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毎年春になると、新入社員に自衛隊研修を受けさせる企業が話題になる。

新社会人になったばかりの若者に、団体生活や規律ある生活の重要さを教え、また組織に対して貢献する心構えを学ばせたいというのが、概ねその理由のようだ。

 

しかしこの自衛隊研修。

敢えて刺激的な言葉を使わせて頂くと、私はこのような企画を考える企業の人事担当者は、よほど仕事ができない人なのではないかと思っている。

なぜなら、そもそもの目的がデタラメだからだ。

まったくもって、新入社員の新人教育として、このような時間の使い方には賛成できない。

 

ではなぜ私が、新入社員に自衛隊研修を受けさせる目的がデタラメだと考えているのか。

そのお話を始める前に、一人の勇気ある自衛官の決断をご紹介したい。

 

1等陸佐・黒川雄三の決断

話は1995年、阪神淡路地方を中心に発生した、阪神大震災の時の話だ。

この直下型地震は117日の早朝、546分に発生し、最大震度7を記録。

6400名を越える方の尊い命が失われ、自然災害で亡くなった人の数として当時の戦後最悪を記録している。

 

このような未曾有の大災害にも関わらず、当時、自衛隊に対し地元自治体から災害派遣要請「らしきもの」が出されたのは午前10時前後。実に、震災発生後4時間以上経過した後だ。

しかもこの震災では、亡くなった人の9割が、建物が倒壊したことなどによる圧死であった。

つまり、1時間でも2時間でも早く自衛隊が投入されていれば、これほどまでに多くの人が亡くなることはなかったのではないか。

なぜ、当時の兵庫県知事である貝原俊民はもっと早く、自衛隊に対して災害派遣要請を出さなかったのか。

更には、「なぜ自衛隊はもっと早く出動しなかったのか」という批判まで巻き起こり、爾後の責任論は非常に加熱することになったが、本論ではないのでそれは割愛したい。

 

このような中、実は震災発生からおよそ1時間40分後。

午前730分には、指揮官の独断で救助活動を開始した陸上自衛隊の部隊がある。

それは、兵庫県の伊丹に所在する第36普通科連隊であり、その連隊長は黒川雄三・1等陸佐(当時。以下敬称略)。

1等陸佐は、戦前の呼称で言うところの大佐であり、6001200名程度の部隊を率いる指揮官だ。

 

言うまでもなく自衛隊は、政府や地元自治体の要請がない限り、どのような大災害の場合でも勝手に部隊を動かす事はできない。

それは、目の前で多くの人が死んでいくような悲惨な現場でも同様の話だ。

 

しかしその例外的な扱いとして、自衛隊法第833項に、「近傍派遣」という項目がある。

この近傍派遣とは、簡単に言うと、駐屯地や基地の近傍で発生した事案に対しては、ご近所づきあいの範囲で、指揮官の独断で部隊を動かしても良いというものだ。

 

黒川は震災が発生すると、直ちに部隊を整え政府や地元自治体からの災害派遣要請が来るのを待つが、その命令は降りてこない。

やむを得ず、被害規模の大きさに鑑みて午前730分、この近傍派遣の条項を援用して独断で部隊を動かし、直ちに人命救助に出動したというのが話の流れである。

 

ただ、簡単に書いているが、この決断は非常に難しいものであったはずだ。

 

なぜか。まず1つには当時の世相だ。

時の総理大臣は、自衛隊の存在を認めないことを党是としていた、日本社会党の村山富市。

政権を執って一時的に現実路線に切り替えていたものの、自衛官の独断を嫌う最高指揮官であることは明らかだ。

40代以下の人にはピンとこないかも知れないが、当時は自衛隊と自衛官に対する理不尽な扱いは、非常なものがあった。

 

2つめに、国や政府すら自分を守ってくれないのではないか、という現実的な問題だ。

話は更にさかのぼり、197696日に発生したベレンコ中尉亡命事件。

この事件は、冷戦がもっとも激しかった1976年に、旧ソ連の戦闘機パイロットであったベレンコ中尉が、当時としては最新鋭の戦闘機MiG-25に乗ったまま日本の防空警戒網を突破。

そのまま函館空港に強行着陸し、亡命を申請するという世界を震撼させた事件であった。

 

この事件の際には、最新鋭戦闘機の機密を守るため、ソ連軍が直ちに日本に攻め込んでくる可能性があったことから、陸上自衛隊は直ちに部隊を召集し、いつでも出動できる準備を整え命令を待つ。

しかし、独断で部隊を待機状態にしたこの指揮官の判断に、時の総理大臣・三木武夫は激怒。

有事に際しての部隊展開の教訓などを含め、事件に関する全ての記録を廃棄するよう陸上自衛隊に命令するという、今から考えれば少し信じがたい命令を下す。

そしてこの理不尽な命令に、時の陸上幕僚長(陸上自衛隊トップ)は抗議の辞任をするなど、事件の混乱はその後も尾を引くことになった。

 

つまり黒川は、いくら近傍派遣という自衛隊法上の規定があるとはいえ、独断で部隊を動かせば最高指揮官である村山富市の不興を買うことは明らかであったということだ。

さらに、独断で部隊を動かす準備をした陸自に対する過去の理不尽な扱いは、当時の黒川も当然良く知っていただろう。

最悪の場合、理由をつけてクビになるか、良くても更迭される可能性が非常に高い客観情勢ということである。

 

にも関わらず黒川は、阪神大震災発生直後に迷うこと無く独断で、隷下部隊を被災地に直ちに投入した。

当時の世相や自身の保身を考えれば、なぜこのような選択肢を取れたのか。

私は長年非常に不思議に思っていた。

 

「当たり前としか言えないですね・・・」

そんな長年の疑問を先日、親交のある陸上自衛隊の元2等陸佐(中佐に相当)に直接お聞きする機会があった。

 

投げた疑問はそのままだ。

なぜ黒川1等陸佐は、保身も世相も考えずに独断で部隊を動かせたのか。

幹部自衛官であればみな、そのような教育を受けており、さらに実践するものなのか。

そのように自律的に動くことができる組織と幹部は、どのような教育で作れるものなのか、というような内容だ。

 

私の疑問に元2佐は、少し考えてから「法規や前例に囚われるのは、どんな組織でも必ずあります」と切り出し、以下のような話をしてくれた。

 

元2等陸佐「有事に際して動くのは当たり前としか言えませんね・・・それが自衛官というものです。」

私 「しかしビジネスマンであれば、緊急事態に際し、保身も考えず組織や部下のために体を張れる幹部社員はそう多くありません。独断で動いたことで処罰される可能性が高ければ尚更でしょう。なぜ自衛隊幹部にはそれができるのでしょうか。」

元2等陸佐 「そうですねぇ・・・一つご紹介すると、幹部自衛官には2つの精神鍛錬の教育があります。それは『使命』と『徳操』です。為すべきことと、持つべき道徳心です。」

私 「はい。」

元2等陸佐 「それらの教育でさらに重視されるのは『実践陶冶(とうや)』です。単なる頭の中での知識としての理解でなく、実践行動を通じての心の鍛練と申しましょうか。」

私 「具体的にどう形にするのですか。」

元2等陸佐 「永遠のテーマですので、私が語るのはおこがましくてとても申し上げられません。ただ一つ言えるのは、最悪のリーダーシップは威圧統御。人徳をもってなす納得の統御こそ至上のものと思いますね。心から心酔させる心の統御と言いますか。そう思えば、有事に際して指揮官の採るべき行動は明らかです。」

私 「人として恥ずかしくないリーダーであれ、ということですか?」

元2等陸佐「禅問答のようなもので、その答えはそれぞれが出すものと思います。ただ仰るように、尊敬されるリーダーであれば、使命を前にして上司の顔色を伺い、あるいは自分の保身を考えるようなことは無いでしょうね。ですから、黒川連隊長の行動は、自衛官であれば当たり前としか言えないのです。」

 

こんな感じであっただろうか。

 

ビジネスマンパーソンに例えてみれば、例えば「使命」の一つは顧客満足であろうか。

顧客満足を達成するために優先すべきは、決して保身ではなく、まして上司の顔色や組織の都合に配慮することではない、と言えるかも知れない。

そして実際に、その動機が純粋に顧客満足の追求にあったのであれば、よほどの失敗やよほどのブラック企業でない限り、その行動は評価されるものだ。

 

しかし多くの企業幹部は、自分自身の評価に傷がつくことを恐れ、あるいは組織の慣例を優先して、最も優先するべき「使命」である顧客満足の優先順位を著しく下げる。

そして、そんなつまらない幹部を上司に持ってしまった社員であれば、上司を尊敬できずに組織を愛することもできなくなり、そして会社と組織はやがて脆弱になる。

全ては幹部に「使命」や「徳操」という概念や教育が欠如しているからだ。

 

しかしそれも無理はない。

そんな幹部教育を実施している企業など、ほとんど存在しないからだ。

  

自衛隊研修が必要なのは幹部社員の方ではないのか

話を最初に戻したい。

新入社員を自衛隊に体験入隊させる会社の目的は、概して

「団体生活や規律ある生活の重要さを教え、また組織に対して貢献する心構えを学ばせたい」

ということのようだ。

 

しかしながら、よほどひねくれた新入社員で無い限り、会社に入ったばかりは、素直に教育を受ける心構えはできているものだ。

組織に貢献しようという思いも、おそらく保身しか頭にないくたびれた課長よりも純粋であろう。

つまり、新入社員が高いレベルで既に持ち合わせているものを、さらに自衛隊に補強してもらおうというのが、この新入社員の自衛隊研修に思えてならない。

 

一方で、幹部社員の方だ。

自らの使命を自覚し、徳操を持ち合わせ、どのように部下を「統御」しようかと意識している幹部社員が、どの程度存在するだろう。

 

仮にその考え方を持ち合わせていても、人によっては「威圧統御」が当たり前という幹部もいれば、勘違いしたコミュニケーションで様々なハラスメントを無意識におかしている幹部もいるだろう。

つまり、日本の多くの企業には一貫した幹部教育の仕組みがないか、あっても形ばかりの機能しないものばかりだということだ。

 

であれば、自衛隊に教えを乞うのは新入社員ではなく、むしろ幹部社員の方ではないのか。

にも関わらず毎年春になると、多くの幹部社員が新入社員に対し、「自衛隊で教育をしてもらってこい」と、背中を押して送り出す。

どこか1社くらい、幹部社員の自衛隊研修始めましたとニュースにならないか。

毎年楽しみにしているが、残念ながら未だ聞いたことがない。

もしそんな受け入れ制度があれば喜んで参加し、自衛隊幹部の教育をぜひ受けてみたいと思うのだが。

 

なお余談だが、黒川連隊長の後日談だ。

近傍派遣を利用し独断で部隊を動かした黒川連隊長は、その責任を一切問われること無く、後職では香川地方連絡部長という要職に転じ、その後も誇りある自衛官生活を全うした。

ただ、後職で香川に赴任した際には、

「もっと多くの人の命を救うことができたはずだし、救いたかった。」

という痛惜の念を拭うことができず、四国八十八ヶ所霊場を周り静かに手を合わせ、犠牲者の霊を供養し続けた。

 

一方で、当時の兵庫県知事である貝原氏だ。

20115月に発売された雑誌プレジデントで、「出動要請が遅かったというのは、自衛隊の責任逃れ」と発言するなど、後年も各所で、物議を醸し続けている。

 震災で混乱する現場のことであり、貝原氏が語っていることの真偽は、私には判断のしようがない。

 

しかし、尊敬されるリーダー像が黒川連隊長であるのか貝原氏であるのか。

そのサンプルとしてはとても対照的であり、ひとつ考えるきっかけとして、こちらも併せてご提供したい。

 

 

【著者】

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。

中堅メーカーなどでCFOを歴任し、独立。会社経営時々フリーライター。複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を持つ。

(Photo:Carlos Donderis

ライターの募集にクラウドソーシングを使い始めて、一つ、不思議な風習に気づいた。

それは「文字単価」だ。

 

ライティングという商売に詳しくない方もいるだろうから説明する。

文字単価というのは、記事の原稿料を、記事単位ではなく一文字単位でいくら、という形で計算するやり方だ。

 

例えば文字単価0.3円で、4000文字(原稿用紙10枚分)なら、原稿料は1200円。

文字単価3円では、原稿料12000円。

文字単価30円では、12万円。

 

そう言うふうに、原稿料を計算するやりかたを、「文字単価で計算する」という(らしい)。

そして、ライターという業界は、0.3円の人から、30円の人までが幅広く分布している業界だ。

 

驚くべきことに、高い人はやすい人と比べて、同じ文字数を書いても100倍の報酬を受け取っている。

良いプログラマーはダメプログラマーの100倍の生産性があるというが、まさにライターも同様なのだ。

 

「文字単価」に潜む問題

しかし、私はこのクラウドソーシングの「文字単価」という考え方は、いくつかの問題をはらんでいると感じる。

その問題によって、ライターと発注者の両方にマイナスの影響があるのだ。

 

例えば、文字単価の最大の問題点は、「文章が冗長になる」ことだ。

以下の文章を読んでどう思うだろうか。

会社でよくある会議の議案は、次のようなものだ。

・会社の運営

・事業計画

・収支

いずれの議案も、会社の将来を左右する議案であり、逆にいえば社内会議では会社の未来を左右する議案しか話し合われないはず。

もう、読者諸兄にはおわかりだと思うが、社内会議の決定事項が会社の未来を左右する。

そのため、会議に参加する社員は、会社が良い方向へ進むためにはどうすればいいかを熟考し会議に臨まなければならない。

こんな文章が、「文字単価」を意識してしまうと、ライターからあがってきてしまう。

それに対して、良いライターからは次のような文がくる。

よくある議案は、以下のものだ。

・目標管理

・予算管理

いずれの議案も、会社の将来を左右する決定につながる。

参加者は、以上について熟考し、会議に臨まなければならない。

本質的に、重複した表現は美しくないし、わかりにくい。

もちろん例外もあるが、同じことを伝えるなら、短い文章の方が良いのは当たり前だ。

 

しかし「文字単価」のライターは、文章を短くできない。

短くすれば、報酬が減るからだ。

 

実際、上の文章は192文字。下の文章は80文字。文字単価が3円だとすれば、上の文章は600円位を稼ぐのに対し、下の文章はたったの240円。

この利益相反が、「文章を短くしよう」というインセンティブをなくす。

 

本来であれば、記事の価値というのは、「読者に与える影響力」によって決まるはずである。

読みやすく、中身の濃い記事と、冗長で中身が薄い生地であれば、読者は当然、前者を評価するはずだ。

 

しかし「文字単価」のライターは、内心、そう思っていても、報酬の誘惑には勝てないだろう。

 

もちろん「文字単価」という慣行を作り出した原因は、発注側にもある。

「Googleは、文字数が多いほうを評価する」

といった、読み手を向いていない判断基準を持つメディアの運営者や、

「とりあえず、記事の体裁が整っていればOK」

といったような、記事の質を判断できない運営者も多いからだ。

 

これは、メディアの目的を考えれば、合理的な判断と言えるのかもしれない。

だが「文字単価」という評価手法を通じて「読者にどのようなインパクトを与えるか」ということを考えない、ダメなライターを大量に生み出した罪は重い。

 

どうすれば「価値を生める」ライターになれるか

価値を生めるライターになりたいなら、以下の点に注意しなければならない。

 

1.文字数は「目標」ではなく「制約」

発注側の要求してくる文字数に対して、「どうやってこの文字数を埋めようか」と考えているようでは、価値を生めるライターにはなれない。

本来、ライターが良い文章を書ける分野においては、文字数は「目標」ではなく「制約」だ。

 

わかりやすく言うと、発注側が3000文字で書いてください、といってきた場合、

「やばい、6000文字くらいすぐに書けるけど、どうしたら3000文字に収められるだろう?どこを削ればよいだろう?」

と考えられるくらいのものでなければ、良い記事はかけない。

 

2.分野ごとの「記事サンプル」を用意する

クラウドソーシングを使っていてわかったのは、ライターの方々は「提案が超ヘタ」ということだ。

普通に考えれば、顔を合わせたことがなく、取引実績もない相手と取引をしよう、というときには、「今までの作品」しか、ライターの力量を測るすべがない。

 

ところが、多くのライターの方々は、記事の単価はそれなりのものを設定しているはずなので、受けたい仕事なのだとは思うが

・今までに書いたものを積極的に提示してくることが少ない

・ブログもない

・実績を提示していたとしても我々が求めている分野での作品ではない

という、誠に受ける気があるのか無いのか、わからないような方がとても多い。

 

法人から仕事をもらうのであるから、受けたい分野であれば、その分野ごとのサンプルくらいは作っておいたほうが良いと思う。

 

こういった小さなところから、単価が変わってくるのだ。

 

3.文章を筋肉質にせよ

「筋肉質な文章」とはなにか。簡単に言えば、冗長な部分がなく、中身の濃い文章である。

したがって、

・文章はかきあげたら、1日〜3日おいてから推敲し、徹底的に冗長な表現を削る。

・参考資料はできうる限りwebではなく、本や論文とせよ。webから情報を拾って切り貼りしているうちは、三文ライターである。

・様々な経験を意図的に積むこと。文章を面白くするのは、知識と練習、そして専門分野の経験である。

 

4.様々な場所に「問い合わせ窓口」を設置する

クラウドソーシングのプラットフォーム内だけではなく、Twitterのダイレクトメッセージや、ブログなどに、問い合わせフォームや連絡先をおいておくこと。

仕事を頼みたいけれど、クラウドソーシングプラットフォームを使ってしまうと二〇%の手数料を取られる。

それを嫌だと思っている企業の担当者はくさるほどいる。

だが、クラウドソーシングはもちろん、直接取引が禁止だ。

 

したがって、それ以外の問い合わせ口も持っていると、クラウドソーシングを嫌っているクライアントから直接連絡をもらえる可能性がある。

直接取引は多少のリスクはあるが、単価アップが最も簡単だ。

二〇%を安心料と見るか、高いと見るかは自由だが。

 

また、自分から様々なメディアに応募するといった、積極的ない営業活動もきちんとしたほうが良い。

その際は、必ずメディアにあわせたサンプル記事をつけることを忘れずに。

 

また、自分の記事が読者に支持されている、とおもったら、メディアの側から単価をアップしてくれることは殆ど無い、と思って遠慮なく単価交渉をしよう。

「立場は対等」だ。長期に渡って付き合いたい単価かどうかは重要だ。

 

5.TwitterやFacebookのフォロワー数を積極的に増やしていく

現代はすでに、ライターの単価は、ライターの書く記事だけによるわけではない。

ライターの書いた記事の「拡散力」も含めて、単価に反映される。

 

GoogleやFacebookの広告では1クリックあたり10円〜数百円。

仮にフォロワーが1000人くらいいて、一度の記事の拡散で100ビューをメディアに対して送客できるならば、それは1000円〜数万円の価値がある、と言っても良い。

インフルエンサーの単価が高いのは、記事の質だけではなく、記事を拡散できるという効果も加えてなのだから、普段からフォロワーを積極的に増やしていくことにはなんのデメリットもない。

 

 

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(Photo:Sarah Scicluna

先日読んだ本で大変勉強になったものがあったのでご紹介しよう。先崎学九段の「うつ病九段」である。

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本書は筆者である先崎学さんがうつ病になる事からスタートし、その後回復するまでの過程を極めてわかりやすく記述した本だ。

 

僕も一応医者であり元同僚にもうつを発症した人がいたので、多少はうつについて知っているつもりではあったのだけど、恥ずかしながらこれを読むまでうつ病の事を何もわかっていなかったといっても過言ではない事がわかり、愕然としてしまった。

それぐらいに衝撃的な本なので、ぜひ皆様も読まれる事をオススメする。非常に読みやすいので、たぶん誰にでも読めるはずだ。

 

うつ病は決断力が落ち、退屈を感じなくなる病気

先崎さんによると、うつ病になるとこんな感じになるのだという。

「うつ病の朝の辛さは筆舌に尽くしがたい。あなたが考えている最高にどんよりした気分の10倍と思っていいだろう。」

「まず、ベットから起きあがるのに最短でも10分はかかる。ひどい時には30分。その間、体全体が重く、だるく、頭の中は真っ暗である。仕方がないのでソファに横になるが、もう眠ることはできない。ただじっと横になっているだけである。」

「頭の中には、人間が考える最も暗いこと、そう、死のイメージが駆け巡る。私の場合、高い所から飛び降りるとか、電車に飛び込むなどのイメージがよく浮かんだ。」

「つまるところ、うつ病とは死にたがる病気であるという。まさにその通りであった」

このような、だるさや希死観念といった、うつ病の代表的なイメージに関しては、僕もなんとなく漠然とうつ病というものの印象として持ってはいた。

ただ本書が極めて魅力的なのは、このイメージに肉付けする形で、うつ病がスタートしてから回復するまでの間に、ちょくちょくと先崎さんの細かいエピソードが挟まれている部分にある。

そしてこれが医学書にもあまり載っていない、うつ病の非常に大切な部分が書かれているのである。

 

例えば、冒頭で先崎さんが体調不良で将棋の研究会の中止を申し出ようとするシーンがあるのだけど、この中止の告知をするのがエラいキツかったのだという。

LINEで一本連絡をいれるだけにもかかわらず、その決断がつかず、10分や20分、ひどいときには一時間以上も、ただそれだけの事で悩み続けてしまうのだという。

 

なんでこんな事になってしまうのかというと、うつ病になると”決断力が著しく低下してしまう”ようなのだ。

例えば、うつ病患者が朝起きられないのは、シンドイというのもあるのだけど、朝起きるという”決断”をするのがまたエラい苦しく、「よーし1,2,3で起きるぞ」という試みを何十回も延々と繰り返して、鉛のような身体を動かさなくてはいけないという部分も大きいらしい。

つまり、うつの人が朝起きられないのは、だるさ+決断力の低下のダブルコンボがあるからなのである。こんな状況なら、確かにというか朝起きるのは相当に苦しいだろう。

 

決断力の低下エピソードとしてはその他にも、例えば先崎さんはうつ病罹患中、お昼ご飯を食べようとラーメン屋に入ろうと”決断”する事がエラくシンドかったという事を語れていて、これにも僕は相当に驚いてしまった。

確かに僕もお店のチョイスに迷うことはあるけれど、まさかうつ病になるとお店を選ぶ決断をする事すら苦痛になるとは考えもしなかった。

決断とは健常人の行いであったのかと、この本を読みながら、何度も何度も目が覚めるようなハッとする気づきを与えられた。

 

なお、解決策として先崎さんは「コインを投げて表ならお店に入る」という折衷案を採用し、決断の意思決定コストを低減させていたのだという。

その他に僕が驚いたエピソードとしては、先崎さんが闘病中に詰将棋をやってみたところ、健常だった頃はスラスラ解けた7手詰めが全く解けず、愕然とした事があった。

それどころかその後、3手詰めまでレベルを落としても、ギリギリできるかできないかぐらいだと判明し、酷く落ち込んでしまったのだという。

 

私達は、基本的には一度できるようになった事は大抵の場合、その後ずっとでき続けるものだと思っている。しかしうつ病になると、将棋のプロだった人が、将棋ができなくなってしまうのだ。

こんな事になったら、そりゃ絶望するだろう。世を儚んで、もともとあったうつ病由来の希死観念と相まり死にたくなる気持ちもわかろうというものである。

 

もともと出来てた仕事が完全にできなくなる→稼げない→貧困妄想の連鎖に、希死観念のコンボが加わったら、うつ病患者が自殺に走りたくなってしまうという傾向が強いのも当然だろう。

僕だって、明日から全く診療ができなくなったり、モノが書けなくなったりしたら、ちょっと先行きが不安になりすぎて、のほほんと生きていられる自信がない。

 

うつ病、苦しいんだなぁ。

目に見えにくい、想像できないものを理解するのは非常に難しい。

僕もうつ病が朝起きるのが大変だという知識は持ってはいた。けれど、こう具体的なエピソードと使う能力を付記して書かれると、実のところ自分は全くといっていいほどにキチンとうつ病の事をイメージできてなかったのだな、と改めて「百聞は一見にしかず」という言葉の強さを実感してしまった。

いや実際は見てはいないのだけど、この本はまさにうつ病に関しての「一見」に相当するぐらい、とてつもなくリアリティに富んだエピソードが満載なのだ。

 

よく心無い人が「うつ病なんて甘え、心の病などない」と言っていたりするけど、まあ個人的にはこういう言葉を発してしまう人の気持はわからなくもない。

人間、自分が実際に体験していない事は理解ができない。この手の言説は、理解できない事をさも理解したかのような口調で語るよりかは、まだ正直といえなくもない。

 

足を折った人なら、その痛そうな姿や松葉杖を使う姿で同情してもらえる余地があるかもしれない。

けど休んでも永続的にだるさが取れないとか、決断ができないというのは外から見えにくい分だけ、余計に同情してもらえるチャンスがない。

 

しかし骨折と同じく、うつ病というのは誰しもがなる確率を持った病でもある。

この本を書いてくれた先崎学さんにしたって、健常でご活躍されていた頃を知っている身からすると失礼かもしれないけど、とてもうつ病になりそうなキャラクターだとは僕は全く思ってなかった。

 

足が折れた人には同情できる人も、うつ病やアル中には「甘え」と言ってしまうのは、結局のところ人間は、理解できないものに対して妙に厳しくなりがちだという事の裏返しでもある。

同じ人間である限り、いつだって自分も当事者足り得るのだけど。

 

そういう意味では、僕は皆様もぜひこの本を読んでうつ病について「百聞は一見にしかず」という言葉の重みを実感してもらいたいな、と思う。

あなたもそうだけど、あなたの大切な人がうつ病になってしまった時、この本を読んで得た知識は、きっとものすごく役に立つだろうから。たった一冊の本を読むだけで、未来が変わることもありえる。知は力なりというではないか。

 

先崎さん、素敵な本を書いてくれて、ありがとう。

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Megan Darling

ちょうど2年ほど前に、新卒一括採用についての記事を書いた。

若者の唯一の既得権だった「新卒一括採用」のなくなる日

実際、企業は「新卒一括採用」を廃止することにメリットしかない。採用に関するリスクをかなり減らすことができるからだ。

「新卒は、海の物とも山の物ともつかない」と、ある大手企業の人事の方が仰っていが、これからは「実績ある人」をじっくり、時間をかけて採用できるのだ。

必要なら「まずはインターンで働かせてみて」から、できの良い人だけ採用したって良い。つまりこれは、究極の「若年層の保持していた既得権の破壊」である。

(Books&Apps)

新卒一括採用を行う会社が減りつつある、という話だったが、この話を書いた頃、この話はまだ「一部のテクノロジー企業」だけの話だった。

 

だがついに最近、経団連の会長が「新卒一括採用」のルールを廃止する意向を示した。

これは「日本企業全体」に波及する話だ。そうなれば、影響は大学生ほぼ全員に及ぶ。

経団連会長、就活ルール廃止に言及「日程采配に違和感」

経団連の中西宏明会長は3日に開いた記者会見で、就職活動の時期などを定めた「就活ルール」の廃止に言及した。

国境を越えた人材の獲得競争が広がり、経団連が個別企業の採用活動をしばるのは現実に合わないとの意識がある。一方で安倍晋三首相は同日夜、採用のルールを守るよう改めて要請。学業への配慮を求める大学側との調整が進みそうだ。

「経団連が採用の日程に関して采配すること自体に極めて違和感がある」。

中西氏は会見で、経団連が主体となってルールを定める現状に疑問を呈した。経団連がルールをなくせば自由な採用活動が一段と広がり、新卒一括採用を前提とする雇用慣行の転機となる。

(日本経済新聞)

日本独自の雇用慣行と言われる、「終身雇用」と「年功型給与」、そして「新卒一括採用」。

「終身雇用」も「年功型給与」も崩れた今、「新卒一括採用」にメスが入るのも当然といえば当然なのかもしれない。

 

そもそも、外資系企業や経団連に加入していない企業は、「就活ルール」を最初から無視している。

なりふりかまっていられない中小企業は言うに及ばずだ。

経団連に加入している会社だけが、自主的に設定した就活ルールを守るのは不合理だ、というのは筋としては通っている。

 

大学生は「労働力市場での弱者」

本質的に大学生は、一部の優秀層を除いてビジネスを知らず、スキルもない。

本来ならば、職を簡単には得られない「労働力市場での弱者」である。

 

その「弱者」である大学生は、就活ルール廃止によって「失業率」が向上する蓋然性が高い。

これは、厚生労働省の労働白書でも指摘されている。

仮に、新卒一括採用が行われなくなり、多くの欧米諸国のように新卒者も一般労働市場 の中での競争となると、職務経験のない学生が職務経験者を相手に競争せざるを得なくなるので、新 卒一括採用の慣行の下では就職できた新卒者が就職できにくくなる可能性がある。

(平成25年版 労働白書 https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/13/dl/13-1-5_01.pdf

また、これについては、個人的な実感もある。

卑近な事例で恐縮だが、つい先日、「昔は新卒一括採用を行ってたが、今はもう辞めた」という経営者と話をした。

「なぜ辞めたのですか」と聞くと、

「合理的でないから」と答える。

 

合理的でない、とは彼らしいが、理由を聞いてみたい。

「なぜ合理的ではないと判断したのですか?」

「まず一点は、新卒にやらせていた簡単な仕事を、インターンにやらせたり、外部にアウトソースするようになって、仕事が減ったこと。」

「仕事を減らしている、ということですか?」

「いや、仕事は増えているけど、「新卒社員でもできる簡単な仕事」は減らした。社員の雑用をなくして生産性を上げている。」

 

なるほど、たしかに彼の会社には昔よりもフリーランスや派遣が多く出入りするようになっている。

「フリーランスや複業の人が増えたからね」

と彼は言う。

最近では新卒を雇うより安いので、クラウドソーシングも活用しているそうだ。

 

「他には?」

「二点目は定着率の問題。新卒を面接や試験で一括採用するよりも、インターンを通じて、随時、いい人がいたら少数精鋭で採用するほうが定着率が良いことがわかったから。まあ、ミスマッチを減らした、ということだね。」

