「他サイトおすすめ記事」とは?
このページは、Books&Apps編集部メンバーが特にお気に入りだという記事を、ピックアップしたリンク集です。このキュレーションには3つのルールがあります。

1.個人ブログ、マイナーサイトなどからキュレーションする。大手メディアからはキュレーションしない。
2.個人が本当にオモシロイと思ったものだけを掲載する
3.記事が書かれた時代に関わりなくキュレーションする(古い記事もキュレーションする)

公式Twitter(@Books_Apps)でも毎日発信しています。フォローして頂ければ「他サイトおすすめ記事」を毎日受け取ることができます。

どうか楽しんでいただければ幸いです。
Books&Apps編集部

どうもしんざきです。

いきなり関係ない話で恐縮なんですが、私、人の顔と名前をセットで覚えることが致命的に苦手でして。

 

最近新人さんが増えてきて私が知らない顔が多くなる一方、何故か相手からは自分の顔を知られているので、しょうがなく廊下でもエレベーターホールでも、見たことがある顔に対して無差別で挨拶していたんです。

そしたらどうも、同じフロアの隣のオフィスの人にもかなりの頻度挨拶をしてしまっていたらしく、全く無関係の会社と認識している人にまで最近挨拶をされるようになりました。

 

絶対「あの、よく分かんないけど取りあえず挨拶してくる人」って認識されてる。つらい。帰りたい。

それはそうと。

この記事で書きたいことは以下の通りです。忙しい方は下記四行だけ読んでください。

・新人、新規参入者が組織について何か意見を言った時、「キャリアが浅い」ことを理由にそれに反発する人が凄く多い

・キャリアが長いことは強みでもあるが、同時に弱みでもあることは常識として認識されるべき

・新参者に対する、「新参であることを理由とする反発」が当然のものとして流通する組織、職場は、自浄能力に重大なエラーが発生している可能性を考えた方が良い

・新人が忌憚なくものを言える環境作りとても大事

 

以上です。よろしくお願いします。

 

いや、本来当たり前のことじゃないかなあと思うんですけどね。

実は、ちょっと前まで、別部署に中途で入った人(以下Aさんと呼称)が辞める辞めないという話に、なんか行きがかり上がっつり関わってしまいまして、結構ひーこら言ってたんですよ。

自分の仕事と全っっ然関係ないんですけどね。

 

割と狭い範囲で特定されやすい仕事で、あまり具体的なことは書きにくいので若干ぼかします。ご了承ください。

 

どういう話かと言いますと。

・しんざき、隣の部署のAさんとたまたま昼飯を食いに行く

・その部署での業務の扱いについての不満とか愚痴を何故か山のように聞かされる

・流石に放っておけないと思ったのでその部署内の他の人たちにもヒアリングしてみる

・色々聞いていると、Aさんの言い分の方が正しいのでは?と思う

・上の方の人と色々かけあって調整する

・なんか色々改善して、Aさんも残ってくれることに

というような経緯だったんです。正直結構頑張ったんですが、当然自分の仕事の進捗には1ミリも寄与していません。つらい。やらなくても進捗出る仕事って存在しないかしら。

 

***

 

Aさんは元々他業種の方でして、今私が働いている会社の業務分野については未経験なんです。

ただ、元の業種では結構ガッツリ有能だった人で、「他業種の視点を活かしてうちの会社でも頑張って欲しい」みたいな話で入社したらしいんですけど。

 

ただ、いざ入ってみると、なんか言われたことと違うぞ、と。

色々とおかしなところがあるし、そのおかしなところについて指摘するといちいちムッとされるぞ、と。

 

これ、実は私も観測してたんです。例えばMTGなんかで、Aさんが改善した方が良さそうと思ったところについて指摘すると、周囲はなんか鼻白んで「まあまあ」という感じでうやむやに済ませようとして。で、後から「なんかあの人まだ何も知らない癖に色々口出してきてやりにくい」みたいなことを発言したりとか。

 

悪いことに、そういうのを本来諫める立場である直接の上席の人が長期入院していて、代理の人は他部署との兼務であんまり細かく見ていられなかったりして、色々雰囲気がまずいことになってたんですよ。

要は、典型的な「新参者に対する反発」が見受けられたんですよね。

 

その組織の体質や性格にもよるのですが、ある組織において、「新参者の意見」が軽んじられることって多いです。

すっっごく多いです。

 

それは、イコール、発言の妥当性や信頼性の判断に「経験の有無」が自動加算されて計算される、ということでもあります。

当然、縄張り意識とか、自分のキャリアに裏打ちされた上から目線なんてのもあるのでしょう。

 

勿論のこと、キャリアや経験って大事ですよ。経験が裏打ちする正確な判断とか、被害を最小限に抑えるダメージコントロールとか、最小限の労力で目的を達成するコツとか、業務経験に裏打ちされるスキルって山のようにあります。それは間違いありません。

 

ただ、これ当たり前の話だと思うんですが、キャリアや経験は、その人の判断の正しさを無条件で保証しません。

場合によっては、キャリアが長いばかりに、本来見るべきものが見えなくなってしまっている、改善するべきポイントを見過ごしてしまっている、なんてことだってあります。

人間、自分の固定観念くらい気づきにくいものはありません。

 

キャリアの長さは、時には「弱点」にもなるのです。

当然、「キャリアがない」ことが、その人が間違っていることを保証したりもしません。

知識不足が間違った結論や「正しいけれど実行不可能な提案」を導いてしまうことだって当然あるでしょうが、固定観念から自由なことが、正しい結論への道筋になることだってある。

 

大事なのは、「その人の指摘の正しさを判断する時に、経験の量を加減算しないこと」なんじゃないかなあ、と思うんですよ。

 

***

 

今回の話で言うと、Aさんの指摘って「組織論」や「仕事の回し方」に類するものであって、業務経験の有無って必ずしも関係なさそうなところだったんですね。

私自身、その部署の仕事については専門外なんですが、色々聞いたり調べたりしていると、「これ多分Aさんの言うことの方が妥当だぞ」って思ったんです。

 

それなのに、ただ「キャリアがない」ことだけを理由に、Aさんの意見をまともに取り扱わないのは、それはちょっとおかしいでしょと。

それは単に既存の業務の形を変えたくないだけでしょと。

キャリアの有無はイコール知見の有無ではないんだから、取り入れるべきところは取り入れましょうよって話ですよね。

 

「ずけずけと物を言える新人」って貴重です。

勿論、周囲の空気を悪くすることとか、関係を悪くしてしまうことってのもあるんでしょうが、だからこそより一層貴重です。

大抵の場合、周囲の反応が悪いと、新人さん自身も自分のキャリアの浅さを理由に委縮しちゃうんですよね。

 

そういう「ずけずけ言える人」がすぐに辞めてしまうのももったいないなーと思ったので、その部署のもっと上の人とも話をしてみたり、システム的な調整にも入ったりで、すぐに改善出来そうなところは改善して、一応人間関係的なところもフォローして、なんとか色々ひと段落したのが先日のこと、という話だったのです。

まあ今後も色々ありそうですが、ちょっとでも仕事がうまく回る環境に近づけていけた方がみんなが幸せだと思いますし、それについてはなるべく貢献したいなーと考える次第なのです。

 

***

 

元来、組織の側でも、「キャリアが浅い人がはっきりものを言える環境」というものは整えておかなくてはいけません。

「染まってない人」というのは、貴重です。染まってない人の染まってない意見を客観的に受け取れるかどうかは、その組織の自浄能力のバロメーターでもあります。

 

そういう意味で、今回Aさんが周囲の反発を受けてしまったのは、その部署が「キャリアが浅い人の意見を容れる体制」を整えていなかった、ということでもありますよね。

そういう体制が整っていれば、そもそもAさんが反感を買うこともなかったかも知れない。

 

個人的には、「キャリアが浅い人の意見を容れる体制」で重要なのは、以下のような要素なんじゃないかなーと思っています。

・面と向かわなくても思ったことを指摘出来る環境(社内wikiとか、チャットツールとか、掲示板とか)

・意見や指摘を、周囲に人がいないところで直接聞いてくれる上司、マネージャー

・妥当だと思った指摘は、たとえすぐ実施に移せなくても評価、感謝していることを伝えられること

・改善を実施に移す時は上司が代弁してくれること

・既存のメンバーに対する直線的な批判にならないような誘導

 

要は、「角が立たないようにコントロールできる環境」ってことですよね。

 

「新参者の意見」と「古参メンバーの面子」は、多分どっちも大事です。

前者を優先して後者をないがしろにしてしまっては、雰囲気はどんどん悪くなります。それもあんまりよろしくない。

であれば、そもそも「新参者の意見」が直接古参メンバーに刺さらないようにすればよい。

 

意見を言っても雰囲気が悪くならない、という安心感があれば、キャリアが浅い人も思ったことを言えるだろう、と思って、今はそういうのを実現できるように頑張っているわけなんです。
自分の仕事はさっぱり進捗していませんが、みんなが幸せになれるように祈るばかりです。帰りたい。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:tokyoform)

「コミュニケーション能力が足りない」。

もう、何年も前から耳にする言葉である。

 

コミュニケーション能力、という言葉に含まれるニュアンスは人によってさまざまだが、多くの人は「空気が読めない」「服装や清潔感に気を配ることができない」といった性質を思い浮かべるのではないかと思う。

 

発達障害という言葉が流行になった今なら、コミュニケーション能力の不足を発達障害と関連づけて考える人もいることだろう。

だが、そういったたぐいの「コミュニケーション能力が足りない」以外にも、見落としてはいけない問題がある。

それが、これから紹介する「対立しながら協調もできる」ができないタイプの問題だ。

 

他人を敵/味方でとらえ、そのとおりに動いてしまう人たち

確かに、空気が読めないのも服装や清潔感に気を配れないのもコミュニケーションの差し障りにはなろう。

たとえば不特定多数の人と知り合っていく際などは、相手とその周囲にどのような言外の文脈が存在するのか、なるべく読み取れるに越したことはない。

また、不信感や不潔感を与えないような服装や立ち振る舞いに気を付けたほうが悪印象も避けやすかろう。

 

しかし、そういったコミュニケーションの基礎をこなせていても、やはりコミュニケーションがなかなかうまくいかない人もいる。

 

初対面ではそれなりに空気も読めるし服装や清潔感にも問題は無いけれども、いざ付き合いが始まってみると、やがて相手のことが気に入らなくなってりストレスを感じはじめ、コミュニケーションがどんどん苦しくなってしまうような人だ。

 

この手の人にありがちなパターンは、初対面の段階ではシンパシーが感じられて気持ち良く活動できるのだけど、長く一緒にいるうちに、どこかしら自分とは意見が異なる点や対立している点に気づいてしまい、そうなると不安になったり気持ちが落ち着かなくなったりして、やがてストレスを溜め始めて不適応に向かっていく……というものだ。

 

いわば、彼らは意見が異なる点や対立点をもって、「この人は私の敵ではないか」と勘ぐり過ぎてしまうタイプである。

 

人間関係のなかでストレスが溜まってくると、それが言動の端々にあらわれるようになり、人間関係に悪影響が出やすくなる。

ましてや、相手を敵のように嫌っているようではだいたいロクな人間関係にならない。

 

こういったことが積み重なれば、ほうぼうでコミュニケーションに失敗して、やがてはコミュニケーションや人間関係に苦手意識を持つようになるだろう。これもこれで、コミュ障の誕生である。

 

複雑な人間の利害がさばききれない

こういうタイプの人に「空気を読みなさい」「服装や清潔感に気を配りなさい」とアドバイスしても、ほとんど意味はない。

彼らに必要なのは、「対立点は対立しつつも協調する」という精神的課題を解決する能力、または作法だ。

 

つまり、人間関係のなかで自分とは異なる点や対立点を見つけたとしても、それで即座に相手のことを敵判定してしまわないこと。

異なる点や対立点があっても人間関係を続けていけるような、そういう経験蓄積をしていくこと。

そういったことが、このタイプのコミュ障には必要だろう。

 

本当にコミュニケーションの上手な人は、他人に対して簡単には「敵判定」を下さない。

 

そもそも人間同士の利害というのは複雑だ。

ある場面ではベストパートナーでも、別の場面では利害が対立し、ライバルとならざるを得ないこともある。

たとえば、職場で進めている新規プロジェクトでは積極的に協力しあっている者同士でも、新人教育については意見が対立していたり、喫煙ルームの使用方法については快く思っていなかったり……といったことは珍しくない。

 

そういった利害の錯綜した状況でも、本当にコミュニケーションの上手な人は、相手を敵認定することはなく、状況や場面ごとに意見交換することにもあまり抵抗を感じない。

対立している部分があるのを承知したうえで、それでも重要なパートナー同士であり続けることができるし、それで深刻なストレスを抱えるわけでもない。

 

しかし、すべての人がこんな風に「対立点はあっても協調もできる」をやってのけられるわけではない。

ひとつかふたつの対立点、あるいは快く思えない点があることをもって、相手を敵認定してしまう人も少なくない。

そうやって敵認定してしまうからなかなか上手く付き合えず、職務のうえで重要なパートナーシップを築かなければならない時にはストレスに苛まれてしまう。

 

それなら、敵認定してしまった相手が自分の思ったとおりに変わるよう期待するか、さもなくば相手と最小限の接触で済ませてストレスをやり過ごすか?

しかしこれらのメソッドもそれはそれで難易度が高いし、険が立ちやすく、職場の居心地は悪くなってしまう。

 

また、こうした「敵判定」が、私生活の場面で起こってしまう人もいる

職場のような、距離が比較的離れている人間関係では「対立点はあっても協調もできる」人でも、配偶者や恋人同士のような親密な人間関係ではそれができなくなってしまう人はいる。

配偶者や恋人とのひとつかふたつの対立点がどうしても我慢ならなくて敵対してしまい、そこからストレスを募らせ、連鎖的にもっとこじれて、針の筵のような家庭生活をおくる人達。

 

繰り返しになるが、人間関係の利害は複雑なものだ。

あらゆる点で対立せざるを得ない相手が滅多にいないのと同じく、あらゆる点で協調・同調できる相手もまずいない。

そのことを思えば「対立しながら協調もできる」精神性のほうが、空気を読む精度や服装の清潔さよりもクリティカルな課題なのではないか。

 

「対立点があっても協調もできる」がうまくできると、同僚やパートナーとの付き合いも円滑になり、ストレスを感じにくくなるだけでなく、ときには敵対者やライバルと目される人物とも協調関係を築けるかもしれない。

 

なにしろ「対立点があっても協調もできる」わけだから、ふだんは対立している間柄でも、利害の一致点では手を結び、そこを起点として人間関係を発展させていく可能性すらある。

「対立しながら協調もできる」精神性がある人のほうが、敵対的人間関係を緩めやすく、友好的人間関係を築きやすい。

コネクションを作りやすくもあるだろう。

 

反対に、「対立点があっても協調もできる」が苦手な人ほど、敵対的人間関係を増やしやすく、友好的人間関係を減らしやすい。単純に「敵を作りやすい」とも言える。

 

敵ばかりつくってしまう人のコネクションづくりは大変で、いくらか空気が読めて清潔感があるぐらいでは、このディスアドバンテージを覆すのは難しい。

ひとつの対立、ひとつの気に喰わなさで即座に相手を敵認定し、それでも世の中を渡っている人は、よほどのアドバンテージにスポイルされている人だろう。

あるいは、もっと素晴らしい社会適応を成し遂げるチャンスを幾つも潰しながら現況に甘んじているか。

 

「対立点があっても協調もできる」を身に付けるには

では、これを身に付けるには何をすべきだろうか。

 

幼少期まで遡って考えるなら、親子関係のなかで「ときには思い通りにならないことがあっても、親子関係は安定的に続いていく」ことを繰り返し実体験することが有効かもしれない。

子どもに「対立点があっても協調もできる」を身に付けさせたい人は、"対象恒常性"というキーワードでgoogle検索してみると良いと思う。

 

しかし、成人している人の場合はそうはいかないので、それに近いことを積み重ねていくのが次善の策となる。

それは、拙著『認められたい』でも触れた、"雨降って地固まる"を含むような人間関係、つまり、ときには対立することがあってもちゃんと続いていけるような人間関係を、少しでも多く、少しでも長く続けていくことだ。

[amazonjs asin="4864913250" locale="JP" tmpl="Small" title="認められたい"]

そういう人間関係が苦手で、つい、敵認定して関係を切ってしまう人の場合は、夫婦や恋人といった距離の近すぎる人間関係ではなく、友人や飲み屋の知り合いといった、ちょっと距離の遠い人間関係でそれをやってみたほうが実現性があるかもしれない。

 

淡い間柄では人格者でも、親密な間柄では自己中心的になってしまう人というのは珍しくない。

どうやら人間は、人間関係の距離が近ければ近いほど敵か味方かに拘ってしまいやすいようなので、たとえばこの課題を「理想の恋人をつくって解決」しようとするのは巧くないと思う。

少し距離のある、少し淡い付き合いで、長く続けていくほうが難易度は低い。

 

人によっては、認知行動療法か、それに近い手法が役に立つかもしれない。

ひとつかふたつの対立点があるからといって、その人を即座に敵認定してしまうのは、認知行動療法のレトリックでいうなら、ひとつの「自動思考」であり、「認知のクセ」のようなものだ。

 

たとえばの話、A新聞を愛読している人が、社内のS新聞の愛読家と政治の話題でぶつかりやすいとして、そのことだけをもって「あいつは敵だ」と認定し、ストレスを募らせるようになっているとしたら、そこには思考に飛躍があり、独特の認知の手癖がある。

 

新聞や政治の話題で対立しているからといって、相手全体を敵や悪魔のように感じてしまう必要なんて本当はないはずである。

少なくとも、「対立点があっても協調もできる」人はそのようにやっているはずである。

ひとつかふたつの対立点を相手全体の印象として拡大解釈し、協力のチャンスを逃しているのは、自分自身の認知の手癖のせいかもしれない──そういう洞察と軌道修正を必要としている人は、オンラインの世界にもオフラインの世界にもいると思う。

 

発達障害的な方面ばかりに目を奪われてはいけない

というわけで、コミュニケーション能力の構成要素のひとつとして「対立点があっても協調もできる」性質について紹介してみた。

 

政治家の世界はもちろん、ほとんどの職種においても、ひとつやふたつの対立点があっても協調できるところは協調し、うまくやっている人はたくさんいる。

穏当に出世していくのも多くはこのタイプだろう。

 

「対立点があっても協調もできる」ほうがチャンスが増えるし、ストレスに悩まされることも少なくなるからだ。

たぶんそういう人のほうが、傍目にもコミュニケーション能力が高い人物とみなされやすかろう。

 

いわゆるコミュ障といわれる人達について考える際には、発達障害的な方面にばかり目を向けるのでなく、こういう側面も見落としてはいけない。

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="4781616380" locale="JP" tmpl="Small" title="「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Samuel Yoo

自宅の近くに、子供の調子が悪い時に診ていただく、小児科医の先生がいる。

はやっている病院のようで、近所には子供が多いので、いつも診察待ちの人々が溢れているような状態だ。

 

ところが妻に聞くと、その小児科医の先生の、近所の人達の評判は、真っ二つに分かれるという。

 

一つは、「とても誠実で、信頼できる」という高い評価。

そしてもう一つは、「はっきりしなくて、信用できない」という低い評価。

 

熱狂的なファンがいる一方で、めちゃくちゃにこき下ろす人もいて、カルト的人気(?)を誇る診療所である。

それにしても、なぜこのように評価が明確に分かれるのか。

 

先生にかかってみればすぐに分かるのだが、私が強く感じたのはこの先生、おそらく「正直すぎる」のである。

 

例えば、昔、娘が熱を出して、変な咳をしているので病院へ連れて行ったときのこと。

先生に聴診器を当ててもらい、喉を見てもらい、耳の中を覗いてもらったあと、先生はこう言った。

(注:会話はうろ覚えなので、医学的な見地からは、会話の中身が正確でない可能性がある)

 

「んー、中耳炎の可能性はないし、肺からおかしな音もしない。喉が赤いから、まあ、ウイルス性の風邪の可能性が高いですね……」

「風邪ですか、良かったです。」

「ただ、せきの音がちょっとね……。」

「おかしいですか?」

「クループかもしれないねえ。」

 

説明によれば、クループというのは、喉がウイルスなどに感染して、呼吸が困難になる状態のことで症状がひどいと、窒息死に至るケースもあるという。

参考:クループ

 

窒息死、と聞いた時点で、私は少なからず動揺した。

「どうすればいいでしょう?」

「薬を出しておきますけど、今の段階では、正直、加湿する以外に、あまり有効なことはできないですね。」

 

「そ、そうなんですね。夜に特に咳がひどいんですけど、息がくるしそうだったら、病院に連れて行ったほうがいいですかね?」

「そうなったら、迷わず救急車を読んでください。ただ……。大抵の場合は救急車は間に合わないと思います。呼吸が止まったら数分持たないですから。」

 

……先生、正直すぎるぜ。

 

「あと、あくまでも可能性、リスクがある、という話であって、重篤化するのは稀です。また、クループ、というのもあくまで可能性の一つですから……。」

「そ、そうなんですね。重篤化するのでしょうか?」

「いやー、わからないね。なんとも言えない。経過を見て、症状がおさまらない場合は、また来てくださいとしか。」

 

先生が言うには、要するに、薬を飲んで安静にしているほかは特にやれることもない。

重篤化したら運が悪かった、病名も可能性でしかわからない、ということのようである。

つまり、病院に連れて行っても、あまり安心できなかったのだ。

 

少し前、こんな記事を読んだ。

「病名がつかない」は医者には当然

「医者に病名をハッキリと言われない不安」とは何だろう。

知人から送られてきた質問を見て、私は疑問に思いました。「そんな不安があるのだろうか?」と。私はすでに医者の脳みそになっていて、患者さんのお気持ちが分からなくなって来ているのかもしれません。

皆さんが調子が悪くて病院にかかった時、「ナントカ病ですね」などとハッキリ医者に言われないことは多いのではないでしょうか。そんな時、「結局自分はどこが悪いんだ?」と不安に思われることと思います。

しかし医者からすると、はっきりと病名を断言できることはそれほど多くありませんし、病名を言いづらいことも多いのです。
患者さんは病名を言ってほしいけれど、医者は病名を言いづらい。この点、患者さんと医者の間に大きな認識のズレがあるのではないか。私はそう考えています。

(日経ビジネス)

この記事は、医師の抱えるジレンマを本質的に示している。

患者は、「はっきりとした原因の究明と、適切ですぐに効果の出る治療」を求める。

命がかかっていれば、なおさらだ。

だが、実際に医師ができることは、「病気の原因の仮説と、治療手段の可能性を示すこと」に過ぎない。

 

おそらく、「はっきりしなくて、信用できない」という低い評価を与える人たちは、はっきり言ってくれない、断定してくれないことを嫌気したのだろう。

極端な話、「嘘でもいいから、安心させてくれ」という要望である。

 

しかし、である。

私はこの小児科医に、むしろ好感をもった。

 

なぜなら、この医師は間違いなく、本当のことを言っているからだ。

「病名を断言することは難しく、かつ、今はできることも限られている」と、この医師は言った。

そして、それはおそらくそのとおりなのだ。

 

ここに、医療の難しさがある。

 

 

考えてみれば、医療は企業へのコンサルティングとよく似ている。

実際、「会社の抱える問題について、原因を診断すること」をコンサルティングではよく求められ、そして、クライアントが「単純化」を求めるシーンによく遭遇する。

 

例えば、

会社の方針が曖昧だ、

人事制度が良くない、

システムが古い、

管理職のスキルが低い……

 

そういった、「わかりやすい理由」を求めるクライアントは多い。

むしろそういう「わかりやすい理由」を知りたいから、コンサルタントを雇ったんだろ、というわけだ。

 

もちろん、クライアントの言うことだから、多くのコンサルティング会社はそれに従う。

(もちろん、そうでない会社もたくさんある)

わかりやすいレポートに、わかりやすい話をくっつけて。

クライアントに望むような結末をつけてあげるのだ。

そんな話はいくらでもある。

 

しかし本来、会社の抱える問題を、シンプルな原因に求めること自体、無理がある。

会社は複雑系であり、システムや制度、人のモチベーションなどが相互に影響しあっているので、「◯◯◯が悪いです」と断定できるケースは、ごく簡単なケースに限られている。

結局のところ、業績を改善するためには、企業のあらゆる活動を、気長に少しずつ改善していくことが求められる。

 

例えばこんなケースがある。

会社で、売上目標が未達の状態をなんとかせよ、と経営者が吠えていた。

それでは、ということで営業部が内部で調査をした結果、営業の「訪問件数」が著しく減っていることがわかった。

 

前年に比べ、営業が顧客に訪問している数が少ない事がわかると、経営者は

「営業はなにをやっているんだ。行動量が少ないから、売上が減ったのだ」と営業部長を詰める。

営業部長は真っ青になって、営業一人ひとりの尻を叩く。

「行動量を増やせ」と。

 

ところが、1ヶ月、3ヶ月、半年と過ぎ、営業の行動量は若干増えたのに、売上はたいして伸びていないことがわかってしまう。

「なぜだ」と経営者はますます営業部長への圧力を強め、それが現場に届く。

現場も行動量が落ちると、評価に響く事はわかっているので、必死になってお客様への売り込みを激しくする。

 

だが、成果はあまり出ない。

なぜ行動しているのに、売上が増えないのだ?

経営者は悩み、ついに、原因は営業部長の無能にあると決めつけ、営業部長をクビにして、後釜を据える。

 

そして、後釜の営業部長は、前の営業部長を批判する。

「本当の課題は、訪問件数なんかじゃありませんよ。訪問をいくら伸ばしたところで、営業のスキルが低ければ成約には結びつきません。」

と、次の営業部長は経営者に誇らしげに言う。

 

経営者はなるほど、と思い、営業のスキルアップのために、外部の研修会社を使って研修を行った。

ところが、営業のスキルもあがり、訪問件数も増えたら、当然のことながら成果が出る……と思っていた経営者は、
またもや裏切られる。

売上が依然として、伸びないのだ。

 

これはどうしたことだ、と経営者は怒り、結局次の営業部長もクビにし、別の人間を営業部長に据える。

3人目の営業部長はこう言う。

「今、訪問件数を追求し、スキルアップせよと言われ、必死に動いていますが、実際は、営業の現場は疲弊しています。生産性を高める工夫をしなければなりません。」

 

経営者は、じゃあなにをすればいいのだ、と営業部長に聞くと、「営業管理システムを入れてください」と営業部長は言う。

そして、営業は営業管理システムに日々の情報を入力し、効率的な営業を目指すことになった。

 

ところが、残念ながら、どうしても売上が伸びない。

経営者は、またもや営業部長をクビにして、ついに自分が営業部長になった。
だが、経営者は営業部長3名をクビにしたものの、お手上げ状態だった。

三人も営業部長を入れ替えてきたのに、目立った成果が何も上がっていない。

 

「結局なにが悪いんだ」とその経営者は、半ばヤケになって思う。

 

ついに経営者は、大学時代の友人であった、現役のコンサルタントに相談をした。

コンサルタントは言った。

 

「売上を伸ばしたいなら、会社全体を強化しないと。」

「どういうこと?」

「採用、商品開発、マーケティング、営業、アフターサポート、すべてが売上という結果につながっている。どこか一部だけをいじっても、大した効果はない。お前は安易すぎる。」

 

「……はっきり言うな。で、何を変えればいいんだ?」

「お前、全くわかってないな。そう言うところが、お前のダメなところだ。何が悪い、何を変えればいい、とわかりやすい答えだけを求める。」

「……」

 

「いいか、健康な体を作るのに、何を食べればいい?と聞かれても、「バランスよく」としか言えないだろう?食べるものだけを変えるのじゃなく、生活習慣すべてを見直さないと、健康な体は実現できないだろう?」

「ああ……説教はたくさんだよ。」

「何いってんだ、経営者が考えなくなったら、会社は終わりだ。」

「……わかった。」

「じゃ、まず採用から話を聞こうか……」

 

 

世界中で「トランプ的政治家」が人気を集めているという記事を見た。

「トランプ的政治家」が世界で増殖中

この話はとても良くわかる。

「わかりやすい敵」を設定すれば話はとても単純になるし、手軽に安心感も得られる。

 

だが、本来政治は複雑であり、会社経営と同じく、あるインプットに対して、線形のアウトプットが得られる、という性質のものではない。

物事をそのように単純に捉えることばかりをしていると、上の経営者のように、右往左往するだけで、結局何も成果をあげることはできないのである。

 

私は「シンプルな打ち手」や「明快な発言」をする専門家には確かに魅力を感じる。

だが、信頼できると考えるのは、冒頭に紹介した、わかりにくい話であっても、煮え切らなくても、ホントのところを言う、小児科医の先生のような方なのである。

 

 

◯TwitterアカウントBooks&Apps(最近改めて、Twitterはいい。)

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

(Photo:Eli Hodapp

知人が経営するBtoBビジネスの会社がある。エール、という会社だ

(参考:https://www.yell4u.jp/

そこは、ちょっと変わった事業をしている。

 

ターゲットは大手企業。

その社員たちひとりひとりに、「社外の相談相手(≒メンター)を提供する」という事業だ。

サービスの売りは、「社内では話せない本音を引き出し、働きがいと成果を創ること」という。

 

メンターへの相談内容は多岐にわたる。

仕事上の問題解決や、目標達成のためのPDCAを回すサポートと言った実務的なもの。

あるいは、単純に悩み事を聞いてほしい、外部からの客観的なフィードバックがほしい、などなど。

 

社員の悩みに応じて、メンターは傾聴し、適切にアドバイスを行っており、現在では野村総研など、有名企業もエールのサービスを導入しているという。

 

なるほど。

私は知人からこのサービスの話を聞いた時、

「ついに、リーダーの業務をアウトソースする時代が来たのか」と感じたことを覚えている。

 

しかし、これは考えてみれば合理的だ。

なぜなら、組織の中では比較的高い能力を持っているリーダーといえど、その能力は万能ではないからだ。

 

PM理論と呼ばれるリーダーシップ論で世界的に知られる、大阪大学の名誉教授、社会心理学者の三隅二不二(みすみじゅうじ)氏は

「理想的なリーダーは「目標達成」と「集団維持」の両方を満たす」と述べた。

 

つまり、三隅氏の定義によれば、

・数字を作る

・チームを作る

ことの2つを同時に行うのがリーダーだ。

参考図書:

[amazonjs asin="4534050348" locale="JP" tmpl="Small" title="最強の「リーダーシップ理論」集中講義"]

だが、現実は厳しい。

数字を作ることに邁進しすぎて、チームを崩壊させてしまうリーダーは数多くいるが、この両者をうまくやってのけるリーダーは相当少ない。

個人的な体感値では、10人に一人いるかどうか、というところではないだろうか。

 

であれば、数字を作ることが得意なリーダーは、数字に邁進してもらい、メンバーの声に耳を傾けることは、専門家にある程度委ねるのも、悪い考えではない。

それぞれが、得意なことをやるほうが、チーム全体としてはうまくいくのだ。

 

 

実際、優秀な人をうまく使うには、メンターのような役割を持つ人が、社内外を問わず、絶対に必要だ。

なぜなら、現場で働く人々のニーズを細大漏らさず把握し、彼らの求める仕事のやり方を認めることが、仕事の生産性を大きく向上させるからだ。

 

逆に、旧来の管理職がやっていたように「出世や給与をタテに、脅かして仕事をさせる」というやりかたは、現代の知識労働者の主役たち、優秀な人々にはもはや通用しない。

優秀な人々はそういった「操作」を軽蔑し、長期的にはその会社へのロイヤリティを必ず失ってしまう。

 

実際、Googleも同様の課題意識を持ち、「効果的なチームとは何か」という問題に正面から取り組んでおり、チームの効果性にとって重要な因子が以下の5つであると主張している。

(参考:https://rework.withgoogle.com/jp/guides/understanding-team-effectiveness/steps/introduction/

1.心理的安全性:

心理的安全性とは、対人関係においてリスクある行動を取ったときの結果に対する個人の認知の仕方、つまり、「無知、無能、ネガティブ、邪魔だと思われる可能性のある行動をしても、このチームなら大丈夫だ」と信じられるかどうか。

2.相互信頼:

相互信頼の高いチームのメンバーは、クオリティの高い仕事を時間内に仕上げます(これに対し、相互信頼の低いチームのメンバーは責任を転嫁します)。

3.構造と明確さ:

効果的なチームをつくるには、職務上で要求されていること、その要求を満たすためのプロセス、そしてメンバーの行動がもたらす成果について、個々のメンバーが理解していることが重要となります。

目標は、個人レベルで設定することもグループレベルで設定することもできますが、具体的で取り組みがいがあり、なおかつ達成可能な内容でなければなりません。

4.仕事の意味: チームの効果性を向上するためには、仕事そのもの、またはその成果に対して目的意識を感じられる必要があります。仕事の意味は属人的なものであり、経済的な安定を得る、家族を支える、チームの成功を助ける、自己表現するなど、人によってさまざまです。

5.インパクト: 自分の仕事には意義があるとメンバーが主観的に思えるかどうかは、チームにとって重要なことです。個人の仕事が組織の目標達成に貢献していることを可視化すると、個人の仕事のインパクトを把握しやすくなります。

逆に、Googleが「チームのパフォーマンスに関係がない」と主張する因子は、次のものだ。

* チームメンバーの働き場所(同じオフィスで近くに座り働くこと)

* 合意に基づく意思決定

* チームメンバーが外交的であること

* チームメンバー個人のパフォーマンス

* 仕事量

* 先任順位

* チームの規模

* 在職期間

 

もちろんこれは、Googleの社員を対照としたリサーチであり、全労働者の中のごく一部の、極めて知的で、有能な労働者に当てはまる条件、と考えたほうが良いだろう。

だが、これらの結果は、優秀なメンバーに対しては、「普通の会社」で行われているような、リーダーが数字に邁進し、メンバーに圧力をかけて働かせるだけではチームをうまく運営できないことが示されている。

当たり前だが、優秀なメンバーには、優秀なリーダーが必要なのだ。

 

中でも重要なのが、「心理的安全性」というキーワードだ。

心理的安全性なぜ重要なのかといえば、知識労働において最も重要な「学習」に大きな影響を与えるからだ。

 

心理的安全性が確保されなければ、人は失敗できない。失敗できなければ、学習の貴重な機会は永遠にやってこない。

「失敗の科学」を著したマシュー・サイドは、こんな問いかけをしている。

あなたは判断を間違えることがありますか?

