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「ただの愚痴じゃん」と言われたらそれまでなのだが、ちょっと聞いてほしい。

 

あの……在宅勤務って、いつまでやるんですか……?

 

去年の春先から約半年間、夫が在宅勤務していた。

もちろん、コロナの影響だ。

6月から出社に戻ったものの、感染者増大を受け、11月から夫がふたたび在宅勤務をするようになった。

 

3月に『夫がリモートワークを始めたら、こっちの仕事がはかどらなくなった。』という記事を書いているが、2度目の在宅勤務でもその気持ちは変わっていない。

むしろ、強くなったくらいだ。

 

いったいいつまで、夫婦在宅勤務を続けるんだろう……?

 

くつろぐための家で、急に「お仕事してください」っていう在宅勤務は無茶振り

前回の在宅勤務のとき、「置く場所がない」と持て余していた夫の仕事用パソコン。

とりあえず140cm幅のデスクを注文し、それをリビングに置いて一時的な仕事場としていた。

 

が、在宅勤務も2回目。

話し合いの末、わたしの仕事部屋を夫に譲ることが決まった。

 

わたしはノートパソコンひとつあれば仕事ができるけど、夫はディスプレイ2つとノートパソコン、時折紙の資料も使う。電話も多い(個室のほうが都合がいい)。

夫のほうが労働時間が長いし、家事もわたしがメイン。

そのうえわたしは、午後ときおりリビングでゲームをしている。

 

順当に考えれば、わたしが新しく注文したデスクで原稿を書いて、夫がわたしの仕事部屋でやるのがいいだろう。

というわけで、仕事部屋を譲った。

いまは、デスクチェアは夫用の高さで固定、マウスは左利きの夫に合わせて左側に、デスクにはわたしが飲まないコーラの缶が並ぶ。

 

いや、納得はしてるよ!

限りあるスペースを分けあって仕事をするしかない現状、しょうがないもんね!

だれかが悪い訳ではないし、仕事部屋がひとつあるってだけでもラッキーだと思うべきだよね!

 

でも……。

 

リビングじゃ全然仕事がはかどらないよ!

ダイニングチェアだと腰が痛いよ!

印刷するたびに夫に許可取ってパソコンをつなぎ直すの面倒くさいよ!

自分の休憩のときふらりとリビングに来て犬と遊ぶのやめて!

 

わたしはもともと在宅ワーカーとはいえ、夫婦そろって在宅勤務するなんて想定はまったくしていなかった。

急に「みんな家で仕事してください。成果はオフィスワークと同じくらい出してね」って言われても、全家庭がそれに対応できるわけじゃないんですよ……。

 

家事を相手の都合に合わせてやるのは結構ストレス

そしてやはり立ちはだかるのが、家事の壁だ。

夫は仕事柄電話が多く、こっちが掃除機をかけてても夫が電話をはじめたら一旦手を止めなきゃいけない。

いつ終わるかわからない電話を待ちつつ、手持ち無沙汰で犬とたわむれる。

 

いままで洗濯物は仕事部屋に干していたけど、夫は部屋の湿度が上がって嫌だと言う。

家事は午前中に済ませたいけど、洗濯だけは16時以降にして、夫が仕事を終えてから干すことにした。

スーパーの買い出しに行くとき、「11時に出発」と言ってても、夫が忙しくなると30分、1時間と伸び、お昼ご飯も遅くなっていく。

わたしは11時に合わせて予定を立てていたから、予定が全部狂うのだ。

 

もちろん、夫は悪くない。

お仕事がんばってくれてるのもわかってるし、向こうもわたしの都合に合わせてくれたりもするから、お互い様だ。

 

うん、わかってる。

わかってはいるんだよ……。

 

でもいままで自分のペースで自分のやり方で家事を回していたぶん、自分がコントロールできない他人の都合でやり方を変えなきゃいけないって、かなりのストレスなんだ……。

 

お互い在宅勤務のはずが、気づいたらわたしが専業主婦化している

夫が在宅勤務になってから、わたしの仕事時間が減って、家事をする時間が増えた。

まぁ家にいる人間の数が増えれば家事も増えるから、当然といえば当然である。

夫はサラリーパーソンだから、フリーランスのわたしが合わせるのも当然。

 

でもそうなると、お互い家で仕事しているはずなのに、いつのまにか夫側の仕事の都合が優先されて、わたしがどんどん専業主婦化しているのだ。

家事をすること自体はいいし、週3回ハヤシライスでも、毎回夫は「おいしい!」とおかわりしてくれる。

だからそこまで負担はないんだけど。

 

でも、なんだかこう……

「わたしも働いてるのになぁ」って気持ちになっちゃう。

 

いままで共働きでやっていた夫婦も、いきなりお互い在宅勤務になって、いつのまにか「家でバリバリ働く夫と、それに合わせて家事をして自分の仕事があまりできてない妻」って構図になってるところも多いんじゃないかなって思う。

もしかしたら、在宅勤務で一番大きな影響を受けたのって、社会全体や企業よりも、各家庭なのかもしれない。

 

在宅勤務で一番影響があるのは、社会や企業じゃなくて家庭

想定外に夫婦が両方在宅勤務になると、

「まったくちがう仕事をしている人間と、くつろぐ空間である家で、増加した家事をこなし、仕事はこれまでどおりの結果を出す」

ことが求められる。

これが結構な無茶振りで。

 

もちろん、お互いがうまいこと協力して仲良くやるのが理想ではある。

でも現実問題、家で仕事ができるスペースなんてかぎられてるから、「どちらか優先」になりがちだ。

 

で、増えた家事はだれがやるの?って話になったら、しぜんな流れで、もともとメインで家事をやってたほうの負担になるわけで。

どの国でも、男性のほうが収入が高く女性のほうが家事時間が長い傾向にあるから、しわ寄せがだれにいくかと考えると……あとはわかるな?

 

改めて考えると、それって大問題だよね。

仕事に集中できない家庭環境、さらに増加した家事まで抱えていままでどおり働けず、それなのに「これだから女は仕事ができない」なんて言われちゃ、たまったものじゃない。

 

もちろん、メインとして働いている側もできるだけ協力しているだろうし、

「忙しいのに家事をやれって言われる」

「もう十分手伝ってる」

「こっちのほうが稼いでるんだから」

という不満もあると思う。

 

だから、どちらが悪いってわけではないんだ。お互い様。

ただ、夫婦そろって在宅勤務になったことで、収入が低く家事をメインでやっている側(高確率で女性)が気づいたら専業主婦/主夫状態になってる家も多いんじゃないかなって。

家庭内の出来事はなかなか顕在化しないぶん、そこに少し注目してもらえたらうれしいなぁ、と思う。

 

在宅勤務にメリットがあるのもわかる。

でも「在宅勤務=場所を変えただけ。ふつうに働ける」と認識しているとすれば、それは家族のだれかが負担を引き受けてくれているだけだ。

このご時世しかたないとはいえ、状況が落ち着いたら、我が家は「オフィスのほうがお互い集中して働けるね」って結論になる気がする。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

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「当事者意識を持て!」という説教を、上司からされたことはないだろうか。

どんなことでも他人事だと思わず、自分ごととして真剣に取り組めというような意味で使われることが多いようだが、私はこの言葉が大嫌いだ。

部下に対しこの説教をする上司は、どうしようもないとすら思っている。

社員が当事者意識を持てるかどうかは本人の問題ではなく、上司や組織の問題だからだ。

 

この考えが確信に変わったのは、大阪の中堅メーカーで事業再生担当の取締役を担っていた時だった。

事業再生の現場は、本当に過酷だ。

経営危機の中にあっては、昇給の凍結など当たり前。

それどころか、給与の一律カットに従業員の削減、経費の切り詰めなど、ステークホルダーからの要求は全く容赦がない。

 

さらに、頑張れば将来業績が上がり会社も自分も良くなるという希望を持つこともできないので、社員たちはゴールのないマラソンを強要されるようなものである。

当然のことながら、そんな環境は社員の心身をどこまでも追い込み、心が荒む。

 

そんな状況が1年、2年と続くと、その問題は形になってあちこちから吹き出す。

ある若手社員は、取引先から現金で回収した200万円余りを持ったまま、ある日突然、行方不明になってしまった。

経営トップはもちろん激怒し、警察に届けるというが、

「まずは弁済させることを考えましょう。信頼関係を最初に傷つけたのは会社の方です。」

と説得し、翻意させる。

 

ある退職した社員は会社に恨みを募らせ、同業他社に再就職後、同社から会社のサーバーに不正アクセスし情報を抜くという事件をやらかしたこともあった。

この際も経営トップは激怒し警察に届けると言い張ったが、私は独断で彼に連絡を取り、

「お前のやったことは全部、アクセス記録で把握している。今すぐウチにきて、全てを話して詫びを入れろ。」

と、“温情”をかけた。

 

この時はさすがに、経営トップに激しい口調で叱責されたが、

「彼を追い込んだ責任は、会社にもあります。」

と、主張を譲らなかった。

 

極論を言うようだが、ここまで士気が崩壊しているグダグダの会社で、もし上司から、

「仕事には当事者意識を持て」

などと説教をされて、マジメに聞ける人はいるだろうか。

 

給与は同世代の最低水準で、さらにそこから一律カット。

休日は法律ギリギリの最低限のみ。

サービス残業は当たり前。

将来に夢を持つこともできず、希望もない。

 

当事者意識を持つどころではない。

会社がそこまで自分たちのことを考えてくれないなら、穏便に辞めるのなどまだマシな方だろう。

中には、「自分の人生を傷つけられた分、会社から少しでも取り戻さないと損だ」と考え、横領など不正行為に走るものが現れるのは、容易に想像がつく。

 

人は誰だって、自分を大事にしてくれない相手のことを、大事にしようなどと思わない。

つまり、社員が仕事に対し当事者意識を持てるかどうかは全て会社の責任であり、会社次第ということだ。

 

なぜ仕事を頑張れるのか

話は変わるがもう10年ほども前、サントリーの社員と過ごした30分ばかりの思い出深い旅がある。

「桃野さん。ウチではね、昼間から酔っ払ってないと仕事をサボってるって怒られるんです(笑)」

 

彼との出会いは、近鉄電車の車内だった。

近鉄特急の2階建て車両は1階部分が団体専用の個室になっており、6人が半円に座れるちょっとしたパーティールームみたいなつくりになっている。

 

そしてこの個室、以前は特急料金さえ支払えば、一人でも普通に利用することができた。

その気になれば座り心地の良いソファーに寝転ぶこともでき、昼間っから車内酒を呷るには最高の環境だ。

そのためその日も、出張の予定が早めに終わった私はビールを片手にソファーに深く腰掛け、車窓に流れる風景を楽しんでいた。

 

するとそこに、昼間っからビールを片手にしたスーツ姿のオッサンが、停車駅から乗り込んできてしまった。

席は6人仕様なので、当然のことながら残り5席分の指定席は誰でも買える。

 

しかし半円の個室ということもあり、これがものすごく気まずい。

おそらく相手も、この個室を独り占めするアテが外れたんだろう。

見知らぬオッサン同士が斜向いに、無言で缶ビールを傾ける生ぬるい空気が流れる。

 

そして何度か目が合い、お互いの口元が緩んだ時、先に口を開いたのはオッサンの方だった。

「お邪魔しちゃって、なんか申し訳ありません・・・」

「いえいえ。黙ってても気まずいので楽しくやりましょう。」

 

「ありがとうございます。いつも昼間から飲んでるんですか?」

「いえいえ、今日は出張帰りですので特別です。」

 

「そうなんですね。私は日によっては、朝から飲んでますよ(笑)」

(・・・やべえ。こいつ仲良くしちゃいけないヤツかも。)

 

驚きが顔色に出てしまったのかも知れない。

「実は私、サントリーで営業をしてるんです。」

オッサンは慌てて自己紹介を始め、名刺交換会が始まってしまった。

 

「あ、そういうことなんですね、よかった(笑)。スーツ姿の紳士でいらっしゃるのに、昼間からモルツを飲んでるわけです。」

 

「桃野さん。ウチではね、昼間から酔っ払ってないと仕事をサボってるって怒られるんです(笑)」

「どういうことですか?」

 

「例えば、生ビールの味がおかしいって居酒屋さんからお叱りの呼び出しを受けるのは、営業時間前です。当然、昼間から駆けつけますが、味を確認しないわけにはいかないじゃないですか(笑)」

「あー、なるほど・・・」

 

それにしても、仕事で酒を飲み、次の仕事先に移動する電車の中でも缶ビールを飲むとはなかなか「仕事熱心」だ。

その理由を問うと、

「私が取引先で飲むのは、何らかの理由でエラーが出てしまった酒です。だから移動中に、正しい酒で舌をリセットしてるんです。」

と笑った。

 

もちろん、お酒のことなので健康の問題もあるし、今も同社がこのような営業をしているのかを私は知らない。

しかし食品メーカーの研究開発部門では、四六時中、開発中のサンプルを食べるのはザラだ。

丸亀製麺で、全国のうどんの味に責任を持つ麺匠・藤本智美氏は毎日多くの店舗を廻り、来る日も来る日も朝から晩までうどんを食べ続けているそうだ。

 

そのような仕事は、当事者意識どころか本当に仕事が好きでなければ、とてもやってられないだろう。

オッサンもとても楽しそうに酒を飲み、またその後も楽しそうに、酒の雑学をたくさん聞かせてくれた。

その目は心から仕事を楽しんでおり、こちらまで元気がもらえるほどであった。

 

そういえば、サントリーの企業理念は「チャレンジ精神」で、創業の志は「やってみなはれ」である。

これは創業者・鳥井信治郎の口癖で、今も全社員のカルチャーとして大事にされているそうだ。*1

 

チャレンジしようとする心意気や、「まずはやってみよう」という前向きな力は、充実した心身からしか生まれてくるものではない。

「当事者意識を持て」などという、的外れで押し付けがましい説教とは無縁だ。

サントリーの強さを肌感覚で教えてもらった出会いとして、今も思い出深く心に残っている。

 

「当事者意識」とは「利益の一致」の別称

話は冒頭の、私が取締役をしていた会社の話についてだ。

当時、法律を犯すような行為をした社員や元社員を警察に突き出すという経営トップになぜ私が異議を唱え続けたのか。

 

正直、当時は漠然と「それでは問題解決にならず、事態を悪化させる可能性がある」と、目先の問題を見ていたように思うが、今から思うと少し違う。

従業員との信頼関係を先に壊し、心を折ったのは会社であり、その上でなぜ一方的に警察に突き出せるのかという違和感だ。

 

もちろん、社員と誠実に向き合い、経営者として信頼に応えていた上での裏切りなら、私だって絶対に容赦はしない。

しかしあの局面では、全くそうではなかった。

 

ホンダの創業者である本田宗一郎はたくさんの心に刺さる言葉を遺しているが、その中に以下のようなものがある。

 

「私はいつも、会社のためにばかり働くな、ということを言っている。

君たちも、おそらく会社のために働いてやろう、などといった、殊勝な心がけで入社したのではないだろう。自分はこうなりたいという希望に燃えて入ってきたんだろうと思う。

自分のために働くことが絶対条件だ。一生懸命に働くことが、同時に会社にプラスとなり、会社を良くする」*2

 

意味のない美辞麗句ではなく、リアリストらしいとても現実的な言葉だ。

そしてこれこそが、本当の「当事者意識」だろう。

当事者意識とは、命令されて持つものではなく自然発生的に湧き上がるものであり、そのためには「自分のために働くことが絶対条件」である。

 

サービス残業に理不尽な業務命令・・・

そんな状況で誰が、会社のことを自分ごととして考えられるものか。

 

もし、「部下や社員の当事者意識が足りない」と悩んでいる経営者や組織の長がいるのであれば、ぜひ考えて欲しい。

部下や社員が当事者意識を持っていないのでれば、それは「自分のために働いている」実感を持てないからだ。

そんな時は、「当事者意識を持て!」と叱責するのではなく、「会社や私に足りないものを教えて欲しい」と、語りかけるべきである。

 

*1 サントリー「採用情報」
https://www.suntory.co.jp/recruit/direction/

*2 HONDA「Honda ISM」
https://www.honda-recruit.jp/about/hondaism.php

 

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
去年の今頃、仕事で旭川に出掛けたのですが、余りの寒さに冬山用防寒着を着込んでも震え上がってしまいました。
通りでは、子どもたちが素手で雪遊びをしていました。
人間の環境適応力ってスゴイ・・・。

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

Photo by Michael LaRosa on Unsplash

つい先日、twitterまとめのtogetterに『「日本人の5割くらいは5行以上の長文読んで意味を取ることができない」まじか・・・』という文章が投稿されてバズっていた。

「日本人の5割くらいは5行以上の長文読んで意味を取ることができない」まじか・・・ - Togetter

 

このtogetterで「長文」として挙げられていたのは、感染症の専門家としてすっかり有名になった岩田健太郎先生のブログ記事だ。

成人式を迎える年代の人々に対し、感染対策として成人式には行かないようお願いするそのの文章は、専門家が精一杯かみ砕いて語り掛ける内容であるよう、私には見えた。

 

しかしtogetterでコメントしている人々の声は辛辣だ。曰く、

・「日本人の5割くらいは5行以上の長文読んで意味を取ることができない」

・「たまたま見かけた5行以上の文字情報を見て最後まで読む人なんてほとんどいない」

・「日本人でいい歳した大人の3割はたった1行の文すら読み解けないどころか、そもそも文章読もうとしないってこと。」

どんなに優れた文章やかみ砕れた文章でも、5行までしか読めないなら伝えられることは限られる。

twitterの140字や、はてなブックマークの100字ともなれば尚更だ。

もし本当に日本人の5割くらいが長文を読めないとしたら、文章をとおして何かを伝えたり理解したりするのは絶望的と言わざるを得ない。

 

気が付けば、私も5行までしか読まなくなっていた

さて、この文章をここまで読んだ人はもう5行以上読んでいるはずなので、togetterの基準でいえば日本人のなかでも文章が読めるほうの部類、ということになる。

 

おめでとう!

あなたは5行以上の長文が読める日本人ですね!

 

5行以上の長文が読める日本人の一人として、あなたは「もっとみんな文章が読めるようになるべき」とか「読み書き能力は社会適応のカギ。社会の啓蒙にも必要だ!」などと考え始めたかもしれない。

それか、あなたが意地悪な人物だったら「世の中なんてそんなものですよ」とか「5行までしか読めないなんて、気の毒なことだ」などとニヤニヤしているかもしれない。

 

いずれにせよ、5行以上の長文が読める日本人勢には、こうした話を他人事とみなす資格がある……ようにみえる。

 

ある時期まで私もその一人のつもりだった。

自分は「みんな文章が読めるようになるべき」と言う側だと思っていた。

精神科医で書籍も書いている私は、文章が読めるほうの人間に違いない……そういう思い込みもあった。

 

ところがそれは思い込みでしかなかった。

現在の私は、「5行以上の長文を読んで意味を取ることができない状態」に頻繁に陥っている。

少なくとも、私は一日のかなりの割合を「5行以上の長文を読んで意味を取ることができない状態」のまま過ごしている。

 

参考までに、私の平日を振り返ってみよう。

朝。あわただしい朝の隙間時間を縫うようにメールチェックをし、twitterとはてなブックマークに目を通す。

メールはタイトルしか読んでいないし、twitterやはてなブックマークは飛ばし読みだ。

 

5行以上どころか3行も読めていないし、1行だって怪しいものだ。

画面が滝のように流れてゆき、目の焦点はどこにも合わない。

そうだ、ソーシャルゲームの朝の日課もやっておかないと。

 

昼休み。twitterなら140字ぐらいは読めている……ような気がする。

ブログ記事、ヤフーニュース、講談社ビジネスなどもぎりぎり読める。

それでも昼休みのインターネットは時間との戦いだ。

後で読んだほうが良いと思った記事があれば、はてなブックマークで [あとで読む] タグをつけて放置しておく。

 

夜、帰宅した後。疲れた目をこすりながらPCの前に座る。

その時間にはもう、新しい記事、新しいツイートが並んでいる。

興味のある文章・自分の感性になじみやすい文章なら読めるが、興味の乏しい文章・自分の感性になじみにくい文章を読むのは辛い。なにしろ仕事で疲れた後なのだから。

 

読んでいる最中に家事が割り込んだり、子どもに勉強のことで質問されたりすることもある。

そうなると、読みづらい文章はつい、3行ぐらい読むのをやめてしまいたくなる。

昼休みにつけておいた [あとで読む] タグのことはもう忘れている。

そうだ、ソーシャルゲームの夜の日課もやっておかないと。

 

こうやって振り返ると、私の一日のなかで「5行以上の長文を読んで意味を取ることができる状態」がいったい何%あるといえるだろうか。

時間にして、30分から1時間といったところではないだろうか。

 

仕事が無い日や資料や原稿を扱う日にしても、長文をちゃんと読めているとは言えない。

大切な資料、それに類する文章はできる限り丁寧に読むようにしている。

 

逆に考えると、本当に大切な資料を読むためにエネルギーを使い果たしてしまい、そうでもない文章、そうでもない記事は結構いい加減に読んでいるということでもある。

オンラインの文章や記事だけでなく、書籍が斜め読みの対象になることもある。

私は「速読は悪い読みかた」派だったはずなのに。

 

どうしてこうなった?

どうして私はこんなに読めない人間になってしまったのだろう?

思いつくことはたくさんある。

 

加齢。

仕事。

家のこと。

SNS。

ソーシャルゲーム。

どれも可処分時間を削りそうなファクターだ。

ということは、年を取るほど、仕事が増えるほど、生活が忙しくなるほど、文章や記事が読めない時間が増えるのではないだろうか。

 

もちろんアルコールも、文章や記事が読めない時間・読めていない時間を増やしているに違いない。

 

それと、読まなければならない資料や文章が増えれば増えるほど、普段のインターネットや読書がずさんになっていく、とも感じる。

若い頃から私は、可処分時間ならぬ可処分読書時間みたいな隠しパラメータがあると信じていて、その隠しパラメータのキャパシティが乏しいから私は読書家失格だと自分のことを思っていたが、今の私は、その可処分読書時間が完全にパンクしている。

 

こうした自分自身のこと、ソーシャルゲームばかりやっている他人のこと、忙しくて疲れて家のことにも忙殺されている人々のことを思い出すと、「私たちは意外に簡単に5行以上の長文が読めない状態に陥るものだ」という思いを禁じ得ない。

 

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ネットニュース編集者として有名だった中川淳一郎は、インターネットに溢れる愚かさを『ウェブはバカと暇人のもの』と12年前に比喩した。

 

この本に記されている内容はいくらか古くなっているが、大筋は現在でも通用する。

確かにインターネットは馬鹿のものでもあり、暇人のものでもある。

なぜなら暇を持て余した人間が一番たくさんネットで活動出来て、「いいね」や「シェア」もたくさん繰り出せるという意味では、暇人はインターネットで最強だからだ。

 

しかし、そういう「暇人が猛威をふるってインターネットが馬鹿になってゆく」的な問題に加えて、暇のない人の問題も大きいと私は思う。

暇のない人が暇のないままにSNSをなぞって、適当なコメントをつけて、本当は5行以上読めてもいないか、タイトルしか読めていないのに「いいね」や「シェア」をつけ、そうやってインターネットがどんどん馬鹿になっていく側面もあるのではないだろうか。

 

さきほど私は、可処分時間を削りそうなファクターとして加齢、仕事、家のこと、SNS、ソーシャルゲームなどを挙げた。

だとすればだ。

この、どんどん高齢化して、高齢者までもが忙しくなって、みんなが忙し過ぎて余裕のない日本社会なるものは、ますますインターネットが馬鹿になりやすい素地となっているのではないだろうか。

 

暇人が猛威をふるってインターネットが馬鹿になってゆくと同時に、忙しくて仕方のない人々の流し読みコメントや、ものすごく適当な「いいね」や「シェア」によってもインターネットが馬鹿になっていくとしたら、インターネットが馬鹿になっていく両輪が揃ったも同然で、まるで救いがない。

 

こうした、インターネットが加速度的に馬鹿になっていく問題はたくさんの人が気付いているものでもあり、たとえば評論家の宇野常寛はこれからの方向性として「遅いインターネット」を提案している。

この国を包み込むインターネットの(特にtwitterの)「空気」を無視して、その速すぎる回転に巻き込まれないように自分たちのペースでじっくり「考えるための」情報に接することができる場を作ること。

Google検索の引っかかりやすいところに、5年、10年と読み続けられる良質な読み物を置くこと。

そうすることで少しでもほんとうのインターネットの姿を取り戻すこと。そしてこの運動を担うコミュニティを育成すること。そのコミュニティで、自分で考え、そして「書く」技術を共有すること。それが僕の考える「遅いインターネット」だ。

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これからのインターネットをどうしていくかという問題は『遅いインターネット』などに任せるとして、では、私たち個人はどうすればいいのだろう?

 

どこまでも高齢化し、どこまでも忙しくなり、メディアもエンタメも争うように人々の可処分時間を奪い合う世の中で、私たちが5行以上の長文を読んで意味を取っていくのはかなり難しいと思う。

少なくとも、いまどきの情報環境にただ流されるばかりでは、しっかり読むなどできたものではない。

 

はっきりとした対策をここで私が提案することはできないが、たぶん、ある種の遮断やあきらめが必要になってくるのではないだろうか。

あるいは情報源としてのインターネットは放棄して、テレビや新聞のニュース、コラム、ドキュメンタリーといったものに回帰していくしかないのかもしれない。

 

エリートはこの問題にどう対処しているのか。それとも……

余談になるかもしれないが、最後に、この問題の延長線にある疑問について書いてみる。

 

私も含めた、大半の人が「5行以上の長文が読めない状態」に陥りやすい社会状況にあるとして。

それなら、世の中のほとんどの人より忙しくて、もっとたくさん読まなければならなくて、もっと責任の重い人々はいったいどうやって「5行以上の長文が読める状態」を維持しているのだろうか。

 

たとえば国会議員は、世の中のほとんどの人より忙しく、責任も重い。

そうしたなかで、政策に関わるために膨大な資料を読まなければならないし、社会動向についても該博な知識を期待されている。

 

もちろん国会議員は官僚やブレーンが作る資料に助けられているだろう。

それでも短時間で大量の文章や情報に目をとおし、判断を下さなければならないわけだから、たとえ官僚やブレーンの助けを借りられたとしても、たとえ本人の読み書き能力自体がハイレベルでも、「5行以上の長文が読めない状態」を免れることはなかなか難しいように思う。

 

ニュースキャスターや分刻みのスケジュールで生きているタレントたちもそうだ。

彼らは皆、人前で適切に発言できるよう期待されている一方で、短い可処分時間でより多くの情報に向き合わなければならない。

 

そういう人たちはどうやって「5行以上の長文が読めない状態」を免れているのだろうか。

それとも本当は「5行以上の長文が読めない状態」が頻発しているけれども隠しているだけなのだろうか。

 

それとも……。

あまり考えたくはないのだけど、本当はエリートたちも「5行以上の長文が読めない状態」のなかで、つまり「インターネットが馬鹿になっていく」のと同じ状況のなかで諸決断を下し、それで政治や運営が動いていたりするものなのだろうか。

 

いやまさか!

それではまるで、高度情報化社会とはその複雑さと情報の氾濫によって国の頭からつま先まで、いわばみんな馬鹿ばかりになってしまう社会ということではないか。

だけどもしそうだったらすごく嫌だな……とNHKの7時のニュースを見ながら、ふと思った。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 

Photo by Robert Bye on Unsplash

本が読めない看護師さん

大分以前であるが、わたくしが主宰して看護師さんと読書会をしたことがある。

看護師さんというのは非常に難しい立場の職業で、医者は(例外はあるが)決してそうは思ってはいないのだが、多くの患者さんは、看護師さんを医者のただの補助者、単なる手伝いであると思っている場合がまだまだ多い。

 

一部の看護師さんは、それに反発するあまり、看護の自立性や独自性に過度にこだわる傾向があり、そのため大量の「看護論」「看護概論」が書かれる。

しかし未だに看護論で面白いのは、ナイチンゲールの「看護のための覚書」である。

あとはベナーの「看護論」、あるいは中井久夫さんの「看護のための精神医学」であろう。

 

一方、医者で「医学概論」などというのを読むひとはまずいない、それはそれでいささか困るのだが、その反対になかなか自分のやっていることに自信を持てない看護師さんも多い。

それでもっと自信をもってもらおうと思って、確か「患者さんを治すのは医者ではない、われわれ看護師だ!」というような勇ましいタイトル(正確な題名は失念)のアメリカの看護師さんの書いた本を読む会をもった。

 

それではじめて経験したというか、びっくりしたのだが、本を読むのに慣れていないひとというのは実に本を読むのに時間がかかるのである。

一章20~30ページの本を週に一度、一章ずつ読んでいくのであるが、その20・30ページが一週間かけても読みおわらない。

読書好きなら、おそらく30分もかからず読める量である。

 

どうしてなのかなと思ってつきあって読んでみると、どうもセンテンスとしてまとまって読むということでできていないようなのである。

一語一語単語として読んでいて、何かわからない単語があるとそこでとまってしまう。

 

そういう読み方をしていたら文章を読むということはまずできないわけで、当然時間もかかるし、しかも頭に入らない。

だから時間がかかるわりに内容が残らない。

 

これでは日常の調べものにも困るだろう、と思う。

別に本を読むということではなくても、ネットで何かを調べるという場合においても、文章をそのまま文章として読むということができなくては、成果は得られないはずだからだ。

 

患者の気持ちがわからない医師

さて、現在、医学部というのは理科系と分類されている。

 

医療の基礎が生物学や化学であるのだから当然ではあるのだが、実は、物理学や数学はそれほど使わない。

統計学の理解にはかなり高度な数学が必要であるが、日常臨床においては足し算、引き算、割り算、掛け算ができればまず充分である。

微分積分三角関数などというのがでてくることはまずない。

 

わたくしは高校1年くらいまでは文学部にいこうと思っていた人間なので、受験科目で一番得意なのは国語で、受験勉強はまずしなかったけれども、一番点がとれた。

 

しかし、35歳で研究をきりあげて臨床をはじめた時、はじめはとにかく不安で仕方がなかったが、数年するうちに何とか臨床をやっていけるのではないかという気持ちになれるようになってきた。

それはどうも、読書をするときのように、患者さんの気持ちを、ある程度理解できるからであるように思う。

 

しかし、周囲の一部の医師をみていると、患者さんの訴えからすぐに器質的疾患をさがしはじめてしまう。

それがどんな気持からの訴えであるのかという方向には頭がいかない。

そのため、何だか見当違いの方向の検査を進めていく先生方が少なからずいて、そういう先生方は必ずしも患者さんと良好な関係を築けないようなのであった。

 

現在医学部は受験において一番難易度が高くなっているらしい。

そうすると物理、数学ができないと医者になれないことになる。

 

理科系と文科系の一番の違いは、正解が原則一つの世界と、正解が多数ある(あるいは状況のよって正解が違ってくる)世界ということにあるのではないかと思う。

医療の世界が正解が一つの世界であるか、正解が複数あってケース・バイ・ケースで正解がきまる世界ではあるか意見がわかれるところであろうが、それが理科系と文科系の中間に位置する分野であることは間違いない。

 

医療の場では、ある人には当たり前であることが、別の人には少し当てはまらないことが、さまざまな局面でおきている。

もっと広くいって、社会でおきる人間関係の様々な軋轢のかなりというのはそれに起因しているのではないかと思う。

 

それぞれの当たり前がお互いにまったく違っていることの自覚の不足である。

 

アメリカにおけるインテリ対カウボーイ、そして日本の安保闘争

最近のアメリカをみているとそれを強く感じる。

例えば、本を読む人つまりインテリ対カウボーイ。

 

アメリカは本を読む人が少しも尊敬されない社会なのだそうだ。

前回アメリカ大統領選挙におけるトランプ大統領の勝利、ヒラリー・クリントンの敗北というのは、《カウボーイ》対《本を読む人》の対立において、アメリカでは本を読んで偉そうな理屈をこねるひとがきらわれるので、その対極の黙々と牛を追うカウボーイのような人間が勝利したという側面があったのではないかと思う。

 

従来は、さすがに政治という高度な知識や知見が必要とされる領域は、《本を読む人》が担当するものと思われていた。

だが《本を読む》ばかりで頭でっかちになっていて、日々働くひとの現実を見られない人間に、その舵取りをまかせてきたからアメリカはおかしくなってしまった、もっと実地の社会を知った人間に政治もまかせようというのが、前回の大統領選挙の結果であったのだと思う。

 

しかしどうもそれだけでも困るというが今回の結果なのだと思うが、それでもアメリカには依然としてカウボーイ派がほぼ半数いるわけである。

 

わたくしのような、もっぱら本を読む人間は剥き出しの暴力というのが大の苦手だ。

野蛮というのは《力》が前面にでた状態、文明というのは《力》が背後に隠れた状態であると思っている。

それゆえ現在、世界がだんだんと野蛮なほうへと退化していているように感じているのだが、もちろんそうではなく、世界はあるべき方向に向かおうとしていると感じているひとも多いはずである。

 

これを書いている時点でアメリカから議事堂への乱入の映像が届いている。

これを見るとわたくしの世代の人間は60年安保の騒ぎを思い出す。その当時、全学連の学生たちが国会を取り囲み、その一部は国会内に突入し、その騒ぎの中で樺美智子さんが亡くなった。

今のアメリカと同じように、当時の日本は左右に二分されていたわけで、今のアメリカは右?が左?を攻撃しているのだが、当時の日本は左が右を攻撃していた。

そしてかなりのマスコミも言論人も左を応援していた。

 

しかし、この国会突入を期に態度を一変させ、「暴力を排し 議会主義を守れ」という七つの新聞社の共同声明を出したりした。

「話せば解る」「問答無用」というのは五・一五事件であるのでさらにその以前のほとんど100前の出来事だけれども、歴史は繰り返すのかもしれない。

 

東大出の研修医「ババア、手前なんか死にやがれ!」

さて、医療の場において、最近はエヴィデンス・ベイスト・メディシン(EBM)といって過去からつみあげられてきた様々な知見の積み重ねによって正しい治療方針がきまっていくという前者の見方が優勢になってきている。

 

そういう流れの中で孤高?の地位を保ってきた精神医学の分野においても最近はDSM(精神障害の診断・統計マニュアル)というマニュアルができて、それに当てはまるかどうかで診断をしていくという方向が大勢になってきている。

こういうものがでてくる背景としては、精神症状にある程度有効な薬が続々と開発されてきているからということがあって、ある薬剤の有効性を判定するためには、医者毎に診断基準が異なっていたのでは困るからである。

 

今のところ、脳のCTをとってもMRをとっても精神疾患の診断にはほとんど役にたたない。脳波も血液検査も役にたたない。

しかしだからといって診断は医者の主観によるということでは困る。ということでDSMといったものが出てくることになる。

 

しかし、私は、まだ若い時、米国リウマチ学会(ACR)によるリューマチの診断基準(1987年作成)というのをはじめて見たときの強烈な違和感が未だに忘れられない。

症状とその持続時間、血液検査などを点数化して何点以上あればリューマチと診断するといったやりかたである。

DSMをみてもそれと同じようなことを感じる。いかにもアメリカ的だなあと思う。

機械が診断しているような感じでどこに人間がいるのだろうと感じてしまう。

 

昔、きいたことがあるのだが、「人工脳」というコンピュータ・プログラムがある。

ある人間の言葉を解析して、それに対する適当な応答を自動的に作るプログラムである。

「いつから具合が悪いのですか?」 「〇〇からです」 「〇〇からなのですね。どんな具合ですか?」 「お腹が痛いです」 「そうですか、それは大変ですね」・・といったほとんどオウム返しのプログラムされた応答をしていくだけなのだが、患者さんは生身の医者が対応してくれたと思って満足して帰っていくのだそうである。

