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Books&Apps編集部

秘密の花園の伐採

私の年代を三文字で表すならば、お世辞と忖度を最大限に効かせたとしてもBBAだろう。

それでもまだオンナとしての可能性を捨てきれない私は、恋愛や結婚という妄想を大切に温めている。

 

なんせ今のご時世、価値観というものに変化が起こり、あらゆる差別が禁止されつつあるわけで、そうなると見た目や年齢という表面上のモノサシが機能しなくなる未来が近いといえる。

 

ということは、現在のモテ基準も様変わりするはずだから、BBAのモテ期が到来するかもしれないわけで。

 

そんな輝かしい未来を迎えるためにも、私はとある覚悟をもって"まだ見ぬ世界"へ踏み込む決心をした。

それは、謎のベールに包まれた秘境の開拓・・いや、謎の毛に覆われた"秘密の花園の伐採"である。

 

渡りに船

そもそもなぜ、陰部に毛が必要なのだろうか。

諸説あるが、「フェロモンを留めることで異性をひきつける」「外部からの刺激を守る」「保温・細菌やウイルスの侵入を防ぐ」などが有名だが、断定できる理由は不明とのこと。

 

そんなことよりも、人生でオンナを謳歌できる時間を有意義に過ごしたい私は、女性のシンボルであるデリケートゾーンの脱毛を決意した。

 

日頃からアンダーヘアの形を整えたり長さをカットしたりと、それなりに手を加えてはいた。

だが、そんな手間を繰り返すくらいならいっそのこと無毛にしてしまおう・・ということで、陰毛の完全除去を目論んだのである。

 

ここで問題となるのは、医療脱毛とサロン脱毛のいずれを選択するかである。

 

ところが意外にも、私はあっさりと"サロン脱毛"を選択した。理由は簡単、友人らの体験談を聞くうちに「医療脱毛はめちゃくちゃ痛い」という事実を知ったからだ。

しかも絶妙なタイミングで、友人が脱毛サロンをオープンさせるというニュースを聞きつけ、「まさに渡りに船だ!」とばかりに飛びついた。

 

よく「知り合いに局部を見られて、恥ずかしくないの?」と聞かれるが、たしかに最初は躊躇した。

しかし、どうせなら気心知れた間柄のほうがいいのでは?と考えたのである。

 

なぜなら、施術者たるものVIO(デリケートゾーン各部位の総称)に関する眼識を持っているのだから、他人と比べてなんらかの異変があれば、友として意見してくれるはずだからだ。

そんな邪(?)な狙いもあり、私は友人に"御開帳"を決めたのである。

 

御開帳の朝

アンダーヘアに別れを告げる日がきた。これは同時に、局部の毛を自らの手で剃り落とすという、重要任務を遂行する日でもある。

(ちょっとは残したほうがいいかな・・・)

 

あれほど息巻いていたくせに、なんだか急に弱気になる私。——多少なりとも毛があったほうが、自然なんじゃないか。

だが「理想的なチョイ生えにするのは、すごく難しいからね」と友人に釘を刺されたため、全剃りの覚悟を決めた私は、いざ局部と向き合うことにした。

 

使用するのは顔そり用のT字カミソリ。細部まで届くコンパクトヘッドと、肌に優しいセーフティーガードのおかげで、秘密の花園も安全かつ綺麗に伐採できるはず。

友人からは「剃り残しのないように、ちゃんと処理してよ!」と念を押されているため、ただでさえ身体の硬い私は入念にストレッチを行い、バスタブに片足を乗せると思い切って己の股を覗き込んだ。

 

——それはなんとも不思議な光景だった。そもそも、自身の陰毛がどのように生えているのかなど、知る由もないのだから。

たとえば範囲や本数について、正面から目視できるV(ビキニ)ラインであれば日々確認できるが、I(陰部の両側)とO(肛門周辺)については、わざわざ覗き込むこともないため、その辺りの毛がどのように生育しているのかは全くの謎だった。

 

とはいえ、生え方や毛量を知ったところで数時間後には根絶やしにされるのだから、大した問題ではない。

とは言うものの、人生で初めて自身の陰毛と向き合う機会を得たわけで、人体の不思議というか体毛の存在について、しばし考えさせられた。

 

(・・やっぱり不要だよな)

およそ10分の格闘の末、私は見事に陰毛伐採を果たしたのである。

 

アンダーへア討伐

照明を落とした薄暗い空間で、私は友人と向かい合う。

「全裸でいいんだよね?」

VIOを含む全身の脱毛をするのだから、全裸以外に答えはないはず。だが間違って全裸になったのでは気まずいため、念のため状況確認をする。

「当然だよね?」

・・そりゃそうだ。

 

施術中は室内を明るくするため、私の顔にはタオルが掛けられていた。

しかし、その隙間から見える彼女の表情は真剣そのものだった。特にデリケートゾーンに差し掛かると、言葉数が減った上に眼光の鋭さが増したことで、その姿は鬼神にすら思えた。

(あぁ、鬼神相手に秘部を御開帳とは、なんとも不思議な気分である——)

 

 

施術後、他人の陰部を散々拝んできた友人に、その心境について尋ねてみた。

「もう"無"だね。あぁ陰部だな・・っていうくらいで、なにも感じないよ」

たしかに、いちいち反応していたのでは施術に影響が出る。

 

それだけでなく、顧客が施術者の異変に気づく可能性もあるだろう。なぜなら人間というのは、身ぐるみ剥がされ全てを取り上げられた状態のほうが、感覚が研ぎ澄まされるからだ。

微かな戸惑い、一瞬の躊躇・・そんな些細な違和感を、全裸の人間は瞬時に察知するのだ。だからこそ施術者も、心を無にして挑まなければならないわけで。

 

——アンダーヘア討伐というのは、施術者と顧客との究極の真剣勝負なのだ。

 

男のアンダーヘア事情

サロン脱毛の場合、医療脱毛と比べて施術回数が倍以上となる。その理由は、照射する光の出力が弱いため、痛みが少ない代わりに回数が必要となるからだ。

だが、細い毛や産毛にも効果が及ぶため、気長に通い続ければあっという間に全身ツルツルになれる。個人差はあるだろうが、私は3回目で明らかな減毛を感じたため、その後のムダ毛処理は非常にラクになった。

 

そんなある日、後輩(男)が怪しい会話をしている場面に出くわした。

「そんなにもらえるなら、俺がやるよ!」

——そんなにもらえる、ということはカネ絡みの話か。無知な若造が事件に巻き込まれるのを阻止するべく、BBA代表として私は会話に割り込んだ。

 

「この子、美術系の高校に通ってて。それでヌードモデルが必要らしいんで、俺がやろうと思ったんすよ」

なんと、裸は裸でも芸術の話だった様子。これはこれは、勝手に先走ってしまい失礼しました。

「あ、そういえば俺、アソコもツルツルだけど大丈夫かな?」

突然のカミングアウトに、私は思わず反応した。——なんだと?オマエも処理済みなのか!

 

男のVIO脱毛に興味津々の私は、二人の会話などお構いなしに、根掘り葉掘り後輩を追究した。中でも衝撃的だったのは、彼が発した最初のセリフだった。

「紙パンツ履かされるんすよ、全裸で」

——か、か、紙パンツ?!これから施術する部位を、なぜ隠すのだ?!

「あれは、今までの人生で最も恥ずかしいというか、情けない姿でしたね・・・」

にやけ顔で後輩が語る。しかし、「なぜ紙パンツを履かされたのか」という理由までは不明とのこと。

 

そこで私は、ベテラン施術者である友人に「なぜ男性に紙パンツを履かせるのか」を尋ねてみた。するとこれまた衝撃的、かつ、あまりに合理的な回答に、驚きつつも感心してしまったのである。

「竿に触れるわけにはいかないから、紙パンツでずらすんだよ」

 

施術者が女性の場合、さすがに「男性の局部丸出しはマズいだろう」という配慮から、顧客に紙パンツを履かせるのだそう。

だが実は、そんな配慮よりも納得できる"現実的な理由"があり、それこそが「施術中に突起物が邪魔になった際、直に触れずに紙パンツを使ってさりげなく位置を変える」というものだった。

 

これを聞いた私は、思わず膝を打った。なるほど!それは確かにその通りだ——。

 

 

今のご時世、アンダーヘアの処理は身だしなみの一つといえる。誰に見せるわけではなくとも、蒸れによる異臭や排泄物の付着を防ぐべく、男女問わず"VIO脱毛"を検討してみてはいかがだろうか。

(了)

 

 

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【著者プロフィール】

URABE(ウラベ)

ライター&社労士/ブラジリアン柔術茶帯/クレー射撃スキート

URABEを覗く時、URABEもまた、こちらを覗いている。

■Twitter https://twitter.com/uraberica

Photo:Kornrawee Sawasdeephol

長い社会人生活で、そこに自分の道を見出してしまったのか、「粗探し大好きマン」として、他者の失敗をあげつらうのを生きがいとする人間は、どこの組織にも多かれ少なかれいる。

 

原因は人それぞれだろうが、このタイプに共通しているのは

・批判はするけれど対案は出さない

・「チェック」と称してとりあえず無意味な意見を出す

・相手にダメ出しをして自分が優位に立ちたい

そして、根拠のあるなしに関わらず自分を優秀だと思い込んでいることである。

 

社内で「口だけ」とのコンセンサスが持たれている場合は、単に不快なだけで済むが、組織によってはそんな人間がうっかり出世したり、高い職位にのさばっていたりすることが往々にしてある。

こうなると「粗探し大好きマン」は、不愉快な存在というだけでは済まなくなる。

 

相手の職位によって対応は変わってくる

現場で頑張っている時に外野からノイズを投げかけられることほど嫌なことはない。

 

真面目に働いている人からすれば

「明日にでも突然蒸発してくれ」

と願わずにはいられない存在だが、この手の輩は避けていても往々にして絡んでくるから厄介だ。

 

そこで、対峙しなければならなくなった際に考えるべきは、相手の社内でのポジションだ。

 

(1)粗探し大好きマンが部下の場合

自分のことを優秀と思い込んでいて、指示を全く聞かず、理由をつけて手を動かさない。

そして、真面目にやっている同期のやる事にケチをつける。

 

そこまで言うなら君が担当したらと問うと

「何で僕がやらないといけないんですか」。

 

筆者がかつて日本の出版社で中間管理職をやっていた際、実際にいた若手である。

「こんな意味のない会社さっさと辞めて、起業しようと思ってるんで」

が口癖で、上の人間は一体何を見て採用したのか、謎が謎を呼ぶ人材だった。

 

が、中には使える粗探しマンもいる。

自分では何も生み出さないが、他人のミス指摘に関しては超一流なので、その特性に合った仕事を与えると、意外に輝いたりする。

 

編集業務には誤字脱字チェックなどの校正という仕事があるのだが、それはある意味「粗探し」と言えなくもなく、中にはその適性がある人物もいた。

もっとも、存在が不快なことに変わりはないし、指摘する以上の立場を持たせると暴走するので、あくまで間違い探し係として使うだけにとどめる。

 

他業界でも同様のケースはやはりあるらしい。

「うちにもまさにそういうの、いるんですよね」

と言ったのは、長く友達付き合いをしているAVメーカーの広報。

他人の些細な落ち度であっても、気づいたら誰彼構わず噛みつく狂犬のような社員がおり、人間性は最悪だがそれでも会社としては必要な人材なのだという。

 

「作品を審査機関に回す前に社内でモザイクチェックをやるわけなんですが、他の人間なら見落とす一瞬のずれなんかを、奴は目ざとく見つけるんですよね。ある意味職人というかもはや機械みたいな精度で、モザイクマシーンとして重宝されてます。まあでも、皆に嫌われ抜いてますが」

 

彼らを無理に矯正しようと思わないことだ。

人間、出来上がった性格はそう変わるものではなく、努力は徒労に終わる可能性が高い。

 

そんな場が常にあるとは限らないが、逆に、その性格を活かせる場を与えられないか、考えてみてはどうだろう。

 

(2)同僚もしくは同格の職位にいる粗探し大好きマン

誰かをおとしめることで自分の地位を相対的に上げようとするチクリ魔が、あなたに対して社内で対等に物を言える立場の場合、常にその者とのバトルを想定しておかなければならない。

 

仮に攻撃対象として認識された時、戦うならば、決め手となるのは社内で決定権を持っている者の信用だ。

要は、チクリ魔が言うことが正しいのか、現場を知るあなたの言葉が本当なのか、ジャッジを下す上役の意向が重要なのである。

 

粗探し好きの人間は、上の人間に対しては徹底して犬をやる傾向が強い。

見る目のない経営者だとそれにコロッとやられるわけで、理不尽な状況になることもある。

 

ただし、そこであまり悲観する必要はない。

なぜなら、いずれ本人が責任を負う立場に就いた時、ボロが出ることは明らかだからだ。

 

これは筆者の身近で最近あった話だが、とある企業で海外支社のトップと本社の経営陣の腰巾着が壮絶なバトルになった。

その腰巾着さんは「私は半分法律の専門家」が口癖なのだけども、メルカリで本人のアカウントが発見され、『一から分かる法律入門』みたいな本が大量に出品されていて、「あ、察し」となる。

 

しかし、その海外支社トップは「あまりにもアホすぎる」と相手をなめてかかっていた。

結局彼は、油断から職位を追われ、後釜にはその腰巾着が赴任した。

相手を決してなめてかかってはならない。

 

しかし、腰巾着の粗探し大好きマンも、最終的には破滅に至る。

2番手、3番手であれば文句も垂れていればよかったが、もうどう考えても自分が責任を負うしかない立場になると、全く実務能力がないことが自ずと露呈する。

 

前任者のせいにできるのなんて最初の数カ月程度だ。

 

彼も、やがてとんでもない売り上げ減少を引き起こし、責任を問われ始めた。

それでも最後の最後まで人の粗探しをしていたそうだが、最終的に退職に追い込まれたと聞いたのがつい最近のことだ。

 

(3)上役またはオーナー社長が粗探し大好きマン

会社組織もある程度上の立場になると、チェックをするのが仕事という人がいる。

このような職位にある場合、マトモな方なら建設的な意見や的確な批判をするものだが、中には言いがかりのような言葉を吐く輩もいる。

 

例えば編集の世界なら、「絶対その直し、いらないよね」という修正指示を上役が出してくる。

なぜそんなことが起きるかというと、チェック役にとっては問題なしとばかり言っていたら、何もしていないことになる上に、そもそも自分の存在意義がなくなるからだ。

そこで、問題があろうがなかろうが、ダメ出しや批判から入り、「仕事してます感」を出してくる。

 

さらに、オーナー社長が減点法であらゆることに口を出し、少しのミスにも叱責するタイプだと最悪だ。

 

こういう人が統べる組織に運悪く属してしまった場合、個人にできることは残念ながら少ない。

オーナーの気質=企業体質となりがちで、よほどのことがない限り改まることはないからだ。

 

耐え忍んで残るメリットと己の精神的リミットを天秤にかけて、判断を下すしかないだろう。

結局のところ、身も蓋もない話を言えば、一番いいのは一刻も早く職場から離れること。

 

西晋の学者・傅玄曰く、「近朱者赤、近墨者黒」(朱に近き者は赤く、墨に近き者は黒し)。

自分まで粗探しに躍起になる悲しい人とならないよう、時には思い切って人間関係を整理し、組織から飛び出す勇気持つことだ。

 

 

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【プロフィール】

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。

Twitter :@kanom1949

Photo by Atikh Bana

「できるなら、ぽっくり死にたいよね」。多くの人がそう口にする。

 

母方の祖母が数年前に亡くなったが、まさにその形だったようだ。電話中に倒れてそのまま帰らぬ人となったのだという。

もともと心臓の病気を抱えていた。78歳だった。

 

最期ですらそのような「ぽっくり」だったが、どうだったのだろうと思っている。

最期まで波乱だったからだ。何が良いのか、わたしにはまだわからない。

 

おじいちゃんの遠い記憶

小学校の何年生のときだっただろうか。低学年だろう。

 

ある日先生がわたしのところに、

「清水さん、おじいちゃんが亡くなったらしいから、とりあえず今すぐおうちに帰りなさい」。

と耳打ちしにきた。

 

そこから、一家三人で北海道に向かったことだけは覚えている。

しかし正直、そのおじいちゃんに関しては遠い記憶しかない。

 

遺影を見て、そういえばこんな顔をしていたかもしれないなあ、という程度である。

わたしにとっての小学生のときの北海道の記憶では、ひとりになった祖母のところに宿題を持って長期間行っていたことくらいである。

 

当時、夏休みになるとJALの「ちびっこ一人旅」で福岡空港でわたしひとり飛行機に乗せられ、北海道に向かっていた。

千歳空港には叔父が迎えに来てくれていたのだと思う。

 

祖母が暮らしていたのは、小さな小さな町の平家アパートの一室。

札幌から50~60kmほど離れた、平取町(びらとりちょう)の貫気別(ぬきべつ)という地域だ。

 

日中は近所の木工所で働く祖母の帰りを待ちながら、部屋で宿題をする。

あるとき祖母が木工所で、機械に指を巻き込まれて大怪我をしたことも覚えている。指先が少し欠けてしまった。

 

また、祖母は農作業をしている時もあった。

そこに様子を見に行くと、

「さやか、タバコ持ってきておくれ」。

と頼まれ、アパートからタバコとライターを届けに行ったものだ。

 

働き者のおばあちゃん。畑での一服はおいしいんだろうなあ、そんなことを幼心に思っていた。

 

「新しいおじいちゃん」がやってきた!?

さて、そこから数年が経っただろうか。

祖母の生活が大きく変わったのである。

 

まだ小学生だったわたしに、母が言い出したことにわたしは仰天した。

 

「こんど、新しいおじいちゃんが遊びにくるけんね!北海道から九州まで車で来よるんよ!」

 

1500kmの距離を、各地を旅しながら祖母と「新しいおじいちゃん」が我が家にやってくるのだという。

当時は新型だった、冷蔵庫のついた白いハイエースに乗って。

 

状況を平たくいえば、祖母は「最初のおじいちゃん」と死別後、再婚したのである。5歳年下の公務員と。

お相手の「新しいおじいちゃん」もまた、最初の妻と死別していた。

その時、2人の共通の趣味であったカラオケの場で出会ったのだという。

 

「新しいおじいちゃん」がはじめて九州にやってきた時、わたしはまだ小学生だった。

でも、わたしにとっては最初のおじいちゃんの記憶は薄い。

だからその人を「おじいちゃん」と受け入れるのにそう時間はかからなかった。

 

いや、しかし、祖母の凄さを知った。

未亡人となってから、5歳下の旦那さんをゲットしたのである。

「おばあちゃん、やるぅ〜」

と思うくらいの年頃ではあった。祖母は魅力的な女性なのだと思った。

 

「新しいお父さん」「新しいお母さん」というのはドラマや物語で目にするが、

「あたらしいおじいちゃん」

というのはなかなか耳にしないことだろう。しかし、事実としてわたしの目の前にあったのだ。

 

本当に「じいちゃん」「父さん」だった

そして、わたしが夏休みに北海道に行って過ごす時間の内容も全く別のものになっていった。

 

運転が好きな「新しいおじいちゃん」は、北海道をくまなく案内してくれた。

襟裳岬から稚内、礼文島まで。苫小牧近辺から根室まで。北方四島を眺められる場所まで。

 

富良野、摩周、阿寒。

どれだけ北海道を満喫したことだろうか。

 

一通りのことろには行ったと思う。

すっかりわたしは「おじいちゃんっ子」だった。

 

しかし次第に、祖母は元々よくなかった足を徐々に悪くしていた。

かなり時間が経って。わたしが大人になってから。

 

こんどは苫小牧に新しく構えた家には、スロープや靴の着脱がしやすい工夫がされていた。

車も小さなものに買い替えていた。

そう長旅もしなくなったらしい。それでもふたりは穏やかに暮らしていた。

 

もちろん「新しいおじいちゃん」にも、息子はいた。

しかし一度お目にかかったかどうかくらいだ。

 

このおじいちゃんは、「こちらの家の人になる」ことを選択したのである。

そして、母3人きょうだいも「父さん」と呼び、それが自然なものになり、わたしにとってのおじいちゃんとは「新しいおじいちゃん」のほうになっている。

 

じいちゃんが古希を迎えた時には、わたしの両親を含む祖母の子供3人が北海道に集まってお祝いしていた。

日常会話でも「父さん」だった。

祖母の苗字こそ変わったが、生活実態はわたしのおじいちゃんであり、母たちの「父さん」だった。

 

わたしの母たちは、この「新しいおじいちゃん」の息子さんに会ったことはないと思う。

しかしそこは、誰も気にしていない。

普通だったら逆なのでは?と思われる方もいるだろうが、じいちゃんはそういう形を選んだのだ。

 

近くに住むバツイチ独身の叔父も、じいちゃんを「父さん」と呼び、その家に頻繁に夕食をとりに来ていた。様子を見がてらというのもあっただろう。

この「男同士の親子関係」が、のちに大きな役割を果たすことになるのだが。

 

そして。じいちゃんは、

祖母が死別した「前のおじいちゃん」の仏壇にも、日々きちんと手を合わせる。

ごく当たり前の日課として。

 

「3人」の不思議な暮らし

さらに、面白いことに。

苫小牧に構えた家では、2階に2部屋とちょっとのスペースが余っている。

 

「みえこさん」という、祖母と同じ年頃の女性が前の家からよく出入りし、泊まる時は泊まるという形で家族同然に暮らしており、2階の一室を自分の部屋にもしていた。

ほぼほぼ3人同居の家になっていた。

 

「みえこさん」はいたりいなかったりしたが、もう家族なのである。

おそらくだが「みえこさん」も未亡人なのだろう。

わたしの世話もよくしてくれた。

 

祖母が心臓の病気をこじらせてからは、「みえこさん」は頻繁に祖父母と一緒に苫小牧に滞在していた。

家事と祖母の手伝いをやってくれているのだ。

 

わたしの母が先立ってから

そして、ひとつの出来事があった。

おばあちゃんは、娘=わたしの母に、思わぬ形で先立たれてしまったのだ。

 

叔父の押す車椅子で福岡空港に姿を現した。おじいちゃんと共に。

家に着いて、父は義両親に土下座で平謝りである。

 

しかし祖母は怒るでもなく泣くでもなく何を語るわけでもなく、いつも通りの表情で父の言葉を聴いていた。

じいちゃんは、「まあ、かっちゃん、そんな思い詰めなさんな」と父の肩に手を置いた。

 

そして、通夜の前になって。

「さやか、ばあちゃんをお母さんの近くに連れて行っておくれ」。

祖母はそれまで、足が悪いために自力で母の側に行けなかったのである。

 

部屋まで祖母を椅子で運び、祖母が椅子から降りる足腰を支え、眠る母の目の前に祖母を連れて行った。

祖母はしばし、親を置いて先立った娘の顔とその姿を眺めていた。

しかし祖母はなんの言葉も発しなかった。涙するどころか、表情さえ変えなかった。

 

しばしの間母の顔をながめ、その深い深い瞳の中に全ての事実を吸い込み、そうして、もうこれでじゅうぶんだと言わんばかりにわたしを向いて、

「ありがとう、もういいよ」。

わたしは言われた通りに、祖母を再び椅子に乗せ、隣の部屋に移動し、じいちゃんの隣で床に座れるよう手伝った。

 

遠い記憶が蘇る。その昔、畑で言われた、

「さやか、タバコ持ってきておくれ」。

そう頼まれた時と、声色もまったく同じだった。

 

葬式どうするん?

そこから数年経って。

祖母が亡くなったという話を、親族の誰からだったか聞いた。父からだったと思う。

 

お葬式とかどうするん?そう聞いたのだが、父はなんだかもごもごしている。

「葬式とかはあれやけど、落ち着いたらみんなで墓参り行こうっていう話になったんよ」

と。

 

なんで?

なんで普通にお通夜してお葬式して、ってやらんの?

わたしは父に突っ込んだ。そこではじめて事実が明かされた。

 

祖母は、自分の先がそう長くないと知ったのだろうと思われるのだが、愛知の伯母家族と同じアパートの別部屋に、じいちゃんと一度引っ越したのだという。

そこでしばらく暮らしていた。

我慢していた酒もタバコもたしなんでいたという。

 

最後くらいは娘の近くで生活したかったのだろう。そこには、わたしの母に先立たれた悲しさもあったことだろう。

そして、じいちゃんもそれに賛同して引っ越しまでしたのである。

 

ところがある日。

具体的には何があったかは知らないが、おじいちゃんが伯母に大激怒する出来事が起きたという。

それをきっかけに、すぐさま北海道に帰って行ったという。

という話を父から聞き、ぎこちなさの正体がわかった。

 

泣きじゃくる伯母

その話を聞かされ、今度は伯母に電話をかけてみた。

泣いていた。

 

「わたしが全部悪いんだ。本当は見送りたいけどね、ここは親不孝させてもらおうかなと思うんよ。いいかなあ?」。

 

祖母が亡くなったのは、北海道に帰った後のことだった。

伯母と電話で話していた最中に倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだという。

それは心臓病のせいなのだが、

 

しかし、何があったのかはわからないが

じいちゃんは頑なに、伯母が葬儀にくることを拒んでいるのだという。

 

「中に入れてもらえなくても近くまで行きたいけど、みんなに迷惑かけるから、親不孝だけど、行かない方がいいと思ってるんよ。いいよね?仕方ないよね?」。

 

そう聞かれても具体的に何が起きたのかわたしは知らない。

ただ、「それも仕方ないかもしれんね」とだけ返事しておいた。

 

その後、叔父にも電話をした。すると。

「いや、あれは姉さんが全部悪いんだべさ」。

そう切って捨てた。

 

孫のわたしはどうしたらいい?

とりあえず叔父は「父さん」と一緒にいるようだったが、それを聞く余地もない緊張感だった。わたしともコソコソ話しているのである。

きょうだいを分裂させるようなことでもあったようだ。

 

いま、どうしてる?

じいちゃんは伯母だけでなく、あれだけよくしてくれた「こちらの親族」との関係じたいを考えてしまったのだと思う。

叔父とは男同士だからそこは若干違う部分があるのだろう。

 

そして数年が経った。しかし、

「落ち着いてからの墓参り」はいまだ実現していない。

 

あれだけ優しかったじいちゃんを、そこまで怒らせた出来事とはなんだったんだろう。

いまだにその謎は解けない。

 

それよりも気になるのは、じいちゃんは今そこでどんな生活をしているのだろうかということだ。

妻と死別し、再婚してまた新しい妻と死別した。

 

もちろん、夫婦である以上どちらかが先に逝くのは仕方ない。

それでもきちんと「入籍」という形を選んだのにはなにか理由があるはずだ。

 

じいちゃん、さやかだけど?

いまどうしてる?

それを聞く術すらないのがもどかしい。

 

できるならまた一緒に酒を飲みたいのに。

そして祖母は、最後の手前まではどういう気持ちでいたのだろう。

素敵なパートナーといられて、トータルで幸せだったと思えていれば良いのだけど。

 

でも最後は、自分の娘と素敵なパートナーの間に板挟みだったかもしれない。

あるいは、我が娘ながら本気で怒っていたかもしれない。

祖母には、ますます尋ねようがない。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/

Photo:Kiwihug

老舗ブランドが時代を超えて引き継いできた価値、「タイムレス」なブランドの価値を再設計し、継承していくために行われるブランディング手法「タイムレスブランディング」について紐解く連載。

 

※本稿は、グロービス経営大学院教員の沼野利和の指導のもと、4人の社会人大学院生(山根紀子、梁瀬晋也、末森玲子、庄司拓哉)が調査・研究を行った結果に基づいています。

 

タイムレスブランディングに重要な4つの要素とは

老舗ブランドは予測不能な危機に変化しようともがき続ける中で、 1.外部からの刺激 2.文化的価値の再認知 3.ブランドの再設計 4.ブランド価値の定着 という4つのプロセスを経て新たな価値を見出しているということです。

ここからは、タイムレスブランディングに重要な4つの要素を考察していきます。

 

1.【外部からの刺激】

<外部環境の変化や異文化から刺激を受け、自らの固定観念を覆すような気づきを得る>

長きにわたり経営を続けてきた企業、さらにそれが伝統文化と呼ばれる立場であるほど、文化を継承し、この先も守らねばという使命感を持っているでしょう。しかし、それゆえに文化に縛られ、固定観念からはなかなか抜け出せないものです。そこで必要なのが外部からの刺激です。

 

「外部からの刺激」とは、自社とは異なる環境や文化から、固定観念を覆すことにつながるような刺激を指します。一方で、自分達も内側から変化しようと、外部からの刺激を求め、変革をしたいと常にアンテナを張っていることで、異文化との出会いを肯定的に受けとめるきっかけにつながります。こうした挑戦への意欲を持つことも重要な要素になります。

〈固定観念を覆した外部からの刺激〉

 

2.【文化的価値の再認知】

<長い時間の中で危機を乗り越え、なお継承されている自社の文化を認知する(新たな価値を生み出す源泉となりうるものを指す)>

外部からの刺激をきっかけに、長い歴史の中で培った文化の価値を再認知し、残すべきもの、変えていくものは何かを見極めるということです。文化の価値の再認知とは、単なるヒット商品を生み出すためではなく、自社の文化の中で新たな価値を生み出す源泉として、次の時代へ継承できると認知した文化を指します。

〈再認知した文化的価値〉

 

3.【ブランドの再設計】認識した文化をもとに、ブランドを再設計する

【文化的価値の再認知】のフェーズで見極めた残すべき価値を受け継ぎながら、自社の文化をもとに新たな価値(製品・サービス)を生み出せるよう、ブランドの再設計を行うフェーズです。

〈再設計した新たな文化的価値〉

 

4.【ブランド価値の定着】再設計した新たな価値を定着させ、次の時代へと継承する

ブランドを再設計、つまりブランド・イノベーションをした後は、新たなブランド価値を定着させ、次の時代へと継承されていくための取り組みが必要です。

 

このフェーズでは、社会へ新たなブランドを発信すること、また同時に、そのブランドを自社の中に浸透させていくことが必要でしょう。

〈新たな文化的価値の定着と次世代へ継承する取り組み〉

定着のフェーズではブランドの新たな価値を認知・浸透させ、この先も継承されていくための様々な取り組みを行なっています。これらの取り組みにより新たな価値が定着することで、さらに文化が磨かれ、新しい文化が生まれます。

 

タイムレスブランディングは、普遍的な手法

日本には、この先も大切にしていきたい、先人から代々受け継いだ世界に誇れる伝統工芸や伝統産業が多くあります。

 

一方で、市場の衰退や生活様式の変化による需要の減少、あるいは熟練の技を持つ職人・後継者の不足により事業継承できずに廃業を余儀なくされている企業も散見されます。

 

文化には、一度成立すると壊れにくく、変化や逆境に立ち向かうことができる力「レジリエンス」があります。つまり文化には持続可能性(サステナビリティ)があるのです。

 

老舗ブランドはその発展に、⻑い歴史の中で積み上げてきた文化を資本として活用していくことができます。特に今回vol.2~4で取り上げた3社は、文化を資本として活用し、ブランドを再設計することで「新しい老舗ブランド」を生み出し、見事にブランド・イノベーションを果たしています。

 

新しい老舗ブランドのブランディング手法を紐解いた「タイムレスブランディング」は、歴史的な文化や伝統を持ちながらも将来性に不安がある企業、変革に悩んでいる企業、危機に瀕している企業に幅広く活用できる考え方です。

伝統や文化を変革の足枷にすることなく、ブランド価値の源泉として活かしつつ、たとえブランドの存亡の危機に瀕するような状況に遭遇しても、永続的にブランドを発展させていくこの手法は、日本の長い歴史の中で自然に育まれてきたサステナブルな手法といえるでしょう。

 

(執筆:山根 紀子・末森 玲子・梁瀬 晋也 ・庄司 拓哉、監修 沼野 利和)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:AMAL BEN SAAD

「仕事が遅い」と一口に言っても、それにはいろいろな要因がある。

取り組み始めるのに時間がかかるとか、ひとつのことに集中できずまったく進まないとか……。

そのなかで今日紹介したいのは、「細かいことにこだわって延々と作業してしまう人」の話である。

 

3人のうち1人だけレポート添削が終わらない

大学在籍中にドイツに留学していたとき、留学生向けの授業とは別に、現地の学生と一緒に3つの講義を受けていた。

現地で単位をとって日本の大学に申請し、4年で卒業するためだ。

 

とはいえテストで合格点を取る自信はなかったので、レポートで単位がとれる授業、それも日本に関係のある授業をチョイス。

レポートのテーマは、「満州事変」「三国干渉」「下関条約」の3つ。

 

当時のドイツ語レベルでそれらのレポートを書くのはとても大変だったので、仲のいい友だち3人にレポート添削をお願いした。

「留学生に完璧なドイツ語は求められないだろうから、文章が破綻している部分をちょっと直してほしい」という感じで。

 

満州事変と下関条約のレポートは、カフェで友だちと雑談しながら直してもらい、2時間ほどで完成。

 

が、三国干渉のレポートが終わらない。

まったく終わらない。

 

依頼した友人は近くの学生寮に住んでいたので彼の部屋でやったのだが、彼はずーっとPCとにらめっこしていて、一向に終わる気配がない。1つの文章を、10分も20分もかけて直している。

 

「あの~……丁寧に見てくれるのはうれしいけど、わたしがネイティブじゃないのは教授もわかってるから、意味がわかればそれでいいよ?」

「『意味がわかる』の基準は人によってちがうから、正しいドイツ語のほうがいいでしょ?」

「まぁそうなんだけど、完璧じゃなくてもいいというか……」

 

添削をお願いした手前、「そんな細かいこといいからちゃっちゃと終わらせてよ」とも言えず、かといって自分のレポートを手直ししてくれている友人を差し置いて漫画を読むわけにもいかず……。

いや本当、そこまでしてくれなくていいんだけどなぁ……。

 

終わりの判断ができないと仕事が遅くなる

イメージでいうと、

「遼東半島は、下関条約で日本のものになった。それを清に返すことを求めた」

というわたしの文章を、

「下関条約によって日本に割譲された遼東半島を、清国に返還するよう勧告した」

と修正している感じである。

 

後者のほうが、レポート的にはいい文章ではあるんだけどさ。

でもわたしはスペルミスや致命的な文法ミスなどを直してほしかっただけで、すべての文章をネイティブっぽく書き換えてほしかったわけではないんだよ。

 

結局彼は、3日間ずーっと唸りながら、わたしのレポートを書き直していた。

作業中の彼のモニターを覗き込んでみると、知らない単語ばっかりで、これ提出したら代筆疑われるんじゃ……?と思うレベルだった。

 

さてさて、なぜ2人の友人は2時間で終わったのに、この友人は丸々3日もかかったのか。

それは、彼が「これでいいだろう」と作業を終わらせるのが苦手だったからだ。

 

……いやまぁ、添削してもらっておいて「仕事が遅い」なんてなかなか失礼な言いぐさだっていうのはわかってるけど! でも「ちょっとドイツ語のチェックして~」ってお願いしたら、3日かけて全文書き直されるとは思わなかったんだよ!!