自分が間違った方向に進んでいることを知る手段はありますか?

客観的なデータを参照して、自分の判断の是非を問う機会はありますか?

すべて「いいえ」と答えた人は、ほぼ間違いなく学習していない。

これは、自明の理だ。モチベーションや熱意に問題があるわけではない。問題は、暗闇でゴルフの練習をしているその「やり方」にある。

[amazonjs asin="4799320238" locale="JP" tmpl="Small" title="失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織"]

したがって、リーダーには、次の責務がある。

●メンバーに学習を促すため、心理的安全性の確保をすること。

●心理的安全性を確保するため、メンバーと適切なコミュニケーションをとること。

●メンバーと適切なコミュニケーションをとるため、十分な時間をコミュニケーションに割くこと。コミュニケーションスキルを身につけること。

 

したがって、リーダーがメンバーとのコミュニケーションに十分な時間を割くことができなかったり、コミュニケーションスキルが低いリーダーだったりすれば、そのチームは学習しない、知識労働に不向きな組織となってしまう。

そのミスマッチの解消の手伝いをするのが、エールのような会社、というわけだ。

 

今後、仕事が高度になるに連れ、リーダーの業務の一部をアウトソースする会社と、アウトソースを受ける会社がますます増えるのだろう。

 

それこそ、従来の「管理職」の定義をあっという間に塗り替えてしまうほどに。

 

【お知らせ】

エールでは直近で資金調達を終え、現在は積極的に人材を募集しているとのこと。

私の知人の会社ではあるが、面白い事業をやっていることは折り紙付きである。興味のある方は、下のリンク先へ。

https://www.wantedly.com/projects/251009

 

 

 

◯TwitterアカウントBooks&Apps(最近改めて、Twitterはいい。)

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

(Photo:aiesecgermany

最近漠然と考えている家族と仕事についての雑感をまとめてみようかと思う。

まあ要旨を述べてしまうと、何事もほどほどがいいよねという身も蓋もない話なのだけど。

 

闘病ブログ跡地訪問のススメ

僕の密かな趣味の一つに、闘病ブログの跡地を訪れるというものがある。

闘病ブログ跡地には、様々な人生のヒントがある。

告知を受けた時の動揺、治療過程で起こる心境の変化。そして絶筆。

 

闘病ブログ跡地は、まさに文字通り人間が人生の最後に何を思うのかがウソ偽りなく書かれたモノが蓄積された最高の教材と言えるだろう。

あれはインターネット上にあるものの中でも、特に有益な情報が詰まった遺産である。

 

ちなみに僕の経験上、闘病ブログで最後に話題にあがる事のほとんどは家族の話題である。

仕事の話題が取り上げられているものは1つたりとも見たことはない。

 

これは医者として、臨床現場に立ち会っている時の経験とも矛盾しない。

亡くなられる方で、幸せそうに亡くなられる方の多くは家族の仲がよい傾向が多いような印象が強い。

 

こうして考えてみると、仕事というのは不思議なものだ。

人生の最後の最後には全く話題にもらならないそれらに、家族を蔑ろにしてまで耽っている人達がかなりいる事を考えると、星の王子さまに出てくる「大切なものは目にはみえない」というキツネのセリフが妙に心に響いてはこないだろうか。

 

仕事は家族と適切を距離を保つ為にある

とはいえ、だ。

仕事はもちろん生きるにあたってとても大切なものであるという事は間違いない。

人生の最後に思いを馳せるであろう家族を成立させるのには、仕事がとても大きく役立つのは言うまでもない。

 

それに家族のことばかりを考え続けるというのはそれはそれで非常に苦しい。

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟なんかを読んでいると、フィクションといえども家族について徹底してドメドメ追求していく事はとても苦しいのだなという事を嫌というほど思い知らされる。

[amazonjs asin="4102010106" locale="JP" tmpl="Small" title="カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)"]

こうして考えてみると、家族というのは確かに大切なものではあるけれど、それが良く作用させる為には適切な距離感というものが非常に大切だ、という事がよくわかる。

 

それは物理的な距離感もそうだし、一緒にいる時間を1日の中でどれだけ取るかというタイムスパン的な距離感もとても大切だ。

そういった意味では、仕事というのは私達がカラマーゾフ化しない為に、割とよくワークしているのかもしれないな、とも思えてくる。

そう考えると家族というものは、日常生活レベルでは仕事を挟んで意識しすぎないぐらいがちょうどいいのかもしれない。

 

仕事は情熱的でなければいけないと若い頃は思いこんでいたけれど

こうして考えると、仕事というのは、家族を形成したり維持したり、距離感を適切に保つのに役立っていると考えられるだろう。

つまり、これらの2つは相補的な関係にあると言える。

それならやっぱり仕事も、楽しまないよりも楽しんでやれる方がいい。

 

続いて、よい仕事というものについてみていく事にしよう。

仕事というと、やりがいだとか情熱だとかを持てる事がよい事だと思っている人が多いかも知れないけど、最近はたるんだ仕事というものを自分がどれだけ許容できるのかも、結構大切だなと思うようになってきた。

 

こう思うようになった事の発端は、最近の自分の嗜好の変化が大きい。僕は学生時代、ラーメンが物凄く好きで、いちいち電車を乗り継いで、各ジャンル毎の最も美味しいものを食べに出歩いていた。

いわゆるマニアというやつである。

 

その当時は若干意識をこじらせてた事もあり、一杯のラーメンに全ての情熱を捧げる店主をみては

「やはり仕事というのは、このように情熱的にやらねばいけないものだ」

「僕もこの人のように、1杯に命をかけられるようにならねばならぬ」

と思いを新たにしつつ、巷に数多ある、たるんだラーメンを作る店の事を物凄く苦々しく思っていた。

 

マニア時代の僕は、僕は中途半端なものを作るラーメン店を見るたびに

「おいおいおい。お前さん、せっかくこの世に生まれ落ちたんだから、もっとちゃんと真面目にラーメン作れよ。Stay hungry, stay foolishって偉い人も言ってただろ?」

と心の中で思っていた。実に嫌らしい若者である。

 

スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学卒業式でのスピーチにかぶれていたその当時の僕は「Stay hungry, stay foolish」でなければ人生にあらず、という信念にかぶれており、中途半端なラーメンを作っているお店の人を、いったい何が楽しくて中途半端なものなんて作っているのだろうかとずっと思っていた。

 

情熱的になれないような人生は本当の人生ではないし、本当の人生を歩めないのならこの世に産まれてきた意味がないじゃないかと思っていたのである。

 

人はいつまでも情熱的であれるわけではない

しかしあれから十年近くたった今、若かりし頃にあった狂気ともいってもいいような僕のラーメンへの歪んだ愛はどこかに雲散霧消してしまった。

今では話題のお店になんて出かける事は全くないし、それどころか今度は逆に空いているぶんだけ使い勝手がよいと、学生時代の僕が絶対に行かなかった中途半端なラーメン屋を好んで利用するようになる有様である。

まったく、人間というのは自分勝手なものである。

 

しかし今になって振り返ると、全てのラーメン屋がジョブス化したら、それこそエライ事である。

毎朝、鏡に向かって「もしも今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか?」と考えるような人間だけがラーメンを作っている社会は、どう考えても異常だ。

 

今でも情熱を仕事に対して持てる事はとても素敵なことだとは思うし、パリッと集中した時間に自分の身を置ける事はとても有意義な時間である事は事実だけど、その一方で全ての人・全ての仕事にそれを求めるのはやりすぎだという事を遅まきながら理解できるようになった。

 

僕のラーメンへのこだわりが数年たったら雲散霧消したように、多くの人は情熱を一つのことに長く持ち続ける事なんてできない。

だから集中する時間と同じぐらい、たるんでもいい時間を人生の中で持てる事も大切だな、と思うのである。

そういう時間を持てるようになって初めて、他人が楽をする事を心の底から良いことだと思えるように、なりますしね。

 

というわけで結論としては仕事も家庭も適切な距離感とメリハリを持てるようになるのが理想だという、実に面白みもない結論に至るのだけど、こういう大切な事をかつて意識が高かった僕のような大人が声を大にしていう事は大切な事だと思うのですよね。

 

自分に優しく、他人に優しく、ジョブスの対極にあるようなゆるい生き方にこそ、凡人の幸せってものがあるんじゃないかと思うんですよね。

やっぱり、人生はほどほどが一番だということなのかもしれません。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Kendra

知人が最近、転職をした。

新しい職場は若干家から遠いが、気持ちの良い人が多く、仕事も面白いということで、本人にとってはとても良い転職だったようだ。

 

さて、その知人が、職場で2つ、小さなことに気づいたと、話してくれた。

 

ひとつ目は、昼食をとる場所について。

知人は昼食をあまりお店で食べない。

お弁当を持っていくか、近くのお弁当屋さんかコンビニエンスストアで買って、オフィスで食べることが多いという。

 

ただ、その知人はせっかくの昼休みなのに、デスクで昼食をとるのは気分転換にならないと思い、空いている会議室を昼食の場所に使ったそうだ。

会議室は広くて清潔で、もちろん「昼食に使ってはいけない」というルールはない。

早速、知人は会議室を昼食に使うようになった。

 

ところが面白いことに、昼食に会議室を使っている人は、他には誰もいなかったそうだ。

気になった知人が、

「なんで使わないのですか?ひょっとして禁止なのですか?」

と他の人に聞くと、

「ランチに使っていいと、聞いたことなかったから。」

と答えたという。

 

その後、知人の影響で会議室は人気の昼食スポットになったという。

 

 

ふたつ目は、職場の掃除について。

その職場は、事務職の方々が、毎朝デスクの上を拭いて回る、というややクラシカルなルーティンワークがあるそうだ。

知人も事務職なので、机を拭いて回ることになった。

 

ところが、毎日机を拭いているうちに、知人は一つのことに気がついた。

「この仕事はひょっとして無駄なのではないか」と。

というのも、拭かなければならないほど、机が汚れていないのだ。

 

そこで、「拭き掃除は、机でなくてはいけないのか」と、知人は責任者に聞いた。

回答は

「とくに机じゃないとダメ、というルールはない。」

と答えた。

知人は、

「それなら、本棚を拭かせてもらいます」と答え、その日は机ではなく汚れが酷かった本棚を拭いた。

 

以後、知人は机ではなく、棚や窓ぎわなど、汚れの酷い場所を優先して拭いている。

 

 

この世は「ルールに書かれてないから、やらないほうがいい」と考える人が多数を占めている。

その一方で、この世には、「ルールに書かれてないなら、やっていい」という人もいる。

 

そして「ルールに書かれていないなら、やっていい」という人が、新しい世界を作り出すことがしばしばある。

 

上で紹介した知人はささやかな変化を職場にもたらしただけだが、中には大きな変革を起こす人々もいる。

彼らは起業家やイノベーターと呼ばれる。

 

例えばAirbnbを筆頭とする「民泊」である。

「自分の家の空いている部屋を、貸しちゃいけない、ってルールはないよな。」

という人々が、始めたものだ。

2008年に設立された同社は、またたくまに巨大になり、時価総額は3兆円を突破した。

 

ビットコインなどの仮想通貨や、Uberなどのライドシェアサービスについても同様に、それが始められたときは、「ルールがない」状態であった。

だが、世界はより便利に、より使いやすくなった。

 

ところが、起業家、イノベーターたちが「ルールにないから、やってもいい」という考え方を元に事業を進めていくと、

「ルールに書かれてないから、やらないほうがいい」

という勢力の方から、様々な理由で

「ルールを作れ」

「違法なのでは」

という、茶々が入る。

 

この価値観の違いは大きい。

それは、相手の「既得権」を脅かしたからというときもあるし、それらのサービスによって「被害者」が出ているからと言うときもある。

だが単に「新しいものが嫌い」という感情的な反発に過ぎないことも多い。

 

何れにせよ、「ルールに書かれていないことをやる人たち」が気に食わない人々は、腐るほどいる。

 

例えば、今年Airbnbには茶々が入った。

後出しジャンケンで、Airbnbの物件は「非合法化」され、届け出がされていない物件は、Airbnbから強制的に削除されることになった。

その影響で、Airbnbの登録数は2018年の6月に激減したことは余り知られていない。

東京の物件も、1万6千件超あったものが、たったの2000件程度まで減ってしまった。

参考:全国Airbnb登録件数、1日で4万件(▲76%)減少

 

日本でUberが使えないのは、「ドライバーが利益を得る目的でライド・シェアをすること」が違法だと国交省がみなしているからだ。

おかげで日本人は、Uberを満足に使えず、不便なタクシーアプリを強制的に使わされている。

タクシー運転手を保護するのは良いが、わざわざ利便性の劣るサービスを高いお金を出して使わされるのは納得がいかない。

 

 

一方で、現在の伸びが著しい、中国、インドなどでは、「法規制が存在しない」ことで、数々の新しいサービスが生み出されている。

 

例えば、シェアリングエコノミーのみならず、法規制の強い決済や医療の分野においてすでに革新的なサービスが多くの人に使われている。

参考:インドの医師向け遠隔医療プラットフォーム「healthenablr」が、80万米ドルを資金調達

 

今まで途上国だった国々が、一足とびに先進国を上回る技術導入をすることを、「リープフロッグ」という。

法規制が未整備な国では特に、「リープフロッグ」が起きやすい。

 

私は決して日本の将来を悲観しているわけではないし、新しい技術を手放しで礼賛する気もない。

だが、既得権益を守るために、国が消費者に不便を押し付けたり、起業家やイノベーターを邪魔するような真似だけは、本当に辞めてほしいと思う。

それは、「住みにくい社会」だ。

 

本質的に、法律は、成立してから長い年月を経ると、一部の権益を持つ人々のためだけに資するようになってくる。

時代に合わないことは明白なのだが、それでもしがみつく人々は多い。

 

だが、それは公平性を欠くというものだ。

法律は社会をより豊かにするため、新陳代謝を促し「新しいことをやろうとしている人々」にも資するものでなくてはならない。

 

冒頭の知人が、「会議室」という、遊休リソースを、社員全員に開放したように。

 

 

【お知らせ】

自社のオウンドメディアの運用を検討、もしくは今後オウンドメディアの改善を検討中のwebマーケティング担当者および企業幹部、
企業経営者さま対象にセミナーを実施しております。

——————————————————————————

「SEOだけに頼らないファンを作るオウンドメディアの運用方法」

1.webでバズる2つの要素
・メディア力
・記事力

2.バズるメディアを作るには
・よくあるオウンドメディア3つの過ち
・オウンドメディアによるブランディングとは
・オウンドメディアを運営するために欠かせない3つのポイント

3.Books&Appsのオウンドメディア支援だからできること

——————————————————————————

場所:東京都渋谷区2-21-1渋谷ヒカリエ11FカンファレンスルームA

日時:11月16日金曜日 15時00分~16時30分

定員:20名

参加ご希望の方は、下のPeatixサイトよりお申し込みください。

https://tinect1116.peatix.com/(閲覧パスワード 1116)

 

 

◯TwitterアカウントBooks&Apps(最近改めて、Twitterはいい。)

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

(Photo:thecrazyfilmgirl

人間には、「マルチタスク耐性」とでもいうべきステータスがあるような気がしています。

 

マルチタスクというのは、皆さんご存知の通り、やらなければいけないことが複数同時に存在する状態です。

今まで色んな人と一緒に仕事をする中で、タスクが大量に降りかかってくるタイミングには山のように遭遇してきました。

 

上席の人が適切にマネジメントをしてくれたこともあれば、マネジメントというものがほぼ素通りの水道管のような感じで、未整理のタスクがどかすか頭上に墜ちてくるだけ、ということもありました。

あれは辛いです。クレイジークライマー大往生って感じです。

 

で、タスクが複数同時並行で走る状況を、自他問わず複数回経験してきたことで、なんとなく

「マルチタスクに対応出来る人」

「対応が苦手な人」のレイヤーが見えてきたように思います。

 

仮に

「同じような粒度のタスクが3,4個一遍に降ってきた」

「しかも業務的な優先順位は決まっていない」という状況を想定してみましょう。

おいマネージャーなにやってんだよ、という話は一旦置いておいてください。正直よくある状況です。

 

この時の対応の仕方によって、マルチタスク対応能力をカテゴリー分けしてみると、多分こんな感じになります。

・タスクの散らかり具合に関わらず、どんどんタスクを片づけていくことが出来る人

・適切にタスクの優先順位を振ってもらえれば、処理能力を下げずにタスクをこなしていくことが出来る人

・タスクの優先順位が決まっているいないに関わらず、マルチタスクの状態になっただけで処理能力が落ちる人

 

つまり

「誰かに優先順を決めてもらわなくても処理能力が落ちない人」

「誰かに優先順を決めてもらえれば処理能力が落ちない人」

「優先順を決めてもらっても処理能力が落ちる人」の3カテゴリーです。

 

前から順に、マルチタスク対応能力が大きい、中くらい、小さいと言ってしまっていいでしょう。

これ、勿論同一カテゴリー内で若干のグラデーションはあるんですが、この3カテゴリーへの分類自体はかなり明確に出来るような気がしているんです。

 

優先順を決めてもらわなくても処理能力が落ちない人

「優先順を決めてもらわなくても処理能力が落ちない人」というのは、要するに

「意識的にせよ、無意識的にせよ、脳内でサクッとタスクの優先順位を決めてしまえる上、タスクを始めてしまえばあまり他のタスクのことが気にならなくなる人」です。

 

勿論、このカテゴリーの中にも色んなパターンの人がいます。上席からどかっと無整理のマルチタスクが降ってきた時、ぶつくさ言いながら自分で対応順を適切に決めてしまえる人もいれば、「手当たり次第」という処理法に長けている人もいます。

 

彼らに共通しているのは、「タスクを始めてしまいさえすれば、他のタスクのことは気にならない」という、いわば自分で自分の視野を適切な範囲にカットする能力です。

他のタスクのことは一旦意識の外に置いてしまえるから、目の前のタスクに対する処理能力が鈍化しない。

「集中力」という言葉で括るにはちょっとフィールドがずれる気がするのですが、それに類する能力なのでしょう。

 

優先順を決めてもらえれば処理能力が落ちない人

「優先順を決めてもらえれば処理能力が落ちない人」というのは、要するに「タスクが散らかったままだと手がつかない人」。

多分、これが一番普通の人です。

 

つまり、複数タスクが存在する時に、処理順が明確になっていないとがくっと処理能力が落ちる。

かつ、「タスクの処理順を決めること」「処理順を整理すること」は苦手、というか処理順を整理するだけでかなりの度合消耗してしまう。

つまり、「どれからやるか」ということに迷うだけで、既に脳のキャパシティがある程度割かれてしまうんですね。

 

これは大抵の人にとって普通のことであって、こういう人が多いからマネージャーという仕事があります。

こういう人たちの為に、マネージャーはきちんとタスクの順番を整理して、「こういう優先順でやってね」ということを明示してあげないといけません。

きちんと優先順が決まっている限り、このカテゴリーの人たちは十分なパフォーマンスを出すことができます。

 

もっとも、世の中マネージャーが存在しない仕事というものも当然あるのであって、例えば複数の家事になかなか手がつかない状況に苦労するなんてこともそんなに珍しくないことなのかも知れませんが。

何故かタスクの整理というものを行おうとしないマネージャー、というのも世界には存在しますが、ここでは置いておきます。

 

優先順を決めてもらっても処理能力が落ちる人

さて、世の中には、「優先順を決めてもらっても処理能力が落ちる人」というのも実は結構います。

つまり、「優先順が決まっていようがいまいが、マルチタスクという時点で明らかにパフォーマンスを落としてしまう人」ということですね。

 

これについては、以前こんな記事を書いたことがあります。

タスクをどんどん遅延させてしまう人に、何故遅延させてしまうのかヒアリングした時の話

つまり、Dさんのタスクが遅れてしまう最大の原因は、「品質についての考え過ぎ」と「タスクの優先づけの混乱」の二点でした。

ここでいうところのDさんが、多分「優先順を決めてもらっても処理能力が落ちる人」に該当する人でした。

ただ「次にはこれがある」ということを意識してしまうだけで、目前のタスクに手がつかなくなってしまう。

 

これ、能力的な問題というよりは性格的な問題も結構大きいようでして、仕事に慣れても改善しにくいんです。

こういう人には「シングルタスクを徹底する」という対応が必要でして、当然それなりの管理強度を必要とします。

 

つまり、マネージャーが頑張ればちゃんとパフォーマンスを出してくれます。

 

「マルチタスク耐性」はある程度訓練で向上させることが可能

勿論、「マルチタスク耐性」はある程度訓練で向上させることが可能です。

 

大雑把に言うと、この耐性は

・タスク優先順の判断力、整理能力

・他のタスクに気をとられない思考遮断能力、集中力

の二つから構成されるんですが、特に前者の方は、「どういう順番で着手すれば効率的か」という判断を何度も繰り返すことによって向上する傾向があります。

 

私自身、これ昔はからっきしだったんですが、意識的にマルチタスクの状態を作り出して、効率のいい処理の仕方を考えてどうにか実行して、ということを繰り返す内に、昔よりはだいぶマシになったような気がします。

 

ただ、後者の方は生来の気性的なところもありますし、もしかすると子どもの頃の過ごし方にもよるのかも知れず、なかなか根本的な改善が難しいようです。

つまり、マルチタスク耐性「中」から「大」にレベルアップするよりも、「小」から「中」にレベルアップする方が難しそうです。

 

なんにせよ、マネージャーは、部下の「マルチタスク耐性」をきちんと見極めて、それを把握した上で仕事の割り振りを考えることが重要ですよね、と、そういう話なんです。

 

 

ところでこのマルチタスク耐性なんですが、大人だけの話ではなく、子どもの時点でも結構個人差があるなーということを最近認識しました。

 

我が家で言うと、長男がかなりマルチタスク耐性が高い方なので最近まで気付かなかったんですが、長女はいまいちマルチタスク耐性が低く、「こういう順番でやろうね」ということをちゃんと言ってあげても、次にしなくてはいけないタスクがあると途端に集中力が落ちる、ということが分かったんです。

これ、幼稚園時代はあまり問題にならなかったんですが、小学校で宿題が出るようになって気付きました。

 

元来子どもは気が散りやすい生き物ですので、長女の方がむしろ普通なのかも知れません。

早めに気づけたので、過去の管理経験を元に「シングルタスクの徹底」をやってみたら最近はだいぶ改善しました。

 

といってもそこまで大したことをやったわけではなく、

・「〇〇したらその次××ね」といった段取りの提示を避けて、シンプルに「じゃあ〇〇しようね」とだけ言うようにした

・予定用のホワイトボードに優先タスクを一個だけ書くようにした

・机の周りを整理して、他のものが目に入りにくいようにした

という程度なんですが。

 

大きくなってきたらちょっとずつ、マルチタスクでも処理出来るように慣れさせてあげようかなーと考える次第なんです。

そちらについてはまたいずれ、こういうのが効果あるんじゃないかな?というのを書いてみたいと思います。

 

皆さんが健やかなマルチタスク対応生活を送られることを願って止みません。

長くなりましたが、今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Brian Cantoni)

「コミュ障」という言葉がある。

正確に書くとコミュニケーションに関する障害(を持つ人)となるが、もちろんこれは本来の「障がい者」という意味で使われているのではなく、単にコミュニケーションの下手くそな人、という意味だ。

 

さて、この「コミュ障」だが、よくネタにされる。

友達付き合いや、仕事においてもコミュニケーションの能力が重要であるからなのだろう。

 

だが、私はいつも不思議に思っていた。

本人の認識と、実際の能力のズレについてだ。

例えば、自分自身で「コミュ障です」と言っている人であっても、特に仕事を進める上でコミュニケーションに苦労しなかったり、一見社交的で、仲間とうまくやっているのに、実は仕事でコミュニケーションが非常に取りづらい人がいたりする。

 

一体これは、どういうことなのだろう。

「コミュ障」の本質とは、一体何なのだろう。

 

そう思っていたところ、先日読んだ一冊の本が、これらの疑問についてほぼ完全に答えてくれた。

その本が、北大の名誉教授だった、社会心理学者の山岸俊男氏の「安心社会から信頼社会へ」という本だ。

[amazonjs asin="4121014790" locale="JP" tmpl="Small" title="安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)"]

この本によれば、私がイメージしていた「コミュ障」とは、つまり

「人を信頼するのが下手な人」

ということに尽きる。

 

「人を信頼する」とはどういうことか

詳しく見ていこう。

山岸氏は、信頼の定義を、次のようにしている。

「信頼」は、相手が裏切るかどうかわからない状況の中で、相手の人間性のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。

 

そして面白いことに、山岸氏は「信頼」と対になる概念として「安心」を掲げている。

安心の定義は次のようなものだ。

「安心」は、相手が裏切るかどうかわからない状況の中で、相手の損得勘定のゆえに、相手が自分を裏切らないだろうと考えることだ。

 

信頼は不確実性を大きく残したまま、人に期待を持たなければならない。

だが、安心は、システムやルール、約束事などによって、「相手が裏切る」という不確実性を大きく減らしている。

 

例えば、「裏切ったら処刑される」という鉄の掟があるマフィアにおいて、ボスが子分に持つのは「信頼」ではなく「安心」である。

三蔵法師が孫悟空に対して「頭を締め付ける輪があるから、裏切らないだろうと考えること」も、「信頼」ではなく「安心」である。

 

山岸氏の洞察の素晴らしい点は、この「信頼」をベースにした人間関係と、「安心」をベースにした人間関係を区別しているところにある。

つまり、「安心」は直接人を信じなくとも仕組みによって機能し、逆に「信頼」とは文字通り「人間を信じている」からこそ、成り立つということだ。

 

「安心」に依存していると、他人を「信頼」する能力が育たなくなる

そして、山岸氏は重要な示唆をする。

それは

「安心」に依存していると、「信頼」する能力が育たなくなる

という事実だ。

 

例えば、山奥の伝統的な共同体に住んでいる限り、その中では人は周りの人を警戒する必要がない。

それは、お互いに集団の内部を相互に監視し、裏切り者は共同体の外に放逐すれば良いというシステムができあがっているので「信頼」を育む必要がないからだ。

 

しかし、「安心」に依存し続けていると、「人を信頼すること」が下手になり、外の世界に出ていく機会は極めて限られたものになってしまう。

実際、山岸氏のの実験では、特定の相手との「安心」に基づく関係を形成すると、関係外部の人間に対する信頼感はむしろ低下することが示されており、ますます閉鎖的になる、ということが示されている。

 

実際、山岸氏が、この「安心」をベースにした人間関係を重視する人々が持つ傾向を、実験によって明らかにしたところ、

次のような人々であることがわかった。

・仲間以外は信用しない(「人を見たら泥棒と思え」に賛同する)

・仲間内で、誰が誰を好いている、嫌っている、という情報に敏感

・周りの人が自分をどう思っているのか気になる

・他人との付き合いは、自分も傷つきたくないし、他人も傷つけたくない

・孤独感が強い

・感情を顔に出さない

 

山岸氏はこれを「社会的びくびく感」と名付けているが、これは、一般的な「コミュ障」のイメージに驚くほど近いことがよく分かる。

まさに「安心」に依存しすぎている人たちこそ「コミュ障」の正体だ

彼らは「人間同士の信頼関係」よりも、「安心を作り出す仕組み」の方に依存しているため、「この人はどの程度信頼できるのか」という感覚が鈍ってしまっており、それゆえに「コミュ障」なのだ。

 

「コミュ障」な組織

こう考えていくと、「コミュ障」は個人だけに適用できる概念ではない。

じつは「コミュ障の組織」も存在する。

 

例えば、「コンサルタント」や「外部リソース」を使うことがやたらと下手くそな会社。

そういった会社は実は「コミュ障の会社」が多い。

 

例えばある会社では、経営陣が外部リソースを使う際にまず言っていたのが、

「なめられるな」

「ノウハウをできるだけ隠せ」

「できるだけ叩け」だった。

要するに外部の会社は、一切信用できない、使うにしても上下関係をはっきりさせておきたい、という考え方だ。

 

また、ミスが起きたときに、それを外部の業者に押し付けようとする傾向もあった。

だから結局、どこかの時点で必ず、コンサルタントや外部の協力者とのコミュニケーションが、うまくいかなくなる。

 

しかも、そういう会社は、決まって人材も排他的で、当然副業も認めず、

「辞めた人のことは口にしてはならない」という暗黙の掟があったり、会社を辞めた人を悪しざまに言ったりすることも多かった。

また、好き嫌いで人事が行われ、会社の「文化」「暗黙のルール」を社員に強制することもしばしば見受けられた。

 

要は「ムラ社会」のような会社、つまり「コミュ障」の組織だ。

 

「コミュ障」でも良いが、これから機会損失は大きくなるばかり

ここまで書いてなんだが、念のために言うと、私はコミュ障を特に「悪いものだ」と否定しようとは全く思わない。

「安心」はリスクを回避するための有効なツールからだ。

だから「安心」にこだわって何が悪いのか、という方も数多くいるだろう。

 

だが、「安心」を重視すればするほど、外の世界に出ていく機会は減る。

見知らぬ他人を信用できなければ、転職の機会を逃し、副業のチャンスを見過ごし、シェアリングエコノミーも利用することができない。

企業間の連携など、夢のまた夢である。

 

その機会損失を受け入れた上で、信念を貫くのなら、それはそれで良いのだろうが。

 

 

【お知らせ】

自社のオウンドメディアの運用を検討、もしくは今後オウンドメディアの改善を検討中のwebマーケティング担当者および企業幹部、
企業経営者さま対象にセミナーを実施しております。

——————————————————————————

「SEOだけに頼らないファンを作るオウンドメディアの運用方法」

1.webでバズる2つの要素
・メディア力
・記事力

2.バズるメディアを作るには
・よくあるオウンドメディア3つの過ち
・オウンドメディアによるブランディングとは
・オウンドメディアを運営するために欠かせない3つのポイント

3.Books&Appsのオウンドメディア支援だからできること

——————————————————————————

場所:東京都渋谷区2-21-1渋谷ヒカリエ11FカンファレンスルームA

日時:11月16日金曜日 15時00分~16時30分

定員:20名

参加ご希望の方は、下のPeatixサイトよりお申し込みください。

https://tinect1116.peatix.com/(閲覧パスワード 1116)

 

 

◯TwitterアカウントBooks&Apps(最近改めて、Twitterはいい。)

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

(Photo:Tim Deering

おそらく西暦で言えば、2000年くらいまでのルールじゃないだろうか。

一昔前は、親、妻、夫など家族が不治の病であること、とりわけガンであることが判明した場合にはまず本人以外の家族だけが病院の「カウンセリングルーム」なる部屋に集められて、重大な決断を迫られる事が多かった。

「残念ですが、患者さんの余命は残り6ヶ月ほどです。ご本人に通知をするかどうか、まずはご家族で話し合って下さい。」

という具合だ。

 

インフォームドコンセント(患者本人が十分な情報に基づき、自ら治療方針について意思決定すること)という概念が浸透した現在では、おそらくそんな時代があったことすら、知らない人も多いだろう。

一昔前は、自分がもうすぐ死ぬことを本人に知らしめることは残酷であり、最後まで「頑張れば治るよ!一緒に頑張ろう!」
と、家族が励ますという看取りが一般的な時代が長く続いていた。

これは言い換えれば、患者本人が、自分が間もなく死ぬという事実を知り、死ぬ準備をする猶予を得られるかどうか、もしくは自分が間もなく死ぬという恐怖を体験するかどうかは、家族の意思に委ねられていたということだ。

 

このやり方には賛否の激論がずいぶん続いていたように思うが、現在では基本的に、患者本人の意志に委ねる権利が確立されている世相を思うと、僅か20年ばかり前なのに、隔世の感がある。

そして私たち家族にも、ある日突然、この重い決断を下すことが求められることになった。

 

 

1997年のある日。

母と私は病院のカウンセリングルームに通されて、主治医から、父の余命が半年であることを知らされる。

「残念ですが、ご主人様のガンはすでに肝臓と腎臓、それに肺にも転移が見られます。余命は長くとも6ヶ月です。ご本人様に知らせるかどうか。治療方針にご本人様の意見を反映させるかどうか。1週間で結論を出して下さい。」

言葉も出ない。突然のことに、嘘だろ?としか思えない。

 

その後のことは正直良く覚えていないが、次の記憶が鮮明に残っているのは、その夜に2つ年上の兄に電話し、

「オヤジ、後半年の命らしい・・・。」

と話したところで不覚にも声が詰まり、何も言えなくなってしまったシーンだ。

それ以上何も言えずに、声を押し殺し涙を堪えていると、兄も涙を堪えるような声で、話しだした。

「おい、お前ふざけるなよ?」

「・・・?」

「いいか、よく聞け。今一番辛いのは、母さんだ。そしてこの事実を知った時に一番つらいのは父さんだ。」

「・・・まあそうだろうな。」

「まだある。その次につらいのも、俺やお前じゃないぞ。なのに、お前が泣いてどうするんだ。」

この時、私の祖母、つまり父の母がまだ存命だったので、兄はその事を言っていたのだろう。

正直、子供にとって親が死ぬことはいわば順序であり、諦めがつく。

しかし、夫を失う母の気持ち、自分より早く子供を失う祖母の気持ちを考えると、兄の言うことは間違いなく正論だ。

 

そして、今から父の死を家族で受け入れなければならない時に、「大して辛くもない」お前が一番に泣くなと、いきなりの説教を喰らわされた。

説教しながら自分も泣いていたくせに、だ。

 

そして本題の、余命を父本人に知らせるかどうかについてである。

兄は、

「知らせたところで、死ぬ事実は変わらない」

「死ぬ瞬間まで、希望を持って生きる方が幸せだ」

「人生の最後に、精神的な苦痛を与えるのは間違っている。最後は父さん個人の穏やかな死に方を最優先に考えるべきだ。」

という趣旨で、最後まで父に、余命を知らせるべきでは無いと言い続けた。

 

それに対し私は、

「重い責任を担って仕事をしている父さんには、死ぬ準備が必要だ」

「突然、何の後始末もなく死んだら周囲が困る。父さんはそれを望んでいない。」

「何よりも、最期は家族でしっかりと、お別れの時間を過ごすべきだ」

と主張し、意見が完全に割れる。

 

さらにもうひとり、年長の兄も交えてそれぞれの価値観でどうするべきかの意見を話し合うが、結論は出ない。

最後は、「子供たちの意見を伝えた上で、母に一任する」ということになり、母に委ねたが、

「最後まで本人に言わないなんて、とてもできない」

と即断したことで、結論が出た。

そして、父には余命が長くとも半年であることをそのまま知らせることになった。

 

痛みはなるべく軽くなるようにして下さい(笑)

結論は出た。

私たち家族は1週間後、同じカウンセリングルームで主治医に向き合う。

対面のレントゲン画像を映すような機械には、父のガンが深刻であることが素人にもわかる程に広がった白い影が写っている。

その画像を指し示しながら主治医は淡々と、しかしどこか感情を堪えるように父の余命が半年であることを本人に告げた。

 

そして、説明が終わり沈黙の時間が流れる。

ふと横を見ると、兄は涙が溢れないように天井を見あげ、歯を食いしばっている。

母はただ、テーブルの一点を見つめて静かに泣いている。

静かで重苦しい空気の中で、次に誰が話して良いのか。

誰も話せないでいる空気がしばらく続いた後、父が明るく、笑いを含んだ声でこう言った。

「そうですか、わかりました。最期は、痛みはなるべく軽くなるようにして下さい(笑)」

 

(え・・・?)

