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「生きづらさを抱えていた私だからこそ、生きづらいあなたに寄り添うことができます。あなたのお話を聞かせてください」

 

はぁ〜…。何だ、お前もか。お前もそっちか? 生きづらい系か。

どうしてどいつもこいつも、行き着く先は生きづらい系ビジネスなのかなぁ。

 

臨床心理士や公認心理師の資格を持っていないのに、心理カウンセラーを自称し始めた元友人の自己紹介ページを読んでいた私は、ため息と共に悪態をついた。

 

「まったく、今の世の中は生きづらい奴ばっかりだな。何でどいつもこいつも似たようなことしか言わないんだろう」

 

そう思ってしまうのは、私の観察対象が似たような女ばかりであるせいだろうか。

 

私がこれまでの人生でリアルに知り合い、興味を惹かれたり印象に残った女たちは、それぞれバックグラウンドとキャラクターに違いがあった。

一見すると共通点は無さそうなのに、彼女たちの人生をじっくりと年単位で追いかけていると、どういう訳だか全員が同じ道を辿り始める不思議な現象に名前をつけたい。

 

彼女たちは承認欲求が強く、自信家で、自分の活躍ぶりを周囲にアピールするのが好きだ。けれど実際には大した能力も実績もないので、次第にボロが出始める。

人生が思い通りにならないので神仏に縋りたくなるのか、あるいは判断力がないために重要な決断を全て「天の声」頼みにしようとするせいなのか、彼女たちは次第にスピリチュアルに傾倒し始め、様々な占いにも凝っていく。

そしてしばらくすると、「運命に背中を押された」と言って起業するのがお決まりのパターンだった。

 

起業すると言っても株式会社ではない。個人事業主か、せいぜい一般社団法人だ。

彼女たちの売り物はヒーリングセラピーやカウンセリングで、看板文句は判で押したようにみんな同じ。

 

「私は生きづらさに悩んだからこそ、生きづらい人たちの手助けがしたい。自分もそうだったからこそ、理解されず孤独に苦しんでいる方々に寄り添いたいのです」

 

あぁ、既視感、既視感。見たことあるやつ。何かもっとオリジナリティーのあるセリフが言える人はいないの?

 

と思ってしまう。

彼女たちは「生きづらさ」をまるで専売特許のように使うけれど、そもそも生きてることが辛くない人なんて居るのだろうか。

 

いかに生きづらい人が世の中に溢れていようと、生きづらい人の相談に乗りたい人たちもこれほど大勢居たら、市場は真っ赤っかのレッドオーシャンだなと笑ってしまう。

しかも、悩める人の相談窓口なら国や自治体が無料で用意している中で、元友人は有料で相談を受けようと言うのだ。

 

彼女が設定している30分3500円の料金が高いのか安いのかはよく分からないが、例え100円でも料金を取るのであれば、利用者が満足感を得られなければサービスとして成り立たない。

何らかの専門知識を持ち、特定の悩みに対して的確なアドバイスができるなら相談が有料になるのも納得だが、彼女の場合はただ話を聞くだけだ。

 

「ご相談はZOOMを使用します。あなたのお話を否定せず、お気持ちに寄り添って伺います。必要であれば、私の体験もお話しします」

 

対面せず、診断も助言もなく、ただ傾聴するだけ。これでお金が取れると思っているなら見通しが甘い。

もちろん、否定されずに話を聞いてもらいたいという需要は存在する。けれど、人は形ないものにお金を払うことに抵抗を感じる生き物でもある。

 

だから「傾聴と寄り添い」を生業とする人たちは、客に居場所となる空間を提供し、愚痴の聞き役になることや相談相手になること自体は無料にして、物やサービスを販売している。客商売とはそういうものだ。

 

「私は嘘が嫌いです。相手をその瞬間だけ良い気分にさせるために、言葉をオブラートに包んでその場を凌ぎたくありません。なぜなら私自身が、本心ではない、うわべだけの言葉で傷つき、人間不信になった経験があるからです。

だからこそ、誰も面と向かってあなたに言わないことを、ビシッとあなたに伝えます」

 

やれやれ。10年以上経ってもこの人は変わらないなぁと、乾いた笑いが漏れた。

親しく付き合っていた頃の彼女は、いつも「自分との対話」ばかりをしていて、他人を見ていなかった。周りの人をちゃんと見ようとしないから、いつまで経っても人間という生き物を理解しないのだ。

 

本当のことを指摘されて喜ぶ客など居るはずがない。それが目を背けてきた事実であれば尚更だ。

人は誰しも優しい嘘を好む。お金を払ってでも甘い言葉で騙されたいのが人間の悲しい性であり、不愉快なことを聞かされた上にお金まで取られたのでは、どんなに温厚な人でも怒り出してしまうだろう。

 

何より真実とは、己で気がつかなければ腑に落ちず、身にもならないものである。他人からの指摘は役に立ちそうでいて立たないのだ。

 

ママ友として付き合っていた頃の彼女は、「臨床心理士の資格取得を目指している」と言い、心理学の勉強をしていた。

大学主催のワークショップや短期講座に通うなどしていたが、いまだプロフィールに臨床心理士の肩書きがないところを見ると、資格取得は叶わなかったようだ。意外ではなかった。彼女が資格を得るには学歴も足りなかったが、資質にも欠けていたのだから。

 

彼女は自らが被虐待児であったことをオープンにしており、

 

「親からの暴力にあってきたからこそ、私は他人の痛みが分かる。私と同じように虐待を受け、苦しみ、傷ついた子供たちを助けたい。そのためにカウンセラーになりたいの」

 

と熱く夢を語っていた。

しかし、そこには欺瞞があった。彼女は青少年専用のホットラインの相談員を「修行のため」と言って始めたはいいが、ほんの数回通っただけで辞めてしまったのだ。

 

理由を問うと、

「あんなのバカバカしくてやってられない。ボランティアするよりも勉強した方が、カウンセラーになる近道だから」

と言い放った。

唖然とさせられたが、そこで私は気がついた。彼女は傷ついた子供たちを助けたいのではなく、傷ついた子供のままでいる自分を救いたくて心理学を学んでいるのだということに。

 

私は画面をクリックして、自己紹介ページから、彼女が得意とする相談分野についての詳細ページに移動した。

彼女の「私が経験者として話を聞けること」のラインナップは、被虐体験、職場でのハラスメント、不倫の恋、家庭内不和と離婚、片親家庭の不安、子育ての悩み、だった。

 

「あなたは一人ではありません。ありのままでいると嫌われてしまう。どうして?と私も悩んできました。そんな私を救ってくれたのは、ありのままを受け入れてくれる人たちとの出会いです。
私がお伝えしたいのは、あなたの人生はあなたが主役だということ。
他人に理解してもらえなくても、悪いのはあなたではない。だから自分を責める必要はありません。胸を張っていいのです」

 

これこそ、その場しのぎの気休めだと言えないだろうか。

自己肯定感は持たせ方を間違えると、かえって相談者を生きづらさの沼に沈める結果となる。

 

彼女自身がいい例だった。

確かに彼女が子供の頃に受けた虐待については、彼女は一切悪くない。問題と責任は100%親の側にある。

 

だが、10代から彼女を診てきたカウンセラーたちが「あなたは悪くありませんよ」と彼女に語り続け、ありのままの彼女を肯定してきた結果、彼女の自己肯定感は社会との折り合いがつかないほどいびつに成長してしまっていた。

これはカウンセリングの失敗ではないだろうか。

 

元友人は対人トラブルの絶えない人だったが、それは彼女が何かと他人を見下して高圧的な態度をとるくせに、誰かとの関係がこじれると「相手が自分に嫉妬している」と決めつけ、「私を理解しようとしない相手が悪い」と被害者ぶり、激しくなじるせいだった。そんな調子では、誰とも上手く人間関係を構築できなくて当然だ。

 

彼女の生きづらさの原因は、もはや被虐体験によるトラウマというより、パーソナリティ障害にあるのではと疑い始めた私は、彼女を全肯定するのをやめたのだ。

それまでは、「彼女には辛い過去があるのだから」と気を使うあまり、おかしいなと思うことがあっても否定せずに受け入れていた。

 

けれど、このままでは「新しいパートナーが欲しい」「仕事で認められたい」という彼女の願いが叶う見込みがないばかりか、社会からはみ出していく一方だ。

それでは彼女のためにならない。友人なのだから忠告し、軌道修正をさせなければ、と考えた当時の私はまだ若かった。

 

「人間関係が上手くいかないのは、あなたの言動にも問題があるんじゃないの?」と指摘した途端に、彼女は「裏切られた」と怒り狂い、「もう親友ではない」と絶縁宣言を叩きつけてきた。

実は、彼女が無二の親友だと評していた別のママ友も、同じ目に遭っていたのだ。

耳に痛いことを言われるたびに、彼女はそうやって親友を取り替えてきたのだろう。

 

彼女との友情が終わって10年以上経つが、今もSNSで近況を知ることはできる。

起業後に、彼女が請け負ったと公開している相談事例は、たったの10件しかない。

彼女の半生と生き様が語られているYouTube動画も、再生回数は数十回で止まっている。

 

起業したのはいいが、低空飛行が続いたのだろう。彼女が設立した一般社団法人の公式HPも、すでに削除されている。

これは彼女に限ったことではなかった。自分が生きづらいからと、生きづらい系ビジネスを始める女たちは大抵こうなる。

事業を長続きさせられず、ひっそりと消えていく例を既に何件も見てきた。

 

彼女は今回の起業が失敗に終わった理由と、生きづらさの問題の本質に向き合えるだろうか。

私はパソコン画面を見ながら、「無理だろうな」と独り言を呟いた。

彼女は自分と対話することは大好きだが、決して内省はしないのだから。

 

成功へのヒントを掴むため、彼女は最近「未来を拓く女性のための仕事塾」とやらに入ったようだ。そのセミナー主催者にすっかり心酔している様子がSNSから伺える。

 

最新の投稿には、

「素晴らしい師が、諦めなければ夢は叶うという希望と、チャレンジし続ける勇気をくれました!
自分はできる!絶対に諦めない!と、今後も自分を信じて、ブレることなくチャレンジを続けていきます!」

と、熱い想いが綴られていた。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@CrimsonSepia

Photo by Molly Blackbird

東京ディズニーリゾート(TDR)が、2021年10月1日からチケット価格を改定し、7900円~9400円の4段階の変動制を導入しました。従来の平日8200円/休日8700円の2段階の変動制に比べると、実質的な値上げとなります。

実はTDRは2021年3月にも値上げを行っており、今年2回目となります。

なぜ、TDRはこんなに強気なのでしょうか?価格設定の2つの側面から考えてみたいと思います。

 

値上げでも来場者UPの自信―カスタマーバリューの向上

まず1つ目は、継続的な価格上昇の裏にあるカスタマーバリュー(顧客価値)の向上です。

1983年の東京ディズニーランド開園時、大人用1デーパスポートは3900円でした。今回の最大価格は9400円ですので、37年間で2.4倍になったことになります。

1983年の消費者物価指数は2020年度基準で81.8と2割ほどしか物価が上がっていない(※1)ことからみても、かなりの値上げであることがわかります。

また、上昇幅を年単位で追ってみると、1983年から2014年(当時6400円)までの31年間で2500円増、2015年から現在までの6年間で3000円増とここ数年で急激にペースを上げていることが分かります。

出典:政府統計の窓口「2020年基準消費者物価指数」、オリエンタルランド「Factbook2021」を元に筆者作成

 

この値上げ要因の一つには、TDRの価格が世界的に割安であることが考えられます。

同じディズニーランドでも米フロリダ$109(約11990円)、米カリフォルニア$104(約11440円)、仏パリ€94(約12220円)、中国上海599元(約10183円)といずれも1万円以上し、日本は最安値となっています。

ユニバーサル・スタジオなど他の海外テーマパークでも$100ドル以上するところが沢山あります(※2)。(2021年10月現在。$1=110円、€1=130円、1元=17円で計算)

 

加えてより強調したい要因は、TDRがカスタマーバリュー(顧客価値)をきちんと提供できていること、すなわち強くファンに支持されていることです。

一般的には嗜好品であるテーマパークチケットは価格弾力性(価格の変動によって、ある製品の需要や供給が変化する度合いを示す数値)が高く、値上げの影響(購買数の低下)は大きいと考えるのが普通です。

 

しかし、TDRの2018年度の入園者数は3256万人を記録し、開園時(993万人)の3倍以上となっています(※3)。

これは価格の上昇率を上回り、TDRがいかに顧客に支持されているかを物語っています。

2019年(2900万人)、2020年(756万人)こそ人数を減らしていますが、これはコロナの影響で入場を制限したためであり、チケット価格上昇のせいではないことは明白です。

 

価格を上げ続け、それでも来場者数が増えているということは、TDRが価格に見合うカスタマーバリューを提供し続けてきたことの何よりの証左です。

新アトラクションの導入や季節ごとのイベント、紙吹雪ですら持って帰りたくなるほど来場者の心を掴む数々の演出など、何度でも行きたくなる場所であり続ける努力あってこその実績ですが、この実績が翻ってTDRの自信になっていることは間違いないでしょう。

 

需要を最大限吸収―ダイナミック・プライシングの細分化

そしてもう一つの側面として着目したいのが、ダイナミック・プライシング(変動価格制)の細分化です。

変動制そのものは、TDRは今年3月に平日8200円、休日8700円の2段階制で導入していますが、今回は7900円、8400円、8900円、9400円の4段階とそのメッシュを細かくしています。

 

ダイナミック・プライシング(変動価格制)とは

ダイナミック・プライシングとは、時期や曜日、時間帯などの需要変動に応じて価格が動的に変わることです。

従来から飛行機や宿泊施設など定員が決まっているサービスで利用されてきました。

最近ではスポーツ観戦や音楽ライブのチケット、高速バスの運賃などでも見られるようになり、今後、鉄道やタクシーについても導入が検討されています。

 

・サービス提供者のメリット

ダイナミック・プライシングを導入することで、価格設定者(商品やサービスの提供者)は需要をコントロールし収益増を図ることができます。

具体的には、需要が高いタイミングで価格を上げ、高くても買いたい層を最大限取り込む一方で、需要が低いタイミングでは価格を下げ、この価格なら買おうという購買意欲を刺激して、売り逃しを最小限にすることを目的とします。

これにより価格が高い時から安い時に振り向けられ、需要が平準化するという効果もあります。

 

・消費者にとってのメリット

また、消費者にとってもタイミングさえ選べば、お得に商品やサービスを享受できるというメリットが生まれます。

もちろん人気が集中する時にはこれまでより価格は上がってしまうのですが、一定価格以上払わないと手に入らなかったサービスを混雑が少ない時にお得に楽しめる選択肢ができると思えば悪い側面ばかりではありません。

 

AIが容易にしたタイムリーな価格設定

このようにメリットの多いダイナミック・プライシングですが、これまでは適切なタイミングで適切な価格を設定することは簡単ではありませんでした。

ここにきて急に導入の動きが広まっている背景にはITやAIの活用が進み、需要予測やタイムリーな価格設定が格段に容易になったことがあげられます。

テクノロジーの進化が顧客データや販売データに加え、天候や出演者の人気といったこれまで活用することのできなかった様々な条件データを素早く反映させることを可能にしているのです。

 

TDRは今回、平日/土日の一律の2段階制から一歩進めて、より細かく調整できる4段階制としました。

実際に、通常繁忙日の土日は9400円ですが、1月の土曜日は8900円(日曜日は8400円)に設定されているなど、きめ細かく配慮されていることが分かります。

メッシュが細かくなればなるほど、収益を最大に近づけることが可能になるため、TDRでもデータ活用を進め、新たな価格設定に取り組んでいることが伺えます。

 

来場者の満足度を維持しながら最大限の収益を得るために、TDRにおいて価格は非常に重要な戦略要素です。

コロナで経営が厳しい現在においてはなおさら慎重かつ大胆に取り組む必要があり、TDRの試行錯誤は想像に難くありません。

顧客の支持やIT活用に支えられ、今後もさらなる進化が見られることは間違いなく、当面はTDRのチケット価格から目が離せません。

 

 

(※1)消費者物価指数 2020年基準消費者物価指数 政府統計の窓口

Factbook2021 チケット料金の推移 株式会社オリエンタルランド

(※2)Disney Parks & Resorts ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社

(※3)入園者数データ 株式会社オリエンタルランド

<関連記事>

価格改革で企業課題を解決する—ダイナミックプライシング導入の7つのステップ

 

(執筆:松村 真美子)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

(執筆:八尾 麻理)

 

Photo by Thomas Kelley

ちょっと前に徳島からスタンフォード大学に合格した松本杏奈さんに関連してインターネット上で騒ぎが起きていた。

いわゆる徳島スタンフォード事件である。

<参考 田舎からスタンフォード大学に合格した私が身につけた 夢をつかむ力>

[amazonjs asin="B09XH1NC55" locale="JP" tmpl="Small" title="田舎からスタンフォード大学に合格した私が身につけた 夢をつかむ力"]

事の問題は事実の誤認識にあるという。

 

松本 杏奈さん曰く、自分は「味方無し」「お金無し」「英語力無し」と困難な環境にあったにも関わらず、めげずにコツコツと努力を積み重ねた結果、自分はスタンフォード大学合格という偉大な業績を叩き出せた。

 

つまり自分は努力の人であるというわけだ。

 

これに対してインターネット上では「進学校に在籍していて、裕福な家庭に産まれ育った人間が、その恵まれているという事実を無視して偉そうな事をのたまうな。」という批判が殺到した。

 

このインターネット上の主張をまとめると

 

「お前が努力だと思っているものは、努力でもなんでもない」

「単に恵まれた人間の自己賛美に過ぎない」

「自分が恵まれた人間だという事をちゃんとわきまえてからモノを言え」

 

といったところだろう。

 

恵まれた環境にいるから成功は当然?

「勝ち組の努力は努力でもなんでもない。単に生育環境が良かっただけ」

 

この手のミームは少し前からインターネット上では常識となりつつある。

有名なところだと例えば東京大学に入学する親の世帯年収は60%が950万円を超えるというものがある。

東大に合格する親の平均年収は? 子どもの偏差値と親の職業の関係 | ファイナンシャルフィールド

 

この事をもって「努力すれば誰にでもチャンスがあるだなんていうのは幻。現実的には勝負は最初から決まっている」という主張がなされるようになった。

この主張にある程度の整合性があるというのは事実だろう。

実際、自分もかつてならこのロジックで徳島スタンフォードの人を批判していたように思う。

 

だが最近になって、果たして本当に人は恵まれているからといって、そんな簡単に努力できるのだろうか?と思うようになった。

 

恵まれていたって、成長は痛い

恵まれた人間は努力できる。

 

このロジックを強く信望する人間は多い。例えばだけど、昨今流行りのジャンルに異世界転生系というものがある。

このジャンルは小説家になろうというサイトで発展したものだ。

 

有名なところだとRe:ゼロから始める異世界生活や無職転生 〜異世界行ったら本気だす〜などがある。

[amazonjs asin="B00I5BO0WA" locale="JP" tmpl="Small" title="Re:ゼロから始める異世界生活 1 (MF文庫J)"]

[amazonjs asin="B00OQ1IS30" locale="JP" tmpl="Small" title="無職転生 ~異世界行ったら本気だす~ 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)"]

これらの多くは現実世界で非業の死を遂げた人間が異世界へと転生し、チート能力を用いて第二の人生を無双するというものだ。

 

初期設定がメチャクチャに良ければ人生が物凄く上手くいくという、現代人の心の願望をそのまま反映しているかのようなこれらの作品だけど、皆があまり着目できていない点が一つある。

それは登場人物が文字通り、死ぬような目にあって辛酸を嘗めまくっているという事だ。

 

努力はただひたすらに辛い

もちろん、これらはフィクションだから主人公が悲惨な目にあっているというのはあるだろう。

その方が感情移入し、大きな困難を乗り越えた際にカタルシスを味わう事ができる。

 

単位エンターテイメントとして必要な演出をしている事に他ならない。そう指摘する人もいるだろう。

ただ自分は、この演出に人が強く共感し心動かされるのは、そこに一定の真理があるからのように思う。

 

ハッキリいうが努力は辛い。それこそ人によっては死ぬ悶えるほどに。

 

英会話もダイエットもみんなできない。やればできるはずなんだけど…

例えば英会話やダイエット。ハッキリいって、これらは日本人であれば、ほぼどこの誰でも達成可能なモノでしかない。

 

達成方法だって至ってシンプルである。

英語もダイエットも既に十分すぎるほどに情報は整備されている。

その整備された情報を用いずとも、人間に備わった機能を用いれば100%誰にでも達成可能なものである。

少なくとも特殊な才能は一つもいらない。

 

それでも日本人でこれらをやり遂げられる人間というのはそう多くはない。

圧倒的に恵まれた環境に”いた”としても、多くの人がそれらを成し遂げられない理由は実にシンプルだ。

 

”シンドくても、やり続ける”

”成功するまで、死に悶える苦しみがあっても、やり抜く”

 

このたった1つの行為をやれる人間がほとんどいないからである。

才能があって、努力する環境が整備されていて、時間があったとしても、多くの人間はこれができない。

 

恵まれていても、努力は全然ラクではない

僕が思うにだが、冒頭にあげた「勝ち組の努力は努力でもなんでもない。単に生育環境が良かっただけ」という主張をしている人達は、ひょっとして「生育環境がよかったら努力が苦しくない」という風に誤認しているのではないかと思う。

 

もちろん、世の中には特に苦労する事なく実績をキチンと出すタイプの人間も中にはいるだろう。

だが、そういう人間でも全てが万事楽勝だというわけではない。

勉強ができるからといって、恋愛も余裕でクリアできるというわけではないという事と同じだ。

 

実績をキチンと出している人間の多くはどこかで必ずシンドい思いをしている。

逆に言えば、恵まれた環境にあっても、このシンドいができないから落語者となってしまう人は、皆が思っている以上に多い。

 

例えば東京で昨今流行りの中学受験では、高学歴カップルの元に産まれたサラブレッド達がSAPIX等の大手塾に入り骨肉の争いをやっているのだが、同じような生育ならびに遺伝環境を与えられた人間がみな成功できるほどには現実は甘くはない。

 

多くの恵まれた子供たちは、ここで努力のシンドさを乗り越えられない。

どうやって努力すればいいのかの糸口すらつかめないまま、ただひたすらに成績が低空飛行し続け、両親にガミガミと怒られて心をポキンと折られる。

 

この心がポキンと折れた人間に対して「恵まれてるくせに御三家も入れないの?環境も整備されてて、遺伝子もいいのに」とのたまえる人間はさすがにいないだろう。

 

しかし徳島からスタンフォード大学に入学すると、その逆を平気で言えてしまうのだから、人間というのは実に面白いものである。

 

努力が軌道に乗るまで、長い距離がある

努力をキチンと軌道に乗せるのは非常に難しい。

みんな知っての通り、頑張ったらすぐに成果がでるだなんてのは幻だ。

 

英単語を1万語おぼえるのは超大変だけど、それをやったからといってペラペラになれるわけではない。

厳しい食事制限をして、毎日激しい運動や筋トレをしたからといって、即座にスリムになれるわけではない。

 

これらは困難な目標を達成するにあたって避けては通れない苦労ではあるが、それが実際に成果に結びつくまでには何万キロもの距離がある。

 

この苦境をどう乗り越えるか。

それが現代における最大の成功哲学だ。

最後に、そのヒントになるかもしれない話を紹介しよう。

 

自分の中に、何かがあると信じる

ランニング王国エチオピアの事を書いたランニング王国を生きるという本がある。

<参考 ランニング王国を生きる>

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この本はエジンバラ大学の文化人類学の准教授である著者マイケル・クローリーがランニング王国エチオピアでランナーとして生活し、なぜエチオピアが優秀なマラソンランナーを多数輩出するのかを探っていくものだ。

 

マラソン界において、ケニアやエチオピアといったアフリカ出身者の優秀さは突出している。

東京オリンピックで優勝したエリウド・キプチョゲ氏を始めとして、これらの地からは42キロを2時間5分以内で走り抜けるランナーが何十人もいる。

参考までに日本人でそれができる人間はたった1人だけだ。

 

このアフリカ勢の圧倒的な業績に対しては様々な分析がなされている。

走るのに理想的な生育環境や人種的に人体構造的にランニングのに向いているといった”恵まれた環境と肉体”から、アフリカ勢の圧勝を語る人も多い。

 

だが、実際にエチオピアにて生活した著者は成功がそんな甘いものではないという。

ランナーとして成功する人間は、それこそ全てを捨ててランニングに打ち込んでおり、失敗すれば全てを失う覚悟でやっているというのである。その事を象徴するのが下のシーンだ。

 

「仮にランナーとしてうまくいかなかったとしても、人生が台無しになるわけじゃない だろう。 だって、 彼はいつでも農家に戻れるんだから」

 

筆者がこう問いかけたところ、ブノワというエチオピア人はかぶりを振ってこう答える。

 

「ちがうね。二五歳の負け犬が、どうやって妻を見つけるんだ?」

「ランナーは己の中に何かがあると信じて走っている」

「だから失敗すれば、失うものはとてつもなく大きいんだ」

 

これがランナーとして生きるという事の現実なのだ。

 

己の中に背水の陣を敷く

成功できるかどうかは、やってみなければ誰にもわからない。

己の中に確かな才能があると強く信じて、毎日厳しい努力を己に課してやり抜く。

 

そうして己の中に”何かがある”と強く信じて頑張り抜いた人間が、実際に自分の中には”何もなかった”と痛感させられて、それを甘んじて受け入れられるほどには人は強くない。

努力するという事は、何も勝つという事が確約された八百長レースを走るという事ではない。

勝つかどうか全くわからないまま、ただひたすらに厳しいルートを突き進むのが努力するという事の実情だ。

 

結果、勝てば全てが報われる。だが、負けたら全てを失う。

努力するという事はそういう覚悟を持って何かを”やる”という事だ。

 

大なり小なり今までの人生で何かを成し遂げた人なら、この自意識を持ったことがあるはずだ。

冒頭の徳島スタンフォードの方も、恐らくなのだけど己の中にそういう背水の陣を敷いて戦っていたのだろうと僕は思う。

 

客観的にみれば、彼女は仮にスタンフォード大学に合格できなかったとしても、それなりの道は歩めたであろう恵まれた人間にみえるかもしれない。

けど、本人の自意識の上では多分なんだけど本当に命がけで頑張ったのだろうと思う。

それこそ負け犬として、もう二度と楽な人生は歩めないという覚悟でもって走り始めたエチオピア人ランナーのように。

 

失敗したら全てが無駄になり、負け犬として二度と這い上がれないという覚悟をもってやる。

結局のところ、本当の意味で努力するという事はそういう事なのだ。

 

どんなに恵まれた立場にいようがどんなに才能があろうが、努力が簡単に形にならないのは誰でも同じだ。

日々のコツコツが辛く厳しいという事に何も変わりはないし、失敗してたら落語者だったという綱渡りをやり遂げたという事には何も変わりはない。

だから僕は何かを成し遂げた人にはシンプルにこう言ってあげたい。

 

「よく己を信じて、最後まで頑張り抜けたね」と。どんな環境にいようが、それだけは確かな事実なのだから。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by in_case_of

はじめに

経営者が抱える悩みの一つには、経営者自身が引退するタイミングで事業をどうするかという後継者の問題があります。

特に個人事業主の場合は法人の相続とはスキームが異なる部分があるため、スムーズに事業譲渡をするためには専門的な知識を持ったアドバイザーと事業譲渡を進めていく必要があります。

事業譲渡は、その相手が親族か第三者かなどによって譲渡時の金額条件や税負担等が異なるため、正しい知識を持っていないと損をしてしまう可能性があるのです。

 

そこで今回の記事は、S&G合同会社の代表でM&Aの専門家である岩下岳さんに、個人事業主の事業譲渡にまつわる手続きや注意点について解説していただきました。

 

1.個人事業主の定義とは

個人事業主とは、法人化せずに個人として事業を営んでいる人を指します。

具体的には「〇〇商店」のように屋号だけをつけ、株式会社や合同会社といった法人格を持たずにビジネスをしているのが個人事業主です。

つまり、法人格の有無が法人と個人事業主の違いと言えるでしょう。

 

個人事業主として開業する場合、法人のように登記する必要はありませんが、税務署に「開業届」を出す必要があります。

また事業を行うにあたっては、法人と同様に各種の許認可を得ることが必要です。

例えば飲食店の場合には、飲食業の許可がそれに該当します。

 

個人事業主のメリットは、売上が少ないと税負担が少なくなることです。

金額によっては同じ売上でも法人税よりも所得税が少ないため、その分が利益として残ることになります。

しかし、法人化したほうが社会的な信用度や契約の取りやすさといった点において有利になるため、総合的なメリットは法人のほうが大きいと言えるでしょう。

 

 

2.個人事業主による事業譲渡について解説

個人事業主が事業譲渡を行う場合には三つの選択肢があります。そこで、それぞれの方法について紹介していきましょう。

 

(1)個人事業主による三つの事業譲渡とは

個人事業主による事業譲渡の方法は以下の三つです。

 

1 相続

個人事業を引退する場合や個人事業主が亡くなった場合、事業を承継する方法として考えられるのが相続です。

例えば個人事業主が亡くなった際、その子息が事業資産を相続して経営を続けることがあります。

相続税の税率は事業資産の額によっても異なり、事業を受け取る者が10%から55%の範囲で相続税を収めなければなりません。

 

2 贈与

贈与とは、従業員などの第三者に事業を譲り渡すことで、経営している事業資産を与えることになります。

贈与の場合も相続と同じように、資産の額に応じて事業を受け取る者が10%から55%の範囲で贈与税を収めなければなりません。

ただし相続税に比べて贈与税の税率が大きく、例えば事業資産が5,000万円であるとした場合、相続の税率が20%であるのに対して贈与の場合は55%の税率をかけられます。

したがって、贈与によって従業員に事業を引き継ぐのは、贈与税の支払いが多額になることからあまり現実的な選択肢ではないと言えるでしょう。

 

3 M&A

M&Aとは、第三者の会社または個人に事業を譲渡する方法です。M&Aで仲介会社等を利用する場合、事業を買収・売却するための費用が発生するものの、事業を受け取る買手に相続税や贈与税といった税金が発生しないメリットがあります。

税金面での買手の負担は、買収の代金を支払う際に発生する消費税10%のみです。

 

また、買手は、事業譲渡スキームで取得した資産及びのれんを減価償却費として、数年間のうちに経費として計上出来るため、その分その年に納める税金が安くなるメリットもあります。

 

一方、個人事業主である売手は、売却によって得た額を手に入れることが出来ますが、M&Aの場合、前述した、相続や贈与の場合に比べ、第三者が買手となり一定の金額評価をつけて買収してもらえるため、M&A後の売手の手残りを考えた場合もM&Aは売手にとっても金銭的メリットが大きいと言えるでしょう。

 

M&Aには、後継者がいないため事業を譲りたいと考えるケースや、ある程度の金額で会社を売って老後資金を貯めたいと考えるケースが多くあります。

例えば、高齢を理由に廃業したいと考える場合、相続や贈与よりもM&Aによって引退するほうが手元に残る資金が多くなるわけです。

 

3.個人事業主による事業譲渡手続きの流れ

(1)売手における手続きの流れ

M&Aを行うとした場合、まずはM&A仲介会社を選んで会社の売却を依頼します。

M&Aを仲介する会社は全国にありますが、依頼する会社によって手数料がかなり異なるため注意が必要です。

中には手数料に最低金額を設け、成約した場合に一律で2,000万円といった手数料を取る会社もあります。

自身の事業規模やその仲介会社に依頼して本当に買手がつくのかなどを検討するところからスタートしましょう。

 

M&Aの仲介会社を決定すると、その会社のアドバイザーが担当として売却までの実務をサポートします。

ここでアドバイザーに事業の概要を説明し、売却時の希望条件を伝えていきましょう。

このとき、事業の財務資料や許認可関係の資料、取引相手との契約書といった書類をすべてアドバイザーに提出します。

以降、アドバイザーは提出された資料をもとに事業の概要を示す「事業概要書」を作成し、これがまとまった上で買収希望者を見つけるための提案活動をしていきます。

 

買収希望の会社が現れたならば、売手と買手の面談を行います。面談の場で事業の説明や条件のすり合わせを行いましょう。

双方の条件がある程度まとまった時点で「基本合意契約」という仮契約を結びます。

基本合意契約は売却手続きの中間地点において行う契約で、これまでの交渉によって合意した条件を契約書に記載し、この契約を結んだ以降M&Aの成立に向けた実務に移行します。

 

基本合意契約を結ぶと、買手は財務状況や契約書関係で法的に問題がないかなどを「買収監査」によってチェックします。買収監査では買手が依頼した会計士や税理士、弁護士などが実務を行います。売手は買手やその代理人から求められた資料を提出し、インタビューに対応することになります。

 

買収監査が終わると、その結果をもって最終契約へと進みます。

事業との場合、このときに締結する契約を「事業譲渡契約」といい、最終的な契約内容を記載して手交します。

その後、事業譲渡の対価が買主から売主に支払われ、M&Aは完了となります。

M&A実行後は、適宜従業員様や取引先へM&Aの件や代表者変更の旨などを通知する事となります。

 

(2)買手における手続きの流れ

買手における手続きの流れは、基本的には個人の場合も法人の場合も同様になります。下記にて、それぞれ紹介します。

 

個人の場合

個人事業主が買手の場合、売手から事業を営む上で必要な資産のみを個人で譲り受け、その事業を承継する事となります。

例えば飲食業を買収する場合には、店舗の内装造作や設備・備品及び取引先・人材等の事業に必要な各種資産や契約を譲り受けます。

 

事業譲渡スキームにより事業を買収した場合、店舗の賃貸や従業員の雇用を継続するには改めて契約を交わさなければいけません。

また、取引先との契約変更や、細かいところではクレジットカード決済サービスの変更など様々な手続きが発生し、株式譲渡や出資持分譲渡の様な法人の譲渡と比較し、事業承継時の実務が煩雑になります。

 

法人の場合

買手が法人の場合も個人が買手の場合と同じく、事業譲渡スキームで買収する場合、上記の「①個人の場合」と同じステップを踏んで、事業を承継する事となります。

 

今回の記事では、個人事業主から事業を譲り受ける事業譲渡スキームについて、記載をしておりますが、売手が法人の場合、売手企業オーナーの保有する株式を取得して会社を買収することも可能です。

M&Aの手法には、主に、相手方の事業資産を購入して事業を運営するか、会社ごと買ってしまって事業を運営するかの二つの選択肢があります。

株式会社の場合は株式が発行されており株式の保有割合に応じて議決権が変わってきます。

会社ごとを株式譲渡スキームで買収する場合、M&A後に買手が買収した会社の過半数以上の議決権を持って運営する事も考えると、最低でも51%、一般的には100%の株を譲ってもらい、会社の支配権を持って運営することが多いでしょう。

 

株を買って事業を譲受する場合は、事業譲渡と違い、事業継続に必要な契約や許認可、従業員との雇用契約といった各種契約、銀行口座など事業を継続する上で必要な第三者との関係が包括的に承継出来ます。

事業のみを譲受するのとは異なり、株を100%買い取るだけで、今までどおりに事業を運営出来るのが特徴です。

 

事業譲渡に対して株式譲渡は契約などの再締結が不要なため、手続きの面ではスムーズです。

しかし、一方で、それまでの売手企業が締結している契約等を包括的にすべて引き受けることになり、第三者との間において、法的リスクのある契約や将来的に負債となるような契約を結んでいないかなどの点は、買収監査時に細かくチェックする必要があります。

 

例えば、第三者との契約を解除する際に、多額の違約金が発生するような契約を結んでいたり、会社の代表者が会社の資産を担保に借り入れをしていたりといった将来的なリスクが隠れている場合があるため、買収監査の段階で入念にチェックしておきましょう。

このほかにも、反社会的な組織との取引があった場合も社会的な信用を失うことになるため注意が必要です。

 

