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日本の人口減少は、イノベーションには不利です。

だからといって、日本経済がイノベーションを手放すことはできません。

なぜなら、アメリカ、中国は次々にイノベーションを興して経済成長を続けていて、いまやイノベーションは経済のエンジンになっているからです。

 

そこで、人口減少がどのようにイノベーションの足を引っ張るのか概観してみます。

改善に着手するには、まずは現状把握しなければなりません。

その次に、人口減少社会のなかで、どのようにイノベーションを興していったらいいのか考えてみます。

日本経済が人口減少というハンデを乗り越えて発展していく道を模索してみたいと思います。

 

人口が多いほどイノベーションは起きやすい。だから人口減少は不利

イノベーションは確率の問題でもあります。

多くのイノベーションを生み出すには、さらに多くの失敗や見当違いな行為を積み重ねなければならないからです。

 

明治大学の阪井和男専任教授(法学)は、「新規事業の成功率は5%程度」と述べています。

そしてイノベーションを生み出すには「突出した人材の失敗を許容する」ことが必要であると指摘しています[1]。

 

つまり、突出した人材をどんどん生み出し、彼ら彼女らにどんどん失敗してもらわなければ、世界が驚くようなイノベーションは出現しないのです。

人口減少は単純かつ確実に、イノベーションの発生確率を落としてしまうといえそうです。

 

人口減少は問題が多い。だからイノベーションの足を引っ張る

経済力世界1位と2位のアメリカと中国で多くのイノベーションが出現しているのに、開発途上国ではあまりイノベーションが生まれていません。

国の経済力を背景にして、快適な研究室のなかで豊富な予算を使って開発すればよいものが生まれる、というのは理にかなっています。

国の経済力が落ちると、イノベーションを興しにくくなるのです。

 

人口減少は、日本の経済力を落としかねません。

学者たちは、日本の人口は今後100年間かけて5,000万人にまで減るとみています[2]。

人口5,000万人とは、日本の100年前の姿です。

 

政府や地方自治体の税収は激減し、経済は縮小するので、大学の研究予算は削られ、企業は開発に投資できなくなります。

また現代の充実した社会保障制度を維持できなくなるので、将来への不安からリスクを取って研究・開発に没頭する人が減るかもしれません。

いずれもイノベーションにとってネガティブ要因です。

 

内閣府は「現状のままでは」2040年代にマイナス成長になるとみている

日本政府も「現状のままでは」2040年代以降に日本経済はマイナス成長に陥るとみています[3]

内閣府は、人口と経済成長について次の4つのシナリオを描いています。

 

A:人口が安定化して生産性が向上する

B:人口が安定化して生産性が停滞する

C:人口が減少して生産性が向上する

D:人口が減少して生産性が停滞する

 

最悪のシナリオはDで、人口減少対策に失敗し、なおかつ企業などの生産性が停滞する内容です。

このシナリオDでは、2020年代初頭までは年1.0%程度の成長で推移して、それ以降は人口減少により押し下げ効果が拡大し、0.5%成長にとどまります。

そして2040年代にとうとうマイナス成長に陥るのです。

 

しかし内閣府は、力強く次のように述べています。

「イノベーションによって生産性を大きく改善することは決して無理ではない」[3]

 

ただし、そのためには次の課題を解決する必要があります。

・価格、品質、特徴的な価値で競争力を持つ

・高齢化で難航している事業継承をスムーズに進める

・AI(人工知能)、ビッグデータ、ロボットの各分野に乗り遅れない

・創意工夫による新たな価値の想像

 

こうした取り組みによって現状を打破し「人口減少社会でも経済成長していこう」と、内閣府は考えているわけです。

 

そもそもイノベーションとは

イノベーションの概念の生みの親、シュンペーター氏は、イノベーションを次の5項目で定義しています[4]。

・新しい商品をつくる

・新しい生産方法でつくる

・新しい市場をつくる

・新しい原材料をつくる

・新しい組織をつくる

 

立正大学教授で元東京大学教授の吉川洋氏は、この5項目のなかでも新しい商品をつくること、すなわち「プロダクト・イノベーション」こそが先進国である日本には重要であると考えています。

なぜ新しい商品が重要かというと、既存のモノやサービスは必ず市場を満たしてしまうからです。

つまり陳腐化してしまうのです。

 

陳腐化したモノやサービスは消費者に無視されるか、安く買いたたかれるかのどちらかです。

企業の収益も利益も落ち込み、従業員の給料が減り、国や自治体に納める税金も減り、社会保障の内容が貧弱になり、公共事業を打ち出すこともできなくなります。

 

この負のスパイラルを破るのが、新商品なのです。

 

イノベーションとは未来のニーズを先取りすること

それでは企業は、どのようにイノベーションと呼ばれるような新商品を生み出していったらいいのでしょうか。

 

産業ガラス製品の世界シェア1位で、連結従業員数が50,000人を超え、連結売上高が年1.5兆円(2017年)に及ぶAGC株式会社(旧旭硝子)ですら、イノベーションで生き残りを図ろうとしています。

同社の島村琢哉社長は、従来の延長線上に会社があってはならない、と述べています[5][6]。

イノベーションを生み出すために、会社の環境や体制を変える覚悟です。

 

AGCはイノベーションを、次の2段階で生み出そうとしています。

第1段階:30年後の社会のニーズを予測する

第2段階:バックキャストして未来に進む道を決める

 

AGCはこれまで、顧客企業から「こういうガラスがほしい」といわれ、その要望を満たすガラス製品をつくってきました。

しかし島村氏は「それではもう通用しない。顧客を飛び越え、未来の社会のニーズを予測して製品をつくらなければならない」と考えています。

 

それが「30年後の社会のニーズを予測する」ということです。

2018年からみた30年後は2048年で遠い未来に感じますが、まさに日本政府が「現状のままではマイナス成長に陥る」と想定しているが2040年代です。

AGCの危機感は「心配しすぎ」ではないのです。

 

バックキャストとは、目標を設定してから現在すべきことを考える手法です。

AGCは30年後の未来を先取りしようとしています。

 

AGCのこの思考は、イノベーションの神様的存在であるスティーブ・ジョブズ氏(アップル創業者、1955~2011年)にも通じるところがあります。

ジョブズ氏は「顧客が望むものを明らかにするのは、顧客の仕事ではない」と述べています(*7)。

企業は、顧客が「ほしい」と言う前に、顧客が求めるものをつくり出さなければならないのです。

それがイノベーションなのです。

 

1人のGPDの拡大によって、先進国のGDPは拡大する

AGCやジョブズ氏の思考を応用すれば、「人口が減ってもイノベーションは興せそうだ」と感じます。

その印象が間違っていないことを示すエビデンスがあります。

先進国のGDPの拡大は、1人当たりのGDPの拡大によるところが大きい、というデータがあるのです。

人口が増えればGDPが自動的に増えるわけではないのです。

 

日本の高度成長期(1955~1970年)の経済成長率は年10%もありましたが、当時の労働人口の増加率は1%強にすぎませんでした。

日本は、人口の拡大率以上に経済を拡大させた実績があるのです。

そして先述の吉川洋教授は「10%-1%=9%」は、イノベーションがもたらしたとみています[4]。

 

吉川氏のこの論は、説得的といえるのではないでしょうか。

イノベーションは、大人数が集まる会議で起きることはあまりありません。

1人または小集団が大きなイノベーションを起こすことが多いのです。

世界一企業価値が高いアップル社もジョブズ氏が孤軍奮闘したことが実を結んでいますし、世界の買い物を変えたアマゾンも、ジェフ・ベゾス氏が1人で始めました。

 

こうした傑出した人物を輩出できる国であれば、人口が減ってもイノベーションによってGDPを拡大させることは不可能ではないのです。

 

女性を活用すれば人口減を乗り切ることができる

さらに日本は、有効活用できていない人材を多く抱えています。

無駄にしている人材を生産人口にしていけば、人口減少による労働力の低下を補うことができます。

日本の経済界が有効活用できていない人材とは、女性です[8]。

 

経済協力開発機構(OECD)東京センターの村上由美子所長は、日本の男女間の労働参加率の差が50%解消すれば、2030年までに日本のGDP成長率が1.5%に増えると試算しているのです。

さらに女性が男性並みに働けば1.9%にまで増える、としています。

 

そして、もし女性の活用が現状のままだと、GDP成長率は1.0%にまで低下します[8]。

2017年の男性の就業率は68.4%で、女性は49.8%でした[9]。

 

もちろん、女性の就業を促すには女性が働きやすい環境をつくる必要があり、それは人口減少とは別の大きな社会問題になっています。

また、社会や企業で活躍する女性が増えれば、出生率が低下するかもしれないので、子育て支援を拡充する必要があります。

 

それでも村上氏は、女性を活用しきれていない日本の社会は「宝の持ち腐れ」と指摘しています。

宝を活かすことが、人口減少社会でイノベーションを引き起こすひとつの手段なのです。

 

まとめ~まさにピンチをチャンスに変えるとき

ビジネスシーンにおいて「ピンチをチャンスに変える」という常套句があります。

しかし実際のビジネスシーンでは、ピンチで苦しんでいるときにチャンスに変えるエネルギーが出てこなくてあえいでいるのではないでしょうか。

 

それは日本社会、日本経済も同じです。人口減少という厳然たるピンチの前に、政府も自治体も企業も有効策を打ち出せないでいます。

イノベーションこそが、ピンチをチャンスに変えるきっかけになるでしょう。

 

 

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【著者プロフィール】

株式会社識学

人間の意識構造に着目した独自の組織マネジメント理論「識学」を活用した組織コンサルティング会社。同社が運営するメディアでは、マネジメント、リーダーシップをはじめ、組織運営に関する様々なコラムをお届けしています。

webサイト:識学総研

Photo by Nicolas HIPPERT

 

 

参照

[1]新規事業の成功確率は5%程度 突出した人材の失敗を許容できるか(阪井和男、明治大学法学部専任教授)
http://www.dhbr.net/articles/-/5023?page=3

[2]人口減は日本にとってイノベーションを準備するいい機会だ(立正大学教授、吉川洋)
https://diamond.jp/articles/-/154081

[3]経済成長とイノベーション(内閣府)
http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_5.html

[4]人口減少、イノベーションと経済成長(吉川洋、経済産業研究所)
https://www.rieti.go.jp/jp/publications/pdp/15p017.pdf

[5]企業情報(AGC)
http://www.agc.com/company/index.html

[6]旭硝子社長:30年後のニーズを予測して逆算する(AGC社長、島村琢哉)
https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/040400128/090700016/

[7]イノベーションの成功確率を高める「8つの問い」(スコット D. アンソニー、ハーバードビジネスレビュー)
http://www.dhbr.net/articles/-/2842?page=2

[8]「人口減」をイノベーションで好機に変えよ(Yahoo!ニュース編集部)
https://news.yahoo.co.jp/feature/410

[9]労働力調査(基本集計)平成29年(2017年)平均(速報)結果の要約(総務省)
http://www.stat.go.jp/data/roudou/rireki/nen/ft/pdf/2017.pdf

コンサルティング会社にいたころは、会社として「読書」が推奨されていた。

 

推奨、というと柔らかく聞こえるが、もちろん、上司が薦めた本は一読しておくのが半ば義務となっていた。

コンサルティング会社というのは、そういう所だ。

 

なお、形式上の評価項目には、そのような項目はなかった。

が、勉強会などで「読んでいない」ことが発覚すると、「知識不足」「勉強不足」と周りから認識され、暗黙の評価が下がってしまうことが予想された。

 

ただ、上司の名誉のために言っておくが、漫画や小説はリストになかったが、基本的に上司が薦めてくる本は良い本がほとんどで、個人的には、外れはほとんどなかった。

 

会計、人事、戦略、品質管理、システム化、マーケティング……

仕事に必要な知識は、現場経験や社内のノウハウだけではなく、読書からもかなり仕入れることができたため、上司がそうした本をリサーチし、薦めてくれるのは、むしろありがたかったとも言える。

 

本を読まない人たち

ところが。

中には「本を読まない人」もいた。

それなりの数。

 

本が苦手なのか、評価を気にしないのか、すでに大量の知識があり、不要だと考えているのか。

とにかく、彼らは推奨された本を読まなかった。

 

特に、新卒や若手を数多く採用するようになると、「本を読まない人」も増えた。

そこで上司は、「本を最低月10冊以上読む」というルールを作り、それを徹底するようにマネジャー層に指示をした。

読んだ本について、日報の中で報告させるようにもした。

 

ところが、そういうルールをつくっても、やはり、読まない人は何を言われても読まない。

 

かろうじて「10冊」に目を通していたとしても、大して頭に入っていないので、結局読んでいないのと、大して変わらない。

そのような人は、日報も薄い内容であり、目を通してがっかりさせられることも少なくなかった。

 

読まない人たちの言い分

そんな「読まない」人たちは、いったい何を考えているのか。

私は不思議だった。

 

そこで「読まない人」に、なぜ読めないのかを聞いてみた。

すると、帰ってきた答えは、「読みたいとは思うが」という前置きの後に、

・時間がない

・面白くない

・難しい

といった、普通の回答があった。

 

彼らは、読書のために時間を割こうとしなかったし、「楽しくない」という理由で、挫折していた。

中には「プライベートの時間を使いたくない」とほのめかす人もいた。

 

「絶対に読め」というべきだろうか

ここにきて私はマネジャーとして、彼らに「絶対に読め」というべきかどうか、非常に迷った

 

彼らのためではない。

言ったところで読まないので、いうだけ損だ、と思ったのだ。

しかし、彼らの会社でのキャリア、評価、そして今後の会社員人生を思うと、言わないで放っておくのも、なんだか不親切に思われた。

 

いったいどうすればいいのだろう。

私はそれを、敬愛する一人の人物に相談した。

すると、彼は「放っておけばいいんじゃない?」と言い、J・S・ミルの「自由論」を引用してくれた。

物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にはならない。

相手のためになるからとか、相手をもっと幸せにするからとか、ほかの人の意見では賢明な、あるいは正しいやり方だからという理由で、相手にものごとを強制したり、我慢させたりするのはけっして正当なものではない。

これらの理由は、人に忠告とか説得とか催促とか懇願をするときには、立派な理由となるが、人に何かを強制したり、人が逆らえば何らかの罰をくわえたりする理由にはならない。

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この、「相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にならない」という一節は、私のマネジャーとしての考え方に、大きな一石を投じた。

 

「言ってもやらない人」は、基本的に放置

私は、自分の子供に対しては、本を読むように言う。

また、そうした環境を整えようと、強く思い、干渉もする。

 

しかし、赤の他人、しかもいい大人に対して「本を読め」と強制するのは良くないことだ、と、そのときの私は結論付けた

彼らは本を読まないことで、直接的に他人に迷惑をかけているわけではないからだ。

 

もちろん、知識が不足していて、クライアントに迷惑がかかる可能性もある。

ただ、それが本を読まないことが原因なのか、と言われたら、断定はできない。

 

究極的には、仕事が要求しているのは、クライアントの満足であり、彼らの読書ではない。

私は、仕事で障害が起きたり、クライアントのクレームが来ない限り、「言ってもやらない人」は、基本的に放置することに決めた

 

もちろん、「知識不足」を問われ、彼らの社内での評価がさがるかもしれない。

会社が推奨していることをしないことで、彼らの立場が悪くなるかもしれない。

 

だが、それは彼らの選択の自由の結果だ。

「自由論」によれば、私の干渉は正当化されない。

そう考えた。

 

愚行権という基本的人権

少し前に、「愚行権」という権利についての記事を読んだ。

 

その中で、アルコール依存症の患者にたいして、「飲んで死ぬのも本人の権利かもしれない」という、ラディカルな言説を見つけた。

私たちが忘れた「愚行権」行使する人々の生き様

「いまでもよく覚えているアルコール依存症の利用者の方がいるのですが、訪問すると『酒を買ってきてくれ』と言うのです。

ヘルパーの仕事は掃除、洗濯、買い物が基本ですけれど、アルコール依存症の方にお酒を買ってくることは、医療的観点からも社会福祉的観点からもいけないわけです。

でも、『なんで自分の年金で酒を飲んじゃいけないんだよ』って言われると、それもそうだなと思います。飲んで具合が悪くなるのも、死んでしまうのも、本人の権利かもしれない。基本的な人権の中には本来、愚行権というものがあるべきはずだと、私はいまでも思うんです」

もちろん、私はアルコール依存症の方に対して「飲んで死ぬのも本人の権利」とまでは思わない。

彼らは病人であるし、さすがにそれは冷たすぎる。

 

が、いい大人で、社会人としてキャリアもあり、しかもコンサルティング会社の社員が

「本を読まないことで、評価が下がるかもしれない」

ことを選択しているのなら、それは本人の自由だ。

 

彼らは子供や病人ではない。

分別のある大人だ。

「言ってやらないなら、わざわざいう必要もない。」

それが、結論だ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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伊集院静さんの『ひとりをたのしむ 大人の流儀10』(講談社)というエッセイ集のなかに、こんな話が出てきたのです。

私の父親はよく”働かざる者食うべからず”という言葉を口にした。
私は、父と向き合って話をしたことがほとんどない。
それでも少年の頃、私と弟の前で、
「いいか、どんな人も働かなくては生きて行けないんだ。まずおまえたち一人一人が手に職を付けて、生きていけるようにせねばならん。そうでなければ飯(まんま)も食べられんのだ」
と言ったことがあった。

父は仕事をしない人間を嫌った。
父は物乞いをしている人に、決して物を与えるんじゃない、とも言っていた。
一度、父の前に物乞いが座り、声を掛けたのを見たことがある。
「旦那、お恵みをして下さいまし」
子供の私には、その人がどこか身体が悪くて立ち上がれないように思えた。

すると父は相手にこう言った。
「なぜ、そんなことをしているんだ。どこか身体の具合でも悪いのか? 歩けないのか? なら立ってみろ。ほら手を貸してやるから立って歩いてみろ。足が痛いなら、病院へ行って治すなり、でなければ自分で歩く訓練をするんだ。そうして働くんだ。世の中には働き口はいくらでもある。その胸にぶら下げているものは何だ? 軍隊の勲章か。そんなもの捨ててしまえ。そうしてすぐに働き口を探しに行け」

相手は戸惑うような目をしていた。おそらく、そんなことを言われたのは初めてだったのだろう。そうして父は相手に金銭をいっさい与えなかった。
私は子供ごころに、その人を可哀相だと思ったが、反面、父は相手の身体がさして悪くないとわかっているのではとも思った。

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ちなみに、伊集院さんのお母さんは、夫には黙って、物乞いをしていた人たちに食事の残り物などをあげていたそうです。

 

そういえば、僕が子どものころ、いまから40年前くらいには、僕が住んでいた地方都市にも、ときどき「食べるものがないんです」と物乞いが玄関のチャイムを鳴らすことがあって、母親が家にあったパンなどをあげていた記憶があるんですよね。

 

それを知った僕の父親も「一度あげてしまうと期待して何度もうちに来るようになるし、かえって働かなくなる」と母に言っていたのです。

当時の僕は、何事につけ母親の味方でしたから、「どうせ余り物なんだし、かわいそうな人にあげるくらい良いじゃないか」と内心反発していました。

 

この伊集院さんのお父さんのエピソード、今、2021年に読んで、僕はとても複雑な気分になったのです。

40年前、10歳くらいだったら、「お父さんの困っている人への冷たい態度」に嫌悪感を抱いただろうし、20年前、30歳くらいのときに読んだら、「いちいち断るのも面倒だし、恨まれるかもしれないから、なんか適当にあげて、今回だけにしてね、というくらいが正解」と思ったのではなかろうか。

今だったら、「まあ、知らない人が玄関のチャイムを鳴らしても、モニターを確認し、インターホンで対応して直接接触することはないだろうな」というところです。

 

そして、昔は「冷たい人だ」と反発するだけだった、この伊集院さんの父親の対応に、今の僕は、なんだか共感してしまう。

 

僕自身の自己評価としては「自分なりに努力をして、なんとか食べていけてはいるし、ここまでは大きな病気もしてこなかったけれど、振り返ってみると、『もう少し頑張れていたのではないか』と過去の自分に後悔もしている」のです。

若い頃に、もっとしっかり勉強して、自分の専門分野を確立して「自分にしかできないこと」を積み上げていたら、今ごろはもっと、やりがいがあって、面白い仕事ができていたのではないか、なんて。

 

その一方で、若い頃の自分は毎日夜遅くに疲れ果てて家に帰ってきて、きつくて眠くて仕方がないのだけれど、まだ仕事はいくらでもあるし、寝て起きたら、また明日になって、仕事に行かなきゃいけないんだよなあ……と、ひたすら憂鬱だったのを思い出します。

あのとき、「がんばりきれなかった」からこそ、こうして生きているのかもしれません。

 

今の世の中って、「そんなにがんばらなくていいよ」「無理しなくていいよ」「できなことはしょうがないよ」って、みんな言ってくれるじゃないですか。インターネットでは、とくに。

それは「がんばりすぎることによって、鬱を発症したり、自殺してしまったりする人」を救うためには、正しいのです。

 

でも、僕はこれまでの人生で、いろんな人をみてきて、痛感してもいるのです。

昔のように、やみくもに「頑張れ、努力が足りない」と言われるのは横暴だと思うけれど、「頑張れる人は、頑張ったほうが良い」のはいつの時代でも変わらない。

そもそも、ネットで「頑張らなくていい」と言う人だって、大概、自分に関係がある人ならば、高く評価するのは「頑張っている人」なんですよね。

 

最近読んだ、『どうしても頑張れない人たち~ケーキの切れない非行少年たち2』(宮口幸治著/新潮新書)には、こんな事例が書かれていました。

ある子どもは、保育園の頃からとても頑張り屋さんと言われていました。保育園の頃に縄跳びの練習をあまりに頑張り過ぎて足を少し痛めてしまったので、親が「もう頑張らなくていい」と止めたそうです。親は、それからその子が何かやろうとするたびに、その縄跳びの例を出して、「頑張り屋さんだから無理したらダメだよ」と声をかけ続けました。するとその子は頑張らなくていいと思い込んでしまい、何もしなくなってしまいました。でも親は無理をさせないように、子どもには「やったらできるんだから」と言い続けたのです。結局、その子どもは勉強もしない、運動もしない、チャレンジしない日々を送りました。大人となった本人は、親に対してもっとあの時に頑張らせてほしかった、と語っていました。
”無理をさせる”ことには反対ですが、誤って”頑張らせない”になってしまうと、ここでも被害者は子どもたちなのです。

[amazonjs asin="B0912V79BK" locale="JP" tmpl="Small" title="どうしても頑張れない人たち―ケーキの切れない非行少年たち2―(新潮新書)"]

どこまで「頑張っていい」のか、というのは、本当に難しい。

 

僕は若手を「厳しく鍛える」ことで知られている病院に中堅として勤めていたことがあるのです。

若手を指導しながら、自分はここで研修しなくてよかった……とずっと思っていたのですが、そこで、身を削るようにして仕事を覚えていった研修医たちは、短い間にものすごい成長を遂げ、自信をつけていきました。

 

人には、それぞれキャパシティや置かれた状況があって、「頑張ることができない。あるいは、頑張ることにあまりにも向いていない」という人はいる。

でも、頑張れる人は、頑張れるときに頑張ったほうが良いと思うのです、たぶん。

 

「あまり頑張れない人間」であることを自覚していて、頑張れない人たちに共感してしまう僕でも、仕事仲間としては「頑張ってくれる人」のほうが助かります。

「間違った頑張り」で困ったことになることもあるけれど。

 

いまの世の中では、他人に対して「そんなに頑張らなくてもいいよ」と言いがちです。

しかしながら、多くの現場では「頑張っている人」のほうが高く評価されているのです。

 

「まだ大丈夫です!」って言っていた人が、突然職場に出てこられなくなって、鬱で休職してしまうようなことも少なからずあるし、「どこまで頑張れるのか」っていうのは、正直よくわからない。

「死にたくなったらその仕事は辞めたほうがいい」くらいは言えるとしても。

 

『ケーキの切れない非行少年たち2』でも、いくつかの「予想に反した結果になった事例」が紹介されています。

長年子どもたちに接している専門家でさえ、「ここまでなら大丈夫」という境界線がはっきりわかるわけではないのです。

 

僕は子供の頃、若い頃、「頑張れ」ばっかり言う大人が大嫌いでした。

お前らは「頑張る才能があった人間」だからな、って思っていたのです。

その一方で、自分よりも頑張れない人を「どうしようもないな」と蔑む気持ちも持っていたんですよね。

 

企業の経営者たちの若者たちに対する「やりがい搾取」にはうんざりするけれど、自分が年齢を重ねて、いろんな人を見てくると、「頑張れるときに、自分の価値を高めるような努力をしておいたほうが良い」「せっかくのチャンスなのに、もったいない」と、もどかしくなることって、本当に多いのです。

こういうときに、「成功者」たちは若者に説教したくなるのだなあ、と痛感するのです。

 

彼らは傲慢で、「自分にできることは他の人にもできる」と思い込んでいるのかもしれません。

でも、「自分にできないことは、この人にもできない」と考え、「頑張らなくていい」と言うのは「傲慢」ではないのか?

 

もしこれを読んでいる若い人がいれば、これだけは伝えておきたいのです。

頑張れる人は、頑張ったほうがいい。

そして、自分が頑張るかどうかは、他人に判断をゆだねるのではなく、自分自身で決めてほしい。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo by Jonathan Kho on Unsplash

もう随分と前の話だが、金融機関に勤める友人から「起業を考えている」と相談をされたことがある。

聞けば、自分の専門領域でコンサルのような仕事をしたいのだが、なかなか思い切りがつかないということのようだった。

「やっぱり日本って、人脈がないと事業って成功できないと思うんだよ。」

「よく言うだろ。得意客で人脈と思ってたのに、会社をやめた途端に手のひらを返されるとか。」

 

要するに、十分な仕事を取れるかどうか。

もしくは会社のカンバンを失っても自分は通用するのかどうか心配なので、客観的な意見を聞きたいと言うことのようだった。

 

彼はプライベートの友人なので、ビジネスパーソンとしてどの程度の活躍をしているのか正直よく知らない。

しかし短い会話の中で、なんとなくわかったことがある。

彼は、「人脈」というものを勘違いしている。

「人脈と思ってたのに、会社をやめた途端に手のひらを返される」

などという「俗説」を身近なリスクに感じるのであれば、彼の起業はきっとうまく行かないだろう。

 

究極の貧乏くじ

話は変わるが、日本が先の大戦で敗戦を迎えた時の総理大臣は誰かと聞かれ、即答できる人はどれくらいいるだろうか。

時の総理大臣は鈴木貫太郎というが、近現代について詳しく教えることが避けられる教育を受けてきた世代には、初耳の人すらいるかも知れない。

「就任時の年齢が史上最高齢の総理大臣」として時々名前が挙がることもあるが、いずれにせよ日本人にすら、その程度の知名度だろう。

 

鈴木が総理に就任したのは昭和20年4月で、その時の年齢は77歳と2ヶ月。

つまり敗色濃厚で、勝てるわけがない戦争の最終局面で国家の舵取り・・・というよりも“敗戦処理”を任された総理大臣ということになる。

 

そして鈴木ほど、明治維新から第二次世界大戦敗戦までの「近現代の日本の全て」を知り尽くす人物はいない。

鈴木が生まれたのは1868年1月。大政奉還からわずか数カ月後の慶応3年で、まさに時代は江戸から明治に移り変わる時だった。

その後、誕生したばかりの日本海軍に入ると日清・日露の両戦争にも従軍し、多くの戦功を残す。

特に日露戦争での活躍は凄まじく、日本海海戦では駆逐艦隊を率いて、ロシアの主力戦艦3隻を撃沈もしくは撃破するなど、戦勝に大いに貢献した。

 

これら活躍もあり、1924年には連合艦隊司令長官(海軍現場トップ)、1925年には海軍軍令部長(海軍トップ)に昇るなど、要職を歴任する。

そして1929年、昭和天皇からの強い要望を受け侍従長に就き、予備役となって一線を退いた。

 

そんな軍歴一筋で生き、そして引退したはずの鈴木が突然、16年後の1945年4月に総理大臣に担ぎ上げられることになった。

令和に至るも史上最高齢の77歳で。しかも、総理大臣どころか何の国務大臣を経験したことがないにも関わらずだ。

言葉を選ばずに言うと、これは「責任ある適任者がみんな逃げた」からだろう。

「まもなく負ける国のトップ」なんか誰も就きたがらないので、ある意味で当然だ。

 

政治には一切関わらず、開戦の意志決定に一切参加していない。

戦争中にも、国家の意志決定に関わっていない。

にも関わらず、敗戦の責任を取るポジションに就くことを求められた。

鈴木が求められたのは、それほどに過酷な役回りだった。

 

実際に、敗戦となれば鈴木は戦犯として連合国側に捕らえられるだろう。

それ以前に、終戦工作を悟られた瞬間に、軍部から暗殺されるかもしれない。

その上で、国を失った最高責任者として未来永劫、歴史に汚名が残り続け、子々孫々まで辛い思いをする可能性すらある。

実際に鈴木は、玉音放送の直前、8月14日の夜から15日未明にかけて、クーデターを企てた陸軍に襲撃されている。まさに想像もできないほどの貧乏くじである。

 

しかし鈴木は受けた。

昭和天皇から組閣を命じられた時、「もうお前しか、頼めるものはいない。頼む。」と終戦工作を懇願され、この究極の貧乏くじを理解した上で、引いた。

ちなみに鈴木は先に、昭和天皇の侍従長を引き受けたときにも、海軍軍令部長から「はるかに序列が劣る」ポストに転じている形だ。

名誉や序列にこだわる軍人の生き方としては相当に異例のはずだが、この時も鈴木は受けた。

 

結局鈴木は、就任から4ヶ月後となる1945年8月に、戦争を終わらせることに成功する。

そして即日、敗戦の責任を取って内閣の総辞職を発表すると、程なくして郷里に戻った。

おそらく、戦犯として訴追される準備もしながら過ごしていたのであろう。

 

しかし結局、GHQからは公職追放を命じられただけで、逮捕も訴追もされることはなかった。

その後、鈴木は自分の為すべきことをすべてやり終えたことを確認したかのように、敗戦から2年8ヶ月余り後の1948年4月に永眠する。

 

救われる思いがするのは、この「究極の貧乏くじ」を理解し引くことを選んだ鈴木について、今に至るも「国を失った指導者」として非難するような声がほぼ皆無なことだ。

本当に責任ある人たちが全て逃げてしまい、担ぎ上げられた「責任感のある人」に全責任が被せられ、後世の私たちからも罵倒されるのであれば、本当に情けない話になってしまう。

 

しかし今日、そのような歴史的評価を聞くことはほとんどない。

おそらくこれから先も、そのように鈴木を批判するような意見が主流になることはないだろう。

青臭いことをいうようだが、そんな世の中で本当に良かった。

 

人脈とは「困った時に頼れる人たち」ではない

話は冒頭の、「人脈と思ってたのに、会社をやめた途端に手のひらを返されるのではないか」と悩んでいる友人の件についてだ。

なぜ私が、彼の起業はきっとうまく行かないだろうと考えたのか。

 

彼は人脈というものを「困った時に頼れる人たち」のことだと思っているようだが、それは違う。

人脈とは、「自分を頼ってくれる人たち」のことだ。

「困った時に頼れる人」などというものはほとんどの場合、本人の思い込みであり、全くアテにすべきではない。

そんな思い込みで人を頼ったところで、「なんだ、会社辞めちゃったの。ふーん(笑)」と言われるに決まっている。

 

その一方で、「困っている時に、一番に自分を頼ってくれる人たち」と言われて、いったい何人の名前を挙げられるだろう。ぜひ、数えて欲しい。

多くの名前を挙げられる人は、本当に幸せだ。そういう人は、本当の「人脈」に恵まれている。

きっと今まで、多くの人の困りごとを一緒に悩み、解決に力を尽くし、汗をかいてきたのだろう。

 

そしてそのような人は、「感謝」という名の「預金通帳」を、世の中のあちこちに持っている。

引き出すつもりはなくとも、自分自身が困っている時にはきっと多くの人が、その解決のために一緒に汗を流してくれるはずだ。

 

そして話は、鈴木貫太郎のことについてだ。

彼はいつも、どのような無茶振りをされても、多くの仕事を引き受けて来た。

その最後の大仕事が、「総理大臣として戦争を終らせる」という、これ以上はない貧乏くじだった。

簡単に終戦工作というが、その実現のためにどれほどの政治力が必要であったのか、想像もつかない。

まさに生涯を通じ、多くの「預金通帳」を積み上げてきた鈴木以外にはなし得なかった、多くの「人脈」に助けられた大仕事だったのではないだろうか。

 

将来的に、大きな仕事をしてみたい。

あるいは、どうやって人脈を作ればよいのかと悩んでいる人はぜひ、1冊でも多くの「預金通帳」をつくることから始めてみてはいかがだろうか。

 

もちろん、100冊の「預金通帳」を世の中に預けても、実際に引き出せるのは2~3冊くらいだろう。

しかし、それくらいで丁度いい。

始めから回収を考えているような人には誰も、「頼ろう」などと思うはずがないのだから。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

先日、コロナ禍でテイクアウト営業に切り替えた焼き鳥屋さんで買い物をしたら、注文していない串がたくさん入っていました。

すぐに電話すると、「いつもお世話になっているので、お客さんが大好きなハツモトをサービスで入れときました」とのこと。

コロナが収まったら、これまでの倍通います。

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

 

Photo by Sharon McCutcheon

試合の終わりと人生の終わり

この間、ある映画を観ていたら、こんなシーンがあった。

ある村で、因習によって、村人はある年齢を迎えると、次の魂に生まれ変わるため、自死しなくてはならないというものであった。

おれはなかなかにショッキングなそのシーンを見て、同時にまったく関係なさそうなことを思い浮かべた。

 

「これ、今年の日本プロ野球みてえだな」と。

 

今年の日本プロ野球は、試合のイニング数が決まっている。

9回までで終わりなのだ。

9回で同点なら同点で終わり。延長戦はなし、だ。

まあ、延長があるにしても12回までという決まりはあるんだけれど。

 

そしておれは、その9回打ち切り制度に、一野球ファンとして「延長戦無いほうが面白いんじゃ」と思ったりしているのだが、まあその話はまたべつの話。

ともかく、寿命が定められた人生というものに、終わりが定められた野球。なにか似ているな、と思ったわけだ。

 

野球は人生の比喩か、人生が野球の比喩か

かつて、歌人、劇作家の寺山修司は「競馬は人生の比喩だと思っているファンがいる」ことに対して、「人生が競馬の比喩だ」という言葉を残した。

後者ばかりが有名になって、そのあとに続く「前者の主体はレースにあり、後者の主体は私たちにある」という部分は知らていない。

とにかく競馬を称えるような言葉になってしまった。

 

まあ、それもまたべつの話。

ともかく、さっきおれが感じたのは「野球は人生の比喩」ないし「人生は野球の比喩」のいずれかだ。

 

というか、人間の関わるものは、なんでも「人生の比喩」になりはしないだろうか。

「歯磨きは人生の比喩」、「ラーメン屋の経営は人生の比喩」、「通勤電車は人生の比喩」、「靴紐を結ぶのは人生の比喩」……適当に書いてみたが、なんか適当にでっち上げられそうではないか。

ひょっとして、人生たいしたことなくね?