 

「これでいい」のラインを作るのが苦手な人

レポート提出から数年後、彼が働き始めたくらいのタイミングで、ちょうどその話になった。

 

「実はあのときのレポート添削、すごく感謝はしてるけど、めっちゃ時間かかってちょっと困ってたんだよね~」と当時のことを率直に伝えた。

 

「そこまでやらなくていいのにいつまでやるの~!って正直思ってた(笑)」と言えば、彼は「そうだよね~」と苦笑い。

どうやら彼は、「終わりの判断」がとても苦手らしい。

 

「もっとこうできるんじゃないか?」「あれは大丈夫か?」「提出する前にもう1度確認すべきじゃないか?」という不安が、頭の中でぐるぐるしてしまうそうだ。

そして「もう少しだけ手を加えよう」と、完成度を99.95%から99.96%にするために何時間も作業してしまう。

 

完成=完璧という認識だから、完璧になるまで完成させられない。でも完璧になんてならない。だから終わらない。そんな感じらしい。

だからわたしのレポートでも、「ちょっと直す」ができず、自分が完璧だと思えるものになるまでひたすら書き直した。それで、レポートの添削に3日もかかったのだ(ちなみに提出期限ギリギリ)。

 

そりゃまぁ、「完璧なレポート」を目指したら終わらないよね。そもそも完璧ってなに?って話だし。

どこかしらで、「これで完成だ」と切り上げないと。

 

仕事でも、期限内に終わらせるために残業やら持ち帰りやらすることが多く、苦労していると言う。

 

「もうこのへんでいいだろうっていうのは頭ではわかってるんだけど、『いやでも……』って思っちゃうんだよね」

「そういうことだったのか~。わたし的には十分だったけどずーっと直してくれてるなぁ……とは思ってた(笑)」

「まぁそうだよね(笑)でも最近は結構大丈夫になってきたよ!」

 

というわけで、「終わりの判断ができないせいで仕事が終わらない」という状況をどう回避しているか、聞いてみた。

 

終わりの判断が苦手な夫が見つけた対策

レポートであれば最悪徹夜して間に合わせる、ということも可能だが、仕事で毎回それをやるのでは体がもたない。

そこで彼は、作業時間を決めて切り上げることを決めたそうだ。1時間でこの書類のチェックをする、のように。

 

時間を区切ることで優先度の意識が生まれ、「まずここを改善して、時間があればここを……」と作業がどんどん進めていく。

時間制限があることで、優先度が低いことを考え続けなくて済むようになるのだ。

 

また、自分が最終責任者ではないものに関しては、「最終チェックは他人の仕事」と割り切ることにしたらしい。

できるかぎり良いものには仕上げるが、それを100%にするのはチェック担当者の仕事であり、自分の責任ではない。

そのぶん自分は次の仕事にとりかかり進めていくことがチームワークなんだ、と。

 

そう考えることで、「やっぱりあそこが気になる!」と思っても、もう自分の手から離れているタスクなので、「まぁいいか、今はこの仕事に集中しよう」と切り替えられる。

こういった努力と工夫を続け、「終わりの判断ができない」という状況を克服したようだ。

 

終わりの判断が苦手でも「信頼される人」になれる

大前提として、細かいチェック自体は悪いことではない。

その友人と同じ企業でインターンをしていたクラスメートいわく、「彼は適当なことはしない」とまわりから信頼されていたうえ、ミスが多い人のフォローをよくしていたそうだ。

 

レポートの件では「やりすぎじゃ?」と思ったわたしだが、彼はパーティーでビールが足りなくならないようにマメに取りに行ったり、帰り際忘れ物がないか確認したりしてくれていた。

それは彼が、悪いケースを想定してそれを回避するために行動できるからだ。

 

細かいことに気付けるというのは、決して悪いことではない。

むしろまわりの人からすれば、頼りになってありがたいともいえる。

 

ただ「このへんで十分」「これくらいで大丈夫」と見切りをつけないと、いつまでもひとつのタスクに縛られて自分自身が大変になる可能性はある。

人によってはその様子を見て、「あいつは仕事が遅い」「この程度の作業にどれだけ時間がかかってるんだ」なんて評価することもあるかもしれない。

 

そうならないよう、彼のように作業時間の上限を設定したり、最終確認を他人に任せるなどして、「もう終わり!」に持っていけばいいんじゃないかと思う。

いくら自分自身が完璧だと思っても、だれかのチェックが入ったら、どうせなにかしら修正することになるんだし。

 

完璧にしないと完成ではない、となると、いつまでも仕事が終わらない。

「完成」と「完璧」はちがうのだ。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Milad Fakurian

「弱いロボット」を知っていますか?

「弱いロボット」というものを知っているだろうか。わりと知られているかもしれない。おれも、うっすらと知っていた。よくは知らなかった。

おれが「弱いロボット」に興味を持ったのは、『THE BIG ISSUE』という雑誌で特集されていたからだ。『THE BIG ISSUE』を知っているだろうか。ホームレスが路上で販売している雑誌だ。おれはこの雑誌を買った週は競馬に勝つという、神さまは見ている理論を信奉している。

 

この号の特集で、「弱いロボット」の第一人者というか、その概念を作ったであろう岡田美智男先生の研究室の様子、弱いロボットたちの紹介、そしてインタビューを読んだ。たいへんおもしろかった。

人にすり寄ってゴミを拾ってもらう「ゴミ箱ロボット」。子どもたちに昔話を語って聞かせる途中で大切な言葉を忘れてしまう「トーキング・ボーンズ」。人と手をつないでヨタヨタと歩く「マコのて」……。
ほとんどの人は、ロボットは人に代わって人の仕事をしてくれる存在だと考え、姿かたちも「鉄腕アトム」「ドラえもん」などの人間や生物に近いロボットをイメージする。
しかし、岡田美智男さん(豊橋技術科学大学教授)が学生のみなさんとつくってきたロボットたちは、それらとまったく違っている。むしろ、何の役に立つのか? 不完全で「弱いロボット」なのだ。でも、なんだか放っておけない「弱さ」で周りを見方にしてしまう。
『THE BIG ISSUE』VOL.464

具体的には動画を見たほうが早いかもしれない。


さて、なんだかこれらの「弱いロボット」は、たんにかわいいだけのおもちゃなのだろうか。どうも違うようだ。
とりあえず、次の二冊の本を読んだ。

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[amazonjs asin="4130151819" locale="JP" tmpl="Small" title="ロボット: 共生に向けたインタラクション (知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承 1)"]

「J・J・ギブソンってだれ?」というところで、そちらの本の方は難しいのかと思ったら、だいたい内容は同じようなものだった。ちょっとだけ、後者のほうが生態心理学とか身体論について述べられている。いずれにせよ具体的なエピソードが多く、たいへんわかりやすかった。

 

愛されるルンバ

今現在、われわれの社会に溶け込んでいる、一種の「弱いロボット」があるという。お掃除ロボット「ルンバ」だ。あるいは、ルンバのようなお掃除ロボットたち。これらのロボットは先進の技術が使われているのではあるだろうが、実際なところ不完全な存在だ。壁にぶつかって方向を変えるのは、実環境のすべてを認識するという不可能に近い機能を捨てて、あえて自らの制御を手放していることだという。壁や障害物という環境に試行錯誤する。

このときロボットが<物理的な身体>を備えていることの意味は大きい。ある場所を占め、その動きには向きがある。「部屋の壁にぶつかると、それ以上、進めない。仕方なく、その向きを変える」のは当たり前なことだけれど、それだけで親近感を覚えてしまう。モノにぶつかって弾かれる動きとも、プログラムのようなもので作り込まれた動きとも違う。行き当たりばったりにもかかわらず、なにか探しものをしているように映る、「どこに向かおうとしているの?」と、その動きを思わず追いかけてしまうのである。
普段、わたしたちは「よもや機械に心が宿ることはあるまい」と考えている。それでも、目の前のロボットのふるまいの意味を解釈し、その動きの先を予測するとき、そこに物理的な法則やプログラムの存在を仮定するだけでなく、「その背後になんらかの意図があり、それに沿って合目的的にふるまっているのではないか」と捉える方がしっくりくることがある。これはダニエル・デネットの指摘した「志向的な構え(intentional stance)」と呼ばれるものだろう。

お掃除ロボットはときに「甲斐甲斐しく働いている」ように見え、わざと足で動きを邪魔してみると「邪魔しないでよ」と迷惑そうな仕草をするように感じる。

そのような動きは生き物のようであり、人とロボットとの間に「ソーシャルなかかわりのようなもの」を感じるようになる。そしてついには、ロボットを応援し、助けるようになる。部屋のレイアウトを変え、片付けをしてしまう。そして、一種のよろこびすら感じる。

ホコリを丹念に吸い集めることはできないけれど、ロボットに先んじて進行を妨げるモノを取り除くような予測能力には優れている。部屋のなかのレイアウトをデザインし、たやすく変えることもできる。こうして相手の<拙さ>を補おうとするなかで、自分の役割や立ち位置を見つけることができるのはうれしいものだ。

不完全なふるまいが、まわりの手助けや<強み>を引き出す。まわりを味方にして「一つのシステムをつくる」。自分でゴミを拾うことすらできない「ゴミ箱ロボット」はさらに不完全だ。しかし、ゴミを拾ってあげる方が一方的に能動的になるのでもなく、受動的になっているのでもない。「中動態」や「ナッジ」にも関わる話ともいう。

……って、このお掃除ロボットの話にはそうとう大きい話が含まれている。というか、「ゴミ箱ロボット」、あるいは「弱いロボット」のほとんどのことが入っているんじゃないかとすら思える。

 

対話コミュニケーションのなかの弱さ

ゴミ箱ロボットのつぎは、途中で昔話を忘れてしまうロボットの方の話をしよう。著者が先に取り組んでいたのはコンピュータの音声認識、機械との対話だ。

たとえば、自動販売機に「アリガトウゴザイマス!」と言われたところ、べつにそこに生きた意味を感じない。いくら流暢で人間に似た声でもそうだろう。なぜなのか。

実際の人間の発話はこんな感じだという。

でー、そうねー。そこのお店のー、内装とかデザインとか素敵でー、あの、いま、最近、六本木とかー、銀座とかー、よくお店でてるんですけど、えーなんか、壁は白いしっくいでー、でー、柱、黒い、黒い柱が、おっきい黒い柱が、ぬっと出ている、なんていうかなぁフランスの田舎風っていう感じのー、んー、そんな感じのレストランなんですね。

「<弱いロボット>の思想」

実際、人間の会話なんてこんなものだろう。いかに無駄な発音や、意味の行ったり来たりが入っているか、会議や対談などの書き起こしをやったことがある人ならわかるだろう。さらにくだけた場では、このくらいがリアルに違いない。

「あのね、えーとね、あのー」などのこういった表現は、「フィラー」やターン開始要素」というらしい。

人間の対話にはフィラーやターン開始要素が多く含まれる。人間の「オープンな発話生成系」は伝達的な意図を持ちながらも、不完全な部分を周囲に委ねながら、コミュニケーションを成立させていく。弱みを相手に見せること、委ねることで一つのシステムになる。これも、「お掃除ロボット」と似ているところがある。

(一方で、このあいだ動画編集ソフトに人間のフィラーを自動的に削除する機能がついたとかいう話題を見かけたが、まあ対話ではない、一方的な動画には不要ということだろう。)

対話といえば、生成AIとの対話も最近は当たり前だ。おれも人間よりたくさん対話しているかもしれない。あいつらは基本的にフィラーなんて入れてこないよな。

おれ
『フィラーやターン開始要素をふんだんに盛り込んだ例文を書いて下さい。テーマは「コミュニケーション」です。』

ChatGPTさん
『あの、えーと、コミュニケーションってね、わかるような、まあ、わからないこともあるんだけど、さて、そのコミュニケーションって、お互いに話し合って、あるいは、ちょっと待って、相手の言っていることを理解しようとする、その一瞬一瞬、ターンを取り合うプロセスじゃないかな。だから、えーっと、コミュニケーションは、まあ、言葉だけじゃなくて、ボディランゲージや表情なんかも、大事なんだよね。それが、あの、相手との信頼や、共感を築くための、えーと、重要な要素なんだって思うんだけど。』

悪くない。

おれ
『その調子で答えて下さい。ミハイル・バフチンは「不完結な言葉は、内的説得力を持つ」と言いましたが、どういう意味なのかな?』

ChatGPTさん
『あの、ミハイル・バフチンの言葉、そのね、不完結な言葉が内的説得力を持つっていうのは、なかなか深いことを言ってるんだと思うんです。つまり、えーと、言葉やコミュニケーションが完璧である必要はなくて、ある程度の不完全さや曖昧さが、人々を引き付けたり、考えさせたりする要因なんです。不完結な言葉やアイデアは、相手に考える余地を残し、対話や対話者自身の内的プロセスを刺激することができるんですね。その結果、コミュニケーションがより深い意味を持つことがあるし、人々の関心を引きつけることができるんです。だから、不完結な言葉には、内的説得力があると言えるんじゃないかと思います。』

まあ、ちょっとこの本の内容について対話した上でのことだ。著者はこう述べている。

先に、「私たちの発話はいい直すことを前提に繰り出されているのではないか」と述べた。私たちの発話における「いい直し」や「いい淀み」というのは、そうした知覚的、探索的な側面も含んでいる。それと聞き手とのあいだで一緒に意味を生み出していくような、生成的なものでもあるのだ。
一方で聞き手はどうだろうか。その発話の意味や価値を周囲に探ろうとする話し手の賢明な振る舞いに、自分を思わず重ねてしまう。その振る舞いを一緒になぞりながら、その発話の意味づけに参加しようとする。わたしたちの思考の産物としてとらえてきた発話は、ここでようやく、社会的な環境である<他者>と出会うのである。
『<弱いロボット>の思考』

なるほど。ミハイル・バフチンの「不完結な言葉」と「権威的な言葉」については、AIにでも聞いてくれ。

しかしなんだ、この頃はもう小説以外の読書は、AIにいろいろ聞きながら読むようになってるな、おれ。検索では効率が悪いし、おもしろくない。ただ、こいつらは「強いロボット」志向が強いのか、わからんことや知らんことについても堂々と嘘をつくことがあるからな。もっと「弱さ」を取り入れてもいいんじゃないのか。

「弱いロボット」のほうは、こういう対話の思想を取り入れて、非流暢に語るようになった。なかには昔話の内容を忘れてしまうロボットもいる。もちろん、それに対して老若男女、なんか協力したくなってしまう。全員が全員じゃないだろうが。役立つロボット、という視点からは、幼児の遊び相手や、認知症の老人の対話相手にもなるだろう。

 

強いロボットと弱いロボットのハイローミックス

とまあ、周囲との関係性と引き算の発想で作り出されてきた「弱いロボット」について書いてきたが、もちろん「強いロボット」もあるに違いない。たとえば、自分そっくりのアンドロイドを作ってしまった石黒浩という有名な研究者がいる。

ロボットのデザインには二つのアプローチがある。岡田さんがATR(引用者注:国際電気通信基礎技術研究所)に在籍していた当時、隣の研究室にはロボット工学者の石黒浩さんがいたという。
「彼は人間そっくりのアンドロイドやジェミノイドをつくることで人間らしさとは何かを追求する<足し算としてのデザイン>をしてきました。反対に僕らは、実体としての意味や機能をそぎ落としていくことで、周囲との関係から人間らしさをえぐり出す<引き算としてのデザイン>をしてきました」
『THE BIG ISSUE』VOL.464

なんとまあ。ということで、ちょっと石黒先生の本も読んでみた。

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すると、どうだろうか。なにかこう、やっぱりロボットにアプローチしているというところで、岡田先生の述べていることとの共通点も多いのでは、と思うんだよな。
たとえば言語について。

言葉が先にある。話をするから意識が生まれる。必ずしも、意識があるから話をするわけではない。だから、最初は意味を伴わなくてもいいんです。

言語というのは三人以上いないと意味がないものです。一対一だと互いに適応してしまうので、ろくな言語は生まれないけれども、三人目がいると自分たちの考えを共有しなくてはいけなくなる。だから言語とはすごく社会性を伴ったものです。
『人間と機械のあいだ 心はどこにあるのか』

これはまあ、意識はどこから発生するのか、みたいな文脈だけれど。けど、たとえば「弱いロボット」は三体のクリーチャで多人数会話するものが開発されている。「弱いロボット」がそれのみで意識の発生や生成を目的としているのではないとしても、なんとなくおもしろい。この二人の対談など読んでみたい。

しかしまあ、「強いロボット」の完成はまだ先のことだろうし、きりのない取り組みかもしれない。無論、その進歩は大切なことだ。一方で、その完成、あるいは完成したとしても多大なるコストがかかってはたいへんだ。人類みんなが恩恵を受けることができないかもしれない。

その点、「弱いロボット」はローコストだ。できないことは多い。あえてできなくしている。人間が手伝わなきゃいけない。それでも、ある目的が達成できる、役に立つならいいだろう。さらに、人の「自らの力が十分に生かされ、生き生きとした幸せな状態」である「ウェル・ビーイング」のためにもなる。

「強いロボット」と「弱いロボット」の(発想の)ハイローミックス、いましばらくは、これでいくのが悪くないように思える。というか、それがいい。いずれ、シンギュラリティとやらが起きたあとも、人間の「ウェル・ビーイング」のためには「弱いロボット」の発想が必要かもしれない。

 

関係が先立つということ

で、岡田先生が本でたくさん語られている環境生態学的な話や身体性の話は「本読んでね」ということにして、いきなり仏教っぽい話をする。仏教の考え方では「関係は存在に先立つ」というような考え方がある。先に関係があって、はじめて私やあなたになる。たぶん。あ、おれの仏教理解はたいへんにあやしいので、まあそういう考え方もあったような気がする、という程度でお願いします。

でもって、たぶんそれは人間と人間だけの間におこる話でもないだろう。「ミリンダ王の問い」ではないが、「車」とて関係性のなかで初めて生まれる呼称にすぎない。

人間とものとの関係も同じだろう。人間とロボットも、相互の関係があってはじめて成り立つ。その関係というものを大きく意識させるのが「弱いロボット」だろう。「弱いロボット」の発想の背景には、古くからの「人間とは何か」という問いに食いついている思想があるように思える。

それを体験できるというのも悪くない。それに、SF的な人間とロボットとの共生。あるいは、ウェル・ビーイングを感じたいだけの人生。独身男には関係が足りないというのもある。

こうなると、おれも一つくらい「弱いロボット」を持ってみたいと思うところだ。高い買い物になるが、お掃除ロボットでも買ってみようか。

……と、思ったら、おれの部屋には掃除のじゃまになるものがあるどころか、掃除する床が見えない。今のおれに必要なのはまずお掃除ロボットのためにこっちが100%の片付けをすることらしい。冗談じゃない。やっぱり早く、すげえ「強いロボット」ができて、いらないものも全部判断して捨ててくれたり、四次元のポケットに放り込んでくれたりしたほうがいい。以上。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by :Aideal Hwa

ちょっと前に、Twitterで「すぐ否定から入る人」の話が盛り上がっていた。

 

彼らはいったい何を考えているのだろうか。

実は、「正しいことを言いたい」と思っているのではない

 

一言で言うと、

取られてもいないマウントを、勝手に想像して反発しているだけ」と言える。

話の中身はどうでもいいのだ。

 

 

例えば、昔こんなことがあった。

 

新規営業の獲得数が累計10社になった新人を、チームのリーダーが祝福した。

「このスピードで10社は素晴らしい」と。

 

すると、同じチームの先輩が祝福するのかと思いきや、

「まあ、あのエリアは簡単だから。これからはそんなに甘くないよ。」

と言った。

 

私は「ん?」と思った。

エリアがカンタンとか、そんなことは別に誰も聞いていない。

新人なのだし、実際に頑張ったのだから、素直に祝福してあげればいいはずだ。

 

そう、この先輩は単に

「お前は大したことない」

「そんなにすごいことでもない」

と言いたかっただけだ。

 

世の中には、何か言われるたびに、あるいは勝手に想像の中で

「マウントを取られた!むかつく!なんか言ったれ!」

と勝手に負のスパイラルに陥る人が、死ぬほどたくさんいる。

 

彼らは気にくわない「権威」「業績」「忠告」に対してはもちろん、「提案」や「おすすめ」、時には「優しいことば」すら、「マウントを取られた」と思い込むため、「そうですね」が決して言えない。

 

コンサルタントをやっているときにも

「コンサルタントを雇っているのに、とにかく、アドバイスされたくない人」

を大勢見たが、全く同じだ。

 

 

こういう人の言動は、非常に特徴的だ。

 

例えば、ネットのマンション掲示板に次のようなスレッドが建てられた。

 

若くしてお金持ちになった人の話のようで、

「2億の物件を買った人の収入構造と感想を教えてくれ」

とのことだ。

もちろん、釣りやネタかもしれない。

が、書き方はニュートラルで、別に煽っている感じはしない。

(これを煽りと感じたら、「否定から入る人」の気がある)

 

しかし、諸兄のご想像の通り、このスレッドには「とにかく、なんか反発したい」人が群がった。

「釣り」だったとしたら、狙い通りだ。

 

とりあえず「2億の物件は大したことない」と言いたい人。

 

「身の丈に合ったことをしろ」と説教する人。

これこそまさに、「取られてもいないマウントを、勝手に想像してしまっている」状態であり、会社でも、こういうシーンには事欠かない。

 

もちろん、「こんなところで相談するのは自慢したいからだろ」と言う人もいるだろう。

まあそうかもしれない。

 

が、それなら黙って去ればいいだけだ。

 

だが、「そうですね」が言えない人は、それができない。

何とか反論をひねくりだしたり、「大したことない」と言ってみたり、しまいには「配慮が足りない」と言い出す。

 

本質的には、例えば「タワマン住民の不幸」などの記事を嬉々として読む人々は、こういう性向がある。

「タワマンに住むようなやつは不幸であって欲しい、そいつらに何か言いたい!」

という願いが具現化したのが、ああいう記事なのだ。

 

 

と、いろいろと書いたが、すぐに否定から入る人の気持ちは、わからなくもない

 

上昇志向が強くて、なかなか結果が出ない時には、そういう気持ちになるのも仕方がないと思う。

誰かが褒められるだけで、自分が貶められているように感じる時もあるだろう。

それはとても人間的な感情だ。

 

ただ。

つまらない反論をしても敵を増やすだけだし何にもならない。

 

そしてなにより、「すぐ否定から入る人」は、すぐに誰からも必要とされなくなってしまう。

それが「人間的な弱さ」の象徴だとみなされてしまうからだ。

 

反発するなとか、プライドを捨てろ、強い人になれ、とか、そのような必要は全くない。

ただ一言「そうですね」というか、余計なことを言わず、黙っていればいいだけだ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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このコラムを書こうと思ったのには、理由がある。

「東大生のノートの取り方」はけっこう話題になっているが、「京大生のノート」という言葉はあまり見ない。

 

それが正直、ちょっと寂しいのだ。東大vs京大バトルに負けた気がする。悲しい。

わたしだって、母校には愛着がある。努力もした。

なので、ここで当時の勉強方法を紹介して、少しでも誰かのお役に立てたら嬉しいなあ、と思ったのである。

 

京大の独特な試験方式

今はどうか詳細は知らないが、京都大学の場合、いわゆる「足切り」の点数が低い。

「足切り」とは当時でいうセンター試験(いまでいう大学入学共通テスト)の点数により、二次試験を受けられるかどうかの線引きのことだ。

 

センター試験で高い点数を取っていなければ二次試験を受けられない大学は多い。

しかし京大は、二次試験重視の学校なのである。

 

そして、二次試験の特徴はひたすら筆記問題が多いことである。

いわゆる「穴埋め問題」は特に英国数では少なく、例えば英語ならば英文和訳と和文英訳がメインである。

数学に至っては、証明問題しか出題されていなかった。

 

180分の試験時間に対して証明問題が6つ。

6問全てを「完答(完全回答)」できる人なんて少ないんじゃないか、と言われていた。

 

そもそもどう手をつければいいのかわからない問題もある。

証明を進めていく途中で、どんどんぐちゃぐちゃな計算式が生まれてしまい頓挫してしまうものもある。

 

その計算だけで1時間はかかってしまいそうな勢いになる。

しかしそれだと計算ミスのリスクが高くなる時間がもったいないので、他の問題に手をつけていくという次第である。

ものによってはたった3行しかない問題文に何十分も悶えるのである。

 

なお数学では、解答用紙と別にA3の真っ白な紙を渡される。計算用である。

終了後には、その計算用紙まで回収される。

 

こんな都市伝説もあった。

「京大の数学試験では計算用紙の、一度は消しゴムで消したところまで透かして見て、そこに0.5点単位で点数を加算しているらしい」

という話だ。

真相は不明だが、そうであっても不思議はないような気がしている。

 

丸暗記が大の苦手

さて、わたしは、丸暗記が苦手だし嫌いだった。

高校2年になって理系学部に変更する道を選び、そこからの勉強のしかたは、見方によっては不真面目極まりないものだったことだろう。

 

極端に割り切っていた。

英語のテストじたいは点数が取れても、時々実施される単語テストは苦手だし嫌いだった。

酷い点数もしょっちゅう取っていた。

 

でも、京大の二次試験では英文和訳ばかりだ。

単語の勉強を真面目にやっていなかったわたしは、語彙力が圧倒的に足りない。

 

しかしなんとかなると思っていた。

英訳問題であれば、ネイティブからすれば中学生以下の語彙力であったとしても、

「間違ってはいないんだから、減点できるならしてみろ!」

と腹をくくっていた。

 

逆の和訳に関しては、問題文を読むと知らない単語がいくつかある。

しかし、単語の2つや3つわからなくても、

「ざっくりこういうことでしょ?」

という回答をしていた。いわゆる意訳というやつである。

 

満点ではないかもしれないが、0点でもないだろう?

 

そして。

理系学部に行くと決めた時から、日本史の勉強をほとんどしなくなった。

丸暗記が苦手だし嫌いというのもあるが、別の理由もある。

 

困ったことに当時、数学の担当教師から「センスがない」とハッキリ言われていた。

 

理系を受ける身としては致命傷である。

だから、他のことをやっている時間がもったいないのだ。

 

二次試験では日本史は受けない。英数国と理科2つだ。

センター試験の足切り点数は英国数と理科で稼げば良い。

「内職」をしていたくらいである。

日本史の授業中に、こっそり別の教科の勉強をしていた。

 

しかし、今考えるとこの内職の手法はおすすめしない。

どちらにも集中できず、中途半端になってしまう。

 

全国模試が控えていても無視である。

英国数で偏差値70を叩き出しても、日本史の偏差値は30台ということもあった。

 

酷い差だが、それで構わない。

とりあえず数学を克服することが最大の目標だ。

 

そのためには「なんでもできる子」になっている暇はない。

 

発掘された数学の勉強ノート

だいぶ前のことだが、実家から受験生当時の勉強ノートが発掘された。

 

母が保管していたのである。

これは数学の学習・復習用ノートである。ベースは無印良品のノート。余計な飾りがなくて良い。

当時、Z会の通信添削で理系科目を勉強していた。なかでも数学は特訓しなければならない。

 

まず、一番上に書いてある「9-2」。

隔週で6問ずつ送られてくるので、これは9月の2回目に送られてきた問題である。

 

実は、この「9-2」と書く時点で、すでにノート作りは始まっている。

異様なまでに丁寧に書いているのは、気分転換のためである。

 

さあここからまた新しい章が始まるぞ。

そんな新鮮さを自分で演出でもしなければ、長い受験勉強はやっていられない。

 

そして、問題文を上部に写す。

ノートは縦2つに折って「2段使い」にする。

これは数学の証明問題の特性として短い方程式がいくつも並ぶからというのもあるが、他の理由もある。

 

人間、ダラダラと直線上に続く文章を読むのは面倒に感じる。

よって改行というのはとても大事なブレイクだとわたしは考えている。

 

縦に進んでいくと、集中力が少しでも途切れずに済むような気がする。

そしてシャーペンで書いた部分が自分の最初の回答、赤文字は添削で回答方法が戻ってきたものを写す。

 

青文字は参考解説であったり、別のアプローチとして例示されたものを写している部分だ。

ここでも、いちいち文字が丁寧なのは、集中するためである。

ざくっと書き写しただけでは、頭にあまり残らない。

一行ずつ噛み締めながら書いていくのである。

 

そして、蛍光ペンで線が引かれているように、このノートを使い倒すのだ。

同じ問題を、時間が経って再び解いた時にきちんとできるか?

できなかった場合、どの部分が頭に入っていなかったのか?という具合に。

あるいは、赤文字を書き写した時、結局どこが肝だったのか?と記録に残すために。

 

ノートを作るというのは、自分でオリジナルの参考書を作ることだと言えるかもしれない。

自分が必死に作った、カスタマイズされた参考書である。愛着も湧く。

 

浴びるように問題数をこなしていくのも特訓のひとつの方法だが、教材になっている問題というのは多くの基本要素を含んでいるはずである。

そのエッセンスはとことんまでしゃぶりつくしておこう、というわけだ。

 

どうしても暗記が必要ならば・・・

ただ、生物というのは暗記要素が比較的高い。

丸暗記は苦手だし嫌いだ。しかしこれは避けて通れない。

ならば、どうするか。

 

これもまた、ひたすら「書く」のである。

教師から「おすすめの参考書」を教えてもらい、それを買った。

 

そして、

ひたすら書き写していた。こちらは無印良品のルーズリーフに、まるで写経のように。

 

かつ、ここでは、シャーペンは使わない。いきなりボールペン。「サラサ」の0.5mm芯のやつを黒、オレンジ、赤の3色使う。

「書き直しがきかない」緊張感が生まれる。

 

いや、ぐじゃぐじゃっと字を潰してもいいけれど、最低限にしたい。

本文は黒。絶対覚えておかなければならない単語は赤、理屈はオレンジ。

オレンジは、赤よりも文字数が多くなりそうな場所で使う。

 

数学同様、3色というのは基本かもしれない。

重要性をランク付けする作業でもある。

 

あと、出来上がったものを見て自己満足することもできる。

自己満足したいから、なるべく1文字ずつ間違えないようにしたいのである。

 

「ああ、美しい」。

その満足感はすごい。

だから、図まで丁寧に書き写していた。

 

どこかで自分を褒めてやらないと、こんなもの、やってられないだろう。

ボールペンを使い切った時の達成感もそうとうなものだった。

 

あ、授業とか会議で取るノートは、横1/4くらいを空けておいた方がいいです。

後で色々書き込めるし、なにが本題でなにが補足説明なのかわかりやすくなって、本題と補足を混同せずに済むので。

 

「数学のセンス」とは

さて、わたしが「センスがない」とズバリ数学教師に言われたのには理由がある。

わたしの場合センスがない以上、地道に鍛えるしかなかったが、

では、本当に数学のセンスがある人というのは、どういう人だろうか?

 

わたしは、

「物事とその本質が同時に、図形で浮かぶ人」

のことだと思っている。

 

平たく言えば、「台形の面積の求め方」を言葉で説明しようとすると大変なことになる。

しかし、あれこそ、図で書けば一目瞭然だ。

 

数学の問題集で、わたしがやると20~30行は必要とする証明を、図形1発で解いている回答例を見たことがある。

大きなショックを受けた。センスとはこのことだ。

 

「あなたの言っているシチュエーションを図で書いてみるとこういうことですよね。

で、あなたの質問ってこういうことでしょう?

それなら、ここに線を引いてみたら一目瞭然じゃありませんか?」

 

そんな解き方である。

こういう頭の持ち主に、わたしはいまでも憧れている。

 

「理系脳」はあるか?

最近よく「理系脳」というのがもてはやされているが、「理系脳」なるものは存在するのか?

 

結論から言えば、あると思う。

 

・物事を三段論法に落とし込む

・仮説を立てるところから始まる

・枠組みが先に出てくる

・物事へのアプローチは演繹法か帰納法

・複雑に見えるものをシンプルなものに帰結させると快感を覚えるフェチ

 

そんな特徴だろうか。「共通点を見つけるのが得意」ということかもしれない。

 

では、鍛えれば理系脳になれるのか?

誰でもがというわけではないが、なれるんじゃないかと思う。上記の思考方法を意識的に繰り返していけば。

 

あと、結論からものごとを話す習慣を身につけるのは大事だと思う。

少なくとも、「理系脳」というのは、数学が得意か苦手かという話ではない。

 

そんな都市伝説でポテンシャルある人の力を引き出せないのはかなり勿体無い。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/

Photo:engin akyurt

自己肯定感の高い人は、自己中心的でナルシスト?

