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ひろゆきさんの『1%の努力』(ダイヤモンド社)という本を読みました。

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ひろゆきさんがこれまでの人生で得てきた「最低限の努力で、効率よく結果を残し、楽しく生きるための知見」を7つのエピソードをもとにまとめたものです。

 

僕のひろゆきさんに対するイメージは、「頭はものすごく良いのだけれど、身も蓋もない人(何事も理屈で解決しようとする、情に欠ける人)」だったのです。

ひろゆきさんが間違っている、とは思わないのだけれど、僕にとっては付き合いづらい人なんだろうなあ、と。

 

まあ、実際に会う機会もないでしょうけど。

 

そう思いつつも、ひろゆきさんの言葉には、魅かれるところがあって、ときどき、ひろゆきさんの書いた本を読んでいます。

この「1%の努力」なのですが、これまでのひろゆきさんの著書のなかでは、人を煙に巻くような部分が少ないというか、これまでの自分自身について、そのまま語っているという印象を受けました。

僕はおすすめの本を聞かれると、『銃・病原菌・鉄』(草思社)を迷わずあげる。

その本は、「ヨーロッパやアメリカの白人が世界を席巻したのはなぜなのか?」という問いに証拠を交えながら答えを出していく。結論を書くと、「ヨーロッパからアジアに続くユーラシア大陸が東西に長かったからヨーロッパの人が覇権を取った」となる。

 

エジソンやアインシュタインのような天才が出てきたからではなく、大陸が横に長いと、小麦や米や芋やトウモロコシなど多くの穀物ができ、牛や羊や馬などの家畜も多品種が育つ。それによる差が大きくなっていき、南米やアフリカ大陸が太刀打ち出来ない技術や文化に発展した。

 

そこから僕が導き出した答えは、「人類の努力は、ほぼ無意味だ」ということだ。

いくら人間が頑張っても、大陸の形を変えることはできない。

僕の生き方は、そういう結論から逆算するようにしている。

 

ひろゆきさんは、人生に「生きる意味」は存在しないという結論に達して、「じゃあ死ぬまでにできるだけ楽しく暮らすほうがいいな」と思うようになったそうです。

 

もちろん、これは人類全体での話であって、いまの日本で生きている個人にとっては、人生の要所で、どううまく立ち回るか、が大事であり、それが「1%の努力」ということになるのです。

「結局は運」だからと投げやりになるのではなくて、「だからこそ、なるべく効率的な努力をして、楽しく生きよう」ということなのだと思います。

みんな、底辺から這い上がった話が好きだ。ツラくても歯を食いしばって我慢してきて、そして成功をつかみとる。そんなハッピーエンドを好む。

 

でも、現実はそうじゃない。

高い財布を買うと金持ちになるのではない。逆だ。金持ちが高い財布を持っているだけだ。

そうやって因果関係の理解を間違えると、人は不幸になってしまう。

 

ただ、能力があるのに努力しない人がたまにいる。

あるいは、「環境」と「遺伝子」の現実を知った上で、自分のできないことを受け入れながら、ちょっとだけ考え方を変えるだけで幸せになれる人もいる。

彼らに向かって、キレイゴト抜きのアドバイスができればいいなと思う。それは、大きな船の舵を切って、1度ずつ徐々に進行方向を変えるような作業だ。

 

ひろゆきさんは、この本のなかで、7つのエピソードを通じて、「この条件にあてはまる、幸せになれる可能性のある人」へのノウハウを開示しています。

逆に言えば、こういう考え方は受け入れがたい、自分は努力すれば絶対に成功すると信じている(あるいは、すべての努力は無駄だ、と思っている)、という人には、縁がない本でもあるのです。

 

この本には、これから自分の人生を切り開いていこうとする若い人たちにとって参考になる知見がちりばめられています。

ひろゆきさんは、学生時代にさまざまなアルバイト(コンビニやスーパーの総菜売り場、ラーメン屋の店員や裏ビデオのチラシのポスティング、携帯電話会社の電話応対、塾講師、ピザの宅配など)をしてきて、その経験がのちに役立ったと仰っています。

ツラい経験はムダか、ムダじゃないか、という議論がある。

ここまで語ってきたように、アルバイトの経験はいまとなってはムダにはなっていない。

 

「修復可能か?」という判断軸に照らし合わせるなら、学生時代のバイトは学生時代にしかできないから、二度と取り戻せない。

その点においてムダではなかったと言える。

それに、肉体労働や精神労働などを一通りおこなっておくことは、「自分にとってのストレスのポイント」を知ることになる。

ストレスを減らすことは、幸せな人生を送る上でなくてはならない発想だ。

 

たとえば、無心になって体を動かすことは案外ツラくなくて、コンビニでヒマな時間をボーッと過ごしているほうが、僕にとってはストレスが大きかった。

おそらく、それとは別の人もいるだろう。

じっとしていることがストレスかどうかは、幼少の頃を思い出せばわかるかもしれない。机にじっと座っていられたタイプか、すぐに立ち上がったり周囲に話しかけたりするタイプだったか。

 

これは別に、どちらが優秀ということではなく、自分のタイプと仕事のタイプが完全に一致することが大事だ。

それが合っていないまま、ツラい仕事を続けていると、人生はどんどん不幸になっていってしまう。

 

人生において、なるべく早いうちに、「自分にとってのストレスのポイント」を知ることって大事だと僕も思います。

僕もそれなりに頑張ろうと思って医学部を出て医者になったのですが、仕事をはじめていちばんつらかったのは、緊急の呼び出しや電話での連絡が、いつ来るかわからない状態に24時間置かれていて、気が休まる時間がないことだったんですよ。

 

病気の患者さん、とくに入院が必要になるような人には、本当にいろんなことが起こるのです。

実際にやってみるまで、僕は、その「常に何かに拘束されていること」がこんなに自分にとってストレスになるとは、思ってもみませんでした。

そういうのって、実際に働いてみるまで、わからないんですよね。

 

「勉強ができるし、安定した職業だから」ということで、医学部に入ってくる人は多いです。

けれど、臨床で仕事を続けていくのに必要なのは、頭の良さよりも、いつ呼び出されても応じられ、睡眠不足でも不機嫌にならない体力。

そして、理解不能のクレームをつけられたり、上司にボロクソに言われたりしてもめげないメンタルの強さや気分転換の上手さなのです。

 

最近、テレビで豊田真由子さんを観たんですよ。「このハゲ〜!」で一世を風靡した豊田さん。

あの罵声を聞いて、キツい性格の人なんだろうなあ、と思っていました。

でも、このあいだお昼のワイドショーに出ていた豊田さんからは、あの暴言の雰囲気は感じられず、しごく真っ当な受け答えをされていました。

そりゃまあ、ワイドショーでいきなり暴れ出す、なんてことはないのでしょうけど、僕はそれをみて、「ああ、国会議員というのは、豊田さんにとってストレスがかかる仕事だったんだろうな」と感じたのです。

 

個人差はあるにせよ、ストレスを強く感じる環境にいる人は、イライラして強い言葉を吐いたり、周囲にあたったりしがちです。

僕自身も、精神的にも肉体的にも厳しい病院で働いていたときには、ずっとピリピリしていたのを思い出します。

プロとして、それじゃダメなのですが、それを自分でコントロールするのは、ものすごく難しいのです。

 

学生時代に、いろんなアルバイトをしてみて、向き・不向きというか、「この仕事に自分がストレスを感じる部分はどのくらいあるのか」を探ってみるのは、すごく有益だと思います。

 

どんなに高い理想や夢があっても、向いていない、自分にとってストレスが大きすぎる仕事は、避けることをお薦めします。

「やりがい」がありそうな仕事ほど、向いていない人が就いてしまうと、周囲への悪影響も大きくなりますし。

努力か、遺伝子か、環境か、どれが1つが100%ということはあり得ない。

ただ、一代で成功したスポーツ選手や起業家には、「努力100%」のバイアスが染み付いてしまっている。

 

これが実にやっかいだ。

自分が成功できたことを、100%、自分の実力と思ってしまう人は、他人にもそれを押し付ける。

熱い言葉を本やブログに書いたり、ドキュメンタリー番組で話したりする。

 

メディアもそれを求める。

「成功した秘訣はなんですか?」

「死ぬほど努力したからです」

そんなやりとりは、これまで何百、何千とされてきたことだろう。

 

僕のように、「たまたまです」と答えてしまっては、メディア受けしないし、本にもならない。

本書では、「たまたまうまくいった」という正論を出した上で、それでも「何かちょっとでも考え方によって変えられた部分」として、1%の努力という落とし所を探ってきている。

そのへんは、ちゃんと読者が判断できるだろうと思うので、それに委ねたい。

 

いずれにしても、「100%の努力」を言い出す人を認めてしまうと、人にそれを押し付けることも容認することになってしまうので、僕は徹底的になくしたいと思っている。その押し付けによって、パワハラや過労死が起こるからだ。

あるいは、アルコール依存症や薬物依存症は、意志の力ではどうにもならない。

手に入りやすい経路を絶ったり、医療を受けられるようにしたり、治療後に復帰できるような環境を整えたりすることが必要になる。

 

努力が絶対に成功を約束するわけではないし、パワハラや過労死につながることもある。

「人に押し付けてはいけないけれど、自分自身に対しては『1%の努力』を意識して生きていく」くらいが、ちょうど良いのかもしれませんね。

 

これから自分の仕事を選んでいく、中学生や高校生に、読んでみてもらいたい一冊です。

 

参考リンク:「医学部に進んでしまったけれど、医者にはなりたくない」という増田さんへ(いつか電池がきれるまで)

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo:LS -

少し前、シロクマ先生が、こんなことを書いていた。

新型コロナウイルスのせいで消耗している

体力も気力もなくなった。

疲れて、いる。

 

原因の見当はついている。

だいたい新型コロナウイルス(COVID-19)騒動のせいだ。

この騒動によって私は消耗し、体力も気力も出なくなってしまっているのだと思う。

1ヶ月ほど前は「へー」としか思っていなかった。まさに他人事だった。

反省している。

 

しかし今は違う。

まさに私も同じ心境だ。

こうした心境に至るまでの、医療現場と、私のような一般人の「時差」が約1ヶ月だったということだろうか。

確かに最近、ちっとも幸せではないのである。

 

といっても、別に家族の誰も感染したわけではないし、私自身も病気になったわけではない。至って健康である。

スーパーの品切れは話題になっているが、飢えているわけではないし、子どもたちと過ごす時間も、むしろ増えたぐらいだ。

 

ではコロナウイルスの何が、私に影響を与えているのか。

それは「これからどうなるかわからない」という、漠然とした不安だ。

もっと粒度をあげて言えば、私は「人生のコントロールを剥奪されている」と感じているがゆえに、幸せではないのである。

 

前にも書いたが、「コントロールを剥奪される」と、人間は、不幸になる。

場合によっては、心身に異常をきたす可能性もある。

仕事において「裁量がない」時の精神的負担は、想像するよりも遥かに大きい。

人間は本能として「コントロールする能力」を失うと、生きる力を失う。

 

ハーバード大の社会心理学教授、ダニエル・ギルバートは次のように述べた。

人間はコントロールへの情熱を持ってこの世に生まれ、持ったままこの世から去っていく。

生まれてから去るまでの間にコントロールする能力を失うと、惨めな気分になり、途方に暮れ、絶望し、陰鬱になることがわかっている。死んでしまうことさえある。

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実際、上で紹介したダニエル・ギルバートはこんな実験結果を著書の中で取り上げている。

・老人ホームで「観葉植物の世話」をさせるだけで、半年後の死亡率が倍も違う

・老人ホームへの「学生の訪問日」を決める権限をもつだけで、入居者の健康度が増した。ただし、学生の訪問が終わると、入居者の死亡が極端に増えた。

 

ここから得られる洞察は2つ。

「状況をコントロールできる」ことは、人間の幸福度や健康をアップさせる。

逆に「コントロールの剥奪」は、人間の幸福と健康を大きく損なう可能性がある。

である。

 

だから現在の世界、すなわち

・必要なものが買えない

・外に出られない

・思うように仕事ができない

・いつ終わるかわからない

と、すべてのコントロールを剥奪されている状態は

「人類全員がうつ病状態」を引き起こす可能性だってある。

 

 

そのような人間の性質を知ると、現在起きている「買い占め行為」もまた、人間の性質に深く根ざした行為であることがわかり

「バカ」と安易に批判できない。

なぜなら、愚行であっても「コントロールを取り返すために、なにかしたい」という人が大勢いるだろうからだ。

政府の失策が非難されており、指摘のとおりだとも思うが、おそらく、買い占め行為は、どういう情報を流したとしても、起きるべくして起きる。

 

要するに、「なにかしていないと、不安で心身を消耗する」ので、自分に出来ることを探すのである。

それが結果的に「買い占め」という行為となって、現れている。

 

あるいは「マスクはウイルスに対して予防効果は期待できない」という話がある。

ただ、こうした情報を知っていたとしても、マスクをする人が多いのは

「それでも、なにか対策をしないより良いだろう」と考える人が多いからだろう。

まあ、「人に移さないため」と考える人もいるだろうが。

 

したがって「買い占め」行為は「在庫ありますよ」や「安心してください」という政府のアナウンスでは解消できない。

「この自体の収束のために、個人がなにか出来る(と思える)こと」を用意しないと、不安に負けて「行動してしまう」のである。

 

「今後どうなるかわからないので、じっとしててくれ」は、不安に絡み取られている人には、届かない。

パニックというのは、そういうものだ。

 

この現象は、ビジネスにおける「間違えるのはかまわないが、不確かなのはだめだ。」という態度とよく似ている。

例えば

「納期に間に合うんだろうな」

という上司の質問に

「やってみないとわかりません」

と回答すると

「バカヤロー、いつまでに終わらせるのかをまず決めろ」

と、怒られるのと同じだ。

 

実際、わからないものを無理やり決めても、間違うだけで結果は同じだ。

しかし「不確定よりは間違いのほうがマシ」という人間の心理は世界共通なのだ。

 

なぜならそれは、上司が「不確定」と向き合わなくてはならないからだ。

「どうなるかよくわからない」という状態で、時間を過ごすのは、精神的なタフさが必要で、万人に出来ることではない。

不確定を放置すれば、上司の胃に穴が空いてしまうのである。

 

だから個人的には、まさにいま

「手軽にコントロール感が得られる行為」

をきちんと探すことは、結構重要なことなのではないか、と思っている。

 

ちなみに、私が上の条件に当てはまることを探した結果、

・いつもの時間に起きて着替えること

・ゲームをする

・買ってあったラジコンを作る

・料理をする

・コーヒーを淹れる

だった。

特にゲームや工作は気晴らしとして良い。強いコントロール感が得られるし、外出しなくて良い。

 

……と思っていたら、サウジアラビアの観光局が「自宅の過ごし方」を動画で出していて、ほとんどかぶっていた。

うん、こういうので、いいんですよ。

多分。

 

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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Photo by Chris Leipelt on Unsplash

ねぇみんな助けて。夫婦喧嘩勃発したんだけど。

 

……すみません、「夫婦喧嘩」は盛りました。

ちょっと話し合いがヒートアップしちゃっただけです。

 

というのも、コロナの影響で夫が本格的に在宅ワークに切り替えることになり

「夫婦ふたりどうやったら快適に在宅ワークができるか」という点で意見が割れておりまして。

 

先日「夫は在宅ワークに向いてないけどわたしは在宅ワーク楽しんでるよ〜(キャピッ)」

なんて記事を書いたばかりだけど、「それは在宅ワークしやすい環境に恵まれていたからなんだな……」と気づきました、はい。

 

コロナの影響で夫が予期せぬ在宅ワーカーに

まだ出勤禁止令は出ていないものの、コロナの影響でいつどうなるかわからないこのご時世。

夫は在宅ワークにすることを決意(もともと在宅ワークOKの会社)。

 

しかし、どうやら社内には「持ち出し可のノートパソコン」がないらしい。

つまり、在宅ワークするなら、でかい液晶2つつきのデスクトップを家に持ち込まないといけないのだ。

 

それを聞いたわたしはびっくり仰天。

「そんなもんどこに置くんだよ!!」と。

 

案としては3つあるのだが、

 

1.わたしの仕事部屋を改造して新たなデスクを買い、お互い背中合わせで仕事をする

→わたしの快適な仕事部屋を改造とか勘弁してくれ。

壁向いて仕事したくないから部屋の真ん中にデスクを置くレイアウトにしたのに

 

2.ダイニングテーブルを夫の仕事デスクにして、ご飯はソファで食べる

→ドイツではソファに座ってご飯はOKだけど、日本人のわたしからしたら行儀悪くてなし。ありえない

 

3.リビングにもうひとつデスクを買ってそこで夫が仕事をする

→ワンルームで同棲してたとき、リラックスする場と仕事場が同じでイヤだったから仕事部屋ある家に引っ越したのに。っていうかリビングではゲームしてたいです。

 

わたしにとってはどの選択肢も「勘弁してくれよ」状態なのだが、だからといって夫が仕事できないのも困る。

というわけで、「じゃあどうするよ」と途方に暮れているのが、まさに今なのだ。

 

生活環境が変わり自宅仕事がはかどらなくなった

我が家と同じく、コロナの影響で「思いがけなく在宅ワーカーになった」という人も多いだろう。

最初は「これでリモートワーク広がるし、自然災害時のオプションとしていいんじゃないか」なんてのんきに思っていたわたしだけど、いざ夫も在宅ワークになると話は変わってくる。

 

いやだって、いつもは気が向いた時間に毎日同じお昼ご飯食べてたんだよ(ここ2ヶ月のマイブームは和風ツナパスタ)。

家事のタイミングも自分の好みでやってたし。

 

でも夫がいたら、毎日同じお昼ご飯ってわけにもいかない。

食材が減るペースも増える。

集中していい感じでも、「あーそろそろご飯つくらなきゃいけない時間だ」となる。

まぁ夫は、「ご飯つくりたくないなら俺がつくるし、家事なんて適当でいいよ」というゆるゆるな感じなので、そこまでプレッシャーはないのだが。

 

とはいえ、家にほかの人がいるというだけで、ここ数年で培った「自分の仕事のリズム」が狂ってしまうのも事実。

「仕事部屋にいるときは緊急時以外話しかけるの禁止令」を出したものの、わたしはソファでごろごろしていても、なにかアイディアが浮かんだら急に仕事スイッチがオンになり執筆をはじめるタイプだ。

 

そのタイミングで話しかけられると正直「めんどくせーな」と思うけど、夫からしたらわたしが仕事をしてるのかネットサーフィンしてるのかわからないからしょうがないし、無視するわけにもいかないし……。

仕事部屋で仕事中、リビングから聞こえる咳払いや足音もすごく気になる。

 

あーなんだか落ち着かない!!

っていうか夫がいると休日な気がしてだらだらしちゃう!!

そこで改めて、「わたしが在宅ワーク最高!と思えていたのは、恵まれた環境があったからなんだな」と痛感した。

 

在宅ワークには在宅ワークに適した住環境・生活環境が必須

コロナの影響でリモートワークが広まりだしたとき

「子どもも休校で家にいてうるさくて仕事にならない」とか

「みんな家にいると家事が増えて仕事をする時間がない」なんていう声を聞いた。

 

「まぁ突然在宅ワークになっても困るわな」と他人事だったわけだが、いまならわかる。

「出勤なんて必要ない、家で仕事すればいい」というのは、「仕事できる環境の家である」ことが大前提なのだ。

子どもがいたり、やらなきゃいけない家事が多かったりすれば、オフィスのように8時間も仕事する時間を確保できるわけがない。

 

そもそもどこで仕事するの? リビング? まさか。

子どもが大事な書類のうえにジュースひっくり返したらどうするの。

仕事部屋? 都内で仕事部屋がある家に住んでるサラリーパーソンってどんだけいるの。

 

突然在宅ワーカーになったのはしょうがないとはいえ、家を仕事場にするって、そんなかんたんなことじゃない。

わたしはもともと在宅ワーク前提だったから、それを踏まえて家を選んだし、大きいデスクとふかふかのデスクチェアも買った。

 

平日の日中は家にひとりだから、自分のペースで仕事ができる。

夫は家事に関してうるさいことも言わない。

そんな状況だから「在宅ワーク最高!」と言えていたけど、そもそも「在宅ワークに適した住環境・生活環境」じゃなければ、在宅ワーク自体が成り立たないのだ。

 

夫が仕事場から持ち込んだ液晶をふたつ置くなら、140センチ以上の長さのデスクが必要になる。

わたしたちはふたり暮らしにしては広い家に住んでいるとはいえ、さすがにそんなもの置く場所はない。

いつまで在宅ワークするかもわからないのに、そんな大きいデスク改めて買うのも気が進まない……。

でも作業スペースは必要だしなぁ。

 

あーあ、もうこんな時間だ。

今日のお昼ご飯なにつくろう。

とまぁ、こうなるわけである。

 

在宅ワーク環境格差がそのまま給料に反映される?

とはいえ、強制在宅ワークとなれば、「家が狭い」だの「家族がどうこう」などとは言ってられない。

しかも理由が理由だから、レンタルオフィスを借りて外で作業するわけにもいかない。

しかし健康だから、働かないわけにもいかない。

 

独身で一人暮らしの人なら、気持ち的なことは別として、「作業する環境」自体はある程度確保できるだろう。

でも、そうじゃない人だってもちろんいる。

在宅ワークに協力的な配偶者もいれば、「家にいるなら家事をしろよ」と言う人だっているだろう。

単純に、家に作業スペースがない人もたくさんいるはずだ。

 

わたしのように、夫がリビングでゲームをしているあいだ、ヘッドフォンつけて仕事部屋で仕事ができる人。

一方、リビングでしか作業できず、休校中で家にいる食べ盛りの子ども2人がひっきりなしに喧嘩している状況で働かざるをえない人。

正直なところ、成果だけで後者が前者より高い評価を出すのはむずかしい。

 

じゃあ在宅ワーカーの住環境・生活環境まで査定で考慮してくれますか?というと、さすがにそれも無理だろう。

ってことは、在宅ワーカーの評価って、「在宅ワーク環境格差」にずいぶん左右されるってことだ。

……それってどうなの?

 

在宅ワークには「環境」が不可欠であるという再認識

仕事部屋があって作業スペースが確保できて、夫は仕事で日中は不在、子どもはいない、という状況のわたしは、「リモートワーク普及いいね!」なんてのんきに考えていた。

でも夫が持ち込んだ液晶ふたつが所在無さげに床に並んでるのを見ると、「どうしたものか」と頭を抱えてしまう。

 

「家で仕事しろ」と言われたって、作業スペースがとれない、仕事に集中できる環境にない人だっているわけで。

でも体が健康なら「仕事できません」とも言えないわけで。

子どもがいたら世話をしないわけにもいかないわけで。

 

「休校にしても親が共働きで家にいない家庭も多い、どうするんだ!」と問題になったのと同じく、「在宅ワークにしても家で仕事できる環境じゃない人もいる、どうするんだ!」というのは、もっと議論されてもいいのかもしれない。

家庭の環境格差が昇進や給料に響くのであれば、なおさら注目されるべきだ。

 

いまは非常時だから、仕事環境うんぬんについて話し合うのはもう少し後かもしれない。

それでも、在宅ワークには環境格差があること、みんながみんな家で仕事できる状況でないことは、しっかりと頭に入れておきたい。

住環境、生活環境によって、どれだけ快適に在宅ワークができるか、どれだけ作業に集中できるかは、大きく変わるのだから。

……で、このばかでかい液晶2つはいったいどこに置けばいいの?

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by DESIGNECOLOGIST on Unsplash

たまには買ってよかったものでも書いてみようかと思う。

 

1.ダイソンのドライヤー

2019年、圧倒的に買ってよかったもの|紫原明子|note

これはこの記事を読んで知った。

 

実は・・・僕はドライヤーで髪を乾かすのが本当に心の底から嫌いだ。

あの、何もしないで、ずーーーっと髪が乾くのを待つ時間が苦痛でしかたがなく、ぶっちゃけ去年まではドライヤーなんて使ってなかった。

 

それがまあ、ダイソンのドライヤーを買ってからというもの。僕は毎日普通にドライヤーで髪を乾かしている。

ここまで極端に人間の習慣を根本から変えているのだから、いかにこのアイテムが凄いことかわかろうものである。

 

なにが凄いかって、本当にマジで”瞬!”で髪が乾くのである。

ちょっともうダイソンのドライヤー以前の世界には帰れない。

日常生活でここまでビックリな体験をしたのは本当に久方ぶりで、まさに改革の一言がふさわしい逸品である。

 

値段が4万円とかなり張るのがネックだが、毎日髪を乾かす時間が激短している事を思えば、全然元が取れるだろう。

「さすがにちょっと高すぎぃ」という人は、運がいいとメルカリとかで安価で売られているのでそれを狙うといいかもしれない。

 

なお、Amazonで安く売ってるのはアメリカで売ってるものの二次流通品なので注意されたし(日本と米国では電圧が異なる。まあ普通に使えるっちゃ使えるのだが)

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2.HARIO V60珈琲王2 コーヒーメーカー

僕は毎朝一杯のコーヒーを飲むのだが、それまではイチイチお湯を沸かして自分で一杯一杯ハンドドリップしていた。

コーヒーのドリップは結構奥が深くて、それこそ○○道のように極めがいがあるものなのだけど、ちょっと去年辺りから本業が異常なレベルで忙しくなってしまい、生活を何とかラクにしようと画策していた頃にこの商品を見つけた。

 

これがまあ当たりであった。

 

お陰様で朝のコーヒー制作が湯沸かしからドリップまでボタン一つで行われるようになり、僕は貴重な朝時間の確保に成功した。

コーヒーの味も普通以上に上出来だ。

これも時間を買ってると思えば、安いものである。

 

以前にヘルシオの記事を書いたときも思ったのだが、家事は投げられるものは全部機械に投げてしまうべきだと思う。

一日は24時間しかないし、一日に使える意思の力の総量は有限だ。

自分は自分にしかできない事に集中すべきであり、逆に言えば機械ができる事を自分がやるのは生産性から言っても”もったいなさすぎる”。

 

どんどん仕事を機械にぶん投げて、ラクしていこう。

機械化系だと、他にも電動歯ブラシ(僕はフィリップスのソニックケア)とか電気シェーバー(これもフィリップスがいい。カミソリ負けしない)とかもオススメだ。

忙しさは精神を疲弊させる。ラクをして悪いことなど一つもない。というかむしろ逆にラクは善行だと考えよう。

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3.お風呂掃除ブラシ

子供の頃に、スポンジで風呂掃除をして思った。

風呂掃除は、なんて大変な重労働なんだろう、と。

こんなゴシゴシ・・・腰をかがめて力強くゴシゴシ・・・徹底してやらねばいかんのか。

マジでオワコンだろこれ、こんなことやってられへんわ。はい、解散!

 

あれから時が流れた。実家を出てからは、残念ながら風呂掃除はそこに暮らす住民のものである。

排水溝にネットをつけたりと、いろいろ仕事減の策を練ったのだが、スポンジ作業だけはどうしようもない。

ああ、なんで風呂掃除用のルンバがないんや!と嘆いていた時、ある人が

 

「風呂掃除?棒使えば5分で終わんじゃん」

と呟いたのを聞いてから、人生が一変した。

 

今では毎晩風呂の水を抜き終わったらスプレーでシュッシュして、棒を使ってキュッキュして風呂掃除は終わりである。

スポンジに棒がつくだけで、こんなにもラクになるのだから、世の中というのは誠にコロンブスの卵で満ち溢れている。

 

というか冷静に考えれば床掃除もモップ使ってやれば雑巾の100倍速だし、なんで今まで気が付かなかったんだろう・・・やはり小学校の雑巾掃除文化は悪である。

初めから1番ラクな方法を教えてくれればよかったのに。

 

風呂で思い出したのだけど、クリニカ アドバンテージ デンタルフロス Y字タイプも導入して結構よかったなと思ったものの一つだ。

それまではドルツという水圧で歯間を洗うタイプのものをつかっていたのだけど、歯間ブラシに変えたら全然洗えてない事に改めて気付かされて驚いた。

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4.駅チカのそこそこ広いハイグレードマンション(賃貸)

去年は、本当に、それはもう!夫婦喧嘩が多かった。

理由はいろいろあるのだろうが、1番影響がデカかったのは家賃をケチって少し生活が大変なマンションを契約したという事だろう。

 

僕は元来広い部屋というものが嫌いで(狭いほうが全体が把握しやすく、また色々な工夫を凝らすのが好き)、かつゴチャゴチャ散らかったりしてても全く気にしない性分なのだが、妻はこれが本当に駄目なようで、常に何かに突き動かされるが如くイライラ・イライラしていた。

 

あまりにも妻に色々と当たられるうちに、僕は一つの真理に到達した。

「高度に発達したイライラは旦那への不満と区別がつかない」のである。

本当、一日に一回ぐらいかつての妻は僕に爆発していたんじゃないだろうか。

 

正直シンドかったが、まあギリギリ耐えられない事もなかった。

結婚生活とはこんなもんかと現実を受け入れようかと思っていた時、これもまたある人が呟いた一言が僕を大きく変えた。

 

「狭い家から広い家に引っ越したら、めっちゃ夫婦喧嘩が減った。」

 

これを聞いた瞬間、引っ越しを決断した。

契約期間は一年以上まだ残っていたのでモッタイネーと心が悲鳴をあげていたが、それ以上に妻のイライラにいちいち対応し続けるのには、長い目でみたら身にも心にも悪そうでしかない。

 

そうとなれば、あとは妻のイライラができる限りたまりそうにない物件探しだ。

僕は駅から徒歩3分、2LDK、備え付き食洗機、床暖房、大量の宅配ボックスが完備された、そこそこのハイグレードマンションに清水の舞台から飛び降りる覚悟で契約をキメた。

 

ぶっちゃけ家賃は安くない。

安くはないのだが・・・本当に喧嘩は減った。

備え付き+外付けで食洗機が2台あるから洗い物の手間は激減したし、床暖房のおかげで今年の冬は一度もエアコンをつけることなく居間で快適に過ごせた。

 

宅配ボックスが埋まった事は一度としてなく、再配送を頼んだ事も今まで一度としてない。

そしてなにより、朝の通勤時間が減った事で妻の身体的負担が激減し、疲労の蓄積量も随分減った。

 

「こんなにも・・・イライラをぶつけられないだなんて・・・まるで夢をみているようだ」

 

いまでは妻も憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとした顔をしている。

 

あなたも、共同生活者と喧嘩が絶えないようならば、一度イライラの原因を取り除けるだけ取り除いてみるのを検討する余地はある。高い家賃を払う価値はあるとだけは言っておこう。

 

5.SPORTIA 腰痛 サポートベルト コルセット 薄型

実は僕は学生時代の運動のしすぎで腰痛持ちなのだが、最近また腰の痛みがちょっと酷くなってきた時にこの商品をみつけた。

これはたったの1000円なのだが、姿勢矯正力が本当に凄い。

腰に巻きつけると自然と最も腰に負担がかからない姿勢に身体を矯正してくれるので、本当に腰への負担が激減した。

 

これなら職場の変な椅子だろうが、腰への負担はほぼゼロである。

全腰痛持ちはマストバイなアイテムだろう。

 

腰痛が特にない人でも、立ち仕事でキレイな姿勢を保ち続けなくてはいけない人とか、姿勢が悪くて何とかしたい人にもこのアイテムは役立つと思う。

機材が勝手に良い姿勢を作ってくれるので、ぶっちゃけ凄くラクに姿勢がよくなる。

こういうアイテムをつかってラクをするのも、己への善行である。

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おまけ。巨大PCディスプレイ+ファイヤーTV

これは自分の話ではないのでアレなのだが、友人から聞いて面白かったので追加で書いておく。

 

彼はめでたい事に最近子供が産まれ、育児に励んでいるのだが、一つの悩みがあったという。

幼な子に付き合い続けてると本当に心底体力を全部奪われるようで、それはもうエラいシンドいというのである。

 