こういった将来的なリスクを考えると、資産を買い取るだけの事業譲渡のほうが手間はかかるものの、契約や債権債務の承継によるリスクは少ないと言えるでしょう。

 

4.個人事業主が事業譲渡する場合の税金について解説

個人事業主が事業を譲渡する場合、どれだけの税金がかかるかを確認しておきましょう。

 

(1)相続と贈与の場合

前述したとおり、相続と贈与の場合には相続税と贈与税が発生します。

税率は10%から55%の間で金額に応じた税金がかかることになっています(別途、基礎控除額あり)。

相続税の税率は1,000万円以下で10%、5,000万円以下で20%、2億円以下では40%となっており、最高は6億円以上の55%です。

 

一方の贈与税は、相続人と被相続人の関係によって「一般贈与」と「特別贈与」の2種類に区別されます。

「一般贈与」とは夫婦間の贈与や兄弟間の贈与、あるいは親から20歳未満の子への贈与をいい、親から20歳以上の子への贈与は「特別贈与」となります。

特別贈与の場合、600~1,000万円以下の贈与で30%の税率、4,500万円以上では55%の税率がかかることになるのです。

相続よりも贈与の税額が明らかに高くなることが分かるでしょう。

 

(2)M&Aの場合

例えば、個人事業主が事業譲渡をした場合、事業を売却して得たお金が譲渡所得とされ、その譲渡益に対して、所得税の課税が発生します(譲渡資産によって総合課税・分離課税あり)。

 

一方、売手が個人事業主でなく、法人の場合は、事業の売却益に対して、法人税等(約34%)の課税が発生します。

その他、ご参考までに、事業譲渡でなく、譲渡スキームが事業譲渡ではなく、株式譲渡などの法人の譲渡の場合、株式を売った金額から資本金や売却時に要した経費等を差し引いた売却益に対し、利益の額に関わらず、一律20.315%が課税されます。特に、売却金額が大きい場合には、株式譲渡等の法人ごとの譲渡の方が売手の手元に残る金額は大きくなるでしょう。

 

5.個人事業主が事業譲渡する場合の四つの注意点

個人事業主が事業譲渡する場合、どのような点に注意すべきかを解説していきます。

 

(1)従業員の雇用について

事業譲渡の場合、買手は従業員との雇用契約を改めて結びなおす必要があります。

この場合、従業員が新しい会社に移籍せずに退職するといったリスクが考えられるでしょう。

従業員は新たな雇用主と雇用契約を締結することになるため、雇用条件や基本給が以前よりも厳しい条件になれば契約しない可能性があるわけです。そのため、買手としては注意して交渉に当たる必要があります。

ただし一般的にはM&A成立後も今までの雇用条件で働くことが出来るように配慮する会社がほとんどのため、M&Aの成立後に従業員が大量に離職するケースはその場合、あまりありません。

 

(2)取引先との関係について

個人事業主の事業譲渡では社長が変わることになるため、人間関係を元に成り立っていた取引先との関係が崩れてしまうことになります。

したがって、継続して取引出来なくなるといったリスクを負うこともあるでしょう。

特に、経営者の人柄や個人的な関係性で大手企業などと取引していた場合には、社長が変わることで取引が終了してしまう可能性があるため、取引先に対する継続契約の依頼には売主と買主が協力して臨むことが必要です。

 

飲食店などのように物件を借りているビジネスの場合、事業譲渡では、基本的に建物の賃貸借契約はそのまま承継出来ません。物件に入居するためには再度審査が必要です。

新しい会社の資産背景によっては、信用力で審査が通らずに物件を継続して利用出来ない可能性があります。

事業譲渡をする場合、売主と買主が打ち合わせをした上で「どんな条件を揃えていれば審査に通るのか」を把握し、また家主にはこれまでどおりの賃貸契約が継続出来るように依頼する作業が必要です。

 

(3)資産の引継ぎについて

資産の引き継ぎについては、買収監査の際にどんな資産を保有しているのか細かく調査する買収監査があるため、大きなリスクはないと言えるでしょう。

ただし、チェックした資産の資産性が妥当なのかはより精緻に確認する必要があります。

例えば、建物や車の減価償却が適切に処理されているかどうかなどです。

 

また、有価証券は帳簿と引渡し時点での時価が違い、基準日でいくらかを把握しておく必要があります。

賃貸をしている事業を引き継ぐ場合には、敷金や保証金の契約内容などを確認しておきましょう。

例えば、事業用の賃貸物件であれば敷金(保証金)として預け入れている金額500万円とした場合、そのまま全額戻ってくることもありますが、賃貸借契約内容によっては原状回復をしたとしても、敷金(保証金)の20%が償却される金額として、はじめから返ってこないケースなども多いです。

 

その場合、帳簿に敷金が500万円と記載されていても実際には400万円しか返ってこない可能性があるため、敷金などの保証金は償却がないかどうかを確認しておく必要があるでしょう。

ほかにも、帳簿に載っている金額が金庫やレジに現金として、あるいは通帳に実際にあるかどうかのチェックも必要です。

もしかするとレジや金庫の現金が使い込まれている可能性があるため、調査はより精緻に行うのがよいでしょう。

 

資産を引き継ぐ際には負債を引き継ぐ可能性もあります。銀行からの借入であれば、返済計画表を見るとどの程度の借金で毎月の返済額がどの程度かがわかります。

しかし、金融機関以外の例えば役員や従業員、親戚などから借入している場合には、どういった計画で返済することになっているかを注意して確認すべきです。

 

(4)自己破産のタイミングについて

事業を辞めるにあたって自己破産をするかM&Aをするかの二者択一で考えた場合、M&Aは純資産の金額がプラスでないと売りづらいと言えます。売上や利益が減少しているのであれば、債務超過にならないうちに売却を考えるべきです。

債務超過となっている会社の場合でも、損益計算書で利益が出ていれば売れる可能性はあります。

利益さえあれば売却の確率はぐっと高まりますが、債務超過かつ利益が出ていない状態でM&Aの依頼をいただいても成立するのは、これまでご依頼いただいた会社のうち平均で3割程度です。

債務超過で赤字の場合は、M&A出来ずに自己破産になる割合が多くなってしまうのが現状です。

 

6.個人事業を有利に売却するための四つの方法

個人事業を売却する場合、有利に売却するための方法があります。その方法を紹介していきましょう。

 

(1)収益に関する数値を整理する

M&Aをより高い金額で成立させるためには、資産価値と利益を把握することが重要です。

個人事業主は節税のために事業には関係のない経費を計上していることが多いため、純粋な利益や経費の額を把握していない場合があります。

売却の前には実態に沿った事業の利益額がいくらになるかを計算しておきましょう。

 

(2)事業内容について正確に伝える

M&Aでは異業種が異業種を買うケースも多いため、業界やビジネスの内容について全く知らない人でも事業内容が理解出来るような説明に心がけましょう。

M&A仲介会社に依頼している場合にはアドバイザーが事前に売手から事業や財務についてヒアリングの上、買手に提案する際に用いる概要書を作成します。

アドバイザーが作成した資料を業界や会社のことを全く知らない人が見ても理解出来る内容になっているかなどもチェックしておきましょう。

 

(3)優秀な従業員を確保しておく

個人事業主や小さな会社の場合、社長のリーダーシップでビジネスが成り立っているケースが多いものです。

社長が全ての事業を取り仕切っており、社長が抜けることで事業が立ち行かなくなるようであれば、1年〜3年先を見据えてマネージャーを育てておくこともM&Aにおいては重要です。

会社を売却しても事業が継続するように、優秀な従業員の確保や育成を意識しておきましょう。

 

(4)シナジー効果の得られる相手先を選ぶ

M&Aにおいて多くの会社が期待しているのは相乗効果です。

相乗効果が見込める会社とM&Aをすれば、その後に売上の増加が見込めるため、売手と買手のどちらにも良い影響をもたらします。

 

シナジーの具体的な例として「垂直統合」などが挙げられます。

垂直統合とは、ビジネスの川上から川下を一つの会社がまとめて行うという概念です。

例えば、物販をしている会社が販売する製品を仕入れる商社を買収すると、仕入れにかかるコストを軽減出来ます。

また、さらに川上のメーカーを買収すると自社ブランドを展開出来るようになるでしょう。

このように、一つのビジネスの商流全てを自社で完結させるのが垂直統合です。

したがって、M&Aでは垂直統合に繋がる相手を選ぶとシナジーを得やすいと言えるでしょう。

 

7.事業譲渡に活用したい事業承継税制について解説

最後に、事業譲渡に活用出来る事業承継税制について解説していきます。

 

(1)そもそも事業承継税制とは?

事業承継税制とは、経営者が自分の会社を親族に承継する際の相続税や第三者に事業を譲渡する場合の贈与税が一定期間免除される制度です。

その上、先代の事業主が亡くなった場合には納税が免除される実質的な納税の免除制度です。

以前は法人格を持つ事業主のみが事業承継税制の対象でしたが、令和元年に「個人版事業承継税制」が創設されたことで、個人事業主にも事業承継を行う場合の減免措置が適用されるようになりました。

 

(2)事業承継税制の利用に必要な三つの条件

事業承継税制を利用する場合、次の三つの条件をクリアしている必要があります。それぞれの条件を紹介していきましょう。

 

①特定事業用資産の取得であること

まずは制度の対象が「特定事業用資産」であることを押さえておきましょう。

特定事業用資産とは、先代事業者が事業をするために取得した資産のことで、宅地・建物や減価償却資産が対象です。

特定事業用資産として申告するためには、あらかじめ前年分の事業所得に係る青色申告書の貸借対照表に計上しておく必要があります。

 

②後継者要件を満たすこと

二つ目の条件は、「後継者要件」を満たすことです。後継者要件には以下の5点が挙げられます。

 

・経営承継円滑化法の認定を受けていること
・相続開始の直前に対象となる事業に従事していること(先代事業者が60歳未満で死亡した場合を除く)
・開業届出書を提出し、青色申告の承認を受けていること
・特定事業用資産に係る事業が資産管理事業または性風俗関連特殊営業に該当しないこと
・先代事業者等から相続等により財産を取得した者が、特定事業用宅地等について小規模宅地等の特例の適用を受けていないこと

 

③先代経営者要件を満たすこと

事業承継税制を利用する場合、先代経営者も「先代経営者要件」を満たす必要があります。主な要件は以下のとおりです。

 

【被相続人が先代事業者である場合】

相続開始の日の属する年、その前年及びその前々年の確定申告書を青色申告書により提出していること

 

【被相続人が先代事業者以外の場合】

・ 先代事業者の相続開始又は贈与の直前において、先代事業者と生計を一にする親族であること
・ 先代事業者からの贈与又は相続後に開始した相続に係る被相続人であること

 

以上、事業承継税制を利用するためにはいくつかの条件があるため、適用を考えている場合にはこれらの条件をしっかりと確認しておきましょう。

 

8.まとめ

今回は個人事業主が事業譲渡を行う場合の方法にフォーカスして解説しました。

個人事業主が事業承継を行う場合、贈与や相続だけではなくM&Aによる事業の売却も有効な方法です。

特に後継者がいない場合や老後の生活資金が必要な場合には、相続や贈与よりもM&Aのほうが手元に残る資金も多くなるため、圧倒的に有利と言えるでしょう。

 

事業を売却する場合には、成約確率、金額妥当性や相場を熟知した上での売却金額決定(より多くの売却資金確保)、スムーズな売却交渉と調整が可能といった観点からも、M&A仲介会社を利用して売却を進めるのが最も効率的でM&Aの成功率も高くなります。

自社の業界や事業規模に合わせたM&A仲介会社を選択し、アドバイザーとともに事業譲渡をスムーズに進めていきましょう。

 

(話者:S&G合同会社 代表 岩下 岳

※本記事は、「株式会社リクルート 事業承継総合センター」からの転載です。

 

 

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■著書プロフィール

株式会社リクルート 事業承継総合センター

㈱リクルートが運営する「M&A仲介会社・買手企業の比較サービス」です。

弊社品質基準を見たす仲介会社50社、買手企業17,000社以上の中から、売手企業様に最適なパートナーを、着手金無、業界最低水準の成果報酬でご紹介します。

事業承継及びM&Aに関するコンテンツを中心にお届けします。

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「意識をコンピュータに保存し永遠に生きることは可能か?」

 

この問いを投げかけられたら、あなたはどう答えるだろう。

わたしなら、「無理でしょ」と即答する。

 

いやだって、記憶や人格をすべてデータ化するなんて、さすがにドラえもんでもいなきゃ不可能だよ。だから、「無理」。

でもそうやって答えを出すのは、「考えてない」人の思考回路なのだと気がついた。

 

「意識を保存して永遠に生きられるか」に対する答えの衝撃

この問いはもともと、『Kannst du dein Bewusstsein auf einem Computer speichern und ewig leben?』というドイツ語の動画のタイトルを、わたしが訳したものだ。

このタイトルを見たとき、わたしは上記の理由で「無理でしょ」と思った。そして「無理」を前提にこの動画を開いてみたわけだが……

 

なんということだ!!

 

思わず「これ絶対記事にする! 読まれるかどうかわかんないけど書きたい!!」と即座にノートパソコンを起動するくらいテンションが上がった!

 

それはなぜか?

 

わたしはこういった分野に詳しくないので、ドイツ語→日本語訳に少し自信がないのだが、ざっくりいうと動画の内容はこんな感じだ。

・「意識」というものの定義はむずかしいが、3つの側面から考えることができる

・物理主義:意識は脳にあることを前提に、脳の仕組みを解明する

・スキャン:脳のはたらきをコピーして完全模倣する

・計算:寸分の狂いもなく、精神活動を計算して再現する

 

さらに動画では、どれだけの細胞が脳内でどれくらいの速度で活動しているか、脳を25000枚にスライスしてそれをデータ化するのにどれだけの時間と容量が必要になるのか、などにも言及。

 

「な、なるほどそういう考え方もあったのか……!」

わたしは目を見張った。

 

自分に問い直すことではじめて「考える」ことになる

わたしが衝撃を受けたのは、動画の内容そのものではない。

「ひとつの問いに対しいくつかの方法を提示し、それぞれが可能かどうかを検証したうえで答えを導く」という動画の構成に、だ。

 

「それがなに?」と思うかもしれないが、まぁ聞いてほしい。

あなたが記事の冒頭で、「意識をコンピュータに保存し永遠に生きることは可能か?」と問いかけられたとき、「この方法では無理だけど、別の方法なら可能かもしれない」だなんて、考えただろうか?

わたしみたいに、「〇〇じゃ無理だから不可能」と、安易に答えを出さなかったか?

 

わたしは、意識をデータ化して保存、コンピュータに移し替えるという方法だけしか考えていなかった。

でも動画で上げられているように、「計算式に起こしてコンピュータに計算させて再現する」という方法だってありうるわけで。

そんなの、考えてもみなかったよ!

 

自分がパッと思いつく範囲に答えがあることを前提に、「だからこうだ」と結論を出すのは、ちゃんと考えていない人の思考回路……ざっくりいえば脊髄反射である。

 

「考える人」であったのなら、「Aの方法じゃ無理だからそれは不可能だ」と考えたあと、「じゃあBの方法なら可能か?」「思い切ってCの方法はどうだ?」と、別の可能性を模索するはずだ。

 

自分の意見を出したうえで「ほかの視点ではどうか」と問い直して、より正解に近づくために試行錯誤する。

 

それこそが、「考える」ことなんだ。

それに気づき、わたしは衝撃を受けた。

 

ひとつの視点にとらわれないことで見えてくるもの

いままでわたしは、「考える」とは「自分の意見を持つこと」だと思っていた。

 

でも、そうじゃなかったのだ。

自分の意見をいうだけなら、考えずともできる。

他人の意見に乗っかってイエスマンしたり、「気に入らないから不可」と拒否したりすることだって、「自分の意見」として成立するからね。

 

でもそうじゃなくて、「こう思ったけどそうじゃないかもしれない」と、自分の意見を一度捨てて別の視点から可能性を模索することが、「考える」ってことなのだろう。

 

そんなことを思ったとき、ちょうどタイムリーな本と出会った。

『知的複眼思考法』というタイトルだ。

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複眼思考とは、複数の視点を自由に行き来することで、ひとつの視点にとらわれない相対化の思考法といってもいいでしょう。

先ほど紹介した動画でわたしが思ったのは、まさにこれ。

もっとかんたんにいえば、「自分の意見に固執せずちがう角度から検討すること」とでもいおうか。

それこそが、「考える」うえで大切なのだ。

 

「正解を探す」思考回路の落とし穴

しかしわたしたちは、柔軟に考えるべきだと頭ではわかっているのに、冒頭のわたしのように、「意識をデータ化するなんて無理だから不可能だ」と安易に答えを出してしまう。

 

それはきっと、「ただひとつの揺るがない答えがある」という前提で考えているからだ。

答えを知ることと、考えることとの違いをはっきりさせないまま、正しい答えさえ知っていればそれでいいんだという、「正解信仰」が根強くあるからでしょう。

この正解探しの発想の裏返しが、「勉強不足症候群」とでも呼べるケースです。議論をしていてわからないことがあると、「よく勉強していないのでわかりません」と弁解する学生がいます。

自分でわからないことにぶつかると、勉強不足・知識不足だと感じてしまうのです。(……)

「知らないから、わからない」という勉強不足症候群の症状は、正解がどこかに書かれているのを見つければ、それでわかったことになるという正解信仰の裏返しです。そして、この正解信仰を突き詰めてしまうと、「唯一の正解」を求める、かたくなで原理主義的な態度にもつながってしまいます。(……)

そうした正解を求める態度は、複眼思考とは対極にある考えかたといってもよいでしょう。

出典:『知的複眼思考』

「唯一絶対の正解がある」という前提であれば、自分のなかで答えが出た時点で、「それこそが正しい」と思い込んでしまう。

すると、それに固執するし、他人の意見も聞き入れられなくなってしまう。

 

ましてや、「ほかの答えもあるんじゃないか」と検討するなんて、するわけがない。

これこそが、わたしもとらわれていた、「考える」ことを邪魔する固定概念なのだ。

 

あいまいなことばを排除すると考えの精度が上がる

では「唯一の正解がある」と思い込んでいる人が、「自分の考えにとらわれずちがう可能性を模索する」ためには、どういう「考え方」をすればいいのだろう。

 

『知的複眼思考』ではいくつかの例が挙げられているが、そのなかでも一番納得感があったのが、「禁止語」という方法だ。

議論するとき、わたしたちは抽象的な概念を、わかった気になって使ってしまうことが多い。

たとえば、「偏差値教育」「地域開発」「人権」「報道の自由」などなど。

 

そういったことばを禁止して別のことばに置き換えて考えてみよう、というのが、「禁止語」ルールだ。

「意識をコンピュータに保存し永遠に生きることは可能か?」という問いであれば、「意識」を別のことばに言い換えてみる。

たとえば、「記憶」「性格」「性質」「思考回路」と。

 

そうやって解釈を変えてみると、問いに対する答えもしぜんと変わってくる。

「記憶をコンピュータに保存する」のであれば、極論、いままで見聞きしたものをすべて録音・録画すれば、ある程度可能かもしれない。

 

一方で、「性格をコンピュータに保存する」となると、また話は別だ。

性格を「感情の動き方」と捉えるのか、「趣味嗜好」と定義するのか……。

 

感情の動き方であれば、頭にコードをつけていろんなパターンで脳派?かなんかを読み込めば、多少は再現可能かもしれない。

でも趣味嗜好となると……うーん、どうだろう?

 

最初は「意識をデータ化するのは無理だから不可能」と断言したわたしだけど、「意識」ということばを禁止語にするだけで、「この場合こうで、こっちの場合はもしかしたら……」と、いくつもの可能性を見出すことができる。

あいまいなことばをいろんな定義・解釈でとらえてみるだけで、ちゃんと「考えられる」ようになるのだ。

 

いろんな角度から問い直すことで「考え」は深まる

おもしろいことに、まったく別の本で、似たような趣旨の記述を見つけた。

『AI時代に生きる数学力の鍛え方』という本だ。

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多くの学生に質問してきて悟ったことのひとつに、出発点としての用語の定義や意味を尋ねたときの反応によって、しばしば学生の論述力を窺い知ることができる、ということがある。論述力の弱い学生は、あまり定義の意味を確認しないで、そのことばの持つ”雰囲気”だけで議論する傾向があるようだ。

「なにについて考えるのか」をハッキリさせずに答えを出そうとする姿勢では、どうしても考えが弱くなってしまう。

明らかにすべき問いの意味をちゃんと把握できていないのだから、そりゃ答えもふわっとするよね。

でもこれ、日常的にやっちゃうんだよなぁ。

 

「意識をコンピュータに保存し永遠に生きることは可能か?」と聞かれたとき、まず最初に「意識とはなにか」なんて、定義しようとしなかったもの。

「意識」というあいまいなことばを理解した気になって、「それは無理だ」なんて言ってしまった。

 

そういう「雰囲気だけの議論」をしないように、目の前の問いを理解することからはじめるのが大切なのだ。

そこがあいまいだと、いくら考えたって、考えた気になるだけだから。

 

これは哲学的な話ではなくて、人間関係や仕事、家庭などどのケースでもいえると思う。

「苦手な上司との関係性をよくする」といっても、二人きりで気まずくない程度にするのかサシ飲みに行く程度を目指すのかでは、まったくちがう。

「売上を上げる」といっても、リピーターを増やすのか客単価を上げるのかでは、話が変わる。

「家事を分担する」といっても、洗濯やごみ捨てを担当制にするのと名もなき家事を積極的にするのでは、意味が異なる。

 

ほかにも、たとえば「あの人は自分と意見がちがうからまちがっている」と否定する前に、「なぜあの人はそう考えたんだろう」「自分とはちがう立場で話しているんじゃないか」と想像してみれば、お互い理解しあえるかもしれない。

 

まずは、わかった気になっている目の前のテーマを、ちゃんと定義すること。

それによって答えを導き、しかし一旦わきに置いて「ちがう角度からはどう見えるか」を自分に問い直すこと。

 

それが「考える」ということであり、それによって議論が成り立ったり、相手の言いたいことを理解したり、自分の意見を論理的に組み立てたりができるようになるのだと思う。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Kenny Eliason

皆さんは、名医の条件といってどんなものを連想しますか。

 

大昔の漫画なら、めちゃくちゃ手術の上手なドクター、何でも治療できるドクターが名医ってことになったのでしょう。

もちろんそんなスーパーマンみたいな医者はいないのですけれど。

 

患者さんに誠実であることや、最新の知識や知見に通じていることを名医の条件として挙げるかたもいらっしゃるでしょう。どちらもすごく大切ですよね。

また、日本のように医療と制度が密接に結びついた国では、制度を詳しく知っていて、患者さんにそれをガイドできることも名医の条件のひとつかもしれません。

 

そうした諸々をあらかじめ断っておいたうえで、今回は、私がしばしば見かけるタイプの名医について今回は紹介します。

なお、諸般の事情により、今回はいろいろとお話を盛ってフィクション性を高めていることをあらかじめお断りしておきます。

 

「わからん」から紹介状をどしどし書くD先生

ここでは仮に、D先生としておきましょうか。D先生は結構有名な大学の医学部を出て、結構すごい研究業績をあげた、アカデミアでは一流のお医者さんでした。

しかしアカデミアで一流であることが、患者さんへの治療で一流とは限らないのも医者の世界。

街の病院に転勤してからのD先生は、「自分は現場の医療、ようわからん」とイントネーションにくせのある関西弁でたびたびおっしゃっていたのでした。

 

でもってこれもアカデミアで一流のお医者さんが時々おっしゃることですが、D先生には「苦手な病気」がいくつかあるのでした。

てんかんの治療には大変詳しく、これは、名医と呼べる領域で間違いように思われるのですが、ASDやADHDといった発達障害や種々の認知症についてはとりわけ苦手だ、とこぼしてらっしゃいました。

もちろんそれらを全く診ないわけではないのですが、それらの患者さんは最初しばらく診た後、どこかの段階でよその病院やドクターに紹介してしまいます。だから彼のもうひとつの口癖は、

 

「あかんあかん。紹介紹介。」だったのでした。

 

だからといって、患者さんが減るかといえばそうでもなく。

てんかんの治療の第一人者として、患者さんを紹介するぶんだけ紹介されて、あっちこっちから患者さんを引き受けてもいらっしゃったのでした。

 

誰に依頼すれば良いのかわかっている人が名医

では、このD先生は「あかん」お医者さんなのでしょうか。

私には、到底そうは思えません。

 

第一に、第一人者と言えるほどの専門領域があって、そこでは縦横無尽に活躍する。

これだけでも名医の条件と言って良い気がします。

少なくとも、他の多くのドクターに解決できない問題をD先生ならば解決できる、そんな領域があるのは間違いありません。

 

でもって第二に、こちらも私は重要だと思うのですが、D先生は自分の「苦手な病気」をよく心得て、誰に紹介すれば患者さんがよく診てもらえるのかを熟知していました。

これも、名医の条件としてプライオリティが高くないですか。

 

どこの業界もそうでしょうけど、いまどきは専門性が高くなり、あらゆる問題をたった独りで解決できる人はなかなかいません。

医療の世界もそうで、手塚治虫の『ブラックジャック』のような名医を夢見る余地はなくなった、と言えるでしょう。

 

ですがブラックジャックにはなれなくても、D先生にはなれるかもしれないのです。

そのためには、自分が得意としている領域がどこで、自分が苦手としている領域がどこかを知悉していなければなりません。

それだけでなく、自分が苦手としている領域のうち、A病は誰に依頼するのが望ましいのか、B病なら誰に任せればうまく解決してくれるのか、そこまで知っていなければなりません。

 

……ということは、名医の条件のひとつとして“地元の同業者コミュニティによく通じていること”を挙げても良いのではないでしょうか。

 

自分の得手不得手を知っているだけでは、まだ足りないのです。

自分の手に負えない患者さんや病気をどこの誰に紹介するのが適切なのか、これをよく知っていなければ、ただの選り好みの激しい医者、ただの苦手の多い医者ってことになってしまうでしょう。

 

コミュニケーションができて、後光が差している人が名医

さて、自分の得手不得手を知り、手に負えない患者さんの紹介先を知っていても、それでもまだちょっと足りません。

D先生には、それらに加えてコミュニケーションの地盤があります。

これも名医の条件のひとつをなしていると思うので、それについても書きます。

 

D先生の紹介状はいまどき珍しい手書きで、字がちょっと汚いのですが、内容はしっかりしていて礼儀正しく、丁寧です。

そうした紹介状をお書きになるのに加えて、地元の同業者コミュニティの会合に頻繁に顔を出し、顔と名前が通っています。

今は新型コロナウイルスの影響で自粛モードになっていますが、もともと、研究会や懇親会や医師会の集まりなどにも足しげく出席し、自分が紹介する/される地域の先生がたと顔パス状態になってらっしゃいました。

 

そうした顔パス状態に加えて、急ぎの相談がある時には電話をかけてきて、これが急ぐべき案件かどうか尋ねたりもします。

顔パス同士の間柄で、電話でこと細かに事情を説明できるのは、医者なら誰でもできることのようで、案外そうとも限りません。

地域連携室やソーシャルワーカーや医療事務の皆さんの力を借りてなお、この、電話でこと細かに事情を説明するのがうまくない医者は案外いたりするものです。私も、正直そこまで得意ではないと自認しています。

この点において、D先生のコミュニケーション能力はきわめて高い、といわざるを得ません。

 

でもってD先生のコミュニケーション能力の高さのさらに背景には、D先生の威光というか後光というか、オーソリティー性も一役買っているのではないか、と私は推測しています。

 

なにしろD先生はアカデミックの第一線で活躍されたお医者さんなのです。

その威光というか後光というかは、D先生が謙遜している時でも現れ出るのです。医者の世界では、アカデミアの第一線で活躍していた来歴はリスペクトの対象になりますし、D先生の場合、そのうえで素の話術の巧みさや人徳、年の功まで加わっているのですからまさに鬼に金棒です。

 

要は、D先生って地域の医療コミュニティの間ではちょっとしたカリスマ的存在なんですよね(地域の患者さんの間では、ちっともそうではありませんが)。

ちょっとしたカリスマ的存在だから、他の先生との連携がうまくいく確率も高く、他の先生に診てもらいたいと思った時にツーカーでそれを成し遂げてしまう。

それでいて慎み深く、自分の力量や得手不得手まで知っている。こうやって挙げてみると、D先生やっぱり名医ですね。やばすぎです。

 

自分の専攻領域にかけては天下無双、そうでない病気については手に負えないとみるや、最適なドクターに紹介するコネというかコミュ力というかを持ちあわせているD先生こそ、ブラックジャック無き現実の医療世界において、名医の称号に最も近い存在ではないでしょうか。

 

このお話はフィクションですが事実無根ではありません

なお、冒頭で断ったとおり、このD先生そのものは架空の人物であり、現実の名医を何人も合成・精製したものだとご想像ください。

 

とはいえ、このD先生の元ネタに相当するようなドクター、D先生の名医条件の7割~8割ぐらいを満たしているドクターは各方面に存在していて、専門領域の治療技術はもちろん、人望良し、コミュニケーション力良し、年の功良しの優れた先輩がたであることは断っておきます。

名医にもいろいろありますが、初診でこういうドクターに巡り合えたらとてもいいなぁと個人的には思っています。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="478161888X" locale="JP" tmpl="Small" title="健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by National Cancer Institute

おれは仕事ができない

おれは仕事ができない。その根拠は、おれが稼げていないという一点にある。

おれが赤字人間であるという一点にある。これが結論である。

 

「で、具体的にどのように仕事ができないのか?」と問われた。

これは簡単な話だ。おれの仕事っぷりを、というか、仕事のできなさっぷりをありのままに書けばいい。

ぜんぜん楽勝じゃないか。

 

……と、思ったのだが、これが書けない。

なぜ書けないのか。おれが「仕事」をわかっていないからだった。

あるいは「会社員」であるということをわかっていなかった。

だから、自分が、会社員としての理想や基準、平均と比べてどうなのか、どこが具体的にだめなのか。そういう比較がまったくできなかったのである。

 

そんな人間がいるの? いるのだからしかたない。

おれはおれが暮らしていくだけの賃金を会社員として得ていることも、また一方の確かな事実ではある。

とはいえ、おれは人生において履歴書を書いたこともないし、就職面接を受けたこともない。ただ、流されるままに、気づいたらニートから会社員になっていた。

 

その中間にはバイトだか業務委託だかなんだかわからない期間もあったが、気づいたら正社員というものになっていた。

おれはいつから自分が「会社員」なのかわかっていない。

むろん、正規の会社員といっても社員数十名以下の零細企業の底辺ではある。稼ぎもひどくひどいといっていい。

 

図書館で本をゲットする

まあ、とにかくおれは困った。困ってしまってどうしたか。「ビジネス書」というものを読んでみようかと思った。

自慢ではないが、おれは「ビジネス書」というものを生涯で一冊も読んだことがない。

それ以外の本はさぞたくさん読んでいるのだろうな? と言われるとそれも怪しいが、ともかく「ビジネス書」は未知の領域である。

 

そして、手にしたのがこの本である。

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吉越浩一郎『仕事ができる社員、できない社員』

 

これである。おれは著者の経歴も名声も知らない。出版された時期も知らない。

なにも確かめなかった。ただ、おれは「仕事ができるとはなんだろう? 仕事ができないとはなんだろう?」と悩んでいたので、これほどうってつけのタイトルの本はなかった、ということだ。

……多くの人はこのタイトルから「できる社員」を目指すのだろうが、おれは「自分ができない社員」である理由を探すのだから変な話だ。

 

この世は競争である

まず、この著者が言うには、次のような意識を持たなければいけないということだ。

世の中は競争です。
そして、その競争には勝たなくてはいけません。
そのためには、自分であらゆる機会をとらえ、勉強することが一番確実な近道です。すべてが競争であり、それがこの世の中の原理原則なのです。
このことを何度も繰り返していうのは、誰もが例外なく厳しい競争の場に置かれた立場であることを、意識してほしいと思うからです。
ここからは逃れられないのです。仕事ができる社員は、そういう精神を持って、「自分は何をしなければならないのか」を常に考えています。

いきなり、駄目である。「もっといいポジションにつきたい」、「もっと素敵な恋がしたい」、「もっとお金を稼ぎたい」、「もっと良い生活がしたい」……こういう「もっともっと」が「仕事ができる社員になるための前提条件」だという。

 

だとしたら、おれ、「仕事ができる社員向いてねえわ」と断言できる。

もっと楽がしたい、空から女の子が降ってきたらいい、万馬券が当たればいい、見知らぬ遠い親族の遺産が転がり込んでくればいい……、それがおれのスタンス。

自分が努力やなにかをして「もっともっと」を望む気持ちが、相当に薄い。

 

おれという人間のゴミクズの本性がいきなりあぶり出されてしまった。

一方で、おれがこのようなろくでもない人生を送っている理由もいきなり説明されてしまったようでもある。

おれはこの世の「もっと」に価値を置いていないし、「競争」と呼ばれるものに参加する意義を感じていない。

このような人間が、この社会で底辺を這いつくばり、食えなくなるのも当たり前といっていいだろう。なにせ、すごく優秀な経営者(Wikipediaで調べました)がそう言っているのである。

 

少しましな生活をするために、なにか勉強が努力が必要なのであれば、その時間は酒を飲みながら競馬をしたり、カープの試合を見たりしていたい。仏教や古いアナーキストの本を読んでいたい。

もう、いい。おれに努力は無理だ。生まれつきそれは、持っていない。まず、前提から駄目だ。

 

おれが理想とするのは、何もしないでそのまま死んでしまった辻潤のようなアナーキストであって、理想的な労働者とは程遠い。

おれはおれの最低限を保つために嫌々働いている。「もっと」なんて思わない。

辻潤『絶望の書・ですぺら』

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人間がイヤイヤ自分の仕事をしているということより悪いことはまずこの世の中にはありそうもないことだ。況や、単に食わんがためにイヤイヤ仕事をしなければならないなぞということは考えてみても馬鹿馬鹿しい話だ。

馬鹿馬鹿しい!

