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壱岐でお世話になった知人が、クラウドファンディングで支援者を募っていた。

発起人は立山晋吾さん。

生まれ育った壱岐島の漁業の衰退を目の当たりにし、勤め先の九州郵船を辞めて、「釣り船」の会社を立ち上げた。

 

そう聞くと、読者の方々は、昨今のいわゆる「スタートアップ的な」起業を思い浮かべるかも知れない。

テクノロジー、マーケティング、モバイル、AI、最適化……

「釣りのプラットフォーム」とかそんな言葉が並ぶ起業だ。

 

しかし、この起業は、そういった話とは無縁だ。

立山さんの問題意識は別のところにある。

 

初心者に異様に厳しい「船釣り」の世界

一年半ほど前「釣りを始めた」という記事を書いたが、その中で「釣り船は客が怒られる世界だ」と述べたことがある。

30代後半からは、意図的に「教えてもらう側」に回り続けないと、学びがどんどん下手になる。

この話をすると、「釣りって、楽しいですか?」と聞かれることがある。

回答は無論、「楽しい」なのだが、実はそれと同じくらいの割合で「つらい」も配合されている。(中略)

釣り船の人とかに怒られる。「リール巻きすぎ!」とか「そこ邪魔!」とか。

40すぎのオッサンが思い切り怒鳴られる、というのは、会社でもなかなかないだろう。

 

書いたとおり、腹が立つのを通り越して、釣り船はとにかく不親切だ。

釣り方を教えてくれる船は希少で、ひどいときには持ち物すら全く教えてくれない。

 

初心者だった私は、釣りに行く地域の状況をYoutubeなどで調べ、仕掛けと釣り方を独力で学んで、なんとか当日をやりすごした。

一緒にやっている友人がいなかったら、くじけていたかも知れない。

 

立山さんの問題意識はそこにあった。

彼のnoteには、それが切々と書かれている。

親子が船釣りを楽しみたいとき、そこに立ちはだかる、例のハードルを無くしたい

先程の3人のうち2人は、これまで海での釣りの経験は、どうやら皆無。
それなのに、

■海に出たと思ったら、レンタルした釣具や、餌などの付け方もよくわからないままに、「じゃあ、釣ってみて」「底から10」とだけ、船長から指示される
(※底から10とは、海底に一度オモリを沈めて、それから10メートルほど巻き上げたところで釣ってね、という意味です)

■しばらく(20〜30分ほど)釣れないと、船長から今度は
「この時間帯でこの場所で一匹も釣れないと、今日は一匹も最後まで魚なんてつれね〜よ」とハッパをかけられる
(船長に悪気はないのですが、常連さんに向けたハッパが、結果的に初心者の方々への圧力に・・・)

■それでもなかなか釣れずに困惑していても、船長や船のスタッフからの声掛けやヘルプはなく、見かねた隣のお客さんが、アドバイスを始める・・・

こんなことをしていては「釣り船」の業界そのものが、立ち行かなくなることは目に見えている。

だから立山さんは、「それって違うよね」という問題意識を持って、業界の崩壊を止めるために起業した。

 

初心者に厳しいと、ゆくゆくは自分たちのクビを締めることになる

実はこのような構図は、釣りだけではなく、あらゆるところに見出すことができる。

 

例えばゴルフ。

ゴルフは20年で市場規模が半減、人口はピーク時の3分の2になるなど、悲劇的な状況だ。

20年で市場規模が半減!「ゴルフ」が消える日

ゴルフ人口はピーク時の3分の2以下に
──ゴルフ界は危機的な状況なのですか。

ゴルフ人口がピークの3分の2以下になり、ゴルフにかける単価にしても以前は1万円を超えていたのが、今や半分以下。ゴルフ場の数はそんなに変わっていないから、1ゴルフ場当たりの売り上げも減っている。安くしたパッケージのプレー料金がさらに安くなって、デフレスパイラルが特に地方で生じる。ゴルフ用品購入も中心が新品から中古品に移っている。ゴルフ業界全体がいわば日本経済の状態そのままを映している。

 

なんでゴルフは衰退したのか。

「若者にお金がないからやらない」という話もあるようだが、私は違う見方をしている。

ゴルフの衰退は、釣りと同じく「初心者に厳しい」からだ。

「ゴルフ 初心者 迷惑」で調べてみれば、すぐに分かる。上から目線のおっさんたちが、「練習してから来いよ」「初心者は迷惑だから来んなよ」というオーラを、無邪気に出しまくっている。

 

ゴルフの面白さは「ゴルフ場」にあるのに、「練習場で練習してから来い」とか、初心者に試させる気がまったくない。

高い金を払って、嫌味を言われて、急かされてプレーするなんて、誰だってやる気をなくす。

 

もちろん、他にもこの手の話はよくある。

例えばオンラインゲーム。雨宮さんは初心者にマウントする輩を「厄介な玄人」と書いている。

趣味の世界で嫌われる「厄介な玄人」にならないために

そうすると生じるのが、ゲームに対する情熱や腕前の差による摩擦だ。

「対策してこない雑魚は消えろ」

「やばいプレイヤーがいたから晒すわ」

というやり込み勢に対し、「ガチすぎてうざい」とドン引きするライト層。そんなのもう、いやというほど見てきた。

「うざい玄人」がたくさんいるゲームに、誰が初心者として入っていきたいと思うだろう。

少なくとも私は絶対にやりたくない。

 

「子育て」のハードルを無邪気に上げる

いや、趣味やゲームの世界なら「辞めます」で良い。

だが、最近では「子育て」もそう言えるかも知れない。

 

例えば以下の記事では、しんざきさんが「子供には絶対◯◯してはいけない」という記事に対して、「ハードル上げすぎるの辞めません?」と言っている。

極論の投げつけあいで育児のハードルを上げまくるのはそろそろやめにしませんか

端的に言ってしまえば、「絶対に怒りをぶつけてはいけない」という言葉はハードルのガン上げ過ぎます。人間は感情の生き物なのであって、感情を完全にコントロールできる人はそうそういません。たとえ普段「なるべく抑えよう」と努力していたって、時には感情が表に出てしまうことだってあるでしょう。

 

それに対して、「親が子どもに怒りをぶつけるなんてもっての他!」という言葉をぶつけていては、子育てという行為自体のハードルが上がって、「私には子育てなんて無理だ」って思う人も増えれば、「怒りをぶつけてしまった」と自分を責める人だって増えると思われませんか。

それ、結局誰も幸せになれてないと思うんですよ。育児なんてただでさえ疲弊する場面が多いのに、よりいっそう疲弊する要因を増やしてどうするのかな、と。

子育てのハードルをあげすぎた結果何が起きたのか。

少子化だ。

 

「そんな面倒なこと言われるんだったらやーめた」「そんな金かかるならやーめた」という人が増えたのは、ちっとも不思議ではない。

子育て論でマウント取れば取るほど、子供育てたい人減りますよ、という話だ。

 

子育てなんて、最初は誰もが初心者ですし、そう何度も経験することじゃない。

それに対して、温かい言葉と励ましではなく、「あーあ、初心者はこれだから……」と批判したら……誰も入ってこなくなる。

 

余談だが、会社でも「新人」は大事に扱う会社がほとんどだろう。

当たり前だが、新人が成長できない会社は、後継者が絶えていずれ滅ぶからだ。

だから、マネジメント上も、新人に教えなかったり、すぐにマウント取ろうとしたりする先輩などは、「組織を破壊している」とみなして、厳しい処置を取るべきだ。

 

「初心者に優しく」

立山さんのクラウドファンディングの立ち上げは、そういう「初心者お断り」へのアンチテーゼだろう。

彼のサービスは、「初心者や家族連れに優しい釣り」を標榜している。

 

微力ながら協力したいし、わたしにも子供がいる。娘に釣りを経験させてあげたい、とも思う。

わんぱっく壱岐(クラウドファンディング)

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(http://tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(http://note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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(Photo by Humphrey Muleba )

シロクマ先生が書かれた”健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて”を読んだ。

[amazonjs asin="478161888X" locale="JP" tmpl="Small" title="健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて"]

 

本書は現代日本における”生きにくさ”の正体を分析する。

 

現代社会の科学技術の発達は凄い。

先進国である日本に住む私達はその結果とても豊かになり、大なり小なりその恩恵をうける事となった。

 

では現代の快適さが全ての人を生きやすくしたかというと、そう事は簡単ではない。

科学・経済ともに高度に発達した結果、日本の街は潔癖といえるほどにキレイになり文化もかなりリベラルになったが、その結果、そこに住む人としてのある種の特別な文化コードのようなものが自然と要求されるようになった。

 

快適さの代償として要求される、その特別な文化コードこそが現代の生きにくさにつながっているのではないか、というのが筆者が世に問いかけた事であり、本書は精神科医としての視点を持ち合わせた上で現代社会を様々な形で分析していく。

 

経済人としての人間と動物としての人間

プログラム化された動物は時に”個”ではなく”種”としての最適解を選ぶ。

DNAレベルで考えれば、生物が最も優先すべきことは種を残す事だ。

そのために個が犠牲になる事を時にいとわない。

 

一方、人はDNAに基づいた直線思考はあまり行わなず、種よりもひどく個や共同体の利益を優先する傾向がある。

昨今、行動経済学の発達により人間の行動原理にもある種の法則性がある事がわかりつつあるが、ミクロとしての私達の動きは動物とは随分異なる。

 

なぜそのような事になったのか。

一つのありえる仮説としては、私達には動物としてのホモ・サピエンス的な性質に加えて、経済人としてのホモ・エコノミクス的な新しい思考回路がインストールされたという考えはありうるだろう。

 

実際、ヒトという種は新皮質というもう一つの脳を他の種と比較して上手に使いこなす事が知られているが、動物としてのむき出しの本能は旧皮質に情動として上手に収納しつつ、利己的な個に徹するのがヒトという種が見出した自然界における最善戦略だったのだろう。

 

そしてヒトが地球上を広く支配するようになってから長い歳月がたち、この新皮質の支配領域は社会の中でとても広いものとなった。

現代の東京はそのホモ・エコノミクス的な要素がひどく結晶化し具現化している。

生産性を主眼に構築された東京という町は酷く清潔だ。

そこでは生産性がないとされたものは自然淘汰されてゆき、生き延びる事ができない。

 

結果、街自体がホモ・エコノミクスとしての文化コードを要求するようになり、そこに住む人達も自然とホモ・エコノミクスとしての立ち振る舞い方を強くとるようになった。

 

そうした結果、出生率の減少というとても興味深い現象がおきた。

先程、動物の行動原理は基本的には総体としての種が残ることを第一の基本原理とすると書いたが、高度にホモ・エコノミクスとしての文化コードを身に着けた東京人はホモ・サピエンスとしての功利主義である子育てを意図して切り捨てる事に違和感を感じなくなったのである。

 

子育ては忙しく、個人の生産性をひどく損なう。

「生産できない人間はこの街には要らない」という都市環境のカタチを介した無意識の強制力は凄い。

現代の東京では子育ては”贅沢品”であり、エンターテイメントの一つとしてほかの何かと擬似的に置換可能なモノとみなされるまでになったのである。

 

いくらカネがあろうが、人は動物としての幸せは超克できない

近代における科学技術の発達は自然を人間がコントロール可能であるかのような夢を私達にみせてくれた。

 

「科学は万能だ」と夢にむかって突き進んだ先で、結局私達は自然に打ち勝てないという現実を目の当たりにする事にはなったのだが、私達は人為で世の中全てを支配下に置けるという幻想をどうしても持ちがちだ。

 

たとえば1997年に発表された『もののけ姫』では、エボシはシシ神殺しを成すが、結局エボシは自然を超克することができなかった。

あの話が私達に特に違和感なく受け入れられるのは、これは物語だけの話ではないからだ。

例えば、このエピソードの類似系は現代でもコロナのパンデミックなどで簡単に見いだす事ができる。

 

ヒトとモノがグローバルに簡単に行き来できるようになり、グローバル化が全世界を覆ったかのようにみえた瞬間でのウイルスのパンデミックは、まさにシシ神の首を撃った瞬間、シシ神の体から不気味な液体が大量に飛び散ったような有様である。

 

私達はグローバル化の良い側面だけを見すぎていたが故に、グローバル化が感染症のパンデミックを促進するという負の側面をみきれていなかった。

グローバル化は不可逆的な変化ではあり、アシタカとサンが手を取り合って街に下れないように”もう戻れない”ものではあるのだが、自然界の神域を土足で駆け抜けていいものではないという事をまるで警告されたかのような気持ちにならないだろうか?

 

この事はヒトにもいえる。

経済人としての私達は、ともすれば動物としての人間性をひどく軽んじる。

その最たるものがカネの産む幸せだろう。

 

5億円手にしたら人は簡単に幸せになれるのだろうか

カネは物凄く複雑な感情を私達にもたらす。

Twitterでも現代社会の生き辛さにため息をつく形で「5億円欲しい」とつぶやく人が散見されるが、実際問題5億円手にしたら人は簡単に幸せになれるのだろうか?

 

「なれるに決まってるだろ」という人は、正直な事をいうとかなりホモ・エコノミクス的な思考に毒されているように思う。

実は僕も割とそういう思考に毒されていたのだが、最近は動物としての人間の幸せというものから目を背ける事が、巡り巡って自分の生きにくさを増幅させる事につながっている事にふと気がついた。

 

もちろん、ホモ・エコノミクスでもある私達にとってカネの無い人生はひどく不幸だ。

しかしその逆・・・カネで全て解決できるという幻想・・・は残念ながらあまり正しくない。

カネは万能薬では無い。カネがいくらあろうが友達や配偶者が居なければ多くの人間は寂しくなるものだし、カネがいくらあろうが多くの人間は社会における自分の役割や尊厳を強く欲しがる。

 

とても面白い事に・・・本当にカネを持った人間は、逆にカネの力が動物としての自分に介する事を酷く嫌う。

自分の身の回りには結構な資産家も多いのだが、なぜか彼らは金持ち以前に付き合っていたパートナーの事を強く選り好みする傾向がある。

あれはカネが動物としての自分の生活を不幸にする事をよく理解しているからだろう。

 

「お金ではなく、人間性を見込んで選んでくれた」というナラティブの力は強い。

ホモ・エコノミクスとしての豊かさは、ホモ・サピエンスとしての幸せにはそのままつながらない。

サピエンスとしての幸せにカネは余計なお世話なのだ。

 

現代社会は確かにカネがなければ息苦しい。

その息苦しさの解消の為に、カネ欲しさに東京に人が集まる気持ちはよくわかるし、そのカネが産む文化を愛するものの一人として東京の素晴らしさは筆舌に尽くしがたいものがある。

 

だが、その一方で動物としての幸せがカネによりマスクされ、かつそれが万能性を帯びているかのような幻想がうっすらと香る現代の有り様は、かなり異常である。

もちろん東京にも特有の動物臭さはあるのだが、それは種としての生産性とはかなり程遠い何かのようになってしまったように思う。

 

おそらく、動物としての幸せを再び見直していく作業が必要なのだろう

幸せの為に皆で一丸となり、資本主義の豚として生産性にシャカリキになった結果、現代社会はとても豊かになった。

そして私達は豊かさという幸せの一つの形を手にする事ができた。

 

が、しかし現代ではこの豊かさを凡百の手が生み出せる場所から、あまりにも遠いものになってしまった。

GAFAを代表として、現代社会ではカネを産むものは頭脳明晰で美しく毅然とした才気ある姿をとるものに酷く集約されており、そのヒトの姿を模倣するかのように東京の街も酷く清潔でキレイなものと化した。

 

経済人としての最低限のノルマをこなさなければ、動物としての幸せを追い求めてはならないと感じている人は結構多いのではないだろうか?

少子化はわかりやすく数値化されたその一つの結果だが、暗に私達は”キレイではない”ものを”要らない”ものと本気で思うようにすらなりつつある。

 

『キレイではないから』『種としての幸せを追い求めてはならない』

というメッセージが成り立つような社会は、動物としての私達の存在に対する究極のアンチテーゼだろう。

 

そもそも経済人として自立しなければ、動物をやれないような社会が生きやすいはずがない。

動物が経済をやってるのではなく、経済人が動物をやるような社会は主従が完全に逆転している。

現代社会に感じる生き辛さというのは、たぶん数値化されない形での動物としての幸せを無視した事による返す刃なのだろう。

 

もちろん、私達は森には帰れないし、変えるべき森も既に無く、好むかどうかを別としてこの現代の世の中を生き抜かなくてはならない。

しかしそこで生きるにあたって、不幸せにならなくてはいけないというものでは決してない。

 

現代社会を幸せに生きるための一つのキーとなるのは、おそらく動物としての自分の幸せにキチンと腰を据えて向き合えるか否かだ。

 

頭脳明晰、美しさ、才気、といったカネを産みやすい”美しい”ものではなく、見方によっては醜い部分もある、カネ的な意味では生産的が無い「動物」としての幸せを良いものであるように思えるようになり、それを「美しくないモノ」として卑下しない立ち振る舞い方ができた時、たぶん本当の意味でヒトとしての幸せな第一歩が踏み出せるのだろう。

 

よきケモノビトたれ

私達はあまりにもカネの産む豊かさを良いモノと思いすぎて、非生産的な動物本来の幸せから目を背けすぎたのかもしれない。

 

「よきケモノビトたれ!」というセリフが最近BNAというアニメで出てきた。アニメをみていた時は特にこのフレーズについて何も思う事はなかったのだが、よくよく考えると、これは令和の世を象徴するフレーズなのかもしれないなと本書を読了した後に思わされてしまった。

 

私達はヒトである以前にケモノなのだ。

令和の世は、もうちょっとケモノとしての立ち振る舞い方を学びなおすいい頃合いなんだろう。

年収のような生産性を高める事にばかり目をむけず、非生産的な惰眠を貪るといった事に後ろめたさを感じないような生き方を、もうちょっと追求していこうと強く思った次第である。

 

「よきケモノビトたれ!」

 

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

Photo by Zachariah Hagy on Unsplash

「お前の技術なんて大したことない」

「そんなこと誰にでも出来る」

って思わされて、結果的に作品や自分の技術を安く買いたたかれてしまっている人、多分目に見える範囲外でもたくさんいるんじゃないかなあ、と思ったんです。

 

定期的に話題に上がるテーマとして、「ハンドメイド作品の値切り問題」というものがあります。

 

ちょっと前の記事なんですが、例えばこういうお話があります。

「材料費100円とかでしょ」ハンドメイド作家に心無い値下げ要求 テレビ番組が材料費と販売価格の差が大きいと放送

この購入希望者は、1200円で販売予定のキーホルダーに対し「500円くらいとか無理ですか?」と指値を提示。その根拠は、「そんなに材料費とかかかってないと思うので」「材料費100円とか200円とかじゃないんですか?」というものだった。作家が、高い素材を使用していることや、繊細な作業が必要で加工に時間がかかることなどを丁寧に説明するも、「作業代で1000円くらいしてるんですか?」と反論。その後も、「他の人も500円にしたら喜ぶ」「高いですって忠告ですよ」などと強引に値下げを求め、やり取りは平行線に終わった。

これ、例えば「ハンドメイド 値切り」「ハンドメイド 安くしてほしい」とかで検索すると、ずっと継続的に同じような話が発生してるみたいなんですよ。

 

基本的にはどのケースも同じような構図で、例えば「原価はそんなにかかってないでしょ」とか、「買ってもらえるだけで十分でしょ」といった言葉がくっついていることがしばしば。

時には、「安くしてくれたらかわりに宣伝してあげるから得ですよ」とか、「そんなにお金にこだわるなんて汚い」みたいなことを言われるケースもあるようです。

 

自分が心血を注いで磨いた技術、時間コストや手間コストをたっぷり注いで作り上げた作品に対して、「なんでそんなに高いの?」などという声をかけられる側の心情は察するに余りあります。

なら自分で作れって話ですよね。

 

これ、別にハンドメイドに限らず、色々な創作分野で同じことが発生しているみたいなんです。

手芸、演奏、CG制作、小説、ライティング。

何かを「創る」人たちに対して、その技術や努力の価値を認めず、支払うお金を渋る、ないし値切る、場合によっては払わない。

 

ちなみに、やや構図が似ているエピソードとして、以前はこんな話もありました。

プロのボーカリストの方にボランティア演奏を要求する人がいた、という話ですね。

元記事自体は消えちゃっていて、更に補足で別の記事を出されているみたいなんですが。

 

アーティストに対してボランティアを要求すること、にまつわる色々な問題

クレクレ対策 友人のために

 

もちろんこれらは十把ひとからげに出来る話ではないのですが、こういう記事や、こういった記事に対する反応を見ていると、幾つか共通した論点があるような気がします。

 

◯「クリエイターが見返りにこだわるのは汚い」という謎の意識の存在

◯「原価」というものに対するよく分からないコスト意識を持っている人の存在

◯自分にとって分かりにくい手間やコストを安く見積もる意識を持っている人の存在

順番にいきましょう。

 

「クリエイターが見返りにこだわるのは汚い」という謎の意識の存在

まず最初に。

これ、結構色んなところで感じるんですけど

「クリエイターにストイックさを求める/押し付ける/期待する意識」

っていうもの、結構色んな人に広範に備わっているような気がしているんですよね。

 

例えば、芸術家に対して、「作品に対する無償の熱意」みたいなものを求める。

創作の動機について、「好きだからこそやっている」というものだけを期待する。

「見返りを求めない創作活動」に大きな価値を置く。

 

一方芸術家がお金の話をすれば「金目当てなのかよ」とか言われてしまう。

なんなら、それでその人の作品まで「金目当てに作られた創作物」などというよく分からない貶め方をされてしまう。

この意識や言葉に引きずられてしまう人って、買い手だけではなくクリエイターの側にも相当数いるように思うんですよ。

 

まず、「クリエイターにストイックさを求める意識」についてなんですが、先日はてな匿名ダイアリーで、ちょっと興味深いやり取りがありました。

軽く引用させてください。

軽率感想書き女が同人活動をやってみたら地獄を見た

だが、今まで感想は書くものだと思っていたオタクにとって、この状況はまあまあキツい。通話しながらあつ森やポケモンではわいわい楽しんでいたフォロワーは、本は買ってくれたものの「良かったですよ」の一言すら来ない。こっちは付き合いも兼ねて読んで感想を送っているのに……と、最初の感想が来るまでは恩着せがましい感情まで抱く程、ダークサイドに落ちかけた。

 

上記記事に対する反応のひとつが下記の記事です。

同人文字書き男だけど、お前の界隈おかしいよ。

は? 同人誌ってのは自分が書いた文章が形になる、それだけで嬉しいもんなんじゃねえの? これまでは自分の頭の中にしかなかった「ぼくが書いた一冊の本」を活字として手に取れるのが最上の喜びなんじゃねえの? 感想なんて来なくたっていいんだよ。お前は自分が生み出した初めての本のことをどう思ってるんだよ?

直接お金の話じゃないんですけど、「感想」というものに対するやり取りの話ですね。

 

前も似たようなこと書きましたけど、創作をする人は基本的に孤独なので、時に金銭以上に「反応」「感想」に飢えることがあります。

自己承認欲求とも絡む話ですね。

 

この後者の増田の言うこと、決して間違ってはいないと思うんですよ。

この引用部分含めて、全体としては極めてまっとうだと思うし、感想なんて義務じゃない、他人にそんな責務を押し付けるなって反応ももっともだと思います。

 

ただ一ヶ所

「自分が書いた文章が形になる、それだけで嬉しいもんなんじゃねえの?」

「感想なんて来なくたっていいんだよ」

というくだりについてだけは、これも一種の「ストイックの押しつけ」なんじゃないかなあ、と私なんかは思ったんです。

 

ただ、創作出来ること自体に喜びを感じる。それは凄く尊いことだし素晴らしいことだと思うけど、でもそれだって人に押し付けるものじゃないよなあ、と。

別に感想目当てに創作をやってる人だっていていいでしょう、と。

自作に対する純粋な熱意だけが創作をする理由じゃなくていいでしょう、と。

ストイックさは尊いものだけど、それを尊びすぎると、「見返り目当て」というものを見下げる意識が発生しはしないかなあ、と。

 

ひいては、それが「金目当てなのかよ」という言葉にも結びついている気がするんですよね。

 

そもそも人間霞を食って生きてはいけませんし、誰の反応もなしに創作を続けることも非常に苦しいものです。

そういった中、「ちょっとは見返りをくれよ」と求めることくらいは別に許されるんじゃないかなあ、と。

まず一点、そういう話があります。

 

「原価」というものに対するよく分からないコスト意識を持っている人の存在

二点目。

これ、割と意味不明ですよね。けど実際いるんですよ、「元々はそんなにお金かかってないでしょ?」って人。

凄く精巧な切り絵について、「紙代だけなら数円でしょ?」とか言う人。

演奏者に対して、「ピアノは置いてあるんだし、来て弾くだけでしょ?」とか言う人。

 

何故か、「目に見えるモノ」の費用しかコストとして理解出来ない人、ってどうも物凄くたくさんいるみたいなんです。

当たり前ですけど、創作者が支払っているコストというものは、ただ目に見える材料費だけではありません。

 

その技術を手に入れるまでの膨大な時間、練習、手間。

もちろん作品を作り上げる為の努力、演奏を準備する為の細やかな気遣い。

自分を知ってもらう為の宣伝や広報の手間だってコストの内です。

それは、容易にお金に換算することなど出来ない、けれど物凄く大きなコストです。人一人分の人生に匹敵します。

 

それに対して「好きでやってるんだからいいでしょ?」とかいう言葉を投げつけることを、私は決して妥当だとは思えません。

その通り、好きでやっているかも知れない。

けれど、それは決して「好きだから見返りは要らない」などというストイックさを押し付けることを免罪しない。

かかった手間暇には、正当な見返りを求めてしかるべきだと思うんですよ。

 

ちょっと厄介なことに、創作者の「普段の努力」「作品の裏にあるコスト」というものは、知らない人にとっては見えにくいです。

ピアニストが演奏の質を維持する為に普段どれだけの時間練習しているかと知っている人は少ないですし、凄く上手い絵をパッとTwitterにアップしている人が何千時間絵描きに打ち込んできたかを測る術はありません。

 

自分にとって分かりにくい手間やコストを安く見積もる意識を持っている人の存在

これは同時に、三点目の人にも通じています。

 

「これを作り上げる為に、どれほどのコストがかかっているのか」なんてこと、実際にやってみるとすぐ分かるんですけどね。

けれど、やってみようとも思わない人はそんなことは考えないし、ただただ見えている部分と自分の都合だけで「高い」なんて声を投げかけてしまうんですよ。

 

それに対して反論すると「お金にこだわるなんて汚い」攻撃です。

 

なんでクリエイター側がお金にこだわるのはいけなくて、発注側がお金にこだわるのはいいんだよ、って話もあるんですけどね。

で、裏に流れているコストの価値が分からないと、その技術自体も安く見積もってしまうんですね。

 

例えば手芸をやっている人に、「繋げただけやん」などと言ってしまう。

例えば小説を書いてる人に、「そんなん誰でも書けるやん」などと言ってしまう。

アレ実際書いてみると滅茶苦茶大変なんですけどね。

 

結果、言われる側としても、「俺の技術なんて大したことない」と思い込んでしまってる人、結構多いんじゃないかなあと。

というか観測範囲内でも割とそういう例見受けられるなあ。

 

私はクリエイターに肩入れする人間ですので、自分の好きな創作に増えて欲しいですし、自分の好きな創作を創っている人たちに報われて欲しいです。

 

だから、一人でも多く、その作品の裏にどんなコストがかかっているかを想像出来る人に増えて欲しいと思いますし、クリエイターが心無い言葉に傷つく機会がなるべく減って欲しいし、何の後ろ暗さもなく「私は見返りを求めます!」「いやなら自分でやってみろ!!」と言えるクリエイターに増えて欲しいと。

 

そんな風に考えているわけなんです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Sharon McCutcheon on Unsplash

Books&Appsを運営する弊社は、2016年からテレワーク(リモートワーク)を行っているので、私は今ではもう4年以上、テレワークをしている。

 

過去には、その利点と課題について書いたこともある。

約二年やってみてわかった、リモートワークのホントのところ。

Books&Appsを運営する弊社は、現在フルリモートワークで仕事をしている。

といっても、小規模な会社なので大企業が言うフルリモートワークとはちがい、「やってみましょう」の一言で、結構気楽にやれている。

そして実際に二年ほどフルリモートワークをやってみると、利点や欠点がよくわかる。

かいつまんで言えば、テレワークは生産性は上がるが、それは仕事ができる「ベテラン」の話で「新人を育てるには向いていない」と私は考えていた。

 

ところが現在では、コロナウイルスの影響で、真の意味で全面的なテレワークが、あらゆる会社に強制的された。

すると、様々な情報から、また別に見えてくるものもある。

 

特に

「本当に新人には向いていないのか?」

「生産性は向上するのか?」

といった疑問については、多くの会社が新卒も含んだ形でのテレワークに移行しているため、私の単なる思い込みではないか?という疑問も湧く。

そこで、あらためて「テレワーク」の実際の状況に関してのインタビューを行い、状況を確かめることにした。

 

テレワークにおける「疑心暗鬼」

株式会社CINCの當摩(たいま)さんは、インタビューに応じていただいた方の一人だ。

當摩征也さん

・株式会社CINC所属の、今年4月に社会人となった新卒新人

・会社ではKeywordmapというweb分析ツールの販促、および自社の採用広報業務を担当

・主たる業務は、公式Twitterアカウント採用Twitterアカウントの運用、セミナー運営。

當摩さんは、今年の4月にCINCへ入社したが、コロナウイルス禍の影響で、入社直後の新人研修からテレワークが始まったという。

 

これは私にとっては、かなり冒険的な試みだと感じたので、當摩さんに

「テレワークで困ったことはありましたか?」と聞いた。

すると、会社は開放的で面倒見がよく、「新人はとにかく好きなだけ聞いていい」という文化だが、それでも「疑心暗鬼になる」という話が出た。

 

例えば、自分の提出した成果物に対して、先輩から

「その方向性で構いませんが、○○の箇所、修正してください。」

と丁寧なメッセージが来ることがある。

 

顔を合わせてコミュニケーションしていればあまり気にならないが、テレワークでは

「もしかしたら、上司を怒らせてしまったのかもしれない。」

共有した文面が良くなかったのだろうか…。それとも提案の質が低かったのだろうか…。」

とあらぬ疑いを持ってしまうことがある。

 

あるいは、ちょっとした申請書類のミスに対して指摘をもらい、お礼を述べたときに先輩から

「気にしないでね」といわれたが、表情が見えないので仕事を邪魔してしまったのではないかと心配になる。

 

また、当たり前だが、新人は「会社への貢献の度合い」が見えにくい。

会社も特に新人に対して成果を要求しないが、當摩さんは「受注に貢献できていない、私の存在意義はどうなのかこのままでいいのだろうか」と思う。

 

職場にいれば、先輩の様子や同僚の様子を見て、そうした疑心暗鬼をうまく解消できる。

しかし、自宅で一人になると、そうした情報量の少なさがキツいのだという。

 

逆に、些細なことでも励みになったことがある。

例えば、先輩社員の日報に名前が取り上げられ、感謝されたことだ。

「雑談の感覚で提案したのですが、まさか感謝されるとは思わなかった。やる気が出た。」と當摩さんは言う。

 

ともすれば、テレワークは情報量の少なさ故に「ちょっとした出来事が引き起こす感情のゆらぎ」が増幅されやすいのかもしれない。

 

「出社したい」と強く願っていた當摩さんは、6月からテレワークとオフィスワークが半々になり、ホッとしていると言った。

 

「ちょっとした質問」が扱いづらい

また、別のインタビューでも課題が上がった。(社名・名前は非公開)

現在プログラマーで、入社3年目の男性だ。

 