自分の子は可愛いが、このままじゃさすがに鬱になる。

そう判断した彼は、今までは悪として絶対に家に家に設置しなかったテレビの設置を検討したのだという。

 

「よくよく考えてみれば、自分も英語の勉強によく映画とかみてたし、まあ子供の日本語リスニング能力開発にも役立つだろ」

 

ただ、テレビを置くとNHKに課金しなくてはならない。

年間2万円超・・・それだけは頑なに嫌だと思った彼は、苦肉の策として巨大モニターにファイヤーTVをぶっ込み、Amazonプライムを再生できるようにしたそうだ。

 

映像作品への子供の食いつき力は半端ない。

そうして彼は育児を動画コンテンツに多少ぶん投げる事に成功し、育児への労力はかなり減ったという。

 

ちなみに彼の子の齢はまだ1歳とのことだが、オススメコンテンツはAmazonこどもチャンネルにあるNHKのいないいないばぁとの事である。

この番組は全国の幼子が夢中になっているようで、ワンワンとうーたん、子役の子の歌って踊る姿に彼の子供はゾッコンだそうだ。その姿をみて、彼はあんなにも憎かったNHKへの課金を再検討しているとの事である。

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こんなもんだろうか。

自宅がトレーニングジムに早変わりするケトルベルについては別項目で書いたので、そちらを参照されたし。

いやぁ、物で生活を改善するのって、気持ちいいですよねぇ。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Owen W Brown

まだ私がコンサルタントだったとき、ある起業家と「成功」と「失敗」の話になった。

 

起業に興味のあった、私は聞いた。

「起業するとき、失敗するかもとかって、考えたことありましたか?」

「いや、ないよ。」

彼はこともなげに言った。

 

私は、それでは、と思い言った。

「勝算があったのですね。」

「いや、それもないよ。」

 

私は困ってしまった。

失敗も考えたことがない、勝算があったわけでもない、一体彼は何を思って、起業したのだろう。

すると彼は言った。

「あなたには一生わかんないと思うよ。」

 

私は内心ムッとしたが、お客さんに怒りをあらわにするわけには行かない。

へりくだって、こう尋ねた。

「すみません、なぜでしょうか。」

 

彼は、私を見つめていった。

「そういうとこだよ。あなたには、凄みがない。そう言う人には、説明しても、起業家の心はわからない。」

「……」

 

私は憤懣やるかたない状態であったが、平静を保って黙っていた。

彼は言った。

「世の中には、3種類の人間がいる。成功した人、失敗した人、そして、失敗すらしていない人。

「失敗してない人」には、説明してもわからない。逆に成功者、失敗者には、説明しないでもわかる。」

 

事実、彼の言う通り、永いこと私には彼の真意を理解できなかった。むしろ

「起業家は、サラリーマンを見下している。」

と、あらぬことまで考えてしまっていた。

また、起業家というのは、大抵の場合、「成功を過大に」かつ「失敗を過小に」見積もる人たちの集団であり、彼らは傲慢なのだ、と考えたこともあった。

 

だが、いずれも間違っていた。

彼の言っていたことは、間違いなく本質をついていたのだ。

 

 

ことの本質に気づいたのは、ある政治家と、その取り巻きの関係を見てからだ。

 

その政治家は、対外的には爽やかで、クリーンなイメージを保っていた。

が、裏では傲慢であり、態度のギャップが、私には非常に気になった。

 

私は側近の一人に聞いた。

「エラい裏と表が激しい人ですね。」と。

その方は言った。

「まあ、そんなもんですよ。」

 

そこで、私は率直に聞いた。

「大変じゃないですか?」

「そりゃー、大変ですよ。」

 

「それでもついていこう、という魅力があるんですね?」

「そりゃそうです。先生は体張ってますから。」

 

「体張ってますから……」

 

私はその時、初めて、いろいろなことに、合点がいったのだ。

「体張ってますから」という言葉が、これほどうまくハマったときは、ないだろう。

 

私は自分の無知を恥ずかしく思った。

彼らが言っていたのは、「リスクを取っている人だけが、見える世界がある。」という話だったのだ。

 

「あなたのように、リスクを取ってない人間にはわからないよ。」

と、彼らは言っていた。

 

実際、そのとおりである。

その政治家が、傲慢でも側近たちから許されていたのは、彼が「大きなリスクを取っていた」からだ。

側近たちは、彼の取っているリスクと苦しみを理解してるからこそ、彼に従っている。

 

失敗すれば、起業家も政治家も、虫ケラ同然で、まともな人として扱ってすらもらえない。

だから、リスクを取ると、必死になる。凄みが出る。

偉大な起業家も、政治家も、「傲慢で、怖い人」に見えるのは、当然なのだ。

 

だから、冒頭の経営者は「あなたには、凄みがない、言葉が軽い、リスク取ってないじゃん。」と、私を嗤ったのである。

 

 

 

「リスクをとっている人だけが、見える世界がある。」

は、至るところで見受けられ、軋轢を生む要因ともなっている。

 

たとえば、話題になっていたK-1の開催。

「中止させたいなら、本気でこいよ。俺達は莫大なカネと生活がかかってるんだよ、リスクを取ってないヤツは黙ってろ。」

そう言う態度が、今回の「イベント開催」からは見受けられる。

 

ここで問題なのは、コロナウイルスへの対策が適切かどうかではない。

(もちろん、開催しない方がよいのは間違いない)

問題なのは、コロナウイルスの拡散防止は政治的責任だが、政治家が誰も体を張っておらず、主催者に「要請」などと言って、リスクを丸投げしている点だ。

「逃げ腰」の政治家のいうことなど、リスクを取っている起業家は絶対に聞き入れないだろう。

 

本当に中止にさせたいなら、「憲法無視」と言われるリスクを背負ってでも、政治家が「俺が絶対に開催を止める」と、動けばいい。

でなければ、主催者側のリスクと釣り合わず、納得は得られない。

 

 

同様に、安易に「会社なんて辞めていい」とか「起業しろ」といったアドバイスをすることも許されない。

じゃ、そいつが起業したら、カネだしてやるのか?

そいつが潰れたら、面倒を見てやれるのか、と。

 

そう言う意味では親や身内が「ちょっと嫌なことがあったぐらいで、会社を簡単に辞めるな」と、退職を止めるのは当然だ。

なぜなら、親として、そいつの人生と生活を背負ってるから。

無責任なツイートとは重みが違う。

 

それでもやりたいならやればいい。

「だれもが呆れて、見捨てられるかもしれない状況」こそ、本当のリスクテイクだ。

 

親の方も「あれだけの覚悟でやったのなら」と、失敗したときに面倒を見てやる気持ちにもなるかもしれない。

それが、釣り合いってものだろう。

 

あるいは、こんな話もある。

リスクをフリーランスや下請け、あるいは社員に転嫁してくる会社は、最悪のブラックだ。

フリーランスは常に「切られる」リスクを背負っている。

ならば、使う側も「見限られる」リスクを背負っていなければ、まっとうとは言えない。

こう言う、非対称のリスクを取らせようとしてくる相手とは、まともに付き合う必要がまったくない。

 

 

「ブラック・スワン」を著した、ナシーム・ニコラス・タレブは、リスク・テイクは、勇気であり、最高の善だ、という。

みんなに人気のない真実を支持するのは、はるかに大きな善だ。なぜなら、その人の名声がかかっているから。

追放されるリスクを冒してまで行動するジャーナリストは、まぎれもなく善人だ。

 

一方、みんなが袋叩きにしているのを見て、同じことをしても大丈夫だとわかったところで初めて意見を表明し、おまけに善人面をする連中もいる。

それは善ではなく悪だ。いじめと臆病を足しあわせたようなものなのだ。

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逆に、「ウチの会社のスキームなら、リスクなく、ウマいこと稼げるんですよ。」と、さも自慢気に語る人々がいるが、大抵の場合、リスクが低いことを自慢するんじゃない、と憎まれる。

人々が憤慨している(すべき)対象は身銭を切らない権力者だということを主張していく。

彼らは相応のリスクを背負うこともなく、権力の座からすべり落ちたり、現在の所得階層や資産階層から抜け落ちたり、炊き出しの列に並んだりする可能性を免れている。

(中略)そういう連中は、その指標を操り、リスクを隠蔽し、ボーナスを受け取り、さっさと引退してしまう(または、別の企業で同じことを一から繰り返す)。そうして、その後の出来事の責任を後継者に押しつけるのだ。

 

起業家や、政治家は、先陣を切り、皆のリスクを肩代わりする存在だからこそ、尊敬されるのだ。

傷を負わない権力者など、迷惑千万である。

 

だから、私はリスクを取っている人々への感謝を忘れてはならないといつも思う。

そして、「リスクを取らないのに、あれこれ口ばかり出す」

とならないよう、肝に銘じている。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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Photo by Cristofer Jeschke on Unsplash

昔働いていた会社の話をします。

かなり狭い業界の話でして、具体的なことを書くと一発で特定されてしまいかねない為、製品名や技術名称などについては伏せて書きますがどうかご勘弁ください。

 

その会社の名前を、仮にA社としてみます。

A社の主要な収入源は、とある業務に最適化されたパッケージソフトの開発と保守、導入支援や運用支援等でした。

まあCADみたいなもんだと思ってください。

その業界で当該ツールを作っている会社は精々2,3社しかなく、業界は寡占に近い状況でした。

 

そもそも業界のパイ自体があんまり大きくないので、「GAFAみたいな大企業が黒船のように乗り込んできて皆がなぎ倒される」といったことが起きる心配もそれ程なく、比較的ぬくぬくとした環境であったように記憶しております。

今どうなってるか知りませんが。

 

で、当然ながらほぼBtoBの商売しか行っておらず、顧客は殆ど全てが「大口顧客」。

顧客層もある程度限定されており、業務も似通っているので、「お客様の声」というのは非常に重要でした。

 

「こういう機能欲しいなー」とか「こんなこと出来るようにならないかなー」という声が、受託開発かよっていうレベルで重視されました。

あんなこといいな、できたらいいなの世界。皆様のドラえもんです。

 

「できたらいいな」のレベルとはいえ、なにせ利用範囲が狭いツールなので、お客様のビジネス上の必要性も具体的ですし要件も明確です。

要望に応えないで競合他社の製品に切り替えられてしまうとそれだけで会社が傾きかねないので、対応する側としても必死。

要望イコール受託開発、っていう言葉もあながち大げさではありません。

 

その時は、とある大口顧客の要望を受けて、主力ツールを補完するような立ち位置の補助ツールが開発されようとしていました。

今まで開発したことがなかった機能で、技術難度はそこそこ。

現状のスキルや実績で実現可能かどうかについて検討が行われ、私自身フィージビリティ(実現可能性)の検討MTGに出席して、あーでもないこーでもないと議論しました。

 

結局、既存のスキルセットで実装は可能だしパフォーマンスも担保出来るけど、あれこれ工夫しないといけないし工数はそこそこかかりそうだよ、というのが検討の結果でした。

その時、社内のとあるエンジニアが、こんなことを提案しました。

 

「これ、〇〇っていうフレームワーク使えば簡単に実現出来ますよ。ぼく前似たような開発したことがあります」

 

ほほう、と上層部は興味を惹かれました。

そのエンジニアを仮にBさんとしますが、Bさんの見積もった工数は、既存の技術で実装した場合の2割から3割程度、ライセンス費用等の心配もありません。

なにより「一か月もあれば結合テストまで終わる」という、開発のスピード感が魅力的でした。

 

ただ一つ問題点として、その技術、社内にBさんしか詳しい人がいなかったのです。

ちょっとだけ触ったことがある、という程度の人が一人。

「聞いたことはあるけれど中身は全然知らん」という人が数人(私もその中に含まれます)。

あとのエンジニアは誰も、フレームワークの名前を聞いたことすらありません。

 

社内のエンジニアであればほぼ誰でも使える既存技術か、Bさん以外はほぼ中身を知らない新技術。

どっちを使って開発するか。

 

もちろん上層部も、保守や導入支援に当たって「その技術を知っている人材の厚さ」が重要だ、ということは認識していました。

あるいは認識しているつもりでした。

Bさん一人ではとても運用支援や保守は回せないので、開発自体は出来たとしても、その後当該スキルを持った人員を育成、あるいは採用しないといけません。

それも考えるとそこまでコストが削減できるわけではない、ということまでは、上層部も理解していました。

 

上層部に足りなかったのは、「スキル習得」や「スキルを持った人員の採用」ということの、実際の難易度に関する認識。

そもそもA社は、どちらかというと枯れた技術で堅実な開発をやることに特化してきた会社でして、オープンソーステクノロジーの導入を始め、「新規技術の導入」ということに実績や知見を持った人はあまりいませんでした。

上層部自身エンジニア出身ではあったのですが、同じく枯れた技術でメインフレームやら基幹システムの開発をしてきた人たちです。

人材豊富な技術畑における開発や育成しか経験がなかったんです。

 

もしかすると、「新しい技術を導入する為のいい機会」だという考えもあったのかも知れません。

ただ、なにより「既存技術だと野暮ったくて泥臭い開発になるけど、新しい技術だとすっきりスマートにかっこよく解決出来る」というのが決め手になったのではないか、と、当時の空気から私は推測しています。

なんにせよ上層部が、「まあ人が足りなかったら育成なり採用なりすればいいや」という程度に考えていたことは間違いありません。

 

結局Bさんの意見が採用され、数人の開発チームが編成されました。

メインの開発者は当然Bさんで、技術メンバーはBさんからスキルトランスファーを受けつつ技術習得、最終的には当該チームで運用支援まで回す、という見込みでした。

 

***

 

以下は後から聞いた話です。

 

結論から先に言うと、「スキルトランスファー」というのは絵空事でした。

一休さんに「ではスキルトランスファーを絵から出してください」と言われそうな状況でした。

 

大口顧客の要望から始まった当該開発は、社内プロジェクトなのに何故か開発期間が非常にタイトでした。

BtoBといっても顧客との力関係というものはあります。

当該顧客は業務上の必要性から早急にそのツールを必要としていましたし、競合他社への切り替えを匂わせることが大きなプレッシャーになることも熟知していました。

上層部がBさんの提案に飛びついた理由の一つもそれでした。

 

結果、Bさんはプロジェクトの初期から全力で設計・開発に取り掛からなくてはならず、メンバーに技術説明をしている隙など全く発生しませんでした。

プロジェクトの初期に当該技術についてのBさんによる説明会が行われましたが、全8回で一通りの内容を伝える筈だった説明会は、結局最初の1回しか開催されませんでした。

 

それならばと、プロジェクトの残りの開発メンバーはwebから当該技術についての知識を得ようとしましたが、すぐに愕然としました。

 

資料もドキュメントも殆どwebにないのです。

日本語の技術書籍すら発売されていません。

 

当該技術のコミュニティがあるにはあり、そのコミュニティに参加することで多少のフィードバックを受けることは出来たのですが、そのやり取りは全部英語、かつやり取り自体そこまで活発ではない。

セミナーなりなんなり参加しようとしても、セミナーはアメリカとオーストラリアでしか開催されておらず、しかも次の機会は再来月、というような状況でした。

 

結果、Bさん以外の開発メンバーは、ドキュメント作成とテストケース作成以外何もやれることがない、という状況に、プロジェクト開始早々なってしまいました。ヤバさマックスコーヒーです。

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当然上層部は慌てました。

これも狭い業界の悲しさか、それとも営業の脇が甘かった為か、大口顧客には既に「当該機能を実現した補助ツールが〇月にはリリースされる予定ですよー。

だから保守更新よろしくね」と言ってしまっていたばかりか、他の顧客にも「こんなツールできますよ。導入しません?」などと言ってしまっていました。

今更プロジェクトの線を引き直すことなどとても出来ません。

 

結果、当該技術が使える人がBさん以外誰一人いない、という状況のまま、Bさんの頑張りでツールはリリースされてしまいました。

そう、「されてしまった」のです。

 

大変なのはここからです。

当たり前ですが、業務パッケージというものは「リリースしてそれで終わり」というものではなく、それ以降の支援業務が一番重要です。

お客さんへの導入支援や、技術的な対応でお金をもらわなくては会社は回りません。

そして、社内にそれがちゃんと出来る人はBさん一人しかいません。

 

結果、リリース直後からBさんの工数は保守・運用で完全に埋まり、開発完了後もスキル移譲の時間などこれっぽっちも取れませんでした。

他メンバーの技術習得も遅々として進みません。

 

それなら採用だ、となったんですが、これもある意味当然のことながら、「そんな珍しい技術が使えて、しかも就職市場でたまたま空いている人」などどこを探しても見つかりません。

大手人材紹介会社のエージェントもお手上げ。

たまたまスキルを持った人を見つけても、所属している会社でがっつり開発に入って全力ホールドされている、という人ばかりでした。

 

悪いことは重なるもので、殆ど余裕がないスケジュールで動かざるを得なかったBさんは、この後メンタル面で調子を崩して退職。

会社はどうしたかというと、フリーランス扱いでBさんにサポートの仕事を請けてもらいつつ、結局1から既存技術で丸々開発をやり直すことになってしまいました。開発費用丸損です。

 

Bさん自身、実際は「当該技術の人材が薄く、特に国内には殆ど人材層がない」ということは多分知っていたんじゃないかなーと推測でき、当初は「社内での自分のプレゼンスを高める」という意図が多少はあったんじゃないかなーと邪推してしまうのですが、それがあまりにも効き過ぎてしまった格好です。

以上が、最終的に誰も幸せになれなかった案件の顛末です。

 

***

 

この事案から、私は幾つかの教訓を抽出しています。

 

・多少野暮ったく見えたとしても、「誰でも使える技術」で実装することの価値は代え難い

・技術は、「マイナーな技術である」というそれだけで習得難易度が跳ね上がる

・マイナーな技術を持った人をそう簡単に採用出来ると思ったら大間違いである

・システムに限らず、「誰か一人しか出来ない」という仕事の存在は会社にとって致命的であり、何を措いても解決しなくてはならない

・だから、「特殊な仕事を誰でも出来る内容に置き換えられる」という能力を持った人は滅茶苦茶貴重である

・受託でもない開発案件で顧客にリリース時期の約束をした営業は強めにおなかこわして三日くらいトイレにこもれ

こんな感じです。

 

人員の冗長化、大事ですよね。

「自分一人しか出来ない」でプレゼンスを得るという戦略は時には成立するんですが、それでも会社にとっても当人にとってもそれ滅茶苦茶リスキーだよ、という話でした。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Illya Kondratyuk

近年、「読解力が低下している」という嘆きをよく耳にする。

実際、PISA調査で、日本の高校1年生の読解力は15位に急落したらしい。

PISA調査 日本の15歳、読解力15位 3年前より大幅ダウン 科学・数学的応用力はトップレベル維持

経済協力開発機構(OECD)は3日、世界79カ国・地域の15歳を対象として2018年に実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果を公表した。

日本は読解力が前回(15年調査)の8位から15位と大きく後退したほか、数学的応用力が前回の5位から6位に、科学的応用力も2位から5位に順位を落とした。

文部科学省では、読解力の記述式問題などで課題が浮き彫りになったとみて、学力向上策など検討する。

 

にしても不思議だ。

高校生たちが文章に触れていないかというと、まったくそんなことはない。

SNSや動画のコメント、ネットニュース、まとめ記事……「文章」に触れる機会はいくらでもある。

 

ネットではたくさん文章を読んでいるのに、それでもみんなが口をそろえて「読解力がなくなった」と言うのは、なんでなんだろう?

 

文章を読めていない人があまりにも多いという事実

少し前に話題となった『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』という本では、子どもたちがいかに「読めていないか」を丁寧に解説している。

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全国2万5000人を対象に実施した読解力調査でわかったことをいくつか並べると、

・中学校を卒業する段階で、約3割が(内容理解を伴わない)表層的な読解もできない

・進学率100%の進学校でも、内容理解を要する読解問題の正答率は50%強程度である

・読書の好き嫌い、科目の得意不得意、1日のスマートフォンの利用時間や学習時間などの自己申告結果と基礎的読解力には関係はない

とのこと。

 

つまり

「文章を正しく理解できない人が想像以上に多い」

「しかも読解力を上げる、下げる要因はわかっていない」

とのこと。これは由々しき事態だ。

 

「いやまぁ俺は読めてるけどね」と余裕たっぷりの人のために、同書から例題を2つほどお借りし、かんたんに紹介したい。

【1】

仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。

→オセアニアに広がっているのは(  )である。

1.ヒンドゥー教

2.キリスト教

3.イスラム教

4.仏教

 

【2】

この二つの文が表す内容は同じか、異なるか。

・幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。

・1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。

【1】の正答率は、高校生で72%。

解答したのは進学率ほぼ100%の進学校に通っている生徒であるにもかかわらず、10人のうち3人は、この文章が理解できていないのだ。

【2】に至っては、中学生の正答率はたったの57%。2択問題なので、適当に答えても5割は正解する問題にもかかわらず。

 

ちなみに答えは、「キリスト教」と「異なる」である。

さてみなさん、無事正解できただろうか。

 

適当に読んでたいして理解できなくても困らない問題

同書には「読解力を下げる要因ははっきりとはわからない」と書かれているが、わたしには読解力に影響を与えそうな要素にちょっと心当たりがある。

それは、「流し読みの習慣」だ。

 

上の例題に答えるとき、あなたはきっと文章を3度読み、答えを決め、確認のためにもう一度問題の文章を読んでから記事を読み進めたのではないだろうか。

少なくともわたしはそうだった。だって、まちがえたくないもん。

 

しかし日常生活で、そこまで用心深く「読む」ことはほとんどない。

ネットニュースは、スクロールしながらさらっと目を通すだけ。

新聞は文字が多いから、見出しを一通り見たらそれでOK。というか、新聞なんてそもそも読まない。

 

マンガは絵を見ていればあらかた内容を理解できるし、SNSも短文がメイン。句読点ごとに改行する人だっているくらいだ。

きっちり読み込まなくても別にいい。なんとなく趣旨さえわかっていればそれでじゅーぶん。

それくらいの気持ちで文章に触れている人も多いだろうし、それでも困らない。

 

そう、問題は、たぶんここなのだ。

「適当に読んでたいして理解できてなくても、困らない」。

 

流し読み前提のネット文章に慣れすぎたわたしたち

実際、多くのまとめサイトでは、マニュアルとして「記事の紹介と結論を冒頭に」「だれが読んでもわかる文章を」というルールを設けている。

 

まず最初に「この記事はこれについて書きますよ。結論はこうです」と表明し、文章は短く改行を多くすることが「正しい」やり方とされているのだ。

文章だけだと飽きられるから、画像だって適宜入れる。むずかしい言葉は使わない。

読者は知りたいことを検索して記事を見つけ、その答えが書かれている部分しか読まないのだから。

 

もちろん、ネットでもそういう記事ばかりではない。

おもしろい内容のほうがいいに決まってる。

とはいえ、電車が来るまでの3分の暇を潰せる記事、SNSの話題についていける旬な記事を、「流れてくるから」という理由でクリックする読者がほとんどだ。

 

なんどもなんども読んで、吟味して、自分なりの考えをもって再読して……なんてやってくれる読者の方がいれば、筆者としてはめちゃくちゃうれしいわけだけど。

でもネット記事でそれを期待するのは、ちょっと筋違いだとも思う。

 

要は、ネットにある文章というのは、ポイ捨てする・される前提で書かれているものが多いのだ。

だから流し読みでも理解できる内容になるし、読者もそれに慣れていく。

 

「読む覚悟」をもって文章と向き合うことなんて必要ない?

「スマホの使用時間が読解力に影響する」という調査結果は得られなかったそうだが、少なくとも流し読みの習慣は、スマホによるものが大きいと思う。

適当なところをつまんで読んで、頭の中で適当につなぎあわせて、「まぁこういうことだろう」と適当に納得する。

それでも困らないから、流し読みがどんどん癖になっていく。

 

だって、本気で文章を読み込むって、時間も労力も必要で面倒くさいんだもん。

「読む」より「眺める」ほうが圧倒的に楽。

頭の中で辻褄を合わせれば、まぁだいたいのことはわかった気になれるし、それで十分。

 

「本を読むと3分で眠くなる」という人でも3時間ネットニュースを読めるのは、単に流し読みして脳みそを使っていないからだと思う。

読んでいるのではなく、眺めているのだ。

 

でもネット記事の多くは、「眺めるだけでわかるように」を意識してつくられているから、それでも困らない。

そして、困らないことがきっと、問題なのだ。

 

「読む」ということ自体を苦痛に思う人は、ネットニュースやSNSで読むことだって苦痛のはず。

でも実際、「読むのが嫌い」という人は主に、「本を読むのがイヤだ」という。

 

それは、本は、眺めているだけでは内容が入ってこないからだ。

「読書」には「読む覚悟」が要求される。

ちゃんと文章を順番に読んで理解しないと、なにがなんだかわからなくなってしまう。

 

専門書にはむずかしい言葉が出てくるし、前提を理解していないと結論についていけない。

小説だって、行間に漂う空気を読み取れなければ、「へーそう」で終わり感動できない。

流し読みに慣れている人にとって「ちゃんと読む」は苦痛だから、「読書嫌い」が増えているんじゃないかなーと思う。

 

そう考えると、読書離れが進むなかで多くのライトノベルがミリオンセラーを達成している理由にも納得がいく。

多くのラノベは、「流し読みでもわかる」「深く考えずともストーリーを追える」ようになっているし、挿絵もある。

改行は多いし文字も大きい。

読む覚悟なんてなくとも内容を理解できるから、ラノベは多くの人にとって「読みやすい」のだと思う(もちろん、ラノベの魅力はそれだけではないが)。

 

ネットで記事書いてるライターとして、流し読みを「ダメ」だというつもりはまったくない。

ぼーっと眺めて読んだ気になることが悪いわけじゃないし、だれが読んでもわかる内容というのは、ある意味「質が高い」ともいえる。

でも、読むことへの覚悟が問われないなら、読むことに対して真摯にならなくなるのもまた当然だよなぁ、とは思う。

 

文章を通じて頭を使う練習をしなければ読めなくて当然

読解力というのは、文章を通じた筆者と読者のコミュニケーションだ。

筆者のメッセージを理解するため、知識や感動を自分のものにするために頭を使うことが、わたしが定義する「読解力」である。

 

それは専門書だろうが、小説だろうが、自己啓発だろうが、インチキ医療本だろうが、基本は同じ。

「読書量と読解力は比例しない」という調査結果もあるようだが、適当に読んでたらそりゃ読解力がつくわけがない(別調査では相関関係が認められているので、実際のところはよくわからないけれど)。

 

読解力を「読む力の偏差値」と考えると、「偏差値をあげる努力をせずにある程度できるだろう」と思うほうが甘い気がする。

受験が終わって3ヶ月もすれば、必死で覚えた年号だって忘れるものだ。

 

しっかり読み込むという作業から年単位で離れている人たちに、当然のように「読める」力を期待するのもおかしな話だろう。

だってふだん、注意深く文章と向き合う必要なんてない生活を送っているのだから。

 

そして注意深く文章を読まなくてもOKとしたのが、わたしたちが日常的に触れているインターネットなのだと思う。

というわけで、読解力の低下には「流し読み習慣」が影響していて、読解力を上げるためには「筆者が伝えたいことを理解するために頭を使う」経験と習慣が必要だと思うのだが、いかがだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Michael Coghlan)

初めての育児を1年くらい続けて、気づいたことがあったので記しておきたい。

子育ての先輩たちからすれば「そんなの当たり前だろ」だとか、「そんなことを気にしてどうする」と言われる向きもあるかもしれない。まあご容赦いただきたい。

 

「えらい」という言葉がある。

『精選版 日本国語大辞典』(小学館)によれば下記のとおり。

えら・い【偉・豪】

 

1.物事の程度のはなはだしいさまを表わす。

①(副詞的にも用いられて) なみなみでない。大変だ。ひどい。

②思いもかけない。とんでもない。予想外だ。

③苦痛などが激しく、たいへんである。耐えがたい。

④疲れている。つらい。しんどい。

 

2.物事の状態などのすぐれているさまを表わす。

①社会的な地位、身分が高い。

②行動や識見がすぐれている。立派だ。

西日本のいくつかの地域では、口語だと1の意味で用いられることが多いが(「えらいこっちゃ」)、ごく個人的な印象として、2の意味では最近耳にすることが少なくなってきたように思う。

 

まあ、これも俺の観測範囲の問題なので「そんなことねーぞ」と言われると、うちの村ではそうなんですがお宅さんはそんな感じですか、へえなるほどとしか答えようがないのだが、自分自身「えらい」という言葉を使いづらくて、

何故かと言うと、この言葉は多分に権威主義的なものを含んでいるからである。

 

誰かの行いを目にして「えらい」と声をかけることを思うとき、なんだかそう口にしてる俺のほうがえらそうだなと躊躇ってしまうのだ。

 

誰かの行為に対し「えらい」と口に出すとき、俺の中には何がgoodであるか、どのようなものがsuperiorだと称されるべきかという評価の軸が先行して存在している。

評価者としての立場から、誰かの行いをその物差しに当てはめる、その枠組みに押し込む過程が「えらい」には内在する。

 

そしてここが「えらい」の独特なところだが、その物差しには、倫理的/道義的/善悪判断的なものが含まれている。

 

現代の日本では、価値はそれぞれの個人の感情、意欲、信念などに依拠する相対的なものであるとする、価値相対主義が価値観として主要なものとなっている。

そんな中で「えらい」が持つこの押し付けがましさが、今となってはなんだか居心地悪くて、人々のあいだで「えらい」を口に出すことが憚られるようになってきたのではないか。

 

そのことは特にどうこう言うことではないし、反権威主義にシンパシーを感じる身としては、むしろ良い傾向なのではくらいに思っているのだが、最近少し戸惑うことがある。

幼い娘に親として接するとき、親として、「えらい」と言うしかない瞬間があるのである。

 

子どもが一つずつ言葉を覚えたり、何か新しい技能を習得したり、身体のコントロールに習熟したことが見て取れたりしたとき、親は「すごい」「いいね」「上手」「○○ができたね」と褒める。

たぶん他の家庭も似たようなものだと思う。ここに違和感はない。

 

問題は、子どもが一家のルールに従うことができたときである。

家族の共同責任者として、そのとき俺は「えらい!」と叫ばずにいられない。

 

他に適切な言葉が見つからないのである。

 

発達心理学者Diana Baumrindは1966年に"Effects of Authoritative Parental Control on Child Behavior(子どもの振る舞いに対して親が厳然とコントロールを行ったときの効果)"と題した論文を発表した。

 

親の子どもへの接し方を2つの軸で分類する。

1つは子どもに対しどの程度監督者として干渉するか(仮にこれを「支配度」とする)

もう1つが子どもからの呼びかけ・働きかけに対しどの程度応えるか(「反応度」とする)である。

 

支配度、反応度それぞれの高低で子育てのスタイルは4つに分類できる。

 

支配度・高、反応度・低……権威主義タイプ。

子どもに家庭のルールを守らせ、その振る舞いに口出しするが、その理由を説明することは少ないか、全く無い。

子どもからの提案や要求に対しても対話せず、いちいち反応しない。

 

支配度・低、反応度・高……奔放・寛容タイプ。

子どもが守るべき家庭のルールはあまり設けないか、設けても厳格に守らせ- ることはしない。

温かみがあり子どもの感情的ニーズを満たす、子どもの意向中心のスタイル。

 

支配度・高、反応度・高……毅然・信頼タイプ。

子どもに家庭のルールは守らせ、彼らの振る舞い方についても細かく要求する。

一方で、ルールの意図を子どもにきちんと説明し、対話を行う。

監督者としての威厳を保ちながらも、子どもの自立を奨励する。

 

以上3つのスタイルのうち、Baumrindの研究において、子どもの将来的な幸福と大成に繋がったのは3番目の毅然・信頼タイプだった。

(なお、Baumrindの研究を2軸による4象限に整理したのはMaccoby&Martin(1983)。更に彼らは残る4つ目のスタイルを付け加えた。支配度・低、反応度・低のネグレクトタイプである。大方の予想通り、このタイプが4つの中で最も子どもに問題をもたらしやすいことが判明している。)

 

Baumrindの研究はその後、各スタイルによる結果の地域差などを指摘されつつも(例えばアジア地域では権威主義タイプによる育児が、またスペインでは奔放・寛容タイプによるそれが、毅然・信頼タイプによるものと同程度のパフォーマンスを発揮した、とする研究結果がある)、毅然・信頼タイプが子どもの生育に最もよい影響を与えることは現在も否定されていない。

であれば我が子をそうやって育てようというのが親心であり合理的判断である。

 

なのだが、ここで先程の戸惑いがある。

これまで一個人として、価値は相対的なもの(故に合意こそが尊ばれるものである)、というムードの中を生きてきたのに、親として子どもに対するとき、どこかの段階で否応なく、何らかの価値観に基づく規則を独断で措定しなければならない。

ルールの存在とその遵守を学ぶことが子どもの社会的能力の発達に不可欠だというのもそうだが、そもそも我が家のルールがなければ、家庭生活が成立しないからである。

 

例えばまだまだ先のことだが、ゲームは一日何時間までか問題が我が家にも必ず発生する。

仮に1時間としたとき、何故そうなのか、俺は説明できない(少なくとも今のところは)。

門限を何時とするのかについても、やはり説明できない。

 

説明できないが、家庭運営の共同責任者として、俺は子どもにそのルールを強制しなければならない。

(門限を設定する理由は説明できる。だがそれを何時とするかは、仮に子どもが心から同意できなくても、親が決めなければならない)

 

そしてBaumrindに従うならば、ルール破りに罰を与えるだけでなく、その遵守には賞賛を与えるべきである。

ルールを守れた子どもに、あるいは賞賛すべき行いをした子どもに、我々は親としてどんな言葉を投げかければよいのだろうか?