なぜこんなに軽く応えられるのだろう。

少し驚き、それまではとても父の横顔が見られなかったが、私は思わず顔を上げ、父の方に目を向けた。すると父は、背筋を凛と伸ばし、主治医の目を見つめながら穏やかな顔をし、そして大粒の涙を両目からこぼしていた。

 

父の涙を見たのは、人生でこれが初めてだった。

さすがにもう、涙を堪えきれない。

オヤジに余命を伝えることを一番に主張したのは俺だったのに、それは間違いだったんじゃないのか。

本当は兄貴の言うように、何も知らないままで最期の時を迎えるほうが、幸せだったんじゃないのか。

そんな罪悪感が一気に胸に押し寄せ、私は申し訳ない気持ちになり下を向いて声を押し殺して泣き出してしまった。

 

すると父は、

「大したことじゃない、泣くな」

と、私の背中をさすり始める。こんな時にも、アカンタレにも程がある醜態を晒してしまった。

 

面白い本だからだよ?

そんな紆余曲折があり、父は自分の余命が残り半年であることを知ると、病室に仕事関係者などを呼び寄せて人生の後始末を始めた。

その「準備」はおかしな話だが、多忙を極め、2ヶ月ほどは忙しく過ごしていたように思う。

 

そして、そんな「準備」も一区切りが付き、ある日病室に父を見舞った時。

父は病床に座り、分厚い1冊の本を読み込んでいた。

「メタルカラーの時代」という本で、それはどんな本なのかと聞くと、困難に立ち向かい、大きな仕事を成し遂げた人たちの話だという。

前から読みたいと思っていた本だったけど、時間ができたのでやっと読めたと笑う。

 

なぜ、余命を宣告された父が今更、そんな本を読むのか。

不思議に思ったが、さすがにストレートには聞けないので、

「なんで今、その本を読んでいるの?」

と、シンプルに聞いた。

 

すると父は、

「ん?仕事に役に立つし、面白い本だからだよ?」

と、これまたシンプルに答える。

まるで何事もなかったかのような、自宅のリビングルームで何千回と繰り返したかのような会話だ。

しかし現実は変わらない。

オヤジは末期ガンであり、後数ヶ月後には、私たち家族の前から確実にいなくなるだろう。

 

私は思わず、父は実は状況を理解していないのではないかと、痛み止めのモルヒネで意識が飛んでいるのでは無いかと疑い、あるいは期待し、少し言葉を選ばずに聞いてしまった。

「父さん、死ぬことが怖くないのか?」と。

すると父は、本を静かに閉じて、話し始めた。

「嘘だと思うかも知れないけど、俺は本当に、死ぬことは怖くないんだ。」

 

そして要旨、以下のようなことを言った。

・俺はこれまで、やれるだけのことをやり切って人生を生きてきた。

・しかも俺の後には、お前ら(子供たち)がいる。なら、死ぬことを怖いと思う理由がない。

・ただ、おばあちゃん(父の母)よりは、1分でも1秒でも良いから、長く生きていたかったなあ。

と。

 

私は思わず本音を直球で聞いてしまった勢いもあり、

「でも、本当は怖いんだろ?」

「俺にできることがあれば、言って欲しい」

というような話をストレートに聞いた記憶があるが、父の答えは変わらない。

そして、

「体を大事にしろ」

「頑張れ、お前は自分の人生を頑張れ」

と、目を細めて、穏やかに繰り返し話した。

 

余命の宣告をされても後悔しない生き方について

そして病床にあった父は、結局主治医の予告どおりのきっちり半年後に、この世を去った。

そんな父を見送った私も、20代前半の紅顔の美青年(?)がくたびれた40代のオッサンになり、ぼちぼちと自分の人生の全体像は見え始めてきた頃だ。

どれだけあがいても、今からエアラインパイロットになることも、小村寿太郎のように本当に国益を思う、歴史に名を残す外交官になることもできない。

自分の経験と能力でどれだけの社会貢献ができ、どれだけの人に喜んでもらうことができるのか。

そんな人生の方向性が固まりつつある。

 

そんな頃合いだからだと思うが、父はなぜ、死の間際にあれほど潔かったのか。

なぜ突然宣告された死を恐れず、受け入れることができたのか。

考えることが多くなったが、私には一つの結論に近い考えがある。

それはなにか。

 

そのお話を始める前に一つ、前振りをしたい。

話は急に変わるようだが、

「武士道とは、死ぬことと見つけたり」

という言葉を聞いたことがある人は、おそらく多いのではないだろうか。

武士道を象徴する言葉であるかのような意味が独り歩きをしている上に、その要旨を、

「武士とは死んでこそ華」

「潔く死ぬことこそ、武士の本分」

という、全くデタラメの解釈で理解され、広く定説になっている恐るべきフレーズだ。

 

スポ根系の漫画でもたびたび取り上げられ誤解が広まっているが、元々は江戸時代初期に書かれた本、「葉隠」に収録されている一文である。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」で始まる段落の冒頭の分であり、その後の文章がまるで無視されている。

中略するが、締めは以下のような文章だ。

武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり(中略)毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。

[amazonjs asin="483797872X" locale="JP" tmpl="Small" title="葉隠 (知的生きかた文庫)"]

要するに、毎朝毎晩、自分が明日死ぬかも知れない覚悟で、人生を大事に生きろ。

人生の選択をそれだけの重い決断で下せ。

死んだ気になって生きていれば、初めて人は自由になれる、という意味合いだ。

 

諸説あり、解釈はネット上にも様々に溢れているが、少なくとも私はそう理解している。

武士の活躍した時代は、それこそいつ死ぬかわからない。

1年後どころか、来月に突然お家が滅亡し、一族郎党が全て死んでいるかも知れない厳しい人生だ。

そんな時代に果たして、暇だからと言って無意味なゲームに興じ、見られたら困るいろいろなモノをPCやスマホに溜め込むような生き方をするだろうか。

きっと、明日死んでも良いように今日できる最善の努力をし、さらにいつ死んでもいいように、身ぎれいに生きることを心がけたはずだ。

それが、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の本旨だと理解している。

 

結局、余命を宣告されても慌てふためかない生き方は、これしか無い。

常に、自分が余命を宣告された人生を生きているつもりになり、「毎朝毎夕、改めては死に死に」、その日を生きる覚悟を持ち、その日を振り返る覚悟を持てば、自ずから生き方は変わるはずだ。

そうすれば、きっと潔く「その時」を迎えられるのではないだろうか。

 

生活もあり、背負うものが増えていけば行くほど、生き方を変えることは難しくなっていく。

しかし、そんな人生の途中で明日突然、余命半年を宣告されても、今の自分のままで「その時」を、素直に受け入れられるか。そう考えると、何か焦りに近い衝動を感じないか。

 

もしそんな思いがあれば、きっと「その時」を素直に受け入れられないはずだ。

「毎朝毎夕、改めては死に死に」

人生を考えることは、とても価値がある江戸時代の先人の知恵ではないだろうか。

 

 

【お知らせ】

自社のオウンドメディアの運用を検討、もしくは今後オウンドメディアの改善を検討中のwebマーケティング担当者および企業幹部、
企業経営者さま対象にセミナーを実施しております。

——————————————————————————

「SEOだけに頼らないファンを作るオウンドメディアの運用方法」

1.webでバズる2つの要素
・メディア力
・記事力

2.バズるメディアを作るには
・よくあるオウンドメディア3つの過ち
・オウンドメディアによるブランディングとは
・オウンドメディアを運営するために欠かせない3つのポイント

3.Books&Appsのオウンドメディア支援だからできること

——————————————————————————

場所:東京都渋谷区2-21-1渋谷ヒカリエ11FカンファレンスルームA

日時:11月16日金曜日 15時00分~16時30分

定員:20名

参加ご希望の方は、下のPeatixサイトよりお申し込みください。

https://tinect1116.peatix.com/(閲覧パスワード 1116)

 

【著者】

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し、独立。会社経営時々フリーライター。

複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を、運営するブログでは月間90万PVの読者を持つ。

 

(Photo:jimmy huang)

今から4年前。自分の将来とキャリアについて悩んでいた時期がありました。

 

24歳でWeb業界へ入り、デザイナーとして仕事を続けていましたが、当時、30歳を目前として、成長率の低下を日々痛感していたからです。

「今は楽しいけど、もう3年は持たないなぁ…」という焦りを感じつつ、私生活では結婚をし、妻の出産も視野に入れていたので、人生としてもキャリアプランを練り直す時期だったのかもしれません。

 

そこで“モノづくり”(=デザイン)から“コトづくり”(=広報/PRプランニング)へとジョブチェンジを試みました。

デザイナーとして自社のCIを担当していたのもあり、現場で経験を重ねつつ、やがてメーカーのWeb担当にでもなろうと密かに目論んでもいました。

 

その後思いがけず、当時の経営者から事業承継の話があり、在籍していた会社を継ぎました。

しかし、その時のジョブチェンジは重要なきっかけとなったと思います。

 

 

弊社ではスタッフと1対1の面談があります。

そこで、あるスタッフに当時の自分と同様の悩みを打ち明けられました。

 

「仕事に壁を感じている。自分のキャリアパスが描けない。」

そのスタッフも30歳手前、プライベートでは出産を間近に控えています。続けてスタッフは言います。

「今、消耗の方が多いです。」

 

実は仕事には「蓄積できる仕事」と「消耗する仕事」の2種類があります。

蓄積とは、仕事をすればするほど自分の中に価値が貯まることを指します。

例えばスキルであったり、人脈であったり、実績であったりします。

 

逆に消耗とは、仕事をすればするほど自分から失われることを指します。

よく言われるのは、精神的な側面ですが、最も大きな消耗は「時間」です。

仕事が非生産的で、つまらなく、スキルもつかないものであった場合、それらは真の意味で時間の無駄遣いであり「人生の消耗」と言い換えてもいいでしょう。

 

そのスタッフは「人生を消耗している」と感じていました。

もちろん、今の仕事が、単調な作業で「消耗」していると感じていたとしても、効率面など見直すべきところはいずれかにあります。

全てが消耗というわけではありません。

 

しかし、総合的に「蓄積」と「消耗」のバランスは、キャリアパスの上では非常に重要です。

クリエイティブ業界のスキルとキャリアの関係性は強く、業界で生き残り続けるためには、日々の“目に見えない成長”は特に重要なのです。

 

実は、最近お会いしたフリーのデザイナーさんも、この辺りの話をしていました。

デザインをする際にアイデアを“引き出し”という表現をしますが、その方は

「今は自分の引き出し内のクリエイティブしか生み出せていない」

と自身の仕事に疑問を感じていました。

 

結局のところ「フリー」か「会社づとめ」かは関係なく、大切なのは、今使っている時間が、将来にとって消耗なのか蓄積なのかです。

 

「時間」を消耗しないために

時間は全ての人に平等、有限であり消耗品です。

そして、仕事は時として「単なる消耗」につながりやすいです。

例えば

◎誰でも(部下でも)できる仕事をしている

◎関係の薄いプロジェクトの会議に参加しいる

◎毎日遠方から通勤している

といったことです。

 

肝心なのは「時間の使い方」を真剣に吟味することです。

例えば、部下に仕事を振ること、無用な会議には極力参加しないこと、リモートワークを導入すること。

そういったちょっとした工夫で、時間を消耗せずに蓄積することは可能です。

 

こういった些細なことを解消することで、細切れとなっていた時間にまとまりができ、アウトプットの質が向上します。

いわゆるタスクマネジメントに近い考え方でもありますが、時間の消耗を意識することで効率的な仕事ができます。

 

また生活面においても、例えば自炊で倹約している方も多いと思います。

ですが、そのために“時間を消耗していると感じた場合”は、まったくもって意味がありません。

 

自炊の時間を短縮させることで、何かしらのアウトプット、例えばブログの更新をしたり、作品を公開したり。

あるいはインプットとして読書をしたり、ニュースをチェックしたりすることも可能です。

これを自己投資と取るかどうかは各自の判断ですが、生活の中に将来のための隙間時間を作ることは、独立採算的に働く人が増えた今、必要なことではないかと思います。

 

目の前の仕事ばかりしていると、中長期的に必ず仕事は「消耗」一本になりがちです。

逆に、時間を意図的に蓄積に振り分けることができれば、中長期的に必ず展望は開けるものです。

 

「お金」を消耗しないために

時間もそうですが、「飲みニュケーション」などはまた、お金の消耗の典型でもあります。

実際、愚痴が定例化した飲みニュケーションは無駄の極みです。

 

また、趣味に散財することも消耗の一形態です。

もちろん、気晴らしとしての趣味は精神的に良い影響があることは否定しません。

しかし趣味が人生の主人になってしまうと、私生活を破壊する事にもなりかねません。

(もちろん、趣味に生きることを決意している人を否定はしません。私はそうしない、というだけです。)

 

ベストセラー「プロフェッショナル・マネジャー」のハロルド・ジェニーンは趣味について、次のように言っています。

週末には仕事のことはすっかり忘れることにしていた。

といっても、まだやることが残っていれば家へ持って帰り、週末の一部をそれに割くことはあった。

私はゴルフクラブのチャンピオンシップを狙ったことはないし、その他の趣味やスポーツでも真剣な目標を定めたことはなかった。

それらは私にとって、あくまでも緊張をほぐすためのもの──余暇活動と娯楽にすぎなかった。

[amazonjs asin="483345002X" locale="JP" tmpl="Small" title="プロフェッショナルマネジャー"]

しかし、時として趣味への投資が「蓄積」になり得ることもあります。

それは、その趣味が「自分」だけではなく「他人」を楽しませるまでに発展したときです。

 

あるグラフィックのデザイナーの話。

その方は日本酒が好きで、趣味が高じて利き酒の資格を取得しました。

その資格は日本酒の素晴らしさを人に伝えることができる資格です。

 

すると、ここで2つのスキルがシンクロします。

日本酒の素晴らしさを伝えることができる人は、素晴らしさを“デザイン”で伝えることができる、ということ。

実際にこの方は今、本業でグラフィックデザインをしながら、日本酒の素晴らしさを伝えるため、日本酒の海外向けパッケージデザインを行っています。

 

趣味を自分の中だけではなく、外向きにすることで、将来のキャリアに向けた「蓄積」に繋がるのです。

 

「経験とスキル」を蓄積するために、キャリアパスの責任を自分で引き受ける

そして最後に、「経験とスキル」の蓄積についてです。

今している仕事が消耗しているだけなのか、それとも経験として蓄積につながっているのか。

ここのバランスこそがキャリアパスとして大きく左右するわけです。

 

ただし、あまりここの意見が強くなってしまうと「今は同じ作業の繰り返しなんで消耗ですよね。よしっ、転職しよ!」と端的に捉えられがちですが、そうではありません。

“キャリアパスを描く”ということを外部の責任にしてしまうことは非常に危険です。なぜならそれは「依存」と同義だからです。

 

「経験とスキル」を蓄積するためには、キャリアパスの責任を自分で引き受ける事が必要です。

自分がどうしたいか、を明確にする。

そして自分の対応範囲を少しづつ広げ、未開拓分野への活路を見出す。

そこへ挑戦し続けることで、自分なりの知見が手に入る。

 

大まかなキャリアを描けば、あとは途中で軌道修正をしながら、なんとかゴールまで運んでいくものです。

 

人生にはグランドデザインが必要

ただ、そうは言っても、働き方に多様性のある今、仕事としてのキャリアを描こうにも「10年先のことなどわからない」というのがリアルな意見ではないでしょうか。

 

テクノロジーによる変化、たとえばAIやロボットにより、いつ業種そのものがコモディティ化に直面するか予測できません。

だからこそ、自分にしか出来ないもの(情熱を注ぐことができるもの)に目を向け、人生としてのハブを多くつくる必要があるのではないかと思います。

 

もし現在「将来への迷い」があるのなら、今は自分がドラクエで言うところの“ダーマ神殿”にいるかどうかを意識して欲しいと思います。

ひとつの特技を手に入れて一人前になった状態なのかどうか。

今のままでは今後の強敵に対抗していくのは難しい、そう感じたゲームでは、多くの人はもうひとつの特技を手に入れたい、と感じるはずです。

そう思うと、気軽に自分に向き合うことができるのではないでしょうか?

 

 

🕺🏻丸山享伸

Web制作会社(UNIONNETInc.)代表。「はたらくを楽しく」したい“小さな会社の経営者”として本音をつぶやいたり・書いたりしています。

ツイッターでも同じようなことをつぶやいているので、興味のある方は気軽にフォローしてくださいね。

twitter▷ @maruyamana1984

Books&Apps▷ https://blog.tinect.jp/?author=13057

 

(Photo:Thomas Hawk)

物語というのは実に不思議なものだ。

 

それを読んだからといって、現実世界でなにかの役に立つようなものでもない。

人生コスパ論者なら、物語を読むことなど人生の無駄だというかもしれない。

そんなものを読む暇があったら、学問でも収めた方が遥かに為になる、と。

 

まあ一理ある意見ではある。

しかし僕もそうだけど、非常に多くの人間が良き物語を愛しているし、それを好んで摂取している。

 

いったい私達は物語のどこに惹かれるのだろうか。今日はそれについて書いていこうかと思う。

 

全ての神話は同系反復

アメリカ合衆国の神話学者で、ジョーゼフ・キャンベルという方がいる。彼は膨大な数の古今東西の英雄伝や神話を読み解き、全ての物語に一定のルールがあるという事を突き止めることに成功した学者だ。

彼に影響を受けた人間は非常に多く、あのスティーブン・スピルバーグのスターウォーズやロードオブザリングも、キャンベルの神話論を元に作られたと言われている。

<参考文献 神話の力>

[amazonjs asin="4150503680" locale="JP" tmpl="Small" title="神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)"]

 

彼いわく、全ての神話は

(1)主人公は非日常世界への旅に出て

(2)そこである種のイニシエーションを経験し

(3)元の世界に帰還する

という共通の構造を持っているのだという。

つまり「英雄は旅立ち、困難に打ち勝って成長し、生還する」というのである。

 

例えば西遊記なんかだと、三蔵法師が

(1)天竺へ向かい

(2)そこで3人の従者を従えて

(3)最終的には天竺から巻物を獲得して帰還する。

 

桃太郎伝説では

(1)桃太郎が鬼ヶ島に向かい

(2)3人の従者を付き従えて鬼ヶ島の鬼をとっちめて

(3)宝を持って地元に帰還する。

 

あなたの知っている様々な物語を上の型で分析してみて欲しい。たぶん、ほぼ全ての物語が、この構図に収まるはずである。

 

現代最強の神話・ワンピース

恐らく現代日本における最強の神話は、週刊少年ジャンプで絶賛連載中であるワンピースだ。

主人公とその仲間であるルフィー海賊団は 

(1)様々な島にでかけ

(2)そこで強敵とぶつかりあい、成長し

(3)そして船に帰還する

 

という作業を延々と続けている。

ワンピースが連載を開始したのが1997722日だそうだから、なんとこの神話は21年も続いていることになる。

 

累計発行部数は20187月時点で44000万部を突破しているのだという。

日本国民の約4倍もの数のワンピースが刷られているのは、ちょっと尋常ではない。作者である尾田栄一郎氏は、さながら神話をつむぐ大神官といえるだろう。

 

紫式部が源氏物語を書いたり、琵琶法師が平家物語を吟じたり、はたまた深い森の奥で霊媒師が村人に古くからの伝承を伝えたり。

時代がいくら進歩したとしても、人間という生き物は飽きもせず、様々な手法で物語を紡ぎ続けている。

 

こうして、今も昔も私達は物語を愛し続けているのである。ワンピース44000万部は伊達ではない。やはり物語は私達に不可欠な何かを提供していると考えるのが妥当だろう。

では果たして私達は、物語を通じて何を摂取しているのだろうか?

 

私達が物語を愛する理由

僕も昔から今に至るまで、漫画とゲームを通じて物語を大量に消費している。

あなたも多分、小説とか映画のような様々なコンテンツ通じて物語を消費しているだろう。

 

それらを消費するに至った動機は、退屈だったりとか、単純に面白かったりだとか、まあ人によって理由は様々だろうけど、そこからもう少し踏み込んで考えてみよう。

 

なんで私達は、物語の消費をこんなにも愛するのだろうか?

僕が思うに、自分が好む物語というのは、その人にとって好ましい人生の一形態なのである。

 

私達は

(1)様々な現実を通して

(2)困難に直面し、成長し

(3)新しい現実に立ち向かっている

 

このパターンを経ることで、私達は人間性を効率よく成長させる事ができる。

多くの人が神話的な構造を呈した物語を読むのは、この成功パターンの素振り行為に近いものを物語を通してシュミレーションできるからだろう。だから脳がこの作業を非常に好むのだ。

 

積み重ねが人生という物語を厚くする

人には人それぞれの自分クロニクルがある。

僕には僕の人生の記録が、あなたにはあなたの人生の記録が、それぞれある。

 

このクロニクルに何が書き込まれるかは、時代の流れとあなたの自由意思にかかっている。

あなたはあなたの人生のクロニクルに情熱的な恋愛の物語を書き込むこともできるし、酔っ払って二日酔いで朝を迎えるという風に、ちょっとみっともない物語も書き込むこともできる。

 

別に見事な事ばかりするのがよいという訳でもない。

ちょっとマヌケな人物の方が愛嬌があるものである。自分のお馬鹿な所も、また可愛らしいものである。

 

この自由意志に歴史のスパイスが組み合わさり、誰もみたことがないような不思議な味が醸し出される。

時にはナチスにより強制収容所に入れられたヴィクトール・フランクルのように、歴史や国家といった巨大なものに望まぬ物語を与えられる事もあるかもしれないが、それを含めて、その時その時、自分がどういう意思決定を行ったのかを振り返り人生を眺めるのは実に面白い。これぞ老いの醍醐味である。

 

僕もそこそこ年を重ねるようになってきて思うけど、今まで積み重ねてきたものを通じて現在までの自分の人生を振り返るのは、とても楽しい。

若かった頃は老いが怖かったけど、今では歳を重ねるという事はとても贅沢な事だなと思う。

 

もちろん、たまには自分の人生に疲れるときもあるだろう。小説もゲームも、ずっと同じ作品をやり続けるのは結構しんどいように、自分という人生をずっとプレイし続けるのも、たぶんそれはそれで結構しんどい。

そういうときは、他のフィクションに耽溺してみて、あなたの物語からちょっとだけ離れてみても、いいかもしれない。それが助けになる事もあるだろう。

 

続いて小説が人生の救いになった事例をあげてみよう。

 

小説の効用

前に何かの本で村上春樹さんが小説を読む効用について書いていた。

彼いわく、小説を読むという事は

(1)物語を通じて自分の人生から少しだけ浮遊し

(2)読み終わった後で自分の人生に再度着陸しなおす事であり

(3)再度着陸した時の自分は離陸する前の自分とは、ほんの少しだけ違う存在となっている事を感じ取れる行為

なのだという。

 

なかなか素敵な表現である。

初めてその文章を読んだときは、ふーんぐらいしか思わなかったこの表現だけど、その後村上春樹さんの別のエッセイで、彼の小説を通じてカルト宗教から抜け出すことに成功した人の話を読み、僕は小説の力を過小評価していた事を思い知らされた。

 

カルト宗教にハマっていた彼の報告によると、それにどっぷり浸かっていた時、自分でもよくわからないけど、定期的に世界の終わりとハードボイルドワンダーランドを丹念に読んでいたのだそうだ。

結果的にその行為が幸いして、彼は物語を通じて自分の人生を相対的に見通せるようになり

”自分がカルト宗教にハマっている

という事実を認識し、そこから抜け出すことに成功したのだという。

[amazonjs asin="B0049B3OKO" locale="JP" tmpl="Small" title="世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 全2巻 完結セット (新潮文庫)"]

物語の力というのは実に凄い。もちろん、これ以外にも様々な要因が働いたのだとは思うけど、小説がカルト脱却に一役買ったという事も、間違いなく事実だろう。

 

このように、よい物語は人生を相対化させるのだ。

だからあなたも自分の人生に疲れたら、たまには心を落ち着けて、よい物語に身を任せ自分の人生を外側から眺めてみてはいかがだろうか?

 

ひょっとしたら、あなたもカルトにハマっているのかもしれない。

あるいは、思ったよりも恵まれているのかもしれないし、意外と酷い目にあっているのかもしれない。

 

物語を通じて人生を離陸し、また現実に立ち返り己のクロニクルを刻む。

恐らく、良い人生というのはこれの繰り返しにより形成されていくものなのではないかな、と最近は漠然と考えている。

 

せっかく この世に生まれ落ちたのだから、年を重ねた先で、良い味を出せるようになりたいものである。

 

良き物語を通して、ともに良い人生を書き上げていこうではありませんか。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Jason Lander

こんにちは。コワーキングスペース「Basis Point」の運営会社、Ascent Business Consulting代表の北村です。

先日、副業に関して、目を引く調査結果が報道されました。

なんと、4社に3社の企業が、副業を許可しない意向だということです。

副業・兼業、企業の75.8%が許可する予定なし

企業調査で従業員の副業・兼業に対する意向を調べたところ、「許可する予定がない」が圧倒的に多く75.8%。他方、「許可している」は11.2%、「許可を検討している」は8.4%にとどまった。

副業・兼業を許可している理由を聞くと、「従業員の収入増加につながるため」が最も多く53.6%。

反対に許可しない理由としては、「過重労働となり、本業に支障をきたすため」が82.7%で最多となり、次いで「労働時間の管理・把握が困難になる」が45.3%、「職場の他の従業員の業務負担が増大する懸念があるため」が35.2%と続いた。

(マイナビニュース)

公務員ですら、副業が解禁される傾向にある時代に、約4分の3の企業が、副業を許可する予定がない、との結果ですが、私はこの結果を深刻に捉えています。

というのも「副業禁止」は、結果的に日本を貧しくすることにつながっているからです。

 

 

一般的に、国の豊かさの指標の一つとして「GDP」が用いられます。

GDPの側面から見ると、日本は現在、米国、中国に次ぐ世界第三位の経済大国ですが、殆どの方が実感するように、残念ながら日本は停滞しています。

西暦2000年から実質GDPはほとんど成長していません。

 

では、個人の豊かさという視点で見るとどうでしょう。

残念ながら世界における「一人あたりGDP」のランキング推移を見ると、西暦二千年の「世界第二位」をピークに、日本ランクは低下を続け、現在は約二十位。

日本人だけは、世界の反映を享受できず、停滞していた2000年代だった、と読み取れます。

 

ただ、「そんなに生活水準が下がったとは思わない。むしろ生活水準は上がっていると感じる」という人もいます。

日本のGDP成長率が低迷しても「生活レベルが向上した」と感じる理由

長期的にみると日本ではGDP成長率の低迷が続いており、労働賃金の伸びも止まっている状況だ。それにもかかわらず、生活レベルが向上したと感じる人の割合は年々増加傾向にある。

(ITメディアビジネスオンライン)

上のように、シェアリングエコノミーの発達や、「ものを買うこと」に依拠しない豊かさを感じる人が増えている今、「GDPだけで国の豊かさは測れない」という主張も、一理あります。

 

しかし、世界の中で、日本の地位が低下しているのは事実です。

またこれからの日本を待っているのは世界でも類を見ないほど強烈な少子高齢化です。

 

少子高齢化は、労働人口の減少を生み出します。つまり富を生み出す人が減り、なんとか今まで維持してきた「一人あたりのGDP」が大きく減少します。

そうなればおそらく、生活水準の低下は避けられません。

日本は今後、アジアの一小国として細々と生きながらえる、という状況を甘受せねばなりません。

 

そうなった時、我々は今と変わらずにいられるでしょうか?

