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最近身の回りで「自責思考」という言葉が流行っているので、それについて少し考えたことを書きたいと思います。

言いたいことは、以下の3点です。

 

・個人において:「自責思考」というのは「いつなんどきも自分が悪い」と考えることとは違う。「この状況で自分に仮に何かできる/できたとしたら何があるかしら」と考えて状況や自分を向上させるための思考のことでは。

・組織において:上位者が上位者たる義務を怠って、「自責思考」を口実に部下に責任を押し付けたり搾取するようなことがあってはならないなあ、気をつけよう。

・もう少し話を広げると:「自責思考」を始めとする「圧倒的に正しそうでそれ単体には反論しづらい大きな概念」を持ち出して搾取する構造を作ってはならない。マネジメント側は気をつけるべきだなあ。

 

ではそれぞれ書いて参ります。

 

自責思考は「自分が悪いと思え」とは違う

「自責思考が大事」という話を最近よく聞きます。

文字通り、「すぐ人のせいにしないようにしようね」という感じですね。

 

基本的には良いな、と思っています。すぐに人のせいにして文句ばっかり言っても、大体いいことないですからね。

 

ただこの「自責思考」について、勘違いが発生しやすいな、と思うことがあるのです。

というのも、「自責思考」=「自分が悪いと思うべし」と解釈されているのではと思うことが。

 

「自分が悪い」とするのは(少なくともそれだけで終わるのは)、一見美徳のような気がしなくもないですが、それは「自責思考」の本来意味するところではないと思いますし、自分を苦しくさせちゃう思考法だなと思うのです。

 

例えば、仕事で何かミスが発生したとします。

それは自分が社内の他部署の担当者と進めている仕事だったのですが、他部署の担当者が自分が伝えた内容を勘違いしており、ミスにつながりました。

 

ここで、「はい!私が悪かったです!ごめんなさい!」ととにかく謝ったり、「あ〜自分が悪かったな〜」としみじみ思うことは、良い自責思考でしょうか。

 

たぶん違いますね。

それだと何にもなりません。特に学びも成長もなく自己肯定感が下がるだけです。ミスもまた起こりそうですね。

 

私が思う「自責思考」は、

・「自分が悪かった」とただ単に自らを責めることではなく、

・「あの時自分が仮に何かできたとしたら何ができただろう?そして今から自分は何をすべきだろう?」と考えてみよう

という、モノゴトを前に進める考え方、自分を成長させる考え方です。

 

また「自責思考」と、「責任の所在は全て自分にあると考える」ということは全く別の話だと思っています。

 

前述した通り、「自分にももっとできたことがあったな。次回からは、自分は●●のように行動を改善してミスの確率をより減らそう」ということは考えた方が良いと思います。これは私が思う「自責思考」です。

 

しかし、それとは別の話として「この今回のミス単体については、相手の責任によるところが9割以上よね」ということはあり得ると思ってますし、そう認識すること全く悪いことではないと感じます。

 

むしろ、次に向けた改善をよりよく行うには、「私が悪かったよー!」で終わらせるのではなく、「今回の責任の所在」の認識を当事者間ですり合わせたほうが良い(ことが多い)ように思います。

 

ここまでが、「自責思考」を「自分が悪いと思い込むこと」としてしまうといいことないよな〜と思っている、という話でした。

 

組織において:「自責思考しなさい」って人に言って逃げてない?

で、次なんですけど、

上司的な立場の人、要はマネジメント側が「自責思考しなさい」って部下に言いまくるのって、場合によっちゃ危険なこともあるなと思ったんですよね。

 

原則スタンスは「自責で考えよう」は良いと思うんです。

ただ、「それは自責思考が足りないよ~」「自責思考しようよっ★」

みたいなフィードバックばかりになるのは、時としてはそれこそマネジャー側が「自責思考してない」状態なんじゃないかなーと。

 

例えばこんなことがありました(知り合いから聞いた話にフェイクを入れて書いています)。

 

ある会社で営業職を務めるAさんは半年前に中途で入社をしたメンバーです。

成果を出そうと一生懸命に働いていましたが、なかなかパッとした成果が出ません。

Aさんだけでなく、部署全体としても目標未達の状況が続いています。

 

原因は明快で、進捗管理や引き継ぎなどがなされていないことで、効率が低い状態だったのです。

過去の販売実績もきちんと残っていないため、リピート可能性があるクライアントに適切なアプローチができていないということも多く発生していました。

 

このままの体制で進めても成果は上がらないと感じたAさんは、上司に現在成果が出ていない理由と、今後どうすべきと考えているかをまとめて上司に提案・相談しました。

 

しかし、「成果が出ていない理由を今までのやり方のせいにするなんて、自責思考が足りない」と逆に叱られてしまいました。

 

Aさんとしては建設的な提案をしたつもりでしたが、上司としては、今までのやり方を否定されたような気持ちになったのでしょう。

また、成果を上げるための上司へのいくつかの手助けの依頼も「自責思考が足りない、もっと自分でどうすれば良いか考えろ」と却下されてしまいました。

 

このケースは一つの例でして、この文章だけからでは、Aさんが正しく上司が悪いのか、本当のところはわからないというのはもっともな話です。

 

ただ、「自責」を言い訳に、「部下に対して必要な手助けや助言をしていない」ということはないでしょうか。

「自責思考が大事」という言葉で、体良く部下の不満を押さえ込もうとしてはいないでしょうか。

「圧倒的自責思考がある人を採用します」という言葉で、入社したメンバーに必要な手助けをすることを怠ってはいないでしょうか。

 

もちろん場合によるとは思います。

ただ「自責思考」自体が使いやすい概念なだけに、マネジメント側は「自責思考」という言葉を言い訳にしないよう注意する必要があると思うのです。

 

「良さげな概念」で思考停止させて/していませんか?

前段では、組織において「自責思考」を強調することで弊害が発生し得る可能性について、書きました。

どうしてこのようなことが起こるか、もう一段視点を上にあげて考えてみると、これは自責思考が「圧倒的に良さげで反論しづらい概念」であることに端を発するものではないかなと思うのです。

 

例えば会社のビジョン・ミッションや、行動規範、クレド、などと呼ばれるものなどは、だいたいこれに当たりそうです。

 

「自責思考」に留まらず、「常に挑戦しよう」「スピード感を持とう」「お客様のために行動しよう」のような何かしらの「圧倒的に良さげで反論しづらい概念」は、場合によっては、人を苦しくさせたり、思考停止させたり、搾取したりするものになり得ると感じます。

 

もちろんそういった大義名分や行動規範を掲げてモチベートすることは、同じ目標達成のためにはとても効果的かつ大事なことだと思いますし、それ自体を否定してしまうことは筋違いだと思います。

 

ただただ、「良さげな概念」「良さげな言葉」が人を搾取したり、人をがんじがらめにして苦しめるものになってしまわないと良いなあと思ったのでした。

 

私も気をつけます!

 

今日は以上です!

 

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【プロフィール】

滝沢頼子

1991年生まれ。大学卒業後、UXコンサルとベンチャー2社を経て、現在はフリーランスとして幅広く活動中。

上海に2回住んだことがあり、中国に関する情報発信、視察アテンドや講演なども行っている。

神楽坂とワインとももクロが好き。

ウーパールーパー、カピバラなどの目が離れている生き物に似ていると言われがち。

ブログ:たきさんのちゃいなブログ

twitter:takiyori0608

note:たきさん

(Photo:Brian Siewiorek

昔の失敗の話をします。色々事情がありまして、ちょっと伏字多めな点はご容赦ください。

 

昔、アルファベット3文字系の大き目のSI会社から、とある金融系のベンチャー企業に転職したことがあります。

もうこれも随分昔の話で、20代後半になるかならないか、くらいの頃だったと思います。

SI会社の名前を仮にA社、ベンチャー企業の名前を仮にB社とさせてください。

 

私がB社に関わったきっかけは、B社のBtoCシステムのリプレースをA社が受託したことでした。

私はリプレースのプロジェクトにアサインされまして、下っ端として色々やったんですが、会社同士でなにやら色々とゴタゴタがあり、開発を進める段階でプロジェクトは頓挫。

リリースすることなく、僅かなドキュメントと作りかけのモジュールを残して、そのシステムはお蔵入りになってしまいました。

 

その後。

A社内で私は全然違う仕事をしていたんですが、B社の偉い方から「中断したシステムを完成させてくれないか!」と声をかけて頂いて、ちょうど「自分の裁量で色々やってみたい」と思っていた私は、面白そうだなーと思って転職を決めた訳です。

 

B社は、本当にまだ出来て数年のベンチャー企業でした。

社内にきちんとしたシステム担当がいる訳でも、しっかりした管理体制がある訳でもなく、個人個人の営業力で収益を挙げて、その集積で何とか持っているような会社でした。

金融系とはいっても、当時まだぜーーんぜん新しい業界でして、かっちりとした法制度もなければ消費者保護制度も整っていませんでした。

 

当時のB社には、BtoCで顧客から発注を受ける為のweb取引画面があったのですが、それが全体的にヤバいことになっていました。

取引画面はしょっちゅう止まる。レスポンスめちゃ重い。帳票を作成するバッチに半日かかる。

時によっては顧客の発注が二重で入ってしまうこともあり、その際はDBのデータを(メンテナンス時間すらとらず本番運用中に)手作業で直す、などということすら発生していました。

なんか起きる度に怒号と悲鳴が響く、今から考えると狂気の現場だったと思います。

 

とにかく人手が足りませんでしたし、時間もありませんでした。

システムのキャパシティはとっくの昔に限界を迎えていることが明白であって、ビジネス的には今の状態で稼働させている方が不思議でした。

それでも現行のシステムを止める訳にはいかず、なんとかだましだまし現行システムの運用をしつつ、リプレース開発も進めないといけないという状態でした。

 

一応基幹取引システムのリプレースだというのに、実際に開発に参加出来るメンバーは、ピンポイント参加の協業さんも含め、たった4人しかいませんでした。

仕方ないので、ビジネスロジックはほぼ全てDB側のストアドプロシージャ・ストアドファンクションで実装することにして、私がDB設計とロジック設計を全部やりました。

「使えるものは片っ端から再利用する」の精神で、リリース最優先の為、ドキュメンテーションも完全に後回しでした。

 

私がDB担当、1人が画面担当、1人が帳票担当、1人がインフラ担当というものすごーーくざっくりした担当分けで、一人一人の作業量も膨大なことになっていたんですが、これ自体は紆余曲折の末、四か月くらいでどうにかリリースを迎えることが出来ました。

正直当時の業務時間・残業時間は本当に思い出したくない状況になっていて、冗談ではなく開発している時の記憶が曖昧です。

 

これ自体、今から考えれば「もっと上手いやり方はあったよなー」と思いはするんですが、まあ当時の経験、当時のリソースでは他の方法を選ぼうにも選べなかった、ということも確かなのです。とにかく達成感はありました。

 

***

 

さて、「転職」というものはある意味異世界転生であって、上手く転職先を選べば、チート主人公として無双することも不可能ではありません。

 

前述した通り、B社は出来て数年のベンチャー企業であって、しかも元々システムに明るい人もそれ程多くなかったため、社内は非常にレガシーなやり方で業務を回していました。

 

今から考えると当時の私など経験不足の若造以外の何物でもなかったのですが、それでも社内ではIT知識でレガシー業務をぶん殴れる立ち位置でした。

一応基幹システムのリプレースも成功裡に終わったということで、若干余裕が出た私は、今度は偉い人の要請で、社内の業務改善に着手することになりました。

 

例えば、社員の予定が未だにホワイトボードと共有のExcelでしか管理されておらず、メンバーの予定を上司が把握するのが大変そうだったので、グループウェアのサーバを立てて運用することにしました。

社内稟議も紙ベースではなくワークフローにしました。

 

社内でファイルを共有する仕組みが存在しなかったので、NASを立てて共有フォルダにしました。

チーム内の進捗管理というものがろくに行われておらず、発生後経緯把握もされずに行方不明になるタスクが山ほどあったので、チケット管理システムを導入してタスクの進行具合が追えるようにしました。

 

社内の会議資料一つ作るために、毎回毎回Excelからちまちまグラフを起こして一から作っていたので、今でいうBIツールを導入して、特定の図表が日次で自動作成されるようにしました。

 

上記は飽くまで一例です。この辺、どれもこれも、単純ではあるんですが業務改善効率は非常に高いので、聊か調子に乗ってしまっていたことは確かな事実です。

実際、当時の業務改善具合は割と劇的であって、色んな人から喜んでもらえるので、私もある種ハイになっていたことは否めません。

 

一方その傍ら、基幹システムの機能追加・メンテの案件も段々積み重なっていきました。

皆さんお分かりかと思いますが、こういうことをやっている内に、私の首はどんどん回らなくなっていきました。

 

勿論社内に運用担当など存在せず、いざ「運用業務誰かに渡したいんですけど」と言っても、「いや分かるヤツおらんし…」と言われるだけでした。

 

「こいつに教えてやらせよう」となってもマニュアルを整備する時間すらとれず、じゃあ採用しよう、と言ってそう簡単に運用に明るい人材が採用できるわけでもなく、実際にはチケット管理システムの権限管理も、グループウェアの組織変更のメンテナンスも、バッチが異常終了した時のBIツールのリカバリも、全部私がやらざるを得ませんでした。

 

会社自体は段々と大きくなっていくわけで、昔のレガシーな業務に戻すことも今更出来ず、一方根本的な体制改善の提案をする余裕すらなく、また業界自体も段々と整備されていく中、足回りの整備の必要性もどんどん増していきました。

 

そんな状況で開発の時間がとれるわけもなく、今度は基幹システムの方でパフォーマンスの問題が発生した時、本来ならある程度腰を据えた大規模な修正開発が必要なところ、私にとれる選択肢は「場当たり的な対応でなんとか時間稼ぎをする」以外に無くなっていました。

 

一方、その他システムの運用にも度々支障をきたし、導入したツールに依存した業務を止めてしまうことが頻繁に起きるようになっていきました。

色々出来てしまったから「出来ますよ」と言ってる内に、いつの間にか何一つ出来なくなっていた自分を発見することになったわけです。

 

***

 

私の大きな失敗要因は三つあります。

 

・本来「出来る」「出来ない」はその後の運用や保守工数も含めて考えなくてはならないのに、それをきちんと考えていなかったこと

・いざ「運用を誰かに渡す」となった時に、それが出来る人材がいるのかどうか、その育成コストはどう捻出するのかを考えていなかったこと

・なのに、技術的には出来てしまうばかりに「出来ます」と言ってしまっていたこと

 

実際、今からふり返ると、「そこはそうじゃないだろう…」と思うところばかりなんですよ。

本来なら、「出来るかどうか」というのは、「その後」も全て含めて判断しなくてはいけない。

 

リリースは出来るとして、リリースした後業務が回らなければ何の意味もないし、よし業務が回ったとして、結局それ以外のことが何もできなくなるのであればやっぱり何の意味もないし、なんならマニュアル化して誰でも出来るようにしてあげないとちゃんとした仕事ではないわけです。

 

「今の体制じゃ出来ません」「取り敢えず足元を固めさせてください」というのも、大事な、本当に大事な仕事の内だった。

元よりぺーぺーで、数年の開発経験だけでイキっていた私には、そこがいまいち分かっていませんでした。

出来ちゃうんだからやっちゃえばいいじゃん、としか思っていなかったのです。アホとしか言いようがありません。

 

結局、新たに社外取締役として招聘された人がITに明るい人で、「いや、そいつ(私)が倒れたらこの辺の業務どうすんの?」という質問に誰一人答えられなかったことがきっかけとなってようやく会社が根本的な体制改善に乗り出し、大きめのSI会社さんに丸々入ってもらってどうにか仕事が回るようになったわけなんですが、そこまでに散々会社やお客様に迷惑をかけてしまったことも確かです。

いや、いい経験にもなったんですけどね。

 

この件から私が学んだことはたった一つでして、

 

・「出来る」「出来ない」は総合的に判断して、怪しかったら躊躇なく「出来ない」と言う

 

こと以外にありません。その場では「出来ない」ということが申し訳ないなーということもあるのかも知れませんが、結局はその方が会社の為でもあり、何より自分の為でもある。そういう話だったわけです。

 

皆様の健やかな業務進捗を祈念して止みません。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Matthew T Rader

先日、「豊かさとは、経験のバリエーションである」というお話をbooks&appsで読んだ。

「冒険の末に手に入れたもの」ではなく「冒険の過程」こそが、真に人を豊かにする。

この感覚を他人にうまく説明するのはなかなか難しい。

なぜかと言えば、豊かさとは「達成する」「手にする」ことと考えている人が多いのに対して、私は豊かさとは「経験のバリエーション」と考えているからだ。

わかりやすく「◯◯があるので、豊かです」「◯◯を手に入れたので、豊かです」と言えないのである。

そうではなく「豊かでいる」「豊かに過ごす」が正しい言い方だ。

 

例えば上にあげた登山では「頂上に到達すること」で豊かになるのではない。

毎回異なる経験を得る、登山そのものが「豊か」なのである。

仮に天候が悪く、頂上に到達する前に引き返さざるを得なくなったとしても、それは経験のバリエーションを増やしているので「豊か」なのだ。

この感覚に、私は深く同意する。

私の場合は、登山に相当するのはワインや旅行だ。

 

高級なワインを買うことも、素晴らしい飲み心地のワインを飲むことも、もちろん豊かさではある。

 

しかし私にとって、低価格のワインで驚きのおいしさに出会ったり、大枚をはたいたワインが「ハズレ」で悔しい思いをするのも「豊かさ」の大切な一部だ。

そうやって驚いたり痛い目に遭ったりすることで経験のバリエーションが広がり、ワインに対する理解も深まっていくからだ。

 

旅行も経験のバリエーションを広げてくれる。

現地の人々を理解するには不十分かもしれないが、普段の生活では経験できない匂いや食べ物、言葉や習慣に出会うには十分だ。

 

「経験のバリエーション=豊かさ」という考えにもとづいて旅行を選ぶなら、過度に観光地化されていない、その土地の匂いや言葉に出会えそうな旅先を選び、そういう旅行を企てるのが望ましいように思う。

 

子育てにおける「経験のバリエーション」

「経験のバリエーション=豊かさ」という考えを突き詰めていった時、無視するわけにはいかなそうな経験があると思うので、ここではそれを推してみたい。

 

それは子育てだ。

 

子どもが生まれるのに前後して、親は次々に未経験を重ねる。

特に女性であれば妊娠、出産、授乳といった未曽有の体験が待っている。

間違いなく、経験のバリエーションが広がる。

 

ちなみに私は男性だが本当は妊娠して出産して授乳してみたかった。

考えてみて欲しい、自分の身体のなかに別の生命が宿り、それが日に日に大きくなって身重になっていき、出産し授乳するというプロセスは考えただけでドキドキする。

それは社会的経験だけでなく、バイオロジカルな経験でもあるはずだ。

 

現代社会では、たいていの社会的経験は、たとえば旅行などをとおして「買う」ことができる。

ところが妊娠や出産や授乳のようなバイオロジカルな経験を「買う」ことはできない。

そして今のところ、妊娠や出産や授乳できるのは女性だけだ。

 

とはいえ子育てが始まるにつれて男性もまた経験のバリエーションを広げずにはいられない。

生後間もなく→半年後→満一歳と進むにつれ、子どもの反応や挙動はどんどん変わっていく。

 

子どもが変われば親の対応も変えなければならないわけで、親がすべきことも、親が身に付けることもすごいスピードで変わっていく。

たとえば食事の用意ひとつとっても、ミルク→離乳食→幼児の食事→小学生の食事へと変えていかなければならない。

 

 

先日、『こうしておれは父になる(のか)』という父親の子育てエッセイを読んだが、このエッセイには、父親たる筆者が子どもの成長によって変わっていく経験と、それにともなって変わっていく自分自身の経験がまさに記されている。

病院を出ると、新生児は空気の違いや私の緊張に気付いたのか、心なしかこわばっているようだった。

抱っこひもなどもなく、直接抱きながら曇天の下でタクシーを拾おうとするものの、こういうときほど捕まらない。

 

しばらくすると、ぽつりぽつりと雨まで降ってきた。

さっそく世界が現実の厳しさを教えてくれようとしているのが伝わってくる。

 

どうにかこうにか捕まえたタクシー、そのドライバーはちょうど孫が生まれたばかりだいう初老の男性。

彼が赤子の人生初乗車に立ち会えたことを喜んでくれたことで、ようやくこちらの心がほぐれる。

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子どもを初めて病院から家へ連れ帰る時のことは、私もよく覚えている。

天気も状況もよく似ていたので、この心細さや心がほぐれる感じにはシンパシーを感じた。

子どもを無事に家に連れ帰った後も、期待と不安によろめきながら未経験と向き合い、それらは簡単ではなかったけれども忘れがたい思い出になった。

 

「経験のバリエーション=豊かさ」という価値観を持っている人にとって、子育てはそうした経験の宝庫だ。

登山や釣りと同じく、必ず上手くいくものではないし、間違いなく苦労もするけれども、苦労のしがいはあるはずだ。

子どもの変化だけでも驚きの連続だが、その子どもに向き合う自分自身のライフスタイルやスキル、考え方まで変わっていくのだから、経験のバリエーションの豊かさという点では類を見ないものになる。

 

もちろん裏返しに捉えるなら、子育てに深く関われば変化は避けられない、ということでもある。

経験のバリエーションを豊かさとは感じていない人、変化をできるだけ避けて生きたい人には、子育てのそうした側面は苦痛かもしれない。

 

子育てから得られる経験は未知との遭遇

豊かな経験として子育てを考える際に、見過ごせないもうひとつのポイントは「子育ての経験は、親子それぞれによってまちまち」なことだ。

親の境遇や価値観、パートナーとの関係、生まれてくる子どもの性質によって子育ての経験はいかようにも変わる。

 

さきほど触れた『こうしておれは父になる(のか)』にしても、夫婦でサブカルチャーと深く関わり合いながら子育てしていくスタンスには一種独特の気配があった。

 

たとえば私なら「子連れの長距離移動なんて大変だろうに……」と控えるところが、この夫妻はそれを躊躇わない。

それで苦労もしている反面、子連れの長距離移動をしなければ知り得ないことをたくさん経験しているさまが読み取れた。

 

「この親子ありて、この経験あり。」

 

たぶん、どこの家の子育てもこんな具合に違っているのだろう。

 

インターネットで子育てブログやツイッターアカウントを巡回していても、親自身の境遇も価値観もまちまちで、子どもと過ごす経験の内容も、それに対する親の受け止め方も違っている。

我が家の子育ての参考になることもあれば、まったく参考にならないことも多い。

きっとそれでいいのだろうと思う。親子はみんな、違った経験を積み重ねているのだから。

 

それから子育ては、経験のバリエーションが豊かになるだけでなく、経験が未知である度合いが高く、肝心な部分の幾つかがメディアに載っていない、そういうたぐいのものだとも思う。

 

もちろん「お役立ち情報」のたぐいなら、ネットで検索することも書店で買い求めることもできるが、それだけでは決してカバーできない、手探りの部分を必ず伴っている。

それを悪しとする人にとって、子育ては不安に満ちた、脅威度の高い経験になりかねないけれども、それを良しとする人にとって、子育てはまたとないアドベンチャーだ。

 

ベビーカーのなかで眠るあの小さな姿は、登山や旅行にまったく劣らない、忘れることのできないアドベンチャーの塊ではないだろうか。

これから子育てを始める人は、子どもに好奇心を傾けて、是非、ひとつひとつの経験を味わい尽くしていただきたい、と思う。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Wonder Woman

少し前、こんなツイートを見た。

「利己的な欲求を排除し、会社への貢献を念頭に行動する」は、経営者や管理職がいかにも好みそうな話だし、なんとなく「いい話」っぽいのだが、実務的には、私は少し異なった考え方を持っている。

 

 

私が駆け出しのコンサルタントだった頃。

ようやく現場のプロジェクトを仕切らせてもらうほどの経験を積んだときのことだ。

 

そのプロジェクトは、業務プロセスに関するもので、業務フローの作成が必要だったので、私はクライアントに調査票の様式をわたし、担当者に所属部署の簡単な業務フローを書いてください、という依頼をした。

 

しかし。

リーダーを交えて念入りに事前の打ち合わせをしたのだが、残念ながら、期限の日にその担当者の出してきた業務フローはひどいものだった。

今思えば、彼は論理的思考能力が不足しており、荷が重かったかも知れない。

 

だが、彼が自分からそうは言えなかったとしても、あまり弁解の余地はなかっただろう。

ヘルプも出さず、必要な質問もせず、締め切りギリギリまで手を付けず、「締め切り間際で、やっつけで作った」というのがバレバレの成果品だったからだ。

 

私はそのプロジェクトリーダーに相談した。

「業務フローが、結構ひどい出来なのですが、この方にまかせて大丈夫なのでしょうか?」

 

彼は言った。

「言われたとおりです。彼にはまだ荷が勝ちすぎていると思いますので、ちょっと時間を作って話します。」

 

そして1週間後。

業務フローはほぼ完全な状態で仕上がっていた。

プロジェクトリーダーがつきっきりで指導し、随分と力を貸したようだ。

リーダーはかなりの時間を使ったのだろうが、成果物を無事に仕上げることが出来たので、担当者からも、リーダーに対する感謝の念が伝わってくる。

 

なるほど。

きちんと作らせるのは、大変だったろうに、部下に成果を挙げさせる、いいリーダーじゃないか。

私はそう思った。

 

まさに彼こそ、冒頭のツイートにある「利己的な欲求を排除し「会社への貢献」を念頭に行動している人」のように見えた。

 

 

結局、プロジェクトは皆の力と、リーダーの努力により、滞りなく終わろうとしていた。

私はメンバーたちから「リーダーの良い評判」を聞くたびに、「リーダーに恵まれましたね」と返していた。

 

そしてプロジェクトも終わりに差し掛かったときのこと。

そのプロジェクトリーダーから、ミーティングの終了時に「そろそろ終わりですね。飲みに行きましょうよ」と誘われた。

 

正直、私は非常に嬉しかった。

彼からマネジメントの秘訣を聞きたかったし、部下の成長に時間を使うその姿は、とても好印象だったからだ。

 

彼は会社から少し遠い、新宿の居酒屋を指定した。

 

 

そして当日。

彼は他愛もない話を楽しそうにし、私は食事を楽しんでいた。

 

しかし、私は「彼の考え方を知りたい」と思っていた。

そこで、一段落したとき、プロジェクトの活躍を称賛した。

「素晴らしいプロジェクトマネジメントでしたね。部下の方々からの信望も厚いので、とても助かりました。」

 

だが、予想に反して、彼は無表情だった。

「どうしたんですか?」

 

彼は少し酔っているようだったが、

「そうですね。」と、嬉しそうでもない。

「どうしたんですか?」

「いやいや。」

「……?」

 

あまり突っ込まないほうが良さそうだ、と察知して、私は話題を変えることにした。

「部下の育成とかも、得意そうですよね。」

「……。」

 

無反応である。

私はなにか悪いことを言ってしまったのではないかと、危惧した。

「どうしたんですか?何か私、失礼なことを言ったでしょうか?すみません、気づかず申し訳無いです……。」

 

すると、そのリーダーは、「いえいえいえ!気にしないでください。」という。

私はなにも言えなくなってしまった。

 

彼は「あ、いや、申し訳ない。」という。「褒められるほどのことはしてないので。」

私は言った。「なぜですか?プロジェクトはうまくいき、部下たちからの信頼も厚いと思うのですが。」

 

しかし、彼の口から出てきたのは予想外の言葉だった。

「ひどいでしょう?ウチの部下たち。能力低いんですよ。」

「……?」

 

率直な印象は「怖い」だった。

いつもと雰囲気が違う。

 

「酔っていらっしゃいます?」

「いや、特に酔ってるわけじゃないです。……正直、能力低いやつは大嫌いで……育成とかも本当はやりたくないんです。」

「……。」

「社長が、「育成」が出来ない管理職はダメだと、部下からの信望が厚くないリーダーは、最低だと。いつも言うわけですよ。そりゃ、やらざるを得ないです。別に彼らのためじゃない。」

 

その後は、彼は部下に対する愚痴を言い続けた。

「あいつはやる気がない」

「あいつは頭が悪い」

「素直じゃない」

……

普段ならば、考えられないような言動だ。

 

思うに、彼には相当なストレスが掛かっていたのだろう。

だれか愚痴を聞いてくれる人が欲しかった。だから、プロジェクトの終わりに、後腐れのない私を、飲みに誘ったのだ。

私は体よく、はけ口として扱われた、ということだ。

 

私はただ、驚いた。

はけ口として扱われたことにではない。

社会人になって初めて、「リアルに腹黒い人物」を見た、という事実にだ。

「この人……よく隠しているな。全くわからなかった……。」

 

私は「上司は人格的に優れていなければならない」とその時まで思っていた。

だが、違った。

彼は褒められた人格ではなかったが、結果を出していたし、部下にも好かれていた。

そういう人も、実際にいたのだ。

 

そして、プロジェクトはそつなく終了した。

私はそれ以来、彼と部下について話したことはないし、他の人にも何も言わなかった。

 

しかし、私が彼から教わった「腹黒さ」は、その後恐ろしく役に立った。

それは、「どんな利己的な動機からであっても、結果を出して、周りの人々の役に立っている限り(そしてその動機がばれない限り)称賛される」という単純な事実を教えてくれたからだ。

 

 

世の中には「与える人」(ギバー)と、「奪う人」(テイカー)、そして「与えるともらうがバランスする人」(マッチャー)がいるらしい。

そして、この中で一番失敗するのは、実は「ギバー」だ。

人に与えすぎると、自分のことに手が回らなくなり、疲弊してしまうらしい。

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だが、面白いことに一番成功するのも「ギバー」なのだ。

 

一体、大成功するギバーと、大失敗するギバーの差はなんだろうか。

それは、自己利益への関心=「利己心」だ。

 

著者のアダム・グラントによれば、単に人に与えるだけではなく、「利己心をもとに人に与える」ほうが、燃え尽きずに長く人の役にたつし、より大きなWin-Winを創造できる

自己犠牲的な人は、利用され、燃え尽きてしまうのだ。

(出典:GIVE & TAKE 「与える人」こそ成功する時代)

 

企業が、CSRやメセナ活動をすると、

「利益」のためだろ

と批判をする人がいるが、上の話からすると、「利益なき社会奉仕は、継続しない」ということになる。

また、ビル・ゲイツなどの大金持ちの一部が、「金持ちへの税制を強化しろ」というのも、自己犠牲ではなく、金持ちへの風当たりが強くなることを警戒した、純粋な利己心からきている可能性もある。

 

だから、企業が利益を目当てに社会奉仕をすることは、むしろ歓迎すべきことなのかも知れない。

あのプロジェクトマネジャーのように、「利己的」であっても、勤めを果たして結果を出しさえすれば、物事は上手くいくからだ。

 

 

もちろん「動機が不純なら、結果が良くてもダメだ」という方もいるだろう。

哲学者のカントは、道徳に対して

「いくら良い行いをしても、結局自分のためだったら、それは道徳的であるとは言えない」

と言ったという。

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カントの言うことに従えば、ギバーも「不道徳」、上のマネジャーは「不道徳」であるし、メセナもビル・ゲイツも「不道徳」である。

彼は「善い行いは、動機が重要」と言ったのだ。

 

だが、カエサルは「いかに悪い結果につながったとされる事例でも、それがはじめられた当時まで遡れば、善き意志から発していたのであった」
と言った。

つまり彼は「善き意志ではなく結果が重要」と言った。

これらの考え方は、決して相容れないだろう。

 

個人的には、おそらく、100%ではないものの、私は実務家としてカエサルに与する。

 

どうせ人の心の中はわからない。

クリーンさを標榜したとしても、それが真実かは誰もわからないのだ。

 

結局、他人や世の中は、表に出てくる「発言」や成し遂げた「結果」しか見ないのだから。

 

 

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(Photo by Unsplash

「仕事のやりがいは何ですか?」

 

学生時代、働いている人に会うと毎回毎回この質問をしていたのだが、 今に至るまで納得できるような回答をバシィっと僕に叩きつけてくれた人は1人もいない。

 

「おいおい、お前ら何のために働いてるんや」

 

学生時代の僕は微妙な回答をもらうたびに、心のなかでこう毒づいていたものだったけど、自分自身も働き始めてから上の質問が酷く難しいものだという事に遅まきながら気が付かされた。

 

自由の味は旨い

「やりがいって・・・なんだろう」

 

働き初めの頃はお金をもらえる事自体が嬉しかった。

給与をもらえる身分になり、親から経済的に独立し、自分の好きなように生活できるようになって、自由の味は本当に素晴らしいものだと知った。

 

自分で稼いだお金で何をしようが、法に反する行為で無い限りは誰にも文句は言われない。

大学の帰り道に缶ビールを買って飲むと背徳感が残るが、仕事終わりにプシュッとやるのは格別に旨い。

 

「そうか、人は自由を獲得する為に働くのか」

 

社会人2~3年目まではこれがやりがいの正体だと思っていた。

ところが、そのうち溢れんばかりのお金を稼いだ人が、意外と仕事を辞めてない事例を散見し「ひょっとして、お金で獲得できる自由は意外と限定的なものなのでは?」と思うようになった。

 

フロー状態に入るのには、集中さえ出来ればいい

フローという概念がある。

<参考 フロー体験入門 M.チクセントミハイ>

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フローとは簡単に言えば物事に没頭する時に人が入り込む精神状態である。

提唱者のチクセントミハイいわく、この状態になると人は幸せになるのだそうだ。

 

この概念自体は結構有名なので、知ってる人も多いだろう。

 

僕がフローという概念を知ったのは学生時代の時で

「確かに言われてみると、夢中になってゲームをしている時、ゲームから感じる内容以上に多幸感が溢れ出ている」

「夢中になれるような仕事に就くことができたら、きっと随分と楽しいのだろうな」

と漠然とは思っていた。

 

ところで、フロー体験できそうな仕事というと、どんなものを思い浮かべるだろうか?

