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Books&Apps編集部

「聞く技術」は数多くありますが、わたしが学んだ中で、会話で特に役立つ技術の一つは、

「そうなんだ。」または「そうなんですね。」

という相槌です。

 

たとえば、同僚が、飲みの席で上司の文句を言っているシーンを想像してみてください。

「部長って、最近イライラしてない?」

と聞かれたとします。

 

おそらく同僚は、部長と何かしらのトラブルがあり、悪口を言いたいのだと予想できますが、これに対する反応は、意外に難しいのです。

 

 

まず、最悪なのは、「そうは思わない」という否定です。

よほど仲の良い人ならともかく、いきなり人の意見を否定するような人物とは、今後二度と話したくないと誰もが思うでしょうし、下手をすると喧嘩になります。

 

また、たとえ事実であっても、さらに追い打ちで「部長ではなく、あなたに責任があるのでは」などと言おうものなら、「絶交」確定です。

ほかにも

「ちがう」

「ダメ」

「おかしい」

など、否定の言葉は、ビジネスの関係であれば、社内であっても使わないほうが無難です。

 

 

次に良くないのは、「わかります」「そうですね!」と、安易に理解を示したり、同意してしまうことです。

 

利害関係のない友達同士であれば、「悪口で盛り上がる」のも悪くないですが、粗職人としては、人の悪口で盛り上がるのは、あまりメリットがありません。

また、ヘタに同意してしまったことが上司の耳に入ったりすれば、「共犯」です。

 

むかし、私の所属していた組織に、「上司を批判する人物A」とたいして親しくないにも関わらず、「誘いが断れない」という理由だけで頻繁に一緒に飲みに行っているだけのひとがいました。

 

実際にどのような話をしていたかはわかりませんが、「A」と一緒によく飲みに行って、上司の悪口で盛り上がっている、という客観的な事実があるだけでも、上司に疎まれてしまっていました。

 

でもこれは、残念ながら同情の余地なしです。

原則として、組織で「上司の悪口」を話すひととは、基本的に距離をおいた付き合いをすべきです。

 

 

では「なんでそう思ったのですか?」と聞き返してみてはどうでしょうか。

 

これも実は、場合によってあまり良くない回答です。

というのも、部長の悪口、もしくは同僚の愚痴を、延々と聞かされることになる羽目になり、望まない話が長くなるのです。

 

一般的に「なんでそう思ったの?」という質問は、相手の話に強い興味を持っていることのシグナルになります。

悪口や愚痴を一緒に楽しみたい、という方であればべつですが、(たいして仲の良くない)同僚から、上司の悪口を延々と聞くのは、精神衛生上もよくありませんし、下手をすると上司から「仲間だ」と思われてしまいます。

 

かといって、「否定」もできないので、抜き差しならない状況に陥りがちです。

どうでもいい話を安易に聞き返してしまうと、「泥沼」にハマります。

 

 

では「上司ともっと腹を割って話してみたら?」など、アドバイスを与えるのはどうでしょう。

 

これも、基本的には「ダメな回答」です。

というのも、基本的に「他人からのアドバイスを聞ける人」というのは、相当な希少種であり、ほとんどの人は「アドバイスなんてどうでもいい」と思っているからです。

 

プロのコンサルタントであっても、人にアドバイスを与えるには、相当の熟練と、前準備が必要です。

実績を褒め、人格を否定しないように注意をし、相手に自分の欠点に自分で気づくようにうまく会話を仕向ける。

 

そうした技術を駆使しなければ、有効なアドバイスはできませんし、ほとんどの人は「愚痴を聞いてほしいだけ」なので、アドバイスは煙たがられるだけ。

不毛ですし、徒労感があります。

 

 

では、どうすべきか。

 

同僚に嫌われたくないし、絡まれたくないけど、さりとて安易に同意もしたくない。

そんなときに便利なのが、

「そうなんですね」という相槌です。

 

「そうなんですね」という言葉自体には、価値判断が含まれていません。

同意でも、否定でもないのです。

実際、「そうなんですね」を省略せずに言うと、「(あなたがそう思うのなら)そうなんですね」なのです。

 

ですから、この言葉には、自分の意見が全く含まれていません。

だから、相手が受け取るのは、「その人が聞いている」という、客観的事実のみです。

そして、その話題はさらっと流れてしまう。

 

それであるがゆえに、「そうなんだ」は、特に「イヤな」人の話を聞くのが苦手な人におすすめしたいのです。

 

 

私自身も、(会社関係の)人の話を聞くのが苦手な人間の一人でした。

当時、社内では派閥争いがあり、まさに「ヘタにものが言えない」状況だったからです。

 

そのことを、一人の先輩に相談したとき、その先輩は「そうなんだ」と気持ちよく言ってくれました。

 

私は続けて、

・惡口を言う人が苦手

・悩みを話されても、有効なアドバイスができない

・愚痴を聞くのがつらい

といったことを述べると、それも全て、先輩は聞いてくれました。

 

しかし、一通り、話を終わったところで、ようやく気づいたのです。

「そうなんだ」しか、先輩が言っていないことに。(頷いてくれていましたが)

 

でも、これは使える、と思いました。

それ以来、私も先輩のように、相槌は「そうなんだ」で徹底し、極力、聞いている姿勢だけを相手に見せるようにしました。

そして、余計な口を挟まず、聞くだけで十分なのだ、とわかりました。

 

もちろん、すべてのシーンに対応できるほど万能、というわけではないですが。

でも、会社関係の人づきあいなんて、最低限、頷きながら「そうなんですね」と述べるだけでもいいのです。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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image:Aziz Acharki

あまり良いことではないのだが、人生で2回だけ、私は人に金を貸したことがある。

ひとりは30代後半の男性に10万円で、仕事での繋がりしかないただの知人だ。

 

「家族が急病になって、どうしても100万円必要なんです」

もっともらしいことを言うが、見え透いた嘘である。

彼が多重債務者で、あらゆるギャンブルにのめり込んでいることは皆が知っていた。

 

「わかりました、10万円だけ貸します。ただ、返すまでもう連絡してこないで下さい」

縁切り料だと割り切り、封筒を手渡した。

ねちゃっとした目尻を緩め封筒を受け取った彼の表情は、今も忘れようがない。

 

もう一人は30代前半の女性で、こちらは取引先の担当さんだった。

わけあって急に借金を抱え、生活が破綻し今すぐ30万円必要なのだという。

一生懸命に苦境を説明するが、話のつじつまが合わない事情を話す。

客観的に考えて、お人好しのチョロい兄ちゃんにたかろうと思ったのだろう。

 

「わかりました、10万円だけ貸します。ただ、返すまで担当を別の方に変えて下さい」

女性は悲しそうに封筒を受け取ると、翌月から別の担当さんが会社に来ることになった。

 

どう考えてもそれぞれ、悪意を持って私に近づいてきたことは間違いないだろう。

正直、だいぶ昔の話なのでなぜ貸そうと思ったのかすら、よく覚えていない。

しかしこの後に起こったことは、少し意外な展開だった。

 

100%死ぬ

話は変わるが、40代以上の人であれば1999年3月に発生した「能登半島沖不審船事件」について、記憶している人も多いのではないだろうか。

史上初めて自衛隊に「海上警備行動」が発令された、我が国の国防史に残る重大事件である。

 

この事件は、日本海近辺で北朝鮮のものと思われる活発な電波交信や船の動きが探知されたことから始まる。

当然のこと、海上自衛隊と海上保安庁は直ちに近辺の艦船と航空機を動員し、能登半島沖に急行した。

すると程なくして、漁船を偽装する明らかに不審な船を発見する。

漁具を積まず、また多くのアンテナが装備され船尾が観音開き構造というものだ。工作母船である。

つまりこの船には今まさに、多数の日本人が拉致されている可能性が高い。

 

想像してほしいのだが、女性や子どもを含む多くの人が目の前で、北朝鮮の船で連れ去られようとしている光景を目撃したら何を思うだろう。

この時、護衛艦「みょうこう」の航海長として不審船追尾を指揮していた海自の伊藤祐靖・1等海尉(当時)は、

「血液が逆流するような、どうにも抑えきれない激しい感情がわき起こった」(文春新書:国のために死ねるか)

と述懐しているが、偽らざる本音だろう。

 

しかしこの後、そんな感情とは裏腹な事実が次々に明らかになる。

世界屈指の性能を誇る最新鋭艦・みょうこうでも、漁船を装ったボロ船1隻すら止める手段がなかったのである。なぜか。

 

当時の思想では、護衛艦は他国との戦闘、つまり敵艦を撃沈するものとして役割が設計されていた。

そのためこのような不審船を強制的に停め、立入検査をする能力や装備など備えていなかったのである。

つまり今できることは、日本人もろとも工作船を木っ端微塵に破壊するか、警告射撃にビビって停船し言うことを聞くことを祈るか、指をくわえて見送ることしかなかったということだ。

 

しかし敵船を破壊することも、黙って見送ることもできるわけがない。

そのため「みょうこう」は、全速で逃走する敵船前方50mの海面に127mm炸裂砲弾を何発も撃ち込む。

なおこの炸裂砲弾をこの距離に撃つなど、もはやギリギリの警告である。

実際にこの時、不審船の窓ガラスが粉々に砕け散る様子が、「みょうこう」から目撃されている。

 

そんなこともあるのだろう。

不審船はこの後、日本海の海上に停船をするのだがその瞬間、先の伊藤1尉は自分でも思いがけないことを呟いた。

 

「止まっちまった」(文春新書:国のために死ねるか)

 

繰り返しで恐縮だが、当時の海上自衛隊に敵船への立入検査能力など無い。

つまり停まったら停まったで、誤解を恐れずに言うと困るのである。

 

しかし敵が停まった今、乗り移り制圧しなければならない。

フル武装した工作員が待ち構える敵船に、防弾チョッキすら装備せず、ロクに拳銃を触ったこともない”選抜チーム”で乗り込んで制圧戦を挑むのである。

加えて北朝鮮の工作船は、追い詰められたら自爆するのが常套手段だったので、移乗した自衛官は100%死ぬ。

 

この時、艦の食堂に集められた寄せ集めの出撃メンバーの中には、防弾チョッキ代わりに「少年マガジン」を、体にグルグル巻きにしていた者すらいたそうだ。

それほどに無策な出撃が今まさに始まろうとしている時、伊藤1尉はこう思ったという。

 

「彼らを、政治家なんぞの命令でいかせたくない」(文春新書:国のために死ねるか)

 

しかし立入検査を開始しようとしたまさにその時、北朝鮮の工作船は不具合が修正されたのか、再び全速で北上を開始する。

そしてそのまま取り逃がしてしまい、結果として作戦は中止された。

もしあのまま突入が実施されていれば、自衛隊史上初となる戦死者が出ていたことは、確実だっただろう。

この事件では、実はこれほどまでにムチャな命令が実行されようとしていたということである。

 

自衛隊は確かに、世界に誇る精強さと規律・装備を備えている。

しかしそれでもなお、小さな工作船の活動すら阻止できず、多くの日本人が最新鋭艦の目の前で連れ去られた。

歴史に残るこの重大な事件から私たちが学ぶべき教訓は、余りにも多い。

 

「あなたの上司は尊敬できるリーダーですか?」

話は冒頭の、お金を貸した二人とのその後についてだ。

ギャンブル狂の男性は1年ほど後に再び現れると、私にこんな事を言った。

「家族の治療ですがあと30万円あれば治るようです。なんとかあと30万円だけ、助けて貰えないでしょうか」

 

当然断るが、最後には人殺しだの恩知らずだの罵詈雑言を吐きイスを蹴って、喫茶店のコーヒー代すら払わずに出ていった。

その後、勤務先で無断欠勤が続き、連絡が取れなくなったので解雇されたと聞いている。身の丈に合わない私利私欲に狂った人間の、典型的な末路だろう。

10万円は結局、1円も返ってこなかった。

 

一方で、取引先の女性についてだ。

「お世話になりました。10万円と、僅かばかりのお礼です。また今日から担当させて下さい」

「大丈夫なのですか、もう落ち着かれたのですか?」

 

2ヶ月後に来た女性は、副業を重ね生活を立て直しつつあると言った。

そして借金については、本当は父親が急逝し残した負債を抱え込んだことが原因だったと説明する。

同情されたくないので、適当な話を作ったのだという。

 

「立ち入ったことをアドバイスするようですが、相続放棄という選択肢もあるのではないでしょうか」

「娘としてのプライドです。この世に借金を残したままでは、父の名誉にかかわります」

「気持ちはわかりますが、お父さんが本当に願っているのは借金の清算ではなく、あなたの幸せではないでしょうか」

「…」

「どうするかはともかく、一度知人の弁護士を紹介します。頑張るのはそれからでも遅くないはずです」

 

その後、彼女がどうしたのかは知らない。

しかし今まで以上に頑張る姿を見せてくれていたので、きっとうまくいったのだろう。

お金を貸して良かったとは思わないが、良い結果になったであろうことは嬉しく思っている。

 

そして話は、能登半島沖不審船事件についてだ。

あの極限の環境下で、航海長として指揮を執った伊藤1尉はなぜ、

「彼らを、政治家なんぞの命令でいかせたくない」

と思ったのか。

 

それは私利私欲しか考えておらず、公益のために生きていると思えない政治家たちの失策のツケを若い命で埋め合わせるなど、間違っていると考えたからだった。

 

自衛隊イラク派遣の際、第2次隊長を務めた田浦正人・元陸将にお会いした時には、こんなお話を聞いたことがある。

 

「桃野さん、自衛隊イラク派遣の際、宿営地には多数のロケット弾が撃ち込まれました。その時、中央からどんな指示が来たと思いますか?」

「なんでしょう、想像もつきません」

「自衛隊になにかあったら政権が吹っ飛ぶ。相手の要求をすべて飲め、です」

「え?でもそんなことしたらミサイルを撃ち込むことが利益になるので、余計に自衛官に危険が及ぶのでは…」

「はい。しかし残念ながら、これが日本のリーダーなのです」

 

能登半島沖不審船事件にしろイラク派遣にしろ、私には政治家というリーダーの姿は、10万円を踏み倒して逃げた男性の姿に重なる。

そしてムチャな環境の中、理不尽な命令にも義務を果たそうとした自衛官の姿は、取引先の女性に重なる。

公益に関心がない輩がリーダーになり、社会や組織に義務を果たそうとする誠実な人間の願いを悪用する構図になっているからだ。

 

なぜそんな事になっているのか。

それはひとえに、日本では教育のすべての段階で、まともな「リーダー論」を誰も学んでいないからに他ならないだろう。

 

これは政治家に限らず、一般企業でも同じことだ。

「あなたの上司・社長は尊敬できるリーダーですか?」

というアンケートを日本中の会社で集めたら、きっと悲惨な結果になるのではないだろうか。

 

いろいろな考え方があると思うが、リーダーが持つべき最低限の素養は、

「組織や部下への奉仕」

という願いを持ち合わせることだと、確信している。

 

それがない者は10万円を借り逃げした男性と同じで、間違っても、リーダーになどなってはならない。

ぜひ、リーダーと呼ばれる立場にある人にはそんなことを考えてほしいと願っている。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

先日、目を閉じて揚げ物当てクイズをしたのですが、ホタテフライをイワシフライと言ってしまいました。
もう二度とグルメ気取りなどいたしません。

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

Photo by:

コロナ禍になる前、旅しながら働くデジタルノマドの特集をちらほら見かけた。

 

デジタル技術によって可能になった、新しいライフスタイル。

時間や場所に縛られず、自分らしい生き方を追求。

遠く離れた場所で、刺激的な生活をしながらお金を稼げる。

 

こんな煽り文句を、何度も目にした。

旅しながら働く系の発信者は多く、ツイッターには日々、おしゃれなカフェだのホテルだので仕事をしている写真が流れてくる

(フォロー外のツイートを表示させるのやめてくれ……)。

 

さて、コロナ禍も(少なくともドイツでは)ある程度落ち着いたので、先日夫と愛犬とともに、2泊3日の旅行に行くことにした。

 

そこで、「せっかくなら旅行中、静かな環境で仕事をしてみよう!」とMacbookを持参。

旅先での仕事、気になる生産性はいかに……?

 

旅だからできることを我慢して働くくらいなら、自宅で十分

愛犬クロがまだ車に慣れていないこともあり、目的地は車で1時間半の小さな森のホテル。

 

旅行プランなんて大層なものはなく、まわりの山を散策し、ホテルで夫はプログラミングの勉強、わたしは執筆して静かに過ごす予定だった(周囲にはなにもないので、旅行中の食事はすべてホテルのレストラン)。

非日常的な空間で、日々の喧噪を忘れ、夫と愛犬とともに山を眺めながらMacbookを開く。

 

あ~とってもそれっぽいですねぇ。ツイッターでよく見るやつだ~。

 

……でもちょっと待て。

やる気が! まったく! 出ないッ!!

 

実際にグーグルドキュメントを開いて思ったのだが、たいていの人間は、旅行に来てまで仕事したくはない。

非日常を求めて来たのだから、仕事なんて現実は忘れていたい。

 

「そんなのちょっと考えたらわかるだろ」と言われたらそのとおりなのだが、普段とちがう環境ならなにか生まれるかな……とか、他にやることがないから集中できるだろうな……とか思ってしまったのだ。

 

はい、気のせいでした。

 

しかも、山の中のなにもないホテルにも関わらず、仕事の邪魔をする誘惑が多いこと多いこと。

せっかくならいろんなコースを散歩したい。散歩したらお腹がすく。旅行中はちょっとイイモノを食べたいから、デザートもつけちゃおう。歩いて疲れたしお腹いっぱいだから、部屋に帰ったらのんびりしたい。

 

とまぁこんな感じで、「あれをしたい」という誘惑に負け、「もう仕事なんていいや旅行中だし~」という気分になってしまった。

 

都市部での旅であれば、誘惑はもっと多いだろう。

観光地があったり、レストランやカフェがあったり、クラブやバーなんかもあるから。

 

それらの誘惑を蹴散らして自分を律することができれば「旅をしながら働く」ことも可能なのだろうが、せっかく旅行をしているのに自分に厳しくなんかしたくない。

そもそも、「旅だからできること」を我慢して働くくらいなら、もはや自宅でいいのでは?

 

旅行中にまさかのノートパソコン故障

なんて思いながら迎えた2日目の朝、予期せぬトラブルが起こる。

なんと、Macbookが充電できなくなってしまったのだ!

 

朝早く目が覚めたわたしは、犬を撫でながら、のんびりと狩野英孝さんのゲーム配信アーカイブを見ていた。

充電が10%を切りそうだったので充電コードを差し込むと、右上のバッテリー表示に雷マークがつき、「充電中」となる。

 

しかし数分後、充電がさらに減って8%になっている。おかしい。

とりあえず差しなおそうと充電コードを抜くが、なぜかバッテリーには充電中を意味する雷マークがついたまま。

コードを抜いたり差したり再起動したりするが、充電中マークはついたままなのに充電はされない。

 

どういうことだ……!?

そうこうしているうちにバッテリー表示が赤くなり、まもなく充電が切れ、うんともすんともいわなくなった。

え、どうしよう、なにも仕事ができないじゃん!

 

そうは言ってもしかたがない。

なぜならここは、山の中のホテルなのだから。

 

パソコンがあればどこでも働ける=パソコンがなければなにもできない

夫曰く「アップデートをしていないと充電できなくなることがある。まずアップデートしてみよう」とのことで試してみたが、ホテルのWi-Fiではアップデートに3日かかるようで断念。

 

どうしようもないので、とりあえず漫画『ゴールデンカムイ』を1巻から読み直すことに。

(仕事に役立ちそうな本を何冊かkindleにダウンロードしていたが、前述のとおり旅行中はのんびりしたい欲が勝り、結局漫画を選んだ)

 

以前デジタルノマドワーカーがインタビューで、「ひとつの企業に収入を依存するリスク」「時間や場所による制限」などを語っていたとき、「たしかにそうだ。デジタルノマドは自由で楽しそうだなぁ」と思った。

 

しかし実際やってみると、デジタルノマドのほうが「ノートパソコン一台に依存している」というとんでもない制限があるのでは!?という気になってくる。

 

故障は運が悪かったといえばそのとおりなのだが、家なら別PCやタブレットで代用できるし修理にも出せるので、対処しやすい。

しかし旅先では手持ちの機器が少ないし、修理に出してしまうとそこから移動できなくなっていまうから、相当な痛手だ。

 

自宅に戻り、充電コードを差したままアップデートを試みたら15分ほどで終わり、充電問題は解決したからよかったものの……。

「ノートパソコン一台あればどこでも働ける」というのは、当然のことながら「ノートパソコンが壊れたら一切働けない」という意味である。

 

スマホのフリック入力で記事を書けないこともないが、とんでもなく非効率だし、プログラマーやデザイナーなんかはほぼ詰みだろう。

それは果たして、「便利」で「自由」なんだろうか。

 

旅しながら働くのは本当に「自由」なのか

たった2泊3日の旅ではあったが、わたしには「旅しながら働くノマドワーカー」になるメリットを一切感じられなかったし、自由になるどころか制約が増えてただただ面倒くさい印象だった。

 

今回は家→ホテル→家だが、家→ホテル1→ホテル2→ホテル3……と移動するとしたら、その制約はさらに大きくなるだろう。

 

バックパッカーしながらブログを書いていた友人が何人かいたが、最初のほうこそ楽しんでいたものの、数か月もすれば「疲れた」「家に帰りたい」と言っていた。

 

毎日「どこでご飯を食べよう」「どこに泊まろう」と考え、ホテルや移動の手配をし、Wi-Fiがあるカフェを探さないといけない。家暮らしとちがって出費の予測が立たないので、つねに口座残高とにらめっこ。

旅の不自由さに疲弊し、旅をやめてしまったのだ。

 

もともとわたしがフリーランスとして働いているのもあるが、わざわざ「旅」と「仕事」を混ぜこまなくとも、旅するときは思いっきり旅を楽しんで、仕事するときは集中できる自宅やオフィスのほうがメリハリがついて効率がいいんじゃないか、と思う。

 

帰る場所があり、非日常感を味わえるから旅が楽しいのであって、結局毎日仕事をするのであれば、「旅のロマンとはいったい……?」という話である。

 

「旅しながら仕事」が向いているのは、「旅が日常」の人

とはいえ実際、旅をしながら働いて幸せそうにしている人たちもいる。

それは、どんな人たちなのだろう。

 

きっと、旅自体が仕事の人か、旅が人生の主軸の人だ。

 

旅自体が仕事というのは、たとえば全国の〇〇をめぐるブロガーや写真家などのこと。

旅=仕事だから、「旅しながら仕事」を苦痛に思うことはないだろう(それならその仕事を選ばない)。

 

旅が人生の主軸の人とは、「ずっと旅をしていたいけどお金のためには働かなきゃいけない。だから旅しながら必要なだけ稼ぐ」タイプのことだ。

 

以前見たデジタルノマドのインタビューで、「旅が好きで思いつきで飛行機や深夜バスに乗ってどこかに行ってしまう。だから、どこでも働けるフリーのデザイナーになった」と書かれていた。

 

そういう人たちにとっての優先度は旅>>>>仕事なので、当然、旅を楽しむことが大事。しかし生きるにはお金が必要なので、「旅しながら仕事をしよう」と考えるのはしぜんな流れだ。

こういう人たちにとっての「旅」は、わたしが思う「非日常的な行為」ではなく、「日常的なライフワーク」なのだろう。

 

わたしが感じた旅中の誘惑は、旅を「特別なもの」だと思うから感じるのであって、特別じゃないなら存在しない。

それと同時に、旅中に感じる不便や制約も、その人たちにとっては日常だから、そこまでストレスではないのではないか。

 

つまり旅しながら仕事を楽しめる人は、「旅に非日常感を求めないくらい旅慣れしている人限定」なんじゃないかと思う。

 

というわけで、たまーに旅行して「また来たいね~」とキャッキャウフフするような人は、仕事を忘れて心行くまで旅を満喫したほうが、仕事も旅もより楽しめる、という結論である。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :engin akyurt

『ゲームの歴史』騒動

少しまえ、『ゲームの歴史』という本について騒動が起こった。

そのタイトルに反し、内容があまりにも不正確だと多くの指摘があった。さらにいえば、100年前の話でもないのだから、バリバリの当事者たちが直接声をあげたりもした。もちろん、史料も多く残っているわけで、出版社は絶版と回収を決めた。

 

そんななか、たまに見かけた意見は、「これがコンピュータゲームの歴史の本と銘打たず、単にゲームの個人史だったらこんな問題にならなかったのではないか」というものだった。あるいは、「ゲームをやってきた世代はなんとなく語りたくなってしまうもの」、と。

 

そんな意見を見て、おれはおれのゲーム人生を振り返り……振り返ったら語りたくなってしまった。

 

というわけで、「おれの」ゲームの歴史をちょっと書き残す。あくまでおれ史観、というか、史観ですらない単なる思い出話。

ゲームの発売時期とかそういうのも、Wikipediaすらあんまり見たりしない(ちょっとは見るかも)。基本、たんに思い出話。

 

そこになにがあるかはわからない。

同世代の人なら、そんな話あったかもな、と思うかもしれない。あるいは、貴重な証言が含まれているかもしれない。いや、それはないか。でも、ファミコン世代だからこそ今のうちに吐き出しておきたいこともある。

 

ファミコン世代

いきなりだが、おれはファミコン世代と書いてしまった。そうだ、おれはファミコン世代だと自分のことを認識している。なぜか?

おれが幼稚園児のころ、ファミコンが発売されたからだ。おれの父親は新しもの好きで、なおかつ子供にものを買い与えるのにあまり躊躇しないタイプだった。なので、ファミコン以前にゲームウォッチというものを与えられたりもしていたし、ファミコンが出たらすぐに買ってきた。

 

ファミコンは衝撃だった。幼稚園児なのでアーケードゲームなどは知らなかったわけだが、『マリオブラザーズ』にもっていかれたといっていい。

『ベースボール』では野球の基礎ルールを学んだ。最初期のファミコン……あれ、あんまり記憶ないな。幼稚園のころだしな。

 

もちろん、ファミコンが出たときに思春期まっさかりだったり、20歳ちょうどだったり、それより上の世代だろうと、自分が「ファミコン世代」だと思えば、それでいい。

 

ドラクエと「ファミコンおばさん」

小学校に入ると、いよいよファミコンは常に遊びの中心になった。

だれかの家に集まってファミコン。「外遊びもしましょう」と言われたりもしていたっけ。

大勢の小学生が囲碁や将棋にはまって外で遊ばない、なんてことはなかっただろうから、そんな呼びかけは歴史上なかったかもしれない。

 

ファミコンをしていたのは子供だけだったか。

そうでもなかった。というか、その当時、中学生や高校生、大学生、その他社会人の知り合いなんていなかったからわからん。わからんけど、おれの母親はファミコンをしていた。

 

なんのゲームを。『ドラゴンクエスト』、これである。

『ドラクエ』の衝撃はいまさらなにを語ろうというところだが、まあおれの母親ですらプレイしていたということだ。

それでもって、そんな大人、親は珍しかったのか、おれの母は友達から「ファミコンおばさん」と呼ばれるようになった。

今の時代、親世代、大人がゲームするなんて当たり前だろうが、当時は珍しかったのかもしれない。

 

ちなみに、「ファミコンおばさん」は子供であるおれと弟が見る「ガンダム」シリーズの再放送などから、富野由悠季の小説版に手を出して、人知れず「ガンダムおばさん」にもなっていた。

『ガイア・ギア』くらいまでは全作品あったような気がする。小説には性的な描写などもあって、それを読んだ小学生のおれはドギマギしたものだが。

 

あ、ガンダムの話になってしまった。しかし、ガンダムでゲームというとSDガンダムの『ガチャポン戦士』(最初『ガシャポン戦記』と書いた。

「カプセル戦記」とごっちゃになった上に、チャとシャも間違っている)シリーズであって、どれだけ時間を費やしたかわからない。SDガンダムにはガン消しとカードダスという存在もあって、すっかり囲い込まれていた。

 

ほか、小学生のころ思い出すといえば、『ファミスタ』になるだろうか。『ベースボール』に比べて、『ファミスタ』はどんなに革新的ですごかったものか。ついでにいえば、攻略本という名前の選手名鑑的なものがどれだけ面白かったことか。

おれは『ファミスタ』得意で、「きたへふ」のカーブで打ち取ってやろうかという気分だ。『ファミスタ』で野球のルールや、プロ野球のチームや選手を知った子供も少なくないのではないか。

 

となると、『桃鉄』で日本の地理を学んだとか、ちょっとあとの話になれば『三国志』シリーズで中国の主な大都市の場所と大きな川の位置関係を知ったとか、わりとどうでもいい「ゲームが勉強になった話」が出てくるかもしれない。

いや、『桃鉄』シリーズは教育用ゲームとしても現在進行系なのだっけ。

 

「ファミコン村」のこと

おれが小学生の頃というと、当然インターネット通販なんてものは存在しなかった。どこでゲームを買っていたのだろうか。

 

おれが住んでいたのは神奈川県の鎌倉市という、都会とはとても呼べないが、田舎と呼ぶとそれもちょっと違うような場所であった。

その鎌倉市の藤沢市寄りに住んでいて、まあちょっとした街というと藤沢駅あたりということになる。藤沢あたりのゲーム屋……ゲーム屋なんてあったっけ。今みたいに超大型家電量販店なんてものはなくて、うーん。

 

ただ、身近なところは覚えている。

一つは「信州屋」という名前の駄菓子屋だ。これが『こち亀』で両津勘吉がGIジョーのレア物を探すような昭和の駄菓子屋らしい駄菓子屋で、駄菓子はもちろん、ガンプラなんかのおもちゃも売っていたし、はやりのファミコンも売っていた。

そうだ、なかなか手に入りにくい『ドラクエ』を、当時問題になっていた「抱き合わせ」(他の人気のないゲームとセットで高く売る)で売ったりしていた。ちょっと偏屈なおっさんが店主だった。

 

そして、もう一つゲームを売っているところがあった。いや、ゲームしか売っていなかった。「ファミコン村」である。

そう呼ばれていたが、それが正式な店名かはわからない。湘南モノレールの西鎌倉駅の近くにあった小さな店だ。焼き鳥屋とかがあった並びだ。あれは完全にゲームショップだった。

 

中古の売買もしていたと思う。ちょっと怪しげな夫婦がやっていた。ただ、怪しいというのは後付けかもしれない。とにかく怪しかったのはディスクシステムだった。

父がそう指摘したのか、友人のだれかが言ったのかどうだったかわからないが、小学生のおれは「ファミコン村」が扱っているディスクシステムは任天堂の正規品ではない、と信じ切っていた。今でもそう思っている。

 

なんか、正規品とはディスクの色とか形とかがちょっと違って、たぶん書き換えマシンもなかったかなんかで、しかもすごく安かった。

今、ディスクシステムで調べると、海賊版の話が出てくるが、おれの記憶しているそれとはちょっと違うようで、それでいて、やっぱり海賊版は存在したんだなという確信もある。もしもおれの見当違いだったらファミコン村に謝りたい。

 

しかしなんだ、子供のころどこでゲームを買っていたかなんてことも忘れてしまうものだ。というか、子供のころ、ゲームは「親に買ってもらう」ものだったから、おれがあまり覚えていないのも当然か。

 

中学、スト2、対戦台

先ほどからファミコンの話ばかりしてきたが、たとえばアーケードゲームはどうだろう。

信州屋にゲーム筐体はあったろうか。あったような気もするし、なかったような気もする。駄菓子屋やおもちゃ屋の前においてあるゲーム……。

 

激? ……『火激』! そういうゲームがあった。不良が殴り合うだけのゲームだ。

これと出会ったのは大船駅の……やはりなにかの店の前に置いてある筐体だった。中学受験のための予備校に行く前に、友達と立ち寄っては五十円玉を投じていた。

 

そして、おれはいつの間にかこのゲームが非常にうまくなってしまい、なかなかゲームが終わらないという事態に陥ってしまった。

 

塾の時間が迫る。一緒にいた友人たちは「先に行くね」と言っていなくなってしまう。なのにおれは『火激』で敵を次々に倒していく。塾に行かなくてはいけないのに、ゲームで負けられない。結局、おれはゲームを放り出して塾に走った。ひょっとしたら、生涯で唯一アーケードゲームをワンコインクリアできる機会だったかもしれないと、今でも思う。

『火激』の話が長くなった。検索したら、その、プレイ動画みたいなのが出てきてしまったので。

 

で、ゲーセンの話をしたい。令和の今、現在ゲーセンとはどのような場なのだろう? おれにはさっぱりわからない。

わからないが、おれが中学生のころはいまだに昭和の「不良のたまり場」のイメージが色濃く残っていた。小学生のころは、とてもじゃないが入れない場所というイメージだった。

が、中学に入ってしばらくしてからだろうか、どうしてもゲーセンに行かなくてはならなくなった。そこに『ストII』があったからだ。

 

『ストII』とおれ、おれたちと『ストII』。出会いはどこだったのだろうか。

私立中学校に通うようになったおれは、湘南モノレールに乗って大船に行き、そこで横須賀線に乗り換える、というような生活を送るようになっていた。

住宅街であった狭い地元より、いくらか行動範囲は広くなった。そんななかで、たぶん最初に出会ったのは逗子銀座の商店街のなんらかの店の前にあった『ストII』の筐体だ。昔、ゲームというものはなんらかの店の前に置いてあったものなのだよ。

 

情報としてどこで出会ったのかは覚えていない。ただ、最初にプレイしたのは、とにかく、なんらかの店の前にあった筐体だった。きれいなグラフィックに、ボタンもたくさんあって、最初は必殺技なんて出せなかった。

でも、『ストII』は当時の自分たちには画期的なゲームで、ゲーム機に50円玉を並べて順番待ちをし、飽きることなくプレイしたものである。

 