 

そのさらに原型となった「イライザ」というプログラムもあるらしい。

「人の話を聞き、対話する」という機能を持ったプログラムで、相手の話す内容を聞き、それに対して、その核心であると思われる部分についた質問を投げかけ、相手の悩みからそれないようにうまく誘導していくことで、それと対話した人間は、まるで精神科医やカウンセラーと対話しているように感じたひとが多かったという。

なかには、感情移入して号泣したり、さらなる悩みを自分から打ち明けるようになった人もいたそうである。

 

そういう意味では、現在、文科系の領域であると思われている人と人の交流というのもかなりのところは(上辺だけかもしれないが)コンピュータで代用できるのかもしれない。

しかし、それができないことで、臨床の場で困るひとというのはやはりいる。

 

ある時、受験生の間では常に全国の模試で上位にいたというので有名人であったという東大出の研修医がやってきた。

みるといつも最先端の分子生物学の英語の本に読みふけっている。

 

ある時、その先生が高齢の女性の受け持ち医になって、病室に点滴を刺しにいった。

しかし、何回刺しても入らない(高齢者の血管はもろくて入りにくい)。

ついには頭に血がのぼったのか、「ババア、手前なんか死にやがれ!」と叫んで帰ってきてしまった。

もちろん点滴を刺すのには頭脳は一切必要ない。経験といささかの手先の器用さだけが必要である。

 

今、医療の世界で受験がどんどん難易度がまし、受験秀才が医者になる傾向が強くなって、いろいろと問題になっている。

たとえば何で東大医学部を目指したのかといえば、そこが一番難易度が高いからというただそれだけという医者がたくさん排出している。

 

高校の側も東大や医学部への進学者数が学校のランキングを決めるようで、成績のいいものには自動的に医学部受験をすすめるらしい。

そういう受験生は大学合格とともに目的は達成で、その後の目的を失ってしまう。

 

昔、開業医がお金を積んで私立の医学部に子弟を入学させているのが問題になったころ、ある開業の先生が「医者になるのに頭はいりません。ニコニコしている能力さえあれば医者はつとまります」などといっていた。

それはそれで困ると思うけれど、物理・数学の秀才ばかりが医者になってくるというのも困ると思う。

個人的には受験科目に国語があることが少しはその是正に役に立つのではないかと思っている。

 

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【著者プロフィール】

著者:jmiyaza

人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。

2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。

ブログ:jmiyazaの日記(日々平安録2)

Photo by Sebastien Wiertz

2020年9月29日、日本電信電話株式会社(以下NTT)はNTTドコモ株式会社(以下ドコモ)に対するTOBを通じて、ドコモを完全子会社化すると発表しました。

総額4.3兆円でドコモの一般投資家株式を買い取るこのM&A取引がいかに巨大かは、2006年に世間を驚かせたソフトバンクのボーダフォン買収金額(2兆円)の2倍であることからも明らかです。

 

一方で、元々ドコモはNTTグループの連結子会社なのだから100%に持分を増やすことにどういう目的があり、なぜそのコストを支払う必要があるのか、と疑問に感じる人もいるでしょう。

今回はその意味につき、ファイナンス、事業戦略、そして国策と自由資本市場の関係、の以下3つの観点から読み解きます。

 

1. なぜ今この取引をするのか

2. 4兆円は高すぎではないか

3. ドコモ上場廃止の意味するもの

 

1.  なぜ今この取引をするのか

今回の取引の概要を、NTTグループ全体の事業および資本構成から概観したものが【図1】です。

NTTは日本国政府(財務大臣)が1/3以上の株式を保有する特殊持ち株会社で、東京証券取引所に株式を上場しています。

NTTの傘下には大きく5つの事業分野があり、それぞれが連結子会社としてNTTグループを形成しています。

 

その内、移動通信事業(NTTドコモ)とデータ通信事業(NTTデータ)はNTTが過半数株式を保有する上場子会社、それ以外はNTT100%保有の非上場子会社です。

(2018年まで不動産事業子会社もNTT都市開発株式会社として上場していましたが、今回と同様のTOBにより完全子会社化し上場廃止しています。)

 

図には持ち株会社およびそれぞれの事業の2020年3月期の営業利益(NTT有価証券報告書に記載されているセグメント利益)と、上場している3社については直近の株式時価総額を付しています。

 

この図表を眺めると、以下の点に気づくでしょう。

 

(a)グループ全体に占めるドコモの割合が大きい。営業利益で全体の55%、時価総額は12兆円とグループ全体の8.7兆円を超えている

(b) TOBによってドコモの一般投資家株主が受け取る4兆円は親会社が銀行からの融資で調達、つまり子会社が資本市場から調達していた資金を親の借入金に入れ替える取引である

 

(a)は親子上場に起こりがちな「コングロマリット・ディスカウント」、「資本関係のねじれ」と呼ばれる問題、子会社の価値の総和より持ち株会社の価値が低くなるという現象です。

そのまま放置すると、「親会社を安く手に入れて価値の高い子会社を支配できる」ということになってしまい、資本政策上危険です。

 

かつてラジオのニッポン放送がフジテレビの親会社となっている状況で、ライブドアがニッポン放送の過半数に迫る株式を取得して大騒ぎになりました。

イトーヨーカ堂も子会社だったセブン-イレブンの方が大きくなってしまい、そのねじれを修正するために新たにセブン&アイという持ち株会社を作ってその下に各事業会社をぶら下げる形に資本関係を再構成しました。

 

NTTの場合は政府が1/3以上を保有し外国人の持ち株比率は20%未満と定められているので、丸ごと乗っ取られることはまずありません。

これらの持ち株規制に加え通信業界の競争促進のためにNTTは分割されたのですから、コングロマリット・ディスカウントが起こるのはむしろ当然です。

NTTはドコモの方が大きくなってしまった資本構成を本来の姿に戻す機会を待ち続けていました。

 

因みに、ドコモの営業利益8,500億円全額をNTTの営業利益1兆5千億円の内数として連結計上する会計処理は誤解の元です。

NTTはドコモを2/3しか保有しておらず、ドコモの最終利益の1/3は「非支配株主持ち分」として社外流出するものだからです。

ドコモを100%子会社化することにより流出分約2,800億円の利益をNTTは取り込めることになるのだから、4兆円借金をしてもその利払いを十分賄えるという計算、これが(b)の意味です。

 

2.  4兆円は高すぎではないか

「恐らく高すぎる、でも仕方がない」というのが正直なところでしょう。

TOB発表前のドコモの時価総額は9兆円あまり、KDDIの6.2兆円、ソフトバンクの5.7兆円に比べ妥当な水準でした(この2社はかなり借入金負債を持っているのに対してドコモはほぼ無借金という財務構成の違いも勘案して)。

 

菅首相の携帯料金引き下げ方針、5G普及のための設備投資も必要で、移動通信事業の利益水準はさらに下がると予想され株価の先行き見通しは決して明るくありません。

 

他方、NTTは固定通信とワイアレス通信の一体化を進め、光関連技術を取り入れた次世代のICTインフラ網(IOWN: Innovative Optical and Wireless Network)で世界をリードする戦略を打ち出しています。

この戦略をスピーディに進めるにはグループの一体化が必要で、親子上場の形態はその大きな障害となります。

 

その理由は一言でいうと、「利益相反」です。

上場会社はその株主の共同利益最大化を目指して経営されねばなりません。

ところが親子が同時に上場している場合、親会社NTTの株主にとってのベストな経営と子会社ドコモの株主にとってのベストな経営(例えば研究開発費の負担割合など)がぶつかり合い、意思決定がスムーズにできなくなるのです。

 

株主が損害を被ったと会社に賠償を求める訴訟が頻繁におこる米国で親子上場がほぼ皆無なのは、この理由によります。

親会社の一方的な都合に合わせて経営することは、外国人投資家株主も多数いるドコモには許されないのです。

 

ただでさえ、ドコモの株価はグローバル水準でも国内競合に比べても低迷気味で一般投資家株主の失望・不満が大きい状態でした。

グループの経営方針のベクトルを揃えて大胆かつスピーディに実行するには、これらの一般投資家に対する「立ち退き料」として、40%という高いプレミアムをつけたTOBが必要だったのです。

 

4兆円のTOBは高すぎるのではないかという投資家の見方は、TOB発表直後に買い手である親会社NTTの株価が下がったことにも表れています。

ドコモ株主は大喜びだがNTT株主には不満が残る、まさにこれが利益相反です。

 

3.  ドコモ上場廃止の意味するもの

ドコモはNTT本体とは一線を画した独立企業文化を育んできましたが、iモードからスマホへの移行の中で過去10年ほどは競合に押され気味でした。

稲盛和夫氏にルーツを持つKDDI、米国的スタイル孫正義氏のソフトバンク、としのぎを削りながら携帯サービスの向上に尽力してきたドコモが株式市場から退場することは、日本の株式市場の進化・発展における時代の変わり目を象徴する出来事です。

 

NTTの歴史は日本の資本市場発展の歴史の縮図だと言えます。

NTTが民営化し株式上場したのは戦後日本の経済成長のピークといえる1986年でした。

バブル景気の中でNTT株は人気を集め、一般大衆が株式投資に参加する「財テクブーム」の火付け役となりました。

 

NTTの時価総額は1989年には世界一に上り詰めました(今は米国・中国のインターネット系が主役でNTTは100位にも入っていません)。

その後、通信業界の競争促進策としてNTTは分割されました。

ドコモは1998年の上場時に日本企業初の大型グローバル・オファリングを行い世界中の投資家から資金を調達し、NTTからの独立色を強めました。

その時価総額はiモードの爆発的人気とITバブルが重なり一時40兆円に達しました(が、ドコモも今は100位圏外です)。

 

さらに20年を経た節目の2020年、今回のドコモ非上場化は、自由でグローバルな資本市場に依拠して各子会社が独自に資金調達し競争力を高めるやり方から、持ち株会社NTTに資金調達を一元化し国と銀行に資金依存する形への方向転換ととらえることができます。

 

国民経済を活性化させるための携帯料金引き下げ手段として政府が最大株主であるNTTグループを使うことは、民間企業および株主投資家の利益を圧迫することにつながり、市場経済を歪める危険があります。

グループ総力をあげてのIOWN戦略~6G推進を国がバックアップする姿勢は、1980年代までの日本の経済成長を支えた官民一体の「日本株式会社」スタイルを思い起こさせます。

 

情報通信業界では、豊かかつ厳しい資本市場に支えられる米国企業と国家政策に支えられる中国企業(ファーウェイは非上場です)の間で激烈な競争が繰り広げられています。

政府が筆頭株主でありながら一般投資家資金にも支えられた上場企業という資本構成のNTTグループは、このグローバルな競争環境を戦い抜くための、日本的な米・中折衷型の布陣なのかもしれません。

(執筆:森生 明)

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

 

Photo by Kārlis Dambrāns

どうもこんにちは、しんざきです。

リモートワーク時はちゃぶ台にノートPCを置いて仕事をすることが専らでして、今までは簡易な座椅子に布団やらクッションやらを配置して誤魔化していたんですが、最近そこそこのお値段のちょっといい座椅子を買ってみたら滅茶苦茶姿勢が楽になってQOLが格段に向上しました。

やっぱり靴と椅子にはお金を使わないとなーと実感した次第です。

 

昔所属していた会社の話をします。

ところどころぼかした書き方になってしまうのはご勘弁ください。

 

その会社の名前を、仮にA社とします。

A社はとある業界向けのパッケージソフトを主力製品とする中小企業でして、BtoBの保守運用が売上のかなりの部分を占める、昔ながらのソフトウェアベンダーでした。

 

ある時A社で、「セクショナリズム」が問題になったことがありました。

皆さんセクショナリズムってご存じですよね?

 

日本語にすると部局割拠主義っていうらしいですけど、企業の各部署がお互いに協力し合わないで、自分たちの権利や利益だけにこだわり、排他的な動きをすることです。

縄張り主義とか派閥主義なんて言い方もしまして、お役所とか公的省庁を批判する時にもちょくちょく出てくる言葉だと思います。

 

その時のA社では、例えば「風通しが悪い」とか「縦割り過ぎる」といった言葉と共に、次のような傾向がやり玉にあがっていました。

・各部署が情報共有や情報開示に積極的でなく、お互いが何をしようとしているか把握しないまま動いている
・結果、色んなプロジェクトの動きがちぐはぐになってしまっている
・守備範囲が不明確な仕事を押し付けあって、互いに責任をとろうとしない
・単純に部署と部署の仲が悪い

まー根本的には部署間の相互不理解と連携不足の問題なんですけど。

 

例えばの話、営業系部署と技術系の部署が同一のお客様に個別にアプローチして、営業系の部署はパッケージ、技術系の部署は運用サービスという、自社内の全く違う商品を勧めてしまってお客側の担当者から不審げな問い合わせがくるとか、割と普通でした。それくらいすり合わせしろよって話です。

 

webページの統括的なコンテンツマネージャーがきちんと決まっておらず、各々の部署が自分の領域を持っていた為、相互のページで情報の齟齬や矛盾が発生する、なんてこともしばしばありました。

営業部署が技術系の部署のスケジュールを把握しないで勝手にお客さんとスケジュールをコミットしてしまって、開発のスケジュールがわやくちゃになる、なんてこともちょくちょくありました。

 

当時は、「まあ確かにこれ問題ですよねー」とは思ってたんですよ。

組織の強みっていうのは「集団で動ける」ことに他ならないのに、その組織の中で派閥が出来て連携が阻害されるのはちょっともったいなさ過ぎます。

もともとたいした規模の会社でもなし、部署間で協力し合わないでどう戦うのって話でもありますし。

 

経営層もこの「部署間の連携不足」というものを問題視しまして、「セクショナリズムの打破」というお題目をばーーんと幹部会議でぶち上げました。

「風通しの良い会社に!」というのが一種のスローガンになって、「部署間連携」だとか「横ぐしを通す」といった言葉がしょっちゅう飛び交うようになりました。

 

ところがですね。その結果何が起きたかというと、「何故かどう考えても守備範囲外、責任範囲外の仕事がバリバリ飛んでくるようになった」んです。

 

例えば。当時の私が所属していたのってパッケージ製品の開発を行う部署の一つだったんですけど、何故かwebページに掲載するお客様向けのサポートページの保守することになりました。

どう考えても顧客対応、カスタマー系の部署の仕事です。

 

ところが、「いやこれ我々の仕事ではないですよね?」って指摘すると

「いや、セクショナリズム打破だから」

「技術知識も絡む仕事なんだから無関係じゃないだろ?」

とかいう言葉が返ってくるわけです。

 

むしろ、「そういう言い方がセクショナリズムを助長するんだ」とか怒られたりする。こういうことが山ほど起きました。

 

これどういうことかというと、「セクショナリズムの打破」というお題目が「守備範囲を無視して、立場が弱いところに面倒な仕事を押し付けるための免罪符」として使われてしまった、ってことなんですよね。

 

結果として、押し付けられる部署は疲弊するし情報共有の余裕もなくなるし、結果的にはますます部署間連携が妨げられて、いいことなんて一つもないんですけど。

 

本来A社が抱えていた問題の本質は、「部署ごとに情報を抱え込んでしまってきちんと連携が出来ていなかった」という点にこそありました。

また、守備範囲や責任範囲が明確に決まっていないタスクがあって、それについて情報整理をする部署が存在しなかった為、情報共有のチャンネルがちゃんと動作していなかった、というのも問題でした。

 

「この業務についてはこの部署が責任部署なんだから、何をするにも必ずこの部署に情報連携をしなくてはいけない」というフローこそ必要だったわけです。

 

であれば、やるべきことは

・部署ごとの責任範囲の明確化
・それに基づく情報連携

ですよね?むしろ「まず守備範囲を明確にして、その上でお互いに相手が何をやっているか把握し合うこと」こそあるべき姿でした。

 

ただ、確かに一見すると、「うちの守備範囲はこっからここまでだからな」って決めることって、「部署ごとの壁を高くしている」ように見えてはしまうんですよ。

むしろセクショナリズムを推し進めているように、ぱっと見は見えてしまう。

だから、「セクショナリズム」という言葉を表面的に捉えた人たちによって、逆に責任範囲がわやくちゃにされてしまったと。そういう話だったんです。

 

今なら「セクショナリズムの打破ってそういうことじゃねーだろ」ってきちんと反論出来るんですけど、当時はまだそこまで明確に言語化出来ませんでした。

 

実を言うとこれ結構あるあるな事象らしくって、その後も何回か、こういう

「セクショナリズム打破という言葉を体よく仕事を押し付ける理由づけにしようとしている」

という場面に出会いまして、幸いなことに今はちゃんと反論出来るようになったんですが。

 

***

 

これは割と一般的に言ってしまっていいと思うんですが

「ある問題に分かりやすい名前をつける時には、根本原因の深堀りと共有をしっかりしておかないと危ない」

という話があります。

 

上記の問題の場合、部署間の連携不足という問題に「セクショナリズム」という名前をつけてしまうことがそもそも適切だったのか、という割と根本的な話がありまして。

セクショナリズムという名前がついてしまったが為に勝手な解釈をされる余地が出来てしまった、という側面もあると思うんですよね。

 

課題や問題に名前をつけると、なんかキャッチーになるしかっこいいし、それだけで問題の解決へ一歩前進したような気になる。

けれど、その名前が一人歩きし始めて軸がぶれると非常にまずい。

 

例えばの話、単に「コンプライアンス部門からの連絡がちゃんと行き渡っていませんでした」というだけの話に「ガバナンス不足」とかいう名前をつけてしまうことによって、単にグループウェアの機能不備を修正すれば済んだ問題なのに、会議が何個も増えたり紙ベースに連絡方式が退化したりとか、色んな人が妙な解釈を始めて大変面倒なことになったりするわけです。

 

ゲド戦記じゃないですけど、「名づけ」というのはおいそれと行っていいことではないと。

見た目のキャッチーさと分かりやすさに惑わされて安易な名づけを行ってしまうと後悔することもある、と、そんな話だったわけです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by JB Kilpatrick

先日ふと、以下の記事を読み返してみた。

「煩わしいものが視界に入らないようにすると快適」と書かれたものだ。

個人の幸福は「お金」ではなく「不快なやつは全員ブロック」で実現される。

現代社会では多様性が、なんでこんなにも尊ばれているのだろうか、と。

本当に「多様性」は我々に幸福をもたらすのだろうか、と。

残念ながら逆だ。

前述したポール ドーランは「幸福になりたいのなら、自分を幸せにしてくれるものに多くの注意を払え」と指摘する。

人間はひとつの事に注意を向けると、ほかのことに注意をむけられなくなる。

だから、ものすごく嫌いな人の事を考えて過ごせば、あなたはたぶん不快な気持ちになるだろう。

それと比較して、例えば子犬やら子猫がじゃれてる動画でもみていれば、あなたの意識は”カワイイ”に焦点が定まり、少なくともその瞬間はある種の多幸感が産まれるだろう。

そして、思い出したことがある。

 

もう20年近く前のこと。

新卒でコンサルティング会社に就職したとき、先輩から「日経新聞は読んどけ」と言われた。

 

彼からすれば「社会人の常識」を教えるという、親切心だったのだろう。

実際、その先輩だけではなく、ビジネスパーソンとして、日経くらい読んでおけ、新人にそういうアドバイスをする人は当時、結構多かった。

右も左もわからない私は、「先輩が言うならば」と、日経新聞を購読することにした。

 

ところが。

正直に言おう。私にとって日経新聞を読むのは結構な苦痛だった。

理由は簡単。

「私に関係のない話」「経営者の自慢」「煩わしい話」が多すぎるから。

まあ、要は読むと疲れるし、めんどい。

 

購読して2~3か月は無理して読んでいた新聞も、徐々に家に届くだけで読まなくなり、ポストから古紙置き場に直行、ということも珍しくなくなっていった。

唯一、日経を毎日読んでいたのは、株をやっていた一時期だけだったが、株を売却した瞬間に、まったく興味がわかなくなった。

 

では、私は日経を読まなくて困ったことがあったのか。

もう、これは「まったくなかった」と言い切れる。

 

確かに、ビジネス上の話し相手から「今日の日経で見ました?」という話を持ち掛けられることはあった。

しかし、そんなときには「あ、まだ見てません」といい、あとから社内に転がっている日経新聞をチェックすればいいだけだ。

 

あるいは、連載の一つに「大企業の経営者が自分の経歴を語るコラム」があり、よく社内で話題になっていた。

が、私にとっては、そうした個人の経験談は再現性も法則もなく、一つの語り草でしかない。

要は伝記なので、楽しめなければ読まなくていい。

 

とはいえ、最初は「話題についていくこと」が重要なのかな、と思っていた。

だから無理しても読んだ。

 

が、ある時、「昨日見たテレビの話をしている小学生と同じじゃないか?」と気づいてから、そういった話は全部「関知せず」で通すことにした。

しかも、そうしても仕事で特に困ることは何もなかった。

 

 

このような話をすると

「いや、でもビジネスパーソンとして、日経に載っていることぐらい、知っておかなきゃならないんじゃないですか?」

と言われることもある。

 

もちろん、否定はしない。

そういう考え方の人がいたって良い。

 

でも、私にはそういう情報の摂取方法が「合わない」と思った。

知らない誰かが決めた、「知っておかなければならない情報」に、貴重な時間を投入する気には全くなれないし、付和雷同も嫌だった。

 

もちろん世間に興味がないわけではない。

webでニュースを見るし、RSSで購読しているブログは今でも400以上ある。

本も読む。

 

だが「自分にとって煩わしいと感じる情報」にわざわざアクセスすることに、あまり価値は感じない。

 

欲しくもない情報を、わざわざ受け取るのは人生の無駄づかい

誤解をしないでいただきたいのだが、この記事は何も「日経は役に立たない」と言いたいのではない。

そこは強調しておく。

 

読みたい人は読めばいい。

むしろ、日経を面白いと感じるなら、ぜひとも読み漁るべきだ。

 

そうではなく、言いたいのは「欲しくもない情報を、周りに合わせるために、わざわざ無理して摂取することは不合理」と言いたいだけだ。

 

だから、今は「内容を取捨選択できる情報源」だけを意識的に使うようにしている。

雑多な情報を垂れ流してくるメディアは使わない。

 

そうすると、利用メディアは大体、ブログとSNS、そして書籍になる。

 

スマートフォンのアプリ通知は切る。

私が情報を欲しくないときに通知されるのが煩わしいからだ。

Youtubeはよく見るが、「登録チャンネル」からの通知は同様にすべて、切る。

SNSは「ミュート」と「ブロック」を積極活用する。

 

ここまでやっても完全に「煩わしい情報」をシャットアウトできるわけではない。

それでもかなり、快適さは増す。

そういう意味では、私は冒頭のコラムにある通り、「不快だと感じたら全部ブロック」も、まあアリだなと思う。

 

「知りたくもないことは、知らないままでいる権利」

こういう話に「見識が狭くなる」「思い込みが強くなる」「エコーチャンバー云々」という方もいよう。

それは、そうだ。否定しない。

 

ただ、個人的には、万事がメリットとデメリットの比較だと思っている。

そして今のところ、無造作にスマートフォンを眺めることによって、「ほしくない情報を受け取るデメリット」が、「見識が広がるメリット」を上回っている。

 

そもそも、人間には「知る権利」はあるが、「知る義務」はない。

むしろ、「知りたくもないことは、知らないままでいる権利」があってもいいはずだ。

 

そして何より「知らなければならないこと」なんて存在するのだろうか、と思ってしまう。

人生の時間は有限だから、次々入ってくる無駄な情報を、積極的に切り捨てていく技術のほうが、むしろ重要だ。

フィルタをやや強めるくらいがちょうどよいのではないかと思う。

 

 

SNSには毎日のように、「不快な思いをしました」とか、「こんなことをするなんて信じられない」といったコメントが流れてくる。

でも、実はその大半は、自分には関係がない。

また、こんな状況下で、相互に監視しあう人々や、人のいがみ合う姿やを見ても、うんざりするだけだ。

 

年末年始には思い切って「SNS断ち、スマホ断ち」をしたが、悪くなかった。

 

こんな時期だ。

毎日の生活に、見知らぬ誰かの情報を入れるのは、ほどほどにして、自分のことに集中する。

役に立って、面白くて、愉快なものしか見ない。

多様性なんて気にしない。

 

そうすれば、いくぶん、快適になること請け合いだ。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

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◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

◯ブログが本になりました。

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「子どもに『手抜き料理』って言われてめっちゃムカついた。

朝一で下ごしらえして、仕事から急いで帰ってきて、お風呂も入らず一生懸命作ったのにさ。それを説明したら『ごめん』って謝ってくれたけど、失礼な話だよね」

 

子どもがいないわたしは、「うんうん」とうなずきながら友人の愚痴を聞いていた。

いやー仕事しながら子育てって絶対大変だもんね。すごいことだよ。

 

でもそれと同時に、「そもそも手抜き料理のなにが悪いんだろう?」とも思った。

毎日菓子パンだけとなれば問題だけど、ちゃんとした食事なら別に手を抜いててもよくない?

 

というわけで、

「子どもに『苦労したんだよ』って言うよりも、『時間をかけなくてもおいしいものを作れるんだよ。浮いた時間で一緒に本読もう』とかって言ったほうがよかったんじゃない?」

と伝えた。

 

「『手抜きじゃないよ』って手抜き料理を否定したら、本当に手を抜いたとき『手抜きでごめん』って言わなきゃいけなくなるから、しんどくない?」と。

 

それに対する答えは、

「たしかにそうなんだけど……。でも手抜きって思われたくないじゃん。『自分のお母さんはちゃんと料理をしてくれない』って傷つくだろうし」。

 

それを聞いて、苦労賛美の根は深いなぁ……と思わず遠い目をしてしまった。

効率化に抵抗感をもつ人を、わたしたちはどうやって説得できるんだろう?

※ちなみに友人はめちゃくちゃ料理がうまいです。

 

苦労や手間は、「いいもののはず」という信頼につながる

この一件のあと、しんざきさんのこんなツイートを拝見した。

https://twitter.com/shinzaki/status/1339796405435551746?s=20

「面倒くさいほど価値がある」という考えは、たしかに根強い。

 

たとえば、「苦節30年! やっと完成した秘伝のソースカツ」と「5分でつくった簡単ソースカツ」のどっちをレストランで食べたいかと聞かれれば、やっぱり30年のソースカツを選ぶ。

時間がかかってるってことは、それだけ試行錯誤を繰り返して時間をかけたってことだから、きっとおいしいはずだもん。

 

……というように、苦労というのは、「そこまでしたのだからいいもののはず」という信頼につながり、そのものの価値を底上げする効果をもつのだ。

 

ソフトを使ってチェックをすれば一発でわかるバグも、「開発が10人が1週間かけてチェックしました!」のほうが説得力がある。

彼氏が深夜、自転車に乗って1時間かけて会いに来てくれたら、タクシーですぐ会いに来てくれるより愛を感じる。

血液検査の結果を書面で伝えるお医者さんより、図を描いたり模型で説明したりしてくれる先生のほうが大丈夫な気がする。

 

手間がかかってると、「それだけやってくれたなら……」という安心につながるのだ。

 

甲子園でもM-1グランプリでも箱根駅伝でも、紹介VTRは基本苦労話。

そっちのほうが、「きっといいパフォーマンスをしてくれるはず」って思えるから。

 

「苦労したこと自体に価値がある」という主張には、苦労は「信頼度や期待値、感動などの上乗せ要素」という前提があるのだ。

 

苦労を避ける=価値を下げることだから受け入れられない

こう考えると、効率化反対派の人の意見も、ちょっとはわかる気がする。

効率化賛成の人は、「余計な手間=マイナス」だと思ってる。

だから、「マイナスをなくそうとすることのなにが悪いの?」と首を傾げる。

 

でも効率化反対の人は、「手間=プラス」だと考えている。

「苦労」を上乗せすることで価値を底上げしていたのだから、「苦労」がなくなったらそのぶん価値が下がる。だからイヤ。

 

たとえば、一時話題となった「キャラ弁ブームで疲弊する母親」なんていうのも同じ。

 

「キャラ弁にしたところで味は変わらない。お弁当をつくってもらえるだけありがたい」派のわたしからすれば、消耗してまでつくるキャラ弁は「不要な苦労」。

でも「お弁当づくりに手間をかけることが愛情」派の人からすれば、手間をかけない=愛情の減少に映るから、キャラ弁は「必要な苦労」。

 

FAXで送っていた手書きの書類を、PDF化してクラウドサービスで共有することに反対する人も、たぶん同じ。

 

本来なら、仕事の目的は「相手に情報を伝える」こと。

でも「番号を入力して手書き書類をFAXで送って情報を相手に伝える」ことを「仕事」として認識していると、FAXの手間を省くことで「仕事をしている感」が減ってしまう。

だから、「それは困るよ、サボってるように見えるし、相手に失礼になるじゃないか」となるわけだ。

 

苦労を受け入れることが信頼や愛情、やる気の証明だと思っている人に対して「それは不要な苦労です」と言ったところで、「いいえ必要な苦労です」と反論されるだけ。

そういう人たちにとって苦労を避けることは「価値を下げる行為」だから、受け入れられるわけがないのだ。

 

「効率化するためにいかに苦労したかアピール作戦」が一番平和かも

では、そういう人たちに効率化を受け入れてもらうためにはどうすればいいのか?

 

ここで、冒頭の「手抜き料理」の話に戻りたい。

友人のお子さんは、料理は「手間をかけたことで価値が底上げされる」と認識している。

だから、「苦労せずにつくった料理は手が込んだ料理よりグレードが低い」と顔をしかめた。

 

それに対する友人の反論は、「手抜き料理ではあるけどつくるのは大変だったんだよ」。

わたしの反論は、「手を抜いたぶんの時間で一緒に過ごせるから手抜きでいいじゃん」。

 

これはきっと、どっちの方法も正解なのだ。

友人の手法は、「効率化するためにいかに苦労したかをアピールする作戦」。

相手が抱いている「苦労を省くことで失われるものに対する抵抗感」を、「いいや効率化のためにちゃんと苦労してるから安心して! 価値は下がってないよ!」と解消してあげるやり方だ。

 

「苦労をしないために効率化した苦労をアピールする」というのはなんとも地獄みがあるが、実際のところ、効率化の苦労話はかなりウケがいい。

「手間暇を惜しむ=怠惰」というイメージがつきまとうが、そこに苦労話を付け加えることで、「ムダを省くために苦労したんだよ! 全然怠けてないよ! がんばった末の進歩なの!」と伝えることができるからだ。

 

「価値は下がってないよ」と相手を安心させられる点で、効率化反対の人に一番納得してもらいやすい方法かもしれない。

まぁその……苦労賛美には変わらないんだけどね。

 

長期戦を視野に入れるなら、「効率化で新たな価値を提供する作戦」

で、もうひとつの方法が、わたしの「効率化することによって新たな価値を提供することができると伝える作戦」だ。

コストや時間に余裕が生まれることで、ちがう部分で得をするとアピールする。

「全体でプラスになるから効率化はいいことなんですよ」と言うのだ。

 

これは「苦労することは価値がある」という相手の考えを否定するわけだから、相応のメリットを提示して、相手を説得させなきゃいけない。

友人の話でいえば、「手抜き料理のがっかり感」を帳消しにするだけの付加価値を提示する必要がある。

 

たとえば、「浮いた時間で一緒に本を読める」「お母さんが休めてうれしい」「ゆっくりする時間が増えたからおしゃべりしよう」などなど……。

 

「料理で手を抜いても愛情が減ったわけではないし、むしろ手抜き料理のおかげでこんなにいいことがあるんだよ!」と相手を納得させなきゃいけないわけだ。

これはなかなか大変だけど、メリットもある。

相手を納得させることができれば、同じ方法で、今後も不要な苦労を避けることができることだ。

 

「手抜き料理でもおいしかったでしょ? 早くご飯の準備が終わったおかげで、夜はゆっくりおしゃべりできたね。

あの野菜炒めは10分でできるから、今度一緒につくってみよう。

時間をかけなくても、○○ちゃんがつくってくれた料理ってだけでパパもママもうれしいよ」

そう伝えることで、子どものなかの「手抜き料理」のイメージがマイナスからプラスになればしめたもの。

 

今後も「明日はかんたんなご飯にするけど、夜はゆっくりできるから遠足のお土産話たくさん聞かせてね」と言える。

 

効率化苦労のアピールをするよりこっちのほうが難易度は高いけど、長期的に考えたら、「苦労しないほうがメリットが大きい」戦法のほうがいい気がする。

うまくいくなら、だけど。

 

言葉を選んで角が立たない手抜きをしていきたい

手抜きを許さない人や効率化に抵抗感がある人には、それなりの理由がある。

「考え方が古い!」と言ったところで、相手の気を害して衝突するだけ。

 

それなら、その人にとって大事な価値観(たとえば「おいしい料理をつくることが愛情」)を真っ向から否定せず、円満に手抜きを推奨していきたい。

そのときは、「効率化するためにいかに苦労したかをアピールする作戦」か、「効率化することによって新たな価値を提供することができると伝える作戦」がいいんじゃないかなーと思う。

 

たしかに苦労することで付加価値を与えることはできるけど、しなくて済むなら苦労なんてしないほうがいいはずだから。

というわけで、避けられる苦労は平和に避けていきましょうって話。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by saotin

大学を中退してひきこもる

おれは二十年まえくらいにひきこもっていた。

大学二年の夏休み明け、どうにも馴染めない学校に、もう行けなくなってしまった。

いや、かなり強く、「もう学校はどうでもいい」となった。

 

今思えば、這いつくばってでも大学に行き、大卒の資格を得るべきだったと思う。

とはいえ、おれはもう幼稚園から始まる集団生活というものに耐えられなくなっていた。

 

そういうわけで、おれはひきこもりになった。

当時はニートという言葉はなかったと思う。

ただ、言葉のイメージするところでは、ひきこもりというよりニートがしっくりくる。

 

べつに部屋のなかから出てこないということもなかった。

親兄弟と話さないということもなかった。

べつに、ふつうに「なんにもしないやつ」として家庭内にいた。

もちろん、親兄弟がどう思っていたかはしらない。

 

そして、親から小遣いをもらって平日の地方競馬などして、ぶらぶらと暮らしていた。

おれの心は実に平安だった。

もちろん、親兄弟がどう思っていたかはしらない。

 

親兄弟、というが、弟も大学に行ったあとにニートになってしまったのだが。

ニートになりやすい血統とか環境ってあるのだろうか。

おれも弟も中高一貫の私学を出て、このざまだ。

 

カレンダーの消えた人生

というわけで、おれは自分の生活を満喫していた。

ただ、気まずくなるということもあった。

テレビのニュースなんかで「現代のひきこもり問題を追う」というような特集が流れたときだ。

 

そのなかで、印象に残っているフレーズがある。

ひきこもり当事者の言葉だった。

あるいは、そういうタイトルの本を出したという話だったかもしれない。

それは、「カレンダーの消えた人生」だった。正確ではないかもしれないが、そう覚えている。

 

実に実感のある言葉だった。

日々、競馬やゲーム、あるいは黎明期のインターネットにただただ時を費やし、盆も正月もない。進級も卒業もない。

 

逆に言えば、それまでどれだけ人生のカレンダー通りに歩いてきたのか、という話にもなる。

決まった歳に進学し、決まった歳に就職する。

盆や正月を休む。それ以外は学校に行く。土日は休み。

 

べつにそれが「型にはまったつまらない生活、人生」と言うつもりはない。

言う資格もない。

ただ、おれはそこから外れてしまったな、という実感だけがただただあった。

 

とはいえ、おれは改心するつもりもなく、この家と土地を相続すれば遊んで生きていけないか、などと人間のクズ的願望をもって、ただただ日々を流していった。

 

グレイトフル・デイズの終わり

そんなおれのグレイトフル・デイズも、親が事業に失敗して終わりを迎えた。

ひきこもろうにも、家がなくなってしまったからだ。

 

そのときのことはよく覚えていない。本当に覚えていない。

おれがどうやって家から出たのか、どうやって引っ越し先を見つけて、どうやって転がり込んだのか。

人間には嫌な記憶を消失させる力があるのかもしれない。

 

記憶が再開するのは、ワンルームのアパートで、洗濯機がなく、ユニットバスで、100円ショップで買った洗濯板で洗濯をしていたあたりだ。

その後、洗濯機を買うことはできた。

洗濯機は便利だ。人類文明にサンクス。

 

ただ、おれが一人暮らしを初めたのは何歳のときだったのか、西暦何年だったのか、おれはまったく把握していない。

そうだ、おれはカレンダーを失っていたのだ。

 

気づいたら

その後、いろいろあって、零細企業に居場所を求め、気づいたらおっさんになっていた。

「気づいたら」というのは、本当に「気づいたら」だ。

ひょっとしたら、順調に学校を卒業して、順調に就職できた人にとってもそうかもしれない。

結婚したり、子供ができたりしても「気づいたら」はあるかもしれない。

 

それは、おれにはわからん。

おれの人生は今のところ一個であって、巻き戻しもできない。

あり得たほかの人生を歩むことはできない。

ま、今のところもなにも、全人類そうなのだけれど。

 

とはいえ、おれの「気づいたら」は、本当に「気づいたら」なんだ、という実感を伝えたい。

べつに仕事の内容は変わらず、新入社員もなく(人を新たに雇う金のない零細企業なのです)、一番の下っ端として二十年近く経ってしまった。

まったく、成長もない。変化もない。

カレンダーだけがめくられていく……。

 

おれは時間の流れというものにまったく疎くなってしまって、さらに言えばなにをしていたかという記憶を留めることにも疎くなってしまった。

つきあっていた女性から「きみはなんにも覚えていないのね」と何度も言われた。

細かな情景を覚えていることはあっても、それが一年前か、二年前か、もっと前か、わからない。覚える気もない。

 

もっとも、2020年に関しては、その数字のきりのよさと、世界が変わってしまった厄災によって、めずらしく記憶に残るかもしれないが……。

 

棒のごとくか円環のごとくか

高浜虚子の有名な句に次のようなものがある。

「去年今年貫く棒の如きもの」

カレンダーがめくられて、今年が去年になり、来年が今年になってしまっても、自分というものは棒のようにつながって途切れてはいない、という意味だろうか。あまり自信はないが、おれはそのように受け取っている。

 

はたして、おれは棒のようなものとしてカレンダーを突き破って生きているのであろうか。

なにか、違うような気もする。

去年も今年もカレンダーを失ってしまっているのだから、貫く棒もないのではないか。

それとも、棒だけがぽつねんとあるのか。

 

カレンダーを失ったおれからすると、時間の流れが棒のようにまっすぐではないような気がする。

時間の流れは円環のように思える。

同じようなものが繰り返されて、大きな変化はない。

大きな変化があっても、やはり時間は同じように繰り返されていく。

 

べつに突飛な意見ではないだろう。

春夏秋冬、この繰り返しの中を人間は過ごしていく。

月というものを繰り返していく。

曜日というものを繰り返していく。

それは円環のようだ。

 

ただ、普通の人にとっては、ばねの表面をなぞるようにぐるぐる回りながら上昇していく。

昨日の自分を捨て、新しい自分になる。

年齢を重ねていく。

経験も増えていくし、能力も上昇する。

 

もちろん、ぐるぐると回りながら落ちていく人もいるだろう。

 

で、おれはどうかというと、たった一つの円環を延々と走っているような気がする。

走っているというか、歩いているというか、這っているというか。

なんの進歩もない。

かといって、いきなり一文無しに戻るような急直下もない。同じところをぐるぐると。

 

それはおれがカレンダーを失ってしまったときに始まったのだと思う。

べつに選んだわけでも、強制されたわけでもない。

なんとなく、そうなってしまった。

そしておれは、無限の円環から抜け出せない。エンドレスエイト。

 

それでも時間は進むのだ

が、時間の方は進んでいるのだ、あなた。

今のところは一方向に進んでいる。

誰が決めたのかしらないが、そういうことになっている。

現実は『テネット』ではない。

 

時間が進むとどうなるのか?