彼は、テレワークで困ったことの例として「わかんなかったら聞いて」というリーダーの言葉を挙げた。

 

一見問題はなさそうだが、意図がよくわからないので、「なぜですか」と聞いた。

すると、「「聞いて」と気軽に言われるけど、テレワークでは、「聞く」のが結構たいへんなんです。」と彼は答えた。

 

仕事で出てくる疑問が最初から明瞭なことは少ない。

特にスキルが低いうちは「何がわからないかわからない」ことも多い。

 

だから、オフィスワーク時は、モヤッとした疑問を「些細なことですが……」と、気軽に先輩に持ち込んでいた。

曖昧な疑問であっても、誰かと話しているうちに明瞭になってくるからだ。

 

ところが、今では「質問」を考えるのも一苦労だ。

当然ながら、拙いメッセージを投げると「で、何がわからないの?」と、聞かれる。

 

オフィスワーク時は先輩も気を遣って、先輩から色々と聞き出してくれたが、チャットではかなりのやり取りをしないと「わからない」を明確にできないので、先輩にも負担が大きい。

悪いなあ、と思ってしまう、と彼はいう。

 

私は「電話やzoomで会議すればいいのでは?」と聞いた。

彼は「まあ、そうなんですが、5分、10分くらいのディスカッションに対して、がっちり時間を取ってもらうのもなんだか悪くて。」という。

 

逆に、リーダー側も「ちょっとした質問」に対して、必要以上に構えてしまうのか

「今日は忙しくて時間が取れないから、明日でもいい?」

と言われたこともあるという。

 

このように、

「ちょっとした質問」

がリモートワークだと扱いづらいのは、私も同感だ。

 

「疑心暗鬼」と「ちょっとした問題」を解決する

これらの問題に対して、web会議システムへの常時接続で対応するという工夫をしている会社がそこそこある。

 

業務時間は皆、システムへ繋ぎっぱなしにして、「会話」をいつでも可能にしておくやり方だ。

「自宅でもWebカメラをつけて働く」「抵抗感ない」 KDDIの先進事例に学ぶテレワークを成功させるヒント

全員がカメラの前にいれば、たまにミュートを解除して、「ねえねえ」と特定の相手に話しかけられる。質問や雑談が気軽にできるので、リモートとはいえリアルに近いコミュニケーションができるようになった。

 

だが、「常時接続」は、カメラやマイクに家の中の映像や音が常に入ってしまうので、必要以上に神経を使って疲労困憊してしまう方もいるだろう。

テレワーク継続のコツ:Zoomでビデオをオフにしろ

ビデオ機能は、WEB会議で使える数少ない情報共有ツールの一つですが、積極的コミュニケーションにおいては必要以上の情報を獲得してしまうことで、会議参加者の心理的負担が増えてしまいます。

常時接続ならば、基本カメラはオフ、マイクはミュートにしておいて、必要なときだけ社内に呼びかける、という形式で運用することになるのが望ましいと私も思う。

 

だが、現時点で「疑心暗鬼」や「ちょっとした問題」をテレワークだけで扱うには、もう少し工夫が必要かもしれない。

 

例えば、「いきなり全面テレワーク」ではなく、CINC社で行っているように、「テレワーク」と「出社」をミックスし、自宅だけでは孤独を感じる社員に対して、ある程度の頻度でケアをできるようにするのも、必要だろう。

 

 

ただ、表層的なコミュニケーションの問題よりも大きな、真の課題が上のような話の向こうにちらほら見える。

 

それは、自由には責任がともうなうがゆえの、「プロセスより、アウトプット重視」の変化だ。

「テレワーク」は上の話のように、仕事のプロセスが見えにくくなるがゆえに、アウトプット志向を先鋭化させる。

 

だから「問題を切り分け」て「明確化できる」能力の獲得が、稼げるか否かの分かれ目になる。

アウトプットだけを比較する場合、「割り振られたタスクだけをこなす」だけであれば、社員でなくとも可能だからだ。

 

しかし、現在のところ、この能力は誰にでも備わっている能力ではない。

今の時代、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」だけで十分食えると思う

頻繁に話題になるのが、「タスクをちゃんと具体化・詳細化出来る人マジ少ないよね」という話です。

要するに、ふわっとした課題がある時に、「どうすればそれを解決出来るのか」という形で具体的なタスクと段取りを考えることが出来る人。

曖昧な仕事について、「どういう順序で、どういうことをすれば、その仕事を達成したことになるのか」ということをちゃんと詳細化し、計画することが出来る人。

だが、この変化は不可逆であり、変化に適応せねばならない未来は、すでに見えている。

 

そういえば最近、zoomで参加した読書会において、東京の大手コンサルティング会社に勤務する参加者の一人が「離島に移住した」と報告していた。

「それで仕事が可能なの?」

「会社が認めてくれたの?」

と皆心配していたが、「東京で仕事しなければならない時には、自腹で移動する」という条件と引き換えに、認めてもらったという。

仕事には全く支障がないそうだ。

家賃やもろもろのメリットを考えると、「絶対に収支はプラス」とその方は言う。

 

適応可能な人々にとっては、まさに理想の世界になったのだなあ、と、しみじみ思う。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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(Photo by Humphrey Muleba )

アラサーにもなると、友だちとのおしゃべりといっても、どうしても「仕事」に関することが増えてくる。

それも、「転職しようか迷ってる」「上司とうまくいかない」「クライアントがうざい」といった、ネガティブな話題が多い。

 

まぁそうだよね、週に5日、起きてる時間の半分くらいは仕事に関わってるんだから、そりゃあいろいろ思うところはあるでしょう。

はぁ、尽きることがない仕事の悩みを解決するためには、どうしたらいいんだろう。

 

みんなが「仕事」で悩むのは、「仕事」の存在感が大きすぎるから

「次はなにを読もうか」とぼんやりamazonを眺めていたときのこと。

ビジネス系書籍のテーマが、実に多種多様なことに改めて気づいた。

 

2020年6月16日のkindle版ランキングはこんな感じ。

 

 

時間術、文章術、健康法、仕事哲学、お金。

「ビジネス」と一概にいっても、そのジャンルはとても幅広い。

どうやって仕事と向き合うか、どうやって自分の能力を磨くか、どうやって職を選ぶのがいいか、どうやってストレスを減らすのか……。

 

「仕事」という概念はあまりに大きく、複雑だ。

だからこそいろんなテーマのビジネス書が並ぶし、わたしたちは頭を抱える。

「いったいなにが正解なんだろう」と。

 

さて、そんな「仕事」の悩みを解決するために、わたしたちはなにができるんだろう。

 

「悩み」は「望み」が叶わないから生まれるもの

「悩み」というのはそもそも、「こうあってほしい」という希望が叶わなかったときに生まれるものだ。

つまり、「悩み」の正体を掴むためには、「望み」を理解しなきゃいけない。

 

というわけで、仕事に対する「望み」を具体的に5つにわけてみた。

 

1.好きなこと:仕事は基本的に毎日長時間することであり、人生の40年程度やらなきゃいけない

→どうせなら好きな仕事をしたい

 

2.人間関係:仕事には多くの人が関わる

→ハラスメントがなく、信頼できる人といっしょに働きたい

 

3.成功:仕事では個々の能力によって明確な差がつき、それが社会的地位や名誉につながる

→自分が活躍できる場に身を置きたい

 

4.安定:仕事は生活をするために必要なこと

→待遇がいいところで安定した収入を得たい

 

5.自由:仕事によって拘束時間が発生し、住む場所やライフスタイルの選択の幅が狭まる

→趣味や家族、プライベートを満喫できる自由な働き方をしたい

 

たいていの人間は、この5つをすべて望む。

 

やるなら好きな仕事がいいし、面倒な人はいないに越したことないし、成果が認められて褒められたいし、生活に困らない収入は必要だし、休みは多いほうがいい。

でも、全部は手に入らない。

だから「あれが足りない、これが足りない」とみんな悩むのだ。

 

家探しと同じように仕事の悩みを天秤にかけてみる

「人間関係がうまくいかない」と悩んでいる人に部署替えや転職を提案したところ、「でも福利厚生がしっかりしてる会社だし……」と乗り気じゃない。

「もっと休みがほしい」と嘆く人に「そのぶん給料がいいじゃん」と言っても、「それはそうなんだけどさぁ」と不満げ。

 

いやまぁね、わかるよ。

制度的に働きやすい職場を去るのは惜しいもんね。

いっぱい稼げるのはうれしいけど休みたいもんね。

 

でも、全部はムリなんだよ。

 

充実した育休中の手当のために面倒な人間関係を受け入れるか、家賃補助はないけどいい人ばかりの職場にするか。

残業ゼロだけど年収300万円の小さな家族経営の会社で働くか、残業や休日出勤はあるけど年収600万円の大手企業で働くか。

 

もちろん、福利厚生が充実してて人間関係も円滑な職場や、ホワイト&高待遇の企業もある。

でもそういうところだって、さすがに前述した5つの要素全部を兼ね備えている環境はなかなかないだろう。

だからみんな、「給料はいいけど人間関係が」「安定してるけど残業が」となにかしらの不満を抱えるのだ。

 

そんな不満を自分の中で消化するために必要なものはなにか。

それは、妥協だ。

 

これは、引っ越しに例えるとわかりやすい。

家探しでは、家賃、駅やコンビニの近さ、日当たり、収納スペース、ベランダの有無、職場からの利便性など、さまざまな角度から物件を値踏みする。

 

でもそれを全部兼ね備えた物件なんて、そうそうない。

たいてい、「駅近だけど家賃が高い」とか、「コンロ2口だけどユニットバス」とか、なにかしら妥協すべきところが出てくる。

そのとき、「どっちを優先してどっちを妥協するか」を天秤にかけて、家を決めるものだ。

 

仕事でも、まったく同じ。

妥協点を決めないと、いつまで経ってもないものねだりを続けるだけになる。

 

だから、仕事における悩みを減らしたいのなら、まずこれを考えよう。

「5つの要素のどれを優先し、どれを妥協できるのか」

 

自分のなかの優先順位を自覚する

というわけで、5つの望みを優先した場合と妥協した場合、それぞれどうなるかを考えてみた。

 

1.好きなこと

優先→モチベーションが高く楽しい。多少の苦痛もへっちゃら

必要→カネになる好きなこと、それに対する情熱と執着

妥協→嫌なことでもやる。モチベーションやキャリアアップへの意欲が湧かないかも

対処→仕事は金のためと割り切り、自己実現は趣味などで行う

 

2.人間関係

優先→ハラスメントとは無縁。やる気が出るし月曜日もあんまり憂鬱にならない

必要→トラブルメーカーがいない風通しのいい環境

妥協→ハラスメント被害に合ったり胃が痛くなったりすることも

対処→個人作業が多い職場を探したり、リモートワークなどで人間関係を減らす

 

3.成功

優先→めっちゃお金稼いだり、めっちゃ有名になったりできるかも

必要→自分の裁量で積極的に働けて、それを評価される環境、能力

妥協→自分の手柄を認められなかったり、やりがいを感じなかったりするかも

対処→野心を持たずに淡々と生活のために仕事する

 

4.安定

優先→将来の心配が少なくてすむ。結婚・子育ての不安が減るかも

必要→ある程度安定して働ける職場、福利厚生がしっかりしているとなお良し

妥協→いつどうなるかわからない不安がつねにつきまとう

対処→自力で将来に備える

 

5.自由

優先→自由気ままにいつでもどこでも働きたいように働ける

必要→手に職。自己責任で積極的にキャリアアップする姿勢

妥協→仕事にライフスタイルを合わせる

対処→それが苦にならないほど好きな仕事に就くか、仕事に全集中できる環境をつくる

 

ざっと見て、優先順位を考えてみてほしい。

あなたはなにを、なぜ、どういう順番に並べるだろうか。どれなら妥協できるだろうか。

 

仕事になにを期待するかはその人次第

わたしの答えはこうだ。

好きなこと&自由>>>(越えられない壁)>>>安定>人間関係>成功

 

わたしはまず、「好きなことを自由にやりたい」欲が一番強い。

というか、好きじゃないことを割り切ってするのが苦手だ。

「ああしろ」「こうしろ」と指示をされるとやる気がなくなっちゃうので、あくまで自発的に働ける環境でいたい。

 

「好きなこと」と「自由」を優先した結果のフリーライターだ。

とはいえ、安定を捨てているわけじゃない。

仕事はあくまで生活のためだから、生活できなきゃ困る。

安定も大事だから、小さな案件もコツコツ受けている。

 

一方で、尊敬できる人のもとで働きたいとか、インフルエンサーになりたいとか、そういう願望はあんまりない。

もちろん、尊敬できる人とお仕事をできたら最高だし、有名になったりお金をたくさんもらえたりしたらうれしいけど、それを目標にすることはない。

 

だから順番でいうと、

1.好きなこと&自由

3.安定

4.人間関係

5.成功

なのだ。

 

優先順位がはっきりしていると仕事の悩みを解決しやすい

わたしは優先順位がはっきりしているから、「仕事どうしよっかなぁ」と迷うことは少ない。

ちょっと性格が合わないなーと思っても、好きなことをやれるならある程度許容する。

目立たない仕事だとしても、安定して稼げるなら喜んで引き受ける。

逆に、報酬がよくて知名度も上がるけど、拘束時間が長くて打ち合わせが頻繁な仕事はよく考えてから受けるか決める。

 

自分のなかで優先順位があると、「こっちを優先してこっちは妥協する」という結論を出しやすいのだ。

だから、仕事での悩みが尽きないという人は、優先順位を考えることをおすすめしたい。

 

好きなこと、人間関係、成功、安定、自由。

なにを、なぜ、どういう順番で優先するか。どの望みを優先し、どこなら妥協できるのか。

そうやって考えていけば、仕事の悩みというのは、わりと解決しやすいんじゃないだろうか。

 

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by:pixculture

あらゆるビジネスパーソンにとって、コミュニケーション能力はもっとも普遍的かつ強力なスキルと考えられています。

それ故にこれまで、コミュニケーションをスムーズに行うための様々なメソッドが開発されてきました。

 

・結果から話す

・ロジカルに伝える

・解釈と事実を分ける

・エビデンスを示す

・相手の言っていることを言い換えて確認する

・アイスブレイクから始める

・3分以内にまとめる

 

などなど、皆さんも少し考えれば、両手では足りないくらいのコミュニケーションテクをあげることができるでしょう。

これらのテクニックが重要ではないとは、私は思いません。

しかしながら、一番重要だとも思いません。

 

そもそも、ビジネスにおけるコミュニケーションは、何のために行われるのでしょうか?

それは、「人を動かす」ことです。

この中には、「止める」「何もせず待つ」も含まれます。

 

また、今ではなく将来の行動を促すような、時間差を伴うものもあるでしょう。

いずれにしろ、ビジネス上のコミュニケーションの多くは、伝えた相手の行動になんらかの影響を与えることを期待して行われます。

これこそが、コミュニケーションの目的です。

 

そしてこのように目的を設定すると、先ほどあげたコミュニケーションテクよりももっと大事なことが見えてきます。

それは「相手がその気になる」ということです。

 

非の打ち所がない正論を、分かりやすく、論理的に伝えたとしても、相手が感情的にそれを受け入れなければ、そのコミュニケーションは失敗です。

逆に、多少伝え方がマズかったとしても、「いいですよ、やっておきますよ」と相手が快く協力する姿勢になったのなら、そのコミュニケーションは成功です。

 

困難な状況においても抵抗せずに受け入れようとする姿勢は、心理学では「アクセプタンス(受容性)」とも言われています。

この、アクセプタンスを作ることこそ、人を動かすことを目的とするコミュニケーションにおいて、どんなコミュニケーションテクを身に付けることよりも重要だと私は考えます。

 

***

 

では、このアクセプタンスを生み出すためには、私たちは何をすればいいのでしょうか。

私は、以下の3つが特に重要だと考えます。

 

①丁寧な言葉の使い方をする

②人それぞれ違うことを前提とする

③日頃から深い信頼関係を作る

 

 

***

 

①は丁寧語や敬語を使えという話ではなく、相手がどう受け取るかに配慮しない「雑な言葉の使い方」をやめましょう、ということです。

面と向かって話すと穏やかな人なのに、メールやチャットになると、どことなく攻撃的で、なんだか偉そうで、人を馬鹿にしたような、上から目線と受け取られかねない書き方をする人がいます。

その人の真意がどこにあるかはさておき、ほとんどの状況において、人は言葉を通じて、その人が自分をどのくらい尊重しているかを判断します。

 

相手から誤解を招くような、配慮を欠いた言葉の使い方をする人は往々にして、「コミュニケーションが下手な人」ではなく、「悪意がある人」「私を軽視している人」と判断されてしまいます。

もちろん日々の仕事の中では、他人の細かな言葉遣いなどいちいち気にせず働いている人も多いでしょう。

だからといって、不用意に小さな不快感や悪い印象を与え続けると、その人の信頼貯金は徐々に減っていき、コミュニケーションにおいて大切なアクセプタンスの構築からはどんどん遠ざかっていきます。

 

「○○を修正してください」と伝えるのと、「私もふと気が付いたのですが、○○は修正した方がいいかもしれませんね」と伝えるのとでは、受け手の印象は大きく異なります。

こういう配慮を「面倒くさい」と考えている雑な人は、言葉のクオリティがアクセプタンスに繋がり、コミュニケーションのクオリティに繋がり、最終的には自分に対する不利益として返ってくるという認識を持ち、もう少し丁寧な言葉遣いを心がけていくべきでしょう。

 

***

 

②の「人それぞれ違うことを前提とする」は、ある種当たり前の話ですが、「自分がこうだから相手もこうだ」「あの人は大丈夫だからこの人も大丈夫」的な考えを捨てる、ということです。

アクセプタンスがどういう条件で生まれるかは、人によって大きく異なります。

厳しい言葉でハッパをかけられた方が、「よしやるぞ!」という気になる人もいます。

一方、厳しい言い方をされると、ストレスや不満をため込んでしまう人もいます。

 

なまじ成功体験があると、「自分がこうだったから」という発想で言動を決めがちですが、自分がそうだったから相手にもそうする、というのは他者のことを考えるのを放棄した自分勝手な発想です。

「こんなことでストレスを感じるなんてストレス耐性が低い」、あるいは「自分のやり方に付いてこれない方が未熟だ」といった考えに支配されている人が、いくら正論を述べ、ロジカルに分かりやすい話し方をしても、多くの人は「この人の言葉に従ってみよう」という気持ちにはならないでしょう。

 

仕事なので、時には厳しいコミュニケーションが必要な状況も出てきます。

意図があって、状況を見極めて、それを選択しているのならいいと思います。

しかし、誰彼構わずいつも厳しさ一辺倒の対応をするのは、単にコミュニケーションを面倒くさがってサボってるだけ、と受け取られていても仕方ありません。

 

人はそれぞれ違うし、自分とも違う。

アクセプタンスの発生条件も人それぞれ違う。

テンプレートのように一辺倒な接し方をするのは、アクセプタンスを作り出すことと反する行動である。

こういった前提に立たないと、アクセプタンスを生み出すことも、その先にある大きな目的である人を動かすことも、うまくはやれないでしょう。

 

***

 

アクセプタンスにおいて大事な3つの中で、私が一番大事と考えているのは、③の「日頃から深い信頼関係を作る」です。

仕事というのは、最終的には成果を出せるかどうかで判断される厳しい世界なので、誰かに対して厳しいフィードバックや難題を伝えなければいけないことは、長いキャリアの中で当たり前に起こります。

 

そんな時、日頃から悩みを聴いたり、ランチに行ったり、といった関係ができている間柄と、そうしたことが一切ない、定型的な挨拶と業務以外の話をしない割り切ったドライな関係の間柄とでは、当然アクセプタンスも変わります。

「相手によって態度を変えるなんてプロじゃない」と非難する人もいるかもしれませんが、何が正解かも分からない状況の中で、相手にとって難しい協力を依頼しなければいけない時、「この人は信頼できる」という思いが根底にあるかどうかに、人の判断は左右されるものではないでしょうか。

 

今の時代は、どちらかと言えば、個人に深入りするようなウェットなコミュニケーションより、一線を引いたドライなコミュニケーションを好む人の方が多いかもしれません。

私自身も、ドライなコミュニケーションをより好んで、ここまでのキャリアを進めてきました。

しかし、難しく大きな課題に取り組む時、ウェットなコミュニケーションで繋がっている関係の強さを実感することもあります。

 

どうしても、仕事の人間関係に深入りしたくない、ということであれば、①や②を徹底的にやり切れば、大きな問題は発生しないかもしれません。

しかし、①や②も不十分で、③もドライ路線だと、いくらコミュニケーションテクを身に付けても、コミュニケーションの成功確率がなかなか上がっていかないでしょう。

 

なぜなら、アクセプタンスができていない状況では、人は動いてくれないからです。

価値ある仕事ほど、高度で難しいものです。

そんな仕事ほど、アクセプタンスを作れるどうかが、成功するかどうかに大きな影響を与えます。

 

コミュニケーションの技術は飛躍的に進歩していますが、「人は感情で動く」という基本はずっと変わっていません。

感情には、あらゆる合理的な説明も、充実したエビデンスも、滑らかな話術も、すべてを無効化する力を持っています。

そのことに目を向けることができなければ、真に「コミュニケーション能力が高い人」になることは難しいでしょう。

 

 

 

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【プロフィール】

 

枌谷 力

株式会社ベイジ代表。

新卒でNTTデータに入社。4年の企画営業経験の後、デザイナーに転身。制作会社を2社を経て、2007年にフリーランスのデザイナーとして独立。2010年に株式会社ベイジ設立。経営全般に関わりながら、クライアント企業のBtoBマーケティングや採用戦略の整理・立案、UXリサーチ、コンテンツ企画、情報設計、UIデザイン、ライティング、自社のマーケティングや広報、SNS運用、ブログ執筆など、デザイナー、マーケター、ライターの顔を持つ経営者として活動している。

twitter:https://twitter.com/sogitani_baigie

facebook:https://www.facebook.com/tsutomu.sogitani

 

Photo by Christina @ wocintechchat.com on Unsplash

つい先日、シロクマ先生から本を頂いた。

タイトルは健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて。大変面白く読ませていただいた。Books&Appsの読者にはハマるのではないか。

本の内容について、寄稿も頂いている。

ホワイトな勤務先・ホワイトな社会には、ホワイトな人間が求められる

記事では「ホワイトな社会は良いことづくめなのか?」という問題提起と、「ホワイトな人間でなければならない世の中は息苦しすぎてイヤだ」という主張が展開される。

 

先生の言う通り「素行の良い人々」で固められた世界に生きづらさを感じる方がいることは、私もよく分かる。

「明日は我が身」と考える先生の思惑も理解できる。

小学生の時「みんなに合わせなければならない」のが苦痛で、毎日小学校に行きたくなかった私は、規範に縛られる世界の堅苦しさも容易に想像がついた。

 

でも息苦しさは「資本主義」のせいなのか?

ただ、私が本書を読んで、今なお疑問が残るのが、こうした状況の原因は「資本主義」、「個人主義」や「自由主義」にあるという指摘だ。

第二章〜第六章で紹介したトピックスには常に、資本主義や個人主義や社会契約からの影響が見え隠れしていた。

だが本当にそうなのだろうか?

 

例えば、戦時中の日本のような全体主義国家では「道徳的で秩序ある社会」はむしろ、今以上に息苦しかったろう。

なにせ、「戦争反対」と述べるだけで、特高に捕まって拷問されてしまうような世界だ。

 

いや、現代でも中国はどうなのか。彼らは資本主義国家ではない。社会主義国家である。自由主義ではない。個人主義でもない。

その中国では、政府の設定する社会通念に反した「ホワイトな人間」ではない人はどうなるか?

もちろん排除される。ひどいときには投獄される。

香港の抗議デモ、暴動罪で初有罪 22歳男性に禁錮4年

一連の抗議活動を巡り暴動罪で有罪判決が出たのは初めてという。デモ隊が掲げた五大要求の一つに「暴動認定の撤回」があったが、司法による暴動罪認定で、今後のデモ再燃への威嚇効果となるとの指摘もある。

 

また、その中国の企業である「アリババ」は、「ジーマクレジット(芝麻信用)」という信用情報サービスを行っている。

この「ジーマクレジット」は、「出身」「支払い能力」、あるいは「人脈」や「素行」によって、人が格付けされる。

シロクマ先生の言う「ブラックな人間」は高いスコアを取れないだろう。

 

それが「ブラックな人間」にとって、どんなに不利益で、息苦しいかは想像に難くない。

しかしアリババは「資本主義」「自由主義」「個人主義」の落し子ではないのだ。

 

こう考えていくと、「社会規範に沿えない人々の生きづらさ」は、資本主義などが直接の原因ではないのでは、と疑ってしまう。

主流の社会規範に沿えない人は、いつの時代、どんなイデオロギー下でも生きづらかったと考えるほうが自然なのではないか。

 

「いやいや、中国は社会主義を標榜する資本主義社会だよ」

と仰る方もいるかも知れない。しかし「武器としての資本論」を著した白井聡氏は、パシュカーニスの言葉を引用し

「政治的社会と経済的社会が分離し、別物になることが、資本制社会の特徴である」

と述べている。

が、中国は政治的社会と経済的社会が分離しているとはいい難い。

米大統領補佐官が対中政策演説 国防総省、人民解放軍関連企業リストを議会報告 

オブライエン氏はまた、国防総省が米国内で経済活動をしている中国企業のうち、人民解放軍と関係が深い企業のリストを作成し、週内に議会に提出すると明らかにした。国防総省によるとリストは24日に完成した。

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たしかに資本主義には限界も欠点も数多くある。だが、資本主義だけがシロクマ先生の言う「生きづらさ」を生み出しているとは考えにくい。

 

「生きづらさ」の源泉はなにか

個人的に思うに、生存が脅かされない、ある程度豊かな社会の「生きづらさ」の源泉として大きいのは「他者との比較」である。

 

他者との比較が存在する社会では、常に新しい「生きづらさ」が生まれ続ける。

他者との比較が

「なんて俺は貧しいんだ」

「私は幸せになれない」

「格差は許せん」

といった、「不幸」を生み出す。

 

「あらゆる悩みは対人関係」とアドラーは述べた。

そして「対人関係から生まれる、劣等感こそ生き辛さの源泉」だとも。

われわれは皆、無力な状態から脱したい、もっと向上したいという普遍的な欲求を持っています。人類史全体における、科学の進歩にしても「優越性の追求」でしょう。

これと対をなすのが、劣等感です。人は誰しも、優越性の追求という「向上したいと思う状況」にいる。なんらかの理想や目標を掲げ、そこに向かって前進している。しかし理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く。

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だから、ある程度豊かな社会になってしまえば、「他者との比較」を克服しない限り、どんな社会になっても「生きづらさ」は解消できない。

 

白井氏は上述した「武器としての資本論」の中で、

「私たちはもっと贅沢してよい」

と、階級闘争を呼びかける。

 

だが「ファクト」としては世界はより豊かになっており、日本人は50年前よりも、物質的に遥かに贅沢をしている。

したがって「もっと贅沢していい」は、過去との比較ではすでに実現されている。

 

だが白井氏にそれを告げたところで、「そんなことはどうでもいい」というだろう。

彼は「相対的貧困」を問題にしているからだ。

 

現代社会に圧倒的に不足する「役割」

しかし、私は白井氏とは少し違った見方をしている。

誤解を恐れず言えば、現代人が最も不足を感じているのは「お金」や「贅沢」ではない。

 

お金はそれほどこだわらない人も数多くいるし、生活水準について言えば「食うに困らなければ、まあ、良しとしよう」という方も数多くいる。

結果として、おそらく「相対的貧困」は革命に至る原動力にはならない。

 

では何が不足すると人々が怒りを感じるか。

それは間違いなく「役割」だ。

「お前は無能なので不要」と言われることが、社会的な生物としては、この世で最もツラいことなのだ。

 

「役に立たない」

「重要ではない」

「お前はコマの一つ」

「代わりなどいくらでもいる」

「クズだな」

「クビだ」

「無能め」

「お荷物だな」

 

上のような言説が、いかに人間を傷つけるか。

「お金がない」「贅沢ができない」の比ではない。

 

「企業やテクノロジーが人間を不要にする」という言説が怒りを集めるのは、そのためだ。

「搾取されている」とわかっていても、無職になれないのは「役割を失いたくない」からだ。

金銭的な見返りがなくても、SNSに投稿を辞めないのは、「いいね」が心からほしいからだ。

 

人間は、いかにお金がなくとも、どんなイデオロギー下でも「一人の人間として尊敬されている場」さえあれば、なんとか生き延びることができる。

逆に、そうした尊厳が踏みにじられると、人々は命をかけた反乱を起こす。

 

 

昔、シロクマ先生に寄稿いただいた「老人が尊敬される時代は終わった」という記事がある。

私は、「生きづらさ」はこの言説の延長にあると思っている。

 

「親が尊敬される時代は終わった」

「宗教家が尊敬される時代は終わった」

「町内会で活躍できる人物が尊敬される時代は終わった」

「肉体労働者が尊敬される時代は終わった」

「管理職が尊敬される時代は終わった」

 

何でも良い。

現代社会は既存の「権威」を次々と失墜させ、それに伴って多くの「役割」も失われた。

そして、尊敬される地位が「学校」「企業」や「政府」の一部に収斂した結果、「尊敬される人々」や「お山の大将」の絶対数が減ってしまったのだ。

 

 

だから、私はこれからの世界、小さくともよいので社会の中で「尊敬される役割」を創りだすことが、何より重要だと思う。

 

私が、大して儲からない零細企業をやっている一つの理由は、世の中に「役割」を作りたいからだ。

また、個人的に、副業やフリーランスの方々を応援するのも、そのような理由からである。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

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◯ブログが本になりました。

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「高望みしすぎじゃない?」

 

思い返すと、僕の人生は高望みの連続だったように思う。

偏差値38から医学部を目指し、傍からみてて絶望的にまで不釣り合いの人に恋をし続けと、むしろ高望みをしなかった事を思い出すほうが難しい。

高望みをしてしまったのは、もちろん傲慢さがあったり、プライドがあったりという要素があったりしたのは否めないだろう。

 

ただ……自分としては、高望みって、そういうのとはちょっと違うんだよなという感覚が何となくなのだが常に心の中にあった。

つい先日も山本一郎さんの「ズレずに生き抜く」という本を読んでいて、男の結婚できない悩み話というエピソードが出てきて色々と考え込んでしまった。

「もう賞味期限切れかかってるんだから、よほどハードル下げない限り結婚は無理だ」

「何でそんな高望みして相手に条件づけするんだお前らは」

「女性に必要以上の若さを求めるな」

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どれもこれも非常によく聞く話であり、まあ実際傍からみればそうとしか言いようがない事例なんだろうなとは思いつつも、元・高望みがやめられなかった当事者としては

「やっぱり、何かちょっと違うんだよなぁ」

という感覚も否めず悶々としていた。が、つい先日これは嫌いな食べ物を好きになる方法に近いんじゃないかという事にふと気がついた。

 

好き嫌いを克服するのに一番いいのは本当に美味しいものを食べる事

あなたはなにか嫌いなものがあるだろうか?