……と、言いたいところだが、『ストII』はえらく人気だったし、そこは通学路も通学路だったので、多くの生徒で溢れかえっていた。

いや、それ以前に、学校帰りにゲームなんかしていいはずがない。学校で禁止されていた。それは確かだ。いつ教師に見つかるかわからない。

 

そこで、おれたち『ストII』好きは大船のゲーセンにたどり着いた。とりあえず大船で乗り換える連中。

ここなら先生の目にもとまるまいと、半ば恐る恐るゲーセンに立ち入るようになった。駅前のパチンコ屋の2階、あと、商店街の奥の方にある店。そっちにはビリヤード台なんかもあったか。

 

当然、自分たちはやわな私立中学通いのおぼっちゃんたちだ。ゲーセンには不良もいるに違いない。

しかし、『ストII』の魅力には抗えなかった。それに、そのころにはそれ目的の似たような制服姿の学生が多く、いわゆる見るからに不良、ヤンキーというものはいなかった。

 

そして、われわれは対戦台に50円玉を並べつづけた。……って、今の若い人は対戦台って通じる? まあ、通じなくてもいいか。

筐体が背中合わせに2台設置されていて、向こう側の顔の見えない人間とやり合うのだ。それにしても、50円玉を置くだけできちんと順番が守られて、謎の秩序があった。もちろん、知らない学校の者同士が話すことなんてないのに。

 

秩序といえば、初期の格闘ゲームにありがちだった、飛び蹴りをガードさせた硬直時間に投げ技を食らわせる違法(?)行為、あれも見知らぬ者同士で発生してしまった場合、やってしまった側がノーガードになって一回投げ返されるという暗黙のルールもあった。詳しくはおれのブログを読んでほしい。

 

その後、SNKから『餓狼伝説』 や『龍虎の拳』などが出たり、どっかから『大江戸ファイト』(地蔵が真っ二つになって血が噴き出る)が出たりして、格闘ゲームは一大ブームとなった(とか適当なこと書くと突っ込まれそうだが、とにかく『ストII』が最初にあった)。

 

おれたちは『ゲーメスト』を買うようになり、インド人を右にした。なかにはNEOGEOを買うやつまで出てきたりして、休日、そいつの家に集まって徹夜で対戦を繰り広げたりもした。

おれたちは電車通学者だったので、帰りに誰かの家に寄って、というのは無理だった。だからゲーセンという場所が必要だったのだ。

 

ん? 家で格闘ゲームというと、『ストII』のスーパーファミコン版ということにもなるか。順序がわからない。というか、スーファミが出たときの話もすっぽかしているな。

ただ、とにかくスーファミ版の出来は『ストリートファイター』(Iのことです。ゲーム機はなんだっけ?)とは比べ物にならないほどよく、「家でできる!」と夢中になった覚えもある。四天王が使える隠しコマンドはなんだっけ。上X下B……。

 

とはいえ、ゲーセンで格闘ゲームだけしていたかというとそうでもなく、家ではできないようなハンドル付き筐体の……そう、レースゲームというよりドライビングゲームの感じもあった『アウトラン』とか、本当はプレイしちゃだめだけど脱衣麻雀のゲームとか、『ぷよぷよ』みたいな落ちゲー……、なんだっけ、『コラムス』! とかもやっていたと思う。主に格闘ゲームが混んでいるときなどに。

 

あのころのゲーセンは楽しかった。とはいえ、大船でゲーセンに入るのを教師に目撃されて職員室に一同呼び出されることなどもあるにはあったが(それで懲りるということはなかった)。

 

ソニーはクソニー

さて、話はゲーセンの話と前後するが、世の中に次世代ゲーム機と呼ばれるものが発売された。

ソニーのプレイステーションと、セガ・サターンである。どっちが先に発売されたか? 各自調べられたい。

我が家では、新しもの好きの父が「ソニーという企業がゲームに参入するからには、これからはプレイステーションの時代だ」と、自分ではゲームなどやらないくせにいきなり買ってきた覚えがある。

 

そうなると、おれはプレステ派ということになる。

そうだ、なぜか派閥のようなものができたのである。プレステ派とサターン派だ。

 

「そういうものって実際にあったの?」という若い人もいるかもしれないが、少なくともおれは実体験としてあったと言える。

だいたい、ゲーム本体を2台持ち、というのはほとんどありえなかったように思う。そこでプレステ派とサターン派ということになる。

 

もちろん、冗談半分というか、ごっこ遊びのようなものだ。「いや、本気でおれはセガを……!」という人もいたかもしれないが。

で、そんななかでサターン派から投げかけられたのが「ソニーはクソニー」という言葉だった。

 

「クソニー」。今、インターネットを検索してみると「インターネットスラング」という解説付きで出てくる。

しかし、当時はインターネットなんてものはなかった。なかったけれど、一人のサターン派からは「クソニー」という言葉が飛び出したのである。

 

おれはあまり2ch文化に詳しくなく、ゲーハーと言われてもよくわからないが、ゲーム機にはなにかそういうものにユーザーを駆り立てるものがあったのかもしれない。

ちなみに、公民の教師が3DO派であり、ときおり熱弁をふるっていたが、内容はまったく覚えていない。

 

その後のおれとゲーム

さて、おれのゲームの歴史について半分くらいまで来たが、長くなってしまってもはや誰も読んでいないと思われるのでおおいに端折る。

 

その後おれというか、わが家というか、おれと弟はプレステ派になった。自然とそうなった。

新しいプレステが出るごとに『リッジレーサー』をやったような気もするが、気のせいかもしれない。いつの間にかその座は『グランツーリスモ』に取って代わられた。

 

格闘ゲームはいわゆる3Dの時代になった。『バーチャファイター』を初めてプレイしたときの驚きといったらなかった。

見た目は決して魅力的とはいえないごつごつのポリゴンを操作してみると、これはもうすげえなと。いや、SNKの『K.O.F』シリーズとかも人気だったから、両立していたのだっけ。

うーん、記憶は曖昧。調べるのは面倒。そりゃ『ゲームの歴史』なんて書くのは大変だ。

 

しかし、いずれにせよ、おれは知らん間にゲーセン通いもしなくなり(いろいろあって友達がいなくなったからか)、格闘ゲームから離れてしまった。

 

とはいえ、ゲームにはのめり込みつづけた。『ファイファン』(と呼ぶ派だったというか、周りはみんなそう呼んでいたような気がする)のナンバリングタイトルは4以降やり続けたし、もちろん『ドラクエ』もどこかまではやった。『ファイファン』が4からなのは、スーファミになってから、ということで、ファミコン時代は『ドラクエ』派、だったのだ。

 

しかし、それよりもおれが膨大な時間を費やしたのがシミュレーションゲームであり、なかでも競馬ゲームに相当な時間を使った。それははじめ『ダービースタリオン』シリーズだった。

おれは『ダビスタ』を毎日熱心に語る友人の話を聞いて、ふと日曜日にテレビの競馬中継を見てから競馬にのめり込んだ。

 

スティールキャストという馬が大逃げを打って、実況が「あのプリティキャストの息子です!」と言った。

すべての競走馬に母と父がいて、その母と父にもさらに名前のある親がいるのだ……と、衝撃を受けたのだ。

その後、なぜか実際の種牡馬の写真が掲載された成沢大輔のダビスタの攻略本(と呼べるのかどうか。分厚い種牡馬カタログだ)片手に、馬を生産しまくった。後に、それは『ウイニングポスト』シリーズに代わった。

 

騎手になれるゲームにも相当時間を使った。『ギャロップレーサー』、『G1ジョッキー』。令和の今、実際にジョッキーカメラが話題になっているが、「あ、これ、ゲームで見た画面そっくりだ」と思ったものだ。

つーか、今、ジョッキーのゲーム出したら売れるんじゃねえか。おれはやりたくなった。

 

また、話が長くなる。競馬、ゲーム、……現在に飛ぶ。『ウマ娘』か。『ウマ娘』の裁判か? おれはひたすら『ファミスタ』→『ワースタ』シリーズを極めてきたので、『パワプロ』のことは一切知らん。

『ウマ娘』は好きだ。ただ、おれはもうゲームをやっていない。時間がない。いや、根気がないのか。どちらもないのか。『ウマ娘』すらできない。

 

あと、おれは「ネトゲー」ができない。苦手だ。画面の向こうに人がいるのが耐えられない。対戦台とはまったく違う。

おれはもう、一人で黙々と一人の世界に没入できるゲームが好きになってしまい、ただでさえ苦手な対人コミュニケーションを、なんでゲームの世界でまでやらなければならんのだ、という気持ちになる。

 

でも、たまにはゲームをやることもある。PS4なら持っている。任天堂? Xbox? 知らないな。まあ、発作的に『シュタインズ・ゲート』シリーズをやってみたり、『FF』(さすがに最近は「ファイファン」とは言わないです)のナンバリングタイトルをやってみたりすることもある。

でも、そのプレイ中は熱中できるものの、サブクエストやなにやらの「やり込み要素」を満たそうという熱量はない。ゲームに対する、熱量はもう使い果たしてしまったのかもしれない。

 

ゲームの終わりに

というわけで、おれはもうゲームに対してほとんど興味を失ってしまっている。いや、興味はあっても身体がついていかない。

ただ、思い出だけはある。それをちょっと書こうと思ったらこのざまだ。

 

本当はもっともっと色んなゲームの思い出話をしたい。

『オウガバトル』シリーズ、『ネオ・アトラス』(これをやり続けると死ぬ、と思って唯一自分で封印したゲーム)、それにそれに……と、きりがない。あ、弟に隠れて、人から「布教用」のを借りてプレイした『ときメモ』の話する? 中高男子校の人間にあれは薬だったのが毒だったのか、とにかく脳がおかしくなりそうだったな。

 

いや、まあそんな話だ。おれより5年後に生まれた人間、10年後に生まれた人間、30年生まれた人間にも、それぞれゲームの個人史はあるだろう。

いや、ゲームやらない人もいるか。いたな。でも、ともかくおれはゲームやる人間だった。過去形なのは少し寂しいが、語ることについての熱量はまだまだあるみたいだ。

 

それだけ多くの時間を、おれはゲームに費やしてきたのだ。今のおれは携帯端末で『ぴよ将棋』をプレイするのがほとんどになってしまったが。

 

しかし、ゲームに費やしてきた時間は、おれの孤独や空白、なにせニート時代すら埋めてきてくれたんだ。

「なんて膨大な時間を無駄にしたんだ」とは思わない。どうせ生きていたってやるべきことなんてない。

ありあまらせていた若いころの時間、死ぬまでの長い暇つぶし、ゲーム、ゲーム、ゲームがあったからこそおれはやり過ごせてきたのだ。それは間違いない。よかったら、あなたの昔話も聞かせてほしい。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :nagi usano

「人はなぜ、生きているのか?」

自分という存在を自覚するようになった頃に、一度は考えたことのある疑問ではないかと思う。

 

生きることには楽しいこと・気持ちの良いこともあるが、苦しいこと・辛いこともたくさんある。

 

最近ときどき耳にする「反出生主義」になぞらえて考えるなら、かならず苦しみが伴うのに私たちが生まれてくるのは良くないことで、生まれてこないほうがいいし、子孫など残さないほうがいい……となるかもしれない。

 

そして人間だけが苦しいわけでない。動物も昆虫も、生きとし生けるものが生きる限り、もがき、苦しむ。

欲しがっても得られない苦しみ、命を脅かされる苦しみ、そして老化や病気による苦しみや死に至る苦しみ。苦を悪とみなし、苦を回避することを善とみなす限りにおいて、人類絶滅や生物根絶をうたう人々の言い分には確かに一貫性がある。

 

私も私なりに「人はなぜ、生きているのか」について考え続けてきたが、今もわからないままだ。そうしたなか、最近、市橋伯一という生物学者による『増えるものたちの進化生物学』という書籍に出会った。

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この本の章構成は、私にとって非常に魅力的とうつった。というのも、

 

第一章:なぜ生きているのか

第二章:なぜ死にたくないのか

第三章:なぜ他人が気になるのか

第四章:なぜ性があるのか

第五章:何のために生まれてきたのか

 

まさに私の考え続けてきた「なぜ」を積み重ねた内容だったからだ。

 

『増えるものたちの進化生物学』を読んで私が辿りついたのは

はじめに言っておくと、『増えるものたちの進化生物学』そのものは、冒頭で問うたままの「人はなぜ、生きているのだろうか」には答えてくれていない。第五章には、以下のような記述もある。

幸せになることが目的ではないのなら、私たちは何のために生きているのでしょうか。
これに対する答えははっきりしています。私たちには、「○○のために生きている」といったわかりやすい使命や目的はありません。私たち人間を含むすべての生命は物理現象です。増えて遺伝するものが出現すると自動的に起こる現象です。物質が重力によって下に落ちることに目的や使命がないのと同じように、私たち増えて遺伝するものの存在にも目的や使命はありません。

だから実存的な問いに本書だけで答えきれているとは言えない。そもそも進化生物学の書籍なのだから、実存的な答えは期待し過ぎないほうがいいのだろう。

 

しかし、その実存的な問いを考える際の大前提、人が「どのように」生きているのか・生きるとはどのような現象なのかを考える材料を本書は提供してくれている。つまり、「なぜ生きているのか」のうち、whyという疑問には答えきれなくてもhowという疑問には本書はかなりのところまで答えてくれているのだ。

 

では、人は(そして生物全般は)どのように生きているのか?

 

市橋先生は生物の起源にまで遡って、「物質の自己増殖」という現象を紹介する。確かにそうだった。生物を特徴づけるのは自己増殖だ。厳密にいえば、生物だけが自己増殖するわけではない。

しかし全ての生物は自己増殖する。そして自己増殖を繰り返すなかで生き残った者の性質が後世へと伝えられ、そんなことを何十億年も繰り返してきた果てに私たちもこうして生きている。あらゆる生物には自己増殖する性質があり、例外はない。

 

自己増殖するといっても、その増殖の仕方はさまざまだ。バクテリアのようにものすごい勢いでコピーを増殖させる種もあれば、パンダや人間のように、少ない子孫しか残さないかわりに長く生き、有性生殖をとおして遺伝子をシャッフルさせる種もある。

多産多死の殖えかたと少産少死の殖えかたでは、自己増殖のストラテジーは当然変わってくる──そのように市橋先生は解説する。バクテリアはかぎりなく安い命をかぎりなく殖やすことで、子孫を残し絶滅を免れてきた。いっぽうパンダや人間の命はそうではない。

 

特に人間は寿命が長く、数少ない子孫の命を大切に育てなければならない。大切に育てなければならないからこそ、人間の自己増殖のストラテジーには「子どもを大切にする」という性質が発展し得る。愛情と私たちが呼んでいる行動上の性質も生まれてこよう。

人間は少産少死をきわめた自己増殖ストラテジーの種として、命を大切にし、愛情を持ち、子どもを育てる性質を身に付けてきた。集団で助け合って生きていく性質も発展させてきたから、他人にどう見られているのかを気にするし、他人を気にかける性質も発展させてきた。

 

してみれば、私たちが日ごろ執着している悩みごとはどれも、少産少死の自己増殖ストラテジーをきわめた種ならではのもの、であることが本書をとおしてみえてくる。仏教は生老病死を四苦と呼び、愛別離苦や怨憎会苦などをあわせて八苦とも呼ぶが、本書はまるで、そうした執着や悩みの源を進化生物学のロジックで説き起こしていくかのようだ。

第三章「なぜ、他人が気になるのか」も、第四章「なぜ性があるのか」も、社会的欲求や性欲がしばしば悩みの焦点になることを思うと、「なぜ苦しみ、悩むのか」のメカニズムを進化生物学的に説き起こしているようにもみえる。

 

そう、本書は実存的な「人はなぜ生きているのか」を明示していないとしても、「人はなぜ執着し、苦しみ、悩むのか」については進化生物学的に色々なことを教えてくれるのだ。

本書の読み筋として、「人間の悩みや執着を進化生物学的に読みとおす」が妥当なのか、正直私にはわからない。が、すくなくとも私は本書をとおして人の苦というもの、人の執着というものを強く思った。

 

私は進化生物学が大好きで、いままで色々な本を読んできたけれども、人の苦、人の執着を進化生物学的に、これほど読みやすく説き起こした本はなかったんじゃないかと思う。

たとえばNHKの『ダーウィンが来た!』も優れて進化生物学的な番組だが、あの番組からは、生きるということと表裏一体の執着や苦しみ、渇愛、といったものはそこまで想像されない。

 

いろんな人にお勧めできる議論の出発点になっている

本書の最終章では、そうした「人はなぜ生きているのか≒人はなぜ執着し、苦しみ、悩むのか」を考えてきた着地点として、未来の人間がどうなっていくのか(そして未来に向かって私たちは何をなすべきなのか)について市橋先生なりの未来予想を示している。

そこには、性による不平等は少ない方向へ、寿命は長い方向へ──そして不老不死へ──と向かっていくとも書かれている。

 

この部分については色々な意見があるかもしれないが、さしあたって市橋先生はエキセントリックなことや非常識なことは書かず、読者が議論するための手堅い出発点を提供している。

進化生物学に興味のある人も、自己増殖ストラテジーを持った生物としての人間に興味のある人も、もっと実存寄りの興味を持っている人も、一読してみて損はないだろうし、自分が考えたいことを考える良いスタート地点になるんじゃないかと思う。

 

私は生きるということの未来─現在─過去を思わずにいられなくなった。

ついでながら、私が本書を読み終えて議論したくなったことも書いておこう。

 

さきにも書いたとおり、まず私は、本書で解説されている人間の自己増殖ストラテジーが仏教の説く執着によく対応していると感じた。生きるために・増えるために私たちは執着し、悩み、苦しむ。進化生物学的には、それらの執着が足りないご先祖様は子孫を残しにくく、執着のたっぷりあるご先祖様が子孫を残しやすかったのだろう。

そうやって執着の乏しい者が淘汰されていく何十億年もの繰り返しの果てに私たちは生きているのだから、そうした執着が人間にプリインストールされているのは無理もないことだ。

 

進化生物学は、そのように私たちが進化した所以を教えてくれるが、私たちが生きている意味は教えてくれない。だとしても、進化生物学をとおして、生きるということに執着や苦しみが内包されているさまは、くっきりと可視化されるのではないだろうか。

 

ここから、私の議論になる。

では、そんな私たちは苦を滅却するために滅亡すべきだろうか?

ラディカルな反出生主義者は「イエス」と答えるのかもしれない。

 

また性による不平等を極力減らし、不老不死へと向かうことで苦を減らすべきなのだろうか?

良識的な現代人は「イエス」と答えるのかもしれない。

 

私は……わからなかった。わからないのだけど、滅亡に向かうのも不老不死を目指すのも、なにか違う気がしている。

一面として、それらは人間の苦を減らす方策としてどちらも正しいようにみえる。結果として人間が滅ぶ、結果として不老不死になる、どちらも構わないといえば構わない気もする。しかしなぜ、私たちはそこまで苦を減らさなければならないのだろう?

 

またなぜ、私たちは不老不死を目指さなければならないのだろう?

反出生主義と不老不死志向は正反対のようにみえて、「生の過程についてまわる苦の存在に否定的である」という点で案外似たロジックに支えられている気がする。

 

苦のある人生、不老不死ではない人生は、未来においても現在においても過去においても、あってはならないもの・避けるべきものと考えてしまって本当に構わないのだろうか?

 

いやいや、うまく書けてないな。

なんて書けば読者のかたに伝わるのだろう?

 

しばらく考えて思い出されたのは、コミック版『風の谷のナウシカ』第七巻、最終盤のナウシカの台詞だった。

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絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない。その人達はなぜ気づかなかったのだろう、清浄と汚濁こそ生命だということに。苦しみや悲劇やおろかさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だから……だからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに。
あわれなヒドラ。お前だっていきものなのに、浄化の神としてつくられたために生きるとは何か知ることもなく最もみにくい者になってしまった。

すさまじいテクノロジーの時代に作られた不老不死のヒドラという存在に、ナウシカはこのように言い放つ。

そしてヒドラとの応酬のなかで、

いのちは闇の中のまたたく光だ!

みずからの生命観をナウシカはこう言ってのけた。

 

生命の輝きは、苦や汚濁と表裏一体だ。このシーンに至るまでに人間の数えきれないほどの愚かさと苦しさを直視してきたにもかかわらず、ナウシカは苦しみや悲劇やおろかさと共にある人間をそのように肯定する。(と同時に、数多の人間の愚かさを直視できず、肯定できなかった人々もコミック版『風の谷のナウシカ』では描かれている)。

 

私の仏教観も、ナウシカに近いのかもしれない。

仏教といえば、苦しみの滅却、そのための輪廻からの解脱を連想する人もいるだろう。

しかし私の身近にあった仏教、大乗仏教にして庶民仏教でもあった諸派は、輪廻からの解脱をゴリゴリに説くものではなかったし、輪廻から解脱できない生を見下すものでもなかった。

 

教理そのままに解脱を目指すより、もっと目線の低いところにそれらはフォーカスしていて、葬式仏教だ現世利益だと後ろ指を指されながらも、苦とともに生きている私たちに寄り添い、はげまし、希望や慰めになろうとするものだった。

庶民仏教は、自己増殖ストラテジーにもとづいて苦を無限に再生産する私たちの生を止めようとはしない。むしろ先祖供養などをとおして再生産に加担するものかもしれない。

 

じゃあ、それが駄目だったかといったら、私は駄目じゃなかったと思う。ナウシカの世界の人間たちも、私たちの世界の人間たちも、目的も目標もなく、あてどなく、なぜというでもなく、生きている。苦という単一の尺度をもって測るなら、そうした私たちの生は存在しないほうが良いものだろう。

そして自己増殖ストラテジー、あるいは自己増殖の遺伝的アルゴリズムとでもいうべきものに衝き動かされて生きるのは愚かなことでもあるのだろう。私の知る庶民仏教は、そうした愚かかもしれない人々の生に必ずしもダメ出ししていない。教理のなかに解脱を良しとするところがあっても、だ。

 

私は、技術の進展などによって結果的に人の寿命が長くなってもいいし、日常生活に伴う苦が少なくなるに越したことはないと思う。が、そのことをもって、なぜ生きているのかもわからないまま生きている私たちの生、自己増殖ストラテジーに基づいて増えるものたちの生全般がネガティブにとらえられることを警戒する。

過去においても、現在においても、未来においても、私たちのこのような生がどうか肯定されますように、少なくとも否定に向かい過ぎませんように、そのようにも願う。人は生まれて死んできた。これまでも、これからも。『増えるものたちの進化生物学』を中心にグルグルと考えて私が辿りついたのは、そんなことだった。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

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「質問がヘタな人」が、世の中には数多くいる。

例えば、こんな感じだ。

 

 

後輩 「先輩、昨日のお客さんの件で、いまお時間いただいていいですか?」

先輩 「うん。」

 

後輩 「今後、どういう作戦がいいかと思いまして。」

先輩 「……?何の話?営業の話?それとも提案資料について?」

 

後輩 「えー、追いかけるべきかどうかです。」

先輩 「……ああ、今はまだ、ちゃんと営業したほうがいいんじゃないかな。」

 

後輩 「あ、じゃ、ご案内したほうがいいですよね?」

先輩 「……?何を?カタログ?会社案内?」

 

後輩 「次回の営業セミナーです。」

先輩 「ああ、営業セミナーか、そうだね、ん-、ま、ご案内したほうがいいかな。」

 

後輩 「わかりました。あ、どっちがいいですかね?」

先輩 「どっちって……?何の話?セミナー何種類もあったっけ?」

 

後輩 「いえ、セミナーをメールでご案内するか、直接会ってご案内するかです。」

先輩 「……単なる連絡の話?……連絡は早いほうが良さそうなのでメールで……ねえ。」

 

後輩 「はい?」

先輩 「もうちょっと、考えてから質問してくれないかな……。」

 

 

こういう類の質問のしかたは、回答者を無用に迷わせるので

「ヘタな質問」に属する。

 

先輩がいい人だったり、「そういうものだ」と割り切って、辛抱強く付き合ってくれる人もいると思うが、先輩が忙しかったり、短気な人だとイラっとされて、

「もうすこし考えてから、質問してくれないかな。」

と冷たく言われてしまうこともあるかもしれない。

 

では、これはどのように質問すればよかったのかというと、次のようになる。

 

 

「先輩、昨日のお客さんの件で、お時間いいですか?」

「うん。」

 

「質問が3つあるのですが、一つ目は、昨日のお客さんは、営業案件としてきちっと追いかけたほうがいいでしょうか?私は追いかけるべきだと思っていますが……。

「追いかけるべきだろうね。」

 

「わかりました。二つ目は、そういうことなら、次回の営業セミナーをご案内したほうがよいでしょうか?

「ん-、まあ、そうだね。」

 

「わかりました。三つめは、来週またお客さんに訪問するので、セミナーはその時に案内しようかと思いますがどうでしょう?

「セミナーなら、早めに連絡したほうがいいと思うんで、事前にメールでもご案内してもらえるかな。」

「わかりました。」

 

前提条件が不明だと、なにを回答してよいかわからない

この差はいったいどこにあるのか?

それは、質問者が「前提条件を提示しているかどうか」にある。

 

例えば、パートナーから「何食べたい?」と質問されたとする。

 

こちらが「ん-、(今は)アイスが食べたいかな」と返したら、

「いや、(今じゃなくて)夕飯の話。」

と、後づけの条件を加えられたことがある人、いるのではないだろうか。

 

このように、回答にあたって「それを先に言ってくれよ」と思うような条件。

「それを踏まえて」答えなければならない条件。

それが、質問の「前提条件」だ。

 

仕事でも「条件によって回答が変わるので答えづらい」という質問をもらうことは多いだろう。

「今後の見通しはどうですか?」とか。

「やったほうがいいことはありますか?」とか。

「何か対策はありますか?」とか。

 

特に上のような「予測」に関する質問は、前提によって大きく回答が変わってくるので、答えるのがとても難しい。

 

にもかかわらず、「質問がヘタな人」は、こうした前提条件をすっ飛ばして、「自分が聞きたいことだけ聞いてくる」。

だから、「それは場合によるけど……」と、回答に苦慮することもしばしばある。

 

もちろん、できる先輩は、「前提条件」を推測し、後輩の言語化して先回りして答えてくれる。

「こういう場合は、こう。別の場合なら、こう。あるいは、このケースなら、こう。」と。

 

実際、冒頭の先輩は

「今後、どういう作戦がいいか?」

という質問に対して、次のように言った。

「……?何の話?営業の話?それとも提案資料について?

これは先輩が、前提条件を文脈から推定してくれたのだ。

 

だが、このやり取りは、「質問される側に、時として多大な負荷がかかる」。

 

だから、親切な先輩であっても、何度もこのような質問をされ、改善の気配がないと、徐々に

「あいつの質問、答えるのが面倒なんだよなあ」

という評価を下すようになる。

 

 

だから、質問がヘタで、相手をイライラさせてしまったことのある人は、質問の前に

「どのような情報を与えれば、相手が質問に答えやすいか?」

を、少し考えてみると、状況が改善する。

 

たいていの場合は

・質問をしようと思った経緯を説明する

・聞くだけではなく、自分の意見を言ってから質問する

・主語(~が)や目的語(~を)を省略しない

だけで、「質問上手くなったね」と言われるくらい、かなり良くなる。

 

「面倒だな」と思わず、回答者の負担を少しでも減らしてあげよう。

 

 

4月19日に”頭のいい人が話す前に考えていること” という本を出しました。

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ここには、「働く上で知っておくと得すること」を盛り込みました。

 

マネジメントやコミュニケーションの摩擦が、「本来注力すべき仕事」の邪魔をするという事はよくあります。

こうした「人間関係の摩擦」を最小限にする、という事を一つの目的として書いた本です。

ぜひ、お手に取ってみてください。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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image:Tachina Lee

去年辺りから低山トレッキングにハマっている。

これまではどちらかというと、高山のに興味があった。富士山や雲取山、千畳敷カールの登頂経験は素晴らしい体験で、地図を見ながら

 

「俺、こんな山を登ったんだな」

 

と振り返るのはとても楽しい。

 

その調子で日本百名山を一通り制覇するのも悪くはなかったのだが、車を持たない自分には多くの山はアクセスに難があり、どうにも気が乗らなかった。

 

山登りは楽しいのだが、アクセスに手間がかかるのが難だ。

もうちょっと気軽に何とかならないかと思ったところ、東京は高尾山がハチャメチャに便利な事に気がついた。

 

新宿から1本。帰りもラクチンな高尾山~陣場山トレッキング

高尾山は東京の西側にある有名な低山だ。東京周辺に在住の方なら、遠足等で一度や二度は訪れた事があるだろう。

 

高尾山がいいのは登山口まで電車が伸びているという点にある。新宿から京王線で直通、高尾山口駅まで乗ってけば、その時点から山登りが始められる。

 

電車からわずか5分ほどの距離で山登りが始められる場所は、ちょっと他には無い。

東京だと奥多摩にもいくつか良い山があるはあるのだが、いずれもバスか車を使って山奥にいかねば挑戦できない。

 

その点、高尾山は新宿から超速で行けて、超速で登れてしまう。

ケーブルカーも伸びてはいるが、別にそのまま稲荷山コースから登山口につっこんで行けば、即登山である。

 

体力に乏しい人は30分~1時間ほどかけて高尾山の山頂まで目指して頑張ればよいし、ある程度の体力がある人は是非ともそこから脚を伸ばして景信山、更には陣場山まで進んでいって欲しい。

帰り道も明瞭で、難所もなく、思い立ったそばから登山を楽しむことができる。

 

山登りの目的は心頭滅却にあり

なぜある種の人は山に登るのか。いろいろな意見があるとは思うが、自分は山登りというアクティビティを通した内観に、形容しがたい魅力があるからだと感じている。

 

山登りをやり始めると、それはもう色々な雑念が頭の中に思い浮かぶ。

ムカつく上司やら職場への悪口、思い通りにならない日々、そういった世の中の理不尽への悪態が無限に出てくる。

 

しかしここからが面白いのだが、そうやって無限に出てくるかと思っていた悪態も、山を登り進める事にいったん打ち止めになる。

おそらく適度な肉体への負荷に伴って、身体が疲れる事で悪口をいう体力自体が無くなってくるからだと思うのだが、そのうちスーッと澄んだ心境が必ずやってくる。

 

「おお、普段の生活だと簡単には拭えない雑念が、山を登ると消えるのか」

 

この体験はとてもヤミツキになる。決して日常生活では到達できない境地が山にはある。

 

更に負荷をかけていくと、知らない自分がそこにいる

こうして山登りに夢中になる事を、一部の愛好家は山ハイと言うようだが、山ハイにはいくつかのステージがある。

故に脚を進めれば進めるほど、どんどん深化する。

 

人間というのは実に面白いもので、心が澄み渡ったからこそ逆に出る反応というのがある。

雑念にまみれた自分から自由になれたと思ってからしばらくすると、今度は日常生活では全然考えもしなかった考えがコンコンと心の底から湧き出てくる。

 

それは人生についての深遠な悩み事である事もあるし、あるいは忘れていた20年以上前の過去である事もある。

あるいは仕事で悩んでいた事の新しいアイディアである事もあるし、楽な山登りにつながる身体操作方法だったりもする。

 

人間というのは身体という入れ物からは自由になる事ができない。

私たちは思考は自由だと思っているが、実際には思考は強く身体という枠組みに制約をうける。

 

だから身体を特殊な状態に設置すると、思考も飛躍する。

そうして飛躍した思考は、同じ日々の繰り返しでは絶対に辿り着けない境地へと私達を運んでくれる。

 

これがもう、めちゃくちゃ面白い。

 

景色は副産物でしかない。淡々と夢中になる事のがよっぽど大事

そうして何度か特殊な心理状態に入り込む事に成功してからというものの、自分は仕事やらプライベートで行き詰まったりした際

 

「今週は早起きしてサクッとトレッキングしてこよう」

 

と思うようになった。今では特に思い悩まなくても、年に4回は高尾山~陣場山~藤野駅までのコースを走行している。

登る度に必ずといっていいほどに、何かの発見があり、一度たりともやって損したと思った事は無い。

 

このコースはアクセス自体の気軽さもいいのだが、何より肉体への負荷が適切なのである。危険な箇所も少なく、また人が多いのも良い。

 

山で出会う人に「こんにちわ~」と簡単な挨拶をして交錯するのは不思議な感覚である。

街で出会う人にそんな事をやりまくってたら「選挙かよ」って感じだが、ハイキングでそれをやるのは逆にむしろ普通の事になるのだから、いやはや人間というのはTPOでいくらでも常識が動く生き物である。

 

そうやって脳みそを空っぽにして山登り自体になりきると、ゾーンとしか形容できない不思議な感覚に数時間にもわたって没入する事ができるようになる。

 

敷居が低いのが何よりもいい

一度この感覚を知ってしまうと、低山トレッキングがやりたくてウズウズするようになる。

 

人間は何かに夢中になる事に異常なまでの執着を示すものだが、多くの場合において、何かに夢中になるのは意外と難しい。

面白い未読の漫画は見つけるのがホネだし、スポーツなら誰かを誘わないとやれない。

その点、低山トレッキングの敷居の低さは素晴らしい。

 

一人で電車に乗って、スタスタあるく。

必要な事は、たったそれだけだ。お金も時間もそこまで膨大には必要ではない。思い立ったその日に遂行は可能で、かつ自分自身の体力の丈に合わせて難易度もいくらでも調整可能である。

 

ここまで敷居が低い気分転換も、そうは無い。終わった後に温泉や銭湯を組み合わせるのもオススメである。

 

何度も繰り返す度に、成長した自分を実感する

こうして何度も同じ場所で低山トレッキングを繰り返すうちに、いつしか自分は過去の登山の事を振り返るようになった。

 

数年前にトレッキングを始めた頃は、景信山までが限界であった。両脚はパンパンに張り、その先に行けるだなんて全然思いもしなかった。

それが何度か繰り返すうちに、もうちょっと先に先にと行けるようになり、相模湖や藤野にまで脚が伸ばせるようになった。

 

最初の頃は同じルートを何度も繰り返すのは飽きがあるんじゃないかと思っていたのだが、やってみるとスタンプラリー的な登山よりも、同じルートを何度も繰り返す方が全然楽しかった。何故か?それは道に記憶が宿るからだ。

 

路には記憶が宿る

路には自分しか無い記憶が宿る。何度も何度も同じ場所を通り過ぎると

「ああ、数年前はシンドかったなぁ…」とか「ここはいい景色なんだよな」

というように、自分にしか見えない記憶の道がどんどん構築されるようになる。

 

この記憶の道を拡張させていく事がとても面白い。まるで自分だけの秘密基地を持つような贅沢さが、同じルートを繰り返し歩む事には宿されている。

そうこうしているうちに、僕は山登りというのは、山を登る過程で自分自身の心の中を登るものなのだとようやく理解した。

 

それまでは山頂でコーヒーでも入れて景気をつけようだとか、山頂で景色写真をとってみたりもしたのだが、どうにもそれがシックリこなかった。

他にも似たような事をやっている人がいるから楽しいかと思ったのだが、残念ながら自分にその楽しさは理解できなかった。

 

しかし今では、山登りで本当にみるべき景色は道に宿すものなのだと知った。

こればかりは何度も何度も同じ場所を通った人間にしかできない特権である。

 

だって記憶というのは、そんなに簡単には土地には宿らないのだから。

 

お気に入りの散歩道を持つのは丁寧に時間をかけたものだけの特権である

かつて京都で哲学の道という場所を歩いた事がある。

哲学の道は銀閣寺と南禅寺の間を結ぶ、約2kmに渡る散歩道で、20世紀初期の哲学者である京都大学教授 西田幾太郎が、毎朝この道を歩いて思想に耽っていたという事から名付けられたものだ。

 

中学生の頃に哲学の道を歩いた時はよくわからなかった。別に悪い道だとは思わなかったが、そこまで取り上げるほどのものか?としか思えなかったのだ。

しかし今では哲学の道は西田幾太郎にとってのオンリー・ワンであり、彼にちょうどよい条件であったからこそ、唯一無二の道に仕立て上げられたのだろうと理解している。

 

誰にも多分、自分だけの道があるのだ。それを見つけられるかどうかは、自分次第だが。

故人かつ事故事例ではあるが、クレヨンしんちゃんで有名な臼井儀人さんも山登りが趣味だったそうだ。

彼は荒船山の本当に事故が起きないような場所で脚を滑らせて転落してしまったという。

 

おそらく、臼井儀人さんにとってのアイディアの源泉は荒船山の道にあったのだろう。

それが死因となってしまったのはとても悲しい事ではあるが、偉大な先人から我々が学べることは大変に多い。

 

みなさんも低山とはいえ、危険性は皆無ではないから気をつけて参りましょう。道は歩くためにあるもので、死ぬものではないのだから。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by :

この記事で書きたいことは、以下のような内容です。

 

・成果物やパフォーマンスを公開する時、どうしてもハードルを下げたくて、卑屈になってしまう時があります

・ですが、我々は「成果を誰かに見せる」時卑屈になるべきではありません。少なくともその時その場では、「これは最高の成果物だ」と信じて発表しなくてはいけません

・それは何故かというと、「自分の成果物への信頼」が、実際に受け取る側から見たクオリティにも直接影響する為です

・これは、成果物を作り上げていく過程で努力することや、色んな意見や批判を受けいれてクオリティを上げていくこととは矛盾しません。むしろワンセットの話です

・卑屈になっていると公開自体のハードルが高くなってしまうこともあり、無駄にMPを消費します

・我々には「自分の卑屈さをねじ伏せる覚悟」が必要です

 

以上です。よろしくお願いします。

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

いつのまにか、五月も半ばに差し掛かってしまいました。あと1.5カ月で2023年が半分終わるとか、さすがにちょっとあり得ない現実に軽く絶望的な気分になってしまうのですが、皆さん五月病の進捗はいかがでしょうか?

