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Books&Apps編集部
インターネット全体が年を取ってきたためか、中年期についての語りを見かける頻度が高くなったと思う。
2010年代には「中年期」という言葉を他人事のように扱っていた人々が、それを自分自身の問題として受け取り、深刻そうに語っている──そういうネットアカウントを私はたくさん見かけてきた。
10年前、私はアラフォーだった。当時の私は「中年期の一年生」のようなものだったと思う。
年を取った自分自身に落胆した部分もあった半面、中年期の強みや面白さにも気づいて楽しい時間を過ごさせていただいた。
いっぽう現在の私はアラフィフだ。同じ中年期でも、アラフォーとアラフィフはだいぶ違う。命の残り時間を気にする度合いも、衰えを感じる度合いもかなり変わってきた。私は今、老人に向かうなだらかな下り坂をゆっくり歩いている自覚がある。
そうしたなか、そろそろ枯れてきたと感じるものがある。
テストステロンなど、男性ホルモンだ。
私が自分自身のテストステロンの低下を自覚し始めたのは本当に最近のことだ。
けれどもたぶん、自覚する前から私のテストステロンは減り始めていたのだ。その減り始めたテストステロンに対し、どうやら私は無意識のうちに手当てをしていたらしい。この体験談はこれからアラフィフになっていく人の道しるべになると思うので、 books&apps に寄稿する。
テストステロンの性質について
はじめにちょっとだけ、テストステロンについて解説させていただきたい。
テストステロンはいわゆる男性ホルモン(のひとつ)で、成人男性では主に精巣でつくられる。
テストステロンは男性の生殖能力だけでなく、第二次性徴も含めた身体の成長やつくりをも左右する。テストステロンは脂肪を減らし、筋肉量を増加させ、骨を強靭にし、体毛を増やす。
これらの性質はドーピングにも利用可能だから、スポーツ選手のテストステロン濃度は監視の対象になる。
また、テストステロンと男性の行動には密接な関係がある。
その名も『テストステロン』という書籍には、さまざまなテストステロンの性質が記されている。
たとえば男性が子育てに深く関わる一夫一妻制の部族と、男性が子育てにほとんど関わらない一夫多妻制の部族、それぞれの父親のテストステロン濃度を比較すると、前者においてテストステロン濃度は低く、後者においてテストステロン濃度は高いという。
同じく、子育ても含めた家庭の事柄に熱心な男性と新しいパートナー探しに鵜の目鷹の目の男性では、後者のほうがテストステロンは高い。
テストステロンは勝負事に勝つと増加し、勝負事に負けると減少する。
サッカーファンの唾液中のテストステロン濃度を測定した実験によれば、応援しているチームが勝ってもテストステロンは増え、応援しているチームが負けてもテストステロンは減った。
プロ野球やJリーグの熱心なファンは、ひいきのチームの勝敗のたびテストステロンの濃度が上がったり下がったりしているのかもしれない。
同じく『テストステロン』によれば、テストステロン濃度を高めた雄ザルは、自分よりも社会的地位の低いライバルには攻撃性を発揮するが、自分よりも社会的地位の高いライバルには礼儀正しく接するという。
同書には、「人間は、勝利や社会的地位を物理的攻撃以外の手段でも獲得できる」ことを踏まえたうえで「テストステロンは状況を要求することを達成させようとする傾向がある」とも記している。
つまりシンプルに暴力を亢進させるのでなく、その場の状況のなかでいちばん報酬が期待できそうな行動を促進させるというわけだ。
ということは、テストステロンが身体的暴力を亢進させることも、受験勉強を亢進させることも、創作活動を亢進させることもあり得るわけだ。
そして当然ながら、性ホルモンであるテストステロンは男性の性的欲求、性的興奮、性的機能に深くかかわる。
テストステロン自体がそれらを左右するし、またそれらをとおしてテストステロンの濃度が上がったり下がったりもする。男性のテストステロン濃度が低下すれば、性にかかわる欲求や行動は少なくなる。このことは、既に多くの人がご存じだろう。
気が付けば私は筋トレをはじめ、サプリを飲んでいた
で、ここからが本題だ。
私は三十代後半あたりから「自分はもう若者ではなくなった」「中年期に突入したな」と感じていたが、それは専ら社会的加齢や社会的立場の次元だった。
父親としての役割、仕事における中堅的ポジション、自分を育てることから年下を育てることへの目線のシフト、といった事柄に私は中年っぽさを感じた。
といっても、肉体的にはそこまで衰えを感じていなかった。若者みたいな恰好はできないと理解しつつも、自分の身体が老化していく足音はまだ遠いと感じていた。
そうした「中年期だけど身体はそんなに年を食っていない」感覚を持ちながらも、いつしか私は筋トレを増やしていた。
いつから私は筋トレを増やしていたのだろう? 43歳ぐらいの頃か? それとも46歳ぐらいの頃か? 正確な時期はわからない。
が、私は筋トレやジョギングをする人間になっていた。「そうすることが気持ち良かったから」筋トレをするようになったのも事実ではある。
だがそれは、今までどおりの身体を保つうえで、ひいては加齢によって減っていくテストステロンを補ううえで都合が良いから「気持ち良かった」のではないか?
しかも私は40代後半から亜鉛やマルチミネラルのサプリメントを飲むようになった。
これには前日譚があって、かつて恩師が50歳になった時、サプリを飲み始めて「サプリはいいぞ、中年になったらサプリを飲め」と言っていたのを思い出したからだ。とはいえ、そのことを思い出したのも40代も後半になってからだった。
こうした変化のなかで40代後半の私は意欲的に仕事をし、達成感を求めて原稿を書き続けた。
筋トレやサプリはそうした活動を補強してくれただろう。なぜなら筋トレやサプリは多かれ少なかれテストステロンを補う方向に働くからだ。
男性のテストステロン濃度は20代でピークを迎え、その後、ゆっくりとだが低下していくとされているが、当時の私の活動は(完全にではないにせよ)テストステロン濃度の目減りをカバーしてくれたに違いない。
そのためもあってか、私は40代後半を充実した時間として過ごすことができた。
それでも寄る年波には勝てない
ここまでは、こうしたテストステロンを補う選択が私にとって幸いしたと思う。それならこれからも同じでいいだろうか?
いや、たぶん駄目だろう。
私の身体は今も変わり続けている。こういうやり方でテストステロンを補う手法が通じるのはせいぜいあと数年、長くて10年ぐらいじゃないかと見積もっている。
どこかで「テストステロンを補う」という発想から「テストステロンを諦める」という発想に、たぶん私はシフトさせなければならない。
なぜなら、これだけあれこれやってもなお、やっぱり私のテストステロンは目減りしているように思われるからだ。
兆候のひとつは、女性全般や性的な物事に対する私の興味関心が低下していることだ。
もともと私は見ず知らずの女性と話したがらず、キャバクラなどに出かける人の気がしれなかったが、最近は街で妙齢の美人を見かけてもノイジーと感じるようになった。
コンビニで見かける週刊誌の表紙を飾っているグラビア女性などは、ますますノイジーに感じられる。
女性的な表徴全般にいわくいいがたい鬱陶しさを感じるよう、私は変質してしまった。
それから体毛。若い頃に比べて、体毛が薄く、細くなってしまっていることに気づいた。
ということは、これだけテストステロンを補うような行動をとっていてもテストステロンは補いきれていないのだろう。
昔は「体毛がもっと薄ければいいのに」と思っていたけれども、いざ薄くなり始めると寂しいものである。大事な何かが自分の身体から失われている気がする。
そしてほんの僅かずつ、脂肪がつきやすく太りやすくなっている。3年前までは少し意識しただけで3㎏程度の減量なら簡単だったが、今はそれが遠い道のりと感じられる。
と同時に、腹部に脂肪がつきやすくなり、反対に筋肉がつきにくくなっているとも感じる。
もちろん、こうした事柄を一時的に解決する方法は思いつく。
たとえば亜鉛やマルチミネラルではなく、テストステロンそのもののサプリメントを摂ればテストステロンの砂時計を一時的にひっくり返すことはできよう。
しかし私はそうするつもりはない。なぜなら、あまりに人工的な手段でテストステロンを増やせば、それは私自身の身体に取返しのつかない結果をもたらすかもしれないからだ。
さきに挙げたように、テストステロンには天然ドーピング物質のような性格があり、筋肉や競争行動をもたらす。
ゆえにこそ、テストステロンには身体に負荷をかける一面もある。
そもそも男性のほうが女性よりも短命なのはなぜか? 理由はいろいろあろうが、テストステロンが男性を天然ドーピングし、男性を太く短く生きさせるからではなかったか?
そしてテストステロンには副作用だってある。巷ではよく耳にするのは「禿げること」だろうか。
だが禿げるぐらいならマシかもしれない。内臓や血管に良からぬ負荷をかけてしまう可能性はないだろうか?
医療の世界では、不自然な水準のホルモンやホルモン類似物質に長期間さらされた身体が、びっくりするほど変わってしまっている症例にしばしば出会う。
控えめで節度あるアンチエイジングを、私は悪くいうつもりはない。けれども私の医学的知識に照らして考えるなら、際限のないアンチエイジングは一時的に若返りをもたらすとしても、長い目でみれば大きなしっぺ返しのリスクを伴うように思える。
年齢にあわせ、最適解は変えていかなければならない
だから私は「ああ、テストステロンを追いかける季節は終わったんだな」と思うことにした。
筋トレをやめるわけでも、サプリメントを飲まなくなるわけでもない。けれどもテストステロンは補いきれなくなっていると判断することにした。それが、50代に突入した私の決断だ。
ある年齢で最適解だと思えたことが、次の年齢ではそうとは限らず、固執することで危機を招くことがある。
たとえば中年期に筋トレに夢中になった結果、若かった頃よりもムキムキな身体をつくる人がいるが、あれが何歳まで最適解と言えるのかはよくわからない。
いったん身に付けた筋肉を60歳、70歳まで維持するのは簡単ではないし、それだけの筋肉を維持することが内臓にとって重荷になる可能性はある。
それからもうひとつ、いったんムキムキになった筋肉を落とす羽目になった時に脂肪を獲得してしまう可能性はないか? 筋肉の増強にあわせて食事量が増えてしまった人の場合、ここらへんのコントロールはそれほど簡単ではない気がする。
過ぎたるはなお及ばざるが如し。
最適解が年齢とともに変わっていく以上、ある年齢・ある状況に自分自身を最適化させすぎるのも考え物である。
ダイエットもサプリメントも筋トレも、度が過ぎれば毒になる。で、あれば、ゆっくりとテストステロンが低下していく中年の身体との付き合い方も、ある時点からは低下を受け入れるかたちが好ましいのだと想像している。
それにしても、自分の身体がこんなに老いさらばえるとは!