僕は幼少期、風邪をひいていたときに飲んだスープの中に入っていたホウレン草が喉につっかえて気持ち悪くなった事があり、それ以降ホウレン草が駄目だった。

 

一度嫌いになると、それを進んで好むようになるのは難しい。

深く考え始めると、ホウレン草って何か筋っぽかったり苦かったりで、「なんで飽食の時代にこんなものをワザワザ食べなきゃアカンのや」と、食べなくていい理由なんて無限に考えられた。

 

その感覚が根底から覆ったのはホウレン草のピーナッツバター和えを食べてからだ。

カリカリとクリスピーなピーナッツと、甘く味付けされたピーナッツバターとで和えられたそれは、僕が嫌いな要素が全てマスクされており、ひとくち食べて

「なんだ、ホウレン草って美味しいじゃん」

と心の底から納得してしまった。嫌いなものを生まれてはじめて美味しいと思えた瞬間である。

 

すると不思議なもので、それまで絶対に食べられなかったホウレン草料理が普通に食べられるようになった。

おひたしも、白和えも、バター炒めも、普通に美味しいではないかと、それまでなら絶対に食べられなかったものに美味しさを見いだせる自分に軽い衝撃をうけた。

 

心の参入障壁というのは本当に不思議なものだ。

一度それが取り除かれてしまうと、逆に再び敷く事の方が難しい。

美味しいものを食べて、脳の認知を根底から覆せば嫌いなものも好きになれる事を僕は学んだ。

 

似たようなエピソードは他にもある。

例えば、うちの妻はウニが大嫌いだったのだが、鮨屋でトップクラスの雲丹を食べてからというものの、すっかりウニが大好物になってしまった。

今では以前なら絶対に口にすら入れられなかった回転寿司のちょっと臭うウニも食べられるようになる有様である。

 

このように、食べ物においては苦手なもの、嫌いなものを克服するのには、心の参入障壁を破壊する必要がある。

その為に肝心なのが有無を言わせない圧倒的☆美味だ。

夢と希望をセットに耽美な現実を魅せつけられれば、人の苦手意識などいかようにでも変わるのである。

 

高望みは「本当に美味しいのなら、ひとくち食べてみるか」という決断の為のまじない的でもあり、シュレディンガーの猫的でもある

と、ここで思い出して欲しいのだが、冒頭の”高望み”エピソードにも似たようなものを感じないだろうか。

現代社会は、それこそ普通に生きていくだけならばそこまでの苦労をする必要はない。

あえてその楽な道を選ばず、苦労してまで何かを獲得するのなら、それこそ何らかの益を見いだせなければ難しい。

 

結婚できない人達が高望みをするのは、そもそも恋愛活動が苦以外の何物でもないからに他ならない。

そんな心が痛む事をやるのだから、よほどのご褒美でもないとやってられない。

高望みは「本当に美味しいのなら、ひとくち食べてみるか」という決断の為のまじないだ。

それこそ佐々木希さんのような美人と付き合える事が確定しているのなら、多くの男は火の中だろうが水の中だろうがいくらでも喜んでボンボン飛び込むだろう。

 

が、現実は非情である。

ごくたまに宝くじを当てる人がいる事は否定しないが、だいたいの苦行は無で終わる。

それならシュレディンガーの猫よろしく「箱を開けなければ、成功と失敗は常に不確定なのだ」と可能性に恋をし続ける方が、よどほ”美味しそう”にもみえる。

 

こう考えると、高望みというのはシュレディンガーの猫的でもある。

 

チャレンジしない限り、不確定な未来にいつまでも夢想し続ける事だって出来る。

貧しかったかった頃は、「現実をみる」しか選択肢はなかった。

しかし豊かになった今、私達は誰もが心の中にシュレ猫を飼う事ができるようになった。

 

高望みというのは豊かさの何よりの証明のように僕には思える。

 

いい結婚すると、相手とどんどん似ていくらしい

渡部建さんの不貞の話題が世間ではもちきりだ。

「佐々木希さんのような美人と結婚したのに、不貞を働くのか」という人が多くみられたが、僕が思うにパートナーというのは姿かたち以上に人間性の合う合わないが大きいようにも思う。

 

良い結婚とは何か。

これはとても難しい問いたてだが、行動経済学のある知見によると「顔が似ていくこと」だという。

<参考 インビジブル・インフルエンス 決断させる力>

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長年にわたって共同生活し、心配事や悩みを共有し、ふたりのあいだで繰り返し協調しあう事で、人はお互いの表情を同じように同調させていく。

この結果、わずかづつだが似たような痕跡が顔に蓄積していき、顔が驚くほど似ていくというのである。

 

このエピソードを読んでいの一番に思い出したのが野村監督夫妻だ。

初めてみたとき、あまりにも顔が似すぎてて随分衝撃をうけたものだったけど、先の話を読んでそういう事だったのかと合点がいった。

たぶん、野村夫妻は世界でも類まれなレベルで幸せな夫婦だったのだろう。誠にホッコリする話である。

ノムさん サッチーが出会ったその日に結婚を決めた息子の一言

野村氏は「やっぱり女性ですから、自分の子供とうまくいくか重点的に考えたと思う。この人なら子供らとうまくいくだろうと」と分析。

沙知代さんの即断については「性格的にせっかちですから、何でも早い」と当時を懐かしむように笑った。また「夫婦っていろんな縁がある」と苦笑い。

前澤さんや剛力さんのような社会的に大きく成功した男と美女のカップル、あるいはDAIGOさんと北川景子さんのようなエスタブリッシュメント同士の結婚というのは確かにインスタ的な映えがある。

 

ああいう例をみて、いろいろと高望みをする人達の気持ちもわからないでもない。

僕もかつて、絶世の美女と結婚できたらどんな感じだったのだろうかと夢想した事もある。

 

ただ今では、そういったみえがいい結婚なんかより、野村夫妻のように「お前らクローン同士なんとちゃうか」と言われるような結婚生活を築き上げてゆく事に憧れがある。

 

誰もが容姿に優れた人とパートナーになれるわけではないし、お金持ちや良家といったいいレッテルを得られるわけではない。

けど、結婚してパートナーと気を合わせてゆく事ならできるのではないだろうか?

そうして、長い年月をかけて自分だけの唯一無二の幸せの形を形成する。そこに結婚の醍醐味があるように僕は思う。

 

 

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【プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

Photo by Allison Shaw on Unsplash

『ルポ 技能実習生』(澤田晃宏著・ちくま新書)を読みました。

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「技能実習生」という制度に対しては、ネガティブなイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。

僕も、「外国から連れてこられて人間扱いされず、狭い部屋に押し込められ、安い給料で奴隷のような過酷な労働を強要される人々」だと思いこんでいたのです。

 

もちろん、そういうひどい目にあって、あこがれていたはずの日本が嫌いになって帰国していく実習生もいるのです。

しかしながら、このインターネット時代、多くの実習生の肉声がSNSなどで公開されているなかで、そんな「奴隷労働」のために日本にやってくる人たちが、そんなにいるのだろうか?と著者は問いかけています。

 

言われてみれば、たしかにその通りではありますよね。

著者は、その答えを求めて、日本への技能実習生の最大の供給国であるベトナムを訪れ、実習生たちの「その後」も取材しています。

日本では、2007年頃から人手不足問題が出てきたのですが、2011年末には1万3789人だったベトナム人実習生は、2019年末の時点では、その10倍以上の21万8727人に達し、実習生全体の53%を占めるようになっているそうです。

 

著者は「序章」で、高卒で就職し、25歳で結婚して27歳で35年の住宅ローンを組み、2000万円を借り入れてさいたま市に20坪の家を建てた日本人男性と、日本で技能実習生として貯めたお金で、故郷に家を建てたベトナム人の若者を比較しています。

 

著者は、実習生だったベトナム人の若者が建てた家を訪れたときのことを、こう書いています。

筆者は、ベトナム東北部に位置するバクザン省ルックナム県のクォアンハイという小さな村にいた。ひと際目立つその家は、にわとりが我が物顔で歩く、ぬかるんだ道の先にあった。

ベトナムの地方で見る戸建て住宅は、靴置き場のようなものはなく、観音開きの玄関を開けるとすぐにダイニングルームが広がっている。訪れた時は、そこで、大阪の食品製造会社の技能実習生として働くグエン・ヴァン・ロイさん(24歳)が、家族と食事をしている最中だった。床に敷いた敷物の上に食事を並べ、それをみんなで囲んで座りながら食べる。ベトナムの地方で見られる一般的なスタイルだ。

ロイさんは三年間の技能実習を終え、一時帰国している最中だった。明日、ハノイに移動し、明後日、ノイバイ国際空港(ハノイ市)から日本に向かうという。ロイさんは言った。
「残業も多く、手取りは17万円あります。もう少し、稼ぎたいです」
生活費として3万円。残る14万円は毎月、仕送りしてきた。その間に、約300万円の自宅借金は完済した。ロイさんは再び日本にわたり、二年間の技能実習を続ける。最長三年間だった技能実習は、2017年11月から最長五年に拡大されている。

ロイさんのほかに食事を囲むのは、両親と、同じ技能実習生として日本で知り合った彼女だ。大阪で技能実習生をしていた二人は、電車内で声を掛け合い、地元が同じだったことから、急速に距離を縮めたという。

この場にはいなかったが、ロイさんの姉も技能実習生として名古屋の会社で車のドアフレームの検査をしている。さらには、その姉の旦那も元技能実習生だという。

そんな息子たちが働く日本からやってきた筆者は、当然、大歓迎だった。

茶碗には山盛りのごはん、そして、父親のタンさん(51歳)がボトルを掲げ、筆者に目配せをする。ビールではなく、コメ焼酎。ショットグラスに入れて乾杯し、それを一気に飲み干す。この繰り返し。
「こんな立派な家を建てて、かわいい彼女もつれてきて、お父さんは幸せ者ですね」

通訳を通して伝えると、にっこり笑って、またお酒をついできた。

 

(中略)

 

幸せな若いカップルの背中を目で追うと同時に、猛烈な感情が込みあがってくる。それが何かに気づくのに、それほど時間はかからなかった。

嫉妬だ。筆者は未婚の38歳。常々、親孝行したいとは思っているが、フリーの物書きという不安定な仕事を続けているせいだが、いつも自分の生活で精いっぱいだ。ろくに親の生活を助けることもできなければ、40歳を前にして孫の顔を見せることもできない。

ところが、この技能実習生はどうだ。弱冠24歳にして家を建て、素敵な彼女を連れて帰ってくる。完璧じゃないか。しかも、さいたまで見た35年ローンの家じゃない。三年で家が建つのだ。まだ働きたいって、今度は何を始めようって言うんだよ……。

お酒が入っていたせいもあり、感情が乱れた。食品製造業の技能実習と言っても、お弁当にお惣菜をつめたりするだけの簡単な仕事じゃないか。なんで、それで家が建ったり、奥さんを迎えられたりするんだ。

これを読んで、僕もひとりの日本で暮らす人間として、著者に感情移入せずにはいられませんでした。

技能実習生は、経済格差を利用されて、過酷な単純労働を安い給料でやらされている「かわいそうな人たち」というイメージは、「こちら側からみた、彼らの姿」でしかないのです。

 

彼らが日本で働く先を選ぶ基準のひとつは「残業が多いこと」であることを著者は繰り返しています。

「残業が少ないこと」の書き間違えじゃなくて、本当に「残業が長くて、その分の手当がもらえること」を強く希望しているのです。

いまの日本の若い労働者の感覚とは、あまりにかけ離れていることに戸惑ってしまいます。

 

実習生たちは、ちゃんとしたところで働くことができれば、日本での数年間で200万円から300万円の仕送り(貯金)ができて、地元に家を建てたり、新しい事業を始める資金を得られたりするのです。

さらに、日本で働いていた縁で、ベトナムに進出してきた日本企業で働く、という道が開けることもあります。

 

もちろん、異国での出稼ぎ生活、長時間の単純労働は、けっしてラクでも面白くもないと思います。

しかしながら、「3年間がんばって働けば、その後の人生を変えることができる」という希望を実習生たちは持っているのです。

「刺激も専門性もない単純労働」だけれども、誰にでもできそうなその仕事を3年間続ける「だけ」で良いとも言えます。

 

日本人が同じ労働をしても、稼げるお金は「とりあえず食べていける」くらいにしかならず、貯金なんてできないし、周りの人に成功者としてうらやましがられることもありません。

この本を読みながら、僕の父親世代の高度成長期の日本人も、「社畜」なんて言われながらも、自分の労働がきちんと報われることに充実感を抱いてもいたのだろうな、と考えていました。

 

ただし、この経済格差を利用しての「技能実習生受け入れ」というのが、今後もずっと続いていくかどうか、というのは未知数なのです。

実習生が日本に来るためには、100万円くらいの費用がかかり、中間でマージンを搾取する人たちも暗躍しています。

 

人手不足は日本だけの問題ではなく、台湾や韓国などの他国でも外国人労働者を日本よりも好条件で積極的に受け入れつつあるのです。

ベトナムという国も、近年はめざましい経済成長を遂げており、日本との賃金の格差は「わざわざ出稼ぎに行くほどではない」くらいになっていくでしょう。

 

経済成長が停滞している日本は、近い将来、アジアの国々に出稼ぎに行く若者が増えていく可能性もあるのです。

IT産業など一部の業種では、すでに、優秀な人材の海外への流出もはじまっています。

雇う側も、人手不足のなかで、外国人労働者を求めているのです。

その一方で、外国人労働者の待遇向上に関しては、そんなに簡単にはいかない、というのが実情のようです。

 

著者の韓国での取材より。

韓国取材では最後に安山市内のプラスチック工場を訪ねた。同社は産業研修生時代から外国人を採用し続けている。同社の経営者は、匿名を条件に取材に応じた。経営者は外国人労働者の給与明細を筆者に示しながら、こう語気を荒げた。

「雇用許可制は100%間違っている。韓国人と同様の待遇にしなければならないとするが、言葉も話せず、仕事も一人前ではない労働者となぜ同等なのか」

給与明細に記された外国人も月額給料は300万ウォン(約27万円)近い。専用寮を準備し、食事も無償で提供しているという。

「製造業は三年でようやく一人前。それまでは投資。韓国人はそこから何十年と働き、会社に利益を出してくれる。外国人はこれまで雇用許可制で100名以上受け入れてきたが、4年10か月で帰国し、再び延長して働きたいと戻ってきた人はいない。最低賃金が急激に上がっており、これ以上外国人を雇用できない」

この経営者と同業種の会社は、外国人雇用を断念し、カンボジアに工場を出した。韓国では300万ウォン(約27万円)近い人件費がかかるが、カンボジアの場合、同じ作業でも人件費は月130ドル(約1万5000円)になるという。この経営者も外国人の採用を辞め、自社のベトナム工業を再稼働させる予定だという。

「自社の工場があるベトナムなら賃金は月額300~500ドル(約3万3000~5万5000円)程度だ。外国人を採用するのではなく、国外に出ることになる」

期間限定では労働力になり得ない。日本より約15年早く単純労働分野で働く外国人を受け入れた韓国では、新たな問題に直面しているようだった。日本でも転職が認められる特定技術の導入で、外国人労働者の待遇は上がるかもしれない。

待遇が上がるといっても、業種や企業の差が広がり、それが労働者の失踪の原因となる、ということも指摘されています。

彼らは、「とにかく短期間でまとまったお金を稼ぐ」ために出稼ぎに来ているので、賃金や残業時間の長さを重視しているのです。

 

技能実習制度の光と影、これまでは、その「影」の部分ばかりが強調されがちだったのに対して、「なぜ、それでも彼らは日本にやってくるのか?」についても説得力のある取材がされていて、読み応えのあるルポルタージュでした。

 

この本を読むと、日本人が「技能実習生」として外国で働くようになる日も、そんなに先のことではないな、と考えざるをえなくなるのです。

前述の韓国の「月給27万円、専用寮に食事も無償提供」なんて、うらやましく感じる日本人も大勢いるだろうし(ちなみに、日本での「期間工」の募集も、同じくらいの条件のようです)。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo by:manhhai

かつて私が任された、ターンアラウンド(事業再生)の現場でのことだ。

経営は危機的状況で、何もしなければ半年ももたずに現預金が枯渇する。

すぐに出血を止めることが最優先事項だったので、最初に取り組んだ仕事は業務の標準化と属人性の排除だった。

 

なぜ私が無償で業務ノウハウを人に教え、協力する必要があるのですか?

大きな組織では、

「この仕事は、○○さんでないとできません」

などという仕事が少しでもあると、そこがボトルネックになり様々な業務が停滞する。

そして、非常に大きな無駄とコストが発生するだけでなく、維持すべきコストと削減に取り組むべきコストを判断することすらできなくなる。

 

しかし当時、社内では人員不足もあり、あらゆる業務が

「○○さんでないとできません」

という状態に陥って、可視化と定量化の大きな妨げになっていた。

 

私は困って製造現場のベテラン社員の一人に相談を持ちかけた。

彼女がいないと製造ラインが止まりかねないというほどに、大きな職責を一人で担っていた女性である。

 

「設計の仕事は、あなたがほぼ一人で担当していると聞きました。宜しければ仕事を標準化し、組織化したいと思っています。協力してもらえませんか?」

「私のメリットはなんですか?」

 

「……メリットですか?」

「そうです。この仕事はずっと私が担当してきて、私が確立したノウハウで回しています。なぜ私が無償でそれを人に教え、協力する必要があるのですか?」

 

「……」

「それに、この仕事を手放したら、会社は私をお役御免にするのですよね?」

 

「いえ、そんなことは絶対にしませんし、させません。私は組織力を発揮し成果を出せる人を評価します。」

「申し訳ありませんが、そんなキレイ事は信用できません。実際に経営トップはこれまで、給与の高い人から順番にクビにしてきましたよね?」

 

私はそれ以上、何も言うことができなかった。

確かにその時、経営トップは、

「いつも忙しそうにしているか」

「その人でなければできない仕事があるか」

と、付加価値そのものではないモノサシで人を評価する企業文化を作り上げてしまっていたからだ。

 

いつも正確な数字をすぐに出してくれる若手の経理社員を、

「あいつはいつも定時に帰るし、暇そうだから必要ないんじゃない?」

と、言い出したこともあった。

しかし彼は、無駄な入力作業はシステムからマクロで自動入力する仕組みを自前で作るなど、単純作業は全て自動化するセンスを持ち合わせている社員だった。

 

だからいつも、すぐに正確なデータを出してくれて「暇そうに定時に帰っていた」わけだが、そんな彼の仕事を、

「部下の女性社員だけでいいんじゃない?」

と経営トップが評価すればどうなるか。

 

誰だって「自分にしかできない仕事」を作って抱え込み、「いつも忙しそうにすること」が仕事のスタイルになって当然ではないか。

「自分にしかできない仕事」を確立できたなら、会社も簡単にクビにできないとわかっているので、意識のベクトルはそうなるに決まっている。

 

しかしこれは、この会社に限った話でもないだろう。

おそらく多くの人が、仕事の本質を見ない上司や経営トップのこのような価値観に悩まされているはずだ。

だからいつも無駄に忙しさを演出し、眉間にシワを寄せ考え事をしているフリをし、難しい仕事を演じることになる。

本来、付加価値の低い仕事はさっさと片付けて暇そうにしている人こそ評価されるべきにも関わらず。

 

余りにもバカバカしいのだが、ターンアラウンドの現場では

「業務の標準化と属人性の排除」

のためにまず、この程度の信頼から取り戻さなければならなかった。

 

目的を外してはプロにはなれない

しかし「仕事を複雑そう/忙しそうに見せかけたほうが得」という思考は、実は経営者だけでなく私たち一人ひとりにも根深く備わっている価値観だ。

現在私は、Webメディアの編集者をしている。

毎日多くのライターさんの原稿を拝読しているが、残念ながら仕事のお願いに至らない人は、大きく2つのタイプに分かれる。

 

一つは、メディアの目的にそぐわない人。

もう一つが、冗長で複雑な文章を書く人だ。

 

前者は「読者とメディアのための文章を書いていない」ライターさん、「自分語り」「自己陶酔」の原稿を書いてしまう方だ。

後者は「簡単なことを複雑に書く」ライターさんだ。

 

例えば、彼らは以下のように読みにくい文章を書く。

“本コラムでは増資(主として第三者割当増資)という手法について、そのような方法が存在しているということをほとんど知らないという経営者から、既に第三者割当増資を実施したことがあるがより深く知見を得たいという経営者までを対象に、初心者から専門家レベルまで理解を深めてもらうことを目的に筆を進めていく。”

 

シンプルに

“本コラムでは、増資経験者から初学者までを広く対象とし、主として第三者割当増資について解説する。”

と書けば良いのに、いたずらに冗長な文章を書く。

 

一体なぜ、少なくない数のライターさんがメディアの目的を外すような記事や、冗長な文章を書いてしまうのだろうか。

純粋なスキル不足の場合もあるが、それとは別に垣間見える理由の一つに、「自分語り」を書く動機と同様の、ライター自身の「やっている仕事を複雑そうに見せたい」との承認欲求がある。

 

具体的には、

「非常に専門的で、充実した内容ですね。」

「すごいご経験をされてきたんですね。」

といった称賛を得たいとの欲求だ。

 

だが皮肉なことに、複雑な文章を書いても、誰からも称賛は得られない。

ライターさんが受けとる最大の称賛は、

「メディアニーズに合致し、シンプルでおもしろい原稿でしたね。」

だからだ。

 

プロは「目的」のため仕事をする。

自分のために書いてしまっては、評価されるものも評価されない。

 

本質を外すような会社・経営者は、こちらから見限らないと手遅れになる

冒頭の、仕事の本質を評価しようとしない経営者や上司について話を戻そう。

 

令和の時代にもなって、

「いつも忙しそうに頑張っている」

「複雑そうに見える仕事をしている」

などという理由で社員や成果を評価している経営者や上司は、本気で引退を考えた方が良い。

 

また、社員もその状況に流されて、仕事を抱え見込むことで「頑張っているアピール」をし始めると、ビジネスパーソンとしての成長が止まってしまう。

また、それが習慣化してしまえば、目的を外し「プロ失格」となってしまいかねない。

 

苦悶の表情でアイスダンスを踊るスケーター、不安そうな顔でジャグリングをする大道芸パフォーマー、シンプルに書けないプロライターなどいない。

本物のプロは熟練の技を簡単にみせるのだ。

 

その本質を理解せず、「いつも忙しそうにしてれば評価される」組織で仕事をしていては、やがて自分まで腐ってしまう。

躊躇せず、こちらから早々に見切りをつけようではないか。

手遅れにならないうちに。

 

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

「毟(むし)る」という漢字は少ない毛と書きますが、これが言葉の暴力でなく何だというのでしょうか(怒)。

twitter https://twitter.com/momono_tinect

fecebook https://www.facebook.com/yasunori.momono

Photo by:Hayashina

 

今から5000文字くらいかけて、

「聖剣伝説LOM超面白かったし武具作成に割り振られたリソースが恐ろしく馬鹿でかくって圧巻と言う他なかった」

という話をします。よろしくお願いします。

 

1999年の7月。

当時私はまだ大学生で、大学のキャンパスに入り浸っては学生会館でケーナを吹いていました。

ケーナというのは南米の縦笛です。

 

当時私には何人かのゲーム仲間がいて、どんなゲームが面白いとか、このゲームはあんま面白くなかったとか、そんな情報を共有し合っていました。

確か、その中の一人が、「これめっちゃ面白い」と言い出したのだと思います。

その友人のゲームの好みを信頼していた私は、一も二もなくそのゲームに飛びつきました。

 

そのゲームの名前が、「聖剣伝説Legend of Mana」(以下LOM)。

当時のスクウェアから発売された、PlayStation用のゲームタイトルでした。

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今まさにリメイクが大人気の「聖剣伝説3」を擁する聖剣伝説シリーズの系譜なんですが、そのゲーム内容は今までの「聖剣伝説」とは全くかけ離れたものでした。

 

LOMの独創性というものは、下記のような諸点で表現することができます。

 

・ランドメイクシステムによって、プレイヤーの自由に形作られていくワールドマップと、それによって起きたり起きなかったりするイベント

・一本道のストーリーなど一切なく、あちこち巡って自分で探さなくてはならないストーリー展開

・クリアする為のルートすら限定されておらず、ただクリアするだけなら通らなくてはならないルートは最低限で、本当に自分次第、人によって変わるゲーム展開

・何かの冗談のように素晴らしいBGMと絵本のような美しいグラフィック

・独特なキャラクター造形と独特な台詞回し

・真珠姫がかわいい

・草人がかわいい

 

上記はざっくりした話でして、LOMの魅力というのは個人的には語っても語りつくせない質量なのですが、今回の主題はそこではないので割愛します。

 

ただ一言、BGMのすばらしさだけはもう本当にガチのガチガチでして、名曲中の名曲「Song of Mana」の素晴らしい透明感のあるボーカルもさることながら、滅びし煌めきの都市とか断崖の街ガトとかゴミ山とか港町ポルポタとか本当にどのBGMも名曲以外存在しないしあと台詞が本当に滅茶苦茶味がある台詞ばっかりで特にポキール(訂正:セルヴァ)が名言メーカーという他なく「人の愚かさばかり見る、キミの生き様に光明はあったかい?」とか「自分自身を許せない人が、誰を許せると言うの?」とか超沁みるしあと草人の台詞もいちいち物凄く良くて「ほしってね けっこうね たくさんあるっぽいよね」とか死ぬほど愛しくってあとサボテンくん日記が超いい味出しているけどイベント「サボテン」は死ぬほど苦労したしアマレットちゃんって誰だよお前の名前知らねえよと思ったしあとイベントを進めると主人公のマイホームに人やペンギンが増えていくの滅茶苦茶素敵で真珠姫とか一生あったかい部屋でお昼寝させておいてあげたい。(早口)

 

はい。

 

それはそうと、この聖剣伝説LOMというゲームには、一つ「とても重要な、しかし全く重要ではない」という不思議な立ち位置にある「武具作成、楽器作成、ゴーレム作成」というシステムがあります。

まあ要はアイテム作成システムですね。

今回皆さんにお話したいのは、このアイテム作成システムがいかにとんでもないシステムだったのか、という話です。

 

LOMの武具作成システムって、一言で言うと「死ぬほど深い」んですよ。

ゲームのほんの一部分なのに、これだけで数十時間数百時間吸っちゃうことも全く珍しくない、滅茶苦茶広大なキャパシティ。

 

まず、プレイヤーは、鉱石とか木材とか皮とかの「主原料」を選びまして、それを武器や防具や楽器(普通のRPGで言う攻撃魔法を使う為のアイテム)に整形します。

次に、色んなアイテム(「副原料」と呼びます)を使ってその武器や楽器をトンカントンカンと鍛えます。そうすると武器や楽器がパワーアップする。

説明してしまうとたったその二行なんですけど、そのシステムの奥深さ、広大さ、複雑さ、そして面倒くささは想像を絶していました。

 

ちょっと解説しますね。

武器や楽器の素材が持っている8つの「属性」。

基本的にはこの属性のレベルが上がれば上がる程武器や楽器が強力になるんですが、その為のロジックには複雑な要素、ゲーム内だけでは読み取れない要素がとにかく山盛り。

 

主原料によって全く変わってくる武器の威力。

強力な主原料は当然希少で、手に入れるだけでも一苦労です。ディオールの木とか竜鱗とか、入手にどんだけ苦労したことか。

副原料で鍛える際の様々な法則。何も考えずにトンカンやっているだけだと、攻撃力はさっぱり上がらないし、逆に下がってしまうことすらあります。

 

例えば属性同士には相性があって、何も考えずに「火」を上げると代わりに「水」が下がってしまったりします。

更に、主原料自体にも属性との相性があって、例えば金属系の素材だと「木」の属性が上がりにくかったりします。

 

隠しパラメーターとして武具に溜まっているエネルギーというものがあって、それと副原料がある条件を満たすと「シークレットパワー」というものが武具に宿ります。

このシークレットパワーは三つまでしか宿らせることが出来ず、しかも内容も大きく「鍛えている間に役立つもの」と「鍛え終わったあと役立つもの」に分かれていますので、鍛える手順を考えに考え抜いて、シークレットパワーを出したり入れたりしながら武具を鍛えないといけません。

手順を間違えると投入した副原料が全てパーになったりします。

 

この説明だけ読んでると良く分からないですよね?

「死ぬほど面倒」ということだけは伝わったかと思うんですが。

 

このゲーム、発売から二か月程してから、「アルティマニア」っていう電話帳みたいな攻略本が出たんですけど、その攻略本にも数十ページにわたって武具作成や楽器作成の解説が載ってたんですよ。

けど、それ、内容としては基本。基礎。基礎知識。

数十ページに渡って書いてあって、もちろん有用な内容なんですけど、それだけ知っていても強力な武器なんて作れない。

それを知って理解した上で、手順を様々に考え抜いて工夫・応用しないと強力な武器なんて作れなかったんです。

 

このゲーム、宝箱から出てくるアイテムの殆どが「副原料」でして、武具作成以外でなんの使い道もないんですよね。

体力回復アイテムもなければ移動の為の便利アイテムもない。

「鏡の破片」とか「ひとふさのウール」とか、本当に殆どが作成でしか用途のないアイテム。

つまり、「宝をゲットする」というRPGの非常に重要な要素が、まるまる武具作成の為に特化されてたんです。

 

なんなら、一周に一個しか手に入らないから、わざわざそのアイテム再入手の為に周回しなくちゃいけなかったりした。

ポケステ持ってなかったし。

たかがRPGの中のほんの一要素に、これだけリソースが割り振られてたんですよ。

物凄いと思いませんか?

 

で、それだけリソースが割り振られたシステムなんだから、ゲーム上でもさぞかし重要な位置を占めているんだろうと思われますよね?

 

攻略上「不要」なんです。

不要。

ただ攻略するだけならガチで不要。

 

このゲーム、ただラスボスを倒すだけなら正直店売りの武器で十分でして、攻撃力も数十あれば何の不便もなく攻略することが出来ます。

ちゃんと鍛えれば1000以上の攻撃力の武器とか作れちゃったりするんですけど、通常難易度だとそれでラスボス殆どワンパンで倒せます。

オーバースペックもいいところ。

 

楽器作成とゴーレム作成については、武具以上に攻略上の必要性が皆無でして、楽器で魔法使うより武具で殴ってた方が遥かに速く敵を倒せますし、考えに考え抜いてゴーレムのロジックを構築しても全然思うように動いてくれず、レディパールとバネクジャコ連れてった方が255倍くらい楽に敵を倒せます。

 

武具作成の必須要素なんてなーーーんもない。

ガンスルーしても本当に何の不都合もないんです。

わざわざ、強力な武具を作った人の為に「ヘルモード」とか「ノーフューチャーモード」とかの高難易度モードが用意されているくらいです。このゲームバランス作った人本当に頭おかしい(褒め言葉)。

 

けど。

けどですね、

武具作成、めっっっっっっっっっっっっちゃくちゃ楽しかったんですよ。

本当に数十時間つぎ込んじゃったんです、当時。

 

色々手順を考えて、狙い通りにシークレットパワーが発動した時の快感。

属性を上げに上げて、最後に仕上げアイテムを使って、攻撃力がどーんと上がった時の達成感。

鍛えに鍛えた武器でボス敵を瞬殺する気持ち良さ。

ロジックを緻密に組み上げたゴーレムが全然動いてくれなかった時のやるせなさ。

なんなら、これらの「楽しさ」がLOMの面白さの過半を占めている、といってもいいくらい、武具作成って楽しかったんですよ。必須でもなんでもないのに。

 

あれは多分砂場、サンドボックスでした。

ルールがあって、そのルールを読み解いて、みんなでその上で色んなものを作ってみる遊び。

 

当時はまだインターネットも黎明期で、私はいわゆる「パソコン通信」で色んな人と情報のやり取りをしていたんですが、その人たちでの盛り上がりも凄かったんです。

「うぉーーー攻撃力1200いった!!!」とか、「このシークレットパワーで無限復活作ったらめちゃ強いじゃん!!」とか、「こんなゴーレム作ったよ!!見て!!!!」とか。

 

今は亡きコミュニティで「乱れ雪月花の間」っていうファンサイトがあったんですけど、そこにはこの武具作成を研究し尽くした人たちが考案した、武具を鍛える素材とチャートが様々に並んでいました。

で、更にそれをもとにしてアレンジをして、属性レベルをたった1上げることで快哉を叫んだりしていたんです。

 

例えば一例を書いてみますと、

 

A : 0-0-9-0-0-0-0-0
・ 輝きx5>イオウx2>輝きx2
B : 0-0-9-6-0-0-0-0
・ >輝き>アウラx2>輝きx2
C : 0-0-9-6-7-0-0-0
・ >サラマx2>イオウ>輝き>イオウ>火マナ
D : 0-6-9-6-7-0-0-0
・ >輝きx2>シェイドx2>輝きx2
E : 6-6-9-6-7-0-0-0
・ >ウィスプx2>輝きx2
F : 6-6-9-6-7-0-8-0
・ >ジンx2>水銀>輝き>水銀>風マナ
G : 6-6-9-6-7-6-8-0
・ >輝き>カオス>ノームx2>イオウ>輝き
H : 6-6-9-6-7-6-8-6
・ >カオス>ウンディx2>水銀>輝き

 

何を書かれているか分からないと思いますが、これ、武具を鍛えるチャートの「途中」です。

一個一個その通りにアイテムを使っていって、一回一回トンカン時間を使って。

それでこれだけ長いのが、まだチャート全体の半分くらい。

当時こういうのを考えるのに血道をあげる人達がたくさんいたんですよ。

頭おかしい(褒め言葉)と思いませんか?