「離職率は今、どれくらいなのですか?」

「若手に限って言えば、10人採用して、3年経って、ひとり辞めるかやめないか、というくらいの割合だよ。」

「ずいぶん低いですね。」

「風土とマッチした精鋭だからね。あと、ウチの給料は同年代に比べてかなりいいんじゃないかな。あまり辞める人はいないよね。」

 

金額を聞いて驚いた。結構な良い給与だ。

「ずいぶん払ってますね」

「アメリカだと、優秀層にはもっと払うよ。まあ、ここは日本だけどね。貢献度の高い人に対して高い給与を払うのは当然。」

「なるほど。」

「とはいえ、一括採用に比べると、採用する人数が半分くらいで良くなったから、トータルでの人件費は対して上がってないよ。」

「なぜですか」

「面接では実力がわからないからね。実力のよくわからない新卒を10人雇ってもハズレが多くて、能力も意欲も高いのはせいぜい3人くらい。それなら実際に働いてもらって、いい人を5人雇うほうが合理的だ。」

 

彼の会社にとっては、10人一括採用していた玉石混交の新卒を、5人の「実力がわかっている精鋭」に集約できたのだから、まさに「合理的」だ。

だが、雇用そのものは減ったことになる。

 

消えた「新卒一括採用」の合理性

ここから読み取れることは、私達が想像する以上に、新卒採用の現場が大きく変化している可能性がある、ということだ。

 

新卒一括採用の合理性は、今まで

・同一スケジュールで採用が進む事による低い採用コスト、および教育コスト

・「同期意識」の形成による企業風土への高い順応度、および競争意識の醸成

などによって担保されてきた。

 

だが、近年ではこれらのメリットが本当に「メリット」と言えるのか、甚だ疑問である。

少子化や情報過多で、新卒採用コストは跳ね上がる一方であるし、教育コストを回収する前に、新卒は転職してしまう。

 

また、そもそも「同族意識」の必要性は「年功制」「終身雇用」に裏打ちされていたもので、多様性の時代にはすでに時代遅れ感がある。

こうなってしまっては、「新卒一括採用」を採択する企業が減るのも無理はない。

 

そして、新卒一括採用を捨てた会社は、上の会社のようjに「インターンシップを通じた採用」「社員からの紹介」などに、採用の中心を移行する。

実際、私が最近お会いするスタートアップ企業の中には、インターンシップの学生が、社員より多い、なんていうケースもある。

 

魅力的な事業をしているスタートアップなどには、優れた人が集まるので、経験1年程度のインターンに対して「社員より優れている」と経営者が言うことも少なくない。

彼らは在学中から仕事を通じてスキルアップに勤しんでいるのだ。

 

しかし、それは「仕事の実力にごまかしがきかない」という厳しい実力社会だ。

いままでは、実力は無くとも「やる気」「コミュニケーション力」「学歴」「容姿」などの外形的な要素で採用してもらっていた学生が行き場を失う、ということでもある。

欧米の若年失業率の高さは、それを反映したものなのだろうが、それが良い世界であるかどうかはまだわからない。

 

個人的には「就職氷河期」で苦労した経験があるので、新卒一括採用は、クソみたいな慣習だ、と思っているが。

 

 

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(Photo:Dick Thomas Johnson

どうせ働くのなら、効率的なほうがいい。できるだけ早く家に帰れたほうがいい。

これは、多くの働く人が思うことだろう。

 

だから、働き方改革には意味があるし、問題がある労働環境は改善されるべきだ。

でも働き方に注目するだけじゃなくて、休み方にもまた注目すべきじゃないかなぁ、とも思う。

 

オン/オフの切り替えは大変だけど必要

わたしはフリーランスとして働いているから、あまり『休み』を意識したことがない。ソファに寝転がりながら構成を考えることもあるし、遅刻した友人を待つために入ったカフェで執筆することもある。

でも先々週一時帰国で日本に戻ってきて、休みの質を上げることもまた、快適に働くために必要なんだなぁと感じるようになった。

 

わたしが普段暮らしているドイツと日本には、現在7時間の時差がある。

朝起きると日本はお昼過ぎだから、たいてい仕事のメールが届いている。カーテンを開けながらメールチェックをすることで、1日が始まるのだ。

 

そうすると、メールが気になって朝早く目が覚めてしまうことも多い。

大事なメールの返信を待っているときや大きなメディアで記事を公開されたときなど、「どうなっているんだろう」とソワソワして、起きてしまうのだ。これは、地味にストレスになる。

 

日本が終業時間であろう18時を迎えるとき、ドイツは午前11時。それ以降の時間は、仕事の連絡がくることはまずない。

だから日中のお出かけやランチ中、「仕事が気になってしょうがない」ということはなかった。

 

しかし日本に帰国すると、事情はちょっとちがってくる。

朝起きてもメールは届いていないが、当然、日中に連絡が入る。そうすると、平日にお母さんとパスタを食べたり、友だちと横浜でぶらぶらしたりするあいだも、どうにも仕事が気になってしまうのだ。

 

「メールがきているんじゃないか?」とチェックしてしまうし、メールが届いていたら「返信したほうがいいかも?」と思う。

返信のために作業が必要なのであれば、「アレはこうしてコレはこうして……」と頭の中で予定を立てていく。

 

さっきまでプライベートな時間を楽しく過ごしていたはずなのに、途端に仕事モードになってしまうことが何度かあった。

 

『つながらない権利』という強制スイッチオフ

ドイツのホームドクターに「血液検査の結果を送ってください」とメールしたとき、

「現在休暇中なので総合窓口にメールしてください。受信したメールは自動的に消去されます」という自動返信が返ってきたことがある。

これはどうやら、『つながらない権利』保障の一環であるようだった。

勤務時間外は仕事のメールや電話に応えなくていい――そんな「つながらない権利」を働く側に認める法律が、フランスで2017年1月から施行されました。

(中略)

勤務時間外の従業員の完全ログオフ権(メールなどのアクセスを遮断する権利)を定義する定款の策定を義務付ける内容で、雇用主と従業員らが勤務時間外のデジタルコミュニケーションを制限する方法について協議し、やり方を定めることなどを求めています。

(中略)

日本は、もともと長時間労働や持ち帰り残業が常態化している上、「顧客のためなら休日も時間外も関係ない」といった風潮も根強いため、状況はより深刻といえるかもしれません。スマートフォン一台あれば、いつでも、どこでも仕事と“つながる”ことができてしまう労働環境。便利になった一方で、プライベートな時間への侵食には歯止めがかかりません。独立行政法人労働政策研究・研修機構が行った13年の調査によると、始業と就業時間が決まっている通常の被雇用者でも、勤務時間外の連絡が「よくある」「ときどきある」と回答した人はあわせて3割を超え、就業時間を自分で決められる裁量労働制では4~5割に上りました。

出典:https://jinjibu.jp/keyword/detl/840/

「さすがにメールを消すのはやりすぎじゃないか!?」とも思ったのだが、いつでも連絡がとれてしまう現代、こういった強硬手段もアリなのかもしれない。

 

もちろん、仕事とプライベートの線引きがそもそもあいまいな人や、即対応したほうがスッキリする、という人もいるだろう。

職種によっては、常に連絡をチェックしなくてはいけないこともあるかもしれない。

それでいい、それがいいのなら、それもまた働き方のひとつだ。

 

でもそれが負担になるのであれば、休みの質を上げるために『仕事スイッチを完全にオフにする』権利や覚悟、それに対する理解は必要だと思う。

 

質の高い休みを求めれば質の高い仕事に

実は、「せっかく一時帰国しているのだから休みはきっちり確保したい」「家族や友人との時間を楽しむために仕事スイッチをオフにしたい」と思うようになってから、仕事がはかどるようになった。

時間を有効に使ってちゃちゃっと終わらせる。あとは一時帰国を楽しむ。そこにメリハリが生まれたのだ。

 

休日に仕事の連絡が入れば、そのときから仕事のスイッチが入ってしまう。

それがなにかしらネガティブなことだったら、せっかくの旅行やデートでも落ち着かなくなるだろう。

いくら定時帰宅、週休完全2日制にしても、持ち帰り残業をして休みの日に電話対応していたら意味がない。

 

より質の高い休みを享受するためには、より質の高い労働をして仕事を終わらせる必要がある。

最近取りざたされている『働き方改革』だが、働き方の改善と休みの質を上げることは表裏一体で、同じくらい大事だ。だからもっと、休みの質にも注目したらいいんじゃないかと思う。

 

そして休みの質の大切さが認知されたら、非論理的な根性論のくだらなさがわかるし、「あの人は休みだから電話しちゃダメだな」「自分たちで対応しなければ」となり、引き継ぎやすい体制になり、情報共有が進むんじゃないだろうか。

 

逆に、「休みでも連絡すればなんとかしてくれる」と思っていると、引き継がないし、情報共有もしない。だって、連絡すればいいのだから。そして結果的に休めなくなる。

『つながらない権利』なんて言うと大げさだけど、「休みの日は休む」という当然のことができるようになることも、働き方を考えるうえで忘れちゃいけないことだと、改めて思う。

 

【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Badruddeen)

先日、東洋経済さんでこんな記事を拝読しました。

「作文」が書けない子に教えたい3つの言葉

文章を書くことは、観察し、驚きを見つけ、考えることです。これがステップ1からステップ3への手順に当てはまるのです。

(東洋経済オンライン)

正直なところ、この記事を書いた方は「作文が書けない子」のレベルをかなり高く見積もっているなあ、と感じました。

いや、文中のテクニック、文中の手法が悪い、というわけではないのです。ここに書かれていることは、それはそれで非常に有用、非常に有効なことだと思います。

 

「観察→深堀りと整理→考察」という思考法は、あらゆる表現、あらゆる論考で重要な手順です。

小さい頃からこの手順になじんでおくことはとても有益ですし、その際の教え方、かみ砕き方として、文中提示されているような言い方をするのも有効でしょう。そこについては何の文句もないんです。

 

ただ、ここでいう「作文が書けない子」には、かなり幅広いグラデーションがありまして、しかもそのグラデーションは一様とは言えません。

補習塾でしばらく教えていた頃の感覚値として言うならば、「作文が書けない子」の中には根本的なところで躓いてしまっている子がかなりの率含まれていて、そういう子たちには冒頭文章のような教え方は多分あまり有効ではないだろうな、と私は感じたのです。

 

ちょっと根本的な話をします。

「書く」という行為には、大きく「発想」と「表現」という二つのプロセスがあります。

つまり、

・何を書きたいのかを考える

・考えた内容を言葉に落とす

という段階を経なくてはいけない。これに例外はありません。どんな文章でも、必ず、例外なく、この二つのステップを踏んでいます。

 

で、冒頭引用文であげさせて頂いた文章は、基本的にこの二つのステップの内の第一のステップ、「発想」側に属する内容になっています。

つまり、「何を書くのか」「何を書きたいのか」ということを引き出す為のプロセスです。これはこれで大事です。
ところで、「表現」の方はどうでしょうか。我々は、「何を書きたいか」ということが決まった時、何の障害もなく、すらすらとそれを文章に書き出すことが出来るでしょうか?

 

勿論のこと、それがすらすらと出来る人、出来る子というのはいます。

考えることを、考える時間とそれ程変わらない速度で、がーーっと文章に出来る人もいます。お前ライターマシンかよってくらい手が速い人もいます。すごいですよね、ああいう人たち。

 

ただ、それは、「表現」という処理回路が、すでに頭の中に確立されているからこそ出来ることです。

考えたことを言葉に直す、適切な言葉と言葉の繋がりを想定してテキスト化する、そういう仕組みが既に脳内に出来ている。

その為には、ある程度の慣れと訓練が必要です。

そして、この「表現」という回路、それをきちんと訓練することこそが、本当に大事で、本当に必要で、なのに今現在全く不足していることなんじゃないかなあ、と、私はそんな風に思うのです。

 

 

あげつらう意図はないのですが、冒頭の文章から、もう一か所引用させてください。

「なんで動物園に行ったの?」「どうしてライオンを見たの?」。

そんな問いかけに「きのう、がっこうのえんそくでどうぶつえんに行きました。ぼくはえほんで見た白いライオンに会いたかったので、まっさきにライオンのところに行きました」などの答えを出してきます。

断言しますが、「どうしてライオンを見たの?」という問いかけに対して、ここまですらすらと、きちんと整理された答えを出せる子どもというのは、100人の中に10人いません。5人いるかどうかも怪しいところでしょう。

ここまでちゃんとした答えを出せる子は、恐らくその時点で既に「作文がきちんと書ける子」と言っていいのではないか、とすら思います。

 

では大体の子は何というかというと、自分の中に「なぜ」の答えがあるかどうかには関係なく、「なんとなく」とか「好きだから」といった数文字程度の答えを返してくるでしょう。

 

これは勿論、その子の思考力が劣っているとか、発想が貧困だということを意味しません。

単に、「発想した内容を言葉に落とす」という訓練と、「「なぜ?」という問いかけに対して理由や経緯を深堀りして答える」という経験が足りていないのです。それだけです。

 

「なぜ?」という思考は勿論重要なのですが、それに対して「何故ならこれこれこういう理由だから」という言葉を返す為には、その前段階の経験値が必要です。

そこをすっ飛ばして、ひたすら「なぜ?」という問いかけを繰り返しても、恐らく質問者と回答者の双方が疲弊するだけでしょう。

 

これ、もしかすると、ごく自然に文章が書ける、という人には想像しにくいことなのかも知れません。

実際、文章力を鍛えるとか、作文を書くとかのノウハウ本を見ても、「発想」に偏っていて「表現」の話はさらっとしか書いていない、もしくは全く触れられていないことが多いです。

なんなら学校教育でも、「表現」は出来ている前提で、「発想」の話をしていることが結構頻繁に観測出来ます。

 

 

これは、私個人の経験に基づく話です。

補習塾で教えていた頃、国語で「記述問題が全く答えられない」という子には山ほど接してきました。

自由記述の問題は勿論、なんなら「該当箇所を文中から抜き出せ」という程度の問題すらさっぱり、という子もたくさんいました。作文書くなんて夢のまた夢です。

 

その子たちに足りないのは何だったのかというと、根本的なところで「文章と文章の繋がり」「言葉と言葉の繋がり」のサンプルに触れる経験が致命的に足りていなかったのです。

考えを言葉に落とす為には、そもそも言葉を知らなくてはいけません。

文章にする為には、言葉と言葉の類例にたくさん触れなくてはいけませんし、その類例を学ばなくてはいけません。

小中学校には、その根本、「言葉の類例を学ぶ」時点で躓いている子が、実のところたくさんいるのです。

 

その子たちには、まず「発想」ではなく「表現」の訓練をしてあげなくてはいけません。

じゃあ具体的に私がどんなことをやっていたかというと、勿論色々試行錯誤したんですが、ある程度成功率が高かったのはこんなやり方でした。

 

・図書館に行って何冊か児童書なりラノベなりを借りてくる

・その中から、その子が少しでも興味を持てそうな本を選んでもらう

・適当なページをコピーして、そこに「どの言葉とどの言葉が繋がっているか」を赤線で全部書く

・そのつながりを説明した上で、ひたすらそのページの文章を模写してもらう
要は、「繋がりのサンプルを確認する」「それをそのまま出力する」という経験をひたすら反復してもらわないといけなかったんですね。

もとになる児童書は、ある程度言葉の繋がりの類例があれば何でもいいって感じです。怪傑ゾロリでもいいし、クレヨン王国でもいいし、ドリトル先生でもいい。

 

で、ひたすら書く。そのまんま書く。これによって、言葉の繋がりの類例を知るのと同時に、とにかく「言葉に落とす」「自分で書く」ということに慣れてもらう。

ある程度慣れたら、今度は簡単な記述問題に移って、自分で言葉の繋がりを探してもらう。

 

この繰り返しで、そこそこの率、出来ない子のサルベージをすることが出来ました。

「二行以上の文章が書けない」というところから、「400字詰め原稿用紙で一応一通り作文が書ける」というところまでもってこれた子も何人かはいました。

 

勿論、それでも出来ない子、ないし成果が出る前にやめちゃった子もいたんですけどね。

これ、基礎の基礎訓練みたいなもんなんで、成果が出始めるまでにはそこそこ時間がかかるんです。その間に、その子か親御さんが焦れちゃう。補習塾の辛いところです。

 

ただ、基本的には、「表現」を鍛える為には地道な反復練習しかない。色んな言葉と、言葉同士の繋がりに触れて、それを文字や文章に落とし込む経験をたくさん積むしかない。そうしないと「表現」の筋力ってつかないんです。

要は、「文章を書く為にも必要な筋肉は複数あるよ」「足りない筋肉を見極めて適切なトレーニングをしないと書けるようにはならないかもよ」という、それだけの話なんです。

 

 

最後に私が言いたいことをまとめておきます。

・文章を書く際、「発想」と「表現」の二つのプロセスがある

・「作文を書けない子」の中には、「表現」の訓練が致命的に足りていない子が結構いる

・「表現」を放っておいて「発想」の訓練だけをしても多分あまり意味がない

・なのに、「発想」だけを気にしている人が結構いるような気がする

・「表現」を鍛える為には、基本的には地道な反復訓練しかない

 

こんな感じです。よろしくお願いします。

一人でも多くの子どもたちが、「考えて、書く」ということの楽しさに目覚めてくれることを願ってやみません。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:angus mcdiarmid)

最近、頭を悩ませる問題にブチ当たったので、この場を借りて共有させて頂きたい。

 

とある病院の話だ。その病院はとてもその地区では評判のよい病院で、非常に優秀な医者がキビキビと働くことで有名な所だった。

その結果、非常にクオリティーの高いサービスが患者さんにも提供されており、今なお医療従業者間・患者間でとても評判の高い病院である。

 

医者の間では、そこの病院で働ける事は憧れであり、またそこで働いている多くの人も、その施設に所属している事を誇りに思っていた。

受診する患者さんも、そこの評判やブランドを非常に信頼しており、みんながみんな、Win-Winだと誰もが思っていた。

 

こう聞くと、いわゆる良い企業であるように聞こえるだろう。しかしちょっと前にこの病院でとある問題が起きた。

パワハラの告発である。

告発者いわく、この病院はいわゆるハイスペックでない医者にはエラく厳しいのだという。

 

その病院で働く医者は、基本的には選ばれしものが集っている。

厳しい選抜を超え、その病院で働く事につけた人間は、基本的には激務を難なくこなし、また他人のお荷物にならない事などは当然の事とされていた。

 

しかし現実問題、どんなに選抜試験を厳しくしようが、どうしても一定数の劣等生は入ってきてしまう。

さっきもいったけど、この病院は基本的にはハイスペックである事が求められている。人件費抑制の為に、職員数は常に最小限に絞られており、いわゆるお荷物を抱え込む余裕が基本的には全く無い環境であったのである。

 

こういう環境にお荷物としかいいようがない人間が入り込むとどうなるかご存知だろうか?

今回、パワハラを告発した人がいうには、それはもう酷い激詰めが待ち受けているのだそうだ。

 

繰り返すが、その病院は非常に優秀な医者がキビキビと働き、その結果、非常にクオリティーの高いサービスが患者さんにも提供されており、医療従業者間・患者間でとても評判の高い病院であった。

これだけ読むと、サービス提供者・サービス受給者、ともに非常に満足な環境にみえる。

けど冷静に考えてみて欲しい。こんな環境が、なんの犠牲もなく成立するはずがないのである。

 

結果、その犠牲がどこにいったかというと、劣等生職員に全てしわ寄せがいってたのである。

「この病院で働いているんだから、これぐらいできて当然だよね?」

「はぁ・・・こんな事もできないの?」

「ちょっとぉ・・・あなたのせいでみんなが定時で帰れないんだけど」

パワハラにあった人の周りから受けた言葉を要約すると、こんな感じであった。

つまるところ、患者さんに優しい環境を提示する為に、この病院は働く能力が劣った弱者に対して、全てのシワ寄せがいっていたのである。

 

病人という弱者には優しくても無能という弱者には厳しい

繰り返すが、その病院はサービス供給者ならびに受給者からみれば、非常に優秀な組織であった。

受けられる医療のクオリティは高く、またみんなよく働くから、サービスを受ける側も格安で最高の医療を受ける事ができていた。

けど、その理想の実現が、何の犠牲も無しには存在し得ていなかった。残念ながら、しわ寄せは存在しており、それがどこに行ったかというと無能な従業員だったのである。

 

今に至るまで、その病院のモットーは、弱者に優しくあれ、である。

確かに、その病院で働く人達は、患者さんにはとても優しい人が多かった。けど、無能な従業員にはめっぽう厳しかった。この事を言い換えると、病人という弱者には優しくあれても無能という弱者には厳しかったと言えるだろう。

 

実は様々な分野にいえることなのだけど、優秀な人は大抵の場合において無能な同僚対しては、めちゃくちゃ厳しい。

そして、この病院と似た風土のある組織においては、パワハラがかなり発生しがちである事が事情通の間では実によく知られている。残念ながら、これは事実だ。

 

職場内に無能な人間を抱え込むという事は、ある意味では形を変えた弱者に向き合うという事なのだけど、優秀な人に限って、これが本当に出来ない。

「おまえのせいで、苦しい患者がもっと苦しむハメになっている。俺は医者として、それが許せないんだ」

 

パワハラを受けた人が、上司に何度も何度も言われたセリフなのだそうだけど、その時、この人は

「あなたのせいで自分も患者になりそうな勢いだけど。。。結局、この人は、患者という弱者を使って、自分という弱者を攻撃したいだけなのでは?」

と思ったのだという。

 

僕はこれを聞いて酷く心が痛んだ。

私達は、わかりやすい弱者には優しくなれる。

例えば、電車でつらそうな人が目の前にいたら、席を譲るのはそう難しいことではない。

 

けどその一方で、ニートだったり薄給でコキ使われている人にはこんな事を言ってのけたりする。

「努力しなかったのが悪いんでしょ?自業自得だよね」

僕もこの歳になってようやく気がついたのだけど、実のところ電車でつらそうな顔をしている人と、ニートだったり薄給でコキ使われている人はどちらも等しく”弱者”なのである。

 

けど、私達はそれに同じようには優しさを振りまけない。

病人は「困った時はお互い様」

ニートや足手まといには「今まで何やってたの?そんなの自己責任でしょ」

こう言ってのける人が実に多いのである。

 

これらの言葉は、本当にその通りなのだろうか?

僕はどっちも

「運が悪かったですね」という感じがしてしまうのだけど。

 

まあ人間は置かれた環境に作用されてしまう存在だから、仕方がないのかもしれない。

 

お金は人より偉いのだろうか?

この話を先日、とある人にいった所、その人はこういう趣旨の事を述べられた。

「別に普通じゃないですか?だって患者さんはお金を払っている人なわけで、従業員はお金を貰う人なんですから。同じ弱者の枠でくくるのは、そもそもおかしいと思うのですが」

あなたはこれを聞いてどう思うだろうか?

僕は、これを聞いて、人は時と場合によっては、お金よりも下位存在になるのだと思い、軽く、絶望してしまった。

 

その人は根が商売人だから、こういう発想が出てくる事は仕方がないとは思った。

けどさ、そもそもの前提として、人というのは、同じ人なのだから、かかるコストで一律に評価されるのは、キッツイなーと思ったのだ。

世の中には頭のいい人もいれば、力が強い人もいる。人それぞれ、得意な事と不得意な事がある。

そういう人をひっくるめた上で、人間というのは本来平等であるべきなのだ。少なくとも人権は、僕とこれを読んでいるあなたの間で、人権には差があってはいけないはずなのだ。

 

けれど、商売人であるこの人の中では、サービス受給者と、サービス供給者の間では、人権は非対称なのだ。

お金という、正義の指標で全てが左右されてしまうのである。どちらもある意味では社会的弱者なのだけど、どちらにも等しくは優しさはいかないのである。

 

こう書くと、僕が先の発言をした商売人を糾弾しているようにみえるかもしれないけど、僕は個人的には、その人の発言はその人個人のものというより、どちらかというと今の社会の規範をそのまま反映しているような気がする。

あなたは、別け隔てなく、弱い人に優しく荒れるだろうか?人を差別することなく、弱い人に、平等に寄り添えるだろうか?

 

もしこれに、どんな理由であれNO!と突きつける存在であなたがあるのなら、あなたは差別される存在になった時、それを甘んじて受け入れなくてはならない。

だって他ならぬ、あなたが差別を受け入れたのだから。差別される側になったとしたら、それを喜んで受け入れなくては、道理が合わないだろう。

 

いつ何時たりとも、人にフラットに接するという事は、本当に難しい。

いつからお金は、人を超えて偉い存在になってしまったのだろう?いつから人権というのは、そんなに軽いものになってしまったのだろう?

 

僕は今でも、この問題について頭を悩ませているのだけど、一向によい解決方法が見つからない。

人権って、本当になんなんでしょうね。ムズカシイ・・・

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Jake Bellucci

こんにちは。コワーキングスペース「Basispoint」の運営会社、Ascent Business Consulting代表の北村です。

昨今、「働き方改革」の中で「自由な働き方」というキーワードを見かけます。

 

ただ、この「自由な働き方」というやつは一見労働者に利するように見えますが、実は曲者です。

というのも企業が唱える「自由な働き方」は二面性を持つからです。

 

つまり「自由な働き方」でより充実した生活を得る人が出る一方で、「自由な働き方」で、不利な条件で仕事をしたり、職を失ったりする人が出てしまいます。

なぜかといえば、企業においては「自由」は「成果をあげる責任」と常にセットだからです。

 

自由な働き方は、いつ会社に来てもいいし来なくても良い。副業をしようが、他で何をやっていようが会社は関知しません。

ただし、会社が求める、給与に見合った成果はきっちり出してね、という条件と引き換えに。

 

これが企業や経営者が唱える「自由な働き方」の実態です。

 

世の中には押し付けられた「自由な働き方」が向かない人がたくさんいる

ですので、世の中には「自由な働き方」を押し付けられても及び腰になってしまう労働者がたくさんいます。

 

例えば、自由な働き方の代表的著作である「フリーエージェント社会の到来」を著したダニエル・ピンクは

「自由の代わりの責任は大きく、プレッシャーに縮み上がってしまう人もいる」と書いています。

「フリーエージェントとして組織に雇われることなく、自由が手に入る。とてつもない自由が手に入る。それは大きな魅力だ」と、コンサルタントのマイケル・フォイヤーは、サンフランシスコのサウスパーク近くでサラダを口に運びながら言った。

「その代わり、責任も大きい。なにからなにまで、すべて自分で決めなくてはならない」。プレッシャーに縮み上がってしまう人もなかにはいるだろう。そういう人は責任を組織に押しつけて、代わりに自由と自分らしさを手放そうとする。

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資本主義社会では果敢にリスクをとればより大きなリターンが見込めますが、能力や環境によって、必ずしも全員がリスクを取れるわけではないでしょう。

 

そして、更に大きな問題もあります。

一般的に、いち会社員のレベルにおいては、仕事で成果があがるかどうかは、必ずしも労働者の能力だけに依存するわけではない、という事実です。

 

例えば、マーケティングが弱く、商品力もない「ダメ企業」に在籍している人と、

マーケティング力があり、商品力もある「エクセレント企業」に在籍している人を比べたときのことを考えてみてください。

同様の能力を持つ者同士であれば、後者のほうが圧倒的に成果をあげやすいことは明らかです。

 

こうして「働いても報われない」「人を奴隷のようにこき使う」ブラック企業が出来上がります。

そして、ブラック企業のような組織が「自由に働いていいから、成果主義ね」と言うのは、単なる労働者へのリスクの押し付けです。

 

実際、企業が唱える自由な働き方は「マーケティングが強く、商品力もあるエクセレント企業」が「高い能力を持つ労働者を使う」ときにのみ、機能するのです。

例えば、下は企業が「成果あげていれば、自由にやっていいから」という制度を導入したときの結果です。

裏をかえせば、「ウチは自由な働き方だよ」と言えることはすなわち、

・私は優れたビジネスモデルの組織に在籍しており

・成果を出す能力もあります

という証明であり、一種のステータスでもあるのです。

 

もちろん、より高いリスクを取ることができる能力と胆力があれば、

「フリーランスとなる」

「起業する」

という選択肢も視野に入ってきますが、そこまでできる方はさらに少ないでしょう。

 

そう考えると、「自由な働き方」は羨望の的であると同時に、反感を買う理由もよくわかります。

「自由な働き方」を選択できる労働者が極めて限られている中で「自由な働き方をしています!」と叫べば、反感を抱く人が多いのも無理はありません。

 

普通の会社員でありながら「自由な働き方」を獲得するには

しかし、自由な働き方を手にするためには、本当に「優れたビジネスモデルの組織」に属するほかはないのでしょうか。

「自由な働き方はエリートのもの」なのでしょうか。

 

外形的にはそうかも知れません。

「自由にやっていいよ」という制度を持てるのは、余裕のある、良い会社だけだからです。

 

しかし、逆説的ですが、会社の制度のもとでの「自由な働き方」は、本来の自由ではなく、「制度に従っているだけ」と考えられないでしょうか。

本来、「自由に仕事をする」ということは、制度があろうがなかろうが、関係なく、誰でもできるはずです。

 

広辞苑によれば「自由」とは以下のような意味があります。

一般的には、責任を持って何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。

(広辞苑 第六版)

広辞苑の定義どおり、働いている人本人が「私は責任を持って自由に働くぞ」と決意し、決意に従って行動すれば、それは「自由に働いている」ことになります。

そう考えていくと「自由な働き方」の適用範囲はぐっと広がります。

 

例えば

・知人の会社を手伝う

・前に在籍していた会社の仕事を請け負う

・ライティングなどの副業をする

・コワーキングスペースなどでオープンなプロジェクトに参画する

なども、大きなリスクを取らずにできる「自由な働き方」と言えるはずです。

会社の制度が「自由な働き方」を保証しないからといって、「私も自由に働けない」とはならないはずです。

 