 

具体的に駄目なあたり

と、これでは、具体性に欠ける。とはいえ、先に書いたように、おれには基準がないので『仕事ができる社員、できない社員』に記されていることと照らし合わせながら検証していこうか。

 

とはいえ、この本が前提としているのは大学を卒業して大企業に入ったようなビジネスパーソンのことであって、高卒、ニート出身、就職活動なし、労働意欲なしの零細企業勤めでは環境が違いすぎるし、そもそも比較の対象にもならないゴミだということはご承知願いたい。

 

まず、「結果がすべて」ということが述べられている。「努力に満足する」のは二流という。

なるほど、ゴミなりにおれはこれに同意する。

金持ちになるには、べつに努力なんてものが反映されるわけでもない。

世の中には、生まれながらにして親やその親の財産を引き継いできたような勝ち組もいる。人を騙そうと、泣かそうと、死に追いやろうと、金を儲けた人間が勝ちである。

アフォードする能力(支払い能力)がある人間に価値がある。

 

これが、会社員となると、会社の利益のためになにをするのかというのが全てになるのだろう。が、おれは会社の利益などもあまり考えたくない。

零細企業だから、大企業などに比べてもっとひりつく問題であるのは確かだが、おれが食えなくなって餓死するようなことになるとしても、なんにもしたくないのだ。

 

バカになれる人

あるいは、スティーブ・ジョブズの例の演説を引いて、「ステイフーリッシュ」ということも述べられている。

要するに「無知無能であれ」という意味ではなく、考え方としてバカになれということでしょう。
バカになって思い切ったことをやる。
やると決めたらとにかくやり切る。
最初から格好いいことなどできっこないのだからバカになった気でやればいい、また、周りからもそういわれていいといっているのです。

これも、前提からしておれには当てはまらない。

おれは「考え方」として「無知無能」なのではなく、もとから「無知無能」なのである。

 

バカになれ、という選択肢はない。ただ「バカだ」。いや、「バカだ」ならばまだ可能性がある。だがおれは、やる気のない「バカ」なのである。なにもしたくないのである。

それは生まれ持った性格であるかもしれないし、精神障害者として、繰り返される躁鬱の波にすべてをさらわれて無気力になっているのかもしれない。その複合体かもしれない。

 

だからおれは、自分ひとり独立してなにかできる能力などはなからないし、その礎となるべきなにかを学ぶこともなかった。

 

労働するための体力

あるいは、よい労働のためにはよい健康維持、体力維持が必要という。

とにかく「いい仕事」をしたいのなら、体力を維持することが非常に重要です。身体を鍛えるために運動をしたり、健康維持のために早めに就寝し、十分な睡眠を取ることを、常に意識してください。

早寝早起きの善し悪しをいっているような人は、仕事ができない人です。

朝こそ勝負の時、らしい。

知った話か。おれは夜遅くまで連続飲酒をして、さすがにそろそろとなったら抗精神病薬と抗不安剤と睡眠導入剤を流し込んで眠りにつく。

朝は最悪だ。日中、体調がいいなんて思ったことはない。「今日は眠くならなかったな」が最低ラインだ。

幸いにして、薬を新しくしたら日中の眠気はほとんどなくなった。

 

もちろん、おれはもうすでに自分の健康を諦めている。精神疾患を発病して、障害者となり、なんにもしなかったら完全に寝込んで使い物にならない。

せいぜい薬を飲んでどうにか動ける。これ以上は求められない。求めたくもない。

 

おれにはおれができることしかする気はない。「もっと」はない。仕事をはかどらせようなんて願いはない。

意識があって、身体が動く。これがもう「勘弁してください」というラインなのだ。身体が動かないというのは、文字通り動かないということだ。

おれが抑うつ状態になったときのことを書き留めておきたい。

 

 

具体的におれはなにをやっているのか

では、そんなおれは具体的になにをやっているのか。

その説明がいるか。でも、これを詳細に説明するのは、かなり職種が限られてしまうので述べるのは難しい。

とりあえず言えるのは、ほとんど毎日オフィスの中にいるということである。オフィスの中にいて、ひたすらiMacと対峙しているということである。

使うアプリケーションはAdobe Illustrator、Photoshopがメーン。ときどき、WordPressをいじったりもする。

 

「ならば、クリエイティブな仕事なのでは?」と思う人もいるかもしれないが、それもちょっと違う。

かなりルーチンに近いことをやる。二十年くらい同じものを作っている。

ちょっと気の利いた小学六年生ならできるんじゃないか? と、自分でも思っている。

 

けれど、ある分野についての知識、あるいはその正確な知識にアクセスするための知識が求められもするし、ちょっと気の利いた小学六年生では無理かな、という気もする。

作業は簡単かもしれないが、ちょっぴり知識と当て勘がいる。

 

そして、その作業をできうる限り効率化している。

人に説明すればできるかもしれないが、それはかなり属人的なものになってしまっている。

ぼくが一番うまくガンダムを使えるんだ。

 

その他、文章を書く。文章を書くのはおれの分野ということになっている。短い文章はとくに得意だ。

校正、校閲もする。人の文章に赤を入れるのはこの上ない喜びだ。

あとは、パソコンの先生みたいなこともする。自分で言うのもなんだが、触ったこともないWindowsやネットのトラブルを初見で解決して、自分がニュータイプじゃないかと勘違いすることもある。

だれにも教わったことがないのにPHPをいじってる! やはりガンダムもうまく使えるかもしれない。

 

数字に関わることが駄目

できないことについても書いておく。

おれは数字に弱い。数学に弱いというより、算数に弱い。そのことについては以前も書いた。

 

ともかく、数字に弱い。どのくらい数字に弱いというか、数字が嫌いかというと、仕事で使用したタクシー費用の精算すら嫌になって、もう自腹でもいいんじゃないかと思うくらいなのである。

おれが損をするのをわかっていても、もう精算するのが面倒くさい。嫌になる。

 

これが対外的なことになると、見積もりを頼むとか、利益を考えるとか、そういったことについて圧倒的に駄目である。

駄目すぎるので、おれはあまり見積もりを取ったり、ひと仕事でどれだけの粗利が得られるか、という単純なことすらわけがわからない。

わけがわからないので人に任せているが、数字(金)のことは考えたくない、考えられないというところがある。

 

仕事というのは金を稼ぐことであって、利益を出すことであって、それがすべての基となることであって、それができないおれは、その時点で「仕事ができない」といっていい。

稼げる数字こそが労働のすべてであって、金を稼ぐ具体的な数字を見られないおれが、労働に従事しているかどうか、仕事をしているのかどうか怪しいといっていい。

 

コミュニケーションができない

おれがさらに「仕事ができない」と考える、あるいは感じるのは、コミュニケーションのできなさである。

コミュニケーションこそが、現代の労働における大部分だとなると、これはもう決定的、壊滅的な欠点といえる。

メールでの、文章におけるやりとりなら、それなりにできるつもりである。

文章なら、どうにかなる。おれはいくらかは、文章を書くことにおいて自信がある。

 

とはいえ、高卒のおれに対して、大卒であり、就活を乗り越えて何年も経つような人間の書く、意味不明な文章については辟易する。意味がわからない。

おれより高学歴なのに、なぜまともな日本語が書けないのか。そういう気持ちになることは少なくない。

 

なぜ、大卒なのに、まともな日本語が書けないのか。おれよりもっと「書くこと」についての修行をしてきたのではないのか。

まるでわけがわからない。大卒以上なのにおれより日本語が書けない人間は、反省してほしい。

 

なぜ、反省する必要があるのか。

文章でその真意をたずねなければならないからだ。あるいは、電話による対話によって、たずねなければならないからだ。

 

電話、対話。おれはこれが駄目である。

文章によるコミュニケーション、これ以外が駄目である。

対面して、対話などとなると、もういけない。それ以上はいけない。そうなる。

 

会話によるやりとり、これができない。

即座に回答することにためらいがある。「できるかできないかは、いったん引き取って考えさせてほしい」となる。

だが、人間の会話はそれでは進まない。

本当に重要な要点については、「社内で検討させていただきたい」でいいのだろうが、そうでもない些事については、そうもいかない。適当に、「はい」、「いいえ」でいかなければいかない。

 

おれは、それができない。苦手だ。

適当な返事をして、それがうまくいかなかったらどうなってしまうのかと、不安になる。

不安になるような返事はしたくない。というか、できない。フリーズしてしまう。対話も電話もなくなってしまえ。

 

頭はいつもごちゃついている

さて、おれにとっての初めてのビジネス書に戻ると、こんなことも書いてある。

とにかく、机の上を見るだけで、仕事ができる社員かそうでないかわかります。

机の上が整理されている人は、一つのことに集中できる人です。心に余裕があり、精神的に追い込まれていることがほとんどありません。何事があっても、順番に一つずつ片づけていけばいいと知っているからです。

うう。

 

片付けられない人間の言い分を聞いてくれ

おれの机の上を見てくれ。書類が地層をなしている。

とはいえ、おれは二十年近く働いて、ようやく一つの方策を考え出した。

同様事例はたくさんあるにしても、おれがおれの要求によって生み出した、おれのためのものだ。

 

それは、大きめの付箋にやるべきことを書いて、パソコンに貼る、ということだ。どんな些細なことでも手で書いて、紙を貼る。

要件を書いている時間の方がやるべきことより数秒長くても、書いて、貼る。

 

こうしないと、やるべきことが整理されない。順番もわからない。締切が少し先の、やるべきことも忘れてしまう。

終わったらすぐに付箋を剥がしてゴミ箱に捨てる。おれの個人のゴミ箱は付箋だらけだ。

 

これが、頭の中でできない。それも仕事のできなさだろう。

この本によれば「緊急度」と「重要度」を視覚化するということだろう。

これが頭の中で整理できない。あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、え、そんなこと頼まれていた? そうやってパニックになってしまう。それを長年繰り返してきた。

 

付箋によってようやく、いくぶんマシになった。

そのやり方に気づくのに、普通の人なら一年か二年で十分だろう。

おれは二十年近くかかった。やはり無能である。

 

若い人へ

少し長くなってしまったが、最後に書くべきところはこれだろう。「べつの会社に就職して何ができますか?」という話だ。

おれは赤字企業で赤字人間をやっているだけであって、なにができるという技能がない。

IllustratorやPhotoshopをもっとうまく扱える人間は世の中に山ほどいるだろうし、おれより精確なビジネス文書を書ける人間も山ほどいる。

 

おれには資格がない。これといって誇示できる能力がない。

ある分野について、ちょっとだけ「門前の小僧」の知識があるだけだ。

それを証すものはないし、門内のことを知らない。門内で認証を受けていない。受けられるだけの知識もない。

 

というわけで、若い人よ、おれのようになってはいけないよ。

まず、ビジネス書を読みなさい。たぶん、役に立つことが書いてある。

仕事ができないと思う人には、そういう人のためのノウハウが書いてある本もあるだろう。すごい。

 

そして、競争に勝ちなさい。勝とうとしなさい。それだけが世の中の全てです。

おまえが地主の子どもだと言うなら勝手にしろ。そうでなければ、人を打ち倒して、会社の利益だけを考えて、「もっと」を考えて伸びていかなければいかない。

それ以外に人生の価値はない。それ以外に人生に勝ちはない。

 

ビジネス書を読んで、仕事のできる人間になって、人生に勝て。

若い人よ、それ以外に生きる意味も資格もない。敗者に救いはない。それはおれが自信をもって言えることだ。

あらためてそう思った。だから、そうしなさい。それだけだ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Gift Habeshaw

自己啓発のセミナーや本でよく目にする言葉に、「率先垂範」というものがある。

リーダーであれば、何事も部下の先頭に立って模範を示しましょう、という意味の教えだ。

 

京セラの創業者で、日本を代表する経営者・稲盛和夫氏もその重要性を繰り返し説いているので、座右の銘にしているビジネスリーダーも多いだろう。

太平洋戦争で連合艦隊司令長官を務めた山本五十六も、

「やってみせ 言って聞かせてさせてみせ ほめてやらねば人は動かじ」

と詠んで率先垂範の重要性を説き、大軍勢を率いる基本として大事にしている。

 

しかし私はこの言葉ほど、誤解とともに広まり、時に害悪にもなっている教えはないと思っている。

そして実は、その誤解が日本のリーダーたちを劣化させている原因の一つではないかとすら考えている。

それはどういうことか。

 

「私が指揮官でも同じ判断を下しました」

話は変わるが、私が親交を頂いている知人に、航空自衛隊で空将を務めていた方がいる。

既に定年退官されて悠々自適の生活を送っているが、現役時代はパイロットとして活躍し、将官に昇ってからは大部隊の指揮官などを歴任したキャリアの持ち主だ。

きれいに伸びた背筋、衰えない眼力は何歳になっても変わらず、お会いするたびに心地よい緊張感を頂いている。

 

元空将と初めてお会いした時のことは、今もよく覚えている。

共通の友人の紹介で、防衛省からほど近い居酒屋で飲み会をさせて頂くことになった時のことだ。

当時、国の中枢で要職にあった幹部だったので、どれほどのイカツい人が厳かに登場するのかと身構えながらお待ちする。

すると人懐っこい満面の笑顔で、額にあふれる汗を大きなハンカチで拭きながらバタバタと登場されたので、私は完全に拍子抜けしてしまった。

 

お酒も進み、空将からはいろいろな話を聞かせて頂いた。

ご家族のこと、任務のこと、パイロットを目指した理由、人に言えないような失敗などなど。

まるで旧知の友人のような、こうして一緒にお酒を頂いている時間が当然であるかのような空気の作り方の巧みさに、私はすっかり惹き込まれていた。

 

そんな中で、一緒に飲んでいた友人がふと、空将にこんな質問をした。

「ところで空将。私、3月の情報漏洩の問題では、航空自衛隊の対応に疑問があるんです」

いくら酒が進んでいる中でも、この質問はちょっと質が悪いだろう…。

冷や汗をかきながら空将に目を向けると、空将はジョッキをテーブルに置いてこう返した。

 

「申し訳ありません。あの件ではもしかしたら、私が指揮官であっても同じ判断を下した気がするんです」

そして友人の拙い批判に真剣に耳を傾け、否定せず、自分の考えを真摯に回答する。

友人の意見は正直、聞くに値しない程度のものだったが、軽くあしらうようなことはしない。

しかし私は、一連のやり取りを横から見ていて、一つのことを思い出し、背筋が寒くなるのを感じていた。

 

実は空将は、元々は情報系の幹部であった。

若い頃は文字通り世界を飛び回り、軍事・政治に関する情報収集の任務にあたっていた人だ。

現在の自衛隊では少し役割は違うが、世が世なら「スパイ」の任務を担うこともある立場である。

 

「これが本職の、情報幹部の空気の作り方か・・・」

そう思うと、もしかしてこの楽しい時間も全て演出であり、“任務”としてこの場にいるのだろうか。

そんな想いがして目の奥を覗くように空将の感情を探ろうとしたが、裏表を一切読み取ることなどできない。

それどころか、本当に「自然体で真っ直ぐな人」であるとしか思えず、私はその一日で空将の心からの大ファンになってしまった。

そしてその日の飲み会は、楽しい時間のまま気持ちよくお開きになった。

 

しかし後日、別の幹部の方から聞いて驚いたことがある。

実はその空将は若い頃、とんでもなく怖い上司として、誰からも恐れられていたそうだ。

今からは想像もつかないほど、そばに人を寄せ付けなかったそうである。

 

同様の話は、実は陸上自衛隊でも聞いたことがあった。

数万人を率いる部隊のトップを務めたある陸将は現役時代のことを振り返り、こんなことを聞かせてくれたことがある。

「桃野さん、私は部下に対して方針は示しますが、仕事の基準を示したことはありません。統制をしたこともありません」

「統制をしない・・・ですか?陸将たる大部隊の指揮官がですか?」

「そうです。方針は徹底しますが、やり方は考えさせます。そうしないと、部隊が強くならないんです」

「・・・なるほど」

 

この陸将もやはり若い頃、相当に怖い幹部として部内で恐れられていたそうだ。

仕事は誰よりも早く、何事も結果を出す。

その分、部下に対しても厳しく接していたようだが、私がお会いした将官の時代には、もはやそんな空気感は一切無くなっていた。

むしろ誰に対しても距離を感じさせず、いつもニコニコしているような人だった。

 

そして今になって私には、このお二人の元空将と元陸将、ともに大部隊を率いた大いなるリーダーの共通点から気がついたことがある。

 

「率先垂範」とは、手足を動かすことではない

話は冒頭の、「率先垂範が日本のリーダーを劣化させた」という話についてだ。

なぜ、何事も部下に対して模範を示すことに、疑問を呈しているのか。

恐らく、日本のリーダーの多くがこの言葉を、

「最初に自分が、手足を動かして実演して見せること」

と、勘違いをしているのではないだろうか。

例えば部下に対して「毎月30件の新規受注を達成すること」と指示した場合、まず自分が「できることを証明する」ことだと、理解しているということだ。

 

しかしそれは、例えば1+1が解けないと泣いている子どもの解答欄に「2」と書き込んで見せるようなもので、何の意味もない。

そんな仕事ぶりで部下の“尊敬”を勝ち取れるのはせいぜい20代までであり、マネジメント可能な範囲も30人程度までだろう。

いうまでもなく、このような「率先垂範」は部下の能力を引き出す上で、ほとんど意味を持たない。

できる人間が、できないと困っている部下に実演してみせて「この通りにやれ」と迫っても、ただのパワハラでしかないからだ。

では、この言葉の本当の意味とは何か。

 

それは、課長であれば「課長のしごと」の範を示し、社長であれば「社長のしごと」の範を示すことである。

リーダーにとってもっとも大事な仕事とは、「自分の後継者を育てること」なのだから、当然ではないか。

1+1が解けないと泣いている子どもには足し算の概念をわかりやすく説明し、自分で解く力を育もうとするだろう。

そうやって「親のしごと」を果たし、自分の親がそうしてくれたように「役割のバトン」を受け渡していく。

 

にも関わらず多くのリーダーたちは「率先垂範」を、「社長が部長のしごとをやってみせること」だと勘違いしている。

そんなことではいつまでも、社長自身が部長レベルであり、社長になりきれない。

当然、そんなマネジメントを受ける部長もまた部長になりきれず組織はどんどんと弱くなっていく。

 

実は冒頭でご紹介した、

「やってみせ 言って聞かせてさせてみせ ほめてやらねば人は動かじ」

には続きがある。以下のようなものだ。

 

「話し合い 耳を傾け承認し 任せてやらねば人は育たず」

「やっている 姿を感謝で見守って 信頼せねば人は実らず」

 

だいぶ印象が変わるのではないだろうか。

“腕力”で部下をマネジメントするレベルから、大部隊を率いて万単位の軍勢を統率する将帥の心得までを網羅している。

「率先垂範」とは、そこまでを含んで理解すべき考え方ということだ。

 

恐らく元空将・元陸将の2人も若い頃は、自分自身の優秀さと能力で、いくらでも仕事を消化できたのだろう。

しかし階級を上げ、100人、1000人と預かる部隊が大きくなると、そんな事できるわけがないことに気がつく。

 

そして部下を使い、その下にいる部下を間接マネジメントすることが求められるようになると、

「話し合い 耳を傾け承認し 任せてやらねば人は育たず」

を悟った。

 

さらに大きな部隊を預かるようになると

「やっている 姿を感謝で見守って 信頼せねば人は実らず」

と、スタイルを変えていったのだろう。私がお二人と出会ったのはこの頃だった。

大部隊を率いるトップに必要な「率先垂範」を示す、親しみやすいのに威厳がある不思議な魅力を持ったリーダーであった。

 

会社とは、社長の器以上に大きくならないというのは、本当に正しい。

会社が零細企業であるのは、社長が零細企業のトップらしい率先垂範をしている結果にすぎないからだ。

「やってみせ 言って聞かせてさせてみせ」である。

 

自分自身はリーダーとして、どのレベルの率先垂範を示しているのか。

そしてそれは、自分自身の目指している目的地から考えて正しいのか。

一度、自分自身のスタイルを再チェックしてみては、いかがだろうか。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

私はいい年をしたオッサンになってもエビフライが大好きです。
だからこそ、「エビのすり身入り衣揚げ」のようなスーパーの惣菜が許せないんです。
ルンルン気分で一口めを口に入れた時の絶望と怒りを、甘く見すぎてるのではないでしょうか。
人の期待を裏切るような商売を許すリーダーは、理屈抜きで人間失格です(怒)

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

Photo by Roger Chapman

今の時代、コンフリクトは、組織成長の観点からも個人の自己成長の観点からもポジティブにとらえるべきである。

ただ、個人のコンフリクトに向き合う姿勢(ここではコンフリクトスタイルと呼ぶ)は固定化しがちなので、相手や状況に応じてそのスタイルを変える柔軟性が必要である。それが自己成長につながる。

今回からは、実際にあった徳島正人(仮名)のケースをもとに考えてみたい。

 

憧れの自動車メーカーへ。しかし、配属は想定外

車が大好きだった徳島正人は、工学部を卒業し憧れの自動車メーカーに入社した。

しかし、最初に配属されたのは品質認証部という法規・認証を扱う間接部門だった。

完全に希望外かつ予想外の配属でショックだったが、「何にでも学びはある」と言い聞かせ業務に臨んだ。

 

品質認証部という組織は、業務特性上、マニュアル通りに進めることが第一の、極めてコンサバで官僚的な文化だった。

部門の存在意義や業務の目的について上司に尋ねても、納得のいく説明はなく、お互い情報共有もない。

そんな上司に対しネガティブな感情をもっていることは出さないようにしていたつもりだったが、どこか気づかれていたかもしれないと徳島は当時を振り返る。

 

持ち前の正義感に火がつく

徳島は、幼いころから親から正義感と思いやりの大切さを厳しく教育されてきた。

そんな彼の性格に火がついたのは、ある若手研修でのことだった。

若手メンバーとの議論の中で、後輩が当時業界常識となっていた法規すれすれのテスト法のリスクについてとても悩んでいることを知った。

 

徳島は不正に発展させてはいけないという持ち前の正義感と困っている後輩を助けたいという一心から、そのリスクについて上司を超えて上のマネジメントに直接問題提起した。コンフリクトモードでいうところの「競争」の姿勢だ

当然のごとくマネジメント層からは解決策の提案を求められたが、徳島はそれについては全く考えていなかった。

 

それから数か月後、カネをかければ正しく実施する代替案があることを徳島は見つけ、上司はじめ周りのキーマン達に説明した。

しかし、その時点では誰からも受け入れてもらえず、2年後に他の先輩からの提案としてその案は採用された。

 

今でもなぜ徳島の案が受け入れられなかったのか真実はわからない。

しかし、徳島本人は以下4つに原因があったのではないかと振り返る。

 

■徳島の提案が受け入れられなかった理由

  1. 説明能力不足(度々上司からは「お前の主張は論理が飛躍している」と指摘されており、この点については徳島自身も自覚していた)
  2. 信頼関係の醸成不足(組織のフォーマリティを無視したものの進め方や、組織のミッションや風土に対して自分のもつネガティブな感情が、上司はじめメンバーからの不信感を作り出してしまったのではないか? 結果も出していない中で・・)
  3. 相手(上司などマネジメント層)の懸念事項への理解不足(優先順位や制約要因など)
  4. 変化を嫌う組織文化

 

「競争」モードとは?その特徴とメリット・デメリット

「競争」モードとは、相手の意見を聞き入れず、自分の主張を通そうとすることだ

自分の立場主張に勝つ自信がある場合にはすばやく勝てる可能性があるというメリットがある一方、相手の心理的安全性を低下させたり、次善的決断になったり、決断の押しつけで実行段階での他者のコミットメント低下をもたらすデメリットがある。

Introduction to Conflict Management: Improving Performance Using the TKI

出典:”Introduction to Conflict Management: Improving Performance Using the TKI” Kenneth W. Thomas

 

「競争」モードで臨むべきケースとしては、以下のような場合が考えられる。

  1. 重要なイシューのとき(重要でない場合には、無駄な戦いはしない。それはエネルギーの浪費である)
  2. 自分が正しいとわかっているとき
  3. 集団志向の罠にはまっているとき

など。

 

「競争」モードの留意点

今回のケースでは、少なくとも徳島が1.~3.を満たしていると判断したのであれば、「競争」モードの選択は間違いとは言えない。

ただ、「競争」モードで臨むのであれば、実行段階でいくつか留意すべきことがある。

 

第一に、普段から相手との関係構築を丁寧に行っていることだ。

普段から敵対モードでいたらそれが相手にも伝わり、相手の自分へのネガティブ感情が先行し聞く耳をもってもらえない。

普段からの信頼関係がベースにあるからこそ、戦うべきときにはその本気度が相手にも伝わるのだ。

 

第二に、説得力を増すには、もちろん共通言語としての論理性は必要条件だが、同時に、自分の主張が双方共通にもつ懸念事項の解消に結びつくことを訴えることも重要である。

そのためには、当然ながら相手(上司はじめマネジメント層)の懸念事項を理解しようとする姿勢が不可欠となる。

 

それが自分の力ではなかなか難しいのであれば、客観的なアドバイスやフィードバックをもらえるメンター的立場の人をつくる努力も必要となろう。

今回のケースであれば、テスト法の変更理由を、過去が誤っていたからとするのではなく、もっと前向きなものに置き換えてみるなどすれば、事の進み方も変わっていたかもしれない。

 

正論をぶつけるのはいけないのか?

さて、今回のようなケースは比較的若いビジネスパーソンがよく経験することではあるが、まず自分が正しいと強く思うことがあるのであれば、結果はどうあれぶつけてみるといい。

今の変化の激しい時代には、従来の枠組みにとらわれない若い人の発想や視点が上記③の集団志向の罠に一石を投じる効果が十分にあるからだ。

 

ただ、そうは言っても、人間は感情の動物。うまくいかなければそこから学び、やり方は工夫しなければならない。

このほろ苦く、しかし意味のある失敗経験から、徳島はコンフリクトへの向き合い方をどう軌道修正していくのであろうか?

 

 

<参考文献>

“Interpersonal Conflict” Hocker, Joyce L./Wilmot, William W.

”Introduction to Conflict Management: Improving Performance Using the TKI” Kenneth W. Thomas

(執筆:芹沢 宗一郎)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by GR Stocks

広義の「コミュニケーション能力」と「知性」は、ほぼ同じ意味と考えてよさそうだ。

 

例えば、数学者で、ソフトウェア生みの親であるアラン・チューリングは、AIの知性の判定に、「人間のマネをしたAIを、会話で判別できるか」という方法を提唱した。

 

あるいは、クイーンズランド大の心理学教授、ウィリアム・フォン・ヒッペル氏は、著書の中で、「コミュニケーション能力」を「社会的知性」と呼び、むしろ「IQのような論理的能力は知性の本質ではなく、副産物」と述べる。

 

これは結局、社会において「他者の思考を読み、動かす能力」、すなわちコミュニケーション能力が、とりわけ重要であることに由来する。

同盟を作って保ち、共同事業を起ち上げ、あるいはただ殺されずに一日を生き延びるために、先祖たちは互いの行動を推測するようになった。他者の行動を見きわめる最善の方法は、裏にある論理的思考と目的を知ることだ。

そのために人類は「心の理論」──他者の心は自分の心とは異なるという理解──を進化させてきた。

[amazonjs asin="B07YV495X2" locale="JP" tmpl="Small" title="われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか 進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略 (ハーパーコリンズ・ノンフィクション)"]

もちろん、その延長にあるビジネスにおいてもコミュニケーション能力は強く問われる。

 

例えば企業におけるもっとも重要な活動の一つである、マーケティングは「人の心を読み、動かす仕事」の最たるものだ。

あるいは営業、バックオフィス、工場においても、仕事は人とコミュニケーションをとって協力しなければ、何の成果も生み出せない。

 

いや、学問においてさえ、「インパクトのある研究」というのは、結局、他者の研究にどれほど影響があるかで測られるし、芸能、デザイン、文学、あるいは軍事においても、「どれほど人を動かしたか」が、問われる。

 

 

私がかつて在籍していた会社においても、「賢くふるまう」ための、コミュニケーション上のルールが徹底されていた。

 

例えば、

「褒めてから、意見する」

「どんな発言にもまずは「そうですね」と言い、咀嚼する」

「ちがう、と言わない」

「意にそぐわないアドバイスへも、素直に礼を言う」

 

といった、細かな型の話から、

「他人のせいにしない」

「自分の意見を言ったら、相手の意見も聴く」

「結論から言う」

「笑いを取れ」

といった、非常に難しいコミュニケーションの型まで、様々なものが存在していた。

 

もちろん、こうしたコミュニケーション上の細かなルールは、ある種の人たちにとっては、我慢がならない。

「コミュニケーション至上主義」などの批判的な意見もあるだろう。

 

しかし、他者とのコミュニケーションが苦手な私ですら、あがきながら現場でこれを実行してみると、この効果を納得しないわけにはいかなかった。

こうしたルールを徹底したときと、徹底していないときいでは、同じことを言っていても「受け入れられる場合」と「拒否される場合」が分かれ、成果にもはっきりと違いが表れたからだ。

 

「中身も大事だが、言い方も大事」

私は上司にそう言われ続けた。

 

なぜか。

理由は簡単だ。

 

実際、「コミュニケーション能力を軽視する人々」「コミュニケーションが苦手な人」ですら、「ちがう」と言われたら怒り、「褒められない」のに我慢がならないからだ。

「コミュニケーション至上主義」という批判をする人ですら、ユーモアのある人を好み、自分の意見を聴いてもらいたがり、人のせいにする輩を嫌う。

 

人間は本質的にみな、「敬意をもってコミュニケーションしてもらう」ことを望むのだ。

 

したがって、「コミュニケーション能力」の本質を、友達とワイワイやる、会話が上手い、程度にしか考えないのは誤りだ。

コミュニケーション能力こそ、人間の持つ本質的な知性であり、それがビジネスのあらゆるシーンで問われる。

 

であるがゆえに、現代の企業は「コミュニケーション能力」を重視した採用を行う。

実際、技術者集団であるGoogleの元経営者、エリック・シュミットは、社員を次のように評した。

ユーザのこともよくわかっている。どんな業界に身を置いているかにかかわらず、スマート・クリエイティブはプロダクトを誰よりもユーザ目線、あるいは消費者の視点から見ることができる。(中略)

あらゆる可能性にオープンだ。自由に他者と協力し、アイデアや分析をそれを誰が口にしたかではなく、それ自体の質にもとづいて評価する。(中略)

コミュニケーションは得意だ。一対一でも集団の前で話すときも、話がおもしろく、センスがよくてカリスマ性さえ感じさせる。

 

 

日本人は古来より、相手の心を読み、それを満たそうとする努力を称えた。

いわゆる「もてなし」である。

 

漫画「へうげもの」では、千利休が「もてなし」の力で戦国武将たちを心酔させたシーンが数多く描かれているが、私はこの作品を読んで初めて、千利休が歴史の教科書に出てくる理由を理解したように感じた。

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「もてなし」同様に、ビジネスにおいては、コミュニケーション能力が優れていなければならない。

したがって、現代社会では、「コミュニケーション能力」はあらゆる能力の中でも、抜きんでて重要な能力となった。

 

 

近年では「発達障害」に関連する書籍の売れ行きが良いと、出版社の編集の方から聞いた。

 

現代社会は特に知性が重視されるため、「コミュニケーション」に障害を抱える人たちの悩みが、社会問題として取り上げられることが非常に増えたと考えても良いのかもしれない。

 

では、「コミュニケーション能力」を獲得することはできるのか。

もちろんできる。

 

ただ、それには礼儀作法や挨拶などと同じく、練習が必要だ。

なお、私が社会人になって教えられた、コミュニケーションの原則は、上に紹介したように、

 

礼儀正しくすること

人の話をよく聞くこと

相手の立場で考えること

言葉を選んで話すこと

人の長所を見ること

人のせいにしないこと

 

といった、いくつかの非常にシンプルな原則だけであり、これらは小学校でも習うような、当たり前のことだ。

 

いや、もちろん実行が難しいことはわかっている。

つまり後は「意志をもって練習するかどうか」という話だけである。

 

だが、これらは世界一にならなくてよいのだし、運動能力と同じで、「やる」ときめれば、誰でも練習できる。

 

「社会的知性」とは、選ばれた人の特別なものではないし、才能とも関係ない。

必要なのは、型を知ることと、日々、そうあろうとあがくことだけ。

本当に、それだけなのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

[amazonjs asin="4309300014" locale="JP" title="人生がうまくいかないと感じる人のための超アウトプット入門"]

僕がインターネット上に、はじめて「ホームページ」を立ち上げたのは、2001年のことでした(正確には、ホームページをつくるまえに、『さるさる日記』というオンライン日記サービスで日常雑記を書いていました)。

 

ニューヨークで同時多発テロが起こり、これまでの日常がずっと続いていくとは限らない、という不安や焦りに駆られて、『ホームページビルダー』で悪戦苦闘しながら、「自分のサイト」をつくったのです。

 

正直、あれから20年以上も、ネットで文章を書いて、公開しつづけることになるとは思ってもみませんでした。

当時はまだアンダーグラウンドというか、「日常では言えないような話を『王様の耳はロバの耳』とばかりにネットに書いて、誰かにみてもらう(ことを期待する)」時代で、不倫日記とか仕事の内情を明かす日記とかも少なからずありました。

 

いまや、ネットでの不用意な発言は危険であることが周知され、「ネットでは日常生活よりも言葉に気をつけるべき」だと多くの人が考えています。

 

[amazonjs asin="B09TZXSYSN" locale="JP" tmpl="Small" title="ネットで故人の声を聴け~死にゆく人々の本音~ (光文社新書)"]

古田雄介さんの『ネットで故人の声を聴け』(光文社新書)を読みました。

著者の古田さんには『故人サイト』という、さまざまな理由で命を落とした「死者のサイト」を紹介した本があります。

参考リンク:【読書感想】故人サイト(琥珀色の戯言)

 

この『ネットで故人の声を聴け』は、『東洋経済オンライン』に連載されていた記事が元になっており、「癌などの病気がみつかった人の闘病日記」や「自ら死を選ぼうとしている人の『終わり』までの記録」などが紹介されています。

一例を紹介しましょう。末期がんを告知されたある男性は、その日を境に趣味のブログのタイトルを闘病記ふうに切り替えました。文調はいたって明るく、ネガティブな表現は冗談を除けばほとんど見当たりません。数年後、新たな治療を始めるという日記を最後にパタリと更新が途絶えました。その日記のコメント欄に半年後に書き込まれた家族の丁寧な挨拶文により、投稿から間もなく意識が混濁し、それから2ヶ月後に亡くなったことが知れます。男性もあれが最後の更新になるとは思っていなかったようです。

最後の最後まで前向きに大病に向き合って、本当に強い人だな。最初に目を通したときはそう思いました。しかし、日記の更新日に着目して精読したときに印象が大きく変わったのを覚えています。

どうやら男性は小康状態のときにはブログから遠ざかり、心身が苦しくなったときにだけ更新していたようです。そしてその視点で読み返すと、辛い治療のタイミングほど「エール」や「奇跡」といった言葉を多用する傾向が浮かび上がってきました。つまり男性は、自らを奮い立たせるため、読者からエールをもらうためにブログを使っていたのではないか。その先にある元気な自分の状態を「奇跡」と表現するくらいには、厳しい現状を受け止めていたのではないか──。答えは出ません。しかし少なくとも、単純な「強い人」という言葉では表現できない悲壮な感情が内包されているのは確かでした。

個人がホームページで簡単に「世界に対する自分語り」ができるようになってから、約25年。この間に、日本国内だけでも、3000万人近い人が亡くなっています。

亡くなる人は高齢者が多いので、インターネットを使いこなして「日記」を書き残している割合は高くないのかもしれませんが、これだけの母数があれば、かなりの数の「墓標」がネット上に遺されているのです。

 

僕自身も、これまでのネット生活で、突然更新されなくなったサイトをたくさんみてきましたし、「今日はちょっと胸が苦しいので病院に行く」というようなツイートを最後に、ネットから姿を消してしまった人もいたのです。

消えてしまった人のなかには、家族から「訃報」が後日伝えられたものもあれば、「飽きたからやめた」あるいは「他のブログやSNSに移行した」だけなのか、本当に人生が突然終わってしまったのか、判然としないものも多いのです。

 

実際、本当にブログをやめるときって、「終わります!」って宣言する人はけっこうすぐに戻ってきて、いなくなる人って、突然更新されなくなってそのまま、になりがちです。

それは、長年ネットで文章を書いてきた、僕の感覚としても理解できます。

 

書かれていることが「嘘」ではないとしても、「本心のなかで、ネットで公開しても大丈夫なものだけ」の人も多いはず。

InstagramなどのSNSをみても、みんながあんなにキラキラした面ばかりの生活を送っているとは思えませんし。

とはいえ、見えない、語られていない部分を、勝手に想像で補ってあれこれ言うのもまた、不誠実な行為ではありますよね。

 

2002年に42歳で亡くなられた「肺癌医師のホームページ」の最後の投稿には、こう書かれていました。

2001年11月26日(火)
モルヒネの持続静注が続いて、錯乱が生じてきたよう。人の名前もあまり思い出せなくなった。これ以上のHP(ホームページ)更新は困難と判断す。(闘病日記-11月)

この方が亡くなられたのは、2002年1月6日だったそうです。

こうして、自ら判断して、意識の混濁による誤解を招くような言葉や、最期の苦しみを吐露しないまま、「幕を引くことができる」人もいるのです。

 

僕は正直、同じことはできそうにありません。「やめる」と言いながら、つい、励まされたり、死の恐怖の前で誰かに構ってほしくなったりして、戻ってきたり、終わるタイミングを逸してしまったりするのではなかろうか。

まあ、そういうのもまた、「人間らしい往生際の悪さ」ではありますよね。

 

2009年の12月に33歳で亡くなられた女性のブログ『日本一長い遺書』には、こんな記述があるそうです。

自分がガンになったことを告げても、保険金のことしか話さない母のいる気持ちを、知っていますか。
自分がガンになったことを知って、私名義のマンションから立ち退き要求の調停を起こす元夫がいる気持ちを、知っていますか。

(略)

生涯
誰にも 何にも
頼ることができない孤独を 知っていますか
(2009年7月14日「私は、全て知っています」)

断片を読むだけで、打ちのめされてしまうようなブログもありました。

もしこれが小説やテレビドラマであれば、なんらかの奇跡や救いがあるはず、あっていいはず、なのですが、現実は、ひたすら無慈悲です。

ただ、そこには「実際は、こんなものだよなあ……」という悲しい学び、みたいなものもあるような気がします。

 

僕も20年以上ブログをやっていて、そして、50歳を迎えて、人生とともに、自分のブログの「終活」を考えることが多くなりました。

 

この本によると、ほとんどのブログは、その書き手が亡くなると、利用料金を払っていたクレジットカードが停止されたり、ブログサービスそのものが終了したりして、いつのまにか消えてしまうのです。

ブログサービスが幸運にも続いていても、掲示板が出会い系サイトの宣伝で埋め尽くされていたり、荒らしの巣窟になっていたりすることも少なくありません。

 

僕自身、20年前に「自分が死んでも、自分が書いたものがネット上に残っていく」ことを期待しつつ書き始めたのですが、こうして、ネット上に積み重なっている「死者の記録」をみていくと、デジタルデータは、けっこうあっさりと消えてしまうし、残っていたとしても、誰も読まずに、ただそこに存在しているだけのデータは、本当に「残っている」と言えるのかどうか。

 

著者は、この本に紹介されているような、いまも読まれている「故人のサイト」は、遺族や友人、ファンなどの「いま、生きている人たちによるメンテナンス」が行われ続けていることを指摘しています。

本物の「お墓」のように、誰かが定期的に掃除をしたり、お参りをしたりしていないと、「故人の記録」も荒れ放題になり、忘れられてしまうのです。

 

「デジタルのデータはずっと遺っていく」というのは幻想でしかなくて、僕自身、いろんなデータをハードウェアの変化や記録媒体の損傷などで失ってきました。

よほどの有名人でもなければ、紙の手紙や写真のアルバムのほうが、受け取ってほしい人に受け継がれる可能性は高いのかもしれません。

 

そもそも、「遺す」ことが正しいのか、というのもまた問題ですよね。

僕自身、自分が書いたものを、現実での知り合いが読みたがるのか、内容を不快に感じたり、傷ついたりしないか、正直、わからないのです。

あからさまな悪口ではなくても、「自分が知らないところで、勝手にあれこれ言われていた」というだけでも、許せないという人もいます。しかもそれが、ネットで不特定多数に晒されていたとなれば、なおさら。

僕が子どもだったときのことを思い返すと、自分の親の「若気の至り」とか見たくなかったし。

 

ネットを通じて知ることができる、他者の「生きざま、死にざま」に、人は希望を抱いたり、絶望したりする。

しかも、それが「事実」かどうか、検証するのはひとりの閲覧者には困難です。

古田さんも「自殺予告ブログ」の著者がブログ更新をやめたあとどうなったか、本当のところはわからない、と仰っています。

手の込んだ「釣り」の可能性だってゼロではない。

 

ただ、全部が真実ではないかもしれないけれど、全部が嘘、というわけではないと思います。

 

人生が終わるとき、自分のブログやSNSは、どうなることを望むのか?