っつーか、人間の行いに、人間の人生がたとえられるのは当たり前かもしれない。

 

いや、人間が関わらずとも。「天体の運行は人生の比喩」、「潮の満ち引きは人生の比喩」、「四季の移ろいは人間の比喩」、「ボース=アインシュタイン凝縮は人生の比喩」……。

自然科学、人間とは関係ないものですら人生の比喩になりそうではある。

そうすると、人間の行いもたいしたことのように思える。

 

というわけで、べつに野球に人生の比喩を見てもいいだろう、ということだ。

もっとも、今どき「やきう」なんて時代遅れで、若い人にはなにもわからないかもしれない。

野球の説明が必要だろうか?

 

じゃあ説明しよう。

野球はちょっとだけクリケットに似たスポーツだ。

クリケット?

クリケットはちょっとだけ野球に似たスポーツらしい。

自分で調べろ。

 

話を戻す。野球に人生を見る。

が、こんなことは、おそらく野球というものが生まれてから多くの人間が考えてきたことであろう。

昭和の夕刊タブロイドには、ある野球選手の選手人生を、サラリーマンの人生に重ね合わせたコラムがどれだけ載っていたことだろう。

 

気になる人は、古本屋で近藤唯之という著者の野球本を一冊手にとってもらいたい。

文体が癖になったらもう一冊買えばいい。

人生に深みが増すかもしれない。

増さないかもしれない。

 

100日後に死ぬかもしれない人生

そして話は最初のヴァースに戻る。

終わりの時が定まった人生というのは、どういうものなのだろうか。

おれの、あるいは現代日本、あるいは世界に生きる多くの人は、ちょっと怖いな、と思うに違いない。

いや、ちょっとどころじゃなく怖い。死刑執行日の確定した死刑囚の境遇を想像しよう。

 

とはいえ、「死刑執行日の確定していない死刑囚の境遇」というのも怖いかもしれない。

むしろ、そっちのほうが怖いかもしれない。いつそうなるかわからない。

そして、朝起きて、いきなり執行を知らされる。

……ってこれ、日本の死刑じゃないか。他国の死刑はよく知らないが。

 

ん?

いつか死ぬのは決まっているのに、死ぬ日を知らされていない……、というのは普通の人生ではないか。

人生は死刑の比喩にすぎないのか。

これもまた言い古されたことに違いないが。

 

最近、そのあたりをうまく可視化させてみせたのは『100日後に死ぬワニ』だと思う。

可視化以外がうまくいったか知らない。

とまれ、連載進行中に多くの注目を浴びたのは、読み手自身がそれぞれに100日後に死んでいてもおかしくないという、恐怖の琴線に触れるところがあったからだろうとも思う。

 

というわけで、よほど特殊な状況(たとえばある国において、安楽死や尊厳死を自分で選ぶなど)を除けば、われわれは死ぬときを知らない。この無知は恐怖につながる。

 

しかし、この恐怖に拘泥しすぎてしまうと、おそらく人は狂う(狂ったものとみなされる)。

その恐怖からわれわれは、あることをしている。「忘れる」のだ。

例のワニのように、普通に生きる。そうするしかない。

 

よほど精神的な修行などをして、死をいつでも受け入れられる境地に至らないかぎり、見てみぬふりをするしかないのだ。

見て見ぬふりをしても、いずれゲームセットの日が来るのは決まっているのだが。

われわれは自分の最期の時をしらない。

 

100日後に確実に死ぬ人生

一方で、最初に書いた村の因習のように、ある年齢になったら確実に死ぬことが決まっている人生とはどのようなものだろうか。

ここでは、なにかのアクシデントでその歳に至らずに死ぬ可能性は限りなく無いものと考えてみよう。

 

おそらく、死を「忘れる」ことはできないだろう。

誰かにメメント・モリ(死を忘るなかれ)と言われるまでもない。

 

それでも、人によっては「死ぬ日が決まっているのだから、この一日を大切に過ごそう」と生きることもあるだろうし、「どうせ死ぬのだからなにもしたくない」となることもあるだろう。

ちょっと想像がつかない。

 

とはいえ、現実世界で似たようなケースがあるとすれば、「癌で余命宣告を受けたので、仕事を辞めて、持ち金はたいて世界一周のクルーズ旅行に行く」とかいう話はあるだろう(「そしたら癌が治ってしまった」なんて尾ひれをつけて)。

 

そうだ、死神が現れて(昔、えんどコイチの『死神くん』って漫画ありましたね。あれ好きだった)、「何年何月何日に死ぬ」と宣告されることはない。

だが、自分が生きている国のだいたいの平均寿命くらいは知っているだろうし、親族なりなんなりがどのくらいの歳で寿命を迎えるかという体験はあるだろう。

むろん、突然の事故死や急病死はあまり考えない。

 

おれにしたってそうだ。

あまりよい生活を送っていないので「明日ダンプカーに轢かれて死んだりはできないだろうか」と思うことはあっても、いざ自分の死について考えると、平均寿命やそれよりかなり短い自分と同じ病気に罹ったの平均寿命について想像する。

われわれは、なんとなく自分の最期の時をしっている。

 

いつそのときが来てもいいように

忘れていたかもしれないが、野球の話に戻る。

この人生が野球だとすれば、自分はプレイングマネージャー、選手兼監督だ。

打順を決めるのも自分、代打を出すのも自分、マウンドに立つのも自分だ。

大谷翔平どころの話じゃない。

 

セオリー通りの生き方を選ぶのも自分だし、セイバーメトリクス(統計学的分析による戦術)を重視するのも自分だ。

送りバントをするのか? バッターに任せるのか?

 

とはいえ、すべての人間がその一人野球をやっているようには思えない。

すなわち、自分をずっとベンチに引っ込めて、ぼんやり回が進んでいくのを眺めているような人生だ。

 

……などと言うおれがまさにそうだから、そう思う。

 

監督をだれかに任せてしまい、出番が来なくても素振りをして試合に出たいというアピールもしない。

もちろん、出たいと思えば出られるのが自分の人生だ。

それなのに、誰かに、何かに任せてしまっている。

回は進む、年齢だけが積み重なっていく。

 

打席に立て、マウンドに登れ

それじゃあ、つまらんだろう。

いずれにせよ死ぬ人生、終わるゲームだ。

バットを握って打席に立ってみてもいいじゃないか。

三振してスコアボードに0がついても自分の人生。

マウンドに立ってめった打ちされていきなり8点奪われても自分の人生。

 

と、わかっちゃいるが、勇気は出ない。

自分で自分の人生を生きていない。

おれのゲームのはずなのに、下手したらベンチどころか内野自由席あたりでビールを飲みながらぼんやり見ている。

それもまた人生、なのだが。

 

ただ、人生も7回裏の攻撃くらいになって、いきなり客席から「代打、おれ!」と叫んでみてもいいじゃねえか。

スコアは11-3くらいで負けてる。

でも、まだチャンスは……まったくないとも言い切れないが。

 

やっぱり面倒くさいな。怖いし、失敗したら恥ずかしい。

おれのスタジアムなのにおれがいない。でも、そっちのほうが楽でいい。

人生を生きるのは面倒だ。

たとえ何かの間違いで一塁に出ても、目でベンチに「代走! 代走!」って合図送るんだ、松山竜平みたいに。

 

でも、ちょっぴり、野球したいなって思うことがないわけじゃないんだぜ。

こんなおれでも、いくらかの期待を背負って打席に立つんだ。まあ、憧れにすぎないけどな。

 

で、みんなはやってるのかい

しかしなんだろうね、みんな打席に立ってるか?

内角高めをうまくさばいて右方向へヒット打ってるか?

ボール投げてるか?

右打者の内角をえぐっているか?

それともベンチで居眠りか?

おれにはそれがよくわからない。

 

インターネットなんてものを見ていると、一番打者、おれ! 先発、おれ! みたいに大活躍して、生き生き、キラキラしている人が多い。

けど、実際のところ、そうやってチャレンジして、結果的に、現在のところ成功しているからスポットライトを浴びているのであって、世の中の大多数はどうなんだろう。

 

おれが観客席から自分に野次を飛ばしている人間だから言うわけじゃないけれど、おれみたいなやつも少なくないんじゃないのか。

勝負どころかグラウンドにも入らず、自分に野次飛ばしているようなやつ。おれの願望か?

 

おれの人生はいま何回?

で、おれの人生はいま何回?

死ぬときはわからないから答えはない。

だが、野球を年齢にたとえてみれば……まだ4回。中盤の入り口くらいのもんだ。

まあ9回90歳まで生きられるような健康な生活は送っていないけどな。

 

けどまあ、そう考えると、人間にとっての1回裏表ってのは重要だな。

2回もすごく重要だ。

今後を決めてしまうわけだ。

ここはもう全力投球でとにかく投げきるのが大切なんだろう。

後からわかることだ。

 

もちろん、わかっているやつはやっていたのだろうし、よい導き手がいたらそうしていたかもしれない。

なんにも考えないでできてしまう天才もいるだろう。それも人生だ。

 

おれみたいに1回からゼロ行進の人間が、4回に急に頑張りだすというのも難しい。

たぶん先発は打ち込まれているだろうし、中継ぎも経験がない。

打線は湿りがちだし、代打に立ったら足が震える。

 

そして、このまま負けつづけて、うまくいけば9回でゲームセット。

まあ、そんなことはないので、どっかでコールドゲームになって試合終了というのが関の山。

 

だからまあ、なんだ、こんなん読んで、「あ、おれ打席に立ってなかったわ」って気づいた人がいたら、ちょっと勝負してみてもいいだろう。

人生は3連戦ではない。

ましてや143試合もない。1戦だ。

負けたら終わりどころか、勝っても終わる。

 

さあ、腕を振ってボールを投げろ。

よし、ひきつけて打て。

菊池涼介のように飛んできたボールをさばけ。

なにをどうすれば点が入るのかも、とんとわからないが。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Brandon Mowinkel

本記事では、マーケティング3.0の目指す世界から、企業がSDGsに取り組むべき理由を述べたい。

 

共通目的は世界をよりよい場所にすること

マーケティング3.0は、フィリップ・コトラーによって提唱された概念である。

モノを売り込むため製品中心だった1.0や顧客満足を重視した消費者志向の2.0に対し、マーケティング3.0では、人々を単なる消費者として見做すのではなく、自社の掲げるミッションやビジョンを共に実現しようとする倫理的なパートナーとして捉えている。

企業は、人々が持つ社会的・経済的・環境的な根源の欲求に製品・サービスだけでなく、自社のミッションやビジョンで応える必要があり、提供価値もより精神的な充足感を与えるものでなければならない。

 

表 マーケティング1.0、2.0、3.0の比較

出典:『コトラーのマーケティング3.0 ソーシャル・メディア時代の新法則』(2010年、朝日新聞出版)を元に知見録で作成

 

第1回で述べたように、SDGsが目指すのは「世代を超えてすべての人々がよりよく生きられる世界」であり、マーケティング3.0の目指す世界観と一致する部分が大きい。

近年、日本でも購買決定時に社会的・文化的な意義を求める「イミ消費」という消費行動も見られるようになっているが、若い世代を中心に消費者の価値観も確実に変容してきており、企業にはこうした潮流を捉えて事業展開していくことが求められはじめている。

 

ビジネスはミッション・ステートメント達成のための手段と言い切るパタゴニア

アウトドアメーカーのパタゴニアの製品を愛用している方も多いだろう。

同社は、2019年の参院選の投票日に全国22箇所の直営店を全て臨時休業にし、従業員に投票を促したことでも話題になったが、長年、環境問題に対して強くコミットしている企業の一つである。

 

アメリカでは、消費者が年間で最も買い物をする日として「ブラックフライデー」があり、当然、多くの小売店がこの日に合わせて大規模なセールを展開している。

しかし、パタゴニアは2011年のブラックフライデーに“DON’T BUY THIS JACKET”(このジャケットを買わないで)という広告を掲載した。

その真意は、大量生産・大量消費社会に対して疑問を投げかけ、消費者に対して「その商品が本当に必要かどうか、購買決定前に熟考せよ」との問いかけであった。

自社製品を買わないで、と呼びかける前代未聞の広告であったが、それは、環境を改善するためにビジネスをするというパタゴニアのミッションに沿ったプロモーションだった。

 

さらに大きな反響を呼んだのは、2016年のブラックフライデーで行われた「100% Today, 1% Every Day」というキャンペーンである。

これは、従前から実施していた世界中の直営店・オンラインショップの売上の1%を草の根環境保護団体に寄付するという取り組みに加え、ブラックフライデーには売上の100%を寄付するというものだった。

「購入金額に応じて数%を寄付する」というような貢献の仕方は、コーズマーケティングと言われる手法として多くの企業で行われているが、一日のみとはいえ、売上の全額を寄付するという取り組みは大きな話題となった。

実際に、このキャンペーンは消費者からも圧倒的な支持を獲得し、同社が当初予想していた約2億2000万円の5倍を超える約11億円の売上を記録した(参考:ブラックフライデー(11月25日)の過去最高売り上げを地球のために全額寄付|パタゴニアHP)。

 

このように環境問題の解決に力を入れて取り組んできたパタゴニアであるが、日本上陸30周年を迎えた2019年にミッション・ステートメントを刷新し、より力強いメッセージを発信している。

従来は「最高の商品を作り、環境に与える不必要な悪影響を最小限に抑える。

そして、ビジネスを手段として環境危機に警鐘を鳴らし、解決に向けて実行する」という理念を掲げ、既にビジネスを通じた課題の解決を謳っていた。

新しい理念では、「私たちは、故郷である地球を救うためにビジネスを営む。」という一文で、目的と手段をシンプルに、かつ強固に打ち出している。

 

顧客と共創する「よりよい世界」

パタゴニアが打ち出す明確なスタンスは、環境配慮を重視する消費者からも熱狂的に受け入れられており、「世界をよりよい場所にする」ことを顧客と共創するマーケティング3.0を具現化している事例と言えるだろう。

 

あらゆる製品・サービスのコモディティ化が進む一方、Z世代が消費のボリュームゾーンに入って来るにつれ、消費者の価値観も大きく変化してきている。

2021年には、マーケティング5.0がリリースされる予定だが、日本企業の多くは未だにマーケティング2.0から移行できていないという意見もある。

 

マーケティングは企業のパーパスに基づき、自社が実現したい価値を顧客と共に創り上げていくためのツールである。

もちろん見せかけだけのSDGsウォッシュとならないよう、本業を通じて社会価値の最大化に取り組むことが大前提であるが、SDGsの視点から、自社のマーケティング活動をアップデートすることが求められている。

(執筆:本田 龍輔)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

Photo by Tim Marshall on Unsplash

 

人間には能力差がある。

賢く生まれる人間もいるし、その逆もまた然りだ。

 

中学生の頃、頭のいい人間が一晩二晩程度の勉強で凡人をゴボウ抜きする姿を何度も目にする度に「世の中はなんて不平等なのだろう」と思った。

こんなにも歴然と能力差をみせつけられると…なんか「ロースペック人間がコツコツやる理由なんてなくない?」と思ってしまわない方が難しい。

 

ウサギ型人間がほんのちょっとの努力でカメをギュンと周回遅れにできるのなら、カメ型人間が頑張る意味はあるのだろうか?

「バカが頑張る意味なくない?」

「ってか地頭がいい人間が本気になって頑張れば、なんだって出来るだろ」

「はぁ…なんか人生アホくさくなってくるな…」

こんな事を考えた事がある人もいるだろう。世の中は実に理不尽である。

 

しかし最近になって、どうも人生は上のようには簡単ではないらしいという事がわかってきた。今日はその話をしよう。

 

物凄く頭がよくて、やる気もあったのに高学歴になれなかった子供の話

エリザベス・スピーゲルというアメリカの中学校教師の話をしよう。

彼女は優秀なチェスの指導者で数多くの名プレイヤーを育てあげた人物だ。

 

彼女の指導をうけ、チェスプレイヤーとして大成したジェイムズ・ブラックという少年がいる。

 

彼は貧しい地区に住むアフリカ系アメリカ人だ。

学業的には落ちこぼれであったものの、スピーゲルの手ほどきによって12歳でチェスのマスターのタイトルを獲得した。

 

いわゆるやればできる子供であり、典型的なウサギ型人間だといえよう。

 

スピーゲルはジェイムズをみて一つの計画を思い立った。

それは彼をニューヨーク屈指の名門高校に入学させようというものである。

 

ジェイムズもスピーゲルの情熱に感化され、二人は真剣に名門校合格を目指して受験勉強に半年取り組む事となった。

 

こんなにも頭がよい子供が優秀な指導者の元で受験勉強に励むのだから受験ぐらい合格しそうなものだけど、結果は残念ながら不合格だ。

ジェイムズはチェスで彼に勝てる生徒が一人もいない学校に入学できなかったのである。

 

やる気、やり抜く力、地頭と現代における三種の神器ともいえる貴重な才能を持っていたにも関わらず、彼は地頭で彼に劣る凡百の人間にまったく勝てなかった。

ウサギ型人間がカメ型人間に敗亡を喫した瞬間である。

<参考 成功する子 失敗する子 何がその後の人生を決めるのか>

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早期教育は思った以上に大切

失敗の原因は教師や生徒が怠けたからではない。

スピーゲルは熱心に受験勉強の指導を行ったし、ジェイムズも固い決意をもって懸命に学習した。

 

それでもジェイムズは名門校の合格を勝ち取ることはできなかった。

何故か?それは早い時期に”知識を詰め込む”教育を受けなかったからだ。

 

貧しい地区で生まれ育ったジェイムズは学習にあたっての基礎知識が著しく欠けていた。

ヨーロッパ大陸やアフリカ大陸の場所も知らず、基礎的な語彙もなく、計算力も著しく欠けていたジェイムズは、スピーゲルがどんなに情熱的に勉強を教えても何も身につかなかったという。

 

これを読んだ方の中には「それなら足りない基礎知識を習得させればいいではないか」と思った人もいるかもしれないが、残念ながらジェイムズはそれを身につけられる段階を既に逸していた。

早期の詰め込み教育はある段階を超えてしまうと地頭が幾らよくても不可能になるらしい。

 

結局、ジェイムズは半年もの間かなり真面目に勉学に取り組んだにもかかわらず、最後の最後まで基本的な知識を脳にインストールことができなかった。

そんな子供が名門校合格の学習レベルにたどり着けるわけもなく、結果は当然のごとく不合格だったというわけだ。

 

世の中にはやり直しがきかない事がある。

そしてそれは能力云々を超えた場所にあるものなのである。

 

土台は学校だけではなく、環境でも形成される

ジェイムズは高学歴になる為の最初の土台を築き上げる事に失敗した。

それは「頭のいい子が本気で頑張ったら、何でもできる」ようなものではなかった。

 

エリート校の試験で好成績を収めるには”長い年月をかけて身につけた知識や技能”が必要だ。

 

この手の基礎知識の習得は早い段階での教育でも当然提供されるが、その場は学校に限らない。

家族や友人など、所属する文化から知らぬ間に吸収されるものの方がむしろその影響は大きい。

 

つまり周りの大人の話す言葉や友達に影響されて吸収する知識は意外と馬鹿にできないのである。

みんなが「こんなの常識でしょ?」としたり顔で披露する知識の普及率は馬鹿にならない。

 

それは優秀な教師と情熱的な生徒であったとしても、ある年齢を超えてしまうと身につける事が極めて難しいエリートになる為の土台で、それを育むのに最適な場は”環境”だ。

 

よくいう”生まれか育ちか”の答えはこれでもうハッキリしただろう。

ある程度よい場所に生まれて育ってくれないと、その後はもう”育てられない”のだ。

 

エリートになる為に何よりも大切なのは…残念ながら地頭ではなく環境だったのだ。

 

成功は親の地位でだいたい決まってしまう

IQの高さよりも育った場所の方が大切なのは社会実験でも証明されている。

 

かつて高いIQを保持するものを追跡した社会実験があった。

1990年にアメリカの心理学者ピーター・サロベイ氏とジョン・メイヤー氏が行った有名な実験だ。

 

実験の提唱者は当然というか、IQが高い≒社会的にも成功しやすい傾向にあると予想しこの実験を行ったそうだけど、結果はまったくといっていいほどに相関がみられなかった。

 

では何が成功に最も影響していたか?

それは親の社会的地位だ。似た者同士はくっつきやすい。

成功者は成功者と、高学歴は高学歴と繋がりやすい傾向にあり、それらが作り出す強固なネットワークはエリートになるための最大の基盤となる。

 

結局、成功したいのなら頭の良さ云々より成功した人たちに囲まれる事の方が大切なのである。

現代社会は童話のウサギとカメのようにはいかないのだ。

 

成功は能力差で競うものではなく、どの環境に属するかなのだから、頭がどんなに良かろうが置かれた場所が良くなければ成功のルートに入り込む機会を逸してしまう。

 

だから頭が悪いカメだって、特に初段階の頃はノロノロ頑張る価値はあるのである。

むしろカメだからこそ、頑張る価値があると言えるかもしれない。

 

都会で中学入試が白熱する理由も、この事実を皆が何となく察しているからだろう。

僕は自分の子供がウサギだったら中学入試もアリかなぁと思っていたが、むしろ我が子がカメであると思えば思うほど、やらせた方がいいのかもしれないなぁと少しだけ認識を改めてしまった。

 

大人から承認さえ与えてもらえば、子供はいくらでも頑張れる

早期教育が非常に大切な事は上記の事例で理解いただけたと思う。

地頭がどんなによくても、最初の最初でつまずいてしまったら二度と取り返しがつかないのだから、いやはや世の中というものは恐ろしいものである。

 

では置かれた環境が悪ければ全て駄目なのだろうか?

まったく逆転の目はないのだろうか?その可能性を打ち壊す可能性がある話をしよう。

たとえ貧しい地区に生まれ育ったとしても、人はある条件さえ満たされれば成長可能だったという夢と希望に満ち溢れた話である。

 

インドの教育科学者であるスガタ・ミトラはタミル語という地方言語しか話されていないインド南部の村で興味深い実験を行った。

この村にインターネットに接続されたコンピューターを設置し、英語で書かれたDNAの複製に関する資料を読めるようにした上で、村の子どもたちが自由に使えるように放置した。

 

二カ月後、彼は村を訪れて子どもたちにDNAの複製についてテストを行ったが、この段階では結果は散々だった。

 

次に彼は大人の監督役をつけることにした。

村に顔見知りの若い女性会計士がいたので、ちょっとした手助けを頼んだ。

 

若い女性会計士は「DNAの複製のことなど何も知らない」と言ったが、ミトラは「おばあちゃん役」をしてくれればいいんだと安心させた。

コンピューターと向き合っている子どもたちの後ろに立ち、さかんに褒め言葉をかけ、何をしているのか尋ねるだけすればいいと言い残し、彼は村を去った。

 

二カ月後、子どもたちのテストの正答率は五〇パーセントに跳ねあがった。

この正答率はニューデリーの裕福な私立学校に通う生徒たちとほぼ同様だという。

 

つまり、インドの貧しい村の子どもたちでも裕福な親の子どもたちと同程度までにキャッチアップできるのだ。

後ろで認めてくれる大人がいれば、だが。

<参考 イアン・レズリー. 子どもは40000回質問する~あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力~>

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大人の役割とは子供に関心を示してあげる事なのかもしれない

先の現象は非常に興味深くはないだろうか?

 

このインド南部の村は、冒頭に例としてあげたチェスマスター・スピーゲルが住んでいた場所であるニューヨークのスラム街と同じく、低所得者層で構成されている。

普通に考えれば、知識が普及するのには最悪の環境といえよう。

DNAの複製なんてメシの種にもならない高尚な概念が浸透する余地はどこにもない。

 

だが…それでもインターネットと褒める教師役の二つが組み合わされば部分的とはいえ高所得者の子どもたちと同じ程の知識が普及するのである。

 

知識が普及しないのは、それをやった所で誰も褒めてくれないからだったのだ。

つまり…全ては大人の責任だったのである。

 

チェスマスター・スピーゲルが子供の頃に地理や語彙、計算能力を身に着けなかったのはそれをやっても認めてくれる大人が誰もいなかったからだ。

 

インド南部の村の子どもたちも、DNAの複製について、大人が誰も褒めてくれない状況下だと全く普及しなかった。

後ろでじっと見守って、子供に興味を持つ。

たったそれだけで、子供が成長するのだとしたら…大人の役割というのは子供を厳しく指導したり良い道へと導く事ではなく、キチンと興味を示してあげる事なのではないだろうか?

 

相手に関心を示せるようになって、私達は初めて大人になったといえるのではないだろうか?

私達はつい他人に自分の良いと思った事を押し付けがちになる生き物だ。誰もが自分の話をしたがり、誰かの話は聞きたがらない。

 

相手にキチンと興味を示し、相手に共感する。

口で言うのは簡単だけど、実際に実践するとなると本当に難しい。

特に価値観が異なる相手ともなると、その難易度は格段に上がる。

 

「大人は何もわかってくれない」という使い古されたフレーズがあるけれど、異なる価値観を持つもの同士の対話の難しさを示すのにこれ以上最適なものもそうはない。

 

常識が異なる相手に共感的態度でもって好奇心を示す事は酷く難しい。

これは何も幼い子供に限った話ではなく自分の上司も自分の部下もそうである。

”話がわかる”人間というのは、それほどまでに貴重なのだ。

 

相手の話にじっと耳を傾け共感する事は自分勝手に身の上話をする事の何百倍も難しい。

 

だが、その共感的好奇心こそが何よりも人を育てるのである。

万人にそれをやれとは流石に言わないが、身の回りの大切な人ぐらいはそれができるように努力してみてはいかがだろうか?

 

インドの貧しい村でDNAの知識を普及させる触媒となった若い女性会計士のような人間になれれば、きっとあなたに山程の人望ができる。

相手にキチンと興味を示し、注目する。きっとそれだけであなたは立派な大人として尊敬される事だろう。

人に慕われるのには何も偉業を為さずともよいのである。

 

溢れんばかりの野心でもって業績を積み重ね他人から尊敬されようと躍起になる人もいるけれど、そんな事をせずとも後ろに立ち、さかんに褒め言葉をかけ、何をしているのか尋ねる事さえできれば、あなたの元には必ずきっと尊敬の念が集まる。

 

仕事に燃えて、出世しようと業績を積み重ねるのも確かに悪くはない。

特に若い頃はそれで成長できる事もあるだろう。

 

ただ、果たしてずっとそれを続けた先に、あなたが本当に欲しいものはあるのだろうか?

 

尊厳は他人から奪うものではない。

自分の手で作れるものである。

自分が本当に欲しいのは紙面の上に乗っている経歴なのか、それとも人望なのか。

 

それがわからない人間は、たぶんずっと一人ぼっちなのである。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by mostafa meraji on Unsplash

「あえて、人に、100回断られる」という試みをした男。

ジアン氏は第二のビル・ゲイツを夢見て中国からやってきた移民でした。[1]

奨学金を得て大学で学び、起業家をめざしてMBAも取得しました。

有名大企業でマーケティング部門の中間管理職につき、経験も積みました。

 

本気で起業を目指すのなら、拒絶に対する恐怖心を克服して、次のステップに進まなければなりません。

 

では、どうしたら拒絶に対する耐性をつけることができるのか。

熟慮の末、彼はついに、「拒絶セラピー」という方法を編み出しました。

 

断られるようなバカげたことをわざと人に依頼して、断られる経験を100回、重ねる。

その経緯をすべて録画し、動画をYouTubeにアップする。

100日拒絶セラピー(“100 Days of Rejection Therapy”)」[2]という名のブログを立ち上げ、そこにも動画をアップする。

 

さらに、ブログを始めることにしました。

そうすれば状況を説明する必要性が生じるからです。それに、フォロワーがいれば途中でやめにくくなるのも「自分を追い込む」には好都合。

 

彼が考えた「わざと断られるようなバカげた依頼」の一部は以下のようなものでした。

  • 見知らぬ人の庭でボールを蹴る
  • 飛行機の機内アナウンスをする
  • 高級ホテルの部屋に無料で泊まる
  • パトカーの運転席に座る
  • 飛行機のコックピットで機長の席に座る

 

~初目~

目の前に、突然、見ず知らずの若い男性が現れる。

そして、急にこんなことを申し出る。

「1万円(100ドル)、貸してもらえませんか」

「拒絶耐性セラピー」初日:ジアン氏と警備員 [2-1]
https://www.rejectiontherapy.com/blog/2012/11/15/the-100-days-rejection-therapy/

 

ご想像のとおり、ジアン氏に声をかけられたビルの警備員はこう答えました。

「ノー」

「だめですか。わかりました。だめですよね。ありがとうございます」

ジアン氏は全速力でその場を立ち去りました。

 

断られることが目標なのですから、断られたのは成功です。

ところが、目標を達成したにもかかわらず、彼は怯え切っていました。

 

ブログとYouTubeにアップするために録画した動画を編集しながら、ジアン氏はあることに気づきます。

それは、「ノー」に続く次の言葉を聞き落していたことです。

「なんで?」

 

100ドル貸すのを断った警備員は、その理由を説明する機会を提供してくれていました。

それなのに、自分はせっかくのその機会を逃してしまった。

それは、恐怖心に支配されていたからだということに彼は気づきます。

 

もし、警備員がくれたチャンスを生かせていれば、拒絶耐性のプランについて説明することができたはずです。

あるいは、運転免許証を見せて、本当はクレイジーな男ではないことを伝え、相手を安心させることもできたでしょう。

 

「恐怖心はネガティブな結果につながる」

これが、初日の教訓でした。

 

~2日目~

彼は、アプローチを変えることにしました。

自信と冷静さ、それにユーモアをもって臨もう。

それで結果が変わるかどうか試してみよう。

 

2日目の舞台はハンバーガー・ショップのカウンタ―。

「ハンバーガーがすごくおいしかったので、お代わりしたいんですが・・・」

「え―、あ、あのう、なんですか」

「ドリンクのお代わり自由みたいに、ハンバーガーもお代わりってできないですか」

「拒絶耐性セラピー」2日目:ジアン氏とハンバーガーショップの店員 [2-2]
https://www.rejectiontherapy.com/blog/2012/11/16/day-2-of-rejection-therapy-request-a-burger-refill

 

「できません」

「ドリンクはお代わりできるじゃないですか。ハンバーガーはなぜダメなんでしょうか」

「そうなってるんです」

店員は最後には笑いながら答えました。

 

「もし、ハンバーガーもお代わりができたら、この店がもっと好きになるんだけど」

そう言いながら、ジアン氏はその場を立ち去りました。

 

彼は、動画を編集しながら、店での会話を分析しました。

初日のようにパニックには陥っていない。

少しだけ会話を楽しむ余裕もみられる。

断られても逃げ出さずに、会話にもちこみ、店員の笑いまで引き出せた。

 

2日目の教訓は、次の2つです。

まず、「頼み方」。

萎縮せずに、自信と落ち着きを失わずにいることが印象をよくするということです。

 

もうひとつは、

「会話を最後までやり通すことができれば、拒絶された痛みの大半を取り除くことができる」

ということでした。

 

彼は、もう初日の彼ではありませんでした。

自分を幾分か取り戻し、次はどうしようというアイディアが次々に浮かんできます。

「ノー」という言葉を聞いても、さほど怖いとは感じなくなったような気すらしました。

 

「クリスピー・ドーナツ神話」の誕生

~成功の兆し~

そして、3日目。

この日、事態が大きく展開しました。

 

行き先はクリスピー・クリーム・ドーナツ。

店は混んでいました。

列に並び、順番を待つ間、彼はあらかじめ練り上げておいたセリフを頭の中でリハーサルします。

 

「いらっしゃいませ、ご注文は?」

対応したのは、この時間帯のシフト・リーダーとおぼしき女性店員でした。

 

「特別なドーナツを作ってほしいんですが」

「特別なというと、どんなドーナツですか」

「あ、つまり、ドーナツを5個並べて、五輪マークみたいにしてもらえませんか」

時は2012年、ロンドン五輪の年でした。

 

「ああ・・・、お時間はどのくらい大丈夫ですか」

「お時間は・・・?」

 

予想に反した答えでした。

断られるものとばかり思っていた彼は、こう考えます。

タイムリミットが厳しければ、彼女だって断らざるを得ないだろう。

 

「15分以内で」

「じゃあ、ちょっとやってみます」

「拒絶耐性セラピー」3日目:クリスピー・クリーム・ドーナツの店員・ジャッキー [3]
https://www.youtube.com/watch?v=7Ax2CsVbrX0

 

数分後、店員が箱を抱えてやってきました。

「これでいかがでしょう」

箱の中には注文どおり、五輪マークのドーナツが!

