ファクトベースで議論する能力を身につけている人は実はめちゃくちゃ少ない」

ということだ。

 

たとえば、

「新型コロナって、なぜ、どれくらい危険なのか?」

という質問を投げかけたとする。

 

「いまさらなにを言ってるんだ」

「これだけ世界中に影響を持っていて死者も出ているんだぞ」

という意見や、

 

「インフルエンザと変わらない、騒ぎすぎ」

「○○を××したらコロナにかからない」

といった意見など、さまざまな答えが返ってくるだろう。

 

では、あなたは、「なぜそう思うのか」という根拠を示せるだろうか?

他人の主張を否定する際、なぜそれがまちがっているのかをしっかり説明できるだろうか?

そこで即答できないのであれば、あなたもわたしと同じ、「だれかが言うからそう思う」という鵜呑み思考をしている……ということになる。

 

データを読み取れない人間は、思っている以上に多い

わたしはコロナウイルスが怖いし、できるかぎり予防したい。

でも改めて「なぜ怖いのか」「どういう予防法が効果的なのか」と聞かれると、答えに窮してしまう。

 

いやだって、メディアがそう言ってるし。

多くの国がロックダウンなどの措置を取っているんだから、当然危ないものでしょ。

死者もいるし……。

 

予防は手洗いうがい、マスク着用。

人との接触を避けて家にいれば感染リスクを下げられるはず。

みんなそうしてるもん。

 

……そう、この程度のことしか言えないのだ。

 

わたしは感染症の専門家ではないから、この程度の認識でも困りはしない。

でも、科学的根拠や専門家の見解などをまったく踏まえないまま、「みんながこう言うからこう思う」という思考回路をしていたことに、わたし自身が驚いた。

 

そのくせ「自分はモノゴトを冷静に、客観的に見つめて、常識的で合理的な判断ができる」なんて思っていたのだからタチが悪い。

しかし困ったことに、「ファクトベースで考えることができない人間」、つまり「鵜呑み思考回路」をしている人は、想像以上に多いらしい。

データを示しただけの資料だと、「意味がわからない」と言って記事が書けない記者がたくさんいた。

そういう記者は同じ質問を何度も繰り返したり、的外れな質問をぶつけたりしてくる。そうした質問にいちいち答えていても埒が明かないと思ったときは、噛み砕いて口頭で説明し、それでも伝わらないときにはわざわざ文章にして紙を渡すこともあった。

すると、その文章がソックリそのまま記事になっていたことが、一度や二度ではなかった。(……)

多くの場合、不勉強な記者や思い込みの激しいデスクが、こうして官僚から渡された情報に何の疑いも持たずに記事を書いてしまう。当然、フェイクニュースを報じてしまうこともありえるのだ。

出典:『ファクトに基づき、普遍を見出す』

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これは、思っている以上に大きな問題だ。

 

ファクトベースで考える習慣を身につけてこなかった自覚はあるか?

自分が「鵜呑み思考回路」になっていたことに改めて気付いたとき、ふと、ドイツの大学のゼミでこんな言い回しをよく耳にしたことを思い出した。

 

「それはどのデータをもとに話してるの?」

「反論するなら根拠を示す必要がある」

「具体的な数値を教えてくれ」

 

ドイツでは、ファクトを求める人がとにかく多い。

しかしわたしは日本の教育を受けて育ったので、そんなやりとりにはまったく慣れていない。

 

かろうじて

「わたしはこう思います」

と言っても、

 

「根拠は? こういう反証があることについてはどう思う? この視点でも考えないと一方的な見方になって説得力がないよね?」

なんて言われて黙りこくったことは、一度や二度ではない。

(ちなみにこれは意地悪ではなく、コミュニケーションの一貫である)

 

日本では「根拠を示せ」なんて要求されたことなかったし、「反証に対するさらなる反論」なんてしたこともなかった。

だから、深いところを突っ込まれると、「だってだれかが言ってたもん」レベルの幼稚な理論しか展開できないのだ。

 

まぁ、だからといって「ドイツ人は頭がいい!」というわけではないんだけど。

ただ、自分がいかにファクトベースで考えてこなかったかを痛感した、という話である。

 

大人になって急に論理的思考が身に付くわけがない

よくよく考えてみると、日本では「ファクトベースで物事を判断する」という作業をまったく求められてこなかったし、その方法も習わなかった。

(理系の人ならそういった方法も習うのだろうけど)

 

学校ではむしろ、「事実はさておき、みんなのお気持ちを大事にしましょう」と教え込まれてきたくらいだ。

ただ、ファクトとそこから論理的に導き出される解を示しているだけなのだが、相手が反論できない状況になると、まるで筆者が一方的に攻撃しているような印象を与えることがあるようだ。

おかげで「いじわる」「嫌なヤツ」と思われて、土俵の外から陰口を叩かれたり、人格攻撃をされたりしたことが幾度もある。

出典:『ファクトに基づき、普遍を見出す』

いくら根拠を示し、客観的事実を積み重ね、「こうですよね」と言っても、相手が「なんでそんなこと言うの? ひどいよ」と涙目になれば、「そうだよひどいよ」と悪者にされるのがオチ。

意図せず根拠や知識でぶん殴ってしまうと不興を買う。

 

だから口をつぐんで愛想笑いでやり過ごす。

「事実」より「空気」が大事。

そうやってきた。

 

それなのに、どうだろう。

大人になると、「冷静に客観的に合理的にモノゴトを判断できて当然」だと思われる。

そして多くの人が、「自分は事実をもとに理性的に考えられる」と勘違いしている。

 

だから自分と異なる見解の人を見かけると「当然こうあるべきなのにそれがわからないなんてこの人はバカだなぁ」なんて思うし、「自分はフェイクニュースに引っかからない」と胸を張って言う。

自分の主張にさしたる根拠も示せず、身の回りの情報が本当に正しいのか調べることさえしないくせに。できないくせに。

この思い込みは、想像以上に厄介なものだ。

 

自分はわかっていないという「無知の知」

ファクトベースで考えるには、信頼できる科学的、統計的、経験的根拠をもとにすること。

その数字を正しく解釈すること。

それを適正な方法で事実と照らし合わせること。

ちがう視点で考え直すこと。

専門家の見解にも触れること。

 

こういった技術や知識が必要になる。

 

「こんなに説明してるのになぜわからないんだ」

「これを見れば一目瞭然じゃないか」

相手に対してこんな不満をもつときはたぶん、相手がこういった根本的な技術や知識をもちあわせていない場合だ。

 

技術も知識もなければ、どの数値が信用できるのか、それをどう受け取ればいいのか、その事実が現実的にどう意味をもつのか、さっぱりわからない。

話になるわけがない。

 

そうなると結局、「よくわかんないけどみんなが『良い』と思う方が正解」となってしまう。

「安全より安心」という言葉がその最たる例であり、冒頭で引用した「官僚が言う通りに記事を書く記者」と同じである。

自分で情報を精査して考えるより、大多数に流されたほうが楽だし、まわりと衝突することもない。

 

でもそれならせめて、

「自分は、自分が思っているほど客観的な根拠をもとに話しているわけではないこと」

「真実を見つけるために必要な知識や姿勢を学んできていないこと」

に自覚的でありたいとは思う。

 

「自分は事実をもとに理性的に考えられる」なんて勘違いしながら他人の言うことを鵜呑みにするなんて、だいぶ滑稽だから。

 

ファクトベースで考えるクセをつけ、自分なりに「真実を見る目」を養っていこう。

ファクトベースで考えられる優秀な人の主張には、主張内容だけでなくなぜそういう主張にいたったかという根拠や論理展開にも注目していこう。

 

最近はこんなことを思いながらやってます。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo:Jason Brennan

結構前の話だ。

とある会社で、一人のマーケティング担当が辞めた。

 

彼はそれまで、その会社に存在しなかった

メディアを使ってリードを獲得する手法を駆使し、大量の成果をあげていた。

 

当初、その功績は経営陣たちから大きく評価された。

給与はアップし、大きなボーナスが彼に支払われた。

 

しかし、残念ながら、その高い評価は長続きしなかった。

なぜなら、彼の「だらしなさ」が、あらわになってきたからだ。

 

前の日にクライアントと飲み歩いて、次の日昼過ぎに出社する。

机の上は大量の書類で汚く汚れている。

 

彼の上司は彼に警告した。

遅刻はするな。机を整理しろ。

彼は「成果はあがっている。時間や机はそれと関係ない。」と言い張ったが、上司は彼に「態度を改めなければ減給する」と警告した。

 

彼は、結局それを断り、知人のスタートアップに転職した。

「今は、紙を使わないから机が汚れないし、出社自由だから、最高だよ」

と彼は言っていた。

 

 

数多くの評価(制度)を見てきたが、細かいことはさておき、企業における評価のやり方は大別して2つある。

 

一つは「そつなく、全てをこなすことが評価される」、つまり欠点がないことが評価される企業。

もう一つは「得意なことだけ評価される」、つまり、欠点には目をつぶる企業。

 

 

どちらの制度が優れているのか。

もちろん一概には言えない。目的による。

 

ただ、結論から言えば「問題を起こさないことが重要」な企業では前者

「とにかく成果をあげることが重要」企業では後者が多い。

 

 

全ての人間は「強み」と「欠点」を併せ持つ

このように言うと、「天才の欠点には我慢せよ」的な話でしょう?

と言われることがある。

 

全く違う。

そもそも、天才などほとんどいないし、天才に頼らないと成立しない組織は、ダメ組織である。

経営は「凡人しかいない」という前提で行わなければならないのが、現実だ。

 

その上で、凡人を活用するための鍵が、「欠点を気にしないことで、戦力化する」だ

例えば、以下のような人々は、会社で評価されるだろうか?

 

・社内では優秀なほうのプログラマーだが、服装がだらしなく、どうしても時間が守れず「遅刻」ばかりする人物。

・業界知識豊富なPR担当。記者の受けはよいが、納期にルーズで、約束を守らない人物。

・どぶ板営業で、新規顧客の開拓が得意な営業だが、事務仕事が苦手で、山のように未処理の書類を積み上げている人物。

・お客さんから評価されるデザインをするが、口が悪く、皆に嫌われている人物。

・事務仕事が素晴らしく正確なのだが、喧嘩っ早く、他の人との諍いが多い人物。

 

「欠点がないこと」が優先される企業では、たいてい、上のような人物は評価されない。

 

なぜなら、そのような企業での基本的な考え方は

「能力には最低ラインがあり、それは自助努力で克服せよ。」だからだ。

 

「仕事さえすればいい、じゃダメ」

「コミュ力上げろ。時間を守れ。」

「納期を守れ。」

「机と書類をきちんと処理せよ。」

「態度が悪い。」

そう言われても、優等生になれない彼らは、時に組織を追われてしまう。

 

しかし「得意なことだけが評価される」組織では、そういう「欠点」は全て、放置されるか、無視される。

 

もちろん、個人の「だらしなさ」などによって、仕事に支障があるときもある。

しかし、欠点は、他の人、あるいは組織が提供する仕組みによってカバーされる。

そうやって、「凡人」をなんとかして、戦力化する。

 

例えば、少し前のしんざきさんの記事でも「インフラの力」で、部下の弱みをないものにしていた。

「部下を育てる」ことを「部下の能力を上げる」ことだと勘違いしていた、という話

「あまり仕事が上手に出来なかった人」の行動を、インフラ整備の力でちょっとだけ変容させられたということは事実でして、これと似たようなことをひたすら繰り返すことで、その人が問題なく自発的にタスクを回せるところまではもっていけたんです。

その人の処理能力を上げられたかっていうと、多分実際そんなことは全然ないんですが。

インフラ整備によってちょっとした行動パターンの変容を起こして、タスク処理状況を改善出来た。

そういうちょっとした成功例です。

そのような考え方が主流の組織は「全ての人間は「強み」と「欠点」を併せ持つ。だから、強みは活かす。欠点は組織が補う。」という方針で制度設計がなされている。

 

だから「コミュ力上げろ」「遅刻を直せ」とは言わない。だって「プログラミング」が早くて品質も良いから。

「納期を守れ」とも言わない、だって「記者との関係強化」では成果を出せるから。

「書類をきちんと処理せよ」とも言わない。「新規開拓をガンガンやってほしい、書類はこっちでなんとかする」で良いから。

「態度を直せ」とも言わない。「皆から隔離して自由にやらせる」で良いから。

 

彼らに、欠点を直させるという、不毛な努力をさせるくらいなら、それについてなにも考えさせない。

欠点はどうせ治らない。

得意なことに邁進させるほうがずっと良いと、「得意なことだけが評価される」組織は考えている。

 

 

組織は何のためにあるのか

そもそも、なぜ人は組織で働くのか。

「組織が、強みだけで仕事できるようにさせてくれるから」だ。

個人営業の税理士は、いかに有能であっても対人関係の能力を欠くことは障害になる。だがそのような人も、組織にいるならば机を与えられ、外と接触しないですむ。

人は組織のおかげで、強みだけを生かし弱みを意味のないものにできる。

財務は得意だが、生産や販売は不得意という中小企業経営者は、大きな問題に直面することになる。しかし、多少なりとも大きな企業では、財務だけに強みをもつ者を生産的な存在にすることができる。

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これは理想論でもなんでもない。

結局、企業は強みも欠点もない優等生だけ集めても、大した仕事ができないからだ。

「一つのことは圧倒的にできる。ほかは、からきし」という人をうまく組み合わせたほうが、圧倒的に優れた仕事ができる。

リンカーン大統領は、最高司令官の人選にあたって、グラント将軍の酒好きを参謀から注意されたとき、「銘柄がわかれば、他の将軍たちにも贈りなさい」といったという。

ケンタッキーとイリノイの開拓地で育ったリンカーンは、飲酒の危険は十分に承知していた。しかし北軍の将軍の中で、常に勝利をもたらしてくれたのはグラントだった。事実、彼を最高司令官に任命したことが南北戦争の転換点となった。

酒好きという弱みではなく、戦い上手という強みに基づいて司令官を選んだためにリンカーンの人事は成功した。(中略)

弱みに配慮して人事を行えば、うまくいったところで平凡な組織に終わる。完全な人間、強みだけの人を探したとしても、結局は平凡な組織をつくってしまう。

 

―経営者の条件(傍線筆者)

 

「どぶ板営業」は高学歴者が嫌がる仕事だが、世の中にはそれが得意な人もおり、それが得意な人がひとりいるだけで、会社の取れるオプションが増える。

「コミュ障」にあわせて、社内のコミュニケーションの仕組みを作れば、ほぼどんな人でも利用できる。

人前で話すのはダメでも、文章を書かせるとよいものができる人がいる。

 

「高学歴者」「男性」「中年」が大半を占める組織が硬直的になりがちなのは、結局のところ「強み」が画一的になりがちだからだ。

 

 

「得意なことだけ評価する」組織では頻繁に組織も仕事も変わる

だが、もちろん、そのような組織では、頻繁に仕事も地位も変わる。

人の「得意」はあまりにも多様で分かりにくいので、あれこれ試さねばならないし、「無理に改善させようとしない」からだ。

 

「君の強みと仕事が要求するものが違うようだ。」

「マネジメントできないようだから、管理職からは外す。」

「この仕事できるかどうか試しにやってみて。」

「3回トライして結果が出なかった。担当を変える。」

 

そう言う、ドライな部分もある。

 

しかしこれは「冷たい」わけではない。

・ある人物が、成果を上げられないのは、それを配置した上司の責任であること

・仕事をこなせない人を放置せず、すぐに動かすこと

これらを徹底した結果に過ぎない。

人事がうまくいかなかったときには、動かされた者を無能と決めつけてはならない。人事を行った者が間違ったにすぎない。

マネジメントに優れた組織では、人事の失敗は異動させられた者の責任ではないことが理解されている。

重要な仕事をこなせない者をそのままにしておいてはならない。動かしてやることが組織と本人に対する責任である。

仕事ができないことは本人のせいではない。だが動かしてやらなければならない。新しい仕事でうまくいかなかった者は、前職に匹敵する地位と報酬に戻してやることを慣行化すべきである。

―経営者の条件

「強みで仕事をする。得意なことをやってもらう」というのは、そう言うことだ。

 

さて、「優等生」を好む組織で働くか。

「得意なことだけせよ」という組織で働くか。

どちらが好みだろうか。

 

なお、個人的には、私は「苦手なこと」が多すぎるため、優等生が求められる組織に入るのは御免だ。

 

 

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◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

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PhotobyKirstenMarie

皆さんは、"発達障害本"とでもいうべき書籍を見かけたことがありますか。

 

私が"発達障害本"と呼んでいるのは、「発達障害の当事者が当事者目線で書いた、社会適応や暮らしに役立てるための本」のことです。

この"発達障害本"は2010年代から次々に出版され、その少なくない割合が書店で平積みにされるほどヒットしました。

 

たとえば最近では、借金玉さんの『発達障害サバイバルガイド』などがその好例だと思います。

どのような書籍なのか、この本の冒頭を紹介してみます。

この本は、あなたのためのサバイバルガイドです。具体的には、発達障害という問題を抱えた僕らがどうにか働き、食っていくための「生活術」を1冊にまとめています。

(中略)

生活とは、人生の基盤そのものです。仕事もプライベートも、あるいは成功も失敗も、すべては「生活」の上にしか成り立ちません。この世界に生きる限り、誰一人として「生活」することから逃れることはできません。
そして、僕も含めた一群の人々──発達障害者、あるいは発達障害グレーゾーンの方──にとって、「生活」というものは、一筋縄ではいかない難しさがあります。

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こう切り出したうえで、筆者の借金玉さんは読者に対し、生活にかかわる様々な分野のハウツーを紹介していきます。

生活環境、生活習慣、金銭管理、服装、リモートワーク、食事、休息、等々。分野は多岐にわたっていて、「生活術」を一冊にまとめたという看板に偽りはありません。

 

ちなみにこの『発達障害サバイバルガイド』、発達障害と診断されていない人や発達障害グレーゾーンと呼べなさそうな人が買っても「生活術」の本としてかなり役に立ちそうです。

なぜなら、発達障害の性質を念頭に置いたアドバイスが少なくない一方で、それらに該当しない人でも知っておいたほうが良さそうなハウツーもたくさん記されているからです。

 

たとえば腕時計について借金玉さんは

結論として、僕らのようなおしゃれ、センスと無縁の人間たちが選ぶべき時計は、たったひとつ。「アップルウォッチ」です。アップルウォッチは4万円台(Apple Watch Series 5)とそんなに安いものではありません。すいません見栄を張りました、高いです。

しかし、高級時計と比較したら、その価格は比べ物にならない。実際、10万円の時計というのはおっさんたちの世界ではむしろ「安物」に属するそうなのです。僕みたいな小僧からするとあまり想像がつきませんが、腕時計について調べていくと、やはりこの相場観は一定正しいのだろうなという気がしました。

アップルウォッチを身に付けるだけで、僕らは「私はそれなりにお金を持っていて、しかも他人から自分がどうみられるかの一定の意識ができる人間です」と表明することが可能になります。

(Hack26:アップルウォッチで「時計マウンティング」を回避する より)

このように述べていますが、年配の人々へのディスプレイ効果を踏まえるなら、このアドバイスは至当なものだと思います。

こうしたアドバイスは、発達障害の読者にだけ貢献するものではなく、社会経験の浅い読者全般にも貢献するでしょう。

 

"発達障害本"の前にオタクハウツー本があった

で、ここからが今日の本題です。

先日、発達障害とインターネットの両方に詳しい知人とディスカッションをした時、彼の口から面白い見解をうかがいました。

 

「最近流行の"発達障害本"ってさ、"脱オタ"の後継者なんじゃない?」

「オタクのためのハウツーってキャッチコピーが流行らなくなったのと入れ替えに、発達障害のためのハウツーってキャッチコピーが流行ってきたのって印象的じゃないですか」

 

ふむふむ。そうかもしれない。

さらに知人はこうも付け足しました。

 

「"発達障害本"の借金玉さんなんかは、だからシロクマ先生の直系子孫ですよ。シロクマ先生、昔は"脱オタクファッション"のウェブサイトとか作ってたじゃないですかー」

いや、そういう余計な昔話は思い出さなくていいってば。

 

ともかく、そのディスカッションをとおして私たちが再認識したことをおおざっぱに記すと、

 

1.1990年代~00年代前半には"発達障害本"というジャンルは存在しなかったし、インターネットで発達障害が語られる頻度も低かった。そのかわり、オタクの社会適応のハウツーについての言説が流通し、その中心に"脱オタクファッション"というムーブメントが存在した。

2.2000年代の後半になると、オタクの社会適応のハウツーが語られることが減っていった。かわりに、発達障害という言葉が広まり、社会適応の難しさはオタクという語彙によらず、発達障害という語彙で語られるようになった。

3.2010年代に入るとトレンドは完全に発達障害に切り替わり、"発達障害本"が書店に平積みされるようになった。

 

……といったトレンドの変化があったわけです。

 

もう少し詳しく振り返ってみましょう。

 

1990年代のインターネットには、パリピやウェイ、リア充な人はほとんどおらず、ナードとギーク、オタクと研究者と好事家の溜まり場といった雰囲気でした。

当時のオフ会を思い出すと、参加者のなかには発達障害に該当しそうな人々が含まれていたのですが、発達障害という語彙を知っている人がほとんどいなかったので、オタクという語彙がちょっと変わった人やちょっと社会適応の難しい人にもあてがわれていました。

 

このことを理解する際には、当時のオタクという語彙のニュアンスが、現在よりもネガティブだったことを思い出しておく必要があります。

特定の趣味に熱中していない人でも、ただ気持ち悪い印象を与える外見であればオタクと呼ばれることがあり得る時代でした。

 

そうしたなか、インターネットでは

「どうすればオタクと呼ばれないようにするか」や

「アニメ趣味やゲーム趣味を捨てることなく、社会適応の苦手意識をどう克服していくのか」

についてのハウツーを語る人が現れるようになり、意見交換するようになっていきました。

これが、"脱オタクファッション"、または"脱オタ"と呼ばれるムーブメントです。

 

はじめのうち、こうしたムーブメントは非常にマイナーなものでしたが、ドラマ『電車男』のヒットとともに広く知られるようになり、秋葉原のあちこちに『脱オタクファッションガイド』が平積みされるようになりました。

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実際、この本はベストセラーと言っても良い売り上げを記録し、さまざまな類書が出版されたと記憶しています。

 

オタクの退潮と発達障害の台頭

ところが2000年代の後半から急激に、"脱オタクファッションガイド"的なムーブメントは退潮していきました。

と同時に、オタクという語彙と社会適応の難しさを結び付けるような語りも少しずつ減っていきました。

 

こうなった背景には、『電車男』のヒットに前後してオタクがカジュアルなイメージを獲得していったこと、芸能人なども「自分はオタクだ」とカミングアウトするようになったことなどがあると思われます。

 

社会適応のうまくいっている人までもがオタクを自称するようになれば、オタクという語彙と社会適応の難しさを結び付けて語るのは難しくなってしまいます。

その間隙を埋めるかのように、発達障害という語彙が社会適応の難しさを語る際のキーワードとして浮上しはじめました。

 

それでも2010年代のはじめ頃は発達障害という語彙はまだ知られきってはおらず、オタクでもなければ発達障害でもない語彙が流通することもありました。

たとえば、以下に示す「真面目系クズ」というネットスラングなどはそうだといえます。

・授業は前側の座席に座るが話を聞かず黒板をノートに写すだけ
・真面目っぽいので教師から期待されるが成績が伴わない
・知り合いは割りといるが友達はすくない
・人が見ていないところでは徹底的にサボる
・課題などは提出日ギリギリまでやらない、場合によっては終らない
・愛想笑いだけは凄く上手い
・親からの過大評価が凄い
・宿題は真面目に出すがテストの成績が良くない
・真面目系クズ「わかりました」←わかってない
(ニコニコ大百科、真面目系クズとは から抜粋)

こうした中間的なネットスラングの流行を経たうえで、2010年代の後半には発達障害という語彙がインターネットでもよく知られるようになり、社会適応の難しさや生きづらさを語る際に用いられるようになりました。

残念ながらそれだけではなく、発達障害という語彙に基づいて他人を差別したり見下したりする語りも見かけるようになってしまったのですが。

 

この時期になると、出版の世界では"発達障害本"が相次いで出版されて、書店に平積みされていきます。

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冒頭で紹介した借金玉さんのはじめの書籍も2018年につくられ、大きなセールスを記録していましたね。

この頃には、発達障害という語彙は社会適応の難しさや生きづらさを語るための共通言語として、よく知られるようになったと言えるでしょう。

 

こうして、十数年前はオタクというサブカルチャーの語彙で語られていた社会適応の難しさや生きづらさは、発達障害という、精神医学に基づいた語彙に置き換えられていきました。

もともと発達障害がスペクトラムな概念 (注:正常と異常をはっきりと切り分けられるような概念ではなく、最も発達障害的な人から最も発達障害的でない人までがグラデーション状に存在するとみなす概念) であった点も、みんなに知られていくうえで好都合だったかもしれません。

 

そして最近では、オタクについてはこんな風に言われるようになりました。

「あなたが社会適応しづらいのはオタクだからとか、関係ありませんから」

「あなたがモテないのはオタクだからじゃなくて、あなただからです」

 

発達障害は、いまどきの生きづらさの象徴

ここまでを踏まえたうえで、もう一度、冒頭の『発達障害サバイバルガイド』を振り返ってみましょう。

 

さきほど私は「『発達障害サバイバルガイド』は発達障害と診断されていない人が買っても「生活術」の本として役に立ちそう」と書きました。実際、そのとおりでしょう。

だとしたら、いまどきの"発達障害本"はいまどきの社会適応の難しさや生きづらさを抱えている人全般が手に取ってみる値打ちのある、そういう自己啓発ジャンル足り得ているのではないでしょうか。

 

“発達障害本”が発達障害の方をおもな想定読者としているのは間違いないでしょう。

が、ただそれだけでなく、発達障害の人に役立つアドバイスは、社会経験の浅い現代人に役立つアドバイスと少なからず重なっているのではないか、と言ってみたいわけです。

 

ただ、当事者が書いた"発達障害本"をとおして、あるいはインターネットでの言説をとおして発達障害という語彙が広まっていくことに、懸念がないわけではありません。

精神医学のフォーマルな発達障害概念が市井の語りのなかで変質してしまうとしたら、今後、面倒なことが起こるかもしれません。

 

どういうことかというと、たとえば、メンヘラというネットスラングは精神医学とは無関係に生まれ、無関係に用いられ続けていますが、発達障害は精神医学のフォーマルな語彙ですから、市井の語りによって変質してしまうと、精神医療そのものに悪影響や混乱をもたらすリスクがあります。

そのような悪影響や混乱が最小限であったほうがいいのは、言うまでもありません。

 

それでも、発達障害という語彙がこうして広く知られ、社会適応の難しさや生きづらさについて考える際のひとつの切り口となったこと自体は、まずまず望ましいことではないかと私は思っています。

 

今まで自分の悩みを概念化できなかった人や、自分の悩みを他人に伝えられなかった人が、発達障害という語彙を知ることでそれらが可能になったとしたら、それはおおむね良いことではないでしょうか。

 

また、いまどきの社会適応の難しさや生きづらさに対処するためのハウツーを提供する側と受け取る側の双方を、発達障害というキーワードが取り持ってくれているとしたら、それもそれで幸福なマリアージュではないか、と思うのです。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="478161888X" locale="JP" tmpl="Small" title="健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Hikosaemon

この記事で書きたいことは、下記のようなことです。

・部下が判断に迷いそうなことについて、数値化して判断基準を作れそうなものは可能な限りきちんと数値化するようにしています
・判断基準が明確になっていれば「決断疲れ」で消耗することが少なくなり、結果的にタスク遂行速度が上がります
・けど案外そうしない上司の人も多い
・「部下の判断力がつかない」とかいう人もいるけど多分それはちょっと違うよね

以上です。よろしくお願いします。

 

***

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、あとはざっくばらんに行きましょう。

尚、この書き出しは前回の記事と完全一致していますが、コピペではなく一応いちいち手打ちしています。特に意味はありませんが。

 

今回の記事は、ある程度の部分まで、前回の記事の補足です。

知っている人には当たり前のことかも知れないんですが、結構前回の記事で目にとめてくださった方も多かったようなので、ちょっと書かせてください。

 

前回、「仕事の取り掛かりが遅い人」という話が出ました。

ただ、ひとつ一般的に言えることとして、「タスクを片付ける」という行動に移る前には「片付けるべきタスクをターゲッティングする」という工程が必ず必要であって、そこで精神力を使ってしまって着手が遅くなってしまう人は結構な数いる、という事実があります。

「複数タスクが見えていて、しかも着手順がもやっとしている」という状態だと、まずそれを整理する段階でハードルが高くって、到底着手までいけない、という人は全然珍しくないんですよね。

これ、何を言っているかというと、「着手順を判断する時点で既にある程度精神的に消耗してしまう」という話なんですよね。

いわゆる決断疲れの話です。

 

ご存じの方も多いと思うのですが、「判断する」ということはそれ自体MPを消費する行為でして、意思決定を何度も繰り返すと、段々と意志決定の質が落ちていくことが知られています。

「Decision Fatigue」で調べたら色々論文が出てきますが、まあサマリーだけならWikipediaで問題ないでしょう。

 

マーク・ザッカーバーグ氏やスティーブ・ジョブズ氏が常にお決まりの服を着ていることの理由として、「決断疲れ」を避けるため、という理由が挙げられたこともありますよね。

私たちは1日に “3万5,000回” も決断している。「決断疲れ」を防ぐにはどうすればいいのか?