知人のプログラマーは、空き時間を見つけてはオープンソースのソフト開発プロジェクトに参加していますし、忙しい中「複業」としてNPOの手伝いをしている人もいます。

ブログを書いてマーケティングのノウハウを手に入れようとしている人もいます。

転職後でも、前の会社の外注先としてはたらく人もいます。

 

要するに「自分で責任を持って、何かを始める」ことは、すべて「自由な働きかた」と言って良いと思うのです。

 

少なくとも、現在のようなネットワークが発達した世の中であれば、誰もが「自由な働き方」を得るチャンスがあると私は思います。

そこで必要なのは、学歴でも、IQでもありません。

「チャレンジする意欲」と「学ぶ姿勢」をもって、真摯に一つひとつの仕事に取り組み、結果を出すことなのではないかな、と私は思います。

 

 

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(Photo:Erik Cleves Kristensen)

「男女共働き」っていうと、なんだか先進的なライフスタイルだと考えている人が多いみたいですね。

実際、内閣府『平成24年版男女共同参画白書』を確かめてみると、日本の女性の労働力率はスウェーデンやドイツ、アメリカをかなり下回っています。

上のグラフでは、日本や韓国では30代~40代の女性労働力率がはっきり低下し、M字カーブ状になっているのに対して、欧米諸国のそれは比較的安定していて、台形状になっています。

このグラフだけを見ると、「先進的な国のほうが女性がちゃんと働いていて」「遅れている国では30~40代の女性が働けていない」という考え方が正しいようにみえるかもしれませんし、事実、東京ではそのとおりなのでしょう。

 

しかし、北陸生まれの私には「男女共働き=先進的」という考えがどうしても納得できませんでした。

なぜなら、福井、石川、富山といった北陸三県は、日本でもトップクラスの女性労働力率を誇り、昔から男女共働きが当たり前だったからです。

出典:橋本由紀、宮川修子『なぜ大都市圏の女性労働力率は低いのか ―現状と課題の再検討―』、独立行政法人経済産業研究所 より

 

このグラフを見てのとおり、北陸三県はM字カーブへの寄与率が0です。東北地方や山陰、沖縄県なども寄与率が0ですね。

先のグラフの前提で考えると、北陸三県や沖縄県が「進んでいて」、大都市圏が「遅れている」ということになってしまいます。

 

もちろん、そんなわけがないでしょう。

冬の陰鬱とした気候のもと、伝統的な風習や浄土真宗が色濃く残り、保守政党の一強状態が続いている北陸地方が、大都市圏に比べて「進んでいる」わけがありません。

どちらかといえば「保守的」で「後進的」な北陸三県が、大都市圏よりも女性の労働力率が高いのはなぜなのでしょうか。

 

稲作文化では女性が働き手だった

今回、「後進的」なはずの地域で女性労働力率が高い背景を教えてくれそうな本にようやく巡り会えたので、そちらを引用しながらお話をすすめていきます。

[amazonjs asin="4876985820" locale="JP" tmpl="Small" title="親密圏と公共圏の再編成―アジア近代からの問い (変容する親密圏・公共圏)"]

社会学者の落合恵美子さんが書いた『親密圏と公共圏の再編成』によれば、東アジア、南アジア、東南アジアといった稲作中心の地域では、女性がよく働き、女性の財産権も強めだったのだそうです。

近代以前の日本は、この分類では東南アジア型に当てはまり、世界的にみても女性がよく働く社会でした。

このグラフを見てみると、日本女性の労働力率は1880年の時点で70%台後半をマークしていて、これは、現在の欧米諸国とほぼ変わらない数字です。

ところが見てのとおり、時代が進み、日本が近代化するにつれて女性の「専業主婦化」が進み、グラフのかたちが冒頭で示したM字カーブ状のものに近づいているのがみてとれます。

 

じゃあ、近代化した国は必ずM字カーブ状になるのかと思いきや、そうでもありません。

こちらは、タイの女性労働力率の変化を示したグラフですが、日本では1960年代までにできあがっていたあのM字状のカーブは見当たらず、女性の労働力率はずっと高いままです。

これに対して地理的にも東南アジアに位置する国々では、近代化後も、都市部においても、女性たちは小商店や工場、オフィスで働き続けた。

たとえばタイでは女子労働力率に時代的変化がほとんど無く、女性は一貫して生涯働き続けている。1960年も現在も台形型を示し、学校教育の普及による10代での低下がみられる程度である。

『親密圏と公共圏の再編成』より

タイでは現在、急速な近代化と大都市への人口集中が起こっていて、そのスピードは日本の高度経済成長を上回っています。にも関わらず、日本で起こった女性の「専業主婦化」は起こらず、タイ女性は、子どもを産んでからもフルタイムで働いています。

 

『親密圏と公共圏の再編成』によれば、女性の労働力率は、(中国のような)国家統制の影響や近代化のスピード、家族構成や家族観などによって大きく左右されるのだそうです。

かいつまんで説明してみます。

 

欧米諸国では近代化はゆっくりとしたスピードで進み、産業や社会制度が近代化すると同時に、核家族化や個人主義化といった思想面でも近代化がゆっくり進展し、それが20世紀中頃には男女分業の「専業主婦化」を生み、さらに進んで「脱-専業主婦化」が起こりました。

現在のスウェーデンやアメリカは、近代化に伴って一度「専業主婦化」を経験した後、さらに近代化が進展した結果として「男女共働き」の社会に到達したことになります。

 

一方、タイの近代化は欧米どころか日本と比べても早すぎるスピードでした。産業や社会制度は一挙に欧米化したものの、思想面での近代化はそれに追いついていません。

日本の場合、戦前~戦後にかけて、大都市圏のホワイトカラー層を中心に「専業主婦化」が一定程度起こりましたが、タイにはそのような暇すらありませんでした。

 

タイの女性労働力率の高さは、稲作文化ならではの女性労働力率の高さが、あまりにも早い近代化のためにそのまま習慣として残ったものなので、グラフの形は欧米型でも、それらと同列に論じられるものではありません。

表面的には近代化の最先端を行っているようにみえて、思想的には1880年の日本に近いと言えるかもしれません。

 

同書では、このあたりの問題が「圧縮された近代」というワードで紹介されているので、興味のある方は読んでみると面白いかもしれません。

 

「よく働く北陸の母親」の正体

こうしたことを読み知って、ようやく私は「よく働く北陸の女性」について、合点がいった気持ちになりました。

昔から「北陸地方の母親はよく働く」と言われていましたが、稲作中心の北陸地方で、東南アジアと同様、働き手としての女性比率が高かったことに不思議はありません。

 

思想面の近代化という点でも、北陸地方はタイに似ているのではないでしょうか。

北陸には伝統や宗教が色濃く残り、「お上」に対する人々の意識や態度をみるにつけても、大都市圏とはちょっと違っているようにみえます。

結婚観や家族観もかなり保守的で、北陸地方の人は、夫婦仲が悪くてもあまり離婚しない傾向にあります。

 

そのような北陸で女性の労働力率が高い理由が、「思想面の近代化が欧米並みに進んでいるから」とは考えられません。

タイと同じく、「女性の労働力が重視される稲作文化の伝統が、そのまま男女共働きとして定着したから」と考えるほうが妥当ではないでしょうか。

 

北陸地方は、祖父母の子育て支援や保育園の整備といった面でもかなり恵まれています。

が、それらも北陸地方が「進んでいる」からそうなったのではなく、稲作文化の伝統があったからこそ、それに見合った風習や社会制度ができあがった、とみるべきでしょう。

 

近代化というのは面白いもので、以前から近代化していた地域が、かえってその近代化によって進歩を妨げられ、後から近代化した地域に追い越されることがままみられます。

 

たとえば中国では、偽札などが横行して取引制度が不安定だったことも手伝って電子商取引が一気に普及し、この点では日本を追い抜いてしまいました。

アフリカにおけるモバイル通信の普及率にしてもそうですね。既存の電信・電話網が無かったからこそ、アフリカの人々は一足飛びにモバイル通信の時代に突入しました。

 

たぶんそれらと同じで、女性の労働力率も、なまじ思想の近代化が進んでいた日本の大都市圏が「専業主婦」に留まっているのを尻目に、北陸地方やタイはスウェーデンやアメリカ並みの女性労働力率を達成してしまいました。

いや、達成したというより、「専業主婦化」という「遠回り」を経験する暇が無かったから、昔ながらの女性労働力率をキープしている、というべきでしょうか。

 

日本でも指折りの保守的地域が、巡り巡って男女共働きの充実した、経済的にも比較的恵まれた地域になっているのは、歴史の不思議な”あや”としか言いようがありません。

とはいえ、思想的にはスウェーデンやアメリカ並みとはいかない以上、北陸女性のワークライフの実態は、東京の女性が理想とするものとは異なっているかもしれません。

 

男女共働きの社会を良しとする人は、東京のパワーカップル的な共働き家庭にばかり目を向けるのでなく、あまり大きな声はあげないけれどもしっかり働き続けるあまたの北陸女性にも目配りして欲しいなと、私は願っています。

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:teddy-rised)

大人になって、退屈を忘れてしまった。

 

子どもの頃はいつも楽しいことを探して退屈していたような気がする。

本屋もゲームセンターも図書館もみんな新鮮な楽しさに満ちていた。どれだけ楽しいことがあっても足りなくて、いつも退屈を持て余していた。お金がないから遊べる範囲は限られていたけれど、「今日は何をして遊ぼう?」という新鮮な気持ちが、子どもの頃にはあった。

 

大人になって、お金には余裕が出た。行動範囲も広がった。

でも、「今日は何をして遊ぼう?」という気持ちはどこかへ消えてしまった。

休日の昼頃、目を覚ます。掃除をしなければ、公共料金の払い込みをしなければ、溜まっている本を読まなければ、そんなことを思っているうちに気づいたら夕暮れのチャイムが鳴っている。大慌てでクリーニング屋に駆け込んで、一日が終わる。そんな風になってしまった。

 

「遊ばなきゃいけない」と最近はよく思う。でも、この年になると遊びというものがそんなにすぐには思いつかない。

油断しているとパチンコ屋や呑み屋に吸い込まれてしまう。別にパチンコもお酒も楽しいのだけれど、でも「遊び」があれだけというのはいかにも寂しい。

 

僕はそんな悩みをずっと抱えていたんだけれど、最近「江戸川」という遊び場に出会って、幾分人生が楽しくなった。

江戸川は最高の遊び場で、大の男が一人でも、あるいは友人と連れ立ってでも一日楽しむことが出来る。

今日はそんな最高の川、江戸川について語りたい。

「東京が好きだ」というコラムタイトルなのに、ギリギリで千葉なのは見て見ぬふりをして欲しいところだ。

 

都会の自然が好きだと言ったら笑われるかもしれない。でも、僕は東京近郊の自然が本当に好きだ。なんとなくユルくて、人工的なものがまじりあっていて。

とても安らいだ気持ちになる。僕の故郷である北海道の自然は、あまりとっつきやすいとは言えなかったから。

 

東西線妙典駅、徒歩5分の潮干狩り

江戸川で遊びたいと思ったら、とりあえず東西線に乗って妙典駅で降りればいい。僕の自宅である高田馬場から40分くらい。駅を降りてほんのちょっと歩けば、もうそこには遊び場が広がっている。

「川」と言ったけれど、実際には「河口」と言うのが正しい。都市河川とは思えない豊かさを持つ汽水域だ。

 

川岸に近づくと、たくさんの遊船屋が営業しているのが見えるだろう。そこから船に乗って東京湾の魚を釣りに行くことももちろんできる。

アジやアナゴを釣るのも楽しいけれど、釣り船に乗るというのは少しハードルが高いかもしれない。だから、まずおすすめしたいのは熊手を一つと、一番安い発泡スチロールのクーラーボックスを買って、潮干狩りに行くことだ。

 

引き潮の時間に砂泥をちょっと掘り返すと、たくさんの貝をみつけることが出来る。一番多いのはホンビノス貝。

海外から船のバラストに紛れ込んでやってきた外来種だけれど、最近はスーパーでも売っているなかなかにうまい貝だ。

カキ殻の上を探してみると、潮が引いても泥の中に潜り込めなかった貝を労なく拾い集めることも出来る。

30分も汗をかけば、これくらいの量は軽々獲れてしまう。

都会と自然の入り混じった光景の中で、足をぬるい汽水に沈めて貝を探していると、なんとなく気持ちが楽になってくる。

この日はちょっと日差しが強くて、暑さに負けてしまいそうではあったけれど。

頭の上を走る鉄橋もなんとも言えない味わいがあってとても良い。

 

桟橋のハゼ釣り

さて、貝がたくさん獲れた頃になると潮が満ちて来るかもしれない。そうなると、今度はハゼを釣ることが出来る。

用意は何もいらない。道具は全部遊船屋で貸してもらうことが出来る。

ハゼの釣り方は手漕ぎボートと桟橋釣りがあるのだけれど、僕がまずオススメしたいのは桟橋釣りだ。手漕ぎボートも悪くないけど、ちょっとだけ大変かもしれないから。

こんな感じの桟橋で釣りをすることが出来る。

たかがハゼ釣りと思うだろう。でもこれがやってみるとなかなかにハマる釣りなのだ。

竿は単なる延べ竿で、オモリとハリしかついていないシンプルな仕掛けだ。釣りをしたことが無い人でも、特に悩むことはないだろう。

エサの「イソメ」だけはちょっと面くらうかもしれないけれど、そういう人は茹でたホタテとかカニカマボコなんかを持っていくといい。

 

仕掛けをぽちゃんと水に落とす。しばらくすると、プルプルっと生命感のある動きが手に伝わって来る。ハゼがエサに食いついたのだ。

しかし、竿を上げてみるとハゼはどこかへ逃げてしまっていたりする。どのタイミングで仕掛けを上げればハゼがかかるのか、あなたは考えこむことになるだろう。

竿先の動きや手につたわる振動から、水中のハゼをイメージして上手いこと釣り上げる。これが、実に奥深くて面白い。

 

「ハゼなんて簡単に釣れるだろう」と思っていたら、思ったより釣れなくてムキになってしまうかもしれない。

そう、遊びというのはムキになってからが楽しい。ハゼ釣りは大の大人が熱中してしまうのに十分な面白さを持った遊びだ。どんどんムキになっていこう。

30分ほどの釣果。まだ盛夏の時期だったので、ハゼのサイズは小さめだ。

これから秋が深まるにつれ、どんどんハゼは大きくなる。衣をつけてカラ揚げにすれば文句のつけようのないビールのアテになるし、ちょっと手間をかけて焼き干しにすれば最高のダシが取れる。

僕はここ数年、ハゼの焼き干しで作った雑煮に嵌りこんでいて、年越しのためのハゼを大量に釣って干している。

 

桟橋に腰かけて、足を水に浸して釣りをするのは本当に贅沢だ。ビールなんて開けちゃったりしてね。

ああ、今日は遊んでいるなぁ…と感じることが出来る。

 

江戸川を食べる

さて、全体的に省エネの遊び方だな、と思った人もいるかもしれない。それは帰宅すると「調理」というフェイズがあるからだ。

江戸川食材はとても美味しい。せっかくなら、しっかり食べないと大損だ。

野生食材の料理というのは結構体力を使うので、そのエネルギーは残しておきたい。

見て欲しい、この肉厚の貝を。しっかり泥抜きをすれば、ホンビノス貝は全く泥臭くない。是非、シンプルに焼いて食べてみて欲しい。

都市河川からこんなに旨いものが…と驚くことが出来ると思う。ちなみに、某居酒屋チェーンで食べると1個200円である。焼き過ぎると急激に縮んでしまうので、タイミングをしっかり見極めよう。

小ぶりのものは中華風に蒸すのが旨い。紹興酒で蒸してカラが開いたら、豆板醤とオイスターソースで味付け。

お好みでネギとショウガのみじん切り、パクチーなんかも良く合う。

ご飯にももちろん合うし、中華風の揚げパン…は普通用意できないと思うので、バケットを焼くといい。スープに浸して食べるとしみじみと江戸川の豊かさを感じることが出来る。

これは放射能で巨大化したシジミではなく、オキシジミという貝だ。汁の色を見てもらえばわかる通り、大変良いダシが出る。

ちょっとだけクセはあるけれど、塩と酒だけの味付けで美味しく食べることが出来る。「シジミ汁をどうぞ」と言ってこれを出すと中々ウケが取れるので、是非やってみて欲しい。

さて、最後にハゼの雑煮の画像で終わりとしたい。僕はこれが本当に大好きで、これが無いと年が越えられない。

ハゼの焼き干しの作り方はとても簡単で、はらわたを取ったハゼに塩を振ってしばらく寝かせた後、グリルで良く焼き込んで陰干しにするだけ。誰でも失敗しない簡単レシピだ。

黄金色のとても美しいダシが出る。去年は黒い椀しか持ってなくてダシの色味を楽しめなかったけれど、今年は白椀を買って色合いを楽しみたい。

 

さて、江戸川がいかに最高かわかって貰えたと思う。

最近遊んでいない、疲れているな…。そんなことを感じる皆さんは、小さなクーラーボックスを持って江戸川に行こう。

純度100%の休日が待っている。とにかく、行けば安らかな時間と楽しさがあることは保証出来る。

 

人生は厳しい。休日を焦燥感に焼かれて過ごしてしまうのは、とても辛いことだ。

とにかくまずは江戸川に行くといい。やわらかな都会の自然の中で、遊ぶ楽しさを思い出してみる。

そうやって日々をやっていきましょう。

 

【プロフィール】

借金玉32歳です。

診断はADHDでコンサータ72ミリを服用しながらなんとか生きている発達障害者。ASDの傾向も多分にあり。

大学卒業後、金融機関勤めを経て起業の後大コケしたというキャリアです。現在は雇われ営業マンをやったりブログを書いたりツイッターを書いたり文章を書いたりしています。よろしくお願いします。

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Twitter:https://twitter.com/syakkin_dama

Blog:http://syakkin-dama.hatenablog.com/

 

(Photo:yuki_alm_misa

Books&Appsを運営する弊社は、現在フルリモートワークで仕事をしている。

といっても、小規模な会社なので大企業が言うフルリモートワークとはちがい、「やってみましょう」の一言で、結構気楽にやれている。

そして実際に二年ほどフルリモートワークをやってみると、利点や欠点がよくわかる。

 

 

もともと、弊社は昭和63年に、わたしの父が創業した。

ほとんど税金対策でしか機能していなかったので、父の引退とともに、休眠状態であった。

ところが私が会社をつくるとき、父が私に使わせるために会社を潰さず残しておいた、と言ってくれたので、私は起業とともに「ティネクト株式会社」と名前を改め、会社を運営し始めた。

その時のメンバーは私ともう一名の合計二名。

 

「たった二人でオフィスなんかいらないよ」という考え方もあった。

しかし結局、仕事のメリハリをつけるためと「フェイス・トゥー・フェイス」が重要だとの考え方が当時は勝ち、一人の家をオフィスにし、机を並べてホワイトボードを購入し、本棚を置いて「オフィス」を作った。

そして、結論から言うと、オフィスは役に立った。

人間は、とりあえず「オフィス」にいれば、仕事はするのだ。

 

特に、ブログを毎日、自分が書いて更新するのは、相当骨の折れる仕事だったので、オフィスに行って

「なんか書くことないかなー」とか

「今日は人事について書こうと思ってるんだけど、どう思う?」とか、

もうひとりに話しかけていると、とにかく何かしらのネタは出てくる。

 

また、経理業務や会議にもオフィスは役に立った。

面倒な仕事であっても、とにかく誰かが仕事をしていれば、自分も仕事をしなければならないと思える。

また、人を集めて膝を突き合わせて会議をやるのも、アイデアの創出には便利だった。

 

こうして弊社は3年間ほど「オフィスあり」の普通の会社だった。

ときには夜遅く、時には土日に、私はオフィスに通った。

 

ところがその後、様々な環境変化とともに、その家を引き払うことになったとき、

「またオフィスを作るべきかどうか」

を考えることになった。

私は正直、どちらでも良かったのだが「オフィスに通う時間」がつねづねもったいなく感じており、かつ最近の趨勢としての「働き方改革」を自ら感じてみたいという思いもあった。

 

私は結局「もうオフィスは作らない」と意思決定し、リモートワークをするようになった。

こうして弊社は、役員同士も滅多なことでは顔を合わせない会社となった。

 

 

そして今、約二年の歳月をリモートワークしてみて、思ったことは以下のことになる。

 

1、「まとまった時間」が手に入るので、生産的な時間が激増する。

私の個人的な性格も大きいのだと思うが、私はとにかく「通勤」が嫌いだった。

なぜなら、「朝起きて、集中力の優れている時間」に電車で消耗するからだ。

 

一日の中で集中できる時間はせいぜい朝起きてから四、五時間と言ったところで、昼食をとった後は生理的な影響でクリエイティブな仕事はしにくい。

次に集中力のピークがやってくるのは夕方以降だ。

 

その貴重な朝の時間を「通勤」という全く生産的ではない時間に当てることこそ、究極の無駄であると感じていた。

「本を読めば」とか「考えをまとめるのに使えば」とか、アドバイスをいただける方もいたが、朝でなくてもできる。また、私の仕事は調べ物が多い都合上、スマートフォンではなくPCを開く必要がある。

そのため、電車の中の細切れな時間では仕事ができない。

 

そしてなにより、ピーター・ドラッカーは「時間は大きくまとめなければ価値がない。」と言っている。

仕事の多くは、たとえごくわずかの成果をあげるためであっても、まとまった時間を必要とする。こま切れでは、まったく意味がない。何もできず、やり直さなければならなくなる。

報告書の作成に六時間から八時間を要するとする。しかし一日に二回、一五分ずつを三週間充てても無駄である。得られるものは、いたずら書きにすぎない。

ドアにカギをかけ、電話線を抜き、まとめて数時間取り組んで初めて、下書きの手前のもの、つまりゼロ号案が得られる。

その後、ようやく、比較的短い時間の単位に分けて、章ごとあるいは節ごと、ごとに書き直し、訂正し、編集して、筆を進めることができる。

実験についても同じことが言える。装置をそろえ、ひととおりの実験を行うには、五時間あるいは一二時間を一度に使わなければならない。中断すると、初めからやり直さなければならない。

[amazonjs asin="4478300593" locale="JP" tmpl="Small" title="プロフェッショナルの条件――いかに成果をあげ、成長するか (はじめて読むドラッカー (自己実現編))"]

これは真の金言であるとおもうが、私は、せっかく朝早く起きても、「通勤」が入ることによって、まとまった時間が分断されるのが本当に嫌だった。

 

ところが「通勤」をなくし、家で仕事をするようにした途端、どうだろう。

朝の四、五時間のまとまった時間を手に入れることができた。

これは値千金で、土日しかまとまった時間がなかった私にとっては、生産的な時間が10倍に増えたようなものだった。

 

「午前十時に、すでに一日の困難な仕事が、ほとんど終わってしまった状態」を想像してみほしい。

とにかく、仕事が早く終わることはありがたい。

 

2、協力会社や、外部のリソースを使う技術が上達する

そして、2つ目の利点が、「外部リソースの活用が上達する」ということだ。

以前、ガイアックス社の菅氏が「苦手なことは外注”ルール、1人月5万円以上の外注義務化で伸びた売り上げ」という記事で述べていたとおり、弊社のような零細企業や、ベンチャー・スタートアップは、「強み」以外の仕事はしてはいけない。

だから、仕事における外注の比率が増える。

 

だが、協力会社や外部リソースを活用するのは、それほど簡単なことではない。

要件を伝え、成果を明確にし、費用を計算し、そして、パフォーマンスをレビューする。

 

そういった一連のサイクルをしっかりと回して、初めて協力会社や外部リソースの皆様と良い仕事ができる。

そのサイクルを「社員」で毎日練習できるので、協力会社や外部リソースとのコラボレーションの技術が向上する。

 

「金を払ってんだから」なんて、外注先に仕事を丸投げするなんて、もってのほかだ。

外部ときちんと付き合うには、こちらもそれなりのスキルと、時間を必要とする。

資本力のある会社は、大きな金をちらつかせて「丸投げして、ミスは下に押し付ける」ができるのかもしれないが、私達には経済的にも道義的にも、そのようなことはできない。

 

結局、リモートワークをはじめて数ヶ月で

「協力会社の使い方」や「フリーランスの方々の使い方」がかなり効率化された。

外注のコツを覚えたのと、各種の管理帳票などが揃った結果だ。

 

 

これは大きな収穫であった。

 

 

そして、ここからは「デメリット」の話が中心になる。

 

1、「読解力・文書化能力の低い人」はリモートワークに向いていない。

リモートワークはその性質上、「書面」によるやり取りが非常に多い。例えば、メッセンジャー、チャット、報告書、進捗管理表、タスクリスト……

仕事に「文書」が必要とされるシーンが、オフィスワークに比べて格段に増える。

もちろん、これは「言った言わないが無くなる」ことや「文書に落とし込めるようにタスクを分解するようになる」など、仕事の進め方を見直すいい機会になる。

 

だが、「読み書きが苦手な人」は、本当に苦労する。

37シグナルズのジェイソン・フリードは、ベストセラー「強いチームはオフィスを捨てる」で次のように述べている。

リモートワークには、文章力が欠かせない。メールやチャットや掲示板で話しあいをするのだから、文章で相手に伝える力が必要だ。あなたが採用する側の人間なら、候補者の文章力を判定基準に入れたほうがいい。

[amazonjs asin="4152094338" locale="JP" tmpl="Small" title="強いチームはオフィスを捨てる: 37シグナルズが考える「働き方革命」"]

これは全くそのとおりで、リモートワークをすると「メールのわかりにくいやつ」や「文書を理解する能力の低いやつ」とのコミュニケーションコストが跳ね上がる。

そして、彼らは徐々にチーム内で孤立するようになる。

 

「そんなに読み書きが苦手な人って多いの?」という疑問を持つ方もいるかも知れないが、残念ながら多い。

例えば以前こんなことを書いた。

AI研究者が発見した「バカの壁」の正体

インターネット上には、様々な記事があり、それに対して様々なコメントが見受けられる。

賛否両論、それ自体は問題はないのだが、問題なのは「なぜこの記事から、このようなコメントが?」というコメントも多いことだ。

中には明らかに「これ、文章をを読めてないよね」というコメントもある。

 

言葉は悪いが、それは通常「バカの壁」で済まされてしまう。

だが、そう指摘するだけでは解決には至らないし、争いも起きて、非生産的だ。

 

だが、この本を読んでよくわかった。

不思議すぎるコメントが時折、見受けられるのは、つまり「大人でも「ちゃんと読めていない人」がいる」からなのだろう。

また、読解力・文書化能力が低い人は、たいてい「タスク分解できない人」である。

オフィスがあれば、「ちょっと相談して、少し進めて、また相談して……」というやり方で、上司の時間を使えばなんとかなったが、リモートでは凄まじく効率が悪い。

 

インターネットの発達は「文章力」の価値を高めたが、今後もリモートワークが一般的になるにつれ、文書を苦手とする人物はますます不利な立場になるかもしれない。

 

2、意思の弱い人、仕事の習慣化が苦手な人はオフィスのほうが無難に仕事できる。

上述したが、オフィスは「誰でも、来てしまえばとりあえず仕事を始めることができる」仕組みとして優れている。

 

ところが、リモートワークは「仕事を始めなければならない」という強制力に欠ける。

また、仕事の状況を監視できないため「仕事の取り掛かりが遅かったり、苦手な仕事をどんどん後回しにて、チームの仕事をスタックさせる人がいる」ことに、私は気づいた。

 

優秀な人ばかりで構成されたチームや会社であればよい。

だが、意志が弱かったり、仕事の習慣化が苦手な人がチームに居ると、彼の「スタック解消」に後で結構なコストがかかる。

率直に言うと、「ダメなやつには、まだ「オフィス」という監視装置が必要」とも言える。

 

「そんな奴はさっさとクビにして、優秀な人を雇えばいいのに」という声も聞こえてくるが、世の中には「優秀ではない人」のほうが数が多いのだ。

そういう贅沢は、殆どの会社は言えないのである。

 

3、「頑張っていること」が評価されないと、萎縮する人が出てくる

リモートワークは、仕事の途中経過が分かりづらいので、一般的に「成果中心の働き方」になると言われる。

「結果しか見ない」というのが、リモートワークにおける真理、ともいわれる。

 

果たしてそれは本当なのだろうか。

実は、実際にやってみてそれは半分事実で、半分は嘘だとわかった。

 

確かに「成果こそが重要な仕事」は、リモートワークに向いている。

それは作業的なものであったり、アウトプットが「作品」であったり、目に見えやすい仕事は、リモートワークで十分だ。

 

ただ、「頑張ることが重要である仕事」が全く存在しないのか、と言われると、実はそうも言い切れない。

 

例えば新規事業、新しいマーケティングの手法、新しい評価手法など、「結果が出るという保証がないもの」については、「頑張ってみたがダメだった」も重要な情報だ。

「これだけやってみてダメだったのだから、別の手法を試そう」という判断は、「頑張ってやりきったかどうか」も加味する必要がある。

 

だが、「成果中心の働き方」を導入すると、そういう情報は手に入りにくい。

特に普通の人は「成果中心」と言われると「結果を出すまで頑張ろう」という考え方ではなく「結果の出やすいことだけをやろう」という考え方に陥りがちだ。

 

つまり「萎縮する人」が増える。そして「萎縮する人」がチームに増えてくると、徐々に会社は「失敗が許されない場所」となり、事業は停滞する。

「失敗」のないところにはイノベーションも、大成功もない。

 

4、リモートワークは「未熟な人を育てる」には不利

ベンチャーキャピタルを経営する、ICJの吉沢氏は、「部下のモチベーションは、上司とのコミュニケーションの総量との相関が高い」と記事に書いている。

StrengthFinderなどで知られる米国のGallap社は、数多くの組織に関するリサーチ結果を発表しています。

その中でも最もインパクトある調査結果の1つが、「部下のモチベーションは、上司とのコミュニケーションの総量との相関が高い。そのやりとりが、ポジティブかネガティブかよりも、そもそもその絶対量が大切なのだ」という点。

つまり、まずは自分が上司になりたてのときは、「要領良く回そう」「なるべく任せよう」といったことをする前に、とにかく部下との接点、会話量を多くすることが、関係性を高め、仕事をやりやすくするベースになるということです。

YLOG走り書き

さらに、上司との関係が良くなれば、様々なチャレンジが部下に生まれ、結果が出て、学習効果が高まる、とも述べている。

 

だが残念ながらコミュニケーションの総量は、リモートワークはオフィスワークに劣る。

コミュニケーションの多くは、文字情報だけでは伝わりにくい。

例えば、叱責は文章で行うと、叱った本人が思った以上にきつく伝わる。

 

要するに、リモートワークは「未熟な人を育てる」にはオフィスに比べて不利な条件だ。

 

つまり、よく言われる話だがリモートワークは「できる人」と「できない人」の差が広がりやすい。

「できない人」は、ずっとできないまま、成長も信頼関係も手に入らない。

「できる人」は、逆に自らの時間をうまく使って、際限なく可能性を広げていける。

それが、リモートワークのホントのところだ。

 

 

以上、メリットとデメリットを挙げてみたが、

弊社はまだ当分、メリットがデメリットを上回るので、リモートワークを続けるつもりである。

 

しかし、将来的に若手を採用したり、業界の事情に明るくない人が入社し、教育を施さなければならないと考えたときには、

オフィスを構えることを考えるだろう。

要は、状況に対応する、というだけなのだが。

 

 

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(Photo:Ryan Morse

最近の子どもは忙しい。

うちの長男(小学校高学年)も、毎日、学校の宿題に塾に習い事にと、スケジュールが詰まっているのです。

余裕がなくなっている、ということで、定期的に、あまり興味が持てないものを止めてはいるのですが、それでも、本人が、やってみたい(あるいは、やめたくない)と思っているものだけでも、かなりのハードスケジュールにみえます。

 

自分が子どもの頃と比べると、これで良いのだろうか、と疑問にはなるんですよ。

僕はずっと

「やりすぎじゃないか」

「もっとのんびり、ほんやりする時間があったほうが良いのではないか」

って言っていたのですが(でも、僕の意見はなかなか反映されない)いくつかの本を読んでいて、子どもの習い事や環境にも、いろんな考え方があることを知りました。

 

自分基準で、「詰め込みすぎ」「もっとのんびり」みたいなのも、単なる「思い込み」なのかな、とも思えてきたのです。

 

『不合理だらけの日本スポーツ界』(河田剛著/ディズカヴァー・トゥエンティワン)という本のなかで、こんなエピソードが紹介されています。

[amazonjs asin="4799322516" locale="JP" tmpl="Small" title="不合理だらけの日本スポーツ界 (ディスカヴァー携書)"]

著者は、アメリカのスポーツ環境の体験から、日本でも「マルチスポーツ(複数の競技を掛け持ち、あるいはシーズン別に違う競技をやること)を勧めています。

それでは、中途半端になってしまうのではないか、という批判に対して、著者はスタンフォード大学での子供たちと学生アスリートとのパネル・ディスカッションの様子を紹介しながら、答えています。

パネリストは、アメリカンフットボール選手2名、フェンシングのオリンピックメダリスト、そして、ロンドン、リオと金メダルを獲得した水泳のケイティ・レデッキー選手である。

ある子供が、ケイティに質問を投げかけた。

 

子供:オリンピックでメダルをとるには、どうしたらいいの?

