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女児向けアニメシリーズ『プリキュア』が人気タイトルとして定着していった頃、『苺ましまろ』という作品に「かわいいは正義!」というフレーズが登場し、ちょっとした流行り言葉になっていたのをご存じだろうか。

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「かわいいは正義!」と言うとちょっと言い過ぎかもしれない。だとしても、現代社会では「かわいい」ことがひとつの美点、ひとつのアドバンテージになることはままある。

 

たとえばペットとして愛玩されやすく、自然保護を訴えるポスターの素材として選ばれやすいのは、「かわいい」動物だ。

人間の場合も、かわいい女の子や男の子はもてはやされ、大切にされる。シリア内戦でヨーロッパ諸国が難民受け入れに傾いた際にも、一枚のかわいい子どもの写真が大きな影響を与えていた。

 

少し前のウォールストリートジャーナルにも、人間のかわいいものに対する反応について興味深い記事が掲載されていた。

子犬の写真に人間がメロメロになる理由―「かわいらしさ」認識の科学

哺乳類の赤ちゃんはみな同じように見える。鼻が低く、額が広く、丸顔で、目が大きい。

われわれ人間はその特徴が大好きだ。

赤ちゃんのこうした特徴が際立っていればいるほど、私たちはその顔を一層かわいいと評価する。

子どもを含めた人間は、大人の写真より赤ちゃんの写真を好む。そして、かわいくない赤ちゃんの写真よりかわいい赤ちゃんの写真を好む。

脳画像研究によると、赤ちゃんの顔を見ると脳内物質ドーパミンの「報酬」回路が活性化され、その活性の度合いは赤ちゃんがかわいければかわいいほど強くなるという(筆者は、これらの研究で「かわいくない」赤ちゃんの例として使われた子の親たちに深く同情する)

この記事を読むにつけても、人間には多かれ少なかれ「かわいいものをかわいいと感じる」性質、つまりかわいいものの影響を受ける性質が備わっているようにみえる。

 

「かわいい」の国、日本

くわえて日本の場合、かわいいものをもてやはす文化的な下地が、戦後社会に急速に広がっていったという事情もある。

「かわいい」という言葉がメディアに反復され始める年代は、正確に特定できる。63年5月「母と娘の情操教育雑誌」として創刊された『週刊マーガレット』の、付録の広告コピーあたりから急浮上しているのである。

そこに見られるのは「かわいい」=「皆に愛される」という「戦後民主主義的な理想」であり、「物分かりのいい大人は、誰からも愛される子供を育てる」というこの時期の「団地の母娘」イメージだ。

 

宮台真司ほか『増補 サブカルチャー神話解体』より

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社会学者の宮台真司によるサブカルチャー研究によれば、日本のサブカルチャー史のなかで「かわいい」というキーワードが急浮上したのは1960年代のことなのだという。

「かわいい」が「母と娘の情操教育雑誌」の広告コピーから広がっていったことが象徴しているように、まず、「かわいい」は母親が娘を褒めそやすキーワードとして流行した。

 

しかしまさにそうやって「かわいい」と褒めそやされて育った世代が大人になるにつれて、「かわいい」は思春期以降の男女を褒めそやす言葉へ、娘自身が主張し得る言葉へニュアンスが広がっていった。

それだけでなく、「かわいい」というキーワードの適用範囲は男性にすら広がっていった。

1980年代以降は、理想とされる男性像が男臭い俳優から中性的で「かわいい」俳優へとトレンドが変わっていった。

 

それを象徴していたのが、SMAPをはじめとするジャニーズグループである。ジャニーズグループの成功は、理想とされる男性像が「かわいい」の側へと傾き、それまでの男臭さが敬遠されるようになった時代の流れと完全に一致している。

 

赤ちゃんや子どもだけでなく、成人男女にまで「かわいい」という理想像が波及し、アドバンテージとみなされるようになったという点では、おそらく日本は世界でもトップクラスの“先進国”だ。

私の見聞している限りでは、欧米文化圏では、思春期~成人男女の「かわいさ」がアドバンテージとみなされる度合いは日本に比べれば低い。とりわけ、理想とされる男性像が「かわいい」に傾斜している度合いは日本には遠く及ばない。

 

何が「かわいい」をのさばらせているのか

もともとは愛玩され保護される者のアドバンテージであった「かわいい」が、こんなにも適用範囲を拡大させ、「かわいいは正義!」が単なるアニメのフレーズとは言えなくなったのは、なぜだろう。

 

人間が先天的に「かわいい」に影響を受けやすい点は先に引用したとおりだが、それだけでは「かわいいは正義!」的な日本社会は説明しきれない。

もし、それだけの与件で「かわいいは正義!」が成立するようなら、もっと昔から広い文化圏で「かわいい」は理想視されて、たとえばアメコミやフランス映画なども「かわいい」だらけになっていたはずである。

 

「かわいい」がニュアンスを拡大させ、成人男女にまで適用範囲が広まるためには、文化的な与件もみたしていなければ不可能だったろうし、事実、日本で「かわいいは正義!」が成立するようになったのも20世紀の後半以降のことだった。

私はまだ、日本で「かわいいは正義!」が成立するようになった背景について論じた書籍を読んだことがない。せいぜい、さきほど引用した『サブカルチャー神話解体』がかすっているぐらいである。

 

だから当該分野の専門家がどのように考えているのかは正直わからないのだけど、「かわいいは正義!」の与件のひとつとして、安全で秩序だった社会の成立は不可欠ではなかったか、とは思う。

 

昭和時代以前の社会では、自分が強い人間であること、自分がけして弱い人間ではないことをアピールすることが生きていくうえで重要だった。

ナメられること・弱いとみなされることは、生存競争という意味でも生殖競争という意味でも拙かった。

成人男性は強くなければならないし、成人女性も、弱いと思われるのは危険なことだった。ジェンダーのコードもそれに即していて、「大人の男らしさ」「大人の女らしさ」を身に付けることは処世にかなっていた。

 

そのような社会では、たとえば十代や二十代になってもなお「かわいい」男性はナメられ、ゆすられ、カジュアルな暴力にさらされるリスクを負い続けることになる。

種々の暴力が横行する社会では、「かわいいは正義!」が成立する余地はない。

 

子どもから大人になるにつれて、ナメられず、弱いとみなされず、カジュアルな暴力に晒されにくい所作を身に付けなければ社会適応が難しくなるし、ともなって、大人への憧れのうちに「not かわいい」が包含されることにもなる。

 

逆に言えば、十代や二十代になっても「かわいい」が理想視され、「かわいいは正義!」というフレーズがまかり通る社会とは、昔とは比較にならないほど暴力が少なくなった社会、ナメられること、弱いとみなされること、カジュアルに暴力を振るわれることが少なくなった社会でなければならないわけである。

 

もちろん現在の日本社会から暴力が完全になくなったわけではない。

自分より体格が小さい者・弱そうな女性を探し、わざとぶつかる人物の話などを聞き及こともある。

だとしても、相対的に考えるなら現代の日本社会は昔よりもずっと安全だし、諸外国のほとんどの都市と比べても安全だろう。

 

子どもや女性が並んでいる列に大男が威圧をもって割り込むなどということは現代日本では非常に珍しい。ごく一部の逸脱した人物を除けば、他者への暴力や威圧に対する抑制が、かなりしっかりと内面化されている。

この基本契約は、自然的平等を破壊するのではなく、むしろ反対に、自然がときとして人間のあいだに持ち込む肉体的不平等に代えて、道徳上および法律上の平等を打ち建てる、ということ、また人間は、体力や天分においては不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になる、ということである。

ルソー『社会契約論』(白水Uブックス)より

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有名なルソーの『社会契約論』には、暴力は国家に委託し、人間同士が好き勝手に振るう暴力が禁じられた、社会契約にもとづく平等社会が描かれている。

『社会契約論』なんて遠い世界の古典だろうと思いきや、近代国家の成り立ちを考えるにあたって、ルソー(やそれに前後する思想家たち)のビジョンは意外にリアルだ。

 

でもって私には、少なくともある点において、日本社会ではルソーの『社会契約論』がしっかり成り立っているようにみえる。

というのも、ナメられないよう努めなければならない社会・弱いとみなされないよう努めなければならない社会・カジュアルな暴力に晒されないようたえず気を付けていなければならない社会とは、それだけ国家に暴力が集中しておらず、人間同士が好き勝手に暴力を振るう余地があり、社会契約のとおりに人間が動いていない社会だからだ。

 

だから少しタガの外れたこと主張してみると、「『かわいいは正義!』がまかり通る社会とは、ルソーのビジョンが具現化した社会」なのである。

少なくとも、ルソーが生きていた時代に暴力とみなされたであろう暴力が非常に低レベルに抑えられ、カジュアルな暴力が街から大幅に減った社会であるとは言えるだろう。

 

『社会契約論』のビジョンに近い社会が日本で具現化したからこそ、「かわいい」男女がその権利を暴力によって脅かされることなく、「かわいい」ことのメリットを最大限に活かせるようになった、と考えてだいたい合っているのではないだろうか。

 

暴力が禁じられた社会の、新しい影響力闘争

さて、このような「かわいい」ことのメリットを生かしやすい社会で割を食ったのは、他ならぬ、カジュアルな暴力をふるっていた者、あるいは、存在するだけで周囲に威圧感を与え、結果としてアドバンテージを獲得していた者である。

端的に言えば、全くかわいげのない、存在するだけで威圧感を与え、ときにはカジュアルな暴力をふるうことを辞さないような人々が相対的に影響力を削がれることとなった。

 

「かわいい」ことがアドバンテージとして活きやすい世の中になったが、それに伴って、カジュアルな暴力をふるい得る可能性があるということ自体、ディスアドバンテージとみなされ得るようになってしまった。

 

「かわいいは正義!」という風潮は、「かわいくない者は不正義」という風潮と表裏一体である。

最近出版された『矛盾社会序説』という本も、この点に着眼して「キモくて金のないおっさん」問題を取り扱っている。

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子供や女性がカジュアルな暴力から守られるようになったという意味では、日本社会は『社会契約論』のビジョンに近づいたと言えるけれども、カジュアルな暴力が禁じられたからといって、本当の意味で皆が平等になったわけではない。

その後に残ったのは、「かわいい」の影響力がいかんなく発揮され、そうではない人物──それこそ、「キモくて金のないおっさん」のような──が影響力を持ち得ない社会状況だった。

 

もし、さきほどのルソーの引用に忠実であるなら、威圧や肉体的暴力による不平等が是正されたのちは、「かわいい」という天分にもとづいた不平等も是正されなければならないだろうし、世間で語られるところの「コミュニケーション能力」の不平等にも目が向けられて然るべきだろう。

 

ルソーが生きていた頃は「かわいい」の影響力など考えなくても構わなかっただろうし、狭い意味での暴力こそが差し迫った課題だった。それはまあいい。

しかし、女性が一人で夜の街を歩けるぐらいには安全になり、契約社会化の進んだ日本社会では、狭義の暴力にかわって「かわいい」や「コミュニケーション能力」といった天分にもとづいた不平等がまかり通るようになり、そうした新ルールのもとで個人対個人の影響力闘争が繰り広げられている。

だからいけない、というつもりは私には毛頭ないし、時計の針を巻き戻すべきだとは思わない。

天分にもとづいた不平等を真剣に考え始めると、恐ろしくこんがらがった倫理や思想や歴史の問題にぶつかってしまうため、現在の私にはそれを深く考えることなんてできない。

 

それでも、「かわいいは正義!」が成立するような時代には、それはそれで不平等を感じている人が存在すること、そういう時代だからこそ肩身の狭い思いを余儀なくされている人がいるかもしれないことは、ときどき思い出しておいたほうが良いように私は思う。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:LisArt

「社会人になってもどうせ使わないから、こんなの勉強しても意味がない」という主張をよく耳にする。

例としてよく挙げられるのが、サイン・コサイン・タンジェント。三角関数というやつだ。たしかに、学校で習ったきり、日常生活で一度もこの知識を使ったことがない。

 

でも、じゃあ社会人になって使わない知識は勉強するだけ無駄なのか?

わたしの答えは、明確に「NO」だ。「社会人になっても使わないから無駄」ではなく、「社会に出たけど使わなかった」という順番で考えるべきじゃないだろうか。

 

「三角関数なんて勉強して、なにになるの?」

amebaTVでの橋下徹氏の発言が物議を醸している。

"This is a pen"なんて、日常生活で絶対使わない。最低限、学ばなきゃいけないことは見えてきていると思うので、それ意外のことは選択制でいいと思う。

だって元素記号やサイン・コサイン・タンジェント、どこで使うの?使ったためしがない。

勉強のできる人たちは"そういうのも教養だ"というが、今はインターネットで色々なことは調べられる(原文ママ)

出典:https://abematimes.com/posts/5496054

こういった主張は、いままで何度も聞いたことがある。「そんなもん勉強してなにになるんだ」ってやつだ。

(マジレスすると、”This is a pen”はA=Bを表現する構文の一例であり、どんな言語でも基礎中の基礎の文法である)

 

たしかに、元素記号や三角関数の知識が日常生活で必要になる可能性はかなり低い。

でもそんなことをいったら、選挙に行きたい人だけが選挙の仕組みを勉強すればいいし、興味のある人だけが平和学習をすればいい、となる。戦争の悲惨さを知らずとも、日常生活ではまったく問題ないのだから。

 

選挙の仕組みや平和学習は「実用性に関わらずみんなが学ぶべきもの」だと主張するのかもしれないが、元素記号や三角関数だって「学ぶべきもの」だと思った人がいるから学校で習うわけで、結局は「なにを勉強すべきか」に関しての価値観のちがいでしかない。

ただ、「日常生活で役に立たないから、社会に出ても使わないから、希望者以外はその勉強をしなくていい」という主張には、おおいに反論したい。

 

「使わないから無駄」なら、保険だっていらない

わたしは一度、高校内の模試で文系3科目合計の学年トップをとったことがある。

しかし理数科目はさんざんで、定期テストではいつも、平均点にいくかいかないかくらいしか点が取れなかった。漸化式なんて見るだけでめまいがしたし、化学のmol計算においてはなにを計算しているのかすらわからなかった。

 

でも「数学や化学を勉強したことは無駄だったのか?」と聞かれれば、そうは思わない。

27歳のわたしは、たまたま数学や化学を使わない道を歩いている。

でももしかしたら、社会学部に進み人口減少を研究、その際に数学の知識が必要になったかもしれない。

食品メーカーに就職して、冷凍しても味が落ちないインスタント食品を開発するために元素の知識が必要になっていたかもしれない。

 

「社会人になってもその知識を使わなかったから勉強したのは無意味だった」のではなく、「勉強したけどその知識を使う方向に進まなかった」だけだ。

「使わない=無駄」なのであれば、思い出の写真だってただのゴミだし、インテリアで飾った絵だって無価値。

なんなら、「事故が起こらなかったから自動車保険は無駄だった」「病気が見つからなかったから人間ドックは無駄だった」ということになってしまう。

 

しかし多くの人は無駄になることを承知で、むしろ「無駄になったほうがいいなぁ」なんて思いつつ、自動車保険に入り、人間ドックを受ける。それは、「万が一」のためだ。

学校で勉強する内容というのも、「万が一そういった方向に進みたくなったときのため」のものであり、「どんな道に進みたくなったとしても入り口くらいは通れるようにしておこうね」と、将来を担う子どもたちに未来のカギを与えることじゃないんだろうか。

 

教養とは将来どの道にも進める可能性を示すカギ

子どもと博物館に行くとき、子どもが将来考古学者や地学者になる可能性を考える親はほとんどいないだろう。

プールに連れて行くとして、それはなにも、将来水泳選手にするためではない。動物園に行くのも、子どもを獣医や飼育員にするのが目的ではない。

それでもさまざまな経験をさせようとする親が多いのは、どこに子どもの道があるかわからないからだ。

 

歴史資料館で見た十二単に一目惚れして着付け師を志すかもしれないし、動物園の乳搾り体験をきっかけに将来酪農家になるかもしれない。

無限にある扉のなかから、いつどの扉を開けたくなるかは、親や教師はおろか、本人だってわからない。

だからどの扉でもちょっと開けて先を覗くくらいはできるように、教養というかたちで『カギ』を与える。それが学校教育であり、教養であると思う。

 

わたしが数学や化学の扉を素通りしたように、多くのカギは使われずにずっとホコリをかぶったままだろう。

でも『カギ』が手元にある以上、わたしはいつでも数学や化学の扉を開けることができる。それは、とても恵まれていることだ。

一般教養を最低限だけ学んであとは自分の意思で好きなことを学ぶというのは、将来の選択肢を早い段階で限定するということ。それは効率的かもしれないけれど、本当に「いいこと」なんだろうか?

 

どの扉を開けたくなるかは、だれにもわからない。だからまんべんなくカギをばらまくのだ。将来どこかの扉を開けたくなっても困らなくて済むように。

 

知識は応用し、結ぶことで広まっていく

また、知識とはつなげていくことで世界を広げることができるものでもある。

たとえば『地理』というと、学校では社会科に含まれるからひらたくいえば文系教科だ。

わたしは学校の『地理』は大嫌いだったが、ひょんなきっかけで『地理学』というものに興味をもち、先日図書館で借りた入門書を読んでみた。

 

自然地理学では温度の変化や気圧の強さなどを計算する際、数学の知識が必要になるのだそうだ。

地図を作るために測量するなら、槍玉に挙げられている三角関数も必要。人文地理学でも、「若者が地元を出て上京する確率は?」「この区画の消費傾向は?」と計算する場合もある。

数学的知識や理科系の知識が必要な学問なのだ。

 

一方で、たとえば「ヒートアイランド現象における気候の変化が人々の暮らしにどんな影響を与えるのか?」という話になれば、社会学系の分野と関係してくる。

どの学問でも、ほかの学問分野と一部リンクしている。完全に独立している学問などない。

 

知識は浅い・深いという縦方向だけでなく、ちがう分野を横断するというかたちで横方向にも伸びる。

そのとき点となるのが教養であり、その点と点を結んで行くことで知識の幅は広がっていくのだ。

「使わない知識は不要」と興味のあることだけしか学ばなければ、知識を広げられる範囲はずいぶん狭まってしまう。

浅く広く学んでおくからこそ、いざというときにその点をつないで深めていくことができる。「いま使わない知識」はあっても、「無駄な知識」などない。

 

知識の有用性における優劣論はバカバカしい

最近はいつでもどこでも、「効率」や「成果」が叫ばれている。うんざりするくらいに。「こんなの勉強してなにになるの?」という主張も、似たような方向性の主張だ。

 

でも、いまわたしたちが享受している『知』のすべては、「こんなのいつ使うんだ」と切り捨てなかった先人たちの努力のたまものである。

先人たちが「どうせ使わないだろう」「役に立たない」と投げ捨てていれば、現代社会はこれほどの『知』で満たされていなかっただろう。

 

明確な結果に繋がらないものは無駄で、役に立たないものを勉強するのは効率が悪い。そういった考えで知識や学ぶことを「役にたつか否か」で取捨選択することを、わたしはいいとは思わない。

最低限必要な知識と好きなことだけ学んだ結果、人生がより豊かになるとも思えない。

 

ただし、授業時間は限られているから、「元素記号を暗記するよりもプログラミングの授業を優先しよう」「三角関数よりも時事問題について考えるべきだ」という議論なら理解できる。

しかしその際は「なにを優先して学ぶべきか」「どんなことを教えれば子どもたちの未来が明るくなるか」という視点にたつべきであり、知識の有用性における優劣を決めたり、役にたつか否かで先人の残した知識を取捨選択するのはちがうと思うのだ。

 

こういった主張がまかり通り、子どもたちが「どうせ社会に出ても使わないんだから勉強するだけ無駄」と、自分が進む可能性のある扉のカギをドブに捨ててしまわないか、心配である。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Amara U)

話題になっていた「ファクトフルネス」を読んだ。

感想をここに記しておきたい。

 

まず、「この世は良くなっている」という話は、「ホモ・デウス」などを通じて知っていたので、新鮮さはあまりなかったが、掲載されている事実は、知っておくべきものであると感じる。

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同じことを感じた人も多いのだろう。

翻訳者の方のTweetによれば、一週間で10万部売れたとのこと。

しかし、これからこの本を読もう、と思っている人にあえて申し上げると、読後感は決して良いものとは言えない。

正直、私は暗鬱とした。

 

なぜなら、この本が提示している最も重要なファクトは、二千年以上前にユリウス・カエサルが看破した

「たいていの人間は、自分が欲することを喜んで信ずる(ガリア戦記3巻18節)」

だからだ。

人類は2千年を経ても、同じような課題を抱えている。

 

例えば、

・世界は金持ちと貧乏に分断されてなどいない

・格差は縮まり続けている

・世界はどんどん良くなっている

上はいずれも、「ファクト」だと著者は述べている。

 

だが、世の中には今日も

「分断されている」

「格差は拡大し続けている」

「世界はどんどん悪くなっている」

と主張する人々が数多くいる。(このような人々が多数派であることはファクトだ)

 

そして、彼らの一部は奇妙なことに「世界は分断されている」ことを望んでいる。

そうでなくては困るからだ。

 

例えば、少し前「貧困」について、ある起業家と、貧困対策の活動家が話していた。

 

起業家は言った。

「「貧困問題」が重要な理由がまだよくわからない。なぜそんなに重要なのか、説明してほしい。世界では貧困は減っているという数字を見たことがある。」

すると活動家は言った。

「貧困は撲滅されるべき、最も重要な問題だ。」

 

起業家は言った。

「でも、世界はすでに貧困による餓死より、肥満が問題だというデータがある。」

「今重要なのは、「相対的貧困」だ。格差だよ。格差。」

「相対的貧困と、解消すべき格差の定義を聞きたい。」

「OECDが出してる。(云々……)」

「その定義が何故「正しい」と言い切れるのか?例えば、今の話だと「所得」だけでしか見てない。日本の場合、相対的貧困率が高いのは、所得が少ない高齢者が多いだけでは?」

「そんなことはない。」

「なぜそう言えるのか。そもそも、相対的貧困はなんで解決しなくてはならないのか。」

「格差がありすぎると、社会の活力が削がれる。」

「格差がありすぎる、とは何を持ってそう言えるのか。それは恣意的ではないのか。」

 

すると、彼は怒った。

「あなたのような人に、貧困のつらさはわからない。」

すると、起業家も言った。

「それを数字や論理で知らせるのが、あなたがたの役割では?同情だけではカネは出ないし、他にも重要なことはいくらでもある。私は「相対的貧困率」という数字が示している真の意味と、その数字の限界を知りたいだけだ。」

「私は貧困に苦しむ人をたくさん見た。」

「それは十分わかる。が、「相対的貧困率の改善が重要である」と言われても、「それは何を示すのか。何を持ってそのように言えるのか。そもそもそれは本当に重要なのか」は問わなくてはいけない。」

 

個人的には、その起業家の言うこともよく分かる。

彼は「貧困問題は重要ではない」とは言っていない。ただ「どの程度重要なのか」「数値の妥当性」を客観的に判断しようとしていた。

 

確かに、世の中には「相対的貧困線はとても怪しい」と述べる識者もいる。

貧困線の設定は政治的地雷原?

結局のところ,以下のディートンのくだりに,一貫した科学的根拠に基づいた貧困線を設定するのは困難だという諦観が表れている。

「貧困線をどう更新していくかという問題は難しい。これは1つには哲学的・政治的思想の違いがあるためだが,もう1つには貧困線の定義を変えることで,貧困対策の恩恵を受ける対象も変わることになり,そうなると得をするものと損をする者が出てくるためでもある。

貧困の計測方法を変えると……政治的な反対運動が起こるのは間違いない。貧困に関する統計は国家が統治するための道具の1つだ……測定がなければ統治が難しいのと同様に,政治がなければ測定は存在しない。

Statistics(統計)という単語にStat(国家)という言葉が含まれているのは偶然ではないのだ」

(青山学院大学 経済学部教授 藤村学)

「ファクト」は数値化され、様々な事実を比較可能にする。

比較可能にすると、「その課題が重要なのか、それほど重要でないのか」の判断がしやすくなる。

だから、「解決すべき問題」はできうる限り、ファクトに基づくべきだ。

 

だが問題を提起する人々は「あなたの扱っている問題はそもそも重要なのでしょうか?」と問われることに慣れていない。

なぜなら、彼らにとっては「重要に決まっている」からだ。

 

だが、「ファクトフルネス」はそれを暴く。

暴かれた人は、怒る。

人は自分の信念に反する事実を突きつけられると、過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。

1.人は、基本的に間違いを認めない。事実の解釈を変えるほうが得意である。

2.間違いを指摘すると「私は嫌われている」「この人は失礼だ」と解釈されてしまう可能性もある。

(Books&Apps)

場合によっては敵視され、攻撃される。

 

だが、そもそも世の中の全ての問題を解決することは、リソースという制約上、不可能である。

不可能である以上「解決可能」で、「実効性が高い」ものから優先的にリソース投入が行われるのは、当然だろう。

そのために「ファクトフルネス」は、重要なのだ。

 

だが「ファクト」は人を怒らせるし、そもそも大半の人は「ファクト」に興味がない。

「自分が欲すること」を信じるからだ。

当然、政治はファクトをベースとして動かない。

 

だから、私は「ファクトフルネス」を呼んで、暗鬱としたのだ。

「ファクトなんか知らないほうが、幸せに暮らせるんじゃないか?」と。

 

 

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◯ブログが本になりました。

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(Photo:Simon Cockell

ちょっとした話なんですが、次女の宿題を見ている時、面白いことに気付きました。

それは、一言で言うと、「「ぬいぐるみに教える」という体裁をとると、自分ひとりで問題を解く時よりも、遥かにスムーズに解けるようになった」ということです。

順を追って書きます。

 

長男長女次女は皆同じ小学校に通っているのですが、そこそこ教育熱心な小学校でして、宿題も1年の頃から割としっかりと出ます。

今、長女次女は繰り下がりのある引き算の仕上げをやっておりまして、結構な問題数が並んだプリントと、3日に1回くらいのペースで格闘しています。

 

何度か書いているのですが、算数というのは純然たる積み重ねでして、積んでいないブロックの上に次のブロックを積もうとするとバグります。

例えばの話、桁数の概念を理解しないまま掛け算の学習に突っ込むとメダパニがかかりますし、その上に円の面積の問題とか乗せると更に頭の中がカオスになります。

 

小学校レベルだと「全部覚える」という荒業でスルーすることも可能なんですが、後々に響いてくるので基本的には丁寧に理解をフォローしていった方がいいです。

走り出しの頃に転ぶと思いもよらない先々まで良くない影響を及ぼす上、転んだかどうかというのは案外脇からは見分けにくいです。

 

「分からない」を解決しないまま、何となくその学習時期を通り過ぎてしまうと、ずっと後になって「さっぱり分からない」に増幅されて帰ってきます。

この辺の話は、以前下記の記事でも書かせて頂きました。興味がある方はご一読ください。

塾講師時代、子どもの「勉強わからない」に対処するうちに学んだこと

 

勿論、学校の先生も「分からない」生徒については目も向けてくれますしフォローもしてくれるのですが、30人以上の幼児の集団と言うのは思った以上にハイパワーなものでして、先生のエネルギーでフォローし切るにも限界というものがあります。

ですから、家庭でのサポートというものは意外と重要ですし、子どもの「分からない」を家庭で可視化してくれるチャンスである「宿題」という物体は、そこそこ大事なものだと私は思っています。

自分が小学生の頃は全くそんなことは考えませんでしたが。

 

次女はサクサク宿題を片づける方ではあるのですが、どうも引き算の繰り下がりにやや苦手意識をもっているらしく、宿題をやっているとたまに理解がひっかかることがあります。その場合、大体私に泣きついてきます。

 

そういう時は、横で見ていてなるべく丁寧にフォローします。

引き算の理解を補助するやり方は幾つかあるのですが、しんざきは「やりやすそうなやり方を自分で選んでもらう」というやり方をすることが多いです。

 

例えば「ひっくり返すやり方とバラバラにするやり方どっちにする?」と聞いて、ひっくり返すやり方なら「ひっくり返して足し算にする方法があるよ。9に幾つ足すと16になるかな?」とか、まああくまで一例なんですが、そういう風に順を追っていけば、大体自分で答えにたどり着くことが出来ます。

当然、一回教えただけで出来るようにはならないので引っかかる度に何度も同じようなことを教えます。重要なのは根気です。

 

ところで次女は小1女児でして、強めのぬいぐるみ嗜好をもっています。複数のぬいぐるみに名前をつけては連れ歩き、おままごとの相手として利用したり抱っこして寝たり、布団の下に入れていたことを忘れてなくしたと勘違いして大泣きしたりします。

 

その日次女は、宿題をする傍ら、「ルルーちゃん」という名前の犬のぬいぐるみを待機させていました。

次女は最近この「ルルーちゃん」と一緒に行動をすることが多く、今回も「ルルーちゃんと一緒に宿題するの」ということでした。

多分ぷよぷよとは関係ないと思うのですが、何故ルルーちゃんなのかは私も知りません。

上記の画像がルルーちゃんさん。職業は犬のぬいぐるみ、主な仕事は次女に連れまわされることです。

 

次女が宿題をしながら、「給食おいしかった?」とか「えんぴつ削らないとねえ」とか、ルルーちゃんにあれこれ話しかけているのを見た私は、ふと思いついて、「ルルーちゃんも宿題しなきゃいけないかも知れないから、ルルーちゃんに教えてあげたら?」と言ってみました。

面白そうだと思ったのでしょうか、おままごとが好きな次女は、すぐに「ルルーちゃんの先生」になりました。

 

で、ちょっとびっくりしました。

普段だったらちょくちょく引っかかって私に助けを求めてきそうな箇所を、「ルルーちゃんに説明する」という体裁だと、サクサク片づけていってしまうのです。

「あのね、15 - 7はね、まず15を10にするのよ、そうすると5つ引くからあと2余るよね、だから残った10から2引けばいいのよ」

とか、それこの前私が説明した話やん。ちゃんと理解出来てるやんけ、という話なのですが、これ自分一人で宿題に向き合ってると、案外なぞれないみたいなんですよ。それで私に泣きついてきたりするんですけど。

 

その後も、一人でルルーちゃんに向かって色々と話しかけながら、次女は実にスムーズに問題を解いていきます。

結果として、残った宿題はサクっと終わり、次女も「すぐできたーーー!!」と大喜びだったわけなんですが。

 

やってみてから思い当たったんですけど、これやってることラバーダッキングなんですよね。

ラバーダッキングとは - はてなキーワード

これ、元々アンドリュー・ハントの「達人プログラマー」でデバッグ手法の一つとして紹介されていた言葉でして、要は「ゴムのアヒルに話しかけるように、自分で自分の思考を言葉にしながら開発すると、自然と思考が整理される」という話なんです。

テディベア効果って言ったりもしますよね。昔から、プログラマの独り言が多いという現象の、直接的な原因の一つでもあると思います。

 

「言葉にする」って大事でして、思考そのままの形だともやっとしているところ、言葉に直すと明確な方向性が出来ることがあるんです。

小学校の宿題みたいな単純な問題でも、子どもの頭の中でごちゃっとしてしまうのはしばしばある話で、そこを「言葉に直す」「それを口に出す」ことで整理された側面が結構あるんじゃないかなあ、というのが一つ。
もう一つ大きな要素として、「立ち位置が「先生」になることで、マインドセットが切り替わった」という要素があるのかも知れません。

 

物事、「苦手だ苦手だー」と思いながらやっていると、普段よりパフォーマンスが圧倒的に下がるというのは、大人でもよくある話です。

「苦手意識」というものは、対象が何であれ、課題遂行の為の大きな障害になります。

そこが、「自分は先生」という意識に切り替わったことによって払拭され、結果的に元々の理解をスムーズに取り出すことが出来るようになった、と、そういう側面は割と強くあるような気がします。

「聞く、教えられる」というスタンスでは受動的だったところ、「教える」というスタンスでは能動的な学習になった、ということも恐らくあるのでしょう。

 

勿論これ、汎用的な話ではぜーーんぜんありません。

たまたま今日、ぬいぐるみ好きの小1児童である次女に、たまたまこの方法がハマっただけ。

おままごと好きでない子どもにはハマらないでしょうし、次女だって明日もう一回同じことやろうとしたら出来ないかも知れません。なので、「このやり方がお勧め!」というわけではありません。

 

ただ、

・思考がごちゃごちゃしたら「話す」ことで整理される場合がある、ということは大人も子どもも同じ

・苦手意識をなんらかの方法で軽減出来たらパフォーマンスは上がる

・おままごと好きな子どもなら、「先生になる」というのは割と手法としてハマるケースがあるかも

・ぬいぐるみに限らず、時には「教える」という立ち位置に子どもを絶たせてあげるといいかも知れない

ということくらいは一般化して言えそうな気がしていまして、長女次女共々、勉強や宿題にハマることがあったらこの方法を引き続き試してみようかなーと思う次第なのです。

 

プログラマーが使うような解決方法が、小1の子どもにはまるようなこともあるんだなあ、とちょっと感心したという、それだけの話でした。

 

全っ然関係ないんですが、Wizardry5にも出てきましたよね、ゴムのアヒル。

マッドストンパーが持ってたさり気ない重要アイテム。サーテックの人たちも、煮詰まった時にゴムのアヒルに話しかけてたりしたんでしょうか。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【お知らせ】

自社のオウンドメディアの運用を検討、もしくは今後オウンドメディアの改善を検討中のwebマーケティング担当者および企業幹部、企業経営者さま対象に無料セミナーを実施しております。

【毎回限定20名】集客力のある「オウンドメディア」を運用するための3つのポイントをお教えします。

(セミナー概要)

1.webでバズる記事とは?