それはおれが人間として老いていくということだ。

こればかりは避けられない。

人類の平均寿命は伸びていることと思うし、昔より老人が健康になっていることとは思うが、老い自体は避けられない。

 

しかし、カレンダーを失ったおれ、人生の道から途中下車したおれには、この老いを受け入れがたく感じている。

受け入れがたく感じていると感じている。

 

だから、四十路をすぎてなお左耳に三つのピアスをして、髪を染めて、スーツを着るでもなく、よくわからないおっさんとして、ずったらずったら伊勢佐木町や寿町を歩いている。

もう、若くはないことはわかっている。

わかっているが、積み重ねてきたものがないので、ひょっとしてまだ成長の余地が残っているのではないか?という妄念がないわけでもない。

 

そんなはず、ないだろう。

おれは、背が低い。学年でも一番のちびだった。

けれど、年齢を重ねれば、人並みに背が高くなると思っていた。

服のサイズもSではなくなるときがくるだろう、と。

 

そんな感覚だけは、今も残っている。

結局、おれは背が低いままだった。

ただ、この頃というと、「ああ、このズボンが履けなくなった」というような、中年の哀しみを味わうことになった。

 

ああ、酷いものよ、時間の流れ。

おれはカレンダーを失ったひきこもりの心地のまま、気づいたらここまで来てしまった。

 

知っているか? 一度ひきこもってしまった人間というのは、まっとうな人間に戻ったように見えても、やっぱり性根にひきこもりの心がある。

アルコール依存症において使われる比喩「一度漬物になってしまったら、生野菜には戻れない」というやつだ。

いや、サンプルはおれ一人だけれど。

 

時間切れのそのときまで

というわけで、自分のなかのカレンダーがなくなろうが、なんだろうが、時間というやつは一方的に、圧倒的に過ぎていく。

そして、その過ぎ方はどんどん加速していく。

 

油断するな、おればかりじゃなく、あなただってそうだ。

ジャネーの法則から自由になれると思うなよ。

二十代のあなた、それなりに早く三十代になってしまうぞ。

三十代のあなた、あっという間に四十代だ。そういうものなんだ。

 

それでも、カレンダーのある人生を送っている人はまだましだろう。

自分の人生のステージを把握し、先を見据え、計画を立てて、老いや死に向かっていける。

 

おれのようなやつ。これは困った。

気づいたら持ち時間を使い切って、秒読みが始まっている。

年齢なりの場数も踏んでいないし、学ぶべき経験もないし、ましてや歴史から何かを学ぶ能もない。

 

ただ、時間は待ってくれない。

待ったなし、それが人生。それがこの世界。

否応なしに秋は冬になり、冬は春になる。

日曜日が終われば暗い月曜日の始まり。

それから抜け出すことはできるのだろうか?

 

おれは、抜け出したいと思う。

馬鹿なことを言っている。

それでも、カレンダーのない身だ。

ちゃんと段階を踏んで生きている人からしたら自由でもある。くだらない負け惜しみだ。

 

それでも、おれは時間の流れから自由な境地に至れないか、そんなことを夢想する。

老いや死から自由になれないか。

あたかもそれがないような自由、無、それはあるのか、ないのか。

 

とまれ、残された時間は長いようで短い。

ひょっとしたら短いようで長いかもしれない。

時間切れで投了するときになって、それがわかるのだろう。

 

そんなことを考えるおれの視界の端に、デジタル時計が無機質に時を刻んでいくのが見える。

一秒、一分、一時間……。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Remco van der meer

グローバル化によりサプライチェーンが複雑化した現在のビジネス環境では、取引先の工場で人権を侵害するような労働環境や児童労働の横行、強制的な立ち退きを伴う開発等が行われることにより、大規模な不買運動や訴訟問題に発展する可能性もある。

 

今回はSDGsに対する関心の高まりと共に注目を集めるようになってきた「ビジネスと人権」をテーマに責任ある企業活動として求められる行動を考えていきたい。

 

人権侵害は企業価値を著しく棄損する

日本企業の場合、人権問題というとセクハラ・パワハラなどのハラスメントや外国人労働者等、直接雇用関係にある人々との間で発生する問題が取り上げられがちだ。

しかし、本来、企業が考えるべきは、自社の従業員はもちろんのこと、サプライヤーや顧客、あるいはその先の社会まで含め、自社の企業活動が影響を及ぼすすべての範囲である。企業による人権侵害の有名な事例としては、ナイキの児童労働問題がある。

 

ナイキは、開発途上国で製造を行うことで低コスト化を実現していたが、1997 年に委託していたインドネシアやベトナムの工場で児童労働や劣悪な環境下で長時間労働が行われていたことが発覚した。

 

この事実を国際NGO が摘発したことをきっかけとして世界的に不買運動が広がり、同社は国際社会からも強い批判を受けた。

不買運動が発生していなかった場合の売上高予測値(1998年~2002年の5年間累計)は、約12,180 百万ドル、日本円で約1 兆3,764 億円と算出されている。
(参考:人権を軽んじる企業には、1000億円以上失うリスクあり|デロイトトーマツ

 

人権保護の主体は国家から企業へ

企業による人権侵害の例は他にも多数あるが、グローバル企業が台頭する中で、国家のリソースだけでは十分に人々の人権の保護ができないことが明らかになってきた。

こうした中で、企業にも人権を保護する責任があるという考え方が登場している。それがアメリカの国際政治学者ジョン・ジェラルド・ラギーによって提案された枠組みを定式化した「ビジネスと人権に関する指導原則」(United Nations Guiding Principles on Business and Human Rights:UNGP)である。

 

UNGPは、2011年に国連の人権理事会にて全会一致で支持された文書であり

「人権を保護する国家の義務」

「人権を尊重する企業の責任」

「救済へのアクセス」

の3つの柱から構成されている。UNGPは法的拘束力を持たないソフトローであるが、欧米など各国ではこの指導原則に基づいた国内法の整備が始まっている。

 

イギリスにおける現代奴隷法

例えば、イギリスでは、2015年に企業のサプライチェーン上における強制労働や人身取引を特定し、根絶させるため現代奴隷法が制定された。

奴隷というと2020年の今日に存在するのかと耳を疑われるかもしれないが、国際労働機関(ILO)の調査によれば、強制労働、債務奴隷、強制結婚その他の奴隷制、人身取引等を含む現代奴隷は、2016年時点で、世界全体で4,000万人に上ると言われている。

 

同法では、イギリス国内で企業活動を行い、世界での売上高が3,600万ポンド(約50億円)を超える企業を対象に、「奴隷と人身取引に関する声明」をウェブサイト上で公開することが義務付けられている。

 

また、イギリス企業に限らず、国内に子会社を置く海外法人も範囲に含まれており、日本企業の多くも対象となっている。

日本で10月16日に発表された「ビジネスと人権に関する行動計画」では、イギリスのように企業に対する法的義務は盛り込まれていないものの、グローバル展開する企業には国際基準で人権対応に取り組むことが期待されはじめている。

 

アシックスが目指す“よきモノづくり”

グローバルに事業を展開する企業にとって、その複雑なサプライチェーンにおけるリスク管理は難しい課題である。

サプライヤーに対する情報開示や能力強化など、自社だけでなく、業界全体やNGO、地域社会などのステークホルダーと連携した取り組みが必要となるだろう。

 

スポーツブランドのアシックスは、東南アジアを中心に20ヵ国以上、約150の工場を抱え、広範なサプライチェーンを有するグローバル企業である。

同社はサプライヤーのリストを公開しているほか、工場を選定するタイミングで監査を実施し、ガバナンスに関する取り組みについて開示を求めるなど、リスク管理を徹底している。

加えて、グリーバンスメカニズム(苦情相談窓口)を導入し、労働者に対する救済システムを構築している。

 

また、アシックスは、世界スポーツ用品工業連盟(WFSGI)や国際労働機関(ILO)のベター・ワーク計画、アパレル業界団体のサステナブル・アパレル連合(SAC)といった国際的なイニシアチブに参画しており、サプライヤーの能力強化や労使関係の構築など業界全体で取り組むべき課題にも連携したアクションを取っている。
(参考:PEOPLEサプライチェーン|アシックス

 

こうした取り組みが評価され、イギリスに本部を置くビジネスと人権に関する諸問題に取り組む人権NGOおよびESG評価会社等のパートナーシップであるKnowTheChainが企業のサプライチェーン上の強制労働防止への対応に関して実施した調査では、「労働者の声」のテーマでベンチマーク対象となった日本企業12社中、最高のスコアを獲得した。
(参考:3部門、3年後:強制労働の撲滅に向けた進捗とギャップ|KnowTheChain

 

ちなみに冒頭で取り上げたナイキも、その後、人権問題に対する取り組みを進め、高いスコアを獲得している。

 

日本企業は従来から人権を考慮する意識が低いと言われているが、海外の投資家や国際NGOの注目度も高まっている。

企業経営者は、サプライチェーン上で発生しうる人権侵害や児童労働といった問題について可視化・把握する努力を怠るべきではない。

 

なお、ここで最も重要なのは、「人権リスク」は企業にとってのリスクではなく、あくまで負の影響を受ける人々にとってのリスクであることだ。

人権への負の影響を特定、防止、軽減し、どのように救済するかという一連のプロセス(人権デューディリジェンス)を実施することにより、結果として企業にとってのリスクを最小化することに繋がりうる。

 

「ビジネスと人権」という、避けて通れないテーマについて、企業が自社の課題として捉え、責任を果たすことが求められている。

 

 

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【著者プロフィール】

グロービス経営大学院

日本で最も選ばれているビジネススクール、グロービス経営大学院(MBA)。

ヒト・モノ・カネをはじめ、テクノベートや経営・マネジメントなど、グロービスの現役・実務家教員がグロービス知見録に執筆したコンテンツを中心にお届けします。

グロービス知見録

Twitter:@GLOBIS_MBA

 

Photo by Rio Lecatompessy

精神保健福祉の分野では、精神科医が主役ではない場面がとても多い。

保健師・ソーシャルワーカー・市役所福祉課職員・警察官や弁護士といった他職種によるサポートこそが肝心なことがしばしばある。

クライアントの生活を支えるためには、多職種による連携が必要だ。

 

そうやって色々な職業の方とクライアントのお金の問題をディスカッションしている時に、ふと、右のようなことが頭をよぎることがある。

――「今の世の中って、お金に困っている人のほうが、お金がかかってしまうんじゃないか」――と。

 

どういうことかというと、生活費が入ると右から左へ全部使ってしまう人や、いわゆる“やりくり”が出来ない、というより“やりくり”が完全に欠落していて、そのせいで経済的にますます困ってしまう人があちこちで見受けられるからだ。

 

しかも、そういう人は精神保健福祉のリーチする内側だけに存在するのでなく、外側にもかなりの確率で混じっている。

1.買い物をする際に、金銭の節約という概念が無い。欲しいと思ったら我慢せず買ってしまう。

放っておけば、一ヶ月の収入の大半をたちまち使い果たしてしまう。

 

2.生活技能・生活感覚を欠いているために、食事を自炊できない。スーパーで安い食べ物を買うこともできない。

家に一番近い、割高なコンビニで買い物を済ませてしまう。外食も頻繁。

 

3.煙草やアルコールのような嗜好品を好み、やめるどころか減らすことも困難な状態。

 

4.ネット通販やソーシャルゲームの課金も衝動的。

 

5.必要性や優先性や保存性を考えずに買い物してしまう。結果、使うあてのないものが自宅に山積みになったり食べ物を大量に腐らせたりしてしまう。

精神保健福祉領域のクライアントが皆そうだというわけではない。

たとえば障害者年金を貰いながら生活している統合失調症の患者さんのなかには、ごく質素な生活をしていて、最低限の収入で暮らしていけるタイプの人が珍しくない。

そうでなくても、金銭管理のしっかり身に付いた患者さんがたまたま精神疾患にも罹患することはよくあることではある。

 

だが精神保健福祉の内側にも外側にも、上記の1.2.3.4.5.のうちふたつみっつが当てはまる人は遍在している。

これらの特徴に当てはまる人は生活コストが非常に高くつくため、当然の帰結としてお金がたまりにくく、お金に困りやすい。

 

対照的に、収入に恵まれた人にはやりくり上手な人が多い。

スーパーの特売日を利用する・野菜室の野菜を無駄に余らせない・嗜好品にむやみに溺れない、等々。

金銭を節約しなくても生活できるはずの人々が、かえって食費・生活費を節約できていたりする。

 

こういう人は、収入がしっかりしているのに加えて財布の紐をしっかり管理しているのだから、結果としてますます金銭に困りにくくなっていく。

収入が乏しいのにやりくりが困難な人々とは対照的といわざるを得ない。

 

この対照を眺めていると、金銭管理とは本人の自由意志の問題なのか、それとも本人の能力の問題なのか、よくわからなくなってくる。

 

金銭管理が出来ない人を、誰が・どう・どこまで支援するのか

さて、こうした金銭管理の能力を欠いているらしき人がいたら、どうすれば良いのだろう?

 

解決法のひとつとしては、生活保護のような制度の適用があるかもしれない。

しかし、金銭管理の能力が欠如している人にただ金銭を手渡しただけでは、底の抜けたバケツに水を注ぐようなものだ。

渡す金額が多少多くなった程度では困窮した状況は変わらない。

いや、相当な金額を手渡してすら破綻する人が少なくないだろう。

 

次に連想されるのは「金銭管理を本人に教育する」というソリューションだが、教育すれば節約ができるようになるぐらいなら、とっくの昔に問題は解決しているはずである。

教育の行き届かない人もいれば、教育の成果が出るのに長い時間がかかる人もいる。

 

そこでさらに次善の策として「金銭管理を本人任せにせず、第三者が支援する」という形式が思いつく。

実際、精神保健福祉の領域では、“金銭管理の第三者による支援”が制度化されている。

 

その代表格は、成年後見制度だろう。

この、最もフォーマルな制度からちょっとした日常の買い物支援まで、なんらかお金のやりくりをサポートするシステムは精神保健福祉の世界では草の根的に機能している。

少なくとも明確なハンディを生じている人に関しては、だ。

 

だが、だからと言って「金銭管理が出来ない人を見つけたら、金銭管理を本人から取り上げるべき」とするべきだろうか?

ましてや「金銭管理が出来ない人には、精神保健福祉で用いられている制度をそっくりそのままあてがうべき」とするべきだろうか?

このあたりは色々難しく、また、デリケートなところだと思う。

 

まず、現実問題として、現行の精神保健福祉の貧弱なマンパワーでは、世の中の金銭管理不能者たちをすべてサポートすることは絶対に無理、というものがある。

お金のやりくりの出来ない人の総数は、金銭管理の出来ない精神障害者の総数よりもずっと多い(注:精神保健福祉が金銭管理の支援対象としているのは、なんらかの精神障害を持ち、なおかつ、金銭管理が出来ない人達である)。

精神機能に明確なハンディを生じている人の外側にまで広げて金銭管理のサポートをしようと思ったら、途方も無い労力が必要になるだろう。

 

また、理念の面でも、「金銭管理に第三者が介入する」ということは、個人の意志・選択・責任を制限してしまうという問題を含んでいる。

 

自己決定を制限するような介入は、人権的観点からすれば最小限にするのが望ましいはずで、仮に、金銭管理のできない人間を容赦なくマネジメントしていくようなシステムを構築しようものなら、遠からず、あなたのスマートフォンにも行政機関のメッセージが届いて

「当局は、あなたの金銭管理能力には問題があると判断しました。以後、あなたのお金の使い道には制限と監視がつくことになります。」

と告げて回るような未来がやってくるだろう。そんな未来は御免蒙りたい。

 

「金銭管理のできない人の支援」というテーマは、以上のようなややこしさを含んでいるがために、今までも、そしてこれからも、論議の的であり続けるのだろう。

 

“お金に本当に困っている人は、えてしてお金がかかる”という問題の解決は、自己選択の制限とも表裏一体なだけに、シンプルな単一見解に飛びついて足れりとするわけにはいかない

――ときに、自由意志の尊重とひきかえに、困窮に向かって突き進んでいく人を見送ることがあるとしても――。

『シロクマの屑籠』セレクション(2011年6月12日投稿) より

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo by Senad Palic

つい先日、自分の書いた原稿に、出版社の校正の方から手を入れていただいたとき「やっぱりプロはすごい」と感じた。

当たり前なのだが、改めて自分がいかに適当に言葉を使っているかが、よくわかる。

 

定義忘れ、表記ゆれ、時制の矛盾、前後の文脈との食い違い、変換ミス……改めて自分の国語力の無さに呆れたわけだが、これはこれで一つの訓練だと思い、一つ一つの指摘をボチボチつぶしていった。

そして、作業をしながら、私は一人のコンサルタントをふと思い出した。

 

「できない」→「できる」

正直なところ、彼はお世辞にも「できる人」ではなかった。

愛嬌はあったが、仕事のできは、良く言っても十人並み。

同じ時期に入社した、目から鼻に抜ける感じの同僚と比べると、明らかに物足りなさがあった。

 

例えば、私が在籍していた会社では、コンサルタントに日報を書かせていた。

だが彼の日報は、よく言っても学生のレポート並みで、箇条書きであればかろうじて内容がわかるのだが、文章になると途端に意味不明になってしまう。

 

あるいは、社内では訓練としてよくロールプレイをやっていた。

中小企業の経営者は気難しい人が多いので、ひとつ受け答えを間違うと、嫌われてしまう。

そのため、コンサルタントは新人のうちは想定問答の訓練を受け、無難な回答の方法を叩き込まれる。

 

その一つが「うちの会社の課題はなんだと思う?」という質問をする経営者に対するロールプレイ。

老獪な経営者の中には、若造のコンサルタントにそんな質問を投げかけて、力量を測ろうとする人もいる。

 

そんなとき、質問を真に受けて

「人事評価に課題がありますね」

「営業力が弱いですね」

などと素直に指摘してはならない。

 

大抵、その若造の指摘は間違っているし、たとえ間違っていなかったとしても、率直に指摘することはあまり良い結果を生まない。

 

いや、事実であったらなおさら悪い。

ズバリ事実を指摘すれば、「そんなことを言っていたのは誰だあ!」と怒りだしてしまう経営者もいる。

「聞いておいて怒る」というのは、誠に理不尽だが、そんな人が経営者には少なくない。

 

ただこれは、個人に置き換えるとなんとなくわかる。

例えば「仕事がうまくいかないのはなぜなんですかね」と相談されたとき、「頭が悪いからじゃないですかね」と率直に言われたら、誰でも怒るだろう。

それと同じだ。

 

要は、「うちの会社の課題は?」という質問は、回答に大変注意を要するものなのである。

そんな気を遣うべき質問に対して、彼は無邪気にも

「コミュニケーション不足ですかね?」などと、適当に放言してしまうタイプだった。

 

もちろん彼に

「相手の発言をもっと吟味しなさい」

「誤解を招く言い方は避けなさい」

「丁寧に情報を伝えなさい」

と、指導は繰り返された。

正直、コンサルタントにはあまり向いてないのではないか、と思うときもあった。

 

 

だが、驚いたことに彼は大きく変わっていった。

「男子三日会わざれば刮目してみよ」という言葉があるが、1年もたつと、すっかり「できる人」に変わった。

受け答えはもちろん、今やっていること、意見をもつこと、仕事に対する考え方、あらゆる面で進歩した。

 

これは、ドラクエでいうと、あそび人が、賢者にクラスチェンジしたようなイメージだ。

すごい。

私は改めて、「人は化けるんだな」と思った。

 

生まれ持った人間の能力は大きく変わらない。

しかし、仕事の出来不出来に関しては、短期間でも大きく変化する。

これは、とても不思議だ。

 

だから、上の彼がなぜ、「変わった」のか、それをもう少し、掘り下げたくなった。

そうしていくと、彼が「仕事ができる」ようになった変化の本質が浮かび上がってきた。

 

仕事の基本は、何よりまず「国語力」のアップ

誤解を招く可能性もあるが、思い切って言えば、彼の変化の本質は「国語力」にある。

もっと分解していえば、ここでいう国語力とは

 

・話者の意図を正確に理解すること

・正確な言葉を適切に使って表現すること

・語彙の豊富さ

 

の3点だ。

 

これを「国語力」と評したのは

「著者の主張は何か」

「論じなさい」

といった国語の問題をよく見かけるからだ。

上の3点に難がある人は、仕事でアウトプットが遅かったり、他者とのコミュニケーショントラブルを抱えたりする。

 

自分の思い込みで話し、相手の発言を自分に都合のいいように解釈してしまう。

人によって定義が変わる言葉を気軽に使ってしまい(例えば目標と目的)誤解を招く。

嫌な感じのメールを送ってしまい、相手から疎まれる。

文章を作るのが遅いので、レスポンスが悪い。

 

国語力は仕事にとって必須のスキルなのだ。

実際、数学者の藤原正彦は、「国語は思考そのものと深くかかわる」という。

読む、書く、話す、聞くが全教科の中心ということについては、自明なのでこれ以上触れない。それ以上に重大なのは、国語が思考そのものと深く関わっていることである。

言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。

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仕事の中で「国語力」は上がるか

もちろん、受験生が勉強しているくらいだから、学習と訓練によって国語力はアップする。

 

ピーター・ドラッカーが指摘するように、「実践的な能力」は才能ではなく、努力と訓練で獲得することができる「習慣的能力」だからだ。

実践的な能力は修得することができる。それは単純である。あきれるほどに単純である。七歳の子供でも理解できる。

しかし身につけるには努力を要する。掛け算の九九を習ったときのように練習による修得が必要となる。六、六、三六が何も考えずにいえる条件反射として身につかなければならない。習慣になるまで何度も反復しなければならない。

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才能や創造性、数理的能力などがもてはやされることが多い。

 

だが「仕事の能力」という観点から言えば、才能に大きく依存する領域はそれほど大きくない。

仕事のほとんどは、基礎的な「言語能力」が備われば遂行することができ、これらは訓練のたまものである。

 

では、上の彼の「国語力」は、実際には何によって進歩したのか。

 

日報

一つには、上で挙げた「日報」は大きい。

文章を書いて、人に何かを伝えることは、とても良い訓練になる。

上司から、すぐにフィードバックを受けることができる環境であれば、なお国語力のアップにつながるだろう。

 

読書

もう一つには、「読書」。

コンサルタントには1か月に10冊ほどの読書が要求されており、彼はまじめにそれをこなしていた。

私は「とりあえず漫画でもなんでも、読まないよりはマシ」と指導していたが、彼は自発的に「より文字数と語彙が多い書籍」に手を出していた。

 

そのため、彼の語彙は1年で飛躍的に伸びた。

何より「漢字」をレポートの中で適切に使えるようになった。

 

上で挙げた藤原正彦氏は、「国語の基礎は漢字」と言っているが、的を射ていると感じる。

漢字の力が低いと、読書に難渋することになる。自然に本から遠のくことになる。

日本人初のノーベル賞をとった湯川秀樹博士は、「幼少の頃、訳も分からず『四書五経』の素読をさせられたが、そのおかげで漢字が恐くなくなった。読書が好きになったのはそのためかも知れない」と語っていた。国語の基礎は、文法ではなく漢字である。

 

私的な話で恐縮だが、子供はとにかく漢字の練習を嫌がる。

だが、「本の中で出てくる漢字が読めるようになる」という体験はうれしかったらしく、読書と漢字の練習は組み合わせたほうがよいと実感した。

 

ディスカッション

そして最後に、一日の終わりに必ず行われたコンサルタント同士のディスカッションも大きいだろう。

このディスカッションでは特に「発言の真偽」ではなく「発言の正確性」が厳しく吟味された。

 

間違っている意見を言うのは一向にかまわない。

だが、「意図が正確に伝わらない言葉を言うのはダメだ」というわけだ。

 

以前にも書いたが、「大丈夫だと思います」といった、あいまいな発言はすぐに突っ込まれる。

すぐに周りから、どのような基準に対して、どの程度満たしているから、「大丈夫だ」と誰が判断したのか?

と聞かれる。

これは、人の発言をそのまま受け取らない、あるいは正確に相手に情報を伝えるための訓練となる。

 

「国語力」を推す

仕事に必要な力を挙げてもらうと、人によってさまざまだ。

論理的な思考やプレゼンテーション、あるいは創造性、行動力、人間力なんていう人もいる。

 

だが、私は最も初歩的なものとして、「国語力」を推したい。

最低限、仕事をするのには、小学校の頃からずっと教わってきた、「国語」ができればよいのであって、特別なことは何もない。

 

だから、究極的には、仕事ができるようになるためには、

「本を読め」

「文章をかけ」

「人と話せ」

でいい。

そうして、半年、1年と基礎的な訓練を地道にこなしていくうちに、人は見違えるように仕事ができるようになる。

 

 

【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

◯ブログが本になりました。

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今年の冬は温かいなぁと思っていたが、最近はめっきり寒くなってきた。

寒い朝空の中、温かいコートと手袋に包まれつつ、ハーッと自分の吐く息が白くなるのを見るのがこの時期の僕の一つの楽しみだ。

今年は新型コロナウイルスの影響もあってマスクが手放せず、あの白い息もあまり見れていないのだけど。

 

白い息つながりで一つ面白い話を思い出したので今日はその話をしようかと思う。僕が尊敬する、ため息先生という人の話である。

 

一ヶ月に一個だけ、相手のできないを取り除いてあげる

どこの職場にも仕事ができない人間というのがいる。

 

人を教育した事がある人ならば嫌というほど痛感している事だと思うのだが、できない人を指導するのは本当に難しい。

僕は仕事ができる人は山程知っているが、「できない人を指導できる人」は、ほとんど知らない。

まして、できない人をデキる人に仕立て上げられる人ともなると天然記念物級である。

 

だが、たった一人だけそれを相当に高い打率でやってのけていた人がいた。ため息先生である。

かなり仕事ができない研修医でも、彼の元をローテーションすると最低限の仕事はできる人間となるのである。

 

僕はあまりにも彼の手腕が謎すぎて、興味を持って指導法を尋ねた事があったのだが、彼の指導法は本当に至極シンプルなものであった。

それは「一ヶ月に一個だけ、仕事ができない原因を取り除いてあげる」というものである。

 

一つの事を、手を変え品を変え伝え続ける

「高須賀くん、仕事ができない人ってね。別に不真面目なわけじゃないんですよ」

 

高須賀 「はぁ」

 

「本人だって困っていたりするんです。だからその人にしっかり向き合ってあげて、キチンと話を聞けば、仕事のやり方のどこに問題があるか位わかりますよ」

「それを見つけたらですね。手を変え品を変え、言葉を変え表現を変え、場所を変え時を変え、淡々と一ヶ月ぐらい言い続けるんです」

「優秀な人は一回だけ言われれば理解できるけど、駄目な人は変なこだわりとかプライドがあるから、絶対に一回だと治らないんです」

「だからある時は優しく、ある時は神妙な顔で、ある時は厳しい口調で、徹底して本人に向き合って指摘してあげる。極論すれば、これを1年やり続ければ12個も仕事のやり方の問題点が改善できる」

「こうやって根本の部分を直してあげれば、だいたいの人は仕事ぐらい普通にできるようになりますよ。まあ、だいたいの人は途中で勝手に成長して、12個も問題点を改善しないで仕事ができるようになりますけどね」

 

高須賀「先生が丁寧な指導をするから研修医が成長していたんだと思ってたんですけど、違うんですか?」

 

「僕も昔は親切心で色んな事を教えたりしたんですけど、逆に色々教えちゃ駄目なんですよ。そうすると自分で学ばなくなるし、いろいろ教えすぎると大切な事が伝わらない」

「知識なんてですね。現場に真摯に向き合えるようになれば、自然と身につくものなんです。だから現場をキチンと見なさいって、いつもいいます。」

 

いま思うと、これは中途半端に仕事に慣れて色々流しがちだった当時の僕に釘を刺す為の発言でもあったなぁと思う。

 

「けど、うちの上級医って仕事は物凄く出来る人が多いですけど、出来ない人の教育は下手ですよね。個人的には医者の癖に、人にキチンと真正面から向き合って、相手が何に困ってるのかを推論し、キチンと伝えられないのは問題だと思うんですけどね」

 

高須賀「…できない人に向き合うのって、大変じゃないですか?」

 

「そりゃ簡単ではないですよ。けど医者なんだから、それぐらいは本当できなくちゃ駄目だって、僕は思うんですけどね」

「患者さんは研修医より困ってる人ばかりですし、人の生活習慣とかを変えるのって、できない人をできるようにするのと本質的には同じ事ですから」

 

これは好ましくない患者さんに不快感を噴出させてしまったりしていた、当時の僕の耳に本当に痛い発言だった。

 

病気をみるのは得意でも、人をみるのが苦手な医者達

弱きを助け、強きを挫く。

とてもいい言葉だと思う。もともとは任侠道の言葉らしいけど、そういう存在だと胸を張っていえるようになりたいと本当に思う。

 

僕は医者だ。もともとの志望動機はあまり褒められたものではないのだが、それでも「患者さんの為に尽くしたい」というような事を受験生の頃に思っていたような記憶がある。たぶん、僕以外の医者になった人達も、大なり小なり同じような事を思ったはずである。

しかし…実際に医者になってみると、これが思っている以上に難しい事だという事を痛感する日々だった。

 

困っている人・弱い人を助けるというのは、正解を押し付けて、ウエメセでその人に説教をかましたりする事ではない。

言葉にすれば「そんなの当然でしょ?」と思われるかもしれないが、医者の多くがやってる事はぶっちゃけコレだ。

現代医療はとても煩雑で、おまけに医者は忙しい。そういう余裕がない環境であるという事は差し控えても、多くの医者は病気を見るのは非常に得意だが人をみることは物凄く苦手である。

 

好き嫌いで仕事をする人は専門家にはなれるが、管理職には向いてない。

この不遜な診療態度による暴力性は、なにも患者さんだけに向くとは限らない。

冒頭でため息先生のエピソードを紹介したが、多くの医者の部下に対するマネジメントの稚拙さは、まさにこの問題まんまである。

 

先日も自分の職場でパワハラまがいの事をやって部下を職場から追い出した人がいた。

その人は例にもれず物凄く仕事ができる人なのだけど、致命的に人に向き合えない人で、おまけに好き嫌いで仕事をするタイプの人だった。

 

実はその部下に僕は少しだけ相談を受けた。

話を聞くと「コミュニケーションが足りてないのかな」と思わされたので、僕は不遜にも

「上の人も交えて相談して、もう少し対話をお互い心がけられるようにすればよいのでは?」

とアドバイスをしたのだが、これが見事に裏目にでてしまった。

 

その部下は勇気を振り絞って所属長を交えて話し合いをしたそうなのだが、結論としては

「下が意見するなんて生意気だし、自分のやり方にケチをつけてくるような奴とは一緒に働けない」

と怒り心頭となり、前以上にコミュニケーションをとらずに無視するような態度が徹底されしまったのだという。

 

結局、その部下は職場長の判断で職場を移ることになってしまったのだけど、実のところこの手のエピソードは医者に限らず、一般社会でもそれなりにあるんじゃないだろうか?