 

攻略上は殆ど不要な遊びが、理解不能な程に広大で奥深かった。

そこをどこまでも突き詰めることが出来た。

ただそれだけの為に、滅茶苦茶膨大なリソースがつぎ込まれていて、それを味わう為にも膨大な時間が必要だった。

 

今から考えると贅沢な遊びという他ないんですが、それを平然とゲームの地平に現出させてみせた聖剣伝説LOMというゲームは、本当に特殊なタイトルだなあと。

単に「聖剣シリーズの中の一つ」というだけの存在ではなく、なんならスクウェアのあらゆるRPGの中でも極めて独特な立ち位置を締めたオーパーツだと言ってもいいんじゃないか、と思うくらい、私LOMが好きなんです。

 

皆さんもいかがですか、LOM。

武具作成に全く手を出さなくても十分楽しいですよ?特に宝石泥棒編のシナリオは本当にシナリオ追ってるだけで泣ける。

 

最後になりましたが、私が書きたかったことは

「聖剣伝説LOMいいよね!!」「3も超好きだけどLOMもリメイク待ってます…!!!」

という二点だけでして、他に言いたいことは特にない、ということを申し上げておきます。

よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by:Ken Yamaguchi

「ベンチャー企業やってる先輩の意外な一面」についての話をしたいと思います。

 

将来に余計な面倒が生まれないよう、体をメンテする

お世話になっている先輩の1人で、どんなに忙しくてもジムと定期診断(健康診断、歯科など)は欠かさないという方がいます。

私は企業に所属していますので、健康組合の提供してくれる年1回の健康診断があります。

が、ベンチャー企業を経営されている方とかだと、自腹で健康診断を受診するというケースも珍しくはないとか。

 

で、その先輩に一度聞いたことがあります。

「先輩はなんでそんな忙しいのに、喫緊で必要なさそうな歯科検診とか含めてやってるんですか?タバコも吸わないし、気にしないといけないのはお酒くらいじゃないんですか?」と。

 

そうすると、過去の話をしてくれました。

その先輩は、まぁ傍目から見ても超絶忙しそうで、一時は自分でコントロールできないほどの仕事をやっていました。

そのせいか、ある時自身の体調を崩してしまい、その結果いくつかの仕事が流れてしまったことがあるとか。

 

関係していた人への謝罪などはさておき、「頑張ってやり切れたならまだしも、挑戦する場にも立てなくてうまくいかなかったことが悔やんでも悔やみ切れない」とその時に猛烈に反省したそうです。

そして、「もちろん、ベンチャーとして経営者の保険とかも入ることも考えたんだけど、あれは単に金銭的な保証に過ぎなくてだな。」と。

 

「ベンチャーのビジネスなんて、自分でコントロールできないことだらけだから、一度やらかした分、自分の体調くらいしっかり見ておきたくて。事前の工夫でコントロールできる不確実性は極力コントロールしたいって感じかな。だから、自分の体調に関する数字も管理するようになったし、数字で見づらいものについては専門家にアウトソースことにしたんだよね」と教えてくれました。

 

なるほど。

しかし、何かプラスのものが得られることにお金を使うのなら感情的にも理解しやすいですが、何も起こらないように準備することは誰にも評価されないし、どうも積極的になれません。

 

私の好きな著書の冒頭部分にも、このような記述があります。

治療より予防のほうがいいのは誰でも知っている。でも、予防のために何かをして高く評価されることはあまりない。

(引用)「ブラックスワン上」ナシーム・ニコラス・タレブ p.14プロローグ部分より

[amazonjs asin="4478001251" locale="JP" tmpl="Small" title="ブラック・スワン上―不確実性とリスクの本質"]

しかし、本業がどうなるかわからない度合いが高い分、自分にかかる不確実性を少しでも削っておきたいというのは大変理解できるところです。

それを単なる理解で終わらせずに、ちゃんと体現できているのは、この先輩が一度体を壊した事でその意味を本当の意味で理解されたからなのかもしれません。

 

オンが不確実性の塊になる程、オフラインでは測定可能な物で達成感

一方、こんな話も聞けました。

「自分を含め、経営者はトライアスロンやロードバイクを始める人が多い気がする。」と。

(ふむふむ。自分はやったことないけど、前述のように身体のコンディションを保つためというのもあるのかもしれない。確かにやってる人多いよなぁ。)

 

しかし話を聞くとどうやら「体のメンテ」とは違う目的があるとのこと。

「トライアスロンとかロードバイク、これはタイムが数字でわかる分、分かりやすいんだよね。あとは、自分がやればやる分成果もでる。あ、ちなみに言うと、これ体動かしすぎて健康には良くないかもね(笑)」。

 

健康に良いのかは自分にもよく分からないものの、自分だけの努力で着実な成果が感じられるものを生活に取り入れることにより、自分のメンタルを整理しているというのが実態のよう。

細かい事を言えば、コースによって、あるいは天候などによって、体調によって、左右されるタイムが、終わった直後に見える。

 

この分かりやすさがメンタルに良いという事らしいです。

経営者は人や金などのリソースをアロケーションする、ビジョンを描くなど大きな事をしている分、現場で感じられるような直接の実感や、やりがいは少なくなる。

KPIなどのダイレクトな数字は認識しているとしても、多くの不確実性を相手にしている人にとっては、「努力すれば前に進む」と感じられるものは、とても大切だと言う事なのかもしれません。

 

不確実性という観点でのポートフォリオ

まとめると、前段は、自分が置かれている不確実性を認めた上で、それに対応するための余裕や体制を整えておくという話。

一方、後段は、自分の影響下で何とかできる世界を持っておく事で、不確実性に対するメンタリティを整えておくという話です。

 

で、これらの「確実性」と「不確実性」をうまく配分する話は色々と応用が効きそうだなと思っています。

かく言う私も、自分なりに確実性と不確実性のポートフォリオを意識しています。

ただし、勇気のあるタチではありませんので、先輩とは逆パターン。

 

つまり、本業で割と確実性の高い事をやりながら、それ以外で不確実性を入れ込んでいる形です。

具体的には、勤めている企業でそれなりに仕事をして着実なキャッシュフローを得つつ、片手間ではありますが不動産賃貸業などをやっています。

金融機関も私の本業での確実性を評価し、お金を貸してくれているわけですね。

 

不動産なんて別に不確実性でも何でもないと思うかもいらっしゃるかもしれませんが、数億円の借入を行った上で、毎月自身の通帳から数百万円の金額が出入りするのは、慣れていない人からすると気が気でならないでしょう。

借入分を返済する前のキャッシュフローだけをみれば、本業の給料よりはるかに多い金額が振り込まれます。

 

面白いのは、この不確実性を適度にそこそこやってきた結果、あと数年すれば本業のキャッシュフローを超えてしまいそうで、不確実だったものが「新たな確実性の源泉」になりつつあるという事です。

私は会社でやることに一定の楽しみを持っていますので、今すぐにリタイアすることは考えていませんし、一部の人で流行っているFIRE(Financial Independence、Retire Early)を目指しているわけでもありません。

 

が、新たな確実性の源泉ができつつあることにより、メンタルにはさらに余裕ができ、本業の方でも割とやりたい事をやる、やりたくない事はやりたくないと言えるようになってきたように思います。

つまり、次は本業の方でも不確実性を取り入れられるようになりそうだと言うことです。

 

昨今、本業と副業で収入を分散化せよ、とかはよく言われるのですが、人は何となく不確実な事はなるべく小さくしていくことが進歩だという感覚になるのか、どうなるかわからないものなるべく抑えていこうという人が多いように思います。

 

しかし本当に重要なのは、いらない不確実性を排除した上で、避けられない不確実性を甘受する余裕を持つことです。

だから、時には逆にあえて確実性を敢えてとりにいくことで、メンタルを整えるポートフォリオを意識する。

こうした「確実性」と「不確実性」のポートフォリオは、非常に有意義なものだと私は考えています。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:ひろすぎ

30代、都内勤務の兼業投資家。

どうやったら普通の人がお金に困らない暮らしをできるかを模索し、自ら実験する日々。株、不動産をはじめ、いくつかの事業を展開。趣味はお散歩とお酒、旅行です。

Twitter:https://twitter.com/hirosugi00

Photo by Victoire Joncheray on Unsplash

私はコンサルタントだった時、上司から

「コンサルタントは意思決定するな」と口を酸っぱくして言われた。

「特に人事。人事に関しては、意見表明もできる限り避けること」

とまで言われた。

 

例えば、「ウチの取締役、どう思う?」など、人の印象について聞いてくる経営者は少なくない。

確かに、結構怖い質問だ。

その一言が、どのように波及するかわからないのだから。

 

それに対しては

「社長のお考えを聞きたく」と言い、はぐらかせ、というのだ。

要するに、リスクヘッジである。

 

「それでも、意見を求められたら、どうしますか?」と質問すると、

「それを言える立場ではないと言いなさい」と指導された。

 

 

しかし後日、一人の経営者に意見を求められた時のこと。

社長は「あいつのパフォーマンスについて、どう思う。」と私に尋ねた。

 

あー、答えちゃいけないやつだ、と思い、「社長のお考えを聞きたく」というと、

「意見を求められた時、無難なことしか言わないやつは、信用できない」と彼は言った。

 

逃げ場を封じられ、私は結局、上司のいいつけを破って一つの意見を述べた。

要するに、私は顧客に「こう思う」という価値判断を提供した。

 

あとになって、「間違ってたな」と言われる可能性はもちろんあった。

責任を問われるかも知れなかった。

 

だがこの回答は、良かれ悪しかれ、結果的には私の思想に大きな影響を与えた。

 

なぜなら、多くの場合「良し悪しを言う」ほうが、強い信用が得られたからだ。

逆に、意見を表明したがゆえに、完全に嫌われたこともあった。

 

メリットも、デメリットも大きい「価値判断の表明」。

これは、私を大いに悩ませた。

 

 

これは最近になってようやく、ナシーム・ニコラス・タレブが言う「身銭を切る」ことの実践だったことが判明した。

対立を避けるには、友だちをひとりも作らないようにしなければならない。

[amazonjs asin="447810381X" locale="JP" tmpl="Small" title="身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質"]

一言で言えば、「人は、良し悪し(善悪)の判断を述べる人を強く信用し、また強く嫌う」のだ。

 

だから、コンサルタントや専門家がむずかしい顔で言う

「慎重に判断すべき問題ですね」

「検討すべきですね」

「意見交換が必要だと思います」

「模索していく必要があります」

「あくまで可能性です」

など、煮え切らない「慎重な」意見は、いくら正しかろうが、あまり重視されない。

 

上の経営者は要するに、

「どっちつかずの意見を言うだけだったら、誰でもできるんだよ。お前は味方か敵か。どちらなんだ?」

と私に迫ったのだ。

 

不寛容に基づく「言い切り」こそ、影響力の源泉

そしてこの経験は、現在でも非常に役立っている。

webマーケティングや、SNSでの情報拡散、といった領域でも、「言い切り」は非常に重要な要素の一つだからだ。

 

「双方の言い分はよくわかる」

「世の中を良くしていきましょう」

「皆の言い分に耳を傾けましょう」

 

といった「善悪の指針」を設定しない意見は、誰の心も揺さぶらないので、ほとんど何も動かせないことが、記事を書くとよく分かる。

つまり、否定はされないが、支持者を集めることもない。

炎上もないが、バズもない。

そういうことである。

 

もちろん、いい切ればよいというものではない。

思想の偏りが裏目に出て、大澤昇平氏のように失脚する人物もいる。

「中国人は採用しません」「金子勇は犯罪者」「HTTPSなら90%安全」東大特任准教授、その炎上の流れ

東京大学大学院情報学環・学際情報学府の特任准教授で、株式会社Daisyの代表を務める大澤昇平さんが『Twitter』で「中国人は採用しません」とツイートしたことをきっかけに、大炎上しています。

この炎上は東京大学大学院が謝罪をするだけではおさまらず、大澤昇平さんが担当する同大学の寄付講座に資金を提供しているマネックスグループ株式会社や株式会社大広が寄付を中止する声明を発表するなど、どんどん燃え広がっていっています。

だが「言い切り」というリスクを負わずして、影響力を得ることは不可能だ。

 

マツコ・デラックスや堀江貴文氏、が影響力を持つのは、正しいからではなく「あいつはアホ(バカ)」と、言い切るからだ。

トランプが大統領に君臨できているのは、正しいからではなく「メキシコの国境に壁を作ってやる」と、言い切るからだ。

資本論が魅力的なのは、共産主義革命の正しさが証明されたからではなく「資本主義は崩壊する」と言い切るからだ。

宗教団体が強力なのは、「真理は我にある」と言い切るからだ。

公民権運動が盛んなのは、「差別は悪だ」と言い切るからだ。

 

そこには論理や、科学的な態度はあまり必要ない。

影響力を行使するのに必要なのは、「多様性への寛容さ」ではなくむしろ「自説に対する強烈なコミットと不寛容さ」である。

むしろ「なぜ彼らは悪なのか」をくどくど説明するよりも、論理をぶっ飛ばして「アイツらは悪。非人道的。だから許せん。」のほうが、より深く刺さることを、権力者や運動家はよく知っている。

 

だから、「我々は正しいが、彼らにも一理ある」といった「慎重な発言」は、影響力という点において、「一貫して言い切る人」に、決して勝てない。

一国の指導者が、「敵側にも一理ある」などと言おうものなら、彼は失脚するだろう。

 

逆に、そうした人間心理を「ハッキング」すれば、いともたやすく大衆を扇動できるので、これは「悪用」も可能だ。

人心掌握の本質がそこにある。

 

差別解消運動にかこつけて、「正義は我にある」と、暴動を引き起こす人々。

不倫する芸能人を攻撃し、ウサを晴らすこと。

「差別主義者を差別する」ことに、何の躊躇もない人。

 

彼らは「真理」や「客観的な情報」を、人がわざわざ追求しないことをよく知っており、むしろ「正しさ」よりも、「言い切り」の影響力を重視する。

だから「フェイクニュース」はなくならない。

発信側の費用対効果が高いからだ。

 

企業が「尊敬」されない理由

逆に言えば「企業」を担う商人たちが、尊敬を集めることができないのは「言い切れない」点にある。

 

つまり、企業はマーケットを広く取ればとるほど利益が大きくなるため、意図的に「善と悪」を判断しないことが多々ある。

「炎上したら困るし……」とマーケティング担当者が思い切った施策を打てないのは、そのためだ。

 

商人は、太古の昔から、意図的に善悪の判断を保留している。

例えば

「金さえあれば、誰でも取引しますよ」

というセリフ。

これが、悪者のセリフに見えるようなら、それはあなたが商人を信用していないことの証である。

 

なぜなら、「金さえあれば、誰でも取引しますよ」というのは、本来であれば「身分」「国籍」「人種」などに関係なく、平等に取引しますよ、勝手に善悪の判断はしませんよ、という、最も寛容なメッセージにも受け取れるからだ。

 

「誰でも対価をしはらってくれればお付き合いできます」は、額面通り取れば、決して悪い意味ではない。

が、このセリフが尊敬とともに言われることはない。

なぜなら「寛容である」ことと「正義と悪を区別しない」ことは、表裏一体だからだ。

 

実際には「反対意見に配慮なんかしない」人たちが、世の中を動かす。

彼らは決定することのリスクを取っており、不寛容に基づいて、人々に対する影響力を行使する。

 

これが、「慎重な意見」が「言い切り」に、影響力において、決して勝てない理由だ。

「言い切る人」は、あまりにも強すぎる。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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最近は耳にする機会が少し減ったけれども、一時期、「ブラック企業」という言葉が流行したのを覚えているだろうか。

ブラック企業対策プロジェクト共同代表である今野晴貴さんによれば

「『ブラック企業』とは、若者を大量に採用し、過重労働・違法労働によって使い潰し、次々と離職に追い込む成長大企業」

のことを指すのだという。

 

ブラック企業という概念ができあがった後、対義語的な言葉としてホワイトな企業、ホワイトな勤務先といった言葉も見かけるようになった。

ここでいうホワイト企業とはブラック企業の対義語だから、法令をきちんと守り、過重労働を避けて従業員の福利厚生を大切にする、働きやすい企業をイメージすればだいたいあっているだろう。

 

ホワイトな職場、ホワイトな勤務先も想像しやすい。

法令が守られるだけでなく、肉体的・精神的ストレスが少なく離職者の出にくい勤務先。

皮肉抜きに"明るい職場"と呼べるような、笑顔、敬意、信頼、絆がしっかり成立しているような、そういう勤務先はホワイトと言って差し支えなさそうだ。

 

ホワイトな勤務先はホワイトな人間で構成されなければならない

多くの人は、ホワイトな勤務先はみんなが望むものであり、世の中の勤務先はすべて、ホワイトであるべき、と考えているだろう。

理解できる考えではある。

法令が守られるのはもちろん、肉体的・精神的ストレスは少なければ少ないほど良いだろうし、離職者がバタバタ出るような職場に比べて生活の見通しも立つというものだ。

私だって、なるべくホワイトな勤務先で働きたいと願っている。

 

その一方で、気になることもある。

ホワイトな勤務先とは、ホワイトな人間が大半を占めていてはじめて成立するもので、つまり、ホワイトな勤務先に勤めようと思ったら、自分自身もホワイトな人間でなければならないのではないか?

 

"明るい職場"、肉体的・精神的ストレスの少ない職場は、法令を守っているだけではたぶん成立しない。

みんなが笑顔で、敬意があって、信頼もあって、絆がしっかり成立するためには、怒った顔や泣いた顔が多すぎてはいけない。

 

いつも不愛想でコミュニケーション不全な人、いつも怒りっぽい人、いつも不機嫌な人がいたら、その職場はストレスの多い職場となってしまうのではないか。

もちろん、一時的にそうなってしまうことは誰にだってあるから、一時的な不愛想や不機嫌は許容されるだろうし、そうでなければホワイトな勤務先とはいいがたい。

 

だとしても、そのホワイトな勤務先がホワイトであり続けるためには、全体としては、不愛想や不機嫌は珍しいものでなければならない。

そして笑顔、敬意、信頼、絆が成立する程度には職員のそれぞれがコミュニケーション可能でなければならない。

 

と同時に、ホワイトな勤務先がホワイトであり続けるためには、大きな物音を立てない人間、騒がしくない人間、臭ったりしない人間が寄り集まらなければならないのではないか。

お互いに気持ち良く働ける勤務先・お互いに迷惑をかけない勤務先・お互いに業務に集中できる職場を実現するには、その勤務先のメンバーの行動や振る舞いが、ある種の模範に収まるものでなければならなくなる。

 

ホワイトな勤務先にふさわしいホワイトな人間が寄り集まった勤務先ができあがってしまえば、そこに勤める者は皆、より少ないストレスで、より快適で、より迷惑をかけられず、笑顔、敬意、信頼、絆に支えられて働くことができるし、そのような職場のほうがゆとりがあって望ましいと言える部分は間違いなくある。

そのような職場のほうがきっと現代的で、スムーズでスマートでもあろう。

 

だが、本当に良いことづくめだろうか。

勤務先がホワイトになればなるほど、そこに勤める者は皆、周囲にストレスをなるべく発散させない、周囲になるべく迷惑をかけない、笑顔、敬意、信頼、絆を成立させられるような人間でい続けなければならないのではないだろうか。

 

ホワイトな勤務先は、ホワイトな人間が大半を占めていなければ維持できないから、ホワイトになりきれない人間が増えると崩壊してしまう。

ホワイトな勤務先に勤めているホワイトな人間は当然そのことを知っているから、周囲にストレスをかけちゃいけない、迷惑もかけちゃいけない、笑顔、敬意、信頼、絆だと当然思うだろう。

しかし、そういったホワイトな振る舞いができなくなってしまった時、ホワイトな勤務先はどうにも居心地の悪い、「自分がここにいてはいけない」と思わざるを得ない場所に変貌してしまう。

 

考えてみていただきたい。

ホワイトな勤務先で自分だけが不愛想や不機嫌やディスコミュニケーションをまき散らしていたら、自責的な人はいたたまれない気持ちになろう。

また、他のホワイトな人々は「このままではホワイトな勤務先がブラックになってしまう!なんとかしなくては!」と対策を講じ始めるかもしれない。

その対策は、ある水準までは援助的なものかもしれないが、ある水準からは排他的なものかもしれない。

 

たくさんの人が静かに働いている整然としたオフィス、定時になると清潔な恰好の会社員が次々に帰宅しはじめるオフィスは、いかにもホワイトな勤務先とうつる。

冒頭で述べた「ブラック企業」に勤めている人からみれば垂涎の的でもあるだろう。

しかし、ホワイトな勤務先に勤め続けるためには、ホワイトな勤務先にふさわしい振る舞いが必要で、そうした振る舞いは、誰でも簡単に身に付けられるとは限らない。

 

ホワイトな勤務先はホワイトな人間で構成されなければならない

さて、ホワイトな勤務先を考えたついでに、"ホワイトな社会"について考えていただきたい。

さまざまな社会問題はあるにせよ、世界全体を基準としてみれば、日本は世界有数のホワイトな社会だ。

 

犯罪が少なく、清潔で、夜にコンビニに行くのもそれほど怖くなく、新宿駅や渋谷駅のような巨大ターミナル駅ですら交通秩序が保たれている。

新型コロナウイルス感染症にまつわる特別警戒警報が発令されたときの人々の行動を思い出しても、その秩序整然としたさまは世界のなかでも際立っていた。

 

では、このホワイトな社会はどのようにして成り立っているのか。

一因として、"ブラックな部分のアウトソース"という問題を意識すべきしれない。

ちょうど、ある種のホワイトな勤務先がブラックな仕事をアウトソースするように、ホワイトな社会がブラックな仕事をどこかに(国内に?海外に?)アウトソースすることで成り立っている、という振り返りはあっても良いように思う。

 

だが、それだけとも思えない。

そもそも街を行き交う人々のうちに犯罪をおかす人が少なく、不清潔な人も少なく、不信感や威圧感をまき散らす人も少ないからこそ、日本のほとんどのエリアはホワイトな社会としての体裁を保っているのではないだろうか。

 

拙著『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』のなかで、私は日本社会のホワイトについてこんな風に記した。

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令和時代の日本社会の秩序と美しい街並み、そして私たちの非│暴力的、かつ清潔志向で無臭志向な生活習慣は、お互いに迷惑をかけず、お互いに自由かつ快適に生活できるよう最適化されている。しかし、お互いに迷惑をかけないこと、お互いが自由に快適に暮らすことがあまりにも徹底された結果、この美しい街並みのなかでは、臭う者・不安感を与える者・威圧感を与える者は、ただそれだけで他人の自由で快適な暮らしを脅かしかねない存在、不安をもたらす存在として浮き上がってしまう。

…清潔で臭わないことも重要だ。不清潔で臭ければ不審の念を抱かせ、周囲に不安を与えてしまう。もちろん女性とて例外ではなく、悪臭がぷんぷんする女性、不安や威圧感を与える外観や挙動の女性は街の秩序から浮き上がってしまう。

これらに加えて、過剰な感情表現もホワイトな日本社会では慎まなければならない。

令和時代の日本社会は、昭和時代のソレに比べて安全で清潔で穏やかだが、そのぶん、個々人には秩序にふさわしい行儀の良さ、他人の迷惑とならない振る舞いが求められている──たとえば新幹線や特急列車のなかで大声で談話するのは昭和時代には珍しくもなく、許容されてもいた。

ところが令和時代にそうする人は少なく、やろうものなら眉をしかめられてしまう。

 

こんな具合に、令和時代の秩序にふさわしい行儀の良さや振舞いができない人は、たちまちホワイトな社会の秩序から浮き上がってしまい、敬遠されてしまう。

社会がホワイトになっていくということは、私たち一人ひとりがホワイトにならなければならない、ということと表裏一体だ。

もちろんホワイトな社会についていけない人のなかには、マイノリティや障害者として理解や支援が得られる人もいるだろう。

だが、誰もが理解や支援が得られるとは限らないし、理解や支援が広がりさえすればノープロブレム、というものでもあるまい。

 

ホワイトな社会についていけますか。ついていけない人にどう接しますか。

社会がどんどんホワイトになり、そのホワイトな社会にふさわしくあるよう人々が漂白されていった結果として、より多くの人が社会についていけなくなり、より多くの人が理解や支援を得なければならないとしたら、それはいったい誰のための社会で、誰にとって幸福な社会なのだろうか。

 

ホワイトな社会の命ずるままに生きていける人にとって、こうした社会の漂白は大した問題ではないかもしれない。

それこそ、パリッとしたワイシャツとスラックスに身を固め、規則正しく出社し、穏やかな表情をうかべて働くのが苦にもならない人にとって、社会はホワイトであればあるほど良いに決まっている。

そういう人が、社会も人間もホワイトであればあるほど良い、というのはよくわかる話ではある。

 

しかし、ホワイトな社会のとおりに生きられるか生きられないかのギリギリのラインで生きている人、本当はホワイトな社会のとおりに生きづらいのだけど、理解や支援も得られないまま背伸びして生きている人にとって、どんどんホワイトに漂白されていく社会は脅威そのものだ。

ひょっとしたらあなたのデスクの向いで働いている人も、案外その一人かもしれないのだ。

 

私はホワイトな社会についていく自信があまり無いから、そういうことが気になる。

あなたはホワイトな社会についていけますか。

ついていけない人にどう接しますか。

 

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo by Marten Newhall on Unsplash

成果をあげるための、最も重要な技術の一つは、「時間の使い方」だ。

時間はあらゆることに必要となる。時間こそ真に普遍的な制約条件である。あらゆる仕事が時間の中で行われ、時間を費やす。(中略)

時間に対する愛情ある配慮ほど、成果をあげている人を際立たせているものはない。

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ところが、これは極めて「当たり前」のことなので、これを人に伝えても

「まあ、そうだよね締切あるし。」

「私もそう思います。スピード大事。」

と、聞き流されてしまう。

 

刺さってないな、とそのたびに感じる。

「時間は大事だよね」と言われても、多くの人はその時間の使い方を変えない。

 

例えば、過去に私が在籍していたコンサルティング会社でも、時間を大事にしない人」は多かった。

上司から「なぜ期限を守れなかったのか」と聞かれると、彼らは「見込みが甘かったです」という。

 

上司は呆れて「時間の使い方を見直せ」という。

だが、残念ながらなかなか改善しない。

彼らはどんな状況でもタスクを遅延させてしまい、周りを困らせ、周囲を悩ませていた。

 

「好きなこと」ではなく「大事な事」を先にやる

一体なぜ、彼らは「時間の使い方を見直せ」と言われながらもタスクを遅延させ、多大な時間を浪費するのだろう。

 

私はさんざん迷った末、一人の有名投資家の文中に、それを見つけた。

それは、ビジネスではなく、私生活の描写だった。

父は私のほうに向いてこう言った。「お前、何が安い買い物か知ってるか?」父が何を言おうとしているのか見当がつかず、私は「わからないよ。何だい?」と答えた。

「花さ。花はまったくお買い得だ。それに引き換え、おそろしく高くつくものは何だと思う?」。

私はこれにもわからないと答えた。「離婚だ」と父は言った。

 

このジョークは実際のところ、ジョークではなかった。

私はこのままでは時間切れになってしまうのを思い知らされた。そのときまで、私は本当に真剣な選択をしたことがなかった。(中略)

 

自分がしたいことではなく、何が大切なのかという優先順位で、世界を見ることをこのときに初めて学んだ。

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「自分がしたいことではなく、何が大切なのかという優先順位で、世界を見る」こそ、金言だ。

生産性向上の要は、すべてに「優先度」をつけて、大事な事を先にやることにある。

 

上の投資家は目先の仕事に目を奪われ、「大事」な家族に時間を使っていなかった。

当然「生産性」は低迷する。

だから、父親は指摘した。

「少しでいいから、大事な事を優先しろ」と。

 

仕事も全く同じだ。

「目先のやりたいこと」ばかりに時間を使い、「大事な仕事」を後回しにすれば、ひたすらまじめに働いても、大したことはできない。

 

卓越した人々は「大事な事だけ」をやっていた

数年前、私はあるサービスのPR記事を書いた。

「オンラインアシスタントを雇って、時間を作りましょう」という趣旨の記事だ。

スタートアップの創業者や個人事業主が「時間の使い方」を極めるために利用するサービスとは。

キャスタービズは、スタートアップの創業者や個人事業主に、最も貴重な資源である「時間」を確保してもらうことに貢献するサービスを行っており、大きな成果をあげている。

ただ、今読み返すと、もっと踏み込む必要がある。

「時間を作る」よりもさらに「大事な事だけやる」の方が本質だからだ。

 

実際、スタートアップの経営者や、インフルエンサーなどの卓越した人々はごく当たり前に「大事な事だけやる」を実践している。

 

「本当に大事なこと」に時間を使ったほうがいい

例えば、澤円さん。

澤円(さわ・まどか)

外資系大手IT企業業務執行役員。株式会社圓窓 代表取締役。プレゼンテーション講習やピープルマネジメント手法の講演、メンタリング、オンラインサロンの運営など様々な活動を行う傍ら、テレビやラジオにも多数出演。複数のWeb媒体で連載を持つ。インフルエンサー。Voicy「澤円の深夜の福音ラジオ」は上位ランキングの常連。

澤さんは「会社はもう誰の人生も看ません。そんな時代だからこそ、自分の人生を生きる人を応援したい」と、様々なテーマで啓蒙活動を行っている。

 

その澤さんは、約2年前からキャスタービズのオンラインアシスタントを利用している。

現在アシスタントに外注している業務は、「スケジューリング」「タスク設定」「問い合わせの一次対応」「条件の提示」「過去の実績調査」などの管理業務の一切合切だ。

 

澤さんがアシスタントに外注を依頼するきっかけは、飛行機のチケット手配を3回連続で間違えたことだった。

それまでは「個人の業務にアシスタントなんて、コスパが合わないし、大げさだ」と思っていたそうだ。

 

しかし手配ミスを期に、澤さんは「時間の使い方」を改めた。

「自分でも意識していませんでしたが、管理業務には、相当な精神的負荷がかかっていまました。特に、講演の「条件面」でのやりとりは負荷が高く、それをアシスタントにやってもらえるのは、精神的に相当楽になり、もっと成果も上がりました。」

 

実際、管理業務が手を離れたことで、余裕が生まれ、本業での成果も上がり、売上は2年前に比べて7倍にもなった。

 

更に、澤さんは

「お金を稼ぐだけだったら、会社で出世したほうが早い。でも「本当に大事なこと」があるなら、そっちに時間を使ったほうがいい。だから、時間への投資は惜しまないこと。」

と述べる。

 