 

しんざきはシステム関係の仕事をしておりまして、新人さんの教育係になることもちょくちょくあるのですが、この時期新人さんにお伝えすることの中に、「「ハードルを下げたい」という誘惑に負けないようにしましょう」という話があります。

今日は、ちょっとそのことについて書こうと思います。

 

***

 

しんざきは楽器奏者でして、「ケーナ」という縦笛を吹きます。

南米はアンデス山脈の民族楽器で、日本の楽器で言うと尺八に似ています。

 

高校までは(小学校の鍵盤ハーモニカやリコーダーを除いて)ほぼ一切楽器に触れたことがない、それどころか音楽自体何も知らない人間だったのですが、何を間違ったのか大学入学時に民族音楽を演奏するサークルに入りまして、以降25年くらい続けています。結構長いことやってますね。

 

当時、私のサークルでは年に数回、大小の演奏会を開催しておりまして、私も初心者の頃から参加しておりました。

やはり楽器を練習する上では、初手で「コンサートに出演する予定」を入れることがもっとも重要でして、人前で演奏するとなると強制的に必死で練習することになります。これなしだといつまで経っても練習出来ない、という人も多いです。

 

短い時にはほんの2,3週間で次の演奏機会がきて、しかも演奏するのは新曲ばっかり数十曲、などというアホなこともありましたので、授業がない時間はほぼ隙間なくケーナばっかり吹いてました。

最初は音を出すのも難しいのがケーナという楽器なんですが、不器用なりに死ぬ気で練習したからか、そこそこ綺麗な音は出せるようになったと思っています。

 

始めて二年目だったか、三年目だったか。ある程度ケーナが吹けるようにはなってきて、そうなると当然「自分がいかに吹けていないか」も分かってきて、多少自信を失っている時期だったのかも知れません。

 

コンサートを見にきてくれたケーナ奏者の先輩に、どうしてもハードルを下げたくなって、私は何か卑屈なことを言ってしまったんだと思います。

「下手くそですけど来てくれてありがとうございます」とか、そんな内容だったのでしょうか。

 

その時先輩は、別に怒りもせず笑いもせず、ただ一言、なんでもないことのようにこう言いました。

「コックが「美味しくないですけど」といいながら出した料理を食いたい客がいるか?」

 

そんな大げさな口調でもなく、すぐに他の会話にまぎれてしまう程度のさらっとした一言でした。

実際、そのちょっと後、当の先輩にこの話をした時には、「俺そんなこといったっけ?」という反応でした。

 

とはいえ、この時、この一言は妙に私の頭に残っていて、今でも一言一句思い出せます。自分の発言は忘れたのに、この一言だけはくっきり覚えています。

後から意味が分かってくる言葉だったと思います。後々、私はこの言葉を、こんな風に理解するようになりました。

 

つまり、「成果を披露する時、卑屈になってはいけない」のだ、と。

どんなに僅かであっても、その日その時、お客さんはお金なり時間なりのリソースを費やして我々の演奏を見に来てくれるのだ、と。そういう意味で、先輩は客で、私はコックなのだ、と。

 

その時、自分の演奏という「料理」を客に提供するのであれば、可能な限り美味しく食べていただかなくてはいけない。そうでなくては、相手が消費してくれたリソースに失礼でしょう、と。

 

客からすれば、「演奏者の自信の多寡」なんてものは知ったことではなく、ただただ提供されるパフォーマンスを摂取しに来ているわけです。

その時、自信なさげな姿なんてものはノイズでしかなく、むしろ演奏を楽しむ邪魔にしかならないわけです。

 

とすれば、どんなに自信がなくても、どんなにハードルを下げたくても、少なくとも演奏を披露するその瞬間においては、私は「これは世界一の演奏です」というつもりで演奏しないといけなかった。

先輩の一言は、そんな意味だったのではないかと思っているのです。

 

***

 

これ、別に演奏だけの話ではなく、仕事でも趣味でも同人誌でもブログでも、何でも同じことです。

「成果物を他者に公開する」機会がある活動、全てに通じる話だと思います。

 

「ハードルを下げたい」という誘惑、分かるんですよ。

自分の成果物を他者に評価されるというのは、物凄い恐怖を感じるタイミングでもあって、期待を裏切ってしまうのではないか、「こんなものか」と思われてしまうのではないかという不安は常につきまといます。

 

それを防ぐ為に、事前に「大したことないんですよ」と伝えておいて、いざ摂取してみると「あれ、思ったよりいいじゃないか!」という形で評価を上げて欲しい。分かります。よく分かります。

 

けれど、この目論見が上手くいくことはそうそうありません。何故かというと、

「大抵の場合、コンテンツを受け取る側にとって、発表者が未熟かどうかで加点する義理などない」し、

「大抵の場合、「自分が気にしている点」を受け取り手も気にしているとは限らないし、

「大抵の場合、発表者の卑屈さは受け取り手にとってのクオリティの低さに繋がる」からです。

特に大事なのが、二点目、三点目の要素です。

 

もちろんケースバイケースでもあるんですが、当たり前の事実として、受け取り手と自分の感じ方、評価のポイントって同一ではありません。

自分が「ここ上手く出来た!」と思っている部分を、受け取り手も「いい!!」と感じてくれる保証はこの世のどこにもありません。

 

けれど、同じように、自分が「ここは上手くできてない……」と思ったところを、受け取り手が「ダメじゃん」と感じる保証もないんですね。

 

例えば演奏で大きな失敗をしたとして、自分が「うわーーやっちまった」と思っていても、観客は誰も気にしていない、なんてことも普通にあるんです。案外自分が気にしているポイントって、客は見てなかったりするものなんです。

 

けれど、「ここはダメだ……」「ここもダメだ……」と思いながら演奏していると、客はそれに気付いてしまう。「あ、ここダメなんだ」と思ってしまう。

黙ってりゃバレなかった、あるいは気にされなかったウィークポイントに、わざわざ注目させてしまうわけなんですよ。

 

「これはダメなんですよ」と卑屈になってしまうと、「あ、ダメなのか」と思わせてしまい、結果的にはそれが実際の受け取り方、ひいてはコンテンツのクオリティにも影響してしまう。

自信のなさはミスにも繋がりますが、「実際にそのミスを明示する」というところにも繋がってしまうわけです。

 

これが、「卑屈さがクオリティの低下にも直接的に繋がる」最大の理由です。

 

であれば、少なくともお客さんにコンテンツを届ける時点では、「どうです、良いでしょう!」という思いを添えて出した方がまだしもマシですよね?

自信が技術の不足をカバーしてくれるわけではありませんが、少なくとも「自信満々で演奏しているな」というイメージをお客さんに伝えることは出来るわけです。そこを楽しんでくれるお客さんだっているかも知れない。

 

それに加えて、卑屈になっていると、公開に伴うプレッシャーも上がるんですよね。「これで大丈夫なのかな……」は、「こんなもの人前に出したくない」に容易に繋がるんです。

 

結果、練習に身が入らなかったり、成果物作成の手が止まってしまったりで、それによって更にプレッシャーが上がったりする。

「期待通りのものを出さないと……」というプレッシャーで手が止まってしまって、「これだけ時間がかかったからにはもっといいものを……」って更にプレッシャーがかかる悪循環、経験したことないですか?

 

もちろん、成果物のクオリティを上げていく過程で、他者の批判的な視点が必要になることは往々にしてあります。「ここダメじゃないですか?」とポイントを明示して意見を聞く機会、必要です。

 

必死に努力して練度を上げていく時、「まだまだこんなものじゃダメだ」という思いが力になること、というのもしばしばあります。

 

「経緯」の時点で「まだダメ」という視点を持って、その声に従って精度を上げていくことには、別に何の問題もないんです。

むしろそうするべきです。

 

ただ、それを「本番」に持ち込んではいけない。我々は、どこかで卑屈さをねじ伏せないといけない。少なくとも、成果物を公開する時卑屈であってはいけない。お客さんに届ける時は、「これ、世界最高の出来ですよ!」という気持ちで届けないといけない。

そんな風に思うわけです。

 

***

 

あれから25年経って、今でも私はケーナを吹き続けています。

もちろん「まだ全然ダメだなあ」と思うこともあるんですが、実際にケーナの音を聴いていただく時には、「これは世界一のケーナ吹きの演奏ですよ」という気持ちで聴いていただくことを心がけています。

 

それと同じように、仕事における成果物についても、もちろん事前・事後の精度上げとは入念にやるとして、いざ公開する時には「最高のものが出来ましたよ」という心構えでやりましょう、と。その辺は、新人さんにもお願いしているところです。

 

あの時の先輩の一言で、そういう心構えが出来ることになったのは、奏者としても趣味人としても、つくづくありがたいことだなあ、と考える次第なのです。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Priscilla Du Preez

本日の議題はこちらです。

「チームに無能がいた場合、そのメンバーを見捨てるのが最善か」

 

実は以前もこのテーマで書こうとしたのだが、うまくまとまらずにボツにしていた。

しかし先日、当サイトで『「どうにも成長しないし、意欲も低い部下」をどうすべきか?』という記事が公開されたので、この記事と合わせてふたたび書いていきたいと思う。

 

記事を要約すると、

 

・管理職にとっての悩みは、向上心がなく、能力が低く、素直でない部下の扱い

・管理職には育成の義務があるとはいえ、大事なのはチームの目標達成

・教育の費用対効果が合わない人の育成優先度は落としてもいい

・問題児はそもそもその仕事に向いていないケースが多いので、当てにしない、成長に期待しない、その人に時間を使わないのが最適解

・採用失敗の責任は人事と経営者がとるべきなので、あとはその人たちに任せればいい

 

ということだ。

 

記事の最後は、こう締められている。

「今の職場」で仕事ができなかったとしても、何か別の仕事に適性があるケースは多い。

技術者志望だけど「営業をやったほうがいい」というケースや、「デスクワークより肉体労働のほうが向いているのでは」というケースもあります。

だから、一企業の中だけで考えなくてもいいのです。

中小企業で用意できる仕事は限られています。それを告げて、社外でその人が向いている職業を早く見つけてくれるのを祈りましょう。

部下と、そして管理職の両者がメンタルをやられる前に、さっさと

「うちの会社では君にやらせることができる仕事がない」

といえるほうが、望みのない成長に希望をつなぐよりも、幾分かマシです。

人が集まれば当然、適正が低い人もいるだろう。

 

他の人と比べて、同じ時間でも学ぶ量が少なく、それをカバーする熱意もなく、上を目指す意欲にも欠け、そのくせそれを悪びれない人……ざっくりいえば、「無能」である。

 

こういう人を一人前にするために時間や労力を使っても、たいてい報われない。

だから、「適正のあるところでがんばれよ」と放っておくのは、まっとうな着地点だと思う。

 

しかし残念ながら人間関係はむずかしく、「無能を排除した結果、チームが瓦解する」なんてことも起こりうるのだ。

 

向上心が低くヘタクソなチームメンバーをクビにした結果

とあるゲームで、とてもうまいフレンドのAさんと遊んだ時のこと。

Aさんはプレイヤー企画の非公式大会に向けたチームのリーダーをしていたのだが、どうやら大会前に解散したらしい。

 

何気なく事情を聞いてみると、なかなかヘビィな答えが返ってきた。

 

・Aさんのチームには問題児Bさんがいた

・Bさんはプレイスキルが低く足を引っ張っているうえ、急に練習を休む

・注意したが改善されず、チームに悪影響があると判断し、「ちがうチームでがんばってほしい」と除名

・その後、チームメイトの一部はAさんの判断を支持したが、一方で反発の声も上がった

・Bさんの処遇をめぐり派閥が生まれ、チームは解散

 

それを聞いて、Aさんに「除名する前にみんなに相談しなかったの?」と聞いてみた。

「それも考えたけど、裏で『Bさんを除名するか』って話し合うのはいじめみたいだし、多数決でBさんの残留が決まったら、除名賛成の人に『じゃあ自分が抜ける』って言われる可能性も考えてさ……」

 

と、相談しなかった理由を答えてくれた。

なるほど、難しい問題だ。

 

「たしかに、メンバーに個別に意見を聞いても収拾がつかなくなりそうだし、『Bさんを許すか』って踏み絵をするようなものだから気が進まないよね」

「そうなんだよ」

「それなら、リーダー権限で除名は正しかったと思う」

「自分としては、Bさんは明らかに足を引っ張ってたから、これで丸く収まると思ってたんだけど……」

 

しかし結果は、そうはならなかった。

 

「次クビにされるのは自分かもしれない」というプレッシャー

許容範囲は、人によって大きくちがう。

 

除名に関して、「Bさんのやる気ない態度に腹が立っていた、決断してくれてありがとう」と言う人がいる一方で、「できない人をフォローするのもリーダーの役目では? Bさんなりにがんばってたのにかわいそう」と言う人もいたらしい。

 

Bさんをかばう人がいることに驚きつつ、Aさんは自分の考えを丁寧に説明。

しかし一度生まれた亀裂を修復できず……。

 

そんな状況で、とあるメンバーから、「自分も除名される可能性はありますか」と聞かれたらしい。

これにはAさんも慌てて、「君はちゃんとやってくれてるから問題ないよ!」と返したそうだが、その「ちゃんと」の基準はリーダー次第で、他メンバーにはわからない。

 

実際Bさんに対して、「自分の期待値以下なので切り捨てます」ってやっちゃってるわけだからね。

結局その人は「自分も足引ってるんで」とみずから抜けることを選び、最終的にそれが引き金となって、チーム解散に至ったとのこと。

 

問題児除名はリーダーにとっても苦渋の決断で、チームにとっていい結果になるだろうと憎まれ役を買って出たわけだが、なんとも残念な結果になってしまった。

 

チームの質を高めるために、足手まといに抜けてもらうという判断

AさんはBさんのために時間をとって、「こうしたほうがいいよ」「ああしたほうがいいよ」といろいろレクチャーしていたそうだ。

 

しかしBさんはアドバイスをもとに自主練するわけでもなく、プレイスキルは低いまま。

練習も時折休んでいたから、「このままでは練習の質が下がってしまう」と除名した。

 

除名に関しても、相手を責めはせず、「方針とは合わないから別のチームでやったほうがいいんじゃないか」という伝え方だったそうだ。

Bさんも「そうですね、すみませんでした」とあっさり抜けたという。

 

考え方としては、冒頭で紹介した記事とまったく同じだ。

向上心がなく、能力が低く、素直でない部下には時間を使わず、「うちの会社では君にやらせる仕事がない」と告げて関知しないほうがいい、というのは、現実的な主張に思える。

 

しかし悲しいことに、全員がそれを理解し、受け入れてくれるとはかぎらない。

能力の評価と人間関係での評価は、ちがうから。

 

貢献度が低いからクビ=正しい行い、とはかぎらない

チームとは基本的に、なにか目的があって、それを達成するためにメンバーが集まる。だから、目標に対する貢献度で各人の能力を評価しやすい。

そういう意味では、Bさんの貢献度は低く要求基準に達していなかったのだから、除名するのは妥当だろう。

 

しかし人間とは複雑な生き物で、人間関係込みの評価になると、話は変わる。

人間同士が集まると利害関係とは別に、単純な「好き嫌い」がうまれる。さらに、それぞれの許容範囲も大きく異なるから、「付き合いきれないライン」に差があるのだ。

 

たとえば、Bさんがヘタなくせに自主練をしないことに、Aさんは腹を立てていた。

しかしBさんと気が合う人は「フォローしてあげればいいじゃん」と思っていただろうし、Bさんを好きじゃなくとも「自主練するかは個人の自由だから腹が立たない」と考える人もいたかもしれない。

 

また、Aさんにとって「貢献度-10の人は除名、Bさんは−15だ」と思っても、メンバーのCさんは「除名は−30から、Bさんの貢献度は−5くらい」と認識していたらどうだろう。

両者とも「Bさんの貢献度はマイナスだ」と思っているが、Aさんにとっては明確な除名対象である一方で、Cさんにとっては「たったこれだけのマイナスで除名しちゃうの?」という印象になる。

 

Bさんの貢献度がマイナスだったとしても、その事実の受け止め方は人それぞれなのだ。

だから、「貢献度が低いやつをクビにするのは妥当」というのは正論に思えるが、まわりから「正しい行いに見える」とはかぎらないのである。

 

目標への貢献度だけでなく人間関係も加味しないと、統率力が疑われる

なにがいいたいかというと、「能力自体は低くとも、案外まわりの人は気にしていない・受け入れているケース」が存在するということだ。

リーダーには「能力が低いくせにプライドが高く扱いづらい人」でも、ほかの人にとってはイベントごとが好きで同期の誕生日を祝ったり、ポジティブで周囲を励ましたりする「良い人」だったりするしね。

 

リーダーはその責任と立場から、「能力の評価」を重視しがちだ。

「この人は目標達成のためにどれだけ貢献しているか?」と。

 

しかし他の人は往々にして、人間関係をもとに判断をすることが多い。

「この人は自分にとって良い人か?」と。

 

目標達成できなくて一番困るのはリーダーだけど、それほど責任がない人にとっては、「自分が不愉快にならないか」のほうが大事だから。

 

大切なのは、問題児の「目標達成への貢献度」だけでなく、「その人がまわりに与えている影響」も踏まえて処遇を決める必要があるということ。

さらに、「その人を見限ることで、チーム全体の雰囲気や今後のリーダーシップに悪影響がないか」も加味しなくてはいけないということ。

 

「無能を追っ払えば優秀な人が残る」という足し算・引き算的な考えは、人間関係のなかではうまくいかないこともあるから、問題児をどう扱うかの判断はとてもむずかしい。

伸びしろがなさそうな問題児であっても、面倒を見ている感を出したほうが「いいリーダー」に見え、チームメンバーが「みんなでがんばろう」とやる気を出し、最終的にはプラスになる……なんてこともありうる。

 

わたしの実感でいうと、目標達成が困難なレベルの能力ならばその事実を伝え、みんなが「残念だけどそれならしょうがないね」と思えるかたちでチームから抜けてもらう。

しかしそれができない程度の「無能さ」であれば、親切にしつつ損失ができるだけ少なくなるタスクを割り振って、表面上「いいリーダーといいチーム」でいたほうが、丸く収まるような気がする。

 

その人を追放したところで、その人より良い人がすぐ来てくれるって保証もないからね……。

まぁ、能力も低く人間関係のトラブルも多ければ、迷わず切ってしまえばいいのだけど。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Nik

駅前での苦行

「えっ?もらってくれるんですか?」

肌寒くなってきた小田急線沿いの某駅前で、私は一人の男性に、区議会議員候補のチラシを手渡した。

 

このご時世、チラシを差し出したところで、受け取ってくれる人などほぼいない。

自分に置き換えてみると分かりやすいが、手ぶらで家を出た私に対して、知らんオッサンのプロフィールや、「議員になったらこれやります!」的なポエムを渡されたところで、受け取るはずがない。

おまけに改札へ向かう途中で、ほぼゴミとなるチラシを受け取るメリットなどどこにもない。むしろ、デメリットしかないのだ。

 

それでも私はへこたれなかった。なぜなら、「チラシ配りのプロ」としてのプライドがあったからだ。

 

その昔、預貯金ゼロの状態で自営業をスタートさせた私は、早い時点で翌月の家賃が払えないことに気がついた。そこですぐさま、アルバイトの面接を受けまくった。

いかんせん、自営業のために会社を辞めたのだから、いつかはそれ一本で食っていかなければならない。よって今は、アルバイトを掛け持つことで生き延びるしかないのだ。

 

こうして雇用が決まったアルバイトは5社。

前職の手伝いとして新聞社での校閲補助、自宅から1分のタリーズコーヒー、学生時代のバイトのツテで雀荘、ホテルオークラでのバンケットスタッフ、そしてチラシ配り。

なかでも、即日カネが受け取れるチラシ配りは、その日暮らしの私にとって強い味方となった。

 

時期的なものもあってか、模擬試験や資格試験などの解答速報を配る仕事が多かった。だがこれは、今となってはかなりチョロいものだった。なんせ、解答速報を手に入れたい受験生が、私めがけて突進してくるのだから悪い気はしない。

あっという間に解答速報をさばき切り、上機嫌でバイト代を受け取った記憶が蘇る。

 

このような経緯からも、ある意味「手に職を持っている」と自負する私は、サービス券が付いているわけでもなく、もらったところで嬉しくも何ともない区議候補のチラシであっても、多くの人へ手渡す自信があったのだ。

ところが、というか案の定というか、こんなものを喜んで受け取ってくれる通行人など皆無に等しい。それどころか、嫌々でもいいから受け取ってくれる人すらいない。

 

あからさまに嫌な顔をしたり、耳にイヤフォンを突っ込んでスマホに夢中になっていたりと、声を掛けるまでもなく「論外」の場合はまだいい。

だが、完璧なつくり笑顔で鮮やかに「No!」と言われると、心は折れないまでもどう攻略したらいいのか分からず、天を仰ぐしかないのであった。

(どうせ自分のことじゃないし、適当に配ってるフリするか・・・)

 

こんなものはいくらでもサボれる。おまけにバイトじゃないんだから、どれだけ配ろうが時給は発生しない。だったら、辛い思いをしてまで頑張る必要などない――。

このように気持ちが揺らいでいたところへ、冒頭の男性が現れたのだ。

 

(サボらなくてよかった・・・)

 

世田谷区民のハートを掴むまで

「え?だって、受け取ってもらうために配ってるんでしょ?」

 

逆に驚いた様子で私を見る男性。そりゃそうだ。「こんにちは〜!」「おねがいしまぁす!」などと言いながらチラシを差し出しているのだから、受け取るか拒否するかの二択である。

そして、この男性は受け取ってくれたわけで、受領の確認よりも礼を言うのが先だろう。

 

「すみませんね、こんな邪魔なところでチラシ配って・・」

苦笑いでなぜか謝る私。というかこれは、自分自身が通行人だったらそう感じるからこそ、口をついて出た発言なのだが。

 

「私、自営業なんですが、寝るのが朝なんですよ。せっかく眠りについた頃、選挙カーが大騒ぎするから目が覚めちゃって。おかげでイライラが収まりませんよ!」

どうでもいい会話で場を繋ごうとしたところ、その男性が目を輝かせながら相槌を打ってきた。

 

「わかります!それ、すっごくよくわかります。僕は近所でクリニックを経営しているんだけど、患者さんに聴診器を当てても聞こえないの、選挙カーが来ると。だから、困ったなぁって思っていたんですよ」

 

なんというシンパシーだ。やはり、一連の選挙活動による「騒音」に悩まされる市民は多いのだ。

とはいえ、古くさい法律が時代錯誤の茶番劇を強要するだけで、必死に訴えかける候補者だけの責任ではない。つまり、公選法の見直しを含む根底からの改善が必要なのだ・・などなど話が盛り上がった後に、男性がふと私にこう尋ねた。

 

「一つだけ聞いてもいいですか?彼が議員になったとして、僕に何をしてくれるの?」

これは、選挙運動中によくある質問である。無論、選挙にこれっぽっちも関わっていない私は、この候補者がどんな政策を掲げ、どんな意気込みで選挙に挑んでいるのかなど、微塵も知らない。

 

ではなぜ、ここでチラシを配っているのかといえば、所用で小田急線沿いを訪れたのだが、たまたま知人が駅立ちをしていると知り、冷やかしついでに顔を拝みに来たのである。おまけに、預かったチラシにも目を通していないため、そこに何が書いてあるのかは不明。

 

そんな私に対して、このような核心をつく質問をされても・・・。

「特に何もしてくれないし、何も変わらないと思いますよ」

 

私は思い切って答えた。実際に、聞こえのいい政策や目標を掲げたところで、たった一人の議員の力でどうにかなるものではない。民主主義国家ゆえに、より多くの支持を勝ち取らなければ、どんなに優れた計画でも日の目を見ることはないのである。

それより何より、嘘をつくのが一番よくない。「これをしてくれますよ」といって叶わなかった場合、私も、そして候補者である知人も嘘をついたことになる。

 

「なるほど。今すぐ何かを変えることはできない、ということ?」

 

意外な返答たったのか、不思議そうに聞き返す男性に向かって、

「そうです。そんな簡単に変えられるなら、もうとっくに変わってるはずだから」

と答えた。そしてすかさず、

 

「ちなみに私、港区民なんでヨソ者です。だけど、私の考えに共感してくれるなら、私の知人である彼が当選すれば、いつか皆さんにいいことがあると思いますよ。だって、私のような異端児の意見を聞いてくれる政治家は、ほとんどいないので!」

と説明した。

 

「ほう、ぜひ聞かせてください」という彼に対して、私は「あくまで個人的、かつ、偏った政治の未来像」であることを強調しつつ、独断と偏見の妄想を語り始めたのである。

 

――まず、政治家は人間である必要がない。むしろ忖度や利権とは縁遠い、人工知能(AI)に任せるべき分野だと思う。

もちろん、政策を実行するのは人間なので、政治家全員がAIでは困る。

だが情報収集や分析、そして企画立案といった作業は、間違いなくAIのほうが実力を発揮できるだろう。

 

さらにAIならば、24時間フルタイムで働くことができる。お偉いさんの顔色をうかがう必要もなく、ひたすらデータ解析を続けることで、人間何人分、いや、何千人分もの代替要員として、任務遂行が可能。

 

たとえば今回、港区では「A.I.ジョー」という名の人工知能が区議選に立候補した(結果的に落選だったが、とはいえ512票を獲得した)が、もっと上手く選挙活動をすれば「まさかの事態」を引き起こしたかもしれない。

そう、これこそが新たな政治の幕開けであり、公平で正しい世界への第一歩となるのだ。

 

AIが議員になるには、現行の法律では無理な上に、「バカげた話」として一蹴されるかもしれない。だが、あながち間違ってはいない。むしろこれからは、AIを適切にコントロールできる人間が生き残る時代となる。

そうなれば、今のようなアナログに頼る選挙運動や投票方式は廃止され、デジタルによる効率的な選挙が実現するだろう。

 

つまり、聴診器を当てても「うるさくて聞こえない」なんてことにはならない、穏やかな未来が訪れるわけだ――。

「非常に面白い発想だ。あなたに投票するつもりで、彼に一票入れましょう!」

初対面かつ異なる自治体のわれわれが、なぜかガッチリと握手を交わしたのであった。

 

昭和を捨てろ!

選挙のあり方について山ほど意見はあるが、まずは何より「昭和の考え」を捨ててもらいたい。それをせずして、なにがDXだ?なにがムーンショット目標だ?

