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ちょっと前にファクトフルネスという本を読んだ。

本書では教育、貧困、環境、エネルギー、人口など幅広い分野を最新の統計データを用いて取り上げて、世界の正しい見方を紹介している。

[amazonjs asin="4822289605" locale="JP" tmpl="Small" title="FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣"]

詳しい内容は本書を読んで欲しいのだけど、簡単にいうと、世の中は私達が思っている以上によくなっているという事実を、これでもかと事実(ファクト)を元に証明していく本だ。

結構、思った以上に事実と認知の間にズレがある事がわかり、人によっては衝撃を受けるかも知れない。

 

本書をどう読むかは人それぞれだろうが、僕はこれを読みながら、なぜ人間はここまで事実を事実として受け取れないのか、また、人々が事実を事実として淡々と伝える事ができないのかをずっと考えていた。

一ヶ月ほど考えて出た結論は、人間がロジックとエモーションを混同させて生きる生き物だからこそ、世界をありのままに見ることができないのかもな、というものだった。

 

というわけで今日はロジックとエモーションの話をしていこうかと思う。

 

情を持つと、世の中を正しくみれなくなる

かつてGEにジャック・ウェルチという経営者がいた。

彼は1年ごとに社員の下位10%を解雇するか配置換えするという非常に厳しい人事評価システムを採用していた事で知られている。

 

このシステム自体は、賛否両論いろいろあったようだけど、なぜこのシステムをジャック・ウェルチが考えついたのかについての話が非常に面白い。

ジャック・ウェルチが働いていた頃の外資系企業では、必要に応じてキチンと他人のクビを切るのもマネージャー(管理職)の1つの大切な仕事だった。

 

しかしやはり人にクビを言うのは非常につらい。その為、多くのマネージャーはこれが原因で数年で疲れてしまい、他の職を移ってしまっていたのだという。

 

そうすると、当然次にまた新しいマネージャーがやってくるわけだけど、ここで非常に興味深い現象が生じている事にジャック・ウェルチは気がついたのだという。

なんと、職場環境をよく知っているはずの前任マネージャーよりも、新しくやってきた新任マネージャーの方が、誰をクビにすべきかを客観的かつ正確に判断できる事が多かったのだという。

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普通に考えれば、情報量が多い前任マネージャーの方がよりよい選択ができそうなものだけど、なぜそんな事が起きてしまうのだろうか?

 

それは、前任マネージャーが”知りすぎている”が故に、社員に情が移ってしまうのが原因ろうとジャック・ウェルチは推測する。

そして、ロジカルな10%ルールを導入すれば、情に惑わされる事なく常に”正しく”、おまけにマネージャーの心を悩ませる事もなく、誰をクビにするべきかをきめる事ができる、と考えるに至るわけだ。

 

ジャック・ウェルチのこの考えは、クビを言い渡す心労に頭を悩ませていたマネージャーには実に甘美な囁きとなった。

今まで、いろいろと頭を悩ませて誰をどういった理由でクビにするか、なんて言葉でクビを伝えればいいかを考えなければいけなかったマネージャーからすれば、「ルール」でクビを言い渡す相手を自動的に決めてもらえるのだから、これ以上楽な事はない。

 

というわけで労働者からすれば冷徹だが、マネージャーからすればこの上なく優しい10%ルールは、一時期経営者から称賛をもって向かい受けられていた。

 

これぞエモーションがあるがこそ故に、ファクトをありのままにみれない事例として、最適な例といえよう。ロジックという合理性の前に立ちはばかるのは、いつだって非合理的なエモーションなのである。

 

ファクトに基づいてロジカル考え、合理的に正しかったはずの結論が……

そして面白いのはここからである。

ファクトに基づき、ロジカルに出したエレガントな解法であった10%ルールだけど、結果的にはなんと大失敗だったのだ。

今ではGEを含め採用している企業はほとんどない。

 

果たして10%ルールの何がいけなかったのだろうか?

原因は様々だろうけど、一般的には働きアリの法則というもので失敗の原因が説明される事が多い。

 

働きアリの法則とは以下のようなものだ。

1.働きアリのうち、本当に働いているのは全体の8割で、残りの2割のアリはサボっている。

2.よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。

3.よく働いているアリ2割を間引くと、残りの8割の中の2割がよく働くアリになり、全体としてはまた2:6:2の分担になる。

4.よく働いているアリだけを集めても、一部がサボりはじめ、やはり2:6:2に分かれる。

5.サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。

 

GEの10%ルールの問題点は、4の「よく働いているアリだけを集めても、一部がサボりはじめ、やはり2:6:2に分かれる」に集約されている。

つまり、パフォーマンスが悪い働かないアリをのけ者にして、働きアリだけを集めたところで、結局働きアリが働かなくなるだけなのだ。

 

なぜアリには、こんな奇妙な生態系が導入されているのだろうか?北海道大学の長谷川英祐は進化生物学の見地からこれをこう解説している。

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働くアリと働かないアリの差は「腰の重さ」、専門的に言うと「反応閾値」の差によるのだという。

 

アリの前に仕事が現れた時、まず最も閾値の低い(腰の軽い)アリが働き始め、次の仕事が現れた時には次に閾値の低いアリが働く。

 

なぜこんなシステムを導入しているかというと、仮に全てアリが同じ反応閾値だと、すべてのアリが同時に働き始め、短期的には仕事の能率が上がるが、結果として全てのアリが同時に疲れて休むため、長期的には仕事が滞ってコロニーが存続できなくなるからだ。

 

この結果が正しい事はコンピュータシミュレーションの結果からも確認されており、閾値によっては一生ほとんど働かない結果となるアリもいるが、そのようなアリがいる一見非効率なシステムがコロニーの存続には必要なのだという。

 

エモこそが私達の本能なのではないだろうか?

10%ルールの失敗はロジカルに、合理的に頭のよい人が正しく判断したはずの回答が、巡り巡って結果的に不正解となった事例として、人間の思考力の限界を痛感させられる一例だと言えよう。

こう考えると、マネージャーが部下をクビにする事に罪悪感を覚えるという情こそが、働きアリの法則の法則を集団で守らせようとする為の本能のようなものに思えてくるのだから面白い。

 

人間は、働きアリのようにプログラム化された存在ではない。私達には、それぞれ固有の自由意志というものがある。

しかし、この自由なはずの私達だけど、面白いぐらいに類似した文化を各地で形成して社会を営んでいる。

 

自由な意志を持っているのなら、多様な社会が形成されてもいいだろうに、なぜ人間は世界中のアリが似たような生態系を呈するがごとく、類似したシステムを組み上げてしまうのだろうか?

僕が思うに、それこそがエモーションの役割なのだ。感情という無意識に仕込まれたプログラムこそが、人間を最もキレイにコントロールする補佐役となっているからこそ、人間というのはここまで上手に社会を形成できているのである。

 

実は民主主義こそがこれを最も体現していると言ってもいい。

太古の昔から、王政や貴族制といった、”頭のいい人”が市政の人々をロジカルに束ねる試みは常に実験されてきた。

しかし多くの場合において、それは失敗している。全てを政府の計画下に置いて、効率化を推し量った共産主義の歴史的な失敗が、それを最もよく表しているだろう。

 

結局、キリストが産まれてから2019年もたった今、大国の政治はほぼ選挙によって選ばれた政治家と、それを補佐する官僚により成立している。

国民のエモーション担当が政治家であり、国民のロジカル担当が官僚と考えると、この組み合わせが驚くほどシックリくるのは、僕だけだろうか?

 

もちろん、常にエモーションが正しいとは限らないし、むしろエモーションはよく間違える。

ファクトが正しくみれない私達は、まさにその体現といってもいい。

 

しかし、それは言うまでもなく、ロジックについても同じことがいえる。

例えば透析患者は自己責任で全員医療費自己負担にしろという考えは、国が借金まみれの今だと、”合理的に考えれば”、ある人にとっては”正解”なのかもしれない。

 

しかし、これを冷徹に”良し”と判断できない、私達のエモーションの部分に宿った無意識の部分にこそ、私達人間の大切な本能が隠されているのではないだろうか。

 

もし、近々合理性が社会に導入されたら、エモーションで無意識にコントロールしていた部分はどうなるのだろうか?

ディープラーニングを導入されたAIでビッグデータを解析し、ファクトに基づいた正しい分析が行われようとしつつある。

僕の本職である医療においてもAIの力は及ぼうとしているが、ハッキリ言ってファクト抽出に関して言えば、AIに敵う医者は1人もいないだろう。それぐらいに、AIのファクトを見る目は優れている。

 

この事を、大手を振って迎え入れている知識人も結構多いけど、一般人の感覚としては、なんか薄ら寒いものを感じないだろうか?

たぶんなんだけど、その感覚は間違ってないのではないかな、と僕はファクトフルネスを読んでなんとなくだけど思った。

 

こんなにも事実を”正しく”みれてないにも関わらずこの世がどんどん良くなっているのは、逆にいえば多くの人が”正しく”事実をみず、エモーショナルに基づいて行動しているからこそ、結果的に正しくなっているのではないだろうか?

 

AIが導き出した圧倒的ファクトでロジカルに導き出された答えは確かに正しいのかもしれない。

ただ、それを水面下でコントロールするエモーショナルな部分は、AIが導入された社会において、果たしてキチンと機能できるのだろうか?

 

ファクトに基づいたロジカルな意識と、エモーションに基づいたスピリチュアルな無意識。

もし、社会にAIが導入され、ファクトがエモーションより多い比率で採択されたとき、私達は真の意味で無意識から手が離れた社会を生きることになる。

 

それが楽園なのか、地獄なのかはそう遠くないうちにわかるだろう。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:nelio filipe

どうもしんざきです。今仕事が割と追い込みで、久々に軽いデスマに片足を突っ込んでおり、連絡待ち時間と現実逃避にこの記事を書いています。

夜景がいつもより綺麗に見えてくるとそろそろヤバいかなって思いますよね。

 

ということで、すいません、ちょっと細かい話をさせてください。

皆さん、自分の成果物に対して、「特に意味があると思えない細かいダメ出し」を上司にされた経験ってありますか?

 

言うまでもなく、報連相というものは色んな意味で重要であって、成果物のレビューというものの重要性もそれに準じます。

何かを作った時は、自分ひとりの責任にしない為にも、それをレビューしてもらわなくてはなりません。レビューしてもらうことによって、そのレビューを行った人にも責任を分担してもらう。

これ、仕事の上で凄く重要な考え方です。

 

ただ、職場環境とか仕事の環境というものは当然人それぞれでして、このレビューの際の動き方というのも職場によって全く変わります。

何をレビューするか、誰がレビューするか、どの工程でレビューするか、どういう形式でレビューするか。千差万別です。

 

ただ、千差万別の中でも共通する経験というものはあるもので。

結構ちょくちょく聞く話として、「それ、なんか意味があるの?」という細かいダメ出しを上司から受けた、という事案、あちこちで観測するんですよ。

 

例えば、発表資料の語尾やちょっとした単語の使い方にダメ出しをされた、とか。文字の大きさや色みたいなくだらないところで延々修正する羽目になった、とか。

特にコード規約に定められてもいないのに、メソッドの命名やファンクションの書き方についてやたら詰められた、とか。

 

「なんとなくダメ」みたいな回答の存在しないダメ出しよりはなんぼかマシかも知れないですが、それでも、「なんでそんな細かいとこにこだわるんだ?」という疑問を抱えながら成果物の修正をしないといけない経験って、かなり辛いですよね。

 

この事案に共通する要素って、基底に存在するのは「上司と部下間のディスコミニュケーション」なんですが、その内容を精査すると、大筋二つの原因に集約されます。

・そもそも成果物の目的が共有されているか、目的に沿ったダメ出しになっているか

・ダメ出しの基準は明確になっているか、その基準は開示されているか、基準が「個人の感覚」になっていないか

 

この「細かいダメ出しに対する不満」って物凄く印象に残るものなんで、基本的にはこれ、上司の側が、上司の責任で防止するべきものだと思うんですよ。

「しょうもない細かいダメ出し」と部下に思わせた時点で、負け。

少なくとも私はそう思います。

 

価値を生まないダメ出しは単にチームの足を引っ張るだけの行為

上記二つの補足に入る前にまず切断しておかないといけないんですが、世の中確かにしょうもない人ってのは存在していまして、

「なんか言わないと仕事をしてないような気がするので無理やりダメ出しをひねり出している」上司っていうの、信じられないかも知れないですが本当にいるんですよ。

為にするダメ出し、意味も価値も本当に存在しないダメ出しですね。これやってしまう人は本当にダメだなーと思います。

 

私は、今どちらかというと管理側の人間で、レビューをされるよりはレビューをする側に回る方が多いんですが、確かに、「レビューを素通しする」って上司としても若干ながら勇気がいる行為ではあるんですよ。

ちゃんと見てないんじゃないかと思われそう、とか。

意見を言えないのが能力不足と思われないか、とか。

 

ただ、それは徹頭徹尾上司の側の個人的な事情でして、ただそれを避けるだけの為に部下に余計な工数を押し付けるべきではない、ということは間違いありません。

価値を生まないダメ出しは単にチームの足を引っ張るだけの行為です。

 

一つ確実に言えることは、「「細かい指摘事項を無理やり探そうとしている」時点で、そのレビュアーは成果物の本質を理解出来ていないのが周囲からは丸わかりなので、それを周囲に喧伝するくらいなら勇気をもって素通しするべき」ということです。

細かいことしか目につかないんでしょう?大丈夫ですよ、その成果物。

ノーコメントで承認しましょう。死にゃしません。

 

「細かいダメ出しだなあ」と部下に受け取られたときは、何が問題か

問題はどちらかというと、「上司の側としてはきちんと必要なダメ出しを行っているつもりなのに、その重要さ、価値が部下に共有されていない、ないし価値判断が上司・部下間で食い違っている」というケースです。

私自身は、「細かいダメ出し」と部下に受け取られたケースの内、半分くらいはこちらのケースがあると思っています。

 

もう一回、上で挙げた二つの原因を引っ張ってきましょう。

・そもそも成果物の目的が共有されているか、目的に沿ったダメ出しになっているか

・ダメ出しの基準は明確になっているか、その基準は開示されているか、基準が「個人の感覚」になっていないか

 

まず重要なのが、「その成果物がなんの為のものなのか、ということがきちんと共有されていない、認識されていない」ということがないかどうか、という話です。

 

当たり前の話ですが、成果物に求められる品質基準は、その成果物の用途によって変わります。

重要な客先のプレゼンに使う発表資料と、チーム内の情報共有にしか使われない資料では、表現に求められるクオリティも、データに必要とされる精密性も全く異なります。

似たような話で、客先に納入するパッケージへのコミットと、1回データを整形することに使われるだけのマクロでは、意識しないといけない点も異なるでしょう。

 

上記は極端な例ですが、まず重要なのは、「必要なクオリティは用途によって変わる」という認識と、「その成果物の用途」それ自体をきちんとレビュアー・被レビュアー間で一致させておくこと、だと思うんです。

 

いや、当たり前の話だと思う人もいると思うんですが、仕事してると案外ここで発生するディスコミュニケーションが目につくことってあるんですよ。

「目的の明示なく作らされた成果物に、説明もなくダメ出しされる」って相当にひどい状況ですよね。何で!何で最初にゴールを共有しないの!!!!って思うんですけどね。

 

次に基準の話になります。

これも当たり前の話なんですが、何故ダメ出しが発生するかというと、それが何らかの基準に達していないから、そのギャップを埋める為です。

この基準は、コーディング規約のように明確なものかも知れないですし、そうでないかも知れません。

 

ダメ出しをする側としてまず自問しないといけないのが、「「ここはダメなんじゃないか」と感じた、その理由を明確に言語化出来るかどうか」です。

言語化出来るなら、それを共有することが出来ます。

共有出来る基準であれば、それが妥当かどうかは誰の目にも明らかになりますし、むしろ共有出来ること自体が基準の妥当さを保証することにもなるでしょう。

 

一方で、「言葉として説明出来ないような基準」はそもそも妥当なのか、という話があります。

それは徹頭徹尾「なんとなく」なのではないか、自分の中だけの感覚に過ぎないのではないか、という話ですよね。

「自分の感覚」だけに頼って他人の仕事のクオリティを図ることがどれだけストレスを発生させることか、自明な話なわけでして、「そもそもきちんと基準を言語化出来ない」と気づいた時点で、そのダメ出しは避けるべきなのです。

 

つまり、レビュアー側としては、

・資料自体の目的がきちんと共有されているかを確認すること

・ダメ出しの基準を言語化して、出来ればダメ出しの際にそれを併記すること

・基準を言語化出来ないダメ出しはそもそも妥当でない可能性を考えること

の三点が、割と重要な義務になるのではないかなーと。そう考えるわけなのです。

 

しんざき自身は、勿論レビューをしてダメ出しをする機会もしばしばあるのですが、それが何故ダメなのか、どんな目的、どんな基準の為にダメなのかは、時間の許す限りきちんと説明するようにはしています。

結構気を遣うんですよね、これも。

 

繰り返しになりますが、例えそれが「必要なダメ出し」であったとしても、「特に意味がない細かいダメ出し」だと思わせてしまった時点で、それはレビュアー側の負けだと考えます。

適切なダメ出しで、適切なモチベーション管理を心がけたいと考える次第なのです。

 

「納得出来ない細かいダメ出し」に苦しむ社会人が一人でも減ることを祈るばかりです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:ivyhouse.jesse)

私の周囲には「すぐ試す人」が結構いる。

「すぐ試す人」とはどんな人か。

 

例えば、私はKindle端末の愛好家だ。

その中でも特に、Paperwhiteという機種を愛用している。

 

発売当時、知人のひとりに

「軽いし、電池持ちが良いし、読みやすくて、しかもちょっと格好いい」と勧めた。

当然、ほとんどの人には「ふーん、好きなんだね。」と流される。

いつもの反応だ。

 

だが、その彼は「へー、そんなにいいなら、買ってみるわ。」と、その場でAmazonで購入してしまった。

私はあわてて

「いや、もっと用心しなよw」

と言ったのだが、

「使ってみないとわかんないから。」

と、全く躊躇しない。

 

彼は他にも、モバイルバッテリー、Apple watch、保護フィルム、イヤフォンなど、ありとあらゆるものを「すぐに試す」。

今では、大抵のガジェットのことなら、彼に聞けば使い勝手がわかるので、迷うときは彼に相談することにしている。

 

彼にはかなわないなあ、と思う。

 

 

前の職場で、タスクを漏らしがちの人間がいた。

彼が困っていたので、私は当時つかっていた、あるタスク管理ツールを

「自分はこれを使ってる。」と説明し、励ました。

 

そして、1ヶ月位たった頃だろうか。

彼は「アドバイス、役に立ちましたよ」と私に礼を言ってきた。

 

「それは良かった。使いやすいでしょ。」と言うと、彼は「いえ、実は勧めてもらったものとは違うものを使ってるんです」と、申し訳無さそうに言う。

 

「へえ、どんなの使ってるの?」と聞くと、

彼は「実は、あれから世の中にあるタスク管理ツール、10個ほど試しまして……」という。

「なんと、10個?」

「そうです、この無料のアプリが一番使いやすかったんで、今はこれを使ってます。」

 

「何が決め手だったの?」と聞くと、

「リピートが設定しやすく、サブタスクを入れることができて、重要度と、スケジュール連携ができて……」と、

マニアックな知識を披露してくれた。すでに私よりも遥かに使いこなしている。

 

「そんなにたくさん使ってみたんだ。」と私が言うと、彼は

「試してみるうちに、自分なりの使い方が見えてくるんですよ」と言った。

 

彼にはかなわないなあ、と思う。

 

 

最近、よく一緒に釣りに行く知人も、「よく試す人」だ。

私は密かに彼のことを「テストの権化」と呼んでおり、公私に渡って、いろいろな実験をしている。

 

もちろん、釣具も例外ではない。

彼と釣りに行くたびに、何やら格好が変わっていたり、竿やリールはもちろんのこと、餌や収納用品、ジグに至るまで、バージョンアップしている。

 

彼は実に楽しそうにテストをする。

「次はこれを試す」と言うときの彼は、子供のようである。

 

一方で、彼は様々な人にアドバイスをする仕事をしているが、仕事においても、すぐに「試せ」とアドバイスしているようだ。

 

例えば、日本の野菜を中国に輸出したら、売れるんじゃないか、市場はあるはず、と言う相談者の方に、

「一回やってみればいいじゃないですか。」

「会社を作ってみればいいじゃないですか。」

「試してから考えましょう。」

と、全くブレがない。

 

彼にはかなわないなあ、と思う。

 

「試すこと」が究極的に重要であるわけ

IPS細胞の研究で、ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥は、著書の中で、ある自己啓発本に触れている。

何度も読んだのは『仕事は楽しいかね?』(デイル・ドーテン著、野津智子訳、きこ書房、二〇〇一年刊)です。

なるほどと思う言葉がいくつもありました。結局、この本のタイトルの通り、仕事も楽しむしかないのかなと思っています。

こういう本から学んだことはいろいろあります。一〇回のうち一回成功すればいいというくらいの気持ちでチャレンジしようとか、やるかやらないかの選択を迫られたとき、やらなくて後悔するくらいなら、やってから後悔しようといったメッセージには、とても共感しました。

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山中伸弥が紹介する「仕事は楽しいかね?」は、2001年の発売以来、20万部以上売れているロングセラーだ。

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同書の大きなメッセージとして、

「試してみることに、失敗はない」

「何を試してきたのかね」

「人は、変化は大嫌いだが、試してみることは大好き」

と、「試すこと」の重要性を繰り返し説いている。

 

その根拠として、同書は、米国で行われた「ホーソン実験」という有名な実験を取り上げる。

 

この実験は、工場の生産高が何によって変わるのかを調べた実験だった。

例えば「照明の明るさ」を変えたり、「休み時間」を変えたりして、生産性を測定した。

だが、驚くべきことに「何を変えても」工場の生産性は30%も上がってしまった。

 

昔の実験であるし、現在の社会学者は「ずさんな実験」と批判する者も多い。

だが著者は、本当に得られた教訓は、「試してみることに失敗はない」だと、主張している。

ホーソーン効果は、被験者の意識のあり方によって正しいリサーチができなくなる例として取りあげられることが多い。

だけどね、現代の社会学者は、事実を誤って認識して、間違った教訓を学んでしまってるんだ。

彼らは、ホーソーンでの実験はいい加減なリサーチだし、失敗に終わった実験だと思ってる。だけど、本当はそうじゃない。あの実験で学ぶべき大切なことは、試してみることに失敗はないということなんだ。

 

 

「試行」と「学習」がセットで、繰り返し行われるとき、大きな推進力が得られる

中には「自己啓発書に書かれていることなんて信用できない」と、懐疑的に見る方もいるだろう。

だが、これらの主張には一定の信頼が置ける。

 

例えば、英国の進化生物学者、リチャード・ドーキンスは、著書「盲目の時計職人」の中で、コンピュータプログラムを用いて、

「どんな些細なものであれ、一つ一つの改善が将来の構築のための基礎として利用される」

ことが、生物進化の原動力になったことを説明している。

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生物は常に、突然変異によって「あたらしい試み」を繰り返し、その環境に適応した結果、現在のような多様で複雑な生命が出来上がった。

つまり、「試みること」と「試みから得られたことを次に活かす」がセットになったとき、「生物の進化」という、とてつもない大きな推進力を得ることができるのである。

 

そういえば、前述した「釣り仲間」の彼は、仕事の同僚から「学習モンスター」というあだ名を付けられていた。

 

「試行」と「学習」のセットを繰り返し行うことが偉大な力をもたらすのは、どうやら間違いなさそうである。

 

 

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(Photo:Eelke

昔、ある会社でM&Aに関わった時の話だ。

といっても買う方ではなく身売りをする方で、業績悪化で事業を切り売りし、何とか延命を図ろうという追い詰められた立場である。

私は取締役CFOで、会社のNo2 としてディール(取引)の実務責任者を務め、買い手候補先と交渉にあたっていた。

 

この時、最後までビット(入札)に残ったのは2社。

私はそれぞれの会社からの条件を取りまとめたが、A社は子会社の買取金額として望外の、破格の金額を提示してきた。

それに対しB社は、買取金額は安めにした上で、それとは別に親会社に転換条項付社債での出資を厚めにすることで、子会社を買い取りたいと交渉してきた。

 

転換条項付社債については、小難しい説明はともかくとして、「親会社もそのうち頂きます」という意思表示である。

条件にもよるが、この時の転換条件はただの「毒まんじゅう」であり、美味しそうに見えても喰ったら即死(親会社のオーナーシップも取られる)するものだ。

 

こんな条件は呑む訳にはいかない。

私は迷わず経営トップに対しA社とのM&Aを進めるように進言したが、経営トップも受け入れたので、さっそくB社に断りの連絡を入れる。

そしてA社とは経営トップ同士で握手も済ませ、後は契約書の調印が残るばかりになった。

 

しかし何事も、交渉事は最後まで諦めなかったものが本当に強い。

その後B社は経営トップが直談判に訪れ、様々な条件を追加して経営トップを口説き続けた。

そして「桃ちゃん。悪いねんけどやっぱりA社との取引はやめる。断ってきてくれへんか。」と言わしめることに成功してしまった。

 

当然私はB社の思惑を説明し、その決断をすれば城を失うであろうことを必死に訴えた。

既にA社とは、経営トップ同士で握手をし、口頭で合意をしているという事実もある。

金額も、数千万や数億円という話ではない。

こんな非常識なひっくり返し方をすれば、本当に会社は信用を失うことになる。

 

しかし経営トップの意思は固く、全く覆らなかった。

 

組織のためならクビになることも厭わない人たち

急に話は変わるようだが、2018年11月30日に定年退官した、一人の自衛官のお話をしたい。

お名前は中澤剛・元陸将補で、退官時の役職は西部方面混成団長。

新人自衛官の教育にあたる責任者であり、多くの上司・部下から尊敬を集めるような人格者でなければ務まらないポストだ。

 

しかしこの中澤元陸将補、実はそれに先立つ2010年2月に「やらかして」しまった経歴を持つ。

当時は大きなニュースになったので、このエピソードを聞けば思い出す人もいるかも知れない。

 

2010年といえば、前年末に政権交代があり、民主党政権が誕生した直後の話だ。

鳩山由紀夫氏が総理大臣に就任し、世の中は民主党フィーバーに湧いているという世情である。

しかし鳩山元総理は就任後、様々な約束や公約を二転三転。

当時のオバマ大統領に、「Trust me!」と大見得を切ったにも関わらず、「あれはパンケーキを勧めただけ」と釈明するなど、日米関係は難しい状況に陥っていた。

 

そんな時だ。

当時、福島県の第44普通科連隊長を務めていた中澤元陸将補は、王城寺原演習場で行われた日米共同訓練の開始式でこんな訓示を、日米の多くの兵士を前に行った。

「同盟というものは、外交や美辞麗句で維持されるものではなく、まして『信頼してくれ』などという言葉だけで維持されるものではない」

明らかに、鳩山元総理の「Trust me」を批判的に引用したものだ。

 

なお予めお断りしておきたいが、私は軍人が最高指揮官たる総理大臣に批判的な言葉を公言することは良しとはしない。

ここではそういった話ではなく、世の中があれほど民主党政権に浮かれている時に、その「人気総理」たる鳩山氏を批判的に公言する想いについて、考えて欲しいという思いで引用している。

どう考えても、中澤陸将補個人には何のメリットもない。むしろ確実に政権から睨まれ干され、ろくでもない結果になることは明らかだ。

 

実際にその後、中澤陸将補は公式に「注意処分」を受け、わずか1年で第44普通科連隊長の職を解かれている。

もし自分の立場であれば、同じことができるだろうか。

明らかに間違っており、組織のためにならないという信念があっても、公然と自社の経営トップを批判的に論じることができる人が、どれほどいるだろうか。

断言するが、ほとんどいないはずだ。だからこそ、大企業では様々な情報の隠蔽が問題になり、取り返しのつかないレベルになってから吹き出す事例が後を絶たない。

 

理由は簡単だ。

そんな事をしても、自分の利益になるわけじゃない。何も得をすることがない。

自分だけで戦っても何も変わらないなら、やるだけバカバカしい。概ねそんなところだろうか。

正直、その判断は組織人として生きる以上、やむを得ないし正しいと思う。

しかし、モヤモヤした思いは残るのではないだろうか。

 

「もういいや・・・どうせ俺の会社じゃないし」

最初の話に戻りたい。

結局、A社との話を断るよう私に指示した経営トップの意志は固く、私は本当に、A社に一人足を運んで断りの挨拶をすることになった。

当然、カウンターパートであった専務取締役が出てきてくれることはなく、担当課長さんが話を聞くだけで10分も経たずに追い出された。

私は結局、経営トップの説得を諦めたわけだが、その時に最後に思ったのは、

「もういいや・・・どうせ俺の会社じゃないし」

というクソみたいな逃げの、自分への言い訳だった。

 

どうせ俺の会社じゃない。

経営トップがそう言うなら好きにすればいい。これだけ言ってもわかって貰えないなら、もうどうしようもない。

 

要するに、他人事だ。

私は会社のNo2でありながら、自分のこととしてこの重大な問題を捉えること無く、最後は投げ出してしまったことになる。

 

私がこの時に取るべき行動は、どんな手段を使ってでも経営トップを翻意させることだったはずだ。組織と従業員のためにならないと本気で信じているのであれば、少なくとも逃げるべきではなかった。

結局のところ、こんなNo2 だから経営トップは、最後の最後に私を信じられなかったのだろう。そんなこと、あたり前じゃないか。

 

何もかも自分が一番の無能だっただけだという事実を受け入れられるようになるまでには、その後ずいぶんと時間が必要だった。

 

翻ってみて、中澤陸将補のことだ。

あの状況で鳩山氏を批判すれば自分の立場が危うくなり、下手すれば懲戒免職になるか、自分や家族も世間から指弾される立場になるかも知れない。

しかし本当に意志の強いリーダーは、そんなことで自分の意志を曲げることはなかった。そして公然と、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、トップを批判してみせた。

 

こんなことができる社員は、本当に組織の宝だ。

なぜなら、会社や組織の問題を「自分ごと」として捉え、会社や組織の問題は自分の問題であり、保身よりも組織にとっての最善を優先しているからだ。

 

もし自分が会社経営者であり、あるいは組織の中で部下を持つ立場であれば、考えて欲しい。

社員や部下が、自分の方針ややり方を批判的に意見してきた時。

その意見が私的な不満やストレスからではなく、組織の最善を思って為されたものであるならば、必ずそこには、見るべきものがある社員であるはずだ。そしてそんな社員こそが、会社や組織にとっての宝ではないだろうか。

 

なお余談だが、中澤陸将補が注意処分を受けた後、第44普通科連隊長のポストから去る時。

見送りには800名もの隊員たちが列をして、多くの隊員たちが涙ぐみながらその背中を見送ったそうだ。

 

また2018年11月30日の退役の日の様子は自衛隊の公式Webサイトでも見ることができるが、多くの隊員たちによって見送られる、とても感動的なものであった。

またその中澤陸将補の、退役ポストとなった西部方面混成団長としての指導方針は、

 

【統率方針】為世為人

【要望事項】範を示せ

 

 

言葉だけでなく、行動でその価値観を示した、素晴らしいリーダーであったのではないだろうか。

目指すべきリーダー像の一つとして、心に強く刻みたいと思う。

 

 

【著者プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

激レアさんを連れてきたとクレイジー・ジャーニー、ピカード艦長が大好きです。

月間アクセス数90万で、日本一の自衛隊ブロガーを自認しています。

(Photo:Jérémy Lelièvre)

学生時代にやってみてよかった事の1つにリゾートバイトがあった。

リゾートバイトというのは、夏季・冬季などの長期休暇中に、海やスキー場にあるホテルの従業員として働くものだ。

 

どういう経緯だったかは忘れたが、学生時代に「最も印象に残ったアルバイト」の話をいろんな大人に聞きまくっていたところ、誰かが

「リゾートバイトがいろんな意味で凄かった」

と言ってたので、興味を持った僕は冬休みにとあるゲレンデにて年末年始を過ごす事にしてみた。

 

申込み自体は非常に簡単だった。インターネットのバイト検索サイトで、テキトーに興味を惹かれたモノを選んで申込みを行うだけで登録完了である。

なお、交通費と寝食費は当然向こう持ちだ。

僕は「ひょっとして、恋のロマンスとかあったらどうしよう」だなんて寝ぼけた事を考えつつ、夜中に新宿で夜行バスに乗って、新潟のとあるゲレンデへとドナドナされていく事となった。

 

ちなみに当然だけど、恋のロマンスは無かった。ハゲのバイオレンスはあったけど。

 

飲食のサービススタッフは凄い

早朝に現場についてホテルの支配人の人に挨拶した後、僕はレストラン部門に配属される事になった。

そこはまさしく地獄だった。僕は4テーブル分のサービス役を仰せつかったのだけど、これが本当に大変だった。

そのホテルではランチ・ディナー共にコース料理を提供していたのだけど、この進行具合を調整するサービス役というのは本当にシンドイ仕事だった。

 

コースは前菜・スープ・メインのように、一品・一品進行する。

当然、厨房にいるスタッフは客席の様子などわからないから、サービススタッフが客と厨房の間を取り持ち、適宜連絡して、全テーブルのコースが滞りなく進行するように務めるのだけど、これが本当に物凄く難しい。

 

料理が最適なタイミングで出るよう、僕らサービススタッフは逐次自分が任されたテーブルをみて客の進行具合を把握し、そろそろ食べ終わりそうだと判断したら、厨房に次の皿を依頼するのだけど、これが本当に人によってバラバラなのだ。

ある客はパクパク食べるし、またある客は話に夢中になって、全然皿の上の料理が減らなかったりする。

このように4組それぞれのコースの進行具合が毎日毎日全然違うので、いつまでたっても仕事に慣れず、凄くシンドかったのを今でも覚えている。

 

今でもよく覚えているのだけど、とある客があまりにずっと喋ってるから、もう食べないのかと思い、厨房に「次の皿の準備、お願いします」と依頼した後に、皿を下げようとすると

「まだ食べるからもうちょっと待って」

と言われ、その皿が食べ終わる前に厨房から

「次の料理ができたから、熱々のうちに客に持ってってくれ」

と言われ、目の前が真っ暗になった事がある。

こういうミスをする度に、僕は圧倒的な絶望感に打ちひしがれたものだった。

 

こうしてコース料理の進行具合を把握するだけでも大変なのに、その合間合間で水をくれやらワインの注文が入ったりするやらで、もう僕の頭はてんてこ舞いである。

「この料理にあうオススメのワインは?」と聞かれても、その当時の僕はワインなんて全然詳しくなかったから「・・・」状態だったし、「この料理はなんて料理?」なんて聞かれても、ほぼ毎日メニューが変わるから、覚えきれるはずもなく

「・・・お、お肉料理ですね、ちょっと待ってください。確認してきます!」

ぐらいしか答えられなかった。

 

これが週に何日かならまだしも、延々と契約した一ヶ月もの間ずっと続くのである。

飲食業の労働環境は過酷だ。夜中の23時に仕事が終わり、食事を食べて風呂に入って就寝したら、もうランチタイムが始まる。

 

初めは「医学生なのか。じゃあ頭がいいからパフォーマンスもいいだろう。期待してるぞ!」と激唱を飛ばしていたハゲの支配人も、だんだんと僕が使えないとわかると、見えない所で足を蹴っ飛ばしたり、「なんで何回も教えたのに、いつまでたっても仕事を覚えないんだ!」と恫喝したりと、次第にパワハラちっくな制裁がしょっちゅう下るようになった。

「サービス業って、なんて辛いんだろう。レストランで飲み物が遅かったり、頼んだ料理が出てくるのが遅くても、絶対にサービススタッフの人に二度と文句なんて言えないわ・・・」

 

こうして、3食付・住み込みで数週間ホテルに缶詰された僕は、終わりの日がくるのを刻一刻と待ちわびていた。

その間もいろいろなドラマチックなバイオレンス経験はあったのだけど、全部書いてると永遠に終わらないので、僕のリゾートバイトの経験についてはこんな所で割愛しよう。

 

こうして僕は10万程度のお金と、ホテルや飲食に関わるサービススタッフへの敬意を学び、幸せな日常生活へと帰る事となった。

正直な事をいうと、終わったばかりの頃は、リゾートバイトをオススメされた理由がサッパリわからなかった。

確かに学生にとっては10万円は大金だったし、タコ部屋に詰め込まれ様々な社会階層の従業員と関わり合うのは楽しかったけど、それ以上にクッソシンドかったとしか思えなかったからだ。

正直、内情をしってたら、たぶん絶対に応募しなかっただろうと思う。

 

ただ最近になって、Google mapでその街をみた時、なんともいえない懐かしい感情がブワッとせり上がってきた。

そうして思い出を愛でている中で

「ああ、この感情はリゾートバイトをあの時にやらなかったら、絶対に味わえないものだったんだなぁ」

と思い、感慨深くなってしまった。

まさに喉元過ぎれば熱さを忘れるである。

 

お金はモノよりも体験に突っ込んだ方が幸せになれる

これと関連した話を1つしよう。コーネル大学の心理学教授、トーマス・ギロヴィッチ博士らは、20年にわたり、お金を何に使えば人は幸せになれるのかを研究した。

その結果、経験にお金を支払う方が、目に見えるモノを買うよりも幸せを感じやすい傾向がある事を突き止めたという。

<参考 お金を「経験」に使うことで、人は幸せに…!?

