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年功序列が衰退し、年下の上司を持つことが特に珍しくない時代になった。

マンパワーグループの調査*1によれば、直近3年以内に転職した35歳から55歳の正社員の約7割に「年下の上司」がいるという。

 

その「年下上司」について、よく言われることの一つが、「一緒に働きづらい」だ。

 

調査によってばらつきがあるが、上のマンパワーグループの調査では、約3割の人が、「年下と働きづらいと感じた」とされている。また、エン・ジャパンの調査では、約6割の人が「年下と働きづらい」*2と言っている。

 

正直なところ、これが「年下だから」働きづらいのか、それとも、こんな価値観の人は「相手が誰だろうと、働きづらさを感じる」のか、原因を切り分けるのは難しい。

 

ただ、エン・ジャパンの調査におけるコメントを見ると、一定数の人が「年上ならまだ我慢できるが、年下で自分より高い地位の人と働くのは嫌」と考えているのだと読み取れる。

『若い分経験が浅いのではと不安になった』

『年下に命令されると、言い方にもよるけど良い気分がしない』

 

年長者は偉い、という発想

これらの発言は「年長者は、若者より経験豊富(で賢い)、ゆえに偉い」という発想を、一部の年長者が依然として持っていることを示す。

 

例えば、少し前に「タメ口で話しかけてくるおっさんにタメ口で返すと、おっさんがフリーズする」というまとめ記事がバズっていた。

「偉そうな年長者」という現象が、各地で見受けられるのだろう。

確かに、私は小学校で特に理由もなく「目上の人を敬おう」と習った記憶がある。

また、映画・小説・漫画などのコンテンツ中で賢者とされる人は「年配」の設定が多いと感じる。

 

「年長者は偉い」という発想は、その延長線上にあるのだろう。

 

年配が尊敬される時代は終わった

しかし近年、年配者の増加と共に「年食ったやつは偉いどころか、むしろ害となる人も多いのでは」という発想をよく見かける。

いわゆる「老害」というやつだ。

 

当メディアへの寄稿者の一人である、熊代さんは過去の記事で「老人が尊敬される時代は終わった」と述べた。

希少にして代え難いvalueを持った存在としての老人は失われてしまい、今ではvalueを見出されず、お荷物扱いされがちな老人が巷に溢れかえっている。それは何故か。

 

【要因1】平均寿命が延びまくった

【要因2】老人固有の知識が役立たずになってしまっている

【要因3】知識や学習の普及

【要因4】時代の流れが早くなりすぎている

【要因5】能力が低下しても老人が生き残りやすくなっている

 

老人のvalueは地に堕ちた。この事態をあなたは笑っていられますか?

己の能力の低下を持て余しながら、厄介者扱いされがちな余生を過ごすというのはどんな気持ちだろうか。メンタルヘルスという視点からも、尊厳や人生観の視点からも、“歳をとればとるほど無価値になる一方”というコンセンサスの蔓延は大きな問題を孕んでいると思われる

全く同じ文脈で「年配が尊敬される時代は終わった」と表現したらおかしいだろうか。

多分、おかしくはないだろう。

 

新しい状況が次々と発生する現場では、昔ほど「かつての経験」が有効に機能しなくなった。

むしろ「過去の成功体験」を捨てきれないことが、新しいスキル獲得の障害となることも多い。

 

実力で尊敬を勝ち取るか、年下にかわいがってもらえるか。

ということは、年配になり「空気扱い」ではなく、組織でそれなりの居場所を得るには、選択肢が2つある。

 

一つは、年配者もスキルを更新し「実力」をつけることによって、尊敬を勝ち取ること。

そして、もう一つは年下に「かわいがってもらえる」ように振る舞うこと。

逆に、実力もないのに偉そうにふるまえば「老害」認定は確実だ。

 

まず「実力」の選択肢は、熊代さんのいう「value」という話であるから、わかりやすい。

根本的には、尊敬を生み出すのは、valueしかない。

 

しかし、valueを出し続けるのは、マッチョな道でもある。

「仕事が大好き!」という人以外には、つらいだろう。

 

であれば、2つ目の道。

「昔、自分が上司にかわいがってもらったように、年下にかわいがってもらう」しかない。

言い換えれば「新人のようなマインド」を保つことだ。

 

謙虚さのない年配の人は、もう居場所がない。

とは言っても「新人と全く同じ」にはいかない。

年下の上司も、年配者と新人を同列に見ることはないだろうし、また、年配者としてのプライドもあるだろう。

ではどうするか。

 

過去を思い返すと「面倒を見たくなる年上」という存在が確かにいた。

 

具体的には、控えめなのに、黙ってリーダーの弱点を補佐してくれる年配者。

意欲があるけど素直で、他の人にポジティブな影響を与える年配者。

新しいことをすすんで勉強し、共有してくれる年配者などだ。

 

こういう年配者であれば、新人と同じように、現在のvalueが今一つでも、上司は一緒にやっていこうという気持ちになるし、鬱陶しくもない。むしろ助かる。

 

結局のところ、実力に関わらず「素直さ」、「学ぼうとする意欲」、「ちょっとしたチームへの貢献」というのは、年齢関係なく、歓迎されるといえる。

要は年配になっても「謙虚さ」を保てるかどうか、という話に帰着する。

 

だが「そんなの無理」という年配者もいるだろう。

 

だが、こう考えてみてほしい。謙虚にふるまえるかどうかは「死活問題」だと。

シニアになってからのQOLに直結する話なのだと。

 

スタンフォード大学心理学教授のキャロル・S・ドゥエックは著書*3の中で「人間関係は、育む努力をしないかぎり、ダメになる一方で、けっして良くなりはしない。」と述べているが、全くその通り。

 

実力も謙虚さもない人間の居場所など、組織のどこにもないのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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*1 年下上司との関係は複雑!?約3割が「やりにくい」と回答 ミドル人材が働きやすい職場に必要なこととは?

*2 ミドルの6割が年下上司の元で働いた経験あり。実際に働いた感想は…??―『ミドルの転職』ユーザーアンケート集計結果―

*3

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ジョブ型雇用が広がり、「会社」という共同体が崩壊しつつある今、世代を超えて個人が学び、成長を続けるためには――。

キャリア教育研究家で、人事院人材局企画課課長補佐の橋本賢⼆氏に、グロービス経営大学院教員の金子浩明が聞いた。

 

ベテラン社員の変わるきっかけ

金子:外部刺激を成長につなげ、行動を起こすには「自分ならできる」という自信、自己効力感が必要だという話を伺いました。自己効力感が高い人ほど行動に踏み出しやすいので、良いフィードバックをすることも大事だという話もしました。

 

ですが、特にベテラン社員になるとフィードバックしづらいのではないでしょうか。一通りスキルが身につくと周りもつい注意しなくなりますし。日本の場合、年数が経つと企業内特殊技能というか、波風立てず会社で生き延びる術を身につけるので、どうしても外部から「このままではまずい」という感じの刺激を得にくくなる。ある種、効率がいいとも言えますが。

 

橋本:まさに日本型雇用の組織が抱える致命的な問題ですね。社内でアンラーニングできないから今、越境学習(異なる環境で働き、新たな視点を得る学習方法)や副業が盛り上がっているともみています

自分と異なる環境、バックグラウンドを持つ人々のフィードバックは、言葉も違えば見る角度も違いますから。異質なフィードバックに触れることで自分が客観視できるようになるし、客観視するからこそ自分の立ち位置も見えてきます。

自己分析の心理学モデル、「ジョハリの窓」は自分の性質について次の4つの窓を挙げています。「① 自分も他人も知っている(開放の窓)② 自分は気付いていないが他人は知っている(盲点の窓)③ 他人は知らないが自分は知っている(秘密の窓)④ 自分も他人も知らない(未開の窓)」。

 

変わるきっかけとしては①「開放の窓」を広げるとよいです。他人のフィードバックがあれば、気づいていなかった自分の一面に気づけるし、コンプレックスやトラウマも乗り越えられるかもしれません。コミュニティが広がればそれだけ自己認識も広がりますね。

金子:越境学習は必ずしも向こうからやってこない。自ら意識して越境学習しなければなりませんね。

グロービス経営大学院の受講者たちを見ていると、みんな利害関係がないせいか自由に発言し合い、互いに気づきを得ているようです。異業種の人々が集まる学校に行くのも1つの越境学習ですね。

 

橋本:もちろん、必ずしも全員が越境しなければならないわけではありません。自分の仕事の意義を捉えなおし、やりがいをもって主体的に変えていくジョブ・クラフティングという方法もあります。

自分が変わると認知が変わり、世界が変わるのでいつもの仕事にも学びが溢れてきます。つまり、仕事を捉え直すことで「内⾯に越境」を⽣み出せるわけです。

 

とにかく踏み出す方向を定め、動いてみることです。自分の中の漠然とした不安を見つめることから始めてもいいです。克服したかったら何かしらの行動が不可欠です。

 

金子:逆にいうと仕事が順調で、悩みがないときこそ危ないんでしょうね。「最近、アンラーニングしてないな」などと主体的に自分を振り返る必要がありそうです。

 

橋本:やる必要性がなければ、学びに向かうきっかけがつかめません。

日本は国内に1億人のマーケットがあるので、国内でもビジネスを維持できます。それで、危機感に火がつきにくいのかもしれません。成長している企業は、外部環境の変化に対する危機感が強い。GAFAMを見ていても危機感を身内に取り込むのが上手です。

 

金子:そうした企業では事業の組み替えや撤退が頻繁に行われています。意図しているかどうか分かりませんが、結果的に経営者がうまく危機感をつくり出すから、社員がアンラーニングせざるをえなくなるのでしょう。

 

ジョブ型雇用のなかで、どう働くか

金子:近年、ジョブ型雇用※が大企業でも導入されています。多くは日本型雇用とのハイブリッド型ではありますが、個人側も不安があるのではないでしょうか。ジョブ型雇用になると、キャリア構築や社会人基礎力も変わるのだろうか、とか。

ジョブ型雇用:必要な職務を定義し、それに見合う人を採用すること。これまで日本では「メンバーシップ型」という人に職務を合わせる雇用システムが中心だった。

 

橋本:完全なジョブ雇用の世界では、個人が自分のキャリアに全責任を負うので、どこに勝負を張るか考えなきゃいけないですよね。例えば、(プログラミング言語の)COBOL1本で受注をこなしているプログラマーがいるとします。「あと10年はいけそうだ」と踏むか、「DXが進めば2、3年でダメになる」と危機感を持つか。自己責任で判断しなければなりません。

メンバーシップ型とのハイブリッドなジョブ型であれば、ジョブローテーションの中で自分の得意領域を見つけて、どこで主体的に行動するかを見極めることが勝負どころになるでしょう。

 

金子:自分が最も貢献できる領域を、ある程度目的意識を持って絞っていくことが大事ですね。キャリアを重ねながらOSをアップデートし続け、そこにのせるアプリ(スキル)もどんどん増やしていく。脈絡なく増やすのではなく、軸を持ったうえで増やす必要がありそうです。

 

橋本:どういうアプリを持つかについては、大きなキャリア戦略の中で考えるべきでしょう。

ただ何が武器になるかはわからない部分もある。深刻に考えてもわからないので、気楽に構えることも必要でしょう。

 

高まる人材の流動性、企業はどうする?

金子:人材流動化に対し、企業はどう向きあえばいいのでしょう。橋本さんが所属している官公庁ではいかがですか。

 

橋本:デジタル庁が今まさにプロトタイプ的な取り組みをやっています。3分の1ぐらいの職員は民間出身者。官公庁と民間企業との間で人材が流動的に行き来する「リボルビングドア(回転扉)」を実験的に実践しているわけですね。

 

ただ問題もあります。民間企業もいえることですが、メンバーシップ型の働き方が残る世界では、いわゆる組織内特殊技能がないと回しにくい仕事もあります。

公務員の世界でいうと、例えば国会対応とか根回しなどですね。外から来た人がすぐできるかといったら、多分苦しいです。

 

だからといって全員がプロパーで外部人材はいらない、というわけではありません。機能を分ければいいと考えています。

変化の激しい分野については流動性があったほうが変化を取り込みやすいですし。ただ、外部人材に来てもらっても、働き方や業務フロー、意思決定のあり方を変えないと、力を発揮してもらうことは難しいです。

 

金子:なるほど、根本的な仕組みの見直しも必要ということですね。いずれにしても、日本型雇用でありがちだった押し付け仕事からは自己効力感が生まれにくい。ジョブ型とまでいかなくても、主体的に選んだ仕事に打ち込めるような職場環境が必要では。

 

橋本:重要なのは本人の納得感です。企業側は「あなたに期待してアサインしてるんですよ。応じますか、どうですか」ときちんと聞く必要があります。

 

金子:ハイブリッド型でも、内部社員については“天の声”で異動させる企業が多いですが、そのプロセスは今後、重要になってきますね。

 

“世の中”の空気を読む人が時代を生き抜く

金子:近年、社会に埋め込まれたつながり(信頼関係で結ばれた絆)、ネットワークが薄れています。

アメリカでも、地域に根差したコミュニティ、「タウン」が機能しなくなってきている。コミュニティの核だった教会に通う人も減っていると聞きます。日本も同じで、終身雇用・年功序列が生きていた頃、会社はまさに共同体でしたが、今は崩壊しつつあります。

 

ハーバード大学のロバート・パットナム教授は、コミュニティの絆が崩れた現代においては、個々人が持つ「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」※が重要になると述べています。

※ソーシャル・キャピタル:「個人間のつながり、すなわち社会的ネットワーク、およびそこから生じる互酬性と信頼性の規範」(Putnam, 2000)。

 

空気を読める人、コミュニケーション力に長けている人は、ソーシャル・キャピタルを蓄積しやすいです。

以前はみんな同じムラや血縁の共同体に包摂されていたから、空気を読めなくてもそれなりに生きていけました。というより、共同体内部の人間はそれを意識すらしていなかった。

それを気にするのはよそ者だけです。でも今は場の空気を臨機応変に読んで多様なつながりを作らないと生きていけませんし、新しいチームワークも生まれません。その意味で社会人基礎力はこれからますます不可欠になりそうですね。

 

橋本:おっしゃるとおりですね。さらにいえば、これからの時代、大切なのは「多様で幅広い知見や経験を自分の中で持つこと」だと思います。

早稲田大学大学院の入山章栄教授が「イントラパーソナル・ダイバーシティ」の重要性を広めています。組織が多様性を拡大するのと同様に、個人も自分の中にダイバーシティを持っていなければ視野も狭くなります。限定されたコミュニティの中にいると刺激も少ないです。

 

多様なつながりを持っていれば、それだけ自分の可能性も広がります。つながりを生かしたキャリアアップやキャリアチェンジもできます。

ロンドンビジネススクールのリンダ・グラットン教授は、これからは学びを繰り返しながら新しい仕事に挑戦していく「マルチステージ」の時代と唱えています。社会人基礎力を鍛え、働く場所、ポジションを変えていくことを前提に、自分のキャリアを見据えていきたいですね。

 

(執筆:橋本 賢二、金子 浩明)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by :Denys Nevozhai

文才。

私が欲しいと思うもの。

されど決して届かぬもの。

 

00年代の前半、テキストサイトと呼ばれる文章をウリにするウェブサイトが繁茂していた頃、私はさまざまなテキストサイトのウェブマスターの文章を読んでまわり、自分には文才が決定的に欠けていると感じていた。

 

優れたテキストサイトの文章にはきらめきや輝きがあった。しようもない出来事やなにげない日常、そういったものでさえ、執筆者というフィルタにかけられると面白くなったり美しくなったりする、そういうサイトを尊敬半分、やっかみ半分の気持ちで私は眺めていた。

それから20年以上が経ち、こうして私はまだ文章に張り付き続けているわけだけど、文才が身に付いたとは感じられない。

 

後で書くように、まあ……ある程度は上手くなった。

それでも、あの時のテキストサイトの人気者たちのような面白さ、美しさを再現するには遠い。「何をもって文才と呼ぶのか」という定義問題はあるにせよ、二十余年の歳月をもってしても身に付けられなかったものは確かにある。

 

私の文章は、昔も今も鉛の水道管みたいに重たくてふにゃっとしている。そう思う。

羽毛のような軽やかさや金管楽器のような光沢は、私の文章には望むべくもない。もうほとんどコンプレックスだ。

 

ところが、今、ここでこうして書いているのはおれなのだ

そのかわり、テキストサイトの人気者の大半に欠けていて、私にはあった才能がある。

それは継続する力だ。文才が無くても、それでもなお書き続ける力だ。

 

具体名を出すのは控えるが、あの頃、憧れていたあの書き手も、この書き手もいなくなってしまった。

ごく一握りの書き手が作家となって活躍しているほかは、皆、書くこと・アウトプットすることをやめてしまった。

 

みようによっては、彼/彼女らは「書くことを卒業できた」、といえるかもしれない。

でもって、私は「いまだ書くことを卒業できていない」とも。だがこれも考え方次第ではある。

彼/彼女らは私より優れた才能がありながら、書き続けることができなかった。書き続けるための環境なり状況なりモチベーションなりを維持できなかった、とも言えるかもしれない。

 

「継続は力なり」、と人は言う。

 

確かに継続は力だ。

20年も書き続ければ、私の鉛管のような文章も少しはマシになる。短所を削り、長所を伸ばし、大小の機会を拾い集め、自分なりに書きたいことを追究できるようにもなる。

 

しかし振り返ってみれば、その継続は誰にでもできるものではなかった。

どんなに才能やセンスに恵まれても、飽き性で、一年や二年ぐらいでそれを投げてしまえば、才能やセンスの閃きは火花で終わってしまう。

才能やセンスに恵まれた人のなかには、いろんなことに手を出し、どれも結構上手にできて、どれも長く続かないタイプの人がいる。あっちでもこっちでも火花を閃かせ、美しくもあるのだけど、火種や溶鉱炉には決してなれない人物。

 

それもまた才能、という見方もできようし、流行に乗って火花を散らすこと自体に価値のあるライフスタイルもある。

だが繰り返すが、それでは火種や溶鉱炉にはなれない。

そういう人は、ブログが流行ればブログで火花を散らし、SNSが流行ればSNSで火花を散らし、動画配信が流行れば動画配信で火花を散らし、どこでも冷たくなっていく。

 

また、書き続けるモチベーションが維持できない・書き続ける環境が確保できない、そういった理由で退場していく人もたくさんいる。

そういう意味では、書き続けられる周辺環境を整えることも、継続という名の才能の重要な一部だと言える。

書くためのデバイスや機器を取り揃えておくこと、一緒に書いているという手ごたえを感じさせてくれる友達やライバルができることだってそうだ。

文才の乏しさを継続によって補うためには、その継続をやさしくするための諸能力・諸才能が必要になる。

 

この点において、自分でいうのもなんだが、私には才能があった。テキストサイト時代もブログ時代も現在も、書き続ける周辺環境を整える力が遺憾なく発揮されている。

いつも書き続ける周辺環境をモニターし、自分が書き続けられる環境が守られるよう、絶えず周辺環境に注意を払っている。

そうして獲得した継続力を使って、自分より才能やセンスのあった人々ができなかった・手が届かなかったことを、今もここで続けている。

 

やってやったぜ、と私は思う。

自分よりも才能やセンスのあった先人たちが到達しなかった/できなかった地平に、彼らとは違うタイプの才能──継続力──をもって到達したのだ。

 

こういうことを書くと「そりゃあ、おまえが精神科医という属性を持っているからだろう?」とツッコミを入れる人もいるかもしれない。

ええ、精神科医という属性を持っていますがなにか。持っているものはなんでも使って、少しでも有利に、少しでも継続力を高めなければならない。

それらも全部ひっくるめての継続力だと、自分は理解している。

 

人気や実利がなくても続けられる、これまた才能

他方、私とは違ったかたちで継続の才能を発揮している人達もいる。

巷の流行や実利とは無関係に、ひっそりと、だが堅牢に自分の趣味や関心領域のウェブサイトを続けている人々だ。

オフラインの趣味人にも、恐ろしいまでの継続力を持ち、とんでもない量の知識や経験を蓄えている人がいる。

 

たとえば人気のないウェブサイト、人気のない動画アカウントを10年20年とやっている人は、圧倒的な継続力がある。そうとしか言いようがないではないか。

おそらくそういう人は他者の承認や流行、実利とは無関係に趣味や関心領域と向き合っていて、よっぽどそれが好きか、自分で作った創作物で自分自身を満足させるモチベーションのエコシステムが完成しているか、どちらにせよ本当は簡単ではないことをやってのけている。

 

アウトサイダーアートの作り手とされたヘンリー・ダーガーという人なども、誰に自分の絵をみせるでもなく、ずっと不思議な絵を描き続けてきたわけだけど、あれも、流行や実利から隔絶した状態で継続できたから自分の世界が豊かになった。

ダーガーほど極端でないにせよ、ひっそりと着実にプロダクツを残し続ける人、何かを追いかけ続ける人には継続力があると感じずにいられない。

そして自分の才能や着想を、継続の長さによって延々と精錬し続け、自分だけの世界を豊かにし続けている。

 

でもって、そうした人々も、趣味や関心領域に没頭するための周辺環境を整えている点では変わらない。

くだんのダーガーだってそうだ。他人に邪魔されずに没頭できる時間と空間、最低限の経済的与件、そういったものを曲がりなりにクリアしていなければダーガーの作品群は生まれなかっただろう。

息の長い趣味人、ひっそりとしたウェブサイトのウェブマスターも同じである。継続という名の才能のかなりの部分は、自分がそれを続けるための周辺環境を獲得する力に依っている。

 

そこから逆算すると、継続力という才能は、何かを継続するための与件を獲得したり整備したりする能力にかかっている、とみることもできる。

その能力の具体的な内容は、人によっては頼りになる支援者を見つけることだったり、自分自身がパトロンになりながらやっていくことだったり、隙間時間の作業効率を極大化することだったり、さまざまだろう。

 

そうした周辺環境を整える力のある人なら、それらを強みとして継続力を発揮して、純然たるセンスや才能と互角以上の戦いができるかもしれない。

そういう意味では、たとえばセルフマネジメントの卓越や種々の整理術、コミュニケーションの調整能力なども継続力の一部をなしていて、見ようによってはリベラルアーツの一種ともいえるかもしれない。

 

軍事上の戦いがしばしば補給能力で決まるのと同じように、何かを創作すること・何かを追究することもまた、しばしば継続力で決まる。

鋭利な才能やセンスの持ち主を、鈍い継続力の持ち主が追い付き、追い越すことはぜんぜん珍しくない。「

うさぎとかめ」でいえば、私ははっきりと亀タイプなので、世の亀タイプの皆さんに、こう呼びかけたい。

「おれらの継続力で、あのうさぎたちを、やっつけてやろうぜ」と。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Marcus Dietachmair

はじめに

スクイーズアウトとは少数株主を強制的に排除する手法のことです。

企業の株の一部を親族や従業員が持っており、 M&Aによる事業承継にこれらの株主が反対している場合などにスクイーズアウトが検討されます。

 

M&Aでは、多くの場合、買手は対象企業の株を100%取得することを望みます。

この場合、通常は売手が全株主の同意を得て株を事前取得や同時譲渡の形で売却しますが、既存株主が譲渡に同意しない場合にはスクイーズアウトによってM&Aを進めることがあります。

 

今回の記事では、アンダーソン・毛利・友常法律事務所パートナー弁護士の生島隆男さんにスクイーズアウトの概要や手続きの流れ、スクイーズアウトを行う上での注意点について教えていただきます。

 

1.スクイーズアウトについて

そもそも、スクイーズアウトとはどのような手法なのか、まずはスクイーズアウトの概要についてご紹介します。

 

(1)手続きによって、少数株主を排除する手法

スクイーズアウトは株保有者の同意を得ず、強制的に株を取得する方法です。

事業承継では会社を売却するために株を集めます。M&Aでは、多くの場合、買手は買収後の企業経営を見越して株式の100%取得を望みます。

 

しかし会社の売却に反対する少数の株主や、そもそも株の所有者の行方が不明な場合もあり、簡単に100%の株を用意できるわけではありません。

 

売手側の100%株式取得は事業承継における大きな悩みの一つです。

創業者の場合、自分で全株を保有していることも多く、親族や従業員に分配していたとしても「自分が作った会社だから」という理由で株を取りまとめることは比較的容易です。

 

しかし2代目や3代目になるにつれ、兄弟や叔父・叔母、創業時からの社員など多くの関係者が相続や譲渡で株を保有するようになります。

こうなると、事業の売却に反対する人も出てくるため、なかなか株の取得が進まないことがあります。また、そもそも株主の所在が分からなくなっている場合もあります。

 

このような場合に相当の対価を支払って、強制的に反対者や所有者不明の株を取得するのがスクイーズアウトです。

 

例えば、オーナーが80%の株を保有し、残り20%の株を親族や創業時からの社員ら4名が保有している場合、会社法に基づく一定の手続きを踏むことで強制的に取得できます。

スクイーズアウトを行うと株を100%取得できるので、オーナーがM&Aを進めることが容易になります。スクイーズアウトにより株を保有する権利は金銭債権に転換するので、反対者は株の所有権を失う代わりに金銭を受け取る権利を得ることになります。これによってオーナーは事前に株式を全部取得してM&Aを進められます。

 

また、株の保有者が行方不明になっている場合も同様の扱いとなり、行方不明者から金銭債権と引き換えに株を取得し、これを売主に譲渡することが可能です。

現実的に、行方不明になっている人が金銭債権を行使することはありませんが、権利としては行方不明者が持ち続けます。

 

事業承継で実際にスクイーズアウトを行うと相手方と遺恨が生じる場合が多いので、できればスクイーズアウトを用いずに進めるに越したことはありません。

その意味で、どうしても反対者や株の保有者が不明の場合に限って用いるべき最後の手段といえます。

 

(2)スクイーズアウトが用いられる場面とは

一般的にスクイーズアウトがよく用いられるのは、上場企業に対するマネジメント・バイアウト(MBO=経営陣による買収)や上場子会社の完全子会社化などの場面です。

先に株式公開買付け(TOB)によって株式の3分の2以上を取得し、スクイーズアウトで他の株主を排除することで株式を100%取得するケースが多く見られます。

 

上場企業の場合、スクイーズアウトを用いて非公開化を行うメリットは大きく3点あると言われています。

 

●長期的な視野での経営

上場企業の使命は株主への利益還元です。従って株主の短期的な利益を求める声を無視できません。しかしスクイーズアウトによって非公開化することで、これらの株主の声に捉われない、長期的なビジョンを持った経営を行うことができます。

 

●意思決定の迅速化

企業が重要な意思決定を行う場合には、株主総会を開催しなければなりません。しかし、上場企業の場合、多数の株主が存在することから、これらの数千・数万に及ぶ株主に通知を送り、総会によって意思決定を行うには膨大な時間を要することになります。しかし、株を100%保有することで株主総会の手続きを簡略化でき、意思決定を迅速に行うことができるようになるので、企業としての柔軟性が大きく高まります。

 

●上場によって発生する管理コストの削減

スクイーズアウトを行うと上場廃止となるため、上場によって発生する手数料や株主管理に関する通知や配当などに伴うコストを削減することが可能です。

 

これに対し、事業承継の場合は基本的にオーナー経営なので意思決定のスピードが速いことが多く、これらのメリットはあまり当てはまりません。

むしろ、株主との関係が近いため、スクイーズアウトの実行により既存株主とのトラブルを招く可能性も高く、手続きにかかる負担も大きいため、スクイーズアウトは慎重にならざるを得ず、買手が100%取得を希望するものの、既存株主の一部が売却に反対している場合の最終手段として用いられることがほとんどです。

 

2.スクイーズアウトを行うための4つの手法

スクイーズアウトには主に4つの手法があります。この章では、スクイーズアウトの手法についてご紹介します。

 

(1)2014年以前は「全部取得条項付種類株式」を用いる方法が主流

2014年の会社法改正までは「全部取得条項付種類株式」を用いる方法が主流でした。

こちらは本来、経営が悪化し、債務超過状態の会社を任意整理するための方法として設けられた制度です。会社を任意整理するために全ての株主を排除する100%減資を可能にすることを目的としていましたが、これがスクイーズアウトの手法として利用できるため、実務上多くのスクイーズアウトでこの手法が用いられていました。

 

しかし、手続きが複雑かつ技巧的で分かりにくいため、法整備によって他の手法が確立された現在では、あまり利用されなくなっています。

 

(2)2014年会社法改正で新設された「株式等売渡請求制度」

「株式等売渡請求制度」は2014年の会社法改正によって新たに設けられた制度です。

90%以上の議決権を単独所有している「特別支配株主」の場合、残りの株を買い取ることを対象企業に提案し、対象企業の取締役会の決議を経れば、残存する10%未満の株主から強制的に株を取得することができます。

 

他の手法に比べて短期間で100%の株式を取得でき、株主総会決議も不要で取締役会で決議すれば足りるなど、手続き上の負担も少ないことから、既に9割以上の株を保有している場合のスクイーズアウトの代表的な手法として用いられるようになりました。

 

(3)2014年会社法改正で制度が整備された「株式併合」

「株式併合」は以前からスクイーズアウトの手法として理論上は考えられていましたが、2014年会社法改正までは、少数株主を保護する制度上の手当てが不十分で、実務上の利用は難しいとして、あまり活用されてきませんでした。

 

しかし、2014年の会社法改正で反対株主の株式買取請求制度や情報開示、差止請求などの少数株主を保護する制度が整備されたため、株式併合もスクイーズアウトの手法として利用可能となりました。

 

(4)2017年税制改正により「現金対価株式交換」もスクイーズアウトの選択肢に

「現金対価株式交換」という手法は以前からスクイーズアウトの手法として存在していました。

しかし現金対価の吸収合併や株式交換は税制上では「非適格再編」と判断され、課税関係の繰り延べができないとされていたため、実際に現金対価の株式交換によってスクイーズアウトを行う事例は多くありませんでした。

 

しかし2017年の税制(法人税法)改正によって組織再編税制の大幅な改変が行われ、現金対価株式交換が「適格組織再編」として認められて時価評価が不要となり、課税関係の繰り延べが認められることとなりました。

この税制改正により、現金対価株式交換がスクイーズアウトの手法として再び注目されるようになりました。

 

(5)実務上の進め方

このように、スクイーズアウトを行うために主に4つの手法がありますが、実務上は「株式等売渡請求」か「株式併合」を選択する場合が大半です。

これは対象企業が上場企業であっても非上場企業であっても同様です。

この2つの手法のどちらを選択するかは株(議決権)の保有割合によって変わります。

 

事業承継の場合、売手であるオーナーは親族や従業員などの他の株保有者と交渉して事前に株を集めますが、そこで集まった株の議決権が3分の2(67%)以上、90%未満なら「株式併合」、90%以上なら「株式等売渡請求」を選択するのが主流となっています。

 

いずれにしても、実際にスクイーズアウトを進めていくためには必ず3分の2以上の議決権の取得が必要です。

3分の2以上の議決権が取得できれば、その具体的な保有割合によって手法を検討していくとよいでしょう。

 

3.株式取得に用いられる3つの株価算定アプローチ

実際に株を集めるにあたり、まず買取価格を算定します。この章では株式を買い取る際に行われる株価の算定方法をご紹介します。

 

(1)インカム・アプローチ

「インカム・アプローチ」は、M&Aの対象となる企業が将来的に獲得することが期待できるキャッシュフローや利益を、割引率(資本コスト)で現在価値に割り引くことにより株価を算定する手法です。

 

インカム・アプローチは期待キャッシュフローや期待収益に基づいて価値評価を行うので、企業独自の価値を株価に反映できます。企業価値の算定手法として最も理論的な方法とされているので、上場企業・非上場企業を問わず幅広く採用されている方法です。

 

一方、将来の期待キャッシュフローや期待収益には不確実性が伴うこと、インカム・アプローチに用いる割引率などの各種指数の見積り計算が容易でなく、わずかな変動により算定結果が大きく変動するなど、問題点もあります。

 

<インカム・アプローチの算定手法>

DCF法…企業が生み出す期待キャッシュフローを一定の割引率で割り引いて評価額を算定する

配当還元法…株主が受領する配当金額を資本還元率で割って評価額を算定する

収益還元法…事業計画書に基づき将来的な収益予想額を算出し、資本還元率を割り引いて評価額を算定する

 

(2)マーケット・アプローチ

「マーケット・アプローチ」は上場企業の場合は市場株価を基準として、非上場企業の場合は、同業他社の市場株価や類似取引事例などを基準として株価を算定する方法です。算定根拠に客観性があるため、M&A初期には株価を算定する手法としてよく用いられます。

しかし、企業独自の強みが反映されないこと、景気に左右されやすいことや「いつの株価を用いるか」という恣意(しい)性が残ることから、株価算定における主流であるとは言い難い状況です。

 

<マーケット・アプローチの算定手法>

市場株価法…終値の1〜3カ月平均を評価額として算定する(非上場企業は市場株価がないので採用不可)

類似会社比較法…同業種で企業規模・売上が似ている上場企業と比較して評価額を算定する

 

(3)ネットアセット・アプローチ

「ネットアセット・アプローチ」は、ある時点の貸借対照表を使用して株価を算定する手法です。

簡単に言ってしまうと「今、会社を清算したらいくら残るか」を算出することで株価を算定する手法ともいえます。

 

ネットアセット・アプローチは将来的な要素は反映されず、現在価値のみで株価を算出します。

ですからM&Aなど期待値を見込んで株価を算定する方が望ましい場合には向いていない手法といえます。

 

<ネットアセット・アプローチの算定手法>

簿価純資産法…貸借対照表に計上されている簿価の純資産額をベースに評価額を算定する

修正簿価純資産法…資産・負債の時価を求めて純資産額を算定し、それをベースに評価額を算定する

 

(4)実務上の取扱い

実際にどの手法で株価を算定するかは企業規模や企業の特徴などによって異なります。

上場企業の場合、市場株価法、DCF法、類似会社比較法を採用するのが一般的です。

これらの手法は市場価格を考慮しながら個別の企業価値を算出するため、特に株価が公開されている上場企業においては、客観性や妥当性のある株価算定がされると考えられているからです。

 

非上場企業の場合、主流となる手法が特に決まっているわけではありません。

DCF法、類似会社比較法、簿価純資産法などを組み合わせて採用することが比較的多いように思われます。

また、国税庁の財産評価基本通達に基づく相続税評価額を基準とする場合もあります。

 

ただし簿価純資産法などのネットアセット・アプローチを用いることには賛否両論があります。

簿価は会社本来の価値を正確に表しているわけではありません。

特に不動産を多く抱えている会社は、含み損などによって価値が毀損(きそん)している場合があります。

 

基本的にネットアセット・アプローチは、将来の収益力を直接または間接的に反映するインカム・アプローチやマーケット・アプローチと算定方法が異なるので、M&Aなどのように将来的価値に着目して株価を算定する場合にはあまり適していないとされています。

 

また企業によってPER(株価収益率)やPBR(株価純資産倍率)が違うので、企業独自の価値を算出する場合には、インカム・アプローチ、マーケット・アプローチ、ネットアセット・アプローチそれぞれの手法で株価を算出し、それぞれの結果を見比べながら、最適な価格を算定するのがよいでしょう。

 

株価は後にご紹介する訴訟リスクを避けるためにも公正なものであることが求められます。

株価算定のための第三者機関も存在していることから、株価の算定は第三者機関や税理士、公認会計士などの専門家に算定してもらうことをおすすめします。

 

4.スクイーズアウトの手続きの流れ

スクイーズアウトはどのようなフローで進めていくのでしょうか。この章ではスクイーズアウトの流れをご紹介します。

 

(1)「株式等売渡請求」によってスクイーズアウトを進める場合(議決権保有割合90%以上の場合)

