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このごろのキャッシュレス

このごろいくつかキャッシュレスの話題をネットで見かけた。

飲食店などが、キャッシュレス決済の手数料の高さに困っている、という話である。おれはそういう商売に携わったことがないのでわからないが、なるほど高そうだ。

 

とはいえ、この問題で小売店に同情する声というのはあまりない。ほとんどないといってもいいかもしれない。

「だったら現金オンリーにすればいいのでは?」という声が多い。「なじみの店、応援したい店では現金払いにしたい」という声もあるが、あまり多いとは言えない。

 

むしろ、オダギリジョーのCM(オダギリジョーの店に大口のお客さんがきそうになるが、キャッシュレス決済ができないことによって機会損失する……テレビをまったく見ない人向けの解説)のように、「じゃあいいですー」ってなるよ、という人が多い。現金まったく持ち歩かないよ、という人もいる。

 

おれは、どうなのか。おれはつねに現金を持ち歩く。

昭和の発想で「年齢×千円」の四万円くらいの現金を持ち歩いている。このくらいあったら、なにかあったときの一時しのぎにはなるだろう。なにかってなんだかわからないが。

 

とはいえ、おれのこのごろの決済の99%くらい(体感)はキャッシュレスだ。明確に現金を支払っているのは、毎月の医者の窓口だけで、処方薬局でもキャッシュレスだ。

 

正直な話、おれはここまで自分がキャッシュレス決済に染まるとは思っていなかった。出始めのころは「QRコード決済なんて、だれが使うんだろう?」と思っていた。おれが使っている。

 

キャッシュレス決済が、ここまで便利なものだと、だれが予想しただろうか。いや、予想していたやつがいるから今があるのだが。

 

今は過渡期かもしれないし、まあ人類いつでも過渡期なのかもしれないが、ほぼ完全に現金時代から、キャッシュレス右肩上がりの今に至る、体感のことを記録しておきたい。おれはインターネットがない時代に育ったが、今はインターネットがあたりまえの時代になっている。ほかにもいろいろあるだろう。そのうちの一つとして。

 

現ナマに体を張れ

現金。紙幣、貨幣。昭和の子供にとって、お金といえば現ナマであった。おれの母はむかし銀行員で、一日の終りに一円足りないとなったら、みんなで残業して床を這いつくばって探した、なんて話を聞いて育った。

 

貨幣、コイン。これを書いていて思い出したが、おれは一時期、外国の紙幣やコインを集めるのが趣味だった。べつにそういう店に行くのではなく、毎月カタログが送られてきて、気に入ったものを選ぶ通販だった。おれはカネが好きだった。一番好きなのは日本円だったが。

 

だが、現金というのもいい思い出ばかりではない。実家が破綻して一家離散となってしばらく、おれも働かざるを得なくなった。ただ、おれは銀行口座というものを持っていなかったので、現金をもらっていた。

現金を、安いアパートに保管する。泥棒も避けて通るような貧しいアパートだが、それでも全財産に近い現金を置いておくというのは、ちょっと不安なものだった。かといって全額持ち歩くというも不安なことである。

 

そしておれは銀行に、口座を作った。銀行がお金を預かってくれる。これはすばらしい。「なぜ自分のお金をおろすのに手数料がかかるのか」と言う人もいるが、おれにとってはとんでもない話で、「おれのお金を守ってくれてありがとうございます。手数料くらい払います」という立場である。

 

とはいえ、ATMでお金をおろす、という行為も……ほとんどしていない。それが2024年の今だ。本当に、最後にお金をおろしたのはいつだっけ?

 

Suicaの登場まで

キャッシュレス決済。昔のことを思い出していて、Suicaよりまえのそういうものを思い出した。テレホンカードである。公衆電話でしか使えないとはいえ、あれも立派なキャッシュレスとは呼べないだろうか。テレホンカードで買い物ができるようになっていれば、クレジットカードを除いて、世界でも最先端のキャッシュレス決済社会が到来していたのか?

 

と、「一般社団法人キャッシュレス推進協議会」という、キャッシュレスを推進していそうなサイトに「キャッシュレス年表」というものがあった。

 

おお、ちゃんと1982年にテレホンカードとある。あれもキャッシュレスだったか。あ、オレンジカードなんてのもあったな。あと、イオカード。存在を忘れていた。どちらももう、過去のものだ。

まったく知らない若者もたくさんいることだろう。テレホンカードなんて、あのころ高値のついたカード(そういう側面もあったのです)は、今もマニアの間でやりとりされているのだろうか。安くなったのか、さらにレアで高くなっているのか。よくわからない。

 

で、このやっぱり大きいのは2001年のSuica登場だろうか。若い人よ、Suicaより昔、われわれがどうやって電車に乗っていたか知っているだろうか。紙の切符を買って、改札には改札鋏を持った駅員さんがいて、パチン、パチンと……って、おれの記憶でもこれはギリギリだ。ギリギリ記憶がある。そうだ、そのあとスタンプになった。スタンプになって、自動改札になった。もちろんSuicaなんて使えない。磁気の切符を、入れる。これは今も残っているか。定期券もなんかペランペランのやつになったな。

 

ま、電車の昔話ではない。お金の昔話をしたいのだ。Suicaの登場だ。

 

年表によると、Suicaの店舗利用開始は2004年だ。登場から三年くらいあったんだな。二十年前。もう、そんなに経つのか。

最初からいろんなコンビニで使えたんだっけ? こういうときはWikipediaを見てみるのに越したことはない。

Suica電子マネー - Wikipedia

 

ああ、最初はNEWDAYSだったんだ。Suica、二十年経った今でも、完璧なキャッシュレスの形態の一つだ。財布やカードケースに入れっぱなしでも、ピッとやると決済が終わっている。簡単で、速い。あ、FeliCaとか言ったほうが正確なのかもしれないが、あくまで一消費者の立場なので、Suica言います。

 

QRコード決済に感じた失望

というわけで、おれはSuicaというものが非常に便利な代物で、これはもう便利なので、便利だなあと思っていた。おれはiPhoneを早い時期から使っていたので、おサイフケータイのことはよく知らない。とにかく、Suicaいいよなって思っていた。

 

思っていたところに、QRコード決済なるものが出てくるという。最初に感じたのは、「は、アホか? レジでケータイ立ち上げてQRコード表示させて、それをバーコードで読んでもらう? え、自分で金額入力して店員さんに確認してもらうなんてパターンもあるの? なにそれ、Suicaがあるのに必要あるの?」であった。

 

無論、消費者側なので機器の導入費や手数料など、店側の事情なんてわかりゃしなかった。ただ、SuicaからQRコード決済へって、退化でしかないって感じた。Suicaから一歩遅れた中国でやってるシステムを導入するの、みたいな。

 

あらためて言うが、一消費者、利用者の考えである。店側の負担というものは、まず考えない。レジが便利になるかどうか、それだけだ。

 

意外に便利だったQR決済

しかしね、なんだろね、毎日通うコンビニのレジの決済システム変わったんよな。QRコード決済とか可能な、なんかいろいろ支払いできるようになるレジ。そこでおれは最初、クレジットカードを使うようになった。カード挿して、ピコーン、ピコーンいって決済。簡単だ。

 

と、そのまえに、おれが20年通っているスーパーの変化について語らなくてはならない。

おれの行くスーパーは野菜が安く現金決済だった。おれおれの算数能力を超えて、お釣り計算ができるようになっていた。末尾を合わせるどころではなく、もっとアクロバティックな支払いだ。おれがおれの算数力がここまで高まったのを感じたことがなかった。

 

そのスーパーが、いきなりキャッシュレスに対応した。クレジットカードとSuicaとQUICPay。クレジットカードでは暗証番号やサインが必要そうだ。Suicaはコンビニと本来の交通機関用に使っていて、毎週のスーパーに使うにはやや面倒だ。そこでQUICPay。iPhoneを使う。たまにブブーとなって、やり直しになることもあるが、だいたいすんなりいく。あの、頭の中でお釣りの計算をしていたのはなんだったのか?

 

というわけで、おれは20年通う食品スーパーでQUICPayを常に使うようになった。スーパーが負担する手数料なんてものは考えもしない。こんなに楽な決済を手放したくはない。

 

まわりを見てみると、やはりキャッスレス決済の人のほうが7:3……いや、6:4くらいで多いだろうか。そういう実感がある。おれは一つのスーパーにしか行かないので、ほかのところは知らない。

 

で、QR決済。これだ。おれは昼にコンビニを利用する。二店舗ある。一店舗はPONTAポイントを貯めたいので、クレジットカード払いをしている。VISAタッチ。Suicaと同じ便利さ。PONTAのバーコードを読み取ってもらわなきゃいけないので、いちいち財布から出す必要はあるが、大した手間ではない。

 

もう一つのコンビニ。こちらでおれが何を使っているか。最初はQUICPayを使っていたが、なんか気づいたら楽天Payを使うようになっていた。

おれは最初に作ることができたクレジットカードが楽天カードで、楽天には恩義があると思っている。楽天ポイントをうっすらと貯めるようにしている。となると、楽天Payがいい。たぶん。

 

で、これがべつにそんなに手間でもない。「Suicaに比べて遅れている!」とか思っていたのもどこへやら。iPhoneのFace IDがマスク着用対応になったのも大きかった。端末見て、アプリ立ち上げて、レジでは「バーコード決済」のボタンを押すだけ。店員さんが商品をピッ、ピッとやっているついでにピッで決済終わり。慣れてしまうとこれも楽だ。

 

少なくとも、現金払いの面倒くささを思い出すと、これはもう戻れないよな、となる。財布のなかの布陣(お札が何枚、何円硬貨が何枚……)を確認して、お釣りが膨大にならんように調整して……。超、面倒くさい。考えられない。そういうレベル。

 

キャッシュレスから後戻りできない世界へ

というわけで、子供のころからずーっと現金でものを買ってきた人間も、中年になってすっかり現金でものを買うことがなくなった。

生活のなかの行動、毎日のように行う行動に、大変化が起きた。歴史的な話だ。とはいえ、それはSuicaからひっそりはじまり、現金との併用から、気づいたらほとんどキャッシュレスだ。

 

先に書いたが、おれが現金払いをしているのは毎月通う医者の窓口だけだ。あ、理髪店も現金オンリーか。あと、街角でビッグイシュー買うときくらい。ただ、ビッグイシューは医者に行くときに出会うか出会わないかなので、二ヶ月に一度くらいだ。

 

あらためて言うに、これは人間生活のなかの大きな変化だ。まだ過渡期かもしれないが、今後よほどのことがない限り現金払いの方向へ戻っていくことはないだろう。

店舗にかかる負担というものはあるし、問題があるかもしれない。「店のために現金で払おう」という人もいていい。というかおれも三年に一度の旅行でどこか料理店に入ったりしたときは現金を使う。

 

ただ、もう、普段のコンビニやスーパーではもうグッバイだ。最後にATMを使ったのがいつか思い出せない。おれは昭和の人間なので年齢×千円くらいの現金を持ち歩いている。ただ、このあいだ女の人と東京に遊びに行ったとき、二人とも財布を忘れる、状況でちょっと緊張したりしたが、なんということはなかった。

まあ、なんかスーパーのレジがトラブルになって「今日は現金とクレジットカードだけでーす!」ってなった日とかもあったので、現金持ち歩かないでいいや、という気にはならない。iPhone落とすかもしれないし。

 

というわけで、もうキャッシュレス化は避けられない、というのが一消費者、利用者の感覚だ。たぶん、国もそうしたがっている。どうしてそうしたがっているのか、たとえば脱税対策だとかそういうものもあるだろうが、とにかくこれは便利だ。

 

人間は便利に弱い。「便利さを追い求めるばかりがよいものではない」とか言ってみるのもいいだろうが、かつて人間が手に入れた便利さを手放したことがあったろうか。

え、人間を奴隷として扱っていたやつは、そっちのほうが便利だった? ええと、じゃあ、「技術的な便利さ」にしようか。

そう考えると、やがてはさらなるキャッシュレス、生体認証のレジなし無人店舗に進むのだろうか。実験店舗ができたり撤退したりしているようだが、さて。

 

生体認証による一元管理。携帯端末もクレジットカードも、もちろん現金もいらない。免許証もパスポートもマイナンバーカードもいらない。そんな未来はくるのだろうか。

 

そこまで生きているかどうかはかなり不透明だ。ただ、技術的にはできるような気がする。

一方で、技術的でない部分で反対も大きそうだ。どこまで人間は管理されるのか? おれはといえば、そんなんなったらまっさきに便利さのために身体にチップいれるだろうけどな。あなたはどうだろうか?

 

以上。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Jonas Leupe

「うわぁ、すごいなぁ。蛇が蛇を丸呑みしてるよ。蛇って共食いするんだな」

感心するような呆れるような、どうにも形容しがたい感慨を覚えて、私はただぼうっとパソコンの画面を見つめた。

 

視線の先にあるのは、「ダーウィンが来た!」や「ナショナルジオグラフィック」の動画ではない。

ライフワークというより、もはや惰性で観察している子宮系スピリチュアル教祖のブログだ。

 

四柱推命をもじって子宮推命と銘打ったインチキ占いで、不特定多数の犠牲者から金を巻き上げてきた蛇顔の女が今、大富豪を自称する蛇男に飲まれようとしている。

つまり、私が眺めている蛇の食事風景とは、詐欺師が詐欺師を喰っている光景なのである。

 

見た限り、その蛇男は大蛇ではなかった。詐欺師としては、どう見ても小物でしかない。

しかし、その程度の蛇に丸呑みされてしまうということは、女の方はさらに小さかったということか。彼女は子宮系スピリチュアルを看板に掲げた中では、成功した部類に入っていた教祖だったというのに。

 

子宮系スピリチュアルなんて所詮はバカの宗教なのだが、それにしたってこれはない。

「いくら何でもコレに引っかかるのか?」

と、残念すぎて頭痛がする。

 

人間は追い込まれると思考回路がショートするが、この教祖はどうやら脳内の回線が切れまくってしまったようだ。

今なら「紛争地域で活動しているアメリカ人医師」や「アラブの石油王」を名乗る国際ロマンス詐欺にも簡単に引っかかるのではないだろうか。

 

もっとも引っかかったとして、彼女から搾り取れるお金はもう残っていないのだけど。

なぜならそのスピリチュアル教祖は今、破産どころか破滅しようとしているのだから。

 

なぜ破滅まぎわなのか、経緯を説明しよう。

彼女は師匠と崇める子宮系スピリチュアルの開祖「子宮委員長はる」が、長崎の壱岐島へ移住したことに感化され、自分も後を追うため総額2億円もの大金かけて、壱岐島に豪邸を建てようと考えた。

 

その豪邸建設計画はコロナ前である2019年に始まり、物件そのものは昨年完成したのだが、現在その豪邸は宙に浮いている。

施工を請け負った工務店への支払いが完了せず、家の鍵を渡してもらえずにいるためだ。

 

なぜそのような事態に陥ったのかというと、そもそも彼女には家を建てるお金がなかったからである。

彼女は土地と家を買うにあたり、預貯金などの資産を持っていなかったため、最初は銀行で金を借りようとした。だが、どこの世界に資産なし、定職なしの零細占い師に住宅ローンを組ませる金融機関があるというのか。

 

当然ながら門前払いされたのだが、あきらめきれない彼女は考えをめぐらせ、「バンカーを募る」と言って、子宮系スピリチュアルの仲間や自身の信者たちから直接金を借りたのだ。

「自分にお金を預けてくれたら、建てた豪邸に好きなだけ滞在していい」という条件をつけて。

 

当初は1億の予算を組んでいたが、家のデザインや建材にこだわっているうちに世界的なエネルギー価格と資材の高騰が始まって、建設費用はふくれ上がっていった。

そこへコロナが襲い、経済活動が停滞したことでスピリチュアル女子たちも貧困化。思うように集金ができなくなっていく。

 

状況が厳しさを増していく中、あとに引けない彼女は必死に商材を売り、バンカーを募り、クラファンも活用して金をかき集めたが、なにぶん計画から物件の完成までに時間がかかり過ぎてしまった。

彼女に金を貸していたバンカーたちからは離反者が続出し、返金請求が相次ぐようになったのだ。

 

その結果、金は集めても集めても返金対応で右から左に消えて行き、いつまで経っても工務店への支払いができないまま、せっかくの豪邸は風通しもされず塩漬けとなっている。

 

しかし、希望がない訳ではなかった。

支払うべき残金が500万円というところで事態が硬直し、東京での生活も立ち行かなくなったところへ、ようやく子宮委員長から手が差し伸べられたのだ。

と言っても、単純にお金を貸してくれる訳ではなかった。

 

「金は出さないが、住む場所がないなら自分が持っている物件に滞在してもいいし、荷物もこちらで預かっておく。集金にも協力するので、とりあえず壱岐島へ来るといい」

 

という申し出であった。金銭の援助ではなくても、八方ふさがりの彼女にはありがたい。さっそく子宮委員長を頼って壱岐島へ渡り、新生活をスタートさせた。しかし、二人の仲が険悪になるのにほとんど時間はかからなかった。

なぜなら、スピリチュアル教祖は基本的に自己愛性人格障害なのだから。二人ともその例に漏れないため、良好な関係など築けるはずがなかったのである。

 

そこへ彗星のごとく現れたのが、件の蛇男という訳だ。

ここで、蛇男が自称する経歴を簡単に紹介しよう。

 

彼は自称:大富豪で、本名と顔は非公開。最近は「弁財天」を名乗っているが、かつてはAyuという名で活動していたようだ。

Ayuが過去にモザイク入りで出演した動画によると、彼は世界トップクラスのファンドマネージャーで、誰もが知る世界のスーパーセレブたちの資産運用をしているという。

 

彼がファンドマネージャーになったのは、大学卒業後で23歳か24歳の頃。

師匠はウォーレン・バフェットとジョージ・ソロス。彼らの元で研修し、資産運用の手法を直に学んだ。

彼らの弟子をしていた頃には、師匠の命令でポンド(イギリスの通貨)やバーツ(タイの通貨)に攻撃をしかけたそうだ。

 

彼が就職したプライベートバンクは、ドイツのフランクフルトに本店を置き、スイスのチューリッヒで顧客の資産を運用している。

ファンドマネージャーとして新人時代はまだ日本のバブルが終わっておらず、担当した顧客の資産は日本株で運用していたそう。しかも取引は最低でも10億ユーロ(だいたい1000億円だそう)から。

 

新人時代の年収は、20〜30億円程度。仕掛けた株は2〜3ヶ月で手仕舞いするので、働いているのはその期間のみ。残りの9ヶ月は世界中を旅して、遊んで暮らすそうだ。

これまでの最高年収は68億円で、それを25歳の時に達成したと豪語する。

 

ほうほう...。

私はウォーレン・バフェットやジョージ・ソロスの伝記を読んだことがあるけれど、彼らが東洋人の弟子を取っていたとは初耳だ。

 

さらに、彼がウォーレン・バフェットとジョージ・ソロスの弟子をしていた頃に手伝ったというポンド危機とアジア通貨危機は、時代の設定がおかしくはないだろうか?

それらの危機は、確かにジョージ・ソロスをはじめとしたヘッジファンドが仕掛け、世界を震撼させた。私も当時のニュースを覚えているが、ポンド危機が起こったのは1992年で、アジア通貨危機は1997年だ。

 

もしポンド危機とアジア通貨危機を研修中に手伝ったと言うなら、就職後5年以上は彼らの弟子として研修していたことになり、24歳や25歳ではファンドマネージャーとしてデビューできていない計算になる。

まだファンドを任されていない研修中に最高年収を叩き出したとは、これいかに?

 

しかも、新人時代は日本株がバブルだったそうだが、日本のバブルは1991年に終わっている。

さらに、新人時代からいきなり10億ユーロを任されたとも言っているが、ユーロが流通を開始したのは2002年である。つまり、日本のバブルが終わっていない時代であるなら、ユーロはまだ存在していない通貨なのだ。

日本のバブル期に、まだ存在していない通貨でどのように投資をしていたのか、ぜひ詳しい説明を聞いてみたい。

 

もしかすると、2,700万円のコンサル料を払えば教えてもらえるのかもしれない。

スピリチュアル教祖と知り合った蛇男は当初、2,700万円の個別コンサルを彼女に持ちかけている。

しかし、彼女の置かれた状況を知り、アプローチを変えることにしたのだろう。セミナーを主催させ、スピリチュアル教祖の仲間や信者たちから細かく集金することにしたようだ。

 

彼をゲストに迎えたセミナーの参加費用は、セミナーのみオンライン参加が最安値で、99,000円。

現地の会場参加で、150,000円。

セミナーに加えて懇親会の参加で、300,000円。

セミナーに加えて団体コンサルへの参加で、800,000円。

セミナー、少人数コンサル、懇親会への参加で1,000,000円

 

どれも法外な値段だし、断言するが中身などない。

 

彼は決して表に出てこない大富豪という触れ込みだが、本当に富豪であるなら、表社会に出てこないのは反社だからとしか考えられない。

しかし、その可能性は限りなく低いだろう。大富豪としての設定の作り込みが甘く、経済ヤクザにしてはあまりに頭が悪すぎる。

 

もし富豪でないのなら、本名と顔出しNGの理由は、前科があるからではないだろうか。

彼は活動名を頻繁に変えながら、これまでも詐欺を生業にして生きてきたに違いない。

 

蛇男はスピリチュアル教祖と各地を巡る一連のセミナーが終わったら、仕事のため外国へ戻るという。何のことはない、インチキがバレる前にさっさと姿をくらます魂胆なのだ。

セミナーやコンサルの受講者たちが金額に見合わない内容に失望し、怒り出したとしても、矢面に立つのは哀れなスピリチュアル教祖ひとり。

 

参加者から弁護士を通じて返金を求められた時、自称:大富豪の蛇男はとっくに姿を消しており、ラインもブロックされて連絡がつかなくなっているに違いない。

その時になって、やっと騙されていたことに気づいて青くなっても、もう遅い。

一巻の終わりである。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Jan Kopřiva

「一緒に病院へ行ってくれないか」。

7年ほど音信不通だった兄から電話があったのは2013年5月17日だった。

 

総額で1000万を超す貸した金は返さない─、知人の弁護士を通じて整理した債務の返済は滞る─、紹介した会社は問題を起こしてクビになる─。

度重なる不義理から長く絶縁状態だったが、いつになく暗い語り口に嫌な予感がした。

 

兄は電話をしてくる数日前に、10年ほど連れ添った妻と離婚していた。類は友を呼ぶと言うが、2人はそろって無類のギャンブル好きだった。

夫婦は、東海地方の某温泉宿で、住み込みで働いて得た毎月の収入のほとんどを、パチンコと競艇につぎ込んでいた。

 

生活苦でケンカが絶えず、自身の体調も日々悪化していく悪循環の中で、兄は妻に離婚届を突き付けた。

そんな状況だったから、やむなく、一緒に病院に付いてきてもらう相手として、絶縁状態だった私を指名してきたのだと思う。

 

普段は人を笑わせる、陽気な性格だった兄が、深刻な口調で懇願してきたので、仕方なく病院に同行することにした。

 

待ち合わせ場所は、兄が暮らしていた静岡県東部に位置する、交通・観光拠点でもある某駅。そこに、軽く20万㎞は走っているポンコツ車に乗って、兄はやってきた。

右腕は思うように上がらず、ハンドルを支えるのがやっとの状態。顔色が悪く、全身やせ細り、頬もこけていた。明らかに異常な様子だった。

 

ポンコツ車で走ること数十分。静岡県内にあるガン治療の拠点病院にたどり着いた。紹介状を手に受付を済ませると、兄は各種の精密検査を受けた。

数時間後、兄と一緒に診察室に入ると、担当の医師はCTやMRIの画像を示しながら「原発性の肺がんです。外科手術はできない状況ですが、抗がん剤や放射線で治療していきましょう。今から入院手続きをしてください」と話した。

 

2人部屋の病室で入院の支度をしていると、私だけ医師に呼ばれた。再び診察室を訪ねると、医師は私の目を見据えて言った。

「お兄さんのがんは末期の状態で、リンパや脳にも転移しています。抗がん剤を使っても余命は1年、仮に抗がん剤治療をしなければ4カ月くらいかと思います。お兄さんと相談してみてください」。

 

病室に戻った私は、兄に「余命」のことは告げず、今後の治療方針について相談した。兄は「どんな治療でもやるから、とにかく、いつもの生活ができるようになりたいね」と話した。

とても余命のことなど言えない状況だった。”いつもの生活”とはパチンコ、競艇、麻雀……。ギャンブルが日常の中心にある生活だ。

 

兄から治療方針を相談された私は、がんに詳しい友人、知人に相談し、書籍やネットで情報を集めた。

当時、がんは治療しないのが最善、というような本も売れていて、迷いは尽きなかったが、結局、抗がん剤はやめ、放射線のみを行う治療方針に決めた。

 

当時の標準治療の指針に沿ったものだと思う。医師は余命を延ばす効果が期待できる抗がん剤治療を勧めてきたが、最終的にはこちらの希望を通す格好となった。

 

定期的に放射線治療を行い、終盤には脳に転移したがんをたたくため、ガンマナイフ(脳内の一点にガンマ線ビームを集中照射させる放射線治療)も照射した。

確実性がなく、苦しい状態が想像される抗がん剤治療を避け、放射線治療を選んだのも、”いつもの生活”をする時間をできるだけ確保するため。

 

抗がん剤をやらなければ「余命4カ月」という事実を知らない兄は、「元の生活に戻れる」という確かな希望を胸に、放射線治療に臨んでいた。

何せ、根っからのギャンブル好き。治療の合間に、タクシーを呼んでは、馴染みのパチンコ店に繰り出し、私には再三、旅打ち(公営ギャンブルを目的とした旅行)を要請してきた。

 

余命4カ月という状況に、主治医は兄の希望を優先してくれた。旅打ちに行く際は、万が一の事態に備え、私に「診療情報提供書」を持たせてくれた。

 

放射線治療を続ける間、一進一退はあっても、病状は確実に悪化していた。行けるうちに旅打ちに行かせよう。そう考え、まず6月、私の自家用車で静岡の浜名湖競艇、愛知の蒲郡競艇に旅打ちに出た。

 

その最初の旅打ちでは、まだ自力で歩くことはできた。だが、痛み止めを飲んではいても、時に激痛に襲われ、うずくまる場面もあった。

愛知県の某温泉宿では、黄疸が出始めていた兄が温泉につかる姿に、驚く客も少なくなかった。これが最後と思い、兄を温泉に入れたが、周囲のお客さんには悪いことをしたと思っている。

 

2度目の旅打ちは8月、行き先は大阪だった。新幹線で大阪に向かう車中では、寒さから毛布にくるまっていた。レンタカーで住之江競艇へ行き、特観席(有料席)に入ったが、予想に没頭し、レースを観戦する時だけ、目が輝き、背筋が伸びた。

とはいえ、寒気が収まらず、近くのドン・キホーテで厚手のジャンパーを購入し、はおらせたこともあった。それでも自分で歩き、3日間、新大阪駅近くのホテルから住之江競艇に通った。

 

最後の旅打ちとなったのは9月初旬。三重の津ボートに行った。もうその頃には自力で歩けず、車椅子だった。さすがに私だけでは厳しく、離婚した兄の元妻に同行してもらった。

レンタカー店でワンボックスカーを借り、高速で津へ向かった。病状はもう末期症状だったと思うが、なぜか行きの車中では調子が良く、パーキングでうまそうにタバコを吸っていた姿を思い出す。

 

津競艇でも特観席に入り、車椅子専用のシートへ。軍資金の10万円を握りしめ、鬼の形相で展示航走(レース直前の試走)をチェック。得意の2連単2点勝負で舟券を買い続けた。

10万の軍資金を溶かすと、ニヤリと笑い、軍資金の追加を懇願してきた。結局30万ほど負けたが、兄は満足げに津競艇を後にした。

 

この最後の旅打ちも3日間の日程だったが、初日の夜のホテル(津市内)で病状が急変。チェックインの手続きをするロビーにうずくまり、何とか移動した部屋では激痛と吐き気で苦しんでいた。

それでも「明日も(津競艇)行くぞ」と断固、旅打ち続行を宣言。翌日も這うようにレース場へ行き、勝負を続けたが、最後はマークシートも自分で塗れない状況だった。

 

病状は限界の様子で、医師と相談の結果、レンタカーで即、入院中の病院へ戻ることになった。病院に到着したのは午後8時半。元妻と病院の方々に兄をゆだね、私は翌日早朝からの仕事に備え、帰京した。

 

それから数日間は不思議と病状が安定していた。とはいえ、末期状態には変わらず、病院側の配慮で、特別室のような個室に移動させてもらった。兄は「たまたま部屋が空いたらしく、いい部屋を使わせてもらっているよ」とご機嫌だった。

 

ちょうど最後の旅打ちから戻った一週間後、ずっと付き添ってくれていた兄の元妻から訃報の電話が入った。

亡くなる前日まで、タクシーでパチンコ店通いを続けていたというのだから、驚きというか、あきれるばかり。その亡くなる前日に、兄から届いたメールの文面は「次は四国に旅打ちに行くぞ」だった。

 

驚いたのは、初めて病院に付き添った日から、ちょうど4カ月の9月17日が、兄の命日になったこと。もし抗がん剤治療を受けていれば、もっと生きることができたかもしれない。一方で、好きなパチンコ店通いや旅打ちを、どこまで実行できたか……。

 

詰まるところ、兄の末期状態のがん治療において、何が正解だったのかは分からない。ただ、激痛や吐き気に苦しみながらも、ギャンブルという生きがいを胸に、最後の4カ月を走り抜いたのは間違いない。

 

「ギャンブル療法」なんて言ったら、お叱りを受けるかもしれないが、人生の最後に、ギャンブルが生きる支えとなったのは事実。そんな人生の幕切れが、ひとつくらいあってもいいんじゃないか。私はそう思う。

 

 

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【著者プロフィール】

小鉄

某媒体で約30年、スポーツ、社会、芸能、公営競技など幅広く取材。
現在はフリーの執筆者として、全国を回りながら取材、執筆中。
趣味で公営競技の予想会も行っている。

Photo by:Susann Schuster

ウェルビーイングやコンパッションという言葉をよく聞くようになった。前者は「身体だけではなく、精神、社会面も含めた健康※1」、後者は「批判でなくあたたかい目と思いやりを向けること※2」だが、それぞれの発祥はご存知だろうか?