日本における「デジタル化の先導役」ともいえる政治家。そんな彼ら彼女らを選ぶ選挙が、未だにアナログでは話にならない。

 

そういえば友人が、投票場でのシュールな出来事を聞かせてくれた。とある高齢の女性が、サポートの男性スタッフに対して、

「なにを書けばいいのよ?」

と尋ねたところ、男性は、

 

「人の名前ですね」

と、当然の回答をした。するとその女性は、

「だって、誰も知らないんだもの!」

と、悪びれる様子もなくあっけらかんと言い放ったのだそう。

 

投票をするためにここまでやってきたが、誰の名前を書けばいいのか分からない…というオチはなんとも切ない。

この選挙は、本当に民意を反映しているのだろうか。

 

 

まぁ何はともあれ、対面での演説というアナログな方法ではあるが、私は確実に一票を獲得した。よって、個人的な選挙戦を勝利で終えることができ、ホッとしたのである。(了)

 

 

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【著者プロフィール】

URABE(ウラベ)

早稲田卒、生業はライターと社労士。ブラジリアン柔術茶帯、クレー射撃元日本代表。

URABEを覗く時、URABEもまた、こちらを覗いている。

■Twitter https://twitter.com/uraberica

Photo by :Jezael Melgoza

限りある時間の使い方」という本を知人に勧められ、読んでみた。

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この本が言わんとしているのは、結局3つ。

 

1.生産性を追求すると、追い込まれるだけで、ますます時間がなくなる

2.ゆえに「時間ができたら◯◯しよう」は永遠にやってこない。人生には「今」しかない。

3.だから、たくさんのことをするな、大事なことだけせよ

 

一言でまとめれば、

「時間がないことは、タスクをこなすスピードを上げることでは解決できない。「たくさんのことをしない」ことが唯一の解決策だ。」

という話で、ほかには何もない。

それを、一冊の本を使ってじっくりと説得してくれる。

 

忙しすぎて、「自分の人生を生きているような気がしない人」にはとてもいいと思う。

 

 

なお、同様の洞察はすでに、ピーター・ドラッカーの1966年の著書「経営者の条件」でなされていた。

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私に「時間」について、はじめて深く考えるきっかけを与えてくれたのは、まさに、この本だった。

 

そこには、こう書かれていた。

あらゆるプロセスにおいて、成果の限界を規定するものは最も欠乏した資源である。それが時間である。

当時、コンサルティングという仕事は、売上=時間なので、朝7時に会社に来て、タクシーで帰るような生活を何年もおくっていた。

「何かおかしい」と思っていたが、このフレーズが妙に頭に残った。

 

そうして、読みすすめると、ピーター・ドラッカーはこう続けていた。

時間はあらゆることで必要となる。時間こそ真に普遍的な制約条件である。

……

そこでふと、気づいた。

 

『あらゆること』に時間が必要だということは、「時間とは、人生の一部のこと」だと。

仕事だけではなく、旅をするにも、趣味に打ち込むにも、親孝行するにも、パートナーとの人間関係を作るにもすべて、時間、すなわち人生の一部を必要とする。

 

でも自分は、何ひとつ、仕事以外に重要なことができていない。

いや、そもそも一番時間を投じている仕事ですら、限界にきている。

 

だから、「今の生き方は、根本が間違っている」はじめてその時に思った。

 

 

では、どのように間違っていたのか。

そこには、次のように書かれていた。

 

・優先順位を列挙し、そのすべてに手を付けても、関係者が満足するだけで「結局、何もなされないで終わる」。

一度に一つのことしかするな

・その一つは「大きくて新しいもの」にせよ

・決定に必要なのは分析ではなく「勇気」である

 

普通のことを言っているように見えるが、そうではない。

この洞察は、実質的には「世の中のほとんどのことは「時間を使う価値がないよ」」と言っているのだ。

 

そして、ドラッカーはこう結ぶ。

集中とは、「真に意味あることは何か」「最も重要なことは何か」という観点から時間と仕事について自ら意思決定をする勇気のことである。

この集中こそ、時間や仕事の従者となることなくそれらの主人となるための唯一の方法である。

 

時間、すなわち人生をどのように使うか、というのは常に賭けである。

だったら、大きく、新しく、自分が意味があると思うものだけに、勇気をもって賭けよ、というのが、ドラッカーの教えだ。

 

 

以来、教えをできるだけ忠実に守るように努めた。

 

まず、生活のすべてに『タスクを詰め込む』のを、辞めた。

そして、「大きくて新しいこと」をするようにした。

 

たとえば旅行はそのいい例だ。

私はそれまで、『どう効率よく回れば、その地域の「見るべきもの」を全部見ることができるか』という思考だった。

 

しかし現実的には、どうあがいても「全部見る」のは不可能であり、単に名所を回っているだけ、そんな旅が楽しいかというと、Noだった。

だから、考えかたを変えた。

旅は一つだけ、超素晴らしい体験ができれば良し」と思うようになった。

通りすがりで、気持ちよさそうな川を見つけたら、そこで車を止めて、1日過ごしたっていいのだ。

 

本もそうだ。

『どうすれば早く読めるか』という思考をやめた。吟味してよく読み、「感動が一つでもあれば良し」と思うようになった。

 

人間関係もだ。

本当に大事な、ごく一部の人だけに集中して時間を使う

人生の最後に必要とする人間関係に時間を使わずして、誰に使うというのか。

 

もちろん仕事もだ。

『どうすればタスクをすべてこなせるか』という中途半端な思考は捨てた。

そして、時間=成果の仕事はしないと決めた。

「成功のリターンが大きく、かつ新しいことしかしない」ことは、長期的に、働く時間そのものも、減らすことができるとの目論見だ。

 

しかし、私は立場上、自分の裁量だけでそれを決めるのが難しいという現実があった。

しかも、コンサルタントという時間単価ビジネスそのものの限界もあった。

 

結局、決定に必要なのは分析ではなく「勇気」である、というドラッカーの言葉通り、

「ま、何とかなるだろう」

と、会社を辞めて、起業することにした。

 

そしてそれらは、最良の意思決定の一つだった。

 

 

結局のところ、世の中には「やる価値のないこと」が多すぎるがゆえに、時間は「使い方」ではなく「何に使わないか」にこそ、本質がある

 

だから、私が思うタイムマネジメントは、タスクをこなすことを主眼に置かない。

やるべきことを「減らす」ことに主眼を置かないと、何も解決しない。

 

「カネさえあれば、時間は買える」というが、それはウソだ。

人生はいくら積んでも増やせない。

大富豪であっても、1日は24時間以上には決してならないし、冒頭の本で紹介されていたように、人生はたったの4000週間しかない。

 

結局、勇気をもって「やらないこと」を決めること以外に、人生を充実させる方法はないと、改めて思った。

 

 

4月19日に”頭のいい人が話す前に考えていること” という本を出しました。

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ここには、「働く上で知っておくと得すること」を盛り込みました。

 

マネジメントやコミュニケーションの摩擦が、「本来注力すべき仕事」の邪魔をするという事はよくあります。

こうした「人間関係の摩擦」を最小限にする、という事を一つの目的として書いた本です。

ぜひ、お手に取ってみてください。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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image:Nathan Dumlao

2022年12月の年の瀬、つけっぱなしのテレビから「大晦日だよドラえもん」が流れてきた時のことだ。

「テレビ業界って、本当にマズイんじゃないだろうか…」

と、今さらながら心配になってしまうことがあった。

 

放送されていたのは、「天の川鉄道の夜」のリメイク版である。

ご記憶の人も多いと思うが、のび太が「天の川鉄道乗車券」を勝手に使ってしまい、ジャイアン、スネ夫、静香ちゃんと共にハテノ星雲まで旅をする物語だ。

 

深夜、学校の裏山に集まった4人が切符にハサミを入れると、目の前にSL型の宇宙船が現れる。

さっそく乗り込み地球を後にするのだが、奇妙なことに巨大なSLの中には、他に誰も乗客がいない。

車掌に聞くと、「アレが発明されてから、SLはもうすっかり廃れてしまったんです…」と寂しそうにつぶやく。

そしてハテノ星雲に到着すると、今日ここでSLは廃止であると告げられ、のび太たちは宇宙の果てに置き去りにされてしまった。

 

途方に暮れ泣きじゃくる4人。そこにドラえもんがどこでもドアで助けに現れ、

「どこでもドアが発明されたからSLは廃止になったんだよ!せっかくの記念切符を使っちゃって!!」

と叱り飛ばし、全員地球に戻ることができた-。

 

原作ではざっとこんな話なのだが、この日のリメイク版ではこの後に、大幅に話が付け加えられていた。

要旨、「のび太のおかげで多くの人の命が救われ、引退するSLも最後の大活躍をすることができ、皆が感謝した」というものだ。

一体誰がなぜ、何を考えてこんな話に上書きしてしまったのだろうか。

 

「降伏したほうが身のためである」

話は変わるが、織田信長の天下取りを支えた武将として多くの人が名前を挙げるのはおそらく、羽柴秀吉や柴田勝家といったところだろうか。

しかし本能寺の変で信長が命を落とすまで、歴史家により織田家のNo.2とまで評価するのは、滝川一益という重臣だ。

 

信長をして、「進むも滝川 退くも滝川」と言わしめたほどの戦巧者であり、その生涯を支え続けた猛将であった。

最盛期には甲信から関東にかけ広く領地運営を任され、関東方面の総司令官まで担っている。

 

そんな一益の人生の転機となったのは、信長が明智光秀によって討たれた「本能寺の変」である。

一益は当時、厩橋(群馬県前橋市)にあって北条氏と対峙していたが、この凶報に接するとすぐに家臣を集め、この事実をオープンにする。

さらに家臣たちの反対を押し切り、占領地の豪族や地侍たちにも事実をありのままに説明し協力を求めると、預かっていた人質を返還さえして“信”を態度で見せた。

 

「非常の時こそ、信・義が力になる」というような想いであったのだろうか。

実際に、この振る舞いに共感した上州の一部の侍たちの中には「当代無双の振る舞いなり」と一益を称え、明智討伐軍への参加を申し出る勢力すらあったという。

 

しかしこの一益の動向を察知した北条氏は、信長が討たれたという情報が真実であると確信し、間髪をいれず襲いかかった。

いわば一益の決断は、“真偽のわからない怪情報”にお墨付きを与え、敵を利してしまった形になったということだ。

 

そして関東・甲信の広大な任地を失うと伊勢まで潰走し、以降、滝川家は急速に凋落していくことになる。

“信・義を重んじた”ことで、結果として多くの部下の命を失い組織を破滅に追い込んだとまで、いってもいいだろう。

 

さてこの時、全く同じような状況にあった羽柴秀吉は、どのような決断をしているだろうか。

本能寺の変の際、備中高松城(岡山県)で毛利攻めにあたっていた秀吉はこの凶報に接すると、他言無用の厳しい箝口令を幕僚たちに言い渡す。

 

そして直ぐに交渉の使者を立てると、

「間もなく信長が援軍を率いてこの地に到着する。それまでに降伏したほうが身のためである」

とブラフを仕掛け、敵将・清水宗治の切腹を条件に和議を取り付けることに成功した。

 

その後、返す刀で岡山から京都までわずか10日で駆けつけ、光秀を討ち取り、天下人に駆け昇ることになるのはご存知のとおりだ。

 

ある意味で信も義もへったくれもない騙し討ちだが、緊急時にあって、極めて現実的な施策で部下や組織を守り抜いたといってよいだろう。

この対照的な両者の決断と結果を、どのように解釈し評価されるだろうか。

 

「大人ってもしかして、アホなのか?」

話は冒頭の、「天の川鉄道の夜」についてだ。

なぜこのドラえもんのリメイク版から今、テレビ業界の状況を深刻に憂慮しているのか。

 

原作で表現されている物語のメッセージ性は本来、不要となっていく技術への哀愁と新たな技術の対比を、「銀河鉄道999」へのオマージュとともに描くものだった。

とはいえ、切符を勝手に盗み出したのび太の行為は褒められるものではない。

そのため一瞬とはいえ、宇宙の果てに置き去りにされ怖い想いをすることで、勧善懲悪的なメッセージでもバランスを取っているものだ。

 

しかしこのリメイク版では、全く違う展開に上書きされてしまっている。

切符を盗まれたことを察知したドラえもんはのび太を探し追いつくのだが、するとその時、近くで別の「天の川鉄道」の車両が事故に巻き込まれたという情報が入る。

するとのび太たちは、乗車するSLで直ちに危険な事故現場に駆けつけるという、“勇気ある決断”を下す。

そして困難の末に乗客全員を救い出し、引退するSLも最後の大活躍で引退に華を添えることになった-。

 

つまりこのリメイク版では、のび太たちが置き去りにされる原作の演出や、新旧技術の対比という物悲しさなどが、まったく別の話に差し替えられてしまっているということだ。

想像するに、「子どもが宇宙の果てに放置され、怖い思いをする」という演出が令和の時代のポリコレコードに引っかかったのだろうか。

 

加えて、子ども向けのアニメなので「勇気を振り絞り、困難に立ち向かう感動秘話にしたい」というリメイクチームの思惑もあったのかも知れない。

しかしこのような、因果が繋がらない唐突に挿し込まれた”感動話”などで、子どもの心を掴めるわけなどないではないか。

 

昭和の頃、グラフィックなどの技術がどんどん進化するテレビゲームに対し、

「現実と空想の区別がつかなくなる」

「ゲームを真似て子どもたちが残酷な行為をしたらどうするんだ」

などと的外れな批判をするオッサン評論家に、子どもだった私たちはどう思っていたか。

 

(…何いってんだコイツ)

と感じ、呆れていたはずである。

 

形だけのソレっぽい説教や演出で感情を操作しようと仕掛けられても、

「大人ってもしかして、アホなのか?」

と呆れたことを、覚えているだろう。それと同じだ。

 

そして話は、滝川一益と羽柴秀吉の対照的な行動と結果についてだ。

なぜ、“信・義を重んじた”一益は敗れ、”騙し討ち”ともいえる行動で戦った秀吉は天下人になれたのか。

 

当時の情勢を概観すると、「情報をオープンにする」という一益の決断は悪手であったことに、疑いの余地はない。

実際に信長の変報が広がると、信長によって滅ぼされた武田家の遺臣がいっせいに蜂起し、甲斐領主になっていた河尻秀隆が殺害されるなど、政情は一気に不安定化する。

 

加えて北条氏や徳川氏が織田家の切り崩しを始め侵攻を開始するなど、その版図はいっきに草刈り場の様相をみせはじめている。

武力で制圧され、従っていただけの大名や豪族なのだから、こうなって当然である。

 

そのような中で、信長という強力な抑止力が失われたとたんに手のひらを返し、

「こうなったら人質を返して、信・義で誠実に対応しよう」

などと考えても、大勢が変わるわけがない。

そんなものは本質的な「信・義」ではなく形ばかりの都合のいい演出であり、心に届くはずなどないのだから。

 

この滝川一益の選択と、テレビ局のコンテンツ制作への姿勢。

両者ともに「形を整えれば通じるだろう」という、人の心を安く見積もっている安直さが通底している。

本質を伴わない演出など鼻で笑われるだけだと、当人たちだけが気がついていない点を含めてである。

だからこそ、このままではテレビ業界もやがて、滝川家のように凋落していくことになるのではないかと、憂慮しているということだ。

 

余談だが、アニメや漫画というものは本来、時代の価値観を表し、子どもたちの”好き”を形にしたものであったはずだ。

言い換えれば、いいオッサンやオバチャンが何歳になっても懐かしい想い出であってほしい、そんな存在である。

それを、変化する時代の価値観にあわせて別物にリメイクするのは、本当に正しいことなのだろうか。

時代のポリコレコードに合わないからといって、やっていいことと悪いことがあるだろう。

 

せめて最低限、原作者が作品に込めたメッセージ性を維持しながら、現代風にリメイクしてもらえることを願っている。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

子どもの頃、「もし一つだけ、ドラえもんの道具が手に入るとしたら?」という話題で盛り上がった人は多いと思います。
こんなの、もしもボックス以外に何があるのだと思ってましたが、おっさんになった今、石ころぼうしを手に入れました。

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

Photo by:

作家の町山智浩さんが、「もうすぐ還暦のオタクの友人」について、こんな話をツイッターで呟いておられた。

その友人は仕事をしていてそれなりに収入があったのだけれど、独身で、収入のほとんどを趣味の本や玩具やDVD、ブルーレイディスクなどに使っていて、貯金はしていなかったそうだ。

 

もうすぐ還暦という自分の年齢と今後の生活のことも考えて、ついにコレクションを売り始めたのだが、その買い手も同じくらいの世代で、それほど経済的に余裕があるわけでも、自分の残り時間を考えるとそれを買うために大きなお金を使えるわけでもなく、コレクションの値段はどんどん下がっているとのことだった。

 

僕ももう51歳になるわけだけれども、コレクション、とまではいかないまでも、いつかやるつもりでやらなかったテレビゲームや、結局読まなかった「資料になるかもしれない本」や、一度も見なかったDVDがたくさんある。

最近たくさん発売されているミニレトロゲーム機など、ほぼ全機種揃っているが、開封していないものもたくさんある。

 

もちろん、未開封品として高く売ろうとして保存しているわけではなく、「いつか暇になったらやる」つもりが、その「いつか」がこれまで来ていないだけだ。

 

40代前半くらいまで、仕事が忙しくて毎日帰って寝るだけ、みたいな時期には、「早めにお金を貯めてリタイアして、本とゲーム漬けの老後を過ごそう」と思っていた。

だが、40代後半に、それまでよりも余裕がある職場に移ってからも、そのコレクションは消化するどころか、どんどん増えていく一方だ。「いつか読むから」を諦めて処分した本も少なからずある。

 

そもそも、コンテンツの供給状況が、21世紀に入ってから、とくにこの10年くらいで大きく変わってしまった。

本はよほど希少なものでなければ、ネット書店でなんらかの方法で入手できるし、昔のゲームも今のハードで遊べるものが多い。音楽・映像配信サービスが充実し、CDやDVD、ブルーレイディスクを買うことは激減した。

 

僕など、その作品のブルーレイディスクを持っているにもかかわらず、そのディスクを探してきて再生機にセットするのが面倒で、AmazonプライムビデオやNetflixで観てしまうことが多い。

 

あまり映像配信サービスを信頼しすぎていると、あるアニメのシリーズ2期までは見放題なのに、3期以降は(以前はあったはずなのに)配信がなくなっていたり、けっこうメジャーな作品でも、ちょっと古かったら配信されていなかったりすることもある。だからといって、わざわざレンタル店にまで行こうとは思えないのだけれど。

 

骨董品や古書であれば、そう簡単にはコピーや増刷できないので、所有しつづけることに意味があるのかもしれないが、電子書籍がある一般書や昔のテレビゲームやCD、DVDを所有する価値は、この数年で大きく下がってしまった。

 

僕も自分の子どもが欲しがっている音源を「CDだったらスマホに入れることも家の再生機で聴くこともできるから、ダウンロードじゃなくてCDにしたら?」と言ったら、「どうせスマホでしか聴かないし、CDとか邪魔だからダウンロードがいい」と言われたことがある。

 

いままで自分がこだわり、コレクションしてきたものの価値がどんどん下がっていくのを目の当たりにするのは、なんだかとてもせつない。自分の「好き」は、周りがつけた値札に揺らがない、と思っていたのは若さゆえの過ちだった。

 

もちろん、50過ぎくらいで、「終活」とか「リタイアして一日中読書やゲーム」なんて生活に入れるほどの資産はないし、実際に1年くらい「仕事をしないで生活してみた」経験からいうと、大概のゲームは「好きなだけやっていい」と、あまり面白く感じない。ある種の制限とか制約が、人の「好き」を充実させるのだと思う。

 

「貯金もせずにオタクコレクションにばかりお金を使っていた」ことを愚かだと感じる人は多いかもしれないが、「いろんなことを犠牲にして、貯金もせずに買い集めるからこそ、コレクションするのが楽しかった」とも言える。

 

その結果が、「大事だったコレクションの価値は暴落し、自分はお金がなくて家族もおらず、そのコレクションを切り売りしながら生き延びる」だというのは、バカバカしくもあり、それこそが「マニアの本懐」であるような気もする。

じゃあ、家族がいれば無条件で幸せだったのか?と言われれば、たぶん、そんなことはないだろうし。

 

とはいえ、「悠々自適にやり残した名作ゲームをプレイするような老後」なんて、たぶん来ないだろうということには気づいてしまった。

 

僕自身、まだ物欲はあって、Amazonであれこれ買いものをしてしまうことが多い。

 

若い頃の感覚では、50歳なんて、もう「終活」を意識しながら生きているはず(あるいは、もう生きていなかったはず)なのだが、全然そんなことにはなっていない。

余命、みたいなものを考えるとき、「買う」よりも「売る」「捨てる」が多くなる時期が必ず来るはずだし、それこそ「あの世までは持っていけない」のだ。

 

年を重ねてくると、昔は大事だと思っていたものが、急にどうでもよくなることも多い。

だいたい、老眼で本を読むのも以前より手間がかかるのだ。

2時間の映画を観るのさえ、前立腺が肥大しつつあると準備が必要だ。

 

テレビゲームは「遊び」だと思うよね。

でも、ゲームを夢中になってやり込むには、体力や集中力がけっこう必要なのだと、最近つくづく感じる。RPGとか、プレイする前に、ネットで「クリアまでの平均時間」を調べてしまう。

そして、「やりこみ要素」には極力手をつけない。ひとつのゲームをやり込むくらいなら、もうひとつ、新しいゲームをやっておきたい。

 

子どもたちはテレビゲーム大好きだけれど、僕が買い集めてきたレトロゲームに興味を持ってくれるかどうかは怪しい。というか、ニンテンドーWiiとか「3DS」じゃないニンテンドーDSが「懐かしい」という世代に、ファミコンゲームは「僕がブリキのおもちゃをもらうようなもの」だろう。

物心ついたときにゲームセンターに『スペースインベーダー』が登場した世代と、小学生のときにスイッチの『ポケットモンスター・スカーレット』が存在している世界で生きている子どもたちは、「あたりまえ」が違いすぎる。

 

僕が「自分にとって価値があるもの」を遺そうとしても、たぶん、誰も喜ばない。

テレビゲームや本やDVDだけではなく、土地やマンションでさえ、「要らない」のではなかろうか。子どもたちには別に住みたい、住むべき場所があるだろう。

 

僕だって、自分の親が(そのつもりはなくても)遺してくれたコンテンツ的なものを利用した記憶はない。

ただし、「お金」だけは別格で、こっちもいま、それが無くて困っているのだが。

 

現代は「推し活」とか「オタク的なコレクション」とかが比較的肯定されやすくて、生きやすい世の中にはなったけれど、「オタク第1(あるいは第2)世代」が、老いとともに、こんな現実に直面している、ということも知っておいて損はないと思う。

遺されたコレクションは、ほとんどの場合「処分するのが面倒なゴミ」にしかならない。

 

だからといって、ずっと我慢をしてひたすら貯金をし、もう動けなくなってから豪華な介護施設に入るのが幸せ、ってこともないだろうしねえ。

 

オタクは、あんまり長生きしないほうがいいのかもしれない。

それとも、「戦争とか飢饉じゃなくて、自分が好きだったコンテンツの価値が下がっていくのを見届けて死んでいけることこそ、オタクとしての僥倖」なのだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

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映画でも話題になった巨大客船「タイタニック号」。

2200人あまりの乗客・乗組員を運んだ世界最大の客船は1912年4月にイギリスのサウサンプトンを意気揚々と出港したものの、わずか数時間で沈没し、大きな被害をもたらしました。

 

この巨大客船クルーズにかけられていた保険はどのくらいだったかご存じでしょうか。

「不沈船」タイタニック号の悲劇

タイタニック号は全長270メートル、総重量約4万6000総トンという当時世界最大の客船でした*1

1912年4月10日にイギリスのサウサンプトンを出港し、ニューヨークに向けて処女航海に出たものの、カナダ・ニューファンドランド沖で氷山に衝突、出港からわずか2時間40分で凍える海に沈没し大悲劇をもたらしました。

 

最新のテクノロジーをつぎ込んだ「不沈船」と言われていただけに、乗客乗員あわせて約2200人を運んでいたにもかかわらず救命ボートは1178人分しか搭載されておらず、1500人以上が犠牲となっています。

「不沈船」タイタニック号の悲劇

1912年4月10日、サウサンプトンを出港するタイタニック
(出所:「Lloyd’s and the Titanic」ロイズ保険組合)
※当該リンクから横スクロール、4ページ目です

 

この「不沈船」にかける保険は「名誉ある商品」だとして多くの保険会社がこぞって参加しており、多額の保険金がかけられました。

 

実際の保険金額には諸説ありますが、当時の日本国内での報道によれば、読売新聞は「船体に対して1200万円の保険を附し」ているとしています*2

年代の近い1901年当時の1円は現在に換算すれば約1490円ですから*3、船体だけで約178億円の保険ということになります。

 

また、当時の朝日新聞は船体だけで「150万ポンド」としています*2

当時の1ポンドは2017年時点で約78ポンドの価値に相当します*4

2017年では1ポンド=150円程度で推移していますから*5、こちらも船体だけで現在でいう約175億円という計算になります。

 

いずれにせよ、船体だけでこの金額です。そこに貨物や乗客乗員に対する保険も加わりますから、膨大な金額であることは間違いありません。

 

しかし結果的に、船は沈没してしまいました。この時には保険会社を取りまとめる「ロイズ保険組合」という再保険会社によって、保険金は30日以内に支払われたということです*6

 

確かな情報が対応を迅速にした

ロイズによる保険金の迅速な支払いを可能にしたのは、その情報網にあるとロイズ自身は紹介しています。ロイズは遠く離れたカナダ沖での沈没について、翌日には無線連絡で情報を得ていたのです。

確かな情報が対応を迅速にした

ロイズが無線連絡によって得たメモ
(出所:「Lloyd’s and the Titanic」ロイズ保険組合)
※当該リンクから横スクロール、8ページ目です

この情報の速さによって、保険金の準備、支払いがスムーズにいったといいます。

あらかじめの準備が功を奏したともいえます。

 

どんな施設やイベントにも潜むリスク

さて、タイタニック号のような巨大施設でなくとも、どんなイベントにもリスクはつきものです。また、その保険金額についても個人の判断では難しいところがあるでしょう。

ロイズという巨大な特殊企業であるからこそタイタニック号に対応できたものの、これはレアケースと言えます。

 

さて、日本国内では商業施設やイベントをめぐって、以下のような動きがあります。

まず国内のスーパーでは過去に、このような裁判がありました*7

 

2016年10月、買い物客の50歳代男性がスーパーの店舗内の濡れた床で転倒し、左肘を骨折しました。

この出来事について、男性が店を経営する会社に損害賠償を求める裁判を起こしたところ、東京地裁は男性の主張を一部認め、店に2185万円の支払いを命じたというものです。

 

男性はビーチサンダルで店を訪れていました。

しかし、店側は野菜売り場のサニーレタスから垂れる水で床が濡れる可能性を認識していたのに、清掃などの対応をとっていた形式がうかがわれず安全配慮義務に違反する、という店側にとっては厳しい判決です。過失割合は男性側が20%、店側が80%でした。

 

また、スポーツイベントに際しては、スポーツ法政策研究会の飯田研吾弁護士が次のような見解を示しています。

主催者は参加者に対し、事故による主催者の責任は一切問わない、という旨の申込規約や大会規約を確認してもらうことが多いでしょう。しかし、こうした規約に参加者が同意していた場合でも、実は主催者の責任を追求することができる、というのです*8

 

もちろん、規約内容が合理的である限りはその効力は否定されるべきではありませんが、人間の生命・身体のような重大な権利に関してあらかじめ一切の責任を放棄することは、あまりに主催者に一方的に有利な内容であり、これまでの裁判例では、公序良俗(民法 90 条)という民法の一般原則の考え方などを用いて、その効力を否定してきました。

 

そして平成13年には消費者契約法が施行され、明文上も、主催者の責任の一切を免除する旨の規約は無効とされることとなっています*9

どのような事故や損失に対して、どのような補償をすべきかは、線引きが難しくなっているのです。

 

商業施設やイベント主催のリスクに備えて

このように、商業施設内やイベントの開催には、思わぬリスクが潜んでいます。

特に屋外イベントとなると、近年はゲリラ豪雨や竜巻、落雷が起きたり、ひょうが突然降ってくることも珍しくはなくなりました。

 

被害を起こさないための注意はもちろん必要ですが、主催者がどこまでの責任を問われるかどうかには明確な判断基準があるわけではないのも事実です。

 

そこで役立つのが、商業施設やスポーツなどのレクリエーションに特化した保険商品です。

保険会社の力を借りることは、問題解決をスムーズなものに導いてくれます。

 

また、特にイベントについては「主催者」はどの団体なのかを明確にしておくことも必要です。

複数団体の共催・協力という形で実施されるイベントの場合、費用の負担や収益配分などを考慮し調整しておくと良いでしょう。

 

いずれにせよ、訴訟という事態になるとそれだけで費用や労力が嵩んでしまいます。敗訴すれば当然、企業や主催者の持ち出しになってしまいます。

そのような事態にあらかじめ備えることは、とても重要なことと言えます。

 

(本記事は、みんレクからの転載です)

 

 

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【著者プロフィール】

マーブル株式会社

保険業界のファーストPENGUINになることをビジョンに、テクノロジーとリスクマネジメントを融合して次世代の保険インフラを創るために活動している会社です。

コーポレートサイト

みんレク

Photo:Edwin Petrus

 

 

資料一覧

AIの発展が目覚ましい。

 

Twitterをみていると、お絵かきAIやChat GPTによる優秀な仕事がサラサラと流れていく。

その仕事のお点前は、既に平均的なビジネスパーソンの域を超えているようにすら見え、かつそれが数日単位でレベルアップする有様である。

 

自分はそれをみて「はー」と感心するだけだったのだが、つい最近になって翻訳AIで有名なDeep Lを使用し、卒倒するぐらいの衝撃を受けた。

今日はその衝撃を書いていこうかと思う。

 

日本の研究者を悩ませる英語問題

古より日本人研究者の頭を悩ませてきたのが英語である。

日本人の英語の酷さは海外では有名なようで、有名な論文の投稿規定に「日本人は英文校正サービスを使用した後に論文を投稿してください」という意図の事がやんわりとした表現で書かれていた事があったという程である。

 

例に漏れず、僕も英語はそこまで得意な方ではない。簡単な日常会話や専門誌の読解ぐらいであればなんとかできるものの、論文の執筆ともなると脳が沸騰する。

 

ライターをやっているぐらいなので、母国語であればそれなりに面白く論理的な展開でもって話を拡張させることはできるのだが、英語で書くとなると急に表現が中学生やら高校生レベルにまで落ち込んでしまう。

使いこなせる単語やフレーズの数もそう多くはなく、どうしても似たような表現が何度も繰り返し出現させてしまう。

 

「これじゃあ内容が良くても、パッと見で”あまりにも幼稚…出直してこい!”と弾かれちゃうよな…」

そう頭を悩ませていた。

 

翻訳ソフトは翻訳ソフトっぽさがあったのだが…

そういう事もあって論文執筆は本当に頭の痛い問題だったのだが、ふと

 

「話題のDeepLでも使ってみるか」

と、そこまで期待せずに翻訳をかけたところ、これが衝撃であった。

 

それまでの翻訳ソフトは英文の骨子組み立てぐらいまではギリギリ対応できるものの、それでも読んでいて違和感を感じさせる文章をよく排出していた。

この違和感は言葉では表現しにくいのだが、なんか英文が翻訳ソフトをかけたっぽい仕上がりになるのである。

だから翻訳ソフトを使って無理やり想像した英語の文章は見る人がみれば「これ翻訳ソフトかけたでしょ」と指摘できるようなものが多かった。

 

わかりやすくてキレイな英語だね

しかしDeep Lの翻訳はそういう次元をはるか先に超越していた。

論理展開はスムーズで、接続後や前置詞の使用方法にも全くと言っていいほどに違和感がない。

母国語で書いた文章のロジックが、ダイレクトにそのまま英文へと落とし込まされるのである。

 

衝撃以外の何物でもなかった。

おまけにパラフレーズですらクリック一つで10秒ほどで提案してくる有様で、別単語を使用したらそれに沿った文章に再翻訳をかけてくれるほどである。

 

そうして以前だったら1ヶ月はかかっていたであろう論文の草稿執筆は、わずか3時間で終わってしまった。

できあがった文章を試しに他の人にも何もいわずに読ませてみたが、ネイティブを含めて「わかりやすくてキレイな英語だね」と言うほどである。

 

そこにはかつてあったはずの翻訳ソフトっぽさは微塵もなかった。

逆に綺麗すぎて人間離れしているとすら言えるぐらいに、美しい英語がそこにはあった。

 

これ、もう英文校正サービス要らないね…

その後、これは話題のDeep Lの力を借りて執筆したものだという事を皆に告げたのだが、誰一人としてこれが機械翻訳の仕事であると思っても見なかったと言った。

むしろ僕が書いた英語論文にしては文章があまりにもこなれすぎているので、英文校正サービスを受けた後の完成論文だろうと思った人が何人もいた程である。

 

それを聞いて僕は即座にこう思った。

「ああ、もう英文校正サービスは要らないな…」と。

あんなにも高いお金を払って受けていたお仕事が、目の前で大崩壊するのをみた瞬間である。

 

逆に読解力と母国語の能力の重要性が益々増してしまった

一応念を推しておくと、Deep Lで打ち出された英語の文章を全く校正する必要が無いという事ではない。

科学論文にふさわしい英単語を使っていないだとか、元となった母国語自体が変だったりだとかで、Deep Lで打ち出された英語に変なものが混じっている事はそれなりにはある。

 

しかしそれは英語力の問題というよりも、むしろ読解力と母国語の問題である。

こちら側が打ち出された英語を適切に評価できるのならば…AIと二人三脚でもって超速でいくらでも仕事ができるというわけである。

 

逆に言えばである。こちら側に専門家としての知恵が無ければ話にならない。

いくらAIが優秀だからといって、勝手に論文を無限に製造してくれるという程には話は甘くはない。

 

上司としてプロジェクトを立ち上げるのは必須だし、そのプロジェクトの進行具合を修正する作業も必須である。

プロとして恥ずかしくない仕事になるよう、落とし所を最後の最後まで模索し続ける為の根性だって必須だ。

 

座学の必要性が以前よりも更に増してしまった

これらは全て受験勉強のようなゴリゴリの座学でもって人間がインストールしなくてはならない必須技能である。

この最も面倒くさいとも言える領域だけは、どんなにAIが優秀でも誰もやってはくれない。

 

つまり…AI時代で大切なのは、知識と読解力、そして専門家としてのセンスなのである。

どんなによく切れる包丁があってもセンスのない料理人には美味しい料理が作れないのと同じような話なのである。

 

机に座ってコツコツ勉強し続けられず、職場で淡々と下積みをやれない人間は、AIを使う段階にすら到達できないのだ。

 

これまで以上に人間には泥臭い修行が求められるし、仕事の量も桁違いに増える

これらの事実を鑑みた結果、僕はこれから人間はこれまで以上に泥臭くならなくてはいけないという未来を確信した。

 

残念ながらAIは人間を机には座らせてはくれないし、物事への集中力も増やしてはくれない。嫌なことをやるときの倦怠感だって取り去ってはくれない。

これらはどんなにツールが便利になろうが全て人間の意思の問題だ。

ある程度は誤魔化しは効くだろうが、それでもゼロにできるものではない。

 

現にである。AIが早々に導入されるようになった将棋業界ではトッププロはハチャメチャに忙しそうである。

 

AIが登場して仕事が奪われるどころか、どう考えてもAIが登場して仕事が増えている。

それに伴って注目度も才能もこれまで以上に集まってきているようにしか見えない。

 

おそらく…これが今後10年、20年後の私達の未来なのであろう。

AIが人間の仕事の一部をショートカットしてくれるようになった結果…いろいろな意味でそれまで仕事に参画できなかった高性能人材がどんどんプロの領域に流れ込んでくるようになる。

 

有能と無能の差が明確化する

そしてそれに伴い、本当の意味での無能と本当の意味での有能な人間の差は益々明らかになってしまう。

 

例えばである。日本人研究者が苦手だった英語という壁が取り外されたら…単に英語が苦手だっただけの人間は普通にホトルネックが解消されて、スルスルと知的に生産的な仕事にコミットしはじめるであろう。

それに伴い、この人の仕事はどんどん増えるはずである。ボトルネックが解消されたのだから、当然といえば当然なのだが。

 

逆に英語も研究も苦手な人は…もう英語ができないから研究ができないというイイワケが全く通用しなくなる。

こういう無能な人間は……昔だったら色々と誤魔化しが効いてエセ研究者をやれたのかもしれないが……AI時代では生き残れまい。

 

つまり……有能はもう有能さを隠そうにも隠せないし、無能も無能さを隠そうにも隠せなくなってしまうのである。

そういう意味ではAIは人間の優秀さを適切に評価できる、真贋鑑定装置だとも言えるのかもしれない。

 

新しい時代がやってきても、今も昔も何も変わらない

こうして嘘がどんどん暴かれてゆき、真実がどんどん真実として輝きを増し、優秀な人間だけがどんどん忙しくなる時代があと数年で必ずやってくる。

 

優秀な人間はこれからどんどん忙しくなる。

ボトルネックがどんどん解消され続けていくのだから、得意なことに専念できるというような明るい話というよりも、むしろ生産を強要されるぐらいの感じになるだろう。

 

逆にどんなにAIを与えられてもボトルネックが解消しない人間は…本質的に無能の烙印を押される事だろう。

それは本当の意味で仕事の適性が無いか、あるいはそれ以前の段階で人間として仕上がっていないという事でもある。

 

下手すると小学校時代からの学習のやり直しと、机の上に一日10時間座る練習からのやり直しを命じられてしまうかもしれない。まあ、それで生産できるようになれるのなら、悪くはないのかもしれないが…

 

この時代に生き残れるのは、コツコツと机に黙って座って勉強できる人間と、集中力の出力先を適切にコントロールできる人間、そして類まれなる芸術的センスとそれをハイクオリティな完成品へと組み上げる執念を持つ人間だ。

そしてこれは今の時代の優秀な人間が持っているものでしかない。そう…結局すべてが何もかも同じなのだ。

 

こういう今の時代でも優秀な人間が益々優秀になるだけで、AI時代がこれからやってきた所で私達のやるべき事は何も変わらないし、評価される基軸も何も変わらないのである。

 

結局AI、AIいっても、人間の優秀さの基軸は同じなのだ。だから変に焦らず、淡々と目の前の事をやるしかないのである。

それでいいし、それがいい。私たちはこのクソ忙しい未来がやってくるであろうという予言を前に、誠実であり続けるだけなのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by :Kelly Sikkema

「おれ、仕事をリタイアしたら○○をやるんだ」という台詞は、オンラインでもオフラインでも見聞きすることが多い。だが、これは実現不可能と思っておくべきではないだろうか。

 

先月末、初代プレステ時代の名作シミュレーションゲーム『ガンパレード・マーチ』の秀逸なレビューがnoteにアップロードされていた。

今更ガンパレードマーチを遊んだ│ジスロマック

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筆者のジスロマックさんは若いプレイヤーっぽいが、今昔のさまざまなゲームに通じてらっしゃる。

上掲リンク先は『ガンパレード・マーチ』をよく知らない人にも読みやすく、それでいてゲームの魅力を余すところなく伝えているので、興味の沸いた人は是非お読みになっていただきたい。

 

で、この名文に感動した私は「久しぶりに『ガンパレード・マーチ』やりたいなぁ」と思った。もちろん我が家にも『ガンパレード・マーチ』はあるし、メモリーカードが破損していなければ当時のセーブデータだってあるだろう。

だけどプレイする時間をひねり出すのが大変だ。あのゲームはかなり時間を食う。集中力もだ。やるなら覚悟して臨まなければならないだろう。

 

他の読者の反応を見ても、「久しぶりにやりたい」「まだやったことがないがやってみたい」といった感想がたくさん並んでいた。

その多くは私と同様、もっとずっと若い頃に『ガンパレード・マーチ』に出会ったか、横目で見ていたけれども素通りしてしまったプレイヤーたちだ。

 

しかし彼らに水を差すようだが(そして自分自身に言い聞かせるように書くのだが)、結局おれたちの人生は『ガンパレード・マーチ』をリプレイすることなく暮れていくんだ。そうだろう?