 

 

もちろん、国も手をこまねいているわけではありません。その打ち手の一つが「働き方改革」です。

厚生労働省のページには、こうあります。

「働き方改革」の目指すもの

我が国は、「少子高齢化に伴う生産年齢人口の減少」「育児や介護との両立など、働く方のニーズの多様化」などの状況に直面しています。

こうした中、投資やイノベーションによる生産性向上とともに、就業機会の拡大や意欲・能力を存分に発揮できる環境を作ることが重要な課題になっています。

「働き方改革」は、この課題の解決のため、働く方の置かれた個々の事情に応じ、多様な働き方を選択できる社会を実現し、働く方一人ひとりがより良い将来の展望を持てるようにすることを目指しています。

人口が減りつつある中、政府が何としても解決したいのは、上にあるように生産性と働く機会の問題です。

つまり労働者一人あたりが生み出す価値を、今よりももっと増やしたり、より多くの人が就業機会を増やしたりすることです。

 

そうすれば、企業の業績もよくなり、労働者の懐も暖かくなる。一人あたりのGDPも上昇する。

政府は、そういう算段で「働き方改革」をもくろんでいるでしょう。

 

事実、雇用規制こそ撤廃されないものの、法改正を通じて残業を減らしたり、副業を推進したり、政府の方向性は明らかです。

要するに政府は「終身雇用はない。滅私奉公もない。多くの会社で多様な働き方をして、多様に稼ぎなさい」と言っているのです。

従業員の「副業」時間、本業と合算不要に 厚労省検討 労働時間規制を見直し

複数の職場で働く人をめぐる就労管理のルールが変わる可能性が出てきた。

厚生労働省は複数の勤務先での労働時間を合算する仕組みの見直しを考える。組織をまたぐ就労管理は実態に合わないだけでなく、従業員の副業を阻む要因になっているためだ

政府はすでに、企業と国が生活の面倒をみるという20世紀型のモデルを捨てつつあります。

 

 

一方、企業側も変化しています。

ここ10年、企業はすっかり従業員の昇給に消極的になりました。

 

なぜなら、相対的に日本企業が世界の中で地位を落としており、その先行きに楽観的ではいられないからです。

時価総額ランキングでは、世界50位以内にはかろうじてトヨタを残すのみで、見る影もありません。

 

この変化は大きく、多くの労働者は一社に滅私奉公しても、大きく給与が伸びるという望みを持てなくなりました。

つまり、

国は「多様に稼いでください」

企業は「長く在籍してるだけでは給料は上がらないよ」

と言っています。

 

この2つの状況からの必然的な帰結は一つ、

「労働者は、自衛のため副業を持って稼がなくてはならない」

です。

実際、副業をしている人の収入は一月あたり5万円〜10万円が中央値で、全体の3割の人がそれ以上を副業で稼いでいます。

出典:https://www.jil.go.jp/institute/research/2009/documents/055.pdf

参考:https://corp.en-japan.com/newsrelease/2018/13507.html

年収500万円の人が、年収620万円になるためには、管理職になるための競争を勝ち抜かなくてはなりませんが、副業であればそういった競争とは無関係に、自分の実力次第で収入を得ることができます。

 

それを禁じるのが、「副業禁止」です。

企業は十分な昇給もせずに、一方的に従業員に対して副業禁止を掲げているのです。

本当は月に少なくとも5万円、10万円を余計に稼げる可能性があるにもかかわらず、一方的に副業を禁じるのは、いささか身勝手と言わざるを得ません。

「副業を禁じるならば、きちんと昇給させるべき」であるのは明らかです。

 

また、会社員も、もし会社が副業を禁止するなら、日本のためにも「では、給料を上げてください」と交渉したほうが良いのは間違いありません。

昔、こんな記事を書きました。

「ほしければ自分で取りなよ」というのが、外資系企業。でも実は世の中も同じ。

上述した外資系のカルチャーですが、世の中もだいたい似たようなものです。

つまり、受け身の人生であれば、欲しいものを得られるチャンスは殆どありません。せいぜい運次第、といったところでしょう。

しかし、「自分はこれがほしい」と決めて、実績を出し、しっかりとアピールすれば、欲しいものが得られる可能性はぐっと上がる。

これが、実は普通の世の中の仕組みではないでしょうか。

私が昔働いていた会社では「給与交渉」は当たり前のようにありました。

同じように「働き方改革」によって、チャンスを自分のものとできるかどうかは、能動的に動けるかどうかにかかっています。

 

がんばりましょう。

なんといっても、会社員一人ひとりが、「給料をあげてください」と会社に交渉していくことが、ひいては給与水準の向上と、副業の解禁を実現し、そして、日本の豊かさを保っていくのですから。

 

 

【お知らせ】

10月1日よりBasis Pointは新料金プランを導入します。

コワーキング業界で初となるサブスクリプション方式も採用。月に1400円で毎日30分、Basis Pointのコワーキングスペースが使い放題となります。

朝の情報収集のひとときに、昼食後の休憩に、就業後の勉強などに

Basis Pointをお役立てください。

新料金プランのページへ

 

◯「自由な働き方を選ぶ人のためのwebマガジン」クールワーカーズ

◯案件を探すならコンサルポータルへ登録


コワーキングスペース「Basis Point」サービスサイト

Ascent Business Consulting 株式会社コーポレートサイト

(Photo:Sean McGrath)

ちょっと、ごくごく私的な話をさせてください。

単なる思い出話の類であって、特に建設的な話には着地しません。

 

40も近くなってくると、昔の知人の訃報を聞くこともぽつぽつと出てきます。

私は学生時代、かなり長いこと名古屋に住んでいたので、名古屋の頃の知人が亡くなった、あるいは少し前に亡くなっていた、という話を聞くことも、時折あります。

といいますか、「便りがないのは良い便り」とはよくいったもので、「ふと聞こえてくる話」というのは大抵訃報です。以前、お世話になっていたバーのマスターの訃報に接したのもそんなパターンでした。

 

それと同じような話で、少し前のことなんですが、「かつてのゲーセン友達」の訃報を聞きました。

聞いたのは全くの別ルートからで、亡くなった人の話を聞いて「あれ、もしかして…」と思い、色々とルートを辿って確認してみたら当人だった、という感じです。

亡くなったこと自体もう数年前のようで、私は随分なタイムラグを経て訃報に接したことになります。

 

 

 

私がその友人と出会ったのは、20年以上前の話。名古屋に住んでいた頃近所にあった、個人経営の小さなゲーセンでのことでした。

私は当時、金があろうがなかろうが、暇さえあればそのゲーセンに通い詰めていました。

お金がない時は他人のプレイをひたすら観察していましたし、お金がある時は財布が空っぽになるまでゲームにつぎ込んでいました。

 

私は、そのゲーセンで19XXに出会いました。ストZEROを遊びましたし、真サムやヴァンパイアセイヴァーやKOFにハマりましたし、体を壊しそうになるくらいダライアス外伝をやり込みました。

一時期は本当に、「そのゲーセンにいる時間の方が家にいる時間よりも長い」という有様でしたし、私の人生の何パーセントかは、確かにそのゲーセンに積もっています。

 

「街のゲーセン」というのは、不思議な空間でした。

置いてあるゲーム、店員や店長のスタンス次第で、その空間はガラッと変わりました。

ひどく柄の悪いゲーセンもあれば、常連グループが出来て内輪で固まっているゲーセンも、個々に一言の会話もないゲーセンもありました。勿論、いつ行っても誰も客がいないゲーセンもありました。

 

私が通い詰めていたゲーセンは、頭に頭髪というものが存在しない壮年のおっちゃんが一人で切り盛りしていました。

彼はボタンの配線を直してくれましたし、駄菓子を売ってくれましたし、ダライアス外伝のスコアをゲーメストに送ってもくれました。

客があまりいない時は、サービススイッチで一人脱衣麻雀を遊んでもいました。

 

おっちゃんは面倒みがいい方で、彼の人徳なのか、そこは比較的治安がいいゲーセンになっていました。

ただ、それでも時には柄の悪い客に怖い思いをさせられることもありました。

 

「街のゲーセン」というのは、不思議な空間でした。

お互い話をしたことがないどころか、うっかりすると顔も知らない相手と、「ハイスコア」を通じてコミュニケーションが成立することがありました。

特にSTGでは、ハイスコアが出た時自分のスコアネームを残す文化が一般的でした。

私と違う時間帯にゲーセンに来ていた人が残したスコア、そのスコアネーム3文字に、主観的に熾烈な戦いを仕掛けていたことがありました。

何度やってもそのスコアを追い抜けないことがありましたし、ひたすらゲームをやり込んだ末、ついに1位を書き換えることが出来て快哉を叫んだこともありました。

勿論、自分が残したスコアが知らない内に抜かれていて、敗北感に苛まれたこともありました。

 

「街のゲーセン」というのは、不思議な空間でした。

対戦格ゲーが普及した以降は、知らない者同士で勝負を争うということが増えました。

結果、ゲームの勝ち負けでトラブルが起きることも増えましたし、変わった経緯で友人が出来ることもありました。

対戦に勝利をした後、対戦相手に絡まれることもありましたし、思いっきり台バンをした相手が店長のおっちゃんによって店の外に連れていかれ、その後二度と見かけなくなったということもありました。

 

その友人を最初に認識したのは、KOF'95の対戦台でのことだったように記憶しています。

純正サイコソルジャーチームを使っていた私に対し、友人は庵・紅丸・チョイボンゲという、コンセプトがよくわからないチームで乱入してきました。

しばらく後にチーム編成の理由を聞いてみると、「語呂がよかったから」という答えが返ってきました。変わったヤツでした。

 

斬紅郎無双剣をプレイしていた時のことだったと思います。

ある時、普段は対戦後、何度も粘って並んでは乱入してきていたその人が、対戦台のこちらに歩いてきたことがありました。

対戦後のトラブルにぽつぽつ接していた私は正直ちょっと緊張しましたが、その人は少しの間をおいてから、意を決したようにこう話しかけてきました。

 

「あの、今の連続技、どうやってやるの?」

 

それから私は、相も変わらず対戦ゲーをやりながら、その友人とぽつぽつ喋るようになりました。

会話はもっぱら格ゲーについてでした。

当時、アーケードゲームについての情報源というものは極めて限られており、ゲーメストかベーマガか、限定されたルートながら、パソコン通信の格闘ゲームについてのBBSくらいでした。

当時草の根ネットに触れていた私の情報は、その友人にとって貴重な情報源だったようでした。

 

ゲーセンでしか知らず、ゲーセンでしか顔を合わさず、ゲーセンでしか会話しない、それだけの関係でした。

街で偶然出会ったとしても会話をしなかったかも知れません。ゲーセンの対戦台だけが、私たちの間の媒介でした。

 

知り合ってから数年が経った頃でした。

私は何かの間違いで大学に受かり、東京に行くことになりました。その友人にも話しました。

東京かー、いいなー、行きたいなーと言われました。

 

その時、ひとかけらの実現性もない約束をしました。

 

「いつか東京のゲーセンで会ったら、また対戦しようか」

という約束です。

 

今から考えると笑ってしまうような話です。当時私は携帯電話ももっておらず、相手の連絡先など知りもしませんでした。

いつか、どこかのゲーセンで、ふらっと向こう側を覗いた時、そこにその友人が座っている。そんな状況が実現する可能性が、一体どれだけあるのでしょう。

 

約束は実現しないまま20年あまりが過ぎ、そして私は、友人の訃報を名古屋から聞きました。

 

つまり私は、友人との約束を実現する機会を、永遠に失いました。

ただでさえゼロに近かった可能性は、完全にゼロになりました。こうして、色んな約束の実現性を失っていくことが、イコール生きるということなのかも知れないなあ、とも思います。

 

***

 

先日、こんな記事を書きました。

格ゲーの話が散らかっている気がしたからちょっと整理したくなった

 

ここで私は、こう書きました。

これについては、「ゲーセンの対戦台は、既に格ゲーのメインシーンとはいえない」ということは指摘しておいてもいいのではないかと思っていまして。

今現在、既に多くの格ゲータイトルが「通信対戦、及びそのインフラ」を整備していまして、対人戦が一番盛り上がっているシーンは多分そちらです。

これ自体は多分事実だと思うのです。今、格ゲー自体は、ゲーセンに行かなくても十分な環境で、快適に対戦することが出来ます。とてもいい時代だと思うのです。

 

ただ、私は、かつての「対戦台とワンセットの格ゲー」というものも、それはそれなりに好きでした。

時には絡まれ、時には台バンされ、けれど時には思いもよらないところで知人が出来た、かつてのゲーセンも好きでした。「ゲームセンター」が好きでした。

 

私は、東京に来てからもしぶとくゲーセンに通い続けていましたし、時折対戦台に座っては、思い出したように対戦台の向こうを覗いていました。

 

とはいえ私一人で落とせるお金などたかが知れており、近所の「街のゲーセン」は一つ消え二つ消え、今では大手系列のゲーセンだけになってしまいました。

私がかつて通い詰めた名古屋のあのゲーセンも、今ではもうありません。今でも頑張っている「街のゲーセン」もきっとあるのだと思いますが、少なくとも私の周辺ではゼロになってしまいました。

 

私にとって、友人の訃報は、私自身のゲーセン通いの日々に対する訃報でもあったように思うのです。

私だけの話ではなく、かつての「街のゲーセン」には、きっと色々な物語が降り積もっていたのでしょう。ゲームプレイヤーごとに物語があったのでしょう。

 

「街のゲーセン」が少しずつ消えつつある中、そんな物語のひとかけらを、どこかに書き残しておきたい。ふとそんな風に思って、こんな思い出話を書き起こした次第です。

 

かつての「ゲームセンター」でこんなことも起きていたんだ、という程度のことを、誰かの心に残しておいていただけるなら、これ以上幸いなことはありません。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:)

コンサルタントだった頃教わったことは数多くあった。

が、結局のところ、些末なことを除いていくと、全ては一つに集約される。

すなわち、

「どうすれば、仕事で成果を出せるか」

である。

 

もちろん成果の定義は局面ごとに異なる。

売上目標の達成、人材の育成、メディアへの露出、顧客リストの獲得、労働時間の短縮、生産ラインの効率化、コストダウン、あるいはリストラ……

あらゆる局面において「クライアントにとっては成果がすべて、成果が出せなければゴミ」ときつく諭されていた。

 

ときに、上司に尋ね回り、セミナーに出席し、様々な本を読み漁った。

「気合と根性」が大事、という人がいた。

「あいさつすれば、全てはうまくいく」というセミナーがあった。

「人の話を聞け」という本があった。

 

しかし、私には全くピンとこなかった。

気合いと根性は、コスパが悪く、再現性が低く、継続性に難があり、とても現場では使えない。

あいさつは大事だが、それだけで成果が出るほど仕事は甘くない。

人の話を聞くことが仕事の成功につながるときもあるが、それだけで成果が出るわけではない。

 

要は、数々の「成功法則」は、キャッチコピー以上のものではなかったのである。

当時の私に必要だったのは、テクニックではなく、どんな仕事にも使える、普遍的な「成果を出す方法論」だった。

 

 

転機は、ピーター・ドラッカーの「経営者の条件」という古典を手にとった時に訪れた。

その出会いは、衝撃というほかない。

私が知りたかったことがすべて、そこにあった。

[amazonjs asin="4478300747" locale="JP" tmpl="Small" title="ドラッカー名著集1 経営者の条件"]

そこには、こう書かれていた。

もし成果をあげる能力が修得できるものであるならば、問題は次のようなものとなる。

すなわち、その能力は何から成り立つか、具体的に何を修得すべきか、修得の方法はいかなるものか、それは知識か、体系的に修得できるものか、あるいは徒弟的に修得すべきものか。基本の繰り返しによってのみ修得できるものか。

ここには私が知りたかったことが書いてある。そう確信した。

 

そして、次に書かれていたのは恐ろしくシンプルなことだった。

私は、成果をあげる人のタイプなどというものは存在しないことにかなり前に気づいた。

私が知っている成果をあげる人は、気質と能力、行動と方法、性格と知識と関心などあらゆることにおいて千差万別だった。

共通点はなすべきことをなす能力だけだった。

よく「リーダーの◯種類のタイプ」のような書籍があるが、この主張はそれらを否定していた。

著者は、その本質を「なすべきことをなす能力」と言っている。

 

なすべきこと……?

どういうことだろうか。

成果をあげる人に共通するものは、つまるところ成果をあげる能力だけである。

企業や政府機関で働いていようと、病院の事務長や大学の学部長であろうとまったく同じである。いかに聡明、勤勉、創造的、博識であろうと、成果をあげる能力に欠けるならば成果をあげることはできない。

言い換えるならば、成果をあげることは一つの習慣である。

成果をあげることは、頭の良さでもなく、勤勉さでもなく、クリエイティビティでもなく、知識でもない。

「習慣的能力」である。

いくら頭が良くても、知識が豊富でも、成果をあげる能力がなくては、宝の持ち腐れ、というのだ。

 

では、その能力とは何か。詳しい説明はぜひ、同書を読んでいただきたい。

が、簡略化すると、それは次の5つである。

 

1)時間を管理すること

2)「仕事をすること」ではなく「成果を出すこと」を重視すること

3)自分、上司、同僚、部下たちの、得意なことから始めること

4)優先順位を厳しく守ること

5)多様な意見をもとに意思決定すること

 

私はいたく感動した。

これほどまでにシンプルで、かつ本質をついた方法論は、私は出会ったことがなかった。

私はその日のうちに、仕事の方法を改めた。

 

大事なことは、スケジュールに先に入れるようになった。

気をつけなくても、些事よりも優先的に実行できるように、自動化したかったからだ。

 

「仕事をこなすこと」が重要にならないように、タスクリストには「期待される成果」も合わせて書いた。

例えば「床を雑巾がけをする」という書き方ではなく、「床をきれいにする」という書き方にした。

レンガを積んでいるのではなく、教会を建てていると認識したほうが、仕事の質が上がるのだ。

 

人の良いところを探し、自分の苦手なことは極力やらないようにした。

こうすると、良いことが2つある。

1.仕事がスタックしなくなった。

2.強みに基づいて人を見るので、多くの人を尊敬できるようになった。

欠かさずあいさつもするようにした。愛想が良い人には皆、協力してくれるのだ。

 

「やりやすい仕事」ではなく「やるべきこと」から始めるようにした。

仕事のやりやすさで、勝手に仕事の優先度を変えないようにした。

仕事の順番は、純粋に重要度にしたがわなくてはならない。

 

どんな人の話でも、良く聞くようにした。

人の能力に関心をもち、人の話を傾聴し、それをメモするようになった。

 

 

もっと言えば、「何が何でも、成果をあげようと思うこと」とは、結局、自分のプライドとの戦いだ。

 

なんの成果も出せない時には、仕事が憂鬱になることもしばしばあり、人は後ろ向きになる。

私はそんな時、自分のプライドを維持するために、

「マネジャーが自由にやらせてくれないから」と言い訳した。

「お客さんが宿題をやらないから」と責任転嫁した。

「評価が不公平だから」と会社の評価制度の不満を述べた。

 

でも、それは間違っているばかりか、損をするだけである。

プロフェッショナルの態度ではない。

 

例えば、以下に3人の対照的な学生の話がある。

「成果を追い求めること」がどのようなことなのか、ここにははっきりと書かれている。

ここに、知識も能力もほぼ同等の三人の大学生がいて、三人ともビジネス・スクールを出て、企業のエグゼクティブになりたいと志望していると仮定しよう。

 

第一の大学生キャルは、平均Bの成績をとれるだろうと目算を立てていた。というのは、それまでずっとそうしてこられたからだ。彼は講義に皆出席し、宿題をサボることもなく、やるべきことは何でもちゃんとやった。

ところがある年、期末試験の前に流感にかかり、平均点がCプラスに落ちてしまった。

だが、それはぼくのせいじゃない、と彼は言う。なあに、来年Aをとれば、均らしてBにすることができるさ、と。

しかし、またなにか別の故障が起こる。ある問題の解釈を間違えて、Cの評点をもらってしまう。そのほかにも、彼のまじめな意図の裏をかくようなことがあれこれと起こる。

結局、彼は平均Bマイナスの成績で卒業し、Bマイナス級のビジネス・スクールに入れたら幸運としなくてはならなくなるだろう。

 

二人目のエグゼクティブ志望者アルは、一二のトップクラスのビジネス・スクールの中のどれかに入りたいと思い、それには平均Aか、きわめてそれに近い成績をとらなくてはならない。

なにかの学科で初めてBをとってしまうと、彼は夜の勉強時間をそれまでの一~二時間から三~四時間に延長する。しかし、第二、第三学年でも、ほかの科目は全部Aだが、ひとつの科目だけはBから這い上がることができない。

そして口惜しくは思うが、それについてそれ以上何をやったらいいのかわからない。

それで、毎年三つか四つのAにBが一つなら、まあまあじゃないかと自分を慰める。最終学年の成績はAが二つ、Bが一つ、そして思いもかけなかったCが一つあった。

彼は一二のビジネス・スクールへ入学願書を出し、ただ幸運を祈った。

彼がトップクラスのビジネス・スクールの中のどれかに入れるかどうかは、もはや自分の力だけではどうにもならない。ほかの志願者の成績との優劣関係にかかっていた。

 

三人目の学生は、自分が入りたいのはスタンフォードかハーヴァードかのビジネス・スクールで、それ以外は願い下げだと心に決め、それにはオールAの成績をとることが必須条件だった。

彼はハルという名前だった──なぜか私の耳に快く響く名前だが──と仮定しよう。

ハルは何がなんでもオールAをとらなくてはならないと思い定めていた。

いつでも自信をもって試験にのぞめるように、毎夜三~五時間勉強した。

しかし、オールAの成績を保って迎えた最終学年に、彼はひとつの科目──高等会計学──で初めてつまずいた。第一学期にはBをとるのがようやくだった。

そこでいっそう勉強にはげんだ。しかし、学年の中ごろになっても、その科目では依然としてBマイナスのあたりでもがいていた。

──どうしたらいいのだろう?彼はその学科に関して、読むように決められた以外の本も読んでみた。それでもやはりその学科をマスターできなかった。

助けてもらえないかと教授に頼むと、同情はするが時間がないと断られた。

──どうすればいいのか?友人のキャルとアルは、彼の悩みに取り合おうとしなかった。

──四年間にBが一つだなんて、悩むほうがどうかしているよ。しかし、ハルの決心は動かなかった。どうしても高等会計学にAをとるんだ!

彼はプライドを捻じ伏せて、家庭教師をしてくれる大学院生を見つける。そして深夜まで勉強する。物事をとことんまで考えつめる習慣をつけ、はげみにはげむ。

そしてもちろんAの成績をとり、望みのビジネス・スクールに入る。(中略)

 

やがてビジネスの世界に入ったキャルとアルとハルは、それぞれのタイプの先輩たちがすでに歩んだコースをたどるだろう。

キャルは大した業績を挙げずにのんびりやっていき、アルは想像力に乏しいが良心的にこつこつ働き、そしてハルはITTのような会社で高みをきわめるだろう。

[amazonjs asin="483345002X" locale="JP" tmpl="Small" title="プロフェッショナルマネジャー"]

成果をあげることは「知っている」と「できる」が乖離している。

知っていても、実践できなければ意味がないし、能力を身に着けたければ、プライドをかなぐり捨てて、自分でやってみるしかない。

 

最後に、ドラッカーはこう言っている。

成果をあげる道は、尊敬すべき上司、成功している上司を真似することではない。

たとえ私の本であっても、それに載っているプログラムに従うことではない。

肝心なのは、試行錯誤しながら、自分のなりの「成果のあげ方」を見つけることなのだろう。

 

 

【お知らせ】

自社のオウンドメディアの運用を検討、もしくは今後オウンドメディアの改善を検討中のwebマーケティング担当者および企業幹部、
企業経営者さま対象にセミナーを実施しております。

——————————————————————————

「SEOだけに頼らないファンを作るオウンドメディアの運用方法」

1.webでバズる2つの要素
・メディア力
・記事力

2.バズるメディアを作るには
・よくあるオウンドメディア3つの過ち
・オウンドメディアによるブランディングとは
・オウンドメディアを運営するために欠かせない3つのポイント

3.Books&Appsのオウンドメディア支援だからできること

——————————————————————————

場所:東京都渋谷区2-21-1渋谷ヒカリエ11FカンファレンスルームA

日時:11月16日金曜日 15時00分~16時30分

定員:20名

参加ご希望の方は、下のPeatixサイトよりお申し込みください。

https://tinect1116.peatix.com/(閲覧パスワード 1116)

 

 

◯TwitterアカウントBooks&Apps(最近改めて、Twitterはいい。)

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="B075CJBSXT" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

(Photo:alan feebery

つけっぱなしにしていたテレビのなかで、オリンピックボランティアが無償であることの是非について、数人が意見を述べていた。情報バラエティー番組、『スッキリ』だ。

 

そこでMCの加藤浩次さんは

「募集まだかけていない時点で『この契約の条項がおかしい』『お金くれ』って、『じゃあお前やんな』」

と言い、最後に「外野がウダウダ言ってんじゃねぇ」と締めた(そのときはまだ募集開始前)。

 

それを聞いたわたしは、「ああ、こういうの、以前にも聞いたことがあるな」と思った。

いつだったかと一瞬考えて、ナイティナインの岡村隆史さんが、「(テレビが)嫌なら見なきゃいい」と発言したことを思い出す。

 

こういう『文句を言うヤツを締め出せばいい理論』はたびたび見かけるのだけど、「こういう考えがパワハラにつながるんだろうなぁ」としみじみ思う。

 

文句を言うヤツは締め出せば解決?

この『文句を言うヤツを締め出せばいい理論』でわかりやすいのが、「イヤなら辞めろ」という言葉だ。

部活の顧問や会社の上司に意見をしたところ、「イヤなら辞めろ」と言われてまともに取り合ってもらえなかった……なんて経験をした人も多いだろう。

 

同じ思考回路で、意見が異なる人を排除したがる人は多い。

「残酷なゲームは子どもに悪影響があるのでは?」という危惧に対して、「イヤならやらせなきゃいい」。

「コンビニで子どもの目に触れる場所に卑猥な雑誌が置いてあるのはどうなの?」という疑問に対しても、「イヤなら行かなきゃいい」。

 

いつでもどこでも、問題提起に対して『文句を言うヤツを締め出せばいい理論』を振りかざす人がいる。

オリンピックボランティアに関してはIOCのジョン・コーツ副会長も「やりたくなければ申し込まなければいい」と発言しているから、こういった発言は別に、日本に限ったことではないだろう。

 

しかしそれでも、集団の一体感を重視する日本では、「自分とちがう意見のヤツは締め出してもいい」という考えが強い気がしてしまう。

 

この一言は、歩み寄りも対話もすべて拒否して「自分は変わるつもりは一切ないから俺理論に迎合しないなら出ていけ」と最後通牒を一方的に叩きつけるものだ。

このような対話を拒否する理論がまかりとおるなら、パワハラが起こるのも当然の結果に思える。

 

異分子を排除する集団的心理

女性初の文化勲章受章者となった社会人類学者の中根千枝さんは、著書でこのように書いている。

エモーショナルな全面的な個々人の集団参加を基盤として強調され、また強要される集団の一体感というものは、それ自体閉ざされた世界を形成し、強い孤立性を結果するものである。

ここに必然的に、家風とか社風とかいうものが醸成される。そして、これはまた、集団結束、一体感をもり立てる旗印となって協調され、いっそう集団化が促進される。(……)

「ウチ」「ヨソ」の意識が強く、この感覚が先鋭化してくると、まるで「ウチ」の者以外は人間ではなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラストが、同じ社会にみられるようになる。

[amazonjs asin="4061155059" locale="JP" tmpl="Small" title="タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)"]

かんたんに言えば、「日本の集団は感情的な結びつきが強く一体感が生まれるが、一方で閉鎖的世界になる。

その結果、自分たちの世界の外にいるヨソ者にはとても冷たい態度をとる」ということだ。

 

このような集団社会で生きているわたしたちは、意識しているかどうかに関わらず、「集団の結びつきを壊す危険がある『異分子』を排除してもいい!」と思ってしまうのかもしれない。

 

そしてそれは集団を守る正当な行為だから、異分子追放に罪悪感はない。むしろ使命感をもっていたり、一種の正義感をもっていることもあるだろう。

「無理が通れば道理引っ込む」という言葉のとおりだ。

感情で結びついた一体感のある集団内では、無理を言いやすい。そこで邪魔になる道理は、「文句があるなら出ていけ」と引っ込ませればいいわけである。

 

感情で結びつく集団に身を置く日本人にとってその一言は、とてもキツイ脅しになる。だから多くの人は、おとなしく従うわけだ。

しかも日本はタテの人間関係のつながりが強いから、ウエの人がそう言えば、シタの人は譲らざるを得ない。

 

『文句を言うヤツを締め出せばいい』理論はこうやって、パワハラにつながっていく。

 

パワハラと衰退につながる異分子の排除

最近、立て続けにスポーツ界でのパワハラ告発があった。背景にはさまざまな事情があるのだろうが、この『文句を言うヤツを締め出せばいい』理論もまた、その要因になりえるだろう。

 

これは、仕事場でのパワハラでも同じだ。パワハラとはつまり、権力をタテに自分の主張を押し付けて相手に苦痛を与えることだ。言い換えれば、「この俺に従わなければヒドイ目に遭わせるぞ」という脅しである。

それは、「俺に文句があるヤツは許さない」思考に通ずるものがある。

 

反対する異分子などは拒絶してしまえばいい。そうすれば自分も集団も「このまま」でいられる。なにも変わらなくていい。楽で平和で、一番確実な解決法だ。

 

では、『文句を言うヤツを締め出せばいい理論』がまかり通るとどうなるか。

それは、集団の衰退だと思う。

 

都合の悪いことをすべて締め出せば、「ウミを出す」という自浄作用が期待できず、状況は改善されない。問題はいずれ後戻りできないレベルになり、集団は崩壊していく。

 

たとえば地方おこし協力隊の失敗談として、現住人がそもそも協力隊の人を受け入れる気がなくなにを提案しても無駄、わずらわしそうにするだけ、結果雑用をやらされるだけだった……というものがある。

 

そういった自治体は異分子を拒否し続け、なにも変わらず、なにも進歩せず、いずれ消えていくのだろう。

それは、異分子を受け入れず自浄作用も期待できない集団の末路といえるのではないだろうか。

 

異分子を受け入れる集団は強くなる

異分子を受け入れる度量のないコミュニティは、いずれ衰退する。変わらないし、変わろうとしないからだ。

時と場合によっては、集団のために異分子を追い出さなきゃいけないこともあるかもしれない。異分子をどう受け入れるかも、むずかしい問題だろう。

 

しかし「自分とちがうから黙れ」がまかりとおってはいけないし、それが許されるのはつまり、パワハラの温床になりうるということなんじゃないかと思う。

 

安易に「文句を言うヤツは出ていけ」と言わずに、「なぜ文句があるんだ。どうしてほしいんだ」とちょっと身を乗り出してちがう意見にも興味をもつ人が多ければ、その集団はもっと発展していくだろう。

そしてそういった環境や姿勢こそ、今後大切になっていくはずだ。『集団の多様性』というかたちとして。

 

 

【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:istolethetv)

つい先日、ブロガーのしんざきさんが子どもの感性と性的コンテンツについて、以下のような文章をbooks&appsに寄稿してらっしゃいました。

趣旨は、以下のセンテンスでおおよそ掴めていただけるでしょう。

子どもの感性は、「性的なコンテンツ」一つで悪影響を受ける程脆弱なんだろうか

ですが、子どもの感性というものは大人が通常考えている以上に柔軟で、色んなものを取り込んで自分なりの感覚というものを醸成していくんだろうなあ、という認識が私の中にはあります。

だから、自分がどんなに言葉を尽くしても、それが子どもに及ぼせる影響というのはほんの一部分だろうな、と思っています。

それは同時に、変なコンテンツ、変な情報があったとしても、それもやっぱり、子どもにはごく限定された影響しか及ぼせないだろう、ということでもあります。子どもの防御力は、そんなに低くない。

だから私は、子どもが触れるコンテンツについて、あまり心配もしていないし、大した制限もしていません。

なんならひょっこり性的なニュアンスが含まれているコンテンツにたまたま触れたとしても、長い目で見ればそれが問題になるようなことは殆どないだろう、と思っています。

ここに書いてあることについて、私もだいたい同感です。

子どもは、真っ白なナプキンのような存在ではありません。

子どもには自分自身の情報取捨選択能力があり、飛び込んでくる情報のうち、何が穏当で、何が不穏当なのかを判断しているようにみえます。

 

たとえば我が家の子どもは、たまたまインターネット上でエロチックなイラストに出会ったり、暴力が振るわれている動画に遭遇したりすると、「きわどいもの」「暴力的なもの」をすぐに判断し、それを踏まえて受け取っているように見受けられます。

 

では、子どもがどのような根拠のもとに「きわどい」「暴力的」と判断しているのでしょうか。

 