「ワオ! これはいいね、すばらしい!」

 

店員の名前はジャッキー。

彼女は、支払いをしようとするジアン氏にこう言います。

「お金はいいです。こちらで出しておきます」

 

彼は感動し、興奮していました。

もし、クレイジーな依頼をしなかったら、あの素晴らしい瞬間は生まれなかった。

少しだけ勇気を出して依頼したことが、幸せな状況を産み出した。

世の中は善意と可能性に満ちている。

 

そう、この日の教訓は、「可能性」でした。

 

初日と2日目の経験は彼の視点を変えました。

でも、3日目のこの経験はマインドセット自体を変え、いわば世界観を転回させました。

 

彼は「イエス/ノー」にこだわるのをやめました。

もはや他人が自分をどう思うかも気にならなくなり、そのことが心を解放し、自分は自由だと思うことができるようになっていました。

 

~神話誕生~

彼は、わずかなやる気と工夫によって何が可能になるのか世間に示したくなりました。

この動画を観た人は、人間への信頼感が高まり、心をオープンにしてくれるかもしれない。

そんな思いをこめて彼がブログに投稿した動画が神話の始まりでした。

 

動画は人々の感動を呼び、忽ちのうちに世界的なセンセーションを巻き起こします。

ヤフーのトップページに載せられたのを発端に、『ゴーカー』、『MSN.com』、『ハフィントン・ポスト』、イギリスの『デイリー・メール』など名だたるサイトに掲載され、一夜にして数百万回もの再生回数を記録しました。

 

5分ほどのこの動画は、現在YouTube上で595万回以上、再生されています [3]。

動画が世界を駆け巡ると、クリスピー・クリーム社にはジャッキーを称賛する電話が殺到しました。

 

そればかりでなく、動画が拡散した翌週、同社の株価は7ドル23セントから9ドル32セントへと29%跳ね上がりました。

額にして数百万ドルという経済効果です。

 

マーケティング理論の権威・コトラー博士は、近著『コトラーのマーケティング4.0 スマートフォン時代の究極法則』の中でこのエピソードを取り上げ、ジャッキーの行為は顧客との強固なエンゲージメントを築くものだと評価しています [4]。

 

ジアン氏の生活も一変しました。

テレビやラジオなどのインタビュー依頼が殺到し、テレビ番組や映画の企画も持ち込まれました。

TEDの登壇も果たしました [5]。

TEDでジアン氏が使ったスライド [5]
https://www.youtube.com/watch?v=ZFWyseydTkQ

 

さらに、このエピソードがきっかけとなって、彼のロール・モデルであるザッポスのCEOトニー・シェイから仕事のオファーを受けます。

ジアン氏のプレゼン能力を買って、プロの講演者として雇うというのです。

 

こうして、この神話は、ジアン氏、ジャッキー、クリスピー・クリーム社の3者に、見事なwin-win-winの関係をもたらしました。

 

伝説を産み出した男の法則

ジアン氏は大成功といっていい状況に恵まれ、ビッグ・チャンスを手に入れました。

でも、彼は懐疑的でした。

まだ挑戦を始めたばかりなのに、もてはやされていることに違和感を覚えます。

 

けれど、一方で、千載一遇のチャンスに飛びつかなければ、もう2度とチャンスは訪れないかもしれないという思いにも囚われました。

 

思い悩みながら、彼は「ファン」から届く夥しい数のメールに目を通しました。

メールのほとんどは、動画を観て、自分も恐怖心と向き合う勇気を得たというものでした。

拒絶されることで落胆し、全人格が否定されたように感じて心が折れてしまったという内容のメールもありました。

 

こうしたメールを読んで、ジアン氏は自分だけではなく、多くの人々が拒絶への恐怖心を抱いていることを知り、自分のやっていることが見知らぬ人々の人生に役立っていることに驚きました。

メディアが彼の行動にエンターテインメントとしての価値を見出したのに対して、彼と同じ市井の人々は、それとは全く異なる価値を見出していることに気づいたのです。

 

皆が拒絶耐性を身につけることができたら、世界は今よりもっとよくなる。

彼は結局、アプリの開発をやめ、トニー・シェイからのオファーも断りました。

その代わりに、他の人々が拒絶耐性を身につけるためのサポートをしようと決意し、そのために「100日拒絶セラピー」を続けることにしました。

 

その過程で、彼はさまざまな法則を見出していきますが、究極の法則は以下のようなものです。

自分の努力や相手への態度といった「コントロールできる要素」にフォーカスし、他者による受容や拒絶という「コントロールできない結果」にはこだわらない。

 

学生、セールスパーソン、CEO、研究者―職業に関わらず、私たちは結果を求められます。

でも、「結果重視」は長期的にみれば悪い結果を招くことをジアン氏は学びました。

 

ベストを尽くしてプレイする、そして結果については心配しない―それが拒絶の旅から彼が得た結論です。

 

世の中のシンプルなセオリー

ジアン氏のエピソードに触れて思うのは、世の中は思いのほかシンプルなセオリーで回っているのではないかということです。

 

「クリスピー・ドーナツ神話」は、誰もが経験する拒絶と、誰にでもある感情や心理―恐怖、勇気、善意、ホスピタリティー、感動によって構成されています。

そういう意味では、私たちの身近にあるものといってもいいでしょう。

 

ただ、神話の誕生には、それを呼びこむ土壌が必要なのも事実です。

メニューにない特別な注文に応じる店員。

通りすがりの男性をパトカーの運転席に座らせる警官。

乗客にマイクを渡すキャビン・アテンダント。

見知らぬ乗客をコックピットに招き入れる機長。

 

私たちの社会は、こうした人々、こういう行為を許容するでしょうか。

そのときどきで柔軟に考え、オープンマインドで人に接するという態度が、評価されるでしょうか。

また、個人の問題として捉えたとき、コンプライアンスやルールの名のもとに、自らの頭で考え行動する自由と責任を、無意識のうちに放棄してはいないだろうかと考えさせられます。

 

そう考えると、「クリスピー・ドーナツ神話」は、私たちの近くにあって、なお遠いものなのかもしれません。

 

 

 

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【著者プロフィール】

株式会社識学

人間の意識構造に着目した独自の組織マネジメント理論「識学」を活用した組織コンサルティング会社。同社が運営するメディアでは、マネジメント、リーダーシップをはじめ、組織運営に関する様々なコラムをお届けしています。

webサイト:識学総研

Photo by Alex Radelich

 

 

参考文献

参照

[1]
ジア・ジアン著 小西敦子訳(2015)『拒絶される恐怖を克服するための100日計画』株式会社飛鳥新社(電子版)

[2]
Jia Jiang “100 Days of Rejection Therapy”
https://www.rejectiontherapy.com/100-days-of-rejection-therapy/

[2-1]
https://www.rejectiontherapy.com/blog/2012/11/15/the-100-days-rejection-therapy/

[2-2]
https://www.rejectiontherapy.com/blog/2012/11/16/day-2-of-rejection-therapy-request-a-burger-refill

[3]
Rejection Therapy Day 3 – Ask for Olympic Symbol Doughnuts. Jackie at Krispy Kreme Delivers!
https://www.youtube.com/watch?v=7Ax2CsVbrX0

[4]
フィリップ ・コトラー+ヘルマワン・カルタジャヤ+イワン・セティアワン 著 恩藏直人 監訳 藤井清
美 訳(2017)『コトラーのマーケティング4.0 スマートフォン時代の究極法則』 朝日新聞出版(電子
書籍版)

[5]
Surprising Lessons From 100 Days of Rejection: Jia Jiang at TEDxAustin
https://www.youtube.com/watch?v=ZFWyseydTkQ

 

 

昔話をします。

私が小学生の頃、「ゲーム機やゲームをたくさん持っている同級生」というのは、一種のヒーローでした。

 

当時はファミコンブームを皮切りに、様々なゲームハードが群雄割拠を始めた時代です。

当然、「面白そうなゲーム」も色んなハードで発売されるものでして、小学生の経済力ではとても遊びたいゲーム全てを遊ぶことは出来ませんでした。

 

持っているゲームハードは大体の場合一つ、ソフトはいいとこクリスマスや誕生日に一本ずつ買ってもらうのがせいぜい。

となると、「面白くないゲームを掴みたくない」と事前情報収集に血眼になるのは当然のことでして、「友人同士でのゲームの貸し借り・あるいは友人の家に行ってゲームを遊ばせてもらう」という機会も最大限利用しなくてはいけませんでした。

 

その為、クラスのゲーム好きの間では「今どんなゲームをマークしているか」「どんなゲームが面白そうか」「どんなゲームを買ってもらうつもりか」というのはかなり綿密に情報交換することになりまして、なるべく被りなくゲームを入手して、自分がもっていないゲームは友達から貸してもらって遊ぶ、というのが一般的な行為として定着していました。

当然、遊べるのは発売日からだいぶ遅れての話になってしまうのですが、贅沢は言っていられません。

 

そんな中ですから、「このゲーム、あんまり面白くないな…」と思っても、折角買ってもらったゲームなんだから搾りカスが出るまで遊び尽くす、ということはごく自然なことでした。

その結果、私は「ゴーストバスターズ言われてる程つまんなくないやん!アレはアレで面白い部分もあるんやで!!」という論者になったんですが、まあその話は一旦置いておきます。

 

そんな中でも、「色んなゲームハードをもっていて、ゲームタイトルも豊富に所有している」という、恵まれた子も中にはいまして、そういう子は「遊ぶゲームがたくさんあるから気前よくゲームを貸してくれるし、家に遊びに行くと色んなゲームを遊ばせてくれる」ということで、一種のヒーロー、ないし権力者となっていきました。

持てるものと持たざるもの。ゲームを資本とした資本主義経済です。

 

小学校の頃の私のクラスに、F井くんという子がいました。

F井くんは、なによりも「父親がゲーマー」という稀有な強みをもった少年でして、自分からねだらなくてもお父さんが勝手に色んなゲームを買ってくれるという、私から見るとすさまじくうらやましい環境にいました。

当時、ゲーム好きであって、しかもそのことをおおっぴらにしている大人はかなり少なかったので、F井くんはそういう点でも「特別な少年」として一種のヒーロー的な立場にありました。

 

F井くんの家には、ゲーム富裕層の標準装備であるツインファミコン(ディスクシステムのゲームとカートリッジのゲーム、どちらも遊べるファミコン)は当然のことながら、PCエンジンやメガドライブ、果てはX68000といったブルジョワアーケードゲーマー御用達のゲーム機まで揃っていました。

 

とはいえ、X68000はF井くんのお父さんの部屋にあったので、実際には1,2回ゲーム画面を見せてもらったくらいで

「なんやこれものすげえ…これもうゲーセンじゃん……!!ゲーセンのゲームじゃん……!!!」

と思いはした(ただ、当時はX68000というゲーム機自体をそもそも知らず、「あれがX68000だったんだ!」と気付いたのはだいぶ後の話でした)んですが、主戦場はやはりファミコン、PCエンジン、メガドライブでした。

 

我々はF井くんの家で、わいわい色んなゲームを遊びました。

 

***

 

さて。ここに、「ダウンタウン熱血行進曲 それゆけ大運動会(以下熱血行進曲)」という、凄まじく面白いゲームがあります。

メーカーはテクノスジャパン。

 

「熱血硬派くにおくん」や「ダウンタウン熱血物語」のキャラクターが、「運動会」という舞台で飛んだり走ったり殴り合ったり人間魚雷で特攻したりの大活躍をするゲームでして、恐らくご存じの方も多かろうと思います。

「対戦が盛り上がるゲーム」という評価軸でいうと、ファミコンタイトル全てを見渡しても5本の指に入る一作ではないでしょうか。

 

熱血行進曲はなによりも対戦が熱いゲームだったんですが、その理由の一つに「下克上の楽しさ」というものがあったと思います。

熱血行進曲では、4つのチームの中からプレイヤーが1つを選ぶことになります。

主人公のくにお率いる「熱血高校」、くにおのライバル「りき」が率いる「花園高校」、様々な学校の連合チームである「各校連合」、そして熱血物語では敵役だった「冷峰学園」。

 

この中では「冷峰学園」が明確にキャラ性能的に有利でして、特に「りゅういち」「りゅうじ」「こばやし」の3キャラは頭一つ抜けた性能、競争系の種目では走力最高の「もちづき」がとてつもない強敵でした。

 

「キャラ性能に差がある」からこその楽しさ。

「公平でない」からこその楽しさ、明確にキャラ性能差があるからこその楽しさ、遊びの幅というものがありました。

例えば弱いキャラで必死に上位キャラに抗う工夫をしたり、一方強いキャラで弱いキャラを蹂躙したり。

自分は「〇〇使い」だということにプライドを持ったり、一人のキャラをひたすらつきつめてみたり。

 

「ストII」以降の対戦格闘ゲームでは一般的になった遊びですが、ファミコン時代はまだまだ「1Pも2Pも公平に遊べる」という思想のゲームの方が多く、熱血行進曲や「キン肉マンマッスルタッグマッチ」のような、極端なキャラ差がある対戦ゲームは希少だったと思います。

 

さて。F井君はこの「熱血行進曲」も当然購入してもらっており、基本的に「仲間内が買ったゲームを自分でも買う」ということにタブー意識をもっていた我々は、必然熱血行進曲をF井くんの家で遊ぶことになりました。

 

F井くんの家にもマルチタップまではなかったので、我々は1vs1をひたすら繰り返す形で熱血行進曲を遊んでいました。

ただ、これも我々の中で、「対戦ゲームで何かを選択する時は、ゲームの持ち主にその優先権がある」というルールがありまして、チーム選択は常にF井くんが優先でした。

そして、小学生に遠慮や空気読みなど存在せず、F井くんは常に最強の「れいほう」チームを選択していました。

 

前述しましたが、れいほうはチームとして一つ頭が抜けた性能であり、F井くんのりゅういちやこばやし、もちづき達は猛威を振るいました。

当時は「かちぬきかくとう」の回数を9回にして遊ぶのがデフォルトだったのですが、こばやしのマッハチョップ、りゅういちやりゅうじの龍尾嵐風脚に、他のメンバーはただただ蹂躙されるばかりでした。

持ち主が一番練習時間を取れるのも当然のことで、ゲームの習熟度もF井くんがトップ。

常にF井くんがプレイをしていた訳ではないものの、「F井くんには誰一人勝てない」という状況が続きました(基本的には「なんでもあり」ルールなものの、唯一「無限拾い」という稼ぎ技だけは禁止されていました)

 

もちろん他メンバーは理不尽に思う場面もあったものの、ゲーム自体は超面白いですし、F井くんの家の他のゲームを遊べなくなっても困るので、F井くんがれいほうを使うこと自体には誰も文句を言えませんでした。

 

そんな中、私とT田くんという二人のメンバーが、ある時「打倒れいほう」ということで研究を始めました。

ファミマガや〇勝ファミコンなどのゲーム雑誌を始め、様々な「熱血行進曲」の情報を集めて、れいほうの猛威を食い止める為に。

F井くんに一矢を報いる為に。我々は、普段はやらない「よそのクラスの熱血行進曲持ちに頼み込んでゲームを練習させてもらう」という行為や、パソコン通信をしていた兄に頼み込んで「東京BBS」で熱血行進曲の情報を調べさせてもらう、なんて行為にまで手を伸ばしていました。

 

多分あれが、私にとって、「対戦ゲームでの攻略と試行錯誤」の原体験だったのだ、と思います。

勝利だけが目的で、情報だけが正義でした。

相手は明らかに強力なキャラを使っていて、しかも腕前も相手の方が上となれば、遠慮をしている場合ではありませんでした。

 

当時、チームごとの性能差は、「れいほう >> れんごう >> ねっけつ >> はなぞの」 と認識されていました。

 

りゅういち - りゅうじ - こばやし のラインには及ばないものの、れんごうには「ごうだ」と「ごだい」という二人の強力なキャラがいました。

ごうだはオールマイティーかつ「ずつきスペシャル」という強力な必殺技でリングアウトが狙えますし、ごだいは木刀さえ持ち込めれば「ぼうじゅつスペシャル」という強力な技で相手をハメることが出来、れいほうのこばやしに対する貴重な対抗戦力になり得ます。

また、「くまだ」で相手を人間魚雷で投げ飛ばしリングアウトを狙う戦術もありました。

私も当初は、れんごうチームをひたすら使いこんで打倒れいほうを目指していました。

 

ただ、攻略を進める内に、「ごだいの木刀持ち込みが安定しない」という問題に直面しました。クロスカントリーという最初の競技で木刀を確保するのが定石だったのですが、相手もぼうじゅつスペシャルの強力さは分かっているのでごだいの木刀取得が妨害され、仮に木刀が確保出来てもクロスカントリーで得点を離されてしまい結局総合得点で勝てない、というゲーム展開になってしまうことが多かったのです。

 

私とT田くんが勝機を見出したのは、それまで「最弱」とみなされてほぼ誰も使っていなかったはなぞのチームでした。

 

パソコン通信で話題になっていたのですが、熱血行進曲には「ジャンプキックはめ」というもう一つの強力な技があり、ジャンプキックを左右に繰り返して当てることで、相手の体力をかなり安全に削り取ることが出来ました。

そして、チームリーダーで唯一ジャンプキックはめが出来るのがはなぞのの「りき」、もう一人の有力メンバーが同じくはなぞのの「まえだ」でした。

りきのマッハパンチはめと撃たれ強さも意外な強力さを持っており、さおとめのオーラパンチは、龍尾嵐風脚連打モードになったりゅういちりゅうじを安全に撃墜することが出来る手段でした。

また、わしおには「武器投げの威力が最強に近い」という強みがありました。

 

何より、ノーマークのはなぞのがトップのれいほうを下克上するなんて、最高じゃないか?私とT田くんはそう言葉を交わして、二人ではなぞののゲームメイクを徹底的に詰めていきました。

「かくとうのゆびわ」を確保して人間魚雷で立ち回る動きも安定して、CPU相手にはまず負けがなくなりました。

 

多分、あれも一つのPDCAだったのだと思います。

様々なアイディアを話し合いながら、私とT田くんは「熱血行進曲」での試行錯誤を続けていきました。

 

そして迎えた決戦の時。

残念ながらクロスカントリーで大幅な差をつけられ、勝ち抜き格闘でこばやしを止められなかったT田くんに対して、私はクロスカントリーでのマークの薄さを活かして水中ステージでもちづきを沈めることに成功。

こばやしには暴れられたものの、りゅういちとりゅうじにはそれぞれりきとまえだで対抗、主力メンバーの体力低下で出てきたはやさかはさおとめのオーラパンチでダウンを奪い、場外に投げ落とします。

 

そして最優秀選手賞を「さおとめ」で奪い、遂にF井くんのれいほうを下すことに成功、勝利の咆哮をあげたのです。

 

まあ結局勝てたのほぼ一回切りで、あとは殆どれいほうに勝てないまま、その内みんなの興味が「ワギャンランド2」に移っちゃったんですが。

まあなにはともあれ、「対戦ゲームについて研究し、格下キャラで格上キャラを倒した」という成功体験については、かなり私の中に強く焼き付けられている、という話なのです。

 

***

 

あれから30年程の時が経ち、今では私が「ゲーム好きの父親」になりました。

私が買ったゲームを子どもたちは喜んで遊びますし、彼ら彼女らなりの攻略を進めてもいて、それぞれのスタンスでゲームと付き合っているように思います。

「A列車でいこう」で株式投資について知ったり、「ゼルダの伝説 BotW」で始まりの台地の直後にウオトリー村に行ったり、私自身子どもたちの「遊び方」に驚かされることもしばしばです。

 

あの日あの時の熱血行進曲の攻略のような体験が、彼らの前に待っているかどうかまでは分かりませんが、子どもたちなりに、ゲームとの素敵な関係を築いていってもらえればいいなあ、と。

そう思うばかりなのです。

 

長々と書いて参りました。最後に、この記事で言いたかったことを簡単にまとめてみます。

 

・ダウンタウン熱血行進曲はファミコンでもトップクラスの激熱対戦ゲー
・ゲームを試行錯誤しながら攻略する、って遊び滅茶苦茶楽しいですよね
・キャラ性能に差があるからこそ攻略し甲斐がある、ってところも結構あると思うのです
・けどこばやしはちょっと強すぎだったと思う
・関係ないんですが各校の応援ガールたちもとても可愛くていい味出してましたよね
・くにおくんシリーズのヒロインは長谷部派です
・「かちぬきかくとう」をクローズアップした「ダウンタウン乱闘行進曲マッハ」も面白いのでおすすめです。Switchで遊べます
・上記の話と全然関係ないんですが、ニンテンドー3DS用ソフト「ダウンタウン熱血物語SP」が、マジで激烈面白いんで皆遊んでみてください。リメイクというよりはほぼ完全新作、熱血物語で語られていなかった部分が完全補完されています。熱血物語遊んだことある人は是非

 

以上です。特に最後の一つが重要です。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

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Photo by Possessed Photography

リーダーシップがあって人を引っ張っていける人は、一般的に「有能」だと言われる。

だから、「リーダーシップの鍛え方ノウハウ」なんかが盛り上がるのだ。

 

とはいえ、「船頭多くして船山に登る」という言葉があるように、全員がリーダーを目指す必要はない。

そもそも最初はみんな部下からスタートだし、ある時はリーダーだけどある時は部下、という中間管理職もいる。

 

それならリーダーシップよりもまず、リーダーにうまく使ってもらう能力、つまり『部下力』を磨いたほうがいいんじゃないか?

 

夫はレストランの店長、わたしは店員ではちゃめちゃクッキング!

みなさんは、オーバークックというゲームをご存知だろうか。

PS4、Switchなどでプレイできる「はちゃめちゃクッキング・アクションゲーム」だ。

最近夫とプレイしているのだが、これが思いの外盛り上がる。

出典:https://store-jp.nintendo.com/list/software/70010000010088.html

 

ゲームの内容はシンプルで、左上に表示される注文どおりの料理を用意し、提供するというものだ。

この写真でいえば、一番最初に作るべきは、「パン+焼いた肉+チーズ」の「ハンバーグ」。

 

まずわたしが肉を取り出し、夫がそれを切ってフライパンで焼く。

それを待っている間、わたしはパンとチーズを皿に乗せておく。

肉が焼きあがったら夫はそこに肉を挟み、わたしが持っていく。

わたしが料理を運んでいるかたわら、夫は次の食材を用意して……

と、協力しながら注文をさばいていく。

 

のだが。

「肉焦げてるよ! 遅れてるから先に料理を提供しないと!」

「次はチーズなしバーガーだからパンだけを皿の上に置いて……ああ、皿がない! 洗わなきゃ!」

「ちょ、通れない! どいて!」

「その肉切り終わってないから焼けないよ!」

 

と、うまくいかないこともしばしば。

まさに、「はちゃめちゃクッキング・アクションゲーム」である。

 

しかもわたしは、時間制限があるマルチタスクがめちゃくちゃ苦手だ。

時間がなくなると焦ってパニックになるし、即座に優先順位をつけることもできない。

だから夫が指示役でレストランの店長、わたしはその部下……という感じでプレイしている。

(これは性差ではなく、向き不向きを踏まえた役割分担である)

 

というわけで、夫に仕切ってもらうなかで、「上司にうまく使ってもらうならこの3つが大事だな〜」という気づきがあったので、『部下力3か条』としてお伝えしたい。

 

指示の目的を理解して動けば+αができる

まず一番大事なのが、『指示の目的を理解する』ことだ。

 

1番はじめに作るべきはトマトスープなのに、「玉ねぎスープを作って」と言われたことがあった。

よくわからないまま玉ねぎスープを作ったものの、指示の目的を理解していないから、次になにをすればいいのかわからない。

だから、「作ったよー。で、次はなにをすればいい?」と聞く。

でもこれでは、指示がなければなにもできない人間になってしまう。

 

実はそのとき夫は、

「トマトスープは注文からかなり時間が経っているから、作っても提供が間に合わない。2番目の玉ねぎスープから作れば間に合うし、万が一間に合わなくても、3番目の注文も玉ねぎスープだからそっちに使える。よし、トマトスープは捨てて玉ねぎスープを優先だ」

と考えて、わたしに指示を出していたのだ。

 

もしわたしが指示の意図を理解していたら、

「玉ねぎスープが連続しているから、まとめて玉ねぎを切っておこう」

「スープを煮込んでいるあいだ、先にお皿を用意しておこう」

「うまく連携が取れているから、4番目のきのこスープの準備をしてもいいかもしれない」

と、+αの作業ができたのに。

 

わたしは「玉ねぎスープを作れ」という指示を受けた時点で、

「最初のトマトスープはパスでいいのね? じゃあ2番目、3番目の玉ねぎスープをまとめてつくるよ」と確認すべきだったのだ。

 

指示の意図が理解できなければ、指示の範囲でしか行動できず役に立てない。

指示の意図を理解していれば、自発的に指示以上のことができる。

 

より積極的に、より効率的に、より柔軟に仕事をするために、指示の意図を理解してから行動することは大切だ。

 

指示の精度を上げるために、作業進度は正確に報告する

2番目に大事なのは、『上司にこっちの状況を的確に伝える』こと。

 

上司とはいえ、同じ人間。自分の仕事だってある。

常にこちらの作業の総量や進行度を、完璧に把握しているわけではないのだ。

 

言われるがままにどんどん指示を受けると、「こいつに丸投げすればいい」と思われるし、それで作業を終わらせられないと、「引き受けたのにやらなかった」とマイナス評価になってしまう。

だから、上司から最適な指示をもらうために、部下は現在の作業量や進行度を、ちゃんと自己申告する必要がある。

 

「いま自分はこれをやっていて」「あとどれくらいで終わる予定だから」「これくらいの余力がある」と、伝えるのだ。

そうすれば、「全部丸投げされて手が回らない」「仕事がどんどん増えて終わらない」といったことも防げる。

 

たとえば、

「さっきトマトを切ってって言われたからそっちやってるんだけど、玉ねぎスープ優先する? トマト切り終わってからでいい?」と聞く。

すると、

「それなら俺が玉ねぎスープ作るから、トマトスープを最後までお願い。終わったら皿用意しといて」

「はーい」

と、話が進む。

 

こちらの作業進度を正確に伝えることで、相手の指示の精度が上がり、うまく仕事がまわっていくのだ。

 

遠慮せずに上司にも指摘&お願いしたほうが効率的

最後はこれ。

『上司にもどんどん指摘&お願いしたほうが、結果的にうまくいく』。

 

わたしは、時間制限があるマルチタスクが苦手だという自覚がある。

それに対して夫は素早い判断ができ、ゲームもうまいから、「仕切ってもらえばいいや〜」と思っていた。

 

「あれ? こっちから先にやったほうがいいんじゃないかな? でも『これやって』って言われたから、それに従ってればいいか」と楽をしていたのだ。

でも次々と注文がきて、汚れた皿が積み重なり、食材が散乱するキッチンでは、そんなことも言ってられない。

ドタバタと料理をつくるなかで、わたしからも夫に指摘&お願いをするようになった。

 

「ポテト焦げてるよ!」

「お皿溜まってるから洗って〜」

「提供口遠いから運んでもらっていい?」

という感じで。

 

すると作業のスピードがどんどん上がり、雰囲気もよくなって、うまく協力できるようになった。

まぁ、当然といえば当然かもしれない。

 

萎縮せずに上司のミスを指摘できれば、事前にトラブルを防ぐことができる。

相手からミスを指摘されても、「お互い様」とフォローしあえる。

上司が自分の負担を軽くするために部下に仕事を振って効率化するなら、その逆もしかり。

こちらがしんどければ、上司に手伝ってもらえばいい。

 

もちろん、上司に「それできてませんよ」「これやってください」と言うのは、は現実的にむずかしい。

でも、上司に遠慮することは、「有能な部下」の必須条件ではないはずだ。

 

理想論かもしれないが、「部下の話をちゃんと聞く」ことがリーダーシップの要件であるのなら、「上司に率直に伝える」ことは有能な部下の要件だと思う。

 

いい部下になれなければ、いい上司にもなれない

夫とオーバークックをプレイして強く思ったのは、「他人にうまく使ってもらえない人間が、他人をうまく使うなんてムリ」ということだ。

 

他人の指示を理解できない人が、的確な指示を出せるわけがない。

自分の状況を報告できない人が、他人の状況を把握できるわけがない。

他人に指摘やお願いをできない人が、全体の指揮を執れるわけがない。

 

リーダーシップうんぬんは、まず「部下としてうまく使ってもらう」ことができてからだ。

とはいえ、今回書いたのは、あくまで「マトモな上司のもとで有能な部下になるために身に付けたい能力」である。

無謀な量の作業を押し付け、ストレス発散のために部下を叱責し、自分ばかり楽をするような上司であれば、『部下力』なんて鍛えようもない。

 

でももし信頼できるリーダーのもとで働けるのなら、その人のもとで『部下力』を鍛えることは、将来に大きなメリットをもたらすと思う。

 

わたしはフリーランサーで個人作業が多いから、いままでリーダーシップというものをそこまで意識してこなかったけど。

でもだれかからお仕事をいただくという広い意味で捉えれば、『部下力』はきっと、だれにでも必要なものだ。

というわけで、今日も元気にオーバークック!

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Neil Thomas on Unsplash

はじめまして。

『ゼロからわかるビジネスInstagram』‬を出版しました、朝山高至です。

 

https://www.amazon.co.jp/ゼロからわかるビジネスInstagram-結果につながるSNS時代のマーケティング戦略-朝山-高至/dp/4815608156

 

Instagramの日本のMAUは3300万人を超えており、ビジネスにとって顧客接点における最重要チャネルの1つになっています。

しかし、なかなか活用に踏み出せていなかったり、本来の目的を見失いフォロワーの数を増やすことだけを目標にしてしまったりするような事例も数多く見受けられます。

 

Instagramは今どのように使われているのか、企業はどのようにInstagramを活用すればいいのかをご説明します。

 

ヴィジュアル検索はInstagramに移行していく

Instagramというと、「インスタ映え」という言葉が流行ったこともあり、美しい部分を切り取って投稿する場所としてのイメージが強いかもしれません。

 

しかし現在のInstagramはそれだけはなく、使い方が非常に多様化しています。

代表的な使われ方の1つが、「検索エンジン」としての使用です。

検索エンジンの代名詞といえば「Google」ですが、、実はInstagramでの情報検索も一般的になってきています。

 

ジャストシステムの調査によると、ファッション情報においてはGoogleを超え、Instagramが最も主要な検索エンジンとなっています。

レジャースポットやグルメスポットの情報収集においても、2016年時の調査と比較すると割合が3倍に増加しています。
出典:ジャストシステム

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000384.000007597.html

 

また、Instagramの公式発表によると、日本はグローバル平均の約3倍もハッシュタグ検索回数が多い「Instagram検索大国」であることがわかっています。

出典:Instagramの最新情報

https://business.instagram.com/blog/how-to-connect-with-new-audiences-on-instagram?locale=ja_JP

 

さらに、米国では「baking recipes」のような複数のキーワードを打ち込んでGoogleのように検索できる「キーワード検索能」がリリースされています。

今までInstagramには「ハッシュタグ検索」「アカウント検索」「スポット検索」の限定的な検索機能しかありませんでした。

しかしこの機能によって、

・キャプションに特定の文字列が含まれる投稿

・特定の文字と関連性の高い画像

といった、より自由な検索ができるようになります。

 

米国においてもすべての検索ワードに対応しているわけではなく、 "baking recipes" のようないくつかのキーワードのみ対応しており、そこから "baking recipes desert" のように階層をドリルダウンして閲覧する仕様になっているようです。

今後はさらに自由な検索ができるようになる可能性が高いことが予想できます。このような高度なキーワード検索機能が日本にも実装されれば、ヴィジュアル検索はますますInstagramに移行していくでしょう。

 

EC化するInstagram

マージェリックによる10~30代女性を対象とした調査によると、調査対象の約7割が「Instagramの投稿を見て、商品を購入したり検索した経験を持つ 」と回答しています。

Instagramは「買い物の場」として定着してきていることがわかります。

出典:マージェリック
https://netshop.impress.co.jp/node/5059

 

機能やUIを見ても、InstagramがEC機能に本腰を入れていることがよくわかります。

例えば、ビジネスアカウントがECサイトと連携することで、ショップを無料で開設できる「Instagramショップ」の機能があります。投稿に商品のタグをつけることで、InstagramからECサイトにスムーズにユーザーを遷移させることも可能です。

また、以前は相手からのいいね!やコメントなどのアクティビティが表示されていたフッターのメニュータブが、現在は買い物専用タブに変更されています。ショッピング機能が強調され始めていることがわかるでしょう。

飲食店アカウント向けに、UberEatsなどのデリバリーサービスに遷移させるスタンプなども用意されました。

まだ日本ではリリースされていませんが、今後実装が期待されるEC系の機能もあります。

例えば、ライブ配信からそのままECサイトに遷移できるライブコマース機能。

ECサイトに遷移しなくても、Instagram上に登録した決済情報で、Instagram内で購買が完結する「チェックアウト機能」などです。

このように、InstagramのEC化が徐々に進んでいるのです。

 

Instagramのビジネス活用における鍵は「UGC」

※UGCは「User Generated Content」の略語で、ユーザーが生成したコンテンツを表します。

 

ここまで、Instagramの現在地や変化について見てきました。

企業はどのように、nstagramを活用して売上を伸ばしていけばいいのでしょうか?