できる部下は…確かにかわいい。いう事をよく聞く部下も…まあかわいい。じゃあその逆…できない部下とか…いう事を聞かない部下は…まあお察しだ。

 

そういう人にイラッとくるのは、僕だってわからなくもない。だが、好き嫌いで仕事をしてしまう人は…正直いろいろと辛いものがある。

世の中は、驚くほどに好きな人としか仕事ができない人で溢れている。だからこそ、そういう感情を抜いて、必ずしも付き合っていて気持ちの良くない人に、キチンと向き合える人は本当に凄いなと思う。

 

そういう事を万人に隔てなくやれるため息先生は単なる超人だが、せめてその姿勢だけは僕も踏襲したいなと常日々思っている。

 

ため息は気持ちがいい

彼関連のエピソードは他にも色々あるのだが、長くなるので今日は最後に何故彼がため息先生というのかを説明して、終わりにしたいと思う。

 

あだ名の通り、ため息先生は本当によく一人でいるとき限定だが、ため息をつく人だった。

一人で外来ブースでコーヒーを飲みながら、深い溜め息を何度もつく彼をみて、若かった僕はつい「先生、ため息はイメージ悪いですよ」と言ってしまった事があった。

僕は「ああ、すみません」とでも言われるのかと思ったのだが、彼の返事は僕の予想の斜め上をいくものだった。

 

「高須賀先生、ため息って、メチャクチャ気持ちよくないですか?」

「へっ!?」

「この仕事はいろいろ難しいことを抱える商売で、色々と嫌になることも多いですけど。ため息が気持ちよくなるから、まあいいかなって僕は思うんですよね」

 

その言葉を聞いてから、僕は困ったことがあると一人で深く深くため息をつくようになった。

確かに…ものっすごく…気持ちよかった。

そんなわけで、僕も今ではすっかり辛くなったら一人でため息をつくようになってしまった。

 

排除するか、受け入れるか

人間関係は難しい。職場の上司も同僚も部下も、顧客である患者さんとも、気の合う人達だけの中で仕事を回し続けるだなんて事は不可能である。

 

だから気持ち良く仕事をやり続けるにあたって、人は2つの選択肢を迫られる事になる。

1つはパワハラをやって部下を追い出した人のように、徹底して自分の不快なものに対してNo thank youを押し付ける生き方だ。

強きを助け、弱きを挫き、気持ちの良いものだけで身の回りを固める。こうして不快なものを排除し続ければ、気持ちの良いものが多く残る事になる。

 

差別ではない。これはお互いの為に必要な区別なんだというその姿を、僕は必ずしも否定はできない。

僕だって配偶者は自分で選んだ立場だし、その他さまざまなものを積極的にしろ消極的にしろ選んでいるというのは、間違いなく事実だからだ。

 

もう1つは、自分の嫌いなもの・不快なものにも恐れずに向き合って対話する生き方だ。

コストは物凄くかかるが、人は異なる存在とも話しそして理解し合う事ができる生き物でもある。これは決して楽ではないし、やった所で誰も褒めてくれない生き方でもある。

 

残念ながら僕は超人ではないので、別け隔てなく嫌いな人にも良くできるわけではない。

けれど、最近はちょっとづつ、ため息を付きつつも、もうちょっと頑張って世の中をやっていけるんじゃないかなと思えるようにもなってきた。

ため息…その一息が気持ちいいから生きていける。人生なんて、意外とそんなもんなのだ。

 

この寒い冬空の下で「ふー」と息をつき、僕のアドバイスが裏目に出てしまった部下氏への贖罪の気持ちも込めて

「いつかきっと理想の管理職ってのをやってみせるぞ」

と1人世の理不尽さに歯向かう覚悟をしたのであった。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo:David Williss

2年半ほど前、こんなツイートをした。

https://twitter.com/amamiya9901/status/1023526061844451329?s=20

ひっそりとやっている(半ば放置ぎみ)のツイッターのなかでも、1、2を争うくらい拡散されたものだ。

で、「そういやこれ記事にしてないな?」と思い出したので、2万8000いいねを獲得した「フリーランス流儀」(かっこよく言ってみた)のなかでも特に重視している4つについて、その理由を改めて書いていきたい。

 

最初から「なんか嫌だなぁ」と思う仕事は請けるな。まじで。

「嫌な予感がする仕事は受けない」。

これはわたしがフリーランスとして気ままに生活しているなかで、絶対に譲らない部分であり、1文字1円でコツコツまとめ記事を書いていた時代にかたく誓ったことでもある。

 

「やりたくない仕事はしない」ではない。
「苦手な人と働かない」ではない。
「安い給料で請け負わない」ではない。

 

「嫌な予感がしたら受けない」だ。

 

いやね、たぶんこれは多くの人が経験してると思うんだけど、最初のやりとりの段階で「なんか嫌だな」って気持ちになることがあるのよ。

「相手の返事が遅くて先行き不安だな……」とか、「なにが言いたいのかよくわかんなくてイライラする……」とか、「こっちの経歴全然調べないまま仕事依頼してるじゃん……」とか。

 

「ムカつく!」って怒るほどでもないけど、なんとなーくうまくいかない気がするってやつ。

 

経験上、そういったお仕事は、やってみても「嫌な感じ」はなくならない。

それどころかどんどん大きくなって、「気が進まない」が「やりたくない」になっていくだけだった。

 

お仕事をいただけるのはとても光栄だけど、最初の段階で「よっしゃやったるぜー!」とノリノリになれない時点で、たぶん相性が悪い。受けるべきじゃない。

(もちろんそれは相手が悪いわけではなく、ただの相性の問題であり、ときには自分の力量不足だったりもする)

 

選り好み……になってしまうかもしれないけど、そういう直感や印象というのは案外アテになるもので、わたしは大事にしている。

 

感謝はいくら伝えてもデメリットはないからどんどん伝える

そして2番目。これは仕事だけではなく日常生活でもいえることだけど、感謝はいくらしても足りないし、大げさに伝えたところでデメリットはない。

だからいっぱい伝えていこう!!

 

「お仕事のご依頼ありがとうございます」で終わらせず、「わたしの記事を読んだうえでご依頼くださったんですね。ありがとうございます」と一言足すとか。

「ご確認ありがとうございます」で済ませず、「お忙しいなかご確認ありがとうございます。いつも丁寧にフォローしていただいて助かっています」と書くとか。

 

お互い仕事だからね、そりゃあちゃんとやるよ。たいていの人は。

だから「やってもらって当たり前」になって、感謝がどんどん定型文になってしまう。

 

でも、だれだって、淡白なやり取りしかせずなにを考えてるかわからない相手より、大袈裟なくらい「ありがとうございます! あなたとお仕事できて最高に幸せです!」って言ってくれる人とお仕事したいじゃん。

 

わたしがそれを言われたらうれしいから、わたしももっともっと、「あなたとお仕事できてうれしいです」を伝えていきたい。

丁寧に感謝したい。

 

だから、いっぱいの「ありがとう」を、いつも忘れずに。

 

フリーランサーにアドバイスしてくれる人は貴重だからどんどん学ぶ

で、感謝の延長線にあるのが、「アドバイスは貴重だよ」ってところ。

 

フリーランスは自分の裁量で働けるぶん、アドバイスをもらえる機会がとてつもなく少ない。

向こうからしたら、フリーランスなんていつでも切れる存在。

わざわざアドバイスなんてする必要はない。

その仕事だけ無難に終わらせて、「んじゃサヨナラ」でいいんだから。

 

そんななかで、「こうしたほうがいいですよ」と言ってくれる人には、めちゃくちゃ感謝して、ありがたく勉強させていただく姿勢でいる。

とくにわたしは社会経験が少ないままフリーランスになったから、世間知らずな部分が多い。

調子に乗っちゃうこともあるだろうし、リスク管理が甘い自覚もある。

 

だからこそ、わたしに足りないものをちゃんと指摘してくださる方の存在は、とてもとても大事なのだ。

とはいえそういうアドバイスを、「この人はわかってない。俺は自分のやりたいことをやる!」と突っぱねる人がいるのも知ってる。

というか、フリーランサーはそういうタイプのほうが多いかもしれない。

 

でも「自分の信念のために不要なアドバイスをスルーする」のと、「ちっぽけなプライドのために助言に耳を貸さない」のじゃ、全然意味がちがう。

腹が立つマウントや的外れな説教、古臭い価値観の押し付けなどは聞き流したほうがいいけど、「フリーランスの自分に適切なアドバイスをくれる人」の貴重さは忘れずにいたい。

 

自分自身が「成長したい」と思い、それを手助けしてくれる人がいないと、フリーランスが「1段上へ」いくのはむずかしいから。

 

当然のように即時対応を要求されたら最大限の警戒をしていけ

そして最後。「即時対応には応じない」。

これは、「絶対に即時対応するな」ということではない。

ただ、「すぐに対応する前提で話を進める相手を警戒しろ」という意味だ。

 

いやね、あるんですよ。

「記事の修正は迅速に。ただし土日は編集部おやすみなのでお返事できません」みたいな。

こっち時差あるんですが問答無用ですか? わたしの世界には土日が存在しないとでも? と言いたくなるような要求が。

 

一度でもそれに応じてしまうと、その後少しでも返事が遅れたら「困るんですけど」と文句を言われ、その仕事にかかりきりになってしまう。

で、ほかの仕事のスケジュールが狂ったり、別のクライアントを後回しにする不義理をしたり、という事態に陥る。

そんなやり方では、体がいくつあっても足りない。

 

……っていうことが過去にありまして。

「できるかぎりのことはしますが、即時対応はお約束できません。もともとそういう条件ではありませんでしたし」

と伝えたら、

「他の方は応じてくださっているんですが……。高単価でお願いしているので、即時対応は前提だと考えておりました」

と言われてね。

 

いや、他の人との契約なんて知らねーよ、先に言えよ、って思いました。はい。

(実際はまったく高単価ではないのだが、こういう要求をする人は「自分は優良クライアント」だと思い込んでいることが多い)

 

もちろん、自分の仕事の状況や相手との関係性を踏まえ、

「最優先でやっておきました!」

と好意でやるのはアリ。むしろよくやる。

 

「すみませんがこの日に公開を合わせたくて……なんとかなりませんか?」といった要望には、できるだけ柔軟に対応したいとも思う。

でも「即時対応お願いします」と当然のように要求してくる相手には、ちょっと警戒したほうがいい。

 

「即時」というのは、ほかの仕事を差し置いてその仕事を優先するということで、なんの見返りもなしに求めていいことではないのだ。

(納得がいかない催促の場合、特急料金を打診してみよう。たいてい「じゃあ待ちます」って言われるから。他人の時間がほしいなら金を払うのが世の理!)

 

フリーランスは、道に迷わないように自分の指針をもっておこう

この記事を書きながらいままでのお仕事をいろいろと思い返していたけど……

わたしは本当に、まわりに恵まれてきたと思う。

 

最初にお仕事をくださった方はドイツ在住で、お仕事関係がなくなったあともわたしを応援してくださっていて。

東洋経済オンラインという大きなメディアで書かせていただいたとき、右も左もわからないなか、編集者の方はなんどもなんども修正を繰り返していい記事に仕上げてくださって。

 

新潮新書で初の著書を出版したとき、初歩的な質問ばかりしても編集長は丁寧に答えてくださって、出版後もわたしの記事を読んでくださっていて。

現代ビジネス(FRaU)ではセンシティブなテーマで執筆することが多いぶん、わたしの気持ちが正しく伝わるよう、編集者の方はいつも丁寧に読み込んでフォローしてくださっていて。

 

当ブログでも、あまり読まれなかった記事を連発して落ち込んでいるとき、「気にしないで自分がいいと思うものを書いてください」と言ってくださって。

そういう方たちとのご縁に感謝して、学べるものは学ばせていただいて、またいいお仕事をしていきたい。

 

で、そういうものを大切にする一方で、嫌な予感がするお仕事を避け、即時対応のような無茶振りには慎重に対応。

そこらへんの優先順位や自分のキャパシティは、自分で把握して管理しなきゃいけない。

 

フリーランスの自分のことを、だれも守ってはくれない。

だからこそ、自分なりのルール、指針をちゃんともっておきたいのだ。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

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かつて日本では、仕事は単なる賃仕事ではなかった

詩人の中桐雅夫さん(職業としては、新聞社勤務の政治部記者)に「会社の人事」という身も蓋もない題の詩がある(1979年 晶文社)。

 

西欧の典雅な詩の形式であるソネット(14行詩)の形を借りて、こんなことを書く。

「絶対、次期支店次長ですよ、あなたは」顔色をうかがいながらおべっかを使う、いわれた方は相好をくずして、「まあ、一杯やりたまえ」と杯をさす。

「あの課長、人の使い方を知らんな」

「部長昇進はむりだという話だよ」

日本中、会社ばかりだから、飲み屋の話も人事のことばかり。

(第3連4行略)

子供のころには見る夢があったのに

会社にはいるまでは小さい理想もあったのに。

英語で仕事ということを表す語はいくつかあるらしいが、この詩を読んでわたくしの頭に浮かんでくるのがjobという言葉である。

英語のニュアンスの違いがわかるわけではないが、jobには生きていくため、食べていくため、やむなくする苦役といった語感があるような気がする。賃仕事である。

Occupationとかworkといった単語とは何か違う感じがする。

 

本当かどうかは知らないが、アメリカの多くの労働者は仕事をするのは生きていくためのやむをえない苦役と考えて、退職の日が近づくと指折り数えてその日を待つのだそうである。

仕事をしている時間は生きていくためにやむなく魂を会社に売り渡しているので、本当の自分はアフター・ファイブの時間あるいは退職後の方にあるということらしい。

 

しかしこの中桐さんの詩では、そういう割り切りかたはされていない。

仕事は生きていくための金稼ぎの手段ではなく、生きることの根源とかかわる何かなのである。

だからこそ、人事が問題になる。

かつて日本では、仕事は単なる賃仕事jobではなかった。

 

最近、メンバーシップ型の労働からジョブ型の仕事への転換ということがよくいわれる。

人事が飲み屋での最大の話題になるというのは会社がメンバーシップ型でいまだ運営されているからである。

 

中桐さんの詩集は1979年、もう40年も前に刊行されているのだから一昔前の会社風景なのかも知れない。

が、少なくともコロナ禍で客足が遠のく以前のオフィス街の呑み屋さんでの会社勤めのひとの話題の多くはこれに類したものだったのではないだろうか?

 

1941年という遥か昔、下田光造という精神科医が提唱した「執着性性格」という概念があるのだそうである。

どういうひとがうつ病になりやすいかを論じたもので、以下のような性格である。(笠原嘉「精神科医のノート」による。(みすず書房 1976年))

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「几帳面、正直、真面目、小心、律儀、強い道徳律、仕事好き、強い責任感、完全主義、念入りな仕事、凝り性、時間厳守、業績主義、義理人情重視、人と争えぬ、人と折り合いが悪くなると自分の方で折れる、人に頼まれるといやといえぬ、人の評価を気にする・・・」

 

最近、このような「執着気質」(もっと一般的には「メランコリー親和型」気質)を基盤として発症するうつ病は絶滅危惧種とか天然記念物とか言われるくらいに目にすることが少なくなっている。

もはや縁の下の力持ちをやる人は会社社会でも稀になってきているのであろう。

 

その代わりに増えているのが「適応障害」や「発達障害」である。

前者も会社の人間関係に起因するものが多く(「あの人とだけは一緒に仕事できません! 異動させて下さい!」)、昔だったら単なる我儘といわれただろう人である。

後者は単的に仕事の進め方がうまくいかないことが問題となる(同時並行的に仕事をすすめられない。言葉の裏が読めない・・「きみは本当に優秀だねえ!」「いえ、そんなことはありません。」)。

 

これらは、人と争えぬ、人と折り合いが悪くなると自分の方で折れる、という執着気質とは正反対である。

 

最近の気分転換は退社後の一杯ではなく、帰宅後のゲーム

愚痴をこぼせること、それをきいてくれるひとがいるということは精神衛生上大いに好ましいことは明らかだから、アフター・ファイブの呑み屋さんは日本における最大のメンタルケアの場となっていたのかもしれない。

 

縄のれんのおかみさんやバーの女の子の最大の仕事は、お客さんの愚痴をきいてあげることなのだそうである。

「本当に大変ねえ! でも頑張っていればまたいいこともあるわよ・・」

日本のサラリーマンが仕事に専念できるのは、アフター・ファイブに疑似恋愛的な雰囲気に容易にひたれる場がたくさん用意されていたからであると聞いたことがある。

 

ところで、会社の仕事というのが退社後の一杯とワンセットであるなら、テレワークの推進というのもなかなか容易ではないのかもしれない。

仕事の後に家で呑んでいても、誰も愚痴をきいてくれるわけでもない。

まさか、奥さんや子供相手に愚痴もこぼせない。

 

だから、最近の気分転換は退社後の一杯ではなく、帰宅後のゲームになっていると聞く。

 

最近の若いかたの睡眠時間はとにかく短い。

午前2時就寝、下手をする3時に就寝などというのがざらである。

 

「もっと早く寝られないの? 体に悪いよ!」というと彼らは

「10時まで仕事で、家に帰ると11時でしょう。そのまますぐに寝たのじゃ、一日が仕事のためだけで終わってしまうじゃないですか? それじゃ悔しくて。だから帰宅したらゲームをします。それが自分の時間です。」

という。

それで就寝が午前2時3時になるらしい。

 

さらに、「上のほうの人を見ていると、偉くなりたいとは思いませんね」ともいう。

「上にいけばいくほどますます会社にこき使われるだけなんだから。」

 

都市伝説なのかもしれないが、昔は部長とかになると、机の上に足をなげだして新聞か何かを読んでいて、部下が書類をもってきて、お伺いをたてると、ちらっと目を通して、「ま、いいんじゃない!」とかいって再び新聞に戻るとかでよかったのだそうである。

だが今はプレイング・マネージャーといって、自分の仕事がしっかりとあって、なおかつ部下の指導もするので、仕事は増える一方なのだそうだ。

 

これからは、だんだんと会社の人事には関心のないひとが増えていき、会社は各人がただ淡々と自分に課されたjobをこなしていくだけの場になっていくのだろうか。

 

ゲーム依存症患者が増えている

わたくしはまったくゲームというのをやらない人間なので間違った理解をしているかもしれないが最近、ゲーム依存症患者が急増していて大きな問題となっている。

 

ゲームというのはある確率でうまくいくことがあるのだと思う。

それはただの偶然なのだが、しかし、そのうまくいったときに感じる自己充足感が強烈で(おそらく多量の脳内麻薬が放出される)、その再現を求めて延々とゲームを続けることになってしまうのではないだろうか。

もはや会社での仕事は脳内麻薬を放出させるほどの達成感を働く人にもたらさなくなっているのかもしれない。

それで、帰宅後、睡眠時間をけずってでもゲームに熱中するひとがでてくる。

 

ドストエフスキーに「賭博者」という小説がある。(わたくしは読んでいない。以下S・モーム「世界の十大小説」による。)

[amazonjs asin="B083VZ2SW3" locale="JP" tmpl="Small" title="賭博者 (光文社古典新訳文庫)"]

 

ある賭博者が賭けに負けてとぼとぼと賭博場を去ろうとして、ポケットに一枚の金貨が残っているのに気づく。

「これで何とか飯にはありつける」と思うのだが、「待てよ」と思う。

それで賭博場に引き返し、なけなしの金貨を賭ける。そして20分後には170枚の金貨を手にしている。

もしも最後の金貨で飯を食べたのならそれは凡庸な人間である。

そうせずに、それを賭けて170倍にした自分は並みの人間ではない。特別な人間なのだ・・・。

 

それにくらべたら、仕事中毒、会社依存のほうがまだ可愛いだろうか。

それともそれは立派な病気なのだが、なぜか今までは病気とみなされてこなかっただけなのだろうか?

 

ゲーム依存患者の男女比は7:1で圧倒的に男に多いのだそうである。

おそらく会社依存もまた圧倒的に男性に多いはずである。

 

ところで、冒頭の中桐雅夫氏はアルコール依存症による肝不全で亡くなったのだという。

享年63歳。会社社会の鬱屈がそうさせたのだろうか。

 

男とは何とも悲しい性である……。

 

などと男のくせに他人事のようなことを書いているが、上述のバロン=コーエンさんの本の巻末の自己採点テストが付されていて、それを信じるならば、わたくしは、、性別は男性だが、脳はかなりの程度、女性的らしい。

以上は、そういう人間の書いたものとして割り引いて読んでいただければ、幸い。

 

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【著者プロフィール】

著者:jmiyaza

人生最大の体験が学園紛争に遭遇したことという団塊の世代の一員。

2001年刊の野口悠紀雄氏の「ホームページにオフィスを作る」にそそのかされてブログのようなものを始め、以後、細々と続いて今日にいたる。内容はその時々に自分が何を考えていたかの備忘が中心。

ブログ:jmiyazaの日記(日々平安録2)

Photo by Ehimetalor Akhere Unuabona on Unsplash

この記事で言いたいことは、まとめると以下のような内容になります。

 

・「面倒くさくて複雑」といフローは、例外もあるものの、基本的には不適切であるか、そのフローが必要とされる前提の方がおかしい

・けれど世の中には、「面倒で複雑なフロー程正しいし価値がある」と考える人が案外多い

・「面倒くさい」と言える人は貴重なんだけど冷遇されがち

・不要なJOIN句は敵だし、JOIN句の使い回しなど絶対してはならない

よろしくお願いします。

 

さて、言いたいことは最初に全部言ってしまいましたので、後はざっくばらんにいきましょう。

先日、Twitterでこんなことを呟きました。

https://twitter.com/shinzaki/status/1339796405435551746

 

結構色んな人に刺さったようで、たくさん引用リツイートをして頂いたんですが、私自身そこまで深く考えて書いたツイートではなく、ちょっと一人歩きをしている嫌いもあったので、軽く補足してみたくなりました。

 

実を言うと、私がこのツイートをした時、私の念頭にはとあるシステム開発プロジェクトの記憶がありました。

十数年くらい前、私が所属していた会社での話です。

SI7割SES3割って感じの、まあ昔ながらのSI企業でした。

 

その時私が配属されたのは、とある企業の社内業務システムのリプレースのプロジェクトでした。

社内の勘定系と顧客管理系を統合したようなそこそこ大きな規模のシステムだったのですが、以前他社さんで開発した時に要件定義からこけちゃって、色々とよくわからないことになっているのでまとめて再開発したい、というようなプロジェクト設立経緯だったと思います。

 

そのシステムについては調査段階から様々な面白エピソードがありまして、すいませんもしかするとシステム屋さんでないと分かんない話も混じってるかも知れないんですが、軽く紹介してみます。

 

・本来なら日次で動かさないといけないバッチ処理が24時間で終わらず、常に複数のバッチが並行稼働していた

・一部の処理が並行で走っている間はシステムに触れないので、その間発生したデータをExcelで入力しておいて、後から手動で再入力するフローになっていた

・複数の人が別々のExcelを作って後からそれを統合しているのでしょっちゅう統合ミスが発生する。その為のチェック体制もある(当然人力の目検)

・DBを調べてみたらストアドプロシージャで色んなロジックが実装されてるんだけど、何故かJOIN句以下が全部同じで、どう見ても不要なテーブルがJOINされまくっていた

・どうも「JOIN句とWHERE句以下を全てのプロシージャでコピペ共通化して、ロジックに応じて条件ととってくる列だけ変更する」というもの凄い設計になっているらしい

・そこ共通化していい場所じゃないです

・何故か全てのテーブルに、「全ての列をキーにした複合INDEX」という意味不明なものが設定されている(当然全く選択されておらず、更新のコストだけが無意味にかかっている)

・上記のINDEX以外にINDEXが設定されておらず、TABLE ACCESS FULLが発生しまくっている

・あまりに処理が重くて勘定系が使い物にならない為、市販の勘定系ソフトが別に稼働していて、週末に手動でデータを同期させるという二重管理状態になっていた

 

まあ、上記はほんの一例なんですが、なかなかエキセントリックな状態にあったことは察して頂けるのではないかと思います。

 

私の担当分野がDBだったんでまずDBから見始めたんですが、最初に「JOIN句以下が全部同じ」ということの意味に気付いた時には軽く眩暈がしましたよ。

そこ共通化するのあまりにも漢らし過ぎるだろ。超兄貴か。

 

で、業務システムがそんな状態なのに、そこそこお金をかけたシステムを除却するという判断がなかなか出来なかったらしくって、その状態でなんとか回す為に考えられた複雑怪奇なフローがたくさんあったんですよ。

「Excelで手入力したデータを後から手動で再入力」という時点で既に大概ですけど、まあ他にもあるわあるわ、手入力の内容をチェックする為のダブルチェックフローとか、データを転記するだけの為に造られた保守性の低いVBAとか、ドキュメントを紙で出力した後に何故かわざわざスキャンして画像データで取っておくとか。

 

もちろん、そういったフローは、システムがまともに稼働しない状態でもなんとか業務を回す為に工夫されたフローでして、その時々では必要だったものだろうと思います。それは分かります。

 

そんなところに新たにシステム開発が入るんだから、さぞかし皆喜んで、不要な業務を全部効率化出来たのだろう、と思うじゃないですか?

ところが、当初要件を聞き始めた時、驚くべきことに「基本的には今のフローを全てそのままの形で踏襲する」という形での要件しか出てこなかったんですよ。

複雑怪奇で面倒なフローは今のまま全部保持して、システムだけ速くしてください、って内容だったんです。なんだそれ。

 

いや、「お金がないんでほんのちょっとだけの修正に留める」って話じゃないんですよ?

ちゃんと予算もとって、フルスクラッチで一から作り直すっていうプロジェクトでそれです。

ちゃんと動かないシステムで無理やり業務を回す為にこねくり回されたフローを、ちゃんと動くシステムでもそのまま適用したい、というのが当初のお客さんの要望だったんです。

 

当時はまだ私下っ端だったんですが、プロジェクトの内部でも色々相談しました。

我々が色んな人に個別にヒアリングした感じ、こういった要望しか出てこない原因は、多分下記のようなものでした。

 

・そもそも、「現状のフローはまともに動かないシステム用の間に合わせのもの」という認識が現場の誰にもなく、「誤りを防ぐための丁寧で価値のあるチェック体制」だと認識されていた

・今のフローを考案した人がリスペクトされていて、そのフローが神聖視されていた

・現状のシステムで複雑な仕事を丁寧に回せる人が評価されてリーダーになっていて、その人が今のフローを変えることを望まなかった

・経営層は「システムがまともに動かない」という問題は把握していたものの、具体的にどんなフローが走っているかは理解していなかった

・現状のフローに「これおかしいだろ」と思ってそう指摘する人もいたが、そういう人たちは「面倒なタスクを嫌う怠惰な人たち」とみなされて冷遇されるか、あるいは既に退職していた

 

で、我々がヒアリングしたのがまさにその、「今のフローを丁寧に回すことで評価されたリーダー」だったので、フローを変えられること自体を拒絶されてしまった、という話なんですよ。

そのリーダーさんにしてみれば、今のタスクをきちんと回すだけで自分は十分評価されるし、フローが変わったらその後どう成果を出せばいいか分からない、ということで、一種の抵抗勢力になっていたみたいなんです。

 

この時、「言われた通りに実装してお茶を濁す」という選択肢もあるにはあったものの、プロジェクトリーダーの人の決断で経営層も交えて何度も話し合いを行って、システムの新規開発でどんな効率化が出来るかを繰り返し説明しました。

で、最終的には「不効率なフローをまとめて刷新してシステムリプレース」ということになりました。

 

まあ当初は使いにくい使いにくいって現場の人たちに散々文句を言われたものの、最終的には新しいフローでちゃんと仕事が回り始め、経営層含め満足頂いた、という話なのです。

リーダーさんは最後まで文句言ってて、そのうちその会社辞めちゃったんですけど。

 

そんなに珍しい例というわけではないと思います。

後から考えると、「システムリプレース」という案件の一つの典型例だったのではないかなーと。

まあ、あのDBのJOIN句使い回しだけはかなりの特殊例だと私は思ってるんですけど。

 

***

 

もちろん上記は極端な例でして、世の中には「ケースバイケース」という言葉がありますので、中には「きちんとした理由があって必要とされている面倒なやり方」というものもあります。

上のケースでも、旧システムが現役の時代にはそうだったのでしょう。

 

とはいえ、何か面倒なやり方が稼働していた時、

「この面倒さは本当に必要な面倒さなのか?」

「もし必要な面倒さだとしたら、そもそもその面倒さを必要とする前提がおかしいんじゃないか?」

という思考は絶対に必要です。

人間の処理能力や注意力には限界というものがあって、フローが複雑であればある程効率も下がりますし、ミスの可能性も上がります。

 

フローはシンプルであればシンプルである程正しく、価値がある。

これは一般に言ってしまっていいと思います。

 

ただ、それに対して、「面倒で複雑なやり方であればある程、正しいし、価値があるし、ミスが防げている」と考える人も、そんなに少なくない数存在するんですよね。

というより実際にはすごーく多い。

鍵をなくして業者さんに開けてもらう時、さくっと開けてもらうより手間取ってみせた方が納得する人が多い、みたいな話、ありますよね。

 

一つ一般に言えることとして、「この仕事面倒ですね」と言える人は案外貴重、という話があります。

面倒な仕事を嫌う人は「単なる怠け者」と見られがちですが、その人が「なにか前提がおかしい」ということに気付ける貴重な批判能力と、それを口に出来るだけの発信能力を持っている人でもある可能性は割と高いです。

 

そういう人たちを、「こいつ怠け者で不平屋だから」ということで冷遇していると、貴重な改善機会を見逃す可能性がある。

これについては注意を払うべきだ、と私は考えるわけなんです。

面倒くさがり、大事です。

 

その為、現在私の部署は「面倒くさがり」ばかりが集まっていて、ちょっとでも面倒なフローを見つけると寄ってたかって殲滅しにかかるという、なかなか楽しいことになっています。

まあ、実際に「この仕事面倒」というと何故か怒る人が多いので、「このタスク、ちょっと工数が多過ぎるので工数を削減しませんか?」とかそういう言い方にした方がいいのかも知れませんが。世渡りって大変ですね。

 

あとJOIN句使い回しダメ、絶対。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Dwayne Madden

疫病の蔓延で、ゲームをする人が増えているという調査結果が報じられている。

(参照:国内ゲーム市場、10年連続成長で過去最高額に コロナ禍で消費時間増/ファミ通ゲーム白書2020調査

 

外食を控えなさい、旅行もダメ、イベントもなし、ではゲームやYouTubeを視聴するよりほかはない。

ということで、私も多数の方々と同じように、ぼちぼちゲームをやっている。

 

以前にも書いたが、最近のお気に入りはフォートナイト。

傑作ゲームだと思う。

凄まじいことに、プロゲーマーが出場する世界大会「Fortnite World Cup」は、賞金総額が1億ドル(110億円)。

世界で最も影響力のあるゲームの一つで、3億5千万以上のアカウント数を記録している。

 

フォートナイトがクッソ難しいのだが

このように数字だけを見ると、老若男女問わず楽しめそうなゲームに見える。

実際、ルールは至極単純だ。

 

1.孤島に100人が同時に飛び降りる。

2.落ちている武器を拾って、最後の一人になるまで撃ち合って生き残る。

 

いわゆる、バトルロイヤル。それだけのゲームだ。

だが、始めて見るとわかるのだが、正直このゲーム、中年の私にはクッソ難しい

 

正確に言うと、最初はプログラムが操作するbotとマッチングするので、そこそこ勝てる。

だが、ちょっと勝ちだすと、今度は人との対戦になる。

すると突如として、まったく勝てなくなる。

 

ひどいときにはゲーム開始2分もたたずにゲームオーバー。

まったくもって、しんせつ……心折設計である。

 

このゲームの難しさの理由はいくつかあるが、私が思う難しさの理由の一つが、「素早く扱わないといけないボタンがめちゃくちゃ多い」点だ。

初心者のうちはせいぜい、やっとこさキャラを動かしてひたすら撃つくらいで、ゲームの醍醐味である「建築」などの余裕は全くない。

 

マルチプラットフォーム、かつ無料でやれるゲームなので、ぜひ皆様も試していただきたいが、あまりにも緊張するゲームなので、プレイ時間数分で、すでに手汗が滝のような状態になり、プレイ後は脱力して放心状態になるくらいだ。

 

YouTubeを見る⇒練習の繰り返し

しかもフォートナイトは、チュートリアル的なものがほとんどない。

「見て学べ」「習うより慣れよ」「死んで覚える」という性質のゲームなのだ。

 

いったいなんで、こんな難しいゲームが流行ったのか、まったく訳が分からない。

……と思ったのだが、これが大変うまくできていた。

 

YouTubeを見ればいいのだ。

 

調査によると、YouTubeのゲームプレイ動画の人気上位は、1位は「あつまれ どうぶつの森」、 2位「マインクラフト(Minecraft)」、 3位「 フォートナイト(Fortnite)」だそうだが、うなずける。(出典:ゲームエイジ総研調査

実際、フォートナイトは上級プレーヤーによる初心者向けの動画が充実しており、知りたいことのほとんどはYouTubeで解決する。

 

とはいえ、初心者向けに丁寧に説明してくれても、実戦でそれを使うのは、地味な練習が結構な量必要で、一緒にプレイしている、ガチプレーヤーの友人と「これは部活……!」と言い合っている。

 

この、YouTubeを見る⇒練習 の繰り返し によって、少しずつ初心者を脱していくのだが、私にはセンスがないのか、プレイ時間が約200時間を超えても、いまだに対人戦ではアタフタしてしまう。下手の横好き、というやつだ。

まあ、楽しめているからいいのだが。

 

「知識」と「スキル」は全く違う

さて、ここからが本題なのだが、こうしてフォートナイトを繰り返しやっていると、改めて「知ってる」と「できる」は全く違うのだな、といまさらながら、痛感する。

 

念のため、定義をしておくと

「知ってる」は単なる「知識」の状態。

「できる」は「スキルとして身についている」状態のことだ。

 

世の中には、「やりかたを知っているが、そのとおり実行できない」ことがめちゃくちゃたくさんある。

 

例えば、フォートナイトでは「壁の右から出て撃つ」のが鉄則である。

これは自キャラクターがほんの僅か、中心から左によっているためで、壁の右から撃つことで、身を隠しながら攻撃することができるためだ。

 

ところが実戦になった瞬間、これをきれいさっぱり忘れてしまう。

開始2分であっさりゲームオーバーになって、改めて振り返ってみたときに気づくのだ。

「あ、今、壁の左から出てたわ。そりゃ撃ち負けるよ」と。

 

「高スキル保持者」の本質

ところが多くの上級者の動画を見ていて思うのだが、彼らは本当に基本に忠実だ。

早く、そして正確に「知識通りにできるスキル」を持っているのである。

 

そうして、しみじみ思う。

「高スキル保持者」の本質とはまさに、知識の活用を、練習によって、意図せずできるようにできる人なのだ、と。

 

ジョフ・コルヴァンのベストセラー「究極の鍛錬」には、人がスキルを獲得する段階があるが、最終段階は、知識を意識せずに使いこなせる「自動化」とある。

たとえば自動車の運転など、何か新しいことができるようになるには、人間は三つの段階を経るものだ。

第一段階では、いろいろなことに注意を払うことが求められる。車の制御方法、交通規制などいろいろなことを学ばなければならない。

第二段階になると、知識を連携するようになる。車、状況、交通規制の知識といろいろな自分の体の動きを関連づけ、スムーズに組み合わせることができるようになる。

第三段階になると、考えることなくひとりでに車を運転するようになる。これを自動化(automatic)という。

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つまり、やり方を知っても、高スキルの保持者になるには、「自動化」への遠い道のりが待っている。