 

実はこの2つの概念は、米国の脳科学者達がダライ・ラマ14世とプロジェクトに取り組んだ時に生まれた一連の研究成果だ。

私はこのことを今秋参加したMIT Center for Systems Awarenessのワークショップで知った。ダライ・ラマ14世の影響力があったから、横文字でも我々日本人に馴染みやすいのか、と妙に納得したものだ。

 

今回は、このMIT Center for Systems Awarenessのワークショップに参加して気づいたことについてご紹介しよう。

 

ワークショップで学んだ3つの新しい思考

MIT Center for Systems Awareness とは、MITにおいて、個人、他者、社会と自然がそれぞれ繋がり、その関係性と愛情を通じて、若い人も巻き込みつつ教育改革を推進するためのセンターである。そんなMIT Center for Systems AwarenessのFoundations1のワークショップ(全4日間)は、世界的なベストセラー『学習する組織』の著者であり、MITのSociety for Organizational Learningを主催するPeter Senge教授、そしてMette Miriam Boell教授(生物学者)、Gustav Boll氏が交代で講義する新しい形態がとられた。

 

ワークシップの冒頭で、Humboldt(北カリフォルニアの郡の一つ。サンフランシスコから北360kmに位置)を管轄する行政官であり、ワークショップの卒業生でもある方が、このHumboldtという場所がNative Americanにとって大切な場所であり、現在も多くの部族と共生していることに触れていた。

 

ここでMetteが、「社会は大きく変わったが、人間の脳は未だに人がコミュニティで祭祀生活をしていた時からそんなに進化していない」「だから、ZoomやTeamsで分刻みに次から次にミーティングを梯子すると疲れてしまう」と話していた。Peterは「だからこそ世界のNative Peopleは開会に当たり儀式を行う。例えば、ラグビーのニュージーランド代表であるオールブラックスが試合前に披露することでも知られるHakaも、もとは一つの儀式だ」と応じ、あたかも、日本でいう祝詞のような開会儀式であった。

 

研修参加者は、教育者や行政者を中心に90名超。その中に聴覚障害の方々(多くは聾学校の教員)も14名参加されており、その方々のための手話通訳は7名も参加されていた。なお、日本人の参加者はスタートアップで働く若い女性と僕の2名で、欧州からも1名が参加していた。

 

このワークショップで学んだことを大きく分けると、システム思考の氷山モデル、リーダーシップの3要素、システム思考の問題解決の基礎についてだ。

 

リーダーシップの3要素

Center for Systems Awarenessでは、現代は様々な政治システム、経済システム、教育システムが整合しなくなったため、様々な社会問題が起きていると見ている。例えば、戦争と難民の問題、大きな経済格差、海洋プラスチック、不登校、自殺。これらの問題に万能な処方箋はない。というのも、これらの問題には、制度的(ハード)な問題と同時に、これらのシステムを設計する人の思考(メンタルモデル)の問題が併存するからだ。

 

こうした背景から今回のワークショップでは、リーダーシップの3要素が、未来への意思、リフレクション、システム思考の理解に置かれていた。これは、一般的にMBAで教える外部環境と内的資源の理解から自社戦略を率いていくためのリーダーシップとは異なる考え方だ。

 

未来への意思について、基本的には、企業の枠組みを超えて、リーダー自身が深く内省することで「自身もシステムの一部であり、それゆえにシステム論の限界を理解している」「システム論の限界を理解しているからこそ、押しつけの数字や論理で示すのではなく、未来への意思を示して、それに繋がる人たちと未来の実現を有機的に広げていく」ように自身のメンタルモデルを変化させるということだった。

 

例えば、企業で中期経営計画(中計)を策定することは本来、実現すべき未来を考える営みと言える。しかしこの中計策定が、企業経営のための単なるシステムとして、作業のための作業、プロセスのためのプロセスになっているとしたら、そこから脱却して、心と血の通ったプロジェクトから徐々に変化を起こし、中計の実現を意思でもって近づけていくことを目指す、ということを示しているように捉えられた。

 

リフレクションとは内省を指すが、この要素についてはワークショップの中で実践できるようになっていた。受付時には参加者一人ずつにノートとペンが配られ、3人の講師からの問いに対して、心が動くことや、身心の状態についてそのノートに記述し、その後参加者と話して良い範囲で共有するようになっていたのだ。

 

システム思考の問題解決の基礎

最後にシステム思考について、この問題を解決するための基礎とは、直ぐに分かる絆創膏を貼るような対策ではなく、政策、メンタルモデルの双方に働きかけるような真因を探っていくことだ。ワークショップ中にPeterは、ビジネス上におけるシステム思考の罠に陥った例として以下のようなことを語っていました。

 

「製品競争力が落ちてきていたA社はマーケティング活動にお金を掛けると、絆創膏を貼るように短期的には売上が上げることが出来ることを経験的に知っていた。何度も危機からマーケティング投資で脱出してきたが、製品開発に真摯に取り組まなかったことから、ライバルであるB社やC社との製品力との間に大きな乖離が生まれ、ついには没落していった」「A社が、仮にB社やC社と同様かそれ以上に製品開発に力を入れていたら未来はどうなっていたろうか」

 

若い世代にも広げつつあるコンパッショネット・システムズ

ワークショップのハイライトは、Gustavにより語られた子供達とのコンパッショネット・システムズの適用についての実演であった。

5歳児とは自身のその時の感情を表わす言葉カードを用いて、自身の状況を正確に捕まえる演習がされており、また高校生とは、環境問題について、単純な解決策の仮説を述べるのではなく、政策面とメンタルモデルに踏み込んだシステム思考的な発表があった。

高校生が自らの頭、手と足、心を用いて、システム思考を用いて問題解決をしようとしていることには、感動した。

 

しかしながら、ワークショップに参加した地元の中学生・高校生(14才、16才)らと話してショックを受けたのも事実だ。中学・高校の中で、Center for Systems Awarenessの活動に参加するのは少数派だという。我々大人が「短期的な」「絆創膏的な」対応しか見せないので、それらを見た子供達のメンタルモデルも、テストの点のような短期的なKPIに沿った成果を求めるというのだ。

 

PeterとMetteによれば、米国カリフォルニア州 Humboldt郡、また、カナダブリッティシュ・コロンビア州 Nisga地区では、Center for Systems Awarenessの活動を学校へ本格的に取り入れ、横展開する動きが見られるという。

 

僕のコラムのテーマである氣と経営の観点からいうと、未来への意思を示すことは氣そのものと言える。またPeterがワークショップの中で、意思を持った時の人の力を合気道の技で説明したことにはびっくりした。加えて、経営をハードなものとして捕えるのではなく、人のメンタルモデルも影響する有機体と見る視点は、氣と経営を結節させる。

 

日本にも、高齢化、過疎化、財政の圧迫、少子化、不登校、企業の弱体化、働く人の抱えるメンタル不調などの問題が山積みである。ついては、コンパッショネット・システムズを用いて、絆創膏的な対策ではなく、自らを変え、政策と人のメンタルモデルにご一緒に働きかけていこう。

 

※本コラムは筆者がワークショップ体験を基に記述したものであり、MIT Center for System Awarenessが監修したものではありません。筆者に責があります。

(執筆:中村 知哉

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Robert Collins

 

<参考・引用文献>
※1 ウェルビーイング|グロービス経営大学院 MBA用語集より引用
※2 自分に自信が持てない人は「セルフ・コンパッション」を実践せよ/みんなの相談室Premium|グロービス学び放題より

私には昔から、少し頭のおかしな思考のクセがある。

「なぜこれをやってはいけないのか」

「なぜこうしなければいけないのか」

という疑問を持ったら、自分でそのタブーをやらかして失敗しないと気が済まないという、やっかいなひねくれだ。

 

考えても見てほしいのだが、例えばサッポロ一番塩ラーメンの作り方には、こんな説明が書いてある。

「スープは火を止めてから入れてください」

しかし火を止める前にスープを入れることで、どんな不都合があるというのか。

試してみたが、少なくとも味の違いなど、全くわからなかった。

 

しかし小学校の頃、ベルの工作授業で銅線を配られた時には本当に、エライことをやらかしてしまった。

「間違っても、この銅線を家のコンセントに差し込んだらアカンぞ(笑)」

そんな余計なことを説明した先生のせいで、私は自宅に帰るとさっそく、銅線の端をコンセントの両穴に突っ込んでしまう。

 

電池程度の電圧でも大音量がなるのなら、きっと家の100Vのコンセントに差し込んだら単純計算で80倍くらいの音量がなるのではないのか。

きっと近所迷惑だからやっちゃダメだぞとか、そんな意味だと理解してやらかしたのだが、結果はご想像通りである。

 

「ボンッ!!」

という音とともに白煙と火花が飛び散り、そのままひっくり返ってしまった。

なぜヒューズが飛ばなかったのか今思えば不思議だが、もう二度と、

「やってはいけません」

ということはやるまいと、心に誓った出来事になっている。

 

そんな中、私は今から10年ほど前に、「なぜラーメンは旨いのか」という謎をどうしても解き明かしたくなったことがある。

ラーメンの旨さは、どう考えてもおかしい。

そもそも、1,000円前後のB級グルメに大の大人が20~30分、店によっては1時間も並んで食べたいと思うなど、どう考えても異常である。

そして誰にも、お気に入りのラーメン屋の1つや2つがあるものだ。

 

着丼早々、熱々のスープをレンゲでひとすくいし口に運んだら、もうそれだけで幸せな気持ちになる。

コクがあるのにさらさらして、魚介や豚骨の旨味が口いっぱいに広がる。

我慢しきれずに麺をガバっとすくうと、口の中に広がるのは甘く艶めかしい小麦の香り。

鼻から抜ける余韻すらもったいないので、息を止めて貪り食うような恍惚感につつまれる。

 

私はこの異常な食べ物の謎を解き明かすべく、関西の精肉店や精肉卸を駆け回った。

一般のスーパーでは売っていない豚骨や鶏ガラ、もみじ(鶏の足)といった食材を買い集めるためである。

するとこの段階で、精肉店や精肉卸に“格”があることに気がつく。

 

商品を市場から仕入れ、右から左に流しているだけのような精肉店・精肉卸では、そもそもそういった部材を扱っていなかった。

切り分けられた肉を流通させているだけなので、当然である。

その一方で、自社で農場や養鶏場を持っているところは、そういった部材の扱いがあることはもちろん、肉や骨の扱いの難しさ、旨味についても知り尽くしていた。

 

「自作でラーメン作るって本気なんか、豚骨は相当固いぞ?」

「モミジはグロいぞ、本当に大丈夫か?」

食材そのものはタダ同然の価格で冷凍カチカチのものを頂いたのだが、素人に扱うのは難しいと説明される。

そういわれたら、ますますその謎に迫りたくなるのだが、初日にはもう、その言葉の意味がわかってしまった。

 

まず豚骨の固さ、マジでヤバイ。

旨味を煮出すためには骨を割らなければならないのだが、ビニールとタオルを敷いたアスファルトの上でハンバーでぶっ叩いても、全然割れない(泣)

5発くらい本気でぶん殴って、一部にヒビが入るというような感じだ。

 

さらにモミジのグロさも、本当になかなかである。

人間でいうかかとから先の部分だけが、大量に袋詰になっているのだ。

 

さらにその下処理として、黒ずんだ部分を切り落とせとか爪を切れとか説明されたのだが、これはもはやホラーである。

鶏の足が生々しく原型をとどめている中、まるでワンちゃんやウサちゃんの足の手入れをするかのように、爪を切り、黒ずんだ部分を食用バサミで切り落とすのである。

 

感情のスイッチを切らないと、とてもやってられない。

鶏ガラは、鳥の胴体の形を維持しているのでグロく思われるかも知れないが、こんなもの豚骨やモミジに比べて余裕である。

 

そして下処理を終えると、次は旨味の煮出しだ。

豚骨、モミジ、鶏ガラと試してみたが、鶏ガラについては私の技術では全く旨味を引き出せなかったので、ここでは割愛。

 

豚骨はテレビなどでよくある、「3日間煮出して旨味を抽出」というようなイメージは、まあある意味で当たっていることがわかった。

高温・高圧で炊き出さないと、素人ではとても旨味を引き出せなかったからだ。

 

次にモミジだが、これはとても微妙な食材である。

猛烈に旨味が出るが、高温・高圧で炊き続けると、すぐに旨味とトロミが飛んでしまう。

「今が一番美味しい」という煮出し時間、煮出し温度がものすごく繊細なのである。

高温・高圧は短めに掛けて、その後のスープの温度を維持する時間も、できるだけ短くしなければならない。

 

そしていうまでもないが、豚骨やモミジだけを煮出したら、旨いラーメンができるわけではない。

やはり最低限、グルタミン酸、イノシン酸などいろいろな旨味の組み合わせをしたいと思うと、昆布や煮干しといった食材の美味しさも抽出したい。

 

ところが昆布も煮干しも、沸騰するような温度でグツグツ煮たら台無しなのである。

昆布については、少なくとも10時間程度、冷塩水に浸けてゆっくりと旨味を引き出さないと、全く価値がない。

そして加熱するときは70~80度程度で昆布を掬わないと、エグみが出てトロミが失われてしまう。

煮干しも同様で、冷塩水に浸ける時間は昆布ほど必要ではないが、高温で炊き出すと苦みが出てしまい、やはり台無しになるのだ。

 

加えて、そうやって炊き出した豚骨、モミジ、昆布、煮干しの旨味を合わせ、加熱するのもすごく繊細な作業になる。

それぞれ、加熱時間や食材の旨さの最適温度が違うので、当然だ。

さらに玉ねぎの皮、トマトやナスのヘタ、ネギのシッポやニンジンの頭といったといったクズ野菜ももちろん入れる。

実はこういったクズ野菜は、自分で料理をしてみればわかるが、本当に旨味の宝庫である。

 

そのようにしてできたラーメンは、原材料費だけでも1杯1,500円くらいであっただろうか。

しかしながら、「なぜラーメンは旨いのか」という疑問は、完全に理解できた。

そろそろ結論をお伝えしたい。

 

これらの食材、そのままでは全く使えず、美味しく食べられないものばかりである。

というよりも、ラーメンにならなければ捨てられていたものばかりといってもいいだろう。

 

であればラーメンとは、

「誰も見向きもしない食材に手間暇をかけて、人の心を感動させる最高の一杯に仕上げる芸術」

と言ってもいいのではないだろうか。

 

そしてその時の、売り物になる一杯を作り上げる苦労たるや、並大抵ではない。

高級で珍奇な食材を買い集め、美味いものを作った気になっている浅薄な料理人など、足元にも及ばないだろう。

 

ラーメンという食べ物を心から愛し、旨味を引き出すことに怨念のような執念を持っている職人にしか、至高の一杯は作れないということだ。

換言すれば、ラーメンが異常な食べ物なのではなく、異常な職人にしか旨いラーメンを作ることなどできないということである。

 

そしてこの怨念のような思いは、会社経営にも通じる。

「うちの社員は出来損ないばかり」

「優秀な社員が集まれば、ウチももう少し業績が伸びるのに」

そんなことを考えた事がある経営者は、まさに素材自慢の浅薄な料理しか作れない3流の料理人ということである。

 

一人ひとりの社員の個性や能力に向き合い、豚骨やモミジから旨味を抽出し付加価値に変えるような経営者こそが、本物の一流の経営者だ。

ラーメン作りはまさに、埋もれていた食材をスター選手に変えてしまう究極の思想であることを思い知った、良い体験になった。

 

なお私が作ったラーメンは、あまり美味しくなかった(泣)

私にはまだまだ、人としても経営者としても、修行が必要なようである…。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など

先日高速道路の第二走行車線を走っていたら、第一走行線から追い抜いていった車がいました。
すると目の前の車がパトランプを点け、すぐに追いかけていきました。
内側からの追い抜き、結構厳しく見てるんですね~。

X(旧Twitter):@momono_tinect

fecebook:桃野泰徳

運営ブログ:日本国自衛隊データベース

Photo by:Kristian Angelo

この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。

 

・先日朗読劇の脚本を書いて、妻が参加している朗読団体さんに演じていただくことになりました

・人狼ゲーム仕立ての、「登場キャラたちがVR空間で議論をして、メンバーに混じったAIを見つけ出す」というお話を書きました

・書いていて大変楽しかったのですが、普段の書き物とは全く違う学びや難しい点もありました

・「目で読む文章」と「耳で聴く文章」は全く別物で、いかに耳が滑らないようにするかの調整が大変でした

・舞台を見ている人にどうやって場面の状況やポイントを理解してもらうか、という点にも腐心しました

・演者さんに「どういう物語を演じたいか」という要件を聞き取りながらお話を組み立てていくのも面白い経験でした

・「ゼロから物語を作る」時の目隠しして迷路を歩くような感覚、大変だけど癖になりますね

・創作ものすっっっごく楽しいですよね

 

よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

先日、朗読劇の脚本を書きました。

書き始めたのが去年の夏頃で、初稿が完成するのに二週間くらい、様々に手を入れながら「脚本」として完成を見たのが今年の春先くらいで、設定やら調整した分やら全部合計すると4万字くらいは書いたのでしょうか。

 

劇の上演がまだですので、脚本の細かい内容については触れられない部分もあるのですが、普段書いているものとはちょっと毛色が変わった分野であることもあり、面白い体験だったので文章にしておきたくなりました。

 

朗読劇というのは、文字通りお話を「朗読」という形で、舞台上で表現する劇形式です。もちろん色々と演出はあるのですが、舞台上で役者さんが動き回る演劇と異なり、基本的には「声」「会話」で物語の全てを表現することになります。

より「役者の声」「話し方」「声による表現」といったものに特化して楽しむ形式ではないかと思います。

 

小説は何度も書いているんですが、「脚本」というものを書いた経験はあまりありません。そんな私が何故脚本など書くことになったのかというと、きっかけは妻に「なんかいいSFない?」と相談されたことでした。

 

聞いてみると、妻が所属している朗読団体「草花木果」さんで、次読む朗読劇の題材を検討中、一部のメンバーから「SFがいいのではないか」という意見が出たと。

ただ、出演人数がそこそこ多いこともあり、ちょうどいいお話のスケールで、登場キャラクターも数が多い作品となると意外とタイトルが浮かばない。

 

私は海外SFが好きなので、ブラッドベリやらアシモフやらラファティやらラヴクラフトやら、中短編を色々あげてはみたのですが、どうもぴったり来る話がないと。ラヴクラフトの「アウトサイダー」なんかいいんじゃないかと思ったんですが、冷静に考えると朗読向きな要素がミリもない。

「じゃあ書いちゃおうか」となりました。

 

誰にでも「お話の引き出し」みたいなものはあると思っていて、つまりどんな物語ならスムーズに作れるのかという話なのですが、今回の条件として、「出演人数が10人弱とそこそこ多い」「舞台は近未来~未来のSF仕立て」というものがありました。

 

折角参加人数も多いし、朗読という形式なのだから会話を中心とした群像劇にしたい。謎解き要素、推理要素があるともっといい。

 

この条件で、私が一番広い引き出しを持ってるのって人狼だな、と。なにせ人狼なら、人狼BBS時代から何百回遊んだか分からないですし、どこがどういう風に面白いのかも大体分かっているつもりです。

「犯人探し」という構造は、多分会話劇とも相性が良い。

 

以前から「今以上にAIが発展した時、外部からAIかそうでないかを判定することって可能なんだろうか」というテーマに興味があって色々調べていたこともあり、「VR空間に紛れ込んだAIを、会話と議論だけで判別しなくてはいけない」という舞台立てを提案しました。

 

ざっくり企画書を書いて演者さんに相談してみたところ「面白そう!」「やってみたい!」という反応をいただいたので、じゃあということでざーっと書き上げ、様々調整して今に至る、という経緯なのです。

 

「人狼」ならではの仕組みに「AIは誰かを推理してもらう」という要素も持ち込めて、手前味噌ながら書いた側としては満足しているのですが、もちろん朗読劇というのは読んでもらわないと作品として完成しないので、演者さんによって脚本に命が吹き込まれるのを、私自身楽しみにしている次第です。

 

5/10,5/11に荻窪で上演予定なので、ご興味ある方は良かったら行ってみてください。

下記は予約用のフォームです。

https://www.quartet-online.net/ticket/28soukamokka1?m=0zgbjge

 

***

 

で。

今回書いたのが脚本、しかも朗読劇の脚本ということで、やはり普段の文章や小説とは違う点も様々にありました。以下はその辺の学びについて書いてみたいと思います。

 

まず、当たり前のことかも知れませんが、「情報を伝える時、耳は目よりもずっと滑りやすい」ということ。

朗読劇の一番の面白さ、かつ難しさというのは、「取り扱うのは文章でありながら、お客さんに伝えるチャンネルは基本「声」に限定されている」というところにあります。

 

声はリアルタイムで流れていくものなので、小説と違って「気になった一カ所に注目して前後をじっくり読む」ことは出来ないし、動画と違って「ちょっと戻して見直す」ということも出来ません。

 

また、当然のことながら同音異義語を字面から判別することも出来ないし、長い単語は聞き終わるまで判別出来ず、頭に入ってくるのにタイムラグが生じる。

 

つまり、ちょっと意識がそれて話を聞き逃したり、今の言葉よく分からなかったな、となった時のリカバリが難しい。

「目が滑る」ということは文章を読む上でも起こりますが、「耳が滑る」のはより起こりやすい上、それを取り戻すにも工夫が必要、ということになります。

 

SFというとどうしてもある程度「それっぽい」用語は出てきてしまいますし、単に「AI」という言葉であっても理解や認識は人それぞれです。

しかも、推理要素というとどうしても「それまでの情報をどう取り入れるか」という問題とも無縁ではいられず、「10分前に起きた会話をどう覚えておいてもらうか」といった課題も発生します。

 

この辺り、「どうすればお客さんになるべく耳を滑らせないで聞いてもらうか」について、物語展開とどう両立させたものか、妻にもアドバイスしてもらいながら、かなり色々苦心しました。

 

大きいところだと、

・「この台詞は何を言っているのか」ということについて、発言のなるべく早い段階で分かるようにした

・音声にした時まぎらわしい言葉がある単語は可能な限り避けた(類語辞典が大活躍した)

・情報として必ず抑えておいて欲しいポイントは何回かに分けて登場するようにした

・自分で声に出して読み、音声と意味がひっかかりそうな箇所を可能な限り潰した

辺りでしょうか。

 

普段のプレゼンだと、抑えて欲しいポイントは掲示資料に文章として書いておけばまあ済むっちゃ済むので、この辺甘えてしまっているところもあったなと、音声だけの舞台で考えるとだいぶ色々シビアに考えないといけないなあ、と思った次第なのです(もちろん、上記のような工夫とは別に、演者の皆様も様々に工夫をしてくださっています)

 

「今、キャラクターがどんな状況にいるのか」ということをどう説明するのか、みたいなポイントもありますよね。

演劇と違ってキャラクターが大きく動かないので、「地の文」でナレーションのように状況を説明する文章も時には必要となり、そこを既存のストーリーとどう折り合いをつけるか、というような調整も普段の文章とは違うテクニックが必要な部分でした。

 

また、「声の質」というところをキャラクターにどう盛り込むか、というのもやっていて面白かった点です。

当たり前ですが演者さんの声は演者さんごとにそれぞれ違いますし、得意な役どころ、得意な演技、上手い役回りというのも皆さん違います。

 

例えば、「この人は子どもの、かつ勢いがある声を出すのが得意」だとか、「この人は機械音声みたいな声をとても上手に出せる」とか、演者さんお一人おひとりの個性についてヒアリングしながら、それを活かした物語展開にどこまで寄せられるかな、というのは、普段文章を書いている時とは全く別の脳みそを使っているような感じで、非常に新鮮な気持ちで書き進められました。

 

当然演者さん個別に「演じたい内容」というのも変わってきますし、なんなら展開自体それで微妙に変わってきたりするので、細かくやりとりをさせていただいて、皆さんの希望も取り入れつつ全体の物語を調整する、みたいな試みをやってみまして、パズルをやっているような楽しさを味わえました。

やってみないと分からないもんだなあ、と思ったわけです。

 

これは別に脚本に限らず、創作全般にいえることかとは思うのですが、「書き終わった後」には「そう書いてあるのが当然」のように思える部分でも、ゼロから作ろうとすると滅茶苦茶大変なんですよね。

小説を読むのと書くのでは、舗装された道路を歩くのと原生林を切り開いてそこにアスファルトを敷き詰めるくらいの労力の差があると思います。

 

一方、考えた展開が上手いこと物語にハマった時とか、ストーリーを思った通りに着地させられた時には、本当に脳から出汁でも出てるのかと思えるくらいの気持ちよさと楽しさがあります。創作で徹夜しちゃう人がいるのもよく分かる楽しさです。

普段から小説や脚本を書いている方というのは本当にもの凄いなあと思いつつ、自分でも改めて「創作めちゃ面白いなー」と感じられたので、また折りを見て色々書いてみたいと考えた次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Merch HÜSEY

先日、Xに上のような文章がポストされていた。前後の文脈を踏まえるなら、「AO入試や採用面接で問われるコミュニケーション能力とは、上流階級の礼儀作法と思考プロトコルのことである」といったニュアンスだろうか。

「いまどきは、良い大学・良い就職先に入ろうと思ったら、上流階級のように考え、上流階級のようにふるまえなければダメですよ」と言っているにも等しい。

 

「特定の階級の礼儀作法や思考作法が優遇され、そうでない階級のそれらが敬遠される」と書くと、なにやら階級差別的でよろしくないようにも思える。だが過去から現在までを眺めて思うに、これが社会の通常運転ではないだろうか。

 

「コミュニケーション能力」としての礼儀作法

世の中には、「コミュニケーション能力」という言葉からエスパー的な能力や魔術のたぐいを連想する人々がいる。

彼らの気持ちもわからなくはない。

というのも、他人の心の動きを読むのが異様にうまい人や好印象を与える所作がずば抜けている人は実在するからだ。世の中でコミュニケーション能力と呼ばれるもののいくらかは、属人性が高く、再現性が乏しい。

 

その一方で、属人性が低くて再現性が高いコミュニケーション能力もある。その代表格が礼儀作法だ。

たとえば「おはようございます」や「ありがとうございます」といった挨拶は、できて当たり前と思うかもしれないが、できなければかなり感じが悪くなってしまう。挨拶だけできても劇的に印象が良くなるわけではないが、コミュニケーション上の減点を回避するには身に付けておく必要がある。

 

挨拶以外にも色々ある。会食時のマナー。メールの書き方。LINEやメッセンジャーやDMの返信のしかたも礼儀作法に含まれるかもしれない。

どれもひとつひとつは小さなことでしかないが、礼儀作法も積もれば山となるわけで、長く付き合ってみた時の印象は礼儀作法の出来不出来によってかなり違ってくる。

 

いや、就職面接のようなファーストコンタクトの際もそれはそれで礼儀作法が効いてくる。お互いのことをあまり良く知らないからこそ、挨拶がきちんとしているか、悪印象を与えない言葉遣いや身のこなしができているかが印象を左右することになる。

だからだろう、礼儀作法でコミュニケーション上の減点を減らし、あわよくば加点を得たいというニーズはなくならない。

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令和に入ってからの礼儀作法書でとりわけ印象に残ったのは、この『「育ちがいい人」だけが知っていること』だ。この、売れまくった礼儀作法書は、まずタイトルで「育ちの良い人が知っていて、そうでない人が知らない礼儀作法の実在」を示し、それを提供すると宣言してみせる。で、実際に提供している。

 

ひとつひとつのtipsを知らなくてもコミュニケーションができないわけではないし、それだけで好人物が成り立っているわけでもない。だがもし、書かれているとおりに振舞えるならコミュニケーション上の減点を減らしやすく、加点を得やすくなるだろう。

 

現代の礼儀作法(と礼儀作法書)の起源

ところで、さきほど挙げた『「育ちがいい人」だけが知っていること』は、「育ちがいい人が身に付けている礼儀作法はコミュニケーション上の加点になる」という前提で記されている。

だが厳密に考えるなら、いつもそうとは限らない。たとえば労働者階級の所作が好ましいとみなされているコミュニティ──たとえばイギリスでいえばパブのような──では上流階級っぽさやブルジョワ階級っぽさがコミュニケーション上の減点になることもある。イギリスほど顕著ではないにせよ、日本でもそういったコミュニティは存在するだろう。

 

とはいえ、良い収入や良いステータスを求めることを当然とみなす人にとって、礼儀作法とはより良い収入やより良いステータスの人が身に付けている礼儀作法、お近づきになりたい人に好印象を与えやすそうな礼儀作法にほかならない。

そういう上昇志向な人々が大半を占める社会は、必然的に高収入・高ステータスな人間の礼儀作法を模倣したがる社会になっていく。

 

こうした傾向はいつからあったのか?

 

礼儀作法と礼儀作法書の先駆け的存在は、少なくとも16世紀まで遡ることができる。ネーデルラントの神学者/哲学者としても名高いデジデリオ・エラスムスが上流階級の子女が読むという前提で記した礼儀作法書が、活版印刷の普及に乗ってヨーロッパ社会のベストセラーになっていったのだ。

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エラスムスの礼儀作法書は、このように日本語版も出版されている。異様なプレミアがついてしまっているので図書館で閲覧してみるのがおすすめだが、内容は簡潔で、今日では常識になっている記載も多い。

 

この礼儀作法書はもともと上流階級の子女のためにつくられたテキストブックだったが、それが上流階級の礼儀作法を身に付けたい中流階級たちに読まれ、模倣されていった。

つまりエラスムスの礼儀作法書も、育ちの良い人の礼儀作法を模倣したがる人に読まれていたわけで、そのことを思うと令和の『「育ちのいい人」だけが知っていること』は案外、礼儀作法書の原点に根ざしている。

 

礼儀作法による門前払いと依怙贔屓のシステム

エラスムスが書き残した礼儀作法書は、上流階級から中流階級の上澄みへ、さらに中流階級の裾野へと浸透していった。浸透すればするほど、広く知られれば知られるほど、その礼儀作法ではコミュニケーションの加点が得られにくくなり、せいぜい減点を防ぐ程度の効果しか得られなくなる。

そうしたわけで礼儀作法とそのテキストブックは時代を経るにつれて内容が細かくなっていった。今日目にする礼儀作法書は、その末裔であるとみて間違いない。

 

しかし、礼儀作法とそのテキストブックの出自がこうである以上、礼儀作法には上流階級志向がついてまわる。

今日において上流階級とは、ブルジョワ階級が相当するだろう。育ちの良いブルジョワ階級の子弟にプリインストールされている礼儀作法を、そうでない人々が積極的に模倣する──この繰り返しをとおして、社会はますますブルジョワ階級にとって都合の良いものへ・上昇志向を自明視するものへと変わっていく。

 

これは本当にどうしようもないことなのだけど、礼儀作法をありがたがり、模倣することをとおして、私たちはブルジョワ階級のブルジョワ階級によるブルジョワ階級のための社会をより堅固なものとし、その成立に加担しているとも言える。いや、もちろんブルジョワ階級中心の社会を成立させているのは礼儀作法だけでなく、資本主義や社会契約に基づいた諸制度などのほうが重要なのだが、礼儀作法もまた、ブルジョワ階級中心の社会を支える支柱のひとつだと言いたいわけだ。

 

こうしたことを振り返ったうえで、冒頭で紹介したXのポストを振り返ってみよう。

曰く: "本当に求められている「コミュ力」の正体が「上流階級の礼儀作法及び思考プロトコル」だという事。義務教育の延長で突破できるペーパーテストと違って学ぶには相応のコストが必要な代物で、貧困層はそのコストを捻出できない(更に言うと教育機関にもアクセスできない)"

 

エラスムス以来、礼儀作法が上流階級志向で、その模倣をとおして広がってきた歴史を振り返ると、このポストの内容にも納得せざるを得ない。

確かにそうなのだ──ブルジョワ階級の子女がごく当たり前に身に付けていることでも、そうでない人が身に付けるには骨が折れ、相応のコストが必要になる。そのコストが貧困層にとって一種のペイウォールとして機能することも想像しやすい。

 

ということは、礼儀作法の出来不出来によって面接試験の当否が左右される社会があるとしたら──いや、現に左右されているのだが──、その社会は特定の階級を贔屓し、そうでない階級を門前払いしがちな社会であると言わざるを得ないのである。

 

これは、日本でも日本以外の先進国でもしばしばみられる現象で、ほとんどの人が鵜呑みにしていることだが、本当にこれでいいのだろうか?