 

近年、子どもの行いに対して、褒めるのではなく「承認」する手法がよく推奨されるようだ(元はコーチングの技法が、子育てにも取り入れられたもののようである)。

 

例えば子どもから描いた絵を見せられたとき、

「上手に描けたね」

と褒めるのではなく、

「お魚さんの絵を描いたんだね。青いクレヨンでたくさん塗ったね」

と観察して得られた事実を言葉にして伝えるのがよい、という。

 

「褒める」に比べて「承認」の優れたところは下記のような点である。

・見たままを伝えるだけなので、口下手な親でも伝えやすい。

・具体的な言葉で伝えるので、子どもは何を褒められたのかがよく分かる。

・「承認」を心がけていると、親は自然と子どもの振る舞いに目を配るようになる。

・おべっかを使う必要がなく、露骨さも少ない。

 

なるほどこれは使いやすいなと思うのだが、ルールの遵守を「承認」しようとすると、途端に次のようになってしまう。

 

「ルールを守れたね」

「門限の時間までに帰ってこれたね」

 

これはちょっと、かえって露骨というかあざといというか、極端に言えばマッチポンプじゃなかろうか。

観察して得られた事実を言葉にして伝えているだけ、という振る舞いが、ここでだけは「それを決めたのは結局俺だよな」というなんだか釈然としない感触を残してしまう。

 

そこで「えらい!」である。

 

なんだか扱いづらかった「えらい」が、実にこの場面ではよく馴染む。

ルールを守らせる側である発言者が、家庭内での権威者であることを、「えらい」は隠さない。

「えらい」は確信犯の言葉である。

 

私たちは親として、価値が相対的なものでしかないことを知りながら、そうではないかのように振る舞わなければならない。

道徳心のあり方は多様であり、それを持たないことすらも選びうるが、その中でベストと思えるスタイルを、子の幸せを願うかぎり親は子に、確信犯として示す必要がある。

 

「みんな違ってみんな良い」は良い言葉だが、親が子に果たす責任を背負った言葉ではない。

必ず正しい答えがないことを知りながら(そして、それをきっと将来反抗期の我が子に改めて突きつけられるのだろうとおぼろげに気づきながらも)、 私たちは権威者として振る舞わなければならない。

 

世の親たちはこんな難しい課題を与えられているのかと、今更ながらしみじみと思ってしまった。

 

 

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【プロフィール】

著者:dudihan

文教市場ではたらく妻子持ち30代サラリーマン。

ユーモアと音楽と社会科学を愛する。

福岡県出身。

ブログ:ditm.

(Photo:mistahbloo

2月当初は「インフルエンザとたいして変わらん」とみんなが軽く見ていた新型コロナウイルスで世の中はてんやわんやである。

ニューヨーク市場のエブリデイ・サーキットブレイク、600兆円にも及ぶ量的緩和、そして世界同時鎖国、そして恐らくの東京オリンピック延期・・・

 

正直、書いてるだけで世紀末感がハンパない。

仮に第三次世界大戦がおきても、ここまで悲壮なことにはならないんじゃないだろうか。

それぐらいにはスケールが桁違いである。

 

一年前にこんなことが起きるだなんて、誰一人として考えていなかった。

ナシーム・ニコラス・タレブが言うように、まさしくブラック・スワンはあったのだ。

私達がいま、間違いなく後世に語り継がれるであろう瞬間を生きているのは間違いない。

 

正直いうと、ぼく個人としては性根では未だに新型コロナウイルスの事をそこまで恐ろしいものだと思っていない。

いないのだが、じゃあその恐ろしくないものがカタストロフと言っても差し支えない事態を引き起こしているのも、また事実である。

 

この認知の捻れが何によるものなのかをずっと考えていたのだが、これはデータと実態、マクロとミクロの認知のズレによるものなのだという事がわかったので、今日はそれについて書いてみようかと思う。

 

データのコロナ、実際のコロナ

新型コロナウイルスはミクロの目でみると80%の人には単なる風邪である。

致死率も若くて健康な人なら1%以下と、そこまで高いわけではない。

<出典 https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/031200170/?SS=imgview&FD=-926911839

 

「99%大丈夫なのだから、そこまで恐れるものではない」

これがミクロな目で見たデータ上のコロナウイルスに対する認知である。

 

正直、多くの医療従業者はこの情報を聞いたときはナメていたはずだ。

「武漢、閉鎖しちゃったってよ」

「ハッハッハ、中国君はいっつも大げさだなぁ」

と他人事だったに違いない。

 

しかしひとたび新型コロナウイルスが日本で発生し、現場で対応する側に回されると、実情はデータと全く異なるものだという事を嫌というほど知らされた。

 

いま少なくとも僕が関わる現場では、発熱かつレントゲンで肺炎と思われる像を呈した患者さんがやってきたら、PPEという完全防護服を着て、隔離された場所にて診療をおこなわなくてはならない。

正直これは本当に面倒くさく、イチイチやりにくくてしょうがないのだが、医療者が二次感染してうつす側に回れるはずもなく、フル装備でやらざるを得ない。

 

こうして1周遅れぐらいで医療従業者のほぼ全員が

「ん?これなんか思ってたのより、かなり面倒くさいぞ」

となるのだが、更に面倒なのはここからだ。

 

先程もいったとおり、このウイルスは人にうつる。

どんな感染症もひどくなると当然入院しなくてはならないのだが、肺炎で入院してきた患者さんが何の原因で肺炎になったのかは来た段階ではグレーである。

 

細菌かもしれないし、インフルエンザかもしれない。

ひょっとしたら新型コロナウイルスかもしれない。

こんな感じで原因がわからないのだから、肺炎はほぼ全例新型コロナウイルス患者疑いとして扱わせざるをえない。

 

この新型コロナかもしれないグレーな患者さんを、まさか四人部屋のベッドに入れるわけにはいかない。

だから当然、個室管理となるのだが、こんな事態を多くの病院は想定していないから、個室が肺炎患者で想定以上にパンパンになってくる。

 

新型コロナ感染でないとわかれば、個室から外にでる事ができるが、それがわからない限りは個室にずっといてもらうほか無い。

いま全国の病院はいまだかつてないペースで個室がミチミチである。

 

もし仮に新型コロナウイルスが院内でアウトブレイクでもしようものなら、病棟閉鎖などなど、とんでもない事になるから戦々恐々であり、現場は普段以上に疲弊している。

 

こうしてデータの上では「99%大丈夫、たいしたことはない」と思っていたはずのものが、実態は意外とリソースを食いまくってくる事に2週遅れぐらいで気がつくのだが、この段階ですら僕はまだこれの真の問題点を見誤っていた。

 

ミクロのコロナ、マクロのコロナ

すごく大雑把にいうと、肺炎は細菌性とウイルス性の2パターンがある(他にもあるが割愛する)

細菌性はかなり急激な経過をたどる事が多いのに対して、ウイルス性のはそこまで酷くなる事は稀だ。

ごく一部の例外を除いては、人工呼吸器やECMO(人工心肺装置)なんて付ける事などはほぼない。

 

それがこの新型コロナウイルス感染は、たまにこれらの装置が必要になるレベルで悪化するのである。

そうなると個室のリソースだけではなく、人工呼吸器やECMO(人工心肺装置)のシェアが奪われてくるのだが、これも想定以上には余裕をもって設けられているものではない。

 

イタリアやアメリカで新型コロナウイルス患者がアウトブレイクし、ICUが一気に満床になり医療崩壊寸前にまでいったという話を聞いた時、ようやく新型コロナウイルスはミクロでみるのではなく、マクロの目でみなくては事の本質を見誤る事に3周遅れで僕は気がついた。

 

こいつらは個じゃなくて群で襲いかかってきた時、真にその凶悪さを発揮するのである。

先程もいったけど、新型コロナウイルスは健康な人間99%にはほとんど意味をなさない。

だから正直、経済的なコスパだけを考えれば徹底して放置するのもある意味では正しい。

 

けど、それはとても非人道的な事であるし、そんな病人や高齢者といった弱者にひどく厳しいディストピアな社会は私達には許容しがたい。

そうした集合的無意識の行き着く先が、誰も想像しなかった世界同時鎖国なのである。

 

データと実際、ミクロとマクロの目がどれだけ違うのかを僕は今回の一件で痛いほどによく理解した。

またしても「病をみて人をみず」をやってしまったなぁと反省である。

<参考 ピークカット戦略(集団免疫戦略)地獄への道は善意で舗装されている | Medium

 

ゴブリンスレイヤーで読み解く新型コロナウイルス問題

一個一個は大した事がないものでも、群れとなり軍隊を形成して襲いかかってくると、全然性質が変わってくる。

 

これは蝸牛くも先生が書かれたゴブリンスレイヤーという物語にも通じてくる話である。

この物語は、最下級モンスターとされるゴブリンのみを狩る冒険者・ゴブリンスレイヤーの活躍を描く作品である(アニメ版が非常に面白いのでオススメ)

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ゴブリン1~2匹であれば力自慢の村人でも倒せるほど弱いが、群れをなして残忍狡猾なやり口で人間の集落や冒険者たちを陥れる存在であり、油断すれば村を滅ぼすことすらある脅威となる。

一般に弱いと認識されるゴブリンを殲滅しても名声は得られず、報酬も少ない。

そのため、多くの冒険者はゴブリンなどには見向きもせず、一見するとカッコいいドラゴン討伐などをやりたがるのだが、そのような社会において、決して油断せず様々な技巧や知識を駆使し、ただ淡々とゴブリンのみを狩る存在として、ゴブリンスレイヤーが描かれている。

 

このゴブリンスレイヤーの物語は福祉に携わる人のオマージュだと僕は理解している。
医療を含めて、福祉は正直なことをいってあまりカッコいい仕事ではない。

六本木ヒルズにある外資系企業で働くほうが社会的尊厳も圧倒的に高く、また給料もいい。

福祉は構造上、お金を稼げる仕事ではないから、一般的にはかなり低賃金労働だし、また社会的尊厳もそこまで高いとは言い難いものがある。

 

人は見た目がいいものを好む。

年収3000万円でフェラーリを乗りまわしている人になりたい人は山ほどいるだろうが、ドヤ街で恵まれない人たちの為に活動する人になりたい人は、残念ながらそう多くないだろう。

 

そういう意味では、ゴブリンという評価されない対象に対して情熱を燃やして対処するゴブリンスレイヤーの物語が流行ったことには、僕は日本の社会のある種の成熟を感じる。

みんな本当は気がついているのである。

ハリボテで塗り固められたキラキラしたものの嘘くささに。

草の根で活動する人たちの尊さに。

 

今回の新型コロナウイルス問題もそうである。

この問題を解決するのは、わかりやすいヒーローや勇者のような英雄的存在ではない。

全国の医療スタッフは当然として、わたしたちひとりひとりの草の根の民の努力が、こいつには1番効くのである。

 

ひょっとしたら気がついてないかもしれないけど、私達はみな1人のコロナウイルススレイヤーである。

しばらくは根拠のない不安に襲われるかもしれないが、世界はいままでも、そしてずっとこれからも今より良くなり続けている。

 

がんばっていきましょう。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Gauthier DELECROIX - 郭天

仕事ができる人は、おしなべて「人に期待しない」というイメージがあります。

悪い意味ではなく、いい意味で「過剰な期待が身を滅ぼす」と知っているからです。

もちろんこれは「人」、つまり他者だけではなく、「自分にもあまり期待しない」ことも含んでいます。

まあ、「やれること」と「やれないこと」の区別が徐々についてくからなのでしょう。

 

もちろん、上司や経営者が、面と向かって「お前には特に期待してないよ」などとは絶対に言わないほうがいいでしょう。

わざわざ人のやる気をくじくような発言をするやつはただのアホです。

 

彼らは老獪なので、「がんばれ」くらいは言ったりします。

でも内心では「ちゃんとやれたら儲けもの」くらいにしか思っていないことが殆どです。

 

「期待」は「依存」に変わりやすいし、一人の人間に依存することは経営上のリスクだからです。

 

「できた大人」は、子供にも期待しない。

もちろんこれは仕事に限りません。

 

「期待」というものは、裏切られると「苛立ち」、場合によっては「憎悪」に容易に変化するため、扱いが非常に難しいです。

だから「できた大人」は、徹頭徹尾、「他者に期待すること」は控えます。

 

人事コンサルタントをやっていたとき、

幹部に向かって「めちゃくちゃ君たちには期待しているから!」と笑顔で言っていた経営者が、彼らが去った途端、

「ま、どこまでやれるかね。」

と冷静に言う、なんてことは、日常茶飯事です。

でも、彼らはは非常に失敗に寛容でした。

 

実際、彼らは自分の子供たちにすら、あまり「期待」しないことも多いのです。

「学歴!」とか

「英才教育を!」とか

「金持ちに!」とか、

そんなことは言いません。

 

「ま、なるようになるでしょ。子供は子供で。彼らはオレじゃないし。」

という感じです。

だから、彼らは子供の進路に対して鷹揚です。

 

むしろ、子供が小さいときから

「習い事は週5回!」とか「幼児教育を!」とか。

子供に過剰な期待を抱いて、騒いでいる親も、それはそれは問題です。

 

そして一種のこの冷徹さが、「できた大人」になれるかどうかの境界線でもあると、私は感じます。

 

もちろんこれは「人の面倒を見ない」ことを意味しません。

彼らは部下の面倒も子供の面倒もよく見ます。

 

だが「期待」はしません。

人が自分の思い通りにならないことを、よく知っているからです。

 

「なすべきことを為せ、あとは放っておけ」

私のよく知る経営者は、いつも、そう言ってました。

 

「人に期待しない人生」は、超快適。

考えてみれば、人に変な期待をもたなければ、人生は超快適です。

 

なにせ、「裏切られた」とか「あの人のせいだ」とか「世の中が悪い」とか、そうした負の感情から一切、自由になれます。

だから、それを実践する人たちは、「合理的」で「ドライ」でありつつ、むしろ人にやさしく、面倒見が良いのです。

 

特に、彼らは次のような

「トラブルを生みやすい期待」

を一切、持たないがゆえに、幸せなのです。

 

1.「話せば、お互いわかりあえる」という期待を持たない。

結局、人は心のなかでは何を考えているかわかりません。

本当にわからないのです。

 

よしんば「話して、わかりあった」と思っても、実際それは幻想で、自分の都合の良いように解釈しているだけです。

(出典:賭博黙示録カイジ8巻 福本伸行)

2.「他者は困っていたら手を差し伸べてくれる」との期待を持たない

「天は、自らを助けるものを助く」ということわざがあります。

が、正確に言うと「人は、自らを助けるものを助く」ではないかと思っています。

 

要するに「人は、頑張っている人を助けたいと思う」生き物です

 

実際、私は会社でそのように言う人を数多く見ました。

「何事も、他者や世の中のせいにしてはいけないんだ」と、初めて本気で思った瞬間のこと。

いいか、人は「文句ばかりのやつ」より「頑張っているやつ」を助けようとするんだよ。正しいかどうかなんて、問題じゃない。

他者は、自分が困っていたら助けてくれる「かもしれません」

 

でも期待を持ってしまうとそれは次第に、「人は困っている人を助ける「べき」」と歪んでしまう。

それは「人を恨む」「世を恨む」原因ともなってしまうのです。

 

3.「人は成長する」との期待を持たない

前にも書きましたが、人は基本的に子供から大人になるとき以外は、ほとんど成長しません。

大人はたいして成長しないし、多分必要なのは「成長」じゃなくて「適応」。

こうした研究からも、「大人になってからの成長(=ステータスアップ)」などは、ほとんど望めない、と考えたほうが良いでしょう。

 

だから多分「大人の成長」って、誰かが作り出した虚構なんです。

人間は唯一、子供が大人になるときに、著しいステータスアップ、文字通り「成長」するだけなのです。

「とてつもなくできない人が、出来るようになる」という物語は、たしかに面白いです。

でも、現実はそうではないからこそ「物語」なのです。

 

実際には人には「適性」があり、その適性にかなわないことはできない。

それが実際のところであり、「身の程を知る」の本質です。

 

4.「努力は報われる」との期待を持たない

経営者になってよくわかったのですが、「努力」は報われるかどうかの前提条件ですらないと、最近では思います。

要するに、大半の努力は「無駄」。

どんなに努力しようとも、天災や時流、マーケットの圧倒的な力の前には、人の力は小さすぎます。

 

真に重要なのは、「どこで努力するべきか」を見極めることです。

実際、努力そのものは、ほとんどルーティンワークであり、ルーティンワークは「必要ならやりましょう」というくらいで、報われるかどうかとはあまり関係がありません。

 

ただし「個人の楽しみとしての努力」であれば、意味はあります。

 

また、「意思の強さが、物事をなし得る」と勘違いしている人もいますが、

人間の意思は基本的に薄弱で、意思に依存しない仕組みを持っている方が、最終的に勝ちます。

 

5.「成功者は人格者」との期待を持たない

行動経済学によれば、人間の脳には「ある面で好ましい人は、他のあらゆる面でも好ましい」と認識してしまうバグがあります。

もしあなたが大統領の政治手法を好ましく思っているとしたら、大統領の容姿や声も好きである可能性が高い。

このように、ある人のすべてを、自分の目で確かめてもいないことまで含めて好ましく思う(または全部を嫌いになる)傾向は、ハロー効果(Haloeffect)として知られる。後光効果とも言う。

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ところが、これには全く根拠がありません。

 

実際、4.で「努力」と「成功」は関係ないと言いましたが「人格」と「成功」もまた、関係がないのです。

誰もが羨むような成功をした人が、実際にはクズだった、という話は世界中に腐るほどあり、彼らの発言の真偽は「成功の度合い」とはほとんど関係がないのです。

 

6.「自由は素晴らしい」との期待を持たない

「できた大人」は、自由の扱いが非常に難しいことをよく知っています。

「自由」は、常に「責任」とセットだからです。

 

だから、できた大人はむやみに「自由」を主張しません。

自由は素晴らしいと言うよりも、むしろ「勝ち取るもの」との認識を持っている人がほとんどです。

 

言論の自由、

表現の自由、

思想の自由、

信教の自由……

 

それらは「勝手に」与えられるものではなく、維持するために不断の努力が必要になります。

何の対価も要求されない自由など、存在しません。

憲法12条にも「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」とはっきり書かれています。

 

一方で、経営者ともなれば、お子ちゃま社員から「自由にやらせろ」と言う要求は常にあります。

できた大人の経営者はもちろん、「YES」と言うでしょう。

「で、どういった成果を出してくれるの?」という言葉とともに。

 

7.「人は合理的に判断できる」との期待を持たない

できた大人は、「「正しい情報」を与えれば、皆が合理的に判断できる」とは全く思っていません。

むしろ「合理性とは程遠いのが人間」だと、現実的に考えています。

今回のコロナウイルスによる買い占めなどのパニックで、皮肉にもそれが証明されてしまいました。

 

が、逆に、できた大人はそれを嘆くどころか、「別にそれならそれでいいんじゃない?」と思っています。

なぜなら、「欲望」や「感情」に従って人が動いてくれたほうが、扱いやすいからです。

 

いつの世でも為政者は「皆が見たいものを見せる」ことで、成功してきたのです。

 

8.「正義が存在する」との期待を持たない

「正義」は、ある人が、別の人に価値観を押し付けるための方便です。

だから「正義」という言葉をを軽々しく使う人を、信用してはいけないし、我々は「正義の執行」をむやみに期待してはいけない。

 

下の記事にも書きましたが、「正義」は結局、価値観の違いに過ぎず、それを認めるかどうかは、コストとリターンの兼ね合いで決定されます。

結局、多様性を認めるかどうかは、崇高な理念ではなく、コストとリターンの兼ね合いで決まる。

私は「多様性」を無意識のうちに、「都合の良いこと」あるいは「自分が認められる多様性」だけに限定していた。

お子ちゃまはすぐ「正義」を持ち出しますが、できた大人は「正義」の代わりに、「相手もほどほど、私もほどほど」と、いう取り引きを使います。

そして、そのほうが皆が幸せになれる蓋然性が高い。

 

「正義」と「粛清」は、表裏一体なのです。

 

9.「自分は優れているのではないか」という期待を持たない

最も重要なのは「自分は優れているのではないか」という期待を持たないことです。

多くの場合、それは勘違いですし、たとえ「多少優れている部分」があっても、それがあらゆる才能に及ぶことは稀です。

 

しかも「自分は優れているのではないか」という思い込みは、たやすく傲慢に至ります。

 

商売で成功した人が、傲慢な政治家になったり。

スポーツで記録を残した人が、無能の経営者になったり。

名前の知られた学者が、専門外で的外れの論客になったり。

 

これらはすべて、「自分は優れているのではないか」という誤った期待が引き起こしたものです。

 

でも「できた大人」は少なくとも、自分が優れていないことを知っています。

だから、人に期待せず、他者の力を借りようとする。

そう言う人が、周りを幸せにしていくのです。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

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◯ブログが本になりました。

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転職の話をします。

 

しんざきはもともとライトノベルについてはあまり知見がなく、例えば「猫の地球儀」とか「鉄コミュニケイション」みたいなちょっと前のメジャータイトルしか読んだことがなかったんですが、最近ちょっとした事情でちょこちょこと、web発のライトノベルを読み始めました。いわゆるなろう系ってヤツです。

[amazonjs asin="B00IUAYCXS" locale="JP" tmpl="Small" title="猫の地球儀 焔の章 (電撃文庫)"]

[amazonjs asin="4073100254" locale="JP" tmpl="Small" title="鉄(くろがね)コミュニケイション〈1〉ハルカとイーヴァ (電撃文庫)"]

 

皆さんよくご存じかと思うのですが、ライトノベルの一つの潮流というかメジャージャンルとして、「異世界転生もの」というものがあります。

主人公がなんらかのきっかけで現世での生活を失い、異世界に生まれ変わる、あるいは新たな人生を歩み始める。

メジャーになるだけあって、色んなタイトルがあって面白いですよね。

 

で、そんな異世界転生もののタイトルの一つのシナリオ類型として、「異世界でチートスキルを使って無双する」というものがあるわけです。

現世ではパッとしなかった主人公が、異世界という舞台を得て大活躍して周囲を瞠目させていく展開は、読者のカタルシスを刺激するところ大でして、様々なパターンを生みつつも未だ安定した人気を誇っているように見えます。

 

そんな「チートスキル無双系」にも、大きく二つのパターンがあるように見えます。

 

一つは、「転生時にチートスキルを授かった」ないし「なんらかの事情・手段でチートスキルを後天的に身に着けた」というパターン。

転生すると神様に話しかけられてチートスキルをもらった、というようなものはこれに該当します。

 

もう一つは、「もともと身に着けていた現世でのスキルが、その異世界では非常に強力な強みだった」というヤツ。

例えば、現世で機械技師としてのスキルを持っていた主人公が、機械の概念がない異世界で様々な機械を作って、それで周囲を驚かせたり、だとか。

あるいは、料理の概念がろくにない世界で、一流のコックとして大活躍したり、だとか。

戦術知識で異世界の戦争を勝利に導いたりだとか。

 

色んなパターンがありますが、大筋これらの作品は、「自分の文化の強い側面で他の文化の弱い側面をぶん殴る」という構造を共通して持っていると思います。

言い方を変えると、相手の世界の文化にたまたま弱みがあって、自分がたまたまそれについて相対的な強みを持っていたからこそ無双出来た、ということです。

 

ただ、この時一点重要なのは、相手文化の人々が必ずしもその「弱点」を認識しているとは限らない、ということ。

というより、大抵の場合は、そこが自分たちの文化に「足りない」ものだということは認識していない。

主人公が発揮した強みが、自分たちにとっては思いもよらないものだったからこそ驚愕するわけです。

 

「い、今一体何をしたんだ…!?(主人公の活躍に驚愕)」

「…?普通に〇〇しただけだが…?」

 

というヤツですよね。

 

読んでて思ったんですが、これ、転職だなと。

自分は今まで大なり小なり、「前職文化の強い側面で転職先文化の(認識されていない)弱い側面をぶん殴る」ということだけを意識して転職してきたなー、だからこそ今までそこそこ満足のいく転職が出来てきたんだなーと思ったんです。

 

***

 

転職する際、「自分が今持っているスキルで、新しい会社に対して何を提供出来るか」というのは誰しも考えるところかと思います。

何か、相手の会社に足りないものがある。

相手は、それを埋める為に人を募集する。

そこにマッチしたら自分のスキルは高く評価してもらえる。

 

まあ、それは当たり前の話ですよね。

ただ、本来当たり前の、しかし案外忘れられがちな事実として、「転職先の人々が、自分たちの弱みをきちんと認識しているとは限らない」ということがあるわけです。

 

何かのプロジェクトの手が足りない。

何かの運用を回さなくてはいけないけど、回せる人が足りない。

何かのフレームワークについて知見を持っている人がいない。

 

そういう、「明確な課題があって、それを解決する手が足りない」というのは分かりやすいわけです。

別段、それを埋める為のスキルセットが必要とされるのもおかしな話ではない。

当然、それについてはアピールしなくてはいけません。

 

ただ、これは会社にもよるのですが、「表層的な「足りない何か」以外に、実はもっと足りていない何か」が隠れていることがあります。

そしてこれは、転職先の社員の人でも明確に認識していない、あるいは少なくとも課題としては認識していないケースが多いです。

 

例えば、プロジェクトの進捗を管理することは問題なく出来てもいても、リスク発動からのリカバリプランの構築・実施のノウハウが会社にない、ということであったり。

例えば、コンプライアンス部門にシステム開発の知識がなくって、コンプライアンス部門とシステム部門の橋渡しができる人がいなかったり。

 

会社って基本的には閉じた空間なので、外から見ると分かりやすい瑕疵であっても、案外中からは見えにくかったりするんですよね。

知ってる人からすると「何でこんな部分が欠けているの?」と思えるような部分が、中の人には認知されていなかったりする。

 

これ、会社の規模にあんまり関係ないです。

むしろ大きな会社の方が、「認知されていない瑕疵」がある場合が多いかも知れない。

中には瑕疵に気付いている人がいたとしても、組織が大きいだけに直すのが大変で見逃されている、と言うパターンもあります。

 

転職での面接の場は、自分が相手の求めているスキルを満たしているということを伝えるのと同時に、相手に「自分が強みを持っている部分での弱み」がないかどうかを探す場でもあります。

なにせ、弱みがある異世界であれば、現世人の自分はチートスキル無双と同じことが出来る。

 

だから、相手と色々話していて、「これはもしかすると相手が認識していない弱みでは」というところを見つけたら、それはチャンス以外の何物でもありません。

そこについて、自分はこういうオプションを提示出来る。

こんな風に解決出来る強みを持っている。

 

言ってみれば、自分は「期待通り」のスキルだけでなく、期待していなかった、あるいは「期待を持つことすら出来ていなかった」部分についてぶん殴れるよ、と。

異世界転生でいうところの異文化チートスキル所有者だよ、と。

 

そういうすり合わせを行うことこそ、転職時の面接の一番重要なところではないかなーと私は思っているわけです。

 

***

 

で、じゃあ肝心の異世界転生先をどうやって探すの、という話ですよね。

もちろん、転職する際の条件というのは人によって千差万別ですし、そういった諸々の条件はクリアした上での話ということになりますが。

 

これら「認知されていない弱み」というものをただ面接時の会話だけから探り出すというのは、当然結構難しいです。

そもそも面接する相手の人が知らない問題だったりすることもあります。

出来れば事前に、面接とは別の機会で会社の内情について聞きたいところなのですが、毎度そういう訳にもいきません。

 

しんざきの場合、「配属予定、ないし面接を担当してもらっている部署とは別の部署の人ともお話をさせて頂けないか」とお願いしてみることが多いです。

 

というか、過去何回かの転職の時には、毎回そういうお願いをして、実際に話をさせてもらっています。

中途採用って会社側からしても失敗したくないイベントなので、案外こういう要望ちゃんと受け入れてもらえるんですよね。

 

岡目八目というヤツでして、自分たちのチームの弱みは認識していなくても、他の部署についてはその弱みが分かっている、という場合があります。

あるいは、その部署の人が話している内容と、他の部署が話している内容で、若干齟齬がある場合があります。

そういうところに、「認知されていない弱み」は眠っています。

 

飽くまで例えばの例なんですが、システム部門の人は他部門の要望にちゃんと答えられているつもりなんだけど、他部門の人に聞いてみると案外「俺らの要望がちゃんと理解されていなかった」というようなことがある。

そこを深堀りしてみると、課題管理についてきちんとしたノウハウを持っている人がいなかったりする。

あ、俺が本来求められているスキルとはちょっと違うけど、俺の得意分野だな、とか。

 

こういうの、お宝さがしみたいで結構楽しいです。

こっちの会社は期待された通りのスキルしか発揮できないけど、こっちではそれ以上のことが出来そうだな、という判断基準になったりします。

 

***

 

ただ「相手の求めるスキル」を提示するだけではなく、「相手が気付いていない弱みに対する自分の強み」を探し出す。

意識的にチート無双が出来る場所を見つけ出す。

 

そういうのが転職の一つの醍醐味であり、そうやって「異世界転生」的な転職が出来た場合、その後成果を出すのも色々楽ちんになるよーと。

転職って人生でも極めて大きなイベントなので、そういうところまで考えるのもアリだよね、と。

 

そういう話でした。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

Photo:Amelia Bueno Timón

身近に、常に不平不満を言っている人がいる。

 

その人は口を開けば「私はこんなに頑張ってるのに誰も褒めてくれない」やら

「会社の誰それが全然働かないからムカつく」だの、言う。

それを聞く度に思う。

なんでこの人はこんなにも他人に”期待”しているんだろう、と。

 

世界で”人間”は自分一人だけ?