グレーのTシャツ。黒いパーカー。この服装は、Facebook創設者のマーク・ザッカーバーグ氏のトレードマークです。Apple創業者のスティーブ・ジョブズ氏も、製品発表のときにはいつもお決まりの服を着ていました。元アメリカ大統領のバラク・オバマ氏は、グレーか青のスーツしか着なかったそう。

まあ要は、「要らんことで決断を繰り返していると、肝心な時に決断力が鈍るよ」って話なんですけど。

 

基本的に、「決断をすること」はそれ自体疲れる行為だよ、というのは、着手順があいまいな時にタスク着手が遅れる、あるいはタスク遂行のパフォーマンスが落ちる、その一つの端的な理由でもあると思います。

人間の脳は基本的に怠け者なので、疲れることはしたくないわけです。

 

で。

これを軽減するための簡単かつ確実な方法は、「判断基準をアウトソースすること」です。

例えば「最初から着る服を決めておく」というように、特に何も考えずに従えるルールを作っておいて、決断をルール任せにしてしまえばいい、という話ですね。

 

私、「部下の判断基準をアウトソースさせてあげること」は、上司の非常に大事な仕事の一つだと思っています。

「迷ってると脳のリソースがもったいないから、自分で考えないで、無条件にこの基準で判断してね」ってことです。

 

その為の方法の代表的なものの一つが、「判断基準の数値化」です。

 

例えば進捗率。

今ではredmineで自動的にアラートが出るようにしちゃったんですが、こんな便利ツールが出来る前は、「進捗率と乖離率の数値化」ロジックを自分で組んで、「乖離率が〇%を越えたら何も考えずにそれだけ報告に来てくださいね」とか言ってました。

 

つまり、本来なら100まで進んでいないといけないスケジュールの時点で80まで進んでいなければ、進捗との乖離率は20%になります。

この時、明確な基準が決まっていないと、人間はあーだこーだ悩んでしまいます。

これ、報告した方がいいかなあ?報告するとして、なんて報告しよう?「遅れているけど取り戻せる範囲です」とか?心象悪くならないだろうか?叱られないだろうか?とか。

 

余計なリソースを使いまくってますよね。

肝心の仕事が遅れる重大な要因の一つです。

超もったいない。

 

上司としては、部下にそんなしょうもないことを気にして欲しくないので、例えば「20%を越えたら、取り敢えず「乖離率20%です」とだけ言いに来て」という話にしちゃうわけです。

そうすれば、少なくとも「報告するかどうか」で判断に悩む必要はない。

 

同じような話で、「技術的な課題で30分悩んだら何も考えずに相談に来て」みたいな話もあります。

あーだこーだ悩んでると、肝心の技術的な課題の部分から「こんなに時間使っちゃったからには自分でなんとかしなきゃ…」とか、「これくらいのことで相談にいくなんて評価下がっちゃうんじゃ…」とか、これまた余計なことで脳のリソースを使っちゃったりするんですよね。

 

これまたもったいない話でして、「悩む時間」にちゃんと数値基準を作ってあげれば、これもいちいち「相談するかどうか」で判断タイミングを作る必要はない。

 

前回の記事で、ブラウザのスタート画面をremineのカスタムクエリにした話もそうですよね。

「何からやるか」という判断タイミングを、そもそも発生させないようにしたわけです。

 

こういう風に、「悩みそうなところで、事前に明確な判断基準を決めておける場所」というのは、探してみると案外ちょくちょく見つかります。

むしろ、そういう場所を探すことが、上司の主要な仕事の一つではないかと思っているくらいです。

 

これはもちろん、部下に対してだけではなく、自分の判断機会削減にも役立ちます。

いくら以上の案件なら事前の調整を走らせましょう、とか。

何分以上のクレームならエスカレーションしましょうとか、何か所以上のバグなら品質管理部門との相談チケット立てましょうとか。

 

AとB二つのメソッドで見込みスピードが〇%以内しか違わないなら信頼性優先でAを採用しましょうとか、部署間との調整案件が3つ越えたらPMOに投げましょうとか。

まあ仕事によって色々なんですが、とにかく「事前に数値基準を決めておく」ことで上げられるパフォーマンスって膨大だと思うんですよ。

 

別に珍しい話では全くなく、ある程度のラインまではどんな職場でもやっていると思います。

今、数値基準化の補助ツールもたくさんありますしね。

ただ、「部下の判断機会をどれだけ減らせるか」「どれだけ判断基準を数値化出来るか」というところまで突き詰めて行くと、案外そういう風に考える人が少ない。

私はこれ、上述の通り、上司のすごーく重要な仕事だと思っているんですが。

 

***

 

単に「判断機会を減らす」という言葉尻を捉えて、「けどそれでは部下の判断力がつかないのでは」みたいな話をされたりすることがあるんですよ。

 

いや、それは違いますよね、単純に数値化出来ない部分で判断力を発揮してもらいたいからこそ、数値化して機械的に決められるところは可能な限り数値化して基準を設けましょうよ、って話なんですが、今までの職場だとあんまりそういう考え方がスタンダードになったことがなく、「なんかあいつよくわからんけど面倒なことしてる…」という目で見られることの方が今のところ多いです。

結構タスク遂行のパフォーマンスに影響してると思うんですけどね。

 

「それくらい自分で考えろ」というのは、イコール「それについて考えるだけの脳内リソースを使え」と言っていることと同じなので、本当に「自分で」考えさせるべきなのか、リソースをそこに使わせるのは妥当なのか、ということはそれこそ上司の判断が問われる部分だと思います。

 

なんか、「自分で考えさせる」を大義名分に楽をしようとしている人というのも、そこそこの数いるような気がして、それはあんまりよろしくないと思うんですけどね。

 

まあ、「判断基準をアウトソースしておくとパフォーマンスが上がりやすいよ」「その為に明確な数値基準を作っておくといいこと多いよ」というだけの話でした。

 

全然関係ないですけど、私がいつも「今日書きたいことはそれくらいです」で記事を締めているのも決断機会を減らすことが目的、というのはたった今思いついたヨタ話でして、実際には考えてみても他にいい結句を思いつかないだけです。ごめんなさい。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Kevin Ku

高校~大学の頃、いわゆる自己啓発本にハマった事がある。

 

当時の僕は何者にもなれそうにない平凡な学生だった。

そんな事もあって、この手の本がキラキラ輝いてみえた。

 

「凄い。たった1000円で買える本の中に、成功者になる為のヒントが惜しげもなく散りばめられてる!」

「おまけに読みやすくて、本が読めない自分でも1時間で一冊読める。最高や!!!」

こんな感じで数百冊ぐらいの本を読んで、かつその素晴らしい教えを実践してみた。

 

結果、僕がどうなったか?人に嫌われた。

 

だが悪かったのは自己啓発本ではない。僕の行動だ。

自己啓発本をガチで読み込みまくって自己洗脳といえるほどにまで教えを忠実に守っていた僕は、いつしか自己啓発本に書かれていない他人の振る舞いが許せなくなっていた。

 

例えば人に好かれる上手い話の聞き方という本を読んで「おい、そこは相槌を打つタイミングだろ!」などと他人の話の聞き方にケチをつけたり

偉そうに「成功者はこう言っていた」と他人にのたうちまわり

「おまえ偉そうな事いろいろ言ってるけど、お前自身はなんも成功してないじゃん」

というド・正論を言われて逆ギレしたりなどなど……まあ散々だった。

 

冷静に振り返って考えてみれば、完全にカルト宗教に頭をやられて教義を無理やり他人に押し付けていたイタいやつだったのだが、当人は至って真面目に良い事だと思ってやっていたのだから余計にタチが悪い。

 

人は現実に絶望すると少年ジャンプと自己啓発本の成分が欲しくなる

いま思うと、当時の僕は若かったが故に著しく自尊心を欲していた。

若者は何もできない無能なくせに、承認欲求だけは人一倍強かったりする。

 

認められたい。けど現実的には圧倒的☆無能……。

 

そのギャップが僕の事を物凄く苦しめていた。

自己啓発本はその隙間を埋めるナニカとして、お手軽に自尊心を摂取できるエナジードリンク的に僕に機能していたのだ。

 

これは何も僕に限ったことではない。かつて東日本大震災があった時、仙台の友人とTwitterにてやりとりしていたのだが、彼が被災直後に本屋にいったら少年ジャンプと自己啓発本の棚だけがスッカラカンになっていたとつぶやいていて、ビックリした事がある。

「人は現実に”絶望”すると、少年ジャンプや自己啓発本に入っている”希望”が欲しくなるのか」

この現象は自分の経験もあって、なんだか妙に色々と納得してしまった。

 

若い頃の自分は、たぶん現実に絶望していて、その救いを自己啓発本の中に見出していた。

結局そこに救いはなく、本当の意味で救われる為には真面目に淡々と成すべき事をやるしかなかったのだけど。

 

使えなかったアンガーマネジメントの思い出

さて、これが僕の自己啓発本関連の黒歴史である。

 

話は変わるが、僕は大学生の頃、いわゆるビジネス本にハマった事がある。

「またかよオイ!懲りねぇな」と思われるだろうが、人間そんなものである。

 

当時、大学での人間関係に悩み苦しんでいた僕はビジネスの基本を先取り学習し、そこに希望を見出そうとした。

 

数百冊のビジネス本を読んで、出来るビジネスパーソンを気取ってた僕が実際に大学での人間関係が改善できたかというと、そんな事はまったく無かった。

というか本に書いてある事を実際にやってみても、現実では全然応用できなかった。

 

例えばアンガーマネジメント(怒りのコントロール法)の本に”嫌いな人を許す方法”というのが書いてあったのだが、僕はこれが全然無理だった。

当時、部活でもの凄く嫌いな人間がおり、そいつへのイライラをどうにかしようとその本を手にとった。

確かその本の中では

「嫌いな人を思い浮かべて、その人を心の中で散々な目にあわせてください」

「そしてその人があなたに泣いて許しを請うている姿を想像してください」

「すると、なんだか許せそうな気がしてきませんか?」

と書かれており「ホンマか?」と思いつつも実際にやってみた。

 

結果?

 

まったく、ぜんぜん、さっぱり、その人の事を許せなかった。

 

10数回やってみたのだが、それをやっても怒りが収まるどころかむしろ爆発する有様だ。

僕は通学路で心のなかでそいつの悪口を散々いい、大学でも散々悪口で盛り上がり、家に帰って母親にそいつのクソっぷりを散々愚痴っていた。

 

「なんや。チベットだかインドの高僧のくせに、全然役にたたないこといいやがって」

 

結局、その嫌いな人間が部活を引退するまで僕が呪詛を吐き続ける事はおさまらなかった。

 

残念ながら嫌いな人間を”許す”なんて僕には無理だった。

だから怒りに飲みこまれたくないのなら、最初から嫌いな人間を視界に入らないようにするしかないという事をこの経験を通じて学んだ。

 

ビジネス本に書かれた事は結局他人専用のスキルだから、自分用のスキルは別に育てないといけない

こんな感じでビジネス本を全然使えなかった自分だけど、今ではこの経験は物凄く貴重な体験として自分の中に残ったと思っている。

 

何が問題だったのか?

結局、ビジネス本に書かれているやり方は他人専用のスキルで、その人にしか使えないものなのである。

だから自分の現実をどうこうしたいなら、自分専用のスキルを開発しないといけない。

 

先のアンガーマネジメントなら、チベットだかインドの高僧はそれで嫌いな人間をどうにかできたのかもしれない。

けど、残念ながら僕には全く役に立たなかった。

 

物理や数学のような自然法則と違って、仕事の現場では公理とか一般法則のようなものは全く働いてくれない。

まず現場ごとに前提条件が全然違うし、何より他人は他人で自分は自分である。

 

この事で参考になる話がある。

無印良品やサイゼリヤの現場マネジメント術だ。

 

まず、これらの会社では綿密なマニュアルが作成されており、それを読めば誰でも一通り仕事ができるようにしているという。

しかもそこまで親切にした上で、それらのマニュアルは現場の人間が使いやすいよう、現場の裁量でいかようにでも改良できるようにしているのだそうだ。

<参考 なぜ星付きシェフの僕がサイゼリヤでバイトするのか? 偏差値37のバカが見つけた必勝法>

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僕はこれを経営者として本当に誠実な対応だと思う。

昔ならともかく、今の時代では背中を見ろ!では誰も付いてきてくれない。

だからマニュアル類はわかりやすくキチンと整備する必要がある。

 

けど、マニュアルを遵守する”だけ”だと働いてても全然楽しくないし、マニュアルをそっくりそのままなぞるのは意外と骨だ。

けど、 自分用にカスタマイズさせていけるように裁量が付与されると、一気に現場が楽しくなる。

 

やっぱり他人は他人、自分は自分である。

ビジネス本から他人の成長は借りパクできないし、できてもつまらない。

その逆で、自分オリジナルな成長するのを実感するのは本当に楽しい。

 

困難が目の前にでてきて何とかしたいのならば、自分のスキルツリーを伸ばしていくしかないし、それが一番仕事で面白い部分なのである。

 

他人に学んでもいいけど、結局は自分に学ぶしかない

さて、これが僕のビジネス本関連の黒歴史である。

話が長くなってきたし、そろそろ話をまとめよう。

 

結局、僕が何をいいたかったかというと「お前ら安全地帯に立ってないで、ちゃんと黒歴史やれ!」という事である。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

これはドイツのビスマルクが語ったといわれている名言だ。至極ごもっともである。

 

しかしあえてクソリプだとは思いつつこの言葉にケチをつけるが

自分の経験から学ぼうとしない人間が、

他人や歴史から何かを学べることは、

絶対に無い。

経験から学ぶものは愚か者なのかもしれないけど、やっぱり自分の経験というのは最強の学びのタネである。

だから頭を抱えたくなるような黒歴史をやってきたという自認があるかどうかは、皆が思ってる以上に後々になって大きな差として現れる。

 

誰よりも黒歴史を積み重ねてきた奴だからこそ、後々にデカい学びを得られるのだ。

 

頭でっかちな賢者モドキより、恥をかける勇者をやっていこう

ここで例え話を一つしよう。

ここに一匹の野良猫がいたとする。

この猫はある特殊能力を持っている。

それは人をパッと見て、餌をくれる良い人間なのか、ひどいイタズラをしようとしてくる悪い人間なのかを瞬時に見抜く能力だ。

 

この猫がこの野生の勘ともいえる能力を身につけられたのは、他の猫から色々と教えてもらったり、本を読んだりしたから“ではない”。

リスクをとって、実際に身銭を切って、生き残ったからだ。

 

耳学問はそれ単体では虚無だ。

能力はリスクを負わないヤツには絶対に宿らない。

これはこの世の真理である。

 

頭でっかちな賢者モドキより、恥をかける勇者を、やっていくしかないんじゃないですかね。

それが良く生きるって事だと僕は思うけど。

 

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【プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Ben White on Unsplash

人生が競馬の比喩なんだ

しかしうんと短い時間の枠の中だけに限定すれば、とても短い、たとえば自分の馬が走って、それから勝利を収めるほんの一瞬。

そこには何かがある。何かが起こるのがわかる。気持ちが高揚し、陶醉感に襲われる。

馬たちが自分の言いつけどおりにしてくれる時、人生はほとんど会得されうるものとなる。

チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』

競馬場から群衆の姿が消えてしばらく経つ。

それでも騎手は鞭を振るい、馬は走る。

そこにはいないだれかの馬券が当たり、外れ、外れる。

 

寺山修司の有名な言葉に、「競馬が人生の比喩なのではない、人生が競馬の比喩なのだ」というようなものがある。

それはそれで競馬者にとってすばらしい言葉のように思えるが、実際のところ寺山は前者の主体がレースにあり、後者の主体が人生である、ということを言いたかったと記憶する。

 

人生が主語であることがすばらしいと。

 

して、競馬、あるいは博打は人生に似ているのだろうか。

あるいは、人生は博打なのだろうか。

おれはときどきそんなことを考える。

おれの人生に馬券売り場が現れたことがあったろうか。

 

おれはそんなことに気をかけているから、当たり馬券にありつけない。

おれは人生で博打をしたことがあるだろうか。

おれは、勝ったり、負けたりしたことがあるのだろうか。

 

人生で賭けに出て、勝ったことも、負けたこともない。そういう答えになる。

おれの人生にドラマチックな瞬間があったろうか?

人生を左右する決断をしたことがあったろうか?

たぶん、ノーだ。

 

もっとも、そんなドラマチックな賭けをした人間のほうが圧倒的に少ないとは思うが。

 

いや、それもそれぞれの人生だ。

人生の転機というもはあって、なにかを選び、何かを捨てた、そんな経験はありがちなことかもしれない。

決して他人から見て劇的ではなくとも、本人にとってはひどくたいへんな選択。

そして、それに勝ったとか、負けたとか、どっちでもなかったとか。

就活、結婚……おれには縁のない人生。

 

ゲートインすらできない人生

おれはどうも、そういう勝負をしないで生きてきた。

勝負から逃げて生きてきた。

逃げも一つの戦法だと言われればそうかもしれないが、おれは「おれは人生を逃げてきたな」という思いが強い。

 

舞台に上がらなかったな、ゲートインすらしなかったな、ということだ。

喧嘩から逃げ、恋愛から逃げ、大学から逃げた。

まともな人生のレールに乗ることからも逃げた。そしたら、このありさまだ。

 

そうだ、努力をしてなにかを勝ち取ったこともない。

そういう経験に欠けている。

まともに部活などやっていれば、そういった機会があったかもしれない。

 

ところが、おれは帰宅部だった。

帰宅部が勝利をおさめることはほとんどない。せいぜい、ゲーセンの対戦台で勝つことくらいか。

そんなものが勝利と言えるのか。生粋のゲーマーにとってはそうだろうが、おれはそこまでゲーマーでもなかった……。

 

人生を会得するとき

そんなおれでも、競馬をやっているときだけは別だ。アメリカの偉大なる詩人チャールズ・ブコウスキーが言うとおりだ。

おれの選んだ馬が、少し荒れた緑のターフを大外から突っ込んでくる、そのとき。

おれの選んだ馬が、砂を蹴り上げて最終コーナーで後続に差をつける、そのとき。

 

あなたは、そのときを知っているだろうか? そのまま、おれの選んだ馬がゴール板を一着で駆け抜ける、そのときを。

 

それこそ、おれは世界の理を会得したような気分になる。

おれは未来を予知できた。おれは全能だ、万能だ。そういう気持ちになる。

おれは人生の正解を知っていて、おれ以外の間抜けどもはそれを知らなかった。

おれは神のような存在で、世界を睥睨する。ふんぞり返って大笑い、荒い鼻息、六気の辯を御し、以て無窮に遊ぶ者のごとく!

 

そしておれはTwitterで「斎藤くん(騎手名)愛してる!」などと叫ぶ。

 

……叫んだあとに、「もっとたくさん賭けておけば」とか、「もっと絞って買っておけば」などという、勝利の後悔を味わう。

すぐに落ちる。これもおれの双極性障害の一つの出方なのか? たぶん違う。

 

なさけないことに、おれは競馬で最高の勝ちというものをほとんど経験したことはない。

まったくないわけでもないが、たいていはしょうもない金額を賭けて、そこそこしょうもない払い戻しを受けるだけだ。

だから、勝ったら勝ったで、その額の少なさに後悔を覚える。

 

負けることすらできない者こそ

偉大なる競馬評論家の清水成駿は、「負けたら本当に痛いと思うような金を賭けてみることだ」というようなことを言っていた。

おれは清水成駿を尊敬している。

だれだか知らない? あなたが今使ってるその箱で検索してみればいい。

 

で、おれにそのような度胸はない。

結果的にずるずると「わりと痛いな」と思うような負け方をするのは毎週のことだが、かといって生活に困るような負け方をしない。

 

おれは勝つこともできなければ、負けることもできない。

その情けなさは、酒を飲んで飛ばしてしまうしかない。

負けることすらできない者こそが、本当の、敗者。

 

おれは結局、破滅が怖い。おれは度胸なしだ。

そのわりに蓄える、という能力に欠ける。

ただ、かりそめの勝利、一瞬の麻薬。そのために、おれは馬券を買う。

 

そうだ、おれは金を稼ぐために馬券を買うわけじゃない。その一瞬の快楽のために馬券を買う。

おれが年間を通して馬券でプラス収支を記録したことは、一度か二度だろう。

もちろん、負けたいわけはない。できたらプラスを計上したい。

 

とはいえ、おれのような勝っても負けても後悔するような性格だから、競馬を続けてこられたというのはある。

今は新型コロナウイルスの影響で人のいない競馬場、場外馬券売り場。

 

でも、いずれはそこに戻ってくる老人、あるいは馬券購入のためにスマートフォンを使いこなすようになった老人。

あいつらは、たぶん人生の勝者ではないけれど、負けない術を、競馬をつづけられるていどに負けない方法を知っているのだ。

尊敬しても、見下してもいい。おれがどう見るかは、言うまでもないだろう。

 

人生の人生を生きる人、生きられない人

それにしても、世の中の人というものは、人生の日々において、そんな一瞬、「そのとき」を得ることがあるのだろうか。

あるのかもしれない。

なにかしら仕事で成果をだした、大きな契約がとれた、大作をものにした、研究がうまくいった……。

おれの貧困な想像力ではよくわからないが、なにかあるのかもしれない。

 

そのような人にとって人生は美しい。

人生の人生を生きている。おれは拍手する。

そして羨ましくも思う。生きるに値する人生というものがそこにはあるのだろう。

 

おれは人生の人生を生きていない。

おれが世界の真なるものに触れられると感じるのは、おれの選んだ馬が馬券になってくれたときだけだ。

おれは博打に人生を求めている。

 

ちょっと言い過ぎた。

やはりそれは嘘だ。なにが人生を求めている、だ。

 

だいたい、走っているのは馬だ。考えてみろ、動物だぞ。

本当はその競走で一番強い馬だって、「今日はなんか寝不足で走る気がしないんだよな」と思えばおしまいだ。

馬の心なんてわかりはしない。おれにとってまったくもって知ることのできないことだ。

 

その上、その上にやはりなにを考えているかわからない騎手とかいう人間が乗って

「このレースはどのあたりでスパートしようかな。それよりなんかこないだの合コンで会った子、LINEに既読つかないな」

とか考えている。

 

結局のところ、動物の心も人の心もわかりはしない。

向こうにとってこっちは他人事だし、こちらからみてもそうだろう。

おれは馬券を買うだけで、なんの関与もできない。

 

とはいえ、競馬がまったくランダムなものかというとそうでもない。

傾向というものは存在する。

そうでなくては、一番人気の馬の来る確率の高さは説明できない。

最近ではAIのようなものでトータルで勝つような買い方もあるようだ。

おれは機械に疎いのでよくしらないが。

まったくの宝くじではないよ、ということで。まあ念のため。

 

まあそうか、これが例えばべつの博打だと、また話は違うかもしれない。

運の要素はあるとはいえ、麻雀はどうだ。

 

ド素人がまぐれで半荘勝つことはっても、回を重ねれば強いものが勝つ。

将棋や囲碁の真剣ともなれば、それこそド素人が勝つ可能性はない。

それは勝負だ。

パチンコやスロットはまったく知らない。

そこで勝ったら本当に震えるだろうな。

たぶん、それは人生の人生に似ている。あ、違法賭博はやめましょうね。

 

博打は人生に似ているか?

おれはタイトルに「博打は人生に似ているか?」と書いた。とりあえず、書いた。なんとなくそんな言葉が浮かんだからだ。

勝利も敗北もないそれは、少なくとも「おれの人生に似ている」んじゃあないか。

「博打はおれの人生に似ている」、否、「おれの博打はおれの人生に似ている」

 

そして、おれの知らない世界、人生の人生をいきられる人間は勝負しているし、自力というものに頼る博打で生きている人間は、やはり人生を生きているのだろう。

それらは似ている。あるいは同じものだ。

 

本当の人生があり、偽物の人生がある。

本物の博打があり、偽物の博打がある。

 

畢竟、人間、おのれの器でしか生きられない。

そいつが博打をするなら、そいつなりの博打になってしまう。

そいつが生きるなら、そいつの器でしか生きられない。単純な話だ。

器の大きい人間は槍が降っても気にしない。

おれは少しの雨でも傘をさす。最近は日傘もさすようになった。

 

ただ、偽物だとしても、一生において、おれの選んだ馬が先頭でゴール板を駆け抜けること以外に、おれが人生を会得するような瞬間はあるのだろうか。

いや、馬連を買っていて一着に穴馬が来てもいいのだろうけど、そういうことを言い出すと面倒くさい。

おれの馬が一着でゴール板を駆け抜ける、そのときのこと。

 

ただ偽物の勝利のために

勝利、勝利、勝利が欲しい。でも、そんなに勝てないのよな。

でも、人生において「勝ち」を意識できるのは、ただただ馬券で勝つときだけだ。

それ以外になにがあるのだろうか。

おれはあまりに虚しい人生を送っているようだ。

 

たとえば、おれは広島東洋カープというプロ野球チームを大の贔屓にしている。

カープが勝てばうれしい。うれしいが、それだけだ。それはおれの勝ちではないな、と思ってしまう。

おれが応援する棋士、おれが応援するサッカー・メキシコ代表。勝てばうれしい。

でもおれのものではない。そういう意識がある。

 

カープが勝つときと、馬券で勝つときには、決定的な違いがある。

馬券を買う、人生を買う。いや、偽物の人生を買う。

 

おれは高給取りでもないし、やりがいのあるエッセンシャル・ワーカーでもない低賃金労働者だ。

何者かになるには遅すぎる年齢。何者かになるには何も持ち合わせもない身の上。

そのうえ精神障害者で、薬なしにはまともに起き上がることもできない。

巨額の遺産が転がり込んでくる予定もないし、毎週なんとかくじを自動購入しているが、たまに千円当たるだけ。

何度「当選メール」に小躍りして、口座にアクセスしてがっかりしたことか。

 

それよりなにより、やる気がないということだ。

自分を高めようという意識を持ったことがない。

おれの座右の銘は尊敬する辻潤からもらった。無為無作。

うん、偽物の勝利を、人生を求めるあたり、おれはまだまだその境地にたどり着けない。まったくなっていない。

辻潤は最後ほんとうになにもしないで飢えて死んだ。

 

これはもう、かなり虚しいことだ。

えらい斤量を背負わされてしまってる。それでも、夢くらい見させてくれ。刹那の勝利というものを味わわせてくれ。

だからおれは馬券を買う。

美しいサラブレッドと、それにまたがる鮮やかな勝負服を着た小悪魔たち、おれはそれを託すのだ。

それ以外になにがあるっていうんだ。

 

馬は何のために走る? バラのために走る。

おれは何のために賭ける? 偽物の人生のために賭ける。

あんたはどうだい?

その男はただ競馬場にいたいだけなのだと思う。

気がつけば足を運んでいる。

たとえ負けっ放しだとしても、彼にとっては何らかの意味があることなのだ。

いるべき場所。ひどくばかげた夢。しかしそこはうんざりさせられる場所でもある。不確かな場所。自分だけがものの見方をわかっていると誰もが思っている。

チャールズ・ブコウスキー『死をポケットに入れて』

 

 

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著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo:roger blake

コンサルタント時代に学んだことの中で、最も重要な事項の一つは、間違いなく

「頑張れば頑張るほど、成果が出なくなる」だった。

 

これは「頑張らなくて良いんだよ」とか「長時間労働は悪」といった、価値観の話ではない。

本当に「頑張ると成果が出なくなるから、頑張るな」というシンプルな話だ。

 

だが、直感には反する。

努力と成果には、因果がある気がするからだ。

 

 

例えば、こんな話だ。

 

ある会社で、画期的な商品を開発した。

BtoB向けのサブスクリプション契約可能な商材で、潜在的なニーズがあったため、まず既存顧客に向けて販売したところ、またたく間に数百社の顧客を開拓できた。

 

しかも、営業はとてもかんたんだった。

広告とダイレクトメールだけで、引き合いがバンバン来る。

あとは、出かけていって、サインを貰って、受注。

楽なもんである。

 

経営者は喜んだ。

「これは金鉱脈だ、全営業リソースを突っ込んで、市場を取りに行くぞ」と。

 

結果的に、最初の2年で、顧客は3000社以上に膨れ上がり、会社は躍進した。

新卒の採用もはじまり、人数も3倍以上に膨れ上がった。

 

 

 

ところが3年目。

 

風向きが少し変わった。市場の存在に気づいた競合が複数、出現したのだ。

しかも競合は大手企業。

資金力で圧倒される可能性を経営者は危惧し、「先に市場を押さえるぞ」と、息巻いた。

「目標は、最速で全国で2万社獲得だ。」

大きな目標だった。

 

 

しかし。

その年の中盤に差し掛かると、社員に疲労の色が濃くなってきた。

壮大な目標に基づき、営業のノルマは増える一方で、顧客からの引き合いだけでは目標を達成できないことが明らかになってきたからだ。

明らかにこちらからの売り込み、「プッシュ営業」を進める必要があった。

 

しかし、それでも皆は強烈に頑張った。

「テレアポ」「飛び込み」「紹介営業」など、やれることはすべてやりつくした。

もちろん、新卒にも営業の厳しいノルマが課せられた。

 

なかには当然、成果の出ない者も、過激な営業活動に反発するものもいた。

 

しかし「高い目標」を達成するために、早朝から深夜まで、成果の出ないものには指導を行った。

営業目標への不満を表明した人物は、「君にはこの仕事、合ってないよ」と、暗に退職を勧めた。

疲弊感を吹き飛ばすため、社内では数々のイベントが開催され、社員を鼓舞した。

 

明らかに顧客獲得のペースは鈍化していた。

だが、3年目はなんとか、社員の決死の努力で、年間目標は達成された。

 

 

そして4年目。

新しい問題が発生していた。

皆が薄々気づいていたが、誰も口にしなかった「解約」である。

 

経営者は解約率の急激な上昇に危機感を覚え、営業に新規開拓のノルマだけではなく「解約の防止」ノルマを与えた。

目標を「獲得」から「純増」の目標に変えたのだ。

 

営業一人あたりの担当者数は50社近くある。

それを守りつつ、新規開拓の目標を年間30社はこなさなくてはならない。

 

一人の経営幹部は、たまりかねて言った。

「さすがに、この目標は厳しすぎるのでは……」

 

しかし社長の腹心の一人は、同僚の幹部に向かってこう言った。

「やる気が無いんだな。」

 

「いえ、そう言うことではないのですが……。もうメンバーにも限界がきていると思います。」

 

社長は言った。

高い目標を、なんとか達成することで、人は成長する。やるんだ。

「はい……。」

 

 

だが、幹部の予想は外れ、社員は実に頑張った。

解約しそうな顧客を特定し、優先的に訪問した。

1日に十数社を訪問し、解約を防ぎつつ、その近くの会社に飛び込み営業やポスティングを行い、新規開拓の目を作り続けた。

素直に、愚直に努力した。

 

しかし、解約は止まらなかった。

純増目標をクリアするため、彼らはますます、行動の効率と、量を突き詰め、一時たりとも休まず働いた。

もちろん定時で帰る社員は、一人もいなかった。

 

そしてついに、あまりのノルマのきつさに、中には不正に手を染める者がでた。

退職率は年間30%にのぼり、ついに管理職が一人辞め、二人辞めるにいたって、社長は、新規の顧客開拓を止め、解約を止めることにのみ、注力することにした。

 

だが、かつての活気は、もう戻らなかった。

 

悪いのは「頑張り続けたこと」

さて、一体何が悪いのか。

 

社長が悪い、幹部が悪い、社員が悪い、そのように誰かのせいにしたくなる。

だが違う。

真に悪いのは、「頑張り続けたこと」だ。

 

最初の2年は、非常に楽に注文をもらうことができた。

「いい商売」だった。

 

しかし3年目以降。

競合が出現し、顕在需要をとりつくした後は、もはや「いい商売」は許されなかった。

市場を無視した高い目標を設定した彼らは、死ぬほどの努力をして、目標の達成をした。

素晴らしい!

