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生命エネルギーが低下したとき、回復するためには何をしたらいいのか。富山で行われた「食べる瞑想、動く瞑想、話す瞑想」から「瞑想」の力を紹介する。

 

生命エネルギーの補充、心の傷の癒しに

都市でマンションに住み、電車に揺られ、オフィスに通って主に頭脳を使う生活をしていると、生命エネルギーがすり減ってくるのではないか。また、年を重ねれば家族との死別など避けられない別れもあり、懸命に生き、働いていても何らかの不条理な経験は避けられず、心に大小の傷を抱えたままの方も多いだろう。

 

徐々にエネルギーが低下してきたとき、生命エネルギーを補充し、心の傷を癒すために何ができるだろうか。その一つの可能性として、「瞑想」を紹介したい。

 

それが、今回私が関わらせていただいた「食べる瞑想、動く瞑想、話す瞑想@富山 ~宇宙と一体となる土徳ツアー~」だ。

 

これは、富山県にお住まいの懐石清傳 店主 中尾英力先生が「食べる」を、合気道をやっている私が「動く」を、私のグロービス経営大学院の教え子であり、同大学院の広報である中山景さんが「話す」を担当したイベントだ。

 

開催場所は、富山県南砺市利賀村。富山駅からも車で1時間半掛かる山の中。果たして、参加者は集まるのかと当初心配したが、東京、名古屋、京都、富山から13名の方が参加してくださった。

 

さて、ここからは、食べる、動く、話す、それぞれの瞑想をどのように行ったのか、プログラムの内容を紹介したい。

 

食べる「瞑想」―命への感謝

プログラムは、中尾先生の食べる瞑想から始まった。最初に、丁寧な食事作法の講義を受けたが、ここが大変に面白い。例えば、「お茶」が五行思想(木-火-土-金-水)から成り立っていることや、「易経-論語-中庸-大学-小学」の中国の古典の関係などを伺った。

 

そして、易経が中国古典における宇宙に当たると教わる。東洋哲学についてこれほど簡潔・明瞭なご説明を受けたことがなく、非常にわかりやすかった。その後、講義は、仏教における心の次元(マナ、アラヤシキ、ムク)にまで広がった。

 

講義のあとは、お盆・食器で宇宙を表現した中で風呂敷・折り敷・布巾を用いながら、食事をする。

 

食事に手をつける前に、食物の命をいただくことへの心を整え、その食物を作った方々の労苦への感謝を述べる。感謝を表す形としてお米七粒を刷(食器を洗うための道具)に残す。食物の命を我々は活かし、良い世界の実現への誓いを述べる。

食物の命をいただいた後は、中尾先生が注いでくださった香湯(香木を浄水で煮出した清浄な湯)を使い、刷で食器を洗う。そして、その香湯を一口だけいただき、香湯を折水としてお返しする。この丁寧な食事の作法を通じて、私は宇宙を感じ、生きることとは多くの生物の命をいただいて命の交換をしていること、自身も生命界での一部であることを、刷へ残す七粒のお米や折水の工夫より認識した。

 

動く「瞑想」―身体を通じて宇宙とつながる

続いて、動く瞑想(合気道)だが、ここは私が担当した。合気道の始まりは、会津藩の重臣の技である合気柔術である。お殿様の前では刀を抜くことや立ち上がることが許されていなかった合気柔術の名残で、合気道には座り技がある。つまり、刀を持つ敵に素手で座ったまま応戦するのだ。そこまで不利な状況で応戦するには、宇宙と一体となる必要がある。合気道の稽古とは、宇宙と一体になることを目指していることを参加者に説明する。

 

そのあとは、合気道の実践を行った。合気道の実演では、中尾先生の講義と食事で広がった宇宙のイメージをそのまま使わせていただき、技の実践の中で、重力と友達になり、円運動を行い、合気道でも宇宙と一体となれることを実演する。

 

宇宙には、重力があり、星は円運動を行っていることから、合気道では、これらの動きを取り込み、相手を投げたり、捕えたりする。また、中尾先生の仏教における心の次元の通り、相手を投げようという自我(五識)が稽古相手への感謝に変わった際に技にどのような変化が生じるかを掴んで貰う意味で、相手と手を合わせ、或いは相手を愛した時に、稽古相手がどれほど軽く感じるかを参加者にも体感いただく。

 

その後は、MITのSenge教授やScharmer教授がSoL(Society for Organizational Learning)にて実施しているSocial Presencingと呼ばれる身体劇をグループで行う。これは、“出現したがっている未来”を表出させる身体劇だ。

主人公となる方が社会・自身の問題を身体的に表現し、同じ班のメンバーが主人公の身体を物理的に動かし、寄り添うことでその問題を解決していくものである。実はこの身体劇の実演中に、主人公の祖先の役割を担う方が出てきたり、傷を抱える主人公の親となって、どういう気持ちで主人公を見ているかを話してくださった方もいた。時空を飛び、主人公に力を与えたことで、宇宙(魂の世界)を身体劇で表現できたと思った。

 

身体劇は、主人公の役の人にとって、他人が自らの身体に触れ、動かしてくれるという点が特徴的で、心に大きな変化を生む。他者によって自分の身体が動かされ、他者の暖かさに触れることで、心も動き出せるスペースを得るのだ。気の合う仲間と是非試してみてほしい。(もし、ご用命がありましたらお手伝いいたします)

 

話す「瞑想」―天賦の才を見る

最後のセッションは、中山景さんの禅のセッションで、無門関48公案(禅の問い)の紹介があった。禅問答をベースにした中山さんの教育の哲学には、「誰しもが生まれながらに授かった天賦の才・価値・資質がある」というもの。しかし、子供から大人へ成長する過程で、その天賦の才を自分で認められなかったり否定しだしたりする。

 

それらを内観し、自分の天賦の才を承認し、仲間の天賦の才を承認する。そして、それらを参加者同士でポストイットに書き出す。仲間に書いたものは、その方の身体に「最大の承認」を表現して貼り付ける。全員で、互いの天賦の才について称賛とエールを贈る。

 

そして、13人全体で未来のビジョンをまたまた身体劇で表した。実に壮大な身体劇が即興でできあがる所に、参加者+主催者16人が2日間で深く深く繋がり合ったことを感じた。

 

元気の源―心と身体、そして宇宙に触れる

どうして2日間のプログラムで我々は元気と活力をいただけたのだろうか。まず、食事、武道、禅のどのセッションも宇宙(命や魂)がテーマで、素晴らしい感性をお持ちの参加者の皆さんと、心と身体を存分に使い、宇宙(命や魂)に触れたからではないかと思う。

 

お祭りもエネルギーが充満しているが、それは、村の方々が総出で用意して、実演するからだけではない。神事(舞、神輿、相撲等)を通じて、神様の存在を近くに意識することで得られる高揚感こそがエネルギーなのだ。

 

場面を冒頭の都市生活者、或いは、心の傷を負った方に戻ろう。都市に居ると、心と身体をほとんど使っていない。頭ばかりを働かせることになる。人との距離が近すぎる通勤電車では、人はいわば能面を被る。そうすることで、相手とほぼ距離がない状況に適応している。TVのCMのように朝食をゼリーとしていたら、周りへの感謝や食事を取ることでの命への想いも生じてはこない。

 

だから、まずは、運動をしよう。身体を動かすと身体がほぐれ、心も動く準備ができる。次には、好きなことをしよう。没頭できることがあれば、心は心配事から解放される。そして、可能ならば、良い場やエネルギーを持ったものに近づこう。家族、友人、映画、美術展、神社、海、山などはその一例に当たるだろうか。そして、可能ならば、時空を越えたものに触れよう。縄文時代の展示を見に行く。お祭りに参加して神輿を担ぐ。ボランティアで砂浜の清掃を行い、未来の子供たちが砂浜で遊ぶ姿を想像する。

 

今回は、富山の利賀村にて瞑想ツアーを行ったが、食をいただき、体を動かし、話をすることはどれも都会の日常生活でもできることだ。宇宙や命、神様を感じることで、あなたの生命のエネルギーは高まっていく。もし、自身の中で、生命エネルギーが足りないと感じたら、この記事を思い出し、食べる・動く・話す瞑想を通じて、エネルギーをチャージいただきたい。

(左から、筆者、「話す瞑想」担当の中山景さん、「食べる瞑想」担当の中尾英力先生)

 

(執筆:中村 知哉

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Kyle Sudu

コンサルタントは聞き上手であれ、新人の時、そう教わっった。

具体的には、クライアントや部下と話すときには、例えば「話す」時間を2、とすると8以上の「聞く時間」を取れと言うのだ。

 

そのため、具体的には以下のような技術を、ロールプレイなどで身に着ける必要があった。

 

1.相槌をうつ

相槌は必須。

ただし、わざとらしくなく。大げさなのはNG。わざとらしいと嫌われる。

「オウム返し」に、簡潔に相手の言ったことを要約して繰り返す。

 

2.肯定も否定もしてはならない

安易に「わかった」と言うと嫌われる。「ちがう」と否定しても嫌われる。

「そうなんですね」「よかったですね」程度にとどめる。

 

3.相手を評価しない

相手の話を評価すると知らず知らず態度に出る。

「良い」も「悪い」もなく、相手がそう思っている、と言うだけの話だと割り切る。

悪く言えば、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前の中ではな」

 

4.意見を言わない

「どう思う?」と聞かれても、自分の意見は極力言わない。

どうせ相手は聞いていないし、ほとんどのケースでは意見を求められているわけではなく、同意を求められているだけ。

「ご想像の通りだと思いますよ」「おっしゃる通りだと思います」など、相手の期待通りの返事をするだけでいい。

 

5.アドバイスしない

ぜったいにアドバイスしない。アドバイスは嫌われるし響かない。

課題を話してもらったら「ではすでに対策をしておられるのですね。」と返す。

愚痴には「そうですか……(悲しい表情で)」と返す。

すると相手はまた、話しを始める。

 

6.話が途切れたら、むしろ沈黙する

相手の話が途切れたら、まずは沈黙して、相手が話し出すのを待つ。

こちらに何か求めているようならば、「じっと相手を見てうなずく。」

すると、また相手は話し始める。

 

7.好奇心を総動員する

平凡な人でも、何かしら面白い話を持っていて、かつ何かのプロである。

つまらないのは、自分の好奇心が足りないからと思うこと。

聞く価値のない話は一つもないと心得る。これは相手に対する礼儀でもある。

 

8.「商材の紹介をしてくれ」と言われた時だけ、最低限の情報を渡す

「商品の話」を聞かれたら、セミナーの案内をするか、◯万円でこういうものがあります。と言うだけにとどめる。

商材のアピールも、提案もする必要はない。

本当に相手がこちらを信頼しているときは、勝手に知りたがりの「聞き手」になって、質問をしてくる。

ほとんどの人は自分の話を聞いてくれる人が好きなので、「商品を売るな、自分を売れ」は真実。

 

 

どこかで聞いたような話かもしれない。

「聞く」系の本を読めば、大体同じようなことが書いてある。

別にそっちを見てもらっていい。

 

だが、「聞く」なんて、話さなくてよいのだから簡単だろう、と思って実践しようとすると、これが実に難しい。

なにせ、相槌一つでも、わざとらしくないようにやるには練習が必要だし、「肯定も否定もしない」で聞くのは、想像以上に神経を使う。

 

「評価をするな」と言われても、ひどい話を聞けば、「ひどい経営者だ」と思いたくなるし、「大きな課題なんだよね」と言われてそれを真に受け、長々と自社のアピールをしてしまうコンサルタントも大勢いた。

 

中にはどうしても黙っていられない人もいて、無理やり黙るために、自分の膝をがりがりかきむしってしまうようなこともあった。

だから本当に「聞き上手」になれる人は、実はものすごく少ない。

 

うんざりしただろうか?

もっともだ。

聞き上手のメリットを語る書籍は腐るほどあるが、実は「聞き上手になる」のは、実はあまり愉快なことではないし、「聞き上手になろう」というモチベーションもわきにくい

 

その一つの理由は、「話し上手」は1対多のスキルで目立つが、「聞き上手」は、1対1のスキルで、それを知る人が少なく抑えられてしまうため、高い評価を受けにくいことだ。

営業やコンサルタント、記者あるいはカウンセラーでない限り、「聞く技術」が必須となるシーンは少ない。

 

もっとも、仕事もプライベートも、人間関係の改善には、それなりの効果があるのは間違いないけれど。

 

「聞き上手」の究極のデメリット

しかし、何より大きなデメリットは、「話す」より「聞く」ほうが、圧倒的に疲れる、と言う点だ。

疲れる、どころではなく疲弊する、と言っても良い。

 

私は業務において、「話し手」も「聞き手」も両方つとめたが、「聞き役」に徹した時には、1、2時間ほどであまりにも疲れすぎて、立ってられないほどだった。

 

しかも、仕事で聞き上手を演じると、家に帰るころには、精神的なリソースを使い果たしているので、プライベートでは「聞き役」をする余裕がなくなっている。

だから、家族から「話聞かない人だね」と言われてしまう可能性すらあり、コンサルタントの中には、それでプライベートに支障をきたしている人も多かった。

 

しかも、聞き上手になればなるほど、相手のためを思えば、どうしても「聞き役」のひとは、ずーーーーっと聞き役をやらざるを得なくなる。

「話したい人」は腐るほどいて、「聞ける人」が希少だからだ。

 

もちろんみんなが、持ち回りで「聞き役」ができれば一番良い。

だが、「聞ける人」は、相変わらず少ない。

 

結果として、多くの「聞き手」が、疲弊し、人嫌いになる可能性すらある。

「疲れるから、聞くのはイヤ」

「話すのも、(聞き手の気持ちがわかるし)嫌われるからもっとイヤ」

というわけだ。

 

これが究極のデメリットだ。

 

 

確かに、どんな人でも面白い話を持っているのは事実だった。

しかし、それを引き出すためには、大変な精神力を問われる。

 

疲弊してまで「聞き役」になりたいと思うだろうか?

それとも、人の迷惑を顧みず、話をしまくったほうが良いのだろうか。

 

私に答えはない。

 

ただ、これだけは言わせてほしい。

今日もクライアント、上司、パートナー、子供の話を、じっと聞かなくてはならない人たちの献身によって、皆が幸せになっているのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo:Alireza Attari

東京駅で新幹線に駆け込む前、お土産屋に立ち寄るといつもこんなことを考えている。

「この巨大なお土産売り場は、本当にこれでいいのだろうか」

 

考えてもみて欲しいのだが、お土産は本来、

「大事な人に喜んでほしいので、ご当地の名産を」

「旅先で美味しいものを食べたから、おすそ分けに」

といったような動機で買い、友人や同僚にお渡しするのが込めた想いだ。

 

しかし東京駅のお土産屋さんで見かけるお菓子や食品は、食べたことが無いどころか初見のものばかりである。

出張や旅行の手土産として、何をどうやって選べばいいというのか。

 

そんな中で、きっと多くの人がこんなことを思いながらお土産を買っているのではないだろうか。

 

(1)予算が合う

(2)美味しそうに見える

(3)値段の割に豪華に見える

(4)日持ちがする

(5)個包装で清潔に分けられる

 

私自身そう思いながらお土産の物色を始めるのだが、しかしすぐに嫌になってやめてしまう。

(見たことも食べたことも無いようなものをお土産としてお渡しするって、いくらなんでも不誠実だろ…)

(美味しかったと言ってもらっても、嬉しくもなんともねえ…)

 

そして最後には東京ばな奈コーナーに向かい、こんなことに気が付かされる。

「なるほど…だから東京ばな奈は、東京土産の顔になれたのか」と。

 

「お前の職業はなんや」

話は変わるが、私が証券会社の1年生だった頃、こんなことを豪語する頼りになる先輩が支店にいた。

「お客さんの接待でも彼女とのデートでも、予算と好みに合わせて美味いメシ屋を教えたるわ」

 

平成初期の話で、インターネットはビジネスユースでも贅沢品という時代だ。

当然、食べログもインスタもないので、飲食店の下調べと言えば「るるぶ」や「~の歩き方」シリーズなどの雑誌に頼る。

情報の少ない中、完璧でハズレが無い先輩の情報は本当に頼りになった。

グルメ誌に載っているような飲食店は見透かされ、がっかりされてしまうことも多かったので、困った時にはいつもアドバイスを貰っていた。

 

そんなある日、先輩のすごすぎる情報網が気になり、こんな質問をしたことがある。

「先輩、なんでそんなにたくさん美味しい店を知ってるんですか?よほど食べることが好きなんでしょうね」

「アホか。俺は食べることなんか全く興味ないわ」

「へ…?じゃあなんでお店の開拓なんかしてるんですか?」

「仕事のために決まってるやろ…」

 

すると先輩は、新しい支店に異動になったらまず、周辺飲食店の開拓から始めるという。

お金持ちの客の接待に使える店、後輩を連れて行くのにちょうどいい店、2件目で飲めるバーなど、用途・金額別に徹底的に調べるのだという。

 

「そんな事して、本当にお金がもつんですか…?食べることも好きじゃないなら、苦痛じゃないんですか?」

「桃野、お前の職業はなんや」

「…証券マンです」

「証券営業って、何をすることで給料をもらえるねん」

「…顧客から、手数料を頂いてです」

「アホ!それは結果論や!」

 

そういうと先輩は、“お金の本質”について熱く語りはじめる。

誰かを幸せにし、何かを良くするためにお金を使うことが、「投資」の本質であること。

良い投資をすれば、お金は必ず元手よりも大きくなり「ありがとう」と一緒になって帰ってくること。

その投資の本質を理解し、顧客に「正しい投資先」をご案内し幸せになってもらうことが証券マンの仕事であることを、一気にまくし立てた。

 

「だから俺は、ご縁があった人との幸せな時間のために投資している。美味い食事の演出ほど、正しくてコスパの良い投資はないからな」

「しかし先輩、そこまで投資して得た情報をなぜ、皆に惜しげもなくシェアするんですか?恥ずかしながら、私なら教えたくありません」

「お前がオレに感謝してくれたら、それもいつか返ってくるかもしれんやろ。これもまた投資や。期待してるぞ」

 

思えば先輩は、顧客をアテンドして出張するときも、必ず自腹で前泊していた。

後から知ったことだがその時も、飲食店を前日からハシゴして探し回り、当日こんな事を言いながら顧客をお連れしていたそうだ。

「たまたま大学時代の友人が地元で、いい店を紹介してもらったんです」

 

だがこんなことが何度も続けば、いくら鈍い顧客でもいずれ気がつく。

(もしかしてこいつ、毎回自分の足で調べて、オレの好きそうな店を見つけ出してるのか?)

 

そうなったらもう、その顧客はちょっとやそっとでは先輩から離れない。

相手を想い、共に過ごせる時間に“一期一会”の覚悟で臨んでいることが嫌というほど、伝わるからだ。

当然、そんな人間はそれ以上の熱意で良い仕事をするに違いないと、100の言葉で売り込むよりも心を持っていかれる。

 

誤解のないようにいうが、これは決して人心掌握術など小手先の技ではない。

私たちの時代、営業パーソンになると新入社員研修で必ず叩き込まれるテクニックに、こんなものがあった。

 

“接待の時は、顧客が吸うタバコの銘柄をあらかじめ調べ、2~3個持っていくこと”

“相手の好きなビールの銘柄を調べ、それが飲めるお店にお連れすること”

 

先輩は、こんなどうでもいい形ばかりの演出は完全に無視していた。

そんな下らないことで喜ぶようなヤツは客にしないとまで、言っていたように記憶している。

ご縁があった人に喜んでもらう”本質”を考え続け、自分らしいやり方にたどり着いたということなのだろう。

 

そんな先輩だったが、程なくして退職し独立してしまったので、短いお付き合いになってしまったのがとても残念だった。

しかし社会人1年生だった私には、先輩が教えてくれたお金、投資、一期一会の本質といった価値観は今も、色濃く刻み込まれている。

そんな先輩にはいつか、期待していると言っていた「投資のお返し」ができることを、今も夢見ている。

 

100円の”東京土産”

話は冒頭の、「東京ばな奈」についてだ。

なぜこんな、ド定番でありふれたお土産が長く、多くの人の買い物カゴに入れられ続けるのか。

 

東京駅の華やかなお土産売り場を歩きながら、初見の美味しそうなモノをカゴに入れる誘惑に駆られる時、先輩のこんな言葉を思い出す。

「お前、雑誌で知ったような店に彼女や大事な客を連れて行って、成功して嬉しいか?失敗して納得できるのか?」

 

そうだった…

俺はこのお土産について聞かれた時、なんて答えられるだろう。

 

「多くのお土産の中で、どうしてこれを買ってきてくれたのですか?」

(…美味しそうだったので)

 

「おすすめのポイントはどこですか?」

(…値段の割に豪華に見えるところですかね)

 

そんなこと言えるはずもなく、もうこのお土産はたった一言の会話で、相手との関係を危うくする可能性すらある。

「あなたへのお土産に、そこまで深い考えなどありません」

というメッセージが透けて見えてしまうからだ。

 

先輩は、顧客や後輩を連れて行った飲食店ではいつも最初に、こんなことを語っていた。

「社長、この店の赤貝、水槽から活きで食わせてくれるんで最高ですよ」

「桃野、この店は鯛めしが最高にうまいぞ。お前の給料でも背伸びしたら来られるから、一度彼女連れてきてやれ」

 

もう30年近くも前だが、そんなことを話しながらメニュー表を広げる先輩の顔を、今でもハッキリと思い出せる。

「なぜこの店に連れてきたのか」のストーリーが明確で、カッコ良かったからだ。

 

そんなことを思い出すと、お土産一つにどれだけの想いを込められるかに、とても手を抜くことなどできない。

しかし、新幹線の出発時間も迫っている…。

 

そんな時に「東京ばな奈」コーナーに行くと、相手に喜んでもらえるストーリーが容易に組み立てられることに気が付かされる。

定番の味はもちろんメープルカステラ風、マドレーヌ、パイやクッキーの変わり種といった選択肢…。

さらにグルテンフリーの米粉でつくったものや、レーズンサンドといった思い切った商品まで最近は見かける。

 

であれば、マルセイバターサンドが好きだという友人には、

「東京ばな奈がパクリでレーズンサンド出してたぞ、食べてみようや」

と語りながら、一緒に楽しめる。

 

小麦アレルギーのお子さんがいる取引先の担当者には、

「東京ばな奈が米粉でつくった商品を出してるの、見かけたんです。宜しければご家族で食べて下さい」

とお渡しできる。

 

誰もが知っていて食べたことがあり、美味しいという知名度を基礎にした上での、バリエーションがあるからだ。

だから最後には、つい東京ばな奈コーナーに吸い寄せられ、買い物をさせられてしまうということである。

 

なお先輩との後日談だが退職後、久しぶりにお会いした時に「ほれ、土産だ」と小さな紙袋を渡されたことがあった。

開けてみると、中身はメンソレータムの薬用リップ1本ただそれだけだった。

時期はまさに今頃、寒さの厳しい1月の末である。

 

言いたいことは、すぐに伝わった。

「唇をキレイにするだけで印象が大きく変わるから、手入れしろ」

「お前の活躍と健康は、いつも気にかけている」

 

たった100円でこんな”東京土産”ができるものなのかと、改めて先輩の人間力に敬服する思いだった。

そう思うと、東京ばな奈に頼っているうちは私の”お土産道”など、ヒヨッコどころではない。

 

そうしてまた、私は東京駅のお土産売り場で頭を抱えることになる。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

角ハイボールが好きな人は多いと思いますが、新幹線に乗る前に売店で買うのはオススメしません。
新幹線の中で買いましょう。
車内で買うと、同じお値段でコップと氷を付けてもらえるので、いつまでも冷え冷えで楽しめますよ!
(^v^)

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

Photo by:高見 知英

世の中のフェミニストたちに伝えたい。主張せずとも女性の権利が保護される、楽園のような男女平等の舞台が存在するということを。

 

その舞台とは、麻雀卓である。

私の大学生活は、麻雀で始まり麻雀で終わった。卒業に5年かかったことすら、麻雀に由来するといっても過言ではない。

 

当時、公務員だった父から、

「留年だけでも恥ずかしいのに、その理由が麻雀だなんて、こんな情けないことはないぞ!」

と、大目玉を食った記憶がある。

 

そもそも、私が麻雀と出会ったきっかけはアルバイトだった。飲食店やコンビニといった、ありきたりな職種ではなく、なんというか、昔ながらの大学生らしい「粋なバイト」を求めていたのだ。

そんなある日、私は大学裏の商店街で「アルバイト募集中」の貼り紙を目にした。求人が貼られた緑色の看板には「雀荘」という文字が光る。

 

(・・麻雀か。なんとなくカッコいいな)

 

麻雀など打ったこともなければ見たこともない、完全なるずぶの素人だが、何事もスタートはこんなもんだ。

こうして私は、タバコのヤニで黄ばんだ不健康な空間で、粋な(?)アルバイトを始めたのである。

 

高額な勉強代

雀荘でのバイトを始めて数か月は、働けど働けどなお我が生活楽にならざり、だった。

深夜に麻雀を打つ「徹マン」専門のアルバイトゆえに、稼ぎはいいはず。なのになぜ、バイト代がマイナスなのだろうか。

 

 

私のバイト先は「セット麻雀」のため、一人でふらっと訪れる客はいない。その代わりに、友だちやサークル仲間を集めて、4人セットで入店するのがお決まり。

そのため、「フリー麻雀」のようにメンバーが足りない卓へ店員が入ることはないのだ。

 

とはいえ、「雀荘の店員が麻雀を知らない」というのは非常にカッコ悪い。客からも舐められるだろうし、トラブルがあった際の対応にも困る。

そこで私は、麻雀を勉強することにした。

 

まずは書店で、麻雀のルールや点数計算についての解説書を購入した。次に、プレステの麻雀ゲームを購入し、バイトと睡眠時間以外を麻雀学習に費やした。

そしてある程度のルールを覚えたところで、さっそく実践へと移ったのである。

 

「ゲームの麻雀がどれほど役に立たないかを、しっかり学ばせてやるからな」

 

まだ始まってもいないのに、突如、商学部の樋口先輩に凄まれた。

この人はカネにがめつい策士である。見た目は紳士だが、真面目にヒトを欺くし、全力でカネをむしり取るメンタルの強さを持っている。

 

とはいえ、そんな樋口先輩から学んだことは多い。中でも記憶に残っているのは、この二選だ。

 

「本気で麻雀が上手くなりたければ、高レートで打て。人間は痛い思いをしなければ、本気になどならないのだから」

「場を乱すな。自分の順位変動に影響のない手で、他人の勝負の邪魔をするな。その行為は、巡り巡って自分の流れを乱すことになる」

 

いま振り返っても、この世の本質を突く名言といえる。勝負の世界に限らず、仕事でも趣味でも当てはまることだからだ。

そして、この名言に見事コントロールされた私のバイト代は、樋口先輩らの懐へと消えていったのである――。

 

(高額な勉強代、いつか必ず取り返してみせるぞ・・・)

 

「中」をポンしなかった罪の重さ

「なんで鳴かねぇんだよ?鳴けばアガれただろ!」

 

南3局終了後、法学部の池山先輩に怒鳴られた。彼が捨てた「中」をポンしようか迷った末に、スルーした私。

それについて池山先輩は、なぜ「中」をポンしなかったのかと、鬼の形相で問い詰めてきたのだ。

 

「だって、鳴くより門前で手を育てろって、先輩たちがいつも言ってるから」

 

私はもっともな答えを返した。そうだ、いつもあんたたちが「簡単に鳴くな!」「安目でアガるな!」と、うるさく言っているじゃないか。だからこそ、「中」をツモるまで我慢していたのだ。

それを今さら、手のひらを返すかのように「なんで鳴かなかった」はないだろう。

 

すると池山先輩はこう言い放った。

「おまえが飛んだらオレの3位が確定する。どうにかしてアガらせようと『中』を出したのに、ポンしなきゃ意味ないだろうが!」

 

私はギョッとした。池山先輩は、私が「中」を2枚持っていることを知っていたのか?!なぜ??

 

「ほかの字牌はある程度出てただろ。それと、おまえが右端に字牌を2つ並べてるのが分かった。そこだけ不自然に隙間あいてたからな」

 

悔しいがその通りである。何が何だか分からなくならないように、字牌を右端に固めておいたのだ。

おまけに、どうあがいても「中」のみが精一杯だったので、せめて鳴かずに門前で揃えようと粘っていたのだ。

それをすべて見抜かれていたとは――。

 

そして究極の悪夢は、断トツの樋口先輩が満貫(マンガン)をツモってしまったため、持ち点が千三百点しかない私は飛んだのだ。「飛ぶ」とは、持ち点がマイナスになることを意味し、そうなると自動的に対局は終了する。

こうして、私が飛んだことで池山先輩の3位が確定し、彼はブチ切れたのだ。

 

「樋口先輩の勝ち逃げを阻止するのと、オーラスで親が回ってくるオレはそこが勝負だった。つまり、何がなんでもおまえは『中』でアガるべきだったんだよ!」

 

その言葉を聞いた私は、脇汗ぐっしょりになった。私は、そんな深いことを考えながら麻雀を打っていない。手元の牌を眺めながら「どんな手ができるのかなぁ」と、次のツモを楽しみにしている程度で。

 

無論、卓を囲む3人の実力は把握している。理論派の樋口先輩、勝負師の池山先輩、そして実直な安部先輩。彼らに比べて私だけが突出して下手であることも、十分承知していた。

 

なおかつ私は、持ち点が少ないことには気付いていたが、それでもアガればどうにかなるだろうと、楽観的に捉えていたのだ。

ましてや、池山先輩が私をアガらせるために「中」を放出していただなんて、知る由もなかった――。

 

池山先輩の恨み節を聞きながら、樋口先輩と安倍先輩が、集めた牌を中央の穴へと落とし込んでいる。

樋口先輩にとっては「してやったり」だろうし、安倍先輩の顔には「初心者アルアルだ」と書かれている。

 

いずれにせよ、私だけが場の流れに気付くことができず、アガり損ねただけでなく勝負の機会すらも手放してしまったのだ。

 

麻雀の恩恵

このように、麻雀に関して自慢できる思い出がまったく見当たらない私だが、たった一つだけ、麻雀のおかげで人生が好転した出来事がある。

 

大学5年の春過ぎ、就職活動で奔走する私は、とある企業の最終面接に臨んでいた。

大学生活で学んだことを、役員の前で発表するのが面接での課題だが、見ての通り学業から学んだことなど皆無の私は、ポケットに忍ばせた麻雀牌を握りしめながら祈った。

 

(私にはこれしかない。コイツに人生を捧げてきたんだ)

盲牌(モウパイ)ができる字牌を7つ、カチャカチャとかき混ぜながら出番を待っていたのだ。

 

盲牌とは、指先で牌の表面をなぞることで、その牌を識別する行為である。

ちなみに、対局中に盲牌をすることはルール違反であり禁止されている。にもかかわらず、ツモ牌を先に触る輩は存在するが、そういう人間は遅かれ早かれ、卓を囲む機会は減るだろう。

 

(よし、面接中の会話に困ったら、これらの牌を並べて盲牌を披露しよう。盲牌こそが、私が大学生活で学んだ唯一無二の特技なのだから!)

 

 

こうして私は、めでたく内定を勝ち取ったのである。

ちなみに採用のポイントは、面接官の中にたまたま麻雀好きな役員が居たからである。

 

・・・やはり麻雀とは、人生の縮図なのだ。

(了)

 

 

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【著者プロフィール】

URABE(ウラベ)

早稲田卒。学生時代は雀荘のアルバイトに精を出しすぎて留年。生業はライターと社労士。ブラジリアン柔術茶帯、クレー射撃元日本代表。

URABEを覗く時、URABEもまた、こちらを覗いている。

■Twitter https://twitter.com/uraberica

Photo by :Audrey

「キーエンス」という会社を知っていますか?