ある高校の入試問題の話だ。

出典は残念ながら忘れてしまったのだが、そこで

「自分以外の他人が、自分と同じような自由意思を持っている事を証明するのは不可能だ」

という極めて大胆な話が出されていた。

 

その問題文では他人をロボットに置き換え

 

「仮に技術が発展してロボットが自由意志を持ったとしても、心のメカニズムがわからない以上、本当に自分の頭でモノを考えているかは私達にはわからない」

「私達にはロボットが単なる決まりきった定形文を返しているだけなのか、それとも自由意志に基づいた言葉を発しているのかを区別するのは不可能だ」

「じゃあ、あなたが普段話している他人が、あなたと同じようにモノを考えて喋ってるか、本当に区別できるのだろうか?」

「他人も意思なんて持ってなくて、プログラムにもとづいて定型文を返しているだけなんじゃないの?」

 

という風に結論づけていたように思う。

 

中学生の頃の僕はこれを読んでゾッとした。

目の前で話している塾の教師も、隣で頑張って問題を問いている塾の友達も、それどころか家族でさえ、RPGでいうところの村人Aと同じで自由意志などない無機質な存在である可能性を全く否定できない事に気がついてしまったからだ。

 

ひょっとして、この世界で本当の意味で”人間”といえるのは自分一人なのではないか。

冗談でもなんでもなく、本当にそう思ってしまったのだ。

 

世界が自分を中心に回ってると思う?

僕も昔は他人についての愚痴をいっていた。

 

「なんであいつは僕に嫌がらせをするのだろう」だの

「あんなに頭がいいなら、さぞ人生が楽だろう。羨ましい」だの

「こんなに身を焦がす程にあの子が好きなのに、なんで僕に振り向いてくれないのだろう」だの

まあ散々な有様である。

 

登下校の時の思考回路の99%はこんな感じであった。

 

しかし先程の文章を読んでからは、これがRPGでいうところの村人Aが定形アクション以外の反応を期待する位に馬鹿げた考えだと思いなおした。

 

嫌がらせをする人間はそういう村人Aなのである。

嫌がらせをしない村人Bにはならない。

 

頭がいい彼はそういう村人Aなのである。

彼をいくら羨んだところで、僕の頭はよくならないし、人生も全く楽にならない。

 

物凄く可愛い彼女はそういう村人Aなのである。

村人Aにどんなに情熱的に恋心を抱こうが、残念ながら彼女は自分には振り向いてくれない。

 

僕が今まで愚痴に使ったエネルギーは、全て無駄だったのである。

無駄どころか、逆に、それまで自分が世界が自分中心に回る可能性を一ミリでも信じていた事を強く恥ずかしく思うようにすらなった。

 

念じるだけで、自分の都合のいいように他人が動く。

当然だが、そんな事は絶対にない。

世界は自分を中心には回っていない。

世界は世界を中心に回っている。

 

愚痴をいい、他人が自分の思うどおりに動く可能性を一ミリでも信じている時点で、既にどうしようもないぐらいに傲慢なのである。

 

他人に期待してる人は、RPGの村人Aが勝手に魔王を倒してくれるとでも思ってるのだろうか?

まったくもって片腹痛しである。

 

人生には強い粘性がある

かつて堀江貴文さんがブラック企業に努めている人に対して「嫌なら辞めればいいじゃないか」と言って炎上していた。

これは極論ではあるが真実ではある。

 

が、しかし多くの人達は辞めたところで物事が物凄く好転するわけではない。

現実には強い粘性がある。

これまでの人生は、これからの人生と強い関係性があり、一朝一夕でバラ色に突然輝いたりはしない。

 

パチンコの確変みたいに、ある日突然ボーナスタイムがやってくる事は人生においてはファンタジーである。

しょうもない人生の人はしょうもない人生が続くし、輝いた人生が続いている人はだいたいその後も輝いた人生が続く。

 

そういう事を考えると、先の双方のやり取りがどれだけ違う景色に基づいたものかがよく見えてくる。

 

堀江さんがもし仮にブラック企業に所属する事になったら、辞めればいいだけの話だ。

彼の人生はブラック企業務めのような暗い概念とは一ミリも関係がなく、相関性はほぼ皆無である。

辞めれば暗い人生を縁を切って、明るい人生が始まる。

 

しかし、ブラック企業に努めている普通の人がブラック企業を辞めたところで、まあ残念ながら同じような企業に転職するハメになるだけだろう。

そういう人生と強い相関関係があったんだから、まあ多分これからもそんな感じだ。

堀江さんにように、突然輝くはずもない。

 

3/11や9/11のように人生はあるとき突然崩壊する事はあるけれど、突然良くなる事は絶対にない。

残念ながらこれが人生のリアルである。

 

この事を理解した上で、人生には2つの戦略が産まれてくる。

僕はこれを

”置かれた場所で咲くしかない戦略”と、

”制度の穴をついて上手くやる戦略”

よんでいる。

 

置かれた場所で、咲くしかない人。仕組みをハックする人。

(出典:なるたる第一巻)

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どんなに不平不満をいったところで、世の中は世の中を中心に回っているのだから、基本的には変わらない。

だから最初の頃は色々と身悶えしていた人も、だんだんと世の中の非条理さをうけいれて、世界のカタチにあわせて自分を削るようになる。

 

こういう人間は”置かれた場所で咲く”以外に最適解がない。

咲けないのなら枯れるだけである。

残酷に聞こえるかもしれないけど、世の中はそんなもんである。仕方がない。

 

なお、こういうタイプの人間の特徴として、他人の不幸や損を異常に喜ぶ傾向がある。

この手の人間はセカイが完全に固定しているのだから、何をしても自分が得する事はない。

 

唯一、自分が他と比較して利するのは、周りが全損した時だけである。

相対値に生きる、まったくもってあわれな存在である。

 

一方で、世の中にはシステムがある以上、抜け道やバグのようなものが必然的にある。

だから九州のド田舎で産まれた人間が大都会・東京で億万長者になる事も可能だし、公権力に潰されてムショ暮らしを余儀なくされても、刑務所から自筆でメルマガを書き綴り莫大なお金を稼ぎつづける事もできる。

 

人生は突然好転する事はありえないが、ちょっとずつなら変える事は全然可能である。

制度の穴をつき、これまでの過去のしがらみから抜け出そうと画策する。

 

すると驚くことに、だんだんと世界が自分のカタチにあわせて削れてくる。

これは嘘ではない。マジだ。

一度こうなったら、現実には強い粘性があるから、ちょっとやそっとじゃ元のやもめぐらしには戻らない。

 

なお、この手のタイプの人間は周りの幸福を素直に喜べるタイプの人間が多い。

相対に生きておらず絶対値で自分を自分で評価しているから、他人の損得にマジで1ミリも興味がなく、何の気遣いもしないで本音で話し合う事ができる。

一緒にいて、本当にラクになれる存在である。

 

昔、タイを旅して見えた日本人に産まれてよかった感と、そこから垣間見える新しいシンドさ

”制度の穴をついて上手くやる”

そんな事は自分にはできないと思う人もいるだろう。

 

まあそう思ってしまうのも仕方がないかもしれない。

現実は実際強い。

世界を自分に合わせて削るだなんてマッチョな事が、誰にでもできるとは僕も思わない。

 

かつて僕が小学生ぐらいの時である。

僕は家族旅行でタイに行き、そこで信じられないぐらい貧しい人達をたくさんみた。

新宿でもホームレスの姿をみた事はあったが、タイのそれは桁違いである。

物乞いをマジマジと見ていた僕に母はこう言った。

 

「日本に産まれて、よかったって思わない?」

 

タイの貧民街で暮らしていたあの人達が、”制度の穴をついて上手くやる戦略”を用いて個人でのし上がれる可能性は、恐らくほぼゼロだ。

今では経済が発展しただろうから多少は生活環境がよくなったのだろうが、それは個人の努力ウンヌンの話ではない。

そういう風に世界が勝手に良くなる事もあるが、それは個人の力ではどうにもならない因子だ。

 

貧しい国では、運命は受け入れるものでしかない。

少なくとも、決して切り開くものではないのは確かだ。

 

一方、日本でそれをどうにかやる難易度は、さすがに20年前のタイよりかはイージーだろう。

日本は個人の努力で世界を自分の形で削り取れる可能性が、そこそこある。

悪魔ダイスを振りまくれば、6が出る事もあるだろう。

 

 

けど・・・だからこそ、悪魔ダイスを振れる人間や、そもそも悪魔ダイスを振らなくてもいい人間に嫉妬してしまう気持ちも・・・わからないでもない。

となりに可能性が満ち溢れているからこそ感じる個人のシンドさというのは、確かにある。

 

「あいつができて、なぜ俺にはできない」

そういう新しいタイプのシンドさは、発展途上国にはない先進国独特のものだろう。

運命を切り開ける可能性がみえてしまうのも、それはそれで人に苦しみをもたらす。

 

コロナショックで短期の経済発展が絶望的になり、世界が急速には良くなりそうにも無い今、改めて思う。

制度の穴がみえない人間にとって、先進国の豊かさはかえって残酷なのかもしれないな、と。

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Tim Regan

本当はこんな記事、書かないほうがいいのかもしれない。

でももう、書かずにはいられない。

 

好きなものが、時代の変化とともに変わってしまった。

しょうがないことだと頭ではわかっているのに、割り切れない。

 

だれかとこの気持ちを分かち合いたい。

分かち合えずとも、せめてこの想いを聞いてほしい。いや、やっぱり分かち合いたい!!

 

というわけで、15年以上も前の名探偵コナンを懐かしむアラサーの話にお付き合いいただきたい(修学旅行編、紺青の拳についての言及あり)。

 

小学生のわたしを夢中にさせた『名探偵コナン』

わたしは小さい頃から、コナンが大好きだった。

『集められた名探偵 工藤新一vs怪盗キッド』や『鳥取クモ屋敷の怪』、『揺れる警視庁1200万人の人質』はとくにお気に入りで、ビデオテープが擦り切れるくらい繰り返し見ていた(当時はまだVHSが主流である)。

 

パラパラはもちろん完コピしたし、イーカラ(家庭用のカラオケオモチャ)ではコナン曲を歌いまくったし、『謎』や『Secret of my heart』が収録された初代ベストアルバムは20年聞き続けている。

いまはリアルタイムでアニメやマンガは追えていないけれど、2017年に上映された『から紅の恋歌』は映画館で見たし、去年の一時帰国中はコナンのリアル脱出ゲームにも行った(なお脱出失敗)。

 

キャラが魅力的で事件の展開がおもしろいのはもちろんだけど、わたしが夢中になったのはやっぱり、蘭と新一の関係性が好きだったからだと思う。

蘭にとって新一は「いつも一緒にいたのに突然いなくなってしまった幼馴染」であり、コナン(新一)にとって蘭は「いつもとなりにいるのにそれを伝えられないもどかしい相手」。

 

ピンチのとき、蘭が求めるのは新一。

でも新一は、「コナン」としてしかそばにいられない。

そんなコナンに新一の面影を見出す蘭。

 

お互いのことを大好きなくせに素直になれない、たまに話しても憎まれ口ばっかり、でもやっぱりしょっちゅうお互いのこと考えていて……という、甘酸っぱくて切ない関係にキュンキュンしていたのだ。

 

だけど。

令和の時代、そんな蘭や新一はもういない。

 

2020年、わたしが好きだったコナンはもうない

コナンの連載がはじまった当初は携帯電話なんてないから、姿を消したら連絡が取れないのがふつうだった。

だから蘭は新一が帰ってくるのをひたすら待つしかなかったし、公衆電話から時折かかってくる新一からの電話に一喜一憂する。

 

そばにいたいのにいられない。

そばにいるのに伝えられない。ああ無情。

 

だがそれも、今は昔の話。

だいぶ前から蘭もコナンもお互いスマホをもっていて、その気になればいつでも連絡できるようになった。

「姿を消した幼馴染を心配しながら待つ蘭」と「新一としての気持ちを伝えられないコナン」という構図はもうない。

 

なにかあったら蘭はすぐ新一にメッセージを送るし、コナンは新一としてそれに返信する。

 

しかもこのふたり、なんと最近付き合いだしたのだ。

びっくりするでしょ? まじだから。まじで付き合ってるから。

 

……なにそれ!!

 

「どこ行っちゃったんだろ……」とさみしげに新一の家の掃除に行く蘭と、それを横で見てやるせない表情を浮かべるコナンはどこへ!!??

 

いや、そりゃわかるよ。

もう2020年だもん。登場人物がいつまでも公衆電話と家電で連絡とってたらそっちのほうが不自然だわ。

ネット上の恋愛やマッチングアプリでの出会いが一般的になったいま、「会えない」はそこまで恋愛のハンデとはいえないし。

 

わかる。

わかるんだけど。

いまもコナンはめちゃくちゃおもしろいし大好きなんだけど。

 

でも、わたしが夢中になった『名探偵コナン』とはもう、ちがうものになってしまった。

それがとても悲しい。

 

蘭がスマホをもつのは、時代の変化として当然だけど

大勢の命を背負って爆弾を解体する蘭と、壁を隔てて新一の声で「死ぬ時はいっしょだぜ」と微笑むコナン(劇場版第1作、1997年)。

レストランで新一に放置されて「また置いてきぼりか」「言い訳なんて聞きたくない」と涙を浮かべる蘭に、「いつか必ず、絶対に死んでも戻ってくる」と新一からの伝言というかたちでしか言えないコナン(アニメ192話、2000年)。

 

こういうのが好きだった。

会えないから、ほとんど連絡がとれないから、だからこそ感じるふたりの絆があったのだ。

 

海外に行きたいからと都合よく新一の姿に戻って蘭とロンドン旅行に行くなんて展開望んでなかった(コナンだとパスポートがないので出国できない)。

「わたしたち付き合ってるんでしょ?」と女の顔をして新一に腕を絡ませる蘭なんて知りたくなかった。

 

いや、いまもコナンはおもしろいんだよ。

コナン批判じゃないんだよ。

コナンは好きなんだ。

大好きなんだ。

 

ただ、わたしが夢中になった「あのときのコナン」が、時代の変化とともになくなってしまったのがとても悲しくて……。

 

佐藤刑事が松田刑事のメールを消せないっていう気持ち、めっちゃ共感したのに。

いまの中学生は、「大事なメールに鍵をつけて保存する」なんて知らないだろうな。

入力音からボスのメールアドレスを手に入れるなんて、もはや意味がわからないだろうな。

 

時代は変わる。

それに対応しようと思えば、コナンの登場人物だって、物語の展開だって変わる。当然だ。

そう、わかってはいるのに。

 

好きなものが変わっていくのを見て、どう割り切ればいいんだろう?

年を重ねれば、「自分の好きなものが変わってしまった」という経験は多くなる。

通っていた蕎麦屋が2代目になって味が変わったとか、昔遊んでいた公園はいまや漫画喫茶になっているとか、好きだった歌手が10年前の曲をキーを下げて歌っているとか。

 

のび太がしずかちゃんのお風呂をのぞくのが「性犯罪」といわれ、サザエさんも「時代錯誤」と糾弾される。

クレヨンしんちゃんの野原ひろしは「冴えないサラリーマン」キャラだけど、35歳で管理職、マイホームも車ももってるうえ専業主婦の妻と子ども2人を養い犬を飼っている時点で、現代では圧倒的な勝ち組だ。

 

時代が変われば、姿やかたち、価値観や評価も変わる。

毎日年を取っている自分も含め、それが当然のことなのだ。

頭ではそうわかっていても、「自分の好きなものだけは変わらないでいてほしい」なんて都合のいいことを思ってしまうのは、わたしだけだろうか。

 

好きなものの変化に折り合いをつけていかないと、「大人」はつらい。

「昔と今はちがうもんね」と物分かりいい顔をしておかないと。

言ったってしょうがないことなんだから。

 

そう理解はしているけど、やっぱり「あのときのコナンのほうがよかった」と思ってしまうのだ。

「昔は規制がゆるくて好き勝手できてた」「新幹線でタバコを吸ってたんだよ」と懐かしげに語る人たちも、こんな気持ちなのかもしれない。

 

いやでも、そういうのって「老害」っていうんでしょ。

やだね、そうは言われたくないよ。

「時代が変わった」と割り切らないと。

 

でも、じゃあ、どうやって割り切ればいいんだろう?

わたしはただあのときのコナンが好きで、またその興奮と感動を味わいたいだけなんだ。

いまのコナンも好きだけど、やっぱり「あのときのコナンのままでいてほしかった」と、心のどこかで思ってしまうんだよ。

 

コナンとキッドは馴れ合わずもっとバチバチしたライバルでいてほしかったし、哀ちゃんはミステリアスなままでいてほしかったし、白鳥警部は佐藤さん親衛隊として人の恋路に首突っ込んでほしかった。

 

なんども書くけど、わたしはいまのコナンも好きなんだ。

でもそれはあくまで「あのときのコナン」があったからで、それはもうなくなっちゃって……。ああ、悲しい!

 

「大人」たちは、こんな気持ちとどうやって向き合ってきたんだろう?

これからの人生、無数に訪れるであろう「好きなものが変わってしまった瞬間」と、どう折り合いをつけていくべきなんだろう?

 

最近付き合いはじめた蘭と新一に対して「よかったね!」と笑って祝福するには、まだ時間が必要みたいだ。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Tzuhsun Hsu)

少し前に受けた、R25の記事の取材で、人間関係の「信頼残高」の話になった。

「“好きを仕事に”は、マーケットを無視してる」moto×安達裕哉が語る「いい転職」の本質

悪い状態で評価が確定するというのは「信頼残高」が尽きてるという状態です。

「信頼残高」が尽きてしまったら、その会社では何をやっても認められない。

(R25)

実際、組織での評価は多くの場合「成果」だけで決まるわけではない。

多くの組織では「成果」がどこまで個人のものかを、厳密には切り分けていないからだ。

 

だから、多くの場合、成果は評価の一部に過ぎず、「信頼残高」が大きくものを言う。

 

ところでこの「信頼残高」とは何か。

信頼残高とは、世界的ベストセラーで自己啓発書の古典である「7つの習慣」に登場する概念だ。

 

端的に言えば「信頼」とは銀行口座のお金のようなもので、人の信頼を得る行為をすれば残高が増え、人の信頼を裏切る行為をすれば、残高が減る。

そして、その残高は人間関係における安心感に相当する。

銀行の預金口座がどのようなものかは、誰でも知っている。お金を入れれば残高が増え、必要なときにお金を引き出せる。

それと同じように、人と人の関係で生まれる信頼を貯えておくことを銀行の口座にたとえて、信頼口座と呼ぶことにしよう。

それは、人間関係における安心感でもある。

 

たとえば私があなたに対して礼儀正しく接し、親切にし、約束を守れば信頼口座の残高が増える。

残高が多くなるほど、あなたは私を信頼してくれるから、私は必要なときにいつでも、あなたの信頼を頼ることができる。

 

何か失敗をしても、私に対するあなたの信頼のレベルが高ければ、つまり信頼残高が多ければ、それを引き出して補うことができる。

私の言葉に足らないところがあっても、あなたは私の言いたいことを察してくれるだろう。たった一言で仲たがいする心配はない。

信頼口座の貯えが多ければ、コミュニケーションは簡単に、すぐに効果的になる。

 

しかし、私があなたに日頃から無礼をはたらいたり、見下したり、あなたの話の途中で口を挟んだり、あなたの行動に過剰反応して騒ぎ立てたり、無視したり、気まぐれな態度をとったり、あなたの信頼を裏切ったり、おどしたり、あなたの生活を私の意のままにしようとしたりすれば、信頼のレベルは下がる一方であり、そのうち私の信頼口座は残高不足になってしまう。

そしてあなたとの関係に融通がきかなくなる。

[amazonjs asin="4863940246" locale="JP" tmpl="Small" title="完訳 7つの習慣 人格主義の回復"]

したがって、ある人物との信頼残高が十分にあれば、人間関係は円滑で、協力的で、生産的である。

逆に低ければ、人間関係はギクシャクし、事あるたびに対立し、一緒にいるだけで疲れてしまう。

 

よく「この世は所詮、何をいうかでなく誰がいうかだ 」と皮肉を言う方がいる。

が、私はある意味「それは当然」とも思う。

 

なぜなら、人の発言の中身を都度判断するのは恐ろしくコストがかかるからだ。

「信頼残高」をみて、「信頼の置ける人の発言だから正しいだろう」と判断をするのは、

限られた資源しか持たない人間の生存のための知恵の一つだ。

 

もちろん、これらには「ハロー効果」や「確証バイアス」など、各種の判断ミスを引き起こす要因を無視することはできない。

 

それでも、費用対効果からすれば、他人の発言をいちいち検証するよりも、「あの人の言うことだから」を合理的だとするのは、特に悪い考えではない。

「私は正しいことを言っているのに、あの人達はわかってない」

と嘆く人もいるが、それは「商品さえ良ければ売れる」と思っている経営者と同じくらい、世の中をわかっていない。

その人は「口先だけ」と思われているのだ。

 

自分の言葉を聞かない人々を馬鹿にする前に「まず信頼されよ」は、この世を生き抜く知恵である。

したがって、優れたカウンセラーはアドバイスをする前に、まずは相談者との信頼関係を構築しようとする。

 

例えば以下の2つの相談は対照的だ。

一人は東大入学式で挨拶をした上野千鶴子さん、もうひとりは劇作家の鴻上尚志さんだ。

社会学者の上野千鶴子氏、母親の不倫に悩む男子高校生を煽る

「息子がいじめに加担している」…悩む45歳父親へ鴻上尚史がおくる魂の回答「いじめと闘う道を歩くために」

 

リンク先の内容を見ていただくと、読者の方もおわかりと思うが、鴻上尚志さんのほうが圧倒的に優れたカウンセラーだ。

 

なぜなら、鴻上尚志さんは相談者にアドバイスをする前に、相談者との間に「信頼を築こう」と心を砕いているからだ。

逆に上野さんは、信頼関係を築くどころか相談相手を非難し、あまつさえ、相談者を断罪しているようにも見える。

 

どちらの意見を聞く気になるのかは、明白だ。

人を動かすのは意見の正しさではなく、信頼関係である。

 

 

かような理由で、「信頼残高の積み上げ」は非常に重要な話なのだが、

「どうすれば信頼残高を積み上げることができるのか」という話も、等しく重要だ。

 

「積み上げる方法」は、7つの習慣によれば、以下のようなものだ。

 

◯黄金律

人を真に理解し「汝の欲するところを、人に施せ」という黄金律に従いなさい。

◯小さな気遣いをする

人の心は傷つきやすい、ほんの少し思いやりが足りないだけで、信頼残高は減ってしまう。
細心の注意を払いなさい。

◯約束を守る

守れない約束はしてはなりません。

◯期待を明確にする

期待は暗黙ではなく、明確にしなさい。言った言わないが無いようにしなさい。

◯誠実さを示す

率直に、正直に物を言いなさい。

◯引き出してしまった時には心から謝る

相手の信頼を損ねたら、強い心で、すぐに謝りなさい。

 

ところが、である。

この「7つの習慣」で述べられていることはシンプルなのだが、実践しようとすると難しい。

実際、私がこれを読んだときの偽らざる本音は、下のようなものだった。

 

人を真に理解する → どうやって?人の気持ちなんて分かるのか?

小さな気遣い → いつも気を張っていなければならないなんて、疲れてしまう

約束を守る → 確実な事以外、約束できなくなってしまう……

期待を明確にする → 相手に「何を期待していますか?」と聞いても、期待は出てこない

誠実さを示す → 正直に物を言うのはトラブルの原因

引き出してしまった時には心から謝る  → 相手の信頼を損ねたかどうか、表情からはわからない

 

「理想論だろ」と7つの習慣を嗤う人の気持ちもよく分かる。

 

ということで、しばらく悩んだのだが、

少なくとも仕事をする上では、結局、上の6つは、実行しやすい形で「変換」できることに気づいた。

 

×黄金律◯白銀律

実践するなら、「自分がしてほしいことを、他者にもせよ」という黄金率よりも白銀律、すなわち「自分がされて嫌なことは、人にするな」という、白銀律のほうが遥かに確実だ。

他人の心は見えないが、自分で考えていることはある程度わかるからだ。

 

×小さな気遣いをする◯礼儀ただしく振る舞う

私に「心遣い」などという高度な振る舞いは不可能だが、「礼儀」は結局作法の問題、型を守れば良いので、比較的実践しやすい。

礼儀さえ正しければ、滅多なことで他者の信頼残高を減らすことはない。

 

×守れない約束はしない◯結果を出す

約束なんてする必要はない。

「全力は尽くす」とつたえ、単に結果を出せば良い。

 

×期待を明確にする◯不言実行

常に言葉よりも行動を。言葉の前に行動を。

不言実行は有言不実行に勝るというのは、不変の真理なのだ。(ナシーム・ニコラス・タレブ)

 

×期待を明確にする◯話をよく聞く

どうせ、人が自分に期待していることなんて、コロコロ変わるし、言われたことも本音かどうかはよくわからない。

ならば、「その人の話をよく聞く」だけで良い。

仮に認識が間違っていても、よく聞けば早く修正もできる。

 

×誠実さを示す ◯他者の悪口を言わない

二面性のない人=誠実な人、ということであれば、「悪口を言わない」という一点を守るだけで誠実さを体現することができる。

 

×すぐ謝る◯犠牲を払う

言葉で謝ることにそれほど意味はない。

口先よりも金銭的、時間的「犠牲」のほうが遥かに信頼を取り戻すことが出来る。

結局、身銭を切らない限り、人の信頼は得られない。

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つまり「7つの習慣」の中の言葉を借りれば、

「自分の行動で招いた問題を、言葉でごまかすことはできない」ので、

信頼とは、心構えや言葉で生み出されるものではなく、行動から生み出される。

 

この一点を理解しているかどうかで、「信頼されるかどうか」は決まる。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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Photo:Joi Ito

新型コロナウイルス感染症のせいで暗いニュースの多い今日この頃だが、先日、なんだかほほえましいニュースが流れてきた。

民家の水道から赤ワイン、醸造所の不具合で流出 イタリア

(CNN) イタリア北部カステルベトロ町の民家約20棟で水道の蛇口やシャワーの先端部から赤ワインが約3時間流れ続ける珍事がこのほどあった。

地元のワイン醸造所で不具合が起き、瓶詰めを控えていた銘柄「ランブルスコ・グラスパロッサ」が町の水道管網に漏れたための騒動。流出量は1000リットルだったという。

酒飲みなら誰でも「ひねれば自分の好きなお酒が無限に流れてくる蛇口」を夢見たことがあるはずだ。

少なくとも私は、いつも夢見ている。

うちにも「ひねれば好きなワインが流れてくる蛇口」が欲しい。

 

後で詳しく触れるが、このニュースに登場した「ランブルスコ・グラスパロッサ」という赤ワインは、まさにそういう「ひねった蛇口から流れてきて欲しいワイン」のひとつだった。

もし、我が家にこんな蛇口ができたら、嬉しさのあまり、飲む前に錯乱してしまうだろう。

 

「蛇口から流れてきて欲しい」のは毎日飲めるワイン

もしあなたが、神様から「おまえの家にワインが無限に飲める蛇口をつけてやろう、ただし一種類だけ、絶対に転売できない条件付きで」と言われたら、どういうワインを選ぶだろうか。

 

ボルドーの格付けワイン?

ブルゴーニュの特級ワイン?

 

いやいやいやいや。

そういう超高級ワインが無限に飲める蛇口は、たぶん始末に負えないと思う。

 

有名どころの超高級ワインは、たしかに素晴らしい。

けれども毎日飲むには向いていないし、風味が強すぎるせいで、たいていの料理を蹴散らしてしまう。

 

そのうえ「熟成」を経ていない超高級ワインは、ガビガビした飲み心地のしんどい品も多い。

疲れている日に飲んだら苦行になってしまうだろう。

 

水道の蛇口をひねって出てくるワインは、疲れた日にも飲めて、いつもの家庭料理、それこそチンジャオロースからカワハギのお味噌汁まで、なんにでも付き合ってくれるようなワインでなければ困ると思う。

 

じゃあ、具体的にはどんな銘柄が「なんにでも付き合ってくれるワイン」なのか?

世の中には、3リットルほどのボックスにワインを詰めて小さな蛇口をつけた、まさに蛇口をひねったらワインが流れてくる商品が存在している。

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ところが、こういうボックスタイプのワインは「なんにでも付き合ってくれるワイン」ではない。

バーベキューのお供にはぴったりだけど、繊細な料理のお供には向いていなくて、とりわけ寿司や刺し身との相性はかなり厳しい。

肉やハンバーガーやピザしか食べない人なら、これでOKなのだろうけれども……。

[wpap service="rakuten-ichiba" type="detail" id="ledled:10013807" title="【包装不可】【ルナカ赤&白4個で送料無料】 ルナカ ソーヴィニヨン ブラン (ボックスワイン) 3000ml 白..."]

白のボックスワインもちょっと難しい。

「激安の白ワイン」はピザや卵料理との相性は良いけれども、新鮮な魚介類や寿司との相性はあまり良くない。

モノによっては、サーモンとの相性もイマイチだったりする。そういう白ワインが蛇口をひねって流れてきても嬉しくない。

 

赤でも白でも、「蛇口をひねって流れてきて欲しいワイン」は、どんな料理にも付き合ってくれて、飲んでキツくない、飽きないワインであって欲しい。たとえば赤ワインなら

[wpap service="rakuten-ichiba" type="detail" id="katsuda:10089354" title="【大感謝祭】2013 コシュ・デュリ ブルゴーニュ・ルージュ"]

この赤ワインならどんな料理にも付き合ってくれて、飲んでキツくなる心配もない。

それでいて、飽きることもない。特別な日に飲むワインとしてではなく、毎日飲むワインとしてのクオリティが果てしなく高い。ピザ、和食、洋食、宮廷料理、どんな料理が相手でも付き合ってくれる。

 

ところが残念なことに、このワインには異常なプレミアがついてしまい、手が届かない品になってしまった。

けれども蛇口から流れてきて欲しい赤ワインナンバーワンは、間違いなくこれだ。

 

白ワインなら、

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こういう2000円~3000円ぐらいの、酸味やミネラルのしっかりした、それでいて魅力的な香りの白ワインは「蛇口から流れてきて欲しいワイン」だ。

ここではコストパフォーマンスの良いクロアチア産を挙げたけれども、カリフォルニアにもフランスにもイタリアにもそういう白ワインがある。

 

もし、これらの赤ワインや白ワインが蛇口から流れてくるようになったら、いつまでも飲み続けてしまうだろう。

ということは、私がアルコール依存症にならずに済んでいる理由の一端は、無限に飲んでも飲み飽きないクオリティのワインを大量購入するだけの経済力が無いからかもしれない。

このクラスのワインがジャーッっと出てくる蛇口なんて、神様におねだりしてはいけない、のだろう。

 

で、ニュースのワインは「蛇口から流れてきて欲しいワイン」だったのか

では、ニュースでとりあげられた「ランブルスコ・グラスパロッサ」は蛇口から流れてきて欲しいワインだったのか?

そもそも、あれはどこのどんなワインだったのか?

 

イタリアグルメに詳しい人なら、「ランブルスコ・グラスパロッサ」という名前をどこかで聞いたことがあるかもしれない。

このワインがつくられているのはエミリア・ロマーニャ州、イタリアでもとりわけ美食で名高い場所だ。

 

ワイン批評家のマット・クレイマーは『イタリアワインがわかる』のなかで、このワインについて以下のように評している。

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こってりとした、美味しくて太りそうな料理こそランブルスコの相方である。

地元の人が食べるのは、サラミ、濃厚なラザーニャ、チーズたっぷりのピザ、赤ワインで煮込んだウサギやら牛肉やらのさまざまな料理、そして何をおいてもこの地が世界に誇るチーズ、パルミジャーノ・レッジャーノである。

甘味があるほうは、果物や、アーモンドの風味をつけたさまざまなケーキに合わせる。

ドルチェのランブルスコには、柔らかなアマレッティ(マカロン)が好んで供される。

焼き栗にもすばらしくよく合う。

すべからくランブルスコは冷やして飲むのがよいが、冷やしすぎは禁物である。

この評を読むだけでもよだれが出てきそうだが、実は、和食が相手でも意外にいける。

なぜなら、この「ランブルスコ・グラスパロッサ」は発泡性の赤ワイン、つまりスパークリングワインだからだCNNの記事に貼られた動画からも、このワインが泡立っているのがみてとれる

 

一般に、スパークリングワインは食べ合わせの融通が利きやすく、この「ランブルスコ・グラスパロッサ」も例外ではない。

さすがにハマグリの吸い物と合わせるのは厳しいかもしれないが、たいていの家庭料理の相方をつとめてくれる。

 

では、ニュースになった地元のワイン製造所はいったいどこだったのか?