 

Instagram活用というと、

・アカウントを運用してフォロワーを増やす

・Instagram広告を利用する

などを思い浮かべる方が多いかと思います。

 

こういった施策ももちろん重要ですが、Instagramをビジネスに活用するうえで、有効な方法はこれだけではありません。

同じ「ソーシャルメディア」でも、InstagramやTwitterは、YoutubeやLINEと大きく違うポイントがあります。

 

YouTubeでは、コンテンツを作って発信しているのは限られた少数のクリエイターであり、大多数のユーザーは発信をしないオーディエンスです。LINEは相互のやりとりが発生しますが、多くはプライベートなやり取りをするクローズドな空間です。

 

対してInstagramやTwitterは、多くのユーザーがオーディエンスであると同時に、パブリックな空間へ投稿をする「発信者」でもあるのです。

例えばInstagramでは、

・友だちが投稿した食品や飲み物の投稿を見て自分も買ってみる

・ハッシュタグ検索して出てきたコスメに詳しい人の投稿を参考にして購入する

といった、UGCを起点とした購買行動が起きています。

 

Instagramをビジネスに活用するばらば、世界に10億人以上いるInstagramユーザーひとりひとりの発信 = 「UGC」をいかに活用できるか? という観点が非常に重要になってきます。

 

Instagramにおける購買プロセスをまとめたのが「ウドサス(UDSSAS)」です。

1.UGC(ユーザー投稿 / アテンション)
ユーザー投稿、あるいは企業による投稿や広告が発生します。

2.Discover(発見)
UGCを顧客が発見します。フォローしているアカウントの投稿をタイムラインやストーリーズで発見することもあれば、発見タブおすすめやハッシュタグ検索結果で、フォローしていないアカウントからの投稿を発見することもあるでしょう。

3.Save(保存)
発見した投稿が気になったら、後で見返せるように保存をします。Instagramアプリの保存機能を使って保存したり、スマホのスクショでデータフォルダに保存しておいたり、友だちにDMでシェアして、DM上に保存したりします。

4.Search(詳細検索)
保存した情報を後から見返して、詳細な情報を取得するために検索をします。Googleで公式サイトを検索したり、TwitterやInstagramなどでクチコミ(UGC)を検索することもあります。例えば美容情報なら、特化型プラットフォームの「LIPS」や「@コスメ」などで検索することもあるでしょう。

5.Action(購入)
詳細情報を見て安心したり、関心を深めたりした後と、eコマースサイトで購入したり、実際の店舗に来店したりするなどの購買行動を起こします。

6.Share(共有)
購入した商品や体験について写真や動画を撮り、Instagram上でシェアします。それが、新たなUGCとなります。

 

UGCによって商品の認知を得ることができ、「UGCがUGCを呼ぶ」好循環が発生すると、最終的には企業による広告費の削減やアカウント運用工数の削減にもつながります。
いかに自社ブランドに関するInstagram上のUGCを、右肩上がりに増やしていけるか。それが、売上に直結する重要な指標になります。

 

初期のUGC発生を促すために、まずは発見タブおすすめやハッシュタグトップへの露出、Instagram広告、フォロワー基盤の構築など、1対nでInstagramユーザーに効率的にアテンションをしていくことがポイントです。

 

「カテゴリエントリポイント」を増やし、ブランド想起を強化する

ブランドのUGCを創出していく上では、投稿の量だけでなく、「どのようなUGCを増やすか」という観点も重要です。

UGCの切り口を考える上で鍵になるのが「カテゴリエントリポイント」です。

 

カテゴリエントリポイントとは、生活者がブランドについて思い出してくれる瞬間やカテゴリなどを指します。

いわば、ブランドを「思い出す入り口」のことです。選ばれるブランドになるためには、想起してもらえるカテゴリエントリポイントを増やして強化していく必要があるのです。

 

例えばソーセージのブランドであれば

・バーベキューの具材といえば

・お弁当に入れる具材といえば

・簡単に調理できてボリューミーな食材といえば

・ビールのおつまみなら

など、さまざまなタイミングでブランドを思い出してもらうようなイメージです。

 

どのカテゴリエントリポイントにおける想起を強化していくか? という戦略に基づいて、Instagram上でUGC投稿を促進する切り口を定め、

・投稿のヒントを与えるアカウントからの投稿内容や広告クリエイティブ

・キャンペーン企画内容

・候補にするハッシュタグ

・どのUGCをリポストするのか

といった運用やコミュニケーション方針に落とし込んでいきます。

 

施策を通じて、狙ったカテゴリにおけるUGCを発生させることができ、UGCによって注力したいカテゴリエントリポイントの想起を強化することができるのです。

 

Instagramをコマースの場として活用する

前述のように、今後Instagramが「買い物の場」として拡張されれば、「顧客が日常的にInstagramを使う中で気に入る商品と出会い、購入する場」として定着していく可能性があります。

 

企業としては、ECサイトへダイレクトに集客するチャネルとしてのInstagramの重要性が増していくでしょう。

そのためには、今からInstagram上で良質な顧客基盤を構築しておく必要があります。

 

アカウントをグロースさせるためのアルゴリズム理解や具体的な運用ポイントなどは『ゼロからわかるビジネスInstagram』でも紹介しています。

宜しければお手に取っていただき、ぜひご参考にしていただけますと幸いです。

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【著者プロフィール】

株式会社ホットリンク

朝山高至

企業のInstagramマーケティング支援や、メソッド開発に従事。Instagram世代の購買行動プロセス「UDSSAS(ウドサス)」を提唱。

Twitter: @taasayan

仕事において、最も相手を傷つける言葉は、実は、「バカ」とか「間違っている」とか、「やりなおせ」とか、そういった否定的な言葉ではない。

 

もちろん、「バカ」という上司も困りものだし、言われたら傷つく。

しかし、古いタイプの上司だと、言葉のあや、ということもあるし、間違ってる、やり直せ、そういった言葉も、文脈次第だが、期待を込めて言っているときもある。

 

では、どんな言葉が最も人を傷つけるのか。

 

実は、一番ひどい言葉は、ため息をついて、「もういいよ」とか、「君は、何もするな」ということだ。

失望を表明して、無能と断じ、仕事を取り上げてしまうのが、いちばん、人を追い込む。

 

 

「無能」とは、成果を出す能力の欠如のことをいう。

そして上で述べたように、現代では働く人にとって「無能」の通告こそ、最もアイデンティティを揺るがされる事件だ。

 

昔、とある企業の現場で、

「あなたは、ほんとに何の役にも立たないな。」

と言われている人を見たことがある。

 

もちろんその人は必ずしも、一生懸命やっていなかったわけではない。

ただ、すべての仕事が的外れだし、ずさんだった。

 

お客さんには間違った資料を送付し、

見積りは数字のチェックを怠けて間違い、

経費精算は「忘れてました」と期限に遅れ、

朝は「起きられませんでした」と遅刻し、

説明はなにを言っているのかよくわからない。

そんな人だった。

 

上司および周囲の人々はいつも、その人に仕事を振ればふるほど、逆に仕事が増えてしまうと愚痴っていた。

 

あまりに同じミスを繰り返し、単純なことも遂行できないことから、上司はたまりかねて

「もう、何もしなくていいから、勉強でもしててくれ」

と、何も仕事を割り当てなくなった。

ただ、「雇った以上は」ということで、クビにはしなかった。

 

そんな処遇に対して、その人がどう思ったのかは、表面的にはよく分からなかった。

反応がなかったからだ。

 

だがついに、その人は入社半年で、自主的に退職した。

やめるときのその人の言葉は、「ステップアップしたいので」だった。

 

 

もちろん、中には「しょせんは仕事」とか、「仕事なんて頑張らなくていいよ」という人も多数いる。

別に間違ってはいない。

 

だが、仕事の位置づけがその人の中で低かったとしても、職場で

「頭悪い」

「役に立たない」

「無能」

と蔑視され、あるいは関心を持たれないのは、多くの人にとって耐え難い苦痛だろう。

 

本来的には、仕事における無能とは「仕事の能力」の話でしかないはずだ。

人格や、本来の人間の価値とは、なんの関係もない。

 

しかし「仕事の能力が、社会的な地位をあらわす」現代においては、人格否定にも等しい衝撃がある。

 

そして、これは大きな社会的問題をはらんでいる。

多くの仕事が高度になり、かつルーティンワークが機会に代替されれば、必然的に「無能」とされる人々が増えてしまうからだ。

 

そうなれば、極端にできない人たちだけではなく、「偏差値50付近の人たち」まで、無能の烙印を押されてしまう可能性すらある。

そして「無能」と蔑視されることに、多くの人は耐えられない。

 

歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは著作「ホモ・デウス」で、それを指摘した。

二一世紀には、私たちは新しい巨大な非労働者階級の誕生を目の当たりにするかもしれない。

経済的価値や政治的価値、さらには芸術的価値さえ持たない人々、社会の繁栄と力と華々しさに何の貢献もしない人々だ。

この「無用者階級」は失業しているだけではない。雇用不能なのだ。

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現代社会は知性を中心とする「能力主義」が、あらゆる世界で採用されており、「無用者」の受ける差別は、筆舌に尽くしがたいものとなっている。

 

能力主義は正義か

その結果として、社会不安や、市民の分断が問題視されている。

最近も、ハーバード大の教授、マイケル・サンデルが「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という著作で、それを取り上げている。

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ただ、タイトルを見たときの私の印象は、「面白くなさそう」だった。

マイケル・サンデルの著作は面白いものが多いが、今回のテーマはすでに手あかのついたテーマだ。

 

実際、タイトルにある「成功は運による」という言説は、もはやありふれており、わざわざサンデルの本を読むまでもない。

すでに、行動経済学などの分野において、「成功は運によるところが大きい」とされている。

サンデルも「成功は、所詮、運だよ」と言って、「能力主義」を批判するつもりなのだろう。

 

だが、気持ちはわかるけど、その主張は、何の実りもない、と私は思った。

なぜなら、我々は「高い能力を持つ人」を、強く必要としているからだ。

 

そもそも、疫病のワクチンを作っているのは誰か?高能力者だ。

大きな権力を持つ、政府や大企業のトップは優秀でなくては困る。

もちろん、ヤブ医者に掛かりたくはない。

もしGoogleやAppleが存在しなかったら今の仕事は成り立たない。

地球温暖化を解決するテクノロジーは現実的に必要だ。

幼児死亡率が著しく低下し、食糧危機が回避されているのも、「高能力者」たちが生み出したイノベーションのおかげだ。

 

だから、能力主義は正義か、という問いに、意味はない、と私は思っていた。

 

能力主義が「正義」かどうかはわからないが、能力主義は現実に機能を果たしている。

その恩恵は大きすぎて、否定しにくい。

そう思っていた。

 

サンデルの言いたかったこと

しかし、読後。

サンデルの主張を誤解していたと感じた。

 

実際、サンデルは、「高能力者は不要」「高能力者から富を取り上げろ」「高能力者を冷遇せよ」などとは言っていなかった。

マイケル・サンデルの、本著作における主張の核心は

「能力主義はよく機能してきた。だが現在、能力主義による統治は、勝者におごりと不安をもたらし、敗者には強い屈辱と怒りをもたらす。これをどう思うか。

という、素朴な投げかけだった。

 

サンデルは言う。

能力主義の敗者は、貴族主義の下層階級よりみじめだと。

なぜなら、能力主義のレトリックでは、自分のみじめさを、ほかの何の責任にもできないからだ。

 

したがって「能力主義」はそれがどのような切り口であっても、敗者を侮辱し、怒りをあおる。

お前は無能だ、お前のやる仕事はない、お前の頭は悪い、と世の中から言われ続ける屈辱は、冒頭の企業内での逸話に通じる。

 

このみじめさを放置していいのか?ヤバいだろう?不当だろう?

というのが、サンデルの主張だ。

 

そうして私は、冒頭で述べた、

「あなたは、ほんとに何の役にも立たないな。」

と言われている人をおもい起こした。

 

おそらく彼は、次の会社でも、同じようなみじめさを味わう可能性が高い。

転職を繰り返して、行き止まりになり、ついには働けなくなってしまうかもしれない。

そのような人を大量に生み出し続ける能力主義に、道義的責任はないのか、と言われたら、それは「ある」としか言えないだろう。

 

そうした人に尊厳を与えない社会は、どこかおかしいと、私ですら思う。

 

だがサンデルはロクな解決策を示せていない

しかし。

ここがこの本の最大のイマイチポイントなのだが、サンデルは言うだけ言って、「ではどうする」という話について、ロクな解決策を示せていない。

「話し合いの場に、この問題を提出したい」というにとどまっている。

 

もちろん、まったく提示していないわけではないが、サンデルの独自見解は無きに等しい。

せいぜい、何名かの政治家の提出した法案などを引き合いに出しているくらいだ。

 

例えば、大学に入学できる人々を、一部くじ引きにせよとか、低賃金労働者への賃金補助をせよ、とか。

自由貿易の規制、アウトソースの規制、移民の規制といったことにも触れている。

 

が、実際にはどれも古いコンセプトの、再配分の話にとどまり、「無能の尊厳」を回復するには至らなさそうである。

だから、サンデルの主張は中途半端であることが否めないのだが、私個人の意見としては、サンデルが好む「正義」や「市民善」などに依拠した主張するのは筋が悪いと思う。

なぜなら、正義についての統一見解は、絶対に出ないだろうからだ。

 

しかも、宗教やイデオロギーの対立の歴史が示しているように、「正義」はその名のもとに、人を強く管理し、そして人を収容所に送り、大量に殺す。とてもではないが、受け付けられない。

 

ではどうするか。

個人的には企業のマネジメントに、その打開策があると信じている。

なぜなら、ピーター・ドラッカーが指摘するように、仕事で成果を上げることは、人の尊厳を保つ役割があるからだ。

であれば、「無能」とされる人々に、活躍できる場を提供することを、企業のの責務とせねばならない。

 

 

今は高学歴者に人気だというコンサルティング会社だが、一昔前は「高学歴者」で固められていたわけではなかった。

そこそこの多様性があったのだ。

実際、私が働いていたDeloitteのある部署では、高卒の中途採用者が活躍していたし、無名大学出身のコンサルタントも数多く在籍していた。

 

彼らは決して「勉強ができた」とは言えないかもしれない。

学歴だけから見ると、もしかしたらサンデルが指摘するように「無能」とされてもおかしくない。

 

しかし、彼らは断じて「無能」ではなかった。

というより、会社は彼らをうまく使いこなしており、個人の特性に合った仕事を与え、活躍させるようにマネジメントされていた。

 

そうして、彼らの活躍を見るにつけ、私は

「無能」は多くの場合、「個人の能力」ではなく「組織の能力」が不足している。

と感じるに至った。

 

仕事は、試験よりもはるかに広範囲な能力を要求する。

だから、企業の「人を用いる能力の強化」こそ、無能を撲滅する強いパワーであると思う。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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なぜ働くのかということへの考え方には、《自分のしたいことを実現するため》という方向と《自分が食べていくお金をえるため》という方向の二つの異なった見方があると思う。

 

三浦展さんと上野千鶴子さんが対談した本「消費社会から格差社会へ」(ちくま文庫 2010年)には上野さんの以下のような過激な?言葉が紹介されている。

わたしなんて、やりたくない仕事を身すぎ世すぎでやってる。

仕事というのは、生計の方便です。「身すぎ世すぎ」と「好きなこと」が一致するはずだ、というまったく困った幻想がある。

その幻想を、村上龍の『13歳のハローワーク』(幻冬社・2003年)は煽ってるわけですね。あんたがやったことに他人がなんでゼニ出してくれると思う? その人の役に立つことをやったから、他人の財布からカネ出してもらえるんでしょ? ・・・

自分が好きなことしてゼニもらえると思うな。自分が好きなことは持ち出しでやるんだ、バカヤロ。

[amazonjs asin="4480427295" locale="JP" tmpl="Small" title="消費社会から格差社会へ 1980年代からの変容 (ちくま文庫)"]

上野さんは《自分が好きなことは身銭をきってやれ》という。

村上さんは《好きなことを仕事にしろ》という。

 

だが、上野さんがいう「仕事というのは、生計の方便です」という側面も、村上さんの本でも無視されているわけではない。

働かないでも食べていけるだけの不労所得がある場合以外には、仕事はまずもって生きていくための手段である。

 

ただ、実は村上龍の『13歳のハローワーク』は、確かに『自分が好きなことをやれ』というアジテーションという側面もあると思うが、わたくしから見ると、何よりも「サラリーマンにはなるな!」という煽りである。

13歳のハローワーク[amazonjs asin="4344004299" locale="JP" tmpl="Small" title="13歳のハローワーク"]

 

植物ハンター・フラワーデザイナー・フラワーアレンジメント・華道教授・盆栽職人・庭師・植木職人・・。

これは花や植物が好きなひとに勧める仕事である。

動物好きには、獣医・動物園や水族館の飼育係・犬の訓練士・トリマー・・・。

そして人体・遺伝が好きなひとには、医師・看護師・保健師・助産師・薬剤師・理学療法士・・。

 

この本には「エッチなことが好きな人に勧める仕事」という項目もあって、薦められているのは、精神科医・臨床心理士・心療内科医・作家・医師・・。

わたくしは「エッチなことが嫌い」とはいわないけれど、「エッチなことが好き」だから医者になったとは、自分では思っていない。

人体が好きだから医師になるというのも、どうにもあやしい話だ。

だから、「13歳のハローワーク」はかなりいい加減な本であるという見方もあろう。

 

ただ、結局村上氏が、この本で一番いいたいことは《会社員という生き方以外にも、もっといろいろな働き方があるのだぞ》ということであり、「13歳のハローワーク」は、若者に対して、そこに目を向けさせるための本なのである。

 

実際、この本の最後の方に、結論として《サラリーマンとOLを選択肢から外して仕事を考える》ということがいわれている。

おそらく、これがこの本で村上氏の一番いいたいことなのである。

「何になるのか」ではなく、「どの会社に入るか」が重要になってしまうのは愚かなことで、おかしい、と氏はいう。

 

学校をでたら会社や役所に勤めるのが当たり前という考えを捨て、自分で商売を始めるとか会社をおこすということも選択肢に入れろという。

どういう仕事をしているかではなく、どこの会社で働いているかが問われる日本はおかしい、と。

 

もちろん、会社とは一線をおく生き方にもいろいろあって、その一つの方策として、資格をとるという方向もある。

 

わたくしも医師という資格によって生きてきた。

資格をとれば食べていけるとは必ずしもいえないわけで、若いころ、旧ソヴィエトでは医師免許を持っていても仕事がなく、タクシーの運転手をしているひともいるという話をきいたこともあるが、幸いわたくしは、その免許で50年間、食べてくることができた。

 

最近、産業医という仕事もしているが、そこで感じるのは、従業員の健康管理というような明確に限定された目的のために、しかも中途から雇用されている医師や保健師は、会社内部の人間とは、どうもみなされていないようだということである。

「先生は、ここがおかしいとおっしゃいますが、でもこの規則の必要性は、長くこの会社の中にいる人にしかわからないのです。申し訳ないですが、もう少しこのままでやらせてください。・・・」

 

濱口桂一郎さんの「若者と労働」(中公新書ラクレ 2013年)に「日本では、医療の世界のような特殊な分野を除けば、私はこの「仕事」がこのくらいできますではなく、私は何々という会社の社員ですということで生きている」と書かれている。

わたくしはその特殊な分野で生きてきたことになるのだと思うが、会社の顧問弁護士といった人も同じようなことを感じているのだろうがではないかと思う。

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上野さんによれば、人が社会で生きていくために最も必要とされるものはコミュニケーションスキルであり、それさえあればどんな世の中になっても生きていけるという。

 

ひとりうじうじと自己実現などといっている若者には虫唾が走るらしく、《コミュニケーションスキルを磨けない男性は、マスターベーションしながら死んでいただければいい》などと、なかなかとんでもないこともいっている。

ひょっとすると、これは男性差別の発言なのだろうか? コミュニケーションスキルを磨けない女性はどうしたらいいのだろう。

 

一方の龍さんは、ミュニケーションスキルを磨けない人間にももっと同情的だ。

彼は、「幼いころから性格が団体行動に合わず、まじめに受験勉強もできず、人間としてもかなりやばいこともやったという人生の暗黒時代」を経験している。

だから、弱いひと、日本の既存のシステム(その代表としての会社組織)にうまくなじめず、そこには入っていけないひとを応援するために、「13歳・・・」を書いて、サラリーマンでない働き方もあるのだ、組織にはいらなくてもやっていく道はいろいろあるのだという啓蒙活動をしているわけである。

 

 

わたくしは高校一年くらいまでは、文学部に進学するつもりでいた。

文学部を出たあと何をするかということはほとんど何も考えていなかったが、漠然と国語の先生にでもなるかといった感じだったように記憶している。

何しろ、生徒であるわたくしに見える働く人というのは教師しかいないわけで、仕事のロール・モデルはそれしかなかったわけである。

 

しかし、高一のころ、文学部にいっても碌なことがないなと思うちょっとした出来事があり、それでその方向は断念した。

さらに、そのころのニュースには、新入社員に自衛隊体験入隊をさせたり、滝にうたれる禊をさせたりする会社の報道が溢れていた。

 

これはいやだ、サラリーマンだけにはなるまいと思い、たまたま父親が医者だったので、別に人体に興味があったわけでも、エッチな方面に興味があったからでもないが、医学部を目指すことにした。

 

ところが医学部にはいってみると、教壇に立つ先生方はみんな研究志向でノーベル賞がどうたらこうたらという言葉がひんぱんに飛び交い、臨床医を育てるといったことにはあまり関心がないようである。

こちらは父も勤務医だったので、医者のイメージはもっぱらそれで、研究者になるつもりも開業医になるつもりもなく、学園紛争?闘争?の血沸き肉躍る一年有余の後では一向に勉強に身がはいらず、それでも追試の山をくぐりぬけて何とか卒業できた。

 

その後、研究室で数年、カラムや電気泳動間装置をいじっているうちに学位もとれたので、すぐに大学をでて勤務医になった。

村上さんのいう好きなことをやれという薦めには全然従ってはいないが、サラリーマンにはなるなという薦めには従ったわけである。

 

それで、今やっていることは、一応、上野さんのいう他人の必要に応えるということになっているのかと思う。

とはいっても、わたくしの一番の基本が《一人でいたい》《本を読んでいる時間が一番幸せ》ということなので、昼の時間は《身すぎ世すぎ》で、夜の時間こそが本当の自分という感じがどうしても抜けないでいる。

 

ついでにいえば、医者になって一番よかったことは、極端の貧しさは経験しないでくることができたことで、読みたい本があればかなり高価な本でも、ほぼ躊躇なく買うことができてきた。

 

とすれば、根本的には上野派なのだろうか?

しかし、《一人でいたい》人間としては、コミュケーション・スキルを磨こうなどという志向はまったくない。

 

 

昨年以降はコロナ騒ぎでできなくなっているようだが、従来、新入社員が入ってくると会社では、二週間くらいのガイダンスのような期間があり、わたくしも「新しく社会人になったひとの健康管理」といった話をさせられていた。

 

しかし、嫌になることには、そのガイダンスの会場にいる新入社員の全員が例外なくリクルート・スーツをきていて景色が真っ黒なのである。

しかも誰か(新入社員代表?)が声を掛けて、「起立! 礼!」などとやる。軍隊ではあるまいし・・・。

 

四月になって、街にもリクルート・スーツの若者があふれている。

バブルの頃にはもっと自由で、入社式の服装もてんでんばらばらでカラフルだったのだそうである。

売り手市場と買い手市場の違いなのだろうか?

 

そもそも入社式などというのが、「仕事は何をするか」ではなく、「会社に入ったのだぞ」ということを確認するための儀式である。

まだまだ娑婆の空気がぬけず学生気分も抜けない新入社員に、《これからかは陸軍内務班のやり方でいくから、覚悟するように》という儀式である、かどうかは自分が話すところ以外の講師の話はきいていないのでわからない。

 

が、話のタイトルだけみていると

「社長の講話」

「わが社の歴史と沿革」

「わが社の現状」

「わが社の・・」

で、「それぞれの仕事に早く馴染め」ではなく「わが社の気風に早く馴染め」という方向の話ばかりのようである。

こういうものが続いている限りは日本人の働き方はまだまだ変わらないのかもしれない。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:jmiyaza

人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。

2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。

ブログ:jmiyazaの日記(日々平安録2)

Photo by Rostyslav Savchyn on Unsplash

新型コロナの影響が続くなか、アメリカでは新規株式公開(IPO)が活況を呈しています。

最近の顔ぶれは、通称”Blank Check Company(注)”と呼ばれる特別買収目的会社(SPAC)やロックダウン下で企業のデジタル変革を支えるSaaS企業が中心でした。

 

そのような中、一般消費者を相手とする民泊エアビーアンドビー(Airbnb、以下、エアビー)と料理宅配ドアダッシュ(DOORDASH)が、IPOに成功。予想を大幅に上回る初値を付けたことは異例と言えます。

何が一般投資家を惹きつけているのでしょうか。これら2社の成長過程を比較しながら、その魅力を見てみましょう。

 

(注)Blank Check Company:直訳すると「白紙の小切手会社」。事業計画が定まっていない新興企業、あるいは他の企業を一定期間内に合併・買収する目的で設立された企業のことを指します。

 

<創業初期>「虫の眼」でビジネスモデルを磨く:PMFを実現

まず、2社のビジネスモデルをひも解いてみましょう。

 

エアビーは、空き部屋を提供するホストと宿泊するゲストの2者間の取引を仲介し、ホストより集客から予約決済までを請け負うことで手数料を受け取っています。

ドアダッシュは、料理を提供するレストラン、配達員、利用者の3者間の取引を仲介し、レストランからの手数料が主な収入です。両社は、ホストの空き部屋や配達員の時間をシェアする「シェアリング・エコノミー」に属しています。

 

こう説明すると、今はやりの二者以上をマッチングする「プラットフォーム型」のビジネスで、ネットワーク経済性が働きやすく、スケーラビリティの高いビジネスだと思われるでしょう。

 

注目したいのは、創業初期の動きです。

 

エアビーは、サンフランシスコでルームシェアする友人2人が家賃の支払いに困って、国際会議でホテルにあぶれた人に手持ちのエアベッド3台分の宿泊を提供するウェブサイトを立ち上げたのがきっかけです。

初期のころは、イベント開催地やニューヨークなどの人気都市をきめ細かく営業してホストを訪ね歩き、写真投稿の手伝いや、ゲストが問題なく過ごせているか、支払いが滞りないかと、創業者ら自らが相当関与していました。

 

ドアダッシュは、スタンフォード大の学生3人がたった一時間で立ち上げた、地元レストランのメニューを表示するウェブサイトが始まりです。

はじめは授業の合間を縫って、客からの注文を自分たちで購入して届け、手数料を受け取っていたといいます。

そして、その都度、料理の評判や配達サービスの感想をくまなく聞き取っていきました。

 

まさにスモール・ニッチです。

少なくとも創業者本人たちには具体的で意味のあるサービスでした。

手厚いハイタッチなサービスで、頭に汗をかきながら利用継続につながる顧客インサイトを見極め、二者/三者間の顧客に快適なサービス品質を徐々に磨いていきました。これが「虫の眼」です。

ひとたびサービスの型が市場にマッチすると(これをPMF:プロダクト・マーケット・フィットといいます)、プラットフォームの取引量はみるみる増大していきます。

取引参加者の増大が情報の質を高め、マッチング率が向上する好循環が回り始めるからです。

ネットワーク経済性におけるポジティブ・フィードバック・ループと呼ばれる現象です。

 

<急成長期>「鳥の眼」で複雑性を回避:スケーラビリティを一気に上げる

PMFを達成したら次に大切なのは「鳥の眼」です。

事業を俯瞰し、ボトルネックになりそうなプロセスの複雑性を極力排除しながら、スケーラビリティを上げることです。

特に、プラットフォーム型の事業では、大量に集まるデータを用いて仕組みを汎用化、つまりテックタッチ化していくことで実現されます。

 

エアビーでは、部屋を貸すホストが、日々の負担なく相場に近い価格で設定できることが重要な課題でした。

そのため、ダイナミック・プライシングに取り組むわけですが、均質な部屋を扱う一般のホテルとは異なります。

なにせ扱う物件は、世界中に点在するツリーハウスやボートハウス、城など、多種多様です。

立地、掲載写真、利用者評価の量と平均値、旅行する季節、イベント情報、宿泊日までのリードタイムなど、数百にわたるきめ細かなパラメーターを推定モデルに組み込む大変なチャレンジでした。

 

今では、日々の需要を予測して推奨価格をホストへ提案する機能と、ホストが最低/最高価格を指定すれば自動で予約の入りやすい価格設定がされる機能の2つが用意されています。

その他にも、検索ランキングや不正検知、カスタマーサポートの課題予測、画像解析による部屋のタイプ予想など、あらゆるところに機械学習が活用されています。

 

このように、エアビーは、急成長期によく見られる品質低下を防ぎ、顧客のエンゲージメントを高めるため、機械学習をはじめとする高度なデータ解析を行うデータドリブンな企業となっていきました。

 

ドアダッシュはどうでしょう。

同社のビジネスは、利用者から注文が入ると、レストランで食事を受け取って利用者へもっとも早く届けられる配送員を見つけることが最重要です。

この「車両ルーティング問題」は、オペレーションズ・リサーチ(OR)分野では難問と言われています。

加えて、料理宅配は、メニューごとの調理時間、天候やイベントによる需要変動、常に移動する配達員などが問題を複雑にします。

 

幸い、ドアダッシュには、ORとビジネスで学位を修めた創業者のトニー・シューをはじめ、数学・統計学、人工知能の精鋭が揃っていました。

彼らは、車両ルーティング問題に料理宅配の複雑さを補うため、配送時間の予測に機械学習を取り入れて解決しました。

 

こうして難しい料理宅配で自動化を進めたことは、取り扱い商材を生鮮食品や市販薬、日用品へ広げ、食事時間帯以外の取扱量を大幅に増やすことにつながりました。

今では、小売大手の「ラストマイルデリバリー」を埋める存在として欠かせなくなっています。

2020年9月時点で、2位のウーバーイーツ(22%)、3位グラブハブ(20%)を大きく引き離す49%の市場を獲得しています。

 

 

<安定期>「魚の眼」で潮流を読む:真のエクセレントカンパニーを目指す

今やテック・カンパニーの側面も併せ持つエアビーとドアダッシュ。

彼らにとって上場は、長く社会に受け入れられる優良企業への第一歩となるでしょう。

今後は、企業としての社会的責任がより一層問われることになります。

 

エアビーは2018年、ホスト、ゲスト、投資家、従業員、地域社会など、すべてのステークホルダーに奉仕すること、無限の時間軸で共存共栄を図ること、この2点を改めて宣言しました。

従業員のジェンダーや多様性の目標を掲げ、報酬はステークホルダーへの貢献や温暖化ガス排出削減までも連動させる徹底ぶりです。

コロナ禍で需要が一気に蒸発した春先には、すぐさま当面の資金調達を実現させてホストの支援へ動き、テレワーク需要の変化を読み取って、近隣の物件紹介やオンライン体験の充実を実現させました。

 

一方で同社には、中国当局へ膨大な利用者データを共有している点や、犯罪を未然に防ぐ目的でゲストの素行をリスク評価する技術の特許取得について憶測が広がっており、懸念が残っています。

 

ドアダッシュでは、これまでのデジタル投資がコロナ禍の爆発的な需要急増で真価を発揮しました。

一方、その成長の過程では、配達員の雇用形態やチップ未払いを巡る問題にさらされてきた事実もあります。

配達員のように、単発の仕事を請け負う人々は「ギグワーカー」と呼ばれ、シェアリングエコノミーを象徴する新たな働き手です。

ビジネスパートナーである配達員と長く良好な関係を築く上では、ギグワーカーの裁量と公正な賃金の両立は避けては通れない問題です。

 

今、まさに「魚の眼」が問われています。

魚は広大な海の中で、大きな潮の流れを読んで行動します。

潮目を読み誤ると、広い海をさまようことになり兼ねません。

 

米国では、巨大IT企業の独占的な市場支配力を積極的に規制する方向へ潮目が変わろうとしています。

コロナ禍を経て、世界では、地球規模の課題にコミットし、貧困や格差、ジェンダーといった社会課題の解決に結びついた存在意義(=パーパス)を掲げる企業が少しずつ増えています。

この潮目を活かして飛躍できるか、両社の今後の歩みを見守りましょう。

 

【参考】

「初めてのゲストとなった写真の3人があってこそのエアビー」同社とともにマジカルな体験を共有するコミュニティへの感謝が溢れるメッセージ。ーーエアビーが米国証券取引委員会(SEC)へ提出したS1(日本の目論見書に相当)より

(執筆:八尾 麻理)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

Photo by Yonan Farah

この文章は『シン・エヴァンゲリオン』についての文章というより、シン・エヴァンゲリオンの想定ファン層についての文章、いや、シン・エヴァンゲリオンの思い出話をとおして再認識した「なかなかシンクロしにくい感性」についての文章だ。

 

先月から今月にかけて、シン・エヴァンゲリオンについてのzoom飲み会を二度経験した。

参加者はどちらも1996年頃から『新世紀エヴァンゲリオン』を愛好し、楽しみにしてきた古参エヴァファンだったので、積もる話に花が咲いた。

 

『シン・エヴァンゲリオン』については、公開から一か月以上が経ってたくさんのことが語られたから、以下のような話はどこかで語られているかもしれない。

 

それでも『シン・エヴァンゲリオン』も含めた21世紀のヱヴァンゲリヲンと、1995~97年に放映されて青少年が熱狂した『新世紀エヴァンゲリオン』の違い、なにより、それを楽しむファンの感性の違いについて、きっと誰かに伝わるものがあると思う。そう信じてこれを書く。

 

新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』は誰に向かってサービスしていたのか

さきに述べたように、私は3月と4月にシン・エヴァンゲリオンについてと銘打ったzoom飲み会に参加したが、その内実は『エヴァンゲリオンぜんたいを偲ぶ会』だった。

新旧のエヴァンゲリオンについて、ありとあらゆる話題が交換された。

 

「シン・エヴァンゲリオンはどうでしたか」

「終わってくれて本当に良かった。生きているうちに完結してくれて本当に良かった」

「庵野監督とカラーの皆さんに、お疲れさまと言いたい」

「おめでとう! おめでとう!」

 

まずはエヴァンゲリオンの完結に乾杯。90年代に『新世紀エヴァンゲリオン』に出会い、以来ずっと追いかけてきた古参ファンにとってエヴァンゲリオン完結は大変めでたい。

生きているうちにエヴァンゲリオンが完結し、その行く末を見定めることができたこと自体、大いにめでたいことなのだった。

 

1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』の放送開始から数えて四半世紀。この間に鬼籍に入ったエヴァファンもいた。

だから私たちにとって、集まってエヴァンゲリオンの話をすることには仏前報告の意味合いもある。

アニメの完結を見届けたい者は、完結するまで生き続けなければならないのだ。

 

「でも、シン・エヴァンゲリオンは昔のエヴァンゲリオンとは違いますね」

「よくできているんだけど、尖ったナイフみたいな感じじゃ無かった」

「昔のエヴァンゲリオンと同じやつを2020年に映画館で公開するの無理やん」

「一般受けしませんよ」

「エヴァンゲリオンも、みんなに愛されるコンテンツになったってことじゃないですか。」

「碇ゲンドウがひげそりのCMに出る時代だからねー、ひげそりエヴァンゲリオンですよ。」

 

アルコールが回るうちに、話題は『シン・エヴァンゲリオン』の、ひいては21世紀の新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』四部作の寸評になっていった。

シーン別にみれば称賛できる点も多いにせよ、総論としてはTV版や旧劇場版に比べて物足りない、楽しみやすいけれども視聴者の心に食らいついてくる感じがしない……といった意見が大勢を占めた。

 

シン・エヴァンゲリオン(と21世紀の新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』シリーズ)はよく売れたアニメではあり、全体としてみればキチンとまとまった作品になっている。

また、たとえば『新劇場版:Q』の冒頭シーンなども素晴らしい。

 

だけど人の心に深く食らいついてくる作品、魅入られてしまった者を掴んで離さないような恐ろしい力を持った作品……ではないように私たちには思われた。

 

「昔のエヴァンゲリオンは、『機動戦士ガンダム』でいうならニュータイプとか強化人間のためのアニメっていうか、ジオングとかサイコガンダムみたいな作品で、シン・エヴァンゲリオンは量産型ザクみたいな作品。デチューンして誰でも乗りこなせるようにしたエヴァンゲリオン、誰でも楽しめるコンテンツにして間口を広くした感じっていうか」

「予告編でミサトさんが"この次もサービスサービス♪"って言ってたの、パチンコからエヴァンゲリオンに入ったお客さんに向かって言ってたんであって、俺らに向かって"サービスサービス"って言ってたわけではない」

「綾波でもレイでもなくて、綾波ちゃんかレイちゃん。アスカじゃなくてアスカちゃん。」

「新劇場版は"安全なエヴァンゲリオン"。TV版と旧劇場版は尖ったナイフみたいな"危ないエヴァンゲリオン"。」

 

新劇場版と比べて、TV版と旧劇場版が尖ったナイフのように感じられるのはなぜだったのか?

理由はいろいろ思いつく──TV版が未完成だったこと。

旧劇場版が過激なファンの反応に対する意趣返しとしての性質を帯びていたこと。

いわゆる謎が謎のままで、解釈の余地ある幕切れとなったこと。

多くの登場人物が無念のうちに死んでいったこと。

人間のいやらしさや怖さやディスコミュニケーションがストレートに描かれた作品だったこと。

 

20世紀のエヴァンゲリオンにあったこれらの要素は、新劇場版では軒並み”改善”されていた。

ここでいう”改善”とは、よりたくさんの人に愛されやすい、理解されやすいアニメになるための”改善”という意味で、20世紀のエヴァンゲリオンが深く刺さって抜けなくなったファンからみればデチューンであり、口さがないファンなら”改悪”と言ってしまう変更のことである。

 

シン・エヴァンゲリオンが公開されて以来、古参のエヴァファンの一部が厳しい批判をしていたが、その気持ちは私たちにも理解できる。

思春期の頃に私たちの心に突き刺さった20世紀のエヴァンゲリオンの、その深く突き刺さる棘のようなものを、新劇場版、ひいてはシン・エヴァンゲリオンは丁寧に除去してつくられていた。

 

そうした棘を残したままでは、シン・エヴァンゲリオンはここまでヒットしなかっただろうし、親子で安心して視聴できるエヴァンゲリオンにもならなかったに違いない。

だから酔っ払っている私たちにも、制作陣の判断が間違っているとはあまり思えなかった。

 

しかしですね。

棘に相当するものを引っこ抜いたエヴァンゲリオンとは、本当に、エヴァンゲリオンの名に値するものだったのだろうか?

 

「シンエヴァで3回泣く」感性にフォーカスしたエヴァンゲリオン

そうやって新劇場版の食い足りなさを云々している最中に

「でもそれって、オレたちが歳を取っただけじゃねーの?」

という力強い反論が投げ込まれた。

 

「オレたちが歳を取ったから、昔のエヴァンゲリオンが心に刺さったように感じて、21世紀のヱヴァンゲリヲンが心に刺さらないだけじゃないのか。」

 

そう言われるとにべもない。

しかし、だったらシン・エヴァンゲリオンも含めた新劇場版のヱヴァンゲリヲンが心にちゃんと刺さっている人が、年下のゾーンに存在しなければならないのではないか?

 

そう訊ねた私を待ち伏せていたのは、こんな言葉だった。

「いやね、うちの職場でシン・エヴァンゲリオンの話になって若い人から話を聞いたらね、"シン・エヴァを見て三回泣いた"っていうんですよ。」

 

シン・エヴァンゲリオンで三回泣いただって?

 

慌てて私は記憶を手繰り寄せ、シン・エヴァンゲリオンのどこで泣けばいいのか考えた。

第三の村で綾波レイが虹になるシーンで一回、葛城ミサトのあのシーンで一回、それと碇ゲンドウと碇シンジの親子のやりとりで一回ずつだろうか?