第一には、常日頃の親の価値観を参照して、それを判断の礎としているのでしょう。

核家族化の進んだ現代社会では、子どもの価値観や判断基準のアーキタイプ(元型)としての親の割合は大きくなりがちです。

かつては、家父長的な存在だった父親こそが「超自我」の源泉だと言われたものですが、最近はそうとも限らないので、「両親が子どもの価値観や判断基準の礎になっている」と考えてだいたい合っているでしょう。

 

とはいえ、両親が全てというわけでもありません。

人間の発達段階プロセスについて議論したE.エリクソンという学者さんは、子どもが成長とともに人間関係を拡げていくさまを以下のようなかたちで表しました。

この図のとおり、乳児にとって重要な人間関係は母親に限られますが、幼児期には家族や保育士も含まれ、小学校にもなれば人間関係はますます広がります。

 

人間関係が広がるということは、情報源や影響源もそれだけ広がって、親からの情報や影響が相対化されるということでもあります。

現代では、書籍やテレビやインターネットからの影響もあるでしょう。

 

親が生きた時代と、子どもが生きていく時代は、同じではありません。

時代が変わればメディアも変わり、価値観も変わっていきます。

 

である以上、親の価値観に子どもを嵌め込み、情報源や影響源を絞り込むような子育てには相応のリスクがあります。

子どもは長期間にわたって狭い範囲からしか情報選択できなくなってしまい、その狭小な情報源にもとづいた価値観と、硬直した判断力を身に付けることになりかねません。

 

親の価値観のとおりではないものも含めた、幅広い情報源に子どもが接触することを許容したうえで、子ども自身の価値観をビルドアップしてもらうような子育てを志向したほうが間違いが少ないのではないかと、私自身は考えています。

世の中にいろいろな情報や人やコンテンツがあり、時代とともに移ろっていくからこそ、子どもには取捨選択のノウハウを積み重ねてもらいたいですから。

 

「当たり前に目に触れるもの」のほうが抵抗しにくい

しかし、親の価値観に子どもを嵌め込みたくないからこそ、子どもがどのようなコンテンツに日常的に触れて、どのような情報源を当たり前のものとして摂取するのか、私は気にせずにはいられません。

 

ここでひとつ、極端な例を考えてみてください。

たとえば家庭の日常にエロマンガが存在していて、子ども自身もエロマンガをしばしば読んでいて、学校でもエロマンガについての情報交換が当たり前のように行われていたら、その子どもの価値観は、エロマンガから何らかの影響を受けることでしょう。

 

男の子は、エロマンガに登場する男性のような振る舞いに違和感をおぼえなくなり、女の子も、エロマンガに登場する女性のような振る舞いに違和感をおぼえなくなると思われます。

家庭内でも家庭外でもエロマンガが「当たり前に目に触れるもの」として存在している社会では、子どもはその当たり前をごく自然にインストールし、文化的な影響を受けずにはいられません。

 

次に、実例を考えてみてください。

たとえば家庭の日常にテレビゲームがあって、子ども自身もテレビゲームを遊んでいて、学校でもテレビゲームについての情報交換が当たり前のように行われていたら、その子どもの価値観は、テレビゲームから文化的影響を受けることでしょう。

 

いまどきは、Eテレの番組でもテレビゲームのコンセプトが登場します。

レベルアップとか、アイテム素材集めとか、ヒットポイントとか、そういったたぐいのものです。ゆえに、テレビゲーム的な価値観や考え方は、きわめて自然に子ども達に(いや、私達に!)浸透しています。

 

三番目に、ちょっと曖昧な例について考えてみてください。

たとえば家庭の日常に”媚びたポーズをとった男の子や女の子がたくさん出てくるコンテンツ”があって、子ども自身もそのようなコンテンツに親しんでいて、学校でもそのようなコンテンツについての情報交換が当たり前のように行われていたら、その子どもの価値観は、そのようなコンテンツから、強い……とまではいかなくても何らかの影響を受けるのではないでしょうか。

 

さらに、そういったキャラクターのイラストが公共交通機関に描かれていたり、官公庁のポスターを飾っていたりしたら……子どもの価値観は、いよいよもってそういったコンテンツに近しいものになるのではないでしょうか。

子どもは、みんなが「きわどい」「暴力的」と思っているものに対してはそれほど脆弱ではありません。

かなり小さい頃から、子どもは社会的な文脈と照らし合わせてモノを判断する知恵をつけはじめています。

 

ところが「当たり前に目に触れるもの」に対して、子どもの防御力はそれほど期待できません。

みんなが当たり前だと思っているものを撥ねのけて、自分だけの意見を持ち続けるだけの意志力を、大半の子どもは持っていないでしょう。

 

というより、自分のタイムラインの「当たり前に目に触れるもの」にすっかり感化されてしまっているtwitterユーザ達が証明しているとおり、大人でさえ、「当たり前に目に触れるもの」にはなかなか抵抗できず、感化されてしまうのです。

 

そういう意味では、「18禁コーナー」にゾーニングされている過激なエロ漫画よりも、「当たり前に目に触れるもの」として世間に溢れている諸々のコンテンツのほうが、子ども全般に対する影響という点では重要でしょう。

関連して、ゾーニングやレーティングを議論しなければならないのも理解できることです。

 

彼らに賛同はできないが、危機感は理解できる

最近のtwitterでは、秩序の番兵のような人々がアニメイラストなコンテンツに異議申し立てをして、炎上する案件が立て続けに起こりました。

 

もし、私達の社会のなかで「当たり前に目に触れるもの」が変わり続けているとしたら。

それが社会にとって、あるいは子ども達にとって似つかわしくない方向に変わり続けていているとしたら。

 

まあ、この話の行きつく先は「何が社会にとって望ましくて」「何が社会にとって望ましくないのか」という価値判断の世界に辿り着いてしまうので、私個人は彼らの異議申し立てに賛同できませんでした。

 

が、彼らが何を問題視していて、何を怖がっているのかは、なんとなくわかる気がします。

彼らにしてみれば、ゾーニングされたエロマンガよりも、街に溢れる”萌え絵”のほうがよほど抵抗しがたく、怖いものでしょうから。

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="4781616380" locale="JP" tmpl="Small" title="「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 

(Photo:Daniel Mennerich)

ブラック・ジャック創作秘話という漫画がある。

[amazonjs asin="B00M1B5LP0" locale="JP" tmpl="Small" title="ブラック・ジャック創作秘話 手塚治虫の仕事場から コミック 1-5巻セット (少年チャンピオン・コミックス・エクストラ)"]

この漫画は手塚治虫さんの仕事にかける情熱を、当時彼と一緒に仕事をしていた人達と共に振り返るというもので、とても面白い作品だ。

漫画という仕事に驚異的な熱意をかける手塚治虫さんの生き方に、読んだら心を揺さぶられる事間違いなしである。

 

漫画の神様、手塚治虫。彼の作品に影響を受けた人は非常に多いし、僕も間違いなくその影響を受けたうちの1人である。

火の鳥や仏陀、アドルフに告ぐなんかは何回読んでもあまりの面白さに圧倒されるし、マイナーな作品ですら「こ、こんな面白い漫画、どうやったら書けるんだ・・・」という驚異的なクオリティーのものが多く、60歳という比較的短い生涯にもかかわらず、非常に膨大な作品を残したことでも知られている。

 

まさに仕事に生き、仕事に死んだ人といえるだろう。

僕は手塚治虫さんの作品がもの凄く好きだし、手塚治虫さんの生き方にはある種の憧れがある。

 

ただ、そういった感動フィルターを外して彼の生き方をみると、一つのとても難しい問題に突き当たる。超人の行いには、問題が多すぎるのだ。

 

超人のやった事だからといって、何でも許されていいのだろうか

ブラック・ジャック創作秘話に書かれたエピソードを、手塚治虫ではなくどこぞの中小企業のオジサンがやった事として読むと、ハッキリ言ってあれはパワハラ以外のなにものでもない。

異常な長時間労働。厳しすぎる指導。そして本人から喜怒哀楽と共に繰り出される様々なプレッシャー。

 

手塚治虫さんの築き上げた偉大な業績があれば美談として語られるこれらの事を、美談として成立させているのは、手塚治虫さんの残した作品があまりにもハイレベルであり、その業績をみんなが評価しているからである。

 

実際問題、僕もブラック・ジャック創作秘話を読んで、手塚治虫さんの行いに物凄く感動してしまう。

何度読んでも、深い慟哭を感じるし、あそこまで情熱的に物事に取り組めるという事には憧れしか感じない。

 

その上で、だ。じゃああの行いを、完全に果たして肯定していいものなのかと言われると、素直に頷き難いものがあるのもまた事実である。

手塚治虫さんのハチャメチャな働かせ方は、一歩間違えたら社員が電通の事件のような顛末に至ったとしても何の不思議でもないだろう。

 

超人は自分にも他人にも要求レベルが高すぎる問題

似たような話は、様々な分野でも目にする。

例えば神の手を持つ脳外科医として知られる福島孝徳さん。

僕がちょうど医学生をやっていた頃、彼は非常にマスメディアで取り上げられる事が多く、手術中の様子がたびたびテレビで放映されていた。

 

とにかくハチャメチャに自分にストイックで、異常なまでの情熱を仕事に傾けるその姿に、憧れた人は多いだろう。実は僕もそのうちの1人だ。

しかし数年間たってから、その当時放映されていたTV番組の内容を思い出すと、そこにはハワハラとしていいようがない描写が非常に多く映し出されていたのも、また事実である。

 

福島孝徳さんの要求に従えなかった助手に対して、手術中ずーっと患者の命をたてに叱責する様はどう考えても異常な光景だったし、その他にも間違った道具を渡されたら、助手に怒鳴り声をあげて地面に渡された道具を投げつけるなど、いくら患者の命がかかってるとはいえやりすぎ感は否めない。

 

ちょっと冷静に考えると間違いなくヤバイとしかいいようがない内容のオンパレードを、よくもまあゴールデンタイムにお茶の間で普通に放映していたものである。時代が時代だから、許されたというのはあるだろう。

 

まあ実際の手術現場では、よくある普通の事ではあるのだが・・・

 

卓越した偉業を成し遂げた人だからと言って、パワハラが美談になっても良いのだろうか

この問題が難しいのは、手塚治虫さんにしろ、福島孝徳さんにしろ、彼らの作り上げた偉大な業績により、救われた人も物凄く多いというところにある。

 

手塚治虫さんの漫画で人生が大きく影響を受けた人、福島孝徳さんに手術をしてもらったから救われたという人。

これらの良い影響を受けた人達は、間違いなく手放しに彼らの事を絶賛するだろう。つまり、彼らの行いは、ある面では圧倒的にポジティブな効用を生んでいるのである。

 

けど、そのポジティブな効用の裏で、パワハラに泣かされた人の数もかなりのものだろう。

実際、あの手の天才は多くの場合において、家庭は完全に破綻しているケースも多い。

 

圧倒的な情熱と優れた才能、たゆまぬ努力により超人となった事の引き換えに、彼等はある意味では狂人となってしまったのかもしれない。

何かを手に入れるため何かを手放すじゃないけれど、人から超人になるという事は狂いという、ある種の副作用があるのだろう。

 

唯一無二は強い

この問題の難しいポイントは、超人の生み出した成果物は他に替えがきかないというところに集約されるだろう。

手塚治虫さんにしろ、福島孝徳さんにしろ、恐らくだけど空前絶後の存在である。替えがきかない、唯一無二の存在だからこそ、私達は超人の成果物をありがたく受け取ってしまう。

 

つまり、代用できるような中途半端な個人のパワハラは罰されても、替えがきかない圧倒的に卓越した個人のパフォーマンスに対しては、ある程度のパワハラは美談として成立してしまうのである。

唯一無二は強いのだ。

 

超人の生み出す業績が圧倒的である以上、私達消費者が超人を利用しないというのは難しい。

それに超人を安易に「パワハラだ」と批判して、超人の生産性を受け取れなくなるのは損以外のなにものでもない。

 

じゃあ私達は黙ってこの問題を見過ごすしかないのだろうか?実はこの問題を改善する為のキーワードは鮨屋にある。

 

職人ではなく、商売人になると人は丸くなる

つい先日、とある鮨屋での事だ。

そこの大将と、昨今の鮨ブームについての話で盛り上がった際、前から抱いていたある疑問をぶつけてみた。

 

「昔って、なんか鮨屋って凄く怖いところだったじゃないですか。なんかビクビクしながらお鮨を食べさせてもらうって感じの所というか」

「けど最近は、なんかそういう話を全く聞かなくなったんですよね。一体、何がおきたんでしょうか」

 

大将は少し考え込んだ後にこう答えた。

「昔の人は鮨職人だったけど、今の人達は鮨でビジネスをやってる。彼等にとって、鮨は道ではなく、金儲けとか承認欲求の獲得方法の一環なんだろう。」

「職人は頑固じゃないと務まらないけど、ビジネスマンは頑固だとむしろ務まらない。たぶんだけど、そういう事なんじゃないだろうか」

 

僕はこれを聞いて、物凄く納得した。なるほど、芸ではなく商売になると、人は頑固を放棄せざるをえないのである。

ただこれは、あくまで商売人と顧客の関係だからこそ、問題が改善しているというだけの話である。

当然、寿司職人となる修行の一環の中では、多くの厳しい試練が新参者を待ち受けているだろう。

 

それを改善するためにはどうすればいいだろうか?僕が思うに、そこにも何らかの方法でビジネスのような仕組みを組み込めばいいのである。

 

恐らく、これは不可能ではない。

ファンが作家や芸能人を育てあげるのと同様、新参者が先輩に何らかの報酬を与えられるような構図さえ導入できれば、そこには自然とビジネスの空気が流れ込む。

 

考えてみると、そもそも仕事の習得というのは物凄く偏った行いだ。

先輩は仕事を教えるが、新参者はそれについて「ありがとうございます」という感謝の言葉ぐらいしか支払えるものがない。

 

このような相互の関係が対等とはいい難い状態は、ビジネスとはとてもいい難い。

鮨を食べて「ありがとう」でお勘定を支払われたら、寿司職人は間違いなく怒るだろう。そういう事だ。

 

だから何とかして、仕事の習得という風習にビジネスの原理を組み込めないかなーと考えているのだけど、問題はどうやったらいいかの糸口がちょっと考えつかないというところにある。

結構長い期間、この問題を考えているのだけど、未だにいいアイデアが全く思いつかない。

というわけでみなさん、なんかいいアイディアありませんかね。たぶん鍵は閉鎖環境の取りやめと、マネーのようなものの導入にあるとは思うのだけど。

 

仕事から芸を取り除き、商売の原理を全てに取り込めたとき、私達は卓越した業績を何の損失もなく受け取れるようになるのかもしれないと思うと、この問題の解決策を考えるのは結構大切だと思うんですよね。

 

やっぱり、みんなにやさしい社会がいいじゃないですか。

これがうまく行けば、弱者でも生きやすい社会の実現にも一役買えると思いますし。

 

ビジネスの仕組みは社会をもっと良くできる可能性がある。

こう考えると、市場原理って本当に偉大だなぁと、改めてその凄さに感服させられます。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Simone

最近、『ディズニー、NASAが認めた 遊ぶ鉄工所』(山本昌作著/ダイヤモンド社)という本を読んだのです。

[amazonjs asin="4478103712" locale="JP" tmpl="Small" title="ディズニー、NASAが認めた 遊ぶ鉄工所"]

HILLTOP株式会社(以下、ヒルトップ)は、1961年創業の「山本精工所」を前身としています。

もともと、自動車メーカーの孫請けだった油まみれの鉄工所が、著者たちの試行錯誤のすえに、「多品種単品のアルミ加工メーカー」になったのです。

 

この本の最初に載っている本社工場のカラー写真をみて、僕は驚きました。

えっ、これ、本当に「鉄工所」なの?

明るい色調の機能的できれいなオフィスに、ピンクや紫、オレンジの柱にピカピカの床のゆったりとした清潔な工場。

この本では、どのようにして、ヒルトップは変わっていったのか、そして、何を目指しているのかが熱く語られています。

 

日本は、人口が減っていく時代を迎えており、高度成長期のような大量生産のニーズは少なくなっています。

そこで、ヒルトップでは、大量生産品(量産部品)の扱いをやめ、単品ものに特化したのです。

精密機械、医療機器、航空機部品、自転車部品、マイクスタンドなど、アルミ加工製品なら、どんなものでも単品、少量で加工しています。

 

現状は、製作数1~2個の多品種単品が受注全体の8割、月に3000種類をオーダーメイドでつくっているそうです。

それで商売になるのか?と思うのですが、ヒルトップでは、徹底的な生産プロセスの合理化を行って、収益をあげられるシステムをつくっています。

普通の鉄工所の場合、就業時間の8割が機械の前、2割がデスク仕事ですが、ヒルトップではこの割合を逆にしました。昼間は、デスクで人がプログラムをつくる。人が帰った夜中に、機械に働いてもらいます。

これが、私たちが「ヒルトップ・システム」と呼ぶ生産管理システムです。

ヒルトップでは、ひとりの職人の勘に頼るのではなく、技術をデータベース化して、誰でも工作機械を使えるような「システムの構築」で仕事を極限まで効率化しているのです。

 

もちろん、ここに至るまでには紆余曲折があって、最初に自動車メーカーの孫請けをやめたときには、「それで会社を続けていけるのか?」という不安や周囲の反発もあったそうです。

いままでどおりにやっていけば、とりあえず、しばらくは安泰なのに、と。

 

そこで、儲かりそうもないような「多品種単品生産」に目を向けたことが、ヒルトップの成功につながりました。

他のメーカーが「そんな小さな仕事は、いちいちやっていられない」と思うようなところに、ヒルトップは可能性を見出したのです。

商売上の魅力というよりは、「ずっと同じものを作り続けるのは面白くないから、新しいものにチャレンジしていきたい」という思いがあったそうです。

 

この会社のすごいところは、目先の利益よりも、新しいこと、面白そうなことをやっていきながら、それを結果的に仕事にもつなげていることなのです。

この本を読んでいると、「これからの製造業」というものについて、すごく考えさせられます。

町工場に、完成品(見本となる製品)を見せ、「この製品と同じものをつくってほしいのですが、できますか?」と訊くと、たいていは「できる」と前向きな返事が返ってきます。

しかし、「では、お願いします」と完成品だけを置いていこうとすると、途端に顔色が曇る。「いやいや、これを置いていかれても困ります。図面をください」と。

町工場の多くは、図面があるものはつくれるけれど、図面がないものはつくれないので、完成品よりも図面をほしがります。

しかし、ヒルトップは違います。

図面も完成品も、どちらもいりません。

「こんな感じのものがつくりたい」「こんなことを考えている」「もっと、こうなってほしい」というイメージだけで十分です。

ヒルトップは、依頼されたものだけでなく、みずからが知恵を出しながら、新しいものを創造する。我々が目指しているのは、「サポーティング・インダストリー」であり、自立した会社として、脱下請・脱価格競争を推進することです。

製造業の最終目的は「ものをつくること」ではありません。

これからの製造業は「製造サービス業」でないと生き残れません。なぜなら、「ものづくりをしない製造業」が生まれる可能性があるからです。

ヒルトップでは、お客様の困りごとを解決するため、オーダーメイドの商品開発を展開しています。

上流(ヒアリング・構想デザイン)から、下流(稼働・アフターケア)まで全工程にわたってすべて対応する、極めてめずらしい鉄工所なのです。

「ものづくりをしない製造業」って、ものすごく矛盾している言葉のような気がするのですが、これを読んで、僕はこのエントリを思い出したのです。

今の時代、「ふわっとした仕事を具体的なタスクに落とし込むスキル」だけで十分食えると思う(Books&Apps 2018/7/6)

 

「設計図通りにものを作る」仕事であれば、これからは、ロボットやAIのほうが、人間よりずっと「良い仕事」をするはずです。

ロボットやAIは、夜中ずっと働いていても、文句ひとつ言わないし。

 

そんななかで、人間がロボットに勝てるのは、あるいは、製造業どうしで他社と差別化できる、という分野は、こういう「漠然としたイメージを形にする仕事」ではないかと思うのです。

こういう仕事って、よほど大きな規模の注文でなければ、「まずはデザイナーや設計士に依頼して設計図をつくってから来て」って、ほとんどの製造メーカーでは門前払いされるでしょう。

「設計図ができてからがうちの仕事だよ」って。

 

だからこそ、ヒルトップに「やりたいことがあるのだけれど、どうしていいのかわからない」という人や会社から、仕事が集まってくるのです。

 

これからの製造業で生き残る道は、誰かの「こんな感じのものがつくりたい」を簡単かつ的確に実現することにあるのではないでしょうか。

 

僕はこれを読んで、すごく「腑に落ちた」気がしました。

ああ、こういうことをずっと前からやっていた人が、スティーブ・ジョブズだったんだな、って。

 

 

【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

(Photo:Asian Development Bank

「子どもに対する信頼感」みたいなものについて、時々考えます。

 

勿論のこと、前提として、子どもは100人いれば100人違います。

全ての子どもを一括して語るのは不可能なことであって、そこにはどうしても「人それぞれ」という言葉がつきまといます。それは仕方がないことです。

 

ただ、それを承知の上で言ってしまえば、私は割と「子ども」という存在を、子どもの感性というものを信頼しています。

それはどんな信頼かというと、

「子どもにはちゃんと判断力がある」

「子どもは自分の感性を自分で育てることが出来る」

「だから、余程極端な環境にいない限り、変な情報や妙なコンテンツ一つでおかしなことにはならない」

という信頼です。

 

つまり、テレビやら雑誌やらで多少偏った情報に触れたとしても、即それ一色になったりはしないで、ちゃんと色んな情報に触れて自分で疑問を持つことが出来るだろう、とか。

 

例えば漫画やらラノベやらのコンテンツで、多少性的な情報に触れたりしても、即性的な感性が歪んだりはしないだろう、それだけで変な影響を受けたりはしないだろう、とか。

 

勿論、私自身親として、子どもと色んなことを話し合って、自分なりの倫理観、自分なりの判断基準、自分なりの人生観というものを伝えていこうと思ってはいますし、実際そうしています。

 

ですが、子どもの感性というものは大人が通常考えている以上に柔軟で、色んなものを取り込んで自分なりの感覚というものを醸成していくんだろうなあ、という認識が私の中にはあります。

だから、自分がどんなに言葉を尽くしても、それが子どもに及ぼせる影響というのはほんの一部分だろうな、と思っています。

 

それは同時に、変なコンテンツ、変な情報があったとしても、それもやっぱり、子どもにはごく限定された影響しか及ぼせないだろう、ということでもあります。子どもの防御力は、そんなに低くない。

 

だから私は、子どもが触れるコンテンツについて、あまり心配もしていないし、大した制限もしていません。

なんならひょっこり性的なニュアンスが含まれているコンテンツにたまたま触れたとしても、長い目で見ればそれが問題になるようなことは殆どないだろう、と思っています。

 

随所随所で、それは間違っていると思う、それは正しいと思う、という自分の考え方を伝えてはいますが、それも含めて全部、総合的には子どもが自分で判断して、必要と思うものを自分の中に取り込んでいくだろう、と思っています。

私が持っている「子どもに対する信頼感」というものは、そういうものです。

 

私は、こういうこと全部を、自分自身の経験から「そんなもんじゃないかなあ」と思っています。

そして、今までのところは、自分の子ども達もそれを裏付けるような成長をしてくれているように思います。

彼らは、親が見ているところでも親が見ていないところでも色んなコンテンツに触れて、けれど一つのコンテンツ一色になったりはせずに、色んなものを咀嚼し、消化し、吸収して、自分自身の感性を養っているように見えます。

 

ただ、世間にはどうも、「子どもを性的なコンテンツに触れさせると大変なことになる」と思っている人が、かなりの数いるように思うんですよ。

 

 

こんな記事を読みました。

絵本・児童書の“萌え絵”論争——「子どもに悪影響」の声に、児童文学評論家が反論

このような現象に対し、「絵本や児童書にはふさわしくないように思う」「男性向けアニメにも似た絵を子どもに見せるのはいかがなものか」と抵抗を示す大人がいる。

確かにいるよなー、と。

 

ここしばらく、性的なニュアンスが含まれるコンテンツについての議論があちこちで巻き起こっていました。

私は、「そのコンテンツは本当に性的なのか」とか、「それが性的なコンテンツだったとして性差別になるのか」といった議論にはあまり立ち入る気がありません。

 

ただ、「そういった性的なコンテンツが子どもに対して悪影響を及ぼす」という形で、子どもがダシに使われ始めると、ちょっと首を傾げたくなります。

 

子どもに無理やり18禁のエロ本を読ませるという話ならまだしも、「それは性的なのかどうか」という議論が起きるレベルのコンテンツに子どもが触れることで、子どもが一体どんな悪影響を受けるのかな、と。

この人たちは、子どもに一対どんな「悪影響」が出ることを想定しているのかな、と。性的なニュアンスがあるコンテンツに触れると、子どもが性差別を始めたり子どもがセクハラをするようになる、とでも思っているのかな、と。

 

こういうコンテンツにあまり触れないで育ってきた世代には、性的な悪影響は本当に出ていないのかな、と。

戦後、性的なコンテンツが滅法排斥されていた時期に子どもだった人たちが、性差別やセクハラから無縁に育ったのかな、と。

 

これ、例えば性教育を制限しようとするような向きに対しても感じることがあります。

「寝た子を起こす」だとかなんとか、あれも随分理不尽な話なんですが、子どもに対して性的潔白を求める向き、子どもに対して性的な情報を一切遮断したがる向きのようなものが、世の中随分多いように思うんですよ。

 

性的な情報をまるで「ケガレ」のように扱っている、ということもさることながら、その「ケガレ」が子どもに触れると、即子どもがケガレに侵食されて、性的な情報の虜になってしまうような。

子どもから性的な情報を遮断したがっている人たちって、根本的には子どもが「悪いコンテンツ」に「染まってしまう」ことを極端に恐れているように思われるんですね。

 

それは同時に、「自分が悪いと思うコンテンツを子どもに触れさせなければ、子どもは自分たちが思うように成長してくれるだろう」と思っている、ということでもあります。

 

要は、子どもの感性に対して信頼感を持っている人間として、子どもの感性をまるで信頼していないように思える文言に対して、どうにも気持ち悪い感触を受けてしまうのです。

 

邪推してしまえば「自分の主張を通す為に単に子どもをダシにしているだけ」という人も中にはいるのかも知れません。

日本では今まで、「子どもへの悪影響」とか「差別」をネタにして大騒ぎしたら自然と自主規制が勝ち取れる、というちょっとアレな文化というか風習がありましたので、過去の成功体験から、単に自分が気に入らないコンテンツを規制させる為に、取りあえず「子どもへの悪影響」を脊髄反射的に持ち出す人がいたとしても不思議ではありません。

 

ただ、勿論本当に「子どもの成長」「子どもの感性」に対する悪影響を心配している人もたくさんいるだろうなと思っておりまして、そういう人たちは何でそこまで「子どもの感性」を信頼していないのかなー、と、私には単純に不思議なんです。

 

自分たちはどうでしたか?

コンテンツの断片、例えば本の表紙絵一つで人生変わりましたか?

感性歪みましたか?

 

勿論、最初に書いた通り、子どもは100人いれば100人違います。

中には、実際に、本の表紙絵一つで悪影響を受けて、感性が歪んでしまったという人もいるのかも知れません。その可能性自体を否定はしません。

 

ただ、私にはどうも、それをファールライン決めの根拠とする程には、子どもの感性は脆弱ではないように思えるんですよ。

我々は、子どもの判断力、子どもの倫理観をもうちょっと信頼していいし、大人が子供の成長をコントロール出来る、大人が思う通りに子どもが成長してくれると思ったら大間違いだ、ということを認めてもいいんじゃないかと思うんですよ。

 

子どもの防御力は、そこまで低くないんじゃないか、と。

子どもを舐めんなよ、と。

 

今まさに子どもを育てている親として、私はそんな風に感じている訳です。

 

勿論これは、「子どもが触れるコンテンツに、親は一切口出しをしなくてもいい」という話ではありません。

自分が違和感を感じるコンテンツ、明らかに偏っていると思える情報に子どもが触れているのを見れば、私はその違和感について子どもに伝えるし、「それは間違っていると思う」と言うでしょう。

今までもそうしてきたし、これからもそうするでしょう。

 

けれど、割と根本的なところで、子どもは大人が思っているよりも柔軟だし、大人の目が届かないところで多少変なものに触れても、それで心配する程の「悪影響」を受けることはないんじゃないかな、と。

もうちょっと子どもを信頼してもいいんじゃないかな、と。

そんな風に考えているのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:awee_19)

突然だが、たまにニュースになる、会社のお金を横領する社員の話をしたい。

 

ギャンブルにのめり込み、あるいはホステスやホストに入れあげて借金を重ね返済に困り、最後には目の前のお金に手を付けるというパターンが目立つようだ。

このようなニュースを聞いて、まず誰が「一番悪い」とお考えになるだろうか。

 

私はこのような場合、誤解を恐れずに言うと、「盗られた会社が一番悪い」と思っている。

すなわち経営者が圧倒的に一番悪いということだ。

 

そして場合によっては、盗んだ社員はむしろ被害者であるとすら思える。

なぜか。

 

一つには、社員が一人で現金を扱い、なおかつその現金を抜いたことが発覚するまで相当期間が空くという仕組みは、何らかの理由があり、社員のワンオペが当たり前の環境になっているからだ。

責任を任せることと、責任を丸投げにすることの意味は全く違う。仕事は、任せ方によってはただの責任放棄になる。

 

とはいえ世の中には、顧客から直接現金を受け取り、なおかつ正確な売上を把握しにくい商売も存在する。

例えば路線バスの運転手を例に挙げたい。

今でこそ交通系ICカードの使用が当たり前になったので事情は様変わりしたが、かつては運賃を運賃箱に投入させず、直接受け取って小銭を稼ぐ手口で横領をする運転手のニュースが後を断たなかった。

 

なおかつ乗客も心得たもので、直接支払うから負けてくれという交渉をするものまで現れる始末であり、なおかつこの手口は実乗客数が必ずしも把握できない以上、少額であれば発覚しにくい。

このような職業やポジションの存在を理由に、現金収受に管理者を置くことが難しいことの言い訳にする経営者も、一部会見などでは散見してきた。

 

しかし言うまでもなく、そのような言い訳は説得力を持たない。

なぜなら、経営側としてはコストを度外視できるのであれば、横領を絶対に防止する仕組みの構築など容易だからだ。

 

例えば昭和の時代、田舎では、バスの現金収受は女性車掌の定番の仕事だった。

それを運転手に、運転と現金収受の管理まで任せたワンオペの結果として、横領を「やろうと思えばできる」環境にした結果、横領が発生したのであれば、悪いのは明らかに経営者側ということになるだろう。

 

さらに言えば、監視カメラや乗客の乗降を管理できるセンサーでも取り付けるような設備投資をすれば、絶対に横領できない仕組みを作るのはそれほど難しいことではないはずだ。

結局のところ、経営者が考える「現実的なリスク」分析の結果、そのリスクに多額の設備投資を行って対策をするべきか否か。

 

しないと決めた結果として横領が発生したのであれば、言い訳のしようがない。

もし、経営者にとって横領とは織り込むべきリスクであり、織り込んでいなかった結果として会社が傾くような金を抜かれたのであれば、悪いのは間違いなく経営者ということになる。

そして、盗もうと思えば盗める環境で働かされた社員は、そんな経営者の被害者に過ぎない。

 

人は絶対に、自分の非を認めない

万人に理解されるとは思えないが、こんな刺激的なことをいうのには理由がある。

それは、人は容易には、自分の非を認めることができない、という現実だ。

私が今まで読んだ中で、自分の行動パターンすら変えてくれるほど大きな刺激を受けた本の一つに、Dカーネギーの「人を動かす」という1冊がある。

[amazonjs asin="4422100513" locale="JP" tmpl="Small" title="人を動かす 新装版"]

全ての自己啓発本の原点、とも言われることがある名著だが、この本のどのエッセンスが突き刺さるのかは、その人の立場により大きく異なるであろうことも、また魅力の一つだ。

 

そして私はいきなりの冒頭、第1章の第1節、「盗人にも五分の理を認める」がもっとも突き刺さる内容だった。

要旨、人は絶対に自分が悪いと認めることなどない。

どれだけの極悪人で死刑囚であっても、自分が悪いことをしたので死刑になって当然だ、とは考えていないというものだ。

 

実際に、死刑を待つ囚人にインタビューをしても、自分がなぜそのような罪を犯すに至ったのか、という理由を、理路整然と話す。

そして、それは避けることができなかった選択肢であり、時に、自分はそのような社会の犠牲者であると「義憤」を語りだすものもいるという。

 