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・記事力

2.バズるメディアを作るには

・よくあるオウンドメディア3つの過ち

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3.事例

場所:東京都渋谷区2-21-1 渋谷ヒカリエ11FカンファレンスルームA

日時:

 

1月24日(木)15:00ー16:30 (定員20名)

お申込み・詳細はこちらBooks&Apps主催セミナーお申込みページをご覧ください。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Christiaan Colen)

2018年に読んだ中で最も面白かった本を紹介しよう。”ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち”だ。

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本書はインターネット上で炎上にあった人が、その後どういう風になったのかを追跡調査したもので、予想の斜め上をいくような興味深い事実がたくさん書かれている。

 

僕を含め、結構多くの人がインターネット上で不謹慎な行いを行った人を気軽な気持ちで嘲笑の対象として吊し上げがちだけど、ではその気軽な行いの結果、その人の人生がどうなってしまうのかについてをキチンと知っている人は少ない。

 

この本はSNS時代における自衛の書であると共に、過去に行った自分の行いに対する懺悔のキッカケとなる本である。

以下、どういう事かをみていこう。

 

たった1つのツィートで人生が壊れた女性

2013年12月20日のことだ。ある女性が、飛行機に乗る前に170人ほどのフォロワーにむけて、このようなつぶやきをした。

「アフリカに向かう。エイズにならないことを願う。冗談です。言ってみただけ。なるわけない。私、白人だから!」

 

彼女はそのまま飛行機に乗り込んだ。11時間のフライトの後、携帯の電源を入れると、このような友人からのコメントが飛び込んできたという。

「今、あなたはツイッターで全世界のトレンド第1位になっているのよ」

彼女のつぶやきは、たったの11時間のフライトの間に”大変な人種差別”であると判断され、記録的な大炎上を遂げていた。

 

この女性はジャスティン・サッコという。ひょっとしたら、彼女の事を覚えている人もいるかもしれない。

彼女は結局、この一言がきっかけで仕事をクビになった。

 

SNSは物事を極端に単純化させる

実は僕も当時このつぶやきについて、なんらかのアクションをとった記憶がある。

たぶん拡散した上で「馬鹿な奴がいるなぁ。こんな事いうぐらいだし、罰せられて当然だ」みたいなニュアンスの事を言及したような記憶がある。

 

しかし事件から5年たった今ふたたびこの件について考えてみると、確かに不適切な発言かもしれないけど、あんなに大炎上した上で、おまけに仕事を辞めさせられるような悪事だっただろうか?と思う。

 

インターネット、とくにSNSは複雑な物事を単純化させがちだ。

この発言をしたジャスティン・サッコさんにしたって、本当なら140文字では語りきれないぐらいの複雑な人間性があったはずだし、実際この問題となったツィートは一種の皮肉を込めたジョークなのだったという。

 

それなのに、SNS上の彼女は140文字のチカラで単純化され、まるで極悪な人種差別主義者のような扱いをうけるハメになってしまった。

そして極悪人のレッテルを貼り付けられた人に、ネットの民は容赦がない。

彼女には弁護する権利など当然あたえられず、誰からどんな酷いことをいわれようが、それが当然であるようにみなされていた。

 

これははっきり言って、めちゃくちゃに異常事態である。

今から振り返ってみると、まさに大衆が狂気に飲み込まれ、みんなの頭が熱病に犯されていたとしか思えない。これはまるで”空気を読むのが下手”だから”いじめられて当然”とされる小中学校のイジメと同じではないか。

 

実は僕はかつて学生時代、空気を読むのが非常に下手で、かなりイジメに近い扱いをうけていた事があった事がある。

そのこともあってイジメが本当に嫌いなのだけど、この本を読みながら、自分も結構インターネット上で、このような”断罪をくだされて当然”というレッテルを貼り付けられた人たちの事を、学級裁判にかけるが如くリツィート等を行い晒し上げるような行為を結構やってる事に気が付き、愕然とさせられた。

SNSは分別ある大人の知能を、小学生並みに低下させるのである。なんて恐ろしい装置だろう。

 

学校では、空気が読めないやつがイジメられる。

それと同じように、インターネットでも空気が読めないやつは平気で晒される。

実はインターネットは、巨大な小学校であり、日々起きている炎上は空気を読むのが下手なやつをみんなでよってたかってイジメているのと全く同じ様相なのである。

 

永遠に記録が残るGoogle検索

インターネットの炎上が学校のイジメと比較してタチが悪いのは、記録が永遠に残り、おまけに誰でも容易にアクセスできるということだ。

さっきのジャスティン・サッコさんだけど、炎上事件前は米国のインターネット企業で広報担当をしており、年収は1500~2000万円もあったのだという。実は、米国でも割とエリート階層に位置していた人であったのだ。

 

彼女はそのインターネット企業をクビになったのだけど、その後がまた特に酷い。

就職活動を行うと、当然だけど普通の企業はみんな一応応募者の名前をグーグル検索にかける。

 

すると、彼女について出てくる情報はTwitterの炎上事件ばかりなのである。こんな火種を持った人間を雇いたがる上場企業はまずない。結局、彼女は普通の仕事には長い間戻れず、ずっと無職を強いられた。

彼女はその後、アルバイトなどで社会に復帰を図ったりしたようなのだけど、働きながらいつも雇用主が自分の名前をグーグル検索にかけるかビクビクしながら働くハメになり、そのせいで心を病む事も多く、仕事も長続きしないのだという。

 

僕はこれを読んで本当に胸が傷んだ。僕も学生時代は空気が読めなかったから、随分と酷いイジメみたいな事をされたけど、それはまあ黒歴史みたいなもので、グーグル検索にかけられるような性質のものではない。

結果、いま僕が所属する社会でそれを話題にする人はまずいないし、仮にいたとしても別に笑ってネタにできる位には僕はそこそこ成功した。

 

グーグル検索は確かに便利だ。一度として使わない日はない。

しかし、ジャスティン・サッコさんの件をみて、永遠に禊(みそぎ)の機会が訪れず、忘れ去られもしない黒歴史を押し付けられるという悪魔のような使われ方をされていると知り、果たしてこれは人類が使っていいものなのだろうか?

少なくとも検索されない権利ぐらいは付与しないとヤバイんじゃないかと思わされたのだ。

 

昨年もポリコレの話題が随分と話題になったけど、実際最近のTwitterはかなり酷いと思わされる場面に出くわすことも多い。

Twitterはもやは法律によらない私的裁判の場所となっており、日々空気を読めないツィートをした人が学級裁判にかけられている。

この学級裁判に、超簡単に検索できて・永遠に残るログであるGoogleが組み合わさり、まるで効果が永続する破壊魔法のような有様を呈している。

 

TwitterとGoogle検索は、現代に終わりなき魔女裁判を出現させたのである。

高度に発達した科学技術は魔法と区別がつかないというけれど、これぞまさに現代を代表する黒魔術といっても過言ではないだろう。

インターネットは弱い人が強い

インターネットで最も強いのは、顔のない弱い人だ。

 

ちょとまえに、春名風花さんが有名税というブログをあげられ、大変に拡散していた。これも実に心が痛む文章であった。

有名税|春名風花|note

有名な人間にはどれだけ悪意をぶつけても良いと思っている人が大勢いる。

しかも彼等は咎められると「軽い気持ちで感想を言っただけなのに反応されて傷つきました。あんな人をテレビに出さないで下さい」と匿名でクレーム出来る切り札を持っている。

更にその言い分で分が悪くなれば、黙ってアカウントを消して逃げられる。いつだって顔のない人たちは自由だ。

幼い頃、ひょんなことから「twitter」という本意ではないところで有名になってしまった彼女は、若干”正論”を言い過ぎる事もあってインターネットで槍玉に挙げられる事が多く、そのため何年もの間、身の丈に合わない多くの有名税を支払されたという。

 

ストーカー対策や防犯にかけたお金、何度も警察に呼ばれる事で削られたスケジュール、弁護士への相談に通った日々、かかった労力もかなりのものになるという。

 

僕はかつて芸能人のブログが本当に嫌いで、なんでこの人達は面白いことをいわないのだろうか?とずっと悶々としていたのだけど、ある時、顔がある彼らにとっては、面白い事をいうのはリスクがあまりにも高いという事をしって愕然とした事がある。

 

芸能人のブログが挨拶と手料理ばかりになりがちなのは、それが一番燃えないからだ。

顔がある人の有名税は高い。”正論”というソードを振りかざせるのは、顔がない弱者くらいのものなのだ。

有名人がそれをしたら、春名風花さんのように有名税という高すぎるコストを支払わされるのである。

 

これを読んでいる多くの人は、どちらかといえば強者というより、顔のない弱者に近いだろう。

確かに私達は一人一人でみれば弱い。だが、それゆえに私達は時として、ジャスティン・サッコさんのようなインターネット上で”空気を読むのが下手”な人間の人生を、破滅へと導いてしまう事がある。

 

なんでも容易に拡散してしまうこんな世の中だからこそ、私達はインターネット上でポリコレやら炎上案件をみたときに、あえて”言及しない”努力をするように努めていくべきなのだ。

 

あなたの気軽な気持ちで行った”いいね!”や”リツィート”が、他人の人生を壊す事もあるという事を忘れてはならない。

天に向かってはいた唾は、いつか自分の顔に落ちてくるものなのだから。

 

 

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・よくあるオウンドメディア3つの過ち

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・オウンドメディアを運営するために欠かせない3つのポイント

3.事例

場所:東京都渋谷区2-21-1 渋谷ヒカリエ11FカンファレンスルームA

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1月24日(木)15:00ー16:30 (定員20名)

お申込み・詳細はこちらBooks&Apps主催セミナーお申込みページをご覧ください。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Jurgen Appelo

とあるイベントにて、クリエイターさんとの会話が、とても印象的でした。

 

丸「ポートフォリオやブログ持ってないんですか?」

ク「SNSしかやってないですね。」

丸「普段の仕事を公開しようと思わないんですか?」

ク「自分はそんなに顕示欲、強くないので。」

丸「そうじゃなくて、公開した方が自分の市場価値分かってよくないですか?スカウト来るかもしれないですし。」

ク「まだ世間に公開する程のスキルじゃないんで…」

丸「でもツイッター、ガンガンやってますよね?」

ク「あれは趣味と情報収集用です」

丸「せっかくならツイートしたらどうですか?ブログより気軽だし。」

ク「いやいや、ツイッターの方が余計に無理ですよー笑」

丸「え・・・そ、そうですか???」

 

私はポートフォリオやブログなど、オンライン上に情報公開をする行為は、自分の市場価値を図る最良の手段だと思っていて、キャリアパスにおいては要だと捉えています。

SNSもそうですが、ここ数年の働き方の多様化で考察してみても、スキルや思考性をアウトプットすることに必然性を感じています。

 

実際にそのクリエイターさんの実績を拝見させていただきましたが、私から見る分には“世間に公開するスキル”に十分値しました。

SNSもアクティブで情報発信力もあるので勿体無い気はしましたが、控えめな性格なのか、公開することへの心理的障壁や批判・レビューされる怖さがあるのかもしれません。

 

ただ・・・

「多くの人に注目されたい」「◯◯と思われたい」と、自己顕示することや承認欲求を持つ事に対して、マイナスイメージがあるように感じ取れました。

 

SNSが当たり前になった今、知人や職場以外の第三者にも、コストを掛けず自分の活動をアピールすることができます。

「〇〇と思われたい」欲求を満たすハードルは随分と下がりました。

 

しかしその反面、誰かと比較のしやすい(されやすい)環境になったとも言えます。

批判される様子や意見を抑えつけられる現場をオンライン上で目の辺りにしている世代からすると、自己顕示欲や承認欲求はリスクと考える人も多いでしょう。

 

自分の日常や考えをSNSで発信することには抵抗がないけど、それはあくまで「比較されない」「批判されない」範囲で行うことが前提。

それが「仕事」であれば尚更のこと。これがスマホネイティブの考え方であり、彼らのリスクヘッジなのでしょう。

 

オンラインで「自分を出す」ことで稼げる世の中になった

フリーランスを筆頭にオンライン上で実名が活きる人は、何のわだかまりもなく実名を公開します。

そういう人は自分を売っていくことが集客や事業拡大に繋がる以上、ブログやSNSでの「何者であるか」を作れるかどうかが重要事項になります。

 

でも、フツーの人にとって、実名と匿名性、オンラインではどちらが良いでしょう。

この議論については、デキビジでの勝間和代vsひろゆきの対談が参考になります。

「匿名での誹謗中傷は許せないっ!もっと実名性の文化を助長した方がインターネットの世界が良くなるのでは?」という議論から、いろいろとこじれてしまってますが、面白いと思います。

まあ、「インターネットは匿名で使える」というのは、幻想に過ぎないのですが。

BSジャパンの『デキビジ』にて西村博之氏と勝間和代氏の対談が行われ、ネットの各地にて話題になっている。このことは既に知っている人も多いと思うが簡単に説明したいと思う。

テーマのひとつは「ネットの匿名性」というものだった。それについて実名支持派の勝間和代氏と利用者が選択すればよいとする西村博之氏で激論。

激論というより持論を持ち出しすぎる勝間和代氏に対して瞬時に論破する西村博之氏の返しが非常に面白いことになっている。

やや感情的になりすぎた勝間和代氏であったが、それが原因なのだろうか番組終了後には勝間和代氏のブログには数百件ものコメントが付けられている。

ガジェット通信

この頃が2010年。当時と比べてもインターネットにおける実名・匿名の関係性に変化はありません。

どちらを選択するかは現在も個人の自由です。

 

が、ある部分には大きな変化が起こっています。

 

それは、情報量です。

当時に比べ、インターネット上の情報量は激増しています。スマホネイティブな時代では、欲しい情報はすぐ手に入るようになり、言わばインフレ状態。

反対に正しい情報にリーチするのが困難になり、今はユーザー側にリテラシーが求められます。

 

その影響で「匿名の人の情報を吟味する」よりも、「実名で、信頼できそうな(実は錯覚ですが)人の話をインスタントに手に入れたい」というニーズが向上しました。

NewsPicksの成功は、そのニーズの現れかと思います。

 

そうして、出現したのがオンラインサロン、Youtuberなどを始めとする「ネットで名前を売って稼ぐ人々」です。

これまでは会社員が自らを晒した所で、生活に紐付けるファクターが何もありませんでした。

しかし現在は稼ぎの手段が多様化したことで、発信力を高めることで、生活を豊かに出来る可能性が出てきたのです。

 

SNSを始め、情報発信するブログも簡単に作れるし、何なら動画だって気軽に撮れる。エンタメ要素を含んだコンテンツが誰でも作れるようになった事は大きいでしょう。

 

スマホネイティブが生んだ、自己肯定感のない人たち

ただし、ネット上は弱肉強食ですから、ほとんどの人は無名で終わります。

「有名になって稼げる」のは、ほんの一握りの人々のみ。

熾烈な競争と、マウントを取り合う世界の中で、自己肯定感が低くなってしまっている人をよく見かけます。

 

彼らはスマホネイティブであるが故に、ただスマホを眺めるだけでも常に誰かと比べ、消耗し、疲弊してしまいます。

✓SNSで周りの行動を見て、無力感や焦燥感を感じる

✓「そんなの◯◯だから出来るんだよ」と妬んでしまう

✓自分には到底出来っこない、と自信がない

✓どうせ批判されたり炎上するのがオチだ、と思ってしまう

✓ドヤ感や承認欲求が強い事はダサい行為と思っている

 

情報発信が簡単な分、批判されることも容易です。発言力の大きな人で無くても「炎上」へのトリガーはどこにでもあり、つい行動に歯止めがかかってしまいます。

言ってしまえば、発信すればするほど、自己肯定感が低くなりやすい時代とも言えるでしょう。

 

ただし、本質から言えば「批判されないで成功する」「失敗せずにうまくいく」ことが、そもそも不可能なのですから、リスクをとらないことを美化しても、たいして良いことはありません。

また「自分はやれば出来る」と“能ある鷹は爪を隠す”に近い思わせぶりな言動は、本当にダサい。

 

だから、今頑張って身につけているスキルもいずれ公開するものなのであれば、今すぐ発信すべきです。

行動することに意味があるのではなく、大切なことは手の届く範囲、手応えを感じる場所に身を置き、批判に耐え、失敗しても諦めずに作品を出し続けることです。

自らが成功できないことへの不満を抱きながら、何かを批判することで自分を肯定しても、惨めになるだけです。

 

情報発信するために、「自己肯定感の高め方」を正す

では、どうすればいいでしょう。

以前、人生が楽しくなるポイントに身を置くことの重要性をまとめた自分のアップデート環境をつくる9つの仕事所作という記事を書きました。

自己肯定感を正すことは現実に目を向ける・自分に向き合う事から始まります。「自己肯定感の高め方」を正すこともまた、人生が楽しくなるポイントに身を置くことに繋がります。

 

以前、バンド活動をしている友人に“なぜ音楽活動をやるのか?”と聞いたことがあります。

彼はこう言いました。

自分でもよく分からないけど、バンドマンって自分で音楽を作った段階で本来ならそれでゴールだと思う。

いわゆる自己満の世界。

なのに、それを多くの人に聞いて欲しい!となる。そしてライブをする。何なら儲けたい欲すら出てくる。

 

だけど、音楽の世界って批判や比較されて当然で、その度に落ち込んだりするんだけど、基本的にはみんなほとんど周りを気にしてないようにしてると思う。

正確にはそれよりも「音楽を作ってみんなに聞いてもらう楽しさを知ってる」から慣れたと言うか当たり前な印象はあるかな。

だから“なぜ音楽活動をやるのか”というよりも、いつの間にか常に欲していて辞められない状態になってる、という感覚が近いかも。

好きこそものの上手なれ、とはよく言ったもので行動と欲求が一体になっています。

これだと、あれこれ言われても自己肯定感は損なわれないでしょう。

 

肩肘張らず消耗しないように「欲求に従って楽しく」生活を送るだけでもクリア出来る問題も多いのかな、と思っています。

 

 

 

🕺🏻丸山享伸

Web制作会社(UNIONNET Inc.)代表。

「はたらくを楽しく」したい小さな会社の経営者として、日々現場を通じて感じる組織のことや働き方に関する事を発信しています。興味のある方は気軽にフォローしてくださいね🔥

twitter▷ @maruyamana1984

Books&Apps▷ https://blog.tinect.jp/?author=13057

(Photo:Jim O'Neil)

誰でも会社員を真面目に続ければ、豊かになり続けられる、という時代はすでに終わった。

 

社会学者の山田昌弘氏は著書「希望格差社会」の中で、「安定して生活の向上が見込めるサラリーマン」という身分の終焉について述べた。

旧来型の安定し、かつ、収入が増加していく正社員、正規公務員は徐々に減少し、その一方で、高給が望める中核的・専門的労働者と、マニュアル通りに働く低賃金で地位が不安定な単純労働者が増える。

その中間に、安定した収入は見込めるが、増大は見込めないサービス労働者が生き残る。

その割合と移行スピードに関しては議論があろうが、この傾向は間違いなく進展すると考えられる。

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もちろんこれは、日本だけではない。世界的な傾向である。

 

例えば、トーマス・フリードマンは著書の中で、世界中の労働者が過酷な競争に飲まれつつあることを示唆する。

グローバルな産業で働いていると、自分が生み出している価値や、貢献している独自の能力を示して、その仕事にふさわしいことを、毎日のように示さなければならない。

それができないと、あっというまに仕事はどこかへ飛び去ってしまう。

そもそも、どんなときでも、平凡な仕事をしていてはだめだ。

かつて、壁に囲まれた世界では、平凡でもまずまずの賃金がもらえた。なんとかしのいで、すこしは贅沢ができるくらいには。

フラットな世界では、平凡でいいと思ってはいけないし、仕事に対する情熱を欠いてもだめだ。

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これは絵空事ではない。

事実、ロンドンビジネススクールのリンダ・グラットンは著書「ライフ・シフト」にて、「低スキルと高スキルの職は増えたが、中スキルの職は減った」ことをデータで示した。

図を見れば明らかなように、1979年以降、低スキルの職と高スキルの職は増えているが、中スキルの職は減っている。スキルのレベルで見ると、労働市場の中央に大きな穴が空いているのだ。中程度の雇用が空洞化しているのである。

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いま、我々は一人残らず問われている。

「お前は、自らが豊かになるのに値するだけのことを、世の中に対してしているか?」と。

 

もちろんこれは、皆が望んだ世界の姿である。

「もっと安く、もっといいものがほしい」

「皆が求めるものを作る人が豊かになるべき」

「国は個人に干渉するべきではない」

と皆が考えたから、このような世界になったのだ。

 

もちろん、

「高スキルではなくても、生活の向上は保障されるべき」という方もいる。

全くそのとおりだ。

 

そう言う方は、頑張って選挙に行くべきだ。

また、リストラせず、年功制を保っている企業の製品やサービスを、積極的に買ってほしい。

民主主義、市場経済の世界では、政治家と起業家を動かすのは、あなたが持つ一票と一円だ。ぜひ有効に使うべきだ。

 

この時代に「豊かに過ごす」ためになにをすべきか

だが、誰か他の人がこの状況を解決してくれることを期待して、指を加えて待っているのが嫌な人もいるだろう。

「いま、個人レベルでできること」はあるのだろうか。

「豊かに過ごせるだけのお金」を、将来に渡って入手するにはどうしたら良いだろうか?

 

実は簡単だ。

市場経済の国では、お金は市場に流通しているのだから、市場に直接参加すればよいのである。

 

昔と異なり、現在は個人が市場と接続できる手段はいくらでもある。

個人向けEC、クラウドソーシング、副業……

現在、web、リアル問わず個人向けの市場は、そこかしこに存在し、誰でも簡単に参加ができる。

 

例えば、私は熱帯魚を買っているので、レイアウト用の素材として、流木を買うことがある。

「木なんかわざわざ買うの?」という人もいるだろうが、メルカリを見ると、レイアウト用の流木が2000円から、時には5000円を超える値付けがされている。

これは市場があり、そこに参加している人がいるからだ。

 

時代はすでに「個人」が直接市場に参加できるステージに突入している。

これを利用しない手はない。

 

市場に出て成功するためには「マーケティング能力」が必要

ただし、個人が徒手空拳で市場に参加しても、かなり苦労することだろう。

会社員は通常、会社を通じて、間接的に市場に参加しているため、会社のマーケティング能力に依存している。

だから、個人レベルで「マーケティング能力」のある人はほとんどいない。

 

医師や弁護士などであっても、所属する病院や事務所のマーケティング能力とは無縁ではない。

また彼らは「制度による独占」があるから、マーケティング能力が不足していても、商売ができるのである。

会社も制度の保護もない状況では、マーケティング能力は必須であり、それが不足していれば、市場に参加しても不利な条件で取引せざるをえない。

 

では「マーケティング能力」を身につけるにはどうしたら良いだろう。

 

マーケティングとは、ピーター・ドラッカーの定義によれば「顧客の欲求からスタートする」ことである。

顧客を見つけ、それを満たす製品やサービスを提供することが、マーケティングだ。

 

すなわち、個人レベルで見れば、マーケティング能力を得るためには、

1.顧客を見つける……個人の持つネットワークの質と規模を高める

2.顧客の欲求を満たす製品とサービスを提供する……個人の持つスキル(商品)の質を高める

の2点を満たす必要がある。

 

このうち、多くの会社員や専門家が苦手なのが1.だ。

ネットワークの開拓は、意識的にやらなければ拡大できない。

 

個人のネットワークを広げるために必要なことは

では「ネットワークの質と規模を高める」にはどうしたら良いだろう。

 

様々な方法があるが、第一に、住む場所に注意を払うべきだ。

カリフォルニア大学バークレー校のエンリコ・モレッティは「知的で、教育レベルの高い住民が数多くいる地域に住むことが、収入にとって重要だ」という。

教育レベルの高い住民が多いと、地域経済のあり方が根本から変わる。

住民が就くことのできる仕事の種類が増え、労働者全体の生産性も向上する。

その結果、高学歴の働き手だけでなく、学歴の低い人の給料も高くなる。

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エンリコ・モレッティの分析によれば、本人の資質や能力、学歴、職業と関係なく、優秀な人と働くと、自分の収入も上がる。

第一は、高技能労働者と低技能労働者が相互補完的な関係にあることだ。高技能の働き手の数が増えると、それ以外の労働者の生産性も高まる。

優れた機械を使って働くと労働者の生産性が向上するのと同じように、教育レベルの高い同僚と一緒に働くと、高い技能をもたない人たちの生産性も向上するのだ。

第二の理由は、教育レベルの高い働き手がいると、企業が新しい高度なテクノロジーを導入しやすくなることだ。

そして第三の理由は、都市の人的資本のレベルが全般的に高まると、経済学者で言う「人的資本の外部性」が生まれることである。(中略)

人と人が交流すると、その人たちはお互いから学び合う。その結果、教育レベルが高い仲間と交流する人ほど生産的で創造的になる。教育レベルの高い人に囲まれているだけで、経済的な恩恵を受けられるのだ。これが人的資本の外部性である。

たとえスラムであっても、都会に住むことを選択する人がいるのは、それが人がいない田舎に住むよりも合理的な選択だからだ。

 

第二に「できるだけ多様で、優秀な人と、意識的に交流すること」である。

元マッキンゼーのコンサルタントだった、トム・ピーターズは次のように述べている。

あなたがこれから手にする成功の大きさは、あなたがつくる世界の大きさに比例する。アドレス帳や名刺ホルダーの間口と奥行きを真剣に考えてみよう。

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そう言う意味で、会社員時代に、多数の人と交流できる立ち場にいると、独立しやすい。

 

例えば、ダニエル・ピンクの指摘では米国のマイクロソフト、マッキンゼー、ゴールドマン・サックス、リンクトインなどには同窓会組織がある。

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これによって、各人が退職したあとも、ネットワークが維持されており、これらを通じて市場にアクセスすることが用意になる。

日本においても、リクルートやヤフー、三井物産には同窓会組織があり、ネットワークを築いているという。(参考:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO32166240T20C18A6EA4000/

 

第三に、販売してみることである。

何が売れるかは、売ってみるまでわからないし、販売してみることで、人と新しい繋がりができる。

「会社を辞めるので、仕事をくださいと宣言した瞬間、依頼が来た」という体験をした人は決して珍しくない。

 

もちろん、自分が誠実に仕事をしていて、それを知っているネットワークがある、という前提のもとではあるが、「自分のスキルがこんなに歓迎されるなんて、知らなかった」と、フリーエージェントの方はよく言う。

また、

「趣味で作っているプラモデルを売った」

「自分たちが趣味で作っていた家を民泊で貸している」

「ブログを通じて、ライティングの依頼が来た」

なんていう話は、個人が市場に参入している時代には、特に珍しい話でもないのである。

 

 

ハーバード大のニコラス・クリスタキスは「どのネットワークに所属するかが、将来が規定される」という。

所属している社会的ネットワークによって自分の将来が規定されることになる。誰と出会うかを決め、パートナーの好みを左右し、最終的に、他人からどのように見られ、どんな競争上の強みと弱みを持っているかを明確にするのが、社会的ネットワークなのだ。

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つまり「「過去1年で、何人の優れた人と交流したか」こそ、我々の日々の生活の充実度を測定する良いKPIの一つとなることは間違いない。

 

もし「去年1年間で、ほとんど新しく優秀な人に出会えてない」とすれば、あなたの持つネットワークは間違いなく弱体化している。

仮にこれが5年、10年と続けば、将来的な豊かさを手に入れるのは難しくなる。

 

逆に、「去年1年間で、毎日のように、新しく優秀な人と交流できた」とすれば、徐々にあなたの世界は強力なネットワークの一部として機能するだろう。

それは、会社員としての身分を失ったとしても、あなたの生活を保証してくれる基盤となるかもしれないのだ。

 

 

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(Photo:Marc Smith

とある区画に住んでいる住民の大半が死んだ。

しかも、遺体は墓地に運ばれず放置されたままである。病院はあるし、火葬場も墓地も稼働しているのに、なぜ。

 

これは、街づくりゲーム『Cities:Skyline』の話だ。わたしは基本的にゲームはしないのだが、ごくまれにゲームをやりたい気分になるときがある。そこで手を出したのが、このゲームだった。

そして年末年始せっせと街づくりをしたわけだが、試行錯誤を繰り返した結果、わたしは『成長する』ことに関して、ちょっと感動する経験をした。

 

街づくりにハマる年末年始

街づくりゲームはとても単純だ。道路を引いて、水道や電力なんかのインフラを整備をして、家を立てて、学校や病院、警察署や消防署を用意して、バスや地下鉄、空港なんかでほかの街と結んでいく。

(ドイツ語でプレーしているので、本記事では施設名や設定などを日本語版とちがう表記で書いてしまっているかもしれないが、そこはご容赦いただきたい)

 

市民というのはワガママな生き物で、「あれがないこれがない」「市長、どうにかしてくれよ」とすぐに文句を言う。

市民は病気になるし火事も起こるし犯罪者も現れる。そういった市民をなでめすかし、素晴らしい街をつくっていくのがこのゲームである。

 

街を成長させていくための主な手段は、街を拡張していくことだ。

街が大きくなれば人口も増え、収益も増えやすくなる。人口増加に伴い増加する市民の要望に応えるために、新たな土地を買ってまた街を拡張していく。

そこにも入居者が現れ人口増加、さらなる需要に応えるためにふたたび道路を伸ばし……と、これを繰り返す。

 

しかしゲームである以上、当然、どこかしらで壁にぶつかる。

たとえば、住居を同時に建てまくると人口ピラミッドのバランスが悪くなり、居住者は同時に定年を迎え、いたるところで労働者不足に陥り、同時に死亡することで火葬場と墓地の需要が高まる。

学校を十分に建ててしまうと、進学者が増えて工場での労働者が足りずに工場が稼働できなくなることも。

 

こういった問題を解決しながら、いい街を目指す。

地味だがそのぶん時間を忘れて没頭できる、作業ゲー好きにはたまらないゲームのジャンルのひとつだ。(プレイ時間は現在43時間で、やりはじめたことを後悔するレベルになっている)

 

市民の大量死、迫られる再開発

さて、街はどんどん大きくなり、わたしはどこに出ても恥ずかしくない立派な市長になった。何もせずとも上がっていく収益に、思わず笑みがことれる。

なんだこれ、楽勝じゃん。

 

そう思ったのもつかの間、思わぬトラブルが発生。とある区画で、住民の突如大量死が起こったのだ。

住宅街はもちろん、商店やオフィスの建物の上にも死者を示すドクロマークが並ぶ。ぶわーっとドクロマークが表示され、わたしの頭は一瞬パニックになった。

 

いったいなぜ。

いろいろ調べてみると、、救急車が渋滞につかまって間に合わず、市民が死んでしまったことがわかった。

しかも霊柩車も渋滞に巻き込まれるため、遺体の運搬もできていない。同時に住宅を建てたため、大量の老人が同時に寿命を迎えたことも背景にあるようだ。

 

これを解決するには、渋滞の緩和が必要不可欠である。そうしなくては、いまはどうにかなってもまた同じ問題が起こる。

しかしまず道路を引いてそれに合わせて建物を経てた以上、渋滞回避のためには一部を取り壊して街の区画をデザインしなおさなくてはならない。いわば再開発だ。

悩ましい。非常に悩ましい。

 

大渋滞&死者多数とはいえ、なんやかんやそれなりの時間をかけて成長させ、もう「完成」だと思っていた区画である。

ブルドーザーマークをクリックして更地にしてやりなおすのは、その時間を無にするということだ。できればそれは避けたい。

 

わたしは、迷いに迷った。優柔不断だしゲーム慣れもしていないので、どうにか対処療法でなんとかならないかとウダウダ考えていた。

そのあいだも死者は増える一方で、人口は減り、市民の満足度も下がり、収益はついにマイナスに転じた。

 

さらに追い討ちをかけるように、電力不足を知らせる雷マークがぶわーーっと点滅する。渋滞に引っかかって資源が運べず、発電所が稼働できなくなったらしい。しかも、商店にも商品が届かなくなり、空き家も増えた。もうどうしようもない。

結局わたしは、対処療法ではなく、死者累々となった区画をひとつ取り潰して、渋滞が起こらないように街の一角をつくりなおすことを決める。

 

再開発に成功、見事黒字を叩き出す

市長として一生懸命街をつくった結果が、『区画の取り壊し』。それは明らかな後退だ。

いくら渋滞していても、多少の赤字や人口減少は仕方ないと割り切って耐えれば、ドクロマークはいずれ消えるはず。取り壊しは必須ではない。

それでもわたしは、将来的に同じことを繰り返すよりは思い切って改善すべきだと決断し、区間を取り潰した。

 

そうするとどうなったか?

渋滞が減った。そのために立体交差点や道路の車線を増やしたのだから当然だ。病人は病院に行けるし、消防車も間に合う。死者は無事、墓地に運ばれた。資源や商品も届くようになり、人口も収益も増えた。問題解決である。

 

その結果に、わたしは実はちょっと感動した。

たかがゲームだ。それでもわたしは、感動したのだ。いままで積み重ねてきたものをぶっ壊した結果、『成長』できたことに。

 

『成長する』ということはそれまで、『積み重ねること』だと思っていた。

なにかを成し遂げるためには、積み重ね、できることや経験値、知識を増やしていくべきだ。それが正しい。そう思っていた。

 

実際、わたしはそうやってライターの実績を細々と積み重ねて生活できるようになったし、毎日練習してベースも弾けるようになったし、ドイツ語学習もわからない単語を全部メモして調べて暗記して、を繰り返して今がある。

成長することは積み重ねること。それに疑いを持ったことはない。

 

でも、いままで必死こいて大きくした街のひと区画をまるまる潰した。

それでやり直して、軌道修正をした。そして黒字になり、街はよくなった。これって結構、画期的なことじゃないか? すごいことじゃないか?