 

……とか書くと「知っているに決まっているじゃないか、バーカ!」って思われそうなのですが、僕は株価を気にするようになるまで、この会社を意識したことがなかったのです。

 

さまざまな企業の株価を眺めていると、1株6万円もする、耳慣れない名前の企業がある。

株式分割前の任天堂とかファーストリテイリング(ユニクロ)などの「有名で、株価も高い企業」に混じって、なぜこの会社が……

 

何年か前に、常磐自動車道で煽り運転をし、ドライバーの20代男性を暴行した男が「新卒でキーエンスに入社した元社員だった」というのがネットで話題になった記憶があります。

キーエンスの給料の高さへの驚きと、そんな「エリート」が、なんで煽り運転で捕まるような「転落人生」を送っているんだ?という疑問が書かれていたんですよね。

 

いやまあ、どこの社員だって、いろんなヤツはいますよね。医療関係者にもいろいろいるもの。

でも、「元キーエンス」って、そんなに話題になるほど、すごい会社なのだろうか。

 

いずれにしても、1株5万円とか6万円とかは僕には縁遠く、1単元(100株)買ったら、けっこう良い車が買えるよなあ、という感想しか僕には出てこないキーエンスなのですが、いま、『キーエンス解剖』(西岡杏著/日経BP社)という本が話題になっています。

 

著者は、この本の最初に、こう書いています。

あらためてキーエンスという企業と向き合うきっかけになったのは、「ゆるブラック企業」というテーマで取材を進めていたことだった。ゆるブラック企業というのは、近年の働き方改革の影響で、やりがいを求める若手社員をゆるく働かせてしまい、やる気に応えられていない企業を指す造語だ。その取材を続けているときに、ゆるブラック企業の対極にあるキーエンスの社員はどう感じるのだろうか?と思ったのだ。
キーエンスの社員は「とにかくめちゃくちゃ働く」と言われる。その激務ぶりは「30代で家が建ち、40代で墓が建つ」と表現されることもある。つてを辿って、あるキーエンスOBに話を聞いてみた。

「あそこは仕組みと、それをやり切る風土がすごいんです。後輩の指導もしっかりする。人が育たないわけがない」

その言葉に、がぜん興味がわいてきた。「人が育たないわけがない」とまで言い切れる企業が日本にどれだけあるだろうか。その仕組みとはどんなものか、やり切る風土はどう生まれたのか。とにかくキーエンスに迫ってみたい。そんな好奇心から、キーエンスの徹底取材に取りかかった。

キーエンスが扱っている主力商品は、センサーを中心とした業務用の電子機器で「製造現場で異常を発見したり、生産性を高めたりするために使うもの」だそうです。

著者は「工場や倉庫、研究所に出入りする人でなければ、キーエンスの商品を目にする機会はほとんどないだろう」とも述べています。

 

そのキーエンスを象徴する4つの数字が、この本では紹介されています。

 

・時価総額14兆4782億円(2022年11月の時点で日本国内3位。1位はトヨタ自動車、2位ソニーグループ、4位がNTT、5位ソフトバンクグループ)

・平均年収2183万円(三菱商事は1559万円、トヨタ自動車は857万円)

・売上高営業利益率は55.4%(業種が近いオムロンが約12%、ファナックは約25%)

・自己資本比率93.5%(製造業平均は49.4%)

 

実際にこの数字を見ると、「なんなんだこの会社」と驚くばかりです。

 

年収2000万円オーバーは、平均的な勤務医よりずっと高収入。

そして、売上の半分以上が利益になっているのに、顧客満足度も高そうなのです。なるべく安くモノを売り、人件費も極限まで削っていく、という日本の「失われた20年」の対極にあるような「高待遇・高収益(そしてハードワーク)企業」が、キーエンスなんですね。

 

僕自身、25年間くらい医療の現場で働いて、いろんな先輩や後輩と接してきました。

25年前は、上司に「自分がいかに研修医時代に休みを取らなかったか」「研修医は17時を過ぎてからが自分の仕事の時間」などを延々と語られていたものですが、今は「研修医は17時に帰宅。残業は絶対にダメ」とアナウンスされています。

 

いまの40代から50代くらいにとっては、自分たちが20代のときには、「お前たちは若手だからこれも修行だ」と年長者から仕事がどんどん回されてきて、当直もさせられていたのに、自分が40代、50代になってみると、今度は「若手に無理させるな」と、やっぱり自分たちにキツイ仕事が回ってくるという、「貧乏くじを引かされた」感じもあるんですよね。

 

先輩、あるいは指導医としての経験からは、「やっぱり、若い頃にきつい仕事を頑張ってこなして、積極的に技術や知識を身につけた人のほうが、その後、充実した職業人生を送れていることが多い」とも思うのです。

 

ワークライフバランスは大事だけれど、「働きたくないときには家庭を持ち出し、家庭がうまくいかないときには仕事を原因にする」という悪循環になっている人も少なくありません。

まあ、人間なんてだいたいそんなもの、ではありますが。僕もそうだし。

 

キーエンスは、仕事は厳しいし、徹底的に「効率的に仕事をやること」「相手の言葉をそのまま受け取るだけではなく、その潜在的なニーズを考えること」を社員に求めています。

「裏にあるニーズが何か、しっかり確認してきてください」
キーエンスの営業担当者が上司からよく言われる一言だ。上司と翌日以降の訪問先について相談するときに、訪問の目的とゴール、顧客から聞き取ったニーズや背景などを説明したうえで、こう問われるのだという。キーエンス入社後の研修でも、顧客に言われたままの「ニーズ」と、最初は顧客の口から出てこない本当の需要である「ニーズの裏のニーズ」は分けて考えるよう教え込まれる。

キーエンスの商品開発で語り草となっているのが「蛍光顕微鏡」での逆転劇だ。
生物や医学の研究などで使われる蛍光顕微鏡は、細胞に特殊な試薬を塗布したときに発する微量の光を観察する装置。既にキーエンス以外の複数のメーカーが市場を支配していたが、そこに後発で参入。新しい付加価値を武器に、有力メーカーの一角に食い込んだ。

従来の蛍光顕微鏡は、暗室で使うのが常識だった。背景に無駄な明るさがあると、正確に観察できないからだ。キーエンスはここに鉱脈を見つけた。「なぜ部屋全体を暗くしなければならないのか」。試料と対物レンズがあるエリアだけを筐体で囲んで周囲の光を遮断すれば、わざわざ暗室で観察しなくてもいいと考えたのだ。明るい部屋で作業ができれば効率は上がり、分析全体の時間を短縮できる。
後から聞けば簡単だが、それをキーエンスができたのは偶然ではない。キーエンスで営業や商品企画を担当した経験を持つコンセプト・シナジーの高杉康成代表取締役は、次のように分析する。

顧客にニーズを聞きに行くと「もっと分析の速度を上げたい」といった声が上がるはずだ。それをどう捉えるかがカギとなる。ここで「装置が動いて分析結果を出すまでの時間」だと捉えると、カメラを高スペックのものに替えたり、高速な解析ソフトを開発したりと、仕様上の数値を良くする方向で改良を進めがちだ。他社製品と差異化できている間はそれでもいいが、すぐに競合も追いつき、結局は価格競争になってしまう。
これに対し、「測定作業にかかる時間全体」という多面的な捉え方をすれば、そもそも暗室での作業が分析全体の効率を落としているという切り口が見つかるかもしれない。これが、キーエンスがこだわる「潜在ニーズ」だ。何十年も暗室での作業を続けてきた顧客は、それが当たり前になってしまい、問題に気づかないのだ。顧客からの声では上がらなかったニーズを見つけて「業界初『暗室』不要」「蛍光観察・分析にかかる時間が10分の1」といった特徴を打ち出したことが、後発だったキーエンスの躍進に繋がった。

この本のなかでは「個人のアイデアやひらめき頼り」ではなく、「潜在的なニーズ」を洗い出し、実現していくための、キーエンスの「仕組み」が紹介されています。

 

言われてみれば「その手があったか!」という感じなのですが、「視野を広くして、俯瞰的に考える習慣」と「思いついた解決策を実現する技術力」、そして、「攻めの(前例にとらわれない)営業や研究開発をきちんと評価する企業風土」が揃っていたからこそ、こんなことができたのです。

恐ろしいな、キーエンス。

 

この話を読みながら、僕はこれまでの人生で、自分の「潜在的なニーズ」に気づかないまま、いろんな課題に向き合ってきて、やらなくても済んだ難しい解決法の壁にぶち当たってきたのではないか、と考えずにはいられませんでした。

 

キーエンスに就職する、とか、こんなキツい働き方をする、というのは無理かもしれません(というか無理です)。

でも、「キーエンス的な「潜在的なニーズ」へのアプローチの意識」ができるだけでも、この企業のことを知る価値はあると思います。

 

前述の話で言えば、僕は「研修医が技術を身につけるためには、睡眠時間を削って現場に立ち続けることが有効だったと思っていた」のですが、「ハードワーク」そのものが目的や評価基準になってしまっていたのかもしれません。

「効率的に技術を身につける」ことが目的ならば、「休まない」ことや「長時間働く」以外の方法もあったはずなのに。

上司が「早く帰るヤツ」を、それだけで「低評価」にするのでは、結局、うまくいかないんですけどね。

 

日本の製造業、サービス業が「人件費を削って、安売り競争をしている」ことの弊害がようやく語られるようになってきたのですが、現時点では「それでモノの価格を上げようとしているのだけれど、給料は上がらない」という地獄絵図になっています。

ファーストリテイリングで大幅な給料アップが報道されていますし、これからは日本も「物価以上に、給料が上がっていく国」になることができるのかどうか。

 

キーエンス的に考えれば、キーエンスのような高待遇・ハードワークの企業で働き「40代で墓が建つ」生活をすることで高収入を得ることが、自分の「幸せに生きる」という「潜在的なニーズ」に合致しているのかどうか、考えてみるべきでもありますね。

 

「潜在的なニーズ」って、自分自身ではなかなか気づけないのだよなあ。

僕の人生設計も、キーエンスにコンサルティングしてもらえばよかった……

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo by Hack Capital

※「自業自得」と思える人工透析患者が身内にできてしまったが、社会正義とどのように折り合いをつけるべきか、という話です。前半はなぜ自分が「自業自得」かという家族史とその一例の具体的なエピソードが延々と続くので、興味なければ飛ばしてください。あと、当然のことながらおれの視点による解釈であり、また、意図した上での、あるいは無意識での脚色が含まれています。

 

父のいた我が家

まだおれも弟も子供だったころ、まだ実家があったころのことだ。父が出張などで家にいないと、空気が軽くなるのを感じた。実に不思議なものだと、当時から思っていた。

 

べつに父は常に暴力を振るったり、過度に厳格な人間だったりはしなかった。それはなかった。

手を挙げることはなかったし、厳格な躾、教育方針とはかけ離れた人間でもあった。

どちらかというと放任、教育についても自分の思想を披瀝して対話をしたがるタイプだった。子供相手でも。

 

ただ、満点の父親像ともまったく違っていた。ちょっとしたことで機嫌を損ねると、じつに嫌ったらしい人間になるのだ。

人間を不愉快に、不安にさせることについてかなり秀でた人間だった。家族であろうと、そうでなかろうと。

そして、大量に飲酒しては物に当たることもあった。良くない酒飲みであった。おれも今では酒を飲むが、一人で黙々と飲むだけだ。ともかく、人に嫌な思いをさせることについては秀でた才能を持っていた。

 

秀でているといえば、学歴などは大したものだった。学生運動盛んな時期に早稲田の政経を出た。当時の進学率などを考えたらエリートだろう。頭はよかったのだ。

もっとも、本人も学生運動にはまったため、エリート企業や、役所に進むことはなかった。運動の伝手である出版社に勤めた。そこそこ有名な雑誌の編集長をしていたともいう。その会社は今も健在である。

 

お見合いで銀行員だった母と出会ったが、母曰く「何人かとお見合いしたが、そのなかで一番頭が良くて話が通じたから」とよく言っていた。決まってそのあとに酒乱と性格の悪さまでは見通せなかったと言うのだが。

 

没落へ

そんな父だったが、なにか気が変わって小さな会社に転職した。おれが生まれたころのことだ。

その後、さらに独立して会社を起こした。おれが小学生のころだ。勤めていた会社と揉めて、同僚を何人か引き連れて独立した。

ときはバブルのころだ。羽振りは悪くなかった。父は仕事においても大風呂敷を広げるのが得意で、舌先三寸で仕事を取ってきた。時代に比べて早めにIT化を取り入れるなど、先見の明もあった。

 

が、バブルは崩壊した。小さな会社もその影響を受けた。イケイケで社員を増やしていた父の会社はたくさんの負債を負うことになった。その頃から、大事な打ち合わせなどにも寝込んで行かないようになった。当時はただの仮病、現実逃避と思っていた。ただ、いま、自分が当事者になって思うのだが、あれは双極性障害(躁うつ病)の症状ではなかったのか。この障害は遺伝とは無縁でない。そうだとすれば同情の余地はあろう。

 

とうぜんのことながら、会社は傾いた。さらに父は糖尿病(2型)を患っていた。それでも酒は飲みつづけ、寝込むことは多くなった。会社はだめになった。借金で実家は売り払うことになり、一家離散となった。おれも育ってきた街から夜逃げのように去ることになった。

 

一家離散その後

おれは一人暮らしをすることになった。父と母が同居した。父はもう働くのをやめ、家に引きこもるようになった。母が働いた。それでも、母に対する精神的な嫌がらせは続いた。その頃はDVという言葉もなかったか。その後、弟が父と母に合流した。おれはだいたいの場所以外、三人がどこに住んでいるのか知らない。父とは二十五年くらい顔を合わせていない。会ったらどうなるかわからない。

 

長男として母をサポートしなくてはならないし、母にはいろいろと迷惑をかけてきたので、その恩は返さなくてはならない。とはいえ、おれ自身も精神疾患を発症して、手帳持ちの障害者になってしまった。生計も身の回りのことももなにも自分のことで精一杯というのが正直なところだ。精一杯やったところで、できることも限られる。そこで、訳あってかなくてか働いていない弟に父と母のことは任せた、ということにしている。働かなくてもいい、母を支えてやってくれ。弟がなにを思い、考えているかはしらない。弟も父を憎んではいる。まあともかく、おれは少ないながら金を稼ぐ……。

 

医者を見下す傲慢の果て

父は、あらゆる人間を見下す人間であった。自分の頭の良さについて非常に傲慢だった。自分がこの世で一番頭がいいと思いこんでいる。狂っているといってもいい。センスについてもそうだった。

 

だが、今のおれが客観的になろうとつとめて見るに、確かに父は頭がよかった。センスもあった。家族としてではなく、見ず知らずの他人として会話するのに魅力的とも言える人間である。それゆえに、会社を起こしてついてくる人間もいたのだし、一時はイケイケになれたのだろう。……思えばそれも双極性の人間らしいと思うのだが。

 

医者についてもそうである。なぜか医者というものを見下し、毛嫌いした。自分の不摂生を責められることが我慢ならなかったのだろうか。病院で少しでも気に入らないことがあると、すぐに喧嘩になり、出入りできなくなる。暴力行為をして警察を呼ばれるようなことはしない。ただし、トラブルになる。暴言を吐く。もう、そこには行けなくなる。これを繰り返す。しまいには、通える医者がなくなる。

 

そんなわけで、あからさまに異常な精神状態もどうにもならなかった。まだ実家があったころ、母が一人で精神科を頼ったこともあったが、「本人が来なければ話にならない」と門前払いであった。本人には病識がなかったので、いくら勧めようとも精神科にかかることもなかった。おそらくは双極性障害的ななにかと、アルコール依存、それを深めるばかりである。大の大人のそういう家族がいた場合、どうすればいいのだろうか? あらゆる手段を使って、強制的に入院させる必要があったのだろうか。

 

一家離散のあとは、糖尿病の治療も受けなくなった。引っ越した先でも、行ける病院がすぐになくなったのだ。そして、自分で食餌療法と称するものを始めた。これがだれかのインチキ療法や教祖様に頼ったのならまだましだったのかもしれない。プライドだけは高い父にそういう発想はなかった。まったくの自己流にすぎなかった。病院にも行かないので、数値がどのようになっているかなどもまったくわからなかった。ただ、生きているから問題ないというスタンスで本ばかり読んでは、テレビに文句を言う、そんな生活を送っていた。

 

人工透析へ

そんな父が、二年ほどまえだろうか、脳梗塞だかなにかで救急搬送されることになった。もう命が危ないということで、おれは100円ローソンで黒いネクタイと黒いソックス、そして数珠を買った。喪服は持っていた。準備は万端だ。だが、父は死ななかった。

 

死ななかったが、手術の際の検査結果で、内臓の方がかなりやばいことがわかった。今すぐ人工透析が必要ということになった。医者嫌いの父も、さすがに目の前の死は怖かったらしい。人工透析を受けることを選んだ。

 

脳をやったせいで、身体の移動もますます悪くなった。それでも家の中では暴君のように振る舞うのは変わらなかった。しばらくは透析にも大人しく通っていた。

 

しばらくは、だ。しかし、ある日ブチ切れた。自分より後に入室した患者が先に透析をはじめた。送迎のバスで遠回りになって先に帰れない。そんなことで、もう透析には行かないと暴れ出した。そして、ネット通販で買って隠していた酒を飲みはじめた。

 

病院もパニックだ。透析は、しなければ死ぬ。とにかく迎えにいくという話になった。しかし父は、もしも迎えに来たら警察を呼ぶとさらに暴れる。それを知らされたおれは「死んだあと保護責任者なんとかになったら厄介だから、証人として警察を呼ぶというならそうさせたほうがいい。あと、自分の意思で透析に行かないという証拠の発言を録音しておおいた方がいい」と母に言った。

 

おれはそのまま父が死ぬと思って、少し安心した。今度こそ。しかし、厄介なことにまた死ぬのが怖くなったらしい。まだ通える、透析ができる新たな病院に通うことになった。もう、他に通えるようなところはないらしい。ここでトラブルを起こせば最後だ。転院にともなうしばらくの間、送り迎えなど、また母が苦労することになった。母はまだバリバリ働いている。そしてまだ、父は透析を受けて生きている。

 

ちなみに、父には軽度の知的障害と重大な内臓の身体障害を持った双子の弟がいる。おれの叔父である。祖父の死後、かなりの額を寄付した施設に入って暮らしている。その叔父がこのごろ癌の宣告を受けた。その叔父の世話も母の役割になっている。自動車が必要なのだが、おれも弟も車がない、自動車の運転もできない。

 

思い出すネットの炎上

このような状況になって思い出したのが、フリーアナウンサーがブログで炎上した件である。「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」。世間の避難を浴びて、彼はいろいろな仕事を失った。

 

さて、おれはあの件が起きたときどう思い、どうネットに書き込んだか。無論、あの元フリーアナウンサーを非難したと思う。事実にも誤認はあるし、社会正義や倫理にも反している。ろくでもない人間にもそうなった理由はあるし、本人の責任だけに帰せる話ではない、などなど。

 

が、今のおれはどうだろうか。身内に自業自得としか思えない、社会の迷惑でしかない透析患者がいるのだ。社会の迷惑かどうかはともかくとして、家族の迷惑であることは確実だ。いや、やはり社会にとっても害でしかない。これに金銭的、人的コストがかかってよいものだろうか?  このような人間まで助けていたら、いよいよ社会は成り立たないのではないか? 社会のために、となると、社会の人々を人殺しにしてしまうので、そのせいにはできない。あくまでおれ一人、おれ一人の感覚としては、一刻も早く死んでほしいと思っている。

 

さて、フリーアナウンサー氏とおれの間に何の差があるのか。そのように自問自答しないわけにはいかない。根っこのところで、あの意見に賛成する自分がいたのではないか。ただ、実感としてわかっていなかっただけで。はたして、おれに他人を非難できるような資格があったのか? あるのか?

 

社会、家族、個人

社会正義と個人の事情の間にあるもの。これについて考える必要がある。「どんなろくでもない人間でも、基本的人権がある。生きる権利がある。みんな救われなくてはならない」。正論だ。だが、我が身についてそうなると、心が納得していないので、正論を言う資格をとたんに失ったような気持ちになる。
我が身、と書いた。無論、父と子は別人である。他人である。よく知らぬ他人の事情を知って、それに死ねと言えるだろうか。言う権利があるだろうか。そういう意味では、おれが父と子の関係を「我が身」と言うのは誤りかもしれない。

 

とはいえ、おれはこの人間がいたから生まれてきたのも確かな話である。べつにおれが望んで生まれてきたわけでも、これを父と選んだわけでもない。それでも、血のつながりというものは否定できない。そして、血のつながりばかりでなく、その家庭で育てられてきたのも否定できない。ある家族という名前の共同体の一員ということになる。

 

社会と、家族、個人の感情。ますますわからなくなる。連帯責任というべきなのか、おれは社会に対して頭を下げる必要があるのかもしれないと感じるのは確かだ。おれには自分の父をどうにかすることができなかった。その責任は感じる。あるいは、母を十分に助けられないという責任も感じる。

 

自助、共助、公助などというが、その逆をなんというのだろうか。人間というものは、自分自身以外について、家族について、どれだけの責任があるのだろうか。責任をとるべきなのだろうか。

 

まあ、少なくとも一つはグッドニュースがある。おれも弟も、この血統を残すことがないということだ。不幸は再生産されない。おれも弟も生きている限り社会にとって迷惑だろうが、それが終わるまでは我慢してほしい。

 

介護は多くの人に他人事でない

この現状を介護と言っていいかどうかわからないが、今後高齢化社会に突入して、介護の問題も大きくなっていく。人間老いれば認知症その他脳の疾患などで、人格が様変わりすることはある。昔から厄介な親を抱えているような人もいるだろうし、とてもよい親が突然様変わりすることもあるだろう。そんなとき、社会正義、常識、倫理観と、自分のなかに生じる憎悪、悪意、差別意識とどのように折り合いをつけるかということも問題になってくるだろう。実務的な面も大いに論じられるべきだろうが、このような人間内面の心持ちについても考えなくてはならないだろう。

 

おれについて言えば、畢竟、自分の手で始末をつけなくてはいけないと思うところがある。べつに母のためでも弟のためでもない。他人を言い訳にしてはならない。人は一人で生きるしかないし、一人でなさねばならないこともある。すべては自分が背負ってきた人生のことであるし、自堕落に生きてきたおれにも、決断というものが必要になるときがくるかもしれない。そのときできるか、できないかで、おれの人生の最終的な価値も決まるだろう。

 

しかし、なにが本当に価値なのか、考える必要はある。そしてそれは、誰にとっても「わがこと」になる可能性がある。そのときに対応できるように備えておいたほうがよいだろう。金を稼ぐ能力のある人は、金を貯めておいて間違いはないとは言える。余裕ができる。それは悪いことじゃない。そのくらいしか言えない。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Marcelo Leal

2022年の5月31日、岸田政権は「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」を発表し、6月7日に閣議決定がなされた。

 

発表の中では「人への投資と分配」、「科学技術・イノベーションへの重点的投資」「スタートアップの起業加速及びオープンイノベーションの推進」、そして「GX及びDXへの投資」の4つが、新しい資本主義を実現するための重要な計画として掲げられている。

 

特に「人への投資」に関しては、およそ100万人の能力開発に対し、3年間で4000億円規模の投資がなされるという。一体なぜ、そして具体的には何が、この政策によってなされるのだろう。

 

未来の成長戦略には「人への投資」が必須

「新しい資本主義」。これは岸田総理が2021年9月の自民党総裁選の時から掲げていたものなので、ほとんどの人は耳にしたことがあるだろう。日本では一定のあいだ続いてきた、新自由主義(市場や競争に任せればうまくいくという考え方)的な政策の結果、経済的格差が拡大し、過度な海外依存による経済安全保障リスクも高まってしまった。

 

「市場の失敗」や「合成の誤びゅう」(例えば、個人にとっては将来不安に備えて支出を減らし貯蓄を増やすのが得策と思えても、皆がそうなると市場が冷え込み、全体として更に景気が悪くなる)という言葉で説明されるような状態になってしまったので、今後は、良い形で国が市場に介在しながら、官民協力して社会的課題を解決していこう、というのが「新しい資本主義」の意味するところである。

 

さて、その国家の方策を定めるためには、必ず事前に押さえておくべきことがある。それは、これからの未来はどうなるのか、という予測だ。

 

今後の世界を想像してみよう。AIやデジタル・テクノロジーの革新は加速し、今後一層ビジネスも生活も大きく変わるだろう。

また、地球環境への対応無しには、水や食料、資源のひっ迫も免れない。カーボンニュートラルやグリーン成長戦略の重要性も増すだろう。……では、こうした領域にすぐに力を発揮できる日本国民は、一体どれくらいいるか?そう、圧倒的に少ないことは予想に難くない。もうお気づきのことと思うが、「人への投資」なしに日本の未来の成長戦略を描くことは難しいのだ。

 

4000億円の使い道 ヒトの何に投資される?

では「100万人に、3年間で4000億円規模の投資」を通じて、日本は具体的に何を目指すのか。実はこの4000億円の投資にも、明確な方向性がある。それは「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」に明記されている、「スキルアップを通じた労働移動の円滑化」だ。

 

成長分野への労働移動と高度人材の学び

「労働移動」はつまり、ビジネスを取り巻く環境変化により、今後需要のある職種は大きく入れ替わるので、労働者にも衰退産業やニーズのない職種にとどまり続けるのではなく、成長分野に移って行ってもらう必要がある、ということだ。

成長分野とはどこかと言えば、前述の通り、直近ではデジタル分野やグリーン分野となるだろう。中でも企業のDXを推進する高度人材には、社外の大学院や専門機関などへも学びに行ってもらう必要がある。同時にそうした企業派遣制度を導入する企業への助成も厚くなる。

 

生産性向上を目指すデジタルスキルの習得

また、日本はこれから一層労働力人口が減少する。ただでさえ、日本の労働生産性の低さは先進国中でも際立つため、生産性を上げるためにデジタルスキルの向上は必須だ。実行計画書の中にも、「働く世代のデジタルスキルの底上げを図ることにウェートを置く」と明記されている。よって、労働者のデジタルスキル習得や、労働生産性を上げるための学び直しにも多くの費用が使われるだろう。

 

積極的に職を選択するためのキャリアコンサルティング

もうひとつ興味深いのは、計画書の「スキルアップを通じた労働移動の円滑化」項目の副題に「自分の意思で仕事を選択することが可能な環境(学びなおし、兼業推進、再就職支援)」がついていることだ。

 

「自分の意思で……」というのはつまり、勤務先の経営が傾いて失職したり、企業の中で配置換えされてからやむを得ず学び始めるのではなく、労働者自らも積極的に新たなスキルを学んで、成長産業へ転職したり兼業したりすることを促すのだという。

そのため、4000億円の内訳に、キャリアコンサルティングを受ける費用も含まれるのだ。今回の計画には、非正規雇用の方も4000億円投資の対象に含めることが明記され、より多くの労働者が成長分野で活躍されることが期待されている。

 

日本の人的資本投資施策は、まだこれからの領域

4000億円を国民の能力開発に投資すると聞くと、インパクトある施策だと感じる方も少なくないだろう。当然、好ましいことではある。

 

しかし、事実はそう甘くはないかも知れない。みずほリサーチ&テクノロジーズの調査によれば、日本の民間企業の人的資本投資(GDP対比)は0.3%と主要先進国で最下位に近い水準で、最も多い英国のわずか6分の1だという。

元来、日本は伝統的にOJTに重きを置き、新たなことを学ぶためのOff-JTに力を入れてこなかった背景がある。公的な教育訓練投資支出額の方も、同様に先進国中最低レベルだ。最上位のデンマークの投資金額は、なんと日本の20~30倍にも上るという。ということで、日本はこれまでが、人の能力開発への投資をしなさ過ぎたという見方もできよう。

 

徐々に、4000億円で十分なのかという不安が過る方も出てきたのではないだろうか。同じくみずほリサーチ&テクノロジーズの試算によれば、5年間で日本の潜在成長率(2015~19年平均で0.7%程度)を欧米並みの成長率(同1.6%)へ引き上げようと思ったら、官民合わせて、年間3.9兆円の投資が必要になるという。文字通り、桁が違うのである。

 

試算のやり方には様々な見解があるかも知れないが、揺るがない事実が存在することは明確だ。それは、人の能力開発に対する投資なくして、企業の成長、そして日本の成長はない、ということだ。

この問題には、国だけでも企業だけでもなく、一人一人の労働者もまた、当事者意識をもって臨む必要があろう。良い意味での危機感をもって自己を成長させ続けられる人にこそ、明るい未来が待っているのかも知れない。

 

<参考>

 

(執筆:林 恭子)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:UnsplashMartin Adams

この記事で書きたいことは、大体下記の通りです。

 

・プロ棋戦の「王将戦」第二局が感動するくらいの名局でした

・将棋観戦が面白いこともあって、将棋熱が何度目かの復活をしています

・将棋を指していると、単純にゲームとして面白いこともさることながら、実生活に役立つ示唆も色々と得られて大変楽しいです

・ところで先日、「将棋倶楽部24」に終局後の盤面評価機能が唐突に実装されました

・滅茶苦茶お手軽だし便利だし楽しみ方もバリエーション豊富なので、皆さんもこの機会に将棋どうですか

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまいましたので、あとはざっくばらんに行きましょう。

 

皆さん、将棋って指しますか?あるいは、将棋観戦はしますか?面白いですよね、将棋。

ご存じの方も多いかと思うのですが、現在は将棋界の最高タイトルのひとつである「王将」を争う王将戦がまさに行われている最中でして、藤井聡太王将と羽生善治九段の間で、とてつもなく熱い戦いが繰り広げられています。

 

この記事を書いている時点では第2局が終わり、羽生九段が1勝を返して一勝一敗のタイになったところなのですが、これがまた凄まじい名局だったんですよ。

第2局の棋譜は毎日新聞さんのサイトから解説つきで閲覧出来るので是非見てみて頂きたいんですが、

 

文句なしの現棋界最強、今までタイトル戦で負け越したことがないという恐ろしい強さの藤井王将に対して、タイトル保有数合計99期を誇る、こちらも誰もが認める棋界のレジェンド羽生九段。

 

昨年度は調子を落とされていたようにも見え、「全盛期は過ぎた」などという声もあった羽生九段が、今年度はめきめき調子を戻されており、ついに藤井王将とタイトル戦でまみえることになったのが本局です。

 

ここまでの対戦歴を考えれば、いくら羽生九段とはいえ藤井王将相手の勝利は厳しいだろうと正直思っていたところ、2戦目で羽生九段が指した名手の数々は、「全盛期?今だよ?」と言わんばかりの凄まじい冴えを見せてくれました。

 

一見すると主戦場から離れた場所に唐突に放たれたように見えて、実は後手の対抗手段が欠けたところを的確に突いた、59手目▲8二金。

評価値的には損なようで、その後の盤面も考えれば香を渡さなかった意味は大きかった、67手目▲5六銀。

そして、「一手でも間違えれば即詰み」という手を最後まで繰り出し続ける藤井王将の猛攻を躱し続け、最後に盤上に叩きつけた唯一の正着手、101手目▲4八香。

 

この辺、しんざきもリアルタイムで観戦していたのですが、とにかくねじり合いに次ぐねじり合い、棋界随一の鋭鋒を凌ぎ切って勝利を得た羽生九段の手腕には、一手指される度に「すげえ……」とつぶやくしかなかったわけです。

 

数々の記録を塗り替えつつある棋界最強の藤井王将に対し、完全復活を果たしたレジェンド中のレジェンド羽生九段。こんなん熱くならないわけがないと思いませんか?

 

もちろん、この記事を書いている時点では、七番勝負の行方どころか第三局の勝敗すら分からないわけで、お二人の引き続きの熱戦を期待してやみません。

 

***

 

ところでしんざきは、将棋を見るだけではなく自分で指すのも好きです。

 

といっても腕自慢というわけでは全くなく、初心者に毛が1,2本生えたかな?という程度の残念な腕前なのですが、まあ数年に一回「将棋やりたい!」という熱意が急に湧いてくることがありまして、棋界が盛り上がっていることもあり、ちょうど今何回目かの将棋ブームの最中なんですよ。

「将棋ウォーズ」や「将棋倶楽部24」で、暇を見ては対戦ボタンをポチっているわけです。

 

将棋をやっていて良かったと思うことの一つは、とにかくプロの棋戦が面白いことです。

恐らくどんな観戦でもそうだと思うのですが、「自分でその競技をプレイしているかどうか」で、観戦の質や面白さは根本的に変わります。それはなにより、「どこに注目すればいいかが分かりやすくなるから」です。

 

昨今の棋戦は、プロ棋士による解説も充実していますし、有利不利を表す「評価値」というものが可視化されていることもあり、どんな手に注目すればいいのか、昔よりはだいぶ分かりやすくなりました。

 

全くの初心者の方でも、「おっ、この手でこれだけ有利になったんだな」というのが理解出来るようになったというのは、観戦の楽しさを大幅に向上させたと思います。

 

とはいえ、やはり「その手の意味」を自分自身の将棋にあてはめて考えることが出来ると、臨場感がまるで違います。

 

「自分でもそれが出来るか」ということをリアルに感じられるかどうか。

同じ立場に立たされた時、自分に何が出来るかをリアルに想像出来るかどうか。

 

これは、観戦における最大のポイントです。野球でもバスケでも、格ゲーでもなんでもそうだと思います。

競技のその場に自分をあてはめてみることで、「プロ凄い」という感動を感じやすくなるわけです。

 

もちろん、自分で将棋をすることの楽しさはそこに留まらず、単純に「全力で考えて、全力で誰かと競う」ことはそれだけで十二分に楽しいことではあるのですが、一方将棋を指す上では、様々に有益な示唆を得ることも出来ます。

 

最近私が得た「将棋の戦訓」というものを一部ご紹介しますと、大体以下のようなものが挙げられます。

 

「人間がプレイする以上、ミスや見逃しはつきもの」

「相手の実力が自分と大きく離れてはいない以上、自分がどんなに大きなミスをしたと思っても、案外相手もそれ以上のミスをすることはある」

「相手が自分よりでかいミスを一つすれば勝てる」

「だから、負けている盤面を見続ける精神力が一番重要」

 

この辺、実生活でも結構同じようなことが言えると思うんですよね。

 

自分で将棋を指す上でつくづく感じるのが、「自分にはいかにミスや見逃しが多いのか」という話です。

「そうはならんやろ」というとんでもないタコミスを、ぽんぽんやらかしてしまう。どんなに注意していても、「何でそこを見逃すの!?」ということは日常茶飯事です。

 

で、でかいミスをやらかして、「もう駄目だ」と思ってしまうことだってしょっちゅうあるんですよね。

 

これもつくづく思うことなんですが、将棋を指していて一番つらいのは、「負けている盤面を見続けること」です。

人間、自分の不利や失敗を自覚し続けること程苦しいことはない。

自分のミスが原因で「これもう無理やろ」という盤面になってしまうと、もうそれ以上プレイを続けたくなくなるし、投了してさっさと楽になってしまいたくなるんですよね。

 

通信対戦の短い時間でも辛いのだから、負けている盤面を数十分、数時間と見続けないといけないプロ棋士の精神力たるや、本当物凄いと思います。

 

ただ、その上で、「ミスをするのは自分だけではない」という端的な事実もあります。

どんなに致命的なミスをしたと思っても、相手がそれ以上にでかいやらかしをしてしまうことだってあるし、そこを見逃さなければ「もう駄目だ」という盤面をいつの間にかひっくり返してしまうことだってある。

 

プロであれば「大逆転」なんてことはそうそう発生せず、だからこそたまに発生する「逆転劇」が有名になる訳なのですが、我々はアマチュアなのででかい逆転など何も珍しくありません。

詰み寸前の状況から、一手の見逃しで逆に大勝利出来ることだってあるわけです。

 

だからこそ、「諦めずに負けている盤面を見続ける」精神力が重要なんですよね。

これ、色んな勝負ごとで共通の話だと思います。

 

まあ、もちろん「逆転する」ことと同じように「逆転される」ことだってあるわけで、誰がどう見ても圧勝の状況からワンミスでひっくり返された日には、その辺をごろごろ転がってしまうくらい悔しいわけですが。将棋難しい。

 

もう一点一般的に言えそうなことは、「勝負ごとに、メンタルの状態がいかに重要なのか」ということです。

疲れていたり、心配ごとがあったり、とにかく「あ、今ちょっとメンタルの調子いまいちだな」と思う時、間違って将棋など始めてしまうと、とたんに物凄くわかりやすく勝率が落ちます。5,6連敗してレートが一気に100くらい吹っ飛ぶ、なんてことも全く珍しくありません。

 

自分のメンタルの状況を把握して、大事な勝負ごとの時にはそれだけに集中出来る状態を整えること。

これが大変大事、というのも、将棋を指す上で分かりやすい教訓なのではないかなーと思う次第なのです。

 