「株式等売渡請求」によってスクイーズアウトを行う場合には、以下の流れで進めることになります。

1.対象企業の議決権を90%以上取得し、「特別支配株主」となる

2.特別支配株主から対象企業に対して「株式等売渡請求」を通知

3.対象企業の取締役会での決議

4.対象企業から株主に対して通知・公告

5.対象企業による事前の情報開示

6.取得日付で株式を取得し、100%の株保有

7.対象企業による事後の情報開示

 

ポイントとなるのが取締役会での決議です。

役員で反対者が多い場合、取締役会で否決されると株の取得が不可能になります。同族経営で、株は持っていないもののM&Aに反対の意見が多い場合には、取締役会が高いハードルとなる可能性があります。

取締役会でスムーズに決議されるように、取締役とは事前に十分な調整を行っておきましょう。

 

(2)「株式併合」によってスクイーズアウトを進める場合(議決権保有割合67%〜90%未満の場合)

「株式併合」によってスクイーズアウトを行う場合には、以下の流れで進行することになります。

1.対象企業の議決権を3分の2(67%)以上取得

2.対象企業による事前の情報開示

3.株主総会招集の取締役会決議

4.対象企業から株主に対して通知・公告

5.株主総会の開催

6.株式併合の効力発生により100%の株保有

7.対象企業による事後の情報開示

8.裁判所の許可

9.端数株式の売却・金銭の交付

 

株式併合のポイントは情報開示や株主総会決議など、一つ一つの手順を確実に進めていくことです。

特に、株主総会では反対する株主も出席しますので、取締役としての説明義務を果たすべく、手続きや取得価格の算定根拠についてきちんと説明する必要があります。また、最終的に裁判所から「端数株式の売却許可」を得る必要があります。

 

5.スクイーズアウト実施上の注意点

スクイーズアウトを行う上で、どのような点に注意する必要があるのでしょうか。この章では必要な注意点をご紹介します。

 

(1)スケジュールに余裕を持つ

1点目の注意点はスケジュールに余裕を持っておくことです。株価算定を行う場合には、第三者算定機関の決定と、株価を算定する期間が必要です。

また開示書面の作成、取締役会や株主総会の開催など、様々な手続きを行う期間も必要となるので、スクイーズアウトのスケジュールには余裕を持っておきましょう。

 

比較的簡易な手続きである株式等売渡請求を利用する場合でも、100%の株取得までに最低20日を要します。

 

株式併合を利用する場合には取得までに1カ月~1カ月半ほどかかり、株式併合の効力発生後に裁判所の許可が必要となるため、最終的に少数株主に対価を交付して手続きを完了するまでに2カ月ほどの期間を要します。

 

M&Aを行うために迅速にスクイーズアウトを進めたいと考えている場合でも、スケジュールに余裕を持っておき、買手にも前もって事情を説明しておくようにしましょう。

 

(2)多額の資金が必要

スクイーズアウトを行うには、大前提として事前に議決権の3分の2以上を取得する必要があり、その後残存する全ての株主から株式を取得する際にも相当の対価を支払う必要があります。

 

スクイーズアウトの過程では、個別に株価を調整して買い取ることができないため、株価にもよりますが、基本的には多額の資金が必要です。スクイーズアウトを実行に移す前に万全な資金調達計画を立てておきましょう。

 

(3)訴えられるリスクも

会社法では、スクイーズアウトにおいて少数株主の利益が害されないように、少数株主を保護するための様々な制度が用意されています。

例えば、「差止請求」「反対株主の株式買取請求」「価格決定の申立て」「株主総会決議取消しの訴え」「役員の善管注意義務違反を理由とする解任や損害賠償請求」などです。

 

そもそも、スクイーズアウトが株の売却に反対する株主からの強制的な株取得の手法であることから、これらの訴訟リスクを避けるためにも、十分な対策をしておくことが大切です。

 

6.まとめ

スクイーズアウトは、M&Aにより事業承継を進める場合に、株の売却に反対する株主に対する最終手段です。

強制的に株を取得できる「伝家の宝刀」というべき有用な手法ではありますが、トラブルや訴訟を招く恐れがあります。

このため、スクイーズアウトを実行に移す場合には、事前の準備とリスクを踏まえた対応策の検討をしっかり行う必要があります。

 

また、スクイーズアウトを実施する場合、裁判所や第三者から見て妥当と判断される株価設定を行っておかないと訴訟になった場合に敗訴する可能性が高くなります。株価の決定は慎重に行うべきでしょう。

 

さらに、株価の算定やスクイーズアウトの実施には一定の時間がかかるので、買手とは事前協議をしておくといいでしょう。株を取得したものの買手とトラブルが発生し、M&Aそのものが失敗しないように注意してください。

 

このように、スクイーズアウトのメリット・デメリットをしっかり押さえ、実施するにあたっては各種プロセスで慎重な検討と誠実な対応を心がけて進めることをおすすめします。

 

(話者:アンダーソン・毛利・友常法律事務所 パートナー弁護士 生島 隆男(しょうじま たかお)

※本記事は、「株式会社リクルート 事業承継総合センター」からの転載です。

 

 

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■著書プロフィール

株式会社リクルート 事業承継総合センター

㈱リクルートが運営する「M&A仲介会社・買手企業の比較サービス」です。

弊社品質基準を見たす仲介会社50社、買手企業17,000社以上の中から、売手企業様に最適なパートナーを、着手金無、業界最低水準の成果報酬でご紹介します。

事業承継及びM&Aに関するコンテンツを中心にお届けします。

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この記事で書きたいことは、大筋以下のようなことです。

 

・観光で日光に行ったら想像以上に素晴らしかった

・あと特急スペーシアの個室も大変良かった

・正直、ろくに行ったこともないのに「コテコテの観光地」を舐めている側面が自分の中にあったことに気付いて、自分の見識の狭さを思い知った

・「コテコテ」を軽く見る、忌避するという向きは色んな分野で存在するような気がする

・「コテコテ」にはコテコテになるだけの理由があるのであって、そこを認識していないと損をするかも知れない

 

よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

先日、ちょっと時間が空いた上、子どもたちが合宿やら実家にお泊りやらで家を離れる為、恐らく十数年ぶりに妻と二人で一泊旅行に行くことになりました。

とはいえ、予定が空くことが確定したのもほんの数日前でして、ゆっくり計画をする時間も、宿探しをする余裕すらない弾丸旅行です。

 

温泉に浸かりたかったので、旅行が趣味のしんざき兄に「関東近辺でいい温泉知らない?」と尋ねたところ、「草津か万座か奥日光」という言葉が返ってきました。

 

その上で、旅行ルートを考えるのが大好きな乗り鉄長男に「この三つのどれかで、お勧めの旅行ルートない?」と聞いてみたら、細かい移動タイムスケジュールと共に「東武の特急スペーシアの個室を予約する」という提案をしてくれました。

なんでも、スペーシアには個室があって、人数で割れば新幹線のグリーン車に乗るより安い価格で利用出来るそうなのです。

「たまの二人旅なんだからちょっとくらい贅沢したら?」と長男は熱弁してくれました。

 

正直なところ、私は電車を「移動手段」としてしか認識していない方でして、そこそこのお昼ご飯が一食食べられてしまう個室料金には若干躊躇したのですが、折角なので兄と長男、二人のお勧めに従って日光を旅行先に決定したわけです。

 

結論から言うとこのチョイスは正解も正解、兄と長男のお蔭で二人旅を120%満喫することが出来ました。

 

スペーシアきぬがわの個室は実にゆったりとしていて、周囲を気にせずのんびりと飲み物やおつまみを口にしながら、プライベート空間を満喫出来ました。

周囲に人がいない分、新幹線のグリーン車以上のくつろぎ空間でした。

ほのかに漂う昭和レトロな感じもまったり旅にベストマッチ。

正直、「あー、電車で移動ってこんなにわくわくするものだったなー」と思い出して、これまた自分の固定観念を思い知るいい機会になりました。

 

日光についてからはレンタカーを借りて行動したんですが、あまねく関東の小中学生が修学旅行で訪れるという日光東照宮にも産まれて初めて訪れまして、当日は8月と思えない涼しさで霧までかかっていたのですが、

この霧が実に素晴らしい雰囲気で、東照宮の絢爛な装飾が荘厳な雰囲気を帯びまして、平日で人がまばらだったこともあり、まるで秘境の寺院に迷い込んだような気分にさせていただきました。

そして、「日光と言えば」の滝づくし。

今回竜頭の滝、湯の滝、華厳の滝、裏見滝辺りを回ったのですが、どの滝も「表ののんびりした雰囲気で油断させておいて、滝のド迫力で刺す」という戦術を使ってきまして、例えば湯の滝って湯ノ湖から流れ出している滝なんですが、

湯ノ湖って実に静かな雰囲気で、とてもその裏に瀑布を隠しているようには見えないんですよ。

湖の周囲を散歩したんですが、本当のどかで、水辺に腰かけてゆっくりサンドイッチでも食べたら気持ちいいだろうなーというくらいの穏やかさなんです。

 

ところがそこからほんの数十メートル、湖の端から遊歩道を通って、滝に降りてみるとこれ。

私の撮影の技量が低いので迫力が9割減くらいになってしまっているのですが、「なんであんな静かな湖から、こんなド迫力な滝が流れだしているんだ……!?」としか思えませんでしたよ。

 

その点は華厳の滝も同じでして、道の反対側は本当「のどかな観光地の国道沿い」という感じでして、ちょっとひなびたお店がいくつか立ち並んでいて、おみやげもの屋で木刀が売っていたりして「あー男子高校生木刀買うよね絶対」などと話していたんですが、

いざエレベーターを降りて滝に行ってみるとこれです。

ただそこにあるだけで周囲を圧倒する、落差90mの大瀑布。100m先の平地の存在が疑問に思えてしまう、とんでもない自然の地形造形。

「ほんのすぐそこに国道があるのに、100mも移動するとこれ」という徹底したギャップ戦法には、正直観瀑台でしばらく唖然としてしまいました。

 

ちなみに観瀑台の反対側にある「涅槃の滝」もものすごいド迫力、「H2」でたとえると「4番橘英雄の次に控える5番中井」みたいな存在感でして、「いやこの滝普通の観光地なら十分メイン張れるでしょ……?なんで「ただの脇役です」みたいな扱いなの……?」という疑問で頭がいっぱいでした。華厳の滝のスケールがおかし過ぎる。

 

一体どうすればこんな地形が出来るんだろう?というところにも疑問がいっぱいで、近くの資料館で男体山や三岳の噴火の歴史について調べたりしていました。

 

華厳滝のすぐそばの喫茶店で頂いたチーズケーキも無暗に美味しく、奥日光の温泉地も素晴らしい泉質で、明智平で雲海を眺めたりもして、旅行を満喫しまくってしまったという次第なのです。

いやー、最高でした日光。今度は子どもたちも連れて行きたい。

 

***

 

自分の無知や不見識を晒すのは大事なことだと思うので正直に書いてしまうのですが、行ったこともないというのに、私ちょっと日光を甘く見ていたというか、なんとなく「わざわざ行く程でもないかな……」などと思ってしまっていたんですよ。

今まで、関東近辺で旅行をしたことは何度もあるのに、日光を俎上に上げてすらいなかったんです。

 

その原因の一つには、「皆行ったことがある、「コテコテ」の観光地」という先入観が自分の中にあったのではないか、と考えます。

 

日光といえば、「小学校の修学旅行先の定番の一つ」というイメージがあります。

私自身は名古屋育ちなので修学旅行は京都だったのですが、南関東、特に神奈川では現在でも「修学旅行と言えば日光」というのがお決まりになっているということです。

 

以下はゼンリンさんの調査ツイートで、コロナ前後や東日本大震災前後で傾向が変わったかと思ったのですが、現在でも大きな変動はないようです。

ちなみに妻(横浜出身)も修学旅行先は日光でして、現地でも複数の修学旅行団体に行き当たりました。

 

湯の滝で行き当たった小学生グループは、すれ違う際元気よく挨拶をしてくれまして、試しに「遠足?」と聞いてみたら最初「日光!」という答えが返ってきました。

「え、それはここの地名やん?」と戸惑ったのですが、その後「あ、修学旅行です!」と補足してくれて、彼らの中では「日光」という言葉が既に「修学旅行」の代名詞になっていることに気付きました。

「日光」の一言だけで「修学旅行」だと通じる、と思っちゃったんですね。

 

固有名詞の一般名詞化は強い。あと私の反応を見て修正してくれたの賢い。

 

で、「(特に関東では)どうせ皆行ってるし、わざわざ自分で行く程ではないかな……」という、妙な「メジャーチョイスに対する忌避感」みたいなものが自分の中にあったんですよ。

実際、「華厳の滝の凄さなんて、皆知ってるよね……?今更いちいち書くことないよね……?」などという意識が、これを書く間も邪魔していたのも確かです。

 

つまり、その観光地の知名度、どれだけ人口に膾炙しているかというものさしを、自分の価値基準に割り込ませてしまっている。

「メジャー」であることを、価値基準におけるマイナスポイントとして考えてしまっているわけです。

 

確かになんか、「マイナーどころなちょっといい場所を知っているとかっこいい」というような意識はあるんですよ。

現地の人しか知らない凄い場所とか、人が滅多に訪れない秘境とか、それだけで行く価値があるような気がしてくる。

 

ただ、よくよく考えるとそれは違うんですよね。

 

まず、「他人が見ているか/行っているかどうか」は、「自分にとって価値があるかどうか」と本来なんの関係もない。

他人の体験と自分の体験は完全な別物なのだから、他人の体験を自分の価値基準に含めるべきではない。

 

他人の後追いだから体験の価値が減ずるということもない。

もし他人の後追いで旅行の価値が下がるなら、それこそ前人未踏の秘境にしか訪れることが出来なくなってしまいます。

 

もちろん、当日混雑しているかどうかは体験の価値を測るひとつの基準にはなるでしょうけど、今回の場合は平日で混雑具合も薄かったわけで、むしろ空いている時に景勝地をめぐることが出来る大チャンスだったわけです。

 

まして、メジャーになるにはメジャーになるだけの理由や素晴らしさがあって、「見る価値」「行く価値」があるからこそ定番になるわけです。

そこを「メジャーだから」などというしょうもない理由で避けるのは、どう考えてももったいない。

 

かつて訪れたことがある奥様ですら、「子どもの頃見たのと全然印象が違うね……」などと日光の凄さを再発見していた訳でして、まして初訪問の私など、ひねた考え方で日光を避けていたこと自体、重大な損失だったなーと見識の狭さに恥じ入るばかりだった、という話なのです。

 

***

 

ところでいきなり話は変わるんですが、しんざきはケーナという管楽器を演奏しています。

南米はアンデスの民族楽器でして、日本で言うと尺八に近い縦笛です。「コンドルは飛んでいく」という曲あたり、皆さんも耳にしたことがあるかも知れません。

 

「フォルクローレ」という音楽ジャンルがありまして、ひらたく言うと南米の民族音楽なんですが、この中でもやっぱり「メジャー曲」っていうのはあるんですよ。

前述の「コンドルは飛んでいく」もそうですが、例えば「花祭り」とか、「谷間のカーニバル」とか、「風とケーナのロマンス」とか、「太陽の乙女たち」あたりも定番曲です。

 

ここ数年コロナの影響で開催出来ていなかったんですが、以前はよく「演奏会のあと、その場でリクエストをもらってその曲を即興演奏する」なんてことをやってたんです。で、そういう場面でよく聞くのが、やっぱり「コンドル聴きたいけど、こういう場でメジャーなコテコテ曲をリクエストしちゃいけない気がする……」みたいな言葉なんですよね。

 

どうせリクエストするなら、普段聴かないような曲を。周囲の人が、「こう来るか」と思うような曲を。自分が聴きたいだけじゃなくて。

 

分かる。超分かるんですけど、私、そういう時いつも、「やっちゃいましょう!」って言うんですよ。

折角「聴きたい」があるのに、「メジャーだから」なんてつまらない理由でそれが聴けなきゃもったいない。

 

で、そういう時に一通り定番曲を演奏すると、「そうそう、これが聴きたかった」ってすっごく満足してくださるんですよね。

 

そういう点で、「メジャーだから」「コテコテだから」それを避ける、という理由は、案外珍しいものではないかも知れないし、それでもったいないことをしてしまっている人も案外いるのかも知れない。

私自身、分かっているつもりでどっぷりその罠にハマり込んでいたと。

 

ガンガン「メジャー」で行っていいのではないか、と。他人の体験の有無など気にすることなく、自分が体験したいかどうかで決めていいんじゃないか、その対象がメジャーならそれでいいんじゃないか、と。

そういう風に考える次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Johnny McClung

「文章を書くのが苦手。ライターなんて絶対にできない」

この仕事をするようになってから、何度かこう言われることがあった。

 

書くことが苦手な人は、どうやら結構多いらしい。

わたしは書くのが大好きな人間なので、いまいちその気持ちがわからず、なにが・なぜ・どういうふうに苦手なのか、いろいろと聞いてみた。

すると、

「なにから書けばいいかわからない」

「言いたいことをうまく文章にできない」

「とにかく時間がかかって嫌になる」

といった答えが返ってくる。

どうやらみんな、「最初から完璧に書こうとしている」ようだ。だから、「ちゃんと書けない」と投げ出してしまう。

 

正直、そういうのって、くだらないなーと思う。

文章なんて、好きなところから好きなように書けばいいのに。

 

書くのが苦手でノウハウに手を出し、さらに頭を抱える「書けない」人たち

デジタル化が進み、メールやチャットなど、文章能力が求められる場面が増えている。

昨今のリモートワークの波で、その傾向はさらに加速していくだろう。

 

アマゾンでちょっと検索してみれば、「だれでも書ける」だの「伝わる文章」だの「ロジカル文章術」だの、文章のノウハウ本はいくらでも見つかる。

文章能力を磨きたいという切実な思いから、そういった本に手を伸ばす人は多い。

これらの本では主に、「いい文章とは」「伝わる文章とは」「理論的な文章とは」という理論が書かれており、そのために「結論をハッキリさせる」「伝えたいことは明確に」「上手に比喩を使う」といったテクニックが紹介されている。

 

……そう、だから、文章が「苦手」になってしまうのだ。

 

もともと書くことが好きではない人に「理想的な文章」の話をしたって、響くワケがない。

というか、伝えたいことが明確で教えられた型どおりに書けるんだったら、最初からもう書いてるわ!って話だ。

 

ノウハウ本には、「文章を書くのが得意になりました!」的なレビューが連なっているけど、そもそも書くのが好きじゃない人は、基本的にレビューなんて書かないしね。

いや本当、「書くのが苦手」な人の「苦手具合」って、想像のはるか上だから。

書き出す前に30分ウンウンうなって結局なにも書けないとか、書いたはいいけど因果関係やら時系列やらがめちゃくちゃでなにも伝わらないとか、途中で訳が分からなくなって投げ出してしまうとか。

 

「これってどういう意味?」とこちらが聞いても、書いた本人が「よくわかりません」なんて言うこともザラ。

なんで自分がわかってないんだ。

 

で、そんな状況に危機感を覚え、「自分は書くのが苦手だからどうにかしなくては」とノウハウを求める。

縋りついたノウハウには、「理想の文章とはこういうものであって」とタラタラ書かれており、「そんなん無理だよ、書けるなら書いてるよ……」と肩を落とし、「やっぱ書くのって苦痛だわ」とより嫌悪感が強まる。

 

そう、「いい文章とはこういうもの」「こう書きなさい」と言われるから、「そんな文章は書けない」と頭を抱えてしまうのだ。

文章なんて、書きたいところから書きたいように書けばいいだけなのに。

 

ライターだけど、好きなことを好きなように書いていく

いろんな文章ノウハウを見てきたが、わたしの文章の書き方はちょっと変わっている……というか、邪道なのかもしれない。

 

それは、「書きたいように書いてあとから並び替える」方法だ。

まちがいなく王道ではないけど、書くのが苦手な人にとって、わりととっつきやすい方法なんじゃないかと思う。

 

まず、書きたいことを、箇条書きでぐわーっとメモ帳に書く

脈絡なく、思いついたことを、思いつくままに。

 

で、ひととおり箇条書きしたら、全体を見て「1」「2」と順番を振っていく。

書き出しによさそうなエピソードには「1」、そのエピソードから本論に入るつなぎとして使えそうな表現は「2」、みたいな感じで。

あとから「やっぱりこれは1のあとに入れたい」というものが出てきたら、「1.5」と書く。

 

そしてそのメモを片手に、パソコンでカタカタと打ち込んでいく。

伝えたいことはすでに箇条書きになっているし、書く順番も割り振っているから、あとはもうそのとおり書いていくだけだ。

 

とはいえこの「とりあえずの文章」には、明確な論旨や結論がない。

書きたいことを順番に書いただけ、ただの殴り書きだ。

そしてここからが本番、「並び替え作業」に入る。

 

邪道?箇条書き並び替えライティング

殴り書きを読んでみると、似たような主張が続いていたり、ちょっと脱線して浮いているエピソードがあったり、例え話が連続して読みづらかったりするポイントがある。

それを、より洗練された文章にするために、並び替えていく。

 

似たような主張は一番しっくりくる場所に集めて、流れ的に「ん?」となる内容は思い切って消して、例え話はいいやつだけ残して順番をいじって……と、文章を組み立てたり解体したり。

話の流れがきれいになるように並び替え、わかりやすくなるように削っていくと、6000字くらいの殴り書きがだいたい5000字くらいまで減る。

 

並び替え作業で文章を整理して読み直すと、その記事で自分が伝えたいこと、しっくりくるゴールが、しぜんと見えてくる。

「こういうふうにまとめたら丸く収まるな」という着地点を最後に付け足せば、「記事」ができる。

あとは「読んでもらうこと」を意識して調整しつつ、ちょちょいと文章の体裁を整えるだけ。

自分語りが多かったら「あなたはどうですか」と問いかけてみたり、「こういう反論来そうだな~」という場所には「こう思うかもしれませんが」と予防線を張ってみたり、誤解を招きそうな表現に手を入れてみたり。

 

はい、これで完成!

……とまぁ、わたしはこうやって、「箇条書き並べ替えライティング」という方法で記事を書いている。

 

ほかの人に言うと、「結論を明確にしないまま書き始めてよく迷子にならないね」と驚かれるけども。

でもわたしからしたらすると、書く前から結論を明確にして、伝わるように書き方を意識して……なんて考えながら書くほうが、よっぽどむずかしいと思う。

 

書きながら頭の中を整理すれば、いつのまにか文章ができている

この「箇条書き並べ替えライティング」の最大のメリットは、「書きたいところから書くから、最初の第一歩のハードルが低い」ことだ。

そもそも書くのが苦手な人は、「なにから書けばいいかわからない」と言う。

そういう人に、「まず結論から書けばいいんだよ」と言っても、「結論……? え、なんだろう」とピンとこない。

 

書くのが苦手なのは、自分の頭の中を整理できておらず、取っ散らかった考えを文字にするのがむずかしいからなのであって、「結論から順番に書いて」と言われても、「できたらやってるわ」って話である。

だからまず、箇条書きで書きたいことをバーっと書いて、いい感じに順番を振って、書きやすそうなところから書けばいい。

書きながら、頭の中を整理整頓していくのだ。

 

……とまぁ精神論ばかり語っていてもアレなので、殴り書きした文章の「並び替え」のコツを、5つほど紹介しておきたい。

 

1.同じような主張をかためる

一番主張したい内容は、何度も何度も書いていることが多いので、ひとつの場所にかためる。

そしてできれば、文章を統廃合してできるだけ短くする。

 

2.グループ化する

似たような主張をまとめてカタマリが明確になったら、「見出し」をつけてひとつの段落にする。

見出しや段落で区切ると、「ここはこの話をするグループ」と整理しやすくなり、その後は「グループ単位の整理整頓」ができるようになる。

 

3.あまりものは保留

並び替えていると、「言い回しは気に入っているけどどこのグループにも入らない」「ちょっと趣旨から脱線する」といったカタマリが見つかることがある。

そういうとき、「うーん、うーん……」と悩むと進まないので、とりあえずカットして、文章の最後の最後にペーストして保留にしておく。

そのカタマリなしで全体がうまくまとまった場合、そのカタマリはいらないということで削除。最終的に「ここに割り込ませられそう」という部分が見つかればそこにペースト、文章を調整して馴染ませる。

 

4.細かい「文章の体裁」にはこだわらない

書くのが苦手な人あるあるだと思うんだけど、苦手な人ほど「文章の体裁」にこだわってつまづいちゃうんだよね。

「語尾に『です』が続いてしまう」とか、「『ですが』『しかし』と逆説の接続詞が続く」とか。

そういうのは、最後の最後に調整すれば大丈夫。

いくらきれいに書いても、いろいろと手を加えたらどうせぐちゃぐちゃになるからね。いいんだよ、好きなように、思うように書けば!

 

5.最後に音読して調整する

これはどういう文章の書き方でもおすすめなんだけど、音読はいい。マジでいい。

音読してみると、「語呂が悪くて気持ち悪い」「ここの流れがしっくりこない」という気づきが生まれる。

音読しながら微調整すれば、なんだかいい感じの文章が完成するから、ぜひやってみてほしい。

 

完璧な文章を目指すより、まずは好きなことを好きなように書く

ピアノが弾けない人に「感動させる音楽とは」と語っても、ピアノが弾けるようにはならない。

まずは音を出してみること。ドでもレでもミでも、なんでもいい。

好きなように鍵盤を叩いて、「音を出す」第一歩を踏み出し、そこから「楽譜の読み方」や「強弱のつけかた」を学べばいい。

 

文章でも同じだ。

最初から完璧に書こうとするから、書けなくなってしまう。

 

友だちにLINEするとき、「書き出しがわからない」とか「どうやったら相手に伝わるか」なんて考えないだろう。ケンカ中でもないかぎり。

好きなように書き、補足情報があればまたそれを送り……と、思ってることを気軽にどんどん送信するはずだ。

 

文章なんて、そのくらい自由に、気楽に書けばいいんだよ。

あとで帳尻を合わせれば、意外とそれっぽくなるから。

 

相手にどう伝えるかとか、共感されるように書くコツとか、そういうのは最後の最後、余裕ができてきたら考えればいい。

まずは、書くことへのネガティブイメージをなくさないと、一文字目が書けないから。

 

もちろん、これはあくまでわたしのやり方であって、「これこそが正しい」というわけではないけど。

少なくとも、文章を書くのが苦手、好きじゃない、苦痛だ、と思っている人たちが、「なーんだ、好きなところから書いていいのね」と、気持ちが楽になって、書くことが楽しくなってくれればうれしいなぁ、と思う。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Mike Tinnion

本当の豊かさって何だろう?

夏の終わりには、ふとそんな疑問が頭をよぎる。毎年8月下旬になると、日本テレビのチャリティー番組、24時間テレビ「愛は地球を救う」の宣伝が目に入るせいかもしれない。

 

子供の頃の私は、夏休みの終わりに24時間テレビを見るのを楽しみにしていた。

当時は、アフリカやアジアの貧困国からロケをして、海外のドキュメンタリー番組や豪華俳優陣による特別企画ドラマが放送され、始めから終わりまで見応えがあった。中でも一番楽しみだったのは、2日目の朝10時から放送されるスペシャルアニメだ。

手塚治虫が原作のオリジナル長編アニメが、劇場版に引けを取らないクオリティで24時間テレビ用に毎年制作されていたのである。

 

かつて潤沢にあった番組の制作予算がいつから乏しくなったのかは知らないが、私が24時間テレビを見なくなったのは、タレントがマラソンを走り始めた頃からだ。

昭和の時代から見続けていただけに、番組が次第に安っぽくなり、内容も内向きに小さくまとまっていく様子を見るのは忍びなかった。

それはそのまま、日本の経済力と日本人のメンタリティーの変遷と重なって見えたから。

「はぁ、お金がないって嫌だな」

と思ってしまう。貧乏臭くて。

 

けれど、バブルだった頃の日本では、逆に日本社会の驕り高ぶった金満ぶりについていけず、違和感を覚える人たちも多かったのだ。ゆえに、

 

「私たちは経済的な繁栄と引き換えに、大切なものを見失ってしまったのではないか」

「私たちは発展の道を歩みながら、いったい何を置き去りにしてしまったのだろう」

「本当の豊かさとは何か?」

 

などの問いかけが、様々なメディアを通じて聞こえていた。

あの頃の日本では、自分たちがやがて貧しさに逆戻りするなんて、誰も予想していなかったのだ。

だからそんな呑気なことを言って、昔を懐かしがっていたのだろう。

 

「繁栄にブレーキがかかっても、取り戻したがっていた『大切なもの』や『置き去りにしたもの』、『本当の豊かさ』とやらは、ちっとも戻って来ないみたいですよ!」なんて、当時の大人たちに皮肉を言ってみたくなる。

近頃は毎日のように円安が進み、物価も上がっていくので、物を捨てるのも買うのも躊躇を感じるようになった。

 

今必要がないからと安易に捨ててしまうと、後で必要になった時には高価になっているかもしれず、生きていくために最低限必要な経費が値上がりしていく中では、「暮らしに彩りを添えてくれるけれど、必要ではないもの」にまでお金を回す余裕がない。先が見えない状況で無駄なことはできないのだ。

「あぁ、余裕がないって嫌だな」

と思ってしまう。殺伐として。

 

けれど、「あれがナイ、これができナイ」と、「ナイ」ことにばかり気持ちが引っ張られそうになる時、私は高知の山間部でご馳走になった塩おむすびと、エイコさんの話を思い出すことにしている。

 

エイコさんは、高知県仁淀川町(旧池川町)でこんにゃく作りをしていた女性だ。

私がお会いした時、70歳はとうに過ぎていらしたけど、とても若々しくて、背筋の伸びた素敵な人だった。

 

エイコさんだけではない。あの11年前の夏の日、私たちをもてなしてくれた70代から80代の元気な女性たちは、みな逞しく、それでいて柔らかく温かで、「お婆さん」とは呼び難い。「お母さん」と言った方がしっくり馴染む。

そんな仁淀川町のお母さんたちは、山の中の清流のほとりで、ほとんど自給自足のような暮らしをしながら、協力しあってこんにゃく工場を切り盛りしていた。

 

仁淀川へ行ったのは、その日が初めてだった。「仁淀ブルー」と呼ばれるほど、その水が澄んで美しいことも初めて知った。

基本的にアウトドアが苦手な私は、それまでキャンプなどしたこともなければ興味もなかったのだが、その年の夏は娘が通う幼稚園のママ友に誘われ、娘のために自然体験合宿ツアーに参加してみることにしたのだ。

 

2泊3日の合宿の2日目に、仁淀川での川遊びとバーベキュー、そしてキャンプが予定されていた。

川遊びは3時間ほどの予定だったけれど、盛夏でも山間を流れる川の水は凍えるほど冷たくて、1時間と遊んでいられなかった。大人も子供も震えながらキャンプ場へ戻ると、そこにお母さんたちが山ほどのご馳走を並べ、もてなしの支度をしてくれていたのだ。

 

それはツアーの予定にはないことだったけれど、溢れんばかりに並んだ心づくしの料理は、お母さんたちが私たちのために1日かけて準備をしてくれたものだ。

そこで主催者は急遽バーベキューを取りやめ、私たちはありがたくもてなしを受けることになった。

 

塩焼きの鮎は川の恵み。きんぴらのイタドリは山の恵み。味噌田楽の豆腐やこんにゃくはお母さんたちの手作りで、じゃがいもと煮浸しのナスはお母さんたちの畑から収穫されたばかり。

 

どの食べ物からも力強い命の味がして、お母さんたちの真心が胃袋を通して体の隅々にまで染み入ってくるようだったけれど、私が最も美味しさに感動したのは白米の塩おむすびだ。

それまでの人生で口にしたどんな食べ物よりも美味しかった。きっとこの土地を流れる清水で炊くから、米の味が違うのだろう。

 

具が入っていないおむすびも、山のイタドリも手作りこんにゃくも、それまではどちらかと言えば苦手な部類の食べ物だったので、美味しいと思ったのは初めてだ。

 

心温まるもてなしの後、「今夜はエイコさんからお話を聞かせてもらいましょう」とツアーの主催者に促され、私たちはこんにゃく工場の代表であるエイコさんを囲み、里山での暮らしや仕事、そして環境への取り組みについてお話を聞かせてもらうことになった。

 

エイコさんたちが暮らしているのは、いわゆる限界集落だ。

もはや住んでいる人が殆どおらず、お母さんたちも一人暮らしの方が多い。すでに伴侶は他界しており、息子や娘は生活に便利な都市部へ出ていってしまっている。

 

しかし、それを寂しいとは思わず気楽と捉え、みな生き生きと暮らしていた。

残された女同士で肩を寄せ合い、畑で野菜を栽培し、工場でこんにゃくを作り、車を運転して自分たちで高知市内のスーパーに卸す。そうやって生活の糧を得て、自立した生活を送っていた。

 

「今ではもう住人が少なくなってしまって、今日みたいに子供たちの声が響くことも無くなったけど、昔はここにも学校があったんですよ。

私たちが子供の頃には、クッキーみたいなお菓子がおやつに出てくることはなくってね。甘いおやつといえば、庭になる柿の実だけ。だから、毎年秋が来るのがとっても楽しみでした。

それと、山菜のイタドリもおやつでした。学校帰りに、道端に生えているイタドリを折って、それを生でシャクシャク齧りながら帰るの。イタドリをたくさん採って家に帰ると、親からお小遣いがもらえたわ。そしてお金が貯まったら、隣町の手芸屋まで布を買いに行くんです。

お店までは崖沿いの細い道を歩いて、1時間以上もかかりました。今考えると危ないんだけど、その崖の細道を兄弟たちと手を繋いで歩いていく道中はウキウキして、お店に着いたら、どの布地を買おうか悩むのがまた楽しかった。

お街と違って山の上だったから、お店は1軒しかないの。置いてある品物も少なくて、あれこれ選べるわけじゃないんだけど、それでも買い物はワクワクしました。そして布を買って帰ったら、母が新しい洋服を仕立ててくれるんです。仕上がるのが楽しみでねぇ。

ちょっとした買い物をするのも大変でしたけど、おしゃれをする楽しみと、1枚の服を手に入れる喜びは、何でも安く簡単に買えてしまう今の時代よりも、ずっと大きかったように思います。

ものは無いけれど、日々の暮らしの中には喜びがありました」

 

エイコさんの話は清々しくて、心洗われる気持ちになった。

18歳で高知を出てから36歳で戻ってくるまで、都会の暮らしにどっぷり浸かっていた私は、すっかり視野の狭いマテリアルガールになっていたと思い知らされた。

刺激と物が溢れた都会で贅沢を覚え、傲慢になり、着飾って出かける場所もない田舎暮らしを嫌っていたのだ。

家庭の事情でやむを得ず地元に帰ってきたものの、目に映る景色には不満しかなく、いつか都会に戻りたいとばかり考えていた。

 

しかし、自分でも驚いたことに、たった1回の里山での食事が、そうした鬱屈を綺麗に洗い流してしまった。

一食何万円もする都会の高級レストランや料亭での食事よりも、仁淀川町のお母さんたちが作ってくれた塩おむすびの方が、ずっと美味しくて心が震えたのだ。

まるで「千と千尋の神隠し」で、ハクからおむすびをもらった千尋みたいに、生き返った気持ちがした。

 

命の味がするご飯。それはどんなにお金を払っても、都会では食べることのできない贅沢な食事だ。

 

大袈裟ではなく、お母さんたちからおもてなしを受ける前と後では、見える景色がまるで違う。冷たく透き通った仁淀川の豊かな水の流れの中に、都会への未練は消えていった。

 

「本当の豊かさ」に定義はない。それは人によるだろう。

ただ、私にとっての「本当の豊かさ」とは、澄んだ水と人の温もりが染みたおむすびが食べられることと、そのありがたさが分かることだ。

 

世の中が今後どう変化していくのか分からないが、あの時のおむすびの味わいとエイコさんの言葉を忘れずに居れば、何があってもきっと乗り越えていける気がする。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@CrimsonSepia