少なくとも学生時代の僕は「自分の得意な事や好きな事だろう」と漠然と思っていた。

 

しかし最近になって「どうも得意とか好きとか関係なしに”物事に集中できるか否かだけ”が肝心なのでは?」という風に思うようになってきた。

 

コンビニ人間で学ぶフロー体験

芥川賞を受賞した村田沙耶香さんの『コンビニ人間』はフロー状態の人間の精神状態を体験できる最高の書籍である。

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特に冒頭が凄い。

 

冒頭文は以下で読めるので、ぜひ未読の方がいたら読んでみて欲しい。

【第155回 芥川賞 候補作】『コンビニ人間』村田沙耶香:芥川賞・直木賞発表を楽しもう:芥川賞・直木賞発表を楽しもう(芥川賞・直木賞発表を楽しもう) - ニコニコチャンネル:社会・言論

 

この本を初めて読んだ時の僕の認識は

「へー、コンビニ労働でもフロー状態に入れる人がいるんだな」

ぐらいだった。

 

けど最近、10年近く働いて仕事になれてきたからなのか、自分自身も診察中に上のような状態に入れるようになった事に気がつき、愕然とした。

 

「好きでもなんでもなかったはずの医療で、まさかフロー状態に入れるとは」

 

診察中の自分はとにかく虚無だ。とにかく仕事のみに集中し、コンビニ人間ともいえる位に機械的に役割のみに徹底している。

 

見ようによっちゃ、僕は社会の歯車だろう。

わざわざ満員電車に揺られ、病院に歯車になりにいってるのだから、社畜と呼ばれても何もおかしくない。

 

けど、この瞑想ともいえるレベルで仕事に没入できる事が、今では楽しくて仕方がない。

全てを忘れ、機械的に己の役割のみに徹している時、自分自身が文字通り全てのしがらみから開放され、無にも近いような感覚に入れるのである。

 

誤解してほしくないのだが、僕は決して医療行為はそこまで”得意ではない”。

好きか嫌いかと言われても、せいぜい”嫌いじゃない”ぐらいである。

10年近く働く事で、いつの間にか”得意でもなく”・”好きでもない”この行為を、機械的にこなし”没頭”できるようになってしまっただけである。

 

何百回、何千回と日本舞踊で決まりきったお作法をこなす事で己の中に”型”を作り上げるが如く、仕事も徹底して練り上げると”型”になる。

全てを忘れて業務に没頭できる状態になった自分は、ようやく”コンビニ人間”になれたのである。

 

「なるほど。仕事って、ある種の瞑想に近いんだな」

『コンビニ人間』は筆者である村田沙耶香さん自身の体験を元に書かれたのだという。

 

実は彼女もコンビニで働くのがエラい好きなようで、芥川賞の授賞式でも「これからもできたらコンビニで働き続けたい」と語っていたのが妙に印象的だった。

 

彼女はコンビニでフロー状態に入れるが、あくまでコンビニでの勤務は永遠の2番手だろう。

いうまでもなく、彼女の1番は小説執筆である。

 

ただ、彼女は執筆活動だけではなく、コンビニ勤務でもフロー状態に至れるのだ。ここに仕事の妙がある。

 

恐らくなのだけど、フロー状態に入り込む為の1番のポイントは”好き”とか”得意”ではない。

それらは物事の習得を円滑にするかもしれないが、1番大切なのはとにかくルーチンレベルになるまで続けられるか否かである。

 

脳で考えなくても身体が動くレベルで物事を実行できるようになれば、たぶん誰でもフロー状態には入り込める。

 

全く踊りの経験が無かった人でも、何万回も練習すれば無思考で踊れるようになるように、仕事もきっちりコミットしてできるようになると、いつの間にか”全てを忘れて集中する為のツール”に落とし込める。

 

仕事とは、ある種の瞑想ツールなのである。

 

弘法筆を選ばず、フロー状態も活動を選ばず

僕が医者活動で”コンビニ人間化”できるのは、記事執筆やらビデオゲームで熱中するのが以前からこの上なく好きだったからだろう。

 

弘法大師はどんな筆を使おうが見事な書を描くというが、たぶんフロー状態も全く同じである。

”好き”とか”得意”なんて筆を使わなくても、ゴールが1つなんだから何の活動を通じてでも同じ境地に到達できる。

 

子供の頃、周りの目を気にせず1人の世界に没入していて本当によかったなと今では思う。

あの体験がなければ、決して僕はコンビニ人間になれなかっただろう。

 

仕事のやりがいの正体とは、少なくとも僕にとっては、コンビニ人間になる事だったのだ。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:InOutPeaceProject

ちょっと前のこと。

妻が、ホームベーカリーを前にして、ウンウン言っていた。

 

「どうしたの?」と聞くと、「今までとは違う小麦粉を買った。」という。

「なんで焼かないの?」と尋ねると、どうやら今までの小麦粉と膨らみ方が違うと本で読んだので、躊躇しているという。

 

悩んでても結果がわかるものではないので、

「とりあえず、今までと同じやり方で焼いてみりゃいいじゃん。それ見て調節したら?」というと、

「うーん、でも……。」

と腰が重い。

 

たとえパン焼きであっても、新しい試みは、考えなければならないことが飛躍的に増える。

「まあ、面倒だよな……。」と思ったが、急かすことはないと思い、「がんばれ」と言ってその場を立ち去った。

 

 

別の日。

子供が、あさがおの観察日記を書いていた。

 

ところが、書き始めてしばらくして、固まってしまっている。

「どうしたの?」

と聞くと、「うまくかけない。失敗した」という。

色鉛筆で書いてしまったので、消すことができない。

また、学校指定の様式に書くのだが、その様式が1枚しかない状況だった。

 

そこで、手伝うことにした。

スキャナで取り込んで、写真加工ソフトで絵を消し、様式のみをプリンターで出力する。

これで様式のデータが出来上がったので、何回失敗しても大丈夫だ。

 

ところが、「何枚くらいいる?」と聞くと「1枚でいい」という。

「うまく書きたいのなら、何枚か書いてみて、できが良いのを提出すればいいじゃん。」

というと、しばらく考えている。

 

「じゃ、紙5枚くらいとりあえず出しておこうか?」

というと、彼女はしばらく考えていたが、「うーん。」と言った。

 

なにか渋っているので、後で話を聞くと、

「書き直しは嫌だな、と思った」という。

 

私は「何度でも書き直せるので、気が楽になった」というかと思ったが、どうやら大きなお世話だったようだ。

単純に「書くのが面倒」だったのだ。

 

 

知人から「企画書を書きたいのだけど、書き方を教えてほしい」と言われた。

私は、参考になりそうな資料をいくつか渡し、アドバイスをした。

 

「けど、実際に書いてみないと、ちゃんとしたアドバイスはできないよ」

というと、彼は「書くので、見てほしい」という。

 

しばらくして。

私が「書いた?」というと、

なんと知人は「まだ書いていない」という。

 

「そっか。」というと、

「なんか、うまく書けないんだよね……。」とゴニョゴニョいう。

 

残念ながら「書かない人」には、これ以上なんともできない。

 

ただ、「書いたら見せろ」というのは不躾だったかも知れない。

反省である。

そこで、

「最初はみんな下手だから、恥ずかしがる必要はないと思うよ」

とやんわりいうと、

「恥ずかしいわけじゃないけど……」という。

 

そこで、「ははーん……初めてだから、腰が重いんだな。」と思い、率直に聞いた。

「書くのは大変だよね。ここで見てるから、今ここでやったら?」

 

「……助かる。」

 

 

私も、若い時はよく勘違いしていた。

多くの人が「やらない」理由はほとんどが「失敗が怖いから」とか「やり方がわからないから」なのだと。

 

だが、それは嘘だった。

別に怖くもないし、やり方も聞いたり調べたりすれば、たいていわかる。

単に「初めてのことは、面倒くさい」のだ。

 

そう考えると、いろいろなことに説明がつく。

 

会社で新しい試みを推進するのも。

「怖い」だけならば、「大丈夫、思い切りやればいい。」と上司がバックアップすればよい。

だが、「面倒くさい」は、突破できない。

 

SNSをやっていない人に「やったほうがいいよ」とおすすめするのも。

「よくわからないので怖い、でもやりたい」ならば、情報を与えて、やり方を伝えれば始めるかもしれない。

だが、「面倒くさい」に対しては無力だ。

 

転職したことのない人に、「自分の市場価値を知っておいたほうがいいのでは?」と転職活動を推奨するのも。

「やったことないので怖い」ならば、いくらでも手法はある。

だが「面倒くさい」と言われたら、それでおしまいだ。

 

 

実は、「面倒くさい」というのは様々な感情に隠れて、最も強固に人間の活動を抑制している。

 

例えば、今の仕事のやり方に対して「効率わるい」と文句を言う人に、「じゃ、もっといいやり方を提案しなよ。」と言っても、何も提案しない人が圧倒的多数だ。

また、今の仕事が「つまらない」と文句を言う人たちに、「じゃ、転職するか、異動願いを出せばいいじゃない」と言っても、全く響かないだろう。

それは「面倒くさい」を言い換えているだけなので、あれこれ解決策を出してもダメなのだ。

 

 

だが「面倒くさい」は人に言いたくない。

職場で何か頼まれたときに、「面倒くさい」などと言おうものなら、「ダメなやつ」と思われるし、自分が面倒くさがりだと認識するのはプライドに関わる。

 

だから表側は皆、「効率が悪い」とか「費用対効果が合わない」とか、きれいな言葉で繕う。

実際そうかも知れない。

でも、私が知る限り、動かない理由の本音は殆どが「面倒くさい」だ。

 

だから私は、コンサルタントをやっているとき、

「費用対効果」とか

「効率」とか

「手順が定まっていない」とか

「リスクが見えない」とか

言う人たちは、ひとまず「面倒くさいんだな。」とみなして、できるだけこっちで面倒な部分を引き受けるようにしていた。

 

もちろん、彼らの体裁に配慮して、

「面倒くさいんですよね?」とか無粋なことは言わない。

「皆様には、大事な仕事に集中していただきたいので、こっちでやりましょうか?」

という。

「今ここでやりましょうか?」

も効果的だ。

 

そうすれば、少なくとも物事は進む。

逆に言えば「面倒な部分を引き受けてくれる人」はあまりいないので、非常に重宝される。

 

こうして、私は多数のクライアントを獲得した。

「知恵」ではなく「戦略」でもなく、「面倒を引き受けてくれる人」のが、実は最も好まれる。

 

 

「企業」においては、上のように面倒なことを、泥臭くやってくれる誰かに全部投げてもいい。

それが賢い選択であるときもある。

 

だが「自分の人生」はどうか。

残念ながら、面倒で、泥臭いことが、必ず発生する。

 

例えば宿題。

例えば語学、プレゼンなどのスキルの習得。

例えば転職。

例えば新しい機会の獲得。

例えば体調管理。

例えばパートナーとの関係構築。

例えば親孝行。

例えば休暇を取ること。

こういったものに対して「面倒くさい」と逃げていては、あまり良い結果は期待できない。

 

前の記事で、「豊かさとは、経験のバリエーションのこと」と述べた。

しかし、バリエーションを獲得するためには、最大の障害である「面倒」を克服しなければならない。

「いつも同じこと」

「知っていること」

「やったことのあること」

「簡単にできること」

は、安心、安全ではあるが、経験のバリエーションを増やさないからだ。

「面倒だ」は、あらゆる意味で、人生を貧しくする。

 

だから結局のところ、「面倒」の克服こそ、豊かさを得る手段なのだ。

 

とすれば、我々はどうすべきだろうか。

 

これは、私のマネジメントの大きなテーマでもある。

一朝一夕に解決するものではない。

例えば、下のように様々な記事も書いた。

 

人は、記録をつけると、行動が変わる。継続できる。人生が変わる。

「なんでこんなに仕事が手につかないんだろう?」と悩む人に読んで欲しい話。

なぜ35歳を超えると頑張らなくなるのか。それはロールプレイングゲームの終盤と同じだから。

生産性向上のためにやってみた28個の施策と、その結果。

彼がどうやって先送り体質を改善したか。

人に「意識改革」を求めてもあまり効果はない。仕組みからアプローチする。

仕事に必要なのはモチベーションではなく、プロ意識である

行動したいなら、自分がそう遠くない将来に死ぬという事実について深く考えてみるといい

ある研究者から教えてもらった、努力を継続する方法論

 

上を見るとわかるが、基本的に私は「仕組み志向」なので、機械的に努力を継続できる仕組みを作ってしまうのが楽だと思っている。

 

が、ストレートなメッセージも、時に役に立つ。

ともに頑張って生きよう。

 

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(Photo by John Moeses Bauan on Unsplash

この前新年号が発表されたばかりだと思っていたのに、あっという間にもう9月。

夏休みが明ける9月1日は、18歳以下の自殺者数が急増するらしい。

今年もそういったニュースを何度か目にして悲しい気持ちになったのは、わたしだけじゃないはずだ。

 

そこで、わたしが常々思っていたことをあらためて書いてみたい。

「学生にも、有給休暇のような自主休講制度を導入しよう!!」

 

ズル休みして不登校回避した3日間

わたしは中学生2年生のとき、3日間学校をズル休みした。

たしか、仲良しの子に陰で悪口を言われていたことを知って、席替えで好きな人と離れてしまって、テストの点が悪くて、部活が楽しくなくて……そんな感じだったと思う。

 

とにかく、わたしはそのとき、どうしても学校に行きたくなかった。

だから、適当な理由をつけて学校を休んだ。翌日も行きたくなくて休んだ。そして、その翌日も。

 

休んでいるあいだじゅう、わたしは罪悪感を感じていた。

みんなが学校に行っているのに、自分は家でマンガを読んでるのだ。

悪いことをしているようで、どうにも落ち着かない。

 

それでも、持て余した時間をつかって自分と向き合い、こころの整理をつけることができた。

問題がすべて解決したわけじゃないけど、このズル休みのおかげで、「学校がイヤでしょうがない」という状況からは脱した。

あれ以上無理していたら、わたしは不登校になっていたと思う。

 

もしかしたらそのときのわたしはちょっと疲れていて、休みが必要だっただけなのかもしれない。

いま思い返せば、土日の部活も含め、朝から晩まで学校に閉じ込められていたから。

 

そういえば、突然部活を休み、1週間来なかった子がいたのも覚えている。

まわりからは「学校に来て部活に来ないなんて最低」「サボっててずるい」なんて悪口を言われたけど、結局彼女は戻ってきた。

「辞めようかとも思ったけど、いろいろ考えて続けることにした」と笑う彼女は、以前より熱心に練習に取り組んでいた気がする。

 

休み方を知らずに大人になった人間は、当然うまく休めない

頭がいっぱいいっぱいなとき、体がだるくてゆううつなとき、なにかやりたいことがあるとき。

何歳だろうが関係ない。学生だろうが社会人だろうが、「ちょっと休んで回復すること」は大事なのだ。

 

それなのに、わたしたちは小さいころから、「病気や冠婚葬祭のようなやむをえない場合をのぞいて休んではいけない」と教え込まれる。

「休まないことが偉いこと」とでもいうように。

 

そりゃもちろん、(心身ともに健康であることを前提に)学校を休まないのは立派なことだ。そこを否定するつもりはない。

でも、やむをえない理由がなくとも単純に休息が必要なことは、どんな人間にでもある。

 

そんなときでも正々堂々休めないから、学生はズル休みするしかない。

正攻法じゃないから、休むことに罪悪感を覚えてしまう。それがどうにもモヤモヤするのだ。

 

しんどくてもやり続けろ、諦めるな。毎日の積み重ねが大切。

そういう「続ける練習」はひたすらやらせるくせに、なんで「自分の時間を充実させる練習」「なにかを中断して気持ちを切り替える練習」「適切なタイミングで休息をとる練習」はさせないんだろう?

 

そのくせ、大人になってからは「成功者はオンとオフがしっかりしてる」だの、「日本人は休み下手」だの、「休みの時間を有効活用しろ」だのと言われる。

いままで一度も休み方を学んでいないんだから、大人になったからといって急に上手に休めるわけがないだろ!?

 

皆勤賞なんてクソ食らえだ。

ちょっとお腹が痛くて、ケンカしたあの子と顔を合わせたくないのなら、1日や2日くらい休んだっていいじゃないか。

 

それでお腹が痛くなくなって、ケンカした子と向き合う勇気が湧いてきたのなら、それは立派に価値のある休みだ。

休むことに罪悪感なんて覚えなくていい。

だって、だれでも疲れてる時、休みたい時はあるんだから。

 

……というのを、学生のうちから教えてあげたい。知ってほしい。

だから、学生にも「自主休講制度」を使えるようにしたらいいんじゃないかと思うのだ。

 

自分の意思で休息をとる練習をするべきだ

わたしがぼんやりと想像する「自主休講制度」は、かんたんにいえば有給休暇の学校版。

1学期のあいだに、たとえば3日間の「自主休講日」を取得できるようにする。

1週間以上前に担任の教師に伝え、「公休」として休む。

テスト期間や学校行事における自主休講に関しては各校の規則による。……という感じだ。

 

ただ、共働き家庭も多いのでひとりで留守番できるであろう学年からにしたり、親が悪用しないように気を配ることも必要はあるけど。

学校側が休む理由を聞くことは原則禁止、親ではなく自分自身が学校に休むことを伝え、休むタイミングも自分で決める。

休んでいるあいだなにをするかも自分で考える。

 

仲良くなった子がちがう部活に入っていて遊べない。恋人との1ヶ月記念日、いっしょにカラオケに行きたい。誕生日は家族で旅行したい。部活をサボりたい。職業体験をしたい。ボランティアをしたい。英検前の3日間、英会話学校で特訓したい。新作ゲームをやりこみたい。

 

理由はなんだっていい。

自分の時間をどう使うか自分で考え、子どものころから自分の意思で休む経験をしておく。それが大事なのだ。

 

そうしないと、大人になって、「いつどうやって休めばいいのかわからない」「仕事が休みだとなにをしたらいいかわからない」「休んで申し訳ない」状態になってしまうから。

 

「休んでも大丈夫だった」という経験は、未来を少し明るくなる

もちろん、休んだぶん、授業から遅れることになる。

でもそれなら、友人同士で役割分担をしたり、交代でノートをとったりすればいい。

実際、病気で休んだときはそうするわけだし。

 

事前申請制だから、「予習をして授業についていこう」と自分の勉強の進度をマネージメントするようにもなるだろうし、教師に質問をしに行く生徒も増えるかもしれない。授業内容をオンラインで共有する学校も現れるだろう。

 

係の仕事なんかも、うまいこと引き継いだり、ほかの人が分担したり、先生に交渉して一次免除してもらったりすればいい。

そういう工夫を通じて、「休む人がいても問題なくまわるんだよ」「お互い支えあえば大丈夫」という経験をしてほしいのだ。

大人になったとき「自分が休んだらみんなに迷惑をかけてしまう……」と思い詰めなくてすむように。

 

学校は休めないもの、休んじゃいけないもの。

そうやって刷り込まれ続けてきたから、「学校に行くくらいなら……」と思い詰める子たちが増えてしまうし、大人になっても「仕事を休むことは悪なんだ」と苦しんでしまう。

 

だったらもう、小さい頃から、「自分の都合や状況を考えて適切に休もうぜ!」という方向にしてしまおう。というか、そうしてください。お願いします。

 

休む権利を行使する「自主休講制度」を提案したい

「そんなことしたらイヤな授業を休む子が増えるのでは?」「根性なしになるのでは?」という心配もあるかもしれない。

でも、面倒な会議があるからって社員がこぞって有給休暇をとるわけじゃない。

こんな制度がなくともズル休みは可能なのだから、そこらへんは無用な心配だ。

 

100歩譲って欠席者が続出する授業があれば、教師や授業内容に問題がないかを精査し、改善に努めればいいだけだし。

大事なのは、子どもたちに「休む権利があり、それを自分の意志で行使していい」と教えてあげること。知ってもらうこと。

経験してもらうこと。

 

もちろん、制度として実現するハードルの高さは理解しているつもりだ。

いまのご時世ですら黒髪強制がまかりとおっている学校が、すぐに変わるとは思わない。

 

でも「教育」とは、「幸せで豊かな人生を送ってほしい」という願いのもと行われるもの(と信じている)。

それなら、「必要に応じて休むことで自分の人生をより豊かにする」ことは、絶対に必要じゃないか?

学校での経験は、良くも悪くも、その後の人生観や生き方に大きく影響する。

 

だからこそ、学生のうちから、休む訓練をしていくべきだ。大人になって、社会の波に溺れないように。

そのため改めて、わたしは「自主休講日」というものを提案したい。みなさんは、どう思うだろうか。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Andre Hunter )

「ああ、俺はいま退屈な時間を埋めているな」という認識がふと湧き上がってくる瞬間がある。

 

電車での移動時間にスマホでゲームをやっているときや、最近だと盆休みに実家に帰って、墓参りだのなんだの、すべきことをあらかた終えて、さて自宅に戻る日までどうしようか、と思いながらほとんど手癖でTwitterを開いたときだ。

 

ほとんどの場合、特に何かがそこで起こっているわけではない。

スマホゲー(特にいわゆるソシャゲ)ではユーザーを飽きさせないよう、定期的にきらびやかなイベントと目を引く新キャラが投入されるが、逆に言うと、そうでもして気を引かれない限り特に続けるほどのものでもなかったりする。

 

あるいは、世の中では概ねいつも何かが起こっていて──世にあふれる理不尽や小競り合いだとか、特にどちらのファンでもないスポーツの試合結果とか、芸能人に関するなにかとか──。

だがそれはあなたにとっては限りなくどうでもよいことである。

 

どちらが勝とうが、会ったこともない誰かが画面の向こうで何を謝罪していようが、その何かはあなたの生にほとんど影響を与えない。

あなたもそのことは、少なくとも無意識のうちに分かっている。

 

その意味で、手垢のついたゲームを起動するとき、TwitterやFacebookやはてブを開くとき、実際のところ我々は、そこに何もないことを理解している。

いや、言い方が悪かった。何かはある。意味のある何らかが。

 

前者であればログインボーナスとイベントと新キャラ。

後者であればちょっとした社会正義の不徹底、不埒な不届き者の振る舞いの一部始終、世代間格差への愚痴、諸外国と本邦との常識の比較。

あるいはほどほどに戯画化された良い話や些細な気づき、ライフハックと呼ばれている何か等々ということになるのだろう。

 

あなたはログイン報酬を得るために定例となった手順を辿り、なんだか必要ということになっているアイテムを集めるために眉一つ動かさず周回を行う。

あるいは、あなたはそのニュースに哀しみ、批評し、テキスト上で怒声を上げ、goodボタンをクリックし、Twitterに一言なにか(今度試してみよう!とか)を添えてシェアし、……そして元のレールに戻り、何事もなかったように進み始める。ライフゴーズオンである。

 

ライフハック的に考えると、そんな風に浪費しているスキマ時間を活用して情報収集なり勉強なりしようということになるのだろう。

より意味のある活動を! 現代では歴史上最もそのためにおあつらえ向きの環境が用意されている。

スマートフォンとは元々そういう用途を強く意識してデザインされた商品カテゴリーだった。

 

だがそんなことは今どうでもいい。

俺は課金ゲーなどくだらないから辞めろだの、インターネットに転がる玉石のひとつひとつに真面目に向き合えだのと言いたいわけではない。

やりたい人間はそうすればいいし、あるいは資格試験の勉強なり浮かんでは消えるトレンドのフォローなりを好きなだけやるがいい。

そんなことはいい歳こいた大人なんだから各自で考えろ。

 

ただその前に。

俺たちはなぜ、特に楽しいとも思っていないゲームを手隙のたびに開いては、暇を潰してしまうのか。

あるいは、真面目に向き合う気のないニュースを我々は何故わざわざ眺めに行ってしまうのか。

 

俺はそのことについて考えたいのだ。

喉の渇きを潮で充たすような、この噛み合わない飢えに、何故我々は陥ってしまうのか。

 

***

 

これは我々の失敗なのか? 何か正答すべき判断を誤ったことで、私たちは渇いているのだろうか?

だとすれば、その問いとは何だったのか?

 

「本来俺がやるべき価値あることとは何か?」

「我が人生を意義ある生とするために何をしたらよいのか?」

「このあり余る能力をどこに向けたらよいのか?」

 

これがその問いのように思われる。

時間を無駄にしてしまったな、と思うとき、私たちは本来あるべき姿、本当になすべき仕事がどこかにあったはずだという思いを抱いている。

辿り損ねた道行きがぼんやりと脳裏をかすめているから、その道半ばで立ち止まったり、行き詰まりに至る脇道に逸れてしまったことを無駄だと感じる。

 

では、この問いへの正答とは何か?

無駄への後悔があるなら、朧げに進むべき道が見えるはずだ。

だから、私が何をなすべきか、何が価値あるものなのか=私がどのような価値観を抱いているのか自己分析してその理想像を把握し、自己実現に繋がる取組みを行おう、これが正しい答えである──

 

……ヘイヘイ。

勘弁してくれ。

 

***

 

私たちの多くが時折、あるいは頻繁に、噛み合わない飢えに苛まれることは事実だ。

 

ではそのとき、その飢えは私たちの選択ミスの結果として現れたのだろうか? これはかなり怪しい。

選び取るべき本来あるべき姿、本当になすべき仕事──そんなものが本来、本当にあるのか?

 

この問いに対し、俺は限りなく否定に近い不可知論を採りたい。

我々が誕まれ生きる本当のところなど知る由もないが、まあ、特に目的もないだろう。

俺もあなたも、たまたま気まぐれにふわっとここにいるのである。特にやるべきこともない。

その無意味さを覆す、隠された真実を知っている他の誰かも存在しない。

 

だが、無目的の中に放られることは、とても辛い。

この国で、あるいは似たような比較的安定した秩序の下で、ある程度年齢を重ねた人のほとんどに共感してもらえるのではないかと思うのだが、冒頭に挙げたような、時間だけはあるけれど何をしていいのかわからない、何をしてもどこかにつながる感じがしない、そんな時間をあなたも過ごしたことがあるはずだ。

 

焦りとむず痒さがないまぜになったような、あの時間は本当に耐え難い。

艱難辛苦とは別の、何をしてよいのか分からない、手応えのない辛さがある。

あの辛さを逃れるためなら、ちょっとした厄介事が起こってそれに追われたほうがまだマシだと思えるくらいだ。

 

だから目的を見つけたい。何か意味あることを見出して、それに夢中になりたい。

だが夢中になるほどのものが、そんな簡単に見つけられるはずもない。

すぐ見つかるわけもないものを無理に掴みだそうとするから、分かりやすい答えに絡め取られる。

「意味のある生を」「価値のある選択を」「生きがいを手に入れよ」。

それらしい口調で嘯きながら、資本は「これがそれだ」とカタログを差し出す。

 

しかし、繰り返しになるが用意された正解などないのだ。

問題の根本は、カタログの中から何を選ぶか、とは全く別の場所にある。

 

***

 

それにしても、我々はなぜこんなに退屈するのだろうか。

例えば日々の生活に追われているとき、目の前のこと以外に何をやるべきかなど考えている余裕はない。

食い扶持を稼ぎ、寝床を確保し維持することに全力を傾けざるを得ない。

 

食うや食わずの初期状態から、少しずつ余裕を積み上げてきたのが人類の歴史であった。

余裕を積み上げるとは、言い換えれば、生きるためだけに持てる能力を全て出し尽くす必要を無くしていくということである。

 

出し尽くす必要がなくなった、余った能力はどこへいくのか?