成長する方法は、『積み重ねる』だけじゃない。ダメなところを思いっきりぶっ壊して『やり直す』ことも、またひとつの方法なのだ。

 

壊してやり直すことで成長することもある

大げさな話だと思うかもしれないけど、ちょっと聞いてほしい。

小さい頃から

「コツコツがんばりましょう」

「続けることが大切です」

「毎日の積み重ねが将来につながります」と言われてきた。

たぶん、みんなだってそうだろう。

 

「いままで努力して積み上げてきたものを一度ぶっ壊して新たに上書きすることでよくなる可能性もあります。これまでの成果を、一旦すべてナシにしましょう」なんて言われたことはなかった。

だって、イヤじゃん。いままでがんばってきたことをナシにするなんて。ぶっ壊してうまくいかなかったらバカみたいだし。そんなこと言われたらなんかやる気なくなるし。まず自分のミスを認めなきゃいけないし。

 

だから、水泡に帰す再開発は、自分の今までの積み重ねをすべて否定するようで気が進まなかった。まぁ、わたしが街づくりゲームをはじめてやったというのもあるのだろうけど。

正直なところ、よくないとはわかっていても、いままでやってきたことを繰り返すほうが楽だ。適当にごまかして荒波が収まるのを待てば、どうにかはなったかもしれない。

でもそれじゃ、今以上は望めない。わたしの街はもはや、そういう状態だった。

だから仕方なく、新たな可能性にかけてみた。そうしたらうまくいった。わたしの街は成長した。

 

でも考えてみれば、現実社会だって、『積み重ね』だけでは行き詰まることがある。

まちがっている方向に積み重ねても正解にはたどり着けないし、時勢によっては過去の慣習を廃止して柔軟に新しい仕組みをつくっていく必要もある。

 

それでも『積み重ね』だけが大事だと思っていたら、「このまま続けていけばきっといつかうまくいく」と負け戦を続けてしまうし、「伝統をなくしてしまうなんてもってのほかだ」と頭ごなしに反対してしまうかもしれない。

 

毎日を積み重ねていくことは大事だけれど、その方法じゃうまくいかない場合だってある。

そのとき必要なのは、『積み重ね』の反対の位置にある『やり直し』だ。どこかで見切りをつけて、マイナスが大きくなる前に切り捨てる。そして、やり直す。

 

そうやって多くの人は、新たな一歩を踏み出し、また少しずつ進んでいくのだろう。

ゲームだけじゃない、人生だって同じだ。人生はゲームほど簡単にはやり直せないけれど、前に進み続けるだけが成長じゃないという意味では、同じだと思う。

 

わたしの街は人口が10万人を超え、めでたく最高ランク『メガロポリス』になった。そして今日もまた道路を伸ばし、街を大きくしていく。

うまくいかなかったら、またやり直せばいいのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

この記事で書きたいことは、大筋下記の3点です。

・そもそも、部下や後輩を「ちゃんと育てられる」人など滅多にいない

・きちんとした予算も評価もなしに、新人育成を個人任せにするのは会社の重大な錯誤

・どうしても新人教育の予算がちゃんと取れないのであれば、せめて新人教育をきちんと定型化して誰でも出来るようにする工数をかけるべき

よろしくお願いします。

 

ということで、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

先日、megamouthさんのこちらの記事を拝見しました。

底辺IT企業は『書けない』プログラマとどう向き合ってきたか

最初のほうは優しく教えていたと思う。話したりハンズオンしている時に、あっこの子、変数のことわかってないな、と感じたら、ホワイトボードを持ち出してきて、例の"x"と書いた箱の絵に矢印を引いて、値が入っている図を書いて、「わかった?」「あ、はい」みたいなやり取りをして終わり、という程度の「教育」である。

だが、そんな程度の教育も最初の年の10月ぐらいまでで終わる。

年末が近くなってくると大量の案件が入ってきて、そんなこともやってられなくなる。

ベテランプログラマでも困るような雑な投げ方で案件を振って、出来たらヨシヨシ、出来なかったら、ハイハイとばかりに全部書き直して納品。という具合に「放ったらかし」にしてしまう。

これ、megamouthさんは「底辺IT企業」と称されてますけど、一応一部上場の中堅IT企業に新卒入社した私も、別段状況変わらなかったよなあ、と思ったんです。

 

私も、予備知識がろくにない状態からIT業界に飛び込んだ部類の人間です。

一応、最初の1,2週間は座学の時間がありましたが、後はほぼ「OJT」という形で、言っちゃ悪いですが現場に押し付けられたお荷物が我々でした。

現場の先輩社員の皆さんが「新卒社員教育係」に急きょ任命されまして、あれこれ我々に振る仕事を考えてくださり、最低限の説明と「分からないことあったら聞いてね」の一言で後は放置、という状況も、割と早い段階で訪れました。

 

megamouthさんがおっしゃるところの「右も左もわからない中、パソコンをあてがわれて、入門書を読んで、そりゃこの通り書けば動くけど、なんで動いているのかはわからない」という状態がほぼデフォルトだった訳です。

 

ちょこちょこアドバイスもいただきましたが、先輩社員の皆さんも自分の業務に忙殺されているのは変わらないので、丁寧なフォローがあったかというと難しいところでした。

成果物ともいえないような成果物を四苦八苦して生み出しては、周囲一面にご迷惑をかけるような日々でした。

 

私が何だかんだでこの業界に定着出来たのは、たまたま趣味でやっていたファミリーベーシックの知識が後になって生きてきたのと、足を引っ張っている状況に全く痛痒を感じない程度に神経が図太かったからという、それだけの話に過ぎません。

「わからんもんはしゃーないやん、出来ない仕事に就ける会社が悪いやん」と早くから割り切れたのは、今から考えると全く正しかったのだと思います。

 

石の上にも3年ではありませんが、時間が経てば分からない中にも蓄積は出来るもので、なんだかんだ、色々調べながら自力で課題をクリア出来る程度の技術力はつきました。

 

とはいえ、一歩間違えれば「俺は何でこの会社にいるんだ?」と悩みに悩んでIT業界を去るルートも全然見えていたなー、とは思うのです。

実際、当時私の同期の新卒は40人ちょっといたと思うのですが、5年経過後の生き残りは半分に届きませんでした。

 

ただこの状況、当たり前といえば当たり前だよなーと、今となっては思うんですよ。

そもそも、「新人教育」が現場の社員にほぼ丸々押し付けられる状況自体、冷静に考えればどうなのかなと。

 

どう教えれば相手に適切なスキルが身に着くか?というのは、実際のところ、そんなに簡単な話ではありません。

本来、「教える」というのは、それだけでかなり高度な専門性が必要とされる分野です。コーチングってやつです。

 

現場の社員は、当たり前ですがコーチングの専門家でもなんでもありません。

彼らはそれぞれの業務の専門職であって、自分たちの仕事についてのスキルはありますが、大抵の場合「教える」スキルを持ってはいません。

コーチングのスキルを身に着けようにも、元々の業務の時間拘束は全く軽減されていないことが殆どなので、「どう教えればいいかな?」ということをゆっくり考える時間すらとれない。

それどころか、自分の業務をこなしつつ、お荷物となる新入社員の業務フォローまでしなくてはならず、時間的負荷はむしろ増える。

 

しかも、大抵の場合、自分たちの評価において「新入社員を適切に育てられたか?」というのは軸として重視されず(会社にもよるでしょうが)、苦労して後輩のスキルを引き上げても、自分の給与増加には殆ど貢献しないわけです。

「分かんないことがあったら聞いて」で放置することになりますよそりゃあ。

 

「コーチング軽視」という話は、日本では色んな組織、色んな会社で指摘されているところですが、「新人育成を現場の社員個人に押し付ける」というのも、その端的な側面の一つなんではないかなーと。

言ってしまえば、これ、「教育」というものを舐めている会社が犯す重大な錯誤だと思うんです。

 

勿論、ちゃんとやってる会社はきちんと予算とって、人抑えて教育やってるんでしょうけどね。

 

当然、こういう話は別に問題意識として新しいものではなく、現場でも定期的に持ち上がる話ではあります。私が以前いた会社でも、一度この辺について問題視されたことがありました。

その時私がした提案は、「予算がとれないならそれはもう仕方ないんで、せめてちゃんと教える仕組みやら教えたい内容を定式化・資料化して、教える人が誰でも同じように出来るようにしろや」ということでした。

新人教育のフレームワーク化です。

 

たまたまそのタイミング、大き目の案件が終わって次の案件が入っておらず、部署全体で割と時間に融通が効く時期だったので、この提案は割と前向きに取り上げられ、新人教育のフレームワーク化に取り組む工数が取られることになりました。

IPAのスキル標準やら、人材育成のページやら読み込みながら色々考えました。

 

「何を教えるもんなの?」というのを一から考えるのは当然途轍もない難事なので、大体のものは既存の内容からパクりました。以下のリンクとか色々勉強になるので読んでみてください。

 

https://www.ipa.go.jp/jinzai/itss/itssplus.html :ITSS+(プラス)・ITスキル標準(ITSS)・情報システムユーザースキル標準(UISS)関連情報

https://www.ipa.go.jp/jinzai/itss/csfv1.html :共通キャリア・スキルフレームワーク
当時やった取り組みはこんな感じです。

・未経験の新卒社員を想定して、この現場で身に着けて欲しいスキルレベルを分野別に策定した

・各担当者の得意分野ごとに座学を想定した教材を策定(Markdownでweb参照出来るようにした)

・当該教材を使ってお互い座学のロールプレイをして教材を分かりやすくする取り組みを行った

・slackで新人質問チャンネルを作って、しょうもない質問でも暇そうな人を見つける手間をかけずすぐ投げられるようにした

・新人が投げた質問は自動的にチケット化され、それを解決した人は解決チケットとしてカウント、評価に繋がるようにした

 

フレームワーク化する手順としては、それなりに妥当だったんじゃないかなーと思っています。

 

まず第一に、実際に仕事で必要になるスキルには案外偏りがあって、例えば基本情報処理技術者試験のような整理では上手くいかない場合もあるので、「実際にここまでスキルを身に着ければ、取りあえず一人で動けるようにはなるよね」というラインを、そこそこ細かく決めました。

 

次に、そのラインにたどり着く為の教材を、それぞれの分野の担当者ごとに用意しました。

そこまで作り込んだものではなく、コピペ上等分かりやすさ重視の資料でしたが、初学者に必要なものという観点では各々ちゃんと考えていたと思います。

 

で、お互い専門分野外の相手を新卒と見立てて、実際にその資料に基づいた座学をやって、分かりにくいところ、不備に見えるところを指摘してもらいました。

勿論、分野外とはいえ全くの未経験者よりはよっぽど知識があるんですが、そこはもう仕方ないんで妥協しました。

少なくとも、「その資料に基づいて説明すれば、説明する人が誰であっても、最低限の業務は出来る程度の知識がつく」ということをゴールラインにしたのです。

 

もう一つのアプローチとして、「非同期でいつでも質問が投げられる仕組み」と、「新卒の面倒を見たらちゃんと評価につながる仕組み」が必要だと思ったので、こちらはslackとredmineの連携で解決しようとしました。

不特定人数相手のチャットであればそもそも相手が忙しいかどうか気にする必要もありませんし、それに対して「答えたらちゃんと答えた成果が可視化される」のであれば、答える側の動機にもなります。

 

まあ、質問内容をテキスト化すること自体若干のハードルはあるので、ここについてはまだ改善の余地があったかも知れません。

残念ながらこれを「成功例」としてご紹介するのはちょっと難しいところがありまして、何故かというとその後会社の業績不振で新卒をとる機会が殆どなくなり、結局このフレームワークがろくに活かされないまま会社ごと同業他社に吸収合併されちゃったからなんですが。

 

まあ、第二新卒の子とか1,2人相手に上記の仕組みは一部利用されまして、そちらでは一応の成果を上げてはいました。

試行錯誤してフレームワークを改善する機会自体がなかったのはやや残念ですが、一つの取り組み例としてご参考頂ければ。
何はともあれ

「新卒教育を個人任せにするのは本来妥当とは言えない」

「ちゃんと組織として新卒教育を定型化するべき」

というのは今でも考えており、それに基づいた取り組みを他にも色々やったりしている部分もあるのですが、まあそれは長くなりそうなので機会を改めようと思います。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Christiaan Colen)

「最近日本から寛容さが失われている」のは何故か

特に日常的にネットに触れている人で「最近日本から寛容さが失われている」と感じている人は多いと思うんだけれど、実際のところはどうなのだろうか。 寛容と無関心は違うことなのに、外から見たら一緒になってしまうのかな。

新幹線の車内ではしゃいでいる子どもや、夜遅くまで騒いでいる学生に対して、私達はどれだけ寛容な気持ちを保っていられるだろうか?

次世代を担う若い世代の、年齢相応の振る舞いに対してさえも、寛容よりも非難が先走ってしまう人が増えているのではないだろうか?

 

寛容さとは正反対の、きわめて自己中心的な人達もよく見かけるようになった。自分の意に沿わない相手に攻撃的な人間や他人に際限なく要求する人間が、モンスター○○などと呼ばれ、問題視されるようになってすでに久しい。

 

尤も、自己中心的な他人が増えたのか、それとも私達そのものが自己中心的かつ不寛容になったからモンスターが増えたようにみえるのか、区別するのは簡単ではないのだけれども。

ともあれ、現状をかえりみて「昔の日本人は寛容」で「現代の日本人は寛容ではなくなった」と感じる人は多そうだ。少なくとも見かけ上、日本社会から寛容さが失われたように見えるのはその通りかもしれない。

 

「身内」には寛容でも「他所者」にはそうでもなかった日本人

では昔の日本人は、本当に寛容だったのだろうか?

ここで、「昔の日本人は、誰に対して寛容だったのか?」を思い出してみると、そうでもなかったような気がしてくる。

昔、地域社会で暮らす人達がコミュニケートしていたのは、他人とはいえ他人とは言いきれない、運命共同体的な顔見知りだった。

こうした顔見知りは、現代の基準からすれば「他人」というよりむしろ「身内」に近い。農業にせよ漁撈にせよ村祭りにせよ、皆でイベントや生活空間をシェアしなければならないなかで、顔見知りへの寛容さは必要な処世術だったのだろう。

 

しかしそんな日本人が、余所者に対しては警戒的だったこと・コミュニティのウチ(内)とソト(外)を区別していたことも忘れてはならない。

たとえば「他人に迷惑をかけてはならない」「世間様に申し訳が立たない」といった言葉も、「コミュニティの人間に迷惑をかけるな」「コミュニティに申し訳ないことをするな」というニュアンスが強いのであって、コミュニティのソトの人間までが想定されていたわけではない。

そして、ソトに対しては「旅の恥はかき捨て」といった言葉も流通していたわけだ。

なので、「昔の日本人は寛容だった」と回想する際には、「あくまで身内意識の及ぶ範囲に対する寛容さ」だった点に留意する必要がある。

 

身内びいき、と言ってしまっても良いかもしれない。

その身内びいきが、家族、町内、地域、出身学校、都道府県といった具合に同心円状に意識されて、それぞれの水準にみあった寛容さを発揮していたものを、私達は「日本人の寛容」として観測していたのではないだろうか。

 

この、身内意識・身内びいきのメンタリティは今でも日本人に残っているらしく、企業、角界、専門家集団など、身内を意識できるフィールドではそれらしい身振りをたくさん観測することができる。

そして身内びいきな人達のなかには、意志決定に際して、合理性や事実性よりも身内意識を重視する人が少なからず混じっているらしく、“「ウチ」か「ソト」か”がもめごとの源となることも珍しくない。

 

身内意識をもてる情況を選んで、寛容に(あるいは甘く)振る舞おうとする人はまだまだ多いようだ。

 

「身内がいなくなった」→「寛容さの対象もいなくなった」

ところが、街から身内がいなくなってしまった。

都道府県や市町村レベルはもちろん、町内や地区という意識も希薄になって久しい。

生活空間も文化も風習も共有しないオートロックマンションの住民やニュータウンの住民には、じゅうぶんに身内意識を持てるようなコミュニティが存在しない。

駅の構内やショッピングモールで遭遇する他人も、イベントや生活空間を共有しない、まったくの他人ばかりである。

 

そういった、一期一会で顔も覚えられない他人に対し、身内意識を抱くのは不可能に近いし、若い世代だけでなく老年世代さえもが、不寛容で自己中心的な態度を選ぶのも、自然といえば自然かもしれない。

そういう人達は、たとえばショッピングモールを「他所」「ソト」と認識し、「身内に迷惑をかけるな」より「旅の恥はかき捨て」に近いモードで振舞っているのだろうし、その認識自体は間違っていない。

 

こうした現象を、「日本人が寛容ではなくなった」と捉えるのはたぶん間違っている。

現代人が過去の田舎者より不寛容になったというより、身内とアイデンティファイできる人間に出遭わなくなって、寛容に振舞う相手がいなくなっただけではないだろうか。

 

失われた「身内」を求めて

ところで、こうした「身内の喪失」は、地域や街だけでなくもっと広いレベルで起こっている。

日本企業が強力なコミュニティ的性格を漂わせて外国人をビビらせていたのも遠い昔のことで、身内意識はどんどん希薄化している。

 

とりわけ、契約社員のような雇用システムのなかで身内意識を抱くことはほとんど不可能である。

また家族関係に関しても、核家族化が進み、その核家族すらバラバラになりやすい昨今、身内意識のよりどころとしては弱くなる一方だ。

結果、多くの日本人は、かつて無いほど「身内」の少ない、お互いに寛容さをシェアできる相手の少ない境遇を生きることになった。

「身内と他所」、「ウチとソト」という意識がいまだに強い日本人にとって、これは簡単なことではない。

 

“しがらみ”からの開放はいいとしても、そのかわり、寛容になれる相手も見いだせず、誰かの寛容さにもたれかかることもできない――ついでに言うなら、甘えたい願望も甘やかす願望も充たせない――のである。

 

こうした「身内」にまつわる願望を代償するためか、日本のインターネットには、身内意識を疑似体験できるような、村感覚じみたコミュニティが繁栄してきた。

『ニコニコ動画』『2ちゃんねる』『Mixi』といった日本固有のインターネットサービスには、ヴァーチャルな身内感覚を体験しやすいものが多かった。

外国由来のSNSにも、党派性を剥き出しにした、身内には甘すぎるほど寛容で、身内以外に対して残酷すぎるほど不寛容な、小さなネットコミュニティ群 (virtual village、と表現したくなる) が林立している。

 

そうしたネットコミュニティ群は、失われた「身内」を埋め合わせたい日本人の心の隙間を埋める“こころのサプリメント”として機能しているのかもしれない。

だが、こんにちのインターネットの風景が示しているように、身内びいきに無我夢中のネットコミュニティ同士は不毛な争いや相互不理解に陥りやすく、“こころのサプリメント”以上の役割を担えるとは思えない。

 

身内という「内側」にしかアタッチメントのついていない小さなネットコミュニティがいくつできあがったところで、政治的・社会的に有意味なまとまりができあがる可能性は低い。

身内を失った私達は、どのように繋がり、どのように共生していくべきなのだろうか。

 

――『シロクマの屑籠』セレクション(https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20110210/p1)(2011年2月10日投稿) より

 

 

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著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

「吾輩は猫である。名前はまだない。」という書き出しから始まる夏目漱石の「吾輩は猫である」を知っている人は多いと思う。

 

しかしこの物語を実際に手に取り、冒頭を読み始めたところで、

「この作者、いきなり何言ってんの?猫がしゃべるわけ無いじゃん」

と、冷めた感想を持ったことがある人はいるだろうか。

 

いるとすれば、その人は天才かもしれないが、多くの場合は社会生活を営む上で不自由さを感じる事が多いかも知れない。

多くの人の感性では、「なるほど、主人公は猫なんですね」という設定を素直に受け入れ、世界観に入りこむことが人の常だからだ。

つまり人は、物語を手にとった瞬間から、どんな突拍子もない設定をされたところで、それを物語として受け入れる準備ができているということになる。

 

しかしこの、「素直に受け入れる」という人の機能。時として非常に困った問題を引き起こす。

なぜなら、このような作用が脳内で働くのは、何もフィクションの物語を読む時に限っての現象ではないからだ。

それこそ、時には「猫が話し出す」という設定ほどにあり得ないフィクションであるにも関わらず、事実として受け入れてしまうことも多い。

 

具体的な例を挙げてみたい。

2018年も年の瀬が迫った12月21日。日経新聞の電子版に以下のような記事が掲載された。

婚前契約じわり広がる 夫婦のルール、事前に取り決め

結婚後の生活ルールや離婚した場合の慰謝料、財産分与などについて、夫婦で結婚前に契約を交わす「婚前契約」が広がっている。3組に1組が離婚するといわれる中、結婚に不安を感じる男女が増えているためだ。

この記事はまさに、少し冷静に考えればわかるほどのフェイクを前提にしており、そこから導き出した無意味な結論だが、おわかりだろうか。

 

冷静に考えて欲しいのだが、肌感覚で、周囲の夫婦の3組に1組が離婚しているという職場やマンション、町内会に住んでいる人はいるだろうか。

田舎の年老いた父母の住む家を想像してみると、3組に1組が離婚するということは、実家、右隣、左隣のいずれか1組が離婚しているということである。

 

もちろん、向かい3軒のいずれかも離婚している計算だ。その隣3軒のうちの1軒も、離婚していなければ数字が合わない。

職場でも、結婚経験のある10人の上司や部下、同僚がいれば、そのうち3人は離婚経験者でないとおかしいことになる。しかし、私を含めてそんな肌感覚を持っている人はそう多くないはずだ。

 

「ふわっとした事実らしきもの」は基本的に嘘

これは日経電子版に限らないが、「3組に1組 離婚」でニュース検索すると、有名ニュースサイトが続々とヒットする。

そして表現方法や温度差に違いはあっても、「離婚率が年々高まっている」「3組に1組が離婚する時代に突入」「3組に1組は離婚するなんて言われているこの世の中」と記す。

 

しかし肝心のソースは、日経電子版と同様に主語を示さず、「~と言われている」「~という世の中」と、誰が言っているのかを示さず「ふわっとした事実らしきもの」を提示する。

似たような論調はテレビでも多く目にするので、きっとこれが事実と信じ込んでいる人も多いのではないだろうか。

しかしこれは、完全なフェイクだ。

 

ではなぜ、このようなとんでもないフェイクが常識としてまかり通るほどに、定着してしまったのだろうか。

それは、この数字にはいっけん本当に思えてしまう、もっともらしい根拠があるからだ。

2017年度版の厚生労働省「人口動態統計の年間推計」*1がそれであり、この公的資料では、出生や死亡、婚姻や離婚といった日本の人口動態を統計的な資料として集計し発表している。

そしてこの資料の中に、2017年度1年間の婚姻数と離婚数が示されているのだが、その数字は以下の通りだ。

婚姻数:607000組

離婚数:212000組

 

この統計値が発表されてから、メディアではこぞって「日本では、結婚した夫婦の3組に1組以上が離婚している」というフェイクが独り歩きするようになった。

だがこれは、2017年度の1年間で離婚した夫婦と、結婚した夫婦の数に過ぎない。

両者は全く異なるものだが、違いはおわかりだろうか。

 

例えば、人口総数と世代別の人口構成比率が大きく変わらないという前提であれば、

ある年の離婚数 ÷ ある年の婚姻数

という数式で、結婚した夫婦の何組に1組が離婚するのか、概ね推定することはできるだろう。しかし残念ながら、日本では少子高齢化の影響で、婚姻数は年々大きく減り続けているのが現状だ。

 

同じ厚生労働省の「人口動態統計の年間推計」によると、戦後もっとも婚姻数が多かったのは1972年で、およそ110万組。それに対して2017年は先の通り、607000組である。

つまり、婚姻数そのものが、ほぼ半減しているわけだ。

 

もはやおわかりだと思うが、ここまで人口動態が大きく変化している以上、

ある年の離婚数 ÷ ある年の婚姻数

という割り算は、「結婚した夫婦の何組に1組が離婚するか」などという事実を全く反映しない。分母が半分に減れば、分子が一定であっても「離婚率」は倍になるからだ。

 

この論調をわかりやすく身近な例に置き換えると、例えば過疎化し高齢者ばかりになった村で久しぶりに若い夫婦が1組誕生し、同じ年に村で老夫婦が1組離婚したとする。

この事実をして、「この村の離婚率は100%」と推定し、この村で結婚した夫婦は必ず離婚する時代、と結論付ければどう思われるだろうか。完全に非論理的だ。2組の老夫婦が離婚すれば、さらに支離滅裂なことになるだろう。

 

こんな論調を大手メディアはこぞって事実であるかのように報じており、そして多くの国民がなんとなく、この「ふわっとした事実らしきもの」を信じている現状がある。

「日本人はデータの活用が苦手」という、それこそふわっとした事実らしきものを報じるメディアは多いが、皮肉にもこちらの方は、それこそ真実なのかもしれない。

 

「猫がしゃべるわけ無いじゃん」と感じる事ができるのは大事な才能

さらにこの「常識とされる論調」には、まだ重大な続きがある。

実は日本では、離婚数も離婚率も近年、20年近くに渡り減り続けていることをご存知だろうか。

 

なお「離婚率」という数字は厚生労働省が正式に定義しており、人口1000人あたりで何人の人が離婚するか、という計算式で算出する。決して、「ある年の離婚組数 ÷ ある年の婚姻組数」ではない。

そうしなければ、大きく変わる人口動態の影響をまともに受けてしまい、事実を正確に把握できないからだ。

そしてその数字は、概ね以下の通りだ。

 

・1970年代以降の婚姻数、離婚数の推移

※左軸が婚姻組数(万組)、右軸が離婚組数(万組)、下部が西暦。

※厚生労働省の「人口動態統計の年間推計」を基にオリジナルに作成。

 

・1970年代以降の離婚率の推移

※左軸の数字は、人口1000人あたりの離婚人数。

※厚生労働省の「人口動態統計の年間推計」を基にオリジナルに作成。

 

ご覧頂くと明らかだが、日本では離婚する夫婦の組数は2000年代に入り、急減し続けている。

人口1000人あたりの離婚率も、当たり前だが同様に減り続けている。どちらかというと、このグラフからは読み取れる事実は、離婚数、離婚率ともに、婚姻数の増減が何年か後になって表れているだけではないのか、という推測に過ぎない。

つまり、昔も今も、恐らく結婚した人の何組に1組が離婚するのか、という数字にさほど大きな変化は無いということである。

 

にも関わらず、2017年の離婚数÷婚姻数という算式の結果を根拠に、「日本では、3組に1組が離婚する時代に突入」とニュースにするのは、もはや深刻なレベルで頭が悪い。

そして多くのメディアでニュースを作る記者たちが、このタチの悪いフェイクを信じ、

結婚後の生活ルールや離婚した場合の慰謝料、財産分与などについて、夫婦で結婚前に契約を交わす「婚前契約」が広がっている。3組に1組が離婚するといわれる中、結婚に不安を感じる男女が増えているためだ。

という記事に仕立て上げてしまう。

このような「事実らしきもの」に接した時には、メディアの権威を盲信することなく肌感覚を信じることが大事だ。そして、時には「猫がしゃべるわけ無いじゃん」というほどに、信じることが前提の脳の活動を拒否する努力をすべきだ。

 

重大な決断には、必ず一次データにあたるクセを身につけよう

ここまでお読み頂いた段階で、「創作の物語とニュースソースは違う」と考える人がいるかも知れない。

つまり、「吾輩は猫である」という設定が現実であると信じる読者はいないし、ニュースソースであれば疑ってかかっているので大丈夫だ、という考え方だ。

それは確かにそのとおりだが、では、こんな話はどうだろうか。

 

少し前だが、テレビ東京のガイアの夜明けかカンブリア宮殿であったか記憶が定かではないが、ある職人集団のドキュメンタリーを放送していた。

その会社では、昼食は皆で必ず集合して食べて、なおかつ食事中の私語は厳禁というルールが課されていると言うことだった。

そして皆が、押し黙ってご飯を黙々と食べている光景に、

「このような厳しい規律から、強いチームワークが生まれる」

というナレーションが充てられていた。

 

この行為のどこに、結果の因果があるのだろう。

食事中の私語厳禁という“規律” → 強いチームワークの醸成

という相関関係があるのなら、少なくとも多くのスポーツチームや世界中の軍隊で採用されていると思うが、そのような組織論は耳にしたことがない。

 

こうして文字に起こすと可笑しさが際立つが、番組の各種エフェクトの効果は絶大だ。

「なるほど、そういうものなのだろうか」

となんとなく、ふわっと理解し流されかけて、ふと冷静になり鼻水を吹いた。

 

やっかいなのはこのような、フェイクを前提にしている物語なのか、真実を前提にしているニュースなのか、という境界が曖昧なコンテンツだ。

ノンフィクション風のフィクションとでも言えばいいだろうか。

テレビの番組には必ず、演出や創作が事実であるかのように織り込まれている。

 

しかし、経営者はもちろん、どれほど小さな組織の管理職でも、ふわっとした真実らしいデータやロジックには、絶対に流されてはならない。

肌感覚で「あれ?」っと思ったら、「すみません、そこよくわかりませんでした」と声を上げ、相手が上司であれ経営トップであれ、納得の行く説明やデータを求める習慣を組織に根付かせることが大事だ。

 

もちろん、一次データに当たり真実を自分の目で見極めるセンスも、重要になる。

そうすれば、どんな組織でも個人でも、必ず「並」の壁は超えることができるだろう。

 

*1

平成 29 年(2017) 人口動態統計の年間推計

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suikei17/dl/2017suikei.pdf

 

 

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【著者】

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し、その後独立。会社経営時々フリーライター。

複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を持つ。

運営する個人ブログでは月間90万PVの読者を持つが、リア友になるのは40代以上のオッサンばかりで嬉しいやら悲しいやら。

いろいろあって医者の自殺問題について調べていた時、以下の資料をネットでみつけた。

大変に示唆に富んだ内容なので、ぜひ皆様にもお目通し頂ければと思う。

「医師の過労死」

 

僕がこの資料を読んだ時、最も衝撃を受けた言葉は2007年に自殺した日本大学の女性研修医の言葉だ。

「信じられる?寝ているときに起こされるんだよ。しかもたいした病気じゃないのに」

彼女は生前、姉にこう話していたという。

 

正直、僕はこの言葉をみた時

「医者なんてそれが普通の事じゃないか。こいつは何を言ってるのだ」

と思ったのだが、しかしある記事をキッカケに、これが普通ではない事に気が付かされた。

 

夜中に起こされるのは辛い。それが我が子でも。いわんや他人をや

ちょっと前にSPOTさんの寝不足のママに「安眠」をプレゼントするという企画がバズっていた。

子育てで睡眠不足のママに「安眠」をプレゼントしてみた_PR | SPOT

 

僕も身の回りに子育てをする知り合いが増えてきた事もあり、育児のシンドさについては多少は理解しているつもりだ。

ある知り合いの子育てママは僕に

”産後で弱った身体に”

”初めての育児という不安を抱え”

”24時間の臨戦態勢を強制される事”

の3重コンボがいかに厳しいかをルノアールでコーヒーを片手に語ってくれた。

 

彼女は話の合間合間で

「終わりが見えていたからなんとか耐えられたけど、正直、自分の子供じゃなかったら耐えきれなかったと思う」

と何度も言い、それに加えて

「子供が夜寝るようになるまで、まとまって7時間の睡眠を取れる事がこんなにも贅沢な事だとは思わなかった。育児中、何度まとまって寝たいと思った事か」

という事も繰り返し、繰り返し言っていた。

 

僕は先輩ママの臨場感あふれる話で子育てのシンドさに身震いし、その話をとある病院のスペースで茶飲み話としてインスタントコーヒー片手に

「子育てって大変らしいよ」

という話したのだが、ある子育て経験者である女医が

「子育てなんて自分の子供が相手なんらから楽勝だったよ。何だかんだで、我が子は可愛いもん。ぶっちゃけ、他人にあれをやってる医者の方が遥かにヤバイ」

という話をした事で、いつの間にか自分が既に取り返しがつかないぐらい”医者”に”変わって”しまった事を嫌という程思い知らされてしまった。

 

夜更かしと夜間勤務はぜんぜん違うし、夜中の呼び出しは本当にシンドイ

別に医者に限らないのだけど、世の中にはどうしても24時間体制にならざるをえないタイプの職種がある。

僕ら医者は、人の病をどうにかしなくてはならない仕事だ。当たり前だけど、人は24時間いつでも体調不良に陥るリスクがある。

その為、スパッとした割り切った労働を体制化する事は非常に難しく、どうしても週に何度かは夜間勤務を行わなくてはならない。

 

昨今は働き方改革もあって、夜間勤務後は帰宅できるような制度をとっている病院も多いそうなのだけど、今でも多くの病院では医師不足もあって夜間勤務後も普通に診療行為を行わざるをえない状況だ。

今でもかなり多くの医師が週に何度かは48時間動労を行っているのが現状だろう。

 

僕はかなりの夜型で、学生時代は平気で朝までゲームや漫画に耽っていた事もあった事もあり、働く前までは夜間勤務なんてチョロイだろうとタカをくくっていたのだけど、働き始めて数日で、当直という行為がどれだけ非人道的なことかを嫌というほど思い知らされた。

 

24時間、鳴り響くPHS。山のように降り注ぐ院外からの携帯電話への振動。

医者の夜は長い。特に地域の基幹病院となれば、その夜の長さは尋常ではない。

働き始めてから電話が嫌いになった医者は僕だけじゃないだろう。

 

考えてみれば当たり前の話なのだけど、夜更かしというのは楽しい事をやってるからこそ楽しいのであり、かつ次の日に昼まで惰眠を貪れる事もセットであるから楽しいのだ。

昼間の労働、夜間の労働、更に翌日の昼間の労働という三位一体となった悪魔とは完全に似て非なるものであり、”愛するパートナーと過ごす甘い一夜”と”ワルプルギスの夜”ぐらい全然違う概念である。

 

ただまあ、人間というのは恐ろしいもので、これらの事も慣れてきてしまうと”仕事”として”普通の事”だと割り切れるようになってきてしまうのである。

 

仕事にすれば何でもできるようになってしまう

”仕事”という概念は本当に恐ろしい。僕は学生時代は人の身体に針を刺すだなんて事は絶対にできなかったのだけど、今では医療行為の名のもとに針を刺す事なんて日常茶飯事だし、それどころか見方によってはより非人道的な行為も平気に行えるようになってしまった。

 

ジャンルは全く異なるのだが、元風俗嬢である方が書いたある文章を読んで非常に心を動かされた。こちらも大変示唆に富んだものなので、ぜひ読んで欲しい。

今から街ですれ違う人全員と、お金がもらえればキスができますか?という質問を投げかけたとしよう。おそらくほとんどの回答は「NO」になるはずだ。

しかし風俗嬢に同じ質問をしたらどうだろう。特殊な店舗に在籍していない限り、全員の答えが「YES」だ。

(引用元 風俗で働くべきか否か|yuzuka|note

勘違いしてほしくないのだけど、僕は別に風俗で働く事が悪い事だとは思っていない。

ただ、僕が平気で人に針を刺せるようになってしまったのと同様、お金を貰って仕事にしてしまうと、人間というのはある瞬間から”変化”し、かつての自分には戻れなくなってしまうのである。

 

先ほど書かせていただいた、医師の夜間当直に関する僕の雑感は、実は僕が研修医の時に感じた素直な気持ちを元に書き起こしたものだ。そこに嘘偽りはない。

 

ただ、今の僕は夜間勤務に対して、同じような感想は抱いていない。

シンドイのは相変わらずだけど、今では”仕事”として割り切れるようになってしまう位には”変わって”しまった。

 

それと共に思うのだ。

きっと、あんなにもシンドかった育児経験者がシンドさを乗り越えてニ児、三児を作るのと同様、人というのは良くも悪くも”慣れ”てしまう生き物であると。

そして”慣れ”る事ができなかった冒頭の彼女のような繊細な心の持ち主には、この世は辛く厳しい世界だという事を。

 

何者かになれない個人に、世の中は厳しい

労働は人間をただの人から何者かに変えてしまう。

学生時代、僕は何者でもない自分が嫌で嫌でしかたがなく、何者かになろうと必死にもがいていた。

必死に医学を勉強し、ブログを山のように書き綴り、メシと酒を人一倍食した。

 

そのかいあってか、今ではある程度は”何者”であると名のれるような人間にはなれた。

僕はこれを自分の努力の賜物だと思っていたのだけど、考えてみるとこれは僕が本当に偶然たまたま”自分に合った”環境に置かれたから、何者かになれた事に他ならない。

 

何者かになれない個人に、世の中は厳しい。

 

冒頭に書いた日本大学の女性研修医は”医者”になれなかったのだ。

「夜中に起こされる事」を”仕事”という概念でマスクして、当たり前の事であると受け入れられなかったのだ。

 

そして彼女は仕事に潰された。

死ぬぐらいなら、逃げればいいのにと人は言うかもしれない。

けど、今では僕はわかるのだ。医者になるまでに山程の情熱をかけた事により、積もり積もったサンク・コストを前に、もう一度、同じ様な情熱を別のものに向けろと言われる事がどれだけ残酷なことなのかを。

夢に自分を否定される事の厳しさを。

 

僕は労働に感謝している。自分を何者かに変えてくれたのは、仕事という概念に他ならないから。

 

けど、僕は同時にこうも思うのだ。労働は人を変えてしまう。なんて恐ろしいものだろうとも。

仕事だからと、嫌な事・苦しい事を割り切れるようになってしまう事は、なんとも形容しがたい寂しさがあると思いませんか?