「自己肯定感を追い求めてはいけない」―――こう主張したとしたら、多くの人は、首をかしげるでしょう。実際、自己肯定感が高い人は、メンタルが強く、幸せであり、健康であることが知られています。逆に、自己肯定感が低いままでは、不安を感じやすく、落ち込みがちで、場合によっては抑うつ症状を発症することもあります。

 

これらは多くのデータで示されてきているとおり、疑いのない事実です。このような研究結果を踏まえて、アメリカでは、多くの学校が、学生の自己肯定感を高めるための大規模プログラムを導入し、ひとつのムーブメントとなりました。

 

ところが、自己肯定感には、上記のすばらしいメリットだけでなく、重大な副作用を伴うことが、ロイ・バウメイスターなどの心理学者によって次々と明らかにされたのです。

 

自己肯定感の高い人は、横柄で、自己中心的な人間になりやすいことが明らかにされました。また、自己肯定感が高い人は、自分のやっていることに酔いしれるナルシスト的な傾向を示すことも指摘されました。さらに、これらの傾向が暴力や攻撃的な言動にまでつながるとまで言われています。

 

自己評価を下げたくないときに副作用が起きる

なぜこのような副作用が起きるかを説明しましょう。

 

まず、自己肯定感を高めたい人は、自分への評価が傷つくことを恐れるようになります。そうすると、このような人が、仕事で失敗をしたときに、どのような反応に出るか。自分の評価を傷つけたくないので、自分のことは脇において、環境や周りのせいにするのです。

自己肯定感を追い求めることの副作用が起きる場合

  1. 自己肯定感を高めたい
  2. 自分の評価を下げるのが怖い
  3. 失敗を他者のせいにして、自己肯定感を維持する

 

読者の中には、上記で使っている自己肯定感は本来の意味ではない、と主張される方もいるかもしれません。

たしかに、本来的には自己肯定感は、どんな状況でも、自分の価値を認め、自分を肯定できること、といえます。「本来の自己肯定感」を高めることができたら、自分の価値が脅かされることはないので、上記のような副作用は伴わないでしょう。

 

ところが、この「本来の自己肯定感」はなかなか高めるのが難しい。

やはり、人間であれば、失敗したり、恥ずかしい思いをしたら、落ち込むものです。そのようなときに、自分の価値をちゃんと認めるのは難しいのです。

 

「かりそめの自己肯定感」を追求する人の脆弱なメンタル

そういうわけで、多くの人が、自分はすごいと思い込みたいので、むりやり現実の見方を歪めて、「かりそめの自己肯定感」を高める方向に走ってしまうのです。自分のことを顧みず、周りの人のせいにし、彼らを責め立てるというのはまさにその典型例です。

 

親、先生や上司にという立場にいる方も、この「かりそめの自己肯定感」の向上に加担している可能性があります。

たとえば、子供、学生、部下の「かりそめの自己肯定感」を傷つけるのを恐れ、過剰に褒めてみたり、ネガティブなフィードバックを控えたりするようになります。このような状況はあまり健全とは言えないでしょう。

 

「かりそめの自己肯定感」から得られる自信や安心、そして成功は、結局、かりそめなものでしかありません。誰もほめる人がいなくなり、どうにもこうにも逃げられないほどのネガティブな局面が訪れた時、「かりそめの自己肯定感」を追求してきた人のメンタルは当然のことながら、地に落ちてしまいます

「かりそめの自己肯定感」を追求する人のメンタルは意外にも脆弱です。これが自己肯定感を追い求める人の不幸の結末です。

 

自己肯定感を高めようと頑張ることは逆効果

では、「かりそめの自己肯定感」の向上に逃げずに、どんな状況でも自分を肯定できる、「本来の自己肯定感」はどうしたら高められるのか。それは無理なのでしょうか。

いいえ、そのようなことはありません。その道筋を与えてくれるのが、心理学者であるクリスティン・ネフが提唱するセルフ・コンパッションです

 

セルフ・コンパッションとは、簡単に言えば、親しい友人にやさしく接するように、自分にもやさしく接することです。自分へやさしい思いやりを向けることをセルフ・コンパッションといいます。

 

ネフの研究によれば、セルフ・コンパッションの高い人は、自己肯定感の高い人と同様のメリットがありつつ、自己肯定感に伴う副作用がないことがわかりました。

一見、自分にやさしくしてしまうと、それこそ、自分の欠点や弱点を歪めて見てしまうのではないかと思われるかもしれません。面白いことに、事実はその逆です。自分にやさしい人ほど、自分の弱点を直視する勇気を持てます。

 

このことをしっかりと理解する必要があります。自分の弱みや欠点を認めるのはつらいことです。だからこそ、やさしいまなざしで自分に接することで、ありのままの自分を受け入れることができるようになるのです。

自分に対してやさしく接することは、自分を甘やかし、弱みをそのまま放置するということではなりません。

 

実際、ある研究では、セルフ・コンパッションの高い人は、自分の弱みをむしろ受け入れ、自己を改善するモチベーションが高いことが知られているのです。

 

状況に左右されないどっしりとした自分を育みたい。誰もが、「本来的な自己肯定感」を高めたいと願っています。ところが、いつの間にか「かりそめの自己肯定感」を追い求め、知らないうちに自己中心的な人間になっているとしたら大変悲しいことです。

 

しかし、今、述べてきたように、ここから抜け出す考え方と方法があります。

まず、「かりそめの自己肯定感」を追い求める副作用を理解することです。そして、自分を肯定しようと頑張るのではなく、自分にやさしく接すること、すなわちセルフ・コンパションを通じて、結果的に「本来の自己肯定感」を育てる道を歩めばよいのです。

 

(執筆:芦澤 公二)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:Jackson David

ここ数年ぐらいだろうか、以下のようなカットと台詞の抜粋をSNSでしばしば見かけるようになった。

 

団塊ジュニア世代~就職氷河期世代の男性なら目に留まりやすいカットだと思う。週刊少年ジャンプの人気漫画『魅!男塾』の続編のなかで男塾塾長・江田島平八が贈った言葉が、「男なら しねい」だった。

この『魅!男塾』がジャンプで連載されていたのは昭和60年から平成3年だったが、当時すでに、こうした“男塾的な男らしさ”は真面目に取り合うものではなく、滑稽な時代錯誤とみられていた。

 

男塾の塾生たちは、どんなことにも命を懸け、ナンセンスなことにまで根性をみせる。

そのさまを、小学生である私たちはギャグマンガのようにも、ジャンプお得意のバトル漫画のようにも受け取っていたと記憶している。

 

それから32年の歳月が流れた。

 

この間、社会は男女の機会均等を推進し、少なくともある程度までは女性の社会進出が実現した。

男性らしさ、女性らしさ、そういったジェンダーにこだわることは愚かで、時代遅れで、無駄で、モラルのうえでも良くないと考えられるようにもなったと思う。

 

かくして、当時からナンセンスだった「男なら しねい」から最も遠い社会に私たちはたどり着いた……はずだ。

 

ところが2023年においても、「男なら しねい」がインターネット上を幽霊のように徘徊しているのである。

もちろんこれを真に受けている人は少数で、良識あるほとんどの人がナンセンスなギャグとして受け取っているに違いない。

 

だが……これはいったい何を示唆しているのだろうか。

 

「死」に近いのはやはり男だ

令和の日本社会のうちに、「男なら しねい」が積極的に支持されている雰囲気を感じ取るのは不可能に近い。少なくとも私は、そのように男たちが強いられていると即断しないだろう。

 

しかし男性なるものは、女性と比較してやはり死にやすい生き物である。

男性は女性よりも体内のテストステロン濃度が高い。それに伴い、男性はより攻撃的な行動や冒険的な行動に駆り立てられがちだ。のみならず、筋肉や骨格が女性よりも発達しやすいつくりとなっている。

 

競技スポーツの記録や体格の男女差などは、こうした生物学的基盤に基づいている。

そのかわり、テストステロン濃度の高い男性の平均寿命は世界じゅうどこでも女性よりも短い。

 

社会活動においても男性は死に近い場所に位置づけられている。

厚労省のこちらのpdfを参照すると、女性の社会進出が相当進んでいるにもかかわらず、労災の発生状況の男女比では男性のほうが労災に巻き込まれる割合がかなり高いことが示されている。特に若い世代において、労災の男女比のギャップが大きい。

 

この労災の男女比からは、即座に右のことが連想される──男性と女性では、就いている仕事の種類がそもそも違っているんじゃないか?

 

では早速、産業ごとの女性就業者の比率をみてみよう。ちょうど、独立行政法人・労働政策・研修機構さんのウェブサイトにわかりやすい図像があったので引用する。

見てのとおり、男性は建設業や運輸業、工学的な分野に従事していることが多く、女性は医療や教育分野に従事していることが多い。この、産業によって男女比が異なるという構造が、労災に巻き込まれる者の男女比にも反映されているのだろう。

 

ちなみに同サイトにはアメリカ・イギリス・フランスの就業比率も掲載されているが、こうした傾向は日本とそこまで変わらない。

 

また、自殺率という点でも男女比には大きな違いがある。精神疾患に罹患し治療を受けているのは女性のほうが多いにもかかわらず、自殺で命を落としている者の数は男性のほうが多いのである。ここでも、男性は女性に比べて死にやすい結果となっている。

この、一般社団法人・いのち支える自殺対策推進センターからお借りしたグラフ をじっと見つめると、改めて驚かずにはいられない。

 

男性のほうが女性よりも自殺者数が相当多い。それだけではない。1998年から2011年にかけて、自殺者数が増えに増えて3万人を超えていた期間において自殺者数がより増加したのも、また男性なのである。

 

これらを見ていると、本当は社会には「男なら しねい」という透明な圧力が存在しているのではないか、と疑いたくなる。

いや、そこまで明け透けな圧力が存在しないとしても、「男性は死に近い生を生きている」とか「男性のほうが命のリスクのある社会的役割を負わなければならない」とか、そういった圧力が存在するのではないか、とは疑いたくももなる。

 

「男らしさ」は本当に終了したのか

冒頭で私は、すでに昭和時代にはナンセンスになっていた『魁!男塾』塾長のセリフを引用した。

男塾で描かれる男らしさとその追求は今日の私たちにはバカげたもののようにうつる。が、本当にそれは過ぎ去ったことと言い切れるのだろうか?

 

男性性、特にそのジェンダーとしての男性性についてまとめた大著『男らしさの歴史』によれば、そうしたジェンダーとしての男性性がピークを迎えたのは19世紀であるという。

『男らしさの歴史 第二巻 19世紀・男らしさの勝利』の表紙には、序文ダイジェストとして以下のような文言がみられる。

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■十九世紀に入っても、この男らしさの束縛が男性の活動を支える。男たちはみずからの行為によって絶えず男らしさを示さなければならない。男らしさは本質的な概念である偉大さ、優越性、名誉、徳としての力、自己制御、犠牲的行為の感覚、そして自己犠牲とその価値に一体化する。領土の探検と征服、植民地化、自然支配を証明するあらゆるもの、経済発展、そうしたもののなかで男らしさが栄える。

『男らしさの歴史 第二巻 19世紀・男らしさの勝利』表紙カバーより抜粋

男性はたえず男らしさを示さなければならず、それは、偉大さ・優越性・名誉・自己制御・自己犠牲、といったものであったという。

 

あわせて同書には、当時の男性たちが示さなければならなかった勇敢さや勇猛さ、性的な旺盛さ、といったものも記されている。男性は競いあうもの・冒険的なもの・能動的なもの・戦うものであるともみられていた。そうでない男性には立つ瀬が無い。

 

当然、女性には男性とは異なるものが求められ、ジェンダーとしての女性性をなし、女性を束縛もしていただろう。

 

『男らしさの歴史』によれば、そうしたジェンダーとしての男らしさは20世紀以降、ピークアウトしたとされる。確かにピークアウトはしたのだろう。『魁!男塾』が本気の男漫画とみなされず、ナンセンスやギャグとみなされた程度には。

 

そして世の男性たちは──少なくとも日本では──血の気が少なくなり、路上で因縁をつけたり喧嘩したりすることも少なくなった。男性だからといって命を張っていろいろやらなければならない……という固定観念はだいぶ弱まっているに違いない。

 

とはいえ、男性と女性のあいだには依然として小さくない違いも残る。

それは労災に巻き込まれる人数からも、就労している産業のジャンルからも、自殺者数のギャップからも想像される。

 

それらがどこまで生物学的な男女の差異によるのか、それとも文化的・ジェンダー的な差異によるのかは、ここでは峻別することができない。が、何かが違っているということまでは認めざるを得ない。

 

でもって、少なくとも私はいまだ圧力を感じ続けているのである。

「男らしくあれ」という圧力を。その圧力のある部分は、自分自身に内面化されたものに違いない。だがそれだけとも思えない。

 

実際、いまどきの若い男性たちは精悍な顔立ち、男性らしいいでたちをしているではないか。

私には、ユニセックスないでたちの男性は20年前に比べて少なくなっているようにみえる。髪型もだ。ジェンダーとしての男らしさは、21世紀に入ってむしろ復活していないだろうか?

 

なるほど、『男らしさの歴史』から引用したような男らしさが欠如していても、腰抜け呼ばわりされることも、面目を失ってしまうこともなくなっただろう。令和の日本男性が男らしさを度外視して生きていくことは、まあ、たぶん可能だ。

 

そして昔とは違って、腰抜け呼ばわりされたり面子を失ってしまったりすることが社会的生命を(ひいては生命そのものをも)左右するなんて場面も激減したようにみえる。

 

だが、残念ながら人間はいまだに社会や世間といったものを形成していて、そのなかで男性は、その社会なるもののなかで勇敢さ・力強さ・支配力などを試され続けているように私にはみえている。

 

もちろん、勇敢さ・力強さ・支配力などは19世紀に比べて多義的であるはずで、身体領域・知的領域・経済領域・そのほか細々としたジャンルや産業の領域のどこかでそれらを発揮できていれば令和時代に求められる男らしさは合格していることになるだろう。たとえばプロ棋士や辣腕弁護士も、それはそれで男らしさ合格とみなされそうではある。

 

だとしても、けっきょく男らしさは死んではおらず、私たちはいぜんとして圧のもとにあり、したがってナンセンスの極致のように思える「男なら しねい」は、単なるネタとして受け取るには私にはきわどすぎるのだ。

 

こうして言語化してみると、しぶとく男らしさが要請されていることに慄然とする。

そして男らしさがこれほどまでに生存しているとは、おそらく女らしさも生存していて、女性もそれにさらされていると想像せずにいられなくなる。

 

では、ジェンダーか生物学的な差異かを問わず、これから私たちは性別をなくすべきだろうか? 

男女がいがみあい、対立するさまに着眼する限りにおいて、性別は邪魔であり、有害であり、男女平等実現の妨げのようにみえる。

 

男女平等を突き詰めて考えるなら、ジェンダーについてごちゃごちゃと議論するのでなく、性別そのものを破壊するしかなくなるのではないだろうか。

 

読者のみなさんなら、どのように考えますか。

男らしさは邪魔ですか。女らしさも邪魔ですか。人間は、性別を捨てるべきですか。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo:UnsplashTim Mossholder

本日の議題はこちらです。

「『残業ゼロ』を掲げる企業なら、仕事を放り出して定時帰宅してもいいのか?」

 

最近は、どこも売り手市場。働きやすさをアピールして人材確保に躍起になっている企業は多い。

しかしそれには、弊害もある。

 

「残業なしって言ったんだから、仕事が終わってなくても帰っていいですよね?」と、仕事を放り出して定時帰宅する社員がいることだ。

 

「納期は間に合わないけど定時帰宅していいですか?」

先日、『納期に間に合わないが「残業はしない」はアリ?』という記事を読んだ。

記事内では、こんな例が挙げられている。

若手のDさんが、翌週の月曜朝までに終えなければならない仕事を、金曜日の定時を過ぎても完成できなかった。ところが、その事実が発覚したのは金曜日の夜になってからだった。

上司はDさんに逐一「大丈夫か?」と尋ねており、決して無理のある納期で仕事は頼んでいなかった。しかし「大丈夫です」とDさんは答えるだけ。何の相談も報告もしなかった。

Dさんの上司は「怒りを通り越して呆れた」と言う。結局、月曜日の期限に間に合わせるため、他メンバーが2人、残業・休日出勤をして完成させた。

Dさん当人は、「残業・休日出勤しない権利があるはず」と言ってオフィスに出てこなかったからだ。

「モンスター社員と一緒ですよ」

Dさんの上司は吐き捨てるように言った。この会社も「基本的に残業ゼロ、休日出勤ゼロ」をアピールして採用活動に励んでいた。だからか、このような権利を主張する若手が増えたのだという。

さて、みなさんはDさんのような若手がいたら、どう思うだろうか。どう対処するだろうか。

 

記事に対する反応は賛否両論で、「残業ゼロで採用したならそれを守るべき」という人もいれば、「業務命令なら残業を拒否できないはず」という人もいたし、「そもそも事前にフォローすべき」という人もいた。

 

まぁ、仕事をちゃんと終わらせろという上司の気持ちもわかるし、約束通り帰らせろという若手の気持ちもわかる。

そのうえで、わたしはこういいたい。

 

「できもしない『残業ゼロ』を約束する企業もバカだし、何が何でも残業しない人もバカ」

 

責任を持って仕事すれば、残業ゼロが不可能だとわかるはず

そもそも仕事において大切なのは、「ちゃんと終わらせること」だ。

いくらクオリティーが高くとも、期限から1か月も過ぎていたらなんの意味もない。

 

仕事を引き受ける=任されたタスクを期限までに終わらせる責任を負う。

そう考えたら、残業ゼロがありえないなんてこと、だれにでもわかるだろう。

 

残業削減成功アピールをしている企業だって、残業時間は「1日30分以内」「月10時間以内」などがほとんどで、「残業を完全にゼロにしました!」を公言している企業はまず見たことがない。

 

いくらホワイト企業であっても、「明日までに絶対にこれを終わらせなくてはいけない」ということは起こりうる。

そうなれば、ときには長く働く必要もある。

 

だから、できもしない「残業ゼロ」を約束する企業もおかしいし、残業ゼロを信じるほうもおかしい。

それはつまり、「仕事に責任をもたなくていい」と言っているようなものだから。

 

それでも残業ゼロにこだわるのなら、契約社員やアルバイトのように、勤務時間中に決められた仕事だけしていればいい、という形態で雇えばいいのだ。

 

時給なら能力によって評価や給料が大幅に変わることはないから、定時で帰ってもだれも文句は言わない。

「責任をまっとうする」より「決められた時間働く」ことを優先するなら、そうすればいいじゃないか。

 

能力によって給料が変動する雇用形態であれば、自分の仕事に相応の責任を負うのだから、「残業ゼロ」は非現実的だろう。

 

残業以外の方法で仕事を終わらせるから定時に帰れる

とはいえわたしは残業を推奨するつもりは一切ないし、むしろ大嫌いだ。

だって残業は、一番楽な手段だから。

 

長く働けばそのぶん仕事が進む。非常にシンプルで、なにも考える必要がなく、どんな無能でも実行できる。

でも「終わらないなら長く働けばいい」とはつまり、「終わるまでやり続ければいい」と同義。じゃあそれ、いつ終わるの? いつまで働けばいいの?

 

考えることをやめて「終わるまでずっと働けばいい」というのは、逃げだ。効率的に働くための努力や工夫を放棄しているだけ。マネージメントの敗北。だから、残業は嫌い。

 

残業が少ない企業はどこも、残業以外の方法で仕事を終わらせる仕組みを確立している。

報・連・相を徹底したり、会議を減らしたり、承認フローを簡易化したり……。

 

「終わらないなら長く働けばいい」から「終わらないならここを改善しよう」という考え方にシフトし、実際に努力して、時間内に仕事を終わらせているのだ。

 

そうやって効率化した結果の残業削減なのに、そういった努力をせず安易に残業ゼロを約束する企業はおかしいし、「残業ゼロって言ったから帰っていいでしょ?」という従業員もちょっとズレている。

 

仕事が終わらなければ当然、評価は下がる

ちなみにわたしはドイツに住んでおり、移住前は「ドイツに残業はない」と信じこんでいた。

そういったタイトルの本もあるし、みんなさっさと帰ってビールを飲んでいるイメージを持っていたのだ。

 

しかし実際住んでみると、みんな平気で残業していることに気付く。

驚いて多くの人に質問してみたが、「ドイツ人は残業しない? だれだよそんなこと言ったの(笑)」と鼻で笑われる始末。

 

そもそもドイツは基本担当制で、自分のタスクは自己責任で終わらせなければならない。

終わらなければ自分の評価が下がるし、日本のようにだれかが代わりに終わらせてくれることもない(病欠や事前に申請した休暇は別として)。

 

もちろん、「知ったこっちゃねぇ定時で帰る」という人も存在しないわけではないが、仕事を放り出すような人は当然、大事な仕事を任されなくなる。

 

「17時にはオフィスの電気が消えているのが普通」なんて話を聞く一方で、持ち帰りで仕事をしている人も多い。

実力主義であればあるほど成果を求められるし、成果を出すには大前提として仕事を終わらせなきゃいけない。それなら当然、場合によっては長く働くこともある。

 

きっとどこの国でも、責任を負う仕事であれば、多少なりとも残業が発生することはありうるんじゃないか?

 

仕事はちゃんと終わらせろ、ただし残業以外の方法で

では冒頭の「『残業ゼロ』を掲げる企業なら、仕事を放り出して定時帰宅してもいいのか?」という質問に戻ろう。

 

そもそも、「時間になったら帰宅するかどうか」なんて、本来どうでもいいのだ。時給で働いているわけじゃないんだから。

大事なのは、仕事をちゃんと終わらせること。

 

定時帰宅する人のために他人が残業で仕事を終わらせるのでは意味がないし、みんなが仕事を放置して帰宅したらその企業は顧客からの信頼を失う。

一方で、全員が定時帰宅、なんなら早上がりしても、仕事が終わっているのならなんの問題も文句もない。

 

「かぎられた時間でいい仕事をしよう」と思えばしぜんと効率化が進み、残業時間は減っていく。

逆に「終わるまでダラダラ働けばいいや~」なんて気持ちで働けば、残業は増えるだけ。

 

何時間働くかではなく、どういう姿勢で働くかが大切なのだ。

だから、「仕事を放り出して定時帰宅してもいいのか」なんて議題自体がバカバカしい。

 

いいわけないだろ?

仕事はちゃんと終わらせろ。

 

でもそのために安易に残業に逃げるのは、マネージメントの敗北。

そうならないように、長く働く以外の方法でより多くの仕事を終わらせる工夫と努力をするべき。

 

つまり結論は、「仕事はちゃんと終わらせろ。ただし、できるかぎり残業以外の方法で」。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

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もしも「ゲーム脳」が本当にあったら

おれはゲーム、ビデオゲーム(以下、ゲームとします)に人生のかなり多くの時間を費やしてきた人間だ。そのことは前に書いた

おれは平均的な人よりたくさんゲームに時間を費やした。いや、二十代、三十代とプレイする時間が減ってしまって、いまではほとんどやっていないので、「二十代になるまで」と言ったほうが正確だろう。

 

そんなおれが、自分のブログに「想像してみよう、もしもゲーム脳が本当だったら」という記事を書いたことがある。

 

2008年のことだ。今から15年も前のことだ。ずいぶん前だ。

ん? ひょっとして、今の人たちは「ゲーム脳」という言葉を知らないかもしれない。そのあたりはWikipediaでも読んでほしい。

 

ようするに、ゲームをすると脳に異常が起きて、「キレる若者」などが生み出されているのだ、けしからん、という話である。『ゲーム脳の恐怖』という本はたくさん売れた。

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が、その内容のひどさから、批判が相次いだ。科学的にあまりにもおかしい、と。そのあたりでこてんぱんにされた話である。

 

たとえば、斎藤環先生もこてんぱんにしている。2002年の記事である(よく残っているな)。

全体がおかしいんです、はい。論理がどうこうなんてそんな、この人のために頭を使って批判してあげる必要なんかないんですよ。

というわけで、おれが先の記事を書いた2008年には、「ゲーム脳」なんてものは疑似科学、似非科学、インチキ、トンデモとわかりきっていた時代である。あるいはもう、忘れらていたかもしれない。

 

それでもおれは、15年前、なんか書きたくなったのだろう。ブログ記事が最初に引用している事件の記事はすで存在しない。どんな事件だったかはわからない。でも、おれの言いたかったことは書かれている。

きちんとした脳科学やなにかの専門家が、科学的に確かな方法でゲーム脳状態を示す。そして、いろいろの学者の再現実験や何かからもゲームの人間に対する悪影響がはっきりする。アルコールで人が酩酊するくらいはっきりする。また、社会学やら統計学からも、社会に対してよろしくないことがはっきりする。森のゲーム脳を科学的、論理的に批判していた学者たちも認める。

 ……さあ、そのときどうする。どういう態度を取れるだろうか。森のゲーム脳を科学の面、論理の面から否定していたゲームファンはどういう道を選ぶだろう。科学や論理のことなどわかりもしないのに、その尻馬に乗ってゲーム害悪論を馬鹿にしていた……俺は何を言うだろう? 森のゲーム脳理論の鏡のような、ゲーム擁護のためだけにでっち上げられた疑似科学に飛びつくだろうか。ゲームの害悪を認めた上で、人体や社会との折り合いをつけるべきラインを探り、提案したりするだろうか。

「ゲーム脳」への批判はその非科学性が主であった。それに、大勢のゲームプレイヤーたちが「乗った」ように見えた。おれも「乗った」。

が、もし、科学的に「ゲーム脳がありますよ」となったとき、科学に「乗った」人間はどういう態度が取れるか、ということだ。

 

はっきりとは書いていないが、「おれは害をわかった上でもやりますよ」という態度が正解なのではないかと思っていた。

酒や、タバコ、ギャンブル……、たとえ害であろうと、自分の嗜好を優先する。世間から白い目で見られようと、好きなものは好きだと譲らないこと。

 

もちろん、疑似科学が排除されることは望ましい。科学者には、疑似科学が出てきたときに「そんなくだらないもの相手にしない」ではなく、徹底的に専門的な見地から批判してほしいと思う。

だが、それに無条件に乗ってしまって、後からべつの「科学」が出てきてしまったら……。

 

「ゲーム障害」の時代

さて、現在は2023年である。「ゲーム脳」は過去の話になった。

が、べつの言葉が出てきている。「ゲーム障害」、「ゲーム依存症」、これである。嗜好ではなく嗜癖(アディクション)ではないか、病気ではないか、という見方である。

 

たとえば、おれが先日読んで、アルコールとギャンブルについて自らを省みることになった『やってみたくなるアディクション診療・支援ガイド』という本でも、副題は「アルコール・薬物・ギャンブルからゲーム依存まで」とある。2021年に出た本である。

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おれは現在、ギャンブルとアルコールについて問題を抱えているが、ゲームはそうではない。

そうではないけれど、「ゲーム依存」という言葉を見ると、15年前の自分が、あるいは今でも考えているかもしれないこと、「もしも『ゲーム脳』が本当だったら」ということを思い浮かべずにはいられないのである。

 

というわけで、そのあたりどうなんだろうと、一冊の本を読んだ。『ゲーム障害再考 嗜癖か、発達障害か、それとも大人のいらだちか』である。

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2023年の本だが、「再考」である。すでに再考されるものになっている。本書は、児童専門医、依存症専門医、臨床の場にいる医療関係者から、ゲーマー、ゲーム開発者までがいろいろな見解を述べている。

 

が、いろいろといっても、だいたい一貫しているのは「ゲーム依存症というものがあるのかどうか」という疑念である。あと、「ゲーム脳」なんて過去の言葉は出てこない。

 

そもそも「ゲーム障害」とは

そもそも「ゲーム障害」とはなんだろう。再考する前に、そのあたりを知りたい。

 

本書によると、公式な定義づけのようなものでは以下のようになる。

2013年にアメリカ精神医学会が作成した、世界で広く使われている精神疾患に関するマニュアルであるDSM-5には、インターネットゲーム障害(Internet Gaming Disorder :IGD)という診断名が採用されました。けれどこの新しい概念は、それを正式な障害として取り扱うべきかどうかについて、いまだ充分な研究が行われていないことが主な理由となって、「今後の研究のための病態」というカテゴリーに収載されました。つまり日常の診療のなかでそれを用いることは勧められなかったのです。

 また、2022年から、世界保健機構(WHO)が作成しているICD-11という、あらゆる健康問題に関する分類の体系には、ゲーム行動症(Gaming Disorder :GD、日本語訳はまだ検討中です)が正式に採用となりました。

「児童専門医の考えるゲーム障害臨床」吉川徹

おれはこのあたりのことをうっすら知ったときに、「こういう組織はそうとうなエビデンスを集めたうえでものごとを決定しているのだろうから、ゲーム障害というのは認められたものだな」と思ってしまった。早合点である。

でも、やはり、専門家の過半数とは言わないまでも、少なくない人が賛同しなければこうはならないんじゃないかな、とも思う。そのあたりのアカデミックというか、医学の世界の加減はまったくわからない。

 

わからないが、こういう決定に対して異論もあるわけだ。

 

ICD-11草案が発表されると、すぐにビデオゲーム研究の専門家たちによる公開声明が出され、ゲーム障害推進派との激しい論争が起こったという。その論争の論点はなにか。

 この誌上論争で明らかになったことは、問題のあるビデオゲームの遊び方があることは両陣営とも合意ができています。さらに、科学的な根拠が薄弱だという点についても正面からの反論はありません。論争が続いているのは、いくら科学的な根拠が薄弱でも、臨床の現場ではゲーム障害という分類が必要なのだ、これによって研究が進めばよりよい分類ができるだろう、という主張です。この主張をめぐって両陣営は合意不可能になっています。

「ゲーム障害をめぐる論争をたどる―ゲーム研究者の視点から」山根信二

ゲームの専門家は、ただゲームに夢中なプレイヤーが病気扱いされるのではないか、モラル・パニックが起こり、政治的スローガンになり、効果のあやしい治療法などが広まるのではないか、と憂慮する。

 

一方で、推進派は診断ガイドラインができれば研究が進み、厳密に区別できると主張する。

そんでもって、当初の分類もこうなっていった。

ICD-11の分類が決まった後、本文の改訂を続けています。たとえばICD-11(02/2022)版では、ICD-11ではあいまいだった「ゲーム障害」の診断のための必須要件が厳密化されています。これにより、ゲームに夢中にで勉学がおろそかになったといった状態は「危険かもしれない遊び方(hazardous gaming)をしている状態」としてゲーム障害とは区別されました。この改訂は今後も続いて、専門家の憂慮の一部はとりいれられると考えています。

このあたりについて、ゲームの国の一つであろう日本では、いまいち紹介されていなかった、話題になっていなかったらしい。その結果、「世界的な批判を招いた草稿段階の説明を使った説明が残り続けています」ということになった。

 

その結果の一つが、2020年4月から実施された「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」だ。これはネットでも話題になったから知っている人も多いだろう。

世界では論争が続いている問題なのに、モラル・パニックが政治的なスローガンに転じて実行されてしまった例だという。

 

そうか、なんか唐突だと思えた香川県の例は、「WHOでゲーム障害は正式に疾病とされたぞ」という唐突な誤解によるものだったか。いやはや。

 

で、結局、ゲーム障害はあるの?

で、結局、ゲーム障害はあるのかどうか、となると、そんなことは素人にはわからんし、専門家が揉めているのだからわかりようがない。というか、シロクマ先生に解説してもらったほうがいいだろう。

とはいえ、かつては不登校になってゲームばかりやっていた人間、ギャンブル、アルコールの嗜癖がある人間としての自分は、気になる話なのだ。

 

あ、「不登校になってゲームばかり」というのもわりと重要なポイントで、おれのなかでは「不登校になって暇だからゲームばかりやっていた」というのが小学生と大学生の一時期にあったのだが、これが見ようによっては「ゲームのせいで学校に行かなくなった」となる。

 実際には「子どもがゲームばかりして学校を休むようになった」は、よくある親の主訴ですが、子どもの意見は違うことがあります。「たしかにゲームはすごくしているけど、本当は親が思っているほど好きじゃない」と言う子どももいます。このような場合、治療者が親の情報を重視し、「子どもは否認しているが、ゲームをコントロールできずに優先し、学校を休み、成績が下落するという否定的な結果と生活上の支障が生じている」とみなして、この子はゲーム障害と診断するかもしれません。あるいは、子どもの情報を重視し、「子どもはまだ言語化していないが、葛藤があり登校が難しくなっていたのだろう。今、ゲーム仲間との関係が心理的居場所になっており、ゲーム行動は対処行動とみなせる」と考えて診断をしない、あるいは保留にするかもしれません。

 このように、ゲーム障害の診断は、ゲーム行動を行動嗜癖あるいは対処行動のどちらかに焦点づけて解釈するかという臨床家の立場の違いによって、一致しないことがあります。

「ゲームと不登校」宮脇大

ゲーム障害は「社会性の障害」とされている。でも、ゲームのせいで不登校などの社会性の問題が起きているのかどうか、見極めるのは専門家でも難しいようだ。

 

そもそも、その枠組みの考え方自体が正しいのかどうか。本書でもそれは繰り返し出てきていることで、「そもそも登校に問題があるのではないか?」という点を注視すべきだという。

 ゲーム障害の子どもたちも、プレイしている様子を聞くかぎりあまり楽しそうではありません。楽しいからプレイするのではなく、いっとき現実を離れたい、自分の置かれている状況のつらさ、苦しみから逃れたいというそんな気持ちのように思います。自己治療としての依存症という位置づけは、松本俊彦先生をはじめとする先進的な依存症専門医が提唱し続けていることであり、ゲーム障害にも共通するように思えます。

「依存症専門医の考えるゲーム障害臨床」佐久間寛之

このあたりは、前にも書いた。自己治療仮説だ。

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「ドクター、俺たちは、薬物を使用するのは、自分が安堵感を求めているからだと思い込んでるけど、実際は違うよね。安堵は10%、90%は悲惨さだよ」。

ゲーム障害とされかねない子どもがここまで言えるかは別として、そういう面もあるかもしれない。

学校での理不尽な思いを、コントロールできない苦痛を、コントロールできる苦痛に置き換えるためにゲームをしているのかもしれない。

 

まあ、いずれにせよ、「問題のあるビデオゲームの遊び方がある」というのはそうだろう。

人間だれしも、なにかに依存しているかもしれない。そう言い出すときりがないかもしれない。

 

自分の愛好しているものが社会の敵になったら?