今の私は、他人のそれを眺めるのと自分自身がなってみるのでは雲泥の差だと思い知っている。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

Photo:Simone Pellegrini
袴(はかま)は、すばらしい
幼少の頃から、合気道の稽古を続けている。
受験生の頃、社会人になった頃、子どもが生まれた頃など、いわゆるライフステージが変わるタイミングで何度か中断しているが、50歳になろうとしている今まで、それなりに続いている。
多くの合気道の道場では、初段以上になると袴を履く(はじめから履くところもあるらしい)。
袴を履いて稽古をすると、明らかに動きが美しくなる。
合気道は円の動きが多いのだが、体をくるっと転換(回転すること)した時に、袴がふわっと膨らんでから、下半身の動きに追いついてくる。
あ、きれいに回れたな、という確認にもなるし、単純にテンションが上がる。
あるいは受け身を取って、うまく音を立てずに着地できたとき、ファサ…っと時間差で、袴が畳に着く音がわずかに聞こえる。
これも、気持ちいい。
見た目だけではない。
合気道には正座や膝を立てた状態から変化していく「座技」も多いのだが、袴を履いていると、膝の滑り出しが良くなる。
現代社会ではあまり正座をしないので、けっこう座技に慣れるのが大変だ。
何年も稽古をして、ようやく慣れてきた頃に袴を履くようになる。
すると、「あれ、袴だとこんなに楽なんだ」と思う。
また、道着の上からしっかりと腰を締めることができるので、実は腰痛対策にもなる。
もちろん、夏場は暑かったり、気を抜くと裾を踏んづけてコケそうになったりするので、めちゃくちゃ機能的、というわけではないけれど、それも含めて、袴はすばらしいと思う。
日常でも、袴を履きたい
最近は、普段の暮らしの中でも袴を履けたらいいのにな、と思っている。
しかしまあ、なかなかハードルは高い。
また、仮に袴を履いたとして、上の服はどうするのか。
稽古中ではないから、道着を着るわけにもいかない。
となると着物になるのだろうが、基本的にとても高価で、手入れも大変だ。
ぼくのようなズボラな人間には向いていない。
また、現代の日本では、着物には「正装」などの意味があり、社会的なプロトコルに組みこまれがちだ。
それも、なんだか面倒だ。
であれば…というわけで、洋服で、何か近いものを探してみる。
洋服で袴に近いものといえば、ガウチョパンツのように、裾に向かって全体が大きく広がっているタイプのものがある。
女性が履いていることが多いが、最近は若い男性もけっこう履いている(おっさんでは、ほとんどいないが)。
ただ、袴のような折り目がついていないのが惜しい。
袴の折り目はすばらしい。
この折り目があるからこそ、じっとしているときの静かな佇まいと、歩き出すときの躍動感、「静と動」がどちらも表現できるのである。
ワイドパンツやガウチョパンツだと、はじめから全体が広がっているので、その緩急がいまいち出ない気がする。
あとは、文字通り「はかまパンツ」とも呼ばれるタイプのパンツもあるようだ。
ネットで調べる限りは、いわゆる「モード系」のアイテムとして販売されているらしい。
うーん、「モード系」かあ…。
なんだよ「モード系」って…という感じだが、要は、若くて、スタイルがよくて、都会的な人たちが身に着けるものである。
「はかまパンツ」はその中で、若い人ならではの「くびれ」を生かした、三角形と逆三角形をくっつけた砂時計みたいなコーディネートを実現するためのアイテムとして生かされているようだ。
…50歳のおっさんには無縁のものである。…というか、もっと自然に、日常の中で、袴を履く楽しさを味わえないのだろうか…。
ちょうどいいものが見つかった
…そんなこんなで、あれこれと探していたら、ありました。
無印良品の「はかまパンツ」。
ぱっと見た感じはワイドパンツなのだが、ちゃんと折り目が入っていて、歩くと広がる。
また、帯のようなヒモを中心で結ぶことで、さまになる。
…さすが無印良品である。
さっそく買った。めちゃくちゃ、いい。
今の季節なら、七分丈のややワイドなカットソーや、少し大きめの長袖のシャツを上に着るだけで、いい感じ。
カジュアルなジャケットにも合う。
こういうのを探していたのである。
…とはいえ、「はかまパンツ」を履いて外出するのにはちょっと勇気が要った。
1つの理由は、実はこの「はかまパンツ」、婦人ものなのである。
紳士ものの「はかまパンツ」もあるのだが、こちらは深いタックが入った普通のワイドパンツ、という感じで、そもそもほしいものではなかった。
ぼくは、これまで、婦人もののパンツを履いたことがない。
自分で見る限りは、紳士ものとか婦人ものとかは関係のないデザインなのだが、明確に「婦人」と商品タグに記載があるものを身に着けるのは、やっぱり抵抗感がある。
もう1つの理由は、当然ながら、そのものではないにしても、「はかま」を履いて外出することにある。
合気道の道場で履いて稽古するのとは、かなり状況が違う。
この現代社会の、それなりに都会の中を、いい年をしたおっさんが「はかま」を履いて歩くと思うと、けっこう緊張する。
ヤバイやつと思われるんじゃないだろうか。
…とはいえ、せっかく買ったからには履いてみたい。
「はかまパンツ」の上にはオーバーサイズのTシャツ、そして同じくオーバーサイズの薄手のジャケットを羽織ってみた。
問題ない気がする。…が、それは思い込みかもしれない。
ビクビクしながら、家を出た。
思ったよりも、快適だった
実際に履いて外出すると、とにかく動きやすい。
また、まだ日中は少し暑さも残っているこの季節、足もとから風が入ってきて涼しい。
そして、合気道の稽古中のように「よし、やるぞ」と、謎のテンションが上がってくるのである。
その日は、京都で打ち合わせをする予定があったので、阪急電車を乗り継いでいく。
特にじろじろと見られている様子もない。
というか、車内の乗客はみんなスマホに夢中なので、他人の服装なんて気にもならないのかもしれないが。
そして京都・河原町に着く。
河原町まで行くと、もはや「はかまパンツ」を履いたおっさんなんて、まったく目立たない。
いろんな国の観光客がたくさんいるし、着物を着ている人もちらほらいる。
日本人の中にも和装の人が時々いる。むしろ「はかまパンツ」は京都の街並みになじんでいるとさえ思える。
約束していた方とお会いしたら「かっこいいですね!」と言ってくださった。
…と言われるということは、やはり、明らかに普通の恰好ではないようだ。
そのあと、何人かの方をご紹介いただき、色々と打ち合わせをしたのだが、その際は何も言われなかった。
言われなかっただけで、何か思われた可能性はあるが、おそらく「この人は、そういう人だ」と認識されたのだろう。
あと、そこはベンチャー企業の人たちが集まるような場所だったので、この程度の服装ではそこまで注目されなかったのかもしれない。
スーツの人ばかりが働いているオフィスビルだったら、また状況は違ったのだろう。
いいと思えるものを、もっと自由に
さて、そんなわけで、「はかまパンツ」を履いての外出を無事に終えて感じるのは、一定の安堵と、素朴な違和感である。
…なぜスーツを着ていれば安心できて、「はかまパンツ」はヒヤヒヤしながら履かなければいけないのか。
なぜ商品タグに「紳士」と書いていれば気にならないのに、「婦人」と書いていれば不安になるのか。
なぜ京都の街を歩いているときと、オフィスビルに入るときとで、違う格好をしないといけないのか。
まあとにかく、袴のように「いいもの」はもっと使われていくといいなと思うし、どれだけフォーマルだったり、正しかったりするものでも、「しっくりこないもの」を無理に使っていくのはどうなのかな、と思ったりするわけである。
まあ、だんだん、そのあたり、かなり自由になりつつあるとは感じるけれども。
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【著者プロフィール】
著者:いぬじん
ブロガー/エッセイスト。
広告会社でコピーライターの仕事をしていたが、態度が悪すぎて左遷されたのをきっかけに、2012年からブログを書きはじめる。人生についてあれこれ悩み続けるのが趣味。WEBメディアや書籍への寄稿も行っている。その後も、態度は特に良くなっていない。
ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。
Photo by:Alireza heidarpour
2023年のカープはよかった
おれは2023年の11月にこんな記事を書いた。
タイトルを書いたのはおれではない。いずれにせよ、わが広島カープのシーズン2位という奇跡的な躍進、それを引っ張ったモチベーターとしての新井貴浩監督を称えている。
弱小戦力のなか、ベテランと若手を融合させてようやったのだ。これを忘れている人は多い。
それに、羽月隆太郎という選手のこともほめている。
たとえば、クライマックスシリーズの対ベイスターズ戦、失敗すれば試合に負ける、絶対にアウトになってはいけないシーンで、若手の代走羽月がリスクの高い三盗を決めた。ベイスターズ側に油断があったという指摘もあるが、それでも相当に度胸がなくてはできないプレイだ。
これについて羽月は「恐怖心はなかった」と言い切った。
シーズン中から監督やヘッドコーチから代走で出たらなにをしてもいい、めちゃくちゃにしてくれと言われているから、アウトになったらしょうがないという気持ちでやっているのだという。
このあたり、なにか「心理的安全性」という言葉が連想されないだろうか。むろん、会社組織と野球のチームでは違う点も多い。だから、あくまで連想だ。
「なにをしてもいい、めちゃくちゃにしてくれ」。はい、2025年のカープは羽月の逮捕、裁判をはじめにむちゃくちゃになりました。……という話は後でする。
おれはこんなことまで書いている。
それでも、二年目で成長した新井さんが選手たちに力を与え、ヒリヒリするような勝負を見せてくれることを信じたい。やがては新しいタイプの名将と呼ばれるようになり、ビジネスシーンでも「新井野球でいこう!」と言われる日がくるかもしれない。
いや、それはないだろうが、まあ「理想の上司」のアンケートに入る日はくるかもしれない。
いまのところ、その気配はまったくない。微塵もないといっていい。カープファンからすら見放されている。
いや、2024年もいいところまでよかったんだ。そこも忘れちゃいけない。
西川龍馬という主力級メンバーがFAで抜けて、外国人も外れ。それでも「8月を終えた時点では61勝48敗5分(勝率.560)でセ・リーグの首位に立っていた」(Wikipediaより)のである。
そのあとに「燃ゆ」があった。「広島燃ゆ」で検索してくれればわかる。そこから大失速したのだ。9月は5勝20敗、セ・リーグの月間敗戦数ワースト記録。結果はCSにも進めない4位。
翌2025年は見どころが少なかった。新井さんはどうにも元気があるようにも見えないし、選手の躍動もあまり感じられない。
もちろん戦力は貧弱でこれといった補強もない。負けはかさむ。唯一、小園の首位打者くらいしか見どころがない。
おれはシーズン後半にはカープの試合を見るのが辛くなってしまった。辛くなってしまって、「2026年シーズンはとりあえずJ SPORTSオンデマンドの配信契約を結ぶのはやめよう」と決めた。
毎年買っていたグッズもなにも買わなかった。いったん距離を置こう。もちろん、カープが予想外の躍進をするならば、即座に配信契約を結ぶ。そう決めた。
ちなみに、カープの本拠地であるマツダスタジアムはネットの実況で「ガラガラ」と言われることが本当に多くなっていた。おればかりではなかったのだろう。
そして、2026年のカープ
そして、2026年のカープである。カープにとって歴史に残る年になった。歴史的な優勝をとげたわけでもないし、歴史的な負け数を記録したわけでもない。
ゾンビたばこ。エトミデート。これである。さっき出てきた快足の羽月が指定薬物使用問題で逮捕されたのである。
現役のプロ野球選手が逮捕されるのは珍しい。そして、起訴、裁判、有罪。カープとの契約はとうぜん解除。
で、これが羽月一人の問題であればことは大きくならなかった。羽月が他にも使用していたカープの現役選手がいたと裁判で証言したのである。
そして、追い打ちとして、羽月にゾンビたばこを売った人間と現役カープ選手の親密な写真が週刊誌に掲載された。球団本部長の鈴木清明は報道陣の取材に「週刊誌の報道に関してコメントすることはない」(Wikipedia)と答えたが、さてそれで納得がいくだろうか。
結局、密室親密写真を撮られた矢野雅哉(ゴールデン・グラブ賞を獲得したこともある「守備だけで飯が食える選手」だ)が3軍に追放され、昨年首位打者の小園海斗もキリのいい出場数で2軍に落とされた。
今年はプレーにも精彩を欠いていた(……って、おれは今年、配信でプレーを見ていないのだが)。あとは、写真に撮られていた前川誠太と田村俊介……。
まあ、まとめて4選手が戦力外通告を受けた。これまでさんざん、のらりくらりと記者会見もしなかったカープが、いきなりバッサリいった。
これには驚いた。とくに今年の成績が振るわなかったとはいえ、首位打者とゴールデン・グラブ受賞者だ。
戦力の乏しいカープにとっては主力級といってもいい。前川と田村、とくに田村は若くして日本代表に選ばれたこともあったように、まだまだ伸びる可能性がある選手だった。
「来年のカープはだれが野球をするのか?」とすら思った。いや、今やっているメンバーか。それにしても、思い切ったものだ。
カープの対応は正しかったのか?
で、その思い切りについて、おれは拍手喝采したかというと、うーん、どうなんだろう? よくわからない。
もう、ここまできたら、バッサリいくしかなったという意味では、これしかなかったとは思う。でも、それまでの対応はどうだったのか。これについて疑問が残るのだ。
べつにおれはガバナンスだのコンプライアンスだのの専門家でもなんでもないので偉そうなことはいえない。
しかし、「週刊誌の報道に関してコメントすることはない」という対応がよかったのかどうか。警察ではないから捜査権がないといって、内部調査の状況もまったくファンに伝えなかったのはどうだったのか。
正直なところ、羽月以外の4人は、書類送検されたやつはいても(その結果は出ていないが)、法的に有罪が確定したやつはいないのである。
もっともっと早い段階で記者会見を開き、週刊誌で報道された選手に釈明させ、その上で「反社との交際があったのは事実なので謹慎6ヶ月にします」(要するに今シーズンは出しません)とでもしておけば、まだ20代の選手たちがいきなり「クビ」(野球選手は個人事業主なので正確な言い方ではない)になる必要はなかったのではないか、と思うのだ。
とはいえ、来季の契約をしないと決めたあとでの本部長のコメントからは「信頼が築けないと判断した」というような言葉が聞かれた。
内部調査(これも第三者委員会みたいなものが必要だったのではないか?)なる聞き取り、話し合いから、なにか決定的に信用できない態度や言動があったのかもしれない。嘘をつかれたと判断したのかもしれない。それはわからない。そういう可能性もある。4選手の戦力外通告後の記者会見からもその可能性は感じた。
あるいは、もういまどき、反社と交際があっただけでアウトという判断かもしれない。
それならそれでシーズンのもっと早い段階で契約解除をしていればよかったのではないか、とも思うが。無論、選手側、あるいは選手会に不当解除とされて争うことになるのを避けたのかもしれないが……。
これは、難しい話だった。距離を置いた一ファンからしても、どうすれば一番よかったのかわからない。
球団の対応が正しかったようには思えないし、しょせんは高齢のオーナーが権力を握る田舎の同族経営企業(「市民球団」というのはイメージでしかない。単なるキャッチフレーズみたいなもの)かという感想は抱いた。
とはいえ、おれが書いたような記者会見、謝罪、謹慎コースでよかったのかどうかもわからない。
もちろん、カープはスポーツのチームだ。小園や矢野が戦力になりそうだからといって、チームメートの士気が下がるようなことがあっては本末転倒というか、チームの勝利という目的に反することになる。
ちなみに、10月1日の戦力外通告後いきなり3連勝したのは偶然だろう。そのあと連敗してシーズンを終えた。
……ちょっと話は逸れるが4位で。
今年の1〜3位(あるいは1〜2位)と4〜6位は別次元なので、そんなに価値のある4位ではない。
これは本音を言いたいが、ヤクルトと中日はなにやってんの? 今年のゾンビカープより弱いってどういうこと?
いや、それぞれのファンには言いたいこともあるだろうが、まあそれぞれ言ってください。でも、中日の来季の工藤公康監督はうらやましいな……。
辞任を3度拒否された新井監督は来年どうすればいいのか?
