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Books&Apps編集部

先日、私は自分のブログにこんなブログ記事を書いた。

だけど、叱られない社会をみんなが望んだ。

相互不干渉の浸透した社会のなかで他人に干渉することはますます難しく、勇気の必要な、リスクを孕んだものになっているわけだから、私たちはおいそれとは他人を叱れないし、他人に叱られにくくもなった。

ここでいう「他人に叱られにくくなった」とは、他人に叱られる頻度が低下したという意味だけでなく、他人に叱られ慣れなくなった、という意味も含んでいる。

他人から鬱陶しがられそうな言動を繰り返していても、相互不干渉がマナーになっている現代社会では、誰かが叱ったり注意したりしてくれることは少ない。

自分を叱ってくれる人、それもちゃんと心に刺さるようなかたちで叱ってくれる人は貴重な存在だ。

 

先日AERA.dotに掲載されていた以下の記事は、まさにそのことを思い出させる内容だった。

66歳男性が風呂場で涙… 友人もいない老後を憂う相談者に鴻上尚史が指摘した、人間関係で絶対に言ってはいけない言葉

ちょっとおかしいと思い、妹に連絡したら「お兄さん、気づいてないの? みんなお兄さんが煙たくて、距離とっているんだよ」と。寝耳に水でした。

妹によれば、私が長男で母から優遇されすぎたし、弟たちの学歴や会社をバカにしてたのが態度に出すぎてた、というのです。

たしかに私は兄弟のなかでも学歴も会社も一番上で、母の自慢でした。弟たちをみて、不甲斐ないと思ったこともありましたが、それは私が努力したからです。弟たちにとって私は自慢の兄だろうと思ってきました。弟たちの不甲斐なさをちょっとからかったこともありましたが、兄弟のことです。

思い切って弟に直接電話してたしかめると「姉ちゃんに聞いたんならわかるだろう。兄貴と呑んでもえばった上司と話しているみたいで酔えんから」とつれない返事でした。結局、妻も「旅行は友達と行ったほうが楽しいから」と私と行こうとはしてくれません。

この、66歳男性の文章を読むと、ああ、この人は叱ってくれる人がいなかったのだな……と思わずにはいられない。

 

この男性は、兄弟や妻に対して、人心を失うようなことを平気で言い、コミュニケーションが失敗しやすくなることを平気でやって、だけど誰も叱ってくれなくて、めっきり人が離れていってしまったのだろう。

 

男性が勤めていた会社にも、このことに気付いている人はいたかもしれない。

「この人は、家族や兄弟のことを見下し、酷いことを言っているんじゃないか」といった具合に。

だけど相互不干渉がマナーになっている現代社会では「お前さん、それじゃあ家族が離れていくよ」とは誰も言ってくれないのである。

 

大人の世界では、他人がまずい言動を繰り返していても叱ってくれる人はいない。ただ黙っていられるか、距離を取られてしまうだけである。

ひょっとしたらこの男性の兄弟や妻も、最初のうちは注意や忠告ぐらいはしていたのかもしれない。

だが、言うだけ無駄、言っても逆恨みされるのが関の山、と思って距離を取ることにしたのだろう。

 

こんな具合に、まずい言動を繰り返している大人は、自分の何がまずいのかを自覚する機会も無いまま、人が離れていき、唯我独尊に陥ってしまう。

 

叱られにくく、自省もしにくい社会

くだんの66歳男性は、唯我独尊に陥ってしまった現代人としてはひとつの典型であろう。

 

親族にこれだけ疎まれても我が身を振り返らず、鴻上尚史さんにアドバイスを求めるほかなかったわけだから、自分自身を省みる力が相当乏しかったと察せられる。

「会社でしっかり働けている自分は立派な人間、そうでない人間は駄目な人間」といった先入観にとらわれやすい世代とはいえ、気の毒なことである。

 

さて問題は、私は、あるいはあなたは、この気の毒な男性のことをどこまで他人事として構わないか、ということだ。

 

私たちは今、相互不干渉が通念として定着した、誰かに叱られたり注意されたりしにくい生活空間で暮らしている。

赤の他人から叱られる機会は非常に少ない。近所の人や地域の人から「おまえ、そんなバカなことやってどうすんの」などと言われる筋合いなどどこにも無くなった。

万が一そのように言われたとしても、「どういう筋合いでお前はそういうことを言っているのか」と反感が先立つのがおちである。

 

そして年を取り、何らかの地位に就いていれば、ますます叱られにくくなり、注意も忠告もされなくなる。

コミュニケーションの失敗確率が高くなるような言動を繰り返していても、面と向かってそれを注意してくれる人はそういない。「お互いに争わない」「お互いのストレスを回避する」といった言葉は、相互不干渉を貫く恰好の大義名分になる。

 

家族や兄弟ですら、3度も言って変わらなければ「もう言うだけ無駄だからなるべく離れて暮らそう」になってしまうし、一人暮らしをしている場合などは、誰も! 本当に誰も! 自分を叱ったり注意したりしてくれない。

 

相互不干渉を是とし、お互いのしがらみを最小化し、アトム化した個人主義者として皆が暮らしていく社会ができあがったことによって、私たちは、他人から叱られる・注意される・忠告されるといった学習ルートを失ってしまった。

失ったと言って言い過ぎだとしたら、「そういう学習ルートが希少になった」と言い換えていただいて構わない。

 

そのような社会では、むやみに争うこともないし、ストレスも回避できる一方で、自分自身の言動のまずい点を省みる力が乏しければ自分の言動が改められない。

 

信頼できる他人から叱られたり注意されたりすることもなしに、自分自身の言動を省みるのは非常に難しい。

そして自分自身の言動を省みることに慣れていない人は、かりに誰かから何かを言われても、えてして自分自身の言動を省みない。

 

だとすれば、この相互不干渉の浸透した個人主義社会は、自分自身を省みる機会も能力も無い唯我独尊の人間を大量生産する社会、になってしまっているのではないだろうか。

 

ネットは自省よりも自己正当化を促してしまう

こう書くと、一部の人は「ネットを使ってコミュニケーションすれば自分のことが省みられるじゃないか」と考えたがるかもしれない。

ネットを介して自省する筋道も無くはないだろう。だが、実際はほとんど期待できないのではないだろうか。

 

つい最近、Books&Appsで高須賀さんが、これに関してひとつの問題提起をしておられた。

誰にも尊敬されない孤独な老人から想像する、ネット右翼の発生、そしてジャパニーズ・ラストベルトの誕生。

と、ここまで書いていて僕は物凄くマズい問題に気がついた。ネトウヨ問題である。

上で、コミュ障はインターネットでなんらかのコミュニティに所属しろと書いたけど、これができるのは自分に何らかの趣味だとかがある人だけである。

将棋ができない人が将棋コミュニティに入るのは難しいのを考えてもらえれば、わかりやすいだろうか。

 

では、何もアイデンティがない人は、最終的には一体どこのコミュニティに所属する事になるのだろうか?

実はそれがネトウヨなのである。

AERA.dotの66歳男性の記事から高須賀さんが辿り着いたのは、「アイデンティティがなにも無い人はネトウヨになる」という問題だった。

 

自分自身を省みる力もない人がネットをよすがとした時、たとえばネトウヨのようなアイデンティティの入れ物におさまるというのはよくわかる話だし、実例も見かける。

 

政治的なセクト・思想的なセクト・趣味的なセクト、その他いろいろあるが、とにかくネットではセクトができやすい。

セクトと一体になることによってその人の承認欲求や所属欲求が充たされ、アイデンティティも補償されるのだから、可否はともかく、セクトができるのは理解できる。

 

だが、セクト化した人は、えてして自分自身を省みなくなる。セクトメンバーとつるむなかで、「自分たちは悪くない」「悪いのは自分以外のあいつら」といった考えに傾いてしまう。

 

この文章のテーマに立ち返って考えるに、そういったセクトは唯我独尊に対するブレーキたり得るものだろうか。いや、おそらくブレーキにはならず、自己正当化のためのアクセルになってしまうのではないだろうか。

 

意見の同じ者同士はつるみやすいけれども、意見を異にする者・異議を唱える者とは対立しやすい、このSNSというアーキテクチャ自体が、私たちに自省よりも自己正当化を促しているきらいがあるとしたら、ネットで唯我独尊を避けるのはリアル以上に難しいのではないだろうか。

 

こんな具合に、幾重にも重なった、唯我独尊に陥りやすい社会の構造のなかで私たちは暮らしている。

だとしたら、唯我独尊はお金持ちやナルシストだけの問題というより、貧富を問わず、誰もが陥りやすい現代社会の風土病みたいなものだと解釈しておいたほうが事実に近いように、私には思われる。

 

だから私は、くだんの66歳男性のようなケースには戦慄せずにはいられない。

ひょっとしてあれは、未来の自分の姿ではないのか……と。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Joe Brusky

母方の祖父が肺がんで亡くなった時、私はまだ小学生だった。

30年は前の話だ。

 

祖父の記憶については、「とにかく優しい人」というイメージがその大半を占めている。

毎年夏休みに帰省すると、祖父は手放しで大喜びしてくれた。

一緒に公園に遊びに行ったし、縁側で将棋を指したし、お祭りにも行ったし、花火もした。

祖父は私の将棋の師匠の一人でもあって、私の将棋の癖のそこかしこには、今でもところどころ、祖父の指し筋が残っている。

 

一方、お酒とタバコをこよなく愛していた人でもあり、かつては酒を飲んで暴力をふるうようなこともあったそうで、母は随分苦労したという話も聞いた。

私からは全く想像もつかない話であって、孫から見ると全身くまなく優しい祖父であった。

 

いきなり話が逸れて申し訳ないのだが、祖父の家で寝室に使っていたのは2階の部屋で、私の記憶ではその部屋の化粧台に確かに「キューピー人形」が置いてあった。

で、幼少の私は、夜中にふと起きる度にそのキューピー人形と目が合い、その度に怖くってギャン泣きしていた、筈なのだが、今この話を家族にすると「いや、キューピー人形なんかなかったよ?」と皆が口をそろえる。

 

これどうも、家族の記憶の方が正しく、キューピー人形の存在自体私の中で勝手に構築されたねつ造記憶であるっぽいのだが、一体何がきっかけでこんな記憶をねつ造したのかさっぱり分からず、その影響で私は未だにキューピー人形が苦手である。

この話は以前下記記事に書いたので、気が向いたら読んでみて頂きたい。

「キューピー人形」についての妙な記憶のお話

 

さて、祖父が亡くなる少し前、かなり長めに祖父の家に滞在していたことがあった。

細かい時期を記憶していないのだが、多分夏休みか春休みか、いずれにせよ長期休みの最中だったろう。

 

今でも印象に残っているのだが、当時、とにかく「知らない人からの電話・訪問」が激増した。私が電話に出たことも何度かあった。

なにせ東北の小さな田舎街だ。プライバシーなどあってないようなもので、祖父が入院したことから、病名やら病状まで、全て筒抜けだったのだろう。

祖父の顔が広かったこともあり、お見舞いやら挨拶やら、入れ替わり立ち代わり色んな来訪があり、対応する母や祖母が大変そうだなあと、子ども心に思った記憶がある。

 

そんな訪問客の一人と、父が大げんかをしたことがある。

 

中年のおばさんだったように思う。

私は隣の部屋で本を読んでいたのだが、襖を閉めてもいないので、声は丸聞こえだった。

母には知らない人で、祖母も恐らく1度か2度くらいしか会ったことがないような雰囲気で、当初から微妙な雰囲気というか、緊張感を感じてはいた。

 

で、そのおばさんが、盛んに病院の医療の悪口を並べている。

なにせ小学生の頃だ、あまり難しい言葉は理解出来ていなかったと思うが、病院の薬は却って悪くなるだけだとか、手術なんてしない方がいいとか、そんな話をしていたことはなんとなく覚えている。

 

で、そのおばさんが「実は私の知り合いにいい先生がいてね、紹介してあげようと思うんだけど…」というような話をし始めた時、同じく横で聞いていたであろう父がいきなり割って入った。

「ちょっといいですか。その〇〇先生の治療で何人が助かってるんですか?」

そのおばさんが「知り合いの××さんがこんな風に…」という話を始めると、

「いや、誰々が、じゃなくて、何百件治療していて、その内なん件のガンがどれくらい小さくなって、5年生存率はどれくらいか、再発率はどれくらいかって話をしているんです。今やっている△△は臨床件数〇件で5年生存率は◇◇くらいですけど、当然それより高いんですよね?」

 

父は仕事柄数字には強く、こういう時にはとにかくきっちりと話を詰める。

なにやかや言い合いになったと思うのだが、「こっちは心配して言ってあげてるのに!」とキレ出した相手に、父は

「じゃあそれで義父が死んだらあんた責任とれんのか!!」

と一喝した。

この言葉だけは、今でも随分はっきりと覚えている。

 

その後どういう風にその場が収まったのか、よく覚えてはいないのだが、恐らくそのまま追い出してしまったのだろう。

田舎町の人間関係とか大丈夫だったのかなとも思うのだが、その後周囲の人との関係がおかしくなったという話も聞かなかった。

恐らくその相手自体その町の人間ではなく、どこからか現れた遠い知人だったのだろうと思う。

もしかすると、知人、という程の関係ですらなかったのかも知れない。

 

インターネットがなかった当時も、勿論こういった怪しげな代替医療、あるいは代替医療もどきのような話はままあって、その流通経路は主に電話と広告、そして口伝てだった。

私はそれを、すぐ目の前で見たことになる。

 

 

実のところ、上記のような話を全て私が直で記憶しているわけでは勿論なく、後から父や母に聞いた内容で記憶を補完している部分はそれなりにある。

以下も、随分後になってから聞いた話だ。

 

祖母は気質的に素直というか、人の言葉を丸のみする傾向がある人で、詐欺のような話に巻き込まれたこともちょこちょこあったらしい。

当時、ただのお見舞いに留まらず、祖父のガン治療について口を出してくる人は何人もいて、祖母がその言葉を信じ込んで祖父を転院させようとしたことが、このエピソードの前に一度あったようなのだ。

 

その為、父は最初から、病院の悪口を吹き込んでくる人を警戒していた。

知らない人が祖母と話す時はすぐに口が出せるように待機していて、自分がいない時は会わせないようにしていたらしい。

 

そんな父でも、祖母が聞いてきた話を全て弾き返すようなことはしなかったのか、祖父は「ガンが治る」という触れ込みのよくわからない民間療法の煎じ薬を買わされて、随分長い期間呑まされていた。

 

これも当時、電話だか訪問だかでお勧めされたものだったのだが、勿論そんなもので祖父のガンは快癒せず、結局祖父は亡くなることになるのだが、「まあ病院の治療を否定しない範囲なら、ああいうのは周囲の人間の精神安定剤みたいなもんだから」と父はサバサバしていた。

 

要するに父は、「今やっている治療を否定するかどうか」にアウト/セーフのラインを引いていて、そこを超えない限りはある程度好きにやらせていたらしい。お金のことは多少は仕方ないと思っていたようだ。

「何かしている」という気持ちも安定剤の内、というのは、まあその通りなんだろうな、と思う。

事実、この薬を飲ませていたことが祖母に及ぼした影響は大きく、「やるだけやったから」という諦めもついていた、ように見える。

 

もう一つ父が言っていたことがある。あの中年のおばさんについての話だ。

「ああいうのは、勿論金目当ての詐欺みたいな話もあるけれど、大体は自分でも善意とごっちゃになってよくわからなくなってるヤツなんだ」と。

 

善意で動く時の人間が、ある意味では一番面倒くさい。

自分の行動は「善意」ということで完全に正当化しつつ、「何かしてあげた」「助言をしてあげて、頼られた」というお手軽な報酬効果を求めて、自分が主観的に信じている内容を押し付ける。

そして、それを拒絶されたら「善意を無下にされた」と思い込んで手のひらを反すように激昂する。よくある話だ、と父は言っていた。

 

この辺の話については、今、このwebでも、同じように起きている話だなあと。

もしかすると、当時よりもずっと広範に、根深く発生していることかも知れない。

 

何か重い病気にかかった人に対して、ちょっとぐぐって出てきた情報を、よく調べもせず「こんな治療がいいらしいですよ!」とか「その治療はダメらしいですよ!」と、寄ってたかって「善意」を投げつける。

時にはその影響で、本来受けるべきだった治療を拒絶して余命を大幅に短くしてしまう人もいる。

勿論、更に悪質に、最初から金目当てで怪しげな代替医療を押し付けようとする向きもある。

「標準治療を拒否した有名人のその後」みたいなニュースはしばしば聞く話だ。

 

代替医療と標準医療の是々非々について、ここで議論をするつもりはない。

「人の話をうのみにせず、偏らない情報を十分検討した上で採用を判断するべき」というのが一般論として正しいだろう。

ただ、「自分では善意のつもりで相手を破滅させる人」というのが、世の中に一定数存在することは頭に入れておいて然るべきだと思う。

 

一方で、むしろ重病の当事者に相対する場合を考えて、自分の「善意」についてはきちんと考えておきたい。

 

たとえきっかけが善意だったとして、それは本当に相手に求められていることなのか。

あるいは、「相手の為になる」と考えているそれは、単なる自分の思い込みであって、自分の行為は地獄への道を舗装するだけの行為ではないのか。

時にはそういうことを振り返ってもいいんじゃないか、というのが、私がこのエピソードから学んだことの一つでもある。

 

 

話が長くなった。上の一連のエピソードから、私が考えるようになったことを簡単にまとめておく。

 

・重病になった人の元に様々な善意が集まるのは昔からの話

・一方で、善意にコーティングされた破滅が寄せられることも珍しいことではない

・代替医療を全て否定すればいいというものではなく、周囲の人間の気持ちに資するかどうかを考えるべき時もある

・ただし、既存医療を根拠なく否定しようとするものは断固拒絶するべきである

・自分の善意が他人の為になるものかどうか、そしてそれは主観的なものになっていないか、時には自省することも必要

これくらいだ。

 

父も、今ではもう当時の祖父を超える年齢になっている。

あの頃父に教えてもらったことを、いつかは私自身が実践しないといけないこともあるかも知れない。

そう思いながら、記憶の断片を書いてみた。

 

今日書きたいことはそれくらい。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:spinster cardigan

つい最近、小学校に入った子供に関して、妻から

「習い事だが、どれをやらせたらよいか、いくつやらせたらよいか」という相談があった。

 

選択肢は豊富で、ピアノ、体操、水泳、バレエなどいくつかある。

子供に希望を聞いたところ、呑気にも「全部やりたい」と言っているそうだ。

 

ただ、母親の気持ちとしては

「できる限りたくさん体験させてあげたい気持ちもあるが、本当に全部できるのか」

と、様々な不安があるらしい。

 

そういえば、最近では社会人でも、「とにかく、新しいことをたくさん始めなきゃ」という人が多い。

そういう人は、

「ブログを始めたい」

「勉強会に参加したい」

「副業を始めようとしている」

「転職を考えている」

と、いろいろなことを同時に手がけており、とにかく精力的に動いている。

 

無論、気持ちは痛いほどわかる。

 

ぼーっとしていたくない、という人。

今やっていることの陳腐化が早く、「置いていかれるのではないか」という焦燥感を持つ人。

生活になにかの変化を起こしたい人。

収入を増やしたいと考える人。

 

どの人も真剣だ。

 

だが私は、「新しいこと」をするときには、少し注意が必要だと言う立場だ。

なぜなら、ある会社の「新しい試み」の一部始終を見ていたからだ。

 

 

その会社は、70名程度の中小企業で、業績は悪くはなかったが、既存事業は頭打ち。

経営陣は危機感を感じていた。

 

だが、経営陣にもその打開策となるアイデアを持つ人はいない。

結果、社内から新規事業の立ち上げアイデアを募集し、 プレゼンテーションと社内の承認を経て、一定の予算を預け、「皆に自由にやらせてみる」というものだった。

 

その発表の後、社内は基本的には、歓迎ムードだった。

夢があるし、なによりも閉塞感を打破する何かしらのアクションがあることは、皆の気もちを明るくした。

 

そして3ヶ月後、無事に経営陣の承認を得た、3、4個ほどのプロジェクトが走り出した。

もちろん、プロジェクトのリーダーたちは社内のエースたちが揃っており、能力的にも、社内の信頼感という意味でも、不足はない。

 

だがその後。

まずは半年で一つのプロジェクトが中止となった。

理由はプロジェクトリーダーの退職だった。

「疲れてしまった」

と言い残して、彼は会社を去った。

 

そして更に数カ月後。

残りのプロジェクトも中止、または細々と片手間にやる、という状態になってしまった。

リーダーたちに聞くと、「本年度の予算達成が危ういので、新規事業どころではない」とのこと。

 

その後、もう1名のプロジェクトリーダーが、「本気でやりたい」と他社に転職。

他のリーダーも現場に専念することになる。

 

こうして、現場のエースが鳴り物入りで投入された、新規事業のプロジェクトはすべて、頓挫した。

 

 

一体、何がまずかったのだろう。

優秀な人材も予算もつけて、経営陣のバックアップもあったはずの試みが、なぜ無残にも失敗したのか。

 

ところが後日、その理由を思いがけず、ピーター・ドラッカーの著作の中に発見することができた。

それは「成果をあげたいなら集中せよ」という原則だ。

成果をあげるための秘訣を一つだけ挙げるならば、それは集中である。

成果をあげる人は最も重要なことから始め、しかも一度に一つのことしかしない。集中が必要なのは仕事の本質と人の本質による。(中略)

二つはおろか、一つでさえ、よい仕事をすることは難しいという現実が集中を要求する。人には驚くほど多様な能力がある。人はよろず屋である。

だがその多様性を生産的に使うには、それらの多様な能力を一つの仕事に集中することが不可欠である。あらゆる能力を一つの成果に向けるには集中するしかない。

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私ははたと膝を打った。

そうだ。

あの会社のリーダーたちは、とても優秀ではあったが、何かしらの業務を兼務していた。

 

経営陣は「うまく立ち上がったら専任にする」と言っていた。

だが、そもそもそれが無理な相談だった。

新しいことは、優秀な人材を専任で、しかも3つも4つも同時にやるのではなく、一つの事業に集中投下してやらせるべきだったのだ。

 

彼らは新しい試みをを過小評価していた。

「兼任でも行けるだろう」

「3つ、4つやれば、1つくらいは立ち上がるだろう」

と思っていた。

 

それはすべて、間違っていた。

新しいことをする、というのは、そう簡単なことではないのだ。

 

 

とはいえ、このことをはっきりと認識するのは、結構難しい。

私も同じような経験がある。

 

昔、「営業」を任せていた部下の一人に、大丈夫だろうと、「記事の執筆」も軽い気持ちでお願いした事があった。

すると、どうなったか。

時を待たずして、すぐに破綻した。

 

彼は決して能力の低い人物ではなかったが、記事を書くことはおろか、営業も満足な成果を残すことができなくなった。

 

彼は「大丈夫ですよ」と言ってくれたが、大丈夫ではなかった。

仕事の中身を見れば、新しい試みは全くできず、記事の質も低い。

そして彼も疲弊している。

 

だが、「もうムリです」と自分から上司に言える人は殆どいない。

経営者から任された仕事を途中で投げ出すのは、少なくとも評価には一つもプラスにならないからだ。

 

結局、私は「記事を書く必要はない」と彼に告げたが、私が見切りをつけ、仕事を剥がすまで彼は悩み続けた。

上の会社でリーダーが「疲れた」と言って、退職してしまったのは、必然なのだ。

 

 

人間が一度にできることは、我々が思っているよりも非常に限られる。

だから、肝心なのは、「いま、この大事な時間に、何を集中するか」だ。

 

だが、その決定は非常にこわい。

例えば、

「捨てたものが、成功するほうだったら?」

「いろいろとやっておかないと、あとで後悔するのでは?」

「もう少し調査してから決めよう」

と、「集中」を先送りする理由はいくらでも思いつく。

全てにまんべんなく手を付けて、言い訳をできるようにしておいたほうが楽だ。

 

だが、間違っている。

いくら分析しても、テストを繰り返しても、「全力投球」してみるまでわからないことはいくらでもある。

 

上述したドラッカーが、「集中とは、分析ではなく、勇気の問題だ」というのも頷ける。

大きな挑戦ではなく、片手間でも済み勇気を必要としない、容易に成功しそうなものを選んでいる時点で、すでに大きな成果を上げることはできないのである。

 

 

さて、冒頭の子供の習い事の話だ。

 

私は妻に言った。

「まずは、どれか一つだけやってみて、それに満足行く結果が出るまで、全力投球してみては。」

「一つに決めろっていうこと?」

「そう。決めることは勇気が必要だけど。」

「ふーん。今度は誰の受け売り?」

「……ドラッカー先生です……。」

「たまには自分の頭で考えれば?」

 

すみません……。

 

 

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(Photo:kendra farrell

とても難しい気持ちになる人生相談を読んだ。

66歳男性が風呂場で涙… 友人もいない老後を憂う相談者に鴻上尚史が指摘した、人間関係で絶対に言ってはいけない言葉 (1/6) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

【相談27】隠居後、孤独で、寂しくてたまりません(66歳 男性 有閑人)

(中略)いざ弟たちに連絡しても忙しいからと何度も断られました。

ちょっとおかしいと思い、妹に連絡したら「お兄さん、気づいてないの? みんなお兄さんが煙たくて、距離とっているんだよ」と。寝耳に水でした。

妹によれば、私が長男で母から優遇されすぎたし、弟たちの学歴や会社をバカにしてたのが態度に出すぎてた、というのです。

記事の要旨をいえばこういう事だ。

 

66歳になるまでガムシャラに仕事を頑張ってきて

「さて老後を楽しむか」

とウキウキしだしたところ、一緒に楽しむ予定だった家族からは

「お前と一緒にいると楽しくないからこっちくんな」

と煙たがられ、家で孤立。

 

それなら他の人と会おうかと思いきや、振り返ってみると仕事一筋だった事もあって1人も腹を割って話せるような友人といえるような人もいない。

結果、ぼっちとなりどこにも居場所がない。

「これから長い老後を1人で過ごさなくちゃならないのかと絶望した」という心温まるハートフルストーリーである。

 

相談者はあまりの孤独の苦しさから風呂に入ると1人で泣いているとの事で、ここからどうしたらいいか見当もつかず、途方に暮れて人生相談をしたという。

いやはや、他人事ではない。

 

回答者はこういうけれど・・・

この問題に対して、回答者である鴻上尚史さんはこう返している。

「今からすぐに家族との関係を改善するのは難しいから、対等な人間関係を学びにカルチャースクールなどにでかけましょう」

「そこで対等な人間関係を築く事ができるようになれば、家族もあなたが変わったと評価してくれて、対等な関係を結べるように歩み寄ってくれるはずだ」

 

これは実に実直で真摯で素晴らしい回答だと思う。

 

ただ、難点をいえば実行難易度があまりにも高すぎるし、成功確率もかなり低く、現実的ではない。

こんな絶望的な話で終わるのは後味が悪いので、今回は僕なりにこの相談者に現実的な回答を書いてみようかと思う。

 

顔出しのコミュは難易度が高いから、ネットでトライしよう

まずこの相談者は身近なリベラルな人間関係を築けないという点で、ある種のコミュ障といって差し支えない。

そんな人に、いきなり対面で良好な人間関係を作れというのはハードルがあまりにも高いだろう。

 

じゃあどうすればいいだろか?

そこで顔が見えないネットの登場だ。

 

ネットの最大の利点は、自分も相手も顔がみえないところだ。

文字ベースで会話できるから、相手の属性などを全く気にせずに話せるし、テンポもある程度は自由がきくから、ゆっくり考えてモノを話すことができる。

 

そしてインターネットには練習場所がたくさんある。

オンラインゲームでもいいし、Twitterでもいい。なんなら5ch(旧2ちゃんねる)でもいいだろう。

 

古今東西、人は繋がりを求めている。リアルだと失敗すると取り返しが効かないけど、ネットなら最悪アカウントを転生すれば何度でもやり直しは可能だ。

幸いにして、この相談者さんはインターネットには接続できているようだし、金銭的な意味でそこまで困っているわけではないだろう。

もう年金生活に突入しているのなら、引きこもりになったとしても何も困ることなどないのだから、積極的に引きこもって、ネットでコミュニケーションの修練をつめばいい。

 

家族だって、下手にコミュニケーションをとられるよりも、ネットに夢中になってくれた方が気が楽になる。

まさにWin-Winの関係だ。

 

どんなにマニアックな趣味であれ、愛好家を見つけ出せるのがネットのいいところだ。

あとはネットで何らかのコミュニティに入り、リベラルな人間関係の形成方法を学んでゆきつつ、ひとまず家族とはマイルドに区画を作って共存するのが現実的だろう。

 

日常生活の多くはネットでリベラルなコミュニケーションを楽しみつつ、少しづつだけど家族には謝罪を続け、禊(みそぎ)が果たされる日が来る事を願うしか無いだろう。

相談者が家族から許しを得る為には、かなりの長い時間が必要だろうが、まあそこは雪解けを待つしか無い。

 

家族に許される日がいつ来るかどうかは誰にもわからない。

けどまあ、熱心にやってればいつかは報われる日もくるだろう。そういう希望をもって、やっていくしかない。

 

現実的には取りうる手段はこんなところじゃないだろうか。

あまりカッコいい方法ではないのは事実だが、期待値がこれよりも高そうな方法は少なくとも僕にはあまり想像がつかない。

 

アイデンティティがなにも無い人はネトウヨになる

と、ここまで書いていて僕は物凄くマズい問題に気がついた。ネトウヨ問題である。

 

上で、コミュ障はインターネットでなんらかのコミュニティに所属しろと書いたけど、これができるのは自分に何らかの趣味だとかがある人だけである。

将棋ができない人が将棋コミュニティに入るのは難しいのを考えてもらえれば、わかりやすいだろうか。

 

では、何もアイデンティがない人は、最終的には一体どこのコミュニティに所属する事になるのだろうか?

実はそれがネトウヨなのである。

 

作家の橘玲さんによれば、ネトウヨとは右翼ではなく”日本人アイデンティティ主義者”なのだという。

冷笑系、DD論者… ネットで「現実主義者」が揶揄される理由|NEWSポストセブン

私の理解だと、ネトウヨは右翼ではなく“日本人アイデンティティ主義者”ということになります。

彼らは「自分が日本人であるということ以外に誇るもののないひとたち」で、「反日」「売国」を攻撃することでしか自分たちのアイデンティティ(社会的な自己)を確認できない。

在日米軍は反日でも売国でもないから、日本の上空を好き勝手に飛行していてもどうでもいいんでしょう。

彼らは「自分が日本人であるということ以外に誇るもののないひとたち」で、「反日」を攻撃することでしか自分たちのアイデンティティ(社会的な自己)を確認できない。

自分自身の属性が”日本人”しかない事にある日気がついた彼らは、自然とインターネット上で集まり、ヘイトスピーチを繰り返すだけの存在へと成り下がるというのだ。

 

アイデンティティが獲得できなかったのは運が悪かったから

僕は以前から、一体何でネトウヨなんて非生産的な事をする人がいるのかサッパリわからなかった。

人生は限られている。そんな事をする暇があったら、いくらでもやるべきことがあるんじゃないかと思っていた。

 

けど今回の問題とセットで考えて、恐ろしいまでに問題の本質が理解できた。

現代社会では「自分が何者であるか誇るものがある人間」になる為には、ある種の運と才能がいる。

 

例えば、あなたがいま何も誇るものがない66歳だったとして、今から自分のアイデンティティとなりうるものを形成するだけのガッツがあるだろうか?