 

これは、聞けば「当り前じゃないか」と思う方もいるだろう。

だが、「やり方がわかる」だけで、スキルを獲得したように錯覚してしまうことが本当に多いのだ。

 

実際、コンサルティング会社に在籍していたころ、研修を社員がどのように利用しているかを調べたことがあるのだが、教わったことを、実際に試している人はかなり希少だった。

 

また、意外なことにアンケートで「役に立った、知ることができてよかった」というコメントをした人ですら、得た知識をほとんど実践していなかった。

 

「なぜ自分はできないのか」はGoogleも教えてくれない

だから、実はスキルの獲得のために重要なのは、本を読む、セミナーに出る、あるいはGoogleで調べる、YouTubeを見るといった、知識の獲得ではない。

 

逆に、必ずやらなければならないのは、「なぜ自分はできないのか」を、練習によって分析することだ。

それらは、自分に固有のものなので、Googleにも本にも出てこない。

 

したがって、語学、会話術、文章術、生活習慣、対人関係……そうした「スキル」を獲得するための細かい道筋は、一人ひとり違う。

「知ってる」と「できる」がまったくの別物なのは、そのためだ。

 

「絵を描くスキルを得たければ、まず絵をかけ」

「起業スキルを身に着けたいなら、まず起業せよ」

「コミュニケーション能力を身に着けたいなら、コミュニケーションせよ」

というアドバイスは、本質を突いている。

それはつまり、試行錯誤せよ、ということに等しい。

 

米国の心理学者、アンジェラ・ダックワースは、著書「GRIT やりぬく力」で、もっと具体的な試行錯誤の方法について述べている。

それは「意図的な練習」と呼ばれる。

それによると、エキスパートたちは普通の人々と違い、「ただ練習している」わけではない。

彼らの練習は次のような特徴がある。

 

具体的な弱点を抽出し、それを集中的に練習する

・「うまくできなかった点」について、徹底的にフィードバックをもらう

できるまで、それに特化して反復練習する

 

つまり、「理想」と「現状」の差分を明らかにし、その差分を練習によって少しずつ埋めていく地味な作業。

これが試行錯誤の本質であり、スキル獲得に不可欠な活動だ。

 

特徴的なのは「練習時間の長さ」ではない点だ。

上のように弱点に集中したトレーニングは、ひどく消耗するため、どれほど頑張っても1日当たり3時間から5時間が限界だという。

しかもそれは、「できないこと」ばかりに集中するためあまり楽しくない。

 

要は、スキルの獲得ができるかどうかは、「頭を使って、辛抱強く弱点の克服のために練習したか」に掛かっている。

 

スキル獲得は、仲間づくりを組み込まねばならない

結局、「頭を使って、辛抱強く試行錯誤したか」が問われるとなると、すぐに結果も出ないので、「やってられないよ」という人もいるだろう。私だってそうだ。

練習は地味でつまらないし、自分に特にセンスがあるとは思えないし、プロを目指しているわけでもない。

多くの人が、高スキル保持者になれないのは、そのためだ。

 

では、「練習を続ける」秘訣はあるのか。

 

個人的な感覚では、それは極めて単純だ。

それは絶対に独力でやろうとしないことだ。

 

ゲームも、一緒にやる仲間がいると、練習を続ける意欲は段違いに上がる。

スポーツやトレーニングなら、見てもらうコーチがいるだけで、上達のスピードは圧倒的に違う。

YouTubeやブログも、視聴者、読者からのフィードバックがあればこそ、続けられる。

 

つまり、スキル獲得は、仲間づくりを、その過程に組み込まねばならない。

「知識を仕入れる」よりも、一緒にやってくれる人、あるいはコーチ的な人を探すことのほうが、はるかに優先度が高い事項だ。

 

「何事も続けられない」

「継続して取り組めない」

という方は、ぜひ「やり方」を調べるのではなく、「仲間」あるいは「コーチ・師匠」を探してみてほしい。

しかも、素直な気持ちでその人たちのいうことを受け入れられるコミュニティに属すことだ。

 

きっと、劇的な進展があるだろう。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

◯ブログが本になりました。

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[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

あるベテランのラジオのパーソナリティーが、新人パーソナリティーの番組にゲスト出演した。

そこで語られたのは、虚空に向かってひとりでしゃべる才能、ないしは病についてであった。

ひとりで二時間あまりしゃべることができるのは、一種の才能である。一種の病である。

 

ラジオ好きのおれはそれをおもしろく聞いた。

しかし、よくよく考えてみると、自分自身のことじゃないかと思った。

おれは虚空に向かってしゃべる才能がある。病がある。

 

しゃべるといっても、声を出して話すわけじゃない。

だれが読んでいるかもわからない、だれも読んでいないかもしれないブログに、自分の言葉をひたすらに書き続けてきた。そのことだ。

民放ラジオなんかに比べたら、無に近いほどはるかに規模が小さく、それこそ本当の虚空を相手にして。

 

それでもおれは書き続けてきた。

おれには才能がない。金になるような才能がない。

それでも、おれは虚空に向かって書き続けてきた。

 

泡沫のブロガー。マネタイズもオンラインセミナーも無縁。

ブログで食う、なんていう一昔前の言葉とも無縁。

無縁仏が墓場から、道行くあなたたちに語りかける。

あなたたちからの反応を期待できるだろうか。あまり期待できない。

ただ、ほんの少数の人がおれの言葉に反応することがある。霊感があるのか?

 

とまれ、おれは圧倒的な虚空に向かって言葉を連ねる。おれにはそれしかできない。それしか能がない。

 

虚空に向かって語りかけろ

おれは昔、ブログを書き始める人に向かって、「ひたすら少数の者のために手紙を書くがいい」と言った。

少し盛っていた。何者でもないおれやあなたが言葉を発しても、それは少数の者に届くとは限らない。

届かないことが大半だ。それが真実だ。

 

だから、あらためて言い直そう。

虚空に向かって語りかけろ。

その先は闇、すべては暗いところに落ち、沈み、見えなくなってしまう。ブラックホールがある。

 

しかし、おれは語り続けることをやめない。

子を残さない自分にとって、自分がいた痕跡をこの世界に残す。

残らなかいもしれないが、ワンセンテンスだけでも残ればそれで本望だ。

 

本望? 望み? 望みなど一切捨てろ。

おれの言葉も、あなたの言葉も、だれにも望まれていないし、だれも残そうとは思わない。

そう考えろ。それでも、やってみる。やってみろ。

 

形はなんだっていい。

文章じゃなくたって、いい。音声データを残してもいいし、動画だっていいだろう。

歌を歌ったり、踊りたければ踊っても。おれは歌ったり踊ったりできないから言葉を打つ。

 

ああ、日々、ネットの海に流されていく表現、表現、表現。

どれに価値があって、どれに価値がないとも言えない。

なにが残り、なにが消されるかもわからない。

プラットフォームが消えてしまえば、コンテンツも一緒に死ぬ。そんなものは運次第だ。

 

しかし、最初からだれにも届かないものと思えば、一つの表現をして、一人の他人が見たら、それだけで十分だ。

たった一人でいい。

 

いや、一人も見なくたっていい。

「公開」のボタンを押す、それだけで何事かが成就する。

そうは思えないか。そう思うしかないのではないか。

 

恵まれない人生、報われない労力、目を閉じて、身体はこわばり、ベッドの中で石のようになっている。

収入は低いし、貯金もなければ、受け取る予定の遺産もない。抱え込むのは持病の精神病。

 

生きていて、だれかの役に立つことがない。

周りには迷惑だけかけて、それでもおれは口をつぐまない。

おれは沈黙を好まない。

おれの自分勝手な言葉で虚空を塗りつぶしたい。

逃れられない本当の宿痾はそこにある。

 

世界がどうあろうと、どうなろうと関係ない。

あなたがどうあろうと、どうなろうと、おれには関係がない。

ただ、おれはおれの吐き出す言葉とだけ関係を結ぶ。

 

いや、結ばない。

おれは言ったら言い切り、買ったら買い切り、それで終わりだ。

昨日、東から太陽が登ったと言ったら、次の日には西から太陽が登ったと言うかもしれない。

おれにサブスクリプションはない。まったくの無責任、しかし罪を感じたりもしない。

 

おれの言うことを信じるな。言ってるおれが信じてない。

じゃあおれが書いているこれはなんだ。

なにかであって、なにかでない。

 

言い切って、公開ボタンを押してしまうがいい

おれがあなたにそそのかしている表現とはなにか。

おれはそれを信じないし、あなたもそれを信じる必要はない。

言い切って、公開ボタンを押してしまうがいい。

押してしまって、あなたがどんな目に遭おうが知った話ではない。

その表現がブラックホールに吸い込まれようとも、天の光になろうとおれは知らない。あなたも知らないほうがいいだろう。

 

病むべくして生まれ、健やかにと命ぜられ、とは誰のなんの台詞かしらない。

われわれは病む。今病んでいなくても、いずれ病む。

病むし老いる。老いなくて死ぬこともあるし、老いて死ぬこともある。

われわれに自由はない。少なくとも、死なない自由はない。それだけは肝に銘じていい。

 

おれはまだ死んでいない。いくらかは老いている。

老いているのに、手取りは新卒の若者と変わりない。ボーナスは貰ったことがない。

馬券は当たらない。幸せになりたい。

幸せになりたいのか?

おれは当たりもしないジャンボ宝くじを買う。当たらないとわかっていても買う。それしかおれに人生の逆転はない。

 

逆転するということは、今、負けているということだ。

おれはおれが負けていると思っている。

あなたは今、勝っているか? おれは負けているようだ。

なじみの精神科医といつも冗談を交わす。「宝くじが当たれば治っちゃうんですけどね」。

 

そうだ、勝っている人間にはなにも語る必要はない。

おとなしくその平穏で恵まれた生活を送ればいい。

おれはそういう人間に用はない。

もちろんそういう人間におれのような敗北者に用はない。

ただおれは敗北を噛み締め、吐き出してやる。

 

金以外のものに価値を見い出せという人間の言うことを聞くな

現実に必要なものは金。

現実で勝てるものは金。

金、金、金以外のものに価値を見い出せという人間の言うことを聞くな。

 

かといって、自分の言う通りすれば金が入ってくるという人間の言うことも聞くな。

とはいえ、おれは金を稼ぐことにもっとも疎い人間の一人なので、おれの言うことを、やはり信じるな。

自販機の下の金をあされ。しかし、自販機ごとに縄張りがあるので、気をつけてやれ。

 

金、金、金があるからといってなんだというのか。

そこには安心がある。少なくとも、屋根のある部屋で布団にくるまって寝ることができる。

腹が減れば食うことができる。

ああ、金さえあればいい。マネー、マネー、マネー。

 

そうだ、金が大切だ。

金があるやつはすべてがうまくいっている。

おれはあまり他人の人生というものを知らないが、そうであることは知っている。

 

金のあるやつが愚痴ることを信じるな。

金があることによる不幸なんてものを信じるな。

金があれば、屋根のある部屋で寝られる、腹が減っても食うことができる。

 

そんな人間の悲痛にどれだけの価値があるのか。なにもありゃあしない。

たとえ病んだところで、十分な医療を受けて、苦しむことなく死ぬことができるのだ。

 

金のあるやつは、おれの言うことを否定するかもしれない。

これこれこういう不幸があると、不幸のマウントをとってくるかもしれない。

あるいは、おれよりも貧しいものが、おれに呪詛を吐くかもしれない。

 

だが、そんなものはなんだというのだ。上を見ればきりがなく、下を見てもきりがない。

それがこの世の無限だ。

 

だからといって、おれは右や左と手を繋ぐつもりもない。

自分の敗北は自分で決めろ。

ただ一人、虚空に向かってろくでもないものを投げつけろ。

投げつけたものがこの星のどこかに痕跡を残せたらそれでいい。

たった一ミリの傷でもいいから傷跡を残す。

 

そのためにおれは、今、こうやってキーを叩いている。

いや、もうそのためかどうかわからないままにキーを叩いている。

おれのなかに言葉があるからキーを叩いているのか、キーを叩くから言葉が紡がれるのかすらわからない。

 

語りたいから語るのか、語っているから語るのか。

おれにはその因果すらわからなくなっている。

それが、落伍者のできるせめてのことだ。

 

そこで読んでるあんた、あんたもなんか書け

歌えるなら歌う。踊れるなら踊る。

おれは歌も踊りも苦手だから、文章を打ち込む。

打ち込んだところで要塞は揺るがない。それで上等だ。

あー、あー、あー、おれはここにいるぞって言ってみせる。

ドン・キホーテかなにかしらないが、道化にだってなってやる。

 

興に乗ってきたぞ。

そうだ、そこで読んでるあんた、あんたもなんか書け。

たとえあんたが金持ちだって、いい。おれは寛容だ。

え、書くことがないだって? そんなことないだろう。たとえば、あんたの原初の記憶はなんだ? それを書け。

人を好きになったことがあるか? あるなら書け。なければなかったと書け。

 

今日食った昼飯のことを書け。昼飯を食ってなかったら、晩飯でもいい。

朝も昼も夜も食っていないとなると、ちょっと心配だから、なんか書く前になんか食え。

たのしいじゃないか、言葉のバーベキュー。

CQ、CQ、CQ、だれか聞いてますか? 聞いてなくてもいいのですが。

 

生きてるって言えるのか?

おれはその問いに答えられない。

生きているようで死んでいるかもしれない。ゾンビみたいなものかもしれない。

それほど生きがいのない人生。

けれど、文章を打ち込んでいる間だけは、生きているような気がしているぜ。

 

みんながみんな、気持ちを文章にすることが好きじゃないって知ってるぜ。

だったら、声に出せ、歌え、踊れ……。

なにもない?

なにもないことがあるのか。おれにはよくわからない。

 

べつになんだっていいんだ。

ボトルシップやジグソーパズルを完成させて写真をアップしたっていい。

なんでもいいから公開ボタンを押すんだ。

 

おれの言ってることは、もう古い人間の考え方かもしれない。

インターネットというものに過大な期待が抱かれた時代の話だ。

今はもっと、SNSという管理されたプラットフォームで、清潔でコンプライアンスに則ったやりとりをするのが正しいのかもしれない。

上っ面のコミュニケーション。いいね! もはや廃れてしまった個人ホームページやブログでなにかを表現するのはおかしなことかもしれない。

 

だが、なんかやるべきじゃないか。

……おれほどやる気のない、なにもやる気のない人間がこんなことを言うのはおかしなことだ。

おかしなことだが、脳が麻痺して、身体が動かなくなるような精神障害者のおれは、そう思うのだ。

むしろ、おれのようなやつこそそうするべきじゃないのか、そう思うのだ。

 

まともな人間に一石投じてやれ、岩をぶつけてやれ、爆弾だ、言葉の爆弾を投げつけろ。

そうだ、あんたはすばらしい擲弾兵だ。そう思うのだ。

あらためて言っておくが、その先にはなにもない。その可能性が高い。

それでもやってやれ、やってみせてくれ。

おれたち歴史の中になにも残せぬ敗残者の声を、刻みつけてやるんだ。

強くキーを打て。傷をつけてやれ。負けていく人間がいることを、自分の声で刻んでやれ。

インターネットとかいうものがある今は、それができるのだから。

 

虚空に向かって叫べ。

強くキーを打て。

公開ボタンを押せ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo by Syed Ahmad

こんにちは。株式会社キュービックの尾崎と申します。

私は転職に悩む人の「次の一歩」を応援するサイト「HOP!ナビ」というメディアの運営をしています。

(左:齋部 右:尾崎)

今回は、技術職の人は、どうしたら理想のキャリアが築けるのか、という話をしたいと思います。

というのも、私自身が非常に多くの転職をしたからです。

 

技術職である、看護師の収入はとても上がりづらい

私のキャリアのスタートは「看護師」でした。地元の和歌山の看護学校を卒業した私は、県立医大に看護師としてそのまま就職しました。

 

看護師というと、「給料がよさそう」というイメージを持っている方もいるかもしれませんが、多くの看護師は「収入がほとんど上がらない」と感じています。

実際、初任給は資格職ということもあり、他の職業に比べて少し良いほうであると思います。

 

ところが、実態としては「最初が少し良い」だけで、給料がとても上がりにくいのです。

例えば、政府統計*1を見ると、女性看護師(25~29歳)の給料が332万円、(40~44歳)の給料が420万円と、10年以上働いても、100万円弱しか上がりません。

 

さらに、これらの統計には給料の上がり方がよい公務員も含まれており、本当に小さな病院だと、1年働いた後の昇給が、月額2000円程度であることも珍しくないのです。

 

大きな病院であっても、5年目のミドルキャリアの看護師と、10年目のベテラン看護師との給与の差が、たった60万円程度という話も、珍しくありません。

それらを揶揄して「給与の寝たきりカーブ」なんて言われることもあります。

 

IT業界の技術職のように「専門資格などを取得して給料を上げる」という選択肢もなくはありません。

例えば専門看護師や認定看護師は手当以外にも昇給昇格の対象となる資格です。

 

が、残念ながら、実際にそういった制度がある医療機関の絶対数が少ないうえ、資格を取得しても数千円程度~1万円程度しか給与が上がらないことが多く、昇給のインパクトは極めて小さいものです。

 

「給与を上げるには転職しかない」のが現状

したがって、結局のところ収入アップに対して「昇給」があてにならない以上、給与を上げるために最も有効な手段は転職ということになります。

 

「副業をやればいいじゃない」という方もいますが、看護師は勤務時間が不規則なため、副業は難しいのです。

 

つまり、転職をしながら、様々な職場で経験を積んで行くこと。

これが、基本的な考え方になります。

 

ただ、給与がよい職場はたいてい、きわめて忙しいです。

年収がいい転職先を選ぶことも大切ですが、自分の価値観や生き方に合った職場を選ぶことが大切です。

そのためには、自己分析や情報収取がとても重要になりますが、それをしないで転職先を決めてしまうと、不満や悩みが解消されず、またすぐ転職してしまう羽目になります。

 

これは看護師に限りませんが、短期間(1、2年未満)の転職を繰り返すことは、転職市場での評価を低くしてしまうため、徐々に転職先の選択肢は狭くなり、長期的にみると、年収にも大きな影響が出ます。

 

ライフステージによって働き方を変えられる職場で働くことができればそれが一番いいのですが、それが難しい場合は、周囲の価値観に流されずに、自身の状況に合わせて職場を選ぶべきです。

 

自分自身の希望だけを通すことは難しいですが、妥協できるところは妥協する、ただし、職業も職場も、自分で決めたことに責任を持つことが大事だと思います。

 

キャリアは人それぞれ

私事で恐縮ですが、私も転職のおかげで選択肢が増えた一人です。

 

実は、新卒で就職した病院に2年務めたあと、私は東京に出て、プログラマーとして働きました。

プライベートの事情によるもので、不安もあり、大きなキャリアチェンジでしたが、実際、やってみて思ったのは、プログラマーは、非常に楽しい仕事でした。

 

ところがその後、地元に帰ることを余儀なくされました。

地元にはSE職の求人などありませんでしたから、私は看護師に戻り、その時々の事情に応じて、転職を繰り返しながら、いくつかの訪問看護ステーションや、病院で働くことになりました。

 

楽しかった技術者から離れるのも不本意ではありましたが、再度看護師として、様々な職場で働くことで得たものは多く、医師だけではなくケアマネージャーや言語療法士、メディカルソーシャルワーカーの方々と共に働くことも学びました。

 

プライベートの事情が落ち着くと、私はまたwebにかかわる仕事がしたくなり、転職を決意しました。

ここで意味を持ったのが、プログラマーの経験ですが、一つには、そういう広い選択肢を持てることが、結局理想に近いキャリアといえるのではないでしょうか。

 

「選択肢を持てる人」とは

技術職全般に言えると思いますが、「ここしか行く場所がない」という人よりも、「どこでも行ける」ことや、「環境の変化を楽しめる」ことは、幸福度が高いと思います。

職場の状況はころころ変わりますが、そういった状況も楽しむことができるからです。

 

では、選択肢を数多く持てる人というのは、どのような人でしょうか。

学校では全く教えてくれませんが、転職サイトを運営していてわかるのは、以下の2つの特性を持つ人がそれに該当するということです。

 

・未経験の技術に挑戦する意欲のある人

・チームの一員としてうまく働ける人

 

一つ目は「未経験の技術に挑戦する意欲」です。

 

技術職は、ある程度の年数をやれば、一定のレベルのことはできるようになります。

看護師も例外ではありません。だから、採用側も、それは当然のこととしています。

 

ただ、採用側は、プラスアルファを求めています。

それが「未経験の技術に挑戦する意欲」です。

 

例えば看護師であれば、「外科はやったことないので、できません」という方よりも、「今までの技術を活かせば、すぐに身に着けられると思います」といえる人のほうが、はるかに選択肢が広く持てます。

「病院でしか働けません」という方よりも、「訪問看護も大丈夫です」という方のほうが、当然のこととして、選択肢は広いでしょう。

 

二つ目は、こちらのほうが大事なのですが「チームの一員としてうまく働ける人」です。

 

例えば、技術だけ突き抜けていても、人あたりが悪い看護師さんは歓迎されません。

看護師だけではないと思いますが、技術職の仕事の多くは個人技ではなく、チームプレイなので、他のスタッフ、医師との協調性、あるいは患者さんの要望に柔軟に対応できる方のほうが、結果的に良いサービスを提供できる可能性が高いからです。

 

技術職であっても、いや、技術職だからこそ、差がつくのが、コミュニケーション能力や、人柄、協調性なのです。

 

「転職」が普通になった

これからは、働きかたを選ぶ時代だと思います。

自分が、本当大切にしたいものは何かを考えて、それに合った働き方ができる職場を選んでいくこと。これが今まで以上に大切になってくると思います。

 

すぐに実現しないことが多いですが、今、経験していることは必ず最後にはすべてつながって、意味があるものになるので、目の前のことに精一杯取り組んでいけるとよいのではないかと思います

 

そんな時代に、情報源の一つとして、私が運営する「HOP!ナビ」がお役に立てるのならば、こんな嬉しいことはありません。

 

冒頭の写真に共に写っている齋部とともに手掛けた記事です。ぜひ覗いてみてください

看護師転職サイト10社を徹底比較|おすすめランキングと選び方

看護師の給料、いくらもらってる?平均年収から高給病院ランキングまですべて紹介!

 

 

*1 政府統計ポータルサイト「e-Stat」賃金構造基本統計調査 2019年

 

◯株式会社キュービック コーポレートサイト

ジェンナーは「使用人の息子」で人体実験していた

池上彰さんの『社会に出るあなたに伝えたい なぜ、読解力が必要なのか?』(講談社+α新書)という本のなかで、こんなエピソードが紹介されています。

極めつけはエドワード・ジェンナーです。ジェンナーは18世紀末に、致死率が20~30%にも上る感染症「天然痘」の免疫を作るために、牛の天然痘だけれども人間は罹っても軽症で済む「牛痘」に着目。

牛痘に罹った人間の膿疱から得た液を腕に摂取し、免疫を作るという「牛痘種痘法」を開発した人物です。このおかげで、天然痘は1980年に世界保健機関(WHO)によって根絶宣言が出されるに至りました。

 

しかしこの牛痘種痘について、子どもの頃に読んだジェンナーの伝記では「わが子に最初に摂取した」と書いてあったのですが、大人になって調べてみたところ、最初はわが子ではなく、なんと使用人の息子に摂取していたのです。なんて最低の人なんだ、と思ったものです。

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これは、「伝記」を読むと、偉人たちの意外な面がわかることもある、という話の一例として挙げられているものです。

僕も子どもの頃に、「ジェンナーは牛痘の効果を証明するために、自分の子どもでその実験をした」というのを聞いて、ジェンナーの覚悟に感銘を受けたのと同時に、こういう人の身内って大変だなあ、とも思いました。

 

「本当は使用人の子どもで試してみた」というのを聞いて、「ひどい話ではあるけれど、子どもの親としては理解はできる」と、けっこう納得したというか、「まあ、そういうものだよね」という気がしたのです。

「使用人」に対する感覚が違う時代の話とはいえ、「ひどい」のは事実だとしても、じゃあ、自分の子どもだったら良いのか?とも思いますし。

 

たぶん、「子どもは親の所有物じゃない」という考え方が、僕が子どもの頃よりもずっと当たり前のものになっている影響もあるのでしょう。

僕自身も、子どもよりも親の気持ちを想像しやすい立場と年齢になりました。

 

結局のところ、ジェンナーにとって正しい実験方法とはどういうやりかただったのだろうか?

 

現代のような「治験のルール」ができあがっていない時代として考えると、現代人も納得できるのは、「自ら実験台になる」ことですよね。

しかしながら、それでもし、結果的にジェンナーが命を落としたり、致命的なダメージを受けたら、「種痘」という多くの人を天然痘から救う技術は失われるか、大きく後退することになってしまったはずです。

 

「人はみな平等である」はずなのだけれど、ジェンナーは、医学の進歩に貢献し、より多くの人を救うため、自ら実験台になるべきだったのか?

 

医師は『替えが用意しにくい』

新型コロナウイルスへの感染が拡大していくなかで、医療関係者も「患者さんとなるべく身体的な接触を減らす」ことを心がけるようになりました。

ただでさえ、体調が悪い人と接する機会が多い仕事なので、無症候性感染を含め、コロナ罹患の可能性は高いし、もし感染したら、身体が弱っている大勢の患者さんたちにうつしてしまう危険性が高いので。

 

新型コロナウイルス感染者の病室には外部の業者に入ってもらうことができないので、病棟の看護師たちが部屋の消毒や清掃をすべてやることになり、過剰な労働で疲弊しきっている、というのが、先日、NHKの番組で採り上げられていました。

 

ある病院でのコロナ対策会議では、「新型コロナウイルスに感染している、あるいは感染が疑われる患者さんと医師の直接の接触は必要最低限にして、タブレット端末を利用したり、患者さんと離れたところから看護師に指示したりして、感染のリスクを極力避けるように」というお達しが出たそうです。

 

それに対して、看護師サイドからは、「なぜ、自分たちよりも高い給料をもらっていて、感染予防の知識も十分あるはずの医者が最前線を避け、自分たちばかりが安い手当てでリスクを負わなければならないのか」という疑問が出ていたのです。

 

病院上層部の回答は「気持ちはわかるが、小さな病院で医者がひとり感染したら病院の機能は麻痺してしまうし、休むことになったら、この状況下で代わりの医者を見つけるのは難しい。病院の運営・維持のために、申し訳ないけれど我慢してほしい」というものだったと聞きました。

 

僕も医者の端くれとして、モヤモヤするんですよとても。

新型コロナ感染のリスクは極力避けたいけれど、「替えが用意しにくい存在だから」という理由で、専門家であるにもかかわらず、高給をもらいながら司令部で偉そうにしているというのは、あまり気分の良いものではありません。

 

ノブレス・オブリージュ的な考えでいけば、医者こそが最前線に立つべきなのではないか。

とはいえ、「リスク管理」とか「コスト意識」みたいなものを考えると、「いざというときに指揮をする人間がいなくなり、組織が回らなくなるから、医者はなるべく感染のリスクが低くなるように『温存』すべきだ」というのは、合理的ではあるのです。

 

僕の愛読書の『銀河英雄伝説』で、自由惑星同盟のヤン・ウェンリー提督はつねに前線で艦隊を率いています。

ヤン提督が、作品中唯一の直接会談の場面で、同じように自らを危険にさらすことを厭わない帝国軍のラインハルト・フォン・ローエングラムの姿勢を称賛する場面があるのです。

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僕はそれを読んで「確かに、指揮官というのはそうあるべきだ」って思ったのですが、歴史というのを学んでみると、勇将・名将と呼ばれた人たちが、戦闘のなかで流れ弾に当たって命を落とした、あるいは、重症を負って指揮をとれなくなったことによって、戦況が変わって率いていた軍が敗れた、という事例はけっこうあるのです。

大坂夏の陣での真田信繁は、その「一発逆転」を狙って、家康の本陣に突撃していきました。

 

戦争では、戦況が行き詰まっても、指揮官は最後まで生き残っていることが多いのですが、それも、結局のところ「指揮官がいないとまともに戦えなくなるので、みんなが指揮官を守ろうとするから」なんですよね。

指揮官自身も「自分が前線に出るリスク」を考えてしまうのでしょう。

 

軍隊なら上官が絶対でも致し方ないのかもしれませんが、医療の現場で、こういう「あからさまなまでの優先順位の設定」に直面すると、本当にそれで良いのだろうか?と考えこまずにはいられません。

新型コロナとの闘いは、「戦争」なんだ、と言われれば、そうなのかもしれませんが……。

 

ジェンナー自身は、「使用人の子どもで牛痘の実験をする」ことに対して、どう思っていたのだろうか?

単純に自分がやるのは嫌だったのか、あるいは、自分自身を実験台にできるものなら、そうしたかったのだろうか。

でもそれは、大局的にみれば「社会全体の不利益」になってしまう面はあるのです。

 

ピロリ菌の発見は「自分への人体実験」の産物

医療の歴史のなかでは、「セルフ人体実験」をやった人というのは、けっこういるのです。

『世にも奇妙な人体実験の歴史』(トレヴァー・ノートン著、赤根洋子訳、文藝春秋)という本では、こんなエピソードが紹介されています。

1804年、アメリカ人の医学生スタビンス・ファースは、黄熱病が伝染するかどうか確かめようと決意した。彼は、「黒い吐瀉物」を吐いている患者に添い寝し、「患者の息が確実に自分の顔にかかるように」した。しかしこれは、彼の壮絶な自己実験の始まりに過ぎなかった。

黒い嘔吐物は万人受けするものではないが、ファースは嘔吐物をとろ火で煮てその蒸気を吸入した。吐き気のためについに我慢できなくなるまで、数時間にわたって吸入し続けたのである。患者の嘔吐物を犬に注射してみたところ、その犬はわずか数分で死んでしまった。にもかかわらず、彼は自分の血管に嘔吐物を注射し、両腕を深く切開してその傷口にも注入した。体に患者の血液、汗、尿を塗りつけ、患者の唾液、血液、嘔吐物を飲んだ。ブラックプディング(訳注:牛の血を固めて作ったソーセージ)でさえお代わりはお断りしている私としては、黒い吐瀉物に対するファースの食欲には頭が下がるばかりである。

こうまでしても黄熱病に感染しなかったので、彼は論文にこう書いている。「黄熱病が接触感染によって人から人に移るかどうかがはっきりしないために、黄熱病に多大の恐怖を抱いている人もいるが、これらの実験によってその恐怖は和らげられるものと思う」
これだけの苦痛を耐え忍んだにもかかわらず、彼の実験結果はほとんど注目されなかった。黄熱病の病因が明らかになったわけではなかったからである。

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よくぞここまで、というか、もう、そういう性癖の人なのでは……とさえ思えてくる話です。

とはいえ、これは200年以上も前の話ですし、「セルフ人体実験」なんて、過去のマッドサイエンティストたちの遺物、だと僕も思い込んでいたのですが、こんな比較的最近の事例も紹介されているのです。

1980年代前半、オーストラリアの微生物学者バリー・マーシャルは病理学者のロビン・ウォレンと共同で、人間の胃の中に生息している細菌を研究していた。彼らは、ヘリコバクター・ピロリという種類の細菌が十二指腸潰瘍患者からは100パーセント、胃潰瘍の患者からも75パーセントの割合で見つかることを発見した。この細菌が十二指腸潰瘍や胃潰瘍の発症に関与しているのだろうか。

これを検証するため、マーシャルはチューブを自分の喉から胃に差し込み、胃壁の組織を採取した。これを検査し、彼の胃には潰瘍もピロリ菌も存在しないことを確認した。胃壁が回復するのを待って、彼はピロリ菌の培養液を飲み込んだ。

もちろん、事前に予防策はとってあった。つまり、実験許可が下りないとまずいので病院の倫理委員会には伝えなかったし、妻にも事後報告しかしなかったのである。いずれにせよ、数日のうちに彼がぐったりして嘔吐し始めたとき、妻に気づかれた。彼にとって踏んだり蹴ったりだったのは、息が「ひどく臭い」ことを妻に指摘されたことだった。胃の組織を検査してみると、潰瘍の前段階である強度の炎症(胃炎)が見つかった。

幸い、抗生物質を服用すると症状は消失した。マーシャルとウォレンはその後も研究を続け、ピロリ菌を除去すると胃潰瘍の症状が数日で消失すること、何十年来の胃潰瘍でさえ治癒に向かうことを証明した。しかし、この治療法が先進諸国の病院で広く行われるようになるまでには、マーシャルの実験から13年の年月が必要だった。その間、何十万人もの患者が間違った薬を処方されたり不必要な手術を受けさせられたりしたのである。

 

当初、批判者たちは胃潰瘍が感染症だとする説を一笑に付した。胃潰瘍の原因は化学的なアンバランスだと誰もが信じていたからである。胃の中に細菌がいるという説については、強酸性の胃の中で細菌が生きられるはずはないとされた。おそらく決定的だったのは、当時マーシャルが研修医で、彼もウォレンも胃腸科専門医ではなかったことだった。専門家でもないのに何が分かる、というわけだった。

専門家が一笑に付したその発見に対して、2005年、ノーベル生理学・医学賞が授与された。

いまでは多くの人に知られている「ピロリ菌」は、こんな経緯で発見されたのです。

 

いちおう、付記しておきます。

「マーシャルの実験から13年間の年月が必要だった」ことについて、著者は「医学の世界の権威主義」だけが原因のように書いていますが、マーシャルさんひとりに対する実験結果が、一般の患者さんに行える、安全性の高い治療に反映されるまでには、このくらいの時間がかかるのは、当然ではなかったかと思います。学会の権威云々じゃなくて。

「結果論」からいえば、13年は長い、ということになってしまうのでしょうけど。

 

少なくとも、いまから40年前には、「セルフ人体実験」で大きな成果をあげた研究者がいるのです。

著者によると、バリー・マーシャルさんは、自己実験を行った理由について「同意できるほど充分に説明を受けている人間は、私しかいなかったから」と語っていたそうです。

 

いま、ルールにのっとって行われている「治験」にしても、動物実験を経ての最初の人間での試験は「健康な人にその薬を使用して、害がないかどうかを確かめる」ことになっています。

いちおう、善意のボランティアが参加している、ということになっているのですが、「部屋にとじこめられ、血液検査などを受けるだけでかなり稼げる治験のアルバイト」の話を聞いたことがある人は多いはずです。

 

そういう、報酬で人を集めるようなやり方が正しいのかどうか。

とはいえ、研究者たちが毎回セルフ人体実験をやるというわけにもいかないですよね。

リスクはあるし、研究を進める効率も悪くなるでしょうし。

 

ジェンナーは、セルフ人体実験をやるべきだったのか?

医者は、それでもいちばん危険な最前線に立ち続けるべきなのか?

 

モラルや職業倫理に従うことと、組織や社会全体の「生産性」みたいなものが衝突するとき、人は、どちらを選ぶのが正しいのだろうか?