更なる余裕を将来生み出すために費やされるか、それ以外の喜びを増やすために使われるか、または余ったままで放置されるかである。

これは明らかに、我々が自由を拡大させてきた道筋を示している。

 

皮肉なことだが、自由を拡大する条件として積み上げられた余裕は、扱いきれなくなった途端に退屈という苦しみに変わるのである。

 

では、どうすればよいのだろうか?

 

哲学者である國分功一郎は、『暇と退屈の倫理学』の中で、その結論を「物事をそのものとして受け取り楽しむこと=贅沢をする訓練を行う」こととした(白状しておくと、ここまでの話の大部分は彼の議論を下敷きとしている)。

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物事に付与された記号/意味の差異を消費するのではなく、物そのものを満足のいくまで味わうこと、すなわち浪費することを目指す──そのために、物を味わう訓練をするとともに、私たちを夢中にさせるようなものをオープンマインドに待ち構えること、がその答えだという。

 

驚きはないが、すてきな答えである。

 

しかし、消費と浪費をどうやって区別したらいいのか?

「私はこれを記号的に消費しているのではない、物そのものとして味わっているのだ」というとき、我々はその二つのあり方を見分けることができるのだろうか?

 

別のインタビューで國分はこう答えている。

(消費は)個人的な満足を足がかりにしないで、外側に基準を持ってしまっている。

だから、外の基準が変わったら、どんどん買わされてしまう。

買ってるんだから満足するはずなのに、満足しないし、できない。だから更に消費を続ける。

「われわれは常に、贅沢をさせろと要求しなければいけない」──國分功一郎

(GQジャパン)

上に言う物事に付与された記号/意味とは、あなた以外の誰かが付与した記号/意味のことだ。

どうやって?

その誰かが売らんかなとして考えた基準によって、である。

であれば、物そのものを味わうとは、自分自身の基準に照らして物を受け取ることだろう。

 

それはつまりどういうことなのか?

ここで補助線として、ブリコラージュという概念を引いてみたい。

 

消費の対象は、上に述べたように、生産者によってあらかじめ消費を喚起するよう【設計】されている。

それがもたらすのは言わば設計された喜びである。

 

【設計】

・あらかじめ

・定められた目的について

・予定、設計図、計画を組み上げ

・必要なものを特定し調達して

・計画を実行することで

・設定した目的を達成する

 

これに対置する概念として、『野生の思考』の中でレヴィ=ストロースが唱えたのがブリコラージュであった。

 

【ブリコラージュ】

 

・目の前の事態に対して

・手持ちのあり合わせのもので

・試行錯誤を繰り返して

・なんとかする

 

なんだかこう書くとその日暮らしのダメ人間のようだがそうではない。ちゃんとなんとかするのである。

ブリコラージュを行う人はブリコルール(器用人)と呼ばれる。

 

優れたブリコルールは、あり合わせのものに当初の想定とは異なる活用法を見出す創造力や柔軟な発想力を持つと同時に、偶然に手に入れた端切れや断片を「まだ何かの役に立つ」とストックしている。

 

この断片たちは、偶然に訪れるブリコラージュの機会ごとに使ったり新たに余ったりして更新されていく。

絶えざる偶然の機会と突発的な必要に繰り返し晒されることで、ブリコルールは即応性と創造性、そして「目の前の"これ"は何に使えそうか」という眼識を磨き上げていくのだ。

 

ブリコルールの目の前にある"これ"は、そこに備わる形や性質以外のほとんどを剥ぎ取られた、まさに物そのものである。

そして"これ"に対する眼識とは、経験によって打ち立てられた彼/彼女自身の基準に他ならない。

 

ここから、結論を次のように言い換えることができるだろう。

 

退屈な時間を消費で埋める生活に陥らないために、私たちはどうすればよいのか?

日々少しずつ物を受け取る過程を繰り返し、その物にまつわる知識と経験を積み重ねることで、自身の眼/直観/識見を磨き上げていくこと。

良きもの・美しいものを愛する者としての<私>を育てていくこと。これが答えである。

 

 

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【プロフィール】

著者:dudihan

文教市場ではたらく妻子持ち30代サラリーマン。

ユーモアと音楽と社会科学を愛する。

福岡県出身。

ブログ:ditm.

(Photo:Japanexperterna.se

1泊2日で、友人と八ヶ岳の登山に行ってきた。

(画像:YAMAP

スタート地点は一番左側の「八ヶ岳山荘」。(YAMAPの登山スタートボタンを押し忘れて、スタート地点が中程の美濃戸山荘になってしまった)

初日に一気に八ヶ岳最高峰の赤岳に登り(右下)、行者小屋(右中、道のクロスするポイント)でテント泊し、二日目は下山する、という行程だ。

 

幸いなことに天気に恵まれ、素晴らしい風景に出会うことができた。自然の神々しさにふれることができるのは、登山者の特権だ。

森を抜け、ガレ場を歩き、岩を登り、頂上に到達する。

その一連の行程で得られる特殊な感覚は、何者にも代えがたい。

もちろん、楽しい事ばかりではない。

というか、基本的に登山はキツい。

暑いし、寒いし、危険だし、足もひどく痛い。

 

十数キロの荷物をしょって、何時間も歩き続けるのは「楽しいか」と言われたら、とてもではないが、万人におすすめできるレジャーではない。

まして天気に恵まれず、足場が悪い上に、風景にも恵まれず、登山が単なる苦行になるときもある。

 

だが、それがいい。

 

「なんで登るの?」という質問に対して「そこに山があるから」というカッコいい返しがあることは周知の事実だが、私は「キツいから」と答える。

その証として、山から降りてきたときに、「キツくない……物足りない……」という感覚に包まれる。

漫画にある「山ロス(?)」というのに近いかも知れない。

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街は便利で、快適で、安全だ。

そこでは一般的に豊かさの象徴とされる、お金や名声をも手に入れることができる。

 

だが、それだけで「豊か」なのかというと、そうではないところに、人間の面倒さがある。

すくなくとも、いくらカネを手に入れても、どれほど有名になっても、どんなに美食の限りを尽くしても、私にとって「豊かさ」とは、そのようなものとは異なる。

 

むしろ、カネや名声を焦って手に入れようとして、「豊かさ」を逃してしまっているのではないか。

そう思うことが、40歳を超えて、多くなった。

 

 

この感覚を他人にうまく説明するのはなかなか難しい。

 

なぜかと言えば、豊かさとは「達成する」「手にする」ことと考えている人が多いのに対して、私は豊かさとは「経験のバリエーション」と考えているからだ。

わかりやすく「◯◯があるので、豊かです」「◯◯を手に入れたので、豊かです」と言えないのである。

そうではなく「豊かでいる」「豊かに過ごす」が正しい言い方だ。

 

例えば上にあげた登山では「頂上に到達すること」で豊かになるのではない。

毎回異なる経験を得る、登山そのものが「豊か」なのである。

仮に天候が悪く、頂上に到達する前に引き返さざるを得なくなったとしても、それは経験のバリエーションを増やしているので「豊か」なのだ。

 

これは仕事についても言える。

私は仕事を通じで豊かになりたいと思っているが、それは仕事をすることで得られる「お金」や「名声」とは真の意味で、無関係である。

お金や名声ほど、画一的なものはないし、カネを使えば経験できることなど、たかが知れている。

 

逆に、儲からなくても、無名でも、人から何を言われたとしても、私は一向に構わないだろう。

なぜなら「仕事を通じて得られる経験」自体が、豊かさの証だからだ。

 

前職をやめたのは「得られる経験」のバリエーションが少なくなり、画一的になってきたからだ。

転職せずに、自分で会社を作ったのも「得られる経験を自由に選択したい」と思うからであるし、「嫌な人と仕事しない」のは「得られる経験の質」を重視するからである。

 

さらに、少し前に始めた「船釣り」もこれに当たる。

「釣り」はその日に釣れても、釣れなくても、十分に楽しめる。

 

釣れないときは「次はどうしたら釣れるだろう」と試行錯誤し、釣れたときは「なぜ釣れたのか」を反芻する。その過程こそが、「豊かさ」の源泉だ。

だから「釣りはつらい」のだが、つらいことが楽しさとなる。

30代後半からは、意図的に「教えてもらう側」に回り続けないと、学びがどんどん下手になる。

この話をすると、「釣りって、楽しいですか?」と聞かれることがある。

回答は無論、「楽しい」なのだが、実はそれと同じくらいの割合で「つらい」も配合されている。

 

例えば今の時期、洋上はめちゃくちゃ寒い。

撒き餌を仕掛けに詰めるのも、手がかじかんで、めっぽう辛い。

日陰で何時間もじっとしていると、寒くて頭がおかしくなりそうになる。

 

揺れる船も問題だ。手元で紐を結ぶなどの、慣れない細かい作業をしていると、船酔いしそうになる。

休もうにも、逃げ場がない。目をつぶると、余計ひどくなるし。地獄。

 

また、釣りは反復作業が多いため、釣れない時間が続くと、精神的にきつい。

釣れない原因が技術にあるのか、仕掛けにあるのか、その他の原因なのかもシロートには判別が難しいため、思うように対策をうつこともできない。

 

あと、釣り船の人とかに怒られる。「リール巻きすぎ!」とか「そこ邪魔!」とか。

40すぎのオッサンが思い切り怒鳴られる、というのは、会社でもなかなかないだろう。

「つらいのが、楽しい」というと、「昭和的」とか「パワハラの発想」とか言われることもあるが、人にこれを押し付けるつもりはまったくない。

豊かさは人それぞれで良いと思っているし、つらいのがひたすら嫌いな人もいるのは理解できる。

 

だが、「豊かさとは、経験のバリエーション」という本質は、いささかも揺るがない。

 

 

山に同行した友人から、スティーブ・ジョブスは

「旅こそが報い(The journey is the reward.)」

を座右の銘としていたと聞いた。

 

この言葉は、私が思う「豊かさ」と、ぴったり一致する。

目的地ではなく、旅そのものから得られる、バリエーションに富んだ経験、つまり「冒険」こそが、人生における究極の「ご褒美」なのだ。

 

だから私は日常において、あらゆる経験に「冒険」を求める。

登山も冒険、起業も冒険、釣りも、執筆も、家族を持つことも、すべて未知の経験につながる「冒険」だ。

世が世なら、私は「冒険者」という職業を選びたいと、強く思う。

 

ゲームも、読書も、受験も、人生も。

トータルで見れば「過程」こそが最も重要であり、我々が楽しむべきものである。

 

なぜなら、人生の結果は、皆等しく「死」だから。

 

 

もちろん「組織」で働くひとに、このような考え方は受け入れられないかも知れない。

 

fujiponさんの記事には「結果より過程」の真逆とも言うべき話が書いてある。

成し遂げる人たちの「結果のためなら、犠牲も厭わない」という決意に、圧倒される。

森岡さんの「覚悟」の凄まじさと同時に、これまで一緒に仕事をしてきた「厳しいけれど、結果を出す人たち」のことを思い出さずにはいられませんでした。

彼らについていって大きく成長した人もいれば、ドロップアウトしていった人もいました。

組織は「死」を想定しない。

むしろ「結果が出ないこと」=「組織の死」なのだから、「過程重視」など戯言である。

 

だが、人は、組織が結果を出そうが、出すまいが、寿命が来れば等しく死ぬ。

 

だから、わかってほしい。

「組織の論理」と「人間の論理」は、全く別物であるということを。

「経験のバリエーション」を増やさない人生は、極めて貧しくなってしまう恐れがあるということを。

人生は、過程重視で生きよう、ということを。

 

ということで。

「山はいいぞ」

で締めくくりたい。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

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Photo by John Moeses Bauan on Unsplash

とても難しい気分になる本を読んだ。「ケーキの切れない非行少年たち」である。

[amazonjs asin="4106108208" locale="JP" tmpl="Small" title="ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)"]

 

本書を書かれたのは児童精神医学の専門家である。

筆者はこの本の中で非行少年達が

「なぜ非行へと走ってしまったのか」

「どうしたら非行へと走らずにすんだのか」

を延々と考察していくのだが、そこで明らかになる事実は色々と示唆的である。

 

筆者は多くの非行少年たちと出会う中で「そもそも反省という行為がキチンと行えない」子供が沢山いるという現実に驚かされたのだという。

彼らに少年院にて何度も何度も「こういう事はしてはいけない」「ここはこうすべき所である」というような教育を行っても、まるでヌカに釘のごとく、話した内容が右から左に抜けてしまい、全く頭に入っていかないというのである。

 

「ひょっとして、この子たちは正しい形で認知機能が働いていないのでは?」

 

そう思い様々なテストを行った所、やはりどうも認知機能障害があるとしか思えないような結果が次々と出てきたのだという。

これらに加えてIQテストを行ったところ、少年院にいる人達のかなりの人数がIQ70~84に相当する事を発見したのだというのだ。

つまり、非行と低いIQが強く相関関係にある事という現実に突き当たったわけだ。

 

一般的に、日常生活を難なくおくれるとされているIQの基準は100とされている。だけど多くの人が心の中で密かに思っているように、最近の先進国で要求されている普通に生活を行う基礎力の基盤は、いろんな人が思っている以上にハイレベルだ。

 

OECDの国際調査でも「日本人の3割が日本語が読めない」事が判明しているが、私達の思っている”普通”は、旧石器時代の”普通”とは完全に異なる。

”普通”とされている現代の生活は、偏差値50以下の人に酷く厳しい。

<参考 言ってはいけない!「日本人の3分の1は日本語が読めない」 | 文春オンライン>

 

現在の医学では知的障害のラインはIQ70未満とされているのだが、筆者はIQテストのボーダーライン上にいるIQ70~84の子供達は、義務教育期間中に認知機能を発達させる機会を失っていると指摘する。

どういう事かと言うと、つまり今の義務教育のルールでIQ70~84の子供達にIQ100向けの教育をやったところで、彼等は何をやってるのか全く理解できない。

 

勉強ができないだけならまだしも「人の話をキチンと理解し、要求に答える」という日常生活上で基盤となる認知機能が育つ機会を奪われるが故に、そこから発展する社会生活を営む上で基本となるソーシャルスキルの獲得に繋がらず、結果として社会に適合できずに非行に走ってしまったのではないか、というのだ。

 

頭が悪いから非行に走ると短絡的にこの本を読んではいけない

この本を読む上で、気をつけておかなくてはいけないのは「頭が悪い人間が非行に走る」という風に短絡的な読み方をしてはいけないという事である。

 

社会には様々な明文化されていないお作法がある。

電車の中で他人の身体を触るのは犯罪だけど、暗黙の合意が取られたパートナーがホテルで何をしようがそれは自由恋愛の範疇となる。

数万円のお金を支払って、風俗店で指名した人と遊ぼうが、それも合法的行いなので社会からなんら咎められる事はない。

 

けどよくよく考えてみれば、どれも本質的には何ら変わらない。

どこで、だれと、どのような行動をするのかは全部異なるけど、行動だけ切りとってみれば、むしろ逆に後2者の方がもっと凄い事をしていたりもする。

 

これらの違いについて、私達は個別に親や教師から「何がよくて何が駄目なのか」を一からすべて教えられるわけではない。

義務教育期間中に全ての理解の土台となる「認知機能」が向上した結果、様々な媒体から社会性を獲得し、規律に反しない”社会的に正しいお作法”を暗黙のうちに理解できているが故に、社会生活を”正しく”営めてているのである。

 

つまり、IQ70~84の子供達も、すべての学習の土台にある「認知機能」が高める事さえできれば、適切な社会性を獲得する礎となる最低限の基盤ができると筆者はいうのである。

 

認知機能がキチンとあれば非行に走らないというような単純なものではないけれど、少なくとも認知機能を全く高めないまま、少年院なおで認知行動療法のような「すでに認知機能が備わっている」ことが前提となるプログラムを施しても、あまり効果は望めないというのは言うまでもない。

 

結論として、筆者はIQが低い人達のみならず、全ての人達の認知機能を高めるために、自身が開発したコグトレを小学校の朝礼の時間を使って毎朝5分やればよいのだと提唱するが、それで適切な形で認知機能が育つのなら、それこそ真の意味での”義務教育”といえるだろう。

 

ケーキをキレイに三等分できるのは、ある種の文化資本である

SNS上ではこの本の題名にもなっているケーキの等分図を取り上げて「DQN文化だ」と嘲笑している人が散見されたが、本質的には「ケーキを3等分してください」という文章そのものを正しく理解できないが故の行いであり、文化的お作法を学習する機会を今までの生活の中で誰も与えてくれなかったという悲劇なのである(注・DQNはネットスラングで”どうしようもないバカ”に近いニュアンスの語)

 

これが話題となっている、非行少年達に「ケーキを3等分してください」といって切らせた ケーキの模式図である。

引用:https://toyokeizai.net/articles/-/292381?page=4

 

この図を見て「なんて馬鹿なやつだ」と思う人は根本から色々と理解を誤っている。

「ケーキ三等分してください」といわれ、すぐに正解が思い浮かぶような人達は、自分の人生がいかに恵まれたものであったかを感謝すべきなのだ。

 

あなたが偶然それなりに頭が良く、偶然よい教育を受ける機会があったからこそ、適切に認知機能が向上したのである。

その結果として、学校や家族、会社などの社会生活上で適切な社会性を身につけられたからこそ、あなたの今があるのである。

 

ケーキを正しく三等分できるという事そのものが、ある種の文化資本のようなものなのだ。

 

教育の難しさ

IQ70~84の子供たちというのは、全体の16%をしめるそうだ。

これは小学校だと30人クラスで下位5人に相当する。

僕も小学校は街の公立校出身なのだけど、確かにいわれてみると「なんでこんな事もわからないんだろう?」と思うような子供は確かにいた。

 

昔は小学校や中学校で授業中に黙って授業をうけられない人をみて「なんでそんな事をするんだ?」と思っていたけど、今になって考えてみると、あれは彼等なりの抗議活動だったのだな、とこの本を読んで気が付かされた。

 

よくよく考えてみると、僕もつまらなかったり、難しすぎて何を言ってるのか理解できない講演を延々と聞かされ続けるのは非常に苦痛である。

「あれは子供なりの”苦しさ”の表現だったのだな」と妙に物哀しい気持ちになる。

 

教育というのは誠に難しい。

様々な知能を持つ子供に対して、画一的な授業を施すと、中間層はよくても、高知能層は退屈だし、低知能層に至っては単なる拷問である。

 

というかそもそもの大前提として、勉強なんてしないでさっさと働いた方がいい人間なんてのは山程いるだろう。

そういう人間を机に縛り付けて、英語やら歴史の授業やらを各人の適性を何も考慮せずに無理やり押し付ける今の教育手法は、ある意味では物凄く残酷な事をかなりの数の子供に強いているという事から、目を背けてはならない。

 

三角関数なんて理解できなくても、スマホは使えるんだからそれでいいという人がマジョリティとして成立する世界の方が本当は正しい

確かに、教育はその人の人生を切り開く事はある。

 

福沢諭吉は学問のすゝめの中で実学の重要性を述べ「学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となる」と書いたが、これが本当の意味で刺さる層は全人口の数%だ。

残りの90%以上にとっては「勉強って何の意味があるの?三角関数なんてわからなくても、スマホがキチンと使えるんだからそれでよくない?」だろう。

 

現状では、学歴がある種の高所得者層へのフィルターとして機能しているので、勉強に合わない人間を王道ルートである”現在の教育環境”から切り離す事には誰もがある種の恐怖感はあるだろう。

 

けど「拷問のようなワケノワカラナイ授業を座って受けさせられる苦痛」と「認知機能を向上させる機会を奪われ、社会性の獲得という実生活を送るにあたって極めて重要なものを獲得できない事」が割と非人道的な事であると認識されれば、もうちょっとマシは第三の道があるだろ、と僕はこの本を読んで思わずにはいられない。

 

頭の善し悪しは生まれでほとんど決まってしまう。けど、それだけで全部が決まるわけではない

残念ながら知能というのは生まれつきのものなので、誰もがビリギャルのように下剋上できるわけではない。

小学校の頃、頭がよかった子供はずっとクラスで上位に居続けるし、頭が悪かった子供は延々とテストの点数は低空飛行のままだ。

 

けど、だからといって頭がいい人間が誰でも社会で成功するわけではないし、頭が悪くても社会で成功したり幸せな社会生活をおくれている人もたくさんいる。

いまの学校教育は、誰もが少年ジャンプで異能バトルモノで単独連載を持つのを目指すかのように、偏差値という、ある種の王道だけが良しとされているようなフシがある。

 

学歴と年収がある程度の相関関係があるように、確かに偏差値教育にコミットできるか否かがその後の人生にある程度影響するのは事実だろう。

 

けど、世の中はそんな単純なものではない。

確かに王道少年漫画であるドラゴンボールはめっちゃくちゃ面白いけど、アイズみたいな、ちょっとエッチなラブコメみたいな脇道に逸れた漫画がないとジャンプが雑誌として成立しないように、世の中はバランスが肝心である。

 

多くの人がキチンと社会にコミットできるよう、たくさんの子供達が本当の意味で適切な教育を受けらればいいのですけどねぇ。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Simon_sees

どうもしんざきです。

 

しんざきは一応中間管理職なのですが、どうも「人を評価する」というのが今ひとつ苦手でして、毎年上半期も終わりにさしかかるこの時期になると、人事の中間評価で気が重くなります。

最近、「なぜ上司が部下の評価をしなくてはならないのか?」「部下の評価をするのは、本当に上司であるべきなのか?」ということを考えています。

 

人事評価というのは何のためにあるかというと、基本的には「従業員のモチベーションアップ」と「人材育成」のためです。

つまり、がんばって成果を出した人が適切に評価されて、給与が上がったり、昇進したりする。

それを目指して、従業員が成果を出そうと努力する。あるいはがんばる気になる、モチベーションの維持と向上という側面。

 

また、「評価される人材はどういうものか」というビジョンが企業から提示される。

そこにたどり着く為に、各自が必要な努力をして、自らの能力を向上させる。

つまり、「企業が求める人材の育成」という側面。

 

この二つが、人事評価制度を持つ企業にとっての二つの大きな目的である、という点は、おそらくあまり異論が出ないところでしょう。

 

「自分は適切に評価されている」と感じると、従業員のモチベーションは上がりますし、評価される自分を目指して頑張ると人材が育ちます。いいことずくめです。

勿論これは、人事評価が上手くいっていればの話であって、実際にはなかなかそう簡単にもいきません。

 

「人事評価制度に関する意識調査」という、アデコさんが2018年にやったアンケート調査がありまして、ちょっとリンクさせて下さい。

「人事評価制度」に関する意識調査

 

このアンケートでは、人事評価制度に対して不満を持っている会社員は6割を超えており、更にその理由の多数を占めているのが「評価基準が不明確」であること、及び評価者の評価に対する不公平感であるようです。

部下のモチベーションを向上させる為にある人事評価制度が、実際には不満の種になってしまっている、というのは実によく見る光景です。

 

皆さんはいかがでしょう?自分に対する評価に満足出来ていますか?

 

***

 

ところで、会社員の人事評価を行うのは、一般的にはその社員の上司です。

会社によって制度は色々であって、目標を自身が設定してそれに基づいたKPIを設定するという会社もあれば、最終的な評価は人事部から出るという会社もあるでしょうが、まあ評価判断に上司の考課を全く参考にしない会社はかなり希少である、というのは恐らく言ってしまって問題ないでしょう。

 

ただ、決して自分が人事評価をするのが面倒くさいからというわけではないのですが、ここしばらく、「部下の評価をするのは本当に上司であるべきなのか?」ということについて結構考えているところなんです。

上司が部下の評価を行う理由は幾つかありますが、恐らく重要なところとしては、

 

・部下の働きの責任を直接とる立場だから

・部下の日頃のパフォーマンスを最も把握する立場だから

・会社のビジョンや目標を部下に伝える立ち位置だから

 

といった部分が大きいのでしょう。

勿論、部下の評価を適切に行って、部下のモチベーション向上に努めるというのは、上司の仕事、上司の能力判断の内でもあります。

 

一方、ご機嫌とりではないのですが、「自分の評価を行う人間」に対して部下の忠誠心、あるいはいいところを見せようとする心情を煽ることで、上司がメリットを享受している部分もおそらくあるのでしょう。

それ自体に文句があるわけではないのですが、「部下の評価を行うのが上司」という関係が固定化してしまうと、色々と弊害もあります。

 

・上司-部下という固定化された視点でしか評価出来ない為、多角的な評価が難しい

・上司が部下の働きを適切に管理・把握出来ていない場合、評価が全く見当外れになってしまう恐れがある

・上司が自分の好みや感覚で評価をつけてしまう人物だった場合、激しい不公平感が発生する可能性がある

・上司が会社のビジョンを的確に伝えられていなかった場合、育成方向のピントが壮絶にずれる

 

早い話、上司一人が「評価」というキーを握ってしまうが為に、上司の能力、評価の仕方一つに、部下のモチベーションや成長全てがかかってきてしまうと、そういう話なのです。

実際のところ、「よくわかっていない上司のよくわかっていない評価で、部下がブチ切れて会社を辞める」というのは、人事評価あるあるです。実によくある話です。

 

冷静に考えまして、上司が人事の専門家であるかというとそういうケースはむしろ希少であって、大多数の上司は「業務知識は持っていても、人事のノウハウを持っているわけではない」訳です。

 

勿論上司の職務として部下のモチベーションを向上できるような適切な人事評価が出来るよう努力はしているものの、会社から人事評価についての指導や研修を受けられるわけでもなく、半ばは自分の感覚頼りに人事評価をすることになってしまっている、という会社さんも恐らく少なくはないのでしょう。

 

かくいう私も、一応上司と言う立場にあって、まあ勿論あれこれ考えて適切な評価を出来るよう頑張ってはいるつもりなんですが、会社から「人事評価のノウハウ」とか「部下を育てる人事評価とは」みたいな指導を受けた記憶はありません。

これ、言ってしまえば、「人事評価という最重要な業務の一つが、専門外の人間にまかせっきりでほぼ野放しにされている」という状態と同値だと思うんですよ。

 

先ほどのアデコさんの意識調査をもう一回引いてみたいんですが、なかなか興味深いことに、「自分が適切に評価を行えていると思いますか」という質問には8割近くの人が「そう思う」と答えているんですよね。

評価する側は自信満々で「適切に評価を行えている!!」と考えている一方、部下の方はさっぱりそう思えていないという、深刻なミスマッチの状況が伺えます。これ、どうすればいいんでしょうね?

 

***

 

ところで、しんざきは最近、新しい部署の立ち上げに携わっています。

細かいことはまた別途書こうと思っているんですが、基本的には他部署のサポートをする頻度が高い部署でして、データ分析みたいなこともすればPMOみたいなこともします。

 

で、ここでの初めての人事評価が間もなく行われるんですが、今回「評価の他部署へのアウトソース」というものを試そうと思っているんですよ。

つまり、「上司一人に評価基準を持たせてしまうと無視出来ない弊害が発生する」のであれば、「複数人数に評価のキーを渡してしまおう」と。

いや、決して、人事評価をするのが面倒くさいという話ではないんですよ?