死刑判決を受けるような囚人にしてもこのように、自分の人生における考え方や選択は正しかったと信じているということだ。

であれば、まじめに考え、まじめに仕事をしていると自分を評価している一般人が、素直に「私が悪かったです」などと思うものだろうか。

上司から仕事上のミスを叱責されても、素直に反省したフリをしながら

「お前の指示が悪いんだろ」

「製品に競争力がないからだ」

「体調が悪かったのに、何も聞いてくれないなんて、なんて酷い上司だ」

というように思っているはずだ。

 

部下が最初から失敗してやろうと考え、あるいは会社や上司を困らせてやろうと思い故意に失敗したのであれば、叱責はまだ当を得た非難になるかもしれない。

しかしそんな社員はまずいないし、いたとすればそれはもはや叱責とは別の処方箋が必要な問題である。

 

いずれにせよ、仕事に失敗した部下のパフォーマンスを挙げる目的で失敗を叱責する行為は、ほとんどの場合で意味をなさない。

人を動かすには、単純な叱責などまるで効果がないことを、管理職にある者や会社経営者は強く自覚するべきということだ。

 

実際に会社のお金に手を付けた社員の話

話を最初に戻したい。横領は、「盗られた会社が一番悪い」という話だ。

私がCFOをしていたある会社では、営業社員の一部が直接、顧客から現金を回収せざるを得ない仕組みになっている現場があった。

例えば駅前にある銀行ATMのようなもので、物理的に人の手を使って現金の出し入れをする必要がある構造の現場である。

 

もちろんこのような業務を運営する会社では、その取り扱う金額の大きさによって担当社員を3人にするか、場合によってはガードマンを雇って厳重に警備し、このような業務を遂行させているだろう。

しかしその会社では、1ヶ月で200万円ほどの集金が必要なある現場を、若手の社員1人に任せていた。

そして取り決めとして、集金当日に必ず会社に戻るというルールを義務付けてはいたが、正直ただそれだけだ。200万円の現金を持ったまま逃げることなど、その気になればいつでもできる。

 

そして実際にその事件が起きてしまう。

ある現金回収予定日に、何時になっても社員が会社に戻らない。上司が心配し電話をすると、

「明日朝一番で、必ず持っていきます。今日は直帰させて下さい。」

と答えたそうだ。しかし翌朝、彼は現れない。

上司が電話をすると、

「体調不良です、今日は休ませて下さい。」

と答える。

 

普通に考えてクロである上に、しかもこのような精神状態にある社員は突発的に何をするかわからない。私はすぐに社員の自宅に向かうよう上司に指示をしたが、残念ながら彼が住むマンションは既に誰もいないという。

居留守かも知れないが、いずれにせよこの後、彼は電話にも出なくなってしまった。

 

結局彼はその後1週間ほど逃げ回ったが、いろいろな手段を使った家族が本人を確保し、会社に連れてくることに成功した。

そして、まずは平謝りで謝罪をするが、現金は全て使い切っているという。そして使い切るまでのストーリーを、以下のように語った。

・前月の集金日に回収した全額を、どこかで落としたこと

・会社に迷惑をかけられないので、サラ金で借金して会社に納めたこと

・お金を落として困っていたのに、誰も相談できる上司がいなくて辛かったこと

・サラ金の返済に困り、さらに借金を重ねて全額競馬につぎ込んで大穴を当て返済しようと、努力したこと

・それも全て負けてしまったので、もはやこれまでと思い逃げたこと

などだ。

 

そして、こんな大金を落とすようなリスクをケアしていない会社にも責任がある。サラ金で借金をしてまで会社にお金を入れるほど、自分には誠意があった。

という趣旨の自己弁護を始め、だから警察には言わないで欲しい、と迫った。

なお、お金を落としたことを警察に届けたのかと聞いても、大事にできなかったと考え届けていないという。

 

完全に破綻しているストーリーだが、もはや彼は、自分のプライドを維持することで精一杯だ。

それほどまでに、人が自分の自尊心を守ろうという行為の優先順位は高く、手段など選ばないということであるが、それが余計に彼を惨めにさせる。

結局この一件では、彼の両親が横領した売上の全額を弁済したこともあり、刑事事件化することはなかった。さらに彼には、自己都合での退職を認めて、穏便に会社を去ることも認めることになった。

 

しかし彼は、どこまで行っても自分が悪いことをしたなどと考えることはないだろう。

ただ、両親に迷惑をかけたことくらいは認める理性が残っていれば、あるいは二度と、同じ間違いを犯すことはないと期待したい。

 

経営者は、リスクさえ折り込めばそれで良いのか

この一連の騒動で感じたことは、やはり会社のお金を横領させるような原因を根本的に作ったのは会社であり、一番悪いのは会社だというものだ。

なぜなら、極論すればこの売上金の回収金額が1億円であれば、若手社員1人になど絶対に任せることはないからだ。

 

つまりこの仕事を何の工夫もなく1人の社員に任せた経営者側は、潜在意識では、200万円なら盗まれてもいいだろうと消極的な容認をしていたことになる。

そのリスクマネジメントの結果として発生した横領なのだから、どう考えても経営者が悪いということだ。

 

そして、会社のリスク管理の論理のために、いつでもお金を盗める環境に晒された社員はある意味で気の毒だ。

 

私が証券マンであった時にも何度か経験したが、世の中には、お金というだけでおかしな興奮をする性質を生まれ持った人が、一定数存在する。

一般の感性を持った人であれば、少なくとも私はそうだが、自分のものではないお金などただの紙であり、特別に感情が動くことなど無い。

 

お金持ちの顧客から100万円の札束を10本、1000万円を現金で渡されたら、「振り込めよ、面倒くせえなあ・・・」と思うだけだ。

しかしなぜか、世の中にはその目の前に積まれた現金を見て興奮し、それをチャンスだと捉える、おかしな回路が繋がる者がいる。そういった性質を持つ人に現金を扱わせては、絶対にならない。

これは会社のリスク管理のロジックとは別に、無駄な犯罪者を生み出さないためにも、会社が注意をしてあげなくてはならない義務と言っても良いだろう。

 

たくさんの社員を雇用している会社であれば、会社側の論理だけでリスク管理を考えるのではダメだということだ。

どれだけ道を間違っても、社員が横領などを絶対にすることができない仕組みを作ってあげることも、実は大事な「福利厚生」の一部であり、経営者の重要な仕事の一つと捉えて欲しい。

そう言った意味で、もし会社で横領などの事件が起きたならば、一番悪いのは経営者だ、という話であった。

 

なお念の為だが、一番悪いのは経営者であっても、横領をした社員が悪くないわけではもちろんない。

特に業務上任された金品をネコババする業務上横領罪の場合、法定刑は10年以下の懲役だ。それに対し、単純にお金を盗む窃盗罪は、10年以下の懲役または50万円以下の罰金となる。

 

業務上横領罪には罰金刑がなく、単純にモノを盗むよりも重い処罰が課されるというわけだが、それもそうだろう。

人や会社からの信頼を裏切り、その金品を着服するという行為は、ただの盗みよりも悪質であるということだ。

お金に困ることがあれば、横領などという割の悪い行為に走るのではなく、上司や経営者に相談をする方が得策だと考えて、合理的に行動して欲しい。

 

 

【著者】

氏名:桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。

中堅メーカーなどでCFOを歴任し、独立。会社経営時々フリーライター。

複数のペンネームでメディアに寄稿し、経営者層を中心に10数万人の読者を持つ。

(Photo:Will Keightley

この世には、ごくまれに信じられないほどキラキラした瞬間ってやつが訪れる。

それは予想だにしない瞬間にやってきて、いつまでも眠る前に思い出すような、そんな煌びやかな輝きを残像のように残す。

そう、まるで奇跡だ。

 

もしかして僕はそのキラキラした瞬間を見たくてこのつまらない日々を生きているのかもしれない。

それくらいそのトキは鮮烈で輝かしく、いつまでも脳裏に焼き付く。そして、明日を生きる糧となるのだ。

 

新宿駅東南口の改札を出て長いエスカレーターを下ると目の前にパチンコ屋がある。

その裏手に回るようにして路地に入ってくると、とあるビルが右手に見える。

敷地面積は狭いが、それを補うように上へと延びる細いビルだ。そこはアイドルのDVDを賑やかにモニターで流していて、ガヤガヤした音楽を流している。看板などを見ると一見して怪しい店だとわかる佇まい。

 

店の中を少し覗くとすぐに分かるようになっている。エロいDVDとか売ってる店だ。

地獄へとつながっているんじゃないかと思うほどか細く先の暗い通路の両脇には、ギッシリとエロいDVDが控えていて、ハリーポッターが杖を選んだ場所みたいになっている。

 

2011年秋。僕はその怪しい店の前に立っていた。

エロいDVDはもっぱらレンタル派であり、買うなんてめっそうもない、そう信じて疑わなかった僕は、この手の販売店など眼中になかった。

いつも何も気にすることなく店の前を通り過ぎていた。エロいDVDは一期一会という信義に反するからだ。しかし、この日は違った。先を急ぐ足が止まったのだ。

 

「本日、“成瀬心美”握手会! DVD2枚購入で参加できます」

そのような手書きのPOPが祭囃子のように店頭を彩っていたのだ。

 

「成瀬心美かあ」

成瀬心美さんはこの後にかなりメジャーなAV女優へと上り詰め、知名度を上げることになるが、当時はまだ駆け出しで、そこまでではなかった。

どこかのサイトで見た成瀬心美さんはとてもかわいく、一瞬で気に入った。

 

その気持ちを抱いて発掘する気持ちである日、こう呟いたことがある。

「最近は成瀬心美とかいいね」

別になんてことはない、ただお気に入りのAV女優を呟く。ちょっと評論家気取り。それだけだった。

 

けれども、どうやら駆け出しだった成瀬心美さんは自分の名前でエゴサーチをしていたらしく、すぐに返信をくれた。

これは現在27万のフォロワー数(2018年10月現在)を誇る成瀬さんからしたら考えられないことだ。

興奮した。最高にうれしかった。エキサイトした。まさか画面の向こうにいるあのAV女優が反応してくれると思わなかった。

僕の小汚い匂いたつようなツイートを読み、返信ボタンを押して文字を打ち込み、送信したのである。

これはとんでもないことだ。時代は変わったのである。そう思った。

 

思えば、色々なAV女優が僕の中を駆け抜けていった。

伊藤真紀に三田友穂、氷高小夜に長瀬愛、川島和津美、つぼみ、彼女たちは夜空に浮かぶ星座のごとくキラキラしていた。

そう、彼女たちは星座だったのだ。綺麗だねと眺めることはできたけど、いくら手を伸ばしてもそれは届かなかった。彼女たちはずっと夜空に浮かんでいた。

 

星座に届いた。

その思いは鮮烈なものだった。

星座とはある羊飼いが夜空を眺めながら「あれはてんびんに見えるからてんびん座だ」と考えたことから始まっている。つまり実際には存在しないものなのだ。

きらめく彼女たちも星座のようで、本当はこの世に存在しないんじゃないだろうか、そう考えていたのだ。

 

けれども、彼女は違った。ツイートを読み、反応してくれた。

それは構ってもらえたという喜びよりも、ああ、彼女は存在したんだ、という思いが強かったように思う。

 

「DVD2枚で握手会か」

もう一度POPを見て、さらに財布の中身を見る。DVDを購入したことがないのでどれほどの値段かいまいち分からないが、たぶんギリギリなのだろう。下手したら足りないことすらありえる。

けれども、それでも行くしかない。もはやそれは心の中で義務に変わりつつあった。

 

入店すると、本当にそこはエロいDVDの森みたいになっていた。

迷えるアリスのように暗い暗い通路の奥へと入っていくと、まるで作業小屋のような板で仕切られた小さな部屋があった。どうやらレジのようだ。

板の中央が開かれており、そこで商品とお金のやり取りをするようになっている。販売商品からの配慮だろうか、客も店員もお互いにはっきりと顔が見えないような造りになっている。

 

レジの前には、成瀬心美の出演作品が所狭しと並んでいた。完全に成瀬心美フェアだ。

この陳列棚にあるものが対象商品で、ここから2本選んで買えば握手会に参加できるのである。わかりやすい。僕はじっくりと吟味した。

 

あいにく、「対象商品2本なんだろう、だったら適当でいいよ」とヘラヘラと手前の作品2つを手に取るような訓練は受けていない。そんなぬるい戦場を潜り抜けてきたわけではない。選ぶとなったら真剣だ。

パッケージの裏の写真、煽り文句、あらゆる面を吟味して2本を選ぶ。返却してしまえばいいレンタルと違い、購入するものだ。パッケージを握る手に汗がにじんだ。

 

吟味に吟味に重ね、2本を選びレジに差し出す。お金はギリギリ足りた。

なぜか店員さんはこういった店に珍しく女性だった。か細い手に、麗しい声、顔は見えないがサラサラと少し茶色がかったロングヘアがのぞく。

 

よし、これでDVDを買ったぞ、これで成瀬心美に会うことができる。

本当に成瀬心美は実在するのか。本当に彼女は、星座はこのように実在するのか、強く下唇を噛み締めた。それは決意だったのかもしれない。あるいは現実という巨大な対象への畏怖だったのかもしれない。

 

「おつかれさまー」

先ほどレジをしてくれた女性店員がヒョコっとレジのスペースから飛び出してきた。

成瀬心美だった。

存在していた。

 

あまりの展開にあっけにとられていると、彼女はレジ前にあったエレベーターに乗って握手会の会場である6階だか7階に行ってしまった。現場に残された本来の店員2名がレジに入りながらこんな会話をしていた。

「すげーかわいかったな」

「いい匂いがした」

確かにいい匂いがしたが、なんでレジに成瀬心美がいたのだろうか。

 

よくよく店内のキャンペーン案内を見てみると、どうやら買ったDVDの枚数によってサービスが変わるシステムだったようだ。その関連のサービスのようだ。

DVDを2枚買うと握手会に参加できて、写真撮影もできるらしい。

買う枚数が上がるとツーショットで撮影できたり、コスプレで撮影できたり、どんどんランクアップしていく。

けっこう刻みが細かい。正確には覚えていないが10枚だとか常軌を逸した枚数を購入すると成瀬心美店員がレジをしてくれると、という濃厚サービスだったようだ。

 

本当に常軌を逸した枚数を購入した人が、次々と成瀬心美さんにレジをしてもらうという時間だったようなのだけど、それが終わった後のエアポケットのような時間に僕がやってきて、2枚だけ購入していったようだった。

2枚しか買っていないのに、常軌を逸した枚数を買った人のサービスを受けてしまったのだ。

 

それが面白くなかったのは常軌を逸した枚数を買った人だった。エレベーター前でまごまごする僕にすぐにクレームがついた。

「てめー殺すぞ、こちとら常軌を逸した枚数を買ってるんだ」

そんなニュアンスのことを言われたと思う。

めっちゃ怒ってた。

 

右手を見ると、常軌を逸した枚数が入った袋が強く握られていた。

怒るのも無理がないと思った。そう、ここは戦場なのだ。

悪気はなかったといえ、2枚のDVDを買っただけで殺されかねない。そんなピリピリした戦場なのだ。

こうでなくちゃならない。心拍数の上昇にワクワクする自分がいた。

 

それにしても、あまり盛り上がってないように見えた。

あの成瀬心美である。駆け出しとはいえ、十分にメジャーな成瀬心美である。その実物が来ているのだ。

 

もうちょっとファンが押しかけ、この狭い店舗の中で蟲毒みたいな状態になっていると予想したが、人がいなかった。フロアには常軌を逸した枚数を手にした数人の猛者がいるだけだった。

「最近はかなり成瀬心美、キているはずなのに、あまりファンは多くないのかな」

失礼にもそう思ってしまった。

 

けれども、それは大きな間違いだったのである。

「そろそろ握手会に移ります。会場は最上階です。階段で移動してください」

その声を受けてカラクリ屋敷みたいになっている通路を抜けて階段まで行くと、とんでもないことになっていた。

 

おそらく6階だか7階だったと思うが、最上階からずっと行列が1階まで伸びているのである。ファンが少ないのかな? なんてとんでもない。かなりの数のファンが列をなし、成瀬心美を見にきているのである。

列は最上階から1階まで伸び、さらに売り場のほうまで侵食していた。僕はその最後尾にちょこんと並んだ。

最上階の構造がどうなっているのかわからないが、階段だけでも200人くらいは並んでいるんじゃないか。そう思ったのだ。

 

この店のシステムはなかなか興味深いものだった。おそらく最上階まで隙間なく詰まってる階段からは誰も降りてこない。

最上階の会場で握手や撮影を終えた客たちは、そのままエレベーターで1階まで帰ってくるシステムだった。なるほど、合理的にできている。

 

なんとか列に並ぶが、列が動かない。

まあ、僕は微々たるものだと見くびっていたのだ。だいたい握手会という名称なのだから、握手なんて10秒もあれば終わる。階段に200人、最上階の会場に100人いたとしても300人。ざっと3000秒だ。

50分程度で成瀬心美に到達するだろうと思っていた。実際には常軌を逸した枚数を購入してツーショット撮影とかする客もいるだろうからもうちょっと長いと思うが、それでも1時間ちょっとくらいだろう。そう思っていた。

 

けれども、僕は後に知ることになる。これが深くて重い沼の始まり、ほんの入口に過ぎなかったのだ。

まずおかしかったのが、エレベーターから降りてくる客が極端に少ないという点だ。

握手を終えた客がエレベーターで荷下ろしされてくるので、かなりのピストン輸送でやってくると思ったが、ぽつりぽつりとしか降りてこない。

そして、列が全然進まない。これから6階か7階か最上階までみっちり階段に人が並んでいるというに、まだその階段にすら到達していないのだ。

人が降りてこない。そして列が進まない。最上階でとんでもないことが起こっている。その考えが浮かんでいた。

 

3時間くらい経過しただろうか、牛歩のように進んだ行列は、やっと2階と3階の踊り場みたいな場所に到達した。

もういまさら離脱することなんてできない。3時間が無になる。でも先は長そう。これはもう沼である。発狂しそうだった。右手に抱えた買ったばかりの成瀬心美のDVDに汗がにじんだ。

 

おかしいことに気づいた。もう握手会に参加できる権利であるDVDの販売は終わっているはずなのに、次々と僕の後ろにも行列が形成されているのである。絶えることなく列が追加されていくのである。

 

この謎はすぐに解けた。どうやら握手を終えてエレベーターで出荷された客が、そのまままた列に並んでいるのである。

「いやあ、よかったな」

「最高ですな」

「今日は何周いっちゃう?」

「4周の予定」

後ろのほうの青年二人がそんな会話をしていた。

どうやら、並んで握手をし、それからまた並んで握手をするという無限ループに近い行為が一般的に行われているようだ。

周回数でのマウンティングも随所で見られた。

4周するなら2枚×4で8枚のDVDである。もはや常軌を逸した枚数である。

 

それからさらに1時間くらい経過しただろうか。僕は気が狂いかけていた。列が進まなくなったのだ。

3階と4階の踊り場に立たされていたが、一向に進まなくなった。

 

階段や踊り場にはエロいDVDの販促ポスターがサブカル色の強いライブハウスみたいな感じで無造作に貼られているが、ちょうど僕の前に貼られていたのが「喪服の未亡人」で、喪服の未亡人がめちゃくちゃにされるというDVDのポスターだった。

あまりにもそこでずっと止まっているものだから、ポスターに書かれている文言を一字一句違わず暗記してしまったほどだった。葬儀が終わった直後なのに濡れてるじゃねえか奥さん、とか書いてあった。

 

もうどれだけ時間が経過したのかもわからない。ヘロヘロになりながら最上階の会場に到着すると、そこもまた列の太さが倍くらいになった行列があった。完全に心を折りにきている。

最上階はイベントスペースみたいになっている広い空間で、一番奥がステージになっているようだった。

 

そこにギッシリと人が埋まっている。こうして俯瞰して見ると会場には女性が多い。多いどころではなく、半分くらいは女性だ。

そして残った男性のうちの半分くらいはバズーカみたいなカメラを携えている。やはりここは戦場なのだとつくづく思う。

 

一番奥に、成瀬心美さんがいた。

本当に実在していた。

感動に打ち震えると同時に、あれだけ列が進まなかった理由が分かった。握手が長いのである。

 

「えー、そうなのー? マジでー?」

成瀬さんはファンと握手をしながら会話をする。

サイン色紙にサインを書きながらも会話をする。

とにかく長い。一人にかける時間が尋常じゃなく長い。

そりゃ列も進まないわ、そう思った。

 

「さあ、今日は終電までに全員終わらせますよー!」

成瀬さんの横にいた司会と思われる人が叫んだ。

「おー!」

群衆は意味不明にシュプレヒコールだ。

「お腹がすいたら店の前のソバ屋が美味いですよ!」

「お―!」

もうよく分からないことになっていた。

 

少しずつ、本当に少しずつ、社民党がやった時の牛歩戦術みたいな速度で列が進んでいく。

だんだん、成瀬心美さんの息遣いとかが分かる距離まで近づいてきた。いよいよだ。そこで事件が起こった。

 

「あ、久しぶり~」

どうも常連っぽい女性ファンが来たようで、成瀬さんが軽快に挨拶をした。

ただ女性ファンは大好きな成瀬さんを前にして自分が出せないのか、モジモジしていた。沈黙してしまったのである。

それを機敏に感じ取ったのか、それともこの子はいつもそうなのか、成瀬さんが話しかける。

 

「あ、なんかかわいい服だね。いいじゃん、似合ってる。かわいいー!」

その女の子はオシャレをしてきていたのでそれを褒めた格好だ。女の子の態度を見るに、成瀬さんに憧れているんだと思う。

 

その成瀬さんに褒められるのだからさぞかし嬉しいのだろうと思ったが、違った。

女の子は激怒した。あからさまに怒りの態度を示し、大きな声で叫んだ。

「あんたのほうがかわいいわよー!」

 

怒るポイントがよくわからんな。

どうやらいつものお約束のやり取りらしく、不穏な空気になることもなく、笑顔で握手会は進んでいった。

 

ついに僕の番が来た。それまでもしかしたらホログラムかもしれないという疑惑が完全には拭えなかったが、目の前にきてみてわかる。

成瀬心美さんだ。

握手してもらったが、すごく小さいで柔らかくて、ホログラムではなかった。温もりがあったからだ。

 

どんな会話をしたのか覚えていない。ただ、3DSにサインを書いてもらったのだけは覚えている。

夢見心地のまま、エスカレーターに乗せられ、出荷されていった。

 

店の外に出る。夜の新宿は少し肌寒くなっていた。星空を見上げるとネオンの隙間から消え入りそうな星が見えた。その星と、成瀬さんを重ねる。

「しかし、綺麗やったな、さっきのは……!」

「眩いばかりの光が連なって……、まるで天の川のようやった……!」

そう呟いた。それほど成瀬さんの輝きはすごかった。

 

世の中にはごくまれにキラキラした瞬間ってやつが現れる。この文章の冒頭でそう述べた。

普通ならそのキラキラした瞬間ってやつが、星座のように輝きを放つ成瀬さんだと思うかもしれないが、そうではない。

彼女は確かに輝いていたが、キラキラした瞬間ではない。

キラキラした瞬間というのは、生きざまそのものだ。そして、もっと人知れず輝くものだ。決して華やかな舞台や人を指すわけではない。

 

そう、ここまではただの前置きに過ぎない。ここからが本番だ。キラキラする瞬間がやってきたのである。

 

店を出て、言われた通り店の前のソバ屋に行こうとすると、一組の男女が目に付いた。最上階でみた二人だ。

どうやら、握手会の参加者だったようだ。

 

「好きです。付き合ってください」

男のほうが勇気を出して告白していた。エロDVD屋の前で告白もどうかと思うが、おそらくこうして成瀬さんの握手会やイベントに一緒に行くうちに仲良くなったのだと思う。

そのうち、その思いが恋心に変わっていき、告白したのではないだろうか。

それならばうってつけの告白場所だ。横ではおっさんどもが食券を買うために並んでいることだけを除けば。

 

「そう……」

告白された女の子は俯いた。その表情はまんざらでもなさそうだった。完全に手ごたえあり、である。良かったな。そう思った。しかし、ここから様子が変わった。

 

「わたしと“ここみん”(成瀬さんの愛称)どっちが好き?」

 

でた。不毛な質問だ。

完全に良くない質問だ。

こんなことを聞いて何になるのだろうか。告白してる場面では、君のほうが好きだとか、成瀬さんは有名人として好きだから恋心とは違う、みたいな返事が返ってくるだけである。

完全に予定調和でしかない。

 

「XXXちゃんのことのほうが好きだよ。ここみんは好きとは違う。ファンとかそういうのだから」

男も無難に答えた。有望な選手がSASUKEのセカンドステージに挑戦しているのを見守るような気分だった。

いいぞ、よしっ! という気分である。

「本当に?」

「本当に」

「じゃあ、ここみんが付き合ってもいいよって言ってきたらどうする?」

 

もうさっきので予定調和の問答は終わりだろ。

もうやめやめ。これ以上はやめ。

そう思ったが、僕は無関係で、ただソバ屋の食券待ちの列に並ぶおっさんである。なにもできなない。

 

「付き合わない、君と付き合ってるから」

よしっ! サーモンラダークリアだな。いける。いける。嘘でもいいからそう言っておけばいいんや。

いつの間にか熱くなった僕は拳を握っていた。

 

「じゃあさ」

女の子のほうがさらに続ける。まだあんのかよ。しつこい女だな、そう思った。

「じゃあさ、わたしとここみん、どっちかとエッチするってなったらどうする?」

 

たぶんだけど、彼女なりのマウンティングじゃないだろうか。彼女だって成瀬さんの握手会に参加する常連なのだから、成瀬さんに憧れているのだと思う。

その憧れの対象と自分を比べているのだ。

明らかに自分が選ばれると分かりきっている告白の場面でだ。なかなかしたたかな女だ。

 

いいから「君だよ」とか甘い言葉でも囁いておけ、そうすればSASUKEクリアーだ。

そのまましっぽりと今日中にフェードインもいけるぞ、その思いでおっさんが見守る中、彼が口を開いた。

 

「いや、それはここみんかな」

 

うそー!

とおっさんは叫びそうになったけど、相手の女の子も同じように叫びそうになっていた。

あと、僕の前で食券の列に並んでいた釣りみたいなチョッキを着た人もそんな顔をしていた。

 

好き、付き合う、まで彼女と成瀬さんを比べ彼女を選んできたのに、なぜかセックスをする項目だけは嘘をつけなかったらしく、言い切った。成瀬さんを選んだ。そこには彼なりの矜持があったのかもしれない。

 

「うん、それはここみんだな、うん」

言いながら自分で納得しているし。とんでもねーことになったな、こりゃ。

 

結局、そのまま沈黙の時が流れ、彼女は「じゃ、私、今日は周回しないから」と新宿駅のほうへと消えていった。

男のほうは、しばらくエロDVD屋の最上階を眺めたのち、また店舗へと消えていった。たぶん周回をするのだろう。どうしても嘘をつけなかった成瀬心美にまた会いに行くのだろう。

 

この世には、ごくまれに信じられないほどキラキラした瞬間ってやつが訪れる。

それは予想だにしない瞬間にやってきて、いつまでも眠る前に思い出すような、そんな煌びやかな輝きを残像のように残す。まるで奇跡だ。

 

「綺麗やったなあ。キラキラしてまるで天の川みたいやった」

僕はこの先、誰かに強いられて嘘をつかねばならないとき、自分の中のプライドを捨てねばならないとき、彼のことを思い出すとおもう。

決してセックスだけはここみんと譲らなかった彼のことを思うはずだ。

 

誰かのキラキラとした輝きは誰かに勇気や希望を与えてくれる。そんな瞬間が見たくて僕は生きているのだ。

 

「きれいだなあ」

新宿のネオンは綺麗で、まるで天の川のようで、いつまでもいつまでも夜の街に瞬いていた。

 

著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

数年来の付き合いになるずんずんさん(Twitter界の古参アカウントでそこそこ有名な方)から今度出る最新刊を献本頂いたのだけど、とても興味深い内容だったので紹介させていただこうと思う。

タイトルは「ずんずん式、壮絶メンタルトレーニング」だ。

[amazonjs asin="4799107070" locale="JP" tmpl="Small" title="ずんずん式★壮絶メンタルトレーニング"]

って壮絶メンタルトレーニングwww

 

これを書いたずんずんさんの経歴を簡単に紹介すると、本人曰く、機能不全家族(いわゆる毒親)育ちで大卒後に日系のウルトラブラック中小企業に勤務した後に、何故か外資系投資銀行へキャラ採用で転職に成功。

その後、日系のまったり企業に転職するも外資系で仕込まれたメンタリティで日系企業に拒絶反応が出現。

 

その後、何を血迷ったのか単身でアジア最大の金融街であるシンガポールに乗り込み海外就職に成功。

そこで世界レベルのエリートと切磋琢磨した後に日本に帰国。

現在は独立し、シンガポールで学んだコーチングという、自分の毒親体験を克服するのに役立った技術を日本で提供されているとのことである。

 

こう書くと「うぉぉ。この人めっちゃ優秀やん。うちらとはワケが違う人種だ」という感じがするけど、ぶっちゃけたことをいうと、ずんずんさんは結果的に”優秀となってしまった”だけである。

少なくとも、日系ブラック企業に務めていた当初のずんずんさんをみて「この人めっちゃ優秀やん」という人は残念ながら皆無だろう。

 

この本はメンタルトレーニングを謳っているけど、本質はそこいらにいる日系ブラック中小企業に務めている普通のOLが、資本主義というウルトラ弱肉強食の世界で、ハイスペックとしてどう適応していくのかが書かれているところにある。

 

あなたはここまで読んで

「おお、どんな凄いテクニックが書いてあるのだろう!」と期待に胸を踊らせるかもしれないし、あるいは

「エリートサラリーマンの仕事術?自分には全然関係ないな・・・」

と思うかもしれない。

 

これら2つの期待をある意味では壮絶に裏切るのかもしれないけど、本書に書いてある事はものっすごくドメドメな、どこの会社でもあるような普遍的な悩みの処世術である。

グローバルエリートとはいえ、やはりサラリーマンはサラリーマンなのだという事が実によくわかり、ある意味ではグローバルエリートへの変な幻想が全部ぶっ壊れる事うけあいである。

 

結局、どんなところに行ってもサラリーマンの処世術は変わらない

Books&Appsさんでも記事を執筆なさっている借金玉さんは、全てのサラリーマンは部族であると看過されていた。

<参考文献(この記事はハルオさんという方が描いた絵も相まって、ものっすごく面白いのでオススメ)すべての会社は部族である 〜発達障害の僕が見た部族の掟〜|転職サファリ

 

簡単に言うと、どんなに上っ面を整えた所で、企業には文化があり、その文化のしきたりに従って皆とうまくやるのがサラリーマンという生物であるという事である。

例えば新入社員が会社に入った後に宴会で下世話な芸をやらされるのは、要は部族に入れてもらうためのイニシエーションみたいなものだというのである。

 

どこかの部族では成長した後、紐無しバンジーをやり遂げてようやく一人前として認めてもらえるという話を聞いたことがあったけど、つまるところ新入社員の宴会芸はこの紐無しバンジーと全く同じ事なのだ。

 

借金玉さんはその著書である「発達障害の僕が『食える人』に変わった すごい仕事術」の中で、この部族の掟を色々書かれているけど、ずんずんさんの新刊は借金玉さんとは少し異なった視点でサラリーマン部族の掟を書いており、これまた非常に興味深い。

[amazonjs asin="4046020768" locale="JP" tmpl="Small" title="発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術"]

 

組織の一員として認めてもらいたい? なら踊れ。

本書で一番笑ってしまったのはINSEADという世界ランキング1位のビジネススクールを卒業したインド人の話だ。

世界ランキング1位のビジネススクールを卒業したエリートなのだから、さぞ仕事での能力を問われる事だろうと思いきや、このインド人、入社してまずはじめにやった事は、上司の誕生日パーティに呼ばれて同僚と共に終業後猛烈に練習したキレッキレのダンスを披露した事なのだという。

 

これを見てずんずんさんは

「お前の世界一のビジネススクールに支払った学費600万円は、この時の為の投資だったか・・・」

と目頭が熱くなったそうなのだけど、これは正に先程書いた、新入社員が会社に入った後に最初の宴会で下世話な芸をやらされるのと全く同じである。

 

つまり社畜の掟は、エリートだろうが中小企業だろうが、世界各国で共通なのだ。

あなたがどんなに優秀だろうが、残念ながら上司の目の前で芸ができなければ、社会人として失格なのだ。

 