 もちろん、不登校になって自室に引きこもり、ゲームや動画視聴に朝から晩まで没頭している、そんな子どもの姿が健康的でないことはだれでも想像ができます。しかしそれは、プロゲーマーを目指して日夜努力している子どもは、甲子園出場を目指して余暇時間のすべてを野球に費やしている子どもと何が違うのでしょうか。プロ棋士を目指して学校を中退した子どもとのちがいはどうでしょうか。そう考えるとあんだん境界が不明瞭になります。

「依存症専門医の考えるゲーム障害臨床」佐久間寛之

結局のところ、行動嗜癖、社会性の障害というのはここに行き着くような気もする。野球は健康なのか、将棋は健康なのか。あるいは、勉強はどうだ。たとえば「東大前刺傷事件」を起こした少年は、受験勉強依存症に陥っていたようにも見える。

ただ、自分の子どもを「ゲーム依存症かもしれません」と言って医者に連れてくる親はいるが、「勉強依存症かもしれません」という親はいない。

 

境界は不明瞭。野球ばかりやっていて、プロにまでなった人が、野球をやめざるをえなくなり、犯罪などを起こすなんて報道は珍しくもない。かといって、今のところ「野球障害」を訴える声は聞こえてこない

でも、いつ、どうなるかはわからない。勝利至上主義の部活動などへの批判的な意見はアスリートからも出ているが、いずれ「障害」や「依存症」になるかもしれない。

 

アルコールや薬物とはまた違う、行動嗜癖というもの。もちろん、「アルコール」についても、酒が禁じられている宗教国家とそうでない国家のもとでは扱いも変わってくるが。

まあとにかく、なにが病気なのか障害なのか依存症なのか。そのあたりについて、ゲームに限らず、自分の愛好するものがどうなるのか、自覚しておくことは大切だろう。

 

たとえば、タバコについて。日本社会が喫煙に対してどれだけ変化したか。おれは世代的に、タバコを常習的に吸っていたものとして、非常に大きく、非常に早い変化だったと思っている。

おれがはまり込んでいる競馬だってどうなるものかわからない。もし、社会の敵になったとき、なにを言えるのか、その用意だけはしておきたい。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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この記事で書きたいことは、以下のようなことです。

 

・もちろん程度問題ではあるのだが、子どもは「親が見せたくないコンテンツ」をどうにかして摂取しつつ育つものであって、そこを制御しようとしても無駄

・子どもの「観たい」「読みたい」「聴きたい」という欲求には基本介入しないようにしている

・ただ、コンテンツそれ自体ではなく、コンテンツで描かれている行為や内容について、子どもに勧められて摂取した上で、気になる点があれば自分の感想として表明している

・そのためにも、子どもと「感想のチャンネル」を保持しておくことが大事な気がする

・子どもが楽しんでいるコンテンツを自分も楽しむことによって、今のところいい感じのチャンネルが保持出来ている気がする(もちろん、親が知らないところで摂取しているコンテンツもあると思うし、それにどうこう言うことはない)

・「批判はコンテンツの否定ではない」ということも伝えている

・それはそれとして「TPO」とか「メリハリ」というものはちゃんと教えないといけない

 

よろしくお願いします。

さて、書きたいことは先に全部書いてしまったので、あとはざっくばらんにいきましょう。

 

しんざきは三児の親でして、長男は男子高校生、長女次女は小学生の双子です。

上の子はもう16歳になるので、私の父親歴も16年。自分の人生の三分の一以上の期間を父親として過ごしてきたということになります。そう考えると結構な期間ですよね?

 

私も妻も漫画好き、ゲーム好き、小説好き、アニメ好きである関係上、しんざき家には山ほど漫画や小説がありますし、ゲーム機(セガサターンとか)もあればアニメのDVDもあります。

そして、家にある本については、基本的に制限なしで子どもたちが触れられるようにしています。

 

その為もあってか、長男も長女も次女も、順調にサブカルコンテンツにハマりつつすくすくと育っています。

最近は松井優征先生にハマりつつあるようで、「逃げ若(「逃げ上手の若君」のこと)買って!」とねだられています。

 

「子どもに触れさせたくないコンテンツ」に対する親のスタンスというものについて、ちょくちょく考えます。

 

子どもがずっと宮沢賢治や五味太郎だけ読み続けているなら悩みは発生しないのかも知れませんが、実際そんなわけはなく、成長に従って格闘ものもジュヴナイルも恋愛ものも読むわけです。その中には、性的な要素だって暴力要素だって含まれているでしょう。そんなのは当たり前です。

 

で、時には、「この表現、子どもにはどうなのかなあ・・・・・・」「こういう行為は真似して欲しくないなあ・・・・・・」と感じるタイミングだって、どうしても発生するわけなんですよ。どんな親にもあることだと思います。

 

そういう「子どもに見せたくないコンテンツ」について、しんざき家でとっている現時点のスタンスは、

・こちらから勧めたりはしないけれど、「観たい」「読みたい」には反対しないし、介入もしない

・ただ、作中の描写や表現について、自分も触れた時「これはどうか」と思うところがあれば、それはそれで自分の感想として伝える

になります。

 

まず一つあるのは、「俺も子どもの頃、親に隠れてろくでもないコンテンツばっか摂取して育ってたよなあ」という認識なんですよ。

 

まだ小学生の頃、パソコンのゲームに憧れてログインやらポプコムやら読んでいたのを皮切りに、「これ普通の親なら「読ませたくない」と思うだろうな」というコンテンツは山ほど摂取してきました。

エロもありましたしグロもありました。楳図かずお先生の青年誌ホラーとか、沼正三先生の家畜人ヤプーとか、今から考えても結構エグめのものも読みました。

 

親の目なんてそういつでもあるものじゃないですし、自分一人で本屋でも図書館でも行けましたし、河原にいかがわしい本が落ちたりもしていましたし。

あの頃の「読みたい」をどんなに止められても、結局何かしらの手段で読んでただろうなーと思うんですよ。それこそ山奥に住んで移動制限でもしない限り、子どもの好奇心って止められないんです。

 

つまり、「親が子どものコンテンツを制御しようとしても無理があるし、場合によっては逆効果になる」という認識がまずあるわけです。

 

ただまあ、そういったコンテンツに触れたことで私が人としての道を誤ったかというと、多分そこまででもなく、まあねじ曲がったとしても20度から30度くらいで、90度横道にそれたりはしてないだろう、と。

そこそこまともな大人にはなれたと自己評価していますし、一応社会人として生活出来ているわけです。もちろんn=1の話ですけど。

 

「子どもが、摂取したコンテンツから悪影響を受けない」かというと、そういうわけでもないだろうと思います。

本を読んでショックを受けたことも、知らなかった行為を知ったことだってあったでしょうし、それを悪影響と言うならそうなんでしょう。読者が全く影響を受けないコンテンツなんて存在しないでしょ、とすら思います。

 

ただ、

・「コンテンツの悪影響」を抑止したいなら、それは「そのコンテンツを差し止める」のではなく、「そういう行為は良くないことだと思うよ」という、感想共有の形で行うのが一番望ましい

・その為に、子どもと気軽に「感想」をやり取りできるチャンネルを保持しておくべき

とは思っていて、それに基づいて行動しているわけなんです。

 

以前から何度か書いているんですが、長女や次女だけでなく長男も、結構私に「これ面白かったよ!読んでみて!」とお勧めしてくれるんですね。階段島もスケットダンスも本好きの下剋上も、私は子どもから教わりました。

「面白いもの」って人にお勧めしたくなるし、感想を共有したくなる。真剣に読んでくれる人にはとっておきの本を読ませたくなりますよね?

 

で、このチャンネルを保持するために一番重要なことって、やっぱり「そのコンテンツを否定しない」「感想をちゃんと伝える」ということだと思うんですよ。

読んでもいないのに頭ごなしに「そんなもん読むな」って言われたら、そりゃ「お前に何が分かるんだ」ってなりますよね。

 

面白かった点があれば、それについてちゃんと言語化して相手に伝える。たとえ「あんまり面白くないな」と感じたとしても、相手の「面白かった」は尊重する。

これ、オタク同士のコミュニケーションで学んだことです。

 

その上で、例えばコンテンツ内の表現について、「ここはどうしても気になるな」という点があれば、そのコンテンツ自体の否定ではない、その作者さんの否定ではないという前提の上で、「こういう行為は良くないと思った」と感想を表明する。

感想って何しろ真面目に聞いてくれるので、これが一番相手の心に届くわけです。

 

これ、「親の倫理観」というものを子どもに伝える、貴重な機会にもなり得ると思うんですよ。コンテンツに触れる機会を握りつぶしてしまうと、このチャンスまで失ってしまう。

 

もちろん、読んだもの全部お勧めされてるわけじゃないですよ?親にエログロコンテンツ勧めてくる子どもがいたら、むしろそれはそれで心配するべきです。

 

親に言わずに観ているコンテンツだって山ほどあるでしょうが、軸の部分できちんと「意見のやり取り」「感想のやり取り」が出来ていて、親としての考えを伝えられていれば、まあ大きく悪影響が顕在化するようなことはないだろうと、今の私はそう考えているのです。

 

もう一つ思うところとしては、子どもの精神って大人が思うよりは強靭で、例えばショッキングな描写があったとしても、「理解できない部分」「受け取りたくない部分」をそのままにしてスルーしておくことはある程度出来るっぽいんですよね。

「意味わかんないけどまあいいや」という感じで流しておいて、大人になって読み返したら意味が分かった、といったコンテンツ、私にはかなり多いんです。

 

そういう意味で、「子どもに触れさせたくない」というのを過度に気にする必要はないかな、ただ自分の意見や感想を表明出来る関係性は重要だなーと。

現在のしんざき家ではそういう風に考えているわけです。

 

ただ、今までの話とは別問題として、「TPO」「メリハリ」というものはちゃんと教えないといけないなーと考える次第でして、本やゲームに夢中になって宿題を全スルーしていたらそりゃ叱らないといけませんし、他の人が静かに作業しているのにデカい音でゲームやってたら注意しないといけません。

 

そういう意味で、「子どものコンテンツ摂取を全て許容する」という意味ではない、ということはご理解ください。

 

子どもを育てる上で「正解」があるかというと、もちろんそんなことはなく、家庭によって、子どもによって、その時一番適したやり方というのは変わってくるでしょう。

このやり方を一般化するつもりはなく、今のところ上手くいっているように思える、育児方針の一例示だということはご承知おきいただければ幸いです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

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父はまだ元気な歳だが、わたしは父からある遺言を預かっている。

そんなに複雑な話ではない。

 

ひとりっ子なので遺産相続できょうだいと揉めることもない。

そもそも、残す遺産なんて持ち合わせていない。

 

たったひとつ、自分が死んだらこうしてほしい、という話を聞いているだけだ。

 

離島に帰った父

母の死後、初盆を終えてから、父はそれまで住んでいた小倉を離れて、自分の実家である五島列島に帰る、という選択をした。

 

実家には父の兄夫婦が住んでいる。

なるほどそれなら、心配はいらない。

 

ひとりではないし、年金生活でも気兼ねなく住める家があるのは大きなことだ。

好きな釣りにも行き放題だし、なによりも一番好きな海に囲まれて生活ができる。

 

父は定年退職後、退職金を持って島に渡った。

使い道は、ひとつは実家のフルリフォーム、もうひとつは自分の船を買うことである。

 

最初の頃は、時々父に電話をしていた。

心配があったからだ。

 

しかし父は、わたしの思った以上に楽しそうな生活をしていることがわかった。

一緒に住んでいる伯母から、「毎日飲み歩いとるんよ〜」と聞かされてびっくりした。

 

しかし。

飲み歩くようなところがある場所か?という不思議があった。

そのくらい、何もない場所なのである。

 

私が近所を歩いていたら、そこで世間話をしていたおじいさんたちから、

「あんた、どこの子ね?」

と聞かれるような小さな集落でもある。

 

あるいは、やけ酒でもしているのか?と心配になったが、そういうわけではないらしい。

伯母も心配している様子はない。

いったいどういうことなのか。疑問だらけだった。

 

しかし、父が帰った後、最初に島に遊びに行った日に、すべての謎は解けた。

 

「先生」の家

「今日は「先生たち」が呼んでくれとるけん、行こうかね」。

 

最初に連れていかれた場所は「先生」の家だった。

「先生」と呼ばれる知人がいることは聞かされていた。

関東から、島の病院に単身赴任してきた外科医の男性だ。

 

「先生」はすぐ近所の家に住んでいる。

家の2階にはワインセラーに大量のワインをストックしているという。

 

ぶらぶらと歩いて行くと、鯛しゃぶの宴会の準備ができていた。

さらに台所では活きた伊勢海老と格闘する男性がいた。その様子を「先生」が見守っている。

「清水さんの娘さんが東京から来るっていうんやもん、それはおもてなしせんとって言いよったんよ」。

 

やがてぽつぽつと仲間たちがその家に集まり始める。父が一番年上だろうか。

 

近所の板前さんは立派な刺盛りを抱えてきた。

「これは食べきれない」見て一瞬でわかる量である。

 

正直、こうした「付き合い」はわたしはあまり得意ではない。

できないことはないが、全く知らない「父の飲み仲間」に囲まれるのである。

 

とりあえず、たらふく焼酎を飲んだ。

地元で造っているという焼酎もかなり美味しかった。それでも疲れた。

田舎まで来て「のんびり」させてくれないのである。

 

また、別の日にはこんなこともあった。

 

港をぶらぶらと歩いていた夕方、近くの家の2階から、

「お〜い、清水さ〜ん!」

と呼ぶ声が聞こえた。

 

伊勢海老と格闘していた男性が、こちらに手を振っている。

一仕事終えて、洗濯物を干していたようだ。

 

「ちょっと寄らんかね〜!」

特段用事はないので、声に導かれてその家に伺う。

 

「ちょっと飲まんかね」

「いいねえ」

 

とりあえず酒を飲む、いかにも島らしい光景である。

 

やがて。

「ちょっと、先生のところにワイン飲みにいかんかね?」

 

そして「先生」の家にお邪魔するのである。

そのまま、近くの小さなカラオケスナックへ梯子する。

 

家に帰って裏山を歩いていると、姫蛍が乱舞していた。

「みんなよくしてくれるっそ。やけんありがたいっそよ」。

島言葉が少し混じった父は、ずいぶんと物腰柔らかい人になっていた。

 

「さやかには悪いと思ったけど…」

父がいるのは上五島の若松島というところだが、これが非常に不便な場所だ。

東京から行こうとする場合、わたしの当時の自宅からだと12時間はかかる。

 

朝早い飛行機に乗って長崎まで行き、そこから長崎市の中心までバスで1時間ほどかかる。

そこからさらに、高速船に乗らなければならないが、これが1日4便しかないのである。

港を出て、そこから島までは1時間半くらいかかる。家に着くのは夕方6時くらいになる。

 

行きにも帰りにもまる1日かかる場所なのだ。もちろん、繁忙期となると、数ヶ月前単位で計画的に出発しなければ交通費はけっこうかかる。

しかしそういうわけにもいかなかった。

 

会社を辞める前はそれなりにお金があったので、自分の体調に合わせて遊びに行けていたが、今はその交通費もなければ、なんせまとまった休みを取るのが難しくなってしまった。

 

行かなくなって何年たっただろうか。

しかし、そこまで気を揉まなくても良いのかもしれない。

 

父はこの選択をわたしに伝えてきたとき、

「さやかには悪いと思ったんやけどね」

と言っていた。

 

確かに不便極まりない場所だ。

しかし、何の悪いこともない。

 

父には父の人生があるのだし、お互いにお互いの人生があるというのは共通認識のはずだからだ。

 

父と「大人同士」になった日

というのは大学生のとき、このようなことがあったからだ。

 

当時、烏丸丸太町のマクドナルドと、寺町通りの六角にあったミスタードーナツは良い勉強場所だった。

 

成人の日も、わたしと同じように特段地元に帰る予定はない、という同級生とマクドナルドで試験勉強をしていた。

いわゆる「大学デビュー」で遊び呆けていたわたしには、ありがたい同級生だった。

 

学期が落ち着いて、ようやく帰省した。

夫婦仲は相変わらずよくはなさそうだったが、そこは気にしない。気にしたら負けだ。

 

父と飲む時間はそんなに悪いものではなかったし、わたしにとってはせめてもの親孝行の時間だと思っていた。

そして、父は切り出した。

 

「お前ももう二十歳やね。大人よ」。

「そうやね」。

「俺、偉いと思っちょるんよ、お前いままで金貸してくれとか言っとらんやん」

「まあ、なんとかなっとるねえ」。

「これからは親子やなくて、親子やけど大人同士やと俺は思っちょる」。

「そうやねえ」。

 

そして本題はこれだった。

「やけんね、

これからは大人同士やけん、それぞれの人生ったい。

正直、俺はもう、お前の面倒は見らん。

そのかわり、

お前も俺の面倒は見らんでいいけん」。

 

突然の宣言に少し驚いた。

わたしが捻くれているのか、なんだか気持ちがすこし楽になった気がした。

何か「男の盃」を交わしたような気分にもなった。

 

ただ今思えばこの会話は、父なりの「子離れ」だったのではないかと思う。

自分にそう言い聞かせることで、納得しようとしていたのではないだろうか。

 

心臓がいくつあっても足りんから!

その会話から数年経って。

大学3回生の年を終えようとしたとき、わたしは突拍子もないことを思いついてしまう。

 

このままでは留年は免れられない。

就職活動のときに、留年って何か不利になるんじゃないだろうか?

であれば、何か自慢できるようなことをしておいたほうがいいんじゃないか?

当時わたしは、自転車が好きだった。

 

「よし、日本一周しよう!」

 

わたしには、ひとつ決めたら突っ走る癖がときどきある。

半期の休学届けを勝手に出して、まる2か月は朝夜とバイトをして資金を貯め、

残りの4か月で日本を回ってこようと決めた。

 

ただ、問題がひとつある。

こんなこと、親にどう伝えよう?反対されるに決まっている。

大人同士やから、とは言ったものの、仮にも一人娘である。

 

とりあえず走り始めてから考えよう、と北海道に渡って旅を始めた。

最終的には1か月かかって北海道を一周したのち、親に手紙を送った。

仰天したことだろう。

 

しかし、走り始めてしまえばもう止めることもできないだろうし、止まるつもりもない。

ただ、全都道府県を踏破すると決めていたわたしにとって、地元は避けて通れない。

とりあえず実家に一泊した。母は北海道に帰省中で不在だった。

 

出発してから2か月目だっただろうか。

もはや父にも止めるつもりはなくなっていたようだ。

翌朝出発する時に、おにぎりを作って持たせてくれた。

 

その頃の話を父はよく、友人や仲間にこう話す。

「俺はこいつを息子やと思っちょるんよ。

娘やと思っとったら心臓がいくつあっても足りんけん。

いや、もう娘とかおらんもんやと思っちょる」。

 

本心はわからない。

しかしもう「大人同士」じゃないか。そう言ったのはお父さんじゃないか。

 

もちろん、無事に帰ってこられたから笑い話になるのだが。

ただ、旅を止めなかったことには感謝している。わたしの「人生」にとって大きな経験になったからだ。

 

いや、止められても止まらなかっただろうとは思うが、良い意味で「諦めて」くれたのだと思う。

 

たったひとつの遺言

そして今、文字通り「大人同士」として、お互い好きな人生を歩めばいい、心からそう思って暮らしている。

 

いまは自転車旅のようにヒヤヒヤさせることもそうない。

無沙汰は無事の便り、とお互い思っている。というか、そうだといいと思っている。

 

とはいえ連絡も寄越さないのは流石に親不孝ではないか?と思われるかもしれない。

ただ、父から預かっている遠い将来の「頼み事」は実現するつもりでいる。

 

最後くらいは願いを叶えたいと思っている。

わたしにはそれしかできないし、親不孝だとしたらそれで許してほしい。

 

頼み事とは、

 

「俺が死んだら、お母さんの骨と一緒に五島の海に撒いてくれんかね。

それだけしてくれたらいいけん」。

 

というものである。

 

どうせ何かがあったとしても、自分の弱みを絶対に、相手がわたしと言えども見せたくない人である。

強がりを通すことだろう。

だからこそ、この遺言には重みがある。

 

 

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【プロフィール】

著者:清水 沙矢香

北九州市出身。京都大学理学部卒業後、TBSでおもに報道記者として社会部・経済部で勤務、その後フリー。
かたわらでサックスプレイヤー。バンドや自ら率いるユニット、ソロなどで活動。ほかには酒と横浜DeNAベイスターズが好き。

Twitter:@M6Sayaka

Facebook:https://www.facebook.com/shimizu.sayaka/

Photo:

日本では現在、政府による施策を中心としてユニコーン企業を育成するための様々な取り組みが活性化しています。

前回は、この取り組みのロジックとされる「ユニコーン企業を育成すれば、日本経済は活性化する」という点は本当なのか、という点を解説してきました。今回はこれを踏まえて、実際に日本においてユニコーンとしてIPOをした会社は、上場後も企業価値を向上させ続けられているのか?また、ユニコーンはIPO後、どのような打ち手の成長戦略を描くべきか?という点について解説します。

 

時価総額1000億円以上でIPOをした会社のその後のパフォーマンス

2011年以降にIPOした日本のスタートアップ企業で、時価総額1000億円以上の会社は、表5のとおり2023年2月20日時点で20社になりました。

 

また、初値時価総額で1000億円を超えていた会社14社の内、7社は時価総額を増加させ、残り7社は時価総額を低下させています。前述した通り、通常のIPOで初値時価総額を上回る会社が約3割に対して、初値時価総額で1000億円超の会社の5割が時価総額を増加させているとなれば、IPO時点の時価総額が大きくなれば、IPO後にも成長を遂げやすい可能性が十分にありそうです。

 

表5

 

時価総額1000億円を超えた会社の打ち手

では、大型のIPOで時価総額が下がってしまった会社と、小規模なIPOでも、その後十分に成長できた会社の明暗を分けたものは何だったのでしょうか。これらの企業について、売上高成長率と営業利益率を比較したいと思います。

 

グループ1 IPO後に時価総額を伸ばし1000億円超となった会社(上場時は小型だったが、その後成長を続けている)

  • (株)ベイカレント・コンサルティング
  • (株)SHIFT
  • テクノプロ・ホールディングス(株)
  • (株)マネーフォワード
  • (株)チェンジ
  • (株)レノバ
  • (株)M&A総合研究所
  • (株)メドレー
  • M&Aキャピタルパートナーズ(株)
  • (株)JTOWER
  • (株)ユーグレナ

 

グループ2 初値時価総額1000億円超で、2023年2月20日時点でも時価総額が1000億円超の会社(大型で上場し、その後も成長を続けている)

  • (株)メルカリ
  • ビジョナル(株)
  • (株)JMDC
  • ペプチドリーム(株)
  • フリー(株)
  • Sansan(株)
  • Appier Group(株)
  • ANYCOLOR(株)
  • (株)プラスアルファ・コンサルティング

 

グループ3 初値時価総額1000億円超で、2023年2月20日時点で時価総額が1000億円未満の会社(大型上場したが、その後成長を続けられていない)

  • セーフィー㈱
  • HEROZ㈱
  • リプロセル㈱
  • ㈱ネットプロテクションズホールディングス
  • ㈱プレイド

 

過去12ヶ月の売上高成長率の中央値を比較すると、時価総額1000億円超のグループは、売上成長率は27.5%~31.7%であるのに対し、グループ3は9.4%です。

 

また、営業利益率の中央値を比較すると、グループ1と2が10%超であるのに対し、グループ3はマイナスです。

 

このことから、1000億円超の時価総額の会社と1000億円未満の会社では、表6のように成長力と営業利益率に大きな差が生じていることが分かります。

 

表6

・出所:各社IR資料

 

IPO後に成長力と利益率を高く保っている会社の特徴

グループ1~3の企業について、上場後のファイナンス、M&A及び株主還元といった戦略的な打ち手の有無を調べ、一覧表にまとめてみます。すると、初値から1倍超上昇した企業16社の内、エクイティファイナンス、新株予約権付社債の発行やシンジケートローン等の大型の資金調達を行っている会社は12社、M&Aを実施している会社も同じく12社、自己株式の取得や配当といった株主還元を行っている会社は5社となります。

 

一方、初値から1倍以下の株価になっている会社9社の内、エクイティファイナンスを行っているのは2社、M&Aを実施している会社は6社、株主還元を行っている会社は1社となります。

注)黒はグループ1、青はグループ2、赤はグループ3の企業

出所:各社IR資料

 

上記の中には、M&AキャピタルパートナーズやM&A総合研究所のように、内部成長のみで時価総額を伸ばしている会社もあります。しかし、やはり適切なタイミングと規模でのファイナンスの実施と機能補完や事業領域拡充のためのM&A実施を上手く調和させることが、時価総額を伸ばしている会社の特徴とも言えそうです。

 

日本経済を発展させ続けていくためには、IPO時点での価値が高いユニコーン企業を増やすだけでなく、これらがIPO後もファイナンス、M&A及び株主還元といった戦略的な打ち手を続け、「企業価値を高め続ける」ことを促していく必要があるのです。

 

(執筆:芦澤 公二)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:m.

昔、「仕事の心得」について、ワークショップをしてくれた先輩がいた。

その最初の問いはこうだった。

『仕事とは何か。』

 

難しい問いだと思ったが、しばらくして、一人の同僚が言った。

『顧客にサービスを提供することです。』

すると先輩は言った。

『それは現代の「商売」の定義かな。石器時代の共同体には顧客もサービスもなかったが、仕事はあった。』

 

なるほど、と思った。

確かに仕事とはもうすこし範囲の広いものかもしれない。

 

もう一人の同僚が、それを受けて口を開いた。

『辞書的に言えば、生きるための作業、というイメージでしょうか。』

先輩は言った。

『悪くないけど、抽象的すぎる。その定義だと、食事なども含まれてしまうのでは?』

 

 

誰も正解にたどり着けず、先輩は口を開いた。

『仕事とは、課題を解決する行為だよ。これはピーター・ドラッカーの定義だ。なお彼は「労働と仕事は根本的に違う」と言っている。どういうことか知りたければ「マネジメント」を読みなさい。』

 

言われてみれば、特に意外でもない回答だったが、ゼロからそれを思いつくかどうか、と言われたら自信はなかった。

先輩は続けた。

『ではもう一歩進めよう。課題とは何か。

 

そこで同僚が手を挙げた。

『やらなければならないこと、あるいは問題のことでしょうか?』

先輩は言った

『近いけれども、不十分だ。ほかには?』

 

もう一人の同僚が言った。

『解決しないといけない問題、でしょうか?』

『そう、課題とは課された、つまり解決されるべき問題のこと。では最後の問い。その問題が解決されるべきかどうか、どう決まるか?

 

問題が解決されるべきかどうか……どう決まる?

はっきりと問われると、意外に難しい。

 

世の中には問題はゴロゴロ転がっているが、解決に向けてきちんとリソースが割かれ、「課題」として扱われることは少ない。

そして、『これが問題だ!あれが問題だ!』と騒ぐ人も多いが、実際に手を動かして、解決に向けて自発的に動く人も少ない。

 

実際には『課題』かどうかはどのように決まるのか。

 

例えば、国のレベルでは、課題には予算がつく。

企業においては経営管理者に人とお金を割り当てる決定権がある。

 

身の回りでは、自分が決めることもある。

 

私は先輩に回答した。

『多くの場合は、その場の責任者が決めますが、皆の合意による時もあります。』

 

先輩は言った。

『そう、つまりその作業や労働が「仕事」かどうかは、結局「人」が決める。したがって仕事の心得で一番重要なのは、『他人』に興味を持つこと。』

 

同僚が質問をした。

『当たり前と言えば、当たり前のことですが、なぜそこまで強調するのですか?』

先輩はすぐに答えた。

ほとんどの人は、結局「自分」にしか興味がないからだよ。でも、多くの仕事は、他人がどう思うかをベースとしなければならない。』

 

『なるほど……』

『つまり、お客さんに興味を持て、同僚に興味を持て、社長に興味を持て、世の中の出来事に興味を持て、ということ。興味が大きくて深いほど、仕事はうまくいく。逆に、自分ばかりを見て『人』に興味がない人は、仕事ができなくなりがちだ。

 

当時の私は、理系の大学院を出たばかりで、人への興味という点では薄かった。

しかし、先輩はそれを見透かしたように、仕事はそれではいけない、とガッチリくぎを刺してきた。

 

「仕事の心得」とはまさに、人に興味を持って、それを深く探求することを指す。

技術職でも、芸術家や職人ですら、「仕事」が一人で完結しない以上、他者に興味を持たないわけにはいかないのだ。

 

他者への興味がない人は仕事が苦痛になる。

他者との関係性を考え抜いた先に、仕事がある。

 

だから、人が難しいのと同じで、仕事は難しく、かつ奥深い。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo:Helena Lopes

最近、ストーリー重視のビジネスが本当に多いなぁと思う。

共感してもらうことが大事、思いを伝えることで応援してもらえる……みたいなやつ。

 

いやまぁわかるよ。

これだけたくさんのモノが溢れているんだから、なにかしらの意味付け、差別化は必要だもんね。

 

でもそれには、大きな問題もある。

スタートが底辺であるほど盛り上がるがゆえに、落ちこぼれや問題児が得をして、なんの問題もなく堅実にがんばっている人が損をすることだ。

 

泣いてるシーンがやたら多いアイドルプロデュース番組

最近、人生ではじめてアイドルプロデュース系の番組を見始めた。

「JO1、INIを誕生させた
日本最大級のサバイバルオーディション番組
『PRODUCE 101 JAPAN』の第三弾」なるものだ。視聴者投票で、上位11名がデビューするらしい。

 

まず練習生は、トレーナーによってA~Fランクにクラス分けされる。

そこからレッスンを受けて1人ずつパフォーマンスし、再評価によってふたたびクラス分け。そしてグループバトルに臨み、勝ったチームには3000票加算される。

 

第1回順位発表式では、得票数1~50位が発表され、51位以下、つまり半分が脱落。

番組を見ている視聴者は、推しがデビューできるように毎日せっせと投票していくわけだ。

 

夢をかけたサバイバルオーディション番組では当然、さまざまなストーリーが生まれる。

 

歌もダンスも未経験で苦戦し、みんなについていけないと泣いたり。

うまく馴染めずグループ練習から抜けて個人練習をしはじめ、チームワークを乱してしまうと泣いたり。

Fランクばかりのグループになり、ライバルチームのパフォーマンスを見て自信喪失して泣いたり。

 

……あれ、なんか泣いてる子ばっかりじゃない?

そう、番組を見ていただければわかるが、だれかが泣いているシーンがやたらと多いのだ。

 

「自信がない」「自分にはなにかが足りない」「どうしたらいいかわからない」とメソメソしている子ばっかり。

ええ、なんでそんなにみんなネガティブなの?

 

そして一番の疑問はこれ。

「なんで桃奈が取り上げられないの?」

 

トップの人気なのに取り上げられないメンバーの謎

桃奈とは、ハロプロ系グループのアンジュルム元メンバー、笠原桃奈のことだ。

12歳という若さでアンジュルムに加入し13歳で武道館ライブを経験、卒業までの5年間で数多くのライブに出演した。

 

当然注目度は高く、トレーナーからの評価はつねにA。

ダメ出しされることもなく、グループバトルではセンターをやり遂げて見事勝利し、推しカメラ(ひとりだけに焦点を当てた動画)でも再生数はトップ。

 

それなのに、番組内ではまったくといっていいほど取り上げられない。

多少ワイプで抜かれることはあるが、注目度に対して、個別インタビューがあまりにも少ない。

 

これは桃奈だけでなく、たとえば鼓(つづみ)ちゃんもそうだ。

笑顔が魅力でリアクションが大きいムードメーカー。

練習生評価では1位になり、グループバトルでも得票数1位を獲得した実力者。

 

がしかし、リアクションの大きさからワイプに抜かれることはあっても、鼓ちゃんの個別のインタビューは全然ないし、グループ練習などで発言が抜かれることもない。

人気メンバーなのにいったいなぜ?

 

それはきっと、「なんの問題もない」からだ。

桃奈は元アイドルで高いスキルを持ち、緊張して歌詞を飛ばすこともなければ、グループレッスンでトラブルを起こすこともない。

鼓ちゃんは歌がトップレベルかつダンスもできるうえ、いつも笑顔でほかの子から歌の相談を受けることも多い。

 

そう、2人ともなんの問題もないのだ。

だからきっと、取り上げてもらえないのだと思う。

 

フォーカスされるのは落ちこぼれと問題児

ぶっちゃけ、歌もダンスもできてまわりともうまくやってる子を取り上げても、おもしろくない。番組としては、泣いている子や叱られている子にフォーカスするほうが盛り上がる。

 

だから、落ちこぼれや問題児のほうが尺が長い。

実際、第1回目の投票では、一番下のFクラスは22人のうち9人が残ったが、Dクラスは21人のうち4人しか残らず、あとは脱落した。

 

Dクラスを見てみると、「こんな子いたっけ?」というくらい空気な子が多い。

一方Fクラスは、トレーナーにキツイことを言われたり、ついていけないと泣いたり、クラス分けテストで歌詞を飛ばしたりと、取り上げられる子が多かったから印象に残っている。

 

たとえスキルに問題のない子でも、トレーナーに「ありきたりな表現」と言われて「どうしたらいいかわからない」と泣いたり、グループ練習から抜け出して空気を悪くしたり、といった子のほうが尺をもらっている。

 

悪い言い方をすれば、なんらかの問題を抱えて泣いたり、まわりを振り回したりするほうが、映してもらえるのだ。

まぁこれはあくまで見せ方の話であって、練習生に否はいっさいないのだが。

 

感動的なドラマに必要な「低いスタート地点」

ストーリーというのは、ある程度「上限」が決まっている。

 

アイドルサバイバルプロデュース番組なら、ゴールはデビューすることだ。

その後レコ大をとったり紅白に出場できたりするかもしれないが、感動の最高潮はやはり、メンバーが選ばれて待望のデビューを果たすその瞬間。

 

では物語の天井が決まっているなかで、よりおもしろくするためにはどうすればいいか?