 

世界が元に戻っていくシーンでもう一回泣けるかもしれない。

式波アスカラングレーが第三の村に帰ったシーンで泣く人もひょっとしたらいるかもしれない。

そういえば、私が映画館で『シン・エヴァンゲリオン』を見ていた時も、隣の席の女性が実際に泣いていたのだった。

 

エヴァンゲリオンで涙といえば、古参エヴァファンなら綾波レイの流した涙のことを思い出すだろう。

TV版23話『涙』の時に流した綾波レイの涙が、印象的なBGMとともに記憶に焼き付いている人も多いに違いない。

 

シン・エヴァンゲリオンにも涙が登場する場面はある。第三の村で綾波レイが流す、あの涙だ。

けれどもTV版23話の時とは違って、あの涙は碇シンジに前を向かせるきっかけになっていく。

そして視聴者は綾波レイのエピローグを、たった数十分待っただけで知ることができる──TV版や旧劇場版では望むべくもなかった温情といわざるを得ない──。

 

惣流アスカラングレーについても、葛城ミサトについても、TV版/旧劇場版の結末はシビアだった。

それらに比べれば、シン・エヴァンゲリオンの式波アスカラングレーと葛城ミサトの結末は温和で、安全で、安心だった。

登場人物の誰かに感情移入したとしても、キャラクターごと深く傷つく心配はなかった。そもそも新劇場版のヱヴァンゲリヲン四部作は、登場人物の誰かに深く感情移入しすぎてファンがおかしなことになってしまわないよう、安全装置をつけられたような造形になっていると私にはみえる。

 

ちょっと気になってSNSを調べてみると、「シン・エヴァンゲリオンを見て泣いた」という声はけっして少なくなかった。

彼/彼女らは本当に泣いていたのか?

それともいまどきのSNS文体として、「泣いた」という感情表現が好ましいからそう書いているだけなのか?

 

確かなことはわからない。

が、尖ったナイフではなくなったエヴァンゲリオンでも泣ける人は実在するし、たぶん、そういう人に最適化されたエンタメとして新劇場版のヱヴァンゲリヲン四部作はチューンされているのだろう。私はそう思うことにした。

 

エヴァンゲリオンはもう、棘だらけのエンタメでも尖ったナイフのようなエンタメでもない。

エヴァンゲリオンは、いわば"シン・エヴァンゲリオンを見て3回泣ける人のためのエンタメ"に成長したのだ。

 

"全米が泣いた"とまでは言えなくても、間口の広い、たくさんの人に愛されるエンタメとして世に受け入れられるに至ったのだ。

もうエヴァンゲリオンと長く付き合っていて、完結を待ち望んでいたファンに安全なピリオドを打つ作品ともなっているだろう。

おめでとうエヴァンゲリオン。ありがとうエヴァンゲリオン。さようならエヴァンゲリオン。

 

こうした変化を、私はファンの一人として嬉しく思う。と同時に、"自分たちはもう想定顧客ではない"という事実を突きつけられた気もして、寂しさをも感じた。

無名だった歌い手がメジャーデビューし、だんだん間口の広い歌い手になっていくのを見送る古参ファンも、こういう気持ちになるのだろうか。

 

エヴァンゲリオンが完結してもATフィールドの壁は残る

時代が変わればエンタメが変わり、人も感性も変わっていく。1995~97年の『新世紀エヴァンゲリオン』は、万人に愛されるエンタメとは言えない代物だったが、それでも90年代後半のムードによく寄り添った、訴求力のあるエンタメだったと思う。

 

対してシン・エヴァンゲリオンも含めた新劇場版のヱヴァンゲリヲンは、もう90年代後半のムードとは決別している。

ちゃんと今世紀のアニメ映画らしさがあり、時代の最先端……とまではいかないにしても、若いファンがついてこれる程度には21世紀のムードにあわせてつくられている。

 

この新旧のエヴァンゲリオンの違いは、他のエンタメにだってみられるものだ。

泣ける映画・楽しいドラマ・恋の歌など、どれも時代のムードを反映していて、旧い作品の基準で新しい作品を評価してもピントがずれてしまいやすい。

いまどきはNetflixやspotifyのようなサブスクリプションサービスがたくさんあるので、そうした時代のムードや作風の違いを把握しやすくもなっている(尤も、サブスクリプションのサービスが増えているということ自体が、ひとつのムードや作風の違いを作り上げている側面もあるがそれはまた別のお話)。

 

しかし、どんなに時代のムードや作風の違いを頭で理解したつもりになっても、自分自身の感性まではなかなか変えられない。

昭和の終わりから平成にかけて生まれ育った人間が、平成の終わりから令和にかけて生まれ育とうとしている人間とまったく同じ感性を持つのは、たぶん不可能だし、強いてそうすべきでもあるまい。

だから「シン・エヴァンゲリオンで三回泣ける」感性に私は理解でアプローチすることはできても、感性でアプローチすることはできない。

エヴァンゲリオンで喩えるなら、そこにはATフィールドの壁があり、私たちはどこかで決してわかりあえない者同士であり続ける。

 

碇シンジが選んだ世界、ひいては私たちが現実として生きている世界とはそのようなものだった。

理解をとおして違いを認識することはできても、感性まではシンクロさせにくい世界。

 

だから私などは「シン・エヴァンゲリオンを見て三回泣く」というフレーズに驚き、打ちのめされてこんな文章を書いたりしている。

こういうことが過去にも現在にも未来にもあるのが人間世界だと理解していても、なかなかそれについていけない。

 

私はエヴァンゲリオンをとおしてたくさんの学びと気付きを得たけれども、エヴァンゲリオンが最後に思い出させてくれたのは「越えられない壁、ATフィールドは文字どおりAbsolute Terror Fieldだ」という事実だった。

三回泣く感性を知ることをとおして、私はTV版/旧劇場版の振り出しに回帰したとも言える。

 

世はすべてこともなし。エヴァンゲリオンが完結しても、私たちは心の壁の存在する日常をこれからも生きていくし、生きていかなければならない。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 

Photo by Ryan Yao

大学時代の話だ。

 

部活の飲み会にて好みのタイプを聞かれ

「好みのタイプは特にありません。けど、嫌いなタイプはハッキリしています」

「僕の事を嫌いな人が大嫌いです」

と言った事がある。

 

それを聞いていた上級生が

「お前は子供か!好き嫌いで人を判断するな!!!」

と答えたのだが、僕はこの言葉に結構長い間モヤモヤしていた。

 

なぜモヤッとしていたかというと、多く人は好き嫌いで意思決定を行っているとしか思えなかったからだ。

 

人間は必ず感情に影響されて意思決定を行っている

そのモヤモヤは働き始めた後により強固となった。

 

詳細は控えるが、僕は仕事で意思決定が好き嫌いに依存している人をあまりにもたくさんみすぎた。

この事で心の底から

「人に好かれる事は得しかないが、人に嫌われる事は損しかない」

という事を理解した。

 

実は感情が意思決定の大きな部分を担っている事は脳科学的にも証明されている。

ポルトガルの神経学者アントニオ・ダマシオは脳腫瘍で前頭葉の眼窩前頭皮質を切除した患者がIQ(知能指数)、記憶、学習、言語等においてなんら問題がなかったのに、全く意思決定ができないことに気がついた。

 

彼・彼女らは食事のメニューを決めるといった簡単な意思決定すらできなく成り果てていた。

頭は働かせられるしモノも考えられるのに、何かを決めるという事だけが著しく困難になってしまったのだ。

 

「この不思議な現象は何に起因しているのだろう?」とダマシオは脳の病で眼窩前頭皮質を取り除く手術をした患者50人余りほど集め研究を重ねたところ、前頭葉の眼窩前頭皮質は理性と感情を結びつけている部分だという事が判明した。

この事よりダマシオは“意思決定の最後の部分は理性ではなく感情によりなされる”という驚異的な事実に至った。

 

先程の食事のメニューが決められなかった人たちは「今日は何を食べたい気分」という本能による働きかけが理性にまで伝わらなかったので、最後の最後にエイヤっと踏ん切りがつけられず、それ故に意思決定が無理になってしまったというのである。

 

好き嫌いは本能でだいたい決まってしまう

やっぱり人間の意思決定は好き嫌いのような情動が大きく作用していたのである。

大人とか子供とか、そういう問題では済まされない話だったのだ。

 

そしてこの好き嫌いを決める部分だが、実は脳の理性を司る大脳新皮質ではなく古い脳である大脳辺縁系に多くが依存している。

大脳辺縁系は人間の本能が詰まった部分だが、その決定のほとんどは無意識下で処理されている。

 

そう考えると、女性がよくいう「生理的に無理」という単語はある意味では実に本質をあらわしている。

実際、好き嫌いは理性で制御できるような甘いものではない。

ギャンブルやホスト、アルコールの依存症患者がみな理性でもってこれらの病を克服できてないという例を持ち出すまでもなかろう。

 

人間、好きなものは理由もなく好きだし嫌いなものは理由もなく嫌いな生き物である。

そして好き嫌いを理性でもってある程度は抑制する事は可能かもしれないが、それは感情を抑え込んでいるだけで残念ながら何も感じていないという事とイコールではない。

 

私達は好む好まざるとにかかわらず、好き嫌いの感情が意思決定に影響してしまうようにできている。

その影響を完全に回避できる人間などこの世には居ないのだ。

 

脳が感じる嫌いに対する感情は腐ったものを食べたときと同じ反応だった

続いて、嫌いの感情は皆が思っている以上に脳の中で強烈な感情として処理されているという衝撃的な話を紹介しよう。

 

売り方は類人猿が知っている(ルディー 和子・著)によると、人間が嫌いなものに直面した時に感じる時の顔の動きは、なんと腐った食べ物を食べた時に感じる顔の動きとほぼ同じなのだという。

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僕はこれを知った事で嫌いな人間に対して嫌悪感を抱くのはもう仕方がないのだと諦めがついた。

 

今までの人生において苦手な食べ物を好きになった事は何度もあったが…腐った食べ物の味を美味に変換するのは一生できる気がしない。

嫌いという感情は食べ続けたら食中毒となって死んでしまう腐った食べ物の摂取と紐づいているのだとしたら、たぶんそれは人として生理的に克服不可能な何かである。

 

嫌いになってしまった人同士が感情の面で折り合いをつける事は腐ったものを美味しくいただけるようになる事と同じぐらい難しいのだとしたら、気の合わない相手との相互理解や仲直りなんて明らかに非現実的な何かでしかない。

 

なので分かり会えそうにない人との話し合いなんて最初から無駄だと割り切った方が無難だろう。

対話の果てに相互理解が生じる可能性を完全には否定しないけど、それは生理的に無理な人を好きになるのと同じぐらい達成困難だと僕は思う。

 

小泉構文は脳髄を直撃する魔性の弾丸

「好き嫌いが理性の外側にあるのだとしたら、人に好かれたかったら逆に前頭葉のロジカル部分って使わない方がいいんじゃないか?」

この事に気がついた時、僕が小泉構文の持つ破壊力の恐ろしさに身震いした。

 

知らない人も多いだろうから簡単に説明すると、これは自民党の小泉進次郎議員が繰り出す論理的に考えると何を言ってるのかがよくわからない発言を揶揄したものだ。

 

例えば小泉進次郎議員は2019年に「今のままではいけないと思います。だからこそ日本は今のままではいけないと思っている。」というような発言をした事がある。

 

これは文面に書き起こして読むと全くよくわからないとしか言いようがないものだが、前頭葉に人間の好き嫌いを作る力が無い事を考えると実は大変に凄い技術の可能性がある。

 

先ほども書いたが、人間の好き嫌いはロジカルの外側にある。

だとしたら好き嫌いが決まるのは、ロジカルの外側にある何かが作用しているという可能性がある。

 

そこで先ほどの小泉構文をみなおすと内容を全部取っ払ってみればあれは”テレビでイケメンが自信満々にモノを断言している”という構図でしかない。

 

これが私たちの前頭葉を通過して、脳の奥底にある私達の”好き”をピンポイントに揺さぶる魔性の弾丸として作用する。

あの動きをみる事で多くの人達は無意識のレベルで彼の事を好きになっている。

実際、彼の事を嫌いな人はそういないのではないだろうか?

 

なので小泉構文がロジカルでないからバカだと揶揄している人達は事の本質をまったくもって見誤っている。

あれは人に好かれる呪文の詠唱である。

 

むしろ下手に小賢しい事を言って悦に耽ってる人こそ、その行いで自分が相手の好感度を下げる行いをしているかもと猛省すべきだろう。

論破なんて特に最悪だ。

それは人に嫌われる為の最速の手段だろう。

 

社内政治を馬鹿にしてはいけない

小泉進次郎議員の神業ともいえる技術は彼の支持率を上げるのみならず、彼の身の回りの安全をも守るのにも多分役立っている。

 

皆に好かれている人は他人から攻撃される余地がない。

その逆である誰かに嫌われている人は…いつ何時、攻撃されたとしても全くおかしくない。

かつて僕は礼節や稟議と根回しといったものが何の為に存在しているのかがサッパリわからなかったが、最近いろいろと手痛い目にあって礼節や稟議と根回しこそが自分の平和を守る為に何よりも大事なものであると心の底から思うようになった。

 

残念ながら全ての人に好かれる事は難しい。

誰にでも合う合わないはある。

 

故に合わない人が所属する組織に出てきた時、あなたを守ってくれるのはあなたの事が好きな周りの人だけである。

あなたが嫌われ者だとしたら…追い出されるのはあなたの方である。

なので社内政治をバカにしてはならない。

礼節や稟議、根回しが最も本領を発揮するのはあなたと敵対する誰かが現れた時こそであり、そういう落とし穴のような場面が起きた時、あなたの支持率が全ての行く末を決める。

 

政治力は人として生きやすい筋道を整備する為の必須科目といっても過言ではない。

これは会社だけに限らず家庭や友人といったつながりにおいても非常に強力に作用する。

 

有事に備えて、平和な時こそ支持率をガンガン頑張って上げておくべきなのである。

所属組織における自分の好感度こそが何にも勝る盤石なる平和の為の基盤なのだから。

 

処世術としての人に好かれる技術は、高めれば日本の宰相にまでなれる

最後にある人間の話をしよう。

彼は生まれついての人情と気遣いの細やかさで人心掌握に人一倍長けており、とにかく人に好かれる事にかけては右に出るものがいないと言われていたほどの人間である。

彼は日本の片田舎に生まれ、小学校卒という低学歴ながら54歳で日本の首相の地位に上り詰めた。

 

彼の名を田中角栄という。

 

人間は誰かに好かれるというただ一点を究極レベルにまで突き詰めてゆけば、首相にまでなれるのである。

人に好かれる事の威力を理解するにあたって、田中角栄さんほどに有用な例もそうはない。

 

自分の周りを好感度で固めよう。

礼節や稟議、根回しはやりすぎかと思うぐらい徹底して丁度いい位である。

 

目の前の人を喜ばせてみよう。

褒めるところは意識してみれば誰にも無限にある。

どんなに相手が喜ぶ事を口に出していったとしても、1円すらかからない。

しかしその褒め言葉は相手からすれば大金を払ったとしても聞きたい何かだったりするのである。

 

ゼロ円のコストで相手から好かれる。

こんなにも良い取り引きができるのなら、やらない方がむしろ損ではないだろうか?小泉構文は使えなくとも、他人を褒める事ぐらいなら誰にだって可能だろう。

 

そうして作り上げた好意の渦は必ず巡り巡って貴方を助けてくれる。

もし目の前にあなたの気に食わない奴があらわれたら…頑張って上げた支持率を使う絶好のチャンスである。

 

あなたが直接手を下す必要はない。

用意周到にジワジワと相手を追いつめ、身の回りから追い出してしまえばよいのである。

我慢なんて体に毒だ。支持率が無かったら我慢しか選択肢は無いし、追い出されるのはあなたかもしれないが。

 

そうやって、自分にとって都合のよい空間を自分の裁量でもってコントロールする。

たぶんこれが政治ってヤツの本質なのである。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by Barefoot Communications on Unsplash

1989年に米国で初版が出版され、日本でも大ベストセラーになったスティーブン・R・コヴィー氏による「7つの習慣」。

おそらく、30代以上のビジネスパーソンに、

「もっとも影響を受けたビジネス書と言えば?」

というアンケートを取れば、TOP3に入るのではないだろうか。

 

私自身、若い頃に7つの習慣のうちの3つ目、

「第3の習慣 重要事項を優先する」

の中に記されている“時間管理のマトリックス”を応用すると称するコンサルタントが会社に来て、「プライオリティマトリックス」なるものを記録する習慣を強要された思い出がある。

 

その考え方は、同著から引用すると以下のような考え方を元にしている。

引用:キングベアー出版「7つの習慣」215Pより

 

早い話が、自分の仕事を「緊急」と「重要」の2軸で理解し、それをマトリックスに落として、仕事の優先順位(プライオリティマトリックス)を意識せよという考え方だ。

このような考え方はその後、様々なビジネス書に派生していったので、多くのビジネスパーソンが一度は目にしたことがあるだろう。

 

しかし当時、駆け出しのビジネスパーソンであった私には、このコンサルタントの意味不明なセミナーと、「プライオリティマトリクスを作成する」という、ルーティンワークが苦痛でしかなかった。

 

それから20年以上の時間が経ち、立場を変えて中堅企業の役員やトップマネジメントも経験したが、このような習慣付けを行っても、ビジネスには何の役にも立たないことを今は確信している。

 

一体、なぜそう思ったのか。

実際には「何が重要なのか」を特定するのが、非常に難しいからだ。

 

マネジメントの現場に求められるもの

かつて、従業員数800名の企業のターンアラウンドにあたったとき。

 

未上場ながら資本金も10億円を超え、簡単には潰せない存在感のある会社だった。

しかし、銀行はとっくに新規の融資から手を引き、キャッシュフローも毎月赤字。

会社の法的整理も時間の問題と多くの関係者から見放されていた。

 

こんな環境では、理想はともかくとして多くの権限をトップマネジメントに集中せざるを得ない。

 

理由は2つあり、1つには一刻も早く出血を止めて、まずは会社の生存を確保するために経営のスピードを上げる必要があること。

もう1つは、徹底的に荒んだ会社の空気の中で、従業員のモラルが崩壊してしまっていることだ。

 

こんな状況で現場に権限を持たせると、必ず不幸なことをやらかす従業員が現れる。

法人用給油カードで自家用車に給油する、在庫の商品を持って帰るなどはまだかわいいもので、中には直接集金せざるを得ない現場の売上を2ヶ月分持って、消えてしまった若手社員もいた。

 

これも全て誠実に仕事をすることを「バカバカしい」と思わせてしまった会社の責任だ。

一日も早く状況を好転させる必要があった。

 

 

ではこのような状態で、一体何から手を付けるべきか。

私には、社会人1年生を過ごした大手証券会社で、先輩社員が教えてくれた忘れられない言葉があった。

それは要旨、以下のようなものだ。

 

「1ヵ月で3000万円の預かり資産を増やせるやつと、1000万円しか増やせないやつの違いはわかるか?」

「人間力とか、勉強量でしょうか。」

「全然違う。時間の使い方の上手さだよ。1ヶ月で3000万円増やせるやつは、1000万円しか増やせないやつの3ヶ月分の仕事を、1ヶ月でやってるってことだ。」

 

その先輩は同期のトップ営業だっただけに、説得力があり、とてもかっこよく見えた。

 

ターンアラウンドの現場でも私は、この言葉をよく思い出していた。

「どうすれば、せめて1.3ヶ月分の売上を、1ヶ月で立てることができるようになるだろうか」という、組織としての時間の使い方だ。

 

その結果、我々がたどり着いた結論は、エリヤフ・ゴールドラットが提唱した制約条件の理論にあるとおり、「ボトルネックから潰す」という考え方だった。

 

組織として1.3ヶ月分の売上を1ヶ月で立てるには、仕事がスタックしている部分を速やかに流さなければならない。

そしてこの時のように、多くの権限がトップに集中している環境では、ボトルネックのほとんどは自分である。

 

 

しかし、800人の会社で、少額決済すらいちいち私が判断するようになると、物理的な仕事量が大変なことになる。

この時ほど、「プライオリティマトリックス」、すなわち消化すべき仕事の順位を真剣に考えたことはなかった。

 

ここで行った「先に手を付けるべき重要な仕事」の判断材料は2つ。

・トップの判断待ちで手が止まっている社員はどれだけいるか

・トップの判断待ちで止まっている仕事のレイヤーはどこに位置するか(その下にどれだけの仕事が階層になって重なっているか)

というものだ。

 

言うまでもなく、手が止まっている従業員の数が多く、なおかつ上位のレイヤーに位置する仕事から優先して判断を下し、あるいは作業を終えて、ボトルネックを解消しなければならない。

そうしなければ、1.3ヶ月の仕事を1ヵ月で終わらせるどころか、1ヶ月の仕事が2ヶ月かかっても終わらないという事態にもなる。

 

正直、これ以外の「自分が手を動かして片付けられる仕事」などは、内容に関係なく、緊急性も重要性も大したものではない。

自分が「今する」と決めれば、一瞬で完結するからだ。

 

つまり、現実的には「重要な仕事からやれ」というアドバイスは、「何が重要なのか」を決めるところまで踏み込まなければ、意味がない。

現場では「重要なものがなにか」を、逐一教えてくれる人はいないのだ。

 

無能な上司は具体的な指示ができない

ここでもう一度、最初にご紹介した7つの習慣の「第3の習慣 重要事項を優先する」にある、マトリックスを見て欲しい。

このマトリックスだけをみて、その本質がどれだけ理解できるだろうか。

引用:キングベアー出版「7つの習慣」215Pより

 

例えば、「緊急」であり「重要」である第一領域の一番始めにある

・締め切りのある仕事

ですら、正直言ってピンとこないのではないだろうか。

そもそも、仕事でありながら締め切りのないタスクなど存在するのかと考えれば、あらゆる仕事が第一領域に入ってくるだろう。

 

もちろん、問題は「7つの習慣」そのものにあるのではない。

疑いもなく、この本は素晴らしいエッセンスに満ち溢れている。

 

そうではなく、真の問題は例えば上記のマトリックス1枚をプリントして部下に配り、

「仕事とは、重要と緊急の2軸で考えなければならない。よく覚えておきなさい。」

などと説明して、教育をしたつもりになっている無能なコンサルタントや上司の存在である。

 

このような輩は、「生兵法は大怪我のもと」を地で行く無能であり、組織にとって百害あって一利もない。

 

7つの習慣の「第3の習慣 重要事項を優先する」とは、リーダーにとって

 

・組織にとって何が重要であり、なにが緊急なのか

・そこからブレイクダウンして、一人ひとりにとって何が重要であり何が緊急なのか

・その結果、上司としてどのような優先順位を部下に期待しているのか

 

という価値観を、組織や部下と統一するための手段の一つに過ぎない。

決して「何が重要で何が緊急であるのか、根本から考えなさい」というツールではない。

 

 

もちろん、ひとりひとりのビジネスパーソンが自分の人生や仕事をグランドデザインし、主体的に仕事を考えるツールとして使う限りは、この限りではない。

そこまで考えて「7つの習慣」を血肉に出来ている人であれば、きっと近い将来、より大きな責任を担っていくことになるだろう。

 

しかし、コンサルタントや上司からある日突然このようなチラシを与えられ、「プライオリティマトリックスを作れ」などと言われたら遠慮なく反論してもらいたい。

 

「重要と緊急の価値観を提供して下さい」と。

 

そこで抽象的なことしか言えない上司、あるいは部下に考え方を丸投げにするようなリーダーは、残念ながら仕事ができない。

さっさとルーティンワークに戻ったほうが、残念ながらよほど生産的だ。

 

 

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【著者プロフィール】

株式会社識学

人間の意識構造に着目した独自の組織マネジメント理論「識学」を活用した組織コンサルティング会社。同社が運営するメディアでは、マネジメント、リーダーシップをはじめ、組織運営に関する様々なコラムをお届けしています。

webサイト:識学総研

Photo by Miikka Luotio on Unsplash

もう結構前のことだが、とあるゲーム会社の社長が

「センスは伸びやすいが、行動力は伸びにくい」

と言ってる記事を読んで、目からウロコだった記憶がある。

 

実際、この会社は、採用の時には学歴そのほかを無視し、行動力だけを見たという。

第7回:木谷高明(ブシロード)

そうですね。先ほど適性検査の話が出ましたが、横軸をやる気とか行動力、縦軸をセンスとします。

 

センスはあるけど、やる気や行動力があんまりない人は評論家なんですね。そういう人は分かってるくせに見事に動かない。

やる気はあるんだけど、若干考えが足らない人は営業マンタイプになります。

自分で考えて、自分で行動できるようになると、経営者タイプです、いわゆるリーダータイプですね。

 

ただ、僕がずっと誤解してたのは、行動力とか営業力のほうが伸びると思っていましたが、実はセンスのほうが伸びるんですよ。だから、行動力が高い人を採用するようにしたんです。

(中略)

センスというのは、いろんな過去の経験からいろんなパターンを蓄積していって、年齢を重ねれば重ねるほどにそのパターンの中から適当にピックアップするが上手くなることなんです。

だから、若い人にセンスの高い人があまりいないのは、経験がないからですね。

 

ピックアップしてくるのが上手くなると、例えばオリジナルの作品作るにしても、まったくゼロから作ってるわけじゃなくて、どっかから持ってきてる。そうやって、ゼロからイチを生んだように見せてるんですよ。

だから、センスはあとでもどんどん伸びるのです。

コンサルティングのような、あまりセンスを必要としない仕事では「行動力」は当たり前のように重要だったが、センスが重要、と言われがちなゲーム開発ですら、「行動力」が重視されるのか、と私は大変に驚いた。

 

センスは伸びやすく、行動力は伸びにくいのはなぜか

いったいなぜそう言えるのか。

これを理解するためには、行動力の本質に迫る必要がある。

 

実は、行動力とは、一般的に行動力に関して言われるような「フットワークの軽さ」とか「何でもやってみる」とか、そういう話ではない

それはせいぜい、「前向き」という程度の話だ。

 

行動力というのは、もっと本質的なスペックだ。

一言でいえば、「自分で「やる」と決めたことを、果たす力」のことを指すからだ。

 

例えば、ハロルド・ジェニーンの「プロフェッショナル・マネジャー」には、分かりやすい例として、3人の学生が登場する。

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普通の大学生キャルの場合

講義に皆出席し、宿題をサボることもなく、やるべきことは何でもちゃんとやった。ところがある年、期末試験の前に流感にかかり、平均点がCプラスに落ちてしまった。(中略)

だが、それはぼくのせいじゃない、と彼は言う。(中略)

そのほかにも、彼のまじめな意図の裏をかくようなことがあれこれと起こる。

結局、彼は平均Bマイナスの成績で卒業し、Bマイナス級のビジネス・スクールに入れたら幸運としなくてはならなくなるだろう。

キャルに「行動力」はあるだろうか。

残念ながら、あるとは言えない。

 

彼は特に高い目標を掲げているわけではない。

したがって、彼の人生は常に「目の前のことへの対処」に費やされる

そして障害があれば、「自分のせいじゃない、どうしようもない、仕方がない」とあきらめる。

 

では、二人目の学生の例だ。

エグゼクティブ志望者アルの場合

彼は、一二のトップクラスのビジネス・スクールの中のどれかに入りたいと思い、それには平均Aか、きわめてそれに近い成績をとらなくてはならない。

なにかの学科で初めてBをとってしまうと、彼は夜の勉強時間をそれまでの一~二時間から三~四時間に延長する。

 

しかし、第二、第三学年でも、ほかの科目は全部Aだが、ひとつの科目だけはBから這い上がることができない。

そして口惜しくは思うが、それについてそれ以上何をやったらいいのかわからない。

 

それで、毎年三つか四つのAにBが一つなら、まあまあじゃないかと自分を慰める。

最終学年の成績はAが二つ、Bが一つ、そして思いもかけなかったCが一つあった。彼は一二のビジネス・スクールへ入学願書を出し、ただ幸運を祈った。

アルは、キャルよりは「行動力」という点において、マシなように見える。

目標を自分で定め、それに向かって努力もしている。

 

しかし、本質的にはキャルとアルに違いはない。

アルは最後には「何をやったらいいかわからない」と、思考を止め、あとは運任せにした。

結局、彼の人生は「がんばる」けど、報われるかどうかは、運しだい、というところだろう。

 

では、三人目の学生だ。

スタンフォード大学志望者ハルの場合

ハルは何がなんでもオールAをとらなくてはならないと思い定めていた。いつでも自信をもって試験にのぞめるように、毎夜三~五時間勉強した。

 

しかし、オールAの成績を保って迎えた最終学年に、彼はひとつの科目──高等会計学──で初めてつまずいた。第一学期にはBをとるのがようやくだった。そこでいっそう勉強にはげんだ。

しかし、学年の中ごろになっても、その科目では依然としてBマイナスのあたりでもがいていた。

 

──どうしたらいいのだろう?

彼はその学科に関して、読むように決められた以外の本も読んでみた。それでもやはりその学科をマスターできなかった。助けてもらえないかと教授に頼むと、同情はするが時間がないと断られた。

──どうすればいいのか?友人のキャルとアルは、彼の悩みに取り合おうとしなかった。──四年間にBが一つだなんて、悩むほうがどうかしているよ。

 

しかし、ハルの決心は動かなかった。どうしても高等会計学にAをとるんだ!

彼はプライドを捻じ伏せて、家庭教師をしてくれる大学院生を見つける。そして深夜まで勉強する。物事をとことんまで考えつめる習慣をつけ、はげみにはげむ。

そしてもちろんAの成績をとり、望みのビジネス・スクールに入る。

ハルはどこで働いたとしても、いずれは成功するだろう。

 

ハルにとって「センス」と呼ばれるような何かは、意味をなさない。

彼は「成功するまでやる」という言葉の意味を、真に理解しているからだ。

 

「行動力」はセンスをカバーできる。

が、「センス」は行動力をカバーできない

換言すれば、真の意味で「センスがない」のは、実は行動力のない人のことだ。

 

そう考えていくと、センスは伸びやすく、行動力は伸びにくい理由がわかる。

「センス」は、目の前のタスクを「こなして」いれば、卓越はしないかもしれないが、それなりのものが得られる。

所詮はパターン認識の話だ。

 

しかし「行動力」は、受け身では身につかない。

マインドセットそのものの話なので、その人の性格や、それまでの行動様式によって大きく左右される。

目の前の仕事を処理しているだけでは、決して得られない。

 

冒頭に引用した木谷社長が、

「行動力とか営業力のほうが伸びると思っていましたが、実はセンスのほうが伸びるんですよ。だから、行動力が高い人を採用するようにしたんです。」

というのは、当然のことだ。

 

3人のその後の人生

普通の大学生キャルは、おそらく波風立たぬ、平凡な人生を送るだろう。

新しいことを始めるには腰が重すぎる、いわゆる「面倒くさがり屋」ではあるが、「目の前のことを真面目にやる」ということだけでも、十分に食べていくことはできる。

彼にとっては、「変わらぬ日常」こそが、最も高い価値を持つ。

 

 

エグゼクティブ志望者のアルは、運が良ければ、どこかの良い職、人がうらやむ地位にありつけるかもしれない。

だが、長期的には「成功」と呼ばれるものは手にしないだろう。

 

むしろ、悪ければ「評論家」になってしまうかもしれない。

彼はなまじ頭が良いがゆえに、「できない理由」を並べることにかけては、天才的な手腕を発揮するだろうからだ。

 

 

ハルは自分の人生を自由に決定できる権能を持つに至るだろう。

人は彼のことを「成功者」と呼ぶかもしれない。

 

が、彼は、仮にそう呼ばれなかったとしても、意にも介さないだろう。

なぜなら、彼は「自分で決めたことをやりぬく」ことに価値があると考えているからだ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

 

Photo by Jeremy Lapak

オカルトの時代

「オカルト」と呼ばれるものがある。

超能力、超常現象、偽史、陰謀論、宇宙人……挙げていけばきりがない。

いま四十代のおれが思い出すに、小学校にだれかが心霊写真の本を持ってきては、皆でもりあがったものだ。

まだデジカメもインターネットもなかった時代、テレビでもそんな番組はたくさんあった。

 

転機になったのはオウム真理教が引き起こしたテロであろう。

それ以後、テレビから心霊番組や超常現象ものが減ったように思える。

今ではほとんどなくなったような気がする。

「思える」、「気がする」というのは、べつに昔と今のテレビ欄をきちんと調査・比較したわけじゃないからだ。

だが、まあ同世代の人なら納得できるんじゃないかな、と思う。

 

とはいえ、この社会からオカルトが消えたのか?

ぜんぜん消えていない。いや、雑誌『ムー』や東スポがある、と言いたいわけじゃない。

インターネットという媒体によって、昔のテレビ局よりもダイレクトにオカルト情報が発信されているということだ。

 

たとえば、この間のアメリカ大統領選挙。

熱烈なトランプ支持派は、確実にオカルトと呼ばれる領域に足を突っ込んでいた。

足を突っ込んでいるどころか、頭までズッポリはまり込んでいた。そういう人たちもいた。

 

おれは物好きなので、ちょっとそういう人たちのブログを読んだり、動画配信などを見てみた。

もちろん、「変なやつを見てやろう」という心持ちでだ。

 

が、自分でも少し驚いたが、ちょっと面白いのだ。

もちろん、彼らの言ってることは荒唐無稽だ。

自分の理性も「アウト、アウト、アウト」と判断する。

 

でも、世界規模の偽史や陰謀論を本気で語るそれは、たしかに面白かった。

小学生のころ、心霊写真本にドキドキした思いが、ちょっとだけよみがえったかのようだった。

 

オカルトの魅力

これは、やばいなと思った。

おれはたまたま「面白い」と思うだけで済んだ。

だが、もっと純心な人、人の言うことを信じやすい人、たまたまその怪電波と波長が合ってしまった人は、がっつり向こう側に行ってしまうのではないかとすら思った。

 

これを危惧する意見がある。

面白半分にオウムを扱った挙げ句、あのようなテロを引き起こしてしまったことを思い出せ、と。

すなわち、いかに荒唐無稽で、大多数の人が鼻で笑うような話も、きちんと一つ一つ潰していくべきだと。

 

それには一理ある。二理も三理もある。

そう思う。

そう思う一方で、それがうまくいくのかどうかという気持ちもどこかにある。

 

一つには、インターネットというあまりに広大な擬似空間に、あまりに大勢の人間がいて、それぞれに膨大な量の情報を発信しているということだ。

もちろん、核となるオカルト信奉者、教祖的な人間もいるだろう。

しかし、その気になれば、このおれだって怪電波を発してみることはできてしまうのだ。

ひょっとして、それを信じてしまう人が一定数でてくるかもしれない。

 

ファクトの限界

もちろん、ファクトを突きつけて、「これこれこういう理由でその情報は誤りであり、信じることは危険だ」と警鐘を鳴らすことは大切だ。

あるいは、たんにみんなで馬鹿にするだけでもいいだろう。

「なんだ、こんなに馬鹿にされることなのか」と気づく人もいるはずだから。

 

しかし、それで虱潰しにはできない。

みんなで馬鹿にすることによって逆方向に思考が凝り固まってしまう人もいるかもしれない。

ファクトチェックや洗脳を解くことは大切だが、日々、情報が爆発している現代では、もぐらたたきにも限りがある。

 

では、教育の段階でひたすらにオカルト否定を叩き込めばいいのか。

それも一つの手だろうし、メディアリテラシー教育というものも実際におこなわれているはずだ。

それで、一人ひとりをガチガチの反オカルト人間に仕上げる。

 

とはいえ、それはそれでやばそうだ、というのがおれの言いたいことだ。

ガチガチな反オカルトであるからこそ、一歩間違えたら反転してしまう危険性もあるんじゃないのか、ということだ。

 

またオウムの例を出すが、あの教団には多くのエリート層がいた。

理系エリートも少なくなかった。

「なぜそんなに頭のいい人が、あんなインチキに騙されたのだろう」というくらいのものだ。

そこに、現代資本主義社会に馴染めない人の居場所がほかになかった、という社会的、伝統宗教界からの反省があってもいいだろう。

 

人間の限界

その一方で、もっと即物的な呪術があったとも考えられる。

どんなにIQが高く、幅広い社会の知識持ち、科学的な思考ができる、道徳心を備えた人間であっても、それが人間である以上、幻覚剤を盛られたら幻覚を見てしまう。

神秘体験をしてしまう。

それはもう生理的なものだ。

睡眠薬を飲まされたら眠くなってしまう、そんなのと同じ話だ。

 

これがまずい。

自分から進んで幻覚剤体験をしていた人ならば、「ああこれは幻覚剤だな」とわかるかもしれないが、まあほとんどの日本人は幻覚剤なんて手を出さない。

 

真面目なエリートほど手を出さない。

知識にはあるかもしれないが、現に圧倒的な体験をしてしまったらどうなるだろう。

それこそ、ガチガチに固めていた自分のあり方が、ガラスを割るように砕け散るかもしれない。

そんな人間をオカルト側に誘い込むのは、たぶん簡単なことだ。

 

あるいは、おれのように頭のそんなに良くない人間などは、初級の手品を見せられて、超能力を信じてしまうかもしれない。

おれの頭の良さランキングは知らないが、わりと人間は、人間の脳は騙されやすいものだと思う。

 

というか、人間が人間を騙す、その技法も長い長い年月をかけて、やはり進歩しつづけてきたものに違いないからだ。

なかには古典的な技もあるだろうし、最新の知見を利用したものもあるだろう。

 

オカルトへの誘いは、誘う側が全くそれに染まってしまった、彼らにとって使命感を持ったものもあれば、金銭などを目的とした詐欺的なものもあるだろう。

いずれにせよ、厄介なものには違いない。

 

どうオカルトに対抗するべきか

じゃあどうすりゃいいんだ。

それはもう、物事に対してしなやかに構えることしかないだろう。おれはそう思う。

以前書いたことがあるが、ネガティヴ・ケイパビリティと呼んでもいいだろうか。

 

圧倒的な幻覚を見た。

それでも、「ああ、こういうこともあるんですね。だからといってあなたのことを信じるかどうかは保留します」。

そんな姿勢。

 

会社からの帰り道、UFOでリトルグレイにさらわれて、今まさに解剖されようとしていても、「まあ、宇宙は広いらしいから、宇宙人がいてもおかしくないかな、わかんないけど」と思える余裕。

……いや、さすがにそれは逃げ出せ。

 

いやいや、そういう状態でも「あ、これはおれの脳がおかしいのだ。

来週の火曜日、精神科の予約をしよう」と……でも、UFOにさらわれたら、さすがに逃げたほうがいいかな。

しかし、きみはUFOから逃げ出せるのか?