 

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Antonio Marín Segovia

年末から年始にかけて、仕事がないのでほとんどTwitterばかり見ていたせいで、「ケータイ見てニヤニヤしてんじゃないよ」と、家族に怒られた。

 

そんな事言われても、Twitterが面白いので、仕方ない。

iPhoneのスクリーンタイムをみても、Twitterに費やす時間が明らかに増えた。

 

なぜTwitterは面白いのだろう。

改めて考えてみると、おそらくTwitterは「知らない人」の投稿を目にする機会が多いからだ。

特に、Facebookに比べて。

私は「自分とは異なるネットワークを持つ人々」に惹かれているのだ。

 

逆にFacebookは最近、馴染みの情報ばかりが多く、仕事の連絡以外にはあまり使わなくなっている。

自分がよく知る人からの情報は安心感があるのだが、たいてい私も同様の情報を知っているので、興奮と感動はあまりない。

 

これは、理論的にはスタンフォード大学の、マーク・グラノヴェッターが発表した「弱い紐帯の強さ」という研究で明らかにされており、ソーシャルネットワークを使いこなす上で、非常に重要な考え方だ。

興味のある方は、以下の書籍がおすすめだ。

人は弱いつながりの人脈を豊かに持っていれば、「遠くにある幅広い情報を、効率的に手に入れる」という面で有利になる。結果として、ビジネスのさまざまな局面で優位に立てるのだ。

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現在のところ「弱い紐帯」を手にするための正解は、Facebookではなく「Twitter」だと、私は思う。

(ということで、是非一緒にTwitterやりましょう。→安達裕哉のアカウント

 

 

ところで、本記事の主題はTwitterの素晴らしさではなく、暗部にある。

 

それは、Twitterを巡回していて、たまに見かける「SNSにつながるのをやめたほうがいいのでは……」という人々だ。

彼らは概ね、次のような行動によって特徴づけられる。

 

・不満ばかり書く(ので、投稿を見る多くの人がうんざりする)

・自分のことばかり書く(ので、投稿が共感をよばない)

・そのわりには自己顕示欲が高い(ので、人にカラミに行く)

・結果として何かに強烈な不満を抱えながらSNSをしている(ので、不幸に見える)

 

もちろん、SNSをやるのは自由でありあれこれ口出しをするのは野暮というものだろう。

それはわかる。

だが、ぜひ「SNSを見ないようにしたほうがいいですよ。」と言ってあげたい。

 

この、「SNSをやればやるほど、不満が溜まって生活のクオリティが下がる」という現象は、「SNS疲れ」として、度々指摘されているが、理論的にはハーバード大のニコラス・クリスタキスによる著書が詳しい。

 

一言でいえば、「SNS疲れとは、他者との比較によって不幸になること」だ。

人びとは自分の絶対的な立場よりも、世間での相対的な立場を気にする場合が多いということだ。

人間とはうらやむ存在である。他人が持っているものを欲しがり、他人が欲しがるものを欲しがる。

一九五八年、経済学者のジョン・ケネス・ガルブレイスは、多くの消費需要は本質的な必要性からではなく社会の圧力から生じると論じた。

人は、自分がいくら稼いでいるかとか、どれくらい消費しているかではなく、知り合いとくらべていくら稼ぎ、どれくらい消費しているかによって、自分の成功の度合いを判断するのである。

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ニコラス・クリスタキスは「裕福であるとは「女房の姉妹の亭主よりも少なくとも一〇〇ドル多い年収」を得ることだ」と指摘する。

 

クリスタキス氏は、こんな実験も紹介している。

人は、下ののどちらで働きたいと言うだろうか?給与以外の条件はすべて同じとする。

 

1.自分の給料が3万5千ドル、ほかの全社員の給料が3万8千ドルの企業

2.自分の給料が3万3千ドル、ほかの社員の給料が3万ドルの企業

 

 

実は、ほとんどの人は 2. の会社で働きたいというのだ。

絶対的な給与の多寡よりも、相対的に集団で優位となる方を、多くの人は選択する。

 

クリスタキス氏は、それを評してこのように述べている。

私たちは小さな池の大きな魚になりたいのであり、それより大きな魚になれてもクジラがうようよいる大海を泳ぐのは嫌なのである。

この傾向は、容姿などの肉体的な魅力についても、同様の結果が得られている。

 

 

だが、SNSはそれをブチ壊しにする。

嫌でも「ムカつく成功者」が目につく。

それが問題なのだ。

 

 

話は変わるが、しばらく前から、ZOZOの広報の方と、「貧者を救う」NPOの代表の方が事あるたびに論争しているのをTwitterで見かける。

もちろん、法的な範囲で私人や株式会社がカネを何に使うのかは自由だ。

また、貧者への支援の義務があるのは、公的機関であり、一私企業ではない。

だが、「大きなお金を使う」だけで、必ず批判は集まる。

 

また、ZOZOの経営者が打ち出した、1億円のお年玉についても賛否が別れている。

個人的には、異なるネットワークで顕著に見解が異なるのが、見ていて非常に面白い。(Facebookでこういうのは少ない。Twitterはこれだからやめられない)

この騒ぎの源泉となっているパワーは「人間とはうらやむ存在」というクリスタキス氏の指摘のとおりであろう。

 

以前、絶対的な貧困よりも、主観的な貧困が問題になる時代がやってきた、と書いた。

 

「数百億を、自分の旅行に使える人」と自分を比べた場合、ほとんどの人は格差を感じるだろう。

そして、その中の一部の人は、格差に強烈な不満を持つ。

 

それこそ、自分の生活を破壊してしまうくらいに。

 

 

誰もが「生活に100%満足する」という状況は当分はやってこないだろう。

身近な他者との比較が、人を不幸にするからだ。

「知人が結婚した」

「知人がいい車を買った」

「知人が大手企業で活躍している」

「知人のツイートがバズった」

「知人のパートナーの容姿が良い」

……

そして、過剰な競争意識は寿命を縮める。

例えばクリスタキス氏は、「20歳時点で、女性比率の少ない環境に置かれていた男性は、競争のせいで寿命が短い」という、ショッキングな調査結果を発表している。

 

だからこそ、自分のところに入ってくる情報のコントロールは、生活のクオリティを保つために非常に重要となる。

 

他者の生活レベルや、成功の度合い、人気、配偶者の容姿などについて、とても気になる人は、

「生活のクオリティが下がるので、SNSにつながるのをやめたほうがいい人」だ。

寿命が縮まりかねないので、本気でSNSを辞めることをおすすめする。

 

いくら「弱い紐帯」を手にするためとはいえ、自分の生活のクオリティを下げてしまっては、元も子もないのである。

 

 

ただ、一方では、成功者はSNSに必要以上に「成功」の情報を流すべきではない。

「表現は自由じゃないか」という方もいるだろうが、誰もが見られる場所に「格差」を意識させる情報を流すことは、嫉妬を煽り、安定した社会の形成にとって害となる。

 

あまり知られていないが、ピーター・ドラッカーは、著書「マネジメント」で経営者の超高額報酬を批判している。

(経営者の超高額報酬は)ともに生き、ともに働くべき異なる階層間の人間の信頼関係を破壊する。

やがて誰も得をせず、社会、経済、マネジメント自身に対して害を与える政治的な措置がとられるだけである。

巨大企業の社長の年収50万ドルにしても、ほとんどは見せかけである。それは所得ではなく身分である。

どのような抜け穴を見つけても、ほとんどが税金にもっていかれる。ボーナスにしても、所得の一部を多少なりとも税率の低い形の報酬で手にするにすぎない。

いずれも経済的にはたいした意味がない。しかし社会心理的には、「知りながら害をなしている」。弁護の余地はない。

[amazonjs asin="4478004331" locale="JP" tmpl="Small" title="ドラッカー名著集13 マネジメント上―課題、責任、実践"]

「知りながら社会に害を及ぼす」ことに、弁護の余地はない、というドラッカーの厳しい言葉を、我々は肝に銘じなければならない。

 

 

しかし、奢った富者が、「誰でもアクセスできる場所」で、必要以上に自らの成功を誇示しつづければ、ドラッカーの指摘どおり、必ずなにかの形で報復を受けることに間違いはない。

富者にも「慎み」という、モラルが、自己防衛のために必要な時代なのである。

 

 

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◯ブログが本になりました。

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(Photo:Simon Cockell

どうもしんざきです。最近はめっきりスマブラっておりまして、使用キャラは主にルフレさんです。

電気ネズミが凶悪過ぎたり、イカ娘が侵略してきたりで全然勝ててませんが、おおむね非常に楽しいです。

 

この記事が皆さんの目に触れる頃には、もう2019年でしょうか。明けましておめでとうございます。

今年もなんか適当によろしくお願いします。

 

ゲームの話をします。

皆さん、「オクトパストラベラー」ってゲーム、もう遊びました?

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Switchで出たスクエニのRPGでして、新しさの中にも懐かしさがあるというか、ぶっちゃけて言うと「これロマサガの続編かナ?」みたいなテイストがありまして、私には大変面白かったんですよ。

 

8人の主人公から1人を選ぶ主人公選択システム。

何となくプレイするととてもしんどいけど、作戦を考えて色んな準備をしてから挑めば飛躍的に楽になる戦闘バランス。

「出来ること」「行ける範囲」がどんどん広がっていくことによって味わえる解放感。

割とドライであっさり風味、のどかでありながらどこか殺伐としているNPCとの会話の雰囲気。

感動するしかない程メロディアスで素晴らしいBGM。

「ドット絵の芸術」という言葉以外表現が見当たらないグラフィックの美麗さ。

 

どう考えてもプレイヤーをダイレクトアタックで殺しに来ているとしか思えない一部のボス戦。

こうした要素を列挙してみると、改めて「いやこれどう考えてもロマサガ4ですよね?」という私の感想と同じものを、皆さんにも感じて頂けるのではないかと思うんですが、いやホントに面白いので、SFC時代のRPGが好きだった人で、まだ未プレイの方には是非プレイしてみて頂きたいなーと思う次第です。

 

正直なところバランスにはやや粗削りな部分もある気がするんですが、そこもまたロマサガみが強くて個人的にはとても懐かしい。

ロマサガが好きだった人がハマるであろうことは保証します。特にトレサさんが可愛いと思います。

 

それはそうと、しんざき家ではこのゲーム、私以外に長男も遊んでまして。

長男「ゼルダの伝説 BotW」はクリアしてるんですが、古き良き2DタイプのRPGはこれが初めてだったので、どんな風に遊ぶのかなーとちょっと楽しみにしていたんですよ。

 

長男のプレイって、長年ゲームを遊んでいて「ゲームの文法」に慣れ切っている目から見ると色々と新鮮でして、ゼルダの時には明らかに「道」というものを気にしないプレイをしていたんで、「あ、ゲームにおける「道」ってお約束の一種であって、初見の人は気にしないものなんだ」って驚いたりしたんです。(参考:長男(10歳)のゼルダプレイを見ていて気付いたこと )

 

で、本当にちょっとしたことなんですけど、長男のプレイを見ていて軽く感動したことがありまして。

このゲーム、基本的に「キャラクターによる装備制限」ってものがなくて、誰でも全種類の防具を装備出来るし、適切なジョブにつけば剣でも槍でも装備し放題なんですね。

剣と槍と斧と弓を同時に装備する、「弁慶かよ」みたいな状態も普通に作れるんです。まあ、いい装備は限られてるんで装備調達が大変でしょうけど。

 

で、キャラクターの一人に「トレサ」っていう女の子がいるんです。女の子っていっても設定上は18歳なんですが、まあゲームグラフィック上は小さな女の子に見えます。

 

トレサは商人なんで、初期装備は弓と槍なんですが、勿論ジョブを変えれば剣でも斧でも装備出来るようになりますし、鎧なんか最初からガンガン装備出来ます。

ところが、長男のプレイを見ていると、メインパーティの一人として使っている筈のトレサに、弱い装備しかさせてないみたいに見えたんですよ。

魔法メインじゃないのに防具は魔力が上がるローブ系の服しか装備させてないみたいだし、武器も弓とか、あと最初の方のスピアとかしか装備させてない。

 

勿論、ゲームをどのようにプレイするかは個々人の自由なんですが、ちょっと不思議だったので

「トレサに鎧とか強い武器とか装備させないの?」

と聞いてみたんです。

 

するとこう返ってきました。

「だって小さな女の子だから、重い物装備させたら可哀想かなーって」

あーーーって思いまして。

 

つまり、長男は、きちんと「その世界観の中」に寄り添って、オクトパストラベラーという世界の範疇で行動することを選んでいたのです。

だから、例えばHPもSPも減っていなくても、暫く歩き回っていれば「そろそろ疲れたかなーと思って」パーティを宿屋に泊めていましたし、オフィーリアがパーティにいれば「オフィーリアが嫌がるかなーと思って」テリオンに盗みをさせていなかったりしていたのです。

 

そうだった。「RPG」ってのは、かつてこういうものだった。「ロール」を「プレイ」するものだった。

思い出してみれば、私にも、昔はそういうことがありました。例えば、人の家にずかずかと上がりこんで壺をぶっ壊すのに気が引けていたこともありましたし、ゲームでの時間が夜になったら宿屋に泊まってあげないと、と思っていたことがあったのです。

 

いつからか私にとって、RPGは「ロールをプレイするゲーム」ではなく、「キャラクターを育てて課題をクリアしていくゲーム」になりました。

そして私は、システムを適切にハックしていくことに慣れていき、ゲーム内での行動を世界観の範疇に収めていく遊びからは遠ざかっていきました。まあ、たまにはウルティマ4みたいな例外もあるんですけど。

 

今の私は、馬小屋に何百回泊まらせても全く心は痛みませんし、住民の目の前でタンスを開けることにも全く躊躇は感じません。

私にとって、ゲームのルール内でキャラクターを最適化していき、課題をクリアしていくのはとても楽しい遊び方です。

ただ、一面では、長男がやっていたような「その世界の中に入り込んで、その世界を味わう」という遊び方、楽しみ方を、もしかすると暫く忘れていたかもな、と、そんな風に思ったんです。

 

勿論、ゲームはそもそも遊びなんですから、どちらの「遊び方」が正しいなんてことはないんです。どんな遊び方でも楽しめればいい。楽しいもん勝ちです。

ただ、長らく忘れていた一つの「遊び」を思い出せたという点では、長男がとても素敵な「遊び方」をしてくれてよかったなあと。おおげさな話なんですが、子どもの頃に感じた「RPGの世界」に対するワクワク感を、改めて味わえたような気がしたのです。

 

夕飯時に、長男に「オクトパストラベラー面白い?」と聞いてみたら、「面白い!!」と即答が返ってきました。とすると彼は、「オクトパストラベラー」という世界を、恐らく十二分に味わい尽くせているのだろうなーと。

 

ゲームというものにも、いい出会い方、不幸な出会い方、いろんな出会い方があると思うんですが、彼とオクトパストラベラーの出会いも、幸福なものであればいいなあと、そんな風に考えている次第なのです。

 

まあ長男、今4章のどれかのボスでハマって進捗止まってるみたいなんですけど。頑張れ長男、ハードルを越えるのもゲームの楽しみの一つだ。

 

長々と書いて参りましたが、私が言いたいことは

・オクトパストラベラーは大変面白いので、SFC時代のRPGが好きだった人、特にロマサガが好きだった人は、まだ未プレイであれば遊ぶべきだと思います

・トレサさんはかわいい

・裏ボスのバランス調整した人お腹こわせ

の3点だけであり、他に言いたいことは特にない、ということを最後に申し添えておきます。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

「秘密の99%は本人の口から漏れる」

これは元外交官である佐藤優さんの本を読んでいた時に知り、僕が非常に衝撃を受けた言葉の1つだ。

 

外交官は大使館という窓口を通じて、様々な国と関わる仕事だ。その仕事の一環として、スパイのような国家機密に関わる諜報活動に従事する事もあるという。

この諜報活動だけど、忍者のように影に徹して屋根裏に潜伏して行うのではなく、むしろ各国の重要人物とコネクションを作り会い、お互いに話し合って「こいつなら信頼できる」という関係を作る事により、執り行われるのだという。

 

スパイ活動に関わる人には常識らしいのだけど、人間は「本当の事を喋ってしまいたいという誘惑」に常に晒されている。

みなさんも、何か秘密ごとを抱えた時に、誰かにゲロって楽になってしまいたいという衝動に襲われた事が一度ぐらいはあるだろう。

だけど、誰彼構わず「本当の事」を喋ってしまうようならば、その人の信頼は即座に地に落ちておしまいだ。だからこそ、その「本当の事」をゲロる相手は慎重に選ばなくてはならない。

 

だから諜報活動に関わる人は、機密情報を手にする為に、まず信頼関係を構築する。

そうして「こいつなら信頼できる」と相手に思わせられるような人間になる事に成功すると、「本当の事を喋ってしまいたいという誘惑」に負けた人達から、ポロりと情報が出てくるのだというのである。

 

これが「秘密の99%は本人の口から漏れる」の真相だ。

人の口に戸は立てられぬとはよくいったものである。

 

インフルエンザの拡散速度よりも早かった、僕の失恋話の拡散速度

僕がこの言葉に妙に感心してしまったのは、自分自身がまさにこれをやってしまった事があったからだ。

前回の記事に書いたとおり、僕は血反吐をはくような努力の果てに医学部にギリギリ入学した。

 

色恋沙汰は受験の妨げになるからと、数年間必死な思いで異性への誘惑を振り切って受験勉強に明け暮れていた僕は、男子校出身という事も相まって全く異性になれておらず、大学入学後にとある人に一目惚れしてしまう。

それまで読んできた恋愛漫画はいずれも男から女に告白して恋がスタートしていたので、よせばいいのに僕は全く信頼関係すら構築する事無いままにど直球に告白し、当然のごとく見事に玉砕。

 

失恋により傷心した僕は、事の経緯を当時信頼していた人間に報告したのだけど、いま考えてもこれが本当に悪手であった。

彼も当然人だから「本当の事を喋ってしまいたいという誘惑」に常に晒されている。

学校なんてのは、ただでさえゴシップネタに飢えた場所だ。閉鎖環境下にある医大社会は特に狭い。

僕がこっぴどく振られたという情報はまたたく間に広がってゆき、次の日にはクラスメート全員が僕が振られたという事実をしっていた。

 

この有様をみた僕の友人の一人がこの光景をみて

「インフルエンザの拡散速度よりも、お前の失恋話の拡散速度の方が早いのではないか?俺はこの世で奇跡をみた思いだよ」

と冗談交じりに慰めて?くれたのだけど、当時の僕はまるで不貞の罪で公衆の面前で公開ムチ打ち磔の刑に晒された未亡人のような気持ちで一杯であった。

ああ、まさに「秘密の99%は本人の口から漏れる」のである。

 

まあ、文字に書き起こすと別にどこにでもよくある話だし、今となっちゃ笑い話の1つで済ませられるような話ではあるのだけど、当時は振られた苦しみに加え、公衆の面前で恥を晒されているような苦しみが重なり、文字通りメンヘラになるのではないかという位には苦しかった。

これが僕の人生で、今まで二番目に苦しかった思い出である。

 

痛い思いをして学んだ様々な事

とはいえまあ、人間というのは痛い思いをしたら1つや2つは学ぶことがあるものである。

いや、4つ学んだ。僕の血で得られた”学び”を是非とも読んでくださいませ。

 

1つ目の学びは「人の噂も七十五日」という言葉をリアルに実感した事だ。

こんな感じでまたたく間にHOTワードとなった僕の失恋話だけど、当然のごとく、何日もたつにつれて、そのうち全く話題になんてならないような話題に成り下がってしまった。

 

人の噂も七十五日とは本当によくいったものである。

実際、体感的にも2ヶ月するかしないかぐらいで、あんなにも血肉がわき踊るかのように嬉々として語り継がれていた僕のゴシップネタは、誰もが食思不振に思うようになった。

まったく、人間というのは実に勝手なものである。

 

2つ目の学びは、どんなに傷ついたとしても人間というのはいつかは心が癒やされてしまう生き物なのだという事だった。

振られて七転八倒した後、公衆の面前で恥を晒されてうつ病一歩手前に突っ込んだ僕のメンタルだったけど、その後時間が経つにつれて、徐々に回復してゆく事となった。

その時に本当にありがたかったのが、武道をやっていたことだった。

 

何もしないでいると、色々な事が自然と心に響いてきて「ギャアァ」と頭を抱えてしまいたくなってしまうのだけど、武道の型を無心に徹底していた時だけは、本当に何も考える事無く無心でいられたのである。

「ああ、何も考えずに無心でいられるという事がこんなにも素晴らしいとは!」

この時以上に、武道の素晴らしさを実感した事はない。

 

似たような話は他にもある。僕の友人で、医者になった後に、とある患者の不幸に立ち会ってしまい心が崩壊しかけた人がいるのだけど、彼はひたすら淡々とプレイステーション2の桃太郎電鉄というゲームを無心でやり続ける事で、メンタルが底から這い上がってくるのを待ち続けたのだという。

「辛い時、時間だけが人を癒やしてくれるんだよ」

どういうシチュエーションだったかは忘れたけど、かつて僕の母親がこう語ってくれた事がある。今でも実に至言だなと思う。

 

3つ目の学びだが、他人の秘密をどうしても話したくてしかたがないときは、その人と全く関わることがない人にのみ話せという事だ。

かつて女優である西川史子さんが「人の悪口を家庭の食卓であえて話している」と仰っていた。

西川史子、食卓で家族順番に悪口ルール「外で悪口言わないために…」/芸能/デイリースポーツ online

西川は「母が隣の奥さんが嫌だというようなことを言ったり、私が可愛い子が隣のクラスに入ったとか、そういうことを言う」と説明。

家族がその「可愛い子」の写真を見て「父親が『鼻から口までが長い、サルみたいだ』って悪口を言ってくれるんです」と、当時を振り返った。

これは「外で他人に悪口を言わないため」に考案されたルールだという。

なるほど、確かに悪口を絶対に言わないというのは難しい。けど、相手に絶対に拡散しないような形でそれを発散するのなら、家族がぶちまけない限りは絶対にそれが表沙汰になる事はない。

「こいつなら信頼できる」と家族を思えるからこその振る舞いである。

 

ちなみに、冒頭にあげた佐藤優さんは、他人に秘密を暴露するという誘惑に負けないために、あえて不必要な事は知ろうとしないのだという。

知らないことは話せないし話しようもない。だから、相手がヤバイ案件を持ち込もうとしていると察したら、あえてそれを遮って聞かないようにする。

これも1つの秘密を喋りたくなるという誘惑から逃れる為の、魅力的な手段だろう。

 

そして4つ目の学びだけど、たとえどんなに女の子の事が好きになったとしても、いきなり告白するのは下策中の下策であり、女の子と付き合いたかったらまずは食事にでも誘う事からでも始めましょうという事である。

 

恋愛漫画は嘘である。告白から始まる恋などない。秘密だって信頼できる相手にだからこそ話したくなるわけであり、いきなり好意をぶつけるなんてTPOを無視したただの暴走である。

 

何回か食事にでもいけば、そのうち付き合えそうか駄目そうかは冷静に判断ができるようになってくる。

っていうか、下手したら告ってこいという圧力を感じる第六感が働く位には、あなたもきっと成長できるはずである。

 

とまあ、これが僕が散々な思いをして痛い目にあって学んだ事で書かれた、血塗られた知見である。参考にしていただければ、幸いだ。

 

俺の屍を越えてゆけ(´;ω;`)

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Ripton Scott

うちの長男は小学校高学年です。

中学受験、どうしようかねえ、なんて言いつつも、塾に行ったり模試を受けたりしています。

 

僕自身は中学校は地元の公立に何も考えずに入りましたし、親からも中学受験をすすめられたことはありませんでした。

田舎だったし、いまから30年以上も前の話ではありますし。

いまから考えると、昭和の小学生は、けっこう自由だったなあ。

 

受験を意識しはじめると、それはそれで悩ましいところもあるのです。

「目標」は高いほうが良いのだろうけれど、あまりにレベルが高い学校を志望校にしているのを目の当たりにすると、「それはちょっと一筋縄ではいかないんじゃないの……」となるべく婉曲に伝えたくなるのですが、それはそれでやる気を失わせるかもしれないし、過信して受験し、落ちたら傷つくかもしれないし……

 

「いい大学に受かることが、人生を幸せなものにするとはかぎらない」という実例はたくさんありますが、その一方で、全体の「傾向」としては、高偏差値で有名な大学のほうが、人生において、やりたいことがやりやすくなるのではないか、と、中途半端な学歴の僕としては悩んでしまうのです。

がんばって勉強しても、いわゆる「良い大学」に入れるとはかぎらないけれど、合格できる可能性が上がるはず。

 

子どもにとって、どうするのがいちばん良いのだろうか?

そんなことを延々と考えているときに、一冊の本を読みました。

『誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性』(セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ (), 酒井 泰介 (翻訳)/光文社)という本のなかに、こんな話が出てくるのです。

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著者はグーグルの元データサイエンティストなのですが、われわれが日々検索していることが、すでに、こんなにビッグデータとして活かされているということに驚かされます。

調べているつもりで、実際は「調べられている」。

 

もちろん、個人情報が出ない形でまとめられており、著者も「グーグルはあらゆる特定人物の検索歴も提供していない」と言及していますが。

大学を考えてみよう。ハーバードのような世界最高の大学に進むことと、ペンシルバニア州立大学のような手堅い一流校に進むことの差は重要なのだろうか?

出身校のランキングと将来の収入には、またもや明確な相関関係がある。職業生活に入った10年後、ハーバード大学の平均年収は123000ドル、ペンシルベニア州立大学では87800ドルである。

だがこの相関関係は、因果関係を意味しているわけではない。

ステイシー・デールとアラン・B・クルーガーのエコノミストコンビは、一流大学の卒業生の将来の収入の因果関係を調べる妙手を考案した。使ったのは、高校生のその後について記載した膨大なデータセットだ。そこにはどこの大学に出願し、どこに合格し、どこに進学したかや、出身家庭、成人後の収入などのデータが含まれていた。

 

標本を実験群と統制群に分けるため、彼らは同等の家庭の出身者で、同じ大学に合格しながら、別の大学に進学した学生たちに注目した。

ハーバードに合格しながらペンシルベニア大学に進学した学生たちもいるのである。恋人の近くにいたかったのかもしれないし、習いたい教授がいたからかもしれない。

こうした学生たちは、大学の合否裁定委員会に言わせればハーバードへの進学者と同等の才能を持ちながら、彼らとは別の教育体験をした学生たちである。

 

ではこの2つの集団――いずれもハーバードに合格したが片やペンシルベニア州立大学を選んだ――のその後はどうなったか?

結論はスタイベサント高校の研究に負けず劣らず衝撃的だった。両集団とも、職業生活を通じておおむね同じ収入を得ていたのだ。将来の収入を基準とするなら、同様な一流大学に合格しながら別の学校に入学した学生たちは、結局同じ職場に行きついていたのである。

もちろん、収入だけが問題ではなくて、医学や法学、あるいは芸術というようなジャンルであれば、その大学・学部に受かるかどうか、というので決まってしまう面もあるのですけど。

 

 高校からの推薦入試や特殊な一芸入試を除いては、受験というのは、基本的に一発勝負であり、ずば抜けた実力を持っている人以外は、運の要素が少なからずあると思います。

にもかかわらず、どこの大学に受かるのかで、人生はかなり決まってしまう……と僕は思い込んでいたのです。

 

ところが、少なくともこのアメリカの統計においては、同じくらいの学力の人であれば、超一流大学に入学しても、地元のランクの少し落ちる大学に入学しても、全体としては、その後の人生はそんなに変わらない、ということなのです。

 

僕はこれを読んで、少し勇気づけられました。

この結果から読み取れるのは、勉強をして学力・知力を磨くことは、その後の人生において、努力に応じたプラスをもたらす、ということなので。

大学には合格・不合格があっても、それはあくまでも「通過点」でしかない。

 

この本では、アメリカの公立校ランキング首位のスタイベサント高校についてのこんな調査結果も紹介されています。

では、スタイベサント高校の回帰不連続分析の結果はどうだったか?

この研究を担ったのはMITとデューク大学の研究者ら――アティラ・アブドゥルカディログル、ジョシュア・アングリスト、パラグ・パサック――である。

彼らは合否線ぎりぎりの学生たちのその後を調べた。

イルマズのようにあと1問か2問で合格を逃した学生たちと、合否線を12問で上回って首尾よく合格した人々のその後を大規模に比較したのである。成功の基準はAP成績、SAT得点、そしてやがて進学した大学のランキングとした。

その結果の衝撃は、彼らの論文の題名――『エリート幻想』――が雄弁に物語っている。

スタイ高入りした影響? まったくのゼロた。合否線のわずかな上下に位置した人々は、同等のAP成績やSAT得点を上げて同等の大学に進学していた。

 

スタイ校出身者が他の高校の出身者よりも栄達する理由はただ一つ、もともと優秀な人間を採っているから、というのが研究の結論だった。

 

同校の生徒がAPSATの成績が良いにしても、果てはより良い大学に進学しても、それはスタイ校での教育を原因とする結果ではない。

「激烈な入試は、生徒層全般の高い学習効果の説明にはならない」と論文は記している。

高校入試の段階でも、成績が同じくらいであれば、どこの高校に入学するかというのは、大きな問題ではない、ということみたいなんですよ、意外なことに。

 

もちろん、明らかに教育レベルが劣るような学校に行けば話は別かもしれませんが、少し偏差値ランキングが下がるくらいであれば(現実的には、スタイ校に受からなかった学生たちは、そのすぐ下の偏差値の学校に行くはずです)、3年後に有意差は出ないのです。

 

考えてみれば当たり前のことなのですが、長い目でみれば、「学校の名前にこだわること」よりも、「自身の実力を磨くこと」のほうが大事なんですよね。

地道な努力は、案外、報われるようになっている。

 

逆に言えば、運よく実力より上の学校に合格しても、それだけで人生がうまくいくわけではない、ということみたいです。

 

 

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著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Román TM

これを書くと理解しようとしない人が誤読して炎上してしまう可能性が高いが、しかし今回はあえて書いてみる。

それでも、なるべく分かりやすく書いてみたい。

 

差別をなくす運動というのは、なかなか上手くいかない。

その根本的な理由は、差別をなくそうとする人そのものが、差別心があるからである。というより、差別をしている。

 

誰を差別しているかというと、彼らは「差別をする人」を差別している。

 

差別を糾弾する人こそ、実は最も差別的である

例えば、国籍差別をする人がいたとする。中国人や韓国人を心から蔑む日本人だ。それに異を唱える人は、ほとんどの場合で国籍差別をする人を蔑んでいる。

だから、国籍差別をしている人の心に響かない。おかげで、国籍差別はなくなるどころか、ますます増えるのである。

 

男女差別もこれと一緒だ。

まず、女性を蔑む男性がいたとする。すると女性は、その男性を蔑む。そうして、蔑みの連鎖が生まれる。

そんなふうにお互いに蔑み合っているから、いつまで経っても問題が解決しない。

 

この問題を解決する方法は、まずは蔑まれている方が、蔑んだ人を蔑むのをやめることだ。

分かりにくいかもしれないから、もう一度噛み砕いて言う。

 

この問題を解決する唯一の方法は、誰かを差別している人がいたら、その人を糾弾するのではなく、むしろその人の心に寄り添うことである。

どうしてその人が差別するのか、その人の気持ちになって考えることだ。それしかない。

 

例えば、国籍差別をする人がいたとする。

そして、それを嫌だなと思ったら、まずは「なぜこの人は国籍差別をするのか?」と考える。そして、とことん考える。

最後には、「なるほど、この人の立場に立ったなら、国籍差別するのも無理はない!」というところまで、その人の気持ちに寄り添う。理解する。そうすることで初めて、この問題は解決する。

 

ただ、たいていの人は、「そんな国籍差別する人の気持ちなんかに寄り添いたくない! 理解する必要などない!」と考えて、ぼくの提案は即座にはねのける。

そうして、ちっとも差別する人の心に寄り添わない。

 

しかし、そういった他者の心に寄り添わないその態度こそが、差別を生み出すのである。

そもそも、中国人や韓国人を悪く言う日本人は、中国人や韓国人の心に寄り添わないから、差別をしている。もしそういう人たちが中国人や韓国人の心に寄り添えたなら、そこで差別は終わる。

 

そして、そういう差別する人を悪く言う人たちも、差別する人たちの心に寄り添わない。

そうして、差別する人たちを差別する。

だから、差別がなくならない。むしろ、その人たちもが立派な差別者へと成長していく。そうやって、差別は逆に増えていってしまっているのだ。

 

実は、差別を糾弾する人こそ、実は最も差別的であるという場合も少なくない。

だから、差別をなくすという運動はなかなか進まないのである。

 

なぜ人は差別をしてしまうのか

ところで、なぜ人は差別をしてしまうのか?