そして、シーズンオフが始まる。カープはどうするのか。
2026年はずっと2軍で、もはや戦力になっていなかったベテラン2人の来季契約を早く発表したように、まず野球をやるのに最低限必要な人間を集めなくてはならない。
そりゃまあ、問題選手がいなくなったあとも野球はやっていたのだけれど、穴埋めは必要だろう。というか、FAで主力中の主力が3人まとめていなくなる可能性もあって、埋まるのかという話だ。
とりあえず、他球団を戦力外になった選手を集める? FAの人的補償? それとも辰見鴻之介のように現役ドラフトにすごい賭けをする? たいへんだ。
元ヤクルトの小川淳司を編成に入れるといっても、来年一月からのことだ。まったくわからない。
わからないだけに、興味が出てきたといえば、正直そうではあるが。
あとは、監督である。来年の監督は決定している。新井貴浩、その人である。
新井監督はスタジアム内外の責任を取り、三回も辞任を申し出たという。
しかし、すべて断られた。掟破りの逆三顧の礼、逆諸葛亮。いや、そうか? まあいい、そのうえ、ほかになり手がいなかったのであろう、来季も続投だ。
来季も、新井監督。おれは一年目と二年目の八月までの新井監督はたいへんに評価していた。選手のマネージメントのようなものは身についていくと思っていた。
ところがどうもそういう感じはなく、おれはカープの野球がつまらないと思うようになった。このままでは決定的にカープが嫌いになってしまうのではないか? そんなふうにも思った。
もちろん、現在のカープの経営陣は大嫌いだ。本部長も嫌いだ。オーナーを嫌うカープファンは多いといってよい。
そのうえ、新井監督に明るさや勢いがなくなってしまっては、モチベーターとしての能力すら発揮されない。チームもさらに低迷する。雰囲気の暗い弱小チーム。雰囲気が暗くても強ければいいかもしれないし(そんなことがあるのだろうか?)、弱小チームでも応援しがいがあればいい。
でも、どっちもなくなってしまうとさすがに信仰が揺らぐ。
信仰? そうだ、おれはずっと信仰の話をしている。あるチームのファン、サポーターであるということは、信仰に近いとおれは思っている。「そんなに重いもんじゃないよ」という人もいるだろうし、まあ「おれについては」とつけておこう。
そんなおれが信仰に揺れているということである。ゾシマ長老の死臭を感じたときの、アレクセイ・フョードロヴィチのごとくがである。
さて、来年の新井監督、1シーズンに三回も辞意を伝えて、なおかつ来年もやれと言われて断れなかった新井監督、どうなるのだろう?
いっそのこと、よくわからないやつでいいから、アメリカあたりから新監督連れてきたほうがよかったんじゃないか、とすら思う。
「すべて吹っ切って、最初のころのように明るくチームを鼓舞する監督に戻って、チームも大躍進!」
……なんてことが、ゾンビ翌年の5年目監督に起こるだろうか。ああ、もしもそれが起きたならば、おれの信仰も揺るぎないものになるのだが!
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【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
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会議って、ぼーっと座って眺めているとめちゃダルいですね。
部署の代表者や担当者が雁首並べて、あーでもない、こーでもない、みたいなことを延々としゃべっています。
プレゼン資料を作る人は苦労しているし、参加者は配布資料に目を通さなければならないし。時間と体力はしっかり消耗するのに、なんの成果も無いようにみえる会議もしばしばあります。
皆さんは、会議、お好きですか。
インターネットが開闢して以来、たくさんの人が「無駄な会議が多すぎる」「会議に参加しても意味がない」と言い続けてきました。
現実世界でも、だるい顔をしている人が多い会議は珍しくありません。でも、そういう会議だからといって無意味と言えるかはわかりません。同様に、表向きは何も決まらなかった会議を「無意味だった」と即断するのも、さて、いかがなものでしょうか?
そもそも、会議の役割って何でしたっけ?
「何かを決定すること、合意をかたちづくることが会議の役割だ」とあなたはおっしゃるかもしれませんし、もちろんそれらは会議の重要な役割です。
でも、それだけだと思い過ぎるのも間違いだと思うのです。会議には他にも色々な役割や機能が潜んでいて、議題以外にも賭けられているものがあるんじゃないの? ってのがこれから書くことです。
決まらないこと・合意できないことも会議のうち
一般に、会議は「何かを決定すること」「合意をかたちづくること」を目指して行われます。決定や合意は、新規のものもあれば従来からのものもあるでしょう。
ここからすぐ連想しなければならないことがあります。
それは「何かが決まらなかったこと」「何かが紛糾して合意形成ができなかったこと」も会議の役割、あるいは会議の成果たりえる点です。
全会一致か多数決か、他の方法かに関係なく、会議は合意に基づいた意思決定の場として準備されます。
新しい議題が特別に無い場合も、現状維持で構わないかを参加者一同で決定するでしょう。
なかには、決めたくない人・合意を避けたい人だって混じっているかもしれません。
たとえばあなたがAという作業の手順を刷新したいと考えていて、それが会議の主な議題だったとします。
あなたにとって、その会議は「決定すること」「合意すること」が目的となるはずです。
ですが参加者のなかに今までどおりのほうが良い、と考えている人が混じっているとしたら、その人にとっては「決定しないこと」「合意に至らせないこと」が会議の目的たり得ます。
会議には色々な立場や思惑の人が参加していますから、会議の役割や成果も人によってまちまちです。
自分から見て「なんの成果も得られなかった会議」が、別の参加者からみて「満額回答の会議」であることだってあり得るはずです。
それから、あなたが通したかった議題が通らなかった会議は、あなたにとって本当に無意味でしかないでしょうか。
そうとも限りません。
否決されたとしても、会議には「合意に際して必要な条件をくっきりさせる」「合意に至るまでの障壁をくっきりさせる」効果が残ります。
参加者のなかでも発言力の大きな人々が反対票を投じそうな場合、下調べや根回しが必要なのはもちろんですが、それとは別に、反対票が投じられる際にどんな反対表明が出てくるのかを確認することにも、相応の意義があります。
これは正反対の立場でも言えることで、会議で自分が何かに反対する場合、自分が反対票を投じることや反対票を投じる理由などが参加者に記憶されるでしょう。
賛否どちらに回るのであれ、そのときのあなたの意見表明や態度表明は情報や履歴として参加者の知るところとなります。
なかには、そのあたりを見越して会議で「観測気球」をあげる人だっているかもしれません。
が、そのことも含め、会議は参加者それぞれのフォーマルな意見をシェアする情報源たりえます。そこで得られた情報は次の会議につながる情報源としても、仕事の他の場面で役立つヒントともなり得るでしょう。
参加者の「面目」や「面子」が賭けられている
それからもうひとつ。
こちらのほうが私には重要と思われるのですが、会議のテーブルに乗せられているのは個々の議題だけではありません。
参加者それぞれの「面目」や「面子」がテーブルに載せられているのです。
会議とはフォーマルな議論の場です。フォーマルに議論するということは、参加者の立場もフォーマルだということでもあります。
たとえばフォーマルな場で愚弄されるとは、フォーマルに愚弄されること、フォーマルに面目や面子を傷つけられることです。
よってフォーマルかつ建設的な会議では、参加者一同が礼儀作法を守るよう期待されます。
社会学者のゴッフマンは、著書『儀礼としての相互行為』のなかで、人間同士のコミュニケーションに際しては話されている内容とはまた別にお互いの面目や面子が賭けられていること、現代人は原則としてそうした面目や面子を配慮しあって暮らしていることを詳らかにしました。
以前紹介した、「内容のないコミュニケーション」もそうですね。
知人同士がたまたまバス停などで出会った時には、天気の話題のような他愛もない会話がしばしば交わされます。ああいった場面での会話では話題の内容は(本当は)どうでもよくて、お互いが面目や面子を守り合える仲であると確認されることが重要です。
こうした面目や面子についての法則性と重要性は、会議にもそのまま適用されます。
フォーマルな席上で恥をかかされたり面目が丸つぶれになったりするのは誰しも避けたいものです。
そして上掲書籍のなかでゴッフマンは
「誰かの面目や面子をつぶすことをしゃべったら、話者自身の面目や面子も無事では済まない」
「その場のいろいろな人が気まずい思いをすれば結果的にその場のいろいろな人の面目や面子までもが無事では済まない」
といったことも付け加えています。
つまり、会議の席で誰かの面目や面子をおおっぴらに潰すとは、実は自分の面目や面子にも、他の会議参加者各位の面目や面子にもよろしくないのです。
会議が進展しない背景には利害の不一致だけでなく、この、面目や面子を守りあわなければならないことを主要参加者が熟知していて、お互いの面目や面子を守るために慎重な発言を選びあい、牽制しあっている場合もあるでしょう。
たとえば特定部署に問題の中心があると参加者の誰もが思っていても、それをストレートに会議の席上で言うと部署担当者の面目や面子が丸つぶれになり、それどころか連鎖反応的にいろいろな人の面目や面子にまで差し障る場合、それが読めている人は安易に言及できないでしょう。
世の中にはこうしたことに疎い人もいて、そういう人は誰かの面目や面子を傷つけることも自分自身の面目や面子が傷つくことにも無頓着です。
そういう人が「みんなのための献策」として提出する意見のなかには、しばしば物理的には最速の問題解決方法とみなせるものも多いものです。
しかし、えてしてそういうソリューションは参加者の面目や面子を守りあう観点からみれば問題だらけで、政治的には見込みが少ないことも多いのです。
提案者からすれば全員を利するようにしか思えない提言でも、誰かの面目や面子をひどく傷つけていたり、全員の面目や面子をうっすらと傷つけていたりすれば、そう簡単には通らないでしょう。
それだけではありません。前掲のゴッフマンの理論に基づくなら、そうした時に最も面目や面子を失ってしまうのは、みんなのための献策と称して誰の面目や面子も顧みずに傷つけてしまった提案者自身なのです。
特定の誰かの面目や面子を深く傷つけて恨みを買ってしまうだけでなく、「あの人は他人の面目や面子を尊重することを知らない人だ」とみなされ、会議の席上では発言力の低下を不可避的に招き、最終的には発言機会の減少にも繋がるでしょう。
※上級テクニック:会議参加者の面目や面子を潰して否決されてしまった疎い人の提言を、参加者一同に根回しをほどこしたうえで、可決までもっていくと自分の手柄や成果にできるかもしれません。
会議を通すとは政治的な問題解決に道筋をつけることだから、こういうのを安易に「トンビが油揚げをさらった」などと呼ばないほうがいいと思います。なお、疎い人に恩を売ることもできるかもしれませんが、面目や面子のわからない人は恩義とか義理といった概念も理解していないことが多いので、そのあたりを見極めてからにしましょう。
世の中には、自由な意見交換を謳った会議もあったりします。が、そういう場でもゆめゆめ油断しないほうが良いでしょう。
すべての会議には多かれ少なかれ参加者全員の面目や面子が賭けられていて、それに対する配慮を怠れば、配慮できなければ通るはずの提言が通らなかったり、買わなくて良かったはずの恨みを買ってしまったり、「あいつを会議に呼ぶとまとまる話もまとまらない」と噂されたりするかもしれません。
まとめ
長くなってしまったので、最後に3フレーズでまとめましょう。
1.会議が決裂しても、その過程で示された賛否は情報源になる。
2.会議には参加者全員の面目や面子が賭けられている。
3.その面目や面子のせいで会議が停滞していることもある。さりとて無視すれば自分にしっぺ返しが来る。
となるでしょうか。
これらを気にしたことのない人は、たぶん会議が下手で、会議に退屈しやすいのではないかと思います。
逆にこれらを気にすると幾らか会議がうまくなり、会議参加者の挙動を眺めているだけで退屈しなくなるので、おすすめです。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

新江ノ島水族館
秋の連休、おれは鎌倉と江の島に行った。観光である。おれは鎌倉で生まれ育ったが、藤沢により近い津西の出なので、あまり寺社仏閣だの大仏だのが身近にあったわけでもない。
だからといって江の島を遊び場にしていたかというとそうでもない。地元の人間は地元の観光地にあまり行かない。
江ノ電も、ぜんぜん今ほどではなかった。そりゃおれが定期を持っていた湘南モノレールに比べれば、観光地の象徴として大きな顔をしていた。
ただ、今はもう行き過ぎている。あれはもうオーバーツーリズムで成り立たない。いや、お客さんがたくさん来て、お金が儲かれば鉄道として十分成り立っているのだろうが、地元の日常の足にはならないな、と思った。まあ、連休のときに乗ったやつが悪いが。
そして、新江ノ島水族館。通称えのすい。「新」がついていることからわかるように、かつて江の島水族館というものがあった。
2003年まであったのだから、おれが子供のころはただの江の島水族館であった。おれに子供のころの江の島水族館の記憶があるかといえば、まったくないような気がする。たぶん、行ったことはあると思うのだけれど。
大人になってからは行った。おれは相模湾大水槽におおいに感動して、「これは一日見ていても飽きない」と思ったものだった。
ただ、「一日見ていても飽きない」ところにも、べつになんとなく行くことなく、少なくとも十年は行っていなかった。まあ、そんなものである。
そんな新江ノ島水族館に、行ったのだ。なぜか入口の窓口が一つしか空いておらず、大行列を越えて館内に入った。
令和時代のイルカショー
あいかわらず相模湾大水槽はおもしろかった。クラゲは美しかった。十分楽しんだ……ところで、偶然イルカショーが「あと10分で開始です」というタイミングに出会った。
「どうしようか?」、「見たい!」ということになって、もうお客さんで一杯の会場の一番上から見ることになった。
イルカショー。イルカが音楽に合わせてジャンプしたり、なんかボールを蹴ったり、輪をくぐったりするやつだ。
正直、おれはそこまで深い興味を抱いてはいない。でも、あと10分だし、せっかくだし、ということになれば見るのも一興、というところ。
で、ショーが始まった。始まる数分前からトレーナーがいかにわれわれはイルカと仲良しであるかということを説明した。
そして、イルカの個体の見分け方を説明して、「一頭でいいから覚えて帰ってください」といった。遠すぎて見分けはつかない。
そして、水が噴射された。なんとかスプラッシュだ。最前列の方は水が飛んでくるゾーンになっていたが、イルカがバシャバシャやって水が飛んでくるのではなく、ステージの奥から普通に、なんというか普通に水が噴射されてきたので驚いた。
真夏ならともかく、もう九月も後半ではないか。貧弱なスマホは死ぬ。
で、本格にショーが始まった。音楽が流れ、イルカが連なって跳びまくり……ということはなかった。
またしても、いかにわれわれトレーナーがイルカと仲良しか、という話が始まる。ポイポイ魚を与えながらも、「どうやって魚以外の方法でイルカと一緒に楽しめるかいろいろな方法を考案してきました」という。その一つが、ヒレを掴んで遊ぶ(?)というものであった。
たしかにトレーナーがヒレを掴んでいる。イルカは逃げない。そういうこともあるのだろう。
あ、さっきからトレーナーと書いてしまったがこれは失敬、えのすいは「トリーター」であった。
生物を飼育(treat)し、お客さまをおもてなし(treat)する、新江ノ島水族館=えのすいの展示飼育スタッフの呼称です。
できたらあの入口窓口で一人奮闘していた従業員もトリートしてあげてほしい。
まあいい、なんかわからんが、トリーターとイルカの関係性、についての説明が続いた。ときどき技を見せてくれる。
しかし、なにかこう、説明なのである。解説なのである。とはいえ、おれはイルカショーというものをずいぶん見ていなかったので、最初はこんなものだったかな? と、思った。
が、なにやらその後、あっちでジャンプしたり、こっちでジャンプしたり、そんな感じでなんとなく終わった。
そんな感じだったっけ。よくわからない。よくわからないが、終わったあとも、「こういう風に、この子は口の中を触られるのが好きなんです。もしも嫌だったら、パクっと噛まれてしまいます!」とか、そんなことを話していた。あー、これで終わりなの?