ちなみにこのインド人の彼だが、このダンスの結果・上司に気に入られたようで、外資系投資銀行で生き残る事に成功し、インドで豪邸を買えたのだそうだ。

ダンスで数億稼げたのだから、600万の投資は安いものだと言えるだろう。

 

これをみれば分かる通り、結局世界一の大学を卒業しても、仕事の能力だけ見て欲しいと訴えるのは甘えなのだ。

むしろ世界一の大学を卒業したからこそ、こういう本当にみっともない事までガチにマジにならなくてはならないのである。

 

かつてハーバード流宴会術という本が出された事があったけど、むしろ外資系のような様々な多様なバックグラウンドを持った人がやってくる組織だからこそ、このような泥臭い部族の茶番を徹底する必要があると言えるだろう。
<参考 今夜から酒の席で使える「ハーバード流宴会術」の極意(フライデー) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)>

 

世界各国の飼い犬が、飼い主の機嫌を取る為に腹をゴロッと上に出して甘える姿を取るよう、人間も上司に気に入って貰う為にダンスを踊るのは世界各国で共通の儀式な事なのだろう。

 

ちなみに先程紹介させていただいた借金玉さんも、新卒で入った金融系の会社でAKBを踊らされたのだそうだ。金融系は踊りが好きなのだろうか……。

 

本が読めるのなら、一からアレコレ全部再発見する必要はない。

これ以外にも、ずんずんさんの本には実に興味深い生き残り術がたくさん書いてある。

 

例えばお局様に目をつけられてしまったら、どうすればいいのかとか。

友達の顔をして近寄ってくる敵、フレネミー(フレンド+エネミーの混合語)とどう接すればいいのかとか(小・中学校の頃、こういう担任に告げ口して悪評振りまくヤツ、沢山おったわ……)

 

クソ使えない上司が入ってきた時、どうすればパージ(粛清)できるかとか。

このどれもこれも、解決できないと心穏やかにサラリーマン生活を送る事が極めて困難になる事例ばかりである。

 

これらを自分で一から解決方法を見つけ出すのは物凄く手間な事だけど、本書を読めばずんずんさんがわざわざシンガポールに行ってまで見つけてきてくれたエレガントな解法を身につけられるのだから、メチャクチャ安いものだろう。

 

このような「先人の見つけた偉大なる知恵をワザワザ再発見する」事を専門用語で”車輪の再発明”というのだけど、実際・こういう知識を一から見つけ出すのは本当に時間がかかる事である。

けどあなたが本を読む事ができるのなら、車輪を再開発することなく、これらの知識がスルッとこういう知識が身につけられるのだ。

 

こう考えると、本というのは本当に安い。ほんと、本が読めるだけで人生の難易度が圧倒的に下がるとしか言いようがない。いや、マジでな。

 

というわけでみなさんも本書を読み、サラリーマンの処世術を学び、人生の難易度を圧倒的に下げましょう。

とても読みやすく仕立ててあるので、誰でも読めるかと思います。

[amazonjs asin="4799107070" locale="JP" tmpl="Small" title="ずんずん式★壮絶メンタルトレーニング"]

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Kendra

つい先日、「最近、成長実感がないので、転職を考えてます」という方と話をした。

話を聞くと、彼は現在の会社で4年目、社内での評価は高く、上位2割には間違いなく入っているという。

 

だが彼は不満をいだいていた。

「この仕事、もういいかなー、って思うんですよね。」

「そうですか?」

「最近は成長の実感もないし、数字を追いかけているだけですからね。つまんないっすよ。」

 

正直、彼が転職をしたい理由が、成長実感がないことに起因するのかはよくわからない。

単に上司と仲が悪いだけかもしれないし、給料が安いからかもしれない。

 

だが、成長実感がないことが、大きな不満につながることだけは、私の目から見ても確かだと感じる。

 

パーソル総合研究所の調査は「成長実感は、その会社で働き続けたい気持ちを上げる」ことを示唆する。

成長「実感」の効果は、「目指す」ことのおよそ3倍

「成長実感」は「その会社で働き続けたい気持ち」を上げ、「転職意向」を下げており、成長志向に比べてリテンションの効果も大きそうです。

端的にまとめれば、成長は「志向する」ことだけではほとんど仕事への意欲や満足度を向上させておらず、実際に「実感」することができるかどうかが就業意識を大きく変化させるということです。

このレポートは、「だから、社員を会社に引き止めるには、成長実感を感じさせることが重要」と締めている。

 

また、特に男性は30代から40代にかけて、女性は20代から30代にかけて、成長実感を得にくくなる実態がレポートで示唆されている。

「仕事がつまらなくなってくる」「限界を感じる」「転職したくなる」のは、ちょうどこの時期なのだろう。

 

 

だがこの「成長実感」というやつは、仕事においては結構曲者だ。

成長実感ばかりを追いかけていると、「一流」へのきっぷを手放してしまうかもしれないからだ。

 

私にも一つの思い出がある。

新規事業の担当を外れ、ラインのマネジャーをやっていたときのことだ。

 

新規事業の担当だったときは、毎日が新しいことの連続で、マーケティングからセミナー開催、お客様へのサービス提供までを一貫してやらなければならなかったため、大変に忙しく、また刺激的であった。

当然、成長実感も伴っていた。

しかし、残念ながら成果は思ったほど上がらず、新規事業は閉じられ、私はラインのマネジャーに戻されることとなった。

 

ところがラインの仕事はすでに仕組みができあがっている。

あまり考えなくても「実直にやっていれば」成果がある程度見込めるものだった。

もちろん、会社の数字への貢献は、新規事業なんぞより、ラインの仕事のほうがはるかに大きい。

「重要な仕事である」と頭ではわかっていた。

 

だが、わがままな私は、この刺激のない仕事に程なく飽きてしまった。

そこである日、私は上司に

「最近、仕事がつまんないんですよね。成長している感覚もないですし。」

とボヤいた。

 

上司との関係は良かったので、またいつものように軽妙に切り替えしてくるだろう、そんな感じで何の気なしの発言だったと思う。

だが、上司は珍しく考え込んで、一言、発した。

「刺激中毒だな。」

「中毒?」

「刺激を受けることが、成長につながると思っている人の典型的な思考だよ。」

 

私は辛辣なその言葉に、何も返せなかった。

 

 

この上司の言わんとしたことは何か。

結論から言うと、「成長実感がある」と「成長している」は別なのだ。

 

むしろ、成長実感があるうちは、真に成長しているとは言えない、と言っても良いかもしれない。

なぜなら、「成長実感」を一番得やすいのは、初期の頃、素人に毛が生えはじめるときだからだ。

 

どういうことだろうか。

 

具体的に成長を実感するのは言うまでもなく、なにかの目標を成し遂げた、なにかが新しくできるようになった時だ。

例えば、新人が、初めてお客さんのところに一人で行けるようになった時。

新しい知識を得たとき。

部下から初めて感謝されたとき。

 

しかし、時が経つに連れ、徐々に成長を実感することは少なくなる。新しいことは、そうそう無いし、自分のレベルも上がってきている。

要は、ある程度成長してしまうと、簡単にクリアできる目標がなくなるのだ。

 

「新しく目標設定すれば良いじゃないか」という方もいるかも知れない。

だが、ある程度成長した人にとって、「次の目標」というのは、真の一流への道になってしまう。

だが、そういった目標の達成に至る道は、簡単に成長実感が得られるものではない。

 

例えば、野球で考えてみよう。

 

子どもたちは野球が好きだ。

野球を始めた頃は、ちょっと練習するだけでぐんぐんうまくなるからだ。

最初はキャッチボールできただけでも、投げられたボールを バットに当てられるだけでも、十分に楽しい。

 

一通り投げたり打ったりできるようになると、今度はそこから、今度は草野球で試合ができるようになってくる。

すると更に野球は楽しくなる。

 

ところが、このあたりからだんだん上達のスピードが遅くなってくる。

周りのレベルも上がるからだ。

 

だから、草野球で活躍できるようになるためには、反復練習や、体力向上のための走り込みなど、ある程度の「楽しくない」努力が必要になる。

 

それでも、町内会の大会で優勝を目指すならば、練習を人一倍やれば良い。

例えば土日と休みを野球に費やせば、大抵の人は成長実感を伴って、野球がうまくなるだろう。

 

ところが、次の目標を定めると、次は県大会、関東大会と、徐々にハードルが上がってくる。

そして甲子園ともなれば、もう「成長実感」を感じるときよりも、「単に辛いだけの練習」をする時間のほうがずっと長い。

本人にセンスがあって、監督やコーチの教え方が上手ければ、「圧倒的な成長実感」を感じる人もいるかも知れないが、残念ながらそういう人は僅かだ。

 

そして、「一流」の証である、プロ入り。そして「超一流」の証である、プロでの活躍。

日々実感できる、わかりやすい成長は、ここには存在しない。

「超一流」のゾーンでは、「本質的におもしろくないこと」に延々と取り組みことが要求されるからだ。

 

例えば、ベストセラーとなったジョフ・コルヴァン著の「究極の鍛錬」にはこうある。

超一流になるための鍛錬は、不得手なものに逐一分析を加えながらしつこく取り組むことであり、「本質的に楽しいものではない」。

エリクソンと同僚は論文で、究極の鍛錬は「本質的に楽しいものではない」と述べている。

(中略)

もし達人になることが簡単で楽しいなら、誰もがこぞって鍛錬するようになり、最高の技を持つものとそれ以外の人と区別がつかなくなる。

究極の鍛錬が辛いという現実は、むしろ良い知らせともなりうる。

辛いということは、多くの人がやりたがらないのだから、喜んで精進すれば、他の人達から見てそれだけあなたは際立った存在になる。

[amazonjs asin="4763130366" locale="JP" tmpl="Small" title="究極の鍛錬"]

もちろん、誰もが「一流」を目指すわけではない。

「楽しい」で止めておき、次々と刺激を求めて転職を繰り返したり、新しいことにチャレンジしたりするのも悪くない。

 

だが、楽しさを原動力としての成長は、レベルの低いうちには有効だが、ハイレベルの戦いにおいては、楽しさの源泉である「成長実感」を得られるシーンはそう多くはない。

 

前述した私の上司は、それを直感的に知っており、

私を「何いってんだ、ここからが真の勝負だろう」と諭してくれたのだろう。

 

つまり、「成長実感がなくなってからが、真の上達のはじまり」と知る者だけが、一流になることができるのである。

「石の上にも三年」という言葉も、案外捨てたものではない。

 

 

◯TwitterアカウントBooks&Apps(最近改めて、Twitterはいい。)

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="453405517X" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="4534053002" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

(Photo:ThoroughlyReviewed

いわゆる「ブラック企業」を直接間接に観測したことが、何度かあります。

私も一時期、「これはブラックといっていいんじゃないか」という企業に属していたことがありますし、ブラック企業に所属して心身ともに疲弊している人に接したことも何度かあります。

 

(自分も含めて)そういったケースを観測する中で、「いわゆるブラック企業」の経営者というものには、割と共通した傾向があるんじゃないかなーと思うようになりました。

それは、以下のような言葉で表現することが出来ます。

・客観的に自社を見る能力、ないしスタンスの欠如

・自社の体制に対する自浄能力、批判的検討能力の欠如

・法令の軽視、コンプライアンス体制の軽視

 

もうちょっと具体的な言い方に直すと、

例えばいわゆるブラック企業批判を目にしても全然自社のことと紐づけては考えないし、

そもそも自社の体制に関して「こういう問題があるから改善しなくては」という意識が薄いし、

労基法なんて建前であって、うっかりすると「あんな法律を真面目に守っているところなんてない」とまで考えている。

 

勿論これは卵ニワトリの問題であって、「ブラック企業にはこういう傾向がある」のか、「こういう傾向があるから結果的にブラック企業になる」のかは判然としません。

 

ただ、彼らブラック企業の経営者の多くが、外部から見るとどう見ても真っ黒な経営体制をとって、従業員を心身ともに疲弊させていたとしても

「我が社の社員は愛社精神をもって本当に喜んで頑張ってくれている」とか、

「負荷は人を成長させる」とか、

自分の都合の良いように解釈しているというのは、割と広範に言えるような気がしているんです。

 

多くの場合、彼らは精神的な切断処理に長けています。真面目に従う従業員は(主観的には)大事にする一方、

「こいつは役に立たない」と判断したり、自社の体制に意見したりする社員は、心理的にあっさりと切断して徹底的に詰め始めたりする。

 

更に、例えば「ブラック企業でパワハラ自殺が」みたいなニュースを見たとしても、「こういうことが自社で起こるかも」などとは全く考えないわけです。

 

全くの他人事として受け取るのはデフォルト。

うっかりすると、「こんなひどい企業があるとは!」と自分でも憤ったりする。

「うちの会社も五十歩百歩だからなんとか改善しなくては」という思考には、何故か全く結びつかないのです。

 

 

時折、「パワハラによる自殺」であるとか、「ブラック企業で精神的に追い詰められて自殺」という事案を目にすることがあります。

 

仕事に追いまくられて精神的な余裕をなくして、その上マネージャーや上司に詰められまくって、心身ともに摩耗し尽くして自ら死を選ぶ、というのは本当に痛ましいことです。

 

ただ、その痛ましさを承知の上で、それらの案件に関して「当該企業を大々的に炎上させる」という動きをとることには、私はかなり懐疑的です。

 

勿論、炎上させる人達にはそれぞれの正義感があり、それぞれ批判する理由があります。

当該企業に社会的な制裁を加えるというのも、ブラック企業を社会問題化することでブラック企業の撲滅に資する、というのも、恐らく彼らにしてみればちゃんとした理由なのでしょう。

 

ただ、炎上させる人たちが頻繁に口にする理由の一つである、「他のブラック企業に対する牽制」という点については、「多分あんまり効果ないと思います」と言えます。

何故なら上記した通り、ブラック企業の経営者は、炎上案件を「自社でも起こり得ること」だとは全く考えないから。

 

たとえ口では「うちの職場ってブラックだよなー」などと言ったとしても、その実それを問題だとは全く認識していないから。

うっかりすると、自社のことを「一見ブラックなのに社員が皆頑張ってくれている素晴らしい企業」と認識してすらいるから。

 

自分の中で完全に切断処理が済んでいるので、たとえ「ブラック企業」が炎上していたとしても、それは対岸の火事どころか、ユーラシア大陸東岸からアメリカ大陸西岸の火事を眺める程度の認識にしかならないわけです。

 

世間にひしめくブラック企業に、もし本当にダメージを与えようとするならば、やるべきことは「表面化したブラック企業を叩いて溜飲を下げること」ではなく、その場から逃げる心理的余裕すらなくしている人たちに、「逃げる余裕」を作ってあげる方法を考えること。

 

例えばの話、労基に駆け込むハードルを下げてあげるであるとか、労基に従うのは本来当然のことであることを喧伝してあげることであるとか、要は「逃げるが勝ち」であることを伝えてあげることなんじゃないかなー、と、そんな風に思うわけなんです。

 

 

昔、WHOが「自殺予防のために」という提言をしたことがありまして、その一部日本語訳を厚生労働省のページから読むことが出来ます。こちらのページです。

WHO 自殺予防 メディア関係者のための手引き(2008年改訂版日本語版)

ちなみに、原文の日本語版もPDFで参照することが出来ます。

http://npsy.sapmed.jp/wp-content/uploads/2015/12/5.pdf

一部を引用しますと、

・ 自殺を、センセーショナルに扱わない。当然の行為のように扱わない。あるいは問題解決法の一つであるかのように扱わない
・ 自殺の報道を目立つところに掲載したり、過剰に、そして繰り返し報道しない
・ 自殺既遂や未遂に用いられた手段を詳しく伝えない
・ 自殺既遂や未遂の生じた場所について、詳しい情報を伝えない
・ 見出しのつけかたには慎重を期する
・ 写真や映像を用いることにはかなりの慎重を期する

私、ここに書いてあることはかなり妥当だと思っておりまして。

要は、メディアの報道が模倣自殺を引き起こしていることについての指摘と、それを防止するための提言です。

 

これ、今のwebでも同じことは言えると思うんですよ。

模倣自殺に関する論文は複数ありまして、これなんか代表的なもののひとつだと思います。

メディア報道・利用が自殺に与える影響の概観と展望

わが国における自殺関連行動及ぴメディア報道・利用に関するデータを用いてメディアの持つ自殺への影響を検討した研究のレビューを行った。

これらの研究を概観したところ、研究は主に、 1)自殺と特定のメディアの報道・利用との関連、と、 2) 自殺報道の内容、に関する研究の二種類が見られた。

これらの研究では、有名人及ぴ一般人の自殺に関するメディア報道が自殺に影響を持つこと、ニュースバリューのあるものに偏った報道がなされるために報道からバイアスのかかった知識を得る可能性があることが示唆された。

これらの結果は、海外におげる研究結果と概ね一致していた。

例えばいじめで言えば、大々的な報道をすることによって、いじめられる側が「自分が自殺してもこれくらい騒いでもらえる」「それによっていじめた側に復讐が出来る」という動機を得てしまうかも知れない、という話ですよね。

 

パワハラでも同じような構図が発生する可能性はあって、追いつめられた人達に対して「自殺」という選択肢を大々的に提示してしまうことによって、模倣自殺を増やしてしまう可能性が大いにあるということは、既に諸々の研究で示されているところなわけです。

 

だから私は、「パワハラ自殺案件」を大々的にクローズアップするべきではない、目立つ形で炎上させるべきではない、と考えます。

 

今回の件であれば、遺族の方々は淡々と法的手続きを進めていて、既に訴訟も進んでいるわけで、後押しするのであればそちらの動きを後押しするべきであって、がーーっと炎上させても「パワハラに伴う自殺」という「ひとつの選択肢」がクローズアップされるだけで何もいいことはない。

それを見て他のブラック企業が「改善しなくては」と考える線も薄く、一方模倣自殺の連鎖を引き起こし兼ねない訳です。

 

現在の日本において、「ブラック企業からは逃げるべき」というのは、かなり普遍的な真理になっていると思います。

失業保険もある。

転職も出来る。

退職についても、最近は代理で退職手続きを済ませてくれるサービスまである。

ただ、精神的に追い詰められた人たちは、そもそもそういう選択肢に辿りつけないんです。

 

だから、外野がすべきことは

「逃げ道を明示してあげること」

「「逃げる」という選択肢のハードルを下げてあげること」

「淡々と労基の行くことを勧めてあげること」です。

 

勿論、「代理退職サービスについて教えてあげること」もそれに含まれるでしょう。

 

ただ「ひどい会社だ!燃やせ!!」なんて炎上させることは、叩いている人たちの溜飲を下げるだけで、他には何もいいことはないんじゃないか、と。

そんな風に考えるわけなんです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

(Photo:Kevin Masson)

杉田議員の「生産性」発言や、テニスの大坂なおみ選手の活躍で、LGBTやハーフの人たちに注目が集まった。

マイノリティ側の人が取りざたされるとき、「いままでどれだけの理不尽を味わってきたか」「理解のない人に傷つけられてきたか」などが語られることが多い。

そして結論として、「理解を示して受け入れてるべき」となる。

 

もちろん、理解して受け入れる人が多ければ、それに越したことはないだろう。

でも人間、どうしても理解できない人というのはいるものだ。

 

だからわたしは、理解を強いるよりも、「理解できないなら攻撃せず首を突っ込まない」という無関心さが、多様化する社会には必要なんじゃないかと思う。

 

「理解しない人」が批判される現代

最近、『いままでの社会において想定外の人』への理解を求められることが増えてきた。

LGBTやハーフもそうだし、精神疾患をもつ人や不登校経験がある人もそうだし、収入が低く結婚ができない人や子どもを産みたくない女性などに対してもそうだ。

 

たしかに、世の中にはいろんな人がいるのだから、性自認や血筋、身体的特徴やライフスタイルにかかわらずどんな人でも認められ、幸せに生きられる社会のほうがいい。

でも残念ながら、人間には『理解できる範囲の限界』がある。わかりやすくいえば、『共感できる範囲』とでも言おうか。

 

この『理解の範囲』を超えたところにいる人に対して、人間は「相手の気持ちがまったく想像できない」という状態に陥る。

たとえば「子どもを産む機械」「子どもは3人以上」など、出産に関わる政治家の失言は多い。それは彼らが、子どもを産む人の気持ちをまったく想像できないからだと思う。

 

ゲイやレズビアンを不当に差別するのは、自分の恋愛対象が異性であり、同性を恋愛対象にする感覚がまったく想像できないのだろう。

 

こういった発言にわたしは違和感を覚えるし、マイノリティに対する差別や偏見は良くないことだとも思っている。

でも、じゃあ相手に「理解しろ」と言ったところで、状況は本当に改善されるのだろうか。

 

自分のこととして想像できない『理解の範囲外』

たとえば「精神性はこのままで肉体が男だったとしたら?」と考えると「心は女なんだから短髪にしたくないし、男子更衣室で男用の水着に着替えるなんて無理!」だと思う。

トランスジェンダーの人が抱くであろう生きづらさを、ほんのひとかけら、非常に浅いレベルではあるものの、想像することができる。

つまりそれは、『理解の範囲内』の存在だ。

 

一方で、ハーフの人は、わたしの『理解の外』にいる。これはネガティブな意味ではなく、わたしが「自分がハーフだったら?」と想像できないからだ。

わたしの両親は生まれも育ちも日本の日本人で、わたし自身も日本語を母語とする日本人。大学に入るまで外国人とまともに会話したことはなかったし、友人にもハーフの人はいなかった。

 

だから、家庭内に複数の文化や言語が混じっている環境で生まれ育った人の気持ちを、うまく想像できない。

「どっちの国に長く住んでるの?」「〇〇語は話せるの?」という質問が、相手にとってどれだけ不快なのか、または問題がないのか、判断がつかないのだ。

 

いくら「理解を示そう」「嫌な思いをさせたくない」と思っても、環境がちがいすぎて、「相手の気持ちになって考える」ができない。

そういう意味で、ハーフの人はわたしの『理解の外』にいる。

(念のためもう一度書くが、だからといってハーフが悪いとか、関わりたくないとか、そういうことではまったくない)

 

外国人をまるで宇宙人のように別の生き物として扱う人は「自分が外国人として暮らす」ことを想像できないのだろうし、まわりにキリスト教を強引に勧める人は「クリスチャンじゃない人生」を想像できないのだろう。

そういう人に「外国人の気持ちになって考えろ」「仏教徒の立場も尊重しろ」と言っても、たぶん、どうにもならない。だって、想像できないのだから。

 

わたしだって「ハーフの気持ちを考えろ」と言われたら、「いや、うん、ええっと……どんな感じなんだろう?」と困惑してしまう。

 

理解する人としない人の避けられない対立

もちろん、だれしもが持つべき共通の『理解の範囲』もある。たとえば、「人を殺してはいけません」「あいさつをしましょう」などだ。

そこには、「差別はいけません」「人が嫌がることはやめましょう」といったことも含まれる。不当な差別や理不尽が認められないのは、当然のことだ。

 

ただ、それでもやっぱり『理解の範囲』は人によってちがう。みんながみんな理解し合えればいいのだが、まぁぶっちゃけ、それは非現実的な話である。

「理解しろ」と言われても、そもそも『理解の範囲外』なんだから理解できない。

「相手の気持ちを考えろ」と言われても、相手の気持ちがわからないからこその『理解の範囲外』。話は平行線をたどる。

 

そしてここでの問題は、「理解する人vs.しない人」という対立構造になってしまうことだ。

『理解の範囲外』にいる人を無理やり自分の理解の枠に当てはめようとしたり、逆に「理解しなさい」と他人の『理解の範囲』に突っ込んだりすれば、必ず対立が生まれる。

どっちも自分の価値観に相手を押し込めようとすれば、溝は埋まらない。

 

だからわたしは、「『理解の外』にいる人を理解しなさい」とプレッシャーをかけるのではなく、「理解できないことを理由に攻撃せず首を突っ込むのはやめよう」というのも、ひとつの考え方じゃないかと思っている。

 

理解がベスト、それが無理なら無関心がベターかも

理解して相手の気持ちになって考えられることが、たぶんベスト。でもそれが無理な場合もある。そのときは、『無関心』というベターな方法をとることもありじゃないだろうか。

 

わたしは、ハーフの人の気持ちを想像することができない。だから、根掘り葉掘り聞かず、「へぇ~」で終わらせるようにしている。

関係性によっては「いつからここに住んでるの?」「どこの国?」くらいは聞くかもしれないが、初対面や見知らぬ人に対して「アイデンティティーはどっちですか」「どっちの国が好きですか」というように、相手を自分の『理解の範囲内』に収めようとすることはしないように気をつけている。

 

相手の気持ちを想像できないのだから、うっかり傷つけてしまうかもしれない。それなら無用に首を突っ込まず、「へぇ~」と無関心でいたほうが『平和』なのだ。

相手のことを理解できずとも、「日本語が苦手なのね。ゆっくり話すね」「恋人は男なんだ。じゃあ彼女じゃなくてパートナーって呼ぶね」「うつ病で具合悪かったらドタキャンしてもいいよ」と言うくらいの思いやりをもつことはできる。

 

相手のことを理解できないのに、「日本人と認めない」「ゲイなんて巨乳好きと同じ」「うつ病は言い訳」などと、相手を『評価』する必要性や正当性はない。

理解できないことを理由に攻撃したり、自分の『理解内』に引き込もうとしなければ、理解せずとも共存することはできるのだ。

 

世の中にはいろんな人がいる。自分のなかにある「こうあるべき」という価値観が及ばない人と出会ったら、無用に首を突っ込んでああだこうだ言わず、「へぇ~」くらいがちょうどいいんじゃないかと思う。

 

もちろん理解できるのならそれに越したことはないのだけど、それがむずかしいときは、『無関心でいる』こともひとつの寛容のかたちではないだろうか。

理解し合えるという前提をなくしてみたほうが、逆に多くの人が生きやすくなるかもしれないなぁ、と思う。

 

 

【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

[amazonjs asin="4106107783" locale="JP" tmpl="Small" title="日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち (新潮新書)"]

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

(Photo:trilina)

かつて権力者というのは、富と名声を独占する皆の憧れの存在だった。

それが最も現れているのが、ジョージ・オーウェルが書いた小説、1984だろう。

[amazonjs asin="4151200533" locale="JP" tmpl="Small" title="一九八四年新訳版 (ハヤカワepi文庫)"]

かの小説に書かれた、ビッグブラザーという強靭な指導者が一庶民の人生を蹂躙していく様は、当時の権力者というものがいかに恐れられていたかを見事に描ききっている。

 

ジョージ・オーウェルがかの小説を書いたのは

「このままでは、権力者が全ての富と名声を独占し、庶民は奴隷のような存在になってしまうのではないか」

という未来を非常に恐れていたからだろう。

あの小説が売れたという事は、多くの識者は未来がそういう風になるかもしれないと思っていたことの裏返しとも言える。

 

壁と卵

僕が記憶する限り、権力を最後に公の場で大々的に風刺したのは村上春樹さんがエルサレムで行った「壁と卵」というスピーチである。

とても優れたスピーチなので、読んだことがない人は是非ともこの機会に一読してもらいたい。名文である

【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ | 青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編

私は今日小説家として、ここエルサレムの地に来ています。小説家とは、“嘘”を糸に紡いで作品にしていく人間です。

もちろん嘘をつくのは小説家だけではありません。

知っての通り、政治家だって嘘をつきます。

外交官だろうと、軍人であっても、あるいは車の販売員や大工であろうと、それぞれの場に応じた嘘をつくものです。しかし、小説家の嘘は他の職業と決定的に異なる点があります。

小説家の嘘が道義に欠けるといって批判する人は誰もいません。

むしろ小説家は、紡ぎだす嘘がより大きく巧妙であればあるほど、評論家や世間から賞賛されるものなのです。なぜでしょうか。

このスピーチの内容を簡単に説明するとこんな感じである

 

「世の中を支配しているのは巨大で屈強なシステムであり、それはそり立つ壁のように屈強なものである。」

「それに対して私達は弱々しい個人でしかなく、壁にぶつかってしまったら簡単に割れてしまう卵のような存在でしか無い。」

「このような社会において、高くて硬い壁と壁にぶつかって割れてしまう卵があるとき、私は常に卵の側に立つものでありたい」

「それが小説家が社会に存在する理由の一つであると考えるからである。壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、小説家という存在は、卵の為にあるべきだと考えるからである」

 

気がついた人もいるかもしれないけれど、このスピーチはイスラエルで行われているパレスチナ問題を風刺している。

イスラエルという巨大なシステムと、そこで蹂躙されるパレスチナの人々を「壁と卵」というわかりやすいイメージを用いて批判しているわけである。

 

このスピーチが行われたのは2009年だ。この頃はまだ、ギリギリ権力は大衆から恐れられるものの一つであったといえる。

 

権力の終焉

しかし未来というものはいつも軽々と私達の想像を裏切るものだ。

2018年現在、権力というものは、かつてジョージ・オーウェルが1984で恐れたようなものとは全く存在を異にしており、もはや恐怖の対象ですらなくなっている。

 

この事を様々なデータを元に見事に証明した本がある。

モイセス・ナイムの書いた「権力の終焉」である。

[amazonjs asin="4822250989" locale="JP" tmpl="Small" title="権力の終焉"]

この本は日本ではさして話題にならなかったと記憶しているけど、フィナンシャル・タイムズ2014でベストブックにあげられていたり、マーク・ザッカーバーグ主催の読書会の第一回で取り上げられたりと、海外ではそこそこ話題になった本である。

 

この本でモイセス・ナイムは権力が以前と比較して、かなり力を失ってしまった事を書いている。

例えば、かつてなら人は飢餓と隣合わせであり、権力者は多くの農作物を手に入れられる事でその力を提示できたわけだけど、現代では食物はむしろ飽食気味であり、食べられないで失われる命よりも食べ過ぎで失われる命の方が多いとすら言われるようになってしまった。

 

また、人権意識がとても高まった現代では、いくら権力者といえども側室を侍らせる事などほぼ不可能になりつつある。

それに加え、ちょっとやそっと無礼な事を言われた所で「切腹せよ!」だなんて事は絶対に言えないようになってしまった。

 

今ではその辺にいる庶民が「アベ政治を許さない」だなんて平気な顔をしてのたまえる有様である。

戦国時代に織田信長の悪口をこんなに大々的に言えたかどうかを考えると、まさに隔世の感である。

 

このように、社会が技術革新により豊かになるにつれて、権力の力は以前と比較してどんどん弱まっていく事となった。

しかし、権力は空白を嫌うという言葉が示すとおり、権力と似たようなパワーが消失してしまう事はちょっと考えにく。この種の影響力は形を変えてどこかに存在しているはずである。

 

じゃあ現代では誰が力を振りまくようになったのだろうか?それは勝ち組と弱者である。

 

1Q84が指摘した「ビッグ・ブラザー」不在の時代の「リトル・ピープル」

冒頭で壁と卵のスピーチで紹介した村上春樹さんの作品に1Q84というものがある。

タイトルが発表された当初、ジョージ・オーウェルの1984のオマージュである事は誰でもわかった事もあり、僕も友達と「村上さんはまた壁と卵の話でもするのだろうか」と内容を予想しあっていたのだけど、そこには全てを支配する巨大な権力者であるビッグブラザーは登場しなかった。

 

代わりに登場したのがリトル・ピープルという概念だ。

ビッグブラザーがわかりやすい絶対権力者であるとすると、リトル・ピープルというのは卵の集合体みたいな概念だ。

例えばちょっと前、文春砲により数々の芸能関係者が不貞行為を暴露され、表舞台から姿を消すこととなったわけだけど、あれがわかりやすいリトル・ピープルの一亜系だろう。

 

かつては巨大な力を持っていたお金持ちや名声を持つ芸能関係者も、今では卵の集合体であるリトル・ピープルの考える風紀に反する事をすれば、簡単にその座からこき下ろされてしまうようになってしまった。

 

何でもかんでもすぐに炎上する昨今のネット社会をみればわかるとおり、蠢く大衆の考える良識に反する事ほど現代では恐ろしいものもそうない。

ビッグブラザーが私達を監視する社会はありがたいことに到来する事はなかったが、代わりに現代では捉えどころのない、有象無象の大衆の逆鱗に触れないように気をつけなくてはいけないようになってしまった。

 

やはり権力は空白を嫌ったのだ。ビッグブラザーが終焉した現代で、その代りになったのが卵の集合体だというのだから、まったく歴史というのは面白いものである。

ちなみに先の壁と卵のスピーチが行われたのは20092月だけど、1Q84が発表されたのはなんと2009年の5月の事である。この相反する2つの事象を抱え込めるところに、村上春樹さんの凄みが詰まっているといえるだろう。

 

弱者が力を持つ時

このように有象無象のリトル・ピープルの良識が権力を持つようになった結果、面白い事に弱者もある種の力を持てるようになった。

 

元々古来より、批判や皮肉というのは弱者が強者に行うものだった。

例えば政治の風刺画というのは、権力者である政治家に一記者という弱いものが行うから許されるというお約束があった。

 

この逆はただの弱い者いじめであり、基本的には許さないというのがお約束だ。

「アベ政治を許さない」はアリでも、安倍さんがどこぞの個人を名指しで許さないとでも言おうものなら、待ってましたとばかりにリトル・ピープルが「弱い者いじめだ!」と湧き上がる事は想像に難くない。

 

権力というのは強い暴力性を秘めている。ではリトル・ピープルが権力を持った現代において、標的にならない為にはどうすればいいかわかるだろうか?