 

つまり、ブランド物のバッグや高級な時計を買うよりも、旅行に行ったり好きな歌手のコンサートに行ったりするほうが、相対的には幸福の増大に寄与するのだという。

その理由を博士はこう分析している。

「物を所有することに比べると、経験は一瞬で消え、後にはほとんど何も残らないと考えられている。しかし実際は経験したことはずっと覚えているが、所有物については忘れてしまうものだ」

 

例えば、家族旅行は何年たっても忘れられないものだが、数年前に買った高い買い物についてキチンとおぼえている人はとても少ない事を考えてもらえば、これの整合性は簡単にわかるだろう。

「幸せの敵の1つは、慣れである。幸せを感じるために物を買い、それに成功するとしよう。しかし、それではほんのわずかの間しか幸せになれない。なぜなら最初のうちは新しいものは刺激的だが、そのうちに慣れてしまうからにほかならない」

 

素敵な恋人との恋愛も、いつか日常生活となるし、欲しくて欲しくてたまらなかったオモチャも、手に入れてしまえば色あせるものだ。

けど、思い出はいつでも色あせない。そういうものである。

 

思い出は何よりも価値がある

思うに、豊かな人生というのは、結局のところ積み上げてきたこれまでの人生の集大成にほかならない。

ある日、ポーンと天から1億円が降ってきたら、その時は確かに幸せになれるかもしれない。

けど、冷静に考えてみればわかるけど、お金≒幸せではない。お金が無いのは不幸だけど、お金を上手に使えないのも、それはそれで不幸だろう。

 

どんなにお金があろうが、嫌な奴らと付き合い続ける事を強要されたら全然楽しくない。

お金は、結局のところ便利なツールでしかないのだから、それに振り回されるのは本末転倒である。

 

故に自分が幸せになれる生活水準を絶対値として把握できたら、それ以上は過度に追い求める必要なんてない。

あとは旅行とかのレジャー体験に突っ込んだほうが絶対にいい。

 

そして旅行に行くようなお金がないからといって、思い出が作れないと諦める必要もない。

例えば、僕のリゾートバイト経験なんかがそうだけど、非日常を体験するには必ずしもお金が必要というわけでもない。

 

振り返ってみれば、僕のリゾートバイト体験はお金を稼ぎつつ、サービス提供者の裏側を覗き見れるよい機会であったな、と思う。

家でゲームをやっていたんじゃ、こんな密度の濃い思い出に浸る事は絶対にできなかっただろう。

 

僕にパワハラを食らわせたハゲの事は一生許さないけど、まあ総じて見ればリゾートバイトは良い経験だったなとは思う。

お金をもらって、シベリア収容所の囚人の気持ちを疑似体験できたと思えば、まあ悪い経験でもない。

 

思い出は、何にも増して価値があるし、振り返った時にこそ、その真価が発揮されるものなのだ。

良い思い出も、大変な思い出も、たくさん作れば作るほど、人生の肥やしになる。

 

さあ、あなたも非日常のバカンスへ出かけよう。10年後、それは素敵な思い出になっているはずだから。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Jonas Bengtsson

またひとつ、女性をテーマにした広告が炎上した。

今回は、小学館が発行する女性誌『Domani』のキャッチコピーだ。

「働く女は、結局中身、オスである。」

「”ママに見えない”が最高のほめ言葉」

「忙しくても、ママ感出してかない!」

などなど、まぁ炎上するのもさもありなん、という感じだ。

 

女子ハンドボール世界選手権大会が開催される熊本では

『手クニシャン、そろってます。』

『ハードプレイがお好きなあなたに。』

なんて街灯バナーを出して批判が殺到、謝罪と撤去にいたった。

 

仲良く見える女性たちがウラで髪や服を引っ張っている、ロフトのバレンタイン広告。

パイを投げつけられた女性に、誤解をまねくようなポエムコピーをつけたそごう。

女性のワンオペ育児賛美のように見えるユニ・チャームのCM。

職場で男性のセクハラ発言に対し「(あなたが)変わるべき」としたルミネのウェブムービー。

男性上司に「がんばりが顔に出ているうちはプロじゃない」と言われる女性を描いた資生堂……。

いくらでも例はでてくる。

 

なんで、これらは炎上したのだろう。

 

女性蔑視、ジェンダーロールの押し付け、男性目線、広告の狙いがわからない。

そういうのももちろんあるけれど、こういった広告への抗議や批判の理由のひとつは、「なんだよわたしの味方じゃないのかよ」という、がっかりする気持ちがあるような気がする。

 

女性にウケるキャッチコピーはどういうもの?

女性に関する広告の炎上は、ここ数年でかなり増えた。

なにをもって「炎上」と言っていいのかはわからないが、多くの対応が謝罪&撤去であることを考えると、企業的にも「よけいな地雷を踏んじまった」という自覚はあるのだろう。

 

一方で、「騒ぎすぎ」「言葉狩り」「なんでも文句を言うな」と言う人もいる。

このあたりは個人の価値観によるけれど、たしかに文句ばっかり言うのもアレなので、「いいキャッチコピーとは」と考えてみた。

 

最近では、ゼクシィの

「結婚しなくても幸せになれるこの時代に、私は、あなたと結婚したいのです」

というコピーが話題になった。

『ブレーン読者が選ぶ広告グランプリ2017』のグランプリに輝いたCMで、わたし自身、とてもいい広告だと思う。

 

パンテーンの

「自由な髪型で内定式に出席したら、内定取り消しになりますか?」

「ひっつめ髪をほどいた就職活動が、この国の当たり前になりますように」

もまた好評だった。

「#就活をもっと自由に」というハッシュタグは話題になり、多くの人がSNS上でリアクションしている。

 

同じく就活をテーマにした、伊勢半の広告もいい。

「顔採用、はじめます。」

という思い切った一文から、就活用メイクではなく、ばっちりメイクでもノーメイクでもいい、本当のあなたに会いたい、と続く。

どれも、とても素敵なメッセージだ。そうそう、こういうのがほしかった。

 

求められるのは強い言葉より優しいメッセージ

この3つの広告は、だれのことも否定せず、自由を認め、願い、ターゲットとなる人たちにそっと寄り添っている。

強いメッセージで「こうしろ」「こうあるべき」と押し付けることもなく、ただ「こうなったらいいよね」「こういうの素敵だよね」と言っているだけ。

素朴で率直、わかりやすく優しいメッセージだから、ウケたのだと思う。

 

これがたとえば、「結婚しないと幸せになれない」と生き方の選択肢を減らしたり、「自由な髪型で内定をとるためにがんばろう」とこっち側に努力を押し付けたり、「就活メイクにばっちりの化粧品です」と化粧の強制ととられうる表現をしたら、たぶんウケなかった。

いま多くの人を惹きつけるのは、強いメッセージじゃなくて、優しいメッセージなのだ。

 

じゃあ、なぜ優しいメッセージがウケるのか?

それはたぶん、強いメッセージに思わず反抗したくなってしまうほど、多くの人のこころに余裕がないからだと思う。

 

女だから子どもを産んで家庭的なお母さんになれ、かと思いきや、働いてかっこいい女性になれ。しかもそういうプレッシャーと戦うことも期待されるんだから、いや本当、勘弁してください。

 

これはたぶん男性も同じで、いま「24時間働けますか」なんて言われたら、「無理だろ殺す気か!? 働いても給料は上がんないじゃん!」と不満が溢れてくるだろう。

権力のある人や異性から笑われて「悔しかったら変わりましょう!」なんて言われたら、だれだってイラっとすると思う。

 

多くの人は日々、社会のなかで、「プレッシャー」という無言の強いメッセージを感じている。でも社会全体が、「こうあるべき」に対する嫌悪感を強めていっているのも事実。

プレッシャーを感じつつ、そのプレッシャーをおかしいとも思う。そのあいだに立たされているから、多くの人が疲れるのだ。

違和感をもちながらもプレッシャーを受け入れてそのとおりにするか、おかしな風潮と戦うかの、2択だから。

 

そこでさらに「こうしろ!」「こうだ!」という強いメッセージを受信してしまうと、もういっぱいいっぱいになるんじゃないだろうか。

少なくともわたしは胃もたれする。「うるさい放っておけ」と思う。

企業に理想の消費者像を押し付けられるのはごめんだ。ただ「あなたの味方です」と言ってもらえば、それで十分なのに。

 

女をターゲットにしておきながら女を敵に回す悪手

結婚しない人の自由を認めつつ結婚する人へ向けたゼクシィや、髪型の自由を求めるパンテーン、性別や就活メイクなんかにとらわれず自分らしくおいでという伊勢半。

どれもターゲットに対し、「あなたの味方ですよ」と言っているのだ。

だから、それを見たほうは安心する。このブランドはわたしを傷つけないんだ、と。わたしはこのままでいいんだ、と。

 

お互いの背中を引っ張りあっている女性を描いたロフトは、バレンタインチョコのメイン購買層である女性の味方とはいえない。

働きながら母親業もこなす女性にたいし「”ママに見えない”が最高のほめ言葉」というのは、その努力をバカにしていると理解されてもおかしくない。

 

女をターゲットにしているくせに、女である「わたし」の味方じゃないというのは、やっぱりモヤっとする。

だから批判したくなるし、もうこれ以上「女」であることでわずらわされたくない!と言いたくもなる。

 

逆にいえば、たいしたことを言ってなくとも、「わたしはあなたの味方です」と優しくターゲットに寄り添いさえすれば、多くの消費者、広告のターゲットはすんなり受け入れると思う。

 

心に残るコピーは、素朴で優しい

というわけで、味方感あふれている、わたしが好きなコピーをいくつか挙げておきたい。

 

たとえば、『ココロも満タンに、コスモ石油』。どこへ行け、と指示するわけではなく、ただ「ドライブ楽しんでね!」というコピー。

『すぐそこサンクス』『あなたとコンビにファミリーマート』『セブンイレブンいい気分』など、コンビニ系もなかなか強い。ふらっと遊びに行ける感じがする。

「そうだ、京都行こう。」なんて、ただの提案というか、思いつきだ。それでも「そうやってふらっと来ても楽しめるところだよ」「いつでも来てね、待ってるから」という優しさがにじみでている。

 

どれもこれも、「あなたの味方ですよ」と伝えているのだ。「だからどうぞいらっしゃい」と、笑顔で優しく手招きする。押し付けがましさはない。

 

愛されるキャッチコピーというのは、ものすごい強いメッセージを発しているわけではなく、むしろ素朴。大それたことを言っているわけではなくて、ただ「わたしはあなたの味方だよ」と言っているだけ。

だから消費者は安心して利用できるし、心に残るし、ましてや炎上なんてしない。そう思う。

 

キャッチコピーは「あなたの味方」宣言

アクセス数を稼ぐために過激なタイトルをつけるネット記事やフェイクニュース、あえてだれかを貶めて注目をあびる炎上商法、「こうするべき」というプレッシャー。

そういったものを日々受け取っている人たちが求めるのはきっと、優しくて素朴で無理のない、「あなたの味方です」というキャッチコピー。

 

言葉が強ければ強いほど、押し付けがましくなる。そういう重荷は、もうこれ以上いらない。お腹いっぱい。派手で強い言葉を使って押し付けなくても、丁寧に伝えてくれればそれでじゅうぶん。

 

少なくともわたしは、「働く女はオス」と銘打つ雑誌をより、「結婚してもしなくてもいいけどあなたとだからしたい!」という気持ちでつくられた雑誌を読みたい。

 

これからのキャッチコピーや広告は、強い言葉でターゲットの心に突き刺すよりも、忙しくて疲れたひとびとの心に浸み込み、癒し、いっしょに肩を並べる味方だと思ってもらえるようなもののほうが、いいんじゃないか。

広告=「あなたの味方」宣言だと考えれば、炎上なんてしないだろう。たぶん。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Vinylone)

ショットバーの話をします。

子どもが産まれて暫くはやめていたのですが、最近、仕事で遅くなった時など、ふらーっとショットバーに行くことがあります。

マッカランをちびちび飲んで、気が向いたらマスターとちょこちょこお喋りをして、帰ります。適当にカクテルをお願いすることもあります。

 

ショットバー探訪は私の昔からの趣味のようなものでして、店によって味から雰囲気から居心地から全然違うので、色んな店に行ってそれぞれの店のスタンスの違いを観察するのが好きです。

客から話しかけなければマスターが一言も話さないバーもありますし、客の雰囲気を観ながらマスターがどんどん話しかけていくバーもあります。

タイやらベトナムやらの装飾品があちこちにぶら下げてあるバーもあれば、ドイツの田舎風の調度をそろえてあるバーもあります。

 

大筋、ショットバーは「なんか格好つけたくなった時に行く場所」と考えていいでしょう。

ショットバーのカウンターでちびちびとお酒を飲んでいる時の、「なんか俺かっこいい感」は相当なものです。

私ランキングでは、「なんか俺かっこいい感」にひたれる場所ベスト1が夜のショットバーで、ベスト2が夜の公園です。

もっともこの季節夜の公園は大体寒いので、事実上ショットバーが一強ということになります。いわゆる中二精神の純粋な発露といってもいいでしょう。

 

以前も一度書いたんですが、20年ちょっと前、バーの二階に住んでいたことがありました。

元々は従業員が仮眠をとる為の部屋で、エアコンもなければ風呂もシャワーもなく、トイレはバーのトイレと共用でした。

夜の営業中にはバーのトイレが使えないので、私はわざわざ近所の公園のトイレに用足しにいかなくてはいけませんでした。

 

夏はやたらと熱く、冬はやたらと寒い部屋でした。

壁はいわゆる土壁で、何もすることがない午後、壁をこすると細かい砂がぱらぱらと落ちてきました。

 

そのバーは今ではもうありませんし、そのバーのマスターも今はもういません。

その頃の話は、下記の記事で書きました。気が向いたら読んでみてください。

とあるバーの二階に住んでいた頃の記憶。守れなかった約束を増やしてしまった話。

 

ところで、これはどのお店でもそうだと思うんですが、ショットバーはリピーター商売です。

「何人のリピーターを作れるか」というのは、そのショットバーの生き死にに直結します。

今生き残っているショットバーにはほぼ例外なく何人かの熱心な常連さんがいるでしょうし、数名の常連さんの足が遠のいたらそれだけでそのバーの経営は傾き兼ねません。

ですから、余程の人気店でもない限り、ショットバーのマスターは「どうやってリピーターを作るか」ということに腐心します。

 

かつて私が住んでいたバーにも、勿論何人もの常連さんがいて、一部の人は私とも顔見知りでした。

近所のちょっと大人な感じのお店で働いているお姉さんもいれば、毎週金曜日、ぴったり21時に店を訪れるサラリーマン風のおじさんもいました。

2階にまで聞こえるくらいの声で(といっても防音などあってないようなものでしたが)泣きながらお酒を飲む女の人もいましたし、毎度余命一か月と自称しながら3年くらい店に通っているというお爺さんもいました。

 

色んな人がいましたし、色んな人生のひとかけらを目撃しました。

私自身にとっては色々と大変な時期だったのですが、一方滅多矢鱈と楽しい時期でもあったような気がします。

 

その当時マスターに聞いた話で、ちょっと面白いなーと思ったことがあります。

記事にする許可はとっていませんが、まあ流石に時効でしょうから書いてしまいます。

 

私は、マスターを「場を作る天才」だと思っていました。

マスターは「人の雰囲気を見て、その人が話しかけて欲しがっているかどうかを見分ける」名人でして、マスターが話しかける時は大抵どのお客さんも喜んで話していましたし、一方一人で飲みたそうな人はマスターは放っておいて、何時間でもちびちび飲み続けてもらっていました。

知らない人同士を話に巻き込むこともあって、そのバーでの出会いがきっかけで友人関係になった人も、恋愛を経て結婚することになった人も何人かいます。

 

だから私は、マスターのことを、「一見さんでも居心地のいい空間を作って常連にしてしまう人」なんだろうなーと思っていました。

一見さんに、この店いいな、何度も通いたいな、と思わせることが出来る人なんだろうと思っていました。

 

ただ、そう言ってみると、マスターは「それはちょっと違う」と言うのです。

「「居心地がいいなー」でリピーターになってくれるお客さんって、実はあんまりいないの。大抵は一回なんとなく満足してそれでおしまい。

むしろ、常連さんと一見さんがいたら、常連さんの方の扱いを重くして、一見さんはちょっと居心地悪いなと感じるくらいにしちゃう」

 

意外な答えだったので私は驚きました。

「え。けどそんなの、一見さんもう来ないじゃないですか」

「そうだよ。十人の内九人はもう来ないよ。けど十人いたら一人くらいは、「あ、常連になりたいな、俺もああいう風に重く扱われたい」と思ってくれんの」

「はあー…」

「満足感って意外と印象強くならないんだよ。けど嫉妬っていうか、羨ましさは凄く印象強い。

不快にならない程度に「羨ましい」って思ってもらえたら、その人がリピーターになってくれる可能性が上がる。

十人中一人リピーターになってくれたら店としては万々歳だよ。三十人に一人でもおつりがくる」

 

なるほどなあ、と思ったわけです。

つまり、大事なのは10人に60%の「居心地がいいなあ」という満足感を与えることではない、と。

10人中9人に20%の満足感しか提供出来なかったとしても、1人に「羨ましい!俺もああなりたい!」という100%の印象を与えることが出来れば、その方が遥かにいいんだ、と。

えらい感心してしまいまして、今でもこの時の会話は結構細かく覚えている訳なんです。

 

勿論これは、当時のその店のマスターの考え方であって、どこでも使える方法論のような話ではありません。

店によっても、時代によっても違うのかも知れません。

webによる口コミ全盛の今の時代だと、一見さんに対する「ちょっと居心地悪い」という印象はそれだけで致命的になってしまう可能性もあると思います。

そもそも当時のマスター自身、時と場合によってやり方を変えていた可能性も大いにあります。

 

ただ、「十人をなんとなく満足させるより、十人中九人外しても一人に強烈な印象を与える」というのは、今でもちょくちょく意識する方法論です。

何かを書く時も「誰かひとりに強烈な印象を与える」ということを目指して書きますし、とことんニッチなことを書くこともしばしばあります。まあ、実際刺さっているかどうかというのは別の話ですが。

 

そんなことを思い出しながら幾つかのショットバーに行ってみると、なるほど、一見さんと常連さんの扱いにも色んなスタンスがあるなあ、と思います。

可能な限り一見の私にも居心地良いようにしてくれるお店もあれば、明らかに常連さんに重きを置いているお店も勿論あります。

私自身が「刺さる客」なのかどうかはまた別の話ですが、それぞれのマスターの方針が垣間見えるのは、ショットバー探訪の醍醐味の一つでもあります。

 

一方、最近ショットバーに行く時、かつて住んでいたあの店のことを思い出します。

東南アジアの木像がごてごてと置いてあって、一方マスターが自慢げにボトルシップを飾り出したりもして、雰囲気的には何を意識していたのかさっぱり分からなかった、あの店。

チキンライスが密かな人気メニューで、家賃替わりに皿洗いを手伝わされたこともあった、あの店。

今ではもう地上に存在しないバーですが、多分あの頃店に通っていた常連さんの何人かは、今でもあの店のことを覚えているのではないかなーと。そうだといいなあ、と思います。

 

私自身、十人中九人には読んで五秒で忘れられても、一人くらいには何年か後に思い出してもらえるような、そんな文章が書けるといいなあ、と。

そんな風に考える次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Rich Grundy)

就活シーズンが始まった。

毎年このシーズンになると、学生の方々からの相談が増える。

 

多いのは「仕事のやりがい」についての質問だ。

「今の仕事は、やりがいがありますか?」

「どんなときにやりがいを感じましたか?」

「やりがいがないな、と思ったときは、どんなときですか?」

 

そんな時、いつも考え込んでしまう。

仕事のやりがいは、たとえルーティンワークなど些細なことであっても得られるので、「どんなところからでもやりがいは感じられます」と言いたいが、それを丁寧に説明するのは非常に難しい。

私は聞く。

「なぜ、そんなにやりがいが重要なのですか?」

 

その学生は

「やりがいのない仕事は、楽しくないから続けられないと思って。」

という。

 

私は答えた。

「どんな仕事でも「やりがい」を作り出すのはそれほど難しくないです。でも、それが「楽しいか」と言われると、相当の疑問が残ります。例えば、プロスポーツ選手の厳しいトレーニングは「楽しそうだ」と思いますか?」

 

学生はキョトンとして聞き返す。

「やりがいがある仕事は、楽しいのでは?」

私は言った。

「それは嘘です。やりがいと、楽しさは別です。ですから、楽しく仕事をしたいなら、やりがいを求めすぎると、実は楽しくなく、期待はずれに終わる可能性が高いです。」

 

「やりがい」と「楽しさ」は別で、両方があってこそ、人は幸福になる。

行動科学では、「やりがい」(=自分のやっていることに価値を感じる)は幸福感にとって、非常に重要であることがわかっている。

たとえ金持ちであって、快楽(=楽しい、気持ちいい、美味しい など)に好きなだけおぼれることができても、何かしらの「やりがい」のない人生は、幸福を得づらい。

 

一方で、「やりがい」だけでは、人は疲弊してしまう。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの行動科学教授、ポール・ドーランは「幸福には、快楽とやりがいの両者が必要」という。

公共政策に役立てるという前提で人生における幸福について問うと、〝日常的な幸福と不幸〟を重視すると答えた回答者は、〝自分のやっていることに価値を感じるか〟を重視すると答えた回答者とほぼ同程度だった。

言い換えれば、快楽とやりがいの両方が私たちにとって重要だという結果だ。

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(出典:ポール・ドーラン 幸せな選択、不幸な選択――行動科学で最高の人生をデザインする)

つまり、「やりがい」と「快楽」は別であり、幸福な生活には「快楽」と「やりがい」の両方のバランスが取れていることが必要なのだ。

 

長時間労働(=極端に快楽が少ない状態)も、毎日寝てばかりの生活(=極端にやりがいの少ない状態)も、幸福になりにくいのである。

 

仕事は、手頃に「やりがい」を得ることができる

ただし、人は、ある程度どんな仕事でも、工夫次第で「やりがい」を感じてしまうことができる。

 

実際、「フロー(=精神的に集中しており、活発な状態)」の研究で知られる、米国の心理学者、ミハイ・チクセントミハイは、

「人は仕事中に頻繁にフロー状態を報告し、余暇にフロー状態がまれであった」

というデータを報告している。

仕事中、人々は能力を発揮し、何ものかに挑戦している。したがってより多くの幸福・力・創造性・満足を感じる。

自由時間は一般に取り立ててすることがなく、能力は発揮されておらず、したがって寂しさ・弱さ・検体・不満を感じることが多い。

[amazonjs asin="4790706141" locale="JP" tmpl="Small" title="フロー体験 喜びの現象学 (SEKAISHISO SEMINAR)"]

 

さらに、現代社会では、仕事は財貨と社会的な地位を得る、最も重要な手段だ。

それゆえ、職業が「人となり」を表していると考える人も多い。

実際、ほとんどの大人が初対面の人に尋ねる質問は、「お仕事は何をなさっていますか?」である。

 

だから、現代人は「仕事」に多くを求める。

例えば、リクルートの調査によれば、「仕事には働く喜びが必要」と考える人が8割にのぼる。

(出典:https://www.recruitcareer.co.jp/company/vision/pdf/research_report.pdf)

 

「やりがいの搾取」はどこにでも存在する

以上の事実が示す通り、人は仕事にやりがいを求め、仕事はやりがいを生み出し、やりがいは幸福感を生み出す。

それはそれでよい。

 

しかし、「仕事のやりがい」を餌に、そこに付け入ろうとする組織も後を絶たない。

 

例えば、社会学者の本田由紀は、「やりがいの搾取」への警告を発する。

若者たちのなかにも、こうした「〈やりがい〉の搾取」を受け入れてしまう素地が形成されている。

「好きなこと」や「やりたいこと」を仕事にすることが望ましいという規範は、マスコミでの喧伝や学校での進路指導を通じて、すでに若者のあいだに広く根づいている(①趣味性の素地)。

しかし、実際には、企業組織内のハイアラーキー(ピラミッド状の階層構造)の底辺部分に位置づけられて、何の権限も与えられないことも多い若者にとって、裁量性や創意工夫の余地がある仕事は希少価値をもつものとして憧憬の対象となっている(②ゲーム性の素地)。

また、日本の若者のあいだでは、自分の生きる意味を他者からの承認によって見いだそうとするためか、「人の役に立つこと」を求める意識がきわめて強い(③奉仕性の素地)。

さらに、「夢の実現」などの価値に向かって、若者が自分を瞬発的なハイテンションにもっていくことによってしか乗り切れない、厳しく不透明な現実も歴然と存在する(④サークル性・カルト性の素地)。

これらの素地につけいるかたちで、「〈やりがい〉の搾取」が巧妙に成立し、巻き込む対象の範囲を拡大しつつあるのが現状だと考えられるのである。

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実際、職場では「やりがい」を追求した結果、疲れ切ってしまっている人も少なくない。

内閣府の調査では、仕事の内容・やりがいに満足している人は全体の約半分程度であり、特に男性の40代は、不満を抱えている人のほうが多い。

(出典:https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/research/cyousa21/net_riyousha/html/2_4_2.html)

やりがいは挑戦を作り出すことで生まれるので、どんな仕事でもやりがいがあるように変えることはできる。

だが、「やりがいがない(と自分が感じる)仕事をしている」=「自分には価値がない」と容易に考えてしまう人も多く、これは、現代人の病の一つなのかもしれない。

 

でも、本当はそうではない。

例えば、元名古屋大助教授であり、小説家の森博嗣は「仕事にやりがいを見つける生き方は素晴らしい 」という価値観にNOという。

なんとなく 、意味もわからず 、 「仕事にやりがいを見つける生き方は素晴らしい 」という言葉を 、多くの人たちが 、理想や精神だと勘違いしている 。

それは 、ほとんどどこかの企業のコマ ーシャルの文句にすぎない 。そんな下らないものに取り憑かれていることに気づき 、もっと崇高な精神を 、自分に対して掲げてほしい 。

[amazonjs asin="4022735023" locale="JP" tmpl="Small" title="「やりがいのある仕事」という幻想 (朝日新書)"]

 

趣味にやりがいを見出す人もいれば、ボランティアや子育てにやりがいを見出す人も数多くいる。

無理に仕事に「やりがい」を見出す必要はないし、どんな仕事であっても、それなりに「やりがい」を見つけることはできる。

 

また、やりがいを追求すればするほど、楽しさはなくなり、鍛錬の要素が強くなり、「楽しさ」は遠ざかる。

結局、人は、やりがいをもとめて働かなくても、幸せになれるのだ。

 

そういうことを、どうやってうまく伝えていけばよいのか。

就活シーズンが始まるたびに、相談を受けるたびに、悩むのである。

 

 

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(Photo:Carol VanHook

最近、テトリスが我が家ではブームになっています。

というのも、ニンテンドースイッチのオンラインサービスとして、『テトリス99』なる対戦テトリスゲームが遊べるようになったからです。

この対戦テトリスは合計99人で争われるバトルロワイヤル形式で、一見、とても難しそうにみえますが、最初はブロックの落下速度がゆっくりなので初心者でもそれなり遊べます。

上手な人同士が勝手に潰しあってくれたり、途中で嫌になってやめてくれる人もいるので、10位ぐらいまでならちょっと頑張れば入れるのではないかと思います。

ただ、残り10人ぐらいになるとさすがに難しいというか、ブロックの落下速度も速くなり、慣れやテクニックが求められてくるのですが。

 

でもって、子どもが「テトリスの良い動画が観たい」といってパソコンで動画検索をはじめていました。

さすがに今時の子どもというか、わからないことは文章で検索する前に動画検索で調べるのですね。

 

さあ、それなら父としてちょっと面白い動画を紹介してみようじゃないか。

私は子どもに「『テトリス グランドマスター3 認定』で検索してごらん」と伝えました。そうすると、以下の動画が出てきます。

この恐ろしいテトリスは00年代のパズルゲームファンを大いに喜ばせ、マニア系のゲームセンターでは練習を繰り返す修行者の姿をしばしば見かけました。

が、ゲームセンターにこのようなテトリスが存在し、一生懸命に挑んでいたファンがいたことを知らない子どもには、インパクトのある動画体験になったようです。

 

せっかくの機会なので、T-spinなどのテトリスのテクニックについても動画で調べてもらいました。一連の動画体験で、子どものテトリス世界観がグッと広がったようでなによりです。

 

ネット検索は知っていることしか教えてくれない

以前私は、ネット検索について以下のようなことを書いたことがあります。

「知識を手に入れるための知識」がない人にとって、Google検索はあまりにも難しい。

現状のGoogle検索の正体は、「知識の無い人に知識を授ける」ツールではなく、「知識の豊かな人だけが知識を引き出せて」「知識の乏しい人には質の良くない知識しか与えない」ツールと言っても過言ではありません。

あるいは、知識の豊かな者と乏しい者、リテラシーの豊かな者と乏しい者の格差を拡大再生産するツールになってしまっている、とも言い換えられるかもしれません。

「いまどきのネット検索は、知識の豊かな人だけが豊かな情報を引き出せる」という認識は、現在のネット検索にも通用するものだと私は思っています。

 

子育てに関して、このことを考えてみましょう。

まだ知識やリテラシーの乏しい子どものネット検索では、どうしても検索範囲が狭くならざるを得ません。

うちの子どもを観ていても、年齢相応には頑張っているものの、調べたい対象の、調べたい情報を引っ張り出せない場面もまま見受けられ、私が検索を手伝わなければならない場面がしばしばあります。

 

とりわけ、検索の鍵になるワードを知らないがために検索の範囲が制限されることが多いようです。

子どもを観ていて気付いたのですが、検索の鍵になるワードを知らず、検索の視界が制限されていても、そのことを自覚するのは難しいのですね。

 

たとえば「(ゲームの名称) ラスボス 攻略」という検索ワードでもそれなり面白い動画が出てきますが、これに「低レベル」とか「縛り」という鍵ワードを入れるともっと刺激的な動画に出会うことができます。

そのことを知らなかった頃の子どもは、当然ながら、自分が鍵ワードを知らないという自覚が無かったのでした。

 