***

 

ところで話は変わるんですが、先日、将棋倶楽部24という老舗の将棋対戦サイトで、いきなり「棋譜分析」という機能が実装されました。

 

いわゆる盤面評価なんですが、一局が終ったあと、その局の推移をAIが自動で分析してくれて、評価値の推移から悪手・疑問手、AIとの一致率や最善手や読み筋まで、全部表示してくれちゃうわけです。

これがもう滅茶苦茶便利でして。

 

もちろん、この評価機能自体が目新しいもの、というわけでは全くありません。

例えば「将棋ウォーズ」などでは(課金サービスの利用が必要とはいえ)以前から盤面の評価機能はついていましたし、自分で将棋のAIソフトを利用して、棋譜を読み込ませて盤面の評価を行うことも昔から出来ます。

 

恐らく、ある程度将棋をやりこんでいらっしゃる方なら、「K-Shogi」や「水匠4」などの評価ソフトは使い慣れているのではないでしょうか。一応私のPCにも入ってます。

 

ただ、ソフトをインストールして棋譜を読ませて、というのをいざやってみると結構ハードルも高いですし手間もかかります。

将棋倶楽部24という老舗の対戦プラットフォームに、(将来どうなるかは分からないとはいえ)現時点では全くの無料で、しかも対戦の度に自動で盤面の評価を行う機能が実装されるというのは、これ結構大変なことだと思うんですよ。こんな便利な機能標準で使えていいの!?と思うくらい。

 

例えば

「いつの間にか盤面逆転されちゃったんだけど、なにが駄目だったんだろう?」

とか、

「ここ詰んでた気がするんだけど詰ませられなかった……どうすれば良かったんだ?」

とか、

「なんとか勝てたけど、どの手が良かったんだろう?」

みたいなことが、普通に対戦してるだけで、余計な手間一切なしで情報として見えちゃう。

これ、初心者から上級者まで、ものすごーーく使いでがあると思うんですよね。

 

ちなみに、上の方で「素人に逆転はつきもの」という話をしましたが、上記のグラフも見事にぎざっぎざですね。

お互いにとんでもないミスをしょっちゅうしているということなんですが、これも「どうすれば良かったのか」と振り返ることでちょっとくらいは低減されると思います。多分。

 

何はともあれ、プロ棋戦も大変盛り上がっているし、24にも超便利機能が実装されたしと、「たまには将棋でも指してみるか」と思うなら今は絶好のタイミングなので、皆さんも将棋いかがでしょう、という話でした。よろしくお願いします。

 

どこかで対戦することがあれば、皆さんお手柔らかにお願いします。24でR600からR800くらいの間をふよふよ漂ってます。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by:nakashi

仕事上のさまざまな場面で突如怒りの感情を向けられた時、それが理不尽であればあるほど、こちらも相応のダメージを負う。

 

理由があって怒られるならまだ分かるし、そこから学びも得られる。

ところが、ロジックが破綻している説教や言いがかりにもほどがあるクレーム、どうやったらこんな些細なことでこんなに怒れるのかと思うほど理解不能な怒りは、教訓も何もあったものではなく、ただただ消化不良に陥るのみだ。

 

ただ、真面目な人ほどその不条理とマトモに向き合い、何がいけなかったのだろうと本気で悩んでしまう。

人によっては病んでしまったりする。

 

そこで本稿では、どれほど意味不明な怒りをぶつけられても、ひとまず心を平穏に保てる考え方を紹介する。

ポイントは幾つかあるが、一言に集約すれば「こんな人間になったらおしまいだ」という視点を持つことだ。

 

沸点がカップ麺のオッサン

筆者にとって最も印象深いお叱りの経験は、学生時代のコンビニバイトでのこと。

ある日、カップ麺を購入したおっさんが備え付けのポットでお湯を入れたところ、まだ沸騰し切っていなかったようで、「ぬるいんじゃボケ! お前んとこは客にぬるいラーメンを食わすんか!?」と、とんでもない血相でまくしたてられた。

 

当時は自分も若かったのでそれなりに恐縮したわけだが、よくよく見ればポットに「加熱中、しばらくお待ちください」と張り紙がしてあって、要はそのおじさんの不注意。

それでも店長を呼べという話になり、バイトを終えてから、というかしばらくの間は記憶から離れなかった。

 

こういう無理筋な怒りを向けられると、つい後で思い返しては「でも相手の方が悪いよね」などと反すうしてしまうものだが、実はこれが自分にとってはマイナス行為。

考えれば考えるほど、こちらが正しい。だとしても、思い出せばおのずと自分もネガティブな感情に縛られてしまう。

 

ゆえに、「こんな人間になったらおしまいだ」の一言で片付けて、引きずらないこと。筆者の経験上、これが心の健康のために最もよい方法である。

感情の器が小さく、加えて人間の器も小さい人間は、世の中他に本気で怒らないといけないことがある中、どうでもいいことで激怒する。

つまり、このおじさんのメンタルにとって、沸点はカップ麺

 

これで怒るのなら、職場や家庭でどれほど声を荒げているのかという話だ。

そんな人生に、幸せってあるのだろうかーーと思いを馳せた時、自分も怒りの感情に囚われるのではなく、むしろ憐れみが湧いてくる。

 

所詮は他人、このおっさんを自分がどうこうする義理はなく、ただ己がそうならないようにすればいいだけのことという気づきに至るのである。

 

この人の怒りの価値は、1000円

お客様からのクレームは宝の山、などと言われることがある。

それは一面においては事実なのだが、第一線でクレーム処理をしたことがある方ならば、一種の理想論、もっと言えば現場を知らない人の言うことだと感じるはずだ。

 

世間には残念ながら、500円、1000円の得を拾うために何時間でもゴネる強者もいれば、まるで当たり屋のように因縁をふっかけてくる輩もいる。

加えて言えば、同じ人間であるにもかかわらずまるで異星人と話しているかのように会話が成立しない相手からのクレームだって珍しくない。

そんな電話に2時間、3時間と付き合っても、何も生まれないし全く建設的ではない。

 

だからといってガチャ切りし、相手がSNSでも使って拡散してくれば、結局上から詰められるのは自分自身だ。

筆者も前職時代、さまざまなお怒り電話を受けたものだが、どんなに話の筋が通っていないクレームでも、長々と聞いているとこちらも怒りの感情に包まれがちだ。

 

そしてついに、これは専業クレーマーに違いないと確信できるお方と電話口で対峙する機会があった。

ことの発端は、読者プレゼントでグラドルの写真が印刷されたQUOカードを発送したところ、応募者がすでに引っ越していて、新たにその住所に住み始めたタチの悪い人が受け取ったこと。

 

相手の言い分を要約すると

「嫁に見られて、こんなものを応募していたのかと詰められた。夫婦関係、めちゃくちゃや。どうしてくれんねん」

といったものなのだが、他人宛ての郵便物を勝手に開ける時点でそっちにも責任があるし、そもそも作り話ではという一言に尽きる。

ただ、話しているうちに今すぐ謝りに来い、誠意を見せろといった口調から、何を言っても無駄だろうなと悟った。

 

当時自分が勤めていた出版社は幸い、と言っていいのか分からないが、オーナー社長の意向でこの手のクレームは相手にするなという方針だった。

ゆえに、速攻切って鳴りっぱなしの電話を放置する手もあったのだが、その日は締め切り前で忙しく、煩わしいことはさっさと処理してしまいたいという気持ちが働いていた。

そこで、こんな風に切り出してみた。

 

「誠に申し訳ございません。お宅にお伺いすることはできかねますが、お詫びとしてもう1枚QUOカードをお送りしますので、何卒ご容赦いただけませんでしょうか」

 

そう言うと、しばしの沈黙。

何か考えてるフリをしているのだろうな、と推測できる静けさ、というか無駄な時間。

そうして結局、500円のQUOカードもう1枚(ただし水着グラドルなどが印刷されていないもの)送ることでケリがついたわけだ。

 

中には「こういう対処をするからこの手の輩が減らないんだ」というお叱りもあろうが、自分はその時、分かってしまった。

「この人の怒りの価値は、1000円」

 

500円のQUOカードでこの世の終わりの如く激怒し、もう1枚の500円のQUOカードで怒りが収まる。

そんな安っぽい人間にだけはなりたくないーーそう思えるようになった時、たいがいの理不尽な怒りは一晩寝れば忘れるものとなる。

 

毎日怒鳴り散らすあなたの方が申し訳ない存在では

さて、問題は職場などで日々顔を突き合わさなければいけない方から向けられる怒りや説教である。

どこの職場にもわけのわからない因縁をつけてくる上司や先輩は少なからずいるものだが、たとえ意味不明な怒りであっても、上司部下の関係ではそれなりにしおらしく聞かねばならないのが辛いところだ。

 

こういったものに相対する際、まずは相手の指摘に正当な理由があったり、非を正したりするものなのかを見極める必要がある。
当たり前だが、叱責される原因が自分にあるなら、それはちゃんと受け止めるべきだろう。

そうではなく、明らかにこじつけや論理破綻が見られたり、人格否定にまで踏み込んできたりする説教の場合、これは災害と思ってやり過ごすより他にない。

 

この手のお怒りをくらった時、大事なのは「響かないこと」。

むろん、表向きは真摯に受け止めているフリをして、小言がしっかり効いている雰囲気を醸し出す。

そうしないと、終わらないから。

 

ただ、そのような姿勢を持ちながら、相手の言うことに心の中で一つ一つ反論していけばよい(言うまでもなく口に出してはいけないが)

「何だその顔は!」と言われれば、いやあなたの顔も相当なものですよと心中で言い返す。

「皆に申し訳ないと思わないのか!」なんていう言葉には、どう考えても毎日怒鳴り散らすあなたの方が申し訳ない存在では、と胸の内で問いかける。

 

そして、これらの思いはその場限りのこととして、家に帰ってから一切考えない。

引きずらないことが何よりも大事なのである。

 

だいたいこの手の怒りとは、冷静に考えれば矛盾のカタマリみたいなケースが多い。

例えば、よくオーナー社長が言う言葉に「一人一人が経営意識を持て」というものがあるが、社員からすれば「いやまずお前が持てよ」と思うのが普通である。

 

自らを省みることを忘れた者ほど、己の説教が論理破綻してることに気づかずクドクドと小言をのたまう。

それらの負の感情にまともに取り合うなんて、愚の骨頂だ。

 

顔を真っ赤にして怒り狂う相手を見つめながら、「なんてみじめであわれな生き物……」(by風の谷のナウシカ)と、しみじみ観察する余裕を持つくらいで丁度いいのである。

ただし、繰り返しになるけれども、理不尽な説教はともかく非が自分にある時まで「こんなことを言う人間になったらおしまいだ」という受け止め方をするのは、やめたほうがいい。

 

自分に向けられた怒りの矛先は、理由のあるものなのか、それとも根拠のないものなのか。

それを見極められるようになれば、正しい批判はあなたにとって成長の糧となると同時に、無意味な小言を華麗にスルーできるようになるはずだ。

 

 

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【プロフィール】

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。

Twitter :@kanom1949

Photo by Julien L

コンサルタント時代、私のクライアントの多くは、中小・零細企業でした。

数多くの会社に訪問しましたが、その時、一つ、気づいたことがありました。

 

それは「中小企業っぽさ」の原因です。

 

例えば「スタートアップ・ベンチャー」と「中小企業っぽい感じ」とは、何が違うのか。

「大企業」と「中小企業っぽい感じ」と何が違うのか。

 

もちろん、法律的には、中小企業庁のページには以下のような定義があります。

しかし、こういった定義はあくまでも形式的なものであり、「中小企業っぽさ」を出しているのは、他に原因がありました。

 

このように言うと、中小企業は「ワンマン経営」とか、「経営が不安定」あるいは、「古い」といったイメージがわく方もいるかもしれません。

 

しかし、規模が小さくても、いわゆる「中小企業っぽくない」会社は数多くありますし、大企業であってもワンマン経営の会社は数多くあります。

また、経営がとても安定していて、キャッシュをたくさん抱えている中小企業もたくさんありました。

さらに、最近できた会社でも「中小企業っぽさ」が醸し出されている会社はたくさんあります。

 

では、いわゆる「中小企業っぽさ」は、何から生まれるのでしょうか。

 

「中小企業っぽさ」とは何か

これは私見ですので、異論のある方もいると思いますが、あえて断定します。

「中小企業っぽさ」とは「すぐに目に見えて売り上げのあがること」にしかお金をかけない(かけられない)会社のカルチャーのことです。

 

規模や文化、ワンマン社長か否か、キャッシュリッチかどうか、そういった話とは全く関係がありません。

「で、それってすぐに儲かるの?」

というセリフが出る経営者のもとで育つカルチャーが、その本質です。

 

いくら社員が多く、こぎれいな会社であっても、「すぐにリターンを求める姿勢」が顕著だと、必然的にこういう会社からは、「小さくまとまって停滞している雰囲気」が醸し出されます。

 

なので、停滞している中小企業が、「オーナー企業に多い」というのは、特に否定しません。

ダメなオーナー企業は私財と会社のカネが区別されていないことも多いため、は自分の懐が痛む可能性のある「すぐにリターンが見えない話」にほとんど乗ってこないからです。

 

逆に、真のスタートアップは真逆のカルチャーです。

彼らは「いつ儲かるか全くわからない話」に、身を投じているわけですから、「すぐにリターンを求める」のとは全く姿勢が違います。

また、大企業でも保守的すぎるところは「実質は停滞している中小企業だなーこの会社」と思うことが多いです。

 

特に顕著なのは「人」への投資

特に、上でいうところの「中小企業っぽい会社」は、人への投資をほとんどしません。

直接のリターンが見えないですし、いつ将来に不安を抱いた社員が辞めるかわからないからです。

 

例えば社員への教育です。

私はかつて、コンサルティング会社で、企業向けの教育研修を売り歩いていたことがあります。

 

しかし、ご想像の通り「研修」という商材は、上でいう「中小企業っぽい会社」には売れません。

「研修」と「業績」の間には、直接の相関がないからです。

 

研修はあくまで「本を読む」のと同じく、社員へのインプットの一部を担うだけです。

ですから、「研修を受けると、業績が上がるの?」という質問ほど、くだらない質問はありません。

「常識的に考えて、いきなり業績があがるわけない」のです。

 

しかし、長期的にみるとどうでしょう。

社員へのインプットをはじめとした、能力強化を軽視した会社の末路は「停滞」です。

 

新しい事業をやろうにも、それを担う人がいないからです。

また、人へ投資しませんから、給料も一般的に低く、能力の高い人も集まりません。

 

だからたいてい、社長が手掛けている間に本業が忙しくなって中途半端になって終わるか、能力のない社員が掛け持ちでやって、立ち上がらない、という結果になります。

 

もちろん、会社が停滞しても、現在の安定事業が続いている限りは富はオーナーに集中します。

 

この「富ばかりがオーナーに蓄積し、社員は能力の低いまま、会社が停滞する。だから将来性がない」状態。

それこそが「中小企業っぽい会社」の正体です。

 

もし今勤めているところが、こういう会社なら、絶対に給料は上がりません。

すぐに転職することをお勧めします。

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo:Alex Kotliarskyi

ドイツに移住してからもうだいぶ経つが、実際に暮らしてみて、イメージとはちがうことが多々あった。

ドイツ人だって「かわいいね」とお世辞をいうし、地域によってはビールよりワインが好まれるし、みんなそこまで時間に正確なわけでもない。

 

そんななかで一番驚いたのが、ドイツ人がバリバリ残業して、そこそこ頻繁に職場の飲み会に顔を出していることだ。

え、ドイツ人って定時に帰るんじゃないの?

職場の人間関係はドライで、プライベートは別なんじゃないの?

 

最初はびっくりしたが、だんだんと、「実力主義になればなるほど飲み会が大事になる」という、イメージとは真逆の現実が見えてきた。

 

イメージとちがう!定時に帰るドライなドイツ人はどこ?

少し前、こんなツイートがバズっていた。

https://twitter.com/investor4545/status/1604676623508426752?s=20&t=mMr5CiHOLz3a7dX5wtfoag

職場の人間関係を大切にしているドイツ人をたくさん見てきたから、「アメリカでもそうなんだろうなぁ」と納得。

 

ドイツ人の夫を例に挙げると、有給休暇中でも職場のクリスマスパーティーには顔を出したし、上司の誕生日にはパートナーのわたしを伴って上司の家の誕生日会に行ったし、インターン生がやらかして困っていたときは土日に電話で指示して解決してあげたし、同僚のチェコ人が作成した文書のドイツ語を残業してチェックしていた。

 

定時に帰るイメージのドイツでも、こういう「付き合い」や「助け合い」は、珍しいことではない。

その一方で、「それは自分の仕事ではないので」とノーを突きつけたり、職場の人とは必要以上に関わらない人がいたりするのも事実だ。

 

日本人がイメージする「定時に帰るドライな外国人」像はきっと、こっちだろう。

 

さて、付き合いを大事にするドイツ人と自分の仕事だけしかしないドイツ人は、いったいなにがちがうのだろうか。

※便宜上「ドイツ人」と表現しているが、意味合い的には「ドイツで暮らし、ドイツ人とともに仕事している人」くらいのおおざっぱなもので、ドイツ国籍ではない人やドイツ語が母語ではない人も含まれる。

 

成果を求められなければ、職場の人間関係なんてどうでもいい

付き合いを大事にするドイツ人と自分の仕事だけしかしないドイツ人。

このちがいは、「実力主義かどうか」にある。

 

「なるほど、実力主義の人は個人プレーだから、飲み会なんか行かずに自分の仕事を淡々とやっているんだな」と思ったそこのあなた。

実は、逆です。

実力主義に身を置く人のほうが人間関係を大事にし、成果を求められない仕事をしている人のほうがビジネスライクなのだ。

 

成果を求められない仕事の例として、レストランのアルバイトをしていたときの出会った、清掃員たちのようすを紹介したい。

彼、彼女たちは、出勤してみんなにあいさつはするが、雑談することはほとんどない。わたしたちがいくら忙しくても、「これしときましたよ」と気を利かせてくれることはないし、持ち帰り自由の余ったパンをみんなと食べることもない。

 

出勤して、自分の仕事をして、終わればそそくさと帰る。それだけ。

なぜなら、+αの仕事をしても、まわりと仲良くなっても、給料が上がらないから。

 

清掃といっても幅が広いが、少なくともそのレストランの清掃に関しては、だれがやっても変わらない内容の仕事だった。

ドイツは資格社会で、管理職になりたければ別の職業訓練が必要になるから、期待以上の働きをしてもキャリアアップにはつながらない。長く続けても、仕事内容が変わることも、それにともない給料が上がることもない。

 

そうなれば、職場の人間関係なんてどうでもいいよね。

だって、自分の作業だけしていればいいんだから。

 

これは単純作業だけにかぎらず、オフィスワーカーでも同じだ。

生活できればそれでいい、昇進に興味がない、嫌になったらすぐ辞めてやる。

 

そういう気持ちの人は、残業してまで仕事をしないし、人間関係が悪くなろうと気にせず飲み会をパスする。「自分の担当ぶんだけしていればそれでいいんだろう」と。

でも実力主義の世界でキャリアアップを目指すなら、そうはいかない。

 

仲間として認められるためには努力が必要

大前提として、ドイツでは「仲間意識をつくるのは手動」だ。

日本人であれば、同じ企業に勤めているとか、同じ大学出身だとか、同郷だとか、共通点があればなんとなく仲間意識が芽生える。

 

たとえその人のことをあまり知らなくても、「同期のよしみ」と親切にしてあげることもあるだろう。

でもドイツには、そういった考えはまずない。

 

以前、ドイツの大学でグループワークの課題があったとき、ドイツ人たちの会話についていけずダンマリしていたところ、翌日の勉強会には呼ばれず、さらに担当を勝手に決められたことがあった。

 

抗議したら、「わたしたちは授業のあとみんなでランチに行って、そのあといろいろ決めたけど、あなたいなかったでしょ。授業中も発言してないし」と一蹴された。

 

えぇ? でも同じチームなんだからさぁ……。

 

そうは思いつつ、緊張していて発言できなかったけどやる気はあること、ドイツ語力の問題で話についていけなかったこと、外国人学生用の授業があったからランチは一緒にできなかったけど仲良くしたいことを伝えた。

すると、「なんだそうなの。オッケー、じゃあ一緒にやろう」とあっさり解決。

 

そう、嫌われてたんじゃなくて、単純に「仲間」だと思われていなかったから、誘われなかっただけなのだ。

相手はわたしを仲間外れにした意識なんてないから、一切悪びれもしない。

とまぁこんな感じで、所属で仲間意識が生まれるのではなく、ともに時間を過ごし、会話することで仲間になっていくのだ。

 

それは仕事でも同じで、同じ職場というだけでみんなが助けてくれるわけではない。

出勤したら笑顔で雑談し、困ったことがないかたずね、ときには酒を飲みに行き、「チームの一員」になる努力をする。

 

その努力なしでも仕事はできるが、おいしい仕事から外されたり、面倒な作業をぶん投げられたり、最新のプロジェクトの話を教えてもらえなかったりする。

 

でもそれは悪意による嫌がらせではなく、仲間ではないから優しくされないだけ。

そういう環境でも困らないのは、自分の作業だけやってりゃいいと割り切った人のみ。

 

チームメンバーとして受け入れられるためにいい関係性の構築は不可欠で、ある程度大きな仕事をしたいなら、チームの一員として馴染むことは必須である。

 

実力社会はコネ必須、社交的であることが求められる

また、実力主義の世界では、要求ステータスがきっちりと設定されている。

「この仕事ができる人を募集。大学で〇〇を選考し、成績が2.0以上の人。経験3年以上。修士や上級職業訓練修了者優遇。××が専門だとなおよし」のように。

つまり「だれに仕事を任せようか」と迷ったとき、候補に上がるメンバーは全員、必要ステータスは満たしているのだ。

 

そのうえで選ばれるにはどうすればいいか。

それが、コネである。

 

そもそもジョブ型のドイツには、「企業内で人材を育てる」という発想がない。

だから、必要ステータスを設定し、すでにスキルを持った人を探すことになる。

 

そうなると、「ちょうどいい人知ってますよ」とか「そういえばその資格をもった友だちが転職したがってました」というような紹介も、しぜんと増えていく。

 

つまり「いい話」にありつくには、人脈を使うのが一番なのだ。

だからみんな、いろんな飲み会やパーティーに顔を出し、「こういう仕事をしてるんです」「いまこういう勉強をしていて」「へぇ、その仕事おもしろそうですね」なんて感じで、いたるところに細い縁をつないでおく。

もしかしたらそのツテが将来、役に立つかもしれないからね。

 

実際そんな打算的な人ばかりではないけど、「まっとうな大人」であれば、社交的でだれとでも仲良く会話するのは、もはやマナーや常識の範疇。

社交性がない、付き合いの悪い人に対する風当たりは、実は日本よりかなり強いのだ。

 

人間関係のしがらみは抑止力であり、保険でもある

そしてこれはかなり主観的な考えなのだが、そうやって社交性を重視することが、実力主義のビジネス環境における「抑止力」であり、「保険」でもあるんじゃないかと思う。

 

実力主義の世界には、足の引っ張り合いがつきものだ。

でも足の引っ張り合いは双方消耗する泥仕合になるだけで、お互いにとって損。

 

だから仲良くなってしがらみをつくることで、「お互い助けあっていこう」という雰囲気にしているんじゃないかと思う。

 

また、実力主義社会では仕事の担当がきっちり決まっているため、できなかったときの責任はすべて、その担当者がとらなくてはいけない。

 

とはいえ当然ながら、うまいかないこと、時間が足りないこと、知識や経験不足で対処できないこともある。

そんなときは、他人に助けを求めるしかない。

 

しかし前述したように、同じ職場だから、同期だからといって助けてくれるわけではない。

だから助けてもらうためには、日ごろからいい関係性を築いておく必要がある。

 

他人が困っていたら、助けてあげる。

自分が困ったら、助けてもらう。

それが成り立つように、保険として、味方を増やしておくのだ。

 

ちなみに「自分の作業だけしてればいい派」の仕事は基本的に大きな責任を伴わないため、助け合いネットワークの外にいても支障ないのである。

 

実力主義でキャリアアップしたいなら、飲み会参加は必須だと思うべし

というわけで、これらの現実を踏まえ、冒頭の「実力主義における飲み会はめちゃくちゃ大事」という結論になったわけだ。

ちなみに飲み会は、パーティーやらコンサート鑑賞のイベントなども含まれる。

 

改めて考えると、当然だ。

どの国であっても、仕事は結局、人と人がするもの。そりゃ、いい関係性があったほうがいい。

 

「自分はドイツで働いていたけど飲み会なんか行かなかった! それでも問題ない!」っていう人が現れそうだけど、それって仲間と認識されずに誘われなかっただけ、もしくは人間関係なしでもやっていける程度の仕事をしていたってだけじゃないかな……と思ってしまう。

 

事実、自分だけで完結する程度の作業、だれがやっても同じような内容の仕事では、「仲間」がいなくても問題ないからね。

 

でも実力主義のなかで活躍したい人はみんな、ある程度飲み会を大切にしているんじゃないかな。

日本だろうがドイツだろうがアメリカだろうが、人間が集まってだれかのために仕事をするのであれば、協調性は不可欠だから(意外かもしれないが、ドイツの求人でも応募要件に「協調性のある人」と書いていることは多い)。

 

いや本当、同僚が助けてくれるだろうとか、先輩がなんとかしてくれるだろうとか、そういうの全然ないからね。

自分からちゃんと人間関係をつくらないと、みんなめっちゃ冷たいから。ビビるよ、本当。

意地悪されるんじゃなくて、「自分には関係のない人」扱いされるのよ。

 

所属するだけでとりあえずは仲間扱いしてもらえて、なんやかんや先輩が面倒見てくれて、飲み会を断っても「そういう人もいるよね」と理解してもらえた日本は優しい環境だったんだな……と、しみじみ思う。

 

日本でも最近「実力主義」という言葉が好んで使われているけど、そうなったらみんな、面倒な付き合いにも参加することになるからね!

しかもただ参加するだけじゃなくて、社交的にいろんな人と仲良くしないといけないし!

 

なんならパーティーはパートナー同伴で、パートナーの同僚たちと仲良くできないとパートナー本人の評価が下がるからめっちゃ気を遣うぞ!

 

付き合いをおざなりにすると「それはお前の仕事だろ」ってだれも助けてくれなくなるし、キャリアアップにつながるいい紹介話なんかももらえないからね!

 

というわけで、「実力主義なら面倒な人間関係は必要ない」というのはむしろ逆で、「実力主義でこそ人間関係構築力が求められる」という話でした。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :UnsplashMimi Thian

「まとめると……」と聞いたあとには、「まとめの話」が来ると期待している人がほとんどだろう。

が、私は「まとめると」のあとに、「全くまとまっていない話」をする人に、しばしば遭遇した。

 

例えば、夕礼でリーダーに「今日のまとめを手短に」と言われたある営業が、こんな感じで話をしていた。

「今日一日をまとめますと、朝リーダーから指摘があり、プッシュすればもう少し早めに受注できたはずだという事でなやんでいます。というのも、現在進行中の案件では、指摘の通りにしたいと思っていますが、同時に進んでいる案件は意思決定者と遠いので、ちょっとプッシュが難しいかもしれません、何か良いアイデアがあれば、相談に乗っていただきたいです。とりあえずやれることとしては、意思決定者と近い人物にコンタクトを取って、面会を申し込んでみます。ただそれほど親しくないので、アポをもらえるかはちょっとわかりません。なお、受注は1件でしたが、これは3月から追いかけていた案件で、リピートの受注です。リピートは他にも2件ほど見込みがありますので、引き続きお客さんへフォローをしたいと思います。ただちょっと気になるのですが、お客さんが競合を気にしていることで、「C社の出した新しい製品の機能が気になってるけど、あなたのところにも同じような機能のものがある?」と聞かれました。これはすでにリーダーに相談済みですので、新しいカタログをもって訪問してみようと考えています。ただ説明には不安が……」

こんな具合で、「まとめると」と最初に自分自身で言っているにもかかわらず、要点の分からないダラダラと話が続く。

本人はまとめているつもりなのかもしれないが、周囲の人は「まとまってないよな……話長い……」と、少し呆れている。

 

同じような話は他社でもあるらしく、上の話をしたところ、知人のシステム開発会社の部長が、「そういう人、うちにも結構いる。」と言っていた。

 

彼の話によれば、「結論から言えない人」も同様の傾向にあるという。

ある製品を採用可能かどうかの調査報告をお願いしたエンジニアに、「結論から報告して」とお願いしたところ、そのエンジニアは

「結論から言うと、まず最初に●●のような調査を行いました。調査方法としては……」と、言いだしたそうだ。

 

もちろん結論として上司が聞きたかったのは「採用の可否」であり、調査プロセスではない。

その部長は「結論から、って形式的に言ってるだけの人がいるんだよね……こういう人、どうしたらいいんだろうね。」と、ため息をついていた。

 

前にも書いたが、「結論から/手短に言う」という組織文化は、コンサルティング会社にも存在していた。

そのため、「急かさずじっくり待つ」「言い訳させない」「繰り返し伝える」など、様々な工夫が社内の環境として定着していた。

 

しかし、環境を整えても、なお一部の人は、上のエンジニアと同じように、結論から言うことにとても苦労していた。

その場合、文化や習慣とは違った原因によるもの、つまり認識能力によるものかもしれない、と思うようになった。

 

「わかる」=「分ける」

ではいったいなぜ、彼らは「まとめ」や「結論」を述べることができないのか。

 

単純に言えば、それは彼らが「結論やまとめ」と言う言葉の意味を理解しておらず、そして「重要な情報」と「その他の雑多な情報」などをきちんと分けることができていないことに由来すると推測できる。

 

実際、東京大学の人工知能の専門家である松尾豊は、この「分けること」こそ学習の根幹としている。

 

あるものがケーキなのか、寿司なのか、うどんなのか。

ある人にお金を貸してよいのか、案件にゴーサインを出していいのか。この広告を出してよいのか。

イエスか、ノーか。

 

うまく「分ける」ことができれば、ものごとを理解し判断し行動できる、と松尾は言う。

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脳科学者の山鳥重は、我々の知覚系は「区別」し「同定」することを繰り返している、という。

例えば、鉛筆を鉛筆であると認識するためには、背景から鉛筆を「区別」し、これまでの視覚経験の中からそれとおなじものを照らし合わせて「同定」する。

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例えば、同じものを見ても、熟練者と素人の間で会話が食い違うのと、同じ現象だ。

 

素人:この二つの絵は大して変わらないよ、同じ同じ。

熟練者:えー、全然違うじゃん。ほら色味の部分とか、ちょっと変わっていてすごく面白い。

素人:同じに見える……。

 

これをエンタメ化したのが、「芸能人格付けチェック」という番組だった。

出演者の芸能人に、「1億円の楽器の演奏」と「10万円の楽器の演奏」を両方聞いてもらい、どちらが1億円の楽器で演奏されているかを当てる、といったような番組だった。

 

一流と平凡のパフォーマンスの違いを認識できるかどうかは、脳に「区別」がインストールされているかどうかによる。

これはもちろん、演奏だけではなく、ワインの味や、絵の鑑賞、果ては将棋や囲碁の盤面の判断や、政治的な駆け引きなど、すべてに通じる。

 

専門家が、素人と異なる判断ができるのは、専門分野において「分ける能力」が高いためだ。

 

「ちがい」が「わかる」人になるには

したがって「結論から言う」ができるようになるには、脳に「結論」や「まとめ」といった言葉の意味が、きちんと「分けて」記憶されるよう、繰り返し記憶する→出力して練習する、というプロセスを繰り返し経験せねばならない。

 

あいまいなままでは、いざと言う時に、取り出して使うことができないからだ。

上述した山鳥は「わかる」は言葉の記憶から始まり、それは「名前」を記憶するのではなく、都度ちゃんと調べて正しく「意味」を記憶しなければならないという。

わからない言葉はきちんと辞書を引くか、誰かに聞くかして、その都度正しくおぼえておかねばなりません。

ITなどという記号を何となく雰囲気や脈絡だけから使うのはもっとも危険です。デジタル、アナログ、PCなどと言う記号をぼんやりとやりとりしていると、そのうちなんとなくわかったような気分になりますが、わかっているのは文脈から立ち上がる輪郭だけで、中身がありません。しっかりとした記憶心像はきちんと記憶しておかない限りつくれません。

(太字は筆者)

 

普段、何気なく使ってはいるが、「結論」や「まとめ」といった抽象的な概念は、具体的に心像を形成しにくいため、「分かる」状態になりにくい。

「数学が苦手」と言うのもこれに近く、「平方根」や「無理数」などは人間の五感で知覚できないため、認識して記憶するのが難しいのだ。

 

本当?と思う方もいるかもしれない。

それならば、試しに「結論から言え」と言う上司に、「すいません、今言われた「結論」の定義を教えてください」と問いかけてみてもいい。

 

本当に「分かっている人」ならば、明確な定義を説明できるはずだ。

でも、そうでないならば上司ですら「結論」をきちんと「分けて」記憶していない、ただ音だけを雰囲気で使っている人、という事になる。

 

上司ができていないのなら、何を要求されているかわからず、部下ができないのも、当然だ。

 

実際、山鳥は「浅い理解」と「深い理解」の違いを、「形の違い」にとどまるか「意味の違い」まで理解しているか、と言う部分においている。

 

例えば記憶障害のあるひとに、「ネコ」「サクラ」「デンシャ」というあまり関連のない単語を聞かせて「覚えてください」といわれると、なかなか覚えられない。

が、それに「漢字のイメージ」や「ものの姿のイメージ」を合わせて思い浮かべるようにしてもらうと、覚え方が少し良くなるという。

 

あるいは「エントロピー」と言う物理学の概念についても、熱力学の専門家なら、その考えが生まれるに至った歴史から始まって、その数学的定義、概念の正当さ、あるいはその概念の限界までさまざまなことを知っており、その理解は素人に比べてうんと深い、と山鳥は言う。

 

このように、一つのことについて多面的に知り、心の処理を深める、ということが、すなわち理解が深まる、ということなのだ。

したがって、いつまでも結論から言えない人に対しては、

 

・結論とは何か

・なぜ結論から言うことが必要なのか

・結論か言うことが必要なシーンとはどのようなシーンか

・結論から言わないほうがいいシーンはどのようなシーンか

 