Photo by tablexxnx

マインドフルネスとは

マインドフルネスとは、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれの無い状態で、ただ観ること」です。

それを実施するのがマインドフルネス瞑想です。マインドフルネス瞑想は、他の瞑想や禅などとは異なり、生活全てが瞑想になり得ます。

自分のしていることに意図的に意識を向け、ジャッジをせずに自分を観察することでマインドフルネス瞑想になります。自分の心を守るためにやってみてはいかがでしょうか。

 

トラウマに対処するマインドフルネス瞑想

ここ2年、コロナなどの外出禁止、蔓延防止などで多くの人がストレスを貯めています。

孤独を深める人がいる一方で、家族の距離や密度が近くなり過ぎたが故のイライラや不安の増加も、子どもの不登校の激増などのデータからも見て取れます。

コロナ禍では、できうる対策は取った上で、必要以上の心配はなるべくしないことです。

 

しかし、いくら頭でそうしようと意図してもなかなかうまくいきません。

この間のコロナパンデミックは社会全体がトラウマに遭遇したとも考えられます。

トラウマは脳の中の一番古い層=脳幹や大脳辺縁系に刻み込まれるので、大脳皮質=理性=認知では対応が難しいのです。トラウマ・カウンセリングの基本は、安全基地の確保と身体からのアプローチですが、コロナ対応にも当然当てはまります。

トラウマ・カウンセリングの基本

そこで、一番効果的だと考えられるのが、身体からのアプローチがメインになるマインドフルネスです。

 

繰り返しになりますが、マインドフルネスとは「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれの無い状態で、ただ観ること」です。

ポイントは、取り戻せない過去への後悔とやってこないかもしれない未来への不安に行きがちな心に翻弄されないために、今ここでの体験に意識的意図的に焦点を当て続けること。

 

そしてその際反応として表れてくる思考や感情をジャッジせず、ひたすら観察すること。

つまり仏教心理学でいう、「私=悩む人」ではなく、「私=悩みを観察する人」という説明が分かりやすいです。

必要のない過剰な心配事から解放されて、今ここをクリエイティブに楽しく生きる道が開けるのです。

マインドフルネスで「私」の認識が変わる

 

マインドフルネス瞑想法のやり方

今回は、マインドフルネスの基礎ワークを紹介します。

 

<マインドフルネス瞑想法>

椅子に楽に坐って呼吸に意識を集中します。段々とお腹が呼吸と一体となる感覚を意識するとうまくいきます。

最初は雑念が出てきてもOKです。座禅と違って、雑念をなくそう、無になろうとしてはいけません。むしろ雑念大歓迎です。

 

1)床、または椅子に坐る(背筋を伸ばし、肩の力を抜く)目は閉じてもよい。

2)呼吸にあわせて、お腹が膨らんだり、へこんだりするのを意識し、腹部に意識を集中する。自分の呼吸の波乗りをしているように、呼吸のすべての瞬間に意識を集中する。

3)呼吸からの意識が離れたことに気づいたら、その度に注意をそらせたものは何かを確認し、ジャッジしないで、静かに腹部に意識を戻し、呼吸を感じる。どんなことに気をとられても、何度でも注意を呼吸に戻す。

 

雑念に気づくトレーニングでもあるので、雑念大歓迎。どんな雑念が飛び出してくるか? よーく見てみよう。

ただし気づいた時点でジャッジしないで、すぐにお腹の膨らみ、へこみの身体感覚に戻ります。

 

マインドフルネスの基本は、呼吸に意識を向け続けることですが、別に呼吸でなくてもいいのです。

身体の動きでもいいし、自分の内部の音でも外部の音でもいい。今ここでの体験に意識を向け続けることで、さまよい荒れ狂いがちな思考や感情を鎮める、または心を見つめることで問題と距離を取ることが目的だからです。

心が騒がしすぎたり、怒りやイライラなど強い感情がある場合、呼吸に意識を向け続けるのはなかなか難しいでしょう。

 

そんな時は、座っていないで動きながら瞑想しましょう。

マインドフルネスが他の瞑想と異なるのは、歩くのも瞑想、家事も瞑想と生活全てを瞑想にできることです。

テレワークや職場での仕事の合間に一息つきたい場合は、自分の動きに注目するマインドフルネスが効果を発揮するでしょう。

 

(執筆:大澤 昇)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by :Katerina May

保守主義の本来

このごろの日本において、「自分は保守だ」といえば、「自民党支持」とイコールでほぼ繋がれてしまうかもしれない。

いや、近ごろは野党にも保守を称するものが出てきているので、そうとも言い切れないが。

 

いずれにせよ、現実の政党名と結び付けられてしまう。おもしろくない話だと思う。

そりゃあもちろん、現実の社会に現実の政治というものがあって、現実の政治家が政治をしている。

現実のわれわれは現実の投票行動などの政治活動をして、その結果、そうなっている。現実とは無縁でいられない。

 

とはいえ、保守主義というものがあったとして、現実の諸問題に対するスタンスがそれに先んじて出てきて、賛成と反対で色分けされて、「じゃあお前は保守」、「君は革新」と分別されるのはどうなんだ。

現実の諸問題を考える前に、とりあえず保守主義って本来なんだろうかって考えたほうがいいんじゃないのか。

なんとなくの雰囲気で、保守だの右派だの言うのは、はっきりいって不毛じゃないのか。おれはそう思う。

 

まず、左翼とはなにか

さて、「本来の保守主義」というところで、おれのなかでいくらかまとまった考えはあるけれど、おれが言ったところでしょうがないので、読んでみて「これだよな」という本に頼りたい。

 

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中島岳志『リベラル保守宣言』、これである。

本書では本来リベラルと保守が決定的に対立するものではなく、保守主義にこそリベラル的な思想が必要だというようなことが語られている(のだと思う)が、とりあえず、スタンダードな保守思想について参考にしたい。

 

まず最初に、保守的でない、ところの「左翼思想」についての了解からはじめる。

 「左翼」という思想を最大公約数的に定義すると「人間の理性によって、理想社会を作ることが可能な立場」ということが言えるでしょう。彼らは、人間の理知的な努力によって理想社会の構想を設計し、それを実現することによって、未来に進歩した社会が現前すると仮定しました。人間の努力によって、世の中は間違いなく進歩するというのが、左翼思想の根本にある発想です。

「理性」への信頼、確信、これである。彼らはときに「科学的」という言葉を使ったりする。あるいは、「反知性的」という言葉を、批判的な文脈で用いたりもする。

 これは、人間の「完全可能性」に対する信頼を彼らが有しているからこそ、出てくる発想でしょう。人間は知的にも道徳的にも、努力次第で「完成形」に到達できるという確信が、ヒューマニズムというイデオロギーを基礎として生み出されます。

 

さて、このあたりの、人間の自力、はからいを信じるというあたりは、左右の問題ではなく、たとえば戦前の革新右翼にも見られるという話は、同じ著者の『親鸞と日本主義』のなかでも語られていた

その場合は親鸞ではなく日蓮主義に多く見られることだけれども。

 

まあ、そういうわけで、人間の理性を信じる、人間が発見した科学を信じる、人間の自力を信じるというのが左翼、非保守の考え方だとする。

 

じゃあ、保守とはなにか

となると、その逆を行くのが保守ということになる。

 保守は、このような左翼思想の根本の部分を疑っています。つまり「人間の理性によって理想の社会を作ることなど不可能である」と保守思想家は考えるのです。
まず、保守の立場に立つものは人間の完成可能性というものを根本的に疑います。
人間は、どうしても人を妬んだり僻んだりするものです。時に軽率で、エゴイズムを捨てることができず、横暴な要素を持っています。そんな人間は、永遠に完成することなどできず、不完全な存在として生き続けるしかありません。
保守は、このような人間の不完全性や能力の限界から目をそらすことなく、これを直視します。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦念を共有します。

人間の不完全性、これである。

おれは親鸞の思想に触れるまでもなく、自分は愚かで弱いものであるという実感がある。

愚かで弱く、卑怯で怠惰だという実感だ。そして、おれのような人間がそれほど少なくない、あるいは多くの人間がそうなのではないかという期待すら持っている。

 

おれは昔、自分のブログにこんなことを書いた。

 でもさ、人類の人種も文化もなしにさ、どっかしら人間同士の落としどころみてえなもんはあると思うよ、俺はそう思う。そう妄想する、そう希望する。
で、それはなにかっていうと、愛、だとか、正義、だとか、思想、だとか、あるいは科学、とかでもなしに、もっとろくでもないもの、人間の弱さ、卑怯さ、怠惰、汚さ、ずるがしこさ、いい加減さ、そんなもんじゃねえのかって。強さより弱さ、正しさより間違い、美しさより醜さ、そっちで手を繋げるんじゃねえかって妄想だ。そこが落としどころじゃねえのって。俺はそんな夢を見る。

これが人間の、魂の落としどころじゃないのか、と。

人間は弱い、不完全だ。そんな人間が、立派な理想によってつながるなんてことはあるのか。そういう疑問だ。

 

おれはこのとき、とくに思想について考えていたわけではない。実感から出た言葉だった。

そしてこれは、今もっておれの考え方のベースにある。過ちと弱さによる人類の共存、これである。

 

と、この考え方は、どちらかというと左翼思想よりも保守思想に近いのではないか。

おれに人間の高邁な理想や理念が遠すぎる。真摯な理想を語る人にたいして、「人間なんてそんなたいしたものじゃないだろう」という思いを抱く。それは「おれがたいしたものではない」という確信に基づくものだ。

 

たとえば、戦争になって、占領されたときに「非暴力抵抗」を貫こうという考え方に対して、自分は弱虫で怖がりで死にたくないから「非暴力服従」を選ぼうという考え方になる。

銃をつきつけられたら、おれは服従する。絶対に服従する。拷問するぞと脅されても服従するし、強制収容所送りだと言われても服従する。

おれは弱い。果てしなく弱い。弱い生き物だ。その上に卑怯者である。自分の命のためなら、同邦人の子供を殺せと言われたら殺すだろう。協力するやつは助ける、と言われたら、積極的に手を挙げるだろう。

祖国回復のあかつきには、敵国協力者として真っ先に吊るされるようなやつ、それがおれだ。

これが保守? 現実的には勇ましく銃を取るべきとか言ってそうな保守? と思われるかもしれない。

 

しかし、おれのなかではこれは保守的な態度であって、理性や理知、高邁な理想を信じてそれに殉じられるほど人間は強くない、ということになる。

おれは不完全であり愚かゆえに暴力にも屈する。自分の理知だのなんだのを信じていない。そういう意味で、非左翼的といっていい。

 

保守のようで保守でないもの

さて、保守というと、とくに現実的な政党の言い分などを見ていると、復古主義や反動といった言論も見える。

革新ばかりでなくこれも、保守的な考えではないという。

保守は「進歩」という立場をとることができません。残念ながら、未来の人間社会も欠陥だらけの代物にすぎず、すべてが満たされた世界などを人為的に構築することはできません。そのような社会を理性の乱用によって作り上げることができるという進歩思想には、間違いなく理性への傲慢が潜んでいます。保守は、そのような立場を懸命に避けようとします。
しかし、真の保守は、純粋な「復古」という立場もとることもできませんなぜならば、未来の人間が不完全であるのと同様に、過去の人間も不完全であったと考える他ないからです。
同様に、真の保守は「反動」という立場もとることができません。過去も未来も人間が不完全であることと同じ理由で、現在の人間および人間社会も不完全であると見なさざるを得ないからです。
保守は現状追認ではあり得ません。現状にもやはり問題が潜んでいるのと共に、現状は常に変化にさらされ続けているからです。絶えざる社会変化の一切を止めることなどできません。

復古でも、反動でもなく。

つまり保守は「人間及び人間社会の完成可能性」を否定し、歴史の中に生きながら漸進的な改革を志向する存在なのです。

われわれ人類は、馬鹿。過去、現在、未来、馬鹿。これを繰り返し歌うのが保守なのかもしれない。

 

それでも、現状維持も復古も許されていないから、漸進的に変わっていくしかない。

それはまどろっこしいし、遠回りかもしれないけれど、一発やってみて大失敗する可能性のある革新に比べたらマシなことかもしれない。やってみて大失敗した例は、歴史の中にある。

 

おれは保守主義者なのか?

というわけで、このような考え方を見ていると、おれは実に保守主義に近い人間のようだと考えられる。

第一に、人間の不完全性というものがあって、おれはそれを信じている。おれがおれを信じられない存在と見なしているという出発点はあるとして、おれは同じように他人のことも信用していない。他人の述べる理知による理想も信じられない。

 

また、そのようなおれより優れた人間に付き従えばいいという心持ちにもなれない。

おれは傲慢なので、おれより賢い人間がいたとしても、従いたいという気にはなれない。

おれは保守主義の不完全な人間像というものに共感する。

 

が、しかし、だ。

 

おれはこのような保守主義の思想について何ら異議を唱えようという気がおこらないのに、心がぜんぜん楽しくない。魂が縛られているような気すらする。

こんな重苦しい重力に心を囚われて、面白いとはぜんぜん思えない。心がぴょんぴょんせんのじゃあ。

 

アナーキー!

そこで、おれの心を躍らせる思想があるのかというと、アナーキズムということになる。

この本の著者によればアナーキズムも人間の理知により国家を否定する(……共産主義も本来は最終的に国家解体を志向する)ものとして扱っているが、どうも違うんじゃないのか。そんなふうに思う。

 

おれは、古いアナーキストの言葉に心震える。

そこには「それはやはり理性主義のなすところだよ」と言われる部分もあるかもしれないが、もっと根源的に魂の部分で揺さぶるものがある。

 僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。
この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。
僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

これは、大杉栄の『僕は精神が好きだ』の全文である。

 

おれが心躍るのはこれである。人間の盲目的行為、精神そのままの爆発。それでいったい、社会がどうなるのか。

そんなことはわかりゃしない。それでも、「集合的な経験値」なんて知った話か、という態度がいい。姿勢がいい。魂がいい。優雅で感傷的な日本のアナーキストの魂がいい。

 

そんな魂は、現代にも生きている。

栗原康の『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』にはこうあった。

 えっ、秩序をはみだすのは、犯罪だって? みんなにきらわれてしまうって? 上等だよ、上等だよ、ひらきなおるわけじゃねえが。現にあるものをブチこわせ。主人でもない、奴隷でもない、民衆の生をつかみとれ。新天地にむかってあるきだせ。それはとても孤独なことなのかもしれない。おいら、ゴロツキ、はぐれもの。でも、ひとたびその一歩をあゆみだせば、かならずあのメロディがきおけてくる。もうなんにもこわくない。過去の民衆たちがおどりだす。おいらもいっしょにおどりだす。つられて、だれかもおどりだす。ユートピアだ。コミュニズムとは絶対的孤独である。それは現にある秩序をはみだしていこうとすることだ。かぎりなくはみだしていこうとすることだ。あらゆる相互扶助は犯罪である。アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きてゆきたい。

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アナーキーについて触れたければ、クロポトキンやプルードン、バクーニンを読むのもいいし、大杉栄は青空文庫でも読める。

 

でも、今なら栗原康を読んで損はない。どの本でもいい。

して、おれは、どうにもこちらに魂を惹かれてしまう。理知もぶち壊せ、保守もぶち壊せ、その先になにがあるかなんて知らねえぜ。その態度である。

 

その態度をとってどうなることか、おれにはわからん。

おれのなかには人間の理知を信用する左翼主義への根本的な疑念がある。

 

一方で、保守主義にも堅苦しさ、重苦しさを感じてしまう。

かといって、アナーキーの行き先は知らない。ただ、知らないほうが面白いこともある。そんなんじゃ、いかんですかね?

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Orit Matee

「そういえばコロナで婚姻数ってどうなったんだろう」と思い検索してみたところ、予想通りというか凄い事になっていた。

 

(出典:婚姻数急減「人と会えなかった2年」の深刻な影響

 

「リモートワークは出社しなくていいからラクチンだし、不快な人間関係も無くなるから幸せ」

「これが一生続けばいいのに」

自分はもう中年近いという事もあってか、どちらかといえばそのような意見を聞くことが多い。

 

コロナは持たざるものにあまりにも厳しい

けど、人間関係がまだ発達途上にある人間からすれば、正直これはたまらないだろう。

 

生きることは苦であると説いたのはブッダである。

私達は誰もが自分自身の欲望を持っており、その欲望はしばしば他人と対立する。

対立した欲望は軋轢を産み、そこにザラザラとしたものをもたらす。ここに暴力性が皆無だという人はいまい。

 

しかし、同時にこの暴力の中にしか無いものがあるのも事実である。

私達は誰かと合うことで暴力性に触れて疲れる。そして自分一人の時間を作ってそれを癒やし、また暴力の渦へと突っ込む。

そうして私達はその暴力の渦の中から、豊かに生きるにおいて大切なものを獲得していく。

 

気の合う友人知人は当然として、パートナーに仕事の技術やコネ、承認欲求などなど…暴力の渦には魅力的でキラキラしたものが沢山詰まっている。

 

我々は皆、この暴力性に満ちた社会の狩人だ。

ブッダがいう通り、確かに生きる事は苦そのものではあるが、その苦から強制的に隔離された先にあるのも、残念ながらまた苦である。

 

何も持たぬものにとって「誰とも繋がれず、何も獲得できない」というのは繋がる苦以上のシンドさがあるに違いない。

 

婚活アプリは地獄そのもの

「とはいえ現代はネットが発達したんだから、結婚したいんならアプリとか使えばいいんじゃない?」

そう思われる方も多いだろう。確かにだ。

日本は諸外国と違って自粛はあくまで「お願い」であり、破って何かしたところで国から罰される事は無い。

 

しかし婚活アプリには別の地獄があるようだ。その事を痛感させられたのが下の記事である。

 

28歳年収650万非モテ男がマッチングアプリ始めた結果がヤバすぎる

 

この記事は婚活アプリでマッチングを試みた男が自尊心をメタメタにやられて惨敗したという悲しいものだ。

 

この記事の「この男側にも問題がある」というのは確かに事実だろうが、そもそもである。

28歳で年収が650万もある婚活男がマッチすらスタートできないというのは相当におかしい。

 

何が問題なのか。一つには選択肢があまりにも多すぎる問題があげられる。

 

選択肢が多すぎると人は何も選べなくなる

選択肢が多すぎると逆に人は選べなくなる。この事を証明したのがジャム実験だ。

<参考 選択の科学 シーナ・アイエンガー>

これはスーパーの試食で数種類のジャムと何十種類ものジャムを試食させるのを比較すると、数種類のジャムのみしか用意されてない時の方が売れ行きが良いという事が判明した実験である。

 

この例がわかりにくかったらジャンケンを考えてみれば良い。グー・チョキ・パーしか選択肢が無かったら

「この前はグー出して負けたから、パーを出そう」

とか

「コイツはなんかチョキを出しそうな顔をしてるから、グーにしよう」

という風に”考えた”上で”決断”がしやすい。

 

しかしである。逆にジャンケンの手が1000個あったらどうだろう。

戦略を考えようにも、あまりにも手が多すぎて何も考えられないのではないだろうか?

 

更に言えばだ。多くの人はそもそも1000個も選択肢があるジャンケンというゲームなんて”プレイしない”。

くじ引きとかサイコロとか、他のもっと手軽にできる勝負に流れるのが普通である。

 

選択肢がいろいろあることは一見すると大変に良い事のように思えるが、実際には多すぎる選択肢は人間を”思考”と”決断”から遠ざける。

そして人は当たりくじをハズレと誤認するようにすらなる。

 

多すぎる選択肢があると当たりくじですらボケてみえる

多すぎる選択肢の問題は”思考”と”決断”を難しくし、人の目を曇らせる。

 

そもそもである。この28歳年収650万男はデータから客観的に考えればどう考えても”当たり”だ。

大吉ではないかもしれないが、小吉~末吉ぐらいには及第点なはずだ。少なくとも凶や大凶ではない。

 

仮に選択肢が目の前に数個だけ用意されており、かつ選べる回数が1~2回程度であったなら…この人が選ばれない理由は多分ない。

それが目の前に膨大な選択肢と際限ない選択回数を提示されてしまったら…この当たりくじは見事にハズレにみえるようになる。

 

異常な環境にさらされると、普通の人間はそこそこの選択肢を”選べなくなる”。

ジャムなら…気に入らなければ捨てればいい。コンテンツなら…早送りなりネタバレを参照するなりで、ある程度は気苦労を減らしつつ、次に行けば良い。

 

だが結婚となるとそうはいかない。

結婚は基本的には皆一度きりで終わらせたい性質のものである。だからみな普通に大当たりを引いて、サッと終わらしたいと誰もが思ってしまう。

 

そんな条件下で膨大な選択肢を停止されると、目の前にある小吉や末吉が途端にハズレにみえるようになる。

選択肢多すぎ問題は人間の目に歪んだ色眼鏡をかけさせるのである。

 

アンパンマンみたいな分かりやすい世界じゃないと、人間は安心できない

僕が思うに、この28歳男性には基本的には何も問題はない。

 

そりゃ女性扱いが手慣れていないのは事実だろうが、そもそも初心者なのだからそういうものだろう。

これから徐々に慣れていけばいいだけの話である。

 

しかしこの記事への言及をみると、男性への批判が殺到している。

なぜみんなこんなにも男性が悪いと避難してしまうのか。

 

この現象は公正世界仮説から読み解くことが可能だ。

公正世界仮説は人間の行いに対して、公正な結果が返ってくると考えてしまう私達の持つ認知バイアスだ。

これがあるから、私達は成功した人間は「成功するに値する事をしたから成功した」と思い、失敗した人間を「失敗するような悪い事をしたに違いない」と思い込む。

 

原因と結果は必ずしも一致しない

本当の事をいえばだ。原因と結果は必ずしも一致するようなものではない。

極悪非道な事をやって幸せになる人間もいれば、物凄く真っ当に誠実な事をやって不幸になる人間もこの世にはいる。

 

しかし私達の脳はこの現象を基本的には認めたがらない。

そんな世界を認めてしまったら、いったい何が正しくて何が間違っているのか訳が分からなくなるからだ。

 

だから物語では基本的には正義は勝つものだし、悪は負ける。アンパンマンは脳に優しい物語なのである。

 

先の婚活話にも公正世界仮説が働いているからなのか、婚活男をバッシングする意見が物凄く散見される。

「失敗した人間は、失敗した原因があるに違いない」

そう思わないと、人間は安心できない。だから婚活男の粗を探し、失敗した原因を必死で探し出し、それを指摘して”安心”する。

 

「こいつが婚活に失敗したのは、こいつに悪い所があるからだ。あー、スッキリした」

と、そこで9割ぐらいの人が物語をアンパンマン化して納得して終わらせる。

 

失敗した人間は失敗するに値する人間だと認知できないと、脳は納得できないのである。

 

ってか、チャレンジしただけで本当はエラくないか?

しかしである。改めて考えてみて欲しいのだが、この婚活男はそもそもちゃんと戦に挑んでる時点で、かなり立派ではないだろうか?

そういう戦に挑んで、おまけに惨敗報告というこの世で最もツライ行為をやって、それで誰かから説教されるだなんて…ちょっと世の中が修羅すぎるにも程があるのではないだろうか。

 

昨今の若者は草食化が加速しているとよく言われている。

実際、「20代の若者のデート経験なし4割」という内閣府の報告もある。

 

これをもって「最近の若者はガッツが足りない」と言う人がとても多いのだが、冷静に考えてみて欲しい。

物凄く厳しい環境に晒されていて、その逆境にも関わらず勝負に挑んで、それで負けたら自己責任と言われるような社会で…果たして人間は挑戦なんてできるのだろうか?

 

本来なら、この婚活男性に本当にふさわしいのは「よく頑張った」という賞賛、あるいは「自分がいい女の子を紹介してあげるから、はよ私に連絡しな」という大人の手引のように自分は思う。

少なくともよっていたかって袋叩きにしているようじゃ、駄目じゃないかと自分は思う。

 

キレイで清潔な社会は、この世で最も怖い場所になった

当メディアでも執筆なさっている熊代先生の”健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて”という本がある。

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この本を通じて、熊代先生は現代日本がいかにキレイで清潔になっていっているかを書いている。

 

この本を読んでいた当初、僕は単純に「まあ、キレイな方が色々と便利だし、そういう方向に社会が流れるのも仕方がない」としか思わなかった。

しかし最近、キャンセルカルチャーやらコロナに伴う道徳警察の発生のようなものをみるようになって、自分はこの綺麗すぎる社会は若者にとってメチャクチャに怖い場所になってしまったのではないかと思うようになった。

 

何かをやったらぶっ叩かれるのは昔からの常ではあるが、現代の透明度合いはちょっと異常である。

 

イキることすら許されないし、誰も挑戦した事を褒めてくれない

ちょっと前まではバカッターといって、アルバイト中の若いのが不謹慎な行動をインターネット上にアップしてイキリまくっていた姿が散見されたけど、最近の若者は本当に静かである。

 

これは単にしつけが行き届いて若者が行儀よくなったというよりも、もうバカすらやれない位に現代日本はクリアになりすぎていて、徹底した恐怖の目が行き届いて、何かやろうにも恐怖で身がこわばるような環境になってしまったと考えるほうが妥当ではないだろうか?

 

社会が不潔だった頃はよかった。バカをやったら仲間からは称賛されつつも、有識者から「そういう事はやっちゃ駄目だぞ」と裏に呼び出されつつも「けどまあ、自分も若い頃はそういう事をやったもんだ」と秘密裏にやらかしを処理してもらえた。

こうして人はヤンチャを程よく発散できていた。また年配者も「若いってそういうもん」と、表ではキチンと説教はしつつも、裏で挑戦を褒めていた。

 

しかし冒頭であげた婚活事例のように、現代ではヤンチャをやろうにも加害と避難され、かつ誰も年配者は後始末も手引もしてくれない。

それどころか本来なら支援すべきはずの大人がよっていたかって若者を叩く側に回るのだから…冗談抜きで僕は今の日本は若者にとって、ガチで怖いだけの場所になっているのではないかとすら思う。

それこそ世界で一番ヤバイかもしれないぐらいに、だ。

 

本当に、難しい世の中である。

こんな世の中で挑戦しろとか結婚しろという方がムチャだ。

救いはもう、ペットにしかないのかもしれない

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Ryo FUKAsawa

世の中には、「仮定の話ができない人」がいる。

 

私がそのことを初めて強く意識したのは、プロジェクトで「リスク管理」の話をしていた時だ。

 

リスク管理は、基本的には「仮定の話」を中心に進む。

例えば、「ここで要件が変わったらどうする」とか、「協力会社の納期遅れが発生したらどうする」とか、そういう「致命的だけど、ありえない話ではないこと」をきちんと表に出してリストにし、一つ一つ影響度などを議論するのが、リスク管理の基本だ。

 

しかし、このような話に対して、コミュニケーションが困難、あるいは「聞かれたことを無視」する人もいる。

例えば

「要件を変えることそのものがおかしい」とか

「協力会社の納期遅れは我々の責任ではない」とか。

まあ、たしかにそうなのだが、今はその話をすべきときではないことくらい、わかるはずだ。

 

また、ひどいケースになると、リスク管理が必要と認めつつ、リスクの具体的な話になると

「やる気がないのでそういう事が起きる」とか

「私の経験では、そのようなことは一度も起きていない」と、言われたこともある。

 

いやいや、そもそも、事故は起こさないのは当たり前だけど、リスク管理なのだから、事故が起きた想定の話をしたいのですが、と言っても、それが理解してもらえない。

 

こうなるともう、リスク管理は機能しない。

「希望的観測」のみに依拠して進められたプロジェクトは、何もなく終わることもあるが、結局は運しだい、となる。

 

なぜ、仮定の話ができないのか

ではなぜ、彼らは仮定の話ができないのか。

「人類のIQの長期的な上昇」(フリン効果)の研究で知られるジェームズ・フリンは、仮定の話ができない人は「IQが低い」としている。

つまり、脳の機能の話だ。

 

実際、フリン教授は、

・仮定を真剣に受け止めること

・分類すること

・論理を使って抽象概念を扱うこと

の3つの分野に、IQの高さが顕著に現れるとしている。

 

中でも、「仮定を受け止める」について、フリン教授は父親との会話を引き合いに出す。

私と兄は、父を相手に人種問題についてよく議論した。

父が人種差別を擁護すると、私たちは「もし父さんの肌色が変わったらどうするの?」と食ってかかった。

すると、具体的な事柄にこだわる1885年生まれの父はこう言い返してきた。「バカも休み休み言え。肌色が変わった人なんて見たことあるか?」

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また、仮定を受け止められない人の反応は、つぎの「ラクダとドイツのインタビュー」にもよく現れている。

問い:ドイツにラクダはいない。B市はドイツの都市だ。では、B市にラクダはいるか、いないか?

答え:ドイツの村を見たことがないからわからない。大きな街ならラクダくらいいるだろうさ。

 

問い:でも、ドイツのどの場所にもラクダはいないとしたら?

答え:そこは小さな村で、ラクダには狭いのかもしれないな。

 

仮定の話をしているにも関わらず、「見たことがないからわからない」と述べて質問を無視するのは、様々な状況を仮定しなければならない、複雑な仕事には不向きな特性であることは言うまでもないだろう。

 

もちろんこれは別に仕事だけではない。

「戦争になってしまったらどうすべきか」を議論したいのに、「戦争を起こしてはいけない」との回答。

「貧困家庭に生まれたらどうすべきか」を議論したいのに、「貧困は撲滅すべき」との回答。

「神が存在するとしたら」を議論したいのに、「私は神を信じていない」との回答。

 

彼らの言っていることは特に間違ってはいないのだが、残念ながら、生産的なコミュニケーションは取れない。

このように「仮定を真剣に検討しない」人は随所に見られ、軋轢を生んでいる。

 

複雑な仕事は苦手

したがって、仮定の話ができない人、つまり「オレの経験」を基にしてしか話ができない人は、マーケティングやマネジメント、そして冒頭に挙げたリスク管理など、複雑な仕事が苦手だ。

それは「他者の立場」「自分の経験したことのない条件」を仮定して思考することができないからだ。

 

他者の立場を推定する行為は、「仮定」に満ちている。

もし結婚していなかったら?

もし女性だったら?

もし地方在住だったら?あるいは海外在住だったら?

もし年収が200万円だったら?逆に1000万円だったら?

 

こうして条件を仮定し、推論を積み上げ、仮説を検証して、すこしずつ正解に近づけていくのがマーケティングやマネジメントであるため、「オレの経験一本」で勝負する、古いタイプの管理職などは、現代の複雑な仕事に耐えられない。

 

「仮定の話ができない人」の適材適所

したがって、彼らに対して、「仮説検証」を繰り返すタイプの仕事を与えてはならない。

おそらく早晩、行き詰まる。

 

逆に彼らに適しているのは、「あれこれと悪い想像をしない」ので、とにかく現場で行動をするタイプの仕事か、現物を相手に、手を動かして試行錯誤できるタイプの仕事だろう。

 

仮にあなたがマネジャーだったら、

「どうも仮定の話が通じないな」

「仮説検証が苦手そうだな」

と思ったら、これは良し悪しではなく、適材適所の話だと割り切って、別のタイプの仕事を割り当てると、結果を出してもらえるかもしれない。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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はじめに

現代日本の企業社会においては、欧米諸国と同様に企業の売買、すなわちM&Aがごく普通に実行される時代になってきています。

M&Aの目的は、ある企業を買収し自社の傘下に収め、新しい事業を展開し、規模の拡大やシナジー効果による効率化をすることで、自社の業績を飛躍させることにあります。

かつてはマイナスイメージで語られることが多かったM&Aも、今では事業発展のキーワードとしてとらえられることも増えてきました。

 

しかしながら、数千万から億単位の金銭が動くだけに、いざM&Aとなると買手も慎重にならざるを得ません。

M&Aを行いたい企業の企業価値を見誤ると、想定していた事業計画に支障が生じるばかりか、自社本体の事業にマイナスの影響が出てしまうとも限りません。

したがって、M&Aの際には当該企業の企業価値を正確に把握する必要があるのです。

 

そこで今回は、M&A時の専門的調査等を行う「デューデリジェンス」のノウハウに詳しい、U&FAS代表で公認会計士・中小企業診断士でもある氏家洋輔さんに、デューデリジェンスの種類と方法および注意点などについて解説していただきました。

 

1.デューデリジェンスとは

「デューデリジェンス」とは英語で”Due Diligence”と綴り、Dueは「正当な」、 Diligenceは「努力」という意味の2つの単語を組み合わせた言葉です。

デューデリジェンスの意味について明確な定義はされていませんが、今ではデューデリジェンスといえば企業買収の際に行われる、売手への専門的な調査を意味しています。

 

M&Aでは、これから買収しようとする企業の現在の企業価値がどれくらいなのかが最も重要なファクターとなります。

ビジネスでは、買う品物が本当に自分の役に立つのかどうかを、正確に「品定め」をする必要があります。

これと同様にM&Aの現場では、専門家による売手企業の実態の調査が実施されており、これら一連の作業を「デューデリジェンス」といいます。

なお「デューデリジェンス」は略して「デューデリ」や「DD」とも呼称されています。

 

2.デューデリジェンスの目的

デューデリジェンスでは、財務・法務・税務・環境・ITなど多角的な観点から調査が実施されています。

デューデリジェンスを行う主な目的は、以下の4点に集約されます。

 

(1)M&Aの可否

デューデリジェンスを実施した結果、売手の企業価値が想定よりも低いことや、粉飾決算や法的トラブルが発覚し、買収後のリスクが高まる恐れが出てくることがあります。

その場合はM&Aを断念するケースもあり得るので、デューデリジェンスはディールブレイク(買収の障害)を判断するに適切な手段になるのです。そしてデューデリジェンスの結果は、M&Aにゴーサインを出すか否かの判断材料ともなるわけです。

 

(2)買収価格の算定に有用な情報の提供

売手の企業価値や法的リスクなどを正確に把握することは、M&Aの交渉において、価格決定に大きな影響を与えるファクターとなります。

 

(3)契約書に記載すべき事項の有無を確認

M&Aでは売手と買手との間に契約書が取り交わされます。デューデリジェンスで判明した事実を参考に契約書に記載すべき事項の有無を確認します。

 

(4)買収後の経営・統合に向けた事項

M&A成立以降、デューデリジェンスでの発見事項を参考に買手の経営戦略や統合にかかる戦略にも検討されます。

 

3.デューデリジェンスの種類と方法

企業価値算定(バリュエーション)には、いくつかの種類と実行する際の複数の方法論があります。どの種類を優先するのかは、各企業の戦略や業種、業態、環境などによって異なります。

手法ごとに意味・目的・具体的にどのような情報が必要かによって何を調査するのかを明確にします。対象企業の正常収益を割り出すことは多くの企業価値算定手法でも必要となるため重要と言えるでしょう。

デューデリジェンスにて判明した事実により、現在の企業の価値を計ることが重要な目的です。

それではここで、デューデリジェンスの代表的な種類と方法について解説します。

 

(1)財務デューデリジェンス

財務面を優先してデューデリジェンスを実施する企業が多いです。

やはり、買収後の企業運営や事業計画に最も影響するのは財務面なので、これは必然的な傾向といってよいでしょう。

 

財務デューデリジェンスでは、企業価値算定(バリュエーション)をどういった方法で算定するかがポイントとなります。

企業価値算定方法は、買手側によって異なることも少なくないため、買手側がどのような手法で企業価値を算定したいかを把握することが重要です。

例えば企業価値算定(バリュエーション)手法をDCF法とする場合には、財務デューデリジェンスでは、「正常収益力・運転資本・設備投資・ネットデット・事業計画」などの複数の調査項目があり、これらの正確な分析がカギとなります。「財務デューデリジェンス」の各種方法とその要点を以下に紹介しましょう。

 