 

私はときどき、これって構造的な階級差別&依怙贔屓のシステムなんじゃないの? と思ってしまう。

とはいえ、すでにそういう社会構造になっている以上、疑問を感じたからといってどうにもならないし、私自身も礼儀作法に意識的である以上、その社会構造に加担していると指摘されればにべもない。

 

資本主義社会においてブルジョワ階級はいろいろな意味で模範的存在ではある。が、ひとりひとりが礼儀作法を重んじ、それをコミュニケーション能力の一部として駆使することをとおしても、ブルジョワ階級とそれを模範とする社会構造はますます強固になっていくのである。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="B0CVNBNWJK" locale="JP" tmpl="Small" title="人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Resume Genius

つい先日の「解決法の「とっかかり」をなんとなく把握しておくことが大事だという話」を読んで、思い出したことがあるので、忘れないうちに、ここに言語化しておく。

 

 

初めて「人類の知識の膨大さ」に触れたのは、大学の研究室で、論文を読んで発表をするという、単純なタスクを与えられたときのことだった。

 

それまでは、論文1つを読んで、その発表をするなんて、とんでもなく簡単なことだと思っていた。

しかし予想は甘かった。

開始15分で、途方に暮れ、「これはとんでもなく時間がかかる作業だ」と気づいた。

 

というのも、一つの論文の内容を正確に把握し、その研究の意義を完全に理解しようとすると、その研究の背景となる論文や、先行研究を読まねばならない。

結局、1つの論文を発表するためには、その他に5つも10も、他の論文を読む羽目になる。

 

予想の5倍、10倍の時間がかかる作業を延々と繰り返し、ようやく発表にこぎつけることができたときには一種の達成感があったが、同時に別のことにも気づいた。

「あらゆる学問の分野に、このような知識の連鎖がある」と。

となれば、私が生涯の全時間を知識の獲得に充てたとしても、獲得できる知識は、全体のほんの一部であり、到底すべてを知ることはできない。

 

一昔前、The illustrated guide to a Ph.D.(博士号を絵で説明するよ)という記事があったが、「我々が知ることができるのはごくわずか」という事実をよく表している。

これはすでに、図書館に通えばいい、というレベルではまったくない。

 

博士号ですら、膨大な知識体系の中のごく僅かな一部である。

その事実に、私は圧倒された。

 

「知識」に溺れる

その後、学校を出て、コンサルティング会社に就職した。

 

しかし、学生時代と状況は変わらず、私は必要な知識の習得に追われた。

おそらく、コンサルタント同期の皆もそうだったと思う。

「経営戦略」

「コミュニケーション」

「システム開発」

「会計」

「法律」

様々な、覚えなければならない膨大な知識に触れるたびに、読まねばならない本が増えた。

 

とてもではないが、業務時間だけでは足りない。

しかも、当時の私はそれをすべて理解しなければならないと思っていたため、カバンに常に大量の本を入れていた。

友人の結婚式に出席するときですらそれを持ち歩いていたため、友人から「安達はノイローゼ」と言われた。

 

もちろん、そんなことをしても知識がすぐに身につくわけではない。

消化不良をおこして、ろくに理解もできないまま時間だけが過ぎていく。

私は完全に行き詰まった。

 

「知のネットワーク」の存在を知る

そこで私は、社内でも博識であった一人のコンサルタントに相談した。

「どうしても新しい知識を習得するのに時間がかかる。どうやって早く本を読んでいるのか。」と。

 

すると彼は意外にも「新しい知識を得るのに、あまり本は使わないよ」という。

そこで、私は尋ねた。

「ではどうやって、そのように博識になったのですか?」

「簡単だよ。交換したんだよ。」

 

意味がわからない、という顔をしている私に、彼は言った。

「いま、仕事でマネジメントの専門知識はそれなりに深くなってきてるよね。」

「はい。」

 

「その知識をタネにして、お客さんや先生、士業なんかの、専門家に聞けばいいんだよ。コンサルタントはみんなそうしてる。」

「どういうことでしょう?」

 

「なにか一つのことを極めると、その知識に「交換する価値」がでる。それを持って、他の専門家のところに聞きに行く。お客さんにはいろいろな専門家がいるから、その人達に頼る。」

「人に聞く、ってことですか?」

 

「いやいや、単純に「教えて下さい」だと、迷惑な人でしょ。苦労して習得した知識は、そんな簡単に教えてくれないよ。そうじゃなくて、自分も専門家として相手に接する。「困ったときには相談して」と言えるようにね。」

 

そうか。

そうだったのか、と私は思った。

 

今までは私は「必要な知識はすべて、勉強しないとダメ」と思っていた。

しかし、そうではない。

あるしきい値を超えると、もはや知識の膨大さに、個人が追いつけるレベルではなくなるのだ

 

その代わりに、「他人の知識」を利用できるようにならねばならない。

言い換えれば、人間は「誰がこれについて詳しい」と知っているだけでもよくなる。

 

この「知のネットワーク」を利用できることが、人類が圧倒的に他の動物に比べて優れている点である。

 

しかし「知のネットワーク」に入るには条件がある。

それは、自分も専門家としてネットワークに登録されなければならないこと。

なにか1つでも強みがあれば「知識のネットワーク」の中に入れる。そして、それなりの扱いを受けることができる。

 

「タネ知識」を作る

最近流行りのNISA。

年始から投資をしていた人は、だいぶ資産が増えただろう。

しかし、投資には元手、つまりタネ銭がいる。

 

同じように、知識も「タネ知識」によって、アクセスできる知識が爆発的に増える。

それを元手に、「他人の持っている知識」にアクセスできるようになるからだ。

 

ポイントは「知識を自分で身につける必要がない」という点。

都度、検索エンジンのように、ネットワークにあたるだけでよいので、たくさん知識の交換に応じれば応じるほど、自分の扱える知恵が増殖していく。

 

それはお金がお金を生むようなものだ。

「こんなこと知らない?」

「●●さんが詳しいよ」

 

「そういえば、✕✕に困ってるんだけど」

「△△社がそんなことやってたなあ……」

 

「今度紹介しますよ」

「あ、では◇◇さん含めて、今度一席設けますよ」

といった具合に。

 

ただし前述した通り、単なる「教えてくん」はダメ。

「もらってばかりの人」は、ネットワークから徐々に排除されてしまう。

 

「知識のネットワーク」の中では、常に「お前は何を知ってるの?」が問われる。

そのために「交換価値の高い知識」は、常に更新をして、知識のネットワークを活用できるように準備しておかねばならない。

 

 

先輩のアドバイスを受けて、私はコンサルティング会社の中で、勉強会や読書会の機会を利用し、発表を積極的にするようにした。

先輩たちの「知のネットワーク」に早く入れるようになりたかったからだ。

 

また、機会があれば、雑誌への寄稿や本の執筆などを積極的に受けるようにした。

「知のネットワーク」への登録を維持するためには、日々の知識の更新が不可欠だからだ。

 

最近では「リスキリング」の名のもとに、学び直しが推奨されている。

ただし、それはあくまで「タネ知識」を育てるためのプロセスでしかなく、真の学び直しの価値は「知のネットワークへの登録」を目指すところにある。

 

学んだ知恵は、発信し「他の人が利用できるようにする」事ではじめて、有効に機能する。

そんなことを、先輩に教えてもらったことを思い出した。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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これはもしかすると、身内すらも知らない秘密に、わたしだけが勘づいたのではないか。なぜなら、その場にいる全員が誰一人として、渦中の二人を観察していないからだ。

そして、もう二度と会うことも触れることも叶わない……そんな現実に直面したとき、こぼれ落ちる涙と共に見せた真実を、わたしは見逃さなかった。

 

美人薄命

常識を無視した生活を送っていると、ある日突然、右往左往しなければならない時がくる。その典型が「葬式」である。

いわゆる冠婚葬祭の場面では、日本人にとって最低限のマナーがあり、中でも葬式に関しては、非常識な振る舞いは絶対的にNGだ。

そんな常識を試される場に参上するにあたり、身なりから不祝儀袋の書き方、はたまた焼香の作法について、どれをとっても自信満々に遂行できるツワモノが、この世にどのくらい存在するのだろうか。

当然ながらわたしは、常識ある友人に教えを請うたりネット検索したりしながら、手探りで「葬式についてなんとなく理解しているヒト」を演じるのであった。

 

 

先日、若くしてこの世を去った友人の葬式に参列するべく、大慌てで喪服セットを引っ張り出したわたしは、不慣れな格好に苦戦しながらも葬儀場へと向かった。

それにしても、ここ最近の葬式は明らかに様変わりしている。

故人の年齢にもよるだろうが、友人の葬儀はとても華やかで明るいものだった。流れる音楽はシャレた洋楽で、彼女が好きなミュージシャンの曲が繰り返し流されており、思わず口ずさんでしまったり——。

 

そういえば過去の葬式で、アイドルやビジュアル系バンドのBGMが流れるという、既存の葬式の概念を打ち砕くような演出に驚かされたことがある。

ひと昔前(?)の常識である、神妙な面持ち、かつ、しめやかな雰囲気ではなく、大好きなものに囲まれて笑顔で送り出そう・・というのが今風なのだろう。

 

突然だが、亡くなった友人は美人だった。クールビューティーを代表するような清々しいオンナで、それこそヒマを弄ぶ要員のオトコがたくさんいた。

おまけに、ボーイフレンドたちは全員が見栄えのいい金持ちばかり。どうやったらあんなエース級のイケメンばかりを揃えられるのか、凡人にとっては不思議で仕方なかった。

 

「だって、一緒にご飯行くならカッコイイほうがいいでしょ?」

それはごもっともだが、いとも簡単に最強の戦闘態勢を整えることなど、一般的な顔面偏差値では至難の業。だが、ご尊顔を装備した彼女にとってはごく当たり前のことで、それをサラッと述べる潔さみたいなものが、わたしは大好きだった。

 

オトコに困るわけでもなく、仕事もプライベートも順風満帆だった彼女だが、少し前に癌が見つかった。そしてあっという間に全身を蝕み、気がつけば彼女をこの世から連れ去ってしまったのだ。

 

あまりにあっけなく居なくなってしまった友人を思うと、悲しみよりも先に信じられない気持ちが湧き上がり、ついこの間までバカ話で盛り上がっていたことが嘘のようである。

それでも、彼女の死が事実であることを裏付けるかのように、しばらくするとわたしの元へ告別式の通知が届いた。こうしてわたしは、友人と最後の別れをするべく葬儀場へと向かったのだ。

 

出棺で露呈した真実

穏やかな表情で眠る友人は、まさに眠れる森の美女のオーロラ姫だった。姫を包み込むように敷き詰められたユリや薔薇の棺を囲んで、大勢の友人知人らが彼女と最後の時を過ごしている。

 

そういえば、彼女とわたしの共通の友人というのはほとんど存在しない。いつも二人で会っていたので当然といえば当然だが、こういう場で一人というのは、ちょっと気まずいような落ち着かない気分になる。

とはいえ、友人との別れのために訪れたのだから、他人と喋る必要はない。よって、自分の順番が回ってくるまで、式場の片隅で静かに待つことにした。

 

それにしても、これも最近の流れなのかは分からないが、カチッとした喪服姿は全体の半分くらいで、ややもすると「マナー違反!」と叩かれそうな服装の参列者も散見するなど、いい意味で拍子抜けしてしまった。

言われてみれば、告別式の通知に「堅苦しい格好ではなく、普段通りの姿で送り出してあげたい」というような文言があり、たしかに彼女らしい配慮だと思った。破天荒で天然キャラの友人ならば、言われるまでもなくラフな服装を好むだろうから。

 

そして意外だったのは、圧倒的に女性が多いことだ。一般的に友人・知人といえば同性が多いのは理解できるが、ボーイフレンドの人数もそれなりだったはずなので、ちょっと意外に感じたのである。(とはいえ、さすがに元カノの葬式には来ないか・・)

まぁ人それぞれの事情があるだろうから、その辺りは触れないでおこう・・と自己完結させようとしたところ、パンツスーツに身を包んだ一人の女性が現れた。その瞬間、彼女に見覚えのあるわたしは、頭をフル回転させて記憶を辿った。

 

(・・あ、友人と仲のよかった友達だ!)

いつだったか、友人がハワイへ行った時の写真に写っていたのがその人だった。

「気が合うだけでなく、信頼できる大切な友達」と、友人の口から聞いたことがある。——そうか、彼女も当然ながらお別れをしに来たわけだ。

 

長身で華奢な彼女の後ろ姿からは、顔など見ずとも悲痛な面持ちであることがうかがえる。そして棺に手をかけたまま、じっと友人を見下ろしていた。

仲のいい友がこの世を去る悲しみは、想像を絶するものだろう。しかも人生半ばの早すぎる旅立ちは、わたしですら信じられないわけで、それが親友ともなればなおさら——。

 

そんなこんなで故人との別れを惜しむ参列者たちが、続々と棺の周りに集まり、各々のやり方で言葉を交わしていた。もちろんわたしも、これまでの感謝を伝えると静かにその場を離れた。

 

そしていよいよ、出棺の時がやってきた。

遺族の手で棺をストレッチャーへと載せ替え、先導員の合図を待って火葬場へ移動・・というその時、あのスレンダーな女性が思わず棺に手を伸ばしたのだ。大粒の涙が頬を伝い、何度も何度も友人の名前を呟いている。

それを見た式場スタッフが、「危ないので下がってください」と制止するも、彼女は断固として引かなかった。

 

遺族ですら棺から離れているこの状況で、心中は察するがさすがにやり過ぎではなかろうか——。

そう思わせるほどの独断ぶりだが、半ば強引に引き離された彼女は、最後まで手を伸ばして棺に触れようとしていた。

 

そんな彼女の左手を見たわたしは、それこそ目が覚めるような衝撃を受けた。(あの指輪、見覚えがある・・・)

そう、彼女の薬指に光る指輪は、かつて友人が薬指につけていたものと同じだった。斬新なデザインゆえに、鮮明に記憶していたのだ。

「その指輪、かわいいね」

「でしょぉ〜、お気に入りなの」

そう言いながら左手を頭上に掲げて、嬉しそうに目を細める友人の横顔が脳裏をよぎる。

 

その瞬間、すべての謎が解けた——というか点と点が繋がった。モテモテの友人がなぜ結婚しなかったのか、そして、なぜこの女性がなりふり構わず棺にすがるのか・・思い返せば全て、得心がいくではないか。

つまり、彼女こそが「真のパートナー」だったのだ。

 

 

現世では無情にも引き裂かれた二人だったが、心は固く繋がっているはず。だからこそ、どうか来世では幸せに結ばれる運命であってほしい——。そう願わずにはいられなかった。

去り行く故人と、悲しみに暮れる彼女の背中を交互に眺めながら、そんなことを思っているのはわたしだけだろう。

(了)

 

 

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【著者プロフィール】

URABE(ウラベ)

ライター&社労士/ブラジリアン柔術茶帯/クレー射撃スキート

URABEを覗く時、URABEもまた、こちらを覗いている。

■Twitter https://twitter.com/uraberica

Photo:Michael Fousert

転勤が個人と家庭に与える影響と課題

以前より、転勤制度は本人・配偶者の精神的な負担、キャリアへの影響、家族分離や子供の転校といった家庭への負担が大きいことが指摘されてきた。

 

ここでは、筆者が総合職共働き世帯を対象に実施したインタビュー調査[1]から明らかになった、以下の4つを取り上げたい。

これまであまり着目されていなかったものの、ワークライフバランスという観点だけではなく、日本が直面する少子化、労働力人口、経済成長にも関わるポイントである。

 

ライフイベントへの影響

転勤により子供を作るタイミングを逸したケース、転勤が終わるまで子作りを先延ばしするケースがみられた。その結果、子供をまだ授かっていない、または長期に渡り不妊治療を継続しているケースもあった。これは少子化にも影響する大きな問題である。

また結婚式や住宅購入を決めたタイミングで転勤辞令を受けるケースもあり、個人のライフイベントに大きな影響を与えていた。

 

家族時間への影響

単身赴任を検討する世帯においては「転勤前後で家族で過ごす時間にどの程度変化があるのか」を検討材料にしていることがわかった。このケースでは特に男性側が長時間労働により日頃より帰宅時間が遅く、平日に家族で過ごす時間が短い実態があった。

そのため、転勤後に週末一時帰宅できるのであれば、転勤前後で家族時間に大きな変化はないと考え単身赴任の選択に至るケースがあった。

テレワークが普及し、働き方改革により残業時間が減少傾向にあることを考えると、以前より家庭での時間は増加していると考えられる。するとこのような単身赴任の選択は成立しづらくなり、社員と家族の葛藤は増す可能性が高い。

 

配偶者のキャリアへの影響

夫婦のいずれかに転勤が発生した際、当事者は配偶者のキャリアをできる限り尊重したいという気持ちを持っていることがわかった。

一方で、当事者・配偶者にかかわらず女性のみに見られた特徴として「キャリアのあきらめ」「夫のキャリア優先」といった点があり、転勤発生時に性別役割分担の志向が無意識に潜んでいる可能性が示された。

 

長期で見た時の世帯年収

家族帯同を選択した世帯においては、転勤先が国内・海外かによらず、配偶者が仕事を辞めて帯同することで、転勤が発生しなかった場合の想定世帯年収より転勤後の世帯年収が下がることへの不満が示された。

転勤はこれを機に職位が上がったり手当が支給されたりすることで、本人の年収を上昇させる場合もある。しかし転勤により配偶者が被るキャリアブランクや再就職の難しさは、長期で見れば世帯年収に影響する可能性があり、日本の経済にも影響を与える課題である。

 

それでも転勤は必要なのか

前半で説明したとおり、経済状況により転勤の目的は変化する。欧米諸国においても、契約変更と本人の同意を前提とした配置転換は行われており、経営上その必要性が存在する限り一定の転勤ニーズは今後も残るだろう。

一方で現状の課題を踏まえると、企業・社員双方にとって、そのあり方には更なる変化が期待される。

 

例えば、近年の転勤の目的として多くの企業は「人材育成」を挙げているが、転勤経験が転勤以外の異動と比べて能力開発面でプラスになったと認識している転勤経験者は38.5%に過ぎない[2]

転勤経験は、通常の異動経験と比べ、賃金や昇進と関連する職業スキルに強い影響を与えるわけではないという研究結果もある[3]

 

また、企業は人材育成を第一の目的とする一方で、転勤経験者本人は自身の転勤を「人材需給調整」ととらえており[4]人材育成の意義が伝わっていないことも指摘されている。

企業側は配置転換が慣例的に行われていないか、転居を伴う配置転換が必要なのか、社員との事前コミュニケーションは十分かを再考することが期待される。

 

近年の転勤施策見直し事例

共働き世帯の増加に伴い様々なコンフリクトが生じる中で、近年、企業側も転勤施策の見直しを行っている。特に、全社的に定期的な転勤が多く行われてきた金融業界では制度変更が進みつつある。以下にその事例をまとめた。

新型コロナ以前の2019年にいち早く動き出したAIG損害保険では、新制度導入後、新卒応募が10倍に増加したという。

就職みらい研究所の調査によれば、就職活動をする学生が「希望の勤務地に就けるかどうか」を重視する傾向は年々高まっている[5]

 

少子高齢化、長期雇用の前提が崩れつつある時代において、企業には働く人の意識や社会情勢、労働市場の変化をいち早く察知し、活用可能なテクノロジーを取り入れ、制度の見直しを図ることが期待される。

 

新卒一括採用や育成制度とも密接に絡む転勤施策の見直しは、決して容易ではない。
しかし、企業・社員双方の負担を減らすだけでなく、日本において企業が必要な人材を確保し存続していく上で待ったなしの状況といえるだろう。

(執筆:小山 はるか)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Kenny Eliason

 

[1] 小山はるか(2021)「総合職共働き世帯における転勤発生時の意思決定プロセスとその影響」『日本労働研究雑誌 63 (727特別号)』,労働政策研究・研修機構

[2]  武石恵美子『キャリア開発論』中央経済社

[3] 佐野晋平・安井健悟・久米功一・鶴光太郎(2019)「転勤・異動と従業員のパフォーマンスの実証分析」独立行政法人経済産業研究所

[4] 松原光代(2017)「転勤が総合職の能力開発に与える効果」佐藤博樹・武石恵美子編『ダイバーシティ経営と人材活用 多様な働き方を支援する企業の取組み』

[5] 就職みらい研究所(2024)「特定の地域で働きたい学生が増えているのはなぜか?大学生の働きたい組織の特徴の研究レポート①」

この記事で書きたいことは、以下のような内容です。

 

・昔SEの先輩に、「技術の詳細に通じていなくても、「そういう技術、そういう解決法がある」ということを把握しているだけで十分役立つ」と教わりました

・エンジニアの能力を測る尺度の一つとして、「課題」「問題」に対するアプローチをどれだけ思いつけるか、というものがあると思います

・「こういうやり方があった筈だ」「こういうアプローチが出来る筈だ」ということがなんとなくでも分かっていれば、それをとっかかりに調べることが出来ます

・その「そういう解決法があるということはなんとなく分かる」という状態を広げる為に、基盤技術に関する知識が重要です

・これは、生成AIに色々聞けるようになった今でも変わらないというか、むしろ昔以上に「とっかかり」の重要性が増しているような気がします

・「引き出しを増やす」という視点での勉強と、それを活かす為の基礎の重要性を、新人さんにも伝えようとしています

・新入社員の方は無理せずがんばってください

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

以前から何度か書いていますが、しんざきはシステム関係の仕事をしています。元々の専門分野はDBで、PostgreSQLやMySQLやOracleやらをちょくちょく使ってました。

最近は自分でがっつりDB扱う機会はあまりないんですが、新しい技術が出てくるときゃっきゃ言いながら試したりはしてます。オンプレのOracle 23cいつGA来るんでしょうね?(Free版はもうある)

 

で、立場上新人さんを見ることもしばしばありまして、ちょこちょこ相談を受けたりもするんですが、先日新人さん向けのキャリア勉強会みたいなものが何回かありまして、そこに呼ばれて色々と話してきました。

その中で、「ChatGPTやCopilotのような生成AIが発展してきている中、エンジニアは知識をどう身に着けて、市場価値をどう高めていけばいいのか」というようなテーマが出ました。

 

市場価値っていうと大仰ですが、要は「AIが色々教えてくれるんだから、一人ひとりが知識を身に着ける必要ってあんまりないんじゃないの?」的な話ですね。

まあ、新人さんの立場的には「今やってる勉強意味あんの?」とは聞きにくいと思うんで、だいぶオブラートに包まれたタイトルになった感じです。

 

私の個人的な回答は、一言で言うと「そんなこと無いでしょ」なんですけど、その時話した内容が新人さんにも割と好評だったので、文章でも書いておきたくなりました。

 

ということで、以下はその勉強会で話したことの要約です。

 

エンジニアの能力とか市場価値って、もちろん色んな尺度や評価軸がありまして、人によって、組織によって、何を重視するかは変わってきます。

 

例えばコーディングスキル、フレームワークやアーキテクチャに関する知識の広さや深さ、論理的思考力。ビジネス要件をシステムに取り込むことが上手いかどうかが重要な尺度になることもあれば、コミュニケーション能力とチームビルディング能力が重視される場面もあるでしょう。

 

ただ、割とどんな組織、どんな場面でも重視される能力の一つとして、「問題や課題を解決しようとする時、その為のアプローチをどれだけ手広く考えられるか」というものがあるような気がしています。

問題解決能力って言っちゃうと、もうちょっと話が広くなるんですが。

 

当たり前のことですが、何かの問題を解決する時、その回答は一通りだとは限りません。

大抵の場合、問題解決の為にはいくつもアプローチがありますし、その時々によって適した解決法は変わってきます。

そして、問題の解決の為には「問題の掘り下げ」「原因分析」「ゴール設定」「解決する為のアプローチの案出」といった作業が必要になります。

 

例示なので単純な話にしちゃいますが、「手入力での作業が滅茶苦茶煩雑で、作業者が疲弊してるのでなんとかしたい」というシンプルな問題であっても、根本原因がどこにあるのかはかなり色々掘り下げないと分かりませんし、その先のルートも様々です。

「Excelちょっと変えれば済むやん」という話もあれば、「そもそもその業務必要なんだっけ?」という話も、「業務システムのパッケージ入れましょう」「がっつりRPAで自動化しましょう」という話もあるでしょう。

 

金銭コスト、時間的コスト、作業の難易度、期待効果、人的リソース。ちょっと場面が変われば所与の条件も全く変わるので、「どのルートを選ぶべきか」というのは常に選択困難です。とれる手段が多ければ多い程、最適なルートを選べる可能性は高くなります。

 

実際の仕事の場面では、話は上の例より五段階くらい複雑で、解決ルートも分岐どころかラビリントスの大迷宮みたいになってることがもっぱらなので、「色んな解決法を案出して、それを比較・分析して適切な道筋を見つけ出す能力」というのは仕事をする上で滅茶苦茶重要、これが出来ればそうそう食いっぱぐれることはない、という話が、まず一つ前提としてあるわけなんです。

 

***

 

で。

別に生成AI時代に限らず昔からそうなんですが、何かの問題や課題について解決法を考える時って、必ず「とっかかり」が必要になります。

 

将来どうなるかまではちょっと分かりませんが、まだ現時点の生成AIは「簡単な質問でなんでも解決してくれる魔法の箱」ではありません。

生成AIから知識を引き出すことはいくらでも出来るんですが、その為には多少のノウハウと検証能力が必要で、「なんも分からん」という状態から解決のルートを見出すのは案外そこまで簡単でもないんですね。

 

誤情報に惑わされないようちゃんと検証する必要があるのはもちろんですが、ざっくりした質問にはやっぱり一般的な情報しか返ってこなくって、多少は具体的にポイントを絞った質問をしないと、有用な情報が得られないわけなんです。

 

知識を得るための、入口となる知識が必要。この点は、Googleなどの検索エンジンで頑張って検索していた頃と根っこの部分はあまり変わっていないような気がしますし、一朝一夕で変わるような問題でもないような気がします。

 

で、この「ポイントを絞る」為には何が重要かというと、「なんとなくだけど、こういう解決法があったような気がする」「こういうアプローチがありそうな気がする」という、

「ぼんやりしていてもいいから、取り敢えず「そういうことが出来そう」という理解だけは持っておくこと」

なんですよね。

 

もちろん技術知識自体に精通していればそれに越したことはないけれど、「こういうことが多分出来る筈」ということだけわかっていれば、それこそ検索エンジンやら生成AIやらを使って詳細を調べることが出来ます。

 

必要が生じれば、調べて身に着けることは出来る。けれど、そもそも「そういうアプローチがある」ということを知らなければ、その知識にたどり着くことさえ出来ない。

例えばの話、プロセスの排他制御という概念自体を知らない人がセマフォの使い方にたどり着くまでには、それなりのハードルがありますよね。

 

この話、私自身、私が働いていた会社の先輩から教わったことなんですが、その先輩は「知識の背表紙だけ最低限覚えておく」と言っていました。プログラミングが分かる人なら、「知識へのポインタだけ抑えておく」でも通じるでしょうか。

 

ちなみに、こういう「知識へのポインタ」を増やす為に、一番有用なのって「基盤技術に関する知識を身に着けること」じゃないかと思っています。

それこそOSI参照モデルとか、コンピュータ・アーキテクチャとか、OSがどうやってファイルからデータを読みだしているのかとか、基本情報技術者試験に出てきそうなやつ。

 

どんな技術、どんなプロダクトでも、一番根っこになる部分って共通だから、技術の根本の部分を辿ると「根っこに戻って他のルートを推測する」ということ、言ってみれば「知識のポインタとポインタを繋ぐ」ことが出来るんですよね。

「これが出来るってことは、多分こういうことも出来るだろ」って類推が効くようになる。推測出来れば、調べられる。だから、ある一つの知識を身に着けることが、直接「その知識以外の背表紙」を把握することにもつながる。

 

生成AI時代になってもその重要さは何の変わりもなく、いやもしかすると昔以上に重要になっているかも知れない、全然不要になんてなってませんよと、そんな話をしたわけです。

 

だから私は、「何で直接使うわけでもない基盤技術についての勉強なんてしなくちゃいけないの?」と聞かれたら、「問題解決へのとっかかりを増やすのが楽になるから、だと思います」と答えます。一見役立たない知識のように思えても、案外技術者としてのバックボーンになるものですよ、と。

そんな話だったわけです。

 

そういえば世間ではもう新入社員さんが仕事をし始める時期になりまして、知らなかった世界に目を回していらっしゃる頃かとも思い、老婆心ながら上記のようなお話が少しでも参考になればと考える次第です。皆さん無理せず頑張ってください。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Mimi Thian

2023年の夏、ある小さな記事がアイロニー好きなイタリア人たちを愉しませた。

ニュースは、ヴェネツィアのゴンドラの定員数を巡る事件を扱ったものだ。

 

世界的な社会問題となっている「肥満」が、観光業に少なからぬ影響を与えていることを示唆する記事だったのだが、本題のほかにもイタリア的な問題を内包したニュースであった。

さまざまな意味でイタリア人を苦笑させたニュースを紹介する。

 

ゴンドラ乗船定員数は6人から5人へ!体重問題か、あるいは値上げの口実か

2020年、コロナ禍の真っただ中にあったヴェネツィアは観光客の激減し、その影響で海水の透明度が増したことが大きなニュースになっていた。

一方で2020年7月、ある規則が改正されていたのである。それは、ヴェネツィア市がゴンドラに乗船できる人数を、6人から5人へと減らすという内容だった。

 

表向きの理由は観光客の「肥満化」である。

ゴンドラの漕ぎ手は「ゴンドリエーレ」と呼ばれ、気風のよさがウリの職業だ。彼らに言わせると、「ここ数年の観光客は太り過ぎだ。ま、パスタやハンバーガーが美味しすぎるからしょうがないな」ということになる。

 

観光客の肥満化があまりに顕著で、安全性を考慮すれば、笑ってばかりいられる状況ではなくなったということらしい。

ヴェネツィア市はゴンドラの定員を6人から5人に減らしただけではなく、「ダ・パラダ」と呼ばれるタクシー代わりの船の定員も、14人から12人に変更されたのである。

 

具体的な例を挙げるとこうなる。

36人のグループがヴェネツィアを旅行中にゴンドラに乗ろうと思ったら、以前は6艘のゴンドラで足りていたものが、現在は8艘必要なのだ。ゴンドラ1艘のレンタルは80ユーロであるから、36人グループの負担は160ユーロ増えるという計算になる。

 

一部のジャーナリストは、これは「肥満」を口実にした実質的な「大幅値上げ」ではないかと皮肉っている。というのも、ヴェネツィアのゴンドリエーレの多くは世襲制なのだ。

ゴンドリエーレの息子ならば理論的なペーパーテストもなく、ゴンドラに乗って漕ぐだけの簡易的な実施試験でパスできるといわれている。

 

代々ゴンドリエーレを務める家族にとってはそれだけでもメリットがあるのに、定員数が減らされたことで、棚からぼたもち式に収入が増えることになったのだ。

とはいえ、この問題は長らく話題にもならなかった。脚光を浴びたのは、ある事件が発端となった。

 

子供が4人いる家族は一家で一艘のゴンドラには乗れない?