 

若い頃だと、例えば学校でクラブ活動に励んだりとか、新卒で働いて職業的技能を身に着けたりだとかがスルッとできる人が幾ばくかはいる。

このように「自分が何者であるか誇るものがある人間」になれた人の成因要素を突き詰めると、はっきり言って運がたまたま良かった以上でも以下でもないだろう。

 

つまり、多くのアイデンティディを持ってる人達というのは、たまたま運がよかっただけの話なのだ。

逆に言えば、運が悪かった人はアイデンティディを一つも獲得する機会が与えられず、かといって最低限の衣食住はあったりするので、まるで動く屍かのごとくゾンビーな人生が続いてしまう。

そういう運が悪かった人が「日本人」という最後のアイデンティティを頼って「ネトウヨ」になるのだ。

 

「尊敬される家長」になりたかった66歳

先の66歳の人生相談の人に関して言えば、恐らく彼の思う自分のアイデンティティというのは「尊敬される家長」だったのだろう。

そしてそれが老後も続くと思っていたのが、ある時突然足元からそれが崩れ去り、絶望しているのが今なのだ。

 

もちろん、彼のやった事が悪かったというのは事実だ。

ただ66年間、誰からもそれが悪い事であるというのを指摘してもらえず、関係を健全な方向に持っていく機会が与えられなかったのは……運が悪かったとしかいいようがない。

 

彼だって、尊敬される家長になれる可能性はたぶんあったのだ。

そうなれなかったのは、たまたま運が悪かったからに他ならない。

 

自分が思う「尊敬される家長」というロールモデルへ人生のかなりの情熱を降り注いでしまった彼が、果たして今からアイデンティティ形成という腰の重い作業にもう一度とりかかれるかを考えると、僕は凄く気分が暗くなる。

 

アイデンティティがない人の居場所が必要とされているけど……

今回の相談者の方が「日本人」しかアイデンティティがないかどうかは僕にはわからない。

実は何か一つぐらい趣味があったりして、そこをキッカケにしていい感じにインターネットライフを楽しんでくれたらいいなとは思う。

 

だけど、もし仮に全くといっていいほど、どこのコミュニティにも所属する事ができず、最終的に「アベ政治を許さない」だとか「反日・嫌韓」のコミュニティにのみ所属し、日々過激な事をいう所にしか自分の居場所がなかったとしたら……

 

総合的に考えれば、ネトウヨになるのは1人で風呂で毎日泣く生活よりかは多少はマシな生活だとは思う。

少なくとも、寂しさはだいぶ和らぐだろう。

できたらもう少し健全な方向に最終的には行けたらいいなとは思うけど、それは本当の意味での”運”次第だろう。

 

そして忘れてはならないのは、今回の66歳のケースは日本全国で静かに起こってる一事例であるという事だ。

この人と同じような境遇にある人が、団塊の世代に潜在的に何人いるのかを考えると……

あと数年で、大量のネトウヨ民がこの世に爆誕するのかもしれないのである。

 

いやはや、トランプ旋風は実のところ他人事ではないのである。

ジャパニーズ・ラストベルトは一体何を引き起こすのか。

 

私達はこれから数年後、地獄の釜の蓋が開くのをみる事になるのかもしれない。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Nicolas Alejandro

今回の話、諸事情から色々なフェイクが混じりますが勘弁してください。

 

職場に、後輩からの質問をえらい面倒がる部下がいます。

 

後輩や新入社員から何か聞かれると、露骨に顔をしかめる。

同僚や私に話しかけられた時に比べて、異様に口数が少なくなる。

目を合わせない、モニターを見たままいかにも面倒そうに答える。

 

要は、「俺は君に時間を割きたくない」というのが相手にダイレクトに伝わるような態度なのです。

当たり前の話なのですが、新入社員からすると「質問をする」ということ自体がまずハードル高いので、本来可能な限り気軽に質問しやすい環境を作ってあげないといけません。

 

これが例えば、後輩の態度がよろしくないとか、質問が不明瞭過ぎて何を答えればいいか探りだすこと自体が高コストだとか、そういう事情があればまだ話は分かるのです。

勿論不明瞭な質問の一度や二度はあったかも知れませんが、それについては私からも指導していて、きちんとポイントを絞って丁寧な質問をもっていかせても結果は同じなので、そこに根本的な問題がある訳でもなさそうです。

 

納期間際で非常に忙しい時期、

「ちょっと答える時間もないし話しかけられること自体気が散るから勘弁(集中している時のエンジニアにはよくあること)」というようなケースは勿論あって、もっともそういう時も

「今ちょっと無理だからまたあとでね」

とでも言ってあげればいいと思うのですが、彼の場合タスクや仕事の状況に関わらず後輩への態度が一貫している為、それもちょっと違うようなのです。

というか彼、他人に対しては(相手の状況に関わらず)割とざくざく質問しますし、雑談もちょくちょく振ってくれます。

 

彼は技術者としては有能な人であって、立ち位置上後輩や新入社員と関わらない訳にもいかない立場です。

なので私としては、出来れば後輩にもきちんと対応して育ててあげて欲しい。

無論そういうところはちゃんと評価につなげますし給与にも反映させます。

ちょくちょくそういう話もしているのですが、なかなか改善してもらえない訳です。

 

結果、後輩の側も彼に質問しにくくなって、仕方ないので私がフォローする、というようなことが頻繁にあります。

 

うーむ、と思っていた訳です。

 

ところでこれは恐ろしい話かも知れないのですが、私は彼のTwitterアカウントを知っています。

フォローはしていませんが、ツイートを目にすることはあります。

 

いや、別段探り出すようなことをした訳ではないのです。

彼は業務の合間合間にTwitterを参照しているのですが、人が後ろを通りかかった時に画面を切り替えるタイミングが遅い為、イヤでもIDとアイコンが目に入ってしまうのです。

ついでに言うと、職場で何か変わったお土産をもらった時とか、職場の飲み会での料理の画像とか、周囲の同僚に自慢した飼い猫の写真そのまんまとか、そういう画像を全部アップしているので、それでなくても特定されやすい状態ではあります。

 

アレ、同じようなことをやってる人多いけど、気をつけた方がいいです。

うっかりバズったりするとアカウント即バレします。というか、この前も職場で自慢していた猫動画がプチbuzzしてました。

 

いやまあ、例えば職場のPCでエロゲーでもやっているというのならまだしも、SNSで気分転換くらいなら別段うるさく言うつもりもありません。

それくらいのことなら私だってやっています。

業務上の機密情報をツイートしたりするのは流石に控えて欲しいけど、彼の場合そういうところもありません。

そこには別に問題はないのです。

 

ただ、一点疑問に思っていることとして、彼は「Twitterの匿名質問サービス」が大好きなのです。

たとえばインタビューズとか。Ask.fmとか。Peingとか。なんか定期的に流行るじゃないですか、ああいうの。

 

いや申し訳ない、個人的にはああいうサービスnot for meというか、別になんか聞きたいなら直接リプライで聞けばいいんじゃねえの、そもそも誰も俺に聞きたいことなんかねえだろうよと思ってるので利用も観測もしてないのですが、「匿名の質問を寄せられる」というものにはどうも何か特別の気持ち良さがあるようです。

 

そして、しょーもない質問だろうが不明瞭な質問だろうが、なんなら何聴いてるのかよく分からないような質問であっても、彼は嬉々として回答します。

質量ともに充実した回答っぷりです。

つまり彼は、「聞かれること」自体は嫌いではない、というか大好きであるように見受けられるのです。

 

で、彼がそういう匿名の質問サービスに喜々として答えているところを観ると、「めっちゃ答えてるやん」とか「これと職場の後輩からの質問には、どういう違いがあるのだろう?」とはどうしても考えてしまうのです。

 

もしかすると、そのギャップを埋めることが出来れば、彼の後輩の態度への改善にもつながるかも知れない。

では、職場の後輩からの質問と、匿名質問サービスの間には、どんな違いがあるでしょうか?

 

***

 

1.匿名質問サービスは娯楽であって、職場の後輩からの質問は仕事(の付属物)である

これはまあ仕方がありません。厳然たる事実であり真実であり、越えられない壁でもあります。

ただ「それが仕事である」というだけで、娯楽に向けるようなモチベーションが無くなってしまうということは、まあ職場の上司の立場としてはそういうのもなんですが、理解出来るところではあります。

 

2.匿名質問サービスは主に自分についての質問である(多分)が、後輩からの質問は技術的な質問である

やはり、「自分について教えてあげる」という点で、承認欲求が満たされる部分というのは勿論あるのでしょう。

「教えてあげる」という立ち位置をとることで、マウントというと大袈裟ですが、知的優越感を得られる部分もあるのかも知れませんが、それは後輩からの質問でも同じである気もします。

ちなみに、「最初個人的な質問から入って、その後技術的な質問をする」というのは失敗しました。

 

3.匿名質問サービスは時間的な拘束が発生しにくい

つまり、面と向かって質問されると、基本的にはその場で答えないといけない。

当然その分、相手の都合に合わせて時間を拘束されてしまうのですが、匿名質問サービスは好きな時に答えれば良い。

これは結構大きそうな気がします。

 

ただ、「じゃあ質問も全部redmineのチケットにして好きな時に答えられるようにすればいいじゃん」と思って実施してみても、彼の回答ペースは極めて低空飛行のままだったので、ここも根本的な改善ポイントではないようです。

 

もっとも、回答の履歴が残って評価にも繋げやすいし、面と向かって質問した時の嫌な顔が可視化されないというメリットもあるので、これはこれで継続しようと思ってはいるのですが。

 

***

 

と、ここまで考えたところで、ふと思いつきました。

「いや、匿名質問サービスで技術的な質問をすればいいんじゃねえの?」と。

そもそも仕事と娯楽の障壁が問題なのであれば、娯楽の皮をかぶせて仕事の質問をする、ということも可能なのではないか?と。

 

どうせ匿名質問サービスは質問者側も匿名なのですから、誰が質問をしているか回答者には分かりゃしません。であればそれが後輩であっても同じなのではないだろうか?

 

勿論、ソースをそのまま見せて問題を指摘してもらうとか、機密に関わる個別情報とか、そういうものを投げるわけには当然いきませんが、匿名で投げても違和感がない一般的な技術質問なら、聞き方次第で違和感を覚えずに受け取ってもらえそうな気がします。

うまくいけば、娯楽というコーティングのまま、質問に対する彼のモチベーションを高められるのではないか?

 

わざわざTwitterのアカウントを作って実験してみました。

というか、実際にそのアカウントで彼に質問を投げてみました。

もろもろの事情の為、質問内容についてはキツめにマスキングしますがご勘弁ください。

 

「ちょっと技術的な質問なのですが、〇〇さんはとても××(言語の名前)に詳しそうなので聞かせて下さい。△△で記述するとこうなるのに、同じような処理を××で書くとこうなるのは何故でしょう?」

 

さり気なく相手を持ち上げながら質問する、というテクニックを弄してみました。

すると、暫時の後、このような回答が返ってきました。

 

「質問ありがとうございます。その処理は、××の処理系では〜〜という順序で処理されているのですが…(以下、かなり詳しい内容を記述してあるが略)」

 

いけるやん!!

 

案外、自分のことについての質問でなくても、聞かれたことにはちゃんと答えてくれるようです。

これはやはり、娯楽の皮をかぶってさえいれば、「教える」ということそれ自体に相応の気持ち良さがあるのだ、と解釈しても問題なさそうです。

 

社内redmineのチケットよりよっぽど反応が速いのはちょっとどうなんですか、と若干思わないでもないですが、まあそこはこの際目をつぶりましょう。

 

これ上手くいけば彼の回答モチベを上げるのに超有用やん!!

気分が盛り上がります。

 

もう一つ行ってみました。

 

「××でこういう処理を書きたいと思っているのですが、〜〜という形で書いてみても想定通りの結果が出ませんでした。この理由は何か、ご意見を伺ってもいいでしょうか?」

 

「なんか妙に詳しい質問ですね(笑) ××が〜〜だと思うのですが(それなりに詳しい説明)、仕事を思い出す質問は控え目にお願い出来ると…」

 

やや回避気味です。

何かを察知されたのかとも思ったのですが、その後も特にTwitterでの彼の動向は変わっていないので、自分の垢バレを疑っているわけではなさそうです。

 

質問が連射されするとまずい可能性はありますが、この「匿名質問の陰に隠れて技術的な質問をする」というのは、実は案外運用可能なのではないかという気もするので、今後も実現可能性を探っていきたいと考える次第なのです。

 

***

 

さて、この記事で皆さんにお伝えしたかったことを、最後に簡単にまとめてみます。

 

・「質問に答えるのが面倒」という思いは、質問者どころか周囲にも割とダイレクトで伝わる

・匿名質問サービスに丁寧に答えるのに面と向かって質問されるといきなり面倒になる、という人はそれなりの数いそうな気がする

・twitterアカウントを職場バレさせたくなかったら、職場で自慢した猫動画をtwitterにアップするべきではない

・質問箱で突如技術的な質問がくるようになったら上司の陰謀を疑うべきである

 

そんな感じです。

まあ、勿論評価につながらない後輩育成を、不明瞭な質問へのフォローもないままに延々押し付けられるというのは地獄案件ではありますが、そうでなければ空いている時間にでもなるべく丁寧に対応してあげて欲しいなあ、と感じる次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

(※このお話はフィクションです。実在の職場・部下・新入社員・質問箱とは一切関係ありません)

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Anton Strogonoff)

ひとむかし、前のこと。

会社で、困ることがあった。

といっても、売上やマネジメントに関するものではない。

そうならまだ良いのだが、もっとしょうもない話だ。

 

それは、部下から「もっと高い車に乗れ」と執拗に言われていたことだ。

いや、部下だけではない。

取引先からも金融機関からも私は、「いい車に乗りなさい」とはっきり言われていた。

 

「乗る車くらい、自由にさせてほしい」というのが普通だろうし、私は大半の人と同じく高級車に興味がない。

ダイハツの軽自動車を愛しているので、無理をして高いお金を出して、車に乗る必要は微塵も感じない。

 

だが、部下たちは言う。

「頼みますから、高級車に乗ってください。そうじゃないと、私がバカにされる。」

 

……え?

と、多くの人は「そんなバカな、部下には関係ないでしょ」と思うだろう。

でも、れっきとした事実だ。

 

部下たちは「うちの社長が軽自動車に乗っていることが、とても恥ずかしい。」と言う。

中には「社長が安い車に乗っているので、勤め先のことを親に言えない」という部下もいる。

取引先に至っては、「与信に問題が出ます」とまで言う。

 

このままでは、優秀な部下や取引先を失ってしまう可能性もある。

私は渋々、車を買い換えることにした。

 

痛い出費だが、仕方がない。

 

 

「そんな事あるわけない」と思った方も多いかも知れないが、実は上の話、すべて中国での出来事だ。

中国人の部下や、取引先は、私に「高級車に乗れ」としつこく言うのだ。

 

日本人は、中国人のことを知っているようで、実はほとんど知らない。

実際、同じアジアの国だが、欧米以上に日本人とは異なる。

 

例えば表面的なところで言えば、日本は右ハンドルだが、中国は左ハンドル。

「愛人」と書けば、日本では妻以外の関係のある女性を指すことが多いが、中国では妻のこと。

洋式トイレでは、便座の上に腰掛けるのではなく、便座の上に乗っかって用を足すし、列に並んで待つ、ということをしない国民性だ。

 

「中国のことなんか、しらなくていいよ」という方もいるかも知れない。

だが、これからの時代に「中国のことをよく知らない」のはアジアの中心のマーケットを放棄する、ということに等しい。

 

事実、中国は人口も経済規模もともに、21世紀世界の主役となる。

人口はすでに米国の4倍以上。2029年には名目GDPでも、米を抜くとの試算もある。

中国、名目GDPでも2029年に米国抜く=名実ともに世界一の経済大国に―濱本国際教養大教授が試算

国際通貨基金(IMF)のラガルド専務理事が7月下旬にIMF本部をワシントンから北京に移す可能性に言及、波紋を投げかけたが、この発言を基に、濱本良一国際教養大教授が「中国は名目GDPでも2029年に米国抜き、名実ともに世界一の経済大国になる」との論考を月刊誌『東亜』9月号(霞山会)に寄稿した。 

これからは衰退しつつある欧米ではなく、中国とどう付き合っていくかが、重要なのだ。

 

しかし、日本人は未だに「中国人はよくわからない」という人も多い。

単純な偏見であることも多いのだが、彼らの行動の裏にある原理を理解できていないために、誤解をしてしまっている人も多いだろう。

 

そこで、この記事では「中国人の行動原理」について、20年以上中国に住み、ビジネスをしてきた経験をもとに書いてみようと思う。

 

 

さて、そこで、冒頭のエピソードだ。

このエピソードは、中国人と日本人の違いをよく表している。

通常、日本では、社長がフェラーリやポルシェなどをこれ見よがしに乗り回していたら、「社長は大丈夫か」と、関係者から不審な目で見られてしまうだろう。

 

だが、中国人の部下や、中国企業は全く逆である。社長が大衆車に乗っている事自体がNGなのだ。

「そんな会社に勤めてるなんて、友達に知られたくない」

「信用できない会社だ」

などと、思われてしまうのだ。

 

結局、しぶしぶ私は車を2台、持つことにした。

 

一台は、部下たちのため、そして取引している中国企業に行くときにつかう、1000万円以上する、高級車。

もう一台は取引している日本企業に行くときに使う、200万円で買える、普通の車。

中国人向けと、日本人向けに、2台の車を使い分けることにしたのである。こうすれば、お互いに嫌な気持ちになることはない。

 

だがなぜ、中国人と日本人、ここまで考え方が違うのか。

 

結論から言えば、中国人は「仲間内での評判=メンツが重要」なのだ。

だから、仲間の中での評判を得るためであれば、中国人は自分の財貨をなげうつことを辞さない。

自分の裕福さを誇示し、また尊敬を得ることを何より重視する。

その一方、「裕福な人物は、周りを支えなければならない」というメンツがあるので、貧乏な身内には必ず援助し、遠縁の親戚に対する金銭的な援助も惜しまない。

 

逆に、見知らぬ他人のことは「誰がどう思おうと、知ったことではない」である。

仲間のいない場所では、道端に座り込んだり、順番を無視して割り込むことにも全く抵抗がない。

疲れたら座ればいいし、順番などという非合理な暗黙の了解にもとらわれない。空いていれば優先席にも遠慮なく座り「人が来たら譲ればいいじゃん」と考えている。

だから、赤の他人が窮乏していても、それは「自己責任」の世界である。

 

一方で、日本人は「世間体=建前」が重要だ。

だから、中国人とは真逆で、見知らぬ他人や場の空気に異常なまでに気を遣う。

 

例えば、大半の日本人は、誰も知り合いがいない場所でも座り込んだりしないし、順番をキチンと守り、ゴミを道端に捨てたりすることもない。

優先席には席が空いていても座らない人が多いし、電車内では皆静かにしている。

「場の空気を読むこと」が何よりも重要なのだ。

 

逆に、仲間には「気のおけない」という表現にもある通り、肩肘張らないし、富を誇示することもない。

ただ、窮乏した身内が訪ねてきても、援助を渋るし、見知らぬ世間の目を気にして「世間体が悪い」と縁切りをしたり「生活保護を頼れ」と突き放したりする冷たい面もある。

窮乏していても「生活保護を頼るのは世間に顔向けできない」や「迷惑をかけたくない」という理由で、助けを求めない人も多い。

 

もちろんこれは、良し悪しの問題ではなく、風土風習が、事実としてそうなっている、というだけの話だ。

 

 

だが、こうした中国人の気質は、現代のビジネスで非常に強い。

 

なぜなら、資本主義社会で成功するための重要な考え方、

「世間がどう言おうと、やりたかったら、やればいいじゃん」

「どうせやるなら、さっさとやったほうがいいよ」

「やったもん勝ち、早いもん勝ち」

を体現しているからだ。

 

だから、世間体を気にせず「やったもん勝ち」の中国人は、バンバン起業するし、著作権など気にしない。

彼らは順番を守ったり、列に並んだりすることはほとんど意味がないと考えている。

なぜなら、暗黙の「最初に始めた人がエライ」という「世間の常識」「外国の都合」「誰かが勝手に作ったルール」などを気にしないからだ。

 

始めた順番に関係なく「市場で勝った人」がエライのであって、「発明したけど、市場は取られてしまったやつ」は単なるマヌケなのである。

だから中国では下のような「偽物」が広く流通する。

だが、勘違いしてはいけないのは、「中国人は偽物が好き」なのではない。

事実、最近では中国人も「質の高い本物」を入手したがっている。

だが、「著作権」などの既存の権利の上にあぐらをかいているだけでは、マーケティング力で「偽物」を売る会社に勝てず、中国人には振り向いてもらえない、というだけの話だ。

 

中国人が「偽物」に寛容なのは、「やったもん勝ち」という、中国人の気質に依るところが大きい。

 

 

余談だが、最近では、中国政府は、この中国人の気質に則って「起業」を推奨している。

習近平の打ち出したスローガンは、「革新、起業、創造」だ。

 

規制を緩和し、起業を促し、裕福な人々が沢山排出されれば、その周りから裕福になるだろうと、政府は考えているし、事実そうなった。

例えば少し前、訪日客の「爆買いブーム」があったが、これは、中国人の「身内に頼まれたら、身銭を切ってでも買って帰る」という、中国人の気質が引き起こしたものだ。

 

中国では、儲かった人々は良いクルマに乗って儲かっていることをアピールし、身内や遠い親戚まで、できるだけたくさんの人を助けるためにお金を使う。

そして、そのようなバックグラウンドがあれば、優秀な人材は好きなだけチャレンジができるし、失敗を恐れる必要がない。

「落ちこぼれても大丈夫。身内が絶対に面倒を見てくれるから。」という確信は、資本主義と非常に相性が良い。

こうして、豊かさは中国で大きく拡散した。

 

一方で、日本ではこのトリクルダウンの考え方は、うまく機能しなかった。

なぜなら「儲かった人々」は、必ずしも身内や親戚を助けるために使わなかったからだ。

 

そのようなことを考えていくと、皮肉なことに実は、中国人は日本人よりも「資本主義」と相性が良いのかも知れない。

最近になって、そう思う。

 

 

【著者プロフィール】

中込直樹(なかごみ なおき)

山梨県南アルプス市出身。

大学卒業後、香港にてペプシコーラのプロモーションに携わる。

2007年香港にて、ウィングファットインターナショナル創業。製造拠点(3カ国4工場)を中心にキャラクターライセンスを使用した

玩具や雑貨、ベビー用品の企画製造を手掛ける。

2018年中国にて、玩具及び雑貨の輸入販売を手掛ける夢創貿易発展有限公司(ドリームクリエーション)創業。日本企業向けに、中国進出のマーケティングを支援。

 

【コーポレートプロファイル】

社名:永發國際創建有限公司(Wing Fat International Creative Limited)ウィングファットインターナショナル

設立:2007年

社員数:1,200名(連結)

代表者:中込直樹

URL:www.wingfat-inc.com

本社所在地:Room 652-654 , 6/F , SuiFai FTY Estate ,  5-13 ShanMei Street , FoTan , Shatin , N.T. , HongKong
(香港沙田火炭山尾街5-13號穗輝大廈6樓652-654室)

事業内容:

キャラクターコンテンツ事業ベビー用品、キャラクターグッズの製造

マーケットリサーチ及びアジア企業進出コンサルタント

レストラン事業、スポーツマネージメント事業

(Photo:Lei Han)

働き方改革、24時間営業の見直しなどがすすみ、現在は「便利さよりもワークライフバランスを」という考えにシフトしつつある。

とはいえ、「不便」に対する許容範囲は人によって大きくちがう。「不便になったら正直困る……」という人だっているわけだ。

 

そこで、ふと思う。

「便利を放棄するために必要なのは、ご近所づきあいなんじゃ?」と。

 

仲がいいご近所さんは、それだけで心強い

ドイツに移住し、1年前にとある村に引越してから、ご近所づきあいというのをぼちぼちするようになった。

 

引越し後すぐにとある老夫婦が声をかけてくれ、先日は「息子夫婦のために作ったけどご飯食べてきたっていうからよかったらもらって」とグラシュというビーフシチューのような料理をわけてくれた。

結婚式の日、シャンパンと花束もいただいている。

 

真下に住む人との関係も、いい感じだ。

とても気さくな人で、これまた結婚式の翌日、お祝いカードをくれた。

 

暖房が壊れたときは階下に住む女性が「あなたのところはどう?」とやってきて、うちで紅茶を飲みながら雑談したこともある。

こんな感じでうまくやっているので、たとえば「明日アマゾンから品物が届くけど受け取ってくれませんか」とお願いしたり「ガラス瓶ってどこに捨てればいいの?」と聞いたりもできる。

 

いままでたいしてご近所付き合いをしたことがなかったわたしは、こういう些細なやりとりをするのが、うれしくて、楽しくてたまらない。

ご近所さんと仲がいいというのは、それだけでとても心強いのだ。

 

不便でも生きていけるのは、それが可能な環境のおかげ

最近日本では、「不便の受け入れ」の需要が高まっている。24時間営業なんてしなくていいよ、元日くらいみんな休むべき、多少不便でも生きていける……。

かくいうわたしも、「不便容認派」だ。

 

ドイツのように、日曜・祝日は店が閉まっている&20時閉店がふつうの国に住んでいると、「そういうものだと思って暮らせばたいして困らない」という結論になる。

でも「不便でもいーじゃん」と言えるのは、社会全体がそれを前提にまわっているうえ、わたしの生活に余裕があるからなのかもしれない。

 

この「余裕」とは、金銭的なことではなく、精神的、時間的な余力のことだ。

わたしは在宅フリーランスで時間に融通が効くし、企業勤めの彼も17時〜18時には仕事が終わり、通勤時間はたったの15分。

仕事後の彼と落ち合って出かけることもできるし、事前に買い物に行けばいいだけだから日曜日にスーパーが開いてなくても困らない。

 

ドイツの配送事情は日本に比べてかなりひどいけど、たいていわたしは家にいるし、不在ならご近所さんが受け取っておいてくれる。

電車が遅延しまくるのは周知の事実なので、交通事情による遅延にはだれも怒らない。そもそも、みんなそんなにせかせか生きてない。

不便でもどうにかなる。便利じゃなくても大丈夫。

そう言えるのは、みんなお互い様だと思って割り切っているのと、どうにかなる環境があるからだ。

 

でも自分だけで生活を完結させなきゃいけない状況の人は、そうも言ってられないだろう。

 

便利さとはセーフティーネットである

独身でひとり暮らし、さらには長時間労働。車もなく近くに友人もいない。

そういう環境なら、家にいるわずかな時間にきちんと配達してもらわなきゃ困るし、深夜でも開いている牛丼屋が徒歩圏内にあると便利だ。土曜日はとにかく寝て、必要なものは日曜日に買い物に行きたいだろう。

身近に近親者がいないシングルマザーは、24時間開いているスーパーやコンビニに助けられているかもしれない。

 

そういう生活をしている人に、「便利じゃなくてもいいでしょ?」というのは酷だ。

その人たちにとっての「便利」とは、「セーフティーネット」でもあるのだから。

 

ワークライフバランスを大事にする、過剰な便利を追い求めない、という姿勢は大賛成。でもその一方で、不便になると困る人だってたしかに存在するわけで。

社会をよりよくするための「不便容認論」が、だれかを追い詰めてしまっては意味がない。

 

「便利じゃないと困る人」をどうやって「不便でも大丈夫な環境」にするかも同時に考えないと、不便容認論はただのキレイゴトだ。

 

ひとり暮らしする20ー30代の6割が「ご近所づきあいなし」

ここで冒頭の、ご近所づきあいの話に戻る。

「不便でも大丈夫な環境」にするために大事なのは、ご近所づきあいじゃないかと思うのだ。

 

独立行政法人都市再生機構によるアンケートを見ると、ご近所づきあいの必要性を感じている人は半数少々いる。

新生活目前。一人暮らし20-30代の6 割以上が近所付き合いを「しない」しかし半数以上が、近所付き合いの必要性を感じていた!しない理由は「普段顔を合わせないから」「話すキッカケがないから」

一方、ご近所付き合いは必要と思うかという問いに対して、「必要だと思う」、または「どちらかと言えば必要だと思う」と回答したのは、全体の5割以上となりました。

その理由を調査したところ「挨拶をすると気持ちが良い」と回答したのが52.6%と、近隣住民とのコミュニケーションに対して好意的な反応が目立つ結果となりました。

また、同様の質問を自身が家庭を持ったと想定した上で行ったところ、必要だと思う人は、全体の7割以上にものぼっています。

「将来、家庭を持った場合、ご近所づきあいは必要だと思いますか」という質問には、73.8%が肯定的だ。

理由は、「困った時に助けてもらえるから」「近くに顔見知りがいる安心感があるから」。

 

一方で、同アンケートでは一人暮らしをする20-30代の63.5%が、「近所づきあいはない」と答えている。

いざというときに頼れる顔見知りがいたほうがいい、とは思っていても、実際はご近所づきあいがほとんどない人がかなり多いようだ。

 

地域や年齢層、家族構成によってご近所づきあいの様子はずいぶん変わるだろうけど、頼れる人がより必要な単身者のほうがご近所づきあいが少ないであろうことを思うと、やっぱり「便利って必要だよなぁ」なんて気持ちになる。

だって、頼れる人がいないんだもの。

 

不便容認論に必要なのは、頼みの綱になるご近所さん

よく「昔は不便でもやっていけた」「いまは便利すぎる」という人がいるが、その「どうにかなった」背景にはたぶん、「助け合えるご近所さん(親類)」の存在があったはずだ。

逆にいえば、親族や地域コミュニティといった頼みの綱を失った人の支えになったのが、現代の「便利さ」なのだろう。

 

そういった付き合いがさかんな地域もまだまだ多いとは思うし、それがイヤで東京に出てきた、という人もいるかもしれない。

ご近所づきあい=いいもの、とも言い切れない。

 

ただ思うのは、未婚率が上昇し、共働き核家族が増えるなかで、「自分(たち)だけで生活を完結させなくてはいけない」人たちが増えているということだ。

 

そういった人がセーフティーネットとしている「便利」を見直すのであれば、代わりとなるセーフティーネット、「いざというときの頼みの綱」についても考えるべきだろう。

そう考えると、働き方改革に必要なのは、「なにかあったときに頼れるご近所さん」なのかもしれない。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:calltheambulance)

コミュ障を自認する人に「何がコミュニケーションを取る上で一番苦手?」と聞いたときのこと。

彼は「人の愚痴を聞くのがめちゃ苦手」と言った。

 

「なんで愚痴が苦手なんですか?」

「愚痴に付き合うのも、愚痴を言うのも、時間のムダだから。」

 

なかなかドライである。

「でも愚痴を言う人、身の回りにたくさんいるじゃないですか。全部無視するんですか?」

「もちろんそんなことはしない。一応、愚痴に付き合うのは礼儀だと思ってる。」

「おー。」

「でも、愚痴に対してアドバイスしたり、同情したりするのは全部ムダなので、やらない。」

「やっぱり、ムダですか。」

「ムダだね。」

「なんでムダだと思うのですか?」

「愚痴では、何一つ変わらないから。あと、アドバイスは求められてないし、同情は偽善。」

 

割り切りが凄い。

 

聞くと、彼が徹底して心がけていることは3つ。

「見ざる、聞かざる、言わざる」だ。

例えば、インターネット、特にSNSで愚痴の多い人はミュートするか、ブロックする。

人の愚痴へは反応せず、自分も愚痴は言わない、というわけだ。

 

そうして、しばらく話していると、彼が面白いことを教えてくれた。

「よくいるのは、自分で愚痴を言っているつもりがないけど、愚痴を言ってしまっている人。」

 

「具体的に、どういうことでしょう?」

「例えば、「うちの会社はこうすべきだよ」とか「上司はこうあるべきだよ」とか、前向きなことを言ってるけど、実際はそれが不可能であるケース。本人はポジティブに発言しているつもりなんだけど、まあ中身は一種の愚痴。」

「ほほう。」

「愚痴っぽくないので、本人も人に愚痴を聞かせているという自覚がないぶん、タチが悪いよね。」

「なるほど……。きびしいですね。」

「そう?でも、愚痴で人の時間を奪うのは、最低でしょ?」

「なるほど。」

 

徹底していますなあ……。

 

だが、彼はその性分のせいで、コミュニケーションがうまくいかないことがよくある、という。

「愚痴に「ふーん」としか言わないので、冷たい人だ、と言われることが結構あったり、相手を怒らせてしまったりすることがあるね。」

 

私は彼に聞いた。

「少し我慢して、同情するだけでも、人間関係はずいぶん改善するのでは。」

「それを受け入れていると、キリがない。あと、愚痴を言う人と人間関係を良くしても、あまりメリットはないよ。」

「なるほど……。」

「だいたい、愚痴の多い人とか、会社の同僚とかと話していると、イラッとくる。」

「なぜですか?」

「愚痴を言う人って、同情を求めてくるから。そんなん知らん!て言いたくなる。」

「ああ……。」

「まあ、気にしてないけど。そもそも自分は、そういう人に同情できるようなレベルの高い対人スキルは持ってない。」

「なるほど……。」

 

 

この話を後日、別の知人にしたところ、知人は「単に、人に冷たいというだけじゃないの?」と言った。

そうかもしれない。

 

でも、一つ気になったことがある。

彼は「「愚痴を聞いて、人に同情できる」ことは、レベルの高いコミュニケーションスキルだ」と言ったのだ。

 

「困っている人に同情するのは、人間として当たり前でしょ?」と思う人もいるかも知れない。

でも、彼のようなコミュ障には、「同情」や「共感」は当たり前ではない。

 