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

Photo:Otis Historical Archives National Museum of Health and Medicine

以前、私は「知識を手に入れるための知識」がない人にとって、Google検索は難しい という文章を書いたことがありました。

「知識を手に入れるための知識」がない人にとって、Google検索はあまりにも難しい。

現状のGoogle検索の正体は、「知識の無い人に知識を授ける」ツールではなく、「知識の豊かな人だけが知識を引き出せて」「知識の乏しい人には質の良くない知識しか与えない」ツールと言っても過言ではありません。

あるいは、知識の豊かな者と乏しい者、リテラシーの豊かな者と乏しい者の格差を拡大再生産するツールになってしまっている、とも言い換えられるかもしれません。

この記事を2020年から振り返ると、「おいおい、Google検索だけに頼って大丈夫か?」などと思ってしまいますが、語彙力や情報リテラシーの高低によって引き出せる情報の質が違うのは、当時も今も変わらないところだと思います。

 

慣れていない人は書店でちゃんと本が選べない

では、語彙力の多寡や情報リテラシーはどうすれば身に付くのでしょう。

冒頭で紹介した文章の結びで私は、「書籍を読むなり、新聞などを読むなりして補っていくしかない」と書きました。

大筋として、今でもこの意見に変わりはありません。

 

ですが新聞はともかく、語彙力や情報リテラシーの向上に繋がりそうな書籍を選ぶのもなかなか難しいのでは……と最近は思うようになりました。

 

書店には、たくさんの本が売られていますね。

紀伊国屋書店やジュンク堂書店といった大店舗はもちろん、地方の中規模書店にもひと揃いのレパートリーはあります。

文豪による傑作や最新のサイエンスを扱った本だって、地方でも買おうと思えば買えるのです。

最近は、書籍の検索端末のあるお店も増え、便利になりました。

 

しかし書店に不慣れな人、本そのものに馴染みがあまりない人にとって、書店は意外に広大で、何を買ったら良いのかわからない・わかりにくいもののようです。

 

たとえばうつ病の患者さんに「書店に行って、自分の病気についての本を買って読んでみてはどうでしょう」と提案した時に、病気について役立つ本をたちまち購入できる人もいれば、そうでない人もいます。

なかには「健康食品でうつ病をなおす」的な、トンデモ系の本を探し当ててきてしまう患者さんもいらっしゃいます。

「どうも書店が苦手で……」とおっしゃる患者さんも珍しくありません。

 

書店で本を探し慣れている人にとって、目当ての本のありそうなジャンルに真っすぐに向かい、目当ての本を見繕うのはそれほど難しくありません。

初めて入る大きめの書店でも、店内案内を見たり店内検索を使ったりして、じきに目当ての本を探し出せるでしょう。

 

ところが書店に慣れていない人にとって、まず目当ての本のありそうなジャンルに向かうこと自体、簡単ではありません。

目当ての本のようでそうではない、ちょっとトンデモが入った本を手にしてしまうことだってあるかもしれません。

 

書店に並んでいる似非科学系の本やフェイクっぽい本を眺めていると、外観がフレンドリーでやさしい感じのするものや、魅力的なボキャブラリーの目立つものが多いよう見受けられます。

勘の働かない人は、つい、そういった本をレジに持っていってしまうかもしれません。

 

ときに、「書店に入ると人はリラックスする」というフレーズを耳にしたりもします。

あれにしても、書店にすっかり慣れた、書店がホームグラウンドと感じるタイプの人の感覚ではないかと思うのです。

書店をアウェーだと感じる人にとって、書店はそこまで居心地の良い場所ではなく、どれを買ったら良いのかわからない本の並んだ迷宮のごときもの、ではないかと思います。

 

あのとき私たちは前世本や予言本を真剣に読んでいた

書店に並ぶ似非科学系の本やフェイクっぽい本を眺めていて、ときどき思い出す昔話があります。

中学校時代の終わり頃に、クラスメートの間で「大人が読みそうな本を買ってきて貸し借りする」のが流行ったことがありました。

 

ほかの記事でも書きましたが、私が通ったのは"荒れた公立中学"で、そこは勉強することがカッコ悪いと思われるような世界でした。

そんな世界で本の貸し借りが流行したのは、普段は勉強を避ける生徒も受験勉強せざるを得ない、そういう時期だったからかもしれません。

 

この流行は私にとってありがたいもので、クラスメートからさまざまな本を借りました。

今ではファンタジー小説の古典となっている『ドラゴンランス戦記』や『ロードス島戦記』に出会ったのもこの時期です。

 

そうしたなか、普段はまったく本を買ったり読んだりしない"とっぽい"クラスメートも学校に本を持ってきていました。

で、彼らの持ってきた大人向きの本は……「あなたの前世について語る本」や「精霊が未来を予言する本」などだったのです。

 

その前世本には自分自身の前世がはっきり書かれているわけではありませんでしたが、平安時代や戦国時代の話が出てきて、読んで楽しいものでした。

精霊が未来を予言する本には、キリスト教の天使や仏教の仏様の名前がたくさん登場し、後半には精霊による今後の国際情勢の予言が記されていました。

 

それらを貸してくれた改造制服の似合うクラスメートは「な、俺の本面白いだろ?」と得意げに語り、私もおおいに頷きました。

中学生だった私には前世本や予言本は新鮮で、とても興味深く感じられたからです。

 

大人になってから振り返ると、前世本や予言本を買ってしまうのは情報リテラシーの足りないことのように思えますが、少なくとも当時の私は、そういったことを考えていませんでした。

改造制服の似合うクラスメートと一緒に大真面目に読んだことはよく覚えています。

 

その後、私はティーン向けのノベルス(今でいうライトノベルのような本)を読むのに夢中になり、大学進学後は岩波新書や新潮文庫を読み漁るようになりました。

そうやって色々な本を読み、書店通いを続けるなかで鑑識眼や情報リテラシーを少しずつ身に付けていったのだと思います。

他方、50代から60代の人が前世本や予言本、似非科学本やフェイクっぽい本を買い求める姿も書店ではよく見かけます。

 

そうした人のなかには、似非科学本やフェイクっぽい本を「鍵括弧付きのファクト」として、それか「一種のネタ」として読む人もいるかもしれません。

ですが中学生時代のクラスメートや私と同じく、「鍵括弧のついていないファクト」として、または「世界の真実」を語る書籍として受け取る人もいるでしょう。

そのような人にとって、書店とは、ファクトフルネスな透明の世界ではありますまい。

 

言うまでもなく、こうした真贋の定まらない不透明な世界はインターネットやSNSに一層よく当てはまることです。

ネット上で見栄えの良いニセの文章と、そうでもないファクトな文章が並んで置かれている時、ファクトな文章を選ぶのは書籍選びと同等以上に難しいことです。

とりわけそれが、隙間時間に素早く目を通すだけなら尚更でしょう。

である以上、某国の政治家が大声で語り続けたフェイクなメッセージも、たくさんの人に「鍵括弧のついていないファクト」として響いたことでしょう。

 

……だったらどうすればいいのか。

書店も不透明、インターネットやSNSも不透明だとしたら、書籍や情報の真贋を見極める鑑識眼、望ましい情報リテラシーはどこでどうやって身に付ければ良いのでしょうか。

 

先月発売された、『NHK100分de名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』』では、芸術を例に挙げて、鑑識眼や趣味やリテラシーなどが学歴・出身階層・家庭環境などによっておのずとできあがる様子が解説されています。

[amazonjs asin="B08P2MKL2L" locale="JP" tmpl="Small" title="NHK 100分 de 名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年 12月 [雑誌] (NHKテキスト)"]

要するに、芸術作品の素晴らしさを心から受容できるのも、その知識や態度、構えなどの出会いの前提となるものを家庭や学校から学んでいる、言い換えれば芸術と出会うための「遺産」があるからだと言うのです。
もちろん、ジャズやクラシックという特定のジャンルをすでに知っている必要はまったくありません。しかし、そもそも音楽を鑑賞するという習慣、態度、構え、性向といったものがまったくないと、ラジオから流れてくるものはただの音にしか感じられないでしょう。

これは書籍にもだいたい当てはまることで、書籍と出会うための「遺産」の有無によって鑑識眼や情報リテラシーは大きく変わるでしょう。

「家にある書籍の量によって、子どもの学歴が違ってくる」といった話も、この筋の話ですよね。

 

しかしもし、家庭環境で鑑識眼や情報リテラシーが全て決まってしまうなら救いはありませんし、実際そこまで救いがないわけではありません。

たとえば、一緒に本を読める仲間を増やしたり、学校や書店が勧める推薦図書を読んでみたりするのはかなり有効な対策ではないでしょうか。

 

このうち推薦図書については、「推薦図書なんて面白そうじゃない」という声が聞こえてきそうですし、中学生時代の私もそう思っていました。

ただ、自分が選ばず誰かが選んだ本というのはやっぱり馬鹿になりません。

 

学生時代にイヤイヤ読んだ推薦図書のうち、夏目漱石の『こころ』とウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』は私にグッサリと刺さって、いまだに抜けません。

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[amazonjs asin="4102146016" locale="JP" tmpl="Small" title="蠅の王 (新潮文庫)"]

 

大学の先生に薦められた書籍も同様です。

自分の好みにおもねっていないチョイスだからこそ、新しい何かに出会うチャンスがあります。

 

しかし、できれば誰かと一緒に書籍を読むのがベストではないかと思います。

クラスメート同士で本を貸し借りしたり、仲間同士で読書会を開いたりすれば、他薦の本をそれほど抵抗感なく読むことができます。

 

また、自分ひとりで前世本や予言本やフェイクニュース本に触れるのと、集団で触れるのでは、受ける印象や読み筋も違ってくるかもしれませんね。

まあ、参加者全員がフェイクニュース本をすっかり信じ込んでしまう可能性もゼロではないかもしれませんが……。

 

いずれにせよ、真贋をみきわめる鑑識眼や情報リテラシーを、なんの基盤も背景も持たずに独力で身に付けるのは、インターネット時代の現在でもおそらく難しいでしょう。

書籍や情報を共有できる人と共有し、良い繋がりが持てるかどうかが、この方面のブレイクスルーのカギではないかと、私は考えています。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

[amazonjs asin="478161888X" locale="JP" tmpl="Small" title="健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて"]

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

Photo by:Chase Elliott Clark

「採用面接はお見合い」

 

就活まっただなかの大学3年生のころ、よくそんな言葉を耳にした。

その言葉を使っている人たちは「面接は相性を確かめる場だよ」と言いたかっただけなんだろうけど、わたしは「どーりで無駄が多いと思ったわ……」と妙に納得した記憶がある。

 

要は、「採用担当者が好き嫌いで合否を決めますよ」ってことじゃないか。

だから就活メイク講座だとか、面接マナーチェックだとか、表面的なことばっかりやらされるんだ。

 

面接っていうのは本来、「お見合い」なんてふわっとしたものじゃなくて、「交渉」なんじゃないの?

 

面接の素人が印象によって合否を決める採用面接の弊害

この記事を書くに至ったきっかけは、先日公開されていた『スキルのない素人が、印象と好き嫌いで合否を決めている。それが採用面接。』を読んだことだ。

 

内容をざっくりとまとめると、

・人を見る目がない素人が面接をしている
・だから、思想についてや家族についてなど、法に抵触するような質問も平気でしてしまう
・「それ聞いてどうすんの?」というくだらない質問が出るのは、面接官が「コイツを好きになれそうか」を確かめたいから
・仕事の能力より会話が盛り上がるかを確認しているせいで、いい人を採用できない

 

つまり採用面接では、面接官が「自分(会社)に合いそうなお嫁&お婿さん探し」をしているのだ。

だから仕事に関係のないフワッとした質問をするし、自分たちはあくまでも「見定める側」だと思い込んで偉そうな態度をとる。

 

「結婚したいの? ふーん。じゃあちょっと話を聞いてみるか。趣味は? 学生時代がんばったことは? うーん……ほかにアピールないの? もっと俺の気を引かないと振られちゃうよ?」とまぁ、こんな感じだ。

 

そして、求職者は言ったもん勝ち。

腹の底では「御社は第一志望じゃねーよ自惚れんな」と思っていても、ニコニコ礼儀正しく熱意があると見せかけて、とりあえず「好印象」を目指す。

実に非効率的で表面的。

 

でもそれは、「お見合い型面接」ではしょうがないのだ。

だって、お互い本音を話さないことを前提とし、上っ面だけの会話でゴールインしようとしているのだから。

 

面接官と応募者が交渉するための面接は話が早い

じゃあ、そうじゃない面接ってどんな感じなんだろう?

それが、「交渉型面接」だ。

 

契約書大好き!ルールがあれば安心!自分の仕事以外は1ミリも興味関心がありません!

というお国柄のドイツの採用面接が、まさにコレである。

面接……とはいっても、社内のカフェや担当者の個人部屋に通され、コーヒーを飲みながら会話をするので、まったく堅苦しくない。

 

志望動機や長所・短所などの基本的な質問からはじまり、面接官は企業の説明や細かい労働条件を提示。

こちらはできること、やってきたことを伝え、「だからその仕事ができます」と言う。

そして「給料はどのくらいほしいか」「君の能力なら他のポストのほうがいいかもしれないが興味はあるか」などを確認。

 

お互いの条件が合ったら、「ちょっと社内を案内しようか」と上司になる予定の人のところに連れて行ってくれたり、「試しに明日から1週間ほど来てくれ」とオファーをもらったりする。

以上。

 

採用面接は、「人材探し」をしている人と「職探し」をしている人の、交渉の場。

どちらかが偉そうにすることはありえないし、そんな必要もない。

なんなら求職者は、その時点ではお客様扱いされる(コートをかけてもらったり、クッキーを出してくれたりもした)。

 

募集要項にすでに条件が書いてあり、応募者はそれをクリアしている前提だから、面接では内容の確認と認識のすり合わせをするだけ。

あくまでわたしが経験した範囲の話ではあるが、ドイツでの面接はこんな感じだった。

 

相性を確かめるのは面接ではなく試し働きのフェーズで

とはいえドイツでも、個人的な質問をされたことはある。

たとえばわたしなら、「なぜドイツに来たのか」「家族はどういう反応だったか」などだ。

 

当然ながら、ドイツ人だって、「相性がいい人といっしょに仕事をしたい」と思う。

だから多少なりプライベートな質問をすることもあるし、仕事と関係のないスモールトークをすることもある。

 

ただしそれも、「個人的な興味だから答えなくてもかまわない」とか、「もし聞いてもいいのであればだけど」といった断りがあってのこと。

コンプラの問題もあり、「あくまで雑談の範囲内であって採用の合否に影響する要素ではないから、答えるのは任意ですよ」という建前にするのだ。

 

まぁもちろん、たいていの求職者は答えるけどね。

(パートナーの有無や出生に関わること、宗教や思想チェックなどはもちろんタブー)

 

で、条件面を確認し、そういったスモールトークを通じて「まともそう」だと思ってもらえたら、面接後「とりあえず明日働いてみよう」と言われ、いい感じだったらそれが「3日間」になり、その様子をみて「来週最終判断をする」と言われたりする。

 

実際の能力や人間性はいっしょに働きながら確認することが多いから、面接ではあくまで「条件を満たしているか」「まともな人間か」のチェックくらい。

だから面接では、話が具体的でわかりやすく、あっさりしているのだ。

 

面接で具体的な話をしなければ、「いい人」なんてわかりっこない

とはいえ日本は独特な労働社会の国だから、面接は「お見合い型」にならざるをえない。

 

配属は採用が決まってから決定するから、事前に特定のスキルを求められない。

給料は基本固定だから、交渉の余地はない。

決まった時期に採用活動をするから、ひとりひとりの採用に時間を割けない。

募集・応募をする時点では不確定要素が多いから、具体的な話ができない。

 

「この仕事ができるかどうか」という基準で合否を判断できないから、結局「なんとなくいい人そう」「この会社に合いそう」という雰囲気で合否を決めるしかないのだ。

 

人事が「いい人が来ない」と嘆くのも当然。

だって、具体的な話をなにもしていないんだから。

中途採用であれば、日本でも「交渉型」の面接が結構あるらしいけども(わたしは未経験なので情報お待ちしております)。

 

交渉型面接のほうが合理的だけどハードモードになることも忘れずに

冒頭で紹介した記事が公開されてから5日後、『採用面接で腹が立って「志望動機なんかありません」と答えたときの話。』という記事がアップされ、たくさんの人に読まれていた。

 

記事の締めくくりには、

つまり会社が、
「当社を志望した動機はなんですか?」
などという寝ぼけた質問をするのではなく、求職者のほうが
「私はこれだけの事ができますが、御社はどのような条件を提示できますか?」
と聞くようになる時代だ。

とある。

 

これはまさに交渉型面接でのやりとりで、「面接官が偉そうにムダな質問をするお見合い型の面接に未来はないよ」ということだ。

 

実際のところ、能力がある人からすれば、それを活かせる場所、高く評価してくれる場所で働きたいと思う。

「座右の銘は?」なんて聞いてくる企業より、「いくら給料がほしいですか?」と交渉に応じてくれる企業のほうが魅力的だ。

企業としても、貼り付けた笑顔で「御社が第一志望です!」と言う人より、「これができるから採用してください」と言う人のほうが話が早い。

 

たしかにそういったやりとりは、理想的な面接、採用面接のあるべき姿といえるかもしれない。

しかしそれは同時に、「よりシビアな採用・求職活動になる」ということでもある。

 

いい条件を出さないと、能力が高い人を採用できない企業。

アピールできる能力と実績がないと、採用されない求職者。

 

「この仕事ができる人」とピンポイントで募集をかけるぶん、応募者の絶対数がかぎられるので、企業は人材を確保するため快適な労働環境と相応の待遇を用意しなきゃいけない。

求職者は新卒だろうがなんだろうが「能力」を求められるので、その仕事ができるとアピールするために、インターンをしたり資格や学位をとったりしなきゃいけない。

 

「交渉型」だからこそ、「交渉材料」がなければ、その土俵にすら上がれないのだ。

採用する側も、される側も。

交渉型の面接のほうがたしかにムダは少ないけども、だからといって、必ずしも「楽」で「効率的」というわけではないのだ。

双方にとって。

 

良い・悪いは別として、面接の素人が「趣味はなんですか」なんて聞いてる面接の方が、大半の人にとっては「イージーモード」なのかもしれない。

たとえそれが、「印象」というあいまいなものに支配されていたとしても。

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by LinkedIn Sales Navigator on Unsplash

「鬼滅の刃」が絶好調だ。

 

あえて説明する必要もないが、劇場版の興行収入がえらいことになっていたり、単行本の売り上げがドえらいことになっていたり、最終巻を求めて長蛇の列ができたり、めちゃくちゃ転売されたり、わけわからんコラボグッズが出たり、とんでもない状況だ。

見ると、町ゆく子どもたちのマスクまでどこかで見たような柄のものになっている。

これはもう社会現象と言っても過言ではないのだろう。

 

この「鬼滅の刃」はすごい。

たぶんどえらい作品だ。

そんなもの詳しくなくても分かる。

 

ただ、「たぶん」と表現しているのは、実はまだ観たことがないからだ。

そう、僕はこの作品に全く触れていないのだ。

原作も見てなければアニメも見ていない。もちろん劇場版も見るつもりはない。

 

やはり、たとえ末端といえども文章を書いたりして表現活動をしている者として、こういった作品は必ず抑えておく必要がある。

社会現象は多くの人に暗黙のうちに共有される事象であり、それをもとに表現をしていくことは基本中の基本だからだ。

 

そういった意味で必ず読まねばならない作品なので、単行本を全巻、近所のヴィレッジヴァンガードで購入した。

最終巻もつい先日、Amazonから届いた。

それらは威風堂々と本棚に並んでいる。

だからいつでも読める状態ではあるのだ。ただ、それでも僕は読まない。

 

様々なメディアから嫌でも流れてくる「鬼滅の刃」の情報は、この漫画が確実に面白いことを物語っている。

おそらく、読めばはまる。めちゃくちゃはまる。泣く。グッズ買う、コラボグッズも買う、劇場にも何度も足を運ぶ、「ストロングゼロの呼吸」とか言い出す。

それくらいドはまり間違いなしだ。それはわかりきっている。けれども、どうしても読み始める気がしないのだ。

 

「新しいものはしんどくてなあ、おっちゃんはもうこれだけだよ」

鬼滅の刃と対峙すると、あの時、そう言ったおっさんの言葉が思い出されるのだ。

あれは小学生の頃だった。

ちょうど、鬼滅の刃に夢中になっている現代の小学生と同じように、僕たちはビックリマンチョコに夢中だった。

シールだけ入手してチョコを捨てる子どもが続出し、社会問題になった時期だったと思う。

 

当時、うちの母親はアル中だった。

学校を終えて家に帰ると、彼女はだいたい飲んだくれて眠っていた。

彼女はちゃんとしているときとアル中状態な時の落差が激しく、普段は元気でちゃきちゃきしているのに、いったん闇の領域に足を踏み入れるとそれが長く、そして重かった。

 

いま思うとなかなかにひでー家庭環境だなと感じるけれども、当時の僕はそれが普通だと思っていた。

ただただ、今日の夕飯はどうなるんだろう、弟にも食べさせないと、また父親が帰ってきて夫婦喧嘩になったら嫌だな、ということだけを考えていた。

 

ある日のことだった。

いつものように学校から帰ると、やはり母親は飲んだくれて眠っていた。

昼間だというのに居間は暗く、酒の匂いに満たされていた。

いつもなら、やはり同じように夕飯の心配をして、僕と弟が夜に食べるものあるかなと冷蔵庫を開けるのだけど、その日は少し様子が違った。

 

台所をゴソゴソしていると、母親がやってきたのだ。

酒の匂いをプンプンさせて亡霊のような佇まいでやってきた。

足元はおぼつかず、あまり呂律もまわっていないようだ。

当時はそういうものだと思っていたが、大人になってやっとわかる。

相当の量を飲んでいないかぎりこうはならない。

 

「ごめんね、ごめんね」

母は泣きながらそう言った。

そして、ボロボロになった財布からこれまたしわくちゃの千円札を数枚取り出して言った。

「これでお酒を買ってきてほしい」

一線を越えたな、子ども心にそう思った。

 

これまではどんなに追い込まれても自分で準備した酒を飲んでいたようだった。

バレバレだったが、隠れて飲んでいるという体裁だけは保っていたのだ。

それが、ついに子どもに酒を買いに行かせるまでになったのだ。

彼女もまた相当に追い込まれていると感じたし、確実に何かを踏み越えて未知の領域へと入り込んだと感じた。

彼女は彼女で苦しかったんだと思う。

 

「いいよ、買ってきてやる。なんてやつ買えばいい?」

僕は彼女のことをかわいそうに思った。

だから、千円札を受け取り承諾した。

そして彼女は申し訳なさそうに付け加えた。

「鬼ごろしってやつを買ってきてほしい。1.8リットルのパックのやつ」

 

日本酒だったか焼酎だったか忘れてしまったが、当時は「鬼ごろし」という比較的安価な酒が売られており、彼女はその鬼ごろしのヘビーユーザーだった。

生まれ育った町は漁師町で、飲んだくれの多い風土だったけど、その飲んだくれたち御用達しの酒、それが「鬼ごろし」だった。

たしか緑と白のパッケージに何体かの鬼が水墨画みたいに描かれていたように思う。

そして相撲取りみたいなフォントでドーンと「鬼ごろし」とかかれていた。

それを買ってきてくれとのことだった。

 

千円札を握りしめて小走りに酒屋へと向かう。

なんだかすごく胸が痛かった。

正体不明に胸が痛かったのを今でも思い出す。

 

家から少し離れた場所に、駄菓子とちょっとした日用品を売っている商店と酒屋を合体させた店があり、この辺で酒を買うとなるとそこしかなかった。

正直なところ、あまり行きたくない場所だ。

 

店の前では、駄菓子屋パートの入口のところで同級生たちがビックリマンチョコに興じており、やれ、お守りシールがどうとか、箱の左側列の後ろから4番目にヘッドシールが入っている確率が高い、などと大騒ぎしていた。

 

「ビックリマン、入荷したらしいぞ! ひとり3個まで!」

僕の姿を認めた同級生が声をあげる。

当時はあまりにビックリマン人気が高すぎて、入荷すると大騒ぎになったし、個数制限が設けられていることがほとんどだった。

僕らにとって、あの40個だかのビックリマンチョコが敷き詰められた箱は煌びやかな宝石箱に近かった。

いつかは箱買い、そんな夢を抱いていたように思う。

 

「いや、買わないんだ」

それどころではないので、同級生の誘いを断る。

ビックリマンではなく鬼殺しを買わなければならないのだ。

 

彼らのことを無邪気だと思った。

親のことも夕飯のことも弟のことも、なにも心配せずビックリマンに興じることができる彼らを羨ましいとさえ思った。

お前らは親に頼まれて鬼ごろしを買いにきたりしないんだろうな、そう思うと無性に羨ましかった。

 

駄菓子屋パートの入口を通り抜け、酒屋パートの入口に向かう。

ガラガラと立て付けの悪い引き戸を開けると、思った以上に大きな音がした。

その音を合図に、中にいた大人が一斉にこちらを見た。

 

この酒屋は、角打ちという形態をとっていた。

今で言うところの酒のイートインみたいなシステムだ。

酒屋なので酒を売っているのだけど、ちょっとしたカウンターが備えられていて、買った酒をその場で飲めるようになっていたのだ。

はやい話、酒屋と立ち飲み屋が合体したスタイルだ。

 

前述したように、生まれ育った街は漁師町で、朝の仕事を終えた漁業関係の人が昼間っからこの角打ちで飲んだくれていた。

おまけに、酒屋の店主がなかなかセクシーなマダムだったので、多くのおっさんがそのマダム目当てに通っていた。

 

僕らが店の周辺で遊んでいると、この酔っ払いたちが絡んできて冷やかしたり、怒鳴ったり、立ちションしたり、あまりいいものではなかったのでこの酒屋パートにはあまり近づきたくはなかった。

ただ、今日は違う。

鬼ごろしを買うために入らねばならないのだ。

 

「おやおや、お酒ですかな? まだ早いぞー」

南海ホークスの帽子をかぶったおっさんが冷やかすように声をかけてきた。

これだからこの場所は嫌いなのだ。

同時に周囲の大人たちがドッと涌き、からかうように笑った。

 

「おれは中学から飲んでたぜ」

「本町の沢田は小6かららしい」

「あいつは嘘つきだ」

そんな、田舎町のくだらない大人にありがちな謎のマウント合戦が繰り広げられた。

 

「鬼ごろしをください!」

そんなおっさんどもは無視をして、カウンターの奥でクソ細長い魔女みたいなタバコをふかしているマダム店主に注文した。

 

「お、鬼ごろしか!」

「あれはいい酒だぞ」

「俺の血液は鬼ごろしでできている!」

また、やいのやいのと冷やかし、囃し立てるおっさんたち。

 

特に南海ホークスのおっさんはひどくて、歌舞伎っぽい独自の鬼ごろしポーズを「鬼ごろし!」と叫びながらコミカルに決めて見せた。

また、ドッと店内が湧いた。

 

「1.8リットルのパックにやつください。いくらですか?」

おっさんどもを無視してマダム店主に詰め寄る。

マダムは酒の棚からそっと位牌でも取り扱うような手つきで1.8リットルパックの鬼殺しを手にした。

 

「おつかいかなー? お父ちゃんが夜に飲むお酒かなー?」

南海ホークスが囃し立てる。

 

僕はキッと睨みつけて言い放った。

「違います。お母さんのやつです。もうお酒を飲まないと何もできないみたいなので」

僕の言葉に、店内の時が停まった。

あれだけ囃し立てる笑い声が、凪のように止まったのだ。

 

「お母ちゃんが……?」

南海ホークスが急に真剣な顔つきになった。

かなり深刻な空気が流れた。

 

それから、ご飯はどうしてるだとか、それ以外の家事はどうしてるだとか、そんなありきたりな質問が続いた。

「絶対にダメだ、そんなのダメだ。おい、売らないでくれ」

南海ホークスがマダムにそう告げる。

面倒なことになった。いいから売ってくれよと思った。

 

現代では、たとえお使いであっても子どもに酒を売ってくれることはない。

けれども当時は当たり前のことで、子どもがお使いで酒を買うなんてそう珍しいことではなかった。

だから急に深刻なトーンになってしまったことに戸惑いを隠せなかった。

 

「いいから売ってくださいよ、鬼ごろし」

そう懇願するが、南海ホークスは引き下がらない。

ゆっくりと首を横に振った。

「ダメだ」

確固たる信念みたいなものを感じる勢いだった。

 

そもそも売る売らないは店主であるマダムの権限で、南海ホークスはただの客だ。

なんの権限もないのだが、それでも絶対に売らないという鬼気迫るものを感じた。

 

雰囲気からなんとなく他の客や南海ホークスが言いたいことが分かった。

おそらく、母ちゃんがアル中気味であることが良くない、と言いたいのだ。

家庭をほっぽり出し、子どもをほっぽりだし、潰れている、そんなやつに売ってはいけない、みたいなことを言いたいのだと思う。

 

けれども、家庭をほっぽり出して酒に飲まれているのは、昼間から飲んでいるここの面々だって同じだし、彼女だけが酒に飲まれてはいけないなんて理由はない。

みんな等しく苦しいし、酒に逃げたく思うのかもしれない。

この世で母親だけがそうなってはいけないなんて理由はないはずだ。

母親だって苦しいのだ。

 

「鬼ごろし売ってください。母さんだって苦しいんです」

母親がそうなるのは良くない、みたいなありきたりのセリフを言われる前に先回りしてそう告げた。

何が良いのか、何が悪いのか、わからない。

ただ、彼女のために鬼ごろしを買わねばならなかった。

 

南海ホークスは首を横に振った。そしてゆっくりと口を開いた。

「いいか、酒に飲まれて潰れる、それが良くないことなんてここにいるみんな分かってる。だから俺たちがお前のお母さんにとやかく言うつもりも資格もねえよ。みんな酒に飲まれたい。苦しいからな。ただな、お前が買っちゃならねえ」

南海ホークスは真っすぐと射抜くような視線をこちらに向けていた。

 

「お前が買うとな、大きくなった時、自分も加担したって後悔するんだ。これからお前の母ちゃんがもっと酷くなるかもしれない、病気になるかもしれない、取り返しのつかないことになるかもしれない。その時に、あの時、酒を買って加担したのは自分だって後悔する」

その言葉は、なんだかずっと感じていた違和感みたいなものの答えだったようだった。

 

僕は、ただただ泣いた。

ダムが決壊したかのように、声を押し殺してずっとずっと泣いていた。

何を思っていたのだろか母が可哀想だったのだろうか、自分が可哀想だったのだろうか。いまとなってはよく分からない。

 

結局、鬼ごろしは売ってもらえなかった。

ただ、南海ホークスをはじめとする面々が、依存になりにくく、それでも満足する酒を選ぼうとということになった。

ビールがいいだとか、酎ハイみたいなものがいいだとか、そんなことを真剣に話し合っていたと思う。

とにかく、鬼ごろしは良くない、あれは鬼を殺すのではなく鬼を作る酒だ、そう言っていた気がする。

 

もちろん、選ぶのもおっさんたち、金を出すのもおっさんたち、お前が加担したことにはならない、そういってビニール袋を渡された。

「これを飲ませれば大丈夫だ」

おっさんたちは本当に真剣に相談していた。

負担なく、依存なく、それでいて満足いくもの、たぶん、弱めの酒を選んでくれたんだと思う。

 

母は鬼だったのかもしれない。

でも、これを飲めばいつかきっと良くなるはず。

この酒は鬼を倒すためのものだ。

そう信じ、ビニール袋を抱えて来た時よりも足早に家へと向かった。

 

居間にはまだ酒の匂いが充満しており、闇のように真っ暗だった。

3枚くらいの布団がぐちゃぐちゃに折り重なったその奥に、鬼がいた。

「これ、いいらしいから飲みな」

そう言って渡す。

おっさんたちが選んでくれたのはビンだった。すこしボテッとしたビン、暗すぎてラベルは見えない。

 

「ごめんね、ごめんね」

母はそう言って蓋を開け、一気にかっこむ。

よほど飲みたかったらしい。

 

「いいから、いいから」

そう言った瞬間だった。

 

ブホーーーーー!

 

母は、ちょっとノリの良いマーライオンみたいに口に入れたものを吐き出した。

グレートムタの毒霧のように吐き出した。

 

なんだなんだ、あいつら毒でも盛りやがったか。

そう思い、急いでビンのラベルを見る。

そこには衝撃的な文字列が並んでいた。

 

「めんつゆ」

 

酒ですらねえ。めんのつゆじゃねえか。

あいつらなに考えてるんだ。「めんつゆ」じゃねえか。

 

僕の記憶が確かならヤマキの「めんつゆ」だったと思う。

どうやらビールはダメだ、思ったよりアルコールが強いだとか、ああでもないこうでもないと議論するうちに迷走してしまい、最終的に「めんつゆ」になったようだった。

悪いことに、酒屋は日用品を売る商店と繋がっていたため、「めんつゆ」の在庫もあった。しっかりあった。

不思議なことに、あのあと、母は闇の領域に足を踏み入れることが減った。

そして、いつのまにか酒なんかとんでもないみたいな状態になっていた。

もしかしたら「めんつゆ」が効いたのかもしれない。

鬼ごろしではなく「めんつゆ」こそが鬼を殺す刃だったのかもしれない。

 

ストロングゼロが入ったグラスを傾けながら思い出す。

こうしておっさんになり、眠る前にストロングゼロを飲むようになってよく分かる。

苦しかった母も、南海ホークスも、あの時の僕も、みんなのことがよく理解できる。

それでも「めんつゆ」を選んだ経緯だけはちょっと理解できない。

 

あのあと、公園で遊んでいると、南海ホークスが箱を持ってきてくれたんだった。

「ほらよ、子どもはこういうのを買いに来るもんだ」

そういって、ビックリマンチョコを箱ごとくれた。

夢にまで見た宝石箱だ。

入荷してきたやつをマダムに頼み込んで一箱ゆずってもらったらしい。

 

満を持して、左の列の後ろから4番目のチョコを開封する。

キラキラのヘッドシールだった。

狂喜乱舞する僕に南海ホークスは言った。

「好きという気持ちはいいことだ大切にするといい」

 

その時の僕にはその意味が分からなかった。

本当に一箱まるまるビックリマンチョコが貰えることが信じられなかった僕は、妙に遠慮してしまい、半分はおっちゃんが持って帰って開けてくれと言った。

おっちゃんもビックリマン集めようよと提案したのだ。

 

僕の提案に対し、南海ホークスはチョップのように右手を前にだし小刻みに左右に振った。

「もう新しいものはしんどくてなあ、おっちゃんはもうこれだけだよ」

そう言って酒を飲む仕草を見せた。

 

その時から今に至るまであの時の南海ホークスの言葉の意味が分からなかった。

ただ、同じくらいの年齢になり、空前のブームである「鬼滅の刃」に対峙してやっとわかった。

そう、新しいものはしんどいのだ。

 

人でもモノでも、何かを好きになり、のめりこんで夢中になっていくことは幸福なことだ。

けれども、同時にそれらは色々なものを消費する。

気力だったり、体力だったり、経済力だったり、様々だ。

何度かそれらを繰り返してきた人のいくらかは、それ以上の摩耗に耐えられない瞬間がやってくる。

新しいものが受け入れられなくなってしまう。

それを老化と言ってしまえばそれまでだが、おそらくは防衛本能なのだろう。

 

みんな、何かを好きになり、何かに夢中になり、なにかに摩耗し、何かに失望し、何かに傷つけられてきた。

のめりこむことに対して待ち受ける結末は幸福でないことがままある。

それらを知った時、自分を守ろうとするのではないだろうか。

これ以上はきつい。そう思うのだ。

 

あの時、母は鬼だったのだろうか。

母も何かから自分を守ろうとしたのかもしれない。

摩耗の果てがそうだったのかもしれない。

ただ、そこで逃げる先がお酒だったのは少し可哀想なことだ。

 

「鬼滅の刃」に対峙した僕は、その気持ちがなんだかよくわかる。

きっと摩耗するのだ。

だから読むのを躊躇してしまう。

好きになるのが分かりきっていて、もうあまり何かを好きになりたくないから。

 

「でもまあ、まだ酒に逃げるのは早いよな」

でも、僕はまだまだ大丈夫だ。

まだまだ何かを好きになる余地がある。

母のこと、南海ホークスのこと、あの日の自分、めんつゆ、それらを思い出しながらストロングゼロを飲み「鬼滅の刃 1巻」を手に取る。

 

ストロングゼロの呼吸!