 

幸いなことに、新しい部署は、他部署の業務をサポートする機会が非常に多く、他部署との接触が満遍なく発生する部署です。そこで、

 

・部下がそれぞれ設定する目標の中に、「他部署から、業務に対して貢献出来たという評価を得る」という項目を含める

・実際に、業務で関わった他部署のメンバーに、アンケート形式で、業務の達成にどの程度寄与出来たか、という評価を出してもらう

・かつ、その評価の点数は、そのアンケートを提出したメンバーの成果によって重みづけをする

 

という方式を考えてみたんです。

いや、この方式自体は多分他にもあると思うんですが、一応自分で考えたので一旦勘弁してください。

 

勿論、評価する人を増やすことによって、評価の視点自体も広がることが期待出来ることは言うまでもないのですが、部署の性格上、「サポート対象の部署への貢献度」というものが、割と明確な尺度として動作するという要素もあります。

 

一方、好みやら仲の良さといった業務と関係ない視点が評価に影響してしまう可能性も勿論あって、まあそれ自体ヒューマンスキルと言えないわけでもないんですが、評価の公平性を上げる為に、「評価者が出した成果」というものを評価の重みづけに含めると。

 

会社により貢献している人が高く評価してくれるのであれば、会社にとって望ましいサポートが出来た可能性もより高くなり、評価自体の妥当性も高まるのではないかと、そんな風に考えているわけなんです。

 

これについて、人事部やら私の上司やらと相談してみたんですが、幸いなことに「お前が面倒くさいだけやろ」とは突っ込まれておらず、「まあ面白そうだし一度やってみれば?」ということになりました。

昨今、360度評価やら、メンバー評価といった新しい人事制度が出てきていることもあり、割と理解を得られやすい状況だったのだろうとは思います。

 

実のところ、この方式は今まさに実施中であって、かつ何回か試してみてブラッシュアップしないといけないだろうと思っているところでもあります。

その為、今の時点で成功だ失敗だを云々することは出来ないのですが、もしかすると上述の、「部下の満足度と、上司の満足度のミスマッチ」に対する一つの回答にはなり得るのではないかなーと。

 

我が社としては完全に初めての試みであって、実際やってみてどうだったか、というのは再度ご報告するつもりなので、良かったら経緯をお待ち頂ければなーと考える次第なわけです。

よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Ethan

先日、books&appsでこんな記事を見かけた。

人と人とは完璧にわかりあえなくても、一緒に居られるし、豊かになれる。

国も夫婦も、完全にお互いをわかりあう事は非常に難しい。

けど、そんな事をせずとも、お互いを尊重さえできれば、一緒に清濁併せ呑んで上手にやっていける。

男女関係も国交も、シンプルに考えてしまうと「意見が合わない奴となんて一緒になる理由がない」と性嫌悪や反日、反韓のようなポピュリズムの罠に陥りがちだ。

 

けど、豊かさの源泉は確かにそこにあるのだ。

私やあなたがここにいるのも有性生殖が今まで続いたからこそだし、豊かな文化を享受できているのも様々な国と国交が行われているからこそである。

人と人は完全にわかりあうことなんてできない。

それでも、お互いを尊重した付き合いができれば豊かな関係をつくることはできる。

 

実際、世の中の夫婦が「完全にわかりあう」なんてことはまず無いだろう。

夫婦はそれそれに異なった意見と利害を持っていて、そこで対立することだってザラにある。

それでも付き合っていけるのが大人のパートナーシップだし、長続きするパートナーシップとは、そのようなものではないだろうか。

 

夫婦がうまくやっていくためには、「わかりあう」よりも意見や利害の調整をやってのける意志と能力が必要のように私には思える。

むしろ、「わかりあう」という努力目標がかえって夫婦関係を難しくしていることもあるように思えてくる。

「わかりあう」をパートナーシップの目標にしたがる人とは、実のところ、パートナーとの利害や意見の不一致を認めたくないのではないだろうか。

それか、パートナーとの意見や利害の調整をしたくないか、できないのではないだろうか。

 

夫婦に限ったことではなく、友達や仕事上の付き合いなどでもたぶん同じだ。

わかりあえない部分があっても意見や利害を調整し、是々非々で付き合っていく――そうやって大人の世界のコミュニケーションが進行しているように私にはみえる。

 

意見や利害の調整を外交ゲームから学んだ

若い頃の私は「わかりあう」という努力目標にかぶれ過ぎていた。

 

今にして思えば、それは人間関係のあちこちに良くない影響を与えていたと思う。

誰かに勝手に期待して、勝手に失望して、いろいろな人に迷惑をかけていた。

「わかりあう」を努力目標にしなくなり、意見や利害は一致させるものでなく、調整するものだと理解するようになってから、私のコミュニケーション能力はだいぶマシになったと思う。

 

私はコンピュータゲーム愛好家なので、こういう意見や利害の調整についてゲームからも多く学んだ。

この『ヨーロッパユニバーサリス』というゲームは、いちおう戦争もできるけれども、戦争ゲームとしては正直あまり面白くない。

そのかわり外交関係がとても興味深い。

中世末期~近世にかけてのヨーロッパという、無数の国々の意見と利害がぶつかりあう外交関係のなかで、どう立ち回り、どこの国と仲良くなるのか(そしてどこの国に喧嘩を売るのか)がこのゲームではシミュレートされている。

 

ヨーロッパの外交情勢はややこしい。

国と国との同盟や戦争だけでなく、教皇庁や神聖ローマ帝国との関係も情勢を左右する。

イスラム教とキリスト教、カトリックとプロテスタントといった宗教的反目によって外交が妨げられたり、逆にそれらを利用できたりもする。

 

そしてゲームのアルゴリズム上、国と国とが「わかりあう」ことは絶対に無い。

国と国との間に信頼関係が芽生えることはあるけれども、それとて意見や利害の調整を粘り強く続けてようやくできあがり、一度の戦争で消えてしまう儚いものに過ぎない。

 

反面、たとえ仮想敵国同士でも、意見や利害の調整ができている時には平和が続いたりもする。

ヨーロッパ史では派手な戦争に目が向きがちかもしれないけれども、意見や利害の調整ができている期間も長い。

戦争は、意見や利害の調整が破綻してしまった時に起こるか、破綻させても困らなくなった時に専ら起こる。

 

「戦争するなら、大義名分を手に入れてから」

『戦争論』で有名な軍事学者のクラウゼヴィッツは、「戦争は、他の手段を用いて行われる政治交渉の手段である」と言ったが、実際、ダイレクトに争うのも意見や利害の調整手段ではある。

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クラウゼヴィッツ流に考えると、戦争とは単なる暴力の応酬ではなく、意見や利害の調整手段だから、政治やコミュニケーションとしての側面を必ず持ち合わせている。

そこのところを忘れたまま争えば、昔のヨーロッパでも、ゲームの世界のなかでも、おそらく私たちの人間関係でも、戦争はうまくいかない。たとえ戦争自体には勝ったとしてもだ。

 

中世末期~近世のヨーロッパでは、強国が弱小国を併合するなんて日常茶飯事だった。

とはいえ、好き勝手に戦争すれば「あの国はろくでなし国家だ」とみなされるし、条約を破ってばかりでも国際的信用を失い、やがて誰の相手にもされなくなってしまう。

『ヨーロッパユニバーサリス』はこうした部分をリアルに再現していて、なんの大義名分もない戦争を繰り返していると他国からの評判がどんどん悪化し、国際的に孤立してしまう。

上記のイングランドのスクリーンショットの一番下に、赤字で「褒められる国ではないとの評判です」と書かれているのが評判だ。

網の目のような同盟関係に覆われたヨーロッパ世界で孤立するのは非常に危険なことで、この評判が悪くなりすぎた国はヨーロッパじゅうから小突き回され、没落することになる。

 

逆に言うと、このゲームは「戦争したければ大義名分を待て」と言っているにも等しい。

周辺国が納得するような大義名分を持たずに戦争を始めれば評判が下がる。

だったら、大義名分を伴った戦争を心がけ、評判が下がらないような、潔白な戦争を心がけるまでのことだ。

 

戦争を仕掛ける大義名分は、教皇庁に莫大な献金を行って作ってもらうこともできるが、たいていはそんなにお金が無いので偶発的な事件で大義名分ができあがるのを待つしかない。

たとえば湾岸戦争の時のイラクのように、独立を保障されるべき小国(クウェート)をいきなり征服する悪い国が現れると、戦争を仕掛ける恰好の大義名分が発生することになる。

 

もちろん、戦争する大義名分なんてそうそう発生したりはしないから、戦争できる大義名分が到来したチャンスを、いかに見逃さないのかが肝心だ。

同盟についても同じで、『ヨーロッパユニバーサリス』では望みどおりの同盟をするためにはタイミングが重要になる。

同盟したい相手のご機嫌をうかがうのも大切だが、それ以上に、相手とこちらの意見や利害が一致している時機を見逃さないことが肝心だ。

タイミングを見逃してしまうような野暮天では、ヨーロッパの外交世界では生きていけそうにない。

 

こうした『ヨーロッパユニバーサリス』のルールは、私たちの人間関係ともかなり似ているのではないだろうか。

 

意見や利害を調整するとはいっても、ひたすら頭を下げていればうまくいくわけではない。

ときには、強いメンションで抗議しなければならないことだってある。

とはいえ、常とは違った、こちらの意見や利害を強く主張するメンションを出すためには、周囲が「じゃあ、仕方ないよね」と思いたくなるような大義名分が必要になる。

なんの大義名分もなしに強いメンションを繰り返せば、たちまち評判が下がって孤立してしまうだろう。

 

誰かとお近づきになりたい時もそうだ。

今まで疎遠だった人とお近づきになるためには、相手と自分の意見や利害が一致しているタイミングを見逃してはならない。

異性とお近づきになる時もたぶん同じ。相手のご機嫌をうかがうだけでは絶対にうまくいかない。

 

蝶のように付き合い、蜂のように刺す

だからもし、『ヨーロッパユニバーサリス』にゲーミフィケートされたコミュニケーションの秘訣をまとめるなら、

 1.大人の人間関係は、マイルドな意見や利害の調整を旨とする。

 2.強いメンションを出して良いのは大義名分がある時だけ。

 3.争うのもお近づきになるのも、タイミングを見逃してはいけない。

この三つが大切ではないかと思う。

 

大人同士の人間関係は、基本的にはマイルドな意見や利害の調整によって成り立っているから、急展開が起こることはあまり無い。

大義名分を欠いた強いメンションは評判を下げてしまうだけでなく、強烈なカウンターを許す大義名分にもなりかねないので、コミュニケーション上手な大人が強いメンションを出してくるのは、それにふさわしい大義名分が成立している時だけだ。

 

逆にいうと、「十分にコミュニケーション上手な大人を相手取っている際には、大義名分の成立状況をモニタしていれば、相手が強く出てくる可能性をある程度予測できる」。

そういう意味では、大義名分を弁えない言動を取るコミュニケーションの不得手な人に比べて、コミュニケーション上手な大人の言動は読みやすいし、信頼できるとも言える。そのかわり、付け入る隙も少なくなる。

 

こうした、お互いに隙の少ない人間関係のなかで、どうしても争わなければならなかったり、どうしても誰かとお近づきになりたかったりした時には、タイミングを見逃してはいけない。

コミュニケーションの上手い大人は皆、そういう好機に目を光らせているし、天然のコミュニケーション巧者たちは本能的に好機に踏み込んで来る。

 

ときにはコミュニケーション巧者のライバル同士が、表向きは蝶のように華麗に付き合いながら、蜂のように刺す好機を虎視眈々と見計らっていることもある。

そういう、表向きはにこやかな睨み合いに遭遇すると、私は背筋の寒い思いがする。

 

国と国も、大人同士の人間関係も、「わかりあう」ことは難しい。

だから意見や利害の調整が付き合いのベースにはなるけれど、ごくたまに訪れるタイミングを見逃さない眼力と、いざという時に争う胆力もあったほうがいいのだろう。

そうでないと、好機に付け入られるばかりの、お人よしになりかねない。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:AJC1

ちょっと前、こんな記事があった。

中国と日本の文化の違いについて述べられた記事だ。

起業したら、部下や取引先から、なぜかしつこく「高い車に乗ってください」と言われたときの話。

中国人は「仲間内での評判=メンツが重要」なのだ。

だから、仲間の中での評判を得るためであれば、中国人は自分の財貨をなげうつことを辞さない。

自分の裕福さを誇示し、また尊敬を得ることを何より重視する。

(Books&Apps)

なるほど、という内容だった。

 

だが、個人的に一番気になったのは、主題の「中国人のメンツ」についてではなかった。

むしろ私の興味を引いたのは後段にある「中国で偽物が広く受け入れられている理由」という点だ。

 

この記事には、以下のようにあった。

始めた順番に関係なく「市場で勝った人」がエライのであって、「発明したけど、市場は取られてしまったやつ」は単なるマヌケなのである。

だから中国では下のような「偽物」が広く流通する。

中国人は形式よりも実利を取る。

「本物が手に入らないなら、別に偽物でもかまわない」

というノリなのかもしれない。

 

しかし、である。

上の記事によれば、中国人は決して「偽物が好き」なわけではない

これはあくまで本物を有している企業のマーケティングの敗北であって、中国人も実は「しぶしぶ偽物を買う」ことを余儀なくされているシーンも多いという。

 

そんな話をしていたら、中国に何度も訪れている知人から「その話なら、ちょうどいい人達がいる」と、起業家を紹介された。

上海で「本物を保証する」TECHROCKというサービスを運営している人々だ。

私は早速、創業者のYaroslav Belinskiy氏と、日本のビジネス開発責任者の高山靖弘氏に話を聞いた。

 

中国人であっても絶対「本物」にこだわるもの

彼らが言うには、確かに様々あふれる「偽物」に対する拒否感は、日本に比べて少ないという。

特に服や靴、カバンなどのブランド物などは、偽物であってもあまり気にしない。

 

ただし、中国人が「絶対本物」にこだわる物もある。

それは「健康」に直結する品々だ。

 

具体的には、以下のような商品である。

・赤ちゃん用品(特に粉ミルク)

・スキンケア

・サプリ

・おもちゃ

 

このこだわりの背景には、実際に発生した健康被害の事件がある。

中国粉ミルク、自国産の不信なお メラミン混入10年 外資は市場拡大

中国では10年余り前に化学物質のメラミンが混入した国産粉ミルクが販売され、少なくとも乳児6人が死亡、約30万人に健康被害が及び、食品の安全性が制度面でなおざりにされている実態が浮き彫りとなった。子供を持つ中国人の親たちの中国企業への不信感はまだ消えていない。

(SankeiBiz)

2008年に発生したこの事件以来、中国国内メーカーへの信頼は大きくゆらぎ「中国産」を買おうとする人々は大きく減った。

 

とはいえ「偽物天国」の中国である。今もなお、外資メーカー商品の人気に目をつけた輩が、「偽物」を流通させている。

高山さんによると、アリババが運営するECサイト、淘宝網でも、天猫国際でも、本物であるかのように偽った商品が、山のように売られており、利用者も全く販売者を信用していないという。

 

例えば、以下のリンクで資生堂の洗顔料が売られているが、実はこれが正規品かどうかは、全くわからない。

LAOXと書いてあるが、そもそも、その画像もパクリの可能性がある。

そして、よくレビューを見ると、「偽物」というコメントが付いており、極めて疑わしい。(翻訳はTECHROCK社)

 

资生堂洗颜专科洗面奶 2支 日本柔澈泡沫清洁控油补水洁面乳保税

下のリンクはクレンジングオイルだが、こちらにも酷いレビューが付いている。

保税日本KOSE高丝softymo清洁保湿无刺激眼唇脸部卸妆油粉瓶230ml

 

TECHROCKは、ブロックチェーン技術とRFIDによる「本物保証」。

このような状況を見て、当然日本のメーカーも防衛策をとった。

正規品を扱える店舗を絞り、チャネルを限定することで「本物」を守ろうとした。

 

だが、残念ながら様々な商品を扱っている「店舗」に偽物が紛れ込まないという保証はない。

また正規品を扱っているように装う「偽物の小売店」まで出現したという。

高山さんによれば、中国には堂々と「どうやって偽物を売るか」というブログまであり、流行っているらしい。

結局、イタチごっこは終わっていない。

 

ここに目をつけたのが、TECHROCKサービスを立ち上げたのAlexander Busarov氏と、Yaroslav Belinskiy氏だ。

彼ら自身も中国に住んでいたとき、大手コンビニでサントリーのウイスキーを買って飲んだところ、実はそれが偽物で、体調不良になってしまったという経緯がある。

曰く「アルコールを買うたびに、本物かどうかひどく悩んだ」そうだ。

 

こうして市場があると睨んだ創業者2名は、TECHROCKというサービスを立ち上げた。

このサービスは、RFIDとブロックチェーン技術を使って「本物保証」をECサイトの商品に付加する

 

具体的には以下のような「RFIDタグのついた特殊パッケージ」に、商品を入れてしまう。

上部のRFIDタグを拡大すると、電子回路が埋め込まれているのが見える。

このタグをスマートフォンのアプリでスキャンすると、この商品がどこを経由してきたかがわかる、という仕組みだ。

このタグは非常にデリケートにできており、封を破ったり、シールを剥がそうとしたりするとすぐに回路が断線し、スキャンすることができなくなる。

スキャンできない商品は「誰かが商品を入れ替えた」可能性があると言える。

 

また、経由地の情報はブロックチェーン技術によって改ざんできないようになっており、TECHROCKのパッケージに入っている限り「本物」が保証される仕組みになっている。

実際、粉ミルクやアルコールは、中身だけをすり替えるという、手の混んだニセモノ販売の手法もあるという。

結局、商品すべてを「特殊なパッケージでガードする」という方法が、最も効果的だ、という結論になったと、彼らは説明している。

 

「安全」が証明されていれば、高くても売れる。

現在彼らは、TECHROCKでガードした製品を、楽天と提携して中国のECサイトで展開している。

2019年の4月にローンチしたサービスだが、すでにユーザー数は1万を超え、今なお増え続けている。

 

なお、Techrockで「本物保証」がされている商品は、少し高い値がついている。

平均して、他社の扱う同商品より、5%〜25%高い。

 

だが、高値でも「安全」な方を、皆が選ぶのだ。

実際、ノーベル経済学賞を受賞した、ダニエル・カーネマンは著書の中で、両親の感情は経済合理性よりも強いと述べている。

この調査は、幼い子供を持つ両親を対象に、1本10ドルの殺虫剤では小児の中毒が1万本につき15件発生するという前提で行われた。

もう少し安い殺虫剤の場合には、中毒の発生率は一万本に付き16件に上昇する。

 

両親に出される質問は、この場合あなたは安い殺虫剤に切り替えますか、というものだ。

回答した両親の3分の2以上が、たとえどれほど安かろうと、危険なものに切り替えるつもりはないと答えた。

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まして中国である。

「今でも、5つ星ホテルで、トイレ掃除に使ったブラシで、コップも洗っていたという事件が起きるような国。大手メーカーの製品であっても、誰も信用しない。そこに本物保証の価値がある」

と高山さんはいう。

 

今後は「マーケティングデータ企業」に。

彼らは現在、メーカーとタイアップしながら、様々な商材に対応するTECHROCKパッケージを開発中だという。

 

だが、彼らが目指す世界は、もう少し先だ。

高山さんは「RFIDのスキャンを通じて、消費者が「いつ」「誰が」「なんの商品を」開封したのかが、データとして取れる」という。

 

現在でも、膨大な「顧客の開封データ」は、その商品が自家用なのか、贈答用なのか、ストック用なのか、すぐに使うようなのかといった、今までは細かすぎて取れなかった情報を提供してくれる。

現在TECHROCKは「届いた商品をスキャンすると、10%〜20%のポイント還元が受けられる」というキャンペーンを展開し、その結果、スキャン率を50%以上とした。

 

消費者には「本物保証」を提供し、メーカーには「消費者の開封情報」を提供する。

新しいテクノロジーは、「ニセモノ天国」の中国市場にメスを入れるのみならず、中国向け製品市場に、革新的なデータを提供することになるのかもしれない。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

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Photo by John Moeses Bauan on Unsplash

戦略的な転職と、その転職のノウハウをコンテンツにした副業で注目されている、motoさんの著書『転職と副業のかけ算』(moto著/扶桑社)を読んでいて、なんだか「引っかかった」ところがあったのです。

 

それは、motoさんが、短大卒という学歴のため、大手企業でエントリーすらさせてもらえず、門前払いを受けていたときにとった手段の話でした。

そこから自分なりの工夫が始まります。一度会ったことがあるかのような親しい感じで電話をしたり、代表電話のときだけ大学の職員を装って人事に繋いでもらったり、社長に直接メールを送ったり……。

 

社長のメールアドレスは当然知らないし、面識もありません。

しかし、就職活動中にもらった社会人のメールアドレスを見ていると、名字と名前、ドメイン名で構成されているパターンが多くあるため、いくつかのパターンを作って社長宛てに送ってみたのです。

 

「突然メールを送るご無礼をお許しください。どうしても御社で働きたく、勝手ながら履歴書を添付させていただきました。もし可能であれば人事に繋いでいただけないでしょうか」

この方法は非常に有効で、大手IT企業の社長などから返信をもらい、人事を紹介してもらえました。

 

こうした行動を続けるうちに社長がじかに面接をしてくれたり、人事に「直接連絡してくる就活生は珍しい」と面白がられてエントリーさせてもらったり、「高卒扱いでもよければいいよ」と、特別に選考を認めてくれる会社が出てきます。

 

せっかく掴んだチャンスは逃せない。僕は四大卒に負けないようにと、自分なりにプレゼン資料を作って面接官に配ったり、自分でサイトを作って紹介するなど、あらゆる手段を用いて自分をアピールしたのです。

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最初に読んだときには、motoさんの行動力に圧倒されたんですよ。

成功する人というのは、ここまでやるものなのか、と。

 

でも、あらためて考えてみると、これって、相手の社長さんは、よくリアクションしてくれましたよね。

だって、全く面識のない就活生が、その会社の他の社員のアドレスから類推して、いきなり社長である自分にメールを送ってくるんですよ。

大きな企業の社長ともなれば、そういう「よく知らない人からのアプローチ」に慣れているのかもしれませんが、「ちょっと怖い」「なんだか気持ち悪い」と僕なら思います。

 

そのメールに、どんなに熱い思いがつづられていても、直接会うことにはためらいます。

もちろん、こういうやり方は百発百中ではないのでしょうし、拒絶されても諦めずに数多くあたってみたから、うまくいった事例があったのでしょうけど。

 

『苦しかったときの話をしようか』(森岡毅著/ダイヤモンド社)は、経営危機に陥っていた、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)をV字回復させた著者が、自分の子どもに向けて書き溜めていたという「よりよく働くためのアドバイス」を書籍化したものです。

 

本来は外に出すつもりはなかったそうなのですが、他の原稿の相談にきた編集者の目に留まって出版することになったのだとか。

同じ著者の『USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか?』は、マーケティングとアイディアの力を思い知らされ、また、読み物としても面白かったので、この『苦しかったときの話をしようか』も手にとってみました。

[amazonjs asin="4041041929" locale="JP" tmpl="Small" title="USJのジェットコースターはなぜ後ろ向きに走ったのか? (角川文庫)"]

[amazonjs asin="4478107823" locale="JP" tmpl="Small" title="苦しかったときの話をしようか ビジネスマンの父が我が子のために書きためた「働くことの本質」"]

 

著者の森岡さんは、「自分も周囲もこれが売れるとは思えなかった」にもかかわらず、海外の本社から押し付けられた新ブランドのマーケティングの担当にされ、予想通り、その商品は失敗してしまいます。

そして、押し付けられた仕事にもかかわらず、その商品の担当になった人たちは、失敗の責任をとらされることになってしまうのです。森岡さんもクビになる寸前だったそうです。

 

「自分が信じていないものを信じさせなければならない断絶」は、形容しがたい苦しさだった、と森岡さんは述懐しています。

その経験から、森岡さんは「結果を出さないと誰も守れない」ということを学んだと仰っています。

ならばリーダーとして成さねばならないことは何か。それは、誰に嫌われようが、鬼と呼ばれようが、恨まれようが、何としても集団に結果を出させることである。

自分の周囲の仕事のレベルを引き上げて、成功する確率を上げることに、達すべきラインを踏み越えることに、一切の妥協を許さない。そういう厳しい人にならねばならないということだ。

 

私は、ナイスな人であろうとすることをやめた。森岡さんってどんな人? と聞かれた部下や周辺の人が、もうどれだけ罵詈雑言を述べたってかまわない。

ただ一言、「結果は出す人よ」と言われるようになりたい。人格の素晴らしさで人を惹きつける人徳者である必要もない。ただ「ついて行くと良いことがありそう」と思ってもらえる存在であれば良い。

結果さえ出れば、彼らの評価を上げることができるし、彼らの昇進のチャンスも獲得できるし、給与もボーナスも上げることができるのだから。大切な人たちを守ることができるのだ!

僕はこれを読んで、森岡さんの「覚悟」の凄まじさと同時に、これまで一緒に仕事をしてきた「厳しいけれど、結果を出す人たち」のことを思い出さずにはいられませんでした。

彼らについていって大きく成長した人もいれば、ドロップアウトしていった人もいました。

 

今の世の中の一般的な考え方としては「結果を出すために、部下や同僚に厳しい要求をする」というのは、「パワハラ」と受け止められやすくもあります。

正直、「そこまでして結果を出すこと」の是非については、読みながら、僕は心のなかで「保留」していました。

 

このmotoさんと森岡さんの話、あんまり関連がない、と思われたかもしれません。

あるいは、特別な才能を持った人だからこそ、あてはまる事例なのではないか、と。

 

motoさんの事例については、「そんなことをしたら、社長は迷惑だろうし、かえって嫌われるのではないか」、森岡さんの言葉には「その成果主義を突き詰めれば、ついていけなくなって大きなダメージを受ける人間が出てくるのではないか」と僕は思います。

それはあくまでも、そんなに仕事が好きでも、大きな野心があるわけでもない、僕のモノサシでの判断、なんですよ。

 

世の中で、組織を動かすような人というのは、「メールアドレスを類推して、自分に直接アプローチしてくるような若者」に見込みがあると着目し、「結果を出すためなら、犠牲を払うことも厭わない」と決意している。

 

要するに、僕とは違うモノサシで、世界を見ている(あるいは、見ようとしている)人たちなんですね。

そして、そういう人たちにアピールする、あるいは、同じ世界で生きていこうとするならば、自分の「いきなりメールしては失礼」とか「仕事よりもプライベート」というモノサシに相手を合わせようとしてもムダなのです。

 

どちらが正しい、というのではなくて、「世の中には、自分とは違うモノサシで世界を見ている人がいる」ということを理解しなければならない。

もし彼らのようになりたい(あるいは、一緒に仕事をしたい)のであれば、「相手がどういう価値観を持っているか」を知って戦略を立てるべきなのです。

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:home thods

最近まわりから、「もっと勉強しておけばよかった」という声を聞くようになった。

 

「学生時代ちゃんと勉強しておけば、もっとちがう道が拓けていたんじゃないか……。」

社会に出て数年経つと、たいていの人は一度くらいこう考えると思う。

ネットアンケートでも、「後悔していることランキング」において、「勉強しなかったこと」は高確率で上位に位置している。

 

かくいうわたしも、「勉強しとけばよかった!」と後悔しているひとりだ。

それはなにかといえば、ずばり「英語」。

 

こんなことをいうと、「でも使わなくない?」とか、「英語話せたらかっこいいけどね〜」なんて反応が返ってくるけど、そうじゃない。

わたしは、語学力としての英語ではなく、教養として、「英語をもっと身につけておくべきだった」と後悔してるのだ。

 

日本では英語ができなくても問題ないけれど

あなたが最後に英語を使ったのはいつだろう。

外国人観光客に道を聞かれた? 毎日英語で会議してる? それともまったく英語を使わない?

 

日本で生活しているなかで、「英語」という言語力を求められることはかなりまれだ。

「英語を話せたらよかった」と思うことはあっても、「英語が話せないことで不利益を被った」と感じたことはない。

 

それはたぶん多くの人にとっても同じで、だからこそ「英語を話せたらかっこいいけど別に話せなくてもいいや」「日本人に英語って必要?」なんて話になるわけだ。

 

でもそれはあくまで、「意思疎通に使う語学力としての英語」の話。

そういう意味では、日本で英語の需要はかなり低いし、できなくても問題はない。ないのだが……。

 

ドイツに来て、英語には「教養としての側面」があることを知った。

そこで初めて、「あー英語やっときゃよかった!!」と思ったのである。

 

当然のようにTOEFLで100点以上とるドイツの大学生

ドイツには「ある程度の教育を受けていたらある程度の英語ができる」という前提があるから、大卒が条件のポストなんかでは、「それなりの英語力込み」になる。

 

たとえば、大学を出ているのであれば、問題なく英語の契約書が読めて、英語で企画のプレゼンができると思われる。

ドイツ人の夫(大卒)も、国際部署で働いているわけでもなければとくに英語力を求められるポストに就いているわけでもないけど、当然のように英語の資料が回ってきて、英語で電話をかけているらしい。

 

そりゃもちろん人によって得意・不得意はあるけど、「英語がまったくできません」なんていう大卒はありえない。

ちなみに大学時代の友人は、事前にまったく勉強せずとも、みんなサクッとTOEFL100点以上とっていた。すごすぎ。

 

そういえば、わたしがドイツの大学に入学する前、「英語できないんですが大丈夫ですか」とわざわざ大学に確認しに行ったことがある。

「最低限できれば問題ないよ」と言われて安心していたが、蓋を開けてみれば、英語での講義もあるし、使う文献もかなりの割合で英語。

これが教授のいう「最低限の英語力」だったらしい。

 

統計の授業ではチューターが「みんなが解いてる間に英語で説明しようか」、

ゼミでは教授が「レポートは英語でも大丈夫だよ」と言ってくれた。

いや、だからわたし英語できないんだって……。

 

高等教育を受けるのであれば、英語は当然身についているもの。

英語には、その言葉をいかに使いこなすかという「言語力」とはまたちがう、できて当たり前の「教養」という側面があったのだ。

 

一方で「ノーイングリッシュ」と電話を切る人もいる

「教養」であれば当然、学歴や生活環境で、その習得度は大きく変わる。

よく、「外国人(とくにヨーロッパ人)はみんな英語を話せる」かのように思っている人がいるけど、それはちょっとちがう。

 

たしかに日本と比べれば、ドイツの人々は平均的にかなり英語ができるのは事実だ。

EF EPIによる英語能力指数では、ドイツは88ヶ国中10位と高順位(日本は49位)。

でも、年齢はもちろん、学歴、所属する社会層によって、英語力はかなり変わる。

 

田舎のレストランでは英語が通じないことも珍しくないし、英語の書類をみた途端、面倒臭そうな顔をする担当者だってなんども見てきた。

英語の書類だと受け取り拒否もありうる。

 

友人がカギを失くしてカギ屋に電話したときも「ノーイングリッシュ」と切られたし、チケットを買い間違えたとバスの運転手に英語で言っても無視されていた(ちなみにどっちとも、ドイツ語で問い合わせ直したらすぐに解決)。

 

ドイツにはさまざまな背景をもった人がいるから、その人たちがドイツの教育を受けていたのかどうかまではわからない。

でも、そういう人たちだって実際ドイツにいるわけだ。意外だろうか。

 

わたしたちが出会う「外国人(ヨーロッパ人)」というのは、テレビに出るインテリだったり、はるばる極東の島国まで旅行する経済的余裕がある人だったりするから、「デキル」人である可能性が高い。

 

でも多くの人が思い描く「英語ペラペラな白人」ではない人だって、ドイツにはたくさんいる。

英語力ひとつとっても、それなりに「階層」があるのだ。

英語力と学力(学歴)が必ずしも比例するわけじゃないにせよ、ドイツである程度の「層」に食い込みたければ、英語はできて当然の教養、必須スキル。

 

英語を使いこなす語学力はもちろん大事とはいえ、それなら言語のスペシャリストである通訳を雇えばいいだけの話である。

でも実際使うかどうかではなく、身につけているかが大事なのが、教養というものだ。

 

英語ができない=相手にされない

「教養としての英語」という話になると、英語能力指数で88ヶ国49位の日本は、めちゃくちゃ不利だ。

断っておくと、英語力が低いから日本はどうこう、というつもりはまったくない。

そもそもわたし自身、英語たいしてできないし。できなくても困らなかったし。

 

(分野によるとはいえ)「母語だけで高等教育を受けられることが日本のすごいところ」という主張も理解できる。

でもそれとは別に、いわゆる「国際競争」のような場、ビジネスの場で、アカデミックな場では、教養としての英語が求められるという現実がある。

 

