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Books&Apps編集部

わたしはもともと、『自己責任論者』だった。

テストの点が悪い? 試合で負けた?

自分が悪いんじゃん。もっと努力すれば結果は出せたんじゃないの? やってもできないのなら、やり方が悪いんだよ。ちゃんとやれば結果はついてくるんだから。結果が出ないのは、自分に落ち度があったからでしょ。

そう思っていたのだ。

それが傲慢な勘違いであると悟ったのは、高校3年生、16歳のときだった。

 

「自己責任」が「自業自得」と同じ意味で使われる

『自己責任』を調べてみると、辞書にはこうある。

1自分の行動の責任は自分にあること。「投資は自己責任で行うのが原則だ」

2 自己の過失についてのみ責任を負うこと。

出典:https://kotobank.jp/word/自己責任-518705

 

「自分の行動の責任は自分にある」

「自分の過失に責任を負う」

このふたつの意味が組み合わさって、最近では

「自分の行動によって結果を変えることができるのだから、望まない結果が出たらそれは自分の責任である。他人に助けを求めず自分でなんとかしろ」

という意味で『自己責任』という言葉が使われている気がする。

 

貧乏で子どもが育てられない? じゃあ産むなよ、自己責任。

ブラック企業勤めで病気になった? 辞めればよかっただろ、自己責任。

性犯罪の被害者になった? 一緒に酒を飲んだくせに何を言うんだ、自己責任。

とまぁこんな具合である。

ちなみにここでいう「自己責任」はすべて、「自業自得」に言い換えられる。

 

「がんばれば報われるのになんでやらないの?」

この『自己責任論』の厄介なところは、「がんばれば報われる」という美しい言葉と表裏一体なところだ。

出発点は「努力すればいい結果を出せるはず」。

だから「報われないのはがんばっていない証拠」。

そしてそれは「お前がいけないんだ。自己責任」。

 

こういう論法なものだから、『自己責任』という言葉を使えば、「がんばれば報われたはずなのになぜ何もしないんだ、自分が悪いんだろう」とかんたんに人を責めることができる。

 

「貧乏でもがんばって子どもを育てている人がいるのに、なんでお前はできないんだ」

「ブラック企業で働き続けたのは自分の意思なんだから文句を言うな。俺はもっと働いている」

「自衛していたら避けられた性犯罪なんだから自分が注意すべきだった」

この論法の出発点はあくまで「自分の行動を変えればいい結果になるはず」というポジティブなものだから、なんだかそれっぽく聞こえてしまう。

 

実際、わたしは高校3年生くらいまで、この『自己責任論』を、なんの疑いもなく信じていた。

なにかしらうまくいかないのはその人がダメだからでしょ? 努力すればある程度の結果は出るはずじゃない?

そう思っていたのだ。

 

全員が同じ土俵で戦っているのではないと気づいた日

そんな考えが明確に「まちがっている」と気づいたのは、高校3年生のころだ。

受験生として毎日塾に通い、模試の結果に一喜一憂し、自分の進路について考える時期。

友だちとの会話も、しぜんと将来の話になる。

 

わたしは「勉強すれば大学に受かる」と思っていたし、実際、ちゃんとまじめに勉強して、着々と成績を伸ばしていた。

親からは「やりたいことをやりなさい」と言われていたから、やりたいことを一生懸命考え、いろんな大学を調べた。

 

そこにはなんの制限もなく、わたしはただ勉強して、将来の夢を描いていればよかった。

だから、「希望の進路に進めないのは本人の努力不足以外ありえない」と、なんの疑いもなく思えていたのだ。

 

でもそれは、まちがっていた。

「受験料が高いから、国公立1校と滑り止めの私立1校しか受けられない」

「夏休みの集中講義のために日雇いバイトに何回か行かなきゃ」

友だちからそんなことを聞いたのだ。

 

わたしは、心の底から驚いた。

同じ制服を着て、いつも机を並べていっしょに勉強している友だちが、そんな事情を抱えていたなんて!

 

合格発表の時期になったときも、それぞれの環境のちがいは、そのまま人生の選択肢のちがいに直結した。

「早稲田に受かったけど、特待生で授業料免除になる下位ランクの大学に行くしかない。就職が心配だ」

「これ以上親に迷惑をかけられないから、宅浪かな。気晴らしでたまにバイトすれば模試代くらいは自分で払えるし」

そんな声を聞いた。

 

驚いた。純粋に、驚いた。

みんなが平等に、同じ土俵で戦っていたわけではなかったのだ。

塾も行けて、好きな大学を受験して、受かった大学にいける。それが恵まれた環境であることすら知らなかった。

だから平気な顔をして、「結果がでないのは自分の努力不足」だなんて思えていたのだ。

なんて傲慢だったんだろう。

 

「どうにかできたはず」は恵まれた人の理論

就活の時期になっても、それは同じだ。

就活をやめてのんきに海外移住を考えているわたしのとなりで、

「両親が高齢だし長男だから地元に帰らないと。東京の企業は受けられない」

「就活のために広島と東京を往復してホテル暮らし。奨学金を使い切ってしまったから、就活とバイトで授業に行けない」

と言う友だちがいるのだ。

 

わたしはただ、偶然、運良く、両親のおかげで恵まれた環境にいられただけ。

それに気づいてからは、他人に対して「どうにかできるはずでしょ」だなんていえなくなった。

だってわたしも、「向こう側」だったかもしれないんだから。

「努力すればいいだけじゃん」というのは、可能性を見出す希望の光でもあり、無邪気に相手を追い詰める言葉でもあるのだ。

 

努力で変えられる範囲は、人によってちがう

準備運動をせずに運動して怪我した。

医者に止められてるのに暴飲暴食を続けて体を壊した。

勉強しなかったから留年した。

 

それだけ聞けば、だれだって「自己責任だ」と思うだろう。

そこで救済を求める人がいれば、「甘え」だと批判されるかもしれない。

 

でも、問題ある教師が準備運動をさせずに生徒に運動を強制して怪我したとしたら?

長時間労働とパワハラで精神的に追い詰められて暴飲暴食に走っていたら?

病気の親に変わって新聞配達で生計を立てていたがゆえに留年したとしたら?

そういう事情がないって、本当に言い切れるんだろうか?

 

人にはそれぞれ事情がある。言える事情も、言えない事情も。

そう思うと、「結果が出ないなら自分のせいじゃん」「もっとがんばればよかったじゃん」なんて言えない。

自分が逆の立場だったとして、それを言われたら、「じゃあどうすればよかったんだよ! 助けてくれなかったくせに!」と思うだろう。「なにも知らないくせに!」と。

 

もちろん、「さすがに自業自得」と思うこともある。

バイトテロをして損害賠償請求されたとか、ネットで匿名で悪口を書きまくって訴えられたとか。

 

こういう明らかに常識を逸脱した行為によるしっぺ返しなら話は別だが、人生の分岐点や決断において、たいていの場合は「環境」が大きく影響する。

だから、他人に対して「自分が悪いんでしょ」と言うのは、やっぱりちょっとちがうんじゃないかと思うのだ。

だって、「自分でどうにかできる範囲」は、人によって大きく異なるのだから。

 

自己責任論より「逆の立場だったら」という想像を

自分自身の行動の責任を自分で負う。それ自体はごくふつうの考えだ。

でも事情をよく知りもしない他人が、「お前の言動で結果を変えられたはずだからお前が悪い」と自己責任論を振りかざすのは、ちょっとちがうというか、冷たいというか、偉そうだ。

 

最近よく『自己責任論』を聞くけど、それはだれかを追い詰めるだけで、なんの解決にもならない。

本人が悪ければ反省すべきだが、だからといって外野が過剰に責めるのではなく、「同じようなことが起こらないためになにができるか」「自分が逆の立場だったらどうしただろう」と想像することのほうが、よっぽど大事じゃないだろうか。

 

昔のわたしのように、「努力すればどうにかなるんだから、望まぬ結果が出たらそれは自分が悪い」と言うのは、恵まれた人の上から目線理論にすぎない。

 

人にはいろんな事情があり、どうにもできないことだってたくさんある。だから助け合いが必要なのだ。

『自己責任論』を唱える前に、「本当に本人の努力だけでどうにかなったのか」「逆の立場でそれを言われたらどう思うか」を考えていきたい。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Nik Shuliahin)

先日某所であった、交流会でのこと。

「すごい人なので、会ってみてくださいよ」と言われて、ある経営コンサルタントの方を紹介された。

 

結論から言うと、辣腕のコンサルタントだと感じた。

分析は的確、話の事例が豊富で「こんな企業は成功する」「こんなやり方は失敗する」という話題に説得力がある。

多くの顧問起業を抱えているそうで、紹介者が「すごい」と言っていたのも頷ける。

 

そこへ、何人かの起業家が話の輪に加わった。

皆、そのコンサルタントの話を熱心に聞いている。中にはメモをとる方もいた。

 

その後。

会合のあと帰路につくとき、その起業家の方々と、上述したコンサルタントの話になった。

「あのコンサルタントの方の話、面白かったですね。」

「そうですねー。」

なんか、我々とは世界観が違う、って感じですよね。」

 

……世界観?

 

「といいますと?」

「私は起業家同士で会うことが多いので思ったのですが、ああいう分析志向の人って、私の周りの起業家には少ないな。と。だから大変勉強になりました。」

「そういうもんですかね。」

 

「まあ、起業って、どこまで行っても、博打みたいなもんですから。分析も限界があって、みんなどこかで分析を諦めて……というか待てなくて、エイヤッとやっちゃう人が多いと思うんです。まあ、だから突っ走って失敗するのかもしれませんが(笑)。」

「ああ、なるほど。」

「だから、突き詰めて分析する人は、違うな、と。」

 

ああ、なるほど、そうか……

 

「世界観が違う」という感覚。

客観的で、冷製で、批判的で、すこしシニカルな、あのコンサルタントのことを、起業家ではなく分析家だなあ、と、彼は言っていたのだ。

 

 

世の中には、「批評と分析」を得意とする人と、「創造」を得意とする人、別の種類の人々がいることは、なんとなく思っていた。

 

例えば、起業の方法をいろいろな起業家に聞いて回り、「こうすればうまくいく」と法則を見つけようとする人がいる。

だが、彼らは上で紹介したコンサルタントのように「分析家」であることがほとんどで、実際に起業する人は少ない。

中には独立する方もいるが、「起業」と言うよりは、一人で専門職としてやっている方が多い。

 

それに対して「起業してしまう方」は、分析をしないわけではないが、どちらかと言うと

「とりあえず営業してみるよ」

「商品つくってみたよ。」

「人雇っちゃったよ」

「お金借りちゃったよ」

と、分析に時間をかけられず、一刻も早く「売りたい/創りたい/なにかしたい」人が多いのだ。

 

これは、作家や画家、研究者界隈などもまったく同じで、「書きたい」「描きたい」「発見したい」「発明したい」という、「創造」が得意な人は、それらに冷徹な分析を加える「批評・分析」が得意な人と、わりとはっきりと分かれる。

 

例えば「小説家志望」なのに、作品の批評と分析ばかりしている人が、ネット上にはかなりいる。

あるいは「どうすれば上手く書けますか?」と聞く人がいる。

 

でも、どんな場合でも答えは唯一つ。

「こんなところで遊んでないで、早く作品をつくりあげて、公開せよ」だ。

 

ただ、私は、そのような方は「小説を書く」よりも、「書評を書く」「編集者になる」など、分析と批評を生業にしたほうが良いと思っている。

 

別に「創造」だけが尊いわけではない。分析も批評も、極めれば立派な職業だ。

ちょうど、起業家とコンサルタントのように、分析家/批評家として一流の能力を持つ人は、創造する人々から、むしろ必要とされている。

 

 

実は、冒頭のコンサルタントの話を受けて、以前読んだこんな記事を思い出していた。(太線は筆者)

村上春樹恐怖症

「眼高手低」という。

創造よりも批評に傾く人は、クリエーターとしてはたいした仕事はできない。

これはほんとうである。私自身がそうであるからよくわかる。

私もまた腐るほどたくさんの小説を読んできて、「これくらいのものなら、俺にだって書ける」と思ったことが何度もある。

そして、実際には「これくらいのもの」どころか、一頁さえ書き終えることができなかった。

銀色夏生さんは歌謡曲番組をTVで見て、「これくらいのものなら、私にだって書ける」と思って筆を執り、そのまま一気に100篇の歌詞を書いたそうである。

「作家的才能」というのはそういうものである。努力とか勉強とかでどうこうなるものではない。

人間の種類が違うのである。

コンサルタントも、作家などと同様に、起業家とは違う種類の人間であることが多い。

努力とか、勉強とかでどうこうなるものでもない、という感覚はよく分かる。

実際、私はコンサルティング会社に在籍していたが、経営コンサルタントとしては一流でも、実際に起業してしまう人間は本当に稀であった。

 

だがもちろん、これはどっちが上かという話ではない

 

「眼高手低」は、「批評は上手だが、実際に創作すると下手であること」を意味する。

しかし、「手」もまた存在している。

作品は最高なのに、批評も分析もからきし、思いを人に上手く伝えることもできない、という人も多い。

 

また、一流の批評家が取り上げたからこそ世に出た、という芸術家の例は世の中にいくらでもある。

作家が編集を必要とするように、

経営者がコンサルタントを必要とするように、

画家が画商や批評家を必要とするように、

お互いが補完関係にあるのだ。

 

 

ただ、自分の得意な領域がどこかを見誤ってしまうと、辛いことになる。

 

例えば、上の「村上春樹恐怖症」で取り上げられていた「村上春樹の才能は私が見出した」と自称していた編集者の安原顯は作家志望であったようだ。

しかし彼は残念ながら「作家」としては恐ろしく平凡だったという。

そして彼は「作家」として平凡であったがゆえに、作家的才能を持つ村上春樹を憎んだ。

作家と編集者の間には上下の格差や階層差があるわけではない。

能力の種類に違いがあるだけである。

けれども、これを人間的資質の差や才能の差だと思う人がいる。不幸な錯覚であるけれど、思ってしまったものは仕方がない。

安原顯が村上春樹を憎むようになったきっかけは、安原の作家的才能に対する外部評価が、彼が望んでいるほどには高くなかったことと無関係ではないだろう。

安原氏のように、「自分の適性」を見誤ると非常に辛い人生を送らざるを得ない。

 

これは当然のことで、「他人はどう思うか」を主軸とする「批評/分析」は、「起業」や「創作」とは正反対のことをしているからだ。

そもそも「起業」や「創作」は、「間違い」や「思い込み」を前提としているのであって、他者がどう思うかは関係がない。

 

要するに「自分勝手に振る舞った結果、たまたま成功する」という性質をもっているのだ。

それゆえ、多くの人が知るとおり、ほとんどの起業家や作家、芸術家は世に出ぬまま、忘れ去られる。

 

一方で、「批評や分析」は、「周りがどう捉えたか」「事実としてどうか」を重視する。

本人がどう思うかは関係がない。

だから、繊細で、人の反応が気になり、失敗したくない、という性質の人は、「分析/批評」のほうが向いている。

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。その表現の仕方が研究だろうと、スピーチだろうと、絵画だろうと、価値の判断基準は常に自分の内部にあり、その基準に基づいて自分の考えや思いを外に問うのが表現だ。

価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない。

外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。

失敗したくない、笑われたくない、馬鹿だと思われたくない、評判を失いたくない。

そんな人は、「クリエーター」に本質的に向かない。

 

 

でも前述したように、クリエーターと、批評家/分析家は、補完関係にある。

批評家たちは、失敗ばかりしており、嘲笑され、馬鹿だと思われ、評判の悪い「クリエーター」を助けてやればよい。

マーケティングも組織づくりも知らない、愚かな起業家を支えればよい。

 

冷静に何が悪いのか、どこを改善すればよいのか、批評家や分析家のあなただけが、クリエーターに適切な意見を述べることができる。

 

それが、世の役割分担というものだ。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉(人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。)

 

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(Photo:Photo by @plqml | @feliperizo.co on Unsplash

こんな記事を拝読しました。

どう考えてもマネージャなんて不要だからそれで上手くいくなんて期待しない方がいい

色んなマネージャがいる。何をやる仕事だろうか?役に立ってる?要らないだろ?って話をまとめたい。

別段批判という訳ではないんですが、思ったことを書きます。

 

私はシステム関係の仕事をしておりますので、この話を「一般的なシステム開発におけるマネージャーの仕事」の話として解釈してみます。

数人から十数人程度のメンバーが、それぞれ細分化されたタスクを割り振られて、当該タスクの達成を日々のミッションとして働いている現場と、その現場をまとめているマネージャーを想定しましょう。

で、そのマネージャーが不要かどうか、と考えます。

 

web上で「マネージャー不要論」というものを目にする機会はしばしばありますし、職場でそういう声が挙がることも時折あります。

時には、実際にそういう動きが持ち上がり、実験的に試行されることもあります。

 

が、大抵の場合、そういう動きは失敗します。

全体の進捗が悪化して、色んなところから不満が出て、「やっぱマネージャーいないとダメだね」という話になります。

大体そうなります。

 

何でかというと、「マネージャーが最低限の仕事をする限り、マネージャーなしでも成果が出せるのはある程度以上優秀な人に限られるから」です。

 

マネージャーの最低限の仕事って何よ?という疑問が浮かんでくると思いますので、まず念のためその話をします。

 

一口でマネージャーと言っても、そのミッションには色々あります。

チームの規模によっても、そのマネージャーの役職によっても変わってきますが、上で挙げたくらいの規模のシステム開発現場でのマネージャーの「最低限の仕事」というのは、大筋

・タスク割り、スケジュール作成

・進捗管理、スケジュール調整

・予算策定、コスト管理

・リソース調整、仕様調整

くらいをまず挙げるべきでしょう。

 

つまり、「君の仕事はこれだよね、いつまでに終わらせてね」とタスクを割り振って、都度都度「あれ、どこまで終わった?進捗どう?ニャオス?ふざけんな舐めてんのかおなかこわせ」と進捗の確認をしつつ、進捗に不調が出た時はその対策を検討して実施する。

 

そして、リソースの融通をしたり、残業時間とにらめっこしつつ、ユーザー部門から要件変更の要望があったら

「そういうことは半年前に言ってください。あ?無理?うるせえタイムマシンでも買ってこい」

と打ち返し、時には打ち返せずに持って帰ってきて泣きながら技術者に頭を下げ、モニターを威嚇しながらリソースの工面方法とタスクの再割振りを考える。

 

この辺りは、まあ大体「マネージャーというなら最低限これくらいはやってね」と言える仕事の内に入ると思います。

モチベーション管理やら、部下の育成やら、人事評価やらはこれらが出来た後の話です。

 

で、これらの中には確かに、「何ならマネージャーなしでも出来ないことはない」ものが結構含まれてはいるんですよ。

「誰が何をするか」なんて技術者同士が話し合って決めればいいし、タスクの細分化なんて作る人がそれぞれの粒度でやればいい。

スケジュールを作ることなんて誰にだって出来るし、スケジュール通りに進んでいる限り進捗管理なんて必要ない。

仕様調整だって最終的には技術者が可否判断をするんだから、間にマネージャーを噛ませる必要なんてどこにもない、直接やり取りすればいい。

 

なるほど、それぞれもっともな話です。

というか恐らく、冒頭記事を書いた方も、この辺のことなんて当たり前のように出来るから、そもそもマネージャーの仕事として触れもしていないのではないかと推察します。

 

ところがですね、いざ「じゃあマネージャーなしでやってみてね」と言われると、これ大抵の人が全然出来ないんですよ。

マジで7〜8割方の人は出来ない。

 

必要タスクの洗い出しは出来ても、その細分化が出来ない。

細分化したタスクに対して妥当な工数を見積もることが出来ないし、それに基づいてスケジュールを作成することが出来ない。

で、これらと格闘している内に実際の開発作業の効率がどんどん下がって進捗ダダ遅れ、遅れを取り戻そうにもリソース調整に手がつけられない、なんてことが起きまくる。

 

で、我々は気づくわけです。

「ああ、そもそも、マネージャー不要とか言い出せる人って相当優秀な人なんだな…」と。

 

勿論、こういう話に対して「どんだけレベルの低い職場で働いているんだ…?」と感じる人もいるのでしょう。

こういうことが当たり前のように出来る人しかいない職場が存在することも、そこに格差が存在することも事実なのだろうと思います。

 

ただ、少なくとも私自身は、「だからといって、そういう職場しか存在が許されない訳ではない」と考えます。

「そういう人しか仕事が出来ない、という訳ではない」と考えます。

 

以前、こんな記事を書きました。手前味噌で申し訳ないですが、ちょっと引用してみます。

今の時代、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」だけで十分食えると思う

ちゃんとゴールが明確になっていて、要件がはっきりしていて、マイルストーンがきちっと置かれていれば、ちゃんとそのタスクをこなすことが出来る人たち。

ただ、自分で要件を具体化して、タスクを詳細にして、マイルストーンを置いていくのは苦手な人たち。

これが日本特有の話なのかどうかまでは分からないんですが、色んな人と仕事をしたり、採用面接をしたりしていると、こういう「お膳立てがされている限り、処理能力は凄く高い」人材って結構いらっしゃるんですよ。

正直、同じタスクを同じ条件で遂行するのであれば、私なんかよりも全然処理速いだろうな、とても敵わないな、と思うことだってしばしばあります。

ただ、そういう人たちは、「具体的なタスクの落とし込み、詳細化が出来る人」がいないと実力を発揮し切れない。

つまり、「タスク切りやらゴールの明確化は苦手だけれど、きちんと処理能力をもってはいる人」というのはたくさんいるのであって、そういう人たちだって大事な人材だし、そういう人たちに能力を発揮してもらう為にお膳立てすることだって大事な仕事だろう、と。そういう話なのです。

 

勿論、世の中には「マネージャーなのになぜかマネジメントを全くしません」という不思議な人が存在することも事実ではあって、そういう人しか存在しない職場であればマネージャー不要論は低いレベルで成立するのかも知れないのですが、そうでない場合、実際のところマネージャーが必須な職場の方が世間には多いのではないかと思います。

 

これ、別にいわゆるマネージャーの仕事だけの話ではありません。

世の中には、「一見つまらないし、なんなら不要に見えるけれど、案外それがないと上手く回らない」というものは山ほどあります。

 

例えば、朝会だの夕会だのって面倒くさいし不要に見えるけれど、案外朝会がないと気分が切り替わらなくて仕事が手につかない人って存在します。

顔突き合わせての会議なんて不要だし、なんならリモートワークとChatworkだけでいいじゃんって思うけれど、案外「自宅勤務だと色々気が散っちゃって仕事にならない」という人って存在します。

エレベーターでの雑談だって、朝一の挨拶だって、それぞれ「一見すると無意味なようだけど、実はそれなりに意味がある」というものばかりです。

 

理想を言えば、必要な人、必要な時、ケースバイケースで取捨選択を出来るのが一番なのかも知れないですが、そういう体制を作るのは容易ではありません。

であれば、「〇〇不要」ということを唱える際には、我々はそれなりに慎重になるべきなのかも知れません。

 

最後に言いたいことをまとめておきますと、

・マネージャー不要を唱える人は多いけれど、マネージャーなしで成果を出せる人というのはそれなりに優秀な人に限られる

・だからといって、マネージャーの仕事や、マネージャーなしには上手く成果が出せない人に価値がないということにはならない

・「〇〇不要」ということでいざ取っ払ってみると上手くいかない、ということはしばしばある

・ただ、進捗管理やタスク調整すらしないマネージャーというのも世の中には存在して、そういう不思議ポジションは不要といってもいいかも知れない

というような感じになるわけです。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Sgt. Pepper57

メールやチャットなどのテキストコミュニケーション、企画書の作成、外部への情報発信など、現代は、一般のビジネスパーソンにも文章力を求める時代であると言えます。

 

そんな中、私の文章はお客様から「分かりやすい」とご評価をいただくことがあります。

 

現在の私の役職は代表取締役です。

キャリアの多くは、デザイナーとして過ごしてきました。

近年はマーケターとしての活動も多いですが、編集やライターの経験はなく、文章についての専門的な訓練を受けたことはありません。

本職の方が見れば、基本ができていない部分も多々あるでしょう。

 

しかしながら、専門的な教育を受けたことがないからこそ、私のノウハウは、普通のビジネスパーソンでも真似できるものなのかもしれません。

そこで本稿では、文章を書く上で私が一番気をつけている「分かりやすさ」について、お話しさせていただきます。

 

***

 

まずは以下の例文をご覧ください。

 

なぜユーザーテストをする必要があるかというと、UIはユーザーファーストでデザインする必要があるからです。

ユーザーテストをしなければ、本当の意味で良いUIにはなりません。

 

これは私にとっては「分かりにくい文章」であり、私はこういう書き方をしないよう注意しています。

さて、皆さんに問題です。なぜこの文章が分かりにくいか、説明できますか?

 

***

 

「文章の分かりにくさ」は、以下の2種類に大別できると私は考えています。

1. 表現の分かりにくさ

2. 文脈の分かりにくさ

 

1の「表現の分かりにくさ」の原因は、主に言葉や言い回し、文書構造です。

使っている言葉が難しい。言い回しが回りくどい。一文が長くて複雑。修飾語がどれに掛かっているか分からない。主語と述語の関係が不明瞭。言葉の用法や文法がそもそも間違っている。

これらすべてが含まれます。

この表現の分かりにくさについては、目で見て判別できるので、自覚するのも指摘するのも比較的簡単です。

 

解決策も単純で、義務教育レベルの日本語が使えるなら、以下の対策でほぼ解消できるでしょう。

• 難しい言葉を使わない

• 文章を短く切る

しかし、先ほど示した例文は、難しい言葉もなく、文章も短く、これに当てはまりません。

 

つまりここで私が指摘した分かりにくさとは、2の「文脈の分かりにくさ」のことです。

文章としては破綻していない。難しい言葉も使われてない。言っていること自体は理解できる。

だけど、なんだか腑に落ちない。なぜそれを力説しているのか分からない。なぜ当たり前のことをわざわざ書いているのか分からない。書かれた意味や意義が見えない。

 

このように、日本語としては理解できるのに頭に入ってこない文章というのは、文脈が分かりにくい可能性が高いです。

この文脈の分かりにくさを解消するには、「説明を省略しない」に尽きます。

具体的にいえば、以下のようなことです。

• 議論の背景を省略しない

• 議論の前提を省略しない

• 結論に至った理由を省略しない

• 論理が展開する理由を省略しない

そしてこの説明を的確に行う上で重要になるのが、読み手の設定、つまりターゲティングです。

 

表現の問題も、専門用語の選択においてはターゲティングの考えが必要です。

しかしそれを除けば、通り一遍等に「平易に、短く」を守るだけで、ある程度は表現の問題を回避できます。

それと比べて文脈には、より強くターゲティングの考え方が求められます。

 

先ほどの例文を再掲します。

 

なぜユーザーテストをする必要があるかというと、UIはユーザーファーストでデザインする必要があるからです。

ユーザーテストをしなければ、本当の意味で良いUIにはなりません。

 

これを私は「分かりにくい文章」と断言しましたが、そうは感じない人もいるでしょう。

特に、UI、ユーザーファースト、ユーザーテストといった言葉に日常的に触れているデザイン業界の人は、分かりにくいとあまり思わないはずです。

 

なぜなら彼らは、この文章の背景にある前提が頭の中にインプットされているからです。

省略されている文脈を頭の中で補完しながら、文章を読み進めることができるからです。

 

その一方、非デザイン系であるビジネスパーソンはどうでしょうか。

UIやユーザーファースト、ユーザーテストの言葉の意味は分かるでしょう。

日常的にはあまり聞かなかったとしても、その意味を想像することはできるはずです。

 

しかし、その背景にある文脈となるとどうでしょう。

上記の例文を読み、日本語としては理解しながら、以下のような感想を持ってしまう可能性はないでしょうか。

• 言っていることは分かるが論点がよく分からない

• なぜ当たり前のことを力説しているのか分からない

• 理屈は分かるが、都合のいい論理展開にも感じる

• ここでこの話を挟む意味が分からない

• 書いていることは分かるが、自分事として咀嚼できない

• どう解釈すべきなのかよく分からない

このようなミスコミュニケーションを回避するためには、読み手のターゲティングをもう少し広げた、文脈の丁寧な説明が不可欠です。

 

先ほどの例文について、「私はこういう書き方をしない」といいましたが、「私はこんな狭いターゲティングはしない」の方がより正確です。

具体的には、私なら以下のような書き方をします。

 

「UIはユーザーファーストでデザインしなければならない」と言われると「そんなの当たり前じゃないか」と思うかもしれません。

しかし実はその当たり前が難しいのです。

 

「ユーザーファーストになろう」といえば誰しもが賛成するでしょう。

しかし実際のビジネスでは、ユーザーの利益と企業の利益が反することが多々あります。

そして企業の中にいると、より離れた存在であるユーザーより、より目の前にいる自分たちや組織の目線で物事を考えてしまいがちです。

その結果、ユーザーファーストではなく企業ファーストになり、UIも企業の都合で考えてしまうのです。

 

このような事態を回避する手段の一つとして、ユーザーテストは有効です。

ユーザーテストを行えば、ユーザーに関する客観的な情報が手に入ります。

このレポートは、企業が企業目線になって判断を誤ることを、極力防ぐものになります。

ユーザーテストをしなければ本当の意味で良いUIにはならない、と言っても過言ではないでしょう。

 

この改善例の最大のポイントは、前提となる文脈をきちんと説明していることです。

なぜ、「UIはユーザーファーストであるべし」という、当たり前のことをあえて議題に上げているのか。

なぜそのために、ユーザーテストという手段が必要なのか。

なぜ「ユーザーテストをしなければ良いUIにならない」と言い切れるのか。

ここまで文脈を説明すれば、デザイン業界の人ではない一般のビジネスパーソンにも分かりやすい文章になるでしょう。

 

そしてこのように文脈を丁寧に説明すると、記事は広がりやすくなります。

 

私はSNSでブログがバズることがあり、「どうすれば枌谷さんのようにバズるのか?」という相談をしばしば受けます。

SNSのバズは、タイトル、OGP画像、テーマ、タイミングなど、複合的な要因で起こります。

そのため、コツは一様ではありませんが、テーマは悪くないのに全然読まれない記事は、一部の人にしか文脈が分からない文章になっていることも多いです。

その場合、より多くの人が読めるよう、前提や説明を省略せず書くことが、最も有効な改善策となるでしょう。

 

ただ、このように文脈の分かりやすさに配慮することには、「文章が長くなる」というトレードオフもあります。

 

私はブログを書く時も文脈説明を小まめに追加していくため、5,000字以内に収まることは稀です。

10,000字を超えることも少なくありません。時には、20,000字や40,000字を超えることもあります。

そのため、「分かりやすい」というご評価をいただく一方、「長すぎる」「無駄な説明が多い」「中身が薄い」「3行ではよ」などといった批判的なコメントをいただくこともあります。

 

私は、多くの人に分かりやすいことと文章の長さは表裏一体であり、割り切る必要があると考えています。

つまり私の場合、「長すぎる」「余計な説明が多い」と感じる読者より、「丁寧で分かりやすい」と感じる読者を優先して文章を書いているということです。

 

しかしこのような説明をすると、「それならできるだけターゲットを広げて説明文をたくさん書こう」と発想する人がいるかもしれません。

 

先ほどの例文なら、UI、ユーザーファースト、ユーザーテストという言葉自体に人に聞き馴染みがない人でも分かるように事細かに説明を追加していくような発想です。

確かにそうすれば、より多くの人が理解できる文章にはなるでしょう。

 

しかし過剰に説明的な文章は、文章量に見合ったリターン、つまり投資対効果の観点から、私は賛成しかねます。

UI、ユーザーファースト、ユーザーテストという言葉自体が分からない人にまで理解を促すように説明すれば、より多くの説明文が必要になります。

当然その分の労力もかかりますし、理解している人からすれば、無駄な説明が多い文章にもなります。

 

そういったリスクと引き換えに文章を読む人が増えるかというと、そうではないでしょう。

なぜなら、基本的な言葉自体をよく知らない人は、そもそもそのテーマに関心がなく、いかに文章が分かりやすくてもわざわざ読もうとしない可能性が高いからです。

 

このように、ターゲティングはただ闇雲に広げればいいわけではなく、適切な広さのターゲティングが求められるわけです。

 

というわけで、ここまでの話を総括すると、以下のようになります。

 

• 文章の分かりにくさには、表現の分かりにくさと、文脈の分かりにくさがある

• 表現を分かりやすくするには、平易な言葉使いをし、文章を短くする

• 文脈を分かりやすくするには、適切な広さでターゲティングし、丁寧に説明する

 