①DCF法

買手企業がある程度大きな規模である場合に用いられるデューデリジェンスが「DCF(ディスカウント・キャッシュ・フロー)法」です。

将来の事業計画から現在価値に割り引いて企業価値を計るという、これからの事業戦略を見据えた形の企業価値算定(バリュエーション)手法です。

 

②純資産法

簿価の純資産から時価調整して時価純資産を算定し、その数値を基準に株価を算定する方法が「純資産法」です。

現時点での企業の実態純資産を把握するために有効な方法であり、企業の貸借対照表を正確に分析・検証することが重要ポイントとなります。

 

③年買法

規模がそれほど大きくない企業に用いられることが多い方法が「年買(ねんばい)法」です。学説などに基づく厳格な根拠がある方法ではなく、企業社会の慣習として用いられています。

「時価純資産+減価償却前の営業利益×3年~5年」という計算式が一般的です。時価純資産や正常収益力の正確な把握が重要ポイントとなります。

 

財務デューデリジェンスでは、上記の企業価値算定(バリュエーション)手法に合わせて、必要な調査をしていきます。

他にも法務デューデリジェンスとの連携により、簿外債務や未払賃金の有無、訴訟を抱えているケースでは敗訴の場合はどれくらいの金銭的マイナスが生じるか、未払い残業代などの情報を法務デューデリチームとコミュニケーションを取りながら数値に落とし込みます。

 

(2)法務デューデリジェンス

「財務デューデリジェンス」の次に広く実施されている調査項目が「法務デューデリジェンス」です。

売手が置かれている法的なリスクは顕在化されていないことが多く、入念な調査を怠るとM&A成立後に思わぬ事態が生じることも珍しくありません。

以下に「法務デューデリジェンス」のポイントを列挙しましょう。なお、詳細な内容は弁護士等の専門家に依頼しましょう。

 

①株主の全てを把握しているか

現在の株主がどれくらい多岐に渡っているかなど、全株主の状況を把握しているかを売手が事前に調査することは重要です。

株主の問題でM&Aが不成立となる場合も少なくないので、慎重な調査・対応が必要となります。

 

②多面的な検証

会社の基本的事項の確認として、以下の項目等が調査対象となります。

・過去の株主総会決議の有効性確認

・取引の契約書の内容確認

・提携している会社との契約書確認

・人事労務、労使関係の契約を確認(特に未払い残業代の有無などを確認)

・知的財産権の掌握(会社保有の「著作権」「特許権」「意匠権」「商標」など訴訟の有無)

 

(3)事業デューデリジェンス

ビジネス面にフォーカスした財務的な事業分析をするのが「事業デューデリジェンス」です。

会社の強み・弱み・機会・脅威を解析するSWOT分析など、定性的な分析や財務チームとも連携をしながらKPI分析など定量的な分析が必要で、今後どうすれば事業が伸びるのか、事業戦略に関わる重要事項のために必要な調査となります。

 

4.デューデリジェンス実行上の注意点

M&Aには売買契約前の最も重要な作業がデューデリジェンスです。

成立後の後悔が許されないM&Aだけに、デューデリジェンスを実行する上での注意点について以下に挙げてみましょう。

 

(1)方法の選択

最初に、様々な種類があるデューデリジェンスの中からどの方法を選択するのか、あるいは各方法の優先順位はどうするのかを決めなければなりません。

方法の選択はM&Aにかかる総予算との兼ね合いで決めることが多いようです。たとえば、譲渡費用3,000万円で買収する場合に、デューデリジェンスに500万円を使う会社は少ないようです。どれくらいの費用を割けるのかをあらかじめ決めておかねばなりません。

 

予算が限られているとしても、最低限の調査として「財務デューデリジェンス」は必要だと思いますし、実際に調査をされている会社が多いです。

やはり中小企業の場合は、粉飾や粉飾でなくても会計上の誤りが多いのが一般的で、数字の中身を分析せずにM&Aをするのは怖いですからね。

財務の次は、リスクが隠れていることが多い「法務デューデリジェンス」で、この両者以外は予算やリスクの度合によって検討した上で行うのが一般的です。

 

(2)自社によるデューデリジェンス

買手が売手の同業者である場合、買手が自社で事業デューデリジェンスを行うケースもみられます。ただし、自社デューデリは外部委託よりも客観性に欠けるケースがあります。

そのため、M&Aのデューデリジェンスの専門家に依頼するのが賢明でしょう。M&Aの専門家であってもマッチング(仲介等)とデューデリジェンスは全く異なる業務となり、報酬の計算方式も異なるパターンが多いです。

マッチングの場合は、たとえば譲渡金額の5%等が報酬となるレーマン方式での算出方法が一般的ですが、デューデリジェンスの調査費用は定額報酬となっていることが主流です。

 

5.デューデリジェンスにおける売手の注意点

売手にとってはデューデリジェンスが無事に完結することがM&A成立の絶対条件です。売手としては、デューデリジェンスへ友好的に協力することが大切です。デューデリジェンスにおいて、売手が守るべき注意点を以下に紹介しましょう。

 

(1)誠実な対応

売手は、買手側のデューデリジェンス担当者からいろいろなことを根掘り葉掘り聞かれることを覚悟しなければなりません。その際、会社の価値が下がるかもしれないと、事実関係を隠ぺいしてしまうことがあります。

しかしながら、隠ぺいが発覚するとせっかくの信頼関係が崩れてしまい、最悪の場合はM&Aが不成立となりかねません。

売手は、マイナスの情報をいくら隠しても必ず発覚するということを肝に銘じ、デューデリジェンスには誠実な態度で対応することを忘れてはなりません。

 

(2)事前の準備

デューデリジェンス担当者は、いくつもの資料提出を求めてきます。資料の提出が滞ると、調査に支障が出て、M&Aの契約進行にも大きな悪影響を及ぼします。

デューデリジェンスが進まない→調査が終わらない→調査結果不明のためM&Aが不成立、という流れにならないよう、必要な書類は事前に準備しておくことが肝要です。

 

6.まとめ

売手としては、デューデリジェンスで企業価値が低くみられるのでないかと心配する経営者もいることでしょう。

何も対策を講じずに戦々恐々とするよりも、デューデリジェンスまでに時間的余裕があれば、状況を整えて自社の企業価値を上げることができます。

 

また、企業価値を少しでも上げるために専門家を活用すれば、M&Aの契約内容を売手有利に進めることも可能です。

一般的に、M&Aでは企業同士のマッチングについてばかりが注目される傾向がありますが、マッチングと並行し、デューデリジェンスを正確かつ円滑に進めることが、売手・買手共に大切なのです。

 

(話者:U&FAS 代表 氏家 洋輔(公認会計士・中小企業診断士)

※本記事は、「株式会社リクルート 事業承継総合センター」からの転載です。

 

 

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■著書プロフィール

株式会社リクルート 事業承継総合センター

㈱リクルートが運営する「M&A仲介会社・買手企業の比較サービス」です。

弊社品質基準を見たす仲介会社50社、買手企業17,000社以上の中から、売手企業様に最適なパートナーを、着手金無、業界最低水準の成果報酬でご紹介します。

事業承継及びM&Aに関するコンテンツを中心にお届けします。

Photo by Romain Dancre

「働かないおじさん」を、いかにして働かせるか。

この難題には、きっと多くの人々が取り組み、挫折しているだろう。

 

相手がマトモな感覚の持ち主なら、やる気を喚起する、インセンティブを与えるなど方法は多々ある。

が、働かないおじさんにはこういった「飴」は通じない。

 

そもそも彼らは正社員でありながら大して会社に貢献していない、もしくは全く仕事をしなくても給料をもらえる恵まれた存在だ。

新たなニンジンを与えれば奮起するなどという考えは、働かないおじさんを甘く見すぎにもほどがある。

では「鞭」ならどうかというと、失業の危機に瀕すれば態度を改める人も出そうだが、現状においては正社員をクビにするのは至難の業だ。

 

では解決方法はないのかと言えば、一つある。

おじさんを『存在しないもの』として、扱えばよいのである。

なぜそんなことを推奨するかといえば、一つには働かないおじさんが周囲に及ぼす悪影響をシャットアウトするためであり、もう一つはこの方法しか働かないおじさんを「消し去る」方法はないからだ。

 

これは、「世界平和を狙うのではなく、自国を戦場にしないことを狙う」ようなものだ。

それなら、頑張ればできなくもなさそうな感じがする。

 

それと同様、と言っていいかは分からないが、世の中にいる全ての働かないおじさんに勤労意欲を抱かせることは不可能でも「自分が働かないおじさん化しない」という目標なら、やり方次第で達成できる。

そのためにはまず、社内失業者の人々を相手にせず、彼らに引っ張られないようにすべきなのである。

 

視界から消すことで悪い影響を取り除くべし

さて、冒頭で働かないおじさんを存在しないものと扱うと書いたが、それは話しかけられても完全に無視すべし、ということではない。

そういう子どもじみた話ではなく、ここで言う「消し去る」とは業務の遂行上、いないものとして考えるということだ。

 

例えば部下や同僚に働かないおじさんがいるなら、無理に戦力として使ったり関わったりせず、彼らが1日中ネットニュースを見ていようが、相手にしない。

間違っても、「何も仕事をせず、早く帰れて羨ましい」などと思ってはいけない。

 

不公平だ、不条理だという思いも抱くだろう。

だが、そのような思いを持つ時点で、貴方はすでに働かないおじさんの放つ悪いオーラに呑まれている。

 

かつて都内の中堅出版社で中間管理職をしていた自分は、惚れ惚れするほど仕事をしない中高年(そのほぼ全てが男性、つまりおじさん)に数多く接してきた自負がある。

例えば、年収おそらく2000万円はくだらない営業部長。

編集会議で、「いやね、最近中身は全く見ていないんだけども、君の部署の雑誌はリニューアルした方がいいって意見もあってね」などと平気でぬかすお方である。

 

この方の数少ない仕事の一つに、朝礼でその月の刊行物一覧を読み上げるというものがあった。

自分が勤めていた会社は世間体のよろしくない媒体も割と扱っていたのだけども、その営業部長は女子社員も大勢いる前で、わざわざ恥ずかしいタイトルを真面目な顔で読み上げる。

「えー、12月の刊行物ですけども、まず『エッチなサンタさんのSEXYクリスマスプレゼント』。次に……」

といった具合で、無能とかそういう次元を超えた殿堂入りの働かないおじさんであった。

 

はたまた、50代にして早くも人生逃げ切り最終コースに入り「仕事をしたら負け」と信じているとしか思えないベテラン書籍編集者。

当時、わが社では月1冊単行本を刊行すべしとのノルマがあったのだが、この方は実現性皆無の企画書を出しては、そのノルマをスルーすることを得意としていた。

 

企画チェックをするのは前出の営業部長らであり、「うん、それいいね」などとOKを出すものの、よくよく調べてみたら著者がすでに死んでいた、なんてやり取りを聞くにつれ、この会社は大丈夫だろうかと感じたものである。

 

当然、中間管理職である自分は、若手から突き上げを受ける。

「なんであんな何もしない人がいて、僕らは毎日徹夜なんですか!?」

 

そういう時、自分はこんな風に答えていた。

あれは社員ではなく、『全自動う◯こ製造機』。食事をして、消化して、それを排泄するだけで何故か給料がもらえる人たちで、うちの会社には何十台も置いてあるけれど、君の仕事とは何の関係もない。それとも君は、ああいう風になりたいの?」

当時は自分も若く、仕事をしない人々に怒りを覚えていたため、辛辣な言い方をしていたわけだが、後には最初からいないものと捉えるのが一番という考えに落ち着いた。

 

働かないおじさんの害悪とは、単に仕事をしないだけではない。

何もしなくても金がもらえ、仕事で他人に迷惑をかけてもクビにならない姿を見せつけ、若手や同僚のモチベーションを削りにくるーーこれこそが彼らの持つ真の恐ろしさである。

 

それを跳ね返すには、ああはなりたくないと思うこと、そして彼らに対して何の感情も抱かないに限る。

これこそ自分が働かないおじさん化しないための第一歩なのである。

 

謙虚であれ、地道であれ

ここまでの内容に同意し、実践していただけたならば、すでにあなたの意識からは働かないおじさんが「消え去った」はずである。

ただ、それだけで自身の働かないおじさん化を完全に防げるわけではない。

 

そもそも、今は終日ソリティアをやっていたり、連日直行直帰でオフィスにいない働かないおじさんとて、かつてはバリバリ働いていた人々、ということはザラにある。

むろん例外もいるだろうが、外部の人などに昔話を聞くと、彼らの現役時代の勇姿を耳にできることは珍しくない。

 

つまり、現在は仕事の最前線で頑張っているあなたとて、いつしか仕事をしない人になってしまう可能性があるということだ。

以下、あくまで筆者の経験則ではあるけども、そんな事態を避けるための心得を挙げてみたい。

 

まず第一に他者、とりわけ部下の手柄を自分のものとしないことだ。

これは部下や同僚に嫌われないようにする意味もあるが、何より重要なのは、自身の能力について間違った認識を持たないようにするためだ。

 

出版社で中間管理職をやっていた頃、社内にわずかながらいた尊敬すべき先輩に言われたこととして、

「編集長の最大の仕事は責任を取ること」

「部下の業績は部下のもの、自分の業績も部下のもの」

という教えがある。

 

高尚な考えとはいえ、実際に言葉通り実行すると、会社組織の中ではぶっちゃけ損をする

それゆえに「皆さんもぜひ」とは決して言えないけれど、せめて部下のものを取り上げて悦に入るようなバカ上司になるべきではない。

それは他者の能力を己の実力と勘違いすることにつながり、ひいてはあなたを意識だけは高い働かないおじさんに変えていく。

 

第二に、仕事上のさまざまな雑務や現場仕事から、できるだけ手離れしないことだ。

効率面だけを見れば、社歴を積んで席次が上っていくほど、仕事は特定の内容に特化すべき。

また、入社してすぐの社員でもできる業務内容に携わる必要はなくなるわけだが、それでもあえて雑務や現場回りなどを若い人に投げすぎないようオススメしたい。

 

良く言えば自己完結型、悪く言えば器用貧乏だが、こういうタイプはどこの部署に配属されても対応力があるため、戦力外になりにくい。

少なくともどこの職場にも必ずいる「あれやって、これやっておじさん」になることは避けられるわけだ。

 

そして最後、これが一番難しいが、自身が持つ価値に客観的評価を下すことである。

一般的に会社でキャリアを重ねていくと、自分で手を動かす機会は減っていく。

その代わりに人員や業務を管理したり、何らかのジャッジを下す側に回るわけだが、この業務においては経験や見識といったものが重要なファクターとなる。

 

問題はそれらがとっくに賞味期限切れ、もしくは過去の遺物となっている場合。

古い経験や今の価値観に合わない見識を振りかざし、部下に間違った指示を出したり、全くトンチンカンな判断を打ち出したりーー。

マトモな会社であればそういう人を役職に長く置くことはなく、ヒラに降格かもしくは実権のないポストに左遷といったところ。

現場から離れて久しいため実務はできず、持っている経験や知識も使い物にならない、立派な働かないおじさんの一丁上がりとなる。

 

そうならないためには、自分が積み重ねてきたものが今も通用するのか、不断の検証が必要だ。

「こりゃ使えない」と自覚できるうちはまだやり直しも効くけれど、客観的に見る目を失ってしまえば、あとはもう真っ逆さまである。

 

いずれにせよ、全ての人が「自分だけは働かないおじさんにならない」と覚醒すれば、数世代で社内失業者は消える。

むろんこれは空虚に過ぎる理想論で、そんなことは実際には起こらない。

 

せめて本稿をお読みいただいている貴方だけでも、社会人として充実したキャリアを送られることを願う次第である。

 

 

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【プロフィール】

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。

Photo by Shiromani Kant

前回の「主要決算こう読む」では航空2社の決算を例に、業績が落ち込んだ企業の決算資料の注目点を取り上げました。

しかし本業が好調であっても、特別損失の計上などにより大幅な減益となったり、最終赤字に転落したりする事例もあります。

今回はこのようなケースにスポットを当てつつ、企業の決算関連資料を読み解くうえで必要な基礎的な知識を引き続き押さえていこうと思います。以下のステップで説明しています。

 

特別損失(特損)とは何か

特損には様々なタイプがある

決算短信の1ページ目には通常、「売上高」と「営業利益」、「経常利益」や「税引前利益」、「(親会社株主に帰属する)当期純利益(=最終利益)」などが記載されています。このうち営業利益は経済ニュースでは「本業のもうけを示す」という修飾句が付くことがあります。

前回取り上げたJALとANAホールディングスの2022年3月期決算では、コロナ禍で落ち込んだ旅客需要の回復が遅れたことなどを背景に、両社とも営業赤字となっていました。「本業」の落ち込みで赤字となった事例と言えるでしょう。

 

一方で、売上高や営業利益が伸びているにもかかわらず、最終損益(ボトムライン)が赤字、または大幅減益となってしまうケースも、上場企業の決算発表には散見されます。

本業以外の部分で発生した損失を営業外費用として処理したり、偶発的に膨らんだ多額の損失を特別損失として計上したりしているためです。

 

日本基準で業績を開示する場合、営業外費用には借入金などの支払利息など、本業以外で経常的に発生する費用が含まれます。

これに対し、特別損失は臨時的、偶発的に発生した損失が該当します。

基本的にその企業にとって多額となるものが該当しますが、どの程度なら多額なのかという判断については、企業に一定の裁量があるようです。主な特別損失の例としては、以下のようなものがあります。

 

1) 資産や有価証券などの売却・除去損や減損損失
2) 製品・サービスに起因した一時的な損失や引当金の計上(リコール対応・顧客補償など)
3) 構造改革に伴うもの
4) 災害や盗難によるもの
5) 過年度決算の修正に伴う調整
6) 創業者への特別功労金など

 

IFRSで特損はあるのか

上に挙げた特別損失の例は日本基準に則ったものです。IFRS(国際会計基準)では「経常的」と「偶発的」の区別がなく、上記のような費用は、金融取引に関する項目以外は営業損益に含んで開示されます。

関連記事:IFRSと日本基準-財務諸表、損益計算書の違い Vol.3【事例で解説】

 

IFRS適用企業の場合、偶発的な事象の影響を除いた事業のトレンドを把握するには、自動車メーカーで言えば車両販売台数、航空業界で言えば旅客数や客単価など、トップライン(売上高)に直結するKPI(重要業務指標)もあわせて確認する必要があると言えます。

 

実際の特別損失の例

日野自動車の場合

それでは2022年3月期決算を発表した企業のうち、特別損失を計上して最終赤字、または大幅減益となった企業の損益計算書(P/L、抜粋)をみてみましょう。

 

まず紹介するのは、日野自動車です。決算短信をみると本シリーズで過去に扱ったワークマンと同様、「収益認識に関する会計基準」適用の影響により21年3月期実績との比較がありませんが、単純計算をすれば、22年3月期の売上高は前の期と比べ約3%減、営業利益は約2.8倍となっています。

 

半導体不足が生産・出荷面に影響し、売上高はわずかに落ち込みましたが、売上原価の減少が営業増益の一因となっています。

21年3月期に発生した「持分法による投資損失」が、22年3月期に計上されなかったことも経常利益を押し上げる要因となったものの、最終損益は前の期に続き赤字となり、かつ赤字額は拡大しています。

 

同社は「日本基準」で決算を開示しています(この後の2社も同じです)ので、何らかの特別損失が発生したのではないかと、サマリーを読んだ時点で推測することができます。

実際に特別損失の項目をみると、前の期の159億円から705億円と大きく膨らんでいるのが分かります。

決算短信には特別損失の内訳が記載されています。21年3月期に計上した「北米認証関連損失」が22年3月期には273億円に増加したほか、新たに22年3月期は「国内認証関連損失」として400億円を計上しています。

 

日野自動車はディーゼルエンジンの性能試験に不正があったとして、国内ではエコカーの普及に向けた優遇税制に関して追加の納付額が発生する見込みとなったことに加え、北米では顧客に対する補償費用も増加するとして、それぞれ「認証関連損失」として計上することとしました。

「法人税等調整額」については後述しますが、これらの費用の発生が最終赤字を拡大させることになったと言えます。

 

なお同社は「不正行為の対象となった車種の出荷を再開できる時期について合理的に見通すことが困難」だとして、23年3月期(今期)の業績予想の開示を見送っています。

 

ベネッセホールディングスの場合

次に示すのはベネッセホールディングス(HD)のP/Lです。日野自動車は減収でしたが、ベネッセHDの22年3月期は前の期と比べ1%増となっています。

東京個別指導学院をはじめとした国内での学習塾事業の顧客数が回復したことなどが背景にあるようです。

営業利益と経常利益も50~60%台の大幅増となりましたが、最終利益は66%の大幅減益となっています。

特別損失をみると21年3月期の28億円から22年3月期は99億円に膨んでいます。

決算短信でより詳しく中身を確認すると、21年3月期に15億円あった「在外連結子会社リストラ費用」(Berlitz Corporationの事業構造改善のためのリストラ費用)が22年3月期はなくなった代わりに、「関係会社株式売却損」が新たに95億円計上されています。

 

ベネッセHDは22年2月、Berlitz Corporationに対する178億円の債権を放棄したうえで、全株式をカナダ企業に売却すると発表しました。関係会社株式売却損はこれに伴うものです。

一方、株式売却に伴って税金削減効果も発生し、22年3月期の「法人税・住民税・事業税」は減少しています。同社は日野自動車とは対照的に、23年3月期の業績予想を開示しており、売上高を前期比1%減の4260億円、最終利益を約13倍の135億円と見込んでいます。

 

第一交通産業の場合

珍しい例となったのが、タクシー国内最大手の第一交通産業の22年3月期決算でした。

コロナ禍によるタクシー利用者の減少などを背景に、21年3月期の業績は大きく落ち込みましたが、22年3月期は増収となり、営業損益の段階でも3億4000万円の黒字に転換しました。しかし最終損益は8億4200万円の赤字となっています。

上の表を見る限り、特別損失の額は一見、変化がなく、むしろ特別利益の減少が響いたのではないか、と思う人が多いかもしれません。

実際に決算短信をみると、特別利益の項目にある「雇用調整助成金」が、21年3月期の25億円から11億円に減少しています。

一方、特別損失の項目をみると、「臨時休業等による損失」が23億円から11億円に減少したものの、21年3月期になかった創業者に対する「特別功労金」を22年3月期に新たに約16億円計上しています。

 

特別損失はほぼ横ばいとなりましたが、創業者の取締役退任に伴う特別功労金の存在がなければ、22年3月期の特別損失は約17億円に減少し、最終損益は黒字に転換したと考えられるため、同社の決算は発表後、株式市場で話題となりました。

ちなみに同社は23年3月期(今期)の業績予想を開示しており、増収・最終黒字への転換を見込んでいます。

 

特損発生で留意すべきこと

「繰延税金資産」は取り崩したか

ここまで22年3月期決算で実際にあった特別損失の事例をみてきましたが、改めて日野自動車の事例をみると「法人税等調整額」が21年3月期のマイナス15億円から22年3月期はプラス347億円と大きく変化しているのが分かります。

法人税等調整額とは、バランスシート(貸借対照表、B/S)にある「繰延税金資産」と「繰延税金負債」の変化をP/L上に反映させる項目で、マイナスなら最終利益を押し上げる(プラスなら押し下げる)方向に作用します。

関連記事:繰延税金資産って何?

 

繰延税金資産(負債)は、会計上の利益と課税所得の計算で発生する差異を調整するために用いられる項目です。

簡略化して言えば繰延税金資産は、来期以降の税金の「前払い」分であると考えられています(繰延税金負債は「未払い分」と位置付けられます)。

 

経済ニュースでよく取り上げられるのは、「繰延税金資産」を「取り崩した」ケースです。

赤字が続き、さらに業績の急回復が見込みにくいなかにあっては、将来の利益創出を見込んで計上していた繰延税金資産の「価値」が認められなくなります。

繰延税金資産を取り崩すと、法人税等調整額を計上する必要に迫られます。

 

日野自動車の場合、繰延税金資産を取り崩したことが法人税等調整額を増加させ、最終赤字額をより大きなものとしました。

特別損失自体は「臨時」の損失かもしれませんが、業績回復への道筋がより困難となった場合、繰延税金資産の取り崩しという事態を引き起こす可能性があるということも、念頭に置く必要があります。

 

特損計上=「減益」「赤字決算」とは限らない

今回紹介したのは最終赤字、または大幅減益となった企業例ですが、もちろん特別損失を計上しながら最終増益となる企業も存在します。

営業・経常利益を大きく伸ばした企業の場合、特別損失が多少発生したとしても、営業・経常利益の伸びを打ち消すほどのものでなければ最終利益も増加する、というのは想像しやすいかと思います。

また本業が好調でなくても、特別損失が発生した際に、簿価よりも時価が高い資産の売却に伴う営業外収益や特別利益が発生したことで、結果として特別損失の影響が目立たなくなった、というケースもあります。

 

一般的に企業は業績が堅調な際、損失が見込まれる資産の売却などに踏み切りやすくなります。

日本基準を適用する企業なら、資産の減損損失に向けた意思決定も行いやすくなると言われています。

半面、課題事業を抱える企業が、最終利益が大きく伸びているにもかかわらず、特別損失として構造改革費用や減損損失などを計上していない場合、「ウミ」を出す努力を怠っているのではないか、という厳しい視線を投資家から向けられる可能性もあります。

 

※シリーズの過去の記事はこちらから

日本電産決算、「マージン」や「営業利益率」に着目すると…

トヨタ業績 「販売計画」の変化に注目する

ワークマンから小売業績の要点を学ぶ

JAL・ANAHDの「利益剰余金」はどうだった?

 

(執筆:長田 善行)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

 

Photo by :Maxim Hopman

自己家畜化は誰のため?――私たちのこれからを考える -金子書房note

上掲リンク先は、私たち(ホモ・サピエンス) の自己家畜化と、その延長線上とみなせる近代以降のさまざまな変化を、精神医学のトレンドとあわせて論じたものだ。

 

自己家畜化とは、最近の進化生物学領域でしばしば見かける言葉で、より群れやすく・より協力しやすく・より人懐こくなるような変化だ。

たとえば人間の居住地の近くで暮らしていたオオカミやヤマネコのうち、人間を怖がらず、一緒に暮らし、そうやって生き残った子孫が犬や猫へと進化したのは自己家畜化のわかりやすい例だ。

 

そのような変化が起こった動物は、頭蓋骨が小さくなる・犬歯が小さくなる・性差が小さくなるといった具合に外見が変わるだけでなく、男性ホルモンであるテストステロンの量が減る・脳内で利用できるセロトニンの量が増えるといった、ホルモンや神経伝達物質の変化を伴う。

でもってホルモンや神経伝達物質が変われば、行動やメンタルも変わることになる。

 

進化生物学は、私たちホモ・サピエンス自身に起こった自己家畜化についても論じている。

化石や遺跡、歴史や文化、赤ん坊の性質等々から多角的に検討し、この自己家畜化が私たちの先祖にも起こったという考えだ。

それこそがホモ・サピエンスが (ネアンデルタール人などと違って) 文明社会を築けるようになった鍵だと論じる向きもある。

あるいは人間の道徳の起源や家父長制の起源を、この自己家畜化とあわせて論じる向きもある。

 

ところで上掲リンク先の金子書房さんは、心理学や精神医学の学術書をたくさん出している出版社だ。

その公式noteに私が自己家畜化についてエッセイを寄稿しているのは奇妙に思えるかもしれない。

けれども私としては、割とマジというかガチというか、そういう気持ちでエッセイを書いている。

 

というのも、進みゆくヒトの自己家畜化と精神医学の発展は無関係にはみえないし、両者を比較すると人間の未来について考えるヒントが得られるようにも思えるからだ。

 

進みゆく自己家畜化についていけない特性として、精神疾患を想定すると……

このように私が考えるのは、文明社会の歴史が、まさにこの自己家畜化をさらに進める方向で進展しているようにみえるからだ。と同時に、その文明社会からのはみ出し者や不適合者がますます増えているようにみえるからだ。

そしてはみ出し者や不適合者とみなされるようになった人への救済策として、精神医療が発展しているようにもみえるからだ。

 

これも上掲リンク先に書いたことだが、社交不安症をはじめとする不安症群の患者さんは、まさに脳内セロトニンの利用に問題のある人で、特定の場面で不安や恐怖に陥り、そうした場面をできるだけ避けようとする。

これは (たとえば大都市のような) 自己家畜化が進んでいることを大前提とした社会環境で生活していくには、まさに障害と呼ぶに値するし、実際、そうした人は社会活動が制限されたり、これが原因となってほかの精神疾患を併発したりする。

 

さきにも書いたとおり、自己家畜化の進んだ動物は脳内で利用できるセロトニンの量が増え、不安や恐怖や攻撃性を抑制することができるようになる。

満員電車のなかでも不安や恐怖や攻撃性を抑制できること、職場の朝礼や全校集会に平然と参加できることは、私たちの自己家畜化がそれなり進んでいる証左であり、現代社会ではできて当然とみなされがちでもある。

 

しかし不安症群の有病率からいって、これができない人の割合は決して少なくない。

これまでに特段のトラブルもなかったのに、ある時期から特定場面で不安や恐怖に耐えられなくなってしまう人、たとえば人混みや演台で心拍数が急上昇してしまう人などは、精神医学の領域では珍しくもない存在だ。

 

のみならず、自己家畜化が進んでいる人間を自明視し、そのような人間に最適化されている社会は、他にもさまざまな特性を持った人を障害として浮かび上がらせる。

たとえば社会生活が高度になり、その高度な社会生活にみあった能力をますます求められる私たちは、座学やデスクワークに不向きな者をADHDとして、コミュニケーションや環境のコモディティ性に追随できない者をASDとして、読み書きそろばんの苦手な者をSLDとして、新たに障害として認定しなければならなくなっている。

 

感情面でもそうだと言えるかもしれない。

過去の人間は、現代人よりもずっと感情表出が豊かだった。たとえば昭和の日本人と令和の日本人、同じ西暦でも途上国の田舎の人と先進国の都会の人を比較してみればわかりやすい。

感情表出の豊かさは、時代が進むほど・社会生活が高度になるほど・さまざまな立場や地域の人が共存しなければならなくなるほど、必要というよりも不要になり、感情表出が控えめで繊細であることが期待されるようになる。

 

ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』では、中世において感情表出が現代とはまったく異なるさまを以下のように記している。

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 われわれから見れば互いに矛盾し合うと思われる種々の事柄、すなわち、信仰の深さ、恐怖心・罪悪感・贖罪の激しさ、喜び・快活さの異常な爆発、憎悪・攻撃欲の突如の燃焼と抑え難いほどの激越さ、それらすべては移り気の激しさ同様、事実、同一の環状構造の多様な現われにほかならなかった。衝動や感情の発現は後世に比べて、当時ははるかに奔放で、直截で、あからさまであった。万事が抑制され、計算されており、社会的タブーが以前に比してはるかに色濃く、自動制御的性格を帯びながら衝動処理そのものに組み込まれている現代のわれわれにとってのみ、当時の信仰のあからさまな強烈さと、攻撃欲ないし残忍さの激しさが矛盾と見えるにすぎない。したがって、当時の人々の感情表出や態度をわれわれが「子供じみている」と言うならば、それは現代では一般に子供たちにのみみられるような形で、当時の人々が感情を表出したからにほかならない。
『文明化の過程』より

中世の感情表出は現代のそれよりずっと大きかった。

そのように感情表出の大きい者は、今日、メランコリーならうつ病として、喜びや怒りであれば躁病とみなされかねない。

あるいはその他の精神疾患が該当することもあるだろう。

 当時の文献のいずこを見ても、類似のことが確かめられる。中世の人間生活は現代とは異なる情感の条件を基盤としており、不安定で、未来に対する十分な見通しに欠いていた。そうした社会では、全力を尽くして愛さないもの、あるいは憎悪しないもの、また激情の渦中でおのれを全うできないものは、修道院へ入ったのであった。後世の社会、とりわけ宮廷においては激情を抑制し、情感を秘めたり「教化」したりできないものがそうであったように、かれは、世俗生活の中ではいわば落伍者だったのである。
『文明化の過程』より

しかし中世においては逆である。

現代人のような、感情表出の穏やかな人間のほうこそが修道院に入らなければならなかった=社会からの落伍者とみなされた。

今では過剰や異常とみなされる感情表出のほうが、人間のまっとうな精神機能として期待されていた、ともいえるだろう。

 

中世の視点からみた現代とは、社会全体が修道院と化した未来社会であり、中世において健全・まっとうとみなされた人々こそが落伍者とみなされる社会である。

 

こうした中世から現代への変遷はもちろんいきなり起こったわけではない。

近世においては中~上流階級のあいだで繊細な礼儀作法が流行し、19世紀以前には逸脱者や異常者をかたっぱしから巨大精神病院に収容する時代があった。

やがて収容の対象となった精神病者や逸脱者の研究と分類が進められ、20世紀後半からはそうした研究と分類に生物学的・統計学的根拠が伴うようになった。

こうした精神医学の進展とともに、人間に期待される精神機能、および期待されない精神機能は変わり続けている。

 

自己家畜化が加速した未来をちょっと想像してみる

人間が自己家畜化していくプロセスで文化や文明が生まれ、その文化や文明がさらなる人間の自己家畜化をマッチポンプ的に促し、ますます協力的で、ますます都市的で、ますます感情の穏やかな人間を必要とするようになっていくとしたら、その行き着く先はどこだろう?

 

未来を、中世から現代までの流れの延長線上に見据えるなら、人間は、ますますみずからの感情表出にやすりをかけ、より穏やかに、より協力的に、より密集して生活可能な、そのような生物へと導かれていくのだろう。

テストステロンの暴威はなりをひそめ、社会秩序はセロトニンによるハーモニーに包まれる。

そうした変化は、学校などによる規律訓練型権力や都市環境による環境管理型権力によって進行するだけでなく、性選択を経ても進んでいく。

 

ここでいう性選択とは、現代社会に最適化された個人が配偶相手に選ばれ、そうでない者が選ばれないという選択過程のことだ。

収入や社会的地位や容姿などに優れる人間、この繊細きわまりない社会に適した人間が配偶相手として選択されやすく、そのような遺伝子が後世に残ることで未来の人間のありかたが変わっていく……といった具合に。

 

最近は、そうした性選択に加えて、精子を厳選して購入するとか、遺伝子診断的なものをとおして受精卵を選別するといったプロセスも加わる。

この社会に適応しやすい人間、この社会で成功しやすい人間が生まれてきて、この社会に適応しづらい人間、この社会で成功しにくい人間が生まれてくる確率じたいが下げられるプロセスが進行し、そのための手段が(たとえばマッチングアプリ的なものや遺伝子診断的なものも含めて)発展していくとしたら、生物学的にも私たちはもっともっと変わっていくのではないだろうか。

 

そうした人間の、人間による、人間のための? 選択と選別は、見ようによっては優生主義ともみえる。

優生主義として悪名高いのはナチスドイツの、そして北欧諸国やアメリカで行われてきた国家レベルの優生主義の実践だが(この悪名には日本も名を連ねている)、今日のリベラルな思想に基づいた、個人単位の選択と選別はリベラル優生主義として倫理的正当性を伴っている、少なくとも正当性との辻褄合わせをしていると聞く。

その議論は、これから発展するであろう遺伝子操作の領域にまで及んでいる。

[amazonjs asin="4779500915" locale="JP" tmpl="Small" title="リベラル優生主義と正義"]

 もし、右のような重篤な遺伝病への生殖細胞系列遺伝子治療が成功し、そのことが遺伝子工学についての社会の不安を和らげる方向にはたらけば、その次には、遺伝病の中でも子供の生命に与える影響が比較的小さい疾患や、成人病、ガンなど成人になるまでその影響が現れない遺伝的因子が、遺伝子工学の対象になろう。
やがて、エイズをはじめとする伝染病を予防するための遺伝子介入や、病気一般への抵抗力を高め、健康を推進するための遺伝子導入が可能になるかもしれない。老化を遅らせるための遺伝子改良についての研究も、その需要の高さゆえに加速する可能性がある。
最後には、もし精神的機能に対応する遺伝子レベルでの因子が発見されれば、精神病を予防したり、暴力的・衝動的性向を矯正したりするだけでなく、知的能力や人間の感覚能力を積極的に改良するための遺伝子工学の利用法すら、親たちに提供されるかもしれない。
『リベラル優生主義と正義』より

こうして、正当性を伴いやすい遺伝子治療を皮切りに、人間の人為的な改良が加速していく可能性は(倫理がそれを律速するとしても)十分あり得るし、少なくとも倫理の領域ではそうしたことが議論されている。

 

上掲引用文に基づいて未来の自己家畜化について考えるなら、よりセロトニンがしっかり出て、より不安や恐怖や攻撃性に駆られにくくて、よりエモーションが安定して生産性や効率性にも優れた、そんな未来人への誕生が想像される。

そうした未来人の誕生は極端なブレークスルーから始まるわけではない。精子の選別や羊水診断といった既存技術の蓄積から始まり、倫理的に妥当で当事者のニーズとしても切実な重大な疾患の予防・改善をとおして発展し、気付いた頃にはすっかり社会に根付いている。

 

たとえば体外受精が当たり前になり、受精からしばらくのヒト胚が操作できる環境が当たり前になった100年後の未来を想像してみて欲しい。

生まれるよりずっと前の、もしも処置に失敗しても中絶とすらみなされない段階のヒト胚が自在に選別可能になって、操作可能になって、たいていの遺伝リスクを防ぐことができ、自己家畜化の進んだ社会に適応しやすいメンタルへと改変可能な時代になったら、親の気持ちとして、そのように簡便で倫理的にも差し障りの少ない介入をやらずに済ませられるものだろうか?