たとえば、いくらビジネスに必要なくとも、マッキンゼーやグーグルの社員が「夏目漱石ってだれですか? アメリカの大統領の名前なんて知っててなんになるんです?」なんて言っていたら、「だ、大丈夫か……?」となるだろう。

いや別に、夏目漱石やアメリカの大統領の名前を知らなくても仕事はできるんだろうけどさ……でもなんか……。

 

「英語ができないと教養がないと思われ相手にされない」というのは、つまりそういうことだ。

我が国では、人々が英語をはじめとする外国語を日常的に使用する機会は限られている。

しかしながら、東京オリンピック・パラリンピックを迎える2020(平成32)年はもとより、現在、学校で学ぶ児童生徒が卒業後に社会で活躍するであろう2050(平成62)年頃には、我が国は、多文化・多言語・多民族の人たちが、協調と競争する国際的な環境の中にあることが予想され、そうした中で、国民一人一人が、様々な社会的・職業的な場面において、外国語を用いたコミュニケーションを行う機会が格段に増えることが想定される。

出典:文部科学省

国はあくまで「英語は外国人と交流するために必要」と思っているようだし、それももちろん大事なのだが、「英語ができないと話にならない」場面もそれなりにあることは、お伝えしておきたい。

 

教養としての英語がないと不利になるという現実

日本にいるなら言語力としての英語はたしかに必要ないし、英語力で教養のある・なしを推し量られることもあまりないから、堂々と言えるのだ。「別に英語なんて話せなくていいじゃん」と。

でも一歩外に出れば、教養としての英語を身につけていないことは、単純に不利になる。

 

だから、使うとか使わないとか、旅行で便利だとか就職に有利だとか、そういう損得勘定は抜きにして、英語はある程度身につけておくべきだ。

海外を見据えれば、現地ができたとしても、英語スキルがないだけで将来の可能性が狭まることはおおいにありえる。

 

将来的に海外に出ようとしている人はもちろん、「教養としての英語」という考えがあることも、知っておいたほうがいいんじゃないかと思う。

というか、わたしは知っておきたかった。

 

言語力だけなら「使わない限り不要」ではあるけど、教養は「ないと土俵に上がれない」もの。

「なくてもいいや」とは言えないのだ。

 

学生のうちにそれを知っておけば、ドイツに来る前にもう少し英語もやってただろうになぁ〜と思う。

そしたら、もう少し選択肢が増えていたかもしれない。

まぁいまの生活が充実しているし、結局「必要ないしなぁ」と英語から逃げ続けたわたしが大きな顔でいえたことじゃないけども……。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Indi Samarajiva)

今では壊滅状態に陥ったISISだけど、ちょっと前までは随分と強烈な社会問題となっていた。

その時に、

「ISISのようなものをイスラム教だと思わないでください。善良なムスリムがちゃんといる事を、理解してください」

といった、言説をよくみかけていたのだけど、これに対するある質問が僕の心に強烈に突き刺さったのは今でも忘れられない。

 

「じゃあ、なんでイスラム教から過激派がそもそも出てくるのですか?善良なムスリムがいる事は理解するけど、宗教が過激な集団を生み出すことも事実だし、イスラム教に問題が全くないと言いたげなその言説は、責任逃れにしかみえない」

 

この指摘は言われてみれば確かにそうなのである。

 

何もイスラム教だけが問題なのではない。

私達の国もオウム真理教という痛烈な痛みを経験したが、宗教というのは時に過激化する。

 

これを持って宗教≒悪と断じるのは言い過ぎだろうが、しかしなぜ宗教から過激派が出てくるのかについてをキチンと学んでおく事は非常に大切な事だろう。

 

というわけで今回はこのテーマについて語ってみようかと思う。

 

宗教はマジョリティでは生きにくい人達の大切な行き場

宗教というのは理論上、信者が一人でも産まれれば成立する。

 

例えば僕がいま自分オリジナルの宗教を立ち上げたとしよう。

あなたが入信すれば僕は教祖になり、一つの宗教がこの世に生まれ出る。

<参考 完全教祖マニュアル>

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もちろん、何のメリットもないのなら、あなたはよくわからない新興宗教になんて入信しようとは思わないだろう。

あなたが今から何かの宗教に入るのだとしたら「悩みがあって、ここに入ったらそれが解決できそうだ」等の、何らかの”生き辛さ”のようなものを抱えているケースが考えられよう。

 

こうして考えてみると、宗教というのは多数派社会でラクラク生きている個人と比較して、ある種の”生きにくさ”を抱えている社会的弱者の逃避先となりやすい傾向がある事つかめるだろう。

 

かのイエス・キリストも、原典を紐解けばわかるが聖人君子なんかでは決してなく……、もともとは大工の放浪息子が立ち上げた弁が立つだけのヤンキーヘッドみたいなものだ。

彼に入信した人の多くはマジョリティから「キモい」とパージされていた人間や、様々な悩みを抱えていた社会的弱者が大多数である。

 

そういう人間が集まったら、多数派のアンチである反社会的組織の傾向を一定数持つのは必然ともいえるし、当然マジョリティである体制派がキリスト教を「反社会的であり危険な団体だ」と思って押し潰そうとするのも、国のヘッドとしては当然のことだろう。

 

ゴルゴダの丘でイエスが処刑されたのは、本質的にはアルカイダのビンラディンをアメリカが処刑したのと何も変わりがない。

いつだって、多数派とそれに抑圧された弱者の争いは、形を変えて繰り返されるのである。

 

多数派は弱者に居場所も提供できないし、アイデンティティですら提供できない

”アラー世代: イスラム過激派から若者たちを取り戻すために”という本がある。

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この本の作者は元イスラム過激派だったそうだが、現在はそこから何とか脱却し、イスラム過激派になってしまった若者たちを救済しているという、過激派思想の加害者かつ被害者であったという稀有の人だ。

 

自分自身がイスラム過激派の魅力に取り憑かれた彼は、イスラム過激派が生まれる社会的背景を

「移民の二世や三世たちが西欧社会において居場所がなく、アイデンティティクライシスの状態に陥ってしまっているのが根本的な要因だ」と言う。

 

平和な島国に住む私達には理解しにくいが、様々な国が陸続きとなった欧州では移民がとんでもない問題となっている。

理想としては、困った人を助けるのは当然だ。

しかし移民の場合は、文化の問題がある。

 

正しさというのは行動の基盤となるものだが、同時にひどく曖昧なものだ。

西洋文化コードが基本となっている場所で、イスラム文化圏の人が暮らすと時に”正しさ”が衝突する。

 

日本でも中華街を考えてもらえればわかりやすいが、移民は基本的には地元の文化に溶け込むようなものではない。

独自の宗教、文化、そして仲間のつながりを捨てず現地を侵食し、結果としてその国にある種の異質をもたらす。

 

そしてそれは時にマジョリティと対立する。

 

多様性は確かに大切だが、それはいくつもの”正しさ”を全て無矛盾なく受け入れられるようなモノではない。

ブルカ1つとっても、欧州では常に様々な形での衝突がみられる。

 

結果、移民の子供達が社会という多数派の中に居場所を見いだせず、反社会的な場に惹きつけられ、そこで”被害者”という強烈な原動力をモチベーションにアイデンティティを確立させてしまう傾向が一定数あり、それが欧州各地で大問題となっているのである。

 

このようなマイノリティに生きにくい社会において、過激で力強い指導者は物凄く魅力的だ。

過激な指導者たちは、アイデンティティを喪失した弱き者たちに”居場所”と”ムスリムとしてのあるべき姿”というロールモデルの両方を提供する。

 

冒頭の質問である「なんでイスラム教から過激派がそもそも出てくるの?」だが、それは、イスラム教徒が欧州という陸続きの大陸の中で、抑圧され、心落ち着く居場所すら無い集団を多く抱えているからであり、マジョリティから差別されているからこそ反骨心で団結し、反社的集団として団結しやすい素因があるからだろう。

 

多数派は”強さ”と”生きやすさ”を持つのに対し、抑圧される側は”弱さ”に加えて”生きにくさ”すら付与されるのだから、世の中というのは誠に難しいものである。

 

宗教は絶対的に正しい教義を必然的に抱える。これが問題なのだ

宗教の問題点とは何か?一言でいってしまうと、それは自己批判を許さないことだ。

 

ガリレオの「それでも地球は回っている」を思い出すまでもなく、宗教にとって教義というのは基本的には疑ってはいけないものであり、教義にモノを申すという事は命がけの行為に他ならない。

 

「なんでイスラム教徒は豚肉を食べてはいけないのか」という教義が何故できたのかを類推する事はできても、「現代では何も問題がないのだから、豚肉を食べてよい」という風にロジカルに教義を改変する事は宗教においては決してやってはならない。

コーランに書かれている事が”正しい”事なのだとしたら、それは受け入れるべき事実であり、正すような性質のものではない。

 

絶対的な正しさというのは一貫性がある。

力強いリーダーシップが魅力的なように、私達はそういう”正しさ”に強く惹きつけられる傾向があるのは前項に書いたとおりだ。

 

しかし・・・である。

私達は実によく間違える。そして社会も間違った行いをした個人に対して罰を与えたりする。

テストで100点は良く、0点が忌むべきものであるという暗黙のルールがあるように、間違い≒悪という考えは強く私達の頭の中に根づいている。

 

そういう間違った行いを取るのを何よりも恐れる人達にとって、原理主義は福音のようなものだ。

「自分がどう行動したらよいかわからない」

「けど間違った行動はしたくない」

こういう人達に、原理主義はひどく優しい。正しい生き方を、クリアに与える事ができる。

 

しかしである。繰り返すが、私達は絶対に間違える。

かのアインシュタインですら……しかも専門分野である物理学でである!

 

 

しかし、間違いを受け入れられるのも、また人間である。

一時期、量子力学を「神はサイコロを振らない」と否定していたアインシュタインは、後に己の間違いを撤回し、キチンと量子力学を受け入れた。

 

こう考えると・・・間違いはそもそも”悪い”事ではないし、それを認める事を”ごめんなさい”という「私が悪かったから、許してくれ」という非常に言いにくいモノに押し上げている事にも、僕は何らかの悪因があるように思わないでもない。

 

間違ってるという指摘があったらキチンと検討し、批判を加える。

そういう度量の深さを持ちやすくするためにも「ごめんなさい。私が間違っておりました」という事を言えることが称賛されるような、懐の深い社会性が私達には必要とされているし、西洋文化の集大成の1つである科学技術は常にそうやってロジックを元に構築されてきた。

 

そしてそれは、宗教とはある意味では非常に相性が悪いものでもある。

理念や理想といったものがベースにあるイデア原理主義である宗教は、”絶対的な正義”を持つが故に”必ず間違えない”。

そしてその絶対に間違えないという甘美な響きは、いつだって”間違いたくない”人には魅力的に響いてしまうのである。

<参考 なにかもちがってますか 5巻>

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正しさを”加速”させてはいけない

正しさは”加速”する。

インターネットで狂っていく人を多数観測することで、最近これを改めて感じている。

 

例えば、インターネットには恐ろしく過激なフェミニストがいる。

最近、彼女たちの”キモい男性”へのあまりに過激な叩きっぷりをみて

「これって彼女らが忌み嫌ってた昭和のセクハラオヤジと全く同じで、もはや弱者男性へのハラスメント以外の何物でもないのでは?」

と思わされてしまった。

 

初めは女性の地位向上の為の活動だったフェミニズムが、女性の人権が向上した結果、単なる弱者男性へのハラスメントとしての活動へと変遷していったのだから、改めて”批判を許さない正しさ”を持つ思想の恐ろしさを痛感させられる。

 

正義にはある種の快楽がある。

芸能人の不倫に人が沸き起こるのは、不倫が”悪”で叩いてもいい事だという暗黙のルールがベースにあるからだ。

<参考 正義の本質は娯楽である

 

そして弱きものほど、正義を盾に戦いやすい。

これは指摘されて初めて知ったのだが、初めはカトリックの腐敗への批判から始まったプロテスタントだが、プロテスタント教徒はカトリックへの批判が一通りすんだ後に、熱心な魔女狩りを始めたのだという。

 

腐敗という悪を正す為の抗議活動が、正しさが加速した結果、その当時弱いものであった女性を依り代に正義執行活動へと変遷していくのだから、改めて批判を許さない”正しさ”というモノの恐ろしさを痛感させられる。

 

正義は容易に狂気へと加速する。

初めは巨悪を打ち倒すために始まった攻撃は、いつしか強きものを超え、さらなる弱いものへの刃と変わるのである。

 

頭がいいとテロリストになりやすい?

現アルカイダの指導者は医学部出身の元外科医だという。

 

「なんで医者がテロリストに?」と思って調べてみたのだが、実はテロリストには高学歴出身が結構多いのだという。

言われてみれば、オウム真理教も幹部は高学歴ばかりであった。

<参考 テロール教授の怪しい授業>

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高学歴出身者がテロリストになりやすい素地は様々だろう。

”正しさ”を教義に則って、普通の人と比較して高速で主張できるだけの頭脳があるから、そのぶん加速度合いが速くて狂いやすいのかもしれない。

 

しかし、高学歴出身がみな狂うわけでもない。

何が原因かといえば、やはり冒頭に書いた”生きにくさ”もっといえば”居場所のなさ”が1番の原因だろう。

 

先程参考文献としてあげた”テロール教授の怪しい授業”に、「なぜ新興宗教は街中で布教活動を行うのか?」という質問があった。

僕は信者を増やすためにあれをやっているのだと思ったのだけど、正解は「徹底して社会から拒絶される体験を通じて、信者に自分が社会で居場所が他にない事を心の底から痛感させる」為なのだという。

 

この指摘には改めて考えさせられてしまった。

先程、過激なフェミニストの事をややネガティブなニュアンスで僕は書いてしまったけど、このような批判的な指摘ですら、過激派からすれば団結する為のエネルギーとなりうるのである。

 

僕の先程の指摘を読んで「フェミって怖いな」とでもSNSで誰かが”つぶやいた”ら……それは”街角でビラを配って、嫌そうな目を向けられる”という体験と、まるで瓜二つの事なのではないか……。

 

オウム真理教を狂気へと加速させてしまったのも、”あなたには居場所はない、ここから出ていけ”という社会からの負のメッセージが最後のひと押しをしてしまったのではないか?

このような事を考えれば考えるほど、僕は改めて弱者と正しさ、そして狂気の難しさを痛感させられてしまう。

 

世の中は難しい。とてもとても難しい。

人はいつだって間違えるし、共感できない対象を軽々しい気持ちで「キモい」とパージしてしまう。

そういう難しい世の中で、しなやかさを失わずに狂うこと無く生き抜けたらいいな、と心の底から思う。

とても難しいことなのだけど。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Sean MacEntee

長崎に行ってきた。

長崎という街は、私にとって2つの出来事があったという点で、訪れてみたい場所だった。

 

一つは、核兵器を使用された街であること。

もう一つは、キリシタンへの弾圧があったこと。

いずれの事件とも、「ある集団が、別の集団に対して、非道な行いをした」という点で共通している。

 

「人は時として酷いことをする。」と、他人事のように思う人も多いかもしれない。だが、このような行為は、歴史的に見れば、特に世界中で珍しいものでもない。

大量殺戮は現代に至るまで頻繁に発生している。

 

なぜか。

個人レベルでは忌避したくなるような行動でも、集団や権威によって正当化さえできてしまえば、「正義」や「秩序」の名のもとに、人間はかんたんに一線を超えてしまうからだ。

 

 

かつて私は、ある一つの部門の責任者をしていたことがある。

売上目標の達成、コストの管理、人事評価……やるべきことはたくさんあった。

 

そしてその中で、経営陣から一つの難しい要求があった。

それは「経営方針」の浸透と、違反者の処罰だ。

 

経営方針の浸透、というと世の多くの人は「形だけ」というイメージがあるかもしれない。

だが、私が所属していた部門は中小企業向けのコンサルティングを行っている部門だったので、自社のマネジメントは、中小企業向けの「商品」を実験する場だった。

そして、中小企業に抽象的な「経営方針」はあまりウケない。「明らかで、すぐに効果のあるもの」が、中小企業に売れる。

そのことから、私の所属していた部門の経営方針は、かなり具体的だった。

 

例えば、

「他人のせいにしない(原因自分主義)」

「変化を常に受け入れよう」

「まずは量を追求し、それを質に転換させる」

といった具合だ。

 

これであれば、社員が「他人のせいにした」瞬間、「それは方針に違反している」と指摘できる。

変化を要求して、それを拒んだ場合にも、あるいは「効率が悪い」などと言った発言も、「それは方針に違反している」と、指摘できる。

 

こんな「経営方針」が、100以上(!)もあったのが、当時の私が所属していた部門だった。

 

もちろん、これだけの方針があれば、違反者もでる。

「お客さんのせいにするな!悪いのはあなただ!」と。

「なぜ上司の指摘を受け入れないんだ!あなたは違反者だ!」と。

「◯件テレアポをしていない!あなたは違反者だ!」と。

 

今見れば、つくづく理不尽な話だ。

「時と場合による」を無視して、原理原則を常に適用しようとすることに、そもそも無理があるのだ。

 

しかし、当時の私は、経営者のこの方針に、全力で従っていた。

 

無論、ときおり、私もこの「経営方針による統制」が理不尽に感じることはあった。

が、私は管理職であり、体制側であった。

また、経営陣が大真面目にこれに取り組んでいるのを見て、「今の会社には必要なのかもしれない」と、自分を納得させていた。

しかも、各々の方針は、それなりに正しいことを言っている。反対のしようもない。

 

だが、中には、強く反発する現場の人間もいる。

それが数回続くこと、つまり経営方針、および経営陣に対して批判を繰り返す人物は「我が社には合わない人物」という経営陣からの烙印が押され、評価を下げられた。

 

そんな活動に邁進していたある日、私は上司に呼ばれた。

質問がある、という。

「なあ、彼の最近の様子はどうだ?」と上司は言った。

 

彼、というのは最近経営方針への違反を起こした、中途採用の人物だ。
私は

「最近、方針への違反は起こしてないと思います。きちんと指導しました」

と答えた。

 

しかし、上司はそれを聞いても険しい表情を崩さなかった。

「そうか、しかし、最近聞いたところでは……」と、上司は、彼の体制への批判、経営方針の違反状況を語る。

 

私は「そうですか。それは困りましたね。きちんと指導します」と答えた。

 

しかし、最後に上司は言った。

「彼は、うちの会社には合わないと思うんだよね。」

 

それは要するに、「クビにしろ」という命令だった。

 

もちろん、私はそれに従った。

「秩序」の名のもとに。

 

だが、振り返ると私はそれ以来、自分を「善良」であるとみなせなくなった。

組織が要求する「秩序」の名のもとに、私はある人物に制裁を加え、組織から排除することを実行してしまったからだ。

 

「クビにする」のと「爆弾を落としたり、拷問したりするのは違う」という方もいるかも知れない。

だが、私は実感として、思う。

本質的にはおそらく、なんの違いも、ない。

 

だって、それが「正義」だったから。

「秩序」を守るために必要な行為だったから。

そのように言い訳すれば、人間はかなりの非道な行為に手を染めることができるという、実感が私にはある。

 

 

長崎のキリシタン弾圧と、それに伴う信仰のゆらぎを描いた、遠藤周作の「沈黙」という作品がある。

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カトリック教会から厳しく批判された、問題作だ。

 

遠藤周作は「拷問に屈した弱者」と「信仰を守り通した強者」の面から、作品を描いた。

だが、私はこの作品を読み「弾圧をした側」に興味を持った。

例えば、上はマーティン・スコセッシが映像化した、雲仙で熱湯を浴びさせられる、映画での拷問のシーンだ。

実際にそれが行われた「雲仙地獄」に行ってみれば、いかにその拷問が苛烈であったか、容易に想像ができる。

 

こんな行為が平然とできる人は、もはや普通の神経ではないと間違いなく思うだろう。

だが、侍たちは「お役目」を黙々と果たした。

もちろん、彼らは「秩序」を守るためにやったのだ。

 

昔の人は道徳観が違う、という方もいるかも知れない。

しかし、原爆はどうか。それが落ちたのはたったの数十年前である。

人間の本質はあまり変わっていない。

 

人間に非道な行いをする側は、何を考えていたのだろうか。

正義を語るのは、どんな気持ちだろうか。

自分が正しいと思って、それを実行したのだろうか。

後悔はあったのだろうか。

死ぬ前に、非道な振る舞いを気にしただろうか。

 

組織や体制、システムが要求する「正義」に基づいて、人を裁いたり、制裁を加えるのはとてもかんたんだ。

なぜなら「私は悪くない。私が行っていることは正しい」といい切れるからだ。

 

だが、私が長崎で見たのは「正義」の名のもとに行われた、非道な行為の数々であり、それを実行した人々の記録だった。

 

 

いま、私は現実でもインターネットでも、極力「正義を語る人」やら「秩序の守り手」には近づかないと決めている。

「正義」を語ることもできない。

私は弱く、そして「正義」「秩序」を語って、いともかんたんに私は体制に与し、人に非道な行いをした前科があるからだ。

 

長崎は、そういう意味で、私にとって特別なのである。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

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どうもこんにちは、しんざきです。

 

最近、長女がなかなかご飯を食べない時、執事口調で

「お嬢様、お食事をお召し上がりくださいませ」とか

「お嬢様、レディは手でつまんで食べてはなりません」

とか言うときゃっきゃ笑った後ぴっとしてちゃんと食べてくれるということが判明したので、今後駆使していこうと思います。

よろしくお願いします。

 

今から昔話をします。

 

もう20年近く前になるでしょうか。

インターネットのほんの一時期、「CGIゲーム」というものが流行ったことがあります。

 

要はブラウザゲームなんですが、PerlやPHPで組まれたサーバ上のプログラムがHTMLを返してくれて、ブラウザ上で自分の行動結果や現在のステータスなんかを確認する、それなりに時間を必要とするゲームが多かったように記憶しています。

中にはサーバプログラムが無料で配布されていたCGIゲームなんてものもありまして、色んな人が色んなアレンジをして、各々のゲームを運営する光景が見られたものでした。

 

そんな中、かなり大きなシェアを誇っていたゲームとして、「箱庭諸島」というものがありました。

 

***

 

皆さん、箱庭諸島って覚えてますか?

当時はかなり広範囲で流行していたので、プレイしていた方もいらっしゃるのではないでしょうか?

検索してみると、今でも遊べるサーバがちょこちょこあるみたいです。

 

箱庭諸島というのは、要は自分の島を開発・運営するシミュレーションゲームです。

プレイヤーは、ゲームに参加すると自分の「島」を与えられ、その島に好きな名前をつけて、例えば森を切り開いて木材を手に入れたり、農場を作って食料を手に入れたり、村を作って人口を増やしたりします。

 

ゲームごとに決められた時間でターンが経過していって、そのターンが経過するごとに自分の行動結果が表示されるシステムになっておりまして、例えば村が成長して町になったり、一方火災が発生して工場が焼けてしまったり、時には怪獣が出現して暴れ出したりといったイベントが起きることもありました。

 

「箱庭諸島」のどこが新しかったかといいますと、それは「同時並行で色んな島が同じゲーム内で運営されていた」ということに他なりません。

 

今では珍しくもなんともないかも知れませんが、当時、「他のプレイヤーと同じゲーム内で協力したり対戦する」という遊びは、今までにない全く新しい遊びに思えたものです。

島の運営の際には、他の島に干渉するコマンドも用意されていまして、例えばミサイルを撃って戦争をしかけることも可能でしたし、あるいは他の島に現れた怪獣を攻撃して倒してあげる、食料や資金を交換・融通してあげるといった協力プレイも可能でした。

 

ゲームによっては併設された掲示板(Teacupとか)で他のプレイヤーと連絡をとることも可能で、そこには様々な人間模様がありました。

当時はなにせ、「ネットマナー」とか「ネチケット」といった言葉がわざわざ考案されて流布される程、ネットにおける対人関係が洗練されていなかった時代です。プレイヤーの年齢層も様々、職業も様々で、人間模様も無法地帯に近いものがありました。

ネチケットじいさんとか(参照:http://heno2.com/2ch/v.php?15009)、懐かしいですよね。

 

箱庭諸島はルールもプレイヤー層もサーバごとに様々だった為、「平和な箱庭運営ゲームだと思っていたのに戦争を仕掛けられてブチ切れるプレイヤー」だの、「謎の俺ルールを勝手に他のプレイヤーに強制しようとするプレイヤー」だの、「自分基準でマナー違反だと認定したプレイヤーに対する攻撃を周囲に呼び掛けるプレイヤー」だの、正直なところ魑魅魍魎、百鬼夜行の風情でした。

 

当時、特にルールで決められている訳でもないのに「☆☆☆ この島に対するミサイル攻撃は禁止されています!! ☆☆☆」とかいう星つきのコメントを表示する島は山のようにありましたし、一方「今ならこれ間違いなく犯罪予告で逮捕されるよな…」的な文言を掲示板に書き込むプレイヤーも山ほどいました。

ブーム中盤辺りからは、ゲームルール自体に「戦争禁止」とか「戦争あり」みたいなことを明記するサーバが多くなったように記憶しています。

 

***

 

ところで、私はそんな中、とある戦争ありサーバで箱庭諸島をやっていました。

ゲームをプレイしていくと、人口によって島のランキングが出来るんですが、当時「同盟」というものを作る動きがありました。

つまり、掲示板で協力し合う島を募集して、例えば同盟の中の島が攻撃されたら皆で反撃したり、あるいは同盟同士で戦争を挑んだりするのです。

 

皆さん、「ICQ」とか「IRC」って覚えてますか?

ゲーム上の掲示板とは別に各々チャットで連絡が取れる、今でいうチャットソフトのようなものなんですが、同盟を作ったメンバーはICQやIRCで連絡を取り合い、島の運営の相談をしたり、資源の融通の交渉をしたりしていたのです。

 

当時私も、とある同盟に誘われて参加しており、その同盟のIRCチャンネルに所属していました。

クライアントソフトはCHOCOAだったように記憶しています。

真剣に島の話をする人もいれば、アニメやゲームの話をする人、学校や職場の話をする人もいる、メンバーは7,8人とはいえ雑然とした賑やかなチャンネルでした。

 

そのチャンネルのまとめ役をしていたのがTさんでした。

 

当時30代半ばくらいだったのでしょうか。

Tさんは、そのゲーム内でもトップ3には必ず入る大規模な島のプレイヤーでして、非常に面倒見が良い人でもありました。

IRCチャットに常駐している時間も長く、誰が来ても気さくに話しかけるので、IRCのメンバーの間でも中心的な立ち位置になっていたと思います。

 

私自身、そのゲーム中でTさんには随分お世話になっており、食料を融通してもらったことも、資金を融通してもらったこともありました。いい人だなーと思っていた記憶があります。

 

同盟が出来て、二か月くらい経った頃だったでしょうか。ある時、Tさんに「〇〇さん(後述する島の名前)ってどの辺に住んでるんですか?」と聞かれました。

何の気もなしに「××の辺りですよー」と答えてみると、「お、近いですねー!」と言われました(後になって分かることですが、実際にはTさんの居住地は全く近くなく、新幹線で2時間程必要な遠隔地でした)。

 

その後あれやこれやとやり取りをして、Tさんから「良かったら一度飲みにでもいきませんかー(笑)」と言われました。

「なんか随分ぐいぐいくるなあ…」と思いはしたのですが、私は当時「東京BBS」という草の根ネットでパソコン通信もやっておりまして(参照:https://blog.tinect.jp/?p=56886)、そちらでBBSメンバーと会って遊ぶことはちょくちょくありましたので、ネット越しの人と直接会うことに特に抵抗感はありませんでした。

 

Tさんにはお世話になっていることもあり、「じゃあ会いますか」という話になったのです。

 

当日になりました。

 

今でも覚えているのですが、待ち合わせ場所で最初に見たのは、私よりもだいぶ年上に見える、愕然とした表情のスーツ姿のおじさんでした。

「え、俺なんかまずいことしたかな?」と思ったことが記憶に残っています。

 

近くの安めの飲み屋(確か澁谷の「日本海」)に移動したのですが、Tさんは強張った表情のまま、ちょこちょこ世間話をする程度です。

私自身は「初対面には強いけど何度か会ったくらいの人と話すのは極めて苦手」というタイプのコミュ障ですので、初対面のTさんと話すのは苦ではないものの、「これはちょっとおかしいな…」と思ったので

「あの、ちょっと様子変ですけど、俺なんか悪いことしました?」

と聞いてみたのです。

 

この時Tさんからぼそっと返ってきた言葉が、

 

「いや…………女の子だと思って…………」

 

やってしまったのでした。

今更特定されることもないだろうと思うので書いてしまいますが、当時私が運営していた島は「ルミリャフタ島」と言いまして、これは南米民族音楽「フォルクローレ」の中で私が大好きなプログループの名前なのですが、これがどうもTさんには(恐らく「ルミ」の部分で)「女の子の名前」として解釈されてしまったようなのです。

 

かつ、私はあまり自分の属性を開示する方ではなく、IRCチャットでも人の話に丁寧語で反応することだけに徹していたので、Tさんの中では完全に「おとなしくて丁寧な女の子」として私のキャラクターが固定されてしまっていました。

かつ、話には応じてくれるし、飲みに誘うと来てくれるし、今まで女性と付き合ったことがないTさんは「あわよくば」と考え、はるばる遠方から飲み会に臨んだ、という事情だったらしいのです。「マジかよ」と思いました。

 

私としては「いやじゃあ会う前に性別の確認くらいしてください…」としか言いようがないんですが、

「確認したらがつがつしてると思われると思って…」

というのがTさんの言葉でして、「いや飲みに誘うのはがつがつしてると思わなかったんかい」という他ありませんでした。

 

結局これは、その場では「笑い話」ということになって消化され、その後はそこそこ談笑もしてお開きになったのですが、それでもTさんの当初の強張った表情は強く印象に残っています。

 

実を言うとこれが、私にとって「インターネットで知り合った人とオフ会をする」という行為の初体験でした。

初体験が「女性と勘違いされて勝手におじさんのナンパのターゲットになり勝手に絶望される」という、字面にしてみるとなかなか強烈な体験でもあります。

まあ前述した通り、パソコン通信で人に会うことはそれ以前に何度もあったんですが。

 

私自身は「何事もなかった」ということで片付けるつもりだったのですが、やはりTさんにはショックな出来事だったらしく、この後Tさんは折角育った自分の島を削除。

IRCチャンネルも解散されてしまい、新たにチャンネルを立てる人もおらず、同盟も自然消滅してしまった訳です。

 

IRCチャットのメンバーは間違いなく「何故急にこんなことに…」とか「Tさんどうしたん?」と思ったでしょうし、実際掲示板でそういう疑問や、心配する書き込みもあったのですが、当時は仁義と思って一切この話をしませんでした。

 

あれから20年近く経ち、いい加減時効だろうと思われるので、自分の記憶消化の為に書いてみました。

今となっては、ただただTさんがご壮健であることを祈念するばかりです。

 

あの後、MMORPGの隆盛と共にCGIゲームはゆっくりと下火になっていき、そのMMORPGの隆盛もソーシャルゲームにとって代わられ、今ではオンラインゲームはスマホ市場のまっさかりです。

過ぎ去った盛衰を思い起こすのは、懐かしくもあり、どこか寂しくもあるのです。

 

この後私は、「人はどんな行動をするとweb上で女性に勘違いされるのか」ということに興味を持って、一時期ネカマの研究をしたりしていたのですが、まあそれは余談です。時効ということにしておいてください。

インターネットのほんの一隅で起きた、小さな友情の始まりと終わりの物語でした。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:njt1982

はじめまして。

8/29に『僕らはSNSでモノを買う』‬を出版します、飯髙悠太です。

 

SNSが登場し、今では8000万人の方が利用しています。

今世の中に上がっているSNSの企業活用事例といえば、「キャンペーンを実施しフォロワーが○万人増えた・エンゲージメント率が○%向上した」など、売上に直結しているものではなく、SNS内においての数字ばかり。

私はこの状況に不安と疑問を感じています。

 

みなさまも感じてるように今の消費購買において、SNSは大きく寄与しています。

企業は売上がないと潰れてしまいます。なのにSNS活用のKPIがフォロワーでいいのでしょうか?