事件の全容はこうである。

一組の夫婦が、学齢期の4人の子どもを連れ一家6人で1艘のゴンドラに乗ろうとしたところ、定員数超過を理由に乗船を拒否された。

夫婦は、子どもの1人に障害があること、また4人の子どもはまだ幼く、家族6人で乗船しても大人5人の平均体重の合計には満たないことを主張した。

 

ジャーナリストによれば、ここで実にイタリア的な問題が発生する。

ゴンドリエーレは規則を盾に、あくまで5人以上の乗船は認められないと言い張った。一方、一家に雇われていたツアーガイドは、子どもの年齢と家族の合計体重、また障害を持つ子の存在を配慮して特例を認めろと迫る。

 

そこで、警察が呼ばれた。イタリアの警察はいつものごとくである。「我々にはわからないし興味もない。水上警察に言ったらどうだ」というわけだ。

呼ばれた水上警察は事情を聴き、「この場合は6人乗船でかまわない」と許可を出した。

 

おさまらないのはゴンドリエーレたちだ。「特例」がこうも簡単に認められるのならば、規則を変えた意味がないというわけである。

実際、水上警察から口頭で伝えられるだけの「許可」なのだから、航行中に別の警察に規則違反を示唆されたら、ゴンドリエーレは罰金を払わなくてはならなくなる。

 

というわけで、水上警察の介入も役には立たず、ゴンドリエーレの主張によってこの家族は1艘のゴンドラに乗船することを諦めざるを得なくなった。

ヴェネツィア市の先導でこうした特例のための公式な書類等が用意されないかぎり、今後も同様の問題が起こる可能性はある。

 

2023年4月現在、ヴェネツィアのゴンドラに関する規則(REGOLAMENTO COMUNALE PER IL SERVIZIO PUBBLICO DI GONDOLA)には、それに触れた項目は加筆されていない。

 

このニュースはまず、肥満した観光客の近況が笑いを誘った。イタリアの肥満率も、決して低くはないからである。それと同時に、さまざまな問題の対処が後手後手に回り、かつ責任の所在をたらいまわしにするという、変わらぬイタリアの姿を浮き彫りにしたのだった。

イタリア人が自嘲したという意味での、苦い笑いも誘ったのである。

 

観光客の肥満化が規則を変えた前例はある

ところで「実質的な値上げの口実」とされた観光客の肥満化は、なにもヴェネツィアだけの問題ではない。肥満が規則を変えた前例があるのである。

 

それが、ギリシアのサントリーニ島のロバ観光だ。ロバの背に揺られて520段の石畳の階段をのぼり、エーゲ海を望むパノラマを眺める。これは長年にわたり、サントリーニ島で人気の観光スタイルだった。

 

ところが2019年、ニコス・ゾスゾス市長は「自分の足で頂上まで登ろう」というキャンペーンを実施した。その理由が、観光客の肥満化によるロバの疲弊と健康被害であったのだ。

 

夏ならば気温が30度を超えるサントリーに島で、観光客を乗せるロバは1日4~5往復するのが常である。ところが観光客が太り過ぎた結果、ロバの疲労度が増大しただけではなく、脊椎等に問題が発生するケースまで増えたのだ。

ギリシア地域開発・食糧省は、ロバに乗ることができるのは体重が100キロ未満、あるいはロバの全体重の5分の1未満の人のみと規則を定めたのである。

 

どうしても坂道を歩きたくない人はケーブルカーの仕様を推奨するなど、観光客の肥満化によるロバへの弊害を阻止するべくさまざまな試みが行われている。

地中海世界は食事が美味しく、ついつい食べ過ぎてしまうことは否めない。ロバに乗って観光をしたいのならば健全な体重を保持し、食べ過ぎない用心も必要というわけだ。

 

日本人はまだまだ大丈夫?肥満度の世界比較

日本肥満学会のデータを参考にすると、人口1億人当たりの肥満率が男女とも60%を越えているアメリカやメキシコに比べれば、日本は40%にも満たない。(※1)

観光地で肥満を理由に楽しめないという状況は生まれにくいといえる。

 

とはいえ、肥満の要因の最たるものは「食生活」にあることでは変わりはない。(※1)旅行先のおいしい食事も節度を持って食べ、よく歩き、見聞し、心身共によき刺激を得ることがよき旅行の基本ではないだろうか。

 

 

【著者プロフィール】

cucciola

ライター。

歴史と美術のオタク。

通常は書籍をお供にイタリアの山に引きこもり中。

 

 

<引用元>

※1.日本肥満学会「肥満・肥満症の疫学」

http://www.jasso.or.jp/data/magazine/pdf/medicareguide2022_08.pdf

コロナ禍をきっかけにリモートワークが推奨され、同時にペーパーレス化や各種デジタル化も進んだ。

いままで遅々として進まなかったデジタル化が一気に広まり、「やればできるじゃん」と多くの人がSNSにポストしていた記憶がある。

 

巷ではすっかり、アナログ=非効率で減らすべきもの、デジタル=効率的で推し進めるべきもの、という認識になっているようだ。

 

ただわたしは、「効率化のためにデジタルを導入すべき」という主張には、まったく共感できない。

なぜなら、デジタル化したせいで余計な作業が増えている場面が、たくさんあるからだ。

 

デジタル化を受け入れる人と反対する人の溝

先日、マダムユキさんによる『非効率大好き「現金主義者」に明日はない』という記事が公開された。

 

記事は、とある商店街の組合で、いままで集金だったものを振込に変更した話からはじまる。以下は、振込になったことを喜ぶヘアサロンのオーナーの言葉の引用だ。

「いやぁ、前の事務員さんはわざわざお店まで集金に来ていただいてたのに、こんなことを言うのは本当に申し訳ないんですけど、実はこっちとしても負担だったんですよね。
忙しくても接客中の手を止めて対応しないといけないし、集金のためにお店に現金を用意しておかないといけませんから。
その点、振込だと自分のタイミングでできますからね。アプリからの振込だと手数料もかからないですし。
請求書もデジタルにしていただいて、管理がグッと楽になりました」

一部の人からは振込になったことを歓迎された一方で、やはり「従来通り集金のほうがいい」と言う人もいたらしい。

 

そういう人に対して筆者は、デジタル化を嫌う人たちのお店は総じてうまくいっておらず、サービスを請け負う側の人間が減っているのにいつまで昔の意識を引きずっているんだ、と苦言を呈す。

たしかに、デジタルアレルギーで変化を嫌う人は一定数いる。時代に適応しようとする人からすれば目の上のたんこぶで、さぞかし邪魔くさいだろう。

 

が、わたしは振込に反対する人の気持ちもちょっとわかる。だってアナログは、他人に丸投げができるから。

 

デジタル化のせいで作業が増えて非効率に…?

先月、確定申告を税理士に依頼するため、書類の準備をしていたときのこと。

改めて、「デジタルって面倒くせぇな」と思った。

 

アナログの紙の書類のことではない。デジタル化されたデータの管理が面倒くさいのだ。

光熱費や年間の保険料などはすべて書類で郵送してくれるので、それをまとめて税理士に手渡しして「あとよろしく」で済む。

 

しかしデジタル化されたもの、たとえばアフィリエイトの収益であれば、サイトにログインして収益画面を開いて、PDFをダウンロードして、名前をつけてフォルダに保存して、メールを立ち上げて、税理士のアドレスを入れて添付しなきゃいけない。

本屋で買った資料本はレシート1枚の提出で済むのに、Amazonで買った場合、注文履歴から該当の本を選んで明細書をダウンロードしてフォルダに保存して……という作業を、何冊も延々と繰り返す必要がある。

 

こういう状況もあるから、よく言われる「アナログは非効率でデジタルは効率的」論を聞くと、「えっそうか……?」という気持ちになってしまう。

 

そもそもアナログであれば、たいていの作業を他人に丸投げすることができるのだ。

確定申告なら、レシートや請求書をまとめて税理士に渡せば、向こうが全部整理して計算して申請してくれる。

でもデジタルでは、明細やらなにやらを全部自分で画面からダウンロード・保存して、メールに1つずつ添付しなきゃいけない。

 

チケットの払い戻しだって、自分でやる場合、サイトにアクセスしてログイン、本人確認をして、チケットの購入日やチケット番号などを全部ぽちぽちと入力する必要がある。窓口に行けば、担当者が代わりに全部やってくれるのに。

 

最近こぞってアプリ化された各種ポイントも、QRコードやアプリショップからダウンロードして、個人情報を全部入力して、トップページ→ポイント→ポイントを貯める→この画面をレジで提示してください……とまぁ面倒くさいのなんの。

ちょっと前は、ポイントカードを出せばレジの人がスタンプを押してくれて、「500円引きできますけどどうします?」って聞いてくれて、うなずけば店員さんがいい感じに処理してくれたのに。

 

今までは他人に丸投げできていたのに、デジタル化したせいで「自分でやらなきゃいけないこと」が増えてる場面がたくさんある。

それを「効率化」と言われても、「いや、やること逆に増えてるんだけど……?」と思うのだ。

 

アナログは他人に「丸投げ」できるから楽

そもそも、アナログとデジタルは「効率」の点で比較されることが多いけど、「責任が誰にあるか」も重要だと思う。

 

デジタルだと基本的に、アクセスや管理権限は本人にかぎられる。クラウドで共有化などもできるが、それにもいちいち設定が必要だ。

つまり、責任は「本人」。

 

一方のアナログは、「誰か」に責任を丸投げすることができる。現物を持って窓口に行けば、窓口の担当者が「責任」を負ってくれるのだ。

セルフレジでトラブルが起こって、従業員がいなかったら、そのトラブルは自分の責任。でも従業員がいれば、その人が責任を負ってくれる。

だから結局、誰かしらが待機しているのだ。

 

アナログ=非効率な場面はたしかに多くあるけれど、デジタル化では自分がすべき作業とそれに伴う責任が発生するので、「そんなの面倒くさいから他人にやってもらいたい」という需要においては圧倒的にアナログが強い。

 

デジタル反対派は、新しい物への抵抗感もあるだろうが、根本的に「自分ができなかったら自分の責任になってしまうから嫌だ」という気持ちもあるんじゃないだろうか。

そういう人に対し、「効率」を根拠にデジタル化を認めさせようとしても、意味がないのだ。

 

デジタル化は効率のためではなく労働力のために必要

「効率」を判断基準にすると、デジタル化に反対する人の気持ちもよくわかる。

場合によっては自分の作業が増えるし、責任をとってくれる人もいなくなってしまう。それなら、他人に丸投げできていたアナログのほうがいい。そう思う。

 

それでもデジタル化が必要なのは、効率の問題ではなく、労働力の問題だからだ。

アナログにおける「人で解決する」方法を採るためには当然、「人」が必要になる。しかし日本は今後人口が減る見込みで、働き盛りの年齢層の人はどんどん少なくなっていく。

 

労働力が減っていく以上、他人に任せていた面倒な作業を自分でしなきゃいけなくなるのはしかたない。そして、自力でできるようにするためのシステムがデジタル化なのであれば、受け入れざるをえないだろう。

 

確定申告での請求書をPDFでダウンロードすることだったり、セルフレジで支払い方法をいちいち選ぶことだったり、ポイントを貯めるためにアプリをダウンロードすることだったり……。

今はもう、かつてのように「どんな仕事でもいいから働きたい人」がだぶついていた時代とは違う。経営者からの理不尽な要求に労働者が耐える必要がないのはもちろんだが、これからは業種に関わらず、省力化していかなければ現場が回らなくなっていく。

どんなに経営者や消費者が人手をかけたサービスを望んでも、サービスを請け負う側の人間が猛スピードで社会から消えているのだから。
出典:『非効率大好き「現金主義者」に明日はない

冒頭で紹介した記事中にもあるように、便利かどうかで判断できるほど、日本はもう人的資源に恵まれている国ではない。今後その状況は、さらに悪化するだろう。

 

アナログは「人」で解決し、デジタルは「システム」で解決する。

人がいなければ当然、システムでどうにかするしかない。

 

アナログの効率が~とか、デジタルのほうが便利~とか、そんな悠長なことを言っているから「デジタル化すべきかどうか」なんて話になるのだ。

正しくは、「効率のためにデジタル化すべき!」ではなく、「人力で解決していた作業を担う人はもういない、デジタル化したから自分でやれ!」じゃないだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Rhamely

功利主義に向き合う

いきなりだが、どうもおれは功利主義者らしい。反出生主義などの持論を述べていたら、そう指摘された。

なるほど、反出生主義論者のベネターの考え方は功利主義的かもしれない。

 

とはいえ、おれは功利主義をよく知らない。「最大多数の最大幸福?」くらいのものだ。なので、おれは本を読んでみることにした。

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たとえば、有名なJ.S.ミルなどはなんといっているのだろう。『功利主義』の冒頭はこんな文章で始まる。

正と不正の判断基準をめぐる論争は、解決に向けた進展が少しも見られない。人間の知識の現状を作り上げている環境要因のうちで、これほど期待はずれなものはほとんどない。

最も重要なテーマに関する思索でありながら、長いあいだ立ち後れたままであり、期待はずれという点でここまで際立っている環境要因はほとんどない。

哲学が誕生して以来、最高善に関する話題、あるいは同じことになるが、道徳の基礎になる問題は、抽象的な思想の中での主要問題として考えられてきた。才能に最も恵まれた識者たちがこの問題に没頭し、教派や学派に分かれて活発に戦い合ってきた。

二千年以上を経た後でも同じ議論が続き、哲学者たちは依然として、相変わらずの旗印の下にそれぞれ陣取っている。思想家も世間一般の人々も、この問題に関する意見の一致には近づいていない。

なんとまあ、正・不正の問題は長年論じられてきたが、期待はずれでしかないという。教派や学派に分かれてきたという。それはなんだろう?

 

……とか、白々しく書いてみたが、この本より先に功利主義についての本を一冊読んだ。

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『功利と直観 英米倫理思想史入門』、これである。功利主義の初心者が読む本なのかはわからない。わからないが、入門と書いてあるのだからいいだろう。というか、ちょっと読んでみて、「これはおもしろいぞ!」と思った。

 

この本の「はしがき」はこう始まっている。

現代英米の論争では、功利主義と義務論という二つの理論が大きく対立していると言われる。

功利主義(utilitarianism)とは、行為や政策が人々に与える結果を重視する立場であり、最大多数の最大幸福に役立つ行為が倫理的に正しいとする考え方である。一方、義務論(deontology)は、そのような結果の善し悪しにかかわらず、世の中には守るべき義務や倫理原則があるという考え方である。

 たとえば、「政治家は公約を守るべきだろうか」と質問されたとしよう。一般的に言えば、政治家が公約を守ることは正しく、公約を守らない政治家は非難されるだろう。

では、なぜ公約を守るべきなのか。この質問に対しては、「人は自分がした約束を守るべきだから」と答えられるだろう。では、なぜ人は約束を守るべきなのか。この問いに対しては、功利主義者と義務論者で答え方が異なる。功利主義者は、「人々が約束を守るべきことによって初めて協力関係が成り立つ。そこで、人々が約束を守らず協力関係が成立しない場合よりも、約束を守ったほうが、社会全体の幸福が増すからだ」と答えるだろう。

一方、義務論者は、「約束を守るという行為が正しいのは、それがまさに人の守るべきルールだからだ。約束を守ることによって社会の幸福が増えるかどうかという結果の善し悪しには依存しない」と応えるだろう。

したがって、功利主義では、(たとえば政治家が数年前に発表した公約が現在の実情に合わなくなった場合など)約束を守ると社会全体の幸福量が減ってしまうと考えられるならば、約束を破った方がよいことになる。それに対して義務論では、たとえどのような結果が生じるとしても、約束は約束であるがゆえに果たされるべきことになる。

タイトルにある「直観」はいろいろあって「義務論」と現代では呼ばれるようになっている。二十世紀に入る前は、「功利と直観」であった。

 

この本では、近代における直観主義のはじまり、それに対するベンタム、ミル親子による批判からはじまり……。それぞれの陣営で百家争鳴というか、いろいろな理論が主張され、批判され、あるいは調停されようとする現代までの流れが書かれている。

同じ派でも意見の相違はある。なので、おれは功利主義どころか、高卒の無学なので本書を十全に理解した、覚えたということはできない。

 

ただ、「功利と直観」という根底の対立というものは現代までありつづけているものだとなんとなくわかった。わかったうえで、どうしてもおれは、やはり「功利主義者」だな、と思った。

 

しかし、どうも、「功利主義」というのはある種の汚名のようなものであり、先の子ミルの翻訳者もイメージの悪さから『効用主義』というタイトルにしようかと考えてみたとあとがきで書いている。本書でも「功利的」とか「功利主義」は誤解を受けやすい言葉であり、「公益主義」、「公利主義」、「大福主義」などの訳語が提案されていると指摘している。大福主義?

 

おれにはあまりそんな意識がなかったが、そういうところもあるのだろう。そんなのは知らないおれは、自分を「功利主義者(の見習い)」くらいの自己規定をしたといっていい。

 

そこに正義はあるんかい?

精神の外にある真実が、観察や経験の力を借りることなく直観あるいは意識によって認識できるという考えは、現在、誤った諸学説やよからぬ諸制度の大きな知的な支えになっていると私には思われる。

こういう理論の力を借りて、起源もはっきり思い出せないような根深い信念や強烈な感情の一つ一つが、道理によっておのれの正当さを立証する義務をまぬがれることができ、おのれの正当さの証人はおのれ自身だけで十二分だとばかりに傲然とおさまりかえっているのだ。

『功利と直観』より子ミルの『自伝』

道徳的真理がア・プリオリなものかどうか。すごく雑に言えば、功利主義はそれを認めないし、直観主義はそれを認める。

 

すごく雑にいえば、おれは直観主義が主観主義にすぎないと感じるし、外的な基準なしに正・不正が決められてたまるかという感じがする。

 

いきなりシジウィックという人の話になるが、こういうことだ。

その一方でシジウィックは、(功利主義と対比される倫理学の一方法としての)教義的直観主義は、倫理学の方法としては不十分であると主張した。善意、正義、約束、誠実など、常識道徳が支持する様々な道徳概念は、一見すると自明な(prima facie)道徳規則を提示しているように思われる。

だが、科学的な公理が満たすと考えられる四つのテスト(明白で正確な言葉で述べられている、注意深く反省しても本当に自明である、他の真理と衝突しない、「専門家の意見の一致」が十分に得られている、の四つ)をクリアできるほどの自明性は持たない。

『功利と直観』

このあたり、もう西洋哲学はよくわからないが、子ミルのカント批判に乗ってしまうところもある。むずかしいのでカントなど読めないが。

 

どうもおれは、ア・プリオリな道徳を信じていない。「道徳器官」のようなものはない。「本当に大切なことには説明が必要ない(説明ができない)」という立場には立てない。心底そういうところがある。

 

上タン功利主義

おれがこのような功利主義者だな、と思った具体例が先日あった。ネット上の論争みたいなものだ。

 

もう、忘れている人も多いだろうが、「焼肉屋の食べ放題で上タン50人前頼んだら止められた」問題だ。

これは一部のネット上で賛否両論の意見がたくさん出た。曰く、「食べ放題なのだからいくら注文してもよい」。曰く、「品がないし、他のお客さんのことを考えていない」。

 

おれはこの、どうでもいいといえばどうでもいい話題に、非常に敏感になった。そして、二度も自分のブログで記事にした。

上タンばかり頼んでなにが悪い? 暗黙の了解があるというなら見せてみろ / 関内関外日記

こんな話題があった。おれはこれは完全に店側の落ち度だと思った。それが食べ放題というものだろう。店と客との契約だろう。

そう思ってはてなブックマークを見てみたら、賛否両論というか、ひょっとしたら客を批難する声が多いようにも見える。

要約する。おれの立場は「食べ放題なら上タン50人前注文しようが問題ない」派ということになる。一度に50人前頼んだわけでもない、他の注文もしている、ちゃんと完食している。そういう前提ならば、なにが悪いのか、ということだ。

 

まず、契約の問題。店側に上限を設ける自由も上タンを食べ放題から外す権利もある。

それをあえてしないでおいて、客側に非があると考えるのは不当だ。

 

次に、マナー、常識、暗黙の了解について。これについておれは「暗黙の了解があるなら見せてみろ」と書いた。

だれも「常識的には3人前(5人前、10人前……)である」と言わない。あえて口をつぐんでいるかのように、ただただ50人前の非をあげつらう。

 

後者だ。おれは、この後者の物言いに、大きな疑問を持った。

たとえば、朝日新聞が「エビデンスがないと駄目ですか?」という記事を出したときは、大きな批判が巻き起こった。

「エビデンス」がないと駄目ですか_ 数値がすくい取れない真理とは/朝日新聞デジタル

 何をするにも合理性や客観性が求められ、数値的なエビデンス(根拠)を示せと言われる時代。そのうち、仕事でもAI(人工知能)が導く最適解に従うことになるのかもしれない。

それなのに、なにをエビデンスに50人前を非常識とするのか。マナー違反とするのか。

この件については、焼肉屋の内情から推論するでもなく、ただただ、「品がない」だ。

なので、おれは、あえて自分の日記でも煽り気味に「出してみろ」と書いた。それなりにコメント(ソーシャルブックマーク)が寄せられたにもかかわらず、これに答える人は皆無に近かった。

 

おれは、根拠のない「マナー、道徳、常識、暗黙の了解」、これによって人が人を叩く行為が気に入らなかった。そこに敏感になった。おれはそれを批判した。 

むやみに救急車を呼ぶなって明文化されている。そして、人はいつどこで最悪の無知蒙昧になるかわからない弱い存在だ /関内関外日記

了見があるなら、それを述べろ。あいまいな空気に委ねるな。金がないというなら、金がないといえ。金がほしいというなら金がほしいといえ。おためごかしはやめろ。「察して」ちゃんはやめろ。それはおれがずっと思ってきたことだ。

先の記事を読んで、単にルールに書いてないことはなんでもやっていいと思っている野郎だと思われたので、その誤解も解いておいた。ルールは書かれるべきだと。明示されることにより、世界の風通しはよくなると。

どうもこれは、直観的に「上タン50人前」を「道徳的でない」とする人と、そういう感覚のない人の対立ではないかと思った。おれは後者に属するというわけだ。

 

上タン問題まだ擦る

……「擦る」って言葉、なんなんだろうね。「同じ話題を繰り返す」という用法での「擦る」。

たぶん、芸人の業界用語が流れてきたものだと思うが、まあいい。まだ続ける。

 

で、功利主義的に見てみると、おれの考えでは「暗黙の了解を前提とした世界」より、「ルールが明示されている世界」のほうが不幸は少ないということになる……のだと思う。

 

「だれかが過剰な注文をすることで、他の人が食べられなくなるのでは?」

「焼肉屋が食べ放題をやめてしまい、他の人の迷惑になるのでは?」

という意見もある。

そういった意見は、単なる「暗黙の了解の強制」ではない。考えるに値するし、正しい面もある。そういう批判はあってよい。

 

だが、おれはこう考えた。究極的なところで客と店との契約の信頼性が損なわれることは社会にとって不幸である。

それにともなって客と店、客と客の間に疑心暗鬼と不信感、憎悪の感情が増えることも社会にとって不幸である。

 

ゆえに、この条件で上タン50人前を注文する行為を批難することは、社会の幸福を増やすことではない。

解決策は、店が困るのであれば、店の自由な権利によって困らないようにシステムを設定すればよい。それだけのことだ。おれはそうジャッジした。

 

たしかに、細かい部分を見ると、問題となった書き込みは露悪的な部分もあって、それに品があるかないかといえば、ないと思われてもしかたない表現だった。

それならそれで、単に「おれはこの人が嫌いだ」、「この書き込みが嫌いだ」と気持ちを表現するだけにすればいい(もちろん、「したほうがいい」とは思わない)。

 

そこに暗黙の了解の衣をかぶせたり、それを武器にして叩いたりすることに対して、おれは批判的になる。おれが根拠のない(根拠を設定すべきでない)とする「正義」を信じていないがゆえであろうし、それは危険ですらあると思うのだ。

 

人間は不完全なものだから

いずれにせよ、おれはア・プリオリな道徳、あるいは真理というものを信じていない。

なにか信心でも持っていれば、その宗教の教えによってそれを得ていたかもしれないが、そういうこともない。

 

人間という愚かな存在、愚直に、試行錯誤していくしない。そう思っている。たとえば、焼肉上タン50人前をチートやハックだという意見もあるだろう。

だが、そんなレベルではなく、法律の隙間をついてグレーゾーンをついて巨万の富を得たベンチャー、現大企業なんてものもあるだろう。

 

その行為そのものは、批判的に見ることはできるだろう。しかし、愚かな人類の流れとしては、バグの発見者であり、システムの改善のきっかけであると言えるかもしれない。あるいは、旧来のシステムの弊害が大きくなりすぎていたのかもしれない。

 

上タンでいえば、ほかの焼肉屋が「上タンには制限をつけよう」とか考えるきっかけだ(まあ、どんな大食いの人がふらりと現れるのかわからないのが食べ放題のリスクであると、わかっていないでやっているとしたら、それは店の責任と言わざるを得ないが)。

 

このように、「人間は過去、現在、未来、バカ」という立場で物事を考えていく、社会を成立させていくのを中島岳志は「リベラル保守主義」と言った。

保守主義って、本来どういうものなのだろうか。/ Books&Apps

 

功利と直観においては「理性」を直観より信頼するが、まあそのあたりはズレがあるかもしれない。でも、おれは、愚直に効用を考えていく理性を信用する。ベネターの反出生主義、ピーター・シンガーの安楽死論、一見自明に「おかしい」と思うことも、考えていくべきだ。一歩一歩。

そもそも、いろいろな文化、文明、宗教、人種、言語……多様性の時代だ。グローバルな社会だ。わかりあえないのは前提だ。そんな中で、「普遍的な道徳」というものを前提とすることは難しい。暗黙の了解は成り立たない、と考えたほうがいい。

……すべての個人を保護する道徳は、各個人が最も気にかけている道徳でもある。それとともに、各個人は、この道徳が言葉と行為を通じて周知され、きちんと遵守されることに、最も強い関心を寄せている。

J.S.ミル

(強調は引用者による)

たとえば、かなり同質的な人間集団である日本人の間でも、牛タンを巡って一つの普遍的な常識を示すことすらできない。

 

一見自明なことがら。これについて、一呼吸おいて考える必要がある。

たとえば、おれが思い浮かべるのは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という話題だ。少年が発したこんなテーマが話題になったことがあった。

 

これについて、いろいろな識者がいろいろな意見を述べた。

なかにはこんな自明なことは、問題ですらないとはねつけた人もいた。

だが、それは誠実な態度とはいえない。そんな「自明」は存在しない。なぜならば、この国には死刑という「人を殺すこと」が倫理の先の法律として成立している。そして、それを八割の人間が支持している。

 

この現状で「人を殺してはいけない」とは、常識でもなんでもない。社会の道徳判断ということはできない。

「人を殺してはいけない」なんて一見自明な道徳(自明であることに「圧倒的多数な例外」なんてないですよね?)も成立しない。

ゆえに、自明の顔をしたことには疑いを持たなければいけない。面倒くさいが熟慮が必要だ。おれは直観的にそう思うが、あなたはどうだろうか?

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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「ライターになりたいけど、どうすればいいですか?」

と、相談を受けたことがある。

 

しかしライターは「なる」ものではない。「やる」ものだ。そこに誰の許可も必要ない。

本質的には何かしら文章を書いて、公開すればだれでもライターを名乗れる。

 

そこで、「書けば、ライターを名乗ることができます」と回答した。

 

すると彼は「仕事を取るにはどうしたらいいでしょう」と言う。

確かに、お客さんを捕まえて仕事を出してもらうには、書くこととは全く別のスキルが求められる。

 

そこで、「メディアを探して売り込む方法がわからない、ということでしょうか?」と尋ねた。

 

しかしそこで彼は首を振った。

営業や売り込みが苦手で、それはしたくないのだという。

しかも実績がないので、どうせ断られるだろう、と言うのだ。

 

しかし、そういうことは、やってみないとわからないはずだ。

「書いたものをブログなどで公開していれば、実績にできますし、営業は仕事を取るなら必要なのでは」と述べた。

 

すると彼は唐突に「ライティングスクールとかはどうでしょうか」と聞いてきた。

もちろん、私が特に反対する理由はない。ただ、先ほどの話があったので「スクールは、仕事を紹介してくれるのでしょうか」と尋ねた。

それならば良いのではないかと。

 

すると彼は、仕事を紹介してくれるわけではないが、卒業生がライターになっているのだ、と説明してくれた。

そして、そのライティング教室の優れているところや実績を、熱心に私に話してくれた。

 

鈍い私も、ここに来て、ようやく気づいた。

要するに彼は「憧れだったライティングスクールに行きたい」のが最優先であり、どうすればライターになれるのか聞きたいわけではなかったのだ。

 

こうなると、「アドバイスは不要、やりたいことを後押ししてあげるだけ」という、コミュニケーションの原点に立ち返る必要がある。

ということで私は、彼の話をひたすら聴いた。

彼は納得し、帰って行った。

 

 

実は、このようなことはコンサルタントの仕事をしていて、全く珍しくなかった。

コンサルタントを雇っているにも関わらず、自分の話ばかりする経営者は、本当にたくさんいた。

 

では、私の役割は何か。

それは、彼らの思っていることを聞いて、肯定することだった。

 

アドバイスも意見も、もちろん批判も彼らは必要とはしていない。

彼らが真に必要としていたのは、「自分のやりたいことに対して、他者が肯定してくれること」だった。

 

もちろん「真のアドバイス」を求められる仕事もたくさんあった。

しかし、それよりはるかに多くの「相手が決めたことを後押しするだけ」の仕事があった。

 

そうした体験を通じて、私は一つの真理を得た。

「ほとんどの人は、他人の意見に興味がない。」のだ。

いうなれば、彼らにとっては「自分のやりたいようにやる」こと自体が目的、あるいは成果となっている。

 

これこそ、コンサルタントの仕事をしていて得た、コミュニケーションの最も根本的な知見の一つだった。

 

だからこそ、「知っている」と「実行する」そして「(企業にとっての)成果を出す」には、それぞれに巨大な差がある。

「知ろうとしない」ので、アドバイスを求めない。

「知っていてもやらない」ので実行しない。

「実行したとしても成果には興味がない」ので成果が出ない。

それが、人間なのだ。

 

 

しかしごく稀に、正反対の行動をとる人たちがいる。

 

アドバイスを積極的に求め

そこで知ったことを実行に移し

実行してたことを成果が出るまでしつこくやる人たちだ。

 

彼らはある意味、脳がバグっているので、自分のやりたいことよりも、成果のためにやるべきだとみなしたことを優先する。

そして実際、成果をあげる。

 

だから企業の中では、上の2種類の人間たちの争いが絶えない。

多数の「やりたいことだけやらせろ派」と、ごく少数の「やるべきことをやれ派」だ。

 

コンサルタントは常に、これらの人々の間に立たされた。

 

「やりたい」と「やるべき」を両立させる

そんな時に、どうしなければならなかったか。

一言で言えば、「やりたい」と「やるべき」を両立させた。

 

中でも特に効果的だったのは、「身近で簡単な、成功事例を掘り起こすこと」だった。

これはある意味、定石のようなところがあり、スタンフォード大ビジネススクール教授のチップ・ハースは著作「スイッチ!」の中で、以下のような事例を取り上げている。

 

ジェリー・スターニンは1990年にセーブ・ザ・チルドレンの一員としてベトナムに派遣され、子どもたちの栄養不足の課題に立ち向かった。

言語の障壁、限られた予算、そして政府からの圧力に直面しながらも、スターニンは大規模な開発援助プロジェクトに依存するのではなく、地元の母親たちと協力し「健康な子どもを育てている家庭の習慣」を模範として取り入れるという「ブライト・スポット」アプローチを採用した。

 

地元の食材を使い、食事の回数と方法を調整することで、彼らは栄養不足を効果的に改善する方法を発見した。

この方法は、地元の文化に根ざした持続可能な解決策を提供し、村の母親たちが自らの力で栄養状態を改善する方法を学ぶ機会を与えた。

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チップ・ハースはこれを「ブライト・スポット」と名付け、利点を紹介している。

 

身近な成功事例の効用の1つは、「他人事」でなくなること。

「この施策は、他者(コンサル)から教えてもらったことではない。私たちのすでにやっていたことだ」となりやすい。

 

そしてもう一つの効用が、「ひとまずやってみよう」となること。

すでに実施されていて、しかも成功している身近な事例は、実行のハードルが下がる。

 

仕事を行う上では、「やるべき論」よりも、「ほとんどの人は、他人の意見に興味がない。」と言う現実を踏まえて、「やりたくなるように仕向ける」という一種のハック術が、有効なのだと、つくづく感じる。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Stan Hutter

4月の入学、入社シーズンになると決まって思い出すことがある。

新社会人生活2年目から30代前半まで、10年以上も続いた苦い借金生活。その行き着く先は「闇金」だった。

あれから20年以上たった今も、最後の闇金業者との一挙手一投足が鮮明に頭に浮かぶ。

 

昨今の闇金は、顔も素性も分からない相手からサイトと他人名義の口座などを介して金を借りる「ネット型」だが、2000年代前半までは、トサン(利息が10日で3割)、トゴ(同5割)といった暴利をむさぼる闇金が、主要駅周辺に堂々と事務所を構えていた。いうなれば「店舗型」だった。

 

今から約25年前、確か31~32歳だったと思う。22歳で公営ギャンブルを扱う媒体に入社して以来、借金を重ねるようになった。

周囲にも少なからず似たようなギャンブル&夜の街仲間がいて、借金が雪だるま式に増えていっても「まあ、何とかなるだろう」と危機感は薄かった。

 

昼夜を問わないギャンブル漬けに加え、夜な夜な繁華街、色街に繰り出す生活を繰り返せば、借金額が膨らむのは当然。

銀行系カードローンに始まり、信販・クレジット会社系→サラ金(現在の消費者金融)→街金(正規業者だが、金利は出資法の上限ぎりぎり)と、金を「引っ張れる」場所を求め、主要駅前周辺や繁華街をさまよう日々が続いた。

 

その間、貸しやすい理由を見繕っては友人知人からも引っ張った。不義理、非道もいいところだ。

挙句の果てには大口の●●ローンを利用した、脱法行為まがいの金策にも身を投じた。

ピーク時の借金総額は約1500万。そして、考え得る金策がついに尽きた時、リスクを覚悟で門を叩いたのが闇金だった。

 