僕にとっても、それはとても悩ましく、面倒くさい課題なのです。

 

「ネット終活」なんて、気にしているのは自分だけで、僕がいなくなればあっという間に開店休業状態になってしまうというのが「現実」なのかもしれませんが。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo by Luca Bravo on Unsplash

大学生ぐらいの頃、よく好んで読んでいた漫画の一つに寄生獣というものがある。

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有名な作品なのでご存知の方も多いだろうが、知らない人向けに簡単に解説しよう。

 

この漫画はある日謎の生命体が空から世界に飛翔し、人間を支配する。彼らは人間に寄生し、寄生された人は人を食べる人形のバケモノとなる。

これらの多くは人間の脳をのっとって人格ごと丸っと人間を支配するのだが、そんな中運良く寄生体の侵入に気がつき、脳への侵入を防いで右腕で食い止める事に成功したのが主人公であるシンイチだ。

 

寄生獣はこのシンイチと右腕に寄生した謎の生命体ミギーのコンビでもってあらすじが進められる。

このミギーが実にいいキャラをしており、ピュアな青年であるシンイチに様々な疑念を投げかけるのだ。

 

その投げかけは時に読者の心を強く打つ。

もうかなり昔の漫画だけど、未だに何度読み返しても全く飽きる事がない。まさしく名作である。

 

「ああ、僕にもミギーみたいな良きパートナーがいたら良かったのにな」

 

寄生獣を読み返すたびに僕はそう思っていたのだけど、最近になって私達は思っている以上に寄生獣的な生き物であるという事を腸内細菌叢の勉強を通じて学んだ。今日はその話をしようかと思う。

 

生後まもない頃から抗生物質漬けとなった赤ちゃんは…

”あなたの身体は9割が細菌”という本に出てきた衝撃的なエピソードを紹介しよう。

[amazonjs asin="B08YYMSLN7" locale="JP" tmpl="Small" title="あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた (河出文庫)"]

抗生物質漬けで、人工的に自閉症患者がうまれたという話である。

 

この話はエレン・ボルトという名の女性に実際におきた話だ。

彼女は幸運にも4人の子供に恵まれたのだが、4人目の子供アンドルーにちょっとしたトラブルが生じた。

 

アンドルーが生後15ヶ月頃、アンドルーの耳に感染症を示唆する耳だれの症状が生じた。

「難聴になってはいけない」と小児科医はアンドルーに治療目的で抗生物質を投与したのだが、残念な事に耳だれは収まらなかった。

 

こうして何度も何度も耳だれを繰り返したアンドルーは長期間にわたる抗生物質投与を受ける事となった。

最初は特段大きな変化はなかったようだが、一ヶ月ほどすると突然自体に変化が訪れた。

それまでごく普通の赤ん坊であったアンドルーにキャラクターの変化が生じた。具体的にいうと、引きこもりがちとなり、突然不機嫌になって泣き叫ぶようになり、奇怪な行動が目立つようになったという。

 

困り果てた両親は医師の診察をうける事にした。結果は自閉症。

それまではごく普通の発達障害を持たない普通の子供であったアンドルーが、幼少期における長期間にもわたる抗生物質投与の結果、自閉症になってしまったというのである。

 

自閉症は先天的なものだけだと思われていたが…

それまで自閉症は先天的な病気だと思われていた。

恥ずかしながら僕も自閉症が後天的に生じうるだなんてこの本を読むまで思いもしなかったのだが、どうも世の中には後天的に自閉症の症状を呈する例というのが稀ながらあるようだ。

 

アンドルーの母、エレン・ボルトはそれまで産まれた3人の子供と何一つ変わりなく産まれたアンドルーが、このように突然変化してしまったのは、長期間にわたる抗生物質投与の結果ではないか?という仮説をうちたてる。

 

彼女はアンドルーが長期間にわたる抗生物質投与の結果、通常の腸内細菌叢を徹底的に破壊され、それにより壊れた腸内細菌叢バランスでもって毒素が腸内に発生し、それが脳にたどり着いた結果として自閉症を発症したのではないかという仮説に思い至ったという。

 

エレン・ボルトは医学の素人だ。

そして、これまで自閉症が遺伝以外で生じるだなんて話は医学界のどこにも無かった。

多くの医師は彼女の珍説を「ありえない」と一蹴し、彼女の治療依頼を引き受けなかった。

 

だが、最終的には「興味深い仮説だ」と思ってくれる良き医師に恵まれて、アンドルーは治療される事となる。

 

脳と腸は思ってる以上に通じ合っている

結果は衝撃的だった。治療から三日後、アンドルーはそれまでとはうってかわって落ち着いた態度をとるようになり、それまで苦手であった共感的な態度を示せるようになったという。

 

言葉をたくさん覚えるようになり、着替えを嫌がらなくなり、それまで苦手だった食事も普通に執り行えるようになる。

それまでできなかったトイレトレーニングも、早々に習得できたというのである。

 

腸内で起きていた問題が解決された結果、アンドルーの自閉症症状は明らかに改善傾向を示した。

この結果を元に、エレン・ボルトは一つの結論へとたどり着く事となる。それは脳と腸は思った以上に相互作用をしているのではないかというものである。

 

残念ながら、治療は遅かった

先ほどもいった通り、アンドルーは産まれた時はごく普通の赤ん坊であった。

だが不幸にも彼は耳の感染症を景気として長期間にわたる抗生剤投与をうける事となった。

 

この抗生物質は耳にだけ届くわけではない。

口から入った抗生剤は、アンドルーの消化管すべてに行き渡る。

結果、アンドルーが元々もっていた腸の中に居る常在細菌達がメタメタな事となり、腸内環境が完全に狂ってしまう事となった。

 

そうして抗生剤投与にもめげずに生き残った、いわゆる悪玉菌の一種であるクロストリジウム・テタニ(破傷風菌の一種)がアンドルーの脳を壊す物質を腸の中で大量に生産する事となった。

結果、彼はその毒に脳をやられて自閉症を発症してしまったというわけなのである。

 

「なんて恐ろしい話なんだ…抗生剤って、こんなに怖いものだったのか…」

僕はこの本を読んで、こんな事例がある事を知って本当に衝撃をうけた。

 

その後のアンドルーだが、残念な事に神経系の発達はもう既に元に戻らないレベルにまで達してしまっていた事から、治療薬バンコマイシン投与を辞めると元の自閉症の症状が戻ってしまい、正常の発達を辿ることは困難であったようだ。

”あなたの身体の9割が細菌”の中で、成長したアンドルーの姿をみる事ができるが、そこに映る彼の写真姿はまさしく自閉症を持つもののあの顔だ。

 

悪い菌を殺すために産まれたペニシリンの子孫が、まさか人間の発達をぶっ壊すキッカケともなるだなんて…

どうも私達は思ってる以上に、複雑なファクターでもって成長する生き物らしい。

それこそ冒頭にあげたミギーではないけれど、私達のお腹の中にいる沢山の腸内細菌達は、私達の思考や肉体の発達、そのほか様々なものに影響を与えているようだ。

 

抗生物質で家畜は太りやすくなり、身長が伸びる

その他にも興味深い事例が”あなたの身体の9割が細菌”にはたくさん出てくる。

僕が先のエピソードの他に衝撃をうけたものとして、抗生剤投与でもって太りやすくなり成長が促進されるというものがある。

 

以前から有名な話の一つに、産まれたばかりの家畜のエサに抗生物質を混ぜると家畜が大きくなるという傾向がみられるというものがあった。

この話は僕も昔聞いた事がある。

その時は「抗生物質の予防投与でもって感染症にかかりにくくなった結果、スクスクと育っていくんかな?」ぐらいにしか思っていなかった。

 

だが事態はちょっと異なるようだ。感染症にかかる・かからないに関わらず、家畜は抗生剤投与でもって大きくなるのだそうだ。

原因は抗生物質の投与でもって家畜の腸内細菌バランスに変化が生じた結果だと推察されている。

 

これは抗生剤投与群と抗生剤無投与群との比較検討をすれば明確な差として現れるのだという。

つまり、抗生剤自体が家畜の成長バランスを変えるのだ。

 

先進国の加速した成長傾向は抗生剤の乱用が原因?

この事実をもって”あなたの身体の9割が細菌”では近年の先進国における高身長ならびに肥満傾向は、抗生物質が以前と比較してあまりにも気軽に投与された結果なのではないかという説が紹介されている。

 

それまでは加工食品が産まれた結果だとか、あるいは栄養状態が以前と比較して良くなったからだとか、あるいは精製された炭水化物を人類がたくさん食べるようになったからだとか、いろんな高身長や肥満の仮説を読んだものだったけど…

 

まさかそこに抗生剤投与なんてファクターが関与しているかもしれないだなんて、僕は全く思いもしなかった。

もし、気軽な抗生剤投与で太りやすい身体にされてしまったのだとしたら…そりゃダイエットがいつまでたっても上手くいかないわけだ…

 

「子供を持つ機会に恵まれたら、少なくとも小さい頃は抗生剤を与えるのはやめておこう…」

そう思う事必死のエピソードである。

 

私達は己の内なる多様性にあまりにも無自覚だったのではないだろうか?

多様性という概念がある。

リベラル化した私達の社会においては、多様性を守る事が基本的には良きことであるという理念が掲げられている。

 

実際には多様性は実に難しい概念だ。

多様性を本当に保ちたいのなら、わかりあえない人達とも、どうにかこうにか共存する為のシンドイ思いを私達はしなくてはいけない。

 

このように外の世界の多様性の重要性は最近になって実によく語られるようになったけれど、改めて考えてみると私達の内なる世界において多様性の大切さが語られる事はまずない。

むしろ無菌や徹底した消毒など、どちらかといえば私達自身に関して言えば多様性の否定が昨今のブームである。

 

僕も医療人なので昨今のコロナウイルス・ムーブメントでもって「消毒・消毒・消毒」と己の身なりを常にキレイにする事ばかりを考えていたのだが、改めて考えるにこれはまさに多様性の否定行為である。

 

「表では多様性がシンドイが大切だと公言しているのに、己の肉体では多様性を真正面から否定していただなんて…」

「これぞまさにダブルスタンダードじゃないか…」

「ちょっとは自分の肉体王国の多様性の事も考えなくちゃアカンかもしれんなぁ…」

 

”あなたの身体の9割が細菌”を読んで、誠に自分の肉体に対しての内省が欠けていたなと通関してしまった次第である。

自分の身体に限っていえば多様性を保つための努力は難しいものではない。

不必要に抗生物質を飲まず、野菜中心の食生活を心がけ、定期的な有酸素運動を行うのが大切との事である。

 

そうして己の肉体という、内なる一つの人体国家の民が喜んで暮らせるような体内環境を保てばよいのである。

それで自分の内側に限っていえば、よき多様性が保たれる事だろう。

 

僕はこれらの行動を意識するようになって、まるで一つの国家を統治しているかのような錯覚すらおぼえるようになったのだけど、寄生獣としての私達にはこの視点が実は欠けているのではないだろうか?

 

自分の常在細菌の和平を保つ。その為に、細菌達が喜ぶような恩賞を毎日キチンと分け与える。

実は私たちは誰もが己の肉体における王なのだ。そのキングダムをどうやって統治してゆけばよいかは、全て私達自身の王様力によって決定される。

 

「おれ、王様としての自覚が足りてなかったわ…腸内細菌叢、今までスマンかったな」

 

”あなたの身体は9割が細菌”を読むと、そう思えること必死である。ぜひとも御一読をオススメする。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Volodymyr Hryshchenko

毎年300冊以上のビジネス書を読む「The意識高い系、ビジネス書オタク」として、楽しくビジネス書代を浪費している。

そんな私の心を十二分にえぐってくれる、最高のエンタメ本と出会った。

 

『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』である。

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本の帯を見てみると、次のように書かれている。

ビジネス書100冊のポイントを徹底抽出
成功者たちがしている「厳選27の教え」
この1冊あれば他はいらない!
全ビジネスパーソン必携
働き方バイブル!?

『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』表紙の帯より

もう期待しかない。

ついに、ビジネス書中毒に終止符を打ってくれる本と出会えた・・・

ワクワク感が高まるばかりだ。

 

しかし、数ページ読んでみて、わかった。

「この本は確かに、ビジネス書中毒を完治させてくれそうだ」

「ただし、アプローチが予想の斜め上を行きすぎている」

 

あまりに感動したので、その感情をそのままお伝えしたい。

 

『プロセスエコノミー』のお手本がここに

本書の1つ目の魅力は、「発売して約1週間で、Amazonレビューが200を超えている点」だ。

なぜ、こんなにも注目されているのか?

 

それは、『プロセスエコノミー』を素直に実践しているからである。

 

『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』の著者、堀元氏は次のように語っている。

2021年、僕の観測範囲で一番話題だったビジネス書は文句なしに『プロセスエコノミー』だろう。
「成果物を売るのではなく、モノを作る過程(プロセス)を公開してマネタイズする方がいい」という本だ。1冊読んでも特にそれ以上のことは書いていない。読んでなくても読んだフリができる本である。『思考は現実化する』と同じだ。
『プロセスエコノミー』が良い本なのかとか、読む必要があるのかとかいう議論はひとまず置いておいて、僕は本書を作るプロセスを公開してよかったなと思っている。お金にもなったし、何より楽しかった。

『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』p178

このシニカルな語り口がクセになる。

実際に著者の堀元氏は、自身のYoutube『衒学チャンネル』で、ビジネス書100冊をレビューする様子を公開している。

(ちなみに『プロセスエコノミー』は、この回でボコボコに酷評されている)

 

Youtubeをライブ配信して、視聴者とやりとりしながら、本を発売する前からファンを育てていく。

本を酷評しつつも、プロセスエコノミーの学びを忠実に実践して結果を出している様は、まさに「ビジネス書の学びを実践する、お手本」といえるだろう。

 

ビジネス書を鵜呑みにするのは本当に危険

ここからが本題だ。

本書は「ビジネス書の教えを鵜呑みにするのが、いかに愚かなことか」を、溢れんばかりのエンタメ感とともに、突き付けてくれる。

ここが本書の一番の魅力である。

 

例えば、「今ちょっといい?」という掛け声について、『AI分析でわかった トップ5%社員の習慣』の次の文が引用されている。

トップ「5%社員」の一番多い発言は「今ちょっといい?」

『AI分析でわかった トップ5%社員の習慣』p140

普段から周りとこまめなコミュニケーションを取ることで、信頼関係を無理なく育てることができる。

そのためにも、「今ちょっといい?」が効果的なセリフだそうだ。

 

しかし、これと真逆の教えが書かれている本がある。

『よけいなひと言を好かれるセリフに変える言いかえ図鑑』だ。

この本によると、世の中には「相手をイラっとさせることを言っている自覚がない人」が多いらしい。

そのダメな一言の典型例として紹介されていたのが、「ちょっといいですか?」である。

理由は、「”ちょっと”の定義は人によって異なる。この認識のズレが人間関係を悪化させるから」だと。

 

この矛盾点を、堀元氏は次のように指摘している。

ここまでの話をまとめると、こうなる。
①トップ5%社員のいちばん多い発言は、「今ちょっといい?」。
②「今ちょっといい?」は相手をイラっとさせる言葉。

したがって、三段論法を使えば、この結論が導かれる。
③トップ5%社員は相手をイラっとさせている。

直観には反するが、これがビジネス書100冊分析から得られた正しい結論であることは疑う余地がない。僕はAI分析ではなく人力分析を使ったけれど、この分析で得た結論は確かなはずだ。

『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』p123

なんとも皮肉な分析だ。

この調子で堀元氏は

  • 雑談では意味のある話をしろvs雑談では意味のある話をするな
  • 嫌な人とは戦えvs嫌な人とは戦うな
  • ひとつのことをやり続けろvsひとつのことをやり続けるな
  • SNSは見るなvsSNSを活用しろ
  • 嫌な頼みは断れvs嫌な頼みでも断るな

といった矛盾点を、リズムよく面白おかしく、指摘している。

 

まさに「ビジネス書中毒の処方箋となる、最高のエンタメ本」といえる。

 

ビジネス書の教えは、文脈に依存している

本書が伝えたかった教訓は何だろうか?

それは「ビジネス書に書かれている技術や事例は、文脈に依存している。文脈を理解して使わないと、ビジネス書は役に立たない」ということだ。

 

例えば、日本を代表するマーケター森岡氏の『マーケティングは「組織革命」である。』には、次のように書かれている。

かつて私も幼稚なクセがあって、自分の作る戦略やプランは完全無欠に練り上げてから上司のところに持っていき、上司からの質問や突っ込みを全て論破防御するスタイルを主としていました。
(中略)
中には、私が頼ったり巻き込んだりせずに剛速球を投げてくることが嫌でたまらなかった上司とも巡り合いました。その頃の私は、何のためにこの人は、そんな反論のための反論のようなくだらない質問ばかりしてくるのだろうとイライラしていました。
(中略)
今の私であれば、自分の提案にわざと穴をいくつか開けておいて、上司にそこを指摘させて感謝して訂正し、そのプランを上司の付加価値も含めた2人のプランにする、というような芸当もできるのです。

『マーケティングとは「組織革命」である。』

この「自分の提案にわざと穴をいくつか開けておいて、上司にそこを指摘させて感謝して訂正し、そのプランを上司の付加価値も含めた2人のプランにする」の部分だけを切り取って、実践したとしよう。

 

「よし、自分もわざと提案に穴を開けて、上司の承認を勝ち取るぞ」と。

 

一般的なレベルのビジネス戦闘力で、この技術を真似すれば、おそらく

「何だ、この穴だらけの提案書は。ふざけてるのか?」とボコボコにされるだろう。

 

今のは極端な例だが、ビジネス書の教えを「文脈から切り取った状態」で使用すると、ロクな目に合わない。

 

「自分の提案にわざと穴を開けておく」

この技術は、「圧倒的な論理的思考力を持ち、そのキャラが社内で認知されている森岡氏」だからこそ効果的なのだ。

 

もし、この技術を実践したいのであれば、森岡氏と同じように「圧倒的な論理的思考力を持ち、そのキャラが周りに認知されている」必要がある。

 

もう少し方法論チックに書くと

  1. ビジネス書に書かれている事例・技術を把握し(提案にわざと穴をあける)
  2. 2の裏側にある文脈を理解し(森岡氏は圧倒的な論理的思考力を持っている)
  3. 3の文脈が自分にも当てはまるかを照らし合わせて(自分も圧倒的な論理的思考力を持っている)
  4. 「筆者の文脈≒自分の文脈」であれば、ビジネス書の教えを実践してみる

というプロセスを踏むことで、はじめてビジネス書の教えを再現できる。

 

この点を無視して、ビジネス書の教えを鵜呑みにしていると、

「”提案は準備が9割”って本で読んだぞ。抜け目ない提案書を作らないと」

「いや、提案が完璧すぎると、上司に嫌われるかもしれない。だから、穴をわざと用意しないと。『マーケティングとは「組織革命」である。』に書いてあったから、間違いない」

「あれ、穴を用意して提案したらズタボロにされたぞ。よし、次は『〇〇コンサル流 提案書の作り方』を読んでリベンジするぞ」

・・・と、ビジネス書に振り回されるわりになかなか良い結果を出せない「ビジネス書中毒」に陥ってしまうかもしれない。

 

「ビジネス書に書かれている技術や事例は、文脈に依存している。文脈を理解して使わないと、ビジネス書は役に立たない」

堀元氏の本は、この教訓を心に刻んでくれた「最高のエンタメ本」であった。

 

 

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【プロフィール】

本山 裕輔

PwCコンサルティングを経て、現在はグロービス経営大学院でDX(デジタル・トランスフォーメーション)を推進中。

趣味で書評ブログ「BIZPERA(ビズペラ)」を運営。

■著者関連外部リンク

ブログ:BIZPERA-ビジネス書評はペライチで-

Twitter:@logichan01

Photo by Paul White

最近、人間の意志なんて当てにならないなぁ……と思うことが増えてきた。

 

いや、ざっくり「人間」といってしまうと、強い意志をもって大きなことを成し遂げた人たちに失礼かもしれない。

でもわたしのように、意志が弱くてすぐ楽なほうに流されてしまう人は多いんじゃないだろうか。

 

意志の弱い人間が意識を変えたって、どうにもならない。

変えるべきは、まず行動なのだ。

 

「タイマーをオンにすれば、モチベ関係なくやらなきゃって気分になるよ」

少し前から、夫が「毎日30分家事をする」というマイルールを自分に課している。

残業した日でも変わらずに、ちゃんと30分家事をするのだ(主に掃除)。

 

「もう3か月くらい続いてるよね」と言ったところ、「大事なのはとにかく行動することだから」だと言う。

「今日はどこを片づけよう?と考えずに、タイマーをオンにして目についたものを片づけていく。モチベーションがどうであれ、タイマーを回したら人間『なにかしなきゃ』って気になるから、そうすれば続くよ」と。

 

なるほど、たしかにそういうものかもしれない。

でもその「続ける」というのが、一番むずかしいんじゃないか?

 

そう思ったものの、よく考えたら、やらなきゃいけないことをやるのに強い意志は必要ないことに気づいた。

毎朝それなりの時間になったら起きるし、なんやかんや仕事するし、適当にご飯を作る。

モチベに関係なく、「やらなきゃいけない」と認識したら、人間ちゃんとやるものなのだ。

 

やらない、すぐやめてしまうっていうのは結局のところ、「やらなくてもいい」と思っているからなのだろう。

「やらなくてもいい」という甘えがあるからこそ、その甘えを遠ざけるために、「行動するもっともらしい理由」を求めるわけで。

 

夫のように、理由づけをせず意志に頼らなければ、「やるべきことだから」と案外かんたんに続くのかもしれない。

 

意識が変わるのを待っていたらいつまでも行動しない

なにか行動に移すとき、まず思うのは「意識を変えよう」だ。

「『これをやるべき』という強い意志を持ってやり遂げよう」と。

 

わたしもそう思ってたんだよね、「意識を変えたら行動が変わる」って。

いや、正確にいうと、「行動するためには意識を変えないといけない」だろうか。

 

そのためにそれっぽい目標を立ててみたり、自分へのご褒美を設定してみたり、習慣化するようにスケジュールを組んでみたり……。

 

でも結局うまくいかず、投げ出してしまっていた。

きっとそれは、順番が逆だったからなんだ。

「意識を変えたら行動が変わる」のではなく、まず行動を変えるべきだった。

 

……ということを書いている本があるので、紹介したい。

意識を変えて行動するのではなく、行動を変えることによって意識が変わるのです。
行動をしてみたら変化が起きたことを自覚し、「行動を起こすことに価値がある」という意識に変わるのです。
出典:AI分析でわかった トップ5%社員の習慣

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本書では働き方改革に触れており、「組織全員が『働き方改革が必要』と意識が変わるまで待っていたら何年もかかります」と断ったうえで、「半ば強制的に行動の一部だけを変えて、内省によって学びを得」ることがよいとしている。

 

いやはや、まったくもってそのとおりだ。

意識が変わるのを待っていたら、いつまでたっても現状のまま。まず行動すれば、それによって、しぜんと意識は変わっていく。

 

「やるべき理由」より「やらなくていい理由」のほうが魅力的

そもそも「意識を変える」とは、それらしい理由を並べて自分を納得させるということだ。

家事の例で言えば、「家が片付いていたほうが居心地がいい」だとか、「着替えが必要だから今日洗濯しなきゃいけない」だとか、「清潔な家だと健康的に生活できる」だとか、そういう理由を並べて「だから掃除しなきゃいけないんだ」と考える。

 

「こういう理由があるからやるぞ」とモチベを高め、強い意志をもって、行動に移すわけだ。

でもそれって、裏を返せば「今日はそんなに散らかってない」「あしたは休みだし着替えはいらないや」「アレルギーなんてないから平気でしょ」のように、それらしい反論ができてしまう。

 

わたしのように自分に激甘な人間は、「やるべき理由」で自分を納得させる前に、「やらなくていい理由」を見つけて飛びついちゃうのだ。「じゃあ今日やらなくてもいいよね」と。

 

やるべき理由を並べて自分を納得させるより、やらなくていい理由を見つけて安心してサボるほうが、圧倒的に楽だから。

 

だから「意識から変える」なんてのは、強い意志を持って行動できる人のみに許される方法なんだよ。

自分に甘っちょろい人間の意識が変わるのを待ってたら、いつまで経っても、なにもはじまらない。

 

サボる理由なんていくらでも見つかってしまう

話は変わるが、実は最近、わたしはドイツ語の勉強を再開した。

10年前ドイツに留学していたときは必死に勉強していたのに、大学卒業後移住してフリーライターになってからというもの、まったく勉強しなくなってしまった。

 

「日常生活でたいして困ってないし、もうドイツ語を勉強する必要ないしなぁ~」と、なんやかんやもう5年以上まったく勉強していなかったのだ。

でも最近ドイツ語能力の著しい低下を感じ、「これはいかん!」と一念発起。

 

……したのだが、いかんせん腰が重い。

単語帳を開いても、「ほんとにこんな単語使うかなぁ」と思ったり、リスニングのためにニュースを聞いていても、「日本語のニュース見ればわかるしなぁ」と興味をなくしてしまったり。

 

で、気づいたら「今日は犬の散歩ですごく疲れたから」だとか、「仕事いっぱいしたから」だとか、なにかしら理由を見つけてサボろうとする。

「ドイツにいるならドイツ語をもっと勉強するべき」「将来役に立つときが来る」なんてもっともらしい理由があっても、「でも今日はいいや」が勝ってしまうのだ。

 

頭で考えて納得してから行動しようとすると、その過程で「やらなくていい理由」を見つけ、それを盾に投げ出してしまう。

怠惰で意志の弱い人間の思考回路なんて、所詮その程度。

 

だから、夫の言うことが正しいのだ。

「行動する理由を考える必要なんてないんだよ。やればいいんだよ、やればさ」と。

 

行動すればそれに合わせて考え方も変わっていく

それを夫に言われたとき、

「いやだから、その行動を起こすまでに強い意志が必要なの!」

と反論したくなったが、それ自体がそもそもまちがっているのだ。

 

行動を起こすのに理由が必要な人は、あれこれ考えてやらなくていい理由を見つけ、結局やらなくなる。現に、わたしがそうだ。

 

でも、やらなきゃいけないものに対しては、そうじゃない。

いくら眠くても、面倒くさくても、上司がウザくても、だからといって「仕事をやらなくていい」とはならない。

「やらなきゃいけないから」と、モチベや意志にかかわらずにちゃんとやる。

 

ほら、待ち合わせにしょっちゅう遅刻してくる人でも、大事な会議なら朝早く来るじゃない? それと同じ。

「そういうもの」だと思えば、人間ちゃんとやるんだよね。だいたいは。

 

だから、ドイツ語の勉強を、することにした。

「この時間にこれくらいの長さでこれをする!」といった学習計画は立てず、「とりあえず毎日なにかしらドイツ語の勉強をする」。

 

YouTubeでドイツ人ストリーマーの配信を見るのでもいいし、単語帳に3つ単語を書き込むだけでもいい。

仕事の合間にやってもいいし、寝る前にやってもいい。

 

悪魔が耳元で「今日やらなくたっていいじゃないか」とささやいても、「まぁ単語帳パラ読みくらいはしよう」と、なにかしらの行動で、その誘惑に抗う。意志で抗おうとしてもムダだ、わたしの意志は弱い。

 

するとどうだろう。

意識がどんどん変わっていくではないか!

 

日常生活で聞きなれない単語があればメモしておいて、あとで意味を調べよう。

日本で気になったニュースがドイツでどう報道されているか、比較してみよう。

 

そうやって、考え方がしぜんと「ドイツ語を勉強すること」を前提に変わっていった。

そうすると、勉強もどんどん楽しくなるし、なにもしないと落ち着かなくなってくる。

 

意識を変えたら行動が変わるんじゃない、行動を変えたら意識が変わるのだ。

 

行動する理由を考えるな、まず手を動かせ

行動に移すために強い意志が必要だと思ったけど、そうじゃなかった。

「やるべきこと」だと思えば、強い意志なんてなくともちゃんと行動するもの。

だから、理由とかモチベとか関係なく「これをやる」と決めて、それをやればいいだけ。

 

「行動に移すその第一歩に強い意志が必要」というのは、自分の意志を信用しすぎだ。

 

それらしい理由が存在すれば、自分がちゃんとやる人間だと思っているんでしょ?

いやいや、そんなことはないよ、残念ながら。

「やるべき立派な理由」より「やらなくてもいい免罪符」を見つけてサボるからね、どうせ。

 

知ってるんだ、わたしは。だって自分がそうだから。

 

自分に甘い人間は、四の五の言わずにやれ。

考える前に、手を動かせ。そのあと考えろ。

 

わたし自身が何度も何度も投げ出してきたから、わかるんだよ。

自分の意志なんてこれっぽっちも信用できないってこと。

 

「やるべき理由」より「やらなくていい理由」を先に見つけて、言い訳に使うってこと。

 

ジョギングするって決めたはずなのに、ちょっと雨が降ってるだとか、ジョギング用の靴を持っていないだとか、あした早く起きなきゃ行けないからとか、そうやって後回しにする。

5分でいいから、ちょっと一回り走るだけで、すべてが変わるのに。

 

だから、とにかく行動せよ。意識は後からついてくる。

行動する理由を考えるな。そうすべきだと思ったら、それはやるべきなんだ。

 

というわけで今日もドイツ語の勉強、がんばります!