本著ではSNS活用でしっかり売上をあげていこう。そしてSNSの考えかたなどをお伝えしたいと思っています。

 

今回は、9章「SNS時代の購買はULSSASになる」の全文を公開します。

・本著出版に対する想い「8/29初書籍出版!タイトルは「僕らはSNSでモノを買う」 #ウルサス本」

『僕らはSNSでモノを買う』の目次・はじめに・8章全文公開

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9章 SNS時代の購買はULSSASになる

 登場人物

 

 

 

飯髙

SNS時代の購買プロセスを、僕たちは「ULSSAS」と名付けているんだ

木下

ULSSAS?

飯髙

ULSSASというのは、UGC(ユーザーが作ったコンテンツ=口コミ)→Like(いいね)→Search1(SNSで検索)→Search2(ヤフー、グーグルなどで検索)→Action(行動・購買)→Spread(拡散)を指す造語。SNS時代に、どのように情報が伝播するかを追いかけた結果生まれた概念なんだ

 

この購買プロセスの特徴は、まずUGCが起点になっていることです。

ここまで何度もお話ししましたが、情報爆発時代には、自然発生的な口コミが一番大きな力を持ちます。

この口コミを、購買サイクルのトップに置いていることがポイントです。

 

商品を買ったり、サービスを受けたりしたユーザーが「この商品(サービス)、すごくいい!」とつぶやいたとします。

このUGCが、すべてのスタートになります。

個人がそれぞれメディアを持っているという考え方です。(もしもここでUGCが生まれなければ、企業がコンテンツを作って投入することになります)

 

 

次の段階がLike。友達やツイートを見た人が共感して「いいね!」や「リツイート」をします。

そして、「いいね!」をした人の中には(共感した人の中には)、商品やサービスについてSNSやグーグル、ヤフーを使って、商品名やサービス名で検索(Search)を始める人もいます。

 

このSearchを、SNSでの検索と、グーグル、ヤフーなどの検索エンジンでの検索の2つに分けたのもポイントです。

 

実は、SNSサービスの利用目的は、もともとSNSがリリースされたころの主な利用目的だった「友人、知人とつながること」だけではなく、情報収集の場になってきています。

 

検索エンジンだけではなく、SNSで検索をするユーザーはどんどん増えています。

ツイッターやインスタグラムなど、SNSで検索されるのは、商品名や位置情報などの情報や、その商品やサービスに対する評判や意見など。

イメージとしては、「リアルな声をのぞく」ために検索をするといった感じです。

 

 

一方で、グーグル、ヤフーなどでの検索は、公式サイトにたどり着いたり、知識を検索したり、詳細な情報を検索する場合に使われます。

お店なら予約をする場合もありますし、商品ならECサイトで購入することもありますよね。イメージ的には、司書や先生に尋ねる感じでしょうか。

 

UGCで口コミが生まれ、それに共感したユーザーは、まずSNSでその商品やサービス名を指名検索します。(Search1)

 

そこで公式アカウントの様子を見たり、商品の評判をチェックしたりしたユーザーは、その後、グーグルやヤフーで、さらに詳細な情報を確認します。(Search2)。これが、2段階のSearch(検索)になります。

 

検索をしたユーザーのうち何人かが商品を買うと、これがAction(購買)になります。

 

そして購買するというActionが生まれ、その人たちが「この商品よかった!」とSpread(拡散)すると、さらに新しいUGCが生まれます。

このUGCがまた「いいね!」されていくことで、ULSSASのサイクルが自動的に回っていきます。

 

ちなみに、最後のSを、Share(シェア)ではなく、Spread(拡散)としたのは、最近は「どうぞ見てくださいね」という情報提供というよりは、最初から拡散を目指した「承認欲求をのせた投稿」の意味合いが強いからで、これもまた最近のユーザーの特徴的な行動となっています。

 

***

 

浅野

なるほど。UGCが生まれたら、ULSSASのサイクルが回りはじめるということですね

木下

うーん、私はまだちょっとULSSASの購買サイクルが、うまくイメージできないのですが……

飯髙

たとえば、木下さんが友達の投稿で、ものすごく美味しそうなカニを見て、「いいね!」をつけたとするじゃない

木下

はい

飯髙

まずは、その友達のつけたハッシュタグやお店の位置情報で店名を特定するよね。

そのあと、口コミを見たり、予約をしたりするために、グーグル、ヤフーを調べるんじゃないかな

木下

たしかに

飯髙

それで、実際にそのお店に行ったら、友達と同じように、そのカニを撮影してアップするんじゃないかな。

ここで木下さんのユーザー行動はいったん終わるけれど、この投稿こそが、次のUGCとして、木下さんをフォローしている人たちに届く

木下

なるほど。たしかに最近の自分の行動を振り返っても、同じようなことをしてるなと思いました

 

***

 

もし、このULSSASの循環を意識的に作ることができれば、費用対効果の高い施策となるでしょう。

たとえば、「この商品は最高だよ!」と、口コミを発生させたユーザーに100人のフォロワーがいたとします。

もし仮に、フォロワーのうちの何人かがこのUGCをリツイート(拡散)したとしたら……。

そして、さらにそのフォロワーの何人かがリツイートしたとしたら……。

UGCから生まれた流れが、無限に連鎖して、ユーザーに届いていく可能性もあるのです。

 

ユーザーのコンテンツによって、このULSSASサイクルがうまく回っていくとしたら、それは企業にとって大きな資産になることがわかるでしょうか。

 

これまで検索に対するマーケティング手法は数々いわれてきましたし、ある程度方法論も確立したと思います。

でも、SNSマーケティングの手法は、まだほとんど提唱されていませんし、効果検証もされていません。

今後、SNSマーケティングは、ULSSASがスタンダードとして定着するのではないかと考えています。

 

浅野

今、ULSSASをうまく回しているのって、どんな例があるでしょうか

飯髙

そうだなあ。UGCを生成する企業ということだと、さすがにスナップマートhttps://snapmart.jp/は上手だなあと思うよ

木下

スナップマートって、自分が撮影した写真を企業が買い取ってくれるサービスですよね

飯髙

そうそう。写真を出品した人は、自分の写真を企業に買ってもらったら「スナップマートで写真が売れました」とツイートするよね。

まずここでUGCが発生します。そしてそれを見たユーザーは、自分も写真を撮って出品してアップしようと思うかもしれない。ここでもUGCが発生する

浅野

そもそも、UGCが発生しやすいモデルなんですね

飯髙

そうなんだよね。そして、このUGCを見た企業がSNSや検索エンジンでスナップマートを調べ、写真を買うようになれば購買につながるでしょ

木下

これが2つのSとAですね

飯髙

このケースでは、購入した企業自体がスナップマートのことをつぶやいたり、拡散するわけではないかもしれないけれど、その写真が広告に使われたりしたら、その写真を売ったユーザーは、「これ、自分が撮影した写真なんだ!」と、拡散する可能性が高いよね。ここで、拡散のSが起こる

浅野

そうか。写真を買う企業が増えれば増えるほど、ULSSASのサイクルが回り続けるのか

木下

そこまでくると、自動的にULSSASのサイクルが回っていくわけですね

飯髙

そうだね。この例でもわかるように、SNSマーケティングで企業がやるべきことは、UGCがより拡散されるようにSNSを運用することになるね

 

***

 

では、このULSSASのサイクルをより効果的に回すためには、何に気をつければいいでしょうか。

それはひとえに、UGCを増やすことに尽きます。

 

すでに、お話ししたことのくり返しになりますが、UGCを増やしたり広げたりするためには、

• UGCが生まれやすい企画を考える

• 生まれたUGCを効果的に広げる

の2つの方法があります。

 

次の章では、このULSSASのサイクルを回すために、企業がすべきことについてお話しします。

 

9章 まとめ

・SNS時代の購買プロセスはULSSASになる。

・ULSSASが回転しはじめると、自動的にそのサイクルが回っていく可能性がある。

・企業がすべきことは、起点となるUGCを生み出すことと、効果的に広げること。

 

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【著者プロフィール】

著者名:飯髙悠太

広告代理店、制作会社、スタートアップで複数のWebサービスやメディアを立ち上げる。

企業のWebマーケティングやSNSプロモーションをはじめ、東証1部上場企業を含めて100社以上のコンサルティングを経験。

2014年4月、「ferret」の立ち上げに伴い株式会社ベーシックに入社後、「ferret」創刊編集長、執行役員に就任。

2019年1月にホットリンク入社、同年4月執行役員CMOに就任。

◯Twitterアカウント▶いいたかゆうた

 

十年ほど前、仕事を引退した何名かの団塊世代男性に「過去のあなたの経験を教えてください」とお願いしてみたことがある。

こうしたお願いに対し、たいてい彼らは苦労話を交えながら“武勇伝”や“成功体験”を語ってくれた。

 

ドラマチックで臨場感溢れる昔話を語る時の彼らの表情は、誇りにみちていた。

個人の経験談を語る時だけではなく、“昭和”“高度成長”といった時代を回想する時も、やはり自信が溢れていた。

 

ところが、ついさっきまで自信に満ち溢れていた団塊世代男性が、一転、自信のない姿をみせて驚くこともあった。

 

たとえば海外旅行の際、日本人と一緒にいる時には自信に溢れた態度をとり、奥さんや添乗員には居丈高だった男性が、自由時間になったとたん萎縮し、奥さんに頼ってしまうケースなどだ。

本当に自信が内面に蓄積しているなら、場面や状況によってそこまで態度が変化するとは思えないのだが。

 

氷河期世代などに比べると、団塊世代には確かに自信が満ち溢れていた。

だが、その自信はどこまで当人に内在化された“内側の自信”だったのか?

 

なかには“内側の自信”を確かに持っているとおぼしき団塊世代男性もいたけれども、一方で、自信を“外側の自信”に頼っていた人も多かったのではないか。

 

自信をアウトソース出来た団塊世代

この、“内側の自信”“外側の自信”という視点でみると、団塊世代とは、自分の内側に自信を蓄積出来なかったとしても、ある程度、外側に自信をアウトソースできた世代のようにみえて私は少し羨ましく感じる。

少なくとも就職氷河期世代以降に比べれば、それがやりやすい世代なのではないか。

 

たとえば、終身雇用制・会社と一蓮托生の精神・“モーレツ社員”といった精神が生きていた時代なら、個人の内側に自信を蓄積させなくとも、自分の所属する企業の業績が伸びていく限り、企業の自信をあたかも自分の一部のように体感できたのではないか、と思う。

具体的に書くと、たとえば「松下の自信は私の自信」「トヨタの誇りは私の誇り」と体感しやすかった(または錯覚しやすかった)のではないだろうか。

 

まただからこそ、自分自身が多少へこまされようとも、健康上のリスクを侵そうとも、企業と一蓮托生の精神で仕事に臨むことが出来たのではないだろうか。

この構造が、企業には忠実で勤勉な社員を与え(=経済上のメリット)、社員には企業の自信を自分の自信とする機会を与える(=メンタル上のメリット)ことで、ある種の互助的関係が成立していたようにみえる。

 

もちろんこれは良いことづくめではなく、社会問題となっていた過労死を生み出す素地にもなっていただろうし、個人主義者には生き辛い社会状況だっただろうけれども。

 

また、会社に所属してなくても、会社がそれほど業績を伸ばしていなくても、“外側の自信”を獲得する機会はあった。

何が言いたいのかというと、「高度経済成長という時代」「発展し続ける日本社会」から、一定の“外側の自信”を団塊世代は獲得できたのではないか、ということだ。

 

戦後しばらくの混乱期はともかく、高度経済成長期の日本は、所得の拡大や電化製品の普及、科学技術の発展、などなどの只中にあった。

この時代、もしも個人の内側に自信を蓄積できなくても、日本社会が高度成長していく限り、あたかも社会の成長を自分の成長であるかのように体験可能だったのではないか。

 

東京オリンピックや新幹線の開通といったイベント、電化製品の普及と生活水準の向上、といった諸々は、発展する日本社会を我がことのように体感するうえで大いに役立っただろう。

相対的な貧しい境遇に置かれていた人でも、成長する社会に“外側の自信”をアウトソースし、社会がきっと自分たちに豊かさを保証してくれるとも信じられるなら、勤勉に、誇りをもって生きていくことができたのではないか。

団塊世代の皆さん、いかがですか。

 

就職氷河期以降は自信をアウトソーシング出来ない

ところが、就職氷河期世代からはガラリと話が変わってくる。

まず、彼らには会社との蜜月関係が無いから、会社の自信を自分の一部のように感じ取る機会が無い。

 

会社と個人の関係が、ウェットな一蓮托生からドライな契約関係に変わり、終身雇用制という神話が過去のものになった時代のなかで、会社の自信を“外側の自信”として体感することは難しい。

まして派遣社員や契約社員がたくさん存在する時代である。

数年単位の契約社員の立場で「トヨタの誇りは私の誇り」などと思いこむのは不可能だろう。

かつての企業精神は、時代の流れのなかでとっくに形骸化している。

 

加えて、日本社会そのものに“外側の自信”を重ねることも不可能になって久しい。

バブル景気の崩壊以後、就職氷河期世代は社会から力強いイメージを受けとる機会もなく、むしろ閉塞感を受け取らざるを得なかった。

 

高度経済成長期の力強い日本社会とはほど遠い、不景気で、援助交際や新興宗教のはびこる、世紀末の気分のなかで社会の砂を噛みしめなければならなかった。

社会全体の生活水準もさして向上せず、忙しさと息苦しさの拡大再生産が目につく状況では、社会から“外側の自信”をアウトソースすることは不可能だろう。

 

「社会はだんだん発展し、私たちを豊かさへと連れて行ってくれる」、などという保証のなくなった状況のなかで、氷河期世代以降が勤勉に・誇りを持って生きろと言われても、もう“外側の自信”を社会に期待することはできない。

 

自信の自己責任制度が定着した社会のなかで

だから氷河期世代以降に対して、社会や組織や企業に“外側の自信”を求めることも、そこに期待して社会や企業への忠誠を求めるのも、無理筋だと私は思う。

 

年配世代のなかには、若い世代に社会や企業への忠誠を期待する向きもいまだあるようだが、社会や企業が“外側の自信”や“外側の誇り”を提供できていない限り、これは成り立たない話だろう。

かと言って、高度経済成長をもう一度呼び起こすことも、昔のような企業精神のもとで会社を運営していくことも難しいだろう。

 

結局、氷河期世代以降においては、自分自身の内側に自信を蓄積していくしかない状況になってきている。

自分自身で戦って、自分自身で生活を成立させる。自分自身が修羅場を潜り抜ける。こうした成功体験を、個人それぞれが自分の力で積み上げ、“内側の自信”を蓄積させるしか、自信や誇りを体感できなくなっているのが現況だ。

 

しかし自分自身の内側に自信を蓄積させる、というのは言うほど簡単なことではない。

いわば「自信の自己責任制度」のようなもので、自信や誇りが持てないとしても誰かがそれを保障してくれるわけではないのだ。

日常のコミュニケーションや仕事先で自信を獲得できない個人には過酷な時代になった、といえる。

 

とりわけ就職氷河期世代は、“いい企業に入っていい仕事が得られれば幸せになれる”という高度経済成長期の神話を内面化したまま社会に漕ぎ出し、その先で就職難に出会ったわけで、はじめから“自信は自分の内側に育むしかない”という割り切りが出来ていないにも関わらず、自信をアウトソースできない環境に曝され続けた。

 

この世代の少なからぬ割合は、“内側の自信”を自ら養うしかないという(より年下世代のような)割り切りも出来ないまま、かといって“外側の自信”を企業や社会から得られるわけでもないまま歳月を過ごしてしまい、企業や社会が“外側の自信”“外側の誇り”を提供してくれなかった事に苛立ちや怒りを忍ばせているようにみえる。

 

自信に満ち溢れているようにみえて、自信のかなりの割合を“外部の自信”にアウトソースしていた団塊世代も、物質面ではかなり苦労していた。

特に昭和20年代に苦しい思いをした人は少なくないはずである。

反面、自分自身の内側にさほど自信を蓄積しなくても、社会や企業を介して自信や誇りを体感できていた点では、彼らは恵まれていたと言える。

 

正反対に、就職氷河期以降の世代は、物質面では恵まれているけれども、社会や企業を介して“外側の自信”をアウトソースすることが困難な社会を生きている。

一個人にとって、自信の有無や誇らしく生きていけるか否かは、心象風景全般に大きな影響を与えるファクターだが、このファクターに関する限り、現在の世代は団塊世代よりも不利な状況を生きている。

そんな後発世代が、洗髪世代の人々に「お前も自信を持て」「最近の若いモンは滅私奉公を知らない」といわれたとしても、「だったら俺達にも、終身雇用を保障しろ、高度経済成長の雰囲気をよこせ」と反発したくなるのも当然だろう。

 

時代の変化は、社会や企業のありかただけでなく、それらに“外側の自信”を期待する人々の心のありようにも大きな影響を与えているはずだ。

“外側の自信”が期待薄だと判明してから三十年近い歳月が流れ、現在の二十代や三十代は「自信の自己責任制度」が当たり前になった後の世界を生きている。

若い彼らの目に、氷河期世代や団塊世代の心象はいったいどう映るのだろう。

 

――『シロクマの屑籠』セレクション(2008年6月20日投稿) より

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Banter Snaps

副業で年間4000万円を稼いでいるという、motoさんの本がベストセラーになっている。

一つのところにとどまっても、給料がなかなか上がらない状況では、「転職」あるいは「副業」で所得を上げたいという方が多いのだろう。

こうした本がベストセラーになっているのは、世相を反映していると言えそうだ。

 

ただ、実際に副業をやっている人がどの程度いるのか、といえばまだまだ少ない。

厚生労働省の資料によれば、副業を実際に行っている人はサラリーマンの多くを占める年収200万円〜1000万円の方々の2%〜3%程度に過ぎない。

要するに、副業をやりたいが二の足を踏んでいる人が多いのだ。

これには様々な理由が考えられるが、大きくは2つの理由があるだろう。

 

労働者側のスキル

一つは労働者側のスキルの問題。

図を見ていただくとわかるが、副業者の割合が多いのは、年収200万円未満と年収1000万円以上の人たちである。

年収200万円未満の方々は、生活が本業だけだと苦しいので、アルバイトなどをこなしている人たちだろう。いわゆる「兼業」である。

 

だが、motoさんの本にあるような「稼げる副業」をやっている人たちは、年収1000万円以上の人々だ。

要するに、「今でも稼げるハイスキルな人たち」が、そのハイスキルをさらに生かして稼ぐために副業をやっているのだ。

 

つまり「副業」は、「稼げるひとが、更に圧倒的に稼げるようになる」ものであり、中途半端なスキルしか所持していない人にとっては参入障壁が高い、という性質を持っている。

 

企業側の考え方

そして、もう一つは企業側の考え方の問題だ。

例えば、こんなニュースを見た。

正社員の副業、「今後も認めない」41% 理由は?

日本商工会議所が「商工会議所LOBO(早期景気観測)調査(7月分)」に付帯して「正社員の副業・兼業に関する状況について」を会員中小企業に聞いたところ、現在認めていない企業が73%。その中で今後も認めない41・4%の企業の理由は「長時間労働・過重労働につながりかねない」が大半だった。

副業・兼業に関し「積極的に推進している」のは1・7%。「容認している」が25・3%。認めるかどうか「現在検討している」が7・0%あり、「将来的には検討したい」が24・6%。残り41・4%は今後の検討余地も示していない。

理由の上位2項目は「長時間労働・過重労働につながりかねない」(67・6%)と、「社員の総労働時間の把握・管理が困難なため」(49・4%)。

いまでもまだ、企業は副業を認めることに消極的なのだ。

 

昨年9月には、こんなニュースもあった。

副業・兼業、企業の75.8%が許可する予定なし

企業調査で従業員の副業・兼業に対する意向を調べたところ、「許可する予定がない」が圧倒的に多く75.8%。他方、「許可している」は11.2%、「許可を検討している」は8.4%にとどまった。

同じ調査ではないので、完全に比較はできないが、要するに、殆どの企業は副業を歓迎していない。

 

もちろん、大きな流れとしては、雇用は流動性を増し続けるだろう。

実際、主要企業では副業解禁がトレンドとなっている。

副業解禁、主要企業の5割 社員成長や新事業に期待

 

また、政府も副業推進に前向きである。

副業・兼業、原則認める届け出制に 実態把握が課題

 

だが、それであっても、まだ副業を認める企業は、主流派ではない。

また、副業を認めている会社でも、副業には懸念を示すところもまだまだある。

一体、なぜだろうか。

 

それは、労働基準法38条にこう書かれているからだ。

「労働時間は、事業場を異にする場合においても、労働時間に関する規定の適用については通算する」

 

実際、上の「副業を認めない」会社の理由に、

「長時間労働・過重労働につながりかねない」と、

「社員の総労働時間の把握・管理が困難なため」が上がっているのは、この労働基準法38条のためだ。

 

具体的には、どういうことだろうか。

アデコのページには、わかりやすい例が載っている。

Q18アルバイトを募集したところ、他で正社員として勤務する方が応募してきました。この方を採用した場合、労働時間はどのように管理するのでしょうか。

労働基準法第38条「労働時間は、事業場を異にする場合においても、労働時間に関する規定の適用については通算する」と定められているため、本業と副業の勤務先の労働時間を通算して扱うことになります。

例えば、A社で平日8時間勤務する者が、毎週土曜日B社で8時間勤務する場合、通算の労働時間は週40時間を超えることになります。(中略)

A社で勤務する者がB社で副業をはじめた場合、B社に割増賃金の支払義務が生じます。

つまり、副業者は、労働時間を本業と通算されるため、副業者を雇った企業は、なぜかこの人に「割増賃金」を払わなければならないというのだ。しかも、自己申告ベースで。

 

これを知って、私がまず感じたのは、

え?

何言ってんの?

だった。

 

副業者を雇った会社からすれば、本人が仕事以外に何をしていようが、基本的に感知できないはずだ。それなのに「割増」だけが発生する。

もっといえば、「管理不可能」な業務外のことまで、なぜ会社首を突っ込まねばならないのか。明らかに不合理である。

 

よくわからん。

こういう話は、労働本専門の弁護士に聞こう。

そこで、労働法に詳しい、知人の弁護士に聞いてみた。

 

森・濱田松本法律事務所の荒井さんという労働法の専門家だ。大手総合商社や中央省庁への出向の経験もあり、企業の実務にも詳しい。

「柔軟な働き方に関する検討会」の委員でもある。

 

副業者に割増賃金を払う必要なんて全く無いですよ

私はかねてからの疑問を聞いた。

「荒井さん、副業者を雇う時、労働時間の通算をしなければならない、という法律なのですが、これって本当に割増賃金を払わなければならないのでしょうか?」

 

「いやいや、払う必要なんて全く無いですよ」

 

「…え?」

 

「まず法律の条文の細かい話からすると、「事業所を異にする」とは書いていますが「使用者を異にする」とは書いていない。」

「……確かに。」

「使用者を異にする場合でも割増賃金を払え」というのは、あくまで行政の考える解釈であって、いくつかある考え方の一つでしかないです。最終的には裁判所が決める話で、絶対の根拠ではありません。日本を代表する学者たちも「通算するのはおかしい」つまり払わなくていい、と言ってます。」

 

「おお……、根拠って、ないんですね。」

「マジです。というか、時代遅れの行政解釈を見直すべきでしょう。仮に裁判になったとしても、「管理不可能なもの」の責任を取らせるような判決は出ないと思います。「柔軟な働き方に関する検討会」の報告書でもこの解釈の見直しを提言しました。それでいま議論が進んでいます。」

 

私は不思議になって聞いた。

「なんでこんな事になってるんですかね。」

「単純です。今の日本の労働法は、一人が一社だけに勤めることを想定していて、一人が複数社に出入りすることを想定していないからです。旧来の日本型雇用のために作られていて、アップデートされていないんですよ。」

 

「なるほどー」

「もっと言えば、裁判所は「副業の禁止などできない」と昔から言っていて、副業についてはすでに争うまでもなく結論は出ています。副業は自由。制限もできないし、企業はそれを管理する必要はない。それだけです。」

 

「うは、そうなんですね。」

「ただ、企業側にも従業員が副業をすることによるリスクがありますので、現在は「届出すれば副業OK」というところで折り合いをつけている企業が多いのではないですかね。」

 

「副業をやっていることを知られたくない」という場合はどうすればいい?