等を丁寧に伝え、繰り返し訓練を施すことで、彼が「結論から言う」ことができる可能性は徐々に高まるだろう。

これは、私の経験とも一致する。

 

上司が単に「結論から言え」といった所で、部下がいきなりできるわけがないのだ。

 

余談:AIは「分ける」のが得意

前述した松尾豊は、赤ちゃんも、身の回りの事象を相関や独立といった概念に「わけて」いる、と言う。

おそらく、生後すぐの赤ちゃんは、目や耳から入ってくる情報の洪水の中から、何と何が相関し、何が独立な成分かという「演算」をすごいスピードで行っているはずである。

情報の洪水の中から、予測しては答え合わせを繰り返すことでさまざまな特徴量を発見し、やがて「お母さん」という概念を発見し、まわりにある「もの」を見つけ、それらの関係を学ぶ。そうして少しずつ世界を学習していく。

 

この行為は、AIが「ディープラーニング」として行っていることそのものでもある。

したがって、性能の良いAIは、「事物のつながり」や「物事の概念」について、人間よりもはるかに多くを知っている可能性が高く、それゆえに「結論から言う」のが得意だ。

 

ちなみに、冒頭の営業の報告を、自然言語処理のAIである、ChatGPTにかけると以下のようになる。

言わんとしていることは正しい。

ただし、まだこの要約は変な言い回しが含まれており、今であれば、要約の上手い人のほうがChatGPTに勝る「まとめ」を作れるだろう。

 

だがAIの能力の向上は著しい。人間がこうした分野で勝つことができるのも、もしかしたら時間の問題かもしれない。

AIが多くの平凡な人間の能力を超えたとき、我々に残された仕事とは、いったい何なのだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo:Michael Dziedzic

先日、ソフトバンクグループ(SBG)は、保有する中国のアリババ集団の株式を使った資金調達について、一部をアリババ株で返済すると発表しました。

 

SBGによるアリババ株式の一部譲渡は、同社株式を利用した先渡し売買契約による資金調達が絡む複雑なスキームといえます。

またSBGはIFRS適用会社であることなども加わって、一見して理解するには難しい部分がありますが、ザックリいうと連結決算上のアリババ株売却益に相当する金額は約1.5兆円と考えられます。

 

一方、SBGの個別決算上では、アリババ株式から得られる売却益は約2.4兆円(税金費用控除前)と試算されるとのことです(SBGのIR資料より)。

 

当然ながら、株式の売却金額は連結決算上も個別決算上も同じですが、売却益が異なります。これは、SBGのアリババ株の帳簿価額(簿価)が連結決算上と個別決算上で異なることが原因です。

今回は、保有する株式の簿価が何故、連結決算と個別決算上で異なるかについて説明します。

 

アリババ売却益の内訳

SBGは、2022年4~6月期に同期間では過去最大の3兆1,627億円の最終赤字(連結決算)を計上し、2四半期連続の赤字となりました。SBGはアリババ株の一部を手放すことで、2022年7~9月期に4.6兆円の利益を計上するとのことです。

一方、同社に対する出資比率は6月時点の23.7%から14.6%に下がり、その結果、アリババ集団はSBCの持分法適用会社でなくなります。なお、報道等では売却益4.6兆円と報じられることがありますが、SBGのIR資料によれば4.6兆円の内訳は以下のとおりです。

詳細な説明は割愛しますが、この内①は、1株当たり連結簿価と1株当たり決済時の公正価値(株価)の差額に決済に使用される株式数を乗じて算出されると説明されており、ザックリいうとアリババ株式の売却益に当たります。

 

②は、1株当たり連結簿価と持分法適用関連会社から除外される日の1株当たり公正価値(株価)との差額に引き続き保有する株式数を乗じて算出されるとあり、引き続き保有する株式の評価益に当たります。なお、②は国際財務報告基準(IFRS)にしたがった会計処理(SBGはIFRS適用会社)であり、日本基準では同様の会計処理は行いません。

 

③は、2022年6月末時点から決済時点までのデリバティブ金融資産負債の公正価値の変動額(決済時点の1株当たり決済価格と1株当たり決済時の公正価値(株価)の差額に決済に使用される株式数を乗じて算出)とのことです。

 

保有株式の簿価が連結決算と個別決算上で異なる理由

株式(SBGにおけるアリババ株)が、連結決算上、持分法適用会社である場合、連結決算においては、株式取得後の対象となる会社の業績の一部を取得原価に反映します。なお、持分法適用会社の詳細説明はこちらを参照ください「子会社、関連会社、関係会社、グループ会社の違いとは?」「持分法と連結法の違いとは?」。

 

簡単な例で確認してみましょう。

【設例】

A社は、3月決算会社である。
A社は0年3月末に、B社株式の30%を1,200で取得した(持分法適用会社となる)。
取得時のB社の資本勘定は、資本金1,500 利益剰余金700であった。
取得時におけるB社の土地の含み益は800(時価1,400 簿価600)であった。
のれんは、発生年度の翌年度から10年で定額法により償却する。
1年3月末に、A社はB社株式の20%(簿価800)を900で売却した。
売却時のB社の資本勘定は資本金1,500、利益剰余金1,000(当期純利益300)であった。

持分法適用時の会計処理

・取得時(0年3月末)の会計処理

会計処理無し
なお、のれん300(=1,200-((1,500+700)×30%+(1,400-600)×30%))は認識する。

 

・1年3月末の会計処理

一部売却は当期末に行われたので、当期純利益の内、持分に相当する利益を認識する。また、当期分ののれんの償却費を認識する。

当期純利益の認識

借)投資有価証券(B社株式)90 借)持分法による投資損益 90
90=当期純利益300×30%

のれんの償却

借)持分法による投資損益 30 貸)投資有価証券(B社株式)30
30=のれん300÷10年

 

・一部売却時の会計処理

前提として、個別決算上、以下の売却益が計上されている。

借)現金 900 貸)投資有価証券(B社株式) 800
_________...投資有価証券売却益     100

売却したB社株式簿価800=1,200×2/3

一方、連結決算におけるB社株式簿価(売却した20%分)は次のとおりである。

連結上のB社株式簿価=1,200+当期純利益90―のれん償却費30=1,260
売却した20%に係る帳簿価額840(=1,260×2/3)

したがって、個別決算上の売却益を修正するため次の会計処理を行います。

借)投資有価証券売却益 40 貸)投資有価証券(B社株式)40

設例では、個別決算におけるB社株式売却益は100ですが、連結決算における売却益は60となります。

保有する株式の売却により利益を計上することを「含み益を顕在化する」と表現されることがあります。個別決算上、関連会社(持分法適用会社の株式)の投資簿価は取得した金額(取得原価)で売却時まで据え置かれます。

 

一方、設例からも分かるように、連結決算では投資後に関連会社が計上した利益(会社持分相当部分)などは投資簿価に反映されます。つまり、含み益の内容についても連結決算と個別決算では違いがあることが分かります。

 

なお、B社株式の一部売却によりA社のB社株式保有比率は10%となり、持分法適用会社ではなくなります。そのため、持分法適用から除外する会計処理を行いますが、こちらについては割愛します。

 

一概には言えませんが、ザックリしたイメージで捉えると、高値掴みせず適正な価格で株式を取得した投資先企業が好業績で事業成長すると、連結決算上の簿価が個別決算上の簿価を上回ります。

この場合、連結決算での株式売却益は個別決算上の売却益よりも小さくなり、場合によっては売却損となることもあり得ます。

 

 

≪参考≫

アリババ株式先渡売買契約の現物決済及び本現物決済に関連するアリババ株式の資金調達子会社への譲渡に関するお知らせ」ソフトバンクグループ

※なお、本記事は執筆時点での公開情報に基づき記述されていますが、SBGは22年9月15日付で、23年3月期の単体決算における株式売却益は2.6兆円(税金費用控除前)に確定したと発表しました(「(開示事項の経過)アリババ株式先渡売買契約の現物決済及び本現物決済に関連するアリババ株式の資金調達子会社への譲渡に関するお知らせ」ソフトバンクグループ)

 

(執筆:溝口 聖規)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:MIKI Yoshihito

ある日本人の正月

この間、正月というものがあった。新年だ。

なにをする? 初詣だ。初詣でどこに行く? 神社だ。そして、お寺だ。

 

おれは過去十数年、横浜総鎮守と言われる伊勢山皇大神宮にお参りし、すぐ横にある成田山横浜別院へ行く。この位置関係、場所の取り合い、なにやら明治の廃仏毀釈の影響など想像しないでもないが、まあいい。とにかく気にしないで、神社にお参りし、寺へ行く。

 

これを、気にしない。今年などはそのあとべつの寺に行ったが、「同じ真言宗系だからいいよね」などと言いつつ、そもそも神社と寺をはしごすることに違和感がない。本地垂迹を心から信じているわけでもない。まあ、べつに違いはないよね、という。

 

「こんなのは日本人くらいだ」とはいえない。おれは世界を知らないからだ。

まったく知らない。日本から出たことない。カレー屋のネパール人とは少し話すこともあるが、宗教の話まではしない。カレー屋の壁には公明党議員のポスターが貼られているが、たぶんあまりそのあたりがなんなのかまでわかっていないのではないかと思う。たぶん。

(……というような話から始めようと思っていた)

 

世界の宗教のことなにも知らんよな。宗教というか、宗教事情というか、そういうの。断片的には知っている。

べつにキリスト者になるつもりもなにもなく、教養というか、なんか読んでおくかと聖書をあるていど一通り読んだりしたことはある。仏教者とキリスト者の対談本なども読んだりした。それはそれで面白い。

 

でも、もっと大きな視点から見たことなかったな、と思った。思わされた。そういう本を読んだ。小室直樹『天皇の原理』、これである。

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あれ? 2023/3/23日発売予定? しかもタイトルが『(仮)天皇の原理』ときたもんだ。

おれは未来の本を読んだのか? いや、古いハードカバーを読んだ。新書になるとは知らなかった。偶然だ。

 

「え、天皇の原理?」と思われるかもしれない。

おれも、まさか世界の宗教についての比較をこのタイトルの本で読まされるとは思っていなかった。

が、実際のところ、タイトルが間違っていると言いたくはなった。あ、だから新書版のタイトルも(仮)になっているのか。たぶん、もうちょっと適切なタイトルはあると思う。

 

ちなみに、小室直樹の本を読もうと思ったのは、朝のワイドショーを見たからである。

宮台真司が襲われたニュースについて、かつて共に時事評論などを行っていた宮崎哲弥が「われわれふたりとも小室直樹先生に大きな影響を受けており、小室直樹再評価の仕事をしようという抗争を持っている」などと語ったことによる。

 

いきなり朝のワイドショーらしくない話をしているなと思い、字面くらいでしかしらない「小室直樹」をWikipediaで読んで、興味を持ったのだ。

 

なぜ、「天皇の原理」が比較宗教学みたいになっているのか。

著者は「日本人とユダヤ人のみが神からのぞみの地を約束された民」として、天皇の秘密を解くうえで「ユダヤ教ほど適切な補助線はない」と書く。

 

そこから、ユダヤ教の話が始まって、世界の宗教、日本の仏教の話になって、最後の最後の方まで天皇の話は出てこない。

こちらとしては、初めて小室直樹に直接あたるにあたって、天皇の話を期待していたのだから肩透かしだ……とはならない。

なにかもう、目から鱗という感じで、「ひえー」となってしまった。

(はい、「ひえー」となるのがポイント)

 

個人救済と集団救済

まず、そうだったのか! と思ったのが個人救済と集団救済のことだ。

ユダヤ教は、本来、個人救済の宗教ではなく、集団救済の宗教である。この点、儒教と同様であり、仏教、キリスト教、イスラム教徒は根本的に違う。

個人救済か集団救済か。宗教を比較するにあたって最も重要な比較点の一つである。

おれの無知や不明もあるだろうが、こんな風に宗教を切り分けられるのかと思った。

唯一神だとか多神教だとか、そういうのではなくて、個人と集団。

 

なるほど、儒教は聖人が天子になりよい政治を行う。それによって国も国民も豊かになる。蝗などの自然現象も退散する。一方で、個人に対する救済(Salvation)は考えられていない。なるほど。

 

そして、ユダヤ教といえば、イスラエルの民のための宗教だ。旧約聖書には神とイスラエルの民のある種の反目、緊張関係があったことが思い浮かぶ。

そして、ユダヤ教における救いは、危機に際して神が奇蹟によって民を救うことである。

 

などといってすごく納得してしまったのです

はい、というわけで、つかみのところで、「これはすごいな、目から鱗だ」と思ってしまったわけです。

原典からの引用や、独特の語り口、なんというか、魅力にあふれている。

 

というわけで、おれは夢中になってこの本を読みすすめた。

そして、キリスト教における「予定説」の解説になって、「そうか、これがキリスト教の真髄なのか!」とびっくりして、これはしっかり自分の意識に植え付けておかなければ、などと思ったわけだ。そして、文章にしておきたいとも。

 

じゃあ、とりあえず小室直樹の解説する「予定説」をご紹介。

 

予定説

予定説とはなにか。神が、予め、救われる人とそうでない人との選別を、定める。そこに条件はないという。無条件で、もう決まっている。それが予定説だ。

予定説をズバリと明言し、教説の中心に据えたのはカルヴァンである。
カルヴァン説の宗教社会学的意味を解明したのは、マックス・ヴェーバーである。

予定説(プリディスティネーション)とはなにか。ルッターが、いみじくも、Voher-bestimmungtoと訳したように、神が予め(Voher)定めること(Bestimmung)をいう。

神が、予め、定める。
何を。
恩恵(グレイス/grace)によって救われる人とそうでない人との選別を。

日本人的な感覚では因果応報、因果律。人の行いのよしあしに応じて救われたり、救われなかったりするのが当然と考える。

 

日本人に染み入った仏教の理論は因果律(Causality)による。しかし、予定説は違う。

では、救われる人と救われざる人との選別はいかにしてなされるのか。救われると選別されるための条件は何か。
条件はない。<無条件>である。

これには面食らう。

 

かの内村鑑三もこれには難儀したという。キリスト教を布教するにあたって、どうにか予定説を説明するのにも「神は公平なり」ということを証明しようとした。ところがこれが間違いだと小室直樹は述べる。

カルヴァンは、絶対に、内村のように考えない。
ヴェーバーが分析したカルヴァン説を要約すると左のようになる。
「神は公平である」なんていうことを証明する必要は少しもない。絶対にない。
それどころではない。
「神は公平である」ことを証明しなければいけないと考えることこそ瀆神である。
公平、不公平なんて言ったところで、それは、畢竟、人間界の規範にすぎない。
神は絶対に高く、人間は絶対に低い。
その低い人間界の規範で高い神を律することは、法外の瀆神である。

神は是非善悪から自由だ。天と地とともにそれを創造した。まったく自由に。

そして、キリストの贖罪もこう解釈される。

 キリストの贖罪の死は、ただ選ばれた者(永遠の生命を予定された者)だけのためである。全人類のためではない。

著者はその根拠としてパウロの「ローマ人への手紙」にその思想が明白に表明されているとする。

神が予定した人だから、この人は善きことをするのである。

 

これはもう、仏教的あるいは儒教的、日本的な因果関係が逆だ。

予定説がキリスト教の要諦であるならば、それを意識してかしないでかわからないが、なんとなくあまり広がらないのもわかるような気がする。

 

さらに予定説にのっとって言えば、キリスト教徒になるのは、自らの意志で信仰に入るわけではない。

内村鑑三も「むりやりにキリスト信徒になさしめられた者であります」と告白している。

これを著者は予定説の理解への一歩手前としている。とはいえ、公平・不公平、因果にとらわれてしまったという。

 

内村鑑三ほどの人をしてそうなのだから、凡俗の我らがそこに踏み入ってキリスト教徒になるまでには相当な何かが必要だ。

日本にキリスト教がいまいち流行らないのは、このあたりに原因があるのではないかとすら思うが、どうだろうか。

 予定説は、キリスト教の根本的教義である。予定説なくしてキリスト教なし。

 

なんかキリスト教の根本をわかったつもりになりました

という、具合で、「キリスト教の根本は予定説なのか!」と、目から鱗をまた流して(鱗って流れるんだっけ?)、いやー、勉強になった! と思い込んだわけだ。

 

が、この原稿を書くにあたって、いや、ざっと書いたあとに、ふと、あらためて「予定説」を軽くググってみると、たとえばWikipedia先生にはこう書いてある。

予定説を支持する立場からは、予定説は聖書の教えであり正統教理とされるが、全キリスト教諸教派が予定説を認めている訳ではなく、予定説を認める教派の方がむしろ少数派である

予定説はキリスト教の全ての教派で受け入れられている訳ではなく、プロテスタントの幾つかの教派で受け入れられてはいるものの、最大の信徒数をもつローマ・カトリック教会や、東方教会で最大の教派である正教会では受け入れられていない教説である。

あれ、そうなの? 根本ではなかったの?

 

そこでまた本書に戻る。すると、こう書いてあるではないか。

カトリック教会は、教義上、善行や功徳や修行によって救済されることを否定している。(ペラギウス異端の拒否)。神の恩恵なくして善行をすることはできない、としている。
これぞ、まことの予定説。

あれ、トリエント公会議で異端として排斥されたとWikipedia先生には。

 

が、もうちょっとちゃんと読んでみると、小室直樹先生もこう書いている。教義上は予定説だが、社会的宗教活動においてはこれに固執できなくなっていった。

というか、こうも言っている。

 日本人だけではない。欧米人が予定説を理解することもやはり困難である。

だから、カトリックも秘蹟(洗礼、堅信、聖体、告解・改悛、叙階・品級、終油の七秘蹟)によって恩恵が獲得されると考えるようになり、予定説から遠ざかっていった、と。

プロテスタントも洗礼と聖餐による聖礼典というサクラメントによって。

というか、はっきりこう書いているではないか。

このように予定説は、欧米のクリスチャンにとっても、俗耳に入り難いというか、俗心は受け難いというか。教義の中心に据えられていても、いつのまにか、社会的宗教活動の表面からは消え去っていく。
カルヴァン派とその他禁欲的プロテスタンティズムだけが例外であった。
予定説を、教義だけでなく宗教活動の中心に据え通し、これを標榜し続けたのであった。

「例外」って書いてある。

 

いったいどうなのかわからん

さて、あらためてちょっとネットを検索して、あらためて本書に戻り、おれは困った。

おれは途中まで、「うっかり一冊の本だけでなにかわかった気にならないように注意が必要だ」と結論付けて「ご用心」としめるつもりでいた。

 

が、ちゃんと読めば小室直樹も「例外」と書いている。少数派だということだ。

これで困ってしまう。はたして予定説はキリスト教の論理、根本的教説なのか否か。

 

小室直樹は社会的宗教活動と教義をある意味で切り分けて考えているようでもある。

ただ、公会議で当人たちが異端としたことを「社会的宗教活動」として片づけていいものなのかどうか。

 

そしてもちろん、宗教は多数決で決まるものでもないだろう。標榜するのが少数派や例外だとしても、予定説を根本と考えるキリスト者もいる。

一人の中で6:4の割合で予定説を受け入れよう、というわけにもいくまい。それはもう1か0かということではないか。

 

そして、小室直樹がヴェーバーから、カルヴァンに、そしてパウロの「ローマ人への手紙」に行き着き、これがキリスト教の根本と考えたことも、多数決で否定できるものではないだろう。

つまりおれは、最初、予定説をキリスト教の根本、主要思想と思い、調べてみたらカトリックでも異端とされているのを知り、「あれ、違うのか」と思い、あらためて本書に戻って「やっぱりどうなんだ」と思っているのである。

 

ここから先はどうすればよい?

これはよくわからん。なにせ本書は『天皇の原理』なのであって、予定説の解説書ではない。とはいえ、ヴェーバーやカルヴァンを、あるいはその解説書を読んだところで、予定説をより知るだけのことだろう。

逆に、予定説を否定する論を読んだところで、それをより知るだけのことだろう。

 

ここから先は、信仰に関わる問題、信の問題になるのだろうか。

とはいえ、おれはキリスト教徒ではないので、信仰によって選ぶということもできない(予定説によればすでに選ばれているか、いないかなので、この考え方も変なことになるか)。

 

というわけで、「キリスト教において予定説というものを根本と考える人たちもいるが、そうでない人の方が圧倒的に多いらしい」という知識にとどまることになる。

最低限、これだけ覚えれば少しは得になっただろうか。でも、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(もちろん未読)は、予定説をベースにしてるんだよなあ。

 

……あ、ちなみにこの本におけるキリスト教の解説はかなりの分量を占めていて、あとは最澄がもたらした自誓受戒による仏教の内面信仰化、さらに親鸞による脱仏教化などが語られ、戒律から離れたことで日本には法が不在であると述べ……天皇は? 天皇はキリストのように復活したという。一度死んだ。なんで? 承久の乱で。承久の乱はポツダム宣言受諾、天皇人間宣言なみの事件だったという。「天皇は無条件に正しい」という予定説から、「よい政治をする者が正しい」という因果律への大転換。

 

『神皇正統記』ですらこのあたりは善政主義が見られる。

しかし、天皇は復活した。崎門の学……というところで本は終わる。なにやら出版を急ぐ理由もあったらしい。

おそらく「詳論はつぎの機会にまわさざるを得なかった」という「つぎ」こそが『天皇の原理』というタイトル通りの内容になったのであろう。

 

独学の限界

「独学」といえるのかどうかわからないが、一人で本を読んであれこれ学ぼうとするのは、やはり難しい。

しっかり読まないと、うっかりの早とちりを三連発くらいでしてしまう。この文章はその記録だ。ついでにいえば、おれがなんの見通しもなくものを書き始めてしまうという自戒だ。

 

とはいえ、独学じゃなくて、これが例えばカリスマ性のある大先生に講義されたことだったらどうだろう。

もっと疑問に思わずに、自分の関心があるところだけ都合よく解釈し、知った気になって、余計調べない可能性もある。

そんでも、やっぱり例えば同級生と話すとか、なんか人前で発表するとかになれば、自らの至らなさや誤解がはっきりと現れることであろう。

 

やはり一人では限界がある。とはいえ、おれには師匠も友達もいない。たんなる高卒の独身中年サラリーマンだ。

今からどこかへ通って学び直す金も暇もない。せいぜい図書館に行って本を借りて読むだけ。それでもまあ、おれが楽しければいい。

 

一人で間違えて、一人で間違いに気づき、一人で顔を赤くするのも悪いもんじゃない。そうじゃないだろうか。何度でもそれを繰り返していくうちに、これといってなにも得られずに死んでいくだけだ。それだけだ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Siora Photography

要約:日本では少子高齢化が進んでいる。高齢化率が高くなると国全体の認知機能、ひいては運転技能も低下し、交通上の問題となる。よって自動運転待ったなしである。

 

増える運転免許の自主返納

どこもそうかもしれないが、精神医療の現場には時代ごとのブームがあり、世間がそこから透けてみえる。

 

20年ほど前は従来に比べて重症度の低いうつ病や不安障害の患者が増えていく時期だった。

社会的ひきこもりがトピックスになった時代でもある。それが10年ほど前になると発達障害の患者が急増し、診断することも相談を受けることも日常的になった。

 

最近増えていると感じるのは、認知症とその周辺症状の診断、それから運転免許センターからの「認知症についての公安診断書を書いて欲しい」という依頼である。

この書類について詳しく知りたい人は、警察庁のウェブサイトにpdfファイルがある のでそちらをご覧いただきたい。

とにかく、こういう診断書を書いて欲しいと依頼されることが増えているのだ。その大半は運転免許センターで行われる認知機能検査の点数が低くて受診するよう促されたものだが、家族が心配して警察に相談し、そのうえで受診に至るケースも少なくない。

 

こうした私の肌感覚が統計的に裏付けられるか確認してみよう。

同じく警察庁「運転免許統計(令和3年)」を確かめてみると、運転免許センター等で認知機能検査を受けた人の数は平成24年には約133万人だったものが、令和3年には約209万人に増えている。

 

高齢ドライバーに義務付けられている高齢者講習の受講者も、平成24年に約201万人だったものが令和3年には約338万人まで増えている。

これだけ高齢ドライバーとその認知機能検査の件数が増えれば、認知症などを疑っての受診依頼が増えるのも当然だろう。

 

運転免許の自主返納数のグラフにも、それが如実に表れている。

こちらのグラフはニッセイ基礎研究所『高齢者の運転免許返納は増加したか?~返納率は上昇するも、都道府県差は拡大』  のものだが、免許返納者数は急激に増加している。

 

グラフからも読み取れるように、2017年には道路交通法が改正されて認知機能検査の厳格化がすすめられ、免許返納者数は一気に増大した。やはり、高齢者の免許返納とそのための受診依頼は増えているのだ。

 

地方のロードサイドで精神医療に携わっていると、この運転免許の自主返納についての受診依頼が不可避的に舞い込んでくる。

本人や家族が返納する気まんまんならこの仕事は簡単だが、本人や家族が返納したくないと思っている時、この仕事は大変難しいものになる。病院での認知機能検査、各種の画像検査をとおしてはっきりと認知症と診断できる場合でも、本人や家族が納得してくれるとは限らない。

 

その気持ちはよくわかる。公共交通機関の発達した都内などならともかく、地方のロードサイドで自動車運転できる者のいない生活は不便きわまりない。

数十年前に山奥に開墾されたニュータウンなどは最悪だ。というのも、そのようなニュータウンは完全にモータリゼーションを前提につくられていて、そのうえ人口減少や高齢化のために路線バスの便数が減少し、頼りになる商店もほとんど無いからだ。

 

だからといって、認知症の診断根拠が揃っているものを見逃すことはできない。

家族に「この人が自動車運転できなくなったら生活が成り立たないんです」などと懇願されても、虚偽の診断書を提出するわけにはいかないし、認知症と診断される人が公道で運転するのを放置するわけにもいかないのである。

 

これからの日本こそ自動運転が必要な国ではないか?

増える高齢者と認知症、そして免許の自主返納。それらはひとりひとりの高齢者にとって切実な問題で、警察と医療が連携して取り組むべき課題でもある。

だが実際には、高齢化による運転技能低下の最も目立つ氷山の一角に過ぎない。

 

免許の自主返納が行われようとも、国全体でみるなら運転免許取得者の平均年齢は高くなり続けていて、それに伴って、運転技能は低下し続けていると想定しなければならない。

 

医療の場で用いられる認知機能検査からも、それがうかがえる。

認知機能を測定する検査をみてみると、同じIQ100でも30代と60代では基準が違う。IQ100の30代はIQ100の60代より検査そのもののスコアは高い。

逆に考えるなら、IQ100の人が30代から60代に加齢すれば、基本的に認知機能は低下するとみてとったほうがいい。ならば、国全体で高齢化が進むなら、国全体の認知機能のアベレージも下がらざるを得ず、それは運転技能にも反映されるはずである。

 

というより、運転技能こそ、国全体の高齢化によって避けがたく認知機能の低下の影響を受けるのではないか?

 

昔から、高齢者には英知がある・年の功があるとも言われてきた。情報社会の進展により「おばあちゃんの知恵袋」の値打ちは急速に目減りしているが、結晶性知能という言葉もあるぐらいだから、知識や経験が重要な分野ではシニアが活躍することもあるだろう。

 

しかし運転技能に関連した知能(たとえば知覚推理や処理速度など)の低下は避けられない。

eスポーツのアスリートは20代のうちに能力の曲がり角に直面するし、戦闘機のパイロットも40まで現役でいられる人はそう多くない。自動車運転はそれらに比べれば運転技能に関連した知能の低下がずっと問題になりにくいし、中年のドライバーは高齢者や若者に比べて自動車事故を起こしにくい。

 

とはいえ、結晶性知能と違ってこちらはごまかしも挽回も効きづらい。そして国全体が高齢化すれば、そうした技能も全体的に低下していく。

 

ドライバーの高齢化がひときわ進んでいる分野もある。地方のタクシーは高齢ドライバーが増えた。トラックのドライバーも平均年齢がじりじり高齢化していると聞く。

タクシーの高齢ドライバーの運転を眺めていると、反応の鈍さをゆっくりとした運転でカバーしようとしているドライバーが多い。しかし唐突な出来事への対応力という点では心もとないドライバーもいる。

 

そして唐突な出来事は高齢な歩行者や自転車運転者も起こしがちなことだ。昭和時代には道路に飛び出してくるものといえば子どもと相場が決まっていたが、この少子高齢化社会では高齢者が飛び出してくる。

そして子ども同様、高齢者の行動はしばしば予測困難だ。

 

だとすればだ。

自動運転システムは日本こでこそ必要ではないか。

 

アメリカは、イノベーションと効率性に導かれて自動運転とそのシステムを構築しようとしている。そうしたシステムを構築するのがテスラなのかグーグルなのかアップルなのかは、ここでは論じない。

しかしそのアメリカは日本と比べて事故死等に対して大変アバウトな国でもある。そのアバウトさを種々の統計を合体させて書き記すと以下のようになる。数字は2020年のものだ。

《アメリカ(人口3.3億)》

・自殺48000人
・薬物中毒死 93000人
・交通事故死 38000人超
・殺人 推計21000人超
・これらの合計 200000人超
《日本 (人口1.25億)》
・自殺 20000人弱ぐらい
・薬物中毒死 たぶん少ない
・交通事故死 3000人弱
・殺人 1000人弱ぐらい
・これらの合計 24000人+αぐらい?