これがこの記事でお伝えしたかった「分かりにくい文章」に対する解決法ですが、最後に、より本質的な問題について少しお話しします。

 

私は、「分かりにくい文章」の根底には、少なからず「コミュニケーションに対する油断」があるように思います。

「このくらい書いていれば大丈夫だろう」「これで分からないはずがない」という油断です。

 

それは、自分自身を客観視できてないことが一番の原因かもしれません。

書き手の目線ではなく、読み手の目線を想像して書かない/書けないことが、「分かりにくい文章」の本質的な問題であるように思います。

 

これは文章に限った話ではなく、あらゆるコミュニケーションに共通します。

「自分の話は分かりやすいはず」「これで分からないのは受け手の勉強不足」「あいつは理解力がない」といった前提に立っている限り、「分かりやすい文章」も「分かりやすいコミュニケーション」も、意図的に生み出すことはできないでしょう。

 

つまり、「自分の文章は分かりにくいかもしれない」という問題意識を常に持ち続けることこそが、「分かりにくい文章」に対するもっとも本質な解決策だと思うわけです。

 

もしあなたが、「文章が分かりにくい」とよく言われるようだったら、単に文章を書き直すだけでなく、自らのコミュニケーションの姿勢そのものを疑ってみる必要があるのかもしれません。

 

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【プロフィール】

枌谷 力

株式会社ベイジ代表。

新卒でNTTデータに入社。4年の企画営業経験の後、デザイナーに転身。制作会社を2社を経て、2007年にフリーランスのデザイナーとして独立。2010年に株式会社ベイジ設立。経営全般に関わりながら、クライアント企業のBtoBマーケティングや採用戦略の整理・立案、UXリサーチ、コンテンツ企画、情報設計、UIデザイン、ライティング、自社のマーケティングや広報、SNS運用、ブログ執筆など、デザイナー、マーケター、ライターの顔を持つ経営者として活動している。

twitter:https://twitter.com/sogitani_baigie

facebook:https://www.facebook.com/tsutomu.sogitani

 

(Photo:greg

いまどきの子どもは行儀が良い。

うちの子どもを見ていても、その友人達を見ていても、遠い街の見知らぬ子どもを見ていてもそう感じる。

 

もちろん子どもだから、多少の不備や不注意はある。

それでも高齢者には席を譲り、道路で出会った人には挨拶をし、道草をしないで登下校する。

そう、子どもが道草をしないのだ。

 

当直明けの平日が休みになった時、帰宅する私と学校に到着する子どもがすれ違うことがあるのだが、うちの子どもも含めて、子ども達はまっすぐ学校に向かっていく。

空想イメージ上のドイツ人のごとく、子ども達は時間に正確だ。

 

下校の時もそうで、学校から自宅まで、まっすぐに帰ってくる。

授業が終わって自宅に着くまでの所要時間はいつも同じだ。

通学路の途中には、子どもがよく遊ぶ公園や神社もあるけれども、それらに立ち寄って遅れることは無いという。

 

実際、下校時間にそのあたりを散策してみると、真っ直ぐに下校する子どもの姿はどこでも見かけるが、カバンを脇に置いて道草に耽る子どもは見かけない。

 

よその学区ではどうなのか。私は住宅街ウォッチが趣味になっているので、出張などの折も、ちょうど下校時間を迎えた住宅地を歩き回ってウォッチしている。

やはり、道草する子どもはなかなか見かけない。道草を見かけないのは田舎でも都会でも同じだ。

 

子どもとは、こんなに道草しないものだっただろうか。

 

いや、子ども達は道草していた。割と最近まで。

この、私の疑問にズバリ答えてくれる本が見つかった。

その名も、『子どもの道くさ』。

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2006年に出版された、小さな本である。

この本は、子どもが道草をとおして何を経験し、何を学んでいるのか、たくさんの写真をまじえて紹介している。

 

この写真がまたいい。昭和時代の片田舎で育った私には非常に懐かしく、日常的だった風景だ。

ミカン狩りをする子どもの写真。写真のなかの小学生は、よその家の庭のミカンを取りに来ている。

『子どもの道くさ』によれば、子どもたちの頭のなかにはそれぞれ独自の環境認知マップが描かれていて、天候や季節、気分にあわせて登下校のルートを変えているのだという。

だからミカンの季節には、ミカンのなる家に立ち寄って帰宅する。

 

私自身の子ども時代も、まさにそのようなものだった。

5月にはツツジの蜜が吸える庭園に立ち寄り、初夏には桑の実を、晩夏にはヒマワリの種をみんなで食べていた。

地元の人々は、子どもはそういう道草をするものだと思っていたらしく、バレでも叱られることはなかった。

天候や季節、気分次第で登下校のルートも所要時間もまちまちだった。

そしてピンポンダッシュ。

現在ではもう、死語になっているのではないだろうか。

 

私の時代にはまだピンポンダッシュは健在だった。

もちろん、褒められた遊びではあるまいし、毎日のようにピンポンダッシュしていたわけでもない。

けれども年に一度か二度ぐらいは、「ピンポンダッシュをやろう」という流れが発生したものである。

 

ただし、ピンポンダッシュをする家は「選んでいた」と思う。

桑の実やヒマワリが食べられる季節と場所を知っていただけでなく、どの家が危なくてどの家が危なくないのか、子ども時代の私たちは知ったうえで道草をしていた。

そうした地元の情報は、自分で歩き回って知ったり、同級生や年上から教わったりするものだった。

 

『子どもの道くさ』は2006年に出版された本で、写真に写っている乗用車をみる限り、2000年±5年程度の間に撮影されたものと推測される。

00年代のはじめ頃まで、こうした道草は残っていたのだろう。

 

「安全」と「効率性」が道草を禁じる

しかし、2019年現在、私が子どもの道草を見かけることは少ない。

うち子どもに「ねえ、道草しないの?」と聞くと、全くしないと答えるし、実際、道草している様子がない。

学友たちも道草をせずまっすぐに帰っているという。

 

もちろんうちの子どもは、いつの季節に、どこに寄ると何が食べられるのかなんて知らない。

地元のどこにどういう人が住んでいて、どの家が危ないのかを知っているそぶりもない。

 

かろうじて、道草という言葉だけが子ども世代に伝わっている。

なぜ、道草は衰退したのか?

 

『子どもの道くさ』の筆者である水月昭道氏は、同書のなかで以下のようなことを述べている。

地域社会は子どもの安全を最優先に求め始めている。

安全性の確保こそが全てというような風潮が社会に浸透し始めているのである。

地域で偶然見かけた見知らぬ人に過剰に反応し疑いを抱いたり、地域行事への子どもの参加を見合わせるといったことも起こっている。

ひとつには、子どもの「安全」。

時代を経るにつれ、人々は子どもの安全に神経質になっていった。

登下校の際に子どもの身に何かあっては大変、というわけである。

 

道草のなかには、塀の上を歩いたり道路で遊んだりするものもあるから、安全性という意味では道草なんて無いほうが良いに決まっている。

真っ直ぐ家に帰り、そこから塾や稽古事などに出掛けたほうが、事件や事故に巻き込まれるリスクは少なくなる。

 

内閣府が行った、『平成25年度「家族と地域における子育てに関する意識調査」』を見ても、現代の父兄が地域社会に期待しているのが「安全」であることがみてとれる――地域で子育てを支えるために必要なことを問うたアンケートの1位は「子どもの防犯のための声かけや登下校の見守り」だった。

子どもの安全にセンシティブな社会は、子どもの道草を許さないだろうし、実際、道草が盛んだった時代と比較すると、子どもが事件や事故に巻き込まれる件数は低下し続けている。

 

また水月氏は価値観の変化にも言及している。

なぜ、道くさは社会的に見て悪者のように扱われるのだろうか。

二〇世紀の価値観とのかかわりに注目したい。前世紀は、効率追求型の社会のなかで何ごとも合理的であることが好ましいことのように信じられてきた。

科学技術の発展と経済成長を背景に、この価値観は絶対的な力を持ち得ていた。

社会全体がこうした価値観の軸にあるとき、道くさはどのように位置づけられるだろうか。

効率性を至上命題とすると、資本主義的な価値観のもとでは、子育てもまた、効率的に行われなければならない。

放課後の時間は有限のリソースなのだから、道草のような、何の役に立つのかわからない(というより、おそらく厄介事やリスクをもたらしかねない)時間はできるだけ避け、目的にかなった時間の過ごし方をすべきとなる。

 

インターネットには「効率厨」というスラングがあるが、この「効率厨」の考え方で子育てに臨むなら、道草など許されるものではなく、目的意識をもったスケジュールにもとづいて放課後を過ごすべき、ということになる。

 

都合が良いのは地域の大人も同じ

そして水月氏自身はあまり触れていないが、道草を禁じることによって「安全」や「効率性」を得られるのは、子どもだけではない。

むしろ、地域の大人たちのほうが「安全」や「効率性」を得られるのではないか。

 

子どもが道草をし、たとえば私有地にあった穴に落ちて服が汚れた時、「どうして穴なんか開けてあったんだ、おかげでうちの子の服が汚れてしまったじゃないか」と父兄に言われたら、その私有地の持ち主はいい気はしないだろう。

 

服が汚れたぐらいならまだいい。

裏庭の池に勝手に子どもが遊びに来て、そこで溺れた時に責任を問われたらかなわない。

責任という視点で考えるなら、あらゆる私有地は道草禁止にすべきだし、あらゆる路上の遊びも禁じなければならないはずである。

子どもの危険は、大人の責任問題と背中合わせなのだから、「安全」という意識は子どもと大人の双方を守っていると言える。

しかも、子どもに何かを勝手にいじられたり、ミカンや桑の実を持っていかれたり、ピンポンダッシュで煩わしい思いをすることもなくなる。

上の写真が暗に示しているように、子どもを好き勝手に遊ばせておくと、モノを壊してしまいかねない。

街から道草する子どもがいなくなれば、モノを壊される心配もしなくて済むようになる。

 

現代社会は、効率性を重んじる資本主義的なモノの考え方が行き渡っていると同時に、子どもの命を重んじる個人主義的なモノの考え方も行き渡っている。

くわえて、法律に従って責任の所在や権利について考える契約社会的なモノの考え方も行き渡っている。

この、資本主義-個人主義-契約社会が三位一体になったイデオロギーにもとづく限りにおいて、親が子どもに道草を許す余地は無いし、地域の大人も子どもの道草を許容する余地が無い。

 

『子どもの道くさ』のなかで水月氏は、このままでは道草が廃れてしまい、道草が提供していた社会機能も失われることを懸念しているし、その懸念は尤もなものではある。

 

しかし世の中には優先順位があり、たとえ道草がなんらかの社会機能を担っていたとしても、資本主義や個人主義や契約社会のロジックに逆らってまで大目にみてもらえるものだとは、ちょっと考えられない。

自分の家の子どもが安全でなくなることを許せず、私有地を遊び場にされた挙げ句、安全管理の責任を問われることも許せない現代社会である以上、もう社会には道草の居場所はなくなったのだ、と私は思う。

 

そして道草の無くなった世界で

たぶん私たちはもう、道草が滅んだ後の世界を生きている。

道草が無くなって得られたものは明らかだ――安全性が高まり、効率性も高まり、責任を巡って揉めるリスクも遠のいた。

 

では、道草が無くなって失ったものとは何か。

 

ひとつには、子どもと地域の大人の接点。

うちの子どもは、地域にどんな大人がどんな風に暮らしているのかを、あまり観察していない。

知っているのは、せいぜい友人の親ぐらいまでである。

 

神経質で怒りっぽい大人が地域のどこに住んでいて、おおらかでアイスをおごってくれることもある大人が地域のどこに住んでいるのかを、子どもたちは知らない。

道草せずにまっすぐ登下校する子どもは、地域の大人を知る機会を失い、地域の大人に知ってもらう機会をも失った。

 

だが、個人的には、それ以上に大きな喪失に思えるものがある。

それは子どもの認知……というより子どもの世界観だ。

うちの子ども、あるいはうちの子どもの友人達を見ていて私が思うのは、彼らが「点と線からなる世界観」を生きていることだ。

 

どういうことか。

うちの子どもは、自宅と学校という二つの点と、それを結ぶ通学路という線の世界を生きている。

あとはせいぜい、友人と遊ぶ公園や神社、学習塾やコンビニといった幾つかの点と、それらを行き来する道路という線が加わるぐらいだ。

 

道草が許されていた私の時代は、そうではなかった。

学校と自宅という点の間には、無限といって良いほどのルートがあった。

というよりあらゆる場所に立ち寄り、あらゆる場所に遠回りして遊んでいたのだから、私の世界観は「面」からなっていたと言える。

 

必然的に、昭和時代の私は学校と自宅の間について、うちの子どもよりもずっと多くのことを知っていたし、多くのものを見ていた。

この左右の模式図を比べていただければ、「面の世界観」と、「点と線の世界観」の違いが伝わるのではないかと思う。

 

かつての私は地域のどこにでも立ち寄り、どこでも遊んでいたから、近所のあらゆる場所を認知していたし、認知していなければならなかった(面の世界観)。

対して、2019年のうちの子どもは、自宅と学校、公園や学習塾やコンビニといったいくつかの点と、それらを行き来するための線しか知らない。知る必要も感じていない(点と線の世界観)。

 

2019年のうちの子どもとて、何も見ていないわけではない。

たとえば、通学路の途中で見つけた動物の死骸や、咲いている花などは詳しく見ている。

 

けれども昭和時代の私とは違って、近所のどのあたりにどんな植物が生えているのか、どこの家にどんな大人が住んでいるのかを、うちの子どもは知らない。

むしろ私のほうがよく見て、よく知っているとさえ感じる。

 

「面の世界観」で生まれ育った私に見えているものが、「点と線の世界観」に住んでいるうちの子どもには見えていないのだとしたら……。

 

資本主義-個人主義―契約社会の徹底した、安全で便利な現代社会では、「点と線の世界観」でもおそらく生きていけるのだろう。

それでも、上の表から薄らぼんやりと感じる直感として、私にはそれが小さくない喪失に思えてならない。

 

道草の喪失と、それに象徴される安全で効率的で契約社会にもとづいた世界観は、私たちが見ているもの・見えているものを、とても狭くしてしまっているのではないだろうか。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Ryanda Maxima

3年に一度の参院選挙を控えて、党首討論がネットにテレビにとアチコチで行われている。

 

各政党のマニフェストには最低賃金の引き上げが並んでいる。

現在の最低賃金は、日本全体の平均が874円、最も高い地域は東京で985円となっているが、与党の1000円から野党は1300円、1500円と、平均の2倍近い数字まで引き上げることを掲げる政党もある。

 

最低賃金を引き上げるとどうなるのか。

筆者の賛否は一旦横に置くとして、最低賃金を払えない企業は潰れ、最低賃金分の働きが出来ない人は雇ってもらうことは出来ず、失業率が悪化する。

結果として弱肉強食の世界になるだろう。

 

最低賃金引き上げを主張する人の想定とは真逆の世界だ。

 

最低賃金の引き上げは失業率の引き上げをもたらす。

最低賃金の引き上げを主張する人で、現在最も目立つのはデイビッド・アトキンソン氏だ。

外資系金融機関・ゴールドマンサックスのアナリスト出身で、現在は京都にある重要文化財等の修繕を手掛ける企業の社長、そして著述活動も活発と異色の経歴の持ち主だ。

 

アトキンソン氏は日本の最低賃金は低すぎる、もっと引き上げて生産性の向上を政府主導で行うべきと主張する

格差の超簡単な解決策は最低賃金引き上げだ 東洋経済オンライン 2018/05/16

 

オーソドックスな経済学の常識では最低賃金の引き上げは失業率の上昇をもたらすとされているが、最低賃金の引き上げを主張する人も少なくない。

その主張のもとにあるものは「低賃金ではまともな生活が出来ない、企業はまともな生活を出来るだけの賃金を払え」という労働の対価としての賃金ではなく、企業による弱者救済や社会保障を行うべきといった話だ。

 

一方、アトキンソン氏の主張はそのような温情にみちたものではない。

最低賃金を引き上げれば企業は嫌でも生産性の向上に努めるようになり、価格の引き上げが出来ない企業は給料を払えずに潰れる。

 

そして生き残るのは付加価値を生み出せる生産性の高い企業と従業員だけという、弱者に優しいどころか極めて弱肉強食な主張だ。

このあたりを勘違いしたままアトキソン氏を支持している人は少なくないように見える。

 

最低賃金の引き上げで景気が悪化する韓国。

近年、最低賃金を急激に引き上げて失敗しているのは韓国だ。

2010年の4110ウォンから2018年の8350ウォン(執筆時点で約769円)まで、10年もかけず2倍以上になり、日本の水準に迫る勢いだ。

最低賃金を1万ウォンまで引き上げるという公約で当選した現大統領が就任すると、昨年の引き上げ幅は16.4%に及び、経営者の猛反発を呼んだ。

 

平均3%程度の経済成長に合わせて引き上げている面もあるが、それにしても急激すぎる。

無茶な引き上げで失業率は急激に高くなっており、全体の失業率が4.4%、15~29歳の若年層は11.5%(2019年4月)に及ぶ。

日本と比べて全体で2倍、若年層で3倍、そしてこれは2000年以来の高水準だという。

アトキンソン氏ですら韓国の失敗は急激な引き上げにあると指摘している。

 

韓国紙でも以下のように最低賃金の引き上げが明確に景気悪化の原因だと指摘する。

『カン・ソンジン高麗大経済学科教授は「過去のような大きな外部衝撃がなく、多くの国が成長を維持する中でも、韓国の景気だけが急降下するのは、所得主導成長を中心とする政策の失敗を除いて説明できない」とし「政府が現在の政策が持続可能でないことを認めて方向転換することが、危機を克服する最初のボタンになるだろう」と述べた。韓国の経済成長率、また下方修正…日本が報復ならこの数値も難しく 中央日報日本語版 2019/07/03』

筆者は以前、「マクドナルドの時給1500円で日本は滅ぶ」という記事で最低賃金の引き上げは失業率の悪化につながると書いた。これがヤフートップに掲載され、多数のアクセスを集めた。

 

ヤフートップに掲載されると普段は経済系の記事を読まない人の目にも届く。

それ自体は良いことなのだが、結果としてSNSでトンチンカンなコメントが多数ぶつけられる状況になる。

 

特に多かったものは先進各国の名前を挙げて、日本よりもこの国は最低賃金が高い、あの国はもっと高い、なのに滅んでいないじゃないかといった指摘で、訂正しろとか謝罪しろというコメントまであった。

全体として賛同コメントの割合は9割以上だったと思うが、トンチンカンなコメントもそれなりに数は多く、ストレスがMAXまで上昇した。

 

日本はすでに貧乏な国へと転落している。

仕方がないのでストレス解消のために書いた記事が「なぜスイスのマクドナルドは時給2000円を払えるのか?」だ。

なぜスイスのマクドナルドは時給2000円を払えるのか?

 

この記事では批判コメントで挙げられていた先進各国について、その国の豊かさをはかる指標として使われる「一人当たりのGDP」の数字を挙げて高い順に並べた。2015年当時のデータは以下の通りとなる。

 

●一人当たりGDPの倍率

1位  ルクセンブルク   111,716ドル  3.07倍

2位  ノルウェー      97,013ドル  2.67倍

4位  スイス        87,475ドル  2.41倍

5位  オーストラリア    61,219ドル  1.69倍

10位  アメリカ       54,597ドル  1.50倍

18位  ドイツ        47,590ドル  1.31倍

27位  日本         36,332ドル

(世界の一人当たりの名目GDP(USドル)ランキング - 世界経済のネタ帳)

 

批判コメントに挙げられた日本より賃金の高い国はほぼすべてが日本より豊かな国だ。

つまり賃金が高いから豊かなのではなく、豊かだから賃金が高い。

 

賃金は景気の遅行指数である、つまり景気上昇に遅れて賃金が上がるとスタンダードな経済学で言われていることからも、このデータは常識的なロジックそのままであることが分かる。

最近ではこの主張に異議を唱える人も一部にいるが、それが常識に至るまでにはまったくなっていない。

 

そして日本は当時で27位、現在でも26位とすでに貧しい国になりつつある。

これはググれば出てくる程度のデータだが、日本は世界第3位の経済大国と思い込んでいた人には衝撃の事実として記事執筆時はそれなりに話題となった。

 

のちにアトキンソン氏も同様のデータを掲載し、日本はもはや豊かな国ではないと断言している

(当初の記事に異論を書き込んだ人はこのデータにグウの音も出なかったのか一斉に沈黙した)。

 

過去の日本でも10年かからずに賃金が2倍になった時期がある。

最低賃金の引き上げではなく民間企業の自主的な引き上げによるものだ。

それは東京オリンピックが開催された高度経済成長期だ。

 

1960年当時、池田勇人首相が10年以内に所得を二倍にすると「所得倍増計画」をブチ上げると、そんなことは無理に決まっていると嘲笑されたが、結果としてインフレ率を除いた実質賃金でも倍増を実現した。

イメージとして今後10年で日本人の所得が2倍になると考えればどれだけ凄まじい成長だったか分かるだろう。

 

ただし、戦後から間もなく、多くのものが不足する状況で、日本が新興国だった時期と考えれば今と当時で状況は異なるが、賃金の上昇は最低賃金の引き上げではなく経済成長によってもたらされるということだ。

 

生産性の向上は失業につながる。

アトキンソン氏は賃金が低いから無駄な仕事を人間にやらせている、賃金が高ければ生産性を上げざるを得ないと主張する。

最低賃金の引き上げで生産性の向上を無理やり実現すれば良い、という極めて弱肉強食な議論だ。

 

個人的には生産性の向上について異論はないが、ついてこられない企業や従業員は放置して良いのか、ということになるだろう。

最低賃金の引き上げは失業保険の充実、特に影響を受ける非正規雇用者への失業保険の適用、そして生活保護の迅速な適用など、社会保障の充実がセットでなければ貧困化が進むだけだ。

 

生産性が上がると言えば聞こえはいいが、無駄が削ぎ落されるということで、これは「無駄によって生き残っていた企業」が脱落することを意味する。

分かりやすい例で言えば地方で何とか生き残っていた小さな企業が、ユニクロや松屋のような低価格のチェーン、あるいはイオンなど大規模で効率的な企業の進出で潰れる、と言った状況だ。最低賃金の引き上げでこれがさらに加速される。

 

筆者は日本全体でコンパクトシティ化を進めた方が良い、つまり都市部集中を推進すべきとも考えているので都合の良い状況とも言えるが、それで良いと思う人はどれだけいるのか。

 

最低賃金引き上げで景気が良くなるという因果が逆の話。

先日、日本商工会議所の会頭が最低賃金の引き上げは企業にとって厳しいと発言したことが話題となり多数の批判を受けた。

経団連のような大企業の集まりと違い、商工会は日本全国の中小企業の集まりで、最低賃金の引き上げが企業の存続に直結する。

 

最低賃金の引き上げで景気が良くなるという主張については因果関係が逆ですよ、としか言いようがない。

前述の通り「豊かな国は賃金が高い」という、経済学を持ち出すまでもない当たり前の話だ。

賃金引き上げで経済が成長するのなら、貧しい国はどんどん最低賃金を引き上げればすぐにでも先進国になれるだろう。

 

最低賃金の引き上げを主張する人が想定する、賃金が上がって誰もが安心して生活できる状況は本来社会保障で実現するものだ。

これは最低賃金の引き上げという企業の負担で実現するものではなく、すでに書いた通り実現も出来ないだろう。

 

企業経由の生活保護が大失敗した家電エコポイント

最低賃金引き上げの原資を企業に税金で補助するといったアイディアもあるようだが、これも「企業経由の社会保障」は市場経済をゆがめるだけだ。

 

かつて2009年の補正予算でリーマンショック後の景気悪化をおさえるためという名目で大規模に行われた家電エコポイントでは、地デジ移行と相まってテレビの年間出荷台数が数倍に膨れ上がった。

液晶テレビ等を買った消費者がポイントと引き換えに商品券等を貰える仕組みだったが、実質的には企業へ補助金だ。

消費者にポイントを配布することで購買を促し、そして企業にお金が流れて雇用をなんとか維持するという、極めて遠回りな雇用維持対策だ。

 

エコポイントは予算6400億円に対して5兆円の経済効果があったと、今でも成功例と考えている人もいる。

しかし、2012年度決算ではその反動で家電大手3社(シャープ・パナソニック・ソニー)の赤字は合計で1兆6000億円を超えた。

赤字の経済効果を考慮すればトータルではマイナスの方がよっぽど大きいだろう。

 

そしてエコポイント特需を景気回復と勘違いしたシャープは過剰な設備投資で大赤字と資金繰りの悪化に陥り、結果的に台湾企業のホンハイに買収されることになる。

これは市場経済に手を突っ込むと酷い結果が待っているという分かりやすい事例だ。

 

最低賃金についても、例えば時給換算で1500円以下の給料ではまともに生活が出来ないというのであれば、差額を企業に補てんするのではなく労働者に直接支給すればいい。

社会保障や再分配は文化的な生活を実現するために絶対必要なものだが、それは市場経済を邪魔する形でなくとも実現は可能だ。

 

エコポイントも補助金による最低賃金の引き上げも、雇用の維持を過剰に評価しているということになる。

維持すべきは雇用ではなく生活だ。

特にエコポイントでは顕著だったが、企業を間に挟むことで補助の必要がない、元から賃金の高い人にまで恩恵がある状況は税金の無駄遣いだ。

 

なおかつ、このような税金の使い方は需要と供給のメカニズムに悪影響を与えて最適なリソース(資源)の配分を阻害する。

エコポイント特需が終わると価格が大幅に下落し、作るほど赤字になると言われていた液晶テレビは、家電量販店の店先でタイムセールにかけられ特売の野菜か魚のように売られていた。

 

本来付加価値を産み出せるはずのヒト・モノ・カネという希少なリソースが多額の赤字を産み出す液晶テレビの生産や販売につぎ込まれていた。

そして大赤字が続いた結果、日本を代表する企業のシャープが外資に買われてしまうとして、今度は政府系ファンドが乗り出して買収を邪魔するというマッチポンプのような行動にまで出た。

このようなおかしな状況を産み出したのが、企業経由の生活保護であるエコポイントだ。

 

企業へ補助金を出して最低賃金を上げるというやり方はエコポイントと全く同じだ。

世紀の愚策は二度と繰り返すべきではない。

 

給料はセーフティネットではない。

世の中には働きたくても働けない人が多数いる。失業して職を失う人もいる。

企業経由の社会保障は雇用がセーフティネットであるかのような勘違いであり、雇用が失われた時のためにあるものが失業保険や生活保護等のセーフティネットだ。これは以前の記事でも書いた通りだ。

解雇規制によって「企業が国民の生活を保障している」状況は、どう考えても異常。 | Books&Apps 

 

とは言え、筆者が何を書いたところでしばらく最低賃金の引き上げは続く。

今年の引き上げで東京は1000円を超え、毎年3%以上の引き上げが続けば日本全体の平均も数年後には1000円を超えるだろう。

 

筆者のスタンスとして最低賃金の引き上げには反対だが、現在のような人手不足ならば多少倒産が増えたところで別の企業が吸収することになるだろう。

 

したがって弱肉強食の状況が訪れても失業率が高くなるまではあまり心配しなくていいのかもしれない。

ただし、人手不足が厳しい業界の多くが低賃金であること、賃金水準の高い大企業は人手が余っていることは明記しておく。

 

最低賃金が大幅に上がった時に実現しているのは、皆が安心して豊かに暮らせる社会なのか、それとも弱肉強食の世界なのか、注目したい。

 

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【プロフィール】

中嶋よしふみ

ファイナンシャルプランナー、シェアーズカフェ・オンライン編集長

保険を売らず、有料相談のみを提供するFPとして対面で相談・アドバイスを提供。得意分野は住宅購入。

東洋経済オンライン、日経DUALなど経済メディアで情報発信を行うほか、マネー・ビジネス・経済の専門家が書き手として参加するシェアーズカフェ・オンラインを運営中。

ツイッター @valuefp https://twitter.com/valuefp

フェイスブック https://www.facebook.com/yo.na.7965

公式HP http://sharescafe.com/

(Photo:Carlos Ebert)

とても面白い記事を読んだ。

男性社会の幸福な女性たち|すもも|note

 

 

記事によると日本は世界経済フォーラムの「ジェンダー・ギャップ指数で149か国中110位と先進諸国でぶっちぎりの下位だが、世界一日本の女性は日本の男性と比較して幸福度が高いのだという。

 

これをもって筆者は日本は世界一男性よりも女性が幸せな国とする。

そして日本の女性の幸福度を高めているのは専業主婦であると読み解いている。

 

これは体感的にも非常に納得がいく話だ。

身の回りにも、労働のことを懲役か何かのように考えている人が結構多いし、社畜という単語が流行った背景からも、そういうニュアンスを確かに感じる。

 

懲役と揶揄されるようなシンドイ作業に従事するのと比較すれば、専業主婦の生活の方がそりゃ幸せだってもんだろう。

男性社会の幸福な女性たちとはよくいったものである。

 

男だって養われたい

以前、男の友人と集まって食事をしたときの話だ。

そこに集まったのは僕以外は日本でも指折りの高所得者だったのだけど、なんのタイミングだったか忘れたが、出席者が口をそろえてこういい始めた。

 

「養われたい」

 

僕は、この人達は何を言ってるのだと思い

「養われるって・・・人から生活を保証される代わりに、行動の自由とかに制限をかけられるような生き方って嫌じゃありませんか?」

と聞き返してしまった。

 

しかし次に続く言葉を聞いて、僕は養われるという言葉の意味を大きく誤解していた事に気がつかされた。

「高須賀クン、養われるっていうのはね、そういう条件付きの自由じゃないンダよ。全てをありのままで受け入れられた上で、全面的に守ってもらえ、生活の心配からも開放され、お金だって自分の好きなように自由に使える」

「そういうのが本当の意味で養われるってことなのサ」

 

なるほど、そういう事ならば確かに自分も養われたい。

養われたィィィッ。

 

まあ実際はそこまでサイコーな養われ方をしている人はそう多くはないだろうが、確かにそんな状況になったら幸福以外のなにものでもないだろう。

これに玉のようにかわいい自分の子供が組み合わさったら、極上としか表現しようがない有様である。

 

いやはや、養われ道も奥が深い。

僕はそんな人生のルート、存在自体知りませんでしたよ。世の中は広いものである。

 

年金は国家からの養いである

養われる。

 

その圧倒的に幸福な概念を目の前に突きつけられ、僕は事あるごとに辛くなると

「誰か養ってくれないかな・・・」

とつぶやいていたのだが、悲しいかな、現実は非情である。

友人からは

「お前は養われるのに向いてない」

だの

「君は可愛げがないし、労働が向いてるよ」

と言われてしまう有様だ。

 

いったいどうしたら心おきなく養ってもらえるだろうか?

そんな事をずっと考えていたのだが、よくよく考えてみれば年金受給者になれば、ある意味では国家から養ってもらってるのと似たようなもんじゃないかと膝を打ってしまった。

 

生活保護はどちらかというと条件付きの養いに近いが、年金受給者なら定年で「働きたくても働けないンダヨ?」という圧倒的な建前もできる。

もらった年金をどう使おうが完全に自由である。

 

こいつは素晴らしい。

男だって!キモくったって!可愛げがなくたって!なんの縛り付けもなく養ってもらえるンジャマイカ?

年金制度、いいじゃん。サイコーかよ。男だって、養ってもらるじゃないか。

 

見えたゼ、幸福へのRoute!日本国家様が、ちゃんと働けばおいらを養ってくれるンダ!

 

突然の契約反故

そこで突然の老後2000万円問題である。

なんでこんな当たり前の話が燃えてるのか、当初はサッパリわからなかったのだけど、これは日本国への養いの期待差だったのかと思うと、妙に納得がいったのである。

 

さっきも言ったけど、多くの人は労働を懲役のようなものと捉えている。

自己実現のような高尚な概念の元で働いている人は極めて幸福な人間であり、ぶっちゃけた事をいえば日本の幸福な女性と同じく、多くの人は養われた方が遥かに幸せになれるタイプだろう。

 

「なんつーかアタシ、あんまし働くのとか向いてないんだよね」

本心を言えば、そういう風に言いたい人は男女問わず山程いるだろう。

 

毎日毎日、65歳になったら全てから開放されるという”錯覚”で動いていた人が

「実は老後に2000万円必要でしたサーセン」

と”現実”をぶつけられるのは、女性が

「結婚する時は専業主婦でもイイヨって言ったけど、やっぱ家計が苦しいし、経済・政治分野でバリバリ働いてくれ。スマンゴ」

と契約反故された感覚とかなり近いのではないだろうか?