ケイティ:一つだけじゃなく、いろいろなスポーツを経験することだよ。私の場合は水泳と、もう一つだけだったけど、若いときにもう二つくらいできたら、もっとメダルがとれていたかもしれないと思うわ。

 

子供:どうしたら、スタンフォードに入れるの?

ケイティ:同じ答えになっちゃうかもしれないけど、勉強もスポーツも含め、いろんなことに一生懸命、そして同時に取り組むことかな、そうすると時間をマネージメントしなきゃいけないから、そのスキルが身につくよ。

今、ちょうどテストと練習を両立しなきゃいけない時期なんだけど、若いときにそれを経験していて良かったと思っているよ。

 

子供:どうしたら、ケイティみたいになれるの?

ケイティ:とにかく、お父さんとお母さんの言うことを、よく聞くことね。あなたたちを愛している両親や家族は、いつも世界で一番良いアドバイスをくれるはずだから。

 

社会人としての日本での生活経験、(日米両国で)アスリートを見てきた指導者としての経験、どちらを通しても、アメリカ人が日本人よりはるかに優っていることの一つは、優先順位のつけ方と、そのこなし方である。

小さい頃から、習い事や、シーズンごとのスポーツ、つまり、マルチスポーツなど、多くのことを並行してやっていくことに慣れているアメリカ人のアスリートは、複数のことに優先順位をつけて取り組んでいくことに、非常にたけている。

 

ともすると、その姿は「いい加減である」と、(特に、日本人には)見えてしまうが、彼らがしていることの何かがいい加減に見えた場合には、それは、彼らにとって優先順位の低いことだったということがほとんどだ。

特に、小さなときからそれを高いレベルでこなしてきたであろうスタンフォードの学生は、学業とスポーツ、それ以外の活動も、完璧にこなしている印象がある。

子供の頃にさまざまなことを並行してやっていく習慣が、物事に優先順位をつけたり、効率的に進めていったりするためのトレーニングになっているのではないか、と著者は指摘しているのです。

 

なるほどなあ。

2018年の夏の甲子園で優勝した、大阪桐蔭の根尾選手は、中学までスポーツのシーズン制に取り組んでいます。

春から秋まで野球をやって中学生の日本代表として世界大会に出場し、冬場は雪上で全国中学校アルペンスキー大会で優勝し、こちらでも世界大会に出場しているのです(高校時代からは「野球専任」になったそうです)。

根尾選手は学業も極めて優秀で、まあなんというか「天は根尾選手に贔屓しすぎだろう」なんて言いたくもなりますが。

 

日本では、「一つのことに集中する」のが正しいとされがちなのですが、もしそれが向いていなかったり、嫌いになった場合に「つぶしがきかない」というデメリットもありますよね。

大人になって痛感しているのは「仕事の優先順位をつける」「限られた時間のなかで、自分がやることをマネージメントする」ことの大切さなんですよ。

 

あまりにも肉体的・精神的に負荷が大きすぎる「あれもこれも」は論外としても、「いろんなことを並行してやっていくこと」「子どもの頃から、時間の使い方を意識すること、させること」の練習は、これからの時代、より大事になっていくと思います。

「どのくらいやるのが適切なのか」というのが、いちばん大きな問題だし、ケイティ選手や根尾選手クラスの天才と同じことを自分の子供に求めるのは無謀なのだとしても。

 

田舎の自然のなかで、のんびり、おおらかに子どもを育てたい、というのも、「親の自己満足」になる可能性があるのです。

 

『下り坂をそろそろと下る』 (平田オリザ著/講談社現代新書)のなかで、平田さんは、今後の日本の「教育改革」においては、ペーパーテストではなく、「受験準備ができない設問」(たとえは、グループディスカッションや、社会問題に対する提言力を問うような問題)が重視されていくはずだと述べています。

[amazonjs asin="4062883635" locale="JP" tmpl="Small" title="下り坂をそろそろと下る (講談社現代新書)"]

そうなると、有名進学塾に通えない、田舎の子どもにも「平等」になるのではないか?と僕などは考えていたのですが、実際は、そうはならないのです。

要するに、いまの流行り言葉で言えば「地頭」を問うような試験に変わっていくということだ。

これは、短期間の、知識詰め込み型の受験勉強では対応できない。小さな頃から、文科省も掲げるところの思考力、判断力、表現力、主体性、多様性理解、恊働性、そういったものを少しずつ養っていかない限り太刀打ちできない試験になる。

こういった能力の総体を、社会学では「文化資本」と呼ぶ。平易な言葉で言い換えれば「人と共に生きるためのセンス」である。

(中略)

この身体的文化資本を育てていくには、本物に多く触れさせる以外に方法はないと考えられている。

それはそうだろう。子どもに美味しいものと不味いものを交互に食べさせて、「どうだ、こっちが美味しいだろう」と教える躾はない。美味しいものを食べさせ続けることによって、不味いもの、身体に害になるものが口に入ってきたときに、瞬時に吐き出せる能力が育つのだ。

骨董品の目利きを育てる際も、同じことが言えるようだ。理屈ではなく、いいもの、本物を見続けることによって、偽物を直感的に見分ける能力が育つ。

しかし、そうだとしたら、現在の日本においては、東京の子どもたちは圧倒的に有利ではないか。東京、首都圏の子どもたちは、本物の(世界水準の)芸術・文化に触れる機会が圧倒的に多い。

もう一点、この文化資本の格差は、当然、貧困の問題とも密接に結びついている。

たとえば、いま全国の小中学校で「朝の読書運動」が広がっている。教員は生徒たちに、「何でもいいから本を持って来なさい。どうしても本が難しければ、はじめは漫画でもいいよ」とやさしく声をかける。

しかし現実には、家に一冊も本がないという家が、多く存在するのだ。これなどは端的に分かりやすい文化資本の格差である。

(中略)

文化の地域間格差はどうだろう。「地方の子どもは芸術に触れる代わりに、豊かな自然に触れている」というのは、やはり詭弁に過ぎないのではないか。

自然に触れて、のびのび育つことができる、とは言うけれど、田舎の子どもたちは、学校の統廃合で通学に時間がかかるためにバス通学になって、自然に触れる時間が増えているわけではないそうです。

いくら自然に触れていても、それを「表現する能力」がないと、いまの社会では評価されないのではないか、と平田さんは仰っています。

 

冷徹なようだけれど、僕も、そのとおりだな、と思うのです。

結局のところ、「自然のなかで、のびのび育つ」ことを美化する人は多いけれど、それが「長所」として役立つ場面というのは、少ないんですよね。

 

自然と触れ合うことは不要、というわけではないけれど、「文化資本」のことを棚上げにして、田舎=心が豊か、というのは、あまりにも短絡的な考え方です。

「田舎のよさ」を世間にアピールしているのは、「それを語る言葉を持った都会人たち」なわけですし。

 

こうして書いてみると、「詰め込み教育」とか「田舎バッシング」を推奨しているみたいな感じなのですが、そういう意図はありません。

子どもにとって、何が幸せで、何が正解か、という万人向けの解答はいまだに存在しないので、こうしてみんなが悩み続けているのです。

 

「子どもの正しい育て方」だと長年宣伝され、思い込まれてきた多くのことが、現在、かなり揺らいできています。

親や大人は、結局のところ「自分の経験や思い込み」に縛られて、いまの子どもたちや教育の現場を知らないまま、自分は正解がわかっていると考えてしまいがちなんですよ。僕もそうでした。

 

みんな学校に行ったことがあって、教育も受けたことがあるから、一言もの申したくなってしまうのです。

それが、30年前の時代遅れの知識や経験でしかないことを忘れて。

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Jay

「お客様は神様です。」

三波春夫が作り出したと言われているこのフレーズは、平成の世の中では賛否両論です。

特に「クレーマーには格好の言い分になっている」ということで、三波春夫のオフィシャルサイトでも「三波春夫の意図とは違った意味で使われている」と、わざわざ掲載されるほどです。

三波春夫といえば『お客様は神様です』というフレーズがすぐに思い浮かぶ方が少なくないようです。印象強くご記憶頂いていることを有り難く存じます。

ですが、このフレーズについては、三波本人の真意とは違う意味に捉えられたり使われたりしていることが多くございますので、ここにちょっとお伝えさせて頂きます。

三波春夫にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。客席にいらっしゃるお客様とステージに立つ演者、という形の中から生まれたフレーズなのです。

三波が言う「お客様」は、商店や飲食店などのお客様のことではないのですし、また、営業先のクライアントのことでもありません。

しかし、このフレーズが真意と離れて使われる時には、例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?」と、いう風になるようです。

そして、店員さんは「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」という具合。俗に言う“クレーマー”には恰好の言いわけ、言い分になってしまっているようです。

三波春夫オフィシャルサイト

実際にはもちろん顧客は「神様」ではありません。

企業と顧客はサービスを提供する側と、される側の存在であり、本来、対価によって対等な立ち位置になっているはずです。

そう考えれば「取引先」という言葉のほうが妥当でしょう。「取引」はお互いの合意に寄って成り立つものですから。

 

しかし世間には「取引する相手」として、不適切な人達がいるのもまた、事実です。

例えば、

・ろくに調べもせず、勝手に勘違いをする方々

・一方的な要求を突きつけてくるだけの方々

・考えるより先に手が出るラオウのようなタイプ。

(画像:北斗の拳15巻 電子書籍版)

そんな「ブラック顧客」と付き合ってしまうと、会社側には必ずと言っていいほど副作用が出ます。

ブラック顧客の副作用

✓ 話をきちんと聞かないので、勘違いが多く、無駄な対応が増える

✓ 価格に見合った要求ではないので、物理的なリソース不足になり、残業が増える

✓ 無駄な仕事が増え、スタッフのモチベーションが低下する

 

そして、個人的に、以下3点はブラック顧客の危険信号と考えています。

 

1.営業時間外の対応を要求してくるが、見合った対価を支払わない。

営業時間外でも平気で連絡してくる会社、ありますね。

でも、24時間365日の対応をするならばそれに見合った対価が必要です。

しかし残念ながら営業時間外の連絡を要求する人ほど、きちんと対価を支払わない。

「“下請けなんだから土日も働け”」と要求するということは、どういうことなのかをきちんと理解していないのです。

 

2.「緊急」が多い

担当者のスケジュールミスで「緊急対応」を出してくる会社があります。

自分の責任を下請けになすりつけよう、という担当者ですね。

こうなってしまうと、どこからどこまでが本音なのかわからなくなり、ひとつのプロジェクトを成功させる気なんてサッパリ無くなります。

 

3. 止まらない後出しジャンケン

事前の見積もり段階で、予め念入りに説明をしていたにも関わらず

「自分たちは素人なので、説明を理解できていなかった」

「これでは高いお金を払ってお願いしている意味がない」(でも、高いお金は払っていない)

「プロであれば、我々の要望より良くなる提案をすべきだ」

 

とかなんとか、要するに「後から後から要求を追加してくる」お客さんがいます。

 

もちろん我々はプロですから、暗黙の要求もできるだけ汲もうとします。

でもせめて「任せたから」と丸投げせずに、自分たちの要求を言語化する努力はしてほしいです。

 

これらのいつまでも無くならない理不尽さ対して、しみじみ思うのです。

こんな話があります。

吉田茂はなぜ、一流ホテルの洗面台を自分で拭いたのか?

かつて吉田茂元総理が「一流と言われる某ホテル」を訪れたときの話です。

吉田総理はホテルのトイレで手を洗ったあと、なんと洗面台のまわりにはねた水を自分のハンカチで拭こうとされたそうです。

それを目にしたホテルの従業員は、慌ててトイレの清掃担当者を呼ぼうとしました。

すると、吉田総理がこんなふうに仰ったといいます。

「洗面台の水はねを拭くために、いちいち担当者を呼んでいては仕事にならないでしょう。

一流ホテルが一流である証は、従業員の手によって、トイレがいつもきれいであることではありませんよ。

手を洗ったあとに、洗面台を自分で拭くのが当たり前だと思うお客様が常連であることが、本当の一流ホテルの証なのではないでしょうか」

(ダイヤモンド・オンライン)

つまり、そもそもの目線が違うわけです。

ブラック顧客が存在するのは、サービスを受ける側の問題でもあるが、それよりも与える側の問題だということ。

ブラック顧客を持ってしまう体質そのものが、結果として組織そのものをブラック企業の体質に近づけているということです。

つまりは「類は友を呼ぶ」ということ。

 

だからこそ、組織全体が一致団結して遂行する必要があるのです。

とは言え、結局は「顧客と自社の関係性を良好に保つこと」で解決できることばかり。

おそらくほとんどの方が、頭でも身体でも分かっていることだと思います。

しかし、プロジェクトの進行にあたり、このあたりを意識なく仕事をしていくと、顧客の「ブラック化」が減ることはないでしょう。

 

組織で働く人間にとって、以上のような話は「どちらでもいい」という話かもしれませんが、突き詰めていくと、国民全員が楽しく、豊かにあり続けるためには「ブラック顧客」を減らしていく必要もあると思うのです。

あなたの嫌いなブラック企業とブラック顧客は、意外に身近なところにあるのかもしれません。

 

【プロフィール】

名前:丸山享伸

会社に依存せず楽しく働きたい経営者。アイアンマン好きな2児の父です。

WEB制作会社(UNIONNET Inc.)の代表として「小さな会社の経営者の本音」をつぶやいたり・書いたりしてます。

twitter ▷ @maruyaman1984

note ▷https://maruyaman.net/

(Photo:Herry Lawford)

20代や30代の人にはほとんど印象がないかも知れない。

パソコン黎明期の時代、すなわち1990年代後半から2000年代前半にかけて。

この頃に多少なりともパソコンのヘビーユーザーであった40代以上には、台湾製のデバイスや消耗品は最悪であると言う印象を持っていた人が、とても多いのではないだろうか。

 

30枚が束になっている台湾製のCD-Rをソフマップで買えば、そのうち書き込みエラーが発生する確率はロットによって10枚に迫る勢いで、とても使えない。

そのため、大事なデータは日本製CD-Rに焼き、どうでもいいテンポラリーのデータは台湾製で焼くというのが、当時の常識になっていた。

 

それでも当時、30枚が束になっている台湾製CD-Rが1500~2000円程度であるのに対し、日本製CD-Rは3枚で1000円ほど。

そのため、仕事やプライベートでCD-Rを大量に使う人はどうしても、台湾製CD-Rの「当たり」を期待して使い分ける。そんな時代だった。

 

それから10年以上の時間が経ったが、2018年現在、台湾製のデバイスや消耗品にそのような印象を持つ人はほとんどいない。

というよりも、台湾製デバイスが劣悪であると言う印象を持っていたことすら、すっかり忘れているオッサン世代も多いはずだ。

それほどまでに、台湾製のデバイスや電気製品は「安くてそこそこ使える」ポジションをしっかりと確保し、私達の生活に入り込んでいる。

 

そして台湾に対する好意的な国民感情もあって、そのポジションはますます大きくなるばかりだ。

 

ではなぜ、台湾製のデバイスや家電製品はこのように急速に進歩したのだろうか。単に、企業努力で製品のクオリティがどんどん高まっていった結果なのだろうか。

 

台湾で出会った経営者たちの経営思想

急に話を変えて恐縮だが、2016年4月、日本を代表する家電メーカーの一つであったシャープが台湾のホンハイ精密工業の傘下に入ったことは記憶に新しい。

 

当時、このニュースは日本凋落の象徴のように連日大きく報じられていたが、そんな中、私はある台湾人経営者たちの言葉を思い出していた。

 

話はそれから更に6年ほど遡る2010年頃、私がある先進的な製品を作る会社のCFOを務めていた時の話だ。

その会社で私は、製品を量産化するにあたり中国や台湾の企業と提携して、安価で良質な製品を作れないか。そんなことを模索して、台湾を北から南まで3泊4日の強行軍で周り、15社の経営者とお会いしたことがある。

 

そんな中、ある会社では董事長(=会長、経営トップ)が出てくるなり、

「日本人は、そういう難しいことばかりやろうとするから国が凋落したんだよ。苦労をせず儲けるのが商売の基本なのに、日本人は全くわかっていない。」

と、相当に侮蔑のニュアンスを込めて話し出した。

 

董事長が発言するたびに、周りにいる役員が声を上げて笑っていたので、おそらく同時通訳の台湾人女性が話す内容よりも、相当強烈な内容だったのだろう。

 

そして、「商売の基本がわかっていない日本人とは取引できない」と、全く聞く耳を持ってもらえず半ば追い出されるように、会議は打ち切られた。

なおその会社は、一般的な家電製品をとにかく価格勝負で安く作り成長している、典型的な当時の台湾メーカーだった。

 

これも一つの経営思想だろう。なおかつそれで成功し、台湾で上場している大きなメーカーだったので一つの聞くべき教訓ではある。

しかしながら、その経営者からは大企業のトップであるような度量や品格を、全く感じることができなかった。

 

こんなものかと、やや気落ちしながら次の会社に向かう。

そして会議室に通されると、程なくして董事長、総経理(社長)、副総経理(副社長)に3名の部長が迎えてくれた。

 

そして開口一番に董事長は、日本人かと思うほどに流暢な日本語でこう話した。

「皆さんはなぜ、そのパソコンをお使いなのですか?」

その時に私達が机の上に広げていたのは、安価だが壊れやすいことで有名なメーカーのノートパソコン。私はこのノートパソコンの質の悪さに本気でイラついていたが、アメリカブランドでもメイドイン台湾のPCである。

 

そのため下手なことは言えないので、

「コストパフォーマンスに優れているので、当社は全て、このメーカーのPCを使っています。」

と答えた。

 

すると早速、董事長が食いつき、熱っぽく話しだした。

「コストパフォーマンスに優れているとおっしゃいましたが、私はそう思いません。」

そう話す董事長以下、先方の出席者が机の上に置いているのはパナソニックのレッツノートである。

言うまでもなく、日本が誇るハイエンドノートPCだ。ちょっとやそっとのことでは全く壊れない。

 

つまり、台湾企業のボードメンバーは皆、日本製のレッツノートを机の上に置き、日本側の私達は、メイドイン台湾のPCで話す。

見ようによってはちょっと滑稽なシチュエーションであった。

 

董事長は、更に続ける。

「私は、テレビや洗濯機は台湾製や中国製を使っています。命に関わらないからです。しかし、車やパソコンは絶対に日本製を使います。命に関わり、また会社の死活問題に関わるからです。」

同時通訳の出番は全く無い。

流暢な日本語で、高揚しながら熱っぽく、日本と日本製品の魅力を語りだす。

 

話は多岐にわたり、半ば呆気にとられるようにその話を聞いていたが、その要旨は以下のようなものだった。

「日本人は、日本人の強さを全くわかっていない。」

「日本のメーカーは、誰でも作れるような白物家電の価格競争から早々に撤退して、飛行機やロケットのような高付加価値の製造に移行するべきだ。」

「中国製や台湾製の製品に生命を預けるのは、私たちでもお断りです。でも日本製なら命を預けられる。その強みとブランド力を活かすべきです。」

先に私達を追い出した経営者とは、全く逆の経営思想だ。

 

そして董事長は、私達の製品について喜んで下請けをやりたいと申し出てくれた。

そしてその理由について、

「日本と日本人から学ぶことが、とても多いからです。ぜひ、仕事をさせて下さい」

というような事を話した。

 

最終的にこの董事長をその後、日本に招いて良い関係を築くことができたが、お会いした台湾メーカーでは数社を除き、概ねこのような反応であった。

 

2010年といえば、その前年に民主党政権が誕生して政治・経済が混乱の極みにあった世相である。

そんな中でも、まだまだ日本から貪欲に学ぼうとする台湾の経営者たちは、本当に怖いと感じさせられた。

 

この人たちはきっと、もっともっと大きくなるだろう。そして本当に、日本はハイエンドの分野でも台湾に抜かれる時代が来るかも知れない。

商売では手応えを感じながらも、日本の先行きに、逆に不安を感じる台湾行きになった。

 

日本を去った技術者たち

ところでこの時、董事長が途中退出すると2名居る副総経理(副社長)の一人が、流暢な日本語で話し掛けてきた。名刺交換した時からなんとなくわかっていたが、2名とも日本人である。

「この後、歓待の宴席を設けています。豪華なランチと行きましょう。」

「ありがとうございます。ところで、台湾のこんな大企業で日本人が副総経理を務めているとは意外でした。最初からこちらで就職されたのですか?」

すると2人の副総経理は笑いながら、自分たちのキャリアを話しだした。

 

要旨、2人とも日本の大手家電メーカーで開発の責任者をしていた部長であったこと。しかし、経営不振でリストラの対象になり、お払い箱にされたこと。

そんな自分たちを拾い、活かしてくれたのが董事長であること。

 

台湾人の優しさや日本に対するリスペクトを経験したら、もう日本に帰る気はさらさら無くなったこと、などだ。

ちなみに両名とも、誰でも知っているような日本の、大手家電メーカーの元部長であった。そして台湾に渡り、身につけた技術を活かしその会社の飛躍的な成長に貢献して、ついに副総経理まで昇り詰めていた。

 

聞けば、1990年代後半から2000年代前半にかけて吹き荒れた大リストラの時代。多くの同僚や同業他社の技術者が台湾に渡り、同様の待遇を受けて台湾企業の成長に貢献しているという。

 

なんとも情けない日本の経営者だと、居たたまれない気持ちになった。

これほどまでにやり手で価値のある人たちを、日本の経営者たちはリストラし、それで業績が回復したと喜んでいたのか。

 

なお董事長の日本語が堪能なのは、松下幸之助を始めとした昭和の日本を作った大経営者たちの書籍を、日本語の原文のままで読むために猛勉強したからであることも聞かされた。

こんなに必死で、さらにその上で自分より優れていると思った人を心からリスペクトし、その協力を本気で取り付けようとする人たちに、日本の経営者は勝てるわけがないじゃないか。

 

冒頭にご紹介したCD-Rのクオリティでも、いつまでも台湾が同じところに足踏みをしているわけが無いはずである。かつての台湾製デバイスや消耗品のイメージが、上書きされていて当然だ。

 

正直、「日本人は商売が下手だ」と蔑み、侮蔑するためにわざわざ時間を取ったような董事長は全く怖いと思わない。

しかし、日本をリスペクトし、まだまだ日本から学んでやろうとする経営者は本気で怖い。

 

なりふり構わず学び、合理性に一直線なのだから、日本はいつか台湾にあらゆる分野で負ける日が来るのではないか。

日本の経営者は、台湾人経営者や、その経営手腕で大いに活躍している日本を去った日本人たちをリスペクトし、学ばせてもらうべきではないのか。

自分たちを、自分たちの能力以上に優れた存在であると勘違いしているのではないのか。

そんな事を深く考えさせられる、台湾人経営者たちとの出会いだった。

 

なお余談だが、シャープを買収したホンハイ精密工業。

そのホンハイから送り込まれたシャープの戴正呉社長だが、日本ではシャープの一般社員向けの社員寮に住んでいるという。

赤い帽子、カツラ、社員寮暮らし……再上場のシャープ・戴社長がいろいろすごい

シャープを買収した鴻海精密工業の大番頭だった戴氏が新社長として来日したのが昨年8月。産業革新機構を推す経産省と鋭く対立した末の買収に、シャープの将来を危ぶむ声が消えることはなかった。

着任すると戴氏は、構造改革に取り組み、経費の削減にも大ナタを振るった。自らもシャープから役員報酬を受け取らず、社員寮で暮らした。若手社員の中には社長が社員寮にいることを知らない者もいたほどだったという。「ぜいたくには興味がない」と語る戴氏は着任早々から社員とワゴン車に相乗りして客回りに奔走した。

(文春オンライン)

そんな戴社長について、あるシャープの社員はメディアに、

「社長はもちろん役員でも、今まで社員寮に住んだ人などいません。初めてですよ。」

と、経費節減を上から言うだけでなく、自ら実践する新社長に敬意を向けて話していた。本来であれば、このような「率先垂範」は日本人の価値観であり、強みであるはずではなかったのか。

 

そんな価値観を理解し、実践して日本人従業員の心を掴んだ台湾人経営者は、やはり凄い。

私達が、彼らから学ぶべきことはとても多い。

 

【著者】

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。

中堅メーカーなどでCFOを歴任し、独立。会社経営時々フリーライター。複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を持つ。

(Photo:iphonedigital

社会人になって一段落したあたりから、いわゆる高校の同窓会というものに出席する事となった。

ちなみに高校は某県にあった、そこそこの進学校である。

 

僕は高校入学当初は入試の成績がマアマアよかったみたいで、入学当初は最上位クラスというものに割り振られた。

まあ結局その後、ものの見事に化けの皮が剥がれズルズルと成績は下降線をたどる事となったのだけど。

 

その後、すっかり高校での勉強にやる気を無くした僕の成績はものの見事に下から数えて30番以内まで急落し、高校3年生時にはいわゆる最下位クラスというものに割り振られることになった。

ちなみにこのクラスは当時の校長から

「このクラスはわが校の恥であり、反面教師とせよ」

と全校集会で名指しで指摘されるぐらいに勉強に興味がまるでない人間の集まりだった。

 

と、いうわけで僕はまず間違いなく卒業式のスピーチの類には呼ばれない。

なにせ恥であるω;`)

 

進学校の最下位クラスというのは、実は結構面白い。

いわゆる底辺校だと、校風は荒れたのかもしれないけど、曲がりなりにも進学校の最下位クラスだったのでヤンキーみたいのはおらず、どちらかというと一癖も二癖もあるある変わった奴が非常に多かった。

 

振り返ってみると、最上位クラスの人間はやりたい事はある程度はやりつつも「ここが人生の正念場」とばかりに、自分のやりたい事を制限して学業に励む傾向があった。

一方で、最下位クラスの人間は学校の勉強よりも何らかの興味を持っている事が1つや2つあり、それに時間をかけすぎてイマイチ学業に専念できてない人間が多かったような印象がある。

 

ある意味では最上位クラスの人間は大人だった。彼らだって、興味のある事の1つや2つはあっただろう。けど、ちゃんと学業にも励んでいたのだから大したものだ。

一方で最下位クラスの人間は自分を含めて自制心というものが全く無かった。勉強が自分にとって難しすぎると判断した瞬間、別の面白いことに躊躇なくシフトするのだから、堪え性がないにも程がある。

 

最上位クラスと最下位クラスの進路の違い

とまあ、そんな経緯があって、僕はこの全く異なる2つのグループに属する機会に恵まれたため、卒後は2つの同窓会どちらにも呼ばれるという類まれなる経験をしたのだけど、これがまた非常に面白かったのだ。

 

まず最上位クラスだけど、彼らの多くは、いわゆる超一流大学に進んだ。

上場企業の社員や大学の博士課程に進む人間もいえば、僕のような医者もいた。

最上位クラスに所属していた人間の進路の特徴を一言でいうと、エリートサラリーマンである。いわゆる定時出社・そこそこの残業・地方転勤といった「自制心」が適切に必要とされる職場に進んだ人が非常に多い。

 

彼らの進路は、一言でいうと昭和型のわかりやすい成功例だ。

誰もがわかりやすく歴史がある企業に所属し、そこで歯車として、全く違和感なく存在感を発揮していた。

 

さて一方で最下位クラスはどうだっただろうか?