コンプライアンス・ショー
おれの最初の感想は「ずいぶん四方八方に気を使っているショーだったな」というものだった。
ただ、放水だけはなぜか消防訓練のポンプから飛んでくるみたいな水が飛んできて、それだけはハードだったが。
その理由はうっすらわかった。この時代、イルカに芸をさせるなど、動物愛護だかアニマル・ウェルフェアだかに反するのだろう。
それになにより、イルカである。『ザ・コーヴ』である。
Wikipediaによれば、イルカの追い込み漁によって得られた個体を水族館が入手していたことで、世界動物園水族館協会から日本動物園水族館協会が除名されかけたりしたらしい。
除名されると海外から動物の輸入ができなくなったりするので、堂々退場などはしなかったらしい。
なお、えのすいは日本動物園水族園協会から堂々退場している。
しかし、それでもなお、つまりはもう、イルカショーは風前の灯なのである。
その中でも、なんとか続けようというのが、あのコンプライアンス・ショーだったのだろう。
イルカショー自体を否定しかねないことを言いながらも、やらざるをえない。苦しい。
苦しいが、それでもイルカショーを待っている人もいる。集客になる。それに、イルカショーだってイルカショーなりの歴史があり、文化もあるだろう。トリーターも夢見て入った世界であろう。
が、時代は変わる。あるいは変わってしまった。
小さな子供たちはイルカのジャンプを純粋に楽しんだのだろうが、ああ、おれのようなひねくれた人間は、あのトリーターたちの苦しみに思いをよせてしまったのである。あ、べつに閉じ込められているイルカに寄せる思いはないです。
競馬・闘牛・猿回し
とはいえ、アニマル・ウェルフェアの時代は来ている。どのくらい来ているかわからないが、来ているに違いない。
「競馬、闘牛、猿回し」と書いたのは語呂のいい順番に書いただけで、闘牛とか一番槍玉に挙げられているに違いない。牛同士で相撲するやつじゃなくて、スペインとかのやつね。いや、なんだ、Wikipediaとか読んでも、もう過去形に近いか。闘牛は終わったのかもしれない。
猿回しも厳しいだろう。動物園のようなバックもない。
フジテレビの「ザ・ノンフィクション」ではたまに日光さる軍団ものをやる。
若い猿まわし師を今の時代いかに育てたらよいのかという話に焦点が当たるが、まあそれよりも猿回し自体大丈夫なのか少し心配になる。
いや、心配するほど猿回しに思い入れもないが、それでも大丈夫なのか。猿虐待動画が出回ったこともあった。厳しい人なら、当たり前のこととして猿回し全体を虐待と言うだろう。
で、競馬だ。競馬は困った。なにが困る。おれが困る。おれは人生のほとんどを酒と女と競馬に捧げてきたような人間であって、競馬になくなってもらうと困ってしまう。
ひょっとしたら、「まあ、博打の駒は人でもいいか」と競輪や競艇に流れてしまう可能性がなきにしもあらずだが、正直想像できない。
「競馬なんて売上もあるし、伝統とロマンと文化とウマ娘もある、心配いらないんじゃないか」という声もあるだろう。
しかし、おれは財政難でたくさんの地方競馬場が潰されてきたのを見た世代だ。日本において競馬なんて財政のお荷物になれば即廃止だ。
じゃあ世界ではどうだろう。どうも雲行きがあやしい。
そりゃアラブはこのところ超高額賞金レースを開催したりして、石油の次を考えているのか王族の遊びなのか知らないがなんか盛り上げようとしている。
でも、本場のヨーロッパはどうだ。あるいはアメリカは。どちらも長い歴史のある大レースなどはそれなりにやっているし、馬の値段だってバカ高いやつはバカ高い。
でも、日本のような大衆人気があるかというと微妙なところだろう。とくにヨーロッパはそうだろう。日本だとJRAや各地方競馬場などほとんどのファンが公的なところで(高い税金を払いながら)馬券を買って財政に貢献しているが、向こうは馬券を買う相手が違うとか、そういう話もある。あと、あー、競馬の話すると止まらない。
でも、一つ言いたいのは、おれはぜんぜん競馬も安泰じゃないぜということだ。
もし売上が落ちて、そこに「動物愛護」の四文字がのしかかってきたら? それでも耐えられると考えるのは楽天的なように思える。
どれだけ長いサラブレッドの血統の歴史があろうと、文化があろうと、そんなものは関係ない。闘牛もそのダブルパンチでやられたようだ。人気もなくなれば、叩かれやすくもなる。
その点で、競馬も少しずつ譲歩はしている。鞭の使用制限とか、禁止薬物の増加とか、あるいは引退馬についての活動であるとか。
いや、引退馬については譲歩というには少しおもしろくない。これは競馬の内側から出てきた話だと思いたい。そのように、人と馬の物語だって山ほどある……という説明をしなくてはならない点で、話はイルカショーに戻る……ことができるだろうか。
さよなら、古い娯楽たち
というわけで、どうにも動物を使った娯楽など、この世からなくなりそうだ。
世界的に一番規模が大きそうな競馬がなくなるまで100年、いや、50年かかるかもしれないが、予断はゆるされない。
そして、その先にあるのは食肉の禁止だろう。おれはいずれそうなると思う。培養肉の時代がくる。これはかなり先になるだろうが、やがてそうなる。
でも、それも世の中の移り変わりだろう。と、書いたところで、じゃあおまえはどんな立場なんだよ? と、言われると困る。
おれは競馬をやる。そして、クジラも食う。クジラの尾の身ほど美味しい肉はない。蒲田にいい店があるんだが、秘密だ。なので、イルカの話題についていえば、なんというかべつにイルカの肉がスーパーに並んでいてもボウザメが並んでいるのと大してかわらない感情しか抱かない。安いならちょっと買ってみるか?
とはいえ、とはいえだ。何年かまえにどこかの大きな神社で猿回しを見かけたときは、「今の時代にいいのかな?」と思ったのは確かだ。
それに、むやみやたらに動物をいじめるのはおもしろくない。心底おもしろくない。
ケンタッキー・フライド・チキンの虐待動画が出回ったときも、ぜんぜんいい感情にはならなかった。不買運動してやろうとまで思わないものの、「どうせ死んで肉になるんだから何してもいいだろ」という考え方には反する。
反すると言いながら、結局は屠殺されたものを買って食っている。同じくらいの畜肉と培養肉が同じくらいの値段で売っていたら、おれは培養肉を買うだろう。
おれも、過渡期だ。変化しつつある世の中に戸惑いながら、いつの間にか自分も変化している。
伊集院光が話していたことだが、古典落語をやっていて、今の倫理観、コンプライアンスに合わないくだりになったとき、わざわざ落語を聞きに来てくれている客は笑ってくれるが、それでも一瞬「笑っていいんだよな?」という空気になるという。
その空気では落語家もやりにくい。だったら最初からその部分を外すなり、変えるなりするのも手だろう。外からの批判ではなく、内側から、生き残りのために変化する、そういうこともある。
人間、いつも過渡期だ。それが正義や正解に向かって進んでいるとは思わない。
だが、何らかのダーウィン進化のようなものはあるのだろう。ミームの進化。まあ、おれは人間が人間自身を否定して、静かに淘汰されていってもかまわないくらいには思っている。
そう考えると、イルカショーも食肉もどうでもいいということになるが、せめて競馬だけはどうにかならないか。あ、人間いないと成り立たないか。いや、無人の地球でフィジカルAIが競馬だけ続けている、そんな未来を夢見てもいいじゃないか。
そんな結論で、いいのか?
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【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :Ranae Smith
1か月ほど前、Facebookでのなにげない発信に、1000を超えるイイネ!をもらうことがあった。
護衛艦を見学させてもらった際に艦長私室に入れて頂き、その際の整理整頓ぶりに驚いた体験を投稿したものだ。
若い自衛官が折り目正しく布団を整頓することはよく知られているが、艦長クラスでもこうなのかと驚き、思わず写真に収めた。
もっとも、艦長クラスの寝室は下士官などの士官室係が整頓しているというのが、本当のところのようだが。
それはともかくとして、ふと思ったことがある。
よく考えたらこれは、驚くようなことなのだろうか。
思い返せば自分自身、大学を卒業するまで過ごした実家では、畳の自室で寝ていたこともあり毎朝、布団はキレイにたたんで押し入れにしまっていた。
万が一、敷きっぱなしで学校に行こうものなら、母親から猛烈に怒られたものだ。
修学旅行など外泊を伴うイベントの時には、こんなふうに説教をされる。
「いつも以上に折り目正しくたたんでから、出掛けなさい!」
実家を出てからというもの、ずっと洋室にベッドだった。
そんなこともあり、毎朝起きた後は適当に布団を直すだけで、整理整頓などしなくなっていた。
そう思うと急に、“自衛官の整理整頓”に驚いたことそのものが、恥ずかしくなる。
そのため毎朝起きると必ず、写真のように折り目正しく寝具を整頓することから、一日を始めることにする。
すると程なくして、自分でも驚くほど心境の変化を感じるようになり始めた。
「少しだけ信じてみよか!」
話は変わるが、日本を代表する伝統芸能の一つ、能と歌舞伎についてだ。
能楽では、面(おもて)によって役者を演じ分けるのに対し、歌舞伎では化粧によって演じ分ける。
例えば善人や高貴な人物の場合には白の下地を、町人や悪人では茶肌色を、悪人の手下や家来を表す際には赤という具合だ。
能では面をかけた瞬間に、歌舞伎では化粧を施された瞬間に、役者たちは別人格を自分に降ろす。
そしてその瞬間から高貴な人物になり、貧しい町人になり、あるいは荒々しい悪人としての役割を演じる。
この「化粧が持つ力」については、多くの女性が日々、むしろ当然のように感じているのだろう。
しっかりとメイクが決まり、美容院でキレイにしてもらった日には、なんとも言えない自信と力を感じ気分が上がるはずだ。
面や化粧、すなわち“顔”にはそれほどに、人を変える力がある。
そう思った時、ふと疑問に思うことがある。
長年会社に勤め、ある程度の成果を上げるとある日、課長に昇進し、あるいは部長職を命じられることもあるだろう。
その瞬間から人は、10人を束ねる課長になり、100人のトップである部長になり、部下たちはその“顔”を見るようになる。
その時、私たちは演じるべき「課長の面(おもて)」「部長の化粧」という“顏”を、いつどこで学んだだろうか。
役職とはそういうものだ。望もうが望むまいが、役職に応じた“顏”を演じなければならない。
にもかかわらず、そんなものは誰も知らないし学んだこともない。
だからこそ多くの人は、身近なモデルケースを模倣しようとするところから始めるのだろう。
しかし性格もやり方も違う上司を学んだところで、そう簡単に上手くいくわけがない。
そのようにして、中間管理職などの役職に就いた人は心身を削られ、ストレスから体を壊す。
その意味で、私の若い頃の体験はかなり極端なものだった。
29歳にして800人の会社で、縁あってNo.2 になったのだから、どんな“顔”をしていいのか全く分からない。模倣すべき相手すら、全くいない。
銀行からの斡旋で経営の立て直しを担ったのだから、社員もみな、雰囲気は敵扱いである。
「また新しい偉い人が、無駄な仕事を指示しに来たのですよね?」
初めて製造現場に降りた時、現場を束ねる管理職の女性からいきなり言われたそんな言葉は、今も忘れられない。
とはいえ、速やかに成果を出さないと会社も従業員も、もちろん私も終わる。
(こういう時、どういう“顔”をすれば、思わず嬉しくなるものだろうか…)
頭を巡らし、とっさに応える。
「今までの“偉い人”は、どんな無駄な仕事を指示していたのですか?」
「…例えば日報ですよ!工場長も部長も本部長も、外から来た偉い人は皆、同じような内容の日報ばかり。毎日毎日、1時間も無駄にしてるんです!」
「その日報を今、見せてもらうことはできますか?」
「…できますけど」
そうして出された3種類の日報は、なるほど似たようなデータの要求に加え、その日の気持ちや反省など、小学生の日記以下だ。
こんなものを3通も毎日出すよう求められたら、ストレスにならないわけがない。
「少しフロアの隅っこの机、お借りしますね」
そういうと私は、それら日報が要求しているデータをすべて、業務システムからボタン一つで転記できるマクロを組む。
さらに3種類を一つにまとめ、無駄な報告欄を省き3分で作成可能な日報のフォーマットに作り替えた。
「ボタン一つで必要な日報ができるようにしました。3通も1つにまとめましたので、今日からこれを送るだけで十分です。工場長、部長、本部長にはこの後すぐ、私が連絡しておきます」
「えぇ!嘘やろ!」
「いえ、課長がおっしゃるように今までが無駄だったのです。私はこういう無駄を排除するために、ここにきました」
すると彼女はフロアに向け振り返ると、大きな声で指示を出した。
「みんなー!今度の偉い人、ちょっとは使えそうやで!少しだけ信じてみよか~」
どっと笑う、部下の社員たち。
口は悪いが、ストレートに気持ちが伝わるとても嬉しい言葉だった。
とっさに作った“偉い人としての顏”だったが、どうやら正解だったようでホッとする。
その後、彼女は長く、経営の立て直しに無くてはならないパートナーになる。
そしてたくさんの知恵を貸してくれて、TAM(事業再生責任者)の役割を全うする大きな力になってくれた。
その第一歩になった、忘れがたい想い出の一つだ。本当に私は、運が良かった。
「…帰ってきた」
話は冒頭の、寝具の整頓についてだ。
自衛官のように寝室を片付けることで、どんな心境の変化を感じるようになったのか。
思えば私たちは、布団から出た瞬間から様々な“顏”を演じるよう社会から求められる。
部長、課長、夫、妻、父、母、学生さん、子供…。
一人暮らしであっても、お隣さんがくれば「善良な隣人」の顔を演じる。
そう思うと布団とは、単に睡眠をとる場所ではないのではないのか。
本当の意味で面(おもて)を外し化粧を落とし、自分の顔に戻ることができる唯一の場所ではないのか。
だからこそ、その特別な場所を折り目正しく清潔にして朝、別れを告げることで、一日の始まりが特別なものに感じられるようになる。
思えば母が、旅行に行く時こそいつも以上に整理整頓に厳しかったのは、こういうことなのだろう。
「寝具を散らかしたまま死ぬような、恥知らずな真似だけはやめなさい」
確かに、もし何かあった場合に家族や関係者は、故人の私室に必ず入る。
その時にもし、部屋も寝具もみっともなく散らかっていたら、ガッカリするだろう。
逆にキレイに整理整頓されていたら、それだけで故人への想いが募る。
文字通り、「今日死ぬかもしれない」任務に向かう自衛官であればなおさらである。
寝具や私室の整理整頓が基本中の基本であるのは当然であり、驚くことが失礼だったのかもしれない。
そしてそれは、一般人でも同じはずだ。
布団を出た瞬間から、母という面をかけ子供や学校と接し、部長という化粧をして部下たちや顧客と向き合う“戦場”に出かける。
そのほとんどのことは、思い通りにならない文字通りの戦場だ。
時に疲れ果て、もう嫌になり、”面”や”化粧”を落としてしまいたくなる。
そんな時こそ、折り目正しく寝具を整理整頓していれば、きっとこんなことを感じる。
「あ…布団に帰ってきた」
キレイに折りたたんだ寝具を開くとき、それを実感する。
全ての面(おもて)を外し化粧を落として、何の役割も求められない自分に戻れるとホッとする。
人によって、感じることは様々かもしれない。
しかし少なくとも、この朝のたった1分の整理整頓で思わぬ気付きを得られることがある。
ぜひ、多くの人に一度、やってみて欲しい。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
美味しい牛タン食べたい。
X(旧Twitter) :@ momod1997
facebook :桃野泰徳
Photo:
どうも、しんざきです。
今年、インフルエンザの流行が物凄く早いみたいですね。しんざき家でも、もう長男と長女が一回ずつインフルになりました。皆さん体調大丈夫でしょうか?