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Priscilla Du Preez

つい先日、取締役がコンプライアンス意識皆無のマーケティング戦略を披露し、大炎上した某牛丼チェーン。

すでに各メディアが総力を上げて問題を指摘しているが、当人が笑いながら話したとされる言葉の中で、筆者がとりわけ気になったのは次の部分である。

 

「男に高い飯を奢ってもらえるようになれば、(牛丼は)絶対食べない」*1

 

役員の身でありながら、すがすがしいまでの自社商品に対する低評価。

それはともかく、この方の脳内には「高い飯」=「美味いもの」という固定観念が歯石のごとくこびりついているように思える。

 

そこで突然ではあるが、皆さまにひとつの問いを投げかけたい。

「本当に価値のあるグルメ体験とは何か?」

 

それはやはりTVで紹介された有名店とか、捕れたての魚を食わしてくれる店とか、そういうところのメシではあるまいか。

……といった思いを持たれる方がいたとしたら、自分はこう反論したい。

 

「どれだけうまいものを食っても、心に刻まれなければ意味がない」

逆に言えば、あなたにとって感動があったなら、牛丼だろうが自炊飯だろうが、立派なごちそうということだ。

 

あえて持論、というか暴論を言うなら、メシは味が全てでは決してない。

ましてや素材がどうこうといった話でもなければ、値段なんてどうでもいいんである。

 

突っ込まれる前に一応言っておくと、これは自分が高い飯、もしくはうまいものを食ったことがないから言える強がりでは、断じてない(たぶん)。

自分なりのグルメ観を求めてさまよった長年の経験に基づく信念である。

 

金を積めば食べられる高級料理など、その多くは時間が経てばやがて記憶から薄れていく。

それに対し、人生の忘れられないある瞬間、ある思い出の中に組み込まれた「食」は、生涯心に残るものだ。

 

そのような思いを込めつつ、自分が時に感動し、また時にはのけぞるほどの衝撃を受けたメシ話をご紹介したい。

 

1袋100円の「新じゃが」が教えてくれたこと

もう十数年の付き合いになる親友の家に、ヒゲさん(仮名)という居候がいた。

外見は、エヴァンゲリオン1號機のような体型にグラサン、ロン毛というインパクト系の40代である。

 

本業は解体工で、長身を生かした「壊し」の技は誰もが一目置くものだそうだが、同時に根っからの遊び人で、追い込まれないと働けないタイプ。

また、実に寡黙な性格で、ややこしい過去があるのか一切自分語りをしない。

そして、独り身が長いせいで自炊の腕はプロ並みという、思わず嫁ぎたくなるほど渋い男なのだった。

 

そんなヒゲさんがある日、何かのお祝いでメシをごちそうしてくれると言い出した。

彼に金がないことは、自分も親友も知りすぎるほど知っている。

嬉しいけれど、何だか申し訳ないと感じていたが、

「絶対食ったことないうまいもの、教えてやるよ」

なんて向こうからハードルを上げてきたから、「だったら”魅せて”もらおうか」と気合いを入れて、一期一会のメシに挑んだ。

 

先に結論から言うと、彼は炊飯器の設定を間違え、「保温」で米をたいてしまったようで、ごめんねえと謝られた。

ヒゲさん、そういうところだぞ。

と思っていたら「代わりに芋、食おか」と言って、両腕で抱えるほど大きな火鉢の灰を、曲がった火箸でほじくり始めた。

 

炭をどけて、中に埋まっていたホイルの包みを取り出すと、出てきたのはほくほくの新じゃが。

「1袋100円、安いでしょ。そこのスーパーで買ったんだけど、炭の下に半日入れといたから。でんぷんは、ゆっくり加熱するほど甘みが出るんだよね」

いやはや、うちらのためにそんな手間のかかることを、してくれていたとは……。

 

値段にすれば1個当たり10円もしない新じゃがだが、まるで極上のデザートのように滑らかな甘さと口当たり。

これは確かに、今まで食べたことがない。

ヒゲさんの、温かいもてなしの心。

金なんてかけなくてもうまいものは食えるという驚き。

そして何より「このオヤジ、伊達に長く生きてないな」という見直した感も相まって、最高のグルメ体験となった次第である。

 

このエピソードから自分が伝えたいのは、メシにはサプライズ感や人の思い、心に残るメッセージがあった方が記憶に残るということだ。

その点で、自分にとってもうひとつ忘れがたいのは、アジアの片隅で食べた極上のうな重である。

 

筆者が海外を放浪していた頃、クーデター発生前のミャンマーに何度も行き、首都ヤンゴンでひとりの日本人と出会った。

見るからに好青年、でも話を聞くと「今までよく生きていましたね」と言うしかない壮絶な人生を送っており、現在はヤンゴンでうなぎ屋をやっているという。

 

「これからはアジアの時代、俺は英語もミャンマー語もできないけれど、うなぎ職人としては誰にも負けない」

だから絶対成功する、ミャンマーに日本のうなぎ文化を広めてみせるーーといった感じで、放っておいたら身体が自然発火しそうなほどに熱い男なのだった。

 

そこまで言われて、行かないわけにはいくまいて。

というわけで次にミャンマーを訪れた際、教えてもらった場所を訪れた。

 

うらぶれたヤンゴンの裏路地を進んでいくと、視界に入ってきたのは半裸姿で遊ぶ現地の子供、そして場違い過ぎる大将のうなぎ料理店。

 

「いや、よく来てくれた、とにかく俺のうなぎを食ってくれ!」

そう言って、大将はミャンマー人スタッフに、炭火もっと強く起こしてだの、3番テーブルおあいそだのと、日本語でハッパをかけまくる。

 

ところが、スタッフはことごとく日本語を解さない。

「そんな串打ちで、客に出せるか!」

いや、それ絶対伝わってないからと思いつつ、待つこと30分。

嫌な予感とは裏腹にちゃんと頼んだうな重が出てきて、その味といったら日本国内の専門店に全くひけを取らないものだった。

 

「ここのうなぎは日本と品種が違うけど、俺が毎日市場に行って仕入れてるから、間違いないよ」

 

言葉が通じないのにどうやって交渉しているのか、いやそもそも、この店は1カ月後も存在しているのか。

いろいろと思いを巡らせつつも、自分はこのうなぎに、大将の心意気をみた。

人間、やってできないことはない。

 

嘘だと思うなら、俺を見ろーー。

それはまるで演歌のようにこぶしの効いた味であり、メッセージ。

だからこそ、もう5年も経つのに、あのうな重がどうしても忘れられない。

 

ちなみにその大将は、現在クーデターで大混乱の最中にあるミャンマーに、なおも残り続けている。

自分に元気をくれたあのうな重を再び食える日が来ること、そして美しきミャンマーに平和が訪れることを、今はただ願ってやまない。

 

危険と隣合わせのメシもまた格別

人間、好きこのんで危険な目に遭いたい人は、まずいない。

かといって、毎日同じことの繰り返しも退屈すぎる。

たまにはちょっとした刺激が欲しい、生存本能にスイッチが入る体験をしてみたいと思うのもまた、人のサガというものだ。

 

自分の場合、そんな冒険欲をメシでうっかり満たされてしまったことがある。

ややこしい過程を一切はぶくと、中国の福建省を旅行していた際、赤の他人の結婚式にお呼ばれする機会があった。

 

向こうの人は、冠婚葬祭で人が集まれば集まるほど、メンツが立つと考える。

さらに外国人への物珍しさもあったのか、全く面識のない人々からとてつもない歓待を受けてしまった。

 

それはいいとして、問題はメシである。

中華フルコースのメインディッシュとして出されたのは、カブトガニの姿焼き。

日本なら天然記念物、というかそれ以前に、カブトガニには毒がある。

確か、昔行ったタイでも目にしたが、「肉は毒があるから卵だけ食べろ、でも卵にも毒が少しあるからほどほどにな」と言われた記憶がある。

 

いや、お気持ちだけで結構ですと言いたかったが、そこは中国。

「これはこの地域にしかない料理だから、食ってくれ!」

「外国からせっかく来てくれた客人に、食わせないわけにはいかない!」

「俺たちは子どもの頃から食っている。毒があるなんて嘘っぱちだ!」

あらゆる言葉で先回りして、退路を断ってくるのだった。

 

もちろんそこに悪意はないのだが、自分にとっては一歩間違えたら死ぬかもしれない押し売りの善意である。

まあ、最悪でも入院くらいで済むだろう。

そう思い、意を決して食ってみると、想像以上にあっさりとしていて、上品な味。

フグと同じくテトロドキシンを持っていると聞いていたものの、身体がしびれたりはしなかった(でも皆さんは絶対真似しないように)。

 

思ったよりイケますねと周りの人に言うと、返ってきた言葉は、

「だから言っただろ! これは酒も進むから、ぐっといけ。たくさん食っても、アルコールで消毒すれば大丈夫だ!」

……って、やっぱり毒、あるんじゃん。

 

幸い腹を壊すことなく、命も落とさなかったけれど、あの時流した冷や汗と、初めて食べたカブトガニの味は、今でも忘れることができない。

 

さて、ここまで語ったメシ話は、皆さまの食欲を全く刺激しなかったに違いない。

だが、ありきたりなグルメ観に対し、自分なりに反抗のメッセージを込めたつもりである。

 

本当に価値のある食体験とは、いつでも記憶の戸棚から引き出して、幾度となく味わい返し、そして誰かに語り伝えられるもの。

高い飯について語ったところで、下手すれば単なる自慢話と捉えられるのがオチ。

しかし、自身が体験した心震えるグルメ体験ならば、きっとその感動は他者の共感を呼ぶはずだ。

 

皆さまがそんな素晴らしいメシに出会えることを、心より祈っている。

食いしん坊、バンザイ!(古いか)

 

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BUSINESS INSIDER「吉野家『生娘をシャブ漬け戦略』抗議した受講生が詳細語る。『教室で笑い起きた』

 

 

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【プロフィール】

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。

Photo  by: Jun OHWADA

2021年を象徴する2つの“空(くう)”「スペース」と「メタバース」

コロナ禍が色濃く残った2021年、実社会の閉塞感を打ち破る号砲の如く表舞台に躍り出た2つの“空(くう)”があります。

宇宙空間(Space)と仮想空間(Metaverse)です。

 

宇宙空間については、イーロン・マスク率いるスペースXが民間人だけでは世界初となる地球の軌道周回を成功させたのを皮切りに、ヴァージン・グループ創業者リチャード・ブランソンやアマゾン創業者のジェフ・ベゾスらが、自らの宇宙開発会社のロケットで宇宙へと飛び立ちました。

彼らによる宇宙からのライブ配信に釘付けとなった方もいらっしゃるでしょう。

 

そのような最中、彼らとは異なるヴィジョンを示したもう一人のビリオネアがいました。

フェイスブックの創業者、マーク・ザッカーバーグです。

 

彼が初めて公の場で「メタバース」構想に言及したのは、2021年7月下旬のことです。

8月には、傘下のオキュラス(ヘッドマウントディスプレイなどのハードおよびソフトウェアブランド)から新VRプラットフォーム「Horizon Workrooms」を20か国で一斉リリース。

そして迎えた10月下旬に発表されたのが、新社名「メタ・テクノロジーズ(以下、メタ)」でした。

「メタバース」という言葉は瞬く間に地球を駆け巡り、にわかに関連株が買われる騒動となりました。

 

今回の社名変更には、昨今のフェイクニュースの拡散やユーザの心の健康を軽視する内部告発などの影響を受けた、同社の評判を刷新したい思惑が見え隠れします。

ただし、「メタバース」をそれだけだと決めつけるのは時期尚早です。

現に、マイクロソフトはメタよりも先行して、3月にTeamsと連動したメタバースプラットフォーム「Mesh」を発表しているほか、多くのテック企業がメタバースに注目し、新たな取り組みを始めつつあります。

 

では、なぜ「メタバース」がこれほど注目されるのでしょうか。そもそも「メタバース」とは何でしょうか。

 

そもそも「メタバース」とは何か?

メタバースとは、“meta(超越した)”と“universe(世界)”を合成したSF小説由来の造語で、改めて定義するならば、人が疑似的に中へ入って“活動する”ことを前提として、サイバー上に作り出した三次元の仮想空間を指します

“一時停止する”あるいは“電源をオフにする”、という感覚はなく、いつでもそこに存在し、ユーザがアバターと呼ばれる分身になり替わって仮想空間へ入り込み、現実世界と同じく、身体活動を伴うコミュニケーションから経済活動まで幅広く行うことを志向しています。

その没入感と、同時多数が空間を共有する一体感が特徴です。

 

メタバースの産業構造

(出典)筆者作成

 

では上記の図を参照しながら、産業構造を整理して理解を深めてみましょう。

メタバースは比較的新しい概念とは言え、インターネットビジネスで馴染みのあるレイヤー構造の最上位レイヤー、つまり、コンシューマー/エンタープライズのユーザが直接触れるアプリケーションなどが「超現実」になったものです。

 

具体的なイメージを挙げるとすれば、2018年のスピルバーグ監督の映画『レディ・プレイヤー1』で描かれたヴァーチャルの世界で人生を生きる仮想空間「OASIS」です。

「OASIS」は、日常的に人々が過ごすメタ空間です。つまり、メタバースの進化した姿だといえます。

 

我々の現実の世界に目を向ければ、世界的アーティストのライブ配信に1000万人超が同時接続したオンラインゲーム『フォートナイト』や、コロナ禍で人々が熱中した『あつまれ どうぶつの森』の中に、メタバースの萌芽が見られます。

 

一方、下位のレイヤーをみてみましょう。

ネットワークインフラ、デバイス、XRプラットフォーム、決済/広告/IP、マーケットプレイスなど、レイヤー自体にそれほど大きな驚きはないものの、これらにメタ、マイクロソフトの既存ビジネスをマッピングすると、垂直統合を志向するテックジャイアント2社の優位性が浮かび上がってきます。

 

では、新興企業をはじめ、これからメタバースへ参入する企業にチャンスは無いのでしょうか。

下位から上位まですべてのレイヤーを網羅できなければ勝ち目はないのでしょうか。

 

メタバースの市場形成期におこる正のフィードバックループ

インターネット黎明期に先行者利益を得たプラットフォーマーを思い出してください。

彼らはECや動画メディア、ソーシャルネットワークなど直接ユーザ接点を持つ上位レイヤーでユーザをグリップすることで、下位レイヤーへの影響力を高めていきました。

その後のネットフリックスの台頭などをみても、ボトムアップの垂直統合が必ずしも独占的な勝者になるとは限りません。

(出典)筆者作成

 

メタバース市場においても同様に、新たな参入者の登場で市場が活性化すると、下位レイヤーへの投資が加速し、新たな技術・ビジネスモデルが生まれ、さらに市場が拡大する、という正のフィードバックループが回り始めると考えられます。

そして、市場の拡大は、各レイヤーでXaaS(X as a Service;クラウド環境でソフトウェアなどを提供するサービスの総称)として水平方向のビジネスを志向するプレイヤーをさらに活性化することになるでしょう。

 

参考.メタバースの応用例:フィットネス領域のメタバースを標榜するZWIF

 

では、実際にメタバースを利用する企業にはどのようなメリットがあるのでしょうか。

(次回に続く)

 

(執筆:八尾 麻理)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by Dima Solomin

子供の勉強を見ていたら、「抗体」という言葉が出てきた。

小学生のテキストなのに、難しい言葉が出てくるなあ、と思い、子供に「こんな難しい言葉つかってるの?」と聞いたら、「意味を知らない」という。

 

すでに勉強を終えた範囲だったので、

「辞書で調べなかったの?」

と聞くと、「調べてない」と言った。

 

辞書を引きなよ、と子供に言ってから、ふと思った。

「子供のころ、辞書を引く習慣は私もなかったなあ」と。

 

 

子供に言っておきながら何なのだが、私が辞書を引く習慣を叩き込まれたのは、社会人になってからだった。

というのも、入社したコンサルティング会社で、「辞書を引くこと」が大変重要視されていたためだ。

 

事実、会社は「知らない言葉はすぐに調べる」を方針として掲げており、勉強会へ出席するときには、必ず辞書を携帯せねばならなかった。

 

専門用語は「定義」を知らないと、すぐに周りのコンサルタントから総ツッコミを受けるので、これも必ず用語集や、各種資料で調べなければならない。

また、提案書に書く言葉、報告書に書く言葉、テキストに書く言葉などもちろん、適当であってはならず

「正確であること」

「出典をあたること」

も、求められていた。

 

自分の完全な言葉の理解なしに、人に説明できることはできない。

だから、上のことを実行しなければ「コンサルタント失格」、つまり社員として当然の義務を怠っているとみなされた。

 

 

しかし、こうした指示にも関わらず、それを確実に実施しない人も中にはいた。

 

例えば顧客の資料の中に「変更管理」という言葉があった。

非常に重要な、会社の仕組みだ。

 

担当はそれをわかっているだろうか。

それを確かめるため、試しに、担当のコンサルタントに、「ここでいう変更管理とはなにか」と聞いたことがある。

 

変更管理は、「変更」と「管理」の両方の正確な定義を知らねばならない。

また、当時の顧客の行っている変更管理について議論するためには「PMBOK」などのベストプラクティスなどを読み、変更管理の目的や、理想のしくみを知っている必要もあった。

 

そのコンサルタントは、口ごもりながら「品質に関連する変更を監視することですよね」と、説明になっていない説明をした。

すると、そばにいた同僚のコンサルタントが、「それでお客さんのところに行ってるの、本当にマズいですよ。」と厳しいコメントをした。

 

実際、そのとおりで、彼は資料にある言葉や、お客さんのところで出てくる、知らない言葉も、帰社して調べていなかった。

これでは語彙も知識も増えず、コンサルティングの質も上がらない。

顧客に迷惑をかけてしまう可能性が高い。

 

その場にいた上司は、厳しく言った。

「すぐに調べる習慣」を実行しないのであれば、仕事を任せるわけには行かない、と。

 

 

一体なぜ、これだけ厳しく言われているのに、かれは「知らない言葉」を調べないのだろう。

 

彼は決して、頭が悪い人間ではなかった。

良い学校を出ていたから、おそらく、成績も良かっただろう。

 

しかし彼は「自分がわかっていない、知らない」ということについての認識が、非常に鈍かった。

 

すでに知っていることだけに強い関心を示し、自分の知らないことはスルーする。

わからない言葉については、「知っておく必要あります?」という態度。

 

これでは、コンサルタントとしての能力は向上せず、知識も語彙も増えない。

結果として、将来に渡って、大した仕事もできないだろう。

 

社会人の勉強というのは、全く新しいことを積極的に学ぶことも大事なのだが、それ以前に「今やっていること」の中で、自分が「きちんとわかっていないこと」を認識することが大事だ。

 

新しいことをつまみ食いしても、それは「上っ面の知識」でしかない。

そうではなく、「今やっていること」を突き詰めて、「自分は本当に理解しているのだろうか」を自分に問いかけて、突き詰めた人だけが、プロフェッショナルとして仕事ができる。

 

そして、その知識は、実務をもとにしているので「真の知識」とようやく言える。

 

 

子供に「辞書を引きなよ」というと、面倒くさそうな顔をした。

そこで「一緒に調べよう」と言ったら、顔が輝いた。

 

調べてみると、私も知らなかったような、新しい知識があった。

子供は嬉しそうに言った。

「辞書って面白いね」。

 

そう、知らないことを知るのは、本当は楽しいことなのだ。

大人になると、いつの間にか、忘れてしまっていることあるのだが。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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[amazonjs asin="4309300014" locale="JP" title="人生がうまくいかないと感じる人のための超アウトプット入門"]

おれは医者ではない。医学生でもない。患者である。精神障害者である。双極性障害(躁うつ病・双極症)II型である。手帳持ちである。「当事者」と呼ばれる人間である。

 

おれはおれの病気について語るのが好きだ。

自分に興味があるというか、自分に取り憑いた病気に興味があるというか、なんと言うていいかわからないが、とにかく自分の病気について発信したいという気持ちがある。

 

そして、発信する前に、自分の病気について知りたいという気持ちがある。

当事者の、そして医師の話を聞きたいと思う。なので、いろいろな精神病の本などを読む。

 

これがおれだけの話なのか、双極性障害の人間ならではなのか、病気になった(障害を持った)人間ならではなのかはわからない。

 

というわけで、精神科医の書いた本などを読む。

すると、たまに出てくる名前がある。神田橋條治である。

 

最初に見かけたのは中井久夫の本だったと思う。

『双極II型障害という病 -改訂版うつ病新時代』

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神田橋條治は双極性障害に対して「気分屋的に生きれば、気分は安定する」という標語をあみ出した。達人の真似はしない方がよいかもしれぬが、心にとめおきたい言葉である。

「達人」とはなんだろうか。

いろいろ他の本も読むうちに、だんだんわかってきた。なるほど、「達人」なのだ。

 

精神科医の斎藤環は「Oリングとか気功とかは話半分に聞いて」みたいなことをどこかで書いていたが、「尊敬する」とも述べている。

そういうタイプの精神科医、臨床家だ。まさにカリスマ的存在。

 

で、躁うつ病を患っていた坂口恭平の本で間接的にその言葉に触れたりもした。

坂口恭平『躁鬱大学』

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この本は、神田橋條治の躁鬱病(坂口はこの呼び方をする。おれは双極性障害とするべきか、躁鬱病とするべきか、双極症とするべきか決めかねている)についての語録をベースに書かれている。

 

「神田橋條治 医学部講義」

で、今度は直接講義録を読んでみようと思った。

あらためて言うが、おれは医者でも医学生でもない、高卒の精神病者だ。

図書館ではいろいろな本が借りられるので、図書館はおすすめだ。

 

『神田橋條治 医学部講義』

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九州大学で医学部の四年生相手に年一回とか行われる講義らしい。もちろん、専門的な用語も出てくるが、べつにそんなに難しいことは言っていない。

そして、面白い。医者はこんなこと考えたりするのかとか、そんなん思った。精神科に限った話ではない。

 

とはいえ、「達人」、「カリスマ」、ひょっとしたら、「異端」、「トンデモ」かもしれない人の話であることにも注意だろう。

はっきり言って、精神科医の間で神田橋條治がどういう名前なのか、おれにはわかりやしないのだ。

 

というわけで、いくつか「語録」からメモをとっておきたい。

 

「治療を介しての診断」を行う

「診断が決まって、次に治療法が決まる」というようにばかり考えていたら、コンピュータ程度の頭になります。そうではなくて、「こんなふうになりそうだから、診断はこうだろう」というあべこべの、「治療を介しての診断」を行うんです。

まだ治療していなくても、治療のイメージと、そのイメージに合致するような、辻褄が合う未来像から、現在の診断を決めるというやり方も、感受性を高めますし、誤診をなくします。

なぜかと言うと、未来が今の中にちょびーっとあるのよ。「未来がこうなりそうかな」と思うと、今の中にほのかに現れている未来が見える。そうやって出来上がった診断は、未来を目指しての治療も含んでいる。これは一般医学の場合も、精神医学の場合も変わりません。

EBM(Evidence-Based Medicine)の考え方では出てこない言葉かもしれない。

本人も「一種の芸であり、術です」といっている。

医療に限らず、すべてが標準化していくなかでも、こういう「芸」は認められていくのであろうか。

 

個人的には、「達人」が存在してくれる世の中のほうが面白いとは思うが、効率的な世界ではないかもしれない。

医療の診断など、すべてAIがやってくれるような世の中になってくるかもしれない。

 

意志が弱い人はうつ病になれない

ボクはうつ病の人が来たら、こう言うの。「意志が弱い人はうつ病になれない」と。これは覚えておくと、将来、みなさんも使えます。

意志が弱い人はいい加減なところで、「あーあ、やーめた」とか言ってやめて、すぐギブアップして、脳という臓器を極限まで使わないから、うつ病にならないの。これは相当確かです。意志が弱ければ、うつ病にはなれない。なろうと思っても、なることができない。意志が弱くて、そこまで脳を使わないからね。

と言っても、意志とは心でしょう。心は脳の機能の現れなんですから、「意志が弱い」というのもやっぱり脳の機能の現れじゃないか。その脳の機能を極限まで使って、脳がくたびれたということじゃないか、というふうに理論を進めることは正しい。しかし、それでは実用的ではないんですね。

ここに脳というレベルがある。これは生化学的なもので、どんどんいろいろな知見が出ています。しかし、脳の機能の現れである心を、全部、科学的に、科学の言葉に翻訳して説明することはできない。

「意志が弱い人はうつ病になれない」。これ、どうなんだろうか。よくわからない。

そもそもおれはうつ病(大うつ病性障害)ではないし、身近にうつ病の知り合いもいない。

 

「冗談じゃないぞ、おれは意志が弱いけどうつ病になったぞ!」と怒る人もいるかもしれない。

でも、長年の臨床での経験から言ってるのだから、なんとなくそうなのかもしれないな、と思わされる。

 

こういうとき、「うつ病」ではなく「躁うつ病」という、似て非なる(たぶん「躁うつ病」は統合失調症に近いのではないか。だって、同じ薬を処方される)病気の持ち主としては、やや戸惑うところである。

で、おれはといえば、どうなのだろうか? やっぱり「あーあ、やーめた」の方に転びやすいので、「うつ病」とは違うのかな、などと思う。気ままな躁うつ病。

 

まあともかく、神田橋條治も、今のところは的なことを言っているので、いずれは人工知能などもできたりして、あるいは心も科学の言葉に翻訳される時代も来るかもしれない。

 

多くは自然治癒力でよくなる

治療される側から医療を、精神療法に限らず医療を見てみると、たいていの病気は何もせんでも治る。風邪をひいても、放っておけば治る。生体には必ず自然治癒力というものがあるの。自然治癒力でたいていよくなります。

たとえば失恋すると、悲しかったり、何かしらあるけれども、放っておけば「時間が薬」でだいたいよくなる。あとに少し心に傷が残るようなことはあっても、PTSDというほどにはならない。多くは自然治癒力でよくなるの。

だけど友達が来て、一緒に酒でも飲んだり、話を聞いてくれたり、慰めてくれたりすると、もっと早く心が癒やされる。これは精神療法。お月様を見てよくなるのも精神療法。金も払わんし、オフィスにも行かないし、難しい言葉もないけれども、やっぱり精神療法。治るんだ。

「多くは自然治癒力でよくなるの」というのは、一歩踏み外したり、突き進むと、やばいことになる物言いのように見える。

標準的な治療の否定、薬品の否定とかにつながりかねない。

とはいえ、まあ、生体というものが自然に傷を治していくというのも否定できないことだろう。

 

でもって、「不眠症の学生に誰かが講義して眠くなれば、それは精神療法だね」ということになる。

おれはだいたい投薬が中心の治療を受けているが、それでも「五分間診療」は「精神療法だね」と言いたい。

もちろん、神田橋もそれを否定するわけではないだろう。

 

医師免許証を取りたての人は治療はできない

医師免許証を取りたての人は治療はできないですね。大学には治療学という講義がないのを医師はみんな知っているけれど、世の中の人は知らないからね。

これは神田橋流どうこうではなく、「え、そうなの?」という「世の中の人」の感想である。

 

治療は医師になってから実地で先輩に指導されていくものらしい。

まあ、そりゃ新人医師にいきなりベテランのような治療ができるとは思わないが、「治療学」的な講義がないってのは知らんかった。

 

つーか、ほんとなのか? 「臨床講義」という言葉が出てくるけど、それは違うの? というか、研修医というのが、治療を学ぶ段階なのかな。わからん。

 

プラセボでよくなればいちばんいい

……ある教授が臨床講義で、「新薬が出たら、それが効く間にできるだけたくさんの患者を治しなさい。すぐに効かなくなるから」とおっしゃったの。偉い先生はちゃんと当時から知っていたんだね。新薬は出たときはよく効くけれど、しばらくすると、効かなくなる。それはなぜか。

結局、何が言われているかというと、プラセボ・エフェクトなんです。偽薬効果。おそらくみなさんは、プラセボ効果があると科学的におかしいと、勉強して知っているでしょう。だからプラセボ効果をいかに排除するか、二重盲検法や何かでプラセボ効果が起こりにくいようにして、それを排除して、引き算して、薬の薬効を決める。そうすると科学的だということを知っています。それはその通りですね。

しかし、これを治療される患者の側から見ると、プラセボによって治ったから価値がなくて、本当の薬効で治ったら価値があるということはないのよ。よくなりゃいいんだから。受益者のほうから見たら、プラセボにも副作用はあるけれども、やっぱり少ないから、プラセボでよくなればいちばんいいんです。「鰯の頭も信心」でよくなれば、それがいちばんいい。

それでもって、この「プラセボ・エフェクト」が精神療法の中心とまで言う。

いやー、それ、おれも思っていたのよ。前出の斎藤環もこの本で同じことを述べていた。

『「社会的うつ病」の治し方 人間関係をどう見直すか』

[amazonjs asin="4106036746" locale="JP" tmpl="Small" title="「社会的うつ病」の治し方 (新潮選書)"]

私自身は、自分の病気がプラセボ効果で治るならそれが最高だと考えています。(斎藤環)

そして、おれもプラセボで治るなら、それに越したことはないと、鰯の頭の話を……、どこかに書いたような気がする。まあいい。砂糖玉について書いたことはある。

 

プラセボに問題があるとすれば、「本当の薬効」や「手術」が必要なのに、それから遠ざけてしまうという加害性。

もう一つは、安価な「本当の薬効」で治るものが、非常に高価になっているようなケース。

カルトに引き込んで人生や家族を滅茶苦茶にしてしまうようなケース。

 

そうでなければ、副作用のない(神田橋條治は「副作用はある」と言っているが)プラセボでいいじゃないか。

とくに、今のところ機序のはっきりしていない精神病なんかについては。

 

というか、おれも抗精神病薬をオランザピン(ジプレキサ)から「新薬」のラツーダに変えて、ずいぶん寝込むことが少なくなって、わりとQOLが上がったと思ってるんだけど、これも効かなくなるんかな。読まなければよかった。

 

空想の能力がないと治療も診断もできない

医学の場合も、ばらばらに出てきているデータをつないで、なんとか理解しようとする。それが「物語」なの。物語は事実ではないんですよ。事実はデータだけ。

だけど事実を現場で役立てるためには、この事実をつないで、ストーリーを作っておく必要があるんです。

だから、ここに出てくるのは空想です。空想の能力がないと治療は全然できないし、診断もできない。そしてストーリーを作ると、また研究によって新しい、正しいデータが出てくる。新しいデータを無視すると、このストーリーは現実の中に取り込めないストーリーになるので、それではだめなのね。

これはEBMに対するNBM(Narrative Based Medicine)……とはちょっと違うか。わからん。でも、神田橋條治のやり方というのは実にNBM的であるような気がする。

そんでもって、このように「データ」を無視しない。

 

むしろ「空想で作ったストーリーは作り物であることを知っとかなきゃならん」という姿勢をとっているところが、なんかわからんが信用できるじゃないか。そんな風に感じた。

すべてが科学的に解明されて、機械の言葉になるまでは、「ストーリー」が必要なように思う。どうだろうか。

 

「元通りにする」ではなく「再建」せねばならない

最後に、神田橋條治さんが別の人の言葉を引いた言葉を引く。

中井久夫先生が患者さんから「元通りに戻るでしょうか?」と聞かれて、「元通りに治るというのは、また悪くなるような状態に戻るわけだから、それじゃしょうがないよな」と言ったそうだけれど、そうでしょ。

元通りになって、また同じように仕事をしたら、また同じように悪くなるということで、きりがない。そうではなくて再発しないような、もっと健康にいいような生活を工夫して、再建していかなきゃいかん。

これは、まったくそうだよな。おれも働いていて、現状の悲惨さと先行きの不安さからぶっ壊れたたぐいの人間だけれど、「元通り」になったら、またぶっ壊れるだけだ。

 

とはいえ、再建といって労働環境を変えられるわけでもない。安定した大企業勤めになれるわけでもないし、どっかから五千兆円降ってくるわけでもない。

 

神田橋條治は、いきなりそうなれないから、抗うつ剤という「松葉杖」を使うのだというけれど、おれなんかもう松葉杖を使って十年になる。

でも、転職はできねえんだ。もう、仕方ないな。

「松葉杖をついて仕事に行くのは間違い」と言われても、そうするしかねえよ。……って、双極性障害はうつ病と違うのだった。ああ、そのあたり、よくわかんねえな。

 

双極性障害は今のところ一生、薬を飲まねばならないという話だ。

とはいえ、坂口恭平は薬をやめることができたという。そういう例もある。

 

おれは、とりあえず薬で自我を保っている。手放したら、抑うつの日々になる予感がある。

薬以外のなにか、たとえば生活習慣を変化させるということなどはできそうにない。

どうしたものか。医者に通って薬を処方してもらうだけだ。

 

……と、まあこんな具合。

今、心が健康な人、身体が健康な人、いつどうなるかわからんぜ。

 

そのとき、どうする。どういう医者にかかる。それはわからん。運というところもある。

心に不調をきたしたとき、「達人」にあたれば幸運だ。だが、そういうことはあまりないだろう。

 

神田橋條治は「よくなるのが三割くらいだと困るんだよね。せめて五割くらいはいかないとなあ」という。

患者からすると「その打率?」というところだ。だが、実際、そんなところだろう。

 

まずは、みなさまご健康に。

不健康に陥ったおれからは、そのくらいしか言えない。

名医だろうとそうでなかろうと、医者にかからないこと以上のことはない。そうじゃないか。それが難しいことと知っていても、だ。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Towfiqu barbhuiya

「人生をうまくやっていくのに必要なものは何なのか」。

 

ネットの民はこういう話題が昔も今も大好きで、上はメディア関連企業の配信サイトから、下は匿名掲示板まで、記事は引きもきらない。で、「うまくやっていくのに必要なもの」として定番なのが、実家の太さ・学力・IQの高さ・容姿の素晴らしさあたりだ。

「うまくやっていく」人に含まれがちな個別のファクターをひも解いた時、実際、それらはあったほうが良いものだろう。

 

でも、それらに恵まれた人が必ず人生で花開いてみせるかといったら……そうとも限らない。

 

たとえばある男性は、さきほど挙げたすべての「うまくやっていく」能力に恵まれてはいたけれども、二十代も半ばになる頃には冴えない人脈に埋もれるうちに精彩を失い、活躍を聞かなくなってしまった。

また別の女性も、才色兼備にして家庭環境にも恵まれ、それらを鼻にかけるでもない人物だったのに、三十代に入ってからの幾つかの人生選択で意にそぐわない方向に向かってしまい、昔日の輝きをキープできなくなってしまった。

 

こうした人々を振り返ってさえ、実家の太さや学力、IQや容姿が人生を左右するのはまあわかるし、その重要性を否定することはできない。

しかし、それらが人生をうまくやっていくための必要条件とも十分条件とも言えないことも、またわかる。

 

人生をうまくやっていく必要条件や十分条件など無い。が、うまくやっていくうえであったほうが良いファクターは実家や容姿に限らず、いろいろあるわけで、今日はそのなかから「世渡りのための気配り」と「意志」について触れてみたい。

 

「世渡りのための気配り」と、それに関連した「人生のフラグ管理」

私は、人生をうまくやっていくための重要ファクターのひとつとして、「世渡りのための気配り」を挙げたい。

ここでいう気配りとは、ゴマをするとか、上司や同僚に取り入って好印象を獲得するとか、そういう方向性のものではない。

もちろん上司や同僚の好印象を得るのも処世術としてバカにできないのだけど。

 

ここでいう「世渡りのための気配り」とは、自分がどういう人間で何をしたがっているのかを無理のないかたちで周囲に伝えて、それをとおして自分の意志決定の差し障りや代償を減らすための気配りのことだ。

だからこれは、他人のための気配りという意味合いはかなり少なく、自分のための気配りという意味合いがかなり強い。

 

ゲームの好きな人向けには「人生のフラグ管理」と言い直すこともできるだろう。

これから結婚する・転職する、そういった自分の人生の大きなフラグを管理するとは、自分自身の意志の問題もさりながら、周囲の人びとの理解や承認、許容や許諾といった問題を含むだろう。

私が人生のフラグ管理という時、それは自分自身の意志決定の問題以上に、周囲がその意思決定についてこれるかどうか、受け止めきれるかどうかにかかわる問題とみなさずにいられない。

 

もちろん、周囲の人びとの理解も許諾もガン無視して、ほとんど唐突に結婚したり転職したりすることだってできなくはない。

けれども周囲の人びとがついていけない・許容できないような決定は、人間関係に波風を立ててしまうし、決定のその後に癒えない爪痕を残してしてしまうことだってある。

人生の節目節目に大きく舵を取らなければならないその瞬間に、周囲の人びとがついてこれるのか/ついていけないのかによって、その舵取りが伴う副作用の程度も、舵取りそのものの成功の度合いもかなり変わる。

 

だから、人生の舵取りを行うにあたってはそれこそ「人生のフラグ管理」と比喩したくなるような、周囲の人びとが同意してくれるとまではいかなくても、せめて諦めてくれやすいような伏線を準備しておいたほうがいいし、その手腕が人生をうまくやっていくうえでかなり重要のよう、私には思える。

 

ところが、この「世渡りの気配り」「人生のフラグ管理」について意図的にやっている人は思うほど多くはない。

 

高圧的な親や上司がいるから、職場の人事の方向性がまったく思うに任せないから、といった事情で決定を隠さなければならない人ならまだわかる。が、周囲の人びとの同意や諦めを獲得しやすい環境にいる人でも、案外これに手回しをせず、まったく疎かにしていたりする。

そして疎かにしたまま急に舵を切るから無用の衝突や反感を買ったり、舵取りそのものはこなせたとしても前の部署に砂をかけていってしまい、周囲、または当人が後悔するような転帰を迎えることさえあったりする。

 

人々は皆、自分の人生や家庭の都合が大事なので、他人の人生の舵取りにそこまでの関心を持ってくれはしない。

また、これから自分が取ろうと思っている舵取りを祝福してくれる人ばかりとも限らない。

利害の問題として、他人の人生の舵取りを自由にさせたくない人だっているだろう。

 

それでも、自分の人生の転機を迎えるにあたり、その変化を易しくし、その変化の副作用を軽減するために周囲に働きかけ、譲歩や諦めをかたちづくっていく余地は案外あるものである。

そうした余地を見つけ出す巧さ、見つけ出したら今後の自分の舵取りについての伏線を有形無形のかたちで張り巡らせておき、いざ転機を迎えたその瞬間、「あいつがああするのはよくわかるし、仕方ない。これからもうまくやって欲しい」と思ってもらえるための工作を日頃から怠らない巧さは、人生をうまくやっていくにあたって結構重要な要素ではないだろうか。

 

そのためのプレゼンや仄めかしは、いきなり理解や許諾を得ようとするもの……ではない。

はじめのうち、反発や反感を呼びかねないものでさえあって構わない。ゆっくり時間をかけて、自分自身のキャラ立ての一環として実施していくもの・周囲に刷り込んでおくもの、といった速度感で仕掛けていくものだ。

 

時間がかかるのは不可避なので、できれば異動や転職と同時に仕掛け始めておくのが理想的だ。

「そういえば、入社した時からあいつはああ言ってたな、あいつの価値観なら、そう動くのはわかるしやむを得ない」と周囲に思わせてしまえたら最高である。

 

このあたりは器用さが求められるところなので、誰にでも・どこでもできるものではないかもしれない。

とはいえ、控えめに言ってもこれらが上手い才能というのは間違いなくある。

 

「意志」に勝る才能なし

そして案外忘れられがちだが、才能の王、渡世の王ともいうべきものは、私は意志だと思う。

 

意志が強ければなんでもできる、とは言うまい。

とはいえ、意志なくして、いったい人生はどうやって自分自身のものにできるだろう?