むしろ、「同情」や「共感」を積極的に表明できることこそ、コミュニケーション強者の証だと彼は考えている。

逆に、彼は「同情する」というスキルを持ち合わせていないため、友だちが少ないことや、会社の人間関係がうまくいかない状況にあると認識していた。

 

実際、私は彼に

「なぜ人に同情しないんですか?」と聞いてみた。

彼はキョトンとしている。

「逆になぜ、同情できるんですか?」

「かわいそう、とか力になりたい、とか思わないんですか?」

「かわいそうとは思いませんね。多かれ少なかれ、みんな不幸ですから。あと、相手が解決を望んでないのに、力になりたいと思うのは、おせっかいだし、こっちが疲れるだけかと。」

 

彼は言った。

「むしろ、他人の愚痴を聞いて、同情できる人はすごいと思いますよ。私には無理ですけど。」

 

 

様々なニュースや、Twitterには「人の不幸」が溢れている。

そして、そこには「同情」や「共感」が集まる。

 

だが、もしかしたらそんな感情とは全く縁のない人は、意外と多いのではないか。

 

不幸な目にあった人に対して

「その気持、よくわかる」

「つらいですよね、同情します」

「大変だったね。」

と、温かい同情の声を掛ける人がいる一方で、

「へー。」

「で、何?」

「俺には関係ないね」

という人もまた、とても多いのだろう。

 

だが、人間関係には、当然のように「同情」や「共感」が求められ、それを表明することは不利益につながる。

 

だが、彼と話していて、「それに対応できるのは、当たり前のことではない」と、私は改めて強く認識した。

 

 

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(Photo:Giacomo Carena

やってしまった。

また性懲りもなく「働きすぎて→精神が潰れる」のコンボをキメてしまったのである。

 

ありがたい事に、最近は色々な方面からお仕事を頂けるようになった。

これ自体は本当にありがたい事なのだけど、その一方で仕事をたくさん引き受けすぎて、溜まったタスクの重みで精神疲労する事が本当に増えた。

 

今更ながら、マネジメント能力の重要性を痛感している。自己管理って本当に大切だ……今回は運良くGWが来てくれた事もあり、上手に休みが取れて復活できたけど、そのまま心がミンチになっても何もおかしくなかった。

 

反省の意味も込めて自分自身が過労で潰れかけていた時の前兆と、疲労回復に役立った手法を書いていこうかと思う。

これを読んで「あっ、自分の事かもしれない」と思った人は、注意した方がいい。そして対策についてもしっかりと学んで欲しい。

 

疲れ初めの頃は過剰に好戦的になっていた。

いま思うと、ハチャメチャに心が疲弊している時に上野千鶴子氏の東大入学式スピーチを読んだのは本当によくなかった。あのスピーチを取り巻く一連の輪の中で、かなり僕の精神疲労は加速したし、なんなら若干狂いかけてたように思う。

 

内容に関してはあまりにも様々な媒体で言及されすぎているので避けるが、このスピーチの何が凄いのか、といえばこの文章は内容以上に、こんなにも沢山の人から言及される事がとてつもなく凄い。

考えてみてほしいのだが、未だかつて、こんなにも日本の大学の入学式スピーチがバズった事があっただろうか?こんなバズる文を作れる上野千鶴子氏の才覚には感心する他ない。

 

まるでルビンの壷のように見る人間によって見え方が変わるこのスピーチは一種のマジックといっても過言ではない。

多くの人間の感情を湧き上がらせ、炎上にも近いレベルで大規模に人々の話題の中心になるだなんてデイビット・カッパーフィールドも真っ青である。

 

もともと、フェミニズムというのは話題にされる事自体にも目的があった。いくら偉そうな学者が

「この世には女性差別があるんだよ!!!」

と大声で言おうが、間違いなく誰も相手になんてしない。駅前で活動している政治家の話す言葉に立ち止まって耳を傾ける人がほとんどいない事からも、これは明らかだ。

どんな話題であれ人に関心を持ってもらい、議論の中に入ってもらうのは物凄く難しい。

その意味では、上野千鶴子氏が大衆の心を焚きつける技術を習得したのは必然の事ではある。

 

だが、こんなにも大規模にみんなを議題のテーブルに乗せる彼女の能力は本当に見事という他はない。

もはや、このスピーチは内容について言及した時点で発言者の「負け」なのだ。

 

とまあ、そういう背景があるのも含めてだけど、僕も4月に入ってから随分とこの話題にまんまと乗せられて、随分と色々な人と喧々諤々の男女平等に関する激論を交わせてしまった。

やってる最中は全然気が付かなかったけど、冷静になって振り返ってみればまさに「つ、釣られたクマー」である。

この祝辞に群がる人達の好戦的な態度に乗っけられ、自分までもが好戦的になって精神を消耗されられていたのを思い出す。

やはり人間疲れてるとイライラして好戦的になりがちだなと改めて思し、そういう時にその手の話題に立ち入るのは精神の消極的な自虐でしかないなと本当に反省する。

結論。疲れている時は、好戦的な話題をみてはならないし、みてもそっとブラウザを閉じるに限る。

 

疲れてると、人に操られやすくなるんだなぁ

繰り返しになるが、疲れていると本当に他人に扇動されやすくなる。

そういう時、自分が疲れている事自体に気がつくのは本当に難しいのだが、イラッと来たら「そもそも自分はいま釣られている」という事に気が付けないと、いつまでたっても他人の思う壺である。

 

差別を始めとして、世の中には不正や許しがたい事がたくさんあふれている。

そのどれもが長い目でみれば解消されるべき大切な事であるのは間違いない。が、その解消の為にあなたが扇動され利用される必要は万に一つもない。

逆に、「ありがとう」と言うべき家族や友達、読みたい本や見たい映画など、世の中には個人にとって本当に大切な事がたくさんある。

残念ながら時間は有限だ。あなたの人生で成すべきことが一体何なのかを改めて考えよう。少なくともそれは、他人に操られる事ではないのは間違いない。

 

現代人の生活は異常に忙しく疲れやすい

とまあ、疲れてた事で好戦的になってて、人に操られてたなというのが直近までの自己分析なのだけど、それ以前の問題として、なんでこんなにも冷静さを欠くレベルで疲れてしまったのかといえば、私生活が忙しすぎたからに他ならない。

はっきり言って、中年以降の現代人の生活の忙しさは本当に異常だと思う。若い頃とは全然レベルが違う。なにが違うかと言えば、圧倒的にマルチ・タスクなのだ。

 

若い頃は割とライフ設計は単純だった。基本的には学校や仕事といった疲れる場所の数がそう数が多くはなく、どれぐらい疲れるかの程度がある程度は予測しやすかった。

まあそれはそれで色々なデメリットはあったけど、まだ変数が少ない分だけダメージ量は予測しやすかった。

 

一方、そこそこ歳を重ねて生活が複雑化してくると、想像以上にタスクの変数が増えてくる。

仕事に家庭、人によっては副業、これに子育てなんて加わったりしたら、多くの人はもうキャパシティが限界パンパンだろう。

 

中年以降の人生は、とにかくタスクの変数が桁違いに増える。そしてこれが想像以上に恐ろしい精神疲労を生み出す。

何が問題なのかと言えば、タスクは積み重なるのである。これが想像以上に厄介なのだ。

 

積み重なったタスクは、単純なボリュームよりも重い

想像してみて欲しい。仕事で責任ある立場になる中で、家庭で子供と揉め事が起き、そこで親の介護がぶち当たったりしたとしよう。

人間、残念ながら一度に一つの事しかできないから、ここから抜け出すためには一個づつ問題を解決しなくてはならないのだけど、じゃあ何から手をつければいいのかを考えるだけでめまいがしてこないだろうか?

 

積み重なったタスクは、もはやボリュームたっぷりの忙しさとは別次元のものとなる。

かつて340日ぐらい馬車馬のようになって働いていた頃の忙しさより、正直いまの複数角度からの多忙の方が僕は遥かに苦しい。

シングルではなくマルチな方面でタスクが発生する事から仕事が複数角度から溜まりやすくなり、結果として心置きなく休息を取りにくくなるというのが本当によくない。

 

タスクを上手に処理できてるうちはまだいい。けど、一度処理が難しくなったりしたら、もうあとは積み上がるだけである。

そうして人は「あれもできてない。これもできてない」とタスクの山に潰されて一歩も動けなくなり、無能感に支配されて勝手に自分で自滅していく。あなたの周りにもそんな人が1人くらいいるんじゃないだろうか?

というか今の自分が当事者だったりしないだろうか?お疲れ様である。

 

こうなった時の対処方法としては色々な方法があるだろうけど、ここではあえてタスクを減らさず、無理やり維持するためにどうすればいいのかを考えてみよう。

そのための一つの方法が、アクティブに遊ぶ事だ。

 

レジャースポーツの癒やしの本質は、瞑想である

若い頃は、世の成功者がオン・オフの切り替えの大切さについて語っている意味が全くよくわからなかった。

けど、今になってその大切さを実に痛感する。働けるようになったら、それ以上にあえて働かない事が物凄く大切になる。

 

じゃあ、どうすればいいのだろうか?それは休日に本気で遊ぶのである。というかこれしかない。

僕は以前は休日にサーフィンやらスキー、登山といった活動的なアクティビティをする人間の気持ちが全くわからなかった。

休むと言えば、家でゆっくり寝るとかゴロゴロ本を読むとかだと思っていたのだ。

 

けど、実はこの手のインドアタイプの休息は、肉体的な癒やしにはなっても精神的な癒やしには時として全く結びつかない。

何故か?それは思考に余裕があるが故に、日常生活の事を考える余裕があるからだ。

積み上がったタスクの山を考えながらのゴロ寝とか読書は、はっきりいって休息ではなくただの自傷行為である。やってみればわかるけど、マジで苦痛以外のなにものでもない。

 

一方で、いわゆるレジャースポーツといわれるタイプの遊びをやってみてわかったのだが、これらは割と熱心にやらないと駄目なこともあって、頭の中から強制的に仕事や私生活の事が排除される。というか何も考える余裕などなくなる。

本気の遊びは、魂を日常から飛び立たせるのだ。

やってみて気がついたのだけど、これが面白いほどに精神的に癒やされるのである。一種の瞑想みたいなものなのだろう。

心がリフレッシュされるとはまさにこの事かと、仕事やプライベートの問題が山のようにあった僕が、それらを完璧に忘れられた事には衝撃を受けた。

 

マジ遊びは身も心も非日常に置くことで、休日を強制的に”心の癒やし”へと置換させているのだ。いやはや、なんでもやってみるものである。

レジャースポーツでなくとも、強制的に占領する遊びをみつけられればいい

とはいえまあ、全員が全員、レジャースポーツが好きになるのも非現実的だろう。少なくとも僕は運動が大嫌いだし、これを一生やり続けるのはごめんである。

 

つまるところレジャースポーツの本質は精神の強制的な乗っ取りなのだから、各人に合うそういう遊びをみつけりゃいいだけの話である。

何事も、本質を捉える事が大切だ。

 

結局、僕にとってのアクティブな遊びは幼い頃から慣れ親しんでいたテレビゲームが一番フィットした。

これに没頭するのが一番心が癒されるし、休日は無理矢理にでもこれをやる時間を作ろうと心に決めた。

GWは本当にたくさんのゲームをした。フリーソフトのピトロクス・ギア、Switchのカタナ・ゼロにマリオ・オデッセイ。いずれも素晴らしい作品で、全てを忘れて久々に心の底から”遊ぶ”事ができた。

 

興味深い事に、心が疲弊している時点ではゲームは物凄く楽しいのだけど、徐々に回復してくるにつれて、あんなにも面白かったゲームに自然と強い退屈感を覚えるようになる。そして「日常に帰りたくなる」のだ。

これが実に面白かった。確かに言われてみれば、かつて義務教育時代は夏休み終盤になると学校に行きたくなったりしたが、日常と非日常はシームレスに退屈さで繋がっていたのである。

 

うつ病患者はうつヌケ手前になると、段々と退屈を覚えるようになってくるという話を以前聞いたことがあったが、遊びも徹底すると退屈を感じ日常に戻ってもいいかなと思うようになるのはかなり新鮮な学びであった。

 

バーンアウトしないためにも、己にあったガチ遊びを見つけ出そう

人は本当に簡単に疲弊する。そして一度疲弊すると、それを取り除くのは本当に本当に大変だ。

働くのも大切だが、それ以上に積極的な遊びを強制的に自分の習慣の中に取り入れる事も大切になってくるのが中年以降の人生だなというのを本当に痛感している。

 

現代社会は本当に忙しい。ほっとくとタスクが山のようにつみあがり、その重さに潰されてしまう。

今回の疲弊は大変だったけど、休日は日常生活の事を完全に考えられないような全てを忘れて本気で遊ぶ時間を設け、それができるような形に日常を逆算して組み上げるという事の大切さを知れたという点で、まあ塞翁が馬だったのかな、と思う。

 

僕にとっての令和の幕開けは、ガチ遊びの学びと共に始まった。

休日は仕事を絶対にせず、私生活の事を無理矢理にでも忘れるのだという強い意志を忘れずに、この時代を心を壊さずに駆け抜けていきたい。

 

といわけで嫁は僕が家でガチでNintendo Switchで遊んでても「怠けてる」って怒らないでください。

お願いだよぉ。これは魂の治療なんやで。

 

とうわけでみなさんも、よいガチ遊びライフを!

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:M.G.N. - Marcel

唐突ですが、今日は『風の谷のナウシカ』の話をします。

金曜ロードーショーで『風の谷のナウシカ』が放送されると、午後9時ぐらいからtwitterには視聴者のつぶやきが増えてきて、午後10時20分~11時にかけてピークを迎えます。

世代を越えて繰り返し親しまれている名作、と言っても過言ではないでしょう。

 

ひとつの作品として十二分に評価されている映画版『風の谷のナウシカ』ではありますが、これをベストとは思ってはいないファンも少なくないことをご存知でしょうか。

かくいう私もその一人で、「『風の谷のナウシカ』でベストなのは漫画版!」という気持ちを持ち続けています。

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この、全7巻セットの漫画版『風の谷のナウシカ』は電子書籍化されておらず、しかもワイド版なので結構かさばってしまいます。

ですが、一冊の値段は420円ちょっととお安く、収納スペースさえあるなら買って損をすることは無いでしょう。漫画喫茶で読んできても良いかもしれません。

 

 

この漫画版『ナウシカ』の1巻は、映画版によく似た筋書きで始まります。

ペジテ市で巨神兵が発掘され、それに目をつけたトルメキア軍がペジテ市を強襲、さらに風の谷も戦乱に巻き込まれ、巨神兵にまつわる物語が展開していく……といったあたりは共通しています。

 

ところが王蟲が押し寄せてきた後に完結する映画版とは違い、漫画版は王蟲が押し寄せた後もまったく終わる気配がありません。

巨神兵は風の谷では蘇らず、そもそも、王蟲が押し寄せてきたのは風の谷とはぜんぜん違う場所でした。

また、映画版では蟲恐怖症になっていたトルメキアのクシャナ妃殿下がそうなっておらず、悪役っぽさも感じられません。

これは漫画版『ナウシカ』3巻の表表紙ですが、3巻の表紙に描かれているのはクシャナです。

残り6巻の表表紙がすべてナウシカであることを思えば、破格の待遇と言わざるを得ません。主人公のナウシカと、準主人公のクシャナ。そんなことを考えたくもなります。

 

漫画版のクシャナの雰囲気をお伝えするために、3巻のスクリーンショットも張り付けておきます。

こんな具合に、漫画版のクシャナは「兵からの人望があつく、有能な指揮官、しかも皇女殿下」として描かれています。

一読すれば、映画版のイメージは木端微塵になることでしょう。

 

人間をやめていく主人公のナウシカと、人間世界の主人公のクシャナ

映画版でも幾分そうでしたが、とりわけ漫画版のナウシカには「人間をやめていく主人公」という雰囲気が漂っています。

いっぽう、クシャナには「人間世界の主人公」といった趣があります。

 

ナウシカの行動原理は、人間世界の常識や枠組みにとらわれていません。

映画版のナウシカも、王蟲の子どものために我が身を投げ出し、人間の命も蟲の命も分け隔てなく愛してやみませんでした。

漫画版ではそれに拍車がかかり、人工生命にすらその愛情を差し向けています。そして、生き物がみずから生きていこうとする力を賛美し、その命を弄ぼうとする者には容赦がありません。

 

ただ、ナウシカの行動原理はあまりにも命に対して懐が深すぎるというか、人間世界の常識やキャパシティといったものを超越していて、ちょっとついていけないところがあります。

はじめは風の谷の族長の娘でしかなかったナウシカが、途方もない力の持ち主とも対峙するようになり、世界の命運を左右する超人的存在になっていく──良くも悪くも、ナウシカはそういう主人公として描かれていました。

 

対して、クシャナの行動原理は、人間世界の常識や枠組みにもとづいています。

クシャナは指揮官やトルメキア皇女としての立場に基づいて行動しています。

トルメキア王家の他の面々に比べれば慈悲深いし有能でもあるけれども、ナウシカに比べれば常識的で、できること/できないことを計算して行動しているふしがあります。

少なくとも、命のためなら何をやらかすかわからないナウシカの無鉄砲さがクシャナにはありません。

 

クシャナ自身、そうしたナウシカとの違いはよく心得ていて

「ナウシカ、お前はお前の道をいくがいい それも小気味良い生き方だ」

と評したうえで「あの娘は自分でも気づかずに我々を渦の中心に導いているのだ おそらくわたしの探すものもそこに居る」と述べています。

 

クシャナにとって、ナウシカとその行動原理はついていけるものではないけれども、ナウシカの特質をよく理解し、ナウシカが自分たちにどういう状況をもたらすのか、よく見極めているさまがうかがえます。

 

漫画版『風の谷のナウシカ』は、後半に進むにつれてどんどん神がかりな物語になっていきます。

正直、ナウシカとその周辺には常識はずれな雰囲気が漂っているのですが、人間世界と人間の常識を代表する存在としてクシャナが登場するおかげで、ハチャメチャな展開になんとか読者がついていけるような構図ができあがっているようにみえます。

 

や、もちろんアズベルやクロトワといった、映画版でもお馴染みのキャラクターたちも人間世界と人間の常識を代表してはいるのですが、彼らにはナウシカとその周辺を理解するだけの理解力や度量がありません。

どんどん神がかっていくナウシカと、ごく普通の人々(や読者)の間を取り持つ人物として、クシャナはやはり重要です。

 

ゆえに、漫画版『ナウシカ』には、どんどん物語を神がかりな状況へと引っ張っていくナウシカと、人間世界の代表としてのクシャナという、2人の主人公がいると評したくなります。

 

映画版のクシャナのことがあまり好きでない人も、漫画版のクシャナには好感が持てることでしょう。なにしろ、クシャナのような人物がいなければ、どんどん腐海の謎へと進んでいくナウシカの物語についていけないのですから。

 

庵野監督が『ナウシカ』をリメイクしてくれたら……

ここまでは漫画版の紹介でしたが、ここから、私の願望を書き連ねます。

漫画版『風の谷のナウシカ』がメチャクチャ面白い作品であるのは間違いないのですが、将来の大本命は漫画版ではない、と私は踏んでいます。

 

“いつか庵野監督が、『風の谷のナウシカ』をリメイクしてくれる日が来るんじゃないか”

“もし、庵野監督が『風の谷のナウシカ』をリメイクするなら、漫画版が来るんじゃないか”

もちろんこれらは私の願望であり、夢想でしかないのですが、それらしい筋はあります。

 

まず、庵野監督が『ナウシカ2』を作りたがっていたという逸話。

鈴木俊夫氏「庵野英明にナウシカ2をやらせようとしたら、宮崎駿が激怒して…」本当にあった、続編構想

映画版『風の谷のナウシカ』でも制作に関わっていた庵野監督が『ナウシカ2』を作りたがって、それに宮崎監督が怒っていたというのです。

 

その一方で、庵野監督は2012年に『巨神兵東京に現わる 劇場版』という特撮を作っています。

『ヱヴァンゲリヲン劇場版:Q』 の前座的に公開されていた、あの大量破壊特撮です。『ナウシカ』本編のリメイクではないとはいえ、スピンオフ作品を庵野監督がつくったという事実に、私は興奮しました。

 

さらに2017年には、庵野監督と宮崎監督について『エキレビ!』でこんな記事が流れました。

今夜金曜ロードSHOW「風の谷のナウシカ」庵野秀明は巨神兵の呪いから逃れられない

宮崎「庵野はずっと『ナウシカ』(の映画化)をやらせろと言ってくるんですよ」「「いいや、もう。庵野も『ナウシカ』をやればいいんだ」って思いました。「あんなの原作通りにやるのはやめろ。でも、好きにすればいい」と。

やりたかったらやればいい。たいした問題じゃない」(「風立ちぬ ビジュアルガイド」より)

自分の作ったものに縛られないように、切り捨てて別なことを始めるスタイル(「風の帰る場所」より)の宮崎駿が、辿り着いた結論だ。

一連の流れをみるに、90年代には不可能のように思われた庵野監督による『ナウシカ2』が、実現する可能性はちょっとずつ高まっているように思われるのです。

 

たとえばの話として、第一部ではナウシカを主人公とした「風の谷」を描き、第二部はクシャナを主人公とした「トルメキア戦役」を描き、さらに第三部はナウシカとクシャナの2人主人公体制で「腐海と巨神兵の秘密」を描いてくれたら……おおむね漫画版どおりの内容で、なおかつ映画版しか知らない人をも興行に引きずり込めるのではないでしょうか。

 

この連休中、漫画版『風の谷のナウシカ』を再読したのですが、ナウシカを主人公に据えたままリメイクすると、後半の神がかりなナウシカについていけない人がゾロゾロ出るように思えてなりませんでした。

やはりここは、クシャナ殿下におでましいただき、ナウシカの世界と人間世界をとりなしていただくほかないでしょう。

 

現在、庵野監督は『劇場版ヱヴァンゲリヲン』の最終作に取り組んでいると聞いています。

もちろん、それはそれで絶対に観に行くしかないのですが、いつか、『ナウシカ』のリメイクも手掛けてくださることを祈らずにはいられません。

 

が、それまでは漫画版『ナウシカ』こそが至高と私は信じているので、これからも愛読し、ことあるごとに宣伝してまわりたいと思っております。未読の方は、ぜひご一読を。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Kwasi B.

私事で恐縮だが、私は27歳の時に妻と結婚し、かれこれ20年近くを一緒に過ごしてきた。

幸い今もとても仲良くしてもらっており、ランチに毎日の買い物と一緒に過ごす時間も長く、それでいて飽きることもない。

 

しかし正直に言うと、結婚1年目は家に帰るのも苦痛なほどに、結婚生活に慣れるのに時間がかかった。端的にいうと、生活スタイルの違いだ。

 

妻は、家事は溜めてからまとめて済ませることが合理的という考えを持った人だった。対して私は、例えば汚れが気になったらすぐ済ませたいタイプだ。

そして当時、妻はいわゆる専業主婦であったこともあって、「なぜすぐにやらないのだろう」という一方的な不満を募らせていったということだ。

 

そしてそのストレスは、日に日に大きくなっていった。

 

イエローハットの成功物語

話は変わるが、鍵山秀三郎というお名前を聞いて、誰のことだか分かる人はいるだろうか。

自動車用品販売イエローハットの創業者で、一代で売上高1000億円の上場企業を作り上げた経営者だが、その成し遂げた功績の割には、氏を評価するビジネス書を見かけることは少ない気がする。

簡単に、その創業ストーリーを少しご紹介したい。

 

鍵山氏が個人商店ローヤル(現イエローハット)を起こしたのは昭和36年で、28歳の時だった。

それから事業は順調に拡大するものの、社員を募集する過程で集まってくるのは「やんちゃ坊主」ばかりだったそうだ。

 

それもそのはずであり、40代以上の世代であればあるいはわかるかも知れないが、昭和世代の車好きと言えばイコールヤンキーである。

少年ジャンプでは暴走族漫画が人気を集め、また改造車で爆音を鳴らし女の子をナンパすることがカッコいい「シャコタンブギ」などの漫画が、中高生の憧れだった。

そしてその延長で、多くのやんちゃ坊主がイエローハットに就職し、カー用品の販売や修理に従事した。

 

しかし、やんちゃ坊主を使いこなすのはやはり一筋縄ではいかない。

備品や商品は頻繁に無くなり、工具は床に転がりっぱなしが当たり前。作業場にはゴミが散乱し、トイレに至っては汚物すら撒き散らかされているのが当たり前の惨状であった。

 

こんな会社の状況を、どうすれば良くすることができるのか。

考えあぐねた鍵山氏は、いちばん汚れが酷かったトイレの掃除を、毎朝早朝から始めることを決める。

会社の雰囲気が少しでも良くなればと、ただそれだけの想いで一人で取り組み始めた。

 

しかしこのトイレ掃除は、ただの掃除ではなかった。

指先を便器の裏に差し入れ汚物を爪でこそぎ落とし、見ているものが呆然とするほどの鬼気迫る勢いであったそうだ。そして鍵山氏は数時間をかけて、何ヶ月も何年もトイレを毎朝、ピカピカに磨き上げ続けた。

 

結論から言うと、この鍵山氏の掃除に圧倒された社員はとてもトイレを汚すことができなくなり、やがて物を大事にし社用車を大事にして、会社を大事にする動きにつながっていったというストーリーだ。

とてもわかりやすい、経営者の成功物語である。

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本を読むだけではわからなかったこと

そんな鍵山氏の生き方に、20代後半の頃にとても興味を持ったことがある。

本当に掃除を徹底することでそこまで会社が良くなるものなのか。そんなうまい話があるのかと。

 

何か少しでも気づきを得るものがあればと考えて、鍵山氏が顧問を務める「掃除に学ぶ会」に参加を申し込んでみた。

例えば日曜日の朝7時から、小学校の全トイレをボランティアで掃除をしようという会である。

もうその設定からして、日曜をゆっくり過ごしたいと考えている私にとっては十分にクレイジーであった。

 

そして迎えた当日。

主催者から簡単な掃除の進め方について説明があり

「初心者の人は、無理をせずに道具を使って下さい。ゴム手袋も用意しています。」という趣旨のアナウンスが為される。

 

もはやこの時点で異世界に来た予感がし始めたが、そんなものは序の口であった。

掃除を開始しましょう、という掛け声が飛ぶやいなや、参加者の多くが、ダッシュで小学校の1階に走り出す。

後から聞いてわかったことだが、トイレの汚れが一番酷い低学年の便器を取り合うためのダッシュだったそうだ。

 

そして完全に出遅れた私は高学年のトイレを掃除することになるが、そこで初めて目にした光景は圧巻だった。

参加者全員が本当に素手である。

全員が素手で、小便器にこびりついた尿石を指でこそげ落とし、大便器に凝り固まった便を爪で落とそうとしていた。床掃除すら、スポンジやデッキブラシではない。

僅かな水を指に含ませ、タイルの目地に詰まった汚れを爪でかき出し、手のひらで床をこすり、壁の狭い隙間には小指を差し入れてキレイにしようとしていた。

 

もはや「無理をしないでくださいね」と言われても、ゴム手袋を受け取れる空気ではないではないか。

そして覚悟を決めた私もその一員になり、指で便をこそげ落とし、便器の裏に小指の先を差し入れ、固まっている尿石を素手でかき出し始めた。

 

正直、最初こそ抵抗があったが、いったんやってしまうと後はヤケクソだ。するとおもしろいほどに、汚れがどこに、どのような形で固まっているのかがすぐにわかり始めた。

そして、「なるほどなあ、尿ってこんな形で飛んで、こんなふうに隙間の中で尿石に形成されるのか」と、匂いや汚れの原因そのものの所在を、正確に理解できた。

鍵山氏が創業当初にどんな思いで素手でトイレ掃除を始めたのかを、少しだけ理解できた気がした。

 

そして、社長自らが毎朝、こんなトイレ掃除をするのである。

こんな「率先垂範」を見せつけられたら、どんなやんちゃ坊主でもトイレを汚く使うことなどできるはずがないではないか。

 

読み物の中で、「こうやってイエローハットの社員の心は、美しくなっていきました」などと言われてもピンと来ないが、現実にその光景を目の当たりにすると圧巻であった。

経営トップがここまでやれば、確かに会社は変わるだろう。変わらないはずがない。

 

本当の意味での企業文化の作り方と、1000億円企業を作ることができる経営者とはどういう人であるのか。

少しだけその真髄に触れることができた、貴重な経験になった。

 

全てを自責で考えられているか

ところで冒頭の、私の新婚1年目の話だ。

鍵山氏のストーリーを追体験すると、もはや「なぜすぐにやらないのだろう」などと、他責を考えることが恥ずかしくなった。

 

掃除でも洗濯でも、パートナーのやり方が自分に合わないなら、自分でやればいい。

当たり前ではないか。

「そんな当然のことを、やっと理解できたの?」と思われても、仕方がない。

確かに私は、「家のことは専業主婦の仕事」という価値観に縛られ、ストレスを溜めていた。アホである。

 

ところでこれを、自分の経営する会社の社員や、自分の部下の話に置き換えてみた場合はどうだろうか。

「仕事を任せたのに、なぜ成果が出ないんだ!」と部下を叱ったことはないだろうか。

「営業部なんだから、数字を達成して当たり前」と思考が止まっていることはないだろうか。

 

会社の業績が悪いのは、誰のせいでもない120%、経営者の責任だ。

部下が結果を出せないのも、思うように動かない原因も必ず上司に何か原因がある。

 

そしてそんなことにも思いが至らない経営者や上司は、「凡事を徹底しろ」と部下を叱り、ゴム手袋をしながらデッキブラシで便所掃除をする程度のサポートしかしない。

しかしそんなことでは、問題の本質にたどり着くことはできない。便器の裏に素手をねじ込めるような経営者や上司でなければ、汚れの本当の所在を探り当てることなどできない。

 

まずは自分で手足を動かし、本気の率先垂範をして見せてこそ初めて人は動き、共感し変わってもくれる。

衝撃的な素手の便所掃除だったが、鍵山氏の生き方からはそんなことを教えてもらった、とても貴重な体験になった。

 

そんなおかげで、結婚から20年近く経った今も、妻と仲良しでいられている・・・はずだ(多分)。

 

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【著者プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

「俺は見た目で人を判断しない」と言っていた友人と会う時に、スキンヘッド&白メガネ&迷彩服姿で行ったのですが、近づいたら逃げられました。

桃野泰徳 facebookアカウント

(Photo:Nik Stanbridge)

テレビ局のやらせ、ジャーナリストによる捏造などが発覚するたびに、「情報の質を見極めなければ!」と思う人は多い。

「フェイクニュース」という言葉が浸透したことも、その危機感に拍車をかけただろう。

 

でも、いちいち情報の精査をするほどみんな暇じゃない。

そもそも、「その情報が正しいかどうかを見極める」手段すら、わたしたち多くの人は知らずに生きてきたのだ。

それなのにいきなり「見極めろ」なんて言われても、正直「えぇ……」って感じじゃないだろうか。

 

身近に潜む「特殊加工された情報」たち

わたしはライターの端くれだから、メディアの報道に対し、「書き手側」としての違和感をもつことがある。

 

たとえば、ネット記事で「〜〜と報じられている」と書かれているのに、記事リンクがなくどこで報じられているのかがわからないとき。

「海外メディア」となぜかメディア名をボカしていたり、「〜〜という話だ」と書いておきながらだれの発言かの明示がないとき。

「関係者」というどこのだれかもわからない人間の勝手な憶測が、まるで事実かのように書かれているとき。

そういうのを見るたびに、「なんかうさんくさいなぁ」と思う。

 

ちなみにわたしはいままで何度か「ドイツ在住者としての意見を聞かせてほしい」とテレビ局から連絡をいただいたが、「匿名での放送」「放送するかの確約はなし」だったので断っている。

実際にオファーのあったテレビ番組を見てみれば、「ドイツ在住邦人」として番組の趣旨に沿うコメントのみが匿名でいくつか紹介されていた。

ほかの人にも取材したのだろうが、取り上げられるのは当然、都合のいいものだけだ。

 

残念なことだが、多くの人の目に触れるメディアでだからといって、必ずしも信頼できるわけではない。

 

約6割の人がネットニュースの出所を「気にしない」現実

とはいえこういうのが「気になってしょうがない!」とソワソワするのは、わたしが書き手だからだろう。

書く側にまわらない人からすれば、出典だの情報源だのというのは、そこまで重要じゃないのかもしれない。

 

実際、新聞通信調査会の調査では、「フェイクニュースであるかもしれないと意識するか」という質問に、「意識している」と答えたのは半数以下の41.4%。「意識していない」が34.6%だ。

「インターネットニュースを見る時に、ニュースの出所を気にするか」という質問では、「気にする」が42.5%、「気にしない」が57.1%と気にしないほうが多数派である。

 

「フェイクニュースかもしれないと意識」しつつ「ニュースの出所も気にする」人、いわゆるリテラシー高めの層だって、いっていちいち真剣に「この情報は正しいのか」と向き合うことは少ないだろう。

「こうだ」と言われれば、たいていの人は「そうなのか」と納得する。そういうものだ。

 

「その情報は加工されたものなんですよ!」と言いたい一方で、読者が疑わないのはメディアへの信頼のあかしでもあるから、なんだかもどかしい。

 

反証の余地を残すべきジャーナリズム

そんなことを考えていたとき、『日本ノンフィクション史』というおもしろい本を見つけた。

報道は可謬主義(fallibilism)的であるべきであり、そうである以上、反証に開かれているべきでもあろう。

[……]取材源秘匿はひとつのモラルだったが、その一方で出典明記の原則をもジャーナリズムは自らに課す、一種の矛盾した構図があった。

秘匿せずには被害が発生する取材源以外は明示というケース・バイ・ケースの使い分けで、ダブルスタンダードを回避してきたのがジャーナリズムの現状だろう。

そして秘匿しなければならない場合も、記事の信頼を失わないために可能な限り情報の出自を示す。「政府高官筋によれば」等々の常套句は、そういった事情の中で採用されている。

それは事後的な反証に向けて道を開く努力だとも考えられ、そうしてジャーナリズムは(社会)科学であろうとしているのだ。

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要は「情報提供者の秘密を守るのが報道する側のモラルだけど、情報源をオープンにしないとほかの人は事実確認や反証がしづらいよね。場合によっては秘密にするけど、情報源はできるだけ公開することで、できるかぎりジャーナリズムの社会科学性を高めているんだよ」

ということだ。

 

これに関しては、多くの人が納得すると思う。

そう、やっぱり情報源の開示はマナーでありモラルであり、大事なことなのだ。情報源をちゃんと書かないメディアは、警戒したほうがいい。

 

情報源を隠しても成り立つ表現方法だってある

一方この本は、「ニュージャーナリズム」という手法にも触れている。

ニュージャーナリズムとは、たくさんの人に取材して、それもとに事実を物語として再構築し、三人称で書いていくことらしい。

 

ニュージャーナリズムは膨大な取材の賜物だ。

書き手たちは獲得した情報を精査・総合して「その時に何がどのように起きていたか」を正確に描き出せるまでに持ってゆく。そうした作業が背景にあってこそ、小説のような三人称の物語として出来事を書ける。

 

たとえば、αという人が凶悪事件を起こしたとする。

書き手は、両親や元クラスメートであるAさん、Bさん、Cさんなど多く関係者に取材をして、αを中心とした物語を三人称で書いていく。

「αはAと仲がよく、αとAは家族ぐるみの付き合いをしていた。しかしクラスメートのBが、緊張したら頭を掻くαの癖をからかったことでケンカになり、AがBをかばったことで、αとAの仲はしだいに悪くなっていった」

こんな感じだ。

 

上の例文はAが語ったのかもしれないし、Bが語ったのかもしれない。

読者がそれを知ることはできないが、そのぶん、こう書けば情報源のプライバシーを守ることができる。

 

「情報源は開示すべきだ!」と思っていたわたしだけど、こういった表現方法が存在する以上、「情報源が開示されているかどうか」を常に情報の信憑性のモノサシにすることはできないんだなぁなんて思う。

 

「情報を疑うべき!」だけど、じゃあその方法は?