この記事で書きたいことは、大体以下のような話です。
・恋愛/結婚で最重要なのは合意形成能力、というシロクマ先生の記事を読みました
・それについて異論はないのですが、「恋愛・結婚におけるプライオリティ」というテーマについて、別解を書きたくなりました
・恋愛・結婚に限らず、「長く一緒にいる」という関係を築く際、最重要なのは「倫理感覚」と「金銭感覚」の大体の一致だと思います
・倫理感覚のズレは、相手の行動や価値判断に対して大きな違和感やストレスを生み、しかも修正が困難です
・金銭感覚のズレは、単に浪費だ倹約だという話だけではなく、生活方針全般にわたって問題を生みやすく、ダメージ回復が困難です
・この二者に限らず、価値観のズレについて、「問題があれば話し合って合意する」ことがとても重要という点はシロクマ先生と同じ意見です
・ただし、「合意形成」に必要なのは、能力というより「合意形成が必要」という認識とルール作りだと思います
・その上で、「倫理と金銭の問題は地雷になりやすい(合意形成が困難)」という認識はわりと大事だと思います
・地雷に気を付けつつ、長く付き合える関係を築けるといいですよね
よろしくお願いします。
さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、あとはざっくばらんにいきましょう。
先日、シロクマ先生が書かれた以下の記事を拝読しました。
私は恋愛はもちろん、結婚においても、「契約」より「合意形成」のほうが大事じゃないかと思うのです。
経済力や外見や契約も大事でしょう、ですが、合意形成能力がなければ真の意味において恋愛は進展しないしないのではないでしょうか。そうしたことをまとめました。
恋愛や結婚において重要なのは契約よりも合意形成能力であり、円満な関係を築くならパートナー候補や自分自身の「合意形成能力」に注目すべき、というお話ですね。
大筋として、シロクマ先生のおっしゃるところはもっともだなーと思いましたし、人間関係の維持には契約よりも合意形成が重要で、合意形成ができるかどうかを関係維持の見極めの尺度とするべき、というお話についても納得感がありました。
ただ、総論賛成の上で、反論というわけではないんですが、私が思ったことが二点ありまして、
・合意形成をする上でも解決が困難なジャンルがあり、それについては最初からある程度すり合わせをした方が良さそう
・合意形成に必要なのは「能力」というより、合意形成が必要だという認識とそのルール作り、習慣付けではないか(それも能力の内かも知れないが)
という点について、「別解」的に書いておきたいと思ったわけなんです。
順番にいきましょう。
倫理感覚のズレは、人間関係を築く上で深刻なストレスを招くし、しかも修正が難しい
別に恋愛・結婚に限った話ではなく、ある程度長い期間親しい関係を続けようとするなら、「価値観のズレと、その修正」という問題は必ずつきまといます。
様々な事物に対する価値観が完全に同じという人は基本世の中に存在しませんし、そこがズレていれば大なり小なり衝突は発生します。
だからこそ、人間関係の上で「合意形成」が必要なわけです。
ただ、「倫理感覚」というのは、そういった価値観の中でも特にすり合わせが難しいです。
倫理感覚というのは、別に善人か悪人かといった話ではなく、例えば
・嘘をついていい範囲
・約束を破ったときどう考えるか
・他人に迷惑をかけることをどう捉えるか
・弱い立場の人にどう接するか
・自分が悪かったときに謝れるか
といった、他者と接する時の基本的な行動原理のことです。
これが大きくズレる人と長く付き合うのは難しい、というのは、わりと納得感があるのではないでしょうか。
例えば、Aさんが「一度した約束は厳密に守らなくてはいけない」という基本原理を持っていて、Bさんが「口約束は破ってもひとこと謝れば問題ない」という基本原理を持っている場合、Bさんが約束を破る度に、Aさんには極めて大きなストレスがかかるのは火を見るよりも明らかです。
コンビニの店員さんにどう接するかとか、遅刻した時の態度といった話も同じでしょう。
ここで気をつけなくてはいけないのは、「倫理感覚が厳しい方が望ましい」といっているわけではなく、「同じような尺度に納まるかどうか」が問題、ということです。
Aさんが正しくてBさんが間違っている、という話ではありません。近い人間関係の二人が、どちらも「多少の約束なら破っても謝ればOK」という基本原理をもっていれば、特に問題は発生しません。
なによりも難しいのは、「基本的な人格に根差す部分なので、大人になってから修正しようとしても非常に困難」という点と、「仮に修正やすり合わせを行おうとしても、そのすり合わせが人格否定とワンセットになりがち」という点です。
前者は当然、倫理観など子どもの頃からの積み重ねで形成されるものなので、一朝一夕で直せるようなものではないですし、後者も当然、「倫理感覚のズレの指摘はモラハラと隣り合わせ」という側面があります。
倫理感覚というのは、特に「厳しい/厳密な方が正しい」と思われがち、あるいはそう思い込みがちなので、「倫理感覚が緩い」ことを極めて容易に否定してしまうことができます。だからこそ、「相手が悪いに決まっている」という視野狭窄がモラハラに直結しがちなのです。
趣味が違うなら別々に楽しめばいい。食事の好みが違うなら別々のものを食べればいい。生活習慣も、ルールを作ればある程度対応できる。
けれど、「この行為は許せる/許せない」「この程度の約束なら破ってもいい/絶対に守る」という部分がズレると、相手の行動そのものをどう評価するかで衝突が発生します。
つまり、「合意形成を行う上でも、「倫理感覚」というものについての扱いは極めて難しい」という側面が、まずひとつあります。
金銭感覚のズレは、生活方針全般にわたって問題を生みやすく、ダメージ回復が困難
一方、金銭感覚の違いも、扱いの難しさに関しては倫理感覚に劣りません。
例えば
・お金は使うためのものか、貯めるためのものか
・いくらから「高い」と感じるか
・借金をどう考えるか
・貯金をどの程度必要と考えるか
・趣味にいくら使っていいか
・収入差をどう扱うか
といった話が代表的なところですが、これまた生活環境や生育環境に深く根差した問題なので、「修正」が容易ではないというのは倫理感覚と同様です。
倫理感覚と同源の部分ではありますが、「借りたお金を返さない」ということが、人間関係に簡単に大ダメージを与え、しかも回復が困難な問題になり得るというのは、多くの人が納得してくれるところでしょう。
それに加えて、例えば恋愛や結婚といった関係を考える上では、「金銭感覚」が極めて強く生活と結びついてくる、という点も重要です。
家計をどちらがどう支えるのか、数万円から数十万円という出費をどう捉えるのか、将来の資産形成にどれだけリソースを使うのか、収入差をどのように考えるか。
普通に生活しているだけでも、こういった問題は恐ろしいほどの頻度で可視化されます。
だから金銭観の違いは、単なる趣味の違いよりもずっと大きな問題になります。
これも、「合意形成」を行う上では極めて慎重に扱わないといけない部分であって、長い関係を築きたいのであれば、事前に慎重に考慮するべき部分だ、ということになります。
合意形成に必要なのは、まず『合意形成するものだ』という認識
さて。
上記のように「取り扱い注意」な問題はあるものの、長い人間関係を構築し、維持していく上で、様々な価値観のズレに対して「すり合わせ作業」が必要という点は、特に議論を必要としないところでしょう。シロクマ先生のおっしゃる合意形成です。
ただ、合意形成になんらかの「能力」が必要か、というのはちょっと議論が分かれるところで、私は合意形成について、
「本当に必要な「合意」は最初の一回、「意見が合わないとき、話し合うものだと思っているか」だけ」
だと思っています。
つまり、「価値観の相違があった時、合意形成のためのすり合わせが必要」という合意ができるかどうか。それだけ。
この合意さえできていれば、あとは「どうやるか」だけの問題です。
・どういう時に「価値観のズレが可視化された」と考えるのか
・それについて、どういうタイミングで、どう話し合うのか
・話し合った結果、合意できなかった場合はどう折り合いをつけるか
・どういうことがあったら第三者を介入させるのか
・話し合った結果をどう生活に反映させるのか
こういう取り決めを、徐々に運用の中で改善していく。「最初の合意」さえあれば、あとは「合意形成のプロトコル」を二人で育てていくだけ。
つまり、「価値観が一致しているか」より、「価値観が違ったときにどう処理するか」という認識だけは一致させておいて、あとはおいおいルール作りをしていけばいい。
この時、必ずしも価値観の違い自体を解決する必要はなくって、「違ったら違ったでどう過ごしていくか」が合意できれば良いのではないかなあ、と。
これも「合意形成能力」の内、と言えばそれはそうなのかも知れないですが、スタート地点としての「合意形成の必要性」の認識さえ大きくずれていなければ、あとはそんなに「能力」に依存せず、割と家庭内のルール通りに処理できるんじゃないかなあ、と思うわけなんです。
といっても、この「ルール」があった上でも倫理感覚と金銭感覚についてのすり合わせは難しい、という点も前述の通りで、そこについては特に慎重にルール作りを行うべきだ、とも思うんですが。
しんざき家の場合は、幸いなことに倫理感覚と金銭感覚については、私と妻の間に大きなズレはなく、あとは「夕飯のあとの定期的なデザート」で価値観のズレを都度都度修正しています。
なんかこれおかしいな、とか、何かストレスかかるな、と思った時は、大体甘いものを食べながらお互い吐き出しています。人間、甘いものを食べると気持ちに余裕ができるものです。
一致させられない部分ももちろんあるのですが、そこはお互い、無理に一致させようとせず、どこかの部分で「まあこんな感じにやろうか」という妥協点を見つけています。
これが、つまり「合意形成のプロトコル」なのではないかなあ、と、現在はそう思っています。
つまり、しんざき家における「合意形成のプロトコル」は、「甘いものを食べながら話し合う」です。
恋愛や結婚に限らず、長く続く人間関係というのは大きな財産なので、今手元にある関係は大切に維持しつつ、今後も色んな人といい関係を築いていきたいなあ、と。
そんな風に考えるわけなのです。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【著者プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
photo:Colton Sturgeon
少し前、ある人から「恋愛や結婚に必要なのは何か」について話をうかがいました。
その人は「結婚はもちろん、恋愛でも契約が重要だ」とおっしゃいました。
その場の私は「確かにそうかもしれない」と思って否定しませんでしたが、違和感が残ってモヤモヤしていました。
最近、その違和感がやっと言語化できました。私は恋愛はもちろん、結婚においても、「契約」より「合意形成」のほうが大事じゃないかと思うのです。
経済力や外見や契約も大事でしょう、ですが、合意形成能力がなければ真の意味において恋愛は進展しないしないのではないでしょうか。そうしたことをまとめました。
恋愛が契約にみえる瞬間はあるけれど
恋愛には、当事者双方が「いっせーの」で声を掛け合い、一蓮托生的に「関所」をくぐる気持ちで通過しなければならない場面があり、そういう場面には「契約」という言葉が比喩として似合っています。
とはいえ、そのたび印鑑や同意書を持ち出すのも変でしょう。
たいていの人にとって性交同意書が奇妙にうつるのも、そこに契約という概念に馴染まない要素が潜んでいればこそです。それこそムードとか雰囲気が伴わなければ進まない一面も、恋愛にはあるじゃないですか。
なかには契約のロジックにものすごく親和的で、恋愛も、友人関係も、あらゆる社会関係が契約の論理で進むべきと考える人もいらっしゃるかもしれませんが、一般に、恋愛はそこまで契約ベースでは進むものとはみなされていないと思います。
なにより、恋愛って自分たちの親密の度合いがどれぐらいで関係性の進展度がどの程度なのかについてのコンセンサスを形成しながら進んでいくものなんじゃないの? と私は思うのです。
「お互いの親密さの度合い」とはわかったようでわからないものですが、そのよくわからないものを進展させるムードを味方につけるためにも、社会慣習に沿って外形的に恋愛を進めていく、いわば「まず形から入って」「形を参照しながらコンセンサスをつくっていく」側面も恋愛にはあるんじゃないですか? って思うのです。
たとえば仕事や読書会やイベントが長引いて、そこで顔見知りになった男女ふたりが神田駅のあたりで夕飯を一緒に食べることになったとしましょう。
これだけでは恋愛未満もいいところですが、まったく何も起きていないのに比べれば脈がありますし、社会的にもごくわずかにカップルに近いところに移動したって感じでしょう。
ゲーム用語を借りるなら、最初期の「フラグが立った」ぐらいの段階。
次に、そのふたりが別の機会に「次は江の島まで日帰りで行きましょう」と約束したらどうでしょうか?