これは、大人でもありがちな問題で。たとえば京都のおみやげについて調べたい時・南イタリアの現地情報を調べたい時、検索の鍵となるワードを自分が入力できているかどうかは、自分だけではわかりません。

論文や書籍の検索にしてもそうです。検索の鍵となるワードを知らないがゆえに遠回りしていても、そのことを自覚し、自分一人でどうにかするのは案外難しいように思われます。

 

「子どもとたくさんお喋りして」「語彙力を授けよう」

子どもとネット検索の話に戻ります。

子どもが大人並みの検索ワードを使いこなすまでには、それなり時間がかかるでしょう。それまでの間、親としてどんなお手伝いができるでしょうか。

 

第一に、一緒にネット検索すること、そして体験を共有すること。

子どもが検索しきれていない時に親が代わりに検索する……というのも勿論良いでしょうし、それが必要な場面もあるでしょう。

ただ、これを頻繁にやると「親に検索してもらう」という変な習慣ができてしまうかもしれませんし、割り込んでやるようだと鬱陶しがられてしまうのが関の山のようにも思えます。

 

それでも、複数台のPCやスマホを使って一緒にネット検索をやって、面白い情報や感動的なショットを一緒に見つけ出した時などは、良い体験が残るのではないでしょうか。

 

我が家では去年、学校の自由研究のことで、家族全員でトンボの生涯についてネット検索したことがありました。

で、うちの奥さんが見つけてくれて、家族全員でエキサイトしたのが以下のウェブサイトです。

 

ヤゴペディア/ヤゴの総合ページ

 

このウェブサイトは、たくさんの種類のトンボの卵~成虫まで、ありとあらゆる情報が網羅していて、古き良きインターネットの宝物庫、といった趣があります(ちなみにこのウェブサイトに辿り着くための最良の検索ワードは「ヤゴ サイズ」のようです)。

「検索ってスゴい! 面白い!」という体験を家族で共有できた時には、検索の良さや可能性について何かが伝わっているんじゃないかなと私は思っています。

 

それともうひとつ、「できるだけ子どもと話をすること」。

そもそも、ネット検索の土台となるのは知識であり、語彙力です。

語彙力は、ある程度は学校で教わって身に付けるものですが、周囲との会話をとおしていつの間にか身に付けていくものでもあります。

 

である以上、子どもとたくさんの言葉を交わすこと・子どもの話を聞いてそれに応じることが、遠回りのようにみえて一番大切なのではないでしょうか。

 

教育熱心な親御さんのなかには、勉強の足しになるような会話を心がけたほうが良い、と考える方もいらっしゃるかもしれませんし、実際、そうなのかもしれません。

ですがさしあたり、親のほうが子どもよりも語彙力がある以上、どんなジャンルのどんな会話であっても語彙力習得の足しになるのではないか、と私は考えています。

 

個人的には、勉強の足しになるかどうかといった下心を持って会話するより、興味や関心をとにかく共有して、色んなことを楽しく会話することのほうが重要のように思っています。

そのほうが記憶にも残りやすいでしょうし、親子の関係づくりにもプラスになりそうですし。

 

その点では、ネット検索や動画についての会話はうってつけといいますか、興味や関心を共有しながら語彙力を増やす良いチャンスだと思います。

親として、良きネット検索案内人であることと、良き語彙力のインストーラーであることは、相反するものではないはずです。

お子さんのいらっしゃる方は、お子さんとご一緒にネット検索を楽しまれてはいかがでしょうか。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:)

前回、凡人が何者かになるためには大当たりがいつか出ると信じて、ガチャを回し続けるしかないという記事を書いた。

凡人が何者かになるためには大当たりがいつか出ると信じて、ガチャを回し続けるしかない

 

内容を簡単に要約すると、凡人が何者かになるには最低でも10年程度の地道な努力が必要で、それを複数分野にわたって分散投資し続け、いつか当たると信じて頑張っていくしかないという話だ。

あの記事を書いている時に気がついたのだけど、最近僕は「若さ」が自分から失われつつある事について、昔とは違ってそこまで恐ろしさを感じないようになっていた。

 

以前の自分は、歳を取ることが凄く怖かった。2017年に僕が書いた記事から引用すると、こんな感じのマインドであった。

太く短く生きたい若者が、細く長く生きたい中高年層になる瞬間について

「あんまり長生きなんてしたくないんだよね。若い頃にしっかりと人生を楽しんで、太く短く40歳ぐらいで死ぬほうが、細く長く生きるよりも全然いい」

こんな事を考えていたのは、高校生ぐらいから大学を卒業する手前ぐらいだっただろうか。

 

当時の自分は、何者かになれる自信が全く無く、それゆえに自分自身に残された若さというたった1つの武器をどう使えばよいのかしか考えていなかったのではないかな、と思う。

 

それから10年たって、たまたま運良く様々な努力が花開き、結果として「何者かになれた」と思えるようになった自分の前に現れたのは、大人としての自覚であった。

若者からうまい具合に卒業できた自分は、かつて最も良いと思っていた「太く短い」生き方に全く憧れる事がなくなっていた。

 

今の自分は、あの頃に持っていた不安から解き放たれ、とても安定した心で大人を楽しめている。

あんなにも太く短い生き方に憧れていた僕だけど、今ではもう二度と若者をやりたいとは思わない。

大人になった今では、大人ってなんて平穏で楽なんだろうという思いで一杯である。

 

結婚して大人になれば、もう恋愛ガチャを回さなくてもいい

婚活は多くの人にとってかなりシンドイ作業だ。僕の友達も、かなりの多くの人が現在進行系で苦労している。

「出会いがない」

「出会いがあってもいい人がいない」

「たまたま付き合ってるけど、果たして本当にこの人と結婚してもいいのだろうか?」

「もっといい人と付き合えるのではないか?」

これを読んでいる人の中にも、こんな事を考えながら婚活沼にズブズブ沈み込んでいる人も多いのではないだろうか?

 

僕自身は、マジで全然モテなかった事もあり、最初の人に付き合うまでにふられまくりで、心身ともにボロッボロになっていた。

そういう事もあって、正直あの作業を二度と繰り返したくなかった。

「恋愛なんてマジで茶番じゃねぇか。こんなクソゲー、サッサと終わらせよう」

こう思っていた事もあり、最初に付き合った彼女と3年ぐらい付き合ってサクッと結婚を決めてしまった。

 

結婚を決めた時、周りの先輩医師の方々は口々にこう言っていた。

「馬鹿だなぁ。これからが人生で一番モテる時期で、恋愛が楽しめる時期なのに」

 

この言葉自体は残念ながら(?)事実ではあった。

結婚が視野に入ってからの医者のモテの加速度愛は凄い。様々な医師の過激な話を聞いて、僕は医師免許のモテパワーってこんなに凄いのかと圧倒されたものであった。

 

モテなくて本当によかった

しかしこれはあくまで恋愛の話である。

結婚して、妻との間にできるのは、そういう火遊びとかロマンチックな刹那的なものではなく、どちらかというと人と人との付き合いであり、あえて近い言葉でいえば友情のような感じが最も近い。

 

あれから数年たって、未だに「恋愛」という沼にはまり込み、「結婚」を決断できていない周りの医師をみる度に、さっさと「プレイヤー」から降りて「家庭人」になるという決断をした過去の自分の選択は自分にとっては最上だったなと思う。

 

もちろん、これはたまたま僕と妻の人間的な相性が良かったからこその結果であり、運が悪かったら今頃は離婚していた可能性だって当然あっただろう。

ただそれは、どの年齢だろうと言えることだ。

僕は今頃になって、自分がモテなくて心底良かったと思っている。

モテなかったからこそ、「自分はもっとよい人と結婚できるはずだ!」なんて幻想に惑わされる事なく、サッサと結婚してしまおうと決断できたのは間違いなく事実である。

 

選択肢がないというのは悪いことばかりでない。選択肢が少ない分、決断が凄く楽になるのである。

人生何がどう作用するか本当にわからないものである。

 

社会から居場所を与えてもらえて、初めて「何者かに」なれる

恋愛は今でもクソゲーだと思っているけど、何度も爆死しながらガチャを回しといて心底よかったとは思う。

僕は「若者」の特権である恋愛はかなり早急に終わらせてしまったが、その分「大人」の特権である家庭人は心底楽しめている。

 

家庭人という「大人」は本当に楽だ。それに「若者」の特権である恋愛とはゲーム性が全然違う。

 

あなたもひょっとしたら皇室の人と結婚できるのかもしれないし、アイドルと結婚できるのかもしれない。

このように、確かに「若者」は何ものにもなれる可能性を有している。

 

けど、逆に言えば、「若者」とはまだ何ものにもなってない。

この「何ものでもない」という焦燥感にずっと突き続けられるのは、普通の人にはかなりシンドイものがある。

だからこそ、太く短く生きたくなってしまうのだろう。

 

仕事だってそうだ。働くまでは僕は、経営者に使われるという事に強い忌避感があった。

ちょうど「社畜」という言葉がバズっていた事もあり、学生生活最後の夜は絶望感しかなかったのを実によく覚えている。

しかし今になってみれば、キチンと真面目をやっておいて本当によかったなと思う。

 

7年近い労働により、確かに僕は人生の数割を労働に吸い取られたのかもしれない。

けど、その7年の間に手に入れた職能は、それ以上に増して自分の中では大切なものとなっている。

 

僕は確かに「社畜」だったのだろう。毎日毎日、眠そうな顔をして会社に通っていたいたのは事実だ。

けど、今では自分の築き上げてきたキャリアを使用して、僕はいろんな所で働く事ができるし、それを後輩に伝える事で、自分でもまた擬似的な成長を体感する事ができる。

 

学生という「若者」を辞め、社会人という「大人」に参画させてもらったおかげで、今では自分は社会からキチンと居場所を与えてもらえている。

これがどれだけ自分の自尊心を補佐してくれている事か。動労には感謝しかない。

普通も、ちゃんとやれば大きなリターンになって帰ってくるのである。

 

普通を徹底して何者かになるのは、インデックス投資に似ている

思うに、普通の人生をちゃんとやるのはインデックスファンドにドルコスト平均法で投資するのと似ている。

インデックスファンドというのは、すっごく簡単にいうと日経平均とかダウ平均株価みたいなものだ。

ドルコスト平均法というのは、毎月毎月5万円とか10万円といった決まりきった金額をコツコツ投資していく事をいう。

 

例えば、下の表は1802~2001年において、投資商品がどういう変遷を辿ったかのグラフだ。

(出典:「株式投資」(ジェレミー・シーゲル著) )

 

こうしてみればわかるけど、最悪の世界戦争(第一次世界大戦・第二次世界大戦)や、史上最大規模の世界的株価大暴落であるブラックマンデーなどがあったとしても、基本的には世界経済というのは一貫して上向きに成長しているという事がよくわかる。

 

これを考えれば、投資のド素人が資産形成をする最適解は、あまり難しいことを考えずに毎月コツコツとインデックスファンドに投資していくことだ。

 

ただこのインデックスファンド・ドルコスト平均法投資法は一つだけものすごい弱点がある。

とてつもなく退屈で、かつ10倍とか100倍になる投資商品が頻繁に横目を過ぎ去っていく事だ。

2年前の、あの仮想通貨の熱気を覚えている人もいるかもしれないが、投資の世界では時に物凄く爆発するタイプの商品がある。

 

インデックスファンド・ドルコスト平均法は長い目で見ればかなり勝率が高い戦略なのだけど、こういうジェットストリームみたいな上量気流にのって大成功できるというわけではない。

 

仮想通貨でタケノコのように湧いて出てきた億り人をみて「自分もああなりたい」と思ってしまう気持ちは痛いほどよくわかる。

けど、自分がそういうラッキーに乗れるとは、凡人はあまり思わないほうがいい。

コツコツ、コツコツと20年後、30年後を見据えて、淡々とインデックスファンドにドルコスト平均法をやっていくのが、凡人が勝てる唯一の方法なのだ。

 

何ものでもない「若者」が、普通を淡々とやり続けるのがつまらないのは、それをやった自分が一番良くわかる。

しかし普通の人生を否定して、例えば大学を辞めてYoutuberに転身したりするというのは、それこそ暗号通貨に全財産をぶっ込むようなものなのである。

 

確かに、数人ぐらいはたまたま運良く大成功するかもしれない。

けど、所詮数人だ。ほとんどの欲に目がくらんで「普通」を降りた人に待ち受けているのは、悲惨な結果である。

 

"普通"は、かけ合わせると驚くほど凄くなる

ちゃんと大学を卒業して普通に働き、結婚して家庭を持ち、趣味の世界で友達とのつながりを作る。

1つ1つみれば、それは凄く些細で面白みのないものかもしれない。けど、普通が本当に凄いのは、それをかけ合わせると爆発的に凄くなるという点にある。

 

クレヨンしんちゃんの野原ひろしというキャラを知っているだろうか?

彼は凄く普通のサラリーマンだ。埼玉県春日部市に家を持ち、愛妻と2人の子供、一匹の犬を持つ、まあどこにでもいそうな男である。

 

僕は子供の頃は、野原ひろしみたいな人生ではなく、シド・ヴィシャスのような刹那的な生き方に凄く憧れていた。

 

けど、今になって本当に思う。80歳になって自分の命の間際を目にした時、野原ひろしはきっと凄く幸福な人生の臨終に立ち会えるのではないか、と。

色々あった仕事の思い出、年老いた愛する妻、天国に行ってしまった愛犬。立派になった息子と娘。

 

凡人が、普通にコツコツとドルコスト平均法で投資して、最後に目にできる光景と考えると、なんて尊いのだろうと今更ながら圧倒される。

それこそ想像でしかないけど、シド・ヴィシャスの最後なんかとは比べ物にならないぐらい幸せなんじゃないだろうか。

 

僕と同じ、凡人のみなさん。普通を真面目にコツコツやるのは、確かに退屈ですよね。

けど僕らは凡人だからこそ、コツコツ普通に分散投資するのが、最高の勝ち方なんですよ。

 

さあ、あなたも今日も普通をやり続けましょう。

大丈夫。最後はきっと、幸せになれるから。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Carol P.

『堀江貴文VS.鮨職人 鮨屋に修業は必要か?』(堀江貴文著/ぴあ)という本を読みました。

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堀江貴文さんの「鮨職人になるために何年も修行するのはバカ」という発言が物議を醸したのは、もう3年前になるんですね。

この対談本では、堀江さんが高く評価している鮨職人たちと話をしながら、その成功の過程と理由を探っていくのです。

 

お互いに褒め合っているだけの気持ち悪い内容ではないかと思っていたのですが、読んでみると、今の鮨屋って、こんなふうになっているのか、と感心してしまいました。

そして、これだけいろんなことがネットを通じてバーチャルに体験できるようになった世の中では、「食べる」というのは、人間に遺された数少ない「ネットを通じてはできないこと」であり、これからも、ビジネスとしても大きな可能性を秘めている、ということも伝わってきたのです。

 

堀江さんの対談相手の8人の鮨職人たちは、「修行をしていない」わけではなくて、美味しい鮨を握ること、自分のオリジナリティを発揮して、他者と差別化することなどにおいて、けっこう長い間、試行錯誤をしている人が多いのです。

人に言われたことを長年同じようにやり続けるのではなくて、自分で考えて工夫していく能力こそが、これからの時代には問われていくのでしょう。

修業期間の「長さ」ではなくて、創意工夫の「密度」こそが大事だということなのだよなあ。

 

もちろん、店をずっと切り盛りしていくには、同じクオリティのことをやり続ける安定感、みたいなものも必要だとは思うのですが。

そして、この本を読んでいると、鮨職人には、地道な修行よりも、先天的な「センス」とか「器用さ」みたいなものが必要で、これからは、さらにそういう「才能勝負」になっていくのではないか、とも考えさせられます。

 

昔ながらの「職人の世界」というイメージだった鮨屋も、SNSの普及で、大きな変革期を迎えているのです。

鮨だけでなく、料理人を取り巻く環境も大きく変わっている。

SNSが当たり前になり、料理人たちにも普及したことで、彼らの視野がどれだけ広くなったか。

Instagramでは自分の仕事をリアルタイムに発信し、逆に今まで知らなかった素材や技術、店や人をキャッチアップできる。

Facebookを中心とするネットワーク上で、料理人同士、産地、メディア……いろんなつながりが生まれ、情報交換ができるようになったのは、飲食業界の大革命だ。

 

本書にも登場してくれた『照寿司』の渡邊貴義さんは、10年間、お客さんが全然来ない北九州市戸畑区にある街場の鮨屋で、仕入れた魚の写真をコツコツFacebookにあげつづけた。

そしてフーディに発見され、ついにバズッたのだ。僕も渡邊さんやほかの料理人たちとのイベントや旅が次々と実現して、食に関する視野がどんどん広くなっている。

いまの世界には、美味しいものを食べるためには、日本中(あるいは世界中)どこへでも行く「フーディ」という美食家の富裕層が存在していて、彼らは、SNSで情報のやりとりをしています。

彼らの目に留まれば、地方都市の片隅の鮨屋で、それなりに高い価格設定にしても、予約がとれない超人気店になることが可能です。

 

この本に登場してくるのは、30から40歳代の鮨職人ですが、彼らは理不尽なまでの先輩の「シゴキ」が当たり前だった最後の世代なのです。

今は、飲食業の慢性的な人手不足もあり、昔のような「厳しい修行」は流行らなくなっているのだとか。

 

この本に登場している職人たちは、日頃から交流がある堀江さんとの対談ということもあってか、「いまの鮨屋という仕事」について、かなり率直に語っておられます。

 

『鮨 一幸』の工藤順也さんの回より。

堀江貴文:工藤さんは1万円のサバの仕込みをどうやって学んだんですか?

工藤順也:いろいろやってみていました。自分で実験もしたし。ただ、ひとつは、僕がすごく悩んでいるときに行ったお店のカウンターで、僕、ヤバかったらしいんです。

堀江:さぞかし思い詰めていたんでしょうね。

工藤:そうです。カウンターでひとり思い詰めていて、店主に「なんでこんなにすごいんですか?」って聞いたんですよ。そうしたら、その方が「僕らがすごいんじゃなくて、すごいのはお魚ですよ」と答えたんです。

堀江:おお。

工藤:その瞬間に、霧が晴れたみたいに自分の進みたい道が見えた気がしました。そして「これってこうじゃないですか?」って、自分が想像していたことを口に出してみたんです。そうしたら「そうだよ」と答えてもらえて。そこひとつがわかったら、バーッと答えがつながっていったんですよね。

堀江:相当悩んでいたんですね。

工藤:そこから一気に仕込みが変わりました。

多くの職人さんたちが、「結局のところ、鮨は職人の技術よりもネタの良し悪しが大きいのだ」と仰っています。

もちろん、それなりの技術があっての話ではあるのでしょうけど。

 

その魚の仕入れについても、毎日朝早くから市場に通って魚をみて、人脈をつくる、という時代ではなくなっているのです。

『鮨 りんだ』の河野勇太さんの回より。

堀江貴文:仕入れはどういうスタンスですか? だって、値段も質もすごいバリエーションがあるわけでしょ。

河野勇太:僕は、産地はあまり気にしません。魚の値段って産地が半分以上を占めているんですよ。例えば、巨人の四番はすごいですよね。でも、高校野球でも草野球にも、「こいつはすごい」っていう四番がいる。僕は、そんなふうに産地に関係なく、すごいやつを見抜く絶対の自信があります。市場に行かない日でも、LINEで魚の写真が届いたら、「左から二番目ちょうだい」って見極めています。

堀江:LINEでわかっちゃうんだ。

河野:わかります。お互いに信頼関係もあるので、ある程度絞って送ってきてくれていますけどね。僕が選んだ魚に対して「それで間違いないと思います」って返事が来ますもん。

堀江:そういう時代なんだ。そういうやりとりは夜中にするんですか?

河野:12時すぎたらLINEが来ますね。「今日の魚状況です」「白身はこんなんです」「今日、コハダは入りません」みたいな感じです。

堀江:競りはないんですか?

河野:もちろんありますよ。でも、その前に情報が共有されるんです。3時からの競りの前に、いいのが欲しいから取引されていますね。

堀江:12時には届いてるんだ。

すでに、仕入れはLINEになっているのか……

 

実際の魚を見なくても大丈夫なのだろうか、と思うのだけれども、河野さんの店はこのやり方で多くのお客さんに高く評価されているわけですから。

たぶん、若い人たちは、上の世代よりもITに慣れている分だけ、写真から情報を得る能力も高いのだと思います。

もちろん、こういうセンスの良し悪しも「人による」のだろうけど。

 

堀江さんは、『鮨 あらい』の新井祐一さんとの対談のなかで、「鮨屋の修行は無駄」という発言の真意について話しておられます。

堀江貴文:僕が前に「鮨屋の修行は無駄」という発言で物議を醸したのも、無駄なプロセスなんじゃないかっていうだけではなくて、結局はそこが言いたかったんですよ。握れるようにはすぐなれるけど、それだけじゃ全然だめだよって。

新井祐一:そうですよね。そういう時代だと思います。

堀江:それこそ、握りに関しては鮨の専門学校なりYouTubeで学んで、スナックみたいなコミュニケーション力を高められるところで働けばって。昔と違って情報はたくさんあるんだから。「魯山人に憧れて『久兵衛』に入る」なんて人は稀で、求人情報見て回転寿司に入っちゃうんですよ。

新井:あはは。

堀江:回転寿司では、客からの文句も少ないし、最初から握って場数も踏めますから練習にはなりますよ。WAGYUMAFIAの相方も最近和牛の鮨をよく握っているんですけど、「ちょっと修業してくるわ」って金沢の回転寿司に何日か行って、たくさん握れるようになって帰っていました。

新井:まあ、切りつけはともかく、握りはね。あと、会話も別。

堀江:だからね、魚の知識とか切りつけは学校で習って、回転寿司で場数踏んで、スナックでアルバイトして。あとはたくさん食べ歩く。それがいいんじゃないかと思うんですよ。

とりあえず、読むと美味しい鮨が食べたくなってくるのと同時に、もはや、人間らしい娯楽というのは、「ものを食べること」くらいしか残っていなくて、その価値は今後も上がり続けるのではないか、と感じました。

 

3万円の鮨なんて、手が届かないと思いがちだけれど、本当に美味しいものならば、それ以上に人生を豊かにするお金の使い方って、あまり思いつかないのだよなあ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Michael Saechang

「興味」のパワーって物凄いと思うんですよね。

 

しんざきは三児の父なんですが、「何かに興味を持った時」の子どもの行動力、吸収力やエネルギーには、ちょくちょく驚愕させられます。

普段は全く読まないジャンルの分厚い本に突如取っ組みだして、ほんの1,2時間で読破してしまったり。

まさかと思うような長さの文章を丸暗記したり、今まで面倒がってやらなかった運動をいきなり始めて、三日坊主どころか数年にわたって継続したり。

 

これ、別に子どもに限った話ではありません。

私最近、「興味ドリブン」という言葉をちょくちょく使うんですが、世の中には「興味をうまくコントロールして凄いパワーを出せる人」と、「興味を行動に結び付けることがいまいち苦手な人」がいるような気がしています。

 

興味をコントロールするのが得意な人は、自分が興味をもったことに対してひたすらどん欲に行動して、他の人も巻き込みつつ、どんどん自分の世界や人生を広げていきます。

一方、興味を持ったはいいが何も行動しなかったり、興味を口に出すことすらしない人もたくさんいます。

言ってみれば、興味を駆動させて人生を回していく人が得意な人と、苦手な人がいる。興味ドリブン能力の多寡です。

 

この違いってどこから来るんだろうなあ、と昔から思っていたんですよ。

勿論、もって生まれた気質の違いというものもあるんでしょうけど、もしも環境や接し方によって「興味ドリブン」の力に差が出来るのであれば、そこはなるべくいい接し方をしてあげたいなあと。

 

しんざき長男は今11歳で小学校高学年なんですが、今のところは、上手いこと「興味」をエネルギーにして人生を回せているように見えます。

興味をどんどん口に出してくれますし、興味をもったジャンル、興味をもった作者の本を熱心に読みますし、しかもそれについて思ったことを私や奥様に積極的にアウトプットしてくれます。

これが楽しそうだと思ったらびっくりする程積極的に行動に移しますし、私や奥様も巻き込みながら一緒にイベントに参加してくれます。

 

これが大人になってもそのまま続くかは勿論まだ分かりませんし、一般化出来る話だとも思わないんですが、「こんな風に意識して接してきました」というのはもしかすると誰かの役に立つかも知れないと思い、ちょっと可視化を試みてみます。

 

***

 

私が意識していることは、大きく

「興味を受け入れる、共有する」

「興味を広げる、方向づける」

「興味をつなげる」

の3つです。

 

第一に、「興味を受け入れる、共有すること」。

興味をパワーに変える為にまず必要なことって、興味を出力すること、表に出すことだと思うんですよね。

何かに興味をもつ、何かを面白そうだと思う時って、それを誰かに話したくなるし、それについて共有したくなるんです。

誰かと一緒に盛り上がることによって、より一層興味のもつエネルギーが増幅される。

 

一方、誰とも共有出来ない興味って、自分の中でも大きく育ちにくいんです。

誰かと共有して盛り上がれたという成功体験があると、また興味を共有したくなる。

 

一方、これに失敗し続けると、興味をアウトプットしたいという欲求自体を持ちにくくなる、ような気がしています。

大人に話しても無駄だと学習してしまって、興味自体を口にしてくれなくなった子とか、かつて補習塾なんかで結構見たんですよ。

 

だから、子どもの興味にアンテナを立てて、「〇〇が面白そう」とか「〇〇ってどんなの?」というようなことを言い出したら、まず何はともあれ話に乗るようにしています。

自分も面白そうだと思ったらどんなところが面白そうかという話をするし、あまり知らないことだったらどんなところが面白そうなのか聞いてみます。

この時点では、その対象がどんなものであっても気にしません。

例えばの話、これが多少不道徳なものだったり、あまり実際に試してほしくはないようなものであっても、まず「興味出力」の時点では窘めたりしませんし、取り敢えず話に乗ります。

 

とにかく、まずは「興味を誰かに発信する」ことへのハードルをなるべく低くして、その結果楽しかった、受け入れてもらえた、という成功体験を作ってあげることが大事なんじゃないかなあ、と思っているんです。

これを繰り返すことによって、まずは気安く興味を口に出せる、興味を具体化出来るようになっていくんじゃないかなあと。

 

第二に、「興味を広げること、方向づけること」。

当たり前の話ですが、子どもが「何に興味を持つか」というのは極めてアンコントローラブルなものでして、時として大人の想定を軽々と越えます。

その方向が危ない方に向いてしまった時は、監督責任として多少は誘導しなくてはいけませんし、そのついでに「興味を他の方向性にも広げる」という経験をさせてあげられないかと考えることがあります。

 

例えばの話、youtubeでなにやら危ない実験をしていて、子どもがそれに興味をもったとします。ここでは分かりやすくメントスコーラの話にしましょう。

当然、子どもは「派手にコーラが噴き出す」という表面的な部分に目を奪われていますが、アレうっかり飲んだ状態で試したりすると当たり前ですが大変危ないので、興味を持ったとしても「そのまんま試す」ような方向には親としてもっていきたくなかったりします。

 

そんな時には、「何故ああなるのか」「どんな仕組みでああなるのか」という方向に話をもっていって、子どもの興味を誘導します。

メントスコーラの場合、メントスに含まれたゼラチンとかが界面活性剤になって、細かな穴がたくさん開いているメントスが泡を大量に作る役割をしたりするんですけど、そういった「原理」の話になれば、「じゃあ界面活性剤って何?」とか「あの泡ってそもそも何?」といった別の疑問に話が繋がったりします。そこから、思いもよらない深い知識に話が繋がったりすることもあるんです。

 

子どもの興味が「疑問」の形をとっていた場合、全ては答えない、あるいは答えるとしても「続き」を作るというのが結構重要で、子どもは疑問が完結しない限り、次から次へと新しい興味を繋げていくことが出来る生き物です。

表層的な「面白そう」という興味が、例えばその原理に、例えばその背景に、例えばその歴史に広がる。そうすると、実はその裏にもっと面白いものがある、ということに気づく。

 

興味のテーマによって全然変わってくる話ではあるんですが、そういった「興味を広げる」ということが出来るかどうか、というのは、割と重要なテーマであるように思います。

 

第三に、「興味をつなげること」。

つまり、興味をもったことについて実際の行動に繋げること。これも、テーマによって方向性は色々なんですが、基本的には「じゃあ試してみよう」とか「じゃあ調べてみよう」という話になります。

 

しんざき家では、子どもが何かに興味を持った時、「じゃあ図書館行って調べてみようか」という話になることが多いです。

今の時代、「本で調べる」という経験の重要性はむしろ以前よりずっと上がっているような気がしていまして、webで調べた内容の裏付けをどうとるか、といった話の事前練習にもなります。

これに慣れると、今度は自分で色々調べられるようになっていきます。

 

また、物には勿論「試させてあげたいけどすぐには無理、あるいは金銭的に無理」みたいなこともありまして、例えば夏にスキーに興味をもたれてもすぐ南半球に行く訳には行きませんし、ピラミッドに興味をもたれてもエジプト旅行の予算は出ないわけです。

そういった場合でも、「実際に連れてってあげることは今は出来ないけど、色々それについて調べてみよっか」という話も出来ますし、それは「興味を維持する」という意味での「つなぐ」ことにもなります。

 

子どもにしてみれば、「何かに興味をもって、それについての情報、それについてのコンテンツを色々と探し回る」というのも、立派な「興味に基づく行動」なんですよね。興味ドリブンを将来回す為の、重要な経験値でもあるように思います。

 

無理なく体験させてあげられることなら体験させてあげることも勿論ありまして、ボルダリングに興味もった子ども達をその週の土曜日にキッズボルダリングスタジオに連れていってあげたりしました。

ボルダリングは非常にお気に入りで、今でもちょくちょく連れて行ったりします。運動にもなって大変良いと思います。私はしょっちゅう落っこちますが。

 

 

長々と書いて参りました。

いつも断っているのですが、これは飽くまで「今のところしんざき家で上手くいっているように思える、しんざき家のやり方」であって、別に一般化するつもりはないんです。所詮n=3の話と言えば全くその通りでもあります。

 

ただ、「子どもの興味をどう育てるか」「その興味をどう広げるか、実際の行動に繋げさせてあげるか」という考え方については、割と普遍的なものもあると思っていて、長男長女次女共に、今後も色々と考えながら続けていってあげたいなあと、そんな風に考えているという次第なのです。

 

全くの余談なのですが、長男がかつてもっていた「電車への興味」は今では立派な人生の指標へと育ちまして、長男は東急電鉄に入社することを一つの人生の目標として、今から色々と頑張っています。

興味を原動力としてこれからも突き進んでいって欲しいと、心から願うばかりです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:lee cleeton)

「インターネットに文章を書くということ」

インターネットで文章を書くようになって18年になる。もはやベテランと言っても過言ではないだろうか。

 

18年も書いてきて、そこそこにお金を貰って書くようになり、好きですと言ってくれる人がいたり、連載をもったりするようになった。

手が回らなくなって断る仕事も出てきたくらいなのだから、この18年は決して無駄ではなかったように思う。ただ、18年間ずっと思い続けていたことがある。それが「才能」に関することだ。

 

僕は「才能」という言葉があまり好きではない。

才能とは言い訳の言葉だ。可能性に溢れた煌びやかな単語のように見せかけて、「あの人は才能があるから」「自分は才能がない」「いいよな、才能があるやつは」などと、ネガティブな意味で使われることが多いからだ。

 

人は誰かと自分との差異を慰めるために「才能」という言葉を使う。

諦めるために「才能」という言葉を使う。

本来は「才能」なんてものはこの世に存在しないものなのかもしれないのにだ。

 

そういった事情を踏まえ、18年間書き続けた上であえて言わせてもらうと、僕にはやはり「才能」がなかった。

文章を書く「才能」がなかった。

 

何もせずに軽い気持ちで書いたものが多くの人を魅了し、死ぬほど評価されるなんてことはなかった。

いつも文章を書いて後悔し、悩み苦しみ、誰かの文章に死ぬほど嫉妬した。

心安らぐ時間なんて存在せず、常に苦しみ、書き、また苦しんできた。その過程は決して「才能」じゃない。ただただ苦しいだけだ。

 

才能のない僕は、常に自分を戒めなければならなかった。何が良くて何がダメだったのか、才能がないなりに自分が書いたものでPDCAサイクルを回し、少しでも上に、少しでも実力のあるステージに行く、そう思い続けてきた。

 

ここに、僕が初めてインターネットに書いた文章がある。18年前に書いたものだ。

当時の僕が “インターネットで多くの人を魅了するぞ” と意気込んで書いたものだ。

 

僕は、このクソ文章を定期的に眺め、書き直すことにしている。そうすることで自分の位置を確認できるからだ。もしかしたら戒めという意味もあるのかもしれない。

ぜひとも、その“戒め”のクソ文章を読んでみて欲しい。

 

おつかい

上司のおつかいで、速達の書類を出しにクロネコヤマトまで行ったんですよ。

送料は多分、1000円もかからないだろうけど、上司が細かい札を持ってなかったので5000円渡されました。

 

で、遠く離れたクロネコヤマトの営業所まで車を運転してたんですけど、急に腹痛が・・・。

しかもかなりの大物。

我慢できずに、車を停め、マクドナルドまで駆けるようにしていって用を足しました。

 

なんとか無事に用を足し、ホッと一息。店を後にしました

で、無事にクロネコヤマトに到着したのですが、

上司から預かった金がない・・・。

落としたっぽい・・・。

そういえば、マクドナルドで若者達の集団が何やら歓喜してたような・・・。

きっとあいつらが俺が落とした5000円をゲットしたに違いない

 

そう思うと悔しくて悲しくて

自腹で送料を払い。お釣りも自腹で上司に返しましたとさ

手痛い出費でした。

 

 