情報源がいっさい書かれていなくとも、事実に即した質の高いジャーナリズムは存在する。

逆に、著名人のインタビュー記事であっても、インタビューを受けた人本人がSNSで「俺はそんなこと言っていない」と言うことだってある。

 

もっと身近な例でいえば、匿名の個人ブログで丁寧に仮想通貨の仕組みを解説している人もいれば、実名&写真を公開していながら、事実とはちがう情報をバラまいている人もいる。

大手新聞社の記者が捏造することもあれば、名もなきフリージャーナリストが政治スキャンダルをスッパ抜くこともある。

多くの人は情報を知らないから情報を求めるわけで、無知な人間がその情報の正誤を判断するのはむずかしい。

 

じゃあ、なにを基準に「情報の信頼度」を測ればいいんだろう?

 

わたしはライターだから、ここで

「こういう基準で情報の正誤を判断しましょう」

「こういう条件を満たしている情報は信頼できるでしょう」

なんて道筋を示すべきなんだろうけど、残念ながらいまのところ、汎用的な基準や条件を見つけ出せていない。

いろいろ考えてはみたけど、結局のところ「書き手のモラル」という結論に落ち着いてしまうのだ。

 

だからあえて、解決策が見出せないまま、記事を書いてみた。そしてみなさんに問いかけてみたい。

「あなたはなにを基準に、情報の正誤や質を判断しますか?」

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Nanel4

「分からない」に接する、分かる側の人たちの為のお話です。

 

ちょくちょく書いてるんですが、しんざきは昔、小さな補習塾で塾講師のアルバイトをしていました。

補習塾っていうのは、進学塾の対義語みたいなもんでして、学校の授業についていけない子を救い上げることを主な目的とする塾です。

 

補習塾ですので、担当する生徒は「学校の勉強についていけなくて落ちこぼれてしまった子」が主ですし、散々叱られて勉強に対する自信は皆無、自己評価メタメタっていう子が殆どだったんですが、もう一つ印象に残っていることとして、「親子関係のギスギス問題」というものを観てとれることがしばしばありました。

 

教育に興味を持っていない家庭、教育についての意識がない親御さんは、そもそも「落ちこぼれてしまった我が子を補習塾に通わせてあげよう」という考えに至りません。

勉強が苦手な子は世の中に幾らでもいますが、補習塾に来るという時点で、既にある程度教育に対する意識が高いご家庭の子である可能性が高いんですよ。

 

で、どこの塾でもやっていることだと思いますが、その塾でも生徒のご両親と面談をして家庭の状況をお聞きする機会がしばしばありました。

私自身バイトの分際で何度も親御さんとお話したことがあるんですが、大体の親御さんに共通して感じたことが、「子どもが何故、こんなところでつまづいているのか分からない」という困惑、疑問、焦りだったんです。

 

例えば、私が実際に受け持った生徒の一人で、「割り算の筆算が全然わからない」という子がいました。

算数ってのは積み重ねですので、勿論実際には割り算よりももっと前に躓きポイントがありまして、その子の場合は桁数の概念と桁跨りの除算がそもそも曖昧だったことに根本原因があったんですが、けどまあ塾に来た直接的な要因はとにかく割り算の筆算です。

 

で、今でも覚えてるんですが、その子の親御さんとお話した時、こうおっしゃったんですよ。

「私も何度も教えてるんですが、こんな簡単なことがなんで出来るようにならないのかもうさっぱりで…」

って。

 

「こんな簡単なこと」。

そうなんですよね。大人にしてみれば、どう考えても「こんな簡単なこと」なんですよ。マインドセットが出来た後の大人なら、小学校の算数なんてまあ大体「簡単なこと」じゃないですか?

受験算数ならちょっと話は別ですが、まあ大抵の大人は、二桁÷一桁の割り算やら、三角形の面積の計算で悩んだりしません。筆算だろうが分数だろうが、大体は「もうわかっちゃってる」わけなんです。

 

自分が分かっていることについて、「分からなかった頃」を思い出すのは、どんな人にとっても困難です。

これは別に学校の勉強に限りません。仕事でも、研究でも、趣味でも同じです。

 

上で書いた通り、どこのご家庭も教育に関する意識をちゃんとお持ちで、なんならご自身も高学歴の親御さんが多かったので、皆さん一様に「小学校レベルの勉強で何故つまづくのか」っていう疑問を、なんだかんだでお持ちになるんですね。

 

要は、子どもの「分からない」にさっぱり共感出来ない。

「分からない」ことが分からない。

まずいことに、子どもって「自分に対する視線」に極めて敏感なので、「なんでこんなことが分からないんだ」っていう親の疑問は、殆どダイレクトに子どもに届いちゃうんですよ。

「あ、今、イライラされてる」って。速攻伝わります、ああいうの。

 

で、その「なんでこんなことが分からないんだ?」っていう意識のままで子どもに勉強を教えようとするんで、雰囲気もギスギスしちゃいますし、子どもの方でも委縮してしまって、ますます頭に入らなくなっていく。

ついでに言うと、「分からない」根本原因は大体の場合その「分からない」箇所のずっと前に潜んでいるので、いくら教えても根本的には解決出来ない。

 

「分からない」に共感してもらえないことはもう分かってしまっているから、どこが躓いたかを根本的に紐解こうというスタンスにはならず、なんとか表面的に、例えば丸暗記でその場を乗り切ろうとする。

結果、ますます「分からない」の質量が積み重なっていく。

救済を求めても無駄であることが分かるから、「分からない」こと自体を言い出せなくなる。悪循環ですよね。

 

で、そういう時、親御さんにしていたお話がありまして、まあ元はそこの塾長の受け売りなんですが。

今、お仕事で、何か新しいこと勉強されてますか、と。何か学習されてますか、と。

 

多分、「新しいことを身に着ける」って結構大変だと思うんですが、小学校って「ほぼ毎日」何かしら新しいことを教えられる場所なんですよ、と。

 

新しいことを毎日のように覚え続けるって、すっごく大変なことなんですよ。子どもだけじゃなくって、大人だって「職場が変わって何もかもイチから覚えないといけない」なんてことが起きたら、ものすごーーく大変じゃないですか。

しかも、学校の勉強って積み重ねですから、どれか一つでも取りこぼしたら、そこから延々と「なんとなくわからない」が降り積もったりするんです。

 

だから、お子さんがちょっとくらいまごついて、一見簡単なところで「分からない」になってしまうのも、むしろ当然だと思ってあげてください。

それを解決するのはこちらで頑張りますので、むしろ家では「ちょっとくらい出来なくたっていいよいいよ」くらいのスタンスで構えてあげてください。

そんなことを、毎度毎度お話していました。

 

元々、子どもの成長って非線形っていうか、行っては戻って行っては戻っての繰り返しみたいなところがありますから、親にとっては「ついこの間まで出来てたのに何で今出来ないの」みたいなこと、山のように起きるんですよね。

それは全然珍しいことではないし、深刻に悩むようなことでもない。

勿論、必要に応じて補習塾のような解決法を求めることもあるかも知れませんが、少なくとも「何かおかしいんじゃないか」と考えないといけないようなことは稀なんですよね。これは別に勉強に限らないと思います。

 

子どもって、案外しんどい。次から次と環境は変わるし、目にするもの全てが新しいし。

冷静に考えれば、小学校なんて「一年ごとにほぼ間違いなく周囲の環境(教室)ががらっと変わる」「大体の場合1,2年で周囲の人間関係までがらっと変わる(クラス替え)」わけでして。

大人に当てはめれば毎年転勤・転職してるようなもんです。

 

そりゃちょっとくらいはまごつきますし、軽くパニックになっちゃっても不思議じゃないですよ。

だから、たとえ「分からない」ことそれ自体については共感出来なかったとしても、子どもにかかる負荷については承知して頂いて、長い目でみてあげてくださいと。

そんな風にお話していたんです。

 

 

あれから時間が経ちました。20年近く経って、今では私自身が三児の父になりましたし、様々な場面で新入社員や後輩の面倒をみる立場にもなりました。

で、あの頃のことを、最近よく思い出しています。というか、自分の言葉が自分に刺さっています。

 

学生の頃と違って、やはり最近、「次から次へと新しいことを勉強し続ける」という機会は流石に少なくなってしまいました。

「分からない」を感じる機会が減ってくると、「分からない」頃を思い出しにくくなる。これは多分、私自身にとっても他人事ではないのでしょう。

 

ただ、たとえ「分からなかった」頃に戻れなかったとしても、「分からない」に寄り添うことは出来る。

学び続けることの大変さを思い出すことは出来る。

 

だから私は、子どもや部下や後輩の「分からない」には、極めて寛容に構えることにしています。

同じ質問に何度でも答えますし、「何か質問ある?」ではなく、「最初は何が分かんないか自体が分かんないと思うから、とにかく触ってみて、どこが分からないのかをちょっとずつ明確にしていこう」というようにしています。

「分かる」側と「分からない」側のディスコミュニケーションが、少しでも低減するといいなあ、と。

 

そんな風に考えるわけなんです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:M Reza Faisal)

少し前、横浜市がRPAを導入し、平均84.9%の作業時間を削減したとの発表を見た。

横浜市役所、RPAで平均84.9%の作業時間を削減--NTTらと実証実験

月報作成、データの収集、入力など、7つの定型業務の一部において、所管部署の職員がRPAツール「WinActor」で手順書を作成し、作業の自動化を試行した。実施期間は、2018年7月から2019年3月まで。(中略)

NTTデータによると、その結果、RPAを試験導入した業務で、平均84.9%、最大99.1%の作業時間削減効果を確認したという

いやー素晴らしい時代が来た。

こうして、マニュアルワーカーのコストがカットできる。もっと役所の効率を上げて、人件費を削減できればみんな幸せ……

 

ではない。

 

思うに、これは、大変に危うい。

危うすぎる。

そう思う理由を書いていきたい。

 

 

日本型雇用の最後の牙城であった終身雇用が、思っていたより、あっけなく終わった。

経団連会長"終身雇用を続けるのは難しい"

経団連の中西会長は、企業が今後「終身雇用」を続けていくのは難しいと述べ、雇用システムを変えていく方向性を示した。

改めて言うまでもないが、これは事実上の、大企業による「日本型雇用」の敗北宣言だ。

もしかしたら、「2019年 日本型雇用の崩壊 後の◯◯の改革の引き金となる〜」といった具合に、日本の歴史の転換点として、後世に年号が残るかもしれない。

 

まあ、冗談はさておき、

もちろん、ほとんどの人の反応は

「知ってた」だろう。

 

会社の方が「終身雇用は無理」と言うのと時を同じくして、

労働者側も「そんなのありえねーのは知ってる。」だろう。

 

事実、新社会人で定年まで/定年後も働き続けたいと思う人は3割強。2年目の社会人に至っては、2割を切っている。

「定年まで・定年後もこの会社に勤めたい」新社会人でも3割強(2019年版)

日本の終身雇用制度的慣習も薄れつつあるとはいえ、正規・非正規雇用問題や社会保障の観点も併せると、多くの就業者は自ら門戸を叩いた会社に長年勤めたいと考えている。一方、就業してからの会社の実態を知るに連れ、長期間の就業は難しい、転職や転業を考えたいとする人も多い。

で。

結局、要はいま「終身雇用」にこだわっているのは、主として市場価値が低く、既得権を持っている40代、50代の大企業正社員だろう。

 

だが、無情にもリストラは淡々と進められている。

例えば、「リストラ」とGoogleで検索し、ちょっと拾ってきただけでも、リストラをやっている「大手企業」の数が凄まじい事がわかる。

NEC、エーザイ、千趣会、日本ハム、昭文社、アルペン、カシオ計算機、協和発酵キリン、富士通、パイオニア、ソニー、野村證券、三越伊勢丹、博報堂、東芝、日本IBM、パナソニック、日立、ローム、富士ゼロックス、日産、大正製薬、MUFG、みずほFG、三井住友FG、ソフトバンク、、産経新聞……

 

こういった事情を見て、日本の経営者の無能を嘆く人も多いが、もちろん、海外でも事情は殆ど変わらない。

例えば、中国の大手企業も、現在淡々とリストラを行う。

ファーウェイ、NetEase、JD。DIDI、鴻海 ……

 

もちろん、欧米企業も容赦ない。

SAP、3M、テスラ、GM、フォード、バズフィード、ベライゾン(ハフポスト)……

 

要するに、世界的な潮流として「リストラのない企業はない」。今や「解雇」は、「雇用」と同じくらい、企業活動の中心の一つなのだ。

 

ピーター・ドラッカーの定義によれば、企業の目的は「顧客の創造」と「イノベーション」であり、「安定雇用」は含まれていない。

安定雇用は、顧客の創造とイノベーションの条件の一つに過ぎない。

 

また、そもそも「企業」と「安定」は凄まじく相性が悪い。

何しろ、近年ではビジネスのルールが目まぐるしく変わりすぎて、収益が安定しないからだ。

 

事実、サンタフェ研究所によれば、従業員の働く年数よりも、企業の寿命のほうがはるかに短くなっている。

いまや雇用は、職業的生活・個人的生活・経済的生活を築くしっかりとした基盤たりえない。なぜなら、これまでのように保障されて安定したものではなくなってしまったからだ。

企業の倒産はかつてないほど多くなっている。

アメリカを代表するスタンダード&プアーズ(S&P)500社の平均寿命は、1920年代には67年だったが、現在ではわずか15年であり、こんなに短いのではキャリアを築く暇もない。

サンタフェ研究所が公開企業2万5000社を対象に最近行った分析によれば、ほとんどの公開企業は10年ほどで衰退していくという。

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結局、現在では「終身雇用」に最低限必要な、40年以上に渡って大企業を繁栄させ続けることは、どんな経営者でも不可能だ。

企業にはGAFAも例外なく、「たまたま儲かっている時」と「長い停滞の時代」があるだけなのである。

 

19世紀から20世紀にかけて大企業が担ってきた「社会保障」という役割は、もう期待できない。

期待するだけムダである。

そのような能力を、すでに企業は失ってしまった。

 

「企業には社会保障の一部としての安定雇用は無理。」

この事実を受け入れることから、今後の雇用の議論は始まらなくてはならない。

 

 

一方で、「それなりの富を築くことのできる人材」へのハードルはあがり続ける。

就活転換、専門性必須に 脱・終身雇用が一段と

経団連と大学側は22日、新卒学生の通年採用を拡大することで合意した。

IT(情報技術)などの高い技術を持つ人材の通年採用が進めば、新卒一括採用で入社した人も含めて専門性が求められる時代になる。

人材の流動化につながり、戦後続いた新卒一括採用と終身雇用に偏った雇用慣行は転機を迎える。

【関連記事】「勉強する学生が欲しい」 経団連、通年採用の本音

この傾向は、個人的にもかなりの実感がある。

例えば最近では、企業が採用したい学生は文理問わず、「修論」「卒論」の中身がその企業の方向や戦略にマッチしたものであるかどうかを気にする会社が増えている。

要するに「研究で成果を上げた学生がほしい」というわけだ。

 

そして、その専門性さえあれば、良い研究成果を残している学生であれば、新卒であったとしても、給料はもっと高くてもよい、という会社がいくらでもある。

「日本企業は待遇面でGAFAなどの外資に負けている」「安い給料で、スペック高い人を求めすぎている」なんて批判もあるが、

実際には、エンジニア。年収1500万から。修士卒、画像解析の専門家 みたいな募集が、続々と出てきている。

 

ただ、数が少ないので、目立たないだけだ。

そこで採用されたような人は、本当に優秀であるから、どの会社でも引っ張りだこで、働く場所も時間も自由、副業もラクラクとこなして、SNSで発信する。

そして、20代、30代のうちに、数千万、数億といった、それなりの規模の富を手にする。

それが現在の「それなりの富を築くことのできる人材」だ。

 

どの会社も「人材不足」なんてとんでもない。そもそもリストラしているのだ。

足りていないのは、以前の記事にもあったように、「金を積んでも来てほしい、優秀な人」なのである。

 

 

一方で、マニュアルワークの価値はどんどん下がる。

マニュアルがないと仕事できない人は、今後スキルもつかず、賃金も低水準。いつまで経っても、生活水準が向上する兆しすら見えない。

だが、現在の労働者の多くは、ここに入ってしまう可能性がある。

 

そして、そのような状況に置かれれば、当たり前だが、人は良からぬことを考え出す。

アタマが良くてマーケットがわかる人しか稼げない社会は「要らない」。

【そんな社会を認めて構わないんですか?】

→「だったら革命だ!」

そうだろうなあ、と思う。

 

そうして、フランスでは実際に革命によって、独裁と恐怖政治、諸外国との戦争が起き、200万人が死んだ。

1800年までの戦争における死者が40万人、ナポレオン戦争で100万人、内乱で60万人、念の為に付け加えるならさらに断頭台での死者もいる。総計200万人が死んだのである。(中略)

フランスはヨーロッパ大陸における優位を失った。ロシアが追い越し、オーストリアが追いついた。他の国々もフランスとの距離を縮めた。

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そうして、フランスは世界のトップの座から転落したのである。

革命に良いことなど、一つもない。

 

 

では、そんな誰得の状態を回避するためには、一体何が必要なのだろう。

 

根本的に、あらゆる人が求めるのは、

一つは、経済的な安定。

そして

二つ目は、社会の中での役割と尊厳を得ること。

すなわち、その人が存在する価値を認めてもらうことである。

この2つを果たさずして、社会の安定はない。

 

だが、企業が担ってきたこの役割は、すでに企業の手に余る。

「ベーシックインカム」は、経済的な安定は提供するが、金を受け取るだけで誰からも感謝されず、社会的な尊敬を集めることもない。

 

そこで「役所仕事」だ。

手続きと権限、責任がきっちり決まっている役所は、マニュアルワークの塊である。

そして、役所は「マニュアルワークしかできない人」の雇用の吸収源としての役割を果たせる。

 

また、役所の仕事はたとえそれが平凡な仕事であったとしても、地域の人とのつながりや仕事で感謝されることを含む。

しかも、永続的な雇用も保証できる。

 

 

人の都合に関係なく、いずれ、企業からマニュアルワークは徹底的に排除される。

それが最適解かどうかはわからないが、その時に雇用の受け皿となるのは、間違いなく公務員やNPOだ。

 

だからこそ、役所はAIなどの、仕事の合理化につながる仕組みを導入してはいけない。

 

役所はできうる限り、企業を邪魔せず、かつすべての人に、それなりの役割が与えられるよう、非効率に運営されなければならない。

極端な話、国民の70%が公務員、そして残り30%が大きなリターンを追いかける起業家たちで十分国が回れば、それで良い。

 

私は平和のうちに、そのような社会が漸進されることを密かに望んでいる。

 

 

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(Photo:Thijs Paanakker

Books&Appsは、4/29〜5/6については、休業期間中につき、 社員全員が旅に出ますので、記事の更新をストップいたします。

何卒、よろしくお願いいたします。

(Daniel Clanon)

 

 

「原価厨」というネットスラングをご存じだろうか。

原価厨

価厨とは商材・サービスを金銭と引き換えに取引する経済活動において、「その商材・サービスの提示価格に対し原価が幾らであるのか」という部分に強く拘り、あまつさえ彼らの言う原価なるものが提示価格とかけ離れたものであった場合は事業者への非難すら行う者達を揶揄した言葉である。

たとえば「原価厨」は「ボルドーの一級ワインの原価は15ドル(だから買う価値が無い)」といった難癖をつける。

 

実際、世の中にはボルドーとほぼ同じぶどう品種・ほぼ同じ製造方法でつくられた、15ドルぐらいのワインがいくらでもある。

しかし、ワイン愛好家はボルドーの一級ワインに150ドル、ときには300ドル以上のお金を払う。

そうした値付けの当否はさておき、熟成したボルドーの一級ワインを体験してみると、その香りと味わいに「これで15ドルってのは絶対あり得ない」という感想しか残らない。

 

一流のシャンパンや貴腐ワインにしても同様だ。

ほぼ同じぶどう品種・ほぼ同じ製造方法でも、そこいらにある15ドルの品を飲むのと、150ドル以上の品を飲むのでは、体験の質がぜんぜん違う。

だから、「ボルドーの一級ワインの原価は15ドル」などと言っている人を見かけるたび、「だったらお前が15ドルでボルドーの一級ワインをコピーしてみせろ」と私は言いたくなる。

 

ボルドーに限らず、人気があって値段も高いワインには、15ドルでは買えない香りや味わいが秘められていて、その体験はとうてい15ドルであがなえるものではない。

値段の高いワインを買う人は、15ドルでは決してコピーできない体験を期待して大枚をはたいている。

そうした期待に応えられるポテンシャルを秘めていないワインは高級ワインにはなり得ない。

 

ワイン愛好家の人々が買っているのは「15ドルでは決してコピーできない体験」であって、単なる発酵ぶどう果実のボトル詰めではない。

 

いまどきのゲームやアニメは「コピー不可能」

「コピーできない体験を買う」という意味では、サブカルチャー寄りの人々もそれに近いことをやっている。

表向き、ゲームやアニメといったサブカルチャーコンテンツの体験は、きわめてコピーしやすい。誰が見ても、誰が遊んでも、かならず同じ内容のものが提供される。

 

最近は、ネット配信によって膨大な数のゲームやアニメを体験できるようになり、それらにアクセスするための金銭的ハードルは恐ろしく低くなった。

一昔前なら、何千円ものROMカセットやDVD盤を買わなければならなかったはずのゲームやアニメが、非常に安い価格で楽しめるのは、流通が変わって価格破壊が進んだからと言えるかもしれない。

 

が、別の面から考えると、どれほど名作と謳われた作品も、コピー可能なアーカイブになってしまえば大した値打ちにはならなくなっている、と解釈することもできる。

その一方で、最先端のゲームやアニメには「コピーできない体験」がまだ宿っていて、ゲーム愛好家やアニメ愛好家はそうした体験に気前良くお金を支払っている。

 

第一に、最先端のゲームには誰の手垢もついていない。最先端のゲームを発売直後に遊ぶという行為は「コピーできない」。

1年後、2年後にも同じゲームの同じ内容は遊べるけれども、それは既に「最先端ではない」「コピー可能なアーカイブ」になってしまっていて、最先端のゲームを発売直後に遊ぶという行為ではなくなってしまっている。

アニメにしてもそうだ。今期放映中のアニメをみる体験には、余人の手垢がついていない。余人の手垢がついていない状態でアニメを観たければ、リアルタイムに見てしまう必要がある。

 

第二に、いまどきのゲームやアニメの体験は、アップデートの影響やSNSによる影響によって、きわめてライブ的な体験になっている。

オンラインゲームやソーシャルゲームは、アップデートによって内容がどんどん変わっていく。2017年に遊ぶのと2018年に遊ぶのと2019年に遊ぶのではゲームの内容自体が違っているし、期間限定イベントもある。

 

こうした一回きりのゲーム体験を「コピー可能な~」という従来のゲーム観で語ることはできないし、ここに「原価厨」的な考え方をあてがうのも難しい。

SNSによる影響が、そうしたコピー不可能性に拍車をかける。

 

「いま、人気のゲームやアニメを体験する」という体験は、インターネット、特にSNSによる影響とは切っても切れない関係にある。

たとえば『君の名は。』や『この世界の片隅に』を体験するというのは、映画館のスクリーンに向き合うだけのものではない。

みんなが作品についてガヤガヤと噂話をすること・情報交換したりネタに食いついたりすることも、コンテンツ体験の一環をなしていた。

 

これは、20世紀の人気テレビ番組をタイムリーに観るという体験にちょっと似ている。

20世紀の人気テレビ番組が、学校や職場で話題を交わし合うことも含めたコンテンツ体験だったのと同じように、いまどきのゲームやアニメは、話題性がコンテンツ体験の一環をなしている。

しかも人気テレビ番組とは違って、インターネットやSNSはかなりマイナーなコンテンツですら一定の話題性を生み出し、小さいながらも”シーン”を作り出すことができる。

このことに関しては、00年代に「web2.0」論で語られていた「ロングテール消費」というアイデアは、現状を予言できていたと言える。

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メジャーであれ、マイナーであれ、話題性や"シーン"が体験の一部になったコンテンツは、実質的にはコピー不可能な体験を売っている。

話題性や”シーン”といった、時間性にもとづいた体験の旨味は、たとえ割高でも、今すぐそのコンテンツにアクセスしなければ味わうことができない。

 

「流行」と捉えるべきか、新しい何かと捉えるべきか

冒頭、私はコピー不可能なワインの話をしたが、そもそも私が十年前にワインをやってやろうと思ったきっかけは「コピー可能な体験であるアニメやゲームを理解するために、コピー不可能な体験であるワインを知ろう」だった。

 

実際、ワインは希少品になるほどコピー不可能性が高くなり、「ああ、私はコピー不可能な体験と向き合っているんだな」ということが痛いほどわかった。

15ドルではコピー不可能なワインには「原価厨」という考え方は馴染まないし、コピーによって価格が暴落する恐れも無い。

「これから持て囃されていくのは、コピー不可能な、ワインのようなアナログコンテンツだろう」などと考えていた時期もあった。

 

ところが2010年代あたりから、ゲームやアニメはコピー不可能な体験としての性質をどんどん強めていき、それを楽しむ愛好家のほうも、コピー不可能な体験にお金や手間暇を惜しげもなくつぎ込むようになった。

最新のバージョンのゲームを遊ぶだとか、最盛期に開催されるイベントに参加するだとか、SNSで話題が沸騰している雰囲気を楽しむだとか、そういったところが喜ばれ、そういったところにお金やアテンションが流れている。

 

「アナログかデジタルか」という分類でいえば、ワインはアナログコンテンツだし、ゲームやアニメはデジタルなコンテンツだし、後者は、少なくともそのソフトウェア自体にはコピーの余地がある。

だが、価値が宿り、喜ばれて消費されているのがコピー不可能な体験であるという点では、両者は共通している。

 

21世紀に入った頃から、「『モノの消費』より『コトの消費』」というフレーズが流行するようになったが、ワイン愛好家にとってのワインも、ゲーム愛好家にとってのゲームも、アニメ愛好家にとってのアニメも、それらは「コトの消費」だ。

そして「コトの消費」の少なからぬ部分はコピー不可能な体験によって価値づけられていて、この、コピー不可能な体験というやつには「原価厨」の考え方が通用しない。

 

テレビがメディアの王だった時代には、そうしたコピー不可能な体験は「流行」という言葉で語られ、メディア関係者がその「流行」をコントロールしようとしていた。

ところが「流行」は次第に衰退し、「『流行』は流行っていない」といった論説がネットで喝采を浴びるようにもなった

1999年以降、「流行」は流行っていない。

しかしそれらの根底にある理由を考えなくてはいけない。それは何かといえば、「流行を追う」行為がもう流行っていないという点に尽きる。

「流行が流行ってない」というのは妙な言い回しだが、流行を追うことで得られるものの価値が下がっていると言い換えよう。

では、今日の「コトの消費」は「『流行』の復活」とみて良いものなのか?