彼らの多くも、まあ自頭は悪くは無かったので浪人後にそこそこの大学には進学した。そしてその後の進路が非常に面白いのだ。

 

ある人間は美大に進学後、昔からやりたかったゲーム制作会社への進出を希望。

そこで絵が書けるという事を強みにゲーム制作会社に入り込んだはずなのに、結局そこでやった事もなかったプログラミングの才能が開花。結果、現在ではとある有名なソーシャルゲーム制作会社でマネージャー職に就職中。

 

ある人間は普通に薬剤師として勤務する一方で、昔からやりたかった劇団に所属する事となったのだけど、なぜかそこでマネジメント役をする羽目になり、劇団を率いる事となった。今では立派なチームリーダーである。

 

ある人間は在学中に会社員になるのが嫌で大学院に進む一方、小遣い稼ぎにアフリエイト等をやる過程でプログラミングの技術を習得。

その技法が高まった結果、結局フリーのプログラマーとして、某有名大学にヘッドハンティングされる事となった。

 

とまあ、同じ高校にもかかわらず、彼らの進路は驚くほどに異なるものとなった。

ちなみに単純に年収を比較したら、平均値は間違いなく最上位クラスの方が高いとは思うけど、上位層は恐らく最下位クラスの方が高い。

まさに憎まれっ子世にはばかるである。

 

こうして2つのクラス出身者を比較してみると、最上位クラスの人間は社会の要求に自分を合わせるのが非常に上手いと言えるだろう。

入試で良い点を取り、高校3年間も校内テストでトップクラスの点を取り続け、超一流大学に進学。

そして新卒試験や院試を難なく通り抜け、いわゆる社会の歯車的なエリートコースを突き進む。まさにエリートサラリーマンといえるだろう。

 

一方で最下位クラスはどうだろう?

少なくとも僕の友達の先の3人に限って言うと、彼らに共通して言えることは、誰一人として社会の都合に合わせて自分を整形していない。

みんながみんな、自分の好きなことしかやっておらず、むしろそれを社会にうまく迎合させている。結果として、それに需要が産まれ、世間が彼らに迎合する事となった。

 

同じ高校でも、こうも進路が異なるのだから、人間というのは本当に面白い。

 

自制心が低くて良い成績が取れないからって、悲観することはない

僕は正直、最下位クラスに所属している時、自分を含めてこいつらは将来大丈夫なんだろうかと割と不安になった。

「わが校の恥」とまで言われる有様なわけで、若くてピュアな僕の心は流石にちょっと不安になったのは、仕方がないといえるだろう。

 

けど今になって思うと、結局のところ、進学校の最上位クラスと最下位クラスの違いは、自分の時間をどこのベクトルに向けてるかでしかなかった。

 

最上位クラスが自制心をフルに働かせて学業に全力フルコミットしている一方で、僕ら最下位クラスは自分の興味のある事だけに全力でフルコミットしていた。

最下位クラスの僕らには自制心なんてカケラもなかった。自分の興味にだけに全力で、やらなくてはいけない受験勉強なんか目もくれずに、自分のやりたい事だけを徹底的に突き詰めていた。

 

最下位クラスのやった事は、高校側からみれば許しがたい事だろう。

けど、今になって思うと、最下位クラスにいたときに経験した、自分の好きを周囲の目もくれずに徹底的に謳歌するという事が、社会人になってからどれだけ役に立った事かは、ちょっと筆舌に尽くし難いものがある。

 

自制心も熱意もどっちも使えるようになれ

人生、時には相手の要求に正しく答える事も大切だ。しっかり受験勉強して、良い大学に入る事は、その後の社会人生活を送るにあたって、かけがえのないリターンを与えてくれる。

 

一方で、人生は時には自分のやりたい事に無茶苦茶にフルコミットする事も大切だ。自分の熱意で周りを動かす事ができれば、それだけで世界が動くこともある。

高校の3年間で、この2つの全く異なる多様性ある価値観に触れられた事は、何よりも自分にとって幸福なことだった、と今になって凄く思う。

 

これを読んでいる最上位クラス寄りの人は、ちょっとぐらい道を外れる事を経験してみるとよいだろう。

逆に、これを読んでいる最下位クラス寄りの人は、たまには相手の要求にキチンと耳を傾けてみるといいかもしれない。

 

自制心と熱意、どっちもあれば、人生はとてもとても楽しいものになる。

医者とライターという、2つの全く異なったアイデンティティーを今の自分がうまく乗りこなせているのは、この貴重な体験があったからなのかもしれない。

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:tomcensani

今の私は、お金を出して他人の力を借りて自分の仕事を回している立場ですので、どうやったら周りの人の協力を得られるのか、自分や周囲の人の時間を効率的に使えるのか、ムダな作業を減らせるのか、

といったことを、ずっと考えてきました。

自分一人で出来ることなんてたかが知れてます。

 

ただ振り返ってみると、必ずしも自分が心がけていたところとは違うところで人生が変わったと思います。

世の中一般の考え方とは少しちがうかもしれませんが、自分の経験のなかから心がけ的なものに絞って書いてみたいと思います。

 

1.自分で勝手に決めたルールに縛られすぎない

自分自身の効率を少しでも引き上げるということばかり考えていた時期。

参考になればと読書、人脈、考え方、勉強法など、いろんな分野でのレバレッジ術を披露している本田さんの本を一通り読みました。

 

もし一冊読むとすれば、全ての本のまとめみたいになっているレバレッジシンキングがおススメです。

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簡単に言うと、何でもゴールを意識しながら取り組むことで、一見目的化しそうな手段やプロセスの所を100%やろうとしない、という点になろうかと思います。

自分で勝手に決めたルールに縛られすぎない、と言ってしまってもいいかもしれません。

 

例えば、本は最後まで読む事に意味があるのではなく、知りたい事を積極的に取りに行くものである、といった事ですね。

何でも最後までやろうとして途中ダラダラしてしまう人ほど、参考になる部分が多いです。

 

余談ですが、考え方としては、こちらも参考になると思います。

みんな「辞める練習」が足りてない

多くのひとは「辞める練習」が足りてない。

自分の意思で転校したり、部活辞めたりした経験がない。

「自分で辞めるとどーなるか」って経験してないから、会社だってそりゃ辞めるの怖いよね。

マレーシア人は「学校合わないな」と転校する。それが小さい頃の「辞めて結果を引き受ける練習」になるんだな。

(野本響子さんのNote)

他には「7つの習慣」も優先順位の付け方等で参考になる部分もあります。

 

2.異質との出会いは人生を加速する

少し系統が違うのですが、上記で目の前の仕事の優先順位をつけられるようになったと。

で、その次は目の前の仕事を頑張るだけが最短ということでもないよという話になります。

目の前の効率を求める人からすると、逆説的に聞こえる人もいるようですが、大きなキャリアの変更等は少し離れた知り合いからもたらされることが多いようです。

弱い紐帯の強み

「弱い紐帯の強み」とは、米国の社会学者マーク・グラノヴェッターが発表した社会的ネットワークに関する仮説です。

グラノヴェッターによれば、新規性の高い価値ある情報は、自分の家族や親友、職場の仲間といった社会的つながりが強い人々(強い紐帯)よりも、知り合いの知り合い、ちょっとした知り合いなど社会的つながりが弱い人々(弱い紐帯)からもたらされる可能性が高いといいます。

これを「弱い紐帯の強み」の理論と呼びます。

(日本の人事部)

友達が増えすぎて管理しきれないとか、自分は仲良い友達が数人いればいいという人が多いのも分かります。

しかし、リクルートの江副さんの言葉だったでしょうか。

「異質との出会いは人生を加速する」というのはまさにその通りで、仕事等での直接的な利害関係がないような、でも全くの同年代でもないいわゆる「斜めの関係」の人と関係を築いておくと、夜中にいきなり連絡が来たりというのもままあります。

 

リンダ・グラットン氏の著書「ライフシフト」の中でも、将来は多世代が一緒に暮らす時代になることが示唆されている一方、その対比として現状の多様性の無さが指摘されています。

これまでの3ステージの人生では、同世代の人たちが一斉行進するように人生のステージを進むため、年齢層ごとに人々が隔離されて生きる欧米型の社会が出現した。

子どもは学校に通い、高齢者は引退して余暇を楽しむ。

そして、それ以外の世代は、職場で互いに接し合うという形態だ。

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現状では、高校までは多くの人が同年齢の人に囲まれる、通常の社会からは明らかにずれた環境で多くの時間を費やすわけですが、少しでも意識して外の人と話す事で世界が広がります。

 

また「斜めの関係」は、自分にしっかりとタグ付けをすると効果が倍増する気がします。

若い人とかで僕はこういうことをやりたいです!と発言したりするのは、個人的には大変好きです。その宣言の中には領域とか方向性とか、せめて聞いた人がこういう時には声をかけようと思えるくらい具体的であればいいなと思います。

私自身もぜひいろんなことを宣言してみて、他の人からのチャンスも積極的にもらえる自分になりたいですね。

 

3.とりあえず騒いでヘルプを出す

ここまでは、ちょっと強気?というか行動力のある人あるあるなネタが続きましたので、普通のひと?でもできるネタも紹介したいと思います。

上のタグ付けにも似ていますが、タグは何も強みだけではないということです。

実は自分の弱みをさらけ出すということも、一見カッコ悪いように見えて立派なレバレッジの方法の一つだと思います。つまり、ヘルプを出すということです。

 

例えば、彼氏(彼女)が欲しい、ということを周りに言うのも一つのヘルプであり、近くの面倒見のいい誰かが声をかけてくれることもあるでしょう。

だから、テレパシーや念による通信を使えるある一部の人を除けば、何がしかの発信はしておくに越したことはないと思います。

 

私が心がけているのは、とりあえず騒ぐということです。

格好つけてその場はやりすごせても、根本的な問題解決にはなりません。

 

ただし、忙しい人にお会いする時にはぜひ気をつけたいことがあります。

それは「どうしたらいいでしょうか?」と回答を相手に求めすぎないこと。むしろ、「こういう事をしようと考えていますが、こういう部分で助けてもらう事は可能でしょうか?」と自分の中でしっかりと整理しておき、相手の時間を奪わないようにするのはマナーです。

 

4.先輩にしてもらったことを後輩に返す

体育会系の人や、寮生活とかを経験したことのある人ならイメージしやすいかもしれないですが、上の人にお世話になったものは、なかなかその人に直接返せる機会に恵まれないというのが世の常です。

 

そんな時によく行われるのが、であれば、後輩へ返そうというやつです。

自分自身が先輩から美味しいところに連れていってもらったなら、今度は自分が後輩を連れていっ
てあげます。

奢らなくてもできる方法もあります。

私の知り合いでものすごい人たらしの先輩がよくやる技ですが、「今回は僕が出すから、次回は出して作戦」も結構効果が大きいです。

 

経済効果としては、割り勘とそう変わらないかもしれません。次回がなくてそのまま奢るだけになるケースもあるでしょう。

でも、最初に奢られた方は次は自分が、と思ったり、その人のために何かお返ししようとか思えるかもしれません。

 

個人的にも結構好きなので、一度騙されたと思って、ぜひ試してみてください。

ただし男性が女性に奢る時など、場合によっては意味合いが変わってしまうこともありますのでくれぐれも使う場面にはご注意を。

 

「人生を加速する」と言っても、別に本田直之さんやホリエモンのようなアグレッシブ系の方の専売特許ではないと思っていまして、要は目の前のことにしっかり取り組みつつ、周りの人からも協力の得やすい「愛されキャラ」になりましょうということなのかもしれません。
ぜひ、気軽なレバレッジをお楽しみください!

 

【著者プロフィール】

著者:ひろすぎ

30代、都内勤務の兼業投資家。

どうやったら普通の人がお金に困らない暮らしをできるかを模索し、自ら実験する日々。株、不動産をはじめ、いくつかの事業を展開。趣味はお散歩とお酒、旅行です。

(Photo:Johan

どうもしんざきです。

いきなり関係ない話から始めて恐縮なのですが、昨今「オクトパストラベラー」というゲームに、私と長男二人でハマっておりまして、SFC時代ライクなRPGを目いっぱい楽しんでおります。ロマサガを思い起こさせる懐の広さが超楽しいです。

 

ただ、長男については、この手の「昔ながらの文法のRPG」というものが初体験だということもあり、

「家の中の宝箱勝手に開けても怒られないの…!?」とか、

「女の子なのにこんな重そうな剣とか鎧とか装備させていいの…!?」とか、

「テリオンが盗んでるの他の人は怒らないの…!?」とか、様々な若者の悩みに直面しているようです。

 

「あー、こういう風に考えたこと、昔あったあった」という感じで、子どもの頃の自分の感性を懐かしく思い出すのと同時に、ハンイットでその辺に立っている人に容赦なくリンデをけしかけているのが私です。純粋無垢だったころの自分に乾杯。

 

 

「お兄ちゃんなんだから」という言葉について考えてみます。

しんざきは次男坊でして、5歳違いの兄が一人います。五年という成長の懸隔はかなり大きなものでして、ゲームを含めて、私の趣味の大半は兄からの門前の小僧で始まっています。

 

その時代の経験をスタート地点として、「長男ってのはつくづく大変なもんだなあ」と、私は子どもの頃からずっと感じ続けています。

その端的な側面が、親から兄に対する「お兄ちゃんなんだから」という言葉です。

「お兄ちゃんなんだから」で、遊ぶ順番を待たされる。

「お兄ちゃんなんだから」で、様々な手伝いを優先して割り振られる。

「お兄ちゃんなんだから」で、親に甘えられない。

「お兄ちゃんなんだから」と言われる割に、叱られる内容は弟や妹と似たようなもの。

「お兄ちゃんなんだから」と言われる割に、妹や弟に対してあまり権威づけが明示されない。

 

つまり、「色々我慢させられる割に、ろくに特典も報酬もないし、大して偉そうな顔も出来ない」と。

勿論、これは次男である私の目からみたことであって、兄には兄の思いやプライドがあったのかも知れません。ただ、少なくとも私からは、「割を食うばかりで全然いいことがない」という状況のように見えることが多かった訳です。

 

これは決して私の兄だけの話ではなく、私が観測する限り、かなり多くの長男に共通する問題であるように思います。

 

長男に、長男としての役割を期待することは別に間違っていないと思うんですよ。

やはり、誰かが何かを我慢しなくてはいけない、誰かが何かのタスクをこなさないといけないとしたら、「まだ出来ない人」よりも「もう出来る人」にお願いした方が効率がいいわけです。

その点、数年という経験値によってレベルアップを経ている長男が、多少余計な役割を割り振られるのはまあ仕方ない。

 

問題なのは、「タスクを振られる割に、サポートも報酬も、チームメンバーに対する権威づけも十分でない」ということなんではないかと。

これ、仮に社会人に置き換えたとすると、

 

・特になんのフォローもサポートもなく「君、チームリーダーね」と言われて放り出される

・チームリーダーだからということで、後輩の指導やらその他のタスクやらをわんさか押し付けられる

・けれど後輩と給与や扱いは殆ど一緒

・後輩からは「この人本当に偉いのか?」というような目で見られる

 

カテジナさんおかしいですよ、という状況になるんじゃないかと想像するわけです。

 

 

しんざき家の話をします。

いつものことですが、家庭の事情、子どもの事情はそれぞれであって、しんざき家でやっていることを一般化するつもりはありませんので、その点ご了承ください。

 

しんざき家で双子の長女・次女が生まれたのは、長男が4歳の時です。

もうある程度大きくなっていた長男には、例えば赤ちゃん返りのようなイベントもありませんでしたし、「ぼくのいもうと!」とか「かわいいねえ」とか喜んで可愛がってもくれましたが、それでも「今まで独り占めしていた親の視線を三分割される」「色々な点で我慢しないといけないことも増える」ことが、長男のストレスになるだろうということは容易に予見出来ました。

 

妻の負担を軽減する為にも、長男に「お兄ちゃん」としての振る舞いをして欲しいところではあるのですが、それで長男が鬱屈するようなことにはしたくないなーと思ったのです。

 

要は、

・長男としての役割を期待する代わりに、親からのフォローもサポートもする

・長女・次女に対しても、きちんと「お兄ちゃんは偉いんだ」という明示をする

・長男としての役割を果たしてくれていたらきちんと褒める

・時には長男を特別扱いしてあげる

というようなことが実現出来れば、長男が理不尽な思いをすることも減るのではないかと。

 

そこで、長女次女が生まれて少し経った頃、しんざき家では「こどもリーダー」という制度を導入することにしました。

「長男くんはこどもリーダーだから、長女ちゃん次女ちゃんのお手本になってあげてね」と話して、「こどもリーダー任命証」まで作りました。そして、以下のような運用を始めました。

 

・何かをお願いしたり何かを我慢させるときには、「お兄ちゃんなんだから」ではなく、「こどもリーダーへの依頼」という形にする

・長女や次女にも、「お兄ちゃんはこどもリーダーなんだから、ちゃんと言うこと聞くんだよ」と言い聞かせる

・こどもリーダーとしての役割を果たしてくれた時には、長女や次女の見ている前で褒める

・長男を叱る際にも、長女や次女の前では叱らず、一対一の状態で叱る

・時々、長男をちょっとえこひいきしてあげる

 

子どもって元来「役割」とか「肩書」とかは大好きなんですよね。

職業人としての大人にあこがれる部分もあるようで、ちゃんと「仕事」としてこどもリーダーという肩書を設定することで、少しでも「長男の鬱屈」を払拭出来ないか工夫してみたんです。

 

特に、「長女や次女の前で長男を叱らない」っていうの、結構大事なんじゃないかなーと思うんですよ。

仕事でも、「人前でその人を叱責するべきではない」とかよく言いますよね。子どもたち3人という小さな社会の中でも、長男は一種の権威をもった立ち位置なのだから、その権威を傷つけるようなことはなるべくしたくないと思ったんです。

 

で、長男はいつも我慢を強いられる立場でもあるのだから、「こどもリーダーへの職務報酬」として、時にはちょっと特別扱いしてあげてもいいんじゃないかなーと。

しんざき家の場合、これには私方祖父祖母が非常に協力的に接してくれていまして、今現在「一人で祖父母のうちに泊まりに行ける」というのは長男だけの特権です。

 

祖父祖母は長男を大変可愛がってくれるので、長男としてもつやつやして帰ってくるわけです。また、PS2やswitchについても、長女次女がまだ小さいという事情はあるのですが、基本的には長男に優先権があります。

この「こどもリーダー制度」は、長男が11歳になった今でも継続しております。

 

上記のような運用が功を奏したのかどうか、現在のところ長男は凄くマメに長女次女の面倒を見てくれますし、「ぼくこどもリーダーだから」と、自分の役割に誇りをもってくれてもいるように見えます。

また、長女次女も割と素直に、「にいにはリーダー」ということを受け入れてくれているように見えます。

 

勿論、長男が「長男ならではの我慢」を強いられないかというとそんなことはないので、ストレスに感じている部分も当然あるのだと思いますが、ある程度軽減は出来ているのではないかなーと。

それが長男の自己肯定感の形成にプラスに働くのであれば、それに越したことはないなーと。

 

繰り返しになりますが、これは「しんざき家という環境で、今現在うまくいっているように思える施策」に過ぎません。これが一般的にどうなのかは私には分かりませんので、一般化するつもりもありません。

それでも、少なくともしんざき家の中では、引き続きこの「こどもリーダー」制度を運用し続けていこうと。

 

そんな風に思っているわけなんです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Pedro Ribeiro Simões

本屋が減っている。この事実はたぶん、ほとんどの人が知っているだろう。

日本著者販促センターの統計によると、2000年に2万軒以上あった書店が、2017年5月には1万2000軒にまで減っているそうだ。東京オリンピックが開かれる2020年には、2000年に比べて半数程度の書店数になっているかもしれない。

 

時勢を踏まえると、本屋が減るのは残念だがしかたのないことだろう。でもわたしは、自分でモノの価値を判断する場として、本屋は絶対になくなってほしくないと思っている。

 

意外に多くの人が訪れている本屋

2016年に行われたYahoo!ニュースの意識調査調べで、「『リアル書店』に行く頻度は?」という質問が投げかけられた。

 

これだけ本屋が潰れているんだ、さぞや本屋離れが進んでいるのだろう……。そう思っていた。

しかし意外なことに、週に複数回書店に行く人は15.3%(17,648票)、週に1回程度行く人は26.8%(30,981票)もいたのである。

これはあくまでネットアンケートではあるが、4割もの人が定期的に本屋に足を運んでいるという結果になったのは意外だった。

 

本屋に「行く」人はたくさんいる。それでも本屋が潰れている。ということは、本屋で「買う」人が少ないということになる。

では、なぜ本屋で買わないのか。

 

本は重いし、すぐに必要になることは少ない。それならばネットで注文しておこう。かさばるから電子書籍にしよう。

その気持ちはわかる。わたしはもともとアンチ電子書籍だったけど、海外在住ということもあって、結局電子書籍に切り替えた。たしかに便利だ。

 

でもそこで、ふと思った。

「やっぱり本は本屋で買ったほうがいい」と。

 

自分で「好きな本」を見つけられなくなった

前回の一時帰国中、東京駅の丸善で、何冊もの本を買ったことがある。

朝イチで丸善に行き、売り場を何周かして、気になる本を何冊か手に取った。そして窓際にある机の上に本を積んで、椅子に座ってぱらぱらと見る。

 

数行読んだだけですぐに「ナシ」になる本もあれば、「これにしようかな」「ここはいいけどここはちょっとな」と保留にするものもある。そして保留にした本をふたたび読んで、目次を確認して、予算と相談しながら買うものを決める。

 

わたしは「超」がつくほどの優柔不断なので、1冊の本を買うために、2時間くらい悩んだこともあった。

どっちがいいかを決めかねてまったくちがう売り場に行ってみたり、なんならランチを挟んだりして、やっと決められるのだ。

 

でも電子書籍となると、そんな「手間」はかからない。検索したら、コンマ数秒で「最適」な本が表示される。

そのなかからレビューで高評価になっているものを選ぶ。多少迷ったら、評価が高い方を買えばいい。

 

逆に、いくらおもしろそうなタイトル、表紙でも、評価が「★☆☆☆☆(35)」だと、途端に興味がなくなってしまう。

いま記事を読んでくださっているあなたも、本屋で「いま買ったら重いからネットで注文しよう」と思ってamazonを開くと、思いのほか低評価だったから購入をやめてしまった、なんて経験をしたことはないだろうか。

 

ネットで本を買うのは、たしかに便利だ。でもそれによって、「みんながイイと思うモノがイイ」となってしまって、「自分が好きな本」を見つけられる人が減ってしまうんじゃないかな、と思うようになった。

 

「みんながイイ」と言うものが「イイもの」に見える

服なら、「自分に似合うかどうか」で購入するかを決める。

たとえネットレビューで「丈が短くてイマイチ」「生地が硬めでがっかり」なんて書かれていても、実際に自分が着て気に入ればその服を買うだろう。

 

とある曲に対して、「演奏レベルが低い」「サビが好みのアレンジじゃない」と言う人がいても、「じゃあ聞くのをやめよう」とはならない。

「わたしはこれが好きだから」とその曲を聞き続けるはずだ。

 

好みは人によってちがう。当然だ。

本だって、好みは千差万別で、自分と相性がいいものもあれば悪いものもある。これもまた、当然のはずなのだ。

 

それなのに、「ラストが消化不良」「この解説が物足りない」なんてレビューを見ると、その本が「自分にとってもつまらないモノだ」と思えてしまう。

そして、みんなが「イイ」と言うものは自動的に自分にとっても「イイ」ものだと思い込む。

 

たしかに多くの人が賞賛するものは「イイ」確率が高いが、必ずしも自分が気に入るわけではない。

自分が楽しむために本がほしかったはずなのに、インターネットを経由してしまうと、気づいたら「みんなが楽しんでいる本」を手にとってしまうのだ。

 

でも本屋なら、そんな他人の評価を気にしなくていい。自分で手にとって、自分の目で見て、自分が気に入ったら買う。自分が求めているものを、自分の判断で選び出すことができる。

 

好きな本は、自分で見つける

インターネットの発展により、「好みは多様化している」と言われている。通販を使えばロリータからアメカジまでさまざまな服が買えるし、音楽配信サービスを使えば世界各国の人気バンドの曲が聞ける。

それなのに、本は「みんながイイと言うものがイイ」という方向に流れ、多様化どころか単純化が進んでるんじゃないかな、なんて思う。

 

服や音楽とちがって、本を1冊読むのにはそれなりの時間が必要だ。お金を出して買って、時間を使ってまで読んだ本が「ハズレ」だったら、かなりがっかりする。できるだけハズレない本を選びたい気持ちは、だれしもがもっているだろう。

でもそれなら、たくさんの人が「イイ」と言うものじゃなくて、自分で吟味して「イイ」ものを見つければいいのだ。

 

そしてそれは、電子書籍やamazonではむずかしくて、本屋だから可能なことである。

ネットで本を買うことが悪いわけではないし、電子書籍はこれからも広まっていくだろう。これも時勢だ。スーパーのせいで減った八百屋しかり、携帯の普及によって撤去された公衆電話しかり。

 

ただ、自分で自分の欲しいモノを見極めるために、本屋という存在は絶対に必要だ。

「本屋」という存在を維持するために、「どうせならネットで買おう」ではなく、「せっかくなら本屋で買おう」と思う人が増えて、「本屋」が存続してほしいと思う。

 

だからわたしも、一時帰国したらまた、本屋で本を買う予定だ。

 

【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Christine und Hagen Graf)

りゅうちぇる、タトゥー批判に反論「この体で、僕は大切な家族の笑顔を守る」(ハフィントンポスト日本版)

 タレントのりゅうちぇるさんが、妻と息子の名前を刻んだタトゥーに批判的な意見が殺到した件について、8月21日、Instagramで「それなりに予想はしてたけど、こんなにも偏見されるのかと思いました」と明かし、「こんなに偏見のある社会 どうなんだろう。仕方ないよね。ではなく、僕は変えていきたい」と自身の思いをつづった。

りゅうちぇるさんは、「家族の名前を身体に刻もうと覚悟して」タトゥー(刺青)を入れたそうです。

これに対する批判の声がかなりあるのですが、りゅうちぇるさんは、その批判に対する自分の考えを、これまでの人生経験も踏まえて語っておられます。

 

僕は正直なところ、「覚悟や決意はわかるけど、なぜそれをタトゥーで表現するのだろう?」と思ったんですよ。

そして、こういう「タトゥーで決意表明」には、既視感があったのです。

あの「ビッグダディ」の元妻・美奈子さんは、2013年に著書『ハダカの美奈子』のなかで、こう書いておられます。

【読書感想】ハダカの美奈子(琥珀色の戯言)

これ以上、子どもたちにつらい思いはさせられない。あたしの弱さは、あたしが一番良く知ってるはずだから。

もっと強くならなきゃ。あたしがこの5つの命を背負ってるんだから。なにか証を残さなきゃ。そう思った。

最初は日記を書こうと思ったんだけど、3日ぐらいで挫折しちゃった。あたしって身の回りの物、アクセサリーだってピアスだってすぐ無くしちゃうから、物じゃないほうがいい。

じゃあなんだろうって考えたとき、「自分の身体に入れちゃえばいいんだ、その証を」って自然に思えたの。

誰かから勧められたとか、誰かの影響を受けたとかそんなんじゃなく、あたし自身がひとりで決めた。

「タトゥーを入れよう」って。

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僕はこれを読んで、思わず声を出して本にツッコミを入れてしまいました。

「日記にしとけよ!」って。

 

最近では、清原和博さんが、インタビュー集『清原和博 告白』のなかで、タトゥーを入れた経緯について語っていました。

清原さんは、現役引退後、何をやっても満たされた気分になれない日々を過ごしていたそうです。

清原和博「それで……、自分自身で新しいスタートにしたい、何かきっかけが欲しいという意味で、刺青を入れたんです。

自分を変えるためでした。野球界でユニホームを着るために刺青を入れたらダメというのは、彫る時には考えもしなかったです。自分に能力があれば、そういうものは関係ないと思っていましたから。

巨人のキャンプに白いスーツで行ったことが話題になったこともありましたが、あの時も野球界の慣例みたいなものがあることをわからなかったんです。沖縄だし、そういう白っぽい服装で行っても大丈夫なのかなって思っただけでした。

これは昔から思うんですが、世の中の人が思っている善悪と、僕が思っている善悪というのは違っていることがよくあります。

実際、刺青を入れてから自分の生き方が変わったかというと、うーん……、これはわからないです。

ただ、刺青は、ひとつ生きる意味として、やっておこうと思ってやったことなので。いまだに、生き方ということには苦しんでいます。もうずーっとそうですね、もうずーっとです……。」

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僕は、刺青といえば暴力団などの反社会的勢力を最初にイメージしてしまいますし、タトゥーを入れている人をみると、正直、怖い。

サッカーのワールドカップでも、メッシのタトゥーをみて、「どうしてそんなにグレてしまったんだ……」とか、勝手に思っていました。

 

海外では、タトゥーはそれほど「重苦しいイメージ」のものではないし、タトゥーを文化として誇りに思っている民族もいるのです。

日本にやってきた外国人観光客が、温泉やプールで「刺青がある方の入場禁止」というのをみて、「差別」だと憤っているというのも知っています。

おそらく、近い将来、「刺青があるから入浴拒否」というのは撤廃されていくことになるのでしょう。

日本人の刺青はダメ、外国人のタトゥーはOK、というのも変な話だろうし。

 