なぜ差別は、戦争や食糧問題が過去に比べて大きく改善した現代においても、なかなか解決されないのか?

 

それは、差別するということが人間の本質の一つだからだ。というより、生き物としての本質の一つだからだ。

 

人間は、そもそも差別する生き物である。

もちろん、人間だけではなく、他のあらゆる生き物が差別をする。

人間が特殊なのは、むしろ差別をなくそうと努力しているところだ。差別するという生き物の本質に強く抗っているところである。それはむしろ、人間の特殊性だろう。

 

人間というのは、そういうふうに生き物としての本質に抗いながら生きている。それもまた人間の本質である。

つまり、様相は矛盾しているのだ。差別するのも人間の本質なら、それに抗うのもまた人間の本質というわけである。

 

そういう矛盾した様相こそが本質で、逆にいえばその矛盾を解決しようとする行為——つまり差別をなくそうとする行為は、本質から外れているのである。そっちの方が、むしろ無理が大きいのだ。

 

誰の心にも差別心はある

何が言いたいかというと、我々が取り組まなければならないのは、まずは「誰の心にも差別心はある」というのを認めることだ。

そして、差別をするのはある種仕方ないと、一旦開き直ることである。

その上で、差別する人たちの心に寄り添い、彼らを理解することだ。

 

そうすることで、まず自分自身の差別心が減っていく。自分の本質のところにある差別心を、可能な限り小さくさせておくことができるようになる。

 

そういうニュートラルに近い状態で、例えば国籍差別をする人と接すると、彼らもその人の言葉に耳を傾けるようになる。

実は彼らも人間である以上、本質的には「差別する心」と同時に、「差別に抗う心」も持っている。

彼らも本心では、差別をしたくないと思っている。いやむしろ、この世から差別をなくしたいとすら思っている。

 

国籍差別をする人たちは、実際のところ、自分の行為が差別に当たるとは認識していない。

もし差別だと認識していたら、とてもではないがヘイトスピーチなどできないだろう。差別だと認識していないからこそ、ヘイトスピーチができるのである。

彼らは、他のあらゆる人と同様に、差別を心から唾棄する気持ちも持ち合わせているのだ。

 

そういうことが理解できれば、どんな人でも差別者の心に寄り添えるはずだ。

そして、彼らの心の奥底にある「差別に抗う気持ち」に火をつけ、彼らの差別的行為を可能な限り抑えることができるようになるのである。

 

差別というのは、そういう形でしかなくしていくことができない。

しかし残念ながら、ぼくのこうした考えは、ほとんどの人に届かないだろう。

それどころか、きっと多くの人が、こう考えるぼくを「何を訳の分からないことを言っているのだ」と馬鹿にする。

そうしてぼくを蔑むようになり、この記事は少なからず炎上するだろう。あるいは、炎上しないまでも、無視されるだろう。そうして、やがて多くの人が、ぼくを「馬鹿なやつだ」と叩き、最後には差別するようになるだろう。

 

しかしながら、そこでぼくがみなさんに言いたいのは、みなさんがいくらぼくを差別しようとも、みなさんがぼくを差別するという気持ちは、よく理解できる——ということだ。

確かに、ぼくのこの文章を読んでいたら、差別もしたくなるだろう。それはよく分かる。

 

だから、どうぞ自由に差別してください。なぜならぼくは、おそらく差別されるくらいでちょうど良い人間だからだ。

差別されるために生まれてきた——というと少し大げさかもしれないが、しかしこれほど差別されることが相応しい人間も、なかなかいないかもしれない。

 

差別されるということが、おそらくぼくという人間の、あるいはぼくのような人間の、社会における役割なのである。

だから、ぼくはそれを理解し、差別する人の心に寄り添いたいし、寄り添う。

 

そうすることでしか、逆にいえば、ぼくはこの状況を打開できないのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

岩崎夏海

作家。

1968年生まれ。東京都日野市出身。東京芸術大学建築科卒。 大学卒業後、作詞家の秋元康氏に師事。

放送作家として『とんねるずのみなさんのおかげです』『ダウンタウンのごっつええ感じ』等、テレビ番組の制作に参加。 その後、アイドルグループAKB48のプロデュースにも携わる。

2009年、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』を著す。

2015年、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『イノベーションと企業家精神』を読んだら』 。

2018年、『ぼくは泣かないー甲子園だけが高校野球ではない』他、著作多数。

現在は、有料メルマガ「ハックルベリーに会いに行く」(http://ch.nicovideo.jp/channel/huckleberry)にてコラムを連載中。

(Photo:Der Wunderbare Mandarin

この記事で書きたいことは、

 

・東大をはじめとする高学歴エリートの中には、「周囲からの評価・期待」と「自己評価・プライド」と「実際の自分の能力」それぞれのギャップに苦しんで、自意識をこじらせてしまう人がそれなりの数いる

・高学歴の人にも当然得意分野と苦手分野というものはあり、苦手分野については人並みかそれ以下の能力しかない

・けれど、「高学歴」というラベルが能力全般について勘違いさせてしまう効能は割と強い

・高学歴による精神的バフで苦手分野に思い切り突っ込むのはこじらせ道への第一歩

・学歴なんてただのツールなんだから、使える場面では使うし使えない場面では忘れる、くらいのスタンスでいた方が楽だよね

 

大体上記のような内容になります。よろしくお願いします。

 

ということで、言いたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

先日、こんな記事を拝読しました。

東大・京大・早慶→一流企業のエリートが「日本ヤバイ」と言う理由

そして、聞けば皆、日本ではいわゆる“エリート”と呼ばれる経歴を持つ者ばかり。

一流大学(東大、京大、慶応、早稲田)を卒業後、大手企業の最前線で戦ってきており、順風満帆のキャリアの中で満を持してのMBA留学といっても決して過言ではなかった。

少なからず “日本を代表している”という気概を持ってこの留学に臨んでいたことは間違いがない。

私はこれを読んで、端的に「あ、ちょっとこじらせちゃった人たちかな…」と感じました。

 

上記記事は、結論での論旨が明確でない部分もあるんですが、基本的には

・自分はエリートとしてもてはやされてきた

・ただ、海外を見てみると意識やスタンス、実践上の英語力などで圧倒的な差を目の当たりにした

・出世や承認欲求を目的としてしまう自分の視野が狭かった

・自分のような人材をもてはやしている日本は大丈夫なのか

というような内容が文章の骨子になっているかと思います。

 

この記事はどうも、複数の高学歴の方の連名で書かれているようなので、この記事の発信者を「彼ら」と呼称しますが、彼らの文章を読んで私が最初に思ったのは、「学歴エリートだからといって、そこまで「日本を代表している」とか気負わないでいいと思いますよ…」ということです。

 

彼らが直面しているのは、実際には個人レベルでの意識の差、個人レベルでの苦手分野との衝突に過ぎないのであって、別段それが即日本の危機に結びつくわけでも、更には彼ら自身の価値の毀損に結びつくわけでもないのですが、上の文章では何故かそれが「日本ヤバイ」という話になってしまう。これが、私の考える「こじらせている」症例の一つです。

 

まず、「こじらせる」の具体的な症例と言いますか、傾向を明確にしておきたいと思うんです。

 

***

 

こじらせ高学歴とはどういう人か

幾つか類型があると思いますが、私が割と頻繁に観測しているのは大体下記のような人たちです。

・エリート学歴であることを即社会全体における自分の重要性と結びつけてしまう人

・「〇〇大の癖にこの程度か」といった言葉を真に受け過ぎて「逆学歴差別」とか言ってしまう人

・学歴があまり関係ない場面でも盛んに学歴を自己主張してしまう人、学歴でマウントを取ろうとしてしまう人

 

どうでしょうか。webでもそこそこの頻度で見かけるなーと思って頂けるのではないでしょうか。

私自身は東大卒の人と接触する機会が比較的多く、上記いずれかに当てはまる東大卒の人もそこそこの頻度で見かけます。勿論、全く当てはまらない自然体の人の方が実際にはずっと多いんですけどね。

 

そういったケースを観測していて、これら「こじらせ」には、一つ共通の因子があるなーと思うようになってきました。

それは、一言で言ってしまうと

「周囲からの評価・期待」「自己評価・プライド」と「実際の自分の能力」とのギャップの発生です。

 

私の観測範囲の問題から、ちょっと話題のスコープを絞らせて頂きたいんですが、今から「東大生の能力」の話をします。

 

***

 

東大生の能力について

当たり前の話なんですが、一言で「東大生」と言っても、性格的にも能力的にも色々な人がいます。

そして、そのグラデーションは、恐らく外部の人が想像するよりも遥かに濃淡に富んでいます。同じ東大の中でも出来るヤツとそれ程でもないヤツがいますし、一方得意分野もあれば苦手分野もあります。

 

勿論東大というのは、日本の入試の中では最高峰の難易度を誇っている訳でして、そこを潜り抜けてきたというのが能力的な保証になる部分もあるのですが、「能力」というのも当然様々な分野に分かれるものでして、保証される能力とされない能力があります。

 

「受験勉強で高難度の入試を制した」という条件は、どんな能力を保証するでしょうか?

私の観測範囲では、

・高い集中力

・ある程度以上の(勉強に対する)忍耐力

・ある程度以上の記憶力

・ある程度のスパンでの目標設定能力

 

この辺については、「東大生」というラベルが保証してくれる範囲だろうと思います。

大筋、上の能力について一定以上の水準を持っていない東大生、ないし東大卒業生に、私は会ったことがありません。逆に言うと、東大生だからといって、上の能力以外については一概に保証されません。

 

これ以外の能力に関して言えば、応用力がある人もいればない人もおり、創造力がある人もいればない人もおり、豊富にアイディアを思いつく人も、一方非定型の作業にはてんで向いていない人もいます。

一概に無能と言えないのは当然ですが、分野によっては一概に有能ともいえない、というのが実際のところだと思います。

 

東大生の中には、絵に描いたような万能のスーパーエリートもいれば、基礎をきちんと取り逃さないことは得意だけど応用はあんまりという人もいるし、スキル極振り、ある分野は突き抜けているけれど他はさっぱり、という人もいます。

恐らく、世間一般の人が考える「エリート東大生」というようなイメージ通りの人たちは、東大全体を見ればほんの一握りです。

 

当然のことながら、意識が高い人もいれば低い人もいるし、コミュ力がある人もいればない人もいます。

この辺、上記で書いたようなある程度の能力ラインを除くと、千差万別っぷりは普通の集団とそれ程変わらないのではないか、と私は考えています。

 

一方で、「その能力についての自己評価」というテーマだと、自ずと別の話が出てきます。

 

***

 

学歴ラベルの勘違い誘因パワーについて

「同じ東大生でも色んなヤツがいる」というと当たり前の話に聞こえるじゃないですか?ところがこれ、シーンによっては当たり前じゃなくなるんです。

「東大」というラベルが「万能の出来るヤツ」みたいに思わせてしまう力が、他人にも、あるいは自分にも働くんです。

 

「東大生なのにこんなもんか」というワードは、この「勘違い誘因パワー」の当然の表出の一つです。

実際のところ、例えば「基礎を全て取りこぼさずに受験をクリアしてきた人」が、応用問題に対して咄嗟の対応が出来るかというとそうとは限らない訳ですが、その点ちょっとでも学習能力が発揮出来ない分野にあってしまうと、元々の期待値が高い分評価の落差を生み出してしまう。

正直なところ、これ自体は仕方がないことです。

 

問題なのは、この勘違い誘因パワーが「自分に働いてしまう」ケースでして。

つまり、「自分は東大に受かったのだから出来るヤツなんだ」とか、「東大に入ったからには価値がある仕事をしなくては」とか、「自分は創造的な仕事が出来る筈だ」みたいな、そういう一種の強迫観念を持ってしまうことが、往々にしてあるんですね。

 

ここで、「自分の得意分野とは全然違うところ」に対して高い自己評価をもって突っ込んでしまった時、一つの悲劇が起こります。

 

例えばの話、定型の作業についての処理速度であればずば抜けて高い能力を持っているような人が、例えば経営企画とかコンサルタント職に携わろうとして(この逆もある)、人並み以下の成果しか出せない、なんてことがぽろぽろ発生する訳です。

「自分の向き不向きを見定め損なう」なんてことは誰にでも起こり得ることですが、特にその発生頻度を高めてしまうのが、この「学歴勘違いパワー」なのです。

 

冒頭の引用記事に、「MBAプログラムの年下同級生に打ちのめされる」というシーンがあります。

これは実際のところ、日本社会の病理を示している訳でも、筆者の意識不足、能力不足を示している訳でもありません。単に「筆者の得意フィールドはそこじゃなかったよ」というだけです。本当にそれだけです。

 

恐らく、守備範囲、分野を変えれば、筆者の方がこの同級生に逆にショックを与えられる部分もあるでしょう。

ただ、筆者は現時点で、そこで戦うことを選んでいない。 “日本を代表している”という気概を持って、MBAというおそらくあまり向いていない分野に突っ込んでいるという、単純にそれだけの話なんです。

 

これと同じようなことはどこでも発生し得ます。「東大を出た」という自信を胸に、守備範囲ではないフィールドに突っ込んで、けちょんけちょんに「東大生のくせに使えない」という言葉に打ちのめされてしまう人。

結果、「東大」というラベルにしがみつくしかなくなってしまった人。それ程珍しい話ではありません。

 

勿論、逆に、自分の能力を十全に生かして世界で戦っている東大卒もいるわけでして、これは能力というよりは「学歴ラベルに惑わされず、自分の守備範囲を適切に見極められたかどうか」ということに起因する差です。

 

***

 

「学歴ラベル」から自由である為には

ぶっちゃけた話、「学歴」というものは単なるツールであって、それ以上のものではありません。ツールである以上、使える場面ではベネフィットに応じて使用するべきですが、使えない場面では利用価値はありません。

 

使える場面で適切に利用した時、今でも学歴というものはかなりのパワーを発揮します。

学歴だけで就活が有利になることも、学歴だけで相手に一目置いてもらうことも、フィールドを適切に選べば可能でしょう。

学歴というツールを縦横無尽に使って、いい感じに世の中を渡っている人も全く珍しくありません。

 

一方。自分の能力に自信を持つのは良いことなのですが、その能力の方向性を見定めずに、単純に「能力勝負」のフィールドに突っ込んだ場合、往々にしてそこでは「学歴」というツールが何の役にも立たない傾向にあります。

勿論のこと、能力一本で勝負出来る人なら十分そこで勝ち抜いていけるわけなのですが、自分に合わないフィールドで上手くいかなかったからといって「逆学歴差別」などと言い始めるのは、聊か喜劇的であると言わざるを得ません。

 

大事なことは、

「学歴は自分を規定するものではない」という認識なのではないかなあ、と思います。

東大に入ったからといって、慶応早稲田に入ったからといって、それで自分がどう変わるわけでもない。

重要なのは「そこで何を学ぶか」ということと、「そこに入学、ないしそこを卒業できたという事実をどう利用するか」ということであって、それ以外の意味は特段ない。

 

そういう認識をもって、学歴とは無関係に適切に自己評価をすることが出来れば、「こじらせ」からある程度自由でいられるのではないかなあ、と。

私はそんな風に思うのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Murray Barnes)

◆はじめに

Books&Appsでは、2018年10月から11月30日を締め切りとして、

第1回 Books&Apps「私のドラマ」エッセイ大賞

のコンテストを開催させて頂きました。

 

・文章の巧拙ではない、ただ読み手を思って熱く書かれた作品

・劇的な要素だけではなく、何気ない日常を思わぬ形で切り取った作品

・誰かの生き方に気づきや知恵、そして元気を与えられる、自分だけのドラマ

 

そんなテーマで作品を広く公募し、新しいWebメディアの価値を世の中に提供できる書き手との出会いを発掘する。

そのような趣旨で、開催をさせて頂いたものです。

 

◆お礼と概要報告

上記のような趣旨で開催をさせて頂いたコンテストでしたが、短い開催期間であったにもかかわらず、応募総数は350本余りを数えるに至りました。

第1回での開催からこれほどの応募を頂けたことに役職員以下、大変感謝しております。

 

ご応募を頂きました書き手の皆様を始め、コンテストの開催にご協力を賜りました関係者各位の皆様には、この場をお借りしまして心より厚く御礼を申し上げます。

誠にありがとうございました。

 

応募作品はいずれも、全体として非常にレベルが高く、数々の文学コンテストで入賞歴を誇る筆者様からの応募も相当数を数えるなど、その選考はとても困難なものでした。

そのため、結果として選外となった作品にも非常に光るものが多数あり、ぜひ応募の皆様には引き続き、筆を執り続けて頂くことを祈念してやみません。

 

結果は文字通り紙一重であり、応募者の皆様におかれましては、今後とも健筆を発揮されることをお祈り申し上げております。

 

◆審査結果のご報告について

厳正な審査の結果、以下の皆様を各賞に選出させて頂きましたので、ここにお知らせします。

 

■大賞

【作 品 名】「電ワンナイト」

【受賞者様名】六条京子様(20代女性)

【審査員から】

読み手を楽しませようという工夫と思いに満ちた、ユーモアあふれる作品。

昭和を思わせるタイトルセンスなど、意識して置きに行けない言葉選びも魅力で、著者だけの味がある世界観が高い評価となった。

 

■佳作

【作 品 名】「ナフード砂漠の宴会」

【受賞者様名】マーシー松田様(70代男性)

【審査員から】

構成力や表現力は応募作品で随一であり、正統派の読み応えが高い評価となった。

松田氏の豊富な人生経験、希少な出来事を追体験できる物語の魅力を推す声も多く聞かれた。

 

【作 品 名】「あるブスの青春」

【受賞者様名】西歩様(30代女性)

【審査員から】

人間関係の冷徹な現実に正面から向き合い、悲鳴を上げる心を描ききっている作品。

きれい事ではない感情の露出は、読むものを作中に引き込む強い力を持つ。

 

【作 品 名】「迫りくるシングル介護」

【受賞者様名】飯森美代子様(50代女性)

【審査員から】

17年間、母の介護をした著者にしかかけない、介護の現実を淡々と書いているが、空恐ろしいほどの迫力がある。

 

【作 品 名】「シンデレラの予感」

【受賞者様名】六条京子様(20代女性)

【審査員から】

大賞と併せて、佳作でも2作目の受賞。20代女性の赤裸々な願いと日常がユーモラスに描かれており、最初から最後まで全く飽きさせない。

何でもない日常をドラマに昇華させる筆力は、応募作品中でも屈指のもの。

 

【作 品 名】「余所の人」

【受賞者様名】細野耕司様(60代男性)

【審査員から】

母はずっとわたしたち兄弟に、父を父として呼ばせなかった。わたしたちは父を、ずっと「おっちゃん」と呼んでいた。”

私達のほんの僅か上の世代、私達が想像するよりも、「自由ではない世界」は身近にあったのだろう。

 

【作 品 名】「普通のOLがひょんなことから19歳の男の子を拾った話」

【受賞者様名】らいあうどす様(20代女性)

【審査員から】

大人の女性が19歳の少年を道で拾うという、異色のエッセイ。

「ただただおもしろい」という評価など、審査員から最も多くの評価が集まった。

 

以上の結果となり、六条京子様を第1回の大賞に選出させて頂きまして、副賞の賞金10万円と併せまして、ご進呈をいたしました。

また、各作品は上記作品名のリンクから全て公開しております。

ぜひ、お楽しみにご一読下さい。

 

なお、Books&Appsでは、さらに別テーマでの公募コンテストを、2019年1月にも開催予定で準備をしております。

新しいWebメディアの在り方を追求し続けるBooks&Appsの挑戦に、ぜひご期待ください。

 

2018年12月26日
ティネクト株式会社
公募コンテスト実行委員会

 

(Photo:Bong Grit)

寂しさからついつい、出会い系サイトに登録して、そこから電話で話せる男性を募集してみた。
なぜ男性なのかと問われれば、日常生活にて全く男性との関わりがないからだ。

図書館司書として図書館で働くも、同僚は女性ばかり。いつもいつも勤務先では、女性特有の人間関係の面倒臭さと煩わしさに頭を抱えて、悩まされている。

 

だから、ネット上の架空空間での話し相手くらい、普段は関われない男性が良いではないか。

別に声だけの付き合いだから、イケメンが良いとか高収入のエリートが良いだとかは、こだわらない。

ただ、楽しく癒されるような会話ができて、その声がほんのちょっとでも、普段はアニメの声優の声に入り浸りな私をトキめかせてくれるようなイケボであるなら、それ以上の事を求めはしない。

 

 

ドキドキしながらサイトに「美月」というニックネームと自分のプロフィールを登録すると、ものの五分も経たないうちに大勢の男性からのレスポンスがあった。

受信したメールを開封し、相手を見定めていくが、メールの文面からして頭のおかしそうな物は無視。

 

「女装家です。貴女のパンティを譲って頂けませんか」

「スワップ仲間募集しています。まずはお話しましょう」

 

などなど。
そんなメッセージばかりが続き頭が痛くなってきて、思わず頭を抱えて呻き声をあげた。どうして出会い系には、こんな変な男しかいないのだろうか。

いや、ネット上の世界だけでなく、そもそも世の中にはメールの送り主たちみたいに、気が狂った男しかいないのかもしれない。それならば、齢二十四歳の私に恋人がいないのも頷けるというものだ。

 

悪いのは恋人いない歴一年半の私でなく、世の男性陣たちなのだ。

きっと見た目は普通に見える、お隣に住むご亭主も、紺のスーツの下にはワコールの高級ランジェリーを身に着けているに違いない。

なんて妄想を前に絶望を味わっていると、ようやくまともそうな人物と繋がる事が出来た。

所在地は長野のお隣、山梨県で年齢は三十六。学歴は某有名国立大学。私とちょうど一回り上で、趣味は読書と株との事。

 

「良かったら電話しましょう。電話番号を教えるから、非通知でかけて貰っていいですよ。知らない男に電話番号を知られるって、恐怖だろうから」

ああ。きちんと女性の事を考えられる人なのだな、と感心しながら私もメールを送る。

「メールありがとうございます。お誘いは嬉しいのですが、かけ放題プランに入っていない為に、電話だとお金がかかります。良かったら、ラインでお話しませんか?」

するとすぐさま返信がやって来た。

「良いよ。じゃあラインにしよう。これが俺のIDね。○○○○。かけ終わったら、ブロックして貰っても良いよ。しつこくしたりしないから」

 

早速、教えて貰ったラインのIDを検索する。

「ハジメ」という名前の男性ユーザーが検索結果に表示されて、ドキドキしながら友人に追加した。

その時のドキドキは、多少の不安が入り混じったものであったが、決して嫌な物ではなかった。

まるで冒険小説を読んでいて、未知の物に触れるような、ゾクゾクさせてくれる興奮があった。

ただずっと、家と職場の往復を繰り返していただけの自分にとって、それは久々に胸の高鳴りと血の流れを感じさせてくれる、とても魅力的な物に思えたのだ。

 

「こんばんは。ラインを教えてくれてありがとう、サイトから来た美月です。これから宜しくお願いします!」

震えながら、頬を赤くしながらラインを送る。

だって、男性にラインを送るだなんて、久しぶりだったから。

 

と、初々しいかつ甘酸っぱいドキドキに包まれてる中で、早速ラインの通話着信がピロピロと鳴るではないか。

慌てふためき、冷静を努めようと必死になりながら電話を取り「はい」と裏返った声を出した。

ああ。こんな時に限って、可愛い女の子の声が出ない。

 

「どーも。こんばんは。ハジメです」

受話器の向こうから、落ち着いた低めの良い声が聞こえてくる。個人的には好きな声質で、思わず胸中でガッツポーズを取った。

 

「あ・・・、ど、どうも・・・。こんばんは・・・。この度はラインを教えて頂いて・・・ありがとうございました・・・」

「何、そんなに、かしこまっちゃって」

私の話し方がおかしかったようで、電話の向こうの「ハジメ」という人物は、クスッと笑っていた。脳内で勝手に、高身長の美丈夫が、バーボン片手に笑っている光景が浮かんできた。

いやいや、全てが全て、私の妄想なのだけれども。

 

「あはは・・・。年上さんだから、どうしても、かしこまっちゃって・・・」

「だってまだ、美月さん二十四歳だもんね。若いねー」

「うーん。自分的には、来年は二十五歳だから、もう来年からはアラサーかぁ。って感じなんだけれどもね」

 

これは本当だった。私は来年、四捨五入して三十になろうとしている。それなのに結婚を前提に考えられる男性はいないし、仕事だって不満ばかり。

安定した収入も、貯蓄もない。不安いっぱい。自身ゼロのアラサー手前。

それが今の自分だった

 

しかし、ハジメからすると私はあくまで「二十代初めの若い女の子」らしく、私はその事実にホッと安堵したし、電話上とはいえ女性扱いされて非常に嬉しく感じた。

ハジメは面白い人で、もしネットで女性に会うとしても、女性に顔写真を要求しようとは思わないという。

今の時代、写真加工アプリは沢山あって信用ならないから、実際に会う方が手っ取り早いとの事。

 

「なんだかんだあのサイトは、暇つぶしで始めたんだけどさ。まだ誰とも会った事がないんだよ。俺も、つい最近までは恋人がいたし、そんなにネットで探す程には女性に飢えていないしさ」

「じゃあ、なんでまた今夜はサイトで話し相手を探そうと思ったの?」

ワイングラスを揺らしながら、彼に問いかけた。最初よりも、声に媚びがふんだんに含まれている。

無意識に自分を女に見せようとしているのだ。そして私はその事実を、ハジメに察して貰いたくて、堪らないのである。

 

「んー。今日はさ、午前中に友達と河原でバーベキューしてたんだよ。それで散々飲んで、気持ちよくさっきまでソファで爆睡してたんだけど、夕方になったらフッと目が覚めてさ。暇つぶしに何かないかなって、携帯を開いたら、ブックマークにこのサイトが残っていて、半年ぶりにログインしてみたんだよ。そしたら美月が話相手を募集していたから、話してみようかなと思って」

 

そうか。この男は、常に女性に出会おう出会おうとして、出会い系サイトに網をかけて獲物となる女性が来るのを待っているのでなく、「偶然」にサイトにログインしていたんだ。

と、私は勝手に自分の中で都合の良いドラマを作り始めた。この場合「偶然」は響きの良い「運命」という言葉に変換されるのだから困ったものだ。

私とハジメが出会ったのは、偶然などではないのだ。

私たちは、同じ時に話し相手を欲し、同じ時間帯に同じサイトにて相手を探していた。

これが奇跡でなくて何であろう。私たちが出会ったのは運命の名の元であり、この声から始まる出会いは、とてつもなくロマンチックなのだ。

 

私は赤ワインの酔いもあって、ポーッとなりながら、再び口を開く。

「じゃあ、私たちが出会えたのも、きっと何かの縁ね。私、ハジメさんと話していて、とても楽しいもの」

またまた声に媚びとあざとさが表れている。

でも、ハジメもそれが嫌ではないらしく、電話ごしのこの私を、百キロは離れた場所にいる、顔も知らないこの女を、愛おしむようにこう言った。

 

「ありがとう。俺も楽しいよ」

この言葉を聞いた途端に、心がフワッと舞い上がるようで、私は甘美なトキメキに身を浸しながら、ハジメとの会話を心から楽しんだ。

 

仕事の話に好みの異性のタイプ、趣味に人生観・・・などなど、気が付けば二時間近く話しており、ハジメの方から通話終了の言葉が来た。

「今夜はありがとう。また電話するよ」

私は熱冷めやまぬ状態で、潤んだ声で返答する。

「うん。待ってる」

電話を切り終えると、ポフンと布団に倒れ込み、胸をとろかす会話の余韻にひたすらウットリした。

ああ、わたし、きっと今、恋をしている。私とハジメさんは実際に会うんだわ。そしてお付き合いをスタートさせるの。そして色んな場所に出かけて、思い出を沢山作るんだわ。

 

楽しい期待に胸躍らせ、最高に幸せな気持ちで眠りに就いたのだが、その期待は全て泡になると、痛いほどに思い知らされる事となった。

 

 

「え・・・?」

一週間経っても、ハジメからライン通話どころかラインも来ないもので、痺れを切らしてこちらからラインを送ってみたが、既読マークがつかない。

ネットで検索してみると、どうやら私はブロックされてしまったらしい。

 

ガーンと頭を鈍器で殴られるようなショックで、目の前がクラクラしてくる。

なんで?なんで?あんなに楽しく会話していたのに・・・。たった一回の通話でブロックされてしまうだなんて・・・。会話していて、向こうの印象も感触も、決して悪いものではなかったのに・・・

 

「好意を寄せていた人にブロックされた」という事実に呆然とする中で、きっとこれは、電話のワンナイト・ラブなのだなとボンヤリ考えた。

長々と付き合うつもりはサラサラ無いけれど、暇だから話し相手は欲しい。

それも、相手が若くてピチピチした女性ならばもっと良い。ただ一晩だけ。

それ以降はやり取りも面倒臭いからブロック。

また話し相手が欲しくなったら、新鮮味を求めて、また違う相手を探す。だって、ネットの世界なら、相手なんかいくらでもいるから。

 

もちろん、私だって、最初から付き合うだとか結婚だとかを想定して、出会い系にて通話相手の募集をかけたのではない。

でも、だからって一回きりでサヨナラなんて、いくらなんでも寂し過ぎる気がする。

ほんの一瞬でも、ほんの少しでも、心を通わせる事の出来た異性ならば尚更。

 

体のワンナイトは、「快楽」を求めての行為だけれども、「電話」の場合は体じゃない。

声だけの関わりだから、自然に自分の心の内をさらけ出して、己を切り刻んで提供している。

だからこそ悲しいではないか。「自分」の身体でなく、心を捧げているんだから。

 

やりきれない思いで、サイトから退会し、澄んだ秋の空を見上げて溜息をつく。

私の曇り切った心と異なり、秋空は残酷な程に綺麗だ。

 

やはり、安易に出会いを求めてネットの大海原に出かけるのは、裏切られるのがオチなのかもしれない。

それでも、秋の風があんまり冷たくて、人肌寂しいから、心の隙間を埋める方法を求めてしまう。

 

浅はかだなぁと思いつつどうにもならず、私は澄み切った空の下で、一人大きくため息をついた。

 

【著者】

六条京子(ろくじょう/きょうこ)

信濃の国に在住。

短期大学在籍中は、三味線を弾いたり、映画を見て暮らしていた。

聖闘士星矢とヘタリアが心のバイブル。

就活でことごとく挫折し、ニートを経て現在に至る。

コミュ障なお喋りで、派手好きなエキセントリック・ウーマン。

彼氏とオーラが欲しくてたまらない今日この頃。

六条京子twitter

 

(Photo:sinkdd)

サウジアラビア航空のフランチャイズのジェッダ国際航空に降り立つ。

タラップに出ると多分40度を超える高温熱風が身体を包む。

イスラム教の聖地メッカへの乗り継ぎ空港でもあるし、ジェッダの街が首都リアドに次ぐ経済中心の都市だ。

 

頭から足元まで白い布ですっぽり包んだアルガムディが毛むくじゃらの分厚い手を差し出し、これ以上の嬉しい喜びは無いという笑顔で迎えてくれる。

顎にも真っ黒な髭、足元は裸足に革のサンダル。表敬訪問で深い大きな商談があるわけじゃない。今後ともお互いによろしくというだけだ。

目がゴージャスな中東美人がブブカをかぶって歩くのが車から見える。

 

翌日、歓迎のパーティに招待された。ヒルトンホテルまでレンジローバーが迎えにくる。

市街を抜けて30分も走れば砂漠だ。地平線まで砂の海だ。陽炎で空気が揺らいでいる。

その揺らぎの遠くに白い天幕がぽつんと見える。召使が数時間前に来て砂漠を平らにし、天幕を貼り、絨毯を敷き、クッションを並べて準備したのだ。

 

天幕から30メートルほど離れたところには石やレンガを敷き詰めた大きな場所ができている。

石やレンガも街から運んで召使たちが準備したのだ。どうやら砂漠のバーベキューのようだ。

天幕の中には20名ぐらいの男達がいる。全員、血縁があり商売仲間だ。女性と子供は一人もいない。顔中に髭を生やした男達だけだ。暑い砂漠の中でむさ苦しい限りだ。

 

もちろん口には出さない、思っただけだ。冷たいお茶がだされる。私が輸出した魔法瓶からだ。

アルコールは無い。イスラムなのだ。

紹介されて一人ひとり握手をする。

アルガムディのおじさんや、兄弟姉妹の旦那や奥さんの兄弟と紹介されても全員同じ顔や名前と思えてくる。

孫悟空の抜いた毛で作られた皆同じクローンのようだ。誰が誰なのか全くわからない。

名前もどれも同じように聞こえる。

その後、水パイプを吸う人やハシシをふかす。アルコールが無くても世界中の男どもは男の世界を造る。楽しみを見つける。

 