 

ある程度まではそうかもしれない。が、それだけとも思えない。

なぜなら、いわゆる流行に乗ったコンテンツだけが「コトの消費」の対象になっているわけではないし、イベント参加やSNSでの話題などのコピー不可能性はマイナーなアニメやゲームにも宿っていて、ちゃんと「ロングテール消費」されているからだ。

 

更に、最新バージョンへのアップデートという新要素が加わることによって、2010年代ならではのコピー不可能性がかたちづくられている。

いまどきのコンテンツ消費は、インターネットを介したコミュニケーションやバージョンアップ、あるいはアーカイブ配信の成立と切っても切れない。

 

「いまどきの人はコピー不可能な体験にお金を払っている。」

その点に関しては、古色蒼然としたワイン趣味も最新のデジタルコンテンツ趣味も実はあまり変わらない。

やはり人は、コピーできないものに惹かれるもののようにみえる。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Dominic Lockyer

以前、ツイッターでこんな発言をしたことがある。

「ああ、床が抜けるほどのストロングゼロが誕生日プレゼントに来たら怖いわ、絶対にやめて欲しいわ、ああ怖い」

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これは有名な古典落語である「まんじゅうこわい」に倣って放たれた言葉だ。

怖いものなどないと豪語していた男が「本当はまんじゅうがこわい」と小さな声で告白する。

周りの男たちが面白そうだから怖がらせてやろう、と金を出し合ってまんじゅうを買い、男の寝床に投げ込む。

すると男は

「こんな怖いものは食べてなくしてしまおう」

「うますぎて怖い」

と言いながらパクパク食べる。

本当は大好物だったのだのと男たちも気づき詰め寄る、というものだ。

 

最終的には、本当は何が怖いんだと言われた男が「このへんで、濃いお茶が1杯怖い」で締める。

僕はこの落語の「うますぎて怖い」の部分が大好きだ。この話はここで最高のクライマックスを見せるのだ。

 

つまり、床が抜けるほどストロングゼロを送らないでください! と言いつつ、ストロングゼロ欲しいなあ、と主張するジョークのつもりだった。

ただ、本当にそんなものもらえるとは思わず、そう主張するだけのネタのつもりだった。

 

確かに僕はストロングゼロが好きだ。

昨今の「ストロングゼロはやばい酒」

「ストロングゼロはクズの酒」

「虚無の酒」みたいな風潮が蔓延する何年も前から愛飲していたほどだ。

 

こんな逸話がある。

もう何年も前になるが、近所のドラッグストアで毎日ストロングゼロを買っていたのだ。

そのうちそのドラッグストアが改装工事のために1か月ほど休業するという話が持ち上がった。

その際に在庫を全部処分しようと考えたらしく、全品3割引きという狂気の沙汰みたいな大セールを行ったのだ。どっと客が押し寄せ、商品棚は略奪にあった後みたいになった。

 

その際に、僕は店内のストロングゼロをすべて買い占めた。

それでも40本くらいだったと思うが、セール初日にストロングゼロを買い占める僕の姿に店員が

「よかったですねえ、これは絶対にお客様が買うと思ってました」と言わしめたほどだった。

 

それほど毎日購入しているという熱心さ。

決して昨今のストロングゼロブームに乗っかって言ってるわけではない。そこら辺のクソみたいな大学生が「ストロングゼロやばいっしょ」とか言ってるのとはわけが違う。

こわっぱがほざくな。俺が酒を覚えた時なんてお前らなんて精子だぞ、精子。ほろよいでも飲んでろ。

 

まあそれはさておき、本当に床が抜けるほどストロングゼロが送られてくるなんて思ってもいなかった。

そんなもの送ってくる奴がいたらただのバカだろ、そんなバカいるかよ、そう思っていた。そして昨年の8月だ。我が家に贈り物が届いた。

バカがいた。

どうやら、有志一同でお金を集め、本当に1000本のストロングゼロを購入したらしい。完全に頭ストロングゼロだ。

 

この前日に、宅配業者から異例の電話があった。

「明日、夜七時にいますか?」

「いますけど」

「絶対にいてくださいよ!絶対ですよ」

というものだった。

彼の“絶対に再配達にはしたくない”という強い意志を感じた。

 

この箱には24本のストロングゼロが収められている。その箱が42箱あるので、単純計算で24×42=1008本のストロングゼロだ。

完全に余談だが、1本350mlなので352800ml、352リットルのストロングゼロだ。だいたい家庭用の冷蔵庫がそれくらいの容量なので、あれがまるまるストロングゼロとなって届いたと考えてもらえればよい。

 

さて困ったことになった。まず一番困ったのは

「床が抜けるほど欲しい」

「みんなでお金集めて抜いてやろうぜ」となったのに床が抜けなかった点だ。

思った以上にうちの玄関は強靭な床らしく、びくともしなかった。これじゃあ送ってきた人々、まるでピエロじゃん。

 

とにかく、我が家が酒問屋みたいな状態になってしまったが、こうして1000本のストロングゼロを手に入れて気が付いたことがある。

今日はちょっと趣向を変えて延々とストロングゼロに対する思いを語っていこうと思う。

 

1. 350ml缶という魔力

僕は普段からストロングゼロを常飲している。ただ、自分の中で線引きをしていて絶対に500mlまでしか飲まないと決めていた。

それ以上飲むと「ヒトに戻れなくなってしまう」と思っていたからだ。

 

今回、1000本のストロングゼロを贈ってくれた有志一同は、普段から仲良くしてくれている連中だ。

おそらく、僕の体を気遣って350 ml缶を1000本贈ってくれたのだ思う。いつも500ml缶飲んでるけど、それでもやばい酒だから350mlにしました。飲みすぎないで体に気を付けてね、そんなメッセージが聞こえてくるようだ。なんともありがたい。

 

ただ、実際に飲んでみると、これが大きな罠であったことに気が付く。まず、350mlでは物足りない。

そして僕がヒトでいられる限界値は500mlなので、まあもう一本いけるか、と考える。

2本目の半分よりちょっと手前でやめれば500 mくらいだろ、おやあ、でもせっかく有志の皆さんに頂いたもの残すのはダメでしょ。いっちゃうか。

 

結果、350ml×2でじつに700mlいってしまう。

完全にヒトに戻れなくなっている。

 

さらに700ってのはキリが悪い。

例えば車のナンバーを777とかにしている人がいたら「パチンコ好きなのかな?」とか周囲から思われるだろう。

そうなると、毎日700mlのストロングゼロを飲んでいると豪語すると、7がある、パチンコ好きなのかなと思われてしまうのだ。

 

結果、もう1本あけて1050mlだ。もはやヒトではない。飲み切ってそのまま爆睡だ。

平穏に500ml缶を飲み干すだけの毎日だったのに、350ml缶が届いたことにより2倍以上の量を飲んでしまう異常事態。

識者はこれを「ストロングゼロパラドックス」と名付けて、目下研究中だ。

 

2. 飲み合わせという沼

今までは500mlだけを飲むヒトであったが、350ml缶を複数飲むようになり、ある事に気が付いた。

ストロングゼロには様々なフレーバーがあるのだが、それらが実に個性的なのだ。そもそも贈られてきたフレーバーは以下の通りだ。

・ダブルレモン
・ダブルグレープフルーツ
・ダブルシークワァーサー
・ドライ
・ビターレモン
・ビターライム
・ダブル葡萄

この中で「ダブルレモン」がもっとも基幹をなすフレーバーと言われている。どこのコンビニにいっても置いてある。

 

例えばストロングゼロを置いてるけど1種類しかない、という場合はたいていがダブルレモンだ。いわばストロングゼロ界のインフラと言っても過言ではない。

インフラだけあって万人受けする素晴らしい味だ。僕も好きだ。1000本贈られてくる前はこれの500mlを毎日飲んでいた。

 

ダブルグレープフルーツはそれに次ぐ位置だ。もし、ダブルレモンを陳列していない希有な店があったとするならば、たぶん置かれているのはダブルグレープフルーツだ。

この2種類でおそらく9割以上の店をカバーしていると思う。味のほうはやや甘さが強め。

 

甘さが強いということは同時にとっつきやすいということである。ということで、ストロングゼロ沼にはまるきっかけとなる入門編的な位置と考える専門家も多い。現に僕も最初はダブルグレープフルーツ味から入ったほどだ。

 

それ以外はほとんど飲んだことがなかった。なぜなら、僕は味覚に対してあまり冒険心がないのだ。

味わうものに対してはあまり失敗したくない。結果、買うもの同じものばかりだし、行く飲食店、頼むメニューはいつも同じだ。

 

ただ、今回1000本のストロングゼロをいただくことになり、その中に様々な味わいが入っていた。

そこであまり冒険したくないのでインフラであるダブルレモンと何か、という組み合わせで飲むことになる。これが実にストーリー性があってダイナミックなのだ。以下、代表的な組み合わせを紹介したい。

 

・ダブルレモン×ダブルグレープフルーツ

二大メジャーフレーバーの組み合わせだ。そういう界隈があったら腐女子が「おっほキタコレ」と興奮すること請け合いの王道的カップリングとなっている。

ダブルレモンは比較的甘みを感じないフレーバーで、キュウっとそれを飲んだ後に甘みのあるグレープフルーツで締める。いうなれば長年連れ添った夫婦のようだ。父は厳しく、母は優しかった。どちらがどうではない。二人揃って親なのである。

 

・ダブルレモン×ダブルシークワァーサー

どんな組み合わせでも好きに選んでいいと言われたらこのカップリングを選ぶと思う。どちらも甘みを感じないフレーバーで、味わいも似通っている。続けて飲むと締めのない感覚に襲われる。

それだけに、あえて締めないという粋な感覚を覚える。つまり、いつまでもストロングゼロは終わらない、と感じ、永遠とも思える茫漠とした時間を感じることができるのだ。

 

終わる、完成する、という事象は一見良いことに思えるかもしれないが、その時点から崩落が始まるのである。

永遠に未完成であることが望ましいという考えだ。

この考え方は日光東照宮にも用いられている。あそこにある建造物、装飾品の数々はあえて1か所、未完成の部分を残している。そうすることで完成を避け、永遠に朽ちない栄華を願っているのだ。この組み合わせにはそれがある。

終わらないストロングゼロを飲もう、終わらない唄を歌おう、そう言いたくなる組み合わせだ。

 

・ダブルレモン×ビターレモン

この組み合わせは実に面白い。ダビスタだったら「ナスルーラのクロスがちょっと気になりますね」と言われそうな組み合わせだが、やってみると実に良い。

まずダブルレモンを飲む、そして甘みを抑えたという謳い文句のビターレモンを飲む。

 

どちらもレモンだ。そしてビターレモンは甘みを抑えたと謳っている。

ただのダブルレモンの時点であまり甘みを感じないわけだから、ビターレモンを飲むときは「ほんとにぃ?」という懐疑の気持ちが大半を占める。

しかしその気持ちは見事に裏切られる。

飲んでみると本当にビターレモンは甘みを感じない。「ほんまや!」となる。様式美だ。伏線がストンと回収された爽快感があるのだ。まるで出来のいい推理小説のようだ。

 

・ダブルレモン×ビターライム

僕はずっとライムってやつを信頼していなかった。ライムという響きにはチャラいなにかがあると信じて疑わなかった。

なんかライムという響きは、バーとかでチャラチャチャラチャラ飲んでいるイメージがあるのだ。精子どもが調子ぶっこいて「うぇーい」とか言いながら飲んでいるイメージがあるのだ。

 

そんなチャラいライムがビターになって帰ってきた。いうなれば、昔やんちゃしていた男が真面目になって帰ってきた感じがあるだろうか。

でもヤンチャ時代のソウルは少し残っていて髪型はツーブロックだ。スーツもエグザイルだ。

 

そんな男を連れてきたのは娘だ。ダブルレモンが「いい人なのよ」とツーブロックを連れてくる。

それは嬉しくもあり寂しくもあり、いいや心配な気持ちだろうか。本当にその人でいいのかい? それでも決断しなければならないのだろうか。ずっとずっと娘でいてくれないのだろうか。そっとグラスを傾け涙する。

ラジオからは松任谷由実が流れていた。

 

・ダブルレモン×ドライ

僕はドライを飲むやつは物の怪の類だと思っていた。あんな味のしないものを飲んで何が楽しいのかと思っていたが、飲んでみるとまあ悪くない。

なんというか故郷だ、これは故郷だ。

 

僕が生まれ育った街は過疎化が進んでいる。放置された空き家も多く、帰るたびにその風景は変わっていて、それも発展という形ではなく、衰退という形で変化しているのだ。

あの家は取り壊されたか、あの家も更地になった、爺様が亡くなったからな、そんな話ばかり聞かされる。

 

ダブルレモンは言うなれば都会だ。新宿だ。

そしてドライは故郷だ。味も素っ気もない生まれ育った街。

東京で暮らす僕らは、東京では故郷のことを考えない。寂しくなるからだ。

でも考えないようにしても故郷は衰退し、そこには年老いた親がいる。今年は何かプレゼントでも贈ろうか。でもいきなり親孝行したらびっくりするかな。

新宿の高層ビル群が一瞬だけ、故郷の山々に見えた。

 

・ダブルレモン×ダブル葡萄

これは最大級に危険な組み合わせだ。いうなれば高山VSドンフライだ。

 

ストロングゼロの特徴に、飲みやすいのしっかりお酒、という点がある。

9%という高いアルコール度数を誇るお酒は、それまでお酒であった。おお、酒だ、みたいな口当たりだ。

 

そこで9%もあるのに飲みやすくて酒を感じさせない、これがストロングゼロの革命だった。

平成の時代の酒の歴史はストロングゼロ以前と以後に分けられると分析する専門家もいる。それくらい、酒じゃないのに酒が特徴で凶器でもある。いいや、狂気か。

 

まず、ダブルレモンはその傾向が顕著だ。そして、ダブル葡萄、これがやばい。

これはたぶん人類の最終兵器だ。酒の味が全くしない。グレープジュースを飲んでるがのごとくだ。

 

つまり、ダブルレモンを飲んで、酒の味じゃないのに酒なんだよなあ、としみじみ感じていると、それよりやべえダブル葡萄がそのあとに続く。

俺より強い奴を探しに行く! 格闘ゲームのような展開だ。まだ見ぬ強豪がこの世界のどこかにいる。それまで俺がナンバーワンなんて言えない。人気ナンバーワンと驕り高ぶっていたダブルレモンを戒める意味合いもある。そして強い奴を求めてダブルレモンは旅立った。

 

このようにたった2本でもストーリーが展開する。さらに前述したように、3本飲む。もうそうなると組み合わせは無限大だ。

ストロングゼロをみながら出来のいい映画を見ている気分にすらなる。この酒はそんな酒なのだ。

 

3. 肝臓のなんかの数値がやばくなる

あたりまえだ。

今回、1000本のストロングゼロを誕生日プレゼントに頂いて、本当にありがたかった。

そして大きな気づきも得た。そして8月にもらったこれは4月現在で残り200本ほどだ。ただやはり肝臓の数値は怖い。とにかく怖い。

 

ということで、完全にストロングゼロ怖い状態なので、もう誕生日にストロングゼロを贈るようなことはやめてください。

 

まだ床は抜けていない。本当にストロングゼロ怖い。

誕生日は8月です。ストロングゼロ怖い。うますぎて怖い。

ここらで一杯、濃いストロングゼロが怖い、なのである。

 

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著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

この時期の風物詩、とも言える話題がある。

それは、新社会人の「会社辞めたい」だ。

 

Tweetのバリエーションが豊富で、とても面白い。

また、それに対して(自称)大人たちが、余計なアドバイスをする、という構図が大変面白い。

私もこのビッグウェーブに乗りたく、一つ書いてみたい。

 

辞めたほうが良いか、我慢して続けたほうが良いか。

この問いに対しての「絶対正しい」回答は一つ。「そんなの場合によるだろ」である。

どんな場合にも妥当な回答は存在せず、状況次第、というのが、いわゆる大人の答えだろう。

 

だが、正直に言って「場合によるだろ」という回答が私は嫌いだ。

そんなのは、何も言っていないのと一緒で、いかにも物分りの良いふりをして、断言するリスクを避けているだけだ。

また、言われた側も

「いや、そんなことわかってる。でも、聞きたいのはお前の意見だ」と言うだろう。

 

だから、これから私が昔、言われたことをそのままお伝えする。

 

決めろ、マヌケ。

他で何度か書いたことがあるが、恥ずかしながら私自身、入社して3ヶ月も経たないうちに、「会社辞めたい」と思った人間のうちの一人だ。

理由はいろいろあったが、トップの方針が「コンサルが新卒にできるわけないだろう」というものだったので、つまらない仕事しか与えてもらえず、腐っていたのだ。

 

実際、今でもはっきりと覚えているが、実際入社してすぐに転職しようと、転職サイトに登録もした。

その時には、当たり前だが応募した会社から一つも回答がなく、結果として転職には至らなかったのだが、「クソだなこの会社。辞めてえ。」という気持ちはよく分かる。

 

転職の道を絶たれた私は、ヤケになって知り合いの一人に当たり散らした。(よく我慢して聞いてくれたものだ)

 

私が一通り、会社への不満を吐き出すと、彼はこう言った。

「で、どうすんの?」

「いや、どうもこうも、会社には不満ですけど、転職できないんですよ。」

「いやいや、そんなことは聞いてない。」

「どういうことですか。」

「今、ここで踏ん張るか、別のチャンスを見出すまで転職がんばるか 、決めろってことだよ。」

「えー……。」

「早く決めろ、どっちだ。それとも待遇改善のために、上司に訴えて回るか? だけど、お前が、こんな場所で他人の悪口を言っているだけなら、一生そのままだぞ。 決定を先送りすんじゃねーよ。マヌケ。 」

 

そう、ガツンと言われた。

「いや……。」

「いいか、会社で頑張るのも、やめるのも自由だ。信念持って会社やめるなら、それは逃げじゃない。前進だ。」

「……。」

「ただ、どこで踏ん張るかを決心せず、先送りするなら、それは逃げだ。お前は一生、くだらない愚痴を言って過ごすんだろう。哀れだなw。」

 

彼は超キツかった。

だが、それは真理だった。

 

要するに、彼は「今のまま一生懸命働く」のも、「ムカつくんで辞める」のも「会社の中で改善を要求する」のも、全て信念に基づくならば、合理的だと言った。

だが、「決定を先送りして愚痴ばかり」は、マヌケなやつのすることだ、と言ったのだ。

 

信念の度合いが強ければ、我慢も、退職も、交渉も、いずれの選択も 問題ない。

逆に、信念を持たず決定を先送りしたり、周りになんとなく流されて決定をするのであれば、いずれの選択をしても、あとから出るのは世の中への恨み節のみだ。

 

信念に従え

ノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンは「デフォルト(規定)の選択肢から乖離した行動を取ると、より後悔が深まる」という研究結果を示した。

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だから、後悔しないためには、自分のデフォルトにしたがうのが、最も良い。

デフォルトとは、すなわち信念である。

信念に従えば、後悔しない人生が歩めるのだ。

 

このとき彼に言われ、少なくとも仕事においては、私は「絶対に我慢しない。」と決めた。

理由はない。単にそう決めたので、そうしたのだ。

 

結局、上司に「コンサルの仕事がもらえなければ辞めます」と告げた。つまり、交渉することにしたのだ。

また、上司の気に入らない発言に対しては「その発言は腹が立ちます」と言うようにした。

これ以上我慢したくなかったからだ。

 

その後も、私はあまり「物分りのいい人」にはなれなかった。

理不尽なことを言われたら、必ず言い返したし、わからない要求をされたら、必ず「説明がたりない」と聞き返した。

仮に仕事で侮辱されたら、必ずそいつに復讐する、とも決めた。(いまのところ幸い、そういう経験はない)

 

もちろん、結果的にトラブルも起きる 。

信念に従った結果、損することも多い。

前職の私を知る人ならご存知だと思うが「はっきり言い過ぎですよ」と、たしなめられたことも多い。

私を嫌う人も多いだろう。

 

だが、少なくとも後悔はまったくない。

それは自分でそう決めているから、評判を失うことも、損失も、後腐れなく、引き受けることにしている。

 

それは信念を持って決定したことの責任を、自分以外の誰にも求めたくない、という考え方である。

 

「我慢」はしないが「覚悟を決めた割り切り」はある。

とはいえ、不愉快な上司や客はおり、彼らとも仕事をしなければならないときもあった。

だが、それは我慢ではなく、結果を出すための手段と割り切った。

私は「この会社で頑張る」と決めたからだ。

割り切りはときに、結果を出すためには必要なのだ。

 

それは功を奏し、私は一部門を統括するまでに出世し、それなりの部下を抱えるようになった。

だが、ろくに出世できなかったとしても、私は後悔はしなかっただろう。

自分の信念に従ったのであるから、それは受け入れ可能だったはずだ。

 

だが、仕事を初めて11年目。

ついに仕事で「我慢できないこと」が起きた。

 

部下の数人を、上司から「辞めさせろ」と言われたのだ。

確かに部下にも非はあった。だが、上司の言い分も理不尽だと感じた。

 

だが、その時私は信念に従えなかった。

私は出世を手放すことができず、部下に退職を勧めた。

 

だが、それはまさに最悪の選択だった。

仕事に身が入らず、それを他人のせいにして「クソな会社だ」と、愚痴を言うようになった。

本当にクソだったのは、私自身だったにもかかわらず。

 

そしてある日の朝、経営会議が始まる前に、気づいた。

「私は信念に従っていない」と。

私は、次のアテもないまま、その会議が終わった直後、上司に言った。

「会社を辞めます。」

 

 

 

私の好きな本の一つが、「7つの習慣」だ。

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そして、その中で最も私が納得をしたのが、「原則を中心とせよ」という提案である。

公正の原則

誠実の原則

人間の尊厳

などは、人間の根源に根ざした原則であり、選択とはすべて、このような原則に基づいて行われるべきだ、というのが7つの習慣の主張だ。

私にとっては、そのように普遍的なものが重要であり、それに反するものを「我慢しない」ことが信念に従うことだった。

 

残業代を払わない会社は、公正ではない。私はそのような会社とは、かかわらないであろう。

あとから契約条件を勝手に変更してくるような取引先は、誠実ではない。私は、そのような取引は、願い下げである。

社員をコントロールしようとする経営者とは、話をするのも嫌であり、距離を取る。

ネットで人を侮辱する輩は、即ブロックする。

 

そうすれば、人生に後悔が生まれることはない。

 

 

断っておきたいが、上で述べてきたことは、人に強要するものではない。

完全に私の中で完結しており、他人がどう考えるかについては、一切関知しない。

 

決定を先送りしようが、愚痴を言おうが、信念を捨てようが。勝手にすればいいのだ。それがその人の人生なのだから。

 

だが若者よ、仕事が辛い、と毎日思うのであれば、一考してほしい。

今の状況は、あなたの信念に沿ったものだろうか?

信念に反すると感じるならば、そんな場所からはすぐに離れたほうがいい。信念に反する行為は、不幸を招くばかりか、周りの人間も不幸にする。

 

逆に、やりたいことをやれ、というのは、全くもって人に強制されるものではない。

やりたくないことを続ける美学を持つ人を、私は否定しない。むしろ尊敬する。

信念を持って、今の立場であがく人は、美しい。

 

だが、唯一ダメなのは、ふらふらと よく考えず、信念もなく、他人に踊らされてしまうことだ。

愚痴ばかり言って、決定を先送りすることだ。

 

その先には、主体性のない、世の中に恨みばかり募る、暗鬱とした人生の、無為に長い時間が残るのみである。

 

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(Photo:Gordon Thomson

つい先日、こちらの記事を読んで「意識たけぇ」と思わず吹き出してしまった。

読書が苦手な人のための、実用的な本の読み方について。 | Books&Apps

 

ショウペンハウエル、古典を読め等々……

ぶっちゃけ、これは相当に頭のいい人向けの読書術だと僕は思う。これが実践できるのは、非常に熟達した読書家だけであろう。

 

実はもともと僕は本が全然読めなかった。ひと月に一冊読めれば御の字で、その後は疲れてしまい数ヶ月間全く本を読まないなんて事も普通だった。

ってかこれを読んでる多くの人も、そんな感じではないだろうか?

 

読書というのは不慣れなうちは本当に脳のエネルギーを消費する。新井紀子さんの「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」という本に日本人の3人に1人が簡単な文章を読めないという驚異的な事実が書かれていたけど、日本人の30%しか文章がキチンと読めていないのなら、本を読める日本人なんて下手したら全体の数%とかだろう。

つまり、読書は実のところ物凄くムズカシイ技術なのである。

 

だが逆も真なりで逆説的ではあるが、本が読めるようになれたら日本人の中でも上位数%の知識階級に入れるという事にもなる。

95%の人間ができない事をやれるのだから、その差は圧倒的だろう。

 

というわけで、今回はそんな文字を見るだけで頭が痛くなっていたレベルの僕が、週に平均して4~5冊の本を読めるようになるに至るまでの経緯を書いていこうかと思う。

 

薄い自己啓発書は意外と読書入門には悪くない

かつて受験生時代、英語の長文問題を読んでいて、読み終わったら全ての内容を忘れていた事があった。

この現象にぶち当たった時、僕は自分のあまりの頭の悪さに衝撃をうけたのだが、周りの人に聞いてみると、別にこれは割と普通の現象であった。

そんな程度の人間でも、めげずに毎日英語を読み続けさえすれば、不思議とそのうち中身がキチンと頭に残せるようになる。

 

つまるところ、読書に限らず文章を頭に焼き付けるのは慣れの問題なのだ。筋トレとちょっと似てるかもしれない。

筋トレもそうなのだが、最初からヘビーなものを手にとったところで初心者には全く役に立たない。ここは一度、自分の頭が低レベルなことを認めて、薄っすいペラペラの内容しか書いてない自己啓発書あたりから始めよう。ブックオフの棚に100円で投げ売りされているやつが最適だ。

 

あの手の本のいいところは、本当に1つの事しか言ってない事だ。せいぜい使われているテクは表題と同じ事を具体例を用いて説明するぐらいのもので、論旨展開が非常にシンプルな事からハッキリ言って誤解しようがない。

 

いわゆる読書家の人達の勧めるような本が最後まで読むのがシンドイのは、読むのに多くの背景知識がある事を前提としているのに加え、論理展開もかなり複雑で、結論に至るまでの寄り道も凄く多岐にわたっており、論旨を抑える事が非常にムズカシイという点に集約される。

 

初心者があんな読むのに脳マッスルが必要なものに手を出そうだなんて十年早い。

まずはとりあえず、100冊ぐらいペラペラの自己啓発書を読み漁ってみよう。

これで読書偏差値が35から45ぐらいにはなるはずだし、一冊の本を読み終える事の快感を何度も味わえる過程で、次第に読書の面白みがわかってくるだろう。

 

恥ずかしがらずに漫画やラノベも多読しよう

これに並行して、漫画やライトノベルといったものも多読していこう。

初段階の読書が辛いのは、想像力が欠如した初学者の段階では、頭に何の映像も流れない点に集約される。

背景知識がないから当然といえば当然なのだけど。

 

そこそこハイレベルな読み手ともなれば、本を読んでいると映像のようなものが頭に浮かぶようになってくる。

おまけに、結構知ってることとか今まで経験した事などの背景知識もリーディング中にソコソコ使っており、まあつまるところ本と格闘している時に使ってる武器のレベルが全然違うのだ。

初心者がヒノキの棒なら、中級者はブロードソードぐらいだろうか。

 

そういう武器を手軽に身につけるのに、漫画やライトノベルは最適だ。

漫画を通じて画像を大量に脳にインストールしつつ、ちょっとづつ色々な知識を身につけていく過程で、読書偏差値が5ポイントぐらいはアップする。

 

慣れてきたら漫画も全く頭を使わないで読めるものだけではなく、例えば手塚治虫の火の鳥やブッダなど、かなりキチンと読むのが難しいものまで手を出していけば、どんどん良き読書家としての素養が深まる。

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あれらの本は下手に難しい本よりも、ダイレクトにモノの本質を私達に与えてくれる。

 

好みはあるが、僕はこれに加えてかなり大量のライトノベルも消費した。

あれは本当に優れたコンテンツで、オアシスのように美しい一枚絵がそこかしこに仕込んである事から、シンドイ読書ランニングの最中にもめげずに、その扉絵に行きつける事を目標に結構読書が頑張れるような作りとなっている。

オススメは色々あるのだけど、賀東招二のフルメタル・パニックや西尾維新の戯言シリーズあたりが個人的には結構好きだった。

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田中ロミオの人類は衰退しましたなんかも凄く凄くいい。

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小説で登場人物を抑えつつ、ストーリを追える位にまでなったら、読書偏差値は58ぐらいにはなっているだろう。

ここまでくれば、随分と遠くに来た事を実感できるはずだ。賢い読み手になるまで、あともうちょっとである。

 

好みのジャンルを読み漁る

これまでの読書経験で、既に最低限の基礎体力は身についたはずだ。

あとは、読めそうなものを選んで、ゆっくりじっくり読書を初めていこう。

 

読む場所は喫茶店がオススメだ。家だとつい気が散ってしまったり、眠くなったりしてしまうが、喫茶店で読書をすると意外とそういう風にならない。

高々コーヒー1杯300円程度の出費で、集中力を買えるのなら安いものだろう。

 

ここまで来たら、読むものは本当に何でもいい。それこそ、古典にチャレンジしてみるのも手だろう。

ただ個人的には忙しい現代社会において、古典は読み終えるまでのコスパが著しく悪いので嫌いだ。

忙しい現代人にとっては、読みやすそうなビジネス書や科学・人文系のものあたりを選ぶのが無難だと思う。具体的にいえば、小説なら村上春樹、ビジネス書なら橘玲あたりを選んでおけば無難だと思う。藤沢数希なんかも読みやすくてとてもよい。

 

ビジネス書は、できれば巻末に参考文献が載ってるのがいい。初学段階での読書の難しさは、何を読めば選ぶのが難しいという点がある。

その点、例えば橘玲さんの「読まなくていい本の読書案内」あたりは、現代の知のエッセンスが豊富な参考文献と共に紹介されており、とても良い。読んでて興味が惹かれる本があれば、それを買って読めばいいのだ。同じ理由で、村上春樹の「若い読者のための短編小説案内」なんかも凄くいい。

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[amazonjs asin="4167502070" locale="JP" tmpl="Small" title="若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)"]

こういう風に読んでいくうちに、次第に自分の好きな作家ができてくるはずである。僕の場合は、村上春樹と西尾維新、橘玲、佐藤優の新刊が出たら、ほぼ全部買って読んでいる。他にも数学なら小島寛之。海外ならダニエル・ピンクやマルコム・グラッドウェル、アトゥール・ガワンデの本なんかも、ほぼ全部買って読んでいる。

 

古典は確かに時の洗練を耐え抜いているという点において非常に優れているのだけど、せっかく現代に生まれてきたのだから、好きな作家を見つけ、新刊がいつでるかワクワクしながら追っかける楽しみというのを捨て去るのも勿体無い。

新刊だって、意外と捨てたもんじゃない。好きな作者の新刊を追っかけるのは、とてもとても心躍るものである。

 

この段階までくれば、ほとんどの本は読めるようになっているはずである。

例外は大学で学ぶような専門的な知識を必要とするタイプの本ぐらいだろう。あの手の本を読めるようになる為には専門的なトレーニングや職業訓練が必要であり、正直そのレベルに個人で達するのは難しい。

少なくとも僕は、シロウトが独学で医学書を読めるようになるとはとても思えない。

 

とまあ、僕がそこそこの読書家になるまでの経緯はこんな感じだ。一応、最後の最後にデメリットを1つ言っておくと、この意識が低い人向けの読書を趣味にするためのメソッドですら、習得には結構時間がかかる。

 

僕がこれを初めたのは高校2年生ぐらいからで、そこから休みをはさみつつ、空気を吸うように本が読めるようになったのは大学5年生ぐらいの頃だ。

つまり、ゆっくりではあるものの、都合で5~6年ぐらいは時間を使ってる事になる。集中してやれば2~3年でやれなくはないとも思うけど、まあそれなりに大変なのはしょうがないけど事実だろう。

 

果たして、そこまでやって読書を趣味に組み込みたいか。結局のところ、このメソッドをやるか否かは、ここに集約されるだろう。

個人的には、読書は随分と為になったと思うし、今でも記事の執筆ネタに使えたりと、得られた恩恵はすざまじいなとは思うけど、とはいえ人生他にも楽しいことなんていくらでもあるよと言われれば、それもそうだな、とも思う。

 

とまあ、こんな感じでしょうか。

それではみなさん。良い読書ライフを。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Tonymadrid Photography™

『「場当たり的」が会社を潰す』(北澤孝太郎著・新潮新書)という新書を読みました。

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このタイトルをみて

「そうそう、うちの上司も『場当たり的』なんだよなあ……」

と思った人は少なくないはずです。僕もそうだったんですよ。

 

でも、この本を読み進めていくと、「場当たり的」だと他者を批判している人のなかにも、「場当たり的ではない、ちゃんとしたビジョン」を持っている人は、ほとんどいないのではないか、と考え込まずにはいられませんでした。

「あの人は場当たり的だ」という批判を、多くの人が「場当たり的に」しているだけなのです。

 

著者は「場当たり的」について、こんな説明をしています。

「場当たり的」にならないためには、「強い思い」が必要だと序章では述べました。

その思いを実現していくには、その構造、仕組みをしっかり考えたうえで、「戦略」を練り、それをしっかり「戦術」に落とし込んで何度もトライアンドエラーすべきです。

戦略と戦術の違いを野球で説明してみましょう。

 

同点で9回裏ノーアウト満塁。1点もやれない場面。自チームの投手の球には勢いがあり、スタミナがまだ残っている。

そのため、「次のバッターは、内野ゴロを打たせないで、三振で仕留める」という方針をベンチが立てたとします。これがこの時点でのチームの戦略です。

この戦略に基づいてバッテリーは戦術を考えます。「1球目、内角をえぐるようなストレートでバッターをのけ反らせておいて、2球目は外角のスライダーで……」という具合に、やることを具体的にして順番をつけたものが戦術です。

ただし、戦術は、状況によって変化させねばなりません。もしも相手に手の内が読まれていると仮定した場合、当初の予定通りの配球にすると、フォアボールで押し出しの危険性が出てきます。三振は取れなくなります。

戦略には一貫性が求められますが、戦術は臨機応変る必要があるとも言えるでしょう。

 

戦略そのものが論理的に構築されたものではなく、曖昧なままで、それ自体が状況にあわせて、ころころ変化えしまうとどうでしょう。

当然、戦術も定まりません。プレイヤーたちは、何をどこまですればよいのかわからず、やることに焦点が定まらないのではないでしょうか。

その結果、組織としては思い通りの成果を得られません。

 