 

上掲で引用した『リベラル優生主義と正義』には、そのような遺伝子への介入がどのような条件なら是とされるのか、どのような条件なら非とみなされるのか等々、さまざまなディスカッションが記されている。

だから同書を読む限りでは、遺伝子操作が人間の自己家畜化を無秩序に加速していく未来は想像しにくい。

 

けれども一定の条件を守り、正当な手続きを経る限りにおいては、倫理的に妥当なかたちで遺伝子操作が普及し、未来の私たちを改変していく可能性はやっぱりあるようにも読み取れる。

より病気の少ない人生、より苦痛の少ない人生、より生産的で互恵的で効率的な人生を子孫に望む限りにおいて、未来の私たちがもっと自己家畜化の進んだかたちに変わっていく可能性は否定できない。

 

誰もが今よりもずっと穏やかで協力的になり、学習にも労働にも適したメンタリティを身に付け、ぎゅうぎゅう詰めの都市生活にもストレスを感じず、免疫力も高く、遺伝子疾患のリスクも回避できている、そんな未来。

そんな未来が来るとしたら、あなたはそれをユートピアと呼ぶだろうか、それともディストピアと呼ぶだろうか。

 

どちらにせよ、そういった未来を想像するのは簡単だ。

なぜならその未来に向かう歩みは自己家畜化というかたちで有史以前から始まっているし、現在進行形で起こっているし、未来に向けてメソッドも着実に整いつつあるからだ。

 

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo by Sangharsh Lohakare

この記事で書きたいことは以下の通りです。

 

・本は何も考えずに読んで楽しめばいいし、感想があるなら感じたままに書けばいい

・とはいえ、「何かを出力する」ことを考えながら本を読むと、より内容が頭に入りやすいし、色々と得をするのも確か

・幾つか自分の「キーワード」を決めておいて、そこをトリガーにして自分の土俵に引っ張りこむというやり方が出力しやすい

・自分が読む速度を大体把握しておいて、「目が滑った個所」をチェックしておくのも有効

・作者の「強調のクセ」を見つけられれば、その本のポイントは大体分かる

 

よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

***

 

皆さん、本読んでますか? どんな本読みますか?

 

しんざきの読書傾向は雑食なんですが、古めの海外SFと漫画とDB関連の技術書を読む機会が比較的多く、最近はヴァン・ヴォークトという人の「目的地アルファ・ケンタウリ」というめちゃ古いSF小説を読みました。

色々面白かったんですが、その点はまたいずれ。

[amazonjs asin="4488609074" locale="JP" tmpl="Small" title="目的地アルファ・ケンタウリ (創元推理文庫 609-7)"]

 

まず前提として、それが技術書だろうがラノベだろうがSFだろうが漫画だろうが、本はそもそも楽しんで読むものですし、楽しむ上で「こう読むべき」ということはありません。

台詞だけざーっと斜め読みするも良し、頭からっぽにして夢詰め込むも良し、逆立ちでブレイクスパイラルしながら読解しても良し。楽しめればなんでもいいんです。

 

これは漫画でも娯楽小説でも学術書でも同じことで、たとえ真面目な本であっても、何かしら「楽しむ」要素を見つけないと身につくもんも身につかない、と私は思っています。楽しんだもん勝ちです。

 

ただ、本を「楽しむ」上では邪道なんですが、「読んだ後何かを出力する為に読む」という読み方もあって、そこには人によって異なる幾つかのノウハウが存在します。

出力するものはなんでも構わないんです。ブログの記事でも、amazonのレビューでも、読書メモでも、廃屋に残された壁の血文字でも構いません。

 

「読んで、何かを出力する」という行為には幾つかのメリットがありまして、

 

・ただ「読む」よりも内容が整理されて頭に入りやすく、理解度が上がる

・自分が出力したものを読み直すことによって、読んだ記憶や知識が頭に定着する

・出力する上で、自分でも気付いていなかったその本の魅力に気付きやすい

・「いいぞ!」と思った本を他人におススメする際に使える

・ブログや読書感想文にもそのまま流用出来る

 

いいことづくめですよね。ちょっと邪念が混じってる気もしますけど。

 

まず、当たり前のこととして、「読む」時と「書く」時って思考の方法も思考のレベルもまるで違うんですよ。

 

「読んだ本について何かを書く」というのは、「その本に書いてあることについて、自分の言葉で言い直す」ということに他なりません。

他人の言葉をただ受け取るのではなく、自分の言葉にしないといけない。

 

当然、本の内容について、ただ「何を言っているかは分かる」という地点よりもだいぶ奥まで読み込まないといけないですし、更にそれを整理して言語化しなくてはいけません。

そうなると当然、内容をきちんと整理して脳内に納める必要がありますし、出力した内容はそのまま脳内の思考履歴になります。

それを自分自身で読み直すことによって、読んだ時の思考を再体験出来て、より明確に本の内容が頭に定着する。

 

自分の感想文読んで「うむ……いい本だったよなあ……」ってなったことありません?あれです。

 

更に、「何を出力するか考えながら読む」ということになると、かなり細かく内容について確認することになりますので、「あ、こんなことも書いてあったじゃん」「気付かなかったけどこれこういう意味じゃん」という体験もすることが出来ます。

ざっと読んだだけでは気付かなかった隠れキャラを見つけ出すことが出来る。これも精読の醍醐味ですよね。

 

まあこの辺は、例えば読書日記をつけている人なら皆知っていることだとは思いますが。

とはいえ個々人のノウハウというものについては意外と読む機会が少ないので、何かの参考になるかも知れないので書いてみよう、と思った次第です。

 

***

 

ここからは、しんざきが「何かを出力する」ということを意識しながら本を読む時、脳内でどんなことをしているかを簡単に書かせていただきます。

 

本のジャンルによって多少変わると思いますが、大体は汎用的に使ってます。

「こう読むべき」という話ではないですし、飽くまでしんざきのやり方であって、適合するかどうかは人によると思いますのでご了承ください。

 

まずひとつ。これは鉄板と言っていいんですが、「キーワードを幾つかもっておいて、そこをトリガーにして自分の土俵に引っ張り込む」という手法があります。

 

この場合の「キーワード」というのは、要は「これについてならよく知ってる」とか、「こういう言葉が出てくると面白いと感じることが多い」とか、「この展開、以前も刺さった」といった言葉です。

それを自覚しておいて、その言葉や展開が来たらそこに注目する。罠を張っておく、という考え方に近いです。

 

例えば。

しんざきが良く使う言葉に「「まさか」のカタルシス」と「「さすが」のカタルシス」というものがあるんですが、これは私にとってある種の「キーワード」でして、本を読んでいる時にこれに引っかかると「おっ、来た」と思うポイントです。

 

「まさか」のカタルシスというのは、要は逆転の気持ちよさです。

主人公が大ピンチから大逆転する。最初は評価が低かったキャラクターが、「まさか」というような活躍によって周囲にその価値を認められる。気持ちいいですよね。

 

「さすが」のカタルシスというのは、要は期待感が裏付けられる気持ち良さです。

「こいつは強いぞ」「こいつは最強だぞ」という設定のキャラクターが、読者の期待通りの大活躍をする。周囲に「さすが〇〇だ……!」と感嘆させる。気持ちいいですよね。

 

私は、この「まさか」と「さすが」の二つのカタルシス展開と、その配分・組み合わせについて「面白い!」「この作者さん、上手い!」と感じることが多いので、この二つをある種の「キーワード」にしています。

 

この二つに該当するような展開が出てきた時、「これは「まさか」の分量が多いけど、「さすが」の要素も程よく絡めてあって読んでて気持ちいいなあ……」といったことを考えますし、他の作品の「まさか」と「さすが」と比較して、どこがどういう風に違うかな、と考えたりします。

 

これは要するに、私が「まさか」と「さすが」というひとつの得意分野を持っていて、作品がそれに該当したらそこに引っ張り込んで考えている、ということです。

自分に元々ある知識や経験と紐づけて作品を読むと、内容も入ってきやすいし、比較検討から色んなことが出力しやすいんですよ。

 

こういったキーワードは他にも、ジャンル問わず色々あります。

例えば「データの見える化」とか「BI(ビジネスインテリジェンス)」いった言葉が出てきたら、「この作者さんは、見える化という言葉を具体的にどういう意味で使っているのか?」とか、これは単なるバズワードとして使っているんじゃないか?とか、こんな意味で使うこともあるのか……!といった意外性に気付くとか。

ACIDって書いてあって「なんでいきなりトランザクション……?」と思ったらacid(酸)の話だったりとか。

 

まあ細かく書いてるととても書き切れないんですが、「キーワード」を決めた上で、そのキーワードを明確に意識して本を読むと出力もしやすくなりますよ、という話でした。

 

***

 

もうひとつしんざきが意識している点として、「目がすべる」という現象とそのポイントの把握、というものがあります。

「目がすべる」というのは、大体「一回読んだだけでは頭に入ってこないところ」です。

一読しただけでは内容が理解出来ないので、何度か読み直さないといけない箇所。

 

その「内容が理解出来ない」には、何かしらの理由がある筈です。

 

単に書いてあることが複雑で分かりにくいだけなのか?何かしら前提となる知識が必要で、自分にそれが欠けているのか?あるいは、もう少し前の部分で何かを読み落としていて、文脈が繋がっていないのか?何か変わった表現がされているのか?もしかすると執筆している人の書き方が悪いのか?

 

ここを出発点にすると、自分にとって色んなことが分かります。

無知の知ではないですが、「分からない」ということもひとつの気付きです。

もしかするとここから、自分が知らなかった新しい知識を手に入れられるかも知れないし、本を批判的に読む端緒にもなるかも知れません。

 

これもまた、「出力」のトリガーになるんですよね。

「ここが分かりにくかった」「それをどう解決した」というのも、本との対話において非常に大きな経験ですし、それを出力することには大いに意味があります。

 

単純に「目が滑った」ということですぐに「あ、ここ分かりにくい」と自覚・整理出来る人ならなんの問題もないんですが、しんざきはそんなに頭が良くないので、読む時間を測ったりしています。

ジャンルごとに大体「自分がどれくらいのスピードで本を読めるか」は分かるものなので、「あ、このページ、なんか読み終わるまでに時間がかかった」となったらそこをチェックしておくのですね。

 

「何回か目が滑った箇所」ということを覚えておけば、後でじっくり読み直して、「滑った原因」「滑り処」を明確に整理してその要因を追求出来る、という話です。

 

***

 

あと、これは誰でもやっていることかも知れないですが、執筆者さんの「強調の癖」というものを探しながら読むというのも楽しいですし、有用です。

小説でも啓発書でも技術書でも漫画でも、なんならブログの記事でも同じなんですが、書いてる人って当然「書きたいポイント」を持っていますし、それをどう表現するかのノウハウも持っているんですよね。

 

どう書けば「ここがポイントだぞ!」と読者に伝えられるか、ということを考えながら書いている。どんな人でもそうだと思います。

 

例えば、何か言いたいことの前に改行を挟むかも知れないし、鍵括弧の頻度が急に増えるかも知れないし、台詞がない表情だけの大ゴマが入るかも知れないし、集中線と一緒に「ドン!!!」と効果音が入るかも知れない。

この辺は作品様々、作者様々、ジャンル様々なので当然一概には言えないんですが。

 

で、

 

「この人はどういうやり方で「強調」をすることが多いのかな?」

「そのやり方から外れることはあるのかな?」

「外れたとしたら、その意図はなんだろう?」

 

といったことを考えながら読むと、ただ「本のポイント」を掴みやすいだけではなく、その作者さんの表現上の意図にまで思いを馳せることが出来るし、その作者さんの他の作品でも比較しながら読むことが出来る。

同じ「強調したい」ポイントであっても、一方は派手に「ここだー!」と見せてくるかも知れないし、もう一方は静かに「気付く人だけ気付いてよ」という書き方をしているかも知れない。

 

その辺に注目することで、作者さんの手法を考えることも「出力する」ことに寄与しますよね、という話なわけです。

 

***

 

ということで、しんざきの「何かを出力する為の本の読み方」についてつらつらと書いてきました。

念のための繰り返しですが、上記は「こう読むべき」という話ではありません。

 

最初に書いた通り、本は楽しんだもの勝ちであって、「出力することを意識して本を読んだ方がいい」とすら私は思いません。

むしろ「出力する為」という読み方は、純粋に本を楽しむ上では邪道かも知れない、とすら思っています。

ただ、その上で、「出力する為」に本を読むということを否定する訳でももちろんなくって、私はこういうやり方をしています、というひとつの例が上記の文章だ、とご理解いただけると大変幸いです。よろしくお願いします。

 

ちなみに、長男が中学に入ってから、読書感想文について「こういうやり方もあるよ」という程度に教えてみたんですが、そこから相当すらすらと感想文が書けるようになった様子で、刺さったのは良かったなあと思う一方、悪いやり方を教えてしまったかなあとも心配する次第なのです。まあ大丈夫だと思うけど。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Johnny McClung

ここ数年、「文系」がやたらと軽く扱われ、「理系」こそが未来を担う人材だと言われるようになった。

なんなら、「文系学部不要論」が出てくるくらいだ。

 

統計を見てみても、高校で理系を選ぶのは22%に対し、文系は46%。

大学に入り学士ともなると、理工農系は21%、人社系が55%と、その偏りはさらに大きくなる。*1

 

だから、「理系を増やそう」というのは、当然の流れかもしれない。

ただ正直なところ、日本で理系を増やすって、かなりむずかしいんじゃないかなぁ……とも思う。

だって日本人の国民性って、「科学的思考」と、致命的に相性が悪いから。

 

科学=理論をみんなで検証して真実に近づけること

まず、『LIFE SCIENCE』という本のなかで紹介されている、「科学とは」「科学的思考とは」の部分を抜粋して紹介したい。

科学は何かというと、仮説(理論)をどんどんよいものにして、真実に近づける営みです。(……)

出発点は仮説を考え、検証をしています。とてもシンプルです。
(……)
「こうした仮説があるのか」と他の研究者が知り、そこから検証を始めます。その論文を疑えば、同じ実験をします。これは「追試」と呼ばれていますが、追試することでデータが正しいかを調べるわけです。
追試だけではなく、別の実験で同じ結果になるかなども検討します。あるいは「仮説が正しければこのような結果も出るはず」、(つまり前に書いた予想です)とそれを試す人も出てきます。
(……)
科学はこうやって、後に続く研究が進歩させていきます。
追試で間違いがわかった場合は論争になりますが、ねつ造や改ざんでない限り、業界や所属機関を追われるようなことはありません。誰もその研究者を責めたりもしません。一生懸命に実験したものの間違っていて、そのまま掲載されることはいくらでもあります。

[amazonjs asin="B08QD5RP17" locale="JP" tmpl="Small" title="LIFE SCIENCE(ライフサイエンス) 長生きせざるをえない時代の生命科学講義"]

これだけ聞くと、「うん、科学ってそういうものだよね」と、だれもが納得すると思う。

 

「こうかもしれない」という仮説があって、実験して「正しい」ことを証明し、追試によってそれを確認する。その結果をもとにまた新たな仮説を唱え、検証し、進んでいく。

「失敗は成功のもと」という言葉があるように、科学とは、失敗を繰り返していろんな可能性を排除し、残った正しい選択肢を探していくものなのだ。

 

「発明王」と謳われるトーマス・エジソンも、失敗に関して多くの名言を残しているしね。

……とまぁこう書くと納得感があると思うのだが、現実世界ではどうだろう?

わたしたちは、日本の教育は、日本の社会は、「科学的思考」を養ってきたのだろうか?

 

他人の主張の真偽を確かめるのは「失礼」

本で紹介されているこのくだりのなかで気になったのは、

 

・理論を検証し、確認のために追試をする

・ねつ造や改ざんでなければ、間違っていても責められることはない

 

というところだ。

 

このふたつ、日本人同士のコミュニケーションとめちゃくちゃ相性が悪い気がするのは、わたしだけだろうか。

たとえば先輩が、「この作業はAという方法でやったほうがいい」と言ったとする。

それに対して後輩が、「AとBを比べて本当にAの効率がいいのか試してみますね」とか、「Aが最適なのか疑問なので確かめてみてもいいですか」なんて言ったら、先輩は「生意気な後輩だ」と思わないだろうか。正直イラッとこないだろうか。

 

たとえ友だちでも、「え、本当ー? どこ情報? ソースを教えてよ、自分で確認するから」なんて言われたら、だれだっていい気はしないだろう。

 

そう、「相手の主張の真偽を確かめる」という行為は、上司が部下にするならともかく、基本的には「相手を疑っている」ものとして受け止められ、日常生活では「失礼」とされがちなのだ。

だから、一番最初の「他人の意見を検証する」段階でつまずいてしまう。

 

先輩に言われたAのやり方を検証した後輩が、「Aは最適解ではない」と結論付けたとしたときのことを、想像してみてほしい。

先輩は「まちがったやり方を伝えた人」になるので、「面子をつぶされた」「先輩としてのプライドが」と腹が立ったり、恥ずかしくなったりして、その後その後輩を避けるかもしれない。

 

逆に、先輩の言う通りAが正しかったら、後輩は「先輩に生意気なことを言った」という後味の悪さだけが残るだろう。

「確かめた結果やっぱり正しかった! 納得! めでたしめでたし!」とはならないのだ。

 

現実世界では、「他人の主張を検証することは失礼に当たる」可能性が高く、まちがえた人は「他人に誤りを指摘された」と少なからずイヤな気持ちになり、主張が正しければ「言いがかりをつけられた」として相手に悪印象をもつかもしれない。

そう、こういった価値観は、科学的思考と相性がめちゃくちゃ悪いのだ。

 

「どちらが正しいか」を決める訓練をしていないわたしたち

これは大人になってから急にそうなったわけではなく、小さいころから、わたしたちはそういう環境で育ってきたと思う。

文化祭で「たこ焼きをやろう」という意見が出たとして、「採算が取れるか過去のデータを見てから決めたほうがいいんじゃないか」「原価を計算して実行可能か確かめるべきだ」なんて検証を提案する人がいたら、クラスメートから白い目で見られるだろう。

 

最終的に、「たこ焼き屋はいい選択だ」という結論が出たら、「じゃあ最初から賛成しとけよ面倒くせぇな」と思われるかもしれない。

たとえ「やっぱりたこ焼き屋はやめたほうがいい」という結論になったとしても、「ノリが悪い」「協調性がない」という印象は、たぶん避けられない。

 

ちなみにゲームの世界で、「そのスキルを使うとこうなる」と言う人に対し、「どこソース?」とか「ちゃんと自分で確かめた?」なんて聞くと、煽り認定されてすぐケンカになる。

そうならないために、「煽りじゃなくて純粋に疑問なんだけど」という枕詞を使うわけだ。

 

いや本当、「どこ情報? 再現できるか確かめたい」って言っただけでブチ切れる人たくさんいるからね。「失礼だ、疑ってるのか」って。

ケンカしたいわけではなく、単純に「その主張の正当性を自分で確かめたい」だけなのに……。

 

「相手の意見を検証する」というのは、検証の結果がどうであっても、相手は不愉快になる。高確率で。だからみんな、それをやろうとしない。

 

でも理系分野は基本的に「正しい答えを導き出す」ことが目的だから、「あなた」と「わたし」の考えがちがえば、どちらがより正しいかの検証をしなくてはいけない。

そうなると当然、他人から「まちがっている人」とレッテルを貼られることもあれば、検証の結果他人の誤りを指摘することもあって、それがなんとも気まずい。だから、苦手。

 

というか、そもそもわたしたちは、「どっちが正しいか白黒つけよう」という訓練・教育を受けてこなかった。

「みんなちがってみんないい」と、おててをつないでゴールすることを推奨されてきたのだから。

 

まちがえた人と指摘した人の共同作業によって前へ進む

では、科学的思考を養うためにはなにが必要なのか。

それは、「まちがいだとわかることは進歩」という認識だ。

 

「Aが正しい」と主張をした人と、「検証した結果Aはまちがっている」と誤りを指摘した人。

そのふたりの協力によってAという選択肢を排除し、「じゃあBかも」「もしかしたらC?」と、より正解に近づける。

 

まちがいを減らすほど真実に迫れるのだから、「まちがいが判明するのは進歩」。

それが共通の認識になれば、まちがった主張をした人が恥じる必要はないし、検証に遠慮することもなくなるし、誤りの指摘に罪悪感を抱くこともなくなる。

 

そう、わたしたちが科学的思考を身に着けるのために必要なのは、「まちがいだとわかることは進歩」という考え方なのだ。

 

「正解した人」ではなく「まちがえた人」が優勝した理由

ちなみにこの記事を書くきっかけとなったのは、クイズ王伊沢さんが立ち上げたクイズグループQuizKnockの、『【ガチ研究】東大卒が蚊よけになるものを調査してみた』という動画だ。

動画内では「蚊よけ対策」をテーマに、伊沢さん、東大物理学博士課程の須貝さん、東大王でおなじみ鶴崎さんの3人が、「蚊に刺されないためにどうすればいいか」の仮説を立て、実験している。

 

伊沢さんはたくさんの蚊が入っている箱に、レモングラスの香りがついた手と、ついていない手を交互に入れて、蚊が寄ってこないかを確かめた。

結果、レモングラスの香りには、蚊を遠ざける効果があることが判明する。

 

2番目の須貝さんは、「蚊は二酸化炭素を感知できる」という習性を利用し、囮としてとなりにドライアイスを置いてみることに。

しかし結局は人間の手のほうに蚊が集まってきたので、「人間の体温やにおいのほうが大事なのかもしれない」と仮説を立てる。

改めて調べたところ、近距離では、蚊は二酸化炭素ではなく体温をたよりに獲物を探しているそうで、二酸化炭素と温度の両方が大事だったとのこと。

 

最後の鶴崎さんは、マジックで手から腕にかけて縞模様を描いて実験。シマウマの縞には虫よけ効果があることからの思いつきだが、実際のところまったく効果はなかった。

「蚊は黒色を好むから、ちがう色なら結果が変わったかも」と締めくくっている。

 

さてさてこの3つの実験、ふくらP(プロデューサー)が最後に「優勝」として選んだのはだれだったか?

それは、ドライアイスを試した須貝さんだ。

レモングラスで蚊を遠ざけることに成功した伊沢さんを差し置いての優勝である。

 

実験自体はうまくいかなかったものの、なぜうまくいかなかったかの検証・考察が優れていたため、「研究価値が高い」と評価されて優勝したのだ。

 

これが、いわゆる「科学的思考」なのだと思う。

判断基準が「正しいかどうか」ではなく、「次につながるか」だったから。

 

「まちがいだとわかる」ことに価値があると気づくのが科学的思考

よく、「日本人はまちがえるのを嫌う」と言われるけど、まちがえること自体だけでなく、自分の意見を疑われたり、他人に検証されたりすることがそもそも好きじゃないんだと思う。

もちろん、みんながそうというわけではなく、傾向として。

 

「あなたはこう思って、わたしはこう思う。それでいいじゃない、みんな仲良くしましょう」と言ったほうが、人間関係が圧倒的にうまくいくしね。

でもそれでは当然、まちがいは減らないし、正解に近づいていくこともできない。

前に進むためには、相手の意見を疑ったり、確かめたり、誤りを指摘したりしなきゃいけないこともあるのだ。

 

改めて書くが、「まちがいだとわかる」ことには、とても価値がある。

だから、まちがった人が恥じる必要はないし、まちがいを指摘するのに遠慮や罪悪感はいらない(言い方は考えるべきだけど)。

 

「失敗によってデータが増えたね!」「やっぱり正しかったからこの路線で進めよう!」と、「正しいかどうか」に囚われず、協力して進んでいけばいいのだ。

それが、わたしたちに必要な、「科学的思考」なのだろう。

 

<参考>

*1 内閣府「Society 5.0の実現に向けた教育・人材育成に関する政策パッケージ(素案)」p15

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Volodymyr Hryshchenko

もう30年前くらいの話です。

僕の父親は生前、田舎で診療所をやっていた。医者ひとりで、内科一般、整形外科など、とりあえずその地域の患者さんをなんでも診る、という仕事をしていました。

(ちなみに、もともとは整形外科医なので、高齢者が多い地域でけっこう重宝されていたらしい)

 

僕は内心、「こんな『なんでも屋』みたいな診療所を継がされたら嫌だなあ。大病院の中核とか、研究者として名を上げたい。自由にやりたい」と思っていたのですが。

結果的に、父親は僕が研修医時代に急に亡くなったので、僕がそこを継ぐことはありませんでした。

 

今から考えると、経営者として人を使う仕事を、頼まれたら断れない、外面のいい性格でやっていたのは大変だっただろうと思うし、まがりなりにも「自分の城」を持っていたのだから、けっこうたいしたものではありました。

実家を継がなければいけないなんていうのは、若い頃にはしがらみだとしか思えませんでしたが、自分が年を重ねてみると、大きな組織でハンドルを握れるほど、僕は優秀でも勤勉でもなく、賞罰なしの勤務医生活を50歳になっても続けています。

 

前置きが長くなってしまいました。

30年くらい前、父親の診療所に用事があって行ったことがあります。

こんなところで仕事をしているのだなあ、と思いながら院内を見まわしていると、待合室の新聞や雑誌が置いてある場所に『赤旗』がありました。

 

思わず、「共産党なの?」と父親に尋ねたのだが、「いや、違うよ」と。

常々、「そんなにカープが負けるのがイヤなら巨人ファンになれ、巨人ファンのほうがいつも勝っていて楽しいぞ」とか「選挙はいつも共産党に投票している。勝ち馬に乗ったって面白くないからな」とか、矛盾したことばかり言っている人だったのです。

そもそも、本人はずっとカープファンで、「カープのスポンサーだから」とビールはキリンと決めているくらいだったのに(単にキリンビールが大好きだっただけかもしれない)。

 

「『赤旗』を取ってるのは、地元の共産党の人に頼まれたからだよ。『聖教新聞』もあるぞ。朝日、読売、毎日……『週刊少年ジャンプ』とか、けっこうみんな喜ぶんだよな。お前が読んだやつもけっこう病院に持ってきているよ」

 

「でも、『赤旗』って、共産党の人が読むやつじゃないの?」

「ああ。でもここは田舎の病院だからさ。医療っていうのは、相手がどんな宗教を信じていようが、政治的な信条がどうであろうが、『それじゃ診ない』ってわけにはいかん。だから、頼まれれば『3ヵ月だけですよ』っていうことで、みんな同じように置いているよ。それこそ、『赤旗』も『聖教新聞』も。俺は全く信じていないけど、あれはダメ、これはダメ、と言うより、そうしたほうが丸く収まる。ただし、院内での宗教や政治団体への勧誘は絶対にやめてもらっている」

 

そのときの僕の率直な気持ちは「そんなの置いていると誤解されるんじゃないか」という不安と「自分で信じてもいないものをこうして置いているのは不誠実ではないか」という苛立ちが入り混じったものだったんですよ。

僕がそのときの父親の年齢に近づき、最近の悪質な新興宗教について、「政治と宗教」の話が採りあげられるたびに、このときのことを思い出すのです。

 

僕自身も、25年くらい医療の仕事をやっていて、新興宗教のパンフレットを渡してきて「集会に来てください」と言う外来患者さんや、「絶対に輸血はしないでください」という入院患者さんもみてきました。

 

現実問題として、外来の限られた時間で、「その宗教が正しいかどうか」を議論するわけにはいかないので、とりあえずそのパンフレットは預かって、あとで処分していたものです。

あと、自分の著書を持ってくる患者さんもけっこういるんですよね。僕にはもっと優先順位が高い本があるので、断り切れずにもらっても読まず、次の外来のときに感想を聞かれて困ることもありました。

 

ニュースなどで、「反社会的な、信者を洗脳して過剰なお布施や他者の勧誘を強いる新興宗教」の話をみたり、子どもたちが「二世」として苦しんできた告白を本やネットで読むたびに、僕も「そんなふうに人を幸せにしない『宗教』なんて、単なる集金マシンだろ」と思うのです。

 

その一方で、ほとんどの信者たちは、オウム真理教のようなテロリズムに向かうわけではなく、社会のなかで、(少なくとも非信者の僕からみれば)「普通」に生活しているのです。

電車に乗っている人をみても、誰が信者かなんてわからないよね。

 

僕も若い頃は、カール・マルクスの「宗教は民衆のアヘンである」なんて言葉に頷いていたのですが、年を重ねるにつれ、「それを信じることで、死への恐怖が和らいだり、日々の憂鬱が軽減されたりするのなら、それはそれでうらやましい、というか、信じられる人は幸せなのかもしれないな」なんて考えることもあるのです。

 

僕などは「どう考えても、死ぬっていうのは電気製品のコンセントが抜けるようなものなんだろうな」としか思えない。

「無」になってしまえばわからなくなるんだろうけど、この先の世界を見ることができない、というのは、想像すると怖い。

「死」に限らず、人生には、個人の「実力」や「努力」ではどうしようもない苦難や挫折が多すぎる。

 

出口治明さんという方が、『仕事に効く 教養としての「世界史」』という本のなかで、こう書いておられます。

ただ、こうして、神様や宗教が生まれたのですが、なぜそれが発展して今日まで長続きしているかと言えば、その存在が、本質的、歴史的には「貧者の阿片」だったからです。不幸な人々の心を癒す阿片です。もちろん、生きるよすがを与えたり、人を元気づけるなど宗教にはその他にも積極的な存在理由を見出すこともできますが。

農業が発達して余剰生産物ができると、支配階級と非支配階級が必ず生まれます。もちろん、大多数は貧しい非支配階級です。彼らにしてみれば、王様に収穫の大半は取られてしまって生活が苦しい。頑張ってもそんなにたやすく報われそうにない。けれども、この理不尽さを持っていくところがありません。そのときに、次のようなことを囁かれたらどうでしょうか。

「現世はいろいろな苦しみに満ちているけれど、死んだら次の世界があるよ。いま苦しんでいる人は、みんな救われるよ」

現世とあの世を分けて、あの世では救われるという宗教のロジックは、普通の人には非常にわかりやすい。納得できるロジックです。

もしも、こういう行いを積めば2年後には金持ちになれますよと言って、そのとおりになれば、それは圧倒的な力を持つ宗教になるでしょう。けれどそれは、誰にもできない。どんなに力のある宗教でも、これをやれば必ず成功する、などという教えはない。

そうすると、貧しい人を納得させようと思えば、この世はいろいろな理由があって苦しみに満ちているけれど、彼岸に行ったら楽しいことがありますよ。だから、いまは忍んで耐えて明るく暮らそうね。そう言ってごまかすのが、一番てっとり早い。

宗教は現実には救ってくれない。けれども心の癒しにはなる「貧者の阿片」なのです。いつの世も貧しい人が大多数ですから、「貧者の阿片」の需要は多い。宗教は盛んになります。

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こういうのを読んで感じるのは、「宗教を『貧者の阿片』と断言できる人というのは、よほどの合理主義者か、理不尽な不幸に見舞われたり、どうしようもない状態に置かれたりしたことがない人なんだろうな」ということなんですよ。

 

大部分の人は、そんなに強くはなれない。

溺れそうになったら、藁をもつかむのが、ふつうの人じゃないですか。

新興宗教は危険で、伝統的な宗教は「まとも」なのかと考えるとき、僕は、『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸著/講談社現代新書)のなかで紹介されていた、『ヨブ記』のあらすじを思い出すのです。

 

『ヨブ記』は、旧約聖書のなかでも有名な「諸書」のひとつです。

これは、「神を信じて正しく生きていた『義人』ヨブの話」なのですが……

それ(ヨブが正しく生きていること)をヤハウェ(ユダヤ教の「神」)が満足していると、サタンがやって来て、こう言います。

「ヨブがああなのは財産があるから。それに、子どもも立派だからです。それを奪ってごらんなさい。すぐに神を呪うに決まっています」。

ヤハウェはそこで、財産を奪い、子どもも全員死なせてしまった。でもヨブはまだ神を信じていた。「神は、与え、神は、奪う。神が与えるものを感謝して受け取るべきなら、苦難も同様に受け入れよう」。

そこで今度は、サタンの提案で、ヨブの健康を奪ってみた。ひどい皮膚病になり、身体を掻きむしって血だらけで、犬に傷口をなめられる。ゴミ溜めに寝ころがる、ホームレスになっちゃった。それでもヨブは、まだ神を信じていた。神とヨブの根比べです。

そこへヨブの友達が三人やってきて、いろいろ質問をする。「ヨブ、お前がこんなにひどい目にあうのは、何か原因があるにちがいない。おれたちに隠して罪を犯しただろう。早く言え」。ヨブは反論して、「私は誓って、決して神に罪を犯していない。何も隠してもいない」。すると友達は「この期に及んでまだ罪を認めないのが、いちばんの罪だ」。話は平行線で、友達もなくしてしまった。

ヨブにとっていちばん辛いのは、神が黙っていることです。ヨブが神に語りかけても、答えてくれない。ヨブは言う、「神様、あなたは私に試練を与える権利があるのかもしれませんけど、これはあんまりです。私はこんな目にあうような罪を、ひとつも犯していません」。

するととうとう、ヤハウェが口を開く。「ヨブよ、お前はわたしに論争を吹っかける気か。なにさまのつもりだ? わしはヤハウェだぞ。天地をつくったとき、お前はどこにいた? 天地をつくるのは、けっこう大変だったんだ。わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した。そんな怪獣をお前は相手にできるか?」みたいなことをべらべらしゃべって、今度はヨブが黙ってしまうんです。

さて、最後にヤハウェは、ヨブをほめ、三人の友達を非難する。そして、ヨブの健康を回復してやり、死んだ子どもの代わりに、また息子や娘をさずけた。娘たちは美人で評判で、ヨブはうんと長生きをした。財産も前より増えた。めでたしめでたしです。ヤハウェも、ちょっとやりすぎたかなと反省した。

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ヨブの死んだ子供はどうするんだよ、神様!