気になって調べてみると、CNNの英語版に、そのものズバリの答えが書いてあった。

Here's what happened, according to the Cantina Settecani winery.
The malfunction was caused by a faulty valve in the washing circuit within the bottling line. Lambrusco Grasparossa, a local specialty, seeped through the town's water lines due to its pressure, the winery said in a statement obtained by CNN.

蛇口からワインを流してしまったワイナリーは、エミリア・ロマーニャ州はカステルヴェトロ村にある、カンティーナ・セッテカーニ社であるという。

 

このワイナリーの「ランブルスコ・グラスパロッサ」は日本にも流通していて、リンク先の楽天ショップで購入することができる。

[wpap service="rakuten-ichiba" type="detail" id="tamaki-web:10029373" title="ランブルスコ・グラスパロッサ・ディ・カステルヴェトロ アマービレ NV カンティーナ・セッテカーニ <..."]

 

北イタリアのグルメを楽しんで、ちょっと応援したい

報道によれば、この「蛇口からワイン」のあったエミリア・ロマーニャ州にくわえて、ロンバルディア州・ヴェネト州の北部イタリア三州が、新型コロナウイルス感染症にとりわけ苦しんでいるという。

 

これら三州は、いずれもグルメの産地としても名高い。

ロンバルディア州ではスパークリングワインのフランチャコルタが、ヴェネト州では白ワインのソアーヴェ・クラシコや赤ワインのアマローネが有名だ。

食品でも、ミラノサラミやプロシュート、ポルチーニ茸やホワイトアスパラガスなどおいしいものには事欠かない。

 

これら、北イタリア三州のワインや食品を積極的に買えば、ささやかながら当地の応援になると思うので、私は優先的に買おうと思っている。

 

くだんの「ランブルスコ・グラスパロッサ」も、ワイン初心者にも安心してオススメできるスパークリング赤ワインなので、興味をお持ちになった人は、ぜひお試しを。

きっとおいしい応援になるんじゃないかと思う。

 

※ワインをネット通販で購入する際は、クール便の使用をお勧めします。

※節度を守って呑めない人は買ってはいけません。未成年は論外です。

※妊娠中・闘病中などの事情で飲むべきではない人も、飲まないようにしましょう。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:CNN https://www.cnn.co.jp/world/35150465.html

実はちょっと前に頭の病気で手術をし、一週間ほど入院していた。

ちなみに入院費用は一週間で20万超である。

僕は自分の給与がどのように出ているのかを肌で理解し、会計で泣いた。

 

病気が判明したときは「まあ人生、こういう事もあるだろう」ぐらいにしか思わなかったのだが、つい先日、前に務めていた病院の人から自分もよく知っている同年代の人間が割とデカい病を次々と発症した事を聞き、大いに驚いた。

 

病気の種類としては鬱のような、まあ割と若い人がやっててもそこまで違和感がないものもあるのだが、がんや脳卒中、重度の高血圧や糖尿病といった「その若さじゃ普通はならないだろwww」と反応せざるをえないような大病をやらかしてる人もチラホラいた。

 

最初は「まあ、ストレスフルな職場だし、大病やるやつがいても事もおかしくないか」ぐらいのつもりで聞いていたのだが、次第に「……ひょっとして僕の頭の病気もこれが原因なんじゃ……」と一周遅れで気が付き、僕は自分がいつのまにか悪魔に魂を売っていた事に気がついた。

 

死ぬ気でやると、本当に死ぬ

「死ぬ気でやれよ、死なねえから」

 

かつて杉村太郎という人が”アツイコトバ”という本でこう言っていた。

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これを聞いたときは「確かに一理あるかもなぁ」と思っていたのだが、なんとこの杉村太郎という方、47歳という若さで原発不明がんにてお亡くなりになってしまったのだという。

 

人間は、努力で死ねるのである。これを理解したときは衝撃であった。

 

実は……人間は悪魔に魂を売ることができる。

冒頭に書いた僕や僕を含めた知り合いは、限度を超えて頑張ってしまったがあまり、身体が悲鳴をあげて壊れてしまったのだろう。

 

身体のどこが壊れるかはロシアンルーレットみたいなもので、人それぞれである。

ある人は心を壊すかもしれないし、またある人は脳を壊すのかもしれない。

 

ロシアンルーレットの当たり方によっては、悪魔は魂だって平気で奪い去っていく。

その結果が、「死ぬ気でやりすぎたら、本当に死んじゃいました」になったって、なにもおかしくないのである。

 

宝くじの期待値は最悪だが、買わなければ永遠に当たらないのも事実だ

浪人生時代の話だ。

 

予備校のチューターが小話で

「友人で、宝くじで大金を当てたやつがいるんだ」

という話をした。

 

チューターは当てた人に

「なにか当てるコツみたいなのはあるの?」

と聞いたそうなのだが、それに対して当てた人はこう答えたという。

 

「あるよ。たった一つだけ。当たる為の秘訣が」

 

「それはね……買わないと絶対に当たらないっていう事だよ」

 

宝くじは期待値の悪さから、愚か者の税金と揶揄される事があるが、確かにどんなに期待値が悪かろうが買わない人が、大金を当てる確率は、永遠にゼロである。

物凄くバカみたいに割があわないとしても……身銭を切れば、0.00000001%の確率で億万長者になれる……可能性が浮上する。

 

リスクを負わないものには、永遠にリターンなどない。

すごくすごく当たり前の話ではあるのだけど、言われてみれば確かにという話である。

 

魂を賭け金にして、悪魔ダイスを振る

この宝くじの話はもう十年以上前に聞いたモノなのだけど、最近になって実は人生でも同じような事がいえるなという事に遅まきながら気がついた。

僕はこれを悪魔ダイスとよんでいる。

 

人間、持てる能力は様々だ。

けど現代日本社会では、一応成功するための扉のようなものは結構多くの人に開かれている。

本来なら……100の能力がなければ、その扉を開くことはできない。

けど……それ以下の能力しかない人間も、その扉を開く博打を打つ事はできる。それが悪魔ダイスである。

 

自分に、徹底的にキリキリと負荷をかけて締め上げて、肉体と精神が悲鳴をあげ、魂がコインとして抽出されるまでやる。

すると、本来ならその扉を開く資格がない人間にも、サイコロを振る資格が手にはいる。

 

このサイコロだけど、実は期待値はものすごく悪い。

それこそ宝くじと全く同じで、愚か者の税金といえるだろう。

けど……たまに当ててしまう人がいる。

 

そういう人に「成功する為のコツはありますか?」と聞くと、あれこれ無害な事を教えてくれるが、実はそれは真っ赤な嘘だ。

これを読んでいる人はもう気がついているだろうが、成功する為の本当のコツは一つだけである。

 

”死ぬ気でやって魂を肉体から絞り出し、それを悪魔に売って、サイコロを振る”

 

先程の「宝くじは買わなきゃ当たらない」と全く同じ話である。

切るのは銭じゃなくて、ホンモノの魂だけど。

 

これで6が出れば、おめでとう。

あなたは成功して欲しい物が手に入る。

けど1~5がでた人は残念ながら賭け金は全額没収でリターンもゼロだ。

m9(^Д^)プギャー。

(出典:HUNTER×HUNTER 16巻)

悪魔ダイスは容赦ない。

いつだって命がけである。

成功しても失敗しても、悪魔は容赦なくあなたから対価である魂を奪っていく。

 

ある人にとってそれは頭髪であり、残りの人生がハゲになるかもしれないし、またある人にとってそれは僕のように頭の中にある大切なモノを取り除かれる事になるのかもしれない。

 

じゃあ改めて問おう。

成功、したいですか?本当の本当に、身を削ってまで、したいですか?

 

成功したいなら……宝くじ、買うしかなくない?

 

そして凡人なら……魂かけて、悪魔ダイス、振るしかなくない?

 

羨ましいという感情が1番の無駄

宝くじは……買わないと当たらない。

凡人の身に余るほどの成功は……魂を賭けないとルーレットすら回らない。

 

残念ながら、この世にフリーランチはない。

身を切って、血で魔法陣を書き上げて、初めて勝算がみえてくる。

 

もちろん……生まれながらにして、有り余る才能を持って生まれる人もいる。

そういう人は悪魔ダイスを振ることなく、それなりに”当てる”

そういう人を羨ましく思う気持ちはわからなくもない。

なんで自分は、そういう人間じゃなかったんだろうと、僕が全く思わないかといえばそれは嘘になる。

 

けど……そういう人を羨ましいと思うのは、宝くじを買わないのと同じぐらい、当たる確率から1番程遠い何かである。

それに、そういう恵まれた人間と、凡人だって代償さえ払えば同じぐらい当てられるのである。

これこそが真の意味でのリバティー。機会の平等である。

 

初めから何の未来もみえない世界は、僕は嫌だ。

勝ち目がほとんどなくたって、やらなければ永遠のゼロである。

人生は、自分が思うようにしかならない。

憧れは理解から最も遠い感情であり、嫉妬は燃やして原動力にしないのであれば、ただの女々しい言い訳である。

 

人生ってのは、身体を張らないと掛ける事すらできないのである。

ノーリスクなら何も手に入らなくて当然。

むしろそれで何か手に入るなんて、宝くじが当たる以上にありえない。

 

倍率は自分の魂だ。

今日も腹くくって、期待値の悪い勝負に、全力で挑んでいこう。

本当に欲しい物が、あるのなら。

(出典:完全版・寄生獣8巻)

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Mark Richards

長男の話をします。多少身内褒めになってしまいますがご勘弁ください。

 

2月に長男の中学受験が終わりました。

大変ありがたいことに長男は志望していた中学に入れることになり、親としてもほっと胸をなでおろしております。

いやー中学受験は親と子どもの二人三脚って言いますが、あれ本当ですね。正直結構大変でした。

 

中学受験をする理由っていうのも、恐らく子どもそれぞれ、ご家庭それぞれだとは思うんですけど、しんざき家長男が中学受験をする理由は非常に明確、かつ主体的でした。

 

彼、鉄道研究部がある中学に入りたかったんです。

 

子どもの頃からプラレール好きで、将来は東急電鉄かJRに就職すると固く決意している長男なわけですが、彼のプラレール趣味は小6になった今でも続いています。

リビングに複雑怪奇なレイアウトをいつの間にかプラレールだけで作ってしまっていることが今でも頻繁にあるんですが、そんな長男がとある中学の文化祭に遊びに行った時、魅せられたのが鉄研の展示でして。

 

ジオラマまでついた鉄道模型のレイアウトは流石にプラレールだけでは再現出来ず、「こういうのぼくも作りたい!!」となったのが、中学受験の強烈な動機になったみたいなんですね。

 

私自身は中学受験未経験なので勝手も分からず、別に小学校から受験勉強なんてしなくてもいいんじゃない?と思う部分も正直あったんですが、長男自身が「受験したい!」と言うなら流石に否やはありません。

私自身過去問を調べて色々研究して、オリジナルの問題作って解かせてあげたり課題設定してあげたり。

塾に行ったり長期休みも講習行ったり模試受けたり、長男頑張るなーと感心していた次第なんです。

 

正直、小学校の頃は私にもそこまで主体的な「頑張る動機」なんてなかったので、「好き」をここまでパワーに出来るのは強いなー、と。そう思っていました。

 

で、ですね。

3年ちょっと前ですが、こんな記事を書かせて頂いたことがありました。

「小3にもなったらそろそろプラレールやめさせた方がいいよ、鉄オタになっちゃうよ」と言われてびっくりした話

子どもに、「将来やりたいこと」を見つけて欲しいですか?と聞かれれば、多分大抵の親御さんが「はい」と答えると思います。

「自分でやりたいことを見つけられる」人に育って欲しいですか?と聞かれれば、同じく大抵の親御さんが「はい」と答えると思います。

ところが、子どもがまさに自分で「やりたい趣味」を見つけた時、どうもそれを無条件で尊重出来る親御さんは多数派ではないように思います

鉄オタって、なんか一部のマナーの悪い人にイメージが引きずられて、悪い印象を持っている人が多いんですかね?

 

マナーが悪いかどうかなんて趣味とは全然別の話なんですから、趣味自体と結び付けてはいけないと思うんですが、やっぱりこういう「鉄オタになっちゃうよ」系のことを言われたことって結構頻繁にあったんですよ。

リアルでも、webでもありました。

 

ただ、もし仮に、私が長男のプラレールを無理やりやめさせて、長男に他の趣味を押し付けていたりしたら、長男は決して「好き」を自分のパワーに変えることは出来なかったろうなあ、と。

子どものどんな「好き」がどんなパワーに変わるかなんて分かったもんじゃないんだから、やっぱり親は可能な限り子どもの「好き」をスポイルするべきではないよなあ、と。

 

マナーがどうとか、人としてするべきことかどうかの教育とかは、それとは全く別会計でやらないといけないことだよなあ、と。

そう思うところ大なんです。

 

***

 

ところで、ちょっと話は変わるんですが、最近私の頭がちょっとバグってPS4を買いました。

PS5?知らない単語ですね。

 

その要因は何かというと、一つは十三機兵防衛圏ってゲームを私がどうしてもやりたくてやりたくて我慢出来なくなったからなんですけど、もう一つ、受験も終わった長男に「なんかやりたいゲームある?」と聞いてみたら「A列車で行こうの一番新しいヤツ」って言われたからなんですよ。

 

「A列車で行こう」。

ご存知の方も多いと思うんですが、線路と駅を中心にした街作りゲームでして、プレイヤーは鉄道会社を経営して町づくりを進めていきます。

駅を作って線路を通して、子会社を設置して人が集まる環境を作っていくと、住民が増えて町がどんどん発展していきます。

[amazonjs asin="B07TS7CKLV" locale="JP" tmpl="Small" title="A列車で行こうExp.+(エクスプレス プラス) - PS4"]

「シムシティ」をだいぶ鉄道寄りにしたゲーム、と考えればそれ程的外れではないでしょう。

めちゃ面白いので皆さんも良かったら遊んでみてください。

もうすぐswitchでも出るみたいです。

 

長男、何かの動画で「A列車で行こう9」のプレイ画面を見て、「自分も街を作って電車を走らせてみたい!」って考えたらしいんですね。

A列車9ってPC版とPS4版しかなくって、さすがにゲーミングPCはまだちょっと買ってあげられないので、私も十三機兵遊びたいことだしこの際PS4を買ってしまおうと考えたんです。

 

そんなこんなで、長男A列車を遊び始めるなりずぶずぶとハマってまして、こんな感じで自分が作った線路の路線図まで作ってるんで、あーゲーム楽しんでなんなーと微笑ましく、かつ同じゲーマーとして頼もしく思っていたんですが。

https://www.instagram.com/p/B9HOcn6p41B/

長男のプレイを観て、ゲーム以外の部分でも一つ感心したことがありまして。

長男、ゲームの中から、色んな「興味」を見つけてきては、ゲームの外でそれを満たそうとしているんですよ。

 

例えば、A列車9って結構会社経営ゲームとしてリアル・かつシビアでして、色んな企業用語が出てくるんですけど、いちいちそれをwebや辞書で調べようとしたりとか。

負債とか、収支とか、そういう用語ですね。

 

税金がやたら強敵だと知って、ドラえもん社会ワールド「お金のひみつ」で税金について調べようとしたりだとか。

株取引がやたら儲かることを知って、私に株ってなんなのか根ほり葉ほり聞こうとしてきたりだとか。

 

しんざき家って、ゲームやテレビは20時までって決まってまして、それ以降は電源入れちゃいけないことになってるんですが、そういう時間もずーっとゲームの説明書を読みこんだりしてるんです。

彼、「ある程度遊んだ後説明書読み直すとすっごい面白いよね」とか、私も30年くらい前に散々実感したことを口にして、「だよな!!!」とか思わず盛り上がっちゃったんですが。

 

私、ただ「好き」だけじゃなくて、「好き」を基点に興味を広げられるとめちゃ強い、と思っています。

興味って知らない世界への入り口なんですよね。「これ楽しい」から、「これの周辺の知識を身に着けるのも楽しい」になる。

更にそこから、全然関係ないところに興味が連鎖していく。それについて調べて、世界が広がっていく。

 

「好き」の周辺って、何を調べても面白い。

それが実感出来ると、趣味にハマることがそのまんま世界を広げるパスポートになるんですよ。

これだけでも、A列車やらせてあげて良かったなーって思うばかりなんです。

 

昨今ゲームに対する風当たりがまたなにやら強くなってきてますが、ゲームに限らず、子どもの「好き」とか「これがやりたい」って、世界をどんどん広げていく絶好のトリガーになるんですよね。

 

折角あちこちにごろごろ転がっているトリガーを、変な警戒感と無理解で潰してしまうのは本当にもったいないよなあ、と。

大人がするべきことは、子どもの「好き」をどんどん次の興味に繋げていってあげることじゃないかなあ、と。

そんな風に考える次第なんです。

 

幸か不幸か、最近自宅にいる時間が激増しまして、長男ほくほくとA列車にハマりこんでいます。

最低限視力が落ちないようにTPOだけは指導するとして、受験が終わった後の自由時間くらいたっぷりゲームにハマらせてあげようと。

私はそんな風に思っています。あ、あと十三機兵防衛圏死ぬ程面白いんで皆遊んでください。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Plus-Tech-Railways

医者として働きだして最初の頃の話である。

新米医師である自分は、とある地方の中核病院で夜間の救急外来を担当していた。

 

その病院は大きいがどの駅からも遠く、たどり着くのは容易ではない。

それにもかかわらず……夜間だろうが、本当にひっきりなしに患者がやってきた。

 

病はいつ何時たりとも人を襲う。

それは夜中といえども例外ではない。

夜中にやってくる人の中には、大変な病でやってくる人もいた。

 

が、しかし「こんな時間に、わざわざ病院になんてやってこないで、朝まで寝てりゃいいのに」という人もたくさんいた。

 

当時の自分は若く、正しい科学知識で地域住民を教育することも自分に課せられた使命だと思っていた。

だから夜中に訪れた患者さんに、懇切丁寧に”科学的に正しい”知識を説明し、家で寝てれば治ると帰宅を促していた。

 

あるとき、そんな僕の姿をみた先輩医師が僕を捕まえてこんな話をした。

 

「高須賀先生、夜中も日中と変わらず熱心に診療するねぇ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 

僕は褒められるのかと思ったが、ここから話は予想外の方向へと転がり始めた。

「ねぇ先生。こんな夜間に、わざわざ、駅から遠いこの病院に、なんで軽症の患者さんがやってくるんだと思う?」

 

僕は間髪いれずにこう答えた

「正しい知識がないからじゃないですか?」

 

彼は頷きつつも、僕をこう諭した。

「それもあるかもしれない。けど、もっと本質的な事をいうとね……彼らは”普通じゃない”んだよ」

「はぁ……」

 

「もちろん、ここでいう”普通じゃない”ってのは、頭がおかしいとか、そういう意味じゃない

人間の不安には、”根拠のある”不安と、”根拠がない”不安の2種類がある。

日中の外来にやってくる人は、どっちかというと比較的頭は落ち着いている人が多い。

こういう人なら、先生のような”科学的に正しい”知識でもって、不安がある程度は和らぐかもしれない。

けどね……朝まで待たないで、夜中に、わざわざタクシーを飛ばしてこんな大病院にやってくる人は、”根拠がない”不安にとらわれちゃってるんだよ」

 

「……」

「そういう人が1番必要としているのは正しい知識じゃない。”根拠がない”安心なんだ。

だからね、昼の人と同じ対応をしちゃ駄目だよ。相手の顔をじっとみて、”大丈夫ですよ、安心してください”って言って”根拠がない”安心を補ってあげなくちゃ。

それが補われれば、もう診察なんて9割終わったようなものなんだからさ」

 

”根拠がない”漠然とした不安は人を酷く不安定にする

医学の世界にはこんな格言がある。

病をみて人をみず。

いま思い返すと、働きはじめの頃の僕は病気”しか”みてなかった。

 

「病気に対して正しい対処をすれば、みんなが満足する」

 

これが最適な対応だと思いこんでいた。

 

しかし、働き始めて半年もしないうちに”根拠がない”漠然とした不安というものへの対処が、思っている以上に大切なのだという事に嫌というほど気が付かされた。

病は気からというが、気は本当に馬鹿にできない。この事は今回のコロナウイルス騒動からもよくわかる。

 

根拠のない不安は、時に爆発的に拡散する

熊代先生が、コロナウイルス騒動でほとほと疲れてしまったというブログを書かれていた。

新型コロナウイルスのせいで消耗している - シロクマの屑籠

体力も気力もなくなった。
疲れて、いる。

原因の見当はついている。
だいたい新型コロナウイルス(COVID-19)騒動のせいだ。
この騒動によって私は消耗し、体力も気力も出なくなってしまっているのだと思う。

文中でも書かれているとおり、熊代先生はコロナウイルス自体にはそこまで危機感を持っていないという。

 

だが、それでもツイッターのタイムラインを流れる今回の一連の騒動を通じて、ほとほと精神が疲れて果ててしまうという。

なんでこんなに疲れてしまうのかといえば、それはコロナウイルスの情報に乗じて、人々の”根拠がない”不安を言外に感じ取ってしまうからだろう。

 

多くの識者が指摘しているとおり、いまの日本の雰囲気は、なんとなく東日本大震災の時の感じと似ている。

あのときも、日本社会全体を”根拠がない”不安が覆い尽くしていた。

 

そうしてソワソワすると、人々は”根拠がない”安心を求めて生活必需品を確保し始めたり、”自分も役に立ちたい”という思いから、一見すると正しそうだが科学的には誤っているキャッチーなデマを拡散しはじめる。

ぶっちゃけマスクなんてつけたって、一ミリもコロナウイルスの予防には役立たないし、残念ながら26度のお湯ではコロナウイルスは不活化しない。

 

しかしそれでも人々は、マスクを求めて駅前のドラッグストアに早朝から並んでしまうし、LINEグループで26度のお湯情報を共有してしまう。

何故か?それぐらいしか”根拠がない”安心を手軽に得る方法がないからである。

 

残念ながら、”科学的に正しい”知識は普通の人々には”根拠がない”安心を与えてくれない。

今回の騒動を和らげるためには、マスクはめちゃくちゃ増産しないといけないだろうし、様々な観光施設にも営業を自粛してもらうほかない。

 

そこに根拠に基づいた”正しさ”はない。

けれど根拠を超越した”安心”はある。

安心神話ともいえるような寓話が、いま1番求められているのである。

 

よくわからないものは怖い

僕が中学生の頃の話だ。

 

教室のドアの近くに座っていたのだが、そこを人影のようなものが不定期にチラチラうろついていた。

その当時、大阪教育大学附属池田小学校で小学生無差別殺傷事件が発生していた事もあって、僕は

「ひょっとして、ここにも殺人鬼がうろついているのかもしれない」

と強い恐怖心にかられる事となった。

 

初めの頃は「いやいや、気のせいだろ」とごまかしていたのだが、一週間ほど経過した後、あまりにも恐怖心がふくれあがったので僕は授業中に鉛筆をわざと落として、ドアを少しあけて外をみた。

 

そこには……何もなかった。

 

いま思うと、太陽の光がときどき何かに遮られて、影がつくられていたのだろう。

念の為、その後も何度か確認したのだが、やっぱり何もなかった。

そうしたら”根拠”ができたからなのか、そのあと僕はその影を全く気にする事がなくなった。

安心を手に入れ、僕は落ち着いたのである。

 

たぶん、いまの日本は、あのドアにできた影のようなものが全国民にチラついているような状態なのだ。

みんながみんな”まんじゅうこわい”みたいな状況に陥っているのである。

 

中学生の僕はドアを開けて確認する事で”根拠ある”安心を手に入れられた。

けど、残念ながらコロナウイルスは目に見えない。

多くの人は結果がでるまで”根拠のない”不安に駆られ続けることだろう。

 

あなたの周りにも、冷静そうにみえつつも”根拠のない”不安でおかしくなる一歩手前の人がいるかもしれない。

そういう人が”根拠のない”不安にとらわれない為にも、大切な人の目をみてこう言ってあげよう。

 

”大丈夫ですよ、安心してください”

 

バカバカしいと思う人もいるかもしれないだろうが、こういうのが意外と本当に大切なのである。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Giulio Gigante

『営業はいらない』(三戸政和著/SB新書)という本を読みました。

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僕自身は、「営業」という仕事をやったことがありませんし、セルフのガソリンスタンドで「カード作りませんか?」と声をかけられるたびに

「こういうやりとりが面倒くさいからセルフに来ているのに!」

とイラっとするくらい「知らない人とやりとりするのが苦手」なのです。

 

それでも、「営業」には、生身の人間どうしの心の機微の把握や気遣いなど、良い面もあるのだろう、と思ってはいます。

「人」と接することで癒されるという高齢者もけっこう多いですし。

営業マン受難の時代を証明するかのように、この20年の間、営業マンの数は2001年の968万人から、2018年にはついに864万人にまで減少した。

これはピーク時に比べて、約100万人の営業マンが消滅したことを意味している。

 

営業マンが減少している原因としては、前述したインターネットの普及のほか、流通構造の革新や合理化もその要因の一つとして考えられる。

具体的には、元卸や仲卸といった複雑な卸売構造が見直されたことや、フランチャイズシステムの発達により全国にチェーン店が普及したことなどが挙げられる。

 

ただ気になるのは、「営業・販売事務従事者」の数が大きく伸びている点だ。この事実を最初に指摘したのは恐らく、統計データ分析家の本川裕氏であるが(プレジデントオンライン2019年9月9日の記事参照)、調べてみればたしかにその増え幅は実に、56万人から70万人へと14万人にものぼる。

なぜ営業職全体は減っているのに、営業事務職が増えているのか。それは足で稼ぐ従来型の「外回り営業マン」の数が減る一方、セールステックと総称される営業支援ツールを駆使する「内勤型営業マン」が増えているためである。

 

営業マンは今、間違いなく激動の時代に突入している。

最近のニュースをみていると、「かんぽ生命」で横行していた「郵便局員への高齢者の信頼につけ込んで、強引に理不尽な契約を取る」というような「対面販売の負の面」ばかりが目立っているような気がします。

 

この本のなかでは、ネット証券会社と対面販売での株を買うときの手数料の違いなども紹介されているのですが、20万円以下の国内株式の場合、業界最大手の野村證券の窓口で買うと、税込みで手数料2860円、ネット証券最大手のSBI証券では、10万円から20万円までなら115円なのです。

 

もちろん、窓口で株を取引する人のなかには、長年の優良顧客として優遇される人もいるのでしょうけど、同じ株が手に入るのに、ネット取引とここまで手数料が違うと、競争になりませんよね。

ネットの使い方がわからない、とか、ネット証券での口座開設がめんどくさい、という理由で窓口しか利用したことがない人はそれなりにいるとしても、一度使い始めてしまえば、ネット証券のほうがはるかに手っ取り早いし、手数料も安いのです。

 

いずれにしても、株取引に関する、暴落や倒産、配当減などのリスクはあるのですが、同じ株を買うのに、手数料が2860円と115円とは、あまりにも差が大きい。

その分、対面販売だと優遇されるかというと、「証券会社や銀行が儲かる商品」を勧められることも多いのです。

 

それで商売をしている側も、この価格差に問題意識を持っていることは間違いないと思うのですが、既存の大手証券会社が、大勢いる社員に給料を払うためには、窓口での手数料をネット証券と同じにはできないのです。

保険、とくに貯蓄型保険の必要性に疑問を感じている若い人たちが多いなかで、厳しいノルマを課せられていたことは、「かんぽ生命」の事件の原因でもあります。

 

営業マンなら、コンピュータ相手よりも、「人間対人間」だから行き届いたサービスをしてくれる、というのなら、存在意義もあるのだろうけど、実際は、郵便局員ですらノルマを達成するために顧客を騙す時代なのです。

僕などは、疑り深い性格なので、「営業マンがわざわざ勧めてくるものは、まず信用しない」ことにしています。

 

この本のなかで、著者は、「テクノロジーが生身の営業マンを代替している」一例として、製薬会社の営業マン(MR:医薬情報担当者)の減少を指摘しています。

医薬品の販売は極めて専門性が高く、複雑で広範な知識が必要となる上、使用時のリスクなども存在する。

そのため傍から見れば、医薬品の営業活動については、一見テクノロジーが導入されにくいように思われる。また、「医師の側としても、重要な医薬品を購入するのだから、やはり人を介してじっくり説明を受けたいのではないか」と思ってしまう。

 

しかし現実はそうではない。なんとインターネットを通しての購買が急激に進んでいるのだ。

MR認定センターのまとめによると、MRの数は2013年度の6万5752人をピークに、6年連続で減少し、2018年度末には5万9900人となった。特に2018年度の減少は過去最高で、1年で全体の約4.1%にあたる2533人が減少した。

MRの新卒採用の抑制も続いており、2019年の春には、製薬会社の6割がMRに新卒の採用を見合わせている。

 

MRの数をここまで顕著に減らした裏には、実は「MR君」というWebサービスの存在がある。

「MR君」は、日本最大級の医療情報専門サイト「m3.com」等を運営するエムスリーによって提供されているもので、従来はMRから医薬品を購入していた医師の動きを、Web上に代替したサービスである。

さまざまな接待は20年前くらいから制限されるようになりましたし、医者の側からも、仕事場に押しかけてきたMRさんに、何度も同じ自社製品の宣伝をされるのは鬱陶しい、という面はあったのです。

 

その一方で、接待大好き、MRさんと仲良し、という人も一昔前は多かったし、今でも、大部分の大きな学会や研究会には製薬会社が協賛しています。

新薬の開発においても、病院と製薬会社の協力は不可欠です。

 

でもまあ、日常においては、忙しいところに声をかけられ、何度も聞いたことがある宣伝をされる、というのは、かなりのストレスではあったわけで、もう、「MR君ばんざい!」って感じなんですよ。

MR君は、使用者のこれまでの傾向をデータ化して、カスタマイズされたリコメンド機能すら持っています。

 

この本のなかでは、自動車メーカのテスラや家電のバルミューダなど、個性的な製品でファンをつくり、顧客のほうから、その会社の製品を検索して買いにくる事例も紹介されているのです。

 

ただ、読みながら考えていたのは、たしかに「営業マン」にはさまざまな問題があるけれど、インターネット販売というのも盲信できるものではない、ということなんですよ。

そもそも、多くの人は、自分の専門外においては、羅列されたデータをみても、どれが本当に必要なのか、どこが優れているのか理解するのが難しい。

 

僕も「本当はどの洗剤がいちばんよく汚れが落ちるのか」なんて、どんなに成分表示やCMをみても、わからないのです。

それで、結局のところは、Amazonのレビューをみたり、口コミに頼ったりしているわけで、一周して「人」を信じている、とも言えるんですよね。

 

母数が多ければ、それなりに有意な結果にはなりそうだけれど、口コミが効果的、ということで、口コミを作り出すテクニック、みたいなのもどんどん編み出されているのです。

最初から「ニセの口コミサイト」が作られていて、検索するとそれが上位に表示される場合すらあります。

 

この本のタイトルは「営業はいらない」なのですが、著者は、不要になる「営業」はたくさんあるけれど、これまでの時代に「営業マン」として必要とされた資質は、これからの時代に十分活かせるものであり、少数精鋭で「小商い」をやっていくことに可能性があるのではないか、と述べています。

実際、私のファンドは私を含めて4人態勢となっており、5人以上にならないようなサイズ感で運用することをイメージしている。その理由は、それ以上になるとマネジャーである私の仕事の効率が如実に下がることを実感しているからである。

 

私は効率的に働くことで、「お金からも、働くことからも自由になり、好きなことを、好きな人と、好きなようにやれる人生を手に入れたい」と思っている。

そのために、ファンド5人以内の態勢が、マネジメントやコミュニケーションロスが発生しない、無理のない経営体制だと感じている。ブルーポンド戦略を実践するなら、みなさんにも少数精鋭型のコンパクトな経営をおすすめしたい。

 

多くの人を雇って事業を拡大する理由などどこにもない。わざわざ仕事の効率を下げ、人生のクオリティを下げる必要はどこにもないのだ。

著者が勧める「ブルーポンド戦略」に興味を持たれた方は、この本を読んでみることをおすすめします。

 

ひたすら成長を求め続ければ、どこかで限界にぶつかるし、組織を維持するために過剰なノルマを従業員に課すことになる可能性も高くなります。

組織が大きくなると、それを維持するために、どうしてもコストがかかってしまう。

そこから、過剰なノルマが課せられるようになり、誰も幸せにしない「ムチャな営業」が常態化していくのです。

 

最後に頼れるのは、人か、「MR君」か。

結局、AI(人工知能)に「何を重視するか」を設定するのは人なんですよね。「人を騙してでも儲けたい」という目的でつくられたプログラムは、容赦なく顧客を欺きます。

そして、かんぽ生命の場合のように、現場でそんな「詐欺まがいの営業」をやっている人たちも、自分の生活を守るためにやむを得ずやっている、と思っているのです。

 

われわれは、何を信じたら良いのだろうか?