アメリカがアバウトな国だからこそ自動運転が先に実用化されるのだろうけど、本当は、アバウトな国は自動運転なしでも何とかやっていけるのだろう。第一、アメリカは日本ほど高齢化していない。

 

しかし日本は違う。自動運転を導入するためのハードルこそ高いが、切実に自動運転を必要としているのは日本である。

これからますます高齢者の割合が増え、国全体で運転技能が低下する日本にこそ、自動運転はふさわしいし必要だ。

 

実のところ、日本では交通事故で亡くなる人の数は減り続けている。アメリカや自動車の普及段階にある途上国などに比べればまったく少ない。

しかし統計からみて、日本における命の重さはアメリカや途上国のそれより重いはずで、実際、命は丁寧に扱われ、管理され、保護されている。アメリカや途上国並みに交通事故があっても構わないんじゃないかと思う人は、日本では少数派だろう。

 

こうした命を巡る価値観と、とめどもない高齢化の掛け算の答えとして、日本こそ、アメリカとはぜんぜん別の理由で自動運転待ったなしである。

 

ところで……

ところで、国全体で認知機能が低下するとして、影響を受けるのが運転技能だけとは思えない。

たとえば政治、たとえば経済、たとえば文化に対しても、本来、その影響は甚大なはずである。

明確に認知症と診断し得る人を認知症と診断し、治療や支援の対象にしていくだけでは、そうした影響を完全に免れることはできない。本当はそちらのほうが問題として大きい気がするが、紙幅の都合もあるので、そこらへんについてはまたの機会に譲る。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo by UnsplashViktor Bystrov

2023年の幕開けは暗かった。

元旦から暗い本を読んでしまったせいだ。その本とは、ノンフィクションライターの中村敦彦さんが、歌舞伎町に集う女性たちを取材したルポ「歌舞伎町と貧困女子」である。

 

「これは新春1発目に読むようなもんじゃないな」と一瞬躊躇したけれど、新宿という街で今、何が起こっているのかを無性に知りたくなってしまい、新年が明けて早々にKindle版を購入した。

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なぜそんなことに興味を持ったのかというと、若年女性の支援活動をしている一般社団法人のColaboが、年をまたいでもまだ炎上を続けていた為だ。

私はネットの火事場を眺めるのが大好きという趣味の悪い人間だが、今回ばかりは一向に鎮火する気配のない炎の勢いに、少々たじろいでいる。

 

大炎上することになった問題の争点は置いておくとして、私が今回の騒動に関連した様々な意見の中で気になったのは、Colaboが取り組んでいるバスカフェ事業についてだ。

Colaboは新宿区と渋谷区と連携し、繁華街に夜間巡回バスを走らせて、夜の街を彷徨っている女子中高生たちに食事、飲み物、衣類、化粧品等を提供している。

そうすることで居場所のない少女たちと繋がり、彼女たちが性売買に取り込まれるのを未然に防いで、必要な支援に繋げるためだ。

 

けれど、新宿で生活困窮者の支援活動をしている男性が、「Colaboの活動報告レポートの内容と実態はかけ離れており、歌舞伎町での少女売春や補導件数は減るどころか、むしろ増える一方だ」と、Colaboのバスカフェ事業に疑問を呈しているのが目に入った。

 

なぜ支援者たちが熱心に活動しているにも関わらず、歌舞伎町で少女売春は減らないのだろうか。

 

不思議に思っていたところへ、中村敦彦さんの新刊「歌舞伎町と貧困女子」の紹介記事が流れてきて、もっと深く内容を知りたくなったのだ。

本によれば、いま歌舞伎町に集まっているZ世代の女の子たちは「男に貢ぐ」ため、息を吸うように売春をしているそうだ。暴力団が衰退し、店舗型の風俗店や違法風俗店が一掃され、女の子たちは個人で客をとっている。

 

今の未成年は売春をすることでしかお金を作りようがなく、少女たちが体を売り、その稼ぎを同じ境遇の少年たちやホストに貢いでいるという。

 

いまさら日本の貧困化には驚かないが、売春相場の暴落率には衝撃を受けた。

激戦区の路上に立つ街娼とは言え、未成年の女の子たちの裸とセックスの値段が、たったの1万円だとは…。

 

デフレ化が止まらないのは、売りたい女の子の数が増えすぎて、供給過剰になっているかららしい。

私は、現代の少女たちの貞操観念やモラルを云々いうつもりはない。私が若かった頃にも、ブルセラショップや援助交際と呼ばれるものは既にあった。

 

けれど、当時は普通の女の子ならもちろんのこと、例え不良少女であっても風俗店で働くことや売春には高いハードルがあり、滅多なことでそのハードルを越えることはなかった。

 

そもそも体を売らずとも、女の子はただ若さを売りにするだけでお金を稼ぐことができていたため、よほどの事情がない限りそこまでする必要がなかったのだ。

もう30年近く前の話だが、私が東京で大学生をしていた頃に、二人の家出少女たちと一緒に遊んだことがある。

 

二人は15歳と17歳で、東京近郊にあるという実家にはほとんど帰らず、キャバクラで働いていると話していた。

18歳に満たない年齢の少女たちがキャバクラで働くことは当時でも違法だったが、あの頃はまだ取り締まりが緩かったのだ。

 

だからお金と行き場のない10代の少女たちは、とりあえず水商売で働き始めるのが一般的なコースだった。

特に決まった店に所属しなくても、1日体験入店で1万円の日給がもらえたので、あちこちのキャバクラで体験入店を繰り返すだけでも稼ぐことができていた。

 

今は取り締まりが厳しくなって、18歳未満の女の子たちがキャバクラやラウンジで働くことはできなくなった。

しかし、それゆえに収入を得る方法が売春しかなくなってしまったのだとしたら、風営法、労働基準法、児童福祉法は、一体少女たちの何を守っているのだろうか。

 

その二人の家出少女は、当時私が付き合っていた彼氏の先輩たちと交際していた。

その先輩方は浪人期間を経て大学生になっていたので、年齢はすでに20代半ばに近かったはずだ。

 

学生とはいえ大人である彼らが15歳や17歳の少女たちと交際するのは、今であれば厳しい目を向けられるだろう。けれど、やはり当時はおかしいと思わなかった。

 

高校生くらいの女の子が大学生や社会人と付き合うのはいたって普通のことであり、私が通った女子校では、車を持つ大人の彼氏が居ることはむしろステータスだったからだ。

 

同世代の男の子よりも大人と交際している女の子たちの方が、彼氏にお金をかけてもらえる分ゴージャスであった。

今思えば、当時は若い男の子たちにもちゃんとお金があったのだ。

 

キャバ嬢を彼女にしていた先輩方は、夏はサーフィン、冬はスノボ、夜はクラブ通いとキャバクラ遊びを趣味にしていたが、なぜ普通の大学生にお金のかかる遊びができたかといえば、当時の男の子たちは肉体労働でしっかり稼げたからである。

私の彼氏を含めて体力自慢だった彼らは、週末ごとに引っ越し業界でアルバイトをしており、1日につき3万円の日給を得ていた。

 

もっとまとまった額のお金が必要な時は、大学の長期休業中にリゾートバイトや宅配の仕事をすればよかった。

「短期間で100万円以上の金が欲しかったら、男は佐川へ行け」と言われていたし、ガテン系のアルバイトでも、1万円を超える日給に加えて、現場のおっちゃんたちからは食事と酒にタバコ、時には女まで奢ってもらたので楽しかったと聞いている。

 

現在のように労働基準法が守られておらず、長時間労働を前提としていた時代の話だが、当時の若い男たちは、体力さえあればいくらでも自力でお金を稼ぐことができたのだ。

 

だから水商売の女の子と付き合っているからといって、彼女たちのヒモになるようなことはしなかった。

自分よりも若年で立場の弱い女の子を搾取することは、男の風上にも置けない非道な行為だったからだ。それが、当時の一般的な男子の規範意識だったと思う。

 

けれど、今は事情が違えば意識も変わってしまったらしい。

若い女の子たちが体を売っても昔ほど稼げなくなってしまったように、近ごろは若い男の子たちが体力を売ってもお金にならなくなっている。

 

2018年からは空前のホストブームが来ているそうだが、今の若い男性にとっては体力勝負の仕事をするより、ホストになって若い女性たちからお金を巻き上げる方が、簡単で効率の良い「稼ぐ手段」になったのだろう。

 

それにしても、ごく普通の女の子を捕まえて自分に恋をさせ、心理的に支配して管理し、ホストクラブでお金を使わせるために売春するよう仕向けることをマニュアル化するなんて、30年前はヤクザでもそんな悪どいことはしていなかった。

 

フェミニストたちは萌え絵の規制を叫ぶよりも、こうしたタチの悪いホストクラブの規制強化を社会に訴え、政治に働きかけるべきなのではないのだろうか。

令和の歌舞伎町における食物連鎖のピラミッドでは、トップに君臨するのはホストクラブで、底辺に位置するのはモテない男や孤独な中年男性なのだそうだ。

 

ホストに狂った女の子たちは、無限のお金を必要としている。

売春の稼ぎでは追いつかず、お金を持った中年男性に狙いを定めて色恋を仕掛け、情にほだされたオジサンたちから財産を奪ってホストに貢ぐ。

ターゲットになるのは、女慣れしておらず、優しく、底なしの寂しさを抱えている40代〜50代の男たちだ。

 

彼女たちはそうしたカモを効率よく探す為に、自ら積極的に売春をする。

最近では、買春客のオジサンを罠に嵌めてお金を引き出す手法が情報商材化されており、コンサルティングをする女性まで居るというから開いた口が塞がらない。

 

そうした女の子たちにとって、自分にお金を出させる男は尊敬と恋愛の対象だが、自分にお金を支払う男は軽蔑の対象で、人間以下だとでも言うのだろうか。

嘘をついて恋愛状態にさせ、全財産を奪い取った相手が破滅しようが、彼女たちは全く心を痛めない。これではホストと同じ穴のムジナである。

 

もしかしたら、これまでイメージされてきた純粋な被害者である女性も、圧倒的な強者である男性も、もはや令和の繁華街には居ないのかもしれない。

 

少なくとも、これまでと同じ考え方や同じアプローチの仕方では、女の子たちが体を売って成り立っている食物連鎖のピラミッドは崩せないのではないだろうか。

果たしてColaboの炎上がいつまで長引くのか、仁藤夢乃さんと暇空茜さんとの対決がどう決着するのかは、今なお皆目見当がつかない。

 

けれど、今回の騒動をきっかけに、私たちは現場で起こっている現実を公正な目で捉え直し、問題を現実的に解決していく方法を、改めて社会全体で考えていかなければならないと思う。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@CrimsonSepia

Photo by :Dick Thomas Johnson

学校でもそうだったが、社会に出るととくに、「聞くちから」を要求されることが多い。

要は、聞き上手になれということだ。

 

でも、聞き上手ってどういうことをいうんだろう。

 

巷では「相槌のさしすせそ」「相手の目を見てリアクションを大きく」「質問力を上げて会話を盛り上げよう」なんてテクニックをよく耳にする。

 

とはいえそれらは「聞き上手になるには」の答えであって、「聞き上手とはなにか」の答えではない。

 

さて、では「聞き上手」とはなんなのか。

今日はディズニーランドですれ違う男女の例を挙げつつ、「聞き上手とは」について書いていきたい。

 

解決を求める男性と共感を求める女性、どうちがう?

さっそくではあるが、『人は聞き方が9割』という本の一文を紹介しよう。

「ねぇ、あなた、ちゃんと聞いてる?」
「うん、聞いてるよ」
「聞いてない! あなたはいつも私の話をちゃんと聞いてくれないじゃない」
「ちゃんと聞いてるだろ! 何が不満なんだよ?」

このやり取りは、古今東西、日本全国至るところで繰り広げられている、誰もが一度や二度は目にした、もしくは体験した光景でしょう。(……)
この会話例の男性のように「話を聞いてる」と言う人の多くは、本当に話を聞いています。
ただし、「聞く」ということの解釈に違いがあるのです。
「話を聞いてる」と言う人の多くは「言葉」を聞いています。つまり内容はしっかり把握できているのです。
しかし、「話を聞いてほしい」と言う人の多くは、その話の奥にある「感情」を聞いてほしいのです。

よく、「男性は解決したがり、女性は共感を求める」と言われる。

それがきっと、「言葉を聞く」と「感情を聞く」のちがいなのだろう。

 

「ちゃんと話を聞いているのに、なにが気に入らないのかさっぱりわからない」と首をかしげる男性は言葉をそのまま受け取っていて、「わたしの気持ちをわかってくれなくてムカつく」と腹を立てている女性は、言葉の奥の感情を汲んで肯定してほしいのだ。

 

解決したがる人と共感する人を比べたら、後者のほうが聞き上手に思える。

でも正直、ただひたすら「そうだねぇ」と同意し続ける人が聞き上手かと言われると……。いやまぁ、話を聞いてくれるだけでありがたいこともあるけど、ぶっちゃけ微妙だよね。

 

大きなミスをして落ち込んでいる友人の話、あなたならどう聞く?

たとえば友だちが、仕事で大きなミスをして落ち込んでいるとしよう。

 

言葉を聞いて解決したがる人は、「大きなミスをした友人」に対し、「次はこうすればいい」「起こってしまったことはしょうがない」とアドバイスする。

一方、感情を聞いて共感する人は、「落ち込んでいる友人」に対し、「大丈夫?」「気持ちわかるよ」と励ます。

 

そう、「大きなミス」か「落ち込んでいる」かのどちらかに比重が偏るのだ。

でも求められてないアドバイスをする人も、ひたすら同意するだけの人も、聞き上手とはいえない。

 

では、聞き上手ならどうするんだろう。

きっと言葉と感情を両方聞いて、「感情を共有」してくれるんじゃないかと思う。

 

「感情を共有するって共感するのと同じじゃない?」と思うかもしれないが、まったくちがう。

共感とは肯定することで、共有は一緒に所有することだ。

ほら、「過去に共感する」のと、「過去を共有する」のはまったくちがうじゃないですか。そんな感じ。

 

自分自身が共感するかは別として、「相手がどう思ったか」を理解し、そのまま受け止めて、そのときの感情を一緒に共有してくれるのが、聞き上手なんだと思う。

 

買い物中の男女の会話は、なぜこうもズレるのか

……なんだか象徴的な話になってしまったので、身近な例として、「男女カップルがディズニーランドに行ってすれ違うあるある」を挙げたい。

ちょっと長いが、『恋するディズニー 別れるディズニー』という本から引用させていただこう。

男性だって、グッズを見るのは楽しいです。お土産物を買うのだって楽しい。これを誰にあげよう、こっちは誰にあげようと選ぶのは楽しいです。
ただ、男性はあくまで「最終的に目的があって」グッズを見ています。(……)
でも、女性の場合、「見ているだけで楽しいから、ひたすら見る」ということが多いようです。(……)
女性は、30分以上いろいろ見てまわったあげくに「今日はいいや」と何も買わないでお店を出ていったりします。
男性は衝撃を受けます。言ってしまえば、裏切られた気持ちになります。
え? 買わなくていいんですか。欲しそうだったじゃないですか。
そう考えてしまいます。
「見るだけで満足しちゃった」と言われても、言葉の意味はわかりますが、その心情の細やかさまではわかりません。
また、女性は、男性がそういう”もやもや感”を抱きながら付き合っているということに、あまり気がつきません。
女性が女性同士で買い物にいくと、そういう買うんだか買わないんだかどっちともつかない行動が楽しくて、それだけで盛り上がるわけで、「女性同士ではとても楽しいことを、好きな彼氏ともやりたい」とおもって、彼氏を連れてきてくれるわけですね。(……)
「どっちがいいとおもう?」とショッピング中の女性に聞かれた場合の正しい答えは「きみはどっちがいいとおもってるんだい?」と聞き返すことである、なんて知恵を仕入れたのは、ずいぶん大人になってからです。
出典:『恋するディズニー 別れるディズニー』

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これも冒頭の夫婦のやり取りと同じく、男性は言葉を聞いて、女性は感情を聞いてほしいと思ってすれ違っているパターンだ。

男性は目的をもって買い物することが多いから、彼女が「買い物したい」というと、言葉通り「なにか買うんだろうな」と思う。

 

でも彼女は、30分以上もウロウロしたくせに、なにも買わない。

え、じゃあなんだったの? ウィンドウショッピングなら「どっちがいい?」なんて聞いてくる必要ないじゃん、と不思議に思う。

 

一方の女性は、友だち同士で「どっちがいいかなぁ」「あれもこれもいいなぁ」とキャッキャウフフするのが楽しいから、大好きな彼氏ともそういう素敵な時間を過ごしたい。

それなのに彼氏は「結局買わないの?」とか「どっちも変わらないじゃん」なんて言ってくるから、全然楽しくなくてムッとする。

 

あるあるだよね……。

 

もちろんこれは、例として「男性(彼氏)」「女性(彼女)」と表現しただけで、逆の場合もあるし、同性同士でも起こりうる。あくまでひとつの例だ。

 

コミュニケーションでは相手の感情を共有することが大事

このディズニーの話でおもしろいのが、「最適解は『きみはどっちがいいとおもっているか』を聞くこと」で締めくくられているところ。

そう、それこそがわたしが思う聞き上手の本質、「感情の共有」なのだ。

 

彼女の言葉だけを聞いて、「なにを買うのか決めたいんだな」と思い、どっちを買うべきかという答えを提示するのは得策じゃない。

彼女は彼氏とキャッキャウフフしたいのであって、相手に選んでほしいわけじゃないのだから。

 

逆に、男性が「どっちもかわいいね」「迷っちゃうね」と完全肯定すると、女性は「いっしょに悩んでくれてない! どうでもいいの!?」と物足りなくなる。

そういえばわたしがウェディングドレスを選ぶとき、夫が「どれもいいんじゃない、どれもかわいいよ」と投げやりだったので、「興味ないの!?」と言ったら、「ドレスのちがいなんてわかるか!」と言われ、大げんかしたっけな……。

 

だから最適解は、「きみはどう思う?」なのだ。

 

コミュニケーションには、解決も共感も必須じゃない

ディズニーでたとえるなら、こんな会話だろうか。

 

「うーん、どっちにしようかなぁ」
「なにで迷ってるの?」

「これはかわいいけど、ちょっと高いよね。でもこっちは持って帰るのが大変そうだなって」
「ある程度予算あるんじゃなかったっけ」

「でもこの後も友だちにもいろいろお土産買いたいから……」
「ああ、いつも一緒にいるAちゃんとかBちゃん? 何を買うの?」

「キーホルダーと、缶がかわいいクッキー頼まれてる」
「缶がかわいいってどういうこと(笑)」

「えー、ほら、こういうやつ。これなら食べた後もなにかに使えるでしょ?」
「今まで缶なんて気にしたこともなかったな。なにに使うの?」

「たとえばこれなら、小さい缶だからアクセサリーとか入れられるし……」
「そういえば机の上に、似たような缶のペン入れがあったね」

「そうそう、それは前にAちゃんとディズニー行ったときに買ったの」

 

このやり取りでは、聞き役は相手に一切共感していない。

彼役の人は、彼女役の「お土産を買いたい」「どっちもかわいい」という気持ちに、まったく共感していないのだ。

 

でも、だからといって、値段や大きさを踏まえて「こっちを買ったほうがいい」と解決策を提示しているわけではない。ただ相手に、どう思ってるか聞いているだけ。

 

それだけなのに、なんだかすごく楽しそうに買い物しているように見えないだろうか。共同作業している感というか。

それは彼役の人が、相手がなにを、なぜほしくて、なにに迷っているかという気持ちを理解しようとしているからだ。

 

聞き上手になれば人間関係がうまくいきやすくなる

とはいえ、興味のない買い物に付き合うのはだるいし、相手に気を遣って会話するのは面倒くさい。自分で決めろよ、ちゃちゃっと買えよ、と思うこともある。

 

もしかして聞き上手は、相手に合わせ続けて損をするんじゃないだろうか。

そんな考えが一瞬頭をよぎったけど、たぶんそうじゃないのだ。

 

すれ違いや誤解があっても、相手の感情を理解する姿勢があれば、相手がなにに怒っているか、悲しんでいるかを知ることはできる。

その姿勢が相手に伝われば、きっと相手も、こっちのことを理解しようとしてくれるだろう。

自分のことを理解しようとしてくれる人をあえて傷つける人は、あんまりいないからね。

 

そうすれば人間関係はうまくいきやすくなるし、それによってトラブルやストレスもきっと減るはず。

聞き上手というのは、相手をいい気持ちにするための奉仕テクニックのように思えるが、その実、自分にとってのメリットが大きいのだ。コミュニケーションを円滑にするという意味で。

 

まぁ、どうやっても話にならない人はいるけど、それはしょうがない。

相槌だのリアクションだの質問力だのは、あくまで「感情を共有している」ことをどう示すかのテクニックであって、聞き上手の本質は、相手の感情を理解する姿勢があるかどうか。

 

つまり聞き上手の第一歩は、「あなたはどう思う?」と相手の意見をたずねてみることなのだ。基本中の基本ではあるが、結局基本が一番大事ということである。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :UnsplashFranco Antonio Giovanella

”ユーニス・パーチマンがカヴァデイル一家を殺したのは、読み書きができなかったためである”

という一文から始まる「ロウフィールド館の惨劇」というミステリ小説がある。

 

「読み書きができない家政婦」がその劣等感をこじらせ、一家惨殺に及ぶまでを追いかける話で、映画化もされている。

 

3年ほど前に知人のすすめで読んだのだが、倒叙ものや、変わった話が好きな方は読んでみても良いと思う。

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ただ、ストーリーの強烈さより私が覚えているのは、文盲までいかずとも「文章が正確に読めない人」は、今でもかなりいるな、と思ったことである。

 

例えば、リーダーが部下に、こんなメールを送ったとする。250文字だから、ツイート2つ分弱だ。

明日の朝10時までに、私をCCに入れて、Yさんにメールを送っておいてください。内容は次回の定例までの宿題事項と、現在までに積み残している課題の一覧の二つです。積み残しの課題については、期限を必ず課題ごとに書いてください。

また別件ですが、B部長から依頼された報告書を仕上げて、私の机の上に置いておいてください。これも期限は明日の朝10時です。

注意事項として、書いたら必ずOさんのレビューを受けてください。前回の報告書はB部長からかなり指摘が出たので、同じミスをしないためです。

よろしくお願いいたします。

しかし、翌日の10時になってもメールが届かず、報告書も提出されない。

リーダーは「困ったやつだな」と思いながら、直接Uさんに聞きにいく。

 

「Yさんにメール送った?」

「はい、送りました。」

 

「私をCCに入れた?届いてないんだけど」

「あ、すいません、入れてないかもしれません。」

 

「ちゃんと送ってよ、あと、B部長から依頼された報告書は?」

「……何の話でしたっけ?」

 

「メール読んでないの?」

「えーと、あ、思い出しました。すでに部長に提出しています。」

 

「ちょっと待って、Oさんのレビューを受けて、私に出せ、と書いたじゃないか。」

「え、Oさんのレビューは受けましたけど……」

 

「もういいや、ひとまずYさんに送ったメールを見せて。」

「は、はいこれです……」

 

「積み残しの課題に、期限が書いてないじゃない。メールちゃんと読んだ?」

「えーと、件名に書いてますが……」

 

「課題ごとに書いてくれ、とメールにあるでしょう」

「すいません、ちゃんと読んでませんでした……」

 

 

ツイート2つ分の指示すら正確に読めず遂行できない。

「こんなひどい人はいませんよ」と、思う方も多いかもしれない。

 

が、これはほぼ実話で、メールでの依頼は、少し情報量が多くなると、たちまち処理できない人が増える。

 

そうなると「メールを送る側が、わかりやすくなるように配慮せよ」と熱弁をふるう人が出てくる。

例えば下のように、メール1件につき1つの依頼にしたり、箇条書きにしたりする工夫だ。

明日の午前10時までにYさんにメールを送ること

内容は、

・次回の定例までの宿題事項

・現在までに積み残している課題の一覧

の二つ。

 

メールを送る際の注意事項は、

1.CCを私宛に入れること

2.積み残しの課題一覧には、課題ごとに期限を入れること

しかし、現実はこれでも間違う人がいる。

 

さらに「文章が読めない人」はたいてい、「文章が書けない人」と重なる。

そしてそもそも、世の中には様々な人がいるので、わかりにくいメールが届くという状況は、撲滅できない

 

実際、文章での指示は、実はかなり難しい。

社員の多くがこのような状況でテレワークを採用したとしたら、結果は悲惨である。

未だにテレワークを採用していない会社の中には、「読み書きが苦手」という社員が数多くいる可能性もある。

 

 

しかしなぜ、「読めない人」は、文章が正確に読めないのだろうか。

 

原因としては、「読み飛ばし」と「都合のいい解釈」の可能性がある。

自分の理解しやすいところだけを拾って読んで、わからないところは自分の都合の良いように解釈する、という読み方だ。

 

例えば、慶応大の今井むつみ著「算数文章題が解けない子供たち」によれば、以下のように、問題文にある数字に、思いついた演算を機械的に適用する、と言う子供がいる。

同書によれば「文の意味を深く考えず問題文にある数字を全部使って式を立て、計算をしてなんでも良いから答えを出そうという文章題解決に対する考え方を子供が持っている可能性が高い」としている。

[amazonjs asin="B0B6F49R5H" locale="JP" title="算数文章題が解けない子どもたち ことば・思考の力と学力不振"]

 

また、国立情報学研究所の新井紀子著「AI vs 教科書が読めない子供たち」でも同様の指摘がある。

Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。

Alexandraの愛称は()である。

①Alex

②Alexander

③男性

④女性

上の問題において、中学生の正答率は、たったの38%。

誤答の原因を「知らない単語が出てくると、それを飛ばして読むという読みの習性があるためです。」と著者は推測している。

 

宮城教育大の西林克彦は、人間は文脈に依存して細かい部分を読むので「間違ったわかかったつもり」の状態が発生し、その状態では部分が読み飛ばされてしまうと述べる。

例えば、下の文章である。

小景異情(その二)室生犀星

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかえらばや

遠きみやこにかえらばや

[amazonjs asin="B00GU4R8YQ" locale="JP" tmpl="Small" title="わかったつもり~読解力がつかない本当の原因~ (光文社新書)"]

西林は授業で、「この詩の話者」はいったいどこにいるのか、と生徒たちに問うという。

すると大学生でもほとんどの人が「都にいる」と答えるのだそうだ。

 

ただ、それは間違っている。

 

それは、冒頭の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」の印象が強すぎるからである。

一番最後に「遠きみやこにかえらばや(かえろう)」という矛盾した情報が出てきているにもかかわらず、解釈が修正されないのだ。

 

上の研究は子供を対象にしたものだが、冒頭のメールへの対処を見ていると、大人も子供と同様に、「読み飛ばし」と「勝手に解釈」が散見される。

 

こうして、「いつも通り」の文脈でメールを見ている部下は、CCを入れろ、とか部長に提出する前に、私に見せろ、とかの指示をよく読まずに無視してしまう。

 

 

こうした「読めない(読まない)」人への対処はどうすればよいのだろう。

 

基本的には読解力はすぐには上がらないので、シンプルに考えれば「声で伝達し、確認をする」というほかはない。

 

例えば、私の子供の幼稚園での話だ。

妻から聞いたのだが、行事の説明などで、保護者向けに何かしらの指示が出されるときには、まずプリントが配布される。

 

ところが、プリントを配布しておしまい、という事にはならない。

幼稚園の先生方はかならず、プリントを親御さんたちの目の前で読み上げるという。

 

妻は「プリントで配布しているのだから、わざわざ読まなくていいのでは」と思い、先生方に聞いたところ

「プリントだけだと、きちんと伝わらない人もいるので、読み上げます」

と言ったそうだ。

 

軍では命令を復唱させる。

メールで送った内容を、改めて口頭で伝える会社も少なくない。

 

ピーター・ドラッカーは、世の中には「聞く人」と「読む人」がいると述べた。

読む人に対しては口で話しても時間の無駄である。彼らは、読んだあとでなければ聞くことができない。逆に、聞く人に分厚い報告書を渡しても紙の無駄である。耳で聞かなければ何のことか理解できない。

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これらは能力と言うより、得意不得意の話だとすると、相手によって「メール」と「電話/対話」を使い分ける、という配慮のほうが、実効性が高いかもしれない。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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[amazonjs asin="4309300014" locale="JP" title="人生がうまくいかないと感じる人のための超アウトプット入門"]

 

Photo:Stephen Phillips - Hostreviews.co.uk

2022年のプロ野球は、監督に注目が集まる

2022年シーズンはプロ野球もJリーグも100%のお客さまが入場可能となって、活気が戻ってきました。

サッカーはワールドカップイヤーですし、プロ野球もノーヒットノーランの偉業を5人も達成したり、58年ぶりに王貞治の日本人選手最多本塁打55号に到達したり(2022年9月13日時点)など、話題も豊富です。

 

そして、2022年のプロ野球は、日本ハムの“ビッグボス”こと新庄監督や、楽天の石井監督、千葉ロッテの井口監督、ヤクルトの高津監督など、監督に注目が集まったように思います。

新庄監督は就任会見で「優勝なんか一切目指しません』と発言したことや、石井監督はGMを兼任しながらマネジメント力を発揮していることや、2年連続最下位だったヤクルトを日本一に引き上げた高津監督が選手のやる気を引き出し今年も好調をキープしていることなど、改めて監督の存在の大きさに目が行きます(筆者も、少年サッカークラブの代表兼監督として活動しているため、なおさら気になるところです…)。

 

世界に目を向けると、スポーツの商業化が加速し、国内リーグだけでなく、欧州・アジアなどの大会も開催され、放映権収入をアップさせようとしています。その影響で、試合数は増加し、(移動も含めた)選手の負担は大きくなっています。

さらに、科学的なトレーニングにより選手のポテンシャルを最大化させることができるようになった一方で、ケガをする選手が増えたように思います。

 

このような環境下では、監督はリーダーシップだけではなく、選手・チームのマネジメント手腕が求められます。

では、マネジメント手腕を評価される監督は、具体的に何が優れているのでしょうか?ビジネスに引き寄せて考えてみましょう。

 

マネジメントとは何か?

改めて、「マネジメント」とは、何をすることなのでしょうか?ドラッカーは、マネジメント(マネジャーの仕事)について、このように定義しています。

部分の総和よりも大きな全体、すなわち投入した資源の総和よりも大きなものを生み出すこと

自らのあらゆる決定と行動において、直ちに必要とされるものと、遠い将来に必要とされるものとをバランスさせること

-『マネジメント——課題、責任、実践』ダイヤモンド社より

つまり、個々人の強みや性格などを正しく把握し、各人、さらには組織全体としての力を最大限に引き出すのが、あるべきマネジメントの姿です。

 

効果的でハイアウトプットのチームを作るには、チームを単なる人の集まりである「集団」ではなく、同じ目標に向け、協力して成果を生み出すように導く必要があります。

具体的には、以下の状況が満たされていればチームとして高いアウトプット、パフォーマンスを残す可能性が高まります。

  1. 適材適所が実現している
  2. 個々人が自分の役割を認識し、当事者意識を持って仕事に取り組んでいる
  3. 組織としての向かうべき方向性や到達点が共有されている
  4. スキルや個性が相互補完的になっている
  5. 組織の規範が共有されており、凝集性も高い
  6. お互いに助け合う風土が根付いている
  7. 必要な多様性が担保されている
  8. 組織学習が根付いており、組織として学び変わろうという姿勢が強い

出所:『グロービスMBAミドルマネジメント』 (グロービス経営大学院.編著、ダイヤモンド社)を元に平野作成

 

上記8つの要素ができていたら、ビジネスならば成果が出やすく、スポーツチームならば勝利という結果も出やすいでしょう。

調子を崩したときにも立て直しがやりやすいでしょう。

 

マネジメントにおける陥りがちな罠は?

とはいえ、ハイアウトプットを出すチームの要素が理解できても、実際にやろうとすると上手くいかないことは多いのではないでしょうか?

それは、ビジネスにもスポーツにも共通して陥ってしまう罠があるからです。

 

その罠とは、マネジャーの「プレーヤー(ハイパフォーマー)としてのメンタルモデル」であり、自身の成功体験がメンバーや組織のあり方を決めつけてしまうことです。ですから、ハイパフォーマーで自分のこだわりを持っている方は、マネジメントをするにあたっては注意が必要です。

少年サッカークラブの経営に携わり8年、代表兼監督を6年務めている私の個人的な経験上は、特に以下の3つは気をつけたいところです。

 

(1)適材適所を見誤り、ローパフォーマーと位置付けてしまう(1.適材適所)

人間は「できないこと」に目が行きがちで、メンバーの欠点が気になってしまうと、「この人(選手)はローパフォーマーで、ウチの組織では活躍できない」と決めつけてしまいがちです。

ですが、この先入観を排除して、強みを見出し、適材適所が実現できるよう、マネジャーが持つメンタルモデルを克服する必要があります。

 

たとえば、サッカー日本代表でキャプテンを務め、現在ドイツで活躍している長谷部誠選手は、現在守備を中心に活躍していますが、元々は攻撃の選手でした。

プロ一年目で、出場機会が得られなかった長谷部選手でしたが、彼のもつ高い戦術眼や献身的な姿勢がフィットし、世界で活躍し続けられています。

 

このように、監督・マネジャーが適材適所を見極めてあげられれば、活躍できる人は多くいます。

 

(2)適材適所は考えていても、メンバーの組み合わせ(相性)を考えていない(4.相互補完性)

メンバーの強みを把握し、適材適所に配置できたとしても、組織のパフォーマンスが上がらない場合があります。

それは、メンバーの組み合わせ(相性)が悪いときです。

超一流選手であっても、相性次第では十分な活躍ができません。

 

世界的スーパースターのリオネル・メッシも、バルセロナ時代に組んでいたネイマール、スアレスとの『MSNトリオ』と比べて、パリ・サンジェルマンに移籍した現在は、攻撃は見劣りがします。

 

メッシが全盛期のピークを過ぎたということもあるかもしれませんが、現サンジェルマンでのエムバペ、ネイマールとのトリオは、お互いの我が強く、相性が良いようには見えません。(もちろん、個の力は3人とも超一流なので、点は取れますが、3人の息が合っているかと言われると、物足りなさを感じます)。

 

実力的には、十分なものを持っていても、性格面も含めたメンバー間の相性を考慮しないと、チームのアウトプットを最大化させることはできません。

 

(3)自分のやり方にこだわりすぎて、多様性を許容できない(7.多様性の担保)

適材適所も相性も良さそうであれば、ハイアウトプットが出る可能性は高まりますが、そうならない場合は、マネジャーの設定する組織の方向性や規範の幅が狭い可能性があります。

自分の理想とするイメージが強すぎるため、細かい部分にまで指示をしてしまい、個々の強みが発揮されないのです。

 

とあるJリーグでも活躍していた監督は「スローインは●●のタイミングで、■■に投げて、その後▲▲にパスをつなげ」というところまで、事細かに指示を出していたそうです。

そこまで細かく指示される状態になると、選手は常に監督・マネジャーの顔色を伺うようになります。

 

この状態を脱却するためには、個々の尊重をして、心理的安全性を確保することが必要です。

その上で、伝えたいことはしっかり言語化し、ロジカルなコミュニケーションをすることが大切になります。

 

上記は、特に自身がハイパフォーマーとして成功体験がある方ほど、陥りやすいと感じています。

「自分はできる」と、仕事に自信がある人は気をつけましょう。

 

どんな環境でも、マネジメントのスキルは磨ける

ここまで、プロスポーツの監督を通してマネジメントについて考えてきました。

個々の特徴をしっかり把握して、適材適所や組み合わせを考えながら、関わり方を変えていく。

これって、スポーツだけの話ではないですよね。

 

ビジネスにおいても、組織が置かれた状況が変われば、適する人材や役割なども変化します(例えば、攻めるのか、守るのか等)。

そして、状況に合わせてマネジメントも変化させなければなりません。

メンバーの能力や意欲をよく見極めて、関わり方を変えながら、チームのアウトプットを最大化させていきいですね。

 

さらに言えば、家族のマネジメントや、ボランティア組織などでも同じようなことは発生します。

つまり、どんな環境でもマネジメントのスキルは必要だということです。

であれば、仕事以外のところでマネジメントのスキルを磨くということもできますし、そのスキルを仕事にも活かせるはずです。

 

ぜひ、身近なところから、皆さんのマネジメントのスキルを磨いてみてください。

 

(執筆:平野 善隆)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Jakob Rosen

「北朝鮮工作船」と聞いて、ピンとくる人はどのくらいいるだろうか。

補記 九州南西海域における北朝鮮工作船事件から21年(日本財団)

 

隣国の船が日本領海へ侵入するニュースは絶えないが、工作船の侵入は「あれ以来」聞こえてこない。

 

「当時の様子を記録した文書は、もうほとんど見かけませんね」

先日、海上保安資料館横浜館*1へ足を運んだ際の職員の言葉だ。

 

たしかに、どれほどネットを漁っても、出てくる資料は事件当時のニュース記事がメイン。

むしろ、銃撃戦の様子を収めた動画や、回収した武器の画像を見るほうが、どんな詳細な説明よりも臨場感が伝わってくる。

 

工作船による攻撃で被弾した「巡視船きりしま」が、2022年11月に解役されるなど、時の流れとともに風化しつつある北朝鮮工作船事件。

そこで今回は、少し視点を変えて「工作船に乗っていた人間」について、自分の過去と併せて触れてみようと思う。

 

「不審船」が「北朝鮮工作船」となり、その後

2001年12月22日午前1時30分、九州南西海域にて不審船が確認された。

海上保安庁の巡視船や航空機による度重なる停船命令を無視し、ジグザグ航行で逃走を続ける同船に対し、同日午後2時36分、巡視船「いなさ」は威嚇射撃を行う。

 

それでも逃走を続ける同船は、ロケットランチャーや自動小銃による攻撃を行ってきた。これにより、巡視船「あまみ」、「きりしま」、「いなさ」が被弾し、「あまみ」の乗員3名が負傷。

そのため、同日午後10時10分、巡視船「いなさ」は正当防衛射撃を実施。しかしその後、不審船は自爆用爆発物による爆発を起こし沈没した。

 

翌年、2002年9月11日に不審船は引き揚げられ、船内からは極めて殺傷力・破壊力の強い武器や、工作員が潜入・脱出に使用するための道具が発見される。

その後も、徹底的な海上保安庁による捜査の末、不審船を「北朝鮮工作船」と特定し、2003年3月14日、漁業法第141条第2号「立入検査忌避罪」および海上保安官に対する「殺人未遂罪」の容疑で書類送検した。

 

2003年5月、捜査が終了となった北朝鮮工作船は、保管されていた鹿児島県内の造船所から、東京都品川区にある「船の科学館*2」へと移送された。

これは、多くの人々に「日本周辺海域の現状や、北朝鮮問題への理解を深める機会」として、工作船船体と武器類等の現物を一般公開するためだ。

 

およそ9か月間の一般公開期間中、北朝鮮工作船の見学に訪れた人数は約163万人。予想以上の関心の高さを受けて、2004年12月10日、横浜海上防災基地の一角に「横浜海上保安資料館横浜館」が開館した。