そう叫びながらページをめくる。

なにかを好きになることの大切さを噛み締めながら。

 

 

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【プロフィール】

著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

 

Photo:Emma Thomas,Ignat Gorazd

思い出すのも恥ずかしい黒歴史の塊なのに、今でもたまに見てしまうネットのページがある。

笑顔の大学生たち、楽しそうに練習する動画などありふれたコンテンツだが、このページを見るたびに恥ずかしくてどうしようもなくなる。

 

同志社大学のアルティメットチーム「Magic」のツイッターサイトだ。

そして、取り返しのつかない失敗をしたことや寂しさなどが入り混じった複雑な感情がよみがえり、胸の奥が痛くなる。

実はこのチーム。

1992年に私が、友人と2人で始めた小さなサークルだった。

 

相方の名前を、仙田とさせて頂く。

当時大学1年生だった仙田と私は、とにかく時間と情熱と体力を持て余していた。

大学に入ったはいいが、つまらない授業とバイトとメシを食べるだけで過ぎていく毎日は、退屈で仕方なかった。

大学生らしい無意味な野心や根拠のない自分への特別感もあり、何か大きなことをしたいとバカな妄想ばかりでいつも盛り上がっていた。

 

そして迎えた大学1年の夏休み。

大阪枚方にあった仙田の家に泊まりで遊びに行った時のことだ。

有り余る朝までの時間の中で、仙田と私は駄菓子を頬張りながら、女の子の話や将来の夢、20年後には何をしてるのかと言った、学生らしいたわいもない話で盛り上がっていた。

 

そしてその時、手元にあったのが40代以上の男性であれば誰でも覚えているであろう、昔懐かしい「Hot-Dog PRESS」。

女の子とのデートマニュアル、イケてるファッションや恋愛作法などを指南する、今では考えられないだろう男子大学生をターゲットにした情報雑誌だった。

 

仙田と私はそんな軽薄な雑誌を回し読みしながら、軽薄極まりない話題で盛り上がっていたのだが、その時に一つの記事に目が止まった。

 

「92年、女子にモテモテのイケてるスポーツはこれだ!」

「今、アルティメットがアツイ!」

 

そこには、キラキラしたかっこいいイケてる大学生アスリートが写っていた。

しかも、フリスビーを使ってplayする、アメフトとバスケを混ぜたようなスポーツというクールさがたまらなかった。

そして何よりも、女の子にモテるスポーツと言うキャッチが魅力的だった。

 

「おい仙田。俺ら、これやってみーひんか?」

「おぉ、かっこええな!イケてるやん」

 

「やろ?二人でこれ同志社にチームを作って、全国を獲ろうや!」

「ええな!決まりや。夏休み明けたら、早速仲間を集めて始めようぜ!」

 

こうして私たちは信じがたいほどの軽さで、しかし熱気を持って、突然チーム作りを開始することになった。

 

そして夏休み明け。

大学に働きかけ、グラウンドなど施設使用許可が降りる公認サークルの許可を取り付けると、初代部長には私が、初代副部長には仙田が就いて届け出を済ませ、早速仲間集めを始めた。

と同時に、当時関西の大学で唯一のチームがあった近畿大学に遠征に行き、練習ノウハウから試合技術までを0から教わることになった。

 

それから1年。

苦労して集めた仲間は13人になり、公式戦に初出場を果たすまでに成長すると、5試合目にして私たちは念願の初勝利を挙げる。

あれからすでに27年もの時間が経っているが、あの時の感動は忘れようがない。

フラフラになりながら最後まで走り回り、勝利の瞬間に仙田と私は抱き合って泣いて喜んだ。

学生時代に経験した、本当にかけがえのない青春の1ページになった。

 

しかし今、この同志社Magicのチーム史の中に、私の名前はない。

いつだったか見かけた創部の歴史では、仙田が一人で立ち上げたチームという記録になっていたのを見かけたほどだ。

その全ては、私の黒歴史に残るほどに“やらかして”しまったことが、原因ではあるのだが。

 

なら、黙って会社を辞めろ

話は変わるが、先日、若い友人と雑談をしていた時のことだ。

彼は大手企業の経営企画畑で仕事をしているが、話すたびに明らかに、仕事に対する情熱を失って行きつつあることが手にとるようにわかった。

そのため心配になり、ある日、ストレートに質問をしてみたことがある。

 

「最近、明らかにやる気を失ってるやろ。何があったんや?」

「わかりますか?マジでやってられません。もうあんなクソ会社辞めてやろうと思ってるんです。」

 

聞けば彼には、どうしても納得できない課長がいるという。

どれだけ練り上げた自信のある企画書を提案しても必ず却下されるので、もはや仕事をやっている意味がない、ということのようだ。

 

「どういう理由で却下されるんや?」

「いろいろですね。『失敗したらどうするんだ』『損失が出る可能性を否定できない』『営業部に迷惑がかかるかも知れない』とか。」

 

「絶対に失敗したくないマンか。大企業の中間管理職やなあ。で、自分の提案に自信はあるんか?」

「もちろんです。あらゆる角度から分析して、いつも過去データまで添えて提案しています。それを『損するかも知れないから却下』なんて言われて納得できません。」

 

バカな話だと思われるかも知れないが、大企業には未だに、本当にこんな中間管理職が多い。

それもそのはずで、中間管理職には仕事を成功させることに、多くの場合、何のインセンティブもないからだ。

営業職であればともかく、一般にバックヤードの部門に+αの評価制度を導入している組織はそう多くない。

 

むしろ「ルーティンワークを問題なく回すことが最大の仕事」なので、新しいチャレンジを迫られることは、中間管理職にはうっとおしいだけである。

成功しても評価される仕組みがない上に、失敗をすれば確実に評価が下がるのだから、ある意味で評価制度の犠牲者でもある。

いずれにせよ、このようにして絶対に失敗したくないマンが生まれる。

 

「で、そう言われて引き下がったんか?」

「いつもじゃないですけど、自信があるので予算をつけて下さいって食い下がったこともあります。」

 

「うん。なんて言われた?」

「『絶対に成功するって言い切れるんか!』って恫喝されました。失敗したらお前が責任を取れ、とも。」

 

「ええやん、最高やん!」

「へ???」

 

「何を言ってるねん。そんなもん、『責任を取らせてくれるんですか?ありがとうございます!』って喜ぶところやろ。」

「・・・意味がわかりません。」

 

「上司やリーダーの仕事ってなんだよ?」

「・・・」

 

「上に立つ者にとって一番大事な仕事は、意思決定を下してその結果責任を取ることだ。にも関わらず課長は、『意思決定はしない。やるならやれ。何かあったらお前が責任を取れ』って言ったんだろ?」

「まあ、そういう形ですね。」

 

「ならやれよ。課長が職責を放棄したんだから、遠慮なく自分の責任で部長のところに行け。」

「・・・ムリですよ。」

 

「なら、黙って会社を辞めろ。」

「・・・」

 

その後も私は彼を焚き付け、リスクを怖がって意思決定を下せないリーダーの言うことなんか聞く必要はないと煽り続けた。

無責任なようだが、どうせこのままだと彼の心が折れて、いずれ辞めるのは目に見えている。

なら、最後に正論を通して気持ちよく辞めた方がまだマシだろうと、そんな思いからのアドバイスだった。

 

だが、素直な彼は本当にやってしまった。

後日、提案を却下され本当に、その足で部長のところに行ってしまったそうだ。

そして、なぜ上司を飛び越えたのかと詰問されてしまい、

「責任を取らせてくれると言うので来ました!」

と答えてしまった。

 

すると部長は嬉しそうに笑い、

「よくわかった。正論だ。話を聞いてやる。」

と、時間を取ってくれたそうだ。

 

「ウチの部長、いつもは怖い人なんで本当に緊張しました。でも、印象が変わりました。あんなに話しやすいカッコイイ人だとは思いませんでした!」

と彼は興奮気味に聞かせてくれたが、それは違う。

どんな偉い人だって、自分の部下にそんな情けないリーダーがいることは見過ごせないだけだ。

 

そして、それを必死になって変えようとした、情熱と志がある若い社員が好きなだけである。

それは逆に言うと、「失敗したらお前が責任を取れるんか!」などという情けない言葉を発するリーダーなど、部下からも上司からも見限られて当然ということでもある。

 

組織をぶち壊す「幼児おじさん」

話は冒頭の、私の黒歴史のことについてだ。

私は若い友人に、いっぱしのアドバイスに成功したような自慢話をしているようだが、違う。

実は私こそが、そんな情けないどうしようもないリーダーだったから、そんな環境でくすぶる彼を放っておけなかっただけだ。

 

創部2年目で念願の初勝利を挙げた1993年。

チームは勢いに乗り勝利を重ね、どんどんと仲間を増やし始めた。

その一方で私は、特殊な大学校への転学を考えアルティメットへの情熱を失い、やがて練習にも足を運ばなくなっていった。

 

つまり私は、リーダーとしての情熱を持たず、何一つ職責を果たさず、チームにも仲間にも貢献しようとせず、自分のことだけを優先したということだ。

であれば、リーダーを潔く降りればよいのに、そうすることもしなかった。

20歳そこそこだった私には、「自分が作ったチーム」「部長」というポジションはとても手放したくないカッコイイものに思えたからだ。

 

仙田から提案される他大学との合同練習や、部費を増額し部室を借り上げようという提案にも

「意味がない」「部員集めに貢献するとは限らない」

など、理由を絞り出しては反対ばかりしたことすらあったように記憶している。

 

そしてそんな事が続いたある日、私は仙田から「チームに貢献する意志がないなら部長を降りるべきだ!」と叱責される。

そして、「わかった、なら辞めてやるよ!」というような捨て台詞を吐き、大学の公認サークル証を財布から取り出し彼に叩きつけて、チームを去ってしまった。

 

言うまでもなく、120%彼が正しい。

それはわかっていた。だが、素直になれなかった。

あれから30年近くが経ったが、チームのために仙田が下した優れた決断とリーダーシップへの敬意、自分の情けなさを思わずにはいられない。

 

あの時、私は確かに仙田と多くの仲間に迷惑をかけた。

リーダーであるにも関わらず、チームやメンバーのために尽くそうとせず、責任を担おうともしなかった。

そして、もしリーダーがそんな無責任な真似をやらかすとどういうことになるのか。

苦い思い出とともに、心にも体にも叩き込んでもらった。

おかげで今、同じような失敗だけはせずに済んでいる。

 

ひるがえってみて、私の若い友人の上司のように、大企業の中間管理職では未だに、こんな幼児性を残しているリーダーが幅を利かせている。

部下のリスクを引き取り、自由に仕事をさせなければ、なんのためのリーダーなのか。

ましてや、「何かあったら責任取れるのか」などというセリフを部下に吐くとは、いい年をして一体なにを学び、生きてきたのかと正気を疑うほどだ。

 

だが、こういう「幼児おじさん」は、本当に驚くほど多い。

その無責任な言葉は、天空の城ラピュタの滅びの呪文「バルス」のように、部下のやる気を一瞬で破壊し、組織をぶち壊す。

 

もし、何らかの組織で管理職やリーダーを任されているにも関わらず、部下に対し

「何かあったら責任取れるのか」

などという暴言を吐いた心当たりがある人がいるのであれば、覚えておいて欲しい。

 

決断をし、責任を取るのはあなたの仕事だ。

そんなことすらわからないあなたは、間違いなく部下から軽蔑され、舐められている。

 

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【プロフィール】

桃野泰徳

大学卒業後、大和證券に勤務。中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
もう10年以上も前の話ですが、妻が有名料理コンテストで入賞をしたことがあります。
その時に審査員の皆さんから絶賛されたのが、「刻み奈良漬けだけの炊き込みご飯」。
騙されたと思って、ぜひ作ってみて下さい。
美味しいですよ!

twitter@momono_tinect

fecebook桃野泰徳

Photo:Nicholas Wang

学生時代に将棋や囲碁の棋士に夢中になった事がある。

何が良かったかって、みな本当に独特の個性があったのだ。

あれは当時、個性の確立に悩んでいた自分に見事に刺さった。

 

個性とは不思議なものである。

考えようによっては豊かになった現代の方が余裕があるからキャラクター差を出せそうにも思えるのだが、実際はそうではない。

現代社会はむしろ逆に余裕がなく、どちらかというと優等生的な立ち振舞い方をする人が目立つ。

 

棋士の生き方もそうで、昔の時代は本当におおらかで余裕?があった。

かつての人達は本当の意味で破天荒だ。

その代表格といってもいいのが、囲碁の藤沢秀行氏だ。

<参考 『野垂れ死に』新潮新書 >

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破天荒を極めていた棋士がいた

藤沢秀行氏は本業である囲碁では異常感覚とも称されるほどに鋭い手を打つ一方で、私生活は本当の意味でハチャメチャだった。

女性関係は本妻のほかに4人の女性と関係を持ち、子供は本妻を含め3人ずつ計15人。

ギャンブル狂いでもあり、それに関連した借金は億単位。

極めつけに重度のアルコール依存症と、最近は珍しい本当の意味での飲む打つ買うをやる芸人だった。

 

自伝も出版されているのだが、奇想天外な破天荒エピソードの数々に本当に圧倒される。

後年になって、本妻であるモト氏も本を執筆されており、その中で秀行氏がいくつか格好をつけて大嘘をついていたとバラされたりしているのがまたチャーミングで笑えてしまう。

 

アルコール依存症?依存症じゃない?

彼関連のエピソードで一番印象に残ったのが、都合六連覇した棋聖戦に挑む際の話だ。

当時、彼は朝からウイスキーを一本空けるような見事なまでのアルコール依存症だった。

が、保持していたタイトルである棋聖戦の前だけは借金返済の為にも酒を抜いて挑んだ。

 

6回もこれを繰り返したというのだから、本当に普通ではない。

文字で書くと単調な文面になってしまうが、重度の薬物依存症患者がこんな芸当をやり遂げるのは常識的には不可能だ。

 

依存症の人が薬物から抜けられないのは薬が楽しいからではない。

薬を定期接種しないと、苦しみから逃れられないからだ。

薬を入れないと苦しみや幻覚のようなものに襲われてしまい、とてもシラフではいられないのだという。

 

藤沢秀行氏も例にもれず、アルコールを抜くと体中を虫が這い回るような酷い症状に苦しんだそうなのだが、彼は棋聖戦の前だけは酒をキチンと抜き、キチンと試合を完遂した。

彼の担当医はこの有様を聞いてぶったまげたそうだが、確かにこれは現代医学の常識に反している。

 

勝負に勝って「もう酒はコリゴリだ」となるか、またアルコールで身を持ち崩して破滅するのならまだ話はわかる。

だが、彼はこの苦行を六回も繰り返して生き抜いたのだから、意志が強いのか弱いのかもはやワケがわからない。

 

なんというか本当に凄い人である。

時代が産んだ寵児というか、とても現代ではこんな人は頭角をあらわあせいだろう。

 

依存症は自発的ではなく動機づけで抜けられるのかもしれない

このエピソード自体は随分と長い間忘れていたのだが、最近自分の身近な人がアルコールの沼から抜け出した方法がこれと近似していて驚いた。

彼は自分とアルコールを好む人で、特に一人で深酒をやるのが好きな人だった。

特にストロングゼロが好きで、あれを高速でキメると脳にある新しい扉が開きそうな感覚が脳髄にきてたまらないのだという。

 

実はこれは典型的なアルコールの作用だ。

最近読んだ”もっと! : 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学”という本によると、酒を大量摂取すると脳内にドーパミンの洪水が押し寄せ、脳がこれにヤミツキになり、アル中が完成するのだという。

<参考 もっと! : 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学>

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この楽しさにヤミツキになってしまったという事もあり、彼はつい翌日に本業があるにも関わらず飲みすぎてしまう事が何度もあったそうだ。

その度に翌日後悔し、体調不良を抱えて必死にミスがないように仕事を回す。

だが、人間というのは愚かなもので、しばらくするとまた同じことを繰り返してしまう。

よくないなぁとは思っていたようだが、都合5年近くもこの生活をやってしまっていたという。

 

そんな彼だが、最近は少なくとも酒を平日はスッパリ辞めたのだそうだ。

いったい全体どうやって?

それは仕事で物凄く気に食わない上司がやってきた事がキッカケだったという。

 

彼はあまりにもその上司とソリが合わず、意見が物凄く対立するそうなのだが、何度も何度も対立を繰り返した後になって

「酒で疲れた身体で憎い宿敵と戦うだなんて、あまりにも自分は愚かすぎる」

と心の底から納得し、次の日の戦に備えて週末以外はほぼ酒を断つようになったというのである。

 

彼はこの現象を「殺意の波動に目覚めると、アルコールなんて飲んでる場合じゃなくなる」と説明していた。

打ち倒すべき敵の姿が見据えられると、人はアルコールの快楽を克服できるのかもしれない。

 

被害者に甘えず、したたかに生きる

僕がこの殺意の波動の話を面白いなーと思ったのは、逆境を自分の都合の良いように利用した彼のしたたかさである。

 

世の中というのは複雑なものだ。

いいと思っていた事が甘えに繋がり人生が破綻する事もあれば、最悪としかいいようができない経験から奇跡のような何かを掴み取る人もいる。

 

実は人間は最悪から最高を生み出す事だって可能なのである。

その極ともいえる芸当をやってのけたのは”夜と霧”を書いたヴィクトール・フランクルだろう。

<参考 夜と霧>

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知っている人も多いだろうが、彼は戦時を生き抜いたユダヤ人で、かの悪名名高いナチスによる強制収容所での収容体験を経験している。

その時の己の体験を独特の視点でもって書いたのが”夜と霧”であり、この本は世界中でベストセラーとなった。

 

強制収容所での体験書というと悲惨で恐ろしい記述が並んでいるのかと思いきや、夜と霧はそういうものではない。

この本は極限状態に置かれた監視役と囚人の心に何が起きたのかを淡々と記述したもので、そこには怨みつらみのような記述はほぼ皆無である。

 

冷静に考えるとこれは凄い事である。

フランクルは主観的にも客観的にも被害者であり、普通の人ならば被害者意識を爆発させて世を嘆き恨み悲しんで一生を終えても何もおかしくはなかった。

だが、彼はその人生を選ばなかった。

僕はここにフランクルのしたかさを感じるのである。

 

仮にだが、フランクルが周りの慰めに甘え、被害者意識を爆発させるがままだったとしよう。

彼はそれによって一時的には癒やされたかもしれない。

だが、その道は永遠に被害者であり続ける道でしかない。

今のような尊敬の念を持たれるような存在からは程遠い何かだ。

 

彼は恨みやつらみを脇にどけ、被害者というスタンスから一歩足を踏み出す事に成功した。

その結果、単なるナチスドイツによるかわいそうなその他大勢のユダヤ人ではなく、夜と霧のヴィクトール・フランクルとして莫大な名声を手にする事に成功したのである。

 

これをしたたかな生き方だという以外、なんと形容できるだろう?

人間は最悪から最高を産むことだって可能なのだ。

 

生まれてきた理由を問うのではなく、目の前の人生に意味を問う

私達はよく生まれてきた事の意味のようなものを模索しがちだ。

僕も昔は随分と人生の意味のようなものを考えた記憶がある。

 

人は早い段階で己の人生ともいえるようなものを見つけ出す事に成功したタイプの人に強いあこがれを持つ。

「自分はいったい何のために生まれてきたのだろう?」

人間はこのように己の人生の中に何らかの意味を見出したいという強い願望がある。

だがフランクルはこの人生の意味論のようなものを一蹴する。

 

「あなたが人生に何かを問うのではなく、人生の方が常にあなたに何かを問いかけている」

「そこに意味を見出して、生き抜くのが私達に課されたものである」

 

改めて振り返ってみると、藤沢秀行氏とフランクルの生き様は実は結構似ている。

 

人生の早い段階で好きに意味を見い出しつつも、辛酸を舐め、それをオレ流で花開かせた藤沢氏の生き方に私達が強く惹きつけられるのは、彼が最悪から最高のドラマを咲かせたからに他ならない。

あの破天荒さが単なる喜劇ではなく共感を呼ぶのは、やっぱり最悪から最高を生み出せるという事に人々が強い希望を感じるのだろう。

 

フランクルも強制収容所での体験中、きっと何度も「なんで自分がこんな目に」と思ったに違いない。

それこそ、こんな苦しい思いをするために生まれてきただなんて、神はなんてあまりにも酷い仕打ちを自分達に課すのだろうと世を儚んだ事だってあっただろう。

 

だがそこで恨みの感情に飲み込まれずに、淡々と目の前の人生に意義を見出す事に成功した。

結果、彼は後世になって莫大な名声を手にする事になった。

 

先程記述したアルコールの沼から抜け出した彼の立ち振舞いもフランクルに少し似ている。

彼だって、意見が合わない上司の悪口を酒を煽ってぶちまける事だってきっとできただろうし、その結果としてもっとアルコールの沼に深くはまり込む自由だってあった。

 

けど、結果的には彼はそうしなかった。

人生が彼に与えた不快感満載の上司という苦境を通じて、彼は殺意でアルコールをコントロールするという術を身に着ける事に成功した。

 

世の中は良いことだけが良いものをもたらすわけではない。

一見すると物凄くストレスフルで嫌なことだって、意味さえ見いだせれば別の良いものを生み出すキッカケとしても利用可能だ。

 

決して不幸や加害行為を許すというわけではないが、こうしたしたたかな生き方に、コロナ禍という苦境にある私達が学ぶことはきっと多いはずだ。

 

未来はいつだって己の力で明るくできる。

そう信じて、したたかに生き抜こうではありませんか。

 

 

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【著者プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

 

Photo:Mike Bean

ちょっと昔話をします。

 

まだ長男が幼稚園に通っている頃でしたから、10年近く前でしょうか。

しんざき家では毎晩、寝る前にお話をしながら、パパママ長男の三人で一緒にお風呂に入ることが定番になっていました。

 

長男は、お風呂でお湯をばしゃばしゃとさせて、跳ねたお湯がお風呂の縁に乗っかって色々な形になるのを観察するのが好きでした。

 

その時も、長男は手をばしゃばしゃと動かして、縁に乗っかったお湯の形を観察していたのだと思います。

「これはー、ぞう!」とか「これはーー、んー、くるま!」とかいちいち宣言している長男に、「今日は幼稚園何があったー?」と何の気もなしに聴いてみたら、長男が手を止めました。

「うーん」としばらく困ったように考えこんでから、「もう、そんなに色々聞かないでよー」と言われました。

 

…色々?

 

この時、「色々」という言葉がちょっと引っかかりまして。

私、自分としては「幼稚園でどんなことが起きたか」という一つのテーマで聞いたつもりだったんですよ。

ところがそれが、長男には「色々」と解釈されたらしいのです。

 

ただその時、一緒にお風呂に入っていた奥様の、

「開かれた質問だから答えにくいんじゃない?」

という一言でするっと謎が解けて、同時にちょっと衝撃を受けました。

 

開かれた質問って心理学用語で、要は「はい、いいえでは答えることが出来ない質問」「選択肢が明示されていない、自由な表現で答える質問」のことなんですけど。

 

例えばこれが大人であれば、「最近どう?」という程度の曖昧な質問に対しても、「ぼちぼちです」というような、適当に四捨五入した答えを返すことが出来るかも知れません。

それは、質問者の意図が「単なるイメージ的な総括」を求めているものでしかないということが分かっているし、それに対して「最近あった全て」を答える必要などない、という認識が既にあるからです。

 

それに対して、小さな子はまだその前提を共有していません。

つまり長男の中では、「幼稚園で起きたこと」というのは、色んな記憶の集合体として、非常に雑然とした複数のイメージの形で脳内に集積されていたと。

それについて「幼稚園で何があった?」なんて曖昧な形で聞かれてしまったので、「色んなことについていっぺんに聞かれた」と解釈して困ってしまった、と。

 

そこでちょっと方向性を変えて、例えば

「〇〇ちゃんとは今日は遊んだ?」

「何して遊んだ?」

「どれが一番楽しかった?」

というような聞き方にしてみると、喜んで

「最近どろけいという遊びを教えてもらった」

「せんせいがどろぼうの基地を庭に書いてくれた」

「何人捕まえた」

といった話をとても楽しそうにしてくれたので、この時は「ああ、具体的な方向性さえあれば、話したいことがたくさんあったんだな」と分かったんですが。

 

この時私、結構色々なことを学びまして。

 

まず、私は無意識の内にコミュニケーションのコストを息子に押し付けてしまっていたなあ、と。

「質問をする時は具体的に」というのは、インタビューやコミュニケーションの基礎のキの一つなのに、それを忘れていたなあ、と。

「自分はこの質問で何を知りたいのか」ということを、相手に伝えるのを怠っていたなあ、と。

 

いや、開かれた質問自体が悪い、って話ではないんですよ?

時には選択肢のない自由な会話が適している場合だってあるし、相手の曖昧な質問に対して、自分の中からイメージを取り出して整理する練習だって必要でしょう。

 

けれど、まだ生まれて数年しか経っておらず、コミュニケーションというものそれ自体にまだ不慣れな長男に対して、大した意図もなく「何があったか」なんて質問を投げて混乱させてしまうのは、ちょっと考えが足りなかったかも知れない。

「この人は今、どんな意図で、何が聞きたいのか」「それに対して自分は、色んなイメージの中から何を整理して答えればいいのか」という判断を、前提知識を持っていない長男にいきなり押し付けてしまうのと同じことだったかも知れない、と。

その時はそんな風に思ったのです。

 

まだコミュニケーションに不慣れな時期にこそ、丁寧な会話と、会話が成立することの楽しさを教えてあげたい。

そう思って、そこからはなるべく「内容が具体的で、質問意図が分かりやすい質問」から始めて、段々選択肢を広げていくような会話を、意識して多めにしてみました。

その結果だったのかどうかはともかく、現在はまあ非常にお話好きな少年に育ってくれたのは良かったなあと思っている次第なのです。

 

***

 

ちょっと話は変わるんですけど。

先日安達さんが、企業の採用面接についてこんなことを書かれていました。

(→ スキルのない素人が、印象と好き嫌いで合否を決めている。それが採用面接。

 

私、ここで安達さんが書かれている「「それ聞いてどうすんの?」という質問をする面接官」について、そこそこ心当たりがあります。

自分が面接を受けている時にも、また自分自身が面接をする立場になって、他の面接官の人と同席をするようになった時も、

「この人は、この質問をすることによって、どんな能力や資質が判断出来ると思っているんだろう?」

「この質問に対してどんな答えを期待しているんだろう?答えが返ってきたら、そこから何を評価するつもりなんだろう?」

ということが良く分からない質問をする人に、散々突き当たってきたんですよ。

 

いや、例えば「志望動機はなんですか?」とか「当社のビジョンについて、共感したポイントをおしえてください」とか、通り一遍の紋切型質問ならまだマシなんです。

これは一応、「適切な建前を構築・開示する能力があるかどうか」という判断に使えないことはないですし、耳辺りが良くてちょっとだけ独自視点のある建前を返せばいいんだな、というのも理解しやすいです。

 

それに対して、「あなたにとって仕事とは何ですか?」とか。

「仕事をする上で何を大切にしたいと思いますか?」とか。

もっとひどいのだと、「あなたを色に例えると何色ですか?」とか。

 

この辺正直ホント意味わからん、と思いまして。それ聞いてどうすんだ。

面接はクイズ大会や心理テストじゃねーんだぞ。

 

いや、一応、学生時代にはまだ、もしかするとこういう質問にも深い意図があるのかも知れない、とも思ってはいたんですよ。

上記した通り、仕事を始めて随分経って、私自身も面接をする立場になりました。

新卒の学生さんとお話をする機会も増えました。

その際、「大体の会社における採用面接というものは別に人事の専門家が行う訳ではなく、しかも面接の為の研修すら存在せず、全く畑違いの素人が行うものなんだ」ということを知って結構衝撃を受けたりもしたんですが。

 

グループ面接が終わって、「この子は元気が良くて受け答えがしっかりしていたから役員面接に通そう」とか「この子はちょっと暗かったからやめとこう」というような話をしている、私と同じように面接に駆り出されていた人たちに、「さっきの〇〇という質問はどんな意図だったんですか?」と聞いてみました。

 

結果、少なくとも私が聞いた限りにおいては、殆どの人たちに「大した意図など何もない」ということが分かりました。

なんかそれっぽいことを聞いているだけで、質問それ自体の回答についてのはっきりした判断基準などなく、せいぜい「受け答えがしっかりしているかどうか」くらいしか見ていない。

「質問意図を読みとるのもコミュニケーション能力の内」「それを試すのも面接の内」というような話を聞いたこともありまして、それも私、全然納得出来んなーと思ったんですけど。

 

だって、「よくわからないあやふやな質問の意図を読み解く能力が必要とされます」って、

「え?この会社って、質問意図についてわざわざ深読みして判断しないといけないようなコミュニケーションが横行してるの?」

と学生に思われかねないじゃないですか?

これから自社で働くかどうかを検討している人たちに、わざわざそんなメッセージを出すんですか、って話です。

 

この時私、上で書いた、子どもに対する「今日、幼稚園どうだった?」という質問を思い出しまして。

あの時私が子どもに伝えたことって、まずなによりも「丁寧なコミュニケーションって楽しいよ」「パパには、丁寧なコミュニケーションをする意志があるよ」ってことだったんじゃないかなあ、と思うんですよね。

最初はちょっと意図の曖昧な質問をして戸惑わせちゃったけど、その後はちゃんと、「これこれこういうことが聞きたいんだよ」という意図が、多分伝わったんじゃないかと。

 

質問って、決して「情報を引き出す」という一方通行のコミュニケーションじゃなくて、「私はこういう情報を求めています」「こういうことに興味を持っています」ということを相手に伝える、双方向のコミュニケーションなんですね。

質問って一種のプレゼンなんです。

こちらの質問というのは、「こういうスタンスの会社なんだよ」というメッセージとして相手に伝わるんです。

 

そんな経験があったので、自分が面接で質問をする時は必ず、「この質問は、これこれこういう意図でしています」という一言を付け加えるようになりました。

別に「意図を読み取ってもらう」必要なんてない。

こちらのカードは全部開示するから、それを見てゆっくり自分の考えをまとめてくれればいい。

 

少なくとも私は、会社に入って仕事をしている時も、あなたに対して全ての判断材料を開示して、それに基づいてコミュニケーションをする準備があります。

だからあなたも、安心してこちらに判断材料を開示してください。

 

そういうメッセージが学生さんに伝わればいいなー、と。

そう思っているわけなんです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

Photo by Jon Tyson on Unsplash

インターネットが普及し、だれもが気軽に発信できるようになった現在。

ちょっとしたきっかけで注目を浴びてインフルエンサーに、そこからテレビや雑誌と大活躍……なんてシンデレラストーリーはもはや珍しくない。

 

だからこそ、「何者かになりたい」、要は「有名になりたい!注目されたい!フォロワー増やしたい!」という人がたくさんいる。

で、そういった人をカモ……対象にしたセミナーやブログ、書籍なども、これまたたくさんある。

 

そこではいろいろなノウハウ、テクニックが紹介されているけど、結局のところこの一言に尽きる。

「インフルエンサーになりたきゃだれかのグーグルになれ」。

 

「この人の言うことは信用できるから今後も参考にしよう」と思ったらフォローする

最近、人生ではじめて犬を飼い始めた。

もうかわいくてかわいくて毎日しあわせなのだが、いかんせん人生初ペット。

なにをどうしたらいいのかまったくわからない。

 

というわけで、現代人よろしくまずはグーグル先生に相談。

「犬 散歩 しつけ」

「お手 教え方」

「犬 子ども 吠える」

ふむふむ、なるほど。

情報を切り貼りしたまとめ記事ばっかりだけど、まぁいいや。うん。

 

さて、実践方法を見るために、次はYoutube先生に相談。

ドッグトレーナーのチャンネルは多くあり、そのなかからよさそうなものを選んで流し見ていく。

動画が気に入れば、そのままぽちっとチャンネル登録。

 

そのあとはその人のチャンネル内の動画をさーっと見て、今後必要になりそうな「ブラッシングケアのコツ」「爪切りのポイント」などを「後で見る」に追加しておく。

そうすれば、次になにか調べたいとき、検索せずにその人の動画を見ればいい。

一度「この人を参考にしよう!」と決めてしまえば、今後の「検索してお目当ての情報に行き着くまでの試行回数」をグッと減らすことができるのだ。

 

というわけで、このように「この人をチェックしておけば自分の問題が解決する」「この人の言うことは信用できるから今後も参考にしよう」と他人に思わせることができたら、その人の影響力は増していく。

インフルエンサーとは、こうやって生まれていくのだ。

 

「ファンだから」ではなく「情報源として便利だから」

インフルエンサー(知名度に関わらず発信している人たち)をフォローしている人というのは、必ずしもその人の「ファン」というわけではない。

好きだから、とか、興味があるから、とかじゃなくて、「便利だからフォロー」という側面もあるのだ。

 

たとえばあなたにも、「資格の勉強をするならこのシリーズ」と本屋で必ず手に取る出版社があるんじゃないだろうか。

「仕事で悩んだらこの人の本」「ブログ運営ならこの人のサイト」というように、「グーグルで検索せずまずこの情報をチェックする」という対象をもっている人は多い。

 

そしてネットでの発信者は、その対象のひとつになりうる。

「この人の情報をチェックしてれば検索する手間が省けるし、求めてない情報が網に引っかかってわずらわしい思いをしないですむ。だからとりあえずフォローしとくかな」

というフォロワー層は、発信者に対し、ファンとはまったくちがうベクトルの期待をしている。

 

それは、「自分に最適な情報源でありつづけること」だ。

たとえば、だれにでもできるかんたんヘアアレンジで人気になったインスタグラマーには、当然のことながら、「自分がヘアアレンジで困らないような情報」を求める。

 

「あしたの友だちの結婚式にはこの髪型使えるかも」

「次髪切るときは美容院でこの写真を見せよう」

「ヘアアクセサリーがほしければこの人が使ってるのと同じものを買えばいいかな」

といった理由でフォローしているからだ。

 

その人をチェックすれば、「結婚式 ゲスト 髪型」でググらなくていいし、美容院のために好みの写真を探さなくていいし、Amazonでヘアアクセサリーページとにらめっこしなくてもいい。楽。

 

その人の「ファン」だなんて気はさらさらない。

「便利な情報源」として利用しているだけ。

 

インフルエンサーを支えるフォロワーのなかには、案外こういう考えの人も多いのではないかと思う。

わたしがドッグトレーナーのチャンネル登録をしたように。

 

だから、インフルエンサーとしての影響力がほしいのであれば、検索で一番上に自分のコンテンツが表示されることよりも

「グーグルやYoutubeで検索するより前にまず最初に自分のところに来てくれる人」

を重視すべきなのだ。

 

インフルエンサーに求められるのは、カリスマ性よりも利便性

「読者や視聴者の利益になる情報を」

「わかりやすく伝える努力を」

「具体的なユーザーペルソナを」

のように、発信において大事とされる要素は結局のところ、「だれかにとっての信頼できる情報源になる方法」だ。

 