今も鮮烈に記憶しているのは、冒頭にも書いた「最後」の闇金業者とのやり取り。

その闇金は、神田駅から徒歩10分ほどの、古びたマンションの一室にあった。

今のように、スマホで難なく目的地まで行ける時代とは違い、当時は電信柱の板金プレートに記された町名、番地を頼りに目的地を探し出す時代。夕刻のうす暗い雑居ビル街を徘徊した末に、ようやくその闇金業者にたどり着いた。

 

神田駅は新橋などと並ぶ、都内でも屈指のサラリーマンの街。同駅周辺の飲食街では、晴れて社会人になった新入社員の歓迎コンパが、そこかしこで開催されていた。

期待と不安を胸に、先輩社員や同期らと、居酒屋やカラオケ店で元気にはしゃぐ新入社員たち。そうしたまぶしい光景が自分にもあったことを思い出しながら、「最後」の闇金業者の門を叩いた。

 

「●●商事」と記されたドア横のブザーを鳴らすと、まだ20代と思われる体育会系の男が扉を開いた。

「先ほど電話した●●ですが」。意外にも、男は礼儀正しく、「どうぞ、中へ入ってください」と私を部屋へと導いた。

その闇金業者の事務所はワンルームマンションだった。縦長の部屋の奥に、経営者と思われる60代の男が座っていた。

 

鋭い視線を浴びせるその男は、白髪交じりで角刈り。それまでに何軒も、闇金の事務所をのぞいてきたが、対応する男たちは皆、スーツ姿だった。

しかし、菅原文太を白髪にしたような、この角刈りの男は、上下とも黒のジャージー姿。足元をみると、素足で雪駄(せった)を履いていた。

 

木製の、どこか豪華な机を挟んで対峙すると、角刈りの男は「これ、書いてくれるか」と申込用紙に視線を送った。

住所、氏名、職業、緊急連絡先など、一通りの個人情報を記入すると、男は「お宅は今、青森に住んでいるのかい。それじゃ(融資は)無理だな。10万くらい、すぐに出してやりたいんだが……」と即座に言った。

 

当時は、闇金の広告が、雑誌やスポーツ紙はもちろん、それこそ公共交通機関である路線バスの車内広告にも堂々と掲示されていた時代。

電信柱や公衆電話ボックスには、ホテトル(今のデリヘルか)や何社もの闇金のチラシがパタパタ貼られていた。

 

そのどこかで目にした

「(貸金業登録)東京都知事●●」

「誰でも貸します!」

「ブラック歓迎」

「即日融資」

「金利8%」

などと、夢と希望を抱かせる広告を出していたのが、この●●商事。

この最後の頼みの綱と思われた闇金の角刈りの男から、まさかの融資NGを通告されたシーンは、今も鮮明に覚えている。

 

角刈りの男は、「青森から戻ったら、また来てよ」と、私の目を見据えて言った。直立不動で立っていた若い男に向かって、「お帰りだよ」と告げると、若い男は丁重にドア付近まで見送ってくれた。

推測だが、最後に門を叩いたその闇金は、金融を”しのぎ”とするヤ●ザで、角刈りの男は親分、体育会系の20代は若い衆だったに違いない。

 

私のような末期の多重債務者であっても、相手の目を見て、誠実に対応する姿勢は、違法な闇金業者とはいえ、筋が通っている気がした。

時代の違いと言えばそこまでだが、リスクを承知で事務所を構え、顔をさらして金を貸していたのが、2000年前半までの闇金業者。

暴利をむさぼる違法業者には違いないが、ネット経由で素性も居場所もさらすことなく、中には卑劣な手段も辞さない業者もいる昨今の闇金とは、確かに違う存在だった気がする。

 

それはともかく、本来なら最も審査が甘い、裏を返せば、債権回収に自信があるはずのヤ●ザ金融に門前払いを食らったことで、現実を直視することができたのは何とも皮肉。

その意味で、相手の心中は別として、ピシャリと融資を断ってきた、あの白髪交じりの角刈り男には、少なからず感謝の思いがある。

 

結局、その神田のワンルームマンションでの出来事を機に一念発起。自ら債務整理に動き、社会復帰の扉を開いた。

最初に利用した新橋のトイチの闇金は、元本の半額払いで完済扱いに。

競馬が共通の趣味だったその闇金経営者は、「俺が言うのも何だけど、闇金はやめときなよ」と言っていた。

二軒目の神田の闇金は、交渉で利息カットに。以下、可能な限り、自ら足を運び、債務整理を行った。

 

その後、債務整理を手伝ってくれた弁護士の後輩に「先輩、闇金には不法原因給付で、一切返済する必要はないんですよ。法的には、すでに払った金も取り戻せますよ」と言われた。

ただ、当時は勤務先や友人、知人に多重債務の事実を知られたくないという思いが強く、穏便に済ます道を選んでしまった。若気の至りで、今は猛省している。

 

振り返れば、銀行、信販、クレジット会社、サラ金、街金など、金を借りた正規の金融業者は20社以上。

友人、知人に借りる当てがなくなると、最後の手段と闇金に手を出した。闇金を一社回るごとに、「これが最後」と思いつつ、気づけば計7社の闇金からつまんでいた。

 

先にも書いたが、自転車操業のピーク時は1500万円(住宅ローンをのぞく)。

その間、いかに無駄な利息を消費したか、また何より大切な人の心(信頼)を失ったか。

ある友人から金を借り、約束の返済期限を守らなかった際、「お前がそういうヤツだとは思わなかったよ」と冷たく言われた。今も頭から離れない、ズシリと重い一言だった。一度失った信頼は、恐らく二度と取り戻せない。

 

先日の夕刻、池袋の繁華街を歩いていると、リクルートスーツ姿の新入社員を囲んだ集団が、そこかしこにいた。皆、不安を抱きながらも、いい目をしていた。20年以上も前に、神田駅で見たあの光景と同じ景色だ。

かくいう私は、今も自堕落な生活を変えられず、少なくない借金を背負っている身だが、闇金にだけは手を出していない。それだけが唯一の救い、自慢(誇れることかい!笑)だ。

 

ただ思うことは、新入社員に限らず、若い人たちには、引き返せない道に行って欲しくないこと。闇金の利用もそうだが、昨今問題の詐欺加害や人間関係で人生を棒に振るなんて、あってはならない。

明暗を分ける「ここ一番」での判断は自己責任。不安と希望に満ちた若者たちを見て、「ここ一番は冷静な判断と勇気ある行動を」と願わずにはいられない。

 

「お前が言うな!」なんてお叱りの声が聞こえてきそうですが(笑)。

 

 

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【著者プロフィール】

小鉄

某媒体で公営ギャンブル業界や芸能界など幅広く取材。

現在はフリーの執筆者として、「博打で飯が食えるか」をテーマに奮闘中。

まあ無理だろうな~(笑)

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生成AIの登場

2022年11月にOpenAIがリリースしたChatGPTは、それまでの対話AIとは異なり、実際の人間が話すような流暢な文章を生成することで一躍注目を浴びた。 公開からわずか2ヶ月でユーザ数は1億人に達し、さらに、検索エンジンにおける絶対的な地位を脅かされると考えたGoogleが社内で緊急事態宣言を出すなど、その衝撃の大きさは計り知れないものがある。

<参考記事>

生成AIで何が変わり、何が変わっていく?――自然言語処理研究者×グロービスAI経営教育研究所が語る2023年と2024年

 

ChatGPTは文章生成AI(以下、「生成AI」と呼ぶ)の一つであり、ChatGPTの登場とともに生成AIという言葉も世の中に広く浸透した。 図1に示すように2022年12月には検索回数が大きく増え、その後新語・流行語大賞2023にノミネートされるほど生成AIという言葉が一般的なものとなった。

図1 googleトレンドより
(ChatGPTが登場する2022年11月以前に検索されているのは画像生成AIの影響によるもの)

 

ビジネス現場での生成AIの活用

ChatGPTのリリースから1年強しか経っていないが、ビジネスの現場では既に生成AIが幅広く活用されている。 全てを挙げることができないが、例えば次のようなものがある。

 

  • 広告のキャッチコピー作成
  • 記事作成
  • 文章校正
  • プレゼンの構成案提示
  • アイデアの壁打ち相手
  • 問い合わせチャットボット

 

ソフトバンクグループ代表取締役会長兼社長の孫正義氏が2023年10月に自社のイベントで、「ChatGPTを使ってない人は『人生を悔い改めた方がいい』」という趣旨の発言をするなど[i]生成AIはビジネスパーソンにとって必須のツールとなりつつある。

 

生成AIにすべての仕事は奪われるのか?

ビジネスの現場で生成AIが浸透する中で、「生成AIに仕事が奪われる」という言説や生成AIに奪われる仕事一覧などの記事を多く目にするようになった。 実際、生成AIに仕事を奪われたという人も現れ始めている[ⅱ]

 

それでは、人間はこのまま生成AIにあらゆる仕事を奪われ続けるのだろうか 筆者の答えは「No」だ。正確には、一部の仕事は奪われるかもしれないが、大部分の仕事は奪われることはないと考える。 理由を以下に述べる。

 

1. 生成AIのアウトプットには間違いが含まれることがある

これはAI全般に言えることだが、AIは100%正確なアウトプットを出すことはできない。必ず間違えることがある。ハルシネーション(幻覚)と呼ばれる、生成AIに尋ねたところ知らないことをまるで知っているかのようにデタラメに答える現象もそのひとつである。 また、生成AIの学習データに誤った情報が含まれると、その誤った情報に基づいて正しくない回答を返す場合もある。

 

例えば、生成AIを文章校正に使った場合、校正結果が全て正しいとは限らない。 生成AIの結果を人間の目で必ずチェックする必要がある。 生成AIが事前にチェックしてくれているので、人間がゼロからチェックする場合と比較すると時間は短縮できるかもしれないが、人間が直接確認する必要がある点はこれまでと変わらない。 このように、仕事の進め方や時間の使い方に変化はあるものの、生成AIのアウトプットをそのまま受け入れることは危険であり、生成AIに仕事が完全に奪われることは決してないことが分かる。

 

2. 生成AIのアウトプットの品質はプロンプトに大きく影響される

生成AIのアウトプットは、指示文とも呼ばれるプロンプトに大きく影響される。 同じことを訊く場合でも、要領を得ないプロンプトと、具体的で簡潔にまとまっているプロンプトではアウトプットが大きく異なる。 もちろん、後者の方が望ましいアウトプットが得られる。
これは人間にも当てはまることで、例えば仕事で部下に指示を出す場合、指示が曖昧で分かりづらいと部下は意図通りに動かない可能性が高い。 一方、指示が具体的で分かりやすいと部下は意図通りに動く可能性が高い。

 

要するに、生成AIをうまく使いこなすためにはプロンプトを具体的に分かりやすく書く必要があり、これは人間にしかできない作業である。 なぜなら、アウトプットの目的を文脈まで考慮して分かっているのは人間だけであり、それ故に文脈を言語化できるのも人間だけであるからだ。 例えば、広告のキャッチコピー作成の場合、「広告のキャッチコピーを作成して下さい。」というプロンプトだけを生成AIに投げても望ましいアウトプットを得られる可能性は低い。 望ましいアウトプットを得たければ、

 

  • 何に使う広告のキャッチコピーなのか?
  • どのような人たちをターゲットにしているのか?
  • 文字数や文体などの制約はないのか?

 

などの文脈を言語化してプロンプトに入力する必要がある。 文脈は必ずしも言語化されているとは限らないので、生成AIが自動的に補完することはできない。 つまり、生成AIの能力を最大限引き出すためのプロンプトは、人間が作成するしかないのである。 これより、文章校正の例と同じように、仕事の進め方や時間の使い方に変化はあるかもしれないが、生成AIが人間の仕事を完全に奪うということは決してないことが分かる。

 

生成AI時代に必要な能力・スキルとは?

生成AIに仕事が完全に奪われることはないものの、仕事の進め方や時間の使い方はこれまでとは異なる。 それでは、このような生成AI時代に身につけるべき能力・スキルとは一体何であるのか? 答えは「クリティカル・シンキング」である。

 

前述の通り、生成AIの能力を最大限引き出すためには、指示内容を論理的に整理した上で生成AIが十分に理解できるプロンプトを作成する必要がある。 まさしくクリティカル・シンキングにおける「客観的な視点で考えた内容を周囲の人に納得感のあるかたちで伝える力」が求められているのである。 これまでは伝える相手が「周囲の人」だったのが、「生成AI」も対象に加わったと考えると理解しやすいかもしれない。

 

また、生成AIは間違えることがあるので、必ず正しい専門知識を持った人間が結果を確認するステップを挟む、もしくは一定の誤りが許容される状況で生成AIを利用するといった工夫が必要となる。 特に、医療など誤りが許容されない領域ではそのような工夫は不可欠である。
生成AIの弱点をどう補うのかという問題解決だと考えれば、ここにおいてもクリティカル・シンキングにおける「問題解決力」が求められる。

 

生成AIの登場により色々なものが大きく変化したように見えるが、ビジネスパーソンに求められる能力・スキルの根本はこれまでと変わっていない。 ただし、生成AIを使う人と使わない人では大きな差が付くであろう。 クリティカル・シンキングを身に付け、ビジネスの現場で生成AIを大いに活用していただきたい。

 

最後に、GoogleやOpenAIで生成AIの開発に携わったある研究者の言葉を紹介して本稿の締めとする。

原文:AI will not replace you. But another human who’s good at using AI will.

日本語訳:AIがあなたを取って代わらない。AIをうまく使いこなす人があなたに取って代わるのだ。

引用元:https://twitter.com/DrJimFan/status/1713955586310816210

 

[i] まだChatGPTを使ってない人は「人生を悔い改めた方がいい」――孫正義節が炸裂|ITmediaオンライン

[ⅱ]「AIで仕事失いました」あなたの働き方が変わる?|NHK NEWS WEB

 

 

(執筆:佐々木 健太

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【著者プロフィール】

 

 

 

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Pawel Czerwinski

ここ数か月、色々な人と「推し」について意見交換する機会があり、そうしたなかで「そういえば、承認欲求の時代の限界や最果てとして『推し』ブームを捉えることもできるよね」みたいな考えが温まってきたので、今日はそれをまとめてみる。

 

前置き:実際は、「推し」ブームの背景はたくさんある

どうして「推し」がブームが起こったかを考えると、ブームが到来した原因や要因はあれこれ思い浮かぶ。だから、これから述べる「承認欲求の時代の限界」だけが原因とは言えない。

 

たとえば「推し」という言葉の使い勝手の良さや、SNSをとおして「推し活」をリアルタイムにシェアできるようになったことや、20世紀末~00年代にかけてオタク界隈のコンテンツとみなされていたものが市民権を獲得してきたことetc……も、「推し」をブームたらしめた要因として挙げやすい。ほかにも色々あって、たとえばコロナ禍が流行してコンテンツやエンタメの需給関係が変化したこと、なども挙げたほうがよさそうだ。

 

だから、以下の話は「推し」がブームになった要因のひとつをクローズアップした話として読んでいただきたい。

 

自分をキラキラさせなきゃいけない時代があった

で、ここからが本題。

「推し」ブームが広がっていった背景のひとつとして、私は「承認欲求に動機づけられることにみんな疲れちゃったんじゃないか」を疑っている。「自分をキラキラさせるのに疲れちゃったんじゃないの?」とも言い換えられるかもしれない。

 

承認欲求ベースで充足感を得るのも、それはそれで楽しかったり心地良かったりする。

自分らしい表現、自分らしい仕事、みんなが注目してくれるメンション・アクション・ファッション。それらをインスタグラムやFacebookやtwitterにアップロードする──2010年代は、そうした自分をキラキラさせることで心理的充足をめざす活動がきわまった時期のひとつだった。

 

2017年には「インスタ映え」が流行語大賞に選ばれている。この頃は、いわば猫も杓子もインスタ映えやSNS映えを意識していた。

インスタグラムというツールも、つぶさに見れば「推し」がブームになっていく前提条件として見逃せないのだけど、さしあたり多くのユーザーの「映える投稿」を動機づけていたのは自分(や自分のアカウント)を良く見てもらいたい欲求、そして自分がキラキラしたい欲求だった。

 

でも、誰もがキラキラできるわけがない。

まだフォロワー数が伸びる余地が大きかったあの頃、実際にキラキラを演出してみせ、インフルエンサーになりおおせた人はそれなりにいた。でも、全体から見ればほんの一握りでしかない。

インスタグラムやSNSは「キラキラした自分」という金塊を全員に配っていたわけではなかった。「あなたもこれでキラキラした自分を掘り当ててください」というツルハシを全員に配っていたのだ。

 

一部の人間がキラキラできて、そうでない大多数はそこまでキラキラできない、のみならず、「キラキラ格差」を直視しなければならない──承認欲求のゴールドラッシュに沸いた2010年代の狂騒の正体は、だいたいそんな感じではなかっただろうか。

 

そうした状況が周知されていくなか、自分自身のキラキラにリソースを費やし続け、なかなかフォロワー数も増えないのに頑張り続けるのは修行僧のようにストイックなことだったし、誰もが続けられるわけがなかった。

 

キラキラできるツルハシは、それを十分に生かせる人には福音でも、生かしきれない人には呪いたりえる。自分自身と他人のフォロワー数を比べて羨むような心性が加われば、特にそれは呪わしくなりやすい。

承認欲求が心理的充足の重要なファクターだからといって、人はそこまで自分自身にリソースを突っ込みきれないし、自分を磨いて印象づけるインプレッション機械にはなりきれない──そういうことを皆が骨身にしみて理解した時期と、「推し」や「推し活」が浮上していった時期は、タイミング的にはだいたいあっている。

 

ついでに言うと、そうした承認欲求ベースであくせくする者の哀歌である「タワマン文学」が盛り上がってきた時期もタイミング的にはだいたいあっている。

 

「自分キラキラ」の病根は深い

誤解のないよう断っておくと、自分キラキラというか、承認欲求ベースの心理的充足の根っこはかなり深く、インスタグラムやSNSよりずっと前まで遡ることができる。

むしろ、インスタグラムやSNSは、既存の承認欲求ベースの社会病理に乗っかるかたちで流行した、と考えるほうが自然だろう。

 

20世紀後半を振り返っても、そこに自分キラキラを良しとする心性を発見できる。

[amazonjs asin="4061385798" locale="JP" tmpl="Small" title="「おたく」の精神史 一九八〇年代論 (星海社新書)"]

「新人類」の本質とは実は消費者としての主体性と商品選択能力の優位性にある。つまり、自分たちは自分で自己演出する服を選べる、といったより主体的な消費者である、というのが「新人類」の根拠であった。
大塚英志『「おたく」の精神史』

評論家の大塚英志は、『「おたく」の精神史』というオタクについての書籍のなかで、マイノリティとして軽蔑されるオタクの対照として、アーリーアダプター(そして以後のマジョリティの雛型)としての「新人類」についても解説している。その新人類を理解するキーワードが、商品選択能力、そして自己演出である。

 

では、ここでいう商品選択能力とは一体何なのか?

それは自己演出のツールとして服や車やレストランといった商品を選択できる能力、という意味だ。

インスタグラムのなかった20世紀において、自分自身をキラキラさせる手段は自分自身の着るもの・食べるもの・消費するものを選ぶこと、その選択をとおして自己演出をやってのけることだった。

 

田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』で偏執的に記されている、タワマン文学のご先祖様のような光景と心性は、はじめは首都圏の富裕な子女のものでしかなかったが、90年代には地方の津々浦々にまで広がり、最終的には田舎の高校生までもがブランド品を身に付ける社会状況を生み出した。

 

自分でお金を稼ぐ。自分で商品を選ぶ。自己演出をとおしてキラキラした自分になる──それは福音だったろうか、それとも呪いだったのだろうか?

大塚英志は、オタクたちはそうではなく、自分の好きなものにお金や情熱を傾けていた、といったことを記している。

 

新人類とその追従者たちがマジョリティとなった自分キラキラの20世紀末にあって、自分キラキラにリソースを費やさず、自分の好きなキャラクターやアイドルにリソースをなげうつオタクたちは異端であり、理解しがたい存在だった。

当時、オタクが激しくバッシングされていた理由は多岐にわたるが、その一部は、オタクたちが新人類的な自分キラキラの規範から逸脱していたことによると私は想像する。

 

なお、この話をさかのぼっていくと20世紀後半の日本ではケリがつかなくなって、しまいには個人主義の誕生や宗教改革の話にたどり着いてしまうので、そこは割愛させていただくことにする。

 

とにかく、ここで言いたいのは「インスタグラムやSNSが登場する前から、自分キラキラを求める心性は存在していて、しかもそれがユースカルチャーのなかではマジョリティだった」ということだ。

自分キラキラに背を向け、アニメや漫画や鉄道やアイドルに夢中になっているオタクたちは一方的に異端者とみなされ、ダサいとみなされたのだった。

 

だけどオタクたちはずっと「推し」や「萌え」をやっていた

そんな時代にあっても、オタクたちは、自分キラキラに重きを置かず、自分が好きなキャラクターや人物をしゃにむに追いかけ続けていた。

今でいう「推し」や「推し活」に相当する活動を、女性側のオタクも男性側のオタクもそれぞれ熱心にやっていた。そうした営みは現在も続いている。少なくとも各界隈、各ジャンルの中核をなしているのはそのようなオタクたちだ。

 

オタクにだって多かれ少なかれ承認欲求はあっただろうし、その兆候を読み取ることは不可能ではない。だからといって、オタクたちが自分自身をキラキラさせるための自己演出に力を注いでいたとは思えない。

 

自分のジャンルを深堀りする・キャラクターを愛する・「〇〇はわしが育てた」などと思いながらコンテンツにお金や時間や情熱を突っ込んでいく、等々は自分キラキラベースではない。個人主義と承認欲求の時代が猖獗をきわめていた時代にあってもなお、そうでないかたちで心をみたし、楽しみを享受していたのがオタクたちだった。

 

00年代後半~10年代にかけて、そのオタクたちが愛し、育てたジャンルやコンテンツは次第に市民権を獲得し、ユースカルチャーの片隅からユースカルチャーの真ん中へと移動していった。

 

オタク的なコンテンツだけでなく、オタク的な心性やライフスタイルまでもがマイノリティからマジョリティへと変わっていくなかで、「オタクが薄くなった」「オタクが出がらしになった」等々、色々なことが言われた。それらの指摘にも、納得できる部分はある。

 

でも私は、それだけでもなかったんじゃないか、とも思う。マジョリティから軽蔑されながらもオタクたちが大切に育んできた、「誰かを推したり愛したり、キャラクターやタレントに夢を仮託したりする」心性やライフスタイルは、案外ちゃんと伝播したのではないだろうか。

 

オタク的な心性やライフスタイル、特に自分自身をキラキラさせることを至上命題にせず、自分の好きなものにリソースを差し向ける心性やライフスタイルは、自分キラキラに疲れ果ててしまった社会において実は大切なことではなかっただろうか。

 

その大切なことが、オタクがマイノリティからマジョリティに変わっていくなかで伝播し、そのおかげもあって「推し」という行為と言説がこんなに広がったんじゃないかなーと私は考えたりする。

 

結語

カジュアルに「推し」という言葉が広がっていくことには功罪あるだろうし、かつて「萌え」や「オタク」が通ったように、「推し」もまた言葉ごと消費され、やがて出がらしになっていくのだろう。

 

だとしても、自分キラキラが加速し尽くし、承認欲求ベースの欲求充足に傾き過ぎた社会に「推し」ブームが起こったことにはなんらかの必然性があるだろうし、「推し」が担っているニーズは鼻で笑うべきではないとも思う。

 

誰もが四六時中、自分キラキラを追求しなければならない社会は、ほとんどの人にはディストピアだ。

誰もが自分の夢を追いかけなければならないのも同様である「推し活」はそうではない。そうではないから、生粋のオタク以外にも刺さっているんじゃないだろうか。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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少し前のことだが、友人が経営する会社の幹部会議に参加した時のことだ。

 

「いつまで昔の意識を引きずってるんや!」

「環境に適応することを意識せんと、ホンマに生き残れへんぞ」

 

そんな言葉で、部課長たちを叱責する友人。

メモを取っている幹部も何人かいるが、明らかに納得感のある顔をしていない。

 

そのため会議後、友人から感想を聞かれた時にこんなことを答えた。

「そうやな…、率直に言ってスマン。あの内容では時間の無駄やと思った」

 

不機嫌そうな顔をする友人だが、構わず言葉を続ける。

 

「まあ聞けや、理由は2つや。抽象的な指示をしたところで人の行動は絶対に変わらんぞ。『環境に適応することを意識しろ』って、具体的に何しろっていうねん」

「……」

「それから、こっちのほうが問題なんやけど、お前本当に、環境に適応することが大事やと思ってるんか?」

「当たり前やろ、それはさすがにムチャクチャな意見やわ」

「ムチャクチャなのはお前や。『環境に適応しようとする意識』なんてもん、ぜんぜん必要ないわ」

 

激しく反論する友人。聞く耳を持つかどうか自信がなかったが、説明を始めた。

 

「無謀にもケンカを売った」は本当か

話は変わるが、太平洋戦争で日本が敗れた理由といえば、何を思い浮かべるだろうか。

今の若い人の答えは、正直想像がつかない。

昭和の頃に義務教育を受けたオッサン世代は、こんなふうに教えられた。

 

「軍部が暴走し、勝ち目のない戦争に無理やり突き進んだ」

「圧倒的な国力の差がある米国に、無謀にもケンカを売った」

 

正しい一面もあるかも知れないが、こんな説明が負け戦の全てを語っているとはとても思えない。

そもそも、誰がどう見ても勝てない相手にケンカを売るなど、人の本能としても理解できないだろう。

つまり当時の政治家や軍人には、僅かな可能性であっても“勝ち目のあるシナリオ”があったということだ。

 

そして実際、そのシナリオに沿って開戦から半年ほどの間、日本は米国相手に一方的に勝利を重ねる。

本論ではないので詳述を避けるが、当時日本軍が仕掛けようとしていたMO作戦(ポートモレスビー攻略戦)、FS作戦(フィジー、サモア攻略戦)が成功していれば、米国政府は日本と講和せざるを得ないと考えていた資料すら、見つかっているほどだ。

 

ではなぜ、戦争序盤にそこまで主導権を握った日本軍が、最終的に惨敗したのか。

 

その理由として、戦史の名著として知られる「失敗の本質 日本軍の組織論的研究 (中公文庫)」では要旨、以下のような理由を挙げる。

 

・組織が硬直化し、状況に対応する能力が著しく低かった

・作戦のシナリオが崩れた際の代替プランという発想が乏しかった

 

前者について、わかりやすい例は海軍の昇任ルールだろうか。

当時の日本海軍では、海軍兵学校卒業時の成績が一生、士官の出世に影響した。

たかだか20歳そこらの時の学校成績で、最高幹部になった時の補職すら決定される仕組みだ。

世にいうハンモックナンバー制度だが、卒業した年、学校成績の順番で誰がリーダーになるかを決定する、極めて非合理的な仕組みである。

 

そしてそんな制度が最悪の形で破綻したのが、ミッドウェー海戦だった。

この時、海戦の指揮を現場で執ったのは南雲忠一・中将であったが、南雲は水雷畑の出身である。

戦争の主力は航空機に移行していることを、日米両軍ともに十分に理解していたにもかかわらずだ。

 

なぜそんな人事がまかり通ったのか。航空畑は出世ポストではなく、成績の良い士官は砲術や水雷に配置されることが定番だったからである。

「卒業順と成績順で指揮官を決めるなら、やっぱり南雲だよね」

という、ちょっと信じがたいルールによる人事だ。

 

結果、日本はミッドウェー海戦で惨敗し戦争の主導権を失うと、以降は守勢に立たされることになる。

 

その一方で、米軍の人事はどのように決定されていたか。

米軍では一般に、昇任は少将までというルールで人事が運用されていた。

そして戦況や作戦の遂行状況に応じて、一時的に中将や大将を任命する。

その後、作戦が終了もしくは目的を達成すると再び少将に戻すという、目的から逆算して最適なリーダーを決定する人事が行われていたのである。

 

現代風に表現すれば、プロジェクトごとに専務や常務を任命し、プロジェクトが終われば平の取締役に戻すといったところだろうか。

どちらの組織がより機能的なのか、論を俟たないだろう。

 

もちろんミッドウェー海戦で、航空畑の将官が指揮官になっていれば結果は変わったはず、などというつもりはない。

加えて、ここまで組織運用で差をつけられていれば、仮に日米の国力が均衡していても日本は時間の問題で敗れていたことは明白だ。

 

だからこそ、「圧倒的な国力の差がある米国に、無謀にもケンカを売った」などという敗因分析は、事実を捉え損なっている。

日本は圧倒的な物量を前に敗れただけでなく、組織運用の知恵、誤ったリーダー人事など、あらゆる要因によって、国を失ったということである。

 

「意識」なんてものは要らない

話は冒頭の、「環境に適応しようとする意識」についてだ。

反論する友人になぜ、「そんなもの必要ない」と説明したのか。

 

繰り返すが、「環境に適応することを意識しろ」などという指示は、全く意味を為さない。

そんな抽象的なことを言われて、人の意識や考え方がそう簡単に変わるはずなどないからだ。

「気合を入れて営業に行け!」と指示する昭和の営業部長となんら変わらず、何も言っていないに等しい。

 

加えて、そもそも人は損得で動くことを前提に組織運用を設計すべきで、良心や熱意で動くことを前提にしても機能するはずがない。

 

例えばアルバイトさんやパートさんのような「時間で仕事をしてくれている」人たちに、熱意を前提に仕事の指示をするなど、図々しいにも程があるだろう。

「環境に適応することを意識しろ」

というのであれば、

「環境に適応することを意識して仕事をすれば得をする仕組みを、経営者が用意しろ」

ということだ。

 

そして話は、米軍と日本軍の最高幹部人事についてだ。

日本軍では、たかだか20歳そこらの時の学校の成績でキャリアが決定的に決まる仕組みになっていたことは、先述のとおりだ。

 

言い換えれば、良い成績はキャリアの既得権益になって、合理性よりも優先するルールになっていたということである。

こんな組織で決定権をもったリーダーたちが、環境に適応することを意識するはずなど無いだろう。

ルールを変えて柔軟に組織を運営することはすなわち、自分の利益を失うこととイコールなのだから、当然である。

 

対して米軍の最高幹部人事は少将、いわば平取が通常の出世ルートでのてっぺんであった。

そしてプロジェクトや任務ごとに最高指揮官を任命し、成功すれば次があるが失敗すればキャリアを失う。

言い換えれば、環境に適応し、合理的に行動することに利益がある組織であった、ということである。

 

そんな話を友人に説明すると、最後にこんな事を言った。

「どんな仕事やプロジェクトでも役職者を固定して意思決定しているのに、環境に適応できるわけあらへんやろ」

「……」

「断言してもいいけど、部長も課長も絶対に合理的な判断なんかしてへんぞ。部下に舐められてムカつくとか、ダメ出しして仕事してるフリしようとか、そんな理由で意思決定してるからな」

「言ってることはわかったけど、プロジェクトごとに役職を上下させるなんて非現実的や」

「そこまで知らんわ。エッセンスが理解できるなら、自分の会社に合う形で取り入れたらええやんけ」

 

そして社員の「意識」に期待して説教をするなど、“部下にとって”時間の無駄であること。

機能する仕組みを作ることが、経営者の仕事であること。

それを放棄して精神論で指導をするなど、ただのパワハラであることなどを付け加えた。

 

私たちは、失敗から学ぶことの重要性について言葉の上では、誰だって理解している。

にもかかわらず、多くの人命と国を失った敗戦からすら学べていないことが、余りにも多いのではないのか。

「リーダーとはどういう存在か」というソフト面、「機能する組織の作り方」というハード面、どちらもである。

 

ぜひ、企業や組織でリーダーと呼ばれるポジションにある人には、考えてほしいと願っている。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)など

ウチの近くのココスが潰れて、介護施設になってしまいました。
若い家族向けのファミレスが取り壊され、高齢者向け施設に建て替えられる現状に、肌感覚で危機感を覚えます。