やや古い数字だが、2020年1月18日時点で延べ350万人もの入場者数を記録しており、今もなお、国籍問わず多くの人々が訪れている。

 

――この、北朝鮮工作船の展示にかかる費用を助成したのが、かつての私の職場である日本財団*3だ。

 

若者の命の格差

日本財団の採用面接試験におけるお題は、「大学生活で学んだこと」だった。

 

待合室には、見るからに優秀そうな学生たちが己の順番を待っている。

そもそも、スーツを着ていないのは私だけで、見た目の時点ですでに「採用を見送ることとなりました」が濃厚。

 

さらに驚いたのは、他の学生たちは自身の研究結果や論文を持参していることだ。そりゃそうか、大学生活で学んだことを伝えるのだから――。

かくいう私は、小脇に東スポを抱え、ポケットには麻雀牌を忍ばせていた。

 

ちょ、ちょっと待ってくれ!これにはワケがある。

その日は金曜日、つまり中央競馬の開催前日だった。毎週のルーティンとして、金曜日の午後に東スポを購入する私は、普段通りの昼下がりを過ごしていたわけだ。

 

そして麻雀牌は、これこそが私の「大学生活で学んだこと」の全てである。勘違いしないでほしいが、決してギャンブル狂ではない。

 

麻雀というのは人生の縮図である。老若男女、金持ち貧乏問わず、卓上では平等に真剣勝負ができる。

そして「ブラフ」も含めた騙し合いや、相手の手の内を予測したうえでの勝負放棄など、正面からぶつかったり既のところで避けたりと、あらゆる方法を取捨選択することこそが「勝負」なのである。

 

……というようなことを、会長・理事長はじめ役員らに向かって偉そうに語ったところで、「もう結構です」と退出させられたわけだ。

 

このようなふざけた経緯にもかかわらず、唯一、私が内定をもらったのだから不思議である。

 

 

広報グループへ配属されてしばらくすると、先述の北朝鮮工作船が、お台場にある船の科学館で一般公開されることとなった。

工作船という前代未聞の「異物」を展示するための費用は、およそ八千万円。そしてこの原資は、ボートレースの売上金の3.3%(当時)で賄われるのだが、その橋渡しをするのが日本財団の仕事である。

 

一般公開の前年(2002年)に、金正日国防委員長(当時)が日本人の拉致について認めたこともあり、日本国民の北朝鮮に対する関心は高まっていた。

その最中での工作船一般公開ということで、連日連夜、マスコミ対応を迫られたわけだ。

 

私にとって人生初となる大仕事だが、さすがに下っ端にできることは何もない。

よって、忙しく駆け回る先輩たちを見守る「仕事」という、あまり大声では言えない任務を遂行したのである。

 

 

話は逸れるが、当時の日本財団会長は、作家の曽野綾子氏だった。

氏のコラムはどれも痛快で、他者に媚びることのない論調は、ひねくれ者の私の胸を踊らせた。

 

そんな曽野氏の「工作船に関する発言」を、私は、20年経った今でも鮮明に覚えている。

 

覚せい剤の密輸や不法出入国、その他の重大犯罪の可能性が高いだけでなく、至近距離からの銃撃による海上保安官の負傷など、どれを挙げても全てが犯罪行為であり、非難されるに値する北朝鮮工作船事件。

――これが一般的な見方であり、事実である。

 

だが私は、展示された工作船の船尾部に、ユリの花とメッセージカードが添えられていることに衝撃を受けた。

そこにはこう書かれてあった。

「2001年12月22日 九州南西海域で沈んだ朝鮮民主主義人民共和国の若者たちに捧げる。日本財団 会長 曽野綾子」

さらに英語とハングル語によるメッセージも、日本語の隣りに並べられていた。

 

私はそれまで、工作船の乗組員がどんな人物で何歳くらいなのかなど、考えたこともなかった。

仮に考えたとしても、「極悪非道な面構えの薄汚い中年」くらいにしか思わないだろう。

 

・・そう、「若者」という言葉にハッとさせられたのだ。

「海上保安レポート2003」*4によると、乗組員の年齢は20~50歳代ということで、若年層に限定することはできない。

しかし当時、曽野氏は権威筋から更なる詳細を得ていたはずである。

 

産経新聞に掲載された同氏のコラム「透明な歳月の光(60)/工作船公開 為政者の残酷さを象徴」でも、このように綴られている。

「(中略)東京でこの工作船を見る人たちは、その時、工作船の乗組員たちが浸水を防ごうとして、自分の衣服で穴を詰めた生々しい状況を見ると思う。沈没したのは十二月二十二日。九州南西海域もどんなに寒かったろう。こんなボロ船に若者たちを乗せて送り出した北朝鮮という国は、何という残酷な為政者を持つのだろう、と私は思った。(後略)」

 

国の命令とあらば、どんな任務でも従わざるをえない。そして万が一の時には、船に設置された「自爆ボタン」を押さなければならない。

つまり、任務に失敗した彼らには、「死」という選択肢しかないのだ。

(工作船の乗組員と私は、同年代かもしれないのに…)

 

社会人になり充実した日々を過ごす私にとって、想像しがたい現実を突き付けられた気がした。

およそ平和な日本とは違い、海外では若者が命を張って生きる国もある。目と鼻の先にもかかわらず、こんなにも残酷な人生を強要されるだなんて――。

 

事実は事実として受け止めなければならない。

だがその裏にある「どうしようもない現実」というのも、否定してはならないだろう。

 

 

約20年ぶりに北朝鮮工作船と対面した私は、当時の自分を思い出していた。

 

異端児を採用してくれた組織の懐の深さ、そして、北朝鮮工作船が引き揚げられたタイミング。これらがたまたま重なったからこそ、私は当時の出来事を鮮明に記憶しているのだ。

そして改めて思う、私は運が良かったのだと。

 

最後に、曽野綾子氏の前出のコラムで締めくくらせてもらおう。

「(中略)私は北の優秀な若者たちを、こんな暗い戦闘で死なせるためではなく、学校で学ばせるために日本財団が奨学資金を出せる日が来ることを、心のどこかで期待しているのである。」
(了)

 

*1 海上保安資料館横浜館
*2 船の科学館
*3 日本財団
*4 海上保安レポート2003/海上保安庁

 

 

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【著者プロフィール】

URABE(ウラベ)

早稲田卒。学生時代は雀荘のアルバイトに精を出しすぎて留年。ブラジリアン柔術茶帯、クレー射撃元日本代表。

URABEを覗く時、URABEもまた、こちらを覗いている。

■Twitter https://twitter.com/uraberica

Photo by :UnsplashMark Thompson

とんでもなくハードであった2022年度を無事に終えられた。

これも普段から記事をお読み頂く皆さん並びにBooks&Appsの方々、そして家族・友人のおかげである。深く感謝申し上げます。

 

自分にとっての2022年は破壊そして再生の年であった。

私的な話で恐縮なのだが、超絶ブラック病院で必死になって生き抜く過程で身についた能力により、仕事の生産性が10倍ほどになった。

 

「おい何だよ。自慢かよ」と思われる方も多いだろうが、残念ながら話はそう簡単には終わらない。

こうして仕事ができるようになった結果、生きるのが楽になったかというと…それがもう全然楽ではないのである。

 

確かに絶望の淵に沈み込んだ2021年当初と比較すれば、多少は楽になったとは思う。

だがそれは難易度設定がHell(地獄)からVery Hard(超難)になっただけのようなもので、むしろVery HardだからこそHellの頃は感じなかった強度の痛みを感じるという事も多かった。

 

「こうなったらもう、昔だったら絶対にやらなかったような事をやるしかねぇ」

 

そうして僕はプライドを捨て去り、本当に色々なアイテムへの重課金をしたり、絶対にやらなかったような事を試してみたりした。

 

ピンチはチャンスは割とリアルかもしれない

あくまで今振り返るとではあるが、この後がもう無いという状況が自分をよい習慣に導いてくれたように思う。

人間は良くも悪くも古くからの習慣に囚われがちだ。暇は人間を改革から遠ざける。

 

「運動がいいとか、頭ではわかっちゃいるけど別に今は困ってないし…」

 

水は低きに流れ、人は易きに流れる。こうして人は良くも悪くも変われない。

安楽椅子はあまりにも座り心地が良く、そこから重い腰を上げる事はある意味では火の上で踊る事よりも難しい。

 

というわけで今回は火の上で踊り狂った結果、最後の最後に残ったアクティビティ・アイテム郡をざっと振り返りつつ書いていこうかと思う。皆さんの役にたつであろうものが1つか2つはあるだろう。

 

やってみて良かったこと1位・日本ヴィパッサナー協会の10日間コースの参加

絶望の2021年時にあまりにも心が厳しすぎて、僕はランニングをはじめた。

 

人間、不思議な事に走ると心が楽になる。

こうして僕はランニングでもって随分と癒やしを得たのだが、幸か不幸か僕の心は走るだけでは全然楽にはならなかった。

 

「何かが足りない。まだ、何かが…」

 

そういった時、ふとした偶然でもって僕は瞑想をしり、本当に藁をもすがる気持ちで自宅で座るようになった。

 

最初は単に足がしびれるのを我慢するだけだった瞑想だが、不思議とやり続ける過程で「よくわからないのだけど、これはきっと何かがあるに違いない」と確信するようになった。

 

こうして僕は朝晩1時間づつ座り、そして瞑想の関連書籍を50冊近く買って読み漁った。

こうして独学で瞑想を始め、もう十分に理解したと思ってはいつつも、どこかで何かが足りないという感覚が抜けなかった。

 

良いと言われる本を買っては読み、買っては読んでそれを実践していたのに、僕の瞑想には何かが足りていなかった。

 

「やはり本当のところはキチンとした指導をうけなくては駄目なのではないか?」

 

そう思う中、色々な幸運が積み重なって僕は日本ヴィパッサナー協会の10日間の瞑想コースに参加する事ができた。

これが凄かった。

冗談抜きで36年間生きてきて5本の指に入るぐらいには決定的で、衝撃的な体験であった。

 

今まで本当に色々な不幸や悲惨な目にあってきたが、あの日にあのコースを受講するという運命に辿り着いていたのだなと考えれば全てが必然で逆に幸運な事であったのではないかと思うほどに、凄い体験であった。

 

実際のコースにおける感想についてはプライベートな話題に関する記述が必然的に入ってしまうのでnoteの有料マガジンにて行うが、とにかく僕が何を感じたのかは正直な話どうでも良い事である。だって実際に体験するのは貴方の心なのだから。

10日間の瞑想合宿に参加して生きるのが楽になった話~その1~

 

色々な意味で参加条件が厳しいのだが、それを乗り越えてでも参加する価値があるものだと断言する。超オススメ。

 

やってよかった事2位。あおばクリニックでの医療ヒゲ脱毛

ヒゲ脱毛の存在は知っていたのだが、正直な事をいえば

 

「女性の生理と男性のひげ剃りは生きる上での業のようなものだって村上春樹だかが言ってたしな…」

 

と、まあ毎日普通にヒゲを剃っていた。

 

正直、余裕のある時はこれでよかったのだが、残念ながら今は超絶ブラック病院での勤務である。

おまけに妻子持ちである僕は、ヒゲを剃る時間が、本当に本当に煩わしくてたまらなかった。

 

「この10分と消耗する意志力が無かったら…もうちょっとは生きやすくなるのではないか…」

 

本当に心の底から何度も何度も思うようになり、僕は昔だったら「美容www」と卑下していて絶対にやらなかったであろう脱毛についての情報を集めるようになった。

 

ヒゲ脱毛については本当に様々なクリニックがあるのだが、結論をいえば重要なポイントは1つだけである。

それはYAGレーザーを使っているか否かだ。

 

正直YAGレーザーを使っていれば大なり小なり効果は期待できるのだが、その中でも僕はあおばクリニックをオススメする。

こちらを選んだのはホームページに記載されている解説文が(言葉は悪くて恐縮なのだけど)完全に素人そっちのけでアスペルガー的なこだわりが随所に仕込まれていたからだった。

 

中でも秀逸なのがヒゲ脱毛における照射の時間間隔における説明である。

詳細は実際に読んでみて欲しいのだが、僕はこれを読んで「これを書いてホームページに乗せるのスゲェ」と感動してしまった。

 

その他にも遅刻したら罰則金がある等の経営システム等、とにかく煩わしい人間を極限まで退け、それで浮いた余剰を安い値段で提供する経営努力等、あおばクリニックは本当に色々な意味で大笑いするぐらいに楽しませてもらっている。

 

なお言うまでもなくヒゲ面はツルツルになりつつあり、僕は毎日の髭剃りの苦役から開放される過程にある。

副次的に肌がメチャクチャ綺麗になり、若返ったとすら言われるようにもなったが、まあそれは正直な話どうでもよい部分の話ではある。

 

というわけで10分を惜しむような生活をしている人は一考に値する価値はあると言っておこう。

僕は髭剃りを省略できた時間で子供と真剣に遊ぶ時間を生み出せるようになって、本当に感謝している。

 

買ってよかったもの1位・ブレインスリープ・コンフォーター パーフェクトウォーム

超絶忙しい人間の誰もが「睡眠って本当にどうにかならないのかな」と一度は思うと思う。

そういう事もあって、僕は本当に色々な睡眠関連の書籍を読み漁っていた。

 

そんな過程でたまたま睡眠関連の企業であるブレインスリープがコンフォーター パーフェクトウォームという、毛布無しの一枚だけで寒い冬も暖かく過ごせる布団をクラウドファウンディングしているのを見つけ、速攻で申し込んだ。

 

結論からいえば大当たりであった。

我が家はいま現在はエアヴィーヴという折りたたみ式マットレスを使用しており、布団の上げ下げが日常ルーティンである。

 

そういう中で、重たくて場所を取るようなアイテムがあるだけで…もうハチャメチャに意思の力は消耗する。

だから分厚くなくて、1枚で完璧に仕上がるコンフォーター パーフェクトウォームはジャストで求められているアイテムであった。これのおかげでどれだけ毎日の消耗される意思の残基数が助かった事か…

 

人によってはちょっと躊躇するような値段かもしれないが、文句なしにオススメである。マジで薄くて暖かいですよ。

 

買ってよかったもの2位・ネイキッドHCランニングベスト

色々考えて僕はリュックサック通勤だったのだけど、リュックサック通勤を続ければ続けるほど、こう思うようになっていった。

 

「ああ、リュックですら身体に身に着けたくない…」

 

リュックの一番の難点はサイフやらスマホをポケットに入れないとならない所であった。

僕はポケットがかさばるのがメチャクチャ嫌いで、これが本当にどうにかならないかなと長いことずっと思っていた。

 

腰に巻くポーチのようなものの運用も考えたのだが、それだと微妙に通勤には容量が足りないのである。

本当にどうしたもんかなと思っていたところ見つけたのが、このランニングベストであった。

 

17600円と、試すにはちょっと躊躇する価格帯ではあったのだが…もう清水の舞台から飛び降りるような覚悟でもって購入に踏み切り、使い始めた今の感想はこれである。

 

「なんでもっと早く買わなかったんだろう…」

 

とにかく、もう手ブラかつモノでポッケがゴツゴツしないのが最高すぎる。

この快感に目覚めてしまった今、僕はもうこのランニングベスト無しには居られないほどである。

 

注意点としては、サイズがかなりキツキツな作りをしているので、公式が推奨している胸囲cmサイズから4~5サイズ上の購入が良さそうだという点ぐらいであろうか。

 

とにかく、手ブラでポケットがスッキリとしたモノをあまり持ち運ばないタイプの人には最高のアイテムであるのは間違いない。

 

買ってよかったもの3位・[シーダブリューエックス/ワコール] グローブ CW-X ランニンググローブ

冬のこの時期の一番の悩みは外出時の指先の寒さと手袋を持ち運ぶことのダルさ、そしてスマホの操作困難性である。

 

寒いのは嫌だ。しかし手袋はかさばるし、なにより手袋をしているとスマホが動かせない。

 

このトリレンマは人の心を大きく消耗させる。

僕も色々な最適解を試行錯誤したのだが、全くと言っていいほどに結論が導き出せなかった。

 

そんな中、たまたま見つけたのがこれだった。

下着メーカーのワコールが作るこの手袋は、薄い生地で作られているが故に、取り外してポッケに入れたとしても全くかさばらない。

かつ、ここが最も素晴らしい点なのだが…指先に穴が空いていて、そこから素指を出せばスマホが自由に操作できるのである。

 

コロナ禍もあって顔認証が絶望的になった今、指紋認証の罠をどう切り抜けるかは死活問題である。

その最終回答が”横穴”だという事に3周遅れぐらいで気が付いた僕は

 

「ああ、余計な最先端テクノロジーより、普通の穴」

 

と感嘆した。

 

ただこのアイテム、1つだけ難点をあげるとすれば、ちょっと薄すぎなのである。

 

個人的には寒い冬空の中で使うには、もうちょっとだけでいいから分厚い生地ver.を作ってくれるか、あるいはユニクロのヒートテックやらミズノのブレスサーモみたいなタイプの生地で指先に横穴が空いたタイプの手袋があれば最高なのになとずっと思っているのだが…。

 

それでもモノがかさばるのが嫌いだけど指先が寒いのも嫌だという人にとって福音となるアイテムなのは間違いが無い。

僕と同じようなトリレンマに陥っている人は、試してみるのも一考であろう。

 

買ってよかったもの4位:townewのゴミ箱

ごみ捨てが嫌いである。

ごみ捨ての何が面倒かって、重たいゴミ袋を運んで、その後でゴミ袋をセットするという所作がもう嫌なのだ。

 

これ本当にどうにかならないかなと思っていたのだが、全自動でゴミ袋を自動で結んだりセットしてくれるtownewという商品があると知って、ソッコーで飛びついた。

 

これが当たりだった。容量が少ないので2個買って使っているが、袋を結ぶ手間とセットする手間がなくなるだけで、こんなにもラクになるだなんて思わなかった。

 

とはいえ残念な点が無いというわけではない。

このゴミ箱専用のゴミ袋はちょっと薄すぎで、少し詰めすぎたりトガったモノを入れると簡単にゴミ袋が破けてしまうという点は…もうちょっと何となからなかったんかいオイと思わなくもない。

 

しかしそれを補って余りあるほどに、このゴミ袋のシステムはステキで夢がある。

恐らく僕と同じような要望は山ほど届いているであろうから、きっとこれについても今後は解消が望まれる事だろう。テクノロジーの進化に感謝&期待である。

 

これで以上だ。1つでも参考になる事があったのなら幸いだ。

 

では2023年もよろしくお願い申し上げます。共にこの困難な世の中を、頑張って参りましょう。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by :Volkan Olmez

生活のための借金

先日、こんなテキストを読んだ。

意味わからん、生活費を借金??」というタイトルだ。

職場の人と話しててびっくりしたのだが、家計の話しになり、40代妻子持ち上司、30代夫子持ち同僚、20代実家暮らし後輩が、リボ払いの限度額越える、生活費引き落としや、口座にお金足りなくて口座とまる??あるあるを話してて、怖かった。

みんなそんなにナチュラルに借金してるの?

妻子持ちの人まで、生活費の金足らなくなって、口座とまるってあるの? みたいな話だ。

書いた人は「意味わからない」という。おれも意味わからん。なぜわからんか書いてみる。

 

赤字人間

前提として、おれは赤字の人間だ。社会から見て、赤字企業に勤めているから赤字人間だ。おれがそう決めた。

黒字にする能力もねえ。そんなものは社会にとって害悪だ。存在しないほうがよい。それについては前にも書いた

 

おれ自体はマイナスの存在だ。いかんともしがたい無能の結果がこの有様だ。

もはや中年になり、この先の成長も開花も見込めず、ただひそやかにこの世から退場するのがおれの先行きだ。

この世になんらかの金銭的なプラスをもたらすことなく、ただなんとなく人に食わせてもらって、なんとか生きて、死ぬだけであった。南無三。

 

赤字にはなれない人間

でもな、おれ個人の口座というのか、なんというのか、そういう限られたものについていえば、おれは赤字になったことがねえんだ。

そりゃあ実家暮らしでニートしていたときは赤字だった。食わせてもらった。けどな、そこんとこは算出方法がわからないのでノーカウントだ。

 

だから話は、親が破産して一家離散してひとり暮らしになってからのことだ。

おれはかなり貧しかった。洗濯機がなかったので、ユニットバスで衣服を洗った。100円ショップで買った洗濯板で服を洗った。

洗濯機が外置きしかできねえ巨大安アパート(安くて巨大なアパートもこの世には存在する!)で、おれの部屋の前だけ洗濯機がなかったのだぜ。

 

給料も決まっていなかった。時給いくらで、今月はいくらだという見通しもなかった。

やべえ。無給ということすらあった。まずい。そんな生活を送っていた。

なんとか、安アパートの安家賃だけは出してもらった。どうにか生きていた。実家から持ち出していた水木しげるの『昭和史』ばかり読んでいた。水木しげるは偉大だ。

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『昭和史』に描かれる昭和の貧しさに、自分の貧しさを重ねていたのか。戦場で腹が減る描写も、自分に重ねていたのか。

もちろん、平成の世における空腹と、戦場におけるそれが違うことはわかっちゃいるが。

 

まあともかく、そんな情況でも、おれは借金しなかった。っつーか、できなかった。できねえんだ。だってな、おれみたいな信用皆無の身分不安定、かろうじて住所ありの人間が金借りられるとしたら、カウカウファイナンスだろうが。おれはカウカウファイナンスがどこにあるのか知らねえ。

 

借金をするどころではない

というわけで、おれは貧しさのなかで借金をしてしのいだことがあるか? 答えはノーだ。金を借りるどころではない。そういう発想すらない。

おれがなんらかの信用をもって、金を借りられる存在だとは考えもしなかった。あの当時のおれが、お金を借りようと思って借りられたかどうかもわからない。たぶん借りられねえ。そんなもんだ。

 

そんな時代もあったから(今もたいして変わらないが!)、「借金なんて想像の埒外」というところから、「借金なんてとんでもない」という思考に固まっていった。

今、手元にある金がすべてで、家賃やなにかを差っ引いて、なにが買えるかというだけだ。手元の金・イズ・オール。

 

というか、しばらく銀行口座も作らなかったな。おれのような人間が銀行座を作れるのかわからなかったからだ。

銀行口座を作ったときは安心したな。部屋に現金置かなくてもいい。立派な組織がおれの金を保管してくれんだ。ありがてえ。

 

だから今でもな、「自分の預金を引き出すのに手数料がかかるのはおかしい」って意見には、意味分かんねえなって思う。だってさ、お金守ってくれるんだぜ。なんかモノを預けたら金を取られるのが当たり前だ。それがカネだったらなおのことだ。

銀行すげえ助かる。引き落としの手数料くらい、保管料だ。貧乏だけどそういう意識あんだ。おかしいか?

 

未来の自分を信じられない

銀行の話はまあいい。ともかく、借金というのは、ようするに近くなり、遠くなり、将来の自分に負担を押しつけるということだ。

これが、できねえ人間もいるんだ。将来の自分が信用できねえ。自分を取り巻く環境を信用できねえ、なんも信じられない。

 

来月、再来月も給料が振り込まれなくて、口座の金が底をつく。そうなったら、死ぬだけだ。

そこに借金取りが登場するのは、地獄に地獄のトッピングだ。そんなものは必要ない。よけい嫌な思いをするだけだ。

どうせ死ぬのに、どうしてよけいに嫌な思いをする必要あんの。そんな必要はない。ここにある金がすべてで、それ以外はない。自分に将来はない。違うか?

 

自動車や家のローンなど、本当にすごいことだと思う。

頭金を何百万円も入れて、なおかつ将来の自分を信じて何千万とかの支払いをすることを信じている。できることを信じている。どちらもおれには想像がつかない。まったく。

 

もうね、三十五年ローンなど、本当になにがどうなっているのかわかんねえ。

同じ会社や役所に定年まで勤めることができる自信、確信。いや、ちゃんとした就職ができれば、そんなん当たり前なんか。ちゃんと毎月給料が出て、ボーナスまででるのか? ボーナスまで! なんだボーナスって?

 

だからね、世の中には、賃貸か持ち家かみたいな論争もあるが、おれはそのどちらにも加われねえのよ。そもそも持ち家の頭金すら払えない。安アパートに月々の家賃を払えるだけ払い、それが精一杯。

 

賃貸、持ち家論争について、そういう立場の貧乏人もいるのよ。ローン組もうにも組めない人間も。

言ったところで、論争をしている裕福な人達にとってはまったくどうでもいいゴミのような話に過ぎないのはわかっているが。

あ、芸能関係とかアーティスト系の人もローンは厳しいらしいですが。

 

ゴミ人間の恐怖

まあ、なんにせよ、おれのようなゴミのような人間にも恐怖心はある。

おなじような境遇で恐怖心なく借金して金を使う人間もいるだろう。とはいえ、おれは借金に恐怖心のある方のゴミ人間だ。

 

社会のゴミとして、おれはできるだけ金を使わないようにしてきたし、絶対に借金だけはしないように生きてきた。今なおそうしている。

車や家も買えないものだということはわかりきっている。もし、適した相手がいたとしても結婚なんて考えられない。おれの人生の外側のものごとだ。まったくライフのなかに入ってこない。

 

さらに言えば、今の暮らしのために未来の収入を当てにするなんて、どういう狂気だ? 来月、おれは食えるのか?

そういうもんじゃないのか。なぜ、今、金を借りなきゃいけないのに、来月返せると思うのか。

今、この瞬間でも感じている。今がすべてだ。二十年以上、そんな生活を送っている。おれの感覚は狂っているのか?

 

借金が合理的な判断だとしても

インフレ下において、金利などと比べて今すぐに借金してものを買ったほうが得だぜ、というような話もあるらしい(おれは算数ができないので、ここのところ間違っているかもしれない)。

ともかく、借金も適度に利用すれば、長期的に見て得だ、という話もある。あるらしい。

 

でもね、おれはそのような合理性っつーか、知性も、リテラシーも持ち合わせていない。金融リテラシーって中学校で習えますか?

もっとスケール大きくなって、国民の多くが借金をして、経済を回していったほうが望ましいと言われても、まったくわかんね。サブプライムローンとかなんだったんだ。

 

ともかく、おれは、おれの口座の数字で家賃を払えるか、光熱費を払えるかというだけだ。

国家経済に貢献できる層はがんがん借金でもローンでも、なんでもしろ。経済を回せ。そのおこぼれをよこせ。おこぼれをくれ。え、そんなトリクルダウンは存在しなかった? そんなばかな。

 

それにしてもまあ、なにか生活にとって必要なもの、たとえば自動車が今の生活に、労働に、家計に必要なら、たとえば自動車を借金で、ローンで買うというのは合理的だ。

それはわかる。そんくらいわかる。でも、たまたまおれは自動車が必要ではない環境にいて、自動車をローンで買う必要がない。家とかは……独身だし必要ねえし。

 

だから、借金が怖い、借金はできない、なんて言えているわけだ。おれは借金できない、ローンを組まない。組めない。それだけだ。

 

クレジットカードくらいは使うよ

ま、それでもクレジットカードくらいは使う。ネット通販でもなんでも便利だ。ただし、一括払いという、ほぼ現金払いと変わらない条件でだ。

一括払いならば、まあその場で金を支払っているのと、そう変わらないだろう。デビットカード? デビットカードはいいと思う。でも、まあポイントとかなんとかもあって、デビットカードをメーンに使ってはいない。貧乏人だからポイントのことも考える。

 

でも、デビットカードの思想はいい。金を使う。口座から即座に金が減る。わかりやすいし、合理的だ。

納得のいく支払いだ。デビットカードはよい。すがすがしい。

 

一方で、すがすがしくないのがリボ払いである。リボ払い。リボ払いの悪魔。

リボ払いはやばい。ネットでクレジットカード会社関連のサイト以外を見れば、だいたいそんなことが書かれている。おれは算数、数字に弱いが、リボ払いはやばい、ということだけはわかっている。いや、わかっているつもりである。

 

だからな、いまさらリボ払いのやばさについて語ることもない。

でも、貧乏人からの見え方についてちょっと書いておく。月額定量、それも自分が払える範囲というのは、ちょっと魅力的に見えるかもしれん。え、五千円でいいの? みたいな。

 

だが、一瞬の魅力だ。もとより借金は絶対にだめだという価値観のもとに生きているおれなどは、こんなのは本当にあかんと思えてならない。

どんな将来まで、自分を信用するのか? できるのか? できねえだろ。クレジットカード会社が「計画的にご利用になれます」つっても、面倒くさい計算が必要だ。すくなくとも、おれには電卓でそんな計算できねえ。だからやばい。そんな感覚。

 

そんでもなあ、どっかの間抜けがリボ払いに支配されて、それがカード会社の利益になって、なんかおれにとってはポイントになって還元されてるとすればなあ、カード会社はがんばってリボ払いの間抜けを増やしてくれって思うぜ。

おれは弱い肉だが、もっと弱い肉もいる。そうやってこの世の地獄のピラミッドは成り立ってる。

 

しかし、借金もできねえ人生に喜びはあるのか?

と、ここまで「借金やばい」、「借金こわい」、「借金できねえ」って書いてきたけどさ、それっていいことなんか? 楽しいんか? 愛はあるんか?

 

というのもよ、消費者金融のテレビコマーシャルあんじゃん。なんとなく好感度の高い芸能人がお気軽、お手軽にみたいなやつとか。借金、危なくないよーって。リボ払いいいよーって。

 

そんでもさ、なかには、芸人とかが出てきて、なんとなくあのころ借金まで努力して今がある、みたいなの匂わすのあるじゃん。

あるいはさ、今しかできないからこそ、金を借りて、それこそ世界旅行みたいな体験しようってのがあんじゃん。

体験だよ、体験。若いころにしかできない体験。年寄りになってからバックパッカーもできねえみたいな。

 

そんなん見ると、ああ、おれの人生よかったんか? って思うわけよ。

おれはもう若くねえから、「今から金借りて世界を見聞しようか?」とは思わねえ。でもな、ひょっとして、若いころに金借りてでも、なにか自分の見聞を広めたり、自己研鑽とかいうやつしたら、おれも一回りナイスに稼げる人間になれて、収入も増えて、借金なんてらくらく返せて、ベリーベリナイスな生活を送れていたんじゃねえかって。

 

想像だ。妄想だ。ありえなかったことだ。すくなくとも、おれはそれを選ばなかった。というか、選ぶ余裕もなかった。

この余裕のなさよな。若いころもなかったし、今もない。

今、たとえば返すあてもなく百万円、あんたにとってははした金だろうが、百万円借金したとする。でも、その金でなにがほしいとか、どうやって遊ぶとか、まったく思い浮かばねえ。

 

おれは遊び方をしらない。人生の楽しみ方をしらない。

だったらもう、借金なんて余裕でして、そのときの欲望にしたがって、なんかやったり、得たりするやつの人生のほうがよっぽどマシじゃねえか。楽しい人生送れるんじゃねえか。

 

ああ、そうだ、おれはつまらない人間で、つまらない人生を送ってきたし、死ぬまでそうだ。一万三千六百円くらい残して死ぬ。

 

そんなら、プラマイゼロで死んだほうがいい。

つーか、この世のだれかから金を借りっぱなしで死んだほうが得だ。それが幸せな人生ってもんだ。金を残す家族もいねえおれにはそう思える。

 

今からでも遅くはねえ。金を、借りてやろうか? でも、使い道が思いつかねえ。欲望すらだれかに収奪されちまって、おれにはなんにも残ってない。損してんだよな、たぶん。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Annie Spratt

「多様性があると強くなる」というのは、よく聞く話だ。

 

たとえば犬は、雑種のほうが病気に強いと言われる。

血が混ざっているから、各犬種にかかりやすい病気や遺伝性疾患への耐性が高いらしい。なるほど。

 

でもその理論が、人間の集団にも適応されるのには、正直ちょっと疑問をもっていた。

 

「企業の経営陣に女性を入れるべき、多様性があるほうが企業が成長する」

「いろんな年代の選手が活躍するスポーツチームには活気がある」

というような。

 

そりゃまぁ、男女平等の観点で言えば女性もいたほうがいいし、チーム内の新陳代謝の話であれば、さまざまな経歴の選手がいたほうがいい。それはまちがいない。

 

でも、女性が経営陣にいるだけでそんなに企業に利益をもたらすのだろうか。

結果を出せるなら、若手だけ、ベテランだけでも別にいいんじゃないだろうか。

 

集団における多様性が利益をもたらすっていうのが、いまいちピンとこないんだよなぁ。

……と懐疑的だったわたしだが、「多様性がある集団は強い論」の根拠が、ようやくわかった。

多様性はプラスをもたらすのではなく、マイナスを減らすために必要なのだ。

 

超一流のCIAはなぜテロを防げなかったのか

突然だが、みなさんはCIAをご存知だろうか。

アメリカ国外の情報を収集する中央情報局で、言わずと知れたエリート集団。ちなみに、名探偵コナンの水無怜奈が所属している組織だ。

 

日本ではあまり話題になっていなかったが、9.11のテロ後、アメリカ国内では「CIAはなにをやっていたんだ」という批判が多くあったらしい。まぁ、海外からの危険を把握するのが仕事だからね。

ではCIAは、同時多発テロを起こしたアルカイダの指導者、オサマ・ビンラディンのことを把握していなかったのだろうか。

 

いや、把握はしていた。

が、「危険視」はしていなかったそうだ。

 

長いあごひげを蓄え、質素な服を着て洞窟に住むオサマ・ビンラディンについて、テロ以前のCIAは、こう思っていたらしい。

クリントン政権下で主要な外交ポストを歴任したリチャード・ホルブルックはこう言った。「世界をリードする情報大国との戦いに、洞窟の男がどうやって勝とうというのか」。CIAに近い筋の専門家もこう言った。「洞窟に住んでいるようなビンラディンやアルカイダについて、国の資金や人員を投入してさらに詳しく調査しようとはとても思えませんでした。CIAにとってビンラディンは時代錯誤な存在でしかなかったのです」
出典:『多様性の科学』

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しかし実は、彼の身なりや生活は、預言者の聖なる姿に重なるように意図的に演出されたものだったのだ。

 

イスラム教の預言者であるムハンマドは、多神教からの迫害を受けて洞窟に逃れた。

CIAが「原始的」だと思ったビンラディンの洞窟生活は、ムスリムにとって大きな意味を持つのである。

 

また、彼らが声明文を詩という形式で発表するのも、CAIにとっては不可解だった。

しかしイスラム文化において、詩は主要な要素のひとつ。それをわかっていなかった。

 