「ファンを獲得すれば有名になれる」はもちろんだけど、たいていの人はそこまで熱心にだれかを応援しない。

だから「便利だからフォローしとこっかな」と思ってもらえるようにしろ……というわけである。

 

「犬のしつけに困ったら、検索するよりも信頼できるドッグトレーナーの動画を探せばいい。

そっちのほうが質が保証されてるし、情報の取捨選択の手間が省ける。

「お、この人ちょうどいいな」

多くの人にそう思わせることができたら勝ち。そういうゲームである。

 

求められているのは、「便利な情報源」。

決して、あなた自身のプライベートの写真や愚痴投稿ではない。

 

検索エンジンを汚すコンテンツ、たとえばステマやフェイクニュースを投稿をすればフォロワーが離れるし、アルゴリズム変動、たとえばキャラの方向転換なんかがあればがっかりされる。そういうものなのだ。

もともと知名度がある人なら別だけど。

 

ググればわかるけど、ググるのは面倒くさい。

だからこそのインフルエンサー。

炎上に頼る必要もなければ、有名人にすり寄ってコラボする必要もない。

ただただ、「情報の取捨選択の手間を減らす都合のいい存在」になればいい。それだけ。

 

もともと知名度があるわけではない一般人が影響力をもつとなると、「ファンを獲得」よりむしろ、「情報源になる」ほうが確実かつ近道ですらあるだろう。

自分の影響力をあげたい!という野心がなく、SNSなんて半ば放置しているわたしがこういうのもあれだけど。

 

「ネットでたくさんの人にフォローされて有名になりたい!」と願うのなら、だれかのグーグルになればいい。

それがいまの時代、無名の一般人が知名度を得る最適解だと思う。

 

 

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【著者プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

Photo by Matt Nelson

少し前に、こんな記事を読んだ。

僕はなぜトヨタの人事を3年で辞めたのか

トヨタでの3年間は決して「歯を食いしばって耐える」ようなつらいだけのものではなかった。むしろ、たくさん鍛えてもらい、貴重な経験をさせていただいた先輩方を心から尊敬しているし、今でも仕事、プライベートを問わず関係を続けられるその懐の深さには感謝の気持ちしかない。

でもぼくは、結果だけ見ればトヨタを3年でやめた。

(中略)

3年目も後半に差し掛かってきて、ふと周りを見渡すと、10人いたはずの人事同期は既に半分以上が辞めていた。

「閉塞感に、耐えられなくなった」

そう言って辞めていく同期達に、ぼくは何も言えなかった。

上の記事には、著者がトヨタをやめるに至った苦悩が、延々とつづられている。

会社を辞めるも残るも自由だ、それはそれでよい。

 

だが、私はこれを読み、思った。

「会社が人生の中心であった時代は、本当に終わったのだな」と。

いわば、滅私奉公の衰退、とでも評すればよいのだろうか。

 

例えば、文中にあった以下のような「会社に尽くす」価値観は、以前は間違いなく「美徳」とされていた

つらいと思ったら、まず3日。3日間は歯を食いしばる。3日頑張れたら、次は3週間。さらにその次は3か月。そして、3年。3年は一生懸命がむしゃらに働きましょう

採用、配置・異動、賃金、評価、時間管理、健康…….。こうした人事労務管理の仕組みはすべて、トヨタが成長し、また、社員がいきいきと元気に働く上で必要不可欠なものです。『花よりも花を咲かせる土になれ』。この言葉を胸に、一生懸命、会社と社員の幸せのために頑張ってください

トヨタは、組織のために我慢せよ、花ではなく土になれと言っている。

これは、特に古くからある日本企業の風土としては、一般的なものだろう。

 

だが今や、上のような価値観は「すべてを会社にささげるのはリスクだが、しがみつくしかない」と、否定的に扱われている。

 

滅私奉公を否定しても、仕事はできる

これを読んで「仕事をないがしろにしているのでは」と思う方もいるかもしれないが、それは全くの見当違いだ。

 

「会社を中心に考える」を否定しても、仕事にコミットすることは可能だ。

むしろ私の周りには、組織の都合である「会社中心」は否定しつつ、生活を仕事と成果を中心に回す「仕事中心」をとる人は数多くいる。

 

仕事中心の人々は、組織の都合に振り回されることを嫌い、働き方、場所、仕事の内容、働く仲間、価値観などに大きな裁量を要求する。

時には複数の組織の間を行き来し、副業やフリーランス的な働き方も辞さない。

 

もちろん代償もある。

「組織に守ってもらう」ことは犠牲にならざるを得ない。

成果を出し続けなければならないし、仕事は自分で獲得せねばならない。

もちろん、キャリアも自分で考える必要がある。

 

しかし、彼らはそうした犠牲を払っても、彼らは「組織の都合」を嫌う。

そんな人が劇的に増えている。トヨタをやめた上の人物も、おそらくそのような考え方なのだろう。

 

滅私奉公は、必然的に廃れた。

しかしなぜ、「滅私奉公」はここまで廃れたのだろうか。

 

一つには「仕事の楽しさが、経営サイドの優先課題ではない」という事実が挙がるだろう

例えば上の記事では、こんな表現がある。

次第に仕事に慣れてくると、大きめのプロジェクトにもアサインされるようになった。労務の知識を付けたいと思い、社会保険労務士の勉強も始めた。

段々とやりがいを感じてきた2年目の12月、突然、上司に呼び出された。

「来月から本社の労政室に異動してもらうから」

……今持っている仕事も、やっと形になり始めたところだった。まずは4年、ここでしっかりと基礎を固めるという方針はいつ変わったのだろうか。

仲の良かった先輩たちに相談すると「まあ、サラリーマンなんて、そんなもんだよ」と言われた。

「サラリーマンなんて、そんなもんだよ」という言葉に象徴される「組織の都合」は、『花よりも花を咲かせる土になれ』と美化されてはいるが、所詮は「つまり、滅私奉公せよ」ということだ。

 

実際、私が知る限り、多くの組織では「仕事を面白くすること」を無視している。

というか、きわめて優先度が低い。

 

実際、「フロー理論」で知られる、ミハイ・チクセントミハイも、次のように述べている。

現在のところ、その仕事の性質を左右する権能を持つ人々の、仕事が楽しいかどうかについての関心は極めて低い。

経営ではまず生産性を最優先に考えなければならず、組合の指導者は安全や保証の維持を最優先に心がけねばならない。

短期的にはこれらの優先事項は、フローを生み出す条件との著しい不一致を生むだろう。これは残念なことである。

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二つ目は終身雇用の崩壊、個人のスキルの陳腐化の速さだ。

トヨタの社長の発言は、次の通りだ。

「終身雇用難しい」トヨタ社長発言でパンドラの箱開くか

トヨタ自動車の豊田章男社長の終身雇用に関する発言が話題を呼んでいる。13日の日本自動車工業会の会長会見で「雇用を続ける企業などへのインセンティブがもう少し出てこないと、なかなか終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」と述べた。

「会社が守ってくれない」なら、自分の身は自分で守るしかない。会社の都合を守り通しても、それに対して組織が報いてくれるわけではないのである。

それに対して「『花よりも花を咲かせる土になれ』。この言葉を胸に、一生懸命、会社と社員の幸せのために頑張ってください」とは、二枚舌もいいところだろう。

 

会社はキャリアに責任を持たず、また、評価軸だけは劇的に変える。

結果的に専門性はつかないまま、年齢だけ重ねてしまうかもしれないという恐怖は、当然のものだ。

事実、上の記事で、著者は次のように言っている。

数多ある一律の研修を潜り抜けて、うん十年と年齢を重ねてもなお、気づけば専門性はなく、その頃には評価の軸が変わっている可能性だってある。

 

三つ目は成果が上がらないことである。

日本企業はここ21世紀にはいると凋落を重ね、世界の中で負け続けてきた。

これは、滅私奉公に依存するマネジメントの稚拙さを物語っている。

 

事実、出荷台数でははるかに劣るはずのテスラが、トヨタの時価総額をあっさりと抜き去った。

バブル的な株価とはいえ、「トヨタ」よりも「テスラ」に期待している人が現在では圧倒的に多いのだろう。

 

それだけではない。中国の自動車メーカーの躍進も伝えられている。

すでに次世代の主戦場はガソリン車、ハイブリッド車ではなくEVに移行しているにもかかわらず、トヨタは相も変わらずハイブリッドに固執している。

 

実際、古い会社には「保守的すぎて話にならない」と感じることが多すぎるのではないだろうか。

特に、さしたる知識のアップデートもせず、「ま、適当に受け流すか」といった態度をとる、出世競争に敗れた40代以降のおっさん達は、まったく仕事をしない。

終わってんなー、と思う人がたくさんいる。

 

でもそれは彼らのせいではない。

「個」を捨て、「組織」に尽くしてきた結果、生み出されてしまった、悲しい存在なのだ。

彼らにはもう、組織にしがみつく以外に選択肢はない。

そう考えると、哀れですらある。

 

「滅私奉公」に反旗を翻す人々

こうした状況で、「滅私奉公」に反旗を翻す人が、数多く出現している。

 

例えばつい先日、こんなニュースを見た。

「ぶち殺すぞ」「電車に飛び込め」東証一部上場「Casa」社長の“罵倒音声”

「宮地社長が社員に暴言を吐くのは日常茶飯事でした」と語るA氏は、今年6月22日に退職届を提出した。A氏が語る。

「退社したいと申し出たところ、社長に『(辞めるなら)金で解決するしかないやろ、3000万や』と言われ、私が保有する7000万円分の株も置いていくという話になった。弁護士に相談するため、その後のやり取りを録音することにしました」

6月29日、社長室で宮地氏と面談したA氏が「弁護士に相談をして、どう対応するかというのを考えたい」と告げると、宮地氏が「居直っとろうが!」と怒鳴った。

面白いのは、Casaの社員たちの声だ。

まさに「個」を殺して、組織に殉じるような発言をしている。

「Casa」宛てに質問書を送ると、執行役員や監査役、課長ら5名が取材に対応。

宮地氏がA氏に一連の発言をした事実は認めた上で、「我々はコンプライアンス上、問題がないと思っています」と執行役員が回答。

さらに執行役員は「社長の言葉が乱暴であることは否定しません」とした上で、「言葉が乱暴というのは逆に信頼してもらっているのかなと」。監査役は「『街金くずれ』と言われたけど、乗り越えたよね。みんな何か崩れているんですよ、人生。でもここで再生されている」と宮地氏への感謝の言葉を述べた。

ひどい会社だ、と思うだろうが、実は、こういう会社は昔、たくさんあった。

私がコンサルタントとして訪問した会社の中にも、「社長の罵声」が日常茶飯事であった会社は少なくない。

 

実際、私が昔訪問した会社の中には、社長が、

「こざかしい社員は「面倒くさい」ので、社員の頭なんて、悪い方がいい。とにかく素直な奴が欲しいね。」

と真面目な顔でいっていた会社があった。

 

しかし、冷静に考えれば、長期的にはビジネスもうまくいかず、有能な人も集まらないのは目に見えている。

衰退は必然だ。

 

もう「会社」と「社員」は、大人と子供ではなく、「大人」と「大人」

英国の組織論学者である、リンダ・グラットンは著書「ワーク・シフト」の中で、企業経営者に向けて次のように言う。

ほとんどの企業は暗黙のうちに、社員との関係を親と子のような関係と位置づけ、いつ、どこで、どのように、どういう仕事をするのかをすべて決めてきました。

しかし優秀な人材は、大人と大人の関係を望むようになります。どこで働き、どういう仕事をするかをもっと自分で決めたいと主張しはじめるのです。

(中略)

一人ひとりの望む働き方に柔軟に対応しようとすれば、大きな混乱を招きかねないと思うかもしれません。

しかし、テクノロジーの進化により、それは不可能でなくなりつつあります。企業は人事制度を新しい時代にふさわしいものに転換し、柔軟な勤務形態、個人に合わせた研修、チーム単位の職務設計などを取り入れていく必要があります。

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「給与」という人質をとって、会社の都合に沿った人生を社員に歩ませようとする組織は、今後何もできなくなる。

冒頭のトヨタをやめた、という記事は表現はマイルドだが、そんな現実を経営者に突き付けているのだ、と感じた。

 

 

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【著者プロフィール】

安達裕哉

元Deloitteコンサルタント/現ビジネスメディアBooks&Apps管理人/オウンドメディア支援のティネクト創業者/ 能力、企業、組織、マーケティング、マネジメント、生産性、知識労働、格差について。

◯Twitter:安達裕哉

◯Facebook:安達裕哉

◯有料noteでメディア運営・ライティングノウハウ発信中(webライターとメディア運営者の実践的教科書

 

◯ブログが本になりました。

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[amazonjs asin="B0158EKQ6A" locale="JP" tmpl="Small" title="「仕事ができるやつ」になる最短の道"]

今日はまず、この『カプラン臨床精神医学テキスト』という精神科のテキストブックの表紙をご覧いただきたい。

表紙に描かれたたくさんの顔、たくさんの衣装からは、多様性を尊重する精神医療、文化を尊重する精神医療といったものが連想される。

 

この教科書には「DSM-5診断基準の臨床への展開」という副題もついていて、この教科書が、エビデンスにもとづいた精神医療のテキストブックであることも示されている。

だからこの表紙には、いまどきの精神医療の理念がギュっと詰まっていると考えて差し支えない。

[amazonjs asin="4895928527" locale="JP" tmpl="Small" title="カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 第3版"]

 

理念は高く掲げてナンボだから、この理念に私はシンパシーをおぼえる。

しかし理念のとおりとは思えない現実もそれとは別にある。

ときに私は、精神医療は(というより精神医療も含めた医療福祉の全体が)、多様性や多文化を尊重するというより、均一性を優先させていると感じることがある。

そして小さな多様性や小さな文化を無視するどころか、ときには敵視していると感じることさえある。

 

ここでいう小さな多様性や小さな多文化とは、『カプラン臨床精神医学テキスト』の表紙を飾れるような立派な多様性や多文化──人種や民族やジェンダーといった、いわば”大文字の多様性や多文化”──ではない。

もっと目立たず、もっと無視されていて、”大文字の多様性や多文化”を賛美している人々が顔をしかめたり軽蔑したりすることのあるような、そういう多様性や多文化のことだ。

 

そういう”小さな多様性や多文化”を抱え持った人が医療や福祉に出会い、サポートを受けるようになって起こる小さな文化衝突について、個人的な所感をこれから書いてみる。

 

強面の被-援助者の行く先は、なじみの文化圏ではない

社会がどんどん高度化し、人間に求められるクオリティがますます高まる現代社会では、精神医療(と福祉)がカバーしなければならない領域はだんだん広くなっている。

それに伴い、いままでは医療や福祉のサポートを受けていなかったであろう人がサポートを受けざるを得ない場面も増えている。

厚生労働省『患者調査』でみる精神科患者数の推移や、特別支援学級で指導を受けている児童の数を見れば、そういった趨勢は明らかだ。

※グラフ引用元:厚生労働省『みんなのメンタルヘルス 総合サイト』より

※グラフ引用元:文科省『日本の特別支援教育の状況について』、令和元年 より

 

他方、発達障害やその他のメンタルヘルスの病気に該当しそうではあっても、医療や福祉のサポートを受けずに暮らしている人も世間にはまだまだ多い。

そうした人のなかには、学者や起業家やテレビタレントとして活躍をしている人もいれば、そうでないところで、そうでない生き方をしている人もいる。

 

仮にここではDさんという架空のテンプレートを準備してみよう。

 

Dさんは腕にタトゥーの入っている、ちょっと強面のお兄さんだ。

小さな頃からませた子どもで、中学時代には年上のガラの悪いグループの使い走りのようなことをしていた。

覚せい剤や大麻には手を出したことはなかったが、シンナーに手を出していた時期はある。

酒とタバコは10代のうちにおぼえた。

20歳の時に結婚したがすぐに離婚した。

仕事は、運送業や販売業や建設業を不定期にやっている。

仲間からの斡旋で仕事を請け負うことも多い。

 

このDさんが、たとえばうつ病やアルコール依存症などで医療や福祉に頼らなければならなくなったとしよう。

Dさんのような人が医療や福祉のドアをノックする時、Dさんが生きてきたライフスタイルや処世術や文化と医療や福祉が望ましいとするライフスタイルや処世術や文化が、ちょっとした衝突を起こすことがある。

 

もともとDさんが身に付けてきたライフスタイルや処世術は、けして弱弱しいものではない。

ガラの悪いグループのなかでもきちんと生きていける、面子を失わずにメンバーシップの一員として生きていける卓抜さ、巧妙さがある。

それはドスの利いた声や肩幅の広さ、身のこなし、少し派手な服装、酒やタバコといった小道具にも宿っている。

「俺はこうやって世渡りをしてきたんだ」というオーラがDさんの外観や言動を覆っているかのようだ。

 

ところがDさんが医療や福祉に頼らなければならなくなると、それらが仇になってしまう。

 

Dさんの仕草は、たとえば精神科病院の病院環境では「興奮しやすい」「問題行動とみなされやすい」とアセスメントされてしまう可能性がある。

それが特定の精神疾患によって引き起こされたものなのか、それとも病前からのライフスタイルや処世術に由来するのか、検討されることもあれば検討されないこともあるが、ともかくもDさんが身に付けたライフスタイルや処世術は病院環境では歓迎されない。

むしろしばしば、それらは発達障害や知的障害やパーソナリティ障害や薬物依存などと関連した「症状」とみなされ、「矯正の対象」とみなされる。

 

架空のテンプレートとしてのDさんが実際に入院すると、かなり早い段階で「ここは自分のライフスタイルや処世術とは異なったロジックで支配されている空間だ」と察知し、ある程度は行動を修正する。

とはいえ、腹が立った時・面子が損なわれたと感じた時・筋が通っていないと感じた時にどう振る舞うのかは、容易に修正できるものではない。

そういう瞬間には元々のライフスタイルや処世術が蘇って、それが軋轢を生んだり、ときには「問題行動」とみなされたり「矯正の対象」とみなされたりすることもある。

 

福祉のサポートを借り、社会復帰する段になってもこうした問題はついてまわる。

いや、むしろ社会復帰の段階こそが問題かもしれない。

 

そういう場合、Dさんは福祉のロジックにもとづいて社会復帰のトレーニングを行い、福祉のロジックが想定するような社会復帰を期待される。

それは、就労支援センターや就労支援事業所、ハローワークのサポートを借りたものであり、と同時に、それらが提供し、それらが期待するような社会・文化への復帰だ。

 

逆に言うと、福祉のロジックにもとづかない社会復帰のトレーニングや道筋を選択することはDさんに許されないのである。

福祉のサポートを受ければ受けるほど、社会復帰のトレーニングも、社会復帰の道筋も、社会復帰の目指す先も、福祉が想定可能なもの・福祉の枠づけに収まるものでなければならなくなる。

 

Dさんの生きてきた社会、いや、Dさんの生きてきた世間は、ガラの悪いグループの使い走りから始まり、特有のコミュニケーションや人間関係を営んでいくものだった。

医療や福祉が望ましいとする文化を主流文化や上位文化とみなすなら、Dさんの生きてきた世間は対抗文化や下位文化と言っても差し支えないだろう。

ポール・E・ウィリスの名著『ハマータウンの野郎ども』に記されていた、”野郎どもの文化”の日本版のようなものだ。

Dさんが身に付け、鍛えてきたライフスタイルや処世術はそのような文化のなかでこそ有効なものだった。

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ところが医療や福祉に包摂されるとき、Dさんが鍛えてきたライフスタイルや処世術は有効ではなくなってしまう。

むしろ有害とみなされることも多い。

「医療や福祉に助けてもらっているのだから、主流文化のロジックに帰順せよ」──わざわざそのように宣告する医療者や福祉関係者などまず存在しないが、実際には、それまで慣れ親しんだ文化圏に戻ることも、その文化圏で馴染んだ仕草で世渡りしていくことも許容はされなくなる。

 

他方で、そのような対抗文化や下位文化を身に付けた被-援助者にあてられ、福祉関係者自身が対抗文化や下位文化の仕草を借りて被-援助者に対抗してしまうケースもある(詳しく知りたい人は「生活保護なめんな」でgoogle検索してみて欲しい)。

もちろんそのような事例が発覚すると大問題になる。

医療や福祉は、主流文化や上位文化の装いを備えていなければならないからだ。

 

いずれにせよ、医療や福祉の現場には対抗文化や下位文化にもとづいたライフスタイルや処世術を抑圧し、主流文化や上位文化にもとづいたライフスタイルや処世術へと被-援助者を導く側面がある。

 

もしDさんが医療や福祉の期待する社会復帰をやってのけるとしたら、それはもう、Dさんにとって馴染み深い文化への復帰とは違ったどこか、Dさんにとってゼロスキルから出発しなければならない異文化での再出発である。

その点において、Dさんの社会復帰は一般的な会社員の社会復帰とは異なった意味合いを帯びている。

ときには社会復帰のプロセスをとおして矜持を傷つけられたり、寄る辺のなさを感じたりすることだってあるだろう。

 

多様性・多文化とはいうけれど。

冒頭で紹介したとおり、現代の精神医療、ひいては福祉は多様性や多文化を尊重する理念を掲げている。

実際、そのとおりでもあろう。

グローバル化する社会において、多様性や多文化を尊重する理念は必須ともいえる。

 

だが一方、医療や福祉は主流文化や上位文化のロジックを自明視し、そのように考え、そのように援助を行う。

その際、被-援助者が対抗文化や下位文化のロジックに基づいたライフスタイルや処世術に馴染んでいたとしても、それに沿った援助や社会復帰を認めることはできない。

被-援助者の身に付けた対抗文化や下位文化に無関心であればいいほうで、ときにはそれを邪魔者扱いするし、ものによっては「症状」「問題行動」「矯正の対象」とみなすことさえあり得る。

 

医療や福祉が大前提とする文化とは、法治と社会契約の明かりに照らされた、社会契約や個人主義や資本主義にジャストフィットするような、そういう文化である。

医療や福祉はそれらを拠り所としなければならないから、主流文化や上位文化に基づいて被-援助者と向き合わなければならないのは理解できることではある。

それこそ「生活保護なめんな」のような、対抗文化や下位文化の身振りで被-援助者に向き合うなど、あってはならぬことに違いない。

 

しかしだからこそ、医療や福祉による援助は、必ず主流文化や上位文化に基づいて行われずにいられないし、援助を受けることが、ある種の文化的フィルタリングの役割を果たしている側面を否定することも、またできない。

控えめに言っても、Dさんのような被-援助者は対抗文化や下位文化における優越性を封印し、それまでとは違った、主流文化や上位文化に嵌め込まれた個人として一からやり直さなければならない。

 

この、文化的な"改宗"が社会復帰の足枷となることだってあり得る。

それまでよく馴染み、強みを発揮してきた文化圏を離れて、不慣れで不似合いな文化圏の新参者としてスタートするのは、それ自体がひとつの試練になるからである。

 

繰り返すが、医療や福祉が掲げる多様性や多文化には、さまざまな人種や民族、さまざまなジェンダーが含まれるが、それらは皆いわば”大文字の多様性や多文化”の領域であり、そこに含まれない対抗文化や下位文化は、運が良ければ無視され、運が悪ければ排除されたり矯正されたりする。

医療や福祉のあり方として、Dさんの生きてきたライフスタイルや処世術を尊重し、それそのままに社会復帰を支援することができたものだろうか?

 

難しいのではないか、と私は思う。

まただからこそ、Dさんのような生き方をしてきた人々がしばしば、医療や福祉(や行政)に直感的な敵愾心を抱くのもわかる。

そういう人々が医療や福祉に頼り過ぎると、それは文化的危機、ひいてはアイデンティティの危機を迎えることにもなりかねないからだ。

 

誰もが健康的に生き、誰もが長生きするこの国において、医療や福祉と無縁に過ごすことは難しい。

だからDさんのように生きてきた人が、みずからの文化やアイデンティティを維持しながら医療や福祉と折り合うのは、かなりの器用さが必要になる。

私個人は、メンタルヘルスの改善と事実上の文化的”改宗”を同時に迫られる人々の、その難しさにどう向き合えばいいのか、まだわからずにいる。

少なくとも、安易にわかったという顔をしてはいけないと感じている。

 

もうDさんの生きてきた対抗文化や下位文化の領分はかなり狭くなり、法治と社会契約の明かりに照らされた文化が社会の大部分を占めるようになった。

だからといって、この問題はまだ終わってはいない。

 

全員が”改宗”するまで続くのか。

それとも永遠に繰り返されるのか。

主流文化や上位文化にはじめから属している人々は、こうしたことにあまり関心を持ってくれていないようにみえるが、私なら、こうした問題も多様性や多文化の問題の一部ではないかと思うし、衝突の場面に出くわすたびに、痛みを覚える。

 

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。

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twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo by Oleg Kukharuk on Unsplash

深夜、おれは眠りたくない。

もっとインターネットをさまよっていたい、テレビのよくわからない番組を見ていたい。

時計はどんどん進む。

 

いよいよ、それそろ寝なくては、という段階になって、おれは処方されている抗精神病薬と超短期型睡眠薬を飲む。

そして、おれは口唇にワセリンを塗って、いびきを防ぐためのマウスピースを噛んで眠りに入る。

素直に眠りに入られるとは限らない。それ以前に、酒を飲んでうとうとしていることがほとんどだからだ。

 

おれは精神病から睡眠薬を処方されているが、睡眠時無呼吸症候群という診断も受けている。

入院検査ではっきりしているものだ。

おれの睡眠にマウスピースは欠かせない。

スマートウォッチを身に着けて、入眠、浅い睡眠、深い睡眠、覚醒を確かめもしている(どれだけ当てになるのかしらないが)。

 

考えてみると、おれは双極性障害のためと、睡眠時無呼吸症候群のために、日々の睡眠をハックしている。

おれは、睡眠障害者といえるのではないか。

 

というわけで、西野精治著『睡眠障害 現代の国民病を科学の力で克服する』という本を手にとってみる。睡眠と科学。

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先に述べたように、睡眠・覚醒が科学的研究の対象になったのは70年前のこと、まだ100年も経っていない分野です。

学問としても成熟しておらず謎だらけと言っていいでしょう。睡眠についてわかっていることは、まだ1割にも満たないのではないかとわたしは思っているほどです。

ええー、そうなの。レム睡眠とノンレム睡眠が発見されてからそんなものなの。

でもって、人間の睡眠について研究されているのは、まだまだ新しい分野なの。いやはや。

 

まあ、考えてみれば、人が、夜になって眠る、というのは当たり前のことだ。

でも、当たり前でない人もいる。

本書によれば、鎌倉時代初期に書かれた『病草紙』に不眠症が記されているという。

そりゃあまあ、人間、そんなに変わったものじゃないだろう。

 

「睡眠は「死」なのではないか?」という疑問

睡眠というと思い出すのは、死に似ていいる。

おれも弟も小学校に入ったかどうかのころ、弟が父にこう問いかけた。

「眠っている前の自分と目がさめたあとの自分は同じ人間なのか?」と。

父は、「それはいい質問だ」と言ったが、どう答えたのか覚えてはいない。

 

ただ、それ以来、おれは眠る前の自分と、目覚めたあとの自分が同一の人間であるか、同じ意識を持った人間か、自信がもてなくなった。

睡眠は「死」なのではないか。

朝起きたおれはいくらかの記憶を引き継いだだけの、新しい人間なのではないか。

 

それに輪をかけたがのが、古いSF映画だ。

死にかけている悪役が、自分の意識をべつの肉体(機械?)に移す。

その転移が終わったあと、新しい肉体が、死にかけている自分を殺す。

 

これはなんだ?

自分の自我のようなものを新しい肉体にコピーできたとしたら、そのコピー元はどうなるのか。

コピー元に意識があるのに、新しい自分に殺される。

とすれば、その個体は、やはり殺されてしまうのではないか、ということだ。

たぶん、アーノルド・シュワルツェネッガーが出ていた映画だと思う。

 

いずれにせよ、眠る前のおれという意識は、睡眠によって途切れて、新しく起きるおれは別物ではないのか。

そういう、一種の恐怖だ。

おれは眠ることが少し怖くなった。

おれはおれの自我に拘泥する。ある種の仏教の宗派にとっては「喝!」ということになるのかもしれないが。

 

睡眠時無呼吸症候群(すいみんじ むこきゅう しょうこうぐん)

というわけでおれは、自分が睡眠に入ることは、少し怖いことになった。

 

そして、おれにはさらに睡眠について問題を抱えることになった。

そんなに夜ふかししていないのに、日中に強烈な眠気に襲われるようになったのだ。

「なんだか午後眠い」というレベルではない。

ストンと電源が落ちるように、意識が落ちるのだ。

それまで稼働していたパソコンが、電源を落としたように、真っ暗になる。

 

これが続いたので、おれは、睡眠専門外来を訪れた。

入院して検査した。結果は睡眠時無呼吸症候群だった。

 

上記『睡眠障害』にはこのような記述があった。

日本では肥満気味の人ばかりでなく、女性でも、子どもでも発症しています。これは、アジア系人種特有の骨格が原因ではないかとされています。下顎が欧米人より小さく奥まっているため、骨格的にもともと気道が狭くなっているのです。

おれはべつに自分が肥満気味であることを否定したいというわけで、これを引用するのではない。

むしろ、それほど肥満でもないのに、睡眠時無呼吸症候群になってしまいっている、ということを伝えたい。

 

顎が小さく、簡単に息が詰まってしまう。

そのあたり、首をひいてみると息がしにくいなとか思ったら、その可能性はありそうなので、もしも日中に意識を失うようなことがあったら、専門外来を訪れてほしいと思う。

 

いずれにせよ、おれは睡眠時無呼吸症候群の当事者となった。

おれはスリープスプリントというマウスピースをつけて眠ることになった。

スリープスプリントがだめになったあと、いびき防止用のマウスピースをAmazonで買って使っているがが、日中に落ちることがないので、これでいいかな、と思っている。

これはおれに限ってのことなので、あなたにはおすすめしない。

 

中高のころのおれ

しかし、思い出すと、おれの中高の時代の睡眠も無茶苦茶だった。

学校から帰ってきて、午後5時とかには寝てしまう。

そして、深夜2時とかに起きて、飯を食って、深夜テレビを見ながら朝を迎えて、そのまま学校に通っていたのだ。

その当時に睡眠外来に通っていてもよかったかもしれない。

でも、若いおれは、それで学校生活を送れていたのだから驚きではある。

 

とはいえ、学校でも寝ていたのかな。

一度だけ、授業中に金縛りのようなことになって困ったことがあった。

意識ははっきりしているのに、体が動かない。

もし、教師に当てられてもいたらどうなったことだろうか。よくわからない。

 

あと、ついでに思い出すのはS君という同級生である。

授業中眠ってしまうのが恒例になっていた。

ついには、昼休み、弁当を食べている最中に箸を持って寝ていたことがあった。

今思えば、彼も睡眠障害を患っていたに違いない。よほどの夜ふかしでもしていない限り。

 

六時間眠っても

あとはなんだろうか、『睡眠障害』という本にはこんな記述があった。

ペンシルバニア大学などの研究チームが行った研究で、知らないうちに蓄積されていく睡眠負債の怖さがよくわかる実験があります。

その実験によると、「6時間睡眠を2周間続けると、集中力や注意力は2日間徹夜した状態とほぼ同じレベルまで衰える」ということが明らかになりました。

おれはなんとなく、時計が半周する6時間眠れていれば十分だろうと思っていたのだが、それじゃあ全然足りないのだな。

これには驚いた。2日間徹夜って、これはそうとうなやばい状況じゃないの。

そこまでポテンシャルが落ちるというのが、驚きではあった。

 

だいたい人間、どれだけ眠りゃいいんだ。

え、7.5時間なの。できるような、できないような。

 

それにしても、眠りたくない、眠っていたい

しかしなんだろうか、おれは夜、眠りたくない。

ネットにアクセスしていたいということもあるし、本を読んでいたいということもある。

 

なんにせよ、自分の意識を途絶えさせたくない、続けていたいという思いが強い。

前述のように、おれには、おれが眠ってしまっては、おれというものが死に、疑似の自意識が朝から動き始めるのではないのかという妄想がついてまわる。

 

とはいえ、あっという間に昼夜逆転してしまうとはいえ、やはりおれはある程度は眠り、賃労働に赴かなければならない。

これは辛い。少し長い連休などあると、おれは14時間~16時間くらい平気で眠りこけてしまう。

ロングスリーパーというやつだろうか。

 

「おれの睡眠時間は14時間必要です」と面接かなにかで言えるだろうか。言えない。たぶん。

夜勤などというと、さらに睡眠が狂うらしいが、おれとて睡眠時無呼吸症候群と双極性障害を抱えて、つらいものがある。

 

「ともかく、早寝を実践すればいいのでは?」という声もあるだろう。

それは正しい。だが、やはりおれはおれの自意識を失うのが怖い。

寝て、起きたくらいでは、おまえはおまえだろ、という意見はよく分かる。

よく分かりつつも、おもれはそのときまで引きずってきた意識を持続させたいという思いにとらわれる。

 

そしておれは、いやいやながら布団に入り、眠る。

眠り、アラームに起こされる。

起こされておれは怒って、もう30分眠らせろと携帯端末に再入力する。

おれはそのとき、浅い夢を見ている。レム睡眠というやつだろう。

それでも30分後にはまたアラームが鳴り……。おれは起きる。

 

あんなに眠りたくなかったのに、起床時となると、こんなにも眠りたい。

これはもう、おおよそ、おそらく、おおぜいの人間に納得できることじゃないかと思う。

あんなに眠りを忌避していたのに、朝になると眠りに拘泥したくなる。この矛盾。

 

……って、そうでもねえよ、という人もいるのかな。

夜、さっぱりと寝て、朝、すっきりと起きる。

そういう人もいるのかな。たぶん、優秀なビジネス・パーソンだ。

おれには想像できない。

 

夜はだらだらと酒でも飲みながら起きつづけ、朝は布団から出たくない。

おれとしては、睡眠にだらしない人間が多いのではないかと思いつつも、できるビジネス・パーソンはそうでもないのかな、などとも想像する。

 

あなたはどっちだろうか。

おれは超短期型睡眠薬のアモバンを飲み、口にはマウスピースをはめる。

それでも、ときどき昼間に落ちることがある。

そんなものに頼らなくても日中しゃっきりしていたいと思うし、もしもできるなら好きなときに寝てしまってもいい環境を望む。

 

おれは猫が好きだが、寝子となって一生を終えてもいいと思っている。

……って、寝る前の自分と起きたあとの自分の同一性という問題は残るのだが。

 

ああ、それにしても猫というやつは、本当に好きに眠って、好きに起きるよな。

おれもそれなり猫を飼っていたからわかるけど、あれはなんというか、眠りの理想のように思える。

人間がいくら文明を築き上げたところで、猫にはかなわないというところがある。それは認めてもらえないだろうか。

 

まあ、おれは猫にはなれない。

睡眠薬を飲んで、強制的にシャットダウンする。

おれは睡眠薬を飲むたびに、自身で毒を飲んで死ぬイメージをする。その予行演習のような気がする。

 

おれは布団に潜り込んで、あまり興味のないラジオ番組を聞いて眠りに入る。

あまり興味がないのがいい。

そして、おれは明日のおれにバトンを渡す。

バトンを渡されたおれは、前夜に聞いたラジオをどのくらい覚えていたか考えて、考えてもしょうがないので、シャワーを浴びて会社に行く。

 

それだけのことだ。

 

 

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【著者プロフィール】

著者名:黄金頭

横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。

趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。

双極性障害II型。

ブログ:関内関外日記

Twitter:黄金頭

Photo : Kenta Hayashi