メンバーは「付加価値の高い業務」しかやらない

また、成長著しい「栄養のインフラ」を目指すスタートアップ「BASE FOOD」社も、「大事な事を優先する」について、非常に敏感だ。

「BASE FOOD」社は国内の累計販売食数において、2019年の11月に100万食、2020年4月には200万食を突破し、アメリカのフードテックイベントでも注目を浴びるなど、破竹の勢いで成長している。

 

その「BASE FOOD」COOである小林紘子さんは、外資系投資銀行、国内大手アパレルメーカー、Amazonを経たのち、約2年前に「BASE FOOD」に参画、近年の急成長の立役者だ。

 

小林さんから話を聞いてまず驚くのは、彼らの生産性の高さだ。

入社以来、「BASE FOOD」の単月での出荷食数は、10倍近くに成長した。

ところが社員数はほとんど変えず、驚異的な業務量をたったの19人で 、しかも「健全に」こなしているという。

 

なぜそんな事が可能なのか。

小林さんは「メンバーは付加価値の高い業務しかやらない」という。

社内では「生産性」を突き詰めるカルチャーが醸成されており、小林さんは勤怠管理、タスク管理、プロジェクト管理などはもちろん、販売管理、在庫管理など、ありとあらゆる業務の自動化に、「既成の」外部クラウドサービスを活用している。

 

だがもちろん、既存のクラウドサービスには自社の要求するカスタマイズができないこともある。

例えば、一部のレポーティングや取引先の発注入力、あるいはアウトソース先の調べ物、簡単な調査業務などだ。

その「カスタマイズができない部分」についても、彼らは「社員」を雇うようなことはせず、キャスタービズのオンラインアシスタントを最大限に活用している。

 

だが、一体なぜ彼らはそこまでして、「付加価値の高い仕事」にこだわるのだろうか。

 

小林さんに話を聞くと、「それは、少数精鋭で行きたい」「性善説に基づく、自由な働き方をしたい」というトップと社員の意向があるからだという。

それらは入社1年目の人物にも適用される、鉄の掟だ。

 

つまり彼らにとって、それが「大事なこと」であり、「優先されるべきこと」なのだ。

 

———–

 

スタートアップの経営者、個人事業主はもちろん、成果を追求するビジネスパーソンはすべて、「大事な事」を最優先にしなければならない。

時間を有効に活用するためにも、一度「大事な事を本当にやれているか」を、見直してみてはいかがだろうか。

 

大事な事を後回しにしているならば、優先度の低いことは「誰かに任せる」という選択肢を検討しても良いだろう。

>>キャスタービズサービスサイトで話を聴いてみる。

 

 

 

【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

わたしは、ビジネスノウハウ本が嫌いだ。大嫌いだ。

個人で効率化できる部分なんてかぎられているのに、「お前が努力すれば成果を出せる」的なのが気に食わない。

それなら先に、ムダな会議を減らせって話だ。

 

……というひねくれ者のわたしだが、とある本に出会って、自分でもちょっと戸惑うくらい感銘を受けてしまった。

どうやらわたしは今まで、”2流”のビジネス書しか知らなかったらしい。

 

Windows95の基礎をつくった天才プログラマーが語る、3つの仕事術

わたしが手に取ったのは、『なぜ、あなたの仕事は終わらないのか』という本だ。

ふだんこういった本はあまり読まないけど、kindle Unlimitedで読めるし、評価が高かったから、気まぐれでダウンロードしてみた。

[amazonjs asin="B01GPCKJWK" locale="JP" tmpl="Small" title="なぜ、あなたの仕事は終わらないのか スピードは最強の武器である"]

 

著者は中島聡氏。

1960年北海道生まれ。早稲田大学高等学院、早稲田大学大学院理工学研究科修了。

高校時代からパソコン系雑誌『週刊アスキー』において記事執筆やソフトウェアの開発に携わり、大学時代には世界初のパソコン用CADソフト「CANDY」を開発。学生ながらにして1億円を超えるロイヤリティーを稼ぐ。

1985年に大学院を卒業しNTTの研究所に入所し、1986年にマイクロソフトの日本法人(マイクロソフト株式会社、MSKK)に転職。

1989年には米国マイクロソフト本社に移り、Windows95、Internet Explorer3.0/4.0、Windows98のソフトウェア・アーキテクト(ソフトウェアの基本設計・設計思想〈グランドデザイン〉を生み出すプログラマー)を務め、ビル・ゲイツの薫陶を受ける。

(Amazon著者紹介より)

まえがきによると、Windows95の開発に携わり、「ドラッグ&ドロップ」を普及させ、「右クリック」を現在のかたちにした天才プログラマーらしい。

 

「すごすぎる人」の考えって凡人からしたらちょっとついていけないんだよなぁ……なんて思いつつ、せっかくなので少し読んでみることに。

するとどうだろう。

この本は、わたしが多くのノウハウ本に抱いていた不信感を払拭して、納得のいく答えを提示してくれた。

 

というわけで、

1.すべての仕事はやり直しになる

2.ラストスパート志向が諸悪の根源

3.仕事は最速で終わらせてはいけない

天才プログラマーが語る、この3つの仕事術を紹介していきたい。

 

すべての仕事はやり直しになるから、さっさと全体像を描け

不信感:多くのビジネス書には「とにかく早く仕事を終わらせるべし」と書いているけど、じっくり時間をかけたほうがいいこともあるし、最速が最善とはかぎらないのでは?

 

そんなモヤモヤに対する答えはこうだ。

「すべての仕事はやり直しになる」。

 

世界を熱狂させたWindows95は発売当初、バグがあったそうだ。

いくつあったかって? なんと3500個だ!

それでもかまわず発売した。

そのバグは致命的なものではないし、ソフトウェアのバグを完全に0にするのはむずかしいとわかっていたからだ。

 つまり最初から100%の仕事をしようとしても、ほぼ間違いなく徒労に終わるわけです。なぜなら後から再チェックすると、直すべき箇所が次々に見つかっていくからです。(……)

クオリティが低くて怒られることよりも、締め切りを守れずに「時間を守れない人だ」という評価をされることを恐れてください。(……)

すべての仕事は必ずやり直しになります。最初の狙いどおりに行くほうがまれなのです。スマホのアプリもWindows95も、あなたの明日のプレゼン資料もそうです。どうせやり直しになるのだから細かいことはおいておき、まず全体像を書いてしまった方がいいのです。

これにはわたしも、心当たりがある。

何十回も見直して「よっしゃー完成だ!」と原稿を納品しても、一部書き直しになるなんてことはザラ。

だから時折、8割くらい書ききった時点で、「こんな感じで書いてるのですがどうですか」と編集者に一度相談するのだ。

そのときならまだ方向転換が効くし、編集者のアイディアを記事に活かすこともできる。

そうやってうまくいったことは少なくない。

 

「まちがっててもいいから速くするのが正義!」と言われると、「そうかなぁ」と同意しかねるけど、「どうせやり直すんだから細かいことは置いといてちゃちゃっと全体像を提示しよう」と言われれば、「そりゃそうだ」と腹落ちする。

実際に評価されるのは、「アイデアを思いついた人」でも、「最初に完璧なものをつくった人」でもなく、「最初にアイデアをかたちにした人」なのだから。

 

即レス、マルチタスクは不要。全力でスタートダッシュしろ

不信感:なんで即レスが仕事できる人の条件なの? マルチタスクって本当に効率的? いろんなことに手を出すのがいいことなの?

 

それに対する答えは、「2:8の法則」という時間術のなかにあった。

 

要約すると、

①10日かかる仕事を振られたら、「その仕事にどれくらい時間がかかるか確かめるために2日ください」と言う

②その2日で、8割完成したプロトタイプ(試作、原型)をつくる

③それができなければスケジュール見直しを交渉する

ということらしい。

 

つまり、「10日でやるべきタスクは最初の2日間で8割終わらせろ」。

筆者はそのスタートダッシュ期間、飲みの誘いはもちろん断り、メールも電話も無視、可能な限り会議を避ける。

雑談なんてのももってのほか、仕事以外のことをいっさいしないという徹底ぶりだ。

 

なぜなら、「マルチタスクこそ、仕事が進まない理由の最たるもの」だから。

 メールの返信が早くてもメインの仕事が遅い人の評価は高くありません。単に仕事が遅い人だなあという印象を持たれます。逆にメールの返信が遅くてもメインの仕事が早い人の評価は高いです。仕事ができるのだから、多少メールの返信が遅くても気になりません。

この話が示しているのは、「あなたの仕事はメールを素早く返信することではなく、仕事を終わらせることである」ということです。(……)

通常の20倍の能力を発揮して、メールチェックに挑む必要があるかどうか考えてみてください。

フルスロットルのスタートダッシュ中、ほかのことにエネルギーを使ってはもったいない。そのあいだはとにかく一点集中。

そして前述した「全体像」をだれよりも早く描き、やり直す前提でとりあえずかたちにする。

それが「良い方法」だというのだ。

 

1日の仕事も、朝に8割終わらせるのがいいらしい。

放置していた電話やメール、打ち合わせなんかは、8割終わったあとのんびりやる。

最初にあらかた仕事を片付ければ、「どうにか終わらせないと」と徹夜することもない。

なるほど、常に即レス&マルチタスクで集中力を分散するより、こっちのほうが仕事がうまくいきそうだ。

 

最速で仕事を終わらせず、次に備えた余裕を持て

不信感:効率化しても、次から次に仕事がきてまわりからの期待も大きくなれば疲弊するだけでは? 際限なく「上」を求められたらたまったものじゃないよ。

 

そんなときのために、著者は「仕事は最速で終わらせてはいけない」と説く。

 そうして2日で仕事の8割を終わらせたあなたは、このペースなら3日で終わるのではないかと考えます。(……)

スタートダッシュで仕事の8割が終わったからといって、そのままのスピードで仕事を終わらせてはいけません。3日間頑張って完全に消耗した挙句、間断なく仕事を振られるようだったら3日目は休んでいたほうがましです。

仕事を早く終わらせるよりも、仕事を安定して続けることを意識すべきです。結果、焦って仕事をしていたときよりも早く、しかも高い完成度で終わるようになるのです。

スタートダッシュするのは、高速でどんどん仕事を終わらせるためではない。

時間的、精神的、体力的に余裕を持つためのものなのだ。

つねにフルスロットルで働くことなんて、だれにも出来はしないのだから。

 

余力を残しておけば、次の仕事だってふたたびはやく終わらせることができる。

そのために、「仕事は最速で終わらせてはいけない」。

「さくっと終わらせてのんびり休む」「どんどん次の仕事に取り掛かろう」という極端な仕事術より、「緩急をつけて安定して働く」というほうが現実的で、まわりからの信頼を得られるだろう。

 

結局のところ、「あなたの仕事はあなたの仕事を終わらせること」である

こういった仕事術、時間術が書かれた本書だが、わたしが気に入ったのはむしろ、そのテクニックよりもその「姿勢」にある。

そもそも、なぜ時間をうまく使うべきなのか。

 

時間を節約したら自由に遊べるから?

効率化したらいっぱい成果をあげられるから?

仕事が早いとお金持ちになれるから?

 

ちがう。全部ちがう。

本当に大切なことは、「自分に任せられた仕事をやり遂げること」なのだ。

 10時に友人と渋谷のハチ公前で待ち合わせするときのことを想像してみてください。(……)

私はこういうとき、9時半にはハチ公広場から横断歩道を渡ったところにあるTSUTAYAのスターバックスで優雅にコーヒーを飲んでいます。(……)

10時にハチ公前に間に合うようにする方法ではなく、9時半にスターバックスにいる方法を考えるというわけです。そうすれば自然と電車に乗る時刻も早くなりますし、電車が遅延したとしてもほとんどの場合間に合います。

この渋谷の待ち合わせの話が示唆することは、締め切り前に締め切りがあると考えなければならないということです。逆説的なようですが、締め切りに間に合わせようと考えていても、締め切りには間に合いません。しかし、締め切り前に締め切りがあると考えると間に合います。締め切りを狙ってはいけないのです。

多くの人は、締め切りまでに提出できればいいと考える。

だからどんどん後倒しにして、「ラストスパートをかければ間に合う」と残業し、徹夜するのだ。

でもそれって、責任感がある人の仕事方法なんだろうか?

 

もちろん、やむをえない場合もあるだろう。

でもそれで本当に、いいパフォーマンスができるのか?

もう少し早めに取り組めなかったのか?

事前にスケジュール交渉できなかったのか?

 

そういう努力をせず、帳尻合わせで残業して、ヒィヒィ言ってやっとこさ完成したものを、胸を張って提出できるのか?

必死でどうにか仕事を終わらせた翌日、良いパフォーマンスができるのか?

 

それは平社員だろうが、社長だろうが、フリーランスだろうが、学生アルバイトだろうが、みんな同じだ。

自分に任された仕事があり、それを引き受けた自分がいる。

だからやる。やり遂げる。それが大事なんだ。

 

でもそれは、1回きりじゃ意味がない。

継続的に、安定してやり遂げるからこそ、その人は信頼される。

効率をよくするのも、納期を守るのも、ちゃんと体を休めるのも。

そのすべては、自分に任された自分の仕事をきっちりとやり遂げるため。

だからラストスパートに期待するのではなく、スタートダッシュを確実にキメるのだ。

 

だから著者はなんどもなんども、「あなたの仕事は、あなたの仕事を終わらせること」だと書いている。

そうそう、それが大事なんだよ。

小手先のテクニックより、そのテクニックを、なぜ、なんのために使うかが大事なんだ。

目的はたったひとつ、「仕事を終わらせること」。

 

いい本に出会うと、自分でもびっくりするぐらいモチベーションが一気に上がるものだ。

いまならめちゃくちゃいい記事が書けそうな気がする(書けるとはいっていない)。

まずは明日、朝一のスタートダッシュでさくっと仕事を8割終わらせよう。さぁ、今日寝るのが楽しみだ。

 

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

Photo by:Marcin Wichary

前に書いたのだが、最近は家でケトルベルを使ってトレーニングをしている。

最強のデブ飯「ラーメン」のために、家で筋トレしようと試行錯誤した結果。 | Books&Apps

最近職場が変わった事もあって、僕はいま物凄く忙しい。

こんなにも忙しい生活環境の中で、ジムでトレーニングする時間とジムを往復する時間を捻出するだなんて、あまりにも非現実的である。

そもそも自分は極度のインドア気質で、休日ですら外に行くのがタルい。

そんな自分からすると、ジム通いなんて天竺よりも遠い何かである。

「なんとか家で、場所をあまり取らずにやれないものか」

そうして色々物色しているうちに割と丁度いいものを見つけた。ケトルベルである。

で、これを書いて3ヶ月たったのだが、いまのところ楽しく習慣化する事に成功している。

筋トレはこれまでも何度か習慣化しようとして失敗しているだけに、今回のケースは結構嬉しい。

 

これまでは器具を使うのが面倒で自重でやろうと色々と画策していたが、自重はどうも達成感がイマイチ乏しい。

それと比較すると重りを使ったトレーニングは即肉体にガッと負荷をかけられるので、とても楽しい。

 

重たいものをグググっとあげるのは言いようがない面白みがある。

前はジムにわざわざでかけて重たいものを持ち上げてる人の事が不思議でしかたがなかったのだが、重量挙げには人間の原始的な喜びが詰まっている。とてもいい。

 

Wifi体重計は色々と便利すぎる

国から10万円もらったのとせっかく筋トレをしているのだからという事もあって、ちょっと高い体重計を買うことにした。

色々と調べた結果、どうもWifi対応の体重計というのがあるらしく、こいつは”乗っただけで勝手に体重からBMI、筋肉量などなどをデータをスマホに送ってグラフにしてくれる”らしい。

 

いい・・・これはいい。横着な自分にはたまらなく最高の品だ。

 

いま現在、Wifi対応の体重計は

エレコム エクリア

Fitbit Fitbit Aria 2

Withings Body+

の3つがあり自分は最後のWithings Body+を選択したのだが、一瞬で全てがデータ化されてスマホに送信されるので、毎日体重計にのるのがとても楽しい。

 

値段は一万円程度と体重計にしちゃ高くはあるが、それに十分見合った価値はある。

正直、かなりオススメである。

 

ダイエットがコンテンツとして楽しくないのは攻めの要素が少ないからなんじゃないか

突然だが、みなさんは攻撃と守備どっちが好きだろうか?

僕はゲームが趣味で色々なジャンルをやるのだが、ぶっちゃけた事をいうと守備はあまり好きではない。

 

格闘ゲームだろうが、将棋だろうが、RPGだろうが、アクションだろうが、ガンガン攻めてる時が一番楽しい。

本当はもうちょっと受けの技術を身に着けたほうが強くなれるのかもしれないが、やっぱり受けは面白くない・・・攻めて攻めて攻めまくって、相手を打ち倒す事にゲームの喜びがある。

 

改めて考えてみると、ダイエットというのは何となくガマンするという印象が強いコンテンツである。

食事制限やらキツイ運動は守備っぽい。

我慢して我慢して・・・「はぁ、痩せたら腹いっぱいチャーハン食べよ・・・」みたいな攻撃のフェーズを待ち続ける為の行動というような認知があった。

 

そういう事もあって、僕はダイエットというコンテンツの事が全然好きになれなかったのだが、ケトルベルとWifi体重計の組み合わせでダイエットに”攻め”っぽい感覚が産まれ、このコンテンツの可能性を随分とみなおした。

朝起きて、体重計にのるのはそれまでの成果の集大成が現れる瞬間である。

前日の夜にガンガンに重たいものを持ち上げて追い込んだ筋肉痛を訴える身体を体重計の乗せた瞬間、”攻め”の成果がそこに提示される。

 

そこにあるのはガマンのような守りの意識ではない。徹底して攻め込んだ事に対する冷徹で厳正なる結果である。

そしてそれがグラフとなってデータ化され、いつでも振り替えられるこのコンテンツは・・・攻め好きにとってはなかなか楽しいものがある。

 

ヘビーウエイトとWifi体重計の組み合わせは、ゲームで攻めるのが好きな人には非常に向いていると思う。

とてもオススメである。

 

ポピュリズム政治にも攻撃っぽい要素がある気がする

話は全く変わるのだが、最近身の回りで石井 妙子さんが書かれた”女帝 小池百合子”という本が非常に話題になっていたので読んだのだが、これがまあ凄かった。

都知事選前にさわりだけでも読んでおくのがオススメである。

[amazonjs asin="B0873YLSWN" locale="JP" tmpl="Small" title="女帝 小池百合子 (文春e-book)"]

この本を読んでいて僕が痛感させられたのが、大衆のポピュリズム政治好きの根源が”攻め好き”にあるのではないかという事である。

 

前回の都知事選の頃、小池百合子さんはオリンピックと豊洲への市場移転で全ての都政の闇を暴き出すといわんばかりの勢いで大衆を熱狂の渦に巻き込んでいった。

あのとき東京都民の中にあったのは「小池百合子さんに一票をいれたら、既得権へ一撃を食らわせられる」という確かなる手応えだったように思う。

 

選挙というコンテンツは基本的には凄くつまらない。

期日前にしろ選挙日にしろ、わざわざでかけて見も知らぬ人間に票をいれたところで、結果がどう返ってくるのかが極めてわかりにくい。

 

投票した人が凄くいい事をしてくれるかもしれないし、逆に何もしないのかもしれない。

なんていうか、ダイエットでいう所の食事制限やらキツイ運動みたいな”受け”的な要素が強く、効果がイマイチ実感しにくいのである。

 

それと比較すると、扇動的なニュアンスの強い選挙には確かなる”攻めの手ごたえ”がある。

小泉さんの郵政民営化の時も、橋下さんの大阪都構想の時も、民主党が政権を奪還した時も、前回の都知事選の時もそうだったけど、自分がそこに一票をいれると誰かに物凄くダメージが与えられるような、そういう確かなる感覚が一票の中にある。

 

正直、そういう扇動的な選挙がどういう結果を起こすかというと・・・今までの経験上、あまりいい結果は起こさない。

しかしそんな事は重々承知の上で、やっぱり私たちは今までの価値観が延々と続く保守的な”守り”のスタンスには価値を見いだせない。

 

やっぱり・・・”守り”よりも”攻め”の方が全然楽しい。

これはもう、ゲームをやる人もやらない人も同じような価値観が内包されていると考える方が無難だろう。

ポピュリズム政治は結果がどうであれ票が集まる位には”コンテンツとして凄く楽しい”のである。

 

その攻め、孔明の罠なんじゃないですか?

インターネットでよく使われる画像の一つに横山光輝さんの三国志の孔明の罠がある。

気持ちよく攻めてると思ったらそれは罠であり、気がついたら手痛いカウンターを食らわされていた。

こういう苦い経験から「ひょっとして敵の手のひらで踊らされているのではないか?」と気持ちよく事が運んでいる時に疑うのが上記の思考に至る顛末である。

 

古来より、インターネットには嘘が多い。

釣りもそうだし、最近は大国の大統領が直々にフェイクニュースを流す有様である。

何が本当で何が嘘か、正直本当に見抜きにくい世の中だと思うのだけど、気持ちよく攻めさせられてしまっている感覚がしたときこそ、守りの価値を改めて見直すべきなのだろうと最近は本当によく思う。

 

守り的なコンテンツは本当につまらない。

早寝早起きもそうだし、腹八分の健康的な食事も全く楽しものではない。

それに対して、攻めは人生最高のコンテンツだ。

夜ふかしや惰眠を貪るのはいつだって多幸感に満ち溢れており、暴飲暴食の限りを尽くして官能を刺激しまくっている時、確かに”生きてる”という実感を身体で感じる。

 

いつなんどきも”ガンガンいこうぜ”でありたい。

少なくとも僕はそうだ。が、それはあくまで自分本位で、他人から利用されていない時に限る。

孔明の罠にはめられるような攻めは・・・これからは出来る限り距離を置きたい。

 

これからはガッと気が荒ぶってしまったときこそ、「その攻め、孔明の罠なんじゃないか?」という感覚を忘れずに持ち続けていたい。

愚かな投票を繰り返してしまった自分への戒めとして、本当にそう思う。

 

 

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【プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

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この記事で書きたいことは、以下の6点です。

 

・「消防団の活動は無意味」という話を読みました

・消防団の活動の意義を測る為に、3ヵ月の期間で判断しちゃうのはちょっと乱暴だと思います

・それ以前に、「過去の一定期間何もなかったから、この防災費用無意味」という議論はそれ自体妥当ではないです

・システムの保守やメンテの費用と通じるものがあるよね

・保守切る時は、「過去に何もなかった」ではなく「何かあった時にかかるコストと浮いたコストは見合うのか」で判断しないといけないよね

・諸葛亮は軍師としてアナーキー過ぎでは(注:コーエーの初代三國志の話)

 

よろしくお願いします。

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

はてな匿名ダイアリーで、こんな記事を拝読しました。

コロナウィルスが消防団活動の無意味さを実証してしまった

消防団活動。

超ハードなのに対して街の安全に寄与していないんじゃないか?って思ってました。

でもみんながんばっているしそんなことを言うのは失礼なので言えませんでした。

でも、コロナウィルスで活動をほぼ休止してわかりました。

消防団活動は街の安全性にほぼ寄与していない。

消防団活動の内容は地域によるのですが目安として

  • 年間活動日数100日前後
  • 操法大会に向けての訓練中は2日に1回程度訓練(3〜4ヶ月程度・夜に2〜3時間)
  • 毎月1回程度の町内見回り
  • 市全体での定期イベントが2〜3ヶ月に1度開催

というようなもの。

消防団活動、めっちゃ大変ですよね。

私の知人にも消防団の方がいて、拘束される日数も多く、活動も大変で、一方得られる報酬や手当はゼロではないものの活動内容に見合うものとは到底言えない、ほぼボランティアといっても問題ない金額(参照:https://www.fdma.go.jp/relocation/syobodan/welcome/pay/index.html)。

本当の意味で「街を守りたい」と思っている方でないと続けられない活動であることは間違いなく、この増田を含め、消防団の方々には本当に頭が下がります。いつもお疲れ様です。

 

まず前提として、この記事で書かれていることが必ずしも全面的に妥当でないとは思わないんです。

確かに、長く活動している団体というものは時に柔軟性を欠くものですし、大きな労力を必要とする以上、活動されている方々の為にも無駄はなるべく省かれるべきだと思います。

長く活動している組織が段々と柔軟性を欠いていってしまうのもよくあることで、もしかすると不要な活動、不効率な活動が残ってしまったりもしているのかも知れません。

 

そういう意味で、増田が書かれている「操法大会に向けての訓練」だとか「町内見回り」だとか「定期イベント」といったものが、本当に効果を挙げているのか、あるいはより効率的に効果を挙げる方法はないのか、という点については検討されて然るべきなのでしょう。

そこについては異論はありません。

訓練自体は大事な気もしますけど。

 

ただ、

でも、実質活動停止して3ヶ月。

どうですか?日本。

安全性が低下してますか?

火災かなんか多発してますか?

何も変わってないですよね。

という論法については、色々な点で違和感があります。

まず一点は、そもそも「三か月消防団の活動が中断していた」かつ「安全性が低下していない(ように見える)」から消防団活動は無意味だ、という理路は妥当なのかどうかという点。

 

消防団は、消防署と違って非常勤の方々による組織です。

普段サラリーマンや自営業など、本職を別に持っている方々が、自治体からの支援を受けながら消防活動に従事します(参照:https://www.fdma.go.jp/relocation/syobodan/about/)。

 

緊急時には消防士と連携して災害に対処しつつ防災対応や救助活動を行い、平時は啓発活動などを行っています。

で、まず、本当に「安全性が低下していない」と判断するのは妥当なのか、という話があります。

 

全国的な火災件数の統計はある(参照:https://www.fdma.go.jp/pressrelease/statistics/)のですが、残念ながら令和二年の分はまだ掲載されていません。

自治体ごとの火災件数は発表されているところもあるのですが、その傾向は自治体によってまちまちで、やはり全国統計を見ないと確実なことは言えません。

 

とはいえ、仮に火災件数が変動なし・あるいは減っていたとして、それには「コロナによる自粛で人々の活動が停滞していたこと」の影響を考慮に入れなくてはいけないでしょう。

恐らく飲食店の火災件数なんかは有意に減ってるんじゃないでしょうか?

 

家庭での失火というものも、「給食がなくなった分、自宅での料理の頻度が増える」という要素と、「大人が常に誰かしら家にいる」という要素では、どちらかというと防災に寄与する側面の方が大きいように思います。

緊急事態宣言で街から人が少なくなっていることに伴って、放火件数も減ってそうですよね。

 

一般的に言っても、啓発活動や防災活動が停止したとして、その影響が実際に表面化するにはそれなりの期間を必要とします。

保守やメンテナンスの欠如というものは通常ボディブローのように効いてくるもので、「一ヶ月停止したから翌月一ヶ月分のリスクが高まる」というものかというとそういうわけでもありません。

最低でも数年単位で影響を考えなくてはいけないところです。

 

つまり、「消防団が活動を停止したことによって安全性が低下したかどうか」を判断するのに、三ヵ月という期間はちょっと短すぎる、というのが一点。

 

もう一点の方がもっと大事なんですが、「「何かのリスクを低減させる」「トラブル時にトラブル対応する」という活動の価値を、そもそも過去のトラブル有無で測るべきなのか」という話です。

 

何度か書いていますが、しんざきはシステム関係の仕事をしています。

偉い人とやり取りをして、どの施策をどう実施するかを相談して、予算やスケジュールの調整をしたりもします。

 

で、その際何度も言われた言葉として、「この保守費用は必要なのか」という言葉があるんですよね。

システムの保守・運用って何をするかというと、これも以前書いたことがある(参照:https://blog.tinect.jp/?p=51442)んですが、

・システムの負荷監視、死活監視、パフォーマンス監視

・トラブル時の調査・問題切り分け・障害対応

・インフラの故障対応

・ネットワーク監視

・バックアップ対応

・定期メンテナンス

・ジョブ管理

・マニュアル・ドキュメント管理

・障害対応訓練

・バージョン管理・変更管理

・ログ管理

・セキュリティパッチ対応

・瑕疵対応、バグ対応

・修正開発時の事前調査

話を分かりやすくする為に保守と運用を明確に区別していないことにはちょっと目をつぶって頂きたいんですが、この辺は一つの代表的な保守・運用パッケージの対応内容です。

 

まあ大筋、「トラブルの事前防止と、トラブル発生時の対応」が保守という仕事の主要な守備範囲だと考えて頂いてもそんなに問題はないでしょう。

「トラブル防止」という観点で言うと、消防団のような防災活動とも近いものがあるかも知れません。

 

で、システムの性格にもよるんですが、確かに通常、保守って「止めたとしてもすぐに悪影響が出るものではない」ことが多いんですよね。

それ自体が何かを生み出す活動ではない、ということもあって、とかく「予算削減」のやり玉に挙げられやすいんです。

 

なんなら、「この1年トラブルが一回もなかったんだから、この保守費用は無駄なんじゃないか」という言葉まで出たりする。

トラブルを一度も起こさなかったのは誰の手柄なのかよーく考えろ、って話でもあるんですけどね。

 

私、「保守切ってもいいんでは?」という話が出た時は、大体「そのシステム丸ごと使えなくなっても仕事回るならそうしていいと思います」と答えています。

いや、確かに、不要になったシステムにいつまでも保守費用を支払う必要もないので、その場合は切っちゃってもいいと思うんですよ。

 

ただ、そのシステムにまだ少しでも必須の役割があるなら、保守を切ることには断固反対します。

何故なら、いざ障害が発生した時に大抵どうしようもなくなり、その際にかかるコストが保守費用よりも遥かに高額になるから。

そういうものなんですよ、保守って。

 

つまり、保守費用の要否判断は、「過去、何も起きなかったから」で行うべきではない。

「仮に何かあった場合に、それ無しでその状況を乗り切ることが出来るのか」

「乗り切ることが出来たとして、その為のコストは保守を切って浮いたコストに見合うのか」

ということで判断しなくてはいけない。

トラブルはいつか必ず発生するものであって、それが向こう数年発生しないことに賭ける、というのはただのギャンブルであって経営判断ではありません。

 

保険と同じです。

地震が起きなかった期間の地震保険費用を「無駄だった」と捉える人と、「当然必要なコストだった」と捉える人では、思考にかなり重大な開きがあります。

そして、地震保険を切ることが一種のギャンブルだということに気付かない人は割と多いです。

 

私、町内会の話し合いでも、「この地震・火災保険、地震も火災も起きてないんだから無駄では?」って発言を実際に聞いたことがありますからね。

さすがに皆に突っ込まれてましたけど。

 

今回の新型コロナ騒ぎでも、「あの対応は過剰だったのではないか」どころか「そもそもあんな対応をする必要はなかったんじゃないか」といった形式の議論をする人はたくさんいました。

これらの議論を見る度、私には「この一年何のトラブルもなかったんだから、この保守は切っていいんじゃないか」と発言する人の顔が脳内にリフレインするんですよ。

 

この人たち、「トラブル防止の為のコスト」というものをどう考えてるのかなーって。

地震保険不要とかいっちゃうギャンブラーなのかなーって。

後知恵で「何もなかったんだから対応コスト不要だった」とかいう議論にはどんな有効性があるのかなーって。

 

いや、もちろん、「もっとうまい対応があったのでは」という議論自体は今後の為にもしていいと思うんですけどね。

だからって「不要だった」は違うんじゃないですかって話で。

 

しんざき自身は、ギャンブルが嫌いでこそないものの、後知恵で保守不要なんて言っちゃう程向こう見ずではないので、保守コストは適切にかけるべきだし、それを切り捨てることについては慎重でありたいなあ、と思っています。

 