CIAの職員のほとんどは、アングロサクソン系の中・上流階級出身で、大卒の男性。

1998年時点、アフガニスタンの主要言語であるパシュトー語を話す捜査官はひとりもいなかったし、ムスリムなんていないも同然だったという。

 

だからCIAは、「洞窟のあごひげ男」の存在を知っておきながら、その危険性を十分に把握できていなかったらしい。

これは決して白人・プロテスタントのアメリカ人男性への批判ではない。どれだけ優秀でも、同じ特徴の者ばかりを集めた多様性に欠けるチームでは、集合知を得られず高いパフォーマンスを発揮できないという話だ。(……)
CIAの職員は個人個人で見れば高い洞察力を備えているが、集団で見ると盲目だ。そしてこのパラドックスの中にこそ、多様性の大切さが浮かび上がってくる。
出典:『多様性の科学』

たとえめちゃくちゃ優秀な捜査官が集まっていても、同じ特徴の人だけが集まれば、盲点もまた共有してしまうという、当たり前の話だ。

 

いろんな人がいるだけでは多様性のメリットはいかせない

画一的な集団では、集合知を得られず死角が生まれる。

……というとなんだかむずかしく聞こえるが、要は「類友だけだと詰む」。

 

Aさんが知っていることはBさんも知っているし、AさんができることはBさんもできる。

逆に、Aさんが知らないことはBさんも知らないし、AさんができないことはBさんもできない。

 

類友だけの集団で対処できない状況に陥ったら、全員で共倒れだ。

そういった状況にならないようにするためには、守備範囲がかぶっていない人たち、つまり多様な人々がいたほうがいい。

これがきっと、「多様性が集団を強くする」論の根拠なのだ。

 

しかし問題は、似たような人たちといっしょのほうが心地いいという、残念な事実である。

 

現実として、学歴や家庭環境、年収などがある程度似通っている人、共通点が多い人のほうが仲良くしやすい。

もし同じ空間に、世界各国から集まった10人と日本人が10人いたら、やっぱりまず日本人が集まってるところに行くだろう。そういうものだ。

 

類友コミュニティはみんな似たような意見だから心地いいし、団結していいチームだと思い込めるし、なによりラクで楽しいんだよね。

だから基本的に、うまくいっている集団に、あえて異物を入れようとはしない。そして、似たような人がさらに増えていく。

 

一方、「似たような人」の外にいる人も、その場になじむように多数派に合わせたり、多数派の考えに慣れてそちらに流れていくことが多い。

たとえ「女性ならではの視点を」と期待されても、まわりが全員男性で意見が一致しているなか、「でも自分はこう思います!」なんて言える人はなかなかいないもんね。

 

「若手の意見を」と新人が会議に呼ばれても、お偉いさんが提案したアイディアを真向から否定する根性がある人なんて、まずいないだろう。

そうなれば、本来「死角をカバーする」という役割を担う多様性要員も、結果的に「まわりに合わせるイエスマン」になる。環境が、そうしてしまう。

 

ただ「いろんな人がいればいる」だけでは、「死角を減らす」という多様性のメリットはまったくいかされない。

さまざまな人が集まり、お互いの盲点や不得手をフォローしあえる環境があってはじめて、「多様性の強み」が生まれるのだ。

 

多様性のある集団は、心理的安全性があってこそ強くなる

自分の意見を言ってもまわりにバカにされず、罰せられたりすることはない。

だから、思ったことを言っていいんだ。

 

そう思える状態のことを、「心理的安全性」という。

最近よく聞く心理学用語だ。

 

「経験がないくせにわかった口をきくな」
「女が偉そうに」
「外人がいるとやっぱ面倒だな」
「黙っておけばいいのに」
「せっかく意見がまとまったのに協調性がないやつだ」

 

なんていう人がいれば、だれも自分の意見は言えなくなる。

そういう人がおらず、自分の意見を受け止めてもらえる確信があってはじめて、「でもこれはこうじゃないですか?」と言うことができる。

 

多様性には、この心理的安全性がセットで語られるべきなのだ。

多様性がある集団とはつまり、たくさんの少数派がいるということ。

その少数派が肩身の狭い思いをするのなら、それは多様性のある集団として機能していない。

 

そもそも、「多様性のある集団」をつくること自体はかんたんなのだ。

年齢、性別、学歴などを踏まえ、いろいろな立場の人を集めればいいのだから。

 

でも、「多様性がいきる集団」は、また別。

数合わせのために発言権がない女性のお飾り管理職を置いたり、抜擢した若手がプレッシャーでつぶれたりしたら、まるで意味がない。

 

多様性がいきる集団とは、異物同士がぶつからず、同じ空間で共存することなのだから。

 

ちょっとした配慮不足で炎上し、その炎上が時に企業や個人に大打撃を与える時代。

いろんなユーザー、クライアントがいることを踏まえると、死角はないにこしたことはない。

 

だから、「多様性が集団を強くする」はやっぱり事実であり、大切なのは、「死角を埋めあう心理的安全性」なのだ。

ちなみにCIAの例は『多様性の科学』という本から引用するために挙げたものであって、政治的な意図は一切ないです。念のため。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :UnsplashPapaioannou Kostas

21世紀に入ってから、「発達障害」という言葉はすっかり知られるようになり、「自分が発達障害かどうか調べて欲しい」という相談を外来で受けることが増えました。

 

そのように精神医療のドアを叩き、発達障害と診断される人の大多数は、日ごろ、社会で生きていくことに困難を感じていたり、周囲とのあつれきを感じていらっしゃるものです。

そりゃそうでしょう、何か困った問題が生じていない限り、病院を訪れることはないでしょうから。

 

社会に溶け込んでいる「発達障害と診断され得る」人々

発達障害という名前が広く知られるにつれて、精神科医が発達障害と診断する頻度はかなり増えました。

過去、違った病名をつけられていた人のなかにもASD (自閉スペクトラム症)やADHD (注意欠如多動症) に相当する人が混じっていることも判明するようになり、新しい対策や治療法が立てられるようになりました。発達障害を巡る状況は、全体的に進歩していると言えるでしょう。

 

そうやって、今までよりも広範囲の人々が発達障害と診断されうる状況になって、次第に意識するようになったことがあります。

どういうことかというと、「世間には、病院を訪れたら発達障害と診断されそうな人がたくさん埋もれていて、なかには結構うまくやっている人も多い」ということが以前よりも見えやすくなったのです。

 

たとえば、ASDとして診断される人とほとんど同じ性質を持っているのに、まったく精神科の治療や援助を受けることもないまま、うまく社会に適応している人も意外にいます。

なぜ、そういう人は発達障害っぽいのに精神医療とは無縁に社会適応できているのでしょう?

 

そういう人の社会適応を成立させている与件はさまざまです。

精神科を受診することなく社会適応しているASDな人の背景には、高学歴や職業適性の良さがあったり、ユニークな感性を生かす手段を身に付けていたり、理解ある環境があったり、趣味や学問に基づいた人的ネットワークを持っていたりします。

 

巷で耳にする「大学教授には高機能自閉症が多い」という噂がどこまで本当かはわかりませんが、高学歴な専門家集団や高技能なプロフェッショナルのなかに、不適応に至っていたら精神科でASDと診断されていそうな人が混じっているのは確かです。

 

信州大学医学部附属病院の子どものこころ診療部の本田秀夫先生は、そうした、病院を訪れる必要性がないけれどもASD的な性質を持っている人を非障害自閉スペクトラム(autism spectrum without disorder;ASWD)と呼んでらっしゃいますが、まさにそのような人が、案外いろいろな場所で活躍しているよう、思われるのです。

 

同じく、現代の診断基準ではADHDと診断されそうな人が、メディア関連の仕事で活躍していたり、多忙な職場を支えていたり、企業のかなり偉いポジションで働いていたりすることを、私は診察室の内外で何度となく目にしてきました。

 

わざわざ発達障害の相談や診断のために病院を訪れない、社会に溶け込んでいるASDっぽい人やADHDっぽい人のなかには、それらの短所によって不適応を起こしているというより、それらの長所によって社会適応を成し遂げているとしか言いようのない人達も少なからず存在しています。

そうした人に出会った時、いつも私は思わずにいられません──「これって、障害や病気っていうより、才能だよね」、と。

 

彼/彼女らの社会適応のスタイルはあまりに多種多様で、簡単に応用できるものではないかもしれません。

しかし、ASDを知る・ADHDを知るといった時、社会不適応な部分だけをクローズアップし、そこばかり詳しくなるのって、なんだか違う気がします。もちろん、診断や治療といったコンテキストのもとでは、短所や苦手に詳しくなければならないでしょう。

 

だけど私個人の性分としては、社会不適応な側面よりも社会適応できている側面に興味関心を抱いてしまうので、発達障害と診断されそうなのに受診には至らずに済んでいる人々の生きざまについて、もっと詳しく知りたいと常々考えています。

もし許されるなら、そういったひとりひとりの社会適応のかたちを書き残しておきたいものですね。

 

人生の分岐点で「たまたま精神科を受診し、発達障害と診断される」人もいる

そういう、発達障害と診断されてもおかしくないけれども社会に適応し、活躍してきた人が、ふいに精神科を受診することがあります。

 

受診のきっかけとしてありがちなのは、大きなライフイベントによって今までの社会適応が維持できなくなり、「適応障害」や「うつ病」として来院されるパターンです。

そのような患者さんの場合、適応障害やうつ病といった表向きの診断病名だけ意識していては問題がなかなか解決しないことがよくあります。

 

そういう患者さんとは別に、四十代~六十代ではじめて「自分は発達障害ではないか」と疑い、来院される方も混じっています。

見ようによっては「発達障害と診断されるのが遅れた」と言えるかもしれませんが、見ようによっては「発達障害的な性質があっても、それまで長らく社会適応できていた」ともいえます。

 

もちろん、彼/彼女は環境が恵まれていたのかもしれませんし、発達障害的な性質がマイルドだったのかもしれません。

人一倍苦労していたのかも、人一倍努力してきたのかもしれません。いずれにしても、不惑や還暦まで世渡りをやってのけていたのは間違いないのです。たいしたものだと思いませんか。

 

子どもや孫がいてもおかしくない年齢で「発達障害ではないか」と相談にいらっしゃる患者さんのなかには、今までのライフスタイルが否定されたような気持ちになって、自尊心を喪失している人もいらっしゃいます。

けれども発達障害的な性質をもっていながら現代社会に適応し、ここまで世渡りをしてきた人はみんなたいしたものだと、私ならまず思います。

 

診断や治療が必要な場合、そちらを優先させなければならないとしても、それでも私は、そういう患者さんがここまで世渡りをやってのけてきたこと・今まで自分流で生きてこれたことを肯定するようなニュアンスを(すぐにではなくても・どこかで何らかのかたちで)伝えたいと願います。

だってそうじゃないですか。現代の診断基準では発達障害に当てはまるとしても、とにかく、自分自身と世間とに折り合いをつけながら生きてきた人なのですから。

 

発達障害という診断名がつくこと、それはいいでしょう。しかし、その診断名をとおしてこれまで生き続けてきたという事実が棄損されることがあってはいけません。

いや、これは発達障害という診断名に限った話ではないですよね。ここまで生きてきたってことは大したものだし、人それぞれに持ち味を持って生きてきたはずなのですから。

 

その延長線上として、現代の精神医学の診断病名に該当しない人々に対して、「あの人たちはラクな人生を歩んできた」などと逆方向のスティグマを貼りつける向きにも、私は与したくないと思っています。

 

医学的な診断基準のもっともっと根っこの部分には、「ともかくも生き続けている人は、みんな、たいしたものだ」という理解と、生きている人々への敬意があってしかるべきだと思うのです。

そこのところを、発達障害と診断される人もされない人も見失ってはいけないし、発達障害と診断する側も見失ってはいけない、と私は思います。

 

たまたまライフイベントによって精神科を受診することになったような、「これまでずっと診断されることのなかった発達障害」の人々の多くは、治療や環境の再調整によって元の生活を取り戻すか、次のライフステージに移行していきます。

 

長年、自分自身の性質とも世間とも折り合いをつけながら生きてきた人達だけに、クライシスを乗り越えてしまえば、さきに紹介した「受診するまでもなく社会に溶け込んでいるASDっぽい人やADHDっぽい人」と区別がつきません。というかそれそのものです。

 

そういう人は、きっと案外近くにもいる

なお、こうしたずっと診断されずに世渡りを続けてきた発達障害的な人は、特別に職業的/学業的なアドバンテージに恵まれた人だけとは限りません。さまざまな職域で、それなり頻繁に見かけるものです。

 

もちろん彼/彼女らは、空気が読めない性質や落ち着きのない性質を残しているか、その痕跡をときどき垣間見せます。

でも、彼らは社会的な約束事や立ち位置をひととおり身に付けていて、そこの部分で、年少の発達障害の人より「立ち回りが巧い」「年の功がある」と感じることが多いです。挨拶や礼儀作法をはじめとするソーシャルスキルによって、苦手な部分が補われるよう、きっちりトレーニングされている人が多いです。

 

そうやって社会のなかでサバイブしている人に、わざわざ診断病名を配ってまわる意味はありません。

何か困ったことが発生した段階で精神医療のフォーマルな窓口を訪れたっていいのだと思います。

 

そしてもし、発達障害として診断する必要が生じた場合にも、発達障害的な性質がディスアドバンテージになっている部分だけを見つめるのでなく、それがアドバンテージとなっている部分を見つめ、なるべく見逃さないようにしたいものです。

そして世の中には本当にさまざまな人がいて、いろんなスタイルで生きていて、いろんな生き方が可能であることに敬意を払い、寿いでおきたいとも思います。

──『シロクマの屑籠』セレクション(2016年10月18日投稿)より

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by UnsplashLi Lin

PMF(Product Market Fit)とは、顧客がお金を支払ってでも使いたいと思うような、マーケットに支持されるプロダクトができていることですが、起業してPMFを達成するのは狭き門だといいます。

実は奥深いPMFについて、VCとして数々のスタートアップに伴走し投資してきたグロービス・キャピタル・パートナーズ パートナーの湯浅エムレ氏に成功事例を交えながら解説してもらいます(聞き手・文=吉峰史佳)

 

PMFが使われるコンテクスト

-最初にPMFの簡単な定義と、どういう状況で使われるのかということをお聞きしたいと思います。

 

湯浅:PMF(Product Market Fit)とは、ざっくり言うと自社のプロダクトが顧客に支持されている(深く刺さっている)状態のことをいいます。起業したら、誰の、どのペインを解決するかを決め、次にそのペインを解決するためのプロダクトをつくります。ここで顧客がお金を払ってでも使いたい、いつまでも使い続けたいと思うような、顧客に深く刺さっているプロダクトができることをPMFといいます。

 

僕はPMFを要素分解して、①ターゲットユーザーが明確、②プロダクトになっている、③必須になっている、④収益化できる、の4つを満たすことだと定義していますが、これの詳細は後ほど説明します。

 

PMFという言葉をよく使うのは、スタートアップに投資をしているVCやスタートアップ経営者など、経営に関わる人たちです。ユーザーにとってはあまり関係がない話ですね。

 

-スタートアップは資金ショートとの戦いだと聞きます。資金ショートしないように資金調達をしていくわけですが、投資を受けるのにPMFはどれくらい効いてくるのでしょうか。

 

湯浅:「プレPMF」と「ポストPMF」では全然違います。PMFしていたら資金調達の可能性は格段に高まりますが、PMFを達成するのは、本当に難しい。それこそYコンビネーター(アメリカのアクセラレータプログラム)に参加するような有望なスタートアップでも、7~8割はPMFを達成できないと聞きます。数年かかっても達成できないこともざらで、途中でキャッシュアウトしてしまうとそこまでとなります。

 

-先のお話だと、まずペインを特定して、次にプロダクトをつくるということですよね。顧客のペインを特定したら、自然とプロダクトができるのでは…?と考えてしまったのですが、プロダクトづくりの難しさとはどのようなものなのでしょうか。

 

湯浅:ペイン自体は、日々の生活を通して発見もできますし、業界に詳しい人ならしっかり見つけられると思います。そのペインの解決が実現不可能なものだったり、ペインを解決するための要件定義まで解像度を上げられないということはありますが、BtoBでもBtoCでも、着想は割と得やすいんです。

 

一方、そのペインを解決できるプロダクトとなると、ビジネスとして成立させるために、お金を払ってもらうに値するプロダクトを作り込むのが難しいんです。これまでに全くないものもありますが、大抵は既存の置き換えです。その場合、既存より桁違いで良いものでないと、スイッチしてお金を払ってでも使いたいとユーザーはならないんです。

 

-なるほど。解決したいペインはあるのに歯がゆいですね。

 

湯浅:そうですね。ここが結構面白いところで、実際にはペインとプロダクトを行ったり来たりしている感じがあります。

 

我々が2016年にシリーズAで投資したスマートロック「Akerun」を提供しているフォトシンス社を例に話していきますと、創業した2014年時点で彼らが解決したかったのは、「物理的な鍵を持ち歩くのは面倒だ」というペインです。そこでtoC向けに後付け可能なスマートロックを開発しましたが、一言でいうとなかなかPMFしませんでした。顧客からすると「あったらいいな」程度で、お金を支払うまでではなかったのでしょう。

 

約2年試行錯誤して、中小オフィス向けのほうにチャンスがあると彼らは気づいたんです。オフィスのほうが使用する人数が多いし、セキュリティにも敏感で、お金を払う余地もある。社員に鍵を持たせると紛失リスクやコピーをつくられるリスクもある。それをデジタルで全部管理できるようにしたら、中小企業にすごく刺さり始めて、事業はぐんぐんと伸びて、2021年に上場するに至りました。

 

-PMFするために、個人のペインから中小企業のペインの解決へと、解決したいペインも変わるということがあるんですね。

 

湯浅:変わるものと変わらないものがあります。「Akerun」で最終的に実現したい「キーレス社会(鍵の無い社会)」というビジョンは創業時から変わっていません。ただ、その実現にあたっては、toCよりtoBから着手したほうがいいということに気づき、最初のターゲットやプロダクトの方針は変わりました。

 

このような事業転換を「ピボット」といいますが、ほとんどのスタートアップがピボットします。最終的なビジョンは同じでも、入口でつくるプロダクトや、ペインは変わり得ますし、むしろ変わるほうが普通です。

 

PMFしたのか、していないのか。判断する4つのポイント

湯浅:じゃあ、結局何がPMFなの?と考えたとき、最初に紹介した次の4つ①ターゲットユーザー、②プロダクト、③必須、④収益化できる、を満たしていることだと考えています。

 

①ターゲットユーザー

まず、ターゲットユーザーが明確になっていること。「Akerun」の例を続けると社員数500名以下の中小企業で、セキュリティが強固でないビルに入居しており、物理的な鍵を使って多くの社員や業者がそのオフィスに入退出している。ターゲットは具体的であればあるほど、刺さるプロダクトをつくることができます。

 

②プロダクト

顧客のペインを解決する「プロダクト」がある状態になっていること。ここでマニアックですが、「機能」と「プロダクト」という概念を紹介します。前者は既存のものの改善ツールのようなもので、後者は既存のやり方そのものを変えてしまうもの、という違いがあります。Instagramに投稿しやすくなるアプリがあったら、それは機能です。でも次のInstagramをつくろうとしたら、プロダクトです。

 

③必須

今使っているユーザーにとって、そのプロダクトが「なくてはならないもの」になっているということです。もうそれ無しでは業務ができない、毎日のように使っている状態になっている、などです。リテンションレート(継続率)やアクティブレート(使用頻度・量)などの定量で計測することができます。

 

④収益化できる

最後は、収益化の道筋が見えているということです。現時点で収益化している必要性はありません。例えば、メルカリは初期は手数料を取らずに、無料でユーザーと流通を増やすことに集中しましたが、いずれ手数料を徴収すれば収益化できるのは予想できました。特にtoCのプロダクトは無料から入ることも多いです。なので「収益化している」ではなくて、「収益化できる」と表現しています。

 

この4つが備わっているとPMFしているというふうに言っていいんじゃないかと思います。反対に、どれかが欠けていると、まだもっとやれることがあるという感じがします。

 

-この4つは非常にわかりやすいのですが、渦中にいると、どれができてどれができていないのかわからなくなりそうです。そういう場合、起業家はどうするのでしょうか。

 

湯浅:ひとつは我々VCのような外部の人と壁打ちディスカッションをするのは手だと思います。ディスカッションを通して、「たしかにこのカテゴリの顧客に刺さっている、ここがターゲットかもしれない」と起業家のなかで整理されていくかもしれません。

 

客観的な指標を挙げますと、一番いいのはチャーンレート(解約率)、リテンションレート(継続率)です。他にもNPS*や顧客満足度を測ることもできます。継続率から、プロダクトの改善点がわかりますが、注意しなければならないのは、表面を見てしまい実態を読み誤ることもあるということです。

 

NPS*:Net Promoter Score(ネットプロモータースコア)の略。顧客ロイヤリティや顧客がサービスや商品を継続して利用する意向があるかどうかを測る指標。

 

例えば、toBの1年契約で1年間は解約されないので安心していたら、その間に実は実際のユーザーが当初100人から30人、20人と減っていっていた、とか、20代がターゲットで、そこにはすごく刺さっているけど、30代40代も入れて押しなべて算出してしまって、全体でみると悪い数字に見えてしまう、とか。このあたりを見誤るとプロダクトの磨き込みの方向を間違います。そうならないためにも、4つの要素を全て満たすことが重要です。ですが初期は誰がターゲットになるのかがわからなかったり、プロダクトそのものも未熟だったりするので、仮説を立てながら、徐々に改善していくことになります。

 

PMF(Product Market Fit)とは、マーケットに支持されるプロダクトができていることですが、起業してPMFを達成するのは狭き門です。前編ではPMFの定義について、後編では成功確率をあげるためのヒントを、VCとして数々のスタートアップに伴走し投資してきたグロービス・キャピタル・パートナーズ パートナーの湯浅エムレ氏に解説してもらいます。

 

PMFを達成するための必勝法はなし

―PMFの定義がわかったところで、次はPMFを達成していくステップを教えてください。

 

湯浅:これがわかれば、より多くの人がPMFを達成できると思うんですけど、そんなに甘くないというのが今までの僕の経験の中での認識です。近道はないし、正攻法もあまりないと思っています。数カ月で見つけられるかもしれないし、数年かかるかもしれないし、見つからないまま終わるかもしれない。見つからないことも頻繁に起こりうるっていうのが実態だと思います。

 

じゃあ、その中で何ができるかというと、ターゲットユーザーに向き合い続けて、そのペインを解決するプロダクトをひたすら磨き続けるPDCAサイクルを回す。実は、それ以外に、あまりやれることはないんじゃないかと思います。

 

―厳しい世界ですね。そういうなかでも何かヒントになるようなよく使われる手法などはありますか。

 

湯浅:よくやるのは、膨大なインタビューですね。数百人に話を聞くと朧気ながら「こういう傾向の人はこういうペインあるな」という仮説が立てられます。そこに対してプロダクトをつくって当ててみる。そこで刺さらなくて、次の仮説を立ててプロダクトをつくってまた当ててみる。また刺さらなくて次の仮説へ…という、結局はPDCAの繰り返しになってしまいますが。

 

いつPMFを達成できるか予想できないので、長く挑戦し続けられる状態をつくる必要があります。その状態をつくるには3つの要素があります。

 

1つ目は、自分がその領域に情熱を持っていること。数年かけても見つからないかもしれないという、成果がでる確約がないものに対して取り組み続けられるだけの熱意を持てること。

 

2つ目は、高速でPDCAを回していくチーム体制があること。プロダクトをつくって、ターゲットユーザーに当ててみるというサイクルが速ければ速いほど沢山挑戦できるので、そこを速く回せたほうがいいですね。

 

最後の3つ目は資金です。ランウェイ(会社が生き残っていられる期間)をいかに長くするか。毎月のバーンレート(キャッシュアウトするスピード)を下げて、打席に立てる回数を増やすことが重要です。例えばシードで3,000万円調達して、毎月300万バーンしていると10ヶ月しか持ちませんが、毎月100万のバーンだと30ヶ月持ちます。当然30ヶ月挑戦したほうがPMFを見つけられる可能性は高まります。

 

PMFに終わりなし?

-聞いているだけで胃が痛くなってくる話ですね。それだけ苦労してPMFして、資金調達もして軌道に乗っているように見える起業家でも、「PMFしたとは思っていない」とか「PMFはまだまだ続く」とおっしゃる方もいます。2つ質問がありまして、PMFするのは、スタートアップの事業ステージでいうとどの段階なのでしょうか。もう1つは、PMFが続くというのは、どういう意味なのでしょうか。

 

湯浅:事業ステージは、人によって分け方が全然違うので、あくまで僕の場合になりますが、ざっくり「シード」「アーリー」「ミドル」「レイター」の4つに分けています。PMFするまでがシード。PMFしてからある程度事業化していくまでがアーリー。そこから、もしかしたら複数市場とか複数プロダクトを立ち上げるところがミドルで、最後上場に向けてまた別の一手を打っていくところをレイターとしています。

―そうすると、PMFするのは起業の本当の入り口なんですね。PMFが続くというのは、シード期の中でずっと続くということでしょうか。

 

湯浅:いえ、会社全体としては先ほど挙げた事業ステージで進んでいきますが、プロダクトはどのステージであろうが常に進化させ続けます。プロダクト開発に終わりはなく、アーリー、ミドルと事業ステージが進んでも、常にプロダクトを進化させ続けることになります。

 

もっと言うと、プロダクトが進化し続けるということは、スタートアップは永遠にPMFを探り続けるということです。進化の方向は大きく2軸あって、1つはターゲットを拡大してマーケットを伸ばすこと。もう1つはプロダクトの価値を高めていくことです。

 

最初に絞り込んだターゲットから、市場規模を拡大するためにターゲットの幅を広げます。すると初期のターゲットセグメントとは微妙に異なるセグメントが入ってくるので、新たなセグメントに対してしっかりPMFさせる必要があります。

最初のターゲットは、具体的に絞りこんだほうがいいとお話しましたが、その理由はこのメッシュが細かいほうが、痒い所に手が届く、刺さるプロダクトになるからです。そのトレードオフで、他のセグメントに刺ささらないこともあります。蓋を開けてみたら、セグメントを広げられなくてマーケットが非常に狭く、事業としての伸びしろが期待できないということもあります。

 

我々VCがシリーズA(PMFしてからの最初の資金調達)で、スタートアップに投資をする時に重視するのがこの点で、PMFしたこのプロダクトでどこまでマーケットを取りにいけるのかを議論します。

 

もう1つのプロダクト価値の軸でいうと、提供価値を追加してプロダクトの価値を常に上げ続けます。例えば、初期のInstagramは、写真をアップロードして共有できる機能だけでしたが、途中から高度なフィルター加工や、ハッシュタグ機能が追加されて、ユーザーも爆発的に増えていきました。

(法人向けスマートロックの)Akerunの例でいえば、最もシンプルな「社員がキーレスでオフィスに入退室できる」提供価値から、将来的にはオフィスの使用状況からオフィスの最適なスペースの算出やレイアウト提案もできる方向に進化するかもしれません。新たな価値を付加できると、単価を上げられ、収益性が更に高まります。

 

こうやって顧客に刺さるプロダクトをつくり続けるという意味でPMFには終わりがありません。

 

―その挑戦をやり続けるスタートアップ経営者は素晴らしいですね。

 

湯浅:そうなんですよね。前人未踏の挑戦をしながら、社員を雇用して責任を負ってやっていくので、本当に尊い存在と想いますし、とてもリスペクトしています。

 

-ありがとうございます。

 

 

(執筆:湯浅 エムレ 秀和)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Toa Heftiba

少し前のことだが、食品メーカーに勤める友人と飲んでいる時に、こんな話題を振られることがあった。

「公式ツイッターが炎上しそうになったんだわ…。もうこりごりなんで、アカウントの運用を停止しようと思っている」

 

聞けば、新商品の発売に合わせて発信した内容と、実際の商品の内容に食い違いがあったのだという。

0を一つ多くつけてしまった程度のケアレスミスだったそうだが、実際に購入した顧客からクレームのコメントが多数ついて、軽い炎上状態になったということらしい。

 

「うーん…。悪意やアンモラルな発信ならともかく、ケアレスミスでの炎上なんてたかが知れてるやろ。ビビるようなことか?」

「リスクがあること自体が、本質的な問題なんや。事前に確認するリスクマネジメントも手間やし、こんな媒体で発信する意味がわからんわ」

 

ちょうどこの頃、各種SNSではいわゆる”バイトテロ”が頻発していた時だった。

そのため大手企業では公式アカウントだけでなく、個人アカウントでの発信にも注意喚起を盛んにしていたタイミングではある。

そんなこともあり彼は、事業部長として「もう公式SNSなんて廃止でいい」という決断をしたかったらしい。

 

気持ちは十分にわかるし、リスクを回避したいという彼の考えもわからないわけではない。

しかしその上で、長い付き合いということもあり彼に言った。

「お前、偉くなりすぎたんじゃないか?向いてないんで、もう事業部長を降りろ」

 

「他にお客さんがいないようですが…」

話は変わるが、おそらく昭和40年代以前の生まれであれば多くの人が、「肉はごちそう」という幼少期を過ごした記憶があるのではないだろうか。

曖昧な思い出で恐縮だが、牛肉が安くなり毎日の食卓に当たり前に昇るようになったのは昭和から平成になって間もなく、1980年代後半くらいだったと記憶している。

 

「牛肉・オレンジ自由化交渉」という言葉すら懐かしい響きだが、それまで牛ステーキと言えば、「給料日に、お父さんだけが食べるもの」という漫画の描写があったほどのごちそうだった。

何のマンガだったか忘れてしまったが、こういうのはきっと藤子不二雄だろう。

 

そんな時代背景の中で、今も記憶に残っている幼少期の“特別な日”の思い出がある。

どこかの誰かが、子供でもわかる程に高級なすき焼き用の近江牛を毎年、お歳暮として届けてくれる一大イベントだ。

 

竹皮の包みを開くと、見たこともないほどにキレイにサシの入った牛肉・・・。

父はそれを大事そうに鉄鍋で焼くと、関西風のすき焼きで家族に振る舞うのが、年の瀬の我が家の伝統行事だった。

 

なお関西風のすき焼きでは、関東風のそれと違い割り下で煮込むような調理をしない。少量の酒と砂糖と醤油で一枚ずつ肉を焼き、ただそれだけで溶き卵に絡め、肉を味わう。そして焼いた時に出た肉汁で野菜や豆腐を焼き、肉の余韻を愉しむ。

後はそれを、肉、野菜、肉、野菜と交互に繰り返すため、“焼き手”である父は最後まで、自分が食べることはなかった。きっと家族の笑顔を見ることが、何よりの楽しみだったのだろう。

そんな至福の時間を過ごしている時、食卓の上には白地に黒文字で『近江源氏』と書かれた包装紙があったことを、記憶の片隅で薄っすらと覚えている。

 

そして高校生になり大学生になると、「高級すき焼き」の伝統行事はいつの間にか、我が家から消えていった。

お歳暮が届かなくなったのか、それとも牛肉が当たり前の食べ物になり記憶に残らなくなったのか、正直全く覚えていない。

そんな父が、私が24歳の時にガンで亡くなると、もはやそんな伝統行事があったことすら記憶から長らく消えてしまっていた。

 

それから四半世紀ほどの時間が経ったある日、親戚と話している時にふと、こんなことが話題になる。

「そうや、桃野くん。君のお父さんが仲良くしてた近江源氏、まだ新宿で頑張ってるらしいぞ。知ってるか?」

「え?近江源氏ってもしかして、お肉屋さんですか?」

「よく知らんけど、すき焼き屋さんちゃうんかな。コロナで大変なことになってるみたいやけど、なんとか頑張ってるって噂を聞いたで」

 

すぐにネットで調べてみたら、確かにそれっぽい店を見つけることができた。しかし父がご縁を頂いていた先代は既に亡くなり、2代目が跡を継いでいるようだがよくわからない。

それでも何か記憶が繋がるのではないかと淡い期待を抱き、東京出張の際に予約を入れ急行する。

 

新宿駅東口から歌舞伎町を抜け、新大久保に向かうややいかがわしい街並みの中、そのお店はあった。

お店の看板は、記憶の中に薄っすらと残っているあの包装紙のままだ。

近江牛の専門店のようで、すき焼き、鉄板焼き、しゃぶしゃぶなどが頂けるらしい。当然すき焼きを注文すると、抑えきれない高揚感をビールで紛らわしながら、待つ。

一通りの材料が並べられると、サシの入った牛肉を仲居さんが、少量のザラメと酒と醤油だけで焼き始めた。それを小鉢に取り分けてもらい、溶き卵に絡めて頂く…。

 

(40年前の記憶のままだ。味も香りも、何もかも懐かしい…。そして美味い。。)

そんなことを呟き、感極まりながら黙々とすき焼きを頂く。きっと私は、相当変な客だっただろう。

そして一通り食事を堪能すると、仲居さんに名刺をお渡しこんなお願いをした。

 

「もし宜しければ、店主さんをお呼び頂くことは可能でしょうか」

「少し厨房を見てきますね」

それにしても、広い店内には他にお客さんがいないようだが、なぜだろうか。

 

「店主の浦谷です。桃野さん、ご予約の時にもしやと思ったのですが、もしかして…」

「ご記憶頂いていたのですか?!父が先代と懇意にして頂いていて」

「息子さんなんですね。はい、先代の下で仕事をしていた時に、お父様にお肉をお送りしていたこと、覚えています」

 

そして、最高のお肉をお送りするとは、一体どういう関係なんだろうと思っていたこと。

残念ながら、先代とはどのようなきっかけでそこまでの仲になったのかは知らないこと。コロナ禍の中でも、先代以来の顧客がお店を支えて下さっていることをありがたく思っていることなどを、話してくれた。

「ところで店主、他にお客さんがいらっしゃらないようですが…」

「はい、実は営業規模をかなり縮小してしまいまして」

 

聞けばお店は、数年前までビルの地下を含め、全て自社店舗だったという。しかしコロナのために今は僅かな席数にまで縮小して、先代以来の味と伝統を守るため、最小規模で耐えているのだと説明してくれた。