 

まあともかく、なんというのだろうか、自分や自分の脳なんてものは簡単に騙される欠陥品なのだから、体験なんてものにいちいち動じないようにしよう、ということだ。

自分の認識力の限度、動物として幻覚剤などに影響されてしまう性質、そんなところをわからせるべきだ。

 

世の中には、ファシズムの危険性を教育するために、実際にファシズムの「魅力的な」体験をさせる授業などもあるらしいし、小学校でも東スポを使った教育をしてもいいだろう。

いや、ちょっと刺激的な記事があるのでよくないか。

まあいい、ある程度の免疫をつけておくことも必要なんじゃないのか、ってな話だ。

 

むろん、そこに危険があるのはわかる。

わかるが、自分が自分をそんなに信用しないこと、これは必要な考え方じゃないだろうか。

ゼロ・トレランスでは対応しきれないところがある。

それが人間とオカルトの関係ではないか。

 

あらためて言えば、オカルトには魅力がある。

人をひきつけてやまないところがある。

 

超能力がないより、あったほうがおもしろい。

超常現象が起こったほうが面白い。

この世を陰から支配する秘密組織があったほうがおもしろい。

 

それは、もう、仕方ないことだ。

いったいどれだけのフィクション作品が、そういった題材を扱っているのか、考えるまでもないことだろう。

 

そのおもしろさに対抗するのは、本当に簡単な話じゃない。

そして、それを本当に信じている人間の真剣さ、あるいはそれを利用して人を騙そうとする人間の狡猾さ。

厄介にもほどがあるというものだ。

 

ゴムの矢

だから、カチカチに固く凝り固まった知性ではやばい。

毛利三本の矢、一本の矢なら折れる。

だが、すごい力持ちなら三本の矢でもへし折ることができる。

 

しかし、矢がゴムかなにかでできていたらどうだろうか。

ぐいっと力を入れられても、ぐにゃっとなって折れることはない。

そんな矢が矢として役に立つかどうかしらないが、そういうしなやかさが必要なんじゃないのか。

 

さて、それがゼロ・トレランス的なアンチ・オカルティズムの考え方、あるいは教育に対して有効かどうかわからない。

もしかしたら、そういう発想を子供たちに持たせるほうが難しい話かもしれない。

 

でも、みんなそんなに現実に直面して、『ムー』や東スポの一面に嫌悪感を抱くほどの知性や強力な倫理観に満ち溢れた人間になれるだろうか。

おれはそう疑問に思う。

 

人間、どこかしら、オカルトの摩訶不思議さにうさんくささに惹かれてしまう、ちょっと愚かな存在じゃないのか。

そのくらいの存在にすぎないじゃないのか。

だったら、それを認めてしまおう。

 

自分自身も信じるなよ

むろん、オカルト、カルトが巻き起こしてきたテロリズムは数多くある。

社会的問題もたくさんある。

 

しかし、だからこそ、人間はときにそういうものに入り込んでしまう愚かさもある。

その愚かさ、脆さを学び、受け入れること。

それによってしなやかな知性を身につけること、それが重要なんじゃないかな。

 

理想論かもしれない。

けど、人間がみんなオカルトに騙されない知性と見識を持つというのも理想論だよな。違うだろうか。

おれはそこまで人間の「正しさ」を信じきれない。

だから、人間は人間を信じるなよ、自分自身の知識も体験も信じるなよ、と考える。

 

しなやかな知性を、しなやかな考え方で世界に対峙しよう。

強いなんかにぶち当たっても、ぐにゃっと曲がって、ケロッともとの形に戻ってしまおう。

 

それによって、オカルトばかりじゃない、人を騙そうとしている詐欺やなにかから身を守ることができるかもしれない。

札束を目の前にしても、「いやいや、べつに」と思う。そんな心構えができたらいい。

そんなに世の中、いい話は転がっていないし、あなたの前に特別に現れるものではない。

そんな具合でいいんじゃないのか。

 

とはいえ、世の中、ひょっとしたらうまい話が転がっているかもしれない。

「あのとき、トカゲ型宇宙人から『世界の半分を支配させてやろう』と言われたが、おまえの考え方を信じて、そのチャンスを失ってしまった!」と抗議されるかもしれない。

でもまあ、トカゲ型宇宙人の言うことと、おれの言うこと、どっちを信じたほうが正しいか……勝手に決めてくれよな。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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どうもしんざきです。

モンハンを遊ぶのをぐっと我慢して、必死に19XXをノーコンティニュー・ノーリワインドクリアしようとしています。

ブラックノイズで死にまくって辛い。

 

今から、「コロナ禍で特に新入社員さんの「やる気アピール」が難しくなってしまったので、簡単なタスクでどう成果を見せていくかを、早い内からちゃんと考えた方がいいです」という話をします。よろしくお願いします。

 

4月に入りまして、恐らく今年から社会人になった方々もぼちぼち働き始めていらっしゃるかと思います。

皆さんご無事ですか?

身体を壊さないようお互い気を付けましょう。

 

新型コロナウィルス下でのお仕事体制も定着してきまして、自宅で仕事をするのもすっかり普通のことになりました。

もちろん会社にもよるでしょうが、「出社よりもリモートワークの機会の方が多い」という会社、今ではそんなに珍しくないんじゃないでしょうか。

 

で、そんな中、自分でも評価を行う立場の人間として思うのは、「新人さんが評価されるのが滅茶苦茶難しい時代になったよなあ」ということです。

それは何故かというと、「上司が部下を見るチャンネルが限定されてしまって、従前なら動作していた評価のチャンネルが使いにくくなったから」です。

 

当たり前の話ですが、「どんな視点で、何が評価されるのか」というのは仕事それぞれ、会社それぞれであって、一言で言えるようなものではありません。

とはいえ、「新人さん程「ポテンシャル」を評価する必要がある」という点については、一般論として言ってしまっても問題ないでしょう。

 

ある程度実力がある中堅以上の社員については、リモートだろうがなんだろうが関係なく、成果物と達成度だけ見て評価しても特に問題はありません。

けれど新人さんはまだスキルが追いついていなくって、見えやすい形での成果や実績を作りにくいので、なるべくタスク遂行や成果物以外の部分でも見てあげた方がいいですよね、という話です。

 

要は、会社に対する「この子出来そうだから給料上げてください!」という為の材料探し。

これ、上司の大事な仕事の一つです。

これをやらないと、いつまで経っても新人さんの給料をアップさせてあげられません。

 

そういう意味では、ちょっといやらしい話ですけれど、「タスク外」の部分でアピールすることは、特に新人さんにこそ重要だったりしたんですよね。

「おお、こいつなかなか見どころがあるな」と会社に思わせる、その材料を作らないといけない。

ところがリモート環境では、そういう「タスク外」の部分を上司に拾い上げてもらうことが非常に難しい。

今まで、普段の仕事風景を観察して、随所随所で評価出来ていた部分が機能不全になってしまったわけです。

 

リモートワーク環境は、「能動的に動けば動く程得をする一方、受動的に待っているだけだと非常に損をしやすい」仕事環境です。

これはこの1年、非常に強く実感するようになりました。

 

だから、自分からどんどんアピール出来る人はどんどんチャンスを得る一方、アピールが苦手な人は今まで以上に評価されにくくなってしまいました。つらい。

もちろん私も一人の上司として、可能な限り公平に、かつ多角的に部下を評価しようと務めてはいますが、それでも多少は見逃してしまっているチャンネルがあるだろうなー、とは自覚せざるを得ないところなんです。

 

***

 

ちょっと話が変わるんですが、しんざきはケーナ吹きでして、大学の頃に南米民族音楽の世界に足を踏み入れました。

 

この時私は完全に楽器演奏未経験者でして、小学校の頃ちょっとリコーダーと鍵盤ハーモニカを習った以外はほぼ楽器と無縁でしたし、たまにゲームBGMを聴く以外は音楽自体とも縁がない生活をしていました。

その為、初めて入った演奏の世界では本当に右も左も分からず、ライブやコンサートの運営ノウハウどころか、譜面も読めなければマイクセッティングのやり方も知らないド素人でした。

 

ちなみに譜面は20年以上ケーナ演奏をやっている今でもスムーズには読めず、大体は頭の中の記憶を頼りに演奏をしています。

これは私の学習能力がミジンコレベルだという問題もあるのですが、

 

「シーラーソ#ーファ#ーラーソ#ーファ#ーミー シーラーソ#ーファ#ーラーソ#ーファ#ーミーファ#ーーーー」

 

とか書いて「譜面」と言い張っている私の絶望的なズボラさにも大きな原因があります。

ちなみにこれはイースっていうゲームのとある曲の出だしなんですが、本論とはなんら関係がないので置いておきます。

中高の頃の音楽の授業本当真面目に受けておくべきだった。役に立たない勉強って無いです、ホント。

 

で。

そんな未知の世界でしたから、演奏の世界で学べたことも数多くあるんですが、その中の一つに「簡単な曲ほど、いざ演奏するとなると難しい」という話があります。

「簡単な曲」というのは、この場合「演奏難度が低い曲」だと思ってください。

 

半音がやたら多くて、音符が死ぬほど細かい曲とか。

テンポが速くってリズムを合わせにくい曲だとか。

「演奏難易度が高い」「吹くのが難しい」曲というのはたくさんあります。

その一方、音符の動きがあんまりなくって構成がシンプルだったり、ゆったりしたリズムで吹くだけなら簡単に吹ける曲、というのももちろんあります。

 

ただ、ライブやコンサートを頻繁にするようになってよく分かったんですが、「簡単な曲」って実は「聴かせる」ことは途方もなく難しいんですよね。

 

貴重な時間を割いてライブやコンサートをわざわざ見に来て下さるお客様ですから、演奏者は当然それ相応の「価値」を提供しなくてはいけません。

見に来た甲斐があった!と思って頂けるよう、全力を出さなくてはいけません。

 

で、「難しい曲」「演奏難度が高い曲」であれば、「そんな難しい曲を演奏出来る」という時点で、一つの価値、アピールポイントになるんですよね。

技術を見せやすい、つまりはバリューを提供しやすい。

やっぱり、滅茶苦茶速い曲とか、凄く難しそうな曲をきちっと演奏しているのを見ると、「凄い!!!」ってなるじゃないですか。

お客様に「凄い!!!」って思ってもらえれば、それは一つ「演奏成功」なわけです。

 

一方、「演奏難度が低い曲」は、そういう側面ではバリューを出すことが出来ない。

ただ吹くだけなら誰にでも出来るかも知れない、じゃあお客様に価値を提供するにはどうすればいいの?

ってことを考えないといけないわけです。

 

この時演奏者は、「この曲でお客さんに何を提供したいのか?何を提供できるのか?」ということを考えることになります。

 

それは、「シンプルな構成の中でも繊細な色合いを見せることの出来る、一つ一つの楽器の綺麗な音」なのかも知れません。

「丁寧な演奏を突き詰めた、ばちっと合った完璧な演奏」なのかも知れません。

あるいは、「みんながよく知っているシンプルなメロディが、不意に見せる特徴的なアレンジ」なのかも知れません。

 

もちろん、ライブ全体の曲の流れを見て、バランスを考えることだってあります。

難易度高い曲ばっかりだと演奏者だけじゃなくお客さんも疲れてしまうから、その箸休め的に挟まれた演奏難度の低い曲であれば、むしろお客様にちょっと耳を休めてもらうことを意識するべきかも知れません。

まずは名刺代わりに、簡単だけど皆にとって耳慣れた曲を取り敢えず演奏する、という場面だって考えられます。

 

まあ、「簡単だからこそ、そこで価値を提供するのは難しいし、様々なことを考え尽くさないといけない」という話ですよね。

 

***

 

仕事でも、上記の話と同じようなことが言えます。

つまり、「簡単なタスクでバリューを出すこと」は「難しいタスクでバリューを出すこと」よりも困難です。

誰でも出来るタスクで自分の価値を出すには、かなり頭を使う必要があります。

 

そして、新入社員の皆さんが振られるタスクは、大体の場合それ程難しくないタスクだろうと予想されます。

むしろ新入社員にいきなり困難なタスクを割り振るような職場は、若干上司の人間性を疑う必要がありますのでこれは当然です。

 

コンサートでの演奏曲と同様、簡単なタスクでバリューを出すのも不可能なことではありません。

ただ、その為には若干の作戦を立てなくてはいけません。

 

一般的に言って、タスクを振られた時は、必ず下記の情報について確認しておくべきです。

タスクを振られる時点でこれが明示されているなら良し、明示されていないなら説明を求めるべきところです。

上司としても、この辺をちゃんと頭に入れながらタスク実施してくれる人だと非常に頼もしいです。

 

・そのタスクが、全体の流れの中ではどんな意味を持つのか

・そのタスクが「誰から」求められているタスクなのか、成果物の提出先はどこなのか

・そのタスクにはどの程度の品質が、あるいは速度が求められるのか

 

例えば、そのタスクは単発のタスクなのか、あるいは幾つかの連続したタスクの中の一つなのか。

このタスクが行われた後、後続のタスクは発生するのか。

このタスクの成果物を受けて、誰か他の人が後続の作業をするのか、それとも自分がやることになるのか。

この辺の情報からは、「タスクを急いで実施する必要があるのか」「急いで実施すると誰かが助かるのか、あるいは期限通りに粛々とやった方が望ましいのか」といった情報が得られます。

 

そのタスクは社内で必要とされるものか、あるいは社外なのか。客先に出るのか。

これは、タスク遂行時に求められる品質にも影響します。

客先に出すなら当然ある程度体裁も整えなくてはいけない一方、社内ならその辺はある程度甘いかも知れません。

成果物の体裁をきちんと整えるタスクが待っているかも知れませんし、それは誰か他の人がやる予定なのかも知れません。

それを自分が引き受けることも出来るのかも知れません。

 

一方、仕事には「クイック&ダーティ」が求められる場合もあって、「品質はどうでもいいから取り敢えず一刻も早くたたき台が欲しい」なんて時もあります。

こういう時、本当に「品質無視で速さ優先」というタスク遂行が出来る人は、多くの場合で重宝されます。

 

そして、これらの情報が分かっていれば、タスク実施に「プラスアルファ」を付け足すには何をすればいいのかが分かります。たとえ簡単なタスクであっても、その裏にはもう一つ出来ることがあるかも知れない。

それによってアピールできる部分があるかも知れない。

自分が何を求められているのかを、一段深堀りすることが出来るわけです。

 

この辺を考えてみると、「簡単なタスクでバリューを出す為には、綿密に「そのタスクの背景」を知っておく必要がある」「そして、リモートワーク環境では、それが以前以上に重要になっている」という結論を見出せる、と。そういう話でした。

 

人間遊んで暮らせればそれに越したことはないわけですが、とはいえコロナ下でも稼がないとやっていけないことは間違いなく、どうせ稼ぐなら頭を使ってなるべくいい感じに仕事をしていった方が望ましいです。

その辺の一助になればいいなーと考えて上のような話を書いた次第です。

 

皆さんの仕事人生がいい感じに進むことを祈念するばかりです。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:erokism

Photo :Kentaro Ohno

SDGsは2030年に全世界が共通で目指すゴールであり、今後10年間に市場から求められるトレンドであるとも言える。

SDGsの169のターゲットには、現在の延長線上では達成が困難と思われるようなムーンショットも多く含まれているが、それに取り組むことこそが新しいイノベーションを生み出すヒントとなる。

 

約12兆ドルの市場が生み出される

2017年のダボス会議で共有された報告書「Better Business, Better World(より約12兆ドルの市場が生み出される良きビジネス より良き世界)」では、持続可能なビジネスモデルに取り組むことでもたらされる経済機会が、2030年までに12兆ドル(約1,340兆円)となり、およそ3億8000万人の雇用を生み出す可能性があることが示された。

具体的には、食料と農業、都市、エネルギーと原材料、健康と福祉の4つの経済システムにおいて、国際的な目標とビジネスチャンスが連動する60の領域(ホットスポット)が提示された。

 

たとえば、SDGsのターゲット11.1では「2030年までに、全ての人々の、適切、安全かつ安価な住宅及び基本的サービスへのアクセスを確保し、スラムを改善する」ことが掲げられている。

 

現在、世界全体で約10億人、およそ8人に1人が家のない状態もしくは、安全でない住環境におかれている。生活の基礎となる適切な住まいがなければ、自然災害や犯罪から身を守ることもできない。

スラムの密集した生活でCOVID-19の感染拡大が懸念されたように、感染症の脅威に晒されないためにも安全で衛生的な住環境は必要不可欠だ。こうした10億人に対して、アフォーダブルな価格の住宅が提供することができれば、大きな経済効果が生まれるだろう。

 

3Dプリンター×デジタル住所で街が生まれる

こうした安全な住まいの提供にイノベーションで応えようとする動きが既に起きている。それが、3Dプリンターによる住宅建設技術の開発だ。

3Dプリンターは、複雑な設計や緻密性が必要とされる医療分野や航空・宇宙分野において活用されているが、建築分野でも新興国における住宅不足や大規模な災害時の仮設住宅建設というニーズに応えるために実用化が進んでいる。

 

たとえば、米国テキサス州にあるICON社とサンフランシスコに拠点を置くNPO団体New Storyは、2018年に移動式の3Dプリンターを使用し、わずか24時間でプリント住宅を建設することに成功している。

建築資材を国内で調達することが可能であり、輸送コストも削減できるため、建設にかかる費用はわずか4,000ドル程度だという。同団体は、これまでにもハイチやエルサルバドルでも住宅の提供を行っており、今後、住宅不足が深刻な開発途上国での事業展開にも期待ができる。

 

さらにドバイでは、2025年までに国内の建築物の25%を3Dプリント技術で建築する計画が発表されている(参考:DUBAI FUTURE FUNDATION)。このような3Dプリンターによる建築技術の進化は業界構造に破壊的な変化をもたらすだろう。

 

もう一つ、注目すべきはGoogleが開発したデジタル住所「Plus Codes」だ。Plus Codesは、緯度経度から世界を碁盤のようなメッシュ状に区切ることで、世界中のあらゆる地点にアルファベットと数字からなる座標を指定する仕組みだ。

この技術を適用することで、住所のない人々にデジタル住所を付与することが可能になる。

 

開発途上国の都市部周辺のスラムに暮らす人々は住所がないことにより、出生登録や教育、銀行口座の開設、医療支援を受ける際など様々な場面で不自由を強いられている。

しかし、Plus Codesによって彼らの住宅にもデジタル住所を割り当てることで、行政サービスを受けられるようにすることができるのだ。インドでは、既に公共サービスに使用されており、ブラジルのサンパウロ市ではPlus Codesによる住所登録が進んでいるという。

 

この2つのイノベーションによって実現するのはどのような未来だろう。スラムが数か月あるいは数週間という短期間の間に新しい街へと生まれ変わる可能性を感じないだろうか。

SDGsのターゲットを起点に考えてみれば、安全な住まいのない10億人に対する住宅提供という巨大な市場が見えてくる。今回は、ターゲット11.1を例に、住宅業界にフォーカスして紹介したが、SDGsには他にも多くのムーンショットが掲げられている。

 

企業が中長期的の経営計画を立案する際、現行の事業目標を起点にするのではなく、SDGsのような世界的・社会的ニーズから事業目標を考えていけば、これまで見えていなかった新しい市場のヒントが得られるはずだ。

企業の持続的な成長を目指すために、SDGsは新市場を拓く羅針盤となるだろう。

 

SDGsが示す数多くのムーンショットは、新しいイノベーションの源泉となる。一方で、企業がサステナビリティに取り組む中では、既存事業においてもサプライチェーンを変化させ、循環型経済への移行が促進される。

SDGsは現在の、大量生産・大量消費・大量廃棄というビジネスモデルの転換を迫るシグナルと言える。

 

SDGsが迫るビジネスモデルの転換

SDGsのゴール12には持続可能な消費と生産のパターンを確保することが掲げられている。

具体的なターゲットとしては以下のように製品の製造過程において自然環境へのマイナスのインパクトを最小限にすることが求められている。

 

12.4 2020年までに、合意された国際的な枠組みに従い、製品ライフサイクルを通じ、環境上適正な化学物質や全ての廃棄物の管理を実現し、人の健康や環境への悪影響を最小化するため、化学物質や廃棄物の大気、水、土壌への放出を大幅に削減する。

12.5 2030年までに、廃棄物の発生防止、削減、再生利用及び再利用により、廃棄物の発生を大幅に削減する。

 

こうした観点からサプライチェーンを捉え直してみると、図1に示すように、従来は自社が間接的に関与しているということを認識していなかった原材料の採掘・生産という調達の前段階や、商品を販売した後の廃棄という工程までサプライチェーンの一部として責任を持ち、適切に管理しなければならなくなってきていると言える。

つまり企業がサステナビリティに取り組む上では、その事業活動に関わる複雑なサプライチェーン全体を把握し、自社ビジネスが社会に与える影響を考えなければならない。

 

図1 サステナビリティ基軸で管理するサプライチェーン  筆者作成

 

このような持続可能性を実現するための取り組みを経済全体の枠組みに落とし込んだものが、図2に示すサーキュラー・エコノミー(循環型経済)である。

サーキュラー・エコノミーは、これまでの大量生産・大量消費・大量廃棄という一方通行型のリニア・エコノミー(直線型経済)に対し、単に資源循環の効率化を進めるだけでなく、資源の再利用を前提とした製品デザインを行うなど、既存製品を循環させることで廃棄物の発生そのものをなくし、提供価値の最大化を目指す持続可能な産業モデルである。

 

図2 リニア・エコノミーとサーキュラー・エコノミーの比較
出典:オランダ政府ウェブサイトを参考に筆者作成

 

日本で浸透してきた循環型社会をイメージする方も多いかもしれないが、単に環境への負荷を減らすだけでなく、経済的な価値を同時に実現しようというのがサーキュラー・エコノミーの特徴である。

 

実際にEUでは、「国際競争力の向上」「持続可能な経済成長」「新規雇用創出」といった期待から、サーキュラー・エコノミーの実現を経済成長戦略の一つとして位置づけ、2015年に共通の枠組みとして「サーキュラー・エコノミー・パッケージ」を採択した。

この戦略の中では、企業にも対応を要求する数値的な目標として、野心的な内容が設定されている。

 

・2030年までに加盟国各自治体の廃棄物の65%をリサイクルする

・2030年までに包装廃棄物の75%をリサイクルする

・2030年までにすべての種類の埋め立て廃棄量を最大10%削減する

 

アディダスが実現する完全循環型プロダクト

こうした循環型のプロダクト開発に先進的に取り組んできたのがアディダスだ。

アディダスは海洋プラスチックの問題が顕在化してきた2015年には、PARLEY FOR THE OCEANSと協業し、海洋プラスチック廃棄物から作った素材を採用した世界初のランニングシューズを発表した。

海岸で回収したプラスチックごみを加工工場にてプラスチック片に粉砕し、高性能のポリエステル織糸を生成、2016年から販売を開始し、2019年には1,100万足を製造している。

 

これだけでも十分に先駆的な取り組みと言えるが、2019年4月には、100%リサイクルが可能なランニングシューズ、FUTURECRAFT.LOOPを発表している。

このシューズに使用されているのは熱可塑性ポリウレタン(TPU)という素材のみである。

100%再利用可能な単一素材でシューズを生産することで使用後もシューズを廃棄することなく、原材料を再利用し、そのまま新しいシューズを作ることを可能にしているという。

 

2021年の一般発売に向け、第一世代モデルは世界的ベータ版プログラムとしてすでに展開されている。

さらに同社は、サステナビリティ戦略の大きな柱として、2024年までに全ての製品に100%リサイクルされたポリエステルを採用することを明確に打ち出している。

 

アディダスの事例は、サーキュラー・エコノミーの具現化そのものであり、彼らの革新的な製造プロセスは既存の製造業のビジネスモデルを根底から覆すものになるだろう。

SDGsのターゲットを達成する上でも一つの重要なイノベーションであると言える。

同時に、こうした企業の取り組みは、私たちに消費のあり方を問うている。

 

購買行動の基準に、品質や価格、デザインだけでなくサステナビリティという軸が確立されようとしているのだ。

SDGsが加速させる循環型経済へ対応し、ビジネスモデルを転換させて生き残るか、あるいは新しい競争軸に対応できずに淘汰されてしまうか、今がまさに企業にとっての分水嶺である。

(執筆:本田 龍輔)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

Photo by Yonan Farah on Unsplash

今日は、答えが出ないであろうテーマをみなさんに投げかけたいと思う。

 

「本とはなにか」

 

「突然どうした!?」と思うかもしれないけど、最近わたしは、「本ってなんだろう」とよく考えてる。

その理由を自分なりに書いていくので、みなさんにとって「本」がどういう意味をもつのかを教えてもらえたらいいなぁ、というのがこの記事の趣旨だ。

 

「本」は文字から想像してその世界に浸れるツール

まず、「本」をある程度限定しよう。

この記事でいう「本」とは、文字がいっぱい詰まったものであって、漫画や雑誌、写真集やオーディオブックなんかは除外する。

駅構内にあるフリーペーパーや役所にある冊子なども含まず、「本屋さんに売っている9割以上が文字で構成されているもの」といったイメージで語っていく(この定義に当てはまる紙の本の電子書籍も含む)。

 

で、わたしのなかで「本」というのは、2つの種類がある。

歴史書やノンフィクション、自己啓発書のように、著者の知識や経験が詰まっていて、読むことで気づきを得られるもの。

もうひとつは、小説やエッセイ、詩集のように、作者の頭のなかにある物語が文字として表現されているもの。

 

このふたつは「本」としての毛色はまったくちがうが、何時間もかけてそれを読み、想像し、時には読み返し、本棚の中で眠らせ、たまに起こしてまたその世界に浸り……という楽しみ方をする点で変わりはない。

 

本を読んでいるあいだ、わたしはその世界の住人だ。

リアルのあれこれを忘れて没頭し、時に夜更かしし、その世界のとりこになる。

自分を含め、いままで出会った「本好き」を名乗る人々はみんな、文字の羅列からさまざまな想像をめぐらせ、考え、その本の世界に入りこむことに楽しさを見出しているようだった。

 

よくよく考えてみると、漫画をよく読む人やいくつもの雑誌を定期購読している人で、「本好き」を名乗っている人を見たことがない。

本の楽しみ方は人それぞれとはいえ、「文字から想像してその世界に浸る」のが、「本」の重要な要素なのかなぁ〜と思う。

 

「時間をかけずに読めるから⭐︎5」レビューが並ぶ

ところが、だ。

最近、そうじゃない人が増えている気がする。

 

わたしはよくAmazonの書籍レビューめぐりをしていて、既読本はもちろん、読んでいなくとも話題になっていたらひととおりレビューに目を通している。

本を読むこと自体も好きだけど、他の人が本を通じてなにを感じたかを知ることも好きなのだ。

 

で、最近レビュー欄でよく見かけるのが、

「2時間もあれば読めます」

「あっという間に読めるからおすすめ」

「わかりやすくて自分でも読めた」

といった高評価コメントだ。

 

「専門用語が少なくて素人でも理解しやすい」とか、「豊富な語彙力による描写が丁寧で物語に入り込めた」とかではない。

短時間で、とくに頭を使うことなく、どんどんページをめくることができる。

だから「いい本」だというのだ。

 

んん??

 

本の楽しみ方は人それぞれだから、その感想を否定するつもりはない。

ただ、見開きを使ってバカでかい文字で「好きなこと以外はしなくていい」なんて書いてある自己啓発本が、「楽に読めるから」という理由で高評価なのには、ちょっと違和感をもってしまう。

 

だってそれ、ネットで十分じゃん。

 

わたし自身はそう思うけど、労力を使わなくていい「本」が、高評価を得ているのも現実なわけで。

「本」の概念が変わってきているんだなぁ、と気づいてしまったのだ。

 

流し読みに最適な本がどんどん増えていく

時間をかけずに読み終えることができ、情報の密度より簡潔さを優先させた類の本を、この記事では「サクサク本」と表現しよう。

サクサク読めるからね。

サクサク本が人気を得る背景には、ネットからの書籍化が増えたことがあると思う。

 

ウェブ→出版として代表的なのは、やっぱりライトノベルだ。

『小説家になろう』をはじめとした小説投稿サイトからは多くの書籍化作品が誕生しているが、どれも文字が大きく頻繁に改行が使われ、ふりがなもあり、挿絵もある。

 

剣を交えるシーンでは「キンキン!」、爆発する場面では「ドーンという大きな音」といったように、感覚的にその情景を思い浮かべられる表現もよく見かける。

だれが敵なのかがわかりやすいし、女の子はすぐ主人公を好きになるし、強くなるのもかんたんだし……とにかく、物語がどんどん進む。

 

多くのラノベでは、じっくり読み込まなくても、読者が展開についていけるようになっているのだ。

まさに、「サクサク本」である(もちろん例外はある)。

 

もちろん、ウェブからの出版はラノベだけではない。

メルマガやブログといった3000字ほどのコラムをまとめて本にすることも多い。

なんなら、バズったSNS投稿をたたき台に出版することもある。

本屋には、「読者登録数トップ」「月100万PVのブログ」「フォロワー10万人」といった煽りがずらっと並んでいるから、想像しやすいだろう。

 

ウェブ→出版した本は、デジタルデバイスでさらっと流し読むことを前提に書かれた文章を基にしているから、時間をかけずに読むことができる。

手軽な娯楽として、「サクサク本」はうってつけなのだ。

 

ひっそりと「本」に対するスタンスが二極化している

ただわたしは、「文字を通じて作者の世界にお邪魔してその世界の住人になる」かたちで「本」を楽しんでいる。

その価値観で測ると、「サクサク本」は、正直とてもツマラナイ。

いや、本の内容をどうこう言いたいのではない。

好きなラノベもあるしね。

 

ただ、その世界にお邪魔しようにも輪郭がぼんやりして想像が広がらず、そこからなにかに派生することもないから、なんというか……消化不良になりやすい。

「えっなんでそこで友情が芽生えるの? そんな描写あった?」「そんなにあっさり進んじゃうの?」という気持ちになることが多いのだ。

 

わたしのように「文字を通じて作者の世界にお邪魔し、その世界の住人になる」という認識で本を読んでいる人たちは、想像の余地や深度=その本の質、という認識だ。

想像をより膨らませるため、本にはある程度のボリュームと、密度の高い世界観や濃密な体験を期待する。

行間を読むのが楽しくてしょうがない。

ラストがどうであれ、そこに「余韻」があればヨシ。

 

「どれだけ追体験できるか」が大事なのだ。

 

一方で、サクサク読みたいタイプの人は、はっきりとした答えを示してもらうために本を読む。

ネットサーフィンの代わりに本を手にするのだ。

だから、読むのに疲れないデザインや簡潔な文章、わかりやすい結論・結末を求める。

なぜそのキャラクターが主人公に恋をしたか、という背景が曖昧でも、「このキャラは主人公が好きなポジションなんだな」とわかればそれでいい。

 

余韻ではなく、「納得」があればそれでヨシ。

「サクサク本」が好きな人からすれば、わたしのような本の楽しみ方は、ひどく大仰で回りくどく、読むのに疲れるものなのだろう。

「そこまでして読まなくていいや」となるかもしれない。

 

どちらがいい、悪い、の話ではない。

ただ、「本」に対するスタンスが二極化してるんじゃないか、という話だ。

 

読書とネットサーフィンが類義語になる未来に、なにを思う?

今後はいまよりももっと、「ウェブの延長線上の読書」が一般的になっていくだろう。

出版する側としては、ウェブに近い本のほうが読者層が広がって気軽に手にとってもらいやすいし、ネットですでに知名度があるから売り上げをある程度期待できるしね。

 

で、どんどん「頭を使わなくていい本」が増えていくのだ。

「本」は、文章によって閉じ込められた別世界にトリップできる特別なものではなくなり、ウェブよりも少し多くの文章をひとまとめにしたのものになる。

 

ウェブから出版された本の割合が増えているのだから、「本」ならではの要素が薄まるのは、当然といえば当然かもしれない。

それ自体が悪いことではないんだけど……「読書」と「ネットサーフィン」が同じ土俵で語られる未来を思うと、なんかちょっとさみしいなぁと思う気持ちがある。

 

「サクサク読める本がいい本」という声が大きくなることで、簡潔な表現がどんどん増えて、改行が多様されるようになるかもしれない。

行間に思いを託すからこそ想像で補う楽しさがあった物語は、「よくわかんなくてつまらない」と見向きもされなくなるかもしれない。

 

だから思うのだ。

「本ってなんだろう」と。

「本ってどうなるんだろう」と。

 

あなたにとって、「本」とはなんだろう。これからどうなってほしい?