これはひどい。控えめに言ってゴミだ。

よくもまあ、こんなものを世間に公表しようと思ったもので、完全に「才能」がない。

これを読んで“これから文章とか書いていこう”と思っている人は勇気を持って欲しい。こんなものを引っ提げてデビューした男でも、いま現在、まあまあ戦えているのだ。

 

これは完全なる黒歴史で、封殺すべき過去なのだけど、才能がなかった僕はこれに向き合わなければならなかった。

この文章の何がダメなのか、それを考えて自分で自分をアップデートしていかねばならないのである。

 

このクソ文章を分析してみる。

問題だらけの文章で、言葉が稚拙、改行が多すぎる、一文が短すぎる、リズムが悪い、などの問題がボコボコ出てくるが、最も問題なのは「主張のなさ」だとわかる。

これは、書くことで本人だけが満足するだけのタイプの文章で個人の日記に近い、言い換えると人に見せる文章になっていない。そこが一番の問題だ。

 

主張のない文章はすべからくゴミである。世の中の読む価値ある文章と読む価値ない文章の差異はこれに起因する。

読んで何を感じて欲しいか、それがない文章はどんなジャンルであっても等しくゴミだ。

 

そういった観点で件の文章を読むと、問答無用でゴミだ。

マクドナルドでお金を落としたというだけの話で、完全に自分の日記帳に書いておけ、という類のものだ。そこに伝えたい主張はないし、感じ取る思想もない。ただ文字が羅列されているだけだ。

 

では、これをどうやって書き直せば良いのか、それを考える。これに主張を乗せる形でアップデートしていこうと書き直すのだ。

こういう場合は逆説的に考えると良い。重要なとっかかりになることが多いのだ。

 

「おつかい」

タイトルにもなっているこの言葉に焦点を当てる。

そもそも「おつかい」とは面倒くさいものだ。言葉の響き的にも、大人が子供に頼むようなニュアンスがあり、ちょっとバカにされているような印象すら受ける。

職場の上司に「おつかい」を頼まれる、ちょっと仕事ができない僕が誰にでもできる仕事を振られたというニュアンスがあるのではないか。

 

その対局として「おつかい」とは「信頼」の受け渡しという、まったく逆の主張を使ってみる。

たとえ「おつかい」といえども、「信頼」していない相手に頼むはずがない。そう、僕は「信頼」されているんだ。「おつかい」とは信頼を託す行為だ。決して、仕事ができないやつに割り振るものではない。

 

こうすると「信頼のバトン」というキーワードが生まれてくる。それを主張に持っていくことを考えると、最後まで簡潔にまとまる。それを踏まえて書き直すとこうなる。

 

おつかい

忙しなく働くオフィスの中で暇そうにまどろんでいた。僕はただ茫然と、忙しそうに働く人々を眺めていた。今日は帰ってゲームでもするかと、心だけは既に帰宅していたくらいだった。

 

心だけが完全にトリップしていると、急に上司に呼びつけられた。いよいよクビでも言い渡されるのか、それとも怒られるのか、なんにせよ良くない何かが起こることは確定的だった。

 

「この書類を速達で出してきてくれないかな、急ぎなんだ。クロネコヤマトまでひとっ走り行ってきてくれ」

ハゲチャビンの上司は茶封筒をぶっきらぼうに差し出し、そう言った。完全に面倒くさいやつだ。

ハゲチャビンのやつ、僕が仕事できないからって、こんな子供に頼むみたいな「おつかい」を言い渡してきやがった。

 

「はあ、わかりました」

速達もクソもないだろ、その辺のポストに投げ入れてきても分からないだろう、と考えていると、心を見透かしたのか、念を押すように言われた。

 

「絶対にクロネコヤマトまで行くこと。速達で出すこと」

ここからクロネコヤマトまでは遠い。車じゃないととてもじゃないが行けない距離だ。いよいよもって面倒くさいことになってきた。

 

「いまこまかい金がないからこれで頼む」

ハゲチャビンはそう言って五千円札を差し出した。たぶん送料は1000円もしないはずだ。

「おつりはお駄賃にもらっていいですか」

と言おうと思ったが、たぶん怒られるのでやめておいた。

 

クロネコヤマトまでの道中、車を運転しながらぼんやりと考えた。

これは完全に「おつかい」というやつだ。

言い方は悪いが、誰にでもできる仕事だ。そんなものを任される僕、仕事において将来がないと考えることもできる。リストラ要員なのかもしれない。いよいよ身の振り方を考える必要があるのか。

 

「おつかいならお駄賃があるべきだよな、それならやはりおつりを……」

そんなことを考えながら交差点で停まる。見るとボランティアのおばさんが、小学生の手をひいて横断歩道を渡っていた。

その光景はなんだか印象深いものだった。

小学生はボランティアのおばちゃんを完全に信頼していて、全てを預けて横断歩道を渡っている。

もしかしたらあのおばちゃんが自殺志願者で、最後にひと花咲かせてやるわーと小学生を道連れにトラックにダイブする、なんてことは微塵も考えていない。信じ切っている。そこにあるのは信頼だ。

 

「信頼か……」

助手席に置かれた書類と五千円札を眺める。

おつかいを頼まれた、だからバカにされてるいなんて考えたけど、実際はそんなことないんじゃないだろうか。

速達で出せと念を押されるほどの重要書類だ。それを良くわからない馬の骨に任せるかというと、答えは否だ。逆に考えると、信頼されているからこそ、おつかいを任されたと考えることができる。

 

そう考えると、五千円を託すという点にも多大なる信頼が現れている。

五千円とは大金だ。それを良く分からないリストラ要員に託すだろうか。答えは否だ。

下手したら持ち逃げされるかもしれない、お駄賃にいただいておきやす、へっへっへっ、とお釣りを取られるかもしれない。そんなやつには任せられない。

そう、書類も五千円も、上司から僕への多大なる信頼の現れではないだろうか。

 

この世は信頼のバトンで成り立っている。

きっと上司も誰か、さらにその上の上司から信頼を受け取り、その書類が回ってきたのだ。そして今度は僕がその上司から信頼のバトンを受け取った。そう考えると、なんだか気分がいい。

 

「なあんだ、信頼されていたのか」

少しだけ心が軽くなった気がした。やはり人は人に信頼されると気分がいい。同じクロネコヤマトまでの道のりでも、その風景は違ったものに見えた。簡単に言うと、世界が色付き輝いて見えた。

 

異変が起こったのはそれからだった。

「お腹が痛い」

容赦ない、無慈悲なる腹痛が襲った。完全にやばいやつだ。

腹痛には大きく分けて2種類のものが存在する。結論を急がないものと、結論を急ぐものだ。この腹痛は完全に後者だった。すぐに結婚を迫ってくる女に近く、これ見よがしにゼクシィとか買ってくる類の腹痛だ。

 

「ここで漏らしたら書類を送ることができない!」

さすがにうんこ駄々漏れ状態でクロネコヤマトに行くわけにはいかない。クロネコも裸足で逃げ出す。そうなると、上司からの信頼のバトンに応えられないのだ。

 

「もってくれよ! 俺の肛門!」

僕は自分の肛門を信頼した。上司が僕を信頼して五千円託したように、僕も肛門を信頼してウンコを預ける。それが信頼のバトンだ。頼んだぜ、肛門!

 

肛門は信頼に応えてよく頑張ってくれた。道中にあったマクドナルドに飛び込み、トイレに駆け込むまで本当に頑張ってくれた。

信頼を託し、それに応えてもらえることは至上の喜びだ。だからきっと人は人を信頼し、信頼のバトンを渡すのだ。よく頑張った、肛門。

 

清々しく、晴れやかな気分だ。信頼とはこんなにも気持ちが良いものなのだ。

クロネコヤマトに到着する。書類を持ち、そこで気が付いた。

「五千円がない」

 

おかしい。本当にどこにもない。書類も五千円も、盗まれちゃいかんとマクドナルドに持って入ったことまでは覚えている。

けれども、五千円だけがきれいさっぱり消え失せていた。

 

「もしかして、マクドナルドで落とした?」

思えば、僕がウンコを済ませてマクドナルドを後にするとき、アウトローっぽい集団がちょっとテンション上がって湧いていたような気がする。

もしかしたら、あれ、五千円拾って喜んでいる沸き上がりだったんじゃないのか。歓喜の声だったんじゃないか。そうか、アウトローたちに拾われたのか。

 

自腹で五千円返す必要がある、もはやお駄賃どころではない、そう考えて落胆したが、考え方を変えればいいのである。

あの五千円は落としたのではない。託したのだ。アウトローたちが有意義に使ってくれると信じて託したのだ。

 

そう、彼らは今頃、あの五千円で面白おかしく過ごしているさ、そう、五千円は信頼のバトンなのだ。

上司から僕へ、僕から上司へ、その信頼のバトンこそがこの世を生きる上で必要なのである。

 

職場に戻ると、「たかだか書類送るだけでどれだけ時間かかってるんだ!」と五千円を損失補填した僕の気も知らないで上司が怒っていた。

別の部署に異動させるぞ! と憤っておられた。これもきっと信頼のバトンなのである。

多分上司は、僕というバトンを信頼できる部署に渡すつもりなのである。決してリストラなんかじゃない。

 

 

と、こんな感じに書き直すことができる。

この文章の良し悪しは別として、これであのクソみたいな「日記」から、主張を伴った「文章」に消化することができた。この世は信頼のリレーであるという主張だ。

 

ただし、この文章にも大きな問題がある。

それが、面白味がない、という点だ。

実はこの点がかなり重要だ。むしろ最大の問題点かもしれない。これは完全に個人の資質によるところなのだけど、この種の文章は書いていて楽しくないのだ。

 

僕は文章を書くことが嫌いなのである。

本当に書くことが嫌いで、できれば書きたくないとすら思っている。

そんな中で書いていくのだから、それは書いていて楽しいものでなくてはならないし、その楽しくなさは文章にも表れる。そう言った意味では、上記のリライトは全然楽しくないのだ。もっと楽しんで書かなければならない。

 

では僕は何を書いているときが楽しいのだろうか。

僕は自分に歯止めがきかないレベルで暴走しているときに楽しさを見出す傾向にあると自己分析できている。

それを踏まえ、とにかく楽しい、という観点でさらに「おつかい」の日記を書き直してみる。

 

 

遠くから駆け寄る軽快な足音が聞こえた。馬だろうか、力強く、リズムよく刻まれるその音に遠くから意識が戻ってくるのを感じた。

「いててててて」

異様に体が重い。おまけにあちこちが痛い。瞼を開ける。一瞬で抜けるような青空が目の前に広がった。

「ここは?」

体を起こして周囲を見回す。そこはまるで定規で引いたかのように見渡す限りに地平線が広がる平原だった。

はるか向こうには見たこともない歪な形をした山が見える。

 

「なんで?」

鈍痛が響く頭を抱えて思い返す。思い出せ。たしか、上司に頼まれて渋々、書類を提出しにクロネコヤマトに向かっていたはずだ。

途中でお腹が痛くなって、いよいよ漏れるか、と覚悟した時、マクドナルドが見えた。そう、そこまでは覚えている。

 

それがどうしてこの平原なのだろうか。記憶が繋がらない。もう一度、確かめるように周囲を見回す。見渡す限りの平原だ。

もちろん、クロネコヤマトまでの道のりにこんな場所はない。心なしか空の色も知っているものより深い青に見えた。

 

規則的に聞こえていた馬の足音がさらに音量をあげた。かなり近いようだ。倒れていた場所に右手先には森があった。そこから聞こえてくるようだ。

もう間近まで迫っているが、お生い茂る木々によってその姿は見えない。

「ハイヨー!」

軽快な掛け声とともに、白い塊が森から飛び出した。

「ヒヒ――――ン!」

飛び出した白馬はこちらの姿を確認すると、驚き、大きく嘶いた。

 

「何者だ!」

白馬の上には女性が乗っている。赤髪をなびかせ魅惑的な瞳の色をした美少女だ。

その美少女が脇に携えていた短剣をこちらに向け、大きな声をあげた。

 

「いや、怪しいものじゃないです。頼まれた書類を届けようとクロネコヤマトに行く途中でお腹が痛くなって、そして気付いたらここに」

必死に説明するが、馬上の美少女には伝わらない。その不思議な色をした瞳でじっとこちらを見ている。

 

「本当に、上司が書類を速達で出せって言ってきて、五千円札出してきたんです、ほら、この書類、五千円も、ほらほら!」

馬上から見えるよう、高く掲げる。必死の弁明が通じたかどうかは分からない。美少女は短剣を納める仕草を見せた。

 

「貴様はマヤベーラの者か?」

「はい? マベヤーラ?」

何を言っているのか分からない。

 

「マベヤーラでないとするならカーリマナフの者か。ふむ。野蛮なその顔はカーリマナフに近いな。いずれにせよ好ましい種族ではない」

まったく要領を得ないが、とりあえず短剣をしまってくれたので、警戒は解かれたのだろう、そう判断した。

 

「よかった、信じてくれたんですね。僕が怪しいものじゃないって」

その言葉に、美少女は首を傾げた。

「信じる? なんだそれは」

一陣の風が通り抜け、森の木々が揺れる音が聞こえた。

 

『上司のおつかいでクロネコヤマトに向かったらウンコ漏らしそうになって気絶し、「信じる」という概念が存在しない世界に転生し、「信じる」ことだけを武器に魔王と戦うことになった件について』

 

 

30キロほど歩くと、城壁に囲まれた街にでた。どうやら彼女が拠点とする街のようだ。高くそびえたつ城壁、その中央にある大きな扉の前に立っていた。

 

「そろそろこの紐を解いてくださいよ、めちゃくちゃ食い込むし、歩きにくいし」

あの平原から、ずっと両手を後ろ手に縛られたまま引きずるようにして連行されてきた。何度説明しても理解してもらえないのだ。

「黙れ。貴様はこれから裁判にかけられるのだ」

「そんなあ」

 

道中、色々な会話を交わしたが、どうやらこの世界は元いた世界と全く異なる異世界のようなのだ。

そして、文明のレベルは低く、なぜか「信じる」という概念が全く存在しない奇妙な世界だった。

 

「よう、アリル、久しいの。なんだ、その男は」

城壁内へと通じる扉がゆっくりと開き始め、その横にいた兵士がそう話しかけた。

彼女の名前はアリルというようだ。

 

「ふん、平原で怪しいのを捕まえてきた。おそらくマベヤーラのものであろう」

「そいつは手柄じゃねえか。じゃあ今晩中に裁判か?」

「ああそうだ。おそらく処刑だろうな」

「違いねえ」

兵士はこちらの表情を覗きこむと薄ら笑いを浮かべながら口を開いた。

 

「かわいそうになあ。裁判にかけられちゃもう終わりだ」

 

<*>

 

「ほう、それではそなたはマベヤーラの手の者でないと申すか」

深く重い声が法廷に響いた。

 

「その、マベラーヤとかいうのは全く分かりません。ただ僕は書類を届けにクロネコヤマトに、そしてマクドナルドに寄っただけです」

赤い旗が振られた。その意味は分からないが、それを合図に、裁判官と思われる位置に座る3名の老人が相談を始めた。

 

「信じてください!」

その言葉に、法廷内が大きくざわついた。

「い、今なんと申した?」

裁判官の一人が身を乗り出す。何だか知らないが効果があったようだ。

「信じてください!」

また大きな声で言った。すぐに脇にいた兵士が古ぼけた本を持って裁判官に駆け寄った。裁判官はその本を急いでめくった。

「確かにそうじゃ。ここにそう記述されておる」

 

法廷はざわついていた。けれども、どういう仕組みか分からないが、赤い旗が振られると波が引くように静まり返った。

そして、真ん中の裁判官がかしこまった口調で話し始めた。

「信じる、とはこの古文書にあるように、大昔に存在した言葉だ。それを今しがた貴殿が口にした経緯は分からぬ。ただ、確かに存在し、誰からも忘れさられた言葉だ」

裁判官は確認するかのようにゆっくりと経緯を説明し始めた。

 

この世界はアドラの国、マベヤーラの国、カーリマナフの集団、と3つの団体が覇権を巡って何万年も争っていた。

長い長い戦いにおいて、多くの人々が死に、多くの裏切りが生まれた。そして人々はいつしか「信じる」ことを忘れていった。

 

「この言葉を口にするものが現れるとは……」

裁判官たちは一様に驚いた表情を見せた。その瞬間だった。

ドゥウウウウン!

鈍い爆発音が響いたかと思うと、少し時間をおいて建物全体が揺れた。

すぐに兵士が法廷内へと走りこんでくる。

 

「カーリマナフの集団による襲撃です。すでに城門を突破されました」

「すぐに避難を!」

「被告人を牢へ。傍聴人は第四避難壕に退避」

兵士の声が法廷内に響き渡った。

 

すぐに手錠をつけられ、長い渡り廊下を引っ張られていった。どうやら逃げないように牢屋に入れるらしい。

ドゥウウウウン!

また鈍い音が響いた。そして今度はさらに激しく建物が揺れた。

「うわあああああああああああ」

衝撃は渡り廊下の屋根を崩壊させ、その破片が兵士を直撃した。

「もしかして逃げるチャンス!?」

 

辺りを見回しても兵士の姿は見当たらない。おそらく全員が戦闘に出払っているのだろう。

それならば逃げるチャンスだ。なにせここに残っていたら裁判にかけられ、処刑されてしまうのだから。

 

脇にある階段を降り、庭園に出る。そこは中庭になっているようだった。

中央に置かれた噴水が攻撃の影響で壊れており、ひび割れから水が漏れ出ていた。

 

キンキンキン!

乾いた金属音が響いた。見ると、一人の兵士が大勢の敵に囲まれている。どうやら劣勢のようだ。

「アリル!」

囲まれている兵士は、あのアリルだった。赤い髪をなびかせ必死に剣を振る。しかしながらカーリマナフの者と思われる大勢の兵士に囲まれ、今にも殺されてしまいそうだった。

 

「ヒャッハー! くらえー!」

「くっ!」

アリルに向かって大剣が振り下ろされた。

ガキン!

「貴様! どうしてここに!」

 

気付けば勝手に体が動き出し、手錠を結ぶ鎖で大剣を受け止めていた。

 

<*>

 

「どうして逃げなかった? あのまま見捨てて逃げていればなんとかなったかもしれないのに」

アリルは息を弾ませながら言った。

 

「さあ、でもアリルを助ければなんとかなると思ったんだ。逃げるよりもずっと大切だと思った」

「ふんっ、だとしたらずいぶんと見込み違いだな。もう一度貴様を法廷に突き出すまでよ」

「それでも構わないよ。そうなるって勝手に思っただけだから、それが「信じる」ってことだから」

「信じる……?」

 

<*>

 

「アドラの王として正式に依頼しよう。貴殿はこの世界を鎮められる言い伝えの戦士。なんとしても窮地にあるアドラを救って欲しい」

王の間は静まり返っていた。数万年続いた三国の争いは、近年になって急速にその均衡を失いつつあった。アドラの国の衰えが顕著になったのだ。

追い詰められた王は古文書に記された存在にすがるしかなかった。

 

僕はゆっくりと立ち上がり、王に宣言する。

「僕は異世界からやってきた存在です。元いた世界では、異世界に飛ぶとすごい能力とかが身についているか、もしくはおそろしく周りのレベルが低くて無双できるって信じられていました。けれども、こうして異世界に来た僕には何の力も、能力もありませんでした」

 

僕の言葉をアドラの王は聞き入っていた。

「でも、もしかしたらこの世界で失われた「信じる」だけがその能力なのかもしれません。それを使っていいのなら、お引き受けします」

 

<*>

 

「とまあ、そんなやり取りがあったわけよ。君のお父さんと」

 

馬にまたがる僕の横には白馬に乗ったアリルの姿があった。

「ふむ、それでどうやってマベヤーラとカーリマナフを滅ぼすつもりだ。戦力の大きいほうを滅ぼすならカーリナマフが先か?」

アリルの言葉に首を横に振った。

 

「どちらも滅ぼさない。同盟を結ぶ」

その言葉にアリルは顔を真っ赤にして反論した。

「そんなことができるはずがない。野蛮なカーリマナフ、狡猾なマベヤーラ、それらと手を組むなんて!」

「それが「信じる」ってことさ」

「くっ」

「王は、君のお父さんは信じてくれたよ。やはり王だけあって聡明な人だ。それに引き換え君は……」

「くっ!」

 

<*>

 

小太りな男が酒樽を片手に笑顔で自己紹介をした。

「俺はバックハグ! カーリマナフの戦士だ! 俺より酒が強い奴は初めてだぜ」

「いやー、元いた世界で飲んでいたストロングゼロに比べれば」

 

<*>

 

青髪の少女が静かに口を開いた。

「私はシズル、マベヤーラの古代研究所で研究をしています」

シズルはゆっくりと古文書を手に取った。

 

「するってえと、古文書にも詳しいわけか!」

バックハグが前のめりの体勢になる。すぐにアリルが制した。

 

「怖がってるじゃない。ほんと、カーリマナフの野蛮人はこれだから」

バックハグがアリルをにらみつける。シズルは二人を一瞥すると、古文書のあるページを開いて説明した。

 

「ええ、古文書によると、「信じる」という行為は長い争いの果てに失われたものではありません。元凶は悪しき存在である闇の王、ルヴァタート」

「闇の王ね」

アリルが続けた。

「すべてを奪いし者、か……」

バックハグも続けた。

 

「3つの国には、同じような童話が残されています。何万年もいがみあい、争ってきたのに、おなじような童話が残されている。それがすべてを奪いしルヴァタートという存在です。その悪しき存在が大切なものを奪っていくというお話です」

シズルの説明にバックハグが頷いた。

 

「それが「信じる」なのか?」

「カルトルス山脈に住む闇の王、ルヴァタート。それによって奪い去られた信じる気持ち」

「行くしかない、カルトルス山脈に」

 

<*>

 

「フハハハハハハハハ、愚かな民よ! たった4人で何ができると思ったか!」

「くっ……」

「なんて巨大な力……」

「ここまでなのか」

ドドドドドドドド

遠くから水の音がした。そして、枯れ果てた渓谷に水が注がれる。

 

「童話によると、ルヴァタートは水に弱い」

シズルが起き上がりながらそう言った。それを受けてアリルが呟く。

「きっとお父様だわ」

「ありえねえ! 水門を開けることはその年の農業を諦めるってことだ。そんなことをするなんて」

「お父様……」

 

ルヴァタートは突如押し寄せた大量の水に浸り、少しずつ弱ってきている。僕はゆっくりと立ち上がった。

「バックハグ! シズル! アドルの国は俺たちを信じて水門を開けたぞ! でもまだ水が足りない。お前らもそれぞれの国に戻って国王を説得し、水門を開けてこい!」

 

その言葉にバックハグが反論した。

「無理だ! 水門を開けるなんてとんでもない!」

シズルも首を横に振る。

「うちも無理です。むしろうちだけ開けずに水を確保し、優位に立とうと考えます。マベヤーラはそういう人種です」

 

「いいから開けてこい。お前らならできる、信じてる!」

「お、おう」

「はい!」

バックハグとシズルが傷ついた体を引きずり、それぞれの国に帰っていく。

 

<*>

 

「ずいぶんバカなことしたものね。絶対にマベヤーラもカーリマナフも水門は開けない」

「その時はその時さ」

岩陰に身を隠しながらアリルと二人で体を支えあう。

 

「あきれた。どうしてそんなにバカになれるの?」

「それが信じるってことだから」

 

<*>

 

ドドドドドドドド

遠くからまた水の音が聞こえた。

 

「そうらおいでなすった」

「うそ、そんな……」

「マベヤーラもカーリマナフも水門を開けた。バックハグとシズルがやってくれたんだ。これが信じるってことさ。悪くないだろ」

アリルはゆっくりと頷いた。

 

押し寄せる大量の水、ルヴァタートは半分ほどの大きさになっていた。

「さあて、童話によると水で弱らせたあとどうなるんだ?」

 

アリルがゆっくりと答える。

「子供の時に聞いた話では、光の存在が弱ったルヴァタートと交わりお互いに消えて、闇が晴れるって」

この岩陰もどんどん水位が上がってくる。

 

「光の存在が俺ってことかな」

アリルが頷く。

「じゃあいってくるわ。ここで待ってろ」

岩から飛び降り、腰まで水に浸かる。ゆっくりと歩きだすと、アリルが声を上げた。

「まって!」

振り返る。

 

アリルは視線を下に落としてモゴモゴと何かを言っている。

「あの、その、あの、し、し、信じてるから!」

そう言って顔を真っ赤にした。そして照れ隠しなのか少し視線を外しながら続ける。

「初めて言ってみたけど、いい言葉だね」

「任せろ!」

そう言って、ポケットから五千円札を取り出し、アリルに渡す。

 

「持ってろ。お守りだ。俺がルヴァタートを消し去って、この世界に「信じる」が戻ってもきっと争いは消えない。元いた世界がそうだったからな。

むしろそこからのほうが大変だ。信じるからこそ、苦しいことも悲しいこともある。それに直面するはずだ。それでも人を信じられるよう、このお札を見て思い出してくれ。このお札に書かれている新渡戸稲造って人は著書の中でそういうことを書いている」

「ニトベイナゾウ……」

アリルは五千円札を強く握りしめた。

 

<*>

 

「さあこい! ルヴァタート」

ルヴァタートに対峙する。

一瞬、ルヴァタートの闇が広がったかと思うと、手元から溢れ出した光がその闇を中和していった。

「ぐわあああああああああ」

 

視界が真っ暗になり、その後、眩い光が見えた。そして、この世界で最初に見たのと同じ、少し濃い青空が見えた。

 

気が付くと、マクドナルドの駐車場にいた。夢だったのだろうか。きっと夢だったのだろう。おそらく極度の腹痛が気を失わせ、夢を見せていたのだ。

急いでマクドナルド店内に入り、用を済ませてクロネコヤマトに向かう。

こんなおつかいでも信頼して任された仕事だ。しっかりとやり遂げなければならない。

 

クロネコヤマトに到着する。そこで気が付いた。五千円がない。忽然と五千円札が消え失せていた。

「アリル……」

見上げた空は、あの世界のように少しだけ濃い青空に見えた。

 

 

とまあ、こういう感じに書き直せるわけです。

皆さんもぜひとも、最初にインターネットに書いた文章を何度も何度も書き直してみてください。そうすることで自分がどの位置にいるのかわかるはずです。

僕はこうして異世界ものを書いてわかりました。やっぱり才能がない。

 

 

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著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

(Photo:Hefin Owen

競泳選手のホープで、東京オリンピックのメダル候補、池江璃花子さんが白血病を公表した。すると、それに対して多くの人がコメントを発表したが、そのうちのいくつかが「不謹慎」として炎上した。

特に桜田五輪担当大臣の「がっかり」発言や、橋本議員の「体を使って」発言は非難の的となった。また、不謹慎な人を探す「不謹慎狩り」も活発に展開され、さまざまな人の発言が不謹慎としてやり玉に挙がった。

 

しかしぼくは、そうした「不謹慎狩り」をすることの方が、良くないと思った。

むしろ、そうした不謹慎発言を許容するような世の中でないと、問題が大きくなると思った。今日は、そのことについて書きたい。

 

まず、そうした不謹慎発言に憤慨したり、それを炎上させたりする人々は、一体どういった心理に基づいて行動しているのだろうか?

それは、彼らも本心(深層心理)では、不謹慎なことを言いたいのである。しかしそれができないから、している人を見るとムカッとくるのだ。

それで炎上させるのである。

 

それは、芸能人の不倫にムカッとくる心理と一緒だ。

多くの人は、不倫をしたくてもできない。相手がいない場合もあるだろうし、自分の中のモラルがそれを許さない場合もあるだろう。いずれにしろ、不倫をできないことに欲求不満を抱いている。

そうしたときに芸能人が不倫をしていると、「自分がしたくてもできない不倫をいけしゃあしゃあとしている!」と憤慨して、炎上させるわけである。

 

池江璃花子さんの場合も、本当はみんな不謹慎な発言をしたいのである。

特に、多くの人がしたいのは「神様はいて、みんな平等なのだ」という考え方の表明だ。

多くの人は、「人間は平等である」と考えている。また、それが当たり前とする考え方を持っている。しかも、単に人権的にというだけではなく、「幸せについても平等であるべきだ」と無意識のうちに考えている。

 

そうした心理から、飛び抜けて幸せそうに見える人には、ナチュラルな「不平等感」を覚える。

特に池江璃花子さんのような人に対しては、「あまりにも恵まれすぎている」と思う。若く、美人で、スタイルも良く、健康で、しかも類い希な運動能力を持っている。人気があって、結果も残した。

彼女は、人が欲しいと望むあらゆるものを持っているように見えた。だから、そこに心理学でいうところの「認知的不協和」を覚えないわけにはいかなかった。

 

そういう人が、若くして白血病にかかった。これは、多くの人にとって「ああ、やっぱり神様はいて、みんな平等なのだ」という考えを抱かせ、深く納得させるには十分なできごとだった。

「池江璃花子さんは幸せすぎて、世の中は不平等に思えたけど、やっぱり神様は平等だから、それと同じ分だけの不幸を彼女に与えたのだ」と、多くの人がナチュラル無意識のうちにも感じてしまった。

このできごとは、そういう認知的不協和をこれ以上なく解消させるできごとだったのだ。

 

一方では、多くの人も「神様や『平等な幸せ』などというのは非論理的で、受け入れられない。それに、そう考えることは不謹慎だ」と思っている。だから、それを発言しないよう気をつけていた。

しかし、そうしたときに不謹慎な発言をしている人がいると――ましてやそれが有名人だと、自分がしたくてもできないことをしているように見え、腹が立った。だから炎上させたのだ。

 

そんなふうに、不謹慎な発言が炎上したのは、実はその根底に、多くの人の心の中に不謹慎な思いがあったからなのだ。

池江璃花子さんのことを心から思って不謹慎狩りをしている人など、ほとんどいないのである。

 

ただ、こういう指摘をしても、多くの人はそれを認められない。

多くの人は、自分を強く戒めすぎているため、自分の心の奥底にある不謹慎な気持ちから目を背けているため、そのことに気づけない。

だから、こういう指摘をしても、全く通じないことが多い。

 

むしろ、「おかしなことを言うやつだ」と敵視され、なんならぼくが炎上してしまう。

だからぼくは、こういう発言を公の場ではしないようにしてきた。してもいいことがないからだ。

それでもここに書いたのは、こういう事実は、やはり多くの人が知っておいた方がいいと思ったからだ。多くの人にとって、それを知っておいた方が、よりよく生きられると思ったからである。

 

人間の「神様はいて、みんな平等なのだ」とつい考えてしまう性質は、実はきわめて本質的なものだ。

それは自然なことである。多くの人は、そういう考えを一方では非論理的と思いつつも、もう一方では深く納得してしまう。そういう「幸せエネルギー保存の法則」とでもいうべき神話を、つい信じてしまうのだ。

 

特に池江璃花子さんの事例は、その幸せと不幸せのコントラストがあまりにも強烈だったからこそ、かえって神話化したくなる気持ちが強くなった。

みんな、幸せな人がその分だけ不幸になるわけではないと分かってはいながらも、池江璃花子さんの事例に何らかの物語性を求めないわけにはいかなかったのだ。

 

それは、ほとんどの人間が当たり前のように持つ性質の一つで、問題視するようなものではない。

むしろ、それを否定することの方が問題が大きいといえる。それを否定したのでは、人間そのものへの理解が覚束なくなり、人間関係や社会が破綻するからだ。

ぎすぎすとして、心が荒む。過度な理想を前提としてしまうと、世の中はかえってうまくいかなくなる。むしろ、そうした不謹慎な気持ちがあるということを前提にした方がいい。

 

実際、今回の不謹慎狩りで世の中が良くなかったかといえば、そんなことは全くない。

ぎすぎすとした気持ちになり、心が荒んだ人の方が多かったのではないだろうか。

 

おそらく、多くの人は「ぎすぎすとした気持ちを抱いたのは、不謹慎な発言をした人がいて、その発言が池江璃花子さんを傷つけたからだ」と考えている。

しかし、そうではない。本質的には、多く人が「自分の中にある不謹慎な気持ちを認められず、それが不謹慎狩りといういびつな行動となって現れたこと」に、ぎすぎすとした気持ちを抱いたのだ。

 

だから、自分の中の不謹慎な気持ちを認め、不謹慎な発言をする人のことをも容認できるようになれば、ほとんどの人はぎすぎすとした気持ちが収まる。そうして、心が荒むこともなくなるのだ。

 

ぼくは今回、ぼく自身も炎上するかもしれないと思いながら、このことをあえて書いた。

なぜなら、前述したように不謹慎な発言を狩るような世の中は、かえって災いが大きくなると危惧するからだ。

 

また、もう一つには、こういうことを書く人がとても少ないということもある。なぜなら、こうした炎上するかもしれない発言はきわめて危険で、多くの人が避けるからだ。

しかし、だからこそそれは、ぼくの役割かとも思った。そういうことを言う人が少ないのなら、なおさらそれを発言しないと、世の中が良くならない。

 

そして、ぼくが世の中に貢献できるとしたら、こういう「他の人が言えないようなことを言うところではないか」とも考えた。

これも非論理的な神話の一つかも知れないが。

 

 

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【著者プロフィール】

岩崎夏海

作家。

1968年生まれ。東京都日野市出身。東京芸術大学建築科卒。 大学卒業後、作詞家の秋元康氏に師事。

放送作家として『とんねるずのみなさんのおかげです』『ダウンタウンのごっつええ感じ』等、テレビ番組の制作に参加。 その後、アイドルグループAKB48のプロデュースにも携わる。

2009年、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』を著す。

2015年、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『イノベーションと企業家精神』を読んだら』 。

2018年、『ぼくは泣かないー甲子園だけが高校野球ではない』他、著作多数。

現在は、有料メルマガ「ハックルベリーに会いに行く」(http://ch.nicovideo.jp/channel/huckleberry)にてコラムを連載中。

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noteでコンテンツの「文脈」について書いています
文脈でコンテンツ力を高めたい、そんなクリエイターのためのnote及びマガジンです。
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(Photo:Daniel Hermes

こんにちは。コワーキングスペース「Basis Point」の運営会社、Ascent Business Consulting代表の北村です。

最近「仕事における創造性」について、議論する機会がありました。

そこで、1つ興味深い議論があったので、共有したいと思います。

 

システム化、機械化の流れが、マニュアルワークの価値を下げていることは、多くの人がご存知でしょう。

かつて雇用の大きな吸収源であった、誰でもできる仕事としての事務職は、風前のともし火です。

参考:人手不足なのに給料が上がらないのは、経営者の強欲のせいではなく、仕事に要求される能力が高くなったから。

 

仕事は難しくなる一方で、ルーティンワークしかできない人は、豊かな生活を手にできない。

これが続けば、世の中はあまり健全な方向に向かわなくなってしまいます。

 

この状況に対して、有効な手立ては2つ、あります。

一つは社会保障を厚くして、再分配をもっと進めること。

最近ではベーシックインカムの前衛的な議論も見られます。

 

しかし、社会保障を手厚くするだけでは解決できないことがあります。

それは、社会的な承認の問題です。

人はパンのみで生きるわけではなく、お金の心配をしなくていいからといって、社会が認めてくれない状態は、本当に辛いものではないでしょうか。

現状の B Iのシステムでは根本的に解決できないある問題が存在する 。というより 、むしろ B Iではこの問題を解決するどころか余計に深刻化させてしまいかねない 。それがおそらくは B Iの致命的な欠点となるだろう

。仮に国家規模で恒久的な実施が決まったとしても 、中長期的な継続を困難にしてしまい 、最終的に B Iそのものを頓挫させてしまうのではないかと考えている 。(中略)

B Iによってもたらされる 「余暇 」には 、承認 (獲得手段の格差およびその結果 )の格差を拡大する機能があるともいえる 。

金銭的な飢えからは脱却できるかもしれないが 、 「社会的な存在としての肯定 」の飢えからは脱却できず 、むしろその飢餓の度合いを深めることになりかねないだろう 。

[amazonjs asin="4781617263" locale="JP" tmpl="Small" title="矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る"]

 

したがって、我々は二つ目の方法についても、検討する必要があります。

それは、「誰もが創造的に働くことができるようにする」という試みです。

 

絵空事でしょうか?