仮に反社会的勢力の人だったとしても、温泉の大浴場で素っ裸の状態で大暴れ、なんてことは、ちょっと想像しにくいし、最近のタトゥーは色落ちもしにくいみたいですし。

大浴場に自分以外は大勢の刺青の人たち、という状況を想像すると、やっぱりけっこう不安ではありますが。

 

僕の感覚では、りゅうちぇるさんに対しても、「なぜタトゥー?」なんですよ。

少なくとも、今の日本では、タトゥーを入れることのメリットというのは「入れた本人の自己満足」「ファッション」以外には思いつかないし(他人から、「良く言えば一目置かれる、悪く言えば敬遠される、ということはあっても)、タトゥーはちゃんとしたところで入れないと、肝炎の感染などのリスクもあります。

 

そもそも、自分の身体に傷を入れることと、家族が幸せになることに因果関係があるとは思えません。

むしろ、これからも芸能界で生きていくのであれば、りゅうちぇるさんには、デメリットのほうが大きいはずです。

それこそ、子どものための預金通帳でもつくっておいたほうがはるかに気が利いているし、日記のほうがお金もかからないし、アクセサリーのほうが安全です。

 

僕は、冒頭の美奈子さんの本を読んだとき、「世の中には、反社会勢力への忠誠の表明や若気のいたり、という理由以外で、タトゥーを入れる奇特な人がいるんだなあ」って思いました。

清原さん、りゅうちぇるさんも、僕にとっては、なぜそれがタトゥーを入れる動機になるかわからない「独自理論」でタトゥーを入れているのです。

5年間で僕が知っているだけでも3人ですから、こういう「反社会的勢力でもファッションでもないタトゥー」を身体に刻んでいる人というのは、けっこういるのかもしれません。

 

こういうタトゥーが合理的かと問われたら、第三者としては「メリットよりデメリットのほうがずっと大きい」と答えます。でも、「自分にとっては、タトゥーを入れることが正しい」と考えて、実行する人は存在する。

入れるのはけっこう痛いはずだし、他者からの視線が変わることも承知のうえで。

 

他人がタトゥーを入れていても、こちらとしては「ちょっと怖い」以外の実害はないので、批判するつもりはありません(怖くないほうがいいけど)。

ただ、「それ、タトゥーじゃないとダメなの?」と言いたくなるし、価値観というのは人それぞれなんだなあ、とあらためて思い知らされる話ではあります。

 

こういう「自分とは違った価値観を持った人たちと共に生きていく」のが「多様性」ではあるのだけれど、タトゥーひとつでも、こんなに「わからんなあ……」と感じてしまうのが現実なんですよね。

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Sergio Russo

今から数年前……日本に巨大な隕石みたいなモノがドカンと落ちてきた…らしい。

……まぁ理由は知りませんが、そんなこんなで『就職氷河期』は始まりました。

 

凍てつく寒さの中で、多くの就活者が凍死。私も寒さに震えながら懸命に就活をする若者の一人でありました。

なんとか生き延びようと仕事を探しにハローワークに向かうと……そこは独自の進化を遂げたモンスターで溢れかえっていました。

「オレを殺すつもりか!」と時にハロワ職員を突き飛ばすモンスター。

突然イスを蹴り飛ばすモンスター。

モンスター対モンスターなんてのもある。

 

みんな仕事が見つからない怒りや悲しみを向ける場所がどこにも無かったんだと思う。

しかし自分よりもはるか年上の大人たちが、「仕事が無い!おれはもう死ぬしか無いんだ!」とかなんとかハロワで泣き叫び暴れる姿を見るのはとてつもない苦痛でした。

(自分も将来あんなモンスターになるのかなぁ)と、想像してしまう。

「死にたいのはコッチのほうだ!」と逆に叫んでやりたい気分になった。

その日も、面接にすら辿り着かず。

仕事が見つからないまま帰宅。家に帰ると、祖母が出迎えてくれました。

「どうだった?仕事見つかった?」

「いやぁ、ぜんぜんダメだったよ」と正直に私は答えます。

「やっぱりねぇ~」とため息をつく祖母。

釣られて私も一緒にため息をつく。

すると祖母が私を励ますためか?こんなことを言い出しました。

「お父さんも昔は仕事が見つからなくてねぇ~?」

と……心の中で突っ込んだ。

私は就職氷河期真っただ中だけれど……父は『華のバブル世代』仕事なんて腐るほどあったハズ。

(一緒にされたくないなぁ)と少し嫌な気分になりましたが………おしゃべり好きな祖母は、バブル時代の就活話を一方的に始めました。

 

父は学校を卒業後、バリバリの無職だったらしい。

冷静に考えてみれば、それは至極当然の話で………

まず私の曾祖父は若い頃に会社でイジメられてから、引きこもり歴40数年のキンブオブ無職。

さらに祖父は酒と博打で家に一銭の金も入れないチンピラ無職。(※たまには働いていたらしい)

そんな『エリート無職』である父が無職になったのは、もはや宿命だとさえ思う。

そんな働かない息子を心配した祖母は、私に声をかけたように父にも尋ねたらしい。

「どう?やりたい仕事は見つからない?」

……すると父はこう答えたそうだ。

………………………………………………

……………………………………

……………………

……………

……?

もし無職の息子が「漫画家になりたい!」と言い出したら、あなたならどう答えますか?

うちの祖母はこう答えそうだ。

(なにがわかったんだろうか?)そして祖母は父の手を引いて都会へ向かい……。

デザイン事務所らしき場所(?)に突撃した。

「息子をここで働かせて下さい!」と頭を下げる祖母。

デザイン会社の人々はさぞ驚いた(迷惑だった)ことだろう。

とつぜん事務所に20歳前後の息子を連れた中年女性がやってきて、「息子を働かせてくれ!」と懇願し始めたのです……。

「奥さん無理ですよ…」とたじろぐデザイン事務所の社員さん。

「お給料は要りません!置いてくれるだけで良いですから!」としつこく何度も何度も頭を下げる祖母。

もちろん「そうですか!それなら良いですよ!」……とはならない。

祖母と父はアッサリ追い返されたそうだ。

すると祖母は……

と言って、さらに次のデザイン事務所に向かったそうだ。

そして同じように「息子を働かせてください!」と必死にお願いし続けたらしい。

しかし……………そうやって頭を下げて回っていると……なんと…………なんと…………

「うちで息子さんを引き受けますよ!」と言い出す会社があったそうだ。

すごい…………奇特な人もいたものだ……

こうして父は就職を決めた。

……こんなメチャクチャな身内の話を聞いていると、私としては頭と胸が同時に痛くなりました。

(これが私の祖母と父だと………!?)

成人した無職の息子の手を引いて「就職させてください!」と会社に突撃しまくった祖母……

良い話風には聞こえるが、ただの異常者による就活話である。

私は苦笑いして「えーすごいねー」と薄いリアクションをとるので精一杯。

孫に褒められた祖母は、誇らしげに満面の笑みを浮かべていた。

……………………………………

…………………………

……………

が………少し間が空いた後、鈍い私はやっと気が付いた。

祖母は何でこんな話をしたのか?

そう。

つまり祖母は私の手を引いて、一緒に仕事を探しに行くつもりだったのです。

いや、いやいやいやいやいやいやいやいやいや……

無理でしょう。キツイ。いろんな意味でキツイ。いやツライ。

80にもなる祖母が大きな孫を連れて「就職させて貰えませんか?」と言って回る姿を想像して欲しい。

おばあちゃん。

それ、みんな辛くなるヤツだよ?

私はすぐに床に頭をこすりつける勢いで下げて懇願しました。

「おばあちゃん!本当に無理だから!就活一生懸命やるから!自分で頑張れるから!探さなくて大丈夫だから!!!」

しかし祖母は笑顔のまま返事をしてくれない。

(ダメだ、祖母は他人の話を聞いてくれる人じゃない)

デザイン会社の人もこの笑顔の圧力に押されて、

シブシブOKしたに違いない。

 

祖母をこのまま放っておくと、私の仕事を見つけるために勝手に地元の会社を一軒一軒回りかねない。

そういう人だ。祖母は本気だ。

それから私は死ぬ気で仕事を探し続け……なんとか仕事を見つけることが出来た……。

フリをした。

……ちなみにデザイン会社に入社した父は、即バックレて、また無職に戻ったそうです。

無職って遺伝するのかなぁ?

 

まぁどう考えても祖母は異常な人だけれども……無職の父親と、無職の旦那と、無職の息子という異常な家族を養うため、女手一つで必死に働き続けたことは立派だったと思う。

もしかしたら、異常な人になるしか無かったのかもしれない。

その話の流れでついでに「おばあちゃんの時代の就活はどうだったの?」と、尋ねてみると……

「いやぁ~戦争だったからね!」と言われてウーンとなった。

 

どう生きるか?なにをして働くか?という事が選べない、なりふり構っていられない、そんな過酷な時代を生きてきたんだろう。

バブルも氷河期も戦争経験者には敵わないよなぁ……。

おしまい

 

【あとがき】

先日、祖母が亡くなったと連絡があったので思い出して書いた。

最後に顔を見たのはいつだったかなぁ……。

ばあちゃん、オレはちゃんと働いてるよ。

 

【プロフィール】

著者名:ハルオサン

18歳で警察官をクビになってから、社会の闇をさまよい続けた結果、こんなことを書いて生活するようになってしまいました。

『警察官クビになってからブログ』⇒keikubi.co

ツイッター⇒https://twitter.com/keikubi123

ちょっと前の話ですけど。

 

広報担当者が集まる場に招待されたので、ノコノコとでかけていきました。

私自身も、自社の広報を担っているので、みんながどんなことをしているのかなーと、興味は当然あるわけです。

 

で、彼らに混じって、話を聞くと、こんな感じです。

「広報って難しいですよねー。」

「そうですねー。」

「特に成果の定義が難しいですよね。」

「本当に。」

「どんな感じの成果設定になってますか?」

「メディアの掲載本数がメインですね。あとは格が高くて、大きな媒体に掲載されたかどうか。」

「ああ、うちもそんな感じです。」

「テレビとかの取材をうけるのにいい方法って知らないですか?」

「知り合いのディレクターを紹介しましょうか?」

「あそこの編集者をしってますよ。」

 

ほうほう……。

私が一番面白いと思ったのが、多くの広報担当社の成果が「メディアへの掲載」で測定されていること。

つまり

「日経に掲載されました!」

「テレビで紹介されました!」

「Yahooのトップニュースに……」

ということが広報の「成果」とみなされていること。

 

いやー、広報の仕事って、本当に大変ですね。

同情いたします。

まあ、今でも「日経に掲載されました!」って嬉しそうに語っている経営者は多いので、その企業では、「マスメディアに取り上げられること」が評価されることも頷けます。

 

でも、ちょっと立ち止まって考えてみてください。

それって本当に「広報業務の成果」なのでしょうか?

 

広報業務の成果って何?

会社によって、回答は異なって当然だと思いますので、成果の定義について議論する気はありません。

ただ、私が思う「広報業務」はもう少し広いものなので、メディアの掲載本数などをKPIとして使うことは、担当者に誤った活動をさせることになりかねない、と感じています。

 

では、どのような成果設定が適切なのでしょう。

 

そもそも「広報」を行う目的は、

「自社の製品、サービスのユーザー(および将来のユーザー)との間に、信頼を構築すること」です。

これに異論のある人はあまりいないでしょう。

信頼が構築できれば、ブランディング、販促活動、採用活動の全ての領域において、アドバンテージを得ることができます。

 

そう考えれば、大手メディア、マスメディアに記事が掲載されることのメリットは

「マスメディアに掲載されることが、ユーザーとの間に信頼を構築することにおいて重要だから」

という前提があればこそです。

 

しかし、「マスメディアへの掲載=信頼構築」という図式が壊れてしまっていたらどうでしょう?

信頼失う新聞・テレビは滅ぶのか 池上彰さんが「楽観できない」と語る理由

日本でもマスメディアに対する信頼性は下がっている。新聞通信調査会が2008年から毎年実施する「メディアに関する全国世論調査」では、NHK、新聞、民放テレビ、ラジオの信頼度が、いずれも過去最低となった。

また、総務省の「平成27年 情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」によると、全体ではテレビ62.7%、新聞68.6%と高い信頼度を保っているが、若い世代ほどその数字は下がり、テレビは30代で47.3%、新聞は20代で58.9%となる。(ネットはそれよりも圧倒的に低いが。。。)

(Buzz feed News)

これから社会の中枢を担う若手は、すでにテレビも新聞も多数が「メディアに書いてあることって、嘘じゃね?」という目で見ています。

もちろん、ネットはそれ以下で、雑誌は更に下(w)。

 

つまり現在は「メディアに掲載されるだけ」で信頼感が生み出される時代ではない、というのが本質なのです。

だから、広報業務を「(マス)メディアへの記事掲載をねらう仕事」とみなすのは、間違い、とは行かなくても、正しい認識からは少しズレています。

 

では現代に生きる人々の「信頼感」の源泉はどこにあるのでしょう?

ニールセンの調査を見ると、よくわかります。

日本人はどのようなメディアを信頼するのか、若者が共感できる広告のテーマはなにか

 

この2015年の調査によれば、34歳以下(現在は37歳以下)の人々の信頼する情報ソース上位は、

1.友人や家族の意見

2.企業のブランドサイト

3.インターネットに投稿された口コミ

となっています。

 

おわかりでしょうか?

信頼できる情報の主戦場は、すでにSNS、オウンドメディア、そして口コミの3つに移行しているのです。

つまり「信頼構築」に最も効果的なのは、「自社の出している記事をSNS、口コミで広く読んでもらうこと」に尽きます。

 

必然的に、広報業務の成果、広報担当者の成果は、「自社サイトのコンテンツをうまく拡散させること」になる、と言えるでしょう。

 

もちろん、この傾向は高齢者には当てはまりません。

シニア層、中高年層をターゲットとした企業活動においては、相変わらず「日経に掲載されました!」が有効です。

しかし、若い層にはそうではない。

 

経営層には、特に中高年の経営層には、どうか広報担当に誤った目標設定や、ドライブをかけないように願いたいものです。

 

 

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(Photo:Maite

きっかけはYouTuberだったのか、それともプロブロガーだったのか、よく知りませんが、右を見ても左を見ても「好きを仕事にしようぜ」というフレーズで溢れていると感じます。

 

とは言っても、私はそれを否定的に捉えているわけではありません。

「好きを仕事に」という考え方には大賛成です。

ただ、多くの場合、「好きなこと」=「稼げること」ではないですから、好きなことはプライベートの遊びの時間に行うもの、となりがちです。

 

でも、「好きなこと」が仕事の領域でも行えるとしたら、こんなに楽しい日常はないと思います。

事実、経営者やスタートアップ、フリーランスなど「自主自立」が要求される仕事についている人は、仕事とプライベートの垣根を持っていないことが多いです。

「好きを仕事に」できれば、豊かな人生を送れることは間違いないでしょう。

 

もちろん会社員であっても「好きを仕事に」は不可能ではありません。

小学生の時からプログラマーになりたかった人が、今会社で、プログラマーとして働けて幸せ、なんて人もたくさんいます。

出版の仕事につきたくて、頑張って就活して出版社に入って充実、なんてこともあるでしょう。

 

会社が嫌いな人からすれば、「会社好き」は敵である。

しかし、です。会社員が

「会社の仕事が楽しくて仕方がない。もっと働きたい。長時間労働もいとわない」とネットで発言すると、「社畜」やら「意識高い系」やら、揶揄されることも多いですよね。

自分に関係ない人なんだから、放っておけばいいのに、わざわざ「社畜」なんて言いに来る人がいるわけです。

 

まあ、これは当然のことです。

なにせ、生きるために“お金”が必要で、生活のためにイヤイヤ働いている人からすれば、楽しんで働いている人が妬ましいのでしょう。

もっと言えば、そんなに高くもない給料でそんなに働いてしまっては「労働力を不当に安く売っている」と思うわけです。

 

みんなが働く気をなくせば、会社が困って、もっと賃金を上げざるを得ない、なんてホンキで思っている人もそんなに少なくない。

だから、みんなにやる気を出されると、そういう人は困るわけです。

 

その気持もわかります。

 

でも実際は、会社っていうのは一生懸命やったほうが、充実感が得られやすいです。

これだけのめり込む人が多いのは、仕事が「ゴール」と「報酬」が明確に規定されており、ゲーム的だからです。

だから、決して「会社の仕事が好き」という人はいなくならない。

 

まあ、それはゲームをクリアまで持っていける「強者の論理」であって、仕事が嫌な人からしてみれば、「敵」というのは変わらないかもしれません。

 

会社が嫌いな人は「パラレルワーク」に活路を見いだす

そんな会社嫌いの人にとって、希望の光とも言えるのは、ひとつの収入源に依存しない、パラレルワーク。

私達のWEB業界で言うと、「アフィリエイト」はその部類でしょうか。

「全く面白くない」会社に依存せず、「自分の好きなやり方で」収入を増やしていきたい、という人は増えている気がします。

 

「簡単には稼げない」という方もいますが、純粋に収入だけを目的とした場合(規模にも寄りますが)、端的にパラレルワーカーの方が収入は増えやすいと思っています。

だから、私はいち経営者として「会社が嫌いな人」にはガンガン、パラレルワークを推進していってもらいたいな、と思うのです。

 

ただ、気になることもあります。

「パラレルワーク」を声高に叫ぶ人って、しばしば極端なんですよね。

会社員 <<<<<パラレルワーカー

みたいな図式で捉えている人、結構多いな、と。

 

これは私はあまり歓迎できません。会社員であるにしろ、複業を行っているパラレルワーカーにしろ、個人の価値は変わりません。

個人として出世を価値とする人も居れば、スキルを価値とする人、収入を価値とする人もいる、というだけの話です。

 

実際、会社員で与えられたフィールドを全力で走れる人は集約されたスキルが得られ、業界内でも重要な存在になっていきます。

点を多く作る「パラレルワーカー」に対して、目の前を全力で突き進んでいく「会社員」というイメージです。

終身雇用が難しい今の時代らしい生き方なのですが、コミット力の強い人間は必然的にどこでも生きていける存在になるのでは、と感じています。

 

ただ、「社畜」と揶揄されても仕方がないな、と思う人も中にはいます。

それは、「出世」のみを価値としている会社員たち。

 

経営者はよく「出世」をエサに会社員を働かせようとしますから、いち経営者の発言としておかしな発言かもしれませんが、出世はあくまでも「結果」であってゴールではありません。

それを目的化するのは、いかにも「小物」です。

もちろん、私は小さな会社の経営者としての経験しかありませんので、もしかしたら、会社の規模が大きくなると「出世」にまた違った意味が付加されるのかもしれないですが。

でも、実際には出世して与えられる部長・課長というブランドは、社外ではほとんど無意味です。

 

出世をゴール化するということが、会社員の選択肢を狭め、結果として

「会社に絶対服従」

「成果ではなく空気を読むことを追求する」

など、人の「社畜化」を助長させていると感じています。

 

(note :  https://maruyaman.net/n/n38a6a7450980)

 

【プロフィール】

名前:丸山享伸

会社に依存せず楽しく働きたい経営者。アイアンマン好きな2児の父です。

WEB制作会社(UNIONNET Inc.)の代表として「小さな会社の経営者の本音」をつぶやいたり・書いたりしてます。

 

twitter ▷ @maruyaman1984

note ▷https://maruyaman.net/

(Photo:Tyler Pruitt)

今年ダントツ一位に面白かった本を紹介しよう。

ふろむださんの、人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決っている、だ。

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この本の特徴を一言で言い表すと、実際の生活に応用できる行動経済学本だ。この種の本は、恐らく世界初である。

 

行動経済学というのは比較的新しい学問で、簡単に言うと人はなぜ合理的ではない立ち振舞いをしばしば行ってしまうのかについてを分析した学問だ。

例えば、ネットでしばしば話題になる画像として、採用試験に容姿が関係するかというものがある。

とあるTV番組では、これを実際に検討してみたところ、ほぼ全ての企業で美男美女が圧倒的に評価された。

採用試験なのだから、本来ならば仕事上の能力(学力等)が評価されるべきはずだ。

それなのに、このように結果が著しく容姿が整った人に偏ってしまうという事は、やっぱり容姿の美しさが人間の認知に作用したと考えるのが妥当だろう。

これは非常に有名な話で、実際いろいろな海外の有名大学のMBAなどでも教えられる。

けど、非常に興味深い事にこれを学生に教えると、学生は決まってこういうのだという。

「一般的にはそういう傾向があるのは事実かもしれない。けど、自分は優秀だから、こんな子供騙しみたいな手には引っかかりません。」

 

とある大学の行動経済学の教授は、学生があまりにもこう言うので、実際に学生を使って毎年毎年、簡単な行動経済学のテストを行うのだけど、今まで一度たりとも自信満々に「自分だけは例外だ」と言ってた人が、実際に例外だった事はなかったのだという。

私達は行動経済学の原理から逃れる事はできないのだ。この事を、まずあなたは優秀だからこそ受け入れるべきだろう。

 

実際に行動経済学を応用するのは非常に難しい

確かダン・アリエリーの予想どおりに不合理あたりがキッカケだったと思うのだけど、行動経済学関連の本は一時期ものすごく流行った。

[amazonjs asin="4150503915" locale="JP" tmpl="Small" title="予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)"]

上に示した例のように、行動経済学の話は、話のネタとしてわかりやすく非常に面白い。

だけど不思議なことに、その知見を自分に取り入れて、実際に活用しようとすると、不思議なことにこれが非常に難しい。

 

僕も、提唱者であるダニエル・カーネマンのファストアンドスローを以前にかなり丹念に読み込んだのだけど、考えてみると全く実生活に活用できていない。

行動経済学は読み物としては面白いのだけど、いざ活用しようとするとものすごく難しい。たぶん今までキチンと活用できていた人はほとんどいないんじゃないだろうか?

とまあ長くなったのだけど、この事がふろむださんの書かれた「人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決っている」が極めて優れた本である事をそのまま示している。この本はまさに、応用・行動経済学なのだ。

例えば、この本は冒頭で「なぜ容姿端麗な人が人から多く評価されるのか?」を図を用いて非常に綺麗に解説している。

先程の容姿の例でいうとこんな感じだ。

この場合、私達の直感は、こういうふうに理解してしまうのだという。

つまり、優れた容姿というのは、全ての能力にゲタを履かせる特殊効果を持っていたのである。

 

先程の面接官も、恐らく容姿で差別を行った結果、ああいう結果になったわけではなく、たぶん本当に真面目に面接したのだろう。

けど結果として、イケメン・美女モデルだけが選ばれたのは、容姿でゲタを履いた上での能力を、普通の容姿の大学生と比較した上で、フラットに比較してしまったのである。

そうなると、先の大学生がよっぽど優秀じゃない限り、面接で勝つのは難しかっただろう。

 

本書はこのような、人間が逃れることのできない認知の捻れを「錯覚資産」という言葉を用いて説明しており、その上で「錯覚資産」をどうやったら上手に上手く応用できるかを図をふんだんに用いつつ、非常にわかりやすく解説している。

 

錯覚資産を用いないと、この世では勝ち残れない

先の例では容姿を例に用いたけど、世の中にはそれ以外にも実にたくさんの錯覚資産がある。そしてこれらを上手く取り入れていかないと、実際問題この世の中で勝ち残る事は非常に難しい。

 

実はチャンスというのは、均等には訪れない。例えばさっきの例で言えば、仮にあの面接試験が本当に行われたものだとしたら、採用試験に落ちた人間には、そもそも成長する機会すら与えられない事になる。

そうなると、実際にモデルと大学生のどちらが本当に優れていたかは置いといて、そもそも成長する機会が与えられるのはモデルだけとなってしまうのである。

 

こう考えると、錯覚資産というのを自分の人生に取り入れないのは、自分に成長のチャンスを舞い込む可能性を著しく低下させることとなってしまう。

だから、「人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決っている」という題名になるわけだ。

 

実のところ、これを書いている筆者もインターネット上での活動では錯覚資産に随分とお世話になっている。

まず、最初に自己紹介で職業が医師である事を申告した結果、ほとんどの人は勝手に僕に能力があると「錯覚」してくれた。

実際は僕なんて大した能力があるわけでもない。リアルの友達で僕がネット上でこんな事をしていると言ったら、みんな卒倒すると思う(あ、医者なのは本当です)。

 

ただネット上では、みんなが勝手に良い方面に錯覚してくれたからか、結果的にネットで書いていた記事がバズり、それを通じてBooks&Appsさんで文章を書く機会を与えてもらえるようになった。

すると今度は、Books&Appsさんで書いた記事が何度かバズり、今度はTokyo FMさんに立て続けに出演依頼をもらい、なんとラジオに出演する機会をもらえる事になってしまった。

 

これはまさにこれは錯覚資産のわらしべ長者に他ならない。医者という錯覚資産をキッカケに、物事がどんどん勝手にはこんでいき、結果として成長のチャンスがボロボロ落っこちてくるようになったわけだ。

 

さっきも書いたけど、僕自信は本当の本当に、そんなに能力があるわけでもない。けど医者という「錯覚資産」をキッカケに、普通の人では到底得られないようなチャンスを何度も何度も頂ける機会を得られたので、結果としてそこそこ成長してしまったわけである。

そしてたぶんだけど、今後もこの「錯覚資産」のわらしべ長者はどんどん加速していく。これらの積み重なった実績は、僕に更なるゲタを履かせ、人々に僕を有能だと更に錯覚させ、またさらなる成長の機会を僕に舞い込む事だろう。

 

こうして考えると、やっぱり僕がチャンスを得られたのは、優秀だったからじゃなくて最初に医者というゲタを履いたからに他ならないだろう。そう、冒頭のモデルと全く同じだ。

最初にチャンスが得られないと、どんなに能力があろうが、それを活かす機会が永遠に訪れず、人は永遠に成功できないのだ。

 

だから僕は実体験を持って、この本がメチャクチャに正しい事を知ってしまっている。そして更に言えば、この本が本当に恐ろしいという事もよくしっている。実際、これは悪魔の書である。

 

ふろむださんは、なんちゅー恐ろしいものをこの世に生み出したのかと読んでて戦々恐々としてしまった位だ。

ふろむださん、こんなヤバイ本、本当に世の中に出しちゃってよかったんですか?

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Matt Madd

一人一人の子どもにはそれぞれ個性があってまちまちだが、それでも、親や友達との付き合いのなかで成長していく。

ホモ・サピエンスの子どもは環境にあわせて成長していけるだけの柔軟性を持っていて、自分の置かれた環境に合わせたコーピング(対処行動・処世術)をかたちづくり、心身を破綻させないようにする。

 

ところが昨今、思春期のコミュニケーションや人間関係のなかでドロップアウトしてしまう青少年が後を絶たない。

どうすれば、ドロップアウトしない青少年を育てる事が出来るだろうか?

 

残念ながら、確実にドロップアウトしない青少年の育て方が私にはわからない。

そのかわり、「これをやったらかなり高い確率で駄目な子が育ってしまう」メソッドなら幾つか挙げられる。

ほとんどの子どもは自発的に多くのことを学び、柔軟に成長していくわけだが、要は、それらを妨害するような子育てをやれば駄目な子が育つはずである。

コミュニケーション能力も、人並みの自発性も育まず、才能の芽を潰してしまえば、何のとりえもない、爪弾きに遭いやすい青少年を育成できるに違いない。

 

その際の基本方針は以下のようなものになる。

・どんな素養や長所も伸ばさない。

・どんな短所や弱点も埋め合わせしない。

・年齢にあわせて吸収すべきものを吸収させない。

・経験もなるべくさせない。

・自発性をなくしてしまうか、自発性が暴走するように成長させる。

・フィジカル面でも、成長や発達はなるべく妨げたほうが良い。

これらを実行さえすれば、その子は何の才能も開花させず、弱点をカヴァーしないままになりやすいだろう。

また、幼児のごとき暴君性を身に付けたまま社会に出るか、正反対に、なんにも自発性も持ち合わせないまま社会に出ることになるだろう。

 

これから示す幾つかのtipsは、私が無い知恵を絞って考えた、『駄目な子育成サジェスチョン』である。

確実に駄目な子を育てたいと祈っている人の参考に、あるいは駄目じゃない子を育てたいと願っている人の反面教師になればいいなぁと思う。

 

頑張った時には、とにかく褒めるな!

子どもが頑張って何かをやり遂げた時には、褒めてはいけない。

褒めたらいい気になって長所を創り出してしまうかもしれないし、「自発的に努めて成長する子」になってしまうかもしれない。

社会的に肯定されそうなことや、友達から喜ばれそうなことをやった時にも、親が褒めずに怒ってみせれば帳消しに出来る。

 

「何をやっても親に評価されない」という経験は、長所を踏みにじり、自発性を殺す方法としては強い部類に入る。

子どもがテストで99点をとって帰ってきた時などは、「100点を取らなきゃ駄目だ」と冷厳に言い放とう。キーワードは、「いくら頑張っても無駄」。

子どもが取り組んでいる事を見つけては貶めよう。

 

それから、失敗した時には厳しく叱責する事をお忘れなく。失敗から学習する隙を与えないよう、情緒的にただただ厳しくいこう。

「100点を取るのが当たり前、そうでなければ厳しく叱責される」と小さい頃から刷り込んでおけば、トライアンドエラーが出来ず、自分にも他人にも厳しい子に成長しやすく、自己肯定感もさっぱり育まれないだろう。

 

子どもが興味を持った事はさせるな!子どもが興味を持たない事をさせろ!

子どもが自然に興味を持った事は、将来、才能が開花してしまう可能性があるので、さっさと芽を摘んでおこう。

かわりに、親が良かれと思ったもののなかで、子どもが泣いて嫌がるものを習いに行かせれば、伸びるものも伸びなくなる。ピアノよりお絵かきに興味のある子にピアノを強制したり、サッカーより読書が好きな子にスポーツ塾に通わせたりすれば効果的だ。

前述の「とにかく褒めるな!」メソッドと組み合わせれば、まかり間違って才能を開花させてしまう可能性を最小限に出来るし、好奇心を潰しやすい。

 

欲しいものは何でも与えろ!我慢させるな!