そういう点で、冒頭の増田に関しても、「いやいや、その理路で消防団無意味とかいっちゃうのはいくら何でも乱暴でしょ」と、そんな風に思ったと。

そういう話だったわけです。

消防団の方々の日々のご活躍に感謝すると共に、消防団の皆様が適切に報われることを願うばかりです。

 

ところで最後にぜんっっぜん関係ないことを話すんですけど、光栄の「三國志」っていうゲームがありまして、その初代では「くんれん」コマンドを使うと何故か軍師に「ほかにすることはないのですか」って言われるんですよね。

ゲーム中最強軍師の諸葛亮もそういいます。

 

いや、初代三國志のシステム上「訓練よりも武装の方が先」っていう話なんですが、自軍の訓練に対して「他にすることないの?」とか君主にいっちゃう軍師が存在を許されるという点では相当にアナーキーなゲームだよなーと考える次第です。

面白いですよね、初代三國志。

なぜか郭図が武力90だし。

あと火計めっちゃ強い。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

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努力はそんなに裏切らない

最近は「努力せよ」と言うと、批判されることも多いと聞く。

「努力は報われるとは限らない」

「努力できるのも才能」

「努力できない人もいる」

などというのが、その反論の骨子だ。

 

まあ、そうかもしれない。

 

もちろん「無駄な努力」があることは知っているし「努力を強要すること」の不毛さも知っている。

だから、「努力はムダ」という人々へ、私はあえて反論はしない。

 

でも。

私は現実的には、子供たちに「努力したほうがいい」と言うし、部下にも「努力して」と普通に言うだろう。

なぜなら、「とりあえず努力しておく」と、大体は良い結果になる事を知っているからだ。

 

むしろ、そういうシーンで「努力したほうがいい」と強調しないのは、かなり不誠実な態度だと思う。

 

実際、世の中にある大半の仕事は、「起業して上場させる」とか「売れっ子漫画家になる」あるいは「政治家の頂点に上り詰める」といったような、「努力の果てに、才能がないことを知って諦める」なんていう大層なものではない。

「ちゃんと続ければそれなりの結果が出る」物がほとんどで、実際には「才能を持つ人しか要らない」なんてことにはなっていないからだ。

 

多くの人にとって、「努力」に対する費用対効果はそこそこ高いというのが、私なりの見解である。

 

「継続的な努力」に関しては問題を抱えている人も多い

ただ、「努力」は継続性が問われる。

だから、問題を抱えている人が多いのもまた、事実だ。

 

特に最近は、「瞬発力はあるのだが、2,3週間やって、その後、なし崩し的にやめてしまう人」が多い。

 

例えば昔、営業所長をやっていた時。

「決められた営業の施策をコツコツやれない。どうしてもサボってしまう。才能がないんでしょうか」という人がいた。

 

私は「才能があるか」という、検証不可能な議論に時間を使いたくないし、たかだか一企業の営業を「普通」に勤めるのに才能は不要だと思っている。

だから、ひとまず才能云々は無視して、「どんな工夫をしてますか」と聞いた。

 

すると彼は「朝9時から30分とか、やる時間を決めて取り組んでいます」という。

まあ、普通だ。

 

私は「時間を決めてもできない?」と聞いた。

「苦手意識が勝ってしまって……どうしても。」

 

「他にやっていることはある?」と聞くと

「特にはないです。」

という。

 

なるほど、だが、この手の話の改善はそれほど難しくない。

(そのままではないが)私は学生のときに研究室で覚えた、次の事項の幾つかを彼に適用した。

いわゆる「努力するスキル」である。

単純に言えば、努力は「才能」によるところもあるが、単なるスキルとして、後天的にも獲得できる。

 

 

ちなみに、努力するスキルが後天的に獲得可能であることは、スタンフォード大学の研究でも実証されている。

「非認知能力」の有無が、まさに「努力できるかどうか」を分けるのである。

努力できることは才能だけで決まるわけではない。後天的に獲得されるスキルでもある。

では、思春期まで成長した子どもたちは、あるいは大人は「努力するスキル」を身につけることができるようになるのだろうか?
スタンフォード大学のキャロル・ドウェック教授は、思春期の子供を対象として介入を実施し、実際に脳の働きや知性が鍛えられるという成果を得た。

介入グループの生徒たちは意欲の大きな向上を示し、低下していた成績が急激に反転した。要は「マインドセット」の切り替えにより、努力するスキルを身につけることは可能だということだ。

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スキルは「反復練習」で身につけることができる。

したがって、「反復練習」を仕事に細かく組み込んでしまえば、努力はさほど苦しいものではない。

 

私は彼に

・目標を細かく分割してあげ

・定期的にアウトプットを私に送ってもらい

・ある部分はエクセルなどで自動化し

・私の使っていたテンプレートを与え

・恥ずかしがっていたのでロールプレイを行い

・勉強会でやり方を発表させた

 

別に大したことをしたわけではない。

部下の日常のアクションに少し手を加えただけだ。

 

だが、結果として、半年もしないうちに、彼は「毎日の努力目標を守る」ことができるようになった。

もちろん私が指導したからではない。

まぎれもなく彼が「毎日続けるスキル」を練習によって獲得したからである。

 

重要なのは「練習の工夫」

ただ、ここで強調しておきたいのは「練習」も、相手の様子を見ながら、つど工夫が必要だと言うことだ。

 

例えば上の事例では「アウトプットを送ってくれ」という指示はうまくハマり、彼は締め切りをきちんと守った。

しかし、そうした指示を出しても、一向に何も生み出せない人もいる。

 

そういう場合は、アウトプットのレベルをもっと落とすか、別の形のアウトプットを指示する必要がある。

例えば「文章が苦手」な人に、報告書を書かせてもなかなか上がってこない場合は、「口頭でやってもらう」などだ。

 

これは本人だけでは気づきにくいため、「コーチ役」がいると良い。

スポーツチームと同じだ。

 

 

その知人はいま「フォートナイト」という世界でも有数のオンラインゲームにハマっている。

累計で300時間以上プレイしていると言うが、上には上がいるらしく、「よく言って中級。初心者ではないという程度」と言っていた。

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その彼はこんな事を言っていた

「フォートナイトは、上達までの方法がめちゃくちゃ数多く提供されていて、すげーハマる。練習を工夫させるゲームデザインが秀逸すぎる」と。

 

リプレイが充実しており、同じアクションを切り出して上級者と自分を比較したり、負けたときになぜ負けたかを分析したりすることが容易にできる。

さらに上級者がアップロードした練習面などが提供されており、Youtube上の大量の練習動画をみて、それを自由に使うことができる。

 

「上達までの道のりが見えるので、かなり練習のモチベーションが上がる。1日に最低1時間、ルーティンを組んで必ず練習してから、その成果を試すために対戦にのぞんでいる。」

と、彼はいった。

 

まさに、仕事と同じではないか。

 

 

私は、少なくとも「ゲーム」ができる時点で、「努力できる才能」は備わっていると思う。

 

だから「努力できない」ことを才能の性にする必要はない。

多くの場合、「練習方法」に関する工夫が不足しているだけだ。

 

努力はそんなに裏切らない。

親や上司は、積極的に練習をアシストすることで、子供や部下にそう伝えていくのが、義務だと私は思っている。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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「ライターとして売れるためにはなにが必要か」

 

こういった成功条件に関する質問の答えは、三者三様だ。

たとえば「注目を集めるタイトルづけ」「共感されるテーマ選び」「わかりやすい文章を書く」というように。

 

しかし、こう答える人はまずいない。

「マナーや常識、礼儀」と。

 

あまりにも当たり前だから、話の俎上にも載らない。

でもこの「当たり前」ができてない人なんて、山ほどいるんだよなぁ。

 

納期を破って逆ギレ…想定外な人はどこにでもいる

以下、現実であった怖い話です。

 

・数年前に月間PV3000万を記録した現在も人気のメディア。「寄稿お願いします」というお話をいただいたのでテーマを相談するも、その後なんど連絡しても完全無視。音信不通。

・界隈で有名な人気ブロガーへの寄稿。自分のブログでさんざん金の儲け方や自分哲学を語っておきながら、蓋を開けてみると連絡がまったく返ってこないうえ報酬も出し渋り。友人も同ブロガーに仕事依頼されたが返信が来ず話は立ち消え。

・金曜日の15時に編集部から記事の修正依頼が届く。「ライターは24時間以内に修正、納品すること。ただし編集部は週末休みなので確認は月曜日」というお言葉をいただく。

・クラウドソーシング案件のグループチャットワーク。納期をすぎても記事を納品しないライターに編集者が「せめて事前に連絡を」と伝えたところ、ライターは「こんなところやめてやる!」と逆ギレ、音信不通。

 

こんな話、めずらしくもなんともない。驚きはしない。

よくある……とまで言わないけれど、日常的に起こりうることだ。

 

そう。

適当で、失礼で、他人を軽んじる人なんて、世の中いくらでもいる。

もちろん自分だって気づかないうちに無神経なことをしているかもしれないし、言葉遣いがまちがっているかもしれないし、すべてのマナーに精通しているわけではないんだけど。

それでもまぁ、「どういう角度から考えてもこれはアカン」という人に出会うことはままあるのだ。

 

さて、あなたはそういう人と、いっしょに仕事をしたいだろうか?

 

好きな人のためにがんばるから、良い仕事には良い人間関係が必要

「良い仕事には良い人間関係」というのは、わたしの持論だ。

人間は、好きな人のためにがんばれる生き物だと思っているから。

 

たとえばあなたも、嫌いな同期のためには融通利かせたくないけど、仲良い同期のためには積極的にいろいろ取り計らったりするでしょう。

ムカつく上司には反抗するけど、信頼してる上司のためならちょっとの残業くらいするでしょう。

 

好きな仕事をやってたくさんお金を稼いでいても、毎日上司にネチネチと嫌味を言われ、同僚から無視されていたら、だれだって胃が痛くなる。

辞めたくなる。

環境が最高でも、人間関係ひとつで最低な職場になりうるのだ。

逆に、仕事がしんどくても、「まわりがいい人ばかりだから辞めるのは……」と留まっている人もたくさんいる。

 

人間関係がモチベーションに及ぼす影響は、想像以上に大きい。

だから、円滑に、心地よく、うまいこと仕事をまわすためには、お互いが好きでいること、要は仲良しなのが一番効率的なのだ。

そしたらみんな、勝手にがんばるから。

 

……というのが、わたしの持論でして。

もちろん、「仲良しサークルのノリで仕事をしろ」というわけではない。

仲が悪ければ腹を割って話せないし、不満が怠慢に繋がるし、情報を共有しなくなるし、単純に手間が増えるから、人間関係はいいに越したことはないというだけ。

で、その「いい人間関係」に必要なのが、マナーや常識、礼儀なのだ。

 

信用できない人はいつどこでトラブルの引き金になるかわからない

お互い好き・嫌いはあるにせよ、面倒な人間関係トラブルを避けるため、ある程度みんな折り合いをつけて仕事をしている。

でもそこに、マナー違反、非常識、無礼な人がいたらどうだろう。

折り合いどうこうを考えるまでもなく、「話にならないからムリ」となってしまう。

「いい人間関係を築く」という土俵にすら上がれないのだ、そういう人は。

 

信頼できない人がひとりでもいると、その場の雰囲気が一気に悪くなる。

その人を許す人と許さない人のあいだでさらに溝が生まれ、気づいたら取り返しのつかない自体に……なんてことも起こりかねない。

人間として信用ならない人の存在は、好き嫌い以前にトラブルの種なのだ。

関わるにはリスクが高すぎる。

 

ちなみにここでいう礼節は、最近物議をかもした「説明会で机のうえにペットボトルを置くのはマナー違反」「休憩中にアイスを食べるのは非常識」「内定を断るなら直接会社に足を運ぶのが礼儀」とかいう、よくわからんマイルールのことではない。

 

たとえば

・「金曜日までに連絡する」と言ったら金曜日までに連絡する

・できないことを安請け合いせず、任されたことはしっかりやり遂げる

・困ったこと、失敗したことがあればちゃんと素直に話す

・約束通り納品し、約束の金額を払う

といったレベルの話だ。

 

ところがどっこい(死語?)、こういうのを大事にしない人は少なくない。

「明日連絡するって言ったじゃん」「知らないうちに話が進んでるんだけど……」「えっなんで勝手に納期変えるの?」なんてこと、きっとだれもが経験したことだろう。

最初にいくつか例を紹介したとおり、案外いるのだ、どこにでも。

 

というわけで、もう一度聞きたい。

あなたはそういう人と、いっしょに仕事をしたいだろうか?

 

効率がよくても定型文ひとつ打てない人とは仕事をしたくない

「自分で稼ぐ道を切り開く」「効率的に働くことが最善」という風潮があるからか、テクニックにばかり気を取られ、マナーや常識、礼儀を軽んじる人をちらほら見かける。

 

たとえば、

「『いつもお世話になっております』なんてタイピングする時間がもったいない。そういうのに気づけない人はいつまで経っても仕事ができない」

「電話は人の時間を奪う迷惑行為」

というように。

 

そういう主張は極端でわかりやすく、なおかつ最先端っぽい雰囲気をかもしだしているので、なかなかウケがいい。

なんだかデキる人っぽい意見だし。

 

でも、実際はどうだ?

「常識にとらわれない」とかなんとか言って、「いつもお世話になっております」程度のことが言えない人間を取引先に紹介できるか?

「電話なんて仕事ができない人のツール(フン)」という人に合わせてまで、わざわざチャットアプリをダウンロードするか?

 

結局多くの人は、「いつもお世話になっております」という文面からはじまるメールを打って、必要あらば電話で話を進めてくれる人と仕事したいのだ。

だって、同じような常識やマナーをもっている人とのほうが、仕事がスムーズにいくもの。

 

それを「古い」と一蹴したいならすればいいけれど、その結果、ただの「ワガママで非常識な人」に成り下がるかもしれないということは、頭の片隅に置いておいたほうがいいと思う。

まぁ効率の話でいえば、「いつもお世話になっております」と打っただけで「まともな人だ!」と認識してもらえるなら、コスパ最強の気がするけど。

 

仕事において大事なのは、テクニックよりまずはマナー

唯一無二のスキルをもっている人であれば、多少「難アリ」な人間性でも需要はある。

でもそんな人、ごくごく少数のかぎられた人だ。

そのかぎられた特別な人間になれるほどの際立った能力がないのなら、せめてお行儀よくしておいたほうがいい。

 

いくら「人によって価値観はちがう」とはいえ、

・言ったことはやる

・返事をする

・約束(期限や報酬)は守る

くらいは、どんな状況でも心がけるべき姿勢だ。

 

いい仕事をするためには、相手にとって「信頼できるビジネスパートナーになること」が必要。

そのためには、マナーや常識、礼儀といった、やや古めかしくて非効率な要素もまた必要。

 

マナーや常識にとらわれすぎて旧態依然としているのも問題だし、アップデートすべき慣習もあるけど、だからといって礼節を軽んじるのはちょっとちがう。

作業の効率化や稼ぐノウハウが幅を利かせることでそういう根本的なものが軽視されている気がして、なんだか心配になる。

 

仕事の効率化も時には必要だけど、そういうのは「いつもお世話になっております。ご提案いただいた企画、とてもいいですね!」というメールでいい人間関係を築いてからだよね、まずは。

その順番を、まちがえないようにしないと。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

Photo by Jim Reardan on Unsplash

よく称賛される言葉の一つに中庸というものがある。

バランスが取れているという言い方で表現する人もいるだろう。

 

特定の思考に凝り固まり、批判的意見もほどよく受け入れる。

これがよい立ち振る舞いだという事は、皆さんもこれまで生きてきて嫌というほど耳にしてきただろう。が、自分の知る限りこれをやれている人は超人だけである。

 

例えば新型コロナウイルスに対する対策で、いま現在世論は徹底した封じ込めを狙う『自粛派』と、日本人は自然状態でもRが1以下なのだから『ノーガードで大丈夫派』が喧々諤々の言い争いを繰り広げている。

時々この両者が交わる事があるが、だいたい議論は平行線である。

とてもじゃないけど、中庸なんて言葉からは程遠い。

 

とても興味深い事に、この両陣営ともに単純に頭の良さだけで振り分けると、それなりにどちらにも地頭が良さそうな人がいる事である。

3/11の時も似たような現象は目にしたが、またもや同じような事が繰り返されている事に僕は大変驚いた。

 

受験勉強や科学の世界では基本的には頭がいい人がたどり着く答えは常に同じだ。

もちろん、それは限定された条件下においての事だから、複雑な現実での意思決定とは異なるという事は重々承知してはいる。

 

いるのだが、この現実をみるに、どうも頭の良さというものはいつ何時も正解を叩き出せる万能な銀の弾丸ではないらしい。

それどころか下手すると誤った考え方に人を縛り続けるような呪いの作用すらありそうである。

 

いったい、これはどういう事なのだろうか。最近ずっと考えていたのだが、行動経済学が見事にこの事を説明していた。

確証バイアスである。

<参考文献 事実はなぜ人の意見を変えられないのか>

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現代は気軽にクリック一つで自分にとって都合のいい意見を生み出せる世界

ロンドン大学の教授ターリ・シャーロットによると、実のところ今日の私達は押し寄せる大量の情報を身に受けることで、かえって自分の考えを変えないようになってきているという。

なぜなら、マウスをクリックするだけで、自分が信じたい情報を裏付けるデータが簡単に手に入ってしまうからだ。

 

私達は基本的には信じたいものしかみない。

人生の基本方針は自分が気持ちよくなる事である。

自分にとって都合がよくない情報をわざわざ目にしたいという欲求を持っている人は単なるマゾだ。

 

と、いうことはだ。

私達の信念を形作っているのは事実や科学的根拠などではなく、”欲求”なのである。

つまり、この”欲求”が変化してない状態下において、相手も自分も”考え方”が変わる可能性などありえないのである。

 

実は冒頭であげた僕の疑問点に関しても、既に研究によって答えがでている。

2013年に出た"Motivated Numeracy and Enlightened Self-Government,"という論文によると、分析能力が高い人の方が、そうでない人よりも情報を積極的に歪めやすい事が判明しているのだという。

 

改めて考えてみれば、これは確かに自明である。

推論能力に長けていて、数量に関するデータの扱いに慣れており、分析的な思考が出来る人間であれば、そういうデータをインターネットの海から出現させる事なんて朝飯前であろう。

 

事実や科学的根拠ではなく、”欲求”が意見を形作るモチベーションの源だという事を考えれば、誤った考えが正しい考えに修正させるだなんて事を期待するだけ馬鹿げている。

出発点も進路も間逆なのに、目的地に軌道修正が行われるだなんて事があるはずがないのである。

 

自分と異なった意見を前にした時、人ができるのはバランスよく意見を形成する事なんかではない。

むしろより自分の考えを先鋭化させてゆき、特定の方向に偏るのが人間という生き物なのである。

中庸は言葉では簡単に表現できるが、実行なんて並大抵の人には不可能だという事がよくわかるだろう。

 

TwitterのリツィートやFacebookのシェアは取り扱いが難しい

とりわけ問題を難しくしているのがSNSだ。

先程、分析能力が高い人の方が、そうでない人よりも情報を積極的に歪めやすいと書いたが、TwitterやFacebookはこれをボタン一つで簡単に加速させてしまう。

そう、リツィートやシェアである。

 

新型コロナウイルス問題で頭が沸騰している人のタイムラインをみにいくと、自説を裏付ける他人の意見の再共有の嵐である。

まさしく”マウスをクリックするだけで、自分が信じたい情報を裏付けるデータが簡単に手に入ってしまう”のである。

 

人は共感に強い価値を見出す。

あなたが家族と食事をしていて、相手が「美味しいね」といったのに対して「美味しくない」というのは、単なる意見の不一致にとどまらず相手の人格批判にまで容易にタッチする。

 

僕はかなり重度なグルメサイコパスなので、食事を数学の難問のように取り扱いがちなのだが、最近妻が「あんたはいっつも私の意見に同意しない!!!私のことが嫌いなのか!!!」と食卓にて大爆発し、数年遅れで食卓を挟んで行われていた会話が「建設的な意見の交換」ではなく「コミュニケーション」であった事に気がついた。

 

ゲーム理論では、相手がニコニコと同意を求めてきたら、自分もニコニコと同意をするのが最適解である。

そこで議論をふっかける事は戦争を仕掛ける事となんら変わりない。

相手が好意を向けてきているのだとしたら、「ん?なんかちょっと違うな」と思ったとしても全力で

 

「そうだね、美味しいね」

 

と返すのが正解なのである。

合コン「さしすせそ」は万能の鍵なのだ。

今さら聞けない!合コンの「さしすせそ」を解説します!|合コン・飲み会セッティングのRush(ラッシュ)|IBJ

合コンの「さしすせそ」をご存知ですか?

簡単に言えば合コンの「さしすせそ」とは、料理の「さしすせそ」ならぬ、女性が【男性を上手に褒める基本の言葉】のことをいいます。
今回は、この合コンで使える「さしすせそ」と、上手に男性を褒めて会話を弾ませるためのコツ、使い方の注意点を自称恋愛マスターの筆者が伝授いたします。

 

この逆がSNSである。

異なる意見を持つ人に、自分が思う”正しい”意見をぶつけるのは、まさに我が家の食卓で僕が妻の意見に”同意しない”のと同じような効用をもたらす。

逆合コン「さしすせそ」と言ってもいいかもしれない。

 

人は逆合コン「さしすせそ」をぶつけられまくると、共感に強く渇望するようになる。

するとどうなるのかは昨今のSNS界隈をみていれば火を見るよりも明らかで、だいたいの人は人格が”加速”して狂化してしまう。

 

耳に痛い意見は伝家の宝刀だ。

お互いがお互いものすごく信用しあった関係という大前提があったとしても、抜けるのは一生に数回が限度だろう。

 

Twitterで議論なんて普通の人はやってはいけない。

それはゲーム理論の逆最適解なのである。

 

あつ森の優しい世界、SEKIROのやり直せる世界

最近、流行ってるのもあって興味がてらにNintendo Switchのあつまれ どうぶつの森(通称、あつ森)を始めたのだが、昨今のSNSに欠けた要素があまりにも満載すぎて笑ってしまった。

 

知らない人に簡単に説明すると、あつ森は無人島に移住し動物たちと仲良くキャッキャウフフしながら共同生活するゲームである。

シュールなものの見方をすると、タヌキチが悪徳パッケージ商品を売りつけてきて笑顔でこっちを風呂に沈めてきそうな感じもするが、まあそれはそれだ。

 

あつ森の世界はびっくりするほどに優しい。

みんなニコニコしてて、こちらの意見を批判してくる事なんて絶対にない。

世の中は”できる事”で満ち溢れていて、そこかしこに”小さな達成感”が満ち溢れている。

 

この対極ともいえるゲームがフロム・ソフトウェアのSEKIROである。

SEKIROの世界は無慈悲であり、あまりにも優しくなさすぎるのだが、現実と違って死んでもコンティニューが可能である。

その結果、プレイヤーは地獄のような試行錯誤の果てに”大きな達成感”を獲得する事ができる。

 

”優しさ”と”達成感”と”やりなおし可”、改めて考えてみると、現実はこの3つにひどく欠けてるよなと本当に思う。

 

リアル社会の気軽にタッチできる優しさには常に何らかの下心が仕込まれており、承認欲求を得ようにも並みいる強豪相手に一般人には達成感の獲得もままならず、そして間違いにも厳しい。

ネット社会のいま現在、過去の過ちはデジタルタトゥーとなって私達に襲いかかってくる有様である。

 

こんな世界で狂わずに中庸を歩むなんて、そりゃまあ普通の人には無理ってものだ。

けど、やっぱり狂いたくはない。じゃあどうすればいいんだって所で遊びの出番である。

 

例えば、あつ森やSEKIROをやり込めば、程良い感じに時間が過ぎ去る。

狂人へと”加速”してしまった人を元に戻すのは至難の業だが、ゲームで時間を程よく消費して”加速”さえしないでいられれば、勝手に世間が正しい答えを出してくれる。

 

封じ込めかノーガードか。

そのどちらが正しいのかなんて、普通の人がいくら無い知恵を振り絞ったところで正解は見いだせないだろう。

狂った世界から一歩距離をとって、ステイホームで時計の針が進むのを眺めるのが、多くの人にとっては最適解だ。

 

そして程よく時間がたった頃に、我が物顔でこういう態度をとればいいのだ。

「僕は最初からこっちが正しい答えだと思ってましたけど、世間がそれを証明してくれましたね」

ってね。

 

後出しジャンケンは絶対に負けない最強のカンニングなのである。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

Photo by:Peter Shanks

 

日本人あるあるの一つ、「みんな一緒に重いものを運んでいる時には、実際には不要でも、手を添えて持っているフリをしなければならない」。

今から現場に加わっても負担が減らせるわけでも、効率が良くなるわけでもないのに、それでも現場に加わって"やっている感"を出さなければならない場面は、学校でも職場でも珍しいものではない。

 

あるいは、職場や現場で自分の仕事が先に終わった時にも、堂々と昼寝をしていたりソリティアをしていたりしたら色々まずい……と感じる場面もあるはずだ。

そういうシチュエーションでは、本当は手持無沙汰でも、仕事をやっているような体裁を整えて、"やっている感"を出しておかなければならなかったりする。

 

なぜ、"やっている感"を出さなければならないのか?

いや、なぜ私達は"やっている感"を出さなければならないと感じて、実践してしまうのか?

 

この、"やっている感"は、私たちの社会やコミュニケーションの性質を考えるひとつの材料だと思うので、今日はこれについて言葉を費やしてみたい。

 

日本社会に存在する、表のルールと裏のルール

昭和の終わりから平成にかけ、この国にも成果主義や個人主義や効率主義のルールが定着した、とはよく言われることだ。

少なくとも昭和時代と令和時代を比べれば、それらのルールは身近になっているといえるだろう。

 

たとえば、上司が残業しているからといって部下が家に帰れないような職場は少なくなった。

職場の飲み会や社員旅行に必ず出席しなければならない……なんてことも昔に比べれば減ったといえる。

仕事をきちんとこなし、業績をあげている人を評価する評価体系も昔よりは定着している、はずである。

 

その一方で、成果主義や個人主義や効率主義のルールだけでは説明のつかない場面もまだまだ残っている。

それこそ、午前中に自分の仕事が順調すぎるほど片付いてしまったからといって、午後から昼寝やソリティアをしていたら良い顔をされない職場や現場は珍しくないだろう。

 

あるいは、タテマエとしては「参加は任意です」とアナウンスされているミーティングが、本当は出席率7割ぐらいを期待されているもので、出席率が低いと職場での評価がだんだん悪くなってしまう……なんてことも案外あったりする。

そのようなミーティングが存在する職場や現場では、参加は任意とアナウンスされていても、ぬかりなく参加して"やっている感"を出しておくことが重要だったりする。

 

こういったシチュエーションを思い出すにつけても、私は、成果主義や個人主義や効率主義は日本ではタテマエとして定着している、と思わざるを得ない。

それらは表のルールとして存在感を保っているけれども、唯一無二のルールとはいえない。

"やっている感"が必要になるような、それとは別の、いわば、裏のルールも存在していると考えたほうが現実的だろう。

 

では、裏のルールに相当する決まりごとは何か?