 

『営業はいらない』の著者のように、自分で生き方を切り開ける人は、そんなにいないだろうな、という気もするのですが、「営業」という仕事に行き詰まりを感じている人には「効く」本だと思います。

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo:Hinata-sennin

できない人が質問をしに来ない、という傾向は、それなりにどこの会社でも見られるようである。

例えば新人が聞きに来ない、若手が聞きに来ない、あるいは「不出来なベテラン」だと、誰にも相談できなくて行き詰まる、なんて話もある。

 

つい先日も、あるテクノロジー系の企業で「聞きに来ないメンバー」をなんとかしたいが、どうすればよいか、という話があった。

聞くと、力量の低いメンバーの一人が、報告が苦手で、かつ聞きに来ないので、こちらがかなり監視をしているが、手間がかかってしょうがない、という。

 

仕事の進捗を入れたり、週報を書いたりするような社内システムもあるのだが

力量の低い人ほど入力率も低く、入力した報告の内容も拙いという。

 

結局、上司が直接、成果品を逐一覗いてチェックをしているそうだが、それも限界がある。

こまったこまった、という話だ。

 

 

こういった事象について

「できない人」は、「何がわからないのかわからない」、したがって、質問ができないのは当然ではないのか、という話がある。

新人はなぜ聞きに来ないのか

何がわからないのかがまずわからない

ので、

具体的にどう質問していいかわからない

だから

何を聞けばいいかすらわからない=聞きに行けない

というパターンかとおもいます。

単純に言えば「質問が出来る=ある程度わかっている」だから、「質問に来ない人たちのせいにするのではなく、わかっている側が確認せよ」という話だ。

 

あるいは「聞きに来ない」は「聞きづらい」の裏返しだから、それを解消せよという話もある。

新人を育てる時に「自主性」を考慮するのは、百害あって一利なし。

皆さん、新人の時に、「同じことを何度も聞くな」って言われたことありませんか?

私、逆に、「同じことを何度も聞け」って言うようにしてるんです。

「忙しくて答えられない時もあるけど、あやふやで進めるくらいなら同じこと何度も聞いて」って。

大体において、新入社員って「何が分からないのかが分からない」状態な訳じゃないですか。

一通り説明して、「分からないことあったら聞いて」って言っても、「あ」「えーと」とか言って何も有効な質問が出来ない状態な訳です。

質問をする為には、それ自体ある程度理解を必要とするものなんです。

ただでさえ質問をすること自体が大変なのに、更に質問のハードルを上げてしまったら、聞けるものも聞けなくなりますよね。

ただでさえ「わかっていない」メンバーが、勇気を出してやっとのことで、上司に拙い質問をしたら、

「何度も同じことを言わすな」とか

「は?なんでこんなことしてんの?」とか言われたら、「聞けない」のは当たり前だろう。

 

しかし、冒頭のテクノロジー系の職場では、いずれの事象も見られなかった。

 

メンバーたちも「質問できないほど、何もわかっていない」状態ではない。

一方で、上司たちも一定の「チェック」はしている。

 

上司が「聞きづらい雰囲気」を出しているわけでもなく、メンバーを「攻撃」する人はゼロ。

基本経営陣はオープンで、率直な質問をしても、嫌な顔をされるわけではない。

 

要するに、観察しても「なぜ質問をしないのかわからない」という状態だったため、

彼らは途方に暮れてしまっていたのだ。

 

 

結論から言うと、「できない人」は人に聞いていないわけではない。

実は、新人同士、できない人同士で聞き合っていて、上司や「できる人」には聞かないのである。

 

これは、ノーベル経済学賞を受賞したことで知られる経済学者、ジョージ・アカロフの著書の中で

「ややこしい訴訟に巻き込まれた、政府の役人についての観察」で紹介されている。

公式の規則では 、役人が助けを求めていい相手は上司だけということになっていた 。

もちろん役人たちは 、しょっちゅう上司に助けを求めたりはしたがらなかった 。うっとうしがられるし 、それに自分の無知や独立性のなさを認めることになってしまうからだ 。

そこでかれらは系統的に規則を破った 。お互いに相談しあったのだ 。

 

ブラウはこの相談のパタ ーンを観察し 、これを衡平理論に照らして説明した 。かれは役人同士の技能水準にちがいがあることも記述した 。

 

そして予想とは異なり 、技能の低い役人が技能の高い役人に相談することはほとんどなかった 。

低技能の役人は同じく低技能の仲間と相談して助言をやりとりした 。そして高技能の役人は 、他の高技能の役人とお互いに助言しあった 。

 

なぜそうなったのだろうか ?それは 、低技能の役人たちが取引に使える材料が限られていたからだ 。

ありがとうと感謝の念を述べることはできる 。そしてまれに高技能の役人に助言を求めた場合には 、確かにみんなそうした 。そうした謝意は 、最初はうれしいかもしれないが 、やがて空疎になる 。お礼を言うほうだって気疲れする 。

 

だから低技能の役人は 、最初は知識豊かな役人に助言を求めたとしても 、それが何度も繰り返されることはなかった 。一方 、同程度の仲間となら 、同程度の価値のやりとりとともに交換は繰り返し続いたのだった 。」

—『アニマルスピリット―人間の心理がマクロ経済を動かす』ジョージ・アカロフ, ロバート・シラー著

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単純に言えば、「自分が低技能だと知っている人は、常に質問のときに引け目を感じる」ので、徐々に質問しなくなる。

 

 

かつて、私にも「気さくに答えてくれる先輩」がいた。

彼は人間的にも優れていたので、結構甘えてしまっていたこともある。

 

ただ、一方で私が気にしていたこともある。

先輩が質問に一生懸命答えても、彼にとって、ほとんどいいことはないのだ。

(いいことはない、と私は思っていた、という方が正解かもしれないが。)

 

むしろ、私のように頻繁に「先輩を利用する」人が増えれば増えるほど、

彼は自分の仕事ができなくなる。

 

もちろん、会社には

「新人からの質問は最優先に答えなさい」

というルールがあった。

先輩はそれを忠実に、しかも嫌な顔一つせずに遂行していたのだから、全く頭が下がる。

 

ただ「嫌な顔をしていない」からと言って、彼がどう思っているかはわからない。

私は徐々に、かんたんなことであれば、できるだけ自分で調べよう、と思うようになった。

いや、「自分で調べるべきじゃないか」と思い込むようになった。

なにせ、自分の身になってみれば、仕事が忙しい時に、新人にわざわざ教えるインセンティブは働かない。

 

これが本音だった。

 

 

こういった事象はどのように解決すべきだろう。

なかなかスパッと解決する方法は無いが、

 

要は、「質問に答えると、回答者が得をする仕組み」は一つの解決策になり得る。

「知恵袋」や「質問箱」のように。

 

そうしたサービスにおける回答者たちは一見何の得もない質問に、延々と回答している。

なぜなら、「良い回答」に称賛が集まるからだ。

 

企業内でも例えばGoogleはこれを実践している。

さすがGoogle 、と思う。

 

Googleの人事トップであった、ラズロ・ボックは

Google社内での「感謝を形にするツール」の成功について述べている。

シンプルなデザインも、gThanks!の魅力のひとつだ。たとえば、感謝を伝えたいときは、相手の名前を入力して「Kudos(称賛)」ボタンをクリックし、メッセージを入力する。

メールより優れている点は、ネットワークにつながっているほかの人も投稿を見られることで、グーグルプラスで共有もできる。称賛が社内に広がると、称賛を送った人も送られた人も満足する。

個人的にメールを送るより簡単な操作で投稿できるのも、気軽でいい。

Kudosの専用サイトは以前からあったが、gThanks!の導入から1年でKudosの利用者は460%も増え、毎日1000人の社員がアクセスしている。

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この仕組みのポイントは、称賛を送った人も、送られた人も満足するという点だ。

つまり「これは称賛される側だけではなく、質問する側にも引け目を感じなくてよいというメリットがある」のだ。

 

 

冒頭の会社は、Googleと同様に、質問者に「質問の内容と回答」を社内掲示板にアップするよう、要請した。

よくある「ノウハウ共有のため」ではない。

「回答者へのお礼」として。

 

これが、礼儀を重んじる彼らのカルチャーにフィットしたようで、結果的に質問も増えた。

そして、一定以上のお礼を集めた先輩は、皆、表彰され手当も出たという。

 

上司に特に問題がないのに、「できない人」が聞きに来ないという事象が発生しているのなら、彼らが「引け目」を感じている可能性がある。

そうしたことを仕組みを使って解決するのも、経営幹部の一つの役割なのだろう。

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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<Photo:Rbn Jmnz>

2月19日のbooks&appsの記事のなかに、人間の「適応」の素晴らしさを讃えるフレーズがあった。

大人はたいして成長しないし、多分必要なのは「成長」じゃなくて「適応」。

「スキルの獲得に受け身」だったり、消極的だったりするのは、その人達が生物だからです。

余計な力を使わず、万が一環境が変われば「適応」しようとする。そして、しんざきさんの周りの人たちは実際に「適応」している。

これこそまさに、「ああ、生き物ってすごい」と感心していい部分じゃないでしょうか。

受け身が実は、人間の本来の姿なんです。

生き物としての人間の適応はすごい。

地球上のあらゆる場所で生活し、繁殖できるほどだからだ。道具をつくる・群れをつくる・文化をつくるといった特質のおかげで、生き物としての人間は食物連鎖の頂点に君臨している。

 

個人としての人間の適応も、たいしたものだと思う。

高度な知識を理解し、複雑な作業をやってみせ、制度や習慣を守りながら日常生活を過ごしている。

 

社会が複雑になり、分業が進むにつれて社会適応のバリエーションも広がっていった。

たとえば東京に住む人々は多様性のある暮らしをしていて、それぞれが、肉体的にも心理的にもそれなり帳尻の合った生活をしている。

 

人はそれを「不適応」と呼ぶ

ところで、世の中には「不適応」という言葉もある。

 

「適応」がポジティブな意味合いで語られるのに対し、「不適応」は必ずといって良いほどネガティブな意味合いで語られる。コトバンクで意味を確かめてみると、

【不適応 maladjustment】

生体が多少とも永続的に環境に適応できないこと。

生体の身体的障害や心理的傾向に原因がある場合と,環境条件が不適当な場合とがあり,神経症,精神病,人格障害などを生じる。

社会的環境への適応異常が問題にされることが多く,精神分析では本能的衝動と社会的要請との葛藤が重視される。

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

とある。

 

一行目の「多少とも永続的に環境に適応できないこと」の「多少とも」がちょっと曖昧だが、とにかく、環境に適応できないとみなされるものが不適応ということになる。

 

たとえば出社拒否や不登校などは不適応と呼ばれやすい。

職場環境や学校環境に適応できていない、とみなされるからだ。

 

趣味にかまけてばかりで学業や仕事が冴えない人や、身だしなみが整わずコミュニケーションも上手くない人に対しても、不適応という言葉を連想する人もいるかもしれない。

一般的な不適応のイメージとは、だいたいこのようなものだろう。

 

だが、これらは本当の本当に不適応でしかないのだろうか?

 

職場や学校に行けば三日とたたずに潰れてしまう状況の人が、出社拒否や不登校でギリギリ保っているとしたら、

それで本人の身体的・精神的・社会的ダメージがマシになっているとしたら、

それらは不適応であると同時に適応と呼べる側面を持ち合わせていると言えないだろうか。

 

趣味にかまけてばかりで学業や仕事が冴えない人も、それがその人にとってギリギリかつ最もマシな適応である可能性は否定できない。

苦もなく学業や仕事に打ち込める人には不適応にみえる生き方でも、学業や仕事の心理的負担を別の場所で埋め合わせずにはいられない人には最もマシな選択で、どうにか環境に適応するための処世術であることは珍しくない。

 

世間の大多数にとって不適応とみえる処世術が、本人にとって適応に不可欠の処世術だったり、環境と折り合いをつけるための方便だったりするとしたら、適応/不適応をわけるものはいったい何だろう?

 

「第三者からみて」

「多少とも永続的に環境に適応できないこと」

を不適応と呼んで構わないとしたら、長続きしそうにない適応をかたっぱしから不適応と呼ぶこともできよう。

たとえば高学歴志向な家庭の子どもが進学校に進むための勉強をしなくなり、遊んでばかりになったとしたら、親からみればいかにも「不適応」とうつる。

 

しかし、その子どもが遊んでばかりいる背景として、両親の不和や理不尽な勉強の押しつけがあって、それに耐えかねたり反抗したりしている背景のある子どもだった場合は……それは不適応というより、まず適応と呼ぶべきではないだろうか?

 

親の意のままになっては心身がもたない環境に直面した時、環境のなすがままになるのでなく、環境に逆らってでも自分のメンタルが破壊されない行動を選ぶのは、人間の柔軟さや強さを示すものであって、人間の至らなさを示すものではない。

控えめに言っても、こういった場合、子どもの行動を「不適応」という側面だけから眺めるのは危険だ。

 

ところがそういった背景を汲み取ることもないまま「おまえは不適応だ」「あいつは不適応だ」と名指しし、批判する人がいる。

案外、親や教師や上司といった人々がそうだったりすることもある。

まさにそのような親や教師や上司から身を守るために、第三者が「不適応」と呼びそうな行動を選ばなければならないことすらある。

 

「誰かが不適応と呼ぶ行動や状態が、しばしば別の誰かにとっての適応、それも切実な適応であり得る」ことは、読み筋としてときに必要なものだと思う。

 

「お金にならない適応は不適応」という考え方

こうした問題とは別に

「お金にならない適応は不適応」

「自分自身の市場価値を高めない適応は不適応」

といった信念を持っている人たちもいる。

 

わからない話ではない。

なぜなら、現代社会ではありとあらゆるモノやサービスに値札がつけられ、売買ができるからだ。

お金を稼げる能力やお金になるかもしれない潜在力にも値札がつけられ、いわば、人間自身も商品となって久しい。

 

以前に私は、「自分の市場価値」がついてまわる社会という文章を書いたことがあった。

人間が、生産価値や消費価値といったもので測られることはそれまでにもあったけれども、新自由主義の浸透した社会ではもっと進んで、投資効果や費用対効果にもとづいて人間が値踏みされる。

人間の行動原理も新自由主義的になり、企業としての自分、法人としての自分のバリューを拡大することが現代人の関心のまとになる。

学校を選ぶのも、パートナーを選ぶのも、インスタグラムにアップロードする写真を選ぶのも、すべてこうしたバリューの拡大という関心に基づいたものとなる。

資本主義や新自由主義のロジックを内面化すればするほど、働き方も、人間関係も、SNSへの投稿も、自分の市場価値を高めるためのものとなり、投資効果や費用対効果を意識したものとなる。

 

そういう、資本主義が人間の言葉を囀(さえず)っているような人にとって、資本主義のロジックどおりに行動することこそが適応で、ロジックからはみ出した行動は軒並み不適応とうつるだろう。

自分自身のなかに厳格な行動原理がある人は、しばしば、自分の行動原理にもとづいて他人の適応や不適応を推し量ってしまいがちだ。

 

たとえばキリスト教会のロジックを行動原理にしていた15世紀の宗教家からみれば、キリスト教会のロジックからはみ出した行動はどれも不適応とうつったに違いない。

反対に、キリスト教会のロジックにかなった行動は、命を落とすようなものですら、適応とうつったに違いない。

 

2020年の日本には、キリスト教のロジックにもとづいて考え、行動している人はほとんどいない。

しかし資本主義や新自由主義のロジックにもとづいて考え、行動している人なら珍しくない。

控えめに言っても、たくさんの人がお金や市場価値を意識しながら考え、行動しているのは否定できないところで、そうしたロジックを無視して生きるのはなかなか難しい。

 

多くの人が「お金にならない適応は不適応」と考えるようになった社会では、お金にならないことをしている人々は不適応とみなされやすい。

お金を産まない活動、それでいて自分自身の市場価値を向上させることもない活動は、だいたい不適応とみなされてしまうだろう。

 

こうやってフレーズにしてみると、「お金にならない適応は不適応」という考えは、いかにも窮屈にみえるかもしれない。

ところが世の中には、お金になることをとにかく求め、趣味や遊びまでもが自分自身の市場価値に貢献しそうなものを選び、市場価値を低くしてしまいそうな趣味や遊びを避けていて、しかもそのことにほとんど無自覚な人も案外いたりするのだ。

 

「不適応」に「適応」をみて、「適応」に「不適応」をみる

このように、どこまでを適応と呼び、どこからを不適応と呼ぶのかの境界は、実はあいまいだ。

適応という名のゴールポストは、文化や社会の変化につられて簡単に動いてしまう。

だから私は、人々が適応と呼ぶもののなかにも不適応な側面があり、不適応と呼ぶもののなかにも適応的な側面はあると、なるべく考えるようにしている。

 

たとえば仕事も趣味も自分の市場価値を高めることにまっしぐらの人は、資本主義社会の適応のお手本のようにうつる。

しかしそのまま年を取り、もはや市場価値を高められなくない事態を迎えた時には、そのまっすぐさが不適応の源となり、中年期危機を迎えてしまうかもしれない。

 

その逆もありえる:世間の人々から不適応だとみなされていた行動や、回り道だと思われていた選択が、後々になって役に立ったり、自分自身の市場価値を高める一因になったりすることもある。

また、不適応と呼ばれていた人からその不適応を強引にやめさせたら、もっと凄惨な状態になってしまうこともよくある。

 

何が適応で、何が不適応かを考えるのは、だから本当は難しい。

それでも間違いなく言えるのは、人間の行動や選択にはたいてい適応的な側面があり、たくさんの人が不適応だとみなす行動や選択にもなんらかの理(ことわり)がある、ということだ。

 

ほとんどの不適応にはなんらかの理があり、そこにも人間が懸命に環境に適応していこうとする意志や力を見出せるなら、いよいよもって「ああ、生き物ってすごい」と感銘を受けるのではないかと思う。

少なくとも私は人間の適応の複雑さや奥深さに魅了されているので、生涯をかけてこれを追いかけていきたい。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Mike Maguire

「文章を書いてお金をいただいている」と言うと、多くの人が「すごいね」と言ってくれる。

そして高確率で、「自分には文章を書くなんてできない」と続くのだ。

 

考えてみれば、学生時代にも

「レポートを書きたくないからテストの授業を選ぶ」

「感想文なんてなに書けばいいかわからない」

と言っている友だちは多かった。

 

でも正直わたしは、「なんで書けないんだろう?」と内心首をかしげていた。

人間はたいていの場合なにかしら考えているのだから、その「考えていること」を「文字」として書き起こすだけじゃないか。

 

わたしにとって「書けない」というのは、「考えていない」と同じだ。

考えてない人間なんていないんだから、書けない人間だっていないはず。……と思っていたのだが。

「文章なんて全然書けません」という人に出会い、話してみて、「なるほど、こういう人は文章を書くのが苦手なんだな」と納得したので、今回は「書けない人」についての話をしたい。

 

「なぜ」が気になってしょうがないわたしと、気にしないAちゃん

職場の人間関係で悩んでいたAちゃんと、こんな会話をした。

 

「○○さんに嫌味言われるのがつらい。この前も、こんなにひどいことこと言われたんだよ」

「○○さんはみんなにそういう態度なの? それともAちゃんにだけ?」

「え〜どうだろ。知らない」

「最初からAちゃんに対して当たりがキツかったの? ここ最近の話?」

「うーん……。前から仲良くなかったけど、最近とくにいろいろ言われるんだよね」

「なにかきっかけがあったのかな? 心当たりないみたいだけど」

「わかんない」

「露骨に嫌味言われるなら、『気に触ることしちゃいました?』って聞いてみてもいいんじゃないかな」

「まぁねぇ。でもなんかなぁ」

「聞くのが気まずいなら、だれかにそれとなく聞いてみてもらうとか」

「気まずいっていうか、それでまた面倒なことになりそう」

「たとえば?」

「もっと嫌われるとか、そういうの」

 

この会話で、Aちゃんとわたしは根本的に「ちがう」のだと気づいた。

 

わたしはなんでもかんでも、「なぜ」を知りたい人間だ。

なぜそうなったのか、なぜそう思うのか。

それを知りたいから、相手にも「なんで?」「なにがあったの?」「どういう状況で?」と聞きまくる。

 

「なぜか」という考える材料がないと落ち着かない。

わたしは、そういう性分の人間なのだ。

 

わからなければ言葉にできない

一方Aちゃんは、「なぜ」の部分にはあまり興味がない。

なんでかわからないけどイヤ。よくわかんないけどこうなってる。

現状を感覚的に捉え、自分の感情もあるがままに受け入れているから、「なんで?」と聞いてもハッキリした答えが返ってこない。

 

そしてAちゃんは、わたしが知る限りもっとも「文章を書くのが苦手」な人だ。

Aちゃんの職場は定期的に報告書をまとめなくてはいけないのだが、Aちゃんは事あるごとに、「なにを書けばいいかわからない」と言っている。

そして、「今日は報告書の日だから」と飲み会に遅刻するのだ。

それくらい、文章を書くのが苦手らしい。

 

「テーマに対して思ったことを書けばいいんだよ」と言っても、「えーわかんない」と返ってくる。

「わかんないわけないでしょ」と思うのだが、Aちゃんはやる気がないわけではなく、本当に、本気で、「なにを書けばいいのかわからない」と頭を悩ませるのだ。

で、「ねぇねぇライターでしょ? どうやって文章書いてるの?」と聞いてくるのである。

 

でもわたしにとって「文章が書けない」はありえないことだから、なぜAちゃんが書けないのかが理解できない。

なぜ書けないのかを聞いても、「なにを書けばいいかわからないから」と言われてしまってはどうしようもない。

 

「うーん……なんでAちゃんはこんなにも文章を書くことが苦手なんだろう? 理由を聞いてもわからないっていうし、なにが苦手かもわからないみたいだし……」

と思ったところで、わたしのなかで答えが見つかった。

「わからないから書けないのだ」と。

 

「書く」とは「自分の頭のなかを説明する」こと

文章を書けない人はきっと、自分がなぜそう思うのか、その理由に無自覚だ。

だから、ことばで説明しようとしても、「だってなんとなくだし……」となってしまう。

もしわたしがAちゃんのように「書けない」状況だったら、「それはなぜか」を考える。考えて考えて考えまくる。

 

小学生のときに先生に作文を否定されたからかもしれないし、語彙力が足りずに自分の感情を表現できないからかもしれない。

文章に触れてこなかったから「こう書く」というイメージが湧かないのかもしれないし、上司からいつも報告書の表現方法で揚げ足を取られてうんざりしているからかもしれない。

 

……とまぁこうやって「なぜ」を考えるクセがあるから、「わたしはこれに対して、こういう理由で、こう思う」と文字として自分の考えを書き起こせる。

むずかしいことはない。

「書く」とはつまり、自分の頭のなかを説明するということだ。

どういう思考を辿って結論を出したかに自覚的であれば、「書く」ことで困らない。

 

逆に、「自分がなぜそう考えるのか」に無自覚だと、説明のしようがなく、「書けない」になるのだろう。

(ちなみに、物書きへの最高の賞賛は、「そんなことまで考えているんですか!」だと思う)

 

文章は「こういう理由でこう思う」が基本

事実だけを伝える報告書やニュースは別として、文章は基本的に、筆者の感情や感性、価値観によって成り立っている。

「わたしはこういう理由でこう思います」が、文章の基礎なのだ。

Aちゃんはその基礎がふんわりしているから、「書けない」状態なんじゃないかと思う。

 

あ、フォローしておくと、Aちゃんの頭が悪いだとか、自分のほうが優れているだとか、そんなことは微塵も思っていない。

Aちゃんは、わたしがもっていないものをたくさんもっている素敵な女性だ。

ただ、「書く」ことにかぎっていえば、自分の思考回路に無自覚だとむずかしいのかもなぁ、と思うだけで。

逆にいえば、文章を書けない人は「なぜ自分がそう思うのか」を突き詰めれば、苦手意識をあっさり克服できるのかもしれない。

 

最近言われてうれしかった言葉? 「頭がいい」かなぁ。だってうれしいじゃん。

……で終わらず、

「なんで自分にとって頭のよさが大事なのか」

「容姿を褒められるのとなにがちがうのか」

「褒められたシチュエーションや褒めてくれた相手との関係性も影響しているのか」

と、いろんな方向から自分の考え方を分析して深掘りしていくのだ。

 

「東大生の姉と比べられ続けていたから、頭の良さを褒められるとうれしい」

「会話から聡明だと思ってもらえるのは、言葉遣いや考え方がしっかりしていると言われているみたいで自信につながった」

「言ってくれたのが尊敬している先輩だったので、認めてもらえたようで印象に残っている」

 

こうやって自分の考えに理由がつけられれば、ぐっと文章が書きやすくなるだろう。

「わたしはこういう理由でこう思います」と書けばいいだけなのだから。

 

「考え」さえはっきりさせればだれでも文章を書ける

オンライン社会において、「文章」は最有力コミュニケーションツールとなった。「書かない」を選べる状況は、なかなかない。

そういう環境もあり、「文章をうまく書こう」という本や記事は、うんざりするくらいいろんなところに転がっている。

 

でもそのわりに、内容は「比喩表現をうまく使え」だの「起承転結を考えよう」だの、テクニック的なことに偏っている。

 

いやいやちがうでしょ、大事なのはそこじゃないでしょ。

「どう伝えるか」はあくまで伝えることがはっきりしてからの戦略、調理方法だ。

書けない人は「伝えること」という材料が手元にないんだから、調理方法をいくらわかりやすく説明したところで意味がない。

文章を書くときまずやるべきなのは、「なぜ自分がそう考えたかをはっきりさせること」だ。

 

文章を書くのが苦手なら、

 

・テーマに対して自分の立ち位置(好き・嫌い、快・不快、賛成・反対)を決める

・なぜ自分がそう思うのかをトコトン考える

(生い立ちや他人の言葉、自分の性格、経歴などに影響されていることが多い)

・具体的な理由が思い浮かばなければ、他の人と話して「この人と自分の考えはなんでちがうんだろう」と比較してみる

・自分がどういう思考回路をたどってその結論にいたったかを箇条書きなどで文字にする

・それをつなげて文章にする

 

というのを試してみてほしい。

そうすれば少なくとも、「わたしはこういう理由でこう思う」と書けるはずだ。

 

考えていない人なんていない。

だから、「考え」さえ明確にすれば、だれにだって文章は書ける。

「読みやすい文章を書く」はその次の段階だから、ひとまず棚の上に置いておこう。

(ちなみに胡散臭い文章は、「なぜ自分がそう思ったのか」という一番大事な部分でウソをついているから薄っぺらい)

 

書けないことで困っている人、苦手意識をもっている人は、テーマに対して「なんで自分がそう思うか」をじっくり考えてみることをおすすめしたい。

そうすればしぜんと、自分が伝えたいことが見えてくると思う。

結局のところ文章は、「わたしはこういう理由でこう思います」に行き着くのだから。

 

少なくともわたしは、そうやって文章を書いている。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Joel Bez)

しんざきは、「会社の(ある程度フォーマルな)親睦飲み会の幹事を何故か若手がする」ということに反対する立場です。

もうちょっと率直にいっちゃうと、「飲み会の幹事は若手にやらせとけ」という風潮が嫌いです。

 

いや、すいません、そんな大した話じゃないんですけど。

 

毎年、忘年会とか、新年会とか、歓迎会の季節になってくると、大体話題に挙がってくることとして、「若手に飲み会の幹事をさせる問題」というものがあります。

会社である程度フォーマルな飲み会や懇親会があるとして、日程調整とか、出席調整とか、会場手配とか、当日の取り仕切りとかを若手社員、特に入社1〜2年目の若い社員にさせるという風潮です。

 

これは私が観測した範囲内の話なんですが、「若手に幹事をさせる」ことについて、賛成派にはちゃんとした理由がありまして、よく聞く理由は次のようなものです。

 

・若手にはまだ振れるタスクがあまりなく、暇なことが多いから

・飲み会の仕切りをすることで、仕切りの能力を身に着けることが出来るから

・出席調整をする過程で社内の人間の顔を覚えることが出来るから

・社内で顔が売れるしメンバー間で仲良くなってもらいやすいから

 

私はどちらかというとマネジメント側の立ち位置に属する人間なんですが、これらの理由について反対していますし、その理由も社内で公言しています。

その為、ある程度フォーマルな飲み会の幹事は、私を含めてある程度ベテランの社員が持ち回りでやるようにしています。

 

私が反対する主要な理由は以下のようなものです。

 

・振れるタスクが少ないのであれば一刻も早くタスクを振れるスキルを身に着けてもらうのがマネージャーの責任であって、他のことに時間を割いて欲しくないから

・飲み会の仕切りで身につくのは、飽くまで飲み会の仕切りであって仕事の仕切りではなく、応用の経験が少ない若手にこそ、仕切りは仕事で覚えて欲しいから

・出席調整なんてそれこそある程度立場がある人間がやることであり、諸々の事情込みでマネジメント層の方が予定調整しやすいのは自明だから

・社会経験が少ない若手よりもマネジメント層の方がいい店をたくさん知っている筈だし、文句を言いやすい立場の人間が店を決めるのがより合理的だと思うから

・メンバー間で私的に仲良くなってもらって助かるのは若手自身よりもマネジメント層であり、受益者がより多くコストをとるべきだと考えるから

 

こんな感じです。

これらの理由について、ちょっと細かく説明させて頂きたいと思います。

特に説明したいのは五つ目です。

 

まず、一つ目。「若手の方が振れるタスクが少なくって暇だから」という話ですが、これはそれこそ「触れるタスクが少ない」という状態自体がマネジメント層として問題だと考えなくてはならず、スキルアンマッチならその状態を解決しなくてはいけません。

だったら、何よりまず仕事の為のスキルを身に着けてもらうことこそ最優先であり、「暇だから」という理由で飲み会の幹事なんてタスクを押し付けるのは本末転倒です。

 