 

強者が批判や皮肉の対象となるという事を裏返せばこの答えは簡単にわかるだろう。弱者になればいいのである。

 

昨今、発達障害やLGBTといった単語がかなり一般的に認知を得るようになってきたけど、このムーブメントの背景にはリトル・ピープルの権力の増大があるのは間違いない。

 

もちろん、社会が豊かになって、多様性を許容できるようになってきた事も、弱者が弱者として声をあげられるようになった大きな理由のひとつなのは間違いないのだけど、その裏でこれらの標語は強い権力性も帯び始めているのである。

 

ついこの間も新潮45LGBTを批判し、その論調を再検証しようとしたしたところ大炎上し、雑誌が休刊に追い込まれるまでの顛末になったけど、あれは一つの時代の象徴といえるだろう。

現代では弱者はマスメディアや政治家というかつての強者を食い殺せるレベルにまで力を持つことに成功しているのである。

 

中間層が一番しんどい

このような時代になると、権力者や著名人になる事は全く割があわなくなるし、それどころか普通である事すら「弱いものではない」故に批判の対象となるリスクを孕む事となる。

こうなると、勝ち組にも少数派になれない普通の人がもっとも厳しい立場に追いやられる事となる。

 

慶応大学で財政学を専門とされている井手英策さん曰く、いわゆる弱者を排除しようとする言説、例えばヘイトクライムとか差別的な思想に一番熱心なのは中間層のしかも比較的上の方なのだという。

 

中間層の中でも、相対的に恵まれている人たちが排他主義を強めている理由として、井手さんは

「大金持ちの層がより恵まれた状況になっていっている中で、大金持ちに手が届きそうだけど手が届かない層が、社会の豊かさが自分からだんだんと離れていっている実感を一番感じるが故に苦しいのではないか」

と分析されている。

 

中間層であるが故に、弱者として強者を叩く自由はなく、かといって強者として社会を謳歌できるわけでもない。中途半端な存在である、中間層が実は現代では一番シンドイのである。

<参考>日本社会ではいま「多数派」が一番苦しい? 二極化の先にあるもの(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/5

 

「弱者だから叩かれない」「強者であるから叩いていい」から卒業しよう

昨年あたりから時々話題にのぼるようになったポリコレムーブメントは、権力の終焉とリトル・ピープルの台頭とは無縁ではないだろう。

 

この多数派が一番シンドイ世の中で、私達はどのように生き抜けばいいのだろうか?

 

まずいちばん良くないスタンスは、弱者の皮をかぶった強者を目指すものだろう。

まるでファッションのように発達障害やLGBTを明言するのは、本当の当事者にとっては失礼以外の何物でもないし、それらの弱者に対する理解を誤ったものとしてしまう。

 

かといってリバタリアニズムをバリバリに適応させて、全員が勝ち組を目指す社会というのもまたちょっと苦しい。

もちろん、誰でも勝者を目指せるような社会設計ではあるべきだろうけど、全員が勝ち組になんてなれないのは言うまでもない。

 

ではどうすればいいのかだけど、属性で簡単に強い人と弱い人を区別しないように、私達一人ひとりが本質を見誤らないように努めていくしかないだろう。

 

当たり前だけど、マイノリティーや障がい者の中にも強者はいる。スティーブ・ジョブズは確かに発達障害者だったかもしれないけど、彼を弱者だという人は誰もいないだろう。

そしてもっと当たり前の事だけど、健常者の中にも弱者はいるのである。

 

レッテルで貼られた属性のみから、それらを判断してしまう私達のスタンスに問題があるのだ。

弱者だから叩かれない。強者であるから叩いていいから卒業できるよう、我々の意識を高めていくしか、解決方法はないだろう。

 

はっきりいって、これはとても難しいことではある。しかしビッグブラザーを超克できた私達に、リトル・ピープル問題を超克できないわけがないのである。

 

未来はいつだって明るい。私達の民度も、きっと明るいものである。そういう意識だけは捨てずに持っておきたいものである。

 

 

【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

(Photo:Elroy Serrao

新入社員が入って約半年経ち、そろそろ仕事も一通り覚えてきた頃でしょうか。

自分が社会人になった10年前くらいと比べると、今の若い人達には転職や副業、起業など様々な選択肢がより身近になっていて、自分にあわないと感じたら既に転職エージェントと話を始めてしまっている人もいるかもしれないですね(笑)。

また、最近でこそ、ダイバーシティですとか、インクルージョンとか、男性や女性、LGBT問わず、区別しないようにという流れは出てきたように思います。

 

ところがつい先日、まだまだ日本企業で働く女性は、それほど自由な存在にはなっていないのかなぁと思うことがありました。

それは、最近までとある大企業に勤めていた女性の先輩とお話していた時のことです。

 

同じ企業で働き続けるかは別として、ダラダラとした目的意識で働き始める適当男子とは違い、女性には学生時代の頃から、結婚までのイメージ、結婚後のイメージを明確に持っている人が相対的に多いように思います。

 

大学を卒業して、いざ社会人になるのがだいたい22歳くらいだと思いますが、産休や育休はだいたい30歳前半だとしたら、キャリアに必ず一定時間空白が生じてしまう。だから、

・医療系の資格試験を取って、とにかく休み明けに復帰できる権利を確保しておく。

・最初から外資系でバリバリ稼いで、ある程度やりきった感を持って産休後はキャリアチェンジ。

・とりあえずベンチャーで経験を積んだ後は、福利厚生の充実した大企業へ転職して産休へ。

・若いうちは代理店等で遅くまで働いても体力が持つから、とにかく最初のスタートが肝心。

など、聞けば聞くほど、とてつもなく戦略的な女性の多いこと多いこと。

 

でも、それだけきちんとリアルに考えられているんだなと感心もさせられます。

同じ会社で働き続けるかどうか、転職するのにもヒト悩みするような弱い男子とは違うわけです(笑)。

 

充実していたワークが徐々に予想とは違う形で崩れる

そして、今回ご紹介したいのは、上記で挙げた例でいうと、1番最後の例に近い?女性についての話です。

職種は一般的にいうところの営業・コンサル職。

 

世間一般でいうところの大企業に属していた彼女は、夜遅くまで働くのはもちろん、同期や前後の同僚から見ても明らかに高いパフォーマンスを上げていました。

 

彼女自身、早い時期に結婚はしていたものの、子供が産まれて休まざるを得ない時期を想定。

それまでにできるだけ給料を引き上げておき、休んでいる際の実入り(給付等は給料に連動する部分が大きい)をいかに大きく出来るかということは意識していたと言います。

 

いくつかの仕事をローテーションし、やっとたどり着いた現在のコンサルティング業務は、自身にとっても大変やり甲斐がある仕事で、ノルマでさえ、その充実度を計る一指標でしかなかったと言います。

 

そうして、彼女はとうとう十数人を部下に持つマネジメント側に行きます。

とある金融機関で、30代男性が公募で支店長になったという例外はありますが、大企業で30代半ばでのその地位は、彼女のそれまでの仕事が評価されてきた事の比類なき証だったと言えます。

 

しかし、彼女にとっての不幸が始まったのはそこからでした。

マネジメント、管理とは往々にしてそういうものなのかもしれませんが、挑戦するというよりは、部下の事務処理の承認業務ばかり。

「こんな事務なんて、技術革新で近い将来無くなるのに、なんでこんなことに時間を使っているんだろう。」

疑問を感じ始めた彼女は、ずっと目をかけてくれていた役員にも相談します。

 

そこで言われたのは、「次は部長、その次は役員の可能性もある。失敗するわけにはいかないぞ。」

その言葉を聞いた時、彼女の中には大きな違和感が生まれました。

また、以前の業務へ携わりたいという気持ち、そしてこのまでは今後の未来がとてつもなくつまらないものになってしまうのではないか、という危機感が生まれたそうです。

 

そして、その後彼女はその企業を後にする決意をしました。

 

日本では、男性と女性でまだまだステージの違いがある

少し雑な議論になりますが、男女雇用機会均等法成立からも30年以上経った今でも、まだまだ男女の間にはステージの差があるように思います。

 

というのも、男性は何がしかの専門性を極める方向でのスペシャリスト職みたいな自由が広がってきている一方、

何がしかの専門職につきたい女性が、単に優秀というだけで望まないポジションに貼り付けられてしまうことが多々あります。

 

この背景には「女性の社会進出」というにわか目標があります。

つまり、優秀な女性であれば、すべてマネジメントへ登用したがる企業が多いのです。

しかし、これは、決して自由であるとは言えませんし、望ましい姿ではないでしょう。

 

今回取り上げた女性以外にも、優秀だという理由だけで望まないジェネラリスト的な管理業務をさせられそうになり、辞めた女性の友人は少なくありません。

もちろん、優秀な女性がマネジメントに登用されることは企業としても日本全体からも見ても望ましいことではあるのですが、それはその本人自身がその道を望んでいるかどうかが大前提かと思います。

 

さて、大企業を辞めた彼女自体はどうなったかといいますと、以前やっていた営業・コンサルティング業務を探す中で、海外での新たな業務にチャレンジすることになったようです。

常に挑戦する場所に自らの身を置きたい、そのような願いが叶ったみたいです。

 

日本の大企業には、まだまだ「古い出世の階段」しか存在しない

全ての日本企業がこのような状況になっているわけではないと思います。

ですが、柔軟に人を使えず、人を既存のポジションに当てはめていこうとする向きはまだまだ至るところに存在します。

企業は目の前の市場やお客さまへは迅速に対応しようとビジネスをしていますが、中の人の配置についてはまだまだ古い論理で動いているところも数多いようです。

 

そんな企業では、結局中での評価ばかりを気にすることになり、やがては企業全体がお客さまからはほど遠いところに行ってしまうかもしれません。

女性の待遇一つとっても、そんな事がよくわかります。

 

【著者プロフィール】

著者:ひろすぎ

30代、都内勤務の兼業投資家。

どうやったら普通の人がお金に困らない暮らしをできるかを模索し、自ら実験する日々。株、不動産をはじめ、いくつかの事業を展開。趣味はお散歩とお酒、旅行です。

(Photo:Pietro Motta

最近、パワハラについてのひどいニュースを頻繁に目にする。

提訴「借金負わされ 給料未払い」 社長パワハラ 元従業員遺族ら

求人サイト運営会社の元従業員2人と、自殺した従業員の遺族が「社長に借金を背負わされた上、それを名目に賃金が支払われず、パワハラも受けた」として、会社側に未払い賃金や慰謝料など計約8800万円の支払いを求める訴訟を17日、東京地裁に起こした。

(毎日新聞)

16歳アイドル自殺、遺族が提訴 会社側はパワハラ否定

松山市を拠点とするアイドルグループで活動していた大本萌景(ほのか)さん(当時16)が自殺したのは、過重な労働環境やパワハラなどが原因だとして、遺族が12日、所属していた会社「Hプロジェクト」(松山市)などに計9200万円余りの損害賠償を求める訴訟を松山地裁に起こした。

一方、会社側はパワハラなどを否定し、法的責任はないと反論している。

(朝日新聞)

2つの事件ともに共通するのは暴言、過重労働などの非人間的な扱い、そして、加害者側の「パワハラ」という意識の無さだ。

彼らはこれらの発言を「業務上正当」と感じていたのだろうか。

 

知人は「これはパワハラと呼ぶよりも、単なる犯罪行為では?」と言っていた。

 

もちろんパワハラは卑劣な行為である。

だが、「パワハラ」と「犯罪行為」は、どれほど違うのだろうか。

 

パワハラまがいのことは、どの会社でも普通に存在している

私は、多くの会社に出入りしてきたので、あらゆる業種の、あらゆる場所で「パワハラらしきもの」が行われているのを見聞きしてきた。

 

ある会社では、営業リーダーがパワハラ上司だった。

「お前、ふざけんなよ。やれっつったことをなんでやんねーんだよ。あ?」

「……申し訳ございません……。」

「申し訳ございませんじゃねーよ。あやまんなくていいから、さっさとやれよ。何回言わせんだよ。」

「……はい。」

「あとその髪。非常識だろ。馬鹿かお前は。」

「……」

「仕事する気あんのか!ったく……。」

 

別の会社の経営会議では、副社長が大勢の前で、管理職の一人にこんな事を言っていた。

「すみませんが、3ヶ月経ってこの進捗とは、本当に仕事をしていたのですか?」

「報告のとおりです……。」

「報告って言ってもね、こんな仕事なら2年目のペーペーでもできますよ。」

「……。」

「一応理由を聞きましょうか。」

「は、同時に採用活動もあり、なかなか時間を割けていませんでした……。」

「あなた課長でしょう?」

「は、はい。」

「時間を割けてない、なんて言い訳が通じると思ってないでしょう? まさか。もう一度平社員からやりなおしますか。ねえ。」

「……しかし、採用で1日中拘束されていると、なかなか厳しい……」

「そう言う事を言ってんじゃないです。姿勢の問題です。姿勢の。」

「……といいますと……」

「あなたは本当に能無しですね。そんなこと自分で考えてください。」

 

上に挙げた話。

「この程度パワハラじゃない」という方もいるかも知れないし、さぞかしブラックな会社のことかと思う方もいるだろう。

実際、上はごくごく普通の企業での話だ。

ネット上で特に悪い噂もない。

 

要するに、現実は「パワハラまがいのことがまったくない会社のほうが珍しい」のである。

 

パワハラとは何か。

厚生労働省のページを見ると、パワハラの定義について書いてある。

職場のパワーハラスメントとは

職場のパワーハラスメントとは、同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内での優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為をいいます。

またこのサイトでは、具体的なパワハラの類型について、下のように掲載されている。

だが、図の下にもある通り「何が業務の適正な範囲を超えているかについては、業種や企業文化の影響を受ける」とあり、厳密に何がパワハラなのかを決めることは現在でも議論になっている。

パワハラ認定「広げろ」「絞れ」 定義めぐり労使激論

職場のパワーハラスメント(パワハラ)対策を議論する労働政策審議会(厚生労働相の諮問機関)の分科会で、パワハラの定義をめぐる議論が労使で激しくなっている。

17日の会合では、労働者側が上司だけでなく同僚や部下も加害者になり得ることを明確にすべきだと主張。一方、経営者側は拡大解釈されないよう絞り込むべきだと訴えた。

何がパワハラに当たるかの定義は、パワハラ対策のあり方を議論する上での土台となる。ただ、こうした定義はまだ定まっていない。

(朝日新聞)

とどのつまり、多くの経営者側の言い分は、こうだ。

「暴行や法律違反は論外だが、やるべきことをやらない従業員に対して、正当な要求をしているだけである。」

 

確かに経営者側の危惧も理解できなくはない。

会社には確かに、「弱い立場を利用する人」や「フリーライダー」がいるからだ。

「パワハラだ」をすべて鵜呑みにすると、フリーライダーの跋扈を許すことにもなりかねない。

 

だから現在「パワハラかどうか」は冒頭のようなよほどひどいものは別だが、「常識」ではパワハラかどうかの判断がつきにくい。

ここが、問題を極めて難しくしている。

 

パワハラをする人の気持ち

私は「パワハラまがいのこと」をする人に、よく話を聞くことにしている。

一体なぜそんなことをするのか、根本を知らなくては対処が不可能だからだ。

 

するといつも、私は彼らの驚くほどの純粋さに、圧倒される。

どういうことか。

パワハラをする人を動かす原動力は極めてシンプルで、迷いがないということだ。

 

まず、「会社のため」「本人のため」などの、大義名分があること。

これは、「怒っているオレ(アタシ)」には、怒るべき大義があるのだから、手段は問われない、という言い訳を作ることに役立っている。

 

そして、「努力」への過剰な信奉。

努力すれば誰でも何かを達成できる。逆に言えば、達成できないのは努力が不足しているからだ、という論理。

 

最後に、「悪は罰されなくてはならない」という強い信念。

パワハラをする人は(時に自分を棚に上げて)不正(と自分が思うこと)を厳しく見張っている。

 

だが上の行動は多くの場合、実は正義の実現という高邁な目標のためではなく、「他者を罰することが気持ちが良い」からやっているのだ。

パワハラ上司の根本的な問題は、そこにある。

 

作家の橘玲氏は、著書の中で次のように述べている。

ところで、正義とはそもそもなんだろうか。

古来、あまたの思想家・哲学者がいろんなことを語ってきたが、現代の脳科学はこれを1行で定義する。

「正義は快楽である」。これだけだ。

復讐はもっとも純粋な正義の行使で、仇討ちの物語はあらゆる社会で古来語り伝えられてきた。脳の画像を撮影すると、復讐や報復を考えるときに活性化する部位は、快楽を感じる部位ときわめて近い。

道徳的な不正を働いた者をバッシングすることは、セックスと同じような快楽をもたらすのだ。 ドーパミンはヘロインやコカインの中毒症状の原因となることで知られており、ラットは(ドーパミンを放出する)脳の報酬系に電気的な刺激を与える装置のボタンを餓死するまで押しつづける。

同様に道徳に反した者を罰すると、それを見ただけで脳からドーパミンが放出される(*)。

[amazonjs asin="4022730927" locale="JP" tmpl="Small" title="朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論 (朝日新書)"]

これらのことを加味すると、「パワハラ」の自覚は極めて困難であることがよく分かる。

主観的には、「会社と本人のため」であり「努力せよ」であり「怠けているやつは罰しろ」だからだ。そして、それは気持ちがいい。

 

彼らにとっては論理は一貫しており、何一つ問題はない。

むしろ「パワハラだ」と責められることが不思議でしょうがない、というのが実態だろう。

 

冒頭の疑問に戻ろう。

「パワハラ」と「犯罪行為」は、どれほど違うのか。

犯罪行為は、本人は「良いことをしている」とは通常、思わない。

だがパワハラは逆で本人は「良いことをしている、正義はこちらにある」と感じているのだ。

 

この「正義の戦い」ほど厄介なものはない。

前述した橘玲氏は次のように書いている。

正義依存症はもちろんネトウヨだけではない。

「反安倍」や「反原発」でえんえんと呪詛の言葉を書き連ねるのも同じだし、女性タレントの不倫から男性ミュージシャンの不倫を暴いた週刊誌まで、匿名の「正義」を振りかざす機会をさがしてネットを徘徊するのも同類だ。

ネットメディアの世界では、もっともアクセスを稼ぐ記事が有名人のゴシップ(噂話)と正義の話だというのはよく知られている。「こんな不正は許せない」という話にひとはものすごく敏感だ。

だから、ヘイトスピーチをする人々も、不倫を思い切り叩く人々も、大義名分を掲げて何かを叩く人は、すべて「パワハラ予備軍」である。

 

正義感が強い人は、怒りの閾値が低く、沸騰しやすい。

時代が時代なら「悪人はぶっ殺していい」と涼しい顔をして言うのである。

それが「パワハラをする人たち」の正体だ。

 

パワハラ上司に対して、どう対応するか

以上の事実より、残念ながら、和解の道は極めて厳しい。

パワハラ上司が心を入れ替えた、という話は残念ながら寡聞にして知らない。

 

聞くのは「パワハラ上司が告発されて追い出された」もしくは「パワハラに耐えかねて辞めた」のどちらかだ。

いつの世でも、正義と正義の戦いは永きにわたって続く。

 

先日、高須賀さんがこんなことを書いていた。

正義の心で怒る人たちは、なぜ幸せになれないのか。

もちろん、改善できない時もあるだろう。もしそうなったら、今度は自分の力でスタコラサッサと逃げればいいのである。

怒りに飲まれ、正義の感情の名のもとに内情を告発するなどして相手と戦っても、多くの場合においていいことなんて一つもない。

私も同感である。

 

「パワハラ上司」には、とにかく耐えない、戦わない。とにかく逃げる。

先輩がパワハラなら、チームを変えてもらうこと。

部長、課長がパワハラなら、違う部署への異動を願うこと。

社長がパワハラなら、すぐに転職することだ。

 

それが今のところの「悪しき正義」との戦い方だ。

 

 

*Tania Singer, etc.( 2006)" Empathic neural responses are modulated by the perceived fairness of others." Nature

 

◯TwitterアカウントBooks&Apps(最近改めて、Twitterはいい。)

◯安達裕哉Facebookアカウント (安達の記事をフォローできます)

Books&Appsフェイスブックページ(Books&Appsの記事をフォローしたい方に)

◯ブログが本になりました。

[amazonjs asin="453405517X" locale="JP" tmpl="Small" title="仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?"]

[amazonjs asin="4534053002" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

 

(Photo:Rachel Clarke

つい先日、東京でいくつかの「ビジネスセミナー」に参加してきました。

実りの多いセミナーもありましたが、正直微妙なものも。

 

そこで改めて「なんでビジネスセミナーに参加してるんだっけ?」と振り返ってみると、いろいろと思うことがありました。

 

 

まずセミナーに参加したいという動機は、わかりやすいところから挙げると

◎ 専門家のノウハウを学べる

◎ サクセスストーリーの内部の裏話が聞ける

◎ 事例を知ることができる

◎ 今勢いのある起業家・実業家の未来考察に触れることができる

◎ 懇親会やアフターパーティーで同じ思考性の人と繋がれる

と言ったところでしょうか。

書籍同様、初動のきっかけにもなりますし、何より気持ちがアガるので、私もテーマによっては参加しています。

ただ一方で、「なんて無駄の多いシステムだ」と思わざるを得ません。

 

双方向で学びが進むアクティブラーニングであれば、「現場にいること」の重要性がまだ理解できるのですが、従来のビジネスセミナーに対しては参加するメリットが陳腐化しつつあります。

 

1.そもそも、会場にわざわざ行く必要がない。

「出勤しなきゃダメ?」に近い意味合いです。

そもそもの話、わざわざ現地に足を運び一定時間拘束される必要性はないと思うんです。

 

仕事やプライベートのスケジュールを調整して、移動時間まで費やす。これって「今の学習スタイル」にマッチしてないですよね。

つまり、その場でアウトプットする必要がなければ、オンラインで充分ってことです。

 

ただ、オンラインであれば何でもOKというわけでもなく、隙間時間に利用しやすいかどうかも重要ではないかと思っています。

例えば 内容はともかく「グロービス学び放題」などのweb動画サービス であれば動画のひとつが長くても10分程度。仕事や生活の隙間時間にピタッと収まります。

 

コンテンツボリュームが大きすぎると、今のライフスタイルと競合します。

雑誌が売れなくなったのも、根源は同じ問題。雑誌くらいの深さであれば、ひとつのテーマに対して総体的に読む時間なんてないわけです。一部を切り取ったweb上のコンテンツ(記事)の方が読みやすいんですよね。

 

2.著名人の話だからこそ「セミナー」である必要はまったくない。

「いや、そうじゃなくて著名人の話を聞く機会なんてそうないじゃん」

と言う方もいそうですが、有名企業の経営者や実業家の話を聞く方法はいくらでもあります。というよりも、それこそオンライン上にゴロゴロ転がっています。本もたくさん出ている。

 

また、オンラインでもクローズドなところ、例えばSNSのコミュニティであったり、ニュースアプリの有料プランなどに入れば、更に情報は数多くあります。

ライトなもので言えば、NewsPicksの有料会員になるだけでも今ビジネスシーンで第一線を駆け抜けている方の情報がわんさか転がっています。

加えて動画コンテンツもあるので「この人の話聞きたい」も簡単に手に入ります。

 

少し極論ですが、そう捉えると“知っているか知らないか”の問題なので、ビジネスセミナーがあたかも「情弱ビジネス」のようにも感じてきます。

まぁ、一部では無きにしも非ずな気はしますが。。。

 

3.懇親会での人脈づくりって、本当に効果ありますか?

ビジネスセミナーでの懇親会・アフターパーティーについて。

ここを売りにしているセミナーは世間的にすごく多いですが、はっきり言って懇親会での「人脈づくり」は超非効率です。

 

参加者は学びを目的としてセミナーに来ているため、共感力は高いのですが「学びに来ている人」がメインなので、そこに自分の求める人物はいません。

人脈に対する考え方は、The Breakthrough Company GOの三浦さんが新R25で言及していました。

“人脈”なんて言葉を使ってるヤツはクソ。#三浦崇宏の人脈論|新R25 - 20代ビジネスマンのバイブル

“会うべき人間になる前に会ってもしょうがねえんだよ”

“「○○さん紹介するよ」っていうのは、基本全部断ってる”

“結局のところ、ファンとして会ったら終わりなんだよ”

“『BLEACH』の藍染惣右介も「憧れは理解からもっとも遠い感情だよ」って言ってたじゃん”

“人に会いたいがためにオンラインサロンとか入っているやつはクソだろ!”

結局のところ、受け身で交流に参加しているうちは意味がない、ということ。

もちろん、そこから繋がる交流もあるとは思いますが、ビジネスセミナーの場合、出会いの場としての純度は極めて低いと思っています。

 

また、そもそも論として懇親会・アフターパーティーで「自分から面白い話が出来ない」時点では参加しても意味ない、と思うのです。

その前にやることあんだろ!と。

 

4.「ビジネスセミナーに参加しているオレかっこいい」に溺れる

結局コレなわけです。

参加することが目的になった人、写メを撮ってタグ付けしたい人、ただのミーハー(登壇者のファン)に加え、学ぶ環境が目の前(オンライン上)にあるのにスルーをしてきた人、この人達がビジネスセミナーに参加しているわけです。

 

何かのきっかけを求めてセミナーに参加しますが、そこに答えはありません。解答例はありますが答え合わせは「現場」です。

そうなってくると、もはやなぜ参加しているのか?

それは単なる

「ビジネスマン“らしく”あるためのファッション」にすぎない。

そう思うのです。

そして、セミナー好きであるからこそ感じる、今の時代にあえてビジネスセミナーに参加することは「消耗」と同義ではないのかと。

 

 

🕺🏻丸山享伸

Web制作会社(UNIONNET Inc.)代表。「はたらくを楽しく」したい“小さな会社の経営者”として本音をつぶやいたり・書いたりしています。

ツイッターでも同じようなことをつぶやいているので、興味のある方は気軽にフォローしてくださいね。

twitter ▷ @maruyamana1984

Books&Apps ▷ https://blog.tinect.jp/?author=13057

(Photo:ninniane)

土曜日、大学生の時に入っていたセクシュアル・マイノリティサークルの就活セミナーに行ってきた。

LGBT就活セミナー」という名の集いだが、企業がバックについているような、いわゆる“就活イベント・採用イベント”とは異なり、卒業生が会社とは関係なく完全に個人として講演するセミナーである。

企業が絡んでいないので、より実態に近い話が聞け、プライベートな話やぶっちゃけトークなどもあったりして、非常に面白い。

 

私は学生ではないので就活のために参加したわけではなく、かと言って卒業生として講演するために参加したわけでもなく、ただ久しぶりにサークルの人たちに会いたかったのと、いろんな人の話を聞けるのが楽しみで参加した。

 (実はこのイベントは2回目の開催で、1年前に参加した時に考えたことは次のリンク先の記事で綴っている。

メッセージを伝える際に気をつけようと思ったこと。

 

☆★☆

 

さて、セミナーの講演で考えさせられたことがあるので、以下で書いていきたいと思う。

 

最初に結論を言ってしまうと、「スキルを身につけること」や「仕事で成果を出すこと」は大事だという身も蓋もない話になる。

ただ、これらはよくポジティブな意味で語られるが、今回の講演では「スキルを身につけて市場価値の高い人間になろう」とか、「成果を出し続け、成長しよう」といったことではない。

≪自分の身を守るため≫といういわばディフェンシブな意味において、非常に大切だと感じた、というのがポイントだ。

 

まず、スキルについて。

もちろん、どんな人でもスキルがあるに越したことはないのは事実だ。だが、LGBTがそうでない人と違うのは、カミングアウトをしたときのリスクを負っているという点にある。

 

会社の人に対してカミングアウトをする場合、どのように受け止められるかはしてみないとわからない。

「絶対に受け止めてもらえない」という環境でカミングアウトをする人はあまりいないだろうから、大抵はある程度大丈夫だという思いがあってする。

だが、それでもカミングアウトをして居心地が悪くなるリスクは完全にゼロではない。

 

そう考えると、スキルを身につけてからカミングアウトしたほうが安心だ。もし居心地が悪くなったら、その会社にしがみつくのではなく、転職すればよいのだから。

 

そしてもう1つ、仕事で成果を出すことの重要性について。

「成果が大事なんて、当たり前のことじゃないか」と言われるかもしれない。

それでもあえて取り上げたのは、セミナーで出てきた「実績がないうちにカミングアウトするより、仕事で認められてからカミングアウトしたほうがリスクが少ない」という意見に納得したからだ。

 

仕事で成果を出していれば、どんな人間だろうと、誰も文句は言わない。

私が勤めている会社も、特別にLGBTフレンドリーな会社というわけではないけれど、「仕事さえしてくれれば性的指向や性自認は何であっても構わない」というスタンスなので、近いものを感じた。

 

もちろん、理想を言えば仕事ができるできないにかかわらず、性的指向や性自認は否定されるべきではない。これは前提としてある。

特に、世間に訴え、社会を変えていこうと活動する場合においては、理想に向かって進んでいくことに大きな意義があると感じている。

 

しかし一方で、社会を変えていくのではなく、今目の前にある問題をどうするかという個人的な話になった場合、理想と違う現実に苦しむのは避けたいところである。

何の戦略もなしにカミングアウトをして、受け入れてもらえなかったとき、傷つくのは他でもない、自分なのだ。

 

私は今の会社で働く前からバイセクシュアルであることをオープンにしていたので、成果を出さないうちからカミングアウトをしていたような状態だったが、幸いにも居心地の悪さは感じていない(そう確信していたからこそ、この会社を選んだというのもある)。

しかし、すべての会社がそうであるとは限らない。そう考えると、リスクを極力減らすという点で、仕事で実績ができてからカミングアウトをするという戦略は非常に有効であると感じた。

 

思うに、LGBTに限らず、「人と違うこと」を受け入れてもらうためには、それ以外の部分で認めてもらっていることが条件になってくるのではないだろうか。

昨今の日本では「自分らしく働くこと」や「ありのままの自分でいられる場所」の価値が高くなってきており、それ自体は良い流れだと感じているのだが、逆の立場、つまり「あなたらしさ」や「ありのままのあなた」を受け入れる側の立場になって考えてみると、「そんなことはどうでもいいから、とりあえず仕事してくれる?」と言いたくなるのも、よくわかる。

 

それならそうと割り切って、まずは仕事で認めてもらい、その上で“自分”を出していった方が、余計なリスクを回避できるだろう。

もちろん、繰り返しになるが、仕事の実績にかかわらず、セクシュアリティを含め「人と違うこと」は差別の対象となってはならないし、否定されるべきではないということは前提としてあり、あくまで自分へのダメージを減らすための戦略としての話をしている。

 

☆★☆

 

正しいことを言っていても、受け止めてもらえないことはいくらでもある。

嘆いていても仕方ない。

そう感じることが増えてきた。

 

今はLGBTがある種のブームになっているようにも感じられ、社会の流れとしても段々とカミングアウトしやすい環境になってきていることは間違いない。

 

とは言っても、差別や偏見が完全になくなることは残念ながらないだろう。自分にとって理想的な社会でないのなら、スキルを身につけ、仕事で成果を出すことが、言い方は悪いかもしれないけれど「社会と折り合いをつける」ための最も簡単で有効的なやり方と言えるのではないだろうか。

成果ほど説得力のあるものは、たぶんなかなか見つからない。

 

そしてこれはLGBTに限った話ではなく、誰にとっても言えることなのだと思う。

 

 

【著者プロフィール】

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

【著書】

「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

[amazonjs asin="B00U1C923I" locale="JP" tmpl="Small" title="[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」"]

LGBTBです」(総合科学出版、2017710発売)

[amazonjs asin="4881818619" locale="JP" tmpl="Small" title="LGBTのBです"]

Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

(Photo:Carsten ten Brink