 

 

 

だが、彼らの「努力」は称賛されるべきだろうか。

実は、そうではない。

あえて言えば、その時点での「目標未達」は必須である。

なぜかといえば、そうなれば、自分たちの失敗を認めることで、戦略や商品の見直しなどができたからだ。

 

多少は競合にシェアを奪われたかもしれない。

が、じっくり構えて、マーケットの攻め方を変えたり、解約に先に先に手を打つこともできたはずだ。

 

しかし、皆の頑張りによって、強引に目標を達成してしまった。

だから、社員も会社も、その方針が真に破綻するまで、全力で走りつづけなくてはならなくなった。

それこそ、人と会社が壊れるくらいに。

 

したがって、繰り返すが「頑張り」は美徳ではない。

破綻を先送りしているだけだ。

「頑張ること」は、「本来やらねばならないこと」を力技で覆い隠してしまい、むしろ、取り返しのつかない深い傷を負う可能性もある。

 

押せば押すほど、強く押し返してくる。

「そんなこと言っても、単なる努力不足のケースもあるのでは?」と疑う方もいるかも知れない。

 

でも、違う。これは世界中で普遍的な事象なのだ。

実際、上のように「頑張れば頑張るほど、問題が次々に湧いて出てくる」現象には名前がついている。

「相殺フィードバック」だ。

 

米国MITスローン経営大学院のピーター・M・センゲは著作「学習する組織――システム思考で未来を創造する」で次のように述べる。

多くの企業が、自社製品が突然に市場での魅力を失い始めるとき、相殺フィードバックを経験する。

企業はより積極的な売り込みを推し進める──それが今までいつもうまくいっていたやり方だ。宣伝費を増やし、価格を下げるのである。

 

こういった方法によって、一時的には顧客が戻ってくるかもしれないが、同時に会社からお金が流れ出ていくので、会社はそれを補うために経費を切り詰め、サービスの質(たとえば、納期の早さや検査の丁寧さ)が低下し始める。

長期的には、会社が熱心に売り込めば売り込むほど、より多くの顧客を失うことになるのだ

「今まで、楽に成果が出ていたのに、急に何をやってもうまくいかなくなる」

という感覚。

「頑張っても、局所的に解決するだけで、根本は何一つ解決されない」

という、あの状況。

 

そんな時、「もっと頑張る」は、最悪手なのだ。

 

「もっと頑張る」のではなく「頑張らないといけない状況」に手を付ける

相殺フィードバックが発生している状況では、頑張れば頑張るほど、よけいに状況がおかしくなる。

 

ではどうするか。

やらなくてはならないのは「もっと頑張る」ではない。

「頑張らないといけない状況そのもの」に手を付けることだ。

 

「原因究明なら、我々もやっているよ」という方もいるかも知れないが、それも違う。

 

原因を究明するのではない。

原因究明はたいてい、局所的な対処療法にとどまってしまう。

例えば「責任者の変更」や「価格の見直し」、あるいは「広告の増加」「営業の能力開発」などだ。

 

でも、大抵は全く効果がない。

いや、効果がないどころか、疲弊感は増すばかりとなる。

 

言うならば、それらは「敗因を分析して、次は勝とう」というもので、頑張ることを継続している。

でも、やらなくてはならないのは「敗因分析」ではない。

「勝利条件の変更」である。

 

例えば、上の場合「より多く売る」が勝利条件となっているが、本来ならば3年目の時点で

「こんなに頑張らないと売れない状況はおかしい」

「そもそも掲げたほどのの市場は存在しない」

と気づくべきだった。

 

そして、勝利条件を「より多く売る」から、例えば「より多く顧客の成果に貢献する」に変更すべきだった。

あるいは、「顧客からの紹介以外の新規受注はしない」という選択肢もあっただろう。

 

そうすれば、全く状況は変わる。

営業を自社でやる必要はなく、リソースを顧客へのサービスにすべて投入できたかもしれない。

代理店を起用するという方法もあったかもしれない。

サービスを別の形に変え、さらに大きな市場を狙えたかもしれない。

 

「狭き門より入れ」

この「頑張らないといけない状況」そのものに手を付けることを怠ると、企業は破綻の道を突き進む

そして多くの場合、それは「まわり道」と「スピードダウン」を含む。

 

要は「狭き門より入れ」という話だ。

 

ビジネスは複雑系なので、単純な一つの解決策がすべてを解決する、などという都合の良い話はほとんどなく、結局はサービスの質が「本物」であることを求められる。

前述したセンゲは、「最適な成長率は、最速の成長率よりも遥かに小さい」と言うが、「本物」を作るのには、膨大なリソースと時間が要求される。

最適な成長率は、可能な限り最速の成長率よりもはるかに小さい。成長が──ガンがそうであるように──過度になると、システムそのものは、減速することによって相殺しようとする。そして、おそらくはその過程で、組織の生き残りが危うくなる。

「狭き門より入れ」は唯一の解決策なのだ。

 

経営者は「大手競合の参入」に焦りを感じた。

しかし、そこで「先にもっと売るぞ」ではなく「形だけ真似てもダメなくらいにサービスの質を高めよう」と意思決定をすべきだった。

そうすればむしろ、「大手のサービス」に愛想を尽かした顧客が、こちらに流れ込んでくるということもあり得たのだ。

 

成果ではなく「上司を喜ばせること」を主目的とする輩はどこにでもいる

だが、センゲの言うように、「社長、成長スピードを落としましょう」という発言は、ほぼ常に、歓迎されない。

自分自身の権力基盤を構築することや、「格好よく見える」こと、「上司を喜ばせる」ことなど──が重要性をもつような意思決定を指す。複雑な人間のシステムでは、短期的に物事をよく見せる方法がつねに数多くある

その機に乗じて、社長におもねり、政敵を排除しようとする幹部も出てくる。

しかし、それこそさらなる命取りだ。

 

信頼関係が育まれていなかった組織は、このような事態に非常に弱い。

すぐに「足の引っ張り合い」になる。

 

実際、心理的安全性やビジョンが必要なのは、うまく行っているときではない、本当にきつい時なのだ。

辛いときほど「協力・一致」が必要であり、誰かが得をする、誰かが損をする、ではなく協力してことに当たる姿勢が問われる。

 

さて、今の状況はどうだろうか?

「つらい時」に現実を直視できる状況だろうか。

 

そうでないならば、できるだけ早く手を打つことだ。

組織の壊滅に至る前に。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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Photo by Sebastian Herrmann

先日我が家で、食洗機を回すタイミングについてすったもんだあった。その結果

「報・連・相はむしろ上司が部下にすべきこと」

だと気づいたので、みなさんと共有したい。

 

部下に対して「報・連・相をしっかりな」と言っている管理職の方や、「あいつはもっと俺にいろいろと話すべきだ」と後輩に不満を抱えている先輩方に読んでいただければと思う。

 

我が家で起こった食洗機騒動

我が家には、「料理しなかった方が食器や調理器具を片付ける」という鉄の掟がある。

以前共同キッチンの学生寮で同棲していたとき、料理がめちゃくちゃ面倒くさかったので、「料理した人は片付け免除」ということで家事を分担していた。

 

引っ越した現在も、このルールは変わっていない。

これがないと、お互い「片付けが面倒だから料理したくない」と外食して出費が増えてしまうからだ。

というわけで、「料理したら片付けなくていい」という取り決めのもと、我が家の家事分担は成り立っている。

 

さて、ここからが本題。

日曜日のお昼はたいていわたしが料理をつくるから、食後、食器を下げて使い終わった調理器具を食洗機に入れるのは彼の仕事だ。

 

だがしかし、彼はなかなかそれをやってくれない。

なんどもなんども繰り返し「片付けて」と言っても、「ちゃんとやるから」と言って、夜までやらない。

夜ご飯をつくるとき「キッチン汚いじゃん! 料理できないよ!」という状態になってはじめて、重い腰をあげるのだ。

 

期待どおり片付けてくれない夫と、口うるさく催促する妻。

お互いいい気持ちになるわけがなく、どうしたものかと考えていた。

 

いやね、食洗機を回さないことが問題なんじゃないのよ。

午後に食洗機を回しておかないと、夜ご飯の時間までに、昼食に使ったお気に入りの食器や高性能のフライパンが洗い終わらない。

すると当然、夜ご飯をつくるときにそれらは使えない。

だから夜ご飯をつくる時に困る。

しかもドイツは騒音にうるさい国なので、夜はおいそれと食洗機を使えない。

 

夜になってから昼間使ったものを食洗機に入れる

→でも食洗機をつけられない→食洗機がいっぱいだから夜ご飯に使ったものを入れられない→キッチンに放置→そのまま就寝……となる。

 

朝起きて最初に見るのが汚れたキッチンというのが最高にイヤ。

だからわたしは口すっぱく、「早く食洗機を回してくれ」と言い続けていたのである。

 

食後すぐ食洗機をまわしてほしい理由を丁寧に伝えてみた

今月、彼が2週間ほど休暇を取っていたので、昼食を家でいっしょに食べる機会が増えた。

で、わたしがお昼ご飯をつくっても彼は食洗機を回さないので、夜ご飯をつくるときに調理器具が足りない。

そのうえキッチンが汚いまま寝ざるを得ず、朝起きると気分は最悪。

 

それが連日続き、イライラも最高潮。

彼としても、休暇中なのに妻に毎日「食洗機つけてよ」「まだやってないの」「もう夕方なんだけど」などと言われてうんざり。

これは良くないと、一度懇切丁寧に説明してみた。

 

「あのね? 『まだフライパンも食器もあるんだからあとで片付ければいいじゃん』って気持ちもわかるよ? でも夜ご飯のメニューによっては『この鍋が必要』とかってことがあって。だから夜ご飯前に、お昼使ったものは洗い終わっててほしいの。

夜になってから片付けたら、夜ご飯に使ったものを食洗機に入れられないから、キッチンが汚れたまま寝るよね。わたしはそれが気になって嫌な気持ちになる。

いつもわたしのほうが早く起きるから知らないだろうけど、毎朝起きて一番にするのがキッチンの片付けなんだよ。めっちゃ面倒くさいよ。でもそうしないと朝ご飯食べられないからしかたなくやってるわけ。

そっちがお昼ご飯作ってくれたときは、わたしはすぐに食洗機で全部洗うよね。そしたら夕方には洗い終わるから、夜ご飯作るときにまたフライパンとか使えるじゃん。

で、食べ終わったらすぐに食洗機に入れられるから、キッチンがきれいなまま朝を迎えられるでしょ。だからお昼ご飯終わったらすぐに食洗機を回してほしい。

それをやらないなら『料理をしたら片付け免除』ルールのメリットがわたしにはないから、料理する気がなくなる」と。

 

相手が期待通り動いてくれないのは自分の怠慢

もちろん、今までも似たようなことは伝えていた。

でもここまで事細かく言ったことはなかったかもしれない。

 

だって、「食洗機つけて」の一言で十分だと思ってたし。

「食洗機つけて」「OK」って会話が成立したんだから、やってくれればいいじゃん。そう思っていた。

 

しかし改めて彼と話すと、どうやらお互いの認識がちがっていたらしい。

わたしは、「食器や調理器具を次の食事までにふたたび使える状況にする」「キッチンをきれいに保つ」ことが目的で、そのための手段が「食洗機を食後すぐに回す」ことだと考えていた。

しかし彼は、「食器や調理器具を片付けて食洗機で洗うこと」が目的だと思っていたから、「食洗機をつけるのは午後1時でも5時でも変わらない」という認識だったのだ。

 

食器や調理器具なんてあるものを使えばいい、キッチンが汚れてても使うときに片付ければいい。

そういう価値観の彼が、わたしの「早く食洗機回してよ」というセリフに、「なんで『やる』って言ってるのに催促してくるんだ面倒くさい」と思うのも無理からぬことである。

 

相手に仕事をお願いするなら、「なぜ」「なにを」「どうやって」「なんのために」やるのかを、しっかり伝えておくべきだった。

それをせずに「自分の思惑通り動いてくれるだろう」と期待するのは、ちょっと自分勝手だ。反省。

 

報・連・相はまず、上司から部下に

これは、仕事でも同じことがいえる。

よく「報・連・相は社会人の基本」「マナーだからやって当たり前」「そんなこともできないやつは無能」なんて言葉を耳にする。

 

まぁ、気持ちはわかるよ。

でもなんで、「部下→上司」という矢印を前提に話しているんだろう。

むしろ、上司こそ、部下に報・連・相すべきじゃないんだろうか?

この食洗機騒動で、わたしはそれを痛感した。

 

もちろん、夫婦間に上下関係なんてない。

ただ家事はわたしがメインでやっているので、「仕事を振り分ける側」のわたしを「上司」、「仕事を振り分けられる側」として夫を「部下」に例えたい。

 

上司は部下に、「これをこうしておいてくれ」と言う。

そしたら部下は、「わかりました」とうなずく。

でも部下が必ずしも期待通りに働いてくれるわけではないので、「なんでちゃんとやってくれないんだ」という不満をもつ。

そこで、「問題があるならちゃんと言ってくれればいいのに」「わからないなら聞いてくれ」「もっと早く相談してくれれば」と、相手に報・連・相を求めるのだ。

 

でも本当は、順番が逆なんじゃないか?

まず上司が部下に、ちゃんと報・連・相すべきだったんじゃないか?

食洗機騒動では、わたしが「こういう理由で食後早めにキッチンを片付けて食洗機を回してほしい」と、彼にちゃんと連絡すればよかっただけの話だ。

 

16時すぎても食洗機がついていなかったら、「夜チキン南蛮を作るときにフライパンがひとつ足りなくなるんだけど……」と相談すればいい。

で、ちゃんとやってくれたら「これで夜ご飯作れる、ありがとう」と報告して円満解決。

 

「上司」であるわたしが「部下」である彼にちゃんと報・連・相しておけば、彼だって食後すぐに食洗機をつけてくれていたはずだし、イヤな思いをさせずに済んだと思う。

それを怠っておいて「期待通りにやってくれない!」というのは自己中だった。

休暇中にガミガミ口うるさく言ってごめんよ……。

 

理解してもらうための努力をしてはじめて、期待が許される

仕事を振り分ける側は、細々した説明をしなくても、「これやっといて」と言えば相手が自分の期待通りにやってくれると思いがちだ。

だって、「やって」って言ったんだから。やらないのなら相手が悪い。そう考えてしまう。

 

でもそれを言われた相手は、自分なりに「こうすればいいだろう」と解釈する。

そこには当然認識の差があるから、期待通りの結果にならないのもまた当然。

「それを防止するための報・連・相」というのもわかるけど、イチイチ部下が上司におうかがいをたてるのは効率が悪い。

最初から上司がちゃんと説明したほうがムダが少ないし、トラブルを減らすことができる。

 

相手に「報・連・相」を求めるのなら、まずは自分が相手に理解してもらうように務めること。

それをやってはじめて、「こうしてくれるだろう」と相手に期待することが許されるのだ。

 

まぁ、だからといって相手が必ずしもその通りにやってくれるわけではないんだけど。

それでも順番としては、仕事を頼む側がまず言葉を尽くすべきだと思うよ。

 

というわけで、無事においしいチキン南蛮がつくれました。

ごちそうさまです。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo:Ria Baeck

ちょっと前にTwitterで10代で読んでいないと恥ずかしい必読書というリストが流れてきた。

正直、僕はこの手の本を一冊も読んでいないので、本当に若い頃にこれら高尚な本を読んだほうがいいのかはわからない。

 

ただ10代で何を経験すべきかと問われたら必ずこう答えるようにしている。

コンテンツに感動しなさい。衝撃を受けなさい、と。

それらは間違いなくあなたの人生を方向づける。

 

若い頃にしか経験できないモノは確かにある

若い頃の感受性は実に豊かだ。

例えば恋愛感情なんて、その最たるものだろう。

僕は随分と惚れっぽい性格をしていたので、それこそ大学生頃までは色んな女の子に片思いした。

けど、20代の終わり頃から本当に、全く、人に惚れなくなった。

 

もちろん結婚して身が落ち着いたというのは大きいとは思う。

だが、あんなにもチョロかった自分が女性をみても全くときめかないという事に気がついた時の衝撃はかなりものだった。

たぶん、性ホルモンの分泌量が減弱した事が原因なんじゃないかと思ってるのだけど、僕はたぶんもう二度と若い頃と同じような強度では異性に”惚れない”だろう。

 

あの頃は全く気が付かなかったけど”恋に落ちる”という感情は若さゆえの特権だったのだ。

 

パソコンのモニターの中やイヤホンの中にあった”人生”

恋もそうだが、コンテンツの感受性も年齢とともに凄く変化する。

若い頃に摂取したコンテンツの刺さり度合いは、歳をとってからのそれとは比較にならない。

 

冒頭で出てきた高尚なものが”刺さる”タイプの人もいるだろうが、僕は完全に俗人型だ。

具体的に僕の魂の原風景をあげると、テキストサイトの庵~iori~とパソコンのビジュアルノベルゲーム達、そしてCOCCOの音楽などだ。他にも沢山あるがキリがないので割愛する。

 

庵~iori~のみかんねこさん。ジオシティーズが消えてブログは無くなってしまったが、今はどうされてるのだろうか

 

生まれてはじめてやったビジュアルノベルゲームAIR。文字通り、泣いた。夏の終わりになると、いつもこのゲームを思い出す

 

Mステだったかで土下座シーンをみて圧巻されて興味をもったCOCCO。狂ったように何度も聞いた

 

高校生の頃にこれらから受けた衝撃は今でも忘れられない。

それこそ、自分の人生が”そこ”にあると真剣に思ったし、その衝撃を小賢しさ抜きでダイレクトに摂取しようと努め、そして模倣した。

 

無知というのは時に最高のスパイスとして働く。

歳を積み重ね、老獪さを増した自分は確かにある意味では賢くなったし、若い頃には決して出来なかった知恵の使い方ができるようにはなった。

 

けど、その代償として物事をシンプルにそしてダイレクトに受け取る事ができなくなった。

今でも僕は年に何度かはコンテンツに感動するけど、残念ながら慟哭といえるほどの強い衝動はない。

 

若かった頃は上に書いたようなモノに感動しつつも 「こんな無駄な事をせず、もう少し必死で勉強すべきなんじゃないか」と思っていた。

が、今になってみるとあれこそが本当の義務教育だったのだと確信を持って断言できる。

あんな痺れる体験、大人になったらもう二度とできない。

 

若い頃に定まった方向性を、大人になって深めていく

勘違いして欲しくないのだけど、僕は若い頃の方が感受性が優れていて、大人になってからの感受性が劣っているといいたいわけではない。

 

例え話で説明してみよう。

漫画や小説を読んでいて、物語が最高に白熱してきたとする。

このとき「ここがこの本で一番面白いところだから、ここで読むのをやめよう」となる人は誰一人としていない。

ちゃんと物語の結末までみて、綺麗な読後感を獲得するまでが良い読書体験というものである。

 

感受性も似たようなもので、若い頃のそれと歳をとってからのそれは”役割”がかなり異なる。

それは単純に良し悪しで比較するようなものではない。

思うに、若い頃の感動というのは自分の人生の方向性のようなものである。

私達は自分が何をすべきかなんて全く知ることなくこの世に生まれてくるわけだけど、強い感情というのは何らかの指針として私達のコンパスとなる。

 

例えば作家の橘玲さんは19歳の時に”知が物理的な衝撃”だということを知ったという。

知が物理的な衝撃だということをはじめて知ったのは一九歳の夏だった。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーの二度目の来日が一九七八年四月で、東京大学での講演を中心に雑誌『現代思想』六月号でフーコー特集が組まれた。

 

ぼくは発売日に大学の生協でそれを手に入れて、西荻窪のアパートに帰る電車の中で読み出した。

阿佐ヶ谷あたりだと思うけど、いきなりうしろから誰かにどつかれて、思わず振り返った。

でも、そこには誰もいなかった。その衝撃は、頭の中からやってきたのだ。

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あるいは村上春樹さんは29歳の夏、突如として神宮球場にて小説を書こうと思い立ったという。

『走ることについて語るときに僕の語ること』という本の中で彼はこの時の経験をこう記述する。

小説を書こうと思い立った日時はピンポイントで特定できる。1978年4月1日の午後一時半前後だ。

その日、神宮球場の外野席で一人でビールを飲みながら野球を観戦していた。その回の裏、先頭バッターのデイブ・ヒルトンがレフト線にヒットを打った。

バットが速球をジャストミートする鋭い音が球場に響きわたった。ヒルトンは素速く一塁ベースをまわり、易々と二塁へと到達した。

僕が「そうだ、小説を書いてみよう」と思い立ったのはその瞬間のことだ。

晴れわたった空と、緑色をとり戻したばかりの新しい芝生の感触と、バットの快音をまだ覚えている。

そのとき空から何かが静かに舞い降りてきて、僕はそれをたしかに受け取ったのだ。

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僕が知る限り優れたコンテンツクリエイターは誰しもがこの手のエピソードをいくつか持っている。

他人からみたら本当に些細でしかない事を通じて、人は時に天啓ともいえる何かを受け取る事がある。

橘玲さんにとってのそれは知が物理的衝動であったという事だ。

それをゆっくりと育んだ結果、彼はベストセラー作家になった。

 

村上春樹さんは当時ピーター・キャットというBARの一店長でしかなかった。

けど、神宮球場にてふと頭に思い浮かんだ小説家になろうという思いつきを大切に育てた結果、彼は世界的に有名な作家となった。

 

どれも最初のキッカケだけを切り取ってしまえば「珍しい体験をしたね」と言われて酒の席で消費されるような小咄でしかない。

けど、彼らはそれをちゃんと大切に扱って、一つの成果として結実させた。

 

僕は思うのだ。

こういう勘違いとしか形容できないものに形を与えて、嘘から出たまこと、瓢箪から駒にするのが人生なんじゃないかって。

若い頃に定まった方向性を、大人になって深めていく。

よい歳の重ね方というものの一つは間違いなくこれである。

 

もらう側からわたす側になる

私達人間は誰もが遺伝子を持っている。

誰かが誰かと恋という勘違いをして遺伝子を残すと、子供が生まれる。

 

人生というのは順番こだ。

誰かが遺伝子のバトンを渡してくれたから、今のあなたがいる。

あなたが誰かにバトンを渡すと、また新しい命が生まれる。

生物というものはそういう風にできている。

 

私達人間は、また誰もが文化を持っている。

人によってはそれは家風であったり、仕事であったり、僕のように俗なコンテンツだったりと色々だ。

 

文化もまた順番こだ。

親を自分で選べないように、何の文化を見出すかは自分では選べない。

文化があなたを選ぶのだ。

それは本当に偶然、ささいなキッカケを通じてあなたのもとに届き、あなたの中を通して誰かのもとに届く。

 

あなたの文化のバトンもきっと何かの形で誰かに届く。

世の中というものはそういう風にできている。

 

もらう側からわたす側へ。

若い頃の人生も、歳をとってからの人生も、どちらも等しく楽しい営みだ。

沢山のよいものを経験し、沢山のよいものを後へと残す。

誰でもその一端に関われるのだから、まったくもって人間社会は面白い。

 

そしてもし、あなたが幸運にも何かの天啓をどこかで受け取ったのならば、それを勘違いで終わらせずにキチンと育て上げて何かにまで高めて欲しいなと思う。

それはきっと物凄く楽しい経験として、あなたの人生の思い出の中に刻み込まれる。

それがきっと人生の意味ってやつの正体なのだ。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Tirza van Dijk on Unsplash

 

Photo by timJ

この記事で書きたいことは、下記のようなことです。

 

・「部下を育てる」ことは「部下の能力を引き上げること」だと勘違いしていた

・上司が部下に出来ることは、最大限上手くいっても「行動パターンのちょっとした変容」くらい

・けれどそれで、あんまり出来なかった人を出来る人っぽくムーブさせることは出来る

・もしかすると、「育てる」ってそういうことの積み重ねなのかも知れないなあ

・なんだかんだで「インフラ整備」以上に効率よく人の行動パターンを変容させられるものはない

 

以上です。よろしくお願いします。

 

***

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、あとはざっくばらんに行きましょう。

「人材育成」というのは仕事においてものすごーーく大事な要素でして、もちろん色んな人が色んな言葉で語っていますし、本もたくさん出ています。

何百人も部下を育てた人たちの言葉は大変説得力があって、私も感心することしきりなんですが、ここでは一旦そこで読んだことを頭から追い出して、自分の言葉で「育成」について書いてみようと思います。

 

私、まだ働き始めの頃は、「育てる」ことを「部下の能力を引き上げる」ことだと思っていたんですよ。

 

皆さん、ドラゴンボール好きですか?面白いですよね、ドラゴンボール。

私ドラゴンボールは桃白白登場以前と登場以後で違う漫画だと思っているんですが、どっちのドラゴンボールも割と好きです。

バトル漫画としてのドラゴンボールも好きだけど、ウーロンやヤムチャと遊んでた頃のドタバタ冒険活劇も好き。

 

で、ドラゴンボールのナメック星に最長老さまがいるじゃないですか。

フリーザが来た時点でもうご高齢であんまり動けない、けどポルンガ作ったえらい人。

 

最長老さまの凄いところは、「対象者の潜在能力を引き出す」という力を持っていることでして、クリリンとか悟飯とか、ちょっと手をかざしただけでぐぐっと強くなる。

まあ強くなってもその時点ではフリーザに到底かなわないわけなんですけど、それでも「潜在能力を引き出す」っていう言葉自体に、なんかものすごーく憧れを感じましたよね。

 

私、仕事を始めた当初は、「人材育成」って極論そういうことだと思ってました。

ぱっと手をかざすだけでとまではいかないけれど、様々なアドバイスをしてあげて、部下の能力を底上げして、時には部下自身も気付いていなかった才能を引き出して、部下のパフォーマンスを上げていくこと。

もちろん、中にはナメック星の最長老さまのように、部下の秘められた能力をどんどん引き上げて、戦闘力を底上げできる人もいるのかも知れませんし、そういう人を「名伯楽」って呼ぶのかも知れません。

 

けれど、残念ながら私は最長老さまではなかった。

おかげさまで社会に出て20年くらいは仕事をさせて頂いてまして、結構長いこと上司としても立ち回って得た結論は、

「部下の能力を上司が能動的に引き上げることって、どうも基本的には無理っぽいな」

ということです。

 

いや、もちろん、「仕事を教える」とか「ノウハウを伝える」ということは出来るんですよ?

担って欲しい役割を説明して、それに伴ってタスクを切って、マニュアルを整備してやり方を教えて、タスクの粒度に応じて進捗管理をして、達成感を得てもらう。

結果、仕事を回すサイクルの中に、部下に適切に入ってもらう。

それはマネージャーにとって、やって当然の仕事の内です。

 

けどこれ、「育成」という話とはちょっとニュアンスが違いますよね?

ティーチングとコーチングの違いじゃないですけど、「やり方を教える」ことと「能力を引き上げる」ことは全く別です。

 

タスクを切って回すことが出来るようになっても、別にその人の元々の処理能力や読解力が上がるわけじゃなくって、上司の助力がきっかけになったとしても、ステータスアップには結局自助努力が必要なわけです。

で、いくら環境を整えてタスクを回せるようにしてあげても、どうしてもそこから学びを得てくれない人というのはいて、次のタスクの時はまた一からちゃんとお膳立てをしてあげないとやっぱり回せなかったりする。

 

全く同じことをしてあげても、自分からどんどん出来るようになっていってくれる人と、全く出来るようになってくれない人がいる。

前者を「わしが育てた」と主張するのは簡単ですが、どう自分に甘く採点しても自分が出来たことは「きっかけ作り」に過ぎず、自分がステータスアップさせてあげられたわけではない。

ドラクエで言えば、武器を用意してモンスターを倒す環境は整えてあげられたけど、レベルアップさせてあげられたわけではない。

 

一方、武器を用意して、「装備しないと意味はないぜ」と教えてあげても、結局アリアハンからいつまで経っても出ていってくれない人もいる。

となると、上司が能動的に出来る「育成」ってどうやら制限範囲がありそうだ、と思ったわけです。

 

「自発的に学んで能力を引き上げていく人は自分で勝手に育っていくし、そうしない人を育てることは出来ない」

というのは、ある程度通説になりつつあるような気がします。

前者を手助けすることは出来るけれど、後者を「育てる」ことは非常に難しい。

 

先日、安達さんも「コーチングが機能するのはコーチ可能な人だけ」という話を書かれていましたよね。

世界一のコーチですら「素直じゃない人は放っておけばいい」と思っていた。

これまで私は漠然と「世界一のコーチなら、誰でもポジティブに変えられるのでは」と思っていた。

でも、全く逆だった。

「世界一のコーチは、コーチ可能な人物だけに支援を提供していた」のだ。

そういう意味で、「育成」を「部下の能力を能動的に引き上げること」だと思っていたのは、どうも私の誤解だったっぽいなあ、と考えるようになった、という話がまず一つあります。

 

***

 

ただ、そしたら「上司の指導」って何の為にあるんだろう?

自分で学べる人のきっかけ作りが出来る、というのはまあいい。

けど、なかなか自分で学んでくれない人に対して、上司が出来る「育成」って何かないんだろうか?

 

これについても色々と試行錯誤してみまして。

現在のところの結論はこうです。

 

「育てる」という考え方じゃなくて、「行動パターンをちょっとだけ変容させてあげる」という方向にポイントを絞れば、どうもうまくいくこともあるっぽいぞ、と。

 

先日、こんなまとめを拝読しました。

「仕事が上手じゃない人」の多くに共通点があると感じている。それは、「取り掛かりが遅い」。とにかくこれに尽きる。

「仕事が上手じゃない人」について、「とにかく着手が遅い」という形で定義する話ですね。

割と納得感をもって読まれた人も多いのではないでしょうか。

 

これですね、もちろんケースバイケースでして、人にもよれば職場にも仕事にもよるので、一言で「こうすれば解決するよ」なんて方策はないんですよ。

ある人に刺さったやり方が他の人にも刺さる保証なんてどこにもありませんし、こちらのまとめの方だって通り一遍の方策はやられていると思います。

 

ただ、ひとつ一般的に言えることとして、「タスクを片付ける」という行動に移る前には「片付けるべきタスクをターゲッティングする」という工程が必ず必要であって、そこで精神力を使ってしまって着手が遅くなってしまう人は結構な数いる、という事実があります。

「複数タスクが見えていて、しかも着手順がもやっとしている」という状態だと、まずそれを整理する段階でハードルが高くって、到底着手までいけない、という人は全然珍しくないんですよね。

 

皆さんも経験ありません?

やること自体は明確なんだけど、複数タスクが並んでいると、「まずどれから着手するか」ということから考えてしまって、なかなか着手出来ないこと。

これ、上司からちゃんと優先順指示されてても、「次のタスク」が気になって心理的ハードルが上がっちゃうことってあるんですよ。

 

まして、タスクの優先順とそのゴール地点自体が不明瞭だったりすると、着手のハードルは天井知らずに跳ね上がります。

「あー」とか「うー」とか言いながらモニターの前で思わずネットサーフィンを始めちゃうこと、ありますよね。

 

しかもこれ、割と人間の根源的な問題なんで、改善ってすごーく難しいんですよ。

上司や周囲がいくら叱っても、直らないもんは直らないんです。

「他者による能動的な改善」が非常に難しい部分なんです。

 

で、私の部下にもそういう人いまして、とにかく「まずタスクを開始出来るまでがやたら遅い」という問題があったんで、普通にある時こう言ったんですよ。

「ブラウザのスタート画面をredmineのカスタムクエリにしましょう」って。

 

redmineって有名なタスク管理ツールなんですけど、とにかく融通が利くツールでして、管理権限やら表示方法も自由にカスタマイズできるし、自分でプラグインを作ったりも出来るんですよ。

で、まずタスク優先度を工夫して、最優先のタスクは常に一つしか存在しないようにして、疑似的にシングルタスクの状態を作る。

 

もちろん、タスクの粒度は出来るだけ細かくしてあげる。

で、カスタムクエリで、常にそのチケットだけが表示される状態の画面を作る。

 

更にそれをブラウザのスタートページにすることで、「朝きて、取り敢えずブラウザを立ち上げるだけで、「とにかくお前はこれをやれ」というタスクが否応なく目に入るようにする」。

 

その人の場合、これで「タスクの着手自体は割とサクっと出来る」という状態にもっていけたんです。

 

いや、たまたま刺さっただけのちょっとした例ですよ?