 

私は、裏のルールの原型らしきものを学校教育(の一部)にみる。

 

学校教育では、しばしば「みんなと一緒に」「みんなで力をあわせて」といったフレーズが強調される。

幼稚園から高校まで、運動会でも文化祭でも、「みんなで」というフレーズは望ましいものとして・誇らしいものとして語られ、社会のルールとして、あるいは規範として十重二十重にインストールされる。

 

学校教育は昭和から令和にかけてそれなり変化はしているのだけど、こと、「みんなと一緒に」「みんなで力をあわせて」を美徳とみなし、ルールや規範としてしぶとく内面化させようとする点では、根本的には変わっていない。

 

そのうえ、学校で刷り込まれる「みんなと一緒に」「みんなで力をあわせて」には、成果主義や個人主義や効率主義を度外視して構わない雰囲気すら伴っている。

というのも、勝負に負けても、成果が不十分でも、非効率でも、「みんなと一緒に」や「みんなで力をあわせて」にはそれ自体に固有の価値や美徳があるよう、私たちは教わるからだ。

 

こうした「みんなで」というルールをしっかり刷り込まれ、それをきっちりとインストールされた人々が寄り集まってできあがった職場や現場のルールは、「みんなと一緒に」「みんなで力をあわせて」におのずと染まっていく。

 

そのような職場や現場でも、成果主義や個人主義や効率主義はある程度までは尊重されるかもしれない。

それでも、「みんなと一緒に」「みんなで力をあわせて」が裏のルールや規範として幅をきかせている限りにおいては、「みんなで」にふさわしい振る舞いが各人に期待され、それを平然とスルーする人間の評価は下がっていくことになる。

 

「みんなで」というルールが浸透している職場や現場では、どうしても「みんなで」というルールを自分も尊重している姿勢を示さなければならなくなる。

それこそ、「重いものをみんなで運ぶときに人が多すぎても手を添えて持っているふりをする」のようなジェスチャーが役立つことになるし、また、期待すらされることになる。

 

積極的なメッセージとして"やっている感"を出していく

では、"やっている感"は「みんなで」がまかり通っている現場や職場に言い訳するための、消極的な仕草に過ぎないのか。

そうとも限らない、と私は思う。

 

"やっている感"を出さなくても構わない、自分のペースで働いても構わない職場や現場でも、ときには"やっている感"を積極的に出したほうがいい場面は間違いなくある。

なぜなら、"やっている感"を出すことで要らぬ誤解やトラブルを避けられる、そういう状況も少なくないからだ。

 

たとえばあなたが何かのプロジェクトに携わっている時、"やっている感"を出さず、水辺に浮かぶ水鳥のように仕事をしていたら、メンバーの誰かから「あいつ、本当に仕事をしているのかな?」と心配されるかもしれない。

 

一緒に働いているメンバー同士がお互いのことをよく知っていたり、進捗がガラス張りになっていたりする環境ならいざ知らず、そうでない環境では、仕事を進めているジェスチャーを出しておいたほうが誤解は避けやすい。

特に、あなたが短時間に一気に仕事を片付けるタイプで、仕事の合間にクールタイムを必要とするタイプの場合はとりわけそうだ。

 

「みんな一緒に」「みんなで力をあわせて」をルールとして重視していない人でも、プロジェクトメンバーの一人がマトモに働いていないようにみれば心配になるのは理解できることだ。

というのも、誰だってマトモに働かないメンバーのしりぬぐいなんてしたくはないだろうからだ。

 

そうした誤解や懸念を避けるためには、自分の進捗を明らかにしつつ、"やっている感"をメッセージとしてしっかり出しておくことには意味がある。

着任して間もない新しい職場や現場では、とりわけそうだろう。

 

なお、この"やっている感"アピールには悪用の余地がある。

本当はぜんぜん仕事が進んでいなくても、"やっている感"を上手にアピールできるなら上司やメンバーを騙せてしまうからだ。

がしかし、仕事がはかどっていないのにはかどっているふりをすると後で困ってしまうだけなので、一般には、嘘として"やっている感"をアピールするのはやめたほうが良いと思う。

 

こんな具合に、"やっている感"は、自分の仕事の進捗そのものには貢献しない。

しかし他のメンバーとの意思疎通や信頼関係にはしばしば貢献する。

そのような意思疎通のコスト、コミュニケーションのコストは少ないに越したことはないかもしれないが、だからといって、無視して構わないものでもあるまい。

 

「みんなで」というルールが多少なりとも残っている職場や現場で、この種のコミュニケーションコストをケチりすぎるのは、世渡りとして巧くないように思う。

どうかご注意を。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

<Phote:novriwahyuperdana

自分の無知や弱点を晒すことは、学びを得る上で非常に重要なことです。

かつてソクラテスが言ったように、「自分が何を知らないか」ということを認識するのはどんな人にとっても大変困難なことでして、多くの場合他者との接触を通して「自分の無知」を認識する他ありません。

その意味で、「俺はこれについて何も知らない」ということを、我々はどんどんオープンにしていくべきなのです。

 

ということで恥を忍んで申し上げるのですが、しんざきは料理というものについて全く、さっぱり、完全無欠に知見がありません。

今までの40年程の人生、料理というスキルに殆ど触れずに生きてきてしまいました。

 

いや、決して、私が「男子厨房に立たず」などという時代錯誤な主義を持っているわけではないのです。

厨房には立ちます。

皿も洗えばシンク掃除もするし生ごみの始末も排水口の掃除もします。

そこについては主張させてください。

 

ただ、しんざき家では得意分野に基づく家事分担システムを構築しておりまして、しんざき奥様が料理好きであり、また料理の味にもこだわりがあるということもあり、大筋「料理は奥様、掃除は私」という大きな専門分野を設け、育児については二人共通タスク、それ以外の家事についてはこまごま分担しておりました。

で、しんざき奥様が体調が悪い時は、お惣菜を買ってきたりデリバリを頼んだりで切り抜けてきたのです。

 

とはいえ、結果として、私が「料理」という広大なスキル分野から、「専門領域」という言葉を言い訳にして丸々逃げてきたのだ、ということについては否定のしようがありません。

 

私がどれくらい料理スキル皆無だったかというと、まず火の使用が出来ません。

正確にいうと、こんろを用いて火を起こすことは出来るのですが、それを使って何らかの食物を熱したということがありませんでした。

つまり火というものを積極的に利用したことがありませんでした。

 

ヒト属が火を日常的に広範囲にわたって使われるようになったことを示す最古の遺跡は、およそ12万5千年前のものだそうです(Wikipedia調べ)。

それ以前からヒト属が火を使用していたという説も様々あるのですが、まあ最低でも10万年前には既に、人は火というものの利用に広範に馴染んでいたと考えても問題はないでしょう。

 

そこから考えると、私はヒトたるものの水準から遠く10万年は遅れているということになります。

なんということでしょう。

10万年て。

デーモン小暮閣下まだ産まれたばっかの頃やん。悪魔と伍する程の人類史的周回遅れです。どうすんだ。

 

ところで最近、コロナの影響で子どもたちの通学がなくなり、必然給食もなくなりました。

結果、私の専門分野である掃除の頻度は変わらないものの、一方炊事の頻度は激増しました。

これはタスクの偏りを意味してあまりよろしいことではありません。

 

一方、長男は最近子どもリーダーとしての成長著しく、妹たちに勉強を教えるばかりか、奥様に料理を習って妹の為に朝ご飯や昼ご飯をちょこちょこ作ってあげる、というレベルにまで達していました。

しかも決して「サンドイッチ」とか「おにぎり」といった手間の少なそうな料理ではなく、お味噌汁やらオムレツやら生姜焼きやら、ちゃんと手間がかかっていそうな料理を作れるのです、彼。とても偉い。

 

とはいえ、料理のレベルでは既に私が遠く長男に置いていかれていること疑いなく、父の権威が早晩大地に転落するどころか、そのままドリルのように地下に潜って遠くペルシダーを目指す未来は既に見えております。

 

ということで、一念発起して私も料理を始めてみました。

人類史的な飛躍の時です。私はまだほんの40才。

仮に平均寿命まで生きることになるとしたら、人生の幕を閉じるまでまだ40年くらいはあります。

40年も料理をすればさすがにそれなりのものにはなるでしょう。

人間、何を始めるにも遅すぎるということはない。

 

以下は、40になって初めて料理を始めた完全無欠の初学者が、一月程度で得た知見の一部です。

 

手順の粒度というものに打ちのめされた

例えば、「カレー 初心者 レシピ」という検索ワードでぐぐるとします。

様々なレシピが表示されます。

「初めてでも安心!カレーの作り方」といった文章が表示されます。

優し気な感じに安心してクリックします。

 

而して、そこには例えば最初の手順として、「野菜の皮をむいておきます。」「肉と野菜を一口大にきります。」といったものが書かれているわけです。

 

分かる。分かります。

普通の人からすれば、「野菜の皮を剥く」というのは極めて自明な、あるいは理解しやすい手順なのでしょう。
しかしこちらは初学者です。

例えば人参があったとして、「これはどこまでが排除するべき皮で、どこからが食べるべき実なのか?」ということが判断出来ないわけです。

玉ねぎってあれどこまでが皮なの?本体ないんやけど。

 

あるいは、「じゃがいもはレンジでチンをすると剥きやすくなる」という情報に触れて、レンジでチンをした後直接じゃがいもを触って手を火傷したりするわけです。

めっちゃ熱いやんアレ。

つまり、手順の粒度が大変に荒いというか、本来であれば簡単に脳内で補完出来るところ、その前提知識がない為にこの粒度の手順についていけないわけです。

 

用語についても割と壊滅的で、例えば「揚げる」というものは「炒める」と具体的にはどう違うのか、実際に「揚げる」為には何を準備してどうすればいいのか、というのが良く分からない。

ひどいもんです。

 

いや、皆さん笑うと思いますが、これ、多分どんな分野であっても、「全く触ったことがない初学者」ってきっとこんなもんだと思いますよ?

パソコン触ったことがない会社のおじさんに、「まずExcelを立ち上げてください」と言っても、相手はそもそもパソコンの電源の付け方が分からないし、その後のログインの方法も分からないわけです。

 

「分からない時の気持ち」というものは既に分かっている人間にとっては極めてくみ取りにくいものですので、この年になって「完全な初学者」の立ち位置に自分を置くことが出来るのは大変貴重な機会、マジで有益なことだったと思っています。

これで私には、誰かに何かを教える時、「相手が初学者なら、自分に料理を教えるつもりで教えろ」という重要な基準が出来たわけです。

 

以前安達さんが、「30代後半からは、意図的に「教えてもらう側」に回り続けないと、学びがどんどん下手になる。」という記事を書かれていましたが、これは全くその通りだと思うのと同時に、「学び続けないと、教えることも下手になる」なあと。

 

全く知らない側の気持ちを自ら思い出すことも重要だなあ、と。

そんな風に思ったわけです。

 

「複数の料理を同時に作る」という行為の物凄さを実感した

というか、世間の主婦の皆さんは、一体どうやっておかずを二品も三品も用意しているんでしょうか?

なんであんな複雑な工程を同時並行で進められるんですか?本気で謎。

 

いや、料理って基本マルチタスクの塊でして、シングルタスクを徹底しようとすると目玉焼き一つ作るのに1時間くらいかかってしまいかねないので、どうしてもある程度は平行作業が発生してしまうのですが、あれ本当に大混乱します。

バスカイアーです。

 

そもそも初学者の最大の弱点は「とにかく手が遅い」ということ、及び「リソースに余裕がない」ことなので、おかずを二品も三品も作るなんて到底出来っこないわけで、かといってそれでは夕飯が成立しません。

 

奥様に教えを請うたところ、「慣れてくると手が抜けるようになるから、それで空いたリソースを他に使うだけ」と言われたんですが、ちょっと待って下さい、それそんな簡単に言えることなんですか。

私コーディングしてる時にちょっとリソースを開けて書類仕事片付ける、とか滅茶苦茶苦手なんですけど。

世間の人は一体どうやってあんな凄まじいマルチタスクを平然とこなしているんですか?

 

結果、私自身は切れてる野菜やらブロッコリーやらで適当にサラダをでっちあげて誤魔化したりしたんですが、以前から料理が出来る人を崇敬してはいたものの、自分でやってみて更に「料理」というものの物凄さが実感出来、食べる時にもより真剣に感謝が出来るようになったということなのです。

しんざき奥様の料理めっちゃ美味しい。

 

あと、皆さん手を抜く時は手を抜いてくださいホントに。

夕飯カップ麺でもええやん。

 

なにはともあれ、必死の努力の甲斐あって多少は料理も作れるようになってきはしまして、

プラスチックしゃもじでフライパンの炒飯混ぜてたらしゃもじが溶けそうになったり、毎度毎度何かの冗談のようにフライパンがこげついたりはしつつ、一応食べれるものも作れて子どもたちに喜んでもらえたりしておりまして、料理を始めて良かったなーと思うわけです。

 

以下は最近作った夕飯の画像です。

https://www.instagram.com/p/CAkRD5aA3Pv/

https://www.instagram.com/p/B_ynnpHp9UW/

https://www.instagram.com/p/B_JcSfnJuaI/

 

奥様の休み時間を増やす為にも、今後とも精進したいと考える次第です。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

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『10年後に食える仕事 食えない仕事: AI、ロボット化で変わる職のカタチ』(渡邉正裕著/東洋経済新報社)という本を読みました。

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AI(人工知能)の発達によって、人間の仕事がどんどん奪われていく、という言説は以前からありました。

最初のころは、「AIはなんでもできて、単純作業から、人間の仕事は無くなっていく」というような話だったのですが、AIやロボットがさまざまなジャンルで実用化されていくにつれ、その得意な分野と苦手な仕事が、けっこうはっきりしてきたのです。

 

この本は、最近の知見をもとに、「今後、AIによって人間のものではなくなっていく仕事」と「AIでは代替することが難しい仕事」について紹介されているのです。

人口減で仕事の自動化は否応なく進み、人間に残る仕事は「AIを駆使する仕事」と「手先を駆使する仕事」の二極化が進む一方で、人間の強みが生きる逃げ場(職人プレミアム)も残されている。

もちろん、若者が「消える仕事」領域へ進むのは得策ではない。対応するための最善策は、大学・専門学校選びの段階にまでさかのぼるため、高校3年生が読んでもわかりやすい内容とした。

もちろん、学生の子供を持つ親世代、まだやり直しが利く30代以下の若手、キャリアシフトや逃げ切り策に迫られている40代〜50代と、各世代の全労働者6000万人にとって有用なものとした。

人生の残り時間によっても、「戦略」は変わってくるのです。

 

著者は、「仕事の未来」を5つのカテゴリに分類して解説しています。

・ロボティクス失業――機械やITに置き換わり、失業リスクが高い

・手先ジョブ――人間の手先が必要不可欠で、永遠に残り続ける

・職人プレミアム――テクノロジーとは無縁で、雇用は安定

・AI・ブロックチェーン失業――中核業務は無人化・自動化が不可避

・デジタル・ケンタウロス――AIを乗りこなし、人間の強みを発揮

僕はこれまでも「AIと仕事」についての本をけっこう読んできたのですが、いわゆる「頭を使う、ホワイトカラーの仕事」には、AIで効率的にできてしまうものが少なくないのです。

著者はそれらを「AI・ブロックチェーン失業」としています。

 

その一方で、AIでデータを集約しながら、創造性を加えなければならない仕事は「デジタル・ケンタウロス」(ケンタウロスは半獣半人間の伝説の動物)として、最後まで人間に残り続けるのです。

 

また、AIやロボットは巨大なデータの処置や単純作業はお手のものなのですが、「細かくて微妙な力の調節を必要とする手作業」は苦手としています。

職種でいうと、コンビニの店員は、まさにこの作業を行っている.単なるレジ打ちではなく、おでんや「ファミチキ」のようなホットスナックを手に取り、宅配の荷物を受け付け、タバコを棚からとり……と、その業務内容は多岐にわたって同時並行で進む。

また、寿司職人の仕込みから握りに至る手作業のような、料理人の包丁さばき全般もこの「手先ワーク」の代表である。

農業の大半の作業も、この手先ワークだ。たとえば、イチゴを1つずつ綺麗に12個、2層に並べて、パックに詰めていく作業など、アマゾンのピッキングよりも難しい。機械化したら、潰れてしまうだろう。

回転寿司チェーン店には「寿司ロボット」が存在するのですが、あれは「寿司用に同じ形のシャリを大量に生産する機械」なのです。

もちろん、コストを下げるという面では、大きなメリットがあるのですが。

 

この「手先ワーク」の場合、時給が高い仕事は少なめで、「人間がやったほうが(雇用する側にとって)安上がり」という場合も多いのです。

 

著者は、「AIが得意なのは、3つの要件を満たす業務だけ」だと述べています。

その3つは、

(1)業務に必要十分な情報を「デジタル形式」で取得できる

(2)AIが分析できる範囲内である(指数的爆発を起こさない)

(3)物理的に執行環境が整備されている

だそうです。

 

詳しく内容を知りたい方は、ぜひこの本を読んでみていただきたいのですが、AIにできることは、いまの人間が期待しているよりも、ずっと狭い範囲のことなのだ、ということを思い知らされます。

 

うまく仕組みを整えればAIで可能なことであっても、既得権益者たちが自分の生活を守るためにAIの導入を拒絶することもあります。

あるいは、利用する側が「AIやロボットだと不安」と感じる業務も存在するのです。

これは、実績を積み上げていくことによって、解消されるのかもしれませんが。

 

著者は「デジタル・ケンタウロス(機械と人間との恊働によって相乗効果が得られる仕事」の一例として、外科医を挙げています。

外科医がデジタル・ケンタウロスたる所以は、この、機械と人間の相乗効果で格差が開いていく点にある。一見、手術機器が進歩すれば、誰でもラクに手術ができるようになり格差が縮まると思うかもしれないが、現実は、真逆だ。

「ラーニングカーブが大きいんです。ダヴィンチによる心臓血管外科手術について言えば、最初は8時間かかったものが、150〜200件経験すると、最後は2時間でできるようになる。泌尿器だと20例くらいで短くなっていくデータもあります」(外科医・渡邊剛氏)。

製造業の工場における「経験曲線」と同じ理屈である。

 

件数が増えれば、患者の安全性も向上する。高額な医療機器の稼働率も上がり、投資の回収も早い。

医師が件数をこなすためにも、患者がよい手術を受けるためにも、1か所に集約するほうが効率的なので、件数が多い拠点に、患者も医師も集まる。

「高度な機械を使った手術は、件数が多いハイボリュームセンター(High Volume Center)に集約され、そこで経験を積んで生き残れる少数の医師と、それ以外の医師とで、格差が広がっていきます。外科医は『上澄み』しか残れない時代になりつつある」(同)。

 

テクノロジーの進化が、外科医の格差を拡大させていく。

機械は、いつまでたっても機械だ。

「結局機械というものは人間と一体になってはじめて完全になりうるもので、機械はいつまでたっても機械」

「如何によい機械でもそれを動かしうるまでの訓練が(原文ママ)積まなかったら、銘刀も鈍刀と同じである」

と述べたとされるトヨタ自動車創業者・豊田喜一郎の言葉は、AI時代に、ますます説得力が増していく。

なんでもAIに任せて、人間は娯楽に徹すればいい、と言う人もいるのだけれど、現実的には、いま生きている人間は、AIによってみんなが遊んで暮らせるようになる未来よりも、さらに格差が広がっていくことを心配したほうがよさそうです。

 

AIが人類を支配することはなくても、AIを使いこなせる少数の人間が、その他の人間の上に立つ未来は、あり得そうなのです。

最新の国勢調査結果(2015年調査)では、日本国内の15歳以上就業者数5889万人の職業が、232個のいずれかに分割されている。

それぞれの職業について、本書での定義に基づき、上下(知識←→技能)、左右(機械←→人間)の切り口を入れていくと、5つのエリアのどこで何人が働いているのか、がざっくりわかる。全体に占める比率を示したものが下の図で、次ページの図には、それぞれのエリアで多い順に10の職業を記した。

 

左側が、「現状の業務内容を前提とすると、中核業務がいずれテクノロジーに置き換わる」という意味での、”失業エリア”である。

ロボティクス失業(1)が28.5%、AI・ブロックチェーン失業(4)が5.5%、計33.9%となった。

別途、「分類不能の職業」が5つのエリアの外に5.1%あるので、これを除外した94.9%を100として計算し直すと、全体の35.8%が図の左側に位置し、計2106万人が、現状のままだったら失業する計算になる。

本では、わかりやすい図で説明されているので、ちゃんと知りたい方は、そちらを参照していただきたいのですが、ざっと3分の1の人が、近い将来に失業してしまう、ということになりそうです。

 

ただ、先のことはわからない、というのも事実なんですよね。

いまから20年前の2000年に、「ユーチューバー」なんて仕事で食べていける人が出てくると予想した人は、ほとんどいなかったはずです。

たぶん、今から10年後、20年後にも、「いまの人間には想像もつかない仕事」が生まれているのでしょう。

 

今回、新型コロナウイルスの感染予防のため、リモートワークが推奨されました。

そういう時期だからこそ、「やはり、人間が直接現場でやらなければならない仕事」と、「リモートワークでも可能な仕事」が見えてきた面もありますよね。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo by Alex Knight on Unsplash

以前「地頭の良さ」についての記事を書いた事がある。

「地頭の良い人」と、そうでない人の本質的な違いはどこにあるか。

コンサルタントをやっていた頃、良いか悪いかは別として、採用に関して「地頭の良さ」を重視する風潮があった。

地頭の良い人間は一定の訓練でそれなりのコンサルタントになる。だが、お世辞にも地頭の良いとはいえない人間は、いつまでたっても一人前になれなかったからだ。

実際、私が20代半ばで所属していた部署では、中途採用にあたって「学歴」をさほど重視していなかった。

重視していたのはとにかく「地頭」だ。

記事に書いたが、私は「地頭の良さ」というのは、「インテリジェンス」、すなわち「僅かな情報から、多くの事象を読み取る能力」だと考えている。

 

実際、「地頭が良い人」から得られる情報の中で最も貴重なのは、「思考の切り口」だ。

「そのような見方があるのか」との気づきを与えてくれる人々と話すのは、刺激的で、心地よい。

 

 

ところが、逆に「頭が悪そうな物言い」をする人たちもいる。

もちろんこれは、あくまでも「悪そう」なので、中身に関しての話ではない。

が、「損してるなあ……この人」と思うのだ。

 

例えば、この時期は新卒採用のシーズンだが、面接官から「質問はありますか?」と聞くと、頻繁に

「強みはなんですか」とか「ビジョンについて詳しく教えて下さい」

といった「いつもどおりの」質問を投げてくる学生がいる。

思い当たる方もいるだろう。

 

だが、この質問は残念ながら「頭が悪そう」に見えてしまう。

 

多くの場合、面接官は「またか」と、うんざりして、例えば

「両方ともwebサイトに書いてありますが、ご覧になりましたか?」と聞くのだ。

 

あるいは、面接官も同様に学生から「品定め」されている。

 

面接官が「その志望動機であれば、ウチでなくても良いのでは?」

と安直に聞けば、学生はうんざりして

「(当たり前じゃないか。他社と同じようなことしかしてないのに。この面接官、レベル低いのかな?)」

と思うだろう。

 

上のエピソードを読んで

「お互い準備不足なのでは?」という方もいるかもしれない。

でも、そうではない。

 

準備不足はもちろんダメなのだが、

それ以上に、相手をうんざりさせる質問そのものがダメなのだ。

 

「無神経」な表現

ここで重要なのは「ビジョンはなんですか?」「ウチでなくてもよいのでは?」という質問のどこが悪いのかだ。

 

私もきちんと言語化できていなかったが、最近になって、本多勝一氏の「日本語の作文技術」を読み返したとき、ようやく理解した。

要するに「頭が悪そうな物言い」というのは「無神経」なのだ。

 

例えば、本多勝一氏は「無神経」な文章の例として、次の文章を挙げ「ヘドが出そうな文章の一例」と辛辣なコメントをしている。

只野小葉さん。当年五五歳になる家の前のおばさんである。

このおばさん、ただのおばさんではない。ひとたびキャラバンシューズをはき、リュックを背負い、頭に登山帽をのせると、どうしてどうしてそんじょそこらの若者は足もとにも及ばない。

このいでたちで日光周辺の山はことごとく踏破、尾瀬、白根、奥日光まで征服したというから驚く。

そして、この只野さんには同好の士が三、四人いるが、いずれも五十歳をはるかに過ぎた古き若者ばかりなのである。

マイカーが普及し、とみに足の弱くなった今の若者らにとって学ぶべきところ大である。子どもたちがもう少し手がかからなくなったら弟子入りをして、彼女のように年齢とは逆に若々しい日々を過ごしたいと思っている昨今である。

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読んでみると、たしかにこの文章はなんとなく「うざったい」し、スマートに見えない。

一体なぜそう感じるのか。

 

その理由について、本多勝一氏は、「あまりにも紋切型の表現で充満しているからである」と言う。

 

「◯◯さん、当年◯◯才……」という書き出し。

「このおばさん、只者ではない」という、自分だけいい気になっているような表現。

「どうしてどうして」「そんじょそこらの」「足元にも及ばない」という手垢のついた表現。

「ことごとく」「踏破」「征服」といった大仰すぎる言葉。

 

これらはすべて、「安直な表現」だ。

誰かが使っていた表現を、考えもなしに、そのまま使っただけ。

 

だから、無神経に見える。

無神経な著者は、すくなくともスマートには見えない。

 

本多勝一氏は、次のように指摘している。

紋切型を平気で使う神経になってしまうと、そのことによる事実の誤りにも気付かなくなる。

たとえば「……とAさんは唇を嚙んだ」と書くとき、Aさんは本当にクチビルを歯でギュッとやっていただろうか。

私の取材経験では、真にくやしさをこらえ、あるいは怒りに燃えている人の表情は、決してそんなものではない。

 

なるほど実際にクチビルを嚙む人も稀にはあるだろう。

しかしたいていは、黙って、しずかに、自分の感情をあらわしようもなく耐えている。耐え方の具体的あらわれは、それこそ千差万別だろう。

となれば、Aさんの場合はどうなのかを、そのまま事実として描くほかはないのだ。

「吐きだすように言った」とか「顔をそむけた」「ガックリ肩を落とした」なども、この意味で事実として怪しいきまり文句だろう。

 

先日書いた「仕事は、キレたら負け。」という記事の冒頭に、ヤクザ映画「アウトレイジ」を紹介している。

この映画に出てくるヤクザはどれも皆、大変頭が悪そうに見えるのだが、その理由は登場人物の多くが、「紋切り型の表現」である「バカヤロー」「コノヤロー」「殺すぞ」を多用するからだ。

これは「紋切り型の表現だけを使って、頭が悪そうに見せる」ことを、制作側が明らかに狙ってやっている。

 

同様に、「ビジョンはなんですか」と聞く学生は、就活のマニュアルなどを見て、「ビジョンを聞くとよい」と思って質問をしているのかもしれない。

「ウチでなくてもよいのでは」と問う面接官は、「少しはウチのことを時間をかけて考えてほしい」と思っているのかもしれない。

 

だが「定型的に」「紋切り型に」「安直に」それをやれば、「頭が悪そうだな」と思われるだけだ。

 

紋切り型に言われると「頭が悪そうに見える」

紋切り型に言われると、深く考えている人から「あなた、ちゃんと考えて言ってる?」と思われてしまう。

だから、相手に届かない。

 

だから「紋切り型の表現」や「借りてきただけの表現」は、時として、揶揄の対象になる。

「会議でスマートに見せる100の方法」(早川書房)では、そうした「紋切り型の表現」を完全にネタ扱いしている。

 

「スケールする?」

 

「正しい選択肢を選ぶべきだ」

 

「イノベーションが楽しみです」

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以前にバズった元LIGの岩上さんの「あいさつ」も、秀逸な皮肉になっている。

「聞きかじっただけの表現を多用すると、頭が悪そうに見えますよ」と、岩上さんは表現したかったのだろう。

なお、コーポレートサイトを見て、社長の挨拶が「紋切り型の表現」ばかりだったら、その会社の知性を疑ってもよいと個人的には思う。

ブログで説教をたれて、文末に「自戒を込めて」などと書いてしまうのも、紋切り型なので辞めるべきだ。

 

かっこよさそうに見えても、紋切り型の表現は、使わない。

実際には、無理して自分を賢く見せようとする人ほど、「頭が悪そうに見える」のだ。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

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◯ブログが本になりました。

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最近、どうにもサーバーが重い。

ゲームがフリーズする。バグる。ラグい。

 

ステイホームの影響でゲーム人口が増えているからか、その頻度が増えているような気がする。

まぁ通常プレイできる範囲だし、たくさんの人が同じゲームを楽しんでいるのであればそれはそれでうれしいことだ。

……が、しかし。

レベルがまったくちがうプレイヤーが仲良く楽しく遊ぶというのは、案外むずかしい。

 

というわけで、やり込み勢のひとりであるわたしが、そうではないプレイヤーと楽しく遊ぶために心がけている3ヶ条を紹介したい。

ゲームにかぎらずどのジャンルでも起こりえる「にわか」と「通」の対立を避ける心得なので、ステイホームで趣味に没頭する時間が増えたいま、みなさんのお役に立てたらうれしい。

 

「にわか」と「通」はなかなか相入れない

ゲーム界では、「にわか」と似た言葉で、「ライト層」という言葉がある。

気が向いたときにそのゲームするだけでとくに詳しくないプレイヤーのことで、他のプレイヤーに迷惑をかけないために練習したり、強い武器を用意したり、他人の動画を見て勉強したりはしない。

そこまでして遊ぼうとは思わない。

だからこそ、「ライト(軽い)」層という。

 

一方やり込み勢は、毎日プレイするのはあたりまえ。

最新攻略情報に目を光らせ、タイムアタックや最高難易度設定での周回が日課、所持金やアイテム数、レベルをカンスト(=カウンターストップ、最大値になること)している人もいる。

まったくちがう遊び方をしているライト層とやり込み勢だが、ゲームによっては、オンライン上でマッチングしていっしょに遊ぶ場合がある。

 

そうすると生じるのが、ゲームに対する情熱や腕前の差による摩擦だ。

「対策してこない雑魚は消えろ」

「やばいプレイヤーがいたから晒すわ」

というやり込み勢に対し、「ガチすぎてうざい」とドン引きするライト層。そんなのもう、いやというほど見てきた。

 

そういった摩擦を避け、ライト層とも仲良くする「物分かりのいい先輩」でありたい。

というわけで、されて嫌だったことをもとに、わたしはこの3つに気をつけている。

 

新参者にとって「こうしないと認めてやらないぞ」が一番面倒くさい

新参者が一番うんざりするのはどんなときか?

それは、「俺に認めてもらいたきゃこの試験クリアしろよ」と勝手にハードルを設けられるときだ。

「その程度のレベルで」「それすら終わってないのに口出すな」というように、「一定基準を満たさないと相手にしてやらん」という人は案外多い。

 

意地悪のつもりはなくても、自分がやり込んでいるから、楽しさを知っているから、

「もっとやってはじめてわかることがあるから! とりあえずあと10回やってみて!」

「これをクリアできないとあとあと困るから練習したほうがいいよ!」

なんて言って、「俺試験に合格しろ」といわんばかりの態度を取ってしまうこともある。

 

ゲームの楽しみ方、楽しむペースは人それぞれで、私生活の都合だってある。

みんながみんな、同じ熱量でやっているわけではない。

 

そうはわかっていても、

「この作者を語りたいならこの順番にこのシリーズ読んでから!」とか、

「そのバンドが好き? ならまずは2年前のこのライブを見てからだね!」

とかって言っちゃうのだ。うっかり。

 

そういった何気ない一言が、新参者にとって「仲間入りするためのハードル」になり、「めんどくせー」となってしまうかもしれないのに。

というわけで、勝手なマイルールのハードルを設けず、「楽しくいっしょにゲームしよ!」と両腕を広げてウェルカム感全開にしている先輩でいたい。

 

親切を履き違えた「教授」はありがた迷惑

そして、これもまた多くの人(というかわたし)が悪気なしにやってしまうことなのだが、望まれていないのに正解を提示しないことも大事だ。

いやね、やっちゃうのよ、気づいたら。

 

「まずはこうして、次はこう。あ、それは無意味だから無視でいいよ」なんて言って、どんどんネタバレしちゃったり。

聞かれてもないのに、「このスキルはいらないよ。必殺技のときはこう逃げるといいよ」みたいに、勝手に知識を披露しちゃったり。

 

うっかりすると、

「あーでもそれってあんまり強くないんだよね(笑)」なんて言って、相手のモチベーションを下げてしまうことすらある。

 

だってクリアさせてあげたいから!

知らなくて失敗するのはかわいそうだから!

もっと強いものがあるって教えてあげたいから!

 

でもそれは、「よっしゃこの数学の問題を解くぞ!」と鉛筆を握った人に対して、「その問題はまずここを計算、そしたらこうなって、答えはこうだよ」と耳元でささやくような無粋な行為だ。

……とはわかっているし、自分がされたらイヤなんだけど、実際初心者といっしょになるとああだこうだと口を出したくなってしまう。

 

教えたくなってしまう。導いてあげたくなってしまう。

それはただの自己満足にすぎず、試行錯誤する楽しみを奪ってしまうだけだとわかっているのに……ッ!!

 

いくら親切心からだろうと、相手のためだろうと、聞かれたり相談されたりしないかぎり、正解を言ってはいけない。

親切を履き違えてはいけない。

 

「教えてくれてありがとう」と受け取ってくれる人もいる。

けど、そういう人はたいてい自分から「どうすればいい?」と聞いてくる。

 

そういう人にだけ教えるべきであって、そうでない人にああだこうだいうのはただの邪魔くさい指示にすぎない。

他人に迷惑をかけないためのマナーを伝えておくことは大切だし、安全に関わる情報は共有したほうがいいけれど、基本的には「試してみたらいいと思うよ!」と暖かい目で見守るべきなのだ。口出し厳禁!

 

「自分についてこい」で脱落する初心者がいると心得よ

「勝手にハードルを設けちゃいけない」「望まれてないのにゴチャゴチャ教えない」というふたつは結局のところ、「自分のやり方を強要すべきじゃない」という結論に至る。

「これくらいやらなきゃダメ」

「これはこうやらなきゃダメ」

こういうのは「自分のレベルや方法に合わせろ」という押し付けであり、「自分のほうが上だからそれについてこい」という自己満足だ。

 

ゲームなんて、自分に合ったレベルで、自分が楽しいと思う方法で遊べばいいのに。

それでもやり込んでいる側は、「もっとこっちへ来いよ」とばかりにグイグイ引っ張っていきがちだ。

同じ情熱を求め、同じだけのプレイ時間を期待し、同じようにハマることを望んでしまう。

 

「自分と同じ程度のことはやってあたりまえ」とクリアするまで練習することを要求したり、「自分についてこい」と本来なら行くべきでない不相応な難易度で連れ回したり。

でも本来、上級者が下級者に合わせるべきであって、逆を求めるべきじゃない。

上が下に合わせることはできるけど、下が上に合わせるのは容易ではないのだから。

 

いろんなレベルの人とオンラインで遊ぶのであれば、低いレベルの人に合わせること。自分勝手に自分と同じ熱量やプレイ時間を求めるのはご法度。

その自制ができないなら、うまい人とだけ遊ぶほうが、お互いのためだ。

 

趣味をみんなで楽しむため、新参者を歓迎する先輩でいたい

今回はわたしにとって身近なゲームの話として書いたけど、これはたぶん、どんなことにでも当てはまる。

 

登山に興味をもった人に、「まずはこの山を制覇するのが登竜門」と勝手にハードルを設けたり。

ギターをはじめた人に、「そのメーカーよりこっちがおすすめだよ」と自分の理想を押し付けたり。

いっしょに筋トレをするときに、相手に「これにも挑戦しよう!」と不相応なトレーニングを提案したり。

 

そう、だれしもがやってしまう。

先輩として、より知ってる側の人間として、悪気なく口を出してしまう。

でもそういうの、ほぼ確実に大きなお世話だから。

余計な一言だから。

ありがた迷惑だから。

 

失敗して、学んで、試して、そこではじめて自分の糧になる。

だから楽しいのだ。

先輩側は、「聞かれたら答える」。

それくらいがちょうどいい。

 

たとえ、「そのスキル絶対いらねぇよ……」と思っても。

たとえ、「なんでこのアイテム持ってこねぇんだよ……」と思っても。

たとえ、「そんなレベルじゃこれクリアできるわけねぇだろ……」と思っても。

 

それでも、「お前なんか仲間に入れてやらない、出直してこい」と言う先輩にはなりたくない。

新しく「こっちの世界」に来てくれた人たちの邪魔をせず歓迎する先輩でいたい。

 

日常生活のストレス発散こそ娯楽の真価なのに、そこでギスギスするのは本末転倒。

にわかも玄人も、それが好きならみんな仲間!