努力できない子に育てるだけでなく、我慢のできない子にすることも不適応を促進する。

『子どもを不幸にするいちばん確実な方法は、 いつでも、なんでも手に入れられるようにしてやることである』とはルソーの言だが、何でも与えて、我慢させずに育てれば、小さな暴君をこしらえる事が出来る。

自分の欲望を我慢するすべを知らない子になれば、小学生時代から嫌われ者になれるし、中学生時代以降も前途多難だろう。

なお、食べ物の分野でもこの方法は効果的だ。

ファーストフードやジャンクフードなどを我慢させずに食べさせ、そうでない食べ物を嫌うに任せておけば、甘くて脂肪分が多く、便秘になりやすい食物ばかり食べるようになるだろう。

健康面で将来の芽を潰すという点では、食習慣を欲しいがままにしておくことには意義がある。

 

日常生活に関わる事は、親のアナタが全部してあげよう!

親バカを子どもに押しつけまくって、着替えも登校準備も全部やってあげるのも良いかもしれない。

中学生になってもママに制服のボタンをとめて貰っている子は、修学旅行の時にどうなるだろうか?

思春期に入る頃に体得していて然るべき生活技能をマスターしていない子は、あちこちで苦労するだろう。

「子どものため」をオーバーヒートさせて、なにもかも「してあげる」毎日を積み重ねれば、子どもの技能習得も自発性の獲得も大いに遅れる。

 

子育ての放任に関して

子育てを放任すると子どもが育ちにくくなると言われているし、だいたいそのとおりだが、放任しているだけでは子どもが親代わりの誰かを勝手にロールモデルにし、そこから学習し始めてしまうおそれがあるので注意が必要。

抜け目のない子どものなかにはと、案外どこかで学習のとっかかりを見つけ、そこから学び始めてしまうタイプもいるため、人間関係はできるだけ制限しよう。

また、いわゆるネグレクトは児童相談所にも目をつけられやすく、子どもが死んでしまうリスクもあるので、余計な干渉と、閉じ込めのほうが駄目な子育成としては確実性がある。

 

子どもがまずい事をやったら放置するか責任転嫁しろ

良いことを評価しないだけでなく、やってはいけない事を叱らず放置しておくことによっても、将来の不適応が促進される。

たとえば、子どもが人の持ち物を盗んだ時も叱らず、「盗まれた奴が間抜けだ」と笑っておけば、それにふさわしい倫理観がインストールされる。

また、子どもが他人に迷惑をかけて、親として(警察などに)呼び出された時にも、あくまで他罰的に、とにかく責任を認めず責任転嫁に終始しておけば、子どもの倫理観を混乱させやすい。

思春期になれば、子どもも親の倫理観がずれていたことに気づきはするだろう。

しかし、気付くのが遅れるほど倫理観の土台は危うくなる。子どもの倫理観の土台をグラグラにする手段として、親の倫理観が滅茶苦茶であることの重要性は高い。

 

理不尽に曝し続けよう

あなたの情緒がどういう時にどう変化するのかを学ばせてはいけない。キーワードは「理不尽な感情」。

たとえばなんの理由もなく唐突に殴ったり、逆になんの理由もないのに優しくされたりすると、子どもは情緒的に混乱する。

「何をすれば怒られやすいのか」「何をすれば優しくされやすいのか」の法則性が掴めない状態が続くにつれて、子ども自身にも理不尽でアンバランスな情緒が根付いていく。

現在の世の中では、理不尽な振る舞いや情緒は全く歓迎されないため、ただそれだけで大きなハンディたり得る。

駄目な子を育てるにあたって、情緒の混乱はかなり優先順位の高いファクターだ。

 

同年代の子から引き離せ!

子ども時代のコミュニケーションや友達関係は、思春期からいよいよ高度化していくコミュニケーションと人間関係の土台をつくっていく重要なプロセスなので、これを妨害しておけば、コミュニケーション不全な思春期に突入する確率は高くなる。

相手の思惑が読めず、ちゃんとした喧嘩も出来ず、共通の話題も持てないようにしておけば、その子にとっての学校は、じきに針の筵になるだろう。

具体的には、一人の稽古事、お受験、(完全に独り遊びの)テレビやゲーム、などがお勧めだ。

友達と一緒に遊ぶだけでなく、友達と一緒に勉強したりしても人間関係を学習してしまいかねないので、気の利いた塾は選ばないこと。極力一人で、部屋に籠もりっきりが望ましい。

 

まとめ

子どもが才能を開花させ、社会に適応していくための条件は子どもそれぞれによって違う。

とはいえ、最低限のコミュニケーション能力・友達付き合いの経験・情緒的な安定性などは、ほとんどの人の社会適応を左右するファクターであり、それらを度外視したまま思春期を迎えてしまうとドロップアウトする確率は非常に高くなるだろう。

そのことを念頭に置いたうえで、「駄目な子が確実に育つ方法」の基本方針をもう一度振り返ってみよう。

・どんな素養や長所も伸ばさない。

・どんな短所や弱点も埋め合わせしない。

・年齢にあわせて吸収すべきものを吸収させない。

・経験もなるべくさせない。

・自発性をなくしてしまうか、自発性が暴走するように成長させる。

・フィジカル面でも、成長や発達はなるべく妨げたほうが良い。

どんな子どももスクスク育つ、万能の子育てメソッドなんて存在しない。

しかし、ほとんどの子どもが避けたほうが良いメソッドなら、いくつも存在している。

将来、私が子育てに回った時、はたして私は、これらの”地雷”をちゃんと回避できるだろうか。この文章を読んだ数年~十数年後の私は、何を考え、何を思うのだろうか。

 

――『シロクマの屑籠』セレクション(2006年7月3日投稿)より

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Amos)

会社経営者であれば、あるいはビジネスパーソンであれば多かれ少なかれ誰にでも通じることだが、仕事は「最悪の想定」との戦いだ。

 

例えば、大口の発注があれば、喜んで商品を引き渡す前に取り込み詐欺を疑うこともある。

もっと身近な例で言えば、住宅ローンを借りる際にボーナス時返済を組み込むかどうか、迷うこともあるだろう。

多くの場合、リスクが大きければ大きいほど、やはり最悪を想定して動きたくなるのが人情というものだ。

 

しかし、日々仕事をしている中で突然襲いかかってくる事態では、「最悪とはなにか」を考えることすらできない、非常事態が発生することもある。

 

そんな中で、最悪の事態が何かを瞬時に判断し、最高の決断を下したにもかかわらず、世間から叩かれまくった人物を私は一人知っている。

仕事や生き方を考える上でとても参考になると思い、ぜひご紹介したい。

 

航空自衛隊、杉山政樹・元空将補の決断

その人物の名前は、航空自衛隊の杉山政樹・元空将補(以下敬称略)。

東日本大震災の時に、宮城県東松島市に所在する航空自衛隊松島基地司令であった人だ。

 

空将補は、昔で言う少将に相当する階級であり、展示飛行で知られるブルーインパルスやF-2戦闘機から構成される、第4航空団を率いる将官であった。

話の前提として少し情報を整理すると、空自松島基地は宮城県の海岸から、直線距離でわずか1kmほどのところに所在する。

そのため東日本大震災の発生直後、非常に大きな揺れに襲われたのはもちろん、時間の問題で巨大津波が押し寄せてくることが確実な情勢だった。

 

そして杉山は、地震発生から数分後に、牡鹿半島付近への津波到達予想が15時10分頃であるという情報を入手する。

牡鹿半島から松島基地までは、直線距離でおよそ30kmほどだろうか。

その距離を計算に入れ杉山は、津波はおそらく松島基地付近を、早ければ15時30分頃に呑み込むであろうと計算した。

 

そして実際に、松島基地が津波に呑み込まれたのが15時54分。

松島基地には、1機120億円とも言われるF-2戦闘機を中心に28機が駐機していたが、その全てが流され水没し、完全に使用不可能になった戦闘機もあるなど、甚大な被害を受けることになった。

津波によって航空機が流され、建物に激突する衝撃的な映像は当時繰り返し流されたので、あるいは記憶している人も多いだろう。

そしてこの時に杉山は、津波が15時30分ごろには到達するかもしれない、という予想を立てた時点で基地に所在する総員を直ちに、建物の屋上に避難するよう命令している。

 

すなわち、戦闘機を始めとした各種基地設備の放棄だ。

その決断を下せば、総額で数千億円にもなる戦闘機や航空機が全て水没し、使用不可能になることは間違いないだろう。

にも関わらず、その空中退避や保全措置を放棄して、総員に速やかな避難を命令したことになる。

 

金銭的な被害はもちろん、その防衛能力上の損失を考えるとこれら戦力の喪失を決断することは、余りにも重い。

会社経営に例えれば、わずか数分間のうちに、会社の屋台骨とも言えるような主力事業を直ちに捨てる決断を迫られたようなものだ。

しかし、杉山は迷わず速やかな総員退避を決断し、直ちに命令を下した。

 

ではなぜ杉山が叩かれたのか。

結果として、地震から津波到達までには1時間以上の時間があったために、実は航空機は救えたのではないか。

なぜ、わずかでも保全措置を取らずに余裕を持って総員を避難させたのか、本当にそんな必要があったのか。

戦闘機の損失が、我が国の防衛体制に与えた影響は深刻だ。

概ねこんな感じであろうか。

 

今でこそ、このような論調は大勢になることは無くなったが、当時は一部の「専門家」が口にするほど、杉山は叩きに叩かれた。

言うまでもなく、杉山の決断はそのような批判を受けることを十分に理解した上での、人命最優先の勇気ある決断であった。

 

今すぐ手に入る限りで一番上等の牛肉を買ってこい

ところで、いきなりで恐縮だが少し個人的なお話をお許し願いたい。

 

もうずいぶん昔になるが、私は24歳の頃に父を病気で失っている。闘病生活は長く、最後の入院は3ヶ月にも及んだだろうか。

日々、痛み止めの薬で衰弱していく父は次第に食も細くなり、やがてほとんど食事を受け付けなくなっていった。

 

そして、もはや食事を摂っても消化できるような体力も残されておらず、担当医から絶食が言い渡されるのは時間の問題であろうある日。

私の2歳年上の兄が、東京から父の見舞いに来た。

当時まだ20代の若いサラリーマンなので、給料も安く休みも取りづらいであろう中、兄は病状の進行に合わせて、片道3時間以上かかる道中を半月と開けずに父の見舞いに来ていた。

 

そしてその、絶食が言い渡されるのも時間の問題であろう日に病院に来た兄は、突然意味のわからないことを私に言う。

「金はいくらかかっても良い。俺が出すから、今すぐ手に入る限りで一番上等の牛肉を買ってこい。」

「はぁ?こんな時に豪華な飯の手配かよ。そんなもん自分で行けよ。」

「良いから行ってくれ、俺は俺で揃えるものがある。説明している暇はないから今すぐ行ってくれ!」

 

こんな会話だっただろうか。

余り気乗りはしないものの、取り敢えず言われたとおりに数件ほどの肉屋を周り、近江牛の上等の肉を買うことができて、病院に戻った。

すると兄はすでに何かをいろいろ買い込んでいて、私の肉を確認すると突然、「一人鍋」の準備を始めてしまった。

 

いくら個室とはいえ、そこは病院である。メチャメチャだ。

そして一人鍋に、私が買ってきた肉や別途買い込んでいた野菜などを入れると、固形燃料に火を付けて鍋を作り始めた。

兄が作ろうとしているものは、明らかにすき焼きである。

 

すき焼きは、父が家族のためによく作っていた手料理で、ほとんどの料理は下手くそで美味しくなかったが、不思議とすき焼きだけは本当に美味しかった。

一度だけ、父が不在の時に母が見よう見まねですき焼きを作ったことがあったのだが、父のすき焼きの旨さに比べて余りにも・・・であった程であった。

兄が作ろうとしているのはまさに、その家族の思い出のすき焼きだった。

 

とはいえそこは、繰り返しになるが病室である。しかも公立病院であり、多少のことは許されるような、融通がきくようなモノではない。

おそらく今やれば、そもそも火災報知器が反応して大騒ぎになるだろう。

(※絶対に真似をしないで下さい)

 

私は大いに焦り、

「こら、アホなことやめろ!」と兄を止めるが、

「うるさい、次に看護婦が巡回に来るのはいつも何時頃だ」

「そういう問題じゃない、見つからなければいいってもんちゃうやろ、今すぐやめろ!」

と小競り合いを始めたが、そんな二人を父はおもしろそうに眺めている。

 

やがて兄は本当にすき焼きを完成させてしまい、

「ほら、これ食べて元気を出してくれ」

と、肉や野菜を小鉢にとって父に手渡した。

父はそれを受け取ると、気力を振り絞るようにして、小鉢に少し浮いている汁を僅かにすすり、

「美味しかった。後はお前らで食べろ。」

と言った。

 

これが、父とともに食べる最後の食事になることは明らかだった。

そう思うと急に胸が詰まり、兄のやらかしたことに、これ以上文句をいうことなどとてもできなかった。

そして兄は、最終の電車でまた東京に戻っていったが、その時に父に手紙を残していった。

 

父は病床に座り、それを読みながら泣いていたことを知っているが、その手紙に何が書いてあったのか。

それから1ヶ月もせずに亡くなった父の葬式のあとに、遺品を整理していたら、それらしい手紙が出てきてつい読み耽ってしまった。

その内容は要旨、以下のようなものだった。

“僕は、お父さんの子供として生まれてきたことを誇りに思っています。

ラガーマンだったお父さんから教わったことは、ノーサイドの瞬間まで決して諦めない強さ。

それは今、この瞬間も学ばせてもらっています。

だから、僕も諦めません。これからの人生でも、何があっても絶対に諦めません。“

そんな内容であった。

 

模範と言うべき指揮官の判断

話を最初に戻したい。

東日本大震災当時、松島基地司令であった杉山の脳裏には、このまま総員を退避させれば国防に深刻な影響が出るほどの被害が出ることくらい、一瞬で理解できただろう。

おそらく1分くらいは、なんとかして所在の航空機を離陸させる手段はないか、なんとかして津波で流されないように処置をする時間はないか。

そんなことを考えたはずだ。

あるいは、数千億円もの被害を出せば基地司令としての責任は免れないと、自分自身の保身のことまで脳裏をよぎったかもしれない。

 

しかし杉山は、それらあらゆることを呑み込んで、徹底的な批判は免れない「即時、総員退避」を選んだ。

おそらくこの時、杉山が航空機を退避させることを選び、ギリギリまで作業に当たらせていたら、逃げ遅れた隊員たちが確実に津波に呑み込まれ、甚大な人的被害が発生していただろう。

非常に優れた英断であり、危機に際して、

「この状況での最悪はなにか」「この状況での目的はなにか」

を瞬時に峻別できた、模範と言うべき素晴らしい指揮官の判断であった。

 

なお後日談だが、仮に津波襲来時間を15時54分であると正確に予想できていたとしても、航空機の退避は時間的にも気象条件的にも無理であったことを、多くの空自OBが震災後に語っている。

そう言った意味でも、杉山の判断には一切の間違いがなかった。

そんなこともあり杉山はその後、航空救難団司令などの要職を歴任し2015年12月に勇退となり、誇りある自衛官生活を全うしている。

 

さて、私の兄のことである。

スケールが急に小さくなって恐縮だが、突然病室で固形燃料を焚き、一人鍋を作り始めるなど、私にはとてもできない“暴挙”だ。

しかし兄には、もうこれが父と食卓を囲める最後のチャンスだと正確に理解できていたのだろう。

 

正直、個室とはいえ固形燃料を焚くことは相当良くないことだ。決して正当化できない。

しかし誤解を恐れずに言えば、見つかっても本気で謝れば、なんとか許してもらえる可能性があったかも知れない。

(※今やれば、確実に火災報知器が反応します。謝っても絶対に許して貰えません。)

 

その上で、避けられない「最悪の事態」が間もなく訪れることを正確に理解し、「この状況での目的はなにか」を考えた。

おそらく兄の答えは、「父が、思い残すこと無く穏やかな最期を迎えられること」だったのだろう。

そして、最後に家族で思い出の食事を囲むこと。

「お父さんの子供として生まれてきたことを誇りに思っています」と、率直な思いを伝えること。

その2つを形にした。

 

つまり、相当な批判がある(相当怒られる)かも知れないことを理解した上で、目的に対してとても純度の高い行為を選んだということだ。

全てを正当化できるものではないが、それを含めてこんな兄を素敵なヤツだと今も思っている。

 

ふと、杉山元空将補の決断に兄の決断が重なったので、それぞれを引き合いに出して紹介させて頂きたくなった。

わけのわからない例えになっていれば、お詫びしたい。

 

仕事をしていく上では、時に厳しい決断を瞬時に下す必要に迫られることがある。

そのような時にはぜひ、「最悪とはなにか」「この状況で最優先すべき目的はなにか」という原点に立ち返り、そして目的に対して高い純度の行動を、直ちに起こすこと。

 

拙文が、そんな当たり前のことの重要性を改めて確認する、その機会になるようであれば嬉しく思う。

 

【著者】

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。

中堅メーカーなどでCFOを歴任し、独立。会社経営時々フリーライター。

複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を持つ。

(Photo:Shinji

6歳になる娘が、最近「明日からやる」と言うようになった。

 

例えば、娘は幼稚園から日別に課題を出されるのだが、その課題になかなか手がつかない。

今は夏休み中ということもあり、「課題はどうしたのか」と尋ねると、「あしたからやる」と答える。

 

なるほど。

だがこの発言はあまり望ましいとは言えない。

なぜなら「あしたからやる」は、弱い自制心の現れだからだ。

 

人生をある程度望ましい方向にコントロールする上で、「自制心」は非常に重要なファクターだ。

実際、スタンフォード大の心理学者、ウォルター・ミシェル氏は著書で次のように述べている。

自制心は長期的な目標を首尾良く追求するには欠かせない。

また、思いやりに満ち、互いに支えあう関係を築くのに必要とされる克己心や共感を育むのにも必須だ。

自制心があれば、幼いころに困難に陥ったり、学校を中退したり、物事の成り行きに無頓着になったり、大嫌いな仕事から抜け出せなくなったりするのを避ける助けになる。

そして自制心は、満足のいく人生を築くのに絶対必要なEQ(情動的知能)の根底にある「万能能力」だ。

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もちろん、大人になれば更に「自制心」は強く要求される。

クライアントからの依頼を確実にこなすこと、自分自身の能力開発を行うこと、家族のために時間を使うこと、友人との関係を保つこと……

自制心の欠如は、ありとあらゆるシーンで、ペナルティとなる。

 

私は娘に言った。

「明日やるという言葉は、今日からできることに対しては、言わないほうがいいと思う。」

「なんで?」

「……」

 

私は回答に困った。

自制心が大事だということはわかっているが、「なぜ、「明日」ではダメなのか」と率直に問われると、説明が非常に難しい。

 

「自制心をつけるため」という説明もしっくりこない。

なぜなら、「先送りするな」と脅して娘が課題をクリアしたとしても、娘の自制心を鍛えたことにはならないからだ。

むしろ「怖い人の言うことには黙って従え」という間違った教訓を与えることにもなりかねない。

 

「ぜったいあしたからやるからー」と、娘が繰り返す。

私は迷った挙げ句、

「わかった、明日は必ずやるんだよ」

と折れた。

私がきちんと説明できないことを娘に要求することはできないし、娘の意思を無視するわけにも行かない。

 

翌日。

残念ながら、というか予想通り、娘はまた課題をやらなかった。

 

私は娘が一向に課題を始めないことにイライラしていた。

「きのう、あしたからやるって言ったよね?」

 

流石に娘はバツが悪かったのか、

「言ったけど……」と口ごもる。

「ではなぜやらないの?」

「あんまりやりたくない気分」

「……」

 

 

人は、なぜ「いまサボれば(またはやってしまえば)悪い結果が待っている」と知りつつ、

「いま、楽をしたい」

「いま、快楽を得たい」

という衝動に負けてしまうのだろう。

 

上述したウォルター・ミシェル氏はその理由を脳の「大脳辺縁系」の機能によるという。

私達の大脳辺縁系は依然として、進化上の祖先の大脳辺縁系と同じように機能する。

今でも情動的にホットな「ゴー!」システムのままで、快感や苦痛、恐れといった情動を自動的に引き起こす強力な刺激に対する、素早い反応を専門としている。

生まれた時すでに完全に機能するので、赤ん坊はお腹が空いたり痛みを感じたりすると泣く。(中略)

このシステムは反射的で、単純で、衝動的であり、反応行動や興奮、衝動的行動を、たちまち自動的に引き起こす。

そのせいで未就学児はベルを鳴らしてマシュマロを食べ、ダイエットをしている人はピザにかぶりつき、喫煙中毒者はタバコの煙を吸い込み、腹を立てた虐待者はパートナーを殴り、性的な自制心を失った男性は清掃係の女性につかみかかる。

多くの人が知るように、この機能は極めて強力で、子供はおろか、大人ですらこれに抗うのはとても難しい。

 

だからこそ、ウォルター・ミシェル氏は

「幼いころに自制を可能にする戦略を学んで練習するほうが、長い人生を通じて確立されて根付いたホットで、自滅的で、自動的な反応のパターンを変えるよりも、ずっとやさしい」

と述べる。

 

そしてこの能力は、子供を親の思う通りにコントロールしようとすると、身につきにくいことがわかっている。

最初の研究のとき、子どもの選択と、自由意志があるという感覚を後押しすることで自主性を奨励した母親の子どもは、のちにマシュマロ・テストで成功するのに必要な種類の認知的スキルや注意コントロールスキルが最も優れていることがわかった。

これは、母親の認知的能力と学歴の差をバーニーらが考慮に入れたときにさえ、当てはまった。

ここからは次のようなメッセージが読み取れる。

すなわち、幼児を過剰にコントロールする親は、子どもが自制のスキルを発達させるのを妨げる危険を冒しているのであり、一方、問題解決を試みる際の自主性を支え、奨励する親は、子どもが保育園から帰ってきて、どうやってマシュマロを二個手に入れたかを嬉々として聞かせてくれる可能性を、おそらく最大化しているのだろう。

つまり、私は親として、娘に「課題をやる」という選択肢を自主的に選ぶ事ができるよう、技術と環境を与えなければならない。

 

では「今、ここ」を乗り越えるための技術と環境とは、一体なんだろうか。

人間の脳は「感情・気分」が殆どの場合「論理・事実」に勝ってしまうので、結果をそのまま予測することでは行動は変わらない。

娘がそうだったように、頭で理解していても、行動には移せないのである。

 

例えば

・たばこを吸うと肺がんになる可能性が上がる

・減量しないと高血圧、高脂血症などに繋がり、様々な疾患の可能性が高まる

というのは事実であるが、これを「知って」いても、行動は変わらない。

ではどうするか。

 

ウォルター・ミシェル氏は自分自身の禁煙体験をとりあげ、

行動すること、しないことの結果がもたらす「気分」を、よりリアルに想像することが効果的であると述べる。

 

実際、ミシェル氏はヘビースモーカーであった。

彼自身はタバコの危険性を合衆国衛生局のレポートを読み、知っていたが「喫煙は学者の生活様式の一部で、他の人も喫煙している」と自分を正当化していた。

だが彼はある日、スタンフォード大学のメディカルスクールで、ストレッチャーに固定された肺がんの男性を目撃する。

彼が看護師に話を聞いたところ、がんはあちこちに転移しており、今から放射線治療にゆくところだという。体にはあちこちに緑の印があり、それは放射線を照射する位置を示していた。

 

彼はこの光景を見てショックを受け、ようやく禁煙を決意した。

彼はタバコを嫌悪感をもよおすものにするため、灰皿に顔を突っ込んで思い切り息を吸い込み、がん患者の姿を思い出すように努め、三歳の娘に「娘は指しゃぶりを、氏はたばこをやめること」を交換条件として契約した。

結果的に、数週間で彼は禁煙することに成功した。

 

遠い将来に起きるかもしれない感情を、今シミュレーションすることで、人は今すぐ、行動することができるようになる

 

この考え方は様々に応用できる。

例えば、ニューヨーク大学のハーシュフィールド氏は、アバターの年齢を変えた場合、貯蓄性向に変化が出るかを見る実験をした。

(出典:マシュマロ・テスト 成功する子、しない子 早川書房)

すると、「自分の今の姿」のアバターよりも「自分の老後のアバター」を見せられた人のほうが、三〇%も多く貯蓄の意思を示した。

リアルな将来像が、普段とは異なる行動を促すのである。

 

つまり、自制心とはすなわち想像力の産物であり、「今すぐやる」は将来の自分の感情をどれだけシミュレートできるかにかかっていると考えてよいだろう。

 

 

私は娘に言った。

「今日、課題をやらなかったら、後でどんな気持ちになると思う?」

「んー……。いやなきもちになるとおもう」

「どんな?」

「あそんでても、たのしくなくなっちゃうし。」

 

「じゃあ、今課題を楽しくやるにはどうしたらいいと思う?」

「お父さんにいっしょにやってもらったら、たのしいとおもう。」

 

そう言うと、娘はおもちゃなどがない、廊下に向かって走っていった。

「妹ちゃんがいたり、おもちゃがあると、きになっちゃう。こっちでやる。」

 

ほんのちょっとの技術と、環境次第で誰でも自制心は身につけることができる。

そう思った。

 

 

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(Photo:Basheer Tome

どうも、

「単純な要件でも、システムの作りによって大きく難易度が変わる」

「システムは決して規格品ではなく、作る人によって全く出来が異なる」

ということが直感的に理解しにくいところが、色んな問題の根本原因の一つなんじゃないかなあ、という気が最近しています。

 

しんざきは、システム開発関連の仕事をしています。元々の専門分野はDB屋なんですが、まあ他にも色々やります。

で、当然のことながらユーザーと色々やりとりをして、仕様を固めて設計して開発して、みたいなことも何度もやっているのですが、その際何度も何度も聞いた言葉の一つに、

「ちょっと変えるだけでしょ?」

という言葉があるんです。

 

恐らく、システム開発に携わったことのある人であれば、何度となく聞いた言葉ではないでしょうか。

この「ちょっと変えるだけでしょ?」という言葉は一種の呪いの言葉、パワーワード・キルのようなものでして、ユーザー側と開発側の断絶を表す、一つの端的な象徴だと言っていいと思います。

 

いや、実際のところ間違ってはいないんですよ、この「ちょっと変えるだけでしょ?」っていう言葉。

要件的には、確かに「ちょっと変えるだけ」なんです。

・webページの文字のレイアウトを「ちょっと変えたい」

・帳票に表示されている文言を「ちょっと変えたい」

・レポートの一つの項目の数式を「ちょっと変えたい」

・自動生成しているテンプレートのヘッダを「ちょっと変えたい」

それぞれ、ユーザーにしてみれば確かに「ちょっと変えたい」だけなんだろうなあ、と思うんですよ。

それは理解出来る。「Excelだったら5秒じゃん」という言葉も、私実際に、この耳で聞いたことがあります。

 

ただ、システム開発をする側から見ると、「ちょっと変えるだけでしょ?」という言葉には多種多様な罠が含まれているんです。

・本当に「ちょっと変えるだけ」なのかどうかは、要件とシステムをきちんと精査してみないと分からない

・場合によっては、「ちょっと変えるだけ」なのにとんでもない工数がかかってしまうケースもある

・たとえ実際に「ちょっと変えるだけ」であっても、テスト工数を省くことは基本的に出来ない

・その為、ユーザーの規模感と実際の工数の乖離が非常に発生しやすい

・システムの作りによっては実際に小さな工数で収まる場合もある為、ユーザーが間違った学習をしやすい

・「ちょっとした変更」である為に対応に小回りを求められる場合も多く、「概算だけでもすぐ教えて」などと言われることがある

 

なんか書いてるだけで頭痛がしてきました。

まず第一の問題点として、「システムの作りによって、同じ修正案件でも改修の難易度や手間がまるで変わる」という点。経験則なんですが、これがどうもシステム開発に馴染みのない人にとっては凄く分かりにくいことのようなんです。

例えばの話、とある値を計算する為に使っている計算式を、ちょっと変えなくてはいけないとする。

ただの例なんですが、日次売上累計の金額について、

売上累計 = 売上単価 * 売上数量

だったところを、

売上累計 = 売上単価 * 売上数量 * 税率

に変えなくてはいけない、ということにしましょう。あくまで例なんで細かいところは勘弁してください。

 

これ

「システムAでは当該ロジックを一か所に集約して共通化していました」

「システムBでは、帳票ごとに計算ロジックが個別に実装されていて、同じような処理が10か所に書かれていました」

なんてことになった場合、単純に改修する手間だけでも、システムAとシステムBでは10倍違います。テスト工数を考えるともっと極端な差が開くでしょう。

 

問題なのは、この「システムAとシステムBの違い」というものが、実際にはもっともっともーーっと多岐に渡っていること、またこれくらいの違いはどんなシステムでも普通に起こり得ること、なんです。

 

ただ上の文章だけ読むと、システムBはとんでもなくまずい作り方をしているように見えるかも知れないですが、これくらいの「作り方の違い」は、ちょっと大きなシステムだったら内部でも全然普通に発生します。

システムの箇所によって開発業者が違って、それぞれ開発のレベルも違う、なんてことも珍しくもなんともありません。違うシステムであれば何をかいわんや、です。
で、この「作り方の違い」というものも、ちょっと確認すればすぐわかるようなものではないんですよね。

システムの規模次第では、ただ影響範囲を調査するだけでも一週間くらいかかったりする。

それに対して、「取り敢えず規模感だけでもすぐ出してよ」「概算でいいから見積もりしてよ」と言われても、正直「ムチャ言うな」となってしまう訳なんです。

 