繰り返しになりますが、刺さる方法なんて人によって違うんで、これで誰でもタスク着手が速くなる、なんていうつもりはありません。

 

ただ、「あまり仕事が上手に出来なかった人」の行動を、インフラ整備の力でちょっとだけ変容させられたということは事実でして、これと似たようなことをひたすら繰り返すことで、その人が問題なく自発的にタスクを回せるところまではもっていけたんです。

 

その人の処理能力を上げられたかっていうと、多分実際そんなことは全然ないんですが。

インフラ整備によってちょっとした行動パターンの変容を起こして、タスク処理状況を改善出来た。

そういうちょっとした成功例です。

 

***

 

ここから、私は自分にとっての教訓を二つ抽出しています。

 

・「部下の能力を上げたい」なんて思うな。ただ、「部下の行動パターンで、変容させてあげるとよさそうなところはないか」ということは常に考えて損はない

・インフラに頼れ。最強の行動パターン変容は、「自然にしてると勝手にそうなる」というインフラ整備

 

ちょっとした行動パターンの改善なら、上司としてさせてあげられる場合もある。

で、それが積み重なると、出来なかった人のタスク処理状況を多少は改善させられることもある。

もしかすると、「育成」ってそういうことの積み重ねなのかもなあ、と。

 

そんな風に考えた次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

Photo:Trevor Butcher

少しだけ、昔の中国の話をします。

 

今から約2200年前。

中国、沛県の小役人であった劉邦(りゅうほう)は、反乱軍の頭領から身を起こし、王となって宿敵であった項羽(こうう)を打ち倒し、400年にわたる漢王朝の初代皇帝となりました。

 

漢文の授業にも出てくるほど有名なこのエピソードは、中国の歴史書「史記」にかかれているのですが、単なる歴史上の出来事としてではなく、読み物として純粋に面白い内容を含んでいます。

というのも、最終的な勝者である劉邦は旗揚げの当初、宿敵である項羽にくらべ、経済的基盤や武力などにおいて何一つ勝るところが無かったからです。

 

戦っては負け、名門の家柄である項羽に地盤でも劣り、将兵は少なく、勇猛果敢で知られる項羽に腕っぷしでもかなわない。

その劉邦がなぜ、圧倒的不利を覆して、勝者になったのか。

 

実は、劉邦の軍には、不利な形勢を一気にひっくり返した立役者がいました。

名前は韓信(かんしん)。

 

全く無名であった韓信は、劉邦の腹心である蕭何(しょうか)によって「国士無双(並ぶものがないほどの優れた人物)」であると推挙されました。

とはいえ、劉邦はさぞかし困ったことでしょう。

いくら有能という話があれど、一介の雑兵だった人物です。

 

しかし、劉邦にとっては信頼ある蕭何の勧めです。「わかった、将軍にしよう」と渋々いいますが、蕭何は納得しません。

蕭何はなんと、全軍を預かる「大将軍」にせよというのです。

劉邦は結局これも受け入れます。

(出典:横山光輝「史記」 11巻)

 

現実に劉邦と蕭何の間にどのようなやり取りがあったのかはわかりません。

しかし、事実として劉邦は、この無名の人物を「大将軍」に任命しました。すごいですよね。

 

結局、大将軍に抜擢された韓信は、連戦連勝。形勢を大きく覆し、劉邦に皇帝の座ををもたらします。

その他にも数々の難局を、劉邦は結局「任せること」によって切り抜け、最終的な勝利を手にしたのです。

 

また、古代の中国だけではありません。

近代のアメリカでも、同様の人物がいました。

アメリカの富を独占した鉄鋼王、アンドリュー・カーネギーです。

 

彼の墓碑には「おのれよりも優れた者に働いてもらう方法を知る男、ここに眠る」と記されています。

鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが自らの墓碑名に刻ませた、"おのれよりも優れた者に働いてもらう方法を知る男、ここに眠る"との言葉ほど大きな自慢はない。これほど成果をあげるための優れた処方はない。

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「人に任せる技術」の極意とは

しかし、言うほど「任せる」ことは簡単ではありません。

これは一種の「王のスキル」と言っても良い、獲得難易度の高いスキルです。

 

実際、

・管理職になったはいいが、自分で仕事を抱え込んでしまっている

・仕事を任せるのではなく「丸投げ」するだけになっている

・部下が成果を挙げられない

などの状況はどの組織にも見られ、悩む管理職も多いようです。

 

では「人に任せる技術」の極意とは一体何でしょうか。

 

まず認識しなければならないのは、「任せる」というのは、「自分の代わりに作業をやってもらう」のではないという点です。

任せることの本質と、作業を与える事の本質は全く異なります。

むしろ逆と言っても良い。

 

では何か。

それは「責任」です。人にすすんで責任を負ってもらうことこそ、任せることの本質です。

 

端的に言えば

「私に任せてください」

という自発的な一言をもらうこと。

それが「任せること」において、最も重要なことです。

 

だから難しい。

なんの備えも保護もなく、人はそんなに簡単に責任を負えません。

備えなく責任を追わせることを「丸投げ」と言いますが、最もやってはいけない行為です。

 

したがって、「責任の与え方」こそ、人に任せる技術のコアと言えます。

 

「責任を与える」という重い言葉に尻込みする方もいるかも知れません。

ですが、これについては、マネジメントの大家であるピーター・ドラッカーが優れた知見を残しています。

 

人が責任を追うための三要素

ドラッカーによれば、人が責任を負うために必要な用件は、以下の三要素です。

 

1.仕事が設計されており、道具や管理の手段が明確であること

2.成果の確認ができ、自己管理ができること

3.継続学習ができること

 

しかし言葉で言うのは易くとも、上の三つはそう簡単な話ではありません。

例えば「仕事の設計」とは具体的には何か。

成果の検証はどのように行うか。

継続学習をどのように行うのか。

 

人が責任を負うには、ハードルがあります。

 

「任せる」ためのツール

そうしたニーズに対して、多くの企業が「任せる」ためのツールや、フレームワークを提供しています。

 

例えば、その一つが、株式会社スタディストにより開発・提供されているB to B向けの手順書作成・共有プラットフォーム「Teachme Biz(ティーチミー・ビズ)」。

そんな「Teachme Biz(ティーチミー・ビズ)」を提供している企業自身は、どのように業務を「任せている」のか。

 

事業戦略部長の木本氏は、「Teachme Biz」を使って業務の標準化を進め

「調査」

「データ分析」

「資料の作成」

などの業務について、アウトソーサーに積極的に任せており、そのいずれも「アウトプットイメージ」と「手順」の共有が鍵となっていると述べます。

(株式会社スタディスト 事業戦略部長 木本俊光氏)

「それは自分がずっと続けていく業務か」

「もっと自分がやるべき業務はないのか」

それを自分に問い続け、「誰かに任せるべき」と判断すれば、任せることを躊躇しないこと。

木本氏は「私見ですが「新しい働き方」が進めば、人に任せる技術は社内外を問わず、重要になる可能性の高いスキルになるでしょう。」と述べました。

 

「任される」ためのスキル

また一方では「任される」にもスキルが必要です。

 

スタディストの木本氏は、プロダクトマーケティング業務にオンラインのアシスタントサービス「キャスタービズ」を利用しており「特に新規事業ではプロのアウトソーサーの存在が心強かった」と言います。

その理由は「リソースの柔軟性」と「自分では気付きにくい観点に気付けるから」。

 

実際、ピーター・ドラッカーも、マネジメントには「任せる側」と「任される側」の協力が不可欠であると述べています。

となれば、「任せる技術」「任される技術」が両者にあって、初めて成果が出るのです。

 

今後は企業の枠を超えた「協力」や「コラボレーション」が当たり前になるでしょう。

webがインフラとして定着した世界では、「任されるプロ」に頼める環境も整ってきています。

 

そういう意味では「任せる技術」は、今後「王のスキル」ではなく「一般教養」となるのかもしれません。

 

 

木本氏が「調査・データ分析・資料の作成」を任せている、オンラインのアシスタントサービス「キャスタービズ」

・リサーチ

・電話/メール対応

・データ整備

・翻訳

など「任せたい業務」があればご相談を。

>>無料資料ダウンロードはこちら

>>もしくはキャスタービズサービスサイトで話を聴いてみる

 

 

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

note有料マガジンでメディア運営・ライティングノウハウ発信中

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

いきつけの薬局、処方薬が用意されるまで、おれは室内に貼られたポスターをポケーっと見ていた。

一つのポスターに「うっ」となった。

そのポスターには、面接やプレゼン、人が緊張するイラストが今風の絵柄で描かれていた。

 

なかでも私が目を引かれたのは、「教室で先生に当てられて困惑する子供」だった。

おれは薬局に行くたびそのポスターを見ては、「うっ」と思う。べつに見なけりゃいいんだが。

 

シーンは学校の授業、先生が生徒を指名して、進行中の授業の答えを求める。ありきたりな風景だ。

 

とくに、漫画やアニメ、ドラマなんかで、主人公が授業をサボって別のことをしているときに、当てられる。

その主人公なり誰だかは、学校の授業以外に興味を持てなかったのだな、と視聴者にわからせる。

逆に、スラスラと答えさせて、「勉強ができる子なのだな」という演出にもなる。

周りの友人が助けるとか笑うとか、人間関係の演出にもなる。

 

ともかく、少なくとも日本の学校において、教師が生徒を当てることによって、なんらかの状況が生まれるというのは、ありがちなことだ。

あるいは、最近みた韓国の映画でもそのようなシーンがあったので、現代的な「教室」のなかでは当たり前の光景なのかもしれない。

 

「先生に当てられる」のが嫌だった

むろん、多くの人にとって「先生に当てられる」ことは嫌なことだろうとは思う(もちろん自分から手を挙げるタイプの人間がいないわけでもない)。

 

とはいえ、その「嫌なこと」の度合いにはグラデーションがある。

おれは徹底的に当てられるのが嫌だった。それこそ、学校に行きたくないくらい嫌だった。

だからといっておれが「社交不安障害」や「回避性パーソナリティ障害」だと言うつもりはない(後者については主治医から「そうかもしれない」と言われたが)。

 

それにしても、なにごとにも病名がついてしまう時代だ。

「あがりやすい」、「緊張しやすい」性格も、病名がついてしまう。

 

おれの患う双極性障害なんてわかりやすいものだ。

機序がわかってないので寛解もほとんどないのだが。

まあでも、もしもそういった障害の基準に適合する人が、薬物によっていい感じに自分をコントロールできるなら、それに越したことはない。

 

で、おれはグラデーションのどのへんか?

言うまでもない、色で言えばC100、M100、Y100、K100の4色ベタだ。

CMYKがわからない? いまあなたが使っている便利な箱で調べればいい。

 

まあとにかく真っ黒だということだ。リッチブラックなんかじゃない、黒塗りだ。嫌で、嫌で、嫌だった。

それにしてもだ、おれの記憶によれば、「わかるひと!」と挙手を促す先生に対して、みながすすんで手を挙げるという授業の記憶がない。

うまいこと先生と生徒のあいだによい空気が形成されていれば、活発なやりとりが行われることもあるだろう。

 

でも、そんな教室って、あるのだろうか。

先生が挙手を促しても教室は静まり返り、地獄のような指名が行われる、そんなイメージしかない。

まあ、おれは教員でもないので、これについては、一回きりの生徒、学生生活を通じて抱いた一例にすぎないわけだが。

 

ああ、しかし、本当に嫌なものだった。

薬局でいつもポスターを見ながら(だから見なければいいのだが)、いつもおれは思い出す。

遠い昔の苦痛が思い出される。やっぱり社交不安障害の薬も処方してもらおうかとすら思う。

 

おれは基本的に文系とされるものについては、平均以上の学力を持っていたと思う。そういうことにしておいてくれ。

一方で、理系、すなわち算数や理科については、これはもう、なにもわからなかった。

なにがわからないかわからない、というレベルでわからなかった。

 

だから、教室の白昼夢悪夢のなかで思い浮かぶのは、やはり理科や算数だ。

あとは、おれに音楽性というものがないから音楽だ。

小学校のころのクラスメイトの顔と名前もほぼ忘却しているのに、理科や算数、数学、音楽についての嫌な記憶は消え去らない。

なんなら、名前すら覚えていない嫌な教師の顔だけは思い浮かぶ。

 

なんでそんな苦痛が必要なのか。

教師が生徒を当てて、その生徒の理解を確かめる。あるいは、授業に集中していない生徒を矯正する、そんな意図はあるだろう。

そのように学習指導のためのマニュアルもあるのだろう。

一方的に教師が板書し、教科書を読み上げるのはよい授業ではない、というのは自分の子供のころからあったような話だ。

おれは教育学について学んだこともないので、「当てる」行為が、たとえば双方向的で活発な教室につながるものなのか知らないけれど。

 

なんであれ、おれにとっては教師が「当てる」行為は死ぬほど嫌なことであった。

「当てる」教師もいれば、「当てない」教師もいる。次の授業が「当てる」教師だったら気が気ではない。

席順に当てていく教師であれば、今回自分に回ってくるだろうか? ランダムに当てる教師なら、もう避けようがない……。

 

そしておれは理科や算数、数学あるいは音楽の授業がますます嫌いになった。

苦手で、忌避すべきものになった。「私には当てないでください」カードなんかがあればよかったと思うくらいだ。

ドラえもんの秘密道具か? 石ころ帽子ほしかったな。

 

手を挙げない子に「当てる」先生。

そういえば、こんなこともあった。

中学受験のための塾通い、夏休みの講座だったか。苦手な算数の日だった。

教師はというと数人がランダムに教えるから、事前にだれが教壇に立つかわからない。

 

ある算数の日、おれは家を出て何歩か歩いたそのとき、「今日の算数は当てる先生の日だ」と、なぜか確信した。

雷に打たれたような確信だった。

 

うまれて初めての感覚。

どの教師が担当するか、行ってみなければわかりない。そういうシステム。それなのに逃れられない運命のように思った。

仮病を使って帰ろうかとも思った。

しかし、一方で、「単なる気のせい、予感じゃないか」とも思った。思おうとした。

 

で、おれが重い足取りで塾に行ってみれば、その日はやはり「当てる」先生なのだった。

とくに意地悪で、大嫌いな、そいつが教室に入ってきた。

どす黒い気持ちに沈み込んだ。

 

おれは人間に超能力があるかどうかと言われると懐疑的な態度を取る。

でも、まったくなにもないのか? というと、ちょっとなんかあるんじゃないかと密かに思っている。この経験によって。

それほど強烈で、嫌な体験だった。

 

知ってる人は、渋川剛気の護身の極みを思い出してください。

あんなんだ。『バキ』、読みましょう。

あと、こんなことの予感が働くなら、大人になったあと競馬新聞読んでるときで起こってくれればいいのにな。

 

して、その「当てる」教師は、その日も見事に生徒を当てて、血祭りにあげていく。

「今の説明でわからなかった人?」と聞いて、だれも手を挙げない。

そこで生徒たちの顔色を見て、わかっていないのに手を挙げない子を「当てる」。

 

この能力はすごかった。

なにせ、わからないのに挙手しなかったおれを、見事に当てて見せた。

心底自分の「嫌な予感」を信じて、家に帰ればよかった……。

 

「わかりません」

「なんで手を挙げないんだ?」

「……」

 

そしておれは、恥をかくことになる。二重、三重の恥。

 

こんなことが繰り返されて、おれは本当に算数が嫌いになった。

同じように理科も嫌いになった。

さらには教室というものが嫌になり、塾も学校も嫌になった。

人間の集団というものが心底嫌になった。

小学六年の最後、おれはほとんど学校に行かなくなってしまった。

 

なにが私をこうさせたのか

しかし、不思議といえば不思議なことだ。

こんなおれはいつ、どこで、教室で「当てられる」ことが嫌になったのか?

教室のなかで、先生に当てられて、答えられなくて、恥をかく。

 

いつ、自分はそうなったのか。多大な恐怖を感じるようになったか。

幼稚園では、そのような場面はなかったように思える(もっとも単に昔過ぎて記憶が欠落している可能性はある)。

とすると、なんの経験もなく、ともかく小学校にあがって、もうそのときには恥をかきたくなかった。そうなのか?

これは、この日本という国の、日本人というものの特性なのだろうか。いきなり話が飛躍した。

 

でも、おれが幼稚園で、あるいは小学校の早いうちに、トラウマになるような体験なしに、「当てる」先生が嫌だったのはどういうことなのか、恥をかくのを極端に避けるようになったのか。

恥をかくな、恥をかくくらいなら腹切って死ぬ、という日本文化が物心つくまえから自分に染みついたのか。

 

それも誤チェストか。

早生まれのゆえに、だいたい周りの子より一年遅れていたという、致し方ないハンデがあった。そのうえずっとチビだった。

 

一方で、いくらか小賢しいガキではあって、周りの子の知能や知識をバカにしていたところもある。

そういった、ひねくれた人間だから、恥を恐れるようになった。

あるいは、自分自身ではなくとも、教室の誰かが当てられて恥をかく、そういう姿を見たりするうちに、だんだんと形成されていったのかもしれない。

その方が、説明としてはシンプルだ。オッカムも納得するだろう。

 

「当てる」必要は本当にあるのだろうか。

まあ、ともかく、私は一枚のポスターでこんなにも人生の苦痛が引き出せる。

私は高卒なので、大学一年のことまでしかしらない。

ただ、大学の一般教養の授業で「当てる」が続いていたのも知っている。

そうなると、大学のゼミだの研究室だのでは、さらなる苦痛がそんざいしたはずだ。想像にすぎないが。

研究発表するなんてとんでもないことだ。卒論? 就活? 想像すらしたくない。

 

しかして、再度述べるが、「当てる」必要は本当にあるのだろうか。

おれにはわからない。でも、たぶん何%かの、おれのように心が折れてしまう人間を生み出すしてしまう。

もちろん、授業に意識を向かわせるための有効な手段なのかもしれない。

秤にかけて、ある教師は「当てる」方を選ぶ。おれはさされて血を流す。

 

でも、それで、あんたが想像する以上に、取り返せないダメージを与えられてしまう子供もいることは、わかっておいてほしいよなぁ。

おれのような中年の「内なる子供」はそう言っている。

人間、老いも若きも、そんなに嫌な思いをする必要はないんじゃないの? もちろん、そうでもしなけりゃ自分の授業を聞いてもらえない先生の気持ちも考えるべきかもしれないのだけれど。

 

コロナの時代で

ところで、今は新型コロナウイルスの流行で、学校の授業もオンラインになっているという話だ。

授業に出られないから苦しい、という話がある一方で、オンラインだと文字ベースなので発言がしやすいという話も見た。

 

なるほど、文章でなら打ち込みやすいだろう、とおれは思う。

もちろん、文字ベースでのやりとりを苦痛に感じるやつもいるだろう。

ただ、座学ならともかく、実験だの実習だの現地調査だのが必要される分野、それはそれでどうなっていくんだろうな。

 

仮におれがコロナ下のオンライン大学生だったら、嫌気をさして中退することもなかったのだろうかね。

よくわからない。でも、文字を打つことで完結するのであれば、という、益体もない妄想はする。

今でも復学しなければという悪夢を見ることはある。

大卒という学歴があればと思うことはある。

 

そうだ、このおれ、発言するのが、発表するのが、恥をかくのがいやだといいつつ、インターネットを通して、言いたいことを書き連ね、公開している。

先生に「当てられる」どころか、だれにも呼びかけられていないのに、手を挙げて勝手に喋っている(……とか言いつつ、もしもあなたがこれをおれのブログ以外で読んでいるのだとしたら、おれはちょっと当てられて、緊張しながら書いているということです)。

本当はなにかを言いたいのに、恥ずかしくて皆の前ではなにも言えなかった。

そこに少なからぬ葛藤だかストレスがあった。そういうことかもしれない。

 

おれは文字ベースなら、なにか言うことができる。

ただし、教室で「当てられた」ら、なにも言えず黙ってしまう。小さな声で「わかりません」と言うのが精一杯だ。

あるいは、答えてしまったあと、「なんであんなことを言ったのだろう」という後悔を抱く。

おれがそういった教室から抜け出たのは二十年以上前だ。

それでも、おれはその恐怖を覚えている。とても、とても、嫌な感じ。

 

鶏か卵か親子丼か

おれはもともと遺伝的ななにかから「当てられる」ことに恐怖を感じる人間だったから、そのようになったのか。

あるいは、学校での嫌な体験によってそのようになってしまったのか。それはわからない。

 

そしてたとえば、日本の小中高生の自己肯定感、自尊心が他国に比べてけっこう低いという話などもある。

はたして、もとから自尊心が低いから「当てられる」ような、発言するようなことを忌避するのか。

それとも、日本の学校の教室というものが、自尊心の低い子を作ってしまうのか。

鶏が先か、卵が先か、ちょっとよくわからない。むろん、親子丼で提供される苦痛なのかもしれない。

 

とはいえ、近年では自己肯定感が上がってきているというデータもあるようなので、おれの知らない「アクティブ・ラーニング」だかなにかが奏功しているのかもしれない。

苦痛を感じる子供が少なくなるのであれば、それは悪くない。

ただ、自己肯定感ばかりが高ければ高いほどいいということもないだろう。

もし自己肯定感でハッピーになれるのであれば、アメリカ人が病んでいるように見えるのはなぜか、ということだ。

 

さいごにおねがい

さあ、もうそろそろ、お時間です。

あなたは、積極的に手を挙げる生徒でしたか? 当てられて内臓に染み入るように嫌な気分を感じる生徒でしたか?

人生、うまくいったり、いかなかったりしているでしょうか。

おれはどうもうまくいっていない。そんなものだ。

 

もしもあなたが教育者や教育学に関わる人であるならば、「こいつはわかってないのにごまかそうとしているな」という子を血祭りにあげないでもらいたい。

そういう方向でいってほしい。わからないものはわからんのだ。

皆の前で恥かかせて、その分野に激しい憎悪と劣等感をもたせる必要はないんじゃないか。

 

おれは自分から手を挙げることもなく、当てられることがとてもとても嫌いだった。

そして人生に失敗して、あまりうまくいっていない。

 

はたして、あの教室での苦痛がその原因だったのか? あるいは自分がもとからそうであったから、教室で失敗し、人生に失敗したのか? いったいどちらなのか。

今さら知ったところで、まったく意味のないことであることだけは確実なのだが。

 

 

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著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

 

Photo by Taylor Wilcox

オンラインでもオフラインでもしばしば思うことがある。

今日の日本社会では、ネットであれテレビであれ

バッシングを公認されるような過失・落度のある相手は、どれだけ叩いても構わない。その際、相手がどうなるかは配慮しなくて構わない。それが社会だ

と言いたくなる風景がしばしばみられる。

 

なにか不祥事や事故があったら、法的責任が問われるだけでは済むとは限らない。

その責任者は罵倒され、ときには土下座させられる。

法的責任を追求するのとは別に、“感情を納得させる”ために罵倒すること・土下座させることを正義とみなす空気が発生することもある。

 

もちろん、そうした罵倒や土下座に警察が口出しをすることはない。

最近になってようやく、マスメディアが苦言を呈するようになったぐらいだ(ただし、マスメディアが煽ることもまだある)。

 

罵倒や土下座強要は、被害届を受理するほどのものではないし、仮にそれで誰かがうつ病になったようにみえても、「因果関係は不明」であれば、責任と呼ぶべきものの所在はわからない。

バッシングが公認される大義名分がある限り、バッシングされてもしようがない・罵倒させられたり土下座させられたりしても仕方がない、といった不文律が存在するかのようだ。

 

インターネット上での“炎上”もこれに似ている。

失言・過失・違法行為があったと判明した相手に対しては情け容赦が無い。

叩かれるに値する大義名分を背負った相手なら、罵倒も、嘲笑も、プライベートの暴露さえもやって構わない、という空気がネットに滞留している。

そのようなバッシングは、ときには世直し気分さえ伴って行われている。

 

バッシングされる大義名分を背負った人間は、法的責任を追及されるだけでなく、罵倒しても構わないし、土下座させても構わない

というのが、今日のオトナ世界のコンセンサスらしいのだ。

無慈悲であり、不寛容であり、あまり上品でもない不文律だが、とにかく、オトナの世界はそんな風に回っている。

 

オトナ世界の不文律と、「いじめ」との共通点

で、そんなオトナ世界をずっと眺めながら、子ども達は育っていくわけだ。

子ども達は学習能力に優れているので、社会の規範意識をしっかり把握して、正確にインストールしながら成長していくだろう。

 

・叩いてOKと公認された相手は、罵倒しても土下座させても構わない。

・訴訟にならない範囲なら、過失・落度のあった者をリンチして構わない。

・いったん悪者認定された相手に慈悲をかける必要は無い。

・叩かれた相手が後でうつ病になるかどうかなんて考える必要は無い。

 

どれもオトナがやっていることであり、テレビやネットを通して日常的に観察される風景である以上、それらを子どもが模倣し、身に付けていくのは自然なことだろう。

こうした”ジャスティス”は大人から子どもへと引き継がれ、そして子ども自身の手によって実行されていく。

 

すべてのいじめがこうだとは思わないが、少なくないいじめには、こうした無慈悲な規範意識が潜んでいるのではないのか。

 

もちろん子どもの場合、こうした身振りはオトナほど洗練されていないし、様式化されてもいない。

どこまでが訴訟になって、どこまでが訴訟にならないかもよくわかっていないだろう。

だからボロが出ることもあるし、ヒートアップし過ぎて相手を怪我させたり自殺させたりするかもしれない。

少なくともいじめとして発覚し、大人たちの介入を呼んだようないじめに関してはそうだろう。

 

それでもなお、相手が不登校や胃潰瘍になる程度なら“因果関係は不明”のままで警察や弁護士が登場することもなかなか無いので、オトナ世界の”ジャスティス”とそんなに違わないよねー、という理解に終わってしまいそうである――少なくとも当人達の主観レベルでは。

 

この視点から眺めた場合、子どものいじめは「バッシングして構わない大義名分さえあれば徹底的に叩いて構わない。それが社会だ」の劣化コピー版、のように見える。

少なくとも、オトナ社会の劣化コピーと呼ぶにふさわしいいじめは存在するだろう。

 

「こいつはみんなに迷惑をかけているやつ」「こいつはバッシングされても仕方のないやつ」と認定するバッシングの大義名分は幼稚で、オトナ社会からみて筋が通っていないと判定されるかもしれないが、背景に潜む倫理感覚や道徳感覚のロジックには、現代のオトナ社会に共通するものがあるようにみえる。

 

そして、あえて意地悪な見方をするなら、これから社会に出て行く予行練習として、子どもはいじめにまつわる諸現象を体験する、とさえ言えるかもしれない。

いじめられて再起不能になった犠牲者を除いて、いじめの現場に立ち会った全員は、バッシングをどう回避すれば良いのか・どういう時なら安全にバッシングできるのかを身近な問題として学習するだろう。

ひどい話だが、なかにはいじめを主導することにより、さらに狡猾で、さらに無慈悲で、さらに安全にいじめる手法(……というより、いじめやハラスメントと絶対にみなされないまま誰かをバッシングしたり排除したりする手法)を身につけて社会人になる人すらいるかもしれない。

 

子ども達は、オトナ達にいじめと判定されたいじめから多くのことを学ぶだけではない。

オトナ達がいじめと判定しなかった、いわば、いじめ未満とオトナが判定した諸々からも多くのことを学び、倫理感覚や道徳感覚に磨きをかけていく点にも注意が必要だ。

そのような学びを積み重ねた子ども達がオトナになり、次の世代の子ども達の規範意識・倫理感覚のインストール元になっていく。

 

いじめを減らしたいなら、まずオトナが慈悲深くなるべきでは

以上を踏まえると、いじめを減らすための長期戦略のひとつとして、オトナ達の規範意識・倫理感覚・身振りを変えていくことが重要に思えてくる。

“バッシングして構わない過失や落度のある相手なら、どれだけ叩いても構わない”という社会的コンセンサスをなくすか、せめて、緩和する必要があるのではないか。

 

だから、オトナ達が子どもに向かって口で注意する前に、まず、オトナ達自身が、慈悲深い身振りを実践してみせる必要がある。

そして落ち度や迷惑のあった相手をバッシングしすぎないよう、心がける必要がある。

気長な話に思えるかもしれないが、長い目で見れば結局、これが一番有効ではないだろうか。

 

オトナ達の、「大義名分さえあるなら、無慈悲にバッシングしても構わない」という後姿を見ている限り、子ども達は「いじめは良くない」ではなく「大義名分の立たないいじめは良くない」、または「大義名分が立つなら、それはいじめ未満である。とことん叩いても構わない」のほうをインストールしてしまうだろう。

 

それでいいんだ、いじめ未満は叩いて構わないと子どもは学習すべきだとおっしゃる人もいるかもしれないが、私には、それは違う気がしている。

落ち度のあった人・迷惑のあった人に対しても最低限の慈悲・寛容・礼節をもって接する後姿をこそ、子ども達には見せるべきではないだろうか。

年長者が手本を示せないようでは、子どもがついてこない。

 

もちろんこれは、とても難しい課題だと思う。

オンラインでもオフラインでも、結局オトナ達は大義名分の立つ限りにおいてバッシングできるものをバッシングしてやまないからだ。

 

それでも、大義名分さえ立つならバッシングしていいという無慈悲の悪循環はどこかで断ち切らなければならないし、そのためにも、各人が心のブレーキをできるだけ意識しておく必要があると思う。

私もそのオトナの一人として、気をつけていかなければならないと思っている。

 

 

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出典――『シロクマの屑籠』セレクション(2012年7月7日投稿) より

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo by Caleb Woods on Unsplash

前にダイエットでジムに通っていた友達が

「ジムで自分が頑張って走り込んでる時、隣にダラダラとサボってる人がいると、ものすっごいイラッとするんだよね」

と言っていたのを聞いて笑ってしまった事があった。

 

この話を妻にしたところ

「わかるわー。私も家で家事してる時、あんたがスマホいじってるとイラッとするもん」

と返されて僕は真顔になってしまった。

 

このように人は自分と他人を比較して幸・不幸を感じる傾向があり、その影響は無視できないほどに大きい。

 

隣人の年収が増えると、人は不幸になる

理想をいえば、自分は自分、他人は他人である。

けど、現実は他人の不幸は蜜の味である。

不幸を願うまでもいかなくても、私達は他人を本当に強く意識して生きている。

 

例えば「幸福の計算式」という本の中で

同僚の収入が”増える”と、自分の収入が”同じ額無くなる”ように感じて辛くなるという、衝撃的な研究結果が紹介されている。

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自分の年収は一円も減ってないにもかかわらず、隣人が年収アップすると”損”をしたような認知が入り込む。

人間という生き物はまことに難儀である。

 

前澤さんのお金配りが教えてくれたこと

実はこれと実によく似た現象が、しかも連日Twitterで起きている。前澤さんの毎日10万円プレゼント企画である。

もともと、前澤さんは正月にお年玉と称して年に一回100人に100万円を配っていたが、このコロナ禍でなんと毎日のお金配りである。

 

「いやあ、天上人は違いますなぁ」

と思ってながめていたのだが、最近になって彼をみてるとイライラしている自分がいる事に気がついて驚いてしまった。

 

最初は彼の何にイライラするのかよくわからなかったのだが

「誰かが10万円当たったって事を、自分の脳は毎日10万円損してるように感じている」

というロジックに気がつき、とても腹落ちした。

 

行動経済学的に考えれば、あれは「お金配り」ではなく「損した気持ち配り」だったのだ。

 

毎日、自分が「当たらない側」だという現実を目にする羽目になる

年一回程度のお年玉RT企画なら

「お、当たった人運が良かったね。おめでとう」

と気軽に流せていた僕だけど、毎日落選するとなると少しはイラッとするらしい。

 

僕も最初は彼が自称するように元気を配るオジサンに見えていた。

 

だが、最近は当たらなかった10人以外に

「お前らは運から見放された側の人間だ」

という不幸の告知を振りまき続けている悪魔にみえてきて、一周回って

"こ れ は 凄 い "

と思うようになってしまった有様である。

 

僕のように前澤さんに心を折られはじめている人間は、かなり増えてきたんじゃないだろうか?

当人は多分、あの行為を通じて”夢と希望”を振りまいているつもりだと思うのだけど、残念ながら彼が本当に配っているのは当たらない990万人への”現実と絶望”である。

 

コロナ禍が終わってお金配りが終わった時、その当たらなかった990万人はツキに見放された側の人間だという事が本当に決定づけられる。

 

僕はその時、大衆が彼にどういう態度をとるのかが今から楽しみで仕方がない。

良かれと思ってやったことで想定外のヘイトを集めているのだから、まったく人生は本当に難しい。

 

現実を前に夢や希望は圧倒的に無力である

一応フォローしておくと、前澤さんが10万円を配ろうと思った動機は100%善意だったと思う。

夢や希望はよいものだ。

現実は退屈で時に苦痛だったりするが、夢や希望はそれらを明るく照らしてくれる。

そんなもんだから、多くの人は夢と希望を抱えて生きている。

 

生きてれば、きっといい事がある。

たぶん、多くの人はこういう認知が心のどこか奥底にある。

「そんな事は思ってないよ」

という人もいるかもしれないが、自分が10年後にガチのどん底にいると強く認知している人はそう多くはないだろう。

 

そんな人にこそ読んで欲しい本がある。

吉川ばんびさんの”年収100万円で生きる-格差都市・東京の肉声”である。

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この本は本当に凄い。

まさに夢と希望の真逆のようなエピソードの羅列であり、夢や希望なんてものは現実には完全に無力だという事が嫌というほどよくわかる。

 

起死回生の策も打てない人生が、この世にはあった

・窓のない密室で、息を潜めて暮らす「トランクルーム難民」

・母の遺骨を抱えながら 「軽自動車に住む男」

・「空き家“不法侵入”生活」

 

本書に登場する人達の生活は本当に強烈だ。

どれもこれもなんていうか…本当に救いがない。

 

この本を読んでいて一番僕が興味深く思ったのは、この本に出てくる登場人物の多くは普通に真っ当に日々を頑張って暮らしていたのに、いつの間にか人生が最悪のどん底に落ちていたという事だ。

 

僕は本を読みながら

「自分がこの人だったら、どうやって起死回生の策を練っただろうか?」

「どこが最終やり直し地点だっただろうか?」

を色々考えてみたのだが、ほとんどのケースはどう考えても破綻以外行き着く先がなく、本当にどうしようもなかった。

最初から将棋でいうところの”詰み”みたいな人生で、何が良かった何が悪かったと検討を加える余地すら無い。

 

貧困は自己責任論で語られる事も多い。

「年収100万円?なまけてたからでしょ?」

僕を含めてそう思う人は多いと思うのだが、この本ではそういうケースは本当に少ない。

 

みんながみんな、日々を精一杯生きていたのに、気がついたら取り返しがつかない奈落の底に人生が転落していて、おまけに這い上がろうにも這い上がるルートが消えていた。

奈落の底に転落したら、頑張る事すら最貧困層には許されない。

本当にこんなケースばかりなのである。

 

僕はこの本を読んでいて本当に背筋が凍る思いをした。

「たまたま自分は人生そこそこルートに乗れたけど、こんな感じで奈落にいても全然不思議じゃなかったんだな…」

「いや、ひょっとしたらこんな感じで僕も今後は人生が奈落の底に突き進むのかもしれない…」

どのエピソードも、本当にそう感じさせられるリアルなものばかりである。

 

読んだらどんな真夏の怪談よりも”ゾッ”とする事だけは保証しよう。

夢なんてみる前に、現状に必死でしがみついていこうと背筋がシャンと伸びること請け合いである。

 

現実を踏みしめることの大切さ

生きるにあたって、夢と希望は大切だ。

小説ですら、胸くそ悪い展開を読まされるとかなり不快になる。

 

だから現実がお先真っ暗で、明るい希望のようなものが全く見いだせなかったら不快感はそれ以上だ。

夢とか希望に視線を定めたくなる人の気持は痛いほどよくわかる。

 

けど…最近、僕は夢とか希望のようなものをみると苦しくなるようになってしまった。

特に他人が語ってるのに群がるのはヤバい。破滅の香りすら感じる。

 

どういう事か。たとえ話を交えて語ってみよう。

 

以前、キャンプファイヤーをやったとき、焚き火に虫がワラワラ集まってきて驚いた事がある。

何に驚いたかというと、それらの虫の結構な数が焚き火にパチパチと焼かれて死ぬのである。

 

虫が何を思って焚き火に集まっていたのかは正直わからない。

だけど、人間側の視点からみれば”馬鹿”の一言であろう。

そんなものに群がらず、森の中で普通に静かに暮らしていた方が100倍マシだったはずだ。

 

けど、夢とか希望に群がってしまう人間も、ひょっとしたら同じようなものなんじゃないだろうか?