『聖書』というのを読んでみると、神は人間を幸せにしようと頑張ってくれるわけではなく、気まぐれでやりたいことをやっているだけ、のようにも感じるのです。

人間は神の意思に従う、あるいは「信じる」ことしかできない。

 

「現世利益」なんていうのは、伝統的な宗教からみれば「邪道」でしかありません。

(キリスト教でもプロテスタントには、「約束された成功」へ人々を駆り立てるような面があるのですが、もうすでにこの文章はけっこう長くなったので、興味がある人は、マックス・ウェーバーとかを読んでください。かなり難しくて、僕も理解している自信はないんですが)。

 

ここで、冒頭の話に戻るのですが、いまの日本は、「信仰の自由」と「愚行権(明らかにデメリットが大きいことでも、被害を受けるのが本人に限定される場合には、それを制限されない自由がある。たとえば周りに人がいない場所での喫煙とか)」が保たれている社会ですよね。

 

「すべての人は平等という建前で、選挙で1票ずつ持っている『民主主義社会』」では、どんなに「普通の人」たちからは異常にみえる宗教団体でも、オウムのようにテロをやって社会に挑戦する、という状況にまで至らないかぎり、強制的に排除したり、制限をしたりすることは難しいのです。

 

いやあれはさすがに異常だ、洗脳されているんだ、と思うような状況でも、本人が「好きでやっているんです」と言えば、それ以上は立ち入れない。

身内ならともかく、他者の信仰なんて、関わるとリスクは巨大で、メリットはほとんどありません。少なくとも、いまの日本では。

 

政治家だって、有権者が何を信仰していようが、一票は一票ですからね。確実に集票できる宗教団体は味方につけたいはずです。

明らかな「反社」はさすがにマズイとしても、政治家なんて、まず選挙で「当選」しなければ「ただの人」でしかない。

それこそ「集票のためなら、なりふり構ってはいられない。多少問題がありそうな宗教団体にも、少なくともわざわざ嫌われる必要はない(できれば好感を持ってもらったほうがいい)」。

 

インターネットの「くだらなくてもPV(ページビュー)が稼げる記事」にウンザリしている人は大勢いるけれど、「高尚な社会問題を扱った記事」があったとしても、誰も読んでくれない、という状況にも言えることです。

 

政治家って、炎上系YouTuberに近いところがあるのです。

とにかく票(YouTuberならPV)を集めることが最優先。悪名は無名に勝る(ただしやりすぎると強制退場のリスクあり)。

実際、それで国政選挙に当選した暴露系YouTuberもいます。僕もあの当選には驚きました。

 

「信じている宗教や政治的な信念で、差別をしない」

というのは、医療においても、政治においても大原則なのです。

それが教団内での暴力行為や教団外の他者に危害を加えるものでないかぎり。

 

独裁者が「あの宗教は気に入らん!」ということで、特定の宗教やその信者を排斥した例は、歴史上たくさんあります。ローマ帝国でのキリスト教徒の迫害や、中国での「廃仏」など。

しかしながら、「民主主義」で「信教の自由」があり、「個人の意思を尊重する」社会ならば、「弾圧」はできない。

限度があるだろう、という気持ちはわかるけれども、現状、その線引きは「暴力か外界へのテロ」にせざるをえない。

 

信じた本人だって心が弱っているとことにつけ込まれた面はあるかもしれないし、二世とかであれば「自由意志」とも言い難いとは思うけれど。

では、親の推し活やソーシャルゲームへの課金で家計が苦しくなった家の子どもも「救済」すべきなのか。

 

僕だって、自分の子どもがああいう宗教の信者になったらキツイだろうなあ、と考えずにはいられません。

学生時代に失恋からオウムを信仰するようになり、出家して行方不明になった知り合いもいます。

 

ただ、今の日本ではデータ上、新興宗教の信者は減少傾向が続いています。

皮肉なことかもしれませんが、現代人は様々な経路から情報を得ることができるようになり、集会や伝道で人と接しなくても、SNSで人とつながっています。「人が孤独なのは悪いことだ」という観念も、かなり薄れてきているように思われます。

新興宗教に惹かれるような「人生に対する悩み」よりも「経済的な生活苦」が先に立つ人も多いのです。

オウムやノストラダムスの大予言をみてきた人たちは、新興宗教を敬遠しています。

 

だからこそ、まだ残っている信者たちへの締め付けや搾取が強まっている、という面もありそうです。

身も蓋もない話をすれば、今後、選挙の候補者は宗教関係の付き合いや本人の宗教的なスタンスを全部開示するようにして、有権者が「カルト宗教と癒着している政治家には投票しない」ことが徹底されれば、そういう政治家は議会から居なくなるはずです。

 

しかしながら、それが実現可能なのかどうか、それはそれで「信教の自由」に抵触するのではないか、特定の宗教とのつながりを理由に「排除」するのは「包摂」という思想に反しているのではないか、など、けっこうややこしいところはあります。

 

そもそも、特定の宗教との癒着がわかったとしても、「あの人はいい人だから」「お世話になったことがあるから」「地元のためにがんばってくれているから」というような理由で、「例外」として投票する有権者が多いのではなかろうか。

 

正直、僕自身は特定の信仰を持たない人間なので、実感としてはよくわからないんですよ。

たぶんそれは幸せなことなのでしょうけど、何かを信じられたら、もう少しうまく生きられたのかもしれない、と思うこともあるのです。

 

父はあの世で、「まあ、田舎の開業医とか政治家って、綺麗事だけじゃやっていけないからな……」と言っているのではなかろうか。

……とか「死後の世界幻想」みたいなものを僕も捨てきれないんですよね、僕も。

社会のシステムやコンピュータの急激な進化に比べると、悲しいほど人間は変わらない。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

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『こうして社員は、やる気を失っていく』という書籍が売れていると聞きました。

もしかしたら「日本人は死ぬほど会社が嫌い」という現実を表しているのかもしれません。

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その際、編集者の方から、その本のプロモーションとしてイベントをやるのですが、登壇しないかとお誘いを受けたのです。

少し考えましたが、結局お引き受けしました。(イベント詳細は、記事末尾です)

 

その理由は、この本の序章に書かれている「部下のやる気を高めようとするより、やる気を削ぐ行為を直ちにやめろ」というメッセージをもっともだと思ったからです。

 

他人のやる気は操作できない

私が考える「やる気」に関する議論で最も重要なのは、「他人のやる気は、都合よく操作できない」という点です。

というのも、人のやる気というものは、仕事だけではなく、様々なプライベートな要因によっても、上がったり下がったりするからです。

 

 

かつて「管理職研修」の講師をやっていたこともあり、私は部下の「やる気」に、とても気をつかっていました。

特に、会社からも「社員には、やりたいことをやってもらおう」という方針が出ていたため、マネジャーになってからは「どうやって部下のやる気を上げようか」と悩みました。

 

そんなある日、私は普段頑張っていた部下の一人が、元気がないと気づきました。

お客さん先なのに落ち込んでいて、明らかに仕事が手についていないようなのです。そこで「これは良くない」と思い、後で理由を尋ねたところ、

「そんな風に見えます?」と言われました。

「普段と違うとは思う」というと、彼は

「すいません、プライベートの事情で落ち込んでます。」

というのです。

 

ああ、なるほど。

勘違いしていた。

そう思いました。

 

つまり、お金をもらっているプロであれば、「仕事のやる気」と「プライベート」は切り離されており、プライベートの状況によらず、仕事を遂行するという思い込みは、間違っていたのです。

確かに都合よく切り離せる人もいるでしょうが、そうでない人もまた、数多くいるのです。

 

いや、むしろ仕事とプライベートが地続きの人のほうが多い。

そんな当たり前のことに気づいたのです。

だから、こんな理由で、たやすく仕事のやる気は下がります。

 

パートナーにフラれた。

親類縁者が重い病気になった。

娘の受験がうまくいかなかった。

昨日夫婦ゲンカした。

二日酔いになった。

好きなアイドルのスキャンダル。

最近太った。

ランチがおいしくなかった。

財布を落とした。

 

むしろ、人生における仕事の優先度が低い人は、「好きなアイドルのスキャンダル」に心奪われて、仕事どころではない、という事が普通にあるのです。

そして、ここから得た教訓は、「上司がいくら踏ん張っても、人のやる気は予測不能かつ、操作不能」という事実です。

 

上司は部下のプライベートで下がった「やる気」に責任を持つ必要などない。

「それはそれ、これはこれ。プライベートで悩んでいるなら休みをとれ、出勤するなら仕事しろ」と言えばいいのです。

 

上司はせめて「部下のやる気」を削ぐようなことはするな。

ただし、これをもって上司が「部下のやる気」に無関心でよいという事にはなりません。

というのも、上司が「やる気を削ぐ原因」になるケースも多いからです。

 

例えば、上述した『こうして社員は、やる気を失っていく』には、こんな「やる気を削ぐ上司」のケースが記載されています。

 

・理由や背景を説明しない──「意味のない、ムダな仕事」と思わせる上司

・一方通行の指示──双方向のコミュニケーションがとれない上司

・話を聞かずに結論を出す──頭ごなしに決めつける思い込み上司

・意見も提案も受け入れない──「自分が絶対」のお山の大将上司

・言うことに一貫性がない──行き当たりばったり上司

 

こんな上司であれば、プライベートに関わらず、会社が憂鬱な場所となるのは無理ありません。

上司がわざわざ、仕事を邪魔しているようなものです。

 

私のかつてのボスは、こう言っていました。

『上司の役割は、部下の靴の中の石ころを取り除いて、走りやすくしてあげることだよ』と。

 

それはつまり、上司は部下の仕事の障害を取り除くことがメインの仕事であり、「部下のやる気を上げよう」なんて考えなくていいということ。

そして、せめてやる気を削ぐようなことはするな、という意味だと私は理解しています。

 

 

以下、『こうして社員は、やる気を失っていく』トークイベントのご案内です。

日時:2022/09/21 (水) 19:00 - 20:30 【店頭参加およびオンライン参加】

イベント申し込みページはこちら

数多あるマネジメント書籍ではモチベーションを高め、高い意識で目標に突き進むチームを創り出していくことを目的としています。
しかし、そういった意識向上を果たしたチームの影に、振り落とされてしまった人々がいるのではないでしょうか。

本イベントは、社員のモチベーション管理と組織管理を題材にした対談イベントとなっており、モチベーションの下がらないチームの形成を扱います。

 

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Tegan Mierle

日本の消費者物価指数(CPI、2022年5月、生鮮食品除くコア)は前年同月比で+2.1%と、ここ数年ではかなり高い水準となっています。

前月も+2.1%と上昇率は消費増税の影響が出た2015年3月以来の大きさとなり、話題になりました。

米国でもCPI(総合、同年5月)が+8.6%と、約40年半ぶりの大きな伸び率となっています。

 

+2%台という伸び率を前に、実際はもっと上がっているのではないか、と違和感を覚える人も多いかもしれません。

過去に知見録では「経済指標の備忘録」シリーズで、日本のCPIが米国と比べ低水準にある構造的な理由や、金融政策との関連性について触れましたが、今回はCPIの算出に向けた調査方法にスポットを当てて紹介します。

(関連記事:「消費者物価指数、日米間で格差 その理由は?」「消費者物価指数、日銀との関わりは?」)

 

カップ麺は「カップヌードル」、人形は「シルバニア」

ある物事の長期的な変化を捉えるには、物事の範囲(ユニバース)を決める必要があります。

CPI(総合)のユニバース、すなわち調査対象となるのは582品目です。

原則として同一の品目の価格の変化を継続して調査する仕組みとなっています。

 

とはいえ、カメラ用のフィルムや写真を収めるアルバムなど、今や目にすることが少なくなった品目を調査しつづけても、実体経済を正確に表すことはできません。

調査品目は5年に1度あるCPIの基準改定にあわせて、見直しを行う形をとっています(最新は2020年基準。5年の間の消費トレンドの変化を考慮し、改定の年を待たずに追加・除外されることもあります)。

総務省の「家計調査」の結果などから判明した、消費支出に一定の割合を占めるものを調査品目としています。

品目ごとに調査方法が決まっており、なかには特定の商品名を指定しているものもあります。

 

例えばカップ麺の場合、調査対象銘柄となるのは日清食品の「カップヌードル」です。

輸入ワインはスーパーやコンビニエンスストアでよく見かける「サンタ・ヘレナ・アルパカ」または「フロンテラ」、ケチャップは「カゴメ」または「デルモンテ」となっており、原則としてこれら以外の競合商品の価格変動は直接的にCPIには反映されることはありません。

 

食品に限った話ではありません。「人形」はシルバニア・ファミリーの「ファミリーセット(お父さん、お母さん、男の子、女の子)」が調査対象銘柄となっています。

 

商品名が指定された基本銘柄の例

※総務省統計局・小売物価統計調査「毎月の調査品目及び基本銘柄」(2022年6月)より抜粋

 

CPIの作成方法自体は、国際労働機関(ILO)が定める国際基準に則ったものとなっています。

品目ごとの代表的な商品を基本銘柄にして継続的に調査をするのがグローバルスタンダードとなっていますが、米国の場合、銘柄を予め規定せず、調査員が店舗ごとの商品の「出回り状況」に合わせて価格を調査する独自の手法を取っているようです。

 

電気代などに「モデル使用例」

電気・ガス代や交通・通信料金などは「モデル品目」と位置付けられています。

典型的な利用例を予め定めたうえで調査し、個別に計算方法を決めてCPIに反映させる形となっています。

計算例として比較的分かりやすいレンタカーの場合、対象となる会社を選定し、排気量1000㏄クラスの乗用車で24時間以内に出発店舗に返却する場合の、免責補償料を除いた時間当たりの料金を調べ、それぞれの会社の車両保有台数で加重平均した価格を反映させます。

 

2020年基準で加わった「葬儀料」もモデル品目です。

利用例をみると「仏教式で親族20人、参列者25人、民営斎場2日間、ドライアイス20-40kg…」などと記載されています。

 

実質値上げが相次いでいるが…

価格は据え置きながら内容量を減らす「実質値上げ」をCPIは反映していない、ともよく言われていますが、本当でしょうか?

結論からいうと、実質値上げはCPIを上昇させる効果があります。

ソーセージ製品やチーズなど食料品に限らず、洗剤や漂白剤などの日用品に至っても、重量当たりの価格を計算する形をとっています。

 

一方、インターネット通販の価格の変化については、全て反映されているという訳ではありません。

2020年基準への改定により、旅行サービス(外国パック旅行費、航空運賃、宿泊料)など一部でネット上の販売価格をCPIに反映することが決まりましたが、ネットスーパーで販売される食料品や日用品などはまだ対象となっておらず、今後の検討課題にとどまっています(POSデータをCPIの算出に活用する取り組みは一部品目で行われています)。

 

調査される場所はどこ?

CPIの調査対象となる自治体は167の市町村です。

1700を超える市町村数からみて10%未満となっているほか、公表されている調査対象の市町村を確認すると、例えば東京都町田市や千葉県船橋市、三重県四日市市、山口県下関市など、一定の人口を抱える主要都市でありながらも、対象に含まれていない自治体があります。

 

調査対象の自治体に立地する店舗の顧客層が、日本全体の消費動向を示しているのかという点については、議論が残っている部分と言えます。

 

調査対象の市町村(都道府県を抜粋)

※総務省統計局、小売物価統計調査「価格調査及び家賃調査の調査市町村(2020年~)」。都道府県庁所在市、政令指定都市、人口15万人以上の都市は毎月公表。

 

(執筆:長田 善行)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by Tomohiro Ohtake

SNSで繋がっている友人の一人に、「この人、ちょっと危ないな…」と思う女性がいた。

思っていたけれど、関わらずにいた。

 

関わろうと思うほど個人的に親しくなかったからだが、仮に親しかったとしても、やはり関わらなかっただろう。

今の時代、頼まれもしないのに親しくない他人のプライベートに踏み込むのはご法度だし、たとえ親しかったにせよ、中途半端なお節介はかえって相手を偏狭で意固地にさせるだけなのだから。

余程の暴走が見られない限り、対応は「そっとしておく」の一択である。

 

その女性の場合は何がどう危なげだったのかと言うと、彼女からは怪しげなものに心の拠り所を求めて、深みに落ちていく女性特有の匂いがしていたのだ。

これまでスピリチュアルの沼にハマり込んでいく女性たちの観察をしてきたせいで、どうやらそういう嗅覚だけはすっかり発達してしまったらしい。

 

「そのうち『そっち方面』へ行くのだろうな」

 

と匂う人は、ちゃんと『そっち方面』へと歩みを進めていく。匂いの元は、「叶わない願い」「失われゆく若さ」「不安」「孤独」「劣等感」「依存心」「欲求不満」などである。

それらのエッセンスが少しずつ混ざり合った承認欲求のエッセンシャルブレンドが、独特の臭気を放つのだ。

 

彼女の名前は、ここでは便宜上A子さんとしよう。A子さんとはどういうきっかけで繋がったのか覚えていない。

恐らく、共通の友人主催のバーベキューパーティやホームパーティで何度も顔を合わせるうちに、SNSアカウントを教えあったのだと思われる。

 

彼女は愛嬌のある朗らかなキャラクターで、笑顔を絶やさないチャーミングな女性だった。そして、ちょっとびっくりするほど素敵な旦那様がいた。田舎ではあまり見かけないタイプの、都会的な雰囲気を纏った上品かつハンサムな男性だ。

それもそのはず、二人は東京からUターン移住してきたばかりだそうで、都会暮らしが長かったのだ。

 

旦那様が何のお仕事をされているのか知らなかったけれど、A子さんは専業主婦で優雅な暮らしぶりだったから、それなりの収入はあったのだろう。

二人とも既に若くなく、食い道楽で、あちこち出かけては社交に勤しむのが好きな様子だったので、私はてっきり子供を持たずに人生を楽しむ選択をした夫婦なのだと思っていた。

実は彼らが健康問題を抱え、不妊に悩んでいると知ったのはお別れの日だ。

 

あれは、友人の新居披露のホームパーティに呼ばれて、出かけた日のことだった。

宴もたけなわとなり、後から後から焼きあがっては運ばれてくるバーベキューの肉類と、次から次へと栓が抜かれるワインに疲れ、パーティの中心から外れて休んでいた時だっただろうか。小さなテーブルで私の隣の席に腰掛けたA子さんの夫が、突然プライベートな問題を滔々と語りだしたのである。

 

水を入れて重たく膨らませた水風船に、優しく穴を開けたみたいだった。小さな穴からプシューっと音を立てて水がほとばしっていくように、パンパンに張り詰めていたらしい思いが口から吹き出してくる。

 

「僕、実は、数年前に癌を患ったんです。東京で暮らしていた頃のことです。治療して今は普通に暮らせていますけど、再発の可能性がそこそこあって…。だから体のことを考えて、田舎に移住しました。こっちの方がずっと環境がいいですから、健康にもいいだろうということで。

妻は妻で、婦人科系の問題を抱えてます。だから今は、夫婦で体質改善に取り組んでいるところなんですよ。
それで、あの…、実は、僕たち妊活をしているんです。特に妻が子供を欲しがっています。

だけど僕は、癌治療の影響で子供ができにくくなってしまっていて、不妊治療をうけても妊娠の可能性は高くありません…。

それに、…迷っているんです。子供が欲しい気持ちはありますよ。できれば妻の希望を叶えてあげたいと思ってる。もしも子供ができたら可愛いだろうし、きっと幸せでしょう。

だけど現実的には難しい上、僕自身がいつどうなるのか分からないのに、そもそも子供を作っていいものなのでしょうか。
だけど自分たちの年齢を考えると、そんな風に迷っている時間もなくて…」

 

彼の目は私を捉えておらず、ずっと視線をゆらしながら話している。

 

私はどう答えればいいのか分からなかった。

A子さんの夫と話すのは、ほとんど初めてだったのだ。もちろんこれまでに幾度となく顔を合わせていたが、挨拶を交わす程度で、ちゃんと会話をしたことがない。

 

しかも今日を最後に会わない人から、いきなりシリアスな問題を打ち明けられても困ってしまう。

私は夫の転勤についていくため、翌週には県外へ引っ越すのだ。

 

後になって思えば、だからこそ彼は私に話したのだろう。私はこのパーティ仲間のコミュニティから出ていくと分かっている人間だった。

何を話したところで後腐れがないうえに、A子さんと私は親しくないため、「おたくの旦那さんがこんなこと言ってたわよ」と告げ口される心配もない。

 

結局、私には気の利いたことが何も言えなかった。

不妊治療はどこまでやるのか、もしできなかった場合は夫婦二人で生きていくのか、あるいは養子や里子を迎えるのか。彼が胸の内を打ち明けた上で、今後についてじっくり語り合うべき相手は妻であり、私ではない。

 

当人同士でしか答えが出せない問題なのに、彼は自分で答えを出したいと望んでいないように見えた。

「答えを出す」のではなく、ただ流れに身を任せて、「答えが出る」のを待っているのだ。

 

私の方は、彼と話したことで謎が一つ解けていた。

なぜA子さんがハーブの話ばかりをSNSに投稿するのか、事情が分かったのだ。ハーブが体質改善と妊活に役立つと考えてのことなのだろう。

医学的なアプローチに頼るよりも、自然であることにこだわりたい人なのかもしれない。

 

それっきりA子さん夫妻と顔を合わせる機会は無くなったが、SNSでA子さんの投稿は目に入っていた。

あれから数年の間に、A子さんの投稿内容はハーブの話題からアロマに移り、やがてアロマオイルを販売するネットワークビジネスの会員になって、アロマセラピストを名乗り、商品やサービスの宣伝を始めた。

 

マルチ系アロマビジネスとスピリチュアル系自己啓発は相性がいい。

時間の問題だとは思っていたが、しばらくすると案の定A子さんは仲間から影響を受け、占いやパワーストーンにも凝り始めて、発信内容はスピリチュアル色が強いものに変わっていく。

 

現在の彼女の SNSやブログには、「遠隔ヒーリング」「エネルギー調整」「引き寄せの法則」「ガイドとの交信」「宇宙仲間との交流」「チャクラ」「潜在意識」「ライオンズゲート」「本当の望みと向き合う」「魂の使命を思い出す」「ありのままで豊かになる」「ブロックを外す」など、定番のスピリチュアル用語がてんこ盛りだ。

 

結局、妊活は体への負担が大きかったことと、年齢的な限界を感じて諦めたらしい。

妊活が影響したのか婦人科系の病気も再発してしまい、今は病院で治療を受けながら、直接肌に塗ったり飲用も出来るというエッセンシャルオイルを用いて、様々な心身の不調をケアしていることが綴られている。

 

40代も半ばにさしかかっているため、他にも様々な不定愁訴にみまわれているようだ。

ホルモンバランスの変化による体調の揺らぎとイライラ、肌荒れ、胃腸の不調、腰痛に悩まされており、それらを全てアロマの力で克服するという。

 

その位の年齢になれば誰でも不調に悩まされるので、決して彼女が特別に不健康体というわけではないだろう。

体の変化に合わせて、生活を見直すべき時期が来たというだけのこと。

 

健啖家で酒豪の A子さんが飲酒や美食を止めるのは難しいだろうが、胃腸の不調にはエッセンシャルオイルを飲むより、強い酒と食べ過ぎを止めた方がいい。

それにより少々重すぎる体重が減れば、腰への負担も軽くなるに違いない。

 

彼女の発信内容で気がかりなのは、健康問題よりも夫婦関係の方だった。

A子さんは「夫に対する怒り」や「寂しさ」を、たびたび吐露するようになったのだ。

 

今でも夫婦で仲良く旅行に出かける様子を投稿をする一方で、「ちゃんと話を聞いて欲しいのに、夫は寝てしまう」「向き合ってくれない夫に怒りが大爆発」「寂しい。悲しい」と書いている。

 

あの素敵な旦那様とA子さんは、今も相変わらず仲は良さそうだ。

けれど、肝心なことは話し合われず、お互いに向き合わないままなのは、きっとあの日から変わっていない。

 

夫の目から見れば、今の妻の言動は異様に映るだろう。

アロマセラピストと言っても、A子さんの仕事はままごとのようなもので、収入らしい収入はない。

高額なエッセンシャルオイルやスピリチュアルグッズに生活費を注ぎ込まれるのは浪費に思えるだろうし、そもそも絶えず家中にアロマの香りが充満している状態は、彼にとって香害かもしれないのだ。

 

妻が意味のわからないスピリチュアル用語を連発しながら理解不能な話を始めれば戸惑って当然だし、それに理解や共感を示さなければヒステリックに泣き叫ぶのだから、背を向けて寝てしまいたい気持ちも分かる。

 

それでもA子さんの夫は、決して妻に文句を言わないし、諌めることもないだろう。

元々の優しい性格に加え、彼には「妻を母親にしてやれなかった」負い目があるのだから。

 

本当は、「妻を母親にしてやれなかった」ことが問題なのではなく、妊活中にしっかり向き合わなかったことと、A子さんが母親になる夢を諦めて挫折感と喪失感に苦しんでいる時に、ちゃんと受け止めなかったことが彼の罪なのだけど。

 

女たちがスピリチュアルに足を踏み入れるきっかけと背景は様々だが、彼女たちは決して諦めたからスピリチュアルにすがるわけではないだろう。

むしろその逆で、今生きている社会も、これからの人生も、パートナーとの関係も、何一つ諦めたくないからこそ、スピリチュアルにヒントを求めて彷徨うのだ。

 

けれど悲しいかな、スピリチュアルの世界に救いはない。

スピリチュアルというファンタジーワールドに迷えば迷うほど、現実では救いようのない人間へと堕ちていく。

 

A子さんはまだ、スピリチュアルの沼の浅瀬にいる。残念なことに、今後はいっそうの深みにハマっていくと予想される。溺れる前に岸に上がるには、本人が自分で気が付くか、夫が引っ張り上げるしかない。

A子さんの夫が妻に向き合い、A子さんは現実と向き合う日が来ることを、遠くから願っている。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

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となりの億り人 サラリーマンでも「資産1億円」という本を読んだ。

[amazonjs asin="B09NBKG47S" locale="JP" tmpl="Small" title="となりの億り人 サラリーマンでも「資産1億円」 (朝日新書)"]

 

昨今は既にこの手の本が巷に溢れつつあるが、それでもこの本はとても良い。

書き手が金融の専門家であり、内容も誠実である。かつ、視点も広い。

 

要旨を一言で言ってしまえば「億り人になりたいのならコツコツと貯蓄して投資しろ」という類著によくあるモノでしかないのだが、僕はこの本の真価は直接は語られていない部分にあると感じた。

 

それは億り人って、結局のところゲームなんだなという話である。

 

どうやったら億り人になれるのかは3パターンに集約される

この本を読もうと思った人の多くは「どうやったら今よりもっとお金儲けができるようになるのだろう」と期待している部分が多いだろう。

 

もちろんとなりの億り人には「どうすればいいのか」の記述はキチンと書かれている。

この本の本当のキモは筆者である大江英樹さんがいままで多数みてきた億り人の実像を様々な角度から書いているという点にあるのだが、それを書く前に実際にどうやったら億り人になれるのかを本の中から紹介しよう。

 

一言で億り人といっても、どうすればなれるのかは人それぞれだが、筆者いわく大雑把に分ければ以下の3パターンに集約されるという。

それは

1. 親が資産家であってそれを引き継いだという例。

2. ベンチャー企業で一発あてたというケース。

3. サラリーマンでもコツコツと投資し続けて億った

というパターンだ。

 

これらのどの手法をやっても億り人になれはするのだが、それを成し遂げる為に非常に重要な原理原則が一つある。

それは「お金自体にあまり興味は無い」ということである。

 

億ったのにお金に興味がないって、一体どういうことやねんと思われるかもしれないが、つまるところお金が貯まるという事を一言でいってしまえば「気がついたら増えていた」という事なのである。

 

先の3例でいえば、最初の親が資産家だというケースであれば親の資産を「大きく減らしもせず増やしもしない」という点が肝心だ。引き継いだ資産を使ってどうこうしようと考えると、結果的にはお金が使われてしまう。

もちろんそれで増える事もあるだろうが、大抵の場合においてお金は使うと消える。

 

2例目であるベンチャー企業で当てたケースだと、たくさん働いていたら「いつの間にかお金が口座に沢山入っていた」というのが億り人になる条件だ。

稼いだお金を使って事業を拡張しようとか、せっかくお金を稼いだのだから贅沢をしようとすると、やっぱりお金は使われてしまう。

 

3例目であるコツコツと投資し続けて億ったというケースも同様だ。

丁半博打のように切った張ったみたいな事をするのではなく「複利や市場の原理を使って、自動的にお金が増える坂道に貯金をゴロゴロと転がるようにする」というシステムに身を預ければ、自分の能力ウンヌン関係なくお金は増える。

ここでもお金はやはりというか一切使われない。

 

つまりである。どういう手法を用いるにしろ、お金がある意味では実用的な観点から切り離されているのである。

故に勝手に雪だるま式に増殖し、結果的に億になるというわけだ。

 

貯蓄で億り人に至る道は、たぶん貯金の数値が増えるのが楽しいという感覚を研ぎ澄ましたもの

多くの人がなれる可能性が高いであろう3番目の貯蓄での億り人ケースだが、これは預金通帳の数字が増えるのをみるのが楽しいという感覚を極限まで煮詰めてゲーム化し、最適化させたものといえよう。

 

人生はゲーム的な要素が多分にある。

例えば仕事での成長はレベルアップやスキル開発的なニュアンスがあるし、レアなワインの収集ならびに熟成はアイテム開発的な感覚がある。家族形成は冒険者パーティの運営みたいなものだろう。

 

貯蓄もまたゲームだ。

預金通帳の数値が増減する姿をみるのは、意外と馬鹿にできない面白さがある。自分の通帳に莫大な資産が入ってるのをみたり馬鹿みたいに上がった暗号通貨をみながら酒を飲むのは、まあ悪い時間ではない。

 

その逆…百万円単位でのクレジットカードの請求だとか、激下がりして草になった暗号通貨をみながら絶望的な余韻に浸るのも…なかなかにオツなもんだ。

 

この預金通帳の数値増減クエストはいくつかランクがある。

0円にしたり10万円ぐらいにするのは難易度Eランクぐらいだが、1000万ともなると、難易度はそれなりに高くなる。

 

その超難易度クエスト…Aランクが億だ。

この億クエストを「よっし自分も達成してみるか」とワクワクできるかどうかが、貯蓄にて億り人になれるかどうかの一つの分水嶺だろう。

 

君は資本主義ゲームに熱中できるか?

2番めのベンチャー事例は「仕事に熱中してたら気がついたらお金が溜まっていた」というケースだが、これは資本主義ゲームに集中しまくった結果だともいえる。

これはゲームだとRPGのレベル上げとかダンジョン潜りみたいなのに近い。

 

レベル上げやら牧場経営といった目の前にある面白そうなクエストをゴリゴリやりまくってたら、気が付いたらお金が溜まっていたというのは、RPGをやっててレベル上げをしまくって、落ちてたアイテムを道具屋で売り捌いたらサイフにゴールドがメチャクチャ溜まってたみたいなのと実によく似ていないだろうか?

 

この手法でお金を貯めるポイントはとにかく動き続ける・プレイし続けるという点にあるだろう。

ゲームのスイッチを入れても、コマンド操作を一切しないのならプレイ時間が流れ続けるだけである。

 

そうではなく、とりあえずお金のある場所で動きつづけていて、それでもってお金を使わなければ、そりゃお金は貯まるのは言うまでもない。

武器や防具などのアイテムを一切買わずに最初から最後までプレイし続けてたら、ラスボス撃破時点で莫大な資産がサイフの中にある事だろう。

 

もちろんこんなプレイ方法をやってて楽しいかどうかはまた別の話だ。

多くの人にとっては、武器やら防具を買うという行為の方がエンタメとしては大変に優れているだろう。

 

買い物は楽しい。手軽にアドレナリンを噴出できる。

だがその楽しさを、味わう暇もないぐらいに資本主義クエストに熱中し続ける事ができたら…まあお金は貯まる。そういう事である。

 

何かを得るためには、その何かから意識を外す

世の中の多くのものは、それ自体に執着すると事がうまく運ばない。

例えば誰かの事を好きになりすぎて、四六時中その人の事ばかりを考え続け、10分おきに愛の言葉をつぶやいていたら…まあ単なるキモい人間である。

 

若いうちはそれで成就する恋愛もあるだろうが、それだけで恋が長続きする事例はまず無い。

普通に頑張って勉強したり働いたりといった内面の補強のような、恋愛以外の活動に精を出さないと、人間の関係性というのは保てない。

 

何かが欲しかったら、その何か以外の事が肝心なのである。

もちろん、最終的にはそれに焦点が合わさるようにルートは定める必要はあるのだけど、決してそれはダイレクトには結びつきすぎてはいない。

 

承認欲求を満たしたいのなら「私の凄さを認めろ」と言い続けていても駄目だ。

なんであれとりあえず活動して「なんで誰も自分の凄さを理解してくれないの?」と言わねばならない。

 

意識高い系だったけどなんとかなったな、そういえば

先日、安達さんが「意識だけ高い」人たちは、いったい何を考えているのだろうか | Books&Appsという記事を書かれていたが、実は自分も意識高い系だったという過去がある。

 

若い頃は随分と口先でデカいことをいいまくっていたものだけど、同時に自分は効果がでるかどうかは別にして、活動はしていた。

 

好きな人に告白しては振られたり、全く読まれないブログを書き続けたりと何でそんなことが継続できたのか自分でも以前はよくわからなかった。

だが今思うと、意識が高かったのはこうした活動でへし折られた自尊心を慰めないとやってられなかったのかもしれない。

 

純粋に自尊心や自己肯定感のみ焦点を合わせてそういう活動をやっていたとしたら、まあ多分なんだけどどこかで折れていたように思う。

もちろん、心のどこかで自分の事を信用していた部分はあったからこそ継続できたというのはあるとは思うのだが。

 

正直な事をいうと、これらの活動源となった動機はダークなものだ。

一生独り身だと思うとキツすぎたし、誰にも認められないままだというのも苦しすぎた。

その苦しみから一刻もはやく逃げ出したいという純粋な気持ちが、僕を傷つく活動に繰り出させていた。

 

それは夢中になれるゲームなのか、それとも一刻もはやくクリアしないと死ぬゲームなのか

何かが欲しかったら、その何かを意識からまずは外す必要がある。

そしてその何かを手に入れる為には、純粋な喜び、あるいは闇から一刻も早く逃れたいという苦しみを心のどこかに抱える必要がある。

 

お金儲けが夢中の先にあるのなら…夢中をやればいいだけの話である。

結果としてお金が溜まって、まあいい気持ちにもなれるだろう。

 

お金儲けをしないとマジでヤバいという環境に居るのなら…呪詛を吐きつつも必死になってお金を稼ぐほかない。

莫大な借金があるだとか、身内が病に倒れて医療費がヤバいだとか、世の中にはお金が自分の精神をメタメタにする性質のものもある。

 

冒頭で親の莫大な資産を引き継いで億り人になったケースを紹介したが、いま思うと案外このパターンも闇から一刻も早く逃れたいという苦しみ事例にあたるのかもしれない。

資産の引き継ぎは案外面倒だ。相続税の問題はもちろんとして、事業の引き継ぎだって、ちゃんと自分の身の丈が合ってないと不可能だ。

 

まあ、なにはともあれ人生はゲームである。死ぬ前にちゃんとクリアできる事はクリアしておくに越したことはない。

楽しいクエストだけ受けて、やっていきたいものである。億り人クエストも楽しんでやれたら、それでいい。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

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野球に殺される

野球に殺される。……といってもバットで頭を殴られるとか、硬球をぶつけられるとかいう意味ではない。野球に時間を取られることで、おれの時間が殺される、ということだ。

おれの時間……本を読んだり、映画を見たり、競馬の予想をしたり……。いや、べつに殺されてもいっか。

でも、まあ。あと、「野球に殺される」は「アイドルに殺される」というすばらしい曲の節で読んでください。

 

まあ、野球は怖い。おれは広島カープという日本プロ野球のチームのファンを物心ついたころからやっているが、シーズン中はその試合を見ることに夢中になってしまう。

なに、見るといっても、横浜(しかも横浜スタジアム近く)に住んでいるおれ、広島の球場に行くなんてできない。もっぱらインターネット配信である。

 

ネット配信。これはおそろしい。そしてすばらしい。

おおよそ、関東圏に住むカープファン、昔はジャイアンツ戦の地上波中継で見るくらいしかなかった。

 

これがどうだ、カープの試合も……えーと、あの、ネット中継といっても、「セ・パ11球団主催試合見放題」のうちには入っていないくて、要するに最後の1球団なのだけれど、そのあたりの複雑でしょうもない事情は各自調べられたい。

おれは、「カープ主催試合」の配信のみ契約している。ビジターの試合は見なくてもいい。というか、それまで見ていたら、もたないという思いがある。

それでも、その契約では横浜と中日の主催試合も見られてしまうので、まあかなりカープの試合を見てしまうことになる。

 

野球のなにがおもしろいのか

しかし、なんだろうか、野球のなにがおもしろいのか。

なぜ、おれは野球を見るのか。これをあらためて考えてみると不思議なもので、どうにも言語化しがたい。

 

これが、「カープを応援する」という文脈のみで語れば、物心ついたころに刻み込まれた呪いのようなものと説明がつく。

幼いころ、カープとジャイアンツの試合が中継されていて、広島出身の父がこう言ったのだ。「赤と黒、どっちが好き?」と。戦隊ヒーローものに夢中だった自分は、赤はリーダーの色、黒は悪者の色(とは限らないけれど)という印象から、「赤!」と言った。

それ以来だ。そこから父と父の母によって教え込まれたカープ史観というものに洗脳されたといえば、それだけの話かもしれない。

 

しかし、どうだろうか。カープ以外の野球の試合もテレビに映っていれば、思わず見てしまう。高校野球なんて最たるものだ。

「プロに比べて技術もなにも劣っている試合のなにがおもしろいの?」という声もあるだろう。

このところの炎天下でエースピッチャーが投球過多になるとか、アマチュアの試合なのに商業化しすぎているとかいう批判があるのも知っている。しかし、やっていれば見てしまう。

 

それが、たとえば自分の住む神奈川の代表の試合だとかいうならまだ理由もつく。それがどうだ、なんかやっていて、自分に縁のない代表同士でも、ちょっと負けているとか、なんかピッチャーのモーションが好きだとか、そんな理由でどちらかにちょっと肩入れすれば最後、なんか最後まで見てしまう。

野球の試合は5分で終わらない。おれの時間が殺される。高校球児に殺される。灼熱の応援席で奏でられる応援曲に殺される。

 

これは、なんなのか?