これ、何度説明しても、ユーザー側にすごく伝わりにくいんですよ。

どうも、システムに馴染みがないユーザーは、工業製品のように「同じようなシステム・同じような機能なら中身も同じ筈」と思ってしまうようなんです。

だから、「経験的には大体どれくらいで出来そう?」なんて聞かれたりする。

 

同じようなシステムを過去いじっていたからといって、それと同じような規模感、同じような開発手法でうまくいく保証はどこにもないのに、それを求められたりするんです。

 

 

ちょっと話は変わります。

昨年来、「システム開発側」と「ユーザー側」の意識の違い、認識の差異が、重大な問題になってそうだなーと感じるケースに何度か遭遇しています。

新元号公表、改元1カ月前=「平成」残るケースも=政府の連絡会議が初会合

サマータイム制度の導入について

例えば元号の変更とか、サマータイムについての話です。

 

それぞれ、何がどう問題になるのか、どんなところに手間がかかるかについては、色んな解説記事が出ているのでここでは繰り返しません。

ただ、一つ絶対に抑えておかなくてはならないことが、

「サマータイムにせよ元号変更にせよ、システムによって実装の方法は全く異なるし、楽な場合もとんでもなく手間がかかる場合もある」

ということです。

 

こういうことを決定、ないし提案する層は、恐らく「それなりに改修コストがかかる」ということまでは認識していると思います。

しかし、これは断言していいと思うんですが

「改修コストの多寡はシステムの作りによって全く、完全に異なる」

「その為、社会全体における改修コストをある程度以上の妥当さで見積もることは不可能」ということはまず認識していません。

 

「ちょっと変えるだけだろ」とまではもしかすると思っていないかも知れないけれど、「過去の同ケースと同じようなケース・規模間で対応できるだろ」とはかなりの確率で思っていると考えます。

でなければ、「時計をずらすだけ」なんて言葉は出てきません。

 

悪いことに、「システムの作りの違い」による差分というものは、時間を経れば経る程その度合いを増していきます。

昭和が平成に変わった30年前と今では、システムの規模も、その複雑性も、開発手法も、開発者のレベルの幅も、遥かに大きくなっています。

つまり、「ちょっと変えるだけ」による影響度合いというのは、昔より更に見積もり困難になっている、ということになります。
これはまた別のURLなんですが、こんな記事も観測しました。

仕事で「技術的には可能です」と言うと「可能ならやってください」と言われてしまうので誰にでも分かる表現を考えたい

これもですね、まあ伝え方は色々あると思うんですが、「〇千万かかるって一緒に言えばいいじゃん」みたいな反応をしてる人も結構いるんですね。

 

これも上記のような事情をご存じない方の誤解で、「どの程度の規模・工数になるか」ということすら、ある程度誠実に答えようとするならちゃんと調査をしないといけないわけです。

ぱっとその場で答えられるようなことではないんです。まあ、その場で答えを求められることも多いんですが。

 

確かに、上のような諸々をなるべくわかりやすくユーザーに伝えるのは、システム開発をする側の仕事の一つではあります。

ただ、ユーザーの皆様にも、出来ればこれだけは覚えておいて頂ければなーと思うんです。

繰り返しになりますが、

「一見単純な要件でも、システムの作りによって難易度は全く違う」ということ。

「そしてそれは、ぱっと調べただけですぐわかるようなことではない」ということ。

「システムは規格品でも工業品でもなく、作る人によって全然中身が違う」ということ。

 

恐らく、これをちゃんと認識しているかどうかで、システム部門とのコミュニケーションは飛躍的に楽になるのではないかと。そう考えるわけです。

世の中のシステム開発担当者が、建設的な仕事に日々取り組めることを願ってやみません。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Open Grid Scheduler / Grid Engine

前回、東京医大の男女差別について書いた。

現役の医者が語る「医療の現場が男性医師を渇望する理由」

 

要約すると

「男女差別的な入試をしてしまったのは確かに良くない事だ」

「けど現状では男性医師による身を粉にした働き方が国民の幸福には必要であるというのも、また事実である」

「だから現場の医療者からみれば、東京医大のやった事にも同情の余地はある」という話だった。

ただあの記事を読んだ方の中で、こう思った人も当然いるはずだ。

 

「女性は妊娠・出産があるから社会進出が難しいというのならば、そのぶん周りの人達がバックアップしてあげればよい話だろう。

女性の社会進出を推し進める為にも、今後はそういう体制をしっかり整えていく必要があるのではないか」

 

実はこの問題も凄く難しい問題をはらんでいる。今回はそのあたりの事象を詳しくみていこう。

 

専業主夫を好きになれないハイスペ女子問題

「女性医師では回せないと言うなら、回す努力をしましたか?」

と、日本女性外科医会代表が問いかける記事が出された。

この記事は、東京女子医大の心臓血管外科の先生が書かれたのだけど、その中でこのような記述がある。

そもそも、出産は女性しかできないが、育児は父親でもできるはずだ。なぜ女性医師ばかりが、育児の負担を背負いこむことになるのか。

「女性外科医の夫の7割は外科医。外科では他の診療科よりも、夫の家事参加は多いとされていますが、そもそも男性医師は『お手伝いはしなくていいから勉強してなさい』と育てられてきた人が多い。家事や育児に進んで自分から参加しないのです」

この文章を読んで、ちょっとした違和感を感じないだろうか?そう、この文章は、父親≒医師で書かれているのだ。

 

そもそも普通に考えれば、女医のパートナーが医師である必要は全く無い。別に他のコメディカルだろうが、さらにいえば専業主夫でも全然構わないはずなのだ。

 

男性医師が家事をしないと嘆くのなら、男性医師となんて結婚しなければいいはずである。

家事をしてくれる男性だなんて、それこそ探せばどこかにはいる。それこそ、専業主夫と結婚すれば、何も問題はないだろう。

 

にもかかわらず、スラッと「男性医師は『お手伝いはしなくていいから勉強してなさい』と育てられてきた人が多い」と憤るのか。

そもそもの前提として、自分のパートナー選びがおかしいと、なぜ思えないのだろうか?

 

実は、ハイスペック女子は1つの根深い問題を抱えている。

詳しいことは荒川さんの超ソロ社会を読んでほしいのだけど、実はハイスペ女子は”自分よりも頭が悪かったり、収入が低い男性を、恋愛対象としてみれない”という悩ましい性質を持っている。

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男性の場合、一般的には若くて可愛い女の子を好きになる傾向がある。

だから、専業主婦を養う事にはあまり強い抵抗感はないし、実際、僕の友達にも外科系などの超激務系診療科に進んだ人は「自分が働くのだから、家の事は妻にやってもらう」と言って、専業主婦を娶った人が結構いる。

 

それなら女性のバリキャリ志向も、同じことをすればいいだけの話だ。

妊娠・出産があって社会進出が難しいというのならば、それこそ専業主夫志向の人と結婚して、彼らに内助の功を発揮してもらえばよい。

そうすれば、上に書いた僕の友人と同じように、超激務系の診療科だろうが、バリバリ立ち向かえるだろう。けど残念ながら、彼女らは専業主夫をあまり娶いたがらない。

 

これを言うと「誰を好きになるのかは自由だし、そもそも好きになる相手は選べない。自然に恋愛した結果、自分がカッコいいと思う男を好きになる事の何が悪いと言うのか」と憤る人が凄く多いのだけど、まず大前提として、これは誰も悪い話ではない。

あくまで、これは好みになる相手の嗜好の傾向が男女で差がどうしても出てしまうという事の結果なのである。

 

男は若くて可愛い女の子が好きで、その人を養うことに基本的には抵抗がない。

その一方で、女性が男性を好きになるのは、年収だったり知的能力だったりという、現代における狩猟能力といえる部分に魅力を感じる傾向が多い。

 

だから家事能力には全くパートナーとしての魅力を感じず、結果として「家事や育児に進んで自分から参加しない」人を好きになってしまう。

その結果、妊娠・出産を機にして、女性は家庭とキャリアを天秤にかけたとき、どうしてもキャリアを諦める傾向になってしまう。

 

もちろん、今の医療事情が、そういう一定の内助の功を必要とするようなハイパーな職場であるという前提に問題があるのは事実だろうし、そういうシステムは徐々に働き方改革で改善されていくべきだろう。

ただ、それならば女性だって、今後は専業主夫と言わないまでも、徐々に上昇婚志向を徐々に改善していく事は避けられないだろう。少なくとも、ハイスペ女性だけが何も歩み寄らないというのは、社会だって許しがたい。

 

仮に、保育園や家事育児関連の保証を徹底していくにしろ、それならそれで、そういう人達がハイスペ女子の幸せの為に、女医よりも低い賃金で使われるというのは、やっぱりかわいそうな話ではないか。

この問題は、ハイスペ女性だって取り組まなくてはならない問題が山積みなのである。

彼女たちが現在の社会制度の不平等を主張するのは当然の事だし、その権利は当然ある。けど、何も痛みを伴わずに権利だけ主張したところで、社会はそれを果たして受け止めるだろうか?

 

本来、医者のような職種というのは、ある種の社会的責務が伴うものだ。稼ぐものは一般の社会だけではなく、家庭という社会を通じてでも社会的な貢献が求められる。

”稼ぐ”人間は、ちゃんと家族を養う必要があるのである。今後は、そういう方面にも女医は社会的な責務を求められる傾向にはなるだろう。

 

性差は差別ではなく性質である

この議論に対し、西川史子医師は「女子の制限は当たり前」と、かなり真っ当な意見を表明された。

東京医科大の女子減点は「当たり前」 西川史子が指摘した医療現場の実態

実際、男女で完全に実力差で均等に枠を割り振ってしまうと、特定の診療科が著しく人数が減ってしまい、国民全員が困ることになる。

 

吉田あつしさんが書かれた「日本の医療のなにが問題か」には、男女別の診療科の選択差が書かれている。

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これによると、QOLの高い診療科に女医が集中する傾向にあるのに対し、いわゆる激務系の外科や循環器での女性の志向が著しく低くなっている。

激務系の診療科は、どんなに働き方改革をしたところで労働環境は抜本的には改善しない。

例えば、脳神経外科の腫瘍の手術なんて、手術時間は時には20時間を超える。素人がやってではなく、プロ中のプロがやってこれである。

そして残念ながら、医療職にはそういう、単純に人数を増やすことで改善できたり、働き方改革でなんとかできないような難しいタイプの職種が結構ある。

 

繰り返すが、こういう職場は、働き方をどんなに改革しようが、労働環境は抜本的には変わりようがない。

残念ながら、現時点ではやはり男性向きの仕事と言わざるをえないだろう。

こういう診療科がある以上、仮に完全実力主義で入試をやり、男女比が特定の年だけ著しく女性に偏ってしまった場合、激務系の診療科に行く人は激減し、結果として医者も患者も全員が困ってしまう事になる。

 

医者は、世間一般のホワイトカラーとは全くそぐわない部分があるのは純然たる事実である。

男性に向いた職種が一部に多いというのは、事実なのだ。そういう女性が一般的には選びにくい診療科がある以上、やはり男性を一定数選ぶ事にはそれなりの合理性はある。

 

性差は差別ではない。もちろん理想をいえば、そういう観点のみで物事が語られるべきではないのは事実だけど、そういうものがある事は、やはり受け入れなくては駄目だろう。

 

入試段階の平等と、入試以降の平等

実は日本の今の医療制度では、特定の診療科に何人行くのかをマクロな観点から割り出した後に、男女比をある程度決めている可能性がある。

どういう事か詳しく書くと、今の日本の医療制度では、基本的には個人は好きな診療科を選択して選ぶことができる。

そういう環境下では、1年のうち男性何人・女性何人が医者になるかがわかっていれば、どれくらいの人数が、どこの診療科にいくかのマクロな予想をする事はそう難しい事ではない。

 

ある特定の個人がどこの診療科に行くかのミクロな未来予想する事は難しいけれど、マクロであれば未来予想はそう大きくはずれない。

今の日本では、医者になった後で”個人が好きな科を選ぶ”自由を保証する代わりに、入試段階である程度の男女比の”制限”を行っていたのだろう。

 

だから、今回の女性差別ともいえるような振る舞いを撤廃して、男女比のマクロ予想を不必要とするのなら、今度は医者になった後での診療科選択に、診療科毎に制限がかかる事になるのは想像に難くない。

こうすれば、いくら男女比がメチャクチャになろうが、どこの科に何人いくのかを絶対的にコントロールする事ができる。

 

ただこれが果たして医者全体の幸せになるかといわれると、個人的には難しいな、と思う。やはり、やりたくもない事をやらされても、基本的には人は幸せにはなれないだろう。

自分自身でも思うのだけど、診療科の適性は本当に大切だ。ナヨナヨした人間を外科に放り投げても、誰も幸せにならない。

そういう所は、多少頭が良くなかろうが、ムキムキでガッツがある人間が行ったほうが絶対にいい。

少なくともか弱い女子を、無理に行かせない方がいいのは間違いなく事実だろう。

 

入試段階での差別が、後々で医者になった人間の幸福の代償となっていた可能性もあるのである。

やはり、ここにもまた難しい側面がみられる。せっかく医者になれたのに、行きたくもない科に行かされてしまったとしたら、それは果たして個人の幸せなのだろうか?

 

やはりこの問題は、難しいのである。少なくとも、一筋縄ではいかないのだ。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Matt Madd

漫画『ドラえもん』の世界で生きているのび太たちと、わたしが暮らしてきた世界は、ずいぶんちがう。

 

野球のボールが人の家の庭に飛び込んだとしても、「ごめんくださぁい」なんて声はかけない。

そもそも、ボールが人の家に入る可能性がある場所でボール遊びなんてしたことがない。かみなりさんのような近所のおじさんに怒鳴られたこともない。

 

地域によってもちろん大きな差があるだろうけど、昔に比べたらずいぶん『世間』が狭くなったのだなぁ、なんて思う。

 

『世間』が狭くなり孤独になるわたしたち

『世間』という言葉は『社会』と同じような意味に思えるが、実は『世間』には「自分の活動範囲」という意味もある。

たとえば「世間が狭いね」と言うのは、活動範囲が偶然かぶったことへの驚きだ。

 

『「空気」と「世間」』という本では、世間と社会の定義を、こんなふうにまとめている。

自分に関係のある世界のことを、「世間」と呼ぶのだと思います。そして、自分に関係のない世界のことを、「社会」と呼ぶのです。(……)

電車の中で、熱心にお化粧をする女性は、そこが「社会」で、自分には関係がないと思っているからできるのだと思います。

もし、一人でも、会社の同僚が乗り合わせて来たら、彼女は今まで通りには化粧派続けられないはずです。「社会」しかなかった空間に、「世間」が現れたからです。

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『世間』は同じ舞台上の出来事で、自分もそのなかの一員として体験するもの。社会は客席から見ている感じ、とでも言おうか。

 

昔はこの『世間』という舞台がオープンで、その舞台上にはたくさんの人、たとえば親戚や近所の人、同級生の親や友人たちがいたのだろう。

そしてその舞台上にいる人はみんな「関係のある人」だったはずだ。

 

でもいまは、『個人』という概念が重視されている。「自分は自分」「他人の言うことなんて気にするな」なんて言葉で、舞台の幕を下ろしている人が多い気がする。

舞台上には自分と、家族、数人の友人だけが立っていて、すりガラスの向こうにいるネットでつながった人々がじっとこちらを見ているだけ。

 

そんな状況を「日本も欧米のように個人主義な国になりつつあるのだ」なんて言う人もいるけど、それはちょっとちがうんじゃないかと思っている。

 

他人と関わりあう『個人主義』のドイツ

わたしは『個人主義』と言われるドイツで暮らしているのだが、実際に過ごしてみると、『個人主義』のイメージがかなり変わった。

わたしは『個人主義』に対して、「他人に無関心で自分優先」というイメージをもっていた。

舞台上の主役である自分に常にスポットライトが当たっていて、ほかのモブキャラなんてどうでもいい、という感じだ。

 

でも実際は、全然そうじゃない。むしろドイツでは、他人との関わりあいをとても大切にしている。

駅のホームに上がる階段を上っていると「電車が来るホームが変更になるよ。3番線だ」と声をかけられたり、電車が遅延したら向かいに座っている人と肩を竦めて「災難だね」と一言交わしたりする。

目が合ったら笑いかけ、レジでは「ありがとう。良い1日を」と言って立ち去る。

ぶつかりそうになったら「おおっと」なんて言って、お互い笑顔で「大丈夫?」「大丈夫大丈夫」と言う。

宅配の不在表には「向かいの○○さんに届けた」なんて書いてあって、後日「わたしの荷物あります?」と受け取りに行く(これはドイツの雑な郵便事情もあるのだが)。

 

ドイツはたしかに日本よりも『個』を重視するし、自立と自己判断を求められる。でもその一方で、日常的に多くの人が関わりあっているのだ。

ドイツでは舞台の幕は常に上がっていて、そばにいる人みんなが「同じ舞台にいる関係者」という感じである。

 

舞台に立っているのは自分だけという世界

日本……といっても地域で大きな差があるだろうけど、少なくともわたしの生活圏内は、そんな気軽に他人に話しかけられる雰囲気ではなかった。

コンビニの店員さんに「今日暑いですねぇ」なんて言ったら相手は困惑するだろうし、目が合った人に微笑みかけたらヤバイやつ扱いだろう。

それが異性なら、あらぬ誤解を招くかもしれない。というかそもそも、他人と目が合わない。

 

舞台の幕はいつも閉まっていて

「すみません、わたしはこういう者ですけども、中に入れていただけませんか」

と声をかけて了承を得なければ他人の舞台には上がれず、関わりあえない。

 

日本に一時帰国すると街の人びとがそっけない気がしてしまうのは、ドイツに比べて、他人であるわたしと関わろうとする人が少ないからだろう。

たとえば「田舎の温かみ」に憧れる人がいるけど、それは狭いコミュニティのなかで『世間の一員』として強制的に他人の舞台に上げられることで、人とのつながりを感じて癒されたいのだと思う。

 

いままで日本では『○○学校』とか『××社』とかっていう集団への帰属意識が強くて、同じ集団に所属している人はみんな同じ舞台に立つ仲間だと認識していたのだろう。

でもその『集団』という意識が弱くなることで、同じ舞台に立つ人がいなくなり、『世間』が狭くなってしまった。

そんな世界だからこそ、うまく人に甘えられなかったり、孤独感を強く感じたりして、生きづらいと思う人が多いんじゃないかなぁなんて思う。

 

個を重視するからこそ大切な『つながり』

これからは日本でももっと、『個人』が軸になっていくだろう。

でもそれなら、『世間』は広くなくてはいけない。そうでなければ、他人とのつながりをもたない孤独な『個人』が、自分のことだけを考える世の中になってしまう。

というより、いまもすでにそうなっている気がする。

 

道端の迷子に声をかけることすらためらい、具合が悪くても電車で席を譲ってほしいと言えず、子どもが泣いていてもそ知らぬ顔をする。

『世間』という舞台がオープンならば、身の回りの出来事はすべて「自分と関係のあること」だ。

迷子がいたらすぐに声をかけるし、「席を譲ってもらえませんか」と言えるし、泣いている子どもを一緒にあやしたりするだろう。

 

でも現代日本(少なくともわたしが知っている範囲)では、そんな関わりあいさえむずかしくなってしまった。

それは、さみしいことだと思う。

多様性を認めよう、人はみんなちがうのだから尊重しよう。そんなことを言っているのに、そこには人とのつながりがない。

個人が重視され、自分で人生を切り開く力が求められ始めた現代だからこそ、他人とのつながりをより大切にしていく必要があるんじゃないかなぁなんて思っている。

 

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【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:Eduardo Skinner)

所用があって、昔住んでいた町に立ち寄った。

その時にはもう、私が生まれ育った家はなくなっていたし、近所に住んでいた友人たちもほうぼう散って、そこは故郷でも、私のよく知る町でもなくなっている筈だった。

 

それでも見慣れた下町の風情や、昔はピカピカしていたマンションが、ベランダに干された洗濯物や布団といった生活に垢じみているのが目に入ると、ちょっとした郷愁が湧き起こって、私は昔よく遊びに通った神社に立ち寄ることにした。

もう日暮れ近い。玉砂利に夕日が差している他は、境内には誰もいなかった。

本殿の脇にある、小さな稲荷の祠の前で猫の親子がのんびりと毛づくろいをしている。

 

後ろで自転車が止まる音がした。

奇妙な予感にとらわれて振り返ると、少し離れた場所に、やせ細った骸骨のような老婆が自転車に乗ったままこちらを見ていた。

老婆は目を細めて私の顔を見ている。何かを言いたそうにサドルの上でもじもじとしていたが、私が黙礼すると、はっとしたように体を立てて自転車を神社の出口に走らせた。
私はあの老婆を知っていた。彼女は近所にあった駄菓子屋の婦人に違いなかった。

その駄菓子屋は、彼女とその夫が営んでいて、近所に住む私が訪れると、店主夫婦は嬉しそうに店の奥から顔を出して、私が100円の小遣いで駄菓子を迷い迷い買うのを、ニコニコと眺めていたものだ。

 

私にとっては、親切な近所の店であって、当然足繁く通っていた一方で、私の友人たちにはその店の評判はめっぽう悪かった。

店主の態度が悪い。

すぐに万引き犯扱いしてくる。

勘定を間違えられたので抗議しても悪びれるところがない云々。

そのどれも、私の印象とは全く違っていたので、そういう話を聞くたびに心にすっと冷たく重いものが入りこんで来るのを感じた。

 

私がその店主夫婦に依怙贔屓されているのだろうとは、気づいていた。

私の祖父が町内のごく狭い界隈で、名士と見なされていたことも関係していたであろう。

しかし、なにより、駄菓子屋の夫婦が私を見る視線に、別の、得体の知れない好意が含まれていることに気づいてもいた。

 

夫婦には子がいなかった。

祖父が昔語りに言ったところによると、昔苦心して産んだ子がいたが、幼くして亡くなったらしい。

あの夫婦にとって、毎日のように訪れてくれる私や、夫婦のお眼鏡にかなった子供は死んだ我が子の代わりでもあったのかもしれない。

私のほうも、礼儀正しく、明るく無邪気に振る舞うことで、その好意に報いてはいたと思う

 

それでも自分に故のない愛情を素直に喜ぶことができるほど、私は幼くもなかったし、全てをわかったうえで抱擁するほど天性の優しさを持っていたわけでもなかった。

やはりどこかで、まとわりつく、じっとりとした湿り気のような気味の悪さを感じていたようにも思う。

 

生家の近所には他にも酒屋のような店があって、私はよくそこに、みりんや醤油の一升瓶を買いにおつかいに行かされた。

スーパーはでき始めていたが、まだ家からは遠く、コンビニというものはまだなかった。

だから、酒の他は乾物ばかりを扱うその小さな商店も、下町の家々に挟まれて辛うじて商いが出来ていた時分だった。

 

店はだいたいにおいて無人であった。酒と缶詰やインスタントラーメンなどの食料品が、整然と並んでいる店内を、消えかけの蛍光灯が薄暗く照らしている。

私が目当ての商品を持って、すいませーん、と大声をあげると、ほとんど真っ暗になっている店の奥から、信じがたいほど腰の曲がった年老いた店主が出てきて、ヨタヨタと近づいてくる。

老人は商品を一瞥すると、○○円とぶっきら棒に言った。愛想がないと言うよりは、耳が遠いので、客とは何ら会話が成立しないと諦めている、氷のような孤独が感じられた。

 

その店に、30代後半ほどの女性がいた。噂好きの母によると、その老人の孫だったか、姪だったかで、結婚して家を出たが、結局離縁して出戻ったのだと言う。

彼女が老人のかわりに店番をつとめることがあった。

 

長い髪にうりざね顔で、若い時はさぞかし美人であったのだろう、と思わせる面立ちだった。

生活じみた垢抜けない服装と、諦観を示し続ける冷たい目の印象があって、彼女のまわりだけ光が失われていくような暗く冷たい印象をのこす女性であったのを覚えている。

彼女が店に出ている時は勘定の度に大声を上げずにすむので助かったが、彼女もまた老人と同じく固く表情を結んで、やはり無愛想で、何より、子供の私に何の興味も示さず、くれぐれも私のほうが彼女に親しみを表さないように、大人が生来もっている「隙」を、わざと作らないようにしている気がした。

 

私は、時々、腰の曲がった耳の遠い老人と二人だけで暮らす、その女性のことを想像した。

おそらく両者の間にほとんど会話はないのではないか。

彼女は暗闇の続く店の奥で、家事をする他は、あのどこか他の場所を夢見て現世を見ることのない瞳のまま、正座して静止している。

そんな不気味な絵を思い浮かべていた。

 

今になって思うと、子のいない家族や独身の女性について、幼い私は、随分と冷たい目線を持っていたものだと思う。

それは一番に、私や近所の住人が皆、家族や同じく暮らす一族というものに属しており、それらを総称する「家」の住人であったからだろう。

 

当時、「家」を持っていることはまさに「普通」の事であって、また人が生きている上で最低限に保証されてしかるべきものであった。

だから、その「家」を正しく持たない者は、口さがない町内で陰口を叩かれるし、当人もどこか後ろめたい、ぼんやりとした陰の中で暮らさねばならなかった。

さぞかし、生きづらい時代であったろうと思う。

 

 

時代が巡り、今では結婚をせず、または判断として子をもうけることのない人が増えた。社会全体の出生率は往時からは見る影もないほど落ち込んでいる。

人々が何故結婚しないのか、子をもうけようとしないのか、人によってはごく単純な答えが返ってくるだろし、様々な要因が複合的に重なったものだ、という見解もある。それらを包括した上手い言い回しもあるかもしれない。

 

私はその方面に詳しいわけでもないので、そのような論評を見る度に、いちいち納得はするのだが、さりとて、政府や社会がこれから取るべき方策についてこれといった名案を思いつくでも、ある主張に飛びつくでもない。

自分でも、私が家庭を持たない理由や、社会がどうしてくれればその気になるのか、明確に自信を持って答えることができないのである。

 

このような問題は「人それぞれ、色々だ」としか言いようがないという気もする。(その「色々」が存在することに社会の責任があることもまた、事実ではあろうが)

とにかく、多くの人にとって「家」を持つことも、「家」を繋いで次代に託すということが、容易ならざる時代になっている事は確かだろう。

しかし、同時に、「家」を持たない者が社会の中で異分子扱いされなくなって、毎日の食事は24時間営業のコンビニで調達でき、お盆や正月でも、マクドナルドが開いているという世の中は、私のような独身者には有り難いとも思う。
一方で、忘れがちだが、「家」が所与のもので、あって当然のものであるという気持ちが、まだ私たちの精神を縛り続けているのも事実だ。

ネットの掲示板などで、アラサー、アラフォー女子が800万円もの年収を男性に求めたり、40代のバツイチのおじさんが20代前半の女性を希望したりしていることが、滑稽な情景として語られることがある。

多くは「身の程知らず」であるという論調だが、かつてあった「家」という概念が彼らを縛り続けているのだとすれば、それもまた酷な見方だと思わないでもない。

 

アラフォー女子たちにすれば、高齢出産や子育てで、仕事のキャリアが継続できないであろうという前提のもとに、せめて親並みの結婚生活をしたいと思う、ただそれだけの「希望」を叶えることを、明確にはっきりとした「条件」として示すなら、現実離れした「年収」の数値としてそれを表現するよりない。

また、バツイチおじさんたちからすれば、今更ながら子供を生んで、年老いた両親にも可愛がれそうな嫁を持とうという、これまた「希望」を、結婚相手の「条件」として表現した結果が、結婚相手に不釣り合いな年齢を望むことになった、と見ることもできる。

彼らの婚活がおそらくは上手くいかないであろう事は、はっきりと「家」というものがこの社会で維持できなくなっていることを示している。

そしてそれは、きっと何か明確な悪者や過ちがあってのことかもしれないし、いつの時代も起きうる「変化」の一つに過ぎないのかもしれない。ただ、そうなってしまった。と言う他ない。

 

 

ある秋の日、母が一緒に父の墓参りに行こうと言い出した。

道すがら、母は隣のコンビニで店長をしているおばさんの息子が結婚したよ、と私に言って、店長との一連の会話の様子を話した。

 

母は「いいですねえ、うちは兄も弟も結婚できません。羨ましい限りです」みたいな事を店長にぼやいたのだが、店長の恰幅のよいおばさんは

「奥さん」と母の目を見据えて言った。

「結婚するだけなら誰でもできまっせ!」

母がその話をするのは、明らかに私に対する当てつけであったが、私も慣れたものだったので、鷹揚に聞き流すことにした。

そして結婚について考えた。

 

伴侶の当てもない。結婚できたとしても、子供ができた時の算段がつかない。金がない。ついでに言うと家もないのだ。

私にとって、結婚や家族を持つということは、一つの憧憬ではあった。

だが、それはステレオタイプな幸せのイメージにすぎなくて、まったく現実感を欠いていた。

 

父の墓に線香を上げた。墓前で二人、しばらく話をした。

母は、自分が死んだら父の墓に入る、あんたは次男だから、家族を持ったら新しく墓を作るだろうから、別の墓になるね、という事をしんみりした様子で言った。

私は母の楽天的な見方に半ば呆れて、

「オヤジの墓にオカンと、兄貴、俺。全部で4つ。みんな一緒に入る、思うけどな」

と言った。

 

「なんで誰も結婚せんねや!」母がさすがに怒って言った。

そしてその調子のまま「そんなことあるかいな」と言い捨てて、私を置き去りに歩き始めた。

 

山を削って作られたその霊園の小高い丘に、私たち「家」の墓はある。

そこからは大阪湾が望めた。青々とした水平線からよく晴れた秋の空が続いている。

海に向かって長い階段が伸びていて、母がそれをブリブリとした様子で下っていくのが見えた。

沖に作られた人工島から豆粒ほどの飛行機が飛び立つ。

 

私たちは、ここでなら、相変わらず家族でいられるのかもしれなかった。

 

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【プロフィール】

著者名:megamouth

文学、音楽活動、大学中退を経て、流れ流れてWeb業界に至った流浪のプログラマ。

ブログ:megamouthの葬列

(Photo:Wyatt Fisher)