私はそうは思いません。人の適応力は、思った以上に高いのです。

 

例えば、人類の認知能力、すなわちIQは、ここ50年でかなり高くなっています。

キングス ・カレッジ ・ロンドンの研究チ ームは 、過去 6 4年間に 4 8カ国で実施された知能検査のデ ータを集めて分析し 、 1 9 5 0年から I Qの平均値が 2 0ポイントほど上昇していることを指摘しています 。

[amazonjs asin="B01KZ9GH8O" locale="JP" tmpl="Small" title="なぜ人類のIQは上がり続けているのか? 人種、性別、老化と知能指数"]

原因は様々な要因が絡んでいるでしょうが、人間が急に頭が良くなった、というより、現代の知識社会に、人間が適応していったと考えるのが適切でしょう。

人は農業から工業へ、工業からサービス業、情報産業へ素早く適応してきました。

移行期には若干の混乱がありつつも、つねに人類は適応を繰り返し、全体としてはうまく対処してきているように感じます。

 

とすれば、現代は創造性をすべての人が持てるように、適応を迫られていると考えても、何もおかしなことはありません。

 

 

ではどうすれば、誰もが創造的に働く世界を作ることができるのでしょう。

「だれもがイノベーターや、芸術家になれるわけじゃない」との反論もあると思います。

ですが、創造的という言葉には、世界で無二のものを生みだす、という意味だけではありません。

 

むしろ、仕事で創造的な、というところに限定をするのであれば、誰にとっても可能なことだと、私は考えます。

なぜならば、具体的には、創造的な仕事は、以下の条件を満たすものだからです。

1、仕事のやり方は決まっていない

2、課題を設定する

3、それを解決するために試行錯誤する

 

これさえ満たしていれば、その仕事は創造的といって差し支えないと思います。

これはドラッカーの言う知識労働の定義そのままです。

 

そして、ここでとりわけ重要なのは「試行錯誤」の部分でしょう。

創造的な仕事は、芸術、科学、スポーツなどと同じく、飽くなき試行から生まれます。

スタートアップなどでは「試せ、試せ、試せ」というフレーズが使われることがありますが、マニュアルワークではない仕事は、必ず「試すこと」が必要となります。

 

例えば、任天堂を今日のグローバル企業に押し上げた立役者の一人、「ゲームウォッチ」「ゲームボーイ」などを生み出した、横井軍平は、こんな事を言っている。

アイディアを出すというのは、簡単そうで難しい仕事だ。アイディアに富んだ人間を自負する人の赤には、ただその場の思いつきを、考えなしに話しているだけの人がいる。

これはアイディアとは呼べない。

浮かんできた思いつきを検証してみれば、1000のアイディアのうち999は使いものにならないことがわかるはずだ。

999のだめなアイディアをいかに早く没にして、残りの1に到達するか、これがアイディアを出せる人間だ。

[amazonjs asin="404885058X" locale="JP" tmpl="Small" title="ゲームの父・横井軍平伝 任天堂のDNAを創造した男"]

横井軍平は、創造的な仕事の本質を早くから見抜いていました。

 

 

しかしながら、このような「試行錯誤」は、個人レベルでの取り組みだけではうまくいきません。

なぜなら、創造的な仕事を社員にやらせるためには、「試すことが奨励される」「失敗してもキャリアが損なわれない」などの企業風土が必要だからです。

 

例えば、Googleは、創造的な仕事をする上でチームのアウトプットが、心理的安全性に依存することを突き止めています。

「効果的なチームとは何か」を知る

Google のリサーチチームが発見した、チームの効果性が高いチームに固有の 5 つの力学のうち、圧倒的に重要なのが心理的安全性です。

リサーチ結果によると、心理的安全性の高いチームのメンバーは、Google からの離職率が低く、他のチームメンバーが発案した多様なアイデアをうまく利用することができ、収益性が高く、「効果的に働く」とマネージャーから評価される機会が 2 倍多い、という特徴がありました。

これは、誰もがパフォーマンスを、高められる方法の一つとして、あらゆる会社に採用可能な方法論だと言えます。

 

また、奇しくも前述した横井軍平も、全く同じようなことを任天堂内で試みていました。

私は任天堂時代は、会議で新人の口を以下に開かせるかということをずいぶんと考えました。

若い人が「私なんかが発言したって……」と萎縮してしまったらもうおしまいですから。宴会みたいな会議をしてみたり、自分からあえてばかばかしいことを口にしてみたりとか、ずいぶんと工夫しました。

私の新入社員時代は、私みたいな若造の言うことを反対する人がいなかったわけですから、それと似た環境を上に立つ人間が作ってやらなければいけないんですね。

つまり、「創造的に人に働いてもらう」ための環境をあらゆる会社のマネジメント層が意識的に作り出せば、一部の天才だけではなく、「皆が創造的にはたらくこと」が可能になることが実現できるのではないでしょうか。

 

したがって、これから、企業は「一部の創造的な人物が、大量の無能な労働者を使う」のでは、絶対に競争に勝てません。

なぜなら「全員が創造的」である企業が100%、勝つからです。

 

皆様のお勤めの会社は、果たしてどうでしょうか?

 

【お知らせ】

コワーキングスペース「Basis Point」サービスサイト

◯「自由な働き方を選ぶ人のためのwebマガジン」クールワーカーズ

◯案件を探すならコンサルポータルへ登録

Ascent Business Consulting 株式会社コーポレートサイト

(Photo:CopperCatStudios)

つい先日、とある編集者の方から

「会社員が、自分の市場価値を上げる方法ってありますか。あるなら記事にしてください」

と依頼された。

 

曖昧な質問だが、仮に「市場」を転職市場とし、「価値」は給料のことだと置くと、この質問は

「会社員が、転職で、高い給料を出してくれる会社に行く方法って、ありますか」

という質問に翻訳できる。

 

なるほど。高い給料を出す企業は少ないし、給料は上がらないので、会社員には切実な問題である。

 

会社員が、高い給料を出してくれる会社に転職するには

正直,そう言う話は、転職サイトでやればいいと思うのだが、Googleで世の中の状況をちょっと調べてみると、いろいろとダメなことがよく分かる。

 

例えば、「市場価値 上げる」と検索すると、上位の方に出てくるのはこんな記事たち。

市場価値が高い人になるために知っておきたい20代の過ごしかた

20代は地頭の良さ、素直さ、扱いやすさ

30代は実績

40代は経営視点

全世代共通なのは、コミュニケーション力と、会社へのフィット、情熱

 

自分の市場価値の高める「5つの人間力」を鍛えよう

人間力

=1.礼儀正しさ 2.謙虚 3.優しさ 4.信頼感 5.自信と活気

 

自分の市場価値を高めキャリアを成功させる秘訣

1.スキル

2.実績

3.キャリアプランでの希少性。

 

世の中から求められる人ってどんな人? 「市場価値」を高める3つのステップ

時代や環境に左右されない普遍のスキルが、市場価値を高めるベースとなる。

ステップ1:自分の軸を考える!

ステップ2:理想像を定める!

ステップ3:道筋を立て、行動に移す!

なるほど。

だからどの記事も、結局「実力」がものを言う、という説教になるわけだ。

 

自分ばかり見ていても、給料は上がらない。

んーーーーー。どれも間違っているわけではない。

だが、微妙。

微妙すぎる。

 

スキルは大事だし、人間力だって、あったほうが良い。

でも、スキルがあって人間力が高い人であっても、必ずしも高い給料を取っているわけではない。

 

いや、むしろ、スキルを磨きまくっても、大して給料なんぞ増えない、と思っている人が多いのではないかと思う。

私も同感だ。

正直、上の記事と、私の感覚とは、全くそぐわない。

 

なぜか。

それは、上の話は全て、「私」=「商品」の話だからだ。

そして、すべての記事がこういっている。

「商品さえ良ければ、市場は高く買ってくれますよ」と。

 

でも、本当にそうだろうか?

商売をやっている人なら100%わかると思うが、はっきり言うと、商品が良いからといって、売れるわけではない。

 

もっと言えば、商品の質は普通でも、売り方によって高く売れる。

いや、商品がそれほど良くなくても、高く売ることは可能だ。

 

もっと言えば、「売れているのが美味しい料理だ。」と言い切っているサイゼリヤの社長のほうが、現実をよく表している。

[amazonjs asin="4822233480" locale="JP" tmpl="Small" title="おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい料理だ"]

この百戦錬磨の社長は、「商品よりマーケット」をよく見ている。

これが真実なのだ。

 

でもなぜ上の記事たちがこんな事になっているのだろう?

簡単だ。

日本の会社員は、マーケットを見るのが、めちゃくちゃ苦手なのだ。

 

つまり、上は全て、商売をしたことのない人が、「商品さえ良ければ売れますよ!」と言っている、

ウブな記事たちなのである。

 

現実は「商品(自分)の質を高める」よりも「成長マーケットに飛び込む」ほうが100億倍重要

話を少し変えよう。

20年近く昔のことだが、私がコンサルティング会社にいた頃、ISO9001の認証取得の支援のコンサルティングをしていたことがある。

 

当時は、ISO9001の取得がブームになっており、「取らないと取引できない」などの条件があるなど、どの会社もISOの認証を取得することに邁進していた。

そして、そこには大きなマーケットができた。

 

私が在籍していた会社は、そこに目をつけるのが早かった。

いち早くツールを標準化し、支援をコンサルティングメニュー化し、大量のコンサルタントをインスタントに育成した結果、市場を押さえることに成功した。

 

正直、あのころは「バブル」と言っても良かっただろう。

新卒、第二新卒あたりのペーペーが、とにかくクライアント企業をISOの審査に合格させることさえできれば、1日あたり20万円(月500万)近いコンサルティングフィーがとれたのだ。

 

ただ、2,3年経つと市場は荒れてきた。

新規参入の会社が乱立し、「合格させますよ」だけでは、仕事が取れなくなってきたのである。

その時、はじめて「商品」の差別化が重要な意味を持ってきた。曰く、業務改善に役立ちます、書類を減らせます、人事評価の役に立ちます……

 

ただ、それはあくまでも対処療法だった。結局、提案やプレゼンテーションに大きなコストがかかるようになり、単価は下落し、あまり旨味のある商売ではなくなり、ついに私達はこの商売から手を引いたのである。

 

そこで私が学んだことは一つ。

「マーケットを正確に把握できれば、商品の質は多少低くても、めちゃくちゃ儲かる」である。

 

要は「商品の質を高める」よりも「成長マーケットに飛び込む」ほうが100億倍重要なのだ。

成長マーケットで商売をしていなければ、どんなに良い商品でも買い叩かれ、利幅は薄くなる。

はたらく人は疲弊し、無駄な競争ばかりが増える。

 

「スキルアップ」はなんのためか。

良い会社に転職するために、スキルアップしたい、という方がいる。

だが、その「良い会社」とは一体何を指しているのか、明確にしている人は少ない。

 

一方で、マーケティングの専門家であれば、ターゲットを曖昧にすることは許されない。

セグメントを定め、ターゲットを絞る。そして、そのターゲットに向けて、商品をチューニングしていく。

そこで求められるのは、ひたすらマーケット志向である。

 

転職も同じだ。

「人間力」とか「素直さ」とか、そういった曖昧な概念ではなく、

「◯◯商事の、◯◯というポジションを狙っているので、◯◯という経験を積んでおく必要がある」と答えられる人のほうが、遥かにマーケットでは強い。

 

最悪、スキルなどなくとも、誰にでも年収1000万くれる社長と友達だったら、あなたの年収はすぐ、1000万になるのだ。

実際、「転職なんて、人脈で決まる」という方も数多くいる。

 

「スキルアップしなきゃ」ということで、なんとなく英語を習ったり、サロンに入ったりする人もいるが、はっきり言って、超無駄である。

必要なのは「マーケットの状況を知ること」、つまり狙っている会社と、狙っているポジションを明確にし、それを攻略するのに必要な材料を自分の中に集めていく。

自分がそう言うポジションを取れるように、SNSなどを通じて発言する。

物を書いて、世の中に発信する。

 

そういった、「マーケター」のような、発想をもつことが、自分の市場価値を高めるのである。

 

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(Photo:onyxkatze

「もういいよ、わかったよ!」

そう言いたくなるほど見かける、「ヨーロッパではみんなふつうに1ヶ月バカンスに行くのに日本は休めないなんて!」という主張。

 

いやまぁ、気持ちはわかる。わたしがドイツのカフェで週2回のアルバイトをしていたとき、8日の有給休暇(1ヶ月)もらえたし。

 

でもそういう主張するのなら「なぜ休めるのか」についても考えたいよね!

ということで、ドイツが休める理由についてもちょっと言及しておこうと思う。

 

1ヶ月のバカンスに行くドイツと、有給消化率最下位の日本

エクスペディア・ジャパンの調査によると、日本の有給休暇支給日数は20日で取得率は50%、3年連続最下位である(ブラジル、フランス、スペインは30日の支給日数に対し取得率100%)。

一方ドイツは、フランクフルター・アルゲマイネによれば、有給休暇の平均支給日数は約28日。エクスペディアの同統計によるとドイツの有給休暇残日数はゼロだから、たしかに1ヶ月のバカンスもありうるわけだ。

 

「ドイツでは休めるけど、日本では休みづらい」

これはまぁ耳タコなほど聞くことだし実際そういう面はあるのだけれど、せっかくならその理由についてもかいておきたい。

 

有給休暇をとりまく日本とドイツのちがいには、3つの大きなちがいがある。

ドイツでは、とにかく「休み」は「休み」である。有給休暇中に病気になったら病欠扱いになり有給消化にはカウントされないし、『欧米の「つながらない権利」が徹底していてすごかった。』という記事でも書いたが、最近では「休暇中なのでメールは自動的に消去されます」なんてことも増えてきた。

休まない=偉い、ではなく、休んでメリハリを、という価値観だ。

 

そして、『労働者の権利への意識のちがい』も大きい。

ドイツではしょっちゅうストライキが起こるし、契約書に書いていない仕事を任されたら拒否できる。

労働者の権利を守らない経営者はすぐ問題になるので、休暇はちゃんと取らせるのだ。

 

さらに、『客の意識のちがい』もある。

問い合わせても「担当者がバカンスで連絡が2週間後になる」とか、そもそも人がいなくて電話がつながらないとか、レストランが2週間閉まっているとか、そんなのばっかり。

でもそれはお互い様だし、怒ったところで「すみませんすぐに対応いたします!」とはならないので、客は「まぁ待つしかないよね」と割り切る。

 

まず大前提として、この3つのちがいは、たしかにある。

 

ドイツでは半年前から休暇申請をする

でももうひとつ、ドイツで長期休暇が取れる背景には、半年以上も前から申請して調整するという工夫があるのだ。

 

わたしは去年の3月ごろ、ドイツ人のパートナーと日本旅行を計画していた。

旅行の予定は10月か11月あたり。しかし彼が上司に聞いてみたら、3月の時点ですでに3人の同僚が10月、11月の休暇を申請して認められており、彼には旅行日の選択権がほとんどなかった。

 

わたしが経験したアルバイトでも同じだ。

10月、店長に「翌年の休暇希望は早く出して。早い者勝ちだから」と言われた。

 

「暖かくなったタイミングで一回日本に帰るかぁ」なんてぼんやり思っていたのだが、12月になるとすでにみんな翌年の休暇申請を終えており、わたしは空いているタイミングで休暇を取るしかなかった(それでも1ヶ月取れたけれど)。

 

先々月のクリスマス、彼の実家に帰省し、彼の家族に「4月に入籍して式を挙げる」と伝えたときもそうだ。

兄夫婦は「4月の前半の2週間はバカンスだから」とすでに休暇の予定があるとのこと。これまた4ヶ月先の話だが、すでに飛行機もホテルも全部予約しているらしい。

 

当然のことだが、数週間も職場を離れるのだから、いつでもどこでも好きなように休暇を取れるわけではない。

職場への負担が最小限になるよう、とにかく早く申請し、調整してもらった結果の長期休暇である。

 

仕事の予定に「休暇」が組み込まれている

正直、何ヶ月も前から「休暇予定を出せ」と言われても、「まだ予定がわからないしなぁ」と戸惑った。

日本であれば1ヶ月、せいぜい2ヶ月くらい前に申請することが多いと思う。

 

でもドイツでは、旅行の行き先や日数を踏まえてかなり早い段階で休みを申請し、認められたら安いうちに予約してしまうのが一般的だ。

そうすれば、直前になって「やっぱり出勤」はありえない。みんな半年以上も前にばっちり休暇予定を立てているのだから。

 

そして、「先のことだから休めるかわからない」ということもない。

仕事の予定が立つ前に休暇を予定に入れ込むので、それを前提として仕事の予定が組まれていく。ちなみにだれかが休暇中にさらに病人が出ると残業になることもあるが、そこもお互い様である。

 

さらに、あらかじめみんなの休暇の予定を立てているから、休暇を取らない、取れない人がいる、ということもあまり起こらない。

休暇スケジュールを見れば申請していない人は一目瞭然なので、上司は「休みの予定は?」と声をかける。

 

わたしのパートナーはあまりこだわりがないので、「結婚式らへんと、新婚旅行と、クリスマスあたりに取ります」と答えたらしい。

すると、「この日からこの日はアイツがいないから、そこ以外で頼むよ」となるわけだ。

 

仕事の合間を縫って休むのではなく、みんなの休暇をスケジューリングして仕事を割り振っていく。だから長期休暇も取れるのだ。

 

1ヶ月バカンスの裏にはそれを可能にする背景がある

とまぁこんな感じで、とにかく早く申請、その後調整をして、みんな休みを確保しているというのがドイツでの実感である。みんなが好き勝手なタイミングで好きなだけ休めるわけではない。

 

これを踏まえて、わたしなんかは「日本でも事前に全員分の休暇をスケジューリングしちゃえば?」なんて思うのだが、まぁそこらへんに言及すると「いやいやそんなかんたんじゃない」と延々とブラック企業自慢を聞かされそうなのでやめておく。

 

とにかく、ドイツには日本とはちがう『休める文化』があるのを大前提としつつ、『休める体制』があるから1ヶ月のバカンスが可能なんだよ、ということだ。

 

だから、「来月1ヶ月休みますねー!」というのは、さすがのドイツでも無理である。というか、モラル的にやらない。

そこは誤解なきようお伝えしておきたい。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:kansasphoto)

ちょっと前に、「何ものにもなれなかった」と人生を評価する中高年の人に、「真剣に何かになろうとしたのですか?」と質問すると重い沈黙が訪れる、という言葉がバズっていた。

「何ものにもなれなかった」と嘆く中高年に「真剣に何かになろうとしたか」「なにもせず何かになるのは図々しくないか」とオーバーキルする方法の勧めに賛否 - Togetter

 

僕も高校生~大学生の自分に若さしかなかった頃、この「何ものにもなれない自分」というのが怖くて怖くてしかたがなかった。

この感覚の恐怖感は、世間から自分が全く必要とされていないと感じるのに近い。

「お前なんて居ても居なくても変わらん。どうでもいい奴だ」と世界から言われているような感覚は、人の心を著しく蝕む。

 

当時の僕は心底あの感覚が怖かった。

このまま自分は、何にもなれずに埋没してしまうのだろうか?その恐怖感と、認められたいという自分の中から湧き上がる承認欲求の渇きに身震いしなかった日など無かったといっても過言ではない。

 

 

あの頃から10年近くもの歳月がたった。

僕は医者となり、妻と結婚して家庭を持ち、時々バズが飛ばせるライターとなり、会員が100名を超えるワイン会を運営するようになっていた。

 

気がつくと、僕の中にあった「何ものにもなれない」という恐怖は消失しており、「承認欲求の渇き」も忽然と姿を消していた。

たぶん、僕は歳を重ねるにつれ「何者かになった」と自分の中で思えるようになったのだろう。

 

この手の文脈で「何者かになった」人が、いったいどうやって何者になったのかについて語っている文章を読んだ事が僕はほとんどない。

というわけで、今回は、僕がどうやって「何者かになれた」と自覚できるようになったのかについてを書いていこうかと思う。

 

凡人だからこそ、粘り強く諦めてはいけない

まずひとつ言えるのは、凡人が何者かになるためにはとても長い時間が必要で、おまけに強い継続力が必要だという事だ。

時々、彗星のごとく現れ、一気に世間の話題をかっさらっていくような天才もいるにはいるが、そういうタイプの「何者」には凡人はなれるとはあまり思わないほうがいい。

 

具体的な話をしよう。

僕は今現在32歳だが、まず医者になるために学生時代を含めれば合計10年近い時間を費やした。

そして医者になった後も、7年近くもの期間、病院に勤務して時間を使った。おかげで最近ようやく専門家として看板が持てるようになった。

 

僕は男子校にいる間に女子への免疫が完全に消失していた事もあり、まあ端的にいうと全然モテなかった。

だから今の妻と付き合うまでに都合で10人近いの女の子にフラれた。

何人もの女の子にこっぴどく振られるという、みっともない姿を晒しはしたけれど、結局最終的には何とか今の妻と付き合う事に成功し、結婚もできて家庭も持てた。

 

ライターになるまでには、合計で10年近い時間を費やした。

高校生の頃から、コツコツと無料でブログを書き続け、原稿料をもらえるようになったのはここ3年ぐらいの話である。

原稿をもらえるようになっても、毎週欠かさず記事を書き続け、つい先日、Googleについて書いた記事がめちゃくちゃバズって、タイにまで記事が拡散するぐらいには成長した。

 

ワイン会も、企画や店の予約、人数集めなどの面倒な部分を全部自分が請け負い、かつ今にいたるまで儲けをほぼ出さず、5年もの間これを継続している。

今ではありがたいことに会員数も100人を超え、ツイッター上で会を告知すれば2~3日で定員が埋まるようになった(誰でも参加可能なので、興味ある方がいれば是非ともTwitter経由で来てください。お待ちしております)

 

これが僕が今の所築き上げてきた業績のようなものだ。

こうかくと「なんだよ、自慢話かよ」という風にみえるかもしれないけどトンデモナイ。

 

結果だけみればそう見えるかもしれないけど、過程は本当に散々だった。

思い返せばここにはとても書けないレベルの酷い目にもたくさん遭ったし、恥もたくさんかいた。誹謗中傷も本当にたくさん喰らった。

 

とにかく全部どうにかなるまで決して辞めなかったというだけである。結果だけ見ればキレイだけど、中身はまあ、それはそれは酷いもんである。

 

ガチャは当たるまで引けば、実質タダ

かつてソシャゲーのガチャを称して

「ガチャは当たるまで引き続ければ、実質無料」

というのを聞いて大笑いした事があったのだけど、これはこと「何者かになる」という事についてだけ言えば、まさにこの通りである。

何者かになるためには、とにかく当たるまで徹底的にガチャを回し続けるしかない。

 

当たらなければ永遠の0だ。けど、逆に言えば当たれば永遠の1である。

1/2なんてこの世には存在しない。0か1しかないのが、この世界なのである。

 

冒頭ののリンクで紹介したフミコフミオさんは「何ものにもなれなかった」と人生を評価する中高年の人に

「真剣に何かになろうとしたのですか?」

「なにもせずに何かになろうとするのは少々図々しくはありませんか」

と聞いて相手を絶句させたというけれど、僕個人の経験からいっても、身も蓋もないけどこれは事実だ。

 

英語が喋れるようになりたかったら、勉強本を読むのではなく、恥を捨てて外人と毎日英会話をするしかない。

痩せたいと思ったら、ダイエット本をジプシーするのではなく、断食か運動するしかない。

恋人が欲しいのなら、恋愛本を読み耽るのではなく、フラレるのも覚悟して成功するまでカミカゼ特攻隊をやるしかない。

 

残念ながら、考えてるだけでは思考は現実化しない。

凡人は、いや凡人だからこそ、傷つく道をあえて選び、やるしかないのである。

 

偉大な業績をあげる必要はない。複数分野でコツコツとヒットを飛ばせば十分

何者かになるというと、なんだか凄いことをしなくてはいけないようにもみえるかもしれない。

けど、僕自身についていえば、そんな大それた事は自分の自意識の安定には必要なかった。

 

僕は傍から見れば並レベルぐらいには能力はある方かもしれないけど、偉人になれるような突出した才能なんて1つも持っていない。

運良く医者の世界には入り込めたけど、残念ながら医者の中では能力は並レベルだ。

世界的に有名な医師と比べると、まさに石ころみたいなもんである。

 

ライターとしても、まあ活動はできてるけど、トップクラスにいるわけでもない。

ワイン会だって、僕よりも運営規模が大きい人なんて山のようにいるだろう。

 

現代では、どれか1つの分野で大成功して何者かになろうとするのは、物凄くコスパが悪い。

野球で殿堂入りする為にはイチローレベルにならないといけないし、漫画家で伝説になるためにはドラゴンボールとかワンピースクラスの業績を出さねばならない。

 

けど、そんなのは凡人には無理だ。

じゃあ凡人はどうすればいいかといえば、分散投資しかない。

ホームランが打てないのなら、ヒットを複数分野で打てばいいだけの話である。

 

凡人だからこそ、小さなヒットで十分なのだ。そんなもんで結構、人は満足できるものである。

 

最初は誰だって惨めなもんである

とまあ、どこにでもいるような人間である僕が「何者かになれた」と自認できるようになった過程は以上である。

何者かになりたかったら、情報教材を買ったり、ネットのサロンになんて入る必要はない。上に書いた事が全てである。

徹底して傷つくことを覚悟して続ける。それだけである。「当たるまで回せば実質タダ」を合言葉に、各自頑張っていくしかない。

 

思い返すと、ガチャを回し始めた当初はとにかく酷かった。

受験勉強は偏差値は35からのスタート。

女の子には何度もこっぴどくふられ、ブログのアクセス数も数ヶ月やってて1日5人とかである。

凡人なんて、そんなもんである。みっともなく生き恥をさらして、それでも血を流しながらもがくのをやめず、ずっとガチャを回し続ける。

 

この作業はぶっちゃけチョー辛い。けど、これをやらないと「何者にもなれなかった」という自責の念だけが延々と残り続ける、何者でもない歳をとった中年になるだけである。

 

やるも地獄、やらぬも地獄。それならやった方が、まだましじゃ、ないですかね?

さあ、あなたも何者ガチャを回そう。

 

大丈夫、当たるまでやれば、実質無料だから。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Dick Thomas Johnson

たとえば、そうだ。何かをする時は、事前準備が何よりも重要だということ。

ほんの20年ちょっと前のことでしかないのに、当時の「ネット環境」と今のネット環境の差と来たら、旧石器時代と宇宙探査時代くらいの懸隔があるような気がする。

wi-fiなんてものは想像すら出来ず、当時は遠未来を描いたSF映画ですら、ネットにつなぐ為にごてごてした太いケーブルを必要としていた。

 

当時、パソコン通信をする為には、電話機のケーブルをちょいと抜いて、パソコンに接続したモデムから伸びたケーブルを電話機用のジャックに刺さねばならず、当然その間は電話が使えなくなる。

モデムを使って対象サーバにぴぴぽぽと電話をかけて、しばらく「ぴーーーーがーーーー」という音を聞いてから、ようやく東京BBSに繋がる。

これだって、受話器に直接でかい音響カプラ—をつけていた時代とは大違いなのだ。

 

私も兄も、親の目を盗むように電話線を占有する機会をうかがっていたし、来る予定の電話をとれなかったとバレた時は偉い怒られた。

勿論電話代の問題もあり、長時間ネットにつなぐことなど当然出来ず、接続したらまず巡回ターミナルを立ち上げて、がーーっとログを取得して、ネットから切断してからゆっくりと閲覧していた。

 

テレホーダイ?いや、それはもうちょっとだけ後の話だ。少なくとも、我が家にテレホーダイが来たのはインターネットプロバイダと契約した後だった。

東京BBSにやたら繋がりにくかった時は、禁断の「ダイヤルQ2回線」を通して接続したこともあった。当然、後から電話代で怒られた。

 

 

「なんの話をしているか」から始めるべきだろう。

インターネットが一般に普及する前のほんの一時代、日本には「パソコン通信」の時代というものがあった。1980年代の半ばから1990年代の終盤くらいまで、と考えればまあ大体合っているだろう。

 

パソコン通信というのは、四捨五入して言えば「Yahooしか閲覧出来ないインターネット」のようなものだ。

利用者のPCとホストサーバは一対一で通信し、横のつながりというものは基本的に存在しない。利用者は、そのサーバの中のコンテンツだけを閲覧出来、そのサーバの中にだけ書き込むことが出来る。利用者とサーバを繋ぐのは電話回線だ。

 

コンテンツの中心となるのはいわゆる「掲示板」と「ライブラリ」であり、「掲示板」はユーザー同士が様々な書き込みをして、色んなメッセージのやり取りをすることが出来た。

ライブラリでは、色んなソフトウェアやCGなどのデジタルコンテンツをダウンロードしたりアップロードすることが出来た。

 

アスキーネットやNIFTY-Serveのように、企業がサーバを公開することもあれば、特にバックボーンを持たない個人がサーバを公開することもあり、個人が公開したサーバは「草の根BBS」と呼ばれていた。

そんな中、日本最大の草の根BBSとして君臨していたのが「東京BBS」通称東Bだった。

 

東京BBSには、漫画、アニメ、ゲームなどといったホビー系のBBSが山とあり、多くのユーザーが24時間出入りしていた。

初めて東京BBSを閲覧した時、私はそのあまりの情報量と、圧倒的な熱量に打ちのめされた。

 

そこには、例えば「格闘ゲームについて語るBBS」や「タイトー好きが集結するBBS」「ダライアスシリーズに命を賭ける猛者達が凌ぎをけずるBBS」があり、実生活では聞いたこともないような深さのメッセージを、恐るべき数のユーザー同士がやり取りしていた。

 

当時ゲーセン通いを始めたばかりだった私は、「ゲーメスト」や「ベーシックマガジン」のようなゲーセン専門誌ですら追いつかない情報の速さに目を疑った。

確か、当時まだ隠し超必だった「ヴァンパイア」のモリガンのダークネスイリュージョンのコマンドを、ゲーメスト公開の何週間も前に突き止めていたのが東京BBSの格ゲー板住人だった筈だ。

 

繰り返すが、当時はまだインターネットがなかったのだ。「見知らぬ誰かと、共通の趣味の話題で盛り上がれる」機会なんて、この世のどこにも存在しなかった。

唯一「自分と同じような市井のユーザー」の熱量が感じ取れるのは、ゲーム雑誌の投稿コーナーくらいのものだった。

 

そんな状況で、学生時代の私にいきなり可視化された「自分以外の山ほどの市井のユーザー」が、東京BBSにはいた。夢中にならない方がおかしいだろう。

「ダライアス外伝の稼ぎパターンについて誰かと直接議論出来る」というのが、地方の一ゲーマーにとって一体どれだけの価値を持っていたのか、ちょっと想像してみて欲しい。

 

 

 

例えば、「回線の向こうにはちゃんと人間がおり、相手の気持ちを考えることも重要なんだ」ということ。

 

「草の根BBSに接続出来る」という時点で既にかなりのリテラシーが必要とされるので、当時のBBSの治安自体は決して悪くなかったが、それでもやはり議論がヒートアップして人格攻撃が乱れ飛ぶことも、「360度全て敵」というようなマサカリズム全開の人が周囲一面に銃弾をぶっ放すこともあった。

そんな時は、niftyで言うところのシグオペのような、それぞれの掲示板のまとめ役的な人が仲裁に入ったり、最悪の場合問題になった人を書き込み禁止にするようなこともあった。

 