それに関わる人たちは、成長感も味わえず、場合よっては徒労感さえ感じてしまうに違いありません。

このように、よく考えられた戦略がない状態でとりあえず行動を起こすために方向性をきめること。

それによって成果のあがりそうにない戦術が非論理的に提示されることを「場当たり的」と本書では定義します。

野球に詳しくない人にとっては、ちょっとわかりにくい説明のような気がしますが、「とにかく気合、ここは三振しかない!」と現場に「任せる」ような采配が「場当たり的」ということなのでしょう。

 

大事なのは、戦略をもとに、より成功する確率が高い戦術を選択していくことなのです。

正しい戦術だからといって、相手の力や環境・状況によっては、必ずしも成功するとはかぎらないけれど。

 

「場当たり的だったけれど、そのときはうまくいった」というケースも十分ありうるわけですが、それを続けていれば、いつか、大きな破綻をもたらしてしまいます。

実際に、筆者は研修の打ち合わせの現場において、そういう「戦略(もどき)」と多く目にしてきました。

先日、ある大手企業の役員、本部長研修の前に打ち合わせに行き、各事業部の今期の戦略を事前に見せて頂いたときのことです。

 

そこに並んでいたのは、それぞれの部署の「戦略」なるものでしたが、いずれも私には「戦略」の名に値するものには思えなかったのです。「場当たり的」なのです。

早速、私はその役員、本部長らに話を聞いてみました。まずはA本部長です。彼は担当部署の今期の「戦略」として「売上対前年度8%アップ」を掲げていました。

 

「本部長、この本部の第一の戦略は、売上対前年度8%アップを掲げておられます。つまりこれがこの本部の大きな目標ということなのでしょうが、根拠はなんでしょうか」

「根拠? そんなものはありませんよ。しいて言うなら、前年が5%アップという目標を掲げていたにも拘らず、3%ダウンに終わったのです。当然、挽回してそれを超える目標を掲げなければなりません。このままでは、当部も危うくなりますからね。売上を上げることが第一優先です」

「なるほど。では、それを成し遂げるための戦術はなんでしょうか」

「今、それを考えるように部下に指示を出しているところです」

「本部長ご自身は、戦術は考えられないのですか。もし、的確なものが上がって来なければどうされるのですか」

「そのときは私が出しますが、私はあくまでもとりまとめ役です。部下に考えさせて、実行させるのが本部運営には一番いいのです。結果はみんなの責任という意識になりますから」

「では、昨年3%ダウンに終わった原因は、なんだとお考えですか」

「それも今分析させています。なかなか難しい状況があるようです。ただ、私が感じるのは、訪問数が圧倒的に不足しているということです。先日の本部会議でもそのことを指摘し、1日3件の訪問、それを評価に反映させると宣言したところです」

ここまで聞いて、私は恐ろしさすら感じ、これ以上の質問は無駄だと判断しました。A本部長の「戦略」のどこが問題なのでしょうか。

著者はこの後、「そもそも、『8%』は、戦略ではなくて、目標数値ではないか」をはじめ、A本部長の数々の問題点を指摘していきます。

 

興味を持たれた方は、ぜひ、この本を手にとってみていただきたいのですが、これを読みながら、こういう上司って、いるよなあ……と思った人は大勢いそうです。

 

そもそも、日本の少子化対策だって、現実を受け止めずに「まずこのくらい出生率が改善して……」という数値目標が示されていますし。

今の偉い人たちが若かりし頃は、日本全体が人口も経済力も(基本的に、人口増は経済成長の大きな要因になるのです)右肩上がりだったわけで、失敗しなければ業績も上がっていく時代だったともいえます。

 

ところが、今の時代は、よほどうまく立ち回らなければ「現状維持」だって難しい。

このインターネット時代に「訪問数を増やす」というのは、有効と思えないどころか、かえって嫌がられたり効率を落としそうな気がするのですが、過去の自分の成功体験をリセットすることができないのです。

それは人間の特性ともいうべきもので、「場当たり的な上司」を嘲笑していた若手が、自分が偉くなったら「老害」になるというのもよくある話です。

 

著者は『営業部はバカなのか』というベストセラーを上梓している「営業のエキスパート」なのですが、この本のなかで、「トップ営業マンの極めて特徴的な行為」について紹介しておられます。

社名が広く知られている大手企業ならいざ知らず、多くの営業マンは、名の通っていない中小企業に所属しています。

先方は、有益な出会いを求めている一方で、あまたの営業マンの攻勢に辟易しています。ですから、初対面の瞬間、ほんの3~5秒の間に最初の一言を聞くべきかどうかを決めます。

そこで合格になった人の中から次の1~2分の間に、さらに真剣に話を聞くべき相手なのかを見極めていきます。

 

最初の3~5秒で顧客(候補)側は、営業マンの目つき、話し方、身だしなみ、姿勢、声のトーンから、「こいつは信頼できるかどうか」を直感的に判断します。

そこでクリアした相手に対しては、次の1~2分の間に、その営業マンや所属する会社が自分にとっていいことをもたらすかどうか、他の営業マンに比べてさらに好意を持つべきなのかどうか、放たれる言葉をもとに判断するのです。

 

「社長、社長の右腕、左腕、また次世代を担う優秀な人材の採用にご興味はございませんか。私とお付き合い頂いたら、必ずそんな人間と面接頂けるよう目の前に連れて参ります。リクルートはそんな会社です」

「NTTグループは、ドコモ、コミュニケーションズ、データなどそれぞれが独立した会社です。しかしソフトバンクは、今ある通信技術の中で貴社に一番IT武装して頂ける手立てをたった1社でご提供できる会社なのです。利益の二重取り、三重取りは致しません。一度提案だけでもさせて頂けませんか」

これらは、著者自身が、まだ無名時代のリクルートとソフトバンクの新規営業の際に使っていた殺し文句の一例だそうです。

 

著者自身は、ワーカホリックな感じもする超有能な営業マンなのですが、こういう「とにかく最初に相手の心をつかむことの重要性」は、知っておいて損はないと思います。

 

営業って、される側にとっては、「こっちも忙しいのに、前置きは長いし、また同じ話か……」「向こうも仕事だから仕方なくやっているんだろうな……」と感じることも多いんですよね。

「まず仲良くなりましょう」みたいなスタンスで来る人もいるのだけれど、僕は「こっちは友達をつくろうと思っているわけでもないし、めんどくさいなあ……」と、うんざりしてしまうのです。

 

こういう人なら、プレゼンテーションも簡潔に要点をまとめてやってくれそうです。

昔ながらの人間関係重視の営業活動も、まだ、完全に終わってはいないのも事実なのでしょうけど、どんどん先細りになっていくはずです。

 

A本部長の話、「こんな人が大企業で偉くなれるのか……」と考えてしまうのですが、僕は、自分自身がA部長になっているのではないか、と不安にもなったのです。

A部長は、きっと、自分が「場当たり的」ではなく、「部下の意見を尊重する戦略家」だと思っているのだろうなあ。

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Marco Verch Professional Photographer and Speaker

相変わらずこの時期になっても新卒の採用面接が続いている。

採用難と言われる時代ではあるが、地方にはまだまだ東京での職を熱心に探している学生の方も多く、appear.inなどのビデオチャットツールを使ってwebを通じての面接がかなり多くなった。

時代の流れだなあ、と思う。

 

その潮流の延長なのだろうか、webで面接をしていると、学生の方から社内の雰囲気を知りたい、という要望をもらうことが多くなった。

 

実際に自分が働くかも知れない会社の様子を知りたい、というのは当然ではである。

何を持って「社内の雰囲気」というのかについては、議論があるだろうが、そのような要望を受けた場合、カメラ越しにサイトツアーを行い、働く場所や、社員たちの様子を見せて回る事が多い。

 

そのときである。

特に今年は多いと感じるのだが、社員たちの様子を見た、少なからぬ学生の方から「私服は禁止なんですか?」と質問されるようになった。

しかも、1社だけではなく、複数の会社でだ。

 

私服でOKの会社もずいぶんと増えたが、まだ世の中はスーツを着て働いている会社の方が多い。

ある会社で、「面接官が「うちはスーツなんです。」というと、学生は何も言わなかったが、明らかに落胆の様子を見せた。

また、会社がぜひとも採用したいと思っていた、優秀な学生の一人は「スーツでない会社で働きたいと思ってます」とはっきりといい、辞退されてしまう、というシーンもあった。

 

そして、この傾向はレベルの高い学生ほど顕著になっているとも感じる。

 

 

最近、スーツを着る人は明らかに減ってきている。

 

事実、青山商事、AOKIホールディングス、コナカの紳士服大手3社の業績が11月に3社が発表した直近の決算は、3社とも減収、最終赤字だった。

スーツ大手3社が赤字転落で壊滅状態に…AOKI、漫画喫茶などカフェ事業拡大で生き残り図る

青山商事、AOKIホールディングス、コナカの紳士服大手3社の業績が深刻だ。決算期間が異なるが、11月に3社が発表した直近の決算は、3社とも減収、最終赤字だった。

個人的な体験では、つい先日、私が地下鉄の駅で見かけたダーバンのディスプレイ広告が、スーツの売上減少を示している。

服装規定を緩めていく会社が増えたためだろう。

日本企業でも最近ではIT系のスタートアップやアパレルを中心に、服装は自由、という会社も多い。

 

また、欧米の外資系では積極的に服装規定の緩和を図っているようだ。

「カタい」イメージのある、製造業や金融業でも、緩和が進んでいる。

例えば、コカ・コーラボトラーズジャパン。

ジーンズなどカジュアル服でも勤務OK コカ・コーラ

 コカ・コーラボトラーズジャパンは4月から、ジーンズやスニーカーなどカジュアルな服装を認める新たな服装規定を導入した。同社の従業員は約1万7千人。

ただ、工場勤務で制服を着用する人や、営業職でスーツを着る人は従来通りの服装で仕事をするため、カジュアルな服装で勤務するのは本社の事務部門などの約3700人となりそうだ。

あるいは、ゴールドマン・サックス。

ゴールドマンがドレスコード緩める、職場でより自由な服装を容認

ウォール街の伝統的ファッションの牙城ともいえるゴールドマン・サックス・グループが、ドレスコード(服装規定)を緩める方針を行員らに伝えた。

 

米国では5割を超える企業がカジュアルOKとの報道もなされている。

その理由は「人材確保」だ。

スーツ姿のビジネスマンが「時代遅れ」になる日

今の時代にはカジュアルな雰囲気を出す必要があると、ゴールドマン・サックスの上層部が感じたということだろう。そうしなければ、GoogleやFacebookなどに優秀な人材を奪われてしまいかねないからだ。

そうだ。

スーツへの批判はこれまでも

「スーツは窮屈」

「肩がこる」

「暑い」

「非生産的」

など、様々な意見があったが、最近はもう少し深刻だ。

それは、「服装が、社会的な階層や、会社のカルチャーを表す」という観点だ。

 

つまり「オールドエコノミーの、画一的で、大企業病の香りがする」のが、スーツ姿なのだ。

彼らは「社畜」であり、社会的な階層も昔ほど高くない。

 

もっともいま、社会的な階層が高いのは、GAFAなどに代表される、ニューエコノミーの「私服のスペシャリストたち」である。

 

 

いまからは考えられないが、実はかつて、「スーツを着て働くこと」は憧れのことだった。

 

まだ肉体労働者、つまりブルーカラーが会社員の多くを占めていた頃、「スーツを着て働く」ことは、高収入と、高い社会階層を表す一種の象徴であった。

いまでも、そのような感覚を持っている人もいる。

若い時はスーツを着たかっこいい服装の仕事に憧れたけど

スーツ着ない仕事してるやつwwwwwww

 

職業に貴賎はない。

が、ブルーカラーの労働者は、より高収入で、知的で、社会的地位の高いホワイトカラーに憧れ、「スーツを着る仕事に付きたい」と願ったのだ。

 

翻って現代。

もはや「ホワイトカラー」へのあこがれは、「超優秀層」の人々には存在しない。

むしろ、事務や営業職に代表される、ホワイトカラーは「やりたくない仕事」のひとつなのだ。

 

例えばGoogleのエピソードは、その価値観の転換を如実に示している。

僕の面接に立ち会ったのは、エンジニアリングのトップにいた人でした。無造作な長髪に、古くさいTシャツ、大きめの眼鏡に、伸ばし放題のヒゲ。

僕がそれまで一方的に見下していたタイプそのままの格好でした。

 

しかし、会話を始めた瞬間に印象が変わりました。なぜなら、エンジニアなのに、人材育成について非常に鋭く、核心を突いた質問を矢継ぎ早にしてきたからです。

そのときから、スーツを着るかどうかなど、どうでもよくなりました。同時に、自分がどれだけ偏見を持っていたのかも理解しました。そして、「この会社なら何か面白い仕事ができるかもしれない!」と直感しました。

 

グーグルのドレスコードは、Wearsomething。要するに何か着ていれば、裸でなければ何でもいいということ。

グーグルの社員は皆、「スーツよりも、Tシャツのほうが格好いい」という価値観を持っています。

僕もグーグルに入社してから、着たい服を着たいように着る、と心に決めました。

 

すでにシリコンバレーでは、スーツを着ている人たちがモテなくなっています。フェイスブックやグーグルの経営者をはじめ、今伸びているスタートアップで働く人は、純粋に仕事の結果だけで勝負をします。

彼らが求めているのは「ゼロから新しい価値を生み出すこと」。そこに着るものは関係ないという考えです。

外見で人や仕事を判断していた時代が終わり、「私たちはどのように働き、生きるのか」という大きな視点で見ても変化が必要な時代に入っているのです。

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スーツが「オールドエコノミーの象徴」に成り下がってしまったこと。

これが機を見るに敏な学生の「スーツは嫌だ」という発言につながっているのだろう。

 

もちろん、スーツはスーツの良さがある。

私も娘の七五三や入学式にはスーツを着た。

スーツそのもののデザインはかっこいいし、楽に自分の姿を幾分マシにしてくれる。

だから、「スーツは悪」とか「スーツのせいで非生産的になる」等と言った言説には、私は同意しかねる。

スーツそのものが悪いのではないのだ。

 

悪いのは、「スーツを着なければならない」という、お仕着せのルールと、それを追認する、オールドエコノミーのカルチャーである。

ニューエコノミーの私服を着る人々は、スーツそのものを嫌っているのではなく、「服装ごとき、会社が指図するな。」という話なのだ。

 

裏を返せば、「そんなことは自己責任でやるわ」が、現在資本と人材が集結するニューエコノミーの本質なのだ。

成果を出せば、何も問われない、ということの表れが、服装自由、なのである。

 

だから、最優秀層は、スーツを来たがらない。

彼らは会社に指図されることを好まないし、実際、会社が指図しないほうが結果を出す。

だから、最優秀層の人材獲得においては、「服装自由」が大きな意味を持つのである。

 

 

かつて、ホワイトカラーのスーツが憧れの的だったように、今は服装自由のニューエコノミーが憧れの的となる。

 

ついに、スーツを着て働くのが「かっこ悪い」と思われる時代になったのだ。

それは、表面上の「服装」という話ではない。

経済の中心となる考え方や、権力が大きくシフトした、という事実を如実に反映しているのである。

 

 

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(Photo:ZITTO & GUARDA

いままで日本では、「会社員は副業禁止」が一般的だった。

しかし2018年、働き方改革の一環として厚生労働省が「副業推進」に方向転換したことで、現在は「副業のススメ」的な情報を目にする機会が増えている。

 

わたしはフリーランスとして働いているから、副業というもの自体にあまり関係がない。それでも「副業に関して目にする、耳にする情報が、なんだか偏ってるなぁ」という印象をもっている。

というのも、副業を通しての「自己実現」というロマンチックな面が語られることが多くて、現実的な要素にスポットライトが当たっていないような気がするからだ。

 

ルール無視をおおやけに肯定するのはいかがなものか

ずーーっとモヤモヤしていることがあるので、ちょっと聞いてほしい。

副業が注目されはじめたことで、いままで副業でバリバリ稼いでいた人が、積極的に発信したり、インタビューに答えたりするようになった。

そこでよく見るのが、「会社にバレないようにこっそりやってました」という一文。

 

ふしぎなことに、この一文に拒否反応を示す人はほとんどいない。本人も、悪いことをしたとこれっぽっちも思っていないように見える。

でもわたしは、ここに猛烈に引っかかってしまう。「ルール破ってるじゃん!?」と。

 

以前この件についてtwitterでつぶやいたとき、「副業禁止ルール自体がおかしいんだから守る必要はない」というコメントがいくつか寄せられた。えっそういうものなの?

ルールがおかしいと思ったら、交渉するか、抗議して堂々破るか、副業OKの会社に転職するかをすべきで、「ルールに納得いかないからこっそり破っていい」にはならないと思うのだけど……。

 

厚生労働省が方向転換したとはいえ、副業を認める制度づくりが間に合っていない企業も多いと思う。

それなのに「副業禁止するほうがおかしいんだから就業規則を無視してもいい」という空気が流れちゃうのは、なんだか不健全じゃないだろうか。

「黙って副業をした罰を受けろ!」と糾弾するつもりはないけど、ルールは守るべきだし、納得いかないなら堂々と抗議すべきだ。

 

「こっそり副業」を黙認する空気をつくらず、「ちゃんと就業規則を確認して会社と認識をすり合わせてから副業しましょう」を大前提にしないと、余計なトラブルをまねくだけだと思う。

 

副業によって労働環境の管理が複雑になるリスク

そもそも、なんで副業って禁止されていたんだろう。いろんな理由があるにせよ、「トラブル防止」という側面があるのはまちがいない。

たとえば仕事帰り、副業に関する打ち合わせに行く途中で事故に遭ったとする。さてこれは、労災になるんだろうか?

労働時間の管理はどうするんだろう? 過労死した場合、どっちにどれだけ過失があるんだろう?

 

こういうことを考えると、企業が副業に慎重になるのも当然だ。

リクルートキャリアの意識調査では、兼業・副業の禁止理由は「長時間労働・過剰労働を助長する」が半数以上。うん、まぁそうだろうね。

(https://www.recruitcareer.co.jp/news/pressrelease/2017/170214-01/)

 

また、エン・ジャパンのアンケートによれば、副業経験がある人の59%が、接客・販売・サービス系でのアルバイトをしていたとのこと。

労働時間の合計を本業、副業の企業は把握してるんだろうか。通勤ルートや社会保障の兼ね合いなど、両企業は承知しているんだろうか。

(https://corp.en-japan.com/newsrelease/2018/13507.html)

 

いままで禁止していたことを解禁する際には、当然「どういう仕組みにするか」を決めていかなくてはいけない。

でもいまのところそういった議論は二の次、三の次になっていて、注目されているのは副業のメリットや自己実現といった部分ばかり。

安心して副業を勧めるためには、もうちょっと整った制度が必要なんじゃないか?

 

「お金がないなら副業すればいいじゃない」が成り立つ社会

そしてもうひとつ。わたしが猛烈に心配しているのが、副業の解禁、浸透によって「フルタイムで働いても貧しいなら副業すればいいじゃない」という主張が成立してしまうことだ。

前述のエン・ジャパンのアンケートを見ると、副業に興味のある人の83%が「収入のため」と答えている。

 

「さらなる収入を」なのか「このままじゃ生活できない」なのかによって意味がずいぶん変わる答えだが、結婚や育児、老後などを考えると、経済的不安はつきないだろう。

非正規雇用で立場が不安定、貯金も少なく将来に希望がもてない。いわゆるワープア層に対し、「だからこそ副業を!」という主張も見かけた。

「生活が楽になりますよ」「貯金ができますよ」「キャリアアップにもいいですよ」なんて言葉で、さらに働くようにそそのかす。

 

ポジティブな理由での副業ならいい。実際、副業により自分の夢をかなえたり、人生の選択肢を増やした人だっているだろう。

でも「副業しなきゃ生活できない」状況にある人たちに必要なのは、副業推進ではなく、「ふつうに働いたらふつうに生活できる給料」だ。

 

いままでは「これじゃ生活できません!」と言えていた人が、副業OKになったことで「低賃金でお金がないならもっと働けば?」と突き放されるかもしれない。

その場合、副業は救いの手ではなくさらなる地獄への招待状になってしまう。

そうならないように、労働者保護という視点でも、もう少し議論されるべきじゃないだろうか。

 

安心してできる副業の環境を整えてはじめて「副業推進」できる

最初に書いたけど、わたしはフリーランスだから、いまのところ副業自体に関係はない。

でも副業がやたらとロマンチックに語られるのを見ると、「うん??」という感じになる。

「ルール破ってこっそり副業してたことを美談にして、まだ制度が整ってないのに無責任に副業をもちあげ、もっと働けばいいと言っていいのか?」

と首を傾げてしまうのだ。

 

副業OKの会社で、自分が望んで積極的に副業するならなんら問題はない。他人がとやかく言うことじゃない。

なんならすごい。わたしなら絶対そんなに働けない。

 

ただ、副業禁止ルールを破った人が「成功者」として取り上げられれば、ルールを守るのがバカらしくなってしまう。

制度が整う前に、しかもこっそり副業をはじめたら、予想外のトラブルが起こってしまうかもしれない。ワープア層の過剰労働に拍車をかけるかもしれない。

 

副業が徐々に広まって「ブーム」になってしまう前に、もう一歩現実的に「どういうかたちで副業を推し進めるか」を考えていったほうがいいんじゃないかと思う。

「健全で安心してできる副業」の制度が整ってはじめて、「副業推進」が許されるはずだ。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:nelio filipe)

自業自得という言葉がある。

例えば、普段まったく努力をせずに怠けている人が、大きな転機で全く成果を出せず不幸になったとする。

勉強していない人がテストで点を取れず留年したとか、怠けてばかりいる人が大きなミスをしてクビになったとか、そういったパターンだ。

 

その場合、その人に対して「自業自得だからね」という言葉が出てくるだろう。

つまり、努力を怠った人が悪い、その結果は当然、という考え方だ。

もちろんまったくもってその通り、おっしゃる通りなのだが、僕自身、最近になってこの言葉に違和感を持つようになった。

 

この言葉は、「努力と成果」「勉強とテスト」のようにある程度は関連性のある事象で使われることもあるが、時には全く関係ないと思われる事象にも使われることがある。

 

粗暴で普段から人を人とも思わないような行動をとるいわゆるクズな人が事故にあって死んだとしよう。

その場合、普段からひどい人だったからね、自業自得だよ、と言われることがあるのだ。

 

これは努力と成果という観点ではなく、言うなれば神の視点からみたバランス的な考え方だ。

いいことをしていたらいいことがある。悪いことをしていたから不幸なことが起こる。普段の行いが……というやつだ。

 

もちろん、普段の行いが周囲からの態度を決め、その結果として起こってしまう不幸もある。

皆から疎まれた末に起こる悲劇などこの世に山ほどある。ただ、普段からクズだから不幸になってもいい、死んでもいい、そんな感情は本当に真っ当なものだろうか。

 

僕自身、別に聖人ではないので、そういった輩が不幸になっているとスカッとする面もある。

ざまあと思う気持ちがないといったら嘘になる。

ただ、それを“自業自得”と切って捨てるのはなんだか危うさが残る気がするのだ。

 

あの人は不幸になったけど普段から酷かったからね、自業自得だよ。

この考え方を裏返すと、普段からクズな人は不幸になって死んでもかまわない、となる。

なんだか一気に危険になった気がする。どんな人であろうとも、やはり不幸や死、というものは重いはずで、そうそう許容できるものではない。ましてや他人がジャッジすることではない。

 

何度も言うが、決して博愛的な考えではないということだ。クズな人も等しく救われるべきとは思わない。粗暴な人も、努力を怠った人も誰かを傷つけた人も、それ相応の結果があるべきだ。

ただ、それを第三者の視点で「自業自得」と切り捨てるのはやはり違和感がある。その不幸の理由を第三者が決める権利はどこにもないからだ。

 

 

大学時代に学生食堂である事件が起こった。

 

僕の通っていた大学は、山の中に佇む要塞みたいな大学だった。

周りにお店などはあまりない立地で、田舎から出てきて大学近くの家賃3万円のアパートで一人暮らしをしていた僕は、三食を学生食堂に頼り切るという生活をしていた。

いくら学生食堂が安いといってもやはり3食全てを外食に頼るのは不経済で、すぐに僕の経済事情を圧迫するようになった。

 

そこで生み出されたのが、「199円大作戦」というものだった。

これは単純に言ってしまうと「ごはんおかわり自由」の学食サービスを悪用した裏技だった。

 

そもそも学食には「ごはんおかわり自由」というサービスがあった。これが大人気だったが、そのうちご飯だけを注文し、何回もおかわりする「ライス大車輪」という技が開発されるに至ったのだ。

これだと100円で無限にご飯を食べることができる。この世には永久機関があったのだと学部でもちょっとした話題になったほどだった。

 

学食の対応は早かった。そもそもオカズを食べてもらいながらご飯をおかわり自由にして満腹になるまで食べてもらおうというサービスなのに、オカズを頼まず、あろうことかふりかけや梅干し、果てはボンカレーまで持参してライス大車輪を行う輩が続出したのだ。ぜんぜん採算が合わない。かなりの怒りだったと思う。

この学食には定食という概念はなく、自分で好みのオカズ、小鉢などを組み合わせるタイプのシステムだった。そこでこんな注意書きが張り出されたのだ。

 

「“ごはんおかわり自由サービス”は他にもう1品購入した方に限ります」

 

もちろんふりかけなどの持ち込みも厳しく制限された。

そうなると、貧乏な学生たちは次のステージ、ご飯と何を頼むのが得策なのか、という議論に移ることになる。

学食で最も安いのは「99円」の商品だった。そのラインナップは「ほうれん草のおひたし」「生卵」「フルーツヨーグルト」これだけだ。

時は、これのどれかとご飯を注文し合計199円で無限に米を食べるという大航海時代に突入したのだ。

 

そして自然とどれと組み合わせるかで派閥が分かれることになる。

「ほうれん草のおひたし派」、「生卵派」そして「フルーツヨーグルト派」の三つに分かれる三国志の世界、学食は乱世の時代へと突入していったのだった。

 

僕はこの中でも「生卵派」に属していた。

普通に考えて生卵がもっともコスパが良い。たまごかけごはんにできるし、醤油を濃厚に使えば何杯だっていける。完全に生卵という選択肢しかないと思っていた。

 

けれども、世間は違った。なんと、信じられないことに「ほうれん草のおひたし派」もいるのだ。

彼らに言わせると「生卵派」は行儀が悪いらしい。卵をグシャーとやってベターっとやって、完全に育ちが悪い人間の行動だ、というのだ。

その点、「ほうれん草派」は上品だ。醤油を大量にかけて濃厚にしたほうれん草をちょちょっとつまんでご飯をかっこむ。何杯でもいける、そう主張するのだ。

 

絶対にたまごかけごはんの方が何杯でも行けると思うが、それでもまあ、まだ理解はできる。

本当に理解できないのは「フルーツヨーグルト派」だ。

てっきり、何かと合わせてライス大車輪するのを諦め、ご飯だけをかっこみ、デザート的にフルーツヨーグルトを楽しむかと思ったが、そうではないらしい。

フルーツヨーグルトに醤油を大量にかけて濃厚にし、それをドバーっとしてご飯をかっこむらしい。

何杯でもいける、そう主張するのだ。

絶対に頭おかしい。完全に味覚が狂っている。何杯もいけない。

 

ただ、そういった三国志の様相を呈そうとも、フルーツヨーグルト派が確実に狂っていて味覚がぶっ壊れていようとも要は個人の好みの問題だ。好きな食べ方をすればいい。そう思っていた。

ただ、事態はそれを許さず、大きなうねりをもって我々を翻弄しだしたのだ。

 

突如として、学食がある提案を貼り出した。それは、コスト削減のためにメニューの見直しをするという予告だった。

多岐にわたるメニューを削減しようというものだ。

主に麺類関係のリストラだったが、「ほうれん草のおひたし」「生卵」「フルーツヨーグルト」の99円御三家も対象にあがった。

 

この中から1品を削減する。対象期間中にレジで渡される利用者アンケートの結果を見て残す2品を決める、というものだった。

今でいうところの、99円メニュー総選挙が開催されることになったのだ。たぶん199円大作戦でも採算が合わないから締め付ける目的もあったと思う。

 

ほうれん草のおひたし派の中心的人物であった河合の動きは早かった。すぐに票集めに奔走したのだ。

顔の広い彼は、別の学部の友人や普段は学食を使わないメンツ、外部の人間を引き連れて学食を利用し、アンケートを記入させた。

 

生卵派だった僕は主に何も知らない新入生をターゲットに、「たまごかけごはんおいしいよね」と学食で洗脳工作を行った。

ただ、そこまで焦りはなかった。なぜなら「生卵派」は最多の構成員を誇る最大派閥だったからだ。ほっといても総選挙には勝てる。

 

問題はフルーツヨーグルト派だった。醤油をかけてライス大車輪をするこの派閥は見たところ2人くらいしかいなかった。

誰が見てもフルーツヨーグルトに勝ち目がないことは明らかだった。

 

ただ事態は思わぬ方向に動く。総選挙の結果発表を待たずして、フルーツヨーグルトの廃止が決まったのだ。

ただ、廃止になったと掲示があっただけで多くは説明されなかったが、色々と詳しい河合の話によると、なんでもアンケートに不正があったようなのだ。

 

アンケート用紙なんて学食の事務の人がプリントアウトしたものをコピーしたものだ。偽造しようと思ったら簡単だ。受け取ってコピーすればいい。

そうしてフルーツヨーグルト派の2人はアンケート結果を偽造した。

さすがに河合がオーバーに言っているだけだと思うが、ほうれん草100票とかそういった戦いの中で偽造票は7000票近くあったらしい。

この大学の総学生数に迫る勢いだ。もし本当ならその労力が狂気だ。明確に狂気だ。加減というものを知らない。

 

結果、不正があったとは公表されはしなかったが、フルーツヨーグルトは廃止となった。

「不正なんかするからだ、ざまあみろだよ。自業自得だ」

 

たまごかけごはんをかっこみながら僕がそう言うと、河合はほうれん草のおひたしを口に運びながら言った。

「果たしてそうだろうか? 自業自得って言葉、逃げじゃないか」

 

僕はその言葉の意味が分からず、また、たまごかけごはんを口にかっこんだ。

あの時の河合の言葉は何だったのだろうか。当時は分からなかったが、なんだか今ならちょっと分かるような気がする。

 

確かに、不正をしたフルーツヨーグルト派の連中は、愛すべきフルーツヨーグルトを失ったわけで完全に自業自得だ。

おまけに例え学食のアンケートでも不正は不正ということでちょっと問題も大きくなったらしい。その辺も完全に自業自得だ。

 

ただ、彼らが自業自得であっても、フルーツヨーグルトが消え去ったという事実は残り、それが自業自得で済まない人がいる。

醤油をかけないまでも、フルーツヨーグルトをデザートとして楽しんでいた人たちだ。

 

当人たちがそう思っているかは分からないが、不正をした連中は、そういった事実を含めて自業自得と思うことができる。

他人のフルーツヨーグルトをも奪った自分たちはその恨みをかっても仕方がない。自業自得だ。思うかどうかは別だが、そう思うことができる。

 

ただ、他人が「あいつらは自業自得」と切って捨てることは、その及んだ影響の部分を完全に無視しているのだ。

だって普通にフルーツヨーグルトを楽しんでいた人たちは何も悪いことをしていないのにそれを失っているのだ。自業自得では片づけられない。

 

 

世の中には多くの事件や事故がある。それに対して自業自得だ、自己責任だという声を聴くことがある。

確かに当事者に目を向けると、そういわれても仕方がない事象が多いことも確かだ。ただ、それは本当に自業自得で片づけても良いものなのだろうか。本当に、ただ当事者が悪いと切って捨てれば済む話なのだろうか。

 

違う気がする。

どんな事象でも、それが及ぼす影響は多くの場合、自業自得ではない。そこが大きな違和感の正体なのだ。

 

昨今の自己責任論、自業自得論はなんなのだろうか。

僕らロスジェネ世代は人生のあらゆる場面でずっとこれを言われてきたが、なんだかよく分からないままそれを受け入れてきた。

自分を取り巻く環境は自分の責任だから、ずっとそう言われてきた。

だが、この言葉、いったいなんだろうか。違和感しかない。

 

そもそも、なぜ「自業自得」は悪い意味でしか使われないのだろうか。もともと「自業自得」は仏教用語だ。

「業」は自分の行為であり、「得」は結果である。自分の行った行為が自分の運命を決める、という意味があるようだ。

本来、そこには良い意味も含まれていた。良いも悪いも自分の行為が原因、ということだ。

 

つまり、すごく努力をして頑張っていたから良い結果が得られた、これも自業自得なのである。

ただ、「よかったね、成功して、ずっと頑張ってたもんね、自業自得だよ」という言葉は今の日本語では違和感を覚える。

それだけ、“自業自得”という言葉はネガティブな方向に振り切れているのだ。

 

この成り立ちを考えると、なんだか違和感の正体が見えてきたような気がする。

そもそもこの言葉は内向きの言葉なのだ。

自分に言い聞かせ自戒する言葉であって、決して外側、他人に向ける言葉ではないのだ。それが外側に向きつつあるときに、どうしても嫉妬的な心の動きがあって良いほうの意味が使われなくなり、悪い意味だけ残ったのではないだろうか。

 

自己責任、自業自得、僕らが言われ続けたこれらの言葉は間違いだった。これは内側に向けて自問自答する言葉だ。自分が反省し、時に鼓舞する言葉だ。決して他者に向ける言葉ではない。

それが飛び交い、それであらゆる議論や思考が停止してしまうこの現代は、きっと何かが間違っているのだろう。

 

自業自得、自己責任と投げつけて思考停止していたらきっと何も進まない。そこに至った理由をもっと各々が考えるべきなのかもしれない。

 

ふいに思い出し、ヨーグルトにフルーツをドバドバ入れて醤油をかけてみる。思ったよりいける。

そこまで悪くはないかも。ごはん何杯かいける。そう思った。

 

ただ、ヨーグルトが古かったのか、食い合わせが悪かったのか、めちゃくちゃ下痢した。これは明確に自業自得である。

 

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著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

(Photo:Martijn van Exel

つい先日読んだ本が物凄く面白かったのでご紹介しよう。アフターデジタルだ。

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この本は、パソコンやスマホだけではなく、全てのモノがインターネットに接続されている中国都市社会がどのようになっているのかを紹介したものだ(なお、専門用語でこれをIoTという)なんというか未来の先取りをしているかのような内容で物凄く読んでいて興奮する。

この本を読めば、これから社会にどのような変化が起きるかわかること請け合いである。

 

「良い事」をすれば報われる社会がやってくる

冒頭で紹介されているディディという中国のタクシー配送サービス・アプリの話は衝撃的だ。

皆さんは中国のタクシーと言うと、なんだか物凄くボッタクられたり怖い思いをするのではないかという印象がないだろうか?