アルガムディには4人の奥さんがいる。
「へぇ、4人も」

と驚くとアルガムディは
「まだ、俺は貧しいから4人しか持てないのだ、7人は養えるぐらいにならないと」
「で、彼女たちは喧嘩せず仲良くしているのですか」
「もちろんだよ、全員仲いいよ。俺の悪口や不満をお互いぶちまけて楽しんでいるよ」、

「こうして、男たちだけで息抜きするのが一番だよ、女は細かいことにあれこれうるさいからね」。

世界中、どこでも一緒だ。奥様が旦那より強いのだ。

 

準備が整いましたと告げに召使が天幕に来る。

アルガムディが「お見せしましょう」と言う。私も腰を上げて、外にでる。

どこからか召使がラクダを引いてきて石とレンガの上に移動する。

全員が石畳の周りに立って見物だ。

 

何が起こるのか全く分からない。

アルガムディが帯に挿していた黒光りのピストルを出して、「神は偉大なり」と叫んで、ラクダの首筋に銃口を当て全く躊躇することなしに引き金を引く。

「ズドン」と鈍い音だ。

 

「わぁ、何だ!なんだ!驚かせるなよ、突然」、残酷だなぁと思う暇もない。
イスラムでは殺生は日常で平気なのだ。
ラクダは石畳の上に横倒しになる。即死だ。銃創から血がドクドクと噴き出す。

 

召使が大きな刀を抜いて、ラクダの腹を首からお尻に向けて切り裂いていく。石畳が血の海になる。

召使が裸足にパンツ1枚姿でラクダの臓物を腹から両手を使って掻き出す。

頭から潜ってすべての内臓を両手で掻き出す。湯気が立っている。ものすごい血と内臓の生臭さで吐き気が襲う。

 

全員がかたずをのんで見物だ。砂漠なのに蠅が飛んでたかる。

砂漠も生きているのだ。
取り出した臓物はあらかじめ掘られていた穴に投げ込まれ、砂が掛けられ埋められる。

 

臓物を出した二人の召使がポリタンクとブラシを持ってきてラクダの腹の中を洗う。

石畳の血もキレイにブラシがけする。イスラムでは動物の血はタブーなのだ。

召使たちの身体の血も洗う。

 

塗れた石畳も瞬く間に乾いて行く。砂自体が焼けているし、石畳も強烈な太陽光で焼けている。

卵を落とせば目玉焼きができそうだ。

 

傍に大型のジープが寄せられる。

荷台には人参、玉ねぎ、ジャガイモ、キャベツ、見たことが無いカリフラワーのお化けのような野菜、などが満載されている。

すべての野菜が洗われ、皮がむかれ、切れ目が入れられている。

 

それらの野菜が洗われたラクダの内臓に、一人の召使が腹に潜って受け取り丁寧に野菜と羊肉のブロック、2本脚が付いたままの鶏やオマール海老、を交互に重ねて並べていく、その上に、塩、コショウに数種の香辛料が振られる。

 

振られるというより手掴みで投げるのだ。上品な京料理じゃない。

腹に材料を詰め終わると、タコ糸と30センチぐらいの針で割いた腹を縫う。

一人は喉元から、もう一人は尻の方からかがり縫いしていく。

 

縫い終わると乾いた薪、小枝、藁の束をラクダに被せガソリンをかける。火を投げ込む。

火山の噴火のように瞬間的に爆発しゴージャスな炎が黒煙と共に真っ青な雲一つ無い空に立ち上がる。

 

「ご主人さま、永い眠りから覚ましていただいてありがとうございます」

という願いを叶える大魔神が現れても不思議じゃない煙の場面だ。

その時を置かず全員が「アッラーフ・アクバル」と天に向かって祈る。

 

ぞろぞろと天幕に戻る。あとは焼きあがるのを待つだけだ。

小一時間はかかると聞く。多分、外は40度を超える温度だ。いくら水を飲んでもトイレに行かない。

 

コーラやスプライトも日本の物より甘い。お茶もダダ甘だ。すべて汗で蒸発してしまう。

天幕の中でも30度を少し超えているだろう。

ただ湿度が無く乾燥しているので身体にぴったりしたシャツやズボンは砂漠に向かない。

彼らの服装のゆったりした締まりのない白やベージュのコットンのショールガウンは風を絶えず入れて汗を飛ばしていく。

シエマガと呼ばれる頭巾も砂漠の砂嵐や頭上からの陽射しを防ぐ.上手くできている。

 

アラビア語でしゃべっているので輪に入れない。打ち解けられない。疎外感と孤独が襲う。

ひたすらお茶を飲み、立ち上がる炎と煙を見ていた。

時が経ち、直径1メートルもあろうかと言う銀の大皿に鳥や羊やエビの肉が真ん中に置かれその周りに野菜が積まれ出てくる。

山のように盛られたのを見るだけで、もう結構です、お腹いっぱいですと言いたくなる。

我々は上品だし小食なのだ。

 

アルガムディが採り分けてくれる。箸を持って来ればよかったと思う。

タンクの水で手を洗って手掴みで食べる。美味い。

ラクダの脂が野菜や肉に絡んで、少しワキガのような臭みがあるけど、香辛料が打ち消している。

 

けれど何でここにワインが無いのだ。ウィスキーや焼酎のロックはどこだと叫びたい。
アルコール抜き、女無しだ。

あるのは気の抜けた蒸発したビールだ。もちろんノンアルコール。哀しい、寂しい。

何より乗らない、はしゃげない。呑んで酔っ払うともう少し英語が飛び出すのだけど。

 

彼らの食べる量は全然日本人と違う。

私の一皿で家の家族全員が腹いっぱいなるぐらいある。

私は60キロ、彼らは見たところ平均85キロぐらいある。

 

バクバク食べる。甘いお茶を飲む。休憩に水パイプのたばこかハシシを吸う。

その煙でこちらも酔いそうだ。お腹が一杯で休止していると、アルガムディが心配して、召使に指示して私のプレートにドカンと追加の肉と野菜を盛る。

 

「いや、お腹が一杯だから」

とアルガムディに言う。

「お腹じゃダメ、首まで食べろ」と首筋に手を当てて、ここまでと示しながら

「このパーティはお前の歓迎の為に開いているのだから、お前が食べないと皆も食べられない、お前が食べるのを皆が見ている」と半分脅迫される。

 

焼酎かウィスキーがあれば、酔っ払ってごまかせる。

それもできない。食べるしか無い。

そうなるともう美味しくない。でも無理やり口に入れ込む。

蛙の腹のようにパンパンに膨らむ。

 

「首まで来た」とアルガムディに言う。アルガムディは召使に首を振って指示する。

そして「それじゃ、出して来い、彼が案内するから」と。

私は意味が分からないけど、立ち上がって召使の後について行く。

砂漠の砂がスニーカーに容赦なく入ってくる。

 

召使は砂丘に向かって行く。砂丘の裏側に回る。

召使は帯にさしていたスコップをだして30センチほどの穴を掘る。

そして、鉛筆ほどの細さと長さの革のスティックを手渡す。

 

先は小さな細かい革がささくれたスティックだ。

彼はそれを自分の口を大きく開けて入れて吐く動作をする。

何だか笑える。

 

召使はそのスティックに水をかけて私に手渡す。

彼がやったようにやってみる。
とたん、猛烈な吐き気が襲い、掘られた穴にドバっとさっき食べたものが未消化のまま出てくる。

すっきりだ。召使は人差し指を上げて「ノー、ノー」と言って、もう一回やれと促す。応じる。

 

するとあら不思議、またも猛烈な吐き気が襲い、同じぐらいドバッと吐く。

お腹に中が空っぽになった感じだ。すっきり気分爽快。天幕に戻る。

 

アルガムディが「どうだ、すっきりしただろう、下から出すより速くて便利だろ」と笑う。

「さぁもう一度首まで食べろ」。

やれやれ何だかなぁだ。そうして20名の招待客全員が入れ替わり立ち代わり吐き場に向かう。

 

誰もが自分の専用スティックを持参している。

世界の80%の人々が今日食べるものが無いと言うのに。金持ちが貧しい人に与えず食べてしまうのだ。そして吐くのだ。

 

延々と宴会が続く。その間、召使は食べない。多分、身分職業の差別だ。主人と奴隷だ。

残り物は召使達に与えられるのだろう。

 

太陽が沈む。大きな太陽だ。代わって煌々とした月が出て、満天の星が拡がる。

食べ疲れて、私は黙って席を立ち、天幕を離れる。

彼らの話声や嬌声が聞こえない所まで行ってみよう、腹ごなしだ。靴を脱ぐ。砂が暖かい。

 

10分も歩けば静寂がある。正にプラネタリュウムで見る星が降ってくる。

静寂を超える無音だ。風の音も虫の音も、何も聞こえない。死の世界だ。奇妙な世界だ。

生まれてからこのかた無音だった場所に片時もいたことが無い。

ブーンと小さな音がして空を見上げるとジェット機のテールランプが砂漠を横切っていく。

 

どんな人々が乗って、どこへ飛んでいくのだろうか。

キャビンは明るくて賑やかだろうな。心細くなって、砂丘を昇る。

天幕の灯りが見える。光や音は安心をもたらす。

 

私はその後も首まで食べ、されにもう一度吐きに砂丘の裏に行く。

やっとお開きとなる。ホテルに帰ってベッドに倒れ込む。食べ吐きつかれた。

もう嫌だ、アラビアは。

 

半世紀前、大学を卒業して洋紙専門の貿易商社に入って数年後、サウジアラビアのジェッダに出張で行った。

私はまだ青くシャキッとしていた。

 

紙の輸出は先が見える。50年ほど前のタイやインドネシヤと言った当時の発展途上国が黎明期に造る産業と言えば繊維や鉄に紙となる。

紙だけに頼っていては先行きが無いので、私は紙以外の輸出品を探し、そのメーカーの開拓と、同時に海外の売り込み先を探す。

 

魔法瓶の代理店として中近東やアフリカ、などへの代理店の権利を得て、輸出していた。

大した額の商いじゃない。1本がせいぜい1000円位の物なので、1000本の注文でも100万円だ。

魔法瓶1000本と言えば輸入する側からすれば大量だ。

そこで、取引先のジェッダのモハメッド・アル・アリ・アルガムディを訪ねたときの話だ。

 

***

 

それから半世紀が経った。

60歳の誕生日にランチに外出し、帰社すると机の上に走り書きのメモで「今日で定年です/社長」とだけあった。

社長室へ行くと蛻の空だったので、「お世話になりました」とメモを残す。

私物をカートンに詰めて自宅へ送る手配をして、社員や同僚に別れも告げず帰宅した。

 

郊外電車の中で溢れる涙をハンカチで抑えた。

若いOLが花束贈呈をしてくれる送別会も退職金も無い。

苦しい老後が始まった。

 

会社や仕事に自分を賭け過ぎたのが悔しく哀しい。

今日の今は自分らしく生きる時代だ。私に残ったのはアラビアのナフード砂漠での贅沢な宴会だけだ。

 

それ以上に何か得るものが会社に合ったか。何もない。

生きるのは食べて吐いての繰り返しだけなのだ。

 

【著者】

マーシー松田

印刷会社・興陽紙業株式会社貿易部を経て、同社社名変更/株式会社コーヨー21/副社長後、東京文久堂/顧問。

現在学習塾経営のクリエィティブ・オーシャン・インク代表

 

(Photo:halfrain)

若い女はそれだけでもてはやされるものなのよ、とたびたび母は言っていた。

でもそれは嘘、あるいは母が見てきた世界のお話であって、私の世界にはいまひとつ当てはまらないものなのだと、思春期以降の私は気づいていた。

 

女の美醜は世界観を左右する。

それは、女自身の自意識のせいもあるが、それ以上にこの世が古今東西、常に女の美醜を値踏みしてきたことを意味する。

 

子供の頃、母の「主観による」こういった話を聞かされてきた私は、早く大人の女性になりたかった。

今は田舎のただの芋くさい小学生でも、あと十年もすれば自動的に世の中が自分をもてはやしてくれるのだという、途方もない妄想をしていた。

 

***

 

果たしてそれから十年ほど経って大学生になっても、誰も私をもてはやしてはくれなかった。

高校は地元の女子高に通い、そこで友人と教室の隅で漫画を回し読みするという、典型的なそっち系の女子高生だった私は、クラスの華やかなグループの女の子たちとは違い、他校の男子学生との交流など当然なかった。

 

驚くことに同世代の男の子と口をきくのは一年に一度あるかないかであった。

その、年に一度というのも文化祭の案内だ。

しかし私はそうやって同世代の男の子と縁がないのを、完全に女子高という環境のせいにしていた。

出会いがないのだから仕方ない。

 

もっとも、何年か後に当時の友人たちに聞いたことによると、彼女たちは女子高時代もそれなりに恋愛、またそれに準じるものを体験していたという。

それも、男の子主導で。つまり、女子高に在籍していてもそれなりに告白などをされていたのだ。

 

言われてみれば当時からすでに、周囲の子たちからは

「塾でたまに見かけていました」

「駅でよく一緒になりますよね」

などといって男の子から声を掛けられたという話を聞いたような気がする。

 

空恐ろしいことに、私はそれらの話をすっかり記憶から抹殺していたのだ。

同じ環境の自分以外の女の子たち(しかも自分と親しいグループの子)はそれなりに青春を送っていることなど、考えたくなかったのだろう。

 

そうして都合の悪いことは右から左へ受け流しているうちに、私は大学生になった。

大学は絶対共学と決めていた。

大学でも引き続き女ばかりの環境に身を置いていたら、いつまで経ってもこの尼僧のような生活から抜け出せないと思ったからだ。

 

さらに私はどうしても東京の大学へ行きたかった。

私は東京の隣の、東京コンプレックスが強いとか東京の腰巾着だとか言われる県の田舎のほうで生まれ育った。

その中でも特に東京コンプレックスを拗らせた娘だったということだろう、大学は東京の中でも人気の某オシャレエリアにある私立大を選んだ。

 

さあ、これから私の青春本番が始まるぞ。

田舎の女子高という環境のせいで得られなかった青春の日々をこれから存分にとり戻すのだ。

そう信じて疑わなかった。今から十数年前のことである。

 

そんな期待に胸を膨らませた入学式での自分の写真が、ついこのあいだ何かの拍子に出てきた。

本当に恐ろしい。

よくこんな田舎娘が、都会で詐欺の鴨にならなかったものだと感心する。

 

どこまでもどんくさい「ザ・田舎っぺ娘」がそこには映っていた。

髪型はなぜかキノコカットだった。無駄に髪が艶々なのが逆に痛ましくすら見える。

昔は十八が女盛りと言ったらしいだが、この惨状はいったい。

 

しかし浮かれていた私は、自分のその容姿や雰囲気をほとんど自覚していなかった。

確かに周りはオシャレで可愛い子が多い(実際、可愛い子が多い大学と言われていた)

もちろん彼女たちに並ぶほどとは言えない。

しかし別に浮くほどでもないだろうと考えていた。

 

実家から片道二時間半を掛けて、私はせっせとそのオシャレタウンのオシャレ大学に通った。

大学生活は実際楽しかった。よい友人に恵まれ、大学のキャンパスは見渡す限り綺麗で広く、街はいつでも賑わい、キラキラと華やか。

見るもの、食べるものすべてが新鮮だった。

 

しかしあれほど思い描いていた、恋愛という意味での青春はやはりそこにもなかった。

片思いを恋愛と呼んでもいいのなら、それらしいものはあったが、一年生が終わらないうちに完膚なきまでに失恋した。

 

私なんぞは箸にも棒にも引っかからなかったといえる。

その人は少しシャイなイケメンだった。

最初から、さすがに身の程知らずという自覚はあった。

 

ただ、その片思いのおかげで私はいくらか自分を客観的に見られるようになった。

パンパンに張った顔をどうにかすべくダイエットし、デパートの美容部員にアドバイスを貰って化粧を覚えた。

いつの間にか、オタク趣味にもそんなに興味がなくなっていた。

オシャレに気を配りつつ、人付き合いをこなした上で、さらにオタク活動をするバイタリティもお金も残っていなかった。

 

大学時代はよく、母が私を羨んだ。

あんたはいいねえ、大学楽しそうだねえと。

皮肉でもなく、本気で言っていた。

「共学だし、すぐに彼氏もできるでしょう」と。

 

親の贔屓目に加えて、自分が二十歳前後の頃は(本人談だが)本当によくモテていたようなので、「東京の共学の大学+若い女」といったら、やさぞ華々しい青春を送るものだと疑わなかったらしい。

冒頭の母のセリフでも表れた、母の見る世界のお話である。

 

それが、大学一年が過ぎ、二年が過ぎても娘に浮いた話の一つもなさそうだと気づくと、母は心底不思議がった。

娘は、やれサークル活動やら飲み会やら合宿やらゼミやらで忙しく充実しているように見える。

だが二十歳を過ぎても恋人の一人もいないというのはどういうことなのだろう。

隠しているのだろうか。本気でそう訝しんでいたようだ。

 

実際私は、大学時代を通して、男の子と一対一のデートというデートもほとんどしたことがなかった。

友達が気を利かせてくれて、私の好きな人を呼んで複数人で遊ぶことはあったが、そのレベルから脱することはできなかった。

 

それに、親しい友人たちはみな気立てがよく優しかったが、どうやら私は「治外法権扱い」だったらしいのだ。

嫉妬深い女友達の好きな人や彼氏と親しく友達付き合いしていても、私は許されてしまう。

私が男っぽい性格だったこともあるのかも知れないが、同じような性格の子でも、容姿が可愛いとやはり嫉妬はされる。

女どうしの泥沼になる。

私は当時から今に至るまで、その沼に引きずり込まれたことがほぼない。

 

それは確かに楽だし、人と揉めないならそれに越したことはないがなんだか寂しいではないか。

私は男と女の狭間の生物なのだろうか。

 

私はもういい加減、改めて自分を客観視する必要があった。

正確には自分の容姿を、だ。

 

少なくとも大学時代以降、私は、胸の奥で考えていることはともかくとして、表ではできる限り誰に対しても愛想よく振舞おう、一緒にいると楽しい人だと思ってもらいたい、というモットーで行動してきた。

これはモテや異性の目は関係なく私の信条だ。

裏返せば、そう振舞わないと私という人間の価値はないのだと思っていた。

 

つまり、本当は昔からとっくに、自分がブスだと気づいていたのだ。

綺麗な子は、黙っていればミステリアスか奥ゆかしい、よく喋るなら気取らない美人と言われる。

一方で、愛想の悪いブス、一緒にいても楽しくないブスに、なんの価値があるだろう。

そういう打ち消しがたい思い込みが根底にある。

 

ブス、なんと破壊力のある言葉か。

思い返してみれば、中学校時代の男子は本当に正直だった。

ブスに容赦なかった。

 

イベントなどでやむなく私とペアを組んだ男子は終始しかめ面で、必要な会話も最低限しかしてくれなかった。

中学校時代も女友達はそれなりにいたが、男友達は一人もできなかった。

あの年頃の男の子の多くは、たとえ性格は悪くなくてもブスとは話したくない、あまり関わりたくない、あるいは空気と同じで視界にとらえられない、といった本能を隠そうとしない。

 

そうだ。そういう異性の態度が辛いのも、私が女子高を選んだ理由の一つだったはずなのに、異性と関わらない高校三年間のうちにすっぽりと忘れていたのだ。

 

大学生ともなれば、さすがにそこまであからさまに差別する男は滅多にいない。

そのうえ、私が入学した大学は育ちの良いお坊ちゃんタイプが多く、総じて優しかった。

 

しかし、ブスは視界に入らないという基本的性質は変わらないらしい。

テニサー等のいわゆるイケイケサークルからは、新入生勧誘のときにもまったく声はかからなかった。

チラシ一枚貰っていない。

 

最終的に入った文化系サークルの新入生歓迎会でも、他の新入生の女の子たちと違って私は「彼氏いるの?」と聞かれることはなかった。

自分に都合の悪い事実は「セクハラになりそうだから遠慮してくれてるのかな」などとよくも曲解できたものである。

 

「普通の若い女の子が普通に生きていれば、男の人から声なんていくらでもかかる」、この母の説は、つまり自分がどうあがいても普通以下という事実を示していた。

 

さて、本格的に「ブス、あるいは最高でも並以下」だと自覚した私は、その後どうしたか。

私はまだ若く、恋愛を諦めることができなかった。

男性から来てもらえないなら、自分から攻めればいいんだ! と私は考えた。

 

テレビなどの「女の子のほうから告白されれば嬉しいから、よほど嫌でなければとりあえずは付き合う」というコメントを鵜呑みにしてしまったのだ。

結論から言えば、私の告白はどれも片っ端から玉砕した。

いや、別に手当たり次第好きになって、手当たり次第告白したわけではない。

大学時代~社会人までの間に、平均して二年に一度くらいのペースだろうか。

 

社会人になった後は、気になる人と二人で食事をする機会も増えた。

そこで「良い人だね」「優しいね」「話が合うね」といった言葉を、何人もの男性から貰った。

もちろんお世辞もあるだろうが、実際にすごく性格が悪い、またはまったく会話が楽しくないと思う相手には言わない言葉だろう。

それで告白したところで、結局は叶わない。

 

私の何が付き合うに至らない要因なのか。

卑屈極まれりと言われようと、やはり外見、と思わないでいられようか。

ついでにいえば、その卑屈さがまた重さを醸し出していて、二重苦だったのかもしれない。

 

女の子の場合は、何度か告白されて熱意に負けて付き合った(そして結構仲良くやっている)という話もチラホラ聞くが、男の場合はそうではないようだ。

どうやら、もう知り合った当初から、相手のことを女としてアリかナシかを判断しているようである。

結局のところ容姿が好みの範囲かどうかなのだろう。

 

女から告白すればたいていはオッケーされる(その後の付き合いが長続きするとは言っていない)という説は、少なくとも並以下の容姿の女には適用されないといえる。

何度かの玉砕で勉強になったのはそれくらいだ。

それに気づく頃には、私は二十代後半になっていた。

女としてのなけなしの自尊心はボロ雑巾状態だった。

 

***

 

さて、待てど来ず、押してダメ、引いてダメな私の恋愛がその後どうなったか。

現在三十代後半に差し掛かった私は、数年前に結婚している。

一応、恋愛結婚だ。

 

いよいよ容姿だけでなく若さも失いつつあった私は、戦略を変えたのだった。

世話焼き女房というか、母親代わりとでもいうかという方向へ活路を見出したのである。

 

大人になって立派に社会人をやっていても、実は心の奥底にはまだ母親に甘えたい、なんでも寛容に受け入れてほしい、と無自覚に飢えている男性は一定数存在するらしい。

そういった母性に対する需要と、私の好みが偶然一致して付き合ったのが今の夫だ。

少し年下である。

 

よくも需要と供給が合致したものだと、無宗教ながら神様に感謝する。

若い頃に私が欲していた「女として愛されたい、可愛がられたい」という願望とは少し、いや結構違っているのかも知れないが、夫婦仲は今のところ、まあまあうまくいっていると思う。

 

だが結婚生活の幸せとはまた別の次元で、やはり未だにあの母の言葉が呪縛になっている。

若い女はそれだけでもてはやされるものなのよ

 

私が若い女だった時代は二度と戻ってこない。

つまりどうあがいても、ちやほやされる青春とやらはもう手に入れられないのだ。

それは、間違って今さら浮気や疑似恋愛をしたところで得られるものではない。

 

私が欲しかったのは、若い女としての青春だ。

平穏な日々を過ごしておいて、まったく贅沢な話だとは分かっている。

だが、得られなかったものをすっぱり忘れるには、もう少し歳を重ねる必要がありそうだ。

 

【著者】

西歩

大学卒業後、教育関連企業の会社員時代を経てフリーの編集者となる。

趣味はゲーム、漫画、服飾史研究。好きな時代は古墳時代~平安時代。

 

(Photo:紅人 鄭)

私は、平成9年33歳の時から平成26年50歳まで、脳梗塞で左半身まひになった母を17年間在宅で介護し、看取りました。

独身の子どもが親を介護する「シングル介護」でした。

国の介護保険制度がスタートする前のことで、職場にも介護休業制度がなく、仕事と介護の両立ができず、やむなく離職したのです。

 

今、アラフォー(35歳―44歳)男性の3人に1人、女性の5人に1人が独身です。

また、平均寿命は男女共80歳を超えています。

高齢でも自立した生活ができれば良いのですが、何らかの介助や介護が必要になる期間は、男性が約9年、女性が約12年。

75歳を過ぎると3人に1人が介護支援が必要になる、というデータもあります。

 

一人っ子の独身者が両親、祖父母、独身のおじ・おばを一人で介護することもあり得る時代になるのです。

結婚しても、今は少子化なので、義父母の介護まで手が回りません。

介護は決して他人事ではなくなるのです。

 

そうは言っても大多数の人は「今、親は元気だから」と、介護に関心を持ってくれません。

ある日突然、親に倒れられて初めて、どうすればいいか考えるのです。

自分がその立場に立たないと、自分の問題として考えないからです。

 

そして、いかに自分は介護のことを知らないか、何も知らないことがいかにロスかということを思い知らされ、呆然となるのです。

私もその一人でした。

 

***

 

母が76歳で脳梗塞に倒れた時、私はミニコミ紙の記者をしていました。

2回の転職の末やっと夢をつかみ、一生の仕事にしようと懸命に取り組んでいました。

しかし、突然の介護で心身共に疲弊し、毎日雲の上を漂っているようなフワフワした感じに襲われていました。

 

それまで家のことは全て母がやってくれていたので、私はみそ汁一杯作れませんでした。

仕事のミスも増え、楽になりたい一心で離職しました。

 

仕事と介護の両立を考えた時、介護初心者は、介護保険制度を使って勤務時間中の介護に対応できれば両立は可能だと考えるのではないでしょうか。

確かに介護度が軽ければ大丈夫ですが、介護度が上がるにつれ、難しくなっていきます。

 

なぜでしょうか。勤務時間外の介護疲労が溜まり続けることで体調不良になり、仕事の能率低下を招くからです。

 

介護離職に追い込まれる大きな要因は、職場の理解が進まず制度が整っていなくて柔軟に働けないこと、勤務時間外の介護による体調の悪化です。

介護保険制度は家族介護を前提に作られていますから、きょうだいがいない場合や未婚者などは、介護に協力してくれる家族がいないため、介護サービスを使っても負担が軽くならないのです。

 

ですから今もって年間約10万人が介護離職に追い込まれるのです。

つまり、施設入所できれば仕事との両立はできますが、それが難しく在宅介護をせざるを得ない場合は、困難を極めるということです。

 

離職後、私は母を勉強台に社会福祉を学ぼうと34歳で大学に入学。

卒業後社会福祉士の国家資格を取り、仕事を探しましたが、母の病状が悪化。

外で働くことを諦め、母の年金で生活しました。

 

介護生活が長くなると訪れる人もいなくなり、世の中から見捨てられたと感じました。

挙句の果ては「わが家が透明でよその人には空き地にしか見えないんじゃないか。だから誰も来ないんだ」と孤立感を深め、母に対して爆発することが増えました。

 

そんな頃、私に地域の隣組長の役が回ってきました。

60人ほどが集まる会合で女性は私一人。

家に帰って「どうして私ばかりこんな目に遭うの」と、母に思いの丈を話すと、母は「母ちゃんは、そういう思いを30年背負って来たんだ」とつぶやきました。

 

その言葉に、私はハッとしました。

私が子どもの頃に父が死んでから、母も私と同じ思いをしてきたんだ、と同志のような温かい気持ちが湧きました。今度こそ優しく接して恩返しをしようと決心しました。

 

ある時、母がつまずいて転んだことがありました。

段差があり、一人では通らないように言っていた場所だったので、なぜ通ったのかと問い詰めると、母は「いつもお前に怒られてばかりいるから、たまには褒めてもらおうと思って頑張ったんだ」と答えました。

私は、普段きつい言葉を投げかけている自分に気づき、それでも頑張る母の思いに胸が熱くなりました。

 

日々介護をしているとストレスは溜まります。

発散の方法を間違えると、虐待に発展しかねません。

その一線だけは超えないようにとの思いから、明るい介護を心がけ生活に笑いを取り入れるようにしました。

 

「さあ朝だ。早く起きましょ、イチ、ニッ、サン」。

こんな言葉がけから、母との一日が始まりました。

「イチ、ニッ、サン」は母の口ぐせでした。

 

入退院を繰り返すごとに動きが鈍くなる自分の体に喝を入れるため、口ずさみ始めたのです。

最初の頃、私にはとても耳障りだったので、やめてほしいと懇願しました。

けれど黙って歩こうとすると、体の動きがチグハグになってしまうのです。

 

我慢するしかないと覚悟を決めましたが、私の眉間には、くっきりと2本の縦じわが刻み込まれてしまいました。

これはまずいと考えていたとき閃いたのです。母と一緒に口ずさんでしまおう、と。

 

気持ちに余裕がない時など、ついきつい言葉を投げかけてしまいます。

そこで予防策として、言葉の終わりに母の口ぐせをつけるようにしました。

 

「ちょっと早くしてよ」と言っていたのが、「ちょっとだけ早くお願い、イチ、ニッ、サン」と柔らかい言い回しに変えるだけで、心にゆとりを持てるようになりました。

抑揚をつけると噴き出し、ぎすぎすした気持ちも消えていきました。

 

それから数年後には、ここに「いか」「たこ」という言葉が加わり、飛び交いました。

母は廊下で転び、顔面を強打したことをきっかけに、一人で歩くことに臆病になってしまったのです。

 

私が後ろから見守って歩くのですが、やはり母は怖いらしく危なくないかと私に確認するため、「いいか、いいか」と聞くようになりました。

それがいつの間にか短く歯切れの良い「いか、いか」に変化し、「イチ、ニッ、サン、いか、いか」になったので、私は「大丈夫だよ」と言う代わりに「シー、ゴー、ロク、たこ、たこ」とふざけて答えるようになったのです。

 

さらに母娘漫才のような毒舌バトルも展開することに。

例えば、母の髪を整える時、「あれまぁ、また一段と髪の毛が危機的状態になってきたねぇ」と、私が言うと「お前が髪を洗うたびに、むしるからだ」と言い返します。

 

食卓に朝食を並べ終わらないうちから、おかずに手を伸ばす母。

「作った人より先に食べるとは、何たる無礼」。

私がおどけて言うと「いいだ、世帯主だで」と、母は涼しい顔。

 

夜、母をベッドに寝かせると「ありがとうございました」と、健気にお礼を言いました。

すかさず私は返します。

 

「ございました、ということは、もう死ぬということだね。最期のあいさつか」

「ばか言え、そうそうくたばつてたまるか。今日はありがとうございました。明日もよろしく。これでどうだ」

「えー、まだ生きるの」

「当たり前だ、文句あるか」

という具合で、一日中賑やかでした。

 

この他、私の経験から介護ストレスを軽くする方法は三つあります。

一つ目は「割り切ってしまう」。

完璧は無理、自分にはここまでしかできない、と割り切ると心がとても楽になりました。

 

二つ目は「他人と自分を比べない」。

どうしても比べてしまうのなら、基準を他人ではなく、自分に置くこと。

そして自分の過去と現在を比べ、以前はできないことがたくさんあったけれど、今はこんなにできるようになった、と褒めてあげるのです。

 

三つ目は「社会とつながる」。

新聞等への投稿や電話相談、誰かに話を聞いてもらうことでもいいのです。社会とつながることで孤立感から救われ、気持ちが軽くなります。

 

介護をしていると、わからないことや衝撃的なことが起こります。

私も初めての体験に衝撃を受けました。

母が88歳の時、急性胆のう炎の発作を起こし入院したのです。

 

入院翌日、母は不思議な事を言い始めました。

突然天井をを指差して「おい、ちょっとここへハチスカオンドやってくれや」と。

「ハチスカオンドって何?」私が聞くと母は、「お前、ハチスカオンド知らねぇだか。あれはロシアの有名なカラスよ」と答えました。

 

そのカラスを天井のカーテンレールに並ばせろ、と言うのです。

熱のせいなのか、興奮しているからなのか、母の顔は真っ赤でした。

私は驚きうろたえて「そんなカラス知らないよ」と言うと、母は「そこの箱を破いて作るだわ」と、枕元のティッシュの箱を取って、お腹の上にのせ箱をちぎって私に投げてよこしたのです。

 

私は、突然母が認知症になってしまったと思い、ショックを受けました。

これは認知症ではなく、せん妄という症状だと知ったのは、ずっと後でした。

せん妄とは、家にいる時は元気で何の問題もない高齢者が、入院などによる環境の変化で不穏状態になり、意味不明なことを叫んだりする症状が出ること。

高齢者にはありがちなことで、退院すると良くなることが多いのです。

 

母も退院する頃には治っていました。

介護が始まる前に、こういう知識を得ておくだけでパニックにならず、余裕を持って介護に向き合えるようになるのです。

 

***

 

平成26年8月、93歳の母は、呼吸が止まる間際にくしゃみを5回も連発し、私の顔にたっぷり唾を浴びせ旅立ちました。

母らしい愛嬌のある最期でした。

私はその時50歳。

 

さあ、これからどうやって生きていこう、と途方に暮れました。

年金もなければ、仕事もない。

母が死んだ喪失感を抱え、将来への不安におびえながら独学で勉強し、行政書士の資格を取り個人事務所を開業しました。

 

今、私は行政書士の仕事の傍らシングル介護アドバイザーの活動をしています。

この肩書きは閃きによるものです。

世の中に介護アドバイザーと言われる人は大勢いますが、シングル介護に特化したアドバイザーは、私の知る限りいません。

それなら私が第一人者になろうと決めたのです。

 

活動の第一弾は、「迫りくるシングル介護」と題した小冊子シリーズ(「心構え」から「看取った後まで」全5巻)を手作りしました。

大学と体験で得た知識やノウハウをリンクさせ、体系化することで他の人にも適用できるように考えながら作りました。

 

完成した時点で問題が発生。

小冊子を欲しい人に渡す方法を見つけられずにいたのです。

考えた末、新聞社に紹介記事を掲載してもらったり、地元ラジオ局に出演させてもらいました。

 

高齢者からの問い合わせが圧倒的に多かったのですが、わずかながら、シングル介護中の人からの問い合わせを受けました。

「介護離職せずに何とか頑張ります」等の声を聞き、私の方が勇気づけられました。

 

現在40・50代の独身者は約630万人。

特に団塊ジュニア世代はこの傾向が強いため、今後シングル介護は増加していくと考えられます。

 

今私は、シングル介護予備軍の人に介護の心構えを伝える方法を模索中です。

前述したように、親が元気だと関心すら持ってくれません。

ですから活動は足踏み状態です。

 

それでも時には介護体験を話して欲しいと講演の話を頂きます。

参加者は高齢の方が圧倒的に多いですから、話の中で「今日の話を皆さんのお子さんに話してください」とお願いしています。

 

先日の講演で嬉しいことがありました。

30代の独身男性が最前列で熱心にメモを取りながら、私の話を聞いてくれたのです。

後で話をすると、シングル介護予備軍とわかりました。

 

「親は元気ですが、僕は介護について無知なので勉強しようと思って来ました」。

その言葉に目頭が熱くなりました。

ここで諦めるわけにはいかない。

シングル介護の支援活動は、神様から与えられた私の使命なのだ、と再確認しました。

 

誰かのために私の経験がお役に立つのなら、これに勝る喜びはありません。

シングル介護アドバイザーの活動をライフワークにしようと改めて決意しました。

 

【著者】飯森美代子

高校卒業後、2度の転職を経てミニコミ紙記者になる。

脳梗塞で倒れた母親の介護のため離職。以後17年間自宅介護する。

介護中、大学で社会福祉を学び社会福祉士の資格取得。

また、独学で行政書士試験に挑み、母親を看取った後に合格。

現在は行政書士の仕事の傍ら、シングル介護アドバイザーとして活動中。

エッセー等の投稿が趣味で、これまで婦人公論などに掲載経験あり。

 

(Photo:Bong Grit)

一六年十二月二十四日。

クリスマスプレゼントを買って貰いに、パルコに向かう車中で恋人と喧嘩別れして以来フリーとなった。

ああ。今思い返しても、生涯で最悪のクリスマスである。

 

「ふん。出会いなんて、何処にでも転がっているんだから」

と、涙目ながら強気の自分であったが、一向に変わり映えしない日々を送っていた。

流石にこれではマズイと焦っていたところで、短大時代からの友人Sにこんな誘いを受けた。

 

「私の地元の諏訪でお見合いパーティーがあるんだけど、行ってみない?」

見せて貰ったリーフレットには

「諏訪湖傍の結婚式場で、七夕の夜に素敵な出会いを。美味しい料理もお洒落なカクテルも飲み放題!」

と書かれている。

 

会場は諏訪の結婚式場で、服装はドレスからカジュアルまで自由との事。

しかも会費は男性七千円に対して、女性は三千円とお財布にも優しい。

思わず空想が膨らんでいった。

 

パーティー!なんて素敵な響き!