二つ目。「仕切りの能力が身につく」という話ですが、それはそれこそ「仕事の仕切りに生かさせたいなら仕事で仕切りを覚えさせろよ」という話でして。

もちろん中には、他の仕切り経験を仕事の仕切りに応用できる能力を持っている人だっていますが、一般的に新卒の面接で話すと喜ばれる「サークルの仕切り経験」だとか「イベントの主催経験」みたいなものが仕事で生きるケースが殆どないことを見て頂ければわかる通り、仕事のマネジメントスキルは基本仕事でしか身に付きません。

若手にこそ仕切りは仕事で覚えさせましょうよ、って話です。

 

三つ目。出席調整の話なんですが、弱い立場の人間が格上の立場の人間の予定を調整することはそれこそ難事であって、「行けたらいく」とだけ言われていつまでも予定が定まらず若手のストレス要因にしかならない、といったことは非常によくあることです。

飲み会への出席が自由意志であることを前提として、予定調整こそある程度立場がある人間がきちんとオファーを出して、軽んじられない立場でするべきです。

 

四つ目。これも非常によく聞く話として、「若手が選んだ店に、ベテラン層がねちねちケチをつける問題」というものがあります。

私、実はこれもめっちゃ嫌いでして、「文句あるなら自分で選べよ」と思うところ大なんです。

 

若手なんてつい先日まで学生だったんですから、安い店しか知らないのは当然。

いい店をたくさん知っているのはベテラン層なんだから、そりゃそれこそベテラン層が店選んだ方がずっといいでしょと。

立場がある人間が選んだ店なら文句も出にくいですし。

 

で、五つ目なんですけど。

自分がマネジメントをするようになって得た知見って結構色々あるんですが、その中の一つに

「部下同士仲がいいとマネジメントがちゃんと出来てなかった時に助かるケースが多い」

というものがあります。

 

どういう話かというと。

例えば、完遂までに「工程A」「工程B」「工程C」の三つ工程が必要なタスクがあったとしましょう。

で、それぞれの三つの工程は、別々のスキルを持った別々の人物が担当しないと実行出来ず、かつA→B→Cは順番に実施しないといけないものとしましょう。

 

この時、当然のことながらマネージャーは進捗管理と品質管理をしなくてはならず、例えば工程Aの実施が遅れてBに入る時期が遅れてしまったりとか、工程Bの品質が悪かった為に工程Cの工数が肥大化してしまったりしたとしたら、それは本来マネジメントの失敗です。管理者何やってたの案件です。

ただこの時工程A・B・Cをそれぞれ担当した作業者同士の仲が良いと、その問題を作業者同士で吸収してくれたりするんですよ。「まあいいよ、やっとくよ」ってヤツですね。

 

これ、非常に多くの職場で観られるケースだと思うんですが。

ただ仕事をうまく回すだけなら、本来「作業者同士が仲がいい」必要なんてないんですよね。

必要なのは的確なマネジメントで、作業者は粛々とマネジメントに従ってタスクを片付けていればちゃんと仕事が進む、というのが本来あるべき状態なわけです。

 

よく「アットホームな職場です」なんて言葉がありますが、アレ、実際中を覗いてみると「マネジメントがいい加減なところを作業者同士の仲の良さでなんとか吸収している職場です」という意味である場合がそこそこの頻度で観られます。

あんまりいうと怒られそうなのでこれくらいにしておきますが。

 

もちろん、時にはマネジメントがやむを得ず失敗することもあるかも知れず、そういう時に「作業者同士の仲の良さ」がプロジェクトを救う場合もあることは事実ですが、それならそれこそ受益者であるマネジメント層が部下同士の親睦に対してコストを追うべきであって、それを「仲良くなっといてね」とばかりに押し付けるのは違うでしょ、と強く考えるわけなんです。

 

以上のような理由で、私は「ある程度フォーマルな飲み会の幹事こそ、マネジメント層がやるべきだ」と主張している、という話なのです。

 

私にとっては幸いなことに、今私がいる職場は割と上記のような話に理解がある方が多く、というか何より店の好みがうるさい連中が多過ぎて若手に店を任せられないという事情が大きいため、無事マネジメント層が合議制で店を決める体制になっております。皆様の職場はいかがでしょうか。

「飲み会の幹事誰がやる」というだけの話ではありましたが、真剣に考えてみると案外色々あるよね、という話でした。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Tatsuo Yamashita

「無能」という言葉を聞いて、気を悪くする人もいるかもしれない。

が、無能とは、すなわち成果を出す能力の欠如であるため、会社を運営する上で「無能」をどう扱えば良いかは、常に頭の痛い話だ。

 

事実、ピーター・ドラッカーの著作には「無能」という言葉が多数使われている。

彼は非常に「無能」を問題視していた。

無能を並の水準にするには、一流を超一流にするよりも、はるかに多くのエネルギーを必要とする。

しかるに、多くの人達、組織、そして学校の先生方が、無能を並にすることに懸命になっている。

資源にしても、時間にしても、強みをもとに、スターを生むために使うべきである。

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ところが「無能」の解決は、そう簡単ではない。

なぜなら、無能は

「頭が悪い」

「コミュニケーション能力が不足している」

「粘り強くない」

といった、わかりやすい個人の性質ではないからだ。

 

誤解をしている人もいると思うが、仕事をする人間の能力の高低は、ほとんどの場合、無能の直接的な原因ではない。

だから「あいつは無能だ」という言葉の使い方自体、間違っている。

 

いや実は、間違っているどころか、無能は個人の責任ですらない。

 

「そんなこといっても、能力が低いやつは、使えないよ。無能はクビ!」という経営者や管理職もいるかもしれない。

実際私は、ある外資系企業で、マーケティング部門の管理職が

「アタマが悪いんだから、どうしようもないじゃん」と平然と口にするのを見たことがある。

 

まあ、彼らも自分のクビがかかってるので、気持ちはわからなくもない。

ただ、それらの発言は、完全に的外れだ。

むしろ「無能」をかんたんに個人のせいにする組織の方に問題がある。

 

では無能とはなにか。

それは前にも書いたが、「個人の能力」ではなく、「人間を効果的に扱う能力」の欠如による。

無能にペナルティを課しても、無能は組織からなくならない。では、どうするか。

無能は、個人の能力の欠如ではなく、組織の能力の欠如に基づくので、個人を排除しても、いつまでも無能は組織に残り続ける。

「絶対的な無能」は存在せず、組織が「働く人の特性」を、成果を出すために運用できないときに、無能が発生する。

 

だから皮肉なことに、組織の能力が低ければ低いほど、無能は増える。

 

例えばわかりやすい「無能」の代表例である、ドラゴンボールの「ヤムチャの戦い」を見てみる。(ヤムチャファンには申し訳ないが……)

かれは、17巻でのサイヤ人との戦いのとき、相手の能力を侮って油断し、簡単に死んでしまった。

ところがその後、怒ったクリリンは、ヤムチャを殺した「サイバイマン」を、一撃でほぼ壊滅させる。

ヤムチャへの扱いがあまりにひどいのはかわいそうだと思うが、これを見た当時、私は

「簡単に勝てるなら、最初からクリリンが出ろよ、ヤムチャ死んじゃったじゃん。」と思ったのだ。

 

ドラゴンボールだけではない、多くのエンタテインメント作品には

「自分の実力を勘違いし、敵を侮って、ひどい目に会う」

という無能キャラが、敵味方を問わず、一種のテンプレートとして描かれている。

(出典:鳥山明 ドラゴンボール17巻 集英社)

それは、一種の死亡フラグと言っても良い。

 

ナッパさまも長く、ベジータの下で有能な部下だったかもしれない。

が、悟空との戦いでは完全に「無能」と化し、結果、大怪我を負い、上司のベジータに消されてしまった。

ベジータがもう少し早く悟空の実力を見極めていれば、彼は死なずに済んだかもしれない。

 

だから、組織や仲間は重要だ。

ヤムチャの実力不足は皆わかりきっていたはずだ。

クリリンやピッコロが、ヤムチャを「お前はここに来んな」と止めていれば、彼は死なずに済んだ。

 

これは、会社で同じようなシーンに遭遇したことがあるだろう。

「やる気のある新人、任せてみたら実力がなく、潰れてしまった」

と全く同一の構図なのだ。

 

「本人のやる気」と「仕事の結果」はほぼ関係ない。

ルーティンワークなら「やる気でカバー」が通用したかもしれないが、現代の仕事はあまりに難しいので、精神論ではどうにもならない。

 

仕事の遂行能力が不足している人間に仕事を任せると、周りも迷惑だが、本人はもっとつらい思いをする。

だからこそ「無能」は本人の責任ではなく、組織の責任なのである。

 

 

ではどうしたら「無能」をうまく扱えるだろうか。

組織から「無能」をなくせるだろうか。

 

無能の本質的原因は、「能力不足を認識できない、あるいは過大評価している」ことにある。

「ヤムチャは来るな」と皆がいえばよいのに、戦いに参加させるから、死んでしまう。

 

会社でも同じだ。

言語能力に欠けるのに、提案書を書かせるから「ひどい日本語だ」と言われた部下が恥をかく。

人の心を読む力がないのに、営業をやらせるから、成績はいつもビリ、営業会議で「やる気がない」と詰められる。

 

「やらせてみないと能力はわからない」という人もいるかも知れない。

だが、半年もやらせてみて、結果が出なければ「能力はない」と見るのが正しいだろう。

いや、3ヶ月でも十分かもしれない。

 

本人の必死の努力や、上司の指導時間を大量に投入すれば、「無能」から「並」くらいにはなるかもしれない。

だが、ドラッカーの言う通り、それは虚しい努力だ。

大抵は良い結果を産まない。

しかも、本人への気遣いなどから、状況の改善や適応が進みづらくなり、傷つく人が無数に出る。

 

なにより、「できない」ことを延々と突きつけられると、しまいには、病んでしまう。

強烈な恥や負荷を与えて人を「選別」するのが、ブラック企業なんだなあ。

とある企業のサラリーマンが、プロジェクト・チームのサブリーダーとなった。

彼はその仕事を一生懸命頑張っていたそうなのだけど、チームのプランを役員の前でプレゼンする直前にうつ病を発症してしまい、見波氏の診察をうけることとなった。

上司や同僚は「仕事が忙しすぎて鬱になってしまったのだろう」と言う風に思っていたようだけど、メンタルヘルスの専門家である見波氏いわく、彼の鬱の本当の理由は

「役員の前でプレゼンして自分の能力不足が暴かれる事の逃避行為」なのだという。

だから無能をなくすためには

1.「正確な実力の認識」

2.「能力にあった仕事の配置」

を冷徹に行うことが必要だ。

 

下手に上司が、いらない情を発揮し、周りと同じ仕事をやらせ続けるなどは、絶対にやってはいけない。

 

 

昔、あるシステム会社で「無能」とされている人がいた。

前の部門で一緒に働いていた人たちからのヒアリングをすると、皆はっきりとは言わないものの、いくつかの問題を起こし、事実上、そこを追い出されたということだ。

 

私はそのうちの一人に、詳しく話を聞いた。

「彼はなぜ評価が低かったのですか?具体的には何が原因なのですか?」

 

すると、その方は言った。

「まず、仕事が遅い。そのくせ、やってるフリだけはするので、怖くて頼めない」

 

「なるほど。困りますね。」

「そうなんです。ウソをつくときもあるので。バレバレなんですけどね。」

 

「それだけですか?」

「あとですね、間違いを指摘しても、それを素直に受け止めないんですよ。「間違っているから直して」とこちらが言うと、「間違っていると思いませんでした」とか言うんです。いいから早く直せと。」

 

「ほうほう。」

「あと、メールでお客さんを怒らせてしまうときも結構あります。」

 

「ダメですね。」

「ええ、プライドだけは高いので。本当に厄介ですよ。彼。」

 

私は部門長にそれを報告した。

 

そして後日。

部門長は彼をプログラミングや顧客対応などを行う仕事から全て外した。

本人は「スキルを伸ばしたい」と、その手の仕事を希望していたが、思い切りそれを無視した格好だ。

 

代わりに部門長が彼にやらせたのは

「書類チェック」や「プロジェクト報告書の集計」「記録の保管」「社内システムの改修」などの、地味で皆が「つまらない」と思っている仕事だった。

 

最初の私の印象は、「部門長はこの人をやめさせるつもりで、この仕事につけたのかな」だった。

そこで私は部門長に聞いた。

「どのような意図なのですか。」と。

部門長は言った。

「あいつに結果が出せる仕事はこれくらいしかない。不本意かもしれないが、それはそれで仕方ないだろう。」

 

 

ところがその後、彼に関する悪い噂は、徐々に聞かなくなった。

それどころか、ときに「社内システムの改修のスピードが上がった良かったのでは」という話すら聞こえてきた。

彼に対する感謝の声もちらほらあった。

 

私は後日、部門長にそのことを言った。

「なんか、良かったみたいですね。」と。

 

彼は言った。

「まあ、本人も淡々とやってるし、今の場所が合ってるんじゃないかな。」

「なるほど……。」

 

それ以来、私は

「必ずしも、本人の希望がかなわないことは、本人を不幸にしないのだな」と思うようになった。

また、「本人の能力に見合う場所を見つけてあげるのは、超重要な仕事の一つだな」とも、思うようになった。

 

 

チャレンジは重要だ。

だが、ヤムチャが「サイヤ人と戦って、世界を救いたい」と彼が思っていたら、それは不幸を招くだけだ。

 

でもヤムチャはおそらく、武術講師としては、悟空よりはるかに優秀だ。

常識もあるし、世間のことをよく知っている。

一般人からすれば、彼は神がかった実力を持っているし、ミスター・サタンがあれだけ稼いでいるのだから、西の都で「武術教室」でもやれば、流行るのではないかと思うこともある。

 

そう。場所が場所なら、彼は別に「無能」というわけではないのだ。

ちなみに、ヤムチャは36巻では「天下一武道会への出場」について、こんな事を言っている。

おとなになったなあ……ヤムチャ。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

以前、ダイエットの記事を書いた。

「肥満の原因」にアプローチしたら、1週間で6キロ減量できたのでやったことを書く。 

詳しいことは実際に本を読んでもらいたいのだが、非常に簡単に要旨を示すと、筆者はエビデンスをもとに

1,油の摂取量が減り、精製された炭水化物の摂取量が増大した事

2,食べ物が手に入りやすくなった結果、間食を含む食事回数が以前と比較して増えた点

が、恐らく現代人が”太りやすく”なった原因だろうと推測している。

この2つがステロイドやインシュリンの分泌を促した結果、現代人の体重設定ポイントが上向きになり肥満人口が増えたのだ。

記事の要点をかいつまんで話すと、一日一食生活にすれば誰でも標準体重ぐらいまではスルッと痩せられますよっという事である。

体重は家庭でも比較的管理しやすいわかりやすい健康の指標である。

 

身近な人をみていると、体重が標準値を大きく超えている人は20代はまだしも、だいたい35歳を超えたあたりから健康診断の数値がグレーゾーンを示すようになっている。

高血圧、糖尿病、尿酸値、γ-GTP……中年を超えたおじさんともなると、だんだんと病気の話も共通の話題となってくる。

 

超激務の果てに大病でぶっ倒れる人が出てき始めるのも、35歳辺りからである。

鬱で倒れる人もいれば、脳卒中や進行がんといった、結構ハードな病をやらかす人もチラホラ現れ始める。

 

人間が若さでピンと張り詰めていられるのはこの辺りが関の山なのだろう。

くれぐれも若さをいつまでも信用してはならない。

魂の前借りも、やりすぎるといつか爆発するのである。

 

それでもラーメンが食べたいんだ、俺は

あの記事を書いてから、幸いにしていまの所リバウンド等はない。

正直なところ、消えたランチ達には特に未練はないのだが、たった一つだけ生活から無くなって潤いがなくなった食べ物がある。ラーメンである。

 

ラーメンのデブリ力は凄い。

一日一食生活ですら、あれを汁まで完飲すると一気に太る。

太った後に、元の体重に戻るまで一週間程度の時間がかかるんだから、全くもって大したデブ飯である。

 

健康の事を考えると……食べない方がいいのだろう。

しかし……甘美な官能を退けた人生に色はあるのだろうかという話でもある。

 

というかぶっちゃけて言ってしまうと……ラーメンを、背徳感なしに、腹いっぱい食べたいのである僕は。

というわけでラーメンを食べたいがためだけに、運動を始めることにした。

 

タレブ式マッチョトレーニング

始めるにあたって、参考にしたのがナシーム・ニコラス・タレブの反脆弱性に書かれていたトレーニング法だ。

(出典:ナシーム・ニコラス・タレブ

[amazonjs asin="4478023212" locale="JP" tmpl="Small" title="反脆弱性上――不確実な世界を生き延びる唯一の考え方"]

タレブはリーマンショックの時にあまりにも歯に衣着せぬ物言いのせいで、まわりから「ボディーガードをつけたほうがいい」と助言されるほどの酷い脅迫を受けたという。

 

ボディーガードをつける案を真剣に検討しはじめた時

「そうだ、人なんて雇わないでも、自分がボディーガードになればいいじゃないか」

と思いつき、身近にいたムキムキマッチョの行動をストーキングし、そのトレーニング手法をじっと観察したのだという。

 

結果、彼はムキムキ・マッチョになった。

 

彼がやったトレーニングは「最大重量」タイプといわれるものだ。

この方法は、ジムにいるわずかな時間で自分の過去の最高記録を塗り替えることだけに専念するもので、一回で持ち上げられる最大重量を更新しようと努力するだけに取り組む。

 

最高記録の更新に取り組み、あとは休んでマフィアサイズのステーキを平らげる。

これであなたも短時間でムッキムキになれますよというのである。

 

「へえ、こりゃいいじゃないか。時間もそんなにかからなそうだし」

正直、マッチョにはあまり興味はないのだが、ラーメンを食べて太らなそうな程には基礎代謝はあがりそうである。

 

しかし……ここにきて一つ、僕に大きな問題が生じた。

ジムにいくのがめちゃくちゃタルいのである。

 

最近職場が変わった事もあって、僕はいま物凄く忙しい。

こんなにも忙しい生活環境の中で、ジムでトレーニングする時間とジムを往復する時間を捻出するだなんて、あまりにも非現実的である。

そもそも自分は極度のインドア気質で、休日ですら外に行くのがタルい。

そんな自分からすると、ジム通いなんて天竺よりも遠い何かである。

 

「なんとか家で、場所をあまり取らずにやれないものか」

そうして色々物色しているうちに割と丁度いいものを見つけた。ケトルベルである。

 

ケトルベルは宅トレに丁度いい

ケトルベルはヤカンみたいな形をした重りである。

(出典:ケトルベル

何よりもいいのが、品物自体が安く、かつ場所もそこまで取らない事だ。

5000円程度で購入可能であり、大きさもボーリングの玉程度である。

この重りをスイングといわれる基本の動作でブンブン振り回すと、遠心力も相まってメチャクチャ身体に効く。

自宅で作業に行き詰まった時とかの気晴らしにやれるのもなかなかよい。

 

というわけで好きなだけラーメンを食べても太らない夢の身体を求めて、最近はケトルベルをブンブン振り回す日々である。

毎日筋肉痛で相当にバッキバキなので、恐らく近い内に効果がでるだろう。

 

参考までにいくつか下にポイントをあげておく。

 

1.入門書はケチらずに買った方が良い。

ケトルベルの基本的な動き自体はユーチューブとかでタダで学べはするのだが、実は意外と奥深い理論に基づかれてできているので入門書はケチらずに買った方がいい。

特に臀部や股関節まわりの働かせ方、肩と胴体の接続についての記述は必読である。

 

実はこれは一部の武道の極意にも相当する技術であり、これをサラッと当然の事のように記述されている事に僕は随分と衝撃をうけた。

武術経験者は別の意味でもかなり楽しめると思う。

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<参考 松下タイケイ氏の身体を芯から鍛える! ケトルベル マニュアル>

 

2.最初から欲張って重たすぎるのを買うのはやめておいたほうが無難

ケトルベルは独特の構造体をしているからなのか、実際に持ってみると思った以上に重たい。

 

単に両手で持ち上げるだけの使い方をするならともかく、基本のトレーニングとされている動きで用いると、遠心力やら重心の問題で結構グッとくる。

男性は16kg、女性は12kgあたりから始めるのが無難だろう。

なお、三重県桑名市のふるさと納税に何故かケトルベルがあるので、極力お金を使いたくない人は検討の余地ありだと思う。

 

3.補助器具もセットで買った方が色々と効率がいい

最近まで知らなかったのだが、筋トレにはいくつかの補助器具がある。

例えばパワーグリップという手首に巻き付けるタイプのものがあるのだが、これを使うと握力を通り越して背筋にかなり強めに負荷をかけられるようになる(参考までに一応僕はG1H1 パワーグリップ (S)を使っている)

[amazonjs asin="B01EE5JCFK" locale="JP" tmpl="Small" title="G1H1 パワーグリップ (S)"]

あとリフティングベルトもできればつけたほうがいい。

これをつけると腰への保護具合がだいぶ変わる。

僕はつかわずにやってたら先週腰がちょっとパキっときて大変後悔している(参考までに一応僕はYEEDAS ウェイトトレーニング用 レザー ウエイト リフティングベルトを使っている)

[amazonjs asin="B078YRD6TK" locale="JP" tmpl="Small" title="EasyJoy レザー ウエイト リフティングベルト 【筋トレ トレーニング 腰 ウエスト バーベル】 (ライトブラウン, S(70~95cm))"]

この3つを踏まえた上でやれば、たぶんそう大きな問題はないと思う。

 

コロナウイルスの問題もあり、外にあまり出たくないという人も多いだろう。

そういう意味でも、ケトルベルは今、なかなかオツな趣味になりえるんじゃないだろうか。

 

いつかラーメンを何の罪の意識なく食べる!

その日がやってくる事を信じて。

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:iyoupapa

旬の話題というにはやや乗り遅れた感があるが、少し前、香川県のゲーム規制条例に関してネットがざわざわしていた。

それをきっかけに、「子どもがゲームをすることに対する賛否」といった議論を目にした人も多いと思う。

 

たとえば、保険相談サービスを運営する株式会社Wizleapが行った意識調査では、

・49.75%の回答者が「ゲームのプレイ時間を制限する条例は良いと思う」

・83.45%の回答者が「子供のゲームのプレイ時間は制限すべき」

と答えているそうだ(回答者は小学生以下の子を持つ親)。

 

実際、子育てうんぬんに関わらず、「ゲーム」というものに対してネガティブな印象をもっている人は多い。

 

何時間もゲームするなんて時間のムダ。

ゲームばっかりやってる妻/夫がムカつく。

ソシャゲ課金とかサービス終了したら終わりじゃん、アホらし。

 

……そう思っていた時期がわたしにもありました。

 

いまのわたしはといえば、とあるゲームに出会ってどっぷりとハマり、プレイ時間が1500時間を超えた立派なゲーマーである。

 

何時間もゲームやれるなんて最高!

夫がswitchやってるならプレステはわたしのもんだ!

課金? わかるわかる、自キャラにお金使いたいよねー! かわいくしたいよねー! 強くなりたいよねー!

 

とまぁこんな感じだ。人間、ちょっとしたきっかけで変わるものである(遠い目)。

 

そんなわたしからすると、ゲーム規制条例に関して「偏見や個人的な好き嫌いを根拠に議論が進むのって怖いなぁ」と思う。

 

アンチ・ゲームだったわたしがいつの間にかゲーマーに

もともとわたしは、ほとんどゲームをしない人間だった。

最後にまともにゲームをしたのは、ゲームボーイアドバンス時代のポケモンのサファイア(2002年発売)かな……?と記憶さえ怪しいレベル。

 

一方、夫はティーンのときからPCゲームをやり続けてきた筋金入りのゲーマー。曰く、「聖剣伝説は俺の青春」。

そんな夫のことを、わたしは長いこと理解できなかった。

 

せっかくの休みなのに、ヘッドフォンをして何時間もずっとPCゲーム。

話しかけても「ちょっと待って」「これが終わったら」ばっかり。

出かけても、「友だちがそろそろイン(ゲームをつけてオンライン状態になる)するから帰ろう」と言い出す。

 

ゲームなんてなんの生産性もないし、わたしとのコミュニケーションを拒絶しているみたいで悲しい。

っていうかかまってくれなくてムカつく!

料理冷めるんですけど!?

 

しかし去年の3月、結婚式の予約をしに役所へ行った帰り道、お互いテンションが上がってうっかりプレステ4を買ってしまった。

そこで夫から「せっかく買ったんだからなにかゲームしてみなよ!」と勧められ、いくつかのゲームを購入。

結果、わたしは立派なゲーマーとなり、いまや夫とプレステを取り合う仲になった。

 

多くの人がゲームの虜になるのには理由がある

さて、自分自身がゲームをやるようになってから、自分がいかにゲームについて無理解……というか、知らなかったのかを思い知った。

 

ゲームというのは、「がんばれば報われる」のが基本だ。

ある程度パターンがあり、それを理解して攻略していく。

レベルを上げれば強くなる。

強い敵を倒せばよりよいアイテムがもらえる(なお、ソシャゲ界隈では課金は努力に含まれる)。

 

よく考えたら、大人になって、「努力すれば必ず報われる」という状況はなかなかない。

むしろ、「努力してもどうしようもない」「かんたんに勝ち負けを決められない」ことのほうが多いくらいだ。

 

だからみんな、「がんばれば報われる」に取り憑かれる。

「あとちょっとやれば勝てる!」と熱くなるし、勝った瞬間の達成感が病みつきになる。

自分の成長をわかりやすく実感できるのが、気持ちいいのだ。

 

それだけじゃない。わたしにとってゲーム内コミュニティは、もはやなくてはならない存在になっている。

大人になると、友だちをつくる機会がグッと減るし、結婚や子育てでなんとなく疎遠になるのもよくある話だ。

飲み会に行けば、仕事と家庭内の愚痴が酒の肴になる。

 

でもゲーム内の交流なら、プライベートの話は基本しない。

現実を切り離して、同じ趣味のことだけを話せる。

年齢や性別がちがっても、同じ目標をもっているから仲良くできる。

 

プライベートを切り離した居場所があるというのは、とても心地いい。

現実世界で嫌なことがあっても、そこに逃げ込めるから。

 

さらに、わたしがまったく想像していなかったかたちでゲームに関わっている人たちとも出会った。

「声を失いしゃべれないけれど、オンラインゲームならチャットでやりとりできる」

「病気療養中で社会から孤立しそうになっていたけれど、ゲーム内になら居場所がある」

「子育てで息が詰まりそうなとき、ゲームで息抜きしている」

そういう人もいるのだ。

 

ゲームをしない人からすれば、ゲームは「現実逃避」であり、「生産性のない趣味」に思えるだろう。

わたしもそう思っていた。

でも、多くの人を夢中にさせるほどの魅力が、ゲームにはたしかにあるのだ。

 

感情や偏見は「意見」のひとつになっても「根拠」にはならない

「ゲームって最高だな!」とあっさり手のひら返ししたところで、こんなニュースが飛び込んできた。

県議会は、ゲームやネットの依存症対策を盛り込んだ条例の制定を目指していて、10日、委員会を開いて素案を示します。

関係者によりますと、素案にはゲームの利用などについて、高校生以下の子どもを対象に1日あたり平日は60分、休日は90分に制限するとともに、夜間の利用は高校生は夜10時以降、小学生や幼児を含む中学生以下の子どもは夜9時以降、制限することが盛り込まれるということです。

こうした制限には、いずれも罰則規定はありませんが、子どもたちに守らせることを保護者や学校の「責務」として明記するということです。

出典:https://www3.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/20200109/8030005560.html

「子どもがゲームばっかりやってるなんてけしからん!」という人がいるのはわかる。

でも、じゃあ、「毎日3時間手芸するのはよくて、3時間ゲームするのがダメな理由」を、ちゃんと説明できる人はいるんだろうか。

なぜ60分までならよくて、120分はダメなの?

 

わたしからしたら、体が出来上がってないのに毎日何時間もムチャな練習して、疲れ切って授業中は寝ているような野球部の少年だって、立派に不健全に見える。

それなのになぜ、ゲームだけ狙い撃ちなんだろう?