 

正岡子規いわく

野球といえば、正岡子規である。そういうことになっている。

正岡子規ならば野球の面白さをうまく人々に伝えているのではないのか。

そう思ったおれは正岡子規の「ベースボール」を読んでみた。

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うーん、とりあえずはとにかく、この複雑なルールをなんとか伝えようとしているのが伝わってくる。というか、この説明だけ読んで「野球」というスポーツを想像できる人がどれだけいるのだろうか?

まったく野球のルールを知らない人たちにこれを読ませて、これをもとに試合をやってみてもらいたい。たぶんおもしろいことになる。

 

でも、そういうおもしろさじゃあないんだ。野球のおもしろさだ。それについて書かれていないのか。書かれている。

○ベースボールの特色 競漕競馬競走のごときはその方法甚だ簡単にして勝敗は遅速の二に過ぎず。故に傍観者には興少くなし。球戯はその方法複雑にして変化多きをもって傍観者にも面白く感ぜらる。かつ所作の活溌にして生気あるはこの遊技の特色なり、観者をして覚えず喝采せしむる事多し。

いや、競馬にも競輪にもボートにもオートにもそれぞれ遅速で済まない簡単でないところがあるんだけどね、などと言いたくなるが、まあそれはいいとする。「方法複雑」、「変化多き」をもって面白いといっている。

 

たしかに、野球のルールは複雑だといっていいかもしれない。

いろいろ変化もあるし、おれだって「第4アウト」について正確に説明しろと言われたら困る。

でも、そういうこともめったに起こらないし、そこまで難しいかな……。

 

などというおれは、「野球のルールを説明した絵本」を幼いころに読まされた記憶がある。

読まされたといっても、無理やりではなく、自分から夢中になって読んだような記憶もある。模造記憶かもしれないが。

 

だいたい、なんとなく、わかるだろ。ゴムボールとプラスチックのバットで野球ごっこをしたり、ソフトボールをしたり、キックベースしたりしなかったのか? と言いたくなる。

 

……という態度が、野球が嫌われる、敬遠される原因なのですよね。

実際のところ、令和の若者というより、令和の60代女性などでも「子供のころ見たいテレビがあったのに、父親が巨人戦にチャンネルを合わされていた。だから野球は嫌い」という話が聞こえてくる。

野球に対する怨嗟は積み重なっている。まあ、一家族一モニター時代ではない今、子供たちは好きな配信を見ているのかもしれないが。

 

昭和の野球

令和の野球のことはとりあえず置いておいて、昭和の野球の話をしようか。

 

おれが昭和の野球といわれて思い浮かべる書き手がいる。近藤唯之である。おそらく、多くの人にとって「誰?」ということになるだろう。

山際淳司ですら「誰?」となりかねないなかで、近藤唯之は厳しい。そう思う。それでも、おれにとってプロ野球と言われて切り離しがたい人物が近藤唯之なのである。幸いにもWikipediaに項目もあるので、どういう人物かは読んでもらいたい。

 

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さて手元に、近藤唯之の『戦後プロ野球50年 川上、ON、そしてイチローへ』という本がある。たまたま、おれの押し入れの手前の方にあったから抜き出してきた本である。

これが代表的な著作というわけではない。だいたい、どんな本でも同じようなことを書いている。定番の「近藤節」を炸裂させている。そこらへんの新古書店などでいくらでも手に入るかと思われるので、気になったら手にとってもらいたい。え、気にならない?

 

して、この本の書き出しはこうである。

 伝説によると、太平洋戦争が終わった直後、一番早く”素振り”をやり始めた日本人は、川上哲治一塁手(巨人)だといわれている。

戦後プロ野球は川上の素振りから始まったのだなあ、と思ってしまうのは少し早い。

「伝説によると」だ。だいたいにして近藤はこの「伝説によると」を省く。「伝聞によると」も省く。見てきたように書く。

そこがいい加減だと批判されることもあったが、そこが昭和一桁生まれの人間のおおらかさじゃあないですか。とはいえ、この「伝説」には少し根拠がある。

 虫明亜呂無の戦友の話によると、川上は昭和20年8月15日の午後1時~2時頃、もうサーベルで素振りを始めている。

「虫明亜呂無って誰?」という話はさておき、伝聞の伝聞ではあるが、出どころを書いている。珍しい。

 

ともあれ、こういう伝説や逸話とともに語られてきたのが昭和の野球ではないのか。

そして、近藤唯之は、プロ野球選手の人生を、サラリーマンの人生に重ね合わせて語る。対象は「サラリーマン」である。さらに言えば、満員電車で夕刊タブロイドを読む男性が対象である。

そこに人生の悲哀を込めて語るのである。人生訓を語るのである。

 私がプロ野球半世紀を通じて、最高の監督は三原脩だと考えるのは、ここのところなのだ。数年先のプロ野球を読み切り、きっちりとした戦略構想を立てる。立てるだけではない。汗水たらして走り回って、その戦略構想を実現してしまう。こんな凄い男がほかにいたろうか。それでいて物干し場から女風呂をのぞき、キャバレーの女と温泉へしけこむ。たまらないくらい、男の中の男じゃあ、ありませんか。

たまらないくらい、近藤節じゃあ、ありませんか。というか、これが昭和の価値観なので、令和から批判したい人は批判すればいいと思いますが。

プロ野球選手というのは、要領がいい。ドロボー猫みたいに要領がよくないと、野球やって女房、子供を食べさせていけない。風のような速さで豊田が最上席の場をゆずる。仰木がさっと座ぶとんを持ってくる。高倉が三原の肩をもみ出す。それから約1時間、三原は肩をもませながら女風呂をのぞきつづけた。昭和11年にプロ野球が創設されて以来58年間、名監督は10人を超える。しかし選手に肩をもませ、女風呂をのぞいた名将はこの三原ひとりしかいない。

 

昭和の価値観なので……。え、野球と関係ある?

でも、たぶんね、おれもさすがに昭和のころにサラリーマンやってなかったのでわからないけれど、こういう見方をされていた面もあるんじゃあないかと思う。そして、それゆえに支持され、それゆえに反感を買い……。

 プロ野球は昭和11年に創設されて以来、約7000人近い人物が登録されてきた。だがその契約金で借金返済が目的というのは、この永淵ひとりしかない。

安い飲み屋の借金がたまったのでプロ入りしたという(あくまで近藤ワールドのなかで)永淵洋三の話などもいい。

「あぶさん」のモデルになった人物である。

 オレは借金30万円してもやめられなかった酒――だから世間にたくさんいる酒飲みのために、オレは安い酒、安いやきとりで商売をする。
いいじゃないですか、店内を見渡しても、プロ野球時代の写真1枚、記念品1個ない。
「あのときはあのとき、いまはいま」
この割り切り方こそ職人なのだ。
客もプロ野球の話は一切しない。それでいて佐賀の客はみんな、この眼の前のおやじが、元首位打者だったのを知っている。だからこそプロ野球の話はしないで、客がおやじに酒をついでやる。おやじも黙って飲んで頭を下げる。
いいじゃないですか――。

なにがいいの? という人も多いかもしれないが、おれはいいじゃないですか、と思ってしまうのだが、どうだろうか。

 

野球は今後、どうなるのか?

さて、なぜか昭和サラリーマン的プロ野球話にちょっとひっぱられてしまったが、おれの最初の疑問である「野球ってなにがおもしろいの?」というところの答えにはなっていない。

 

正岡子規は「所作の活溌にして生気あるはこの遊技の特色」と書いたが、そうだろうかという気もする。

おれの親しい女の人によれば、野球というのはピッチャーばかりが運動していて、外野などは「暇そう」なのだ。という。いや、シフトなどで動いたり……とか言っても、いや、まあ確かにというか。

 

その点、サッカーなどは、力量差がありすぎる試合のキーパーなどを除いたら、みんな活溌なように見える。というか、先の近藤本にはJリーグというものに対峙せざるをえなくなったプロ野球の話が出てくる。

長嶋茂雄と野村克也の平成6年の対談だという。そのなかで、野村の発言が以下である。

「だからあんたも巨人OBもお坊ちゃまなんだ。プロ野球の最近数年間の歴史を見てごごらんよ。最初に天才ジョッキー武豊の出現で女の子がプロ野球から競馬に流れた。次は、若、貴兄弟で大相撲にとられた。真打ちはJリーグだよ。いまスポーツ紙の一面はJリーグ5回にプロ野球1回、5対1の比率なんだ。それもこれもプロ野球が何十年と客に対して、見せてやるという態度をとりつづけたツケが、いま回ってきたんだ。いまこそ全選手が客をよろこばせる、ハラハラ、ドキドキ、しびれさせ、見ていただくという気持ちを持たないと、根こそぎJリーグに持っていかれてしまう」

プロ野球ファンでない人も「ノムさん」は知っているのではないか。そのノムさんはファンサービスの人でもあった。

 一塁走者になった野村はくやし涙がこみ上げてきた。「この拍手が21年間かかってつくってきた記録の報酬なのか」
この安打は野村がプロ入りした昭和29年以来、21年間かけてつくりあげた”2500本目”の安打だった。

その観客6000人、拍手したのは数十人。まあ、近藤唯之の話ではあるが。

 

そのような窮状を知っている野村にとって、Jリーグは脅威だった。

 

と、過去形にしてしまったが、どうだろうか。ちょっとよくわからない。

Jリーグは発足当初の派手な扱いはなくなったが、たくさんのチームが各地に根付き、大きな裾野を作っているように見える。

 

一方で、「スポーツ紙の一面」を飾るような全国的な広がりがあるかというと、どうかわからない。

とはいえ、「スポーツ紙の一面」というものの価値が平成に比べてものすごく下がっているのも事実ではあるが。それでも、サッカーについて、サポーターの高齢化、あるいは代表チームの人気低下という話も聞こえる。欧州リーグなどを気軽に見られる環境もあるという。

 

そういう意味では、野球ファンもメジャーリーグを見ているのだろうか。そういう人もいるだろう。だが、なんといっても大谷翔平ではないかという気もする。

野球知らずも、野球嫌いも、大谷翔平の名前を知らない人は少ないだろう。投手と打者という二刀流をしているという話も知っているだろうか。

それがどれだけ桁外れなことかというのはともかく、ニュースは取り上げる。まあ、ちょっと規格外すぎてスポーツ人気の興亡の文脈で語るのは無理があるか。

 

……などというのも野球ファンの傲慢と言われるかもしれない。

野球をやっている国と、サッカーをやっている国の数の差を知らないのか、と。たかだか日本とアメリカの話だと。二刀流ならカンポスやチラベルト(古い!)がいたとか。

 

まあいい、ともかく、野球のなにがおもしろのか、おれにはわかりませんでした、というのが結論になる。なっていいのか。

エラーをした野手がグラブを見つめていじっている姿を中継で抜かれる姿とか、下位打線で先頭打者になった捕手が初球をフルスイングして外野にファールを飛ばしてくるっと回っている姿とか、いいじゃないですかと言いたいが、我ながら説得力がない。

 

というか、もう日本も少子化でそもそもの人口が減っていて、さらに金のかかる、いろいろ面倒な部活である野球を選択する子供、家庭も減っていくのであろう。

ただ大谷翔平の活躍だけが、報じられていくのだろう。

もう、野球は滅びる。ラジオのアナウンサーが架空の試合を中継することだけが、野球のすべてになる。

 

そもそも野球はプレイの中継がすべてなのか、という話にもなる。

おれは選手名鑑やストーブリーグを好む人間でもある。書かれた野球も好きだ。

高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』とか(『惑星P-13の秘密』とか)。

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ロバート・クーヴァーの『ユニヴァーサル野球協会』とか。

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もう、『ユニヴァーサル野球協会』の世界なんてのは、どんだけ野球をつきつめているか、ということだ。

主人公は架空の野球リーグをつくり、選手を設定し、サイコロを振って試合を進めていく。それが膨大な記録となる。歴史を積み重ねていく。

 ヘンリーは人名にはいつも気を使った。人名こそが、一種独特な成功と失敗の感覚、一種独特な感情を野球ゲームにもたらすのだ。サイコロや各一覧表や他の小道具はドラマの仕掛けにすぎず、ドラマそのものになり得ない。それ故に、永続性という重みを一手に引き受けられるような名前を選ばねばならない。

ここまでくると、わけがわからんよな。

 

でも、おれにはなんかわかる。なんかわかるから、野球を見ている。野球の歴史を見ている、とすら言える。

ラプソードやトラックマン、ホークアイでリアルタイム解析されるのも野球なら、語られなかったものも歴史のうちである。

 

どちらもおれは好きである。いずれにせよ、おれはつまらない人生を野球に殺されて、それで満足である。

それもまた、昭和生まれの男の人生じゃあ、ないですか。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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社労士という顔を持つ私は、ある時、顧問先の社長宅に招かれた。

公私ともに仲がいい社長夫人は、大の料理上手。そのため、手作りケーキや料理を振る舞ってもらうことが、事実上、私の訪問目的となりつつある。

 

手作り料理というのは、派手さや豪華さはない。だがその分「おふくろの味」とでも言おうか、懐かしさを覚える独特の美味さがある。

そして材料は冷蔵庫の中身によって決まるわけで、料理上手は在庫処分のプロといっても過言ではない。

 

そんな彼女は当然、私の食の好みも熟知している。そのため、手料理ではないにせよ、私が好みそうな銘菓や果物を用意しては、訪問の度にもてなしてくれるのであった。

 

あんこは苦手だが、甘いものは大好き

「あんこは私が食べるから」

苦笑いしながら、社長夫人がピンク色の菓子折りを持ってきた。それはかの有名な、伊勢名物「赤福」だった。

 

私はあんこが大嫌いである。ちなみに苦手食物の第一位は牡蠣、二位があんこ、そして三位にグリンピースといった顔ぶれ。

とはいえ甘いものは大好きなので、チョコレートや生クリームなどはいくらでも食べられる。

にもかかわらず、あんこだけはどうしてもダメなのだ。

 

饅頭でもだんごでも、和菓子といえばあんこが定番。最近では「あんバター」なる組み合わせが登場したため、バターをダイレクトに齧るほどバター好きの私からすれば、なぜそのような嫌がらせをするのか不思議でしょうがない。

 

なお、行儀が悪いので大きな声では言えないが、饅頭やどら焼き、だんごといった和菓子を食べる際には、付着しているあんこをきれいに削ぎ落としてから味わう私。

無論、人様の目に触れてはまずい。よって、コソコソと気を使いながらの作業になるため、和菓子を食べても心の底から「美味い!」と感じたことはない。

 

仮に相手が気の置けない友人ならば、

「あんこだけ食べてよ」

と言って、あんこの塊を処理してもらうこともできる。だが客人の前、ましてやクライアントの前では、そのような無礼は厳禁。

 

それでも、姉妹のように親しくさせてもらっている社長夫人だからこそ、先にあんこの処理方法を提示したうえで、あえて私に赤福を勧めてきたのだ。

 

「あんこが嫌いならば、そもそも食べなければいいじゃないか」

 

ズバリ正論である。だがここにはもう一つの「事情」があった。

あんこ嫌いで有名な私だが、それと同じくらいに餅やもち米、白玉、小麦粉でできた薄皮やオムレット生地が大好物なのである。

 

つまり、なぜ行儀が悪いことを承知で、あんこを削ぎ落とすような真似をするのか?といえば、

「饅頭やだんごの生地が、ものすごく好きだから」に他ならない。

そこまでしてでも小麦粉やもち米を満喫したい、という想いの強さの現れなのである。

 

さらにこの時、社長夫人が笑いを堪えながら赤福を勧めてきたことには、私の苦い過去が関係していた。

 

大海原からの救出作戦

あれはたしか小学生の頃。昼に外出する予定のあった私は、その前に小腹を満たそうと台所を物色していた。朝食の残りはいまいち魅力に欠けるし、かといってめぼしい食べ物は見当たらない。

 

すると台所の片隅に、見たことのない紙袋があることに気がついた。

完全に隠そうとしたわけではないが、明らかに私の目にとまることを危惧して、そこへ置かれている模様。

 

(どうせやるなら、中途半端はダメだろう・・)

 

なんとなく腹が立った私は、すぐさま紙袋を手に取るとテーブルの上で広げ始めた。その中には、紫色の風呂敷に包まれた菓子折りのようなものが入っている。

――これは間違いなく、私に食べさせるつもりのない高級菓子を隠している!

 

急いで風呂敷をほどこうとするも、一瞬、思いとどまる。

(もしもこの事実が発覚すれば、確実に私は叱られる。であれば、バレないように中身を確認して、元の状態に戻せばいいのだ)

 

こうして私は、結び目やシワの状態を脳裏に焼き付けながら、なるべく形状を保ちつつ中身となる箱を持ち上げた。

 

――赤福

 

初めて目にする名前だが、なんとなく縁起が良さそうである。簡単な包装なので、留めてあるシールさえ上手く剥がせば箱の中身が確認できる。

 

意を決した私は、慎重に冷静にシールを剥がし包装紙をめくっていった。再び包み直すことを想定して、なるべく角を保った状態で箱だけをスルリと抜き出した。

 

(うまくいったぞ!)

 

秘密裏に悪事が成功するのは嬉しいもの。名探偵コナンになった私は、最後の砦となるであろう、菓子折りの蓋を留めてある金色のシールを剥がしはじめた。

そしてここが最難関であった。

 

金色のシールは、一度剥がせば二度と元通りにはならない素材でできている。しかしここまできて、中身の確認をせずにすごすごと引き返すことなどできない。

 

そこで私は、両脇を留めてある金色のシールをバリっと剥がすと、あたかも初めからシールなど存在していなかったかのように、シール跡ごときれいに取り去った。

 

(ヤバい、完璧すぎる・・・)

 

やや自分に酔いしれながらも、私はいよいよ菓子折りの蓋を開ける瞬間にまで辿り着いた。そしてさらなる厳戒態勢を敷きながら、そっと蓋を持ち上げた。

 

(・・・・・)

 

なんとそこには、見渡す限りのあんこの海が広がっていた。海と表現するに相応しい波が、あんこを用いて表現されていたのである。大嫌いなあんこゆえ言葉に詰まるが、それは非常に美しい光景だった。

きめの細かいなめらかなあんこが、ライトに照らされてキラキラと輝いている。まるで砂丘を形成する砂が描き出す模様のような、美しい流線形に目が釘付けとなる。

 

私はふと、包装紙の裏に貼られた原材料のシールを見た。そこには「砂糖・小豆・もち米」といった表記がある。

 

(ということは、この海底には餅が潜んでいるのか)

 

幼少期から餅や栗おこわが大好物だった私は、突如、ある種の正義感に襲われた。

とにかく餅を助けなければ――。

 

赤福に備え付けのヘラを持つと、大海原をほじくり返した。するとすぐさま、白い餅が顔をのぞかせた。

まずは一つ餅を取り出すと、纏っているあんこを削ぎ落とす。それでも若干の残骸が付着しているので、水道水でジャブジャブと洗い流してやった。

 

こうして真っ白な姿を取り戻した餅を、そっと口へと運ぶ。

 

(・・・う、うまい)

 

子どもながらに思わず感動した。こんなにも柔らかくてモチモチした和菓子を、私は未だかつて食べたことがない。赤福、恐るべし。

 

それから私は、いじわるな継母に幽閉された不遇な美少女を解放するかの如く、次から次へと餅を救出した。助け出しては水洗いし、美しい柔肌を取り戻した餅を胃袋へと送り込む。

当事者の餅たちも、嬉しそうな顔で喉の奥へと消えていった。

 

そして気がつくと、餅は一つもなくなっていた。

 

(しまった!!)

 

あまりの美味さに無我夢中で海底を漁った私は、箱に入っていた餅を一つ残らず食べてしまったのだ。その瞬間、背筋が凍る思いがした。

 

(まずいぞ。これがバレたら、きっとめちゃくちゃ怒られる)

 

考えればすぐに分かりそうだが、まず第一に、あんこ嫌いの私のために大量の和菓子を買うことなどあり得ない。

さらに、それとなく半分隠した状態で台所に置いてあるということは、やはり私には内緒で赤福を処理しようとしたのだろう。

そして、風呂敷に包むほど特別な施しがしてあるところをみると、誰かからもらったのか、あるいは、来客用に準備したのか――。

 

いずれにせよハッピーエンドは望めない。今はとにかく、できる限りの原状回復に努めるしかないのだ。

 

私は焦りながらも、ヘラを使って丁寧にあんこを撫で始めた。餅をほじくり返したことで、穴が開いてしまった部分にあんこをすり込み、まずは起伏のない凪いだ海を再現する。

それからさらに波を作るべく、ヘラを駆使して躍動的なうねりを生み出した。

 

決して美術が得意なわけではないが、この「あんこの海原」の完成度はかなり高い。誰かに自慢したいほど滑らかでリアルな三次元彫刻は、田舎の少女に自尊心を芽生えさせたのである。

 

名残惜しさはあるが、いかんせんこちらも時間がない。そっと蓋を載せると、ピンク色の包装紙を元通りに被せてシールで留める。最後に紫色の風呂敷で覆うと、布についたシワ通りに結び目を作って紙袋へと納めた。

 

そして元の場所へ戻すと、まるで時間が止まっていたかのように、先ほどと寸分違わぬ景色が広がった。

 

(よかった。これでどうにかなるだろう)

 

 

夕方、帰宅した私に雷が落ちた。

 

「赤福食べたでしょ?!餅が消えていて、お客さんと大騒ぎになったのよ!食べたならせめて、食べた痕跡を残しなさい!」

 

母親はどうやら芸術的センスに欠けるようだ。

大のオトナが寄ってたかって、餅の入っていない赤福を前に右往左往したのであれば、むしろその本物そっくりな赤福を再現した人物を称賛すべきだろう。

 

風呂敷の結び目といい、包装紙といい、あんこの大海原といい、どれも完璧に再現したからこそ、オトナたちの目を欺くことに成功したわけで。

大目玉を食らいながらも、私はどこか得意気で清々しい気分に浸っていた。

 

時を経て、赤福との再会

この話を知っている社長夫人は、当時の様子を思い浮かべながら赤福を勧めてきたのである。

さすがにこの期に及んで、餅を水道水で洗うなどという愚行に踏み切る勇気はない。だが、目の前に置かれた湯呑みの緑茶で、餅を軽く濯ぎたいと思ったことは秘密である。<了>

 

 

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【著者プロフィール】

URABE(ウラベ)

早稲田卒。学生時代は雀荘のアルバイトに精を出しすぎて留年。社会人になり企業という狭いハコに辟易した頃、たまたま社労士試験に合格し独立。現在はライターと社労士を生業とする。

URABEを覗く時、URABEもまた、こちらを覗いている。

■Twitter https://twitter.com/uraberica

Photo by Shuichi Aizawa

はじめに

買手にとってM&Aの成功のためには、簿外債務の把握は欠かせません。

簿外債務は企業価値に影響し、買収価格を決定するときに加味すべき重要な情報のひとつですが、場合によっては、簿外債務に気づかない可能性もあります。

 

そこで本記事では、簿外債務の具体的な内容や買手のリスクを減らすための対処法を、クローバー会計事務所の柴田亮(しばた あきら)さんに詳しく解説していただきました。

 

1.M&Aを成功させるために把握する必要がある簿外債務とは?簿外債務の定義

帳簿簿外債務とは帳簿の外にある債務のことで、貸借対照表に計上されない債務を指します。

簿外債務というと不正会計のようなマイナスイメージを持つ人もいるかもしれませんが、会計のテクニック上、計上しない債務もあり得るのです。

とくに中小企業の会計は簡略化が認められているため、簿外債務は珍しくありません。

 

2.なぜ簿外債務が発生するのか?簿外債務の原因について

売手の立場からすると少しでもバランスシートを良く見せたいという思惑があり、ここではなぜ簿外債務が発生するのかを説明します。

 

交渉を有利に進めるため

買手は売手の企業価値を正しく評価するために、デューデリジェンスにおいて売手からの企業概要書を徹底的に調べます。

そのなかで特に評価に影響するのが、バランスシートに計上されていない簿外債務です。

 

売手からすると、少しでも企業価値を上げるためにバランスシートを良く見せ、交渉を有利に進めたいというのが本音でしょう。

開示されていない簿外債務がデューデリジェンスでも発見されなければ、バランスシートの見た目は良くなり、結果的に企業価値は上がります。

 

しかし、譲渡し終わった後に簿外債務が発見されれば、契約違反となり責任を問われることになるでしょう。

何よりも信用を失うことにつながるため、交渉にあたっては誠実な対応が必須です。

 

3.簿外債務の種類

M&Aを行う際に、簿外債務が存在するかどうかのチェックは非常に重要です。簿外債務となるケースとしては、主に、次のようなものが挙げられるでしょう。

 

・未払いの残業代
・買掛金
・債務保証
・リース債務
・未払いの社会保険金
・賞与引当金
・退職給付引当金
・訴訟リスク

 

(1)未払いの残業代

最も多い簿外債務の中の一つが「未払い残業代」です。中小企業では、サービス残業で未払い残業代が発生しているケースも多く、デューデリジェンスの際に表面化しやすい簿外債務のひとつです。

タイムカード等の勤怠記録を見るだけでは不十分なケースもあり、買収監査時に社長やキーマンへのヒアリングを通じて未払い残業代が発覚することもあります。

 

(2)買掛金

買掛金とは、取引先との取引によって生じた買入代金のうち、まだ支払いがすんでいないものを指しますが、この買掛金の計上漏れは簿外債務の原因のひとつです。

また、電気やガスなどの未払金、保険料やリース料の未払費用など、これらの計上漏れも簿外債務のひとつとなり得ます。

 

(3)債務保証

企業がほかの企業や個人の保証人となっている場合、債務者が債務不履行に陥ると連帯保証人として債務を負うことになります。

決算書に引当金を計上する代わりに、連帯保証人である旨と保証金額を注記に記載して処理されることも多く、簿外債務になりやすいといえるでしょう。

 

(4)リース債務

リース債務とは、ファイナンスリース取引のときに発生する債務のことです。

リース債務を賃貸借処理として仕訳する際に、簿外債務が発生する可能性があります。

リース取引は数年単位の長期間に及ぶものもあるため、債務履行も数年と長いものになりがちです。

 

通期の支払いリース料のみを費用として計上するため、長期債務が決算書に表面化されにくく簿外債務となってしまいます。

 

(5)未払いの社会保険金

社会保険金の加入は中小企業では一定発生します。

特に、契約社員やパート社員等で発生しがちです。M&Aの場合では、買収監査でよく簿外債務となりやすい項目で、買収時の表明保証で保証するか、買収金額から未払いの社会保険金を減額するような対応をとることが多いです。

 

(6)賞与引当金

賞与引当金とは、「将来従業員に支払う予定の賞与に関する引当金」です。

平成10年の税制改正において、賞与引当金は損金計上が認められなくなったため、その実務処理が疎かになり簿外債務となる可能性が高いといえます。

 

(7)退職給付引当金

退職給付引当金とは、「将来支払う予定の退職金に関する引当金」です。

年金制度等が存在すると、計算も複雑になりミスが発生しやすく、賞与引当金と同様に損金として認められないため、簿外債務となりやすい勘定のひとつです。

 

(8)訴訟リスク

将来訴訟される可能性がある紛争や、現在行っている訴訟が存在する場合、損害賠償責任が発生する可能性があります。

訴訟内容によっては、所有している企業の許認可の停止や巨額の存在賠償請求が発生する可能性もあり、M&A等を行っている場合M&Aの成功可否を決める非常に重要な要素になりえます。

また、判決が確定していないと計上されることは少なく、簿外債務につながりやすいです。

 

賞与引当金や退職給付引当金などは、デューデリジェンスの際に把握しやすいのですが、決算に絡まない訴訟リスクなどはヒアリングをしなければわかりません。

訴訟についてはリスクが無限のため、デューデリジェンスのときに念入りなヒアリングが欠かせないでしょう。

 

4.簿外債務のリスクを回避する対処法とは

(1)デューデリジェンスを徹底的に行う

M&Aにおいて、買収のときの成功ポイントは簿外債務の把握であるため、徹底的なデューデリジェンスが欠かせません。

とくに帳簿に上がってこない項目については、念入りな調査と丁寧なヒアリングを行う必要があります。

 

会計監査をしている公認会計士であれば、帳簿のお金の流れや自身の経験から、ある程度簿外債務を推測することができます。

実際には、社内の文書や決算から当たりをつけることができるでしょう。

 

簿外債務は把握しづらいものもありますが、訴訟リスクのようなリスクが無限ともいえるものも含まれるため、専門家やコンサル会社への依頼は必要不可欠です。

たとえ買収規模が小さくても、費用をかけて専門家に依頼することをおすすめします。

 

(2)表明保証を記載する

表明保証とは、M&Aにおいて売手が買手に対して、契約の内容が真実かつ正確であることを表明し、その内容を保証するものです。

 

通常、M&Aでは、デューデリジェンスによって売手の法務、税務、財務などの問題点を洗い出し、この調査結果を株価に反映させる交渉を行い、最終的な譲渡価格を決定します。

しかし場合によっては、限られた時間やコストのなかで、デューデリジェンスによりすべての簿外債務を抽出することは難しいでしょう。

 

そのためM&Aでは、デューデリジェンスの結果や財務状況からある程度の網羅性を担保した表明保証を最終契約書に盛り込み、簿外債務のリスクを可能な限り低減することが一般的です。

 

表明保証の内容として、次のようなものが挙げられます。

 

・デューデリジェンスで開示された情報に虚偽がないこと
・財務諸表と会計帳簿は正確であること
・開示していない偶発債務がないこと
・買手が把握していない訴訟を起訴されていないこと

 

M&Aを行った後に簿外債務や粉飾決算が発覚すると、大きなトラブルに発展する可能性が高くなります。

このような事態を避けるためにも、デューデリジェンスと表明保証をしっかり行いましょう。

 

5.簿外債務がわかった場合の対処法とは

もし簿外債務が発覚した場合は、どのような対処法が考えられるでしょうか。ここでは、簿外債務が発覚した場合の対処法を3つ紹介しましょう。

 

(1)M&Aを中止する

仮に、売手が重大な訴訟を抱えていると判明した場合、買手は、将来予期せぬ負債を負う可能性があります。

M&Aによって得られるメリットと簿外債務によるデメリットを天秤にかけ、デメリットのほうが大きいと判断した場合は、M&Aを中止するほうが無難でしょう。

 

(2)M&Aのスキームを変更する

デューデリジェンスで簿外債務がみつかった場合、事業譲渡に切り替えるのもひとつの方法です。

M&Aでは、売手の簿外債務をそのまま引き継ぐ必要がありますが、事業譲渡であれば、事前に不要な資産や契約、簿外債務などを除いて、欲しい事業のみを手に入れることができます。

 

(3)表明保証内容を遂行する

M&Aを実施したあとに、簿外債務や粉飾決算などが発覚し自社に損失が出た場合、表明保証の内容を遂行し、損害賠償請求や契約の解除などを請求できます。

 

6.まとめ

M&Aの最終契約書には、簿外債務に関する表明保証を記載することが一般的です。

開示していなかった簿外債務が後から発覚すると責任を問われるため、売手も真摯な姿勢でM&Aに臨むことが求められます。

しかしながら、売手側の経営者自身が自社の簿外債務を把握しきれていないことも多いので、買手はデューデリジェンスや表明保証を徹底することが大切です。

 

実際の実務では、「簿外債務だけを調べてほしい」、「全体の流れも大切だが、簿外債務をとくに念入りに精査して欲しい」といった要望をよく受けます。

専門家の立場からすると、簿外債務の精査は資産の評価よりもずっと重要です。

 

M&Aを行う場合は、簿外債務についてきちんと理解している専門家への依頼が欠かせないため、会計監査を行っている公認会計士やM&A仲介会社に相談することをおすすめします。

 

(話者:クローバー会計事務所 公認会計士・税理士 柴田亮(しばた あきら)

※本記事は、「株式会社リクルート 事業承継総合センター」からの転載です。

 

 

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■著書プロフィール

株式会社リクルート 事業承継総合センター

㈱リクルートが運営する「M&A仲介会社・買手企業の比較サービス」です。

弊社品質基準を見たす仲介会社50社、買手企業17,000社以上の中から、売手企業様に最適なパートナーを、着手金無、業界最低水準の成果報酬でご紹介します。

事業承継及びM&Aに関するコンテンツを中心にお届けします。

Photo by FIN

「部長の説教が長くて、うんざりしちゃったよ」とか

「説教臭い話ばかりで、つまらない会議だな」とか。

 

いわゆる上司の「説教」は、ほとんど無力で、時間の無駄。

それは、会社に入ったことのある人であれば、だれでも知っている事実だ。

 

実際、ほとんどの人は上司の説教を聞き流しており、その間に考えることと言えば

「早く終わらないかなー」程度。

まあ、非常に素直な人でも

「まあ、言っていることはわからないでもないけど、長いなー」

といった感じだろう。

 

決してポジティブなイメージではない。

というか、上司の「説教」に対して、何の文句も言ったことがない人は、まず存在しないだろう。

 

この評判の悪い「説教」。

なぜこんなにも無力なのだろうか。

 

説教が無力なのは、「一方通行」だから。

結論から言うと、説教が無力な理由の一つは、話が「一方通行」だからだ。

 

上司は「語る」側。

部下が「聞く」側。

 

これは固定された関係である。

説教とは元来、神仏の教えを説き聞かせることを指すから、そこには「対話」はなく、「私が正しい」というメッセージがあるのみ。

 

相手が神仏であれば、仕方がないと思えるが、相手が人間であれば、「対話」がないところには、納得もなく、理解もない。

相手は奴隷ではないのだから、反発されるのは当然だ。

 

説教が無力なのは、「価値観」についての話が多いから

そして説教が無力であるもう一つの理由が、「方法論」ではなく「価値観」の話が多くを占めているからだ。

 

「必ず2回チェックせよ」ではなく「もっと真心でお客さんに接しなさい」とか。

「最初の1ページ目に結論を書け」ではなく「お客さんの気持ちになって提案しなさい」とか。

 

説教の目的の大半は、「方法を伝えること」ではなく、「価値観を転向させる」という目的に沿ってなされている。

 

しかし、「心」の在り方を含み、人間の価値観はそう簡単に変わらない。

 

ドラッカーは「コミュニケーションの原則」について、「相手の価値観を変えるようなコミュニケーションは、激しく抵抗される」と述べている。

コミュニケーションは、それが受けての価値観、欲求、目的に合致するとき強力となる。逆に、それらのものに合致しないとき、全く受け付けられないか抵抗される。

もちろん、それらのものに合致しないときであっても、コミュニケーションが力を発揮するならば、受け手の心を転向させることができる。受け手の信念、価値観、正確、欲求までも変える。だが、そのようなことは人の実存に関わることであり、しかるがゆえに稀である。人の心は、そのような変化に激しく抵抗する。

『聖書』によれば、キリストさえ、迫害者サウロを使徒パウロとするには、サウロを一度盲目にする必要があった。受け手の心を転向させることを目的とするコミュニケーションは、受け手の全面降伏を要求する。

 

「受け手の心を転向させる」というのは、「受け手の全面降伏を要求する。」わけであるから、上司が部下を精神的に屈服、洗脳しない限り、説教は有効ではない、という事だ。

 

当然、そのようなコミュニケーションは現代社会では「パワハラ」にたやすくつながる。

許される話ではないし、そもそも、相手の価値観を変えるのに時間がかかりすぎる。

 

説教ではなく「方法」を「対話」すること

これは別に、現代にかぎったことではない。

 

昔から説教はほとんど無駄であったし、宗教の集団以外では、説教はほとんど効果がない。

もっと言えば、実務的な組織で「やり方」について教えるは、説教は一方通行であるがゆえに、情報量が少なすぎるのだ。

 

したがって、仕事上であれば、上司は

1.状況を聞く

2.部下のやったやり方を聞く

3.公式のやり方、もしくは上司の望むやり方を伝える

4.部下との差分を検証する

5.お互いに合意する

というステップを踏む必要がある。

納得感を含んで、やり方を変えさせるためには、これくらいの情報量が必要だ。

 

一見回り道に見えるが、このほうが説教によって価値観を転向させるよりもはるかに簡単で速い。

 

もしくは説教などせずに、

「会社が決めたやり方でやりなさい、それ以外は禁止」

というだけでいい。

 

最後に、もう一度強調しておく。

説教は効果がなく、時間の無駄だ。

対話か命令でいい。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo by Tetiana SHYSHKINA

「The Great Resignation ― 大退職時代(大量自主退職時代)」という言葉を耳にしたことがあるだろうか?