「でも、「届出」をすればいい、という会社で始めるならともかく、「禁止」という会社で副業をやりたいひとは、どうすればいいですかね?」

 

「黙ってやればいいんです(笑)。」

 

「(笑)ですよね」

「副業の一律の禁止はほとんどの場合無効なはずので、そのルールは無効ということになりますね。許可を求めたのに不合理に禁止するのも違法です。もちろん、機密を漏らしたり、競業会社に勤めたり、会社に損害を与えるようなことをしてはいけない。それは副業をやるかどうかと関係なくダメです。」

 

「ま、そりゃそうですね。」

「でも、そもそも、企業は業務時間外のことに関知できないのは当たり前です。だから、黙ってやれと。実は行政の立場でも、企業が「社員の副業を知らなければ」時間を通算しなくていいことになっています。副業についてあれこれ聞いてしまうほうが、むしろ法的なリスクは高いですよ。」

 

「なるほど……。ウチの会社も実は、副業率100%なのですが、全員が何をやっているか、私もほとんど知りません。」

「それでいいんです。そんなのに首を突っ込む方が危ないです。もちろん、体調が悪そう、といった具体的な兆候がある場合は別です。副業の話に限りませんが。」

 

「でも、なんで副業を禁止する企業が多いんですかね。」

「単純に、労働力を囲い込みたい、というのが本音でしょう。でも終身雇用の時代でもあるまいし、「副業するな」は、ちょっとどうかと思いますけどね。」

 

「(苦笑)」

「私が見聞きしてきた企業の中には、優秀なのに時間を持て余しているような人がたくさんいました。やることが終わっているのに、5時を過ぎても課長が席を立つのを待っている人がたくさんいるんですよ。そんなのって無駄じゃないですか。他の会社で戦力になったほうがよほどいいと思いますよ。」

 

副業が「日本型雇用」に風穴を開ける

「いい加減、流動性の極端に低い日本型雇用はバージョンアップの必要があります。優秀な人は様々な場所でもっと活躍して、稼いでほしい。もう一社が人を抱え込んでいい時代ではないんです。」

「そうですね、ただでさえ働ける人が減りますもんね。」

 

「でも、流動性を上げるため、という理由で解雇規制の撤廃は難しいし、やるべきでもないでしょう。困る人が大勢出ます。

「はい。」

 

「だったら「◯◯はやるな」というより、「もっと働きたい人は自由に働いてください」ということを広めていけばいいんじゃないかと、私は思っているんです。そこから日本型雇用が少しずつアップデートされるのではないかと思うんですよ。」

 

 

私は話を聞き、「適材適所」という単語が頭に浮かんだ。

 

解雇規制が雇用の流動性を低くし、結果的に低賃金を招くのなら、お金が欲しくて、働くのが得意な人はどんどん働いてもらえばよいのだ。

むしろ「本業」で安定した給料をもらいながら、「副業」でチャレンジできる人もいるかも知れない。

 

そんなことを、荒井さんの話から想像すると、少し楽しくなった。

 

 

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Photo by John Moeses Bauan on Unsplash

以前に聞いて妙に感心した言葉の一つに

「夫婦関係はどっちかが勝ちすぎてはいけない。強いほうが適宜負けてあげる事が大切なんだ」

というものがあった。

 

この言葉の意図する事を解説すると、口のうまいヘタというのは筋力みたいなもので、フラットに勝負をし続ければ、いつまでたっても強いほうだけが延々と勝ち続けるに決まってるだろうという事だ。

筋骨隆々の人と、ヒョロガリの人が腕相撲を100回やったとして、ヒョロガリの人が1度も勝てない事を考えてもらえばわかりやすいだろうか。

 

夫婦喧嘩もこれと全く同じで、強い方が適宜手心を加えなかったら、弱い方はいつまでたっても負け続ける。

そんな一方的なゲームをやらされ続けて、弱いサイドが楽しいはずがないのは言うまでもない。

 

上に書いた言葉を聞いてから「これは確かに良くない」と思いなおし、僕はかなり意図的に妻との口喧嘩で折れるようになった。

 

最初の頃はこの自分から”負け”をわざわざ選ぶことに強い違和感があったのは事実だが、最近「ああ、これは外交と全く同じで、清濁併せ呑むようなものなのだな」と”わざわざ自分から負ける”という一見すると非合理にもみえる行いにも整合性が見いだせるようになってきた。。

 

勝ち続けるよりも大切な事が、確かにそこにはある。

もっといえば、夫婦関係は継続して続くこと自体に意味があるのだ。

 

 

日韓をみてると、まるで夫婦だなと思う

最近の日韓をみてても実に思うのだけど、夫婦関係は外交と本当によく似ている。

 

私達ヒトは「お互い人間なんだし、話し合えばわかるはず」と思いがちだけど、はっきり言ってこれはかなり傲慢な考えである。

だいたいの場合において、多くの人がいう「話し合えばわかる」は「相手が自分の都合のいいような思考回路になってくれる」という概念に非常に近い。

 

例えば、僕はかなりのロジカル原理主義なのだけど、一方で妻は徹底した共感第一主義だ。

なんでも理詰めで徹底してモノを考える僕とコミュニケーション自体に価値を見出す妻は、同じ日本語を話しているにも関わらず、尊重ポイントが全く異なるので、かなりの頻度で意見が衝突する。

 

こういう時、いくらお互いが話し合ったところで、どちらかが相手の思想に隷属するだなんて事はありえない。

僕は共感第一主義者には絶対になれないし、妻もロジカル原理主義なんて絶対に採択しない。

せいぜいいいとこ「私達はわかりあえない事がわかりましたね」ぐらいが関の山だ。

 

日韓の歴史観もこれに近い。

詳しいことは”日本人が知るべき東アジアの地政学(ものすごく面白いのでオススメ)”あたりを読んでほしいのだが、なんでこんなにも話が噛み合わないのかといえば、日本は西洋文化ベースのファクトを元にした国際協定という思考で対話を持ちかけてるのに対して、韓国の歴史観は中華思想ベースの朱子学を基盤にしたイデア的なものなので対話を返している。

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だから日本の考えで韓国にモノを要求しても、韓国側からすれば原理原則自体がそもそも違うので、会話自体が成り立たないのである。

島国である日本と半島国家である韓韓の思想は男脳と女脳ぐらい違う。

 

わかりあおうだなんていう「相手が自分の都合のいいような思考回路になってくれる」事を期待するのがどれだけ馬鹿げているか、よくわかるだろう。

 

交易は続ければ豊かになる

「なんでわかりあえないような相手と交流しなくちゃいけないんだ?国交なんて断絶すればいいじゃないか!」

こう息巻く人もいるかもしれない。けど、それでも交易は続けるべきなのだ。この歴史や経済の原理原則からも明らかである。

 

私達が生きる社会は、高度にグローバル化した資本主義社会である。

このグローバル資本主義だけど、現代レベルでつながりが成立すると恐ろしいレベルで経済が発達して人は豊かになる。

 

例えば、村に私とあなただけがいたとしよう。

この段階では、仕事なんてせいぜい狩猟か農作物を育てる事ぐらいが関の山である。

けどこれが村単位に人の数が増えれば、分業をより推進できるようになり、私達はもっともっと豊かになれる。

 

ある人は医者の役割に特化できるようになるし、ある人は農作物を育てる事により特化できる。

またある人は料理屋をひらいて、美味しい料理を作る事により専念できるようになる。

 

このように、人の数が増えて、交流する人の数が増えれば増えるだけ、人間の生活はより徹底して分業化を加速できるようになる。

結果、人は圧倒的に豊かになるのだ。

現代社会が農耕社会と比較して尋常じゃなく豊かなのは、グローバル化の恩恵なのである。

 

実は日本と韓国も、普通の人が考えている以上に密に仕事が複雑に絡み合っており、国交をやめると、ものすごく色んな人が困る事になる。

国交断絶をわかりやすく言い換えれば、村で豊かな文化を享受している人に対して「今から村は解散だ。皆で野生に戻るぞ」というようなニュアンスに近い。

 

国交というのは、豊かな社会の基盤なのである。

それを拒絶するのは豊かな社会から貧しい社会へと逆戻りするようなもので、思想が少し違うからといって国交を分断するのは、選択的貧乏へと私達を加速させるだけなのである。

 

完璧にわかりあえなくても、一緒には居られる

僕と妻は確かに相手の宗教には絶対に隷属しないけど、それでもお互い暮らしていると様々な楽しい思い出が蓄積していく。

例えばこれまでフランスやスペインなど、様々な場所に旅行を楽しんできたのだけど、これは一人では絶対に作ることができないモノの一つだ。

 

人間、墓場に持ち込めるのは記憶だけである。

僕はこの豊かな思い出こそが、夫婦関係で得られる最高の成果物だと思っている。

「人は一人では生きられない」というのは現代では嘘だが、「人は一人では心豊かに生きられない」というのは誰もが同意する事実だろう。

 

実は人生で最も長い間、同じ時間を過ごすのは親兄弟ましてや子供ではなく、配偶者というもともとは血のつながっていない他人だった人である。

親兄弟子供とはせいぜい30年ぐらいしか一緒に生活しないけど、配偶者は下手すると60年超は共同で生活する。

文字通り、思い出を生み出す量が”桁違い”の相手といえよう。

 

そんな”桁違い”のポテンシャルを秘めた配偶者、けど残念ながらやっぱり他人だからなのか、これまた思想が完全に一致する事は自分の周りを観測していても、まずないなと思う。

 

ここで相手を自分と同じ思想に染めようと思うか、それとも徹底して対話して「私達はわかりあえない事がわかりましたね」ともってくかが、良好な夫婦関係を続けられるか否かのポイントだろう。

そして適宜、どちらかが”助け合い”の心で折れ合って、持ちつ持たれつの関係を続けていければ最良である。

 

国も夫婦も、完全にお互いをわかりあう事は非常に難しい。

けど、そんな事をせずとも、お互いを尊重さえできれば、一緒に清濁併せ呑んで上手にやっていける。

 

男女関係も国交も、シンプルに考えてしまうと「意見が合わない奴となんて一緒になる理由がない」と性嫌悪や反日、反韓のようなポピュリズムの罠に陥りがちだ。

 

けど、豊かさの源泉は確かにそこにあるのだ。

私やあなたがここにいるのも有性生殖が今まで続いたからこそだし、豊かな文化を享受できているのも様々な国と国交が行われているからこそである。

 

「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」

 

日本にもかつてこのように述べた歌人がいたけれど、男女も日韓も、善悪二元論のような勧善懲悪の物語に落とし込むのではなく、清濁併せ呑むような感じでカオスである事を受け入れて、複雑な世の中を豊かに生きてゆきたいものですね。

 

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【プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Fort George G. Meade Public Affairs Office

「本当に頭がいい人は説明がうまい」

こんな主張をよく耳にする。

 

頭が良ければだれもがわかるように説明できるはずだ。

説明がうまい=ちゃんと理解している証拠。

などなど……。

 

たしかに、むずかしい内容を簡潔に解説したり要約したりする能力は、「頭がいい」要素のひとつだとは思う。

でも、説明のうまさと頭の良さは、本当に比例するんだろうか?

 

頭の良し悪し=説明がうまい・へた?

本屋に行けば、「だれでもわかる○○入門書」「サルでも理解できる△△の基本」「1日10分で学ぶカンタン××」といった書籍がずらりと並んでいる。

 

いったいどれだけわかりやすく書かれているのだろう……とワクワクしながら目を通してみるも、わりと高確率で「やっぱりわかんねーよ!」となるのはわたしだけじゃないはずだ。

 

「はじめに」からすでに専門用語のオンパレード、よくわからん偉人の言葉を引用してカタカナ語であれこれ書いている。

文章自体が堅っ苦しくて読む気がしない。というか、なんの話をしているのかさっぱりわからない。

 

結構な頻度でこういうことが起こるから、ふと思ったのだ。

「頭がいい人は説明がうまい、という通説は本当なのか?」と。

その理論でいくと、「説明がへたな人間は頭がよくない」ということになる。

 

でもその本を書いたのは、その分野に関しての第一人者だったり大学教授だったりするのだ。

当然、「頭がいい(知識があり深く理解している)」に決まってる。

それでも実際、頭がよくても説明がへた(素人に解説するのが苦手)な人は存在しているわけで。

 

まぁ

「頭がいい人は説明がうまいが、説明がへただからといって頭が悪いとはかぎらない」

ともいえるわけだけど、それなら頭の良し悪しと説明スキルは比例しないことになる。

 

では、説明スキルの高さはなにに影響されるんだろう? どんな要素が「説明力」を決めるんだろう?

 

説明スキルは頭の出来や表現能力だけでは決まらない

説明スキルにおいて、「そもそも頭のつくりがちがう」ということは多いにありうる。

たとえば、「数式を見たらなんとなく解き方がわかる」「一度見れば覚えられる」という天才タイプが、凡人にわかりやすく解説するのはむずかしい。

 

また、言語化能力のちがいも大きい。

考えていることを言葉にして伝えるのが得意な人もいれば不得意な人もいるし、単純にことばによる表現能力が足りないときもある。

 

でもそれに加えて、説明スキルを大きく左右するのは、「いろんな人と関わった経験があるかどうか」だと思う。

いろんな人との会話経験が多ければ多いほど、説明がうまくなる気がするのだ。

ちなみにここでいう「いろんな人」とは、年齢や性別、社会的立場や生活環境がちがう人、という意味である。

 

伝える配慮に慣れれば説明スキルが上がる

改めて考えると、わたしは小さい頃からいろんな人と会話する機会が多かった。

 

小学生のときはピアノ教室で一緒だった高校生とよく話したし、中学生のときは個別塾でよく顔を合わせた小学生の相談を聞いたし、高校生のときは塾のチューターをしている大学生と仲が良かったし、大学生のときは留学を機にさまざまな国籍の人と交流していた。

バイト先の40代の主婦や50代の男性店長とも休憩時間にふたりでランチをしたり、父親の同僚の方との飲み会にお邪魔したりしたこともある。

 

そうやっていろんな年齢や性別、立場、生活環境や家庭環境の人と話すと、「知っている」という前提条件が共有できないことに気がつく。

 

たとえば両親世代に「死亡フラグじゃん」「クソゲーすぎてワロタ」といっても、あんまり伝わらない。

同年代であっても、SNSをやっていない人に「リプ」や「インスタストーリー」と言っても「なにそれ?」という反応が返ってくる。

タピオカだって、おばあちゃん相手なら「きれいな写真が撮れてまわりに自慢できるオシャレな甘い飲み物だよ」と説明しなきゃ伝わらないだろう。

 

バックグラウンドが大きくちがうと、会話のいたるところで「共有できない部分」が現れるのだ。

 

その小さな認識のちがいを埋め合わせていかないと会話にならないから、しぜんと、「伝える配慮」に慣れていく。

この人と共有できる部分はどこだろう、共有できない部分はどこだろう。

そうやって、話す内容や言葉遣いを調整してコミュニケーションをとっていく。この調整が、説明スキルを大きく左右するんじゃないだろうか。

 

相手に合わせて話を調整することが大切

もちろんそこには言語化能力のようなスキルも必要なわけだけど、これはある程度「慣れ」でどうにかなる類のものだ。

 

『個人を幸福にしない日本の組織』という本では、

「日本人はきまったメンバーできまった仕事をするのは得意だが、新しいメンバーで新しい仕事をすることができない」

という国際経営者たちの意見を紹介したあと、こう続けている。

おそらく多くの日本人は自分からプロジェクトを企画して仲間を募ったり、プロジェクトをリードしたりするような経験を積んでこなかったからだろう。

異質な人を包摂し、多様な考え方を生かすノウハウも学んでいない。学校教育や、ボランティア活動などの経験不足も関係しているはずだ。

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たしかにわたしも、以前記事でも書いたように、日本人(といってもみんなじゃないけど)は異質で多様な人とのコミュニケーションに不慣れな人が多い気がする。

ただこれは、能力うんぬんよりも、経験値のちがいだ。

 

外国人に話しかけられてドキッとする人と、語学力がなくともうまいくコミュニケーションがとれる人。

性格的なものもあるとはいえ、多くの場合「外国人に慣れているかどうか」で反応が決まる。

事実、外国人が多く訪れる観光地では、外国人の対応に慣れている人が多い。

 

そういう人たちだって、きっと最初は訪れる外国人に戸惑ったはずだ。

しかし外国人観光客と毎日のように接するなかでしぜんと、「相手にわかるように伝える」という説明スキルを身につけていったのだと思う。

 

逆に、ふだんから同じような環境・立場・年齢・性別の人とばかり付き合っていると、相手に合わせて調節せずともある程度理解しあえることが多い。

そうすれば説明スキルは向上しないし、そもそも磨く必要もなくなる。

 

冒頭で挙げた「初心者向けの本でやたらむずかしいことを書く」という人たちはきっと、ふだんから「その分野に精通した人たち」と接していて、そのグループでしか共有されていない知識や語彙を「当然のもの」と思っているのだろう。

だから、筆者が想定する輪から外れているわたしなんかには「さっぱりわからん」となるわけだ。

 

説明べたな人はいろんな人と関わることからはじめてみては

結論として、説明のうまい・へたは、「相手がわかる範囲の言葉と知識に調整できるかどうか」にかかっている。

そしてそれは、「慣れ」の部分が大きい。

 

幼稚園教諭や保育士だって、最初から子ども目線でモノゴトを説明できたわけじゃないと思う。

子どもの突飛な疑問や意見を日々受け取るなかで、「子どもと共有できるエリア」を体感で身につけていったはずだ。

 

親子ほど年が離れた部下と仲良くやっている管理職の人も、最初は「相手のことがさっぱりわからん」からはじまったことだろう。

でもそこで匙を投げず、相手の話を聞きながら「お互いが共有できるエリア」にたどり着けるよう、知識や言葉選びを調整していったにちがいない。

 

相手がわかる範囲の言葉と知識に調整して伝える。これが、わたしのなかの「説明スキル」の定義だ。

そしてそれは、「自分と共有部分が少ない人とどれだけ関わったか」によって決まる。

 

説明が苦手、という人にはまず、年齢±10歳くらいの人と積極的に会話することをおすすめしたい。

自分との共有部分が少ない人と抵抗なく話せるようになるころには、しぜんと説明もうまくなっているんじゃないだろうか。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Ethan Hu)

「○○を知らないだなんて、人生の半分は損してる」

世の中にはこの手のフレーズで表現されるものが色々ある。

 

当然、僕もこのネタについて話し始めるとえらい長く話せるのだけど、今回は夏の北海道に絞って書いていくことにする。

「北海道って、冬に雪まつりとかスキーに行くところじゃないの?」と思っているあなた。

 

「夏の北海道を知らないのは、人生の半分ぐらい損している」

 

突き抜けるような青い空の美しさを、君はまだ知らない

北海道というと札幌や函館が有名だけど、ダントツでオススメなのは道東エリア(帯広~釧路~網走)である。

 

北の大地のナマナマしい自然はエグいぐらいに美しい。

上の画像は上士幌町にあるナイタイ高原牧場での一枚だけど、青と白と緑のこのコントラスト!

 

写真でも結構なものだけど、生でみるとこれがまあ圧倒される。

「今までみてきた風景は、画素が半分ぐらい欠けてたんじゃないか」と思わされるほどである。

 

北海道の自然は・・・なんていうか本当にエグい。

生命の本質をダイレクトにぶつけてきているかのような景色を眺めていると・・・都会で汚れた心が洗い流されるような錯覚すらおぼえてしまう。

上の写真は足寄町にあるオンネトーという湖だ。

曇りの日に訪れたのでやや灰色がかっているが、それはそれでまた味わい深い景色となっている。

 

ああ、なんでこんなにも北海道の自然はナマナマしいんだろう。

僕はそこまでキレイな風景に心惹かれるようなタイプではないけれど、道東の景色だけは別格だ。

何度見ても、魂の奥底にある何かが揺さぶられてしまう。

 

今回は訪れなかったけど、摩周湖や神の子池、知床五湖なんかはこれ以上にナマナマしいので、今年の夏休みの旅行先をどこにしようか迷っているような人は是非とも道東にいってみて欲しい。

あまりにも北海道が広大すぎるが故か、どこもかしこも全く混雑していないのもオススメポイントだ。

 

炉端焼きの愉悦

炭火で焼いたとれたての魚介類の旨さはちょっと他にはない。

 

僕は炉端焼きをこの上なく愛しているのだけど、これがまあ探しても全然見つからない。

海辺の街にはあってもよさそうなものなのだけど、どうも炭火を維持する管理コストが結構かさむらしく、どこもかしこも導入には消極的なのだという。

 

こちら釧路にある鮭番屋は、漁協組合が運営する炉端焼きのお店である。

ありがたい事に炭火で素材を焼きあげる作業は全部お店の方がサービスでやってくれるという大変におもてなしに富んだ名店だ。

利用者は食べたいものを選んで、炭火でこんがりと焼きあがるのをじっくり待つだけである。

それだけで、ジャストに火が入った魚介をモリモリ楽しむことができる。

 

炭火で焼かれた魚介類をイクラ丼でかっこむ喜び!

殻の中でぷっくらと蒸し焼きにされた牡蠣。正直、いくらでも食える。

車で来てなかったら熱燗でガンガンやりたいやつである。

 

夜はバイキングと温泉で非日常を楽しむ

こうして日中は自然と食事を楽しんだら、夜はホテルに泊まって温泉にでも浸かってゆっくりされたい。

 

実は北海道は結構な温泉国である。数多ある北海道温泉の中でも、個人的に特にイチオシなのが十勝のモール温泉だ。

https://www.tokachi.co.jp/daiichi_hotel/より引用

 

モール温泉は緑色をしたとても不思議な湯質の温泉である。

はるか昔の植物性の有機物が混じったその湯の気持ちよさを体験すると、それまでの温泉体験とは完全に異なるもので驚くこと間違いなしである。

 

旅の本質は心の底からリラックスする事である

ナマナマしい自然、炉端焼き、モール温泉。

これらは僕の北海道旅行のほんの一部だけど、いずれも普通に暮らしているとまず日常世界では遭遇しないようなものばかりである。

 

前は正直、旅行というものがコスパが悪いものにみえて仕方がなかった。

わざわざ高い航空券を予約して、あれこれ計画を練って、旅先で散財する。

 

「旅行に使ったお金で、他にもっと色々できる事あるじゃん・・・」

 

しかし今になってみると、旅ほど簡単に心をリセットできる体験もそうはない。日常生活はとても粘性が強い。

心を入れ替えてリセットしようにも、どうにもこうにも邪な心がそれを邪魔する。

それが旅に出るだけで、こんなにも簡単に心がリラックスしてしまう。

家で飲むプレミアムモルツと旅先でテラス席に座って夜景を眺めながら飲むプレミアムモルツは、同じモノのはずなのに一味も二味も異なる。

 

北海道の夜は涼しい。

ビール片手に、夜風にふかれ、川の流れを眺めているだけで、なんであんなにも日常ではできなかった魂の洗濯が簡単に行えてしまうのだろうか。

 

かれこれ夏の北海道にハマってから、もう6年近くもたってしまった。

何回行っても飽きない。それどころか暑くなってくると禁断症状が現れる有様である。

 

また来年も魂を浄化しに行こう。

 

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【プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

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(Photo:othree

『シェアする美術 森美術館のSNSマーケティング戦略』(洞田貫晋一朗・著/翔泳社)という本を読みました。

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僕は美術館や水族館が好きで、出張などの際に寄っていくことも多いのです(最近は仕事とどちらがメインかわからなくなってきました)。

名前は知っているけれど、九州在住の僕には馴染みがなくて、森美術館って、こんなに人が来ているのか……と、けっこう驚いてしまいました。

 

2018年の美術展覧会入場者数の第1位がレアンドロ・エルリッヒ展、2位が建築の日本展、それらがいずれも森美術館で、3位がルーヴル美術館展(国立新美術館)、4位がゴッホ展(東京都美術館)。

森美術館の展覧会は、3位、4位に比べて、開催期間が2倍くらい長いとはいえ、現代アートを扱っていてこんなに集客力があるんですね。

 

ルーヴル美術館やゴッホと、レアンドロ・エルリッヒでは、知名度にも大きな差があるでしょうし。

こういう現代アートにも人が集まるのが「東京」という場所なのか、とも感じました。

 

著者は、森美術館の集客力の源泉として、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)をはじめとしたデジタルマーケティングの成功を挙げ、これまで行ってきたさまざまな戦略について紹介しています。

 

最近は、僕がよく行く九州の美術館・博物館でも、撮影OKな作品が増えてきており、SNSを通じて、観客に「拡散」してもらう、ということに施設側も積極的になっているのを感じるのです。

しかしながら、「ただ、撮影OKにすれば良い」というのではなくて、そこからさらに「積極的にシェアしてもらうための工夫」というのが森美術館にはあるのです。

 

これまでの美術展の告知といえば、テレビ・ラジオや新聞広告、駅のポスターといった媒体が中心でした。

新聞社が共催している展覧会も多いですよね。

ところが、その宣伝方法が、近年、劇的な変化をみせているのです。

こうした広告の流れが変化し始めたのは、スマートフォンの普及がきっかけだと思っています。

特に私が森美術館のSNSの担当になった2015年頃、それまで小型だったスマートフォンの画面が大型化し、カメラ機能も飛躍的に向上しました。

鮮明な画像を楽しむような使い方に変化し、通信も4Gになり高速化したことで、写真や動画をいつでもどこでも発信する流れが加速したのです。

 

具体的なデータをご紹介しましょう。

次ページの図は、「レアンドロ・エルリッヒ展」に来館した方の「来館のきっかけ」をまとめたものです。

ご覧いただくとわかるように、およそ60パーセントの来館者がスマートフォン・パソコン、つまりインターネットからの情報をきっかけに来館しています。チラシ・ポスターなど、紙をきっかけにして来館した来館者は、わずか20パーセント弱にとどまっています。

 

さらに「インターネット」と答えた方の内訳を見ると、なんとウェブサイトを抑えてSNSをきっかけに来館した方が一番多いことがわかりました。

いかにSNSが、展覧会に出向く動機になっているか。美術館側からしてみれば、展覧会の動員において欠かせないツールになっていることが、このデータからよくわかると思います。

著者は、「森美術館の来館者のおよそ70%が20~30代の若者である、という事情もあるが、若者が多いからSNSが効くのか、SNSの効果で若い来館者が多くなっているのかはさらに分析が必要」と述べていますが、この層をターゲットにプロモーションを行っているそうです。

 

ちなみに、東京都美術館や東京国立博物館は、来館者の中心は50~60代以上なのだとか。

著者は「これらのシニア層にもアプローチできる方法」も模索しているとのことです。

いまSNSを使っている人たちがこのまま高齢化していけば、何十年か後には、必然的にシニア層にもSNSの影響力は上がっていくのでしょう。

やや抽象的な言い方ですが、企業や組織のアカウントは「中の人」の人格を表立って表現できないので、ある意味、生活感のない、冷たい印象を持たれがちです。

だからこそ公式アカウントは、目にとめてもらえるようにキャッチコピーを考えて、きちんと情報を咀嚼して提供していく必要があるはずです。

できるだけ情報はリンクに頼らず、SNS内で完結していることが望ましいと思っています。

 

先ほども述べたように、SNSの投稿で重要なのは、「一対一のつながり」を意識しながら相手に話しかけるように伝えること。

そもそも最近は、検索エンジンで検索をしなくなってきたといわれています。特にSNSが普及し続けている昨今、その傾向はどんどん強まっています。

 

たとえば、「森美術館に行ってみよう」と思ったときには、多くの人がウェブサイトを見ます。

展覧会の大まかな内容と、営業時間、料金、アクセスあたりを確認するには、公式ウェブサイトは欠かせません。

しかし、「森美術館に行ってみよう」と思ったきっかけは、おそらく公式ウェブサイトではないでしょう。SNSなどの情報で森美術館を知り、興味を持ったはずです。この認知経路においては、ウェブサイトは「受け」となりますので、偶発的な情報接触は難しいのです。

Googleなどで「検索」をする人が減ってきている、という話を最近けっこう聞くんですよ。

じゃあどうしているのかというと、自分が知りたい情報をTwitterやInstagramのハッシュタグで検索して、口コミで情報を得るのです。

 

わざわざGoogleに行くより手っ取り早いし、「検索エンジン対策」で上位に表示されている公式サイトやまとめサイトはもとより、「口コミ」で評価をしているはずの『食べログ』などの情報サイトもアテにならない、と感じている人が増えてきているのかもしれません。

 

「口コミ評価サイト」が影響力を持てば持つほど、そこで「うまく宣伝をしよう」という人が出てきて、「純粋な口コミ」ではなくなってしまうのです。

若者たちは、もう、そのことに気づいている。

あるいは、検索サイトを開くことすら、めんどうになってきている。

 

著者は、この本のなかで、「見てもらえる、親しみを感じてもらえる企業アカウント」作りのためのコツを紹介しています。

先ほど広告的、宣伝的なアカウントは、ユーザーから嫌われるとお伝えしました。

しかし、企業アカウントの最終目的は商品の購入だったり、集客だったりするのが本心ですから、どうしても投稿から広告や宣伝の香りがにじみ出てきます。

 

どうすれば、それを消すことができるのか。簡単にできるコツを、ひとつご紹介しましょう。

それは、アップする写真を自分で撮ることです。

SNSは公にさらされる場なので、当然ながら企業アカウントは質の高いものを見せなければならない、という思考になります。

そのため、プロのカメラマンが撮影したオフィシャル写真や、宣材写真を使います。

しかし、画格、構図、明瞭度など、クオリティの高いオフィシャル写真は、紙媒体、ウェブサイトには向いているのですが、SNSではなかなか伝わりにくい。

なぜなら写真の精度が高すぎるがゆえに、温度感がなく、冷たい印象を与えてしまうからです。つまり、「広告感」が出てしまうのです。

 

親しい友だちに「こんな面白いところへ行ったよ」と写真を送るときは、自分で撮った写真を送ると思います。

もしかしたら、ゆがんでいるかもしれないし、多少ブレているかもしれない。でも、撮った人の「温度」と「気持ち」は伝わります。

まさにそれと同じです。「中の人」が自分で撮る。そのほうが間違いなく「気持ち」が伝わります。親しみが湧く、ということです。

きちんと撮影できていれば、多少、ゆがんでいたりするのはご愛嬌。それでフォローをはずす人はいません。

 

ここでもうひとつ、広告らしさを消すコツを挙げるとすれば、「値段を載せない」という手があります。

森美術館でも展覧会グッズを紹介することはありますが、ほとんど値段は載せません。

「〇〇展のこんなグッズが、ミュージアムショップで販売されています」と事実をお伝えするのみ。値段を書くと、一気に宣伝っぽくなってしまうからです。

ぜひ来てください、ぜひ買ってくださいという言い方は、極力しないようにしています。

先ほどご紹介した「閉幕まで何日!」という投稿も、「だから早く来てください」とは書いていません。

書きたい気持ちを抑えて淡々とカウントダウンだけをする。

事実を盛ることなく、かつ人間の温度に温めてお伝えすることだけです。

企業アカウントであれば、どうしてもフォロワーさんたちに「具体的に宣伝したくなる」けれど、そういう気持ちを抑えて淡々と事実を伝えるだけにとどめておいたほうが、結果的には親しみを持ってもらえる、ということみたいです。

これは、伝えられる側として、わかるような気がします。

情報を受ける側からすると、あまりにもガツガツしているアカウントには引いてしまったり、宣伝したいだけか、とガッカリしたりするんですよね。

 

企業のマーケティング担当者から、SNSで愛されたい(あるいは、嫌われたくない)個人まで、けっこう広い範囲の人に「響く」内容だと思います。

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Hernán Piñera

なんというか、世の中には、「自由な、型にはまらない発想」というものを礼賛するあまり、却って「発想」を表現出来る機会を奪っているような、そんな傾向があるような気がするんですよ。

 

8月も初旬を過ぎて、世間はすっかり夏休み色一色になりました。

しんざきは激しく暑さに弱い体質でして、自分にライブラを使えば「あつさによわい」「直射日光によわい」「高温多湿によわい」「よわいったらよわい」と表示されること間違いない感じなんですが、この季節は本当に外を歩いているだけで、継続ダメージによる死が見えてきます。

ワルキューレの冒険で言うと毒沼歩いてるようなもんです。お互い熱中症には気を付けましょう。

 

「自由研究」の話をします。

 

毎年、小学校の夏休みの宿題に「自由研究」が出ます。

先日まで知らなかったんですが、これ、別に学習要領に「自由研究」という項目がちゃんと定義されている訳ではなく、どう指導するかはかなりの部分学校側の自由裁量に委任されているみたいですね。

学習要領に「自由研究」という項目がちゃんと定義されていたのは、戦後のほんの一時期のようです。

(参照 学習指導要領 一般編‐試案‐(抄)(昭和二十二年三月二十日))

 

で、以前、学校の「自由研究」についての親側・先生側プリントを観る機会があったんですが、それについてちょっと思うところがあったんですよ。

一言で言ってしまうと、「子どもの自由な、型にはまらない発想」を重視する内容であって、その為ひな型や形式を定めない、子どもの考えに任せる、ということを重視する内容だったんです。

 

その時も思ったんですが、それ、ちょっと違うんじゃねえかなあ、と。

「自由な発想」を重視すればこそ、始めにきちんと「形式」を教えてあげないといけないんじゃないかなあ、と、私は思ったんですよ。

 

***

 

以前、「作文が書けない子」について書いた時にも同じようなことを書いたんですが、考えを文章にする時、人間は必ず「発想」と「表現」という二つのプロセスを経ることになります。

 

「作文が書けない子」に本当に必要な訓練の話

「書く」という行為には、大きく「発想」と「表現」という二つのプロセスがあります。

つまり、

・何を書きたいのかを考える

・考えた内容を言葉に落とす

という段階を経なくてはいけない。これに例外はありません。

どんな文章でも、必ず、例外なく、この二つのステップを踏んでいます。

「何を書きたいか」「何を言いたいか」ということ自体は頭の中にあっても、それを文章という形に整える為には、「表現」というプロセスを経なくてはいけない。

前段が「発想」であって、後段が「表現」です。

で、これ、文章だけの話ではないんですよね。「発想と表現」って、あらゆることに当てはまる普遍的なテーマだと思うんです。

 

確かに、「発想」って大事なんですよ。

自由なアイディア。型にはまらない、みずみずしい着想。それが大事であって、時にはそこから物凄いものが産まれ得る、ということも確かです。それは否定しません。

 

しかし、「表現」なしに形を得ることが出来る「発想」は存在しない。

どんな「発想」であっても必ず「表現」はワンセットであって、ある程度ちゃんと「形にする」というノウハウがないと、折角の「発想」も絶対に日の目をみないんです。

 

どうも、この単純な事実を忘れている人が、世の中には案外多いような気がするんですよ。

「自由な発想を」という割りに、それを形にする為の表現手法については指導しない。

うっかりすると、「自由な発想」の為には、型にはまった手法なんてものは邪魔だというくらいに考えている。

 

勿体ないよなーと。

 

見逃せない問題として、「発想」自体も、「表現」手法を身に着けているかどうかによって質が変わってくる、という要素があります。

アイディアは、決して無の状態から生まれてくるわけではないんですね。

 

ある程度決まったノウハウ、ある程度決まった回路があって、そこに最初から蓄積されているものをこねくりまわすことによって、より優れた発想が生まれてきたりする。

いきなり何も知らない状態から「素晴らしいアイディア」が発生する訳ではなくって、そこには母体が必要なんです。

そして、その母体から上手いこと情報を切り出す為にも、ある種の整理能力が必要になる。

 

「自由研究」って、それ自体はとても良い機会だと思うんですよ。

自分でテーマを決めて、そのテーマについて調べて、それを形に出来る。

それはとてもスリリングな行為であって、子どもにとって科学的な考え方を身に着けるチャンスでもあり、「科学って楽しい」ということを実感してもらうチャンスでもあります。

 

ところが、一応毎年確認するんですが、学校でそういう「研究のアプローチ」みたいなものを教えてもらえるかというと、全くそういう訳ではないんですね。

形式もないし、ひな型もない。最低限の「例」くらいは提示されることもあるみたいですが、それに対してどんなアプローチをとればいいかとか、そういうことは「自由な発想」というお題目によって排斥されてしまっている。

ほんっとーーーに最低限のゴールしか提示されないんです。

 

ちゃうやろと。

型にはまらない為には、まず型を知らないといかんやろと。

 

そんな「研究のアプローチ」みたいな話、まだ小学生には早い、と思いますか?