 

かつて日本が頼りがいのあるナイスガイだった頃もあった

僕らの世代は右肩上がりの成長期を経験しておらず、日本という国家が男前にも老後の生活保障なんてしてくれるだなんてハナから期待していない。

 

なんつーか、日本を擬人化すると、頼りなさそうなヒョロガリみたいな感じである。

「どうせ養ってなんてくれないんでしょ?あんた、稼げなそうだし」とダメ夫よろしく期待ゼロな事もあり、女性も含めて社会に出て働く気マンマンの人がとても多い。

 

しかし多くの年金受給者の目には、かつての日本は物凄く頼もしいマッチョで頼りがいがあるナイスガイだったのだろう。

「65歳までチャント働けバ、死ぬまで養ってあげるヨ?老後の心配なんて1つもないヨ?」

年金とは、そういうカッコいい奴が説く、実に甘美で、そして希望が持てるワードだったのだ。

 

少子高齢社会の幸福な高齢者達

そして改めてこの構造を振り返ってみると、これは旦那と専業主婦の関係にも非常に似ている。

日本の年金はスライド式なので、若年層のカネがそのままリアイア組に流れる仕組みになっている。

 

だから年金が全く支払われないという事は制度上、基本的にはありえない。

集金されたパイの大きさがそのままなら一人あたりの支払いの金額自体が下がるだけだし、パイの大きさが足りないというのなら支払いの金額水準を保つために私達労働者の社会保障費がブチ上げられるだけの話だ。

 

冒頭のすももさんの記事は、ジェンダー指数という形で男女を比較していたが、これはそっくりそのまま日本の若年層と高齢層にも当てはめられるだろう。

 

もし今後も”定年制”なんてものが存続するとしたら、今後、リタイア組は経済や政治参加率が”低すぎる”から世代間ギャップ指数が世界でも最悪になるのではないだろうか?

少子高齢社会の幸福な高齢者達の完成である。

 

じゃあこれをもって定年制は差別であり解消すべきだ!として「死ぬまで働け」として、果たしてリタイア層の多くは幸福になるかというと、まあたぶんならない。

 

上手に労働社会に適応できた人はそういう生涯現役社会を拍手喝采で受け入れるけど、養われる魅力にあがらえる人はそう多くはないのが現実だろう。

日本の幸福な専業主婦が皮肉にもそれを証明してしまっている。

 

多分、これからの数年間、日本の高齢者は世界で最も同国の若者と比較して幸せな存在となるだろう。

世代間格差指数がブッチギリで悪かろうが、そんなものは”なかった”事にされるのが関の山だ。

そんな幸せが永遠に続くものかどうかはしらないけれど。

 

ああ、養われたい。誰か僕のこと、養ってくれないかなぁ。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Bethany Legg 

「若いから良いよね」とか「若いから何でもできるね」とか「若いんだからどんどん挑戦した方が良いよ」とか、「若い」ことを理由にした励ましを良く受ける。

 

励ましていただけるのは大変ありがたい。

そして、たしかにまあ自分は若いとはおもう。

 

小中高生には負けるが、少なくとも社会人を分類した時に「若手」とか言われるところに入る。

いわば、オトナ部門の小学生だ。

ちょっと何を言っているかわからないけど、まあとりあえず、社会的に若いと言って大丈夫だろう。

 

ちなみにいきなり論点がずれるが、20代後半になると「もうおばさんだから~」とか言って、すぐに自分をネガティブなニュアンスを含んだ存在として扱う風潮。ありますよね。コレあんまり好きじゃない。

 

「おばさん」かどうかという言葉の定義はどうでも良いのだけど、あんまり自分を落とすようなメッセージをわざわざ自分に投げかけない方が良いんじゃないかと思う。

そんなよくわからない「身の程を知ってますよ~」アピールが、「大人のたしなみ」だとしたら、なんだか嫌だな。私は乗らない。笑

 

若くなくなったら何もできなくなるの?

さて、本題に戻ります。

 

とりあえず、数字的にある程度若いです、と。

それはわかった。

でもそのことを取り立て、あまりにも「若いから、いいね!」「若いから、〇〇でうらやましい」と言われるのは好きじゃない。

 

「若い」を強調されて引っかかる理由は明快だ。

あなたの価値は若いことだけ」と言われているように感じること、そして「あとちょっとしたら若くなくなるから色々できなくなるよ」と言われているような気がするからだ。

なんだか、未来の可能性を消されているような気がしてしまう

 

もちろん、褒めていただくのは嬉しいしとてもありがたいし、そういうつもりで言っているわけではないことはわかる。

純粋に、いいね!頑張って!って思って言ってくれてるんだろうな、と。

 

それに、現実的に20-30代での伸びしろは大きいことが多かったり、ライフイベントが目白押しする可能性も高かったりもする、また体力も割とありばりばりと働きやすい期間だ。

なので、「きみ、その期間なのはいいね!」とか「その時間を大事にしなよ!」みたいな話があるのは理解できる。すごく。

 

ただ、やっぱり嬉しい気持ちにはなりにくい。

 

まず「年齢の若さ」を褒められても、それは私の努力とは関係がないし、それは一時的なもの。

私個人を見てもらえると嬉しい

そして「若い時こそが華、自分に年齢になるとねえ・・・」というようなニュアンスを出さないでもらえると嬉しい

なんかもう、一寸先は闇、というような気がしてむっちゃ怖い。

 

特に、90歳の自分のおじいちゃんが言ってくれるならまだしも、自分と5歳くらいしか年が変わらない人に言われると、余計にそんな気持ちになってしまう。

「うおおおおお、あと5年しか良いことないの!!!???」みたいに感じることもある。

 

若くなくなったら良いことないの?そんなことはないですよね?

「若い若い」と言われると逆に考えてしまう。若くなくなったら良いことはないのだろうか、と。

 

私はそんなことはないと信じている。

 

ある程度制約がでてくるにせよ、「若くないからだめ」ってことはないはず。

むしろ経験が増すとできることの幅は広がって楽しくなると信じてる。

それに、いつからだって挑戦できるし、いつの年齢だって楽しく素敵にわくわくしながら過ごせるはず。

私はそうしたい。

 

なんてったって、「若くないから」ばかりを言い訳にしたくない。

 

いまの寿命は85歳くらい。

例えば一般的にはあまり「若い」とされない50歳からあと、30年くらい人生がある。

そこから新しいチャレンジをしたり、何か始めてもあと30年も楽しめるということだ。

 

自分の身近なところだと、40歳から語学勉強してビジネスで使いこなしておる人がいたりする。

この前は60歳でパソコン、81歳でプログラミングを始め、自分でアプリをリリースした方の記事を読んだ。

 

そういう人を見ると、いつからでも遅くないんだな、という気持ちにさせてもらえたりする。

それに、どんどん新しいチャレンジすることでより人生は楽しくなるんだな、とも。

 

そんな風に、自分は、いくつになってからでも挑戦できるということや、年を重ねるからこそ楽しくなるということを体現していきたい。

別にそれは、「起業しました!」みたいな大それたことじゃなくても良いと思ってる。

自分が楽しく年をとっていくことを通して、周り、特に自分と同年代や自分より年下の人たちに、「素敵に歳を重ねるっていいなー!こうなりたいなー!」と、希望を与えられる人になったら良いなーと思う。

 

どの世代にもありそうな「下の世代に向けた、未来への不安醸成」

類義語として、大学生に対する若手社会人の「学生のうちに遊んどきなよ~、社会人になったら大変だよ~」という発言がある。

なんかこう、これはマジでやばい。

未来を担う若者に「社会人って辛いんだ~」とばかり思わせて何が良いのだろうか。

 

この発言をする人の中にも色々な背景があると思うが、留保していたらもうキリがないので細かい場合分けに配慮せず書くと、個人的にはこれは「私は社会人として充実した生活を自分で作れません!だから昔の方が良かったでーす」ということを言っているのと同義に聞こえる。なんかちょっと恥ずかしいぞ。

 

それに、あなたと目の前の若者は違う人間。

今のあなたが充実していないからって、目の前の人が「あなたと同じ年齢になった時に同じように充実してない」とは限らないんだってば。

 

でも、だからこそ、つまり「自分に自信がないからこそ」出てしまう、「立場の差を利用した&相手をうらやむふりをした社会人マウンティング」みたいなのだろうか。

 

どの立場でも、次のフェーズに進むと享受できない良いことがある。

例えば、学生の時はもっとだらだら寝てられたとか、平日でも朝まで飲んでたとか、オトナになると得にくい体験をしていたというのはあったと思う。そういうのを懐かしんだり羨んだりする気持ちはわかる。

 

でも逆もしかりでは。

先述の通り、次のフェーズに進んだからこそできることや、見えるものもある。

 

例として社会人からの大学生の発言を挙げたが、色々な世代でこれと似たことってありそう。

とにかく、ネガティブな未来を想像させるようなことを言われなくないし、言いたくないよ。

これはほんと、自戒を込めて。

 

経験豊富なみなさんへのお願い

そして、私より年上のみなさんへのお願い。

いつも励ましてくださってありがとうございます。

ポジティブなお声掛けいただけること、とても嬉しいです。

 

できたら「年齢の若さ」だけじゃなくて、私個人を見てもらえると嬉しいです。

そして、「若くなくなったら終わり」みたいな話ではなく、ご自身が年を重ねるごとにできるようになったことや、若いころの経験が今にどう繋がったか、そんな話を教えてほしいです!

 

何歳になっても、今このタイミングだからこそできることがあると思うし、そういうことを見つけてわくわくしながら生きていたいな。

 

今日は以上です!

 

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【プロフィール】

滝沢頼子

1991年生まれ。大学卒業後、UXコンサルとベンチャー2社を経て、現在はフリーランスとして幅広く活動中。

上海に2回住んだことがあり、中国に関する情報発信、視察アテンドや講演なども行っている。

神楽坂とワインとももクロが好き。

ウーパールーパー、カピバラなどの目が離れている生き物に似ていると言われがち。

ブログ:たきさんのちゃいなブログ

twitter:takiyori0608

note:たきさん

(Photo:Chris Hobcroft

つい先日、高崎高島屋の中川徹社長に話を聞くため、群馬県の高崎市に行ってきた。

彼は中高の同級生で、再会するのは20年以上ぶりだ。

 

中川さんは、高崎に配属される以前は、神奈川県横浜市にある、港南台店の店長に店舗史上最年少で抜擢され、構造改革に力を尽くしてきた、やり手である。(参考:「港南台モデル」を 高島屋港南台店・最年少店長

 

旧交を温める中で、仕事の話も出る。

そこで中川さんから、3つほど、面白い話を聞いた。

 

1.高崎高島屋は、7年連続増収

百貨店の不振が報じられることが多いが、高崎高島屋は「地方都市」という条件ながら、7年連続で増収だ。

「百貨店不振」の常識から外れている。

これは「高崎市」が北関東地区における企業の主要拠点になっており、特に活力がある場所だからだ。

数字で見る高崎の都市力2018(1)人口編

ここのところ高崎市の躍進がめざましい。「高崎市が全国から注目されるようになっている」、「高崎は、全国の地方都市の中でもがんばっている」と、市民は自負していることと思う。はたして高崎市は全国で何番目くらいにランキングされる都市なのだろうか。(中略)

幸福度ランキングで全国3位(東洋経済新聞社・2016)、活力ある都市全国29位(日経ビジネス2016)となっている。

統計データから、試算できる全国順位では、都市人口=全国55位、産業規模=全国31位、商業売上=全国15位、工業出荷額=全国88位、などとなっており、高崎市の戦う土俵は全国であることが示されている。

そう、「高崎市」は、盛り上がっている地方都市なのだ。

 

2.高崎高島屋の顧客は、全国の高島屋17店舗の中で一番若い

増収とはいえ「百貨店は高齢者が使うもので、先細りでは?」というイメージもある。

 

全国的にはたしかにそうなのだが、実は高崎は異なる。

中川さんによれば、高崎高島屋の顧客は、全国の高島屋17店舗の中で一番若い。

これは「20代の顧客」が非常に多いことに起因する。高崎の高島屋は、「若い人」も使う百貨店なのだ。

 

しかし今どきの若い人はお金を持っていないのではないか、百貨店で本当に買い物をするのか、不思議に思う方もいるだろう。

実は百貨店で買い物をしている「若い人」たちは、2世帯、3世帯で同居している方も多いという。そして、高崎は生活コストが東京に比べて圧倒的に低いので、実は彼らは、経済的にそこそこ恵まれている。

 

おじいちゃん、おばあちゃんに子供の面倒を見てもらえるので、共働きも容易で、休日にはおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に百貨店で食事と買い物、というスタイルが存在している。

 

前述したように、高崎は北関東の企業の拠点だ。

だから、東京での生活が嫌になってUターンしてくる人や、地方から地方へ移住してくる人なども結構いる。

例えば、私が話を聞いた独身の女性は、北海道で酪農を営む実家から出て、高崎へ移住してきていた。

 

「地方が貧しい」と一律には言えない。

年収ベースでは東京よりも低いかもしれないが、実際の生活レベルは東京であくせく働いている人よりも、遥かに恵まれているのかもしれない。

 

3.百貨店は2つの目的で使われる。

「百貨店まで行かなくても欲しいものが買える」という話をよく聞く。

しかし中川さんは、「百貨店は目的を持って使われている」という。

 

1つ目はお中元、お歳暮、バレンタイン、ホワイトデー、ハロウィンなどのギフト需要、つまり「自分ではない、誰かのための買い物をする場所」として。

これは依然として、「百貨店で購入されたもの」には+αの付加価値を感じる人が数多くいることを示している。

 

そしてもう一つは、「接客をしてくれる場所」として。

例えば化粧品は、インターネットでもドラッグストアでも買えるが、「試したい」「店員さんとコミュニケーションを取りたい」と、美容室に行く感覚で百貨店まで足を運ぶ若い人が多いという。

 

事実、話を聞いた女性の一人は

「化粧品はいつも、高崎で買っている。都内に出なくても同じものが買えるし、店員さんと話しながらゆっくり買えるから。都内のお店は冷たい。」

と言っていた。

 

考えてみれば、経済合理性だけを求めて買い物をする人は、実は少ない。

「とにかく安く」という買い物であれば、百貨店で買う必要はないはずだが、実際には高島屋で買い物をしたい、という人が増えている。

「楽しみたい」「人と話したい」という感情は常に、合理性を上回るのだ。

 

 

私は中川さんの話を聞き、真っ先に、以下の熊代さんの記事を思い出した。

「そうか、これが地方でゆったりと、豊かに暮らす人々のスタイルなのだ。」と。

地方ならではの「勝ち組ライフ」について。

大都市圏に比べて地方は仕事の種類も少なく、個人の年収を高めるのも簡単ではない。

だが、三世帯が同時に暮らし、大人2人、いや、3人以上で稼ぐとなれば話は違ってくる。

子どもを育てるという点でも、三世帯同居のメリットは小さくない。地方の大きな家屋は、そうした暮らしを可能にしてくれる。(中略)

個人の年収では大都市圏に見劣りしがちな地方の人々が、大きな家に寄り集まって暮らそうとするのは、経済的にも、子育ての利便性からいっても、きわめて合理的な選択だと私は思う。

私は高崎に行くまでこの話は半信半疑だったが、訪れて話を聞き、合点がいった。

間違いなく、地方では一歩早く人口減少社会への適応が進んできている。

 

「より固まって住む」

「贈り合って生活する」

「世代を超えて支え合う」

 

「人々の連帯」を、一足早く実践しているのだ。

 

そして「連帯」は、人々を健全に保つと、ハーバード大学の公衆衛生の研究者は述べている。

アメリカのペンシルバニア州のロゼトはイタリア移民が建設した街で、別に他の街とどこがどう違うわけでもないが、1950年代、心臓病による住民の死亡率が周囲の街の半分ほどだった。(「縦並び社会・8」、毎日新聞6月23日朝刊)

興味を持った医学者たちが疫学的な調査を行ったが、周辺の住民との間に差異は認められなかった。食生活も喫煙率も同じなのに、なぜかロゼトの住民は心臓病になる確率が有意に低い。

調査チームは結局、その理由を「住民の連帯感が強い」ということ以外に見いだせなかった。

「お互いの尊敬と助け合いが健康をはぐくむ」

当たり前といえば当たり前のことである。

その連帯感が1960年代に入って失われてゆく。

「キャデラックを乗り回したり、ラスベガスに旅行する人も出始めた」と同時に死亡率が上がり、70年代にはロゼトの優位性は失われた。

「他人との比較や、富を求めて過重労働になるストレスと、社会の結束が崩れることが健康を損なう原因」であると、ハーバード大学の公衆衛生学の研究者は述べているそうである。

(出典:http://blog.tatsuru.com/2006/06/24_1028.html

グローバル化が進んでも、お金がなくなっても、人とのつながりや、コミュニケーションさえあれば、人はそうそう、不幸にはならない。

 

中川さんは、港南台店の店長をしているとき、「この店がなくなると、ものすごく困る」と言われたそうだ。

お店が、地域のコミュニケーションのハブになっているからだ。

事実、港南台店で買い物をする人々は、年間300日以上、来店をするという。

 

地方では、着々と「人口減少社会への適応」が進んでいるのだ。

人々の適応力には、驚くばかりである。

 

 

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(Photo:adachi)

自分の話ではなく知人の話なんですが、本人の許可をとったので記事にしてみます。

 

もう去年の話なんですが、とある飲み会の席で、知人に真顔で「自分に本を、出来れば小説をお勧めして欲しい」と言われたんです。

 

ん、最近の面白い本を知りたいってこと?と思ったんですが、よくよく聞いてみるともうちょっと複雑な話でして。

その知人、一言でいうと「「好きな本のジャンル」が欲しい」ということだったんですね。

 

知人の名前を、仮にAさんとします。

音楽関係の以前からの知り合いでして、年に一回、とある決まったステージで一緒に演奏をする仲です。

Aさんは、今まで「本当に全く読書の習慣がなかった」という人です。

 

文章に触れていないというとそういう訳ではなく、仕事が法曹に近いので堅い文章に触れる機会は人より多いくらいなんですが、「本を読む」というと全然その習慣がない。

物語文に触れた経験なんて、学生時代にやった国語の教科書の読解くらい。

 

子どもの頃に絵本を読んだ経験もほぼなく、漫画にもラノベにも触れる機会がなく、「読書」という趣味とほぼ無縁にそれまでの人生を過ごしてきた、ということらしいんです。

 

どうも家庭環境がやや特殊だったようで、むしろそのルーツで比較的文章寄りの仕事についているのが凄いと思ったんですが、まあそれについてはプライベートな話なので省略します。

 

そんなAさんが何故「小説を読みたい」と志すに至ったかというと、まあ当然のことながら周囲に読書家が多く、みんな

「こういうジャンルが好き」とか「こういう話が面白い」というような話が出来ているのが羨ましいと思った、と。

 

もっとぶっちゃけてしまうと、「このジャンルの本好き」とか「趣味は読書」と言えるのがかっこいい!羨ましい!と思ったらしいんです。

そもそも小説自体をよく知らないので、どのジャンル、というこだわりは全くない。

 

私、「それすごくいい動機だなー」と思いまして。

 

もしかすると、「ジャンルから入る」という動機を不純だ、と考える人、いるかも知れません。

「かっこいいから」という動機を邪道だと思う人、いるかも知れません。

 

読書家の間には、「スタイルから入る」ということを忌避する人が一定数存在します。

つまり、面白いか面白くないか、楽しめるか楽しめないかこそが重要であって

「その本を読むこと、そのジャンルを好むことがかっこいいから」というのは邪道だ、という向きがあるんですね。

 

その考え方は考え方で納得できないこともないんですが、私、「入口」が何かなんて別にどうでもいいじゃん、と思う方なんですよ。

大事なのが「楽しめるか楽しめないか」なのであれば、動機が「かっこいいから」なんて全然上等じゃん、と。

 

入り口は広ければ広い程いいし、ハードルは低ければ低い程いい。

そういう意味で、結果的に「好き」にたどり着けるのであれば、「本好きって言えるのかっこいい」なんて実によろしい動機なのではないかと。全く引け目を感じる必要ないんじゃないかと。

 

何はともあれ、「小説を読む、という経験がほぼない人に、小説を勧めて欲しいと言われた」為、それに協力することにした、とご理解頂けると幸いです。

 

***

 

誰かに本をお勧めする機会はそこそこあります。

 

全く文章に触れていない人であれば、難しい難しくない以前にそもそも一冊読みきる精神力(私はこれを読書体力と呼んでいるのですが)が続かなかったりするので、最初から小説に行くのではなく、むしろ漫画やら絵本から入った方がいいと考えるところです。

 

ところがAさんの特殊なところは、「読解力自体にはなんら不足がない」ということです。

文章の難易度的には、むしろ普段触れている文章の方が小説よりよほど難しいくらいなので

「文章構造が複雑かどうか・用語が難しいかどうか」は多分あまり考慮する必要がないし、読書体力についても恐らくあまり気にする必要がない。

 

これはちょっと、場合によっては面白いことになるかも知れないな、と思ったので、

「お勧めした本が気に入ったら自分が継続的に当該ジャンルのキュレーションをする」という条件で、その内お勧めした結果を記事にしていい?と許可を取りました。

 

で、大体1年くらい経ちまして、ある程度中間結果も出たような気がするので、この記事にまとめたいと思った次第です。

 

***

 

当初Aさんにヒアリングをして、得られた情報は以下のようなものです。

上で書いてある部分もあるのですが、改めて書き起こしてみます。

 

・年齢は30台前半

・小説や漫画は全く読まない

・テレビはちょくちょく観る。観るジャンルは大体ニュース、クイズ番組、旅行もの、刑事ものなど。記憶している限りでは、アニメはほぼ観たことがない

・映画も滅多に観ないけれど、スターウォーズ(聞いた限りでは4から6)は割と好きで何度か観た

・ゲームもあまりやったことがないけれど、友達の家でやっているところを観るのは好きだった。覚えているのはドラクエ、マリオなど

・親と同居で、自宅では猫を2匹飼っている

 

で、「読んだ先」のことを考えると、そのジャンル自体、ある程度広がりがあるジャンルがいい。

一冊読んだ後、じゃあ次はこれどう?とスムーズにお勧め出来るジャンル、本がいいなあと。そう考えたわけです。

 

こんな条件で、皆さんなら何をお勧めするでしょうか?

 

私の場合、上の条件から考えたジャンル候補が、

「SF」

「推理小説・ミステリー」

「児童小説(猫が登場するやつ)」の三つでした。

 

小説や物語を楽しめるかどうかを分かつ最大の要素が、「その世界に入り込めるか」「その世界へのフックがあるか」ということであるのは間違いありません。

物語の世界に入り込めないということは、感情移入出来ないということであって、その物語世界の中で起きたことを自分の経験として楽しむことが出来ません。

 

そこから考えると、ある程度触れたことがあるコンテンツ、普段の生活に関係する要素がある小説の方がいいのではないかと考えた訳です。

 

SFについては、単にスターウォーズに触れた経験があるからという話よりも、ワープやら宇宙船やら光線銃やら、「SF的な世界観・用語」に対して親和性があるかどうかが加点要素。

刑事ものをよく見るなら、サスペンス・推理ものにも馴染みがありそうです。

 

また、あまり物語に触れたことがない人に勧める一つの鉄板が児童小説なので、更に猫と関連付けられれば強力なフックになるのではないか、というのも一つ。

 

で、各ジャンルごと、次のような本を提案してみました。多分に自分の趣味が含まれています。

 

SF:「エンダーのゲーム」(オースン・スコット・カード)

推理小説:「そして誰もいなくなった」(アガサ・クリスティ)

児童小説:「ルドルフとイッパイアッテナ」(斎藤洋)

 

 

それぞれの作品は有名作中の有名作なので、補足説明もそれ程必要ないかとは思うのですが、「エンダーのゲーム」は「バガー」という異星人の侵略に備える為にゲーム形式の訓練を受ける少年「エンダー」の活躍譚。

「そして誰もいなくなった」は、ミステリーの古典中の古典、とある島に招待された8人の男女をめぐる物語。

「ルドルフとイッパイアッテナ」は、トラックに乗って故郷から東京まで運ばれてしまった黒猫「ルドルフ」と、トラ猫のイッパイアッテナの物語です。

 

どれもどちらかというと古典寄りですが、超面白いので未読の方は読んでみてください。

 

結論から先に言うと、この中で一番Aさんに刺さったのは「ルドルフとイッパイアッテナ」でした。

 

Aさんの非常に偉いところは、全ての本をちゃんと読破して、かつ私にそのフィードバックをくれたところなんですが、それぞれの作品に対する感想・フィードバックは下記のような感じでした。

実際の感想にはネタバレも当然含まれているのですが、その辺はかなり四捨五入しています。ご容赦ください。

 

【「エンダーのゲーム」についての感想】

筋書は分かりやすかった。読後感が良いこと、戦闘の時の読みあいの面白さ、ストーリーの目的がはっきりしているのもわかりやすくてよかった。

ただ、「登場キャラが子供」という理解から入ったので、物語の中で出てくる子供たちの会話があまりにも頭良すぎて、その辺であまり感情移入出来なかった。

結構精神的に追い込まれるシーンもあってちょっと辛かった。

[amazonjs asin="B00H38N9XW" locale="JP" tmpl="Small" title="エンダーのゲーム〔新訳版〕(上)"]

 

【「そして誰もいなくなった」】

「誰が犯人なのか?」を読みながら考えるのが多分面白さの中心だと思うんだけど、あまりそこには乗れなかった。

刑事ものドラマでもそうなんだけど、どちらかというと被害者の方に感情移入してしまうので、ロジックパズルみたいな部分にはついていけていないかも知れない。

仕掛けが凄いことはわかるんだけど、もうちょっと楽しめる筈なのにちょっとおいていかれている、みたいな感覚だった。

[amazonjs asin="4151310800" locale="JP" tmpl="Small" title="そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)"]

 

【「ルドルフとイッパイアッテナ」】

一番面白かった。完全に猫の視点、というのが凄い。

猫のしぐさというか行動も実際の猫みたいで、「ああこういうのあるある!」「自分の猫ももしかしてこういう風に考えているのかも!!」って物凄くわくわくしながら読めた。続きが読みたい。

[amazonjs asin="4061335057" locale="JP" tmpl="Small" title="ルドルフとイッパイアッテナ"]

 

ということで、「多少のフックは猫の前に無力」という結果でした。

ねこつよい。

 

エンダーは割と面白さも感じてもらえたっぽいんですけどね。

猫ものであることも含めて「夏への扉」の方が良かったかなー。

けどあれ主人公が実際やってることは結構好みが分かれるからなー。

 

「ルドルフとイッパイアッテナ」については、皆さんご存知の通り猫もの児童小説の傑作でして、かつ「飼い猫だったルドルフが飼い主から離れて野良猫としての生活を送ることになる」という筋書きの関係上、ルドルフ視点と飼い主視点、両方に感情移入出来ることがAさん的には大きなポイントだったようです。

 

イッパイアッテナに出会ったルドルフが野良猫の日常生活を送りつつたくましく生きていくというのもAさん的にはとてもカタルシスがあったようで、その点も大きかった模様。

 

「人に本を勧める時は、フックの多さと強力さを一番に考慮する」というのがお勧めする際の最重要ポイントである、という認識を新たにしました。

 

で、その後、児童書を中心にお勧め本を選定するようになりまして、「ルドルフとイッパイアッテナ」の続編である「ルドルフともだちひとりだち」「ルドルフといくねこくるねこ」「ルドルフとスノーホワイト」などを経て、「モモちゃんとアカネちゃん」「空飛び猫」から「ゲド戦記」「はてしない物語」くらいまで行きつきまして、順調に児童小説好きとしての道を歩んで頂いているような状況です。

 

今では自分で児童小説を探すこともあるようで、「好きな本」「好きなジャンル」を見つけ出すお手伝いが出来たのは良かったなーと考える次第なのです。

 

ということで、今回は「本を読まない人に、実際に本を薦めてみた結果」という話を書いてみました。

ルドルフとイッパイアッテナは続編も含めて非常に面白いのでみんな読むといいと思います。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:I am R.