 

「時間があったら遊んでみよう」といわれるゲームが遊ばれることはない。それが古い作品なら尚更だ。

「暇ができたら読む本」も同様で、古い作品なら読まれることはまずないだろう。

 

このことは今までの人生を振り返っても明らかではなかったか?

おれたちはいつも時間に追われている。仕事に、子育てに、既存の人間関係に。

 

現代人は概してスケジュール管理が上手い。さあ、自分のカレンダーや手帳を見てみろ! ぎっしりと詰まった出勤予定、行事、お出かけ、アポイントメント。

そうした序列第一位のタスクのすぐそばには、序列第二位の、最新のコンテンツや現在進行形のホビーやエンタメが控えている。

 

こうした序列のなかに、いにしえの名作、特にリプレイに時間を要する名作をねじ込む隙間は「無い」。

学生や社会人なりたての頃はともかく、社会人も長くなってくると誰も彼もが自分の時間と能力の許す限界まで働き、限界まで交友し、限界まで遊んでいるものである。

限界が低い人は低いなりに、限界が高い人は高いなりに、精一杯走り続けているのがいまどきの大人じゃないか。

 

ではリタイアメントの後は遊べる、のだろうか?

いや、そもそもリタイアメントなんて私たちの世代にあるんですかね?

 

日本人の平均寿命が長くなる一方で、私たちがリタイアできる年齢も遠ざかっている。この調子でいけば、健康寿命の限り私たちは働き続けなければならないだろう。

もちろんそれは悪いことばかりではない。給与だけでなく、社会性や社会関係の維持、自尊心の保全に仕事が一役買っている側面もあるからだ。

 

しかしリタイアメントが遅れるほど、時間は労働とその後始末に費やされることになり、昔の名作と向き合っていられる時間は少なくなる。長寿は、資本主義に最適化された姿になろうとしているのだ。

売却可能な労働力の残っている限り、これからの世代は労働力を売って生き続けなければならない。だとしたら、いったいどこに『ガンパレード・マーチ』など遊戯する時間が残されているだろうか。

 

幸運にも老後に時間を捻出したとしても、古いゲームのリプレイには壁がある。

このうちハードウェアとソフトウェアの確保については置いておく。それと親の介護。ここでは、介護にはしばしば時間とお金と注意力を大きく要する、とだけ書いておこう。

 

なにより、年を取った時の自分自身がゲームのリプレイに耐えられるかどうかだ。認知機能が弱まればゲームをプレイする精度は低下し、反射神経や動体視力を必要とするゲーム、たとえばFPSのようなジャンルではどうしても若い頃のようにはいかなくなる。

ずっとFPSをプレイし続けている人なら多少はマシかもしれないが、数十年プレイしていなかった人が高齢になって再開するのはキツいだろう。

 

では、『信長の野望』のようなシミュレーションゲームや『女神転生』シリーズのようなロールプレイングゲームならどうか?

今度は長時間ゲームをプレイし続けるバイタリティが問題になってくる。

集中力が長く続かないだけでなく、ディスプレイを長く見つめ続ける能力、ディスプレイの前で長時間座り続ける能力も年を取れば衰えてくる。20代の頃、連続6時間遊んでも平気だった人でも、70代になって連続6時間遊ぶのはかなり難しい。

 

かりに70代になって連続6時間ゲームができたとしても、それはそれで心配だ。

というのも、若いうちはそれほどでもないが、高齢者が同じ姿勢でディスプレイの前に座っているのは、もうそれ自体が健康リスクだからだ。それはエコノミークラス症候群のような血流障害を招き、へたをすれば死を招きかねない。

 

そういう意味では、高齢者が長く座り続けられないこと、集中力の限界が早く訪れることは健康だとさえ言える。

若者時代と同じようにやっていてはたちまち身体が壊れてしまうから、リミッターが働くのである。

リミッターの壊れてしまった高齢者は長く生きられない。中年ぐらいの年齢になればそのことはもう知っているはずだ──リミッターの壊れた働き方や遊び方で無事でいられるのは、せいぜい30代前半あたりまでだったということを。

 

だから例えば70歳になり、幸運にも余生と幾ばくかのお金が手許に残ったからといって、古いゲームをプレイできるかといったら、たぶん答えはNoだ。

ゲームそのものは昔のままでも、プレイヤー自身は昔のままではない。老いてしまって、昔のままのプレイに耐えられなくなっているからだ。

 

諦め、嘆くがよい

では、古いゲームをリプレイしたいとさえずっている中年諸氏はどうすればいいのだろうか?

 

ありがちな答えはすぐに思いつく。

たとえば「リプレイするなら今すぐでしょ」だの「健康増進をお忘れなく」だの、というような。

だが、そんなのはおためごかしでしかなく、ソリューションの姿をした事態の先送りでしかない。

 

本当のことを言ってしまおう。

 

「あなたはもう、そのレトロゲーを二度とプレイしない。だから思い出のなかで、その美しい記憶を反芻するのがよろしかろう。」こう答えるのが親切心というものである。

こう書いておけばほとんどの人はそのとおりになるし、千人か万人にひとりぐらいは巨大な反骨精神をもってリプレイのために重い腰をあげるかもしれない。さて、その石臼のごとく重くなった腰があがるものかな? フフフ……。

 

ゲームは絶えず進化し、資本主義に急き立てられながら私たちは老いていく。

その絶対的な流れのなかで、定命のゲーム愛好家としてどのようにゲームと向き合うべきだろうか。

 

答えは人それぞれだろう。が、古いゲームをリプレイするのが非常に困難で、その難易度が年を取るにつれて高くなるのは間違いない。だから死ぬ前に絶対にリプレイしたいゲームがあるなら、世界一周旅行を計画するような意志と覚悟をもって臨むことをオススメする。

そうでもしなければ手が届かないほどに、古いゲームをリプレイすること、とりわけ『ガンパレード・マーチ』のようなゲームを再び向き合うことは難しくなってしまった。嗚呼!

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo by mrhayata

仕事において、『こまったちゃん』化しやすい人の特徴がいくつかある。

そのなかの一つが、「ちょっとしたダメだしにも、すぐに怒りで噴き上がってしまう」ことだ。

 

もう少し説明的に言えば、「自分へのダメだしを冷静に受け止めることができない」という特性を持つ人は、職場の悩みの種になりやすい。

その批判の正しさには関係なく、こういう人は、

 

「でも、あなたも悪いですよね(怒)」とか。

「私は誤解されてます(怒)」とか。

「私のことを嫌いなんですね(怒)」とか。

 

論点をすり替えてでも、必ず反論をしてくるからだ。

男性にも女性にもいるし、クライアント先で、あるいは同僚で、こういう人を数多く見てきた。

 

すぐにばれるウソをつく

この「ダメだしを冷静に受け止めることができない」という特性は、周囲をとても困らせる。

彼らは「ダメだしされた!」と思った瞬間に、頭がわいているので、冷静に話ができず、論争になってしまう。

 

こちらが「あなたに困っている。一考してもらえないだろうか」と述べたいだけなのに、

 

私のせいじゃない!

私は悪くない!

ひどい上司(会社)だ!

 

と噴きあがられても、こちらも困る。

 

繰り返すが、ダメだしはまず一度、「私たちはあなたに困っている」という事実をよく受け止めて、考えてほしいだけなのだ。

怒ってしまっては、何も話ができないではないか。

 

「怒りは、問題解決の役に立たない」

怒りは、敵に利用されやすく、衝動的、近視眼的で、思慮が浅く、真実から目を背けさせ、常に過剰だ。

心理学者のスチュアート・サザーランドに言わせれば、「怒りや恐怖など強い感情にとらわれると、私たちは愚かな行動に走りやすい」。

 

要するに、怒っているとき、人はバカになっている。

 

そのため、こういう人は批判されると「すぐにバレるウソをつく」傾向にある。

 

「ちゃんと連絡しました」(してない)とか。

「説明したはずです」(してない)とか。

「メッセンジャーに書きました」(書いてない)とか。

 

まわりの人は、もうその人に関わりたくないから、

「そうでしたね」と言ってくれるが、本当は皆、その人が何もやっていないことをわかっている。

 

こうなると、「いや、もういいよ」という形で、その人に何かを言う人はどんどん少なくなっていく。

しまいには、重要な仕事からはすべて外されて、「はい、おしまい」だ。

 

言い方に気を付けてもムダ

私は、こういう特性の人物には、「言い方に気を付ければ、何とかわかってもらえるのでは」と思ったときもあった。

 

「あなたが悪いわけではないのですが」という枕詞を付ける。

「私の責任ですが」と述べてから切り出す。

「本当に申し訳ないのですが」と嘆願してみる。

 

だが、全部ダメだった。

「あなたは悪くない」を本気にしてしまうのだ。

 

いや、むしろ本気で

「いやいや、大丈夫ですよ」

とか、逆にこちらをなぐさめてくる、まである。

 

彼らに婉曲的な表現は、通用しない。

 

「私がいないと困るでしょう?」と、絶対に言わせない

と、ここまで散々書いてきたが、「ひょっとして私のこと?」と思った方もいるかもしれない。

断じて言う、違う

あなたのことではない。

これをよんで、「自分のことでは?」と思うような鋭敏な感覚を、彼らは持ち合わせていない。

 

「自分の気持ちには、とても敏感、他者の気持ちには、とても鈍感」

というのが、彼らのデフォルトだからだ。

彼らに「気づきを与えて、変わってもらう」という手法は通じない。

 

追い出せればよいのだが、そうもいかないケースも多いだろう。

では、どうするべきなのか。

 

まず、部下がそういう人物のとき。

もし特殊技能を持つなど、役に立つ人物なら、短期的にはまず彼の悪影響がほかの人に及ばないようにすることだ。

できるだけ、他の人と関わらせないように、いわゆる「隔離」を行う。

 

困っている人も多いだろうから、みんな、喜んで協力してくれるはずだ。

 

だが、その人の代替となるような機能は、他に探しておかねばならない。

それは「代わりの社員」であったり、「システム」であったり、「外注」かもしれない。

 

こういう人は、仕事を抱え込んで秘匿し、自分の存在感を出すタイプも多いので、とにかく「私がいないと困るでしょう?」と、絶対に言わせない準備をしておくことが肝心だ。

 

そして、そういう人がやっていた業務を見直すと、たいていの場合

「別にやらなくてよかったことだった」

「コストばかりかかっていて儲かっていなかった」

「お客さんも嫌な思いをしていた」

と言ったことが発覚し、後から振り返ると、「なーんだ、別にどうってことなかったわ」と一件落着する。

 

決して怖がる必要はない。

業務改革のつもりで取り組んでしまえば、そのうち笑い話になる。

 

 

では上司や経営者がそういう人物のときは?

これも簡単だ。

そういう会社からは次々と人が去っていくので、「まっとうな先輩・同僚」が辞めてしまった時点で、一緒に辞めてしまうこと。

 

大人になってから、このような特性は、ほとんど変わらない。

彼を変えるのは、無駄な試みだし、人生の一部を使うに値しない。

 

転職活動に時間を使うほうが、100倍マシなので、思い切って外の世界をみよう。

絶対にいいことがある。

 

 

4月19日に”頭のいい人が話す前に考えていること” という本を出しました。

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ここには、「働く上で知っておくと得すること」を盛り込みました。

マネジメントやコミュニケーションの摩擦が、「本来注力すべき仕事」の邪魔をするという事はよくあります。

こうした「人間関係の摩擦」を最小限にする、という事を一つの目的として書いた本です。

ぜひ、お手に取ってみてください。

 

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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image:Alessandro Bellone

先日、夫と「学校で学びたかったこと」について話した。

「大人になる前に知りたかったこと」と言い換えるとわかりやすいかもしれない。

 

みなさんにもきっと、「学校でこれを教えてほしかった」「大人になる前にこれを知っておきたかった」ということがあるんじゃないだろうか。

 

というわけで今回は、大人になる前に知りたかったことをテーマに書いていこうと思う。

みなさんも、「大人になる前にこれを知っておけば……」ということがあれば、ぜひ教えていただきたい。

※ちなみにわたしは現在30歳で、ゆとり教育を受けた世代である。

 

1.幸せに生きるために知っておくべき「自己肯定感の高め方」

学生の時は、多少進路について考えはするものの、とりあえず今日授業を受けて、明日は友だちと遊んで……と、少し先の未来だけを考えていればよかった。

 

しかし大人になると、そうはいかない。

冷蔵庫の食材とにらめっこして1週間の献立を考え、来月のミーティングに備えて資料を用意し、半年後に払う税金ぶんのカネを別口座に確保し、来年に予定する引っ越しのための手続きをして……。

 

パートナーが病気になって収入が減ったら、親に介護が必要になったら、自分の老後年金がもらえなかったら……頭のなかはいつも「先のこと」でいっぱいだ。

友だちが結婚しはじめて焦ったり、後輩が成功しているのを見て妬んだり、仕事一辺倒になって人生の意味を自分に問いかけたり。

 

とにもかくにも、大人になると気が重いことが多い!

子どもの頃のように、先生が褒めてくれるわけでも、親が守ってくれるわけでもないし!

 

そんな状況のなかでも「前向きにがんばろう」と思うためには、自己肯定感が必要だ。

自分は大切な人間であり、他人にとっても価値がある。

そう思えなければ、日々のネガティブイベントに押しつぶされ、人生が灰色になってしまう。

 

でも思い返してみると、学校では「親切にしよう」「思いやりを持て」「されて嫌なことをするな」と、他人を大切にする方法ばかり教わった。

 

自分をいたわり、思いやり、嫌なことから身を守る方法を教わった記憶が、ほとんどない。

自分自身が不幸だとまわりを思いやる余裕がなくなってしまうから、他人を大切にするのにはまず、自分を大切にしないといけないはずだ。

 

だから学校ではもっと、「自分を大事にしろよ!」と教え込んだほうがいいと思う。

他人と比較なんてしなくとも、そのままの自分を好きでいるために。

 

2.自分を守るためには、権利と法律の知識が不可欠

大人になってから、自分を守るためには権利と法律の知識が不可欠だと痛感した。

 

たとえば、居酒屋でバイトしていたとき、「待機」という謎システムがあった。

シフトが17時でも、客入りが悪かったら「待機」し、18時か19時ごろ出勤か帰宅かを言い渡される。待機時間中は店内に拘束されているが、働いていないので給料は発生しない。

当然、違法である。

 

おかしいとは思うが、どうすればいいかわからない。

親に相談したところ「それは違法だから拒否していい」と言われ、法律をググり、店長に「わたしは待機はしません。待機するならタイムカードを切ります」と言って自分の権利を行使した。

 

コンビニでアルバイトをしたら、売れ残った恵方巻を買い取らされた。

タイムカードが30分刻みで、20分残業をしても切り捨てられて給料がもらえない。

無理やりシフトを入れられ、大学の授業を休まなくてはいけなくなった。

 

このようなブラックバイトはとても身近で、それに慣れてしまうと、大人になっても理不尽に違和感を持たなくなってしまう。

 

そんな理不尽から自分を守る方法を、学校は教えてくれただろうか。

自分の権利を行使し、相手に法律を守らせるには知識が必要で、それがなければ相手のいいように扱われる弱者になってしまう。

だから、自分にはどんな権利があり、自分を守るためにどんな法律があるかを知っておくべきなのだ。

 

権利と法律に対する意識が高まれば、同時に「他人の権利を守らなくてはいけない」「法律違反をしてはいけない」という意識も強くなるしね。

 

3.多様化する社会で、「ちがう人」とどう関わっていくべきなのか

わたしが大学に入ったあたりから、ダイバーシティ、多様性、LGBTといった言葉がに広まっていった。

最近では、ジェンダーレスの制服を導入したり、「くん」「ちゃん」ではなく、生徒を一律で「さん」と呼んだりする学校もあるらしい。

 

一方で、いまでも明るい地毛を黒染めさせられたり、下着の色を指定されたり、意味がわからない校則がある学校も存在する。

いまは、「みんな一緒であるべき」から「みんなちがっていいじゃない」への過渡期なのだろう。

 

小さい頃から、外見や能力、出自など、あらゆる面で「いろいろな人がいる」と理解するのは、大切なことだ。

でも大人になると、「多様性を認める」だけでは不十分だと気付かされる。

生活するうえで大事なのはその一歩先、「自分とはちがう人間とどう関わっていくか」だ。

 

100人いれば100通りの個性があるが、それをそのまま受け入れては、社会が成り立たない。

多様性とはいっても、どこかで歩み寄り、お互い妥協しなくてはいけないのだ。

 

少数派に配慮するのは当然だが、少数派が多数派に歩み寄らなくていいわけではないし。

かといって、まちがった方法で譲歩を要求すれば差別やハラスメントになるし、無理に多数派に合わせていたら生きづらさを感じるだろう。

 

では、どうやって歩み寄るべきか?

 

多様性を認めよう、だけではなく、「自分とはちがう人とどう関わり、どう理解し、どう歩み寄るか?」まで話してこそ、「多様性の理解」になると思う。

そしてそれは、今後社会を生きていくうえで、とても重要なことだ。

 

教えられる大人がいなければ子どもは学べない

……とまぁこんな感じで、「大人になる前に知りたかったこと」を書いてきたわけだが、執筆しているなかでふと思ったことがある。

 

それは、「なぜこんな大切なことを教えてもらえなかったのか」だ。

どう考えたって、自己肯定感を高めることや法律を守ること、自分とは異なる人とうまくやることは大切なはず。

 

それなのに、学校ではきちんと教えてもらえなかった。

いったいなぜ?

それは、教える人がいないからじゃないだろうか。

 

教えるためには当然、先生が必要だ。

教員免許という意味ではなく、「専門的な内容を体系立てて論理的に説明できる能力をもつ大人」という意味で。

 

いや、逆に「自分の経験を真摯に伝えてくれる人間くさい大人」でもいいかもしれない。

とにかく、教えるためには先生が必要で、先生がいないから学べないんじゃないか。そう思ったわけだ。

 

教えられる人がいないから学べなかった、という前提で考え直すと、「学校で教えてほしかったこと」は、言い換えれば「大人が身に着けられなかったこと」といえるかもしれない。

 

そういえば、「学校でもっときちんと教えるべきだ」とよく言われる性教育やお金のことに関しても、「ではだれが教えられるのか」と言われると、なかなかむずかしい気がする。

 

少なくとも、教員免許を持っているからといって教えられるようなことではない。

だからこそ、学校で習わない、習えないのだろう。

 

自分が学びたかったことを教えられる大人になりたい

……なんて偉そうに書いたが、「じゃあお前はどうなのよ」と言われると、言葉に窮する。

 

「自己肯定感は大事! 学校で教えてほしかった!」とは書いたが、「じゃあ大人になったあなたは先生として子どもにそれ教えられますか?」と言われると、「いや、それはちょっとむずかしいかも……」となってしまう。

 

大人になったいまでも、自分に足りていないものはたくさんある。

となると、「子どものときに知りたかった」のではなく、「いまもまだ学ぶべきこと」というほうが正確かもしれない。

 

「教えてほしかった」という後悔があるなら、自分がそれをだれかに教えられるようになればいい。

教えられるレベルにないならそれはまだ学びの途中ということだから、これからも勉強していけばいいのだ。

 

さてさて、みなさんは、大人になる前になにを知っておきたかっただろうか。

また、大人になったあなたは、それを知り、身に着け、だれかに教えられるようになっているのだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Katrina Wright

少し前の話になるが、アナウンサー出身のとある県知事が羞恥ここに極まれりといったスキャンダルに見舞われた。

 

いやしくも公職に就く者が、こんなおじさん構文の卑猥なメールを、不倫相手に送っていたなんて……!

というわけだが、ぶっちゃけこの手の話は過去を振り返れば枚挙にいとまがなく、新味は皆無と言っていい(むろん面白いが)。

 

ファンや子どもたちに夢を届けるプロ野球選手、清純ウリのタレント等々、あえて固有名詞は出さないけども、そういった人々の醜聞について総じて言えるのは、一般に認知されているキャラや公の地位と内面のギャップが大きいほど、非難の声が激しくなるということだ。

 

さて、筆者は元々編集業に携わっていたのだが、シモ絡みのスキャンダルが表に出るたびに自分が抱くのは、義憤でも興味関心でもない。

むしろ、突然のゴシップ爆誕によって潤う知人、困る知人、さらには単なるスキャンダルから裏の裏を読み取ろうとする陰謀論系の知人がどう反応するかという思いが湧いてくる。

 

ケシカランと非難するわけでもなく、「にんげんだもの」などと擁護するわけでもない。

世間一般とは全く違う捉え方をする人々がいることを、ぜひ皆さまに知っていただきたいというのが本稿の主旨である。

 

降って湧いた醜聞を養分にしたり、善悪抜きで情報価値を冷静に見極めて自分の仕事への影響を考えたり、はたまた己の妄想ワールドを広げる材料に使ったり。

 

それらの特異な方々の生態を紹介することで、スキャンダルとの接し方について、何がしかの示唆をお届けできれば幸いだ。

 

醜聞を善悪ではなく情報価値で捉える人々

前述の通り、一般に普段いいイメージを持たれている者の裏の顔が暴露された時ほど、炎上規模が大きくなる。

これが最初から倫理的に破綻しているように見えるお方なら、「やっぱりね」という感想しか生まないし、ある程度分かった上で推している人や理屈抜きの支持層はそう簡単には離れない(例:米トランプ元大統領)。

 

その反面、清楚、純真、クリーンといったイメージを売りとしている公人や有名人の場合、ダメージコントロールは難しい。

このような現象を、筆者が敬愛してやまないとあるネットユーザーは「ベッキー・渡部理論」と称したが、まさに言い得て妙。

 

どちらも元来いいイメージを持たれていたものの、不倫スキャンダルで大打撃を負ったタレントさんで、特に自分の場合、忘れ難いのはベッキーの方である(いい加減忘れてやれよという声はあるだろうが)。

 

というのも当時、筆者は週刊誌記者やフリーランスのジャーナリストなどと仕事上の付き合いがあり、それらの人々の生業が醜聞によって強く影響を受けることに驚かされたからだ。

 

まず、週刊誌界隈の友人は、世間と違った意味で祭りとなる。

はっきり言えば、大漁旗を掲げんばかりの稼ぎ時。

 

どこかが醜聞の第一報を伝えるやいなや、後追い記事だろうが何だろうが一斉に編集者や記者たちが動き出し、直近の発売号に間に合うよう企画が差し替えられる。

 

今どき週刊誌なんぞは大手ですら厳しく、弱小系ともなればかなりの媒体が青息吐息。

そんな雑誌にとって有名人の超大型スキャンダルは、まさしく干天の慈雨のようなものである。

 

当時、某誌の記者が言った「いやー、ベッキーの件で一息つけました」という言葉を今でもよく覚えているが、端的に言ってハイエナ商売(これもその記者本人の言葉である)においては、この手の案件が定期的に起きてくれることが理想なわけだ。

 

筆者には記者の友人、知り合いがそこそこいるけども、有名人による不義の愛は倫理的に許されない、社会に悪影響を及ぼすから徹底的に追求しなければならない……! といった話を聞いたことは一度もない(そういう考えの方も中にはいるだろうが)。

 

言わば、彼らが注目しているのは事件そのものの善悪ではなく、その情報を伝えることが自らの利益につながるか、世間的なニュース価値はいかほどかということだ。

 

また、同様の見方から巷で話題の醜聞を分析する人々として、真面目な報道に関わるフリーランサーの友人たちがいる。

本来、彼らの専門分野と不倫は全く関係ないはずなのだが、実は多大な影響を受けることがある。

 

紙媒体であれば、どうしても紙幅の関係で世間の関心が強いテーマにページが割かれるし、テレビの情報番組ならなおさらである。

それこそ銃弾をかいぐぐって撮ってきたネタであっても、芸能人が薬物絡みで捕まったりして巷の話題がそれ一色になると、掲載が見送られたりネット版の方に回されたりするわけだ。

 

結局のところ、各人の可処分時間には限りがあり、世のあらゆるトピックスに等しく関心を持つことはほぼ不可能なので、やむを得ないことではある。

だからと言って、「自分が命がけで撮ってきた素材を使わず、こんなしょうもない話題を優先するなんて……!」と、フリーランスで報道に携わる友人たちが憤るかというと、自分が見てきた感じではそうでもない。

 

むしろ、このスキャンダルはネタとして強すぎるので、タイミングをずらすしかないですねといった具合に、まるで天災か何かのように捉える人が多いというのが正直な印象だ。

 

醜聞を商売にする一部のメディア従事者とスタンスこそ違うが、各スキャンダルについて社会的関心の強さや巷間における情報価値を見極めるという点では、共通したものを感じる。

 

彼らはスキャンダルを消費するのではなく、観察・分析しているのである。

 

観察しすぎて闇落ちしないようご注意を!

さて、前項で消費ではなく観察・分析という話を書いたけれども、ここで注意すべきは考えすぎるあまり思考の飛躍を起こしてはならないことだ。

 

筆者には陰謀論ガンギマリの友人、というか観察対象がいるのだが、そんな彼が芸能人の不倫話などをネットニュースで見るたびに口にするのは、「まーた、あっちむいてホイ、か……」といった言葉。

 

彼の特殊な視点では、こういった醜聞は日本の政治・社会の重大な問題から国民の目をそらすために仕組まれた出来レースの炎上で、注目したら負けということになるらしい。

 

ちなみに、そんなことを言いつつも彼はゴシップが出るたびに「では何から目をそらさせるのか」について独自に追求を始めるので、自らの妄想(彼にとっては「真実」だが)を補強する材料にしているとも言える。

 

ある意味、存分にジャンクな情報を満喫しているわけで、本人は絶対認めないだろうが紛うことなきスキャンダルの消費者だ。

そうではなく、あくまで観察者・分析者の視座から「ニュルニュル〜」などといった話に向き合うと、義憤に駆られて怒ったり、大爆笑したりするのとは違った思索が生まれてくる(こともある)。

 

人の噂も七十五日という言葉があるが、この件の「賞味期限」はどれほどで、それを左右するのはいかなる要素か。

謝罪ではいかなる対応が世間へのアピールで有効か、またダメコン可能な人と消えゆく人を分けるものは何か。

 

報じているメディアとて当然表裏があり、それを自覚していないはずがないのに、なぜ倫理を振りかざして他者の矛盾を叩けるのか。

そもそもわれわれはなぜ、言ってしまえば赤の他人のゴシップにこれほど関心を抱くのかーー。

 

不倫スキャンダルとは要するに下半身の話であり、人々に消費される多種多様な情報の中でもとりわけジャンクな部類。

そんなものについて深く考えようが、面白おかしく楽しもうが、関心を持ってしまっている時点で大した差はないかもしれない。

 

だが、どうせ否が応でも消費するのなら、絶好の人間観察のテーマとして、じっくり咀嚼しつつ、思索にふけってみてはどうだろう。

 

感情むき出しで情報を受け止め、やがてすっかり忘れるよりも、冷静に観察と分析。

その方が自分の頭で考える習慣が身につくし、しょうもないゴシップネタの中からでも何かしらの気づきがあるはずだ。

 

もっとも、そんなことをする時間があったら、仕事なり学業なりを頑張った方が絶対いいのは間違いないが……。

 

 

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【プロフィール】

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。

Twitter :@kanom1949

Photo by Miss Zhang

面白いコンテンツに触れる時の私の心情と、最近出会ったとある小説の話をします。

 

共感してくれる人がいるかどうか分からないのですが、ゲームを遊んでいてそろそろ終盤、エンディングも近いかなというところで、「これ以上先に進めたくない……」と思ったことってありませんか?

 

先が見たくて見たくて、けれどそのゲームを終わらせたくなくって、何日も、何週間も続きが遊べなくなったことってないでしょうか?