結婚式場も写真を見る限り、綺麗で良い設備みたいだし、ドレスだって着てみたい。

シェフの手掛けたバイキングと、外でしか飲めないカクテルが飲めるというのも魅力的だ。

そして、その会場で運命の相手に出会えればこれ以上の幸運はない。

私はSに二つ返事でOKを出した。

 

さて。

パーティーへの参加が決まったら、早速シンデレラになるべく準備が必要である。

我々には、ドレスやガラスの靴を出してくれる妖精のおばさんはいない為、自分たちで用意せねばならぬ。

こうなって来ると、準備の段階から楽しいしウキウキする。

 

シンデレラ・ナイト。

七夕の夜のお見合いパーティーについて、職場の事務女性に話すと、にこやかにこう返された。

「へー!良いですねーパーティーなんて、とっても楽しそうじゃないですか~」

「はい!だから、今度の休みに、その娘とドレスとかを買いに行くんです素敵な出会いの為に、お金に糸目は付けませんよ!」

 

私はそう言って、拳をグッと握った。

えへへ。実は昨日、貯金をかなり下ろしちゃった。

 

「そりゃそうですよ!だって、パーティーには大勢の女子が来るんですもの!戦闘服と一緒ですよ」

この価値観を事務の方も分かってくれたらしい。

そうだ。

まさにお見合いパーティーは、シンデレラの参加した舞踏会そのもの。

素敵な王子様に見初められたくば、センス良く美しくあらねばならない。

私はドレス選びのミッションの重要性を感じ、メラメラと闘志を瞳に燃やした。

 

***

 

そして、決戦の甲冑準備の土曜日。

私は友人Sと共に、近場に新しく出来た大型ショッピングモールへ向かった。

普段は薄い財布も、珍しくパンパンである。

お金に余裕がある為に、かなり久々に充実したショッピングタイムを送る事が出来た。

 

普段なら絶対に買えないような、二万円もするドレスをこの日、私は気前よく購入してしまった。

色は黒とシンプルだが、生地も良質だし品がよくステキ。

 

「お客様。背が高いからお似合いですわ」

美人の店員さんも、まんざら嘘ではない風に言ってくれた。

ファッションセンス抜群のSからもお墨付きを貰えたし、良い買い物ができた。

 

このドレスの他にも、全身コーディネートで色々と購入しに、店を物色して選び歩いた。

靴に下着にアクセサリー。こんなに買いまくり、物欲を爆発させまくったのは本当に久方ぶりで、その激しさに興奮したし荒ぶった。

Sもそれは同じようで、目を煌めかせて次から次へと品に狙いを定めていく。

 

食欲だとか性欲だとか、ストレス解消法は数あれど、やはり女性にとって買い物は特別だ。

財布が軽くなってくると、どこか虚しさも感じるが、手に下げたショッピング袋の重みがそれを緩和してくれる。

それだけ、おニューの衣服というのは魅惑的な存在なのだ。

 

「買ったわね・・・」

「ええ・・・」

 

私たち二人は、頬を紅潮させ、熱冷めやまぬ面持ちで外に出た。

これだけ買ったのだから。これだけ投資したのだから。美しく変身出来ないハズがない。

我々はそう確信していた。

 

貯金をボーナス一回分下ろして使ったのが、一体なんだ!

これは浪費ではない。立派な自己投資なのだから、後ろ指を指される事なんて何もないのだ。

と、あくまで私は強気である。

 

さて、ここまで戦闘服選びに奮闘したし、あとはパーティーの日を待つばかり。

私は戦闘の日を夢見て、空を仰いだ。

初夏の夕焼けは美しく、希望に満ちている気がした。

 

そして遂に、七夕の夜はやって来た。

私とSはホテルを側で取り、ホテルの一室でドレス姿に着替えた。

しかしここで第一の悲劇が起きた。

なんと、私が大枚叩いたドレスが、チャックのもつれにより破れてしまったのである。

 

「わわ・・・。どうしよう・・・」

「京子ちゃん。私の予備で良ければ、貸してあげるよ」

 

黒ドレスは再起不能になり、私は有難くSから紺のワンピースを借りた。

しかし、やはりショックは大きい。ああ、纏い共に戦うハズであった、黒ドレスよ・・・。

メイクは会場でプロの方がしてくれるとの事なので、ナチュラルメイク状態でタクシーに乗って結婚式場に向かった。

 

距離はたった一キロ程度だが、ヒールだとやはり辛い。

それに、プリンセス気分を出すならカボチャの馬車は無理でも、せめてハイヤーには乗りたい。

 

パーティーが催される式場は、立派で壮麗だった。

受付を済ませてホールに入ると、もう既に多くのプリンセス・女性陣がホールで待っていた。

男性の待機場所は別で用意されていて、後で合流との事だ。

 

女性のギャラリーの装いはそれぞれ個性的だが、どれもこれも魅力的であった。

Sのようなラフなワンピースの女性もいれば、パンツスーツ姿でキメてる方もいる。

本来ならば私が着るハズであった、シックな黒ドレスの美人もいて、私は反射的に敗れた黒ドレスを思い出した。

ああ、戦友よ・・・。

 

メイクのプロが沢山いて、我々も化粧で化ける為に順番待ちの列に加わる。

無料でこのサービスを受けられるというんだから、このパーティーは素晴らしい!

いよいよ自分の番が回ってくると、メイクさんが要望を聞いてくれた。

 

「色はどれが良いですか?」

メイクのルージュパレットを持つ手はしなやかで、指先も綺麗にマニキュアが塗ってあった。

さすがメイクのプロ。こんな細部まで抜かりない。

 

「そうですね・・・この真っ赤なのが良いです」

私は、まだ誰も手を付けてない真紅のルージュを選んだ。

私は真っ赤だとか、真っ黒だとか原色が大好き!

それに無難より奇抜が好きという、特殊な性癖の持ち主であるからして、こんな場所でもスケベ心が出てしまう。

 

この目立つ色を選ぶとは、予想外だったのだろう。

メイクさんの目が驚きでパッと見開かれる。

マスカラで縁取られた、大きくてきれいな目であった。

 

「これ、この会場でまだ誰も、選んでくれてないんですよ。では、塗っていきましょう」

筆先が情熱的な紅を掬い取ると、私の唇の上を滑らかに滑っていった。

鏡を見ると、うん悪くない!

メイクさんも「髪の毛が真っ黒ですから、よくお似合いですわ」と褒めてくれた。

 

口紅の他にも、目元などにも手が加えられていき、二十分もすると私の顔は別人になった。

パーティーの装いに相応しく、思いっきり華やかな印象だ。

鏡に映る見慣れない自分に、思わず胸が躍ってくる。

 

「わぁ!京子ちゃん、素敵ね!」

メイクさんの腕により、元から美形のSの美貌も、ますます光っていた。

Sちゃんも素敵よ。うふふ。パーティーが始まるのが楽しみね」

 

私とSはルンルン気分で、パーティーの幕を開くのを心待ちにした。

バーテンダーさんが目の前で作る、カクテルを片手にすっかり貴婦人気分。

こんなに綺麗に着飾った、こんなに素敵な夜なのだから、恋人が出来るのは当然であるような気がした。

シャンデリアの下で胸は高鳴り、瞳は煌めいている。

 

「女性の皆様!おまたせしました!男性のご入場です!」

アナウンスの声を聴いた途端、女性陣は一斉にクルリと入口に顔を向けた。

どこからともなく、ゴクリと唾を飲む音が聞こえる気がした。

 

さぁ次から次へと、男性のご入場!

老いも若きも、スーツもカジュアルもどんどん参ります!

そして各々テーブルに着き、乾杯と簡単な自己紹介タイムが始まった。

女性は初めからテーブルが決められていて、男性陣が全てのテーブルを順番に回っていくというシステムである。

私はGテーブル、SHテーブルであった。

 

「では、そちらの男性、乾杯の音頭をまず、お願いいたします」

各円卓に一人は必ず着く、パーティーの運営者が年配の男性に声を掛けた。

学校図書館で勤めるワタクシからすると、これってまるで、子どものレクリエーションみたい。

どの班にも一人は先生がいないと、上手くレクとして機能していかないのだ。

 

主催者側としても、最低限は盛り上がってくれないと困るんですもの。

お通夜みたいなお見合いパーティーなんてしたら、会社の評判にも関わる。

 

「あ、はい・・・では、カンパーイ!」

宴の幕開けを告げる乾杯の音頭にしては、随分と弱弱しい。

同じく低いテンションでグラスがカチンカチンとぶつけられていき、何だか暗いムード。

 

「では、時計回りに自己紹介を!」

運営者の男性二十七歳くらいが声をかけ、自己紹介タイムの始まり始まり。

トップバッターは乾杯の音頭を務めた年配男性。

 

「はい。〇〇と申します・・・。出会いがないため、思い切って参加してみました・・・」

声は小さいし抑揚もない。

二番目三番目の自己紹介も、そんな風に小さい声で連鎖して繋げられていった。

これに対し私の教師心はメラメラと危機感を憂う。

 

こんなんじゃダメ!みんな!

レクリエーションはね、誰かが盛り上げてくれるだなんて期待は持ってはダメよ!

空気を良くしたいのなら、まずは自分から!大きな声を出すのもまずは自分から!勇気を出すのは自分からなのよ!

 

しかし、ここはあくまでお見合いパーティー。

私も粛々と猫かぶり

「京子と言います。趣味は読書です。よろしくお願いいたします」

なんて、面白みも何もない演説を二周繰り返した。

乾杯の度にカクテルやらワインを飲む為、酔いもジワジワと私を侵食していく。

 

自己紹介タイム三周目となると、ついにこのクッラーイ雰囲気に耐えられなくなり、私の「お上品にしてなきゃ」のタガは外れ、大声でこう言った。

 

「はじめまして!京子です!実は今日、この日の為に二万円もするドレスを買ったんです!」

この大声と、テンションに対して、私を知ってる女性陣と運営者の男性は明らかに驚いていた。

テーブルを順繰りに回っていく男性たちも、トーンが格段に明るい自己紹介に驚いてる。

 

おやおや。皆さん、食いつきましたね!

私の役者魂には火が付き、臆せず大胆に私は言葉を続けた。

「でもね皆さん!なんと!さっきそのドレスを着たら、チャックが引っかかってドレス、まだ一回も着ていないってのに、破れちゃったんですよ!諭吉さん二枚も使ったのに!」

 

大げさな私の口ぶりに、テーブルの方たちはワハハと笑い出し、空気が今までとは百八十度変貌したのがよく分かった。

やった!受けてる!

 

「さぁてどうしよう!と焦りましたが、友人が出来る娘で、運よく二枚ワンピースを持っていたんですよ!そこでこちらを借りたんです」

 

観客を飽きさせない為、グイッと勢いよくカシスオレンジを飲んで見せた。

役者は演技で見せ喋りで見せ、仕草で魅せる!

上手く間を取ってからまた一言。

 

「だ・か・ら!今日は、ドレスで損した分、この会場で一番、お酒と美味しい料理を食べて帰ろうと思います!いえーい!」

グラスを上に掲げた途端、大きな拍手が沸き起こった。

お通夜モードから脱却した喜びで、運営者は私に駆け寄った。

 

「お姉さん。喋りが上手いですね・・・。乾杯の音頭をお願いします!」

「任しときなさい!カンパーイ!」

「カンパーイ!」

 

ここで初めてパーティーらしい乾杯がスタートした。

私はこれからも、必死で自己紹介タイムを盛り上げ、ギャラリーから笑いを取った。

 

「ドレスが破れたのよ!」

そう言って、隣の男性が笑わない時も一度あった。

が、私は突っ込みの勢いでバチンと初対面の彼の背中を叩き

「ええい!笑いなさいよ!」

とカツを入れた。

これには彼も面喰い笑い、ギャラリーは更に大笑い。

 

もうこうなったら出会いなんか知らない!

私はエンターテイナーだ!あのドレスは、この笑いの為に犠牲となったのだ!

と私は腹を括っていた。

 

この晩出会いがなかったのは、言わずもがなである。

 

 

【著者】

六条京子(ろくじょう/きょうこ)

 

信濃の国に在住。

短期大学在籍中は、三味線を弾いたり、映画を見て暮らしていた。

聖闘士星矢とヘタリアが心のバイブル。

就活でことごとく挫折し、ニートを経て現在に至る。

コミュ障なお喋りで、派手好きなエキセントリック・ウーマン。

彼氏とオーラが欲しくてたまらない今日この頃。

六条京子twitter

 

(Photo:Ryouhei Saita)

強度の自己陶酔癖でもある人でなければ、自分の老いた容貌が好きなどとは言わないであろう。

わたしも普通の人なので、自分の老いた顔立ちなど、できることなら眺めたくはなかった。

 

髭剃りのためであっても、その頻度を減らし、視線はなるべく髭だけに向けるようにして、他はじっくり眺めたりしないようにしていたが、そうもしていられなくなった。

 

視界の曇りと、夜間照明の眩しさに耐えられなくなり、数年前ついに、白内障の手術を受けることにした。

その術後経過を確認するため、しかたなく己のかんばせと対峙し、できるだけ客観的にその現況を観察してみた。

すると、そこには今は亡き父母の顔が、特に眼が、左右に半分ずつ収まっていることを発見した。

二重瞼の母と、一重瞼の父が私の顔に張り付いていることに、はじめて気づいた。

 

若い頃には、どんなふうに眺めてもハンサムではないと慨嘆して、篤と観察する気も起きなかったが、いま改めて年老いた容貌を見つめてみると、ずいぶんと皺や弛みが増し、左右の不釣り合いが際立ってきた。

 

雛鳥が未練もなく巣から飛び発つように、わたしも振り返ることなく親元から離れると同時に、両親からの柵(しがらみ)など、疾(と)うに失せたものと思い込んでいたが、自分の顔に、父と母が同居してることに、血の桎梏(しっこく)の堅牢さを思い知った気分である。

 

***

 

父は語らぬ人であった。

遠藤周作の「深い河」に、ビルマのジャングルで、人肉まで口にして生き延びた帰還兵の話がでてくる。

その部分を読んでいたら、父のことが脳裏を掠めた。

 

就学前後のころだったか、父が夜勤で不在の晩に、寝物語で母から聞いたことによれば、父はどこか東南アジアのジャングルで、戦闘に参加していたらしい。

実家のアルバムには、軍刀を腰に下げた若い父の馬上姿の写真や、まるでピクニックでもしているかのような笑顔で、歩兵用の大砲を戦友たちと囲んでいるところを撮った、セピア色の写真はあったが、直接父からそれらの写真に関する話はもとより、戦場の様子など、体験めいたことは何も聞いたことはなく、父を通じて戦争を知ることなどなかった。

 

わたしが東京暮らしをしていた時分、訪ねてきた父が実家に戻るとき、最寄りの駅まで歩いて送ってゆくことになった。

その道筋には靖国神社があり、参道入り口に差し掛かった折、元来、靖国神社を戦争施設と認識しているわたしには忌避すべきものだったのに、歩を止めて、何気なく父に中に入るかと訊いたら、父は忌まわしいものでも回避するかのように、束の間も置かず先を急(せ)かした。

 

今にして思えば、わたしは何も語らぬ父をリトマス試験紙に浸してみたくなったのだろう。

しかし、そこには、何も訊くなという強固な意志を感じて、わたしたちは口をつぐんだまま駅に向かった。

 

戦闘体験がどのような様相を呈していたのか、この刹那ともいえる些事から忖度するしかない。

戦争に限らず、ずっと下積みだった仕事や、日々の出来事に関する想いや感慨など、一切何も語らず、沈黙を通したまま父は鬼籍に入った。

 

父は、わたしの記憶の中では、毎晩飽くことなく酒を飲んでいた。

朝起き掛けにいて吐きそうにしていても、晩になれば、酒なしではいられなかった。

 

家呑みに多少の気兼ねをすることもあったのだろうか、家で飲まないときには、酒屋に屯(たむろ)して、飲み仲間を見つけては、酔って近所の誰彼を連れて帰宅した。

一人で帰宅すれば母からの小言が待っているので、他人を楯として引き連れてくるのだった。

酔ったときだけは多弁であったが、それは酔漢の戯言でしかなく、聞くに堪えない酔漢たちの騒音を、思春期のわたしは階上で潮騒でも聞くように、教科書に視線を走らせていた。

 

そのような晩が明けると、母は、父の振舞った酒代を支払いに、愚癡をこぼしながら、小額しか入っていない財布を懐に忍ばせて、酒屋に出かけなければならなかった。

そんな父でも素面のときは、見事なくらい無言、無音で、足音さえ忍ばしていた。

 

明治女の祖母の躾がそうさせたのか、あるいはジャングルでの戦闘で身に付けた技なのか。

公休で在宅しているときには白昼でもコソ泥のように、戸棚から一升瓶を取り出し、コップに注いでは、そそくさと壜を戻し、一気に煽っては、口元を手の甲で拭っていた。

 

静まり返った部屋に、微かに戸棚の戸を引く音がするので、何かと思って台所に行けば、それは見たくもない、泥棒猫のような挙動をしている父の姿だった。

朝食時には、皆が食卓を囲んでいると、前夜の飲みすぎのせいで、突然吐き気に襲われ、幾度となくわたしたちの食欲を殺(そ)いでしまった。

 

毎度のことに堪らず、箸を食卓に叩きつけて席を立つこともしたが、父の空嘔吐(えず)きが止むことはなかった。

語ることの代わりに、肚に溜めた澱を、酒で掻き回していたのかもしれないが、その沈黙の意図が今もって不可解である。

 

***

 

母が死んで、胸底に秘められていたある事柄が明らかになった。

埋葬のために取り寄せた戸籍書類に、その断片がさり気なく記述されていた。

 

母は父との結婚前に、「和」という名の女児を出産し、生後二十日にして亡くしたことが、そこには記載されていた。

相手の名前は書かれていないことから、認知を得ないまま出生届けを提出し、私生児として育てるつもりだったのだろうか。

 

その頃は、母の両親は既に他界し、一人だけの姉も他所(たしょ)に嫁いだばかりだったから、姉にも相談せずに、一人暮らしの若い母は、妊娠・出産・死後の処理などすべて独断で、徒手空拳のまま行なったのだろうか。

唯一その間の事情を知っていそうなその姉も、このことに関する質問を避けるかのように亡くなってしまった。

 

この母の秘密を知ってから、朧気ながら得心できたことがある。

 

母はずっとわたしたち兄弟に、父を父として呼ばせなかった。

わたしたちは父を、ずっと「おっちゃん」と呼んでいた。

近所の子どもたちは、父親を「とうさん」の訛語である「おっと」と呼んでいたのに、我が家だけは「おっちゃん」だった。

 

それが不思議で、一度「なぜそう呼ぶのか」と、母に質したことがあるのだが、「入婿として家(うち)にやってきた余所の『おじさん』だから」、という返事だった。

幼子には、母の言葉を疑問に思う能力もなく、更なる疑問を繰り出すこともできず、長年その説明で納得していた。

しかし、母の秘密を知った今となっては、最初に成した子のときの相手を、結婚後もずっと、心の中に想い続けていたからだ、と解釈したくなる。

 

母はその出産と喪失からほどなくして、戦場から帰還し、国鉄に職を得た父と見合い結婚をして、わたしたち兄弟を出産した。

婚前の出産については父に伏せたままだったのだろうか。

夫婦(めおと)となった夫の子を産んでも、母の気持ちは仄めく埋(うす)み火のように消え失せることなく、心の深暗部に灼然として余熱を蓄えていたのだろう。

 

母は、わたしが就学前のころ、わたしと弟を連れて、夜遅く列車で母の姉の住むところへ、猛り狂う父の憤怒を逃れるために出かけたことがある。

そのときの父の怒りが、今にして思えば、母の秘密を知ったためだったのかもしれない。

 

母鳥が翼で雛を庇うように、わたしたち兄弟は母の両腕の下(もと)で、暗がりの先遠くに見える駅の明かりを目指して、田圃道を歩んだ。

その諍いがどのように収拾したのか、幼いわたしには知りようもなかった。

 

ただ、仁王のごとき面相の猛り狂う「おっちゃん」が見えなくなったこと、深更の道行き、自宅以外での一夜など、夢の中の出来事のようで、朝帰りが何だかとても新鮮に思えた。

 

そんな夫婦でも、わたしが中学生のころ酔っ払った父が、「母さんはなあ、俳優の池部良が好きなんだ」とわたしと弟を前にして語ったことがあった。

その言葉に母は、恥じらいの態で、子どもの前で何てことをいうのかと、父を嗜(たしな)めた。

 

そのとき両親の間に垣間見えた男女性に、わたしは理由(わけ)も分からず戸惑いを感じた。

俳優の好き嫌いごときに見せた母の反応は、埋み火をかき回わされた動揺だったのかもしれない。

見たこともない母の中から湧出した「女」の艶を含んだ声音に、思春期の性(さが)が揺さぶられる思いがした。

 

両親を亡くし、唯ひとりの身内である姉と別れ、独りとなったまだうら若い母がどんな想いで日々を暮らし、自分の身に起きた出来事にどのような心模様でいたのかを想像しようにも、手掛かりとなる残された書類だけでは余りにも頼りにならない。

 

出生届けを提出した地名は、現在はもう使われていないし、わたしたちが住んでいたところとも、母が働いていたと聞いているところとも違う。

たとえ、その届出の場所を特定できたとしても、当時そこに誰が住んでいたのかなど、探偵でもない素人には調べようもない。

 

父は、「おっちゃん」という呼称をなぜ受け入れていたのだろう。

自分のことを余所の人と母が踏まえていたことも知らず、子らの、ほかとは違う「おっちゃん」という呼称を、「おとうちゃん」の幼児語とでも納得していたのだろうか。

 

戦争のことをはじめとして、父は自らのことは何も語らず、鬱々と酒浸りの日々を過ごし、わたしにはずっと嫌悪の対象だった。

余所の人として、父をわたしたち兄弟に認識させる母の企図は功を奏した。

 

そのことで、一途な想いを囲い込む砦は守ったと信じていたのかもしれない。

小胆で酒にしか逃げ道しか見出せなかった父と、頑なに過去の想いを詰めた手匣(てばこ)を放せなかった母。

 

そこに家庭内のいざこざの根があり、その諍いの狭間で、わたしと弟は成長した。

両親のせめぎ合いの渦中で思春期を過ごしたわたしには、単に両親の不仲の様子しか見えず、親は、提出書類の「保護者」としか捉えられなかった。

 

父は老いて罹病し、浴びるほど飲んでいた酒を断ったらしい。

若いころの戦争体験と、その後の結婚をめぐる妻との確執。

ひとりの男を束縛し続けた枷から、果たして最期に解き放たれたのであろうか。

 

夫に先立たれ、老後ひとりになった母は、最晩期に去来する想いを、胸中にどのように抱えていたのだろう。

長年共に暮らせば、夫婦の間には情宜もあっただろうが、男女の衷心など知る術もないまま、わたしは実家を離れ、自身も年老いてしまった。

鏡の中のわたしの双眸は、そんな駆け引きがあったことを昔話のように語り掛けてくる。

 

母の二の腕には、コロッケくらいの大きさの痣があり、夏場の暑い日には袖なしの薄着になると、その痣はよく目に付いた。

わたしの背にも、それよりやや小さな痣があり、母の痣に、わたしが視線を向けているのに気づくと、母は、それが何よりの母子の徴(しるし)だと、碑(いしぶみ)にでも刻むかのように、繰返しわたしに語って聞かせた。

 

それに引替え、余所の人と教え込まれた「おっちゃん」とは外から見える徴は何もなかった。

しかし、そんなものが見えないほうが幸いだったのかもしれない。

そんな徴がある上に、飲んだくれの醜態を見せ付けられていれば、修復不能なくらいに関係性は壊れてしまっただろう。

 

家を離れて五〇年、齢は七〇に届こうというときに、わたしの容貌には、まごうことなく父の徴が兆している。

酔態だけしか印象に残っていない余所の人、何も語らず逝ってしまった余所の人。

それはわたしの父であり、初めてわたしは、あなたに呼びかけてみたい「お父さん」と。

 

【著者】

細野耕司

気象大学校卒業後、気象庁にておもに地震関連の業務に携わる。

長野市松代町にある精密地震観測室(当時)の主任研究官で退官。

60歳差の子ども(娘)を養育中の専業主夫。

 

(Photo:Jizo at Osorezan)

「ひょん」なことからとしか説明できないあらすじは、概ね面白くない物語だと思う。

話の展開に必然性や理由がないから、というか登場人物がイケメンないし美少女だから話が進むんだろ!と

一気に共感性が薄れるからだ。

 

でも生きているとホントに「ひょん」としか説明できないことが起きる。

私の場合はというと、都会のど真ん中でひょんなことから19歳の男の子を拾ってしまったのだ。

映画やドラマだと無粋になるだろう、その「ひょん」について、ここで言い訳したいと思う。

 

世の中は師走。

その日は仕事納めに忘年会と、12月特有のイベントが重なっていた。

今年の小言は今年のうちにというべきか、上司の止まらない説教を頂戴したため、メンタルがズタボロで思考停止気味だった

—そういうことにしておきたい。

 

家の最寄り駅に着いたのは夜の11時頃。

駅の階段を降りて、目の前のコンビニに行って、ビールでも買って、家に帰ろう。

目をつむってでも出来る日々のルーティーンに身を委ねようとすると、コンビニの前に座り込んでいる人が見えた。

 

「おや、忘年会シーズンで潰されちゃったのかね。助けねば」と思った。

心のせいじが起きた瞬間だった。

 

〝心のせいじ〟とは、千原兄弟の兄・千原せいじのことだ。

国境・言葉関係なくだれかれ構わず話しかけまくる彼の姿を、テレビで一度は見たことがあるだろう

私の心にもせいじさんと同じように、国境なきおせっかいのマインドが備わっている。

 

例えば観光地で家族写真を撮ろうとして困っているだろう人達を見たときは必ず「撮りましょうか」と声を掛けてしまう。

相手に本当にそれが必要かどうかは関係ない。

もうウズウズしてたまらなくなり、気づいた時にはカメラを撮っているのだ。

 

コンビニ前のヘタった人物に声を掛けたのも、私ではない。せいじなのだ。

気づいた時には彼にあげるための水とヘパリーゼを買っていた。

一方で、残りの理性を司る26歳OLにも計算があった。

この駅は乗り換え線もなければバスもない。

つまりこの駅でわざわざ降りる人は、だいたいこの周辺に住んでいる人なのだ。

だからものを渡して、タクシーに乗せても最悪1000円で済む。

それでせいじが収まってくれるならそれでいいじゃないか、と思ってしまったのだ。

 

心の中に住む2人の合意がなされたところで、さっそく当該男性に話しかける。

ちなみに彼がどんな状態かというと、コートのフードを目深にかぶり、胃液みたいな何かをずーっとコンクリートに垂れ流している。

コンビニに行く人も出る人も横目に見るけど避けて通るような、結構ヤバい感じの人物だった。

つまりこの時点で、容姿年齢等で人物を選定するような色眼鏡はなく、夜中で一番純粋な都会のOLとせいじだったことはわかってほしい。

 

「お兄さん、大丈夫?とりあえずお水飲みなよ」

 

せいじ(私)が声を掛けると、その人物がフードをとってこちらを見る。

その時の光景を、私は今でもスローモーションで思い出すことが出来る。

 

わ、若い

 

そのショックでせいじは消えさり、心の中には無防備で乾燥気味の26歳OLしか残っていなかった。

愚かな私は「お酒でつぶれている=少なくとも20歳は超えているだろう」と思っていた。

が、そうじゃない。

 

自分の意思に反して飲んでしまう、限界を知らない大学生がいることを私は10年近く経って忘れていたのだ。

なんたる詰めの甘さ。そういうことを忘年会で怒られていたのではないか。

 

「え、何歳?」

「ふふふーおしえにゃーい」

 

か、可愛い。

白状しよう、この物語のミソはやはり出会った少年の顔が可愛いことなのだ。

誰似かと言われればセキュリティ賃貸のCMでちょっと頼りない旦那さんを演じている中村倫也的な、ちょっとふにゃふにゃしていて目が細い柴犬っぽい感じ。

そう、尋常じゃなく酒臭いこと以外は超絶怒涛のドストライクだったのだ。

 

しかしこのストーリーは主人公がキュンとしている間を与えてくれない。

キーパーソンである中村くん()は抱きつき魔であり、隙あらば唇を奪おうとするキス魔だったのだ。

どこのエロ小説かと思うかもしれないが、19歳の性欲は凄まじかった。

 

「都会でこんなに優しいお姉さんに会えると思ってなかったよぉ。ハグぅぅぅ」

「ちょっと待って。君、家どこなの?」

「わかんにゃ~い。そんなことより、チュー!」

 

さすがに周りの目が痛かった。

はたから見ればクリスマス前に盛りを迎えてしまった年の差カップルなのである。

なんとかこの状況を抜け出そうと、キスとハグの応酬をかいくぐり住んでいる場所を聞き出す。

東北のある県人会の寮に住んでおり、そこは明らかにこの駅からは五駅くらい離れた場所だった。

 

全然計算はずれてるじゃねぇかよ、と数分前の自分を恨みつつ、この状態で見知らぬ駅に独りにされた中村くんに同情した。

お金のない大学生をタクシーに詰め込むわけにもいかないし、だからといって私がお金を出す程財布に余裕はない。

とにかくさっき降りた駅のホームに再び彼とともに行き、終電間際の電車に一緒に乗り込んで寮がある最寄り駅まで連れてこうと決心した。

 

が、電車に乗らねえ。

電車に一緒に乗る  中村くんがなぜか降りる  閉まる間際に私も降りる

という不毛なやり取りさせられ、3本以上電車を見送った。

 

その間もチューを迫られ、強めのハグをされ、避ける私も正直クタクタであった。

また彼自身が私からある言葉を言わせようとしていることも何となく察していた。

そして、終電を見送ったところで

 

「じゃあうちに来る?」

「うん!」

 

以上が19歳の男の子を拾ったことの顛末である。

 

ただ残念ながらこの物語は「ひょん」をピークに尻つぼみしていく。

普通の映画なら、ホームでハグするところで次の日のシーンに切り替わり、

裸の少年が木漏れ日を浴びながらスヤスヤ寝ていて、それをしり目に私がベッドの縁で後悔するみたいな。

 

そうはならなかった。

とにかくここできちんの主張したいのは、彼とはヤッていないということなのだ。

中村くんは家に行けることになって気が緩んだのか、自分について話し始めた。

 

東北の野球の強豪校出身でキャプテン・4番をやっていたという彼は自分の代で全国大会出場記録を止めてしまったらしい。

それからは県外に出たくて、引退してから必死に勉強して、奨学金で東京の私大に通っているという。

でも本当は生活のために続けているスーパーのバイトはもう辞めたい。

けど、親を安心させるためにもちゃんと卒業して、就職しなきゃ、と。

 

私は地方大会決勝の9回の裏、ベンチから身を乗り出して、泣きながらチームを鼓舞する中村くんの姿を想像した。

そしてこれがほんの1年前であると思うと、なんだか涙が出そうになった。

都会でもがく酔いどれ大学生はあまりにもまぶしく、ホームで芽生えたOLの下心はすぐに萎えた。

 

部屋についた瞬間「今日はゴムがないから寝よう」と先制攻撃をかまし、都会の素敵なお姉さん然として大学生になったらみんなつける謎のワックスの香りをかぎながら眠れない一夜を過ごした。

 