X(旧Twitter):@momono_tinect

fecebook:桃野泰徳

運営ブログ:日本国自衛隊データベース

Photo by:Ankhesenamun

NHK連続テレビ小説「ブギウギ」が3月29日の放送で最終回を迎えた。

モデルとなった昭和の歌手・笠置シズ子を俳優の趣里が演じ、全体的に音楽をベースにした構成で、最後まで飽きることなく楽しめる作品になっていたと言っていいだろう。

 

少なくとも近年の朝ドラとしてはトップクラスにおもしろかった。個人的には、2011年の「カーネーション」に並ぶほどといってもいいくらいだった。1983年のおしんに次ぐ傑作とは言い過ぎかもしれないが、名作のひとつであることは間違いない。

 

「ブギウギ」が成功した要因はなんだろうか、と中盤くらいから考えていた。もちろん欠点もあったが、それも含めまとめてみようと思う。

 

私自身はテレビやドラマの関係者や専門家ではなく、単なる朝ドラファンのひとりに過ぎない。

しかし徹底的にイチ視聴者目線で、個人的な見解のみで取り組んでみたい。

 

朝ドラを構成する主な要因は4つ。

  • 主人公
  • とりまくキャスト
  • ストーリー・テーマ
  • その他

 

細かく分けると色々あるが、大きく分けるとこの4つだ。

まず「ブギウギ」について、この4つの視点から見ていく。

 

主人公

朝ドラにおいてもっとも重要な要素が主人公であることはいうまでもない。

 

結論から言うと、「ブギウギ」の主人公を演じた趣里に点数を付ければ、10点満点中8点。

幼少時代を演じた子役は9点でもいい。

 

「おしん」の田中裕子が10点という基準で付けると、趣里は8点、「カーネーション」の尾野真千子は9点。

尾野真千子に次ぐ点数は他に1988年「純ちゃんの応援歌」の山口智子くらいだろうから、かなりの高得点といっていい。

 

朝ドラの主人公は基本的な演技力などのほかに、キャラが重要であることが分かる。美人であるといったビジュアル的な要素よりも、愛嬌があって少し助けたくなるような雰囲気や笑顔が魅力的といったポイントがある。

完璧美人な女優ではかえって浮いてしまうのが朝ドラ。たとえば北川景子では現実離れしてリアリティーが半減してしまう。

 

そういう意味ではモデルの笠置シズ子に趣里を配役したのはハマり役だったといえる。マイナス2点の理由を言うと、ごく稀にだが関西弁に不自然さがあったこと、関西弁での演技に学芸会のようなわざとらしさが入ってしまった点。

 

とはいえ全体的にいえば視聴者を引っ張っていく力は充分にあった。特に歌唱シーンは素晴らしく、中盤での「大空の弟」「ラッパと娘」、後半にかけての「買い物ブギ」などはなんともいえない神がかった魅力があった。

 

朝ドラの主人公は時折この「神がかり」、言い換えると「神々しく」見える瞬間がある。

「おしん」の田中裕子は全編にわたって「神々しく」見えていたといってもいいほどで、「カーネーション」の尾野真千子も終盤へ向かうほど神々しくなっていった。

 

趣里の場合は地の演技ではなく歌唱シーンで神がかっていた。しかも華やかなステージより練習シーンのほうが神がかっているのがポイントだ。

子役に関しては、「ブギウギ」だけでなく近年は極めてレベルが高い。子役時代は期待感が上がるのに、大人に切り替わってテンションが落ちてしまうことが多いほどだ。

 

とりまくキャスト

主人公と同じくらい重要なのがとりまくキャストで、特に家族や主要キャストがドラマを大きく左右することはいうまでもない。

 

実は近年の朝ドラでもっとも問題なのが主要キャストのキャスティングで、これによって失敗したケースも目立つ。

具体的に言うと、主人公の恋人や夫婦役に、安易なイケメン俳優などをキャスティングすることで雰囲気が壊されるのだ。

 

イケメンをキャスティングすれば一定の女性層が視聴するのは分からなくもないが、ドラマとして期待して視ているほうにすればがっかりしかなく、場合によっては見るのをやめてしまう。

 

「ブギウギ」の主要キャストは大きな欠点がなかった。10点中7点を付けられる。

家族では母親役の水川あさみや弟・六郎を演じた新人俳優・黒崎煌代も素晴らしかった。村山興業の黒田有も悪くないし、後輩役の伊原六花も良かった。

気になったのは新人マネージャーや梅丸歌劇団のメンバーの一部に不満があるが、ドラマ全体としては影響は少ない。ただし作曲家・羽鳥善一の草彅剛と村山愛助の水上恒司については言うほど高い評価とはいえないだろう。

 

とにかく近年の朝ドラとしては珍しいほど決定的な欠点がなかった。

たとえば2022年「舞いあがれ」では、主人公の福原遥は悪くなかったが同世代のキャストが全体的に悪く、さらに主要キャストの一部の関西弁がひどすぎてドラマ全体を破壊するほどの影響があった。

 

ストーリー・テーマ

「ブギウギ」のストーリーは基本的にモデルの笠置シズ子の歌手人生と重なっていて、脚色も含め不自然さや退屈さは少なかった。

テーマはドラマ的に「義理と人情」となっているが言うほどその要素はなく、とにかく歌がテーマといっていい。

 

ストーリー・テーマには特段高評価なポイントがあるわけではないが、シンプルさが良い方に転がったという点では10点中7点を付けていい。

特に良かったのは前半。宝塚に落ちて梅丸歌劇団にも入れなくなりかけてからの盛り返しや香川での出生の秘密、弟・六郎の戦死あたりまでの展開は「ながら視聴」できなかった。

 

正直に言うと後半から愛助との恋愛、作曲家羽鳥との関係がメインになってからは少しも冗長さがなかったといえばウソになる。

ではどうすれば良かったのかというと、作曲家羽鳥との絆より、新人歌手水城アユミとの関係を展開した方が良かっただろう。笠置シズ子の史実には反するとしても、ドラマとしてはその方が可能性がある。

 

最終週も期待したほどの盛り上がりには欠け、もう少し「泣き」が欲しかったというのも正直なところだった。むしろまだ終わった雰囲気がなく、続くのではないかと思えるエンディングだった。

 

改めて「ブギウギ」のストーリー展開やテーマ性からいえることは、朝ドラは「エンターテインメント」であるということだ。

つまり中途半端に社会性をくっつけたテーマやストーリー、時代の流れに合わせてメッセージ性を・・・といったことをすると普遍性を失う恐れがある。

 

「おしん」でも、脚本家の意図である「反戦」のテーマがギリギリまで抑えられ、貧困と困難に立ち向かう芯の強い女性を田中裕子が演じきったことが傑作のポイントだった。

次回の「虎に翼」は日本初の女性弁護士が男性社会に立ち向かう・・・といったテーマと聞いているが、それだけ聞くと少々心配になってしまう。

 

その他

毎日15分放送の朝ドラにとってテーマ音楽は意外と重要になる。

たとえば前作の「らんまん」ではむしろ歌を聴くために毎日テレビを付けていたと言っていい。

逆にドラマの内容は悪くないのに歌で台無しというパターンもある。

 

「ブギウギ」のテーマ音楽は10点中9点を付けていい。

個人的な好き嫌いも大きいだろうが、シンプルに、歌を聴くだけでテンションが上がる、といった基準でいいだろう。

 

テーマ音楽のほか、時代背景やセット、セリフ・言葉使いなどがあるが、「ブギウギ」ではどれも及第点だったといえる。

大阪制作で特に違和感が出やすい要素に言葉使い(方言)があるが、「方言指導」が機能していないのかと思える(前述の「舞いあがれ」など)こともあり、場合によっては俳優の出身によってキャストを考えるくらいにしたほうがいいケースもある。

 

これからの朝ドラ

「ブギウギ」の成功要素を分析してきたが、これも今後の朝ドラに期待してのことだ。

ネット上の記事では、今後の朝ドラについて「新しい挑戦をして、これまでに見たことのない朝ドラを自由に作って」といったトーンの意見が目立つ。

 

「新しい挑戦」「自由な朝ドラ」と言われて反対する人はいないだろう。

一見親切そうで好意的に見えるが、残念ながら一番無難で抽象的、底が浅く言いやすくて考え抜かれていない。現実的に深く考えていくと、むしろ逆になるからだ。誤解を恐れずに言えば、

 

  • 過去の朝ドラの成功・失敗要素を法則化し
  • マニュアル運用でき
  • 場合によってはAIも導入せよ

 

これだけ聞いて賛成できる人が少ないことは百も承知している。

むしろ「つまらなくなるのでは」「制作陣が試行錯誤しながら挑戦してこそ」「楽して良いドラマができるか」といった声が聞こえそうだ。

 

しかし挑戦や自由は単なる励ましに近く、具体的な提案とはいえない。現実には挑戦も自由も限られている。

たいていの場合、現実に効果があるのは地味で機械的なものだ。

 

サッカーを見てやみくもに「もっと前へ攻めろ」「シュートを決めろ」と叫ぶだけでは勝てないのと同じだ。

まず効果的に攻める(と同時に守る)ための勝ちパターンを作り上げてこそアレンジとして挑戦と自由がある。

 

また、ひとつのポイントは「モデルなしの名もなき一般人」を主人公にできるかどうか。

過去のスターや偉人をモデルにするメリットは多いが、「おしん」超えは「名もなき一般人」での成功にかかっている。

 

 

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【著者プロフィール】

かのまお

ライター・作家。ライターとしては3年、歴史系や宗教、旅行系や建築などの記事を手がける。作家は別名義、新人賞受賞してから16年。芥川賞ノミネート歴あり。

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「では、お互い娘たちの大学受験お疲れ様でした。カンパーイ!ねぇねぇ。ゆきは、最近の暮らしぶりはどう?近ごろはどんなこと考えてる?」

「う〜ん、暮らしぶりって言われてもなぁ…。とりあえず毎日、朝から晩まで起きてる間は仕事してるかな」

 

「えっ?ゆきって、そんなワーカホリックな人だっだっけ?」

「だって今、仕事はいくつも掛け持ちしてるし、やらなきゃいけない事がいっぱいあるんだもん。そうだなぁ。近ごろ考えてる事と言えば、税金と社会保険料の支払いのこととか、大学生になる子供への仕送りのこととか、後は、親の介護と看取り。それと、南海トラフで被災した場合にどうするかってことかなぁ」

 

「えぇ、何それ?つまんない!そんな現実的なことばっか考えて生きてるの?私たちせっかく子育てが一段落して、これからは自由なんだよ。もっとさぁ、夢を語ってよ、夢を。私はね、いつか仕事を辞めてリタイアしたら、周りに人が住んでいない田舎の一軒家に移住して、ジャムとか作って生きていきたいの。ターシャ・テューダーみたいに」

 

周りに人が住んでない田舎なんて、色んな意味で恐ろしい。

生活に不便なのはもちろん、防犯上もオススメできない。集落に人が少なければ少ないほど、人間関係も密になって息苦しくなる。

だいたい料理が好きなわけでもないのに、何でジャム作りが夢なのよ?なんて言ったら、気を悪くされそうだ。わざわざ現実を突きつけるような事を言わなくても、どうせ本気じゃないだろう。ここは笑ってスルーしておこう。

 

「そんなこと言ったって、私は今、仕事でも私生活でも、日々現実的な問題にぶち当たってんだよ。目の前の問題に現実的な落とし所を考えて、現実的に対処して、現実的に解決する作業の繰り返し。だから現実しか見えてないの」

「やだぁ。人生なんてどうせしんどいことばっかりなんだから、せめてキラキラした夢を見ていようよ〜」

「だって、嫌でも現実が迫ってくるんだもん。今まさに、『住んでいる地域が老いていく』という現実がね。住んでいる町も働いている街も、少子高齢化と人口減で問題が溢れ出してんの。真由美は東京に住んでいるから、ヤバさが分からないんだよ。東京って久しぶりに来たけど、人がいっぱいだね。子供の数は少なくても、世界中から若者が集まってる。こんなところに住んでいたら、いくら日本は少子高齢化だ人口減だって言われても、ピンとこないでしょ?」

 

「ま、人が多いと言っても、東京は外国人ばっかだけどね」

「都会では外国人が働いてくれるから、飲食店にも十分な数のスタッフが揃ってて、こうして人間がオーダーを取ってくれるんだね」

 

「そんなことない。チェーン店ではタブレットが普通になったよ」

「私が住んでる地域の飲食店では、チェーン店どころか個人経営の小さなお店でも水はセルフだし、オーダーや決済はタブレットやスマホでするお店が増えてきてるよ。働く人が居ないから。飲食店はどこも、近ごろは求人に応募が全然ないって、人手不足を嘆いてる。
もうね、地方では子供がいないとか若者がいないとか言うフェーズは過ぎてんの。高齢者をふくめて、地域全体から人が居なくなってきてるんだって。

今の高齢者って、うちらの親世代じゃん。その人たちが、地方では消費者のボリュームゾーンなわけ。つまり、これからの10年で、地方では労働者どころか消費者もゴンゴン消えていくってことなんだよ」

 

それがどういう事態をもたらしているのか、こうして東京に来てみて分かった。

少し前まで不自由を感じていなかった地方での暮らしは、これから一気に不便になろうとしているのだ。

実は物やサービスの値段も、都会に比べて割高になりつつある。

 

「ねぇ、真由美。こんなにオシャレで美味しい料理が一皿1,000円以下って、びっくりなんだけど。うちの地元でこのレベルの店へ食事に行ったら、間違いなく1.5倍は取られるね。東京は人が多いから、テーブルの回転数が違うのかな?だから客単価を抑えてもやっていけるんだと思う?」

私は首をひねりながら、カラフルな温野菜と旬のホタルイカにムース状のソースがかけられた、ケーキにしか見えないサラダを箸でつついた。

 

「東京の方が安いと感じるのは、飲食店だけじゃない。昨日ね、ホテル近くの成城石井へ買い物に行ったら、売ってるものが安くて驚いちゃった。寿司パックとか、うちの地元のスーパーよりも豪華なのに安いんだもん。成城石井は高級スーパーで値段が高いってイメージだったのに、今じゃうちの近所のスーパーの方がよっぽど高いみたい」

「へぇ〜、そうなんだ。そうねぇ、色んなコストが乗っかってきてるんじゃないのかな?
近ごろ物流コストの値上がりがエグいって聞くし。配送に時間がかかって、商圏に住民が少なくて、商品が回転しにくい地方のスーパーほど、これからはどんどん物の値段が上がっていくのかもね」

 

地方に移住すれば生活コストが下がると一般的に言われてきたが、その認識はもはや実態とズレつつあるようだ。

もちろん、地産地消コーナーの野菜などは安くて美味しいのだけれど、それもいつまで今の状態を維持できるのかは疑問である。スーパーに野菜を卸している地元の農家さんたちは、高齢者ばかりで後継者が居ないのだから。

 

地方では都市部と言われるエリアでも空き家が目立つようになったが、郊外では耕作放棄地が目につくようになっている。新鮮で美味しくて、しかも低価格の地元の野菜たちは、いつまでスーパーの棚に並んでくれるのだろう。

 

「最近ね、能登半島地震のニュースを見てたら身につまされちゃって。高齢化率が50%を超える地域が被災すると、復旧も復興も進まないのね。そもそも、国にそうした被災地を本気で復興させる意思がなさそう。
そりゃそうだよね。だって、地震が来なくても後10年〜20年もしたら消滅してた過疎地にお金をかけて、どうすんだ?って話じゃん。もう日本には大盤振る舞いができるような国力がないんだから。
だから、もし南海トラフが来たら、私の地元は確実に放置されそう。その時、私はどうしようかな」

「引っ越しちゃえばいいじゃない」

「そうなんだけど、いざその時が来てみないと、自分のエモーションがどっちに振り切れるか分かんないだよね」

 

まず生き残れるのかどうかが定かではないが、仮に無事だったとして、その後に自分はどうするだろう。

地元が瓦礫の山と化した光景を目の当たりにし、「ここはもうダメだ」とすっかり諦めてしまうのか。それとも猛烈な愛郷心が湧いてきて、復興に尽くそうとするのだろうか。

 

合理的に考えれば、日本国内だろうと海外だろうとさっさと新天地に転居して、生活の再建を図るのがいいに決まっている。

どのみち、いつかは高齢化と人口減で、生活が不便になっていく一方の土地なのだ。

地域の再建を図るより、住民を移動させる方が国もコストがかからないのだから、世論もそちらを後押しするだろう。

 

とはいえ、いざ自分が当事者になれば、そう簡単に割り切れる気がしない。

だいたい私は、必ずしも合理的な判断にもとづいて行動する人間ではないのだ。

知人に騙され、ハメられて、問題だらけで破産しかけていた商店街組合の事務局を引き継いだ際も、家族は「早く辞めろ」とうるさかった。周りからも「どうして今すぐ逃げないの?」と不思議がられた。

 

それなのに、「こんな腐れ商店街はとっとと滅びろ!バルス!」と悪態をつきながら、結局とどまって問題解決に努めてしまったのだ。

気付いたら、山積みだった問題は8割がた片付いているし、今後に向けた道筋も見えてきた。何故そこまでしてしまったのか、我ながら動機が分からない。

 

だから、もしかすると合理的に考えてクールな決断を下すより、逡巡しながらも踏みとどまってしまうことは十分にあり得る。だがしかし...。

「ねぇ、真由美。私らって、人数が多い最後の世代じゃん?」

「そうだね」

「阪神淡路大震災の時、私たちは20歳で若かった。つまり、日本は若い国だった。
東日本大震災の時は、30代半ばだったよね。まだ私たちが社会の中核を担えていて、国も豊かだった。
これから大震災が来て、その時にギリ40代なら、どうにか気力も残ってて、体も動くと思う。だけど、50代や60代になっていたら、自信がない。復興に尽くすには歳をとり過ぎている。なのに、私たちよりも下の世代は存在してないんだよ」

「もう日本は滅ぶね」

 

住んでいる地域の老いは、自分たち世代の老いと連動している。

大震災なんて来てほしくないが、しかし来るなら来るで早くしてもらわないと、手遅れになりそうだ。

 

「はぁ。もう現実とか未来のこと考えると暗くなっちゃうから、やめようよ。
都会は都会で、これからどんどんAIに仕事を奪われそうだってのに。
やっぱさ、ゆきも韓流ドラマとか観た方がいいよ。美男美女を見て癒されよう。私はもう、フィクションと夢だけを見て生きてたいわ」

 

そう言いながら、実はバリキャリの真由美も日々現実と向き合い、戦っていることを知っている。

現実から目を逸らせない私たちは、束の間うさを晴らすために、3杯目のワインを注文した。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

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弟の命日は1月1日だ。

ただ、本当にその日に旅立ったのかはわからない。

 

自宅の敷地内に倒れているのを隣家の人が発見してくれたときには、既に息がなかったそうだ。

それが1月3日。検死や諸々の状況から、亡くなったのはおそらく1月1日の未明だろうということになったのだ。

 

死因もわからない。わかっているのは、外出するつもりだったのが門扉の辺りで倒れ、そのまま凍死したらしいということだけだ。

アルコールと睡眠導入剤を同時摂取するのが常習になっており、倒れたのはそのせいである可能性も高かった。

 

逆縁というのは気持ちのもっていき場がないものだ。弟とは仲がよかっただけに、形容し難い悲しみに襲われた。

 

だが、一方でほっとしてもいた。

「行き倒れでも交通事故でも自殺でも入院中でもなく、自宅でひっそり旅立ったのは、シンにしては天晴れだ」

弟の親友、サトルさんがそんなふうに言ってくれた。

 

もちろん、どんな死に方がよくてどんな死に方が悪いなどと言うつもりはない。

 

だが、弟が刻々と死に近づきつつあることを察知して、なんとかこちらの世界に引き留めておこうともがいていた私にとって、死それ自体もだが、それがどんな形でもたらされるのかも恐怖だった。

サトルさんのことばはそんな私を支えてくれたのだ。

 

「これでもう苦しまなくてすむんだね、よかったね」

冷たく横たわる弟の無精髭を剃ってやりながら、口に出さずに呟いていた。

髭は思いのほか濃く、剃刀の刃を強く押し返してくる。

 

空耳?

不思議なことが起こったのは、七七日忌の日だった。

 

法要をすませ、自宅にもどって、リビングのソファに座る。緊張が解け、これで一区切りついたと安堵していた。

 

その時ふいに、かすかな音が流れてきた。

 

「……何?」周りを見回す。

「ん?」息子がテレビのスイッチを切った。

 

だが、空耳でもテレビの音でもないのだ。

「……?」

 

やがて、それがシューマンのピアノ曲「クライスレリアーナ」であることがわかって、思わず顔を見合わせた。

 

「嘘でしょう?」

鳥肌が立つ。

 

弟?

寒い地方では、冬が過ぎ、硬く凍っていた土が融けた頃に納骨する風習がある。

身内だけの通夜と葬儀をすませ、七七日忌の法要まで弟のお骨を預かることになった。

 

そのことを知ったサトルさんが、弟の好きだったピアニスト、アルゲリッチが若いころリリースした「クライスレリアーナ」を毎日、聴かせてやってほしいとメールをくれた。

 

それで、葬儀の日から七七日忌まで、仏間にCDプレーヤーを持ち込み、毎日、再生していたのだ。

曲を聴きながら弟の遺影を眺めていると、さまざまなことが思い出され、とめどなく涙が溢れてきた。

 

そして、七七忌の夜。

プレーヤーに入れっぱなしだったそのCDが突然、鳴り出したのである。

 

「どういうこと? スイッチ切ってあったのに」

「誤作動じゃねえの?」

息子はそういうと、リモコンを探し、プレーヤーのスイッチを切った。

 

「だけど、変だよ。シンが来てるんじゃないのかな?」

「まさか!」

 

ところが、その後も私がひとりのときに4、5回、同じことが起こったのだ。

電源を切ってあるはずなのに、突然、CDが鳴り出す。

 

「シン? ねえ、シンなの?」

 

その度に、辺りを見回して名前を呼んでみるのだが、返事はない。

 

きっとシンに違いない。

シンがあの世から会いにきているんだ!

そう直感したが、確証があるはずもない。

 

このことは、ごく限られた人にしか話してこなかった。

うっかり口にしたら、

「そんな、バカな」

「盛っちゃって」

「オカルトじゃないのか」

そんなふうに思われてもし方ないと思ったからだ。

 

ひとの話だったら、私自身も半信半疑だったろう。

 

死んだら心も消えるのか

心(意識)とは何だろう。

死んだら心はなくなってしまうのだろうか。

 

この難問に果敢に挑んだのが「知の巨人」、立花隆氏だ。

 

彼の著書『臨死体験』は、世界中の臨死体験者や脳科学、医学、心理学、哲学、宗教などの研究者、実践者を広く取材し、5年の年月をかけて出版された大作である。*1

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2014年にNHKスペシャルでも関連番組が放送された。*2

 

これが抜群に面白いのだ。

最初に読んだのはずいぶん前だが、今回、改めて読み直してみてもその面白さは変わらない。

 

人間の心(意識)はすべて脳が作りだすものなのか。

それとも、脳に還元することができない存在なのか。

 

もし前者なら死とともに心も消えるが、後者なら死後も心は残る。

どちらが正しいのだろう。

 

同書には、アメリカの生物学者・精神医学者のジョン・C・リリー氏が登場する。

 

彼は、脳が意識を保つためには、外部の感覚刺激が必要かどうかを知るために、「感覚遮断装置」を開発し、実験を繰り返した。

 

これに関心を示したのは、ノーベル物理学賞受賞者のR・ファインマン氏である。

彼は、リリー氏の誘いに二つ返事で応じる。

そして毎回2時間半ぐらいずつ計10数回、その隔離タンクに入った。

 

その結果、3回目で肉体の中の「自我」を意識によって少しずつずらしていくことに成功し、4回目で体の外に出すことに成功する。

 

「自我」とは認識の主体のことであり、認識主体が体の外に出て、自分の肉体を外側から見る、いわゆる体外離脱に成功したのだ。

 

しかし、ファインマン氏は、それを現実体験ではなく、脳が創り出した幻覚だと考えた。

なぜなら、そのときどきで見えるのは、「こう見えるだろうと想像した通りのイメージ」だったからだ。

 

立花氏自身も、実際にこの隔離タンクに入り、体外離脱にかなり近い状況を体験している。

 

立花氏はまた、ホロトロピック・セラピーのワークショップにも3回、参加した。

これは、人為的にある種の過呼吸(過換気症候群)の症状を生じさせ、意識状態を変化させるという独特な意識変容法である。

 

深いトランス状態の中で、深層意識の世界に入っていく。

 

そのセラピーで、立花氏は肉体が消失していき、なにもかもなくなってしまって、一切が虚無になるという感覚をおぼえた。

ただ、意識のみが残り、考えだけが存在していたのである。

 

しかし、話はこれで終わらない。

ここからがさらに興味深いので、関心がある方はぜひお読みいただければと思う。

 

一方で、NHKスペシャルでは、意識に関する最新理論が紹介されたが、この理論が正しければ、人が死ねば心も消滅するという。*3

 

では、人の心はあくまで脳が作り出すものなのだろうか。

実は臨死体験は死後の世界ではなく、死の直前に見る、夢に近い現象であることが、脳科学の知見によって明らかにされているという。

しかし一方で、それでは完全に説明できない現象もある。

 

「死ぬとき心がどうなるのか」という問いに対しては、「現段階では完全に答えが出せない」というのが、立花氏の結論であった。

したがって、「あのとき、弟があの世から会いに来た」という私の直感が正しいのか、それとも単なる思い込みなのかも、結局のところ「わからない」ということだ。

 

すべて回収

では、なぜ今、そのことを書く気になったのか。

それは最近、こんなことがあったからだ。

 

ちょっとドキドキする経験だった。

 

久しぶりの新宿である。

まず正午から4時間ほど昼のみをして、夕方からは別のメンバーでまた飲んだ。

それが、全員、「初めて会う友だち」だったのである。

 

Zoomで話したり、文字でメッセージのやりとりをしたりというのは結構あるのだが、リアルで会うのは初めてだった。

それぞれが離れた地域に住んでいるので、都合を合わせて新宿に集合したというわけだ。

 

果たして、彼女ら彼らは、本当に自分が思い描いていたとおりの人たちなのだろうか。

また、リアルな私は、彼ら彼女らのイメージどおりの人間として認識されるのだろうか。

 

ドキドキしながら、店に入った。

それはお互いさまだったらしい。

 

「全然、違和感ないわ」

「ほんと?」

「ほんと!」

「私も?」

「うん、全然!」

「不思議なくらい、違和感がない」

 

口々に言い合った。

 

もちろん、リアルで会わなければわからないこともある。

たとえば、体格、雰囲気、ファッションや持ち物のテイストなどは、実際に会ってみなければわからない。

しかもそういうことは、些細なことのようでいて、実はその人の輪郭を決定づける、重要な要素の1つであり情報であるという側面もある。

 

ところが、その日会った人たちは、一瞬でそれらを感知した上で、「違和感がない」「思ったとおり」と言ったのだ。

なぜだろう。

 

それは、すべての要素が「その人らしさ」に回収されるからではないだろうか。

「その人らしさ」とはその人のエッセンス、本質といってもいいかもしれない。

 

実際に会わなくても、Zoomからでも私たちは「その人らしさ」をキャッチする。

文字によるメッセージからも読み取る。

 

「その人らしさ」が把握できているからこそ、新たな情報が加わっても、それらはすべてそこに集約されていくのだ。

 

「大きい手なのに、なんか繊細な指だなあ。モモさんらしいや」

「へえ、すっごく個性的なボトムスじゃない? そりゃ、サヤちゃんだもんね」

「こんなとき、囁くように話すんだ。ゴウさんってそういう人だよね」

そんなふうに。

 

だったら、あれはやはり弟の仕業だと思った。

弟はときどきドッキリするようなことを仕掛けてくる人だった。

そして、キャッと驚く私を見てはクスッと笑う。

 

そういえば、子どもの頃、お風呂場のドアを開けたら、壁一面にアマガエルが張り付いていて、腰を抜かしそうになったことがあったなあ。

あのときも、シンはふふふと笑っていたっけ。

 

シンならやりかねない。

間違いない!

 

はしゃいで何回目かの乾杯をしながら、そんなことを思った。

涙がじんわり湧いてきて、グラスの向こうの友だちの笑顔が滲んで見えた。

 

参考資料

*1

立花隆(2018)『合本 臨死体験』株式会社文藝春秋

(初出:「文藝春秋」1991年8月~1994年4月号、単行本:1994年9月、文庫本(文春文庫):2015年2月25日)

*2

NHK「立花隆 思索ドキュメント臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」(2014年9月14日(日) 午後9時00分~10時13分)

https://www.nhk.or.jp/special/detail/20140914.html

*3

文春オンライン「「私自身、若い頃は、死が怖かった」“臨死体験”を取材した立花隆さんが伝えたい、人間が“死んでいく”ときの気持ち 《追悼》立花隆さんインタビュー#1」(初公開:週刊文春2014年10月30日号)p.1, p.5, p.6

https://bunshun.jp/articles/-/46376

 

 

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【プロフィール】

著者:横内美保子(よこうち みほこ)

大学教員。専門は日本語文法、日本語教育。

立花隆さんの伯父さんは、80歳のとき「オレは明日、死ぬぞ」といい、予告どおり翌朝、自然に亡くなっていたそうです。実は私の母も80歳の誕生日の前日にまったく同じことを言ったので、それを読んで驚きました。では、私の母はどうなったのでしょう。また書いてみたいと思っています。

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Photo:Jr Korpa

持続可能な社会の構築に向け、社会・環境課題を考慮した企業活動の重要性がますます高まっています。こうした流れを受けて、気候変動(GX、脱炭素、GHG:温室効果ガス測定)や人権、ダイバーシティ&インクルージョンといった分野を重視する世界のESG投資額は、2016年から2020年までで1.5倍となる約35兆ドル※1に達しています。

投資家側の意識変化を受け、国内でも矢継ぎ早に対応がなされています。2021年にコーポレートガバナンス・コードが改正され、東証プライム市場に上場する企業には「TCFD※2に基づく気候変動情報の開示」が要請されるようになりました。また、金融庁は2023年1月31日に「サステナビリティに関する企業の取組みの開示」と「コーポレートガバナンスに関する開示」を有価証券報告書および有価証券届出書の記載事項として義務付けました※3

 

このように、サステナビリティ重視の観点から、従来の財務情報に加え、ESG分野といった非財務資本情報の開示強化・拡大の流れは今後ますます加速するものと考えられます。今回は、ESGへの取り組みが企業価値を向上させるのか?させるのであれば、それをどのように示せばよいのかについて考えていきましょう。

 

非財務資本としてのESG

非財務資本とは、投資家や株主、債権者に対し開示するもののうち、財務諸表に記載されない情報の総称です。コーポレートファイナンスの領域でも、ESG分野といった非財務資本領域への取り組み強化や投資へ多くの関心が寄せられています。「果たして企業価値の向上に繋がるのか?」「仮に企業価値向上に繋がるのであれば、どのような考え方があるのか?」という観点から、数多くの論文の提出や議論が現在進行形で行われているのです。

 

統合報告書という情報公開のフレームワークを推進する国際統合報告評議会(IIRC)によれば※4、この非財務資本は以下の5つに分類されています。

  • 製造資本(Manufactured capital)
  • 知的資本(Intellectual capital)
  • 人的資本(Human capital)
  • 社会・関係資本(Social and relationship capital)
  • 自然資本(Natural capital)

この5つの非財務資本に、従来の財務資本を加えた価値が、IIRCの定義する企業価値と言えるでしょう。図示すると以下のようになります。

※これらの資本の詳細の説明はIIRCのウェブサイトに記載されていますので、そちらを参照頂ければと思いますが、例えば知的資本は、特許や著作権などの知的財産権や暗黙知といった競争優位をもたらす無形資産と定義されています。

 

サステナビリティに関する会計基準・開示基準をまとめる団体であるSASB(Sustainability Accounting Standards Board, サステナビリティ 会計基準審議会)では、環境(Environment)やリーダーシップとガバナンス(Leadership & Governance)といった側面から、上記に加え、GHG排出管理、経営倫理や法規制環境の管理なども非財務資本として定義しています。

 

伝統的なコーポレートファイナンスにおけるESG活動の解釈

仮に非財務資本への投資が企業価値向上に繋がるということをあらわしたい場合、どのように説明すればよいのでしょうか。
伝統的なコーポレートファイナンスの世界では、フリーキャッシュフローは、

 

営業利益 × (1 - 税率) + 減価償却費 - 投資 - ⊿運転資本

と定義されています※5

 

仮に、企業がESGはじめ非財務資本と言われる領域への投資を行った場合、どのように解釈されるのでしょうか。
例えば人的資本への投資は、人件費の増加に繋がるため営業利益へのマイナスの要素、知的資本への投資は設備投資の増額に繋がりキャッシュアウトフローと見なされ、短期的にはフリーキャッシュフローの減少、即ち企業価値が減少する方向に働くと解釈されてしまいます

よって、仮に非財務資本への投資が企業価値向上に繋がると言えるのであれば、中長期的なフリーキャッシュフロー増大が、短期のフリーキャッシュフローの減少を上回ると言えなければなりません。

 

また、割引率は、WACC(Weighted Average Cost of Capitalの略)と呼ばれる加重平均資本コストの考え方を用いれば、

 

WACC=D /(D + E) × rD × (1 - T) + E /(D + E) × rE

D:負債総額
E:株式の時価総額
rE:資本コスト
rD:負債コスト
T:税率

と定義されています※6

 

一方で、rE(資本コスト)はCAPM(資本資産価格モデル)では、

rE = rf + β × 市場リスクプレミアム

rf:リスクフリーレート

と定義されています※7

 

非財務資本領域を強化することでD/(D+E)やE/(D+E)といった加重平均要素やTが変更される訳ではありません。そのため、おそらくはCAPMにおけるリスクの尺度となるβの値、もしくはrDが低下しWACCも低下、その結果として企業価値が増加するといえなければなりません。

 

上述した仮説は、残念ながら現時点のコーポレートファイナンスの領域では、十分に証明できていないのが現状です。

 

ただし、最近になり、上記の仮説が一定程度正しいのでは、と思われるような開示、即ちESGや非財務資本領域への投資が企業のPBRを増加させるというIRを行う上場企業があらわれています
では、これはコーポレートファイナンス上でどのように解釈をすればよいのでしょうか?