 

キャンプファイヤーにワラワラ集まって焼け死ぬ虫に対して

「森で暮らしてればよかったのに」

と思う事と、前澤さんのタイムラインに必死で書き込んで自己主張をする人に対して

「もうちょっと真面目に現実を生きたほうがいいんじゃないか?」

と感じる事。

僕はこの2つに言いようのない類似性を感じてしまうのである。

 

もちろん、たまにはカンフル剤のように夢や希望を摂取してもいいだろう。

白馬の王子様が迎えにきてくれる可能性に思いを馳せて、シャンパーニュをクイッとやったり

テスラ株を購入して10年後に100倍になっている可能性を夢見て、ビールをぐびっとやったり

前澤さんの10万円配りをみて、ワクワクしたり

会社をやめて、ネットでメシを食っていく可能性に思いを馳せたり

 

こういう時間は大切だ。

それを否定しようとは全く思わない。

けれどそれ以上に現実をしっかりと踏みしめる事が、僕には大切に思えてしまうのである。

 

世の中には普通に頑張って日々を生きていたはずなのに、気がついたらホームレスになっていた人もいる。

だから思うのだ。現実を踏みしめても踏みしめすぎる事はない。

いやむしろ、今よりもちゃんと現実を強く踏みしめないといけないんだな、と。

 

とりあえず、僕は前澤さんのフォローをそっと外す事にした。

パチパチと焼け死なない為にも、それがとても大切な事のように僕には思えた。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Tirza van Dijk on Unsplash

今から、「「自分と相手は前提知識も違うしそれに対する感じ方もまるで違う」ということを理解するのが、大人になるってことなのかも知れない」という話をします。

ちょっとした話なんですが、良かったらお付き合いください。

 

しんざき家には、子どもが3人います。

長男、13歳。この春から中学に通い始めた、電車好きなピカピカの中学1年生。

中学で仲の良い友達も出来たみたいで、毎日楽しそうに通っております。

 

長女次女、8歳。小学3年生の双子。

最近ハマっているゲームはスプラトゥーン2でして、お風呂場で「ばけっとすろっしゃー!」とかきゃーきゃー言いながらお湯をかけあって遊んでいます。

洗面所を水浸しにするのだけはちょっと勘弁して欲しい。

 

先日子どもたちと話している時、長男と長女次女の話の進め方の違いについて、ちょっと面白いことに気付いたんです。

それは、一言で言うと「前提知識のすり合わせ具合の違い」。

 

これは長女や次女に限らないと思うんですが、ちっちゃい子って、大抵の場合話題の振り方が唐突なんですよね。

例えば、

 

「〇〇ちゃん可愛いよね!パパは〇〇ちゃんのどこが好き?」

とか唐突に言われたけれど、自分はそもそも〇〇ちゃんって誰なのかを知らなくって、

 

「〇〇ちゃんって誰のこと?」

って聞き返したら、きょとんとした顔で不思議そうに

 

「え?クックルンだよ?」

とか言われたりする。

 

これも、私はまだ「キッチン戦隊クックルン」という番組の存在を知っているから辛うじて「ああ、テレビのキャラクターか」ということがこの時点で分かるんですが、その前提知識がない人は更にもう一段聞きこまないといけないかも知れません。

 

長女も次女もお話好きなので、学校のこと、読んだ漫画や本のこと、ゲームのこと、色んな話をしてくれるんですが、話の振り方はいちいちかなり唐突なんですよ。

「あのね、りんごがねー」とか唐突に話し始めたりして、「あ、これは果物のリンゴじゃなくて、ぷよぷよテトリスのキャラクターの話だな」とか文脈から判断しなければいけなかったりする。

 

まあ、これはこれでコミュニケーションの内ですし、文脈を読み解きながら話をするのも宝探しみたいで面白いんで、そんなに気にしていなかったんですが。

 

これに対して、長男はある頃から、「前提知識のすり合わせ」を行うようになってきたんですね。

長男は鉄道好きなのでよく鉄道の話をするんですが、彼の場合例えば

 

「〇〇線って知ってる?××の電車のことなんだけど」って前段をまず挟む。

 

また、奥様に対してゲームの話をするとき、「あのね、信長の野望ってゲームがあってね」みたいに、最初に話の前提を置く。

で、相手と自分の前提知識の違いを確認して、それをまず埋めてから話し始める。

この辺、長女や次女の話し方と明確に違うな、と思いまして。

 

想い起こしてみると、長男も昔は、長女や次女みたいに話の振り方が唐突だったんですよ。

「〇〇って車両が走り始めたんだって!!!」とか、「パパ、△△行ってみようよ!!」とか。

待て待て、俺は〇〇も知らなければ△△も知らん、とまずすり合わせを行わないといけなかったんですが。

 

それが、多分小学校高学年くらいから、ちゃんと「すり合わせを行ってからの会話」をするようになったなあ、ということを、長女次女との対比で気付いたんです。

 

これ、実は結構大きな成長なんじゃないかなあと。

 

簡単に言うと

「自分が持っている知識を、相手も持っているとは限らない」

「その知識を持っていたからといって、相手も同じように感じる/考えるとは限らない」

ということを、成長段階のどこかで気付く、そういう成長プロセスがあるんじゃないかな、と私は思ったんです。

 

***

 

小さい子って、まだ自他の境が不明確なところがあって、特に親兄妹のような近い関係だと、「相手」と「自分」の間に明確な境界が引けなかったりすることがあるんですね。

それはもちろん成長によって段々解消されていくんですが、そこにも当然グラデーションはありまして、難しい部分は恐らくかなり長いこと残る。

 

そんな中の一つに、「自分が知っていることを相手も知っているとは限らない」ということをちゃんと理解しているかどうか、というのがどうもあるように思うんですよ。

 

いやこれ、文章にしてしまうと「当たり前やん」って思うかも知れないですけど、案外そうでもないですよ?

もちろんケースバイケースですけれど、大人だって、この簡単な前提をはっきりと理解していないように思える人はいます。

 

自分が「常識」と思ってしまっていることについて相手が知らないと、「なんでこんなことを知らないんだ」って言い方をしてしまう人、いるじゃないですか。

それについて、どこまでが「常識」の内に含まれるかって、人によって全然違うんですよ。

だからコミュニケーションには事前のすり合わせが要る。

 

小さい子を見ていると「自分が知っていることは、相手も当然知っている筈」と思ってしまって、知識のすり合わせの必要性にたどり着けないって、かなり普遍的に存在する現象のように思えるんですね。

少なくともうちの長女や次女は多分まだその段階です。

 

相手も当然自分と同じことを知っていると思っている。

自分と同じように考えていると思っている。

だから、いきなり「〇〇ちゃん」という、相手にとってみれば唐突なワードを出してくる。

で、相手が聞き返してくると、「あれ?なんで知らないんだろ?」と不思議な顔になる。

 

で、更に、「同じことを知ったからといって、同じように感じる/考えるとは限らない」ということも、まだいまいち理解出来ていないように思うんです。

だから「〇〇ちゃんってこういう子で、これこれこういうことをするんだけど、どう思う?」ということをすっ飛ばして、いきなり「〇〇ちゃんのどこが好き?」というところまで行ってしまう。

 

これはもちろん、単に「まだそこまで認識出来ていない」というだけの話で、別に悪いことではありません。

今後、少しずつでも出来るようになっていけばいい話です。

 

ただ、コミュニケーションって要はすり合わせの連続ですから、長男が出来るようになったように、長女次女とも丁寧に会話のすり合わせをしてあげて、「あ、すり合わせって便利」という成功体験を積ませてあげられるといいなあ、と思った次第なんです。

 

***

 

上でも書きましたが、これは決して子どもだけの話ではなく、もしかすると割と一般的にみられる現象なのかも知れないなあ、と感じています。

 

コミュニケーションの前の、知識のすり合わせが苦手な人。

自分が知っていることを相手は知らない、ということが想像出来なくって、いきなり前提知識なしの投げつけを行ってしまう人。

自分と同じ情報に触れれば、当然相手も同じように感じる/考える筈だ、そうなっていないのは何かおかしい、と思ってしまう人。

 

これ、そんなに珍しい話じゃなくて、webでも現実世界でも、かなーり一般的にみられることのような気がするんですよ。

 

会社でも、内線をとっていきなり「〇〇ってどうなった!?」とか言われると、おいちょっと落ち着け、とか思ってしまいますよね。

まず〇〇って何なのか、それについて認識の相違がないか話し合おうじゃないか、と。

 

別にそういう齟齬が成長段階の違いだなんて飛躍する気はありませんが、少なくとも、

「知識のあるなしや認識のスタート地点は人によって全く違う」

「同じ知識があったとして、それに対する感じ方、考え方も人によって全く違う」

「だから、コミュニケーションの前には前提知識のすり合わせが必要だし、ちゃんとすり合わせを行えば行う程、コミュニケーションはスムーズになる」

「スムーズなコミュニケーションは楽しいし便利」

ということについては、繰り返し子どもに教えてあげたいなあ、と。

 

だからその為にも、自分が子どもと話すときは、なるべく丁寧にすり合わせをおこなって「気持ちいいコミュニケーション」の経験を積ませてあげたいなあ、と。

そんな風に思った次第なんです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

Photo by Volodymyr Hryshchenko on Unsplash

リスクを負わぬ者、意思決定にかかわるべからず

ナシーム・ニコラス・タレブの著作、「身銭を切れ」は間違いなく傑作だ。

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「リスクのとり方」を学ぶのに、これ以上の本は無いと言っても良いと個人的には感じる。

 

彼の主張は非常にシンプルだ。

重要なのはただ「実世界に対してリスクを背負い、よい結果と悪い結果のどちらに対しても、その報いを受ける」こと。

 

つまり「リスクを負わぬ者、意思決定にかかわるべからず」である。

 

「身銭を切れ」には、そうしたいくつかの実践的な見解が述べられている。

・袋叩きに加担しながら善人面をする連中は悪
・アドバイスを聞くなら〝考え〟ではなく、アドバイザーが実際にやっていること教えてもらえ
・身銭を切ると、退屈な物事が急に退屈でなくなる(航空機の乗員にとっての安全点検など)
・自分の意見に従ってリスクを冒さない人間は、何の価値もない。

 

確かにこれは「ペテン師」と「本物」を見分ける非常に良い方法で、「リスクを取っている度合い」によって、その人の主張の信頼性が問われるのは、古来から同じである。

 

だから、「サラリーマンなんかやめなさい」だったり、「学校なんか辞めて起業せよ」と煽る輩が数多くいるが、彼らを信用するのは辞めたほうがいい。

 

なぜなら、煽った連中は、あなたがサラリーマンを辞めたことから(本やセミナー、他の手段で)利益を得るかもしれないが、あなたが破滅しても彼らの懐は傷まないからだ。

そのようなことを勧める連中は、ペテン師であることがわかる。

 

権力者は身銭を切らなくてはならない

これは意思決定に関わる権力者ほど、身銭を切るべきだという原則に通じている。

 

特に、政治家や大企業の経営者には厳密に適用されねばならない。

「失敗の責任を取らない権力者」ほどの害悪はない。

ローマ皇帝の殉職率は50%を超えているが、強大な権力行使に伴う失敗の代償は、本人の命だった。

 

逆に、現代社会で最も大きなリスクを取っているのは起業家だとタレブは言う。

起業家は社会の英雄だ。私たちのために失敗を肩代わりしてくれる。

起業家は「自由に意思決定をする」権力を握っているが、少なくとも失敗に対して責任を負っているからだ。

 

だが、もちろん身銭を切らない「似非起業家」にはもいる。

騙されてはならない。

しかし、資金調達や今日のベンチャー・キャピタルの仕組みのせいで、世の中には本当の意味で身銭を切っていない似非起業家があふれている。

「身銭の切り方」こそ、本物と偽物を見分ける鍵である。

 

人間づきあいも同じ

これは、人間づきあいでも全く同じことが言える。

単純に言えば、人付き合いにも身銭を切る事、つまり「とった行動に応じた報いがあるべき」なのだ。

 

彼に言わせれば、人間関係の原則は

まずは誰にでも優しく接しろ。でも、相手が力を振りかざそうとしてきたら、こっちもやり返せ。

である。

これが大原則だ。

 

悪人、口だけの干渉屋、いじめに加担する人物、言行不一致、手を動かさない怠け者たち。

つまり「他者から奪うだけ」の人物を排除することで、人付き合いは改善するのである。

 

ここまでの話を読んで、「当たり前の話じゃない?」と思われる方も多いかもしれない。

そう。当たり前なのだ。

 

だがこの「当たり前」というやつが、結構難しい。

 

他人に奉仕しすぎて、搾取される人々

ペンシルバニア大学ウォートン校教授の、アダム・グラントは著作の中で、成功のための重要な要因として「ギブ・アンド・テイク」に対する考え方を挙げた。

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彼は、人々を3種類に分類した。

受け取るだけの「テイカー」

貰えばお返しするバランス派の「マッチャー」

そして惜しみなく与える「ギバー」だ。

 

では、最も成功してたのは誰だっただろうか。

 

抜け目ない「テイカー」?

文字通りギブ・アンド・テイクの「マッチャー」?

 

実は、最も成功していた人々は「ギバー」、つまり「人に与える」人々だった。

これは直感的に納得がいく。

「最も多く受け取る人は、最も多く与えている」のは真実だ。

 

では、逆に、最も成功から遠いのは、どのグループだったか?

実は、職業に関わらず、最も成功から遠いのも「ギバー」だった。

 

そんなバカな、と思う方も多いかもしれない。

だが、エンジニアの世界においても、医学部でも、販売員でも、「ギバー」は成績の最も低いグループに、最も数が多かった。

彼らは、「自分」より「人」を優先するため生産性が低く、成功するどころか、逆に損をしていたのだ。

 

ギバーは、「搾取されるお人好し」と「圧倒的な成功者」の両極に存在する。

これは非常に興味深い事実である。

 

「搾取されるお人好し」と「圧倒的な成功者」の差は「テイカーの排除」

では、「搾取されるお人好し」と「圧倒的な成功者」の差は一体どこにあったのか。

 

これがまさに、タレブの言う「排除」だった。

 

アダム・グラントは以下のように述べ、「テイカーとつき合うときには、マッチャーになればいいのだ。ただし、最初はギバーでいたほうがよいだろう。」と言っている。

嘘に引っかかったり、食い物にされたりするのを避けるには、本物のギバーと、テイカーや詐欺師を見分けることが重要だ。

成功するギバーになりたければ、自分の身を守るために、人を操って利用しようとしている人間を見抜かなければならない。

「テイカーを排除するギバー」は、成功者になり、「自己犠牲に終止するギバー」は、搾取される。

 

自己犠牲は決して美徳ではない。

だから、人に 「わけへだてなく接する」ことも美徳ではない。

 

人を食い物にしようとする連中に対して、それ相応の報いを受けさせる。

それが「身銭を切らせる」ということである。

 

タレブは「良い垣根が、良い隣人を作る」と述べている。

複雑系について研究する物理学者のヤニア・バーヤムは、「よい垣根がよい隣人を作る」ことを、きわめて説得力のある形で証明した。

「誰でも受け入れよう」は、言葉としては美しいが、実は誰でも受け入れる事はやめたほうがいい。

 

不誠実な相手には、やり返すか、排除する。

それが健全な人付き合いってものだ。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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僕は若い頃から、ずっと疑問だったのです。

医療業界の給与体系って、おかしいのではないか、って。

 

僕が研修医、あるいは大学病院や市中病院の若手だったとき、アルバイト先の老健施設を持つ病院の院長に、「うちで働かない?」って声をかけられたことが何度かありました。

うちは給料もいいし、毎日の仕事は朝にサッと回診して書類仕事をするくらいで、だいたい午前中で終わるからラクだよ、って。

 

その場ではさすがに聞けなかったので、家で医療従事者用の就職サイトを検索してみると、たしかに、その病院から提示されていた給料は、朝から晩まで働き詰めで、休日も当直や緊急呼び出しで心身ともに疲弊していた僕がもらっていた給料よりも、ずっと高額だったのです。

 

いやしかし、あんなふうに、治すというより、高齢者をうまく軟着陸させるのが目的の病院で働くには、僕はちょっと若すぎるというか、医者としての向上心を失くしたくないしな、とかなんとか自分に言い聞かせて、真面目に転職を考えることはありませんでした。

結局、のちに僕はぶっ壊れてしまって、しばらく休職生活を送ることになったんですけどね。

 

世の中、仕事が忙しかったり、高い技術をもち、成果を挙げたりしている人が高い給料をもらっていると思いがちだけれど、必ずしもそうでもないのです。

プロスポーツ選手や起業家のような「個人」で勝負している人は別として、組織に属して働いていると「この安月給で、なんでこんなに働かされるんだ……」と感じることは少なくありません。

 

その一方で、世の中には、「仕事の内容の割に、高い給料をもらっている(ようにみえる)人」っていうのもいるのですよね。前述した高齢者施設の医者のように。

 

そこで、話題になっていた以下のエントリを読んで、僕もこの『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』(デヴィッド・グレーバー著/岩波書店)という本を読んでみました。

なぜ、無意味な仕事ばかり増えているのか?──『ブルシット・ジョブ──クソどうでもいい仕事の理論』 - 基本読書(2010年8月10日)

この『ブルシット・ジョブ』は、文化人類学者であるデヴィッド・グレーバーによる「クソどうでもいい仕事」についての理論である。「クソどうでもいい仕事」とはなにかといえば、文字通りとしかいいようがないのだけれども、「その仕事に従事している人がいなくなっても誰も何も困らないような無意味な仕事」のことである。

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著者が2013年に書いた小論がきっかけとなり、世の中の「ブルシット・ジョブ」に従事している人たちが声をあげはじめたのです。

ちなみに、著者は、自らの造語である「ブルシット・ジョブ」の定義について、さまざまな角度からの検討の末、こう述べています。

最終的な実用的定義=ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。

 

2015年に世論調査代行会社YouGovが行ったイギリスでの世論調査では、こんな結果が出たそうです。

あなたの仕事は「世の中に意味のある貢献をしていますか?」という質問に対しては、おどろくべきことに3分の1以上──37%──が、していないと回答したのである(一方、していると回答したのは50%で、わからないと回答したのが13%だった)。

3人に1人は、自分の仕事は世の中の役に立っていない、と感じながら働いているのです。

 

しかしながら

「ブラック企業で酷使されてボロボロになって辞めることになった」

「仕事がハードなのに給料が安すぎる」

「新型コロナの影響で仕事を失った」

なんて声は溢れているのに

「わたしの仕事は基本的に暇で、誰も読まない市場レポートをたまに書いているだけなのに、コンサルティング料として高給をもらっている。暇すぎてつらいのでやめたい」

なんて呟きは僕のタイムラインにはあらわれてこないのです。

 

その理由を想像すると、もしそんなことをSNSに書けば

「そんな恵まれた環境にいるのに、何が不満なんだ?」

という非難・罵倒にさらされることが自明の理だから、なのでしょう。

 

みんな仕事がなかったり、対価が十分でなかったりして苦しんでいるのに「暇すぎるのに給料はたくさんもらえるなんて、『天国からの嫌味』か?」と。

本人でさえ「つらいけど、自分は客観的にみれば恵まれているはずなのだ」と葛藤してしまうのかもしれません。

 

この『ブルシット・ジョブ』という本は、「多くの人が実感しているのに、怖くて言えなかった世界の秘密」を公開した本だとも言えるのではないでしょうか。

 

 

前述した「ブルシット・ジョブ」の定義は、当事者の主観が重視されるものです。

でも、著者は「殺し屋」はブルシット・ジョブなのか?というような、読者が思いつくような疑問の多くに対しても、先回りして検討・解説しており、かなり説得力があるのです。

 

実際に「ブルシット・ジョブ」をやっていた人たちの生の声も収められていて、読んでいると

「いくら高いサラリーをもらっていても、ちゃんと働きたい人、自分がこれまで積み重ねてきた努力や資格、能力を示したい人にとっては、つらいだろうな」

と思わずにはいられません。

こういう「なんでこれが仕事として成り立っているのか理解困難」な事例が多数出てくるのです。

ゲルテ:わたしは、2010年にオランダの出版社で、受付嬢として働いていました。そこの電話が鳴るのは、たぶん日に一度あるかどうかでした。なので、わたしには別の仕事が二つ三つあてがわれていました。

・キャンディのお皿にミントキャンディを補充すること(ミントキャンディは、会社にいるだれかほかの方々が買い置きしてくれています。わたしはただ、引出しからキャンディをひっつかんで、隣の皿に放るだけでした)。

・週に一度、会議室に行って柱時計のネジを巻くこと(この仕事は、実はけっこう苦痛でした。なんでかというと、もしわたしが忘れたり遅れたりしておもりが落ちようものなら、わたしがその柱時計を修理しろといわれていたからです)。

・いちばん時間を費やした仕事といえば、もうひとりの受付嬢からの化粧品のセールスをなんとかしてあしらうことでした。

 

「業務時間内はずっとこの部屋にいて、電話が鳴ったらその問題に対応してほしい(電話が鳴るのは月に2回くらい)。

対応が遅れないように、勤務時間中は休み時間以外はずっとこの部屋にいるように。私的なネット使用や外部への連絡は禁止する」

ほとんど何もしなくていいのに、それでお金をもらえるなんて最高!

……でもないんですよね、本当に。

 

「時間をつぶす」というのは、そのための行為(ネットとかゲームとかテレビ鑑賞とか読書とか)が許されない状況ではかなり難しいし、苦痛なのです。

いまの世界では、高学歴で難関の資格を持ち、金融、不動産、情報産業などに従事している人の多くが、「専門家」として高い給料をもらいながら、「ブルシット・ジョブ」をやらされているのです。

 

そこで、「自分たちは選ばれたエリートなのだから、暇な時間は堂々とオンラインゲームをやるし、ゴルフのパットを練習する」と開き直れれば、それはそれで良い環境なのだろうけれど、その退屈さと理不尽さに適応できる人というのは、そんなに多くはありません。

かくして、多くの人が、「他者からみたら、羨ましいくらい好待遇のラクな仕事」を手放してしまう。

 

著者は、清掃人やケアワーカーのほうが、コンサルティングファームで読まれないレポートを作成して高給をもらっている人たちよりも、自分の仕事が社会に貢献しているという実感を持っている割合が高いことを紹介しています。

 

不思議なことに、世の中は「人々が日常生活を行っていくために必要な、身体を使う仕事」のほうが低賃金で、「なくても困らない、金融や情報に関する仕事(ブルシット・ジョブ)」の賃金が高いことが多いのです。

 

しかし著者は、「労働」という概念について、キリスト教世界の宗教的な背景なども考えると

「人の役に立つ大事な仕事なのに、なぜこんなに給料が安いのか?」

と思うのは間違っているのかもしれない、と述べています。

 

世の中の多くの人が「やりがいも、やる必要性もない(コンピューターがやったほうがよさそうな)仕事」を続けているなかで、教育とか看護のような仕事は、「やりがいがある」というのがすでに報酬であり、「そんな恵まれた仕事に就いているのに、お金まで求めるのは傲慢だ」とみなされているのではないか、というのです。

いいかえれば、社会に便益(ベネフィット)をもたらすことを選んだ人びとや、とりわけ、みずからが社会に便益をもたらしているという自覚をもつことによろこびを感じる人びとには、中産階級なみの給与や有給休暇、充分な額の退職金を期待する権利はまったくない。

さらに、自分は無意味で有害ですらある仕事をしているという認識に苛まれねばならに人びとは、まさにその理由によって、より多くのお金を報酬として受け取って然るべきだという感覚もまた存在しているのである。

 

このことはいつだって政治レベルにおいてあらわれる。たとえば、イギリスにおいては「緊縮財政」の8年間(2010年のキャメロン政権以降)に、看護師、バスの運転手、消防士、鉄道案内員、救急医療スタッフなど、社会に対し直接にはっきりと便益をもたらしているほとんどすべての公務員の賃金が、実質的に削減された。

その結果、チャリティの食糧配給サービスで生計を立てるフルタイムの看護師があらわれるにまでいたったのである。

 

ところが、政権与党はこの状況をつくりだしたことを誇りに感じるようになっていた。看護師や警察官の昇給を盛り込んだ法案が否決されたとき、歓声をあげた議員たちがいたぐらいである。

この政党はまた、その数年前には、世界経済をほとんど壊滅に追い込んだシティの銀行家たちへの補償金を大幅に増額すべきという大甘の見解をふりまわしたことで悪名高い。にもかかわらず、その政府の人気は依然として衰えを知らなかったのである。

 

そこには以下のような感覚が存在しているようにみえる。すなわち、公益のために献身することを仕事として選択した人びと、あるいはたんに自分の仕事が生産的であり有益であると感じて満足している人びと──こうした人びとこそが、公益のために集団的に犠牲を払うという精神性(エートス)を一方的に引き受けるべきである、という感覚である。

こんなのおかしいだろ、と思うのだけれど、日本でも、某有名病院で医療スタッフのボーナスカットに抗議して多くの看護師が退職した、というニュースに対して、SNSやヤフー掲示板で

「お金のことばっかり言って、患者さんへ尽くす心がない看護師に担当になってほしくない」

なんてことを書いている人が少なからずいたのです。

 

逆に言えば、どう考えても利用者の借金総額を増やすだけの「リボ払い」を勧める仕事をしている人とか、「マンション買いませんか」と職場に電話してくる人なんていうのは、みんなが「金のためにやっているのだろうな」と解釈して、納得してしまうところもあるんですよね。迷惑だしやめてほしいけど。

 

この「ブルシット・ジョブ」という本と、「そういう仕事」については、思うこと、書きたいことが僕には多すぎるのです。

 

ちなみに、著者は医者というのは、数少ない「高給でブルシットではない仕事」だと言及しています。

実際にその仕事をやっている僕の経験上は、何かが問題になるたびに、効果が不明瞭な書類仕事や会議ばかりが増えていく、ブルシット的な要素はたくさんあるのですが。

 

この本のなかにも、現在の看護師の業務の8割くらいは書類仕事になっている、という記述もありました。

「退院の見込みがない高齢者ばかりが入院している、軟着陸型の病院」と、夜中にひっきりなしに救急車が来るような病院の同年代の勤務医の給料がそんなに変わらない、あるいは、前者のほうが高いことが多いのはなぜか、という問いに、僕はひとつの結論を見出しました。

 

時間が膨大にあって、やりがいを感じにくく、その一方で、それなりに立派な仕事をしているように周囲には見せかけないといけない状況に耐え続けるというのは、けっこう特別な才能や忍耐が必要なことなのです。

 

とくに、医師免許を取って、周りからは「できる人」として扱われ、自分にプライドを持っている人にとっては、中途半端に忙しいよりも、ずっと過酷な環境なのかもしれません。

それこそ「金のため」だと自分に言い聞かせるしかないような。

暇なのにふんぞり返って、私は忙しいんだ、と振る舞うのは、普通の人間にはつらいですよね。

 

この本では、多くの良心的な人が「ブルシット・ジョブで稼ぎ、そのお金で(無償や低賃金、あるいは自分でお金を払って)教育や研究をやっている」という現実が紹介されています。

 

そんなのおかしい、とは思うんですよ。

ただ、これからは「やりがいのある仕事は、お金を払ってやらせてもらう時代」になっていくのかもしれません。

大部分の仕事が「コンピューターにやらせたほうが速いし正確」になっていく世界では、「ベーシックインカム(すべての国民に最低限の生活ができるくらいのお金を基礎収入として配る政策)」を導入したほうが、効率的になっていくはずです。

生産性が低い大部分の人間は、むしろ、働かないほうがいい。

 

でも、そんな世の中を、人々は本当に受け入れられるのだろうか。

好きなこと「だけ」やって生きていけるとしたら、本当にその「好きなこと」は楽しいのだろうか。

 

余談ですが、著者は

「医者というのは、(現在の社会では)わかりやすく人の役に立っていて、それに加え、高い報酬に対する社会の反感も比較的少ない、稀有な仕事」

だとみなしているようです(前述したように、僕からすれば、ブルシットな面はたくさんあるのですが)。

 

そう考えると、最近の大学受験での異様なまでの医学部人気というのは、それなりの理由がある、合理的な選択なのかもしれないな、とも感じたのです。

やってみると、「僕が主治医じゃなかったら、あの人、もう少し長生きできたかもしれないな……」というのが、眠れない夜、頭に浮かんでくる難儀な仕事ではありますけどね。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

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当事者経験の有無で一変する世界

とても興味深いツィートをみかけた。

要約すると、それまで家事分担が上手くできてなかった夫婦が、役回りをいったん交換してみたところ、家事が上手に回るようになったという話である。

 

やってみて初めて見えてくる世界というのは実際ある。

当事者を経験する事で細い所に気がつくようになり、指示の受け取り方や気の利かせ方はかなり変わる。

 

この手の事で自分にも苦い経験がある。

学生時代にゼミの飲み会の幹事をやっときの話だ。

 

最初に

「打ち上げをやりたいので、○月後半の空いてる日を記載して返信して下さい」

というメールを10名程度に送ったのだが、ビックリするぐらいメールが返ってこなくて本当に驚いた。

 

「いやいやいや、予定決まらないと店の予約できないじゃん。お前ら気を利かせて、さっさと返事せえや」

結局一週間程度待ったのだが、返信率は2割程度だったように思う。

 

仕方がないので、次のメールはこう書いた。

「○月○日の何時までに、このメールに返事を返して下さい」

締切が設定されると人は動く。これで返信率は7割ぐらいにはなった。

残りの3割は締め切り直前に催促の連絡を入れて、ようやく返信率を100%にした。

 

「10人のスケジュールを取りまとめるだけでこんなに苦労するのか…もう二度と幹事なんてやらないぞ…」

そう強く誓った事を今でもよく覚えている。

その後、僕が飲み会の出席可能日の返信を即座にするようになったのは言うまでもないが、もしこの経験が無かったら僕の返事速度はこんなに早くはならなかったはずだ。

 

当事者経験の有無で人は見える世界が一変する。

やってみると人は変わるのだ。

 

「名前のない家事」は「名前のない仕事」と同様に、本来、あってはならない。

家事の話に戻ろう。

家事分担の話はインターネットで頻繁に炎上する話題だが、その中でもとりわけ自分が面白く感じたのが「名前のない家事」という概念である。

 

この単語は非常に奇妙である。

例えば、単語を少し変えて「名前のない仕事」なんてものがこの世にあるかと言われると、少なくとも僕は聞いたことがない。

 

いわゆる雑務やどこにも振り分けにくいタイプの仕事のようなものなら確かに会社にもある。

が、それならば周りに情報を共有し、見える化を図った上で、各自の不平不満を低減してゆけばよい。

 

例えば、来客対応のお茶くみが「名前のない仕事」になっており、当人が不満に思うのならば、責任者に

①月替り等での交代制を提案する。

②缶ジュースを用意し、お茶くみのタスクを無くす。

③そもそも来客者にお茶など出さない。

等の代案を提出すべきだ。

責任者はその意見をコストと生産性で見極めた上でキッチリ検討し、不満を抱く人を納得させなくてはいけない。

 

これも昭和の時代なら頭ごなしに「黙ってやれ」で一蹴されてたかもしれない。

が、マトモな企業でいまそんな対応をしているところは一つもないだろう。

もちろん家事というのはそれなりに複雑なものなので、お茶くみのように簡単に一般化し問題解消を図るのは難しいかもしれない。

 

ただ、それならなおのこと、可視化し情報共有し、名前をどんどんつけていくべきである。

「名前のない家事」だなんて、それこそヌエやらネッシーのような実在不確かな現象だろう。

 

そんな分割不可能なものが仮に存在するのなら、いくらでも家事は無限に増殖してしまう。

そんな事があるはずがない。

 

「名前のない家事」という言葉は、単なる不満の表明ツール。

ではなぜこんな概念があるのか?