 

私は、今までに何度もそういう心理状態になったことがあります。

ゲームだけではなく、漫画でも、小説でも、そういう気持ちを経験したことがあります。

終わりが見たいけど、そのコンテンツを味わう時間を終わらせたくない。自分の中で「楽しさの区切り」をつけたくない。

 

その物語の終わり方が自分の期待と違うことが怖くて、ストーリーを読み終えた後自分の中でだんだん面白さが風化していってしまうのが怖くて、だからそのストーリーをそれ以上進められなくなってしまう。

いってみればエンディング恐怖症です。

 

例えば、昔のスーファミのゲームですが、「ヘラクレスの栄光3」が私にとってそんなゲームでした。

余りにも完成されたストーリーと演出に衝撃を受けて、そろそろエンディングというところで「先が見たいんだけどこれ以上進めたくない」症状を発症してしまいました。

 

まだ暑い頃にゲームを買って、そろそろ涼しくなってきたかなという頃に電源を入れられなくなって、ようやくクリアしたのはそろそろ年が変わるかなという頃でした。

それでも、エンディングを見た後二日くらいはぐったり虚脱していました。超面白いですよね、ヘラクレスの栄光3。

 

「ガイア幻想記」も「ゴーストトリック」も、「十三機兵防衛圏」もそうでした。

「ああ、そろそろこのゲームを遊びきってしまう」と思うと、「どうしてもその先を見たくない」という気持ちと、「どうしてもその先が見たい」という気持ちが妙なバランスで釣り合ってしまって、そもそもそのコンテンツに触れられなくなるのです。

 

もったいない側面もあると思います。コンテンツを楽しむのにも勢いというものはありまして、「面白い!」という気持ちが新鮮な状態で、要はその世界にどっぷり浸りきったままでコンテンツを最後まで楽しんでしまった方が、100%そのコンテンツが楽しめるのかも知れません。

 

少なくとも、時間が空いてしまうことで頭に余計なノイズが入ってきたり、序盤の展開を忘れてしまったり、ということはないでしょう。

 

だから私は、ヘラクレスの栄光3を、本来はそのままの勢いで終わらせるべきだったのかも知れない。

 

ただ私自身は、「先が見たい、けれど見たくない」という状態の、このもやもや、ふわふわとした感覚が嫌いではありません。

これは、「終わらせるのが怖くなるくらい、そのコンテンツを好きになれた」ということの、一つの証明でもあります。「もやもや出来た」ということ自体が、私にとって案外重要なのです。

 

ところで最近、私はとある小説でこの「エンディング恐怖症」にかかって、現在進行形でもやもやしています。

 

長男が学校の図書館で借りてきて、「これ面白いから読んでみて!」とおススメされて、読んでみたら本当に面白くて。6巻全冊をまとめ買いして、既に手元に全巻揃っているというのに、5巻まで読んだところで手が止まってしまい、1巻から5巻までを何度もループしています。

 

本来はシリーズ全てを読み終えてから語るべきだとは思うのですが、たまには、この「先が読みたいんだけど読みたくない」という心理状態のまま、自分の心象を交えて本を紹介するのもいいのではないかと思ったので、今日はこの状態のままで書きます。

 

「いなくなれ、群青」を一冊目とする、いわゆる「階段島」シリーズの話です。一冊目の発売が2014年で、2019年に最終巻が出ています。

https://twitter.com/shinzaki/status/1650150680940920832

基本的にはネタバレなしで書きますが、最低限設定の話をしてしまうことはご了承ください。

 

***

 

まず、作品自体の紹介をします。映画化もされた人気作品ですので、ご存知の方も多いとは思うのですがご勘弁ください。

 

「階段島」シリーズは、「捨てられた人たち」が集まる島である「階段島」を舞台にした物語です。

この物語の主人公は、何事も悲観的に考える傾向のある、高校一年生の七草(ななくさ)。彼は、外界と隔絶された島である「階段島」に、数か月前から暮らしています。

 

この島に住む人たちは、自分たちが何故この島にたどり着いたのかを記憶していません。

ただ、島に来た時、「この島は、捨てられた人がたどり着く島である」ということ、「なくしたものを見つけないと島を出ることは出来ない」ということを伝えられます。

 

島の人口は2000人くらいですが、誰も「この島はなんなのか」ということを知りません。

ただ、山の上に向かって長い階段が伸びていて、その上には魔女が住んでいるという噂があって、しかし不自由ない生活を営める程度のインフラは整っていて、そんな島の中で案外七草は平穏に暮らしていました。

 

そんな七草の前に、一人の少女が現れます。少女の名前は真辺由宇(まなべゆう)。

彼女は、七草にとっては二年ぶりに再会する友人であって、七草と同じように島にたどり着いた経緯の記憶を失っていて、そして七草が「彼女にだけはこの島で会いたくない」と考えているただ一人の相手でした。

 

ここから、この「階段島」の物語は、七草と真辺の二人を中心にして語られることになります。

私が「階段島」シリーズを面白いと思った理由は、箇条書きで整理することが出来ます。こんな感じです。

 

・絶妙にお話のスケールをコントロールしつつ配置された謎と、その謎が一つ一つ解けていく時のカタルシス

・「これでもか」と言わんばかりの展開回収と、助詞の一つにも意味があるんじゃないかと思える程の言葉の使い方の丁寧さ

・真辺と七草を中心とした、一言では言い表せない関係性とそこを中核にしたキャラクターの魅力

・掘さんが可愛い(安達もわりと可愛い)(もちろん真辺も可愛い)

・階段島のまったりとした日常描写の楽しさ

 

以上です。順番に説明します。

 

まず一つ目、謎の配置と、それが解けていくカタルシスについて。

「階段島」シリーズの一つの特徴として、「お話のスケールコントロールがとても巧み」という点があげられると思っています。

 

階段島は「青春ミステリ」というジャンルを銘打たれておりまして、ミステリという名の通り様々な謎が出てくるんですが、まずはそれらの謎の「配置」の仕方がすごーく巧みなんですよ。

 

読者は、まず最初に、幾つかの大きな「謎」を提示されます。

階段島とは一体なんなのか。住人たちは何故、どうやって階段島に渡ってきたのか。何故その過程を覚えていないのか。七草や真辺は誰によって「捨てられた」のか、「なくしたもの」とは何なのか。

 

ただ、そういった大きな謎とは別に、場面場面でお話をけん引するのはもっと小さな「謎」だったりします。

たとえば、島の階段に落書きをしたのは誰なのか、とか。通販の荷物が届かなくなったのは何故か、とか。ミステリーというにはちょっと小粒な事件の数々。

 

大きな謎と小さな謎の同時並行多発発生。いわば中ボスの前に雑魚敵が配置されているようなもので、読者がものすごーーくスムーズにお話に入っていくことが出来るんですよね。

 

キャラクターたちの心の動き、会話や人間関係でも色々な「謎」が出てきます。

この人は、何故こういう態度をとっているんだろう?何故この言葉を発したんだろう?

 

主人公である七草が、とにかく一筋縄ではいかない思考法の持ち主で、読者にも思考の全てが開示されるわけではないので、一つ一つの台詞に滅茶苦茶考えさせられるんですよ。「こいつ、なんでこの場面でこんなこと言ってるんだ?」というのが、視点人物なのにいちいち気になる。

 

ミステリの醍醐味は、なんといっても「読者に考えさせる」ことだと思います。

気持ち良く考えさせてくれるミステリは、とても楽しい。その点、階段島の構造はミステリとして極めて良質です。

 

謎を提示されて、その謎が解けていく過程はもちろん気持ちいいものなのですが、この作品では色々な謎が絡み合って、お話の世界の中のルール上できちんと収束するように出来ています。

絡み合った謎が解けていく様子が、ジグソーパズル解答の高速再生を見ているようでとても爽快感があります。

 

それと表裏一体になっているのが、二つ目の展開回収の話。

この階段島シリーズって、何が凄いってとにかく「話の回収が丁寧」なんですよ。

 

階段島の文章中には、分かりやすい「謎」だけではなく、細かい疑問点、「ん?」と思ってしまうような引っかかりが、実際読んでみるとあちこちに散らばっています。

さらっと読んでいると読み飛ばしてしまいそうな、けれどよく読むとなんかおかしいぞという、ちょっとした違和感みたいな謎です。サイゼの間違い探しみたいなやつです。

 

そんな細かい疑問点も、実は色んなところでもっと大きな謎と繋がっていて、だいぶ後になって展開が回収されて「このことだったの!?」「それをここでやるの!?」とびっくりすることが再三あるんですよ。

これも、飽くまで作中世界のルールに基づいていたり、その人ならではの行動原理に基づいていたりで、ちゃんと根拠があって作中のストーリーに説得力を持たせている。

 

本当、注意深く読む程謎が出てくる、宝探しみたいな小説なんです。

うっかりすると助詞の一つにも何か意味があるんじゃないかと思えてきて、何度も何度も読み返したくなる。

丁寧に読めば読む程面白い、同時に自分も言葉を丁寧に使いたくなる、とても言葉を大事にした作品だと感じています。

 

そして、キャラクターの魅力と、その描写の魅力。

主人公である七草とヒロインである真辺は、本当に様々な意味で対照的なキャラクターです。

 

七草は基本的に悲観主義、どんなことでもさっさと自分の中で折り合いをつけてしまうタイプで、人当たりは良いし気遣いも出来るけれど、どこか他人との距離を保つようなところがあります。嘘もつくし相手を騙すこともあります。

 

一方の真辺はどこまでも真っすぐ、極端な程の理想主義者で、世界の全ての問題は話し合いで解決すると堅く信じています。自分が信じたことには一直線に突き進み、なに一つ諦めようとしません。

根は素直で他人思いだけど、言葉を飾ることは一切ありません。結果的に周囲から浮きがちな真辺が起こす様々な騒動に、けれど七草はどこまでも付き合い続けます。

 

こんな対照的な二人が、けれど色んな面でお互いを必要としていて、別に自分の気持ちを隠しているわけではないのにその会話は一直線ではなくって。この二人を中心に織りなされる人間模様が、このシリーズの一番の肝であることは間違いないでしょう。

ヒロインなのにある意味ではヒーローのような真辺と、主人公なのにある意味ではヒールのような七草、この二人の関係性描写はそれだけで一読の価値があると思います。

 

真辺のキャラクターは実に極端で、彼女の挙動は一種痛快でもあるし、一方「これは周囲から浮いてしまうのは仕方ないなあ」と思える側面ももちろんあります。

しかしそんな極端さにも理由があって、けれど底抜けに優しくって、七草と思い合っている部分もちゃんとある。真辺由宇というキャラクターが、この作品の重要なエッセンスの一つであることは間違いありません。

 

この二人だけではなく、周辺キャラクターもとてもとても魅力的なキャラばかりなんですよね。

その淵源は、やっぱりキャラクターそれぞれの「行動原理」がしっかりとしていて、それによって言葉や行動に納得感が出ていることだと思っています。

 

七草の友人ポジションである佐々岡、委員長ポジションの水谷、何故か仮面をつけた担任の先生であるトクメ先生、郵便局の時任さん。

皆、ありきたりではなくそれぞれの「ルール」みたいなものを保持していて、そのルールに基づいてお話を織りあげている。決して表面上だけの役割ではなく、物語上みんな「その人にしか出来ない」役割を持っている。

 

そんな中、七草のクラスメートである掘さんの可愛さはひとつ特筆すべき点であると考えます。

普段は殆ど喋らない無口な少女なのですが、週末ごとに七草に長い手紙を出す掘さん。彼女も幾つかの行動原理をもっている一人で、その一番の特徴は「言葉をとても大事にしている」という点。

 

彼女の在り方は、ある意味この作品自体を象徴しているようで、七草、真辺に次ぐ三人目の主人公・ヒロインと言ってしまって良いと思います。

掘さんの挙動、無口っこなのにいちいち小動物みたいで、案外感情も豊かで分かりやすいのが非常にかわいい。普段感情を見せないキャラの感情が溢れてしまうシーン好き過ぎる。

 

中盤で出てくる安達さんは、ヒール寄りというかライバルポジションみたいなキャラなのですが、彼女は彼女できちんとした行動原理があり、そこには共感できる理由もあって、非常に素敵なキャラクターに仕上がっています。

口では色々言いながら、なんだかんだで真辺や掘たちに付き合っているところもとても良い。

 

また、階段島で過ごす人々の、どこか寂しく、けれどまったりとした平穏な日常の描写も、この作品の魅力の一つです。

前述の佐々岡や委員長、寮のハルさんらがわちゃわちゃと生活している描写は、生活感と平穏さが絶妙にミックスされて、「自分もこの島で暮らしてみたい」と考えさせられるような部分があります。

 

海辺を散歩する七草と真辺の描写、商店や買い物、アルバイトのような日常生活、学校や寮での生活。そこには七草たち以外のたくさんの人たちが生活していて、それぞれ楽しんだり悲しんだりしている。

この辺も実に読んでいて楽しくて、モブキャラにもそれぞれちゃんと味わいがあるんですよ。クリスマスパーティの展開好き過ぎる。

 

あまり関係ないんですが、階段島にはゲームセンターもあって、二巻のとある場面で佐々岡がゲームでの対戦をする場面があります。

そのゲームがどう見ても某ひらがな四文字の落ち物パズルで、しかもその解像度がやたら高く、対戦の駆け引きどころか潰しや凝視(※ガチ対戦で出てくるゲーム用語)の話まで出てきていて、こんな細かい対戦描写よく書くなーと感心してしまいました。

 

他にも作中ちょこちょこゲームの話は出てきていて、その編の細かい描写が階段島の日常描写の豊かさに寄与している部分もあると思います。

作者の河野裕さんはグループSNE所属でゲーム制作もされているので、ゲームにお詳しいのは当然とは思いますが、同じゲーム好きとして読んでいて楽しい限りなわけです。佐々岡がポリアンナ聴いてるところ好き。

 

***

 

随分長い文章になってしまいました。

 

最初の方で書いた通り、「階段島」シリーズを私におススメしてくれたのは私の長男です。

彼は、表紙をぱっと見した印象と最初の数ページで「この本面白そう」と判断したらしく、コンテンツを見る目が鋭いなーと感心しきりである一方、それを父親である私にお勧めしてくれるというのも、私としては非常に嬉しいポイントです。

 

以前も書いたことがありますが、「子どもが自分に楽しいコンテンツを共有してくれる」というのは、子どもたちが小さなころから私が思い描いていた夢の形の一つでもあります。

今後も、子どもたちから「この本面白いよ!」とおススメしてもらえるような親であり続けたいなあ、と、そんな風に考えています。

 

「コンテンツを共有する楽しさ」について改めて考えたこと、そして「ぐりとぐら」で第四の壁を越えた話

 

私はシンプルな頭をしているのでシンプルなハッピーエンドが好きな一方、階段島シリーズがどんな終わり方を迎えるのかについてはなかなか、それ程シンプルな終わり方はないだろうなーという予想もあり、冒頭書いたエンディング恐怖症をなかなか克服できずにいるのですが、これが掲載される頃には最終巻のページをめくっているかも知れません。

心してコンテンツを味わいたいなーと考える次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Tomohiro Nishimurai

先日、髪を切りに行ったときのこと。

「どんな感じにしますか?」と聞かれ、「写真撮影をするために切るので、それを前提にお願いします」と回答した。

 

美容師さんは、そうした手合いにも慣れているのか、

「襟足は長めにしますね」とか「前髪は眉にかかるくらいでいいですかね」

とか、いろいろと確認を入れてくるが、正直なところ、私は素人なので仕上がりのイメージは切ってみないとわからない。

 

だから、最終的には美容師さんを信頼して「お任せします」と言った。

それ以外に言いようもない。

 

プロの判断を信じ、任せた結果は受け入れる。

それが、「プロに任せる」ことの本質だと思う。

 

 

これは、タクシーなども同じだ。

利用するとよくドライバーさんから「どういった行き方にしますか?」と聞かれるが、本質的な答えは

「一番安く、かつ早く行ける行き方で」

しかない。

 

私は運転のプロではないし、ベテランのタクシードライバーにくらべて、道を詳しく知っているとは思えない。

新人や、わざと遠回りする悪質なドライバーもいるのだろうが、ほとんどのドライバーは「ベストを尽くす」だろうし、その判断を信じるのが結局のところ、良い結果を生むだろう。

 

服選びも同じ。

私は服を選ぶことについては、できうる限りサッサとすませたいし、周りから見て「おかしな服装」と思われなければそれでいいと思っている。

だから、お店に入ると「用途と好み、予算を伝えて、あとは100%、店員さんのお勧めに従う」ことにしている。

 

 

しかし、どうやら世の中はそういうケースばかりでもないらしい。

美容師さんの話を無視して、さんざん注文を付けた挙句、「美容師が悪い」とクレームをつける人がいると聞く。

 

タクシードライバーさんが「どうやって行きますか?」と聞くのは、最短距離のルートを通っても、道にケチをつける人が後を絶たないからだという。

 

服装に至っては、「お似合いですよ」としか言わない、いい加減な店員さんもいるのだろうが、そもそも「人の話を全く聞かない客」には、それしか言えることがない。

 

なお、実際に、私が遭遇したことのある人は、「コンサルタントを雇っているのに、話を聞かない経営者」だ。

別にお金さえもらえればそれでもいいのだが、どちらかというと彼らは「意見が欲しい」のではなく、「自分の話を聞いてほしい」だけなのだろう。

そういうケースにおいては、

「社長のやりたいようにやればいいと思います」

としか言えない。

 

つまり、世の中には「プロに任せる」のが下手な人が、数多くいて、そういう人には大きく2種類いる。

 

一つ目は、プロと称する偽専門家に騙された経験のある人。

痛い目に合った経験を二度としたくないから、もう専門家を信じない、という方針の人だ。

 

ただしこれは一定の合理性があり、実際、専門家の判断が、大して素人と変わらないことが統計的に明らかになっている分野は存在している。

ダニエル・カーネマンによれば、「予測的判断」、例えば政治や金融、マーケティング、経営コンサルティング、採用などの分野では、「ノイズ」と「バイアス」によって、専門家の意見も大きくばらつくことが主張されている。

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だから、特定の分野については、そこまで専門家を信頼すべきではない。

 

しかし、二つ目の方は、重症だ。

世の中には、「そもそも人の話を聞かない人」が大勢いる。

 

相手が専門家かどうかにかかわらず、自分の了見でのみ、行動する人だ。

医師の診断に対して、「webで聞きかじった知識」を披露し、治療を困難にする人もいると聞く。

 

 

どちらのケースも最終的には「自己責任」であり、人がとやかく言う事ではないと思う。

私も面と向かってそういう人に「その考え方は直せ」という事は絶対にない。

 

が、「専門家を頭から拒否するのは、損するなあ」と思う事はある。

 

多少騙されたとしても、トータルで見れば、専門家の意見に従うことは、自分が思っている以上に、効果という点で思わぬメリットを享受できる。

 

「普段やらない髪型」に仕上がって、ちょっと「大丈夫かなあ」と思っていたら、家族に予想以上に褒められたとか、服装も「いつもと違っていていいね」と同僚に言われたりとか。

タクシードライバーに任せたら、ものすごい裏道を使って、ショートカットしてくれたりとか。

 

案外、新しい世界との出会いは、そうしたプロが示してくれたりするのだ。

 

 

実は、4月19日に出した本『頭のいい人が話す前に考えていること』は、私が普段書いている文体とはかなり違う文体で書かれている。

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これは実は、ダイヤモンド社の「編集者」である、淡路さんに相当手を入れていただいているからだ。

 

私は多少なりとも、自分で文章を書いてきた自負があったが、淡路さんに手を入れていただいた結果、大変驚いた。

『圧倒的に、書籍としての完成度があがった』のだ。

 

決して私単独では書けない、webではなく「書籍ならでは」の文章に仕上がっていると、私自身が強く感じた。

 

プロを評価し、合理性があれば信じて、任せてみる。

本当に、大事なことだと思う。

特に、これからの世の中は、専門分化がもっと進んでいくだろうから。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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image:DreamStudio

かつて自分はカフェイン中毒であった。

起きがけにまずはコーヒーを一杯。勤務先に着くやいなや一杯。昼に一杯。そしておやつの時間帯にも一杯。

恐らく一日あたり1Lはコーヒーを消費していたんじゃないかと思う。

 

なんでこんなにコーヒーをグビグビ飲んでいたのかというと、慢性的な眠気の解消の為であった。

コーヒーを飲んだからといって特にシャキッとするわけではないのだが、それでも熱い飲み物を飲むと刺激で少しは目が醒める。

 

カフェインが効いたという感覚には乏しかったのだが、眠気を晴らす効果が少しはあるだろうと思い、それはもう機会さえあれば昼夜を問わずに飲みまくっていた。

 

アルコールはカフェインで打ち消せる

「そんなに飲んで夜に寝れるの?」と思われる方もいらっしゃるかと思うが、当時の僕は寝酒していたという事もあって眠りにつくのには全く困らなかった。

 

お酒の力もあって寝付きはむしろいいぐらいだった。

ただ、やはり寝酒の影響か日中はどうも体調は良くはなく、その体調不良を打ち消す為にも積極的にコーヒーを摂取するというサイクルを繰り返していた。

 

カフェインは眠気にはそこまで効かなかったが、アルコールに伴う体調不良には効果抜群だった。

カフェイン酔いという言葉もあるが、カフェインはカフェインで大量に摂取すると過集中をもたらす。だから酒でボヤッとした頭脳を働かせるのにはコーヒーは最高のアイテムであった。

 

アルコールとカフェインはお互いの悪い部分を打ち消す魔性の効果がある。

「めちゃくちゃ酒飲んでも、コーヒーでガンギマリになればバリバリに働けるじゃん」と悪い気付きを得た自分は、それを多用して身体を酷使していた。

 

ふと酒を辞めてみたら…

そんな中、いろいろあって僕は一時的に酒が一滴も飲めないようになった。

こうして酒をほぼ飲まなくなってからもコーヒーは普段どおりにグビグビやっていたのだが、すると自分でもびっくりする位の入眠障害に直面した。

 

最初はあまりにも寝られなさすぎて「ストレスが凄すぎて不眠症にでもなったのかな」と思ったのだが、改めて自分の一日を見直すと、どう考えてもコーヒーを消費しすぎである。

それでモノは試しと昼以降に一切コーヒーを飲まなくしたところ…見事に入眠障害は消失した。

 

実は自分にもカフェインがちゃんと効いていたという事を、このとき初めて理解した。

 

これでもっと飲めるじゃん

アルコールとカフェインの大量消費。

どう考えてもこれがめちゃくちゃ身にも心にも悪そうだという事は誰もが同意すると思うのだが、いま思うに当事者であった頃の僕はコレが身体を酷使するある種の合法的な薬物乱用であったという認識が一切なかった。

 

むしろ人生を最大限に楽しむための合理的な戦略だと思っていたぐらいである。

アルコールの摂取に伴う体調不良をカフェインで打ち消せる事を発見したときの僕の認識は

「これでもっと飲めるじゃん」

であり、シャカリキになって働きつつ人生を謳歌する為の手段の一つぐらいにしか思っていなかった。

 

二兎どころか二十兎を追えたが…

当時はワインの味がまだ理解できていなかった。だから酒の経験値を積む事も人生における一つの目標となっており、仕事と同じかそれ以上にお酒の経験を追い求めていたというのはあった。

二兎追う者は一兎も得ずということわざがあるが、当時の僕はそれこそ二兎どころか二十兎ぐらいを並行して置い続けていたように思う。

 

二十兎を追う為には普通の人生戦略では不可能なのは言うまでもなく、結果的にメチャクチャな手段を用いるというのは仕方がないという部分はあった。

そういう意味ではアルコールとカフェインの乱用は僕に二十兎を追わせてくれたという大変にありがたい効果をもたらしてくれたとは思う。

 

図式して示せば誰でもわかる事も、当事者にはわからない

しかしこれはどう考えても劇薬である。というか日常で常用していいタイプのものではない。

こんな事はシラフになった今なら至極当然の事としか思えないのだが、不思議な事に当事者をやっていた時にはヤバいだなんて一切思ってはいなかった。

 

むしろカフェインは無限のエネルギーをもたらしてくれる代償が一切ない魔法の飲み物としか思っていなかったぐらいである。

これが物凄くバカバカしい話だというのは文字に書き起こして示せば誰でもわかる事だとは思うのだが、世の中にはこの手の馬鹿げた行いを真顔で行っている人というのは沢山いる。

 

貴方の周りにも自分で災害の種を撒き散らしているくせに、それが花開いたら真顔で被害者ヅラしているような人間が一人や二人ぐらいいるんじゃないだろうか?

当事者が見ている風景と、外野がみている風景というのは本当に、全く、異なる。

 

恋は盲目、岡目八目のように、これらを表現するフレーズは数多あるが、それぐらいに人間は自分の事を客観視するのが苦手である。逆に言えばどのようなレベルであれ、自分自身を客観視できる人間というのは凄いとすら言えるだろう。

 

他人に辛辣な意見を求めるのは駄目

じゃあ問題はどうやったら自分で自分の行いを反省したり、客観視できるようになるかだが、これが本当に物凄く難しい。

他人に指摘してもらえばいいじゃんと思う人も多いだろうが、人間というのはとにかく褒められるのがメチャクチャに大好きなくせに、他人からの批判やミスの指摘には難色を示す生き物である。

 

自分は平気な顔して「この作品はクソ」だとか「ここの店の料理は全然美味しくない」と言い放つくせに、他人から「ブサイク!」だとか「センスが悪い」と言われると真剣にクヨクヨするのである。

 

実はここにも当事者と客観的立場にいる人間にあった非対称性と同じような図式が働いている。

人間は他人には滅法辛辣になれる一方で、自分には激甘にしてもらいたいという誠に珍妙な性癖を有する生き物なのだ。

 

僕が知る限り、他人にミスや違和感を指摘されて平気な顔ができる一般人というのは存在しない。

日本人は議論ができないとよく言われるが、そもそも議論なんてものは一般人が取得できる技法ではない。

 

だから他人に辛辣な意見を求めるのは非常に筋が悪い。上司や部下のような縛りがあったらギリギリ成立可能ではあるが、上司・部下関係をプライベートな友人や家族関係にもちこんで良いことなんて絶対にない。

 

自分が知る限り、プライベートで辛辣な言い合いをしている人間は100%仲違いしている。

いくら自分を客観視する事が大切だとはいえ…家族や友人知人と関係を壊してまで客観的になりたいだなんて人はいないだろう。

 

だからやっぱり自分でなんとかするしかない。というか自分でなんとかするのが無難である。

 

日記のススメ

じゃあどうやって自分自身を客観視するかだが、個人的にオススメなのが日記である。

何もまとまった文章を書く必要はなく、その日の体調や良かった事、イライラした事など、複数の項目を用意して点数式でもいいから何かを書き続けるようにしてみよう。

 

こうして敷居を低くして短文でもいいから日記を書くようにすると、自分自身の事を内省できるフックを構築する事ができるようになる。

フックさえ用意できれば、自分自身を客観視するキッカケができる。後はできるかぎり私情を交えず、淡々と自分自身を分析するだけだ。

 

忘れた頃に読み返す日記は面白い

実は冒頭に書いた僕の不眠も、この日記でもって気が付いたものだった。

僕は毎日瞑想とジョギングの感想を短文で書いているのだが、そこで何がどういう風に作用しているのかをよく分析している。

 

これは書いている最中にも気づきが多いのだが、むしろ書き終わって暇な時に振り返った時の方が気づきは大きい。

 

過去の自分はこんな事で悩んでいたのかとか、あるいはこの時に重要だと思った事をしばらくしたらサッパリ忘れてしまっていたりだとか、自分の事を振り返るのは学びが多い。

 

特に体調の良し悪しに関する気付きはとても多い。僕はこの短文日記で、自分自身が季節の変わり目になると100%鬱っぽくなる傾向を見出せた。

お陰で今のような寒暖差が頻繁に繰り返される季節になると、普段以上に自分のメンタルをケアできるようになった。

 

自分を研究してみよう

ここまでの事を一言でいえば、内観が大切であるという話である。

よく勉強や仕事でも予習よりも復習が肝心だと言われるが、僕が知る限り自分自身について丁寧に復習している人というのは全くといっていいほど見たことがない。

 

昨今ではマインドフルネスの流行もあって瞑想が一部で流行っているけれど、瞑想の最も良い点は毎日キチンと内観する時間が強制的に設けられるという点にある。

 

漫画やゲームのような、外部の刺激から身を遠ざけて、自分自身の身体にだけ意識を通し続ける作業には学びが多い。

やってみればわかるのだが、そうする事で普段いかに自分が外の世界の刺激に対して反応させられ続けているのかが、よく理解できる。

 

そういう意味で言えばである。冒頭で書いたカフェインとアルコールも、外的世界の刺激が連鎖した一つの循環ルートなのである。

完成された刺激による循環ルートは主観的には全てが必要なモノとなり、それが習慣となって日々の生活を構成する。

 

そうして構成された刺激と刺激の循環ルートを「これ駄目じゃね?」と反省できるか否か…その本当にちょっとした事が、20年30年という長い目で見たときの自分自身を救ってくれるのだ。

 

これを期に、あなたもキチンと内省してみてはいかがだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by :Deeth Hua

「計算できない労働者」

おれには双極性障害という障害がある。「躁うつ病」といったほうがいまだに通りがいいかもしれないし、イメージしやすいと思う。

双極性障害にはI型とII型があり、I型が波の大きさが凄まじく、II型はそうでもない。おれはII型で「そうでもないのならいいのでは?」と思うが、II型はII型で自殺率も高くけっこうやっかいなものだ。

症状は……もちろん人によって違う。処方される薬も効き方も人によって違う。あくまでおれひとりの例を書く。

 

おれの場合は「躁うつ」というより、限りなく「繰り返される抑うつ」といったほうがいい。

軽躁状態であっても、人並みに活動できるというのがせいぜいで、イライラ感に苦しんだり、暴力的になったりもしないかわりに、躁状態ならではの高揚もない。せいぜい歯ぎしりが出るくらいのものだ。

 

一方で、抑うつ状態はなかなかに重い。これは以前、できるかぎりの詳細をこちらに書いた。

おれが抑うつ状態になったときのことを書き留めておきたい。 

 

「鉛様麻痺」という言葉が、自分の症状には一番しっくりくる。

ベッドの上で動けなくなる。上半身を起こすこともできない。朝から、これになる。このところは午後になっても動くようにならないことが増えてきた。ちなみに、この症状について、主治医は「珍しい出方」と言っていたのを申し添えておく。

 

で、これに前兆があるかといえば、これといってない。

月曜日、普通に、あるいはご機嫌ですらあった翌朝、急に動けなくなる。普通に過ごした前の夜に「明日の朝はやばそうだ」と感じることなど、まったくない。長年やってきたが、微塵もない。

 

もちろん、一度抑うつモードに入ると、さすがに「明日もか」と思う。何日か、長ければ一週間は続くのだ。

逆に、今日よくて明日だめで明後日は大丈夫でその次の日はだめ、みたいな一日単位での入れ替わりはないけれど。

 

では、なにかこれに原因はあるのか。明日は嫌な仕事があるとか、嫌な人と連絡しなくてはならないとか。そういうのも、ないのだ。もしもあったらあったで、よくわからないが適応障害とか、なにか別名がつくかもしれない。

むろん、長期的に見たら現状の幸福も将来の希望もなにもないといったストレスフルな状況ではあるが、毎日毎日ということになると、べつに(低賃金を除いて)職場に問題もないし、人間関係も良好だ。

 

いずれにせよ、ランダムに、いきなり抑うつはやってくる。そして、おれの場合は「動けない」という形で現れる。

「動けない」とはどういうことか。「働けない」ということだ。短くて半日、長くてその日の夕方まで、いきなり労働力のおれは「0」になる。

 

あれ、おれって「計算できない労働者」じゃないのか。ふと、そう思った。

 

問題はあるけれど計算できる労働者

世の中にはいろいろな労働者がいる。

もちろん、いろいろな病気や障害を持った人もいるだろう。あるいは、現代的な労働環境に適応がむずかしい、ある種の発達障害を持った人もいるだろう。

 

そういう人にはその人の地獄があって、おれには語れない。

しかし、周りから見れば、例えばその人が平均の7割くらいの労働力しかないとしても、動いて労働する分には「0.7」という労働力が計算できるではないか。

 

たとえば、身体障害がある労働者がいて、どうしてもできないことがあって、人より生産性が劣るとしても、働いている分にはそれだけのプラスが計算できることになる。

雇う側は労働力を足し算して、必要な生産をする。しようとするわけだ。

 

前提としては、「計算できる労働者」がいることだ。たぶん。

その想定で人を何人雇って、何時間働かせて、どれだけ利益を上げるか、という話だ。たぶん。

たぶん、というのは、おれが経営学など学んだことが一切ないからだ。まともな仕組みの企業で働いたこともない。

 

「計算ができない労働者」は困る存在なわけだが

で、おれである。おれはいきなり「0」になる。

計算ができない。おれは計算も苦手だが、おれ自身も計算できない存在というわけだ。これは困ると思う。というか、困らせていると思う。

 

そんなおれがなぜ労働者としてかろうじて存在できているかといえば、おれの能力がすばらしく高いので、そんなマイナス要素を吹き飛ばしてしまうからだ……と、言ってみたい。

 

実際は違う。いくつかの偶然が重なったにすぎない。

 

たまたまおれのような人間を雇わざるをえない情況にある零細企業がある。

たまたまおれの仕事が夕方から出社してボーッとした頭でもなんとかできるような内容である。

たまたま仕事が、基本的にマウスとかキーボードを動かして、画面とやりとりできればいいだけで、取引先との商談とか、会議とか、あるいは営業とか、そういったものとはほとんど無縁だ。

 

むろん、急に出てこなくなってくることを十年以上承知という環境もある。迷惑はかけている。

 

まあ、そんな偶然が重なっているだけで、おれが労働者のふりができるのはたまたまだ。

高卒で資格もないおれが、別の場所でこのような環境を見つけ出したり、作り上げたりするのは非常に困難なため、転職というものはできない。会社自体が終わりそうなので非常にやばいが、この現状を維持するしかない。

 

いずれにせよ、おれは零細ゾンビ企業の維持には少し貢献しているかもしれないが、これをどうにかしてまともな企業するような力もない。いや、もしもそういう性能があったとしても、急に「0」になってしまうおれには、実行ができない。

急に「0」になるというのはいないのと同じことであって、存在しないのであって、抑うつ状態で固まっているおれは、労働者として無存在しているのである。

 

無をきわめることができればたいしたなにものかの修行者かもしれないが、そういう意味でもない。ただただ、うめきもせず、ごろごろしたりもできず、固まっている。

無為な時間だけが流れていく。とうぜん、おれの主観だけでなく、客観的に労働力として無なのである。

 

「計算できない労働者」も働きやすい世の中がいいよね

しかし、あらためて考えてみよう。突然働けなくなる人。おれのような障害者や慢性的な病気の人に限らない。

たとえば、子育て中の労働者はどうだろう。とにかくなにかいろいろトラブルがあったりして、急に職場を離れる必要とかが多いかもしれない。家族を介護している労働者というのもいるだろう。急にいなくならざるをえない。おれの想像力が足りないだけで、ほかにももっとあるかもしれない。

 

どうしたものか。と、どうしようもなくなって育児のために仕事をあきらめたりする話には事欠かないし、介護離職という言葉もよく目にする。いずれも社会問題になっている。そうだ、社会の問題なのだ。

 

というわけで、「計算できない労働者」も働きやすい世の中がいいよね、ということには社会のコンセンサスがとれるかもしれない。

かもしれない、というか、どうにかしなきゃな、という合意はあるのだろう。ただ、方法が難しいだけで。でも、そうだ、計算できない労働者も、現代労働に適応が大変な労働者も、みんな働きやすいほうがいい。

 

働きやすくしていこう

その解決策はあるのか。

究極的に一発で解決する方法はないだろう。ただ、あるていど計算ができるけど働けない、という場合には時短勤務などが有効かもしれない。休暇制度の充実とかもできればいいだろう。むろん、社会や企業にそれだけの余力がなければできない。

 

おれのようなまったく計算ができなタイプにはどうだろうか。

ぜんぜん普通のときに時短も休みも必要ない。そこで休んだからといって、動けないときに動けるようになるわけでもない。もっとフレキシブルな勤務体系がいいかもしれない。というか、おれも今現在、ある意味でフレキシブルに働いているといえなくもない。

 

なにせ朝突然、「今日は無理です、すみません」のLINE一本で連絡が途絶え(電話が鳴れば出るけど)、昼過ぎにいきなり出社とかしている。

しかしながら、もしも自分の仕事がベルトコンベアで流れてくるものを加工したり、時刻通りに電車を運転したり、店頭で接客するものであったりしたら無理だ。夕方にまとめてやります、というわけにはいかない。

 

そうはならない仕事でなくてはならないし、自分の仕事とて一週間や一ヶ月の長いスパンでなにか成果を出せればいいというわけにはいかない。だから抑うつの日にも出社しているわけで。

 

出社。これも問題か。おれの場合は通勤にほとんど時間がかからない。会社が近い。

あと、自宅に労働できるだけの環境を整えられない。職場のデスクがひどくなりすぎると、見るに見かねた上司がおれ不在のときに勝手に片付けてくれる。まあともかく、通勤、これがおおきな障害になっている人もいるだろう。

 

もちろん対策はリモートワークだ。フルリモートともなれば、なにかこう、いろいろ助かる人もいることだろう。むろん、世の中にはリモートワークでどうにかなる仕事と、そうはいかない仕事がある。

いまのところ、そうはいかない仕事のほうが世の中には多いだろう。たとえばエアコンの撤去と設置をリモートワークでできるかという話だ。

 

……ちょっと話は逸れるが、「エアコンの撤去と設置」はおれのなかで一つの目安になっていて、これを完全に自動で機械ができるようになれば、「シンギュラリティが起こった」と言えるのではないかと思っている。

 

というのも、自分の安アパートのエアコンを買い替えたときやってきた業者のお兄さんの手際やその場での判断などを見ていて、これは難しいと思ったのだ。

いや、難しい仕事なんて世の中にはたくさんあるけれど、さまざまな立地のさまざまな部屋までエアコンを運んできて、さまざまな現状を把握し、古いエアコンを片付け、新しいエアコンと室外機を設置して帰っていく。

これ全部、機械ができたら、さすがにシンギュラリティだろうと。

 

たぶん、いまのAIとロボット工学では難しいよね? おれのちらかった部屋のシステムベッドの上で作業して(さすがに業者さんくるときは片付けますが)、古いエアコンの室外機がなぜかコンクリートで固定されているのを見て、撤去をあきらめて別の角にパイプつなげて新しいの置いて……って。それでもって、車が入れないところにあるから、近くのコインパーキングに古いの持っていって、自動運転で帰っていく。まあ、いくらでも金をかけていいというのならば、技術的には実現可能なのかもしれないが……。

 

閑話休題。って、なんだっけ。そうだ、ええと、働きやすい職場づくりで、障害や問題のある人も楽に働けるようになれば、社会全体の生産性も上がるかもしれないし、ハッピーだということだ。

 

ハッピーなのか?