それは、スタートを低くすることだ。

 

ゴールが100点だとしたら、50点で始めるより-50点ではじめたほうがいい。

50点スタートなら100点まで50点ぶんのストーリーしか作れないが、-50点なら150点ぶんのストーリーが作れるから。

 

だから、落ちこぼれや(なにかに悩んでいるという意味での)問題児といった、マイナスポイントをもっている子のほうが「ストーリーの素材」として都合がいい。

 

その原理を利用したのが、少し前に話題になった『ビリギャル』だ。

「学年ビリのギャルが慶応大学に現役合格」というコンセプトで人気を博したが、実際は中高一貫の私立学校、かつ「偏差値60台の進学校の学年ビリ」だということがわかり、一部から批判の声があがった。

 

とはいえビジネス的には大成功であり、スタート地点を低くすることでよりおもしろいストーリーにする、というマーケティングのいい例だ。

「偏差値60台の私立高校から慶応に合格」じゃ、だれも見向きもしなかっただろうから。

 

更生したヤンキーよりグレずに頑張った人のほうがえらい論

でもこういうのって、「ちゃんとやってるほうがバカみたい」だと思わないだろうか?

 

アイドルデビューするために歌もダンスも練習してきた子のほうが評価されるべきなのに、なんの準備もせず「振りが覚えられない」と泣いたほうが映してもらえる。

毎回ちゃんと勉強していい成績をとった子のほうが褒められるべきなのに、勉強をサボってた子がやる気になったほうが注目してもらえる。

 

なんだよ、まじめにやるのがバカみたいじゃないか。

 

『こち亀』の両さんがどこかの話で、更生した不良に対してこんなことを言っていた。

「こいつのどこがえらいんだ、いったい! えらいやつってのは、始めからワルなんかにならねえの! 正直で正しい人間がえらいにきまってるだろ!」

 

そして、こう続ける。

「ごくふつうにもどっただけなのに、それをえらい、立派だと甘やかしてるでしょうが! ひねくれるのは、自分の勝手なんですから!」

 

そう、まさにそのとおりで、更生したヤンキーよりもグレずにがんばった人のほうがえらいに決まっている。

それなのに、「更生して立派に働いてて感動!」というストーリーが好まれるのだ。

 

「歌もダンスも未経験でぶっつけ本番! うまくいかなくてつらいです!」が感動ストーリーになるなら、オーディションに向けて必死で練習してスキルを磨いて番組に臨んだ子はどうなるの……?

 

それでも努力はちゃんと評価してもらえる

そう考えると、ストーリー重視のビジネスでは、「なにかしらのトラブルを起こして被害者面しろ」が最適解になっちゃうんだよな。

壊滅的に歌がヘタとか、協調性がなくてチームで浮くとか、ビリになるとか。

 

他人よりも努力をしなかったり能力が劣っていたりする人ほど、より感動的なストーリーの素材になるのは皮肉だなぁと思う。

いやね、エンタメとして、番組にはおおいに楽しませてもらってるんだけど。

悩んで泣いている子やスキルが低くて苦戦している子ばかりじゃなくて、前向きにがんばっている子も、もう少し取り上げてほしいなぁと思うのだ。

 

「自分にはこんなにマイナスポイントがあるんだぞ」ってアピールしたほうがおいしいなら、全部できちゃう優秀な子や前向きに努力している子が報われないよ。

 

……なんてやるせない気持ちになっていたが、見ている人はちゃんと見ているもので。

番組のコメントを見ると、「通りがかった子がカメラに映れるように声をかけてあげて優しい」「トレーナーが退出するまでずっとお辞儀をしていて好感がもてる」など、小さな言動に気づいて評価している人がたくさんいた。

 

レッスンの様子があまり取り上げられていなくても、ステージ上のパフォーマンスで存在感を示し、順位を上げている子だっている。

落ちこぼれや問題児にフォーカスを当てればストーリーを作りやすいのは事実だが、視聴者がそれを望んでいるかといえば、案外そうでもないらしい。

 

「すべてが未経験でFランクだけどがんばった」とか「別企画でデビューを逃した子のリベンジ」とかって飾り付けしなくても、光る子は勝手にステージで光る。

 

わざわざ感動ストーリーなんて、作らなくてもいいのだ。

見ている人はちゃんと、がんばっている人を見つけ出すのだから。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Verne Ho

一社員として会社組織を見上げると、実務能力から人格に至るまで「なぜこんな人間が?」と思うような人物が高い役職に就いていることがある。

 

そういう人物には関わらないのが一番だが、トップがそもそも組織のガンである場合、社内全体に病が転移していることもあるし、運が悪ければ自分の直属の上司が病巣であったりする。

 

組織として一番いいのはそのようなガンを即摘出することだが、それは人事や経営陣の仕事であって、自分に必要なのは、相手に引きずられて自分まで狂わないための付き合い方を身につけること。

 

本稿では、そんな上司からいかにして身を守り、心安らかに働くべきかということについて述べる。

 

(1)「俺に逆らった」ということを「やる気がない」と言い換える上司

世の中にはやたらと「やる気」を求める上司がいる。

よく言う言葉といえば、仕事への意欲がない、情熱が足りない、そんなだから何も進まない、などなど。

 

指摘が的を射ている場合もあるが、その実「俺の言うことを聞け」と強弁しているだけというケースが少なくない。

 

例えば、将棋でいえば3手どころか2手先も読めていないようなイカれた指示を上司が出してきたとする。

そこで論理的に問題点を指摘したり、はたまたズバッと不可能である旨を言ったりすると、こいつは否定から入る、つまりやる気がないという認定を下される。

 

でもこれって客観的に見て意欲どうこうの問題ではなく、要は「俺に逆らった」ということを「やる気がない」と言い換えているだけなのだが、本人にはその意識がない。

 

また、こういうことを言う人は往々にして、自分の指示に問題があったとは考えない。

なんなら無理やり部下にやらせて失敗したり大事故につながったりしても、お前らのやる気が足りないからだなどと言い出すわけだ。

 

こういう輩への有効な対処策は、面従腹背とサボタージュである。

もっと簡単に言えば、「やります!」と言いつつも、本当に実行に移すと会社なり部署なりに損害をもたらすことは、やってるフリに留める。

 

むろん、そのような姿勢に誠実さはカケラもないが、やる気のない奴認定はひとまず避けられる。

何より、愚かな指令をバカ正直に実行して会社にダメージを与え、しかもその責任をなぜか下っ端である自分が負わさせられるという最悪の事態は回避可能である。

 

そうして服従している演出の間に、ゴミクズ上司から離れるか他所に移る算段をつける。

もしくは残る価値がある会社だと思うのなら、演じ続ける。

 

正々堂々戦ったとしても、そもそもそんな人間を責任ある立場に置いている組織の中で正論が勝つとは限らない。

だから「やってるフリ」「服属しているフリ」というものは決して非難されるに値しないと筆者は考える。

 

(2)命令する権限があることと、何かを実現できることがイコールだと考えている上司

人が権力を一手に握り、いさめる人物がいない場合、しばしば何かを命じることが仕事の全てと考えがちだ。

その中でも特に問題なのは、全能感を持ってしまっているタイプである。

 

命令する権限があることと、何かを実現できることはイコールではない。

ところが組織や部署に君臨する人は、絶対的存在としてこじらせていればいるほど、この単純な道理を理解できない。

 

自分は誰よりもこの業界、この仕事を分かっている(本当は分かってない)。

だからこそ今の地位にいて、社内の全ての人間は自分の指示通りに動くし、俺の言った通りにやれば間違いない(と思い込んでいる)。

 

では、そんな暴君が己の命じたことが実現されていなかったと知った時、どう考えるか。

指示自体が間違っていたかどうかという自省に至るはずもなく、「俺の言った通りにやっていないのは誰だ」と、犯人探しが始まるわけだ。

 

この類型にありがちなのは、まずオーナー社長。

あとは、かつて実績を上げて一定の地位に就いたけれど、スキルの陳腐化や加齢などの影響ですでに過去の人になっているにもかかわらず、それを自覚できていない人。

 

他にも実務以外の部分で認められて出世した方などいろいろだが、いずれにせよこのような人間から直々に仕事を命じられてしまった時点でクソゲー確定である。

せめてできることとして、自分にとって大事なものは何であるかを突き詰めた上で対応を決めるしかない。

 

筆者がかつて日本の出版社に勤めていた頃、オーナー殿が業績不振を理由に外注スタッフのギャラ一律カットという方針をぶち上げ、それを各方面に通達せよとの指令を受けたことがある。

 

はっきり言って、そんなの悪手もいいところだ。

相手とモメることは確実で、何よりも外に向かって「いよいよこの会社、やばいんだな」と喧伝する行為に他ならない。

 

それでも上に媚びて言われた通りにするか、それとも自分と長年付き合いのあるフリーランサーたちとの関係を守るか。

筆者は、その話が出た時点で自分が5年後ここにいることはないと判断し、後者を選んだ。

 

一方、今辞めたら転職で年収が半分くらいになりそうな人などは会社に残るメリットの方が大きいと考え、外部とのギャラ交渉に取り組んでいて、それはそれでこの人のプラマイ計算に沿った判断なのだろうなと思ったことを覚えている。

 

指示を出した時点で仕事終了、具現化のためには指一本動かさず、実現しないとブチ切れるーーそんな人間であっても、一応相手をしないといけないシーンは会社の中で普通にある。

 

大事なのは、どう振る舞おうがバッドエンドという場合でも、その中で自分にとってよりマシな選択肢を選び、ダメージコントロールをすること。

さらには結果としてボロクソに詰められたり責任を問われても、内面的には動じないことである。

 

相手は全知全能の神ではなく、裸の王様。

何を言われようが、「あなた全裸ですよね」と心の中で思えばよい。

 

(3)ダブルスタンダードを振り回す上司

これは長々と説明するまでもなく、程度の差こそあれどこの会社にもいるタイプだろう。

社員に経費を削減しろとか言いつつ自分は会社の金で連日飲みに行く役員、責任感を持って仕事をせよと訓示を垂れながらも自分は絶対責任を被らない管理職など、例を挙げればキリがない。

 

一言でいえば非常に不快な人間だが、これらの人々への対処法は簡単で、憐憫の心を持って接することである。

そのダブルスタンダードはある組織や環境の中では有効かもしれないが、彼らは外に出れば己が特別な存在でもなんでもないことにいずれ向き合わざるを得なくなる。

 

介護業界の取材のために老人ホームで働いた経験を持つ筆者の元放送作家の知人によると、そういう二重基準の中で生きてきた人ほど、「自分は特別」という思いを死の間際まで捨てられないものなのだという。

彼が言っていたのは、事あるごとに俺はどこそこの大手新聞の編集委員を務めていたんだと言い放ち、周りの人間はすべからく俺に敬意を払って当たり前というノリで介護士や他の入居者に上から目線で接する人の悲しみだ。

 

「職場でどんな感じだったか丸分かりだし、人間の本質ってこういうところで出るんだなって気付かされたよね」とはその知人の談だが、社内でダブルスタンダードを平気で他者に押し付ける者には、そんな未来が待っている(かもしれない)。

そう考えれば、ダブスタ上司の不条理極まりない小言も、憐れみの心を持って許せるというか、一定程度スルーできるようになるはずだ(煩わしいことに変わりはないが)。

 

 

……と、ここまで後ろ向きな話を書き連ねてきたわけだが、要は何が言いたいかというと、いかにブルシットな上役であろうと組織人たるものちゃんと向き合うべきなどという綺麗事より、自分の身と心を守るのが一番大事じゃね? という話だ。

また、逆説的だが、狂った上司や役員、オーナー社長はある意味よき鑑である。

 

「こんな人間になったらおしまいだ」

彼らは社会人、そして人間として大事なことを、身をもってあなたに教えてくれている。

 

 

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【プロフィール】

御堂筋あかり

スポーツ新聞記者、出版社勤務を経て現在は中国にて編集・ライターおよび翻訳業を営む。趣味は中国の戦跡巡り。

Twitter :@kanom1949

Photo by Artyom Kabajev

この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。

 

・ちょっと前、アンディ・ウィアーのSF小説、「火星の人」「アルテミス」「プロジェクト・へイルメアリー」を読み終えました

・個人的な好みとしては、「火星の人」が今まで読んだSFの中でもトップクラス、「プロジェクト・ヘイルメアリー」が本当に僅かな差でその後を追う位置づけ

・「アルテミス」も面白かったんだけど、作品の方向性の違いもあり、その二作には(私の中では)やや届きませんでした

・アンディ・ウィアー作品の真骨頂は、「大きな問題提示の豪快なスケール」「小さな問題解決のテンポの良さ」「その問題解決手段の説得力」なのではないかと思いました

・「物語における文章リソースの割き方」もアンディ作品の大きな特徴の一つだと思います

・「火星の人」で既にその面白さが完成していたところ、「プロジェクト・ヘイルメアリーでは「大小さまざまな謎解き」がそこに加わって、更に面白さが五割増しくらいにはなっていると思います

・それでも火星の人好き(パスファインダーあたりの下りが好き過ぎる)

・アンディ・ウィアー作品、ものすっっっごく大変に面白いので皆さんも読んでください、未読の方には取り急ぎ「火星の人」がお勧めです

 

以上です。よろしくお願いします。

 

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

作品の最低限の特徴・面白さのポイント、及び序盤の展開については書きますが、中盤以降のネタバレになりそうな点については書きませんので、未読の方でもご安心ください。

 

アンディ・ウィアーの長編SF三作、「火星の人」「アルテミス」「プロジェクト・ヘイルメアリー」を読み終えました。

 

正確に言うと、「火星の人」は6,7年前に買って以来あまりの面白さに鬼リピしており、その後「アルテミス」を読んで、最近「プロジェクト・ヘイルメアリー」にたどり着いたらこれがまた凄まじく面白くてバク宙かって勢いでひっくり返った、ということになります。いやー、本当すごいですね、アンディ・ウィアー。

 

この記事では、「火星の人」「アルテミス」「プロジェクト・ヘイルメアリー」の味わい、それぞれを比較しながら、一体アンディ作品は何がそんなに面白いのかを考えてみたいと思います。

 

まず「火星の人」から。

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皆さん、「火星の人」ご存知ですか?普段SF小説読まない人には、映画版タイトルの「オデッセイ」の方が通りが良いでしょうか。

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「火星有人探査ミッション中の事故で、一人火星に取り残されてしまった宇宙飛行士の火星サバイバル」という、豪快な、けれど実にシンプルで分かりやすい設定のSF小説。それが「火星の人」です。

 

本来人類が生存出来る筈もない火星の過酷な環境、残された物資も食料もほんの僅か。そんな絶望的な状況で、主人公のマーク・ワトニーはそれでも諦めず、次の有人探査ミッションまで4年間生き残ることを決意する……って、これ、設定だけで既に勝利が確約されてないですか?

 

作品は、基本的にはワトニーの一人称視点、彼がサバイバルをしつつ残した日記という形で進みます。

当たり前ですが、火星には酸素もなければ水も食料もなく、人間が生き残れる環境は探査拠点である「ハブ(でかいテントです)」と探査車であるローバーの中くらいしかありません。

 

ワトニーが生き残る唯一の可能性は、「4年後の火星ミッションまで生き残ること」。

一方、6人チームの探査ミッションが数十日という前提で用意された食料は、どんなに切り詰めても1年程度しか持ちません。そんな中、植物学者兼エンジニアであるワトニーは、火星の土でジャガイモを育てることを思いつきます。

 

ここから始まる「火星の人」のストーリーは、「たった一人の生存劇」にきっちりピントが絞られつつも次から次へと展開し、読者を一切飽きさせることがありません。

 

ただ「生き残る」だけでも、ワトニーは数々の難題に対処しなくてはいけません。

土はどうする?水はどうする?植物生育に必須なバクテリアはどうする?生存の為の機器は問題なく稼働するのか?地球とどうにか通信をとって、自分の生存を知らせることは出来ないか?

 

まず、「火星で生き残る」という大きな問題が読者に提示された後、その枠内で、細かな課題・問題が続々登場し、ワトニーはいちいちそれに対処しなくてはならないわけです。

この並立的な構造がそのまんま、読者に物語を飽きさせない仕組みになっているわけです。

 

その対処自体、きっちりと科学的なポイントを抑えてあって(SFなんだから若干のウソはもちろん混じりますが、少なくともそれを感じさせないくらいの綿密さで)、「ああ、こういう状況になったら、確かにこうする必要がありそうだな」という納得感と説得力盛り盛り。しかも、サバイバルものならではの楽しさ、「生き残るための創意工夫」も山積みです。

 

たとえば、「水が足りない→余った推進剤であるヒドラジンから水素を作って、その水素を燃やして水を作ろう」だとか、「空気中の酸素を取り除きたい→空気調整機をだまくらかして酸素を分離させよう」とか、ワトニーの様々なアイディアと工夫がまた素晴らしい。

 

「火星の人」の面白さの根幹が、この「大課題を提示しつつ、平行して次から次へと発生する(大課題に比べれば)小さな問題やトラブルに、ワトニーがどんな解決法を見出すか」というポイントにあることは疑いないでしょう。

 

一方、これは「火星の人」の特徴というより、アンディ作品共通の特徴だと思いますが、「主人公の思考過程」に割かれる物語上のリソースがすごーーく多いんです。

「ワトニーが何を考え、どういう判断をして、その結果どういう行動をとったか」ということが、実に実に丁寧に、綿密に描写されている。「普通の小説ならここまで書かないだろ」っていう思考ロジック、様々なアイディアの検討過程まで、きっちり文章で表現されているんです。ワトニーの思考が全部書いてある。それを体験出来る。

 

結果、この物語は、「読者がワトニーの思考というガイドラインを得て、ワトニーと一緒に考える」という物語になっている、と私は思います。

 

「考えて、思いつく」って滅茶苦茶気持ちいいんですよ。それを、最高の舞台設定、最高のガイドラインで読者に体験させてくれる、これは「火星の人」を手放しで賞賛して良いポイントだと考えます。

 

また、この作品、登場キャラクターたちが全員いい味出してるんですよ。

 

主人公のワトニー自身、どんなに絶望的な状況に陥っても、愚痴や文句を吐きつつ絶対に諦めない強靭な意志の持ち主ですし、ちょくちょく出てくるジョークも切れ味抜群です。ルイス船長が残した70年代ディスコミュージックに一生文句言ってるところとか超好き。

 

他の登場キャラクターたちもきっちりと自分の仕事を果たす、非常に有能で、しかし人間くさいキャラクターばっかりです。個人的には、ものすごーーーくコミュニケーションが苦手な人だということがよくわかって、けれど劇中最重要の一手を考えだすリッチ・パーネルがお気に入り。

 

ということで、まずは一点、「火星の人めちゃくちゃ面白いですよね」という話でした。

 

***

 

次に、「プロジェクト・ヘイルメアリー」の話をします。

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この作品、正直「火星の人」に比べて、だいぶネタバレ耐性は低い小説だと思います。つまり、「読み進めるにしたがって判明する事実が読者を驚かせる割合」が高い。

 

ネタバレはなるべく避けますが、最低限の物語設定については言及せざるを得ませんし、それが初読の面白さを多少なりと削いでしまう可能性はあります。

まずは、「火星の人を読んで「面白い」と思った人なら、「プロジェクト・ヘイルメアリーを読んで「損した」と思うことはほぼないでしょう」ということだけ言わせてください。

 

以下は、その上で、最低限のネタバレを踏んでも構わないという人向けの文章です。

 

さて、「プロジェクト・ヘイルメアリー」。この作品もやっぱり、「火星の人」の「面白さの構造」はそのまんま踏襲しています。

 

まず、これだけは言わないといけないのですが、「火星の人」でいう「火星で生き残らなくてはいけない」という大課題。

プロジェクト・ヘイルメアリーでのそれは、「太陽の光を食ってしまう未知の細菌への対処法を見つけて、地球を救うこと」です。

 

これまた、とんでもなく豪快な設定じゃないですか?

「既存の科学の枠内に囚われない豪快な設定」はSFの重要な味わいの一つですが、その真骨頂といってもいい設定だと思います。

 

「火星の人」と比べて、「プロジェクト・ヘイルメアリー」には「様々な謎解きと、徐々にそれが明かされていくカタルシス」分が多めになっています。

「ヘイルメアリー」の主人公は宇宙船に乗っているのですが、何故か物語当初記憶を失っていて、自分が何故、何の為に宇宙旅行をしているのか知りません。船の中にある謎の遺体の正体も、様々な実験器具の用途も分かっていません。

 

「太陽光を食う細菌」の存在は物語最序盤に明かされるのですが、とはいえ「その細菌は一体なんなのか?」「何故そんな細菌が産まれ得たのか?」「その細菌は何をもたらすのか?」「そもそも自分は何をすればいいのか?」といった様々な謎は、主人公の記憶と共に、徐々に、本当に徐々にその全容を明かされていきます。

 

その過程で発生する、「火星の人」と同様、あるいはそれ以上に濃厚な「様々な小トラブル」「主人公の思考過程」「課題に対する解決法」。単に「課題を解決する為の創意工夫」でも面白かったところ、更に「一体何故なんだ!?」という謎や疑問と一緒に試行錯誤が展開していくのですから、そんなもん面白くないわけがありません。

この点、単に「課題解決のカタルシス」という点だけからいうと、「ヘイルメアリー」は明らかに「火星の人」を越えていると思います。

 

物語中盤では想像もつかないような方向に物語は展開し、読者は「一体どうすればいいんだ!?」と「一体どうなるんだ!?」の二つの疑問を解決していくことになります。

火星の人のマーク・ワトニーと同様、こちらの主人公の思考も実に綿密に、丁寧に描写されていまして、読者から睡眠時間を強奪します。

 

この読書体験だけは、どうしても「体験して欲しい」としか言いようがなく、一方やはり向き不向きはあるので、先にある程度一般向けの「火星の人」を読んでみるのはいかがでしょう、とご提案する次第なわけです。

取り急ぎ、「プロジェクト・ヘイルメアリーに登場するバディあまりにも可愛すぎるし好き過ぎる」とだけ書かせていただければと思います。

 

最後に、「アルテミス」についても書かせてください。

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「アルテミス」は「火星の人」や「プロジェクト・ヘイルメアリー」とは少々趣を異にした作品でして、舞台は月の小都市アルテミス、主人公はその中でポーター(運び屋)として仕事をする女性であるジャズです。

とある目的の為に金を稼ごうと必死になっているジャズが、謎めいた仕事を受けるところから話が始まるという、SFというよりはサスペンスに近い作品です。

 

こちらも、「様々な課題、トラブル」「その課題を解決するためのジャズの思考、発想」という面白さ、カタルシスはちゃんとあって、その点さすがの筆致だとは思うのですが、一方サスペンスならではの特徴として、「組織と組織のぶつかり合い」「人間と人間の意志の読み合い」というところにだいぶリソースが割かれてます。

 

また、例えば火星の人なら「火星で生き残る」、プロジェクトヘイルメアリーなら「地球を救う」という、いわば物語の大目的というものが提示されるのがかなりゆっくりめ。

これはこれでもちろん物語の味の一つだと思うんですが、「大目的と小課題の並立」という構造が好きな身としては、他二作には一歩譲るかな、という印象は禁じ得ませんでした。アルテミスはアルテミスで面白いんですけどね。

 

ということで、長々書いてまいりました。

 

私が言いたいことを簡単に要約すると、

 

・アンディ・ウィアー作品超面白いですよね
・まだ読んでない人は、とりあえず「火星の人」から読み始めて、次は「プロジェクト・ヘイルメアリー」に行ってみてください損はさせません

 

の二点になります。よろしくお願いします。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:Nicolas Lobos

みなさんは自身の組織メンバーの意欲と能力を高めることができていますか?

多くの企業へのコンサルティングに携わってきた経験から、成長する組織の重要要素は次の5つのポイントであると実感しています。

 

  1. 競争優位性のある戦略があり組織に浸透している
  2. 組織メンバー個々の能力と意欲が高い
  3. 組織内相互の関係性が良好である
  4. 素早く環境変化をとらえ対応できている(定期的な改善行動がとれている)
  5. 今の成長の柱だけでなく、次の成長の柱を仕込み続けている

 

今回は要素2である、育成において組織メンバー個々の能力と意欲が高い状態をミドルがどうつくり上げていくか、そこに潜む矛盾とは何で、どう乗り越えていくのかを考えていきたいと思います。

 

能力と意欲を高めるには上司の支援が重要

有名な「ロミンガーの調査」では、人が育つ要素の7割は仕事の経験2割が上司などの薫陶1割がOFFJTなどの研修と言われています。つまり、育成には仕事の機会を多く与える事が最も重要なのです。

 

一方で、日本の多くの企業では(一部の成長産業を除いて)部下に多くの機会を与えることは容易ではありません。

そんな貴重な機会を最大限活用するには、やはり適切な支援が必要です。ロミンガーの法則からは、一見上司による関わりの効果は薄いようにも思えますが、上司による支援はメンバーの成長に強い影響を与えるのです。

 

では、ここからはリーダーの役割として、具体的に機会を活かし人を育てる方法、すなわちメンバーの能力と意欲をそれぞれどう高めていくかを考えていきたいと思います。

 

能力を高めるために必要なこと

メンバーの能力を高めるには、メンバー本人が自分の現状の能力を超えた仕事に取り組み、成果を出すことが必要です。

では、このような場面における上司の適切な支援とは、どのような行動なのでしょうか。

 

目標設定

まず能力を高める支援で一番大切なことは「目標設定」です。なぜならば人が仕事を行う上では、その仕事へ取り組む意義がわかること、そしてやるべきことの大きな方向性が理解できていることが大切だからです。

例えば、本人の3年先のキャリアイメージを聴きつつ、会社の求める方向性を踏まえて目標設定を行うなどすると、意義ややるべきことが腹落ちしやすいでしょう。

裏を返すと、意義がわからず、方向性も見えない中で仕事へ取り組み始めると、失敗確率が高まり成果が出ません。

 

計画立案

次に大切な支援は「計画立案」です。自身の能力を超えた仕事であればこそ、メンバー本人は何をどのように進めるべきか、また誰を巻き込むべきかがわかりません。

メンバーに任せる際に「目標設定」で大きな方向性を示すだけではなく、実際に進んでいくための支援を行うことが大切になります。

 

上司として中でも重要になるのは、メンバー本人が見えていないリスクの想定対処法へのアドバイス、さらにネットワークを広げて巻き込む相手を紹介することなどが挙げられるでしょう。

 

実行フォロー

続いて大切な支援は「実行段階でのフォローアップ」です。一般的には「計画立案」の後、成果が出るまでには長い期間が必要ですが、この期間にフォローアップを行うことで、成果創出の確率を高めることができるようになります。

 

ただし、「計画立案」や「実行段階でのフォローアップ」においては上司がすべて教えるのではなく、本人の能力を見極め、ヒントを出しつつ支援することが重要となります。

自分で考え、自分で動くこと、その上で成果にたどり着く経験を支援していくことが望ましいのです。

 

メンバーの意欲を高めるために必要なこと

次に、メンバーの意欲を高めるポイントに移りたいと思います。意欲をモチベーションと言い換えると、そのヒントが見えてきます。

 

モチベーションを高めるためには大きく2つのポイントがあります。

1つは対象のモチベーションの「内容・性質」に留意し働きかけること。もう1つは「順番・プロセス」に留意し働きかけることです。

 

モチベーションの内容・性質を考える

まず「内容・性質」について考えていきましょう。

 

モチベーションの「内容・性質」に関する理論は様々ありますが代表的な例としてハーズバーグの動機付け・衛生理論があります。

この理論によれば、モチベーションへの働きかけはマイナスを0に戻すものと、0をプラスにするものがあり、それぞれ異なります。

 

前者の「マイナスを0に戻す」ためには、厳しすぎる指導をやめることや悪条件の労働環境を改善することが挙げられ、後者の「0をプラスにするもの」としては承認することや本人が望む仕事を付与すること、責任範囲を拡大させることが挙げられます。

 

はたらきかけの順番・プロセスを考える

次に「順番・プロセス」について考えていきます。

 

モチベーションの「順番・プロセス」について考えるための参考として期待理論があります。

人間のモチベーションは、「努力が成果に結びつく期待」×「成果が報酬に結びつく期待」×「報酬が魅力的である期待」によって上がるという内容です。

 

ここから、モチベーション向上のためにどう働きかけるかというと、①まずは努力の結果、成果に結びつくであろう適切な支援を示しつつ、②成果が出た結果を報酬(評価)に結び付ける、そして③評価の結果、本人の望む魅力的な報酬を与えるという順番になります。

 

ここで「うちの会社はそんなに金銭的な報酬は与えられない」と考えるマネージャーも多いと思いますが、報酬は金銭的なものだけではありません

本人の望むこと、例えばやりたい仕事の付与であったり、一緒に働きたい人との協働の機会であったりと様々です。本人を理解し、望む報酬と紐づけてあげることが重要となります。

 

ここまで、メンバーの能力や意欲を高めるためには、上司による支援が重要であることを解説してきました。

しかし実際にメンバー育成に取り組んでみると、様々な「矛盾」によって達成が阻まれることが大いにあります。どのような「矛盾」があり、それはどのように乗り越えればよいのでしょうか。

 

前編では、メンバーの能力や意欲を高めるための上司による支援において、ポイントとなる点を解説してきました。

しかし、これらを踏まえて実際にメンバー育成に取り組んでみても、様々な「矛盾」によって達成が阻まれることが大いにあります。具体的にはどのような「矛盾」があり、それはどのように乗り越えればよいのでしょうか。

 

忙しさを解消する行動が、忙しくてできない

中間管理職であるマネージャーからはよく業務が多く、メンバー支援のための時間が取れないという声を聞きます。

 

しかし、それを言い訳に時間を取らずにいると、いつまで経ってもメンバーのパフォーマンスは上がらず、自分だけが難易度の高い業務に関わらなくてはならない状態が続き、忙しさが継続することになります。

上司の忙しさを解消させるためにはメンバー育成が必要であり、それには上司の支援が必要だが、忙しいから支援できない結果、人が育たず忙しさが継続するという矛盾があるのです。

 

矛盾の解消法

ではこの矛盾をどう解消するか?ヒントは選択をすることです。

 

全てのメンバー/機会で支援行動をとるのは現実的ではありません。よって、次のリーダー候補など育成効果の高い人材に絞り、かつその人材があと一歩成長してほしい分野の仕事を選択し、成功体験を重ねる支援をしていくことが大切であると考えます。

そして育ったメンバーが、自分にしてもらった経験を活かし、更なる後輩を育成していくようになれば、育成の好循環が生まれていくのです。

 

機会の少ない今だからこそ、まさにリーダーの意図した育成行動が必要となっているのです。

 

強い組織のためのモチベーションケアが、弱い組織をつくる

ここまで、意欲を高めるには上司による支援が重要であることを解説してきました。

しかし、支援をしすぎると依存的かつ他律的な人材が多くなる傾向があるのも事実です。すなわち、強い組織をつくろうとモチベーションケアをしすぎると、結果弱い組織になってしまうという矛盾が生じるのです。

 

私自身、最初に就いた「キャリアカウンセラー」という仕事で「傾聴」を徹底して行う訓練を受けたこともあり、その後のマネジメントで、率いる組織を一時期に依存的・他律的にしてしまった経験がありました。

 

矛盾の解消法

ではこの矛盾をどのように乗り越えると良いか。ヒントは行動規範です。

 

我々が働く組織は事業体として、永続的に成果、収益を上げることが目的となります。そのために、企業人として働くうえで守るべき行動規範はつきものです。

モチベーションのケアを行いつつも、そもそもの行動規範を守ることを組織内に根付かせ、皆で確認し合うことができていれば、自律性ある組織の基盤は揺らぎません。これが依存的・他律的な状態に陥らないためのポイントになります。

 

能力を高めようとすれば意欲が下がり、意欲を高めようとすれば能力が下がる

本人の能力を超えた業務や自律的な思考・行動は、能力を高めるためとはいえ、メンバーに負荷をかけるため意欲を落とすリスクがあります。

特に成果が出なかったときなどは顕著です。しかし同時に、前述の通り意欲の向上に手をかけすぎると、弱い人材になりかねません。

すなわち、能力向上への支援は意欲を下げる可能性があり、意欲向上への支援は能力を下げる可能性があるという矛盾があるのです。

 

矛盾の解消法

ではこの大きな矛盾をどう乗り越えればよいのでしょうか。ヒントは順序です。

 

まず前提として、今の日本の(特に大企業の)組織では、一般的に若手・シニアともに意欲やモチベーションが高い状態にあるとは言えません。

その状態で能力強化のためとはいえ、急に難易度の高い業務を付与し支援をし始めてもうまく回らないでしょう。

 

よって、まずは意欲・モチベーションを高めるための働きかけを行うことが先決です。そして業務への意欲が高まった結果、難易度の高い業務を付与し支援をするという順番が大切になります。

 

一方、時間が経過すると意欲が下がるため、再びそれを高めるための支援も必要です。

大切なことは、状態を見ながら順序を立てて、意欲、能力と往復しながら支援していくことになります。この繰り返しこそがリーダー行動として求められるのです。

 

ともすると、リーダーは自分の癖や経験から「意欲を高める」か「能力を高める」かどちらかに行動が偏ることになります。

これまで様々なリーダーを見てきた経験から、どちらかに偏ったリーダーは数年でマネジメントポジションから離れる傾向があり、両立しているリーダーは成長する組織を創れている傾向があります。

 

よって、まずはご自身がどちらに偏りがちなのかを把握すると同時に、状況/相手を見て適切な働きかけができるように行動を往復・修正する習慣を身に着けていきたいものです。

 

今回は、メンバーの能力と意欲の高め方とそこに孕む矛盾の乗り越え方を見てきました。

皆さんのリーダー行動を見直すヒントになりましたでしょうか? 次回、第3回は組織信頼の高め方について、引き続き一緒に考えていきましょう。

 

(執筆:池田 章人)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Photo by:krakenimages

街で少し時間が空いた時には、私は最寄りの書店の新書コーナーにしばしば向かう。

何冊かぱらぱらとめくって、最低一冊は買ってしまう。つい、その新書のテーマに触れてみたいと思ってしまうからだ。

 

ところで新書とはなんだろう?