 

一般社団法人ジャパン・リスキリング・イニシアチブ代表理事の後藤宗明氏によると、この言葉は2021年にテキサスA&M大学のアンソニー・クロッツ准教授が提唱したもので、新型コロナの蔓延をきっかけに、主に米国で自ら退職する人が大量に増えている状況を指すという。

SNS上でも“I Quit”というタイトルで自身の自主退職を投稿する人が増える現象が起こっている。

 

また、繰り返すコロナの流行の中でも感染が落ち着いた2022年3月においても、米国の労働力人口における労働参加率は62.3%と、約45年ぶりの低水準で、慢性的な人手不足となり急激な賃金上昇を招いているとも言われる。

 

働く人々に、今、何が起こっているのだろうか?

 

「大退職時代」の背景

前述の後藤氏によると、この現象の背後には、①景気回復による売り手市場 ②生き方に対する価値観の変化 ③働き方に対する価値観の変化 ④エンゲージメントの低下 があるのだという。

 

ここでは②、③の「価値観の変化」に注目してみよう。

パンデミックによって一時的に仕事を失った労働者には比較的手厚い保障や給付が付与されたため、求職が増えても「翻弄され続けるならしばらく働かないでおこう」と考える人や、「もっと良い条件でなければ職場に戻らない」と考える人が少なくない。

 

仕事を失わなかった場合であっても、リモートワークが浸透したことで、生産的な時間の使い方や、家族とのつながり、ワークライフバランスを見直す労働者も増えた。

逆に、ストレスで体調を崩す社員も増え、ウェルビーイングに関する意識も高まった。

また、職場自体に対する問題意識、例えば、感染症対策をしっかりしているか、社員の健康や安全を本当に考えているのか、ここで働いていて自分は成長できるのか、等も浮き彫りとなってきた。

 

コロナ禍で生き方を見直した若者の間では“YOLO(You Only live Once) ”という、「人生一度きり」という言葉が浸透し、自分で自由に人生の時間を使えるような生き方、働き方が求められているという。

こうした環境下で、労働者は「果たして今の職場は、自分の大事な人生の時間を使うのに、相応しい場所なのだろうか」と考え始めているのだ。

 

大退職時代の企業にとっての、福利厚生という対抗策

この流れに対して、多くの企業が取り組み注目を集める施策が福利厚生の拡充だ。

実例としては、2022年4月からアップル社が米国の小売店舗で働く従業員に対し、福利厚生の制度を大幅に拡充するというニュースがある。

 

報道によれば、フルタイムのスタッフは、雇用期間が以前の制度に比べ短くても有給休暇が増える。

そして、パートタイムのスタッフにも初めて有給休暇が最大6日与えられ、有給の育児休暇も付与される。

 

まさに「従業員の採用と引き留めが一層厳しくなっており、店舗従業員の間ではコロナ禍での労働条件に不満も出ている」という背景から生じており、従業員の健康維持や家族ケアのための福利厚生を拡充するから、ここで働いて欲しいと用意されたものなのだ。

 

ここまで述べて来たのは、主に米国で起きている現象だが、同様のことは日本でも起こりうることである。

 

福利厚生とは

改めて確認するが、福利厚生とは、賃金など基本的なもの以外に企業が従業員に対して用意する報酬だ。

これには、各種社会保険など政府によって定められた「法定福利厚生」と、企業が自由に設定する「法定外福利厚生」がある。

 

労働政策研究・研修機構が2020年に発表した報告書によると、日本企業が福利厚生を充実させる目的には、「従業員の仕事に対する意欲の向上」(60.1%)、「従業員の定着」(58.8%)、「人材の確保」(52.6%)など雇用維持・確保の関連事項が大きい。

続いて「従業員同士の一体感の向上」(35.0%)や「従業員が仕事に専念できる環境づくり」(32.5%)などが挙がる。

今後更に必要性が高まると考えるものには、「企業への信頼感やロイヤリティの醸成」や「従業員が仕事に専念できる環境づくり」が「現在」と比べ 5 ポイント程度高くなっている。

 

コロナ禍だけではない、もうひとつの理由

福利厚生のような雇用維持・確保のための施策を取り入れる必要が高まる要因は、日本とってコロナ禍だけではない。

今後回復に向かおうとする日本経済に影を落としている問題の一つに、「人手不足」が挙げられる。

2022年2月の帝国データバンクの調査によれば、47.8%と半数近い企業で正社員が不足しており、新型コロナウイルスの感染が拡大し始めた2020年2月と同水準まで上昇している。業種別では、「情報サービス」(65.7%)や、「飲食店」(65.1%)、「建設」(62.6%)で高い割合だという。アルバイトやパートなどの非正社員も、「飲食店」などの個人消費関連で不足の割合が7割と高まっている。

 

また、この調査と同時に実施した「2022 年度の賃金動向に関する企業の意識調査」によれば、正社員が「不足」している企業ほど、賃金などの待遇改善を見込んでおり、社員数が「適正」(51.1%)や「過剰」(41.1%)な企業と比べて高い傾向がみられているという。*

 

世界においても特に激しく少子高齢化が進み、労働力人口が減り続ける日本において、働き手確保の問題は米国より厳しいのかも知れない。

ゆえに、賃金の上昇はもとより、福利厚生の拡充をはかり、採用力向上や雇用維持に力を入れる企業が増えつつあるのだ。

 

福利厚生は時代を現す鏡

企業が自由に設定する「法定外福利厚生」は、いわばその時代の労働者の関心を表す鏡とも言える。高度経済成長からバブル期には、リゾート地での保養施設利用などレジャー系が流行した。

健康への意識が高まるとスポーツジムの利用が増え、社内に多様な働き手が増えると、一律の制度ではなく、カフェテリア・プランのような個々人が選択できる制度が増えた。

また、オフィス内での飲み物や食事を無料で提供するベンチャー企業が注目されたこともあった。

 

最近では、働き方改革に伴う、柔軟な働き方を許容する制度が増えている。

また、肉体的、精神的、社会的に良好であることを指す「ウェルビーイング」や「健康経営」に関する福利厚生も世界的に増えており、ヘルステックなどITテクノロジーを絡めたサービスも広がりを見せている。

 

少子高齢化の進行、一億総介護時代を前に、不妊治療費を補助する制度が出来たり、法定以上に厚い男性の育児休業制度、介護支援の制度などを導入したりする企業もある。

 

更に、社員の能力開発に資する制度も増加している。若い世代は特に、その職場に所属することが自身の成長に資するかを重視する。

また、既存の社員であっても外部環境の変化で企業の戦略方針が変わり、新たな仕事をするためにリスキリングが求められることも起こり始めている。

こうした背景から、オンデマンド型のオンライン学習サービスなどの導入も増えている。

 

興味深いのは、こうした福利厚生をアウトソースする企業が増えていることだ。

自社で多様な福利厚生を扱うと、それだけ手間やコストもかかり、規模の小さな企業にとっては重荷でもある。

だからこそプロに任せ、時代や従業員の要請に合う福利厚生メニューを柔軟に提供できる体制を作っているのだ。

こうした背景から、福利厚生を含む人事・総務関連事業を請け負うビジネス市場は成長を続けている。

 

今後も社員と企業の関係はますます変わっていくだろう。

マッチング・プラットフォームの発達により、フリーランスや業務委託でも十分仕事ができるし、ITを活用したリモートワークなら、日本にいながら世界の企業でも働けるようになった。

労働力人口も減る日本においては、優秀な人材を集められるか、魅力的な職場になれるかどうかが企業にとっても成長の鍵だ。

 

これからの時代の福利厚生は、企業の社員に対するエンプロイー・エクスペリエンスを上げるための注目すべきものになるかも知れない。

 

<参考>

「企業における福利厚生施策の実態に関する調査」 企業/従業員アンケート調査』労働政策研究・研修機構(JILPT)

 

(執筆:林 恭子)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by Luca Bravo

『読むだけでキャリア形成が加速する! GAFAグローバルリーダーの時間管理ノート』

『承認欲求は”他愛”で満たす。子宮を開く美の女神・イシュタル直伝”与えて10倍返ってくる生き方”』

『親ガチャ外して学校に馴染めず社会からも見放された俺ニキの”年収1000万突破”ニートスキル』

 

ーー以上は筆者がいま適当に考えた自己啓発書のタイトルであり、現実には存在しない。

 

もっとも、巷にはこの種の本が腐るほどあり、ブックオフなどに行けば100円コーナーに山積みになっていることから、人生や仕事に迷いを持った時、手にとってしまう方は少なくないかもしれない。

 

では、あなたが友人宅を訪れた時、本棚にこういった啓発書が並んでいたら、果たしてどう感じるだろうか?

必死だな、頑張ってるな、金の無駄だな等々、考えは人それぞれだろう。

 

だが、筆者の場合、親しくない方なら見ないふりをする。

そして、大事な人なら、「今すぐこの本を焼き捨てて!」と直言したいというのが本音である。

 

というのも、出版社勤務時代に、啓発書を含む「何かを教えようとする媒体」作りをしてきた筆者は、この手の本を読みまくっている割にはそれが全く生かされておらず、むしろ無用の人と成り果てている自己啓発アディクトを嫌というほど見てきたからだ。

 

啓発した後のことまで出版社は考えない

まず最初に言っておくと、何かを教えようとする雑誌や書籍は数あれど、その作り手が中に書かれていることを実践できているとは限らない。

 

筆者が都内の中堅出版社で働いていた頃、同じフロアにはファッション誌と競馬雑誌の編集部があった。

が、前者にはオシャレ以前に風呂に入らず異臭を放つ人がいた。

そして後者は必勝法を教える媒体でありながら、編集長は会社に借金を肩代わりさせ、さらには一番下っ端の部員に金を借りて馬に金をつぎ込んでいた。

 

むろん、中には本当に答えを必要としている方のため、実際に役に立つヒントなりアドバイスなりを伝えようとする良心的な媒体・書籍とてあるだろう。

だが、濃淡こそあれど現実にはこのポリシーで動いていない出版社の方が少ないと思う。

 

何しろ、儲からないと会社が潰れてしまう。

だから啓発書を刊行する際には、切実に必要としている方だけでなく、該当テーマに少しは関心のある人、ひいては全くその情報が要らない人にまで買わせる努力をする。

そうしなければ、よほど著者にネームバリューがあるか、もしくは何らかのきっかけで話題にならない限り、ベストセラーなど望むべくもないからだ。

よって、啓発書の内容は煽り要素多めで、多少無理でも奇説・新説重視となりがちである。

 

かつての職場には入社1年目にして啓発書を手掛け、3塁打くらいの成績を上げた新人がいた。

著者はそこそこのビッグネームで、中身は自分の好きに生きろ、起業しろ、人の話は聞くなといった強気メッセージのオンパレード。

そこで自分は担当編集に

「編集者は最初の読者なんだから、書いてあることをちゃんと実践してさっさと起業しなさいよ」

と冗談混じりで話を振ると、返ってきたのは

「こんなの真に受ける方がバカじゃないっすか」

という。

 

また、逆にこの仕事をしていながら「教えの書」をストレートに信じてしまう人もいる。

世間知らずの新人君は

「うちで出してる書籍で『セクシー女優が教える本当に女性が喜ぶ性愛』って本があったのでしっかり予習していったんです。いきなり求めるんじゃなく、まずは女の子の耳元で愛の言葉をささやいて、って書いてあったんで、ちゃんと実践したんですけど駄目でした」

と言っていた。

その話を聞いた担当編集は、

「まさかゴーストライターに適当に書かせた本を真に受ける奴が、こんな身近にいようとは」

と言っていた。

 

しかし「教える本」を世にバラまいている以上、こういうあまたの被害者が発生しているのは自然な話で、「騙しやがって!」と会社に怒鳴り込んでくる読者がいても全く不思議でないのではないか。

 

それでも人生訓や恋愛論などはまだマシな方だ。

デメリットを被るのは本気にしてしまった本人だけで、他人に害を及ぼす可能性はそう大きくない。

 

もっと悪いのは、ビジネス系の啓発書が生み出す、意識だけはやたらと高い残念な人たちだ。

彼らは同僚を苦しめるだけでなく、場合によっては会社全体を左前にするパワーすら持っているからだ。

 

他人の教訓はどこまでいっても他人のもの。

世間にはビジネス書を正しく活用している方も大勢おられるだろうし、その内容がインチキだと断じるつもりも毛頭ない。

だが、問題は「分かったつもりになる人」を大量発生させることだ。

 

そもそもビジネス関係の啓発書が教える教訓とは、長年にわたる実務の積み重ねで試行錯誤を繰り返し、気付きに至るたぐいのもの。

その過程をすっ飛ばして結論だけを習得しようとするのは、試験を前にしていきなり解答を教えてもらうに等しい行為だ。

 

とりわけ筆者が厳しいなと感じるのは、まだ若いのに自己啓発に走りまくり、自意識を高めたあげく、実務的には全く使い物にならない人々だ。

こういう若手に仕事をふると

「何で僕がそんなくだらないことをやらないといけないんですか」

と文句を言ったり、はたまた生返事をして全く手を動かさず、それを叱るとビジョンや戦略がどうこうなどとでかい話で返してきて、ややこしいことこの上ない。

 

最近、友人が勤める会社の本部に中途採用で入社し

「知財のプロ」

「法律家と思っていただいて構わない」

とあれこれ口出しする立場を得た、意識高い系の人物がいる。

その指示が余りにも現場を知らないひどいものだと聞き、自称有能の「啓発アディクト」に違いないと調べたところ、彼のメルカリのアカウントには、本人によって出品された大量の自己啓発書、そして若干の入門系の知財・法律関係の書籍が出されていた。

意図していないとはいえこれほどみっともない蔵書の見せ方をしてしまった方も、そう世の中に多くはないだろう。

 

「高み」に登りつめた人を地上に下ろすのは、限りなく不可能に近い。

若いうちなら矯正の余地があるかもしれないが、そうでなければ「新規事業開発特設班」といった何もしなくていい部署を作って放り込み、一切仕事に触れさせないのが一番だ。

 

結局のところ、他人の教訓はどこまでいっても他人のもの。

自分の頭で考え、汗を流して、その果てに得られた知見に勝るものはない。

 

自己啓発書は、参考程度にするのはいいが、勘違いし全能感すら覚えてしまうのは会社員として馬鹿野郎もいいところだ。

 

 

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【プロフィール】

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。

Photo by Shiromani Kant

モノゴトを進めるには、タスク管理と時間管理、大きくわけて2つの方法がある。

 

タスク管理は、順番に作業を進めていく方法。To Doリストをイメージするとわかりやすい。

一方の時間管理は、設定時間内に作業をする方法で、学校の授業と同じだ。

 

たとえば晩ご飯を作るにしても、「今日はハンバーグにしよう!」と決め、まず玉ねぎとニンニクをみじん切り、そのあとひき肉をコネて、焼いているあいだにソースを……と順番に作業をこなしていくのが、タスク管理。

時間管理だと、「19時に食事だから、18時から料理を作り始めよう」と時間基準で献立を考え、1時間のあいだで作れるものを作っていく。こんな感じ。

 

最近なにかにつけ、「時間管理よりタスク管理がいい」と言われがちだ。

時間管理にするとダラダラとサボるけど、タスク管理なら効率よく働くし、結果を出した人が報われる、というように。

 

でも、本当にそうだろうか。

タスク管理って、実は結構なデメリットがあるんだけど……。

 

「1日1レッスン」があまりにもしんどかった独学初日

わたしは少し前から、Illustrator(以下イラレ)の勉強をはじめた。

photoshopに並ぶ有名なAdobeソフトで、ロゴを作ったり、印刷物を作ったりするのによく使われている。

 

イチからイラレを勉強するにあたって、わたしはまず1冊の本を買った。

その本はロゴや地図などの描き方を5つのレッスンに分けて紹介しており、それらを順番にこなすことで、さまざまな機能に触れられる構成になっている。よくある教本だ。

 

というわけで、わたしはとりあえず、「1日1レッスン」という目標を立てた。

 

さっそく第1講、かんたんなロゴづくり。

よーし、やったるぞー!!

 

まずイラレを開き、本を見ながらこれをこうして、あれをああして、そしてその色をスウォッチパネルに……スウォッチパネル?

そんなのないぞ!?

 

スウォッチパネルなるものを探すも見つからず、ググった結果、スウォッチパネルを表示することに成功した。

ここまで所要時間はすでに20分。20分!?

1番最初のレッスンって、10分とか15分とか、すぐに終わるんじゃないの? まだ10工程のうちの3番目なんだけど? 終わるまでにいったいどれだけ時間がかかるの?

 

その後、曲線を描けはしたが不格好でガタガタ。

それでも曲線にこだわりすぎると次に進めないので、「まぁいいか~」と次の作業へ。

無事ロゴは完成したが、せいぜい15分あれば終わるだろうと見積もっていた第1レッスンは、結果的に1時間半かかった。

初日からもうグッタリ。

 

翌日、「第2レッスンではこうならないようにしよう!」と、イラレをどうやって学ぶかを改めて考えた。

まず初期設定画面を、本と同じような表示になるようにカスタムしたほうがいい気がする。

本を見ながらやるなら、ノートパソコンよりデスクトップパソコンのほうがいいな。じゃあ、そっちにもイラレをダウンロードするか。

 

昨日は想像以上に時間かかっちゃったから、次からは事前に工程を把握してどれくらい時間をかかるか確かめよう。

うーん、でも各作業にかかる時間なんてわからないぞ。そもそもまったくやったことがないからな。

イラレを勉強するなら、まとまった時間があるときにしたほうがいいかもしれない。

今日はそこまで時間がないから、明日にしようか。

 

……と、ここまで考えたところで、「これじゃイラレの勉強をやめてしまう!」という危機感に襲われた。

学生時代にドイツ語学習を投げ出しかけたときと、まったく同じだったから。

 

手を抜いて早く終わらせようとしたドイツ語学習

語学学習では、よく「毎日単語を10個覚えろ」と言われる。

 

わたしもそれに倣って、大学在学中、毎日単語帳に10個の単語を追加することを決めた。

が、長くは続かず、結局すぐにやめてしまったのだ。

 

そもそも、「単語」とはいっても、作業時間はそれぞれ大きくちがう。

ひとつの意味しかない名詞なら30秒で単語カード1枚完成だが、5つの意味がある動詞となると、情報量はその数十倍になる。

 

意味がつかみづらいものは、独→日だけでなく、日→独でも辞書をひきなおし、独→独でも調べていたから、単語1つ書き出すのも一苦労。

丁寧に1つ1つの単語に向き合うと、「1日10個」という一見ラクそうな作業が、思っていた以上に時間がかかることに気が付いた。

 

その結果、どうなったか。

より早く終わらせるために、かんたんな単語を優先して複雑な単語は後回し。

いままでいくつか書いていた例文を1つだけにして、一部の単語に書き込んでいた類語や反対語を書くこともやめた。

 

だってそうしないと、「1日10個」が終わらないから。

 

いろんな意味をもつ複雑な重要単語は、時間がたっぷりあるときにのんびりやろう……と、放置。

手元に残ったのは、簡単な単語ばかりが書かれたカードだけ。

 

最終的に、「1日10個」というタスクではなく、「1日15分」という時間管理にして、15分で書き込めるぶんの単語だけ書いて、覚えるようにした。そうしないと続かないと思ったから。

それを思い出したわたしは、結局イラレも、「1日1レッスン」から「1日30分」という勉強法に切り替えた。

 

初心者はタスク管理より圧倒的に時間管理のメリットが大きい

「1日1レッスン」から「毎日30分」にしてみたら……

なんということだ、めちゃくちゃ快適じゃないか!!

 

まず最初に、クラウド保存したはずのファイルが開けず、四苦八苦。

作業1に入る前にすでに10分費やしたが、まぁしょうがない。

わからないことがあれば調べればいいし、うまくいかなければやり直してもいい。

タスク管理ではそれらは「ムダ」「非効率」になるが、時間管理なら、マイペースに試行錯誤しても罪悪感や徒労感がない。

 

思ったより進まなくても、それはむずかしい作業だったということなので、気にしない。

むしろ「時間かかったけどちょっと進んだぞー!」という達成感すらある。

タスク管理だと、「時間かけたのに全然進んでない……」ってなってたのにね。

 

時間管理に切り替えたおかげで、いまはストレスなくイラレを学べている。

そもそもタスク管理とは、「目標達成」のために選ぶ方法だ。

やるべきこと(To Do)を、順番に全部ちゃんとやることで目標が達成できる。

でもそれは、やるべきことを理解し、どんどん作業をこなせることが前提だ。

 

たとえばイラレで、「10工程でロゴをつくる」という目標があったとする。

でも工程3のシンボル化がうまくいかなければ、当然工程4にはいけないわけで、どんどん遅れていく作業にイライラする。

曲線がきれいに描けなくとも、そこにこだわると「ロゴ完成」というゴールに近づけないので、「まぁこれでいいや」と作業が雑になっていく。

 

想定していた時間を大幅に過ぎると、あとはもうやっつけ仕事だ。だって、どんなかたちでも前に進めないと、終わらないんだから。

そういう状況になると、もうモチベなんて皆無。「なんでもいいから終わらせたい」と、投げやりになってくる。

 

……とまぁ、タスク管理には、実は結構なデメリットがある。

「結果を出した人が報われる」というと聞こえがいいが、逆にいえば、「結果を出さないかぎりいつまでも終わらない」ということでもあるしね。

わたしはイラレ初心者で「作業を順番に最後までこなしていく」のがむずかしかったので、時間管理に変更したというわけだ。

 

自分のレベルに合わせてタスク管理・時間管理の切り替えが大切

時間管理にすると、「ダラダラとサボるんじゃないか」「効率的にやっても同じ時間作業するならがんばるだけ損じゃないか」と思う人もいるだろう。

30分間をどう使うか、つまり「質」を問わないのが、時間管理だから。

実際、働き方革命では「ダラダラ働く日本人は悪! 成果主義の海外こそ正義!」なんて言葉で、タスク管理が推奨されているし。

 

でも、「時間管理だから」とダラダラしてサボる人間は、タスク管理にしてもどうせ手を抜くんじゃないかなぁ。

タスク管理だと進捗具合を把握しやすいだけで、能力が上がるわけではないし。

逆に時間管理では、効率的にやれば、他の人と同じ作業時間でより多くの成果があげられる、ともいえる。

同じ時間で他人の1.5倍学べるのなら、損するどころか超お得だ。

 

とはいえ、時間管理は締め切りがキツい作業には向いてないし、その時間内にどう作業を進めるか自分で考えられる人にかぎられる。

だから、「タスク管理より時間管理のほうが優れている」といいたいわけではない。

 

ただ、イラレを学び始めたわたしのように、「なーんにもわからない初心者がタスク管理するのはしんどいから、最初は時間管

理のほうがいいんじゃない?」というだけ。

まずは、各作業に必要な基礎的な知識・スキルを身に着け、各作業がどの程度時間がかかるか予測できる程度の経験を積むこと。

 

それができるまでの初心者期間中は時間管理にして、中級者になったら、より成果を求めるためにタスク管理に切り替えるのがいいんじゃないかと思う。

 

最近はやりの「成果主義」から逆行する考えかもしれないが、「自分に与えられたタスクがなにか」をわかっていない人間が、タスク管理なんてできるわけがないのだから。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Towfiqu barbhuiya

新型コロナウイルスも3年目に突入した。

 

パンデミック当初はコロナの詳細も未知数であったが故にマジでみんなが恐れていたこのウイルスだけど、昨今は意識はしつつも徐々に社会の中に受けいれていく他ないのではないかというムードになりつつある。

 

全ての問題が終わった後ではないのだが、そろそろ私達はコロナウイルス反省会をやるべき段階に来つつあるように思う。

今回は自分なりに論点を整理して、コロナとはいったいなんだったのかを書いてゆきたい。

 

コロナウイルスが生んだ3つの社会の分断

コロナは難しい分断を社会に引き起こしたが、大雑把にわければ以下の3のスタンスに集約される。

 

自由こそが人から最も奪われてはならぬけ権利であると主張するノーガード派

全てを強権によりコントロールし、ゼロを目論むゼロコロナ派

マスクやワクチン、感染防御といった防具をある程度みにつけた上でのウイズコロナ派

 

私達はこれらの3つの意見をほどよくブレンドしつつ、自分の選択として取り入れて、社会生活を今までなんとかこなしている。

 

これら3つの対処法は、どれもが正しい部分を有し、またどれもが間違いを有している。

最善は何かと聞かれても「人それぞれのスタンスでしょう」としか言いようがない。

これはどういう事なのか。それを一言で言い表すとこうなる。

 

”明確な正解なんて、もう求められない”である。

 

先行きが不安なとき、人は明瞭な指針を魅力に感じる

コロナ問題は未だに渦中ではあるが、恐らくだけど世界が転覆するような破茶滅茶な結論はもう起きない確率の方が高い。

コロナ問題が勃発した当初は違った。世界は本当に恐怖のどん底に突き落とされており、誰もがコロナを恐れ、世界秩序の崩壊すらを憂いた。

 

このような状況で求められるのは力強い正解だ。

僕も理解できる範疇でコロナウイルスに対する現状をこの媒体で記述し、それはとても広く読まれた。

医者の僕でも、コロナウイルスをナメていたが、間違っていた。 | Books&Apps

 

この正解を発揮する段階においては、専門家はとても強い。

一般人と比較して知識量は豊富であり、物事を分析できる分量が桁違いに多い。

 

そうして専門家は求められて正解を発信するようになる。

311の時もそうだったが、新型コロナウイルス問題が勃発した際に、インターネット上では実に多くのインフルエンサーが現れた。

 

人々は歓喜した。状況が未知なときに正解の持つ力はとても力強い。

こうして先の3指針ごとにコロナ問題を取り扱うインフルエンサーがタケノコのようにポンポンと産まれた。

 

状況が既知となったいまは、間違いを内包できる器が求められるようになる

そうして3年の月日が流れた。

3年間の間、私達は本当に毎日コロナウイルスの事を考え続けた。朝起きたらコロナコロナ、夜寝る前にコロナコロナ。

 

そうしてコロナの事を日々思い続けたし、そうしてコロナが社会にどういう影響をもたらすのかを2つ眼でよーくよーくみた。

そうして…私達の中から未知は消失した。

今では専門家も一般人も、誰もがコロナウイルスと共に生活する事の上級者となった。

 

既に上級者となったいま、情報なんてもう十分だ。

だから私達は既に専門家の強い意見は必要とはしない。もちろんある程度は耳にする事だろうが、それでも実際に一番大切なのはコロナ云々よりも自分の人生である。

 

自分の人生をどのように豊かにするか。これが私達が最も大切にする人生の指針である。

311やコロナ当初のように、社会が破綻するかもしれないという強い恐怖にさいなまれる状況ならまだしも、恐怖が既にない状況にあっては、人は”科学的な正しさ”よりも自分の心地よさを”正しさ”として優先する。

 

この自分の心地よさは、大抵の場合において”科学的な正しさ”とは折り合いが悪い。

例えば食習慣ならば、野菜中心で一日一食、腹八分目の食生活は間違いなく”正しい”が、そんな生活は味気なさすぎて絶対に嫌だという人の方がむしろ多いだろう。

 

そういう時に「お前は間違っている。悔い改めろ」だとか「勉強が足りないから、そんな間違った考えを持つんだ。もっと勉強しろ」というのはメチャクチャである。

 

この考えがヤバいのは誰もが理解できると思うのだけど、実は社会においてはこれと同じような事をやってのけて、かつそれが未だに継続している人たちが一定数いる。

それはリベラルだ。彼らの行き着いた結末から私達が学ぶべる事は実に多い。

 

かつてリベラル派は魅力的な人たちの集まりだった

かつてリベラルは魅力にあふれていた。

古臭い保守をぶっ叩き、新しいライフスタイルをとなえる彼らの言葉は本当に光り輝いていた。

 

誰もがその光り輝く人たちをみて「昭和のオッサンより絶対にこっち。家長制度なんて絶対に嫌だ」と勉強に励み、価値観をアップデートさせた。

LGBTQへの理解を深め、男女同権を推進させ、女性に優しくなろうとフェミニズムを学んだ。

 

そうして”正しさ”を身に着け始めていた当初は良かった。

たしかに保守的なシステムには多数の”間違い”や”不快さ”があった。それらは自分たちがリベラルになる事と共に部分的に改善する事が可能であり、リベラル化した現代はかつてとは比較にならないぐらい生きやすくなった。

 

こうしてリベラル化を推進させると共に、逆にリベラルの悪い面をみえるようになった。

個人の自由を徹底して共同体を破壊することは強い個人にはメリットが多かったのだけど、逆に弱い個人はその自由が重い。

無縁社会に未婚社会と、もう耳にタコだろう。

 

この段に至ってリベラルが反省できていればまた未来は違ったのだろうが、現実は残酷だ。

リベラルがアイデンティティになってしまった人たちにとって、反省は自己否定にも等しい。

結果、価値観は先鋭化し、その先鋭化した価値観についてこれない大衆を馬鹿と罵るような人たちすら現れるようになった。

 

正解は状況を打開した後に環境を落ち着ける効果は薄い

人は反省がとても苦手な生き物である。自分自身の正しさを疑い、自分自身の過ちを認める事はとても難しい。

また、他人の過ちを認める事も困難を極める。多様性というのが「みんな違ってみんないい」なら極論すれば他人なんて過ちの塊にすらなりえる。

 

だけど、現実問題として私達はそんな多様性は多様性として認められない。

それは「右翼であり左翼。つまりダブルウイング!」みたいな存在しない何かにしかならない。

 

このように正解は状況を打開するという段階においては強い威力を発揮するのだけど、状況を打開した後に環境を落ち着ける効果は薄い。

 

物語の中から出られなくなる

実は311の時もそうだった。原発がモクモクと煙を出しているとき、私達はマジで心細さの塊であった。

そんな状況で必要なのが希望だった。私達はインフルエンサーにすがりつき、彼らの紡ぐ言葉に光をみた。

 

そうして数年の歳月がたった。そして不安は世の中から消え、みんなが普通の日常に回帰して、原発に飽きた。

この段階に至ってまで正義を貫き続ける人間は完全に狂人であるのは言うまでもなかろう。

しかし振り上げた拳を降ろせないからのか、未だに狂気の中から出れない人たちがいる。

 

彼らの中には別の物語へと軸足を移し、正義を唱え続けるものもいる。

原発を批判したのと同じ口でアベ政治を批判し、ロシア・ウクライナ問題を批判し、統一教会を批判する。

 

言うまでもなく、彼らに必要なのは改革ではなく落ち着く事だ。

状況が改善したのなら腰を据えて、じっくりと人生を丁寧にやる事が次には大切なのだけど、彼らは頑なに状況が改善したという事を認めない。

だから物語を渡り歩き、誰かを正義の名のもとに叩き続ける。そうして戻れない終わりの無い旅にでかけてしまう。

 

科学的な正しさは、正義にはならない

これが物凄く馬鹿げた現象だっていうのは、誰もが理解できることだろう。

しかし改めて私達はどうだろう?医療従業者は特にだが、ひょっとして私達は科学的な正しさを”正義”として心の中に飼ってはいないだろうか?

 

そしてその正義でもって、誰かを言葉汚く罵っていたりしないだろうか?「あいつは馬鹿」「勉強が足りてない。価値観をアップデートさせれば同じ意見になるはずだ」と思い込んではいないだろうか?

 

みなが大きな器を持てるようにならねばならない

もうそろそろ、状況は落ち着いたのだとゆっくりとでいいから受け入れて、腰を据えて人生をゆっくりとやるべき段階に来つつあるのだと僕は思う。

正義を主張しすぎた医療従業者は一般人としての感覚も取り入れて、自分のプロ意識に反するような事ですら社会においては多様性の大切な一部なのだと取り入れて、一社会人として社会を共に営んでゆく覚悟を示す事も必要だ。

 

正義は仕事においては重要なものだが、私生活でなら求められていないのなら特に口うるさく誰かに押し付けないのが他人と共同生活をうまくやるマナーである。

誰かに意見として求められたのなら提示してもいいけれど。

 

私達は誰もが自分の人生の主役である。

そこには万人が満足する正解は無く、ただただ真面目にコツコツと淡々とやっていかなくてはいけない現実が目の前にあるだけだ。

 

私達は誰もが不完全であり誰もが間違っている。それでいいしそれがいい。

いま必要なのは正解でも希望でもなく器だ。みんなで一緒にやっていくという器のデカさなのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Vladimir Fedotov