 

そもそもなんで働かなきゃいけねえんだ

そうだ、なんだ、なにが働けてハッピーだ。そこがおかしい。

なに、労働は人間の尊厳を保つために重要な要素だ? 知らねえ。おれは働きたくないんだ。それを忘れてた。おれの座右の銘は「無為無作」だった。

 

障害があるからか? 違う。もう、子供の頃から学校に行かなきゃいけないことも苦痛だったし、結果ちゃんと引きこもりのニートになったくらいだ。

生きるために食う。食うために仕方なく働く。死ぬ勇気はない。それだけの話だった。

 

なにが働きやすい職場だ。働かなくていいならそれに越したことはねえんだ。いや、そうだ、障害もあるんだ。双極性障害の人間の脳の灰白質が小さくなってんだ。

もう働いている場合じゃねえ。おれを休ませろ。固まってる日は固まるが、固まっていない日も固まらせろ。いや、固まらないと思うが、寝かせておいてくれ。頼むから静かにしてくれ。

 

あー、しかし、人間が働かなくてもいいって、それこそシンギュラリティの到来を待つか? それともあれか、ベーシックインカムか? ただで金くれたら解決か?

悪くねえ。でも、「ただで」というほどかんたんに金が湧き出てきて、みんなに配れるくらいなら、世の中の問題の多くはとっくに片付いているはずだ。ここでベーシックインカムのメリットとデメリットについて論じるつもりはねえが、なんかどうも今の人類には早すぎるような気もしている。

 

でも、おれは労働の外に出たい。働くのが嫌だ。なにもしたくねえ。

けど、なにもしなくて生きていけるほどの金がねえ。つーか、普通に老後の金もねえ。まあ、独身男性の平均寿命や「自殺を除いた」双極性障害者の平均寿命を考えたら、老後なんてこない確率のほうが高いんじゃないかと思うけどな。

 

ああ、おれだけにただで金が入ってこないものか。もう、年々、抑うつの強さと長さがきつくなってきてんだ。基礎的な体力的なものが、それに抗えなくなってんだ。

 

え、障害年金? 生活保護? もっとひどい情況になったら、現実的にはそういうことになるのか。

しかし、そうまでして生きていていいのか、おれは。生まれてくる必要があったのか。ねえな。ねえけど、いざとなったらおれはなにをするかわからねえ。

役所に行くぞ。申請するぞ。ふざけんな、そんなに長くは生きないから、食えるもんなら福祉も食ってやる。こうなりたくて生まれたわけでも、そもそも生まれたかったわけでもねえんだ、ばかやろう。

 

というわけで、働きたくても働けない人がよりよく働けるのもいいけど、そもそも働きたくないやつが働かなくてもよくなりますように。以上!

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :iSawRed

つい先日、「すぐに心が折れてしまう若手に対して、上司としてすべきこと」はありますか?と聞かれました。

 

実は、2015年から「労働安全衛生法」を根拠として、労働者が 50 人以 上いる事業所では、毎年1回、ストレスチェックを全 ての労働者に対して実施することが義務付けられているのです。

そのため、上司は部下のメンタルヘルスに対して、注意を向けざるを得ないという状況が、たしかにあります。

 

ですが、そもそも、心が折れてしまう、というのは、一体どのような存在なのでしょうか。

 

「心が折れる職場」の見波利幸によれば、心が折れてしまった状態とは、「無気力状態」のことを指します。

「頑張ったって、ムダだ」「どうせ社員のことなど見ていない」という意識が広がると、当初は会社に対して怒りを覚えていた社員が、次第に無気力になっていきます。

恐ろしいもので、無気力は怒りよりも組織の活力を失わせていきます。怒るというのは、なにかしら対象に対して期待を抱いていて、それが裏切られたという感情ですが、無気力は、もはや期待などまったくしていないという状態だからです。

この無気力状態というのが、つまり「心が折れた」ということです。

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会社にも仕事にも期待しない、やる気もない、これが「心が折れた状態」です。

 

では、上司はどうすべきでしょうか。

 

上で紹介した見波は、部下のサポートにあたって、

・情報面(テクニカルなアドバイス)

・情緒面(精神的な支え)

・道具的サポート(直接の手助け)

・評価面(公正な評価とフィードバック)

の4つをすべて、どれにも偏ることなく、バランス良く提供しなければならないと述べています。

 

そんなパーフェクトな上司は、まずいない

しかし、です。

わたしが知る限り、うえの4つをバランス良く、しかも、個々人の「折れやすい」「折れにくい」といった特性を加味しながら、適切に部下に当たれる上司とは、恐ろしく稀少なリソースです

 

むしろ「仕事はめっぽうできるけど、人として「できた人」には程遠い」というケースのほうが多いのではないでしょうか。

 

一体なぜでしょう。

それは、管理職が「仕事のプロ」ではありますが、カウンセラーやセラピストのような「人の心理のプロ」ではないからです。

そして、そういう専門的な訓練を受けているわけでもない。

せいぜい管理職になってから何回か受ける「管理職研修」「メンタルヘルス研修」の中で、話題になる程度でしょう。

 

また、現在の日本では(そして多分世界のどこでも)「仕事はできないけど人はいい」という人は管理職になれません。

管理職の最優先事項は部門の成果をあげることにあり、メンタルへの配慮はその手段にすぎないからです。

 

ですから、バリバリと仕事をしながら、部下の人心も掌握する。

そんなスーパーな上司なんて、そうそういる訳ないのです。

 

いや、そもそも、部下のメンタルの不調を「仕事」だけの責任としてしまう事自体に、疑問符がつくことも数多くあります。

実際のところ、人のメンタルはプライベートに大きく影響されます。

 

・身近な人が亡くなった

・子供が病気

ならまだしも、

・彼女にフラれた

・好きなアイドルが結婚した

・ゲームにハマって殆ど寝てない

そういった状況まで、上司がケアしなければならないのでしょうか?

そんなわけありません。

 

しかも、最近メンタル不調の原因として大きいのは、「スキル不足」です。

 

見波が報告しているように、技術職など、高いスキルが要求される仕事ののメンタル不調は、長時間労働よりもむしろスキル不足に依拠しているのです。

私が出合ったケースでは、SEの不調の原因が多い背景として、「その人の技術の水準が、求められる技術レベルまで達していないから」というケースが多かったのです。

納期までのスケジュールが過酷で「120時間残業が3カ月続く」という状況でも、業務に必要な水準まで技術レベルが達している人であれば、不調になるケースは実はそれほど多くはありませんでした。

新人ならまだしも、業務に従事して何年もたった中堅社員のスキル不足によるメンタルの不調を、上司の責任として扱うべきなのでしょうか。

 

「君にはうちの(部門の)仕事は無理だよ」と告げることについて、配慮のあまり膨大な時間を上司が使わざるを得ないのであれば、どう考えてもそれは歪んでいます。

 

メンタルの問題はプロに任せるべき

そう考えていくと、上司は最低限、

「法律を守る」

「部下に礼儀正しく接する」

「教えるべきことは教える」

など、最低限のことをしているかぎりにおいて、部下のメンタルの状態について、責任を負わされるべきではないと、わたしは思います。

いわゆる「知りながら害をなすな」というやつです。

 

メンタル不調の克服は、カウンセラーやセラピスト、医者、そして本人の領域であって、上司の領域ではありません。

 

もちろん、メンタルの不調の原因が上司にあれば、カウンセラーなどは上司にその旨を伝え、改善を促すように求めなければならないでしょう。

上司の横暴を放置してはなりません。

 

しかし、

「すぐに心が折れてしまう若手に対して、上司としてすべきことは?」

と聞かれたときには、極端な話「法律は守ります、礼儀正しく接します、必要なことは教えましょう。しかし、他の話はカウンセラーか医者のところに行ってください」で十分だと思います。

 

 

 

 

4月19日に”頭のいい人が話す前に考えていること” という本を出しました。

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ここには、「働く上で知っておくと得すること」を盛り込みました。

 

マネジメントやコミュニケーションの摩擦が、「本来注力すべき仕事」の邪魔をするという事はよくあります。

こうした「人間関係の摩擦」を最小限にする、という事を一つの目的として書いた本です。

ぜひ、お手に取ってみてください。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo:Dylan Gillis

日課のYouTubeサーフィンをしていたところ、おもしろそうな動画が目に入った。

『【パリコレ前日密着】パリでのモデルオーディションで最悪の事態にブチギレ』という動画だ。

チャンネル主である勝友美さんは「日本初の女性テーラー」であり、1着20万円以上の高級スーツを1年間で500着以上売り、立ち上げたオーダースーツブランドでミラノコレクションに出展した、敏腕経営者らしい。すごい。

動画内では、パリコレ前日に様々なトラブルに直面し、それでもめげずに奮闘する勝さんが描かれている。

 

この動画だが、おもしろいことにコメント欄の意見が真っ二つに分かれているのだ。

 

一方は、「トラブル続きでも最善を尽くす勝さんはすごい」という、賞賛のコメント。

もう一方は、「海外じゃこんなトラブルよく起こる、準備不足」という批判的、もしくはアドバイスのコメント。

 

さて、なぜ意見が二分しているのか。

 

それは、「海外における約束がいかにアテにならないか」を知っているかどうかのちがいだと思う。

もっと率直にいうと、「海外で日本のやり方を押し通そうとするとどうなるか」を理解しているかどうかだ。

 

予定通りにいかず「マジふざけてる」と怒り心頭

動画の流れを説明すると、

 

・エージェントがパリコレの日程を間違えて伝え、現地で2日かけてやる予定だった準備を1日でやることに

・コレクション前日、怒涛のスケジュールで現場はパニック状態

・エージェントが「メンズのシューズがなくなったので、当日はモデルに私物を持ってきてもらうようにした」と伝える

・勝さんは「靴を依頼していたのになんで他のブランドに取られるのか」「依頼してたんだから持ってこられるはず」と言うも、どうにもならず

・その後、採用していた現地モデルのほとんどが前日の準備に来られないことが判明

 

そこで勝さんとエージェントは、こんなやり取りをしている。

 

「この6番(のモデル)は来るんですか?」

「それは当日の話ですか? 今日ですか?」

「それで当日にもし会われへんかったら ホンマどうしてくれるんですか」

「当日は来る予定なんですね」

「100%来ます?」

「えーっと……」

「今日来るって言われてたのに、こちらに来んかったらヤバいじゃないですか」

 

勝さんは「服のサイズを直したいし、今日来ない人は明日の本番も来ない可能性があるから、キャスティングしたモデルは今日全員来てほしい」のに対し、エージェントは「当日は来る予定だけど今日は来ない」と答えるので、話は平行線。

 

そこで勝さんはエージェントに

「今どんだけ(モデルが)来てないか分かります?」

「今日中に出来るだけ全員来てって言ってください」

と言ったうえで、「マジふざけてるよな」とこぼす。

 

……さて、これだけ見ると、「モデルを手配できないなんて無能なエージェントだ」と思うだろう。

実際、そういうコメントも多かった(そのため、次の回からはエージェントにモザイクがかかっている)。

 

が、必ずしもエージェントが悪いとは言い切れない。

なぜなら、海外の約束なんて、まったくアテにならないからだ。

 

約束は「現時点でOK」という意味でしかない

苦境に立ち向かう勝さんをほめたたえるコメントがある一方で、動画には

 

・海外ではこんなトラブル日常茶飯事

・モデルはさまざまなオーディションを受けているので、ハイブランドを優先するのは当たり前。エージェントに言ってもどうしようもない

・英語を話せる人がいたら交渉が有利にできたのでは、エージェント任せなのが問題

 

といったコメントもあった。

実はわたしも同じ印象で、「すべて予定どおりコトが進むのを前提とし、正しい要求なら押し通せる」という考えは、とても日本的だなーと思った。

 

わたしはフランスのとなりのドイツに住んでいるが、ドイツにおける約束とは、「現時点ではそれでいいよ」くらいのものでしかない。

状況が変われば、「ああ、それは無理になったんだ」と、さらっとないことにされる。

 

たとえばビザの申請で、事前に問い合わせて必要書類をすべて用意したのに、「この書類が足りないから受理できない」と言われたことがある。

「事前に『これでいい』って言ったじゃないですか!」と食い下がっても、「でもこの書類も必要だからビザは渡せない」と肩をすくめられるだけ。

 

せめて一言謝るべきじゃないの?と思うのだが、向こうは「なんで謝らなきゃいけないの? 書類が足りないんだからしょうがないでしょ」と本気で思っているから謝らない。

そういう世界である。

 

モデルをキャスティングしても、それは「現時点ではOK」の意味で、直前で「やっぱりムリ」なんてことはありうるわけで。

そこでエージェントを責めても、「来ないんだからしょうがない」にしかならないし、モデルにつめよっても「事情が変わったんで」と言われるだけだろう。

 

エージェントが平謝りして電話をかけまくり、青ざめたモデルが大慌てでやってきて……なんてニッポン的展開にはならないのだ。

 

納得がいかなくても、切り替えて交渉しなければ損するだけ

では約束を反故にされたときどうするか?

そこで行われるのが、「交渉」だ。

 

怒っても責めてもどうしようもないので、「じゃあどうする?」という話に切り替える。

ビザの例でいえば、「言われた書類を全部ちゃんと持ってきたんだからビザをよこせ!」と言っても、答えは「ノー」で変わらない。

 

だから割り切って、「とりあえず今日持ってきた書類を確認してください。必要な手続きもいまお願いします。足りない書類は今週中にメールで送るので、来週追加書類の原本を持ってきたときにビザを受け取れるように、事前に準備しておいてもらえませんか」と提案する。

 

そうすれば、「オッケー、じゃあ手続きしよう。追加書類待ってるよ」と話が丸く収まるのだ。

 

こちらはもう一度足を運ぶ必要はあるが、ほぼ確実にビザが取得できる。

向こうも、「一応1か月の臨時ビザを出しておくね。ビザの用意ができたら連絡するよ」なんて融通を利かせてくれる。

 

海外で暮らし、こういうやりとりに慣れてくると、「予定通りにいかないのは日常茶飯事だから、だれかを責めてもしょうがない」という考えになるのだ。

 

相手の落ち度を責めても交渉は有利にはならない

「約束はあてにならないから必要に応じて交渉する」ことを前提に、勝さんのパリコレ動画の次の回である、『【パリコレ当日裏側に密着】本番3時間前に絶望的問題が発生しブチギレを超え絶句...』を見てみよう。

本番3時間前でモデルのドタキャンが相次ぎ、ただでさえ人数が足りていないのに、さらにモデルが足りなくなる。

 

男性スタッフはエージェントに、「なんで昨日ブッキングしてんのにそんななってんの。おかしいやん」と詰め寄り、勝さんは「こうなってるのは私達の責任じゃない」と、ショーの時間を遅らせるよう要求する。

当然、エージェントにキレてもモデルが来るわけではないし、ショーを遅らせることなんてできない。

 

本番まで時間がなくなり、現地スタッフと思われる人が、「ブランドMの出演者なら着替えてあなたのショーに出ることが可能」だと提案。

しかし、「ただし、ノーと言わないで(紹介したモデルを採用してください)。なぜならそれを続けてたら一向に前に進みません」と続ける。

 

それに対し勝さんは

「私達はすでに(モデルを)選んでるじゃないですか。選んでて『ノー』って言ってるのはそっちじゃないですか」

「(キャスティングしていたモデルは)なんでできないの? 今(会場に)いるんじゃないですか? 誰かに捕まえて来てもらってくださいよ」

と食い下がる。

 

日本であれば、「約束したモデルを連れてこい」という主張はまっとうで、強く言えば高確率でその要求を受け入れてもらえるだろう。

 

でも海外では、相手を糾弾してこちらの要求を飲ませようとする日本のやり方は、高確率でうまくいかない。

なぜなら相手は基本的に「しょうがないことだった、自分は悪くない」と思っているから、「悪いと思うならこうしなさい」と言われても受け入れないからだ。

 

「なんでこっちが折れなきゃならないんだ。開き直りやがって、ちょっとは悪びれたらどうなんだ」という不満は、海外で生活したりビジネスしたりすれば、1回……いや、10回や20回は持つだろう。もしかしたら100回を超えるかもしれない。

 

でも海外で「納得」を求めること自体が、そもそも無意味なのだ。

説明されたところで、どうせ理解はできないから(むしろ「はぁ?」と余計腹が立つ)。

 

確実にしたいならカネを積んで契約すべし

ちなみに動画のコメントでは、「海外って約束破られることばっかりなんですか……? どうやってビジネスが成立してるの……?」なんてものも見かけた。

 

まぁたしかに、そう思うよなぁ。

毎回約束を反故にされたらたまったものじゃないし、毎回交渉も面倒くさい。

 

でもそれを回避する方法がある。

それが、「契約」だ。

 

約束は「現時点でOK」くらいの意味だが、契約には責任が生じるので、不履行なら相応の対価を支払わなくてはいけない。

契約したからといってうまくいくとはかぎらないが、少なくとも相手に「契約を果たせ」と迫ることはできる。

 

だから本気で守らせたければ、「約束」ではなく「契約」する。

しかし日本では、義理を重んじるからか、「約束」と「契約」を混同しがちだ(いい意味で他人を信用しているといえる)。

 

「あなた採用、明日も来てね」と言えば約束が成立=その人は明日来るだろうし、来るべきだ、と考える。だから、「なぜ来ないんだ」という話になる。

 

でもこっちでは、「来ない? 契約してカネ払った? 書類は? ないならムリだね、しょうがない。事情が変わったんだろう」で終わり。そして、「じゃあどうする?」という交渉モードに入る。

 

それが、日本とのちがいだ。

(わかりやすく「契約」と書いたが、メールや手紙で合意を文章として記録しておくだけでも、交渉の結果は大きく変わる)

 

海外では「約束」は信じず「契約」を重視するほうが確実

そして交渉にも契約にも、ある程度の語学力が必要である。

 

通訳を雇えば解決はするが、交渉のあいだに人をはさむと時間がかかるし、通訳がどう伝えているか、相手がどんな気持ちなのかを自分で確認できない。

 

そのうえ、現地の言語なしではまわりの状況を把握できないので、交渉が不利になりがちだ。

だからこそコメント欄で、「英語ができるスタッフがいれば……」と言われたのだろう。

 

リーダーが必ずしもビジネス英語をマスターしている必要はないが、せめて最終確認やまわりの雰囲気を感じ取れるくらいはできておいたほうがいい。

 

なんやかんやいって、相手の話を聞き、自分の気持ちを伝えるなら、直接やり取りするのが一番早いから(信頼できるお抱えの通訳がいれば話は別だが)。

 

というわけで、海外……と主語を大きくしていいのかはわからないが、日本の外でビジネスをするなら、

 

・口約束は「現時点でOK」くらいの意味でしかない

・約束を反故にされたら、割り切って交渉すべし

・相手を責めてこっちに協力させよう、というのは下策

・自力で状況確認できるよう、現地語(英語)ができる自社スタッフを連れていけ

・確実性を上げたいなら、契約書にサインさせろ

 

の5つが大事なんじゃないかな、というのが、わたしがドイツで学んだことである。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Masjid MABA

初めに断っておくが、今から私がお話しすることはフィクションである。何なら妄想だと思っていただいて構わない。

 

私の身に起こったことは事実なのだが、その事実の中に散りばめられたヒントから私が組み立てた推測には、何一つ証拠がないからだ。

なので、私が「嫌がらせの犯人なのでは?」と考えた相手の名前も、この記事中には出さない。

 

名前は出さないが、ここで話を進めるためには呼び名が必要なので、私はその人のことを「女性インフルエンサーのH」と呼ぶことにする。

 

ことの発端は、かつて炎上の女王として名を馳せたHの「なりすまし行為」について、私がブログで言及したことだった。

それ以降、私のブログには何者かによる嫌がらせ行為が続いた。

 

しかも、匿名の誰かによる攻撃のターゲットになったのは、私だけではなかったのだ。

私と同じように、Hの「なりすまし行為」について記事を書いた他のブロガーさんのところへも、全く同様の嫌がらせがあったという。

 

具体的には、Hのなりすまし行為について書いた記事に対し、Googleから「中傷を含んだコンテンツである」との警告が、1週間ほど続けて届いた。

 

私はGoogleアドセンスを利用しており、ブログには広告が表示されている。

広告の表示回数やクリック数によって、私に成果報酬が入る仕組みだ。

 

もしGoogleからの警告を無視して、記事の削除や修正に応じなかった場合には、問題となった記事へは広告の配信が停止される。はっきり言って、大したペナルティではない。

 

もしもその記事が大きなPV数を稼いでいて、影響が大きければそこそこの痛手となるのかもしれないが、私がGoogleから得ている広告収入は元々少ないし、Hについて書いた記事もそれほど読まれているわけではないため、広告が停止されたとしてもほとんど影響はない。

 

だからといって警告を放置するのも落ち着かないので、私は最初に警告を受けた記事を一時的に非公開にし、そのことを報告する記事を新たに書いた。

すると、新しく出した記事に対してもすかさず警告メールが届いたのだ。しかも、同じ記事に対して複数の警告を繰り返し受けることになった。

 

その後も、記事中の表現を修正して再投稿しても、それについて更に説明する記事を出しても、間をおかずして新たな警告メールが届いたため、私は誰かがブログを監視しており、Hについて言及するたびにすかさず通報しているのではないかと疑った。

 

私がブログやTwitterで「このような嫌がらせにあっている」と報告したところ、「それはH本人では無く、Hのアンチのアンチによる仕業ではないか」との声も上がったが、もしもそうであるなら「Hのアンチのアンチとは、Hにとってはアンチよりも迷惑な存在だな」と思えた。だって、そうではないだろうか。

 

「Hのアンチのアンチ」とやらがアンチに対して仕掛ける攻撃の犯人として、真っ先に疑われるのは「Hのアンチのアンチ」ではなく、Hその人なのだから。

 

Googleがどのような基準で警告メールを出しているのか、そのルールはよく分からなかった。

なぜなら、警告を不服とし、記事の内容を修正しないまま再審査を請求しても警告は取り消されたし、警告を受けて違反レポートの確認をしにいくと、「現在、問題はありません」と表示されることもあったのだから。

 

もしかすると、Google側は何者かによって通報を受けたら、通報の内容を精査しないまま、とりあえず警告のメールをサイト運営者に出しているのかもしれない。

 

それにしても不思議だった。私は日頃から誰にも忖度せずに好き勝手なことをブログに書き散らかしているが、記事の内容にGoogleから警告を受けることは、これまで滅多になかったからだ。

 

これほどの頻度で、同じ記事に対して繰り返し警告を受けたのは初めてのことだった。

しかも、警告を受けるのはHの「なりすまし問題」について触れてある記事だけなのだ。よほど、誰かにとってはネット上に残るとまずい記事なのだろうか。

 

Hの「なりすまし問題」についてご存知ない方のために、簡単に説明をしておこう。

女性インフルエンサーのHは、過去に自身のアンチと思われる人物・N氏になりすまして、N氏の顔写真、氏名、メールアドレス、SNSなどの個人情報をネット上に晒した。しかも、そのことをN氏がTwitterで告発すると、「私はそんなことをしていない」と主張して、N氏を名誉毀損で訴えたのだ。

 

Hは自分がやった証拠はないと高をくくっていたのだろうが、そうではなかった。N氏はHがなりすまし行為をしていた確かな証拠を握っていたのだ。

そのため、もしもこのまま裁判が進んでしまうと、Hは実際になりすまし行為をしていたと裁判所に認定されてしまう。

 

墓穴を掘ったことに気づいたHは、慌てて訴えを取り下げようとしたのだが、時すでに遅しである。N氏側の代理人は、訴えの取り下げを承諾しなかったのだ。

そこで、追いつめられた彼女は請求を放棄した。

 

自ら訴えたにも関わらず請求を放棄をするということは、相手に対して全面的な敗北を認めたということである。

その屈辱を受け入れてでも、一刻も早く裁判を終わらせたかったのだろう。

 

しかし、ことはこれで終わらなかった。腹の虫がおさまらないN氏側が、今度は逆にHを訴えたのだ。その裁判は結審していないため、まだ結論は出ていない。

どのような結果が出てくるのか非常に楽しみであり、実に興味深い案件だ。

 

そう感じたのは私だけではなかったらしく、久しぶりにTwitterはHの話題で盛り上がった。

「盛り上がった」と言っても、あくまで局所的な盛り上がりに過ぎない。Hが「炎上の女王」と呼ばれたのも今は昔の話であり、現在は完全に湿り切った存在になっているからだ。

 

これほどの失態をおかしても炎上せず、ほとんど話題にもならないのは、Hにとっては幸運だったと言えるのだろうか。

彼女が何か言ったりしたりする度に、パチパチと音を立てて勢いよく燃えていた頃のことを思えば、隔世の感がある。

 

Hはプロブロガーのパイオニアと言える存在であり、キラキラ女子の代表としても、一時期は圧倒的な存在感を放っていた。傲慢で無礼な発信スタイルは多くの敵を作ったが、それでも時流に乗っている間は、炎上などものともしない勝気さと勢いがあった。

 

世間では誰に何を言われていようと、きっと業界内ではウケが良かったのだろう。若い女の子だったHは何冊もの本を出版し、エッセイだけでなく小説も上梓して、ブロガーやインフルエンサーではなく作家を名乗り、テレビの人気情報番組にもコメンテーターとして出演していた。

そんな時代の寵児だった彼女が、一体いつから変わってしまったのだろう。

 

彼女が落ち目になった理由は一つではないし、人気が急落する大きなきっかけになった出来事もいくつか思い浮かぶけれど、最も大きな理由は、単純に彼女がもう若い女の子ではないからだろう。

若さゆえに許されていた不遜さや未熟さは、若くなくなれば許されないし、若かったゆえに新鮮な魅力だと感じてもらえたことも、時を経てしまえば飽きられる。

 

そもそも彼女は、なぜそんなにも人気があるのかよく分からない人だった。他人の神経を逆撫でして目立つことは上手だったけれど、その他のことは何をしても中途半端で、中身がない。

 

「ずっと小説家を目指していた」という割には、子育ての忙しさを言い訳に執筆活動からは遠ざかり、最近は「ショート動画クリエイター」を名乗っているらしい。

といっても、創造性に溢れたショートムービーを制作しているわけでもなく、短い動画にアフィリエイト広告を貼って、怪しげな商品の宣伝ばかりしているようだ。

 

いったい、何をしているのだろう。いったい、何がしたいのだろう。

 

それは、本人が一番感じていることなのかもしれない。

もしも私への嫌がらせの犯人が、「Hのアンチのアンチ」ではなく、H本人であったとするならば、現在の彼女は相当に病んでいる。

 

嫌がらせのようなGoogleからの警告メールは、1週間ほど続いた後にぴったりと止んだ。

いくら通報を繰り返しても、記事を削除させられないので諦めてくれたのだろうか。

最後はGoogleを通した警告の代わりに、ブログに直接メッセージが届いた。その中身は、私の容姿や人柄に対する実にストレートな中傷だ。

 

そのメッセージを確認した時、私は怖くなった。メッセージの内容に震えたのではない。それが送られてきた時間に寒さを覚えたのだ。深夜の2時47分だった。

 

皆さんも想像してみてほしい。

私をどうしても傷つけたい、少なくとも嫌な気持ちにさせたい「誰かさん」は、深夜の2時台に、わざわざその人にとって不愉快なことしか書いていない私のブログを読み込んで、私について調べ、捨てアカウントを取得し、私への中傷メッセージを打っていたのだ。

 

その時の彼女(メッセージの文体は女性のものだった)は、果たしてどんな表情(かお)をしていたのだろうか。

とてもじゃないが、心身ともに健やかな人物だとは思えない。

 

「恐らくこれは相手からの捨て台詞だな。これにて終了の合図なんだろう」と思った通り、それを機にGoogleからの警告メールは来なくなり、「やってやろうじゃん!」とすっかり臨戦体制に入っていた私は、肩透かしを食ってしまった。

 

私はメッセージを見つめながら、「もしもこれが、H本人から送られたものだとしたら...」と、想像してみた。

ただの妄想に過ぎないが、もしもそうだとしたら、彼女は今こそアンチの気持ちがしみじみと分かったのではないだろうか。

 

Hはこれまで、匿名の人間による誹謗中傷を非難し、自らを誹謗中傷の被害者であると盛んに訴え、掲示板の書き込みやツイートの投稿者、ブログ主を片っ端から提訴してきた。

しかし、そういう自分もアンチと同じことをしたのだ。

 

自分の気に入らない誰かを傷つけるために「匿名の誰か」となって、その相手に誹謗中傷を送りつける。その暗い怒りと喜びを私にぶつけたことで、果たして溜飲は下がったのだろうか。自己嫌悪に苛まれはしないのだろうか。

 

ある著名な映画監督が、Hの出した小説の解説文で予言していた。

 

「Hさんがその才能の真価を見せつける、太宰における『人間失格』のような傑作が、いずれ必ず我々の前に登場する。そんなHさんを見てみたいという願望も半分あるが、敢えて“予言”としてここに記しておこう。彼女はいずれ二つとない傑作を世に送り出す。才能以上に、それだけの体験をしてきた人である。SNS世代の中でも稀有なる作家なのである。楽しみだ」

 

今こそ、その映画監督からのありがたくも大きな期待に応える時なのではないのだろうか。

アンチを批判して被害者を装いながら、実はアンチと全く同じ穴の狢である「矛盾だらけで嫌らしい自分という存在」は、素晴らしい小説の題材となり得るのだから。まさに、太宰における「人間失格」のような傑作を生み出せるはずだ。

 

アンチを黙らせるのに有効なのは、裁判では無く才能である。己の才能を世に問うて、確かな実力を見せつけるのだ。そうすれば、一部のアンチによる批判の声など、数多の賞賛にかき消されてしまうのだから。

それこそが、彼女が自称する「クリエイター」としての生き方なのではないだろうか。

 

彼女が世に二つとない傑作を世に送り出すその日を、私も楽しみに待っている。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@CrimsonSepia

Photo by :Nick Fewings

ある方から、「悩める新米の管理職にアドバイスを」と言われたので、記事を書くことにしました。

 

はじめて管理職になって一番の悩みは

まず、「管理職になって一番の悩み」となり得るのは何でしょうか。

 

いろいろとあります。

ただ、実のところ最も頭を悩ませるのは、上司との関係でもなく、目標のキツさでもなく、会議の多さでもありません。

「向上心がなく、能力が低く、素直でない」部下です。

「教育の費用対効果が合わない人」と言い換えてもいいでしょう。

 

管理職の仕事の中には、部下を教育し1人前に育てる、というミッションが含まれていることが多いですが、やってみると「この人の成長にかけるコストと、この人が生み出すリターンが見合わない」ケースが少なからずあります。

そしてだいたい、そういう人は社内で「問題児」扱いされているのです。

 

たとえば知人にシステム開発業のマネジャーがいますが、

「(メンバーの)あの人、そもそも技術者向いてないよ」

という話は、いままで何百回聞いたかわからないくらいです。

 

「考えるのが嫌いだといってる」

「同じミスを何回もして、しかも直そうととしない」

「勉強しない」

「そもそも開発に興味がない」

「口ばかり達者で、行動しない」

 

など、まあ、「それはたしかに困るよなあ」という話が掃いて捨てるほど出てくるのです。

 

もちろん、本質的なところで言えば、会社の採用ミスなのでしょう。

しかし、マネジャーにそんなことを言う権利はありません。

会社員である以上、「手持ちのカードで勝負する」ことを求められます。

 

もちろん、こうした事態は営業でも起こります。

よく聞くのは、

「問題児に対処する時間がもったいない。この人の育成の優先度は落とそう

と考える営業マネジャーの話です。

営業は時間の使いかたこそ命ですから、こういう意思決定が出やすいのです。

 

実際、私の経験の中でも、「この人は、知識労働には向いてないよなあ」という人、いました。

 