さっきの神田駅の夕飯に比べて「おや?もしかして何か始まるかも?」ぐらいの温度感ではないでしょうか。
出かけるだけならともかく、帰りに二人ともめちゃ楽しかったとなれば、親密さに向かう関所を少なくとも一か所は突破できた、と言えるように思います。
こうした「たまたま神田駅で夕飯を共にした」と「わざわざ約束して江の島まで日帰りで出かけた」の間には、二人の気持ちの同調の度合いの違いがあるだけでなく、社会慣習に照らしたときのデートらしさ・つがいらしさの程度差があるでしょう。
カップルができあがる際には、二人の気持ちのシンクロ度合いや楽しさの度合いに加えて、社会慣習に沿って考えたときのつがいっぽさや恋愛っぽさの度合いが、自他に対して説得力を添えるよう、思われるのです。
本当はあてにしている社会慣習
その際、恋愛やつがい行動の(社会慣習に即した)外形的な意味合いをどう取り扱うのかを巡っても、男女のあいだにはコンセンサスがつくられなければなりません。
くだんの男女のお出かけ先が、「たまたま神田駅で夕食」→「約束して江の島日帰り」から、「泊まりで福岡」に、さらに「五日間ほどプーケット」と変化したとします。
こうした変化を見聞きしたほとんどの人は「この二人は親密さの度合いが高まっている」と推定するでしょうし、当の男女それぞれもそのように推定しがちではないでしょうか。
これは男女関係に限らずかもしれませんが、そうした推定を一種のテンプレートとしてあてにしながらお互いの親密さの度合いを推し量りあい、親密さにかんするコンセンサスを作り続けていかないと、たぶん、色々とうまくいかないと思うのです。
なかには会って三日しか経っていない異性に「来週からプーケットに行こうよ、五日ほど」と声をかけてしまう人だっているでしょう。
ですが早々にそんな誘われ方をしたら、ほとんどの人は喜ぶ前に心配になるのではないでしょうか。
社会慣習からそれほどずれていない多くの男女の場合、「二人で五日間ほど海外リゾート地に出かける」ということが社会慣習に照らしてどれぐらいの親密さを意味しているのか、ひいては性的なことがらも含めてどれぐらい相互理解が進んでいてしかるべきなのかを、社会慣習に照らして、外形的に推定する部分は必ずあるはずです。
ただし外形的に推定できるといっても、社会慣習に丸投げできるわけでもありません。
社会慣習に頼った推定には、お互いの欲求や欲望や利害が絡んできたり、経験の違いによるギャップが生じたりする場面が必ずあります。
でも、 だ か ら こ そ ! 、カップルは不断に合意形成をしていかなければならないのです。
たとえば「泊まりで福岡」とはどれぐらいの親密さに対応しているのか、たとえば「泊まりで五日間ほど海外リゾート」がどれぐらいの親密さに対応しているのか、についての解釈の違いが隔たったままだと、そのカップルはじきに崩壊するでしょう。
というより、そういう合意形成を怠っているカップルはさっさと崩壊したほうが当人たちのためかもしれません。
そうした合意形成をおざなりにしたまま結婚まで突き進んでしまうパートナーシップは、かならず相互不理解と相互不満の種を抱えながら進むでしょうし、もしも男女の間に大きな立場の差がある場合、強者の決定に弱者が服従するかたちになるでしょう。
合意形成を怠ったパートナーシップはさまざまな禍根を残すはずです。それぐらいなら序盤で崩壊してしまったほうがお互いのためです。
「自分たちの親密さにコンセンサスが形成できなくなった時点で、恋愛関係は瓦解に向かう」
──この公理は恋愛中のカップルだけでなく、既婚のパートナーシップにも言えることでしょう。
合意形成能力のプライオリティは高い!
今も昔も、「恋愛や結婚には男性なら経済力、女性なら見た目の良さが必要」といった言説をよく見かけます。
それ自体を私は否定しません。両性ともに経済力や見た目の良さはあるに越したことがないでしょうから。
でも、恋愛や結婚をやるなら──それも、ちゃんとうまくやるなら──合意形成力が必要不可欠だと思われるのです。
どんなにお金持ちでも、どんなに見た目が良くても、合意形成能力が欠如している異性をパートナーにするのは難しい選択だと思います。
なぜなら合意形成ができない相手と付き合った場合、親密さの度合いをお互いに理解しあい、すり合わせることもできないから、親密さの関所をいつ自分たちが通過したのか、自分達がどこまで親密になったと言えるのか、に関するコンセンサスもまともに形成不可能になるからです。
そういう異性と付き合ってしまったら、いわばフラグ管理やフラグ回収がまったく見当がつかない関係に陥るでしょう。
合意形成のまったくわからない恋愛はスリルという点ではスリリングかもしれませんが、地に足の着いたパートナーシップとしては厳しいので、避けるに越したことはありません。
と同時に、自分自身がそうしたコンセンサスが形成不可能な人間だった場合も、恋愛はいつもうまくいかない、いつも進展しない、といった事態が予測されます。
そういう人は社会慣習に基づいて自分たちの仲について推定・想像しつつ、折に触れてパートナーがそのあたりをどう考えたり感じたりしているのかをそれとなく聞き出したほうが良いように思われます。
そういう推定や想像や確認を怠っていれば、じきに盛大に揉めるか別れを切り出されるでしょうから。
先ほども書いたとおり、そうしたコンセンサスの形成にあたって社会慣習はある程度までは参考になります。
もちろん親密さの度合いなんて、パートナー間で決めてしまえばいい事柄なんですけど、でも、まったく何もないところから二人のコンセンサスを形成するより、すでに社会にあって広く共有されている慣習を参考にしながら形成したほうが、ずっとわかりやすく、ずっとそれらしくコンセンサスを形成できるでしょう。
逆に社会慣習から外れたかたちで親密さのコンセンサスを形成したいとパートナーが申し出ている場合、わざわざそうであるだけの説得力ある理由が聞けなければならないように思われます。
もし、ちゃんと聞かせてくれないようなら、理由がなんであれ、そのパートナーはやめておいたほうがいいかもしれません。
逆の場合も、自分が説得力ある理由を言えるのでない限り、パートナーに同意を促すのは難しいと思っておくべきでしょう。
実のところ、恋愛や結婚をやりたいだけなら、ここでいう合意形成能力は必要ありません。
後先を考えず、じきに崩壊することを織り込み済みの恋愛や結婚なら、コンセンサスを形成するより、わざと無視して、わざと自分勝手に進行したほうが都合が良いのかもしれません。
ですがお互いに納得ずくの恋愛、円満な結婚生活といったものを考える際には、ここでいうコンセンサスの形成能力は必要不可欠で、そのプライオリティはかなり高いと想定すべきですし、自分自身の恋愛や結婚に対する資質としても、本来高くなるよう努めなければならないものなのだと思います。
ですから、納得ずくの恋愛、円満な結婚生活を望んでいる人は、パートナー候補や自分自身にどれぐらいの合意形成能力があるのか、恋愛の進展具合に沿ってコンセンサスを維持・更新していける力があるのかに注目したほうが良いでしょう。
そうした合意形成能力の高い異性には、経済力や見た目とは違ったタイプの魅力や美質があるとみるべきですし、そういう魅力や美質を見逃すべきではありません。
恋愛がやがて結婚に変わり、一生涯を過ごすパートナーになっていくとしたら、こうした合意形成能力の高低は家庭生活の幸不幸に反映されるでしょう。
「幸福な家庭生活の条件は何か」について考えるなら、ちゃんと合意形成能力のある異性であること、同じくちゃんと合意形成能力のある自分自身であることの優先順位は相当上位に来るはずです。
たとえば江の島まで日帰り旅行で出かけた時、お相手がまったくそういう能力が欠如している兆候を示しているなら、あまり本気にならないほうが良いのかもしれません。
と同時に、自分自身に合意形成能力が無いと判明したら……そうですね、困ってしまいますね、でも恋愛や結婚よりも前に習熟すべきことがあるような気がします。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

Photo:Jubair Ahmed Himu
2007年の夏に長男が生まれて、それから大体19年くらい経ちました。
途中、双子の長女次女が増援にきまして、現在は5人家族です。
長男が生まれたのは、確かまだ本格的に暑くなり始める前の初夏の月曜日、朝に妻が産気づいたので私は会社に連絡をして、割と無理やりめに休みをもらいました。
その後、長男が昼頃に生まれるまではひたすらそわそわして、無駄に流動食を買い込んできたり、妻の好きな飲み物を買ってきたりしていたと思います。
そのまま、長男が生まれるその瞬間に立ち合いました。
ただ、その時「自分は父親になるんだ、という自覚」とか、「これから家庭を背負っていかないといけないと、という覚悟」が出来ていたかというと、多分全くそんなことはなくて。
そのあとの私の「育児」って、言ってしまうと「発生しまくる課題と、ただひたすら対峙し続ける」ということだけだったんじゃないかなあ、と思うんですよ。
もちろん子どもを食べさせる、おむつを替える、一緒に公園に行って遊ぶ、泣いたらひたすら抱っこしてなだめる、夜は寝かせる、熱を出したら慌てて病院に連れていく。
時には勉強わからなくて泣く子どもの隣に座ってじーっと抱っこする、必要なら宿題の計画を立てる、先生に迷惑をかけたら学校に電話して謝る、学校行きたくないと泣いたら添い寝しながらリモートで仕事する。
友達と喧嘩して落ちこむ子どもの話をじーっと聞く、もしも何か言えることがあれば、ほんのひとことだけ何かアドバイスする。
学校で楽しかったことがあれば、聞ける範囲で楽しい話を聞いて一緒に笑う。
面白い漫画をお勧めして、あるいは面白い小説をお勧めされて、一緒に読んで早口で感想語りをする。
確かに親がするべきこともあれば、あんまり親がするべきじゃないこともあっただろうし、失敗も散々あったろうし、面倒でサボっちゃったこともあったと思います。
一方「父親として」上記のことをやってきたかというと全然そんなことはなくって、ただ「一緒に住んでる誰か他の人」に自分がやりたいこと、やるべきだと思ったことをひたすらやってきただけ、のような気もするんですよね。
なんの覚悟も、親としての自覚もないまま、なんか19年経って、子どもがずいぶん大きくなってしまった。
親としての苦労って後々漂白されるもので、ひとつひとつの場面を切り取れば滅茶苦茶大変だったことも悩んだこともあったと思うんですけれど、今から振り返ると「ただただ場当たり的に何とかしてきただけ」というようにも思えるんです。
***
ただ、私に何かひとつだけ、親としての強みがあるとすれば、「世界って割といい場所だ」と、根底の部分ではそう思っていることかも知れません。
世界に対する信頼感というか、なんだかんだで、この世界は結構丈夫だし、思ったよりも優しい。
もちろんこれは、「世の中まともな人ばっかり」という意味ではありませんし、「社会は堅牢で住みやすい」という意味でもないです。
世の中色んな人がいるし、時にはとんでもないひとがとんでもないことをするし、自分がその被害を被ることだってある。
ただ、根本的なところでは、自分の周囲の世界が厳しいか優しいかっていうとどっちかというと優しいし、「世界は思ったよりいいところ」という認識で損をした記憶があまりない。
少なくとも、前提として「世の中には敵より味方の方が多い」という信頼感を持っていた方が、その逆よりは生きやすいと思うんですよね。
だから、その「世界に対する基本的な信頼感」と、「じゃあ、その世界の一部であるためにはどんなことをすればいいのかな、というなんとなくの意識」だけは、少しでも子どもたちに伝えられるといいな、と思ってきました。
自分に当てはめても分かります。親が子どもに伝えられることなんてほんのちょっぴりです。
どんなに頑張って話をしても、100伝えたとして、子どもにはせいぜい5か10くらいしか残りませんし、その5か10だって来週か再来週くらいには忘れます。
それでも、常に一緒にいる私が、「世界って案外いい場所だよね。だから一緒にこの世界で生きていこうね」というスタンスを常にとり続けてきたことには、多分何ほどかの意味はあるだろうと思っているんです。
親が子どもに伝える言葉の中の、子どもに残るほんの数%、更にその0.01%くらいに、そういう意識があるといい。
それで、「そういえば昔お父さんがこんなことを言っていた」というよりは、「なんかどっかで聞いたことあるな」という程度の粒度で、一度でも子どもたちの心が楽になることがあるのであれば、それ以上嬉しいことはないなと、そう思っているわけなんです。
***
本当にただの運だと思うんですが、幸いにして、現時点で私は幸せに過ごせていますし、妻も子どもたちも、なんだかんだで楽しく健やかに暮らせているように思います。
それは多分、私が立派な父親としてこの家庭を支えてきたからではなくて、覚悟がなくても、完璧な親でなくても、毎日なんとかやっていくことはできるし、できてきたから。
子どもに残ることなんてほんのちょっと、だからこそ、常に頑張ってなくても、時々サボっても、案外なんとかなるものだから。
下の子ももう14歳になりまして、なんだかんだでだいぶ、昔かかっていた苦労は減りつつあります。
今では、添い寝をしなくても子どもたちは勝手に寝るし、自分たちでご飯用意して食べることもできるし、遊びに行くときは友達同士連れだって遊びにいきます。
もちろんまだまだ全然お金はかかるし時間も手間もかかるわけで、親を卒業できるかというとまだしばらく先になりそうなんですが、それでもだいぶ、子どもたちが「人生の主人公」として本格的に旅を始めて、私や妻はモブ親になりつつあるんだなーという感覚はあります。