 

人によって定義はさまざまだろうが、私にとっての新書は「新しい世界への水先案内人」だ。

書店にずらりと並んでいる新書たちは、それぞれ、その新書が書くテーマに通じる入口になっていて、そのテーマは多岐にわたる。

 

たとえば私が最近読んでみた新書に、『平安貴族とは何か』という本がある。

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世間では平安時代などまったく人気がなく、歴史学界でも長く平安時代は悪い時代であるとの評判がもっぱらでした。しかも、まれに平安時代の愛好者がいても、ほとんどは『源氏物語』や『大鏡』や『今昔物語集』などの文学作品からイメージする平安貴族像を、実際の彼らの姿だと考える人がほとんどでした。

平安貴族は遊宴と恋愛にうつつを抜かし、毎日ぶらぶらと暮らしている連中で、しかも物忌や怨霊を信じて加持祈祷に頼っている非科学的な人間であると信じられてきたのです。草深い関東の大地から起ちあがった勇敢な正義の武士に歴史の主役を取って代わられるのも必然であると思われていたのです。
──『平安貴族とは何か』より

同書の筆者は冒頭でこのように語ってみせる。つまりこれは、「史実の資料に基づいた、本当の平安貴族ってやつをみせてあげますよ」とマニフェストしているに等しい。

 

確かにそうだ、『源氏物語』や『枕草子』ぐらいは知っていても、平安貴族が実際にどんな暮らしをしていたのか、私はなんにも知らない。

 

さっそく読んでみると、なるほど、平安貴族の政治や行事、思惑といったものがさまざまに記されている。確かに遊宴しているし、現在の感覚では迷信にとりつかれているというしかない行事にも大変な労力を削ってもいる。

 

が、そうした行動のひとつひとつには当時なりの合理性があり、政治戦略や生存戦略が透けて見えるさまを『平安貴族とは何か』は史料読解の手つきも含めて解説している。

 

かくして、私にとってこの新書は平安貴族の世界を垣間見る水先案内人のような役割を果たしてくれた。気の利いた新書には必ず、もっと深読みしたい人のための参考文献がついているものだが、本書も例外ではない。

 

この新書は……おれをどこに案内するのだろう?

そんな風に新書と付き合っている私だが、最近、とびきり奇妙な新書に遭遇して面白みがあったので、これを紹介してみたい。

 

その新書のタイトルは『闇の精神史』という。このタイトルだけでは何についての水先案内人なのか想像がつかないし、本の帯には「イーロン・マスクはなぜ火星を目指すのか」とだけ記されている。

だが、新書だ。新書である以上、この本もなにかの水先案内人であり、なにかの入門書であるはずなのだ。

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この世界の外側に、まったく別の新しい世界が存在する、という主題に近代以降の人間はあまねく取り憑かれてきた。それこそ無意識的な強迫観念のように。十七世紀に登場した、地球から遠く飛翔した天空界への旅物語の一群を、『月世界への旅』の著者M.H.ニコルソンは「宇宙旅行」と呼んだ。

同時に、そうした地球外の世界を幻視したトリップ譚は、(当時最先端のテクノロジーであった)望遠鏡を覗き込んだ先、漆黒の闇の向こう側に未知の空間を見出したガリレオに象徴される、同時代に勃興しつつあった新たな科学や人文学と複雑に絡み合いながら相互に規定し合っていることをもニコルソンは指摘してみせていた。
──『闇の精神史』より

『闇の精神史』は、20世紀後半に想像されていた未来、過去には想像可能だったけれども現在は想像不可能なユートピアについておもむろに語り始める。

 

たとえばソ連が宇宙開発をリードしていた頃の想像された未来を。または、実生活でも歴史認識でも抑圧され、歴史や出自をもたない境遇にある黒人が想像するSF的な未来を。

 

筆者の木澤佐登志はしばしば、意表を突くような文献を、意表を突くような角度から引っ張り出してくる。

 

これがまた面白く、独特のトリップ感を伴っている。自分が未来について読んでいるのか過去について読んでいるのか、これから先のユートピアやディストピアについて読んでいるのか、それとも過去の思想上のトリビアを読んでいるのか、少し混乱するような、めまいの只中にあるような読み心地にいざなわれる。

 

では、この『闇の精神史』は新書と言って良いものだろうか?

 

イエス。私は、この本を新書として読むことができた。トリップ感のある書籍だが、これは確かに新書なのだ。

では『闇の精神史』は私をどこに水先案内しているのか? 端的に行って、それは Future, 未来だ。この本は未来へと案内する。いや、少し違うか。「未来について考えること」について案内する、と言うべきだろうか。

 

本書で紹介されるさまざまなエピソードは、「未来について考えること」について示唆的で、参考になる。

たとえば私たちはインターネットの登場によって世界が変わったと考えがちで、ここから世界が新しくなっていくのだ、とも考えがちだ。

 

しかし、そのように「未来について考えること」の出自は、本当にインターネットの登場以後だろうか?

電信網はその後、爆発的に成長した。トム・スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』によれば、1846年当初にはワシントンとボルチモア間40マイルを結ぶ、モールスの実験用の線しか稼働していなかったが、2年後には約2000マイルの線が新たに惹かれた。……世界各国の諸都市は電気式テレグラフによるコミュニケーションの回路で覆われた。

株を売買する銀行家や承認、取引人たちは、独自の暗号表を用いて諜報を防ごうとした。彼らはたとえばロンドンの株価を暗号化して送信して、それをエジンバラで復号した。人目を避ける恋人たちもまた、暗号で秘密のメッセージを交換し合った(暗号を作る者たちがいれば、当然それを破る者たちもいる。

たとえば、そうした暗号破りに秀でた人物のひとりにチャールズ・バベッジがいた。言うまでもなく、階差機関を考案し、ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングというサイバーパンクの二大巨頭に霊感を与えた、あのバベッジである)。二十世紀後半に二人の暗号学者、ホイットフィールド・ディフィーとマーティン・ヘルマンが素因数分解のロジックを応用して公開鍵暗号方式のプロトタイプを提示する100年以上も過去の話である。
──『闇の精神史』より

たとえばインターネットの登場以前に、電信網が北アメリカを、ひいては全世界を覆い、ネットワーク化していった時代があった。

まさにヴィクトリア朝時代のインターネットとでもいうべきものが起こった時、インターネットに似た暗号問題が登場し、のちのちサイバーパンクの巨匠に霊感を与える人物が登場したのは、まるでインターネットを先取りしているようにみえる。

 

いや、インターネットそのものではないにしても、電信網の登場はインターネットと相同な想像力をはぐくんだのだ。だとしたら、インターネットっぽい未来への想像力の出どころは、20世紀の後半あたりではなく19世紀に端を発するとみられる部分もあるのではないか?

 

これに類する話が『闇の精神史』のあちこちで登場する。ソビエト連邦が宇宙開発で世界をリードしていた時代における「未来について考えること」や、さらに遡ってロシア革命前後の思想家たちの「未来について考えること」は、今日の「未来について考えること」とどのような繋がりがあるのか?

 

たとえばイーロン・マスクが火星を目指そうとしていることは今日のインターネットや地球環境の問題だけに根差しているのか、それとももっと古い「未来について考えること」にルーツを求められるものなのか?

 

そうして考えていく、案外、「未来について考えること」の一端が過去に見出され、その過去においても現在においても、「未来について考えること」がその時のテクノロジーや政治情勢によって左右されたり制約されたりしているさまが浮かび上がってくる。

 

このように、この本は「未来について考えること」について入門させてくれる。

未来について考えるなんて、誰にでもできることじゃないか、と思う人もいるだろうし私もそう思っていた。だがこの本を読むと、事態はそんなにシンプルではないことがよくわかる。

 

「未来について考えること」には、過去と現在が必然的に入り混じってくる。私たちが考える未来とは、過去や現在の影響下にある未来でもあるのだ。

 

逆に、過去や現在を精査することが「未来について考えること」に繋がる部分、それを助けてくれる部分もあるだろう。本書はそういった考え方に馴染ませてくれると同時に、その際に役に立つかもしれない色々な参考資料をも紹介してくれる。

 

謎めいたタイトルではあるけれど、だから『闇の精神史』は確かに新書だ。「未来について考えること」についての新書。ということは、それは「ユートピアやディストピアについて考えること」についての新書でもあるかもしれない。

 

平安貴族について水先案内してくれる本をはじめ、多くの人が普段は関心をもたないジャンルについての新書がたくさん存在し、新書がそうした分野に関心を喚起し、入門書として機能することを思うなら、このようなテーマの新書が存在してもおかしくはない。

 

晩秋の夜長は読書がはかどる

こうして私は平安貴族の生活の実情を水先案内していただき、続いて「未来について考えること」について水先案内していただいた。どちらも心躍る読書体験だったし、新書だからだろう、内容に比してスラスラ読み解けたほうだったように思う。

 

そんなわけで、新書って本当にいいものですね、というのがこの文章で一番言いたかったことです。晩秋の夜長に、新書をいかがでしょうか。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

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少し前のことだが、電車の中で大学生らしい二人の、こんな話が聞こえてくることがあった。

「今度のバイト、ものすごく楽勝やねん。控室でスマホいじってるだけで時給1,500円やぞ」

 

ほうほう、そんな夢のような仕事があるのかと耳をそばだてていると、どうやら学習塾で子どもたちを駅からアテンドする役割だそうだ。

そして帰りも駅までアテンドするわけだが、その間は控室で遊んでいてもOKというものらしい。拘束時間や体への負担という意味だけでは、確かに“楽”そうだ。

 

するとそんな自慢をされたもうひとりの学生も、負けじと応戦する。

「そんなん大したことないな。俺はカテキョ(家庭教師)で時給3,000円やぞ。2時間で6,000円も稼げて、しかも晩ごはんも食べさせてくれるねん」

 

学生らしい会話にほっこりするが、しかしこの会話を聞きながら少し、別のことを考えていた。

(楽にたくさん稼げる仕事って、つまりどういうものなんだろう…?)

 

おそらく彼らは、精神的・肉体的にストレスがなく、僅かな時間でたくさんのお金をもらえる仕事という意味で話している。

言い換えれば、時間も労力もかけず、お金だけたくさん欲しいというような願望だ。

 

しかしそれは、キツい練習はしたくないがワールドカップで優勝したいと望むようなものであり、実現困難なことは誰だって知っているだろう。

それでも、誰だってそんな方法があればやってみたいと願っている。

 

ではこの、「時間も労力もかけず、たくさんのお金を稼げる仕事」の正体とは、いったい何なのだろうか。

 

「たまには思い出してな!」

話は変わるが、私は幼い頃から「人との別れ」というものが極端に苦手だった。

夏休み、遠方のいとこの家にお泊りするのを嫌がったのは、面倒くさいからではない。お別れの時が辛いからである。

 

それは中学や高校になっても変わらず、女の子を好きになりかけた時は積極的に嫌われるようなことをした。辛くなる前に、関係を切ってしまいたかったからだ。

 

人懐こく、誰とでもすぐに仲良くなってしまう性格を自覚していたので、

「そうか、なら最初から仲良くなるのをやめてしまえば良いんだ」

と考えた、子供なりの苦肉の策である。

 

そして大学生になり、バイトを探すようになると、なるべく人間関係が希薄な仕事をと、考えるようになる。

 

最初に選んだのは、交通警備のアルバイトだ。

通行止めの入り口に一人で立っているだけとか、交通整理で旗を振っているだけとか、これなら誰とも仲良くなってしまう心配はないだろう。しかしこれは、甘い考えだった。

 

誤解を恐れずにいうと、平成はじめ頃の景気が良かった時代、この仕事は“ワケアリ”の人が最後にたどり着く職場であったように思う。

そのため変わり者、いつまでも夢を追いかけているようなオッサンミュージシャン、ビールを飲みながら車を運転する“無敵の人”など、強烈なキャラばかりである。

 

警備会社の社長は、いわゆる「裏ビデオ」を500本、「表ビデオ」を2,000本持っていることが自慢の、ド変人であった。

とはいえこれはこれで、ジャンルはともかくネットもない時代なので、ものすごいことではある。

 

「桃野くん!キミ、裏ビデオってどこで手に入れるか知ってるか?」

「知りません…一体どこでそんなもの、それだけの数、買えたんですか?」

「ほら、家に届く怪しいビデオのパンフレットあるやろ?」

 

40代以上の男性であれば記憶に残っていると思うが、昭和~平成初期の頃、どこで調べたのか高校生や大学生にもなると、自宅にエッチなビデオの通販チラシが届くようになる。

 

「担当者がうっかり消し忘れた逸品です」

「裸をぶつけ合う真剣勝負」

 

などという煽り文句が並ぶが、消し忘れたアニメが少し入ってたり、大相撲を録画しただけのビデオだったりするアレである。

社長は、それのことを言っている。

 

「あれな、騙されることを承知で何度も何度も買い続けるねん。そしたら業者がそのうち、1本だけ本物を混ぜてくるのよ」

「へー…」

「それでも注文を続けて、相手が警察じゃないとわかると、そのうち本物のパンフレットを送ってくれるんやわ」

 

(やべえ世界だ…)

 

「ええか、桃野くん。騙されても騙されても、相手を信じ続けたら、最後は誰でも心を開いてくれるねん。人を信じる力を、大事にするんやぞ」

 

いや、結論だけ聞くと良いこと言ってるけど、なんか色々おかしいやろ。

とはいえ、心からの親切心で言ってくれていることだけは、よく伝わった。

 

そしてこのような、「何かからドロップアウトした人たち」は、一度仲間認定した相手には、本当に情が深かった。というよりも、何らかの理由で傷を負った心を癒やすのに、濃い人間関係を求めていたのかも知れない。

 

「寒いやろ、味噌汁とオニギリ持ってきたぞ!」

夜勤の警備現場にふらっと現れた、60過ぎのアル中のオッサン。

パチンコで勝ったと言ってはいつも、山程のお菓子を事務所に持ってくるチンピラ上がりの兄ちゃん。

 

そんな人間関係は、期間工で入ったエアコン工場でも変わらなかった。

流れ作業のライン工だから、人間関係が濃くなることもないだろう。そう思っていたが、こちらも大誤算の職場に足を踏み入れてしまう。

 

数百ボルトの高電圧機器をショートさせ、工場を停止させてしまったことが自慢のヤバいオッサン。

工作機械に指を2本飛ばされたことを勲章にしている兄ちゃんなど、独特の世界である。

そんな彼らとの、夜勤の3時~3時30分の休憩タイムは、本当に濃い時間が流れた。

 

ただでさえ心身ともにキツい工場の立ち仕事であり、夜勤である。大げさに言えば、“戦友”に近い感覚を、皆が仲間に対して持っていたのだろう。

希薄な人間関係を求めていたのに、気がつけば一番ヤバいところでばかりバイトをした大学生活になってしまった。

 

そして、私がもっとも苦手な“別れの時”である。

できれば気が付かれずに、そーっといなくなりたい。間違っても、送別会のようなことはされたくない。

 

そんなことを考えていたが甘かった。

 

警備員最後の日には事務所でお別れの打ち上げをされ、工場最後の出勤日には朝から開いている安飲み屋に拉致され、しこたま飲まされた。

きっと私は、最初から最後まで涙ぐんでいたような気がする。

 

そんな2つの職場だが、酔っ払ったオッサンどもが揃って言っていたのは、こんなことだった。

 

「桃野くんは夢も希望もある学生なんだから、しっかり頑張るんだぞ!」

「人生でもう二度と会うこともないんだろうけど、ここでのことをたまには思い出してな」

 

いい年になったオッサンになった今ならわかるが、これは本当に心からの言葉だったのだろう。

 

「無限の可能性がある若さ」

はそれほどに、うらやましく眩しい。

 

多くの”別れ”を経験し、また肉親の見送りすら繰り返した今、さすがにもう「別れ」は自然体で受けいれられるようになった。

それでも、バイトを卒業したこの時の別れは今も変わらず、人生で指折りの切ない思い出になっている。

 

”楽にお金を稼げる仕事”の正体

話は冒頭の、「時間も労力もかけず、たくさんのお金を稼げる仕事」についてだ。

このような仕事の正体とは、一体何なのだろうか。

 

言うまでもなくそのようなものは、本質的に存在しない。

しかし「より少ない手間で、多くのお金を稼げる方法」なら、きっと存在する。

 

「やるべきことは、今すぐやる」

「今やれることを考え抜き、やり尽くす」

 

そんな原則を徹底すること。おそらくそれが唯一の解なのだと、信じている。

 

喩えるなら、掛け算の勉強よりゲームが楽しいと放置してしまい、3年生になってしまったら、割り算についていけないようなものだ。

そこで慌てて掛け算からやり直し、割り算も学ぼうとしても、絶対に2倍の苦労では済まない。

 

目先の楽しさや気楽さを選んだら、多くの場合、利息を伴う“人生の借金”になってしまうということである。

 

その一方で、“人生の貯金”とはたくさんの経験を先取りし、許されるうちに多くの失敗を経験し、たくさんの人と出会い、別れを繰り返すことなのだろう。

 

それは時に、大きな心身のストレスを伴うものになるが、必ず貯金になって生きてくる。

だからこそ、学生には「心身ともに楽勝な仕事」を選ぶのではなく、居酒屋の揚げ場やワカメの収穫のような修羅場にこそ突っ込んでいって欲しい。

そんなことを思わされた、束の間の出来事になった。

 

そして話は、私の学生時代のバイトの話についてだ。

私自身、「別れが苦手」という理由で選んだバイトだったので、偉そうなことなど、とてもいえない。

 

しかしあの時の経験は結果として、私の価値観を大きく変えてくれた。

「別れが苦手なので、濃い人間関係をつくりたくない」という考えよりも、「別れが辛いのは、それまでの時間が充実していた何よりの証拠」と思えるようになった。

 

正直今も、人とのお別れは何よりも辛く避けたいイベントだが、

 

「やるべきことは、今すぐやる」

「今やれることを考え抜き、やり尽くす」

 

という一期一会の想いで相手を思いやり、過ごすことができていれば、後悔することはない。

やりきった満足感とともに押し寄せる別れの寂しさは、それもまた良いものだと思えるようになった。

 

心身ともにキツかった学生時代のアルバイトだったが、”人生の貯金”として多くの利息収入をもたらしてくれていること、そして出会えた多くの人に、今も感謝している。

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。

先日、待ち合わせの時間調整でフラッと大阪梅田の某ホテルラウンジに入ったのですが、コーヒーが1杯2,000円でした。
しかし、金粉もかかっておらず、ダイヤモンドも入っていないただのコーヒーでした。
そういう発想をするから、いつまでも貧乏なのだと思い知りました。

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

Photo by:

ChatGPTの発表から、1年が経過しようとしています。

 

熱狂は徐々に醒め、現在の利用状況はLINEの調査によると、全体の5%程度。*1

その中でも、仕事で積極的に利用している人は、1%程度ではないかと推測します。

 

では、この1%の人たちはどのような方々で、どのように生成AIを仕事で使っているのか?

9月の中旬から、10月の末にかけて、私は約40名の方に取材を行いました。

 

そして、私は一つの確信を得ました。

それは、「私は間違いなく10年後、失業する」です。

 

 

私は間違いなく10年後、失業する

なぜなら、現場での生成AI利用は、仕事によっては

「ホワイトカラーの代替」

をかなり高いレベルでできることがわかったからです。

 

例えば、コンサルティング。

コンサルティングには、初期の段階で、仮説構築という仕事があります。

平たく言うと、調査・提案にあたって「課題はここにあるのではないか?」というアタリをつける行為です。

 

生成AI登場前は、調査を行って過去の事例を掘り返し、たたき台を作って有識者とディスカッションを繰り返し、仮説を出していました。

これには通常、2週間程度を費やします。

 

しかし現在、ChatGPTを使えば、仮説構築の工数は1/10程度で済みます。

「調査」や「過去事例」の手間が激減したからです。

 

あるいはSEO対策やwebマーケティング。

ChatGPTを使えば、ペルソナ抽出、検索キーワードの選定、検索意図の推測は、標準的なwebコンサルタントと同等のパフォーマンスを出せます。

 

取材の中では、Amazon等のECサイトの商品情報や価格推移をChatGPTに分析させている事例もありました。

 

このように現在ですら、限定された用途では、生成AIのパフォーマンスが、人を凌駕するケースも多く見られます。

(なお詳細についてはここに書ききれないため、各セクションの「利用事例の詳細」というリンク先を見てください。)

 

◆コンサルティング・マーケティング用途の事例は以下の方々のご協力で取材をさせていただきました(以下の利用事例の詳細

・マーケティングリサーチ会社で10年の経験を持ち、現在はリサーチ会社を立ち上げたyasuさん

・映像制作・web制作を手掛ける浦島大介さん

・元大手UXコンサルティング会社「ビービット」のUXコンサルタント三宅さん

・群馬県渋川でPCサポートを生業とする田原さん

・生成AIの活用支援を行っているごまおさん

・事業開発コンサルティングを行っている石井さん

・webデザイン・制作会社を経営している、エスケイワード代表沢田さん

・webマーケティング、EC運営に携わるあゆみさん

・BtoBマーケティングを手掛ける、澤山モッツァレラさん

 

サービス開始から1年もたたないAIが、これほどの水準に達しているとすれば、10年後には私のような職業の業務の多くが、生成AIに代替されていても全く不思議ではありません

 

もちろん『人間の方が優れていること』は残るでしょう。

しかし、その業務量は少なく、携わる人はごく一握りになる可能性はあります。

 

 

メディア運営、編集や秘書も生成AIに代替される可能性

もちろん、代替可能性がある分野は、コンサルティングやマーケティング分野だけではありません。

本来のChatGPTの用途である、ビジネスシーンでの文書生成能力の活用です。

 

メディアの記事を書きたいと言えば、記事を生成し、パンフレットを作りたいと言えばパンフレットを生成してくれます。

雑誌の取材、書籍の構成、プロジェクトの募集文書も、十分アシスト可能。

 

中には専門的に、士業の方が「補助金の申請」や、勉強会を主宰するための「資料作り」に活用されている方もいます。

 

簡単な翻訳には、ほぼそのまま生成AIの出力を使うことができます。

「メール返信はほぼChatGPTで、秘書代わりに使っている」とコメントする方もいます。

 

現在の生成AIのクオリティでも十分すぎるくらいの仕事はたくさんありますから、これからバックオフィスの仕事も代替が進むでしょう。

 

◆文書生成能力の活用事例は以下の方々のご協力で取材をさせていただきました(以下の利用事例の詳細

・雑誌『Mac Fan』編集の栗原さん

・書籍の構成、オーダーメイド資料の作成事業を手掛ける田中さん

・SNSプラットフォーム事業に携わる高安さん

・釣りメディア(Oretsuri)運営の平田さん

ブラッシュメーカー会計事務所経営の河野さん

・酒販ECサイト(Sake street)を運営する、藤田さん

・社内勉強会支援サービス(cacumo)経営の、藤木さん

・PMO業務に携わり、副業でOfficeソフトインストラクターとして活動する、森田さん

・地場産業の資金調達を支援する、公益財団法人京都地域創造基金可児さん

・船場経済新聞編集長、Web販売代理店制度を支援するwebサービス「Dairin」運営の大崎さん

・アメリカ合衆国のニューヘイブンで大家を営む、Kaoruさん

 

私はwebマーケティングの分野で、記事制作やライティング業務を行っています。

しかし、生成AIの現在の状況を見るに、「また私の仕事が減りました。」と言わざるを得ません。

 

 

プログラムコード生成もAIに

さらに、ChatGPTが生成できるのは「文書」だけではありません。

技術者の方はよくご存じだと思いますが、生成AIはそれなりの水準で、プログラムコードを出力することが可能です。

 

◆コード生成の活用事例は以下の方々のご協力で取材をさせていただきました(利用事例の詳細

工数管理ソフト「タイムクラウド」運営の西小倉さん

・大手外資系製薬会社で研究者として勤務する、QM_ODE_LAさん。

・お金のアドバイスを提供するメディア「シェアーズカフェ」運営、FPの中嶋さん

・精密位置決めセンサ製造の「メトロール」取締役の松橋さん

・プロンプトエンジニアのユウスケさん

・美容クリニック「ファイアークリニック」でマーケティングと業務システム開発を手掛ける及川さん

 

彼らの共通の認識は「指示を工夫すれば、そのまま使えることはないが、それなりの精度でコードを生成してくれる」です。

そういう意味では、ハイエンドエンジニアは生成AIによって能力がブーストされますが、ローエンドのエンジニアは仕事がなくなる、と言っても良いかもしれません。

 

また、今まではGoogleやサポート掲示板などで、疑問点を検索しなければならなかったけれども、ChatGPTを使う事により、調査工数を大きく削減できる、という意見も非常に多いものでした。

 

また、変わった使い方としては、従来は旧システムからのデータ移行に際し、データコンバータの開発が必要でしたが、ChatGPTを用いると、自然言語によってデータのコンバートを可能にしている事例もありました。

 

さらに、非エンジニアであっても、簡単なスクリプト言語であれば、ChatGPTの出力コードを動かす → エラーメッセージが出たらそれをChatGPTに聞く → 再度ChatGPTの出力コードを動かす というサイクルで、十分システムを作れてしまう、という事実があります。

 

 

「生成AIの用途」にはさらに可能性がある

もちろん、オーソドックスな使い方だけではありません。

工夫次第では、汎用人工知能のような使い方をすることもできます。(利用事例の詳細

 

例えば、生成AIプロダクトを手掛ける「Algomatic(アルゴマティック)」では、採用の分野や、営業分野で幅広くAIを活用しており、オリジナルのAI利用プラットフォーム「シゴラクAI」のほか、社内のslackには、業務のアドバイスをしてくれる生成AIボットが稼働しています。

 

トヨタ向けの自動車部品(エンジン、トランスミッション、ブレーキなど)を手掛ける旭鉄工、およびその子会社のi Smart Technologiesは、工場で数千件以上に上るカイゼン活動を行っています。

しかし、その内容は複雑多岐にわたるうえに、取り出しにくい情報でした。

そこで、カイゼンの内容をChatGPTに読み込ませ、その内容を自然言語で取り出せるようなシステムを作り上げています。(5月には、この試みがNHKで特集されました。利用事例の詳細先に動画あり)

 

また、同じく自動車部品のメーカーで数十年以上の勤務経歴を持ち、知財管理を行うでーすけさんは、ChatGPTに特許情報の複雑かつ専門的な明細を読ませ、有象無象の知財の中から「捨ててよい特許」を特定しています。

 

愛知県、中部地区のケーブルテレビの統括会社「コミュニティネットワークセンター」では、経営トップが全社に生成AI導入を指示し、2023年8月から利用の方法や利用率をモニタリングしています。

利用率は5%程度ですが、コールセンターからの課題要約、議事録の作成、さらには変わった用途として、来客対応としての「観光案内のスクリプト作成」など、多岐にわたる利用事例が確認されています。

 

業務用ソフトウェア(SaaS)のweb診断サービス「FitGap」を運営するPIGNUSでは、数千ものSaaSを比較する際に、ChatGPTを用いて製品の特徴や製品間の差分を出力させています。

数千もの製品を比較することは人力ではとても不可能なため、人を代替する試みとして面白いものです。

 

東証プライム市場に上場する、3000名規模のクリエイティブデザイン会社は、現在30名程度のスペシャルチームを作り、チームに対してChatGPTの有料ライセンスを開放しました。

生成AIのユースケースを調査させる狙いです。

この企業での取り組みのポイントは、新規事業立ち上げ部門と、法務部門を巻き込んでいること。用途に応じたリスクも同時にチェックすることで、利用のハードルを下げる狙いです。

 

大阪府立 佐野工科高等学校の校長の松野さんは、大阪府の学校での初の試みとして、2023年4月より、授業にChatGPTを導入しました。

現在では、グループワークのファシリテーターや、教材の作成、プログラミング授業でのコードチェック、タイプ練習用の練習問題作成、地理の授業での調べものなど、多彩な用途でChatGPTが使われています。

 

 

今後の企業における生成AI利用の展望

すでに、150社の企業に対して、生成AIプロダクトの営業をした、という流禅の藤原さんは、現状のAIの仕事への適用は、大きく2点の課題があると言います。

 

一つは、どのセグメントを見ても、(領域、企業規模とわず)、リテラシーのの不足が課題となっていること。

要は「使いこなせるか?」が不安であること。

思っているよりも一般の人にとって、まだ生成AIは難解でハードルが高く、使うためには、講師や顧問を招致したり、全社員が目的を共有する
(成果イメージを持てている。)などの施策が必要です。

 

二つ目は、セキュリティ面。

マイクロソフトのAzureを使えば大丈夫、などという話もあるが、それは情シスがあったり、詳しい人がいる場合のみであり、ほとんどの企業にとっては、直接ChatGPTに情報を入力するため、セキュリティ面に不安があることです。

 

また、生成AIに強く興味を持っている業界は、製造業、IT業、不動産業、医療であり、比較的導入が速そうだと言います。

 

なお、製造業は、旭鉄工のように、自社で蓄えている情報を生成AIと合わせて活用したい、というニーズが多いとのこと。

IT業はコード生成、そして不動産業は、情報収集の自動化と、役所への書類提出業務の効率化を目指す会社が多いのです。

 

 

失業しないためにも、生成AIに取り組むしかない

ということで、10年後の安達はすでに要済みとなりました。

チーン。

 

……とはいえ、生成AIに大きな可能性を見出すことができたのも事実です。

それでは、ということで、新しく生成AIを事業とする会社「ワークワンダース株式会社」を作りました。

 

11月にはインクルージョンジャパン社、ブレインパッド社と共催イベントを開き、上の取材内容を含め、さらに大手企業などの事例も含めて詳しくお話しするつもりです。

「リアル開催」オンリーでの情報ですので、ぜひ、イベントへのご参加お待ちしております。

→ イベント公式サイトはこちら。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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*1 「ChatGPT」の認知度は全体で約3割、20代・30代の男性では4割超に。利用意向は女性よりも男性の方が高い

野球とサラリーマン

「この案件は全員野球でいくぞ!」……などと昭和のサラリーマンはよく言っていたものと思われる。

しかし、今は令和のビジネスパーソンの時代だ。「全員野球」という言葉も「おっさんビジネス用語」の代表格だ。

 

しかし、たまにはいいじゃないですか「全員野球」。

え、全員野球ってなんだって? そりゃあもう、スタメンから控え、監督コーチスタッフみんなで頑張ろうってことですよ。

……野球に例える必要があるのか?

 

まあいい、2023年シーズン、全員野球の戦い方でセ・リーグ二位になったチームがある。広島東洋カープだ。

それを率いたのが新井貴浩監督である。この新井監督が実にモチベーターだな、と思った次第。

 

モチベーター。厳密に定義されているのかわからない。他人や集団のモチベーション、やる気を鼓舞し、目標に向かわせるような人、ということにしておこう。

 

ビジネスにおいても、そういうリーダー像が求められることもあるだろう。

そんな新井監督がどんなチームを作り、どんな戦い方をしたのか、一カープファンが見た感想を記したい。

 

2023年の広島カープ

新井さんの話をする前に、2023年のカープと新井監督について軽く説明しておく。

 

カープはそもそも戦後広島で……などと話し始めるとどうしようもなくなるので、近年の流れを。

2016年に25年ぶりのリーグ優勝を果たしたのち、2018年まで三連覇。その後、低迷が続いて2023年。新監督として元カープ→阪神→カープでプレーした若き新井監督就任となる。

 

新井監督。いや、新井さんといったほうがいいだろう。新井さんは現役時代、2203安打、319本塁打の記録を残した名球会入りの名選手だ。が、どうも「名選手」という言葉は似合わない。

 

そもそもプロ野球に入れたのも大学の先輩のコネを使って必死にアピールしてのこと。

プロになれるほどの実績などなかったのだ。が、プロ入り後は朝から晩まで猛練習をしてホームランバッターとして開花した。

 

カープの主砲として活躍のあと、フリーエージェントで阪神へ移籍。

これはおれを含めて多くのカープファンを落胆させ、冷たく、暗い気持ちにした。

 

が、阪神での活躍が終わった後、自由契約でカープに復帰。

成績はほとんど期待されていなかったが、見事復活を果たし、カープ三連覇の立役者となる。あれ、やっぱり名選手?