大企業が有名タレントを起用したものから、怪しげなお金儲けを薦めてきたり、子供には見せたくないような画像が使われていたりするものまで。

僕がインターネットにはじめて接した20年くらい前は、ネット広告もかなり限られていて、有名なサイトが「広告掲載の依頼がありました!」なんて閲覧者に報告していたのです。

 

それが、今となっては、「無料のネットのコンテンツには、広告が表示されているのが当たり前」になっているのです。

ネットの自由という面では、「マスメディアのように、広告主の顔色をうかがわなくても良い」というメリットが語られていた時期もあったのですが、実際にお金が稼げる、となると、規模の大小はあれ、「貰えるものは貰いたい」というのもまた人情なのです(もちろん僕もそうです)。

 

そんな「ネット広告」の暗部を告発した、『暴走するネット広告 1兆8000億円市場の落とし穴』(NHK取材班/NHK出版)を読みました。

「インターネット広告は、今年、地上波テレビを追い抜くだろう」

2019年2月、大手広告代理店・電通は、日本の広告費の推計を発表。発表会見の中で担当者は、今後の広告費の増加への期待とともにこう語った。

 

発表によると、インターネット広告の2018年の広告費は1兆7589億円、前年より16.5パーセント増え、5年連続で二桁の伸びとなった。

首位の「テレビ」は「地上波テレビ」と「衛星メディア関連」を合わせて1兆9123億円と、前年より1.8パーセント減った。長らく「広告の王者」の地位を占めていた「地上波テレビ」と「インターネット」との差は259億円まで縮まった。

 

近いうちに「広告の王者」の地位に躍り出ようとしている「インターネット広告」。

本書は、その闇の部分を追跡した「クローズアップ現代+」の三つの番組、「追跡!脅威の”海賊版”漫画サイト」「追跡!ネット広告の”闇”」「追跡!”フェイク”ネット広告の闇」の取材記録である。

[amazonjs asin="4140885904" locale="JP" tmpl="Small" title="暴走するネット広告: 1兆8000億円市場の落とし穴 (NHK出版新書)"]

ネット広告の現在について、違法にマンガをアップロードして多くのアクセスを集めていた『漫画村』で表示されていた広告を手掛かりに、取材が行われていくのです。

 

読んでいて驚いたのは、大手広告代理店も介在しているのに

「企業の広告が違法サイト、あるいは企業イメージを損なうようなサイトに表示されていること」に対して、その広告に関する責任者がはっきりしていない、ということでした。

 

「担当者の手違い」とか

「そんなところに表示されているとは知らなかった。今後はやめてもらうようにします」とか

「担当の者はいま不在なので、取材に答えられません」

あるいは「依頼先については、迷惑がかかるのでお話できません」など、「責任のたらいまわしシステム」が完成されているような印象さえ受けるのです。

 

こういうのは、広告の世界の話だけではないんですよね。

ネットでは、Twitterの炎上ツイートでも

「そんなつもりで言ったわけじゃない」

「知人にだけ見せるつもりだった」

「自分はただリツイートしただけ」というように「みんなが責任逃れをしやすくなっている」ように思われます。

 

うまく責任逃れをしながら、それを悪用したもの勝ち、になっているのが現状の「不正なネット広告の仕組み」なのです。

 

地上波テレビであれば、その番組を観れば、自社のCMがどのように放送されているか確認するのは簡単だけれど、ネット広告を末端までチェックするのは至難です。

いまは、その端末の使用者の属性に合わせた広告が表示されるようになっていることが多くなっていますし。

 

いま、ネット広告業界で「アドフラウド(広告不正)」が大きな問題となっているのです。

それも、「問題のある広告が表示される」といった単純なものではありません。

「漫画村に大手企業の広告が配信されている」

3月下旬、私たちの元に突如、そんな情報が舞い込んできた。一瞬、何かの間違いではないかと思った。

情報を寄せてくれたのは、関東地方にある大学の研究者。

すぐに研究室を訪ねると、この研究者は漫画村にアクセスした際にダウンロードされるデータ一覧をモニターに表示してくれた。

 

雑誌の表紙や漫画村のキャラクターに紛れて、ある大手企業の広告のバナー画像が確かにあった。

その場で何度アクセスしてみても、確かにこの画像がアクセスされる。

だが、漫画村のページそのものを見ても、どこにもそんな大手企業の広告は表示されていない。

 

「ソースコード」と呼ばれるサイトの設計図を分析すると、その仕掛けがわかった。

ダウンロードしても表示しないように、ウェブサイトに細工がされていたのだ。細工の仕組みは次のようなものだった。

 

漫画村のサイトの中に、「iframe(インラインフレーム)」という「枠」が埋め込まれていた。

ただし、「枠を画面上は見えなくする」ことを意味する、「display:none」という指示が書かれており、さらに、ソースコードにはこの「見えない枠」の中に別の、いわば「隠しサイト」を読み込むように書かれていた。

この隠しサイトは、事件・事故や趣味などさまざまな話題を集めた、いわゆる「まとめサイト」の体裁をとっていた。

 

この隠しサイトには、複数の広告が掲載されていた。

つまり、漫画村にアクセスすると同時に隠しサイトも読み込み、さらに広告も読み込んでいることになる仕掛けだった。広告は、誰でも知っているような大手企業のものばかりだった。

 

これまで漫画村の表側に見えていた広告は、アダルト系やギャンブル系ばかりだったので、大手企業の広告画像は明らかに異質だった。

ただし普通に漫画村を閲覧しただけでは、この隠しサイトはおろか、密かに配信されていた広告もまったく見えない。

仮に見えていたなら、「大手企業が、なぜ世間から問題視されている海賊版サイトに広告を出しているのか。違法行為の手助けをするのか」とすぐに問題になっていただろう。

 

こうしたトラブルを避けるため、漫画村という多くのアクセスを集める巨大サイトには出せない広告を、あえて隠しサイトをかませることで、表示したことにしてしまうのだ。

これは広告費をかすめ取る不正な行為、「アドフラウド(広告不正)」と呼ばれる手法の一つだった。

目に見える表側ではなく、サイトの裏側で広告を読み込む今回の手口を、私たちは「裏広告」と呼ぶことにした。

要するに「閲覧者には見えない広告を、表示したことにするプログラムを使って実績をつくり、それで広告費をもらっていた」ということなのです。

この手法の場合、よほどパソコンやネットに詳しい人が、疑って解析しないかぎり、見つけ出すのは困難だと思われます。

広告主にとっては、閲覧者にまったく届いていないのに、広告費だけ払わされる、ということになります。

 

こういう手法については、広告代理店も「広告の効果と表示実績を比べてみるとおかしい」と感じていた可能性はあるはずなのですが、「〇〇回以上ネットで見てもらえるように」というようなノルマがあって、それを達成するためには、危ない橋を渡る、あるいは、あえて藪蛇になるようなことはしなかった、のかもしれませんね。

 

こういう手法が蔓延すると、「ネット広告はあまりも費用対効果が乏しい」ということで、まともな広告が出稿されなくなっていきそうです。

「見えない広告」だけではなく、「画像を加工することによって有名人を無許可で登場させ、いかにもその人が薦めているかのように見せる商品の宣伝」を手掛けている個人サイトも少なからずあって、問題になってきてもいるのです。

 

「ラクして稼げる」などの情報商材ビジネスの広告や「痩せる」「薄毛が治る」などのフェイク広告が地方新聞社のサイトに表示されていることを取材班は確認し、問い合わせています。

ネット広告に関しては、あまり詳しくない、という担当者もいて、広告代理店に丸投げ、というケースも多いようです。

その広告代理店も、枠を埋めて、表示実績をつくるために、他の会社に丸投げし……というのが、いまのネット広告の現状なのです。

 

このままでは、「ネット広告は効果に乏しいどころか、企業にとってのリスクになりかねない」とも言えます。

広告を出す側が、あまりにも前のめりに「稼ぐ」ことばかりになってしまったがために、ネット広告の将来は危うくなっているのです。

 

最後に、消費者庁の小泉勝基・財産被害対策室長の言葉を紹介しておきます。

「誰でも簡単に稼げる、初期投資以上のキャッシュバックがある、そして全額返金保証、この三つがそろっていたら、まず嘘だと疑ってほしい」

どれかひとつで十分、という気もしますし、こんなのに引っかかる人がいるのか?と思うのですが、老後のために2000万円必要とかいうのをネットニュースでみた直後だと、つい、クリックしたくなるかもしれません。

 

でも、旨い話って、そうそうあるものじゃないです。少なくともワンクリックで届く範囲には。

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:marneejill

勢いのある会社は、人を積極的に採用する。

そんな会社の一つでの話だ。

 

「経験者がほしいねー」と、目の前の経営者が言った。

だが、腹心の人事担当役員がそれを諌める。

「いや、経験者ってだけでは、大したことないですよ。むしろ広く未経験者にも目を向けるべきです。」

「未経験者を育成するのは大変だろう。」と社長。

「そんなことはないです。むしろ下手な経験者よりも、未経験でも学習能力の高い人を採用するほうが、圧倒的にコスパが良いです。」と役員。

 

なぜこんな食い違いが生じるのか。

 

実は、当然だ。

お互いに「パフォーマンスの源泉」を、別の場所に見ているのだから。

 

 

例えば、次のような話がある。

 

営業職を募集している会社があり、AさんとBさん、2名の応募があったとする。

経験年数は、Aさんは5年。一方のBさんは未経験だ。

 

Aさんは営業の現場が長く、即戦力として使えるが、適性検査と面接の結果、「保守的で、ルール通りやることは得意だが、新しい試みは苦手」という結果が出た。

Bさんは営業の経験はないが、「新しいものへ意欲的であり、学習力が高いが、前例を踏襲することやルール遵守は苦手」という、Aさんと逆の結果が出た。

 

Aさんを採用するか、Bさんを採用するかは、採用側が何を重視するかによって、大きく変わるだろう。

 

冒頭の社長は、Aさんを採用するだろう。

社長は「ルールを知っていること」「ルールを教えなくて済むこと」を重視しているからだ。

 

一方で人事担当役員は、Bさんのような人物を積極的に採用したいと考えている。

この役員は、長い人事の経験で、人材のパフォーマンスは「学習能力」に大きく依存していると考えているからだ。

 

 

もちろん「経験者」かつ「学習能力が高い」が最高なのだが、そんな人は母数が少ない。

話は必然的に「どちらを優先するか」になる。

 

では「経験」と「学習能力」のどちらを優先するか。

最近の採用の傾向を見ると、どうやら人事担当役員の着目している「学習能力」に軍配が上がるようである。

 

例えば、Aさんの長所である「経験」は、顧客が変化したり、商慣習の違うところでは通用しないかもしれない。

特に現在は、商品のライフサイクルが短くなり続けているので、「去年のやり方」ですら陳腐化してしまっていることも数多くある。

 

だが、Bさんの長所である「学習力」は、顧客が変化したり、商慣習が異なっても、それに対応できる蓋然性が高い。

学習能力が高ければ、ほとんどすべての経験から「学び」を引き出すことが出来る。

 

例えば、個人的に「学びの鬼」と思っている方の一人が、勝間和代さんなのだが、こんな記事を見かけた。

京都で車道を片道2キロ、合計4キロ走ったら、クラクション4回鳴らされました。けっこうびっくり。そして、ググってみたら、理由がちょっとだけわかりました

今日、京都でほんの片道2キロずつ走っただけで、行きに3回、帰りに1回、クラクションを鳴らされて、ほんとうに驚きました。

別に、ふらついているわけでもなく、ピクトグラムの上をちゃんと時速25キロから28キロ位で走っています。

もちろん、自転車が走っているのを相手が道路交通法を守っているのに、どかそうとしたり、遅いとあるいはじゃまだと威嚇するため、車がクラクションを鳴らすのは、道路交通法違反です。

そしてちょっとググってみたら、こういうことでした。大阪と京都は、クラクションを鳴らす率が高い都道府県、1位と2位だそうです。

「クラクションを鳴らされた」という些細な経験だけで、このように調べていたら、日常の「学びの回数」は、一般人とは桁違いになるだろう。

 

さらに、立教大の中原氏は、「未来は、働きながら、学ぶこと、学びながら、働くことがより「常態化」してくるのではないか。」と述べている。

「学生」と「社会人」という言葉が「死滅」する将来!? : 働きながら学び、学びながら働く「未来」!?

 

ともあれ、この「些細な事象からでも、知見を引き出し、学習することができる人」こそ、雇うべき人材なのだ。

 

 

「私は経験◯年以上です」と、経験を語る人がいる。

だが本質的には、その長さにはほとんど意味はない。

単に言われるがまま、業務を反復しているだけの時間は「経験」ではないからだ。

 

 

例えば、こんな研究がある。

ハーバード・メディカルスクールの研究チームは、医師が提供する治療の質と、医師の経験年数の関係を調べた。

 

すると、年長の医師のほうが遥かに経験年数の少ない医師と比べて知識も乏しく、適切な治療の提供能力も低いことがわかった。

経験を積むほど医師の能力が高まっているという結果が出たのは、62本の研究のうちわずか2本だった。

これは、看護師も同様で、極めて経験豊富な看護師でも、平均してみると看護学校を出てほんの数年の看護師と治療の質は全く変わらないことが示されている。

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単純に言えば、仕事のパフォーマンスの源泉は、経験の長さ<<<<<<<学習能力 であることが、科学的に検証されている、ということだ。

 

だから、「何かをこなしてきた」=「経験」というのは、間違いであり、その体験を「経験」と言えるのは、そこから学びが得られている場合だけである。

その種類の経験は、意図的に行動しなければ、手に入らない。

 

そう考えれば、大半の体験は、「経験」とは呼べない代物である。

だから、採用では 「経験そのもの」よりも「経験を通じて、どのような学びを得たか」を調べたほうが、良い人が採用できる。

 

 

余談だが、私が「経験」について読んだ中で、最もしっくり来る知見を与えてくれたのは、以下の文章だ。

単にある職業につき、反復的な仕事をしているだけではフーピンガーナー教授が言った〝経験〟にはならない。

経験とはなにか新しいことを発見し、学び、能力の成長と蓄積をもたらすプロセスである。

 

そのために出て行って、そういった種類の経験を意識的にさがし求めなくてはならない。手を伸ばしてつかみ取らなくてはならない。

必要ならあらん限りの知能をしぼって、なにかより良いもの、なにか新奇なもの、従来の物事のやり方とはどこか違ったものをつかんでこなくてはならない。それが創造的経験というものだ。

 

やることが創造的ならば、失敗すら経験という宝をひとつ増やしたことになる。だれかがずっと昔、私に言った言葉を借りれば、「予期しなかったものを獲得した時に得るもの──それが経験だ」

「予期しなかったものを獲得した時に得るもの」が経験だとすれば、漫然とこなしている仕事の殆どは「経験」ではない。

 

私はこの文章を読んで以来「経験者」の定義を大きく書き換えた。

それは、あらゆる仕事の根幹に関わる、大きなインパクトがあったことは、言うまでもない。

 

 

◯Twitterアカウント▶安達裕哉人の能力について興味があります。企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働者と格差について発信。

 

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◯ブログが本になりました。

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(Photo:reader of the pack

ここ最近、老後2000万円問題が話題となっていた。

(参考:言ってはいけない年金制度の真実 「老後資金2000万円不足」の本当の意味(橘玲))

 

この問題をみたときに僕が思ったのは、長寿社会というものの負の側面が徐々に現れてきたなという事だった。

 

ご存知の通り、日本人の寿命は非常に長い。

厚生省の発表によると、男性は81歳程度。女性に至っては87歳程度にもなるという。

65歳を定年とする今の日本社会においては、約20~30年、人によっては40年近くもの歳月を”働かず”に生き抜かなくてはならない。

 

その老後の生活を安心して過ごすための年金制度だったわけだけど、その根幹が揺るがされた、との事で今回の件はここまで燃えているのだろう。

 

この問題をみたときに、即座に思いつく回答のうちの1つが「だったら働けばいいじゃないか」という事だろう。

実際、僕もそう思ったのだけどこれはかなりの割合の人には死刑宣告にも近いような回答だ。

 

65歳以上で強い市場価値を保ち続けるのは多くの人にとって非常に難しい

例えば、医者のような高度専門職であれば65歳になろうが引く手数多である。年収だって軽く1000万円は維持できる。

 

一方で、普通の産業に従事している人はどうだろうか?

例えば肉体労働者は、65歳ならまだ筋骨がそこそこある方かもしれないけど、さすがに70を超えてきたら随分と厳しくなってくる。

 

このように、肉体に消耗性があるタイプの職種に「働けばいいじゃないか」というのは非常に厳しい話だし、他の職種につけというのも相当に苦しい。

少なくとも僕は、いったい何の職業を斡旋すればいいのかあまり想像がつかない。

 

普通のサラリーマンだって相当に苦しい。

たまたま運良く、現代でも重宝されるようなスキルを身につけられた人ならそれなりの年収を継続して得られるだろうが、普通に働いていた人の多くは学んだ知識が使い物にならなくなる事も当然出てくるだろう。

 

65歳にもなって、今から新しいスキルを身に着けろと言われても、多くの人にとってはかなり難しいだろう。

少なくとも僕は今からもう一度新卒のような狂った働き方はできない。

結果、職歴をキチンと積み重ねられなかった人かどうかで極端な格差が生じる。

 

そしてこの格差は”死ねない”現代社会においては、ほぼ寿命が来るまで固定化する。

キチンと職歴を積み重ねられた人は65歳以降も高収入が持続する一方で、それができなかった人は誰にでもできるとされている低賃金・単純労働の仕事を斡旋されるのだとしたら、行き先は

……Amazonの倉庫みたいな場所になるのだろうか。

(参考:【社会の底辺】アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した。 | Books&Apps

 

65歳まで嫌な上司の仕打ちに耐えて、やっとこさ開放されたと思ったらAmazonの倉庫で絶望するような社会だとしたら「そりゃちょっとないよ~不二子ちゃん」だろう。

 

知識社会の逆は知識がないと稼げない社会

さすがに高齢者をAmazonの倉庫送りにするのはいろいろと政治的にもアレだろうから、もう少し真面目に試算してみるとしよう。

 

元院長の話題で、高齢者の運転免許証返納問題が話題になっていたけど、人間は高齢化すると身体もそうだが脳の機能認知も除々に低下していく。

オレオレ詐欺の集団はこれを「バグる」と表現するようで、脳が「バグった」かの確認の為に高齢者の家に定期的に電話をかけるのだという。

非常に聡明そうな高齢者でも、ある日をさかいに「バグ」ったら、簡単にお金を引き出せるようになるのだ。

[amazonjs asin="4480068155" locale="JP" tmpl="Small" title="老人喰い:高齢者を狙う詐欺の正体 (ちくま新書)"]

 

知識社会において、肉体機能が低下したり、脳が「バグ」った人は、はたしてどれほど稼げるのだろうか?

単純な比較は難しいが、1つのモデルケースとして障害者の雇用状況を比較対象とする事ができよう。

 

やや古い情報ではあるが、厚生省の平成25年度における障害者雇用実態調査の結果を参照すると、フルタイム勤務で身体障害者は月25万1千円で知的障害者が月13万円である。

障害者雇用実態調査|厚生労働省

 

もちろん、高齢者と障害者は全く同一の存在ではないので単純に同じような金額をスライドすべきではないだろうけど、まあだいたい月20万程度というのは体感的にもそんなもんかなという感じがするし、そこまで見当はずれな金額でもないだろう。

 

知識社会とは、知識がある人に優しい社会だ。

そして知識というのは、心身が共に健康であるが故に発揮されるものでもある。

人生100年時代においては、肉体と頭脳のメンテナンスがこれまで以上に価値のある事とされていくだろうし、実際問題グローバルエリートの世界では肌感覚的として既にそういう社会になっている。

 

長寿社会において、健康である事の期待値はすさまじい。

65歳以降も働くのだとしたら、いかにバグらずにレースを駆け続けるかで期待値は何倍も変わってしまう。

 

そしてこれは、グローバルエリートレベルの人間ですら、心身の健康を失い身体と脳がバグったら残りの人生を働ける期間は年収240万円で過ごせというのとほぼ等しいことでもある。

そんな感じで本当の意味で働けなくなるまで働かされるのが100歳時代のライフ・シフト!という事になるだろう。

 

必死に働いて、知識社会を走れなくなった途端、今度は新卒ならぬ老卒の就活が始まるのかと思うとなかなか胸が熱くなるものがある。

 

こんなの、まるで長生きする事自体が何かの罰ゲームなんじゃないかといわんばかりの対応である。

長生き社会で増えた人生成分は幸福ではなく、生き抜くことのシンドさなんじゃないかと思わずにはいられない。

 

突然死のない社会はこんなにもシンドかったのか

私達は肥料の開発により、飢えから開放された。

そして医療の発達により、健康寿命が増えた。

今では餓死する人はほぼいないし、医療が受けられずに死ぬ人はほとんどいない。

 

結果、とても長生きとなったわけだけど、その結果どうなったかというと、ご覧の有様である。

こうした現状をみると、運がいい人間、強い人間には長寿社会はとても莫大な恩恵をもたらす一方で、強く慣れない人にはまだ突然死の要素があった時代のほうがある意味では優しさがあったのではないかとすら思わされてしまう。

 

感染症などのSudden death(サドンデス)はある意味では平等だった。

弱者は弱者で、良くも悪くもゲームから降りられた。

強者も等しく執行対象となるから、ゲームバランスの調整が起きて、強くない人間にもワンチャンあるんじゃないかと思わせてくれる何かがあった。

 

しかし今では強者はずっと強く、また難易度調整も全く行われない。

というか強者は職歴を積み重ねたり自己研鑽が習慣化されているから、知識社会においてはドンドン強くなるし、ますます健康的で強靭な肉体を獲得するような社会を形成するようになるだろう。

 

一方で強く慣れない人間は、それらを積み重ねる事自体が非常に難しくなるだろう。

普通に生きているだけだと、65歳から死ぬまでの間、ずっと年収240万円のベルトコンベアーへと一直線である。

 

そして死なない社会においては、この2つはほぼ固定され約束された未来への一本道なのである。

これが誰もが病で亡くなること無く、腹いっぱい白飯が食える健康な社会の実情だっただなんて、いったい誰が想像できただろうか?

 

昨今の都会の中学入試の盛り上がりは、年収240万円ベルトコンベアーからどれだけ逸脱できるかのラットレースをみているかの如くである。

 

全部が全部、自己責任といえば確かにそういうものなのかもしれないけど、いやはや、ほんとこの問題、本当にどうすればいいんでしょうね・・・。

長生きって本当に難しい。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Anita Hart

わたしのなかで、印象に残っているやり取りがある。

とある人に、働き方について聞かれたときのことだ。

 

「いくら稼いでいますか?」

「仕事は生活の手段なので、そんなでもないですよ」

「もっと稼ぎたいとかは?」

「うーん、とりあえずいただいたお仕事を一生懸命って感じで」

「じゃあ、どんな目標をもっていますか」

「目標……。そういうのもないです。毎日淡々と丁寧に、を心がけているだけなので」

「雨宮さんは、有名になりたいとかお金を稼ぎたいとか、そういう野心がないんですね……」

 

あ、この人はわたしにがっかりしてる。直感的にわかってしまった。

 

この人が知っているフリーランスというのは、高い目標を掲げ、「もっともっと」と野心に燃えている人々なのだと思う。

エネルギッシュに将来のビジョンを語られることを期待していたのなら、わたしはさぞかし、意識が低くつまらないフリーランスに見えただろう。

 

でも、「それが許されるのもフリーランスのよさだぞ!」と言いたい自分もいる。

 

「収入=フリーランスの格」という風潮

フリーランスという働き方への注目度は、どんどん高まっている。

フリーランス協会によると、国内労働力人口の約6分の1、100万人あまりがフリーランスらしい。

 

でも、『フリーランス』というと、どうも「会社員としてスキルを磨いて独立、会社員よりも成功しているプロフェッショナル」という姿を連想されがちだ。

 

たしかにそういう人はいるし、フリーランスとして働くうえで、会社員としての経験は大きな武器になるだろう。

うまくやれば会社員時代の数倍は稼げるし、実際のところ、「収入=フリーランスの格」と考えている人は少なくない。

だから、一部のフリーランスセミナーやオンラインサロンのような、価格が高いだけで再現性のないノウハウをえるためにお金を使ったり、自分を格上に見せようと変なキャラ作りをしていらぬ反感を買ったりする人がいるのだろう。

少しでも「稼いでいる」「成功している」人に見られるように、そういう人たちの仲間入りができるように。

 

それがまちがっているとは思わないけど、「フリーランスならより多く稼ぎ成功しなきゃいけない」かのような『べき論』には、ちょっとした違和感がある。

 

そりゃまぁ、どうせ働くなら稼げたほうがいいし、成功したほうがいいけども。

でも、「どれくらいで満足するか」を自分の裁量で決められるのが、フリーランスの良さじゃないんだろうか?

 

自由が魅力のフリーランスが窮屈になる

どの統計だったか覚えていないけど、クラウドソーシング系の統計で収入が公開されたとき、「トップでもこれだけしか稼げてないなんて!」と話題になったことがある。

 

実際、「フリーランスです! 収入は月5万円!」と自己紹介する人がいたら、「その程度でフリーランスって」と嘲笑が返ってくるだろう。

「ある程度稼げていないと認めないぞ!」という、謎の審判目線で語る人も少なくない。

 

でもわたしは、収入の多寡にかかわらず、フリーランスとして仕事を受注していれば堂々とフリーランスを名乗っていいと思うのだ。

フリーランスという働き方は、「会社員より稼ぐこと」「社会的に成功すること」を指すのではない。

自分に合った場所や時間、仕事を選び、自分のペースで働くこと。

 

「自由」な働き方がフリーランス最大の魅力なのに

「こうでなければフリーランスとして認めん!」「フリーランスはかくあるべし!」

といったプレッシャーは、本当にしょうもない。

 

なんのための自由だ、なんのためのフリーランスだ。うるせぇ放っておけ、と思う。

 

いろんな「フリーランス」があっていいじゃないか

わたし自身、フリーランスになったのは事故のようなものだった。

ドイツの大学中退を決め、とりあえずバイトをしながら、趣味でブログを書く毎日。

 

書くことの楽しさに目覚めて「ライター」を名乗ったはいいものの、直後にバセドウ病が発覚し、体調的にバイトを続けるのが困難に。

だからバイトを辞め、気がついたらフリーランスライター一本で生きていくことに……。

 

そんな経緯だったものだから、5万稼げただけでもうれしかったし、体調と気分に合わせて働けるフリーランスはなんて最高なんだ!といまでも毎日感じている。

 

以前取材させていただいたフリーライターの女性も、

「育児を機に仕事を辞め、社会から孤立しているような気になった。少しでも自分でお金を稼げることがうれしい」

と言っていた。

 

わたしだってその女性だって、収入的には「成功したフリーランス」ではないのだろうけど、満足して働いているわけだ。

 

そんななかで

「フリーになるなら毎月30万円は稼がないと」

「いや50万は必要だろ」

「現状維持は思考停止。上を目指さない人間は成長しない」

なんて強い言葉を見ると、「あれ? フリーランスってそういうものだっけ??」と首をひねってしまう。

 

「育児をしつつウェブライティングで毎月3万円稼ぐ」

「闘病中だから単発で名刺デザインをしている」

「アイドルのおっかけをしながら最低限だけ働いている」

「時短ワークをしつつ、キャリアアップのためにいろんな仕事をフリーで受けている」

「フリーで朝から晩まで働き、仕事を選ばず月収100万円を目指してる」

「起業準備としてフリーランスとして働いている」

 

どの働き方も、フリーランスとして「正解」。

自分に合わせて働き方を最適化する自由。それがフリーランスだ。

 

「フリーランス」という働き方を誤解しないでほしい

毎日暇さえあれば本を読んでいる人、土日にまとめて読書する人、寝る前にたまに本を読む人。

どういう濃度であっても、本が好きなら「本好き」を名乗っていいと思う。

 

それと同じで、仕事の濃度や目標とするものがちがっても、フリーランスとして仕事を受注していれば「フリーランス」。

それでいいじゃないか。

 

もちろん、生計を立てるのであれば、ある程度稼ぐ必要はある。

そのためには最低限のスキルは必要だし、仕事を得るための努力は必須だ。

一家の大黒柱であれば、甘いことは言ってられないだろう。

 

ただ、なんども書くけど、フリーランスは「どれだけやるか」を自分で決められる働き方。

全員が超一流を目標とする必要はないし、月収3万円のフリーランサーだって、本人が満足して仕事を楽しんでいればそれでOK。

 

フリーランス人口が増え、さまざまな働き方が浸透し始めている現在。

パワー系フリーランスの大きな声で、「フリーランス」という働き方が誤解されないことを祈る。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Dushan Hanuska)

いきなり全然関係ない話から始まって申し訳ないんですが、皆さんドラえもん好きですか?

しんざき家では、子どもたちが全員くまなくドラえもん好きでして、長男は今でも原作ドラえもんをちょくちょく読み返していますし、毎年大長編ドラえもんを家族5人で観に行っては、長女次女辺りはルナとルカごっこをやったりセーラごっこをしたりしている訳です。

 

ドラえもんで一つ、私が凄いと思っているところが

「40年近く前に出てきたひみつ道具が、最新の映画でも何の違和感もなく使われている」ということです。

 

例えば月面探査記ではお馴染み「桃太郎印のきびだんご」が出てくるんですけど、これ初出1975年なんですよ。44年前。

44年前の漫画で出てきたアイテムが、最新の映画で何の違和感も古臭さもなく使われている。

 

40年以上くさらないアイディアと発想っていうのも凄いですけれど、そこを中核にして、大人も子どもも何の違和感もなく同じ土台で感想語りが出来る。

40年以上にわたってシームレスで楽しまれ続けているコンテンツって本当に物凄いですよね。

 

ところで、ドラえもんの作者である藤子F先生が、かつて好んで使われた言葉として、「SF(すこし・ふしぎ)」という言葉があります。皆さんご存知ですよね。

 

F先生は、勿論様々なSF短編を描かれているんですが、F先生ご自身は、それらを「サイエンス・フィクション」ではなく、「ありふれた日常の中に紛れ込む非日常的な事象」というテーマで描かれていた。

 

それを端的に表した言葉が、F先生の言う「すこしふしぎ」であると、そういう話なんですね。

登戸にあるドラえもんミュージアムに行かれると、この辺の話詳しく読めるんでお勧めです。

楽しいですあそこ。

 

***

 

それはそうと私の考えでは、F先生の少し前に、この「すこしふしぎ」を実践していたSF作家がいます。

 

その人の名前は、レイ・ブラッドベリ。

2012年に逝去されたSF小説の大家であって、しんざきが「好きな作家を3人挙げてみて」と言われれば必ず入る一人でもあります。

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しんざきは海外SF小説というジャンルが好きなのですが、中でもR・A・ラファティ、オースン・スコット・カード、そしてブラッドベリの3人は、作者名をみると無条件で手にとってしまう程度には偏愛しています。

 

ブラッドベリの特徴は、作風というか、その世界設定の幅がとにかく「広い」ということです。

世界観が縦横無尽。遥か未来であることもあれば、異世界であることも、中世ヨーロッパであることも、まるっきし現代のその辺の街であることもある。

その枠は、いわゆる「SF」の枠には到底収まり切りません。

 

SF小説として手に取ってみれば、「これはSFなのか…?」と首を傾げてしまうようなものもあります。

ブラッドベリの世界の中には、SFもあれば、ファンタジーもあり、ホラーもあり、歴史もあるのです。

 

そして、その世界観の中には、必ずその世界観の中での「日常」があります。

 

たとえ現代のわれわれからすると奇想天外な世界観であっても、ブラッドベリはそれを「作中の中でのありふれた日常」として再定義してしまう訳で、そこもまたブラッドベリの凄いところなんですが、登場キャラクターがそれぞれ過ごしている「日常」の中、どこかに「不思議」への入り口があり、気が付くと読者はその入口を踏み越えている。

そこで味わうことの出来る浮遊感が、ブラッドベリ作品の真骨頂だと、私はそんな風に思っているのです。

 

ブラッドベリは「何かが道をやってくる」や「華氏451度」のような長編も勿論書いている訳で、これも勿論超面白いわけなんですが、やはり「短編集の名手」という印象をお持ちの人はおそらく多いと思われ、そんなブラッドベリの短編集の中でも私が大好きな二作が、「十月はたそがれの国」と「ウは宇宙船のウ」の二冊です。

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有名作なのでご存じの方も多いとは思うんですが、勿論そんな中でも未読の方もいらっしゃる筈で、本記事では、「ウは宇宙船のウ」の中から私が大好きな一作、「霜と炎」という短編についてご紹介したいと思います。

 

***

 

「霜と炎」は、地球ではないどこか別の星の物語。

地球より遥かに太陽に近いその惑星では、人間の寿命がたった8日間しかありません。生まれてから、成長して、恋愛をして、時には戦争をして、老衰で死ぬまで、たった8日間。

 

まずこの設定の時点で、物凄い舞台立てだと思いませんか?

 

遠い昔、宇宙船でその惑星に不時着した人々の生き残りが、その8日間の世代を繋いでいます。

日中は数秒で人が死ぬ酷暑、夜間は僅かな時間で凍死する極寒。

 

人々は、昼と夜の境目のほんのわずかな時間だけ、外で行動をすることが出来ます。

棲む洞窟によっては、ほんの数日寿命が延びることもあり、人々はその洞窟の居住権、つまりはほんの数日の寿命を巡って死ぬか生きるかの戦いをすることもあります。

 

主人公は、そんな惑星に生まれ落ちた少年「シム」。

種族的な記憶を受け継いだ彼は、生まれてすぐにこの状況の理不尽さを直感し、どうすればこの状況から脱することが出来るのかということを考え始めます。

 

ただ一つの希望は、まさにこの惑星に不時着した宇宙船。

宇宙船までたどり着くことさえ出来れば、致命的な太陽から身を護ることも、惑星から脱出することも出来るかも知れない。

 

しかし、外で行動出来る猶予のほんの十数分という時間は、宇宙船にたどり着くにはあまりにも短過ぎる。

こんな状況での、シムの成長、戦い、恋愛、挑戦を、ほんの80ページほどの短さで描き出しているのが、この「霜と炎」という作品です。

 

ブラッドベリのまず凄いところは、この「たった8日間の人生」という凄まじい状況でも、そこに「その中での日常」というものを表現してみせている点です。

 

例えば、夜が明けて朝になると、絶壁から岩石が落ちてくるのを避けながら、外に出て食べ物を探すことの出来る時間が訪れる。

僅かな間に素早く育った果実を収穫し、時には緑草を奪い合い、日光が致命的な角度になるまでに素早く洞窟に逃げ帰る。

時には落石に潰されて死に、時には太陽が昇るまでに洞窟にたどり着けずに焼死する。

 

それが、作品世界内では何度も何度も繰り返されている「日常」な訳であって、人々がなんら違和感なくそれを「日常」としてとらえていることが、まずこの「霜と炎」では描かれているわけなんです。

 

文字通りあっという間に人が生まれて、あっという間に人が死ぬ。そういう日常。

で、その「日常」から足を踏み出そうとするシムが、その世界の中では異質な存在なんですね。

 

この「霜と炎」という物語は、短編SFでありながら、シムというキャラクターの成長物語、あるいは英雄譚、冒険譚でもあります。

 

シムが生まれてたった1日後の描写、これが私物凄く好きなんですが、ちょっとだけ引用させてください。

シムは思わず大きな声をあげて、ともかくこの世に生まれてから初めてのことばを口にした。

「なぜだ…?」

みるみる母親の顔がはっとこわばった。

「あの子は口をきいた!」

「たしかにな」と父親はいった。

「あの子がなんといったか聞いたかね?」

「聞いたわ」と母親はひっそりといった。

生まれて初めて口にする言葉が「なぜ」。

 

このシーン、他にも色んな意味で印象的かつ象徴的なシーンなので、是非読んでみて頂きたいんですが、シムというキャラクターの基盤が、この本当にただの一言で表されているんですよね。

 

生まれて僅か1日で、シムというキャラクターは探究者になった。

このシムの探求、「宇宙船にたどり着く」というただ一つの目的を追いかけるのが、この「霜と炎」という作品のまさに中核です。

 

ここから描写されるシムというキャラクターの魅力が、「霜と炎」の魅力の大きな部分を占めています。

 

意志が強く、ひたすら目的にまっすぐで、一方目的の為なら犠牲や切り捨てに思い悩んだりもしない。

シムって、実は物語中で結構な人や思いを切り捨ててるんですよね。

普通の作品ならもうちょっとその辺に思い悩みそうなところ、全く気にした様子を見せないのも、この世界の「日常」というシビアさの、ブラッドベリ流の表現の一つでもあるように思います。

 

そんなシムと争うことになる勢力やキャラクターもあれば、シムに寄りそうことになるキャラクターもいます。

この物語のヒロイン的な立ち位置にあるのが、シムと同じ洞窟に生まれた少女であるライトなんですが、彼女も実に味のあるキャラクターでして。

 

一途にシムについてくるヒロインでありながらも、物凄く意思は強いし根性もあるし、けれどちゃんと人間くさいところもある、まさにこの作品ならではのヒロインなんです。ライトさん可愛い。

 

シムとライトの二人がたどり着いた場所には何があるのか。

未読の方には、是非読んでみて頂きたいと考える次第なわけです。

 

とてつもない世界観設定でありながら、きちんと冒険譚として成立していて、物語上の問題とその解決の為のギミックもあって、かつ読後感も爽やか。

 

そんな物語がこの「霜と炎」だ、という話でした。

この「霜と炎」以外でも、この「ウは宇宙船のウ」には色んな名品が含まれています。

 

中には、他の色んな作品に本歌取りされることによって、今ではむしろ新鮮に感じられなくなった作品もあるかも知れないですが、それでもブラッドベリの作品が輝きを失わないのは、彼の世界観の圧倒的な広さ、奥深さ、そして根本で描かれる「日常」の普遍性に依るとしか言いようがないでしょう。

 

作品全体の雰囲気がどこか寂漠としている「霧笛」、宇宙人との抗争というモチーフを取りながらも宇宙人自身は一切姿を現さない「長雨」のような有名作もさることながら、宇宙時代にも裕福ではなく、けれど生き生きとした庶民の生活を描く「宇宙船」や「いちご色の窓」なんかも、現代でも十分に通用する名作だと言っていいのではないかと思っています。

 

まあ私が言いたいことを二行でまとめますと、

・ブラッドベリ面白いですよ!!特に「ウは宇宙船のウ」、その中でも「霜と炎」がブラッドベリ初心者にもお勧めです!!