しかし著者によると、ディディが誕生して以降、中国のタクシーサービスの質は著しく向上したという。

 

詳しいことは本書を読んでいただくとして、ディディではタクシー運転手は乗り手が「安心して、素早く、目的地に行けたか」どうかを3つのデータで分析し、ドライバーが評価されるようになっている。

どういう事か簡単に説明しておくと、カーナビ等で車がネットと紐付けられているから、例えばドライバーは余計な回り道をしたりして最短ルートを取らなかったりだとかの悪い事をすると一発でバレるようになっている。

この事により、タクシードライバーは悪いことができなくなり、結果として中国のタクシーサービスの質は著しく向上したという。

 

こう書くと、ネット上で監視されているみたいで息苦しそうに聞こえるが実際は逆で、よい事をすればキチンとポイントが積み重なり評価され、高評価者ともなるとタクシー運転手の給与は最大でなんと10倍にもなるというので、運転手も楽しんで仕事ができるようになったそうだ。

 

さらに、給与が上がるだけではなく、ディディの高評価ドライバーは社会的にも信用があると評価され、銀行から莫大な個人融資も受けられるようにもなる。

つまり、評価システムは監視というよりも、善行がキチンと評価され、メリットとして返ってくるという加点方式なのである。

 

言われてみれば、私達の社会というのは善行があまり適切に評価されない。正直者が馬鹿をみるだなんて単語があるとおり、善行に対するフィードバックが悪行と比較して物凄くコスパが悪い。

それが「良いことをすれば、ポイントアップして、年収も社会的信用も上がる」となれば、みんなが善人になるインセンティブも働こうというものである。

ついに「良いことをすれば報われる」社会がやってきたのだ。

 

ついに、現実社会にもRPGのレベル上げが導入されるようになった

中国では、このような評価アプリが多数誕生しているが、いずれも基本的には加点方式だという。

なぜならば「ユーザーに好きになってもらって、高い頻度でずっと使ってもらえないと(サービスが)死んでしまう」という感覚が染み付いているからだそうだ。

 

確かに、いくらモノがネットに接続されようが、ユーザーがそもそも使用しないと意味がない。嫌われるようなシステムは、ポイされておしまいなのである。

 

そもそも、私達は異常に加点方式を好む。

例えばRPGゲームのレベル上げなんかは、村の周りをグルグル回ってモンスターを倒すという超単純で時間の無駄遣いとしかいいようがないような行為だけど、意外とゲームに熱中してるときは楽しんでやれたりする。

何故か?それは経験値が目に見えて上がり、ご褒美としてキチンとレベルアップし、強敵であるボスを打ち倒せるという目に見える成果があるからだ。

 

そう考えると、加点式のソーシャル社会は、ある意味ではリアル社会RPGである。

良いことをすれば評価値が上がって、ガンガンレベルアップするのだとしたら、それは確かに楽しいに違いない。おまけにRPGゲームと違って、リアル社会での御利益すらある。

ついに、現実社会にもRPGのレベル上げが導入されるようになったのだ。

 

ナッジでデザインされた社会

このような良い方向へと人間を誘う社会デザインを行動経済学でナッジという。

ナッジとは経済学者のリチャード・セイラー博士が提唱した概念だ。

もともとは「ひじで軽くつつく」という意味で、簡単に説明すると、人々に善行を強制するのではなく、行動経済学の原理を利用して、人々を自発的に望ましい方向に誘導する仕掛けや手法の事をいう。

 

有名なエピソードとしては、空港の男子トイレの小便器に「ハエ」を描いたものがある。

男性の小便器利用者が用を足す時、この「ハエ」を狙って小便をするようになった結果、便器の外に尿が漏れ出す率が著しく低下した事で、ある空港では年間なんと1億円もの清掃費の節約になったというのである。

 

このようにナッジの理論を用いることで、小さなデザインを導入し、利用者を矯正ではなく”自発的に”良い方向に突き動かし、社会全体が幸福になるような社会を私達はデザインする事が可能なのだ。

 

全てのものがインターネットに接続され正確にデータベース化される事で、善行がキチンと評価されるようになったとしたら、私達の社会は大きく良い方に変わるだろう。

 

スマートウォッチで自分をナッジしてみよう

この体験を追随する段階には、日本社会は若干まだ追いついてないが、それでも私達にも近未来を味わう方法はキチンとある。

ウエアラブルデバイス・スマートウォッチだ。

 

つい先日、Books&Appsで「日本人は、直ちに全員、Apple watchをつけるべき。」という記事を書かれていたが、これは私達を大きく健康的にナッジする為の1つのよい手法だ。

 

実際、自分も興味を持ったのでスマートウォッチを色々調べ、HUAWEI WATCH GTを購入して使っているのだが、これが実に面白い。

なお、値段も2,1万とアップルウォッチの5万に比較すれば格安であり、かなりオススメだ。

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大雑把にいうと、HUAWEI WATCH GTの機能は24時間の心拍数モニターと万歩計である。

これにHUAWEI社が提供しているヘルスケアというアプリをつなげれば、毎日の睡眠時間をモニターできる。

 

これに自分はMyFitnessPalというアプリでカロリー記録もつけて、自分の生活をモニタリングしているのだけど、こうして自分の生活が数値化されると、面白いことに何か健康的な事をしたくなるインセンティブが働いてくるのだ。

 

心拍数が24時間記録されてるから、なんかダラダラしてたらパッと走ってガツンと上げたくなったりするし、あんなにダサい万歩計もスマートウォッチにつけられてると、つい歩数を伸ばしたくなる。

ちゃんと規定の歩数を歩くと褒めてくれる機能がついてるのだが、この機能がRPGのレベルアップみたいで妙に嬉しい。本質はただの万歩計なのに不思議なものである。

睡眠も100点満点で評価されるので、ついよい睡眠を心がけたくなってしまう。

 

加えて面白いのがカロリー記録だ。

以前、レコーティングダイエットというものが流行った事があったが、確かにこれは効果がありそうだ。

MyFitnessPalというアプリでは、目標の体重別に一日のカロリー目標が立てられる。

朝・昼。晩と食べたものを記録していくのだが、取ったカロリーがキチンと積み立てられるので、自分があとどれだけ食べられるかが可視化され、とても自分が健康的な方向へとナッジされているのが実によくわかる。

なお、MyFitnessPalのフード検索機能は非常に優秀で、ほぼ全ての食物のカロリーを簡単に検出できる。

 

朝・昼と少ないカロリーで過ごしたら、夜にちょっと贅沢しても良い事が可視化されるのは実に心地よい。

逆に昼にラーメンを食べてしまったら、残りのカロリー内でどうやりくりしようか計算するのも楽しい。

 

最終的に、一日の記録をつけ終わったら、今日摂取したカロリーを一ヶ月程度続けたら、自分の体重が何キロになっているのかを提示してくれるのも実に見事である。

これで食べ過ぎたらちょっぴり罪悪感を覚えるし、逆にキチンとコントロールできたら一ヶ月でここまで痩せるのかというポジティブフィードバックにもなる。

 

とまあこんな感じで、IoTで私達の未来は随分とよい方向へとナッジされるのではないでしょうか?

リアルRPGみたいにレベル上げができる社会がくるの、めっちゃ楽しみだなー。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Dean Lin

この記事で主に書きたいことは、以下四点です。

 

・一対一の人間関係の中にも、複数の「チャンネル」が存在し得る

・人間関係を運営していく中で大事なことは「切り替え」「引きずらない」こと

・切り替えは案外難しいけれど、「チャンネル」を意識すれば割と楽になる

・チャンネルの切り替えがきちんと出来るのであれば、チャンネルは多ければ多い程人間関係が上手く運営出来そう

 

よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、あとはざっくばらんにいきましょう。

 

***

 

しんざきには子どもが3人いまして、長男はもう11歳です。今年からついに小学6年生になりまして、押しも押されもせぬ小学校最高学年です。

長男の小学校は「最上級生」というものを特別扱いする傾向がありまして、学校単位で6年生を持ち上げているように見受けられることもあり、長男も張り切っています。学校教育におけるキャリアパス制度です。

 

私と長男は勿論親子なんですが、親子であると同時にゲーム友達でもあり、アナログゲーム会に積極的に参加するボードゲーマー仲間でもあり、同じ小説や同じ漫画を愛する同好の士でもあります。

長男の知見や閃きは決して軽く見ることは出来ず、私は趣味の話をするとき、彼を自分と対等の趣味人として認識しています。

 

私と妻は勿論夫婦なんですが、夫婦であり、同じ家族を運営するプロジェクトメンバー同士であると同時に、同じジャンルの楽器演奏を共通の趣味とする音楽仲間でもあり、小説やエッセイを濫読する読書クラン同士でもあり、時にぷよぷよやパズルボブルで鎬を削るパズルゲームライバルでもあります(大抵私が負ける)。

妻にケーナを聴かせることもありますし、音楽理論さっぱりな私に指導してもらうこともあります。

一つの人間関係でも、色んな立ち位置、色んな関係性の違いがある。ちょっと前から、私はこれを「人間関係のチャンネル」だなーと見なすようになりました。

 

言うまでもなく、例えば親子、例えば夫婦という、基底になる人間関係というものは確固としてあるのですが、その人と関わるテーマによっては、なんならそこから離れることが出来る。

同じ夫婦であっても、時には「サブカル論敵」であって良いし、時には「ゲーマー仲間」であって良い。

つまり、同じ人との一対一の人間関係でも、何を媒介とするかによって立ち位置は全然変わる、いや変えることが出来るものだなあ、と。そう思うようになったんです。

 

***

 

人間関係を日々運営していく中で、非常に重要で、かつ案外難しいものの中に「対立後の気分の切り替え」とか「状況の刷新」というものがあります。いってみれば人間関係のステータス更新です。

 

例えば、子どもは日々の生活の中で、当然のことながら親に叱られるようなことをします。

悪戯をしますし、失敗をしますし、後片付けはしません。それはよくある話です。

 

で、そういうのが度重なると、勿論親子の間も人間関係ですから、時には対立が発生するし、関係が緊張したりするんですよね。

人間同士が近い距離で日々を過ごしていれば、常に対立は発生し得る。どんな人間関係でも同じだと思います。

 

ただ、例えば親子関係で言うと、「一度叱られたことを引きずられる」って子どもにとって大変疲れるしうんざりすることなんですよ。

同じ件を、ずっとねちねち言われるとうんざりするのは、誰だって同じですよね?

大抵の場合一度言われれば親の言いたいことは理解出来る(即その通り実行できるかはともかく)ところ、何度も同じようなことを言われたら、そりゃイヤになります。

親の側も子の側も、一度すぱっと言ってその場は終わり、にしたいところですよね。

 

ただ、親だって人間であってエスパーではありませんから、子どもが本当に理解出来ているのかさっぱり分からないことだってありますし、そんなにすぐに気分を切り替えられるかっていうとなかなかそうとも限らない訳です。

喧嘩をした後即仲直りって、そんな簡単にいく話でもないですよね?

対立を引きずらない、緊張関係にメリハリをつけるって、案外難しいことなんです。

 

メリハリをつけること、気分を切り替えることが上手い人っています。

言うべきことをしっかり言ったらすぱっと切替えて、もう普段のテンションに戻りましたよ、ということが簡単に出来る人もいます。

そういう人たちは、別段「引きずってしまう」ことに思い悩む必要もないのだと思います。

 

ただ、そういうのが苦手な人だって世の中にはたくさんいる訳で、私も結構引きずりがちな方だったんです。

ただ、私の場合、「複数チャンネルの存在と切り替え」を普段から意識するようにしたら、それがだいぶ楽になったように感じていまして。

ただ話題を変えるってだけの話ではなく、その人との立ち位置自体を違うチャンネルに切り替える。対立が発生しているチャンネルから一度離れる。

つまり、頭の中の緊張関係の切り替えをスムーズにしてくれる、補助ツールとして利用出来るんですね。

 

私の場合、「話題を変える」ことをこのチャンネル切り替えのスイッチにしています。

さっきの緊張関係を「じゃあこの話はおしまい」と切り上げたら、その後はゼルダの話なり、イース8の話なり、スプラトゥーン2の話なりに切り替える。

まだガチアサリをやったことがない私に強烈にアサリを勧める長男に、自然と緊張関係をほぐれさせることが出来る。

 

多分、この「チャンネル」って多ければ多い程いいな、と。

大事にしたい人間関係であるほど、「チャンネルを多くしていく」ことを意識するといいなあと、最近は思っているわけなんですよ。

 

***

 

人間関係のチャンネルは、後から増やすことが出来ます。

例えば二人で何か新しいことを始めてもいいですし、共通の趣味や共通の話題を発掘することも出来ます。

誰かと色んな趣味について話すことは、つまり「チャンネルを増やす為の作業」と定義することが出来ます。

 

これは、勿論親子関係や夫婦関係だけの話ではなく、例えば仕事仲間でも、趣味の仲間でも、「この人とは継続して人間関係をメンテナンスしていきたい」と思う相手であれば、誰にでも応用できる話じゃないかなあ、と思います。

「チャンネルを増やす」ことを意識して人と接すると、その人の色んな新しい側面を発見出来てなかなか面白いです。

 

一方で、やっぱり私は育児に興味があるので、親子関係や夫婦関係の運営を上手くやっていくことに重点を置いています。

親子にせよ夫婦にせよ、「近い関係」ってそれに甘えてしまい勝ちでして、結果、基底関係の対立が解消出来ずにのっぴきならないことになってしまう、って案外ありがちです。

 

だからこそ、今後とも色んな「チャンネル」を確保していって、適宜チャンネルを切り替えながら、お互い仲良くやっていきたいなあと。

時には「親子」から離れてもいい。親子じゃなくて他の人間関係に移ってもいいと、そんな風に考える次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:PoYang_博仰)

なぜ人は、自己啓発本を手にとっては胸を熱くするのに、1日も経てばきれいサッパリ忘れてしまうのだろう。

そんな疑問に答えをくれた、忘れられない一人の偉人がいる。

鉄鋼王と呼ばれた19世紀のアメリカの大富豪、アンドリュー・カーネギーだ。

 

貧しい移民の家庭で育った彼は、13歳から低賃金の下働きを始めると懸命に働き、やがて才能を開花。

米国史上2番目の大富豪と呼ばれるほどに巨万の富を積み上げ、アメリカンドリームを掴んだ人物として知られている。

そして彼は、自分の死後、墓石にこんな言葉を刻むよう遺言して息を引き取った。

“Here lies a man who was able to surround himself with men far cleverer than himself.”

 

意訳すると、「己より遥かに優れし人物を集める術を心得しもの、ここに眠る」と言ったところだろうか。

はっきり覚えていないが、この言葉に初めて出会ったのはたぶん20代のなかば頃。

貪るように自己啓発本を読んでいた時で、妙に心が震えた。

そして、「そうか、人生で成功するには自分より優れた人物を仲間にすれば良いんだ!」と、ド直球の短絡ぶりで字面を理解した。

 

まあ確かに間違ってはいないが、こういう現象にも「中二病」みたいに、何かおしゃれな名前が欲しい気がする。

「俺って意識高けーわw」

と、かっこいい言葉を仕入れては何かを知った気分になる症例のことだ。

 

偉人の生き方やカッコイイ言葉をたくさん知っても、その具体的なやり方や近づき方などもちろんわからない。

ステップバイステップでその領域に到達した過程など想像もできないので、結局のところ次の日には忘れてしまい、1週間も経てば本を読んだ事実すら忘れてしまう。

そして心を熱くした自己啓発本に投資した時間は無駄になりやがて忘れ、いつもと同じ怠惰な毎日を過ごすことになる。

 

ある「ブラック経営者」のこと

そして、自己啓発本の類を読む情熱すらすっかり消え失せていた30代前半の頃。

ある「ブラック経営者」の下で、私は経営企画担当の取締役をしていた。

 

その経営者はとにかく酷い。

「わかった、じゃあそれは君に任せる」が口癖で、解決するべき問題を役員会で提起すると、その全てが自分の仕事になって積み上がっていく。

大した仕事をしているようにも見えないオッサンで、年齢は親子ほども離れていた当時50代後半。

にも関わらず、一代で年商60億円の製造業を築き、業界では少し知られた人物だった。

 

そしてその経営者の下では、数億円単位の第三者割当増資やM&Aなど、およそ30代前半で経験できるとは思えない大きな仕事を次々に経験することになる。

しかし、そのほとんどの仕事に経営トップは最後まで関わろうとしない。準備から最終交渉まで、全て自分の仕事だった。

経営トップは最後に、ハンコを捺すだけである。

 

簡単に言っているようだが、このプレッシャーは相当なものだ。

VC(ベンチャーキャピタル)や業界大手の上場企業なども株主にいる、IPO(株式の新規上場)を期待されている会社だったので、下手な事をすれば役員としての責任も問われかねない。

結局、毎回必死になりながら手探りで仕事をこなしたが、この時期は、いろいろな意味で人生の思い出深いキャリアになった。

 

グーグルはなぜ巨大企業になれたのか

話は変わるが、言わずとしれた世界の大企業グーグルには、「疑うことはコストである」という価値観があることをご存知だろうか。

グーグルで働いた経験がある人や経営者などが好んで話す価値観だが、誰かが言っていることをいちいち疑い裏を取っていては、スピードが命の現代の経営環境では、それは命取りになるという考え方だ。

 

マッキンゼーやNTTドコモ、リクルートや楽天などを経てグーグルでも働いたことがある尾原和啓氏は、その著書「どこでも誰とでも働ける 12の会社で学んだ“これから”の仕事と転職のルール」の中で、グーグルのこの価値観を「ハイパー性善説」と呼んでいる。

[amazonjs asin="4478102023" locale="JP" tmpl="Small" title="どこでも誰とでも働ける――12の会社で学んだ“これから"の仕事と転職のルール"]

確かに、人を疑うことは相当なコストがかかる。

誰かが提案したことが理にかなっているかどうか、定量的に確かめるためには客観的なエビデンスが必要だ。

新規事業には十分な調査が必要だが、調査にはお金も時間も人も必要なので、定量的・定性的なコストはバカにならない。

 

そもそも、新しい売上を立てるにも、リスクが伴う。

売掛金を本当に払い込んでくれるかは、ぶっちゃけ相手の善意次第と言っても言い過ぎではない。

そして一般的な会社や組織は、新しい仕事を創出することよりも理不尽な損失を回避する方向に判断が傾く。

このようにして性悪説を前提にした組織はROI(return on investment)ではなく、損失の絶対額だけを問題視して得をした気になり、やがて衰退していく。

 

その一方で、真剣に仕事に取り組んでいる人であれば、嘘をついている確率など、実は無視できるほど小さなものだ。

間違っているとしても、そこから得られる教訓さえあれば、投資は無駄にならないだろう。

 

2001年に発刊され、未だにロングセラーを続ける「仕事は楽しいかね」(デイル・ドーテン (著))でもこの価値観は謳われているが、「試すことには無駄がない」ということだ。

[amazonjs asin="B00SIM19YS" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事は楽しいかね? (きこ書房)"]

結局、ROIの観点から考えれば、「疑うことはコストである」と本気で考えられる経営者は、本当に強い。

そしてこれは恐らく、日本人経営者の多くが、もっとも苦手な価値観であるような気がする。

 

点と点が繋がってやっと意味が理解できた

翻ってみて、かつて私に仕事を丸投げにしていたボスのことだ。

 

確かに、取締役として仕事を丸投げにされていた当時の私に、リスクが0であったわけではない。

しかしながら、そんなリスクなど経営トップから見えればちゃんちゃらおかしい。

会社が潰れても、一介の取締役が背負う責任などたかが知れている。責任という観点から考えれば、取締役と新入社員にすら、ほとんど差はないと言ってよいだろう。

 

むしろ、定量的にも定性的にもあらゆる結果責任を負う経営トップが、

「わかった、お前やれ」

と仕事を任せる豪胆さこそが、凄いことだ。

 

日常のタスクで置き換えてみると、例えば1時間後に始まる部門会議のために、パワーポイントを触ったことがないスマホ世代の若者に、資料作りを丸投げにすることができるだろうか。

そんなリスクを背負うのはゴメンなので、結局自分でやってしまうのが、普通の人の感覚ではないだろうか。

 

しかしそれでは、いつまで経っても自分の時間を付加価値の高い仕事に使うことなどできない。

そして人を疑うコストを、いつまでも自分が払い続けることになる。

さらに、部下を成長させる器量を持ち合わせることもない、ありふれた管理職であることにも気が付けないままに人生の時間を過ごし、やがてリタイアしていくだろう。

 

「己より遥かに優れし人物を集める術を心得しもの、ここに眠る」という言葉の、本当の意味

いい年をしてやっとわかった気がするが、この言葉の本当の意味は、人を信じて託する勇気を持つことだ。

部下であれ友人であれ上司であれ、相手の言うことはまずは疑わない勇気をもつこと。

 

騙されるまでは、相手を信じて自分自身と自分の想いを託してみること。

それは決してお人好しになれという意味ではなく、ROIの観点から考えても、10人の人を疑い1人の人に騙される損失を回避できたとしても、9人の人から得られたであろう利益を失うほうがトータルで考えれば損だということだ。

 

これが、グーグルが巨大企業になることができた教訓であり、何ら仕事をしているように見えない「あるブラック経営者」が、一代で大きな会社を作ることができた理由ではないだろうか。

40代なかばのオッサンになって、やっとそんな事が理解できた。

 

とはいえ、こんな心境を20年後には、「この症例に名前をつけたいくらい恥ずかしい」黒歴史になっているのかも知れない。。

人生は、いくつになっても勉強の積み重ねだ。

 

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【著者プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

去年の夏、道に迷ったおばあちゃんが家の前で座り込んでいたので、車に乗せて家まで送ってあげたことがありました。はるか遠い記憶ですが、亡くなった父親が全く同じことをしていたことを懐かしく思い出すことができて、とても幸せな気持ちになれました。

おばあちゃん、ありがとう。

(Photo:Ikhlasul Amal

このメディアの名は、Books&Appsである。

だから、たまには本の話もしよう。

 

 

新人さんは特に、会社に入ると先輩や上司から、「本を読め」と言われるのではないだろうか。

 

そんなわけで、最近、「読まないといけないと思うんだけど、本が読めない」という方から相談を受けた。

聴くと、「できる」上司、先輩たちから、本を読め、とつねづね言われているとのこと。

 

彼は困ったように

「読書、苦手なんですよね……。」という。

「なぜですか?」

「私、読むのが遅いんです。あと、そもそも何を読んだらいいか、よくわからないんです。」

「なるほど。」

「あと、先輩の進めてくる本は難しすぎて……。最後まで読めたことがないです。」

 

うーん、気の毒である。

「読んではみたんですね?」

「まあ少しは。で、実は本は断念しました。で、「マンガでわかる」というシリーズが結構あるじゃないですか。漫画なら読めるんで、あれで読んで、話を合わせてます。」

 

「別にそれでいいと思いますけど。」

「マンガになってないものもたくさんあるし、ちょっとかっこ悪いじゃないですか。」

「スラスラ本を読めるようになりたいですか?」

「そりゃ、なりたいですよ。」

 

 

「本を読めない人」は、結構いる。

 

ただ、個人的には無理して読むことはないと思う。

本を読んだからって、必ずしも仕事ができるようになるわけじゃないし、本は確かに費用対効果の高い情報源として優秀であるが、本が読めなければ、他の情報源で帳尻を合わせれば良いのである。

第一、楽しくないことに時間を使うのは、人生の無駄である。

 

しかし。

「本が読めるようになりたい」と思うのに、それができないのはちょっと気の毒だ。

なんとか解決してあげたい。

だが、どうすれば彼が本を読めるようになるのだろうか。

 

いろいろと考えてみたのだが、結局噛み砕いていくと「読書」に対して、最も普遍的なアドバイスをしているのは、19世紀の哲学者、ショウペンハウエルだ。

彼は、読書について書いた本を残している。

タイトルはずばり、「読書について」だ。

ここには、役に立つ指針が並んでいる。

[amazonjs asin="4003363221" locale="JP" tmpl="Small" title="読書について 他二篇 (岩波文庫)"]

 

1.古典を読むべし。新刊は読むな。

ショウペンハウエルの主張は明快だ。

まず彼の主張の中で、最も重要なアドバイス「何を読むか」に対しては、彼は「古典を読むべし、新刊は読むな」という。

読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。

その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。

たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。

むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。

要するに「人生は有限だから、実績のある古典だけ読んでりゃいいんだ」という話である。

 

極端にも聞こえるが、個人的には大いに同意するところだ。

大きな理由は2つ。

 

一つは供給過多。

月に出る新刊の数は約6000冊で、とてもではないが、全ては読み切れないし、読む価値のある本がますます判断しづらくなっている。

どの本を読んだら良いのかわからないのでは、貴重な時間を浪費したくない人に、本が読まれないのは当たり前だ。

 

二つ目は、供給過多に伴う品質の劣化。

特に「ほとんどの書店には、良い本を勧める能力がない」という事実である。

 

ベストセラーや、平積みを見てみるといい。

それは主に出版社と書店のマーケティングの結果を示しており、中身が良いかは全く別の話だ。

それらは「出版社と書店がプロモーションしたい本」であり、必ずしも「我々が読むべき本」ではない。

 

「いや、平積みはともかく、ベストセラーは良い本もたくさんあるだろう」という指摘もあるだろう。

だが、あえて言うと、本の質の判定には「どれくらいたくさん売れたか」よりも、「どれくらい永きにわたって売れたか」のほうが、圧倒的に重要だ。

 

10万部売れた?30万部売れた?

いやいやいや。

そんなものは、「60年間読まれ続けている」「200年間読まれ続けている」「1000年読まれ続けている」に比べれば、なんの価値もない。

 

実用書は、「普遍性のあるものについて書かれている」ほど、読む価値がある。

歴史の風雪に耐えて生き残ったコンセプトは、真理を表している可能性が高い。

だから弊社は、図書の分類を「年代別」にしている。これは、出版されてからの年数を示したもので、

「一年本」

「十年本」

「百年本」

「千年本」

の五種類だ。無論、読むべきは「十年本」以上である。

 

出版してから十年以上売れ続け、増刷を繰り返している本は、ハズレが殆ど無い。

「どの本を読めばよいかわからない」という方は、十年以上前に出た本しか読まなくてよいだろう。

 

もちろん、例外もある。新しくとも、学者が書いており、参考文献とエビデンスがきちんと示されている本ならば、良質である事が多い。

これは、「時間による普遍性の検証」ではなく、「科学的手法による普遍性の検証」が行われているため、質が高い傾向がある。

 

皆が着目していなくても、きちんとした研究と、検証を経て、世に出した情報には相応の価値があるだろう。

なお、ジャーナリストなどが書いたものであっても、信頼性の高い参考文献がきちんと示されているならば、「普遍性がある」と判断しても良い。

 

繰り返すが、本は「普遍性」を求めて読むのだ。

本は、「最新の情報」を求めて買うものではない。速報性では、新聞、TV、webには当然勝てず、雑誌にすら遥かに劣る。

だいたい、本を読むなら「みんなが知っていること」を求めて買うのは賢いとは言えない。

本に書いてある内容は、「みんなが本を読まない」からこそ、貴重なのだ。

 

だから、「今のベストセラー」、例えば、時の芸能人が書いた本や、最近業績が良い企業経営者の書いた本、流行りのキーワード(AIやRPA)に乗っかっただけの本などは、ベストセラーになっていても、うかつに手を出すべきではない。

これらは「読書の上級者向けの本」と割り切ることだ。

 

2.本の内容を憶えようとするな。繰り返し読め。

ショウペンハウエルが更に主張しているのは、「本の内容を憶えようとするな」である。

彼は、次のように述べている。

読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。

思うに、読書というのは、「読んだあとに何が残るか」に価値があるのではない。「読んでいる途中に、何を考えるか」に価値があるのだ。

 

わからない言葉が出てきたら、それを調べる。

自分の考えと異なる主張が出てきたら、その背景を探る。

自分の言葉に置き換えて、主張を再構成する。

 

そういったことが、自分の血肉となっていく行為が、読書である。

 

したがって、読書は同じ本を何度も繰り返して読むことが良い。

その血肉となる行為を反復することで、内容が自分のものとなるからだ。

「反復は研究の母なり。」重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。

それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。

さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。

だから、巷で人気のある「速読」は、全く意味のない行為であると、個人的には思う。

 

また「速読」は、知識の獲得という事においても、それほど有効ではないことが、カリフォルニア大学の研究で主張されている。

「速読」は不可能だと科学的に証明 「飛ばし読み」が最も有効

 

本当のところを言うと、読書のスピードを何が決めるのかといえば、実は「知識の有無」である。

「内容についての前知識があるかどうか」が、本を早く読むために最も重要だ。

 

例えば、ピーター・ドラッカーの書籍は「難解だ」と言われることが多々ある。

(だから、解説本が多く、「もしドラ」が爆発的に売れた。)

「マネジメント」には「企業は営利組織ではない」との突飛な主張があるが、ドラッカーがなぜこのような主張をしているのか、真に理解するのは難しい。

企業とは何かと聞けば、ほとんどの人が営利組織と答える。経済学者もそう答える。

だがこの答えは、まちがっているだけでなく的はずれである。経済学は利益を云々するが、目的としての利益とは、「安く買って高く売る」との昔からの言葉を難しく言いなおしたにすぎない。

それは企業のいかなる活動も説明しない。活動のあり方についても説明しない。

利潤動機には意味がない。利潤動機なるものには、利益そのものの意義さえまちがって神話化する危険がある。

利益は、個々の企業にとっても、社会にとっても必要である。しかしそれは企業や企業活動にとって、目的ではなく条件である。企業活動や企業の意思決定にとって、原因や理由や根拠ではなく、その妥当性の判定基準となるものである。

そのような意味において、たとえ経済人の代わりに、天使を取締役に持ってきたとしても、つまり金銭に対する興味がまったく存在しなかったとしても、利益に対しては重大な関心を払わざるをえない。

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この文章が「読めない」「難解だ」という人は多いかもしれない。

なぜなら、これを読むにあたり

「利潤動機」

「経済人」

などの一般的ではない言葉が出てくる上に、

「まちがっているだけでなく的外れ」

「目的ではなく条件」

「妥当性の判断基準」

など、独特の言い回しも、スラスラと読むには訓練を必要とする。

 

つまり、書籍は数学などと同じように「知識の積み重ね」によってしか、早く読めるようにならない。

加減乗除を理解せずに、微分積分を理解することはできない。

微分積分を理解せずに、解析学を理解することはできない。

そう言うことである。

 