 

ESGを企業価値評価に取り込むための具体的なアプローチ

以前の記事「JPXプライム150指数とは?目的や企業価値向上との関係を探る」でも説明した通り、クリーンサープラス関係に定常状態※8を仮定すると、

 

FCF /(WACC  g)  負債価値 = 株式価値

g:成長率

で示されるコーポレートファイナンス上の株式価値評価の算式は、

 

株式価値=株主資本簿価+株主資本簿価 × (ROE-rE)÷(rE-g)

へと変形でき、会計上の概念である株主資本簿価やROEとコーポレートファイナンス上の概念である株式価値やrEが統合されていることが分かります。

 

さらに、この式の両辺を株主資本簿価で割ると、

PBR=1 +(ROE - rE) / (rE - g)

という式になります。

 

なお、ROE-rEはエクイティスプレッドと言われ、エクイティスプレッドが0より大きい、即ちROE-rE>0であれば、PBRが1倍以上となります。

 

ESGや非財務資本領域への投資がPBRを改善させるとは、即ちコーポレートファイナンス上でも株式価値(企業価値)が向上することを意味します

 

例えば、JR東日本のグループレポート2022の3頁では、「鉄道事業のCO2排出量を1%減らすと、3年後のPBRが1.06%向上する」「従業員1人当たりの年間平均研修時間を1%増やすと、同年のPBRが0.54%向上する」との試算を掲載しています。またエーザイの価値創造レポート2023の66頁には「新卒採用社員3年後定着率が1%改善すると、7年後のPBRが4.6%向上」との開示があります。

 

これらの会社で触れられている研修時間の増加や事業によるCO2排出量の削減、新卒採用社員定着率の改善といった施策は、従来のコーポレートファイナンスではコストの増加につながるとされてきました。企業価値評価でのポジティブな評価が難しかったといえます。しかし、現実的にはこうしたESGや非財務資本領域への投資によってPBRの改善がみられることは、PBRを構成する式におけるROEやgの数字が改善することを意味しています。

 

ドイツのERP大手であるSAPのように、ESGや非財務資本領域への投資によって、より直接的に営業利益の金額が改善することを開示している例もあります。同社ではビジネス健全性文化指数(business health culture index、BHCI)が1%ポイント変化するごとに、営業利益への影響は7500万ユーロから8500万ユーロになるとIntegrated Report 2015で開示しているのです。
この開示からは、ESGや非財務資本領域への投資とROEの改善には一定の相関関係があるとも読み取れます。

 

また、S&P500の市場価値に占める非財務資本の割合は2020年に約90%へ達したという海外の研究※9もあります。

資本コストの低減といった観点からは、Cantino, Valter氏らの「ESG Sustainability and Financial Capital Structure」やEl Ghoul氏らの「Does corporate social responsibility affect the cost of capital?」によると、ESGやCSRを強化している企業の方が資本コストが相対的に低いとの研究結果もあります。ESGを企業価値評価に取り込むための動きには、既に好例が出つつあるのです。

 

今後の展望

繰り返しになりますが、現時点においては、ESGや非財務資本領域への投資を企業価値評価にどのように織り込むかは、実務的には定まっていません。持続可能な社会の構築への大きな流れの中で、開示要件も整ってきており、今後は各社が非財務資本領域のデータと企業価値向上の相関性を示すことで、コーポレートファイナンスの企業価値評価のフレームワークにも大きな変化が生み出されることが予想されます。

 

なお、筆者個人として、最近22年ぶりに日本の大手金融機関に所属して思うことは「ワクワクとして働けない人」がいかに多いかという事です。ギャラップ社の「State of the Global Workplace report」でも、日本人のわずか5%しか仕事に熱意を持って取り組んでいない、という結果が示されており、OECD諸国平均の23%より著しく低くなっています。

日本の上場企業のPBR1倍割れがなかなか改善しない背景には、こうした非財務資本領域への投資不足が大きく影響している可能性があると感じています。本稿で解説してきた、「ESG施策を企業価値評価に取り込むことはできる」という事実が、この課題解決のヒントとなればと思います。

 

 

<注・参考文献>

※1 インパクト投資等に関する検討会報告書|金融庁

※2 TCFD:気候関連財務情報開示タスクフォース(Task Force on Climate-related Financial Disclosures)の略。(TCFDとは|TCFDコンソーシアム より)

※3 「企業内容等の開示に関する内閣府令」等の改正案に対するパブリックコメントの結果等について|金融庁

※4 Integrated Reporting|IFRS Foundation

※5 フリー・キャッシュフロー|グロービス経営大学院 MBA用語集

※6 WACC|グロービス経営大学院 MBA用語集

※7 CAPM(資本資産価格モデル)|グロービス経営大学院 MBA用語集

※8 参照:『CFOポリシー: 財務・非財務戦略による価値創造』第3版 中央経済社 柳良平著

※9 Intangible Asset Market Value Study|Ocean Tomo, J.S

 

(執筆:芦澤 公二)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Sigmund

身内褒めで恐縮なんですが、以前、子どもに対する妻の言葉選びで感心したことがありまして、ちょっとしたことなんですが文章にしたくなりました。

 

先に書いてしまうと、その言葉とは、子どもに頼んだ家事の進捗を確認する時の「○○(頼んだ家事)ありがとう!」という言葉です。

順を追って書きます。

 

しんざき家は5人家族でして、私と妻、高校生の長男、双子の長女次女で構成されています。

ついこの間生まれたばかりと思っていたら、先日長女次女が小学校を卒業してしまいました。時間の流れが早すぎてビビる他ありません。

 

で、しんざき家では現在、子どもたちを積極的に家事に参加させる方針をとっておりまして、自分が使った皿は自分で洗うことが前提となっていることを始め、料理やら洗濯やら掃除やら、家事が出来るタイミングでは色々な家事を担当してもらっています。

 

これ自体は特別なことではないと思いますが、家事を任せるとなったら「手伝う」という形ではなく、ちゃんと子どもをその場その時の責任者にして、子ども自身が色々と仕切れるようにする、というのが変わった点といえば変わった点かも知れません。

例えば長男が料理となったら何を買ってきて何を作るかまで全権委任しますし、長男の指示で私が料理を手伝ったりすることもあります。

 

子どもは何かの「役割」を持つことが好きですし、「隊長」とか「責任者」という言葉に憧れるため、きちんと任命されれば案外張り切ってくれるものです。

もちろんこの際、ただ名前だけの「責任者」だとすぐに「名ばかりだな」と気づいてしまうので、大人が持つような権限、例えばメニューや材料洗濯の権限とか、家具をどう片付けてどう配置するかの決定権とか、そういう裁量もちゃんと渡します。

 

それが何であれ何かしらのタスクを仕切る経験は大人になっても無駄にはならないと思うので、こういう形式にしています。

もちろん必要に応じてサポートはします。

 

ちなみに、3年ほど前にようやくちゃんと料理を始めた私より、長男の方がだいぶ料理が上手く、特に唐揚げとチャーハンはかなり美味しく作ります。

彼、揚げ物の揚げ具合にはこだわりがありまして、私が二度揚げを怠ると叱られたりします。衣がかりっかりになるのが好きみたいです。

 

***

 

とはいえもちろん「進捗管理」というものが必要なケースはあります。

 

なんだかんだで子どもはタスク管理というものが苦手ですし、他に楽しいことがあったらそっちに走ってしまう生き物なので、しばしばタスクの存在を忘れますし、サボります。

 

干す筈だった洗濯物をそのまま放置してしまったり、洗っておく筈のお皿を放置してしまったり、というのは全く珍しいことではありません。

そういう場合には誰かが進捗を確認してあげないといけないわけで、これは子どもだろうと大人だろうと何も変わるところはありません。

 

で、以前からちょくちょく、妻が「進捗確認」として「〇〇ちゃん、洗濯ありがとう!」とか「掃除ありがとう!」って言い方をするんですよ。

すっごく細かいことですし、もしかすると当たり前のことかも知れないんですが、私、この言い方が凄く上手いなーって感心しまして。

 

もちろんこれ、単に「お礼」とか「感謝」だけの意味ではなくって、見るからにまだ家事に手をつけてないな、という時にも「ありがとう」って言うんですね。

子どもとしては、面倒だから手をつけてないとか、家事の存在自体を忘れていた、なんて時も当然あるでしょう。ただ、妻が「ありがとう!」って言うと、「あっ、忘れてた!今からやる!」となって、割とするすると動き出してくれるんですよ。

 

この言い方、多分幾つかメリットがあると思うんですね。

 

まず、言い方が「叱る」という方向になってない。

親としては、子どもがタスクを放っておいてだらだら過ごしているとついつい「もう〇〇やったの?」とか「〇〇忘れてない?」とか言ってしまいそうになるわけです。私もそうです。

純然たる「確認」ではあっても、ついつい「忘れていた」「サボっている」というのを指摘する形になってしまう。そこにはどうしても「責める」ニュアンスが入ってしまいますよね。

 

ただ、一般的に、子どもって「先回り」されることがすごーーーく嫌いです。タスクを忘れてないか、と確認してみると「今からやろうと思ってたのに!」と返ってくる、という経験、どんな親でもしているんじゃないでしょうか?

たとえ本人に「サボっている」という意識があって、罪悪感を感じていたとしても、「誰かに言われてやることになる」というのは面白くないし、ついつい反抗したくなるんですよ。ソースは私です。

 

けれど、立て付け上「感謝する」という方向だと、責めるニュアンスが入り込む余地がないので、子どもとしてもわりと素直に聞き入れたくなるんですね。

純粋に「あ、忘れてた」という方向に思考が動くし、一方それを認めて動くときにも嫌な気分にならない。するっと「忘れてた」と言えるんです。

 

子どもの気持ちを凄く上手く導いて、ポジティブにタスクに向かわせる言い方だと思うんですね。

 

次に、「お願いしている」という立て付けから全く外れていない。

上で書いたように、タスクの責任者を子どもに任せているなら責任者として接するべきで、子どもとはいえそれ相応の敬意が必要だと思うんですよ。となると、仮にタスクが出来ていなくても、「まだやってないの?」と責めるのはちょっと違う。

 

もちろん、時には叱責が必要な場合だってありますし、叱る時には叱るんですが、こと「任せている」以上はちゃんと相手を立てた進捗確認の仕方の方が望ましいですよね。その点、「ありがとう」という言い方だと、相手を立てつつごく自然と進捗確認が出来る。

 

もう一点、単純に聞いていて気持ちいい。

これはどんな場でも同じだと思うんですが、「誰かが誰かを責めている」場面って、横で聞いていても緊張するし、何かと精神的なリソースを使うんですよ。それは親が子どもを叱る時も同じで、自分が叱る/叱られる立場でなくても緊張感は伝わってくるし、集中力も注意力も削がれる。

 

その点、「感謝」という立て付けだと、結果として叱った時と同じことが起きたとしても、聞いていて平穏な気持ちでいられるわけです。その点、家庭での過ごしやすさとか安心感にすごーく寄与してるなあ、と。

自分では出来ていないことを、さらっと妻がやっていたので、単純な私は頭から感心して、以来なるべく真似しようと務めているわけです。

 

もちろん、こういうやり方がどんな家庭でも適していると言うつもりは毛頭ありませんし、しんざき家でもこの先方針が変わるかも知れません。

とはいえ現状は「感謝」という形で進捗確認をすることを、ケースバイケースではありますがしばらく試してみようと思っていると、まずはそういう話だったわけです。

 

***

 

家庭の話からはちょっと逸れるんですが、「プラスから始める言い方」というのは、仕事の上でもちょくちょく考えます。

「言い方」というものが馬鹿に出来ないことは、昨今様々なところで指摘されている話だと思います。

 

上で書いた「子どもへの進捗確認」でも、「感謝されている」というプラスの状態から物事を始めて、最終的にタスクの遂行に落とし込んでいるわけでして、サボっているところへの進捗確認というとあまり気持ちが良くないようですが、スタート地点がプラスの方向に存在することで、多少嫌な方向に話が動いてもまだプラスの気分でいられるという、そんな言い方って結構あるんじゃないかと思うんですよ。

 

私は一応仕事の上でもマネジメントをする立場なんですが、なんとなーくプラスの位置から話を聞き始められる言い方、というものについて、しばしば考えます。

 

時には「叱る」ことが重要な場面ももちろんあるんですが、単にマイナスに落とすだけだと話す側も聞く側も疲れるので、同じ効果が出るならプラスから始めた方が効果的なんじゃないかと。どこかに、話す側も聞く側も疲れない指摘の方法があるんじゃないかと、職場でも常に首をひねっているわけです。

 

その点、子どもというのは大人以上にデリケートで、モチベーションの維持方法もまだまだつかめていない存在なので、子どもへの接し方から職場での立ち振る舞いについて学べるところもあるんじゃないかと。

妻のちょっとした言葉から、マネジメントのコツを教わったかも知れない、と思って文章に残しておきたくなったと。

 

そんな話だったわけです。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Sebastian Pandelache

まだ駆け出しのコンサルタントだったころ。

私は様々な企業の「人材育成の仕組み」を作る手伝いをしていたことがある。

 

その際に必ず議論になるのが、「出世するには、どのような能力が必要なのか」だった。

この議論は複雑で、

「論理的思考力」

「コミュニケーション能力」

「目標達成能力」

「資格」

「人材の育成力」

など、様々な側面から検討がなされた。

しかし、個人的に最も説得力があったのは、ある会社の経営者の考え方だった。

 

 

「安達さん、他社さんでは、必要な能力に何を設定してるの?」

と、社長は、人材評価シートのサンプルを見ながら、私に問いかけた。

 

「御社と同じ規模・業態だと、やはりコミュニケーション能力と論理的思考力をあげる会社が多いですかね。」

と私は無難な回答をしたつもりだった。

 

しかし百戦錬磨の経営者を簡単にごまかすことはできない。

すぐに突っ込まれてしまった。

「それって本質的に重要な能力なの?」

 

私は困った。

重要でないとは言えない。しかし、本質的か、と言われると困る。

他よりも重要である理由を、うまく説明できないからだ。

 

社長は私を問い詰めるのではなく、自問自答していた。

「ビジネスの能力の根幹って、何なんだろうね……」

 

そして、しばらく考えた経営者は、ぽつりと言った。

「ああ、そうか。学習能力だ。」

 

 

つまり、経営者が言いたかったのは、こういうことだ。

 

学習能力は、上に挙げたすべての能力の礎となる。

例えば、学習能力が高ければ、仕事をすぐに覚え、ミスを繰り返すことも少ない。

新しいことに対して開放的で、素直である。

他者と意見が対立したとしても、その場で相手の思考を学習し、意見や言葉を修正する。

本を読むたびに新しい語彙を獲得し、新しいコンセプトを生み出す。

 

どんなスキルを身につけるときであっても、誰もが最初は「学習」から入るがゆえに、様々な「スキル」の獲得も早い。

 

だから、学習能力は、あらゆる知的能力の根幹をなしている

それらはビジネスにおいて、すべて必須とも言える要素であり、「成果をあげる人」の主要な条件の一つでもある。

 

採用の基本方針は「学習能力の高い人材を見つける」

それ以来、自分自身が採用面接官をやるときの基本方針は、「とにかく、学習能力の高い人材を見つけよう」だった。

しかし、「学習能力が高い人材」は、どのように見つければよいのだろう?

これは難問だった。

 

例えば、コミュニケーション能力が高く人好きのする人物であっても、学習能力が低く、同じミスを繰り返したり、物覚えが悪いようでは長期的には使い物にならない。

 

「知識の習得が好き」とアピールする人であっても、「好きなことには意欲を見せるが、それ以外に興味を持たない」人も少なくない。

彼らは、「専門バカ」の烙印を押されておしまいだ。

 

そして、残念ながら学歴や資格も、学習能力の指針として、それほどアテにならない。

経験したことのないタスクを投げると、途方に暮れて止まってしまうなど、学習能力が高いのではなく、言われたタスクを処理する能力が高いだけ、というケースが珍しくないからだ。

 

無論、「経験年数」もあてにならない。

下手に知識が多いほど、学習を避けて自分を正当化しようとすることが多くなるからだ。

それは学術的には「知識の呪い」と言われる。

多くの経験や情報を持っているために、「簡単なこと」「明白なこと」と考えてしまうからだ。

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あれこれ思索を巡らせたが、それは後になって解決した。

それは、一人の「学習能力の高い」部下の発言からだった。

 

彼に「君は、やる気があっていいね」といったところ、

やる気なんか別にないっすよ。やらないとダメだから、やっているだけです。

といった。

「仕事が好きなんだね?」

と聞き返したが、彼は言った。

いや、別に好きでもないっす。さっき言った通り、やらないとダメだからやっているだけです。

 

私は不思議だった。

「好きでもなく、やる気もない」のに、自らの貴重な時間を投じて、学習を行っていたのだ。

 

しかし、彼を観察するうちに、疑問は徐々に解けた。

実は多くの場合、新しい学習の妨げとなるのは、「モチベーションがわかない」という釈明であったり、「嫌いだから」「面倒だから」という言い訳だ。

そういったことを全く意に介さず、「必要があればやります」という態度。

 

好き嫌いやモチベーションを言い訳にせず、「成果のためにやるべきかどうか」だけで行動力を発揮すること。

それが「学習能力の高さ」の正体だった。

したがって面接では「行動実績」に係る話だけをすれば、ほぼ「当たり」を採用することができる。

 

 

よく「素直さ」が学習のポイントだという方がいる。

そういう説明でも構わないが、個人的には「素直さ」という概念は、範囲が広すぎる。

また、素直に「ハイハイ」と人の意見を聞き入れることは大事ではないとは言わないが、肝心の行動が伴わないことも多い。

 

そうではなく、やる気も好き嫌いも、とにかくいったん脇において、あらゆる場面において

買う。

試す。

やってみる。

聞いてみる。

読んでみる。

このような行動をとる能力こそ、学習能力の高さの現れだ。

 

昔、一つの記事を書いたことがある。

そこでは「できる人の身極め」の一つの方法として「勧められた本をすぐ買うかどうか」を挙げた。

目の前の人が「できる人」なのかどうかを見極める、超簡単な方法。

目の前の相手のすすめる本を買う行為は、その人の考え方の縮図なんだ。人の思想に対するオープンさ、新しい物を受け入れる態度、勉強する意欲、本を読むという行為。それに加えて「とりあえず買ってみる」という行動力と勇気。

これらは「目の前の人が勧める本を買う」という行為に現れている。色々な人に会って、これをやったけど、的中率は9割。ほぼ間違わない。

もちろん「勧められた本をすぐ買って読んでみる」ことは、学習能力の高さの一つの現われだ。

 

他にもたくさんこれを示す行動はあるので、観察してみるとよいのではないかと思う。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」55万部(https://amzn.to/49Tivyi)|

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書

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Photo:Jess Bailey

「ドイツはどう?」

「めっちゃ楽しいよ~! 日曜日はお店全部閉まってるし、電車はしょっちゅう遅延するからちょっと不便だけど(笑)」

「え、そうなんだ~! それならわたしは住めないかも(笑)」

「慣れたらそんなに不便じゃないし、こっちも適当で許されるから楽といえば楽かなぁ」

 

こんな会話を楽しんでいたとき。

隣でうんうんとうなずいていたもう1人が、こう言った。

 

「まぁ、どの国を快適だと思うかは人それぞれだからね」

 

そう言われたわたしたちは、それまで盛り上がっていた会話をやめ、

「まぁそうだね」

「うん、たしかに」

と黙り込んだ。

 

はーあ、白けた。

いるんだよねー、話が盛り上がってるのに「まぁ人それぞれだから」と会話を終わらせる人。

 

その人次第なんてみんなわかっていて、そのうえでどっちがいいかっていう話をしているのにさ。

「言い合いはやめよう、人によっていろんな意見があるんだから」って仲裁者ぶって、やってるのは会話をぶち壊すだけっていう。

 

どんな会話でも、「人それぞれ」と言ってしまえばそこで話は終わる。

人によって正解が違うんだから話してもムダだよね、それぞれ違う意見があるもんね、なんて言われたら、それ以上会話する意味なんて一切ないもの。

 

いわゆる、「それを言っちゃあオシマイ」系の言葉だ。

 

「人それぞれ」と言って議論に水を差す人たち

わたしはコメントウォッチャーで、毎日多くのネット記事を読み、コメントをチェックしている。

自分で書いた記事はもちろん、気になった記事はエゴサもする。いろんな意見を見ること自体が好きなのだ。

 

コメントがたくさんあれば当然賛否両論、場合によっては批判の声のほうが大きいこともある。

それはそれで、「なぜ批判されているのか?」「なぜ批判される視点で記事が書かれたのか?」を考えれば新たな学びになる。

 

が、いろんな意見があって当然という前提のなかで、一番「いらねー」と思うのが、「結局は人それぞれ」「個人によってちがうってだけの話なのに騒ぎすぎ」といったコメントだ。

 

いやいや、みんなが意見を出し合ってこの議題について考えてるのに、水差さないでくれます? 人それぞれで議論する価値がないと思うなら、コメントしなきゃいいじゃん? そのコメントにいったいなんの価値があるの?

 

議論を楽しめない人は議論に参加しなくていい

例えば、「朝食はご飯とパン、どちらを食べるべきか」という記事があり、コメント欄でさまざまな議論が巻き起こったとしよう。

 

「自分はご飯派。パンよりよく噛んで食べるしお腹いっぱいになる。玄米なら体にもいい」

「いやいや、パンは準備が楽だから朝にぴったりだし、サンドイッチにしたら野菜も摂取できるじゃないか」

 

そうやって意見を出し合っているなかで、「まぁ別に好きなもの食べればいいでしょ」と言い出す人が現れる。

「そんなこと議論してなんの意味があるの? 個人の自由なのに、熱くなってダセー。結論なんて出ないんだから話すだけムダ」のように。

 

うん、そんなのみんなわかってるんだよ。

わかったうえで、娯楽として議論を楽しんでるんだよ。

 

自分の意見を言語化して、自分自身と向き合うこと。

他人の意見を聞いて、自分にはない視点を学ぶこと。

いろんな意見を総合して、自分の意見を変化させること。

 

そういうのが楽しいから意見を出し合っているわけで、議論を楽しめない人は、議論の場に来なくていいんだよ。

「一段上で悟っている風」だけど実際はなんの意見も出さない・持っていない人は、議論になんの利益ももたらさない。興ざめするだけなんだよな。

 

根拠がある「人それぞれ」と議論を無価値だとする「人それぞれ」

もちろん、議題によっては、「人それぞれ」が最適解になることもある。

 

例えば、リモートワーク。

「コロナ禍で広がったリモートワーク、撤回する企業が続々と……。リモートワークを続けるべきか否か?」という議題があったとする。

 

「自分は出社派だけど、子どもが熱を出したときにリモートできて助かった。どちらもメリット・デメリットがある」

「業種によるから一概にはいえない。リモート撤回した企業は、もともとリモートが困難だったのをコロナで無理やり成立させただけじゃないか」

 

このように、「どちらともいえない」という考えが一意見として成立することもある。

しかしそれは、なぜそう考えたかの根拠があり、議論続行が可能という点で、「議論に水を差すだけの人それぞれ論」とは異なる。

議論自体を否定するわけではなく、むしろ議論に参加し、別の視点を提供しているから。

 

一方、「リモートしたいやつがすればいいだけ。議論する意味がない」「理想の働き方はそれぞれなんだから、好きな方を選べばいいじゃん」のように、議論自体を無価値だというような意見は、何も生まない。

だから、「いらねー」と思うのだ。

 

空気の読めない「人それぞれ」に価値はない

「そんな話し合いをすること自体がムダ。人それぞれなんだから」

こういったスタンスは、一見賢そうに見えるかもしれない。というか、賢く見られたいがために書いているのかもしれない。

 

「自分はそんな低次元の言い合いに参加しないぞ。広い視野をもって、中立の立場で物事を考えているからな」と。いわば、自分は一段上から物を見ているアピールだ。

でも実際やっているのはただ議論に水を差しているだけで、頭がよさそうどころか空気が読めない人でしかない。

 

もちろん、どう考えるかは個人の自由だ。

「そんな議論くだらねぇ」と思うのも、本人の自由。

 

が、それならその「くだらねぇ」議論にわざわざ首を突っ込んで、場を白けさせる必要もないだろう。議論自体を楽しんでいる人も、たくさんいるのだから。

 

もし「人それぞれ」というのであれば、その後も議論が継続できるようにしっかりと根拠を添えるべきだ。それができないなら、言うべきじゃない。

そもそも議論とは「論じ合う」という意味であって、必ずしも「絶対的に正しい唯一無二の結論を出す」必要はないのだから。

 

まぁこういう記事を書いたら、「どうコメントするかは人それぞれ。いちいちお気持ち表明することじゃない」って書く人が現れるんだろうけどね! それがネットだから!

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Alex Quezada

ジャガイモの袋が破れて散らばった

ある日の夜、おれは鍋料理を作っていた。トマト鍋だ。トマト鍋にはジャガイモが合う。

おれはジャガイモをスーパーで買った。スーパーで買ったジャガイモは薄いビニール袋に入っている。

おれはハサミでジャガイモのビニールを切った。切ったら、やぶけた。やぶけて、なかのジャガイモたちが散らばった。

これが、その写真ということになる。なぜ写真を撮ったのか。ジャガイモが散らばったからだ。

そしておれは「これを拾い集めないな」と思った。思って、そのことを世界に発信しようとした。X。なぜそんなことを発信しようと思ったのか。この世にはわからないこともある。

 

ちなみに、ジャガイモが落ちている瓶はすばらしいスコッチであるラフロイグの瓶だ。そして、真ん中にはキッチンハイター。その左には最高にすばらしいスコッチであるアードベッグの瓶がある。

こんなふうにものを並べている人間が、どんな人間かは説明の必要は少ないように思われる。

 

年度末で非常に疲れている、というのもある

ある日、と書いたが、三月の話だ。三月、年度末。おれの仕事はなぜか年度末が忙しい。二月、三月と一年のピークがくる。

べつにおれの仕事は、決まった時期に回遊してくる魚を獲る漁師ではない。毎日、毎日、iMacの前に座って、モニタを見て、マウスを動かし、Adobeのアプリケーションでデータを作るお仕事だ。DTPだ。デザイン、コピーライティング、それにWEB周りも少々する。

まあとにかく、べつに季節性のない仕事だ。それなのに年度末はたいへん忙しい。二十年以上ずっとだ。

 

ただ、十年、二十年前に比べると、少しは楽になった。午前零時すぎまで仕事するなんてことはなくなった。なんのせいか。

おれの能力が上がったからか? 違う。たぶんだけれど、パソコンの性能がアップして処理が早くなり、アプリケーションも便利になっている。この頃は生成AIの力を借りたりすることもできる。こういうのを本当の「生産性の向上」というのだろうか。

 

しかし、である。おれの疲労は今までにないほどだ。やばいくらい疲れている。疲れは身体だけに出るものでもない。

今までは「年度末の時期は忙しくてかえって寝込まないですね」とか精神科医に言っていたものだが、今年は容赦なく抑うつも来た。去年までとは根本的に違う。そう感じるくらいに疲れる。

 

これはなにか。おそらくは、老い。これに尽きる。

心身ともに弱まっている。「ちょこざっぷに行って、ちょこっと運動しているのでは?」とも思うが、まあ忙しいとそんなところに行くこともできなくなる。

土日の出勤も前は当たり前だったが、それもないのに、土日とも寝ているか競馬しているかだけになった。

 

この間はめずらしく一人で映画に行こうと思って、予定を立てて、シャワーを浴びていたら、シャワーを浴びている間にすさまじい倦怠感に襲われた。

服を着て出かける直前までいったが、「どうしても動けない、映画館にたどり着けない」と心底感じたので、また部屋着に着替えてベッドで寝込んでしまった。

 

おれは弱っている。それはおれが精神障害者だからというのもある。

とはいえ、もしも精神疾患の診断を受けていないのに、こんなことがある人は、事情が許すならばちょっと医者に診てもらってもいいかと思う。シャワー浴びている間に、動けなくなるような人は。あるいは、ジャガイモを拾えなくなった人は。

 

もとからジャガイモを拾う人間ではなかった、というのもある

とはいえ、ジャガイモについてはどうだろうか。Xにも書いたが、おれはもとよりジャガイモを拾うタイプの人間ではなかった。子供のころからだ。おれにはそれがわかる。たしかに年度末で疲弊している。双極性障害(躁うつ病)のうつ側にあって、調子がよくなかったのかもしれない。

しかし、おれは根本的に拾わないタイプの人間だ。ジャガイモを使うときに床から拾えばいいだろう、と思う。そう思って、おれはキャベツを切り始めたりするだろう。

 

これを、一種の発達障害のようなもの、とみなすことも可能かもしれない。そのあたりはよくわからない。たとえばADHDの不注意かもしれないし、多動性かもしれないし、衝動性かもしれない。おれは医師にその傾向はあるかもしれないと言われているが、正式な診断は受けていない。

 

いずれにせよ、これは子供のころからそうだった。片付けられない子供だった。大人になっても変わらなかった。このことについては前にも書いた。

片付けられない人間の言い分を聞いてくれ _ Books&Apps

まず、なぜ片付ける気にならないかといえば、片付ける気が起こらないからである。

あまりにも当たり前すぎるかもしれないが、散らかったら片付けるのが当たり前という人にとっては、そのこと自体が異様なのではなかろうか。

ともかく、片付けるという気持ちが一切わいてこない。

おれにはこんな傾向がある。

 

行き着く先はセルフ・ネグレクト?