・ライトがかわいい

ということになりまして、他に言いたいことは特にない、ということを最後に申し添えておきます。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:GPA Photo Archive

先日、友人の出演するDJイベントに行くことになった。

わかりやすく言うとクラブみたいな感じ。

 

イベント会場ではごはんは出ないので、会場に行く前に近くのラーメン屋さんに入った。

私は昔からつけ麺が大好き。特にスープが魚介系の濃厚なやつ。

というわけで、つけ麺の麺硬めを注文して一生懸命食べていた。おいしかった。

 

知らない人にちょっとしたお願いをするのは良くないこと?

私が食べている時に、新しく3人組のお客さんが来た。

 

そこはカウンターしかないお店で、そんなに大きくはなかった。

満席ではないものの、その時席は割と埋まっていて、3人で並んで座れる席はなかった。

 

彼女たちは「(並んで座れるよう)席が空くまで待ってます!」と店員さんに言っていた。

でもふと見ると、私の右側に二席、左側に一席あいている。

「お、三人で座れるじゃーん」と思って横にずれた。つけ麺と一緒に。

 

そしたら、むっっっっっちゃ恐縮された。

感謝というより「恐縮」。

 

なんなら、一度は「いえいえそんな!ずれていただかなくて大丈夫です!」って断られた。

その方だけじゃなくて一緒にいた人も「大丈夫ですよ」っておっしゃっていた。

 

ちょっとびっくりした。

私としては、むしろ「すみません~ずれてもらえますか?」と積極的に言っていただいて良い位のシチュエーションだった。

 

ちなみに、こういう時私は結構言うタイプ。

「そんなにコストじゃないと思うし一旦お願いしてみよっ、ダメだったら仕方ない!」と思うからだ。

無言の「察してずれてくれ~」プレッシャーより、言った方が良いかな、とも。

 

なんとなく声をかけづらい世の中なのかな

なぜ、声をかけてお願いをしないのか。

それはやっぱり「自分の都合で人にコストを強いるのは申し訳ない」と思うからだろう。

その気持ちはわかる。

 

でもこういう遠慮が全面的に「美徳」「マナー」ということだとしたら、なんだかちょっと違和感がある。

もう少し敷衍すると、私が言いたいのは、もう少しみんなが声をかけあうことが増えたら良いのにな、ということだ。

 

例えば、券売機でおばあちゃんが切符の買い方がわからなくて困っている時。

ちょっと声をかけて教えてあげれば列も早く進むし、おばあちゃんも嬉しいだろう。

でも声をかけることをためらう。

 

例えば、飛行機で重そうな荷物を荷物棚にあげようとしている人がいた時。

手伝おうかな、手伝った方が良いかな、と思う。

でも声をかけることをためらう。

 

例えば、座っている人にちょっとだけ詰めてもらえれば自分も友達も2人とも席に座れそうな時。

ちょっと一言、お願いしようかなと思う。

でも声をかけることをためらう。

 

ちょっと声をかければ、幸せな人が増える場面はたくさんありそう。

ちょっとした他人との関わりを持ちやすい社会はきっと暮らしやすいし、人の心をあたたかくもすると思うのだ。

 

だから、ちょっと思い切ってちょっとした「相手への声かけ」を、可能だったら「お願い」も、もう少ししてみても大丈夫なのではないかあ。

 

行為に対する解釈を高度にしてしまうのは、日本がハイコンテクストな社会だから?

なんとなく上記のことに共感していただけたとしても、とは言え「知らない人にちょっとした声かけをする」には、やっぱり色々なハードルがある。

 

あえて言語化してみると、「自分にとっては良い/問題がないと思っていることでも、受け手にとっては逆に迷惑かもしれない」という可能性をどこまで考えてしまう、からではないだろうか。

 

例えば、「電車で席を譲る、ということをためらってしまう」のがその好例だ。

具体的には下記のようなことを考えて、足踏みしてしまうのではないだろうか。

 

① 良かれと思って席を譲ろうとしたことが、相手にとっては「年寄り扱いされた」など不快感をもたらすかもしれない、と考え、逆に申し訳ないかもと思ってしまう

②「席を譲られたら、(上記のような理由で)実は嫌でもNOと言いづらいかもしれないな」と考え、「申し訳ないかも」と思ってしまう

 

こうやって書いてみて思うのが、なんだか、我々は行為に対する解釈が極端に高度な社会に生きているのかもしれない。

 

人の気持ちや状況なんてわからないものはわからないから、考えまくって不安になっても究極のところ無駄だ。

いくら考えても、「考えたことと相手の反応が違った」というリスクをゼロすることはできない。

 

リスクをゼロにできないならやめとく、と言っていたら何もできない。

リスク、というか認識の齟齬をすり合わせるために「コミュニケーション」があるんだと思う。

 

・・・そんなことは口ではなんとでも言える。でもためらってしまうのが現実だ。

 

それは、日本が「ハイコンテクストな村社会」だから、だろうか。

ハイコンテクストな村社会だから、コンテクストを読み切れず、「そぐわない可能性がある」行動をして、それで断られることを極端に恐れる。

 

そう、「他人に声をかける」ならば、「確実にうまくいく」ときしかだめ。

だから慎重になるし、無意識のうちに、失敗は許されない、という気持ちになるのだろう。

 

そうやって書いてみると、なんだかちょっと生きづらいなあ。

 

私は自分のことも相手のことも大事に考えて、行動を続けたい

私もちょっとしたフリクションを恐れて、声をかけることをためらってしまうことは、ままある。

 

でも一般的な東京の人よりはだいぶ周りの人に声をかける方だと思う。

(ちなみに、それは少し海外に住んでいて、「言わなきゃ伝わらない」とか「言ったらうまくいった」という体験をしたからだと思う。)

 

大層なことをしているわけじゃないけど、声をかけて人とかかわりを持つことを通して、嬉しい体験が今まで何回もあった。

だからこそ「もっとお互いが声をかけあえるようになったら、もっと過ごしやすく嬉しい気持ちになることが増えるんじゃないかなあ」と思っている。

 

相手のことを思い、必要だなと思った時に声をかけるのは、私自分のためにも相手のためにもなることだと私は思う。

 

もちろんたまにうまくいかないけど、だからと言って辞める理由でもないし、それはそれでいいんじゃないかと。

(同時にこんな宣言するほど大層なことでもないと思ってるけど)

 

今日も街で、私は私が必要だなと思ったら、周りの人に声をかけますよう!

今日は以上です!

 

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【プロフィール】

滝沢頼子

1991年生まれ。大学卒業後、UXコンサルとベンチャー2社を経て、現在はフリーランスとして幅広く活動中。

上海に2回住んだことがあり、中国に関する情報発信、視察アテンドや講演なども行っている。

神楽坂とワインとももクロが好き。

ウーパールーパー、カピバラなどの目が離れている生き物に似ていると言われがち。

ブログ:たきさんのちゃいなブログ

twitter:takiyori0608

note:たきさん

(Photo:John Zacherle

先週のしんざきさんの記事

「職位が高い人間ほど、技術的な実務から遠ざかってしまう」のを解消しようとして、失敗した時の話。

を読んで、思い出した話があったので、書いてみたい。

 

この話のキモは、なんと言っても次の部分である。

細かい不満は色々とあったんですが、突き詰めてみると

「コーディングが出来るのはいいんだけど、ぶっちゃけ職位が下のヤツにあれこれ管理されるのはなんか嫌」

という、言ってしまえば極めて感情的な問題がその状況の根本原因でした。

上の話の通り、会社には、「格付け」やら「序列」やらに、強いこだわりを見せる人が、本当にたくさんいる。

彼らはわずかでも「軽んじられた」と感じると、子供のように拗ねてしまう。

 

例えば、こんな具合だ。

「俺のところに会議の出席案内きてないけど?」

「なんで部長に言う前に、俺のところに持ってこないの?」

「これ、席順が間違ってるだろ。」

 

それは極めて強力で、冷静な判断、合理性や優先度を簡単に凌駕してしまう。

いや、突き詰めると、社内のトラブルの根源は、ほとんどすべてが「序列へのプライド」と言っても良いかもしれない。

 

給料への不満然り。

昇進昇格に関わる足の引っ張りあい然り。

縦割りによる部門のいがいみあい然り。

パワハラ然り。

 

例えばこんな記事がある。

ソニーが新卒に「初任給730万円」、最大のカベは中高年社員の嫉妬!?

これまでも有能な若手社員に対して高い賃金を払う制度を検討した企業は少なくないが、中高年社員の反対で導入が見送られるケースが多かった。

ある金融系企業では、高度人材を処遇する制度を構築したものの、部長クラスの社員が「俺より給料が高いヤツが出てくるのはケシカラン」と反対して、制度の導入はあっけなく見送られたという。

(ITmedia)

グローバルで競争するために有能な人材を獲得しなければいけないことは、彼らも「頭では」わかっている。

むしろ、GAFAの出す給料に比べたら、730万円なんて、少ないくらいだ。

 

だが、序列重視の人物には、それが憎くて仕方がない。

グローバルの給与水準がなんだ、俺は20年も頑張ってきたんだ、実績も上げてない新卒に730万円?ふざけんじゃーねーよ!

と、自分の実力とは無関係に思ってしまう。

それが人間だ。

 

もちろん、こういったプライドを持つ人は、世界中にいる。

例えば米国では「エゴチスム」と表現されている。

エゴチスムは、「自己中心的な態度」を指し、組織人の最悪の病であり、組織に深刻な病理を引き起こす。

立派な大人が、自分のオフィスのカーペットの色合いや、窓からの眺めが気に入らないからといって、完全に取り乱し、まるでヒステリーのようになるのを私は見てきた。

マネジメントの第二あるいは第三ぐらいの層にも、そういう人間はいた。虚栄とエゴチスムは最高経営者の専売特許ではない。(中略)

彼の思考は硬化してしまっている。おまえではなくおれがボスだ、おれは世界一利口な人間だ、だからおれが何をすると決めたらそれが正しいのだ、というのが彼の態度だ。(中略)

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このような幼稚な「エゴ」を抱えた人々が、日々社内にトラブルを生み、まともな人々はその対応に追われ、大事な仕事ができなくなる。

こうして、組織は少しずつ衰退する。

 

昔ながらの「上意下達」の組織では、彼らは「下」を従わせる役目で活躍できた。

だが、「知識」を扱う現代の会社では、彼らを組織に入れるデメリットが大きい。

 

 

話を戻そう。

冒頭の記事を読んで思い出した会社がある。

「上下関係にこだわる人を絶対に会社に入れたくない」としていたあるテクノロジー系の会社だ。

 

「頭の善し悪し以前に、そんな人がいると、それだけで周りの人は10倍疲れてしまうから、絶対に排除する」と、トップを始めとした役員たちは考えていた。

 

「どうやって排除するのですか?」と聞くと、人事の役員は

「「人を見下すクセがついてしまっている人」を、とにかく排除するように努めています」という。

 

「人を見下すクセのある人」なんて、どうやったらわかるのだろう?

私はどうすれば、そういう人を見抜けるのか、と聞いた。

 

「もちろん、簡単には見抜けません。一見、人当たりのいい人も多いですから。」

「では……?」

「前提として面接だけでは分かりづらいので、試用期間中に時間をかけて見ます。その際に「能力に対する考え方」に注意します。」

「考え方?」

「はい、例えば「人間の知能は、努力次第で大きく伸びると思うかどうか」などです。」

 

色々な考え方がありそうだ。

「どのように判断するのですか?」

「「伸びると思います」とお答えいただいた方は、弊社で活躍できる人です。「あまり伸びない」とか「知能は生まれ持ったもの」とお答えいただいた方は弊社では活躍の場はあまりないと思います。」

 

私は聞いた

「しかし……、学者の間でも意見が別れていると思います。正解はないのでは?」

 

役員は即答した。

「この場合は「事実としてどちらか」は、本質的にはどちらでもいいのです。これは「考え方」を見ているのですから。」

「どういうことでしょう?」

「知能などの資質が「固定的」と考えている人は、統計的に「勝ち負け」で判断することが多いです。能力や序列において「勝ち」にこだわりすぎるし、人を無意識に見下すクセがついている。」

「勝ち負け。」

「そうです。」

「本質的に、事業にとって個人の勝ち負けなど、どうでも良いと思いませんか?これは我々のように知識を扱う人間にとって、重要な考え方です。」

「……。」

「真に能力の高い人は、自分の能力について客観的に知っているので「勝つ」必要を感じていませんし、能力を誇示する必要も感じません。

 

「真に高い能力を持っている人は、勝つ必要を感じない」という言葉は私にとって衝撃だった。

たしかにそのとおりだ。

 

そして最後に、その役員は言った。

「なかなかそういった人を完全に見抜くのは難しいのですが。こういった採用を始めてから、いわゆる「マウントを取る人」が社内からいなくなりました。素晴らしく働きやすいですよ。」

 

そういえば、下の記事で「Googleの社員はみんなめっちゃいい人」と書かれていたが、それに通じるものがあるかもしれない。

Googleの社員食堂に感じた、格差社会のリアル。

「この仕事について驚いたのが、民度が高すぎるって事ですね。性格が悪い人が全然いない」

「どういうこと?」

「例えば、日本企業だったら仕事を押し付けてくる人とか、何もしない人とかいるじゃないですか。Googleだと、むしろ周りの人間が気を利かせて勝手に仕事やってくれちゃったりするんですよ。だからボケっとしてるといつの間にかタスクが無くなってる」

 

「中学受験」を描いた漫画、「2月の勝者」でも、「みんなが「自分は1番」と思っている学校では、比較もいじめもない」と言うシーンがあった。

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そう言えば、この会社の「判断基準」には元ネタがある。

10年ほど前に流行った「マインドセット」という、スタンフォード大学の心理学教授、キャロル・ドゥエックによる考え方だ。

 

彼女は、人間のマインドセットを大きく2つに分類した。

 

一つは、自分の能力は石版に刻まれたように固定的で変わらないと信じている「硬直マインドセット」の人。

硬直マインドセットの人物は、教室でも、職場でも、人づきあいの場でも、自分の有能さを示すことばかりに心を奪われている。

ことあるごとに自分の知的能力や人間的資質を確認せずにはいられない人たちだ。

 

そしてもう一つは、持って生まれた才能、適性、興味、気質は1人ひとり異なるが、努力と経験を重ねることで、だれでもみな大きく伸びていけるという信念を持つ「しなやかマインドセット」の人である。

 

しなやかマインドセットの人物は、自分をダメと決めつけてさじを投げたりしない。

苦境に追い込まれても、失敗をおそれずに試練に立ち向かい、こつこつと努力を積み重ねていく。

現時点での自分の能力についての情報を、不本意であってもありのままに受け入れ、「学び」に重点を置き、文句をいうのではなく、自分を向上させることに時間を使う

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もちろん長期的には「硬直的マインドセット」の人が「しなやか」に変わることもあるだろう。

人間の能力は、決して固定的ではない。

(参考:全員がクリエイティブな仕事をすることが可能か、と言われれば、おそらく可能である。

 

だが、現時点で「上下関係にこだわる人を、絶対に入れたくない」というならば、「マインドセット」に着目するのは、有効そうである。

そんな話を、冒頭の記事を見て、ふと思い出した。

 

 

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(Photo:Christopher Michel

地方の医療現場で働いていると、自分と同じ世代だけでなく、年下世代の結婚話や子育ての話、家族の話を耳にすることが多い。

と同時に、私の学生時代の友人やインターネットで知り合った友人が首都圏に住んでいるので、大都市圏でのケースを耳にする機会もよくある。

 

ここ最近、私の生活圏では「嫁入り」の話をよく聞く。

年配の方が「最近の若い人は、旦那さんの実家に入るのを躊躇わないねえ」なんて言うものだから、私は驚いてしまった。

 

地方の国道沿いに住んでいるぶんには、いわゆる三世帯家族は珍しくない。

同じ敷地内に二棟を建てている例も含めると、かなりの割合が三世帯家族だろう。

 

ところが最近耳にするのは、嫁と姑が同じ家で生活するような、そういうパーフェクトな三世帯家族のほうである。

なら、昭和時代の『渡る世間は鬼ばかり』のような嫁姑の確執があるかと思いきや、サバサバと嫁入りして、サバサバと付き合っているという。

 

というより、サバサバと付き合っていけるような家庭に、サバサバ付き合っていけるような嫁が嫁入りするような感じ、なのだという。

 

ひとことで「嫁入り」とは言っても、昭和時代のソレとはだいぶ雰囲気が違っているようだ。

 

地方では珍しくない三世帯同居

こうした私の周囲の話は、単なる偶然なのか、統計的にも裏付けられる傾向なのか。

 

気になったので調べてみると、国土交通省『平成25年 住生活総合調査』がそのものズバリを調べていた。

これによれば、

一方、「親、子などとの同居・隣居・近居」は概ね増加しており、平成 5 年の 4.1%から平成 25 年の 10.6%になっている。

とあり、近年、親子同居・隣居・近居が多数派とは言えないまでも、増加していることがわかる。

私の生活圏で見かけているのは、この、増加している部分なのだろう。

 

他方で、首都圏で子育てしている私の友人は、すべて核家族である。

これは、私が地方の進学校出身で、首都圏に進学した友人が実家から距離のある、いわゆる隔絶核家族にならざるを得ないせいかもしれないし、インターネットで出会った知人たちの価値観やライフスタイルに偏りがあるせいかもしれない。

だが、地域による違いも多分にあるだろう。

『都道府県別統計とランキングで見る県民性』が作成した、三世代世帯人数の違いをマッピングした図表を見ると、それがよくわかる。

 

これによれば、関東や関西の大都市圏では三世帯家族は少なく、特に東京は全国で最も三世帯家族が少ない(人口100人あたり4.16人)。

神奈川、千葉、埼玉といった東京近郊がこれに続いている。

一方、私のルーツである北陸地方や中部地方は三世帯家族が多い。

 

首都圏のほうを見ていれば三世帯家族は珍しかろうし、北陸地方や中部地方のほうを見ていれば三世帯家族は珍しくなかろう。

私の肌感覚は、それほど統計とはズレていなかったようだ。

 

「三世帯家族のデメリット」を織り込み済みの結婚

三世帯家族については、経済的メリットだけでなく、心理的デメリットがしばしば語られてきた。

曰く、自由がきかない、嫁姑の問題がある、等々。

 

確かにそれらは問題たりえたし、だからこそ昭和時代には人気ドラマのテーマにもなった。

現在でも、都会で一人暮らしを長く続けていた人がいざ親と同居するという話になったら、かなりの心理的抵抗を感じるだろう。

 

だが、「現在の・地方で・結婚できる」男女にとって、これらはどのぐらい問題たり得るだろうか。

自由がきかないとはいうが、そもそも、東京に比べて地方には自由が乏しい。

 

もちろん昭和時代に比べれば、地方の若者とて自由にはなった。

それでもなお、家族に対する考え方や人生に対する考え方は首都圏の若者より保守的だ。

それこそ北陸地方や中部地方の、地元で完結した生活をし続けてきた若者の考える自由は、大都市圏で生活し続けてきた若者の考える自由や、大都市圏に飛び出していく若者の考える自由に比べると狭い。

 

自由が狭いということは、一見、不幸なことのようにみえるかもしれないが、そうとは限らない。

自由に対する要求水準が低いほうが、自分の生きている世界にむやみに疑問を感じなくて良いということでもあるし、不自由だと嘆かなければならない場面も少ない。

 

また、嫁姑の問題にしても、さきほど述べたように、サバサバした嫁と姑の間柄なら問題はない。

地方でもお見合い結婚の時代はとうに終わり、男性も女性もお互いを選ぶことが当たり前になっている。

サバサバした間柄になれそうにない姑がいるなら、嫁入りしなければ良いだけの話だ。

 

つまり、男女だけでなく実家も含めて選び/選ばれる時代だから、気難しい家庭や居心地の悪い家庭は、同居の対象として選ばれない。

選考のプロセスがきちんとしている限り、『渡る世間は鬼ばかり』的なリスクはある程度回避できる。

 

大都市圏の人々がいささか誇張気味に想像するような、古臭い考え方の年配者、それこそ男尊女卑的で「年上は敬われて当然」といった態度をとる年配者が地方に存在するのも事実ではある。

だが、そのような親がのさばっている家は嫁入りや婿入りには選ばれない。ただそれだけのことだ。

 

地方の家は……広い!

そして地方の家にはキャパシティがある。

 

都市部の核家族の住まいとは別次元の広さの家屋が、地方では少なくない。

建坪面積が数十坪の地方家屋のキャパシティは、三世代世帯をいとも簡単に受け止めてしまう。

 

吉川弘文館『日本の民俗5 家の民俗文化誌』によれば、昔の農家や武家の間取りにはプライバシーの概念が欠如していて、個人がそれぞれの部屋を持つことができなかったという。

[amazonjs asin="464207872X" locale="JP" tmpl="Small" title="日本の民俗 5 (5) 家の民俗文化誌"]

 

鈴木成文『「いえ」と「まち」住居集合の論理』を読むと、そうしたプライバシーの欠如は戦後の住宅にも引き継がれていて、その後もゆっくりと近代化されていったさまがみてとれる。

[amazonjs asin="4306051900" locale="JP" tmpl="Small" title="「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190))"]

 

しかし、きちんと増改築された現代の地方の家屋はそうではない。

大人数が生活できるだけのキャパシティと、近代風のプライバシーを両立させている。

都内の集合住宅に慣れ親しんだ人がイメージする三世代世帯と、地方の家屋に慣れ親しんだ人がイメージする三世代世帯は、たぶんイコールではない。

 

後者に慣れ親しんでいる人なら、三世代世帯を忌避する理由はあまり無いのではないだろうか──人間関係がクリアされている限りにおいて。

 

もちろん地方にも核家族を志望する人はいて、彼らは真新しいニュータウンに小さな家を建てて、首都圏の同類とほとんど変わらない暮らしをしている。

 

それはそれとして、大きな家屋で育って三世代世帯にも抵抗が無く、そのメリットをよく心得ている人もまだまだ残っている。

前掲の住生活総合調査のグラフなどは、そうしたメリットが見直されていることのあらわれのようにもみえる。

 

大都市圏に比べて地方は仕事の種類も少なく、個人の年収を高めるのも簡単ではない。

 

だが、三世帯が同時に暮らし、大人2人、いや、3人以上で稼ぐとなれば話は違ってくる。

子どもを育てるという点でも、三世帯同居のメリットは小さくない。

地方の大きな家屋は、そうした暮らしを可能にしてくれる。

 

地方ならではの「勝ち組ライフ」

個人の年収では大都市圏に見劣りしがちな地方の人々が、大きな家に寄り集まって暮らそうとするのは、経済的にも、子育ての利便性からいっても、きわめて合理的な選択だと私は思う。

 

ひとりひとりの年収では首都圏のサラリーマンにかなわなくても、みんなで稼げばそれなりの金額になるし、地方に暮らしていれば“意識の高い消費”にお金を費やさなければならない度合いも少なくて済むからだ。

 

と同時に、いまどきの三世代世帯は、結婚する男女はもちろん、祖父母のコミュニケーション能力や人間性まで見定められたうえでスタートするわけだから、【三世帯同居=古き悪しき昭和の嫁姑】といった葛藤の構図も当てはまらない。

 

大都市圏の「勝ち組」ライフスタイルとは異なるけれども、これはこれで、ひとつの「勝ち組」的なライフスタイルではないだろうか。

 

むろん、こうしたライフスタイルを地方在住のすべての人が選べるわけではないことは断っておこう。

あらかじめ地の利があって、嫁や婿に選ばれるのにふさわしい家庭環境が揃っていること、つまりコミュニケーション能力や人間性に支障のない家庭環境であることが条件だ。

地の利も無く、家庭環境に問題のある地方在住者には、このようなライフスタイルは望むべくもない。

 

大都市圏の核家族とは要求されるリソースの種類も、「勝ち組」としてのスタイルも異なっているが、地方でも結局、「リソースを多く持った者がますます繁栄しやすい」という法則は変わらない。

世知辛いことではあるけれども、みんな生きるのに必死なのだから、そうなるのも無理はない。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="4781616380" locale="JP" tmpl="Small" title="「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:devra

コンサルティング会社に勤務していたとき。

 

個人的にはいわゆる「交流会」的な催しに参加するのがあまり好きではなかった。

なんとなく、交流会で仕事を探すのは失礼な気がしたし、興味のない話に付き合うのもつかれるからだ。

 

ところが、独立してからしばらくしてからのこと。

私の尊敬する知人が交流会をプロデュースするというので、「ぜひ参加してくれ」と、勧められた。

 

あまり気は進まなかったが、顔を立てる意味で、参加した。

だが、正直に言えば、会そのものでの出会いには、期待をしていなかった。

 

そして、その会の直前。

知人から連絡があった。

「めっちゃ面白い人、来てるんですよ。◯◯さんと◯◯さん。紹介します。」

「あ、ありがとうございます。」

そして、知人は何人かの人物を紹介してくれた。

その時、私は、「記事を書いている」と自己紹介した。

 

すると、何人かの方が非常に興味を持ってくれ、

「どんな記事ですか」

「どうすれば読まれますか」

「SNSはどのように使ってますか」

など、矢継ぎ早に質問を受けた。

 

私は知恵を振り絞って、なんとか彼らの知りたいことを提供しよう、と考えた。

すると、彼らの話も聞く必要があった。

 

私は、彼らのことをもっと知りたい、と思った。

 

 

結果的には、驚くべきことに、その交流会はとても実りがあった。

なんというか、まさに「人脈を得た」と言っても良いであろう、体験をした。

実際、その人々とは、後々までつながっている。

 

だが。

一体なぜ、そんなふうに思えて、交流会がうまくいったのか。

私は不思議だった。

 

そこで、いろいろと調べてみた。

すると、私の「人脈」の認識には問題があり、その本質は別のところにあることがわかった。

 

「人脈とは何か」と問われたら、なんと答えるか。

広辞苑を当たると、以下のようにある。

この説明においては、人脈という言葉には、「人と人のつながり」という意味以上のものは含まれていない。

とても客観的な表現であり、価値観の入り込む余地はない。

 

だが。

我々は「人脈をつくりたい」と言う人と出会うと、なんとなく警戒する。

たとえば以下のようなイメージである。

一体なぜこのように思ってしまうのだろう。

 

実は、これにはれっきとした理由がある。

トロント大学とブリガムヤング大学の共同研究に寄ると、人は「自らのための人脈づくり」=「不道徳」と考える人が多いのだ。

人脈づくりに汚らわしさを感じるのは、あなただけではない

多くの人々が仕事上の人脈づくりを、道徳的にも身体的にも汚らわしいと感じるほど毛嫌いしているようだ。

[amazonjs asin="B07485VGTR" locale="JP" tmpl="Small" title="人脈づくりが好きになる方法 DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー論文"]

人の本質として、「他者を、自己の利益を得るための手段とみなす」ことを嫌う。

それらは、間違いなく、多くの人に共有されている感覚なのである。

 

ところが、である。

話はこれだけでは終わらない。

 

同研究では「人脈づくり」は間違いなく、我々に富をもたらすことも、示している。

現代社会で人脈作りは欠かせない。仕事上の人脈次第で雇用機会やビジネスチャンスは増えるし、後半かつ深い知識を獲得できる。

さらに、人脈作りがイノベーション能力の向上やスピード出世、地位の上昇、権限の拡大につながることを示す研究は山ほどある。(中略)

たとえば、北米のある大手法律事務所に所属する弁護士一六五人を調査したところ、社内と社外の人脈をともに効果的に形成する能力が、弁護士としての成功を左右することがわかった。

我々が現代社会で、富を入手しようとすれば、人脈作りは避けて通ることのできない課題だ。

 

日本国内においても、「営業職のビジネスパーソン」を対象とする調査では、人脈をより活用している人は生産性が高い、との結果が報告されている。

営業職のビジネスパーソン1000人に聞く、「人脈に関する意識調査」を実施

「冬眠人脈」を活用すると人脈の共有頻度が1.8倍に。その結果、効果的な営業が出来ている実感にもつながる

冬眠人脈活用層は、非活用層よりも生産性が2.6倍高い

Sansan株式会社 ニュース

つまり、人脈作りは、一般的には「不愉快」なのだが、逃げて回っていても、ダメなのである。

 

不道徳と思ってしまうが、仕事のためには必要……

それが「人脈作り」なのだ。

 

 

では、私が上で体験したことは、どのように解釈すべきだろう。

件の交流会は、そういった「疚しさ」を全く感じないどころか、「とても良い体験だった」と感じたのだ。

 

そして、そのポイントは間違いなく、知人が人脈の構築のために、何が必要なのかを理解してる点にある。

それは、以下の点だ。

 

ひとつめ。

人脈が生まれるには「テーマ」が必要である。

 

あとから聞いたのだが、知人が私に紹介してくれた人々は、いずれも「情報発信」に興味を持ち、課題を抱えている人たちであった。

知人は、それを理解しており、「彼らを引き合わせたなら、お互いが満足するだろう」と、交流会への参加を促したのだ。

 

ふたつめ。

人脈が生まれるには「参加者のレベルを揃える」必要がある。

なぜなら、参加者の課題解決の視点にギャップがあると、人脈は生まれづらいからだ。

 

特に、参加者のレベルが高ければ高いほど、「多面的な見解」「高い視座」「教養」が求められるので、「何かを売りつけたい」という人は、全くお呼びではなくなる。

社長ばかりの交流会に、一介の営業マンが紛れ込むと、だいたいにおいて、メチャクチャ嫌がられるのは、そのためだ。

実際、知人は「交流会に誰を呼ぶかが、最重要事項」と言っている。

 

みっつめ。

人脈が生まれるには「一芸」が必要だ。

 

これも単純な話なのだが、「一芸のない人」と人脈を築きたいという人は、残念ながらあまりいない。

「知り合う必然性」がないからだ。

また、

「◯◯商事です」

「◯◯コンサルティングです」

「◯◯省です」

など、組織の肩書を一芸にする人もいるが、最近の交流会では「◯◯の専門です」という方のほうが、遥かに歓迎されると感じる。

 

実際、尖った専門性をもつ人々同士が集まる交流会の盛り上がりは、尋常ではない。

お互いがお互いをリスペクトする雰囲気が、自然に出来上がるのだ。

 

私を交流会に送り込んだ知人は、おそらくそれらをすべて、理解していた。

だから、私は意義を感じることができた。

彼にはとても感謝している。

 

 

なお、余談だが上で紹介した、ハーバード・ビジネス・レビューでは、「人脈づくりが好きになる方法」を、以下の四つと定めている。

1.「義務感での参加」ではなく「学習目的での参加」と考える

2.共通の関心を見つける

3.誰でも何かしらの貢献はできると考え、自分が提供できるものを広い視野で捉える

4.個人的な利益のためではなく、より大きな目的、課題解決のためにやっているのだ、と思う。

 