もちろん経営は厳しく、いつになったら状況が好転するのかも見えない。

そのため常時出勤できる仲居さんを1~2名しか置けず、同時にお迎えできるお客さんも1~2組に限られているのだという。

 

「浦谷さん。コロナ禍のそんな厳しい中でもお店を残して下さっていて、本当にありがとうございます。おかげさまで、四半世紀ぶりに懐かしい父に再会できました」

「お店を愛して下さる皆様がいらっしゃる限り、諦めません。宜しければまたお越し下さい」

「当然です、必ず参ります!」

そんな心地よい会話を余韻に、お店を後にした。

 

コロナ禍が収束すれば、お店は必ず復活するだろう。

そんなことを強く確信させくれる、心から満足した想い出の味との再会になった。

 

リターンが上回れば、リスクではない

話は冒頭の、SNSでの炎上を恐れる友人についてだ。

なぜ私がそんな彼に、「向いてないから事業部長なんて降りちまえ」と言い放ったのか。

 

「お前、1,000円の売上を上げるのに、100円の経費を使うことも許さないのか?」

「何言ってるねん、売上にコストが掛かるのは当然やろ」

「じゃあ、SNSで情報発信するリターンはどれくらいで、ケアレスミスがもたらすリスクはどれくらいだと見積もってるんだ?」

「…そんなん計算できへんわ」

 

そんなことを答えた彼に私は、だから降りろと言ってるんだと改めて言った。

そのような中間管理職の姿勢こそが、やる気のある部下の心をへし折り、会社を潰すからだ。

 

どんなことでもそうだが、私たちの毎日はリスクそのものだ。

飛行機に乗れば堕ちるかも知れないし、刺し身を食べたら食中毒になるリスクだって0ではない。その中で、リターンが上回ると計算できた時に私たちは、リスクを受け入れ行動に移す。

 

にもかかわらず、肩書きだけ偉くなってしまい能力が伴っていないチンケな管理職は、

「そのプロジェクトにはリスクがある(キリッ)」

などと当たり前のことを言い放ち、部下たちのチャレンジを叩き潰す。

 

こんなことは、「1,000円儲かる見込みがあっても、100円の経費も使ってはならない」と言っているに等しく、”私はビジネスセンスのないクソリーダーです”と白状しているようなものだ。

だから友人にもそのまま、「ケアレスミスごときのリスクなど俺が背負う」と言えないのなら、お前の存在価値は何なのかと説明しろと、詰問したということだ。

 

そして話は、『近江源氏』の店主についてだ。

コロナの中、目先のリスクで考えればすぐに店を閉め、これまでの蓄えで気楽に過ごすほうが”賢い”やり方だっただろう。

しかし店主は、リターンが見通せないリスクすらも飲み込んだ上で、お店を存続させる決断をした。先代から引き継いだのれんを守りながら、いつか状況が好転する可能性に賭けたからだ。

 

「その仕事にはリスクがある」などと言い放つチンケな管理職とは対極にある、勇気あるリーダーシップである。

思うに私達オッサン世代は、「リスクとは避けるもの」という価値観を浴び続けてきたため、あらゆる生産性を損ない続けている。

リーダーとして責任を背負った途端に臆病になり、仕事や会社をどんどんつまらないものに”管理”しようとする。

 

そんな会社や上司の下では、やる気のある若手ほど

「こんな会社、さっさと辞めてぇ…」

と思って当然だろう。

 

どんなリーダーの下でなら、仕事はおもしろいのか。どんな会社であれば、月曜日の朝が楽しみになるのか。

そう考えたら、リーダーのとるべき姿勢など、すぐにわかるはずだ。

ぜひ、自分が若かった頃に大好きだったリーダーを思い出し、そこを目指してほしいと願っている。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

先日、海上自衛官と一杯飲んでいる時、沖縄で撮った写真を何気なくお見せしたら、
「南方のどこか、サンゴ礁で形成された地盤の島ですね」
と言いあてられ、驚きました。

どんな世界でも、プロっていうのは本当にすげえ…。

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

最近では、仕事が専門化してきているので、「上司より現場の部下のほうが専門能力が高い」という傾向が強くなっている。

 

一昔前は、そこまで普通ではなかった。

例えば定型事務、工場での作業などは、必要な知識が大きく変化しないので「経験が長い人」のほうが有利だった。

あるいは訪問営業なども「顧客とのつながりが濃い」経験年数が長い人物が、仕事の成果を出しやすい。

 

しかし、昨今の非定型業務、例えばシステム開発、マーケティング、データ分析、新規事業の立ち上げなどの仕事では、一概にそうとは言えない。

「その場での課題解決力が重要な仕事」では、地位や経験年数によらず、最新技術・アイデアの創出・新しい技術への適応スピードなどに優れている「つねに学習し続けている人物」が、圧倒的に能力面で高くなる

 

例えば、医師の世界でも、このような傾向が見られる。

ハーバード・メディカルスクールの研究チームは、医師が提供する治療の質と、医師の経験年数の関係を調べた。

すると、経験が豊富なはずの、年長の医師のほうが経験年数の少ない医師と比べて知識も乏しく、適切な治療の提供能力も低いことがわかった。

経験を積むほど医師の能力が高まっているという結果が出たのは、62本の研究のうちわずか2本だった。

 

これは、看護師においても同様で、極めて経験豊富な看護師でも、平均してみると看護学校を出てほんの数年の看護師と治療の質は全く変わらないことが示されている。

(出典:アンダース・エリクソン 超一流になるのは才能か努力か?)

 

 

これは、知識労働者は「学習」を怠ったとたん、平凡になってしまうからだ。

 

一般的には能力的に優れ、実績をあげた人間が、上司のポストに就く。

しかし、多くの上司は、その地位を得ると徐々に知識の更新を怠るようになる

忙しい、と言うのもあるが、日常的な仕事を部下に任せ、現場に出なくなることが「管理職」だと認識する人が結構多いからだ。

 

そうなると、もうおしまいだ。

 

例えば

「部長が主催するセミナー・勉強会」

「本部長発信の、事例研究」

「課長が執筆した記事」

などが、会社に存在しているだろうか?

 

あまりないだろう。

そういったケース担当するのは、ほとんどが現場の担当者だ。

実際には、偉い人たちは勉強会においても、出席だけはするものの、腕組みをして、後ろのほうで聞いているだけ、というケースも多い。

 

そんな、現場を持たず、手を動かさない上司は、専門家としては、とうに旬を過ぎている

「管理者として働くようになるのだから当然」と言う方もいるかもしれない。

 

が、往々にして、日本の管理職は別にマネジメントの専門知識を有しているわけでもない。新しいマネジメントのやり方を試みるわけでもない。

単に「あがったポジション」になっている。

こうした状況は「成果をあげろ」と一声言うだけで優秀な部下が動いてくれる、大きな会社でも顕著だ。

 

 

さて、ここからが本題だ。

「頭は悪くないけど、専門家としては、はるか昔に旬を過ぎている上司」がいる組織には、ある悲劇が起きる。

 

どのような悲劇なのか。

それは「見当違いの、細かい指摘ばかり出す上司」の出現だ。

 

彼は、かつて社内で昇進するほど仕事ができたのだから、知能としては高い人が多い。

だから、下の人たちが提案することの論理的な矛盾や、欠点には気づく。

 

しかし、彼の知識は昔のもの。

だから、「実のあるアイデア」や、「良い解決策」がだせない。

つまり「アイデアは出さないくせに、リスクや細かい指摘ばかり言う、ダメな責任者」ができあがる。

 

知識はないのに、権力だけはある。

周りはそういう人に、困惑するしかない。

 

 

管理職が「あがったポジション」を満喫するのが許されたのは、過去の話だ。

 

現在の「専門家集団」としての知識労働者をマネジメントするには、自分自身も専門家として学習を続けなければならないし、そうでない上司は尊敬を集めることができない。

「あの人、昔は優秀な技術者だったみたいだけどね」と言われてしまう。

 

もちろん、学習を続けるのはしんどい。

「管理職になってまで、学習を続けたくない」

「いつまでも職人ではいられない」

と言う人もいるだろう。

 

でも、そうならば。

「自分の知識はもう古い」と自覚すること。

遅かれ早かれ、部下の仕事に余計な口を出して、「専門家たち」を困惑させる存在になってしまう。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

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◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo:LinkedIn Sales Solutions

先日、男子サッカーのワールドカップ・カタール大会が行われ、サッカー界のスーパースターであるメッシを擁するアルゼンチン代表チームが、同点からのPK(ペナルティキック)戦で勝ってワールドチャンピオンに輝きました。

 

後半、残り時間あと10分くらいまで、アルゼンチン代表がフランス代表を2-0とリードしており、フランスはほとんどチャンスもない展開だったので、僕は「ああ、これはもう『メッシ戴冠モード』だな」と、翌朝からの仕事に備えて寝ようとしていたのです。

 

ところが、フランスの怒涛の反撃で同点に。

延長戦ではメッシのゴールでアルゼンチンが勝ち越し、ようやく決まったか、と思ったら、ハンドの反則で得たPKをフランスのエース、エムバぺが決めてまた同点に。

終わってみれば、メッシの悲願成就とともに、歴史にのこる試合、決勝戦になりました。

 

ドイツ、スペインと一緒のグループでは、グループリーグ敗退だろうなあ、なんかいつのまにかはじまって、なんとなく終わっていく大会なんだろうなあ、と思っていた日本代表チームの躍進もあって、日本でもどんどん盛り上がっていきましたよね。

 

これまで、スポーツにまったくと言っていいほど興味がなかった僕の長男も、スマートフォンのサッカーゲームにハマり、試合中継も熱心に観ていました。

自分でボールを蹴るつもりはあまりなさそうですが、ワールドカップのような大きなイベントというのは、無関心だった人が興味を持つきっかけになるのだなあ、と思い知らされたのです。

 

この決勝戦、最後はお互いのチームから選ばれた5人(5人で決まらなかった場合には決まるまでキッカーを追加して継続)の選手がPKでのゴール数で勝負を決める、というPK戦にもつれこんだのです。

 

PKの成功率は、近年のワールドカップでは、7割くらいと言われているそうです。

7割というのは「3回に2回以上は成功するが、失敗も珍しいことではない」というくらいの数字です。

決勝トーナメントの1回戦では、日本代表がクロアチア代表にPK戦で敗れていて、そのクロアチア代表は、準々決勝でも強豪ブラジルをPK戦で下しました。

 

「日本代表チームは、もっとPKを練習しておくべきだった」という声もかなりあったのですが、今大会の日本代表の前評判からすると、まずはグループリーグ突破に全力投球せざるをえず、その後に必要になるかもしれないPKについては、優先順位が低かったのも致し方ない気がします。

 

グループリーグの前からPKの練習ばかりしていたら「それどころじゃないだろ!」とみんな思っていたでしょうし、決勝トーナメント進出が決まってから付け焼刃で練習しても、追いつくようなものではない。もちろん、PKはまったく想定外、というわけではなく、データもあり、練習もしてはいたのでしょうけど。

クロアチア戦のPKのキッカーは立候補で決めた、という時点で、もう万事休す、ではあったのかもしれません。

 

PKはサッカーの一部ではあるけれども、同点で延長まで闘いぬいた試合が、フィールドでのゴールとは違う形で終わってしまうことには、違和感があるのも事実です。

一時は、どちらかが決勝ゴールをきめるまで続ける、という方式も採用されていましたが、選手の消耗や怪我のリスクも考えると、どこかで「区切り」をつけなければ、ということで、PK戦による決着が続いているのです。

 

今回のアルゼンチン対フランスの決勝戦、僕はNHKの中継を観ていたのですが、PK戦になったとき、解説者が(名前は忘れてしまいました。申し訳ない)、「PKのキッカーは、試合にフル出場していた選手よりも、途中出場でフレッシュな状態の選手を選んだほうが成功率が高いというデータがある」という話をされていました。延長戦までの120分フル出場していると、疲労でキックの精度や集中力が落ちるのかもしれない、と。

 

もちろん、個々の選手のPKの得手不得手やコンディションはあるはずですが、ずっとこの試合に参加して頑張っていた選手に蹴らせてあげたい、と僕なら考えてしまいそうです。基本的に、より状態が良い選手を先発で起用しているだろうし、試合の雰囲気に馴染んでもいるだろうから。

 

でも、そういう「情」や「思い込み」を排すれば、「出場時間が短い、疲れていない選手のほうが、成功率が高い」というのがデータで示された「答え」なのです。

1本のPKくらい、とは言うけれど、「極度の疲労」というのが人間のさまざまな面に影響するというのは、スポーツ選手ならずとも理解はできます。

 

2014年に上梓された『「期待」の科学 悪い予感はなぜ当たるのか』(クリス・バーディック著/夏目大・訳/CCCメディアハウス)という本のなかに、サッカーのPK戦についてのこんな記述がありました。

期待とシュートの成功率の間には複雑な関係がある。ジョルデは研究の中で、この30年間に国際試合で重要なPKを蹴ったことのある選手を3つのランクに分けている。

まずランク1は、「PKの時点ですでに最高の地位にあった選手」だ。たとえば、FIFAの最優秀選手賞を獲得した経験のあった選手などがこれにあたる。ランク2は「後に最高の地位を得る選手」で、PKの時点ではなく、その後に同等の賞を取った選手を指す。そしてランク3が「最高の地位にはいない選手」だ。PKの前も後も主要な賞を獲得しなかった選手が該当する。

PK戦のシュート成功率だけを見ると、この中で最も低いのはランク1の選手で、65%にとどまる。それに対し最も成功率が高いのはランク2の選手で、89%にも達する。ランク3の選手はその中間で、成功率74%だった。

高いレベルの技術があれば、当然PKを決める確率も上がるはずである。だがすでに高い評価を得ている選手の場合は、皆から寄せられる期待が大きくなってしまう。その期待がペナルティスポットにいるスター選手の脚をもつれさせるようだ。ランク1の選手はPKの成功率が低いだけでなく、ゴールを完全に外してしまう確率も高い。

たまたまゴールキーパーが動いた方向と逆に蹴ったおかげで成功したラッキーゴールを除外して計算するとランク1の選手のPK成功率はさらにひどく、なんと40%となる。その一方でランク2の選手は、その場合でも86%と高率を維持する。

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これに関しては、「キーパーが動いた方向と逆に蹴る」というのは「ラッキーゴール」ではなく、観察力と高度なテクニックに基づくことも多いのではないか、とも思うのですが、少なくとも統計上は「いまが旬のスーパースターほど、PKを外しやすい」と言えるのです。

 

「この先、FIFAの最優秀選手を穫れる選手かどうか」を判断するのは難しいことですが、「いまのスーパースターよりも、将来性がありそうな伸び盛りの選手に蹴らせるほうが良い」ということなんですね。

 

ほぼ10年前に紹介されていたデータで、スポーツ界でのデータ解析の進歩を考えると、もう、古くなっている可能性もありますが(スーパースターはプレッシャーが大きいから外すのか、フル出場していて運動量も多く、疲れているのが原因なのかも判断するのはむずかしそうです)。

 

1994年、ワールドカップ・アメリカ大会決勝、PK戦にもつれこんだブラジル対イタリア戦での、イタリア代表のロベルト・バッジオ選手がPKを外してしまった場面は忘れられません。

外したら、負けが決まってしまうイタリア。ものすごくプレッシャーがかかっていたはず。

でも、キッカーは、当時の世界的なスーパースターのバッジオですから、ここは決めるに違いない……と思いきや……ここであのバッジオが外すのか……

 

僕はそれほど熱心なサッカーファンというわけではないけれど、「大事な試合では、スーパースターがPKを外す」というイメージがあったのです。

スーパースターと呼ばれる選手は、PK戦に起用される頻度も高いし、もともとの注目度が高いので、外すと記憶に残りやすい、ということなのだろうな、と思っていました。

 

実際は、すごい選手だから、PKの成功率が高い、とは限らないのです。

原因が疲労か、プレッシャーか、あるいはその両方なのかはわからないけれど、「成功率だけを考えるのなら、メッシをあの場面での最初のキッカーにするべきではなかった」のかもしれません。

 

とはいえ、PK戦の最初のキッカーとして、アルゼンチンからメッシ、フランスからエムバぺが出てきたときには「そりゃそうだよな」と僕は思いましたし、世界中であの試合を観ていた人たちも、きっとそうだったはずです。

 

いまの時代、こういうデータは、おそらくワールドカップに出場するチームはみんな持っているはずですから、両監督は、そんなことは百も承知で、これまでチームを牽引してきたエースを指名したのでしょう。

 

いくらデータ上リスクが高くても、あのPK戦でメッシをメンバーから外すのは、監督自身、そして、応援している人たちの「情」を思えば、至難だったはず。

 

メッシが決めれば、勢いに乗れる、という算段もあったでしょうし。

その「算段」とかいうのが、思い込みであったり、失敗の誘因になったりしやすいものではあるんですけどね。

 

データがあっても、それをみんなが納得する形で運用するのは、けっこう難しい。

そして、疲労というのを甘くみてはいけない。

 

そうは言っても、そんな「データ」に従えば、必ず良い結果になるとも限らないし、人は「データ上の成功率よりも、感情的に悔いのない選択」をしたがるのです。

 

データ的には「不適切な選択」でも、メッシはPKを決め、伝説を完成させました。

科学やデータ解析が発達しても、まだ、人間がやることを完璧に予測することはできません。

理不尽だし、難しい。

だからこそ、面白い。

 

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo by Peter Glaser

身内褒めで恐縮なのですが、楽しいことがあったのでちょっと書かせてください。

先日、中学三年生の長男が、中学の友人たちと関西旅行に行っていました。で、色々と感心しました。

まず最初に、ちょっとこの画像を見ていただけるでしょうか。

なんの時刻表だ、と思われるかも知れないですが、長男が作った、友人たちとの旅行の行程表の一部です。

最初は手書きのメモだったんですが、彼最近Excelが使えるようになりまして、この表もいつの間にかExcel化されてました。

 

私は鉄道にそこまで詳しくないので、この行程表を作るのにどれくらい手間がかかったかまでは分からないのですが、相当きっちり考えられているように見え、よくまあここまで作り込んだなあ、とは感じます。

 

長男小さな頃からプラレール好きで、現在も順調に乗り鉄として成長しています。

進学先を選ぶ際も、「鉄道研究部がある中学に行きたい!」という強力な動機で中学受験を希望しまして、受験勉強をめっちゃ頑張ってました。

 

で、念願叶って鉄研への入部を果たしまして、そこでの友人たちとちょくちょく鉄道小旅行にも行っていたんですが、今回ちょっと大がかりな、泊りがけの旅行を計画しました。

 

本当は夏頃に行く予定だったのですが、コロナの罹患などの事情もあって一度流れちゃいまして、先日ようやく実現したんですよ。

 

このご時世ですから、もちろん色々と気にしないといけないこともあり、友人たちのご家族とも何度もやり取りを重ねて、最終的に妻も付き添いで着いていくことにはなったのですが、宿泊時以外はほぼ友人たちだけで行動していました。

計画も旅程も切符の手配もタイムスケジュールも、殆どは友人同士話し合って、長男が中心になって決めたことです。

 

旅行の費用についても、さすがに全額とはいかないんですが、家の手伝いによるお小遣いを貯めて、大部分は自分で稼いでました。

 

彼、中学に上がったくらいから料理に目覚めまして、現状私より遥かに料理スキルが高いのですが、私も妻も忙しい時、代わりに夕飯を準備してくれることがあるんですよ。

それが結構美味しくって、これはちゃんと報酬を払わないといけない、となって家庭内アルバイトみたいになってます。

 

で、ちょうど関西で雪が降った時期でもあり、途中色々と行程トラブルもあった岡山でシステムトラブルにより運転見合わせが発生したりとからしいのですが、なんとかもろもろリカバリーして、二泊の旅行の後無事に帰宅しました。

帰ってきたその日は「楽しかったぁ……」と言いつつベッドに倒れこんで、あとはほぼ一日中寝てました。

 

昨今、中学でも宿泊系のイベントが軒並み中止になってしまっていることもあり、何かしら楽しいイベントをさせてあげたいな、と思ってはいたんですが、もはや私などが気にする必要すらなく、自力で超楽しいイベントを計画・実行してしまったわけです。とても素晴らしいと思います。

 

で。

準備段階から感心していたんですが、長男、今回のイベントに滅茶苦茶熱い情熱を注いでいまして、計画から根回しから連絡から、物凄く頑張ってたんですよ。

 

特に「やるなあ」と思ったのが、中途中途の進捗確認、及び事前連絡です。

こちら、長男が旅行メンバーの保護者も巻き込んで用意したLINEのグループチャット(ちなみに、掲載については本人に相談して、「これならいい」と言われています)なんですが、ここで長男、注意事項とか連絡事項とかこまめに発信してまして、「段取り大丈夫かなあ」とか「みんなちゃんと切符買ったかな、何度もアナウンスしてるんだけど」とか、しきりに気にして何度も確認メッセージを流していたんですよ。

 

「なかなか回答してくれない人もいるけど、まあ切符さえとれてれば何とかなるか」といった言葉も聞きましたし、どこまで事前確認するかのアドバイスもしました。

 

ただ計画を立てるだけではなく、その計画に親をちゃんと巻き込んで、細かいところまで考え抜いて、しかも中途中途で確認を投げている。

メンバーの反応頻度もそれぞれということを理解して、とはいえ最低限抑えないといけないラインも把握していて、リカバリープランも考えている。

 

つくづく思ったのが、「ああ、これは滅茶苦茶貴重な経験だなあ」と。

 

将来この経験が活きる時が確実にくるだろうなあ、と。

「これ、進研ゼミでやったヤツだ!」的な場面に間違いなく突き当たるだろうな、と。

 

長男がしたことって、

・同じ動機をもつメンバーを集める

・計画について話し合う

・その計画を可視化、文書化し、共有する

・相談出来る場を用意する

・そこにステークホルダー(親)も参加させ、根回しを行う

・各メンバーの進捗確認と認識合わせを、ステークホルダーも見ているところでこまめに行う

・トラブル時のリカバリプランを作成する

・プロジェクトを実施し、トラブル時にはリカバリを行う

ってことで、もう丸々プロジェクト管理なんですよね。

「旅行を成功させる為」という目的で、プロジェクト管理を丸々やっている。私が家族旅行を計画する時だって、ここまで細かくはやらないと思います。

 

特に偉いと思ったのが「進捗確認と認識合わせをこまめにする」ということでして。

 

これ、私もあんまり人のことは言えなくて申し訳ないんですけど、何かしら楽しい計画やプロジェクトがあったとして、どれくらいまめに連絡への回答をくれるか、って本当に人によって千差万別なんですよね。

計画に対する熱意は人それぞれ、返信の頻度や環境も人それぞれであって、「なかなか返事をくれない」からといってやる気がないとも限らないし、単に返事をくれたからといって、本当に内容を把握しているとも限らない。

 

それに対応する方法って、結局「必要な情報についてはまめに連絡する」「仮に連絡がとれていなかったとして、次善のリカバリプランも決めておく」ということしかないんですよね。

この辺の勘所って、プロジェクトやイベントを運営していると必ず突き当たる部分ですし、一方「すぐ返事をくれる」というのがどれくらいありがたいことなのか、というのも分かる。

 

「ステークホルダーである、各メンバーの親も参加させる」というのも非常に重要なところで、時世も時世ですし、いくら旅行を計画したって「家庭の方針」「親の反対」ということが発生してしまうと、土壇場になってどうしようもなくなることだって考えられるんですよね。

トラブル時のリカバリだって、子どもだけではどうにもならないこともある。トラブルが発生してから「聞いてなかった」と言われると大変困る。

 

けれど、「親が見ているところで必要な情報をやり取りする」という場面を作ってしまえば、少なくとも「ああ、ちゃんとやってるんだな」と認識させることは出来るし、たとえトラブルが発生しても「知らなかった」とはならない。

ちゃんと責任を分散させることも出来るわけです。

 

この辺、仕事問わず趣味問わず、どんな業界、どんな分野でも活きる経験、スキルだと思うんですよ。

 

「素晴らしい経験をしているなあ」と親として喜ばしく思うのと同時に、私は長男を、一人の趣味人として尊敬します。

「やりたいイベント」にここまでの熱意をつぎ込めるのは本当に凄い。

 

「電車好き」という特性がここまで長男の人生を豊かにするとまではさすがに思っていませんで、プラレールで遊んでいた3歳くらいの頃から、ずいぶん遠くまで来たもんだなあ、と感じ入った、という話なのです。

 

***

 

一般論として、趣味にどれだけのリソースをつぎ込めるかというのは人によって違いますし、その趣味が何かしら「いい経験」を生み出すとも限りません。

 

そもそも趣味は、「楽しい」というそれだけで尊重されるべきであって、「いい経験が出来るかどうか」「役に立つかどうか」なんて物差しをそこに持ち込むべきではありません。

当然TPOだってわきまえる必要がありますし、生活やら勉強やら、他の諸々のリソースとの配分だって考えないといけないでしょう。

 

ただ、その前提を置いた上でも、「何かが好き」ということが時としてとんでもないエネルギーを生み出せることは確かですし、その実例を目の当たりに出来たことについては本当に喜びしかないなあ、と。

 

長男だけの話ではなく、これからも子どもたちの「何かが好き」には可能な限り協力していきたいし、そこから子どもたちの興味が、人生が広がっていくのなら、親としてこれ以上幸せなことはないなあ、と。

 

そんな風に考えた次第です。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by:Chan Young Lee

「長期間にわたるテレワークは、ヒトの心やパフォーマンスにどのような影響をもたらしているのだろうか?」という疑問をきっかけとしてスタートしたこの連載では、「従業員一人ひとりが価値を最大限に発揮し、企業の持続的成長に貢献できるテレワークとは何か」を考えます。

 

※本連載はグロービス経営大学院に在籍した3名(中山、林、栗原)が、舞田講師の指導の下、研究プロジェクトとして取り組んだ成果をまとめ、この研究結果を広く世の中に還元することを目的としています。

 

テレワークマネジメントの3つの要諦

前回までも参照してきたアンケートとインタビューを分析した結果、現場をマネジメントしていく上での重要なポイントは、大きく分けて次の3つがあることが分かりました。

 

  1. 従業員を信頼した適切なマネジメントを行うこと
  2. 組織を運営する仕組みとして、適切なコミュニケーションの機会とルールを設計すること
  3. 新しく職場に加入した仲間(新入社員、中途採用社員、異動者等)を職場に馴染ませるための仕掛け作り(教育やチームとしての一体感の醸成)をすること

 

では、より具体的にはどのような課題と対策があるのでしょうか。以下で1項目ずつ説明します。

 

1.従業員を信頼した適切なマネジメントを行うこと

複数の回答から得られたポイントとしてまず挙げられるのは、『マイクロマネジメントと部下に受け取られるマネジメントは部下の受け止めが非常に悪い』ということです。

 

具体的には、

  • 上司からのメールに1時間返信しなかっただけで怒られた
  • 全従業員を集めたWeb会議を顔出し強制で開催。会議の目的が部下を監視することだった、という話が部下に漏れ伝わった結果、職場から大きな非難の声があがった

というような回答が確認でき、マイクロマネジメントに対する強い不満がうかがえました。

 

一方、

  • 上司からあまり干渉されずに仕事をやりたいようにやらせてもらえた点はよかった。ただ、上司との接点が減ったのは寂しかった

という意見もあり、適切な距離感をもったマネジメントが不可欠なことが分かりました。

 

では、マイクロマネジメントにならずに、適切な距離感を持ったコミュニケーションを行うためにはどうすればよいのでしょうか。具体的な取り組みとしては、以下のようなものがありました。

 

  • 必要な時に話しかけやすいようにWeb会議システム上に出入り自由なマネジャー部屋を作る。
  • 定期的に双方向での情報共有の場を設ける。
    ※上司がメインとなって行う単純な進捗確認だけのコミュニケーションはしない。
  • 一人一人の状況や力量に合わせたコミュニケーションを行う。
  • 部下の経験が浅い場合や苦手な業務に取り組む場合には丁寧な説明を行った上で進捗を密にフォローするが、自身の判断で行動できる部下には思い切って仕事を任せる。

 

これらの取り組みに共通しているのは、『マネジメントされる側である部下の主体性を阻害しない』ということです。

ただし、同じような取り組みを行っても上手くいった組織と上手くいかなかった組織があります。色々と試してみながら自組織にフィットした方法を選択することが重要です。

 

とはいえ、どのように実践していけばよいのかとお悩みの方に提案したいのが『遠距離恋愛している気持ちで部下をマネジメントする』というものです。

遠距離恋愛を上手く続ける上では相手を信頼することが不可欠です。また、コミュニケーションの上では、頻度が多すぎたり、相手が望まない手段を使ってしまったりすると、相手が束縛されていると感じ関係が上手く続かない要因の一つとなってしまいます。一方でコミュニケーションの量や質がお互いの望む頻度や手段よりも低下してしまうと、反対に気持ちが冷めてしまうことにつながります。一方、お互いがリアルに会える時間は、非常に限定された時間であることから目的をもって過ごす時間になります。

 

このような遠距離恋愛での相手との接し方は、なかなか会えないテレワーク時代におけるマネジメントを考える上で参考にできるのではないでしょうか?

 

テレワーク時のマネジメントにお悩みの方は、是非一度自分のマネジメントの在り方を遠距離恋愛に置き換えて振り返ってみてはいかがでしょうか?

 

2.組織を運営する仕組みとして、適切なコミュニケーションの機会とルールを設計する

テレワークの場合、意図的にコミュニケーションの機会を設けなければ、コミュニケーションの量が減り、質が下がってしまいます。これはアンケート結果(下図)からも明らかです。

関係者と適切な意思疎通を図り業務を進めるためには、コミュニケーションの質と量の変化を補う必要があります。そのために行われている取り組み事例としては、以下のようなものがありました。

 

定期的なコミュニケーション場面を設定する

朝会(今日の予定やToDoの共有等)/夕会(今日やったこと。困っていることの共有)やランチMTG、コーヒーブレイクなどの取り組みを仕組み化し、意識的にコミュニケーション回数が増やせるようにした。

 

業務の見える化を促進する

組織の内外から依頼を受けた仕事内容や納期を見える化することで、お互いの業務状況を分かりやすくし、また、業務シェアを実施しやすくするように取り組んだ。これによって「相手の状況が分からない」というコミュニケーション量の減少による不具合を補うと共に、業務内容を具体化し、「業務シェアを実施しやすくする」というコミュニケーションの質を上げる効果が期待できた。

 

自組織外のメンバーとのプロジェクト機会の創出する

Web会議ツールを利用して、日頃の業務で接点が無い人(特に遠方の人)とプロジェクトを行う機会を意識的に設けた。これにより社内コミュニケーションの機会の減少を補うと共に、社内ネットワークの構築や知見の獲得を狙うという質の高いコミュニケーションの実現を目指した。

 

上記のような取り組みが効果を上げている職場がある一方で、『雑談タイム』を設けてコミュニケーション機会の確保に取り組んだものの『雑談は意図的に出来るものでないことが分かり、あまり効果が無かった』という回答もありました。コミュニケーションの促進に取り組むにしても、自組織の風土にあった方法を選択することが重要であることが伺えます。

 

3.新しく職場に加入した仲間を職場に馴染ませるための仕掛け作りをする

最後に『新しく職場に加入した仲間(新入社員、中途採用社員、異動者等)を職場に馴染ませるための仕掛け作り(教育やチームとしての一体感の醸成)』という点についても、複数の方から問題提起と対策を伺うことが出来ました。 具体的には以下のような例がありました。

 

新しく職場に加入した人向けの、やるべきことを明確にした教育プログラム

  • 自社で教育用の動画やアプリを作ってお客さんとの話し方のシミュレーションが出来るようにした
  • (小規模な会社で)新人育成のマニュアルが無いので、1時間/人くらいで各自の業務経験や強み等を紹介してもらう場を設けた
  • 新しく職場に加入した人に対して先輩従業員が毎日MTGすると共に、用事が無くても毎日Zoomや電話をし『何か問題が無いかを確認した』(先輩従業員から連絡すると必ず何か困りごとが出てきた。)
  • 『初日』、『2日目~1週間』、『2週間後』、『1か月後』とやるべきことをチェックリスト化して順々に消化していく仕組みを作った。また、1か月後には本人とマネジャーがMTGを設定し、状況を共有した

 

社会人経験が浅い新たな従業員向けの、手厚すぎるくらいのつもりでの教育

  • Web会議ツールをつなぎっぱなしにしたうえで、先輩従業員が電話している様子を聞かせて電話のかけ方を指導した。反対に新入社員が電話している様子をWeb会議ツール越しで先輩社員が一緒に聞くことで正しく対応出来ているかも確認した。
  • 根回しの仕方等を覚えさせるために関係するメール全てを新入社員にもBCCで入れた。

 

自分と周囲の人がお互いによく知ることが出来るようにするための、意図的に「伝える」場面を設けた取り組み

  • 中途入社者が自分の特徴を他の人に知ってもらうための場を入社後1か月のタイミングで設定した。
  • 組織図を見て片っ端からオンラインでの1オン1を依頼。実施時には社内SNSに公開されている情報(SlackやLinked IN等)も参考にして共通の話題を事前準備した。
  • 自己紹介シート(プライベート、仕事、人生の目的等を記載)を会社として準備し、みんなが見られる場所に保管して共有した(入社前の面接からそういう取り組みを行っていることを伝えて、抵抗感が無い人のみ入社してもらっている)。
  • ピアボーナス制度(感謝の気持ちを伝えるツール)を通じて、誰がどのようなことで感謝されているかが分かるので、その人の強みが分かるようになった。

 

これまでのマネジメントスタイルにとらわれない変化を

ここまでテレワーク時におけるマネジメントの課題と、実例を通じたマネジャーにとってのポイントを紹介してきました。マネジメント経験をお持ちの方にとっては、これまでの価値観を変えて取り組む必要がある項目もあったかもしれません。

 

テレワークにおけるマネジメントの力は今後、多様な背景をもち多様な働き方を希望する人材を活用するために不可欠な能力となります。適切なマネジメントが実現出来なければ、信頼が得られずに人材が離れていくこととなるのです。これを防ぐためには、自分自身のマネジメントを、相手を信頼することを前提とした上で、コミュニケーション機会を意識的に作るようなスタイルに「覚悟をもって」変えていくことが求められていると言えます。

 

(執筆:舞田講師 研究プロジェクトメンバー(2021年卒)、舞田 竜宣)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

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