それはありがたいことでもあるし、ほんの少しだけ寂しいことでもあります。
だから、子どもたちが巣立つまでの多分あまり長くない間、まだ私が名分だけでも「父親」でいられる間というのは、もしかすると一種のボーナスタイムなのではないかと。
もうちょっとだけ、自覚がないままでも父親を続けてみたいと。もうちょっとだけ父親をやってみてもいいかなーと。
そんな風に思うわけです。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【著者プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
photo:Kelli McClintock
企業のSNS担当者は、画像や動画を工夫し、以前より丁寧にSNSを運用しています。
それでも、以前ほど「いいね」もリポストもされません。
フォロワー数の割に、インプレッションも伸びません。
結果として、社内からは「投稿が面白くないんじゃないか」「企画が弱いのでは」と問われてしまうのです。
しかし、そもそも、フォロワー数は「投稿を届けられる人数」なのでしょうか。
私は2025年12月に「『良い投稿をすればバズる』という時代は、ひっそりと終わっていた。」という寄稿をしました。
そこで紹介したのが、「SNSのレコメンドメディア化」です。SNSは、フォローした人の投稿を見る場所から、AIが選んだおすすめ投稿を見る場所へと変わりました。
では、その変化によって、企業の投稿は実際にどれくらいフォロワーに表示されにくくなったのでしょうか。
感覚だけで終わらせないために、国内企業の公式アカウントを調査しました。
企業11社のXを調べたら、平均は7.94%だった
私が所属する株式会社ホットリンクでは、国内企業11社のX公式アカウントについて、2026年2月9日時点の直近30投稿を分析しました(キャンペーン投稿は除外)。
その結果、1投稿あたりの総インプレッション数をフォロワー数で割った「想定フォロワー表示率」は、11社平均で7.94%でした。
フォロワーが100万人を超えるアカウントでも、4~13%にとどまっています。なお、「想定フォロワー表示率」と呼んでいるのは、Xでは、フォロワー内外の表示を区別できないためです。
したがって、この調査から分かったのは、1投稿あたりのインプレッション数が、11社平均でフォロワー数の1割にも満たなかったということです。
フォロワー外への表示や、同じ利用者への複数表示が含まれる可能性を考えると、実際に投稿を見たフォロワーの割合は、この数字より低い可能性もあります。
対象は11社なので、この結果をすべての企業アカウントにそのまま当てはめることはできません。それでも、「フォロワー数」と「実際に情報を届けられる人数」が同じではないことは明らかです。
この傾向は、Xだけに見られるものではありません。国内企業5社のInstagram公式アカウントが2026年に行った計192投稿を分析したところ、フォロワーへの表示率は5社平均で約11%でした。
Instagramでも、企業の投稿はフォロワー数から想像するほどには見られていません。
SNSは変わったが、企業の評価基準は変わっていない
かつてのSNSでは、フォロワーを増やすほど、多くのユーザーのタイムラインに自社の投稿が流れました。
フォロワー数は、情報を届けられる人数に近い意味をもっていたのです。
しかし、今は違います。投稿が表示されるかどうかは、フォロー・フォロワー関係だけでなく、利用者の関心や過去の行動、投稿直後の反応などにも左右されます。
フォローは、投稿が表示されることの保証にはなりません。
ところが、企業が運用するSNSアカウントのKPIや担当者の評価方法には
「フォロワーを増やせば投稿も届く」
「フォロワー数が多いほど運用は成功している」
という考え方が、いまも残っています。
フォロワー数は、増減が一目で分かり、競合とも比較しやすい指標です。SNSに詳しくない他部署や経営層にも説明しやすいでしょう。
だから、環境が変わっても目標として残り続けています。
フォロワー数を増やしても投稿が思うように届かないと、担当者は、短期間で大きなインプレッションを獲得できる「バズ」を求められるようになります。
しかし、ここにも落とし穴があります。
バズを目的にしても、企業の宣伝投稿がバズることは稀であるということです。
SNSを利用する個人の多くは、趣味や関心事の情報収集や暇つぶしを目的にしています。
そのような環境では、企業の宣伝投稿がほかの投稿より見てもらいにくいことは、容易に想像できます。
そこで次に出てくるのが、『ならば宣伝感を抑え、バズりやすい投稿にしよう』という発想です。
もちろん、宣伝感を抑えてユーザーフレンドリーに投稿すること自体は重要です。しかし、バズを追い求めようとすると、自社ブランドとほとんど関係のないネタ投稿に走ったり、きわどい発言で炎上に近い注目を集めようとしたりすることもあります。
投稿単体のインプレッションは伸びても、ブランドへの好意や理解につながるとは限りません。むしろ、ブランド毀損を招くおそれがあります。
問題は、バズそのものではありません。フォロワー数やインプレッション数だけを、SNS運用の成果とみなしてしまうことです。
フォロワー数だけで、SNS運用を評価しない
では、フォロワー数はもう意味がないのでしょうか。
そうではありません。
フォロワーは、投稿の初動を支える存在として今も重要です。投稿直後に「いいね」やリポストなどの反応が集まると、プラットフォームから有益な投稿と判断され、フォロワー外へのレコメンドにつながりやすくなります。
だからこそ、単に数を増やすのではなく、自社の投稿に興味を持ち、反応してくれる「質の高いフォロワー」を増やすことが重要です。
一方で、フォロワー数だけを見ても、実際に投稿が届いた人数や、運用によって生まれた成果までは分かりません。現在のSNS運用では、少なくとも次の4種類を分けて見る必要があります。
・フォロワー数
=自社アカウントをフォローしている人の数
・インプレッション、リーチ、接触頻度
=実際に情報が表示された数
・いいね、リポスト、返信、クリックなどのエンゲージメント
=情報を見た人が起こした反応
・UGC、指名検索、ブランド想起、売上
=情報への接触後に生まれた行動や意識の変化
「実際に情報が表示された数」は、企業アカウントの投稿だけでなく、生活者によるクチコミ(UGC)も含みます。
企業の投稿を見ていない人が、ほかの利用者のクチコミを通じて商品を知ることもあるからです。公式投稿の数字だけを見ていると、SNS上でブランドの情報がどこまで広がったかを見落としてしまいます。
だから、「フォロワー数が増えた」「自社アカウントのインプレッションが伸びた」というだけでは、SNS運用が成功したとは判断できません。
届けたい相手にどれだけ表示されたか、いいねやリポストなどの反応が得られたか、さらにUGC・指名検索・ブランド想起・売上が施策前後でどう変わったかまで確認する必要があります。
例えば、フォロワーが1万人増えても、届けたい相手への表示やエンゲージメント、指名検索数が変わっていなければ、情報を届けられる相手が1万人増えたとは言えません。
一方、フォロワー数が横ばいでも、企業の投稿やUGCを通じた接触が増え、クチコミや指名検索も増えているなら、SNS施策は事業成果に近づいています。
投稿を変える前に、企業の評価基準を見直す
企業がSNS担当者の成果をどの指標で評価するかによって、担当者が選ぶ施策も変わります。
フォロワー数だけで評価される場合は、フォローを参加条件にしたキャンペーンを増やすでしょう。1投稿のインプレッションだけで評価される場合は、ブランドとの関係が薄くても、SNSユーザーの興味を引く話題を選ぶようになります。
いずれも、会社から求められた数字を伸ばそうとした結果です。
企業はまず、「誰に情報を届け、どのような変化を起こしたいのか」を決める必要があります。
そして、フォロワー数だけでなく、狙った相手への接触、そこで得られた反応、UGCや指名検索、ブランド想起、売上の変化を合わせて見ることで、SNS運用の成果を適切に判断できます。
今回の調査からも、企業の投稿は、フォロワー数から想像するほどには表示されていないことが分かりました。
それにもかかわらず、フォロワー数や投稿単体のインプレッションだけを評価基準にすると、社内で高く評価される運用と、実際に事業成果につながる運用が別物になってしまいます。
「フォロワーを何人増やしたか」から、「実際にどれだけ届き、どのような変化が生まれたか」へ、いま見直すべきなのは、投稿だけではなく、今の環境にあう評価の仕方です。
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【著者プロフィール】
増岡宏紀
株式会社ホットリンク 執行役員COO
2016年にホットリンクへ入社後、SNSコンサルタント・プロモーションプランナーとして企業のSNS戦略立案や運用支援に従事。現在は執行役員COOとして、新規顧客の戦略設計から実行支援までを統括。業界イベント・セミナーへの登壇、マーケティング専門メディアへの寄稿・取材実績も多数。2025年12月には、日経BP社より著書『コミュニティマーケティングは「巨人の肩」に乗れ ~UGCと指名検索が増え続けるSNS活用の新常識~』を発売。
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これがどういうことか分かりますか?今までは26で研修医終わって27で内科認定医、これでいよいよ循環器内科で頑張るぞ!だったのが、29で循環器内科だ頑張るぞ!になったんですよ。このサブスぺシャリティという真のスタートラインが29才になったのが新専門医制度。18才で医学部に入って真のスタートが29才って。
妊孕性が年々低下していくことなんて世間でも認知されていて、国家試験でDown症は高齢出産ほど起きやすいなんて選択肢まで出すのに私たちはいつ妊娠すればいいの?29で真のスタートラインに立った、けれど子供産んでから復帰するのであと3年は待ってくださいになるのでしょうか、それとも研修医終わりました、26で子供産んで落ちついてからから内科認定医取ります、みたいな流れなんですか。
2018年の「はてな匿名ダイアリー」に投稿された上掲記事は、女性医師のライフコースの難しさを赤裸々に記していた。
キャリアと子育ての板挟みに悩む女性医師は前々から少なくなかったが、昨今の医師研修制度によってますます厳しくなっている話は、もっと知られてもいいように思う。
その一方で、これは働く女性全般、いや、男性も含めたキャリア志向の現代人の大半に適用できる話として私は読んだ。
ここ十数年ぐらいの日本では、仕事に打ち込むうちに結婚や子育てのタイミングを逃してしまう女性が後を絶たなかった。そうでなくても、出産や子育てに踏み切ったことでキャリアが中断してしまった女性、職場に迷惑をかけていないか気にしている女性が少なくなかった。
少子化が喫緊の課題となったことで、男性も育児休暇を取れるようになった。もちろんそれ自体は喜ばしいことだが、育児休暇を取る男性にしても、職場を休む際には申し訳ない気持ちが湧くことがあるように思う。
従業員が子育てのために順番に休暇を取ることを当然のサイクルとみている職場は、まだまだ多くない。
こうした現実を振り返るに、私は思わずにいられない。
そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていないのではないか。
結婚。出産。子育て。
こういった、生殖にダイレクトに関わる諸々が非常に難しくなっているからこそ少子化に歯止めがかからず、ちょっと大げさな言い方をすると、日本人は絶滅の危機に瀕しているのではないだろうか。
このあたりについて、今の私が疑問に思っていることを少し書いてみる。
ブルジョワ化していった意識、ブルジョワ化していった働き方
さきほどから私は、現代人という言葉を使っている。
ここでいう現代人とは、できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指すことを良しとする人々のことだ。
因襲や宗教よりも社会契約や合理主義を重んじ、勤勉で、仕事をサボることを良しとしない人々のことでもある。たとえば21世紀の東京で働いている人のほとんどは、この現代人に該当すると考えて差支えない。
現代人のルーツは、近世以前のいわゆる第三身分、ブルジョワジーに由来する。
資本家や医師や法律家といった人々、今でいえば高級ホワイトカラーに相当する人々は、ずっと昔から高学歴志向・キャリア志向のライフコースを採っていた。
彼らは社会契約のロジックにも忠実で、勤勉に働いた。現代人の基準では当たり前に思えるかもしれないが、これらは近世以前においては例外的なライフコース観だった。
日本では、そうしたブルジョワ然としたライフコースを採る人が戦前から増え続けてきた。
ホワイトカラーの卵である大卒者は、明治時代にはスーパーエリートだったが、大正~昭和初期にかけてどんどん増え続けた。急激な近代化を支えるには大量のホワイトカラーが必要で、高学歴者を生み出すシステムが整備されていった。
と同時に、ホワイトカラーならではの文化や意識が社会の主流に、あるいはテンプレートになっていった。
とはいえ、こうした変化が本格化したのは戦後のことだ。