興味がある方は、記事と合わせて、お読みになってみるとよいのではないだろうか。

 

 

【お知らせ】

本記事は、名刺アプリ【Eight】のスポンサードによって制作されています。

「人脈」を構築したいなら、出会いを無限大の可能性につなぐ、名刺アプリEight(エイト)へ。

安達のEightアカウント(本記事の読者の方であれば、どなたでも、名刺交換リクエストを受け入れます。)

 

 

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(Photo:Matthew Montgomery

『ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から』(三井誠著・光文社新書)という本を読みました。

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「アメリカには、ダーウィンの『進化論』を信じない人が大勢いて、学校で進化論を教えることを拒否している」

そんな話を聞いたときには、「宗教って、無知って怖いな」と思ったのです。

 

僕が日本のメディアから受け取る情報には「リベラル側からみたアメリカ」が多いこともあるのでしょうけど、現代の覇権国家で、そんな人たちが核兵器のボタンを持ち歩いている大統領選挙の結果を左右しているのです。

アメリカのトランプ大統領は「地球温暖化はでっちあげ」と言っているんですよね。

 

この『ルポ 人は科学が苦手 アメリカ「科学不信」の現場から』という本は、長年、新聞社の科学記者をつとめてきた著者が、「科学の最先進国であるアメリカのもうひとつの顔」である「科学を信じられない人たち」を取材したものです。

 

これを読むと「人は正しいことを科学的に証明されれば、それを受け入れるはずで、そうできないのは『無知』だから」という僕の先入観が打ち砕かれていくのを感じずにはいられませんでした。

「科学はデータに基づき、それぞれの人の考え方の違いや立場の違いを超えた事実を提供できる」

そんな期待は、人間社会の生々しい利害の前にかすんでしまうのだ。米国での取材で、その現実を強く実感した。

 

共和党と民主党の二大政党の力が拮抗している米国では、科学的な成果でも、それぞれの人の政治的な立場によって受け止め方が異なる。これが際立つのが、地球温暖化に関する問題だ。

規制を嫌い自由な産業活動を推進する共和党と、環境保護に積極的な民主党の間で、地球温暖化に対する評価が極端に違うのだ。

 

米ギャラップ社の2018年3月の世論調査の結果を紹介したい。地球温暖化は人間活動が原因なのか、それとも自然変動の結果なのかを聞いた質問で、「人間活動が原因」と答えた人は64%だった。前年に比べて4ポイント減った。

支持政党ごとに見ると、共和党支持者では35%だった。前年よりも5ポイント低く、全体を押し下げた。人為的な地球温暖化を認める共和党支持者は、3人に1人なのだ。

 

一方、民主党支持者では89%に上った。前年よりも2ポイント高くなった。もともと支持政党によって大きな違いがあるが、それが広がっている。

地球温暖化は、人間が石油などを燃やした時に出てくる二酸化炭素のせいなのか、あるいは、たまたま自然の変化の一環で今が暑いだけという自然変動の結果なのかは本来、科学的に明らかにされる問題だ。

 

しかし、このような純粋に科学的に評価されるべき問題であっても、支持政党の違いによって、受け止め方が大きく異なる。科学よりも、自らの政治的な思いが優先しているといえる。科学的な研究結果だからといって、ありがたがって認めるわけではないのだ。

これを読んで、アメリカの支持政党による「断絶」の深さに驚くとともに、「共和党支持者のほうが、勉強していなかったり、ニュースをちゃんと見ない人が多いんじゃないの?」と思ったのです。

日本で同じ質問をしたら、支持政党による違いは、ここまでくっきりとは出ないと感じましたし。

 

ギャラップ社は、2010年から2015年にかけて、全米の6000人以上にインタビューし、温暖化に対する考え方と学歴との関係を調べたのです。

「地球温暖化は自然の変動によるものだ」と回答した人の割合を比べると、高校卒業までの人の割合は民主党支持者のなかでは35%に対し、共和党支持者のなかでは54%と、差は19ポイントだった。

一方、大学を卒業した人では民主党支持者の13%に対し、共和党支持者は66%と差が53ポイントにまで広がってしまった。

 

素朴な教育観によれば、勉強をすればするほど「正しい」理解に結び付き、誤解は解消し、わかり合えると思う。

しかし、現実では学歴が高い人ほど支持する政党の違いに応じて、お互いの考え方の違いが際立つようになるのだ。

 

「人は自分の主義や考え方に一致する知識を吸収する傾向があるので、知識が増えると考え方が極端になる」

地球温暖化やワクチンの安全性など科学に関するコミュニケーションの研究で知られるエール大学(北東部コネチカット州)のダン・カハン教授(心理学)はそう分析する。

まさに、「人は、自分が信じたいものを信じる」のです。

 

世の中にあふれているさまざまな知識を、真っ白な状態で吸収して正誤を判断できる人は少なくて、

「勉強することで、自分が信じているもの、信じたいものを補強できる知識を積極的に取り入れていって、いっそう信仰が深まっていく」傾向があるんですね。

 

思えば、キリスト教世界における「神学」は、「神が存在する」ことを「証明」するために、当時のヨーロッパで最高の頭脳を持った人たちが、さまざまな理論をつくっていったものです。

 

人の能力とか学習意欲というのは、「ゼロから世界を知る」よりも、「自分が信じている世界をより強固なものにする」ことに向かうことが多いのです。

 

ネットで(とくにSNSで)、社会問題に対して、リベラル(あるいは保守)を自称する高学歴の知識人たちが、陰謀論にとらわれていたり、あまりにも現実離れした主張や誹謗中傷を繰り返しているのをみて、「この人たちは、なんでこうなってしまったのだろう?」と疑問だったのですが、「自分が信じているものをひたすら理論武装しつづけた」結果なのかもしれません。

 

「学歴といっても、文系・理系とか、その大学の偏差値による違いもあるのでは?」という疑問も持ったのですが、カハン教授の調査では、「科学的な知識が少ない場合は支持政党による違いはないのに、知識が増えるほど支持政党の違いに応じた考え方の違いが大きくなった」そうです。

 

僕自身も「地球温暖化は人為的なものだと考えている」のですが、なぜ温暖化が起こるのか、というのを他者にわかりやすく説明できるほど「理解」できているわけではなくて、「みんながそう言っているから」「高名な学者がデータを用いてそう主張しているから」というくらいの根拠しか持っていません。

おそらく、大部分の人が、僕と同じくらいのレベルで「自分のほうが正しい」と思っているはずです。

 

自分で実験をしてデータを集めたり、論文を読んで確認したわけでもない「科学的な事実」によって、「こんなことも知らないのはバカ」と見なしているわけです。

多くの人が「この程度の根拠」なのですから、その対象との出会い方や周囲の環境が違えば、真逆の「真実」を信じていた可能性もあるんですよね。

 

現実的に、共和党支持者の集団のなかで生きてきて、「やっぱり民主党の言うことにも一理ある」と考えたとしても、今まで築いてきたコミュニティから追放されるリスクもあるなかで、「転向」するのはキツイのではなかろうか。

こうなるともう、「自分の属している集団に忠誠を尽くす」のが、いちばん面倒がないのです。

「科学的な事実」だからといって、それを他者に受け入れてもらうのは、本当に難しい。

 

著者は、南部ケンタッキー州にある「創造博物館(creation museum)」を訪れています。

この博物館は、神が生物を創り出したという「創造論」の世界を紹介するテーマパークのような施設で、キリスト教団体「アンサーズ・イン・ジェネシス」が2007年にオープンし、10年間で300人以上が来館したそうです。

 

2016年には、同じ団体が、創造博物館から車で1時間の場所に実物大の「ノアの方舟」を再現した姉妹施設が完成しました。

この方舟、なんと、全長155メートル!

実物大「方舟」について、別の解説員は「ここの展示を見ることで、ノアの方舟が神話でなく、本当の歴史であったことを理解できる」と胸を張っていた。

「本当の歴史」であることを示すために、「ノアの方舟」に対するよくある批判への回答も紹介されていた。

 

「ノアの方舟」が大きいとはいえ、巨大な恐竜をどうやって運んだのかという批判に対しては、「小さな子どもを乗せた」などと反論していた。

 

 

180万種にも上るとされる膨大な生物種をどうやって選んだのかという批判に対しては、こう答えていた。

「すべての生物種のうち、魚や植物、バクテリアなど方舟が運ぶ必要がない生物が全体の98%以上を占める。方舟は、陸に住む動物の祖先となる生き物を運べば十分で、運ぶ動物は1398種類になる」。

1398種類の動物を数ペアで運ぶために、動物の数は6744になったという。

 

ちなみに魚や植物、バクテリアなどは方舟が運ばなくても、洪水を生き延びることができるから、運んでいなかったのだという。

たしかに魚は泳げるし、植物の種は洪水が終われば芽を出すことができる。バクテリアもなんとか、生き延びたのだろう。

 

施設は3階建てになっていて、大きな動物を飼育する小屋から小さな鳥小屋まで整然と並んでいた。

展示の説明によると、大型の飼育小屋が186個、中型の飼育小屋は293個、鳥小屋は308個あるのだという。ほかに両生類専用のケージや、超大型の飼育小屋などもあった。

 

大き目の飼育小屋には、首の短いキリンの模型が展示されていた。現在のキリンの祖先なのだという。彼らの説では、同じキリンのグループのなかで、首の長さが変わるような進化は認められているようだった。

「こちら側」からみると、ツッコミどころ満載なのですが、ここまでの施設をつくり、数字を並べて、「ノアの方舟の実在」を証明しようとする人たちがいるのです。

これはこれで、「話の種としては面白そう」ではあるのですけど。

 

無知だから誤解している、というのであれば、説得できる可能性もありそうな気がします。

でも、「信じるための『自分たちにとっての科学』をつくりあげてしまっている人々」とは、「お互いにとっての正しさの衝突」が繰り返されるだけなんですよね。

 

インターネットが進化、普及することによって、「それぞれの立場をこえた議論」ができると期待していた人たちは多かったのだけれど(僕もそのひとりでした)、現状は「ネットがさらに断絶を深めている」ように思われます。

 

人は、「科学を信じている自分」を好きになったり、優越感を感じたりすることができても、「科学」そのものを信じるのは難しい生き物なのかもしれません。

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Noé Otero

日本がやばい。どの国もどこかしらやばいけど、日本はとくにやばい。

 

なぜかって?

人口高齢化のスピードが、ほかの国に比べて明らかに早いからだ。

 

最近人口減少と高齢化についての本を立て続けに読んだからか、自分のなかで危機感がかなり高まってきている。

 

諸外国に比べて婚外子が少ない日本では、未婚化は少子化に直結する。

そして今まさに未婚率が上昇しているのだから、そりゃやばいに決まってる。

 

そこで思ったんだけど、もし「お見合い結婚を復活させよう!」なんて言ったら、セクハラになってしまうんだろうか?

 

8割以上の未婚者が「結婚するつもり」なのに

さんざん「未婚率の上昇」と言われているから、「若者は結婚したくないんだ」と思っている人がいるかもしれないが、意外なことに大多数は「結婚するつもり」だ。

 

統計を見ると、18〜34歳の未婚男性の85.7%、未婚女性の89.3%が、「いずれ結婚するつもり」だと答えている。

さらに、25〜29歳の男性の約6割、同年代の女性においては7割以上が、「1年以内の結婚意思がある」(第15回出生動向基本調査)。

 

じゃあ、結婚する意思があるのに未婚の人が多いのはなんでだろう?

理由はいくつもあるけど、そのなかでもとくに目立つのが「相手がいないから」だ。

上の統計でも、25〜34歳の未婚者による「独身にとどまっている理由」トップは、男女ともに「適当な相手にめぐり合わない」となっている。

 

要は、「結婚したい人はいまだに多いが、相手がいないので未婚にとどまっている」のが現実なのだ。

 

結婚相手をさがすために「カネ」と「時間」が必要

そうなると、必然的に「出会い」の需要が高まる。

実際、「出会い」を提供するサービスの認知はどんどん進んでいる。

 

ブライダル総研による『婚活実態調査2018』によると、2017年に結婚した人のなかで婚活サービスを利用したことがある人は38.1%。

また、10人に1人は婚活サービスによって結婚しているようだ。

 

昔は「出会い系サイト」というとなんだかイカガワシイ感じがしたけど、いまやマッチングアプリでの出会いは「ふつう」。

自治体は堂々と街コンを開催するし、婚活コンサルタントがセミナーや出版で注目を集めることもある。

 

それだけ「出会いの必要性」が理解されているのだ。

 

でもこういったサービスを利用して実際に恋愛、結婚に結びつけようとすると、それなりにカネと手間がかかる。

 

マッチングアプリでは多くの人とメッセージのやりとりをし、そのなかから「会ってもいい」と思われるほどの信頼を勝ちとらなきゃいけない。

街コンでも、知り合う→デートのハードルを超えなくては恋人にはなれないし、場合によってはそれなりの参加費設定がされている(とくに男性)。

 

結婚相談所は、(ピンキリとはいえ)そこそこカネがかかる。

 

ブライダル総研が発表している『恋愛・婚活・結婚調査2015』では、「結婚に向けて意識的に行動して悪かったこと」の1位は「お金がかかった」(32.1%)で、「時間がとられた」(24.5%)が続く。

「結婚のために出会いを求める」だけでも、現状ではカネと時間が必要なのだ。

 

しかも結婚までの平均交際期間も伸びていて、1992年は恋愛結婚における交際期間は3.38年だったのに対し、2015年は4.59年。

出会いだけでなく、出会ったあと結婚にこぎつけるまでも、より長い時間が必要になっている(第15回出生動向基本調査)。

 

忙しくお金もない若者なんかだと、結婚のために行動すること自体が「高くつく」可能性が高いのだ。

 

他人が出会いを用意してくれる「お見合い」ってコスパがいいんじゃ?

では、インターネットの普及前、婚活サービスなんてなかった時代の人たちって、いったいどうやって出会っていたんだろう。

同じようにカネと時間を使っていたんだろうか?

 

いや、それはちょっとちがうはずだ。だって昔は、お見合い結婚も多かったのだから。

 

1945年、約6割がお見合い結婚だった。恋愛結婚の比率がお見合い結婚を抜くのは1970年ごろで、現在恋愛結婚は87.7%と大多数を占める(第15回出生動向基本調査)。

この統計においての「お見合い」の定義はわからないけど、昔は親類や友人、職場の人なんかが世話役となって、交際&結婚をセッティングしていたのだろう。

 

お見合い結婚は人間関係的に「ちょっと面倒くさそうだな」とは思うけど、一方で「結婚が目的であれば楽だろうな」とも思う。

紹介されるならある程度はまともな人なんだろうし、仲介人が脈ありかどうかを確かめてくれるし、相手も結婚を視野に入れているから何年も交際して結婚が伸びることもないだろうし、数回のデートで判断するからカネと時間の節約もできる。

 

もちろんそこに「結婚の強制」があってはならないわけだけど、結婚を目的とするのであれば、お見合いはなかなかコスパがよさそうだ。

とくに、現在のように「出会い」の需要が高ければなおさら便利だろう。

 

現在、お見合いを勧めるのはセクハラのリスクが高い

でもいまそれをやってしまうと、セクハラになる可能性が高い。

関係性によるとはいえ、「そろそろ結婚したほうがいいんじゃないか。だれか紹介してやろう」なんて言えば問題になる。

 

職場恋愛だって、昔よりリスクが高い。うっかり痴話喧嘩がこじれれば、これまた「セクハラ」になるかもしれない。

 

だからこそ、現状のように自分から「外」に出会いを求めなくてはいけなくなる。

カネと時間をかけて出会いを求め、その後平均4年半交際する。なかなかしんどい。

 

そう考えると、知人経由の「お見合い」はかなり楽だ。場をセッティングしてもらい、そこに行くだけなのだから。

 

お見合いが絶対にいいというわけでもないし、そもそも結婚するかどうかは個人の自由。

でも「お見合いの場を整えてくれるならぜひ!!」という人も、案外少なくないんじゃないかなぁ、という気がする。

 

出会いを「安上がり」にするお見合い復権はアリ?

日本の人口減少について、数々のデータからその深刻さを浮き彫りにしたことで話題となっている『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』という本でも、お見合いの復権についてさらりと触れられている。

日本では未婚で出産する女性は少ないことを考えれば、第1子対策は結婚支援が最も効果的といえる。

真っ先に取り組むべきは雇用を安定させ、出会いに恵まれない人のきっかけをつくることである。お見合いの復権にも期待したい。
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時代は繰り返す、なんて言うけれど、お見合い結婚から恋愛結婚になり、一周回ってもう一度お見合い結婚が復活するのは、案外アリじゃないだろうか。

 

改めて書くけど、結婚は強制するものではないし、結婚しない自由もまた保証されるべきだ。

パートナーの有無は完全なるプライベートであり、安易に首をつっこむものではない。

 

それでも、結婚したい人の多くは現状、出会いを求めている。

そしてそのために、カネと時間をかけて「外」に出会いをさがしにいかなきゃいけない。

 

でも「外」だけでなく、「内」からも出会いが生まれれば、素敵な人と出会える可能性が上がり、結婚へのハードルがひとつ下がるかもしれない。

 

他人の恋愛事情に首を突っ込むのはよくない、セクハラを許すな、という価値観には全面的に賛成だ。

でもその一方で、「お見合いの復権」も、再考の余地があるんじゃないだろうか。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Susanne Nilsson)

「社員は家族」を標榜する会社は少なからずあるが、私はその発言を、常々不思議に思っていた。

 

はっきり言えば「いや、社員と家族はぜんぜん違うだろ」と、ずっと思っていた。

法的にも、制度的にも、実際にも。

 

社員は雇用を通じて「契約」を行っている相手だ。

血縁などの実際的な関係ではなく、その関係性は法人などの概念と同じく、約束事の世界の中に存在する。

 

さらに、そもそも「家族」は夫婦以外の関係はすべて、強制的だ。

人は親を選べず、子も選べない。

ある日そこに存在し、その関係は本人の意志によらず、存在する。それが「家族」である。

 

また、「家族」は自由に辞めたりすることもできない。

経営者が「業績不振で」などと言って辞めさせることもできなければ、社員が「新しい家族に移りたい」と、辞めることもできない。

究極の強制的な運命共同体、それが「家族」の本質である。

 

だから、私は「社員は家族」なんて言っている経営者のことを、永いこと、胡散臭い目で見ていた。

「「試験に合格したから、おまえはうちの子な」なんて言わない。」

「「妻の今年一年のパフォーマンスを測定して、改善をしてもらうように促す」なんて言わない。」

「「長男は今年、家族の成果に貢献してない。」なんて言わない。」

と思っていたのだ。

 

「社員は家族」という発言は、「社長が、世間体の良い建前を言っている」だけ。

そう思っていた。

 

 

ところが、である。

最近、ある有名企業の経営層の方から、

「社員は家族」という言葉について、私の従来の価値観と異なる見解を聞かされた。

 

その方は、こう言った。

「安達さん、私最近「社員は家族と思ったほうがいい」と、思ってきたんですよ。」

私の反応は当然、

「えー……。」

である。

 

しかしその方は、合理的である。それなりの理由なしにそんな事を言う方ではない。

だから、聞いた。

「なぜですか?」

 

「まあ、一言で言うと、「家族だとでも思わないと、やってらんない」っていう感じです。」

「やってられない。……?」

 

私が戸惑っていると、彼は言葉を継いだ。

「例えば、できの悪い社員がいますよね。」

「はい。」

「彼らは、メッチャクチャ丁寧に指導しても、すぐには成果が出ない。で、なんとか彼らのレベルを引き上げようと、こっちも頑張って指導するんですが、頑張れば頑張るほど、溝が深まるわけです。」

 

気持ちは分かる。

 

周りの人たちとの差はどんどん開いていくが、できの悪い社員の実力は急には上がらない。

もしかしたら「ずっと成果が出ない」かもしれない。

でも、いくら仕事ができないからって、「お前はできない社員だ」なんて言われて気分の良い人はいないし、成果が出ていないことを本人も自覚しているから、ますます仕事が辛くなる。

結果的に、上司との溝が深まるばかり、というのは、よくある話だ。

 

私が頷くと、彼は言った。

「でもね。思うんです。」

「はい。」

「そもそも、「期待したとおりに成果を出す社員」ばかりの会社なんてないわけです。そう言う人達に、リターンを求めても、お互い不幸ですよね。」

「そうです。」

「で、思ったんです。これ「家族だ」って思えば、まあ我慢ができるなと。」

「……」

「どんなできの悪い子供であっても、普通の父親だったら見捨てることはない。リターンは求めない。仮に長男の出来が悪くて算数の成績が伸びないときに、「努力しろ、次のテストで80点以上取れなかったら、お前は家族じゃない」なんて言いません。人間は成長に時間がかかるわけです。」

「まあ、たしかにそうですね。」

「逆に、テストのできが悪くても、長男にはいいところ見つけて「ここは頑張ったな」と、褒める。愛情ってそう言うものですよね。」

 

私は家族を想像した。

まあ、そのとおりだろう。家族に「テストの成績が悪かったら家族じゃない」なんてしたら、お互いに辛くてしょうがない。

 

彼は言った。

「ま、なので「社員は家族」っていうのも、私としては現実にあっているので、合理的かなと思いました。」

 

 

私は、この話を聞き、考えを少々改めた。

 

つまり「社員は家族」は、世間体の良い、社長の建前ではなかったのだ。

当然だ。

「社員は家族」などという建前が、社員のの忠誠を引出すのに有効だなんて、まともな経営者が本気で考えているわけがない。

 

そうではなく「社員は家族」の本来の意味は、「経営者が自制するための言葉」だった。

 

経営者は、その性向として社員に常に期待以上を求める。

だからつい、社員に「早く結果を」「早く結果を」と言いたくなる。

その「インスタントにリターンが引き出したい」と思いがちなマインドを鎮めるための言葉として、経営者が自問する。

それなら納得がいく。

 

だからこれは、社員に恩着せがましく語る言葉ではない。

 

最近では経営者が「社員は家族」などというと、ブラック企業扱いされることもあるという。

クラッシャー上司が「社員は家族」を好む理由

一家主義が生むのは、同調圧力なんですよね。僕が「こうだ」といえば下は従うしかない。同一の価値観です。

大学の研究室にも一家主義的なものがあるし、日本の企業の経営者って、一丸となってやっていかないとダメだ、といった呪縛から離れられないケースが多いですね。

だが「社員は家族と考えざるを得ない」と現実的に考えている経営者は、そのような「ブラック家族主義」とは異なるのかもしれない。

そう思った。

 

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(Photo:Kat Grigg

以前シャープのヘルシオを紹介させていただいた。

ヘルシオをうまく使いこなせる人は、AI時代もかなりラクラク生き残れるんじゃないだろうか。 | Books&Apps

記事の要旨をかいつまんで説明するとシャープのヘルシオを使えば調理時間が実質15分ぐらいになり、余った時間で他のことができるよ、という話なのだけど。

 

この間あった人に「イマイチ具体例が頭で想像つかないので、実際にヘルシオをどう使ってるのかを参考までに教えてもらえないか」と言われた。

というわけで今回は高須賀家のヘルシオ超ズボラ飯を紹介しよう。

 

温泉卵を暇な時に作ってしまおう

卵は安くて栄養価たっぷり、かつ美味しいと非常に便利な食材だ。

とはいえ、使いみちにやや困る事があるのもまた事実ではある。

買ってきたはいいものの、冷蔵庫で放置されてて、賞味期限ギリギリになって、消費に困るという人も多いだろう。

 

僕も卵は好きなのだけど、イマイチ使い方が難しいなと常々思っていた。

が、ある時ヘルシオ・ウォーターオーブンに温泉卵というメニューがあることに気が付き

「これ、暇な時にまとめて温玉を作っといて、冷蔵庫で保管してゆっくり消費すればええんじゃね?」とひらめいた瞬間から非常に卵消費がラクになった。

 

温泉卵なら、サラダに落とせばシーザーサラダみたいにドレッシングみたいに消費もできるし、そのままつまんでも旨い。

カリカリに焼いたトーストに載せたり、温玉のせご飯なんて言うまでもないだろう。

 

温玉は鍋で作ろうと思うと若干面倒くさいメニューだが、ヘルシオならボタンポチで勝手に作ってくれるし、まとめて作って冷蔵庫で保管しておけばいつでも卵を割るだけで食べられる。

まさにザ・ズボラ飯の名にふさわしいメニューである。

濃厚な黄身がある食卓の映え具合は実に素晴らしい。これが毎食たったの10円で得られると思うと、コストパフォーマンスは最上だろう。

 

ちょっと高級な気分を味わいたいのなら、ぜひとも買っていただきたいのがサバティーノ トリュフゼストである(Amazonで買える)

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これを温玉にぶっかけて食べると、超絶旨い。

調理時間実質0分で作れるメニューとしては最強の激ウマメシだろう。

青春時代に美味しんぼの究極のメニューである温泉卵のトリュフソースかけに舌なめずりした世代にはもうたまらんアレである。

 

これをご飯にぶっかけて食べれば、3万円の高級和食ででてくるトリュフ掛け卵ご飯とほぼ変わらないものも作れる。

いやぁ。実にいい時代になったものである。やってることは完全にズボラ飯以外の何物でもないのだが。

 

ズボラ飯からちょっとだけ脱線するが、サバティーノ トリュフゼストのその他の使い道としてはすき焼きが実に旨い。

Amazonで安いホットプレートをかってきて、霜降り肉を割り下でグツグツやったのにトリュフゼストをガンガンに入れた生卵を浸して食べると、超高級和食で出てくるトリュフすき焼きがほぼ80%ぐらいの再現度で作れる。

これを熱燗をやりつつ食べてると、資本主義の豚になった気分が味わえて最高である。

 

安くてハチャメチャにうまい肉が普通に買えるようになった

飲食界隈にドップリハマると、肉の産地等にこだわるようになってくる。

素人でも、和牛とアメリカ産牛、オージービーフの味が同じ牛肉なのに全然違うことぐらいはわかるだろうが、本当に美味しいお肉はここから細分化していく。

同じ和牛でもピンからキリまであるし、アメリカ産牛にも色々ある。

 

このように肉の品種や生産者が変われば味も随分変わるのだけど、最近までは普通の消費者が美味しいお肉をスーパー等で気軽に手に入れるのは結構難しかった。

が、しかし時代は随分進化した。

 

例えば西友で売ってるアンガス牛。100g180円程度と、牛肉の値段としては超絶安い方ではあるが、これがめっぽう旨い赤身牛なのだ。一度食べるとオージービーフには二度と戻れなくなる。

調理もいたって簡単で、軽く塩してヘルシオに放り込んでボタンポチして焼くだけだ。

これでメチャクチャ美味しいステーキが完成する。

 

ときどき、赤身肉バルみたいな赤身肉と酒を売りにしているレストランがあるけど、ぶっちゃけ西友で売ってるアンガス牛をヘルシオで普通に焼いた奴の方が遥かに美味しい。

そんな美味しいお肉を250g食べても500円を切るのだから、いきなりステーキも真っ青のコストパフォマンスである。

自宅でステーキハウスがやれるのだから、いやはや、いい時代になったものだ。

 

コツとしては、キッチンシートを敷いてから焼くことである。

こうすると、オーブンに入れた板が全く汚れないので、調理後に洗う手間がほぼ消失する。シートをとって、ポイッと捨ててそれでおしまいだ。

 

ステーキ肉の周りに野菜を置いて、オリーブオイルを回しかけておけば、付け合せで焼き野菜も同時に完成だ。

こんなウルトラズボラ飯でも、普通にというかメッチャクチャに美味しい。

 

焼き野菜のオススメはナスやブロッコリー、あとオクラやピーマンなんかも旨い。

軽くオリーブオイルをまわしかけてから焼こう。焼いた野菜は甘みが出て非常に美味い。

ボリュームが欲しいならキノコ類を焼いてもいい。これをオーブンに入れてボタンポチで15分程度で勝手に作ってくれるのだから、ヘルシオ様々である。

 

コンポタのように濃厚な出汁がでる鶏肉

他にもイトーヨーカドー系列店で売ってる「奥州こくみ鶏」のもも肉も尋常じゃないレベルで旨い。

100g200円程度と若干鶏肉にしては高いが、その価値は十分にある。

 

この鶏、焼いたりしても美味しいのだけど、その真価はスープにする事で現れる。

煮込むと尋常じゃないレベルで旨い出汁が出るのだ。「コーンポタージュかよ!」と突っ込みたくなるレベルの濃さである。

 

これを普通にスープとして飲んでも美味いし、白米にぶっかけて食べれば高級中華粥かよと言いたくなるレベルの濃厚な一品に仕上がる。

ネギを散らして、温玉をぶっかけたりしたら・・・まあもうメインディッシュクラスだろう。

 

汁物は以前なら煮込むこと自体が手間だったが、現代なら鍋ヘルシオに放り込んでボタンを押しておけばネットサーフィンでもしている間に勝手にやっておいてくれる。

参考までに、僕は家に帰ったら鶏肉や野菜を水と共に鍋ヘルシオに入れて、テキトーに2時間とか長めに時間設定しておいて、食事の時間がきたら取り出して食べている。

ネットをやってる間に激ウマ鳥スープが勝手にできてるのが、令和の日本の食卓なのである。

 

この鳥スープを応用すれば、実にバラエティーに富んだメニューができる。

例えば、カレー粉を後で入れれば立派な濃厚鶏カレーが出来あがるし、白菜とともに煮込んだものをポン酢で食べても美味い。

水をちょっと少なめにして醤油とみりんで大根と共に煮れば、完璧な煮物の完成である。

 

とりあえず、西友のアンガス牛とイトーヨーカドー系列の奥州こくみ鶏は自炊うまい飯の革命である。

そしてそのポテンシャルを誰でもボタンポチで最大限発揮できるという点で、ヘルシオは尋常じゃなく素晴らしいのだ。

 

その他の使いみち

あとは定番の炒めものである。鍋ヘルシオに適当に切った野菜をいれて油をまわしかけて、10分ほどかき混ぜ+加熱でやれば野菜炒めの完成である。

オイスターソースを使って中華風にしてもいいし、塩や醤油なんかでもいい。

もやしをヴェイパーで炒めたりしても美味しいし、ゴボウを醤油+みりんで炒めれば、きんぴらごぼうが即座に出来上がる。

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オーブンレンジのスチーム機能を使って、野菜を蒸しても美味しい。

蒸したアスパラをマヨネーズで食べるとパキパキしてて実に美味い。

ほうれん草を蒸したのに、醤油とおかかを乗っけて食べても美味しいし、白だしを水で割ったのに入れれば普通におひたしの完成である。

 

自炊のコツは、兎にも角にもシンプルイズベストである。

名前のある料理を作らず、適切な調理を加えて食べる”だけ”というのが華のズボラ飯の入り口である。

食材を、焼く・煮る・炒める・蒸すといった何らかの方法で適切に調理すれば、あとはビシッと味付けするだけで何でも美味しくいただける事を理解できれば、自炊は超☆簡単である事に気がつくだろう。

 

家飯はオムレツやら餃子やらといった”名前のある料理”を作るのではなく、焼いた魚と蒸した野菜とかで全然いいのだ。

むしろシンプルに調理したものの方が、下手にしろうとがゴチャゴチャやったものなんかよりよっぽど美味しい。

 

とりあえずスーパーで美味しそうな食材を買ってきたら、どう食べたいかを考えよう。

焼きたいなら焼けばいいし、醤油や味噌で煮付けたいのなら煮付ければいい。

軽く油で炒めたら美味そうならそうすればいいし、蒸してサッパリ食べたいのならそうすればいい。当然生で食べてもいい。

 

食材の声をきいて、あとはヘルシオにポーンと投げてボタンポチしてしまえばいいのである。

こんな簡単な事でヘルシーで美味しい生活が、あなたのところにやってくるのだから、やらない手はないだろう。

 

素敵な素敵なズボラ飯の世界へようこそ!