私が出入りしていた掲示板はまとめ役がとても上手い人で、攻撃的な人が時折現れても、その人を巧妙に持ち上げながらもその場の議論を別の方向に誘導したり、上手いことなだめて平和な雰囲気に戻したりしていた。

攻撃的な人に対して攻撃的に接していれば、その場が一瞬で荒れ果てることは、色々な掲示板を見ていてよく分かった。私の後々のwebでのスタンスは、あの頃の経験によって醸成されたところが大きい。

 

 

例えば、「肌色が多めのCGを閲覧する時は背後によく気を付けないといけない」ということ。

 

東京BBSには同人的要素も多分にあり、ライブラリには様々な人が描いたCGがアップロードされていた。

pixivしか知らない人には理解出来ないことかも知れないが、当時はわざわざ「CGをダウンロードしてきて、ローカルに保存した上で、CG表示用ソフトにファイルを読ませる」という手順を経ないと、CGを閲覧することは出来なかった。

「Susie(すーじーというらしいが、私の周囲はみんなすしえと呼んでいた)」や「MAGろーだー」といったソフトが著名なCG閲覧ツールだった。あんた、.magっていう拡張子のファイル、知ってるかい?俺のPCにはまだ残ってるぜ。

 

いや、一応言っておくと、私は当時律儀に「18歳未満閲覧禁止」という表示を守っており、アウトな画像をダウンロードしたことはなかったのだ。

これは、「ユーザーの年齢が管理されており、ダメなものをダウンロードすると東京BBSに入れなくなる」と私が信じ込んでいたことが大きい。

 

実際はそんな管理されていなかったと思うが、まあ全くのアレな画像ではないにせよ、それなりに肌色分が多めなあられもない絵を時折引っ張ってきてしまうことがあったことは否定できないし、その閲覧家庭でいつの間にか背後に忍び寄っている親の気配に大苦戦したことも間違いではない。今となっては遠い思い出である。

 

全然関係ないが、確か私が東京BBSに出入りしていた当時は「エヴァンゲリオン」が大人気になっていて、私はアニメで見たこともないキャラクターについて大体見知っていた。

CG用ライブラリのタイトルが「綾波レイ」の四文字で埋め尽くされる光景は、一種壮観でもあった。

 

 

例えば、「女性との出会いを期待してオフ会に参加するべきではない」ということ。

 

当時私は男子高に通っており、世間一般の清く正しい男子高校生と同様、通学する際はどこの角を曲がったらパンをくわえた見知らぬ女子高生と正面衝突することが出来るか、慎重に検討するのが専らだった。

自分の観測範囲内でXX染色体をもった生物はただ二人、母親と購買のおばちゃんだけであって、それ以外の女性を観測することは容易なことではなかった。

 

そんな清く正しい男子高校生が、「オフ会やりませんか?」という呼びかけに、多少なりと「女性との遭遇」を期待してしまうのは、もはや不可抗力と言わざるを得ないだろう。

「1990年代当時、パソコン通信でゲームのディープな話をしているユーザーの中に、一体コンマ何パーセントの女性が含まれているのか」ということは、冷静に考えれば自明でありそうなものだが、当時無知だった私はパソコン通信の男女比に思いを致すことすら出来なかった。

 

結果、私は人生初の東京行きになけなしの新幹線代を投じ、見知らぬ男性二人とほぼ無言で2時間ボーリングに興じることになり、これがおよそ人生初のオフ会体験だった訳だが、まあこれも今となってはいい思い出ということにするしかない。

 

今なら私自身もうちょっと楽しい場にする自信があるのだが、残念ながら当時の私はまだ若すぎた。

正直なところ、後のお二人も、「わざわざ名古屋から新幹線に乗ってやってきたチビガキ」である私をどう扱ったものか、さぞかし困ったことだろうと思う。

 

長々と書いてしまった。

結局私が何を書き残したかったのかというと、「こんな時代、こんなシーンが、日本のどこかにあったんだよ」という記憶のひとかけらだ。

 

昨今、「インターネットに残るものって、決して永続するわけじゃないんだな」と知らされる機会が多い。

どこかで誰かが書いた日記はいつの間にか消えているかも知れないし、すぐ隣にいると思っていたあの人は知らない内にネットから消えているかも知れない。

これは「いつかの誰かの記憶が、誰からも観測出来ないものになる」こととイコールでもある。

 

だから、「これは、きっと、どこかに残しておいた方がいい記憶だ」と思ったものは、どんな機会であろうと書いておくべきだ。

最近の私はそう思うようになった。

 

この記事が届く人がどれだけいるのか私には分からないが、誰かひとりにでも、「あ、こういう記憶、ちょっと面白いな」と思ってもらえれば、幸いなことこの上ない。

 

今日書きたいことはそれくらい。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Anirvan)

社会問題について「平等か否か」についての議論はよく耳にするけれど、「公平か否か」という話はあんまり聞かないなぁ。

お風呂につかりながら、ふとそんなことを思った。

 

最近『平等』という言葉をよく聞くし、『平等』は基本的に「いいこと」だとされている。

でも『不公平』な状態に対してムリに『平等』という概念をもちこむと、話はこじれる。

 

それなのに『平等』が「いいこと」だとするのは、どうなんだろう。

 

家事分担は不平等、でも公平だから納得してる

わたしはフリーライターとして、主に家で仕事をしている。

ともに暮らしているパートナーは、フルタイムで企業勤めだ。家事の負担は9対1くらい。

 

とはいっても、彼はうるさいことを言うタイプではないので、わたしが家事に費やす時間はせいぜい1日1時間くらい。

彼が担っている家事といえば、週に1、2度ゴミを出すとか、乾いた自分の洗濯物を畳むとか、わたしがご飯を食べない時にスパゲッティを茹でるとか、それくらい。

たまに気が向いた時に片付けをしているが、家事に使っている時間は週に1時間とか2時間とか、それくらいじゃないかと思う。

 

わたしたちは家事を5:5で分担していないので、いってしまえば『不平等』だ。でもわたしは納得している。

この分担は、『公平』だから。

 

わたしは出勤する必要がなく、高確率で家にいて、時間の融通も効く。

労働時間も彼の半分以下。そのなかで毎日家事に1時間費やすのは、そんなに負担ではない。

 

でも彼が毎日1時間家事に時間を使うとなると、かなりの負担になる。

夕方6時か7時ごろ帰ってきて、夜ご飯を食べてのんびりして、となればもう夜9時前。

10時にはお互いベッドに入るから、そこに1時間の家事を突っ込めば、彼の自由な時間はなくなる。

 

家事の量でいえば、わたしの負担が大きく、たしかに不平等だ。

でも「家事がどれだけ負担になるか」と考えれば、これくらいの塩梅が『公平』なのだと思う。

 

実際、わたしが仕事を優先させているときは家事が負担になるので放置する。そこで文句を言われたら腹も立つが、彼はかなり大雑把……おおらかなので問題ない。

 

量の『平等』と比率の『公平』

それでも以前は、家事分担でちょっとした喧嘩になった。

ライターになったばっかりの頃は単価が低いので記事を量産するしかなく、今の5倍くらい働いていたのだ。

彼も仕事場が遠く、平日は自由な時間がほとんどない状態。

 

そんななかでわたしは「家にはいるけど仕事をしてるんだから家事は平等に」と言い、彼は「物理的に家にいないんだからしかたない」と言う。

結局わたしが家事の多くをやっていたのだが、ずっとそれが不満だった。

 

彼の大学卒業とともに引っ越した現在、家事負担は9対1と以前より増えたが、精神的・物理的負担はかなり減っている。

前よりも時間に余裕があるし、手術で病気も治り体力が回復したからだ。

 

彼のほうが金銭的負担率が高いことを考えると、在宅ワーカーのわたしが家事をメインに担当するのは『公平』だと思う。

だからいま、家事分担に不満はない。

こんなわけで、「平等であることがいいこと」「平等にすべき」という言葉をよく聞くけれど、家事負担を通じて『平等』と『公平』はちがうんだなぁなんて思ったわけだ。

 

『平等』と『公平』を改めて考えればかなりちがう

そもそも『平等』ってなんだろう。文字通り「ひとしくする」という意味で、イメージ的にはスタートラインを揃える、という感じだろうか。

 

ブスだから採用しないとか、ハゲているから課長になれないとか、そういった特別扱いは「ひとしくする」から外れているので、『平等』ではない。

性別や外見、国籍などで不利な扱いをせず、みんな横並びでスタート。これが『平等』。

家事負担で言えば、10ある仕事を5:5にするのが「ひとしく」であり、『平等』だ。

しかし「女だから家事をすべき」というのは、スタートラインが男女横並びではなくなるので、『不平等』。

 

「前提条件を同じにしてみんな同じように扱います」というのが、わかりやすい『平等』のかたちだ。

 

では『公平』とはなんだろう。『公平』とはつまり、フェアであるということだ。

たとえばわたしが藤井聡太七段と将棋を指すという状況になったとしたら、飛車角落ちよりもっと大幅なハンデをもらわないと対等にはならない。『平等』な対局として同じ条件でやれば、わたしは100%負ける。

「スタートラインをそろえましょう」が『平等』ならば、「ゴールまでの距離をそろえましょう」が『公平』といえるかもしれない。

 

藤井棋士との対局でいえば、勝てる確率を同じにする。

家事でいえば、自由時間に対する家事が占める割合、つまり負担率を同じにする。

それが『公平』。なのだと思う。

 

身近な例で言えば、飲み会の割り勘だ。たいしてお酒を飲まないしとくに大食漢ということでもないわたしが、大酒飲みの大食らいと一緒に食事に行ったとする。

完全割り勘にするのが『平等』であり、飲み食いした量に合わせて払うのが『公平』。

 

……あってるよね? まちがっていたら教えてください。

 

『公平』を求める状況で『平等』を突っ込むと弱者はつらい

社会ではよく『平等』という言葉が使われるけれど、多くの場合で必要とされるのは『公平』なんじゃないかなぁ?なんて思う。

 

たとえば重いものを運ぶとする。『平等』が善であれば、男女や年齢、持病の有無にかかわらず、みんなで等分して運ぶべきだろう。

日本の大学の学費はめちゃくちゃ高いが、貧困家庭だろうが親が寝たきりだろうが、同じ金額を払うのが平等である。

 

小学校時代、まだメガネを作っていなかったので、席替えのたびに前の方の席にしてもらっていた。

しかしくじ引きで席を決める以上、視力に関係なく完全ランダムにするのが平等だ。

 

でもこういう状況では、『平等』は弱者を追い詰めてしまう。

女でも男と同じだけ重いものを運ばなきゃいけないし、貧困家庭の子どもは一般家庭と同じだけのお金が払えなければ進学を諦めなければいけないし、目が悪い人でもくじ運が悪ければ後ろの席になる。弱者側にとって『平等』は、ときにとても冷酷だ。

 

では女は重いものを運ばなくてよくて、貧困家庭の子どもの学費負担率は低くして、目が悪ければ前の席に座れるようにしよう。

それは『公平』だろうが、同時に『不平等』になる。

ひとりひとりの能力や環境がちがう以上、ゴールへの距離を同じにして『公平』にするためにはある程度スタートラインをいじる必要があり、そうすれば必然的に『平等』が犠牲になるのだ。

 

『平等』と『公平』、求められるのはどっちだ?

わたしは家事分担の一件から、わたしたちの場合、互いが幸せに暮らすために必要なのは『平等』な家事分担ではなく『公平』な家事分担だと悟った。

これは社会でも同じで、「平等を!」と言われている部分でも、本当に求められているのは『公平』だったりするんじゃないだろうか。

 

世の中、平等であるべきこと、公平であるべきこと、状況によってそれぞれ異なる。

合理的な理由がないかぎり、男女ひとしく昇進のチャンスを与えるべき。これは『平等』だ。家庭の経済状況を踏まえ必要に応じて経済的援助をし、みんなに同じだけ進学のチャンスを与えるべき。これは『公平』だ。

 

医学部入試の女性差別のように「不平等で不公平」なことはあっても、「平等かつ公平」はたぶん、かなり難しいスタートもゴールも一緒にするというのは、個人差がまったくない前提じゃないとできないから。

 

ということは、絶対ではないにせよ、『平等』を優先すれば『公平』が、『公平』を優先すれば『平等』がおざなりになるわけである。

ならば、状況に応じて『平等』か『公平』、どちらが求められているのか、ちゃんと考えないといけない。

 

求められているものとはちがう対応をしてしまえば、弱者側が圧倒的に不利になってしまうのだから。

というわけで、『平等』ばかりが「いい」とされているような気がしたので、「『公平』が必要な場合もあるんじゃないの?」というちょっとしたぼやきをお送りましたした。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

(Photo:iwishmynamewasmarsha)

2000年代の始めに、あるベンチャー企業でCFOをしていた時の話だ。

その会社はVC(ベンチャーキャピタル)や金融機関、事業会社から10億円近い出資を受け、近い将来のIPO(株式の新規上場)間違い無しと期待されていた銘柄だった。

 

しかし目先のキャッシュフローは大幅なマイナス続きで、経営は厳しい。

なるべく経費を圧縮し資金繰りを安定させたかったが、一方でIPOのために単価の高い専門知識を持つ幹部を雇う必要がある。

結果、SO(ストックオプション)のインセンティブを使い、何人かの幹部を採用した。

目先の報酬は多く出せないが、その分IPOの時にたっぷり儲けてね、という“鼻人参”だ。

 

しかしその目論見はほとんど機能せず、インセンティブに繋がる手応えを感じることはほとんどなかった。

 

 

ところでこの、ベンチャー企業という言葉とセットで語られることが多いSO。

果たしてどれだけの人が正確に、その仕組みを知っているだろう。

 

おそらくほとんどのビジネスパーソンにとって、

「上場した時に、億単位の成功報酬が貰える仕組みじゃないの?」

という程度のものではないだろうか。

 

今回のお話は、ベンチャー企業経営者などに「SOの導入なんか止めたほうが良い」という趣旨の話なので、まずはこのSOという仕組みの説明から始めたい。

 

SOはノーリスク・ハイリターンの夢の報酬なのか

SOは日本語で新株予約権とも呼ばれ、会社の新株を予め約束した価額で購入できる権利を指す。

 

やや乱暴ではあるが、わかりやすいよう単純に説明したい。

現在の会社の株価(評価額)は1株5万円とする。

IPOの目標時期は3年後だ。

例えばこの状況で、3年後から5年後までの間であれば、現在の株価5万円で10株買う権利を役職員に与えること。

これがSOである。

 

一般にIPOを目指す会社は、成長著しい企業であることが多い。また未上場株はIPOを達成すると、大きく評価額が上がる。

そのため、未上場企業の株を早いうちに購入、または未上場時の評価額で購入する権利を得ると、損をすることはまず無い。

そのため、役職員のインセンティブになるというものだ。

 

そしてその儲けはもちろん、株価が上昇した分だけ大きくなるので、役職員はますます会社の利益のためにやる気を出すはずである。

これがSOの基本的な考え方だ。

SOの仕組みについて、これ以上簡単に説明することはできない。

 

その上で、このような説明を上司から聞き、

「君にはSOを10個付与するから、今以上に成果を出せるよう頑張って欲しい。」

と言われたとして、本当にやる気が出るだろうか。

きっと、

「精一杯頑張ります!」

「ありがとうございます、ますますやる気が出ました!」

とは答えるが、次の日にはいつもと同じように、いつものテンションで仕事をしているだろう。

なぜか。

 

自分の付与されたSOが、会社が上場した時にはどれだけの価値になるのか。

自社がIPOに至る可能性はどれくらいあるのか。

全くわからないからだ。

さらにいうと、自分の仕事がIPOに直接結びつくものであるという実感も、まず持てないだろう。

 

加えて言うと、3年後の上場を目指しているような段階で、上場時の株価なんてものは経営者自身にもわからない。

想定はするが、そのために仕事をしているわけではなく大きな関心事でもない。

であれば、それを従業員に説明できるわけもなく、従業員もわかるわけがない、ということだ。

 

このようにして経営者は、何か効果的なインセンティブを付与したつもりになるが、SOが何の成果にも結びつくことはない。

 

SOで得られる現実的な報酬の相場

ただ、「何もわからない」では無責任なので、SOを付与された役職員がどの程度の具体的な利益を得る可能性があるのか。

一つのわかりやすいケースとして説明したい。

 

もし自分が10株に相当するSOを付与されたとして、会社の株式総数が10000株の場合、持株比率は0.1%である。

インセンティブで引っ張ってきた役員は別として、創業時から在籍している社員に報奨として付与される分としてはよくある数字だ。

 

このケースでは、会社がそのまま上場し時価総額が100億円になれば、自分が権利を行使して得られる報奨は1000万円ということになる。

1000億円なら1億円だ。

まさに、夢の億万長者である。

会社は通常、IPOの際に資金調達を目的に新株を発行するので持株比率はさらに薄まるが、話を単純にするためにそこは無視して欲しい。

 

では実際のところ、会社はIPOを達成したらどの程度の時価総額を得るのか。

2018年度上半期の数字で見ると、上場時の時価総額で50億円以下であった企業は18社と、ちょうど半数。

最も大きかったのはメルカリの約4000億円だが、これは「ユニコーン」と呼ばれる会社のIPOであり、とてもレアな案件だった。時価総額(評価額)が10億ドル以上の未上場の会社を指す言葉だが、まさにユニコーンのように幻の存在と言う意味である。

 

つまりSOを付与された多くの一般社員にとっては、IPOという極めてレアなステージに至ることができても、50億円×0.1%=500万円にも満たないケースがほとんどだったことになる。

2000年代初頭のIPOブームの頃、未上場のうちに成長企業に転職しSOを付与されたら、まるで誰もが億万長者になれるかのようにメディアが報じていたことが印象的であった。

しかしそれは幻想に過ぎないことが、この数字からもおわかり頂けるのではないだろうか。

 

より大きな問題は、会社の分断を生む「最後通牒ゲーム」

つまりSOは、それを付与された従業員であっても、期待を上回る報酬になる可能性は決して高くない。

メディアの影響もあり、億単位の報酬を夢想していたのに500万円にも満たない報酬にしかならなければ、むしろ気が抜けてしまうだろう。

鼻人参として機能しないだけでなく、多くの役職員をガッカリさせることすらあるかもしれない。

 

しかしそれでも、報奨を手にすることができた従業員については、問題はそれほど大きくない。

問題は、SOを付与される時期を過ぎて入社し、なおかつIPOを経験した社員だ。

彼ら・彼女らの目に、それは能力とは無関係に巨額の臨時報酬を得る人がいるという、理不尽で不公平なイベントにしか映らない。

中には実力に関わらず、巨額のリターンを得ることになる先輩社員もいるだろう。

これは会社に、どのような影響をもたらすだろうか。

 

話は変わるが、「最後通牒ゲーム」という考え方をご存知だろうか。

例えばあなたのお父さんが500万円を、あなたとあなたのお兄さんに生前贈与すると申し出る。

 

この際お父さんは「500万円の分け方について兄が決める」という条件をつけた。

そして一方、あなたには「兄の分け方が不満であれば拒否をしてもOK」という条件をつけてもらえた。

 

ただしあなたが、兄の分け方について不満を持ち、それを拒否すると500万円の生前贈与は中止され、500万円は別の誰かに渡る。

結果として、あなたもあなたのお兄さんも1円も貰えない。

 

そのようなルールだ。

 

このルールにおいて、お兄さんが4,999,000円を自分のものとし、あなたの取り分を1,000円と決めたとしたら、あなたはOKするだろうか。

おそらく激怒して拒否し、二人とも1円も得られない道を選ぶのではないだろうか。

 

理論的にあなたは、1円以上であれば必ず得をするので1000円でも拒否をする理由はない。

しかし人は、不公平であると思えば自分の利益すら無視をしてでも現状を受け入れない心理が働くという、人の心の動きを表す極めて現実的な考え方だ。

人は納得できない現実を合理的に受け入れるほど、便利にはできていない。

 

翻ってみて、SOを手にすること無くIPOを経験した社員の目に、入社時期が1年早いというだけで巨額の報酬を得た先輩社員は、どのように映るだろう。

自分が優秀であると自負する社員であれば、なおさらである。

中には自分より仕事ができないのに、スーツも持ち物も明らかに変わり、遊び方が派手になる同僚もいる。

そのような現実にストレスを感じ、最悪の場合会社を去ることを考えるのではないだろうか。

 

つまりSOとは、

・株式の希薄化というコストがかかり

・インセンティブにならず

・社員の士気を崩壊させ

・株主の不興を買う

という結果になり、誰も得をしない可能性があるということだ。

無策で安易なSOの導入は、決してやってはならない。

 

それでもSOが存在し続ける理由

ネガティブな要因ばかり挙げてきたが、それでもSOという制度は無くならない。

であればそこには必ず、有効な使い方が存在するはずだ。

それはなにか。

 

これはSOに限らないが、どのような形の報酬であれ、必ず意味の裏付けがあるものを役職員に支給するということだ。

宝くじがそうであるように、リスクとリターンのバランスが著しく悪い方法で得たまとまった現金は、結果として人を幸せにしない。

 

その意味では、創業時から在籍し大いにリスクを取った役職員には、SOは意味のある報酬と言えなくもない。

ただしその支給は経営トップが十分にその意味を説明し、さらに受け取る側が意味を理解できる場合に限るべきだろう。

 

また、同じ500万円でも、SOではなく賞与で支給した方が喜んでくれるのであれば、SOは使うべきではない。

 

ちょっと狭い領域の話をしてしまったが、誰かの参考になれば嬉しく思う。

 

 

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【著者プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

激レアさんを連れてきたとクレイジー・ジャーニー、ピカード艦長が大好きです。

三谷幸喜さんに似てるって言われてから、メガネやめてコンタクトにしました。

(Photo:401(K) 2012

昔、ある会社の営業MTGで、忘れられないやりとりがあった。

 

少々詳しく描写すると、出席者は以下の通り。

・役員(部長)

・リーダー

・メンバー

7名のメンバーの能力は各々、高、高、中、中、中、中、低。

二人ぐらい優秀な人物がいて、一人「できない人」が混ざっているイメージだ。

また、役員とリーダーは切れ者で、部下の報告の論理矛盾やダメな点にはすぐに気づく。

 

さて、こんな状況で来期の「営業計画」について、MTGが開催された。このMTGの議長はリーダーだ。

リーダーはテキパキと議事を進める。

来期の営業部の方針に始まり、具体的な目標設定、個人の役割など、メンバーへの指示も簡潔でわかりやすい。

ここまではなんの問題もなかった。

 

だが、今年一年を振り返っての営業報告が始まると、雰囲気が変わった。

無理もない。メンバーの一人ひとりが、自分の過去の実績と、これからの具体的行動を発表しているのだから、緊張しないわけがないのだ。

 

最初の発表は能力の高いエースだった。

今年度の目標達成は当然のこと、来期の計画についても、部長やリーダーが納得する絵を描いたプレゼンテーションは、非の打ち所がなかった。

「今年は目標達成できました。要因としては次の表を見てほしいのですが、私の売上の半分以上が、◯◯によって生まれています。これは去年の傾向と比べても顕著で、新しいマーケットが生まれていると考えても良いと思います。

また、実験的な取り組みとして始めた、◯◯は、一部のお客様のニーズは把握できました。しかし、既存顧客の30社に対してヒアリングをした結果は……したがって、来年の計画として……」

 

次は能力が中程度のメンバーが3人つづけて発表した。

どの発表でも、部長とリーダーは、メンバーそれぞれにいくつかの質問をし、来週までに多少の計画についての修正をするように言い、報告は終了した。

 

「仕事できる人」は、そうでないひとに対して、優しく振る舞うのは、当たり前

さて、次は「能力が低い」メンバーの発表だった。

「今年の振り返りは……結論としては目標未達成でした。理由としては、行動量が不足していたと思います。来期は行動を増やしていきます。

次に、来期の計画ですが、私があまりちゃんと話を聞けていないので、きちんとヒアリングしたいと思います。来年こそ、目標達成に向けて頑張りたいと思います……」

 

私もその場で話を聞いていたが、明らかにそのメンバーの発表はクオリティが低かった。

その発表は、マーケットに対する考察も、新商品への取り組みも、顧客の新しいニーズについても触れなかった。

ただ目標未達を謝罪し、来年は頑張る、という決意だけを表明したものだったのだ。

 

できる人たちの発表を聞いていれば、自分の分析の甘さや、計画の稚拙さに気づくと思うのだが、その方は気に留めていないようだ。

 

そんな理由で、私はこのあと、役員とリーダーたちから、この方が猛烈に詰められてしまうのではないかと、ドキドキしていた。

どんな営業部にも一人二人は、能力の低い人がいるが、多くの営業会議は、できない人に対して全く容赦しない。

私はこのあとの会話を思うと、気が重くなった。

 

ところが、リーダーが次に発した言葉は、意外だった。

「いいですね。ぜひ頑張って欲しいと思います。」

「ありがとうございます。」

 

正直に言うと、私は想像と異なることが起きたので、少々驚いていた。

そして、リーダーは続ける。

「ところで、行動量が不足していた、とおっしゃいましたが、不足した原因に心当たりはありますか?」

「うーん……。なんか忙しかったです(笑)」

 

私は「適当に答えてんなー……」と思ったが、リーダーは怒った様子もない。

「あとで勤務記録を見たほうが良さそうですね。わかりました。あと、来期から、ヒアリングでちょっとやってほしいことがあるのですが、あとで話せますかね?」

「大丈夫です!」

このあとも、いくつかやり取りがあって、会議は終わった。

 

私は、リーダーがメンバーを詰める会議を本当に数多く見てきていたので、このリーダーがあの発表を聞いてニコニコしていられた理由を、会議が終わったあとに、思い切って聞いてみた。

「あの方の発表、ちょっとレベル低かったですよね。」

「あ、やっぱりわかります? あの人、できないんですよね。自分の考えを表現したり、論理的思考で説得したりが。」

「なぜ、指摘しなかったのですか?どうでもいいということでもないですよね?」

 

そこに役員が割って入ってきた。

「私がいつもそう指示しています。あそこで指摘するのは、いいことは一つもないですから。あと、どっちかというと、詰めないのは、本人のためではないです。」

「……どういうことでしょうか?」

「つまり、他の人への悪影響がこわいのですよ。」

「具体的には?」

「もしあそこで怒って詰めたとします。すると、周りの人が恐怖感を抱いてしまう。そして、場をそういう雰囲気にしてしまうと、もはや自由闊達な議論は望めない。」

「なるほど。」

「できない人一人のために、場を悪くするなんてとんでもない損失です。できない人は個別に指導すればいいですし、そもそも、「できる人」が「できない人」を詰めているのを見たら、「普通の人」はどう思いますか? 弱い者に肩入れしたくなるのが人情でしょう。」

「……。」

「だから、「仕事できる側」は、そうでないひとに対して、皆の前で徹頭徹尾、優しく振る舞うのは、当たり前なんですよ。マネジメントの定石です。」

「きちんと叱らないと、あの方の改善の機会を奪ってしまうのでは?」

「叱られて気づく人だったら、もうとうの昔に「できる人」になってますよ。」

 

チームが上手く機能するには「心理的安全性」が最も重要

Googleは少し前から、「効果的なチーム」に必要なことを明らかにすべく、多くのリサーチを行い、データを収集している。(参考:https://rework.withgoogle.com/jp/guides/understanding-team-effectiveness/steps/introduction/

Googleのリサーチチームは、世界中のマネージャーから集めた情報を元に、リサーチの対象とする 180 のチームを決定しました。

内訳は、エンジニアリング系のプロジェクト チームが 115、営業チームが 65 で、業績の高いチームと低いチームの両方が含まれています。

そのうえで、チームの構成(メンバーの性格的な特性や営業スキル、年齢・性別などの人口統計学的な属性など)とチームの力学(チームメンバー同士の関係性など)がチームの効果性にどう影響するかを調べました。

リサーチにあたっては、チームの効果性に関する Google 自身の経験に加え、既存のリサーチ研究から得たアイデアを利用しています。

そして、Googleのリサーチチームがたどり着いた結論は、「誰がチームのメンバーであるか」よりも「チームがどのように協力しているか」だった。

 

具体的には、チームの効果性に影響する因子は、重要な順に

1.心理的安全性

2.相互信頼

3.構造と明確さ

4.仕事の意味

5.インパクト

である。

 

なかでも、最も重要なのは、「心理的安全性」、すなわち、「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうかだった。

心理的安全性の高いチームのメンバーは、他のメンバーに対してリスクを取ることに不安を感じていません。

自分の過ちを認めたり、質問をしたり、新しいアイデアを披露したりしても、誰も自分を馬鹿にしたり罰したりしないと信じられる余地があります。

この話こそ、上述した営業会議にて、私が目撃したことそのものだった。

 

できない人のためでなく、チーム全体のアウトプットのために、優しく振る舞う

脳科学者の岩崎一郎は、「叱るのではなく、思いやりを持って接することで、指導者についてきてくれる」と述べる。

「愛情」の元になる脳内物質であるオキシトシンは、人から思いやりをかけられたり、愛(情)を感じたりすることで分泌されます。

たとえば、人の結婚式に参列して幸せを感じるだけで、オキシトシンの分泌が約15%上がることが脳科学の研究から明らかになっています。

さらにオキシトシンは、恐怖の感情を司るといわれている扁桃体の活性をおさえることが、ドイツにあるリューベク大学のガマール博士らの研究からわかっています。

思いやりをかけられた相手は、脳内のオキシトシンレベルが上がります。そうなってはじめて、厳しい訓練に対する恐れを克服して、指導者についてきてくれるようになるのです。

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どんなに良い会社であっても、一定数の「できない人」は存在する。

そして、たいていの場合、組織は「できない人」に対して、強く改善を求めるか、排除しようとする。

だから、苛烈な「詰め」が発生する。

 

だが、あの役員とリーダーは、そういった行為がチームの心理的安全性を損なう行為であり、ひいてはチーム全体のアウトプットを損なうと認識していた。

だから、「本人のため」ではなく、「チーム全体のアウトプットのため」に、優しい態度をとっていたのである。

 

そう考えれば、冷徹であるが、必ずしも双方にとって悪い話ではない。

人によって、このような態度に好き嫌いはあると思うが、マネジメントの難しさ、奥深さを、知った、一つの貴重な体験であった。

 

 

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(Photo:AdriaanC

理想の結婚相手に求める条件は何だろうか。

もちろん、言葉で表せるポイントではなくフィーリングだと言う人もいると思うが、求める条件はまったくなくフィーリングが全てだと答えるのはせいぜい十代までだろう。

 

実際、条件としてよく挙がるのは、

「価値観が合う」

「趣味が合う」

「金銭感覚が合う」

「優しい」

「家事が得意」(男女問わず)

といったところだろうか。

 

もっと現実的な話をすれば、ここに「収入」や「容姿」、「年齢」なども加わるだろう。

バブルの頃は三高などといって「高学歴」「高収入」「高身長」が挙げられたというが、最近は結婚生活に直接影響しない「高学歴」と「高身長」はあまり重視しない人も多いように思う。

「高収入」だって、バブル当時の「男は年収1,000万円から」などと嘯いていた(一部の人だけだろうが)頃に比べ、「ずっと共働きのつもりだし、二人の収入を合わせて生活に困らない程度の年収ならいいよ。」という謙虚な女性の割合が増えたのではないだろうか。

 

その反面、さきに挙げたメンタル面の条件は最近のほうが比較的厳しくなっているような気がする。共働きが一般的になってきて、夫婦の役割の境界線が薄れてきたことも影響するだろう。

例えば、上のメンタル面の一つに入るが、結婚相手(または恋人)の理想の条件として、

「ただ私の話を聞いてほしいの」

「俺の話にずっと、うんうんって相槌打って聞いてくれる子がいいんだ」

というのを聞くことがある。

 

一見すると、この理想は決して高そうではない。「高収入」のように打算の匂いがするわけでもなく、「価値観が合う」という曖昧で正解がなさそうな条件でもないからだ。

この理想を口にする本人も、贅沢は言わないから‥とか、平凡だけど‥などの枕詞を付ける場合が多い。

 

「そうか、話を聞いてあげればいいだけなんだ」と、自分自身が口下手だったりおとなしかったりするタイプの人なら、相手が喋ってくれるのはむしろ楽だと思うかもしれない。

また、相手の話を聞いてあげることは優しさの一つであり、言われるまでもないと考える人もいるだろう。

 

だがこれは、とりわけ結婚相手として挙げる条件となると途端に厳しいものになる。

恋人のうちは、例えば週に数回のデートにおけるほんの数時間だった「私(俺)の話を聞いてくれ」が、毎日のことになるからだ。そして離婚をしない限り、一生続くということである。

結婚して一緒に暮らすのだから当然だが、これは途方もないことだ。

 

そもそも、「ただ話を聞いてほしい」人の言う話とはどういう内容だろうか。

まずは、家庭内の会話を以下のようにおおよそのパターンに分けてみて考えたい。(ここでは話し手を本人、聞き手を配偶者とする)

 

① いわゆる報・連・相

これは家庭を運営するために当然しなければならないことなので、これを聞く気がないとなればもちろん配偶者が悪い(ただし後述するが、この中の「相談」は少々注意しなければならない)。

 

② 日常会話

天気や食事、ニュースに関することなどの何気ない会話。これを制約されたら家庭は窮屈だろう。たいていは盛り上がりも目的もオチもない話だがやむを得ない。全ての会話に目的やオチを持たせるのは誰だって不可能だ。

ただし限度はある。見たもの聞いたもの感じたものをそのまま何でも口にしないと済まない人がいるが、相手が仕事や育児でボロボロに疲れているようなときでも構わず話し続けるのは思いやりに欠ける。

また、聞き手も「だから?」「それで?」といった返事をしてしまうとつまらない喧嘩に発展する、地味に地雷率の高い会話だ。

 