 

しかし、先輩からも後輩からもいじられるキャラと人間性。どこか抜けているところもあり、残したネタも数しれず。とくべつにファンを魅了したといっていい。

 

で、その新井さんが監督になる。どんな監督になるのか。そもそも監督なんてできるのか。とにかく未知数。

そして、カープは新井監督の新チームにろくな補強をしていなかった。

 

シーズン前の評論家たちの順位予想はよくて5位。多くは最下位になるんじゃないかと思われていた。

正直、カープファンも新井さんの初年度だし、いきなり結果を出すことはないだろうと思う人が多かったのではないか。

 

「家族」の躍進

しかし、おれが新井さんに期待していたことはあって、チームの雰囲気を変えてくれることだ。

 

なんとなく、ここのところチームが暗かった。せめて、新井さんの明るさで雰囲気くらい変わってくれないか、と。

そのあたりはもう、就任早々からいろいろな発言やアピールで新井さんらしさが見えたので、まあよかったか、と思った。

 

で、新井さんが早々にアピールしたのは「チームは家族」という言葉。こんな発言をしたのだ。

https://baseballking.jp/ns/column/347795

「お前たちはカープという大きな家にいる。だから家族同然だと思っている。自分の弟やお父ちゃん、お母ちゃんが嫌いか?それと同じ感覚で、嫌いな奴は1人もいない。みんなが好き。カープという家の中にみんなで一緒に住んで、みんなで切磋琢磨して頑張ろうという考えだから」

正直、これは戦う集団としてどうなのか? そもそも仲良くない家族もあるんだが? などと、おれのような人間は思ってしまったわけだ。大丈夫なのだろうか? というのが正直な感想だった。

 

が、これが大丈夫だった。大丈夫どころではなかった。終わってみればそうだった。それこそ全員野球だ。

新井さんはチームへの最初の訓示でこう述べた。

「言いたいことは2つある。まず1つ目は、お前たちが思っているより、俺はお前たちみんなに期待している」
「2つ目は、好き嫌いでの起用を絶対にしない」

正直、今年は若い監督が若い選手を使って、チームの実力アップを目指すシーズンだと思っていた。が、違ったのである。

「お前たちみんな」には、新井さんとチームメイトとして一緒に戦ったベテランも含まれていた。

 

三連覇の主力選手ながら、その後低迷していた田中広輔には「戦力として見ているから」と声をかけた。

ここ二年くらいの成績から「田中広輔はもう終わった」と思っていたファンも少なくない。

 

おれもそうだ。だが、田中広輔は新井さんの言葉に応え、いいところでツーランホームランを放ったりした。

シーズンが終わってみれば決して好成績とは言えないし、守備での衰えも見せた。

しかし、戦力ではあった。「家族」の象徴の一人であったとは言える。

 

というわけで2023年のカープは復活したベテランと中堅と若手が不思議と噛み合ったチームとなった。いや、不思議ではなく、そういうチームづくりをしたといっていい。

 

「ベテラン偏重では?」、「好き嫌いしないと言いながら、選手時代のチームメイトばかり使っているのでは?」という声もあった。しかし、そのベテランを押しのけるような若手の突き上げも弱かったのも事実ではある。

 

まあとにかく、なんだかカープは勢いに乗っていた。最下位争いと思われていたチームが、首位争いまでした。

今年は阪神が強すぎたのもあって、さすがに層の薄いカープは突き放された。他の球団もそれぞれいまいちな点があったのも確かだ。でも、結果とにかく二位。クライマックスシリーズもファーストステージを勝ち抜いた。上々過ぎる結果といっていい。

 

新井監督がしたこと

では、新井さんは何をしたのか。もちろん、野球は選手がプレイするものだが、新井さんが監督でなければ今年の二位はなかったと思うカープファンは少ないはずだ。

少なくとも、去年と同じままでは、戦力があまり変わっていないのだから、ここまで変わらなかっただろう。

 

カープを変えたのはなにか。

それがモチベーターとしての新井さんということになる。選手に期待する。選手を信頼する。それを口にする。そして、失敗しても起用した自分の責任だと言い切る。

 

実際、おれは新井さんの発言を気にしながら見ていたのだが、絶対に選手のせいにはしなかった。

褒めるところは褒めるが、ミスについて責めることはしない。むしろ、ポジティブな言葉をかける。起用した自分の責任だから、のびのびとやってくれ、というスタンスだ。

 

それが、言葉だけでないのが選手にも伝わったのだろう。

たとえば、クライマックスシリーズの対ベイスターズ戦、失敗すれば試合に負ける、絶対にアウトになってはいけないシーンで、若手の代走羽月がリスクの高い三盗を決めた。ベイスターズ側に油断があったという指摘もあるが、それでも相当に度胸がなくてはできないプレイだ。

 

これについて羽月は「恐怖心はなかった」と言い切った。

シーズン中から監督やヘッドコーチから代走で出たらなにをしてもいい、めちゃくちゃにしてくれと言われているから、アウトになったらしょうがないという気持ちでやっているのだという。

 

このあたり、なにか「心理的安全性」という言葉が連想されないだろうか。むろん、会社組織と野球のチームでは違う点も多い。だから、あくまで連想だ。

しかし、たとえば「リスクのある意見を述べてもいい」とチームリーダーから言われたとしても、実際に言えるかどうかは、本当に自分個人へのマイナスがないと信じられるかどうかにかかっている。

 

その点で、今年のカープには監督から選手への信頼とともに、選手から監督への信頼があった。だからこそ、ミスを恐れずに攻めることができる。

たぶん、羽月があのシーンで盗塁を失敗したとしても、監督やコーチのみならず、他の選手も責めるような空気にはならなかったのではないか。そのようなチームでは個々の力が発揮されやすいだろう。

 

ミスを恐れずに攻める。それが数字になって現れたのが、それこそ盗塁数だ。前年までは「今のメンバーでは走らせられない」とコーチが広言し、機動力野球が代名詞だったカープの盗塁数は非常に少なかった。

が、今年は違う。ガンガン仕掛けた。その結果が、阪神と一個差のリーグ二位の盗塁数である。……が、失敗数はリーグ断トツ一位でもあった。ただ、「カープは積極的に走ってくる」というプレッシャーを相手に与えることにはなったはずだ。

 

……とかいうのはまあ昭和の発想かもしれん。そもそも盗塁数がチームの勝利数にどこまで寄与するのかを計算するのが先だろう。盗塁数があまり意味のない指標だとしたら、多かろうが少なかろうが順位には関係してこない。

しかし、今年のカープ、ざっと見たところ、勝利に寄与するとされるような指標(セイバーメトリクス的なやつも)、軒並み高くないんだよな。阪神はきちんと高いのに。不思議な勝ちが多かったのかもしれない。いや、それも新井マジック……?

 

まあいい、おれにセイバーメトリクスのことはわからん。わからん昭和の野球ファンだ。

 

ただとにかく、チームは「家族」といい、選手を信頼するといった新井さんのやり方は成功したといっていい。他チームのことをどうのこうの言うのはマナー違反かもしれないが、あえて比べてみたくなるのが最下位に終わった中日だ。

 

それこそアマ時代からエリートの名選手であった立浪監督のやり方は「令和の米騒動」などを引き起こし(わからなかったら検索してください)、どうもチームの雰囲気も悪いように見えた。

むろん、カープも中日も来年どうなるかはわからない。ただ、今年についていえばモチベーターの新井監督のやり方が上を行ったといえる。

 

新井さんの問題点

と、ここまで新井さんのやり方を絶賛してきたが、負の側面もあったことは否定できない。モチベーターのやり方にも功罪はある。

 

最初に挙げられるのは、選手を「信頼しすぎた」ことだろう。不調の選手も使い続ける傾向があった。

たとえば、シーズン前に四番のマクブルームと抑えの栗林だけはそのポジションを明言していたのだが、その二人とも不調に陥った(よくそれで戦えたな、とも思うが)。

 

それでも、不調に陥った選手を信じて使いすぎた、という点がよく見られたのだ。

 

とくに、抑え投手はチームの勝敗に直結する。というか、守護神が抑えに失敗するというのは、ざっくり言って勝ちゲームを負けゲームにしてしまうということだ。

 

栗林はWBC、侍ジャパンにも選ばれるほどの実力があり、三年目ながら絶対的守護神と言われるほどの成績を残してきた。それが今シーズン開幕後、セーブ失敗がつづくことになった。それでも新井さんは栗林を信頼して、使いつづけた。

その結果、故障を発生して三軍での調整となった。栗林は声を上げて泣いたという。新井さんもこれには、「逃げ場を作ってあげられなかった」と反省したという。

 

ほかにも、「エース」と表記されることのある大瀬良大地のこともある。新井さんは大瀬良を信じた、信頼した。しかし、大瀬良は肘に故障を抱えつつで、成績も上がらない。個人的にはここ数年大瀬良はピリっとしてないなと思っていたが、今年は顕著だった。

 

もちろん、リーグでも最悪に近い援護率の低さというのはあるにせよ、それも早い回で痛打を浴びる大瀬良がゲームメイクできないせいではないかと見えた。とくに肝心な試合で負けることも多く、ネット上では大瀬良へのヘイトが多く見られるようになった。

 

そんな状況でも新井さんは大瀬良を信じたが、ついには大瀬良自身がクライマックスシリーズを前にして「先発をやめさせてほしい」と言うに至ったという。これも大瀬良を追い詰めたとは言えないだろうか。

でも、大瀬良は最後まで信用され、最後の最後のクライマックスシリーズ阪神戦で「やはりエースでは?」という魂のこもった投球を見せたのだが。でもでも、やっぱりオフには即手術ということになったのだが。

 

その他、好調のベテランや体質的に強くない選手を使いつづけ、故障者続出で上本四番(説明はしないです)みたいな事態にもなった。

まあそれで上本四番が機能してしまうあたり、なにか持っているのだろうが、その上本も結局は故障してしまう。

 

このあたりが、なんというか、モチベーターの負の部分のようにも思える。信頼のしすぎによって、相手を追い詰めてしまう。

あるいは、モチベーションがアップして躍動する分、反動で身体への負担が大きくなってしまう。消耗が大きいのだ。

 

戦力的にベテラン頼りになってしまうのも仕方ない面があるとはいえ、前半戦を高打率で引っ張ったベテランの秋山翔吾などもだんだんと成績が下がっていき、やはり故障してしまった。

 

もとから選手層が薄い上に、故障者が続出。それでもなんとか勝負になったのは、ちょっと奇跡的というか、運が良かったのも否めない。

いくらチームの雰囲気がよかったとしても、だ。これに再現性があるようには思えないし、そこで大失速していた可能性もあったと思う。

 

2024年の新井さん

さて、来年の新井さんはどうするのか。すでに、今年の反省、自分の至らなかったところを述べている。続出した故障者に、自らのマネジメント不足を反省している。

「ベテランが調子よくとも、適度に休養を与えつつ戦う」というのは、コーチ経験もない新人監督には難しいことだったとは思う。しかし、一年戦ってそれに気づけたのは大きい。

 

モチベーターによって鼓舞された集団。ゲームでいえば「バフ」がかかった状態とでも言えるのだろうか。2023年のカープは、そんな状態で戦ってきた。最初から、最後まで。チームの意識は高い。結束力もあった。だが、余裕はなかった。代償も小さくなかった。特定の選手に負荷がかかりすぎた。

 

今年のカープが数字的に誇れる戦力といえば、強力な中継ぎ投手陣があげられると思うが、これもまたかなり固定されたもので、勤続疲労が心配される。アドゥワやアンダーソンをもっと使ってもよかったのではないか。

 

まあ細かい話はともかくとして、モチベーターによって組織されるチームの強さを見たし、同時に弱点も見えた。そんなシーズンだった。

 

必ずしもチームのリーダーがモチベーター的なタイプでなくてもよいし、「家族」的なチームがよいとも限らない。

「球界で嫌う人はいない」と言われるような新井さんの人間性があったから成り立ったところもあるだろうし、下手な人間がモチベーターぶったりしたら、パワハラと紙一重になりかねない。もちろん、新井さんとて過度の期待によって選手を追い詰めたり、消耗させすぎたりという面もある。

 

とはいえ、新井さんが急にクールな知将タイプになることもあるまい。

来年もビッグプレーがあれば選手の誰よりもベンチから飛び出してガッツポーズして大はしゃぎすることだろう。それが新井さんの持ち味なので消してはよくない。

 

モチベーターとして選手たちを鼓舞しつつ、心理的安全性のある意識付けをしつつ……そのうえで、チームがパフォーマンスをシーズン通して維持できるようなマネジメント能力を高めていく必要がある。

新井さんはそれができるんじゃないかとおれは期待している。なにせ、この戦力で戦い抜いて二位になった。チームリーダーとしての資質がなければできることではない。勝負勘のようなものもあるタイプだと思う。悪くない。

 

と、書いてみたものの、2024年のカープには不安のほうが大きい。今のところ。それがおれというファンの心理だ。今年、全力でやりすぎた反動が出るのではないか。

躍動したベテランたちもさらに一つ歳を取る。守れて、走れても、打てなさすぎる若手が多い。チームカラーとして大きな戦力補強は望めない。むろん、勝負事なので他チームの巻き返しはあるだろうし、阪神はしばらく安定して強そうだ。

 

それでも、二年目で成長した新井さんが選手たちに力を与え、ヒリヒリするような勝負を見せてくれることを信じたい。やがては新しいタイプの名将と呼ばれるようになり、ビジネスシーンでも「新井野球でいこう!」と言われる日がくるかもしれない。

いや、それはないだろうが、まあ「理想の上司」のアンケートに入る日はくるかもしれない。

 

……と、ここまで書いて正直にいうと、おれは働き始めてからずっと零細企業の一兵卒であって、部下を持ったこともない。会社が小さすぎて、「組織づくり」や「チーム」とか言えるようなものもない。

きちんとしたマネジメントなんて存在していない。だから正直、「野球とサラリーマン」的な昭和の想像だけで書きました。ご容赦ください。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

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上司には、2種類のタイプがいる。

明確で的確な指示を出せる人と、あいまいで多義的な指示をする人だ。

 

おおざっぱな指示しかできない人に対して、わたしはいままで「マネージメント能力が低いんだな」と思っていた。

 

でももしかしたら、そうじゃないのかもしれない。

あいまいな指示をする人は、明確な指示をする能力がないのではなく、「他人にケチをつけることが仕事」だと思っている可能性があるのだ。

 

あいまいな指示に対して細かいダメ出しが続く

先日、しんざきさんの『曖昧なタスクへの耐性が下がってしまった、一時期の話』という記事を拝読した。

 

記事内では、システム関係の仕事における、「成果物の要求ステージについてのチーム内での意識の不統一」という経験が紹介されている。

 

アイディアベースの初期段階なら、指示がおおざっぱになるのはしょうがない。でも「なにを作ればいいか」が明確じゃなければ、成果物がかっちり決まらないのは当たり前。

 

指示はあいまいなのに、成果物にはやたらディテールを要求されても困る。

だから、「この段階ではどの程度のあいまいさが許されるのかは、チームでちゃんと共有しとこうね」という話である。

「今のステージでは、指示がある程度曖昧になってしまうのと同様、成果物にもそこまでのディテールは要求されない」「今は、曖昧な指示、曖昧な成果物が共に許容される段階」という共通認識が、やむを得ず曖昧な指示を出す上では絶対に必要なんです。(……)
「今はディテールを詰める段階じゃないよ」という意識が統一されていないと、ディテール不足についてのダメ出しがガンガン発生してしまう。心理的安全性が下がりまくるわけです。(……)
「今のステージで必要とされる成果物のクオリティ、ディテール」について明確に言語化して、しかもその認識をしっかりチーム内で共有することは、プロジェクト全体のクオリティを守る為に非常に重要なことだ、と認識するようになりました。

これはもっともな話で、「たいした指示をくれないくせにダメ出しはやたら細かい」という状況は、かなりストレスだ。

 

でもわたしの経験上、「やむをえず指示があいまいになってしまうなら、成果物がおおざっぱでも許容すべき」という正論が通用しない人もいる。

なぜならこの世には、他人にケチをつけることが仕事だと思っている人が結構いっぱいいるからだ。

 

深く考えずにどんどん指示を追加してくる人との仕事

ライターになりたてで、まだ仕事の進め方がよくわかっていなかったころ。「日本とドイツの働き方のちがいについて書いてくれ」という、おおざっぱな仕事を受けた。

 

そこでわたしは、ジョブ型とメンバーシップ型の働き方の比較記事を執筆。

記事を提出したところ、「日本の長時間労働問題についても触れてほしい」というリクエストがあったので、メンバーシップ型についてのくだりでさらりと言及。

 

再提出したところ、「もっとそこを掘り下げて」とのこと。全体のバランス調整のため大幅に手を入れ、結局1/3ほど書き直して完成。

これでやっと終わりだと思いきや、「日本の問題点、改善方法をドイツ在住視点でもっと追加してほしい」なんて言い出し始めた。それってもう、完全に書き直しじゃん……。

 

駆け出しライターなのでどうするべきか悩みに悩んだが、勇気を出し、必死に言葉を選んで、書き直しを断った。

このまま仕事を切られちゃうんじゃないか……とドキドキしていたが、返事は「それならこれで大丈夫です!」というめちゃくちゃ軽いもの。

 

え、OKなの? じゃあなんのために何度も何度も書き直しさせてたの?

 

わたしはこの編集者の思考回路がまったく理解できなかったが、仕事を続けていくうちに、「深く考えずにどんどん指示を追加してくる人」がたくさんいることを知った。

 

他人にやり直しをさせることが自分の仕事だと思っている人たち

こういう「後から指示人間」の思考回路は、

「まずは適当になんか作って。それに対していろいろダメ出しするから、そのダメ出しを反映させてブラッシュアップして。そうすれば最終的に、理想的ななにかになるっしょ!」

である。

 

まず相手に丸投げして、「なにか」を作ってもらう。それを見た感想を、「指示」として伝える。

ただの気分、思いつきだから、指示は二転三転して一貫性がない。ムダなやり取りや納得がいかない作業が何度も発生するくせに、仕事は遅々として進まない。

 

それでも本人は、他人の仕事をチェックしてやり直しさせることで「自分は仕事をしている」という実感を得ているから、なにが悪いのかが理解できない。

 

作り手がいくら「その通りに作るので最初から具体的に指示してください」と切実に頼んでも、それをしてしまうと「やり直しさせる」という自分の仕事がなくなるので、当然拒否。

「とりあえず作れっていってるのに、細かいことを聞いてきて面倒くさいなぁ。口よりも先に手を動かせよ。後から俺の言う通りに直せばいいじゃないか」と、本気で思っているのだ。

 

細かいダメ出しなら、どんな無能でもできる

なんでそんな面倒くさい人間がいるのか?

それは、細かなダメ出しならどんな無能にでもできるからだ。

 

いやね、本当に笑っちゃうよ。

1回目の修正で「一つ目」表記に対し「数字は全部アラビア数字で」と言われ、2回目の修正で「『金』ではなく『お金』にしてください」、3回目の修正で「もう少し固めの文章で」。こういうのがずーーーーっと続くわけですよ。

 

面倒くせぇ!! 表記ルールがあるなら先に言ってくれ!!

 

と思うのだが、この人たちにとっての仕事は、やり直しをさせること。

一発OKにしてしまったら、自分の仕事がなくなってしまう。後からああだこうだとケチをつけて、「自分の意見を反映させた」という実績がほしいのだ。

 

むずかしいことを処理する能力がなくとも、単語単位でいちゃもんをつけるのならだれにでもできる。むしろ、それしかできないから細かいダメ出しばかりするのだ。

 

ちなみに、後から指示人間とは真逆の、「最初から指示人間」も存在する。

かれらは、できるだけ具体的な指示を出すことで後々の作業を減らすことが自分の仕事だと思っている。

 

その人にとって最大の成功は「一発OK」で、最大の失敗は「何度もやり直しさせること」。

だから効率的に進むように丁寧に打ち合わせるし、コミュニケーションエラーを防ぐために労力を使う。

 

現場の人間からしたらこっちのタイプのほうが百万倍ありがたいが、残念なことにこれは、明確なビジョンを持ち言語化がじょうずな有能にしかできないのだ。

 

後から指示人間に自信を奪われないために

作る側としては、後から指示人間と仕事するのは、このうえなくダルい。

思いつきで言ったことを変えるんじゃねぇ、こっちはあんたの気まぐれに何時間も費やしてるんだよ、と思う。

 

腹が立つならまだいい。

問題なのは、「自分では相手の意図を汲み取ったつもりなのにダメ出しばっかりだ……」と悩んでしまうことだ。

 

一生懸命つくったものが否定されて、いちいち細かいことで文句を言われて、それを直したのにまた別の角度からネチネチ言われて……。

そうなればだれだって自信を失うし、やる気をなくしてしまう。

 

わたし自身、「一生懸命書いたのに細かな修正依頼が何度もくる。なんで直しても直してもOKが出ないんだろう。そんなに悪い記事だったかな……」と落ち込んだこともあった。

でも今思えば、それは自分の力不足ではなく、「やり直しさせるのが仕事」だと思っている人に振り回されただけだったのだ。

 

もちろん、自分の実力不足でやり直すこともあれば、他人の意見を取り入れてブラッシュアップするためにさらなる調整をすることもあるから、修正自体が悪いわけではない。

 

ただ世の中には、だれかの仕事にケチをつけることこそ自分の使命だと思って働いている人が、意外とたくさんいる。

だから、「細かいダメ出しが続いて仕事が全然終わらなくとも、あなたのせいじゃない可能性もあるからね。あんまり落ち込まないでね」と伝えたい。

 

そもそも後から指示人間は、ごちゃごちゃ言うわりに、それぞれの指示に大した根拠や思い入れをもってはいない。

 

直すのが簡単なところだけちょちょいと手を加えて、

「これはこういう理由で修正できません。でもこっちはこう直しました! あなたの言う通りにやりましたよ! あなたの実績ですよ!」

っぽい雰囲気にすれば、たいてい満足してくれる。

 

そうやってうまいこと仕事を終わらせるのが、無難だろう。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by :Joseph Frank

2023年4月、村上春樹が6年ぶりの新作長編『街とその不確かな壁』を発表し、初版30万部と話題になった。

 

村上氏は、1979年に30歳でデビューして以来、40年以上ものあいだ第一線で活躍し、高い存在感を発揮し続けている。他の分野を含めてもめずらしい、超人的な高みにあるクリエイターだ。この特異な小説家のキャリアから、ビジネスパーソンが学ベることがあるだろうか。

 

僕は「ある」と思う。

 

村上春樹は、特定の組織やそのときどきの業界の空気に依存せずに、インディペンデントに活動してきた。終身雇用的なコンセプトが一段とゆらいでいる2020年代のビジネスパーソンのキャリアに通じるヒントを彼から得ることは、十分に可能だろう。

 

村上氏は、90年代ごろまでは自身の創作やキャリアの舞台裏を積極的には語ってこなかった。しかし、2000年代の後半、60歳の手前あたりから、覚悟を決めたかのように後進にむけた「自分語り」を披露してくれるようになった。

 

今回は、私たちのキャリアを考えるうえでも大いに参考になる3冊の作品(小説ではなく、仕事についての文章)を取り上げて紹介したい。
これらの作品が示唆するヒントは、あなた自身が「小説家」をめざす、実際に組織から独立して生きる、という狭い目的に限定されるものではない自分の思い定めた道を追求し、結果を出していくためのアドバイスが、これらの本にはあふれている。

 

才能・集中力・持続力――『走ることについて語るときに僕の語ること』

本書は、ランニングを軸とした回想録だ。しかし、それにとどまらず、仕事をするための生活習慣や人生観が随所に語られている。

 

村上春樹は「ランニング」を趣味とする作家として知られている。キャリアをスタートさせた1980年代には「小説家が体を気づかってジョギングするなどおかしい(小説家たるもの、破天荒で極端であってなんぼである)」という世間の空気が強かったそうである。しかし氏は、作家としてクリエイティブでストレスフルな仕事をするからこそ、フィジカルを鍛える方がいい、と一人決意し、デビューから3年後に習慣的に走り始めた。

 

今でこそ、良い仕事は良い体調から、との価値観はかなり一般的になった。特に若い世代では「当たり前」と言えるかもしれない。しかし、時代を支配する空気にまどわされず自分の頭で考えて自分の習慣を作る、という当たり前にみえてなかなか出来ない行動を若いうちから実行してきたのが、村上春樹だったと言える。

 

本書のなかで、キャリアを考えるうえでのインパクトが強いのは以下の一節だ。

小説家としてインタビューを受けているときに、「小説家にとって最も重要な資質は何ですか?」という質問をされることがある。小説家にとって最も重要な資質は、言うまでもなく才能である。文学的才能がまったくなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれないだろう。

第4章 僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた

大成功した巨匠作家のこのキッパリとしたことばを、凡人である自分はどう受け止めれば良いのだろう。最初にこのフレーズに出会ったとき、ため息が出た。

 

しかし、この一節だけで氏の主張を誤解しないでほしい。この「断言」のあと、才能のみで、ものごとの成り行きが決まるのではない、集中力(傾斜して資源配分をする力、に近いニュアンス)と持続力が重要だ、と自身の経験をもとに真摯に説いている。村上氏自身も、むしろ集中力と持続力により、ゆっくりと段階的になんとかして才能を開花させていった、と振り返る。これはビジネスキャリアにも大いに通じるものだろう。ぜひ第4章の全体をお読みいただきたい。

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長期的に、時間を味方につける――『職業としての小説家』

タイトルどおりズバリ、小説家としてのキャリアについて語った本だ。テレビにはいっさい出演しないなど露出嫌いで知られてきた村上春樹が自分の写真を表紙にしてこんな本を出すのだ、と出版当時驚いた記憶がある。しかし、読んでみると、この本にはビジネスパーソンにも分かりやすく応用できる考え方が詰まっていた。

 

語られるテーマは包括的で多岐に渡っているが、くり返し述べられているのは「時間」との向き合い方だ。

時間を自分の味方につけるには、ある程度自分の意思で時間をコントロールできるようにならなくてはいけない、というのが僕の持論です。時間にコントロールされっぱなしではいけない。

(第六回 時間を味方につけるーーー長編小説を書くこと)

本書で述べられるのは、日常生活の中で1日の時間をどう使うか、との「段取り」論にとどまらない。受託する仕事をどう選ぶか、発注者との関係をどう作るか、さらには、10年以上のスパンで自分を成長させるためには、直近の仕事で何を目的にするかについても自覚的に取り組んできたと述べられる。村上春樹は、デビュー作からしばらくは「僕」の一人称で作品を書いてきた。その後、短編・中編・長編、翻訳仕事を組み合わせながら、徐々に三人称で記述する技術を手に入れ、今では自在にテクニックを操る域に達している。

 

氏のキャリアから特徴的に学べるのは、短期的に器用な立ち回りではなく、長期的に(氏の表現を借りれば)「鈍臭く」ても太い仕事をなしとげる秘訣である。

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受け手が認めるコアの強みを自覚し磨く――『みみずくは黄昏に飛びたつ』

本書は、同業の後輩である作家の川上未映子からのインタビューによる語り下ろしである。

 

同業者である川上氏が、膨大な予習に基づき、専門的な質問をくり出すため、文学専門的な話が多くなっている。正直に言って、村上春樹の小説作品をある程度読んできた人でないと理解が難しい内容かもしれない。

 

さまざまな職業的技術論が語られるなか、村上氏は小説家として自身が一番優先順位高く、フォーカスしているのは「文章、文体、リズム」と表明している。

僕にとっては文体がほとんどいちばん重要だと思うんだけど、日本のいわゆる「純文学」においては、文体というのは三番目、四番目にくるみたいです。だいたいは、テーマ第一主義で、(略)、観念的なものが評価され、文体というのはもっとあとの問題になる。

(第三章 眠れない夜は、太った配達人と同じくらい珍しい)

ランニング習慣と同じく、世間の通念とは独立し、自分が大事だと思うポリシーを持って取り組んできたことが強調される。村上氏は、単なる独りよがりでこれが自身の強みだと主張しているわけではない。その武器とする「文体」の魅力を通じて(評論家やメディアではなく)読者と繋がっていると確信していることだ。

 

自身の職業にとって、お客さまから支持されるコアの要素は何だろうか。それは社会的な通念ではなくて自分が考え抜いたものだろうか。自分自身の強みを活かし、いつまでも面白く付き合っていけるものだろうか。一考すべき観点であろう。

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時代と職業を超える示唆が詰まったキャリア

村上春樹が仕事とキャリアを語った3つの作品から学べるポイントを紹介してきた。才能、集中力、持続力、フィジカル、時間、コアの武器、といったキーワードを扱ったけれど、それぞれの書籍の中には他にも様々な示唆が含まれている。
時代背景が違う、また、個人の仕事である小説家から安易にビジネス教訓を学ぼうと奨励するものではない。しかし、その本質には普遍的なヒントがあると思う

 

それにしても、村上氏の作品のなかから一部分のフレーズを取り出して紹介する、というのは、交響曲から一つの楽器の数小節だけを抜き出して提示するのにも似た、意味を欠く行為かもしれない。今回紹介した3冊(特に最初の2冊)は、氏の作品を知らない読者にも楽しめる内容であると思う。
興味を持っていただけたなら、本を入手して、全体を味わってほしい。

 

最後に。最新作『街とその不確かな壁』は、まさに文章、文体、リズムを第一に考え、作品の彫刻技術をみがき続けてきた作家の集大成的作品だ。こちらもビギナーでも読みやすい一作である。グローバルに愛される作家の新作を、母国語でまっさきに味わえる特権を享受できる喜びを共有したい。

 

(執筆:グロービス経営大学院教員)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

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この記事で書きたいことは下記のようなことです。

 

・私が知っている中で一番「整理整頓」「片付け」が上手い人は、昔居候していたバーのマスターです

・マスターに「片付けのコツ」を聞いてみたところ、「頭と手を同時に動かそうとするな」と言われて、以下のようなことを教わりました

・片付けというのは要は「カテゴライズ」であって、単純化すると物品を分類するだけの行為

・人間は複数のことを同時にやるのが苦手であって、「考えながら手を動かす」のは高いコストを要求される

・だから、「考えておけることは事前に考えておく」だけで片付けのハードルが下がる

・お前は片付けの時、手を動かしながら分類まで考えようとしているので全然片付けが出来ない、先に考えるべきことを考えろ

・その教えを後から思い出して、だいぶ(片付けに限らず)タスク処理が上手くなりましたので、片付けが苦手なひとはご参考まで

 

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。

 

昔私は、名古屋駅に程近い、小さなバーの二階に住んでいました。

昔生活創庫があった辺り、と言えば分かる人には分かるでしょうか。今では完全に様変わりしてしまったみたいですが。

 

そのバーは、カウンターと小さなテーブルが3,4席という席配置になっていて、人が10人も入れば満席になっていました。

昼時には定食屋みたいなこともやっていて、焼うどんやらチャーハンやらを出していました。

二階には店員の仮眠室か何かの為に作られた部屋があって、私はそこに結構な期間転がりこませてもらっていました。

 

私の人生には何人か、「後々の生活で強烈な影響を受けた人」がいるのですが、このバーのマスターもその一人です。

マスターがいなければ路頭に迷っていたかも知れませんし、考え方でも色々な影響を受けました。この人がいなかったら、私は今こんな呑気に暮らせていなかっただろうな、と思います。

この話は以前もちらっと書いたことがありますので、良かったら読んでみてください。

 

 

それはそうと、私は子どもの頃から、「片付け」や「整理整頓」というものが苦手です。私が使っていた勉強机には、大抵うず高くプリントの山やらペットボトルやらが積もっていましたし、床も三分の二くらいはなんだか分からないガラクタで埋まっていて、辛うじて出来た隙間にうっすいタオルみたいな布団を敷いて、テトリスのブロックの間で寝ているような状況でした。

 

マスターは基本私の生活には殆ど干渉しない人だったのですが、ごくたまーに私の部屋を覗きに来ては、「ちょっと床が抜けないようにしとこっか」と言って片付けを手伝ってくれました。

マスターが一時間くらい手伝ってくれるだけで、「ここは数時間前と同じ部屋なのか??」と思うくらい部屋が綺麗になって、そのおかげで私はなんとか人としての生活水準を保っていました。マスターに頭が上がったことは人生で一度もありませんが、これもその要因の一つです。

 

当時の私は、マスターのことを「天才的に整理整頓が上手い人」だと思っていました。なにせ名駅裏のバーですので酔っぱらった人も多く、バーが散らかることもしばしばあった筈なのですが、私は「散らかった状態のバー」を一度として見たことがありません。

客商売をやっている人というのは、多かれ少なかれ整理整頓が上手なのかも知れませんが、マスターはその中でも際立っているように思えました。

 

ある時、

「マスターってなんでそんな片付け上手いんですか?」

と聞いてみたことがあります。20年以上前のことですが、この時の問答はかなりはっきり覚えています。

 

マスターの答えは、

「いや別に大して上手くないよ。君があまりにも片付けヘタ過ぎるだけ」

でした。質問を変えました。

「じゃあどうしたらマシになりますかね?」

 

こういう抽象的な質問に対して、マスターは「答えに時間をとる」ということが殆どありませんでした。すぐにこういう答えが返ってきました。

 

「多分だけど、いっぺんに色々やろうとし過ぎ」

「はい?」

「君さ、片付ける時、手を動かしながら考えてるでしょ。人間はいっぺんに色々やれる生き物じゃないんだからさ、考えないといけないことは手を動かす前に済ませておかないと」

 

正直なところ、言われた時はピンときませんでした。「片付け」は「片付け」であって、別に思考労働ではなく、純然たる肉体労働だ、と私は考えていました。

そう言ってみると、マスターは「違う」と言いました。

 

「例えばさ、君、プリント片付ける時、片付けながら「このプリントどうすればいいだろう」って考えてない?捨てていいのか、なんか書いて出せばいいのか、今は使わないけど後で必要になるのか、それともプリントに書いてある他のタスクをやる必要があるのか、そういうの一枚一枚考えながら片付けようとしてない?」

「…………あーーーーーー確かに」

言われてみると、という感じでした。

 

「片付けって、要は分類なんだよ。「捨てるもの」「今は捨てられないけど、何かした後に捨てられるようになるもの」「捨てるべきではないけど普段は使わないもの」「普段から使うもの」とかさ、まず分類を作って、その上で「どれがどの分類に入るのか」を判断して、その判断に基づいてそれぞれ必要な場所に動かすわけでしょ。捨てるものはゴミ袋に、使わないものは物置に、使うものは引き出しにってさ。だったら、先に分類とその条件は考えておいて、「あ、これはこの分類」って、いちいち考えないでも手を動かせるようにしとかないと」

「……なるほど」

「例えばプリントなら、情報だけ把握すればいいやつならA、提出期限が近いヤツはB、遠いヤツはCって感じで、事前に基準決めておけば、頭を使う部分は最低限になるでしょ」

「それを、「分類を作る」「どの分類に入るのか考える」「手を動かす」まで、片付けながら全部いっぺんにやろうとしてるんだから、そりゃ時間かかるし、片付け自体面倒くさくなるでしょ。考えるってすげー大変なことだから、片付けする前に考えることは終えとかないといけないんだよ」

 

要するに、マスターが言っていることは、

「思考と行動を分割しろ」

「手を動かすことと考えることを一度にやろうとすると行動のコストがやたら上がるので、「考える」は事前に済ませておけ」

ということでした。

 

本でもプリントでも道具でも何でも同じなんですが、片付けをする時は、「何に対してどういう処置をするか」という方針を必ず決めなくてはいけません。捨てるもの、とっておくもの、すぐ使うもの。それを決めてその通り処置をすること、つまり「分類」が片付けの本質だ、と。

 

その分類を頭の中でやりながら手を動かしてたら、そりゃ面倒くさいでしょ、と、マスターが言っていたのは要はそういうことだったのです。

後から意味が分かってくる類の言葉だったと思います。

 

「この教えでたちどころに片付けが上手くなりました」と言えれば、それはお話として非常に綺麗なのですが、もちろん現実は厳しく、私はマスターの言葉に「ほほーーー」と感心しながらも、その後しばらくは片付け下手のままでした。

 

認識一つで行動が改善されれば苦労はありません。私はその後も、数か月に一度「そろそろ人間が過ごせる環境ではなくなってきた」という頃にようやく片付けをしていましたし、片付けを進めながら「このプリントどうしよう……面倒くさ……」とやり続けていました。

 

私がマスターの言葉を思い出して、芯から納得できたのはそのずっと後、社会人になって仕事を始めてからのことでした。

それがどんなタスクであれ、「何をするべきか」を考えながらタスクを進めるのは、滅茶苦茶高コストだしハードルが高い行為です。PDCAサイクルで一番重要なのは「P(プラン)」であって、「何をどうするべきか」という、「事前に考えておけるパート」はやり尽くしておかないと、いざ「実行」となった時手がまったく動きません。

 

自分にせよ、部下にせよ、「考えられることは先に考えておけ」というのは、身に染みるくらい散々苦労させられて、ようやくある程度出来るようになってくることでした。

 

タスクを片付けながら、時々マスターの言葉を思い出します。

人生でままあることとして、「その言葉の意味が理解出来た頃には、もうその言葉をくれた人はいない」ということがあります。マスターはもう亡くなって久しく、私がしばらく身をおいたバーもとっくに取り壊されて、今は名駅裏の生活倉庫すらありません。

 

出来ることなら、「あれってこういう意味だったんですね」と、今までの人生で色んな示唆をくれた人たちともう一度ゆっくり話してみたいなあ、と。話せなくなってからでは遅いんだから、話せるうちに出来るだけの人と話しておこう、と。

そんな風に思う次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo:

iPhoneを発表して16年目だ。

あの時のことを覚えているかい?