僕が思うに“名前のない家事”というものの本質は不平不満の発射口だ。

 

冒頭のツイートにもあるが、限界にきている人にとって、家事は「無限に続くタスクの連続」に見える。

そして、色々抱えたイライラを

「私はお前が思ってる以上に働いているんだ」

という合理性のラップに乗せて爆発させる起爆点として、この概念は極めて便利にワークする。

 

例えば、妻の不満溜め込み能力は本当に凄い。

なにかをキッカケにして一度堰が切れると、いったいどこにそんな恨み辛みが詰まってたんだというほどに呪いの言葉が次から次へと口から出てくる。

 

嵐のように突然やってくるこの現象を前に、僕はこう思う。

「そんなに不満を溜め込まないで、不満に思ったときにでも言ってくれればよかったのに」

 

しかしどうもこれが妻には恥ずかしい行為のようで、言えないのだという。

まあ妻はそういう生き物なのだろう。仕方がない。

 

結果、そうした不満が雪だるまのように積み重なり、そしていつしか決壊する。

その表現として「名前のない家事」というのは極めて便利な概念となっており、ちょっと手放せない便利な道具と化しているんじゃないだろうか?

だからいつまでたっても”名前”が”つかない”のである。

 

それならば、その利権が存在しなくていいようなインセンティブを設ければ解消する可能性がある。

 

マッキンゼーの採用基準はリーダーシップ

僕はその鍵は家事への意識改革とタスクの徹底した見える化・共有化にあると思う。

その意識改革の切り口として、マッキンゼーのリーダーシップという概念が非常に勉強になる。

 

思うに、家事というのは冒頭で書いた僕がやった飲み会の幹事的な扱いをされがちのように思う。

誰かがやらなければいけない。が、できればそんな面倒事は引き受けたくない。

 

なら解決策は一つしか無い。

 

全員で主体性をもって取り組めばいいのである。

どうやって?そのヒントとなる事が採用基準という本に書かれている。

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この本は伊賀泰代さんというマッキンゼーの採用担当を長年されていた方が書かれたものだ。

伊賀さんはマッキンゼーが採用で最も重視する基準としてリーダーシップをあげている。

マッキンゼーというといかにも地頭や論理的思考力が高い人を好みそうに思うが、リーダーシップはそれ以上に肝心だという。

 

ここで登場するリーダーシップという概念は当事者意識+主体性みたいなもので、実際読んでみて今の社会が一番必要としている感性だと自分は感じた。

どういうものかを以下に書いていこう。

 

「家事」は残らず可視化して、全員がリーダーシップをとればいい

日本ではリーダーというと1人、自分の主張を押し通そうとする強引な人、という印象が強いが、これは間違った発想だと伊賀さんは語る。

 

本当のリーダーとはチームが業績を達成するために必要な事を率先してやる人で、我よりも成果を優先する人だという。

そういう集団の利益を最優先する本当のリーダーシップを持つ人達が集まった時、チームは劇的な生産性を発揮できるというのである。

 

言われてみれば、確かにリーダーと指示待ち属のような集団は極めて効率が悪い。

 

わざわざ言われないと動かないような人たちの集団を率いるのは物凄く疲れる。

が、何もいわずとも目的の為に働いてくれる集団を統率できたら最高だ。

 

例えば飲み会の幹事を例にあげれば、冒頭に書いた僕の事例はまさしくリーダーと指示待ち属のような集団だったといえよう。

 

それに対して、全員がリーダーシップを持つ集団だったったなら、幹事が集計に困ってたら参加者の1人がGoogle カレンダーのようなものを幹事にパッと渡して

「ここに入力するようにすれば、ラクに集計できますよ」

と提案したかもしれない。

こうすればタスクが視覚化されて皆に共有されるようになり、回答を書いてない人に対して幹事以外の人でもせっつけるようになって幹事の苦労は激減する。

 

それだけでなくスケジュールの決定も迅速に行われるようになり、チームとしての意思決定速度は爆発的に上がる。

全員が目標を共有し、主体的になって取り組めるようになれば生産性も上がるし、損な役回りも減っていくのである。

 

だから家事も上司と部下のような関係ではなく、チームを組むような形で取り組み、タスクを限りなく視覚化して共有すれば相当に意識改革が起きるはずだ。

家事が”見えない”なんて言ってる時点で、風通しが相当に悪い組織だと自分で言ってるようなものである。

 

そして、やった家事に対してはお互いにキチンと報告し、それを感謝する機会も設定する。

こうしてお気持ちに共感する時間をキッチリ作るよう努めれば、家事に対する不平不満の声はかなり鳴りをひそめるんじゃないだろうか?

 

妻と、家事の話を毎日しよう

僕はお互いが今日やった家事の話をする機会を一日5分でもいいから毎日設けるべきなのだと思う。

毎日毎日、家事に関しての意見交換を行い、効率化や常識のすり合わせを行いつつ、やってくれた事に対してありがとうという感謝も述べる。

 

こうすれば妻は家事関連の不平不満の溜め込みがだいぶ減るだろうし、旦那は旦那で見えてないところで意外と妻が苦労している事を知る機会を得るチャンスになり、感謝の言葉が述べやすくなる。

 

なんでもそうなのだが、可視化されればカイゼンや手助けもやりやすくなるし、感謝の言葉も述べやすい。

けど、何も言わずにお互い黙ってやってると、状況はいつまでたっても変わらないままだ。

 

名も無き家事……

昭和の時代ならまだしも、こんなバケモノを令和の今の世の中まで存在させてはならない。

万全を期し、知恵やテクノロジー、リーダーシップをもって絶滅させるべきである。

 

余裕があるときだからこそ、話し合う

そしてこれは余裕がある時こそ行うべきなのだ。

 

欠乏の行動経済学という本の中に

景気後退の原因は好景気にわいているときの人々の行動にあり、締め切り時の土壇場ラッシュはその前、数週間の余裕があった時の怠慢のせいで起きる。

欠乏は多くの重大な問題で主役を演じているが、その舞台をととのえたのは豊かさにある。

[amazonjs asin="B012LXVDM2" locale="JP" tmpl="Small" title="いつも「時間がない」あなたに 欠乏の行動経済学 (早川書房)"]

というような記述があるのだが、考えてみればこれは家事においても全くそのとおりである。

問題が発覚するのは困った時だというのは仕方がないにしても、困ってない時に対策や改善のようなものを全くやらなくていいだなんて事があるはずがない。

 

もし、いま何も困っていないのだとしても、余裕があるいまだからこそ徹底して対策を講じるべきだ。

家族の中に加害者も被害者もない。

誰だってニコニコ幸せにやっていきたいはずである。

 

その為の傾向と対策は、余裕ある今こそ練っていくべき時なのだ。

 

 

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【プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by CDC on Unsplash

どうもこんにちは、しんざきです。

最近自宅でkindle端末を導入しまして、物理本で埋まった本棚を整理しながら子どもたちと漫画を楽しむ生活を送っています。

子どもと漫画の話で盛り上がれるの、楽しいですよね。

 

今は長男が黙々とDr.Stoneを読んでいる一方、長女と次女は二人そろってゆるキャン△にハマってまして、りんが好きだなでしこが好きだと激論を戦わせていました。ちなみに私自身は美波先生ごひいきです。

 

さて。

今日は、最近読んで「面白ぇ!!!!!」ってなった漫画について軽く全力推しをさせて頂いて、未購入の皆さんの指をついうっかりポチらせることを目標に記事を書きたいと考えているのですが、何の話って「葬送のフリーレン」です。

Twitterで見かけて面白かったんで購入してみたらこれが大当たり、脳が溶けるかと思うくらい優しい面白さを味わえたんですよ。

 

「葬送のフリーレン」は、山田鐘人先生原作、アベツカサ先生作画のファンタジー作品でして、一話・二話はweb上で無料で読めるので是非読んでみて頂きたいのですが。

[amazonjs asin="B08FDH57JT" locale="JP" tmpl="Small" title="葬送のフリーレン(1) (少年サンデーコミックス)"]

ネタバレが大きく問題になるような作品ではないにせよ、ここから書く内容にはどうしても多少は作品中の展開の話が混じるので、もし上の二話を読んだ時点で「面白い」と思った人は是非単行本をポチって頂いて、読み終わった後にまた戻ってきて頂ければと思うわけなのです。損はさせません。

 

***

 

「葬送のフリーレン」は、一言で言うと「優しい無常観」とでも言うべき、不思議なテイストを纏ったファンタジー物語です。

 

物語は、魔王を倒して王都に凱旋する、4人の冒険者の姿を描くところから始まります。

ややナルシストな勇者ヒンメル、酒飲みで生臭坊主扱いされている僧侶ハイター、武骨なドワーフの戦士アイゼン、そしてエルフの女魔法使いのフリーレン。

 

魔王を倒して平和な時代をもたらしたヒンメル一行は、50年に一度の流星群を4人で見た後、再びの再会を約して別れます。

ここから、タイトル通り、物語はフリーレンの視点になりまして、いきなり「50年」という時間が経ちます。

 

多くのファンタジー世界観と同様、この世界でもエルフは長命種であって、50年という時間はフリーレンにとってはほんのひと時のことでしかありません。

一見少女のように見えながら、フリーレンは1000年以上の途方もない時間を過ごしているのです。しかし、当然のことながら人間のヒンメルやハイターにとっては50年というのは長い長い時間であって、再び出会った時にはヒンメルは既に老人になってしまっています。

 

「魔王を倒す旅」ではなく、「旅が終わった後」の世界を描写する物語は最近ちょくちょく見る感覚ですが、「葬送のフリーレン」は更にそれに加えて、「長命種とそうでない種族の時間の隔たり」というものを正面からテーマに据えています。

自分は長く生きるが、他の種族はそうではない。

それは、フリーレンにとっては「関われば関わる程別れが増える」ということを意味します。同じ時間を生きることが出来ない。

 

この漫画の特徴として、普通に考えれば悲壮なテーマを主題にしているのに、それが重たすぎないというか、決して軽く扱っているわけではないのにじめじめとしていないんですね。

見ようによってはみんなドライで、けれど温かくて、優しい。

 

ヒンメルにせよハイターにせよアイゼンにせよ、文句も言えば皮肉も言うものの、仲間を心底大事にしています。

ある意味では達観していて、自分の死を当然のこととして受け止めていて、それをフリーレンに負わせようとは決してしない。

 

けれど、ヒンメルやハイターとの別れをきっかけに、今まで人と関わろうとしなかったフリーレンは、「私はもっと人間を知ろうと思う」と、むしろ積極的に人との関り、人との繋がりを求め始めるのです。

(出典:葬送のフリーレン)

この辺、しばしばみられる「長く生きるが故に、数々の別れを経験して人と強く関わろうとしなくなってしまった」長命種のキャラクターと真逆なんですよね。

むしろフリーレンの場合、最初は周囲に対する関心自体をそれ程もっていなかった。けれど、ヒンメルとの別れで「なぜもっと知ろうとしなかったんだろう」と後悔して、いつか必ず訪れる別れを承知の上で、逆に人と関わる道を選んだ。

 

「愛の反対は無関心」という言葉通り、好意と興味はほぼ同値なわけですが、これはおそらく初めてフリーレンの中に芽生え始めた好意の萌芽。

「葬送のフリーレン」は、ある意味ではフリーレンの成長物語であって、「魔王を倒す」という旅が終わって初めてフリーレンが成長し始めた、というお話でもあるのです。

 

フリーレンは、魔法を収集する度の途中、まだ存命だった僧侶ハイターを訪ねます。

ハイターは戦災孤児の少女フェルンを引き取って育てており、魔法使いの素養があるフェルンを弟子にとるようフリーレンに頼みます。

当初は断るフリーレンですが、ハイターの作戦と紆余曲折もあり、結局フェルンと二人、共に旅をすることになります。

 

定命のフェルンと、長命のフリーレン。一度は命を捨てようとしてハイターに助けられたフェルンと、長い長い命を持ちながら人と関わる道を選んだフリーレン。

二人の魔法使いの少女が始めた旅が、この「葬送のフリーレン」という物語の本編になります。

「二話」という区切りはまさに絶妙で、まさにここから二人の旅が始まる、というところで物語は一回途切れます。

 

是非、皆さんにもフリーレンとフェルンの旅の行方を追ってみていただきたいと考えるばかりです。

 

で、ここからは、物語の中での「しんざき的大好きポイント」を列挙していきたいと考える次第なのです。

 

***

 

「葬送のフリーレン」のいい味を出しているポイントは山のようにあるのですが、私が特に強調したいのは以下のようなポイントです。

 

・旅を通して垣間見ることの出来る、ヒンメルたち勇者パーティの中で培われていた信頼と絆
・時間経過というギミックを実に巧みに使った物語
・要所要所で登場する時間経過のショットと、その中で大概何かに埋もれているフリーレン
・案外毒舌なところのあるフェルンとフリーレンの関係の発展
・滅茶苦茶かっこいいお爺ちゃんになっているハイター
・物語に出てくるキャラクターにいい人が多くてほっこりする
・とにかくフリーレンが非常に可愛い(フェルンも)

 

簡単に説明してみます。

 

フリーレンとフェルンの旅は、基本的には「魔王を倒す為のヒンメルパーティの旅」をなぞるように進んでいきます。

その要所要所で、例えばヒンメルたちの過去の事績を振り返ったり、あるいは旅でのやり残しを片付けたりもするんです。

 

その中で読者とフェルンが目にするのは、とにかく強力なヒンメルパーティの信頼と絆。

例えば、とある村を荒らしていた魔族の幹部を、当時とどめを刺せなかったヒンメルパーティは封印せざるを得ませんでした。

しかしヒンメルは、引退した後もちょくちょくその封印の様子を見ていて、全然顔を見せないフリーレンを「薄情だ」と言いつつ、「でも、村を見捨てる程薄情ではない。封印が解けるころにはやってくる」と、フリーレンの来訪を確信していたのです。

そしてヒンメルの確信通りに、封印を解いて魔族を打ち倒そうと村を訪れるフリーレン。仲間同士の無言の絆。このエピソードめちゃ好きなんですが、10年共に旅をした4人の間の絆というものを、またフェルンも敏感に読解するんですよね。

 

ここでもう一つ上手いのが、「時間経過」というギミックを上手く使った物語。

80年前には猛威を振るった魔族の幹部も、強すぎたが故に人間の研究対象になってしまい、凶悪だった魔法は今では「一般的な魔法」になってしまっています。この辺、技術の発展がモンスターを型落ちさせる過程、という感じで非常に描写が上手いんですよ。

ああ、シリーズの1作目で強力だった敵が、2作目で雑魚として出てくるのこんな感じなんだろうなー…とか思ってしまうわけです。ある意味では、これも時間経過の悲哀です。

 

ヒンメルたちとフリーレンの絆、それを読み取るフェルン、というシーンでいうとこんなのもとてもいい感じでして、

かっこつけたがりのヒンメルを何故か嬉しそうに微笑みながら罵るフリーレンと、それを後ろから見つめるフェルン。

このシーンも滅茶苦茶可愛いと思うわけなんですよ。とにかくこの空気感というか、さり気ない視線の描写とかめちゃ上手い。

 

一方、時間経過という側面にはもう一つポイントがありまして、この漫画、一話で数年とか数十年とか、結構ダイナミックに時間が経過するんですが、その際アイキャッチのように流れる「時間経過ショット」がとても素敵なんです。

 

例えば一話での時間経過シーンなんですが、フリーレンがミミック(宝箱を擬したモンスター)に飲まれそうになってるショット、これヒンメルたち4人での思い出話にも出てきた「ミミックに食われかけてた」という話の再現なんですが、

この後も、どの時間経過ショットにも大抵「フリーレンが何かに頭を突っ込んでぶっ倒れている」ショットがあるんですよね。

本の山に埋もれたり、草むらに埋もれたり。魔王を倒した英雄の一人でありながら、どこか抜けているところのあるフリーレン。

 

フリーレンはクールで不愛想のように見えて案外子どもっぽいところもありまして、そんな側面も重要な魅力の一角になってると思います。蒼月草見つけて「むふー」って言ってるショットめっちゃ好き。

フリーレンの意外な側面は「フェルンとフリーレンの関係」でも語られるところでして、朝が弱くてだらしないフリーレンをお世話するフェルンが、「これ私完全にお母さんですよね」とか言い出すところも非常に可愛い。

フェルンとフリーレンの間でもやっぱり時間間隔の隔たりはあるわけで、時にフェルンに怒られながら、それでも少しずつお互いを理解し合っていく二人の関係の発展は「尊い」の一言でしか言い表せないものです。

 

あと、ヒンメルやハイターはじめ、出てくるキャラに「味のあるいい人」が多いことも特徴的でして、サブキャラ群もとても魅力的です。

モブキャラにすら魅力がありまして酒場でスイーツについて自慢気に教えてくれる荒くれたちのシーンめちゃ好き。

フェルンに内緒で何かを買いにいくフリーレン。

心配でこっそり着いていきつつ、意外な展開に驚くフェルン。

お互いを理解し合おうとするフリーレンとフェルン、これも素晴らしい名エピソードです。

 

アイゼンもヒンメルもかっこいいんですが、一見「生臭坊主」とののしられるハイターもめちゃかっこよくて、フェルンに魔法の指導をするフリーレンを優しい目で見守るハイターとかもうイケメンおじいちゃん過ぎだろとか思うわけなんですが、皆さん読んでください是非。

「あなたはやはり優しい子です」とか、「勇者ヒンメルならそうしました」とかもう超しびれる。

 

***

 

ということで、長々と語って参りました。

とにかく私が言いたいことは、

・葬送のフリーレンめちゃ面白いしまだ始まったばかりだから簡単に追いつけるしフリーレンもフェルンもめちゃ可愛いしハイターめちゃかっこいいから皆買おうぜ!!!!!!

ということだけであって、他に言いたいことは特にありません。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

わたしは海外で暮らしているから、海外(ドイツ)で働いている日本人を多く見てきた。

逆に、日本で外国人といっしょに働いている人もたくさん知っている。

そういった人たちを見てきて思うのは、「外国人と働くこと」と「外国人として働くこと」は、まったく別の話ということ。

 

グローバル人材、グローバルビジネス、グローバルな部署、グローバルな環境……。

「海外」が関われば、なんでも「グローバル(地球規模)」としてまとめられがちだ。

でも外国人と働くときに求められるのは「インターナショナル(国際的)」な能力で、外国人として海外で働くときに必要なのは「ローカライズ(現地化)」の能力。

 

全然ちがう、というかむしろ真逆ともいえるほど、その2つの性質はかけ離れている。

それを区別しなかったことで不幸になった人を、わたしはなんども見てきた。

 

たとえば、「ドイツに留学経験があり英語が話せる」という理由で、国際部署に配属されたお調子者のA。

その部署には中近東アジアをはじめとしたさまざまな国籍の人が在籍しており、Aは同僚の訛りが強い英語を聞き取れず部署替えを希望。

それぞれの宗教観を理解しないまま食事に連れて行って、トラブルにもなったらしい。

 

ほかにも、生真面目で上司からの覚えもよく、入社時から海外転勤を強く望んでいたB。

念願叶って中国へ行くも、現地のビジネスの習慣にうまく馴染めず円形脱毛症に。

中国で重視される「メンツ」を理解しておらず、現地上司の反感も買ったそう。

単純に、「イギリスの寒くて暗い冬に耐えられなかった」「現地の食事や水が合わなかった」といった理由で体調を崩した人の話も聞いた。

 

多国籍の外国人と働くなら、ドイツに留学していた人よりも、さまざまな国に行ったことがあるとか、いろんな国出身の友人がいるとか、そういう人のほうがよかったはずだ。

外国人として働くなら、その国に住んだことがある人や、日本ですでに現地の人とビジネスをしたことがある人に任せるほうがよかっただろう。

 

「外国人と働くこと」と「外国人として働くこと」は、まったくちがうのだ。

 

じゃあそのふたつは具体的に、なにがどうちがうのだろう?

今日はその話をしたいと思う。

 

外国人「と」働くときに必要なことは、「ちがい」を乗り越える能力

外国人、とくに多国籍の同僚と働くときに必要なのは、相手が異なる価値観をもっていることを前提に考えることだ。

留学中、ドイツ人はやたら議論吹っかけてくるし、イタリア人は集合時間にだれも来ないし、スペイン人はとにかくパーティーしたがるし、フランス人は意地でも英語使わないし、ロシア人はしょっちゅう二日酔いになってたし、日本人は授業中発言せずに聞いてるだけだった。

 

でも、それをとやかく言ったってしょうがない。

こっちがなんと言おうとドイツ人はトコトン話したいし、イタリア人は集合時間を重視しないし、スペイン人はパーティーに行っちゃうし、フランス人は英語で話しかけられたら無視するし、ロシア人はウォッカを飲むし、日本人は静かに授業を受けるだけ。

 

もちろんみんながみんなそうではないけど、国民性のちがい、価値観のちがいは当然あるわけで。

だから多国籍の同僚と働くときは、みんながそれぞれちがう環境で育ったことを前提に、ある程度割り切りながらうまいこと付き合っていかなきゃいけない。

 

そこで求められるのが、「相手に歩み寄り言葉で解決しようとする姿勢」だ。

 

相手に自分の気持ちを伝え、相手に気持ちをたずね、価値観のちがいを言葉で埋められる人。

自分とまったくちがう考えの相手に嫌悪感や恐怖心、猜疑心を抱かず、正面からぶつかっていける人。

自分が納得するかどうかに固執せず、相手の言い分を聞いて、「じゃあこうしよう」と妥協点を見つけるのがうまい人。

 

こうやって「ちがい」を乗り切るのが得意な人は、多国籍の外国人同僚といっしょに働くのに向いている。

ちなみに、共通点を探してそれをもとに仲間意識を形成しがちな日本人は、共通点がない相手との付き合いが苦手なことも多い。

 

外国人「として」働くときに必要なことは、「同じ」になる能力

では、自分が外国人として働くときはどうだろう?

そのとき必要とされるのは、外国人と働くときとは真逆の、「同じになる」能力だ。

 

さまざまな国籍の外国人と働くのであれば、その都度相手と「同じ」になろうとするのはかなりしんどい。

しかし海外で働くのであれば、現地のルールに則り、まわりと「同じ」になる必要がある。

いつまでも「異物」ではいけないのだ。

 

たとえばドイツでは、自分の仕事の範囲や裁量がきっちり決まっている。

他人が大変そうでも、まず自分の仕事を片付けることが最優先。

部下は自分に裁量がある仕事に関していちいち報告してこないし、1ヶ月の休暇を平気で申請してくる。

 

それに対し、

「こいつは自分の仕事のことばっかり」

「なんで全部ひとりで決めてしまうんだ」

「1ヶ月も休むなんてありえない」

そんな不満を抱えたところで、「ドイツなんだからしょうがない」。

それで終わり。

 

だから、外国人として働くときに一番重要なのは、その国との相性だ。

わたしはルール大好き、議論大好き、「自分は自分」というドイツが合っていたけど、のんびりとした陽気な南ヨーロッパはたぶん合わないと思う。

でもそんなゆるい雰囲気が好きな人もいるわけで。

 

外国人として働くのであれば、とにかくその国との相性が最重要。

いくら優秀でも、その国と相性が悪ければ絶対にうまくいかない。

ほかにも、トラブルを回避して協調するのが得意だったり、なんにでも興味をもって試せる好奇心旺盛な人だったりするといいと思う。

 

細かいことを気にせず失敗を笑い話にできるたくましさ、わからないことをためらいなく質問する厚かましさなども必要だろう。

そうやってその国にうまく溶け込めるかどうか、自分を現地に適応させて同じになれるかどうかが、「外国人として働く」ときの成否をわける。

ちなみにわたしはこういったたくましさや厚かましさがなかったので、現地での就職は諦めたよ!

 

グローバルに働く能力は2種類ある

外国人と働くときに必要なのは、ちがいを前提として尊重し、衝突しないように話し合う「インターナショナル」な能力。

外国人として働くときは、相手に合わせて自分を溶け込ませ、同じになっていく「ローカライズ」の能力。

 

最初にも書いたけど、このふたつはまったくちがう。

それなのに両方とも「グローバルに働く」という言葉でくくられることが多く、「帰国子女だから外国人とうまくやれるだろう」とか、「英語ができればどの国でも働けるはず」とかって思われがちだ。

そういった勘違いは、不幸のもとになる。

 

「海外で働きたい」

「国境を超えたビジネス」

 

こんな言葉にときめく人は、いま一度自分の胸に聞いてみてほしい。

自分が「外国人と働きたいのか、外国人として働きたいのか」を。

 

もちろん、その両方ができる「グローバル人材」を目指すのなら、それもまたひとつの選択肢だ。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Christina @ wocintechchat.com on Unsplash

タイトルが結論ですが、ちょっと私的な話からです。

 

「やっぱり要らなくなった」

会社員をやめて独立した直後、もう10年近く前の話です。

売上が立たず、妻に「ブログを書いている」と言ったら、「仕事しないの?」と言われていた頃。

困っていた私は少しでも収入の足しになればと思い、様々なメディアにライターとして、応募をしていました。

 

ほとんどのメディアには相手にされませんでしたが、何十も応募した中には僅かですが「記事を書いてほしい」という依頼もあり、とても嬉しかったことを覚えています。

仕事をもらうって、嬉しいんですよね。

 

ともあれ、私は喜んでメディアに連絡を取りました。

すると、1日たって「こんなの書ける?」とメールで、記事への要望が送られてきました。

原稿料は3000円程度だということ。

確か内容は、転職サイトについてだったような記憶があります。

 

「まずは構成案を出して」という依頼があり、私はそれを仕上げてメディアに送りました。

ワードのドキュメント1枚分くらいだったでしょうか。

 

構成案を送り、その後また1日くらい経って、「OKだから、書いてください」と指示がありました。

そして私はあれこれと調べ物をし、3000字程度の原稿を、大体3日くらいかけて仕上げ、「作品」を送り出しました。

今でもそうですが、原稿を送り出すのは、我が子を送り出すのと同じような気分です。

 

ところが1週間経っても、2週間経っても、メディアから連絡がありません。

心配になった私は、担当者のメールに「どうなりましたか」と連絡を取りました。

 

ところがこれも返信がない。

流石に私も心配になり、もう一通、メールを送りました。

「請求していいですか」と。

 

2日後、メールが来ました。

丁寧でしたが、端的に言えば以下の内容です。

「やっぱり要らなくなりました。それと今回の原稿は「お試し」なので請求には応じられません」

 

契約書、大事。

本題に戻りましょう。

 

要するに私は、騙されました。

というより、私が甘ちゃんだったのでしょう。

まあ、良い勉強だったと今では思います。

 

それ以来、私は仕事を引き受ける際には、必ず何らかの書面の取り交わしをすることにしました。

逆に言えば、それに応じないメディアからの依頼は受けないことにしました。

 

 

本記事ではこの経験を踏まえ、「なぜフリーランスには契約書が必要なのか」を、弁護士監修のもとでまとめました。

私が上のような目にあったときから、だいぶ時間も経っていますが、本質は変わらないでしょう。

 

フリーランスにまつわるトラブルは増えている

現在でももちろん、私が体験したようなトラブルは少なからず発生しており、今後も増加する懸念があります。

事実、トラブルは増加の傾向、かつフリーランスの半数近くが企業との業務委託契約において、何らかのトラブルを経験したことがあると回答しています。*1

 

そのため、政府は「フリーランスの保護が必要なのでは」と、「働き方改革」の一環でこうした状況の解決に乗り出しています。

その柱は二本。

いずれも「契約書の作成」が推奨されています。

 

1.「労働法」によるフリーランス保護

一般的にはフリーランスは労働者(=労働法の保護対象)ではなく、独立した事業者であるとみなされます。

したがって雇用は保護されません。

 

しかし、それを逆手に取り、フリーランスを「すぐにクビを切れる都合のいい労働力」と捉えたり、雇用の調整弁とみなして、安易に「使い捨てる」企業も少なからず存在します。

 

ときにそれが行き過ぎると、実質的に企業側の指揮命令下にあるにも関わらず、労働法の保護を受けていない

「名ばかりフリーランス」=「偽装フリーランス」

の問題がおきます。*2

これはアンフェアな行為ですが、未だにはっきりとした保護のための政策はありません。

 

このようなケースでは、状況によっては労働者となるかどうか個別に判断されます。

実際、「仕事を断れない」「発注者の指揮監督下にある」「時間や場所を拘束される」など、以下の基準に照らして「労働者性が高い」とみなされば、労働法の保護対象となります。

(出典:「雇用類似の働き方に関する検討会」 厚生労働省*3)

 

この判断は係争の対象となることも多く、フリーランスの増加に鑑みて、厚生労働省の検討会では今後「業界ごとの契約書のひな形」を示したり、契約内容の決定・変更・終了ルール明確化を、必要性を含めて検討するとしています。

したがって、今後はフリーランスを雇う企業からも「契約内容の明示」は必須事項です。

 

2.「独占禁止法」および「下請法」によるフリーランス保護

もう一つの柱が「独占禁止法」です。

公正取引委員会の調査*5では、フリーランスについて、以下のような現状が確認されていると報告されています。

・追加作業の費用を負担してもらえない

・フレックス制での契約なのにフルタイムで働かなければ契約を切ると言われた

・事前に知らされていない条件に基づき、何度も作業の修正を繰り返させられた

 

私が経験した状況とほぼ同じですが、そうした状況に鑑みて、政府は少し前から対策を打ち出しています。

 

例えば、「独占禁止法の運用指針」についての動きです。

フリーランス、独禁法で保護 公取委、運用指針を公表 過剰な囲い込み防ぐ*4

企業と雇用契約を結ばずに働く技術者やスポーツ選手らフリーランス人材が独占禁止法で保護される。

労働分野に独禁法を適用するための運用指針で、企業が人材を過剰に囲い込んだり、生み出した成果に利用制限をかけたりするのを法違反の恐れがあると明確に位置づけた。

働き方の多様化やシェアリングサービスの拡大を踏まえ、不利な立場になりがちなフリーランスの労働環境を改善する。

(日本経済新聞)

 

政府が「独占禁止法」の解釈を明確にしてフリーランス保護を行う目的はフリーランスや消費者の利益になる「人材の獲得をめぐる競争」をうながすためです。*5

したがって、例えば以下のようなケースは、原則として独占禁止法に抵触するとされます。

・複数企業間でエンジニアの報酬上限を取決めてしまう

・複数企業間で芸人の移籍や転職を禁じる

 