③ 趣味に関することや専門的な話

配偶者も共通の趣味の話、またはある程度知識のある話ならいいが、配偶者にとって興味のない、またはまったく門外漢の趣味や仕事のことを延々と話すとなると、少し厳しくなる。

「え、その分野わかんない」「専門的なことずっと話されても‥」と相手が困惑しているのに話し続けるのは相手を疲弊させる。

ただし、これはまだ良いほうだ。本人は話していて楽しいだろうし、配偶者も「へえ、そんな世界があるんだ」と興味を持つきっかけになるかもしれない。少なくとも、相手を不快にする話題ではない(よっぽどのめり込みすぎて偏っていなければ)。

自身が口数の少ない人で相手が喋ってくれるほうが楽、と考えるタイプはこういった話題ならば想定内で許容範囲、むしろ楽しそうにお喋りする配偶者を微笑ましくも思えるだろう。

 

④ 愚痴、悩みなどのネガティブな話

問題はこれである。これは一見、上記の「相談」の皮を被っていることが多いからなお厄介だ。ましてや職場の人間関係や仕事内容など、配偶者は直接どうすることもできない件ならなおさらだ。

本当の相談であれば、話し手は聞き手に意見を求め、解決の糸口を見つけるために対話する。

だが配偶者が「それはこうしてみれば?」「じゃあこう言ったら丸く収まるんじゃない?」などと意見を言ったときに「でも、でも」を繰り返したり、露骨に嫌な顔をして意見を聞く気もなかったりするようであれば、それは報・連・相のうちの「相談」とは言えない。ただ垂れ流したいだけの愚痴なのだ。

 

最初から「これはただの愚痴だから終始黙って聞いていて」と宣言してくれればまだ良いが‥このように明確に「相談」と「愚痴」を自分でも別のものとして認識できる人は少ない。

あるいは友人や同僚に聞いてもらう時なら「ただの愚痴なんだけどさ」と前置きできる人であっても、身内に対しては甘えが出る傾向がある。

 

そして、「ただ話を聞いてほしい」という理想を掲げる人の「話」とは、自覚しているか無自覚かは別としても、往々にしてこの愚痴や悩みが該当するのではないだろうか。

報・連・相は仕事で嫌でも行う。

何気ない日常会話なら職場でも友人とでも交わす。

趣味などの話はやや「ただ話を聞いてほしい」内容に入るかもしれないが、共通の趣味の人などがいればそこのコミュニティでも話したい欲求は満たされるだろうから絶対条件とは思えない。

そうなると、理想として掲げるほど思う存分配偶者に聞いてもらいたい話といえば、やはり愚痴や悩みということではないだろうか。

 

家庭内なのに、家族なのに、愚痴や悩みを吐いて何が悪いんだ、と理不尽に思う人もいるだろう。

もちろん、愚痴も悩みも吐いていい。家族なのだから。

人間は誰にでも、辛いときや苦しいときのモヤモヤを一人で抱えきれないときがある。家族が一人で全て抱え込んで何も話してくれないというのは配偶者も辛い。

 

しかし相手に対する理想として「ただ話を聞いてほしい」となると、問題ありの可能性が出てくるのではないか。

常に何かしらの不満を抱えやすく、長期間に渡り、ひたすら一方的に、ほぼ習慣として愚痴を吐く場合だ。

話(愚痴、悩み)を聞いてもらう行為そのものがメインとなっているともいえる。もし差し迫った悩みがなかったとしても、悩みを探し出し、自分の中で生み出すことまで有りうる。

もはや愚痴を言うためにヘイトを探すといった本末転倒具合だ。

 

幼い子供がワガママを言って親の愛情を確認するのに似ていると思う。

意見や説教はいらないが、決して適当に流すこともなく、ほぼ一方的に自分のモヤモヤを毎日聞いてほしい。どこまでも自分を受け止めてほしい。

聞き手が「ふーん」「へー」「あー、そう」などと、気のない相槌を打つのみで軽く流すというのは許せない。

適切なタイミングで十分に共感を見せてほしい。そうでなければ、本気が聞く気があるのかと怒り出すか、思いやりがないと言ってさめざめ泣くこともあるだろう。

 

これを受け入れられるのはもはや、カウンセリングの域だろう。一時間で数千円以上の料金が発生するカウンセリングに近い。

もちろんカウンセラーは、専門家だからこそ料金が発生する。

しかし裏を返せば「ただ話を聞く」という行為はそれだけ専門知識が必要で、プロが対応することなのである。それを常に素人である配偶者に求めるのは酷だ。

 

それでも「話を聞いてほしい」という希望は譲れない、それを配偶者に求められないなら結婚する意味がない。

そこまで思う人は、夫婦であっても元は他人である以上、精神的にギブ&テイクであるということを忘れなければよいのではないだろうか。

 

愚痴や悩みを聞いてもらいたいなら、相手の愚痴や悩みも聞く。「一方的に」という部分を意識して変えるのだ。

いたって明快で当たり前のことのようだが、これを忘れてしまう人が多いように思う。

 

友人や同僚とのランチや飲み会等では愚痴の言い合い、つまりお互い話しつつ聞きあっている関係が多いはずだ

。そうでない人は自然と周囲の人間が離れていくので、たいていは大人になる過程である程度精神的ギブ&テイクができるようになるはずだ。

 

ところがこれが夫婦となると、「なんでそこまでパートナーに気を遣わなければならないのか」と言いたくなるだろう。「そんなに気を遣うならモヤモヤは解消されない」と。

 

だが配偶者も生身の人間だ。

愚痴のはけ口にされた側のモヤモヤはどこへ遣ったら良いのだろう。

どんなに親身に話を聞いても、カウンセラーのように報酬に還元されるわけでもない。よほど精神的に強靭な配偶者でもない限り、ヘイトを垂れ流されれば、そのヘイトは少なからず聞き手の中に滞留し、少しずつ蝕んでいくだろう。

 

真偽のほどは定かではないが、ネガティブな言葉を浴びせられ続けたら植物すら枯れるという説もあるくらいだ。

人間であれば言わずもがなである。家庭内の仕事でいえば家事育児や親戚づきあい、ご近所づきあいなどを担うよりも強くストレスがかかっている可能性も十分あり得る。

夫婦が対等な元他人である以上、精神的なギブ&テイクを忘れてはいけないのだ。

 

ただし、中には普段聞き手の配偶者でも、自分からはあまりネガティブな話はしたくない、弱音も吐きたくないというタイプもいるだろう。

「さあ、今度はあなたの悩みを話して!」と無理に聞き出されるほうがストレスになる人もいる。

そういう相手ならば、別のストレス解消法を提示してみてはどうだろうか。

 

いつも話を聞いてもらって感謝しているから、土曜日は家事も育児もせずに自由に遊びに行っていいよとか、趣味のコレクションを飾りたいなら一部屋自由に趣味の部屋にしていいよとか、何でもいいのだ。

相手が望んでいて、ストレス解消になることなら。

あるいは、いつもは一方的に愚痴を言ってくるばかりの相手が、そういった心遣いを見せてくれたということだけでも十分満たされる人もいるだろう。要は気持ちだ。

 

「そんなにいちいち気を遣わなくても、うちのパートナーはネガティブな話でもいつも親身に聞いてくれるし、不満もなさそうだから問題ない」

そういう声もあるだろう。そして(まれに)それが事実の場合もある。

 

実は聞き手側が我慢している、というのではいけない(愚痴を聞いてもらう側からはよくわからないだろうが)。

ある時突然大爆発したり、ふらっと姿を消してしまったりする危険をはらんでいる。

 

そうではなく、結婚後何年経とうとも相手への愛情だけで愚痴や弱音を全て受け止めて包み込んでくれる人。

それでいて、いつも朗らかに暮らしている人。ストレスを感じたとしてもうまく自分の中で切り替えて、ダメージをしなやかにかわせる人。

もちろん、全て受け止めた風を装って、相手を操縦しようとするような裏があるわけではない。

ましてや密かに何かの修行中で、功徳を積むために苦行に耐えているわけでもない。

 

あなたの配偶者が、もし本当にそんな人だったとしたら。

はい、そのパートナーはとんでもない「アタリ」です。

 

そういう人を伴侶にすることができたなら、決してそれを普通だと思ってはいけない。

収入が良いとか美人だとか、家事がうまいとか趣味が合うとか、そういった様々な要素を遙かに凌駕した最高のパートナーだ。そんな人と夫婦になれた僥倖に、心から感謝するべきだろう。

「まあ話だけはよく聞いてくれるけど、平凡な人だよ」だなんて、とんでもない話なのである。

 

 

 

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【著者プロフィール】

西 歩 (にし あゆみ)

大学卒業後、教育関連企業の会社員時代を経てフリーの編集者となる。

趣味はゲーム、漫画、服飾史研究。好きな時代は古墳時代~平安時代。

(Photo:Department of Foreign Affairs and Trade

カイジ「命より重い!」お金の話』(木暮太一著/サンマーク出版)という本の冒頭に、こんなクイズが出てきます。

【問題】あなたは、銀行から年利12%で100万円借りました。

銀行から「返済が大変でしょうから、返済は月々1万円でいいですよ」と言われます。

毎月の返済額が減るのは、あなたにとっても嬉しいことであり、さっそくその条件で契約しました。さて、あなたが借金を返済し終わるのは、何年後のことでしょうか?

(※なお、金利は「単利」とする)

A 5年

B 8.3年

C 10年
さて、いかがでしょう? 電卓を使わなくても、暗算で解ける問題です。

[amazonjs asin="4763160869" locale="JP" tmpl="Small" title="(文庫)カイジ「命より重い! 」お金の話 (サンマーク文庫)"]

バカにするな!という声が聞こえてきそうですが、これが解けない、あるいは自分では解けたと思い込んでいるだけの人が、世の中には少なくないのです。

 

正解は、「この条件では、永遠に(というか、あなたが死ぬまで)借金を返済できない」です。

それどころか、年間12万円返済し、1年間の利子が100万円×0.12の12万円ですから、ずっと元金は1円も減りません。

 

いま、世の中の金融機関が笑顔ですすめてくる「リボ払い」って、原則的に、こういう仕組みなのです。

1回の返済額が少なくてトクなようにみえるけれど、長期的にみれば、借りる側にとっては、大きなマイナスになる借金のしかたなんですね。

 

最近、ネットサロンが話題になっていて、そのなかで、有名なサロンを運営している人が、しきりに「リスクをとらなければ、何も得られない」と仰っているようです。

この言葉自体は、けっして、間違っているわけではありません。

多くの「成功者」たちも、リスクを承知の上で、投資をしたり、起業をしたりしています。

 

ただし、彼らのほとんどは、やみくもに「ただ、やってみた」だけではないのです。

「期待値」という言葉を御存知でしょうか?

投資家であり、「村上ファンド」で名を馳せた村上世彰さんは、著書『生涯投資家』(文藝春秋)のなかで、こんな話をされています。

私の投資スタイルは、割安に評価されていて、リスク度合いに比して高い利益が見込めるもの、すなわち投資の「期待値」が高いものに投資をすることだ。

投資判断の基本はすべて「期待値」にある。いろいろな投資案件において、きわめて冷静に分析や研究をして、自分独自の「期待値」を割り出している。

 

たとえば、百円を投資する場合の「期待値」の計算方法は、次のようになる。

・0円になる可能性が20%、200円になる可能性が80%であれば、期待値は1.6(0×20%+2×80%=1.6)

・0円になる可能性が50%、200円になる可能性が50%であれば、期待値は1.0。

・0円になる可能性が80%、200円になる可能性が20%であれば、期待値は0.4。

期待値1.0を超えないと、金銭的には投資する意味がない。この「期待値」を的確に判断できることが、投資家に重要な資質だと私は考えている。

ちなみに多くの投資家は、0円になる可能性がある程度(20%以上)ある場合は、投資をしない。また、負ける確率が5割以上と考えた場合も投資しない(たとえば、5回投資して2勝3敗以下と予想される場合)。

 

このように、リスクが高い場合や勝率が低い場合には投資を避けるのが普通だが、「期待値」と勝率は別の概念だ。

勝率が低いと言われる場合でも、自分なりの戦略を組み立てることで、勝率は変わらなくても、期待値を上げることはできる。

 

私の場合はすべてが「期待値」による判断なので、0円になる確率が5割を超えていても、勝率が1勝4敗でも、トータルリターンが1.0を大きく超えるかどうかで判断する。

[amazonjs asin="B072KGSJLR" locale="JP" tmpl="Small" title="生涯投資家 (文春e-book)"]

また、『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方』(森岡毅著/KADOKAWA)のなかで、USJの「V字回復」に大きく貢献した著者は、こう仰っています。

職業選択の際に、誰もが気にする自分自身の将来の年収について。実はこれは職業を選んだ時点でだいたい決まっているのです。それは選んだ職業の年収が一定の幅で決まっているからです。

 

「え? ホントかいな!」と思う人もいると思いますが、市場構造が一定であるならば、その市場にいる人の収入も「ある一定の幅」で決まってしまうのです。

 

例えば、あなたがうどん屋の主人になったとします。

競争力のあるうどんの単価、店舗のキャパシティー、原材料費、店舗にかかる諸費用、従業員人件費など、それらの相場は好き勝手にコントロールできないことがほとんどで、市場構造やビジネスモデルによってあらかた決まってしまっているのです。

 

売上から費用を引いた後に残る資金から得る主人の年収も、最初からだいたい決まってしまっているのです。

決まっていないのは「どの程度うどん屋として成功するか失敗するか」による上下幅の着地点です。成功したうどん屋の客単価と客数が想定できるので、うどん屋の大将の年収の上限も容易に試算することができます。

 

逆に、失敗したうどん屋の大将の年収がどうなるか、リスクも予め試算することができます。うどん屋の大将の年収は「ある一定の幅」が最初から決まっていて、成功から失敗までのシナリオによってその幅の中のどこに定まるかが決まります。

これはほとんどの職業においても当てはまります。市場構造やビジネスモデルが何かの理由で大きく変わらない限りは、その職業の収入の上下幅はだいたい決まっています。

世の中には、100%成功する起業はないし、プロスポーツ選手を目指すとか、芸能人になるとか、成功する確率が低い職業もたくさんあります。

ただし、多くの場合、彼らは運試しだけをしているわけではありません。

自分の才能や能力に投資をして磨きをかけ、リスクは高くても、成功したときに得られる「巨大なリターン」を考えて勝負に出ているのです。

 

プロ野球選手とか将棋の棋士とかは、競争も激しいけれど、成功してトッププロになれれば、得られるものも大きい。

その一方で、多くのマイナースポーツの競技者は、どんなにすぐれた能力を持っていても、「市場規模」が小さいため、それだけで生活していけない、ということも多いのです。

 

それでも、「お金や有名になることよりも、この競技が好きで、とにかく続けていきたい」ということが最優先であれば、それもまた、自分の人生の期待値を満たすことだとは思うのですが。

 

プロブロガーのなかには、「大学なんて行く必要はない」「つまらない会社なんてやめてしまえ」なんていう人もいるのですが、それで、彼らが薦めている生き方というのが「起業しろ」とか「ブログを書いて生活しろ」とかなんですよ。

 

いやちょっと待ってほしい。

 

いま、定職を持っていないとか、大学といっても、そんなに有名ではなく、就職活動も厳しそう、というのなら、元々の「期待値」が低いので、イチかバチか、一発逆転に賭けてみるのも良いかもしれません。

ただし、プロブロガーやユーチューバーというのは、いま、なりたがっている予備軍の数の多さと、今後、芸能人や有名人、プロの映像制作者・編集者などが参入してくることを考えれば、非常に「狭き門」となることが予想されますし、いまの日本でものすごく成功したとしても、年収数千万円のレベルだと思われます。

 

成功する確率×期待できる収入で考えると、期待値はかなり低いのです。

 

そもそも、一人のブロガー、ユーチューバーの賞味期限は、そんなに長くない可能性が高い。

「会社だって潰れるし、もう生涯雇用の時代じゃない」のは事実だけれど、ネット広告がずっと今のような形で続いていくかどうかは疑問です。

 

今だって、グレーゾーンな投資案件や出会い系サイトを薦めているプロブロガーがたくさんいるのだけれど、そういうものを他人に買わせて稼いでいる人間の言うことを、どこまで信じるべきなのか。

 

大学に行って勉強を続けて就職したり、会社のなかで頑張ったりするほうが、はるかに「期待値」が高いような人ほど、かえって、「新しい生き方幻想」にとらわれやすいように、僕には見えるのです。

ブログを書ければ、動画を更新してさえいれば幸せ、どんなに貧乏でも構わない、というのであれば、悪くない選択だとは思うんですけどね。

「ネットで炎上しながら稼ぐことに適した人柄」っていうのも、あるのでしょうし。

 

大学を辞めた起業家は少なくありませんが、彼らは「先に大学をやめた」わけではないのです。

在学中にやってみた仕事が軌道にのって、どんどん忙しくなって学校に行く時間も意義もなくなってしまったから、結果的に学校をやめたのです。

だから、まずは、いまの学校や仕事をやりながら、自分の適性を確かめてみればいい。

 

世の中には「成功するためには、リスクを取らなくては」と、あなたに迫ってくる人がいます。

そういうときには、ぜひ、問い返してみてください。

「そのリスクをとることによる期待値はどのくらいありますか?」って。

 

100回に1回の確率で1000円もらえるクジがあれば、引き続けるべきです(ちゃんと抽選されているならば、の話ですが)。

 

もちろん、あまりにも確率が低くて多くの試行や時間を必要としたり、賭け金がすごく高かったりすると、期待値が高くても、現実的にはリスクを避けるべき場合もあります。

 

基本的には「期待値に触れずに、うまくいったときのことばかりを話したり、リスクを取らないと成功しない、と迫ってきたりする」ような人は信用しないほうがいい。

そして、自分自身でも、何かをやろうとするときに「期待値」を意識し、計算する習慣をつけることが大切だと思うのです。

現実では、そんなに簡単に数字で表せるものではないけれど、「ボーっと生きていると、イメージだけでリボ払いにしてしまう」から。

 

「数字に弱い」と、騙されやすい。

僕は数学は得意じゃないのですが、たぶん、世の中の大部分の人も、僕とそんなに変わらないレベルだと思います。

「養分」にされないためには、自分で学んで、考えるしかない。

 

最後に、小説家・森博嗣先生の言葉を紹介します(『的を射る言葉』(講談社文庫)より)。

最も期待値の大きいギャンブルは、勉強である。(その次は、仕事)

[amazonjs asin="4062766574" locale="JP" tmpl="Small" title="的を射る言葉 Gathering the Pointed Wits (講談社文庫)"]

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Adrian Sampson

最近、知人に紹介されて、船釣りを始めた。

子供の頃、多少釣りをしたことがあったが、もう数十年も前の話だ。

現在は思想も道具もアップデートされており、要するに今の私は「シロート」。

 

そう言えば、漫画「はじめの一歩」の主人公の実家が釣り船屋だったな……とか思い出しつつ、海に釣りに行くようになった。

 

釣りはつらい

この話をすると、「釣りって、楽しいですか?」と聞かれることがある。

回答は無論、「楽しい」なのだが、実はそれと同じくらいの割合で「つらい」も配合されている。

 

例えば今の時期、洋上はめちゃくちゃ寒い。

撒き餌を仕掛けに詰めるのも、手がかじかんで、めっぽう辛い。

日陰で何時間もじっとしていると、寒くて頭がおかしくなりそうになる。

 

揺れる船も問題だ。手元で紐を結ぶなどの、慣れない細かい作業をしていると、船酔いしそうになる。

休もうにも、逃げ場がない。目をつぶると、余計ひどくなるし。地獄。

 

また、釣りは反復作業が多いため、釣れない時間が続くと、精神的にきつい。

釣れない原因が技術にあるのか、仕掛けにあるのか、その他の原因なのかもシロートには判別が難しいため、思うように対策をうつこともできない。

 

あと、釣り船の人とかに怒られる。「リール巻きすぎ!」とか「そこ邪魔!」とか。

40すぎのオッサンが思い切り怒鳴られる、というのは、会社でもなかなかないだろう。

 

釣具屋さんに行っても、何が良いのか全くわからないので、店内をいろいろとさまよった挙げ句、店員さんに聞いて回る。

店員さんも忙しいのに、拘束してもうしわけない……とおもいつつ、道具がなければ何もできないのが釣りなので、結局1時間近くもいろいろと聞く。

 

ということで、うまく釣れると帳消しになるくらい楽しいのだが、いろいろと釣りはつらい。

 

で、普通に考えれば「つらいのに、なんでそんなことやるの?」と思う方もいるだろう。

「趣味なんだから、楽しいことをすればいいのに」と言われることもある。

 

だが、改めて考えると、実はこの「つらい」が、めちゃくちゃ重要なのだ。

実際、「楽しい」だけであれば、貴重な時間を使う意味はあまりないと思っている。

 

「教えてもらう側」に回り続けないと、教えてもらうのが下手になる。

少し前、こんな記事を読んだ。

無力で不安で仕方ない経験、してますか?

小さい頃でいえば、体育で跳び箱の飛び方を教えてもらうとき。

或いは、中学のときに英文の文法を授業で習うとき。

或いは、社会人になって最初に、ピラミッドストラクチャーに基づく1ページメモの書き方を、コンクルージョンファーストだよとアホみたいに叩き込まれるとき(苦笑)。

 

およそきっと、若い頃は、こうした「一方的に何かを教えられる」という経験に事欠かない。

ところが、である。大体30歳前後になってくると、多くの場合、こうやって純粋に何かを「教えられる」という経験が減り、逆に「教える」という立場が多くなる。

これは、非常に危険である。

一方的に教えてもらうときの、あの感覚。

 

「自分がとても無力に感じる」

「猫のようにごろにゃーんとお腹をみせて無防備にする」

「なんでもまずはスポンジのように吸収しようと謙虚になる」

「そもそも、めっちゃ緊張する」

「自分が上手くできるかどうか、不安になる」

 

こういう感じを、忘れてしまうのだ。

(YLOG走り書き)

実は、私にとって釣りはまさに、「無力で不安で仕方ない経験」に近い。

次に行く釣りの準備をしに、釣具屋さんに行くのも、船の上で悪戦苦闘するのも、まだ会社に入って新人だった頃、見よう見まねで資料を作ったり、上司のよくわからない指示を、先輩に聞きながら進めたりした経験と、ほぼ同じ感覚である。

 

30代後半、社会人も長くなり、仕事で途方に暮れることが比較的少なくなると、こうした「無力感」を感じる機会が少なくなってくる。

もちろん、そのほうが楽だし、仕事で失敗はできないから仕方がない部分もある。

 

だが、同時に貴重な能力である、「学ぶ能力」も低下してしまう。

意識して「教えてもらう側」に回り続けないと、教えてもらうのが下手になってしまうのだ。

 

今の時代、新しいことを吸収できなくなったら、致命的である。いや、教えてもらうのが下手になるだけだったらまだ良いかもしれない。

最悪なのは、「知的ゾンビ」、要するに学ぶ意志も能力もない、ゴミ同然になることだ。

結果、自分が教える内容、伝える内容については、「絶対的に正しい」という気持ちが増してくる。そして、段々と無意識に「自分は正しい」「もはや、学ぶことはあまりないのではないか?」という風に、思っていってしまう。

その極みが、大組織での事業開発に関する承認側、ビジネスコンテストの審査員、といった、いわゆる「ジャッジ側」に回る行為だ。

こういうことばかりしていると、最終的には以前の記事でも触れた「知的ゾンビ」と化してしまう。おお、こわい・・・

こうなると、誰も教えてくれない、指摘してくれない。

そして、最終的には自分の知らないところで駆逐されてしまう。

 

また、「仕事を引退して肩書がなくなった結果、地域に溶け込めない、プライドの高いオッサン」が揶揄されているのを見る。

プライドがムダに高い「中高年男性」の末路

日本のおじさんの最大の呪縛はこの「プライド」という何とも厄介な代物だ。特に終身雇用、年功序列制度という「タテ社会」の中で、会社勤めの男性は係長、課長、部長……と役職が上がるにつれ、上から目線で話し、敬語で「かしずかれる」ことに慣れていく。

「権力」という空気が、「プライド」という風船を膨らませていくようなものだ。上司らしく振る舞わねばという責任感がいつの間にか、プライドやおごりになり代わっていたりする。

彼らを悪く言うことはできない。

なぜなら、彼らは30代後半以降、「失敗すること」を許されてこなかったのだ。

 

だが、こうはなりたくはない。

 

「失敗」を利用できる人生と、できない人生では、能力向上に大きく差が出る。

2010年、ミシガン州立大学の心理学者、ジェイソン・モーザーは、実験を行った。

この実験では、ボランティアの被験者に脳波測定用の電極がついたヘッドキャップをかぶってもらい、被験者が失敗したときにどのような変化が脳内で起こるかを観察した。

 

すると、面白いことがわかった。

「能力は向上しない」と信じている固定型マインドセットの被験者たちは、回答の間違いを無視した。

ところが、「能力は向上する」と信じている成長型マインドセットの被験者たちは、間違いへの反応が強く、失敗後の正答率が上昇した。

 

「失敗への着目度と、学習効果」には、密接な相関がある。

 

失敗から学べない人は、失敗を受け止めず、失敗の理由を知性や自分の能力にする。

ところが、学習能力の高い人は、失敗を自分の力を伸ばす上で欠かせないものとして自然に受け止める。

[amazonjs asin="4799320238" locale="JP" tmpl="Small" title="失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織"]

ところが、「できること」「うまくやれること」だけをやっていると、この勘が鈍ってくる。

「失敗しないが普通」ではダメなのだ。

 

だから私は「Twitter」や「釣り」、「筋トレ」など、新しいことを定期的に始めるようにしている。

私の周りの人々も、トライアスロンや、フットサル、小説やイラスト、パン焼きからVRゲームまで、様々なことに手を出している。

 

特に、釣りのような、ある程度投資が必要で、右も左も分からないことをする経験は、「失敗せよ」が強制的にやってくる。

釣り船のオッサンから「そこ邪魔!」と言われることで、私は失敗を意識せざるを得ない心境になるし、魚が釣れなければ、何がダメだったのかを真剣に反芻する。

 

仕事で失敗することはそんな簡単ではない。

だが、生活に新しい試みを取り入れることは、非常に有効だし、負荷も少ない。

 

振り返ってみてほしい。

ここ数年で、「無力で不安で仕方ない経験」をどれくらいしただろうか?

全くそういうことがないならば、そろそろ生活を見直す必要があるのかもしれない。

 

 

新刊です▶

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント安達裕哉(ぜひ!一緒にやりましょう!)

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◯ブログが本になりました。

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(Photo:Denis Mihailov

少し前に大学の同級生とご飯を食べ、かつての級友たちがどうなったかについて色々と情報交換を行った。

 

学生時代からとても興味があった事の1つに、学校の成績と就労後のパフォーマンスがどう比例するかというのがあった。

かつての秀才達は、今も出世頭なのだろうか?その答えはまだ卒後して数年しかたってはないが、意外とハッキリと出つつあった。

「そういえば、あのパチンコばっかり打ってた奴はどうしたん?」

「あー、あいつは今、救命救急センターでバリバリ働いているわ」

「んじゃ、学年トップクラスだったあの人はどんな感じよ?」

「・・・実はあいつ、いろいろあって心の病をやっちゃって、一回ドロップアウトしたんだ。風のうわさによると、今はフリーでアルバイト医として月に数日だけ働いているらしい。もったいないよね・・・あんなに頭よかったのに」

 

勉強ができるにも3つのパターンがある

こんな感じで、いろいろな人を分析していった結果みえてきた現実がある。それは一口に勉強ができるといっても、3つのパターンがあったという事だ。

 

1つ目のパターンは「本人の能力自体が異常に優れていたパターン」だ。このタイプの人間は、本人の能力が非常に高いが故に受験勉強を難なくこなした結果、とんとん調子で医学部に入学した人が多い。

特徴をあげると、多少難しい事でも教科書を一度読んだだけで全部理解できたりとか、いわゆる地頭がいい連中だ。

これらの人達の多くは、いわゆる出世コースを歩んでいた。能力値が高いが故に本人のパフォーマンスが高く、医師として働きつつ論文をバンバン書いたりしている。

 

2つ目のパターンは、目標に向かって努力ができるタイプのパターンだ。

この人達は、いわゆる嫌なことに対する我慢適性が比較的高く、また必要な時は勤勉になれるタイプである。

特徴をあげると、いわゆる苦学生で、あんまし頭はよくないのだけど、医者になるために必死で努力して無理やり受験勉強を乗り越えてきた人といえる。

これらの人達は、能力がそこまで優れているわけではない。だが、タフネスもメンタルもそこそこ強く、現場で安定した労働力として非常にありがたがられていた。

出世頭ではないけれど、みんな立派に医師として地域の基幹病院で働いているようだ。

 

そして3つ目のパターンは、勉強自体が好きなパターンだ。

この人達は、いわゆる机に座って本を読んだり、学校の授業を受けるのが好きなタイプの人である。彼らは”勉強自体”が好きなので、成績がとてもよく、その結果医学部入試もそこまで苦労することなく突破し、また学生時代もコツコツ勉強をしていたから成績がとてもよかった。

この手の人達は、学生時代は教師陣から非常に好かれていた。いつも真面目に最前列に座って授業をうけていたし、授業後に質問にいったりして、個人的に可愛がられていた人も多かったと記憶している。

 

僕は学生時代、彼らをみて「まさに好きこそものの上手なれ」だなぁと羨ましく思ったものだった。あんなに勉強が好きなのだから、きっと卒業後も最先端の知識を使って素晴らしいパフォーマンスをあげるのだろうと思っていた。

 

だが、現実は非情である。この条件に該当する人達が実は医師としてドロップアウトした率が一番高かった。

なぜ、彼らは現場を脱落してしまったのだろうか?僕が思うに、その原因は勉強自体が好きだったからである。以下、どういうことかみていこう。

 

慶応の野球部卒業生の就職先が凄い理由

前にネットで慶応の野球部卒業生の就職先が凄いと話題になった事があった。

慶應義塾体育会野球部 » 平成30年度卒業生進路先

 

確かにこれをみるに、ほとんどの学生が有名企業への就職を決めている。彼らがなぜ企業から好まれるかといえば

①慶応に入学しているという時点で、そこそこの知的ポテンシャルがある事

に加え

②野球部というハードな練習に4年間耐えきった

という実績を買われているからだろう。

 

実のところ一部の職種を除いて、サラリーマンにはそこまで高度な知的技能は求められない。

会社で相対性理論を使うことなどまずないし、高等数学のような理解するだけで何ヶ月もかかるような知的労働に取り組む機会はほぼ無い。

サラリーマンに求められてるのは、上司の指示を理解して、設定された期間内に仕事をあげる事ぐらいである。あとは、しっかりと数年間仕事にコミットさえしてくれれば、何も文句はない。

 

究極的にいえば、労働者のパフォーマンスは

「能力値」×「目標に向かって我慢できる値」

で決まる。この事を念頭に、先の頭の良さの3分類をみていこう。

 

労働者のパフォーマンスは「能力値」×「目標に向かって我慢できる値」で決まる

1つ目である本人の能力自体が異常に優れているパターンだが、これはイソップ童話のカメとウサギにおけるウサギみたいなものだ。能力が高いから、特に苦労なくポンポンアウトプットを出す。

苦労もそこまでしないので、仕事における心労や肉体的疲弊も少なく、結果として「能力値」×「目標に向かって我慢できる値」が常に高い。

 

2つ目である目標に向かってコツコツ努力ができるタイプはイソップ童話のカメとウサギのカメだ。能力はまあまあだけど、我慢適性が非常に高く、気合と根性で最終的にはゴールにちゃんと辿り着く。

企業が体育会系を好むのは「目標に向かって我慢できる値」が高いからに他ならない。

というかそれを証明する為に、わざわざ4年間もの間、青春を部活に捧げてる人だって当然いるだろう。彼らが好まれるのは、当然の結果だ。

 

3つ目の勉強自体が好きなパターンだけど、これは本当に不幸だ。実は働くと、勉強というのはメインではなくなる。

あくまで勉強は自己研鑽として取り組む副次的なものであり、労働における最も大切なものはオン・ザ・ジョブ・トレーニングである。机の上ではなく、現場が一番の先生なのは労働者なら誰だってわかっているだろう。

彼らは勉強が「好き」だから、受験生時代や学生時代は成績が凄くいいけど、あくまでそれは「能力値」が高いからではなく、単にかけてる時間が多いからに他ならない。

 

また、勉強が「好き」だから比較的苦もなく勉強し続けられたけど、逆にいえばそれは嫌なことでも「目標に向かって我慢していた」わけではない。

結果、嫌なことでも必要であればやる、という覚悟があまり育たず、おまけに働き始めて好きだった勉強もできなくなってしまい、見事にドロップアウトする。

 

ウサギにもなれず、かといってカメにもかれない彼らの未来は割と悲惨だ。

僕は学友と話した帰り道、自分が心底勉強が嫌いで本当によかったと妙に感心してしまった。あの血の滲むような努力は、キチンと我慢できる能力として、巡り巡って己のためになっていたのである。

イヤイヤながらも受験勉強をやってた人間の方が労働適性が育ってたりするのだから、まったくもって人間万事塞翁が馬である。

 

「好きを仕事にできず潰れている人」は「好きでビジネスができていないもったいない人」

勉強が好きなのなら研究者になればいいかというと、そういうわけでもない。

研究者に必要なのはプロジェクトの企画・立案で、机に座って勉強するのとは随分と性質が異なる作業であり、研究者の適性は必ずしも勉強が好きな事とは相関関係はない。

 

結局、学生時代に最前列で真面目に授業をうけていたり、図書館で分厚い教科書を読んでいた学友の多くは「我慢」の必要がとても少ない楽な仕事につく傾向が多かった。

彼らの不幸は「好き」を仕事にできていないところだ。

現代の資本主義社会では、仕事は何らかの成果物を献上する事でしか成り立たない。労働力を売れるのならサラリーマンになれるし、資本を元に労働者を統率して生産を行えるのなら経営者になれる。