 

意志、というのも実はけっこう難しい。

たとえば有名になりたいとか、たとえば高収入になりたいとか、そうやって願うだけでは意志が強いとはいい難い。

 

意志が強いとは、願望がたくさんあるとか、欲しがり屋であることと必ずしもイコールではない。

欲しがる対象や目標が明確だったり、折に触れて欲しがる対象や目標を再定義してはもっと研ぎ澄ませて、そのために必要な実践や実行を重ねて惜しまないこと、これこそが意志が強いというものだ。

 

「願望は、それだけでは意志ではないし、志向性や方向性を持ち、一定の鋭利さを伴っていなければ意志が強いとも言えない」と言い直してもいいかもしれない。

 

意志はしばしば、精神論だと非難されやすく、実際、いくら意志が強くても竹やりでステルス爆撃機を落とすのは不可能だろう。

しかし逆もまた然りで、ここでいう意志が薄弱であれば、対象や目標に向かって明確にアプローチすることも、アプローチを継続することもままならない。

 

実践や実行と堅く結びつくだけの意志が伴わない限り、どんなトライアルも結局は風任せになってしまう。

それどころか、世間の風をどう追い風にするかといった創意工夫さえできず、風に吹き飛ばされるがままになってしまって、なすすべがない。

ひとつの目標に向かって多方面からアプローチし続ける、臨機とガッツを継続するのも難しいだろう。

 

学歴が乏しくても、容姿がそれほど優れなくても、「人生のフラグ管理」のような機敏に優れなくても、意志は、ときに人生やプロジェクトをブルドーザーのように突き進めていく。

そうした意志が、なんらかのきっかけや才覚と結合しようものなら、無類の強さを発揮する。

そして私たちを、あたかも漫画の主人公たちのように飛躍させる。

 

控えめに言っても、意志によってカバーできる範囲は案外広く、各方面で活躍している人々は皆、意志が強い。

その点において、意志の強さは、もうそれだけでひとつの才能である。

意志の強さは、先天的/後天的要素によってかなり個人差があるが、自分の子どもに対しては、少なくとも、この意志の強さを妨げるような子育てはできるだけ避けたい。

つまり、ラジコンドローンのような子育てだけは避けたいものである。

 

意志を育てる子育てはわかりにくいが、意志を潰す子育てはわかりやすいので、これを避けるだけでも意義は大きい。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by David Matos

1996年の保険自由化は日本の保険業界に大きな変化をもたらした。

その後、数回の法律改正を経て、保険料率の競争や商品・発売チャネル(販売経路)の多様化が実現し、そうした変化の流れがP2P保険の登場につながった。

 

そこで本記事では、保険自由化に至るまでの状況と保険自由化によってもたらされた変化、保険自由化以降の状況の3点にフォーカスし、保険業界の変遷をたどる。

 

保険自由化に至るまでの状況

まず、自由化に至るまでの状況をみていこう。

 

自由化前の法的枠組み

自由化以前の法的枠組みは以下の3点だった。

 

  1. 独占禁止法の適用除外(「保険業法」)
  2. 保険募集に関する規制(「損害保険料率算出団体に関する法律」)
  3. 資産運用に関する規制(「保険募集の取締に関する 法律」)

 

1) から順にみていこう。

終戦直後の火災保険会社が置かれた状況には厳しいものがあった。

インフレによって修理費が高騰する中、リスクを度外視して契約獲得を目指す保険会社が出現し、保険会社の収益は悪化していたのだ。

 

さらに、相次いで大火が発生し、保険会社は多額の保険金を支払わなければならなかった。

 

そこで、保険会社各社は保険料率の引き上げによって経営を安定させることを望んでいた。

 

一方、終戦後間もなくの間、GHQは1947年に制定された独占禁止法(以下、「独禁法」)について「いかなる例外も認めない」という強硬な姿勢をとっていた。

 

しかし、保険に関しては最終的に独禁法の適用除外とした。自由競争を認めれば、保険会社間で過当競争が起こり、破綻するおそれがある。

そうした状況を回避するために、保険商品の規制を厳格に行い、保険契約者を保険会社の破綻から守る体制が構築されたのである。

 

そうした経緯から、保険料率は状況に応じて利率算定団体(以後、「算定会」)が定め、その料率を使うことが各保険会社に義務付けられていた。

 

次に、2) の保険募集に関する規制は、不適切な募集の排除を目的としたものであった。

威圧的な態度で契約を迫る圧力募集の禁止と、生命保険の募集人(保険会社に代わって契約締結・保険料金徴収をする者)は一社専属、つまり、2社以上の二重登録はできないという内容だ。

 

3)の資産運用に関する規制は、個々の保険会社の資産運用を厳格に規定し、保険金支払いの責任を果たせるようにするのが目的だった。

 

この規制では、資産運用の方法について当時の大蔵大臣の許可を必要としたため、大蔵省(当時)が保険会社の経営に介入することを可能にしていた。

 

さまざまな規制と体制によるメリットと課題

こうした状況の中で大きな役割を果たしていたのが「損保協会」である。

損保協会は大蔵省と保険会社の間に立ち、行政と個々の保険会社の中間的な存在として活用されていた。

 

損保協会にはさまざまな委員会があったが、そのメンバーは各保険会社だった。

 

以上のような規制と業界の共同体制によって、保険会社間の破滅的な競争が発生しないというメリットがあった。

また、大蔵省にとっても保険業に介入することによって行政の実施が容易であったのだ。

 

一方で、競争の減少は経営の非効率化、商品の画一化、資産運用の保守化などの弊害を招き、結果的に、契約者の利便性が阻害されるという状況に陥ってしまった。

 

また、世の中が自由化に向かっている中で、こうした状況が保険業界の自由化を阻む要因にもなっていた。

 

保険自由化と自由化がもたらした変化

「保険業法」の改正(1996年4月)

1980年代の終わり頃、すべての産業分野で「自由化・規制緩和」の動きが生じ、金融と保険もそれまでの制度を見直すことになった。

 

また、自由化・規制緩和に対する、保険業界からの期待もあった。

というのは、1980年代になると、消費者ニーズの多様化によって、さまざまな商品が開発され、医療費用保険、介護費用保険、年金払い積立保険など、損害保険事業は「第三分野」と呼ばれる分野にまで大きく拡大していたからである。

 

そこで、保険監督法の中核をなす「保険業法」の改正を目指してさまざまな協議が重ねられ、1996年4月に改正保険業法が施行された。これは1940年の全面改訂以来の大改正だった。

 

下の表1は、この改正で実現した規制緩和・自由化された主な項目である。

表1 1996年改正「保険業法」による規制緩和・自由化

大きな柱は、「競争促進」、「契約者保護」、「経営の透明性確保」の3つ。

 

「競争促進」では、保険商品・料率など3つの分野でこれまでの規制が解かれ、自由化が実現した。

 

「契約者保護」の「ソルベンシー・マージン」とは、大災害や株の大暴落など「通常の予測を超えて発生するリスクに対応できる支払余力」があるかどうかを判断するための行政監督上の指標の一つである。

 

こうした基準を盛り込んだのは、保険会社の経営健全化を図り、経営破綻から利用者を保護するためだ。

 

「経営の透明性確保」にある「ディスクロージャー」とは、各種の法律に基づき、企業が株主や投資家などに対して経営状況などの情報を開示することである。

 

「日米保険協議」の決着(1996年12月)

保険業法は国内の問題だが、一方で、国際的な問題もあった。

保険はそれまでの長い間、国内市場限定で、外国の商品を利用することはできなかった。これは保険業法の規制によるものだ。

 

また、反対に、各国の規制によって日本の保険商品が外国で利用されることもなかった。

 

一方、多国間協議GATTでは、「サービス」の自由化が議論され、その一環として、金融、保険分野の自由化も取り上げられた。

「日米保険協議」は、GATTの議論が収束した後に、日米両国政府によって行われた二国間協議である。日米保険協議は、既に改正されていた保険業法に関する項目のうち、特に商品・料率の自由化、生命保険・損害保険の相互参入に焦点を絞って、行われた。

 

この協議の背景には、日米間の貿易摩擦の激化がある。

その打開を図るために、アメリカは日本の保険制度改革の議論にいわば強引に関与することになったのだ。

 

結論を先取りすると、「日米保険協議」は、日本の保険制度に決定的な影響を及ぼした。

例えば、日本の損害保険業界は、商品・料率の自由化を緩やかに進めるつもりだったのだが、急激なシフトを迫られた。

 

「金融システム改革法」の施行(1998年12月)

日米保険協議の合意によって、算定会が定めた料率の使用義務が撤廃され、「金融システム改革法」に盛り込まれた。

それ以降は、算定会が定める自動車保険、火災保険、傷害保険などの保険料率は、使用義務のない参考料率とされた。

また、自賠責保険、地震保険では、使用義務のない基準料率となった。

 

行政の変化と独占禁止法の適応強化

今までみてきた以外にも、損害保険業界に大きな影響を与えた法律がある。

 

ひとつは、1993年の「行政手続法」の制定である。

この法律によって、行政が一定の活動をするに当たって守るべき共通のルールが定められた。

 

また、1998年には金融監督庁が設置され、行政による大幅な通達が廃止された。

それに伴い、かつての大蔵省による保険業界への介入が改められることになった。

 

独禁法の適用強化も大きな影響を与えた。

前述のとおり、保険に関しては独禁法は適用除外が認められていた。

その結果、損害保険業界は公正取引委員会よりも大蔵省との関係が意識されていた。

 

しかし、1989年に始まった日米構造協議によって、アメリカから独禁法の適用強化を求められ、公正取引委員会は大蔵省の監督下にあった保険に関しても厳しい目を向けるようになった。

 

まさにそうしたタイミングで保険業界を大きく揺るがす事件が起きた日本機械保険連盟が料率に関するカルテル行為を行ったという理由で独禁法違反を問われ、1997年に解散を命じられたのだ。

 

この事件を契機に、保険業界は保険会社の共同行為に慎重になり、多くの委員会が解散した。

こうして、それまでのルールや資料のほとんどが廃止・廃棄された。

 

こうした状況が、保険業界の自由化を加速させることになったのである。

 

保険自由化以降の状況

保険自由化以降、保険業界にはどのような状況が訪れたのだろうか。

 

新しい保険商品の誕生

保険自由化後、今では一般的になっている多様な保険商品やサービスが次々に開発された。

 

その例を挙げてみよう。

 

  • リスク細分型自動車保険:年齢、運転歴、年間走行距離などの自動車使用状況によってリスクを細分化して保険設計ができるもの。
  • 新たな自動車保険の特約:人身傷害保険、対物臨時費用補償特約、対物超過修理費用特約など。
  • オールリスク型保険など補償範囲の拡大:火事や災害以外の偶発的な事故で建物や家財が破損したり汚れたりした場合にも補償する保険商品など。

 

以上のような商品の提供によって、より顧客ニーズに合った補償を提供することが可能になった。

 

競争の激化とその影響

自由化後、保険会社間の競争が激化した。

まず生じた競争が、上でみたような特約の多様化、商品の差別化である。

 

ただし、こうした動きには負の側面もあった。

商品の複雑化によって、顧客が商品情報を十分に把握することが難しくなり、保険金を請求しないケースが出てきた。

一部の保険会社はそれを承知の上で保険金を払わないという不払い事件が相次いだのだ。

 

こうした事態を受け、各保険会社は改善に向けての議論の場をもち、保険商品の簡素化やわかりやすい約款づくりに取り組むようになった。

 

また、保険金不払い事件の反省から、募集分野での見直しが行われ、2011年に業界唯一の統一試験制度「損害保険募集人一般試験制度」が創設され、試験の合格を代理店登録の要件としている。

 

競争激化のもうひとつの影響が、株主重視の動きである。

 

株主への手厚い配当と株価の上昇を図りながらも、競争激化によって保険料は低く抑えなければならない。

各保険会社は、こうした状況を切り抜けるためにコスト削減を推し進め、2000年代はじめには損害保険業界の大規模な再編が行われた結果、3メガ損保が誕生した。

 

新しい動向

さらに最近は、これまでの保険とは全く異なるP2P保険の利用者も増加している。

 

P2P保険は、SNSでつながっている個人同士がプラットフォーム上でグループをつくって拠出金を出し合う、相互扶助型の保険だ。

安価な拠出金で既存の保険ではカバーできていないニッチで多様なニーズに応えるため、若者を中心に注目が集まっている。

 

こうした新しいタイプの保険に対して、国も「規制のサンドボックス制度」を適用し、支援している。

この制度は、規制改革推進の一環として、新しい技術やビジネスモデルを用いた事業活動を促進するために設けられた。

 

P2P保険(Frich)の場合、保険業法上の規制の適用を受けずに、新しい技術等の実証を行い、実証で得られた情報・資料を迅速に活用できる環境が整えられている。

 

こうした新しい保険の登場も、それを支える行政の動きも、元を辿れば保険の自由化に行き着く。

 

それからの25年間で、日本の保険はこれほどに大きく変わったのである。

 

(本記事はFrichオフィシャルブログからの転載です)

 

 

 

【参照・出典元】

栗山泰史(2017)「損害保険事業における自由化の進展と 現在の課題」『保険学雑誌 第 639 号

東京海上日動「1948 損害保険料率算定会の設立

保険毎日新聞(2017)「特集 損保協会 ~100のあゆみ~ 保険商品・自由化 ①」](2017年6月27日)

保険毎日新聞(2017)「損害保険に関係する 主な法律の動向1 ―保険業法―」(2017年6月13日)

東京海上日動あんしん生命「用語集」<第三分野>

<ソルベンシー・マージン>

https://www.tmn-anshin.co.jp/words/sa031.html

<ディスクロージャー>
https://www.tmn-anshin.co.jp/words/ta021.html

保険毎日新聞(2017)「特集 損保協会 ~100のあゆみ~ 保険商品・自由化 ⓶」(2017年7月4日)

金融庁(2020)「個人が少額を拠出し合って相互扶助するP2P保険に関する実証

 

 

 

【著者プロフィール】

Frich(フリッチ)は、P2P互助プラットフォームを提供するインシュアテックスタートアップです。

市場規模が小さいなどの理由で成立しなかった「ニッチなほけん」を開発しています。

https://frich.jp/ 

https://frich.co.jp/

Photo by Towfiqu barbhuiya

最近気がついた事の一つに「走り続けている人間が痩せるのは何故か?」の正体がある。

 

ダイエット神話の一つに「運動しても消費カロリーなどほとんど増やせないのだから、運動しても痩せない」というものがある。

僕も随分と長い事この理屈を信じていて

「痩せたいのなら運動なんてしても無駄だ」

と思っていた。

 

だが実際に毎日10キロ走ってみて、運動して痩せるという事の理屈を心の底から理解した。

 

走ると何故痩せるのか。

結論から言うとそれはランニングが下半身の筋トレだからである。

 

実際にやっていると嫌というほどに痛感するのだがランニング動作は脚を持ち上げて地面に叩きつけての繰り返しだ。

これを約1時間ものあいだ休むこと無く延々と繰り返すのだから、下手な筋トレよりも間違いなく高密度で高負荷であろう。

 

故にランニングを何ヶ月にも渡って続けていると下半身のみならず下腹部がバッキバキに割れてくる。

だから消費カロリー抜きに走ると身体が絞られ、結果として”痩せる”のだ。

 

自分の仕上がった肉体をみるまで、意味なんて全然わからなかった

ランニング≒筋トレという事実は、そういう風に実際に形でもって示されればある意味当然の理屈である。

だが僕がこの事実に気がつけたのは実際に変貌した自分の肉体をみた後の事だ。

 

ものの見事に割れた腹筋と筋肉質になった脚…否が応でも風呂場で目に入る自分の身体のあまりの変わりっぷりを前に

「ああ、ランニングって本質的には筋トレと同じなんだ」

と一年後にふと気がついたのだ。

 

このロジックが当事者にならないと理解困難なのは、ダイエットにおいて運動≒カロリー消費という先入観が強い事が原因としてあげられるだろう。

僕以外の人も普通は「運動≒カロリー消費」と安直に考えてしまいがちだと思うのだが、実際にはランニングに限らず運動というものは筋トレ的な側面を必然的に有する。筋肉を動かして何かをするのだから当然の話だ。

 

それにも関わらず運動を筋トレとして捉えれないのは何故か?

それは頭でモノを考えるという事が、実際は頭でモノを考えていないという行為に他ならないからである。

 

頭で自由にモノを考えるのは難しい

私達は思考は自由であり、伸び伸びと思慮できるものだと思いがちだが、実際はそんな事はない。

むしろ多くの人の思考回路は条件反射を繰り返しているのみで、同じ場所を行ったり来たりしているだけである。

 

冷静になって振り返ってみて欲しいのだが、あなたはこの数ヶ月で何か常識を疑っただろうか?

少なくとも僕は全くと言っていい程にそんな事はしていない。

 

固定観念というものは打ち砕く事が実に難しい。

これは固定観念がそもそも固定観念だと気がつくキッカケが普通に生活していると皆無だという事に理由がある。

 

よくわからなくても、頑張ってると形になる

そういう状況を打開するのに最適なのが実は行動だ。

よくわからなくても新しい事をやる。意味など考えない。そうする事で得られるものは実に多い。

 

頭は自分が理解できている事にしか理解を示さない。

ランニングの例なら普通に考えれば

 

「ランニングで消費できるカロリー数はおにぎり一個以下。運動しても消費カロリーなんてたかが知れている」

「だから痩せたいならわざわざやる意味はない」

 

という固定観念にまず間違いなく焦点が合わされてしまう。

 

そうなってしまったら後は無限に「やらなくてもいい理由」が生成され続けるだけである。

頭は絶対に固定観念を打ち砕いてはくれない。

特に理解したくないものに対して頭は弱い。そういう時に頭が行うのは、まず間違いなく条件反射である。

 

そういう状況を打破するキッカケになりうるのが「四の五の言わずに、やる」だ。

意味がわからなくても物事を淡々とやり続けて淡々とした行動の結果が結実したとき、初めて固定観念は見事に打ち砕かれる。

 

この淡々とした行動が最も形として現れるのが実は仕事である。

新年度になり、これを読んでいる中にも多くの新社会人となった方がいらっしゃると思う。

特段問題なく会社に溶け込めている人もいるだろうが、中には会社に通うのが辛くて辛くて仕方がないという人もいるだろう。

 

そういう時に「労働は悪」だとか「働いたら負け」という風に、頭を使ってモノを考えるのは本当にやめたほうが良い。

もちろん命の危険に関わるレベルで鬱々としてしまっているのなら話は別だが、多くのケースにおいて労働なんてのは会社に通っていればそのうち自然にできるようになる性質のものでしか無い。

 

こういう時に頭でアレコレと思い悩んだり本を読んだりして情報を取り入れるのは残念ながら悪手だ。

そんな事をしてもネガティブな固定観念が増強されるだけで楽にはならない。

寝たり気晴らしをする等で傷んだ心を修復させつつ、頑張って出勤し続ける以外に本当の意味で楽になる方法はない。

 

残念ながら理解したくない現実を前に頭脳はまるで役立たずである。

だから嫌な現状を変えたいのなら、なにはともあれ行動するしかない。

 

逆に言えば、行動さえしてれば大体の物事はそのうち落ち着く場所に落ち着く。そうして落ち着いた後に改めて振り返ってみれば、きっとこう思うはずだ。

 

「ああ、働くのってそんなに悪いもんじゃないな」と。

 

行動しない奴の予後は悪いが、行動さえできれば先は明るい

行動は最大の成功の母である。というか成功にしろ失敗にしろ、行動しなけりゃ何も発生しない。

無はどこまでいっても無のままだが、行動すれば何かは起きる。この事を痛感したエピソードが生きてるだけで、疲労困憊。という本の中にある。

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この本は発達障害の当事者であるreiさんという方の自伝のようなものなのだけど、その中にイキ告という興味深い現象が紹介されている。

 

イキ告とは、異性経験に乏しいオタク が少しでも可能性を感じた女性に対して即座に惚れてしまった上に、いきなり告白してしまう現象だという。

まあ、ようはちょっと優しくされたらすぐ相手を好きになってしまうチョロイ奴の話なのだが、こんな神風特攻隊のような行動が成就するケースはほぼ皆無であり、reiさんの周りの多くのオタクはイキ告で”散っていった”のだそうだ。

 

こうしてみると実に嘲笑ものであるイキ告だが、この話には驚く事に続きがある。

それから10年ほどたって周囲を見渡すとイキ告で玉砕したものは配偶者を得る傾向が強いのに対して、イキ告をただ爆笑していただけの人間は未だに独身だというのである。

この事実を元に、reiさんはイキ告は一概には愚かな行為だとはいえず、中長期的にみれば合理的ですらあると結論づける。

 

この現象だが、結構思い当たるフシが多い人も多いのではないだろうか?

実は自分もイキ告のようなものをやらかした経験がある。

まあ壮大に失敗したわけなのだが、その当時は随分と周囲の人にアレコレ言われバカにされたものだった。

 

しかしその失敗から学んだ事は実に多い。

文字通り身を切るような思いをしての行動だから、むしろ学ばないほうが無理というレベルである。

 

その後、結果的には自分も結婚できており、そういう意味ではこのイキ告のエピソードは正に「俺の話じゃねぇか」である。

やらない奴よりやらかした方が最後の最後には上手くいく。世の中というのはそんなもんである。

 

行動できた時点で、戦う前から勝負は決まっている

よく他人の行動をみて「あんなん無駄」とか「絶対に失敗する」と嘲笑する人がいるが、そういう人の意見は様々な意味で的外れだ。

 

うまくいくか失敗するかは正直な事をいえばどうでもよい。行動を起こせる事にこそ意味がある。

そういう意味では最初の最初に動き出せた人というのは、もうその時点で”勝った”も同然で、そういう人に「やめといた方がいい」とか「絶対にうまくいかない」というのは、動けない人間の戯言でしかないのである。

 

何事も頭の中で想像するのは簡単だ。イソップ童話の酸っぱいぶどうを例に出すまでもなく、頭の中で出せる結論はいつも予定調和で終わり、想像を超えることはない。

 

だが、現実はそうではない。どんなことでも、実際に手を動かしてシンドイ思いをしてやってみれば、思ってもみなかった事が絶対に生じる。

そうして起きた結果をみて「ああ、そういう事だったのか」と初めて理解する事は本当に多い。

意味は行動している最中に後から付いてくる。そういうものなのだ。

 

だから現状に満足しているのならまだしも、人生をどうにかして変えたいのなら、なんでもいいから面白そうな事をやり始めてみるべきである。

それが他人から嘲笑されたり、失敗するタイプの行動であるのなら最高だ。

 

失敗は大きければ大きいほど学びの量も質も深いし、簡単には成功できないタイプの行動であればあるほど、成功したときの成果は絶大である。

 

別に笑われたり失敗しないようなものでもいい。

アレコレ頭で考えて「こっちより、これの方がいいかな?」という風に吟味するのすら時間の無駄だ。

 

とにかく淡々と何かをやり続ける。

そうして積み重なった成果をみて、固定観念を打ち砕く。

するとそこにはまた新しい現実が現れる。人生はこれの繰り返しだ。

 

この行為をどこまで推し進められるのか。

これが豊かな人生というものの真実なんじゃないかと自分は思う。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by i yunmai

最も重要なビジネススキルはなんですか?

と問われたら、なんと答えるだろう。

 

人によりけりだと思うが、私がコンサルティング会社で経験した限りでは、「結論から話す」がその候補の一つだと感じる。

 

これは誇張でもなんでもなく、「コンサル一年目が学ぶこと」の著者が、この本の最初の項目として設定していることにも現れているように、

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あるいは、スキル系のビジネス書には大抵それに類似したことが書いているように、今では「結論から話せ」は、、もはやビジネス上の慣例といっても良いくらいだ。

 

私の場合は、入社するとまず直属の上司に「結論から」を求められた。

例えば、こんな具合だ。

 

私「すいません、相談があるのですが……」

上司「何?」

 

私「お客さんのところで、規定の説明をしていたのですが、第二条のところでお客さんから質問が出てしまったんですよ。「目的と目標はどうちがうんですか」と聞かれたので、こう答えたんです……」

上司「安達さん、結論から。」

 

私「あ、すいません! えー……、ちょっとお待ち下さい…………「目的と目標の違いは、定性的か定量的か」であっているでしょうか。」

上司「Noだ。その説明は間違っている。お客さんにそう説明したの?」

 

私「え?定性と定量の違いかと思ってました……でも「目標」を用語集で調べると……」

上司「安達さん、結論は。」

 

私「も、申し訳ないです。そう説明しました。」

上司「で、どうするの?」

 

私「やっぱり訂正が必要でしょうか。目的と目標のちがいを改めて説明するのにどういった場が必要か……」

上司「結論から。」

 

私「は、はい!………えー……お客さんに訂正の報告をします。切り出し方が難しいので、アドバイス頂きたく。」

上司「了解。」

 

こんな感じで、時には、一回の会話の中で何度も「結論は?」と言われたこともあった。

 

上司は淡々と「結論は?」というのみで、別に怒るわけでもないのだが、

時間を割いてもらってるな、迷惑かけてるなと思ったこともある。

 

そういう意味では、気長に訓練に付き合ってくれた上司には感謝である。

 

「なんの訓練もなしに結論から言える人」は十人に一人もいない

しかし、その後管理職になり、上司はいちいち怒ってられなかったのではないか、とも思うようになった。

「結論から言える人」があまりにも少ないからだ。

 

感覚的には、なんの訓練もなしに、的確に結論から言える人は、十人に一人もおらず、おそらく「結論から言う」のは、人間の生来の思考パターンとは異なる。

本来は、たぶん「出来事の順番通りに話す」だろう。

 

だから、例えるならば「水泳」のように、最初から出来なくても、仕方がないのだ。

そんな人に、「何でお前は泳げないんだ!」と怒っても、泳げるようにはならない。

気長に、泳げるようになるまで、アドバイスし反復訓練をするしかない。

 

結論から話す、がなかなかできない人へどうしたか

だから、当然のことながら、「泳ぎが苦手な人がいる」のと同様に、「いつまで経っても、結論から言えない人」も数多くいる。

 

例えばある新人コンサルタントは、人当たりのいい好青年であったが、なかなか「結論から言う」が出来なかった。

何回指摘をしても、結論ではなく「出来事」から言うくせが抜けない。

 

そこで、彼はなぜ結論から言えないのかを、経験を踏まえて少し観察した。

 

1.言い訳したい時には結論から言えない

まず第一に発見したのは、「言い訳」したい時には結論から言えない、という事実だった

 

例えば冒頭の会話だ。

私はお客さんに間違った説明をしてしまったときに上司から「お客さんにそう説明したの?」と聞かれ、「説明しました」と結論から言えなかった。

言い訳から言ってしまったのだ。

 

もちろんこれは最低の選択で、言い訳をするほうが、むしろ状況を悪くする可能性が高い。

しかし、目先の嫌な出来事を回避するために、言い訳が口をついて出てしまうケースは少なくない。

 

したがって、「言う側」は率直に言うように心がけ、「受ける側」は「怒ったり怒鳴ったりしない」という状況を作り出せねばならない。

したがってこれは、双方の努力でいわゆる、「心理的安全性」がどこまで作れるかという話と、ほぼ同じである。

 

そこで、マネジャーの立場で報告を受けるときは、とにかく「相手を怖がらせない」ことに、全力を注いだ。

 

2.急かすと結論から言えない

第二に、回答を急かすと、結論から言えないことが多い。

 

例えば、「何がわからないのかわからないけど、とにかく上司に相談する」

というムーブが身についている人は、上司に「何が問題なの?」と聞かれても、即答できない。

だから、今の状況だけでも説明して、何とか上司にわかってもらおうとする。

 

しかしそれはたいてい、支離滅裂なので、それが上司にとっては、「結論から言ってない」ように見える。

 

ただしここで、上司は絶対に「早く言ってよ」と急かしてはいけない。

元々、まとめる能力が低いから、上司のところへ来ているのだ。急かせば、さらに相談に来にくくなる悪循環を生む。

 

では、どうするか。

これは、私の上司がやっていたことが参考になるだろう。

 

上司は「結論は?」と聞いて、部下がなかなか相談内容を言えない場合、おもむろに、デスクの中から紙と鉛筆を取り出して、私の話をまとめだした。(ホワイトボードまで行く時もあった)

こちらは安心して話ができ、上司はそれを文章と図にまとめる。

要するに、上司にコンサルしてもらっているイメージだ。

 

こんなことが何度かあると、つぎに上司は私に紙をわたし、「言いたいことをまとめてみて」と言った。

まとめたものを見せると、上司はそれを使って私にヒアリング、さらに紙を添削する。

 

こんなことが繰り返され、最終的には、私は相談事項がまとまっていないときは、自分で紙にまとめてから上司のところへ行くようになった。

 

そしてこの効果は一石二鳥だった。なにせ、「部下の相談に乗ること」と「コンサルタントがお客さん先で求められる能力の訓練」を一度にできるのだ。

もちろん、私はマネジャーになってから、上司のマネをして、これを部下に提供した。

 

3.クセにならないと、結論から言えない

第三に、「結論から言う」のは、一種の習慣なので、クセ付けがなされていないと、実行されない。

 

新人はそうしたクセがないので、クセ付けのための何かしらの仕掛けが必要だった。

 

そこで、上司が考案したのが、「結論から言うと」を枕詞にさせることだった。

話すたびに「結論から言うと」と初めにつけるのだ。

 

この制度の影響で、結論から言えない人でも「結論から言うと」とはじめに言うので、オフィス内の日本語は大変面白いことになっていた。

 

ただ、この口癖が普及すると、2つ面白いことが起きた。

 

一つは、「結論から言うと」と言ったのに、結論から言っていない場合、本人が「あ、すいません!私、結論から言ってないですよね。」と、自分で気づく。

そしてもう一つは、部下の中に「あえて結論から言わないのですけど」と切り出す人が出現した。

上司はそれも自由にさせていたが、「結論から言うと」が口癖になると、セルフチェックの効果が働くのだ。

 

 

以上の3つが「結論から話す」がなかなかできない原因であり、それに対して実際行われていた対処法だ。

 

3つとも、効果は確かにある。

とはいえ、結局のところ、「みんな、できるようになるまでに時間がかかる」と上司が認識していたことが、一番のポイントかもしれない。

 

つまり「結論から」は、「言うべきこと」を率直に言わなければならない、という「企業の文化」をとても強く反映している。

その文化形成なしに、表層だけマネをしても、たぶん定着は難しいだろう。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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「こんなはずでは…」

 

転職や異動先で、思ったように力が発揮できない。そんな経験はないだろうか。

環境が変われば、新たに「学習」すべきことは多い。だが同時に「アンラーニング」も必要だ。

 

アンラーニングとは、これまでの学びを捨て去ることではない。学び直しとも違う。

過去の経験を通じて培ってきた習慣や価値観を認識した上で、今の自分に必要なものを取捨選択し、知識やスキルを修正していくこと」である。

昨今よく耳にする言葉になってきたが、重要性が理解できていなかったり、試みるもののうまくいかなったり、という方も多いだろう。

私自身も、実はそのひとりであった。本稿ではそんな私の経験談を例にとりながら、アンラーニングについて解説していきたい。

 

アンラーニング=忘れる、ではない

転職して間もない頃のことだ。「この組織で活躍したいなら、前職の経験をアンラーニングしなければいけないよ」と、先輩社員からアドバイスをもらった。

「アンラーニング……? 忘れる、ということですか?」

私は困惑した。会社も仕事も違うのだから、新しく覚えることはあっても、忘れることなんてあるのだろうか。そのときは話半分に、先輩社員のアドバイスを聞き流していた。

だが、徐々に仕事を任されるようになると、どうもうまくいかないことが続いた。勉強不足もある。だからこそ、「前の職場では、こうやればうまくいった」と過去の経験を頼りに頑張ってみる。しかし、求められるレベルに到達しないばかりか、方向性が違っていることもしばしば。

そんな状況を見かねた上司は、色々と相談に乗ってくれる。だが、私は頑なに「前職ではこうだった」と、これまでのやり方を貫こうとする。上司は笑って受け止めてくれるが、その後も期待されるパフォーマンスを一向に発揮できない——。

今から思い返せば、これは典型的な「アンラーニングができていない状態」だった。

当時の私は、前職の成功体験に固執していた。そのため、新しい職場で新たに学ぶ姿勢ができていなかったのだ。

 

社会人教育の業界では、「Learning is Unlearning」と言われる。ビジネスパーソンの学びは、過去の習慣や価値観のうち、何を残し、何を捨てるべきかを客観視した上で、新たに学習していくことの繰り返しである

その際、注意したいのは「これまでの学びを忘れる」ことではないということだ。

「これまで培ってきた習慣や価値観を認識すること」「それらを取捨選択すること」がポイントになる。

 

こう書くと、アンラーニングは難しくないように思えるが、そう簡単にはいかない。

なぜか。そこにはある“トラップ”が存在するからだ。

 

有能なビジネスパーソンほどコンピテンシー・トラップにひっかかる

ロミンガーの法則(*1)によれば、「仕事上の経験が、ビジネスパーソンの学びの7割を占めている」という。

だから、何をするにも過去の経験を参考にするのは当然のことだ。

しかし、新しい環境では、これまでの経験が役に立つとは限らない。だからこそ、環境が変われば”意識的”にアンラーニングする必要があるのだ。

 

*1 ロミンガーの法則:企業人の成長要因は70%が業務上の経験、20%が周囲の人々からの薫陶、10%が研修であるという法則。リーダーシップを中心とした人事領域の調査研究機関であるロミンガー社が行った、経営幹部層への調査研究・分析により明らかになった。

 

当たり前のことに思うだろう。にも関わらず、なぜ人は簡単にアンラーニングできないのか。

 

それは、人には経験から学んだことを「固定化」「固着化」すると同時に、それに固執することで新たな可能性を視野に入れなくなる性質があるためだ。

これを「コンピテンシー・トラップ」と言う。過去の成功体験にとらわれて、新しい学びがなされないというこの事象には、有能なビジネスパーソンほど陥りやすい。

 

有能なビジネスパーソンが成果を出し続けられるのはまぐれではない。

多くは、過去の経験から成功するための法則を導き出し、その法則を用いて再現性を高めているのだ。

しかし、環境が変われば、その法則も通用しないことがある。まさにアンラーニングが必要な場面となっているのである。

 

例えば、あなたの周囲にこんな人はいないだろうか。

鳴り物入りで転職・異動してきたが、何をするにしても「前職では…」「前の部署では…」と、自分の意見を押し通そうとする人だ。

そんな口癖のあるビジネスパーソンは、コンピテンシー・トラップに陥っている可能性がある。

 

もしあなたにも身に覚えがあるなら、コンピテンシー・トラップを抜け出すために良い方法がある。

それは「リフレクション」だ。

 

(執筆:太田 昂志)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by Siora Photography

「サプライズ」という文化が極めて苦手です。軽い恐怖感さえあります。

 

例えば、当人に内緒で誕生会を企画しておいて、当日びっくりさせよう、だとか。

秘密裡に贈り物を買っておいて、当日突然渡して感動させよう、だとか。

気の利いた店を予約しておいて、いきなり連れていって驚かせよう、だとか。

そういう、「内容を事前に開示しないで、不意打ち気味に相手にぶつけて驚きと共に喜ばせる」という文化が、私、するのもされるのも、昔からとても苦手なんですよ。

 

私の妻もどちらかというとサプライズが苦手な人なので、しんざき家では事前調整至上主義をとっています。

子どもたちを含め、誕生日プレゼントは事前にじっくり相談して何を買うか合意をとりますし、食事に行く時はwebページを見ながらあーでもないこーでもないとみんなで議論します。

イベントごとでも、内容を内緒にしておいて、主役以外で段取りを整える、というようなことはまずしません。

全部事前に開示して、こういう内容でいいか、他にはどんなことをやりたいか相談します。

 

事前に「want」を調査出来るのだから外しようがないし、計画段階で一緒に盛り上がることも出来る。

むしろこれなしで相手が喜ぶことをなんとか探り出すって無理ゲーじゃないの、世間の人はなんでそんな難しいこと出来るの、などと思ってしまうんですよ。

 

今のところ、その方針で妻と意見が分かれたことはないですし、子どもたちから不満が出てきたこともないので、まずまず上手く回っているのかなあと思ってはいるわけです。

 

web上でよく話題に上がる話として、「初デートでサ○ゼに連れていかれてがっかり」みたいなテーマがありますけど、個人的にはそれも若干不思議なんですよね。

デートで行く店とか事前に合意しないの?と。

行きたい店ある?とか食べられない物ある?とか事前に確認しておかないもんなの?と。

 

事前に「サイゼどう?」「いいよ/いやだ」という調整があれば、そもそも「サイゼでがっかり」みたいな話って発生しようがないと思うんですけど、それってあまり一般的な考え方じゃないんでしょうか。

私と妻の場合、結婚する前から「何を食べに行くか」というのは重要な事前調整事項だったんですけど。

 

***

 

ただ、私の知人連中を中心とした観測範囲には、結構な数の「サプライズ愛好者」がいまして、しんざき家の「事前調整」スタンスって賛否が分かれるんですよね。

 

特に頻繁に言われるのが、「もったいない」という言葉です。

 

つまり、「サプライズをしない」というのは、一種の機会損失であると。

「知らなかった」ということによって産まれる筈だった驚き、その驚きが導く嬉しさを事前に殺してしまっていると。

知ってしまうことによって、当日の新鮮な驚き、新鮮な楽しさが減衰してしまうと。

 

本来「知らなかった」ということによって楽しさや嬉しさが増幅されるのに、それを最初から放棄してしまうのはもったいない、という考え方ですね。

ネタバレを忌避するスタンスにも近いでしょうか。

 

相手が喜ぶポイントを探り出す必要があるという点では、「察して欲しい」「察し合いたい」文化とも通じるものがあるのかも知れません。

ただ、実を言うとこれ、個人的にはやや釈然としないものがありまして。

「事前に知っておくことによる楽しさ」というものも世の中にはあって、その楽しさが一概に「知らなかったことによる楽しさ」に劣るものだ、とは、私にはどうも思えないんですよ。

 

例えばプレゼントであれば、「こんなおもちゃがもらえる」「こんなゲームがもらえる」ということが事前に分かっていて、それが手に入った時のことをあれこれ想像する。どんな風に遊ぼうとか、誰と遊ぼうとか、期待に期待を膨らませて、いよいよ当日待ちに待ったゲームがついに手元に、みたいな楽しさもあるんじゃないか、と。

パーティだって食事だって旅行だって、同じことが言えると思うんです。

 

もしかすると、瞬間風速的な嬉しさは「サプライズ」に劣るのかも知れないですが、楽しめる期間はもしかすると「サプライズ」よりも遥かに長いかも知れない。

「知ってしまった」ことが機会損失だとしたら、逆に「知らなかった」こともある種の機会損失なんです。

 

昔、ゲーム雑誌やパソコン雑誌を読んでいて、ゲームの「発売予定カレンダー」を眺めてワクワクしたりしませんでした?