また、発注者である企業組織と、個人であるフリーランスの間には交渉力の格差があるため、しばしばフリーランスは不利な条件を飲まされます。

そのため、企業側が以下のような要請をフリーランスに行うことは、「優越的な地位の濫用にあたる」とみなされ、違法となる可能性もあります。

・他の企業との取引を禁止する
・報酬などの条件を事前に示さない
・記事や著作物などについて「自分の作ったものだ」と主張することを禁じる
・代金の支払い遅延や減額要求
・成果物の受領拒否

 

ただし、現実的には「優越的地位の濫用」であるかどうかは、実態に即して個別に判断されます。

したがって、「今の状況が独占禁止法に抵触するかどうか」の判断は難しく、トラブルになってからの「言った」「言わない」を防ぐためにも、多くの弁護士は「契約書作成」を、発注者側、フリーランス側の双方に推奨しています。

 

独占禁止法の補完をする「下請法」

なお、独占禁止法の補完法として、下請事業者に対する親事業者の不当な取扱いを規制する「下請法」が設定されています。

 

下請法は以下の図の①に示す「下請取引」の発生の際に、下請け事業者の保護を迅速・明確にできるようにしたものです。

(出典:知って守って下請法 公正取引委員会*6)

下請法では、「取引内容」「資本金区分」から明確に適用の用件が定められており、当てはまる場合には「発注者(親事業者)」に対して義務と禁止行為が定められています。

 

特に発注者の義務の中には「書面の交付義務」があり、書面で取引条件を示さねばなりません。

ここでも「契約の管理」は重要です。

 

もちろん、下請法は、「下請取引」を対象とするので、フリーランスと企業の取引全てに適用されるわけではありません。

しかし、フリーランスの保護が検討されている現在、少なくとも「取引条件を書面で交付する」などの事項は、フリーランスに業務を委託するすべての事業者に必要だと言えます。

 

フリーランスとの契約管理の必要性

このような事情から、フリーランスとの契約管理の必要性が各所で認識されつつあります。

例えば、エン・ジャパンのクラウド型フリーランスマネジメントツール、pasture(パスチャー)は、クラウドサインと連携し、フリーランスとの個別の契約管理の手間を大幅に減らします。

また、下請法に準拠した発注書をオンライン上で作成し、フリーランスとの相互承認を得ることができます。

 

なお、以下からは、pasture(パスチャー)の発行する下請法に関する資料を無料でダウンロードできます。

ぜひ、契約管理にお役立てください。

 

【無料ダウンロード】

「下請法の基礎知識」

 

【目次】

1.下請法とは
2.フリーランスと下請法による勧告
3.下請法4つのポイント
4.発生している問題
5.トラブルを防ぐためには?
6.適切な業務フローを組むなら/pastureでできること
ー書面の交付義務に対応
ー期日内の代金支払いを漏らさない
ーフリーランスとの取引情報を蓄積・可視化

 

 

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

 

 

*1 出典:フリーランスの現状認識と課題 プロフェッショナル&パラレルキャリア・フリーランス協会

*2 出典:日本経済新聞 偽装フリーランス懸念も 働き方多様で安全網に穴

*3 出典:「雇用類似の働き方に関する検討会」 厚生労働省

*4 出典:日本経済新聞 フリーランス、独禁法で保護 公取委、運用指針を公表 過剰な囲い込み防ぐ

*5 出典:人材と競争政策に関する検討会報告書 公正取引委員会

*6 出典:知って守って下請法 公正取引委員会

小学生の娘(現在8歳)の、夏休みの宿題を手伝いました。

 

と言っても、中身を手伝うことは当然、できません。

当たり前ですが。

「宿題」をやることは、結局の所一生ついてまわる問題ですので、娘に「宿題のやり方」を学んでほしいと思いました。

 

ちょうどこの夏は家にいることが多かったので、そういう環境を作ることを目標に、親子で取り組むことにしました。

具体的には「宿題をやるルール」を整備したのです。

 

宿題をどうすべきか

ルールの詳細の前に、ちょっと書いておかねばならないことがあります。

 

実は「夏休みの宿題」に関しては、当メディアに貴重なノウハウが寄稿されていました。

こちらの記事です。

夏休みの宿題進捗管理をIT化したら子供が凄くやる気出した話

長男(今年9歳)が通っている学校は、かなり宿題が多い学校のようで、低学年でもそれなりの量の宿題が出ます。当然、夏休みの宿題も結構な量です。

長男は、普段の勉強については特に苦労をしていないようですが、やはり小学生であって、計画的に宿題をするのは苦手です。

一年生の時の夏休みの宿題も、結局すべて片づけるのはかなりギリギリになっていたようで、8月下旬くらいに泣きべそをかきながら宿題をやっているのを観測しました。

小学校の宿題に親が口出しするのもどうかなと思いまして、一年の頃はあまり干渉しなかったんですが、ちょっとそれを見て反省というか、考えを改めました。

宿題の本来の意味は、「家庭での勉強の習慣を作ること」だと思います。それが機能しないばかりか、単に嫌な思い出ばかりになってしまい、机に向かうこと自体がイヤになってしまったら可哀想だなーと思ったからです。

そこで、2015年の夏休みは、多少干渉してみることにしてみました。

2016年に書かれた記事ですが、当時しんざきさんのお子さんは9歳。

2015年の夏休みのことですので、ちょうどウチの娘と同じ8歳のときの体験談、ということになります。

 

これはちょうどいい、ということで、参考にさせていただくことにしました。

 

このしんざきさんの記事には「大きな仕事の消化」に対しての真理が含まれています。

それは以下の部分です。

(自分自身の経験から)予想はしていましたが、長男が宿題ギリギリになる理由と状況を整理すると、

・タスクの事前抽出が出来ていない

・同じく、タスクの全量が事前に把握出来ていない

・なんとなく「すごく多い」というイメージだけで、着手の心理障壁が上がり、着手自体が遅れてしまう

・タスクに取り掛かってしまいさえすれば、タスクの遂行速度に問題はない

このあと、しんざきさんのお宅では、ipadで使える「タスク管理ツール」へタスクを登録し、息子さんがご自身でタスクを消化していけるような仕組みを作っておられました。

息子さんが「進捗管理ツール」に興味を持ったとのことで、うまいやり方です。

 

ただ、ここで一思案です。

我が家では、ipadは娘のものではなく、ipadをポンとわたして、「あとはこれでタスクを管理しなさい」というと、多分Youtubeなどで遊んでしまう。

さらに、進捗管理のソフトウェアに興味を持ってくれそうなら良いのですが、「なんか、これ自体が難しそう」と言いそうだ、と思ったのです。

 

できるだけ「進捗管理」しないで済む計画を作る

そこでウチでは少しやり方を変えることにしました。

といっても、ほとんどしんざきさんのお宅とやり方は変わりませんが、できるだけ「進捗管理」しないで済む計画を作ることにしました。

 

以下は、実際にやったことです。

1.宿題をすべて娘に書き出してもらう

2.夏休みの日数を数えてもらう

3.「宿題をやらない日」と「予備日」をそこから引いて、「宿題をやれる日数」をだす

4.1.と3. の答えから、1日あたりにやるべき宿題の量を決める。

 

難しいことは一つもありません。というか、昔から「夏休みの計画」というと、みんなこんな感じだったと思います。

できたのがこれ。

ちょっと読みにくいのですが。

ここまで来ると、大体毎日どの程度宿題をやればよいかが、娘にわかったようです。

 

―①パーフェクト夏(という国語と算数のドリル)を1日1ページ裏表、国語と算数両方やる

―②わくわく夏休み(という日誌)を1日ひとつやる

 

①と②はかなりボリュームが多いので、毎日の必修です。

 

―③まとめテスト、算数と国語を1日1枚ずつやる

―④絵日記を1日1枚ずつやる

―⑤夏休み読書記録カードをやる

―⑥夏休み課題発見をやる

 

③〜⑥は、各2〜3枚しかないので、①と②に加えて、どれかを一つやるという選択科目になりました。

 

一日あたりのボリュームは、結局1日あたり約30分程度となりました。

あとは毎日、決められた分量を機械的にやるだけ。

 

ここまで来ると、しんざきさんのお宅と同様に、「宿題の見通し」がよくなったので、娘は安心したようでした。

 

「日次ルーティン」をこなすためのルールを作る

ただし、これでは単なる「計画」であって、実際に大変なのは「毎日ルーティンをこなすこと」です。

そこで、娘と話し合い、もう少しルールを設定しました。

それが以下のルールです。

 

1.朝起きたら、「遊ぶ」まえに必ず宿題に手を付けるようにする。

2.宿題が終わるまでは、「ゲーム」および「Youtube」は禁止する。

 

日によって「気分が乗る日」と「乗らない日」があるのは間違いありません。

しかし、一旦宿題を始めてしまえば、逆に「惰性で宿題をやってしまう」ので、朝起きたらすぐに宿題をやるというルールにしました。

 

ただ「どうしてもやりたくない時」もあるのは事実です。

妹や弟と遊び始めてしまったり、本を読み始めてしまったりすることもあります。

 

その場合、あまりガミガミ言うことはしないほうが良いかな、と思いました。

ガミガミ言われると、もっと嫌になるんじゃないかな、と思いましたので。

 

そこで、娘の好きな「ゲーム」と「Youtube」だけは宿題が終わるまでは禁止することで、どこかで区切りをつけて、宿題をやるように促すことにしました。

 

結果、ある程度予定通りに宿題は終了した。

結果的に、宿題は夏休み終了の5日ほど前に終了しました。

ほぼ計画通りに終わったので、娘も「ちゃんとおわった!」と嬉しそうでした。

それ自体は良かったことと思います。

 

なお、以下は余談です。

 

途中、娘から「これで本当に全部終わるのかな」と不安の声があがったこともありましたが、「計画通りやれば終わる」と回答しました。

計算したとは言え、「宿題の山」を見ると、不安は払拭できないようです。

 

また「今日は気分が乗っているからもっとできるよ」という発言もありました。

それに対しては「やりたいならどうぞ」というくらいで、特に前倒しにこだわることはしませんでした。

どちらかと言うと、毎日少しずつ、決まった分量をやることを重視しました。

 

夏休みが終わりに近づき、学校の準備をする時、一枚「絵日記」をなくしていることに気づき、急遽「予備日」を使って対処しました。

やはりスケジュールに余裕をもたせることは、非常に重要だと思います。

 

現場からは以上です。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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◯ブログが本になりました。

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今日は、ヤン・ウェンリーについて書かせてください。

 

ヤン・ウェンリーとは、『銀河英雄伝説』という未来の宇宙を舞台にした小説に出てくる準主人公の名前です。

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『銀河英雄伝説』というタイトルが示すように、この小説の主人公はローエングラム伯ラインハルトという若き英雄なのですが、ヤンはこのラインハルトの覇業に立ちふさがるライバルとして活躍し、ファンの間でも熱狂的な人気を誇っていました。

 

『銀河英雄伝説』なんて四半世紀以上前のオワコンじゃないか、という人もいるかもしれませんが、そうでもありません。

2018年からはアニメ版の新作が放送されていますし、中国でも人気小説として名が通っています。

 

先日私は、中国のベストセラーSF小説『三体』の第二部を読んで、そちらの面白さにも驚いたのですが、その『三体』の作中にヤンの台詞が出てきます。

「…たしか『銀河英雄伝説』で、ヤン・ウェンリーが次のように言ったはずです。『かかっているものは、たかだか国家の存亡だ。個人の自由と権利にくらべれば、たいした価値のあるものじゃない』」

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『三体』には有名なSF作品がいくつも登場しますが、『銀河英雄伝説』がそうした作品と並ぶように登場しているのです。

 

今日の本題からはずれますが、『銀河英雄伝説』のファンで『三体』をまだ読んでいない人は、一度手に取ってみるのもいいかもしれません。

登場人物の魅力の方向性が『銀河英雄伝説』になんとなく似ているので、楽しみやすいはずです。

 

ヤンの「楽をして勝つ」に魅了された

このように名作の誉れ高い『銀河英雄伝説』に、私は高校一年生の頃に出会いました。

確か、二学期に『銀河英雄伝説』がクラスでブームになり、友達から友達へと回し読みをしていたのです。

全巻読破した男子学生はみんなファンになってしまい、全十巻(プラス外伝)の『銀河英雄伝説』をセットで買ったものです。

 

そうしたブームのなかで、ヤン・ウェンリーは一番人気のキャラクターでした。

 

組織の主流派から冷遇されがちだけど戦闘指揮は抜群にうまいヤン。

気さくで怠惰と民主主義をこよなく愛するヤン。

年下の美人副官に不器用なプロポーズをして、どうにか結婚するヤン。

窮地に立たされても取り乱さず、「気楽に戦ってほしい」と味方に言い放ち、負けたらどうするんですかと問われれば「頭をかいてごまかすさ」と言ってのけるヤン。

 

今にして思うと、こうした人物像は世界でたったひとつのものではなく、時代小説や青年漫画に似た登場人物が出てきてもおかしくないものだと思います。

けれどもヤン・ウェンリーは『銀河英雄伝説』というビッグセールスを記録した作品に登場したので、私も含め、たくさんの青少年の心を鷲掴みにしたのでした。

 

そうしたヤンの言動のなかで最初に私に刺さったのは「なるべく楽をして勝つ」という彼の基本方針でした。

 

「なるべく楽をして勝つ」。

なんと甘美な基本方針でしょう。

 

ヤン・ウェンリーはまさにそのように艦隊を指揮し、ヤンの艦隊が手ひどく消耗することはあまりありませんでした。

主人公のラインハルトとの直接対決を例外として、多くの戦いでは本当に楽に勝っているようにみえて、そのうえ彼は部下に「勝つための算段はつけた、気楽に戦ってほしい」などとアナウンスしているのです。

 

高校生時代の私には、この「なるべく楽をして勝つ」が麻薬のように効いてしまい、私はすっかり自分の座右の銘にしてしまいました。

そうだ、俺の人生は「なるべく楽をして勝つ」でいこう。進路や大学受験も「楽をして勝つ」がベストだろう。

 

そうして私は自分の偏差値で入れそうな大学を選び、二次試験もあまり苦労せずに突破して大学生になりました。

ぎりぎりまで勉強を頑張って、もっと偏差値の高い大学に挑むという考えは、この「楽をして勝つ」を前にかき消されてしまいました。

 

「なるべく楽をして勝つ」が通用しないじゃないか!

さて、「なるべく楽をして勝つ」で選んだ先は六年制なので、ほかの大学生よりも2年多く遊べるぞ、と私はほくそ笑んでいましたが、期待はたちまち裏切られてしまいました。

医学部は、暗記しなければならないことがたくさんあるのです。

 

「なるべく楽をして勝つ」を座右の銘にしていた私は、できるだけ暗記しないで済むこと・できるだけ机に向かわずに済ませることに最適化した勉強スタイルをとっていました。

大学受験も、(英語以外は)とりあえずそれで何とかなっていたのです。

 

しかし私の勉強スタイルは医学部ではまったく歯が立ちませんでした。

全身の骨や筋肉、神経や臓器の名前を丸暗記し、その機能や英語名まで覚えなければならないとなると、「楽をして勝つ」方法なんてありはしません。

私のヤン・ウェンリー信仰はこのとき揺らぎました──結局、圧倒的な暗記量や作業量に対抗するには、こちらも圧倒的な勉強量をもって迎え撃つしかない。

 

この時期の私の座右の銘は「戦いを決めるのは物量だ、それとその物量を支えるための補給だ」に変わりました。

よく学び、よく食べ、よくストレスを減らし、よく寝なければ乗り越えられないことが、この世には確かにあるのです。

 

「なるべく楽をして勝つ」でなく「楽に勝つ条件を整える」だったのでは

それからしばらくして医学部の無茶苦茶な勉強量にも慣れてきた頃、なんとなしに『銀河英雄伝説』を手に取る機会がありました。

 

ヤン・ウェンリーへの信仰が薄れた状態で再読してみると、たくさんの登場人物がそれぞれに魅力的な言葉を残していて、再読してもなお『銀河英雄伝説』は新鮮でした。

「忠誠心というものは、その価値を理解できる人物に対して捧げられるものでしょう。人を見る目のない主君に忠誠を尽くすなど、宝石を泥のなかへ放り込むようなもの。社会にとっての損失だとお考えになりませんか」
(第二巻、アントン・フェルナー)

「善政の基本というやつは、人民を餓えさせないことだぞ、ユリアン。餓死してしまえば多少の政治的な自由など、何の意味もないからな。」
(第十巻、アレックス・キャゼルヌ)

 

このとき私は、ヤン・ウェンリーの言動ももう一度確かめたのですが、初めて読んだ高校時代とは印象が違っていて、ヤンが「楽をして勝っている」ようにはみえませんでした。

確かにヤンは部下に「楽をして勝つ」とか「気楽に戦おう」と言っているけれども、楽をしているというより、部下を安心させるためにそう言っているに過ぎないのではないか。

 

そしてヤンはライバルであるラインハルトのことをこう評していました。

ラインハルトは「勝ちやすきに勝つ」男だった。だからこそ、ヤンは、彼の偉大さを認めるのである。

「勝ちやすきに勝つ」とは、勝つための条件をととのえて、味方の損失をすくなくし、楽に勝つことをいう。人命が無限の資源であるなどと考えている愚劣な軍人や権力者だけが、ラインハルトを評価しないであろう。

 

再読してみると、ヤンは戦いを始める前に勝つ準備をできるだけ整えているのでした。

民主主義国家の一軍人に過ぎないヤンは、専制国家の主君であるラインハルトに比べて制約の多いなかで勝つための条件をととのえざるを得ないわけですが、それでもヤンは、勝つための条件をしっかりと構築、あるいは根回ししていました。

 

ヤン対ラインハルトという『銀河英雄伝説』の頂上決戦では、さすがのヤンも苦戦を強いられていましたが、それはヤンと同じくラインハルトも勝つための条件を整え、「なるべく楽をして勝つ」「勝ちやすきに勝つ」タイプの天才だったからでしょう。

そのラインハルトとの戦いですらヤンが負けなかったのは、勝つための条件を見極め、その条件を整える手腕が際立っているからでした。

 

「楽をして勝つ」ようにみえるためには、「楽に勝つ条件を整える」ための才能や努力が必要だと、このときの私は理解しました。

 

転じて、「楽に勝つためなら絶対に手を抜かない」

ヤン・ウェンリーと『銀河英雄伝説』の物語が完結して、もう三十年以上の歳月が流れました。

作品は古典となり、気が付けば、私はヤンより年上になっていました。

まぶしく見えたヤンの言葉も一部は色あせ、たとえば、信念や思想を語るヤンの言葉が今ではまっすぐ過ぎる、と感じることもあります。

 

それでもヤンから学び、自分の血肉になったものは今も色あせていなくて、私にとってのヤン・ウェンリーは「なるべく楽をして勝つ」、もとい「勝つための条件を整える」を司る守護聖人のような存在であり続けています。

 

現在の私は、そうしたヤンの言葉を自分向きにアレンジした「楽に勝つためなら絶対に手を抜かない」を座右の銘にしています。

 

逆説的かもしれませんが、仕事や人生には、楽に勝つために絶対に楽をしてはならない場面が少なくないように思えるのです。

ヤンみたく楽をして勝ちたい。大変結構。

でも、そのためにはヤンやラインハルトと同じく、布石や努力を惜しんではならず、楽に勝つ条件を見極める鑑識眼に磨きをかけなければならないはずです。

 

そんなヤン・ウェンリーと『銀河英雄伝説』ですが、2020年8月現在、Amazonプライムに加入している方は無料でアニメ版をみることができます。

このアニメ版も"銀河声優伝説"とも呼ばれる立派な古典アニメ作品なので、プライム会員の人にはおすすめです。

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 

Photo by Greg Rakozy

最近読み直していて、結構なインパクトがあった本がある。

元GoogleのCEO、エリック・シュミットが書いた、「1兆ドルコーチ」だ。

[amazonjs asin="B07ZCY5BXF" locale="JP" tmpl="Small" title="1兆ドルコーチ――シリコンバレーのレジェンド ビル・キャンベルの成功の教え"]

 

「1兆ドルコーチ」とは、シリコンバレーで活躍したビル・キャンベルというコーチのこと。

何を大げさな、と思う方もいるだろうが、「1兆ドル」は決して大げさな表現ではない。

ビル・キャンベルは1兆ドルにも値するコーチだった。いや、1兆ドルは彼が生み出した価値に遠くおよばない。

彼はスティーブ・ジョブズがつぶれかけのアップルを立て直し、時価総額数千億ドルの会社にするのを助けた。ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、エリックがスタートアップだったグーグル(現アルファベット)を時価総額数千億ドルの企業にするのを助けた。これだけでも1兆ドルを大きく超えているが、ビルがアドバイスした企業はほかにも数知れない。

彼がコーチした人たちの名には、元アメリカ副大統領や、スタンフォード大学の元学長なども含まれており、彼は疑いようもなく、当代随一のコーチだった。

 

エリック・シュミットは著作の中で、

「ビル・キャンベルは何をしたか」

「ビル・キャンベルはどうやってコーチをしたか」

を詳細に記述し、誰にでも利用できるよう「コード化」を試みたという。

 

実際、私自身もこの「コード化」された内容を読みたいと思い、この本を手にとった。

 

だが、おそらく「コーチのテクニック」を期待して読んだ人は、期待はずれだろう。

なぜなら「目新しいこと」はなにもないからだ。

 

実際、紹介されているのはテクニックですらない。

書かれていることは人間性の本質そのもので「当たり前。だが実践は難しい」ことがワンサカ書いてある。

イメージとしては「論語」に近いだろうか。

 

 

だがこの記事で書きたいのは、ビル・キャンベルのコーチングの中身ではない。

実は、それよりも遥かに大きな発見があった。

 

「利口ぶるやつはコーチできない」

それは、以前には読み飛ばした項目だった。

ビル・キャンベルが「コーチを引き受ける前に、コーチが可能な人物かどうか、テストしていた」という事実だ。

 

ビル・キャンベルは、コーチングを受け入れられる「コーチャブル」な人だけをコーチングしていた。

「でもそんなことはどうでもいい」とビルは言い放った。

「私が知りたいのはただ一つ。君はコーチングを受け入れられるか?」ジョナサンは反射的に、そしてまずいことにこう答えた。

「コーチによりますね」

まちがった答えだ。

「利口ぶるやつはコーチできない」ビルはぴしゃりと言った。

彼が面接をおしまいにして、立ち上がって出ていこうとしたその瞬間、ジョナサンはエリック・シュミットが誰かにコーチングを受けているらしいという話を思い出した。

 

厳しい。

「コーチングを受け入れられるか?」という質問に対して「コーチによりますね」という回答は、「いかにも言われそう」なものだ。

だがビル・キャンベルは、その一言でさっさと席を立った。

 

ビル・キャンベルが「コーチ相手」に求めた資質は何より、正直さと謙虚さだったという。

だからコーチ不可能な人物にはあっさりと、「おまえは利口ぶるやつだ」 = 「嘘つきで傲慢」と言ったのだ。

 

そこには一切のごまかしがない。

 

これまで私は漠然と「世界一のコーチなら、誰でもポジティブに変えられるのでは」と思っていた。

でも、全く逆だった。

「世界一のコーチは、コーチ可能な人物だけに支援を提供していた」のだ。

 

心が弱い人には「コーチング」も「指導」も機能しない

「コーチャブル」という概念に、まだピンとこない方もいるかも知れない。

だが「コーチング」を機能させるためには必須である。

 

為末大氏が松下幸之助の言葉を引用し「受け入れるなら万物は師となる」と述べているが、「あらゆることから学べる」という概念は自己革新の鍵である。

ビル・キャンベルも松下幸之助と同様の境地にたどり着いたのだろう。

スタンフォード大学の元学長は、ビル・キャンベルがウソつきを嫌っていたことを次のように述べている。

ウソつきは、コーチャブルではない。そういう輩は、そのうち自分の言葉を信じはじめる。自分のウソに合わせて真実を曲げるから、余計にたちが悪い

 

だが、この指摘が正しいならば、数々の研究結果が「大半の人間は事実を認めようとしない」と示しているとおり、「コーチングが機能する人は少ない」ということになる。

人は自分の信念に反する事実を突きつけられると、過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。

まとめると、以下のようなことが言える。

1.人は、基本的に間違いを認めない。事実の解釈を変えるほうが得意である。

2.間違いを指摘すると「私は嫌われている」「この人は失礼だ」と解釈されてしまう可能性もある。

 

この本に付けられている、一部のAmazonのレビューを見ても、「コーチャブルではない人」がどのような存在かはよく分かる。

 

「何を言っても無駄な人」は存在する

私は仕事柄、多くの会社が「コーチャブルではない社員」に悩むのを目にしてきた。

彼らは何を言っても、その場しのぎの返答だけで、行動が変わることがない。

 

「なぜ行動を変えないのか」と聞くと

「時間がない」

「権限がない」

「わからない」

「やりたくない」

の「4ない」で、話は終わる。

 

彼らは一見謙虚に見えるが、その実は非常に傲慢で、経営者や上司、同僚を見下している。

ビル・キャンベルが言うところの、「利口ぶるやつ」だ。

 

そういう方に対しても、実に辛抱強く付き合う人がいた。

部下の言動に真剣に悩む上司もいた。

「いつか気づいてくれますよ」という社長もいた。

 

でも、そうした努力は常に徒労に終わる。

 

もういいではないか。

世界一のコーチですら「利口ぶるやつはコーチできない」つまり面倒は見ない、と言い切っているのだ。

そういう人々と信頼を築くことは不可能だと割り切ろう。

 

むしろ、彼らも「自己革新」など望んではいない。

彼らは「現実」を見たいと欲していないし、現状を変えたいという欲求も本気ではない。

 

そういう人々に現実をつきつけるのは、むしろ迷惑行為なのだ。

「大人」とは「本当のことをわざわざ言わない人々」

これは言い方の問題ではない。

「知らない権利」の問題である。

 

真実は残酷だ。

殆どの人間は大した能力を持たないし、誰もが羨む成功とも程遠い。

唯一できることは「自分の主観的な世界」を整えて、どうにか折り合いを付けていくことだけだ。

 

だから人を傷つけない「大人」は多くの人にとって望まれる。

真実かどうかよりも、「主観的な世界」を心地よくしてくる人のほうが、社会的に歓迎される。

 

「知りたくもないこと」を本人に突きつけて「現実を見せる」などというのは、単なる下品な悪趣味であり、エゴである。

 

だから「素直じゃない人」を気に病む必要なんてない。

 

時間の無駄だから、さっさとそこを去って、自分と仲間のために仕事をしよう。

そして、もっと有意義で、楽しいことに時間を使おう。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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Photo by jesse orrico 

まず始めに、この記事で書きたいことを簡単にまとめてみます。

 

・小説・評論から実用文に国語教育の主体をシフトしていこうという動きがある

・実用文を読み解く際のハードルには、「そもそも読解力が足りない・読解の習慣がない」というものと、「言葉が難しくて心理障壁が高い」というものがある

・前者を高校レベルでの学校教育で解決することは多分困難。一方、後者はそもそもクリティカルな問題ではない

・論理構造を読み解く訓練は文学教育でも出来る。むしろそっちの方が上位互換に近い

・国語教育の主体シフトやめた方がいいんじゃないかな

 

以上です。よろしくお願いします。

 

さて。書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

まず、今回の記事を書くトリガーになった、ダイヤモンド・オンラインさんのこちらの記事を紹介させていただきます。

「本が読めない人」を育てる日本、2022年度から始まる衝撃の国語教育

簡単に説明すると、「大学入試および高等学校指導要領の『国語』改革」において、高校で文学の勉強をせずに、もっぱら実用文に重きを置いた教育をすることになったのである。

日本文藝家協会の出久根達郎理事長は、「文科省は本気でそのような教科書を作るようなので、今のうちに大きな反対ののろしをあげなければいけない。駐車場の契約書などの実用文が正しく読める教育が必要で文学は無駄であるという考えのようだ」と懸念を示している。

「現代文」が「論理国語」(実用文中心)と「文学国語」(文学中心)に分かれ、そのいずれかを学ぶことになる。そうした文豪たちの作品は当然のことながら「文学国語」に入るはずだ。入試動向に合わせて多くの学校は「論理国語」を選ばざるを得ないだろう。その結果、多くの学校の生徒たちは、文学でなく実用文中心の国語の教科書で学ぶことになる

 

ふむふむ。

内容を鵜呑みにする前に、ちょっと新学習要領を実際に確認してみましょう。

今回話の対象になっている、平成 34 年度から年次進行で実施されるという新高等学校指導要領の国語編は、こちらから参照することができます。pdfですけど。

 

なるほど。

確かに、「現代の社会生活に必要とされる実用的な文章」という言葉があちこちに出てきますし、現代文は「論理国語」と「文学国語」に大きく分かれています。

 

別に「文学は無駄である」と書かれているわけではないですが、少なからず「実用的な文章」という言葉に力点が置かれているのは確かなようです。

大きく「論理国語」というカテゴリーが設定された以上、学習傾向がシフトして受験などの傾向に大きな影響を与えそうだ、という懸念も理解出来ます。

 

また、実用的な文章の例として「法令や契約書など」という言葉も随所に出てきますし、「大学入学共通テストのモデル問題」に、実際に駐車場の契約書や生徒会の規約など、いわゆる「実用的な文章」の類例が出題されたことも事実なようです。

まずは、「小説や評論」から「契約書や議事録などの(いわゆる)実用的な文章」に教育のウェイトを移そうとする動きがある、というところまでは、程度の差こそあれ事実として考えて良さそうです。

 

さて。

 

上記、ダイヤモンドオンラインさんの記事についたブックマークやコメントなどを見ていると、案外「実用文中心」に学ぶことに賛成する人も多いんだな、という印象を受けます。

「これは良い改革」という言葉も見受けられます。

一方、ダイヤモンドオンラインさんの記事では、これについて「文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化」という観点から反対を表明されております。

 

ただ、私自身は若干違った考えからこの動きに反対の立場です。

私の懸念は以下のようなものです。

 

・実用文を読み解く為の論理構造読解の訓練は、従来通りの小説や評論でも積むことが出来る。むしろそちらの方が上位互換に近い

・一方、読解力の根本的な不足や読解の習慣不足から「実用的な文章」を読み解けない、また「実用的な文章」を書けない層を、この方針転換で救い上げることはおそらく極めて難しい。というかこの教育で救い上げられるなら、今までの教育でも十分救い上げられている筈

・端的に言うと「実用的な文章」に力点を置くこと自体の効果が疑わしい

 

要は、「単純に目的に対して効果が薄そうだからやめた方がいいんじゃねーの」というスタンスです。

以下、補足してみます。

 

***

 

まず、私の立ち位置を明示しておきます。

以前にも書いたことがありますが、私は学生時代から数年、学校での成績が振るわない生徒を救い上げることを目的とした、少人数制の補習塾で働いていました。

また、その後社会人になってからも、部下や後輩に対する文章指導を行う立場に10年以上継続的についておりまして、多分「読めない/書けない」人とマンツーマンで接触する機会については、人よりもたいぶ恵まれているのではないかと思っております。

 

まず初めに、「小説や評論から、実用的な文章の学習に力点を移す」ことによるメリットを考えてみましょう。

ダイヤモンド・オンラインさんにも書かれてるように、

今の中学生や高校生、あるいは大学生の読解力が悲惨な状況にあり、かつてなら、容易に読めたであろう簡単な説明文の理解ができない者があまりに多い

ことが問題視されているならば、「小説や評論」ではなく「実用的な文章」を読み解くことによって、これが解決出来ると期待される筈です。

 

つまり、「小説や評論」にはないものが「実用的な文章」にはあって、それを学ぶことで今まで欠如していた「ロジカルな文章に対する読解力」が向上する筈だ、ということになります。

 

これって正しいんですかね?

 

そもそも、「契約書や議事録などの実用的な文章」を読めない、というのはどういうことなのでしょう?