というわけで、目下のところ「疲れ」+「生来の気質」によって、おれはジャガイモを拾えない。拾えないというか、もとから拾う気もないので「拾わない」。

 

そして、前者の「疲れ」は、加齢によってますます強まっていくことが予想される。

気質の方は変わらないだろう。そうなると、どうなるのか。セルフ・ネグレクト状態に陥るのではないか。おれはそう思った。

 

独身、独居、中年、男性。精神疾患持ち、依存症気味(アルコールを減らすと言ったが、忙しさで頭がガチガチになったときなどは飲まずには寝られない)……やばくねえか? というか、すでに、そうなっているのではないか。

 

じつのところ、部屋が散らかっているのに加えて、このごろ水回りの掃除がおろそかになっている。ゴミはきちんと捨てているが、そのあたりが雑になっている。「まあ、いいか」となってしまっている。

 

思うに、こういう生活の質が下がると、下がる一方になる。不可逆だ。「仕事が忙しくなくなったら、きちんと掃除しよう」とか、そういうのはなくなる。いや、なくなりながらここまできた。

生活の質は下がる一方だ。エントロピーの法則だ。しらんけど。ただ、まあ、そういうものだと思ってほしい。

 

とはいえ、「気をつけよう」と思って整理整頓を心がけられる人間は、もとからこのように生活の質は下がらないだろうし、「そのとおりだ」と思う人間につける薬はない。

 

いや、そうでもないか。わからんか。もとはちゃんとしていた人間も、過労によって部屋がちらかっていって戻れなくなることもあるかもしれない。まあ、そうなったら要注意だ。

メンタルヘルスの危機はすぐそこだ。注意して生きろ。転職しろ。できないならできないで、もう仕方なく生きろ。

 

しかしなんだ、おれはおれをセルフ・ネグレクト的傾向にあると自覚しているが、本当にそうなのだろうか。

以前おれがここで「手取りの3/4を馬券購入に突っ込んでいるギャンブル依存症だ」と書いたときも、内容から「ギャンブル依存症とは言えないのではないか」という人もいた。そりゃあ、水原一平氏に比べたら依存症でもなんでもないが……って、金額の話ではないか。あ、でも収入比で見てもまったく勝てないな。勝ってどうする。

 

というわけで、独断もよくない。調べてみるか。

https://pelikan-kokoroclinic.com/shinjuku/selfneglect_check/

「セルフネグレクト(自己放任)チェックテスト」というのがあったので、こちらを試してみる。

郵便ポストの中を確認しない。あるいは、郵便物やチラシ等で郵便ポストがパンパンになっている。

→◯ ……ほとんどチラシすら入らない面倒な場所に住んでいるのでパンパンにはならない。とはいえ、郵便物もほとんどこないので、本当に確認しない。あと、なんか来ても玄関のあたりに積んでしまう。

お風呂に入るのが面倒で、気を抜くと数日入らないことがある。

→× ……これは完全にありえないことで、むしろ逆に三百六十五日、毎日入っている。どんなに体調が悪い日も、絶対にシャワーを浴びる。これはもう強迫性障害的といっていいほどだ。シャワーを浴びないと、近所のコンビニにすら行けない。

ゴミ出しが面倒で、かなり溜まっている。

→× ……さっきも書いたけど、ゴミはきちんと捨てている。

部屋ではベッドやこたつ等、横になれる場所で殆どの時間を過ごしている。トイレに行く以外は殆ど立ち上がらない。

→× ……いや、◯か? 台所の前の椅子の上か、座椅子に座っているかのどちらかだ。せまいアパートのどこを移動する? とはいえ「横になれる場所」というのがキーワードなら×か。寝込んでいる時間は人よりずっと長いとは思うが。

休日でも買い物や用事を済ませに行かず、家でゴロゴロ過ごしてしまう。

→◯ ……年度末の現状ではそうである。そうでないときは、GR IIIxでも持って散歩に行こうかとかあるけれども、だんだん出不精の度合いは高まっている。

身体に不調を来していても病院に行くのが億劫で、あまり行かない。

→◯ ……月イチの精神科には必ず行っているが(薬がないと生きられないので)、その他、ちょっと具合が悪くても、「様子見で……」で済ませてしまう。まあ、それで済むくらいしか不調ではないともいえるが。

ゴミ箱までごみを捨てにいくのが面倒で、取り敢えず適当な場所にゴミを置いてしまう。

→× ……だからそんなに広いところに住んでないって。ただ、ゴミをゴミ箱方面に向かって投げて、外れたら、そのときすぐに拾わないで、あとで入れるということはある。

歯磨きも気が進まないので、日によっては全くしない。

→× ……これもシャワーに似た強迫的なところがあって、必ず一日三回歯を磨く。

役所の手続きや請求書の支払いなど、やらなくてはいけないことが中々できない。

→×……やらなくてはいけないとなると、とっとと済ませて楽になりたいと思うタイプ。

スマホの通知を見るのが嫌で、返事をしなくてはと思いつつ、数日放置してしまう。

→×……これはないな。

動きたくないので、ご飯を食べない。もしくは栄養を考えずに適当に宅配やインスタントで済ませてしまう。

→×……一応毎日のように自炊はしている。適当にインスタントで済ますときも「栄養を考えて」完全栄養食のパンを食べている。後者はちょっと無理あるか?

昼夜逆転や1日中寝ているなど、生活のリズムが乱れている。

→◯……とにかく起きられずに午前中は鉛様麻痺で固まっていることが少なくない。休日はすぐに昼夜逆転する。睡眠薬を飲んでも眠れない日も多い。この頃は明け方に中途覚醒する。乱れている。

掃除らしい掃除を最後にしたのがいつか思い出せない。

→◯……返す言葉もございません。

 

……結果は、「注意が必要」。しかも、ここ最近増えてきたら気をつけろと。まだそこまでではない、ようだ。

 

これ以上セルフ・ネグレクト傾向を悪化させないために

というわけで、まだおれはセルフ・ネグレクト傾向にある、くらいのようだ。しかし、加齢や病気の悪化によってますます悪くなっていく可能性はある。

 

たとえばゴミだって、日々の生活で出るゴミは捨てているが、「もうゴミではないのか?」というような服や服や靴や服や本や本を溜め込んでいってしまっている。

ちょくちょく思い切って捨ててはいるが。さらにどうでもよくなって、ゴミを捨てる間隔ができてしまなわないとも限らない。

 

シャワーや歯磨き、身だしなみ。このあたりはどうだろうか。

自分自身で強迫性を感じている。潔癖症とまではいかないが。軽く病的なこだわりというか。悪くない習慣なので悪くないこだわりだ。これが治ってしまう(?)かどうかは運次第だ。

 

掃除については、もうこれは生まれ持ったものだから……、いまさら断捨離とかできないよね。どっかにネゲントロピー落ちてねえかな。え、落ちてるようなものではない?

 

とはいえ、現状を維持していくと、ものを買った分だけものが増えていって手に負えなくなる。もうなっているかもしれない。やっぱり捨てるか。とりあえず、寒いのが終わったら、冬物を思い切って処分してみよう。それだけはやってみよう。

 

と、ここまで読んで「自分には関係ないな」と思ったあなた。健常者がいつ障害者になるかなんてわかりはしない。日々の過労で気づいたらゴミが溜まっているかもしれない。疲労が重なって心が折れる日がくるかもしれない。気をつけたほうがいい。

 

でも、セルフ・ネグレクトってそんなに悪いのか?

とか書いておいてなんだけど、セルフ・ネグレクト状態ってそんなに悪いことなのかね。

ミルの他者危害原則でもないけれど、はっきりいって自堕落は楽だ。楽なことをやってこうなっている。もちろん、ゴミ屋敷化して周辺住民や家主に迷惑をかけるのは危害といえるだろう。

 

しかし、たとえば自らの身体のケアを行わないで、大きな病気になって国の医療費の負担になるのはどうだろう。それを危害と言えるのかどうかはわからない。国家による健康の強制はパターナリズムかどうか。考えてみてもいいだろう。

 

いや、そんなことを考えるまえにヨレヨレのヒートテックを捨てろ、ジャガイモを拾え。それが正しいには違いあるまい。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :

フリーランスのライター。

なんだか自宅でパソコン1台でマイペースに稼いでるイメージがあるだろう。

 

実際はそこまで気楽な稼業でもないが、確かに、毎日決まった満員電車に乗り、自分の体内時計を無視することを強いられ、余計な電話を取り、オフィスではなんとなく笑顔でいなければならない、そんな世界とは違う。

 

特に余計な電話、余計な人間関係はかなり削がれてコンパクトになる。

自分あての電話しかかかってこないし、居住地に関係なく仕事をしていると連絡のメインはチャットツールである。

 

わたしは比較的穏やかな性格、というか「イラッとしたり怒ったりするエネルギーがもったいない」という考えの持ち主だが、それでもわたしをかなり強くイラつかせる人が時々いる。

直接会話していなくてもストレスになるのだから、オフィスでこれらの人々が隣に座っていた日にはたまらないだろう。心から同情する。

 

わたしなりのライター観

納品した原稿の修正作業。

この仕事をしていればよくあることだ。

 

なんだかんだいって、私は「自分のブログ」を書いてお金をいただいているのではない。

クライアントさんの意図を反映し、クライアントさんのためになるようなものを書いてこそ「仕事」になるのである。

 

この点を勘違いしておられる方もたまにお見受けするが、自分が書くものは「商品」である、ということが分かっていなければこの仕事で食っていくなんて論外だ。

 

もちろん、ポリシーがないわけではない。

わたしの場合は、そのクライアントさんと読者さんの「架け橋」になりたいというのが第一だ。

 

自分が書いたものを読んでくださった人がほんの少しでも「おもしろかった」「ためになった」と思ってくだされば、それがクライアントさんを利することである。

よって書くにあたっても一定の枠組みはある。

 

しかし、マスコミ時代に比べればこの世界は表現の自由度がそうとう高い。

なのでクライアントさんの業界問わず、わたし個人の持論を展開する余白を頂いているということはライター冥利に尽きる。

「量産型」ではない仕事になってくればこの世界は楽しい。

 

ただ、持論が行き過ぎてしまうこともあるだろう。

繰り返すが、掲載先は自分個人のブログではない。

だから、ある程度の修正や加筆を求められることじたいには何も感じない。決まった枠の中で要望に応えるものを作ることが仕事だからである。

 

しかし、そういった立場関係を差し置いても、「それ必要ですかね?」と思うことがいくつかあった。

 

意図を理解できない修正

Googleドキュメントを頻繁に使う人ならわかるだろうが、文章編集にあたって「提案モード」がある。

これを使うと、下の文章に別色で打ち消し線が引かれ、提案者の文章がその色で表記される。

 

認識の違いやトーンのずれがあれば、それを修正するのは仕事として当然のことである。

しかし、とりあえず目を閉じて10秒、心を鎮めてからでしか作業に取りかかれない、あるいは後回しにしてしまったことが何度かある。

 

打ち消し線と上書きで画面がカラフルになりすぎて、見るだけでもクラクラするような無惨な姿になって戻ってきたのである。

 

なぜこんなにカラフルになるのか?

一例を挙げると、文章の意味もトーンも全く変わらないレベルの修正を求められた場合だ。

 

正直、わたしはマスコミ時代からすればもう20年以上文章に携わっている。そして文章についてひとつの考え方を持っている。

 

それは、活字であっても「音読したときに息切れするような文章になっていないか」ということである。

テレビ出身という影響もあるだろう。

 

テレビニュースの原稿はアナウンサーが読み上げるが、新聞とテレビの大きな違いは「巻き戻しがきかない」ことである。

 

よって、耳で聞いて一発で理解できる文章を書かなければならない。新聞のように、ちょっと前から読み返す、といったことができないのだ。

わたしはこの長い経験から、ひとつの仮説にたどり着いている。

 

活字といえども、人は文章を頭の中で「音読」して理解している部分があるのではないか?

ということである。

 

小説家は時に、その原理を利用して、あえて息継ぎができない長い一文を使う演出をしている。ヘンリー・ミラーや村上龍にわたしはその一端を感じていた。

ただ、私が仕事として扱っているのは小説ではない。物事をわかりやすく伝えるための文章である。

そんな意識を持っているのに、しかもそれを変更したところで全く文意は変わらないのに、極論をいえばいわゆる「てにをは」を何十か所と訂正されたことがあった。

 

申し訳ないがわたしは、漠然と文章を書いているわけではない。音読ということまで自分なりに考えて、句読点の場所までそれなりに考えている。

 

そんなものは下請けの自己満足と思われてもわたしは立場上何も言えないが、それにしたって文章の意味が変わらない修正とは何なんだろう。

あるいは、漢字をひらがなに修正したり、ひらがなを漢字に修正したり。

表記上問題のないものを他の漢字に差し替えたり。

 

「広辞苑をもとに修正しました」と言われればさすがに頭を下げるが、そうでもないのだ。

なにか、守らなければクビにでもなる、社内独自の国語辞書でもあるのか?と言わんばかりである。

 

だったらその辞書ごと最初に寄越してくれ、いや待て、ひとつの企業にしか通用しない辞書を読んでいる暇はない気もする(それは報酬によりますよ、というのはどのフリーランスだってそうだけれど)。

それこそ生産性というやつだ。わたしたちだって必死なのである。

 

失礼を承知で言えば

正直、めちゃくちゃ失礼なのを承知で言えば、そんな修正箇所を血眼で探す、それって「ブルシットジョブ」なんじゃないだろうか。

その作業がなくても、何のためにこのコラムを掲載するかの意図は全く変わらない。内容も伝えたいことも変わらない。トーンも変わらない。

 

「なんかようわからんけど、まあそうおっしゃるのなら仰せのままに」

そんなモチベーションの書き手を求めているのなら、私は口を挟む立場にはない。

しかし自分なりに、それなりに長い経験から得た技術を駆使しているつもりだ。なのに、根拠のわからない形、それも文字単位で修正されてしまうと正直、報われない気持ちになってしまう。

 

まあ、そんなことは個人的な感情の域を出ないのだが、純粋な興味が湧いてしまう。

このやりとりを見ている上司の方っていらっしゃるのだろうか?見て何を思うのだろうか?

ということである。

 

余計なお節介だと言われればそれまでの話だが。

 

なまこを獲りにいこうぜ!

ここまでに書いたような話を、少し前に友人と酒の肴にしていた。

それってどこの会社にもあって、みんな思ってることだよね、という結論になった。

 

そんなときに私がふと思い出したのは、「なまこ理論」である。

京都大学の酒井敏教授がだいぶ前から提唱している話だ。

例えば、10人でお米を作っていたとしましょう。これを一生懸命効率化して5人で作れるようになった。5人で作れるようになったこと自体は素晴らしいことですが、問題は余った5人も一生懸命米を作ると、20人分できちゃう。余ってしまうから売れない。もっと安くしないと売れないので、どんどん値下げをしていきます。そうするとまた売れなくなってくるので、もっと効率化して3人で作るようになると。これはもう悪循環です。
(出所:https://ocw.kyoto-u.ac.jp/omorotalk02/ )

では、どうするか。

そもそも余った5人が米を作るからいけないので、余った5人は米なんて作らず、海にでも遊びに行って、なまこでも取ってこい。あれが食えることを発見した人は偉いんでしょ。それでなまこを取ってきてですね、真面目に米を作っている人に、お米だけだと寂しいですよねと、これうまいんですよと言って高い金で、高い金でっていうのがポイントなんだけども、売りつけて、そのお金でお米を買って、初めて経済が回るわけなんですよ。だから米を作ってはいけない。
(出所:https://ocw.kyoto-u.ac.jp/omorotalk02/ )

わたしはなまこが大好きだ。コリコリした食感は酒のアテに最高である。

ポン酢にもみじおろし。少し海臭くて、でもそれも愛おしい。

居酒屋のメニューで見かけたら必ず注文する。

 

この至福は、あんなグロテスクな見た目のものを食べてみようと思った人のおかげだ。

多少割高でもこの幸せには負ける。これが付加価値というやつだ。

その分酒も進む。好循環だ。

 

さて、一緒に飲んでいた友人にこの「なまこ理論」を紹介したところ、

「それだ!わかりやすい!俺もその話使うわ!」

と、かなり納得していた。

彼のモヤモヤを一瞬で解消したのである。

 

そうなのだ。そういうことなのだ。だからわたしはこの理論が大好きだ。

 

AIに怯えるのではなくて

なお、生成AI時代にはもっとこの傾向が強くなるんじゃないかと思っている。

同じことができる人材がたくさんいたとしても、AIで効率が良くなれば、結果、人間の給料が下がる。

そんな悪循環を打破するには、なまこを獲りにいく姿勢が必要だ。

 

では、さて、現代における「なまこ」とはどんなものだろう。

一見グロテスクな見た目をしているのに、しかしびっくりするほど美味しいもの。

安売りになっているものとセットにすることで、付加価値を生み出すもの。

なお「セットにする」というのは重要なことだと思う。既存のものを全部捨てるのはやりすぎだ。

 

次世代のなまこ。

わたしにもそれが何かはわからないが、少なくとも「食わず嫌い」はいつまでも続けていてはいけないということだとは思うし、なまこは閉鎖空間には見つからないことだろう。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/

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かんじんなことは 目に見えないんだよ (サン=テグジュペリ)

 

経済産業省の産業審議会資料によると、2010年~2020年の日米の経済成長の差は、GAFAMの大きな成長にあると指摘されています[1]。そして、ヤフー株式会社の安宅CSOは、GAFAMを「AI ×データ活用するプラットフォームを持つ会社」と位置付けています。

このデータ活用をするプラットフォーム、つまりデジタルプラットフォームは、テクノベート(Technology×Innovation)時代のビジネスの成功における重要な要素となってきています。今回は、このデジタルプラットフォームについてビジネスパーソンが理解しておきたい基本とその導入について考えます。

 

デジタルプラットフォームとは何か

デジタルプラットフォームとは、コンピューターを用いた「場」であり、多くの個人や会社がインターネットなどで利活用するもの程度と、実務上は理解しておけば良いでしょう。[2]

 

基本的な理解のために、まずは、コンピューターの基本的な、情報の流れをおさらいします。コンピューターには、データのインプットとなる収集する、収集したデータを管理・分析・処理する、そしてデータをユーザーが使いやすいようにアウトプットするという大きく3つの役割があります。

私たちが毎日のように使うパソコン上の文書作成ソフトをイメージしましょう。キーボードや音声で入力します。それを、コンピューターが処理して、かな漢字変換を行います。

アウトプットは、指定によって変えることができます。例えば、文字を大きくしたり、紙に印刷したレイアウトでみたり、スマートフォンで見るように自動調整したり、です。

 

デジタルプラットフォームは、このデータの収集、管理・分析・処理、アウトプットを個人の中で完結するのではなく、インターネットなどを用いて個人間や企業内外、グローバルに大規模に行うことができます

 

例えば、企業内で行うものであれば、経費管理システムがあります。社員としてみなさんが使った会社経費(電車代や接待交際費など)を入力します。入力された情報は、経理部に集約され、デジタルプラットフォームを通じ情報が処理されます。処理される際、利用者に応じてアウトプットが変化します。例えば、利用した社員に1円単位で支払処理が行われ、明細に反映されます。支払い業務担当者は、金融機関に振込依頼できるように情報を加工します。会社の経営者は、経費に異常な動きが無いか確認していますが、この際は、各人がいくら使ったかという細かい情報よりも、会社全体で合算した上で、分析しやすいように売上高に対する比率や前年同時期の比較を行います。

 

デジタルプラットフォームがなぜビジネスに成功をもたらすか?

①取引コストの最適化

効果的なデジタルプラットフォームでは、データ処理にかかる時間を短縮すると同時に、価値を感じられる使いやすい形でアウトプットします。経済学でいう「取引コスト[3]の最適化」が行われるのです。

すると、サービスやプロダクトを探して、契約して、価値を感じることがスムーズに行われるようになります。例えば、上記の経費管理システムであれば、支払い担当者が銀行への支払い指示をひとつひとつ手入力すると、時間も、手間もかかるし、ミスにつながります。社内だけではなく、銀行ともデータ連携することで、取引がスムーズになります。

 

先ほどの事例のように、デジタルプラットフォームの接続先が、社内や取引先を超えて、国家的な標準が作られることで、取引コストが最小化し、多くの人たちが便利になります。例えば、エストニアで2001年に採用された行政サービスを提供するデジタルプラットフォームX-Roadは、公務員の労働時間を毎年1345年分削減しているとされています。このシステムは、エストニアを超えて20か国で採用され、52,000の団体と繋がり、3,000以上のサービスが展開されています。[4]日本でも市川市が2019年6月に採用しています。[5]

②新規事業創出の基盤になる

デジタルプラットフォームは、コスト削減のみならず、新規事業創出の重要な基盤となります。例えば、金融包摂型Fintechサービスを提供するGlobal Mobility Serviceというスタートアップがあります。同社はデジタルプラットフォームを構築しており、「車両データ(走行状況、速度等)と、金融機関と連携して取得した金融データ(支払い状況等)を分析することで、ドライバーの信用力を可視化し、従来の与信審査には通過できなかった方々へ、ローンやリースなどの金融サービスを活用する機会を創出」(同社HP)しています。もう少し具体的に同事業の特徴を整理してみれば、支払の延滞や契約条項の違反に繋がる情報をデジタルプラットフォーム上で管理し、場合によっては同社の装置を取り付けた車やバイクは外部から遠隔で停止させることが可能という点にあります。

結果として、デジタルプラットフォームが通常では信用力が足りないドライバーへの信用補完をすることで、事業としての新たな価値を創造していると言えるでしょう。[6]

 

ちなみに、デジタルプラットフォームがもたらす顧客情報の活用度合いでも、日米では大きな差が出ています。例えば、フェイスブックやGoogleが、顧客の行動履歴を用いて、広告を提供したり、AmazonやNetflixがユーザーの次に欲しそうな商品やサービスを提案したりするのは身近な事例です。

『DX白書2023』(独立行政法人情報処理推進機構) によると、日本では顧客への価値提供に関する自社のDX関連取組みについて「評価対象外」とする会社が3割半ば~7割程度であり、8割超の企業が何らかの評価をしている米国とは対照的になっています。

 

デジタルプラットフォームを日本でも前向きに活用していく

以上2点の要素をはじめとして、デジタルプラットフォームは、テクノベート時代の企業の競争力を左右する大きなポイントとなっています。この導入にはトップの関与と同時に、デジタルプラットフォームの導入の必要性を理解して協力するミドルや現場スタッフが欠かせません

 

一方で、デジタルプラットフォームは目に見えない存在であり、また、優れたデザインであればあるほど、ユーザーにデジタルプラットフォームの存在を意識させることが少なくなります。現に私たちは、GAFAMのデジタルプラットフォームが何かを理解しなくても、容易にそのサービスを利用することが可能です。

 

もちろんセキュリティやエラーの問題はあり、デジタルプラットフォームも万全ではありません。事故が起こった際の責任の所在が曖昧になるリスクもあり、環境整備が急がれます。一方で、人が行った時と比較してエラーの発生度合いを考えると、コンピューター技術の成長とデータ蓄積で次第に信頼度は増してきています。今まで人で行ったことで起きていた無意識に抱えているリスクとデジタルで行うリスクを比較して考えることの重要性は、首長などによっても既に提起され始めています[7]

 

テクノベート時代に生きるビジネスパーソンはデジタルプラットフォームの重要性や必要性とそのリスクを理解し、積極的に学習し、その導入を全社どの立場からも前向きに関与する必要性があると言えるでしょう。

 

<参考文献>

[1] 産業構造審議会経済産業政策新機軸部会 2022年2月26日

[2] 特定デジタルプラットフォームの透明性及び公正性の向上に関する法律 第2条を基にGLOBISで作成

[3] https://globis.jp/article/2034

[4]https://e-estonia.com/solutions/interoperability-services/x-road/

[5] https://planetway.com/pressreleases/Planetway%20news/

[6] https://www.global-mobility-service.com/service/business.html

[7] G1関西2022「星野リゾート・星野佳路氏、熊谷俊人千葉県知事、柳川範之東大教授が語る、リーダーシップと説明力」及び、ツイッター

 

(執筆:髙原 康次

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Google DeepMind

ある意味衝撃的なコラム

少し前になるが、新聞に衝撃的なコラムが掲載された。

全国紙の文化欄で、書いたのはベテランの小説家だった。内容は、京都アニメーション事件とその被告について。

 

まとめると、

  • この被告には小説やアニメに関わる資格などこれっぽちもなく、
  • 言葉のセンスも整合性も想像力もない。
  • 人の心を動かす物語など書けるはずがない。

と小説家は犯罪者を罵倒していた。

 

小説家の言うことは正しい。いかなる理由があれ、犯罪者は犯罪者であり、身勝手な理由で大量殺人を犯した被告なら同情の余地など少しもない。

 

ただ言えるのは、犯罪者を非難するのは簡単で、この内容の常識的なコラムならテレビコメンテーターでも書ける。

正しすぎるのだ。被害者や被害者の遺族の側に立って犯罪者と犯罪を糾弾するのは社会的に当然のことで、その犯罪者が書いたアニメだか小説だかを読みたくなんかないに決まっている。言わなくてもすでにみんなが思っている。

 

私にとって、小説家がこの正しすぎるコラムを書いたことがなにより衝撃だった。

誤解のないように念押しすると、私は別に犯罪者を擁護しようというのではない。

 

この事件に限らず、犯罪者も社会の一部であり、なんの因果もなく犯罪が起きることはない。

そして場合によっては、ある事件の犯人が自分だったかもしれないと想像することはあるし、想像しなくてはならない。

そして少なくとも小説家であるならば、その程度の想像力はあるはずだ。

 

想像力があれば、むしろこの犯罪を生んだ私たちへの厳しい問いかけでも良かったはずだ。ひたすら犯罪者を非難するだけでは、地下鉄サリン事件の時に「とにかく早く死刑にしてしまえ」と迫ったジャーナリストたちと変わらない。

言葉のセンスも想像力もないのは、小説家のほうではないのか。人の心を動かす物語など書けるはずがない、とは、自分のことを言っているのではないか。

 

常識的な小説家

小説家は一般的な世間や時代の流れに対して少しでも違った角度の視線がないと成り立たない。サッカーで言えばディフェンスの裏へ抜けるような攻撃で、ある小説家は「月の裏側」と表現したこともある。

犯罪者の側に立ち、犯罪者から見た世界を想像しなくてはならない。

 

小説家が常識的になり大人しくなると、小説はつまらなくなっていく。

中上健次は1990年、連続殺人犯の永山則夫が日本文藝家協会から死刑囚であることを理由に入会を断られた際、この決定に抗議して柄谷行人、筒井康隆とともに協会を脱会している。

 

小説家は政治家や評論家や法律家やジャーナリストがいえないことを小説に書かなければ意味がない。

犯罪者や社会的な異物の視点からしか見えない世界を、徹底的に個人の低い目線で物語へ組織していく作業こそ小説家の仕事なのだ。とこのように小説とはこうだ、といえるものでもないのは百も承知で言わなくてはならないほど事態は深刻なのである。

 

ただ、新聞ではなくても大手出版社の雑誌などでは、コラムも小説もポリコレ的にかコンプラ的にか知らないが慎重になっていることは確かだ。小説家が常識的になってしまったのではなく、常識的な小説家しか発表できなくなってしまったという一面がある。

 

たとえば犯罪を非難しない内容なら「犯罪者を擁護している」と取られかねないからだという。これと同じで、「女性蔑視と取られかねない」「人種差別と取られかねない」「障害者差別と取られかねない」などなど、連鎖しているのだ。

 

さらに言えば、「女性蔑視と取られかねない」「人種差別と取られかねない」「障害者差別と取られかねない」内容であっても、書くのが女性だったり外国人だったり障害者だったり、つまり当事者であればいくらか許されているという奇妙な事態まで発生している。

 

変えるべきは言葉ではなくまず実態

出版社やマスメディアの自主規制が小説家を常識的にしてしまっていることは、しかし出版社やマスメディア自身もよくわかっている。

 

よく言葉狩りといわれるが、問題は言葉狩りではなく、言葉の先にある文化まで狩られてしまうことにある。

たとえば差別的とされる言葉について。世界には様々な言語があり、国ごと・文化ごとに言語があり、それぞれの言語や言葉に体系があり、歴史がある。

 

差別的であるという理由だけで多様性に富んだ言語の世界から言葉を抹殺していき、しかもそれが正しいとされどんどん進行すればどうなるかはわかりきっている。

差別用語を使うことはコンプラやポリコレに反することから控えられるのが当然のようになっており、私も原則的には賛成する。

 

しかしたとえば熊が人間にとって危険だという理由で大量に殺害してしまえば、森の生態系は崩れて植物にも影響がある。生物の多様性を脅かす。

言葉と言語の多様性を破壊し、使うべきとされる言葉を限定し、言語の統一化が進めば、言語体系が崩れ、その地域、その国の文化や歴史が破壊されるのと同じことなのだ。

 

たとえばジェンダー視点から「女優」とか「奥さん」とか「嫁」といった言葉が不適切だとして、言い換えが進んでいる。

私自身も小説で関西弁の「嫁はん」をセリフで使ったら校閲からチェックが入ることがある。「妻」なら問題ないというのだが、関西人は自分の妻のことを間違っても「うちの妻は~」とは言わない。言葉狩りは単にその言葉だけを消滅させるだけでなく、標準語を起点にしている以上、結果的に方言を圧迫する機能があるのだ。

 

そもそも関西弁が方言で、関東弁が標準であるとはせいぜいこの100年くらいのことで、歴史的にそんな事実はない。1000年以上京都が都で、関東弁は「お国ことば」だった。

ある人にとって「不愉快だから」とか「差別なのでは」といった理由であらゆる言葉や表現を規制できるなら、どんな言葉や表現でも誰かを不愉快にしたり差別する可能性はあるため、ほとんどの表現ができなくなっていく。

 

いずれにしても、本来差別解消は人間の生理的な拒否感や嫌悪感や誤解から解消しなくてはならない。人の中にある差別的な心情や現実や実態という本来取り掛かるべき本質部分をすっ飛ばして、言葉を抹消してなくなったとするのはなんら本質ではなく、なくなった気がしているだけ、私たちが政治を批判する時に言う「やってる感」と同じだ。

 

しかも私たちは少なくとも一度同じことを経験している。

80年前の言論弾圧や適性語の言い換えといった表現規制は、今となっては戦争と共に「なぜあんなことをしてしまったのだろう」という反省対象になっている。

 

「差別を助長する・子供の教育に悪い・悪い風潮を助長する・不適切ではないか」といった規制が、いつのまにか自由な表現や言論を封じていき、芸術分野や小説への弾圧へ向かえば、かつて私たちが戦争に巻き込まれていったいきさつと驚くほど重なっている。

 

特に日本人は最近で言うとコロナの自粛警察などでもわかるとおり、どっと一方向へ流れる習性が強い。

やはり半世紀後か来世紀にならなければ、反省の機会は訪れないのだろうか。

 

「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」

差別的とされる言葉に対する抗議は、主に社会的弱者や被差別サイドから告発される形でスタートする。

かつては差別されがちなマイノリティの立場での抵抗的で告白的なテーマの文学はそれなりの魅力があった。

 

ところが今でいうLGBTQや多言語・人種系、あるいはジェンダー・障害者など今まで被差別的とされた分野がマイノリティでなくなった今、告白的・抵抗的にそれをテーマとしたところで文学にはならない。

 

マイノリティが表面上はどんどん受け入れられていく社会は、それだけ見ると寛容な社会に見える。

しかし言い換えれば異物をなくして分類可能にする「みんな同じで、みんな良い」緩やかな管理社会。一方でまだ容認されていないとされるマイノリティなら攻撃対象となる。

 

2024年現在、LGBTQやジェンダー関係の小説は無数に書かれており、障害者の小説が賞をとったりもしている。書きやすくなったので、それが増えるのは自然ともいえる。

しかし、小説本来の意義やおもしろさでいえば、書きづらい、言いづらいことを書くからこそ切実で読んだ人に刺さる。

 

フランツ・カフカに、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」という言葉がある。

犯罪や差別は憎い。筆舌に尽くしがたい憤りを覚える。しかし怒りに任せて叩きまくったり死刑にするのが効果的なのか。多くの被害者や遺族が言う、「もう2度とこんなことが起きてほしくない」、そのためにはまず加害者の側に立ち、加害者から見た世界を描写することからはじめるしかないだろう。

 

 

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【著者プロフィール】

かのまお

ライター・作家。ライターとしては3年、歴史系や宗教、旅行系や建築などの記事を手がける。作家は別名義、新人賞受賞してから16年。芥川賞ノミネート歴あり。

Photo by:Super Snapper