その日以来、彼がどうなったかもどんなキャンパスライフを送っているのかもわからない。

ただ帰り際に「ヤらないでくれてありがとうございます」と照れ臭そうに言う中村くんを思い出すたびに、マジで一発くらいヤっときゃよかったと心底思う。

 

夢か現実かもよくわからない「ひょん」な出会いは、やっぱり少し消化できない夢物語としてしこりのように残り続けている。

 

 

【著者】

らいあうどす

1991年生まれ。東京都出身。

小中高12年間を女子校で過ごし、大学卒業後はマスコミ業界へ。

いまだにお酒の飲み方が分からず植え込みで爆睡する「だらしのない社会人」。

趣味はダイビング、お笑い鑑賞、観劇鑑賞、AV鑑賞。

 

(Photo:jamesjustin)

ドイツに移住してからというもの、何度もカルチャーギャップを体験した。

そのたびにびっくりしていたわたしだけど、驚いたのは日本とドイツとのカルチャーギャップだけではない。『自分が思い描いていたドイツと実際のドイツの乖離』にもまた驚かされた。

もっとかんたんにいえば、わたしはドイツを誤解していたのだ。とくに、働き方に関して。

 

わたしはドイツに来た当初、よく「日本は長時間労働だけどドイツには残業がないからいいよね」なんてよく言っていた。

それに対するドイツ人の反応は予想外のもので、100%「ドイツにも残業はある」と返ってくるのだ。たぶん30人以上とことやり取りをしたが、答えはいつも同じ。

労働研究所の職員の方に取材をさせていただいたときも、「ドイツに残業がないなんて言われているんですか? どうして?」と逆に驚かれたほどである。

どうやら、わたしが触れてきたドイツ情報は、理想化されすぎていたらしい。

 

『ドイツは残業ゼロ』というまやかし

たとえば、「OECDの統計では、日本の平均労働時間1710時間と長時間に対し、ドイツはたったの1356時間。OECDで一番労働時間が短く残業はない。それなのに経済大国なんて、さすがドイツ」というのが、典型的な『理想化されたドイツ』だ。

 

この統計によると、OECDの平均労働時間は1756時間。実は、日本の労働時間だって平均より少ないのだ。

だから、この統計から「日本は長時間労働だがドイツはそうではない」と結論づけるのは、ぶっちゃけ印象操作の類である。日本の労働時間だって、平均以下なのだから。(ちなみに、残業含めた数字だとされている)

 

また、この統計は、フルタイム労働者の平均労働時間を表しているわけではない。

ドイツは15歳から64歳の女性の46%、実に半数弱の女性が時短ワークしている国で(連邦統計局)、そういった女性たちを含めての平均労働時間である。労働時間の話をするなら、フルタイムワーカーで比べるべきだろう。

 

たとえばBAuAの統計を見ると、ドイツのフルタイム労働者の5人に1人は、週48時間以上働いている。

それなりの割合の人が残業していると解釈できるのだが、『残業なしドイツ』の文脈で語るとき、こういった数値は無視され、なぜか「総労働時間」の話にすり替わっていたりする。

そもそも、「総労働時間が少ない」から「残業していない」という因果関係も成り立たない。

 

ドイツにだって納期や繁忙期はあるし、どうしても結果を出すべき仕事もある。

「定時なんでお先〜」と明日締め切りの仕事を放り投げる部長が、それでも評価されるのだろうか。

 

いくらドイツでも、さすがにそれはない。

日本のように「クライアントの無茶振りで終電まで働く」

「なんとなく帰れない」

「長時間がんばるからえらい」という雰囲気は、たしかに感じない。

 

それでも、こういった類の、日本で広まっている『理想的なドイツの働き方』には、疑問を抱いてしまう。

(ちょっとした宣伝だが、拙著『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』ではさらに詳しく書いているので、ぜひお手に取っていただきたい)

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「いいや、自分が見聞きした範囲では、ドイツでだれも残業しなかった」。

そう主張する人が「まちがっている」とまで言う気はない。たしかにドイツは、相対的に働きやすいとは思う。

 

ただ、メディアや統計をちょっと調べれば、残業の存在はいくらでも確認できる。それなのになぜ「ドイツには残業がない」なんて言えるのか、ふしぎでしょうがない。

 

あと、「労働時間が短いのに経済大国」という主張もよく見かけるが、「ユーロ導入の恩恵に触れずにドイツ経済を語るのは乱暴では?」とこれまた疑問である。

 

理想化されているのはドイツだけじゃない

しかし、理想化されているのは、どうやらドイツだけではないようだ。

『「お手本の国」のウソ』という本から、少子化を乗り越えた国として挙げられるフランスについての記述を一部抜粋する。

いつまでもパートナーに「異性」として魅力的に映るように努力しています、というようなことを、日本の雑誌に出てくるフランス人やフランス人パートナーを持つ日本人などが発言するのは時々見るけれども、それはどうも日本のメディアがそういう返答を求めるので、つい合せてしまっている例が多いのではないかと、私は自分が取材された経験や、自分が取材したほうの経験も振り返って、そう思う。〔中略〕

「フランスに学ぶ恋愛作法」のようなものは、フランスの現実よりも日本の人たちの夢を具体的に描いたものだと思う。

そこには、こういう風にしたら恋人同士、夫婦はうまくいく、といった知恵や希望が込められている。〔……〕

フランス人たちの素の姿を知ろうと思うなら、その種の本はあまりあてにならない。

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学力水準が世界トップレベルのフィンランドの教育方法『フィンランド・メソッド』についてはこうだ。

フィンランド人の夫と結婚し、在住7年になっても、こういったギャップに日々驚かされながらフィンランド発の情報を日本に伝えようと試みているわけだが、このところこの国の良いところばかりが注目を浴びていることに正直、戸惑いも覚えている。〔中略〕

実際にフィンランド・メソッドについて地元のフィンランド人に聞いて見ると、誰も知らない。

それもそのはず、フィンランド・メソッドとは、在フィンランド日本大使館の元職員・北川達夫氏がフィンランドの教育の特色をまとめたものに対して付けた、日本独自の名称なのだ。〔……〕

思い切って私見を述べると、北川氏は、日本人のグローバルコミュニケーション能力の向上を切望されるあまりに、少しこの国の教育を買いかぶり過ぎているような気がする。

このあと、「日本とほぼ同じ大きさの国土だが北海道より人口が少ないフィンランドでふるい分けをすれば一握りしか人材が育たない」、「自殺率が高く気候が厳しいため社会制度や教育制度で暮らしやすさの追求をした結果である」といったことが続く。

 

わたしはフランスについてもフィンランドについても詳しくは知らない。しかし、こっちのほうが「現実的だなぁ」とは思う。

 

普遍的で万能な正解があればもうみんなやっている

フランスが万能少子化改善策を見つけ出したのなら、わたしが住んでいる隣国ドイツはすでに取り入れて解決しているだろうし、フィンランド教育法が最高なら科学的に研究され世界基準となり、みんなめちゃくちゃ頭が良くなっているはずだ。

 

ドイツ人が超絶効率的に働き、それによって経済を発展させ、だれも残業しなくて済むように完璧に仕事を割り振れるのであれば、アメリカや中国あたりの企業が札束を積んで、もっと積極的にリクルートしているだろう。

 

でも当然ながら、実際にはそうなっていない。

それぞれの国は、それぞれちがった歴史を辿ってそこに行き着き、一方で問題も抱えている。完璧な国なんてないのだ。

「ドイツの働き方は超絶ホワイト」

「フランスの夫婦はいつまでも恋人関係である」

「フィンランドの教育方針が優れている」

こういう情報が一概にウソだというわけではない。

 

ただ、良いところだけを切り取り欠点や問題点を意図的に無視したり、そういう社会や制度になった背景を踏まえず万能であるかのように喧伝したりして、外国を理想化している傾向はあるんじゃないだろうか。

 

外国は理想投影の対象として都合がいい

このような『外国の理想化』の原因のひとつは、自分の理想の投影にあると思う。

ドイツであれば長時間労働、フランスであれば少子化、フィンランドであれば学力低下。

現在日本が抱えているこういった問題を解決する希望として、「そんな問題が起こっていない、もしくは解決した国」の存在は好都合だ。

 

その国を引き合いに出して「日本もこうすればいい」と言えばいいのだし、ちょっと誇張して自分の理想を上乗せして伝えたところで、日本語の情報であれば現地の人からなにか言われる可能性も低い。

 

そしてそういう文脈でドイツを語るなら、ドイツは『残業がなくみんなが効率的に働く経済大国』であってもらわないと困る。

成果を求められる管理職が場合によっては夜まで働くことや、生産性は高くとも担当主義で自分の仕事以外無関心である現実なんて、興ざめなのだ。そんな情報は求められていない。

 

必要なのは、日本を導いてくれる可能性のある素敵なお手本。自分の理想を重ね合わせるのに都合のいい外国(できれば欧米の国)だ。

 

その海外情報、理想化されすぎていませんか?

理想をなにかに重ね合わせるのは、だれもが経験することだろう。

アイドルや漫画のキャラクターにハマり「この人と付き合ったら」なんて妄想をするとき、対象は基本的に『理想の人』として描かれる。

 

それと同じで、「日本ももこうだったらいいのに」という文脈で、美化されすぎている(と思われる)海外情報が結構ある。

上記で紹介した本のなかでは、「期待されているコメントをするフランス人や在仏日本人」、「自分の理想をフィンランドに重ねた元大使館職員」の可能性が指摘されている。

ドイツの理想化された働き方に関しても、日本人が期待しているドイツ像を意識したり、自分自身の理想を重ね合わせた結果なのかもしれない。

(ドイツが好きでドイツに移住したわたしは当初、ドイツにおけるすべてのものが新鮮で革新的でキラキラしているように見えた。だから現実より良く見えていた部分もあるだろうし、移住した国が「理想的であってほしい」と思う気持ちもわかる)

 

もちろん、テーマに対し、多くの人が求める情報を『供給』するのはある程度当たり前だ。

箱根駅伝がテーマなら、小学生のときからトップ選手だった人より、無名の県立高校でがんばってケガを乗り越えて出場した人のほうが「都合がいい」だろう。

 

ただ、海外情報の場合、多くの人が事実かどうかを自分で確認・体験できない、そういう国がありえてもおかしくないことから、理想化された姿が『事実』だと思われやすい。

 

でも、それは結構な問題だと思う。まやかしのユートピアの情報に、どれだけの価値があるんだろう。

たしかに、他国から学べることはある。しかし実態を捉えないままでは「なにを真似すべきでどこを真似できるか」の判断ができない。そういう意味で、理想化された海外情報の広まりは危惧すべきだと思う。

 

「そんな理想的な環境はありえるのか」

「因果関係にこじつけはないか」

「信じるに足る具体的な話をしているか」

「背景の説明はあるか」など、いろいろな点から、「その海外情報は理想化されすぎていないか」を考えることが必要だし、ライターの端くれとして、実態の伴わない理想化には気をつけていきたい。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Roan Fourie)

こんにちは。コワーキングスペース「Basis Point」の運営会社、Ascent Business Consulting代表の北村です。

最近、何かと副業の話題を耳にしますが、アフィリエイトや金融商品の話ばかり多いような気がします。

それ以外の話題で「具体的に何やって、どれくらい稼いでいます」という話はあまり多くありません。

 

というのも、副業を認める会社はまだまだ少なく、全体の1/4程度。一方で、副業に興味がある人は、全体の6割以上と、ギャップがあるからです。

つまり「副業やりたい人は多い」ですが、「副業を実際にやれる人は少ない」ので、外に出てくるリアルな情報が少ない、と言えます。

 

ただ、確実に副業をやる方は増えています。

しかも、副業で月に20万以上稼いでいる人も、副業者の3割はいるのです。(参考:https://www.jil.go.jp/institute/research/2009/documents/055.pdf

 

ここで不思議なのは

「月に20万円以上副業で稼いでいる人は、一体何をしているのか?」

です。

中にはアフィリエイトやECで商売をしたり、自作のプラモデルや手芸を売る方などもいますが、「初期投資が必要」であったり「リスクが高い」「特殊な技能が必要」といった理由で、尻込みする方も多いのではないでしょうか。

 

また「副業」といえど、「本業」に役立ったり、人脈が構築できる副業をしたい、という方も多いと思います。

そういう仕事は、一体どこにあるのでしょう。

 

副業マーケットはどこに存在しているのか

商売の話は、マーケットから考えるのが鉄則です。

つまり「副業者を欲しているマーケット」の所在です。

 

私はコワーキングスペースを経営していますので、ここについては自信を持って申し上げることができます。

結論から言えば、副業者に惜しみなくお金を払うのは、大企業と、スタートアップ企業です。

 

ただし、大企業は「土日だけ」「夜だけ」という依頼の仕方をあまりしません。

彼らは高額のフィーを払いますが、それなりのリソースを要求します。

具体的には「週3日、月額200万で」といった形です。

このレベルになると、フリーランスの方の「副業」としては良いと思いますが、現在就業中のサラリーマンが副業で、という形は時間的に厳しいのではないかと思います。

 

では、サラリーマンにとって、負担が少ない割には稼げる副業のマーケットはどこにあるのか。

それは、「スタートアップ」にこそ、存在しています。

スタートアップでの仕事こそ、真の意味で「副業者」を欲している企業であり、「これから副業をやってみたい」という、ハイスキルの方々に向いた仕事です。

 

なぜそう言えるのでしょう。

 

まず前提として、スタートアップは多くの場合、野心的な試みをしていますので、スキルがあり、能力ある人を求めています。

しかも、スタートアップは「仕組みを作ること」そのものが事業の成否を分けるので、様々な専門家が必要です。

 

しかし一方で、大企業に比べて資金力に乏しいので、そういった能力ある人を多く雇うことはできません。

また、会社のステージによって「一定期間だけ」「週に1日だけ」専門家がほしいといった、断片的なニーズがあり、普通に雇ったのでは、「そんなにたくさん仕事はない」「オーバースペックになってしまう」といった事情もあります。

 

スタートアップ企業が求める「スキル」とは

以上のような理由から、ある程度スキルに自身のある方、副業をやってみたいという人材の方々には、スタートアップ企業に協力する、という選択肢を持っていただくと良いと思います。

 

では、具体的にはスタートアップ企業はどのようなスキルが歓迎されるのでしょうか。

まず考えつくところは、プログラミングやデザインなどの、アウトプットが見えやすく、成果が明確なスキルです。

 

これらは確かに仕事があります。

ただ、成果が明確な仕事は取りやすいのですが、競合も多く、仕事に長時間拘束されがちですので、月に20万以上稼ぐとなると、結構たいへんです。

また、どうしても「作業依頼」であることから、「内職」といった雰囲気になりがちです。

 

それでは、他にやれることはあるのでしょうか。

あります。

それは専門知識や人脈、ノウハウが必要なコンサルやアドバイザリーサービスです。

 

例えば、あるスタートアップは、新規参入したい業界があります。

ただ、そこは特殊な商習慣の業界で、開拓には紹介者が必要でした。

そこで月に30万円程度を支払い、定期的に業界の人とパイプをもたせてもらう……といった仕事が実際にありました。

 

あるいは、小売店舗向けのアプリを開発しているスタートアップの話です。

創業者は自分の出身の業界(アパレル)のニーズしかわからない。

そこで、幅広く小売の知識を持つ、知人の小売店向けコンサルタントをやっている人物に声をかけ、週に1回、マーケティングの会議に参加してもらい、月に20万円ほど支払っていました。

 

他にも、外資系の薬品メーカーに勤めていた人が、次の職を探している数ヶ月間だけ、営業のコンサルタントとしてスタートアップに参画して、月50〜60万円を稼いでいる。

大企業向けにマーケティングのコンサルティングをしていた人物が、スタートアップ向けに「マーケティング戦略のプランニングと効果検証」で月に20万円ほどを得ている。

 

上のような事例は決して珍しくありません。

要するに、「専門的アドバイス、人脈」は、スタートアップの誰かにとって貴重なものであるケースは、決して少なくないのです。

 

スタートアップ企業はノウハウを持つ人を「知人経由」「SNS経由」で探している

しかし、そういった仕事はどこにあるのでしょう?

もちろん、転職サイトにはありません。

クラウドソーシング上にもありません。

 

実際、殆どのそういった仕事は、「ちょっとした知り合い」を通じて紹介されています。

 

スタートアップの経営者は、何かしらの会合であったり、イベントであったり、そういうところで知り合った方々に、「誰かいい人いないですか?」と聞いて回っている。

また、ベンチャーキャピタルや仲間の経営者に聞くことも多いです。

最近では自分のSNS上で、「誰かこんな人いないですか?」と聞いている人も多いです。

 

有名な話ですが、スタンフォード大学のマーク・グラノヴェッターは「弱い紐帯の強み」というテーマの論文で、「仕事は、強い結びつきの人よりも、ちょっとした知り合いからもたらされることが多い」ということを明らかにしました。

それは、「自分の価値に希少性を感じる人」は、自分が普段付き合っているネットワークの外の人にいる可能性が高いからです。

グラノヴェッターは彼らに単純な質問をした。「転職するまでに、転職に力を貸してくれた人とどれくらいの頻度で会っていましたか」と。

すると、「頻繁に」という答えはわずか一七%にすぎず、五五%は「ときどき」、残り二八%は「ほとんど会っていない」との答えだった。

彼らの大半は、大学時代の旧友、かつての同僚、以前の雇用主などを通じて仕事を見つけていたのだ。

こうした人たちとの接触は散発的で、職場以外で一緒に過ごしたことがあるという回答はほとんどなかった。

グラノヴェッターによれば「通常、この種の絆は最初に結ばれた時点でさえそれほど強くなかった……。ばったり会ったとか、共通の友人を介してといったきっかけで絆が復活したのだ。人が存在すら忘れていた相手から重要な情報をもらうという事実は、注目に値する」。

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「副業」についても同様に、「ちょっとした知り合い」や「会合で出会っただけの人」からもたらされると予想できます。

つまり、普段からより広範囲の「知人」を持つ人のほうが、副業マーケットにおいて、成功できる可能性が高い、と言えるでしょう。

 

 

もちろん、最初から高い単価を取ることができる仕事を手にする人は少ないと思います。

自分自身の力量を高めるために、敢えて低単価でも引き受ける、という方もいるでしょう。

 

しかし、そうして磨いたスキルや、培った人脈は確実に仕事の幅を広げてくれます。

結局の所「勝てる」人たちは、本業でも副業でも、スキルを磨いているだけではなく、より大きなネットワークを持つ人である、というのは、もはや自明である、と言って良いと思います。

 

 

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(Photo:STHLMEVENTFOTO.SE)

ネットで文章を書きつづけられるのは、「人の怒りについて、鈍感であるから」と前に言われたことがある。

 

そうかもしれない。

率直さが、人を怒らせてしまうのはなんとなく知っていた。

実際、書いている文章が読まれると、称賛していただくこともあるが、それ以上に辛辣な無数の非難が、自分をめがけて飛んでくる。

「バカ」

「死ね」

「許せない」

「浅い」

……

これを見た知人から、「炎上してたね」とか「凹まなかった?」と言われた。

「よく書き続けられるね。バカ、って言われたら、普通、二度と書きたくなくなると思う。」

 

どうだろうか、正直に言った。

「人が何を思うかは自由だし、思ったところで、自分には関係ない。」

 

その方は、言った。

「そうなんだ。人の怒りに鈍感なんだね。」

 

 

そういえばそうだった。

それは、社会人になった時、一番最初に苦労したことだった。

ネットでは人の怒りは簡単に無視できるし、目に入らないようにするのも簡単だ。

実害はない。

 

だが、「リアル」な場では、人の怒りについて鈍感であるわけにはいかなかった。

先輩、上司たちを怒らせてしまうような人間には仕事は回ってこず、仕事を教えてもらうことすらできない。

リアルワールドでは、実害があるのだ。

 

しかし、人の怒りに鈍感なのは、当たり前だが無意識であった。

同僚や部下が怒っていても、ほとんどそれが気にならず、また、それが行き過ぎて、酷く叱られて初めて、「ああ、この人怒ってたんだな」と気づくこともしばしばあった。

 

だが、仕事は、それでは困る。

仕事は、相手の人が動いてくれて初めて、自分も成果をあげることができるのである。

だから、相手を怒らせないノウハウが必要だった。

 

幸い、観察と慎重さによって、いくつかの有用と思われるパターンが見つかった。

 

これは、「無意識に人を怒らせてしまう人のための自己防衛術」だ。

 

人が怒るのには、ほぼ同一のパターンが有り、その地雷を踏まなければなんとかなる。

リアルな場では、ひたすらそれを踏まないようにする。

逆に、ネットでは、そういった事を気にせずに、率直に書く。

 

それで、だいぶ生活は平和になった。

 

 

中身はごくごく簡単で、基本的な「人の本質」を押さえていれば、誰でも運用できる。

 

人は、批判と侮辱を区別しないので、批判は厳禁。

まず、認識しなければならないのは、「人間は、批判と侮辱を区別しない」という事実だ。

多くの人は、反対意見や、提案を、「ケチをつけている」と認識し、それを「人格攻撃」、すなわち深刻な侮辱であると捉えてしまう。

 

中には、この症状がひどい人もいて、批判などはもってのほかで、「うーん」と、その人の意見を吟味しているところを見せるだけでも怒る人がいる。

その人にとっては、全面肯定以外は、全て侮辱に聴こえてしまう。

 

そこで、怒りを買わないために、コミュニケーションはまず100%肯定を前提とする。

自分の意見を述べる方法は、直接話す以外にいくらでもあるため、これで実際は全く問題がないのである。

 

余談だが、会社によっては例外的に「健全な批判」が可能であるケースもごく稀にある。

その時は、仕事がすごく楽だった。

 

人は皆、自分は優れていると思っているので「あなたは優れている」とほめる。

数々の実験が示す通り、ほとんどの人は自分の能力を正確に把握できておらず、実際よりもかなり高めに見積もっている。

 

だから、それに反する事実(例えば成績、学歴、資格、年収など)を話に出すと、自分の認識と評価のギャップに怒る人がいる。

(参考:人は自分の信念に反する事実を突きつけられると、過ちを認めるよりも、事実の解釈を変えてしまう。

 

例えば、ある人事評価で「TOEICの点数が足りないので今年は昇進不可です」と上司から告げられた人が怒っていた。

彼曰く「英語力はTOEICなんかでは測れない」と言うのだ。

 

仮にそれが正しいとしても、TOEICが評価の要件に入っていることを彼はかなり前から知っていたはずだ。

それでも彼は理不尽だと怒っていた。

 

つまり、それで怒るのが人間の本質なのだ。

そして彼は他の人から「あなたには、試験なんか必要ないはずですよねー」と言われ、怒りが収まったようだった。

 

人は些細なことで「自分が低く見積もられている」と感じやすいので、とにかく「あなたは優れている」伝える必要がある。

それはとても疲れることではあるのだが。

 

人は「平等」を求めず「特別扱い」を求めるので、「あなたは特別」と告げる。

日本国憲法では、「法の下の平等」を求めているが、あらゆる人を真に平等に扱うと、怒る人のほうが圧倒的に多い。

 

実のところ、男女を完全に平等に扱うと、「完全に同じ態度であることに怒る」人はとても多い。

また、金持ちにも貧乏人にも同じ態度を取ると、金持ちからも貧乏人からも怒られる。

 

「じゃあどうすればいいんだよ」と思うだろうが、答えは簡単で、全員に「あなたは特別だから」とこっそりと告げるしかない。

 

もちろん建前、ルール、規律などは「平等」を基本としてなければならず、ダブルスタンダードは非難の対象となる。

 

しかし、ほとんどの人は常に「自分だけは特別扱い」を望んでいる。

ある夜、彼が当直をしていると、電話がかかってきた。

受付からの電話の内容は、その病院の偉い人(医者ではない)が、「自分(偉い人)の知り合いの子どもが熱を出しているそうなので、診てほしい」と連絡してきた、というものだった。

彼は、「この病院は、夜間小児科外来はやっていないので、〇〇病院を受診するように伝えてください」と近隣の救急病院の名前を挙げて、丁重に断った。

その病院は、夜間に外来で軽症の子どもを診療する体制がまったく整っていなかったし、もともと、そういう条件で勤めているのだから。診てもらう子どもにとっても、そのほうが良いはずだと思ったから。

しかし、彼の対応は、のちに問題視されることになった。

その偉い人は、「小児科の医者がいるのに、なんで診ないんだ。医者は患者を診るのが仕事だろう、俺の面子をつぶされた」と彼と彼の上司を叱責したのだ。

みんな、リーダーに対して「身内びいき」を期待する。たとえそれが「不公正」であっても

「あなたが一番ですよ」というメッセージをつかえば、人の怒りを回避可能だ。

これは、組織の中で生きる上で、摩擦を大きく減らすことができる。

 

人はみな、「思い通りにならないのは自分の責任ではない」と思っているので、「あなたのせいではない」と慰める。

経験的に、「あなたの責任です」と言われて、喜ぶ人は皆無である。

人はみな、責任、という言葉に過剰反応する。

面白いことに、実際の責任者ですら「あなたの責任だ」と言われると怒る。

 

例えば、ある会社の社長は、長らく業績の低迷に苦しんでいたが、その責任はすべて、「社長以外」にあると、繰り返し言っていた。

役員の無能のせい。

取引先の悪意のせい。

社員の忠誠心のなさのせい。

日本の少子化のせい。

役所の融通のきかなさのせい。

東京の一極集中のせい。

 

真の理由は調べなければわからないし、社長が真実を語っているかどうかもわからない。

 

でも彼は、おそらく真実を望んでいなかった。

私は望み通り、彼に「そうですね、社長は悪くないです。」と繰り返し慰めた。

 

人が望んでいないことを押し付けるのは、単なるおせっかいだ。

だから、いつまでも昇進できない社員、リストラされそうな中高年、できない若手に対しても「あなたのせいではないです」と言うことで、怒りを回避できる。

 

考えてみれば、キリストもブッダも、「あなたのせいではないです」と言っていた。

人は、厳しい現実に向き合うよりも、心地よいことを言ってくれる人になびくのである。

たとえ、それが真実ではなくとも。

 

 

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場所:東京都渋谷区2-21-1 渋谷ヒカリエ11FカンファレンスルームA

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1月16日(水)15:00ー16:30 (定員20名)

1月18日(金)15:00ー16:30 (定員20名)

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(Photo:hexion

Books&Appsの読者の皆さんは、ソーシャルゲームを遊んでいますか?

ここの読者さんは多種多様なので、「そういう時間とお金の無駄になるゲームはやっていません」という人もいらっしゃるでしょうし、「毎日やってます! 課金してガチャ回してます!」という人もいらっしゃるのではないかと推察しています。

 

世間一般のソーシャルゲームに対する目線は、必ずしも良いものとは思えません。

大量課金問題や射幸性を煽るガチャの問題が取り沙汰されていますし、「ネット依存」「ゲーム依存」といった文脈でも語られることが多いため、下等な遊びだと思っている人も多いのではないでしょうか。

人間は、自他の行いに上等・中等・下等といったヒエラルキーをつけたがる生き物なので、なにかと短所が話題になりがちなソーシャルゲームを下等な遊びとみる向きがあること自体は、不思議なことではないと私は思っています。

 

ところで、ソーシャルゲームは本当に下等な遊びなのでしょうか。

世の中にはたくさんの遊びがあり、評価の仕方や価値観次第で、上等~下等のさまざまな順位づけができます。

しかし、「頭を使う」だとか「計画性や効率性を重視する」だとか、そういう理性が深く関与する遊びを上等とみなすなら、ソーシャルゲームはなまじっかの遊びよりも上等で、いわば「現代人ならではの高等遊戯」ではないかと思えるのです。以下、ちょっと例を挙げながら紹介していきます。

 

ソーシャルゲームは、リソース管理をプレイヤーに要求する

まったくプレイしたことのない人が想像するソーシャルゲームのイメージは、「たくさん課金してガチャを回す、ギャンブルのようなゲーム」といったものかもしれません。

実際、レア度の高いキャラクターやアイテムを手に入れるには運任せなガチャを回す必要があり、そこに大量課金しているプレイヤーも少なくないわけですから、ソーシャルゲームの一面として、課金とガチャを無視することはできません。

 

反面、ガチャを回していない残りの大半の時間に関しては、ソーシャルゲームは、ギャンブルよりも仕事に似ています。

これは、私が今遊んでいるソーシャルゲームのターミナル画面のものですが、オレンジの楕円で囲った「AP」というバーに注目してください。このバーはゲームをプレイするほど減っていき、ゼロになるとゲームが遊べなくなってしまいます。

一方、時間が経つにつれて「AP」バーは少しずつ回復していき、たとえば12時間ほど放置しておけば満タンになります。

こういうゲームシステムは他のソーシャルゲームでもしばしばみられるもので、その性質から、「スタミナ」などと呼ばれていることもままあります。

 

「AP」にしろ「スタミナ」にしろ、時間がボトルネックになる有限のリソースですから、ゲームを上手に進行させたければ相応にマネジメントしていく必要があります。

重要性の高いミッションやバトルに「AP」や「スタミナ」を費やすのは合理的ですが、無為無策に使い果たしてしまうと肝心な場面でゲームが停止状態になってしまうわけです。

 

このようなゲームシステムなので、スケジュールをマネジメントできるか否かはソーシャルゲームの巧拙に直結します。

朝、出勤前や通学前に「AP」や「スタミナ」を短時間に使い切っておいて、夜、自宅に帰ってから時間のかかるミッションをゆっくりと消化する……といった“やりくり”ができるか否かによって、ゲームの進捗はだいぶ変わってしまいます。

加えて、多くのソーシャルゲームでは、キャラクターを強化するにもリソース管理のノウハウが問われます。

これも私が遊んでいるソーシャルゲームのキャラクター強化画面のものですが、このように、キャラクターを強化するには特定のアイテム(ここでは宝石マークと骨マーク)を揃える必要があります。

骨マークのアイテムが赤字になっているのは、強化に必要なアイテム数が足りていないということで、このように管理不行届の場合は、キャラクターが強化できなくなってしまいます。

 

ソーシャルゲームは効率性をプレイヤーに要求する

こうしたゲームシステムを反映として、多くのソーシャルゲームプレイヤーは、時間を有効活用すること・アイテムを効率的に獲得し管理することに心を砕いています。

 

その結果、プレイヤーが辿り着く先は「効率性」です。

いかに効率的に「AP」や「スタミナ」を使うのか。

いかに短い時間でたくさんのアイテムを獲得するのか。

いかに自分の生活リズムとゲームのプレイスタイルを適合させるか。

 

時間やアイテムをリソースとみなし、マネジメントしにかかる限りにおいて、結局は効率性の鬼になるしかない──ネットスラングで言うところの“効率厨”になるしかない──のです。

 

この手のゲームに慣れたプレイヤーはほぼ例外なく、とにかく効率的にゲームを遊ぼうとします。

ゲームに飽きてきた場合でさえ、「ログインボーナスだけは貰っておく」といったかたちで、効率性重視の姿勢は改めません。

 

こうした効率性の意識はプレイヤー側が持っていると同時に、ゲーム運営側もよく心得ているところで、どちらが最初に効率化を促したのかは判然としません。

ただ、多くのソーシャルゲームの仕様とプレイヤーの実態をみる限り、ソーシャルゲームの本態は効率性を追求するゲームであり、時間やリソースをマネジメントするゲームである、と言っても過言ではないでしょう。

 

ソーシャルゲームには「管理者ごっこ」「経営者ごっこ」の側面があって、それらがプレイヤーの課題になっている、と言い直しても良いかもしれません。

 

「仕事の息抜きも仕事」という喜劇

さて、そんなソーシャルゲームも少しずつ市民権を獲得し、おじさんやおばさんが電車のなかで遊んでいる姿もしばしば見かけるようになりました。

かくいう私も喜んで遊んでいるわけですが、ときどき、何かおかしなことをやっているなぁ……と思ってしまうことがあります。

 

というのも、ソーシャルゲームの「管理者ごっこ」「経営者ごっこ」とは、とどのつまり、サラリーマンが職場でやっていることと大同小異のように思えるからです。

 

現代社会のホワイトカラーな労働者は、スケジュール管理やリソース管理と無縁ではいられません。管理職なら、とりわけそうでしょう。

そうでなくても、いわゆるセルフ・マネジメントと無縁でいられる現代人などそうそういるものではありません。

 

だとしたら、仕事でやっているのと大同小異なタスクを、わざわざゲームの世界でも繰り返しているソーシャルゲームプレイヤーとは、いったいなんなのでしょう?

仕事でくたびれているサラリーマンが、息抜きと称してソーシャルゲームを隙間時間に起動させて、そこでもギリギリまで効率性を突き詰めているのって、なんだか喜劇的だと思いませんか。

 

“現代人しぐさ”としてのソーシャルゲーム

遊びの内側まで効率性が追いかけてきているのに、それを拒絶するのでなく、喜々として受け入れ、やってのけているソーシャルゲームプレイヤーたちと私自身を振り返ると、「ああ、骨の髄まで効率性が染み込んでいるのだなぁ……」と嘆息したくなります。

 

効率性を追求する意識は、太古の昔から人類のコモンセンスだったわけではありません。

効率性が重視される資本主義社会ができあがる前の時代、あるいは時計というマネジメントの尺度が普及する前の人類は、効率性にそこまで魂を奪われてはいませんでした。

 

資本主義が広まりはじめ、時計の概念が定着しはじめた近世になってようやく、アーリーアダプターな人々が効率性を意識しはじめ、それに見合った意識や倫理をかたちづくっていきました。

彼らの意識や倫理は富裕なブルジョワ階級だけにはとどまらず、より広い範囲の階級や階層にも浸透していき……そして2018年の日本では、職場はもちろん、隙間時間のいじましいゲーム遊びにまで効率性の意識や倫理が浸透してきているわけです。

 

そういった意味では、今日のソーシャルゲームプレイヤーのありようは、まさに21世紀にふさわしいものと言えるでしょう。

効率性の意識や倫理が末端にまで行き届いた社会で、まさにその効率性にもとづいた遊びが人気を集め、ますます発展していくプロセスを、ソーシャルゲームをとおして私達はみているのではないでしょうか。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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ブログ:『シロクマの屑籠』

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(Photo:Yannick B. Gélinas