 

「勉強」はそれ単体では成果物にはならない。

実のところ「好き」を仕事にして失敗している人の多くは、それが好きなだけでビジネスモデルを全く成立させられてないところに問題がある。

 

例えるなら、アイドルがメチャクチャ好きなだけの人はファンとしてお金を払う位しか選択肢がないけど、秋元康さんは自身の「アイドルがめっちゃ好き」を「類まれなるプロデュース能力」と組み合わせて、しっかりビジネスをしている。

「好き」を仕事にするにあたっては、この何かプラス・アルファが凄くものをいう。

 

だが「勉強が好き」な人を不幸といいきるのも問題がある。

良くも悪くも、1つ目の「本人の能力自体が異常に優れているパターン」も2つ目の「目標に向かってコツコツ努力ができるタイプ」も、いわゆる「人から言われた仕事をそつなくこなしている」だけの社畜的な働き方をしているだけであって、心の底から楽しんで仕事をしているとはいい難い。

ある意味では、「勉強が好き」な人は「自分に本当の好きなもの」をみつけているという点では、サラリーマンをそつなくこなしている人よりも一歩先をいっているともいえる。

 

あなたは自分が本当に好きなものが何かわかっているだろうか?この作業は実は結構難しい。本当に好きなことが何なのか、よくわからないまま終わっていく人はかなり多い。

 

勉強自体が好きだった学校型秀才の彼らは、もう「好き」はみつけている。

あとはその「好き」を、キチンとビジネスに落とし込むという行程さえ超えられれば、人生を豊かにする為の仕事ができるようになるだろう。

 

だから医師社会をドロップアウトしてしまった彼らも、かつて劣等生だった僕らが受験勉強や定期試験の嵐で疲弊したのと同じように、遅れてやってきた人生の試練にキチンと打ち勝って欲しいものだね、というような事を話しっつ、学友との楽しい居酒屋漫談は終わりとなった。

 

あり余る能力か、我慢耐性か、好きをビジネスに結び付けられるか。

このどれかを持てた時、人はそこそこ楽しく働くことができるのかもしれない。

お互い、子供ができたら、それを教えてあげられたらいいねなんて事を語りつつ、焼き鳥を食べおわったオッサン2人は帰路につくのであった。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Tobi Gaulke

SNS、とりわけtwitterを眺めていると、毒舌屋や皮肉屋が大袈裟なメンションを繰り返して人気を集めているのをしばしばみかける。

現代インターネットの風物詩といった光景ではあるが、彼らを眺めていると、立身出世についての現実法則めいたものを思い出す。

 

偉くなる人は、毒舌屋や皮肉屋ではない

社会人を二十年ぐらいやっていると、出世していく人・ぜんぜん出世しない人の明暗を何度か目にすることになる。

医者の世界には、研究分野の超絶才能でもって地位を獲得する人がいる。医者に限らず、超絶才能はどこの世界でも重宝するから、そういう人が地位を得ること自体は不思議ではない。

超絶才能は、人格的に破綻した人物すらサバイブさせ、それどころか出世すらさせる偉大な力だ。

 

だが、才能やスキルの凄さだけですべての人の出世や立場が決まるわけではない。

 

実力という点ではほぼ互角のA医師とB医師がいたとする。

A医師は野心があるようにも見えないのに順調に出世を重ね、厚遇を勝ち取っていく。

一方、B医師には大志があるのに出世がはかどらず、不遇を嘆くうちにだんだんフェードアウトしていく……といった風なことはままある。

私の聞き知っている限り、こうしたことは他の業界でも珍しくないようだ。

 

出世して厚遇を勝ち取る人と、そうでない人の明暗を分けるものはいろいろあろう。

けれども、明暗を分ける要素のひとつとして心に留めておいて良さそうな法則がある。それは、

 

「毒舌屋や皮肉屋は出世しない」

 

である。

 

Twitterなどで不特定多数のフォロワーを集める際には、毒舌や皮肉が役立つことが多い。

毒舌を面白がる人や皮肉をありがたがる人が、twitterにはたくさんいるからだ。毒舌屋と皮肉屋が言論バトルしているのを楽しみにしているオーディエンスもいる。

 

しかし現実社会では、毒舌をふるう人・皮肉を繰り返す人は出世しにくい。

少なくとも、たくさんの人の上に立つような地位に就いたり、たくさんの人に影響力を与え続け、大きなことを達成したりすることは、まずない。

 

彼らは気持ち良く毒舌や皮肉を披露し、ときにはそれが喜ばれることもある。

そのかわり、その毒舌や皮肉はときどき聴き手のモチベーションを奪ってしまったり、ときどき誰かを敵に回してしまったりする。

 

毎日のように口からこぼれる毒舌や皮肉が、目の前の聴き手を落胆させたり怒らせたりする確率はそれほど高くはあるまい。とりわけ、気の利いたベテランの毒舌屋や皮肉屋ならそうだろう。

だとしても、たとえば2%~3%程度の確率でも、毒舌や皮肉が聴き手に良くない心証を与えるとしたら、その心証の蓄積は案外バカにならない。

 

のみならず、その毒舌や皮肉が、その場にいない誰かに伝言されることによって、もっと広範囲の人間に悪い心証を発生させてしまうおそれもある。

たとえばベンチャー企業に勤めている皮肉屋が、公務員についての痛烈な皮肉を同僚に言ったとする。

社内の同僚たち自身には、そういう皮肉は刺さりにくいかもしれない。しかし、その同僚の友達や家族が公務員だった場合は、聴いていてあまり良い気分はしないだろう。

 

特定の趣味や宗教についても同様だ。

社内の同僚にアニメオタクやゲームオタクがいないつもりでオタクを皮肉っていたら、同僚の一人が隠れオタクだったとか、同僚の配偶者がその筋の趣味人だったとか、そういったことは往々にしてあり得る。

 

気持ち良く毒舌をふるった際に皆がウケてくれたからといって、どうして安心できようか。

ということは、twitterでブイブイ言わせている諸氏の真似事を現実世界でやるのは非常にリスクが高い、ということになる。

 

もちろん世の中には例外もいて、毒舌や皮肉を弄しているにもかかわらず高い地位に就いたままの人物も存在する。

だが、そういった人物は世襲やコネクションのたぐいで地位を獲得してしまっているタイプ、いわば既に出世する必要のない人なので、これから地位を得ようとする人は真似をしてはいけない。

世襲やコネクションを持たず、コツコツと人望を獲得して頭角をあらわしたい人は、毒舌屋や皮肉屋にならないよう、自分の言動に気を配っておく必要があるだろう。

 

「社内に適応するのに精一杯」な人もだいたい同じ

ここまでの話は、野心の無い人にもだいたい当てはまる。

むしろ、社内のコミュニケーションについていくのがやっとの人、自分の社内での立場が危ういと感じている人こそ、毒舌や皮肉を弄するのは最小限にしておく必要がある。

いや、最小どころか封じ手にしてしまってもいいかもしれない。

 

毒舌や皮肉がそのリスクに比してメリットが大きい場面なんて、どのみち滅多にないからだ。

日頃からコミュニケーションや立ち位置のことを心配しなければならない人が毒舌や皮肉でへたを打つと、ますますコミュニケーションが難しくなったり、立場が危うくなってしまったりする。ときにはそれが命取りになることさえある。

「自分は出世欲を持っていないなら毒舌や皮肉を言っても構わない」と考えるのは利口なことではない。

 

なぜtwitterには毒舌屋や皮肉屋が跳梁跋扈しているのか

では、twitterではどうなのか。

twitterで毒舌や皮肉を繰り返しているアカウントは、twitterを出世や人望のために使いたいとは思っていない。

また、何割かはアカウント自体が“無敵モード”になってしまっている人達なので、ここまで述べた問題を度外視できるのだろう。

 

また、twitterに限らず、不特定多数を相手取ったメディアでは「どれだけ敵を増やしても構わないから、熱烈な信者さえ増やせば収益が得られる」というルールがまかり通ることも多い。いわゆる「炎上商法」などはその典型である。

 

たくさんの人々から蛇蝎のように嫌われると同時に、熱烈なファンからカルト的に祭り上げられ、そこから収益を得ているようなアカウントなら、毒舌や皮肉を連発したほうが実入りは大きくなる。

オープンなインターネット上でたくさんの人々に嫌われることには、それ相応のリスクがあるように私には思われるのだが、少なくとも短期的には、そういったリスクを度外視して収益に転換できるのがオープンなインターネットの良いところ(そして恐ろしいところ)である。

 

そういう手法で収益をあげたいなら、twitter上で毒舌や皮肉を連発するのも一つの手かもしれない。普通のユーザーは絶対に真似するべきではないが。

 

「弱く見えるぞ」

それともうひとつ。

ふだんから毒舌や皮肉を繰り返していると、本当に何か言わなければならない時に、言葉が弱く見えてしまうおそれもある。

 

毎日のように毒説や皮肉を披露している人は、本当に何かを批判したいと思った時に本気で批判を投げかけても、「ああ、あの人また平常運転しているよ」以上の感想を持ってもらえないおそれが高い。

 

このあたりは「オオカミ少年」の寓話とそれほど違わなくて、嘘ばかり言っていると本気にされなくなるのと同じように、毒舌や皮肉ばかり言っていても本気で取り合ってもらえなくなってしまうのである。

 

肝心な場面できちんと響く批判をしたければ、日頃は言葉を慎んでおく必要がある。

日頃は言葉を慎んでおいて、ここぞというタイミングで・これぞという案件で批判したほうがインパクトがある。

軽はずみに毒舌や皮肉を口にしない人だからこそ、ごくまれに口にする毒舌や皮肉にインパクトが宿る。こういうインパクトは、デイリーな毒舌屋や皮肉屋には望むべくもない。

 

これから就職や異動のシーズンを迎えるにあたり、前途有望な人が、あまりよく考えずに毒舌屋や皮肉屋に堕していくのをみるのはしのびないので、届くべき人に届けばいいなと願いを込めつつ、この文章を書いてみた。

 

不用意な毒舌や皮肉は、世渡りを難しくするのでどうかご注意を。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:jttlui

世の中には、「期待に応えて大きな成果を出す、大きく成長する」という物語があります。

 

「君には即戦力になることを期待している」だとか、「この仕事は君にしか出来ないと思っている」だとか。

そういった「相手に対する期待値の明示」という儀式があり、それにやる気を出して、それに答えて。期待通り、あるいは期待以上の成果を出そうとして全力を尽くす。

そして、ハードルを越えることによって大きく成長する。

 

それは確かに美しい物語です。

実際、こういう過程を経て成長した人、経験を積んで実力をつけていった人はたくさんいるのでしょう。

 

期待のやり取りというものは、精神的通貨のやり取りのようなものでもあります。

相手に「期待」を支払う。それは相手にとっては一種の承認、あるいは承認の予約として動作する。

期待を「支払った」側には、その期待の充足という形で報酬が返ってくる。期待交易経済です。

 

そういう意味では、うまく期待を「支払える」人は、それだけで人間関係を上手いこと運営出来る資質を一つ持っているということにもなります。

期待の支払い、期待の受け取りが上手く回ると、職場は良好に動作します。これは「期待経済」のプラスの側面です。

 

ただ、なんというか、このサイクルが定着し過ぎていることによって発生する弊害というか、「期待経済」を回し過ぎることによるデメリットみたいなものが複数あって、それが色んなところで悪影響を及ぼしてしまうケースもあるように思っているんですよ。

 

***

 

まず一つは、期待を受ける側についての話です。

「期待」というものは、される側にとっては承認であるのと同時に、目の前に提示されたハードルでもあります。

クリアすることが出来ればより多くの承認が得られるけれど、クリア出来なければ「期待を裏切った」という形でダメージを受けます。

この時、受けるダメージの度合は人によって違います。

 

会社で働いていると、「自分に対する期待」を過大に受け取ってしまい、それに対して何とか答えようと無理に無理を重ねて潰れてしまいそうになる人を観測する機会が頻繁にあります。

勿論、手が届く範囲であればフォローもするんですが、残念ながら自分の手が届かない範囲で、実際に潰れてしまった人を見たこともあります。

 

勿論、「期待に応えられなかった為に評価を下げられるかも」という認識は、ビジネスパーソンにとっては大きなリスクです。

ただ、評価を多少下げられたからって死ぬ訳ではないし、それで潰れるくらいなら期待など適当にやり過ごした方が遥かにいいと、少なくとも私は思うんですが、どうも「期待を裏切る」ということ自体に対する恐怖感が、人によっては物凄く強いように思うんですよ。

 

以前、こんな記事を書きました。手前味噌で申し訳ないですが、ちょっと引用します。

電通と同じことが眼前で起こるかも知れなかった世界で思うこと。

彼は、おそらく「即戦力」という言葉を自分で真に受け過ぎてしまったんだろう、と今では思います。

実際のところ、どんなベテランの人であっても、職場が変われば相応のキャッチアップの時間が必要です。

 

マネージャーであれば部下のスキルを見極める時間が必要ですし、プログラマーであればコード規約や環境、既存のアーキテクチャについてあれこれ調べる時間が必要でしょう。

どんな部署、どんな人材でもそうである筈だ、と私は思います。

「即戦力の人材」なんて本来存在しない筈なのです。

ところが彼は、入社直後からどんどん仕事を抱え込んで、やがてイージーミスを連発するようになりました。

 

彼は多分、「無理です」と言えなかった。

「その期日ではとてもできません」と言えなかった。

ただ、抱えきれない仕事を抱えて、周囲には「大丈夫です、なんとかします」と言い続けて、どんどん口数を減らしていきました。

今から考えると、彼は頭から「期待経済」の罠にからめとられていたんだろうなあ、と思うのです。

結局のところ、彼は上司による「即戦力」という期待によって潰されてしまいました。

「期待を裏切る」という結果それ自体を恐れて、誰かに助けを求めることも出来ずに、本来抱えきれない荷物を抱え込んでしまいました。

 

「期待通りに出来ない」ということで、必要以上の精神的ダメージを受けてしまう人、必要以上に「期待通りに出来ない」ことを恐れる人が、世の中には恐らく結構な数存在する、という話なんです。

これは、一面、「期待経済」が定着し過ぎてしまったことによる負の側面だと私は思います。

 

悪いことに、世の中には「勝手に期待をして、その通りにならないと勝手に怒り出す人」というものまで存在します。

SNSなんかでも結構いますよね。

そういう人たちは、相手が自分の期待通りに動いてくれないと、「期待外れだ」「がっかりだ」などという心無い言葉を投げつけます。

それによって、期待される側はなすすべもなく「期待を裏切ってしまった」というダメージを受け続けてズタボロになります。

 

「期待」が「攻撃」になってしまうのです。厄介な話ですよね。

「期待をかける」ということは、同時に「相手に対して期待というプレッシャーをおしつける」ことでもあるんだ、ということを、我々はちょっと強めに認識しておいた方がいいんじゃないかなあ、と思います。

期待を受ける側にしても、「この期待を受け取るべきか、それともスルーするべきか」というのは、一つ判断基準として持っておいた方が無難だ、とも思うのです。

 

***

 

もう一つ、期待を「する側」についても、また違った側面のデメリットがあります。

 

上記で「勝手に期待をして、その通りにならないと勝手に怒る人」という話をしました。

「受け取ってもいない期待を相手に押し付ける」というのはそもそも身勝手な話であって、それ自体論外なんですが、一面「期待通りにならなかった時の失望、ストレス」というものが案外バカにならない、という話でもあると思います。

 

日常生活に当てはめて考えると分かりやすいです。例えば家事の不均衡によるストレスというものは、その多くが「相手が期待通りに動いてくれない」ことから発生します。

洗い物をしたらお皿を拭いて欲しいのに、そうしてくれない。

洗濯が終わったら物干しを手伝って欲しいのに、そうしてくれない。

 

「期待が外れる」ことによるストレスは、容易に苛立ちや怒りに直結します。

そこに「言葉が足りない」とか「コミュニケーション不足」といった要素が加われば、そりゃもう家庭の平和は簡単に乱れます。

 

相手に無理やり期待を押し付けない、ということも重要ではありますが、自分の中の期待値コントロールというのも結構重要なのではないかなーと。

例えばの話、システム開発の工数管理では、その人の本来出せるパフォーマンスが1であったとしても、マージンをとって1日当たりの目標を0.8にしたり0.7にしたりします。

 

全ての人がフルで動けるというのは大抵間違いであって、無理のない範囲で続けた方が長くパフォーマンスを維持することが出来る。

当然、それ以上の成果を出してくれればそれを評価すればいい訳であって、皆に「きっと100%の力を出してくれるだろう」と期待するのは、相手も自分も疲弊させてしまうだけではないかと思うんですよ。

 

***

 

「人に期待しない」っていうと、なんか冷たいような印象を受けてしまいますよね?

けど、「人にプレッシャーを押し付けない」という見方をすれば、それは一つのスタンスとして選択し得るんじゃないかと。

 

私自身は、自他に対する期待値がかなり低空飛行気味な人間でして、自分にもそれ程期待していませんが人にもそれ程期待していません。

7,8割の力が出せれば上出来だろうと思っていますし、何かの計画を立てる時にも、可能な限り「7割のパフォーマンス」で消化出来るタスク割を考えます。

 

ハードルはなるべく低くしておいた方が越えやすいし、大きく越えられればそれはそれで嬉しい。そういう考え方でやっています。

そして、この考え方で損をした記憶があまりありません。

 

「大きな期待をかけて、その期待に応えてもらう」という物語を書くことは出来ませんが、「皆でそこそこの目標を越えて皆で喜ぶ」という程度の図面を描くことは出来ます。

 

時には、「期待されて、その期待に応える」という図式とは違う物語について考えてみてもいいんじゃないかなあ、と。

そんな風に思った次第です。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Thomas Hawk)

みなさんお元気ですか? インターネット楽しんでいますか?

 

ここで「元気です! 楽しんでいます!」と即答できる人は、案外少ないんじゃないかと思う。

現代社会においてネットはもはや水道や電気といったインフラと同じようなものだから、「楽しい」という自覚をもって使っている人は、たぶん多くはない。

 

だからこそ、あえて、改めて言いたい。

傲慢な情報の消費者にならないために、感謝を忘れないようにしようよ!と。

 

作品を読んで「ありがとうございました」と書く人々

『pixiv』というサイトをご存知だろうか。小説や漫画、イラストなどをアップできる、有名な創作サイトだ。

あまり大声では言わないが、わたしはゴリゴリのオタクである。こういった創作サイトも大好物だ。

基本的には見る専(作品はアップせず見るだけ)で毎日何作品も見てはニヤニヤしているわけだが、ふと気が向いたので、先日勢いで書いた小説をアップしてみた。本当に、ただの気まぐれで。

 

そしたらなんと、その小説はとあるジャンルのランキングに入り、たくさんの人に読んでいただけたのである!!

さらにありがたいことに、数名の方からコメントをいただいた。

「楽しかったです。ありがとうございました」

「続きが気になります。ありがとうございました」

「更新頑張ってください。ありがとうございました」

などなど。

 

これには、ちょっと面食らった。

なぜならわたしは、ネット上でお礼を言われる経験をあまりしたことがなかったから。

わたしの記事はいままで何度も、Yahoo!ニュースのようなコメント欄つきのサイトに掲載された。当然、良くも悪くもいろいろ書かれている。なかには「さすがに理不尽だろ!」と思うようなものもある。

 

それはどのサイトでも似たようなもので、小説投稿サイト『小説家になろう』のコメント欄なんて、なかなかひどいものだ。

「もう読まない」「更新頻度上げろ」「文章力低すぎ」「このキャラがムカつく」なんてコメントもかなり多い。

 

世の中の消費者様の目は厳しいなぁ……。

なんて思っていたところに突然降って湧いた、「ありがとうございます」という言葉。ほっこりした。

心がじんわりして、その日1日……実際のところ1週間くらい、ずっといい気分だった。「こちらこそ読んでくださってありがとうございます!」という気持ちだ。

 

そしてふと気づいたのだ。わたしが、インターネット上で感謝の気持ちを忘れていることに。

 

気づけばみんなが批評家になるインターネット

インターネットユーザーというのは、基本的にタダでコンテンツを楽しんでいるくせに、当然の顔をして偉そうにああだこうだと批評するイキモノである。わたしも含めて。

 

それはネットの匿名性や相手の顔が直接見えないといった理由もあるだろうが、手っ取り早く評価できるサイトが増えているのも一因じゃないかと思う。

多くのSNSには「いいね」機能があり、amazonをはじめとしたショッピング系サイトにはレビュー欄がある。

わかりやすいのはyoutubeで、クリックひとつで動画に「高評価」か「低評価」をつけられる。

 

ユーザーがこういったシステムに慣れたからか、もともとインターネットにこういう傾向にあったのかはわからない。

しかし現状、ユーザーはコンテンツやサービスを「いい」か「悪い」かで判断するのが当たり前になってしまった。

 

だから「これはつまらない」だとか「もっといいものをよこせ」とか、現実世界では言わないようなキツイことも平気で書けてしまう。

「自分はあくまで評価する側である」というおごりがあるからだろう。ユーザー様は神様であり、みんな批評家気取りなのだ。

 

これはネットの特徴のひとつだから、丸ごと否定するつもりはない。わたしだってネットでさんざん好き勝手書いているし、みなさんもわたしの記事についてアレコレ書いていただいてかまわない(好意的なコメントであればもちろんうれしいけれど、否定的な意見を書く権利はだれにでもある)。

でも改めて考えると、「自分は評価する側である」という考えって、結構傲慢なんじゃないだろうか。

 

感謝を忘れれば傲慢な消費者に成り下がる

たとえば八百屋さんでりんごを買ったとしよう。品物を受け取るとき、わたしは「ありがとうございます」と言う。

レストランで食事をすれば、お店を出るときに「ごちそうさまでした」と頭を下げる。当然の礼儀だ。

 

「俺はサンふじよりジョナゴールド派だからそれも用意しとけよ」なんて言わないし、「こんな料理をよく提供できるな。もう来ねぇ」なんてよっぽどのことがない限り言わない。言ったこともない。

おいしいかおいしくないか、という感想はあっても「評価してやろう」とは思わないし、自分の好みの味じゃない=まずい=文句をつけようとも思わない。「この味は自分の好みではないなぁ」と思うくらいなものである。

 

しかしそれをネットに書くとしたらどうだろう。食べログのようなレビューサイトに一言書くとしたら。

そうなればわたしたちは、それが「いい」のか「悪い」のかで判断しようとする。

好みの味でなければ「悪い」になるし、食べたいものがメニューにまったくなければ、これまた「悪い」評価になる。

そして「接客は星いくつ? インテリアは? 清潔感は?」とどんどん評価者の目線になり、しまいには「ああしろこうしろ」と要求したくなる。

 

「ごちそうさまでした」と頭を下げる礼儀正しい消費者だったはずなのに、ネット世界にアクセスした瞬間、偉そうな批評家になってしまうのだ。

 

もちろん、いろんな意見をぶつけ合うこと自体は健全だし、自分の意見を気軽に書けるのがネットの良さであることは重々承知している。批判や評価することが悪いわけではない。

しかし、「自分は選ぶ側の人間である」と強く思いこむことは、感謝を忘れた傲慢な消費者に成り下がるということであり、自分が偉い人間だと錯覚し、あれこれと要求を突きつけるのが当然の権利だと思い込んでしまうことでもある。

 

ネットユーザーの大半はコンテンツやサービスを享受している立場なのに、「自分は評価する側だ」と傲慢にしてしまうのがインターネットの力。いやはや、恐ろしい。

 

あえて思い出すべき「感謝」

ネットを使うのであれば、「あえて」感謝をするように意識しないと、偉そうな批評家として評価する傲慢な消費者でしかなくなってしまう。自分が恩恵に預かっている立場だなんて思わず、偉そうにどんどん要求していくだけのクレーマーになってしまう。

そう思うと、ちょっとぞっとした。

 

「ありがとう」と「ごめんなさい」は人間として忘れちゃいけない感情のはずなのに、ネットに入り浸っていると、かんたんにその感謝の気持ちを忘れてしまうのだから。

 

繰り返すが、批評が悪いわけではない。わたしはこれからも、ああだこうだとネットで発信をするだろう。

ただ、それを当然の権利のように思い、自分が判断「してやっている」側だと思いこまないようにしたい、という話だ。

 

たまには「自分は恩恵に預かっている立場である」ということをあえて思い出して、「いいモノをありがとう、楽しかったよ、これからも応援しています」なんて、打つのに10秒とかからない一言を添えるように気をつけていきたい。

 

それを意識することで、傲慢な批評家にならず、謙虚で礼儀正しい消費者でいられるのだろうから。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Pedro Alves)

「ライターになりたいんです」という相談を受けた。

そう言うときには、「じゃ、書けばいいじゃないですか。読んでみたいです。フィードバックはします。」と答えることにしている。

でも、その人は何も書かなかった。

人間、そんなもんである。そして、別にそれでもいいと思う。

 

コンサルティングの現場で、「ウチの会社は、もっと新規事業をやるべきだと思うんです」という人がいた。

私は、「じゃ、あなたが手を挙げて、上長に新規事業やらせてくださいと言えばいいんじゃないですか。」と答えた。

その人は、「あ、そう、そうですよね。」と言った。

でも、その人は手を挙げなかった。

人間、そんなものである。別に、それでもいいと思う。

 

「給料が上がらない。なんともならない。」と嘆く人がいた。

私は「給料を上げてください、と上司に交渉すればいいじゃないですか。」と申し上げた。

その人は「言ったって無駄ですよ。」と言う。

私は、「では、副業でもなさったらどうですか。今はクラウドソーシングもありますよ。」と申し上げた。

その人は「いやー、時間がなくて。」という。

私は、「では、給料の高いところへ転職なさっては?」と申し上げた。

その人は「そうですね」と言った。

でも、その人は結局、何もしなかった。人間、そんなものである。

別に、それでもいいと思う。

 

「本を読む時間がないんです」と言われた。

私は「携帯電話を見る時間を減らせばいいんですよ」と申し上げた。

その人は「そうですね。」と言い、「なにか面白い本はありますか?」と聞いてきた。

私はいくつか、私が面白いと思う本を教えた。

後日、「どうですか?」と聞いたら、「いやー、相変わらず暇がないんですよ」と、彼は言った。

まあ、そんなものだろう。別に、それでもいいと思う。

 

 

彼らは真に現状維持を望んでいるのだろうか。

おそらく、そうではないだろう。何かしら変えたいと望んでいるはずだ。

だが、彼らは行動しなかった。

 

リスクやら、面倒臭さやらが勝ってしまった結果なのかもしれないし、熟考した結果、「何もしない」という結論に至ったのかもしれない。

だが、明白なのは「不満はあるが、行動しない」という悪癖を、彼らが持っているということである。

 

悪癖、というとキツく聞こえるかもしれない。

だが、ここであえて悪癖、と言い切るのは、「とにかくやってみる」ということに勝る行為はないことが、科学的に証明されているからだ。

 

なぜなら、人生は「成功するから楽しい」「金を持つから楽しい」「尊敬されるから楽しい」のではない。「行動するから楽しい」のだから。

 

 

「ウェアラブルセンサー」を使って、人間の行動と幸福を解析している、ビッグデータ研究の第一人者、矢野和夫は、著書の中で驚くべき科学的事実に触れている。

それは「人の幸福度は環境にほとんど影響を受けない」という客観的事実だ。

我々は普通、結婚してよき伴侶を得たり、新しい家を購入したり、たくさんボーナスをもらったりすると、自分の幸せが向上すると思う。リュボミルスキ教授の定量的研究によれば、これらには、案外小さな効果しかない。

逆に、人間関係がこじれたり、仕事で失敗したりすると、我々は不幸になると考えている。ところが、実際にはそうでもないというのだ。人間は、我々が想像するよりはるかに短期間のうちに、よくも悪くも、これらの自分のまわりの環境要因の変化に慣れてしまうのだ。

この環境要因に含まれるものは広い。人間関係(職場、家庭、恋人他)、お金(現金だけでなく家や持ち物などの幅広い資産を含む広義のもの)、健康(病気の有無、障害の有無など)がすべて含まれる。

驚くべきことに、これら環境要因をすべて合わせても、幸せに対する影響は、全体の10%にすぎないのだ。(中略)

 

私は、この結果を知ったとき、大きな衝撃を受けた。一方で、本当だろうか、と疑った。しかし、これは大量のデータに裏付けられて慎重に統計解析された結果なのである。

私を含め、多くの人は、ここでいう「環境要因」を向上させるために日々努力している。その結果が、後ほど幸せに結びつくと信じているからだ。

しかし、データによれば、これは無駄ではないが、幸福感にはあまり効かない。我々の思い込みの部分が大きいのだ。

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人間の行動を統計的に解析すると、地位やお金、健康や人間関係と言った、環境要因は、我々の幸福にほとんど影響を与えないのである。

だから、上の人々のように「不満があっても、ほとんどの人は行動しない。」のである。

だって、慣れてしまっているから。

特に楽しくなくても、人生は続けられるのだ。

 

 

では「人生を楽しくしたい」と考えている場合はどうか。

何が人の幸福度に影響を及ぼすのかを知りたくなるだろう。

 

一つは、遺伝である。これが50%の影響がある。

脳科学者の中野信子は、「日本人は不安感情が高い人が多い」と述べているが、遺伝的に幸福を感じやすい人と、幸福を感じにくい人がいるのは事実のようだ。

ここについては、あまり介入の余地がないかもしれない。

 

だが、残りの40%については、介入可能だ。

それは何か。

一言で言うと、「人は、自分から積極的に行動を起こすと、幸福度が増す」ということだ。

自ら意図を持って何かを行うことで、人は幸福感を得る。具体的には、人に感謝を表した理、困った人を助けたり、という非常に簡単なことでもよい。

 

矢野和夫はこれについて「行動を起こした結果、成功したかが重要なのではない。行動を起こすこと自体が、人の幸せなのである。」と述べている。

 

これには思い当たるフシがある。

例えば、電車の中で思い切って、席を譲ってみると、感謝されることもあるし、感謝されないこともある。

だが、いずれにせよ、気分はとても高揚する。

「自分は主体的に何かを選び取った」という感覚は、非常に大きな幸福をもたらすのだ。

 

これは、非常に重要な科学的事実だ。

不満があるのであれば、自ら行動を起こすことで、それを幸福に変えることができる。

 

矢野和夫は「人生に幸福をもたらすテクノロジーが可能だとすれば、それは人が行動を変えることを支援するものになる」と言う。

捉え方によっては、これは人間とテクノロジーの関係にとって、新たなチャンスでもある。

上記の議論から、人生に幸福をもたらすテクノロジーが可能だとすれば、それは人が行動を変えることを支援するものになるのではないか。これは、従来のテクノロジーの役割とは大きく異なる。

従来のテクノロジーは、それまで時間や手間のかかっていた作業をコンピュータや機械で置き換えることでユーザーを便利にし、省力化することを役割としてきた。むしろ、今まで人間が行動してきたことを、行動しなくてもよくすることが、テクノロジーの役割であった。

これに対して、このハピネスのためのテクノロジーの発想は、真逆である。新たな行動を自ら起こすように、テクノロジーが支援するものになる。人が楽になる環境を提供することがハピネスを高める効果は、ハピネスの理論における環境要因の改善にあたり、最大でも全体の10%しか寄与しない。

それに対して、人が積極的に行動を起こすことを可能にすれば、40%の大きな影響を持ちうる領域だ。インパクトがまったく異なる。

先日、私は「人は、記録をつけると、行動が変わる。継続できる。人生が変わる。」という記事を書いた。

この中で、私はApple watchが、記録をつけさせることで人の行動を変える力がある、と書いたが、それはまさに、Apple watchは人を幸福にする力がある、ということでもある。

 

 

世界的ベストセラー「7つの習慣」では、第一に身につけるべき習慣を「主体性」と論じている。

これは、科学的事実とも合致する、恐るべき慧眼である。

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しかし、この話を受けて、「はいはい、主体性、主体性、知ってた」という反応をされる方もいる。

しかしそれは真の意味での主体性ではありえない。

 

なぜなら、「主体性」というのは、「知る」ものではなく、「行動する」ことでしか得られないものだからだ。

「人に言われてそうする」とか「不安なのでそうする」という、強迫観念に基づくものでもない。

 

7つの習慣には、主体性を発揮すること=自立を説明する場面に、こんなフレーズがある。

自立は私というパラダイムである。私はそれができる、私の責任だ、私は自分で結果を出す、私は選択できる、ということである。

幸福は、他人が作り出してくれるものではない。

自分が体と手を動かして選び取る、行動そのものの話なのだ。

 

なお、矢野和夫は、「幸福感」持って仕事をしている人は、そうでない人よりも、より成果を出しやすいことも、科学的に検証されていると述べている。

もちろん成功は保障はされないが、成功の確率は上がるのだ。

 

私は、どう考えても会社が全くうまく言っていないのに、やたらと楽しそうに会社をやっている経営者を、何名か知っている。

彼らが幸福であることは間違いない。

一見うまく言っていないような人が、楽しそうにしているのは、主体性を発揮できている、人生をコントロールしていると感じているからだ。

 

むかし、電通の過労死について書いたことがあった。

仕事において「裁量がない」時の精神的負担は、想像するよりも遥かに大きい。

人間はコントロールへの情熱を持ってこの世に生まれ、持ったままこの世から去っていく。

生まれてから去るまでの間にコントロールする能力を失うと、惨めな気分になり、途方に暮れ、絶望し、陰鬱になることがわかっている。死んでしまうことさえある。

いくら待遇が良くても、それにはすぐに慣れてしまう。

むしろ、主体性を発揮できてない状態では、人間は不幸にしかなれないのである。

 

何かを変えたい?

行動せよ。

幸福になりたい?

行動せよ。

その向こうにしか、求めるものは存在しない。

 

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(Photo:Bill Dickinson