ネットの発展で「本」にこだわる必要がなくなった現在だからこそ、「本とはなにか」という根本的な問いかけを、わたしたちはされているような気がする。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

Photo by Beatriz Pérez Moya on Unsplash

山田ルイ53世さんのヒキコモリ漂流記がとても面白かったので、今日はこの本の学びを共有しようかと思う。

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彼の事を知らない人もいるだろうから簡単に説明すると、山田さんはいわゆる一発屋芸人というやつである。

 

髭男爵というコンビ名で貴族のような出で立ちをしたヒゲ男が「ルネッサーンス」の登場挨拶と共に乾杯を連続する芸風をみたことがある人もいるだろう。

この本はそんな彼の人生を辿っていくものだが、彼の人生はその明るい芸風とは逆に波乱に満ちたものとなっている。

 

彼はある事件をキッカケにヒキコモリ生活へと突入するのだが、ヒキコモリ生活に突入した後に彼が放った一言が実に重い。

 

「人生、余っちゃったなぁ」

 

成功しても人生は仕上がらない

現代社会は若くして成功した人が実によくスポットライトを当てられる。

 

僕は若い頃、彼・彼女らをみてよくこう思った。

「いいなぁ、若くして人生が仕上がって」

「きっとこれから夢のように楽な日々が続くのだろうな」

「はぁ…僕もサッサと人生というゲームをクリアして、楽になりたい」

 

しかしである。

それから時が流れ、成功者のその後の人生をみる機会を得て、そう事は単純では無さそうだという事を理解した。

いわゆる文春砲みたいなものを喰らって落ちぶれてしまった人なんかはわかりやすいが、成功者の人生は決して成功した瞬間のような高い所で固定されるものではない。

 

成功しても人生は続く。

そしてその続きの人生は…残念ながら大体において先の成功を超えるようなものではない。

むしろその成功が色々な足かせとなって、幸せになる為の様々な障害となったりするのだから、世の中というのは誠によくできているものである。

 

もちろん中には成功後にも上手に人生を乗りこなしているタイプの人もいるけれど、大体の成功者の人生は一言ではいい表せない複雑さを内包している。

ひょっとして、彼らもまたこう思っているのではないだろうか?

「人生が余ってしまった」と。

 

残念ながら成功しても人生は仕上がらないのである。

 

また自分は普通に這い上がれ無いのか……

余った人生の中を屈辱にまみれつつ、必死で何とか這い上がろうとする山田さんの姿はかなり胸にくるものがある。

 

山田さんは人生が余ってしまった後に「このままではいけない」と何度か”普通”の人生への復帰を目指して頑張るのだが、一度転落すると”余った”人生から抜け出すのは酷く難しそうだ。

作中で何度か「また自分は普通に這い上がれ無いのか……」と苦悩するシーンがあるのだが、このシーンが出てくる度に僕はかなり胸が痛む。

 

”普通”のレールに乗る事は”普通”をやっている時はさして難しく感じないものだが、”余ってしまった”後だと信じられないぐらいに難易度が上がる。

最終的には余った人生をそれなりには巻き返せた山田さんはある意味ではまだラッキーな方といえるかもしれない。

 

が、巻き返した後にまた一発屋として若干余るような人生を生きる事になるのだから……

何ていうか世の中というのは上手く出来ているものである。

 

人生には見えないグルグルした部分がある

このように一発屋というと何か特殊な世界の人間に限った話にもみえてしまうが、実は冷静にみていくと私達と無縁とも言い難い。

僕を含む読者の方々の多くは”普通”の人生をやっている事だと思うが、山田さんが突然”余った”人生を送る事となったよう、私達もいつ何時”余った”人生を歩む事になるかわからない。

 

この本は”普通”をやってると決してみえてはこない人生のグルグルした部分を垣間見せてくれる本だ。

読めば人生の視野が広がり、背筋がピンとすること間違いなしである。

 

話は変わるが「なんで一発屋はいるのに二発屋が三発屋がいないのだろう?」と思った事はないだろうか?

実は山田さんはその疑問にも著書にて答えてくれている。

次はなぜ多く一発屋が二発目を打ち上げられないのかをみていこう。

 

変わった事で一発あてるのはメリット・デメリットがある

山田さんを始めとする一発屋の皆さんは独自の苦難があるという。

それは人生で一番当てた過去の自分を乗り越えないと、永遠に一発屋であり続けるという事だ。

<参考 一発屋芸人列伝>

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過去の一番輝いていた時期の自分がライバルだというのはなかなか凄みがある。

仮に乗り越えられたとしてもだ。次にまた以前よりも高いハードルを飛ばなくてはいけないのだから、もうなんていうか成功がある種の呪いだと言っても過言ではない。

 

また一発屋独特の悩みとして変わった芸風で当ててしまったが故に芸風が縛られてしまうという事があるという。

例えば山田さんなら貴族のコスチュームを着ているわけだが、あの姿が既に強烈に皆に意識されてしまったが故に、もう普段着などの他の姿を取りたくてもとれなくなるのだという。

 

ただでさえ己の作ったハードルが高いのに、コスチュームが固定された状況でそれを乗り越えろと言われたら…確かにそれは素人目にも相当に難しそうである。

曲芸で一発当てるという事には、こんなデメリットがあったのだ。

 

変わった姿を身にまとうことはだ。確かに目立つから、他を圧倒しやすいのかもしれない。

だがそれでもって成功するという事は成功しても上に書いたような呪いを背負うという事でもあったのだ。

 

成功した後の事を考えると…邪道は色々な意味で考えものだという事なのだろう。

いつまでたっても鳴かず飛ばずも悲しいが、邪道でぶち当ててしまっても一発屋なのだから…なんていうか世の中はやはり本当に難しいものである。

 

全ての才能を持つものは、みな一発屋予備軍である

先ほどは一発屋の事を書いたが、実のところ殆どの才能といえるようなものも同じである。

あなたが○○の人として当てたとしよう。

仮にあなたがその後に○○を超えるような何かを打ち出せないのだとしたら…世間は間違いなくあなたの事を終わった人として扱う。

 

多くの才能はパッと花火のように燃えたら後はおしまいである。

残念ながら多くの場合、二度目のビッグウェーブは来ない。

 

才能を上へ上へと育み続けるのはとても難しい。

ピカソを始めとして、そういう死ぬまで輝き続けるタイプの人がいないわけではない。

けれど、それは少なくとも普通ではない。

 

多くの人間は一生当てられない。

仮に当てられたとしても一発が関の山だ。

 

だから一発屋の悩みというのは、頑張っている人にとっては、今後ありえる未来の自分の一つの可能性として、無視できない大きな学びが詰まったものといえる。

才能を持って生まれた人で一発当てられた人はある意味では恵まれているのかもしれない。

誰だって、やってるからにはいつかは当てたいというガッツはあるだろう。

 

けれど当てるという事は、ある意味ではそれに呪われるという事でもある。

当たった後で自分が一発屋なのかホンモノなのかが判明するわけだが、残念ながら多くの人は”一発屋”だろう。

全ての才能を持つものは、みな一発屋予備軍なのである。

 

センター試験の点数を自慢する人間に漂う哀愁

かつて村上春樹さんのエッセイを読んでいた時の話だ。

その中で村上春樹さんが「会話の最中で、突然センター試験の点数を尋ねられ、自分が高得点を叩き出した事を自慢された」というエピソードがあった。自慢した人は確か官僚の方だったように思う。

 

彼はその人の事を

「あんなみっともない大人がこの世にいるだなんて思いもしなかった」

という風に記述し、それを読んでいた僕も

「そうだよなぁ…こういう人間にはあまりなりたくないなぁ…」

と思ったのだけど、山田さんのヒキコモリ漂流記を読んでからというものの随分と印象に変化が起きた。

 

なんていうか、皆さんもその人に哀愁のようなものを感じないだろうか。

そのセンター試験の点数を自慢した男は、たぶんだけど神童として持て囃され、よい成績を収め続け人生の覇道を突き進んでいると思っていたのだろう。

だが、残念な事に彼の人生はセンター試験受験時で”打ち上がってしまった”。

 

センター試験の点数をいつまでたっても自慢しているのはそこで人生が突然余ってしまい、その余りを記憶の残り香でもって必死に自尊心を保ち生き続けているからだろう。

その姿を「みっともないwww」と言えるのは、普通に普通の人生をやっている”まだ当ててない”その他大勢の人間と、ピカソや村上春樹さんのように死ぬまで才能が輝き続けるタイプの一握りの人間だけだ。

 

僕はこの人をみて、哀愁のようなものを感じずにはいられないのである。

いつ自分の才能は終わってしまうのか。

そもそも自分は始まってすらいないんじゃないか。

仮にいまが当たってる最中だとしたら、終わってしまったら人生が余るのだろうか?

 

少なくとも僕は心中穏やかではいられない。

自分もひょっとしてセンター試験の点数自慢男と同じような状況になっていやしないかと嫌な脂汗をかいてしまう。

 

開かないままのプレゼントであって欲しいような、そうではないような

恋愛は片思いが一番面白いというフレーズがある。

僕はこの言葉を聞いた時に 「なにいってんだ?そもそも片思いなんて、何も始まってすらいないじゃないか」と思った。

けど、今ならそれが何を言わんとしている事もわからなくはない。

 

プレゼントを開ける前まで中に何が入っているかは誰にもわからない。

その時に

「中に何が入っているのだろう」

と感じる胸の高揚感は、実際の中に入っている商品がもたらす高揚感よりも大体において高い。

 

「人生が余る」という言葉に、僕はプレゼントを開けた後のクシャクシャになった包装紙と空箱から漂う哀愁を感じてしまう。

プレゼントを優しく包んでいる、あの紙をビリビリと破く時の形容しがたい高揚感。

そしてプレゼントの箱を開ける瞬間のワクワク・ドキドキ…

こんなにも素晴らしい瞬間を演出した紙と箱なのに、役割が終わったらゴミになってしまうのだから、誠に人間の認知というものは不可思議なものである。

 

自分の才能がいつまでも包装紙が破られない箱にしまわれたプレゼントのままであって欲しい気持ちもある一方、開けてみて中身を見たいような気持ちもある。

 

神様が目の前に現れて「箱を開けますか?それとも開けずに高揚感だけ、一生あげましょうか?」と訪ねたら…あなたはどちらの答えを選ぶだろうか?

僕はちょっと選べそうにないかなぁ…

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo:Kamil Porembiński

 

リーダーが愚鈍であればメンバーがどれほど優秀でも組織は機能しない。

古今東西、その真理を裏付ける逸話には事欠かない。

 

日本の戦国時代にこのような事例を求めてみると、あるいは竹中重治(通称:半兵衛)の活躍が、これにあたるかも知れない。

その半兵衛が最初に注目を集めたのは、若干21歳の時だった。

 

羽柴秀吉の軍師として歴史に名を挙げた半兵衛だが、当時は織田家の宿敵・斉藤家に仕えていた。

そしてその主君は家督を継いでも一向に政務を顧みず、酒色に溺れ、その生活態度を注意する忠臣を遠ざけるなど、とても主君の器と言えるトップではなかった。

 

そのような日々が続く中、半兵衛はお家の存続に深刻な危機感を抱くようになる。

そしてあろうことか、ある夜、手勢わずか17騎を率いて龍興の居城である稲葉山城を攻め落としてしまった。

 

いわゆる、クーデターである。

 

役員が力不足だと組織はこうなる

話は変わるが、筆者は26歳で初めて会社の役員に就いて以降、組織のNO.2として人生の多くの時間を過ごしてきた。

 

中でも印象的なトップは、29歳の時から6年間、TAM(ターンアラウンドマネージャー)として支えた中堅製造業の経営者だ。

一代で起こした会社は30期を数え、従業員も800名を数えるなど業界では知られた会社だったが、しかし過剰な設備投資が重しになり、深刻な経営危機を迎えている状態だった。

 

そんな会社の経営立て直しを期待され、任されたTAMのポジションだったが、あらゆる手段を尽くしても多額の借り入れ負担が重く、根本的な経営の立て直しは見通せなかった。

そこでやむを得ず最後の手段として、私は会社の稼ぎ頭の事業を本体から切り離し子会社化して、その株式を売却することでまとまった資金を得ることを計画した。

 

そしてビット(入札)方式による売却先を募った結果、同業の大手企業A社とB社が残り、最終的な買収提示額を受ける。

結果、A社は子会社の買収資金として10億円を提示し、対するB社は子会社の買収資金として3億円+親会社(本体)に対し3億円の貸し付けを提示してきた。

 

いうまでもなく、この条件は全く比べ物にならない。

さらにB社の条件は、時価による転換条項付き社債による貸付条件であったので、少しばかりエクイティに詳しい人であればその下心は容易に想像できるだろう。

「親会社も手に入れる」という意思表示であり、そのための毒まんじゅうを喰わせるという考えである。

そのため私は丁寧に、B社が考えているであろう下心を経営トップに説明し、そして条件的にも全く比べ物にならないので、A社を選ぶよう進言する。

 

経営トップはこれを受け入れ、A社の東京本社に二人で出向くと先方のトップと握手を交わし、最終的な口頭合意を交わした。

そして次週に正式に書類を整え、また本体同士の事業アライアンスも推し進めるべく両社に専門チームを立ち上げることでも合意し、こうして会社は経営危機を脱する見通しがついた。

 

「これでやっと、久しぶりに攻めに転じることができる。キミのおかげや。ありがとう。」

「社長こそ、事業売却は断腸の思いであったと思います。よく決断して下さいました。虎の子のこのお金を、丁寧に大事に使っていきましょう。」

 

そんな言葉をかわしながら、帰りの新幹線の中で経営トップと私は、缶ビールとスルメイカで乾杯した。

そしてその場で私はB社に電話を入れ、交渉の打ち切りを告げた。

 

その翌日は土曜日だった。

会社は事業の性質上、365日休み無しで稼働しているので私も土曜日に会社に詰めていることは多かったが、なんせ大きな仕事をやり遂げた後だ。

「今週末は久しぶりに、2日間何も考えずに遊ばせて下さい」

と、帰りの新幹線の中でトップに申し入れ、私は朝から心地よい疲労感を自宅で楽しんでいた。

 

するとそこに、部下から携帯に電話が入る。

「なぜかわかりませんが、B社の社長さんが来ていますよ?今、社長と話してます。」

 

M&Aのデュー・デリジェンス(会社・事業の精査)には多額の費用と手間暇がかかる。

そのため、おそらくそのグチの一つも言いに来ているんだろう。

 

すでに結果は出ているのに、B社のような大企業の社長ともあろう人が東京から急遽、無意味な文句を言うために来るとは・・・。

正直、その無意味さに驚いたものの、それに付き合うのもトップの仕事だろう。

わざわざ、NO.2である私も同席して頭を下げる必要があるとは思えない。

そう考えた私は、

 

「教えてくれてありがとう。まあ、文句の一つも言いたい気持ちもわかるので、いいんじゃないかな。」

「そうですか・・・。だいぶ長時間社長室にこもっているので、少し心配なのですが。」

 

「まあ、億のお金が動く話だったからね。社長にはしっかりと、頭を下げてもらったらいいよ。」

「・・・わかりました。」

 

こうして私は特に深く考えることもなく、週末の2日間をのんびりと過ごした。

 

そして迎えた、翌週月曜日。

出社すると早速私は、経営トップから社長室に来るよう内線を受ける。

おそらく、朝っぱらからM&Aの感想戦でも改めて楽しもうと言うのだろう。

そんな、脳天気な明るい気持ちで社長室に入った私に、経営トップは開口一番、こう告げた。

 

「なあ、まだA社とは正式調印してないんで断れるよな?」

「・・・意味がわかりません。何をおっしゃってるんですか?」

 

「悪いけど、俺はやっぱりB社を売却先に選ぶ。だから、A社に断りに行って欲しいねん。」

「社長、悪い冗談はやめて下さい。口頭合意でも契約は成立するんですよ?両社のトップと担当役員が揃って合意をした事項をひっくり返せると思ってるんですか?」

 

「そこをなんとかするのが、キミの手腕だろう。頼むわ。」

「社長、あらゆる意味でメチャクチャです。先方は法務担当役員も同席していたことを軽く考えないで下さい。せめて、なぜ決断を変えたのか理由を聞かせて下さい。」

 

すると経営トップは、土曜日にB社の社長が来社し、話したことをかいつまんで説明した。

 

ざっと要約すると、

・自分たちを売却先に選べば、当社の商品を黒字になるまで買い続け、経営を支えると約束すること

・目先のキャッシュフローに困ることがあったら、いくらでも即時、追加融資すること

・社長が社長でい続けられるよう、あらゆる支援を約束すること

などであった。

それを、経営トップが真に受けて信じてしまい、翻意したということであった。

 

「社長、バカも休み休みに言って下さい。そんな虫のいい条件をまさか真に受けたんじゃないでしょうね?」

「B社の社長がわざわざ東京から、土曜日に来てくれたんやぞ。それだけウチに魅力を感じてるってことや。俺は信じる。」

 

「では、それを事前に書面にしてもらうようにいいましたか?M&Aの条件として正式に約束を取り付けられるんですね?」

「善意の申し出の全てを、細かく書面にできるわけ無いだろう。キミは人を疑いすぎるねん。」

 

「・・・社長。転換条項付き社債を含めて、この条件を飲めば本当に会社を失いますよ。絶対にです。」

「もういい、一度決めたことや。キミはA社に謝りに行ってくれ。協力してくれへんのなら、俺一人でB社と契約を進める準備に入る。」

 

「・・・」

 

こうして私は本当にA社に一人で謝りに行くことになり、そして当たり前だが、門前払いに近い形で怒りを込めて追い出された。

そして経営トップは本当にB社と契約を進めてしまい、私は会社を去ることを決めた。

 

それから数年後、B社はしっかりと転換権を行使して本体の経営権まで手に入れ、売却した子会社だけでなく本体も、完全子会社として吸収したことを元部下から聞かされた。

当然といえば当然の結果だが、私は組織のNo.2として、経営トップだけでなく800人以上の社員の人生に対し、責任を果たすことができなかった。

 

私もクーデターを起こせばよかった

話は冒頭の、竹中半兵衛の主君に対するクーデターについてだ。

 

半兵衛は、龍興が余りにもリーダーとしての資質を欠いていることに危機感を感じ、わずか17騎の手勢で主君の城を乗っ取ったのは先述の通りである。

 

しかし実はその後、信長から破格の条件で城を明け渡し自分の部下になるよう誘いを受けるのだが、これを全て断り、ただちに龍興に城を返し自ら謹慎生活に入る。

その行動の目的は、命をかけて主君を諌め、たった17騎の奇襲でも城が落ちる危機感を肌感覚で知らしめるためだったからだ。

いわば、経営トップや組織のために、自分の人生を差し出す覚悟で信念を貫いたということである。

 

だからこそ、信長や秀吉は半兵衛を自分の部下に欲しがったのだろう。

普通に考えれば、自分の主君に奇襲をかけ、クーデターを起こすようなヤバイやつを重用することなど、とても怖くてできない。

 

しかしその後、秀吉の部下となった半兵衛はその決断力と行動力を大いに活かし、歴史に残る活躍を重ねたことは、史実のとおりだ。

その才能の片鱗は、若干21歳の頃からすでに、破格の行動力と合わせ滲み出ていたと言うことである。

 

翻ってみて私は、明らかに間違った決断を下した経営トップに対し、何もできなかった。

その気になれば、胸ぐらをつかんで怒り狂い、改めて翻意させることもできただろう。

その程度のこと、17騎の手勢で主君に夜襲をかけるよりも遥かに容易いことだ。

 

だが私はできなかった。私にしかできないことであったにも関わらず。

そして城は無意味に陥落し、経営トップは首を取られた。

半兵衛と比較することなどおこがましいことではあるが、これが歴史に残るNo.2と、愚鈍なNo.2の差なのだろう。

 

ナポレオンはトップの立場として経験したことを

「一頭の狼に率いられた百頭の羊の群れは、一頭の羊に率いられた百頭の狼の群れに勝る」

と表現したが、No.2を長く経験した私には、組織運営に関し全く別の教訓がある。

 

経営トップを狼にできるか羊で終わらせるのかは、No.2の覚悟次第である。

ぜひ、No.2として経営トップを支える取締役諸氏には、その覚悟で組織に対し責任を担って欲しいと思う。

 

 

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【著者プロフィール】

株式会社識学

人間の意識構造に着目した独自の組織マネジメント理論「識学」を活用した組織コンサルティング会社。同社が運営するメディアでは、マネジメント、リーダーシップをはじめ、組織運営に関する様々なコラムをお届けしています。

webサイト:識学総研

Photo :Natalie Maguire

「できるかぎり家にいろ」という非常事態が1年以上も続き、そんな日常にも慣れつつある今日このごろ。

しかしいくらおうちが大好きなわたしでも、これほどまでの長期間「出かけられない」というのは、なかなかのストレスだ。

 

そんななか、なぜ「日本」に『自粛警察』が生まれたのか、自分なりに答えが出たので、今日はそれを書いていきたい。

 

USJの新エリアは、マスクをつけた人で溢れかえっていた

わたしは人口が1万人以下の村に住んでいて、この1年、村から一歩も出ていない。

外出といえば、徒歩圏内のスーパーと犬の散歩くらいなものだ(クルマないし)。

 

髪の毛は伸び放題、毎年恒例の日本帰国もできていない。

週末の楽しみだった外食もやめ、たまにデリバリーで頼むくらいになった(唯一の楽しみである)。

 

「これほど本格的にステイホームしてる家もなかなかないよね〜」

と夫と笑いあっているが、本当にそう思う。

 

こんな状況で、3月8日、エヴァの新作映画が公開された。

まわりには見に行った人も多く、「このご時世でも映画館に行く人って結構いるんだなぁ」とちょっとびっくり。

わたしの頭のなかには、「映画館に行く」なんて選択肢、まったくなかったから。

 

さらに3月18日、USJの新エリア「スーパー・ニンテンドー・ワールド」がオープンしたとのこと。

Twitterのタイムラインで、「新エリアすごーい!」というUSJ内部を撮影した動画を見かけた。

 

……え、こんなに人いるの?

マリオのフィールドのようなドキドキワクワクする空間に、マスクをつけた人がたくさん歩いているのだ。

いやまぁ、個人の自由だし、経済も大切だし、ルールの範囲内なのであれば責めるようなことではないんだけど。

 

単純に、すごく驚いた。

だってわたし、1年間村から出てないから。

 

そして同時に、

「みんなふつうにお出かけしてるの? わたしめっちゃ自粛してるんだけど……」

とモヤモヤしてしまったのも、本当だ。

 

「わたしは我慢してるのに、なんであなたは楽しそうにしてるの?」という不公平感

重ねて書くけど、ルールを守ったうえでの外出に関して、どうこう言うつもりはない。

 

仕事で毎日出勤している人とわたしでは、外出のハードルもちがうだろう。

もしかして、ずっとステイホームしていて久しぶりの外出だったのかもしれない。

そもそもわたしはドイツに住んでいるから、状況もちがう。

 

だから、エヴァを見たりUSJに行ったりした人を責めるつもりはないんだ。本当に。

 

でも、「我慢せずにお出かけしている人がたくさんいる」と思うと、モヤモヤする気持ちがあるのも正直なところで。

「んじゃ、自分も映画を見に行けば?」というのは正論すぎるのだが、そうもいかない。

1年間ずっと家にいたのに、ちょっとした誘惑に負けて不要不急の外出をし、なにかあったら……いままでの我慢が水の泡になってしまう!

 

ガチステイホーム組は、引くに引けないのだ。

いろんなものを我慢したうえでのステイホームだから、いまさら「これくらいならいっか」とはなれないのである。

引っ込みがつかないからこそ、より一層、「なんでわたしは我慢してるのにあなたは楽しそうにしてるの?」というモヤモヤが生まれるのだ。

 

そこで、ふと思った。

「自粛警察って、『行き過ぎた正義感』から生まれるんじゃなくて、根底には『あなたばっかりズルイ』という嫉妬心があるんじゃないか?」と。

 

「自分は正しい」という正義の盾と「抜け駆けは許さない」という嫉妬の剣

『自粛警察』の大暴れっぷりは、時折ニュースになるほどである。

営業していた飲食店に営業中止を求める張り紙をしたり、県外ナンバーの車を煽ったり、公園で遊ぶ子どもに嫌がらせしたり……。

 

そういった人たちは、「行き過ぎた正義感」とセットで語られることが多い。

自分は正しいことをしていると信じているから、他人に対して攻撃的になれる……という論調だ。

 

でも本当に、純粋な正義感で、「県外ナンバーのクルマはNG! 飲食店の営業なんてもってのほか!」と憤っているのだろうか。

それより、「遠くまでドライブしててずるい! 自分は飲み会を控えてるのに酒を飲むなんてムカつく!」と腹を立てている……と考えた方が、納得しやすい。

 

自分はちゃんとステイホームしてるんだぞ。

悠々自適に遊んでいる人が許されたら、我慢してる自分がバカみたいじゃないか。

ユルセナイユルセナイユルセナイ……。

 

とまぁ、こういう気持ちで「自粛警察」が生まれるのであれば、賛同はできないにせよ理解はできる。

 

「自分は正しいことをしている」という正義の盾を持って、「抜け駆けは許さない」という嫉妬の剣を振るうのなら、そりゃ過激で執拗な攻撃になりますよね、という話だ(繰り返すが、共感はしても賛同はしない)。

 

ルールで行動規制すれば、嫉妬は生まれない

そしてこの『自粛警察』は、「日本特有のもの」として語られがちだ。

まぁ実際のところどうなのかはわからないけど、とりあえずドイツのわたしの身近な範囲では、似たような話は聞いたことがない(そういったニュースがあったらぜひ教えてください)。

 

では、海外には「自粛しないのはズルい!許せない!」という気持ちは存在しないのだろうか。

いやいや、同じ人間なんだから、それはさすがに考えづらい。

じゃあなぜ、『自粛警察』は「日本特有のもの」として語られるのか。

それは、日本はあくまで『自粛』で対応しようとしたからだと思う。

 

ドイツはコロナ禍の早い段階から、さまざまなルールを設けることで人々の統制を取ろうとした。

「呼びかけ」ではなく、「違反すると罰を受けるルール」で感染防止を試みたのだ。

 

マスク着用義務の範囲が定められ、スポーツやイベントなどにも人数制限がかかり、友人や親戚の私的な集まりでも、その地域の過去7日間の感染者数に応じて最大人数が決められる。

博物館や美容院、劇場、飲食店など、業態によって細かなルールが定められている。

 

ルールは状況に応じて適宜変更されていき、そのたびに厳守を求められた。

ルールを破れば問答無用でその人が悪いし、ルールがなければ個人の自由。それだけの話。

 

「みんな同じルールのもとで暮らしている」という前提がある社会では、「あいつだけ抜け駆けしてズルい」という嫉妬は生まれづらい。

だから、自粛警察がいないのだ。

まぁ、かわりに「個人の自由と権利を侵害するな」というデモが起こってるんだけどね。

 

不公平な『自粛』だからこそ、公平を求める『自粛警察』が生まれた

『自粛警察』は日本人の国民性と紐づけられ、日本特有の現象だと語られがちだ。

でもそもそも、『自粛』で非常事態を乗り切ろうとした国自体が相当レアなわけで。

日本がとりわけ相互監視社会だとか、日本人は正義感が暴走しやすいとか、そういうわけではないんじゃないかなぁ。

 

いやまぁ、そういう側面もあるかもしれないけど、ルールではなく『自粛』で規制しようとした日本で起こったこと、というのは、見過ごせない要因だ。

 

空気を読んでまわりと同じ行動をする人が多い日本だからこそ、『自粛』が成り立った。

でも個人の判断に委ねるぶん、ルール化して取り締まるよりも「不公平感」が生まれやすい。

その「不公平」を「公平」にしようという心理が働き、足並みを揃えない人を排除しようとする『自粛警察』が生まれた。

 

そう考えれば、しっくりくる。

要は、「行き過ぎた正義感」ではなく、「抜けがけ禁止」の心理が、自粛警察をつくったのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Photo by engin akyurt on Unsplash

都市は、地方出身者でできている、と聞いたことがある。

どの程度の割合の方々が地方出身者なのか、実際の細かい数字を調べたことはないが、私の周囲に関して言えば、確かにその通りだと感じる。

 

事実として、いま一緒に仕事をしている方々は、東京出身よりも地方出身者のほうが多い。

弊社の役員のみならず、事務やライターさんも、かなりの割合が地方出身の方々で占められており、とても多様性がある。

ちなみに妻も、地方出身者だ。

 

そう考えていくと、現在、都市で暮らす我々は、地方に感謝せねばならない。

 

 

しかし「都市への集中」は問題でもある。

地方創生のために「地元にUターンしてきてほしい」という意見もあるだろう。

 

だが、彼らが地元をどう思っているか、と言えばなかなか複雑である。

実際、学校唱歌「ふるさと」に謳われているように故郷を懐かしんでいるのかと言えば、どうやらそうでもないということが、言葉の端々からうかがえる。

 

というよりむしろ、「地元に絶対に帰りたくない」という発言すらあり、地元について触れる際には、十分配慮をしなければならない。

 

例えば、地方出身者の友人と話していた時のこと。

「東京は家賃が高すぎるよね」という話題になったので、私は考えなしに「確かに、生活コストが安いとこに、いつでもに帰れるっていいよね」と言ってしまった。

 

しかし、その友人は言った。

「とんでもない、いくら生活コストが安くても、絶対に地元には帰りたくない」と。

 

私は友人がこれほど過敏に反応すると思っていなかったので、少し驚いた。

そこで理由を聞いた。

 

すると友人は言った。

「地元には地元の苦労があるんだよ。」と。

 

私は友人がそれ以上、その話題について触れたくなさそうだったので、話題を変えた。

だが「地元の苦労」とはいったい何なのか。

私にはピンとこなかった。

 

だがつい先日。

前職の元同僚と久しぶりに再会した時のこと。

かねてから疑問だった「地元の苦労」に関する話が聞けたのだった。

 

 

彼は前の職場を退職したあと、しばらく東京にいたのだが、疫病のまん延にともなって、今は地元に帰って商売をしていた。

そして彼は地元で働くうちに、東京で忘れていた、「田舎の感覚」を、改めて思い出したという。

 

それを一言でいえば、「その人の評判や地位が、リセットされない」という感覚だ。

 

最近、彼は仕事の中で、「出身高校」の話をよく持ち出され、それでマウントされることが少なからずあったという。

「何十年前のことなんだよ、って話ですけどね。田舎では出身高校がよく話題になるんですよ。」

と彼は言う。

「地方創生がらみで仕事をしていると、「施策が出ない」というより、そうした「昔からの人間関係のしがらみ」でプロジェクトがうまく進まないことがとてもたくさんあるんです。」

 

私は、東京でも人間関係のしがらみで仕事が進まないことは普通にあると思ったので、

「普通じゃない?」と言った。

 

すると彼は言った。

「レベルが違いますよ。地元では人間関係のしがらみが、かなり昔までさかのぼるんですよ。例えば「高校時代、体育館の裏であいつに殴られたことがある。だから絶対にあいつの言うことは聞きたくない」とか。」

 

確かに「昔、殴られた相手」と一緒に仕事をしたいか、と言われたら、歓迎ではないし、深い禍根があるのかもしれない。

 

だが、「30年も前の話」が、未だに意味を持っているのは驚きだ。

「評判がリセットされない」ということは、そういうことなのだ。

 

 

また、こうした話は、ビジネスだけに限らない。

私生活においても、「評判」は死活問題だと、彼は言う。

 

例えば「怒らせてはならない人」というのが、地域社会には存在している。

地域の名士、権力者、有力者、豪族、何と呼んでもいいが、そういったものだ。

 

地方の社会は極めて固定された人間関係で経済が動いているので、で彼らへの配慮を欠くと、あらゆることがやりにくくなる。

 

だが都市では通常、「怒らせてはならない人」というのは存在しない。

いや、局所的は存在するのかもしれないが、経済圏が大きいので、有力者といえど、地域社会に与える影響は極めて限定されている。

だから通常、さしたる問題にはならない。

 

ところが、田舎では少し様相が異なる。

「その人に睨まれている」という評判が立ってしまうだけで、ありとあらゆることが不利になる。

リカバリーも難しい。

それは「評判」がリセットされないからだ。

 

彼自身も、身内が「評判」を極めて重視していることを肌で感じたことがあるという。

 

それは、彼の娘さんが、風邪で熱を出したときのことだった。

このような情勢なので、医師から「念のためPCR検査を受けたらいかがですか」と勧められたそうだ。

 

ところが、何気なく近くに住む両親に、それを話したところ、両親は蒼くなって

「絶対にPCRを受けるな」

と言ったという。

「万が一、娘がPCRで陽性になったことが漏れたら、我々は、もうこの地域では生活していけない。」

 

 

こういう話を聞いて、「なにをオーバーな」と思う方も多いかもしれない。

 

だが、この話を、同じく地方出身者の妻にすると「よくわかる」と言った。

妻が見せてくれた記事を見ると、その雰囲気がわかる。

ハライチ岩井が語る「今時、同窓会に参加する人」の正体

岩井:じゃなんで、同窓会にわざわざ行く人がいるのか。学生時代のお調子者の男子が毎回同じようにはしゃぎ、それを見た女子が「またあいつ、馬鹿やって!」と笑う。しかも毎回、同じところで笑う。僕はむしろ怖い。それの何が楽しいのか、と。

妻にとって、これは全く他人事ではなく、地元でこのような経験をしたことがある、という。

そしてそれが「苦痛だった」だとも言った。

 

昔話が嫌いなわけではないが、学生当時の人間関係が固定されているのが、とても嫌なのだそうだ。

「地元に帰ると、子供も同じ学校に通う。そうして、親の地位や序列が、今の子供たちにまでダイレクトに影響する。何十年も前に、自分も覚えていないような発言が蒸し返される。それはとても息苦しい。」

と妻は言った。

 

なお、誤解のないように行っておきたいのだが、地元愛にあふれる人もたくさんいる。

のびのび子供を育てるなら、都市ではなく地方がいい、という人もいる。

「固定された人間関係」が、むしろ安心できるという人もいる。

地域コミュニティでの地位が高く、地元が一番暮らしやすい人もたくさんいるだろう。

 

だから、上の話は「地元を愛し、地元に残る人たち」を否定するものでは決してない。

 

だが「嫌な奴と付き合わない自由」を得たい人。

学生時代のしがらみを、リセットしたい人。

地元での序列に閉塞感を感じる人。

そういった人々が、「地元には絶対に帰りたくない」というのもまた事実なのだと、私はようやく理解した。

 

「田舎くらし」に憧れる人は多い。

実際、軽井沢のように、都市からの移住者が多い町は、移住者同士のコミュニティがあって暮らしやすいかもしれない。

だが、その人たちの多くはたぶん、本当の意味での地域コミュニティには参加しないのだろう。

 

「田舎暮らしは甘くない」という高知県制作のCMが賞をとるのも、納得である。

 

 

余談だが、これを書いているうちに、これと同じような構図をどこかで見たことがある、と思った。

たぶん、企業で「会社にずっと残る人」と、「転職で飛び出す人」との構図とよく似ている。

 

その会社での評判を築き、「地元」で心地よく過ごす人と、

その会社に馴染めず、「新天地」をもとめて飛び出す人。

 

それに特に良し悪しはないが、両者の考え方はかなり違っており、相容れない部分も多いだろう。

「地元派」と「地元には帰りたくない派」の共生は、なかなか難しそうである。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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前回は、子育て専業主夫を3年ぐらいやった話を書いた。

諸事情が重なった末の苦肉の策ではあったけれども、結果として、精神科医としても親としても大切な経験が得られて良かったと思う。

 

これに限らず、医師の世界にはいろいろなキャリアを歩む人がいる。

起業を始める人。農業を始める人。宇宙飛行士を目指す人、等々。

 

医師は将来性の狭い職業だと思う人もいるかもしれないが、実際にはそうとは限らない。

今日は、そんな「生きたいように生きる医師」の一例を紹介したうえで、いまどきの高学歴社会、ひいてはいまどきの西洋近代社会に文句のひとつでも言ってみようと思う。

 

「生きたいように生きる医師」の神髄を見た

ここで紹介する「生きたいように生きる医師」は、私がキャリアの駆け出しの頃に出会った女性医師のQ先生だ。

Q先生は20代後半の研修医で、優秀でタフな人だった。

ナースの集まりに物怖じすることなく、かといってツンケンするでもない、コミュニケーション上手でもあった。

その彼女が実は二児の母親で、親族や保育園に頼りながらとはいえ子どもを育てていることを聞いた時、私はびっくりしてしまった。

 

聞くところによれば。

彼女は医学部在籍中に学生結婚し、医学部を卒業し医師国家試験に合格して間もなく一人目の子どもを出産した。

次の年にはもう一人。

さすがにこの時期は子育てに専念していたけれども、親族や保育園に頼れるようになってからは研修をリスタートし、専門医の免状をもらうべく奮闘しているのだった。

 

なんということだ!