例えば、「どうすればいいですか?」と毎回聞いてくる人。

まわりにはいくらでも資料があるので、どうすればいいかを、まず自分で案を出してから、それを確かめるために人に聞けばよいのです。

 

あるいは何か頼むと、「無理です」「できません」「客のせいです」を連発する人。

お客さんのせいにせず、仕事しろ、といいたくなります。

 

こういう人に対しても、建前上は「育成の義務」が管理職にあります。

 

でも、管理職だって、とても忙しい。

部門の数字を持っていれば、その人ばかりにかまけているわけに行きません。

優先度は当然、問題児の育成 <<<<< チームの目標達成 なのです。

 

当たり前ですが、管理職は事業を推進させるために存在しているのであって、部下の親や先生ではありません。

まして、教育の専門家でもありませんし、カウンセラーでもありません。

 

そうした重荷を管理職に背負わせる日本企業では「管理職」への期待が大きすぎます。

 

ですから、そもそも無茶を言われているのですから、部下が成長しなかったとしても、そこは優先度を落としてよい場所だと認識しましょう。

成長するかしないかは、なにより、部下本人の責任においてやるべきことですし、そもそも「成長なんてしたくない」という人の方が多いのですから、余計なお世話です。

 

問題児を頑張らせると、ろくなことにならない。

ただ、往々にして、責任感の強い人は、こう言うかもしれません。

「いやいや、問題児にも頑張ってもらって、成果を出してもらいたい」と。

 

美談ですが、たいていの場合、やめたほうがいいです。

 

なぜかというと、頑張らせた結果として、メンタルをやられる部下が出てくるからです。

実際、「問題児」はその仕事に向いていないケースが多いので、育成の難易度が非常に高い。

負荷をかけると、簡単につぶれてしまいます。

そして、それは「上司のせい」になります。

 

管理職が善意に基づいて、熱心に指導しているだけなのに「パワハラ」と言われることもある。

 

だから、本当は「私にこの人の育成は無理ですし、時間を使いたくないです」と潔く言ったほうがいいのです。

それが、お互いのためです。

 

もちろん、ごくまれにですが、相手の能力に応じて、成長のペースを考えられる管理職もいます。

そういう人は、育成の名人ですが、往々にして、成長に時間がかかりすぎて、他のメンバーに成果をカバーさせないといけないことがあります。

「問題児」が周りに好かれていれば、そうしても問題はないのですが、「礼儀がなってない」「口のきき方が悪い」など、周囲と摩擦を起こしやすい人物の場合は、他のメンバーから文句が確実に来ます。

なんであの人だけ楽させるんですか、と。

 

結局、日本企業における問題児の取り扱いの最適解は

「当てにしない、成長に期待しない、その人に時間を使わない」に落ち着くことになるのです。

 

特に、新米管理職には、難易度が高すぎますから、あとは人事に任せて「関知しない」で十分です。

採用失敗の責任は、人事と経営者にきちんと取らせましょう。

 

「適材適所」は、一社の中でなく社会全体で実現する

また、それを気に病む必要は全くありません。

 

人間の能力は非常に多彩です。

「今の職場」で仕事ができなかったとしても、何か別の仕事に適性があるケースは多い。

技術者志望だけど「営業をやったほうがいい」というケースや、「デスクワークより肉体労働のほうが向いているのでは」というケースもあります。

 

だから、一企業の中だけで考えなくてもいいのです。

中小企業で用意できる仕事は限られています。それを告げて、社外でその人が向いている職業を早く見つけてくれるのを祈りましょう。

 

部下と、そして管理職の両者がメンタルをやられる前に、さっさと

「うちの会社では君にやらせることができる仕事がない」

といえるほうが、望みのない成長に希望をつなぐよりも、幾分かマシです。

 

 

4月19日に”頭のいい人が話す前に考えていること” という本を出しました。

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ここには、「働く上で知っておくと得すること」を盛り込みました。

 

マネジメントやコミュニケーションの摩擦が、「本来注力すべき仕事」の邪魔をするという事はよくあります。

こうした「人間関係の摩擦」を最小限にする、という事を一つの目的として書いた本です。

ぜひ、お手に取ってみてください。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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仲俣暁生さんのツイートを見て、若者に、カネはなくても時間があった時代のことをふと思い出した。

私の大学時代も概ねそうだったと言え、今日は疲れていると感じたら一日じゅう寝ている日があった。どうしても攻略したいゲームがあるわけでもないのに朝から晩までゲーセンにいて、所在なく、「ひまつぶしのために」ぼんやりパズルゲームを遊んでいた日もあった。

 

無限に時間があったわけではないが、なんにでも使える時間、余剰になってしまった時間がかなりあったと記憶している。

それから四半世紀ほどの時間が経った。

 

今はどうだ? 我が身を振り返る。

五十代が見えてきた現在の私に、疲れているからと一日じゅう寝て構わない日、「ひまつぶしのために」ぼんやりゲームを遊んでいられる日は無い。

 

本業があり、原稿があり、資料があり、家のことがある。

旅行やゲームにしてもキツキツだ。観たいものを観てプレイしたいゲームをプレイしているうちに、時間がなくなっていく。ソーシャルゲームなどは、露骨に可処分時間を要求してくる。

 

さもなくばカネをだ。実際には可処分時間とカネの双方を抜け目なく要求するのがソーシャルゲーム……というよりいまどきのゲーム全般なのだろう。

 

そうして、気が付けば余暇や娯楽の領域ですら、所在なく遊ぶ、ゆったりと遊ぶ、正真正銘に「遊ぶ」ということがわからなくなってしまった。余暇や娯楽も、ほとんど仕事のようにスケジュール化している。

 

中年の御託なんてどうでもいいんだ、若者はどうなんだ、と当然あなたは思うだろうし、私も思う。

 

では、若者のモデルとして自分の子どもを眺めてみよう。

 

……忙しそうである。十代にして動画を倍速で視聴している。

私の頃より学校等のスケジュールもタイトで、にもかかわらずそれを所与のものとして受け取っている。

 

私の頃と比べてゲームも勉強もその他の活動も圧倒的に選択肢がある一方、それらの選択肢がわれもわれもと子どもの可処分時間を奪い合っているかのようだ。

子どもは、そうした状況と自然に付き合うすべを身に付けているようにみえる。

 

年下の人たちの活動を見聞しても、キリキリ、いや、キビキビしているなとみえる

。細かいことまではわからないが、大学のカリキュラムなども変わり、たとえば授業に出ないで出席を誰かにお願いしてサボるみたいな習慣は廃れ、禁じられてもいると聞く。

 

総合するに、若者の時間的余裕は昔より厳しくなっているのだろうなと思う。トライアンドエラーしていられる猶予期間は、たぶん私たちが若かった頃よりもずっと少ない。

 

思春期モラトリアムという言葉が広まったのは20世紀中頃の古き良きアメリカだったが、当時のアメリカと比較しても、20世紀末の日本と比較しても、思春期のモラトリアム期間、時間に余裕のある若者の試行錯誤の余地は少なくなっただろう。

 

ポスト・モラトリアム時代について理解が足りてなかったと思う

「思春期モラトリアムが終わった」といった時、ちょっと前までの私は、格差拡大や流動性の高い社会環境が旧来の思春期モラトリアムを難しくしてしまった、と理解していた。

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20世紀後半の若者の精神性を詳らかにした名著『モラトリアム人間の時代』を受けてつくられた『ポスト・モラトリアム時代の若者たち』を読んでもなお、私はそのように考え、格差社会では猶予期間も、その猶予期間を生かして人生の進路をゆったり選択する余地もなくなっているよね、みたいに考えていたわけだ。

 

その理解が大きく間違っていたとまでは思わない。若者が豊かで、モラトリアム期間をとおして進路やライフスタイルが取捨選択できる状況は確かに衰退した。

 

その衰退の背景に"一億総中流"という幻想の終わりと、それに伴う進路の"身分化"、というより"階層化"があらわになってしまった部分もあるだろう。

ごく単純に、家計全般が20世紀末に比べて厳しくなってしまったというのもある。

 

でも今は、それらだけではないとも思う。

若者時代の時間的余裕や手持ち時間がリソースとして認識されるようになり、開発されるようになり、取引の対象、資源としての利用の対象、換金の対象になってしまった。

 

「若者時代の時間的余裕」なるものが資本主義の外部から資本主義の内部へ移動した、と言い換えてもいいかもしれない。

かつて、飲料水やお弁当がそうなったように。かつて、恋愛や就活がそうなったように。

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『若者殺しの時代』は、ちょうど思春期モラトリアムの盛期から退潮期にあたる20世紀末に、私たちの生活が変わっていったさまを活写した本だ。

 

資本主義に組み込まれたのはクリスマスやバレンタインデーだけではない。かつては無料だった昼食のお茶や飲料水が、コンビニの登場によってお金で買えるようになったと同時に資本主義のターゲットになった。

 

『若者殺しの時代』に進行していったのは、それまで資本主義がターゲットにしていなかったさまざまなものが資本主義に舗装され、商品化し、取引の対象になっていったプロセスだったとも言える。

 

その後の経済発展の少なくない部分も、こうした、「資本主義のターゲットになっていなかったものの資本主義化」で占められていたように思う。

 

そうして就活も婚活も資本主義の差配するところとなっていった。web2.0という幻想もそうかもしれない。

無料のウェブサイト、無料のゲーム攻略wiki、そうしたものも片っ端から有料化され、資本主義に取り込まれていった。

 

で、若者のモラトリアム、ひいては私たちの手持ち時間についてもう一度考えてみよう。

昨今、資本主義にとらえられ資本主義の標的になってきたのは、まさにそうしたモラトリアムや手持ち時間ではなかっただろうか。

 

「可処分時間を奪い合う」という言葉が言われて久しいし、時間が資本主義にとりこまれた歴史はそれよりずっと古い。

フランドル地方で時計が普及してからこのかた、人々は「時は金なり」を受け入れてきた。

そうでなくても、ブルジョワ階級は生産性や効率性を意識する都合上、時間を重要なリソースとして意識していたに違いない。

 

とはいえ、「時は金なり」という意識がブルジョワ階級のものから庶民のものへ、それこそ投資とは最も縁の遠い人たちにまで浸透し、内面化されたのはやはり最近ではないかと思う。

 

タイパという俗語に象徴されるように、費用対効果の換算対象として時間を意識する度合いは20世紀よりも現在のほうが強い。

タイパを意識させられるからこそ、動画を二倍速で観るような習俗が幅をきかせたりもする。

 

かつて、奪うべき可処分時間といったら、第一にお金を持っている人達のそれが標的だったように思う。

お金を持っている人達の可処分時間を奪ってモノやサービスを売る──広告は、そういう筋道で人々の可処分時間を(あるいは可処分アテンションを)奪い合ってきた。

 

でも、ネットがある程度発展してからは、お金を持っていない人達の可処分時間も標的になっているよう思う。

若者の可処分時間など、今では格好の標的だ。そうした、お金の乏しい人の可処分時間に値札がつけられているさまを直感的にわからせてくれるのは、ソーシャルゲームの無課金~微課金プレイだ。

 

ソーシャルゲームは基本無料を謳っているが、時間をかけず・楽しく・気持ち良く遊ぶなら課金したほうが遊びやすい。

しかし無課金~微課金のプレイヤーも時間と労力さえかければかなりのところまで遊べるようになっている。ソーシャルゲームでは、課金で贖うべきものを時間や労力で贖うことが(少なくともある程度までは)できる。

 

こうしたソーシャルゲームのつくりは二つの事態を意味している。

ひとつは、ソーシャルゲームのプレイヤーにとって、実際に「時間は金なり」であるということだ。

時間はお金(ジュエル)で買うことができ、逆に言うとお金(ジュエル)を時間で買うこともできる。

 

細かい話をすればそうでもないのだが、大筋としては、時間とジュエルの換金関係がソーシャルゲームでははっきりしている。

可処分所得をケチりたい人は可処分時間を多く支払えばお金を補える。可処分所得の多い人だけでなく、可処分時間の多い人もゲームの土俵に立つことができ、顧客として取り扱えるようにできている。

 

もうひとつは、可処分所得を多く費やしてくれる高額課金者が楽しみやすいゲーム状況をつくりだすために、無課金~微課金のプレイヤーとその可処分時間が必要とされ、実際、吸い上げられているということだ。

 

無課金~微課金のプレイヤーの大半は、そうは言っても高額課金者と対等には戦えない。

しかし無課金~微課金プレイヤーたちはソーシャルゲームを賑やかにするその他大勢として、ランキング上位を占める高額課金者をランキング下位で支える「養分」として、間接的に売り上げに貢献できる。

 

SNS等をとおしてゲームについて情報を拡散するのも「養分」の役割だ。

ダイレクトに売上に貢献する度合いは微々たるものかもしれないが、数のうえでも、高額課金者が楽しみやすいゲーム状況をつくりだすうえでも、無課金~微課金のプレイヤーの可処分時間は必要だ。

 

高額課金者という金のニワトリを集め、金の卵をうませ続けるためには、そのような状況をつくりだすための「養分」が必要で、それは、カネはなくても時間のある人々の可処分時間によって成り立っている。

 

こうしたことはソーシャルゲームにおいて顕著だが、別にソーシャルゲームに限ったことではない。

いまや、あらゆる娯楽、あらゆる産業においてカネはなくても時間のある人々の可処分時間は「養分」として取引の対象たりえる。あるいは争奪の対象ともなっている。

 

ソーシャルゲームのジュエルが最もわかりやすいが、可処分時間は(本来は金銭を支払って手に入れるような)サービスとの物々交換に供されがちだ。「無料より高いものはない」と言われたあらゆるゲーム・サービス・検索、等々にこの図式がみてとれる。

 

狭義のカネに相当しないさまざまなものまで企業は吸い上げ、狭義の金銭をもうけるための「養分」や「肥やし」として利用している。

 

こうした可処分時間の買い叩きは、いったいいつ頃からあったのだろう? 

その起源は今すぐ確かめられないし、どうせ賢いブルジョワが昔からやっていたのだろうけれど、近年ますますそのメソッドが洗練されてきて、いまや、若者の可処分時間はどんどん買いたたかれ、(本命である)狭義の金銭をもうけるための「養分」や「肥やし」として利用されている。

 

そういう意味では、カネのない人間の可処分時間も立派な資本材であり、争奪の対象であり、プロダクツを生産するための原料だと言える。

 

江戸時代に肥料として利用されるようになった干鰯と同様、それ自体はたいした値打ちがないが、作物を実らせる「養分」としては無視できない。

だから若者の可処分時間もどんどん刈り取られるし、たとえばソーシャルゲームのジュエルと引き換えに企業に買い叩かれ、吸い取られていく。 

 

思春期モラトリアムの困難とは、資本主義の徹底でもなかったか

こうした状況を踏まえたうえで思春期モラトリアムの困難について考えてみよう。

格差の拡大や"身分"や"階層"の固定化が思春期モラトリアムを困難にしていること、それ自体はおそらく間違ってはいない。

 

だが、それだけではなかった。今、若者の時間は(いや若者だけでなくあらゆる世代の時間もだが)貴重で、可処分所得の乏しい者の可処分時間でも、さまざまな換金作物を実らせる「養分」として吸い上げる価値がある。

 

私たちの世代の頃は、ぼんやりと天井を見上げて過ごしていた時間、所在なげに盛り場で群れ集っていた時間が、資本主義を高速回転させて生産性を向上させるための「養分」として是非とも必要とされているのだ。

 

若者の時間は、若者の成長に是非とも必要だし、そこには「遊び」があってしかるべきだったわけだが、高速回転する資本主義、あらゆるものを生産性向上に資するようつとめる資本主義は、そうした猶予の時間、「遊び」の時間をも生産性向上のための「養分」としてあてにするようになった。

 

あてにするようになったぶん、資本主義はよりよく回転するようになり、さまざまなビジネスは、さぞ、色艶を増したことだろう。

 

そのかわり、若者の可処分時間はどんどん買い叩かれている。

かつての干鰯のように。あるいは南太平洋諸島のグアノのように。そして乱獲されている。

 

若者の可処分時間が、いや私たちの可処分時間がこのように買いたたかれ、乱獲されている現状の行き着く先はどこだろう? 

思春期モラトリアムの困難という現象の背後にも、私は、加速する資本主義とさまざまなものの換金化やビジネス化をみてしまう。

 

こうした私の見立ては間違いだろうか? 間違いかもしれない。

 

だが、これだけは間違いないと思うからもう一度繰り返しておきたい。

私たちの可処分時間は買いたたかれている。そして乱獲されている。

 

それは個人的なイシューであるだけでなく、社会的なイシューでもあるはずだ。

そして資本主義自身が考えてもいないような副作用、弊害を生み出すに違いないと思う。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Glenn Carstens-Peters

先日、宮古島の食肉センターにて、重要なポジションを任されていた社員が待遇の改悪を示され、契約関係破棄したニュースを目にした。

宮古島で牛、馬の食肉処理できず センター職員が契約切れ 大型連休に間に合わない可能性も(琉球新報) - Yahoo!ニュース

 

なんでも宮古食肉センターでは大型の家畜の解体作業をできる職員が"1人"しかおらず、そのキーマンがいなくなったら全工程が進まないような状態にあったのだという。

 

どう考えても全体の生産性を考えれば…この職員には居てもらわなくては困る。

そう考えると…待遇を上げるならまだしも、待遇を下げるだなんて処遇は気が狂っているとしか思えない。

 

しかしこれは人間の集団心理から紐解けば、実は不思議な行動ではない。

今日はこの件を題材に、なぜ貴方の給料が全く上がらないのかを示唆する情報を書いていこうかと思う。

 

人は誰しも自分の事を褒めてもらいたがっている

極論をいうと、人間の行動心理は全てが愉悦感を感じる為にある。

 

「そんな事はない。自分は誰にも褒められなくても別に構わない」

そう思った人も多いかもしれないが、それならこの逆…自分に対する非難や批判が轟々に降り注ぐ自体を考えてみてほしい。

 

「お前、人間として終わってるよ」

「君の価値はミジンコ以下だね」

「なんていうか…臭いよ、君」

 

なんていうか、めちゃくちゃイライラするんじゃないだろうか。少なくともウキウキするような人間など一人もいまい。

 

集団内での立ち位置というのは、褒め言葉でしか客観視できない

人間は社会的動物なので、集団内での立ち位置を物凄く気にする。

この集団内での立ち位置というのは、そのまま自分自身がどういう風に周りから思われているのかという事と直結する。

 

もし仮に貴方が仲間から

「君がいてくれて本当に良かった」

「すごい仕事が出来るね!」

「君がいると、社内の雰囲気がよくなるよ」

とか言われたら、悪い気分がしないという以上に、なんていうか”安心”しないだろうか。

 

この”安心”というのが一つのキーだ。私たちは古来から群れて生きてきた。なぜなら個人としての人間は生きていけないから。

 

村八分の恐ろしさはDNAレベルに染み込んだもので、仲間外れにされるという事は、それイコールそのまま”死”を意味する。

私たちはサルだった頃に、集団からパージされた人間が惨たらしく死ぬ姿を見まくってきた。

 

故に私たちは集団内での立ち位置を必然的に意識させられてしまう。自分が集団内でヴァリューを出せているか、集団から嫌われていないかというフィードバックを得て、それが”安全サイン”を出せていないと、物凄く不安になってしまう。

 

この安全サインというのが、実は褒め言葉なのだ。

私たちは何もチヤホヤして欲しいのではない。仲間外れから自分が遠い位置に存在しているのだという事をキチンと自認したいが故に、褒め言葉を心のどこかで求めてしまうのだ。

 

誰に褒めてもらいたがっているのかを可視化してみよう

この事実をベースに冒頭の事例を改めて考えてみよう。

なぜ宮古島の食肉センターの上司は、どう考えても現場がたちいかなくなると知りつつも末端職員を厚遇しなかったのか?

 

それは上司の上位層…つまり経営者がそれを”褒めない”からである。

 

現場レベルでモノを考えれば…どう考えても多少厚遇してでも、重要なポジションに位置している職員に残ってもらって、仕事を回す事が最適解であろう。

しかし視点をちょっと上に移すと、実はこれは最適解でもなんでもない。

なぜなら上司が気にしているのは現場ではなく、経営者からどう褒めてもらえるかだから。

 

上司は経営者に褒められるしかないし、経営者は消費者に褒められるしかない

もし仮に…上司が現場に軸足を置いて現場の利益を最大化させるような行為を取ったとしよう。

これは経営者にとっては全く嬉しいことではない。だって全体のコストが跳ね上がるのだから。

 

なぜ経営者は全体のコストが引き上がる事を嫌がるのか。

それは経営者の上位構造である消費者…つまり我々が安くて高品質なモノしか買わないからだ。

 

経営者は極論をいえば、消費者が心の底から喜ぶ事をやって、それで褒めてもらいたいという生き物である。

「安くて美味しい品物を降ろしてくれてありがとう」と言ってもらって、そのエビデンスとして売り上げがキチンと成り立っていたら…天にも昇る心地になるのが経営者という生き物である。

 

こうして末端労働者と上司、経営者、消費者による本能と本能のせめぎ合いは綱引きのようにギュッギュと引っ張り合いを繰り広げているのである。

 

誰もがみな、自分自身だけは泥をかぶりたくない

冒頭の食肉センターでは、大型家畜を解体できる技術を持つ職員を厚遇できなかったが為に…結果的には高いツケを支払わされる事になった。

 

この構図をみて「誰がどう考えてもこうなるに決まっているのに馬鹿なんじゃないか」と思う人も多いかもしれないが、これもマクロにみればこの追加コストは決して高くはない。

なぜなら誰のメンツも潰していないから。

 

人間というのは殊のほかメンツを気にする生き物である。

前にチンピラが威張り散らしているのをみて、なんで彼はそんなにも刺々しいのだろうかと疑問に思った事があったのだが、彼は彼で自分自身がナメられない為に必死だったのだろうと今ではわかる。

ナメられるというのは、集団内での立ち位置が危うくなるという事と同義である。村八分にはされないにしろ、ナメられている個体に良いポジションは絶対に与えられない。

 

つまり…当落線に乗っかっているギリギリの個体にとっては、ナメられるか否かというのはパシリをやらされるかの瀬戸際のラインであり、文字通り死活問題なのである。

 

非合理な事でも、結果が納得できるのなら三方よしなのだ

この観点から眺めれば、この食肉センターで起きた事例はスルッと理解ができる。

 

まず労働者は上司にナメられないように退職を選んだ。

もし仮にここで待遇の改悪を受け入れたら…このあとも無限に待遇は悪くなる一方だろう。

 

上司も上司で労働者にナメられないように、労働者の意見を突っぱねた。

もし仮にここで労働者の意見を飲んでしまったら…経営者の意向に逆らう事になるからだ。

 

経営者は経営者で、誰からもナメられない為に、この意見を受け入れた。

結果的に卸す肉が高く付く事になったとしても、それは「最後まで必死に経営者としての責務を果たしたが、いろいろな意味で限界だった」という姿勢を示せる事につながるからだ。

 

もし仮にこれでもって肉の価格高騰が生じて、それを消費者が「仕方がない」と受け入れてくれたら…消費者がコストを引き上げてもヨシと太鼓判を推してくれたのだから、安心して今後の糧にできる事だろう。

 

消費者は消費者で特にメンツを潰される事なく価格高騰を受け入れやすくなり、これでもうなんてうか三方よしなのだ。

これは全方向の誰もが泥をかぶらずに事態を好転させる為に必要な儀式なのである。

 

隠された動機を考えて、本音と建前を使い分けよう

こうやってみてみると、現場が崩壊するような事態というのは、みんなが納得して世の中を改善させる為に必要な儀式だとも言える。

 

もちろん大崩壊した現場は鉄火場のようにアチアチになる。その結果、一時的に皆がやらなくてもいいような苦労をやるハメになる。

 

なんでこんなバカバカしい事をやらねばならないのかという人の気持は本当によくわかる。

自分自身、上層部が「現場のことなんて全然わかっていない」と以前はブチギレまくっていた。

しかし今では「自分が現場を壊さずに維持してしまっているのが一番悪い」という風に認識を変えた。

 

良くも悪くも…現場というのは回り続けるまで回ってしまうものだ。それがどれほど歪んだものであっても、車輪が回る限り人は必死になって回してしまう。

 

本音を話しても、意味がない

みなが「顧客の為に」だとか「世の中の為に」というように、綺麗事を述べてイビツな車輪を回したがる。

 

本音では全然別の事を考えていたとしても…皆が建前をいう限り自分が本音でもって話すメリットは無い。

だから誰もがフワフワとした建前でカッコつけて、そのメンツを維持する為に回りにくい車輪を必死になって回す。

 

そういう建前で車輪を回している人に、本音で話しかけても笑われてしまうだけだ。

「こんな歪んだ車輪なんて回したくありません」と言っても「何をワガママ言っているんだお前は」と怒られるだけである。

 

だから皆が本音で話していない職場にいるのなら、自分自身を守るためにも自分も建前を使って奥ゆかしさを出すのが道理なのである。

「家庭の事情で…」「体調が悪くて…」みたいな無難な建前を用意して、歪んだ車輪を回す責務からソッと離れよう。

 

そうやって、誰のメンツも潰さずに歪んだ現場から立ち去り続ける事しか、本当の意味で現場をよくする事はできない。

 

結局、私たちはメンツを守る為に馬鹿をやる以外にない

結局、私たちは自分と誰かのメンツを守る為にも、馬鹿をやる以外にない存在なのである

 

どんなにそれが非生産的で、物凄くバカバカしくて、無駄であったとしても、誰かのプライドは地球よりも重苦しい。

誰一人として軽くは扱って欲しくないのだから、結果的にプライドを守るためのコストは天井知らずにぶち上がり続けるしかない。

 

ぶち上ってぶち上がってぶち上がって…誰もがもう「護れねぇ…」と諦めるまで、歪んだ車輪は回り続ける。

それを戯曲のように楽しみ、そして崩壊する過程を愉悦とする以外、特にやる事はないのである。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by :Wilhelm Gunkel

最近おきた大きなイノベーションのひとつが、ChatGPTのリリースだったことは、多くの人の共通の認識でしょう。

 

正直なところ、Googleを脅かすほどの存在が、こんなに早く出てくるとは思っていませんでしたが、Googleなどのプラットフォームは大きい割には技術革新に対して脆弱であり、「短命」なので、必然の流れなのかもしれません。

 

逆に、プラットフォーム上に流通する「コンテンツ」には、とても長命なものが存在します。

例えば「イーリアス」「論語」「原論」などの古典などもそうです。

これらは時の試練に耐え、プラットフォームを乗り換えながら2千年以上もの間、全く変わらずに生き残っています。

 

では、ChatGPTもしばらくすれば時の彼方に消える……かというと、少しこれまでのプラットフォームと事情が異なるかもしれません。

なぜなら「コンテンツ流通させるだけ」の、Google、Twitter、Amazonなどと異なり、ChatGPTは「コンテンツそのものを生み出す」ツールだからです。

 

もちろん、ChatGPTそのものはGoogleなどと同様に、テクノロジーの進化ですぐに消える運命だと思います。

しかし、「優れたAIが生み出したコンテンツ」が増えるにつれ、中には驚くほど長命なものが出てくる可能性があります。

 

ですから、せいぜい寿命が数十年、百年も生き残れば立派な、GoogleやAmazonなどとは、インパクトのレベルが違います。

「ChatGPT」に代表されるような、ジェネレイティブAIをどのように創作に使うかは、想像以上に重要な話だと、私は認識しています。

 

ChatGPTを使うスキルは、人間の部下を使うスキルとほぼ変わらない

ただ、これは別に私独自の見解でも何でもなく、同様の認識をしている人が多いのだと思います。

すでに、web上には、「ChatGPTの使い方」に関する情報が、大量に出回っています。

 

わたしも今までにかなりの記事をChatGPTで作りましたが、彼らと同様に、その知見を社員が使えるよう、やり方をまとめたものを作って、社内に展開しています。

 

なお、私が一番重要だと認識している項目はChatGPTが出力した「目次」です。

(目次は記事へのリンクから無料で読めるようにしています)

ChatGPTに「ChatGPTで高品質な記事を書く方法」という記事を書かせたら、多くの知見が得られました。

ChatGPTに「効果的なChatGPTの使い方の記事を書いて」とお願いをし、その結果得られた知見(良い使い方)をChatGPTにまた投入する、という反復的な手法で、ChatGPT活用の記事を作ったところ、多くの知見が得られたので、それをご紹介します。

この資料ですが、noteのマガジンとしてもすでに1万5千人以上の方に見ていただいていますので、ChatGPTへの関心の高さがうかがえます。

 

で、「ChatGPTの使い方マニュアル」を作ってみてわかったことが一つあります。

それは、AIへの指示の出し方と、人間への指示の出し方は、さほど変わらない、という点です。

 

みていただくとわかると思いますが、このマニュアルの「ChatGPT」の部分は、「部下」に置き換えても、全く不自然ではありません。

例えば以下は目次の大項目ですが、「部下への指示の出し方」という記事でも違和感ゼロです。

1.明確で具体的な指示を出す

2.ChatGPTが生成した文章を調整する

3.正確さと信頼性を確保する

4.ChatGPTを専門知識でトレーニングする

5.ChatGPTで思うような結果が得られないときの対処法

 

ですので、すでに勘の良い方はお気づきかと思いますが、実はChatGPTを使うスキルは、人間を使うスキルとほぼ変わりません。

プログラミング的な使い方もありますが、基本は自然言語なので、「命令のしかた」そのものは、新しいものではないのです。

 

では、AIは何が新しく、圧倒的に人間より優れているのでしょう。

これは、明らかな点が一つあります。

 

それは、アウトプットの質ではありません。

 

実は、どんなに負荷をかけても大丈夫という点です。

もっと言えば、こちらの指示が悪くても、適当な指示でも、何度もやり直しさせることが可能です。

 

人間ではそういうわけにはいきません。

 

人間は面倒くさがる生き物なので、

「やる意味はなんですか?」とか

「指示がわかりにくいです」とか

「手戻りはイヤです」とか

「時間の無駄では?」とか

そういうことを言う。

 

AIは、こういうことが全くない。

やる意味を問いませんし、指示がわかりにくくても、時間の無駄にみえても、何かをとにかくアウトプットしてくれる。

24時間フルに働かせて大丈夫な手下です。

 

ChatGPTの使い方の上手い人と、下手な人の差はどこに出るか

強調しておきますが、この「何度やりなおしをさせても文句を言わない」という特性こそ、アウトプットの質を云々する前に、圧倒的に人間を超えています。

パワハラOKなのです。これこそ、AIの本質です。

 

少ない情報でも、あいまいな状態でも、ひとまず「結果を示せ」と命令すれば、クオリティが低くても、何かしらの成果が一瞬で上がってくる。

これはほとんどの人間にはできません。

 

したがって、そこで「クオリティが低い、ダメだな」と切ってしまう人は、「ChatGPTを使うのがヘタな人」です。

逆に言えば、「クオリティの低い回答」でも、それをうまく利用できる人が、「ChatGPTの使い方が上手い人」でしょう。

 

ChatGPTをうまく使う人は、成果品のイメージが最初のうち曖昧であっても、やり取りを繰り返すうちに、それを洗練させ、求める成果品に近づけていくのが非常にうまいのです。

 

実際、先ほど挙げた目次の最後に、

5.ChatGPTで思うような結果が得られないときの対処法

という項目がありますが、中身は至極まっとうで、いわゆる「新規事業」などのアプローチとほとんど同じです。

a. 指示を修正する
b. 依頼をより小さなタスクに分解する
c. 追加のコンテキストを提供する
d. さまざまなアプローチで実験する
e. アウトプットを繰り返し、洗練させる
f. ChatGPTのドキュメントとコミュニティに相談する
g. ChatGPTは学習ツールであることを忘れない

 

逆に「最初から高クオリティの回答が返ってこないとダメ」と思っている人は自分が求めているものを、誰かに「引き出して」もらわないといけませんから、ChatGPTではなく、優秀な人間がそばにいないと、アウトプットを出せません。

優秀な人間から

「あなたの求めているものは〇〇では?」とか、

「もしかして〇〇だと思っていませんか。」とか、

「こういう事例があります」とか、

「たぶんこうするとうまくいきますが、どうでしょうか?」とか、

様々な、自分の考え方を引き出す問いかけをしてもらわないと、自分が求める成果を明確化できないのです。

 

こういう人は、(今のところ)ChatGPTをうまく使えません。

ChatGPTは、自分に語り掛けてくれませんし、自分の心を読んでくれません。

 

ですから、「ChatGPTは使う人次第で、能力が大きく変わる」のです。

 

「要望が固まってないと、動けません」という人間はAIに負ける

したがって、「指示や要望が固まっていないと、手戻りになるので動けません」という人間は、かなり早い段階で、AIに負けてしまうでしょう。

「じゃあ、(いくら負荷をかけても大丈夫な)AIに相談してみます」と言われてしまう。

 

逆に、「成果品への要望を、質問などを使って固められる人」は生き残りやすいでしょう。

そういう人は、「ChatGPTに対しても、部下に対しても、お客さんに対しても」同様に、「成果のイメージを明確化する技術」を適用できますから、AIを自分で使う側に立てるので、逆に仕事は加速する。

 

では一体、どの程度の人が、「成果のイメージを明確化する技術」を持っているのかというと、私も良くわかりません。

ただ、体感値として、そういう人はあまり多くはない。

 

そうなれば、AIによる人間の代替化が進むかもしれません。

ディストピアが訪れる可能性もあります。

われわれは何か重要な一線を越えてしまったかもしれない、と思いました。

 

 

全く関係ないですが、本日4月19日に”頭のいい人が話す前に考えていること” という本を出します。

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ここには、「働く上で知っておくと得すること」を盛り込みました。

 

編集者のかたと1年以上、ほぼ毎週ミーティングをしながら、すこしずつ書きためてきた本ですので、ぜひ手にとっていただければとても嬉しいです。

よろしくお願いします。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo;Sigmund