したがって、マネジメントに関して全く知識のない新人に、

いきなりドラッカーを読ませようとしても、それは小学生にいきなり微分積分の教科書を渡すようなものである。

物事には順序というものがあり、知識には系譜というものがある。

それらを無視して先に進むことはできない。

 

だから、本は「調べながら読む」のが、一番良い。

最初に手にした一冊の本に3ヶ月かかろうが、半年かかろうが、良いのである。

 

こう言う読書を繰り返していると、読書から知識を得るスピードは「知識レベル」の向上とともに、加速度的に増す。

本をよく読む人は、ますます本から知識を得るスピードが上がる一方で、本をきちんと読まない人は「本から知識を得る」ことがますます難しくなっていく。

 

したがって、「早く読めない」という人に対しては、その分野の「本当に易しくて、読む価値のある古典」から、渡さなければならない。

早く読む必要なんて、まったくないよ、と言ってあげねばならない。

 

そして、その本を何度も反復して読んでいるうちに、「次の本」が恐ろしく早く読めるようになっていることに、いずれ本人が気づくのである。

 

3.熟慮なしの読書など、する必要はない

そして、ショウペンハウエルの最も重要な主張は、「本に書かれていることについて、改めて熟慮せよ」である。

熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。

それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。

読んだ感想をブログなどにアウトプットしてみる。

仕事の中で試してみる。

対人関係に活かすために、あれこれ思索する。

 

そういった「熟慮」を引き起こすことこそ、読書の価値である。

ショウペンハウエルは、「読書だけして、熟慮しなければ、バカになるぞ」という。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。

本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。

習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。

だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。(中略)

ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。

痛烈な皮肉が込められているが、主張は真理であろう。

 

だが、焦る必要はない。

ショウペンハウエルが「読んだ分量の五十分の一も身になればせいぜいである」と言う通り、何かわずかでも得るものがあり、人生にとって良いことがあるならば、それは立派に「素晴らしい読書」と言えるのだ。

 

良い読書ライフを。

 

 

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(Photo:Eugene Kim

かつて大学生だった頃、僕はドトールやスターバックスコーヒーといった所で読書、あるいは試験勉強をするのが好きだった。

自宅で勉強していると、つい手が漫画などに伸びてしまったり眠たくなってしまったりと全然集中できなかったりするものだけど、不思議なことに喫茶店で適度に周りに人がいる環境下だと人は俄然集中できるもので、自宅で勉強するよりも数倍効率が良いことを知り、以降好んでいくつかのお店を使わせてもらっていた。

 

もちろんというか、勉強が第一の目的で喫茶店におもむくわけだけど、ときおり非常に興味深い話題が隣でされる事もあり、そういう時は勉強に集中はしつつも隣の会話に耳がダンボになってしまう事もしばしばあった。

 

むき出しの人の社会は実に多様性に溢れている。というか、自分の所属する社会が狭かったのだろう。

僕は喫茶店で、老人の井戸端会議や新興宗教の勧誘や怪しい投資商品の勧誘、意識の高い学生の起業話、女子会、といった様々な会話を耳にする事ができた。

 

コミュニケーションには情報共有型と感情共有型の2つがある

そうしていくつかの会話を聞くうちに、コミュニケーションというものは暗に2つの型が含まれており、実は自分を含めて多くの人は、それをキチンと認識して使い分けていなかったな、と思うようになった。

 

それぞれ、情報共有型と感情共有型とここでは定義しよう。

情報共有型コミュニケーションとは、「コミュニケーションの目的が情報である」ものである。上司から部下への指示といった、仕事場におけるコミュニケーションの多くはこれに該当するだろう。

 

コミュニケーションが情報の伝達のみに使われるのだとしたら、この機能だけで十分そうに思えるが、意外と重要な役割をするのが後者である感情共有型のコミュニケーションだ。

例えば、好きな人が言ってる事ならば何でも肯定する人がいる一方で、嫌いな人間が言ってる事はどんなによいことでも全く耳に入ってこなかったりする。

共感は、情報以前の段階で、実は強く情報の伝達に強く作用する。

更にいえば、感情共感型コミュニケーションはもっと大きな所で人を動かしていたりもするのである。

 

それについて、感情共有型コミュニケーションの代表例である女子会を例に、具体的な話をしよう。

 

男女におけるコミュニケーションの違い

生まれて初めてミスタードーナツで女子会がどういうものであるかを目の当たりにした僕は心底驚いた。

女子会の構成要素の9割ぐらいは人の噂話と100%の同意で構成されており、毎回毎回

「ねえねえ!聞いて聞いて!」

「なになに?」

「(具体的な話)」

「えーなにそれひどーい!」

「でしょ、でしょ?」

みたいな流れの繰り返しなのである。ほとんどの場合において話題にヤマもなければオチもなく、「えっ?そこで終わるの?」みたいな、なんの脈絡もないタイミングで突然会話が終わったりもする。

問題の掘り下げや分析なんていうのは全く無く、ただただ事実が流れて過ぎ去っていくのみなのである。

 

男のコミュニケーション社会にいた自分にとって最も衝撃的だったのが、基本的には女子の会話はかなり均等に会話の機会が割り振られることだった。

例えば、Aさんがある程度会話で発散したら、ちゃんと次にBさんが会話を発散する機会が与えられるのである。

 

男のコミュニケーションだと、話せない奴は永遠に話す機会をもらえない。基本的には話す権利は、面白い話ができる奴がほとんど全部持っていってしまう。

また、基本的には同意などする奴はほぼ皆無で、誰かが何か悩みでも言おうものなら、全員が問題解決の方向で問題を分析し始める。

「大変だったね」などと共感を示す例はまず皆無であり、100%「こうしたらいいんじゃないかな?」という傍から見ればお節介にもほどがある「俺の話を聞け」モードに全員が没入するのである。

 

同じ会話でも、男と女でここまで違うものなのかと、かなりのカルチャーショックを僕は受けたのだけど、つい最近まで、僕は女子会の感情共有型コミュニケーションは一体何の役に立っているのかがよくわからなかった。

 

情報ならまだわかる。報告・連絡・相談を徹底すれば会社で重宝されるのと同様、情報のネットワークは私達を個から群れへと見事に練り上げる。

では、100%の、おまけに参加者全員の共感を増幅させる女子会は、一体何の機能を果たしているのだろうか?

僕はあれは一種の魔女のサバト(集会)の機能を果たしているんじゃないかなと思う。

 

女子会は、人の群れをうごめかしているのかもしれない

前にも書いたけど、感情とは私達の本能に他ならない。

ファクトはそこにあるものだけど、感情とはそれに何らかの方向性とかを付随させる、私達を導く謎の何かだ。

<参考 多くの人が「ファクト」でなく「感情」で動いているからこそ、世の中は良くなっているのではないだろうか。 https://blog.tinect.jp/?p=59004

そこから逆算するに、女子が好んでよくやってる感情共有型コミュニケーションというのは、男子がやるような情報交換型コミュニケーションであるファクトの対極に位置するものだ。

 

恐らくなのだけど、女子会で行われている共感型コミュニケーションは、集団のコミュニティ内で、個の感情を増幅する役割を果たしており、それが巡り巡って私達全体を何らかの方向的に突き動かしているのではないだろうか?

もっといえば、あのミスドで行われてるキャッキャウフフのカワイイお茶会は、その実で、群れの中における「好き・嫌い」の方向性を壮大に動かしているのである。

 

いくら男子がスカした顔をしてロジカルに情報共有をやろうが、所詮それは単なるファクトの交換でしか無い。

そこにエモによる方向性が組み合わさって、初めて何らかの具体的な方向性が決定づけられる。

 

多くの人は、好きな人が言ってる事ならば何でも肯定する一方で、嫌いな人間が言ってる事はどんなによいことでも全く耳に入ってこない。

ならば、女子会で、集団内の「好き・嫌い」の方向性が大きく作用されるとしたら、それはある意味では強烈な人民裁判にも等しい効果を発揮するであろう事は想像に難くない。

女子会は、群れとしての私達を裏から動かす、悪の秘密結社も真っ青な機能を果たしているのだ。

 

会話も性も、等しく我々に深い快楽をもたらす

コミュニケーションの効用に情報共有と感情共有の2つの効用があることは、これでおわかり頂けたと思う。

しかしそれ以上に、なぜ私達がコミュニケーションにここまで熱中するかと言えば、それが快楽であるからに他ならない。

 

なぜか。

これにヒントとなるような話をしよう。かつて僕が大学で授業を受けていた時に、フランス語の教授が実に興味深い事を言っていた。

彼いわく

「喋って気持ちいいのは喉の粘膜が発声により刺激されるからである」

「性の喜びも同じ粘膜の刺激を通してもたらされる」

「だから人間は、粘膜を刺激することで快を感じるように生きているんだ」

との事であり、それをもって「フランス語を勉強して、日本語にはない発音で喉を震わせる事ができるようになれば、語学を通じてより深い快を得ることが君たちはできるようになるのだから、必死でフランス語を勉強しなさい」との事であった。

 

この話が面白いのは、「会話」と「性」の快楽が、粘膜という同一の部分から生じているというのを指摘している点だ。

私達は口の粘膜を通じて「会話」という快楽に身を投じているのである。

孤独がどれだけ私達の心を負の方向に蝕むかを考えると、この快感がどれだけ私達の心の平穏に役立っているかが実によくわかる。

 

ということはだ。下半身の粘膜刺激だって、同じぐらい私達の心の平穏に貢献しているはずだ。

それが取り上げられた時、人はどれほどの苦しみを感じるのかについて貴重な証言をしてくれた方がいる。

それは、乙武さんである。

 

乙武氏「地獄の苦しみだった」 タブー視されてきた“障害者の性”、当事者が抱える苦悩と課題とは

一時期は議員候補になるとも噂された乙武さん。

性的なスキャンダルにより失脚した彼だけど、その彼は当事者の立場からこう話す。

「性欲は、食欲、睡眠欲と合わせて3大欲求と言われるが、食事や睡眠と違って生死に関わるものではないということで後回しにされたのだと思う」

「ただし、ここが封じられると周りが思っている以上にしんどいんだということは理解してほしい」

 

言われてみれば確かに性が抑圧されるのは、食事や睡眠と違って生死に関わるものではない。

にもかかわらず、下手したらそれ以上に苦しい何かを時に私達に押し付けてくる。

 

現代社会において、性はある意味では勝ち組のシンボルであり、そしてそれは何故か美しいものである事が理想化されている。

美男美女の恋愛は良いコンテンツになるのに、おじさんとおばさんの恋愛は嘲笑されがちな事を考えてもらえばわかるだろう。

 

どうも世の中には「性愛は勝ち組が手にするものであり、キモい性愛はみたくない。かつ、食事や睡眠と異なり、なくても生きていけるという点から、あれは贅沢品である。手に入らないからといってつべこべ言うな」という風潮がある。

しかしここまで読んでくださった皆様なら、乙武さんの苦しみがどれほどのものか類推する事ができるのではないだろうか?

たぶんあの苦しさの本質は、人と喋れないタイプの苦しみと同じであり、孤独で人が鬱になるのと同程度、下半身の粘膜刺激を奪われる事は、すっごくすっごくシンドイ事なのだ。

 

どこにも繋がれないのは、ひどく苦しい

一体、この苦しみの正体はなんなのだろうか?長い間ずっとそれについて考えていたのだけど、そのヒントがある本に書いてある事を思い出した。セックスボランティアである。

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この本の中で、障害者の性という、一般的にはタブーとされる事項が扱われていたのだが、その中である障害者の方が

「射精すると、男としての自信が取り戻せて安心できる」

といったような事を述べていた。

 

この「自信」という言葉の意味を最近まで延々と考え続けていたのだけど、これは「男性として機能できている」という事を自認できるという事の象徴なんじゃないかと思う。

性とは男女の生殖器が働くことにより産まれる「これまで、そしてこれからの時代」の遺伝子のクロニクル的な縦の繋がりだ。

その営みは、基本的には下半身の粘膜刺激を通じて行われ、人はそれに快を感じるようプログラムされている。

 

そういうインセンティブが働くからこそ、私達は下半身に突き動かされて性愛という困難に”あえて”挑戦するよう動かされる。

その結果、うまく行けば凄く凄く幸せになれるのは、いうまでもないだろう。

 

そう考えると、性欲を押さえつけられた時に感じるシンドさというのは、この遺伝子のクロニクル的な縦の繋がりが「ここで行き止まりだよ」と言われる事に近いのではないだろうか。

そう考えると、僕はすごくシックリ来る。

「射精すると、男としての自信が取り戻せて安心できる」というのは、もっと突き詰めていえば「先に進めてるよ」というDNAが本能で感じる「共感」なのだろう。

 

例えば、セックスボランティアに登場した方は、実際にいわゆる生殖活動を通じて、子供を成したわけではない。

じゃあそれをもって、障害者の性的快楽を無駄だとか贅沢品だと言えるかといえば、そんな事は全然ないだろう。

 

射精という性のコミュニケーションが「自信」として個人の心の健康に強く寄与しているという圧倒的現実を鑑みると、性の快楽とは恐らく一種の遺伝子の「共感」みたいなもので、私達が友人とバカバカしい話をしてスッキリするのと、恐らく似たようなものなのだ。

 

性を下半身の粘膜を通じたコミュニケーションと考えれば、情報共有と感情共有の2つの作用があると考えるのが当然だ。

子供のような成果物が情報共有型の性のコミュニケーションだとすれば、射精などの生の喜びは感情共有型の性のコミュニケーションであり、それを通じて過去と今との繋がりに個体レベルで「共感」できることで、人は想像以上に「生物として安牌な行動をしている」という安堵感を実感できる。

 

だから逆に下半身の粘膜刺激を奪われると、人は遺伝子レベルでつながりを否定されたかのような感覚に陥り、「性の反共感対象」に置かれたと本能レベルで実感してしまう。

だから、性の快楽を奪われると、人は思った以上に「シンドイ」のだ。

 

コミュニケーションなくして、人は豊かに生きられない。

会話の快楽も、性の快楽も、奪われたからといって直接的には生死に関わるものではない。

だが、それらが日常生活から消失すると人間は酷く心を病む。何故か?それは、過去から未来にいたるまで、私達が常につながる事で生きてきたからだろう。

 

陳腐な言葉だが、人は1人では生きていけない。良い友人に囲まれる事は、とても豊かな人生を私達に与えてくれる。

会話は、偉大なるヨコのつながりを私達にリアルに実感させてくれるし、それを奪ういじめは酷く私達の心を蝕む。

あれば、もう犯罪にしてもいいんじゃないだろうか?

 

そして同じく、私達の命は過去から今へと連綿と繋がっている。そこの流れから落とされるのをDNAレベルで直面させられる事は、今までの自分を組み上げてきた過去からの怨念ならびに、未来のありえた可能性からへの恨みも相まって、酷くおどろおどろしいものとなっている。

 

このタテ方向からのつながりの苦しさを見て見ぬふりをするのは、ひどく残酷なことだ。

キモいからって、性愛からパージされるのは、僕は大真面目に人権問題だと思う。

 

コミュニケーションなくして、人は豊かに生きられないのだ。

人のセックスを笑うなという言葉の意味は、思った以上に深いのである。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Andy Rogers

つい先日、ツイッターを眺めていたらロンブーの田村淳さんがCLANNADというアニメを褒めていた。

これを読んでいる大部分の人はCLANNADの事など知らないと思うので簡単に説明しておくと、CLANNADは2004年にKeyという会社から出されたPCゲームだ。

いわゆるノベルゲーなのだけど、そのシナリオはすざまじく面白い。ハッキリ言ってプレイすると魂が抜ける事必死である。

 

2000年頃、PCのノベルゲーはとてつもないクオリティを誇っていた。

Key三部作であるKANON、Air、CLANNADは言うまでもなく、それ以外にもEVER 17やクロスチャンネル、月姫、ひぐらしのなく頃にといった超絶面白いゲームが次から次へとポンポン飛んでくるような有様で、僕は勉強なんてそっちのけでひたすらにPCのモニターに張り付いて、徹夜で右クリックを連打して極上のシナリオを読みふけっていた。

 

「なんだこれ、こんなに面白いものがあったら、絶対にみんな夢中になるに決まってるじゃないか」

 

しかし不思議な事に、これらの文化は非常に限られた極一部の好事家のみの間でしか流行らなかった。

当時、僕はかなり必死になって周りの人に布教したのだけど、みんな「そんなオタクみたいな気持ち悪い絵のゲームなんて、やりたくない」と全く見向きすらされなかった。

僕は正直、信じられなかった。そりゃ、その当時は確かにというかオタクっぽい趣味は現在と比較して物凄く唾棄されてはいたけれど、そんなものを補って余りあるレベルの世界最高のコンテンツが目の前にあるのに、まさか誰も手にすらとらないだなんて……。

 

それから15年後、あんなにも嫌われてたオタク趣味が割と一般的なものと化し、それと共になのか芸能人のようなキラキラした人達ですら、アニメ絵バリバリのCLANNADを褒めるようになるのだから、世の中というのは本当に不思議なものである。

 

似たような事は中学生時代にもあった。

当時、ジョジョの奇妙な冒険の第5部が連載されており、僕はあまりの重厚なストーリー展開に衝撃を受けて毎週毎週ジャンプを丹念に読み耽るほどハマっていたのだけど、ジョジョも「なんだか絵が気持ち悪い」との事で全くといっていいほど、周りでは受け入れられる事はなかった。

 

これも僕には全く信じられなかった。こんなに凄い物語が、毎週毎週ジャンプにリアルタイムで連載されているのに、それを追っかけないだなんて、人生の損以外の何ものでもないじゃないか。

そう思ったのだけど、少なくとも僕の周りの人達の目は、あの絵にかなり厳しかった。

 

しかし時の流れとは恐ろしい。今では叶姉妹がジョジョのコスプレをする位に、ジョジョは一般社会で普通に受け入れられるようになってしまった。

 

繰り返しになるが、世の中というのは本当に不思議なものである。CLANNADもジョジョも、誰でも手にとることができたものなのに、爆発的に流行るまでには10年近くもの時が必要だったのである。

一体何が、10年もの間、これらのコンテンツが普及するのを阻んでいたのだろう?

 

面白い人間になる奴はコンテンツの感受性がずば抜けて高い。

コンテンツの感受性というのは本当に人によって差がある。

2000年前後の頃、インターネット最高のコンテンツの1つは間違いなくテキストサイトだった。

侍魂を頂点としたそれらのクオリティの高さは半端なく、僕は「こんな面白いものがこの世にあるだなんて」と目をキラキラさせて読みふけっていたけれど、それらが当時、表舞台で称賛される事はあまりなかったように思う。

少なくとも学校で大流行するようなものではなかった。

 

そんな感じのまま、身の回りに自分が面白いと思うようなものを共有する友達を一人も持たないまま大学を卒業するに至ったのだけど、卒後にネット経由で自分が面白いと思えるような事をやっている人と会うようになって、彼らが僕とほとんど同じようなコンテンツを孤独に消費していた事を知ってエラく驚いた。

 

みんな、人の目を偲んでコッソリとテキストサイトだったりPCゲームを嗜んで、隠れキリシタンのごとく暗い青春を過ごしていたのである。

そして彼らの多くが、小さい頃に体験した極上のコンテンツのエッセンスを用いて、大成功を遂げていた。僕は「やっぱり自分の感性は間違ってなかった」と10年越しの答え合わせをした気分だった。

 

コンテンツの感受性とキャズム理論の整合性

その後、ジェフリー・ムーアのキャズムという古典的名著を読み、僕は自分の考えていた事に理論的にも整合性を見出すことに成功する事となった。

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この本では、新しい革新的なIT技術を売り出す際のマーケティングをする際に、購入対象を以下の5つの層に分類する事を提唱している。

 

・イノベーター

新しい技術が好きで、実用性よりも新技術が好きな人。オタク。

・アーリー・アドプター

新しい技術によって、競合相手などを出し抜きたいと思っている人。

・アーリー・マジョリティー

実用主義で役立つなら新しい技術でも取り入れたいと思っている人。

・レート・マジョリティー

新しい技術は苦手だがみんなが使っているなら自分も使わなければと思う人。

・ラガード (laggards)

新しい技術を嫌い、最後まで取り入れない人々。

 

それぞれの間に溝があり乗り越えなければならないが、特にアーリー・アドプターとアーリー・マジョリティーの間の大きな溝(キャズム)を乗り越えられるかどうかが、その製品が普及するか、一部の新製品マニアに支持されるにとどまるかどうかの一番の鍵であると、著者らは提唱していた。

 

キャズムはITサービスの流行について語っていたが、その次代には新しすぎるコンテンツの流行もこれに似たものがある。

そして、それをいち早く嗅ぎつけてエッセンスを取り入れる事に成功した人が、それを用いて次世代でメチャクチャ面白いモノを提供するのではないかな、と僕は思う。

 

本当に、面白い人間というのはコンテンツの感受性がずば抜けて高い。

彼らはその当時、世間では全く流行っていない最高のコンテンツを見つけ出しては、ひっそりと孤独に消費し、それを着々と自分の血肉とし、数年後にそれを使って物凄く面白いことをする。

 

ちょっと前に、テスラのイーロン・マスクやウィキリークスのエドワード・スノーデンが「君の名は」が大好きだという事を公表していたけど、たぶん僕が思うに、彼らも若い頃、かなりマニアックだけどムチャクチャに面白いコンテンツを消費していたに違いない。

<参考 https://kai-you.net/article/58357

 

新海誠さんは「君の名は」で大ヒットを飛ばしてかなり一般化したけど、15年ぐらい前の頃から、凄くエグい話とキレイな動画を作る人としてオタク趣味の人の中では割とホットな方だった。

アーリーアダプターの人達は、自主制作やminoriで作品を作っていた頃の彼が凄く懐かしく感じるのではないだろうか。

そして多分だけど、イーロン・マスクやエドワード・スノーデンは、その頃から新海誠さんを追っかけてたはずである。

 

やっぱり、面白い事ができる人間は、マスがその当時は好まないような面白いものを消費しているのだろう。

どんなに溝(キャズム)が深かろうが、本当の感性を持つ人間はそれを易易と乗り越えて消費し、血肉としてしまうのである。

 

今の感度がいい中高生は何にハマってるのだろう?

社会人になると、仕事が私生活のかなりの割合を占めるようになり、人生の忙しさが加速的に上昇していく。

それと共に、暇な時間というものがドンドンなくなっていってゆく。

 

社会人以降の人生は本当に忙しい。加齢も重なって、全てのコンテンツを追っかけ続ける時間も体力も、どんどん消えてゆく。

最近、僕の私生活から様々なコンテンツが次々と脱落していっている。本当は全部追っかけていきたいのだけど、残念ながら気力も体力もそれに追いつきそうにない。

 

これを読んでいる人の中に今後、面白いことをやりたいと思っている人がいたら、勉強や課外活動に精を出すのと並行して、若い頃に面白いコンテンツを大量に消費する事は絶対にやっておいたほうがいい。

僕が知る限り、面白いコンテンツを消費してない人間が物凄く面白い事をやっている例は極めて稀だし、それらの面白いコンテンツを浴びるように消費するのは、若い頃にしか本当にできないからだ。

 

そしてこれを読んでいる若者の中に「いま、世間では全然話題になってないけど、サイコーに面白い」コンテンツを消費している人がいたら、ぜひ僕に教えて欲しい。

高校生時代の僕にとってのPCゲームやテキストサイトに相当するようなコンテンツが何なのか、物凄く興味がある。

 

いつの時代も、一番面白いものは若者が一番よく知っている。

そして、そういう面白いモノを消費する人達が、10年後、20年後に最も面白い事を成し遂げるのは、間違いない。

 

いつの時代も、コンテンツは最高の人間分度器だ。マスが全然受け入れないようなユニークなものを見抜ける人にこそ、ホンモノのイノベーターの素質があるのである。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Alex Davis

東大生は自分のことを貧乏だと思ってる

1000万円というのが金持ちの一つの基準で、それに足りないウチはやっぱり中流階級なんだと思った記憶がある。

僕は地方都市の郊外、人口5万人程度の町で生まれ育ち、小中高(駿)大と1年を除いてすべて公立で済ませてきた。

父母僕弟の四人家族で車は国産の普通車、家は駅から少し離れた3LDKのマンション、外食は月に一度するかしないか、98円の卵のために朝からスーパーに出かけるような、至って普通の家庭だ。

中高時代はスーパーのフードコートでマックポーク1個だけで粘り、近所の友人とオタ話に花を咲かせた。高校は街中にあったので、放課後にラーメン屋に誘われることもあったが、月5000円の小遣いがラーメンに消えるのが惜しくて断ることが多かった。

冒頭リンク先のタイトルは「東大生は自分のことを貧乏だと思ってる」だが、裕福ではない東大生の生態についてより、中流家庭で育ったとする筆者が中流家庭を自認し続けているところに私は興味を持った。

 

上の引用文を読み返すと、いかにも20世紀末の中流家庭といった風情がある。

4人家族、国産の普通車、駅から少し離れた3LDKのマンション、等々。金銭的に慎ましい、「普通」の家庭が連想される。

 

だが、筆者が東大に進んだ話になってからは、ただ慎ましい家庭ではなく、お金の使い道をきちんと考えた家庭で育った様子がだんだん見えてくる。

東大生の親は、子どもを遊ばせるためにお金をむやみに与えたりはしない。

しかし、教科書代や本代を惜しむことはない。もちろん親の財力には差があり、子どもへの仕送りの額にも違いはある。

が、ともかく、子どもが学歴をつけていくこと・子どもが安全を確保すること・子どもが体験を広げていくことにはお金を惜しまない。

 

筆者もまた、そのような家庭に育ったとみて差支えなさそうだ。文中に「学期初めの教科書代は別途追加で送られてきた」というくだりがあるし、そもそも、こういう視点で東大生の生態を書き綴れること自体、筆者がそうした考え方を身に付けてきたことを証明しているように思われるからだ。

 

私が見知っている東大生や医学部の同窓生の生態も、これとあまり変らなかった。

子どもに高級車をポンと買い与えるような家庭の親はもちろん、お金に困っている家庭の学生の親も、子どもの学術書代にお金をケチっているようにはみえなかった。子どもの学力や安全や成長にお金を惜しまない姿勢があったように記憶している。

 

「資本家」としての東大生の親

ここで再認識させられるのは、「東大生の親は子どものどこにお金をかけるべきか、よく選んでいる」ということだ。

東大生の親がお金をかけているのは、子どもの学力、安全、成長だ。

つまり、子どもの将来にかかわる領域にお金を使っている。

 

子どもがかわいいからといって一辺倒に甘やかすのでなく、子どもの将来にかかわる領域に集中投資をするさまは、不必要な浪費を避け、経済生産性をもたらすところに資本を集中させる資本家のようだ。

 

私は、子育てを投資とイコールで結び過ぎるのは危険な行為だとは思っている。

なぜなら、投資財としての子どもはあまりにも不透明で、あまりにも主体的で、親と子どもでは思惑も人格も価値観も異なるからだ。ここのところを忘れてしまい、子どもをピュアな投資対象とみなして子どもの人生を歪曲してしまう親も珍しくない。

 

とはいえ、子育てには投資になぞらえたくなる側面もある。子どもの学力や能力に費やしたリソースは、子どもの年収や就職可能性といったかたちで次世代の経済生産性に貢献する。

年収に直結しないとしても、文化資本というかたちで間接的に経済生産性に貢献する側面もあろう。そうやって、親の代につくられた経済生産性は子の代へと世襲されるか、ときには、子の代において拡大再生産されていく。

 

子どもの将来に選択的投資を行い、子どものキャピタルの拡大をもくろんでいる親は、選択的投資を行い、キャピタルの拡大をもくろんでいる資本家と発想の根幹が似ている。

 

ちょっと古いが、ブルジョワという言葉をご存じだろうか。

ブルジョワとはフランス革命以前の「第三身分」に相当し、王侯貴族でも従来の農民でもない身分がこれにあたる。

産業革命以降、ブルジョワとは専ら資本家のことを指すようになり、そのブルジョワと同じ精神性を持ったもう少しお金のない人々――たとえば事務職や専門職のような――のことは小ブルジョワとかプチブルジョワなどと呼ばれていた。

 

この視点でみると、東大生の親はブルジョワやプチブルジョワに相当する。

なぜなら、子育てを投資の視点でやってのける精神性と実行力があるからだ。

 

労働者的な親や田舎の農家の親はそうではない。

イギリスの労働者階級あがりの社会学者、リチャード・ホガートが書いた『読み書き能力の効用』にも、投資の視点で子育てをやらない(というよりできない)親に触れた箇所がある。

かれらは、いわゆる「教育のある人びと」の標準からすると、間違った子供の育て方をしている。私は、現代の育児の本で説かれているような標準のことを言っている。子供ばかりではなく、若者までもずっと結婚するまで甘やかすのが、ずっとむかしからの労働者階級の伝統なのだ。

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労働者階級の親も子どもを大切に思うし、子どもにお金をかけている。

だが、それは「甘やかす」ものではあっても「選択的投資」ではあり得ない。いや、子どもに対してだけでなく、自分達自身に対しても彼らは「選択的投資」をなし得ない。

私は田舎の地域社会で育ったので、ここでリチャード・ホガートが言わんとしていることに実感がある。

 

昭和時代の北陸地方の田舎には、高度経済成長によって潤った家庭がたくさんあった。

たぶん、世帯年収で年収1000万をくだらない家庭も多かっただろう。手入れされた庭。大きな邸宅。立派な鯉のぼり。そういったものがごく当たり前に存在していた。

 

だが、そういった田舎の潤った家庭の多くは、東大生の親のような「選択的投資」をなし得ていなかった。

子どもが欲しがるものを与え、子育ての満足度を高めてくれるアイテムにお金をかけていた。

祭りの屋台を、子どもの金銭感覚を養い社会経験を拡げる場と捉えるのでなく、子どもが欲しがるものを買い与える喜びを得る場と捉える ── 今にして思えば、そういった親としてのありようは、ブルジョワ的・プチブルジョワ的というより、労働者階級的だった。

 

この視点で考えるなら、そういった田舎の潤った家庭の子育てや暮らしぶりは、金銭的には中流っぽくても精神的には中流ではなかったと言わざるを得ない。

それとは逆に、お金がカツカツでも東大生に本代を仕送りしている親は、金銭的には貧しくても精神的には中流だったと言える。

 

「精神的には中流」

以上を踏まえて、冒頭で紹介したはてな匿名ダイアリーの文章に戻ろう。

くだんの筆者は、いかにも慎ましいげに以下のように文章を締めくくっている。

妻は高いものを購入したい時、必ず僕に確認する。冬物のコートとか、デパートの化粧品とか(妻が怖じ怖じと切り出した割に、化粧品は6000円と意外に安かったのでそれぐらいなら確認せずに今後も買っていいと伝えた)。

僕も相談するようにしているが、この間のカメラのレンズはOKが出なかった。これが年収1000万円の暮らしなのか、と考えると今でも不思議な感じがする。まだ子供がいないから多少ゆとりがあるだけの、「普通」の家庭だと思う。

僕は今でも、自分のことを中流家庭だと思っている。

筆者はこうした慎ましげな家庭っぷりを披歴したうえで、「自分は中流である」と自称している。

 

確かに中流ではあろう。

だが私に言わせれば、この筆者が中流である最も重要なポイントは、年収の額でも趣味や化粧にお金を費やしている度合いでもない。

「選択的投資」を理解していること、そしてそのようなハビトゥス(習慣)を親や学習環境からしっかり継承していることが、筆者が中流である徴候とみる。

 

子どもの教科書代にお金を惜しまない親は中流的だが、そういった家庭で育ち、「選択的投資」という概念をしっかり内面化し、そのように社会を眺め、そのように世渡りしていく子どもも中流的だ。

たとえば普通の本屋には置いてなさそうな文化的な本を買い漁る学生などは、表向きは貧乏でもその精神性は中流的であり、いわば、精神的ブルジョワである可能性が高い。

少なくとも、同じお金をもっぱら呑んでしまったりソーシャルゲームのガチャ代に充てたりしている若者よりは、ブルジョワ的と言って差し支えないだろう。

 

資本主義のロジックを加速させていく現代社会を生き抜くにあたり、「選択的投資」をやってのけられる精神性は、あったほうが望ましいハビトゥスであり、かなり重要な文化資本と思われる。

 

「中流であり続ける」とは、年収が一定水準かどうか以上に、中流的・ブルジョワプチブルジュワ的な精神性が親から子へと適切に継承されていくことではないだろうか。

そして「中流になる」とは、こうした文化資本を自分の代になって初めて身に付けることではないだろうか。

冒頭リンク先の記事を読み、それから自分自身の生まれ故郷の過去と現在を思い出して、私はそんなことをふと思った。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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