年齢は私とそれほど変わらないのに、彼女は人生のずっとずっと先を歩んでいる。

女性医師が結婚・出産とキャリアの板挟みに悩むのは珍しいことではないと聞くが、Q先生の人生はそういった悩みを超越している。

それにしても、彼女の選択はなんと大胆で、合理的なのだろう!

 

女性医師の誰もがQ先生のように生きられるとは到底思えない。

彼女は勉強ができるだけでなく、何かが根本的に優れていた。

そもそも医師国家試験に合格してすぐ出産し、時機が来れば研修病院にスルリと復帰してくる要領の良さはちょっと普通じゃない。

 

それとQ先生が嫌味の無い愛嬌を持っているというか、同性にも異性にも嫌われにくい不思議な魅力をたたえていた点も、彼女の人生を融通のききやすいものにしていただろう。

 

とはいえ、実際にそのように生きてみせる女性医師が存在し、その生きざまを私は目撃してしまった。

そこから私は多くのことを学ばせていただいたように思う。

 

・「生きたいように生きる医師」になるためには、人生の優先順位についてしっかりした判断ができなければならない。

・自分が属しているコミュニティの常識や慣習には敬意を払ったほうがいい。しかしそれらに流されないだけの意志と、その意志を実行に移すための能力を持たなければならない。

・能力だけでは無理なこともたくさんあるので、チャンスやタイミングを常に見計らい、それらに対して自覚的でなければならない。

 

ここで箇条書きにした教訓を、Q先生から直接言い渡されたわけではない。

けれども彼女の生きざまはどんなライフハック書籍よりも雄弁に「生きたいように生きていくとはどういうことなのか」に語っていた。

 

私が家庭の危機に際して専業主夫になると決断できたのは、間違いなくこのQ先生のおかげだ。

彼女に出会わなかったら私は決断できず、家庭の危機を切り抜けられなかったかもしれない。

 

Q先生のような女性医師は増えたか

私がQ先生に出会ってから、約20年の歳月が流れた。

その間に医師の世界はそれなりに変わり、世の中全体も変わったように思う。

 

医師の世界について言えば、この20年間に若手医師のキャリアは自由度が高くなり、いわゆる大学医局制度から距離を置きながらキャリアアップをはかる人が増えた。

その反面、一人前の医師になるまでのトレーニング期間はますます長期化し、今まで以上にライフコースを圧迫するようにもなった。

 

今、一人の女性が医師になろうとしたら、ライフコースの設計にかなり苦労するだろう。

18歳で医学部に現役合格し、24歳で卒業した女子学生でさえ、一人前になるまで待っていたら30歳を越えてしまう。

 

令和時代の30歳は昭和以前の30歳よりずっと若く見え、余命も長くなっているけれども、生殖適齢期は昭和以前とほとんど変わっていない。

男性も女性も30代後半には妊娠・出産の能力が急激に低下していくし、年を取ってからの子育ては体力的にもハードだ。

だとしたら、いまどきの若手女性医師はいったいどのタイミングで結婚・子育てを考えればいいのだろう?

 

いやいや、これは若手女性医師だけの問題ではない。

本当は若手男性医師だって真面目に考えなければならない問題のはずである。

 

一人前の医師になるまでのトレーニング期間が長くなっている以上、若手医師がキャリアアップと子育てを両立させる難易度は高くなっている、はずだ。

それなら合理的判断の帰結としてQ先生のように学生時代に結婚し、子育てを始めてから研修医としてリスタートする女性医師が増えていてもおかしくない……ように思えるのだが、実際には、そのような女性医師が増えているとも、そのようなライフコースが流行っているとも聞いたことがない。

 

Q先生のような女性医師が増えないのは、制度や慣習による縛りのせいかもしれないし、そもそもQ先生が「生きたいように生きる医師」として優秀すぎただけなのかもしれない。

いずれにせよ、一人前の医師になるまでのトレーニング期間が長くなっている事実と、人間の生殖適齢期が昭和以前とほとんど変わっていない事実を掛け合わせて考えるなら、医学生~研修医の段階で子育てをスタートする女性医師(や男性医師)が増えてしかるべきはずである。

 

ところが実際にはQ先生のような医師は増えていないのである。

女性医師のキャリアについては、30代半ばに(子育てにより)就業率が低下することがしばしば問題視され、就業率を高めるべきだと論じられてきた。

だが、私に言わせれば30代半ばに就業率が低下するのは遅きに失している。

Q先生のように若いうちに子育てをスタートするキャリアが常識ではなく例外であること、生殖適齢期にフィットしない子育てを余儀なくされていることのほうがよほど大きな問題ではないだろうか。

 

私は男性医師だが、冒頭で触れたように専業主夫として子育てに時間を費やした。

そうしたうえで私は、子育てに専念できる時期は男性医師にもあって良いと思う。

子育てに専念すると、親子関係が変わり、夫婦関係も変わり、人生や世界の見え方も変わる。

 

だからこれは、女性医師だけの問題に矮小化すべきではない。

経済のロジックや医療需要のロジックに忠実になるなら、医師はすべからく就業し続け、子育てに専念などしてはならないのかもしれないが、そのような人間疎外はあってはならないはずである。

 

女性医師が男性医師と同じように働くことを理想視するのは、もうやめるべきではないだろうか。

というより現在の範疇的な男性医師のライフコースやキャリアコースも、トレーニング期間の長期化と生殖適齢期の兼ね合いからいって、非効率で時代遅れと言わざるを得ない。

 

もちろん、こうしたことを変えるのが制度からいっても慣習からいっても難しいことは私も理解している。

だが、難しいと理解していることと、それを肯定することはまた別である。

トレーニング期間が長期化し、それが自分たちのライフコースをより難しく、より険しくしているのなら、すぐには制度や慣習を変えられなくても、まずそこに問題があると周知されるべきだし、指差し確認されるべきだと私なら思う。

そして医師という専門家集団は、ここで述べているような問題を意識し、指差し確認するのに最適ではないだろうか。

 

Q先生のような女性研究者は増えたか

ここまで医師の話をしてきたが、もちろん医師ではない男女、とりわけ高学歴社会の真ん中を担う人々にも同じことが当てはまる。

 

社会が進歩し、ますます高度な知識労働者が求められるようになったことで、長く学ばなければならない人が少数の例外ではなくなった。

そうした高学歴化に伴うトレーニング期間の長期化は、20世紀後半には”思春期モラトリアムの延長”とも関連づけて論じられ、実際、就職や結婚の時期が遅くなる男女がだんだん増えていった。

 

社会がより高度な知識労働者を必要としていること、そうしたなかで向学心を持つ男女が増えてきたこと自体は喜ばしいことだ。

しかし、長期化したトレーニング期間によって知識労働者たちはライフコースを圧迫されるようになり、人生の舵取りが難しくなってしまう人も増えた。

たとえば女性の研究者が研究キャリアと子育てを両立させるのは、けして簡単ではない。

 

こうした問題は日本だけに起こっているわけではなく、欧米でも、知識労働者としての女性がキャリアと子育ての板挟みに遭ってしまうことは珍しくないようである。

欧米では日本以上に男性の子育て参加が進んでいるとはよく言われるが、だからといってキャリアと子育ての板挟みがなくなったわけではない。

この貼り付けツイートの引用元となっている「The unequal impact of parenthood in academia」というレポートによれば、女性研究者が母親になると研究生産性が下がる(そして男性研究者はこの限りではない)のだという。

 

この報告では、研究者が女性か男性かで研究生産性の下がり具合に違いがある、ということが重要なのだろう。

が、私には、子育てに時間やエネルギーを割くことで生産性が下がることを問題視し、下がらないほうが良いと決めつけて考えている研究者たちの固定観念と、その固定観念をつくりだしている現代社会の制度・慣習・通念のほうにも問題があるように思える。

 

アメリカの進化生物学者のサラ・ブラファー・ハーディーは著書『マザー・ネイチャー』のなかで、みずからの経験を踏まえたうえで、女性研究者のキャリアと子育ての板挟みについてこんなことを書いている。

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私は自分の選んだ職業で成功したいと、とても強く思っていた。だが一方で、自分の娘から安心感を奪いたくもなかった。娘がそれを求めていることは、はっきり確信できるようになっていた。個人的な野心が娘の要望と衝突するのは避けられないように思えた。

その当時、私は母親としての願いと職業人としての願いがこれほど絡みあっているものだとは思ってもいなかった。

近年の調査から、私もいまではわかっている。私が感じたような葛藤は、程度の差こそあれ、アメリカのほとんどの母親が経験しているものだ。

このような葛藤は、子育てをする女性研究者、ひいては現代の働く母親にとってなじみ深いものだと思う。

 

余談だが、このサラ先生は、進化生物学者としての研究分野をうまく生かし、研究をしながら子育てを進めるという離れ業をやってのけていたので、たぶんQ先生同様、研究者としてだけでなく人としての立ち回りも甚だうまかったのだろうと私は想像している。

 

このサラ先生やQ先生のような女性がもっと増えればいいと思う。

いやいや、男性だってこんな人生の軌跡を描ける人がもっと増えて欲しい。

 

だが現状は、こうした人生の軌跡を描いてみせるのは一種の離れ業である。

これが離れ業ではなく、当たり前にならなければならないと私なら思う。

 

「そこに問題は存在しない」わけではない

どのような職業、どのようなキャリアを選ぶ人でも、挙児や子育てといった人間にとってプリミティブな営みを否定されたり制限されたりすべきではないはずである。

優生学や断種のようなわかりやすい制限を問題視するだけでなく、実質的に否定や制限を迫ってやまないような制度・慣習・通念も「本当はそれっておかしいよね」と指差し確認しなければならない、はずである。

 

今、大学院などへ進んでいく研究者のなかで、さきに挙げたサラ先生やQ先生のようなキャリアを歩んでいける研究者はそれほど多くない。

もしいたとしても、それはキャリアの王道としてではなく、例外や離れ業とみなされるだろう。

 

20世紀の中頃ぐらいまで、高学歴な知識労働者といえばまず男性だった。

そのうえ、そうした知識労働者の男性たちは子育てとは縁のない、研究や事業に没頭する人生を歩んできた。

そのことを思えば、現代の知識労働者、とりわけ女性の知識労働者が直面するライフコースの困難がなかなか問題視されず、20世紀以来の制度や慣習がなかなか変わらないのはやむを得ないことなのかもしれない。

 

だからといって、そこに問題は存在しないとみなし、考えるのをやめてしまうべきではない。

もし「そこに問題は存在しない」などと思って構わないとしたら、女性に参政権が無かった過去の社会も、子どもに体罰を行うのが当たり前だった過去の社会も、「そこに問題は存在しなかった」と思って構わなかったはずである。

 

これから先、ますます知識労働者の割合が増え続け、私たちのトレーニング期間が長引くとするなら、いい加減、長引くトレーニング期間と生殖適齢期の兼ね合いについて慣習や通念を振り返り、反省し、変えていかなければならないはずである。

もし何も変わらないなら、これから知識労働者となっていく人々はますますライフコースを圧迫され、ますます子育てとキャリアを両立しづらくなり、ますます子どもをもうけなくなるだろう。

それは社会にとって深刻な損失であるはずだ。

 

今回私が書いたことは、多くの人には現実無視の理想論のように響くのではないかと思う。

 

そうではある。

今の段階では、この問題の背景にある制度・慣習・通念をアップデートするのは不可能に思える。

それでも私は、問題がそこに存在することを意識し、今は不可能にみえても理想を展望しておき、そこに問題があることを多くの人に知っていただきたい。

そしてキャリアと子育ての板挟みに遭うことがさも当たり前だという顔をしている社会が、それってちょっとおかしいんじゃないかと思う社会へとまずは変わって欲しいと願う。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by JESHOOTS.COM on Unsplash

激変する新卒採用マーケット

2020年は新卒採用マーケットの大きな転換点となる年でした。

近年1.60倍程度で推移していた有効求人倍率は、新型コロナの影響もあり、2020年10月時点で1.04倍(厚生労働省調べ)まで落ち込み、市場は「売り手」から、「買い手」へと急速に変わりました。

 

そのような中で報道されたのが、トヨタ自動車株式会社(以下トヨタ)の学校推薦撤廃のニュースです。

同社は2022年春に卒業・修了予定の技術職の新卒採用について、学校推薦による採用を廃止し、事務職と同様に自由応募のみとすることを発表しました。

 

なぜトヨタはこのタイミングで学校推薦の撤廃という決断を下したのでしょうか?

 

大学推薦撤廃の狙いは、「多様性の確保」だけなのか?

2018年10月、社長である豊田章男氏が「自動車業界は100年に一度の大変革の時代」と宣言したように、トヨタは今、自動車会社からモビリティカンパニーへと組織変革を進めています。

 

組織変革とそれによるイノベーション実現のためには多様な人材の確保が必須となりますが、そこで問題となるのが、人材の選定基準に偏りのある学校推薦による採用だ、というのが大方の見方です。

 

しかし、多様性の確保という観点のみで大学推薦を撤廃したのでしょうか?

一気に学校推薦を撤廃してしまうデメリット――大学推薦で担保されてきた人材の能力や専門性、人柄などにバラつきが出るリスク、採用コストの大幅増――や、これまで築いてきた大学との関係なども考慮すると、段階的に採用枠を減らして行くなど緩やかな選択肢もあったはずです。

 

トヨタはそれらのリスクやコストを負ってでも決断する意味があると考えたわけですが、そのメリット――これまでの企業文化や価値観をゆさぶり、強い危機感を醸成する、これまで積み上げた技術とそれによる成功体験を持つ中堅社員の意識を変えるなど――は、社内の意識改革が進むことです。

 

中でも筆者が注目したのは、大学推薦撤廃による、新卒人材の自律化の推進という観点です。

 

重要テーマである新人の自律化

人材の「自律化」は企業にとっての普遍的なテーマですが、「新人の自律化」という言葉を頻繁に耳にするようになったのは、テレワークが急速に普及してからです。

本来であれば、入社後に手厚いサポートが必要となる新入社員ですが、テレワークによって日々の業務活動が見えにくくなり、自律的に動いてもらうことが効率的なマネジメントや生産性の向上に欠かせなくなっているのです。

 

そのため、今まさに多くの企業で新人の自律化が重要な育成テーマとなってきています。

特にトヨタのような組織変革とそれによるイノベーションを推し進める企業にとっては、自発的、積極的なコミュニケーションや、失敗を恐れず挑戦する気持ちなど、人材の自律化は急務となっていることでしょう。

 

けれども、一体どのようにして自律的な意識を育てればよいのでしょうか?

 

自律化という言葉の中には企業ごとに様々な意味合いが込められており、一概に答えを出すことはできませんが、どの企業でも共通して語られるのは、働く人の内側から溢れ出すような内発的な動機付けの必要性です。

 

有名なモチベーション理論として、心理学者のエドワード・デシとリチャード・ライアンによる「自己決定理論」があります。

この理論の核は、本人による自己決定性が高いほど内発的な動機が高まり、自律的になるというものです。

自己決定性が高く、内発的に動機付けされた人は、自身の内側から生まれる楽しさや、面白さによって突き動かされるため、自律的に行動するようになるというわけです。

反対に自己決定性が低いと、自分とは関係がないことと感じてしまい、やらされ感や義務感から自律的でなくなってしまいます。

 

 

多くの企業が活用している学校推薦での採用は、企業にとって様々なメリットがありますが、その反面でどうしても企業側も大学側も毎年の推薦枠を埋めなければならないという義務的、外発的な側面が生まれてしまうこともあり、就職活動をする学生にとっては、「自分で決めて勝ち取った!」という強い自己決定性が生まれにくいという側面があります。

 

一方で自由応募により集まる学生は、義務的、外発的な側面があまりないことから、本人の自己決定性が高く、結果として自律性が生まれやすい環境を作ることができるといえます。

 

トヨタが学校推薦を撤廃した裏側には、多様性だけでなくこのような自己決定性に基づいた新入社員の自律性を育てていきたいという狙いがあるのではないでしょうか。

 

今だからこそできるトヨタの採用戦略

トヨタの学校推薦撤廃は、イノベーションによる新たな社会的価値の創造に向けて行われている取り組みの一つであり、多様性の確保はもちろんのこと、組織変革に向けた社内への危機感の醸成や、成功体験を持つ社員の意識変革、そしてこれからの時代の変化に適応していくための新人の自律化など様々な意図があると思われます。

 

また、学校推薦を撤廃する2022年以降の新卒採用マーケットでは、新型コロナの影響から就職活動に強い危機感を持った学生が増えるため「この企業にどうしても入りたい!」という自発性をもった学生が増えることが予想されます。

さらに、今後はしばらく買い手市場が続くことから、より高い能力を持った人材が以前に比べて見つけやすくなるという状況も学校推薦の撤廃を後押ししたことでしょう。

 

これらの意図や状況から、トヨタの学校推薦の撤廃という決断は新卒採用マーケットが激変する今だからこそできる採用戦略といえるかもしれません。

(執筆:寺内 健朗)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

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ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

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ちょっとした話なんですが、嬉しいことがあったので自慢させてください。

 

長女次女、9歳。4月から小学4年生になる、ゲーム好き・漫画好き・お絵かき好きの双子です。

長女次女が小さいころから、一緒に「内緒見つけゲーム」をやっていました。お風呂に入っている間とか、ちょっと空いた時間に、「内緒」を一つ見つける。内緒を探し出した人は褒められる、というゲームです。

 

いや、内緒ってなんやねんという話なんですが、要は何かしらの図や表を見ていると見つかる、ぱっと見では分かりにくい法則のことなんです。

例えば、しんざき家のお風呂場には、こんなシートが貼ってあります。

何の変哲もない、ちょっとファンシーな九九の表ですね。

お風呂場の壁に貼れるように、水気で吸着するタイプのやつです。

 

もちろん九九なので、1×1から9×9までの掛け算が載っているのは当然なのですが、「実はこの表には、他にも色々内緒の秘密があります」とある時言ったんです。

その例として、「5の段は、右側の数字が0か5しかないです」ということを教えました。

 

「他の内緒も見つけてみよう!」と言ってみると、長女も次女も、お風呂に入りながら一生懸命「内緒」を探し始めました。

例えば「6の段の右の数字は、全部2の段の答えの数字しかない」

「4の段や8の段もそうだけど数字の並びが違う」とか、

「9の段の右の数字が、987654321と1ずつ減っている」とか、

「おっきな数字の色が赤・青・黄色と分かれている」とか

「数字が小さい段の生き物程大きい」とか

「蛇の舌の長さが皆おんなじ」とか、そういうのですね。

まあ、算数と関係あるものもあれば、何の関係もないものもあるんですが。

 

この時私が作ったルールって一個だけで、「それがどんな内緒であっても絶対に発見者を褒めるし、数学的な理由は一切説明しない」ということでした。

 

何かを見出して褒められるのは、もちろん発見のモチベーションになります。

その内緒の発見者は飽くまで長女次女であって欲しかったですし、細かい理由を説明して「もうパパは知ってる」ということをアピールしたくもなかった。

理論については、後から学校で習った時に、「あ、これ昔気付いたアレだ!!!」って感動を味わってもらえればそれが一番いいと思ったんです。進研ゼミでやったヤツだメソッドです。

 

これ、別に九九の表に限らなくって、他にもABCの表とか、あいうえお表とか、電車の路線図(電車好きの長男が持ってたヤツです)とか、世界地図とか、色々な図表でやりました。

世界地図では、「この国(ポルトガル)から海だけを通ってこの国(日本)に行きたいです!どうやって行けばいいでしょうか!!」とか大航海時代ごっこをやっていたら、「ここ飛び越えたい」とか言ってあっさりスエズを突破されまして、期せずしてスエズ運河の重要性を説明出来たりしました。

 

ただまあ、もちろん私が誘導しつつなので、まだ自発的に何かを発見するには至りませんで、その場のノリで気付いたことを喋っている、という感じではありました。

もちろんそれだけでも十分だとは思うんですが。

 

一緒にお風呂に入らなくなって、この「内緒見つけゲーム」もその内あんまりやらなくなったんですが、先日長女と次女が二人でお風呂に入った後、次女がこんなことを言いました。

「ねえパパ、凄い内緒見つけちゃったかも」

 

暫く内緒見つけゲームをしていなかったので、最初何のことか分かりませんでした。

「え?内緒って?」

「九九の表見てて気付いたんだけど」

「はい」

「6×6って36だよね。7×5って35だよね?」

「うん」

「5×5が25で、6×4が24」

「うんうん」

「前と後ろの数は足すと一緒なのに、かけると全部1小さくなる……!!!!!」

 

取り敢えず私は、

「せ、世紀の大発見なのでは……!?」

と言っておきました。次女はとても嬉しそうに、胸を反らしてきゃっきゃ笑っていました。

 

私、実はこの時、ものすごーーく嬉しくなりまして。

 

これ、もちろん数学的に考えれば(x+1)*(x-1)=x~2-1という話なんですが、気付いたから偉い偉くないって話じゃなくって、「数列から一般的な法則を見つけ出す」という、いわば数学の源泉みたいなことに、誰に誘導されたわけでもなく、自分自身でたどり着いたことがすごーーく偉いと思ったんですよ。

 

そもそも「内緒探し」の動機として、何より「一見ばらばらな何かから、法則を発見する楽しさ」というのを味わってみて欲しかったんですよね。

一般性に落とし込む楽しさ。自分が法則を見出す快感。これって、多分人生のあらゆる場面で有用になってくる考え方だと思うんですよ。

 

ある法則を見つけ出す。それで他の事象についても説明出来る。これ、言ってみればアカデミズムの源泉です。

一般化の楽しさを知っていると、何より「見て、取り敢えず考える」という習慣が身に付きます。

ただの図表が、実は色々な内緒を隠していることを知っていると、「内緒を探そう」という視点で図表を見ることが出来ます。

図表の要素と要素がどう関係しているのか。そこには何か法則があるのかどうか。つまり、「データの意味」を最初に考えることが出来る。

 

更に、「一つの法則が、それ以外にも当てはまるのかどうか」という検証の思考も身につくんじゃないかなあ、と。

6×6と7×5は1違う。じゃあ他の数字ではどうだろう?それは全部の数字に当てはまるんだろうか?これって多分、エビデンスを元にした議論とか、科学的思考の萌芽でもあると思うんですよ。

そういった、いわば「思考の歩み」の種を蒔けていたとしたら、それはすごーく嬉しいことだなあと。

 

もちろん子どもの成長は非線形ですし、一度出来るようになったことが翌日には出来ないことが子どもにとってはデフォルトなので、これだけのことで何かが出来るようになった、とは間違っても言えません。明日には忘れている可能性は非常に高いです。

 

ただ、こういった「何かの考えのトリガー」を積み重ねることで、いつか何か大事なものが、長女や次女や、もちろん長男の頭の中でも芽吹くといいなあ、と。

そんな風に考えているわけなんです。

 

ちなみに、「内緒見つけゲーム」自体については、慣れてくると電車の中での暇つぶしとか、子どもたちを数分静かにさせておきたい時の時間稼ぎにも使えたりしますので、小学生の親御さんには結構お勧めです。

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

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Photo :Kentaro Ohno

以前から「妙に勘が冴えてる人」の事が不思議で仕方がなかった。

 

身近にも「よくこんな難しい病気を診断できるな」というタイプの医者が数名いるのだが、彼らは多くの人がスルーっと落とし穴を見逃す中で

「ここ、ちょっと変じゃないですか?」

とズバッと指摘するのである。

 

あの姿を見るたびに

「そもそも、なんでそんな所に目がいくの?」

とずっと疑問に思っていた。

 

「あれを自分もできるようになりたい」

そう思いコツのようなものを当人に問いただした事もあるのだが、みな口を揃えて「なんかピンとくるんだよね」などの曖昧な事しか言わない。

 

本当に長い間あの秘密が気になって気になって仕方がなかったのだが、つい先日読んだ本の中にその回答がやっとこさ見つかった。今日はその話をしよう。

 

入念に入念を重ね続けられる人だけが「ピンとくる」

これは、“あなたの生産性を上げる8つのアイディア”という本に載っていた話だ。

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この本の中で、皆が見逃す中たった一人だけ保育器の中にいる赤ん坊の感染症を見抜いて命を救った看護師の話が出てくる。

彼女に「なぜわかったのか?」と聞くと、初めは「直感」としか答えなかったそうなのだけど、何度も質問を繰り返すうちに実は彼女には一つの特異的な習慣がある事が判明した。

 

それはイメトレである。

それもフワッとした曖昧なものではなく、かなり細部まで毎日こだわり抜き続けるという、大変に綿密なものだ。

彼女は病棟を回る最中、常に「頭の中に健康な赤ん坊はこうあるべきだ」という細部までこだわり抜いたイメージを何度も何度も想像し、常に赤ん坊を診る際にその正常像と比較する事を習慣化していたという。

 

つまり彼女がピンと来たのは第六感でも何でもなく、常に頭の中にある模範解答と比較した間違い探しを徹底していたが故なのである。

今回の件も、そのイメージの像と細かい部分で違う像があったが故に気がつけたというわけだ。

 

つまり……、直感は何の準備もなしに天から降ってくるようなものではないのである。

入念に入念を重ね続けられる人だけが「ピンとできる」のである。

 

「直感に頼るな」の意味がやっとわかった

この記述を読んで僕はレオナルド・ダ・ヴィンチの「幸運の女神には、前髪しかない」という言葉を思い出した。

これは

「チャンスの女神には前髪しかないので、向かってくるときにつかまなければならない」

「通り過ぎてから慌てて捕まえようとしても、後ろ髪がないのでつかむことが出来ない」

という意味のフレーズなのだが、直感も同じだったのである。

直感の女神も、前髪しかなかったのだ。

 

僕はこれを読んで長年の疑問が氷解した。

医学の世界でも

「直感に頼りすぎると、いつか落とし穴に落ちる」

「だから少しでも違和感を感じたら、立ち止まって熟考しろ」

とよく言われるのだけど、この思考の切替は本当に難しい。というか出来ない。

だからみんな落とし穴に落ちるのだ。

 

後から振り返れば

「なんでこんな簡単な事に気がつけなかったんだ?」

というケースですら、当事者の最中はそうはみえない。

仕事などで一度痛い目にあった事がある人なら、読んでて胸がチクりとするだろう。

このシステムのバグをどうやったら上手に避けられるのか皆目見当もつかなかった。

 

けど、上記の事例を分析するにこういう事だったのだ。

「問題に当たってから考えるのをやめろ。そんな事をしてたら直感に騙されるぞ」

「その逆だ。問題に当たる前に考えるんだ。そんでもって最初の想定と少しでも食い違ってたら、最初から熟考しろ」

「落とし穴にハマってから考えても、もう手遅れなんだ」

 

なぜ、わかっていても私達は細かい未来予想をやらないのか?

この他にも、人より一歩踏み込んだ細かい未来予想をやる事で成功を収めているタイプの人は結構いる。

 

例えば村上ファンドで有名な村上世彰さんは、その著書である生涯投資家の中で

「投資するか否かは全て自分で細かくシミュレーションし、期待値を計算した上で決める」

と書かれている。

 

細かく細かく自分で考えられるケースは全て考えた上で、成功する確率と失敗する確率を事前に計算し、その上でリターンが大きいと判断したら躊躇なくリスクを取る。

そうして彼は巨万の富を築き上げる事に成功した。

 

僕はこの本を読んで随分と感心したのだが、改めて考えてみると自分は株で儲けたいと思ってる癖に、あの本を読んでから一度も彼の教えに従っていない。

僕以外にも村上さんの本を読んだ人は沢山いると思うのだが、彼の手法に感心した人は多くても、実際に同じことを綿密に実践し続けてる人はほとんど居ないのではないだろうか?

 

つまりである。確かに未来予想はやった方がいい。間違いない。

ただ…それを習慣化できるかというと…ものすごく難しい。だからみんな村上さんになれないのである。

 

じゃあどうやったらそれが習慣化できるのだろうか?

そのカギはたぶん行為にご褒美をセットで懐き込めるかにある。

 

決断を自覚すると、人生の裁量を実感できる

何かを習慣化させたいのなら+αでご褒美がセットできれば円滑だ。

やれば必ず気持ちよくなれるのなら習慣化も容易い。

 

現在進行系で依存症患者を山ほど生み出し続けているアルコールはまさにこのいい例だ。

アルコールは凄い。飲めば100%酔っ払って気持ちよくなれる。

御利益の返信率100%なんだから、そりゃみんなズブズブ沼にハマる。

 

仕事における細かい未来予想も、やったら気持ちよくなるご褒美が付与できれば話は早い。

とはいえ、さすがに仕事中に飲むわけにもいくまい。

ではどうすればいいのだろうか?

僕は決断の強い自認にそのヒントがあるように思う。

 

「今日は重大な決断をした」とつぶやくのは気持ちがいい

これは起業家の知り合いが増えて「面白いな」と思った事の一つなのだが、彼・彼女らは「今日は重大な決断をした」と事ある毎につぶやくのである。

最初の頃はあれが何を意味しているのかがサッパリわからなかった。

 

とはいえ面白そうなので実際に自分も何らかの意思決定を行った際に「今日は重大な決断をした」とつぶやくようにしたら、これがかなり気持ちいいのである。これには本当に驚いた。

 

この気持ちよさが何に起因するのかというと、恐らく自分の人生を自分でコントロールしているのだという実感である。

他人にやらされるのと、自分でもって主体的にやるのとでは、何でも全然楽しさが違う。

人生のコントロール感の再認識は自尊心を強く高めてくれる。

 

成功した起業家の自尊心が高いのは実際に自分の選択がダイレクトに現実に反映される等のみならず、サラリーマンと比較して意思決定したという自認頻度が違うのも大きいように思う。

 

普通の勤め人で「今日は重大な決断をした」と言う人はあまりいないが、あれは本当に勿体ない。

絶対に意識して言うようにすべきである。

あんなに言ってて気持ちいいフレーズはそう無い。

 

なので未来予想にもこれを組み込めたらかなりいい感じにイケると思う。

 

定期的に自分のやった仕事を振り返って

「今日も細かい未来予想をやった上での意思決定ができた」

「重大な決断ができたぞ」

とでも自認すれば、かなり心持ちも変わるように思う。

 

自分の人生に裁量を感じられるように人生をデザインする

先ほどは飲酒の例をあげたが、同じ飲酒でも友達との飲み会と上司から無理矢理飲まされる酒とでは楽しさが全く違う。

上司に無理に飲まされる酒ほどまずいものはない。

御利益は同じはずなのに、自分の手で選択するのと他人から無理やりやらされる事ではこんなにも雲泥の差がある。

 

実はこれこそが人生の本質だ。

いくら御利益があるものでも、自分で選んでやらない事は一ミリも人生を楽しくしてくれないのである。

 

先ほどは自分で良い習慣を築き上げる為のヒントのようなものを書いたけど、実は世の中にはそうではない習慣も沢山ある。

例えば多くの人は働きだしたら毎朝それなりに決まった時間までには起きられるようになる。

こういったタイプの習慣は外部圧力により無理やり形成されたものだが、経験上そういう”やらされてる習慣”が生活の大部分を占めるようになると、心がどんどん病んでいく。

 

これこそ「自分で決断してない」最たる例だ。

「今日は重要な決断をした」のまさに逆である。

 

誰かの為の習慣には自分の人生は無い。

あなたは今日、何か自分の意志でキチンと決断しただろうか?していないのなら、そりゃ人生がキツくても当然である。

それは上司に酒を飲まされて悪酔いするのと全く同じだ。

 

あなたの人生が辛いのは人生の裁量を実感できない習慣が生活の多くを占めているからに他ならないのである。

 

人生の裁量は自分で作れる

「そんな事いっても、どうにもできない」

こういう人もいるかもしれないが、人生は工夫次第でいかようにも改変は可能である。

 

例えば家事育児などで忙しく、朝にしか自由時間が作れない社会人は自分の意志で以前よりももっと早起きしてたりする。

普通に考えれば彼らは前より早起きしてるのだから幸福度が下がりそうなものだが、僕の知る限り多くの早起きを意識してやってる人間はむしろ幸せそうである。

 

なぜそんな逆転現象が起きるのか?

それは元々は出勤のためだった起床が、今度は自分のための早起きとして変換されたからだ。

早起きにより自由時間を得るという行為には主体性がある。

その行為の中には間違いなく裁量があり、それは貴方の魂を癒やす。

 

この通り、不自由の中にも自由は作れるのである。

全てはあなたの工夫次第なのだ。

 

たとえ監獄の中にいたとしても人間は自由を生み出せる

人は不自由な中にあっても自由を見出すことができる。

名作映画である「ショーシャンクの空に」の有名なシーンを取り上げよう。

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この映画は冤罪によって投獄された有能な銀行員が、腐敗した刑務所の中でも希望を捨てず生き抜いていくヒューマン・ドラマだ。

この映画の中でも屈指の名シーンの一つとして、主人公のアンディが「フィガロの結婚」のレコードを許可なく獄中で爆音で流すシーンがある。

 

規則でがんじがらめにされた不自由な刑務所の中で自由を貫くという見ていて非常に爽快感あるシーンなのだが、この超絶名シーンの後がまた凄い。

この爆音行為のあと、主人公アンディは規則違反を咎められて反省部屋へ入れられるのだが、二週間後にアンディは表へ出た後に仲間とこう会話する。

 

***

 

「懲罰房はどうだった?」

「快適だった」

 

「うそつけ。地獄だろう」

「モーツァルトを聴いていた」

 

「まさか、独房でレコードを?」

「頭の中で。心の中で。人から音楽を奪うことは決してできない」

 

***

 

独房の中にだって自由はあるのである。

人はいつだって自由だ。不自由の中にも自由はあるし、その逆もまた然りである。

全てはあなたの次第なのである。

 

今日は重大な決断がキチンと自分できただろうか?

毎日を振り返り、それに強く首を縦に振れるような人生が構築できれば、きっとあなたの人生は明るくなる。

幸せになれるかの差は、たぶん本当にそのちょっとした違いだけなのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by MontyLov on Unsplash

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