私、タイトルと数行のゲーム紹介を読むだけでワクワクしちゃう方だったので、「内容を知った上で、発売当日のことをあれこれ想像する楽しさ」ってすごーく馴染んでいるんですが。

 

事前に相談して、調整して、その上で当日を楽しみにする喜び。

そういう楽しさも否定されるべきではないし、そこに「もったいない」という言葉は当てはまらないんじゃないかと、私はそう思うんですよ。

 

もちろんこれはごくごく個人的な感覚なので、他人に押し付ける気は一切ないんですが、「サプライズ」を選択しないことによって発生する楽しさもある、ということについては申し上げておきたいなーと思った次第なんです。

 

皆さんはいかがですか?「知らなかったことによる楽しさ」と、「知っていたことによる楽しさ」どちらがお好きでしょうか?

大人同士ではサプライズはしないけど、子ども相手にはする、といった形で使い分けている方もいらっしゃるでしょうか?

 

***

 

ところで先日、「120万のピカチュウの婚約指輪をプレゼントしたら泣かれた」という増田(はてな匿名ダイアリーの俗称)を読みました。

今確認したら何故か削除されていたので、以下はアーカイブです。

 

ポケモンGOをきっかけに仲良くなった彼女に、サプライズプレゼントとして婚約指輪を贈ったところ、喜ばれるどころか泣かれてしまった、という話ですね。

 

この件については論点が色々ありまして、実話なのかどうかは一旦置くとして、

 

・事前に彼女がサプライズを期待するような発言をしていたこと

・元々「プロポーズ」という文化とサプライズが関連づけられて語られやすいこと

・指輪が120万と非常に高額だったこと

・その後も「相談して欲しかった」と何度も言われていること

 

あたりは議論の対象になっていました。とはいえ、基本的には「サプライズ」のリスクが顕著に発現した問題ではないか、と認識しております。

金額が大きすぎる、影響が大きすぎるから事前に相談しておくべきだ、という意見も見かけまして、それもまたもっともです。

 

ただ、私自身は、プロポーズがどうとか金額の多寡とかあまり関係がなく、

「人生を共にするような相手であれば、なにくれとなく事前調整・相談が出来るような関係を構築しておくべき」

であって、その入口となる筈の「プロポーズ」というイベントにサプライズの影がつきまとっていること自体、ちょっと理解し難い部分ではあるんですよね。

 

一般論として、そもそも女性の側は、男性に「サプライズ」なんて期待しているんですかね……?

指輪なんてきちんとサイズとか測らないと買えたもんじゃないし、指のサイズなんて聞いたら「指輪を買います」っていうのがバレバレだし、その上でセンスを発揮して相手が気に入る指輪を買わないといけないとしたら、それはそれで試されてるみたいで正直キツいんですが……。

 

そもそも「サプライズ」文化自体が「事前調整」という概念とは相性がよくないこともあり、サプライズ文化に馴染んだ人が日々こういったリスクと背中合わせの生活をされていると思うと、「やはり事前調整……事前調整は全てを解決する……」と思うところ大なわけです。

 

***

 

ちなみに、そもそも何で私がそんなにサプライズが苦手なのかという話は、どうも元をただすと「サザエさん」にあるようなんです。

 

私が子供の頃、母方の祖母の家に毎年遊びに行っておりまして、そこに「サザエさん」の原作が全巻置いてあったんですよ。

当時、「アニメの原作」という概念自体を知らなかった私は、「あれ、アニメが漫画になってる」と不思議に思いまして、暇を見ては「サザエさん」を読み漁っていました。

 

なにせ「サザエさん」の連載は戦後まもなく始まったものですから、当時ですら随分昔の話に思えまして、逆にとても新鮮で面白かったものです。

 

で、その時読んだ中の一作に、「父の日を祝ってもらえることを期待していた波平が、皆の素っ気ない反応に失望する」「実はサプライズ父の日パーティが計画されていたが、失望した波平が一人で飲みに行ってしまった為、パーティは主役不在で失敗」という話があったんですよ。

まさにその回について、Twitterで言及してくださっている方をたまたま見かけました。以下、引用させていただきます。

https://twitter.com/kenichi00840084/status/1008301076183838720

この回、「忘れられた波平」というタイトルでアニメにも採用されているみたいです。

 

上のツイートでは、サプライズが成功した時の話も併せて言及されておりまして、これも当時読んだんですけどね。

とはいえ子どもの頃の話ですので、私、この「サプライズ失敗」の話に大変な衝撃を受けまして。

「始めから波平に言っておけばよかったじゃん……!!」と強く思ってしまったんです。

 

サプライズって、とにかく「失敗した時」のことが怖すぎるんですよね。

楽しんでもらえる、喜んでもらえるという期待が空振りに終わった時って、本当がっかりするし、誰一人幸せにならないじゃないですか。

波平のこの表情がある種のトラウマに近い記憶になっているばかりに、その後も「サプライズ」に対する恐怖感をずっと引きずり続けている、というのが私に関する実情のようです。子どもの頃の記憶こわい。

 

ということで、長々と書いて参りました。

この記事で書きたかったことを簡単にまとめると、

 

・サプライズ文化がどうも苦手です

・「知ってしまう」ということは一種の機会損失なのかも知れないが、「知ったからこそ」の楽しみ、というのもあるんじゃないでしょうか

・事前調整至上主義があまりに安定し過ぎていてそこから離れたくない

・近くにいる人とはなにくれとなく事前調整・相談できるといいですよね

・サザエさんには結構えぐい話もある(特に原作)

・それはそうと、フラッシュモブによるサプライズプロポーズ、みたいなヤツも個人的には超怖い。あれ、される側どんな気持ちなんだろう

・プライベートなことを周囲に晒されるのが嫌な人は珍しくないので、他人を巻き込む系のサプライズには特に慎重でありたい

 

これくらいの結論になるわけです。よろしくお願いします。

 

全然関係ないけど、特に初期のころのサザエさんって泥棒とか強盗がしょっちゅう描写されますよね。

それだけ治安が悪い時代だったってことなんでしょうか。

あと復員兵の話がちょこちょこ出てくるのも時代を感じるポイントです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Xavi Cabrera

日本はつねづね、有能な人が損をする場面が多いと思う。

このツイートが4.5万いいねを獲得していることからも、うなずいてくれる人は多いんじゃないだろうか。

https://twitter.com/kaelu_only/status/970958637525954560

探しても見つからなかったのだが、ほかにも

「時間に余裕ができるとそのぶん仕事が増えるから、効率化したら損をする」

「仕事をがんばったら、『こっちがサボっているように見える』とまわりから嫌な顔をされた」

といったツイートを何度か見かけたことがある(どちらもめちゃくちゃバズっていた)。

 

努力をした人、有能な人が損をするのは、おかしい。

だれもがそう思うのに、なぜかそうなってしまう。

 

でもそれは、考えてみれば当然なのだ。

だって日本は、「有能な人が無能な人の尻ぬぐいをするシステム」だから。

 

仕事をやらない人のしわ寄せがデキル人にいく問題

先日、当サイトで安達さんの『「依頼された仕事をやらない人」は、なぜあれほど言われても、仕事をしないのか』という記事が公開された。

 

仕事を遂行する能力はあるし、ちゃんと「やります」と言う。

それなのにやらない人がいる。いったいなぜか。

 

記事内で、それは「たぶん、面倒になった」からだと結論付けている。

確かに、つらそうな仕事でも、最初彼らは「やります」という。
「これだけやってりゃいい」という指示を与えれば、短期間で爆発的な力を出すこともある。
でも、プライベートで何か起きたり、当初の予定通りいかず「ちょっと考えなければならないこと」が出来た時点で、彼らは、仕事を放り出してしまう。

出典:『「依頼された仕事をやらない人」は、なぜあれほど言われても、仕事をしないのか

わたし自身面倒くさがりだから、この思考回路はよくわかる。

予定通りいかなくなったり、イレギュラーな対応を求められたりすると、途端に面倒くさくなるのだ(それでも仕事はやるけども)。

 

で、今回注目したいのは、その先の「放り出された仕事はだれがするのか」という部分である。

 

たとえばあなたが、Aさんに顧客対応を任せたとしよう。

Aさんにはその能力があるし、やり方もわかっているはず。本人も「わかりました」とにこやかに引き受けてくれた。うん、大丈夫そうだ。

 

……しかしAさんは、なかなかその仕事に取り掛からない。

「大丈夫?」と確認したら、「大丈夫」だと言う。ちょっと手伝って「あとは平気?」と念押しすれば、「はい」と答える。

それなのに、やっぱりやらない。

なんやかんや言いつつ放置して、仕事を終わらせようとしない。

 

そういう状況で、あなたはどんな対応をするだろうか。

Aさんを怒る? Aさんと面談する? Aさんのマネージメントを見直す?

いや、たぶん多くの人は、「自分・もしくは他の人がその仕事をやる」という方法を選ぶだろう。

そっちのほうが、楽で確実だから。

 

記事内でも、「こういう人々には、『引き受けたじゃないですか!』と怒ったところで無駄であるし、代わりの人を探したり、時には自分でやったりしたほうが早い」と書いてある。

そう、こうやって「できる人がやればいい」となるのだ。

 

「自分の仕事は自分でやれ」で話は終わり

主語を大きくすると荒れそうではあるが、誤解を恐れずにいえば、「依頼された仕事をやらない人がいて困る」という記事は、「とても日本っぽいなぁ」と思った。

この問題は、個々の責任があいまいな日本流の働き方だからこそ、起こりやすい気がするから。

 

たとえばわたしが住んでいるドイツは、ザ・担当制。

役所に問い合わせても「自分の担当じゃない」とたらいまわしにされるなんて日常茶飯事、「担当者が3週間バカンスに行っている」と手続きを放置され、なんでもかんでも担当者に予約しろと言われる。

 

こっちからしたら「だれでもいいから対応してくれよ」と思うのだが、向こうからしたら「自分の仕事じゃないから対応する義理がないし、責任をとれない」からやりたくない。

そういうお国柄なのだ。

 

「あなたの仕事はこれね」という契約のもと働き、その人の担当として仕事を任される。

自分の仕事をやってりゃそれでいいし、自分の仕事をやらなきゃその人の責任。至ってシンプル。

 

だから、「面倒くさいからやらない」なんてのは、基本的に許されない。

そしたらもう仕事を任せてもらえなくなるし、自分がやらないからってだれかがやってくれるわけじゃないからね。

 

もちろんドイツでも、他人の仕事を手伝ったり、フォローしたりすることはある。

ただそれはあくまで好意であって強制ではないし、最終的に責任を負うのは担当者だ。

 

マジメにやると手伝わされる理不尽

一方の日本は「担当」があいまいだから、だれかがやらない仕事は、ほかのだれかに回されることが多い。

仕事をしない人がいても「ちゃんとやれ」とはならず、「手伝ってあげて」と、仕事が早くて融通が利く人が割を食う。

 

思い出してみれば、学校に通っていたときからすでにそうだった。

早く帰りたいから一生懸命掃除したのに、最終チェックのために先生を呼んだら、「廊下掃除を手伝って」と言われる。

見てみれば、廊下掃除担当の男子は雑巾を投げて遊んでいて、掃除する気ゼロ。

「男子がちゃんとやればすぐ終わるじゃないですか」と言っても、「そっちは終わったんだからちょっとくらい手伝ってあげなよ」となるのだ。

 

たとえグループ研究の担当範囲を家で完璧にやってきたとしても、授業では「〇〇ちゃんがまだだから一緒にやってあげて」と言われる。

「〇〇ちゃん昨日プリクラ撮ってたのmixiで見たよ。サボっただけだよね? なんでわたしがやってあげなきゃいけないの? 休み時間使って自分でやりなよ」と言えば、悪者になるのはわたしだ。

「なんでチームの輪を乱すの」「心が狭い」「それくらいやってあげなよ」と。

 

いや本当にさ、ムカつくんだよ。

ちゃんとやればやるほど、「じゃあ手伝ってあげて」「じゃあこれもやって」ってさ。マジメにやり損じゃん。

抗議しても「まぁまぁ」と困った顔をされて、なんかこっちが悪いみたいになるし。

 

この尻ぬぐいシステムの最悪なところは、最終的に「みんなでがんばった」って評価されるところだ。

雑巾投げで掃除しなかった男子も、廊下掃除が終われば「ちゃんとやった」ことになるし、宿題をしなかった〇〇ちゃんも、グループワークが形になれば「ちゃんとやった」って成績をつけてもらえる。

本人、なにもしてないのに。

 

正当な理由があってできないならともかく、手抜き・サボり・面倒くさがりの人の尻ぬぐいをするのがチームワークなんて、クソ食らえだ。

 

有能な人が尻ぬぐいするのはただの帳尻合わせ

……とまぁちょっと感情的になってしまったけど、「責任」が軽いと、デキル人が損をするのは事実だと思う。

だってその人の仕事を本人がやらなくても、「まわりの有能な人がフォローしてあげればいい」って結論になるんだから。

 

まわりの人が代わりにやってあげてしまうと、その人は「やらなくてもどうにかなる」と味を占めて、その後もやらなくなる。

そして代わりにやらされた人は、「なんで自分が尻ぬぐいしなきゃいけないんだ」と不満を抱く。

サボりは加速し、有能な人は「やってらんねー」とやる気をなくす。

それが、日本でよく見る尻ぬぐいシステムだ。

 

「これは君の仕事。ちゃんとやったらそのぶん評価するよ。でもやらなかったらもう同じ仕事は任せないし、今後与える仕事を見直すから給料にも影響する。仕事を任せるってそういうことだから」

ものすごく当たり前だけど、本来仕事って、こうあるべきじゃないだろうか?

 

もちろん、問答無用で仕事を押し付け、「お前の責任だぞ!」なんていうのは論外。

仕事をやり遂げられない理由が、仕事が多すぎて手が回らないだとか、作業環境が悪くて集中できないだとか、育児との両立で体力的に限界だとかって場合は、また別の話だ。

 

デキル人を評価するために責任は必須

「責任」と言うと重苦しく聞こえるが、責任はある意味、「手柄独り占め」でもある。

「これがあなたの仕事だよ」と任され、自分の責任で、それをやり遂げる。そしたらそれは、あなたの功績として認められる。

「責任」を負うから、「手柄」を評価してもらえるのだ。

 

できなければ相応のペナルティがあるとはいえ、そういう仕組みにおいてこそ人はやる気になるし、もっといい仕事をしようと思うんじゃないだろうか。

まぁ、「あなたの担当はこれ」と明確に決められていること、ちゃんとその仕事に集中できる環境であることなどが前提となるけども。

 

逆にいうと、責任があいまいで「みんながんばりました」というざっくり評価だと、がんばる意義はなくなる。

がんばればがんばるほどマイナスの補填をさせられるし、そのくせ自分の評価はたいして上がらないし……。

 

有能な人にマイナスの補填をさせ続けるのは、マネージメントではなくただの帳尻合わせ。

そのときは「丸く収まった」と思うかもしれないが、割を食った側は、その理不尽を忘れない。

「なんだよ、やらないヤツのほうが得してるじゃん」という不信感を抱いてしまう。

 

で、最終的に、自分をもっと高く評価してくれる職場に行くのだ。

それは組織としても、結果的に損していることになる。

 

というわけで、

「仕事を放り出す人がいたらどうするか?」

の質問に対する答えはかんたんで、「責任を取らせる」。

 

冷たいように聞こえるけれど、やらない人に責任を取ってもらうことと、ちゃんとやった人を評価するのは表裏一体のはず。

「クビにしろ!」というわけではないが、なにかしらケジメをつける必要があるんじゃないだろうか。

 

マジメな人が報われるために、わたしは、そうあるべきだと思う。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Lucas van Oort

「好きで働いているんだろ?」

精神科医である斎藤環の『家族の痕跡―いちばん最後に残るもの』を読んでいたら、このような記述にいき当たった。

このように考えてみてはどうか。すべての「職業人」は「好きこのんで仕事をしている」のだ、と。

これを言うのは、正直に言えば、なかなか辛い。厳しい疲労とストレスに耐えて、それでも真面目に働いている人々を、もちろん私は尊敬する。

しかし、その尊敬こそが危険なのだ。その種の尊敬は、そのような生活スタイルがどうしても取れない人たちに対する軽蔑を伴わずには成立しないからだ。

それゆえこの尊敬は小声で口にされるべきものだし、まして自らの多忙さを誇る(=愚痴る)ことは、あきらかに下品な振る舞いなのである。

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これには前段があって、ネット(当時の2ちゃん)に書き込まれたコピペがあげられている。

そのコピペ(詩)は見つけられなかったが、「働いたら負け」のインターネット・ミームは多くの人が知るところだろう。

 

それにしても、「好きこのんで仕事をしている」と言われたら、どう思うだろうか。

おれは「好きこのんでねえよ」と言いたくなる。

 

おれは働きたくない人間である。精神障害者の手帳も持っていて、働くに向いていない人間でもある。それでも働いている。

仕事を「好きでやっている」と言いうるのは、ほとんどの職業人が、誰からも強制されずに「職を失う」ことよりも「辛い仕事を続ける」ことを、あるいはホームレスよりは職業人たることを、自由意志で選択しているからだ。

「好きでやっている」ことを自慢したり、相手に恩を着せたりすることはできない。それでもつい、そうした身振りに陥ってしまう点に「就労の加害性」が宿るのだろう。

と、こうまで言われてはぐうの音も出ない。

 

たしかにおれは大学を中退して社会的ひきこもり、ニートであったこともある。

それでも、その境遇にいられなくなったら、働いていた。働いて、金を稼ぐことを選んでいた。

福祉の保護よりも、労働を選んだ。たしかに自由意志かもしれない。

 

その後、おれは精神を病んだ。精神障害者になった。

それでも、なおそれをオープンにして、底辺の零細企業で働きつづけている。

 

それはおれが、福祉を頼りにするよりも(頼ったところで応えてくれるわけでもないだろうが)、働いて、衣食住と、わずかなギャンブル(競馬)という楽しみを得るためにやっていることである。

なるほど、「好きでやっている」。これを誇ることは、加害的なことかもしれない。

 

加害というと大げさに聞こえるかもしれない。

ただ、おれは精神障害者だし、かつて社会的ひきこもりのニートであった人間である。そちら側の意識もいくらかわかると思ってほしい。

なるほど、「圧」がある。そのように思える。

 

一方で、こういう意見について不服に思う気持ちもわかる。

おれは現に底辺の「職業人」であるし、ホームレスよりましというだけで働いているだけだからだ。

それが加害的であると言われたら、やるせねえよな、というところもある。

 

働きたくねえよな

それでも働きたくねえよな。これは勤勉とされる日本人として特殊なことなのだろうか?

また斎藤環と、與那覇潤の対談本である『心を病んだらいけないの?』を読んでいたら、労働に対する言葉が出てきた。

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與那覇 ……オンラインサロンや自己啓発本の広告を見て感じるのは、勤勉とされる日本人がその実、潜在的には自分の仕事を憎みだしているのではということです。

「『好き』を仕事にして社畜をやめよう」とか、とにかくそういったフレーズが多い。今日の平均的な日本人にとって、理想のライフスタイルは「働かないで稼ぐ」ことなのではという気がしています。

「働かないで稼ぐ」。魅惑的な言葉だ。

何もしないで口座にお金が振り込まれれば最高だし、自分が苦にならないことをしていたらお金が入ってくるというのもいい。

なにもしないのも最高だが、楽しんで金が稼げれば、それでもいい。

 

実際、そうやって生きている人もいるだろう。

地主の家系に生まれれば、なにもしないでお金が入ってくるのだろうし、プログラミングかなにか、金になる技能を持ち、それが楽しい人には最高の世の中だ。

すごく限られたところでは、アーティストと呼ばれる人たちも、楽しんで稼いでいるかもしれない。

もちろん、そこに努力と呼ばれるものがあるかもしれないが、それは社畜の苦しみとは別のものだろう。

 

おれなどは赤字人間なのであって、楽しんでもいなければ、実質稼いでもいない。

「働いているし稼いでもいない」という最悪のコンビネーションだ。これは心も病む。

楽をしたいな。なにもしたくないな。うう、辛い。でも、それを口に出せるだけまだましかもしれない。

 

機能している日本人

また『心を病んだらいけないの?』から

斎藤 ……日本人は「機能している人間」であることへのこだわりが異常に強いというのが私の考えです。だから「インフルエンサーも働いてる」というのは、正確に言いなおすと、彼らのやっていることが労働かどうかわからないが、少なくとも「機能している」と見なされるのだと思います。

なるほど、「機能している人間」。これを重視する日本人。

これは現代の特徴なのか、もうちょっと長いスパンでのことなのかわからないが、そういうところはあるかもしれない。

似たようなことは、ブレイディみかこも『THIS IS JAPAN :英国保育士が見た日本』でも
述べていた。
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日本の貧困者があんな風に、もはや一人前の人間ではなくなったかのように力なくぽっきりと折れてしまうのは、日本人の尊厳が、つまるところ「アフォードできること(支払い能力があること)」だからではないか。

それは結局、欧州のように、「人間はみな生まれながらにして等しく厳かなものを持っており、それを冒されない権利を持っている」というヒューマニティの形を取ることはなかったのだ。「どんな人間も尊厳を(神から)与えらている」というキリスト教的レトリックは日本人にはわかりづらい。

けれどもどんな人間も狂わずに生きるにはギリギリのところで自尊心がいる。自分もほかの人間と同じ人間なのだ。なぜならその最低限のスタンダードを満たしているから、と信じられなければ人は壊れる。

「機能すること」は金を稼げること。地主であれ、サロン主催者であれ金を稼げるということは「アフォードできること(支払い能力があること)」。これである。

これを欠いた人間が引け目を感じる、生きる価値を感じない、そうなる。

そして、おれなどは、それを内面化しすぎているので、「それはそうである」となる。

 

そして、病む。病むのはあまりよくない。よくないが、なぜか日本の労働は病むようにできている。

一部の才能ある人、環境に恵まれた人は別だろうが。

 

これはなんだろうか。

 

「最強の自分」になれないおれたち

また、『心を病んだらいけないの?』から。

與那覇 おそらく日本人は共産主義の教訓を取り違えていて、国家や経済のような「マクロなもの」を計画的に管理しようとしたから失敗しただけで、ミクロなレベルなら「最強の自分」を設計することはできるんだと、いまも信じている。

これなのか。

この「操作主義」への信奉が自己責任論になり、われわれを息苦しくしているのか。われわれって誰だ? まあいい、おれのような人間もいくらかいると思おう。

 

しかしなんだろうか、そうか、計画的になら自分を設計できる、管理できる、成功できると思うところが誤りなのか。

そうできる人間もいるだろう。だが、そうできない人間もいる。

できない人間の方が多いとは言わないが、少なくない人間が「できない」のではないか。

 

そして、「最強の自分」、自己実現できない自分の前にやぶれ、病んでいく。

おれのような底辺だと、自己実現なんて大層な言葉ではなく、「食っていく」こととのせめぎあいになる。それに負けたら死ぬ。

 

けれど、おれにはおれの計画的な管理などできない。そういう能力がない。

流されるままに働き、流されるままに無能で、貧乏だ。

精神も病んだ。そこに尊厳はないし、もちろんアフォードする能力もない。

これは苦しいが、現実でもある。そうできなくとも、おれにはこれがあるという「これ」もない。

 

あれもない、これもない自分が生きていくのは辛い。働くのが辛い。

とはいえ、かろうじて働ける能力があるだけでも、まだ恵まれているほうだ。

働きたくとも働けない人もいる。それを考えたら、おれの愚痴も加害になる。

 

とはいえ、おれももう限界に近い。精神障害を抱え、床に臥せって動けない日もある。文字通り、本当に動けないのだ

それでも衣食住を満たし、ちょっとは娯楽もしたく、そして、「好きこのんで」働いている。

 

これは、板挟みの地獄のように思える。

働きたくとも働けない人に申し訳なく思いながらも、ろくに儲けを出せない赤字人間として苦しみながら働き、充足感のようなものも抱けない。そこになにがあるのか。

 

そこに人生がある。……とか、言うつもりもない。

あるのはただ、疲労と苦痛ばかりである。そればかりが人生である。

 

そればかりが人生だ。

毎年、新社会人となる人たちもいるだろう。能力のある人は、仕事をやりがいに生きていけることだろう。たくさん稼げることだろう。自己実現をできることだろう。

 

でも、そうでもないおまえたち。おれたちの仲間にようこそ。

もう、ここには地獄しかない。それでも死ぬ勇気がないだろう。這いつくばって、流されて、せいぜい生きるしかない。

その覚悟で、せいぜい勝手に生きてくれ。ろくでもない人生の先達からは、それだけだ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Keenan Beasley

はじめに

事業譲渡は大規模のM&Aで使われることはあまりありませんが、中小企業では活用されることの多いM&Aの手法です。

つまり中小企業にとってはそれだけメリットの多い手法であるということでしょう。

事業譲渡はどのような時に選択すべきなのでしょうか。メリットとデメリット、さらには実行する際の注意点について、山田コンサルティンググループ株式会社の鈴木翔大さんに解説していただきました。

 

1.中小企業で事業譲渡がよく使われる理由とは?

事業譲渡とはどんなM&Aの手法なのか、そしてなぜ中小企業のM&Aで使われることが多いか、について解説します。

 

(1)譲渡対象の範囲を当事者間の合意で設定できる事業譲渡

M&Aにはさまざまな手法がありますが、事業譲渡は中小企業のM&Aで使用される頻度が高い手法です。

事業譲渡は固定資産等の有形の財産だけでなく、特定の能力をもった人材、特許等の知的財産権、顧客リスト、契約等の無形の財産を含めた事業そのものを移転する取引法上の行為です。

譲渡対象となる資産・負債の範囲を取引当事者の合意で設定できる点では、他のM&A手法に比べて自由度が高いといえます。

また、範囲を限定することの法的な効果としては原則として簿外債務の承継リスクがないということと、さらに譲渡側の資本関係を承継しないことがあげられます。

 

中小企業においては、オーナーの個人的な資産・負債があり、過去の歴史から債権債務が複雑に絡み合っている場合や、株式が分散し、受け入れたくない株主関係がある場合が多く、株式譲渡等ではリスクが高いと判断されることもあります。

そのため、特定の事業範囲・資産を選択でき、株主関係を承継しなくて済む事業譲渡はメリットが大きく、中小企業のM&Aで使用される頻度が高いでしょう。

また、事業譲渡は契約、従業員等の引継ぎに際して個別同意が必要ですが、中小企業のM&Aでは大企業に比べて、同意が必要なものが比較的少ないことも中小企業M&Aで事業譲渡が使われる理由といえるでしょう。

 

新型コロナウイルス感染症による外出自粛の影響で、外食事業の業績が悪化した企業は、外食事業の譲渡を選択するケースも増えています。

なお、案件個々の事情により、事実上、取引関係の債務を負担しなければならないこともあるので、デュー・デリジェンスにてよく精査することや、精通した専門家に相談することが必要です。

 

(2)事業譲渡の全体的な流れ

事業譲渡の全体的な流れは、一般的に他のM&A手法と大きく変わりはありません。

①売却対象事業の決定

売却対象となる事業を決定します。売却対象となる資産・負債の範囲を明確にします。

有形の資産だけでなく、対象事業のノウハウ・知的財産等の無形固定資産や、売却した場合の他事業に与える影響の洗い出しも含めて検討する必要があります。

事業の売却において、売手自ら事前にデュー・デリジェンスを実施することは大変有益ですし、実務においても実施していることも増えています。売却時のリスクを事前に把握しておくことでトラブルを未然に防ぐことができます。

 

また、大前提として実行しようとしているM&Aは自社の事業戦略上、どのような目的を実現するために行われるのかをしっかり整理することが大切です。

なお、この段階で、売却価格や売却手法についても検討・決定しておきましょう。

 

②買手の探索・選定

次に、買手を探索・選定していきます。売手が同業者、取引先や仕入先等の事業のつながりを活かして直接買手を探す場合もありますが、一般的には、M&Aアドバイザリー会社を活用して買手を探すことが多いように見受けられます。

まずは、売手が買手候補のリストを作成し、候補先を探索します。売手が特定されないようなノンネーム情報で初期的な関心があるか確認し、関心があるとわかれば秘密保持契約書を締結。そして売手企業の詳細情報を開示していきます。

可能であれば、売手と買手のトップで面談(事業者面談)を実施することをおすすめします。

③基本合意契約書の締結とデュー・デリジェンスの実施

実際にM&Aを進めることになった場合、基本合意書を締結します。独占交渉権の付与やデュー・デリジェンスの実施、価格、譲渡対象事業等、これから行うプロセスや諸条件を明確にします。

その後、買手の主導でデュー・デリジェンスが実施されます。デュー・デリジェンスでは譲渡対象事業の実態調査が行われます。

 

事業譲渡は固定資産等の有形の財産だけでなく、特定の能力をもった人材、特許等の知的財産権、顧客リスト、契約等の無形の財産を含めた事業が一括して譲渡されますので、売手が設定した譲渡対象範囲で過不足がないか、実態を把握し価値の算定を行います。

財務・税務・法務・労務等の外部専門家を登用して行うことが多いでしょう。

④取締役会の決議等

取締役会設置会社において、事業譲渡を決定するためには、取締役会の決議が必要になります。

取締役会設置会社以外の会社で、2人以上の取締役がある場合には、取締役の過半数をもって、事業譲渡を決定します。

 

⑤事業譲渡契約の締結

売手と買手が事業譲渡契約を締結します。実務では、契約締結から実行までは、契約書に定める前提条件をクリアしてからクロージング(譲渡実行)を迎えます。

なお、一定の条件下においては、事業譲渡契約締結後に別途対応が必要です。

それは、有価証券報告書の提出義務のある会社は、一定の事業譲渡または譲受けに係る契約を締結した場合には、遅滞することなく、内閣総理大臣に対して「臨時報告書」を提出する必要があります。契約の締結が見込まれ、公表された場合を含みますので注意しましょう。

 

一定以上の規模がある事業を譲り受けるケースにおいては、事前に、買手は公正取引委員会へ「事業等の譲受けに関する計画届出書」を届け出る必要があります。

売手は、公正取引委員会が届出を受理してから、30日を経過(原則として)するまでは事業譲渡をしてはいけないとされています。

 

⑥株主に対する通知または公告、株主総会の特別決議

事業譲渡を行う際、効力発生日の20日前までに、株主に向けて、事業譲渡を行う旨、通知または公告を行うことが必要になります。

以下のケースにおいては、事業譲渡の効力発生日の前日までに、株主総会の特別決議による承認が必要となります。

ただし、株主総会の決議が不要であるケースもあるため、確認をしておきましょう。

 

・譲受会社(買手)

他の会社の事業全てを譲りうけるケースにおいては、株主総会の特別決議が必要ですが、事業の一部を譲りうけるケースは、株主総会決議は不要となります。

 

・譲渡会社(売手)

事業の全部もしくは、一部の重要な事業を譲渡するケースにおいては、株主総会の特別決議が必要となります。

一方で、一部の重要な事業の譲渡であったとしても、その資産の価額が、会社の総資産額の20%以下である場合には、株主総会の決議は不要となります。

 

⑦財産等の名義変更手続、契約・従業員等の引継ぎ

事業譲渡を行うことで、対象の事業の財産等は全て買手へ移転することになります。移転した財産等の中で、預金や土地および建物などで、譲渡会社の名義で登記や登録等が行われているものは、買手への名義変更が必要です。

また、事業譲渡の対象事業に関する契約・従業員等の引継ぎにおいては、個別の同意が必要です。

事業に必要な契約・従業員・資産等について問題なく引き継がれるように注意を払い対応しましょう。

 

(3)事業譲渡の税務

売手においては、譲渡対価と譲渡対象の簿価純資産(譲渡対象である資産から負債を差し引いた金額)の差額により譲渡損益が計上されます。

当該譲渡損益は、当該会計期間のその他の所得と合算され法人税課税の対象となります。

 

買手においては、譲渡対象資産・負債については個別に時価で受け入れるとともに、事業譲渡対価と譲渡に係る時価純資産の差額を資産調整勘定(税務上の正ののれん)または差額負債調整勘定(税務上の負ののれん)として計上し、5年で均等償却します。

 

また、譲渡対象資産のうち、消費税の課税対象資産(のれんを含む)については、消費税の課税対象となります。土地等については、通常の資産譲渡と同様に消費税は非課税です。

その他、対象の資産負債によっては、不動産取得税や登録免許税等、税金が発生する場合があるので、顧問税理士等に個別に相談しましょう。

 

2.事業譲渡・株式譲渡・会社分割の違いとは?