 

それはやっぱり、「依存症対策」とはただの大義名分で、「ゲームは悪いもの」という認識をもつ人が多いからじゃないだろうか。

そうじゃなければ、ゲームだけじゃなくて、SNSやら長時間の部活やら、もっと規制項目が増えてもいいはずだ。

 

結局のところ、「ゲームは悪いもの」というぼんやりとしたイメージをもった人たちが、それを根拠に「悪いものだから規制したほうがいい」という理論で話を進めたんじゃないかなぁ、と思ってる。

 

ゲームを否定するなら、まず「ゲーム」を知ってから

今回は「ゲーム」だったけれど、世の中には「事情をよく知らない人たちがなんとなく議論して、実効性の薄いルールや目標を決めて満足する」ということは結構多い。

しかも、ゲームのように「社会的にあまりポジティブに評価されていないもの」だと、問答無用で「それは悪いもの」という前提で話が進んでいく。

 

なぜそれが悪いのか、それなのになんで多くの人がのめり込むのか、そういう根本的な話はせずに、「悪いと言われるものだから悪い」「だから規制」となってしまう。

ゲームというものが「いいもの」か「悪いもの」かは人によって判断がわかれるだろうけど、その判断をするためには、少なくともゲームがどんなものかをある程度知っておくべきだ。

 

まぁ、「だからみんなゲームしようね!」とまでは言わないけれど。

でも、なにも知らないまま、イメージだけで「1時間ならOK」だの「規制してよし」だのという流れになるのって、正直怖い。

自分にとって大切なものであっても、世間体が悪ければ、根拠があいまいでも「悪者」として処理されてしまうかもしれないのだから。

 

ゲームについて知らないのにゲームを否定していた現ゲーマーとしては、「偏見を主張の根拠にしてはいけない」と改めて思うわけである。

というわけで、ゲーム否定派の人はぜひ一度ゲームをしてみてほしい。

 

PS4なら、ひとりプレイ向けではあるけれど

Horizon Zero Dawn

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『ウィッチャー3』

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『テイルズオブベルセリア』あたりをオススメしたい(結局勧める)。

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:dprotz)

ニンテンドースイッチの対戦ゲーム『スプラトゥーン2』では、「環境」「産廃」というネットスラングが用いられている。

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「環境」とは、そのときのバージョンで雛型とみなされる武器と、その武器を中心にかたちづくられるトレンドのことを指す。

 

たとえばAという武器がメチャクチャ強く、しかも使いやすければ多くのプレイヤーがAという武器を選ぶようになる。

それに伴い、Aに対抗しやすい武器の人気も上昇し、Aに対抗しにくい武器はプレイヤーからめったに選ばれなくなる。

これが「環境」だ。

 

反対に、そのときのバージョンでは弱さが目立ち、敬遠されやすい武器は「産廃」と呼ばれる。

「産廃」の語源は、もちろん産業廃棄物だ。

 

最近のゲームはバージョンによって「環境」がしばしば変化し、それに伴って「産廃」も変わる。

『スプラトゥーン2』でも、あるバージョンで猛威をふるい、まさに「環境」の頂点に君臨していた武器が「産廃」に転落することもあった。

 

ゲームのバージョンが変われば「環境」が変わり、「産廃」も変わる──このことをきちんと意識していないプレイヤーは、いまどきのゲームでは勝ちづらい。

ゲームプレイの技量を磨くことにくわえ、現在の「環境」や「産廃」についてのメタ知識やメタ知性を身に付け、そうした変化を踏まえながら練習したほうが勝ちやすくなる。

 

昭和の「環境」と令和の「環境」、そして「産廃」について考える

さて、こうした「環境」や「産廃」についてのメタ知識は、私たちの日常生活や人生にも当てはまるのではないだろうか。

「環境」が変化するのは世の中だって同じ。

昭和から平成、令和へと世の中が変わるなかで、雛型とみなされる社会適応のありかたや、その雛型を中心にかたちづくられるトレンドは変化してきた。

 

たとえば昭和時代後半の「環境」について思い出してみよう。

昭和時代後半の「環境」では、終身雇用制度に最適化したワークスタイルが社会適応の雛型とみなされていた。

現在よりもジェンダーによる格差が大きく、年功序列の度合いも著しかった。

八百屋などの個人経営の商店がまだまだ残っていたことも思い出しておきたい。

 

そういった昭和の「環境」では、若者が自己主張の強いワークスタイルを選ぶことは難しかった。

次々に転職してキャリアアップを狙うのも「環境」に合っていなかった。

そのようなキャリアアップに憧れ、実際にやってのける若者は令和時代なら珍しくもないが、昭和時代後半においては「産廃」としか言いようがない。

 

キャリア志向の女性も苦労が多かっただろう。

当時の「環境」ではキャリア志向の女性はいわば「産廃」だった。

というのも、男性優位につくられた年功序列・終身雇用という「環境」に真正面から立ち向かわなければならず、それを援護してくれる人も制度も乏しかったからだ。

 

ちょうど『スプラトゥーン2』で「産廃」武器で果敢に挑むことにロマンがあるのと同じように、昭和時代の「環境」に逆らい、「産廃」とみなされ得るワークスタイルを選ぶことにもロマンはあったろう。

だが、それはハイリスクなワークスタイル、「環境」に押し潰される可能性の高いワークスタイルでもあったはずだ。

 

対して令和の「環境」。

終身雇用制度に最適化したワークスタイルが社会適応の雛型だと思っている人は、もうほとんどいないのではないか。

年功序列が崩れ、実力や実績にもとづいた評価が導入され、ジェンダーによる格差も四十年前に比べればかなり緩和された。

 

会社に滅私奉公するようなワークスタイル、とにかく会社の仕事や内情に特化していくワークスタイルは、昭和時代には「環境」の雛型だっただろうし、ローリスクでもあった。

けれども令和時代には「産廃」といわざるを得ない。

会社への滅私奉公、会社でしか通用しない仕組みへの特化は、令和時代の「環境」に背を向けた、ハイリスクなワークスタイルになってきている。

 

求められる人物像も「環境」に伴って変わってしまった。

昭和時代には、真面目な人間であること、いわば"かたい"人間であることが現在よりも高く評価されていて、「環境」に適した人物像だった。

結婚に際して、仲人が重視したポイントでもあっただろう。

 

令和時代はそうではない。

真面目な人間であること、"かたい"人間であることは昔ほど「環境」に適した人物像とはみなされていない。

真面目というフレーズから、付き合い辛さ・堅苦しさ・融通のきかなさを連想する人もいる。

控え目に言っても、真面目さは積極的な誉め言葉から消極的な誉め言葉へとランクダウンしてしまった。

 

いつも真面目で、先輩や会社にも忠実で、後輩や女性には年功序列やジェンダー格差を意識しながら振る舞う男性──こう書いてみると、いかにも令和時代において「産廃」、という雰囲気が漂う。

少なくともこういう男性が積極的に評価される可能性は低いそうだ。

ところが昭和時代にはこれが「環境」に即していて、「産廃」からは遠かった。

 

学校「環境」も変わっていった

そういえば、子どもの振る舞いも「環境」にあわせて随分と変わった。

昭和時代の学校「環境」は、ガキ大将がスクールカーストの頂点に君臨し、思春期の男子が「番を張る」と称して縄張り争いをするような、そういう「環境」だった。

叩く、蹴る、殴るといった喧嘩も珍しくなく、教師の体罰もまだまだ一般的だった。

 

そういう学校「環境」では、『ドラえもん』のジャイアンのような男子が学校適応のひとつの雛型になる。

子どもと子ども、教師と子ども、親と子どもの間に喧嘩や体罰といった身体的な応酬が残り、それがコミュニケーションの一部として存在している学校「環境」では、ジャイアンのような子どもはコミュニケーション能力が高い、ということになる。

 

なぜなら、ルックスや口八丁だけでなく、喧嘩の腕前もコミュニケーションの要素として、スクールカーストの関数として認められていたからだ。

そのような昭和の学校「環境」では、出木杉君のような子どもは優秀ではあってもスクールカーストの頂点にまではたどり着けない。

喧嘩によってコミュニケーションを主導できる子どもの影響力が大きくなり、クラス内での存在感も高くなるからだ。

 

ところが令和時代の学校「環境」では、喧嘩が禁じ手になっている。

子どもの意識も変わり、叩く、蹴る、殴るといった喧嘩は当たり前のものから例外になった。

喧嘩のコミュニケーション的側面が禁じられ、喧嘩の腕前がコミュニケーション能力として無効になってしまえば、ジャイアンは学校のコミュニケーション強者から一転、コミュニケーション弱者になってしまう。

 

喧嘩に強いガキ大将タイプが影響力を失えば、ルックスや口八丁、頭脳に勝る者のアドバンテージが際立つことになる。

出木杉君のようなタイプは令和時代でこそ光り輝く。スネ夫タイプもそうだろう。

 

「喧嘩の強い者にへつらう必要性の無くなった、口八丁の金持ちの子ども」というものを想像してみて欲しい。

いまどきの金持ちの子息は、体力・学力・教養も兼ね備えていたりするから、出木杉君とスネ夫を合体させたような子どもだっているだろう。

まさに令和の学校「環境」の雛型というほかない。

 

メタ知識・メタ知性を磨け

こんな具合に、昭和から令和にかけて大人も子どもも「環境」が変わり、社会適応の雛型も変わった。

それに伴い、「産廃」だって変わったことだろう。

 

ゲームのバージョンアップに比べれば、現実世界のバージョンアップの速度はゆっくりしている。

が、商売や流行の領域では、「環境」がゲームよりも素早く変わってしまうこともあるから、商売人やインフルエンサーが「環境」に鈍感だったら目もあてられない。

 

なにより、ゲームと違って公式がバージョンアップの内容を告げてくれるわけでもなく、やり直しがきかない点が恐ろしい。

「環境」の雛型を気取っていたつもりが「産廃」に転落し、にっちもさっちもいかなくなった……といったことがしばしば起こり得る。

 

たとえばロスジェネ世代は二十世紀末の「環境」の変化に苦しんだ。

そのことを思い出すにつけても、現在の「環境」に適応しながら、将来の「環境」にも目配りするメタ知識やメタ知性は磨いたほうがいいと思う。

ゲームも世の中も、着実にバージョンアップしていくものだからだ。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:Farley Santos

昨日の記事が面白かったので、相乗りします。

「仕事で成長」って、本当に必要ですか?

ただ、私もちょっと勘違いしていた点なんですけど、そもそも「成長」って別に「働く目的」ではなく、「生き残るための数ある有力な手段の一つ」でしかないんですよね。

別に必須ではなく、唯一解ですらない、手段の一つ。

ああ、そうだな、と思いました。

 

で、特にしびれたのが、この箇所。

冒頭リンクで挙げたまなめさんは、正真正銘「自発的にスキルアップしたい」人なわけですが、そんな人、100人の中に2,3人いればいい方なんじゃないかなーというのが肌感なんです。

そうですねー。

これは、私もよく憶えがあります。

 

わたしは以前、コンサルティング会社で、グローバル・スタンダードに基づいて、非常に多くの「教育制度」の構築に携わりました。

正確に言うと、「教育・訓練」というやつです。

 

グローバル・スタンダード曰く、やるべきことは

1.従業員の業務遂行に必要な力量を定義せよ。

2.必要に応じて、教育・訓練、もしくはその他の処置を施せ。

3.教育・訓練の効果の確認をせよ。

4.記録を取れ

の4つだったんですが、見て分かる通り、「従業員の成長」という項目はありません。

本当にないんです。

 

あるのは「仕事に必要な能力が不足していたら、教育・訓練、その他の処置を施せ」という話だけ。

しかも、教育・訓練、および「その他の処置」なので、例えば異動やら採用やら、あるいはアウトソースなども視野に入れる、という話でした。

 

もちろん例外はありますが、会社の仕組みからしてみれば「業務遂行」さえなされていれば、従業員の成長なんて、別にどうでもいい話なんです。

というか、そんな不安定なものをアテにできない。

これがまず、マネジメントにおける、グローバル・スタンダードの視点です。

 

 

で。

たまに話題として出てくるのが、上司から「成長しろ」とか言われるケース。

あるいは上の文章にあるように、「成長できるから給料安くてもいいよね」とか言う話。

 

これ、コンサルタントからすれば、「やりたいなら勝手にどうぞ」くらいの意見しかないです。

いや、はっきり言えばむしろ「成長成長」いう人は、邪魔です。

仕事しろ、と。

 

実際、私はクライアントから

「「従業員のキャリアプラン相談」や「スキルアップの支援」などを、教育制度に含めたほうがいいですかね?」

と聞かれたことがありました。

 

もちろん、会社の状況によるのですが、そのときには、

「キャリアプランやスキルアップは、個人で考えるものであって、会社がわざわざ金を出すようなものではない。そんな暇があったら、業務の改善か新規事業でもやったほうがいい。」

と、回答したことがあります。

そんなん、自分で考えろと。

 

従業員が難しい仕事についていけなくなったら、何らかの補強をして上げる必要はあるかもしれないです。

でもそれは「スキルアップの支援」ではなく、「業務上必要」だから。

 

能力的に難しいようだったら、人を入れ替える。

入れ替えも厳しいようなら、アウトソースする。

それがマネジメントです。

 

こう言うと、冷たく聞こえるかもしれません。

ですが、もちろん、従業員側も特に「成長」を望んでいるわけではないことを、私は知ってました。

例えば、実際に「様々な研修(訓練)を、カフェテリア形式で選べる」という制度を用意しても、利用者なんて、微々たるものです。まさに100人中2、3人。

 

「◯◯の研修制度がほしい」なんて言っていた社員ですら、実際に用意すると「時間がない」とか言って、使わないことなんて、ザラです。

でも本当は暇なんですよ。その人。

 

ですから、私が多くの会社で目撃した実態は、「成長したい」なんて社員は、本当にごく少数の変わり者であって、殆どのフツーの人は、「ま、そう言われればやりますけど」という程度です。

 

また、多くの会社も「この業務は遂行してね。できなかったら何らかの訓練プログラムは用意する。でも、それでもできなかったら人は入れ替えるよ。」というので、おしまいでした。

 

 

で、なんで「成長派」と「成長否定派」がボタンを掛け違えるのかな、とちょっと考えたこともあります。

 

結論としては「成長」という言葉が今ひとつなんだな、と思うんです。

 

なんか「成長」という言葉、って、ゲームのキャラクターの成長と同じように捉えている人が多いのかな、と思うのです。

ステータスが増えて、 新しく魔法がつかえるようになる、 そのうちめちゃくちゃ強くなって無双、

みたいな。

 

でも、人間とゲームのキャラクターの成長って、かなり違います。

実際、大人になってしまえば、ステータスは、生まれ持った遺伝の影響が大きく、 ほとんど変化はないのです。

要するに、大人のステータスは、実はすでにカンストしている。

 

例えば知能は、大人になればなるほど遺伝の影響が大きくなり、環境の影響が少なくなります。

事実、慶応大学の心理学者、安藤寿康氏によれば、子供のときよりも大人になってからの知能のほうが遺伝の影響が大きく、大人の知能は7割が遺伝によって説明できる、といいます。

この結果は、意外だと思われるかもしれませんね。人間は年齢とともに経験を重ねていくわけですから、環境の影響が大きくなっていきそうなものですが、実際は逆なのです。

つまり、人間は年齢を重ねてさまざまな環境にさらされるうちに、遺伝的な素質が引き出されて、本来の自分自身になっていくようすが行動遺伝学からは示唆されます。(中略)

しかし、遺伝はその人の一生を通じて影響を与え続けますが、環境が影響を及ぼすのはあくまでもその環境が周りにあるときだけです。

いずれにせよ、人はいずれ親の七光りが通用しない社会の中で生きていかなければなりません。遺伝か環境か、どちらかに賭けろというのであれば、私は遺伝を選びます。

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研究者が「遺伝を選びます」というくらい、ステータスに対する遺伝の影響は大きいのです。

 

こうした研究からも、「大人になってからの成長(=ステータスアップ)」などは、ほとんど望めない、と考えたほうが良いでしょう。

 

だから多分「大人の成長」って、誰かが作り出した虚構なんです。

人間は唯一、子供が大人になるときに、著しいステータスアップ、文字通り「成長」するだけなのです。

 

実際、子供から大人へは、凄まじい知能の成長が見られます。

自分の子供を見ても、1才児と4歳、4歳と7歳では勝負にならないほど知能に差がある。

 

が、おとなになってからの知能の成長は、それに比べればほんの僅かでしょう。

それが現実です。

 

でも、こう言う事を言うと、

「スキルは成長する」とか

「考え方も成長する」とか

そんな話を持ち出す方もいるでしょう。

 

ただ、それは私の考えでは「成長」というよりも、むしろ「適応」というべきではないかと思います。

実は、大人が本当に問われているのは、「成長」ではなく、「適応」なんです。

 

ダーウィンの進化論ではよく「適者生存」と言われていますが、これは、生物界の本質 です。

実際、しんざきさんはこう書いています。

「これを勉強したい」

「この技術が気になってる、身に着けたい」

「だから空き時間が欲しい」って思っている人、いないんですね。本当にいない。

(中略)

いや、皆、勉強出来ない人たちじゃないんですよ?

例えばプロジェクトで新しい技術を使うことになって、それについて急いで勉強しなくちゃいけない、とかいう状況だと、ちゃんと資料揃えてセミナー行って本買って、キャッチアップ出来る人たちなんです。

「スキルの獲得に受け身」だったり、消極的だったりするのは、その人達が生物だからです。

余計な力を使わず、万が一環境が変われば「適応」しようとする。そして、しんざきさんの周りの人たちは実際に「適応」している。

 

これこそまさに、「ああ、生き物ってすごい」と感心していい部分じゃないでしょうか。

受け身が実は、人間の本来の姿なんです。

 

 

ただ、「適応」が、これからは結構厳しくなるかもです。

端的に言うと「死にたくなきゃ、頑張って環境変化にキャッチアップせよ。」のスピードが上がってるから。

 

今だったら、

ピーター・ドラッカーの「ネクスト・ソサエティ」

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リンダ・グラットンの「ライフ・シフト」

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ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」

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などに描かれているように、資本主義、自由主義から次世代の知識社会への適応などが囁かれているでしょう。

 

「成長せよ」と脅す人は、要するにもしかしたら、今後の世界は「勉強しない人」に対して、厳しくなるかもしれない。

今のスピードで、それに適応できますか?

という話を言っているのです。

 

実際に、世の中の変化のスピードはどんどん上がってますから、「適応できずに滅ぶ」という事が現実にありえます。

実際、これまで地球上に生まれた種の殆どは適応できずに滅んでいる。

 

まあ、とはいえ、この記事で書かれているように「過剰に適応する」のはそれはそれで問題なので、どこかで歯止めがかかるのかもしれないですが。

私は人を脅すつもりはないので、これくらいにしておきます。

 

ただ、「サピエンス全史」にかかれているように、人類の最強の武器は、実は「適応力」にあります。

アメリカ大陸を席巻した人類の電撃戦は、ホモ・サピエンスの比類のない創意工夫と卓越した適応性の証だ。

どこであっても事実上同じ遺伝子を使いながら、これほど短い期間に、これほど多種多様な根本的に異なる生息環境に進出した動物はかつてなかった。

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しんざきさんは「成長」ではなく、「安定してその仕事で食っていけるニッチを見つけること」も一つの手段だと言っていますが、要するにスキルを付けて成長するのも、知識を入れるのも、ニッチを見つけるのも、どれも「環境への適応」です。

 

その「適応力」を発揮できるように、皆がそれなりに頑張らないとならない。

成長か、非成長かの議論とは関係なく、それが、現実なのだと思うのです。

 

 

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【著者プロフィール】

◯Twitterアカウント▶安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者(tinect.jp)/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(note.mu/yuyadachi

◯安達裕哉Facebookアカウント (他社への寄稿も含めて、安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をすべてフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

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何か月か前の話で申し訳ないんですけど、「まなめはうす」のまなめさんっていう、コーラばっかり飲んでる変な人がこんな記事書いてたんです。

部下の教育に失敗した話

そう思う私だからこそ、部下には学ぶ時間さえ与えれば成長できると思って、業務を進めなくてはいけない立場でありながらも、可能な限り時間をつくってあげたんですよ。

部下になった時点で数か月後には別のPJに異動することも決まってたこともあって、そのための準備とかスキルアップとか必要と思って。

結論から言うと、私が作ってあげた時間は無駄に終わり、後日本人からも、もっと仕事をふって欲しかったと言われたのですが。

これ、実は私も同じようなことしちゃった、正確にはしかけちゃった経験があるんですよ。

前の会社の時の話なんですけどね。

 

その会社って、あるプロジェクトが終わると即他のプロジェクトにアサインされて、「隙間の時間」的なものが本当に全然なかったんです。

あっちで火消しが終わったと思ったら、次はこっちでフル稼働、それが終わったら取り敢えずこっちのプロジェクト入ってね、みたいなのがごく普通だった。

どこの会社もそうなのかも知れませんが。

 

自分で人を管理するようになって分かったんですけど、基本「隙間の時間」というものは「作っちゃいけないもの」だったんですね。

エンジニアがなんのPJにもアサインされていない状態が出来ると全部上に報告しなくちゃいけなくって、それで上から怒られたりするんです。

何遊ばせてんだ、早くなんかのPJにアサインしろって。タスク何持たせてるんだって。

だから、無理やりにでもPJに配属してチケットを詰めないといけない。

 

いやまあ、会社からすると、稼いでない状態の人員を作るのは人件費の無駄だから、なるべく空き状態を作らないようにしたいってことはよく分かるんですけどね。

 

ただ、技術者としては、多少は技術キャッチアップの時間って欲しいじゃないですか。

技術はどんどん新しくなっていくわけで、キャッチアップしないと自分はあっという間に時代遅れのエンジニアになってしまう、っていう焦りが凄かったんです。

 

勉強なんて業務時間外にしろっていう話もまあ分かりますけど、技術で食っていく仕事なんだからちょっとくらい技術を勉強する隙間もくださいよ、と。

それだって会社の為になるでしょって話で、プロジェクトが終わった後くらい、ちょっとスキルアップの為の時間与えてもいいやないですか、って上と掛け合ったんです。

 

もちろん必要に迫られてのアサインであれば仕方ないけど、現状管理を見ていると、とにかく空き時間を作らないためだけに、無理やり次のPJにアサインしているようにしか見えなかった。

この時私は、「隙間時間くれれば勝手に勉強して自分でスキルアップするよ。皆そうでしょ?」って思ってたんですよ。

 

***

 

で、その時私、当時の上司にこう言われたんです。

「その時間を与えられたエンジニアは何を勉強するんだ?」って。

 

え?いや、色々あるでしょ。あれとこれとそれと、って話をすると、

「いや、お前の話じゃない。じゃあ例えばお前の部下は、今自由時間をもらったら何を勉強するんだ」って言われました。

 

で、自分で部下と話してみて分かったんですけど。

「これを勉強したい」

「この技術が気になってる、身に着けたい」

「だから空き時間が欲しい」って思っている人、いないんですね。本当にいない。

 

うっかりすると、そもそも「最近の新しい技術」なんて情報、全く集めてすらいなかったりする。

こんな言語が流行ってるー、こんなライブラリが出たー、使ってみたいー、とか全くない。

 

いや、皆、勉強出来ない人たちじゃないんですよ?

例えばプロジェクトで新しい技術を使うことになって、それについて急いで勉強しなくちゃいけない、とかいう状況だと、ちゃんと資料揃えてセミナー行って本買って、キャッチアップ出来る人たちなんです。

 

それでも、そういうレベルの人たちですら

「自分が出来ることをどんどん広げたい」とか、

「技術者としてどんどんレベルアップしたい」という欲求を、少なくとも自発的な形では持っていない。

 

「スキルアップですか?何を身に着ければいいですか?」ってこっちが聞かれたりする。

 

その時気付いたんですけど、「成長したい」っていう欲求は、決して普遍的なものじゃないんだなあ、と。

大抵の人は、仕事を通じてスキルを磨ければいいなあ、くらいには思っているけれど、

「自由時間に自発的に頑張って勉強してまでスキルアップしたい」

とまでは思ってないんだなあ、と。

 

冒頭リンクで挙げたまなめさんは、正真正銘「自発的にスキルアップしたい」人なわけですが、そんな人、100人の中に2,3人いればいい方なんじゃないかなーというのが肌感なんです。

 

正直、最初は私も、そんなんでいいのかな、とか思ったんですよ。

エンジニアなのに成長を求めないとかありえるの?とか。

自分の市場価値を上げていかなくていいの?とか、思った。

 

先日、はてな匿名ダイアリーでこんな記事を見かけたんですけど。

成長したくないという人は怖くないの?

これのコメント見て思ったんだけどさ

仕事で成長なんか望んでねーよバカヤローというのは理解できるんだよ

うん、いいよそれで

でもそれだと作業をこなすだけになって新しいスキルやノウハウが身につかない(あるいはすごい時間がかかる)わけじゃない?

そういう人は魅力的な能力のないまま歳を重ねるわけだから、いずれ雇用市場から締め出されるわけでしょ

そうなったときにどう対処するか考えているのかな?考えていないなら地獄が待ってるよ・・・

丁度これと同じようなこと思ってた。

バキ的に言うと、「そんなふうに考えていた時期が俺にもありました」ってヤツです。

 

ただ、私もちょっと勘違いしていた点なんですけど、そもそも「成長」って別に「働く目的」ではなく、「生き残るための数ある有力な手段の一つ」でしかないんですよね。

別に必須ではなく、唯一解ですらない、手段の一つ。

 

まず、そもそもなんの為に「成長」が必要なんですか、って話です。

成長という言葉自体、含んでいるフィールドが広過ぎてあまり一言でまとめられるような話ではないですが、基本的には「今の能力や経験では出来ないことをする為に」成長が必要な訳です。

 

例えば、今より質の高い成果物を出す為に。

今より速い仕事でバリューを出す為に。

今まで知らなかった分野で仕事をする為に。

今までより複雑な問題を解決する為に。

今よりもっと高い給与を得る為に。

 

目的や、解決しなくてはいけない課題があって、それを解決する為の手段の一つとして必要なのが本人の「成長」である、と。

まず、この点は明確にしておいて損はないと思うんですよね。

で、解決するべき課題があったとしたら、それを解決する為の方法も別に一つではない。

 

例えばの話、あなたにしか出来ない仕事があって、それが努力によって質が高まるような、あるいは質が高いことで得られる報酬が上がるような類のものでない場合、あなたがすべきことは「努力して自分の能力を成長させること」ではなく、「安定してその仕事で食っていけるニッチを見つけること」です。

 

勿論、「いつかその仕事で食えなくなる」ということを想定して、他の分野でも食っていけるよう能力を磨くことは悪いことではありませんが、それは飽くまでリスクヘッジであって、短期的に「ニッチを見つける」こと以上の価値を出せる活動ではありません。

 

もちろん成長は重要ですし有力なんですが、「成長は単なる手段でしかなく、場合によっては必須のものですらない」という認識は、案外重要じゃないかと思うんですよね。

 

そういう点では

「君たち成長しなくていいの?」

「成長しなくて怖くないの?」

っていう考え方こそ、「視野が狭い」ものかも知れないんですよ。

 

別に成果を出す方法も、生き残っていく為の方法も「成長」だけじゃないのに。

ある意味では、「成長」にリソースを割くことを強制している。

 

「成長したいと思わない」というのは、もしかすると怠惰や諦めですらなく、「最適解の選択の結果」かも知れないんですよね。

 

***

 

あれからそこそこ色んな経験をしまして、一つ思うようになったことは

「成長を目的と勘違いしてしまうと、滅茶苦茶搾取されやすい」ということです。

 

成長が「手段」でしかない以上、会社は「成長機会」を報酬と考えてはいけない。

「成長出来るからちょっとくらい給料が安くても目をつぶってね!」などと言ってはいけない。

 

けれど、現実には、「あなたを成長させてあげる」という甘い言葉で近づいて、「成長しなくては!」という危機感を食い物にしている人や組織、すっごいたくさん見かけるんですよね。

あなたが成長出来るんだからタダ働きでもいいでしょ、なんて台詞、「成長は単なる手段」ということが分かっていれば絶対言えるわけがないのに。現実には、それに類似する台詞を吐く人たちがたくさんいる。

 

そこから考えると、組織の側も、労働者の側も、「成長は単なる手段である」ということをきちんと認識しておくことが案外重要なんじゃないか、と。

私はそういう風に考えるんです。

 

「成長出来ないのが怖い」という危機感、凄くよく分かります。

「成長したい」という欲求、凄く尊いです。

成長することによって得られるもの、とても貴重です。

それを否定する気は毛頭ありません。

 

ただし、「成長」を求めるかどうかは個人の選択であって、決して他人が押し付けることではないし。

また、「成長」をネタに搾取してこようとする相手には用心するに越したことはない。

そういう話でした。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Michał Parzuchowski on Unsplash

サソリとカエルの寓話をご存知だろうか?

僕はこれを弁護士である井藤公量先生のダイヤモンドルールという本で知ったのだが、実に含蓄深い。

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概論を示すとこのような感じだ。

 

ある川辺にサソリがおりました。

サソリが向こう岸へ渡りたいと思った時、丁度そこへカエルがやって来ました。

サソリはカエルに「向こう岸まで乗っけてくれないかい。」と頼みました。

カエルは「君は刺すからイヤだよ。」と答えました。

それに対してサソリは「僕を乗せている君を刺したら僕が溺れてしまうじゃないか。そんな馬鹿なことをする訳無いよ。」と答えました。

カエルも「言われてみればそうか」と納得し、サソリを乗せることにしました。

 

/////////////////////////////////////////////////////////////////////

 

そうしてサソリはカエルの背中に乗って川を渡り始めました。川の真ん中ほどに到達したとき、突然サソリはカエルを刺しました。

息絶え絶えにカエルはこう言いました。

「なんで君も死んでしまうのに、こんな馬鹿な事をするんだ・・・」

「ごめんね。でも僕はサソリだから、こうする他ないんだ・・・」

そうして二匹は並んで沈んで行きましたとさ。

 

この寓話は口先で何をいおうが、そのモノの本質は変わらないという事を暗喩している。

 

「人の本性は変わらない」

高校生ぐらいの時の自分は、人間というのは生まれや育ちではなく、努力によりいくらでも変わりようがあると思っていただけに、この寓話は妙に胸にくるものがあった。

 

「けど、そんな事言ったら、善人は生まれながらにして善人で、悪人は生まれながらにして悪人になってしまう。そんな救われない話でこのエピソードを終わらせていいものなのだろうか」

実は10年近くこの問いを考え続けているのだが、つい先日、その解決の糸口になりそうな興味深い本を読んだので、今日はその話をしようと思う。

 

ひきこもりは「怒り」と「恐怖」が表裏一体となって身動きができなくなっている状態

”「ひきこもり」だった僕から”は非常に衝撃的な本である。

この本の著者である上山 和樹さんは元ひきこもりの当事者であり、この本はひきこもりのリアルを理解させてくれる稀有の一冊だ。

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「ひきこもりは甘えだ。人間、辛くたって社会にでていかなくてはいけないものなんだ」

などの、よく言われているひきこもりへのこの手のあたりを上山 和樹さんは次のように一蹴する。

 

「家にいて、親に申し訳ない気持ちを持ちながら生きてて、楽なはずがない。親だっていつか死ぬし、そうなったら自分の人生はどうにもならなくなる。」

「狭い部屋の中で、このままではいけないという”恐怖”と、なぜ自分は普通に自立できないのかという”怒り”で身動きがとれなくなった状態が、ひきこもりなんだ」

 

そしてこの2つの感情に加えて、 性的な挫折が積み重なる事で、更にシンドさが増していく。

 

「自分のような人間は、異性とつき合う資格などない」という「決定的な性への挫折感情」を持つのは物凄くキツイ。

決して自分は異性として女性から受けいられる事はないというのは、男性としては精神の自死にも等しい。

 

死の恐怖・自責の念・性愛からの排除。

これがひきこもりのリアルである。

 

改めて考えてほしいのだが、仮にあなたが3食タダで食べさせてもらったとして、この3つの感情に一日24時間延々と直面させられたとして、それは楽だと思うだろうか?

少なくとも僕は自分で自活するほうがよっぽどラクだし、楽しい。

 

ひきこもりは決して”楽”ではない。

それどころか超絶ハードな業なのである。

他の誰でもない当事者だからこそ書けた真実である。

 

気持ち悪い前半と理路整然とした後半のギャップが凄い

この本は二部構成になっている。

前半は筆者がなぜ引きこもりになるに至ったのかのまでの人生禄のようなものとなっており、後半はひきこもりという現象についての筆者の分析が語られている。

 

この前半と後半のギャップが、それはもう凄い。

一言でいうと前半はものすごくキモい文章で、後半は逆に同じ人が書いたとは思えないほどに非常にキレイだ。

後半部分だけで出版されたら恐らくもっと売れたように思うほどに、前半は本当に気持ち悪い。

 

なぜこんなにも気持ち悪いのかと言うと、男の思春期時代の思考回路が無修正で描かれているからだ。

思春期時代の男の頭の中身は95%が性欲で、残り5%が承認欲求で構成されているのだが、それを文字に書き起こすとここまで気持ち悪いのかと愕然とさせられる。

 

なお、念の為申し上げておくと、僕の思春期時代もこの本と同じぐらいキモい。

ひょっとしたらもっと酷いかもしれない。

ここまで自分の格好悪い姿を、必要だからとはいえ無修正で実名を出して書物として出版できた著者の勇気には改めて感心されられる。

 

95%の性欲と5%の承認欲求。

それが非常に強い衝動となって男を突き動かす。

 

それがうまくいけば・・・男は仕事や結婚に強固にコミットし、社会的地位や家族を得ていく。

けどうまくいかないと・・・全てが手に入らないばかりか、その衝動は他の誰でもない己を強く突き刺し、深い絶望へと男を誘う。

 

男の欲望はすざまじくキモい。

しかし面白い事に、その気持ち悪いものから、時として物凄くキレイなものも生み出される。

本書の後半部分はまさにそれである。

 

生まれも育ちもキモくたって、人は美しいものが作れるのである。

 

本性は変わらないかも知れないが、人間的な魅力は距離感で変わる

唐突だが、僕は【友人】は物凄く好きなのだが、【患者】という人種は実のところそこまでタイプではない。

 

余裕は人をひどく魅力的に僕に写す。

友人との知的な会話は、至福のひとときである。

 

それに対して病は人をひどく醜くする事がある。

余裕がない時の自分の姿を思い浮かべて欲しい。

正直なところ、あまり魅力的ではないだろう。

 

満たされて落ち着いている時と、余裕がなくて卑しくなった自分。

どちらがあなたの本当の姿か?

言うまでもない。どちらも本当のあなただ。

人は魂の距離感で、美しくも醜くもなる。

 

冒頭に書いたサソリとカエルの話のように、確かに人の本質は産まれで決まっているのかもしれない。

しかし人の魅力というのは、産まれだけで決まるものではない。

プライベートでは精液の香りしかしない男が仕事では見事な芸術作品を作り上げたりするように、適切な距離感で付き合えば、人というのは醜くも美しくもなる。

 

その人の美しいところを愛しなさい。

キモいところは深い愛で受け入れなさい。

キレイはきたなく、汚いは綺麗。

その2つは切り離すことのできない同一のものである。

 

人の本質が何であろうが、それは単なる性質に他ならない。

その性質はだまし絵のように、見方によっては少女になるし老婆にもなる。

 

たぶん、冒頭の寓話が本当に言いたかった事はそういう事なのだと僕は思う。

 

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【プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:cea +