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:http://willowcottagegarden.wordpress.com)

どうも、しんざきです。

実を言うと先月・先々月と、プロジェクトが割と生死をさまようレベルで炎上しておりまして、夢のデスマ王国という風情だったんですが、お蔭様で今月はだいぶ落ち着いてきまして、若干人間的な生活が出来る状況になってきました。

デスマ程健康に悪いものはこの世に存在しないと思います。

 

失敗した時の話をします。

十年近く前の話ですが、システム開発の会社に勤めていたことがあります。

それ程有名な会社ではないのですが、一応独立系で、社員は4桁に届かないくらいで、SI案件とSES案件が大体半々くらい、自社業務と客先常駐も大体半々くらいという、まあよくある「昔ながらのシステム開発会社」だったと思います。

 

私はその会社で、主に金融関連のプロジェクトを担当する部署に所属していました。

ぬるい案件もあれば地獄案件もあったのですが、まあそれはいずれ、ほとぼりが冷めた頃に書こうと思います。

某大きな銀行の三つのシステム合体不思議案件なんかにも関わったことがありますが、金輪際システム統合案件はやりたくないです。

 

その部署で、ある時「チームリーダーに、もうちょっと技術的な業務に集中出来る時間を作ってあげよう」というような動きが持ち上がったことがありました。

 

システムエンジニアをやっている方ならよくお分かりかと思いますが、一般的なエンジニアのキャリアパスは、コーディングや外部設計などの下流寄りの業務から始まり、上流寄りの工程、ないしマネジメント寄りの仕事に進む、というものが一つの典型です。

 

最近は当てはまらない例も増えているとは思いますが、まあ「プログラマー→システムエンジニア→チームリーダー→プロジェクトマネージャー」なんてのが「よくある」キャリアパスの一例であって、大雑把に後ろにいけばいくほど管理系の仕事が増えていく、と考えてよいでしょう。

タスクの具体化・細分化、タスクの割振り、スケジュールの管理・調整、他部署との調整なんかの仕事配分が、技術的な業務を押しのけて増えていくのは、まあどこの世界でも割とよくある話です。

 

勿論これはざっくりした話であって、人によってはいつまでも技術的な仕事と縁が切れない人も、管理職をしながらもきっちりコーディングの仕事を確保している人なんかもいましたし、フルスタックエンジニアや特定分野のスペシャリストもいない訳ではありませんでした。

ただ、少なくともその会社では、大雑把に「キャリアが長くて出世した人ほど、管理の仕事だけに時間がとられるようになっていく」という傾向が間違いなくありました。

 

当然のことながら、マネジメントの仕事をする際に技術的な知識が必要でないかというと全くそんなことはなく、技術トレンドを追いかけられていないマネージャーはあっという間に見当外れな采配しか振るえなくなりますし、転職をした際の潰しも効きにくくなります。

勿論各自勉強をしてそれについていこうとしているのですが、「職位が高い人間ほど技術的な実務に携われなくなるのは問題ではないか」という声は、割と昔からあったのです。

 

そこでその部署では、「職位とロールを分離しよう」という実験的な試みが行われるようになりました。

つまり、「エライ人 = 管理職」という、役割と職位の紐づきをどうにかしよう、という話です。

 

いわゆるPMOと言えるほどちゃんとしたチームではないのですが、「タスク割振り・スケジュール管理・部署間調整を専門でやる人たち」というような役割が設定され、そこに人が集められました。

その中にはまだ入社1,2年の新人や、新規配属の派遣さんも含まれており、当然のことながらスケジュール管理をしようにも右も左も分からなかったら意味がないのであって、そのフォローに当時チームのサブリーダーだった私もちょこちょこ入ることになりました。

 

一方プロジェクトの方では、今まで管理業務に忙殺されていた人たちに工数の空きが割り振られ、色んな技術的な実務が入っていきました。

この試み自体は、決して悪いチャレンジではなかったと、当時も思いましたし、今でも思っています。

 

いわゆるピーターの法則打破の為にも、「マネジメント以外で偉くなる道」というのは存在して然るべきですし、その為の道筋としても悪くない試みだと感じました。

新人でもマネジメント業務に触れることが出来る、というのもメリットのように思えました。

なにより、管理職の人たちの中には、「こんな面倒くさいマネジメント業務よりコード書きたい」と日常ぶつくさ言っている人たちが山のように存在したのです。

 

タイトルで先に書いてしまっていますが、この試みは失敗しました。

もうちょっと正確に言うと、有象無象の抵抗がなんとなく発生して、最終的には有耶無耶のままチーム自体が解散の憂き目に遭いました。

 

そのチームの仕事は、まず「各プロジェクトから、タスク管理・スケジュール管理・調整の仕事を切り出す」というところから始まりました。

以前はマネージャー職が引いていたWBSを引き継いで、メンバーに進捗状況をヒアリングしに行って、チケットの進捗状況を集積して、進捗率を計算してプロジェクト会議で報告して、進捗が悪いところには改善策を相談しにいきました。

 

最初は、「なんとなくやりにくい」という程度の、ふわっとした不満が出るところから始まったと思います。

実際のスケジュールの切り方は、私から見ても別段問題があるように思えなかったのですが、重箱の隅をつつくような、普段ならだれも指摘しなさそうな指摘がちょこちょこ出てきました。

 

ヒアリングの際もなーんとなく嫌な顔をする人が結構な数出始め、引き継いだだけのWBSに対して何故かタスク切り方の文句が出る、というようなことも散発していました。

「誰が切ったのこのWBS?」

「いや、あなたですけど」みたいな面白会話も発生しました。

 

「進捗ヒアリングが上手くいきません…」

「タスク調整が全然進みません…」みたいな話がしょっちゅう私のところに来ることになって、本来チームメンバーではない私が何故かフォローに奔走する羽目になる、みたいな状況まで起こるに至って、「なんでこうなってるんだ?」ということを調べてみたんです。

アンケートを作って無記名で集めたり、喫煙所で世間話ついでにあれこれヒアリングしてみたりしました。

 

勿論細かい不満は色々とあったんですが、突き詰めてみると

「コーディングが出来るのはいいんだけど、ぶっちゃけ職位が下のヤツにあれこれ管理されるのはなんか嫌」

という、言ってしまえば極めて感情的な問題がその状況の根本原因でした。

 

要は、「仕事をする上で、職位や身分の意識を完全に消すことは難しい」ということと、「チケットの遅れを職位が下の物に指摘されるのは腹が立つ」という、そこに問題があったのです。

 

勿論これは全体の話ではなく、なかにはすんなりとこの制度に順応出来た人もいました。

本当に単純に「面倒な管理業務がなくなってめちゃ嬉しい」という人もいましたし、喜々としてコーディングに取り組めて幸せ、という人もいたんです。

ただ、元々が実験的な試みだったこともあり、色々な抵抗から「まあやめようか」ということになってしまい、この動きは立ち消えになってしまいました。残念例です。

 

今から振り返ると、この失敗の根本原因は、「エンジニアにおける、職位についての意識というものを甘く見積もっていた」ということにあったのではないか、と思います。

 

大筋、エンジニアには「部長-課長-係長」というような「旧来型の組織構造」に親和性が低い人の方が多いであろうことは恐らく間違いなく、組織に属するというよりはプロジェクトに属して働く場合が多いことから、職位についてもある程度ゆるい人の方が多いんだろう、と、私も思ってはいたのです。

 

ところがそれが甘い考えというヤツで、実際には「職位・上下関係」というものに強い意識をもっている人もたくさんいたし、そういう人の中には「職位が低い者からあれこれ指示が来る」ということ自体に拒絶感を持つ人もたくさん含まれていたのです。

「下のもんに全体的なスケジュール管理なんて出来るか」という意識の人も複数いました。

 

やっていることや仕事の形態が進歩的であったとして、意識まで進歩的であるとは限らない。

当たり前の話なんですが、当時の推進側には、まさにこの認識が欠けていたと考えていいでしょう。

 

私が考えたこの問題の解決策は、

・「実験的な試み」というような中途半端な立ち位置だから職位の問題が解決出来ないのでは?

・いわゆるPMOのように、きちんとした管理チームを会社側が定義して、かつそのチームリーダーにはきちんとした職位の人を据えれば、管理される側の抵抗感も薄れるのでは?

・管理される抵抗感は人にもよるので、チームによって管理チームのサポートを受けるかどうかを任意に選べるようにすればいいのでは?

というくらいであって、その提案もしてみたんですが、結局そこは受け入れられないまま、その暫く後に私その会社辞めちゃったんで、今どうなってるかは知らないんですが。

 

この話で私が学習したことはいくつかありまして、

・「職位」とか「身分」というものは、エンジニアには気にしない人が多いようでいて案外無視出来ないし重要である

・職位とロールを分離する際には慎重に進めないと失敗する

・「ぺーぺーに管理されたくない」という抵抗意識の強さは馬鹿にならない

というようなことであって、以降「管理する・される」という問題にはだいぶセンシティブに接するようになりました。

 

お蔭で現在はだいぶ柔軟な運用が出来るようになりましたが、当時はまあ泥臭い対応しか出来なかったなあ、と思ったりもするわけなんです。

まあ、古臭い日本的企業のように思えることであっても、その取扱いは案外難しいものである、という話でした。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:NelC

わたしには好きな女性のモデルがいた。

とてもスレンダーで、溌剌としていて、チャーミングで。真っ赤な口紅もよく似合っていて、ステキなモデルだなと思ってSNSで彼女を見ていた。

 

ところが、パタリと姿を見せなくなった。

あれ、忙しいのかしら、と思っていたら数ヶ月後に彼女は再び姿を表した。

 

ところが、なんか違和感がある。

海外のモデルだからか肌を大きく露出することにあまり抵抗はないと思うのだけれど、再びSNS上に現れた彼女は、とにかく裸体が多いのだ。トップは流石に隠しているけれど。

おかしい、なにかがおかしい。妖艶な下着姿だったり、水際の写真が多かったり。一体どうしたんだ?なんでこんなにも露出が多いのだろう。

今まではまったくそんなことなかったのに。そう思いながら彼女の体をみて、はたと気がついたでのある。

 

あ、おっぱいが大きくなってる……。

どうやら、姿を消していた間に、彼女は豊胸手術を受けていたようなのだ。

えー、なんで胸、大きくしたのよー、わたし、あのヘルシーな胸が好きだったのに、と激しく動揺した。

人の胸なのに。人の勝手だろ、ほっといてやれよ、という話なのだが。彼女の溌剌としたキャラクターとヘルシーな胸が妙にマッチしていて、とても好きだったのだ。

 

ところがこの状況を鑑みるに、彼女は自分の胸に満足していなかったことになる。

いや、もちろん、モデルという仕事柄、より良い仕事を求めて止むに止まれず豊胸手術に踏み切った、とも考えられる。

と、なんで知らないモデルの豊胸手術について、こうも熱くなっているのか。わたしはバカなのか、と思うけれど、そこに「胸」を取り巻くさまざまな心模様を見るからである。

 

胸の大きさは千差万別あり、そこに込める思いも千差万別ある。

もちろん自分の胸に関心がない女性ももちろんいることだろう。なので、ここではわたしの話をしようと思う。

 

***

 

不幸なことに、わたしは、立派な胸を持つ母と姉が居る環境で育った。

具体的なサイズをいうのは個人情報的に問題なので差し控えるが、そりゃもう、ご立派なお胸をお持ちである。ちなみに姉の洋服サイズは5号である。

 

忘れもしないあれは高校生の頃。一人お風呂に入っていると、なんの用事だったのか、母がガチャリと風呂の扉を開けて話しかけてきた。

話の内容などすっかり忘れてしまったのだけれど、彼女が去り際に私に言い放った言葉は今でも忘れることができない。

 

「かわいそうに」

私の胸を一瞥し、彼女はその言葉だけを残して去っていった。

浴槽の中で身を小さくする私は「ちょっと見ないでくれる」というのが精一杯だった。

 

っていうか、これが母親の言う言葉か!ただでさえ、自分でもちょっと小さいなーと思っていた胸なのに、それを多感な年頃の娘に向かって母親が指摘するなんて。

あまりにも腹が立って、風呂上がりに母に抗議した。

 

「普通母親があんなこと言わないんじゃない?」

すると母は言った。

「だって、本当にかわいそうだなと思ったんだもん。お姉ちゃんを妊娠した時には、せっせとチーズを食べていたのよ。あなたを妊娠した時には小魚だったの。その違いが出たのね。乳製品は大事ね」

 

「そんなこと関係してる?なんで妊娠中に母親が乳製品食べたら、産まれた子の胸が大きくなるのよ。・・・・・・いや、そーゆーことじゃなくてさ」

「だってお医者さんがそう言ったんだもん」

てんで話にならない。そこじゃねーんだ、私が訴えたかったのは。

それに私の骨はちっとも丈夫じゃなくて、よく骨折したじゃないのよ。

 

母親というのは時として無神経に子供を傷つける。

そうじゃない家庭ももちろん多いと思うが、うちではこんなことがよくあったのだ。

 

こうして母親にも不憫がられるぐらいのサイズだった私は、大学生になると益々自分の胸をなんとかしようと躍起になった。

鳥の胸肉とキャベツを食べると胸が大きくなると聞けば、そればかり食べたし、今更遅いかと思いながら、牛乳も飲んだ。

 

時は寄せて上げるブラが全盛期。もうこうなれば、騙せばいい。見せかければいいのだ。そういうことになって真実が暴かれても、それはそれ、仕方がない。ということで、そんな下着の力も借りた。

大学生、そして20代の社会人になっても、実態よりも何とかして胸を大きく見せようと、私は努力を続けたのである。

 

この辺りは私に限らず、多くの女性が経験したことがあるのではないか。

少なくとも私の周りの友達たちは自分の胸のサイズに満足せず、あれやこれやと大きくなるように実践したり、情報交換したりした。

 

では、これは、一体誰のためにやっていたのだろうか。

単純な話。他者の視線を気にしていただけである。

 

恥ずかしい話、大学生の私は胸が大きいことがモテる条件だと勘違いしていた。

男はみんな巨乳が好きだと思い込んでいたのもある。

胸が大きければ、スタイルが少々悪くても誤魔化せるとも思っていたし、なんとかなると思っていた。人として中身に自信がない分、大きな胸を持つことで、女性としての魅力を手に入れたと錯覚したかったのである。

 

女友達の目線も気にしていた。女子大に通っていたこともあり、会話が開けっぴろげで「あの子は胸が大きくて羨ましい」だの「私のこの貧乳ではどうにもならん」だの、休み時間となればそんな会話が繰り広げられた。

だからか「巨乳は正義」ぐらいの感覚になっていったのだ。

 

なんと浅はかな話であろうか。人としての未熟さ、自信の無さを、胸の大きさによって補おうとしていたなんて。

私の胸は、自分の体の一部であるにも関わらず、自分がどうかというよりも、他者により魅力的な人間として評価してほしいがために存在していたのである。
今では40歳を過ぎ、削げてきた小さな胸を見ながら、これでいいのだと思えるようになった。大きかろうが小さかろうが、そこは問題ではない。誰のものでもないのだから。

 

若い頃、合わせようとしていた男性の幻想に寄せる必要などまったくなかった。

胸に限らず、この歳になると、あちこちに体の変化が現れる。

シワもシミも増えるし、胸だけでなく、すべてのパーツが垂れ下がる。頰のたるみも白髪も、できれば見ないことにしたい。手のシワも気になる。

これからますます進む体の変化を受け入れていくことは、女性にとってなかなか苦しい作業になる筈だ。

 

ただ、少しばかり若い時より時間が経ったことで、自分にも自信が持てる部分ができたり、「仕方ない」と諦めることや、感情を手放すことができるようになった。

そのおかげで随分と楽になれたし、本当の意味での自分自身を手に入れたように思う。

 

他者は他者である。

そのままの自分を受け入れることが結果的に1番楽に生きられるのだ。気がつくのが本当に遅くて恥ずかしいのだけれど。

 

男性が思う以上に、女性は自分の胸に色々な感情を持っている。

自信にもなるし、コンプレックスにもなる。場合によっては失うこともあるから、本当にさまざまな思いとともに胸はある。

 

たかがおっぱい、されどおっぱいなのだ。

冒頭のモデルは、胸が大きくなってから、より一層ステキな笑顔を見せるようになった。

だとしら、人がなんと言おうとそれでいいのだと思った。

 

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譽田亜紀子(こんだあきこ)

文筆家。「土偶女子」の異名をもち、昨今、ジワジワと流行りだしている縄文時代ブームの立役者のひとり。

間違っても歴史好きではないことがポイント。縄文時代以外はさっぱりわからない。

土偶好きが高じて、著作に『はじめての土偶』2014年『にっぽん全国土偶手帖』2015年(共に世界文化社)『ときめく縄文図鑑』2016年(山と溪谷社)『土偶のリアル』『土偶界へようこそ』2017年(山川出版)『知られざる縄文ライフ』2017年(誠文堂新光社)がある。

現在『かわいい古代』と題して東京新聞、中日新聞の水曜日夕刊に連載中。

 

インスタグラム:https://www.instagram.com/akiko_konda/

フエイスブック:https://www.facebook.com/akiko.konda

Blog:lineblog.me/kondaakiko

 

(Photo:m01229

これは今まで誰にも話したことがない、墓場まで持っていくつもりだった話です。

ただ、あれから10年近くの時が経ち

「もう時効ってことにしてもいいのかな」

とも思えてきたので、この気持ちが変わる前に振り返ってみようと思います。

 

***

 

「在宅ワーク可能なチャットレディ★未経験から簡単高収入♪」

 

ネットサーフィン中にふと目に入ったこんなバナー。

冷静に考えれば胡散くさすぎますが、引きこもり気質かつ金欠だった当時の私には

『在宅ワーク』

『簡単高収入』

という煽情的な文言にグっとくるものがあったのです。

 

チャットレディとは、カメラで映像を映しながら男性と話す仕事のことで、いわばインターネットキャバクラのようなものです。

 

当時の私は高収入が得られる"お水"の仕事に興味を持っていたのですが、漫画やドラマで見る女の園はヘドロのような人間関係が描かれていて、とても自分が生きていける世界ではない、と応募を断念していた経緯がありました。

 

「これだったら私にもできるかもしれない……!」

 

お金の魔力とはげに恐ろしいもので、情報商材のLPのような怪しいページを読みながら私はチャットレディの仕事に惹かれていたのです。

 

ネット越しなら人間関係に悩まされることもないし、ビデオ通話で金がもらえると思えば案外楽勝なんじゃ……!?

 

季節は夏本番。夏の熱気に当てられた私は、あまり深く考えないままサクっと登録を行い、勢いだけでチャトレデビューを果たしたのです。

 

***

 

私は完全に浮かれきっていました。

バイトで必死に働いたところで時給は1000円程度ですが、チャトレなら男性とお喋りするだけで時給4000円。

目の前に無限の沃野が広がっているように思えました。

 

プロフィールの入力を終え、あとはパフォーマンスを行う下準備をするだけです。

自分が一番映えるカメラの角度調節、ナチュラルメイク風厚化粧、詐欺に近い美顔ライトの照射、清楚in清楚な黒髪ウィッグの装着。

今まで配信で培ったテクを駆使しながら、人様にお見せできるレベルにまで外見を整えていきます。

そして準備が完了して「待機」ボタンを押すと、ほどなくして最初のお客さんが入ってくれました。

 

「こんにちはー」

 

男性側はチャットだけでなくマイクで喋ったり、カメラを映したりできるのですが、この方はマイクで話しかけてくれました。

 

「新人さんってことだけど、もしかして俺が初めての客かな?」

 

登録したての女の子は新人のコーナーに分類されるので、相手側にも私がデビューしたばかりということが伝わっていたのです。

 

「そうなんです! 先ほど登録したばかりなので、ちょっと緊張してます!」

 

この瞬間にもギャラが発生しているという自覚を持って、努めて明るく返事をする私。

 

こんな会話を続けるだけで時給4000円。

男性側はそれにマージンを載せた額を払うので、2時間会話すれば1万円を超える出費になります。

この時間にそれだけの価値があるのか?というのは甚だ疑問ですが、世の中には酔狂な人もいるもんだよな!と細かいことは気にしないことにしました。

 

しかし私のそんな甘い考えは男性の次の発言で粉砕されるのでした。

「下着とか少し見せられる?」

それは唐突に投げかけられた、あまりにも無理筋なお願いでした。

 

このサイトはノンアダルトなので、この手合いのセクハラにはめったに遭遇しないと思っていたのですが、、、開始していきなり出会ってしまったようです。

突然のことに困惑して押し黙る私をよそに、男性はさらにリクエストを続けます。

 

「チラっとでいいからおっぱいはだめ?」

下着が難しそうなのに、なんで要求のグレードが上がってんだよ……!!

 

愚直なまでにシンプルな欲望の吐露。

その性欲に正直な姿勢は見上げたものですが、これ以上こんな会話を続けても不毛なので、私は彼をキックして追い出しました。

 

正直、胸焼けするような出来事でしたが、ひとつ深呼吸をして冷静さを取り戻した私は

「これはレアケースの事故なんだ」

と自分に言い聞かせました。

明らかに規約違反のユーザーですし、最初の1人だけ見てサービス全体を判断するのは早計というものです。

 

改めて待機を続行すると、次の方も矢継ぎ早に入ってきました。

 

「はじめましてー。たかしと申します」

 

その方は自分のビデオも映していて、見るからに穏やかそうな壮年の男性でした。

歳は40半ば、仕事は弁護士をしているそうです。

 

たかしさんは落ち着いた大人の対応をしてくださり、そのマイルドな語り口に私も徐々に警戒心を解いていき、気づけば2時間以上も話し込んでいました。

 

やっぱりさっきの男が異常だっただけで、こういう紳士的なお客さんもちゃんといるんだ……!

そして開始から3時間近くが経過しようとしていた時、たかしさんがふとこんな話題を振ってきました。

 

「ここで稼ぐコツってわかりますか?」

 

チャトレで稼ぐコツ――そんなものが本当にあるのでしょうか。

まったく見当がつかない私は答えをたかしさんに尋ねます。

 

「すみません、そのコツっていったい何なんですか?」

 

「それが、これなんですよ」

 

言って突然カメラの角度を下にずらし、己が下腹部をアップで映すたかしさん。

 

「えっと……えええ!!!?」

 

急転直下の出来事でした。

一連の所作があまりにスムーズかつシームレスだったので、最初は何が起こっているのか理解できませんでしたが、画面を見ると毒々しく屹立したモノが写っています。

 

「ルックアットミー。ちゃんとよく見てください。何が映っていますか?」

 

その後も冷静なトーンでトチ狂ったことをのたまうたかしさん。

私は無言のままパソコンの電源を落としました―――

 

***

 

その後、何日かチャットレディを続けて分かってきた客層の特徴は、

 

・スケベの閾値が異常に低い

・大脳が欠損している

 

というものでした。

教訓としては、ノンアダルトではなく、客をノンピーポーと思ったほうがいいということ。

 

ここは人の皮をかぶった魑魅魍魎が跋扈する、百鬼夜行の異世界です。

そう思わないとこっちが狂ってしまう。

わりとカジュアルに性器を露出する人が多いのですが、サイトの規約違反以前に法に抵触している逮捕案件です。

ここには社会規範の外側で生きてらっしゃるような方がたくさんいて、チャトレをしていると、ここが法治国家であることを悪い意味で忘れてしまいそうになります。

 

じゃあまともな方はいないのか?と言うと、最初はまともに思える人は結構います。

ただ、たかしさんのようにいきなりスケベ卍解を行う者や、そうじゃなくてもモーフィング画像のように徐々にスケベな顔に変わっていく方がほとんどです。

 

結局のところ変態ガチャを引いているようなもので、どんな人も最終的にスケベな顔に変遷していくのです。

私はこの一連の変化を『スケベのアハ体験』と呼んでいました(本来の意味とは違いますが…笑)。

 

ではいったいどうすればいいのか? このまま諦めるのか?

 

元来、私は負けず嫌いな性分です。

こんな半端なところで辞めれば敗走したも同然。

工夫次第でがっつり稼ぐことはできそうですし、それに今の状況をメカ次元から考えれば、高度な精神修養が積めるチャンスとも言えます。

 

「どうせやるならチャトレで天下を取りたい――」

 

かくして私の挑戦が始まったのでした。

 

効率的に稼ぐためには戦略的に対策を講じる必要があります。

客の目的を突き詰めて大別すると以下の2つ。

 

・リアルセックス

・ライブチャット上でのスケベ体験

 

ここでより重要となるのは母数の多い後者の対策です。

たかしさんも示唆していたように、チャトレで稼ぐコツはチンポのコントロール、スケベマネジメントにあります。

 

ノンアダルトだから、不快だからと言ってスケベ層を切り捨てるのは下策と言えます。

むしろスケベという明確な目的があるからこそ、調教次第で太客になってくれる可能性は十二分にあります。

馬鹿とスケベは使いようなのです。

 

ただ大前提として、衣類を脱ぐ行為はご法度です。

脱げば手っ取り早く客をつかめますが、脱いだ時点で相手は目的を達成することになるので、そこに至るまで時間をかけても短命に終わるケースが多いでしょうし、高確率で画面をキャプチャされるので、映像がネットに流出するリスクもあります。

 

そこで私がとった戦略はSキャラに徹すること、ドSの女帝になることでした。

チャットレディは客から指示を受けることになるので、大抵が受け身、責められる側になってしまいます。

そのためチャトレにはS属性が滅多にいないらしく、私はこの未開拓の市場に勝機を見出しました。

 

S側に立つことができれば、主導権を握ることができるので、時間を最大限まで引き伸ばすことができ、また言葉責めを活用すれば脱ぐことなく相手のニーズを満たすことができます。

男性側も他のチャトレでは得られない体験ができるため、ここでは唯一無二の強みとなるのです。

 

***

 

かくしてチャトレで言葉責めに明け暮れる日が続きました。

そして次第に固定として運用できる客も増えていき、ありがたいことに

「いつログインするのか」

「早く話したい」

と常に複数のオファーを頂くような状態になっていました。

 

既存客の対応だけでも手が回らない状態になっていたので、新規のお客さんと話す機会もなくなっていたのですが、私はずっと心に引っかかっていることがありました。

 

それは、たかしさんのことです。

私はチャトレの真理を示してくれたたかしさんに無下な対応をしてしまいました。

よくよく考えてみれば、彼は3時間も私と会話してくださったのです。

その内容もウイットに富んでいて面白く、私も好奇心をくすぐられて接待というよりも普通に会話を楽しんでいました。

 

たかしさんは悪くありません。

すべては私の精神修養が至らなかったせいであり、もしできることなら

 

――たかしさんに謝罪をしたい。そして成長した私の姿も見て欲しい――

 

そんな想いが日に日に強まっていき、ついに私はサイト内でたかしさんに宛てた日記を書いたのです。純粋に謝罪したいという気持ちを綴りました。

 

***

 

そのメールは日記を公開してから3日後に届きました。

 

「お久しぶりです、たかしです。日記、読みました。よければもう一度お話できませんか」

 

それは願ってもいない申し出でした。

またたかしさんと話せる。

そう考えるだけでこの上なく昂揚する自分がいました。

私は昂ぶる気持ちを抑えながら日程調整を行い、そして週末にたかしさんと再び邂逅することになったのです。

 

「あの時は、本当にすみませんでした……」

 

最初に謝罪の言葉を口にしたのはたかしさんの方でした。

今回もビデオを付けて話していたのですが、たかしさんは申し訳なさそうな表情で語り始めました。

 

私との会話はチャトレ史上一番楽しかったということ。

自分の嗜好を貫いてくれた子に出会えて、得体のしれない興奮を覚え、暴走してしまったこと。

 

「僕はあの後もずっと後悔を引きずっていたんです……」

 

ガックリとうながれ、今にも泣きだしそうな表情で語るたかしさん。

その姿を見ていたら、私は――

 

「――たかしさん、言いたいことは分かるのですが……その…勃ってませんか?」

 

そうです、こんな状況なのに、たかしさんは股間を怒張させていたのです。

 

「これで謝罪と言われても……」

 

「すみません、こんなつもりじゃ……」

 

「なら3分後にまた確認するので、もう絶対に反応させないでくださいね。あなたに謝罪の気持ちがあるのなら」

 

絶対に守れない約束を取り付け、たかしさんを追い込んでいきます。

案の定、3分経っても勃起はおさまるどころか激しさを増していました。

 

「幻滅しました。まじめに話しているときに汚いモノ猛り立たせるって人としてどうなんですか? すみませんが、もう関わりたくないので失礼します」

 

「待ってください! 何でもしますのでまた落ちるのだけはやめてください!」

 

この瞬間、私とたかしさんの主従関係が決まりました。

 

「弁護士だかなんだかしりませんが、こんな情けない姿さらしてよく人の弁護ができますね。それも自分よりも2まわりも年下の小娘に言われて恥ずかしくないんですか?」

 

「はい……申し訳ございません」

 

***

 

それからたかしさん――たかしは私の肉人形となり、大学を卒業するまでに軽自動車が買えるぐらいの額を突っ込んでくれました。

 

私は死ぬまで

 

「おちんちんきもちいいよお!!!!」

 

と言いながら大量射精していたたかしの姿は忘れないでしょう。

 

Fin.

 

【著者】

氏名:パキナ

通信会社に勤務後、毒電波をゆんゆんと発信する個人投資家に転身。

現在、含み益で無人島が買えるぐらいのShangri-Laから、含み損で墓が立つまでのパライソへ進行中。

電波届いた?