意図的に迷惑行為をする人は別だけど、その世界でくらいはみんなで仲良くやろうぜ!

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by 田 菁 on Unsplash

前回書いた依存症の話が契機というわけではないのだが、つい最近自分も節酒をはじめる事にした。

 

具体的にいうと、毎晩の家での晩酌を完全にやめた。

晩酌をやめた理由は端的にいえば酔っ払うのに飽きたからなのだが、その前から”お酒との程よい付き合い方”については色々画策してはいた。

 

が、結論からいうと、僕のような意思薄弱な人間には節度を保った家飲みは無理だった。

その理由は自制心のメルトダウンが原因だった。

 

アルコールは飲めば飲むほど自制心が溶ける

かつて作家の佐藤優さんが「自宅にはアルコール類は一切置かない。飲みたくなったら外で飲む」と書かれていた。

それを初めて読んだ時は「外で飲んだら高くつくじゃん。家飲み、安いのに」ぐらいにしか思わなかったのだが、最近、これは結構金言だったなと思うようになってきた。

 

ここ5年ほど、僕は毎日自宅でワインを嗜むのが趣味だった。

最初はワインの味がわかりたいという一心のみで初めたこの趣味だったのだけど、非常に難しい問題が一つだけあった。

どうしても飲みすぎてしまうのである。

 

自分は一日あたり250ml程度(1/3本)のワインなら特に後日特に問題なく生活が過ごせるのだが、この250mlに毎日飲酒量を抑えるというのが本当に難しい。

ついどうしても、もうちょっと飲みたくなってしまい、キッチリ規定量で酒を止めるのが無理なのだ。

 

アルコールが怖いのは、飲み始めるまではあったはずの鉄の意思が酔いが進むにつれて、どんどんメルトダウンしていく部分にある。

最初の一ヶ月ぐらいは250mlに守れていたはずの飲酒も、どんどんナァナァになっていき、そのうち〆にハードリカーを煽ったり、規定量の倍以上を連日飲み続けたりしてしまうようになる。

 

幸いにして自分は飲酒で大きな痛手をやらかした事はまだ一度もない。

だが、さすがに残りの人生における平日夜の時間が全てアルコールによる酔いだけで終わるのは勿体ないな、と思うようになり、今回の晩酌廃止に至ったわけである。

 

ありがたいことに、ワインの味はこの5年間で十分すぎるほどよくわかったし、ここから先、家一人飲みで得られるものもそう多くはなさそうだと自分なりに納得したこともあって、スパッと家での飲酒は辞めることにした。

自分なりに納得した上での家飲みをやめたという事もあるからなのか、幸いにして現時点で酒を激しく渇望するような感情はせり上がってはこない。

 

アルコールをやめて最初の二日間ぐらいはちょっとダルい気持ちが抜けなかったが、その後はそういうものも特に感じず、それまでアルコールに耽っていた時間が目の前にボーンと現れたので、それを読書や睡眠時間等にあてて、別のモノを摂取する時間を楽しめている。

 

いろいろ頑張ってはみたのだけど、根が不真面目な自分には節酒して酒を家で程よく楽しむのはちょっと無理だった。

散々酔いを経験し飽きたという事もあるのだろうが、お酒をほどほどに楽しむ為にも、これから先、家では断酒する他なさそうである。

 

飲酒に際して、ルールを設けた

とはいえ、酒を完全にやめたわけではない。

ある限定された条件下では、酒を飲んでもいいようにはした。

 

以前、借金玉さんの発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術という本を読み、ドラッグを始めとする依存症のある薬物を楽しむのに、セッティングという概念があるというのを知った。

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セッティングとは簡単にいうと、薬物を使う前に使用時に取り巻く環境的状況を一定に整える技術である。

ある状況では薬物を使ってもいいが、それが整っていない状況では薬物を使わない。

薬物愛好家はこうすることで、日常生活が薬物に飲み込まれないような防波堤を作るのだという。

 

と、いうわけで自分も遅まきながらセッティングを設けることとした。

酔いを楽しむ事やアルコールの味自体を楽しむ事に飽きた今の自分にとっては、アルコールの効用は2つしか無い。

 

それは

①食事をより美味しくする。

②人との会話をより楽しくする。

この2つだけである。

 

この2つの目的に合致しない飲酒はしない。

そういうルールを自分の中に設け、酒以外の人生の残り時間をちょっと多めに作るようにする。

これが自分にとってのアルコールとの適切な距離感なのだと思う。

 

事ある毎に思い出す、夢の島の話

自分は幸いにして、人生をぶっ壊す前にアルコール依存の沼から抜けだすための第一歩を踏み出せたと思う。

もちろん、これからいろいろと右往左往するとは思うのだが、まあ何事も初めの第一歩を踏み出すのが肝心である。

 

出典は忘れてしまったのだが、僕がなにか事ある毎に思い出す夢の島のエピソードがある。

 

ある時、船が夢の島にたどり着いた。

ここで乗員は4つの行動パターンを示した。

 

1.怖くて夢の島に全く上陸しなかった人達

せっかく夢の島にたどり着けたのに、全く楽しんでいない。

いったい何のために航海をしたのだろうか……この人達はリスクがとれず、チャンスを全く活かせない人といえよう。

 

2.夢の島にちょっとだけ上陸して、すぐに船に帰ってきた人達

いちおう、夢の島を楽しんだは楽しんだが、その真髄を体験できたわけではない。

この人達は少しのリスクはとれるが、そこから先は踏み込めないちょっとビビりな人である。

 

3.夢の島の奥深くまで立ち入って、船が島を離れるギリギリになってやっとこさ帰ってこれた人達

この人達は夢の島のいいとこ取りができたかもしれないが、一歩間違ってたら元の世界には帰ってこれなかった人である。

 

4.夢の島に心を奪われて船に帰ってこなかった人達

彼らはリスクを取れる勇敢な人達だったかもしれないが、リスクをとりすぎて島に飲み込まれてしまった人でもある。

 

「上陸しない戦略」も悪くない

世の中はとても楽しい。

それこそ様々な夢の島に溢れている。

そして、夢中になって楽しんでいる時は忘れてしまうのだが、私達は誰もが帰らねばならない定点を持っている。

 

若い頃、僕は夢の島の寓話を聞いて

「3の寸前戦略が1番コスパいい。そうあり続けたいものだ」

と思っていた。

が、最近は1の上陸しない戦略も悪くないなと思うようになってきた。

 

人生は長い。

最初にたどり着いた夢の島が最初で最後というわけではないし、ショボイ夢の島に中途半端にコミットするよりも、次にやってくるビッグウェーブに乗る方が全然いいかもしれない。

チャンスを掴めなかったからといって焦る必要はないし、人が掴んだチャンスを羨んだり妬んだりする必要はない。

 

「お酒を飲まないだなんて、人生の3割は損している」

こういう類の事を言う人もいるかもしれない。

それはある意味では正しいのかもしれない。

が、それなら別の島に上陸すればいいだけの話ではないだろうか?

 

人生は残念ながら短い。

全てを手に入れるのは不可能だろう。

だから自分にとって、いちばん大切なものは何か。

それをきっちり認識し、過度に色々なものを欲しがらないのが大切なのだと思う。

 

そして本当に欲しい物を手に入れたら、他人がなんと言おうがスタコラサッサと勝ち逃げをキメる。

そんな感じで人生を上手に走り抜けたいものである。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

Photo by Jake Bradley on Unsplash

町内会のおばあちゃんの話をします。

 

しんざきは町内会というものに所属しています。

以前マンションの理事長に持ち回りで就任した時、セットで町内会にも所属することになりまして、それ以降なにやかやでちょくちょく顔を出すようになりました。

 

町内会の青年団というものに「青年」など一人も所属しておらず、40歳のおっさんである私がほぼ最年少だ、ということにショックを受けたりもしていました。

この年になって「十数人のグループで最若手」になる機会があるとか、思ってませんでしたよ正直。

 

この町内会に、いつも電動自転車で町内を軽快に走り回っている、一人の名物おばあちゃんがいます。

もう御年は80歳を何年か過ぎていらっしゃると思うんですが、一時期体調を崩しつつもおおむねお元気で、物凄く新しい知識に貪欲で、ITスキルについても全く抵抗感というものがなく、町内会で数々の業務改善を成し遂げてきた凄いおばあちゃんでして。

 

・町内会用にフリーのメーリングリストを作成して、町内会の連絡がメールで来るようになった

・町内会の写真を共有できるようinstagramにアカウントを作成して、お祭りやらイベントの写真がアップされるようになった

・会合の資料が事前にGoogleDocで共有されるようになった(パソコンを持ってない人にはちゃんと紙で届く)

・町内会のブログがワードプレスで作成されてメンバーに限定公開されるようになった

 

この辺全部このおばあちゃんの仕業です。

「何歳になっても新しいことを学び始めることは出来る」ということについて、この人以上に明確に体現している人を私は他に知りません。

ちなみにこの人Switchでゲームも遊んでいて、この前までスマブラやってたんですが最近はあつ森にハマっているらしいです。

色んな虫や魚を集めるのが楽しいんだとか。推しはちゃちゃまるだそうです。

 

このおばあちゃんについては以前自分のブログでも書きました。

手前みそで恐縮なんですが、気が向いたら読んでみてください。

町内会のまとめ役おばあちゃんのITスキル進化っぷりがなんかものすごい で。

 

うちの町内会の活動って結構活発で、その分仕事やタスクも多いんですよ。

町内会っていってもただの互助会ってわけではなく、区からそれなりの額の補助金も出ていますし、そのお金で設備を整えたり、業者さんを通して人を雇ったりなんてこともあります。

それに伴って、色々な運用ノウハウやナレッジも存在します。

 

しかし、それらがちゃんとマニュアル化・標準化されているかっていうと、もちろん全くといっていい程されていないんですよね。

暗黙のノウハウ、口伝でしか伝わっていない運用手順、ある人しか知らない馴染みの業者さん。

そういった属人化された知識が山盛りなわけです。

 

特に多いのが「イベント運営のノウハウ」。

もちつき大会とか、盆踊りとか、秋祭りとかああいうヤツですよね。

 

いつも、どの業者さんと連絡をとって、どういう機材を借りて、どんな手順で何を準備すればいいのか。

予算はどの程度が相場で、スケジュール割はどんな感じで、人はどこにどれくらい配置すればいいか。

そういうものが、一部を除いてはほぼ「特定の誰か」の頭の中にしか存在せず、ろくに文書化されていないわけです。

 

そういうノウハウを抱え込んでいる人って、大抵ノウハウの開示に非協力的なんですよね。

まあタマゴニワトリの話でして、開示に非協力的な人がいるからこそ暗黙のノウハウが出来ちゃうんですけど。

組織内でのプレゼンスを確保したいのか、仕事を手放したくないのか、単に面倒くさいのか。

そういう人がいてノウハウの標準化が滞るっていうのは、どんな組織でも同じなんだなあ、と私も思ってたんです。

 

で、先述のおばあちゃん、ここではMさんとしますが、Mさんもそういう「暗黙のノウハウ」については普段から問題意識を持っていた人でして。

私ともちょくちょくそれについて話してたんですが、「皆にやり方を知らせもしないでボケでもしたら、その後イベント開けなくなっちゃうじゃない!」とおっしゃっているのが、高齢化著しいメンバーの年齢的にも割と切実でした。

 

***

 

そうこうしている内に新型コロナ騒ぎが起きまして、町内会の直接的な会合がなくなりました。

ここでもMさんは非常に動きが早くって、私がZOOMを紹介して、町内会の一部の会議はZOOMで行われたりしていたんですが、それはそうと。

 

ある時びっくりしたんですが、GoogleDocにどんどん、以前から暗黙のノウハウになっていた、色んなイベントの開催ノウハウやら、補助金についての色んな連絡先やら、町内会の一部の運用ノウハウやらが文書化され始めたんですよ。

これ多分Mさんの仕事だろうなーと思って、ある時Mさんに聞いてみたらやっぱりそうで。

ちょうど、書類の電子化の話で業者を紹介した時についでに聞いたんですけど、

 

「コロナ騒ぎに乗じて、今まで仕事抱え込んでた人たちから一気に色々聞きだしてるの」っていうんですよ。

それについて、一度私実際に横で聞いたんですけど、Mさんの話の進め方が凄かった。

大筋こんな感じでした。

 

・まず、「コロナが怖くって集まれないし、なかなか仕事が進められない。特に高齢者はコロナ危ないらしいしこわいですよねー」という世間話で認識と危機感を共有する

・「〇〇(イベント名やタスク名)といえば××さん(相手の名前)だと思うんだけど」という形で相手を持ち上げる

・「けど、このままコロナ騒ぎが続いたら、〇〇が開催できなくなっちゃうかも知れない。折角××さんがここまで育ててくれたイベントなのに、何年も途切れちゃうかも知れない」と、これまた巧みに相手を持ち上げつつ危機感を持たせる

・「××さんが出てこれなくっても、例えば若い人たちでも〇〇が出来るように、××さんに知恵を貸して欲しい」ということで、相手からヒアリングをする理由付けをする

 

つまり、相手の「コロナ怖い」という感覚と、そのタスク/イベントに対する相手のプライドを巧みに利用しつつ、今後の継続の為、という体裁でノウハウを相手から引き出しているんですね。

 

Mさんに後から聞いてみると、「みんな「〇〇といえば××さん!」って言われたいのよー。

けど今までは町内会に出てくればそういう風にちやほやされてたけど、今はコロナが怖くて町内会自体出てこれないでしょ?だから今後の為にお知恵を貸してください、って言えば、みんな割と教えてくれるのよー」と。

 

で、あとは箇条書きにでも、必要な点だけまとめて共有ドキュメント化してしまう。

体裁なんて後から整えればいい、ってことで、Mさんが持ってるノウハウについては既にちゃんとドキュメント化されているので、多分後そのレベルに仕上げるつもりなんだろうと思ったんですけど。

 

私これ、割と端的に「すげえ」と思いまして。

 

まず、「相手のプライドを決して否定しないで、かつ相手の側から積極的にノウハウを開示する方向にさり気なく誘導する」という手管が物凄いなーと。

Mさん、とにかく絶対相手を否定しないんですよね。

「抱え込んでいた」じゃなくて「イベントを育てて来た」っていう前提から絶対ぶれない。

相手の今までの功績を常に強調する。

 

かつ、「聞いた端から共有知にしてしまう」という、そのスピード感も凄い。

ここでMさんがきちんとしたドキュメントにするまで手元で抱えてしまう、なんてことになったら本末転倒で、単に暗黙知を理解しているのが二人になっただけ、ってことになっちゃうんですけど、Mさんは体裁なんて全く気にせず、町内会のメンバー全員から見えるところに聞き出した内容を掲示してしまうんですよ。

もちろん、ノウハウを伝えた本人からもそれは見えるので、何か認識の相違があったらすぐに指摘出来るし、他の人の指摘でブラッシュアップも出来る。

 

もちろん、「新型コロナという重大な社会的危機を、逆に奇貨にしてしまう」というそのタイミングに対する鋭敏な感覚も指摘しておかなくてはいけないところです。

ピンチはチャンスとはよくいったもので、こういう時だからこそ出来ることをやる、というそのスタンスには感服する他ありません。

ITに対するスタンスという話だけではなく、思考が柔軟な人は、暗黙知をヒアリングして業務改善をすることについても柔軟なやり方が出来るんだなあ、と、大いに感心した次第なんです。

 

ちょっと話が変わるんですが、昔出版社でバイトをしていた時、編集さんから「作家さんに編集側の要望を伝える時のポイント」として、「決して作品を否定するのではなく、「読者としての自分の要望」という形で伝える」という話をお聞きしたことがあるんですよね。

これ自体は決して珍しいテクニックというわけではなく、その後も何度か同じような話を聞いたことはあるんですが、つまり「相手が一番受け入れやすいポイントを探して、そこから自分の要望を通す」。そういうテクニック。

 

作家さんに限らず創作をする人って基本孤独なもので、常に自分の作品に対する評価を求めているわけです。

好評にせよ悪評にせよ、読者からの感想というものが作者さんに非常に大きな影響を及ぼしてしまうのはその為です。

だから、「ビジネスパートナーとしての立場より、読者としての立場からの声の方が相手に届きやすい」と。

まあこれも作家さんにもよるんでしょうけど。

 

なんにせよ、「要望を通す時は、まず相手にとって「どんな言い方が一番聞き入れやすいのか」を考える」というのが非常に大事だ、と。

Mさんのやり方と、むかーし聞いた編集者さんのやり方から、私はそんなことを再認識した、という話だったわけです。

 

***

 

Mさんに倣ってというわけでもないんですが、私の今の職場でも、コロナに伴う自宅勤務体制に乗じて、今まで属人化したまま放ってあった色んなタスクの標準化を進めています。

Mさん程上手く出来ているかは分かりませんが、「相手が一番受け入れやすいポイントを考える」そして「スピード感をもってそれを共有化する」という点については、大いに参考にさせて頂きつつ、引き続きばんばん職場作業の風通しを良くしていこう、と考えている次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

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何年も前になりますが、やりたい領域が固まりつつあった頃でしょうか。

「〇〇をやりたいんですけど、どこからやればいいですかね?」

みたいなたわいも無い話をしていた時に、いつもお世話になってる先輩から言われたことについてお話します。

 

 

昔から、イベントは参加するよりも運営側にいったほうが勉強になると言われます。

実際、学生時代に私はいろんなイベントを企画することで、運営ノウハウにとどまらず、スピーカーとの人間関係、イベント関係者の関係まで得られることは実感として持っていました。

 

だから、その先輩と話していた時にも「イベントは参加よりも運営ですよねー」と話を合わせていました。

 

すると、先輩からは、

「でも、そういうイベント企画とかにとどまった話ではないんだよねー」と。

 

ん、すると?知識をアウトプットし続けることで専門家としてのタグをつけろ、みたいなあれか、と思い、

「社会人になってからは、自分の業界の世話人になる的な活動もやってますよ。」と返しました。

 

自らの専門性を外に発信して機会を得る行為は、自分も普段から意識をして取り組んでいることの一つでもあります。

会社員であっても、業界の活性化や横のつながりを意識した情報交換は重要です。

すると、先輩から再び「いや、違う、それは自分が知ってる、あるいは詳しいと思う分野でやるやつよね。」と言われました。

 

 

「今の自分でやれる事に絞って言っているんだとしたら、ちょっと違うんだよね。知っている世界で存在感出すのはまぁ否定はしないけど、むしろ、知らないことで、すっと簡単に手をあげるというのが重要ってことね」と言うのです。

 

 

「いい例かわからんけども」と彼は前置きし、経済ジャーナリストとして知られる荻原博子氏の話をはじめました。

 

彼女は実態も含めていうと、おそらく「経済」ではなく、元々は「家計収支改善」が専門でした。

しかし、家計のご意見番から、どこかのタイミングで「経済ジャーナリスト」とやらに格上げ?されたというのです。

 

「彼女がすごかったのは、多分最初はそんなでもなかったが、テレビに出続けたことだよ」と、先輩は言いました。

 

先輩は別の人も紹介してくれました。

「自分の田舎に詳しい、いろんなつながりを持っている友人がいるんだけれども、彼はもともとその地元の事が詳しいのか?と聞いてみたら、実は違ったんだよね。」と。

 

実態としては、その田舎についてのイベントを立ち上げているうちに、情報通の知人が増えたり、本当の専門家とも近くなって、「地元の発信者」という見られ方をするようになったそうです。

今じゃ、その地域の相談するのに、彼がいなきゃ始まらないほどになってる。

 

 

今も、専門家に情報が集まるのは間違いないでしょう。

けど、「小賢い人」は、先が見えていないと始められない、取り組めない。「専門家」になるまで発信をためらっていては遅すぎるのです。

むしろ「手を挙げてみる」ことで情報が集まってくる。

 

彼は、学生時代に、キャバクラなどにお花や出身地域の特産品を届けるビジネスをやっていたそうです。

別にそういう世界が好きだったわけではないが、自分でビジネスがやりたかったと。

 

そこで、目の前にいるお客さんにサービスを届け、売り上げを上げていった。

どんなマーケティング調査よりもリアルな商売を一つ一つこなしていった。

さらに、自分でモノを売るだけではなく、他人の販売を支援するようになり、ビジネスは拡大していったといいます。

 

今では社長になり、多忙な中のランチタイムに金融機関のトップと会食をしながら、マクロ経済の話を聞くようになっているとのこと。

 

 

今は知っていなくてもいい。

だけれども、こうなりたいという方向に向けて、一つ手をあげてみる。

そうすると、こういうのは知っているか?と勝手に情報が集まってくる。

 

自分で能動的に情報を取りに行くというのは好きだったり、興味があることでなければ非常につらい、高い意識を必要とするような行動です。

でも、そういうタグをつけて手をあげた途端、困っている人が相談しに行くでしょう。

 

最初は話を聞くしかできないかもしれません。

でも、その後に努力して、そこに適切な人を紹介する、あるいは自社サービスや提供できるリソースがあれば提供していけば、重要な情報が勝手に集まってきます。

重要なのは、そこに課題がある、あるいは機会があるということを公言することです。

 

つまり、正しい順番は、

・詳しくなる ⇨ 価値を提供できると判断して旗をあげる、ではなく、

・まず旗をあげる ⇨ 詳しくなる過程を楽しみながら、巻き込んでいく。

 

大事なのは、「最後どうなるか」は分かっていなくていいということです。

 

時間をかけて知見を増やしても、相手の期待値は常に動きますので、結局は「さらなる学習」が必要だからです。

 

皆さんも覚えがあるのではないでしょうか。

私にはたくさんあります。

 

なので、まず手を挙げてみる、そして学習し続ける、

これが良いのではないでしょうか。

 

もちろん「続けられるか」は不安です。

ですので、趣味or好きという言葉を使うのがいい。

それを公言してしまう。

これを趣味でやってます、これが好きです、といってしまえば、そこまでハードルを感じる事なくやれるはずです。

 

自然と勝手にこれ知ってますか?あれ良いですよね?と情報が集まってくる。

SNSやニュースサイトで気に入ったサイトに登録し、その後自動的に情報がはいってくるようになる、まさにあれを目指すような感覚です。

 

「何かを達成したいと思ったら、「勉強」にとどまらず、まずは「やります」と手を挙げてみて、それをあげ続けて行きましょう。」というお話でした。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:ひろすぎ

30代、都内勤務の兼業投資家。

どうやったら普通の人がお金に困らない暮らしをできるかを模索し、自ら実験する日々。株、不動産をはじめ、いくつかの事業を展開。趣味はお散歩とお酒、旅行です。

Twitter:https://twitter.com/hirosugi00

 

(Photo by Tim Mossholder on Unsplash

世界中で「コスト圧縮」の流れ

コロナウイルス禍で経済活動がストップし、イベントの主催者が、世界中で「コスト圧縮」をしている。

まず「オリンピック」そして「F1」

延期の東京五輪・パラ 大会サービス厳しく見直しコスト削減へ(NHK)

F1、さらなるコスト削減のために予算上限の低減やPU開発制限を検討か(motorsport.com)

「シルク・ド・ソレイユ」は一時解雇(レイオフ)に踏み切り、話題となった。

シルク・ドゥ・ソレイユ、スタッフ95%を一時解雇 新型コロナで打撃(AFP通信)

もちろん、企業活動も同様だ。

「航空会社」「アパレル」「金融」「製造」いずれの業種にもコスト圧縮の動きがある。

ルフトハンザ、40機超を削減 コロナで需要低迷長期化(日本経済新聞)

アパレルブランドの悪循環の始まり? GAP、夏物と秋物の注文をキャンセル(Business insider)

アメックス、費用30億ドル削減目指す-新型コロナでカード利用額急減(Bloomberg)

日産1万人レイオフ コロナ禍でゴーン路線が重荷に(日本経済新聞)

もちろん、生き延びるための、必死のコスト削減もあるだろう。

関係者各位の努力には頭が下がる。

 

ただ、これらをすべて、ネガティブに捉える必要はない。

実際、こうした時期は景気が良い時に「高コスト状態」となってしまった企業体質を改めるのに、とても良い機会であることも多い。

 

例えばこの機会に「オフィスの解約」などを進めている企業を見かけるが、他にも「交際費」「会議費」「旅費交通費」「販促費」といった、社員への影響が小さい、減らしやすい部分への介入は

「なんとなく緩んでいた財布の紐」

をしっかり締め直す良いきっかけとなる。

 

「乾いた雑巾を絞るように」はトヨタのコスト意識の凄まじさを表す言葉だが、トヨタに至ってはこの時期においても、黒字を確保している。

【決算ウォッチ】「さすが」トヨタの決算発表だが...... コロナショックからの回生シナリオは思惑どおりに進むのか?

販売台数の減少により、営業利益が1兆5000億円減少すると予想しているが、記者会見で豊田社長は「リーマン時と比べて販売台数の減少は激しいが、企業体質を強化したことで黒字を確保できる」と述べている。

 

だがこのような時期にはもっと思い切ってやる事ができる。

例えば、費用の本丸である「人件費」だ。

 

だが、将来への投資である製品開発部門を止めたくはない。また、新しく仕事を取るための営業部門も同様だ。

要するに、「直接、収益に関わる部門」のコストにはできるだけ手を付けたくない。

不況時であっても、未来の仕事のために手を止めるわけには行かないからだ。

 

とすれば。

コスト圧縮の対象として、最後に残るのは「間接部門」。

つまり総務・経理・人事などのコストとなる。

 

この状況は「間接部門のコスト圧縮」を進める、またとないチャンス

「普段から間接部門のコストは抑制しているよ」という会社もある。

だが実は「間接部門」のコストに、本当に思い切って手を付けている会社は少ない。なぜか。

 

最も大きな理由は「リスク管理」の観点だろう。

間接部門には利益を生み出さないとはいえ、法律上の対応が絶対であり、ミスが許されない業務が数多く存在している。

また、経営の意思決定に重要なデータを作る部門であり、安易に削減すると長期的に痛い目にあう。

 

特にお金を扱う経理部門は安易なコスト削減が、不正や申告漏れなどに通じる部分もあり「リスクがあるから手を付けたくない」と、経営者が尻込みする領域でもある。

 

だから通常「間接部門のコスト圧縮に取り組みたい」との意識はあっても、本格的に手を付けることはむしろ少ない。

せいぜい「正社員をできる限り少なくする」くらいだろう。

 

ところがこの「コロナウイルス禍」下ではそんな悠長なことを言ってはいられない。

金融機関からカネを借りるにも、株主にも「コストを絞りましたよ」という何かしらの行動が必要だ。

つまり抜本的な見直しが必要とされている。

 

ただし、「ピンチはチャンス」でもある。

つまり裏を返せば、コロナウイルス禍は、今まで手を付けにくかった「間接部門のコスト圧縮」を積極的にすすめる、またとないチャンスだ。

 

リモート化、オンライン化で経理コストは半分に

これらの「経理部門のコスト圧縮」ニーズに対して、サービスを提供している企業の一つが、以前にも紹介した

「リモートワーク」

「アウトソーシング」

をキーワードとしたサービスを幅広く提供している、株式会社キャスターだ。

参考:

数百名の社員のリモートワークは、結果のみを評価する「社員に優しい仕組み」に支えられていた。

不況は採用のチャンスだが「勘」ではなく「データ」に基づく採用活動が着々と進んでいる。

この状況下において「経理業務のアウトソーシング」についても、利用企業が急増している。

 

経理アウトソーシングサービスを手掛ける

キャスタービズアカウンティング」の宮川さんは、「多くの会社が、経理にかけるコストを大きく削減できる」とする。

 

そこで、「どの程度コストを減らせるか」との目安を聞いた。

宮川さんによれば、

・50名から100名規模、2〜3部門あるような会社

の場合、経理部門の構成は、概ね

・経理の責任者1名

・正社員1名

・派遣社員を2〜3名

程度の構成が多いという。これは、派遣社員のコストだけで月に約70〜80万円かかる計算だ。

 

この状態から、抜本的に経理業務の

「リモート化」「オンライン化」

を進めれば、派遣社員をゼロにしたうえで「アウトソース費用」も含め、ランニングコストを月に25万円〜45万円程度に抑制することができる。

これは、年間トータルで500万円程度のコスト抑制になる計算だ。

 

リモート化、オンライン化は「属人化」「採用難」への対処も可能

また、リモート化・オンライン化は、「コスト圧縮」というメリットだけにとどまらない。

「経理の属人化」と「高スキル人材の採用難」への対処も可能だ。

 

例えば、ある観光・宿泊業の会社は、

・経理知識の深いメンバーが部長1人のみ

・知識がないメンバーはマニュアル通りの作業を行うが、例外事項も多く、ミスや漏れが多発

という状態に悩んでいた。

ここには、大きな課題が2つある。

 

一つは、部長しか経理の内容を知らないという大きなリスク。内部統制上の懸念だ。

そしてもう一つは、経理の実務経験を持つ人を採用しにくいというリスクだ。

 

そのためキャスター社は「業務の整理」を行うことを提案した。

具体的には以下のようなリモート化、オンライン化による、業務の標準化だ。

 

・クラウド会計・給与計算システムの利用

・販売管理システムの利用

・請求書発行システムの利用

・支払請求書受取の電子化

・経費精算システムの利用

・小口現金の廃止(経費精算へ統合)

 

最終的には、上述した観光・宿泊業の会社は

部長+正社員+派遣社員

の3人体制から、

部長+正社員+キャスター

という体制に移行し、経理のランニングコストを、月額にして50万円ほど削減するだけでなく、退職リスク、内部統制上の懸念を払拭した。

 

「経理社員のキャリア」もアウトソース化で改善される

ただ、このような話をすると「経理部門の社員の雇用はどうなる」という懸念を抱く方もいるだろう。

経理社員の雇用を守るのも、企業の役割ではないか、という話だ。

 

 

ただ、雇用云々の前に、現実的には「経理の正社員」は、クラウド会計ソフトの発達に伴い、ますます少ない人数で十分で回すことができるようになった。

そもそも、今後必要となる人員は、減りこそすれ、増えることはない。

そして、さらなる事実として「特定の1社で、ずっと経理として働く」というキャリアは、本人にとっても、かなりリスクのある選択だ。

 

ルーティンワークがどんどん減り、経理の仕事は高度になるばかりの状況で「うちの会社に特化したスキル」しかつかないのでは、どんどんスキルが陳腐化してしまう。

もしその会社が倒産したら?

もしその会社が合併・吸収されたら?

もし業績悪化で会社を縮小せざるを得なくなったら?

陳腐化したスキルしか持たない「経理部員」に、もはや行く場所はない。

 

そうなると、高度な経理スキルを持つ人物は、「経理業務のアウトソースを受ける」ほうが、遥かに合理的な選択ではないか、という仮説を私は持っている。

 

アウトソースを受ける側であれば、様々な会社の経理に携わることが出来る。

そして、様々な会社の経理業務の改善に携わり、業務設計を行い、最新のツールに精通する。

それは「汎用的なスキル」であり、貴重な人材となれる。

 

実際、キャスターアカウンティングのサービスを行っているメンバーは、全員、経理出身だという。

そう言う意味で「経理のアウトソース」は、出す側も受ける側もメリットがあるのではないか、と考えている。

 

 

キャスタービズアカウンティングに話を聞いてみる

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

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◯ブログが本になりました。

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