事業譲渡、株式譲渡、会社分割はさまざまな規模のM&Aで使われている手法です。この3つの手法にどのような違いがあるのか、解説します。

 

(1)事業譲渡と株式譲渡との違い

事業譲渡は一部の事業を選んで譲渡でき、株式譲渡は会社のすべての資産を包括承継します。

株式譲渡は、会社オーナー変更のために「ヒト」「モノ」「カネ」が包括的に引き継がれ、付随する許認可等も引き継がれます。そのため、簿外債務を含めた負債も包括的に引き継ぐので、注意が必要です。

 

一方、事業譲渡の手続きは、株式譲渡と比べると一般的には作業すべきことが多くあります。

譲渡の対象となる資産や負債、従業員や契約等を選定し、それらを個別に進める必要があるためです。

そして、事業譲渡の対価は売手のオーナーが受け取れないという違いもあります。

 

(2)事業譲渡と会社分割との違い

事業譲渡と会社分割は、一部事業を譲渡する際によく用いられる手法です。

会社法上の整理によると、会社分割は組織再編行為にあたり、事業譲渡は対象資産の個別の売買行為であり組織再編行為にはあたりません。

 

事業譲渡と会社分割を比較すると、一部事業を選択して譲渡できる点では似ておりますが、組織再編行為にあたらないことによりいくつかの違いがあります。

違いが発生するのは主に、契約の承継、債権者保護、簿外債務の引継ぎリスク、許認可、従業員の承継、税金です。

 

会社分割では、債権者保護手続きが必要です。事業に関連する債権債務を包括的に買手に承継することができますが、事業譲渡ではそれぞれ個別交渉・同意を必要とします。

なお、原則として債権者保護手続きが必要なので、一般的に事業譲渡よりも時間を要します。

 

(3)事業譲渡が選ばれるケースとは?

事業譲渡・株式譲渡・会社分割という3つの手法の中で事業譲渡が選ばれるケースは3つあります。

 

まず1つ目は簿外債務リスクがある可能性が高い場合です。

包括的に承継してしまう株式譲渡・会社分割と異なり、事業譲渡により引き継ぐ財産の範囲を限定することで、事業譲渡の実行時点では予見できない簿外債務や偶発債務などの承継を回避することができます。

買手として株式譲渡や会社分割にて対象会社・事業を譲り受けると思わぬ簿外債務リスクまで引き継いでしまう可能性があると判断された場合には、事業譲渡が選択されるケースが多いです。

 

2つ目に、事業の選択と集中を推進する場合です。

中核ではない事業を譲渡し、その資金を本来の中核事業へ投資ができれば良いでしょう。

他の選択肢として、例えば、事情により法人格を残す必要があれば、現在の事業だけを譲渡することによって、残った法人格で新たな事業を開始できます。買手のメリットとしては、取得したい財産、従業員、取引先を選択できるということです。

 

3つ目は、できるだけ早く譲渡したい場合です。特に事業再生の局面において事業譲渡の迅速性が効果を発揮します。

事業譲渡を活用したスキームとは、会社の事業を譲渡し、債務の弁済に充てるものです。再生会社が債務超過の状態にあることは、再生手続においては特別ではなく、更に多額の債務を抱えているケースも見られます。

 

計画外事業譲渡という選択肢もあります。計画外事業譲渡では、再生手続き開始申立て後、まだ再生計画の提出される前であったとしても、一定の条件を満たし裁判所の許可を得ることで事業譲渡を実行できます。

また、裁判所の許可が下りれば、取締役会決議は必要ですが、株主総会の特別決議が省略できます。

 

メリットとしては、他のM&Aの手法と比較して、時間やコストにおいて優位性があり、株主総会での特別決議が否決されるといったリスクがないため、迅速さが求められる事業再生において、事業譲渡はM&Aの手法として、とても有効だと言えるでしょう。

 

3.事業譲渡を選択するメリットとデメリット

売手と買手、それぞれの立場から事業譲渡のメリットとデメリットを解説します。

 

(1)売手の立場から見た、事業譲渡によるM&Aのメリットとデメリット

<メリット>

・手元に置きたい資産や従業員、契約を残すことができる(譲渡対象範囲を自由に設定できる)
・法律上、自社の債権者に対する個別通知や公告等をせずに手続をすることができる(会社分割との比較)
・比較的短期間に譲渡が実行できる

 

<デメリット>

・譲渡益に対して課税される
・株主への対価について、支払方法の検討が必要
・譲渡の対象にならなかった資産負債をどうするか、検討が必要

 

(2)買手の立場から見た、事業譲渡によるM&Aのメリットとデメリット

<メリット>

・財産や従業員、取引先を選定し、引き継ぐことができる
・売手企業の簿外債務など、把握できないリスクは引き継がなくてよい。
・節税のメリットが受けられる

 

<デメリット>

・資産・負債、従業員や取引先などの移転手続を個別に行う必要があり、煩雑である

 

4.事業譲渡における従業員の扱いの注意点

事業譲渡では従業員の雇用が問題になるケースがあります。どのような点に注意すべきなのか解説します。

 

(1)事業譲渡を行う場合の従業員との手続き

事業譲渡を行う売手企業は、承継予定従業員と売手企業との間で締結している労働契約を、当該事業を買手企業に承継させる場合には、承継予定従業員から民法第 625 条第1項の規定に基づく承諾を得る必要があります。

(参考)民法第 625 条(使用者の権利の譲渡の制限等)

第1項 使用者は、労働者の承諾を得なければ、その権利を第三者に譲り渡すことができない。

 

売手企業は、承継予定従業員から承諾を得るに当たっては、真意による承諾を得られるよう、承継予定従業員に対し、以下の事項等について十分に説明し、承諾に向けた協議を行うことが大切です。

 

・事業譲渡を行う理由・目的
・買手企業にて勤務する場合の買手企業の概要・労働条件(従事することを予定する業務の内容及び就業場所その他の就業形態等を含む。)

 

労働条件を変更して買手に承継させる場合は、労働条件の変更について承継予定労働者の同意を得る必要があることに留意が必要です。

 

説明が不十分だと、従業員が新会社に移ることを拒否して退職してしまうケースも出てきます。

説明は売手企業と買手企業双方から行いますが、誰がどのようなタイミングで、どのように説明するのか、従業員の立場を理解しながら注意深く検討実行していかなければなりません。

 

なお、売手に労働組合がある場合は事前協議が必要なため、労働組合の有無について事前に確認しておきましょう。

 

(2)従業員の承継の手続きをおこなう際の4つの注意点

従業員承継の手続きに関しては、さまざまな注意点があります。大きく4つあるので、それぞれ解説しましょう。

 

①雇用契約の再締結が必要

事業譲渡を実行する場合、従業員は売手企業解雇されて、買手企業で新たに雇用契約を結びます。

労働条件が異なる場合は、承継予定従業員の個別同意を得られないと雇用できない恐れがあります。

なお、一般的に退職日、再雇用契約日は事業譲渡日と同じ日です。

 

②社会保険の確認が必要

社会保険が問題になるケースがあります。従業員の解雇と再雇用によって、再加入が必要になる場合があるのですが、再加入に時間がかかり、空白の期間が発生する可能性があるからです。

その間に出産や入院などにより大きな費用が生じた際に問題になることも考えられます。

 

また、健康保険にもさまざまな種類があり、保険料率にも違いがあるため、従業員の不利益につながる可能性もあります。

売手企業、買手企業がどのような形で対応することができるのか、細やかな配慮が必要です。

 

③給与の仕組みや支払日の注意が必要

給与の支払日にも注意が必要です。仮に売手企業が末締めの翌25日払い、買手企業が15日締めの翌末日払いなど売り買いで異なるケースがあります。

いつまでが売手の給料として支払わなければいけないのか、売手企業と買手企業とで区分けの確認をしなければなりません。

業務の引継ぎの為、売手企業で一定期間継続して業務にあたる場合の給与等についても留意が必要です。

 

また、給与の構造や体系は会社によって異なるものです。買手企業には買手企業の給与体系や基準があるので、そのまま引き継ぐことは難しいことが多いです。

同額の給与でも基本給と手当の内訳が変わる等でも、従業員にとって不利益変更になる可能性もあるので、専門家に相談しつつ対応する必要があります。

 

④企業年金や確定拠出年金の引継ぎの確認が必要

確定拠出年金や企業年金にて積み立てを行っていた場合に引き継げるのかどうかの確認が必要です。

売手企業と買手企業で退職金制度が異なっていることが多いため、個別に確認しましょう。

 

また、買手企業での再雇用に際して、これまでの勤続年数が継続されるのか、ゼロからスタートになるのかということも従業員にとっては重要なため、十分に検討と対応をします。

 

上記4つの注意点以外にも検討が必要な事項は多くあるため、実際に行う場合には専門家に相談して進めていくとよいでしょう。

 

5.事業譲渡で問題が発生した3事例とその防止策

事業譲渡はすべてがスムーズに進むケースはそう多くはありません。

「こんなところで問題が起こってしまったのか」と後になって後悔することもあります。

そのような失敗例を2つ紹介しましょう。併せてこうしておけば未然に防げたのではないかという防止策も解説します。

 

(1)キーマンの転籍拒否、従業員が相次いで転籍後に退職してしまった事例

事業譲渡で譲渡対象事業のキーマンが買手企業への転籍を拒否、キーマンを慕っていた従業員も相次いで転籍後に退職してしまった事例です。

買手企業は同業の大手でしたが、売手企業とは経営理念・企業文化が異なっており、かつ、労働条件についても売手企業よりも悪くなってしまった為、従業員の反発を招いてしまいました。

 

この問題については魔法のような解決策はありません。従業員に対して、事前に丹念に説明していくということに尽きます。

売手企業・買手企業の条件に合わせるのは簡単なことではありません。

買手企業にも既存の従業員がいるわけなので、その方々と条件面で格差が出てしまうと、それはそれで新たな問題になりかねません。

 

どうしても労働条件が悪くなってしまう場合は、売手企業の従業員に給与や待遇について説明する担当者を選ぶ段階から、その担当者と従業員との人間関係も考慮するなど、細やかな配慮を必要とします。

 

また、経営理念・企業文化についてもしっかり伝えることが重要です。

あまりにギャップが大きい場合は転籍した後に退職者が多く出てしまう恐れもありますので、買手企業を選定する段階からトップ面談等にて企業文化が合うかどうかを検討する必要があります。

 

(2)譲渡対象の受け漏れがあった事例

事業譲渡における譲渡対象資産の見極めが甘く、必要資産・契約が引き継がれず、事業譲渡実行後に追加の対応が必要になったケースがありました。

対象企業はいくつか工場を保有している企業で、その中の1つを譲渡することになりました。

工場の設備一式も含めての譲渡でしたが、事業譲渡後に工場の設備の一部がリース契約されていたことが判明しました。

リース契約は契約者である売手企業のままであり、その契約が引き継がれていなかったため、別途覚書を締結して追加で引継ぎの手続きを行うことになりました。

 

このようなケースを未然に防ぐには、譲渡対象範囲をしっかりと確認することが重要です。

売手企業も事業譲渡のプロセスを始める前に売却対象となる資産・負債の範囲を明確にする必要があります。

有形の資産だけでなく、対象事業のノウハウ・知的財産等の無形固定資産や、売却した場合の他事業に与える影響の洗い出しも含めて検討、整理することが大切です。

買手も売手の説明に鵜呑みにするのではなく、専門家を入れてデュー・デリジェンスにて入念に確認しなければなりません。

 

6.売手と買手が事業譲渡において確認すべきこと

事業譲渡において当事者が特に確認すべきことは、①譲渡対象範囲と②引継手続きが必要な事項及び対応方法です。

 

株式譲渡では会社全体を売買することになるが、事業譲渡は取得したい財産や従業員、取引先を選別して引き継ぐことができます。

一方で、譲渡対象とならなかった資産負債の取扱いについて別途検討しなければならない上、本来必要な資産が漏れてしまっていたという事態が起こるリスクがあります。

そのため、譲渡対象となる資産・負債は有形・無形に関わらず事前に検討・協議しましょう。

 

また、事業譲渡では雇用契約や取引先との契約などを個別に結び直す必要があります。「ヒト」「カネ」「モノ」と多岐にわたっているので、どのような手続きが必要なのか、契約の引継ぎはどうなっているのか、明確にしておくことが大切です。

同意取得には時間を要することが多いので、余裕をもってスケジュールを組むことをおすすめします。

 

7.まとめ

事業の売却を検討する際には、本編でお話ししたメリット・デメリットを参考に、両面から考慮しましょう。

 

また、会社規模によってメリット・デメリットが異なります。

例えば、大企業にとっては、株主の承認を得ることが難しい、契約が多いため引き継ぎが大変である、など手続きが煩雑で時間がかかるため、デメリットの方が大きいと考えられます。

 

一方で、中小企業の場合は、財産の数や契約の再締結が必要な取引数、従業員数も少ないため、簿外債務リスクがあった場合はなおさら、事業譲渡をするメリットの方が大きくなる可能性もあります。

専門家に事前に相談して、会社規模や状況をみながら、最適な選択をすると良いでしょう。

 

(話者:山田コンサルティンググループ株式会社 コーポレートアドバイザリー事業本部 M&A 事業部 マネージャー 鈴木翔大

※本記事は、「株式会社リクルート 事業承継総合センター」からの転載です。

 

 

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論文を書く事の意味がわからなかった。

 

医者とは人間を診る商売である。

だから医学知識の習熟ならびに日々の診療行為を通じて臨床能力を高める事が何よりも肝心で、その一番大切な部分から目を背けて論文を書く事に何の意味があるのかサッパリわからなかった。

 

そもそも世の中には研究しかやっていないガチのガチの研究者達が多数いる。

ガチ勢が世の中を変えるような研究をしようと血眼になって頑張っている傍らで、医者が診療の片手間で研究もやるだなんて、普通に考えて失礼だと思ったのだ。

 

凡人は、他にもっとやるべき事があるでしょ?

もちろん医療は科学だから、進歩を目指して先へ先へと推し進めるべきものではある。

だが、そういうのはウルトラ能力に溢れまくったスーパーマンがやるべき仕事であって、凡人は研究する暇があるなら他にもっとやるべきことがあるはずだ。

 

「なんか教授って偉そうにしてるけどさ…あの人達の研究って、本当にちゃんと意味があるものなの?」

「出世のためだけに税金をドブに捨ててるんだとしたら、それは許されるようなものじゃない」

「出世なんかに興味ないし、学術的な事なんて時間の無駄だ。一生やるもんか」

 

そうずっと考えて、臨床能力ばかりを追い求めてここまでやってきた。

しかし世の中というのは不思議なもので「絶対に研究なんかやるもんか!」と思っていたはずの僕が、今では実験、パワポにエクセル、統計解析を日々の診療と並行してやる有様である。

 

こうして実験&論文執筆に関わるようになり、研究者以外の人が研究に関与する意味のようなものがみえてくるようになった。

以下、研究と全く関係のない仕事をしている人達にも参考になるようにアレコレ書いていこう。

 

研究と言っても一口に色々ある

一般的には研究というと青色発光ダイオードだとかiPS細胞のようなミラクルな業績を思い浮かべる人が多いだろうが、研究と言うのはそのようなものばかりではない。

 

例えばである。A, B, Cと来たら、次に続く文字は何かと言われれば、多くの人は「D」と答えるであろう。

しかし研究的な意味では、Cの次が本当にDなのかは予測でしかない。

「たぶんDだろうけど、それを確かなものにするためにはキチンとした実験や解析をする必要がある」という事だ。

 

世の中にはこんな感じの解決一歩手前の問題が結構ある。

そしてこうした解決一歩手前の問題は、それが解決される事でまた新しく増え続けるという性質を持っている。

先ほど例ならA, B, C, Dと来たら次は「たぶんEだろう」というような感じだ。

 

こういう解決一歩手前問題の多くはとても地味だ。

解決の為には奇抜なアイディアというよりも、物凄く地道で土臭い日々のコツコツとした努力が必要となる。

 

研究でまず最初に学べるのは、この土臭い努力の大切さだ。

実験データを集めるという作業は最初の頃は本当に全貌像が見えなくて心を折られる場面も多々あるのだけど、それを淡々と続けていくと、いつの間にか立派なモノが出来上がる。

 

「日々のコツコツがないと、結果って出せないんだな」

「っていうか逆にいえば、結果って日々コツコツ頑張ってれば出来るんだな」

「大変だけど、毎日ちょっとづつ頑張ろう…」

 

こういう精神を学ぶのに、研究はとてもよい。

 

問いをたてられるようになると、能力のレイヤーがあがる

「どうもここまでは”確からしい”んだけど、ここから先はよくわからないな…解決する為には○○をすればいいと思うのだけど」

研究というのはそういう”未知”の問題を解決する為の手はずである。

既知の事実なら、本を読むなり勉強するなりすればいくらでも学べるのだが、未知の事実は誰かが解明しない限りまったくわからない。

 

研究という視点を持つ前までは知識は本に書かれているもので、割と万能なものだと思っていた。

だが研究者の端くれにもなると知識というのは意外と穴だらけで、端々にホツレのようなものが意外と沢山あるという事に気がつくようになった。

 

このような視点を持てるようになった結果、僕は日々の仕事を一段下のレイヤーに置く事が可能になった。

それまでは知識に使われていたのが、知識を使うようになったとでもいえばいいだろうか。

 

知識に使われる立場から知識を使う立場になるというのは、まさにコペルニクス的転回で、不思議な事にそうなると今までインストールするだけで四苦八苦していたはずの知識取得が、とても楽になる。

知的裁量権の獲得とでもいえばいいだろうか。とにかく研究というモノの見方には特殊な有用性があるように思う。

 

排泄できないと、頭が淀む

この二点だけでも研究というメソッドを素人が学ぶのには十分すぎるほどに価値があるものなのだけど、個人的に研究で最も有用だと感じる機能は知の”排泄”としての機能である。

 

最近実に思うのだが、人間の持つ能力の中で最も過小評価されているのが排泄行為なのではないかと思う。

みんな美味しいものをバクバクと食べるのは大好きだが、そもそも美味しいものをお腹いっぱい食べられるのは排泄器官がキチンと働いてウンチとオシッコとして外に出してくれるからである。

 

仮に排泄器官が全く働かないとしたら、どんな美食であれ全て身体には毒だ。

このように摂取というものは本質的に排泄あってこそのものなのである。

 

「なにを当たり前の事を言っているのだ?」と思う人も多いかもしれないが、その視点を持った上で改めて考えてみてほしい。

あなたは知識をちゃんと排泄できているだろうか?

 

恐らくなのだけど、この知識の排泄のやり口として一般的によく用いられているのが学校や職場における井戸端会議だ。

人間関係のデトックスが井戸端会議の本質で、あれは一般的に思われている以上に人の心を軽くする。

 

あなたも、特に理由がなくても親しい人とであってピーチクパーチク喋ってたら心がスッキリとした経験があるだろう。

あれは悶々としていた思考を言葉として口に出す事で形にして、自分の外に排泄しているのだ。だから喋り終わるとスッキリするのである。

 

その他にも、例えば創作もまた脳に溜まった知識を上手に排泄する為の一つの手段である。

僕は結構たくさんの本を読むのだけど、本を読み終わった後に記事として形にすると自分では思ってもいなかったような形で思考回路がスッキリまとまり次の本を頭を軽くして読むことができる。

 

知識はこのように形として外に排泄できると、有用なエッセンス部分だけを取り出して、無駄な部分を排泄する事が可能となる。

研究もまた同様の作用がある。

必死になってインストールした知識を使って、未解決問題を見つけ出し、それを論文として形にすると、なんていうかトイレに行った後のようなスッキリとした爽快感がある。

 

狂わないためにも、排泄上手になろう

かつて何かの漫画で

「特技は酸素を吸って二酸化炭素を作る事です!」

と答えるシーンがあったのだけど、改めて考えてみればこれは凄い事である。

 

地球の歴史を辿れば実は酸素というのは猛毒物質の一つであり、数多の生物を死へと追いやった極悪物質の一つとされている。

そんな極悪物質である酸素だが、その高エネルギー性を逆手にとって上手に利用する奴らの末裔が最終的には地球を制覇するのである。

 

酸素を吸って二酸化炭素にする。それができれば極悪物質ですら有効に活用できるのである。

 

食べ物だって同様だ。

おいしい食事をパクパク・モグモグと食べた後、ウンチやオシッコにできなければあっという間に人間は死ぬ。

 

このように改めて考えれば排泄行為というのは実に凄い芸当なのだけど、こと実生活においてこの排泄行為を上手にやっている人間はあまりいない。

本を読んだり勉強したりと、知識をモリモリ摂取する人はそれなりにはいるけれど、それを上手に排泄している人間はほぼ見かけない。

 

知識は酸素や食物のようにわかりやすく毒素として人体には貯まらないから問題視されにくい傾向があるけれど、当たり前だけど排泄しなければ毒は貯まる。

それが積もりに積もった結果として狂いに繋がったとしても、何もおかしくはない。

 

身につけた知識や技術は、何らかの形でウンチやオシッコとして排泄しないと毒になる。

どのようにして排出するかは様々な業界にその業界にあった方法が転がっているはずだから、狂いから上手に距離を取っている人に真摯に教えを請うべきである。

自分は論文を執筆しはじめて、確かに知識がキチンと排泄されるようになったなと思うようになった。

 

書くのも査読を通じてボコボコにされるのも物凄いストレスではあるが、狂わない為には確かに必要な行為なのだと最近は見直すようになった。

マジで苦そのものなのだが、まあウンチやオシッコはそういうものである。

 

なにはともあれ、飽食・情報過多な社会だからこそ私達はスリムであり続ける為にも排泄上手にならねばならない。

上手に消化し、ウンチやオシッコとして排泄する作業無しには狂いからは無縁にはなれない。

 

この狂った世の中で正気を保ち続ける為にも、共に排泄上手になろうではありませんか。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Trung Thanh

先日、元人気アナウンサーのイタコ芸がネットや週刊誌で話題になっていた。

かつてアイドルアナウンサーとして人気を博した彼女は、現在は占い師として活動をしている。

特殊な霊感とヒーリング能力を持つという男性と結婚し、夫の導きによって彼女も霊能力に目覚め、今では日常的に死者と交信が出来るようになったそうだ。

 

数年前に癌で早世した彼女の妹や、不幸な死を遂げて間もない有名女優が降臨したと言う体で書いているブログを、私も好奇心から読みに行った。

 

ごくごく普通の感覚で生活している身にとっては、ブログの内容はちょっと何を言っているのか分からない。

ただ、幼い我が子を二人も残してこの世を去らねばならなかった妹の無念を代弁したい気持ちについては分からなくもないし、彼女が語る言葉の中には「確かに」と頷ける言い分もあり、事実も含まれているのだろうという印象を持った。

 

けれど、会ったこともない女優の霊と会話したと主張し、商売に利用しようとするのはやりすぎだ。

しかも、その怪しげな商売で多額の金銭を儲けていると自慢し、高級ブランド品を購入する様子をSNSで見せびらかすのだから下品なものだ。

 

今回の件は、元人気アナウンサーとその家族の知名度が高かったことから話題になり、「死者への冒涜」「遺族に失礼」と非難されたが、特殊な霊能力を持っていると自称する者が降霊術で商売すること自体は、洋の東西を問わず昔から行われている。

日本では、恐山のイタコが死者を口寄せできる霊能者として有名だ。

 

最近は目にする機会が無いが、私が子供だった1980年代にはオカルトがブームだったので、その手のスペシャル番組には恐山のイタコが頻繁に出演していた。

当時テレビに出ていたイタコの降霊パフォーマンスは大袈裟だった。何でもありの時代だったから、画が地味にならないようインパクトを重視したテレビ向けの演出が過分にあったのかもしれない。

彼女たちによる儀式は始めに目を瞑り、数珠を振って体を揺らしながら何やら呪文のようなものを唱える。しばらくして突然「キエーーーッ!!!」と雄叫びをあげたかと思うと失神し、起きるとドスの効いた不明瞭な声で話し始めるのだ。

そうした一連の流れは、子供の目にも分かりやすく、面白く映ったものだ。

 

散々「1999年7月、世界は滅亡する」だとか「死後の世界はあるんです!」だのとテレビは喧伝しておいて、実際のところ世紀末を境に終わったのは世界ではなくオカルトブームの方だった。

いつの間にかテレビに超能力者や霊能力者が呼ばれることもなくなり、恐山のイタコによるパフォーマンスを2時間特番で見ることもなくなった。

私もいっぱしに擦れた大人になって、滅びなかった世界でイタコもユリ・ゲラーも丹波哲郎も忘れて生きていたある日のことだ。恐山のイタコがゲスト出演しているラジオ番組がふいに耳に入ってきた。

 

あれは何の番組だったのだろう。再婚したばかりの夫の車の助手席で、ぼんやりと外を眺めていた時だったのを覚えている。

カーラジオから聞こえてくる男性アナウンサーの声がひどく真面目だったことを思うと、チャンネルはNHKだったのではないだろうか。番組の内容も、決してオカルトを取り上げて面白がるようなふざけたものでなく、いたってまじめに死者への供養や、残された遺族の悲しみについて語るものだった。

だからこそ、あっさりと霊能力を否定し、死者の口寄せは仕事としてやっていただけだと語るイタコの女性と、思いがけない返答に窮して慌てるアナウンサーのやりとりが愉快だったのだ。

 

恐山のイタコとして長く活動してきたというその女性は、落ち着いた低い声やゆったりした語り口から察するに、すでにご高齢で、引退の時期を迎えておられるご様子だった。もはや仕事に未練はないのだろう。

引退前に好きなことを喋ろうと思って出てきたのだろうか。

 

彼女はアナウンサーから、

「恐山は亡くなった人の魂が集まる霊場として有名ですが、そこで行われるイタコの口寄せも有名ですね。なぜその地域には、昔から死者と交信できる女性が多いのでしょうか」

と問われ、何でもないことのようにこう答えた。

「あぁ、それはね、貧しかったせいです。東北は土地も人も昔は貧しかった。耕したって作物もろくに穫れないような痩せた土地に住んでいるとね、食べていくのに困ったんですよ。特に私たち世代の女たちはちゃんと教育も受けられなくて、他にできる仕事がなかったから、イタコになるしか生きていく術がなかったんです」

 

「えっ…」

私の心の声と男性アナウンサーが漏らした声が重なる。

彼女の超現実的な答えを聞いて、私は身を乗り出した。凝視したスピーカーからアナウンサーの戸惑う声が流れてくる。

 

「あの、貧しさ…ですか」

きっとアナウンサーは神秘的な答えを期待していたのだろう。姿は見えないが豆鉄砲を食らった鳩のような表情をしているに違いないと想像したら、笑いが込み上げてきた。

 

「えっと、しかし、ですね。イタコの方々は修行を積まれて、お亡くなりになった人の霊を体に乗り移らせて、死者の言葉を語るという能力を体得されますよね」

「あぁ、それはね。そういう風に見せるやり方があるんです」

「やり方、ですか?」

「えぇ、その『やり方』はね、口伝えで伝承していくんですよ」

「…」

「亡くなった人と話したいと願うご遺族の心を、お慰めする為の『やり方』です」

 

女性の声は堂々としていて、後ろ暗さはみじんも感じられなかった。

イタコの仕事とは、亡霊と交信することではない。死者ではなく今を生きている人の心を慰め、前向きになれるよう手助けすることこそが仕事と思い、彼女はこれまでやってきたのだろう。

 

「恐山のイタコには長い歴史と伝統がありますが、近年はなり手が居らず、数が減っていると聞きます。何故でしょう。現代人は都市化された生活の中で、霊的な感覚が衰えているのでしょうか」

「いいえ、社会が豊かになったからです。それに、女もちゃんと教育を受けられるようになりました。今の若い人たちは、イタコよりも良い仕事に就くことができるようになったということです。喜ばしいですね」

 

「はっ、はあ…」

イタコのおばあさんの割り切った返答が清々しいのと、それに対して二の句が継げないでいるアナウンサーの戸惑いっぷりが可笑しくて、思わず声に出して笑ってしまった。

お婆さんの話には誠実さが感じられた。恐山のイタコと呼ばれる巫女たちは、霊能力があるからではなく、無学と貧しさ故に死者を呼び寄せるパフォーマンスを仕事にするしかなかったのだ。

 

実際に死者の魂を呼び寄せている訳ではないからといって、嘘つきや詐欺だとは思わない。

彼女たちは降霊のパフォーマンスをする前に、「死んだ人間ともう一度と話したい」と願う依頼者たちから丁寧に話を聞き、その心情を汲み取って、死者の魂を降ろしたという体裁を取りながら、喪失に苦しむ心に寄り添った言葉をかけて励ますのだろう。

 

愛する人に先立たれてこの世に残された人たちは、なお生き続けねばならない。そのためには、喪失を乗り越えねばならない。

過去に囚われた人の心を現在に引き戻す手伝いをするのが、イタコの降霊術なのだ。

 

ラジオに出ていた女性も、そう思えばこそイタコとして長く仕事を続けてこられたのだろうし、サービスを受けた人々が概ね満足してきたから、後ろ指を刺されることもなく「恐山のイタコ」という存在は社会に認められてきたのだと思われる。

 

ひるがえって、冒頭に書いた元アナウンサーはどうだろうか。

彼女のブログには、「私は、亡くなった人の声が聞こえます」だの「愛からのメッセージを受け取るのが得意中の得意♡」だのと綴られている。

彼女によると、元々そうした才能があったところへ、夫からヒーリングを受けて能力が開花したのだと言う。

 

歴史のある霊場で厳しい修行を積み、数十年の経験を積んだベテランのイタコですら実際に死者と交信することはできないそうなのに、もし本当に亡くなった人の声が聞こえているとしたら、それは病気による幻聴か思い込みかのどちらかだ。

彼女が聞いたと話す死者からのメッセージが、彼女にとって都合のいいことしか言っていないのが証拠だろう。単に自分の言い分を死者に代弁させているに過ぎないのではないか。

 

彼女のブログには、読んでいて胸焼けを起こすほど「愛」「愛」「愛」「愛」と、繰り返し「愛」という言葉が綴られている。

「自分たちは愛がある素敵な人間だ」と自画自賛しながら、他者を慮る言葉は一言も出てこない。

 

要するに、彼女の語る愛とは自己愛のことなのだ。異常な自己愛の強さは、スピリチュアルの世界へ逃げる人たちの共通点と言っていい。

拗らせた承認欲求と肥大した自己愛を抱える人間ほど、躓いた時に他者の言葉に耳を塞ぎ、神や幽霊など目に見えないものの声を聞きたがる。そしてますます現実社会とは馴染めなくなり、人生は再建不能に陥っていくのだ。

 

恐山のイタコにすら聞こえない死者の声を聞くという彼女の最近の顔は、死者よりも生気がない。

彼女が冒されているのは、果たして病なのか狂気なのか、あるいはその両方なのか。

私を含めた多くの目が、彼女の行き着く先を見つめている。

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@CrimsonSepia

営業のキャリアへの転身

徳島は、日本の自動車メーカーから外資の自動車部品メーカーの営業に転職した。

入社して初めて分かったが、この会社は、国軸X事業軸Y機能軸Zの複雑なマトリクス組織で構成されており、徳島は殺伐とした組織の雰囲気を感じた。営業としてどのビジネス・顧客を狙うのか、関係部門との戦略のコンセンサスもできていない状態だった。

しかし、営業としては技術部門との連携が不可欠であるため、徳島はとにかく教えてもらう謙虚な姿勢で、エンジニアとの飲み会などを自ら積極的に企画した。

 

理不尽なパワハラ上司のもとで徳島が選択したスタイルは?

徳島の新天地での上司は典型的なパワハラ上司だった。

その上司は、本国から課せられた高い目標に対し、実態とかけ離れた受注・収支状況を虚偽報告するなどしていた。どう計算しても3年先まで赤字予想なのに初年度から黒字計画にするような報告資料の作成を徳島は求められた。

そして、これに反論しても「そのギャップを埋めるのがお前の仕事だ。質問は一切禁止。言った通りやれ」と、そのパワハラ度合いは尋常ではなかった。

 

とりわけ正義感の強い徳島にとって、上司の虚偽報告の強要には強い抵抗感があった。

同時に、もしそれが明らかになった場合、自分に濡れ衣を着せられるんではないかという不安もよぎった。

 

悩んだあげく、入社来リレーション構築をはかっていた信頼できる他部門の役員に相談した。

その役員からは、自社は結果さえ出せばプロセスには寛容であることを聞き、自分の力を試すよい機会になるとポジティブにとらえ直すことにした。

 

そして、そのパワハラ上司からのアドバイスは一切ないなかで、海外部門、外部パートナー、カーメーカーといった複数の関係者と調整しながら、ゼロから商流をつくりあげる努力をギリギリまでつづけた。

最終的に目標には達しなかったが、当初想定していた以上の結果を出すことができ、この経験は徳島にとって大きな自信になった。

 

今回徳島がパワハラ上司に対して採ったスタンスは、上司の無茶な要求に従いながら、何とか自分なりの意味を見出し、成果創出にベストを尽くすことを選択したので、「適応」モードといえよう。

 

「適応」モードとは?

「適応」モードとは、自分の主張をせずに相手に協力するスタンスである。

他者支援などを含む相手との関係性構築や迅速さをはかれるメリットがある一方、自己主張を抑えることで自らのモチベーションの低下や、相手から自分の意志をもっていない人間だと思われ敬意を得られない可能性がある。

出典:”Introduction to Conflict Management: Improving Performance Using the TKI” Kenneth W. Thomas

 

「適応」モードを選択する状況としては、

 

1.相手にとって重要な問題のとき

2.こちらの分が悪いとき

3.相手を育てたいとき(部下に意思決定させる、上司の手柄にして自信をつけさせるなど)

4.よりよい情勢がもたらされるとき

 

などである。

 

今回のケースでは、上記1.2.を満たしているので、まともに上司に戦いにいっても負けるだけだ。自分よりもポジションパワーをもつ相手に対しては、最初は採らざるを得ない選択肢のひとつといえよう。

 

適応モードの留意点

適応モードを選択する際の留意点としては、

・譲歩した理由は説明する(そうしないと自分の考えをもってないなどと誤解される可能性がある)

・こちらが少なくない犠牲を払っていることを忘れさせない(返報性)

などがあげられる。本ケースでは、徳島は虚偽報告の不当性についてパワハラ上司に主張しているし、保険として他部門の役員にも相談している。

 

最後は保険を使い競争モードで排除

その後も上司のパワハラはさらに強まっていった。本国からの高い目標を達成できず、その矛先はすべて徳島に向けられたのだ。もう限界を感じた徳島は、自分を守るためにパワハラの状況と虚偽報告の強要などをHR(人事部門)へ報告することに決めた。

 

以前からHRのスタッフと率直に話せる関係にあったことも大きかった。

徳島の報告を受け、HRからパワハラ上司への公式の聞き取りが行われ、最終的にその上司は退職勧告に追い込まれた。

 

徳島は、今回の経験からの学びを次のように整理した。理不尽な上司の下でも、自分の経験のためにできることに全力で取り組むこと。

ただし、困ったときには斜めの関係にある信頼できる上司やHRなどに相談し、自分を防衛するための予防線は張っておくことが大切であると。

 

この会社は、理念が不明確ゆえ、一体感を大切にするなどのあるべき組織文化が醸成されていなかった。その状況下で組織が複雑すぎるゆえに、合理よりも属人的なつながり(社内政治)がクリティカルになる。その構造のなかで疲弊を繰り返した徳島は、この会社を去ることを決めた。

 

◇    ◇    ◇

 

人や組織に動いてもらわなければ、目標は達成できません。多様性と相互依存性が高まるなかで、周囲を動かすパワーをいかに獲得し行使するか、グロービス経営大学院の「パワーと影響力」のクラスで学ぶことができます。

 

<参考文献>

“Interpersonal Conflict” Hocker, Joyce L./Wilmot, William W.

”Introduction to Conflict Management: Improving Performance Using the TKI” Ken

 

(執筆:芹沢 宗一郎)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

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