ツイッターアカウント

原田くんは、彼氏である自分への悪口が書かれた恋人のブログを読んでしまったことがある。

自分という人間の至らない点を文章化された挙句、それをワールドワイドウェブに公開されたのだ。

 

彼は間違いなく、もっともそのブログを読んではいけない人間だっただろう。

だが不幸にも読んでしまった。

そして、当たり前のようにひどく傷ついた。

 

その日、当時大学生だった原田くんと彼女は映画を見に行った。

映画のタイトルは忘れてしまったが、おそらく単純なアクションではなく、解釈が難解なミステリーなどだったのだろう。

でもなければ、後の悲劇は起こりようがない。

 

彼らは映画を見て、食事をし、別れた。

一部の隙もないよくあるカップルのよくあるデートコースだ。

家に帰った原田くんはシャワーを浴びると、よせばいいのに缶ビールを片手にネットサーフィンを始めた。

ほんの軽い気持ちで、昼間見た映画について検索したのが失敗の始まりだった。

 

あの映画を見たほかの人たちは、どんな感想を抱いたのだろうか。

あの難解なラストシーンをどのように解釈したのだろうか。

そんなささやかな好奇心を満たそうとしたのだ。

 

アインシュタインだって

「大切なのは、疑問を持ち続けることだ。神聖な好奇心を失ってはならない」

と言っている。

 

しかし、たまたま見つけたアメーバブログを読んでしまったことで、彼はどん底につきおとされた。

そこには、映画を見た場所、時間、シチュエーションなどから判断して、自分の彼女が書いたとしか思えない内容が書かれていたのだ。

時間から察するに彼女は帰宅してすぐにこのエントリを書いたのだろう。

 

「来ている服がダサい」

「いつも同じような店を選ぶ」

「家まで送る素振りすらみせない」

彼女の批判は痛烈かつ的確だった。

 

帰宅して、すぐブログに書き連ねるほどストレスをためていたのであれば、なぜ直接自分に言ってくれないのか。

どうせ数時間後にネットを通じて、知らされるのだ。

ならば、オフラインでいうべきことじゃないのか。

原田くんは心の中で、そう絶叫したという。

 

このエピソードは彼の人生の中でも、他の追随を許さないぶっちぎりの黒歴史である。

今でもたまに思い出して、叫びたくなることがあるほどだそうだ。

おそらく、これほど惨めな瞬間を経験したことがある男は多くないだろう。

彼はそう思っていた。何年か前までは。

 

 

「それ、本当に友達の話なんですか?原田さんの実体験なんじゃないんすかね?」

 

原田くんは、職場の飲み会で、このエピソードを"俺の友達が経験した話"として披露した。

すると、数年来、同じ部署で仕事をしている原田君の後輩が勘ぐってきた。

 

この後輩は口が悪い。

普段から、かろうじて敬語を使いはするものの、敬意が微塵も感じられない態度で原田くんに接している。

勘が良くそれゆえに優秀な男である。

 

この時も、あっさりと原田くんのつまらない見栄を見破り、真相へとたどり着いた。

そして、いつも通りヘラヘラと彼のとっておきの黒歴史エピソードをイジり倒すのだろうと思った。

しかし、予想に反して、後輩は普段とは少し違ったテンションで話をつづけた。

 

 「正直に話してくださいよ。僕は原田さんの気持ちわかりますから。昔同じような経験したことあるんですよ」

 

こいつは俺と同じ地獄を経験している…。

敬意の足りない後輩だが、これからは以前より良好な関係で仕事が進められそうだ…。

原田くんはそう思った。

後輩は続ける。

 

「自分は学生だった4年間、同じ彼女とずっとつきあってたんすよ」。

 

付き合っていた期間が長ければ長いほど裏切られた時のダメージは大きかったろう。

 

原田くんは会話のテンションを飲み会らしいものにするべく、

「絶え間ない愛を注いでたってわけだ」

とかつて流行したJ-POPの歌詞を引用して、茶々を入れる。

 

「まぁそういうことっすね」

 

後輩は少し肩をすくめただけで、テンションは相変わらずシリアスなものだった。

 

後輩とその彼女は大学受験の頃に池袋の予備校で出会った。

受験の前から付き合い始め、別々の大学に進学してからも関係は続いた。

概ね良好だった二人の関係に変化が訪れたのは就職活動が始まったころだった。

 

当時、後輩は大手新聞やTV局といったマスコミ業界を志望していた。

今も変わらず学生人気の高い業界だ。

たいしたコネもない後輩は、内定を得ることができず、就職浪人を視野に入れ始めた。

一方の彼女は、学生時代に家庭教師のアルバイトを続けてきた経験を活かし、早々に教育関係の企業の内定をゲットしたそうだ。

 

ここまで聞いて原田くんは、とてもありふれた学生恋愛の破局の在り方だと感じた。

そして、だからこそリアルだとも思った。

 

「それで結果的にふられるわけなんすけど、問題はその後なんすよね」

 

後輩は、別れた後に偶然にも彼女のブログを見つけてしまった。

後輩の友人が彼女と同じブログサービスを使っており、”足跡”的な機能を使ってたどり着いてしまったというのだ。

 

「読まなきゃよかったんですけど。いや、本当にそう思いますよ。当時に戻れるなら、クリックしようとしている自分を羽交い絞めにしますね」

 

そう語る後輩の顔はいつもの自信に満ち溢れたものではなかった。

いつの間にか原田くんたちのテーブルのムードは、一般のサラリーマンの飲み会とは程遠い湿っぽいものになっていた。

 

「なんていうんすかねぇ。すごいリアルなんですよ、ブログの形式って。1日ずつ確実に彼女の心が僕から離れていくのが、文章になってるんですから」

 

その日、席にいたメンバーは全員後輩より年上だったが、みんな黙って話を聞いていた。

たかだか数年の人生経験では、こういう時に掛けるべき言葉は見つからない。

それぐらい、後輩の話は重かった。

 

「それで僕と別れたいなぁみたいな話が最初に出てきてから数日後に、就職活動中に出会ったっていう知らない男が出てくるんです。10年以上前のことですけど、名前まだ覚えてますよ。上田さんって人でしたね」

 

正直、もう辞めてほしいと思った。

なぜ後輩は、こんなにすみずみまで彼女のブログを読んでしまうのか。

どうせ傷つくのはわかっている。

ならば、サラッと眺めるだけにして、二度とアクセスしなければいいじゃないか。

どうして過去にさかのぼって読み続けてしまうのか。

 

だが、原田くんは知っていた。

人は好奇心を抑えられない。

彼もかつてはなめるように恋人のブログを隅々まで読んだのだ。

幸いにして、自分に関する記述があったのは一つのエントリだけだったから、傷は浅くて済んだ。

 

そういえば、原田くんが当時彼女と見た映画のタイトルは

「好奇心は猫を殺す」

だったかもしれない。

確か元はイギリスのことわざだったはずだ。

 

「後はご想像の通りです。彼女は僕と別れて上田さんと付き合うんすよね。僕は、自分を嫌いになって別の男に魅かれていく恋人の様子をブログを通じて追体験したってわけです。

どうです?服とか店選びのセンスをdisられるぐらい、たいしたことなくないっすか」

 

そういって後輩は、氷が溶けてかなり薄くなっているであろうハイボールを飲み干した。

 

「そうかもしれないな。それにしても俺は今の話を聞いて、おまえとやっと腹の底からわかりあえたような気がしたよ」

 

後輩による唐突な黒歴史のカミングアウトによって、暗い雰囲気に覆われた席の空気を変えるべく、原田くんは可能な限り陽気なテンションでそう言った。

当初自分が披露したエピソードはあくまで"友達の話"であるという設定すら忘れていた。

それに対して、後輩は先程と同じように肩をすくめると、いきなり言った。

 

「先輩たちは、ピーチジョンって知ってます?」

 

後輩は、急にそんな質問をしてきた。

思い出話がひと段落したと安心していた原田くんたちは、意表を突かれた。

それでも出てきた単語の意味は知っている。

ピーチジョンは女性用の衣料を販売している企業だ。しかし、それがどうしたというのか。

 

「ここまで来たら全部話しちゃいますけど、僕、ビーチジョンがトラウマなんすよね」

 

原田くんたちの頭の上に、はてなマークが並んでいるのを無視して、後輩は吐き出すように一気に続けた。

 

「読んじゃったんすよ、彼女のブログで。『ピーチジョンの可愛い下着買ったよ』から『下着が役に立ったんだよ』っていう一連の流れを」。

 

後輩はハイボールを飲み干そうとしたものの、残念ながらグラスはすでに空だった。

 

そして、残念ながら原田くんたちは全員おっさんだった。

「下着が役に立つ」という言葉の行間に込められた意味を十分に理解できるほどに。

 

かつてフランスの詩人シャルル・ペローはいった。

「好奇心というものは、とても人の心をひきつけるが、往々にして多くの後悔のもとになる」と。

 

世の中の男女全員に伝えたい。

例え、それが全世界に向けて公開されているものだとしても、恋人のブログなんてものは読んではいけないのだ。

見つけてしまったら、黙ってブラウザを閉じるべきだ。

絶対に読んではならない。

少なくともブログの筆者と付き合っていた人間だけは。

 

原田くんは当時の後輩が味わったであろう絶望の深さを思い、致命傷だと思われた己の傷が軽く皮膚をかすめた程度のものだということを知った。

そして、己のトラウマを相対化し、職場の後輩との精神的絆を強めることができたという。

 

 

今度こそひと段落したと思われるこの話には、最後に問題が一つ残っている。

 

それは、これを書いている僕が原田くんの後輩であるということだ。

 

 

【著者氏名】永田 正行

大学卒業後、零細出版社に広告営業マンとして勤務。

その後、会報誌の編集者を経てネットメディアの編集記者となり、政治家や大学教授へのインタビューを多数手掛ける。

好きな言葉は「ミラクル元年 奇跡を呼んで」の西武ライオンズファン。

オレのアドバイスは間違えていたのかもしれない。

そう反省していることがある。

ランニングシューズ選びについてのアドバイスだ。

 

「この靴で走っても大丈夫?」

 

マラソンを趣味にしているオレに、暴飲暴食を趣味にしている(と思われる)友人が自分の履いている靴を指差しながら聞いてきた。

ランニングを始めたいという。1か月前の話だ。

 

走る理由は「腹」だ。中年太りにも程があるだろってくらいに友人の腹はパンパンだ。

ワイシャツのボタンがはち切れそうになっている。

 

履いていた靴は、お馴染みニューバランス996だった。

街を歩けば必ず見かけるニューバランスのタウンシューズの一つだ。

その歴史を見れば1980年代に「本格的」ランニングシューズとして世に登場したシリーズだが、今では完全にタウンシューズ扱いだ。

ランニングシューズタイプのタウンシューズということになるだろうか。

 

「いや~もっとちゃんとしたランニングシューズを買ったほうがいいよ」

 

オレはそう答えてしまった。

そのアドバイスを反省しているんだ。

 

マラソンを趣味として本気で走っているランナーが、ニューバランスのタウンシューズを履いて走ることはない。

ランニングシューズタイプだったとしてもだ。

なぜなら本格的なラニングシューズではないからだ。

発売当時は本格的であっても、今の基準で考えると本格的ではない。

 

ソールのクッション性能がそうだし、アッパーの通気性能も本格的とは言えない。

それらは格段に進化している。

だからスポーツ店の「ランニングシューズ」コーナーにこの靴はない。

「タウンシューズ」コーナーにある。

 

しかし、だからといってニューバランス996で走れないわけじゃない。

最新のテクノロジーは採用していないかもしれないが、立派なランニングモデルのシューズには違いない。

 

ランニング初心者がこれを履いて走ったって別にいいんじゃないのか。

オレが友人にアドバイスすべきだったのは

 

「靴なんてどうでもいいから、まずは1キロ走ってみろ」

 

そんな言葉ではなかったのか。

友人は別に下駄を履いて走ると言っている訳じゃないんだ。

 

ランニングを始めようと思っている人にとって大切なのは、ランニングシューズ選びじゃない。

とにかく初めの一歩を踏み出すことだ。たとえ裸足だったとしてもね。

 

とは言っても、マラソンを趣味にしていると、ランニングシューズ選びにこだわりを持ってしまうのはこれまた仕方のないことだ。

 

長い距離を走れば、靴擦れなどのトラブルも多くなる。

それを避けるためにできるだけ自分の足の形にフィットしたものが欲しくなる。

新しい素材を用いたソールのクッション性能で、多くランナーが自己ベストを更新したと聞けばそれを履きたくなる。

 

ランニングシューズの性能が、マラソンの結果に直結すると信じて疑わないランナーは少なくない。

オレもその一人だ。

そんな自分基準で友人にも

「ちゃんとしたランニングシューズを買ったほうがいいよ」

なんてアドバイスをしてしまったんだ。

まだ走り始めてもいない友人に。

 

もちろん市民ランナーがみな、最新の本格的なランニングシューズで走っているのかといえば、決してそんなことはない。

使い古しの、踵のすり減ったボロボロのランニングシューズだったり。

どこぞの安物メーカーのランニングシューズだったり。

そんなのを履いて走る人は珍しくない。

そしてそんなの関係なしに速かったりする。

 

それを見ると、ランニングシューズなんてなんでもいいんじゃないのか?そう思うこともある。

少なくとも一般的な市民ランナーのレベルならば。

 

「弘法筆を選ばず」の精神もかっこいいんじゃないのかって。

 

この話について、だから「ランニングシューズなんて、なんでもいいんじゃないのか?」について考えた時、思い出すエピソードがある。

ちょっとした思い出話だ。

 

オレが中学3年のときの話だ。

遠い昔の話だ。

 

校内の体育大会での出来事だ。

その「事件」はリレー競技で起きたんだ。

距離はたしか4×200mだったと思う。

学校のグラウンドにつくられたトラック1周の距離は200mだったはずだ。

とにかく4人×トラック1周のリレーだ。

 

3年生のリレーといえば体育大会の最終競技であり花形競技だ。

その着順のポイント次第で、クラス対抗の勝敗も決まることの多い重要な競技だ。

 

オレはそのリレー選手に選ばれた。

「選ばれてしまった」という表現がふさわしいかもしれない。

あまりうれしいことではなかった。

オレは走るのが特別に速いわけではなかったからだ。

 

まぁ野球部ってこともあって遅くはなかったと思うが、陸上競技を走るレベルにないことは確かだった。

残り3人に選ばれたやつらも同じようなものだった。

陸上部は一人もいなかった。

 

他のクラスには陸上部員もいるし、各運動部の俊足たちもそろっていた。

勝てる要素は一つも見つけられなかった。

クラスメイトもそう思っていたと思う。

 

花形競技のリレーだ。注目度は高い。

全校生徒の前で恥をさらしたくない。

だから嫌だなと思った。

まぁいいよ、てきとーにやろうぜ、そう強がるのが精いっぱいだった。

 

そんな我がチームを紹介したい。

 

1走 タドコロくん(帰宅部。運動能力は高い)

2走 クドウくん(野球部。走るのは速くない)

3走 オレ(野球部。走るのは速くない)

4走 カワサキくん(帰宅部。走り幅跳びはけっこう飛ぶ)

 

こんな4人だった。雑草軍団だ。

 

ここで「靴」の話になる。

中学校の体育大会とはいえ、リレー選手に選ばれたからには、みんなそれなりに「ランニングシューズ」を用意して勝負に挑むことになる。

ただ我がチームの4走、アンカーのカワサキくんは違った。

 

「オレ、靴なんて別になんでもいいよ。」

 

そんなスタンスだった。

カワサキくんはいつも履いていた「普段履き」で勝負に挑むことになった。

その靴とは「コンバースオールスターハイカット」だ。

 

当時多くの中学生が普段履きとして愛用していた、いわゆるズックだ。

ニューバランス996が本格的なランニングシューズからタウンシューズになったように、「コンバースオールスターハイカット」も本格的なバスケットシューズとして世に登場したことは有名だ。

それが1910年代だというのだから、その歴史には驚く。

しかし今では完全なる「普段履き」用の靴だ。

ズックだズック。

 

カワサキくんはこの大舞台にズックで勝負に出たんだ。

 

土のグラウンドを走るのには、ズックのソールはグリップ力に不安があるように思った。

しかし、どうせオレたちは勝てない。

まぁ、いいか。いまさら靴を変えたところでどうにもならない。

好きにすればいいさ、そう思った。

 

ただそうは言っても、がんばらない訳にはいかない状況になっていた。

このリレーで万が一、オレたちのチームが優勝すればクラスの総合優勝も決まる点差だったからだ。

 

晴れ渡った空にピストルが鳴り響く。

 

1走のタドコロくんがナイフのように切れ味鋭いスタートダッシュをみせた。

コースは大外だ。

タドコロくんは断トツ1位でトラックを駆けている。

なにが起きているのかわからなかった。

バカやめろ、そう思った。

勝ちたいと思うと同時に目立ちたくないとも思った。

そのまま2走のクドウくんにバトンパスした。

 

2走のクドウくんは明らかに他の2走より遅かった。

しかしタドコロくんの作ったリードは他が追いつくことを許さなかった。

途中からオープンコースになった。

クドウくんはトップのままオレの前に現れた。

「ゴー」そう叫んだ。

 

3走のオレはクドウくんの「ゴー」を合図にスタートした。

だけど、来ない。クドウくんが来ない。

タイミングが合わなかった。バトンパスゾーンが終わる。

ヤバい。オレはほとんど立ち止まって振り向いた。

バトンを受け取る。バトンパス失敗だ。

2位のチームはすぐそこにいた。

タドコロくんが作ったリードはなくなった。

 

オープンコースになっているので、すぐには追い越しをかけてこない。

オレのすぐ後ろを走っているのは同じ野球部のアキヤマくんだ。俊足だ。

どう考えてもオレの方が遅い。

息使いがはっきり聞こえるほどの距離だ。

 

オレは野球部のキャプテンだった。アキヤマくんは副キャプテンだ。

キャプテンを追い越すんじゃねーぞ、そんな勝手なことを思って走った。

 

最終コーナーを回った時、アキヤマくんが横に並んできた。

4走アンカーにバトンを渡したのはほぼ同時だった。

 

終わった、そう思った。

 

オレがバトンを渡したカワサキくんは帰宅部でコンバースハイカットを履いていた。

アキヤマくんがバトンを渡したのは陸上部の短距離選手で本格的なランニングシューズを履いていた。終わった。

 

4走アンカーのカワサキくんのあの時の猛烈な走りは、今思い出しても笑ってしまう。

 

アニメの中のキャラクターのように、脚がグルングルン回って砂埃を上げて走っていくイメージだ。

グイグイスピードを上げていく。

同時にバトンをもらった陸上部短距離選手をどんどん引き離していった。

 

陸上部短距離選手をグイグイどんどん引き離していく帰宅部カワサキくん。

 

誰も予想できなかったその光景に、全校生徒の応援は異様なほどに盛り上がる。

 

雑草軍団が勝つのは目前だ。

 

カワサキくんはトップのまま最終コーナーに突っ込む。

ザザッザザッと脚が外側に流れ出した。スリップしている。

体のバランスが崩れる。明らかに制御不能だ。

 

そこからはスローモーションに見えた。

本当にスローモーションに見えたんだ。

 

前のめりになるカワサキくん。

右肩から地面に崩れ落ちるカワサキくん。

転がるカワサキくん。

 

音が消える。

 

次の瞬間、悲鳴と歓声。

 

カワサキくんは立ち上がれない。

雑草軍団は最下位に終わった。

 

このエピソードから

「やっぱりランニングシューズはちゃんと選んだほうがいいな」

と思う人もいれば

「コンバースでもいけるんだな」

そう思う人もいるだろう。

 

長々と読んでもらって申し訳ないが、正解はわからない。

はっきりしていることは、カワサキくんは弘法大使ではなかったということだ。

 

ところであれから1か月。

友人はまだ走り出していない。暴飲暴食は続けている。

 

【著者】氏名:シブケン

大学卒業後、建設コンサルタントに勤務。趣味多数。

特に「マラソン」「アマチュアバンド」「キャンプ」の趣味歴はそれぞれ「17年」「27年」「27年」と長い。長い割に大きな成果は出ていない模様。

その趣味活動における悲喜こもごもをブログに綴るのもまた、趣味のひとつになっている。

使い方は人それぞれだが、ブログを使って情報発信をすることがごく自然な行為となっている。

ブログを活用するのは、自分が思っていることを知ってほしい承認欲求の表れとか、広告収入を得るためとか、理由もそれぞれあるだろう。

 

だが、ある程度の期間、メディアと呼ばれる企業に勤めた経験がある筆者には、どうもそれだけとは思えない。

それは何かを考えてみる。

 

いろいろ、偉そうに書いていくが、私がメディアに在籍していたころ、

「できる記者」

だったかというと、疑わしい。

たくさんの記者会見に出席して、いろいろ記事も書いてきたが、それが優れた仕事だったかと言われると、胸を張って「そうです」と答える自信はない。

いろいろと反論や批判もあるかと思うが、ご容赦いただければと思う。

 

「古い」記者にとってブログは余計なお世話?

 

「●●●(有名人)さんが自身のブログで●●●を発表しました」というニュースを報じるテレビ番組をよく目にする。

結婚だったり、復帰だったり、とテーマは本当に人それぞれ。

 

当然よろしくない話題もある。

ブログがなかった時代は、記者が独自の情報網を駆使して入手した●●●に相当する「特ダネ」をテレビ番組や雑誌などで披露していた。

 

その後(それが正しいか正しくないかに関わらず)、ネタになった人が記者会見をしたり、先を越されたメディアが(なぜ先を越されたか、言い訳を作るため)大挙して押し寄せたりする風景をよく見かけた。

だが、ブログで発表されてしまえば、「古い」記者にとっては、「スタートラインが同じ」であるため、報じるモチベーションはあまり上がらない。

それは、発表済みのネタで「特ダネ」ではないからだ。

 

だが、ブログに慣れ親しむ「新しい」記者にとっては、古臭い特ダネをとる作業(地道な周辺取材や、夜回りや朝回りといった、取材対象が行きそうな場所や自宅などにアポなしで訪問して、話を聞く行為など)をする必要がないため、記者にとってとても効率がよいと聞いたことがある。

 

本来、発表されるはずもなかったことを報じるのがメディアの役割で、いつか発表されることを、たかだか数日あるいは数時間早く報じても、そこにどんな意味があるかという疑問はあるが、いずれにしても、記者が頭と足を使う機会が減っているのは、確かなようだ。

 

これが、特ダネ獲得競争である雑誌の独走を生み出す要因になっていると考えているのは、私だけだろうか。

記者会見を要求するメディア、嫌う取材対象者

 

話がそれてしまった。

ブログで発表された情報は、そのまま、テレビ番組などで繰り返し報じられる。

発表内容について、説明する記者会見をすることもないケースも目立っている。

それはそうだ。ブログに書いたことが発表できることすべてだからだ。

 

これ以上聞かれても話すことなどない。

以前であれば、記者会見で話していたと考えられる内容を、ブログですべて書くようになった。

 

これ自体を評価するつもりはない。

だが、なぜこうなったかを考えてみたい。

記者会見は、記者にとっては、まさに勝負の場。

 

発表内容だけではなく、的確な質問をして、面白い回答を導き出し、場合によっては、記者会見後、会見者がいるところへ押しかけて、記者会見では聞けなかったことを聞く必要がある。

原稿に同業他社にはない視点を少しでも盛り込むためだ。

これができなければ、記者として記者会見場にいる意味はないとまで言われる。

 

会見者はどうか。

いくら話慣れている人でも緊張するらしい。

まず、自分が話す。

 

その後、記者から質問、となることが多い記者会見で、もちろん、予定調和ではないことが前提だが、

会見者が特に神経をとがらせるのが、記者からの質問だ。

打ち合わせもないことが通常であるため、どんなことを聞かれるか、答えられない質問だったら、どうかわすか。

 

記者のバックには、読者や視聴者がいる。

彼らにどういうメッセージを発することが最善か。

いろいろと思いを巡らせているうちに、記者会見の時間となり、思ったように進めることができない、話さなくてもいいことまで話してしまった、ということは、よく耳にする。

 

こういったことが繰り返されていくうちに、

「記者会見はめんどくさい」

という見解が広がっていく。

それだったら、熟慮に熟慮を重ねて書いた文章をブログにあげたほうが、自分の主張を正確に伝えることができるという考えが浸透していった。

 

メディア側はよく

「記者会見を実施してほしい」

と要望するようだ。

 

「説明する義務がある」など、メディア側は、もっともらしい理由を主張するが、これは、メディアが言うべきことではないと私は思っていた。

メディアが記者会見をしてほしい理由は、ほかにあるからだ。

 

まず、記者会見に出席すれば、会見者が話すことを聞くことができるため、最低限、「スタートライン」には立てる。

出席しなかったことで情報を聞き漏らすデメリットと、記者会見場まで行く手間や時間を比べると、デメリットを回避するほうが記者にとって有益だ。

 

聞いた情報をもとに、最低限の記事を制作することができるため、一応、お役目を果たせる。

会見者も、いろいろなメディアから、それぞれ質問を受けるよりも、記者会見で一度に済ませたほうが効率がよいという計算が働く。

会見者とメディアにとって、都合がよいシステムが記者会見という見方もできる。

 

もちろん、メディアと会見者の間のやりとりに緊張感が満ちている記者会見も多い。

だが、仕事をしている体裁を保てるメディアと、効率よく情報を伝播させようとする会見者の思惑がかみ合ってしまうと、何の役にも立たない記者会見が出来上がる。

 

こうした記者会見の内容は、読者や視聴者の「知る権利」に応える水準には達してないだけではなく、情報が正しく伝わらない(あるいは、歪曲して伝わる)可能性もある。

 

これだったら、記者会見ではなく、ブログやほかのSNSで情報を伝えたほうがいいと考える人が増えることも容易に思いつく。

要は、メディアが信用されてない、ということなのではないかと思う。

 

メディアは、自分の権利にあぐらをかいているのではないか

 

メディアには、編集権がある。

編集権とは、

企画をたて、素材を収集し、整理し、構成する」

権利だ。

 

編集はよく、料理に例えられる。

料理で言うと、企画は、「何を作るかを考える」、素材は「材料」、整理は「調理」、構成は「盛り付け」だ。

まずい料理はだれも食べないのと同様、まずい編集によって意味出された情報は、市民から支持を得られない。

取材対象者にとっても、まずい編集をされて、情報がうまく伝わらないなら、メディアを活用するメリットはない。

 

権利の裏には、義務がある。

ここで言う義務とは、メディア側の都合をすべて取り払って「正確」に伝えることだと思う。

間違っていたら、すぐにでも修正し、自ら非を認める素直さや、真摯な態度で情報に向き合い、発信する謙虚さが必要だが、こういった態度がメディアには足らないと思うことがある。

こういったメディアの行為を見るたびに、辟易し、従来のメディアに頼らない情報公開の方向にベクトルが向いているのではないか。

 

米国のトランプ大統領とメディアとのやりとりで印象に残っている場面がある。

記者会見の内容は、よく覚えてないが、ある日本のメディアが質問をしたときにトランプ氏が質問者に向かって

「誰だったかな」

というような趣旨のことを話した場面だ。

 

この記者は、普段トランプ氏を取材しているわけではなく、普段取材している記者のピンチヒッターでたまたま記者会見に出ただけかもしれない。

だが、世界で最も影響力がある人物に名前を覚えられてないメディアって、どうなのか、と思ってしまった。

 

一方、意に沿わない質問をして、記者会見に出入り禁止となっても、一貫して真実を聞き出そうとする米メディアもある。

取材対象者にとって「めんどくさい」メディアと、「取材対象者に優しい、存在を知られてない」メディアが共存する社会で、情報の受け手である市民に信頼されるのはどちらだろうか。

 

メディアリテラシー、などと言われるようになって、しばらく時間が経っている。

メディアが発信する情報に対して、正しいか正しくないかということを、自分で判断できるようになりましょうという意味だ。

 

政治家の発言を、編集をして、一部分だけを大々的に報じる手法をとるメディアもある。

このとき、政治家が何を言おうとしていたかを自らが判断するために、メディア報道に加えて、自分で情報を取りに行く姿勢が重要になってくる。

 

ブログによる情報公開が増えていることは、メディアが発信する情報の信用性を測るうえで重要だと思う。

市民が自分で編集をして情報を発信するメディアを持てる時代だ。

信用できない旧来のメディアを使って、情報発信する意義が薄まることで、メディアが信用されなければ、誰が権力を見張ることができるか。

 

日本と米国では、メディアの数などが異なるため、単純に比較することは難しいが、ネットメディアを含めてメディア間競争が激しいのは、米国だと思う。

勝ち残っていくためには、情報の内容で勝負するしかない。

内容が薄ければ、市民に見向きもされない。

 

現に、経営に問題を抱えるメディアが増えてきている。

日本も、遅かれ早かれこういう状況になることを考えると、上で書いたトランプ氏の記者会見が、日米メディアが置かれている状況の認識の差を如実に示しているとも思える。

 

ブログやSNSによる情報発信が増えていることを見るにつけ、そんなことを勝手に思っている。

 

【著者】村上

大学院修了後、メディア企業入社。企業経営者らに取材、コンテンツ制作。現在、企業のオウンドメディアに携わる。

先日、希望退職に応じなかった東芝の社員が「単純作業」を割り当てられ、それに対して「追い出し部屋である」との反発があるとの報道があった。

東芝系社員、退職拒み単純作業 「追い出し部屋」と反発

東芝が100%出資する主要子会社にこの春、新しい部署ができた。

そこには希望退職に応じなかった社員らが集められ、社内外の多忙な工場や物流倉庫で単純作業を命じられている。

東芝は「適切な再配置先が決まるまでの一時的措置」だと説明するが、社員からは「退職を促す追い出し部屋だ」との反発が出ている。

(朝日新聞)

もちろん、嫌がらせの可能性もある。

 

だが実際に、彼らができる「事務仕事」は、もはや社内にはないのかもしれない。

多くの事務などの定形業務は、機械化されるか、アウトソースされるかのどちらかだからだ。

結果的に、企業内で残る業務は「肉体労働」しかない。

 

だが、ホワイトカラーとして何十年も仕事をしてきた人からすれば、

「クリエイティブな仕事ができない人は、肉体労働をやってください」

と言われるのは、残酷なメッセージだ。

 

 

クリエイティブな仕事は、「非定型業務」と呼ばれる。

「経営戦略の構築や事業計画の策定、新製品の企画・開発、対外的な交渉など個人の思考力、判断力、経験が要求される仕事」

(大前研一 https://www.news-postseven.com/archives/20170321_501519.html

 

この種類の仕事は「依頼」はできるが、「作業指示」を出すことができない。

「こうやればできますよ」という、明確な正解もない。(こうすればできますよ、という仕事は定型業務だ)

望ましい結果を示して、その実現のためにやってもらうだけである。

 

したがって、成果は純粋に「問題を解決できたかどうか」という、「質」で判断される。

「◯◯時間仕事しました」

「とても努力しました」

と言った言葉に意味はなく、「結果が得られたかどうか」だけが、報酬が支払われる条件となる。

 

一方、定型業務は「作業手順にパターンが有り、マニュアル化・外注化が可能な仕事」である。

成果は「量」や「時間」で測定が可能だ。したがって、残業や定時という概念がある。

 

 

現在、企業の中ではクリエイティブな仕事(=「非定型業務」)の価値が圧倒的に高まっており、「非定型業務」をこなせる人と、こなせない人では待遇にかなりの差が出てきている。

定型業務だけやれても、もはや普通の給与すら望めない状態だ。

 

「そんなの、一部の特殊な才能に恵まれた人にしかできない仕事では?」という方もいる。

だが、実際の現場をつぶさに見ると、殆どの仕事が「定型業務」と「非定型業務」のハイブリッドとなりつつある。

 

例えば、肉体労働が存在する職種、「看護師」「ホテルのサービス員」「調理師」……。これらの仕事は「定型業務」も多いが、実際には、ある程度高度な判断が求められる「非定型業務」も求められるようになってきている。

むしろ現在では一介の土木作業員、工場労働者ですら、完全に「定型業務」だけではない。

 

もちろん、ホワイトカラーも同様だ。

「営業」「マーケティング」「経理」「品質管理」「フルフィルメント」などもすべて、「定型業務」と「非定型業務」の混合である。

完全な「定型業務」に従事している人など、ほとんどいない。

 

「クリエイティブであること」は、実はあらゆる職業に求められる、基礎能力となりつつある。

 

だが、「全員がクリエイティブな仕事をする」なんてことが可能なのだろうか?

 

 

かなり前のことだ。

私は十数名の営業に、同じ指示を与えたことがある。

 

「1ヶ月後までに、新しく割り当てられたすべての顧客企業の、意思決定者と、起案者を突き止めること。」

これは、今後の売上数値を予測する上で非常に重要なことなので、「重要な仕事である」と何度も念押しをして、依頼した。

 

1ヶ月後。

成果は、3つのグループに大きく別れた。

「すべて突き止めた」というグループ

「約半数を突き止めた」というグループ

「ほとんど突き止められなかった」というグループ

 

なぜこのように差が出たのだろう。

 

「ほとんど突き止められなかった」というグループは、ほとんどの人間がこのように言った。

「やり方が分からなかった」と。

「時間は1ヶ月もあったのに、やりかたを人に聞くなどしなかったのですか」と聞くと、多くの人が「聞いてみたけど、よくわからなかった」という。

 

「約半数を突き止めた」というグループは、ほとんどの人間が、このように言った。

「一通りまわってみて、半分くらいは突き止めることができた。けど、どうしても聞けないところがあった。」と。

「なぜ聞けないところがあったのですか。」と聞くと、殆どが「断られた」「聞いても教えてくれなかった」という。

 

そして「すべてを突き止めた」というグループ

彼らの言うことは、「とりあえず回ってみて」という最初の一言以外は、ほとんどバラバラだった。

「一通り回ってみて、簡単に突き止められるところは半分くらいだった。あとの半分は、個別にやり方を考える必要があった。たとえば役員を通じてアプローチした。」

「購買のツテをたどった。」

「これまでの問い合わせ履歴を確認したりした。」

「古い記録を見て、異動した人につないでもらった」

など。

 

「ほとんど突き止められなかったグループ」の特徴

さて、「ほとんど突き止められなかったグループ」は、何が問題なのか。

 

彼らは「動かない」グループだ。

やり方が分かるまでは動けず、何もしない人たちで、詳細な「マニュアル」を提示したとしても、なかなか仕事をしない。

 

「人に聞け」と言っても、聞くためには「自分が動いてみた」という経験が必要なので、聞くことすらできない。

 

「約半数を突き止めたグループ」の特徴

「約半数を突き止めたグループ」は、まずは一通り行動してみることができるグループだ。

 

まず言われたら試し、その中で失敗したら、経験者にある程度やり方を聞き、そのやり方に従って、仕事を遂行できる。

だが、そのやり方では通用しない状況が出てきたとき、彼らは止まってしまう。

 

「成果を出すまで、手を変え品を変え、試し続ける」という考え方が、彼らにはない。

このやり方で駄目だったら、まあ、仕方ない。

というように考える人達だ。

 

「すべてを突き止めたグループ」の特徴

彼らこそ、「非定型業務」をこなせるグループだ。

彼らは「クリエイティブな仕事」をしている。

 

従来のやり方を試し、それが通用しない状況においても、「別のやり方」を模索し、試し、検証を繰り返す中で新しいやり方を作り上げていく。

「仕事をやること」が重要なのではなく、「結果を出すこと」が重要だと理解しており、トライ&エラーの世界を実践している人たちである。

 

だが、実はこれらの仕事は「高いIQ」とか「希少なスキル」、あるいは「特殊な才能」を必要とするようなものではない。

そうではなく

「試す力」

「結果にこだわる力」

「改善する力」

といった、非常に抽象的な、ある意味では愚直な、習慣に関わる能力である。

 

今は「全員が」クリエイティブであることを求められる時代だ。

だが、それは全員が才能あふれる企画屋やアーティストとなれ、という世界ではない。

全員がトライ&エラーの素養を身に着けなさい、という世界だ。

 

全員がクリエイティブな仕事をすることが可能か。

時間はかかるかもしれないが、私の予測は「おそらく可能」である。

 

 

 

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