私の考えは逆で、むしろ「型」を知ること自体は早ければ早い程いい、全てその通りに出来なくっても、そういうやり方があるんだということは早めに知っておくにこしたことはない、と思っているんです。

「中身」を考える時、「こんな器がある」と知っているかどうかでは、考える時の難易度も段違いだと思うんですよ。

 

勿論、学校の先生も忙しいので、十全な指導が出来ない場合もあることはよく分かるんですが、それにしても今の状況はちょっともったいないよなあと。

せめて自分の子どもくらいには、そういう「型」の存在自体は知っておいてもらいたいと。

 

長男はもう6年生なのである程度自分でテーマをコントロール出来るんですが、今年は小2の長女次女に、自由研究のアプローチについて初めて色々と話してみたんです。

 

***

 

そこまで細かい話ではないんですが、しんざき家では、子どもたちの自由研究に対して、大体こんなアプローチをしています。

 

・興味がある分野、試してみたいフィールドがあるかどうかをヒアリング

・そこから、証明したい仮説、ないし導きたいゴールを設定

・その仮説を証明する為にはどんなエビデンスが必要か、その目的を達成するにはどんな成果物が必要かを一緒に考える

・その成果物を得る為の計画を立て、スケジューリングする

・適宜進捗の見直しをしながら、その計画を実施する

・計画通りに実施できたかどうかは適宜振り返る

 

ごく一般的な実証研究のアプローチですよね。

勿論、テーマが科学的な実証研究になるとは限りませんので、実際のアプローチはエビデンス集積や分析とは異なってくる場合もままありますが、基本的な流れは毎回同じです。

 

今回の場合、最初にヒアリングした時点で長女次女の興味が「お菓子」になりまして、長女はお菓子作りとその記録というアプローチ、次女はお菓子をテーマとした物語を作るという非常にアクロバティックなテーマを選択したので、実際実施ターンにはお菓子作りの名手である奥様にほぼ頼りっぱなしになっているのですが、計画自体は結構きちんとしたものを作りました。

ただ、私が当初お菓子作りにかかる手間をよく理解していなかったので、これについては奥様の監修が入って、だいぶ修正されています。まあよくあることです。

 

最終的に、これを「自由研究」という成果物に落とし込む為には、更にもうちょっと細かい文章落とし込みの指導が必要なので、それはそれで別途実施しようと思っている次第なのです。

長女にせよ次女にせよ、最終的に彼女たちの自由研究がどんな成果を出すのか、私自身今から楽しみでもあります。

まあ、これを書いている時点ではまだ全然作りかけなんですけど。

 

***

 

勿論、これと同じことを皆がやればいいのに、という話ではありません。

十人子どもがいれば十種類の向き・不向きがあります。

学校によって、先生によって、最初から教えられる指導方針が異なることだってあるでしょう。

 

ただ、

・「発想」を形にする為に「表現」は不可欠であって、また「表現」のアプローチはある程度具体的に教えるべきである

・ただ「自由な発想を」といっているだけでは、自由な発想はいつまで経ってもちゃんとした形にならない

・自由研究は、「表現」のアプローチを身に着ける為の絶好の機会になり得る

という三点だけは、ある程度一般化してしまってもいいような気がしていまして、今後とも、「表現のテクニック」というものは子どもに都度伝えていきたいなあ、と。

 

そんな風に考えるわけなんです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Ryu Hayano

平素は格別のお引き立てを賜わり厚くお礼申し上げます。

誠に勝手ながら、以下の期間につきましては夏季休業のため、記事の更新を停止させていただきます。

 

何卒宜しくお願い申し上げます。

2018年8月15日(木)~8月18日(日)

 

(Photo by Link Hoang on Unsplash)

わたしはよく、ウェブ小説やyoutube動画のコメント欄を眺める。

ほかの人はどう思ってるんだろー?と気になるからだ。

 

当然そこにはいろんな意見があり、場合によっては批判的なものも見かける。

 

それはまぁわかるのだが……

「要求」をするのはちょっとちがうんじゃないか?と思う。

 

「ここで主人公が勝つなんてクソ展開になったら読むのやめます(そうするな)」

「好きなキャラが最近出てこないんだけど(出せ)」

「更新遅すぎます。読者のことなめてるんですか(更新しろ)」

趣味で書いている人が大多数である無料のウェブ小説のコメント欄なのに、こういう意見をちらほら見かける。

 

youtubeのゲーム実況でいえば、

「その技さらっとやってますけど、素人はそれができないから苦労するんです。そこもしっかり教えないと」

「声がボソボソしていて聞きづらいです。もっといいマイク使ってください」

「○○さんのほうがうまい。もっと練習してからアップしろ」

なんて書き込む人がいる。びっくりだ。

というわけで、「ゲストとクライアントはちがうんだぞ」ということを改めて書いておきたい。

 

『ゲスト』と『クライアント』のちがい

まず、『ゲスト』と『クライアント』という言葉について。

 

ゲストは「賓客」であり、招待された人、遊びに来た人、その場かぎりの人、といったニュアンスだ。

運動会に来る県議会議員、週替わりでバラエティ番組に呼ばれる俳優、結婚式に参列する友人……そういった人々のことを指す。

クライアントは「顧客」。

依頼人や取引相手という意味で、仕事をやってもらうかわりに報酬を支払うビジネスの相手、というニュアンスだ。

 

この『ゲスト』と『クライアント』の大きなちがいは、「求めていい範囲」と「対応の義務」にあると思う。

ゲストはあくまで招かれた人、その場限りの人なので、ホスト役に「こうしてくれるとうれしい」という希望は言えても、「こうしなさい」と命令することはできない。

まぁできなくはないけど、命令された側はそれを聞き入れる義務はない。

 

結婚式のゲストがピーマン嫌いだったとして、「自分の料理からピーマンを抜いてもらえないか」とお願いはできても、「ピーマンを使う料理を提供するな!」と強制する資格はないし、新郎新婦がそれを受け入れるかは自由だ。

 

一方、クライアントはお金を払っているので、「こうしろ」と要求することはできる。

新郎新婦は結婚式場に対し、「ピーマンを使わない料理を用意してくれ」といえるわけだ。

 

でもそれはあくまで、報酬や契約の範囲内でのみ。

1万円の予算に対し「3万円のフルコースを出せ」という要求は当然通らない。

求めるなら相応の報酬を用意すべきなのだ。

 

ゲスト、クライアント、両方のおかげで生活できる。だけど

ライターとして生計を立てているわたしにも、『ゲスト』と『クライアント』がいる。

ゲストとはいまこの記事を読んでくださっている読者の方々で、クライアントとはお仕事をくださるこのサイトの運営者の方々だ。

 

ゲストからの感想はもちろんうれしいし、落ち込んだときは読者の方からいただいた応援メッセージに何度も励まされた。

「こうしてほしい」という意見もありがたくちょうだいし、参考にしたり検討したりする。

読んでくださる方がいてこそのライター。それはまちがいない。

 

ただ、たまーに

「ライターなら読者の役に立て! これを教えろ!」

「俺が納得するように記事を書きかえろ!」

「これについて書いてないなんて不親切だから付け加えろ!」

という指示や要求をされることがある。

 

おいおい、それはちょっとちがうんじゃないか。

読者の方のご意見はもちろん大事だし尊重したいが、あくまで『ゲスト』であって『クライアント』ではない。

ためしに何度か「書け、ということはお仕事の依頼ですね? お見積りしますよ!」と返信してみたが、100%音信不通になった。

 

ゲストとして希望や要望を伝えるのは「言うだけタダ」だし参考にさせていただくけども、要求や指示するなら『クライアント』になる。

それなら対価を払ってもらわなきゃいけない。

だれかになにかを要求するなら、その覚悟はすべきだと思うのだ。

 

一方、クライアントであるメディア側の方に「もっとこうしてほしい」と言われれば、それに応えられるように最大限の努力をする。

対価をいただくのだから期待どおりは当然のこと、それ以上のはたらきをしたい。

でも、たとえば時差があるのに曜日や時間帯を問わず常に即時対応を求めてくる場合や、指示が一貫せず修正指示がコロコロ変わる場合、「それは対価以上の要求だ」と突っぱねることもある(できるだけ穏便に済ませたいけども)。

 

わたしは読者の方々、お仕事をくださるメディアの方々のおかげで生活できているから、いつもとても感謝している。

いやもう本当にありがとうございます!

とはいえ、「クライアントの対価に対する限界」は存在するし、ゲストの要望にすべて応えられるわけではないのが現実だ。

 

自分はどんな「お客さん」なのかを理解しておきたい

自由に要望を言えるが強制力はないゲスト。

要求できるが相応の対価を払わなければならないクライアント。

 

日本語でいう「客」にも、ふたつの種類がある。

そこらへんを区別することは大事だし、自分もわきまえねばなぁと思う。

それを理解しないままいつでもどこでも「尊重されるべきお客様」感覚でいると、ズレた行動を取ってしまうかもしれない。

 

たとえば、無料のウェブ小説の筆者に更新をしつこく要求したり、微々たる対価で多大な成果を求めたり。

ゲストであればホスト役への配慮を忘れちゃならないし、クライアントであれば「取引」であると理解しておかなきゃいけない。

そうすることで、ホスト役は「より楽しんでもらえるように」と気持ちが充実するし、仕事を受ける人は「結果を出せるように」とがんばれる。

 

自分はゲストなのか、クライアントなのか。ゲスト、クライアントに対してどう対応するべきか。

日本語では両方とも「お客さん」ではあるけど、混同しないようにしていきたい。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Scott)

少し前から、貧困に関する記事を頻繁に目にするようになった。

これらは、日本が貧しくなっていることの現れなのかもしれない。

ダウントレンドの国では、資源の取り分を巡る話題が盛り上がる、ということなのだろう。

 

しかし「貧困の解決」となると、これは難しい問題をはらんでいる。

 

 

少し前までは「貧困は自己責任」という論客を多数目にした。

高度成長の時期のように、国全体が盛り上がっており「大半の人は努力次第で豊かになれる」世界であれば「貧困は自己責任」と言っても許されたかもしれない。

 

だが、現在のような知識社会では「貧困は自己責任」とは言いにくい。

貧困は、生まれ持った知能のレベルに左右されることはもちろん、環境によって大きく左右され、社会現象であることはもはや議論の余地はない。

 

完全な個人の責任ではない以上、ある程度の支援は必要だ。

これを否定する人はいないだろう。もはや、「貧困は自己責任かどうか」問う段階は過ぎた。

「貧困は救うべし。」

これは、社会的な合意と言って間違いはないだろう。

 

ところが、実際に支援をする段階になると、問題が起きる。

「一体、誰が貧困なのか?」という問題だ。

 

一体、誰が貧困なのか

社会学者の阿部彩氏は、「貧困」に関しては、日本政府は公式な定義を発表していないという。

それでは、日本の子どもの何%が貧困であるのか。この問いに答えるのは、簡単なようで簡単ではない。

日本には、政府による公式な貧困基準(貧困線)が存在しない。

(中略)

現代日本の社会において、給食費が払えない子どもは「貧困」なのであろうか、公園で寝泊りしているホームレスは「貧困」なのだろうか、毎日夕食をファーストフード店でとらなければいけないフリーターはどうであろうか。

いったい、どれくらいの生活水準までが「普通」で、どこから以下が「貧困」であるのか。所得で言えば、いったい、何万円くらいが、その境界線となるのであろうか。

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そこで、「貧困」の議論でよく用いられているのが、絶対的貧困と、相対的貧困という概念だ。

これは、なにを持って貧困とするか、裏を返せば、なにを持って優先的に支援の対象となるかに対して、一定の解を与える指標である。

 

絶対的貧困

世界銀行は、1日1.90ドル以下で暮らしている人を、絶対的貧困としている。

「ファクトフルネス」によれば「レベル1」の人々だ。

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ただ、こうした「食うや食わず」の人々は、著しく減少している。

世界でも10億人と少数派である上、日本にはこうした人はほとんどいない。

 

日本人はほぼすべての人が、上の図で言う「レベル4」であり、世界で最も裕福な人々の一人だ。

 

相対的貧困

だから、よかった!貧困の問題は解決しつつある!といって、納得する人は、日本ではほとんどいないだろう。

なぜか。

それは「人は比べる生き物」という、本質がそこにあるからだ。

 

具体的には、「相対的剥奪」という概念がある。

人が達成したいと思っている水準と,現実に達成された水準とのギャップがあれば、人は不満を感じるのだ。(参考:公正指標による相対的剥奪論のフォーマライゼーション

 

その感覚は、この記事によく現れている。

「俺らが生きづらい社会」は「あいつらが生きやすい社会」

進歩についていけない人々は、今日の情報環境のなかで何重にも搾取されて、何重にも損をしている。

アマゾンや楽天では便利なサービスを受けているかもしれないし、ソーシャルゲームでは無料でガチャを回して喜んでいるかもしれないが、それでもトータルとしてみれば、進歩と自分自身とのギャップの程度のぶんだけ、搾取されたり損をしたりしているはずである。

いっぽう、進歩についていける人は進歩の恩恵にあずかり、チャンスをものにする。インターネットに搾取される以上に、インターネットで利益や機会を掴んでいく。

面白いのは、ここで「損をしている」として、議論されているのは「絶対的な損失」ではないことだ。

あくまでも「俺ら」と「あいつら」との、相対的な差である。

 

終戦直後の日本に比べれば、今のほうが「絶対的」には豊かであることは疑いの余地はない。

ただし、精神的に豊かであるかどうかは、別の話、というわけだ。

 

そしてこの感覚を「貧困」の定義に用いようとする人々がいる。これが冒頭のTweetにもあった「相対的貧困」という概念だ。

「貧困」を見つめるまなざし ~我々は何を貧しいとみなしているか:その壱

相対的剥奪という概念を考えたとき、議論の土台となるのは、その国の住民たちが、国民としてこれは享受できて当たり前、と誰もが思っている事柄が、実行できない、という社会の認識です。

しかるに、その国民が、「享受できて当たり前」と考えている事柄とは一体何なのか、を問うことで、その社会がもっている貧困観を逆説的に浮かび上がらせることができるわけです。

ようするに「貧困」は比較と認識の問題で、それらも含めて貧困問題だというのが「相対的貧困を救うべし」という論者の主張だ。

 

これを指標化したのがOECDだ。

貧困は「周りの人と、自分の稼ぎの差」によって決定される。

貧困線とは、等価可処分所得(世帯の可処分所得(収入から税金・社会 保険料等を除いたいわゆる手取り収入)を世帯人員の平方根で割って調整 した所得)の中央値の半分の額をいいます。(参考:国民生活基礎調査

現在の日本では、年間の一人あたりの手取り所得が約125万円以下の人のことを指す。

上の「ファクトフルネス」の図では、日本人であるにも関わらず、レベル4と3の境界にいるような人々のことだ。

 

「誰が貧困なのか」で我々は合意できるのだろうか?

ところがこの基準については、議論が尽きない。

絶対額で見れば、ある国では貧困層としてカウントされる人も、別の国の基準でみれば貧困ではない、ということもあり得ます。

そもそも、なぜ中位所得の50%の水準なのか、という論点もあります。

相対的な貧困は、主観に依拠している以上、基準を設けるのが極めて難しいのである。

 

だから「相対的貧困は解決不可能」という主張もでてくる。

相対的貧困は解決できるか

人は飢えて死ぬばかりでなく、羨望でも死ぬのだ、というのは事実だろう。

けれども、「飢え死にしそうな人間」と「羨望で自殺しそうな人間」のどちらを先に救済すべきかと言えば、限りあるリソースは「救える方」に配分すべきだろう。

相対的貧困には原理的に「打つ手がない」からである。

というのは相対的貧困というのは「脳」が作り出したものだからだ。

脳は「自分に欠けているもの」を無限に列挙することができる。

なるほど……。

 

本当だろうか?と思っていたら、例えば、こんな記事を見かけた。

埼玉で人並みの生活、月収50万円必要 県労連が調査

回埼玉県内で人並みに暮らすには月約50万円の収入が必要で、子供が大学に入ると支出が急に増え、奨学金がないと成り立たないとする調査結果を、県労働組合連合会(埼労連)と有識者がまとめた。

ちなみに、統計によれば、埼玉県のアラフォー男性の年収中央値は574万円

これは天引き前なので、手取りはもっと少ない。

……ということは、ほとんどの人が「人並み以下」という奇妙な結果が提示される。

 

そんなアホな。

人並みの給料で暮らしている人が、人並みの暮らしのはずだ。

ただ、この調査は「回答者の7割以上が持つ物を「必需品」とし、それを持つ生活を「普通の生活」と定義。」しているそうだからこうした結果になってしまう。

これは確かに「あいつが持っているのに、オレは持っていない」とう、脳が作り出す貧困にほかならない。

 

このような「解決が極めて難しい相対的剥奪」感は企業の中でもよく見られる。

 

例えば、若手に「成果によって、給与に差をつけてほしいか」と聞くと、だいたい「つけて欲しい」という回答がある。

だが、実際に差をつけて評価すると、「めちゃめちゃ不満が出る」のだ。

 

実際に、評価を厳密に行い、根拠について丁寧な説明をしても、必ず

「評価の基準があいまいだ」

「担当しているお客さんが悪かっただけだ」

「もっと長期で評価してほしい」

「プロセスを見てほしい」

「上司の指導が不適切」

「上司に嫌われたからだ」

と、ありとあらゆる評価の穴を見つけて、差をつけられたほうが、大きな不満を持つ。

これは、客観的な証拠を示しても、誰がどのようなシステムに基づいて評価をしても、必ず不満が出る。

 

要するに「カネの配分」という、極めてセンシティブな問題は、「誰を評価すべきか」についての合意形成が極めて難しい。

すべての人が満足する解など、決してありえない。

 

だから、経営者は一般的に、よほどのことがない限り「相対的剥奪」には、気を配らない。

なぜなら、できる人を優遇し、できない人にはやめてもらったほうがむしろ会社としては助かるからだ。

 

だが、貧困に関しては、そうはいかない。

「相対的剥奪は気にするな、嫌なら出ていけ。あるいは死ね」というわけにいかないからだ。

結局、

「高等教育無償化」は誰が対象なのか?

「子ども手当」のあるべき姿は?

「年金の受給」を老人一律に行うべきなのか?

など、少し考えただけでも頭の痛くなる問題ばかりとなる。

まあ、国民的合意は不可能だろう。

 

最終的には「政治的闘争」となる、相対的剥奪の解決。

したがって、結局のところ「誰が貧困なのか」の決定は、最終的には必ず政治的な闘争となる。

合意形成を目指すのではなく「いかに多数派をとるか」が目的となる。大衆を扇動するポピュリズムの台頭は、こうしたことが原因だろう。

 

ただ、そんなことをしても「不満」は消えるどころか、ますます政治的な闘争は激化する。

「優先的に配分を受けた人と、まだ配分を受けていない人」が分かれるだけのことである。

 

だから個人的には「相対的剥奪」の解決は、「カネの配分」や「政治」によっては解決されないだろうと思う。

いくらカネを配分したところで、平等は決して実現されないし、カネの面で平等になったとしても、橘玲氏が「上級国民/下級国民」で指摘したように、最終的に「モテ/非モテ」は解決しないからだ。

もしかしたら遠い将来、なんらかのとてつもないイノベーションによって、全世界のすべてのひとに「健康で文化的な生活」を保障するだけのお金を配ることができるようになるかもしれません。

左派リバタリアンはこれをもって「理想社会の完成」を宣言するでしょう。生活のために働く必要はもはやないのですから、すべてのひとがそれぞれの興味や関心に従って、芸術や文化、スポーツなどの活動に自由に従事すればいいのです。

しかし、もし仮にこのような世界が到来したとしても、やはり「幸福な社会」は実現できないでしょう。すでに気づいている方もいるでしょうが、ベーシックインカムでは「モテ/非モテ」問題は解決できないのです。

お金を分配するのと同じように、男に対して女を分配することはできません。

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では、我々はどうすべきだろうか。

 

私は現在、科学によりすっかり権威を失ってしまった「宗教」がそれを埋めると思っている。

あるいは「地縁」などのローカルコミュニティが、それに変わるかもしれない。

要するに「物質」を扱う科学や企業よりも、「精神」や「つながり」を扱う宗教/ローカルコミュニティのほうが、この問題解決には適していると思うのだ。

 

いや、「科学」サイドも、もしかしたらVRの異常な発達を促し、リアル世界の嫌なことをすべて忘れられるようになるのかもしれない。

あるいはロボトミー手術の復活か。

 

いずれにせよ、21世紀の人類が直面する最大の課題の一つは間違いなく「相対的剥奪」の解決だろう。

それだけは、確実だ。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

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Photo by John Moeses Bauan on Unsplash

いきなり古臭いインターネットミームで恐縮なのだが、なぜ童貞と処女とに価値の差があるのかを孔子が弟子に説く、というネタがある。曰く、

 

弟子「先生、処女を貴重だと思う男は多いです」

孔子「その通りだ」

弟子「しかし逆に童貞は女に気持ち悪がられます」

孔子「確かに」

弟子「おかしいじゃないですか、何故このような意識の違いが生まれるのですか」

孔子「それは一度も侵入を許していない砦は頼もしく、一度も侵入に成功したことがない兵士は頼りないからだ」

 

なるほどな、と笑わせる説話である。

 

だが、笑ったあなたは今後議論の場において比喩(たとえ話)を使うべきではない。

また、相手が比喩を使うことも拒否すべきだ。

 

なぜか。

今日はただそれだけの話をしたいので、まあ暇ならちょっと聞いていってくれ。

 

その比喩は、適切か

冒頭の比喩がなぜダメなのか。

結論から言うと、論点を先取りしているからである。

 

問題点がわかりやすくなるよう、弟子(Q)と孔子(A)の趣旨を単純化する。

Q.「処女が男に評価され、逆に童貞は女に評価されないのは何故か?」

A.「一度も侵入を許していない砦は評価され、一度も侵入に成功したことがない兵士は評価されないのと同じである」

 

はて。いつ”同じ”になったのだ?

これではまだ納得できない。この"同じ"には説明が要るはずだ。何がどう同じなのか?

 

ここでAによる解説として考えうるものはこうだろう。

A.「侵入されるべきでないという意味で女と砦は同じである。また、男と兵士はともに、攻めるべき相手を持つ立場である」

 

なるほどなるほど……いや待ってくれ。

Qが聞きたいのは「女が侵入を許すべきではないとされるのは何故なのか」である。

 

 

それに対しAが言っているのはこうだ。

「処女が男に評価されるのは、彼女が処女だ(一度も侵入されていない)からだ」

これは何か。同語反復である。

 

男と兵士についても構造は同じだ。

「童貞がダメなのは、一度も対象を攻め落としたことがないからである」。

 

だが、問われていたのは「なぜ女性経験がない男はマイナス評価を受けるのか、すなわち、何故男は攻め落とすことを良しとされるのか」だったはずだ。

Qはそれをおかしいと思ったから問うたのだ。

童貞で何が悪いんだ。別に女になんて興味ねーし。ていうか本気出してないだけだし。そもそも俺は女なんかより男の友情を大事にしているんだ。あるいは別にどっちでもいいんだ、だって僕たち私たち、いずれ皆この光陰を超えて等しく無に還るだけなのだもの……。

 

それに対しAは「童貞は童貞だからダメなんだ」と言っているだけである。

これは、答えになっていない。

 

 

砦と兵士の比喩を持ち出したとき、孔子の頭の中には処女と童貞に関する評価基準が先行している(でないとこの比喩が出てこない)。

だから、実は孔子は説明をするつもりで、ただ単に主張に合う喩えを、証明すべき当のものを内包した命題を引っ張ってきてしまったわけだ。

 

これが論点先取である。

 

そして冒頭でなるほどなと笑った「あなた」は、なぜこの取り違えに気付かず笑ってしまったのか。

 

実は、孔子と同じ評価基準を「あなた」も共有しているからである。

ここで孔子と「あなた」との間には、ひっそりと共犯関係が成立している。

 

同じ信念を抱いているから、「あなた」は説明になっていない説明を黙認したのである。

エコーチェンバーに陥らないためには、この共犯関係を自覚しなければならない。

 

不毛な論争

かつて、女性専用車両は是か非かというテーマで、Twitter上で論争したことがある(もちろん誰にだって捨て去りたい過去はある)。

論争相手は女性専用車両は撤廃すべきだと主張していた。

その理由は「男女差別だから」である。

 

議論の要点は下記のとおり。

A(相手)-1「同じ料金を払っているのに女性だけが乗れて男が使えない車両があるのはおかしい。差別である」

B(俺)-1「そこで制限される利益はごく小さい一方で、その車両設定がもたらすメリットははるかに大きい。だから認められるべきだ」

 

A-2「例えばバイキングで同じ料金を払っているのに男だけ食べられない料理があったらおかしいだろう。女だけアイスクリームを食べられると言われたら普通腹が立つはずだ」

B-2「1号車と2号車との間には、カレーとアイスクリームとの間にあるのと同じだけの質的差異があるか? あるわけがない。その喩えに乗るとすれば、正しくは同じアイスクリームが8個なり10個並んだ容器に入っており、最後の容器は女性しか食べられない、だろう。しかもその環境では、女性が他の容器からアイスを取ろうとすると、潜在的に性的侵害を被るリスクを負うことになるのである」

 

A-3「いやそれはおかしい。1号車と2号車との間にはどちらが改札に近いかという大きな質的差異がある。私は少しでも改札に近い車両に乗る権利を不当に奪われている(……)」

 

……当時もバカバカしかったが、やはり今回も書いていてバカバカしくなってきた。

要約してこれである

何故俺はあんな無駄な時間を……。

 

そしてこれが問題なのだが、見てわかるとおり、手間をかけている割に議論は1ミリも深まっていない。

 

両者のすれ違いのポイントは、複数の価値基準を認めているか否かにある。

Aはいわば同一料金同一サービスを求めている。そこに関してAの理屈に誤りは無い。

だがBは、配慮すべき基準はそれだけではないとしている。

一部の男性らが一つ隣の車両に移動を強いられる、単にそれだけの不利益を拒否するために、切実なニーズのある女性専用車両を廃止せよというのは収支が合わないのではないか。

 

本来議論すべきはその差異なのだ。

だが、比喩が始まった途端、AとBは本題を放り出してどっちが上手いこと言えるか競争に取り組んでしまう(A-2、B-2)。

だがそこから辿り着いたのはA-3である。仮にA-2、B-2を削除しても大意に変化はない。

両者がそれぞれ信ずる社会正義の実現のため画面にかじりつき、懸命に打ち込んだ時間と文字列は全てムダである。

 

何故比喩を使った説得は徒労に終わるのか?

比喩とは、ある物事と他の共通点を見出し換言することで何らかの効果を狙うレトリックだが、主張の異なる二者間では、多くの場合そもそも議題となっている物事の評価が異なる(だからこそ主張が異なってくる)。

説得される方にとって、そこに比喩の成立に足る共通性はない。

 

Bが行うべきだったのは、Aが比喩を持ち出した瞬間にそれを拒絶することだ。

問うべき問いを等閑視しようとする共犯関係は拒否しなければならない。

 

もっと言えば、意見の異なる相手との議論に喩え話を持ち出す者は、「その喩えが適切か」という問題を増やしているだけなのだ。

そのことに気付かない時点で話にならないのである。

 

その比喩って「君にも分かりやすく噛み砕いてあげるね」ってこと?

喩え話に付き合うべきでない理由はもう一つあり、同じく比喩の性質に関わるものだ。

 

上で「比喩とは、ある物事と他の共通点を見出し、換言することで何らかの効果を狙うレトリック」と言った。

 

だが、実際のところ、議論のシーンでその多くは単純化のために用いられている。

ある物事について、目下の議論のポイントとなる点で共通する別の何かに喩えることで、話を分かりやすくしよう、というわけだ。

 

つまるところこうだ。

「君には情報量が多すぎて今の議論のポイントが理解できないようなので、私が余計な情報を剥がして、この話の本質が見えるようにしてあげるね」。

 

クソくらえである。

たまにマジであなた/私がバカでよく分かっていなかったパターンもあるのだがそんなことはどうでもいい。

比喩でこちらを説得しようと試みる相手は、例外なくあなた/私を舐めているのである。

 

そんな相手に付き合う義理はない。

 

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【プロフィール】

著者:dudihan

文教市場ではたらく妻子持ち30代サラリーマン。

ユーモアと音楽と社会科学を愛する。

福岡県出身。

ブログ:ditm.

(Photo:Nigel Brown