 

ペイジとブリンはイケイケだったがiPhoneを丸々パクろうとしていた。(※1)

 

ジェフ(ベゾス)は相変わらず利益を出していなかったが経営は堅実だった。(※2)

ちょうどkindleを出した頃だったな。未だにユーザー・インターフェースは最悪なままだけど。今はクラウド事業でぼろ儲けしてるんだっけ?

 

ビル(ゲイツ)はマイクロソフトを退く直前だった。後任のバルマーは大声しか記憶にない。(※3)でもナデラは見事に立て直したな。アイツはエライよ。

 

そういえばイーロンもいたな。発売前からテスラロードスターのことは知っていたよ。かっこよかったよね。(※4)スペースXのファルコン1ロケット、オレにはお金を燃やしてるようにしか見えなかったね。(※5)

でも今テスラは時価総額6000億ドル超えてるらしいね。スペースXもよくやってる。今シリコンバレーのバトンを持っているのは間違いなくイーロンだ。成功を祈っているよ。

 

-

 

IT業界、ここシリコンバレーは栄枯盛衰。

成功すれば英雄。その足元には屍累々。残っている人より消えた人の方が遥かに多い。

 

でもiPhoneはiPhoneであり続けている。

 

マルチタッチパネル、アプリによるカスタマイズ、そして日常的に音楽を聴いたり動画を見ること。

基本は何も変わってない。

 

そして今もiPhoneは人々が日常で持ち歩ける世界最高のコンピューターであり続けている。

 

まずはオレの後を快く引き継いでくれたティム(クック現CEO)に最大級の賛辞を送りたい。

売り上げ規模は当時の3倍、より強固になったAppleエコシステム、そして何よりも素晴らしいのはアップルが世界最高のブランドであり続けていること。

 

本当に本当に感謝している。

 

ありがとうティム。

そして、支えてくれているフィル(シラー)、エディ(キュー)、ジョズ、クレイグ(フェデルギ)も長くいてくれてありがとう。

 

ジョニー(アイブ)はもう辞めちゃったけど好きなことやればいいさ。

いつかこちらで一緒にまたクールな製品を作りたいな。

 

そして世界中のアップル従業員、アップルストアスタッフに本当に感謝するよ。

本当に本当にありがとう。

 

-

さて、今日は新しいiPhoneの紹介をしたいと思う。

 

iPhone15だ。

 

紹介に入る前に1つだけ先に言わせてくれ。

iPhone15シリーズのコネクタは全てUSB-Cだ。

 

これは決してビッグニュースではない。

USB-C採用の理由はたった1つ。ライトニングが役割を終えたからだ。

 

本当にそれだけだ。

説明はしておこう。

 

初代iPhoneを発明した当時、コネクタの役割は非常に重要だった。

充電はもちろん「同期」が必要だったからだ。

 

写真、音楽、メールをMacとiPhoneのお互いでシームレスに同じデータを扱うこと。

それを安全かつ様々な著作権も守った上で同期し、ユーザーがストレスなく使えること、

それにはめちゃくちゃ拘ったよ。

 

だから当時最速だったfirewireケーブルを採用した。

必然的にコネクタをApple独自に発展させることになった。その完成系がライトニングケーブルだった。

 

でもその役割はすでに終えた、と判断した。

 

同期はiCloudでワイヤレスで自動的に行われている。

充電はMagSafeもしくはQi規格でワイヤレス充電が可能だ。

 

つまり物理的なケーブルはもはや全く必要ないんだよ。

 

だからこれからはサードパーティ向けにiPhoneのこのコネクタを解放する。

そのためにはUSB-Cコネクタが最適だと判断した。

 

USBメモリ、高速な外付けストレージ、4Kディスプレイ、マイク

これからはサードパーティのあらゆるデバイスが接続可能だ。

 

まあ、これで欧州連合への対応も問題はないな。ヨーロッパのみんなも安心してくれ。(※6)

 

USB-Cの話はここまでだ。

 

-

 

さてここからが本当の紹介だ。

フラッグシップiPhone15 Proの話からしよう。

 

今回も世界最高性能のチップAppleシリコンを当然ながら最新のiPhoneに実装する。

 

「A17 Pro」だ。

 

3nmプロセスまで進化し

最大20%速い6つのコアを搭載したGPU

最大10%速い6つのコアを搭載したCPU

A16 Bionicと比べて最大4倍速いレイトレーシング

最大2倍速くなったNeural Engineは16コアで毎秒約35兆回の演算処理能力がある。

 

現在手に入る中で最も速く、最も効率的で、最も先進的なチップだ。

 

スペック争いに興味はないが、

全てが世界最高レベルだと言うことだけ言っておこう。

 

PS5でしかできなかったはずのゲームがiPhoneでも同じクオリティでできる。

年末にはコジマプロダクションのデス・ストランディング ディレクターズカット​​がiPhone向けにリリースされる予定だ。(※7)

それが証拠だ。

 

Appleが今も昔も最も素晴らしい点は、Mac、iPad、Apple Watchそれらが

見やすくて使いやすくて堅牢なOS、シンプルで洗練された操作体系、そしてAppleシリコンに代表される最先端テクノロジー搭載のハードウェアとして、全てが同じ思想のもと名実ともに統一されていることだ。

 

故に極めて自然にシームレスに連携するんだ。

例えば、コピー&ペーストですら異なるAppleのデバイス同士で可能だ。

Appleユーザーでは当たり前のことが、他社製品を使っているユーザーはできなかったりするのさ。

 

そんなこと当たり前と思っているだろうが、本当に素晴らしいアイデアとは

ユーザー自身もそれがアイデアであると気づかないアイデアのことなんだ。

 

例えば「死」。

 

死は神による最高の発明だ。(※8)

死があるからこそ、人間は締切をつくろうとするし、病気を直そうとするし、金持ちになろうとする。

 

皆いつか死ぬと知っているから。その「生」を精一杯生きようとするのさ。

 

こっちに来て本当によくわかったよ。

こちらではオレたちはもう死ぬことはないからね。

 

全てが永遠である時、人間はどうするか?

 

目の前のことに集中するんだ。

いつかもこれからもない、「今」この時を楽しむこと、その「時」が永遠と積み重なって行くのさ。永遠に。

 

これらは全て神のアイデアなんだ。

 

そんなこと誰も気づいてないだろ?

最高すぎて誰もそれがアイデアだと気づかない。

 

ちょっと余談が過ぎたな。本題に戻ろう。

 

-

 

iPhone15 Proの外装はチタニウム。

火星探査機で使われるグレード5のチタニウム合金だ。

 

美しくて軽くて、そして強い。

 

世界最高技術で加工し特殊な方法で磨きあげている。

エッジを柔らかくしたことで、触ると心地良い。

ベゼルがより薄くなり画面の見やすさはさらに増した。

 

見えない部分もアップデートしている。

構造フレームをリニューアルすることで背面ガラス交換が簡単になった。

 

つまり修理のしやすさを優先したってわけなんだけど、これはエコという哲学の問題でもある。

 

生産工数を減らしコストを下げるが、修理の難易度は上がる。

生産工数が増えコストは上がるが、修理の難易度は下がる。

 

オレならば間違いなく前者だ。プロダクトそのものがシンプルになるからね。

でも今は時代の要請が後者だ。だからそれに従ったまでだ。

 

カラーはブラック、ホワイト、ブルー、ナチュラルの4つを準備している。どの色もチタニウムを十分に引き立たせる色だ。

 

-

 

さて、3つ目は実にアップルらしい”改善点”だ。

 

ちょっとした改善点がのちのち重要な分岐点となる時がある。

古くはQWERTY配列。まさか英語圏以外全世界中で使われると当時誰が思っただろう。

 

初代iPhoneの時からあるこのサイドボタン。

このたった1つのボタンすら我々は進化させる

 

アップルの歴史とはユーザーインターフェイスとその入力デバイスの進化の歴史なんだ。

Macintoshのマウス、iPodのクリックホイール、もちろんこのiPhoneのマルチタッチ、そしてiMac、Macbookのマジックパッド。常にそのハードで最高のデバイスとなるように進化を続けている。

 

従来は消音モードのオンオフ機能のみだったこのボタンを「アクションボタン」と呼ぶことにした。

 

文字通りそれは様々なアクションができる。

 

従来通りの消音モードに加えて集中モード/カメラ/フラッシュライト/ボイスメモ/翻訳/拡大鏡/ショートカット/アクセシビリティ​​。

 

複数の役割を選ぶことを可能にした。

例えばショートカット機能を使えば好きなアプリも簡単に呼び出せる。

 

っていうか、なんでこのボタンに一つしか役割を持たせてなかったんだ?

これからはこれが標準になるだろうね。

 

-

 

ディスプレイは世界最高峰のディスプレイSuper Retina XDR。

ProMotionを採用し、リフレッシュレートは最大120Hz

 

前面カメラ設置エリアを巧みに利用したDynamic Islandは引き続き採用。

 

新たなiOS17では、Apple Watchで培われた「ひと目見られる」ことにこだわった​​​​コンプリケーション機能を、iPhoneウィジェットの進化版である「ライブアクティビティ」として実装した。

同じくApple Watchの「ナイトスタンドモード」は「スタンバイ」として、iPhone充電中でもお気に入りの写真や時計を表示してくれる。(※9)

リビングや寝室に1つお洒落な家具が増えたね。

 

-

 

最後はカメラの紹介だ。

 

これも初代から常に拘っていた機能だ。

iPhoneの進化とそのカメラの進化は切っても切り離せない。

なぜならICチップつまりAppleシリコンの性能がそのままカメラの性能に直結するからだ。

 

背面のレンズはこの通り3つ。でもこれは7種類のレンズを持ち歩いていることと同じなんだ。

 

0.5倍超広角レンズはマクロと13mmの2種類、

メインカメラは24mm、28mm、35mmの3種類、

望遠は48mm2倍ズームに加えProは光学ズーム3倍。Pro Maxはなんと120mm5倍光学ズームだ。

 

特にPro Maxの5倍ズームはスペシャルだ。その秘密は今回新たに採用したテトラプリズムにある。

名前の通り光を4回反射させることで、こんな小さなスペースでも焦点距離を120mm相当まで伸ばすことが可能になったんだ。

 

それだけではない。ズームした画像をストレスなく確認するためには強力な手ブレ補正が必要だが、

3Dセンサーシフト式手ブレ補正と3つの方向すべてに動くオートフォーカスモジュールによって1秒間で最大10,000回の微調整を行う。

 

結果的にデジタルズームであれば最大25倍まで大丈夫だ。

 

最大画像数は4800万。

細部までしっかり捉えるPhotonic Engine、ポートレート、ダイナミックレンジの広がったナイトモード、スマートHDRも進化している。正面のTrueDepthカメラも同じ機能が使える。

 

そして、「完全」にプロレベルの60fpsのProRes 4Kビデオ​​もiPhone ProシリーズのUSB-CコネクタはUSB 3に対応している。つまり撮影中に外付けSSDに直接保存できる。最大10Gb/sなので転送もあっという間だ。

 

すべてがスーパーハイクオリティ。Appleシリコンだからこそ可能なことだ。

 

-

 

これがiPhone15 Pro MaxとiPhone Proだ

 

初代iPhoenから16年。基本は変わってないが、中身はとんでもなく進化している。

 

16年前まだ生まれたばかりの赤ちゃんだったiPhoneが学校を卒業し成人し仕事も覚え、しかも仕事をバリバリにこなすデキるヤツになったようだ。

 

とはいえまだまだ若造。

iPhoneはこれからも進化し、さらなる成熟に向かう。

 

でも少なくとも現時点で世界最高の頭脳と世界最高の技術で世界最高のプロダクトになっていることは間違いないよね。

 

紹介は以上だ。

じゃあ、また来るよ。

 

 

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【著者プロフィール】

Books&Apps運営ティネクト株式会社

取締役 楢原一雅

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(参考)

※1 “​​「ジョブズは、グーグルにアンドロイドの開発をあきらめさせようという努力もした。 2008年にはパロアルト近くのグーグル本社に行き、ペイジ、ブリン、そしてアンドロイド開発チームを率いるアンディ・ルービンと大げんかをしている”『スティーブ・ジョブズ II』ウォルター・アイザックソン著、

※2 amazon時価総額、創業27年で200兆円。ベゾスはいかにして“ECの巨人”を成長させてきたか、BUSINESS INSIDER.

※3 Steve Ballmer Runs Around Like A Maniac On Stage (Motivational Presentation)、YouTube.

※4 “実は車好きのスティーブ・ジョブズも、当時ジェイクルーのCEOでアップルの取締役でもあったミッキー・ドレクスラーにロードスターの写真を見せたという。「これほどのものを作るのはすばらしいよね」と言って。”『イーロン・マスク』、ウォルター・アイザックソン著

※5 ファルコン1打ち上げ実績 第1回2006年5月→失敗、第2回2007年3月→部分的成功、第3回2008年8月→失敗 第4回2008年9月→成功,第5回2009年7月→成功 (ファルコン1, wikipediaより)

※6 EU、携帯充電端子の域内統一化で合意 アップルに打撃,ロイター

※7 Introducing iPhone 15 Pro | Apple,YouTube

※8 Death is very likely the single best invention of Life (訳:死はたぶん、生命の最高の発明です。)

「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳、日本経済新聞

※9 新iOSで「ひと目でたどり着く」機能進化、iPhoneのウィジェットが便利に,フォーブズジャパン

友人との別れは辛い。

例え親しかったのが35年も前の話で、友情なんてとっくに失われていると分かっている相手だとしても、完全に縁を切るとなるとそれなりの覚悟が必要だ。

 

ミュージシャンとして活動している梨乃ちゃんは、私にとって古い友人の1人だった。

私たちは、お互いがまだ中学生の頃に塾で知り合い、仲良くなった。

 

仲良くなったと言っても、学校も違えば家も遠かったので、いつも一緒にいるほど親しくなったわけではない。

それでも気が合い、趣味も合い、話の合う友達だった。当時の私たちは、どちらも内向的で大人しく、アイドルよりもアニメのキャラクターに夢中になるようなオタクだったのだ。

 

今ほどオタクが市民権を得ておらず、アニメ好きを公言すると同級生からバカにされる時代だったから、私にとって梨乃ちゃんは、大好きなアニメの話で盛り上がることのできる数少ない友達だった。

 

やがて高校生になり、塾を辞めた後も、梨乃ちゃんとはしばしば顔を合わせてお喋りした。

私が通っていた高校と梨乃ちゃんが通っていた高校は近所だった為、通学ルートがかぶっていたのだ。

 

高校時代の私は、大して絵が上手くないのに東京の美大を目指しており、梨乃ちゃんもピアノが上手くないのに東京の音大を目指していた。

どうにか二人とも現役で志望大学に合格すると、「上京してからも仲良くしよう」と約束して、連絡先を交換しあった。

 

それなのに、大学に入ってから梨乃ちゃんと会ったのは、たったの一度きりだ。

大学に入ってからの彼女はちょっと暗くて、会話も弾まなかったので、それきりになってしまったのだと思う。

 

梨乃ちゃんは、元々ピアノでプロを目指せるほどの腕はなかった。だから、いざ音大に入ってから苦労することになったようだ。

一方の私はといえば、大学デビューを果たしてすっかりイイ気になっており、地元の友人たちを軽んじるようになっていた。そのため、私と梨乃ちゃんの縁はここで一度切れてしまう。

 

切れていたはずの縁が再び繋がったのは、それから20年後のことだ。

離婚して地元に戻っていた私がアルバイトをしていたレストランに、時々ギターを弾きにやってくる「リノさん」という女性がいた。

 

彼女の演奏はすごく上手なわけではなかったけれど、どうやら地元では人気のミュージシャンらしかった。

呼ばれればどこでもギターを持って駆けつけるフットワークの軽さと、嫌味のない朗らかな人柄が人気の理由だったようだ。

 

私は彼女が店にやって来るたび、必ず手を挙げて「ロミオの青い空」をリクエストした。正確には、「ロミオの青い空」のオープニングテーマである「空へ・・・」という歌だ。

 

リノさんのレパートリーは幅広く、昭和歌謡から演歌、はてはシャンソンまで弾きこなしたが、私はその古いアニメソングが好きだった。彼女のギターの音色に、その歌はとても合っている気がしたから。

 

そんなある日、facebookを開くとリノさんからメッセージが届いていた。

「ロミオの青い空」をリクエストする以外に口をきいたこともないリノさんが、いったい私に何の用事があるのだろう。訝しみながらメッセージを開くと、

 

「こんにちは、ユキさん。いつもブログを楽しく読ませてもらっています。ずっと気になっていたのですが、ユキさんはもしかして、私の知っている『ゆきちゃん』ではないでしょうか?中学の時、塾にいた友達に『ゆきちゃん』という女の子がいて、お顔立ちとか毒舌な感じとかが似ているので、もしかしたらそうなんじゃないかと思って」

 

リノさんが私のブログを読んでいるとは意外だったが、中学の時の塾と言われて思い当たった。

 

「あっ。もしかして、リノさんって中川梨乃ちゃんですか?

中学の時に英語の塾で一緒だった?」

「そうです!やっぱり!」

 

驚いたことに、ミュージシャンのリノさんは友達の梨乃ちゃんだったのだ。

言われてみれば面影があったが、あまりにもキャラが変わっていたので気づかなかった。

 

だって私の知っている梨乃ちゃんは、内気で、決して人前に出るような女の子ではなかったのだから。

そもそも彼女が弾いていたのはギターじゃなくてピアノだったはずだが、何がどこでどうなってこうなったのだろうか。

 

そこには長い物語があった。

やはり彼女は大学在学中、ピアノに挫折していた。音楽の道も諦めて就職したそうだ。

 

けれど地元にUターン後、ふとしたキッカケからギターを手に取り、路上で演奏するようになった。

路上ライブに慣れてくると、やがて飲食店でも弾くようになり、そうこうするうちイベント出演の声もかかるようになって、いつしか音楽が仕事になっていったと言う。

 

再会を果たした私たちは、時にお茶を飲んだりランチをしたりしながら、会わなかった間の人生について語り合った。

互いに「ちゃん」付けで呼び合うような昔馴染みの友人は、例え何十年と会っていなくても、あっという間に距離が縮まる。そして、これからは一緒に年を重ねていく友人として、緩やかに関係が続いていく。

 

てっきり、そう思い込んでいた。

それが私の独りよがりだったと分かったのは、今年の春のことだ。

 

ここ数年のあいだ地元を離れていた私は、梨乃ちゃんと直接顔を合わせる機会がなかった。

その間、特にメッセージのやり取りなどもしていない。わざわざマメに連絡を取り合うようなことをしなくても、関係が終わったり変わったりしないのが昔馴染みの良さのはずなのだから。

 

けれど、私と梨乃ちゃんの関係は変わってしまったらしかった。

コロナ禍が明けて様々なイベントが通常開催されるようになると、梨乃ちゃんはまた地元のイベントに引っ張りだこになった。

 

ある日、屋外のライブ会場で彼女を見かけた私は「久しぶりだね」と声をかけた。すると、彼女の顔にはありありと困惑の色が広がったのだ。

彼女のパフォーマンス中、私は最前列でステージ上に立つ彼女を見つめていたが、目が合うことはなかった。

 

その後も、思いがけず顔をあわせる機会が2度ほどあったのだが、やはり彼女が私に向ける笑顔は硬いように感じられたし、お茶の誘いも断られた。

そうした彼女の態度の変化に戸惑いは感じたが、その理由はわざわざ確かめなくても分かるような気がした。

 

彼女は以前、

「こうして人前に出て目立つようになると、どんなに敵を作らないよう気をつけていても、私のことを嫌う人は必ず出てくるし、色々と傷つくことも言われる」

と、こぼしていた。

 

それは私も同じことだ。書いていたブログが多くの人に読まれるようになると、会ったこともない人たちが私のファンになり、口を聞いたこともない人たちがアンチに変わった。

 

それは仕方のないことだ。全方位に差し障りがなく、一人の敵も作らない記事は書けない。

仮に当たり障りのない記事しか書かないとしたら、物書きとしての私に需要は無いだろう。

 

再会を果たした頃の梨乃ちゃんは「いつもブログを楽しく読ませてもらってる」「夫もゆきちゃんのブログを読んでいるから、『このブログを書いているのは私の友達なんだよ』って自慢した」と言ってくれていたので、てっきり彼女は私のスタイルを理解した上で、受け入れてくれているのだと思っていた。

 

当初は確かにそうだったのかもしれない。けれど、今では違うのだろう。現在の彼女は、私と付き合い続けることに差し障りがあるのだ。

 

ひょっとすると梨乃ちゃん本人が、私の書いた記事の内容に腹を立てることがあったのかもしれない。あるいは彼女とプライベートで親しい誰かか、もしくは仕事上でお世話になっている誰かが私を快く思っておらず、もし私と親しくすると、生活や仕事に影響があるのかもしれなかった。

 

はっきりしているのは、「私と仲がいいと思われたくない」と彼女が思っていることだ。

 

私と梨乃ちゃんのスタンスは、真逆と言って良かった。

私は地元の人たちと仕事上の利害関係を持たない。誰に嫌われようと、それが生活や仕事に響くことは一切ない。だからこそ人間関係に気を使わず、書きたいことが書ける。

 

けれど、梨乃ちゃんはそうではなかった。

ギター弾きのミュージシャンなど掃いて捨てるほど居る中で、人柄の良さと人付き合いの良さこそが彼女の武器なのだ。

誰からのどんな要望にも体当たりで挑戦し、全力で期待に応えようとする姿勢が愛され、多くの仕事につながっている。

 

もう梨乃ちゃんと会うことはないと心密かに決めていたのに、つい先日、共通の友人が主催するパーティで思いがけず会ってしまった。

 

まずいことに、それは少人数制のこぢんまりしたホームパーティだった為、お互い相手の存在に気づかないわけにいかない。

けれど、彼女の方は私に気づかない芝居を貫くことにしたようだ。あからさまに私を避ける態度を目の当たりにし、私もようやく覚悟を決めることができた。

 

目や喉元に込み上げて来るものは熱かったが、わずかに残っていた親愛の情は急速に冷めていった。

心が冷えていく勢いでスマホを掴み、まずは旧Twitterで梨乃ちゃんのフォローを外し、次にfacebookで友達から削除した。

 

この数ヶ月の間ずっと逡巡していたことは、いざ実行してしまうとあっけなかった。35年来の友人関係をキャンセルするのに、ほんの5秒とかからないとは。

 

人気者の彼女はいつものように人に囲まれ、演奏をリクエストされていた。私は最後に「ロミオの青い空」を聴きたかったが、リクエストに手を挙げることはもうできなかった。

 

すると、

「梨乃さんといえば、やっぱり『ロミオの青い空』だよね〜。あれ聴きたい!」

という声がどこからか飛んだ。私以外にもロミオのファンがいたのだ。

 

物悲しいイントロが流れだすと、私は本当に哀しくなった。こらえていた涙が抑えきれなくなるほどに。

リノさんが梨乃ちゃんだと知る前から、私は彼女のギターが奏でる「ロミオの青い空」が好きだったのだ。けれど、それを聴くのはこれが最後になるのだろう。

 

自分の中で梨乃ちゃんとの別れを済ませ、流すべきものを流してしまうと、その後はすっきりした気持ちで彼女の存在を無視する事が出来た。

パーティは宴もたけなわとなり、私が梨乃ちゃんに背を向けるような格好で知人と話し込んでいると、ふいに肩を叩かれた。

 

「やっ!お疲れ!」

バリッバリに顔を強張らせた梨乃ちゃんに挨拶されて、思わず笑みがこぼれた。

 

あれほど私から声をかけられないようにと固く身構えていたくせに、いざ私から素知らぬふりを続けられると、今度はいたたまれなくなったのだろう。そういう小心なところは、中学生の頃から変わっていないなと思うと可笑しかった。

 

そうなのだ。彼女は変わらない。そして私も変われない。だからこそ、私たちはもう友達ではいられない。

 

「せっかく声をかけずにいてあげたのに、どうしたのよ。無視されて居心地が悪くなったの?だって仕方ないじゃない。近頃のあなたの態度に、私が傷ついていないとでも思った?」

なんて、意地悪を言ったりしなかった。代わりに

「梨乃ちゃんのロミオが聴けてよかった」

と、本心を伝えた。

 

 

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【著者プロフィール】

マダムユキ

最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。

Twitter:@flat9_yuki

Photo by :Sincerely Media

新卒で会社に入ったとき、多くの人は「仕事ができるようになりたい」という願望を持ったはずです。

それがいつの間にか、半年、2年、3年、10年と経つうちに、「とりあえず日々の仕事をこなせればいいや」と思うようになってしまうことがあります。

わたしもそういうときがありました。

 

では、いったいなぜ、そしていつから「仕事ができるようになりたい」という願望が消えてしまうのでしょう。

それはおそらく、仕事で何度も「壁」にぶつかり、大きな無力感を感じたからではないでしょうか。

 

あるいは、上司の理不尽な命令に怒りとあきらめを感じたからかもしれません。

 

いずれにせよ

「もう、この状況は自分には変えられない、どうしようもない、大過なくやり過ごすことが一番だ」

と思ったとき、「仕事ができるようになりたい」という願望も霧散してしまうのです。

 

 

しかし世の中には、そうした壁を乗り越えて「仕事ができるようになった人」もまた、存在します。

彼らはどうして壁を乗り越え、理不尽を克服したのでしょうか。

 

単純です。

それらの壁や理不尽を乗り越える方法を、教えてくれる人が身近にいたからです。

彼らを「恩師」と呼んでも良いかもしれません。

 

「恩師」の多くは、彼ら自身が、身をもって学んできた方法を、自分の部下や後輩に分かりやすく伝える力を持った人たちです。

あるいは、体を張って私達の失敗の責任を取ってくれた人たちです。

 

実際、わたしにもそうした人たちがいて、コンサルティングの仕事で困難にぶつかった時、上手くそれを解決したり、時には回避したりする方法を教えてくれました。

 

しかし、問題もあります。

それらはたいていの場合、明文化されていない「暗黙知」であるため、その人の教えられる範囲でしか、問題解決ができないのです。

 

したがって、「恩師」を持つことができた幸運な人は「仕事ができる人」になりますが、そうでない不運な人は「仕事なんてどうでもいいや」とあきらめてしまう。

仕事ができる/できないの分かれ目は、結局「運しだい」と言っても良いのかもしれません。

 

 

しかしそれはあまりに、人材の活用という観点から見て、もったいないことです。

そこで私は、コンサルティング会社を辞め、起業した時に、それまで学んだことを、できるだけ文章化し、論理的にかつ実践的に「形式知」となるようにブログにすることにしました。

それが、私が運営するメディアである、Books&Appsの生い立ちです。

 

そして2015年。

もう8年も前のことになります。

 

私は日本実業出版の編集の川上さんからお声がけいただき、Books&Appsの内容を書籍にして、出版することになりました。

そのタイトルは、『「仕事ができるやつ」になる最短の道』。

 

毎日書いてきた記事に、加筆修正を加え、編集を施して1冊の本にしたものでした。

 

コンサルティング会社では、会社の指示によっていくつかの本を書いたり、雑誌へ寄稿もしていました。

しかし、独立してから初の著書という事もあり、この本に書いたことは今でも、特別な思い入れがあります。

 

上述したように、それまで私がコンサルティング会社で上司や先輩から習ってきた「仕事の方法」は、きわめて小さな範囲で共有されてきたものでしたが、その方法が「著作物」として、広く世の中にいきわたることになったからです。

 

今でこそ「コンサルタント」は人気の職業であると聞きます。

しかし、私が籍をおいていたころのコンサルティング会社は、

・長時間労働
・成果主義
・パワハラ

が普通の「ブラック企業」の代名詞のような存在でした。

 

そのブラックな環境で何とか生き抜き、成果を上げるために生み出された働き方が『「仕事ができるやつ」になる最短の道』の内容でした。

 

 

そして現在、「働き方改革」や「少子化による採用難」により、数々あるコンサルティング会社も「ホワイト化」し、ずいぶんと働きやすくなったと言います。

かつてのように、先の見えない長時間労働や、理不尽なパワハラに苦しめられる人が少なくなっているのは大変に喜ばしいことでしょう。

 

しかし、それは裏を返せば「短時間で最大限の成果を求められる」というべつの意味での厳しさがあるということです。

ですから今でも、普遍的な「仕事ができるようになる方法」は、役に立つと思います。

 

仕事ができるようになる、3つのこと

ところで、実務上は、私が「仕事ができるようになる」ために最も推していることが3つ、あります。

 

ひとつ目は、「最初に発言する」こと。

会議や、アイデア出しをやっているとき、あるいは上司から意見を求められたときなど、会社では発言をする機会が数多く与えられます。

そこでまず、「最初に発言すること」を心がけてください。

 

「バカなことを言ってしまわないだろうか」

「恥ずかしい」

「緊張する」

 

など、悪いことばかり想像してしまうかもしれません。

でも、「最初に発言すること」は、それ以上のメリットが得られます。

 

上司の覚えが良くなりますし、何より最初に発言するために、全力で頭を使います。

その場の方向づけもできますし、何より「間違った発言」をしたとしても、それは成長の糧になります。

 

ふたつ目は、「人の話をよく聞く」こと。

これは「黙って聞く」だけではなく、「ちょっと聞いて分かった気にならず、わかるまで相手に質問をする」ことも含みます。

 

よく聞くことで、相手の発言の意図だけではなく、どのような背景があって、その発言に至ったのか、その人が何を願望としているのか、そういったことがよくわかります。

よく聞くことは、その人を「マーケティング」することと同じです。

コミュニケーションを円滑にし、その人の望みを叶えるように動けば、必ず信頼と尊敬を勝ち取れるはずです。

 

みっつ目は、「本を読む」こと。

人類の叡智の殆どは、文書、とくに書籍の中に保存されています。

ビジネス書だけではなく、様々なジャンルの本を読むことで、時代を超えた知識を得られます。

 

また、ある程度本を読むようになると、分野横断的な「メタ知識」と呼ぶべきものが手に入ります。

これこそ、真の意味での「使える知識」なのです。

 

以上が私の「余計なお世話」です。

 

 

なお本日、出版社の方から、旧版の『「仕事ができるやつ」になる最短の道』は、再構成及び加筆修正して、「新装版」として世に出すことになりました。

タイトルは、「仕事ができる人が、見えないところで必ずしていること」。

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上の文章は、その「まえがき」のフルバージョンです。
(長すぎて、書籍に収まりきらなかったので、こちらに掲載しました)

 

多くの本が絶版になる中、こうして商業出版が継続されることは大変にありがたい話ですが、それ以上に、読者の皆様の役に立てることを願ってやみません。

 

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

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Photo:Roth Melinda