これは一般的に言っていいと思うのですが、「ある文章を読めない」という場合、そこには二つのレイヤーがあります。

 

・論理構造が読解できない、読解することが難しい

・使用されている語彙が理解出来ない、単語の意味が難しい、とっつきにくい

 

例えば「法令の意味が理解出来ない」という場合、まず「ロジカルに文章の繋がりを読み解くことが出来ない」という壁と、「使われている語句がよくわからん」という二つの壁がある、という話です。

で、これは断言していいと思うんですが、「文章の繋がりを読み解くことが出来ない」という壁と「使われている語句がよくわからん」という壁では、前者の方が致命的です。間違いありません。

 

後者は、要は「言葉が難しくってとっつきにくい」という話であって、ある程度周囲の単語から類推することも出来ますし、最悪調べれば済む話です。

確かに契約書や法令に書かれた言葉を調べる心理障壁は高いでしょうが、文章を読み解く上での致命的なハードルではありません。

一方、「そもそもロジカルに文章の繋がりを読み解けない」というのは致命的な問題であって、解決することは非常に困難です。

 

以前、こんな記事を書きました。

「問題文を読んでもそこに何が書かれているのかわからない」子を教えていた時のお話

例えば、ある問題文中に「Aさん、Bさん、Cさん」が登場したとする。

文中で「Aさんは〇〇をしていて、ある時××に気が付いた。ちょうどそのころ、□□で△△に出会っていたのが、他でもないBさんとCさんだった」

みたいな文章があったとして。「□□にいたのは誰?」ということを聞いた時、しばらく悩んだ後「Aさん」という答えが返ってきたりする。

「文字として読めてはいる」けれど、「読解は全く出来ていない」んです。

確かに、「そもそも文章構造を読み解くことが出来ない」という人は一定数いて、しかもそれは恐らく子どもに限りません。

大人にも、何年も仕事をしてきた社会人にも、「文章を読み解くことが出来ない」「そもそも文章を読み解く習慣がない」人は山ほどいます。

 

私自身、実際に何十人も見てきました(余談ですが、これは別に今に始まったことではなく、単に以前は可視化されていなかっただけじゃないかなーという疑念もあるのですが、本筋ではないので一旦それは置いておきます)。

 

今回の学習要領の変更によって救い上げられるべき本来の想定ターゲットって、こういう人たちじゃないかと思うんですよね。

ダイヤモンドオンラインさんは、「文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化」という言葉を使われていますが、二極化というなら日本はとっくの昔に二極化されています。

しかもそれは遥かにクリティカルな二極化、「読解できる人と読解出来ない人」という二極化です。

 

で。

当たり前のことなんですが、小説や評論にそういった「論理構造」というものがないかというと、んなこたー全くないんですよ。

簡単なものから複雑なものまで、小説や評論にはありとあらゆる論理構造があります。

学習段階に応じて難度を変えることだってできますし、一方心情描写や情景描写など、実用文にない要素をプラスアルファで学ぶことも(また、学ばないことも)できます。

 

学校教育で学べる人なら、今までの「小説や評論」についての教育で、ロジカルに読み解く訓練が積めないわけがないんですよ。

そこから考えると、そもそも「論理国語」と「文学国語」を分けること自体、私には甚だ疑問です。

 

ダイヤモンドオンラインさんの記事のブコメでも、旧来の国語教育について「情緒に重きをおいた文芸重視」といった言葉を使われている人がいますが、正直個人的には「文芸なんて論理構造の塊なんだけどな…」と思わないではないです。

「契約書」にあって「小説や評論」にはない論理構造なんて、マジで一つたりともないと思いますよ。

 

上でも書きましたが、補習塾時代から社会人時代まで、私は「読めない/書けない」人と結構な頻度マンツーマンで向き合ってきましたし、彼らに対する指摘や指導もそれなりの回数してきました。

そこで得た感想は、「これ、学校でやんの無理ゲーだな」というものです。

 

「読めない人」はかなり根本的に読解の経験やトレーニングが足りておらず、しかもその傾向は一人一人違います。

刺さるトレーニング方法は人によって違いますし、刺さったとしても解決までの道のりはかなり長いです。

これを30人から40人の生徒に対してやろうとしたら、先生のマンパワーが今の10倍あってもしんどいんじゃないかと思います。

上述した引用記事に色々書いてあるんで良かったら読んでみてください。

 

そこから考えると、「小説や評論」を学校教育で学んでも読解する力がつかない人が、「実用的な文章」を学ぶことで読解する力を身に着けることが出来るのかは激しく疑問だ、という話なのです。

となると、小説や評論で学べる筈だったプラスアルファが抜けただけ、教育の見地からは丸損になります。

 

もちろん、全く効果がない、というつもりはありません。上で書いた通り、「読めない」場合の壁は二枚あります。

前者は出来ているが後者は出来ていない人、つまり「読解は出来るが言葉が分からん」という人に対しては、恐らく「実用的な文章」の読解を訓練する意味はあるでしょう。

契約書や法令の特殊な言葉に馴染んで、そういう文書を読み解けるようになった、という人も出てくるかも知れません。

それは否定しません。

 

ですが、「読解は出来るけれど個別の言葉が分からん、自分でも調べられん」という層がどれだけいるのかは正直疑問でして(少なくとも私の観測範囲内では一人も知りません)、そこから考えると今回の学習要領変更が妥当だとはどうも思えない、という話なのです。

 

個人的には、「読めない人」問題を解決する為にはもう少し根っこの方、つまり小学校低学年くらいからの読解との向き合い方を見直す必要があって、また同時に読書感想文の在り方とか作文の書き方の基礎訓練なんかを再検討するのが有益なんじゃないかと考えています。

新しい学習要領についてみても、「書く」部分や「討論」といった部分については様々な工夫も見られ、「読解」とは別に、そういった動きについては期待したいです。

 

なにはともあれ、高校教育くらいのレベルで「実用的な文章」を学ぶことに力点を移していくのはちょっとどうかなあ、やめた方がいいんじゃないかなあ、と。

そう思ったわけです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Sebastian Herrmann

「子供には好きなことを心ゆくまでさせなさい」

将棋の藤井聡太さんが破竹の快進撃を続け、モンテッソーリ教育のような好奇心を掘り下げる教育が素晴らしいものだともてはやされる今、子供に嫌なことをやらせるのはまるで大罪のようである。

 

が、しかし最近は「意外と好き嫌いって、表裏一体なところがあるな」と思うようになってきた。

自分の身の回りを見渡してみると、自分が魅力を感じるタイプの人は、幼少時の好きを突き詰めたというよりも、幼少時に持った負の感情といえるようなモノを上手に昇華させている事がとても多い。

 

「ひょっとして、”好き”を突き詰めるだけが能ではないのではないか?」

今回はそういう話をしようかと思う。

 

読書感想文はワーキングメモリが無い人間には大変すぎた

僕には物凄く苦手だった事が一つある。読書感想文だ。

小学生の頃「本を読んで、感想を書け」と生まれて初めて言われたとき、心の底から不思議に思った事があった。

「なんで読んだ本の内容を脳内に留めた上で、何かモノを書くだなんて芸当ができる人が、この世の中にいるんだ?」

 

日本語読解能力が極めて乏しい僕からすれば、本なんて”読む”だけで一杯一杯で、それを記憶に留めた上で何かに言及する事だなんて、幼少時は不可能にも近かった。

日本語の文章を読み解く行為だけでメモリが枯渇してたのに、学校の先生は内容を記憶に留めた上で感想をひねり出すなんて曲芸をやれという。

どう考えてもこの作業はロースペック人間には拷問である。

 

確かに「面白かった」とか「つまらなかった」ぐらいの心像のカケラは頭の中にあった。

けど、”なんでその結論に至ったのか”を説明しろと言われても、本当に何も書けなかった。

だから原稿用紙を埋められる人の事が、本当に不思議で仕方がなかった。

 

”やってみろ”と言われた事が”できない”という事実は人を深く傷つける

「なんでみんな、こんな凄い事ができるのだろう?」

「いや、できない僕の方がおかしいのか?」

こんな感じで幼少時に真剣に悩んだ。

なので、僕の心のなかには読書感想文というものに対して強い負の感情が未だにある。

コンプレックスと言っても差し支えないかもしれない。

 

ずっと後になって、実は多くの人は本すら読めていない事を知るのだが、当時の僕は毎年やってくる夏休みの宿題である読書感想文の巡回に本当に深く絶望していた。

”やってみろ”と言われた事が”できない”という事実は幼心を深く傷つける。

 

「きっとこのまま、普通の人にできる事が自分にはできないままなんだろうな」

小さい頃、こんな感じで読書感想文に強い劣等感を植え付けられた僕が、大人になって読書感想文みたいなものを毎週楽しんで書き続けているだなんて、いったい誰が予想できただろうか?

 

あんなにも”できなくて”憎んでいたはずの事を、今はどちらかというと”できる”側にいて、しかも生きがいになっているのだから世の中というのは本当に不思議なものである。

けど、人間が物事を習得する仕組みを考えれば、こういう裏道のようなやり口も確かにありなのだ。

その鍵は、1万時間の法則にある。

 

傷は執着するためのギフトでもあった

マルコム・グラッドウェルがその著書である天才の中で1万時間の法則というものを紹介している。

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物事を極めてプロになるためには、それぐらいの修練が必要だというのがその内容なのだけど、実のところコンプレックスや嫌な記憶というのは、何かに集中する事に対しての強力な接着剤にもなりえる。

実際、僕が30歳を超えた今、毎週のように何千文字も読書感想文的な文章を書き続けられるのは、読書感想文に対する苦手意識があまりにも強すぎて、それを克服したいという捻じ曲がった執着のようなモノが大きいように思う。

 

仮にあの頃、親や学校が「嫌いな事、苦手な事はやらなくてよい」といい、心ゆくまでテレビゲームをやり、読書感想文に全く向き合わされなかったら、今こんな風に文章を書いていたのだろうか?

もちろん歴史に if は無いので正直どうなっていたのかは誰にもわからないが、たぶん書いてなかったんじゃないかと思う。

それほどまでに、僕にとって負の執着心は相当に強い何かとして今でも作用し続けている。

 

傷の形こそがその人らしいユニークさともなりえる

あの頃に授けてもらった嫌な記憶は、20年近い時を越えて自分の心の中に残り続けている。

だから、”執着”の力というのは誠に大層なものだと思うし、人間というのは一筋縄ではいかない生き物である。

 

たまたまとはいえ、こういう風に負の長期記憶をポジティブに活用する事に成功した身からすると、執着のたぐいを”嫌な記憶”として臭いものに蓋をする的な対応をとったり、被害者意識を爆発させて

「幼い頃に自分はこんなにひどい目にあったんだ!」

と吠え叫んでいる人をみるたびに

「それ、もうちょっと上手に方針転換すれば、物凄く”いいもの”になるかもしれないのに。もったいない」

と、とても残念に思う。

 

ネガティブな思い出だって、上手に利用できるのが人間という生き物のよい部分だ。

心の傷は見方によってはその人の痛い部分だが、そのひと独自の魅力にもなりえる。

同じ形をした傷などない。

その傷の形こそがその人らしいユニークさともなりえる。

実は宮沢賢治が僕にとって、その大きな傷の一つだ。

 

宮沢賢治が本当に大嫌いだった

小学生の頃、なんの前触れもなく母親が僕に熱心に宮沢賢治を読めと押し付けてきた事があった。

しかも夏休みの宿題として、その読書感想文を提出しろと命じてきたおまけ付きだ。

 

その当時の僕は宮沢賢治の何が面白いのか本当にサッパリわからなかった。

いまになって”なめとこ山の熊”とか”注文の多い料理店”を読み返すと素直に面白いなと思えるのだが、その当時は言い回しが小難しく感じるだけでなにが面白いのかサッパリわからなかった。

 

それだけではなく、自分がつまらないと感じるものを「これは大変に素晴らしい」と押し付けられ読まされる事が本当に苦痛で仕方がなかった。

いまなら人がどんなに面白いと言ってるものだろうが、自分がつまらないと思ったら「つまらない」と主張する事ができるが、当時はこれを面白く読めない自分自体ができそこないなのだろうと随分と思い悩んだ。

 

世の中には不幸なタイミングでの出会いというものがある。

少なくとも宮沢賢治は幼い頃の僕には早すぎた。

そのときに感じた嫌な記憶は脳の片隅にべっとりと染み付いて剥がれない。

 

しかし、その傷口を通して眺める宮沢賢治の味わい深さといったら…こんな屈折した感情を持ちながら宮沢賢治を読み解ける権利を20年越しでもらえたのだから、嫌な記憶というのもあながち悪いだけのものとはいえない。

僕ほどに宮沢賢治を愛憎入り乱って読める読み手は、日本にもそうはいないんじゃないかと思う。

好きと嫌いが表裏一体であるように、愛憎もまた何かに粘着する事に関して言えば同等以上に強力に作用する。

 

そしてそれは、意外とキレイに生きているだけでは得ることができない特別なものでもある。

 

トラウマなき人生が羨ましく思えていた時期もあった

若い頃はトラウマのようなものを全く持たずに清く生きてそうな人の事が本当に羨ましかった。

「ああいいなぁ。この人は人生泳ぐの上手で。生きるの、ラクそうだなぁ」

と本当によく思っていた。

似たような事を考えた事がある人も多いんじゃないだろうか?

 

だけど、事はそんなに単純でもなかったのだ。

コンプレックスとか心の傷は、僕に他にはない独特な味付けを与えてくれた。

その傷口を僕は今では物凄く愛しているし、仮に人生をやり直せたとしても、傷口がない人生を選ぼうとはちょっと考えられない。

 

幼い頃に大嫌いだった読書感想文は振り返ってみれば今の自分を組み上げるための強い燃料として作用していたし、小さい頃は大嫌いだった宮沢賢治の作品群は、普通の人が読んだ以上に僕の感情をかき乱してくれる。

そして嫌な思い出は、未来の自分が過去の自分を救うという、とても貴重な経験を与えてくれる。

僕はその事をある漫画から学んだ。

 

いまの自分だけが過去の自分を救う事ができる

3月のライオンという漫画がある。

有名な漫画なので知っている人も多いとは思うのだが、この漫画の中で主人公である桐山零君が、全く意図していない形で過去の自分を”救われる”シーンがある。

<3月のライオン 第5巻より>

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僕はそれまで、かわいそうな過去というものは変えられないものだと思っていた。

その当時に辛い思いをした自分というのは100%歴史的に定まってしまった事実であり、どうやったって過去は改変しようがないのだから、いつまでたっても過去の自分は”かわいそう”な存在であり、そういった経験をする事は本当に最悪なものだと思っていた。

 

けど、この物語を通じて、過去の自分だってちゃんと”救える”のだと知って、本当の本当に心を強く揺さぶられた。

もちろん、嫌な思いに関わった全てのモノを笑って許せるわけではない。

けれど、少なくとも”かわいそうなまま”で過去が定まってしまうわけではなく、未来でその傷口から新しい何かが生まれる事もある。

 

最近、宮沢賢治を改めて読み返し、彼の文章から昔は読み取れなかった魅力を感じられるようになった。

そしてその魅力を感じた自分に対してこう思ったのだ。

「ああ、人間って、生きてればこんなにも”変わる”んだな」と。

 

最初から幸運な出会い方をして、彼の文章を100%良いものとして受け取った人生は、それはそれで良かったのかもしれない。

けど、こんなにも屈折した想いを抱えながら宮沢賢治の文章が読める”いま”を経験でき、その上で過去の自分の傷口を味わえる事は、それはそれでとても幸せな事のように僕は思った。

 

不幸な出会いがいつだって不幸しか産まないわけではない。

20年ぐらいたってみれば、それはもう立派に誰にも経験できないような妙を感じるための糸口にもなる。

あなたも心に余裕ができてきたら、傷口をちょっとなめてみてもいいかもしれない。

きっと誰にも追体験できない、あなただけの無二を味わえるはずだ。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Santi Vedrí on Unsplash

起業したと聞いていた、昔の同級生と会った時のことだ。

 

システム関連の彼の会社は、創業から3年余りで従業員50人を数えるほどに成長し、さらに会社を大きくする予定だという。

当時、事業再生の仕事を担っていた私は、正直、短期間で会社を成長させた彼のやり方に興味があった。

 

そこで率直に、会社を大きくする彼なりの経営方針について尋ねてみた。

 

「色々あるけど、一つは裁量労働制と固定残業の合わせ技やな。使い勝手がいいし、人件費が抑えられるんや。」

「え?どういうことだ?」

 

「ウチの場合、月額20時間分の固定残業代をエンジニア全員に支払ってる。でも、月間の残業時間が50時間以下になるエンジニアはいないんだわ。つまり、追加の人件費がかからないので、人件費を抑えられてるってことやな。言葉は悪いけど、定額働かせ放題ってことや。」

「いやお前、それ制度の本来の使い方じゃないし、違法だろう。」

 

「そうか?社労士にも相談しながら進めてるけど、法的な問題を指摘されたことなんかないけどな。新卒の新入社員でも4ヶ月目から裁量労働制にしてるけど、特に怒られたことはないぞ?」

 

堂々としたクズっぷりは清々しいほどだが、言うまでもなくこれは、本来従業員に支払う報酬を掠め取って利益を上げているだけだ。

強い立場を悪用した恐喝ともいえる行為であり、それによって上がった利益は経営者の能力の高さなどでは決してない。

 

いろいろと胸クソが悪くなり、思い出話もそこそこに20分ほどで彼の会社を後にした。

 

しかしながら、中小ベンチャーの経営者には、このような考え方をする人が本当に多い。

すなわち、

「どうやったら、もっと従業員を働かせることができるか」

という発想の経営者だ。

 

しかし断言するが、リーダーの役割とは

「どうやったら、従業員をもっと働かせることができるか」

ではなく、

「どうやったら、従業員にもっと楽をさせることができるか」

を考えることだ。

残念ながら、その本質がわかっている経営者にお会いできることは、本当に少ない。

 

「楽をして」儲けていた経営者の話

数は少ないものの、そんな発想で会社を大きく成長させている経営者にお会いしたことがある。

業績を伸ばし、近いうちにIPO(株式の新規上場)まで行くことが確実視されていた会社の社長だった。

 

お酒が入っていたこともあり、

「桃野さんは事業再生をおやりになっているということですが、従業員から『できません』と言われることが多いのではないでしょうか。その時は、その言葉に真剣に向き合って下さい。」

と、熱っぽく語りかけてきてくれた。

 

「『できません』は『できます』の裏返しなんです。できない理由を真剣に聞いてあげれば、従業員は必ず答えてくれます。」

「なるほど。」

 

「できない理由を聞かせてくれたら、経営者は、できない理由を取り除いて上げればいいだけなんです。簡単なことです。」

「わかるような気がします。」

 

「もう一つ、あります。例えば1ヶ月で50万円売り上げる並の営業マンと、1ヶ月で100万円売り上げるトップ営業マンの一番の違いは、わかりますか?」

「なんでしょうか・・・。ぜひ教えて下さい。」

 

「いろいろな理由はありますが、一番大きな違いは時間の使い方です。1ヶ月で50万円売れるなら、2ヶ月あれば100万円売れます。2ヶ月分の仕事を1ヶ月でできれば、並の営業マンもトップ営業マンになれるんです。」

「なるほど。その場合、残業はどうさせてるんですか?」

 

「残業はさせません。無能なリーダーは、成果が上がらない部下を倍の時間、働かせようとします。できるリーダーは、同じ仕事を半分の時間でできるようサポートします。万が一、『できるまで帰るな』というような無能なマネージャーがいれば、そのような幹部はクビにしなければなりません。」

 

その後も熱っぽく話は続いたが、行き着くところはシンプルだ。

「経営者は、できるだけ楽に成果が上がる仕組みを会社に用意することが仕事」

「そうすれば、あらゆる仕事の時間が短縮され、自ずと利益が上がる」

である。

 

難しい事のようだが、

「何に困っているのか」

「できない理由はなにか」

という従業員・部下の悩みに真摯に向き合うだけ。

言ってることはただそれだけのことだ。

 

最後に一つ、気になっている疑問をぶつけてみた。

「社長、仰ることはわかりますが、『できない理由』を次々に考え出す社員はいないのですか?」

「いますよ。意欲のある社員は、『できない理由』を一つ一つ解決してあげると、どんどん顔が明るくなるんです。しかし中には、どんどん暗くなっていく者もいます。できない理由がなくなることがプレッシャーなんです。そうなればその仕事は向いていないので、配置換えを考えてあげます。」

 

できない理由を問い続け、そして解決し続けることは時に従業員を追い詰め、やり方によっては今で言うパワハラにもなりかねないので注意して欲しい、という意味だ。

もう20年近く前の話だが、その会社は今も順調に成長を続けている。

 

なぜ日本の生産性は低いのか

近年、日本の労働生産性はOECD諸国の中でも、残念ながら平均以下に低迷している。

以下の図が示すように、一人あたりの労働生産性も、時間あたりの労働生産性も、米国を100とした際にそれぞれ60前後という非常に残念な数字だ。

つまり長時間働き、それでも付加価値、すなわち給料が低いことを表している。

 


出典:独立行政法人経済産業研究所

 

理由は色々あるだろうが、そのうちの一つに

「楽をすることは許されない」

と考える文化が、日本には特に根強いということはないだろうか。

 

裏を返せば、従業員一人ひとりの立場でも、

「今日の仕事はもう終わってるけど、あからさまに暇な様子は見せられない」

「もう帰りたいのに、課長がいるから申し訳なくて帰れない」

というような文化だ。

そのため仕事を早く終わらせることではなく、終業時間から逆算してちょうどいい時間に終わるように仕事を調整する。

 

とはいえ従業員の立場から見れば、何をどうしたところで就業規則や雇用契約で労働時間の定めがあるので、このような価値観になってしまうのは無理もない話だ。

与えられた仕事を全て完璧に終わらせたとしても、就業時間中にカフェに息抜きに行くことを認めている会社など、ほとんど聞いたことがない。

机に座っていることが仕事ではなく、与えられた業務を消化することが仕事であるはずなのに、就業時間中は目一杯、従業員を拘束することが目的化している会社はとても多い。

 

こんなことをしていては、いつまで経っても生産性は上がらない。

いつまで経っても会社は儲からないし、従業員の給与も上げることはできない。

 

もちろん業種や職種によって一概には言えないが、経営者はもっと、

「楽をしてさっさと仕事を終わらせること」

を、定量的に評価する発想を持つべきではないだろうか。

 

その日やるべき仕事が全部終わったのであれば、なんなら午前中で帰ることを認めても、それほど多くの問題は発生しないだろう。

そうなれば従業員も、驚くほどの集中力で必死になって仕事を片付け、午後からは楽しくリフレッシュして、翌日への英気を養ってくれるはずだ。

 

リーダーの仕事は「部下に楽をさせる方法」を考えること

しかし残念ながら、先述のように日本の経営者、とりわけ中小企業の経営者は、

「どうやったら、従業員にもっと楽をさせることができるか」

ではなく、

「どうやったら、従業員をもっと働かせることができるか」

ばかり考えている。

 

無能な経営者ほど、支払った給料分、労働基準法が認める範囲内で目一杯働かせないと損だとすら考えている。

従業員が楽に仕事ができる仕組みやルールを導入する、すなわち生産性を上げることが会社の利益の源泉であるにも関わらずだ。

 

この事実は、事業再生の現場でも多くのことを体感として経験した。

営業成績が伸びない時に、

「寝ずに仕事をしろ!」

と、長時間労働でリカバリーすることを部下に強要していた営業部長。

 

ある経営トップは、年間休日数96日を114日に、つまり19%増やして労働時間を減らす代わりに10%の給与カットとなる制度を選択できる人事制度を導入しようと役員会に提案した時、

「労働基準法の上限まで働かせているのに、却って損になるだろう」

という理由で反対してきたこともあった。

いずれも、自分の能力の無さを少しでも長い時間、従業員を働かせることでリカバリーしようという発想だ。

 

本来は、「より短い時間で、より多くの成果を上げるにはどうすればいいか」を考えるのが経営者の使命ではないのか。

すなわち、

「どうやったら、従業員にもっと楽をさせることができるか」

という発想だ。

 

それが生産性であり、皆がより多くの給与を受け取ることができる、有効な近道であるはずだ。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

先日、運営しているブログで読者との賭けに負けてしまい、近いうちにスキンヘッドにしてアップすることになってしまいました。
まあ元々薄毛なんでどっちでもいいんですけどね。

twitter @momono_tinect

fecebook  桃野泰徳

 

Photo by Brad Neathery on Unsplash

最近「おとなになる」ことのハードルが随分と(勝手に)上げられているように感じる。

例えば

「社会性の獲得」

「世の中への適応」

「配慮ができる」

「責任を果たす」

「自らの弱さを認める」

と言った言葉で表されている。

 

しかしそうした「素晴らしいおとな」のイメージを知れば知るほど、「大人になること」が随分と難しく感じられた。

社会に適応することが、とてつもないハードルに見えるのだ。

 

だが私は最近になって、疑問を持つようになった。

「理想像」で語られる大人は、それはそれとして素晴らしいのだが、「大人」になることがそれほど難しいことであるはずがない。

そうでなければ、人類史上、ほとんどの人間は大人になったことがないとされてしまうだろう。

 

では大人とは何か。

社会に適応するのは、そんなにハードルが高いのだろうか。

 

本当のことを言わない人たち

「本当のことを言わない「おとな」がいる」と気づいたのは、小学生の時だ。

 

「ある先生から疎まれている」という事実を知人から聞いて知った。

授業がやりにくい、とかそんな話だったと記憶している。

 

ただ、その先生は大変「大人」だったので、私は少なくとも私は不公平を感じなかった。

だから、「疎まれている」という事実に、私は露ほども気づかなかった。

 

残念ながら、当時それを聞いた直後に私がどう感じたかは、もう覚えていない。

ただ、今までずっとその事実だけは記憶しているところを見ると、それは少なからずショックだったのだろう。

 

だがショックを受けたのは「疎まれている」という事実にではなかった。

 

実は、子供だった私は「おとな」が人を嫌うとは思っていなかったのだ。

 

明確な悪意は子供が抱くものであって、大人はそう言うこととは無縁だ、と勝手に考えていた。

でも、そうではなかった。

大人も人を嫌うのだと、その時気づいた。

 

 

そして、さらなる衝撃が、じつはそれから10年以上もあとにあった。

それはインターネット上の掲示板「2ちゃんねる」(現5ちゃんねる)だ。

 

そのころ「インターネット」はそれほど一般的なものではなかったが、知人からインターネットは就職活動で役に立つ、といわれたため、見るようになった。

webサイトを頻繁に見るようなれば、2ちゃんねるにたどり着くのは必然だった。

 

今ではSNSやブログで、「人の悪意」を見ることはすっかり普通になってしまっている。

だが、当時これほど「むき出しの悪意」を見ることができるのは、2ちゃんねるを始めとした、インターネット上の掲示板だけだった。

「氏ね」

「ソルジャー乙」

「Fランはゴミ」

「中小逝った時点で人生終わる」

など、とにかく面と向かって絶対に言わないようなことが、掲示板には次々と書き込まれていた。

 

これは結構な衝撃で、私の知人は、2ちゃんねるを「バカをバカにしていい場所ができた」と言っていた。

が、当時20歳そこそこで、世間知らずだった私には、「ダークサイド」を覗き込むような行為はうしろめたくも、「人の裏側を知る」良い機会だったのは事実だ。

 

ここでも私は「表の発言と、思っていることとは全く違うのだ」と認識したのだった。

 

なお、その気付きは、社会人になってたいへん役に立った。

特に「コンサルティング」という仕事の性質上、人の言葉鵜呑みにしてはならず、「あの人は、なぜこんな事を言ったのだろうか」を知ることが重要だったからだ。

 

 

そして私は一つの結論に至った。

大人とは結局、「本当のことをわざわざ言わない人」のことである。

 

大人には、その程度で十分なれる。

かんたんだ。

しかも、そのスキルがあれば、十分社会に適応できるし、当面困らない。

 

これを「人間関係のマサツを避けているだけの腰抜け」と評する人もいるかも知れない。

でも、それは多分違う。違うだけではなく、的外れだ。

 

それは「人間関係のマサツ」を避けて立ち回ることこそ、世渡りの本質だからだ。

 

感情を表に出したら、思ったことをそのまま口にしたら、大人同士は「戦争」になる。

実際、ソクラテスは「思ったことをそのまま言った」から、殺された。

そういう意味では、彼は「大人」ではなかった。

(参考:いくら正しくても、失礼だと敵視され、殺されてしまう。

「話せばわかる」という言葉は美しいが、残念ながら、人間同士は話してもわからないどころか、話したら殺し合いになることもあるのだ。

 

 

ちょっと前に、「普通の人でいいのに!」という漫画がタイムラインに流れてきた。

面白いのでぜひ読んでみていただきたいが、単純に言うと、現実には手に入らない「キラキラした世界」に憧れている女性が、自分の彼氏のレベルの低さを愚痴る、という話だ。

 

だが、愚痴られている男性像が以下の通り「普通」なので、自分に重ねてしまい「お前のレベルが低い」と言われている気分になってしまう人も多かったのだろう。

個人的には描写が細かくて、面白かったのだが、「辛くてみていられない」というコメントも相当数見えた。

 

要は「本当のこと」を、グサグサ突きつけられると、人間は発狂しちゃうのだ。

 

哲学者の中島義道も、リアルにこれを語ってくれている。

女性に多いのですが「私の至らないところ全部おっしゃってください。はっきり言われたほうが楽ですから」と言うので、「それでは」とはっきり言うと、そのときは従順な態度で感謝しているふうですが、じつは言った人に心の奥底で深い恨みを募らせていく。

いや、俺はそんなおめでたくはないよという顔で、抽象的になら「俺なんかみんな嫌っているだろうなあ」とうそぶく豪傑野郎でも、「じつは、その通りです」と細々具体例を挙げだすと、平然としてはいられなくなる。

彼を嫌っている人をその具体的理由まで含めて挙げてゆくうちに、一〇人を超すあたりから、顔は引きつりだし、唇は歪みだし、ついには「やめろ!」と怒鳴りだすのです。

自分に対する他人の「嫌い」という感情はこれほど自然に耐えがたく、この点に関してはどんなに理性的な人でも個人のあいだの平等という基本理念を忘れてしまう。つまり、自分は他人を盛んに嫌っているのにかかわらず、他人から嫌われることは絶対に許せないという不平等な姿勢に凝り固まってしまうのです。

(出典:ひとを〈嫌う〉ということ 中島義道)

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イソップ童話で、「すっぱい葡萄」という話がある。

お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。

何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。(Wikipedia)

この狐に、「いや、甘いよこの葡萄。糖度◯%だよ」と言ったら、狐は間違いなく怒り狂うだろう。

 

これこそが、真に不都合な真実、すなわち

「都合の悪い話は聞きたくない」という、ほぼすべての人間に共通する性向なのだ。

 

逆に言えば、「本当のことをわざわざ言わない人」は、それだけで圧倒的に受け入れてもらいやすい。

 

以前、こんな記事を書いた。

人は自分の信念に反する事実を突きつけられると、過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。

まとめると、以下のようなことが言える。

1.人は、基本的に間違いを認めない。事実の解釈を変えるほうが得意である。

2.間違いを指摘すると「私は嫌われている」「この人は失礼だ」と解釈されてしまう可能性もある。

事実の解釈を曲げてしまうほど、人間は「都合の悪い話は聞きたくない」と願うものなのだ。

 

単なる「言い方」の問題ではない

このように言うと、「単なる言い方の問題でしょ」と軽く言う人がいるが、とんでもない勘違いである。

もっと大人になったほうがいい。

 

これは言い方の問題ではない。

「知らない権利」の問題である。

 

真実は残酷だ。

殆どの人間は大した能力を持たないし、誰もが羨む成功とも程遠い。

唯一できることは「自分の主観的な世界」を整えて、どうにか折り合いを付けていくことだけだ。

 

だから人を傷つけない「大人」は多くの人にとって望まれる。

真実かどうかよりも、「主観的な世界」を心地よくしてくる人のほうが、社会的に歓迎される。

 

「知りたくもないこと」を本人に突きつけて「現実を見せる」などというのは、単なる下品な悪趣味であり、エゴである。

(出典:幽遊白書 16巻)

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そんなことをしないのが「大人」。

わたしは、そう認識している。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(http://tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(http://note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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Photo by Joseph Chan