昨今の大学進学率が示しているように、大卒はエリートでもなんでもなくなった。できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指す意識は、資本家や医師や法律家の専売特許ではない。
どこの家庭も「自分の子どもには高学歴・高収入になってもらいたい」と願うようになり、受験戦争が白熱するようになった。
昭和の終わりに、「一億総中流」という言葉が流行したことがある。「一億総中流」とは、みんなが中流の年収を得るようになったという意味ではない。
みんなが中流意識を持つようになったこと、つまり、ホワイトカラー的・ブルジョワ的な意識が社会に行き渡ったことを指した言葉が「一億総中流」だった。
ホワイトカラーが典型的な職業とみなされるようになり、女性に関しても、高学歴・高収入を目指す「働く女性」が当たり前とみなされるようになっていった。
そうした意識改革と経済成長がマッチしたのが、バブル景気崩壊までの日本社会だったのだろう。
経済資本・人的資本まではブルジョワ化できなかった
しかし、意識や働き方がブルジョワ化したからといって、なにもかも戦前のブルジョワと同等になったわけではない。
かつてブルジョワと呼ばれた人々は上昇志向で勤勉だっただけでなく、経済資本に恵まれ、人を使える立場だった。
仕事熱心なブルジョワの実生活を支えていたのは、使用人や家政婦のたぐいだ。
子育ての領域でも、乳母・教育係・寄宿学校といったさまざまなリソースを利用できたからこそ、ブルジョワは自分自身のキャリアに集中できていた。
ブルジョワの意識と実生活の背景に、「生活のことなんて考えなくても構わない」「子育てもアウトソースして構わない」があったことは、現代人の意識と実生活を考えるうえで忘れてはならないものだと私は思う。
さきに述べたとおり、日本社会ではブルジョワ的な意識や働き方が庶民にどんどん広まっていった。
ところが、ブルジョワ化した庶民の生活を支えるための使用人や家政婦が増えたわけではなかった。乳母・教育係・寄宿学校といったリソースは、高嶺の花であり続けている。
ブルジョワ化した庶民は、ブルジョワのように意識してブルジョワのように働くけれども、実生活や子育てを他人任せにできるほどの経済資本や人的資本を授けられなかったのである。
その結果、「ブルジョワのように意識し、ブルジョワのように働くけれども、実生活や子育てを自分でやらなければならない人々」がものすごい勢いで増えた。
つまり、本当に増えたのはブルジョワではなく、ブルジョワになりたくてもなりきれないプチブルたちだったのである。
はじめ、この問題は「専業主婦」というシステムで一応の解決をみた。
戦後しばらくの間は、国が専業主婦というシステムを後押しするかたちで、夫がブルジョワ的に働き、妻が乳母や家政婦の役割を担う分業が広く採られた。
『サザエさん』や『ドラえもん』を見ると、当時の家庭のテンプレートをうかがい知ることができる。
専業主婦システムは、家父長的な、問題のあるシステムとみなされようし、実際、母親に偏重した子育ては、マザーコンプレックスをはじめとするさまざまな家族病理を生み出した。
それでも父親の収入だけで家庭が賄えたうちは、専業主婦システムはひとつの解決法たりえた。
急速に普及した家電製品も母親の助けになったし、20世紀末にはレトルト食品やコンビニなども利用できるようになった。
配偶者の片方だけで十分な収入が得られ、家族病理を回避する算段が立つなら専業主婦/専業主夫による分業システムは現在でも十分通用する。
ところがバブル景気が崩壊してからの日本では、片方が働いて片方が養う……という分業が成立しにくくなってしまった。
ブルジョワ的な意識や働き方はますます庶民に広がっていったのに、それにみあった年収はますます庶民から遠のいていった。
末広がりなブルジョワの裾野に位置している人々、社会的上昇を果たせないプチブルにあたる人々は、勤勉に働いているにも関わらず、使用人のひとりも雇えない。
それどころか、夫婦二人で食っていくのに精一杯という人、結婚なんて経済的にとんでもないという人すら珍しくなくなっている。
コンビニなどのサービス業が進歩したため、対価さえ払えれば生活の利便性は向上したと言える。
だが、生殖、子育ての領域ではまったくこの限りではない。保育園ではカヴァーできない部分はまだまだある。のみならず、ブルジョワ~プチブル的な意識においては、子どもの教育にカネをかけるのが当然とみなされているから、保育園に子守りをさせるだけでは駄目なのである。
よって、ブルジョワ~プチブル的な意識をじゅうぶんに内面化した現代人は、子育てにカネがかけられる見込みがない限り結婚したがらないし出産したがらない。
「貧乏の子だくさん」などという事態を現代人は選ぼうとしない。それは、男も女も同じである。
庶民がみんながブルジョワ~プチブル化し、それでも生活や生殖が破綻しないようにするためには、本当は、生活や生殖を支えるための太い経済資本や人的資本が必要だったはずなのだ。
だが、実際にブルジョワ化したのは意識や働き方ばかりで、在りし日のブルジョワ“階級”のような豊かな経済資本や人的資本は望むべくもなかった。
そうした理想と現実のはざまを専業主婦システムでごまかせていた時代もあったが、バブル景気崩壊後の日本、とりわけ東京ではそれが困難になってしまった。
もちろんこれは東京に限った話ではない。ソウルや台北やバンコクの出生率を確かめてみればいい。
庶民のブルジョワ~プチブル化が進んでいく国にはよくある現象のようにみえてならない。
生殖という観点からブルジョワを批判する
大昔の、本家本筋のブルジョワが乳母や使用人を雇うことができたのは、国内の階級による格差や、宗主国と植民地との格差が存在していたからだ。
だが、途上国に追いつかれ、追い越される日本において、在りし日のブルジョワの特権を庶民すべてに授けるなど不可能である。
近代から現代にかけて、日本人は、いや世界じゅうの人々は、ひたすら総ブルジョワ~プチブル化の道を歩み、みんなが高学歴を志向して、みんなが勤勉に働くようになった。
それは自体は良かったのだろう。
他方、意識と働き方ばかりブルジョワ化し、その生活と生殖を支えるためのバックボーンを授けられなかった(それどころか、バックボーンを失う一方の)人々に、やれ、子どもをつくりなさい、世代を再生産しなさい、と迫るのは厳しいことだと思う。
その厳しいことを、日本は、いや先進的な国々はあの手この手で誤魔化しながらやり過ごしてきた。けれども、とうとうやり過ごしきれなくなって、みんな生殖を後回しにするようになった。それは仕方のないことだと私は思う。
冒頭の女性医師などが典型だが、現代人のライフコースは、みずから生活や子育てを実践することを前提につくられていない。
あくまでブルジョワ的に働き、ブルジョワ的に「稼ぐ」ことが前提になっていて、社会も個人の内面もそのようにつくられてしまっている。これまではそれで良かったのだろう。だが、これからもそれで良いのだろうか?
「ブルジョワの打倒」と書くとマルクス的に聞こえるかもしれないけれども、生殖という観点からみても、ブルジョワは打倒すべき対象ではないだろうか。
2026年になっても私は、生殖という観点からブルジョワの理想と現実について批判している書籍を見たことがない。
もし、この散文を読んで「そういう書籍なら、以前に読んだことがあるよ」という人がいたら、是非紹介して欲しい。
今の世の中を理解するためには、そういう視点も必要な気がしてならないからだ。
『シロクマの屑籠』セレクション(2018年7月2日投稿)より
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

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おれのブログが引用されました
上田信治さんという方からメールが届いた。著書におれのブログからの引用をしたので、ご恵贈いただけるという話だった。
引用に許可もなにもいらないのでありがたい話だと思った。そしておれの手元に『成分表: 偽マキロン・悲しみについて』が届いた。
申し訳ないが、おれは上田信治さんのことを存じ上げなかった。
有名漫画『あたしンち』の共作者にして俳人、漫画家のオットでもある著者による、日常の探究、ふたたび――
申し訳ないが、おれは『あたしンち』を名前しか存じ上げなかった。
しかし、『成分表: 偽マキロン・悲しみについて』はたいへんよい本だった。このごろ体調などもあってろくに読書していないが、たいへんよかった。
で、とりあえずおれのブログのなにが引用されたのか引用を引用しよう。「道徳」という一編にそれはあった。
思うに。
人は誰の所有物ではないのだから、個としての人には、どう考えても、自死を選ぶ権利がある。ほんとうにつらい人がそれをすることは、あるていど仕方がない。
しかし、現実に誰かがそれをしようとしていたら、反射的に止めなければならないと思うのが人情だ。
村上龍はエッセイの中で繰り返し「自殺をするな」ということを書いているし、中島義道は「きみが死んだら、ぼくは悲しい。だから、死んではいけないのだ」と書いた。二人とも人情に従って、誰かのために自分の気持ち以外に拠り所のない言葉を書いたのだ(なんと、お人のいい)。
ある人はブログで「食べようと思って作ったラーメンを床にぶちまけたら、最悪だ。だから、人は自殺をしていけないし、人を殺してはいけない」「それは比喩ではなく、間髪入れずにそうなのだ」ということを書いていて(ブログ「関内関外日記」黄金頭)それは本当のことだと思った。
おお、出てきた。おれはそんなことを書いたことがある。それは覚えている。
永井均は自殺について「自殺権は破格に重要な自然権だと思う」と言いつつ、別の場所で「真っ暗な宇宙に一つだけついているテレビを、番組がつまらないからと言って消すことは、越権ではないか」ということを書いていた。
ブログの人も永井均も、きわどいところで「それ」を言えている。それは伝声管の穴を伝って届かせるような物言いによって、可能になっている。
おれにはきわどいところで「それ」を言えているかわからない。おれは「禅の言葉」というあり方としてあやういものが好きだが、そういうあたりを偶然ついてしまったのかもしれない。
「道徳」はこのような言葉で終わっている。
昔と違って、人は道徳が欲しければ、それを作らなければいけない。
マンションの管理組合の規約を、出来合いのそれを使わずに書くようなもので、見栄えのしない仕事だけれど、世界の今ていどの良さを維持するには、それをするしかないのだろう。
それは、世界への「服従」でなく「支援」としての道徳になるはずだ。
ラーメンとテレビの比喩は、その一例としてある。
正直、おれが書いたことが支援としての道徳になるのかどうか、まったくわからない。ただ、そのように光を当ててくれた人がいた。
おれのラーメン理論
こうなると、おれは自分の書いたものを読み返さなければいけない。おれは自分のブログを検索した。次のエントリーが見つかった。
おれのラーメン理論と『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』(中島義道)
なんと『成分表』にも名前が出ていた中島義道の本に対する感想として書かれたものだった。おれは中島義道の本へのアンサーとして「ラーメン理論」を出したようだ。
では、それがどのようなものか、少し長いが引用しよう。
いきなりだがラーメンの話をする。おれでもいいし、君でもいいが、キッチンでラーメンを作る。君だかおれだかは腹が減っていてラーメンを作って食おうとしている。が、ちゃぶ台なりテーブルなりに運ぶ途中、手が滑ってラーメンをフローリングなりカーペットなりにぶちまけてしまう。部屋はスープでびちょびちょになるし、さっきまで腹に収めようとしていた麺も食えたもんじゃない。ゆでたまごだのほうれん草だのも湯気をたてて転がっている。最悪じゃないか。だから人間は自殺しちゃいけないし、人は人を殺してはいけないのだ。
……いつだったか、「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いが流行ったときに、おれがいろいろ考えた上で出た結論がこれだった。おまえ、ラーメンをぶちまけるなんて最悪じゃないか。だから、人は人を殺しちゃいけねえんだ。勘違いしないでほしいのは、おれは比喩で言ってるんじゃないってことだ。人の命や人生というものをラーメンにたとえてるわけじゃないんだ。ラーメンをぶちまけると最悪だから、人は人を殺しちゃいけないんだ。間髪を入れず、そうなんだ。比喩じゃないというのは言い過ぎかもしれないが、曖昧でよくわからない全体がそこにはあるんだ。
こんなもの人に理解しろというのは無理がある。ただ、おれのなかでは一本の筋道がある。電光、影裏に春風を斬らん!
やっぱり、電光影裏とか禅を意識している。間髪をいれずとか言ってるのもそれだ。
しかしそうか、おれは「なぜ人を殺してはいけないのか?」論争(というものがあった)に対して、そんな答えを出していたのか。
そしてなんだろう、この考え方についていまおれが別の意見を持っているとか、否定するとかいうこともない。いまもおれのなかにはラーメン理論が生きている。作ったラーメンをテーブルに運んでいてぶちまける。嫌だろう。それだ。
おれはラーメンをぶちまけないようにした、のか?
ところでおれは昨年、希少がんがわかって入院、手術をした。さんざん書いてきた話だ。自分で言うのもなんだが、行動に無駄がなかったと思う。
内視鏡で変なポリープがあった。すぐに市大病院を予約した。予約して行った。行って、がん疑いになった。指定される最速の検査を受けた。検査結果が出て、最速の入院をして手術をした。
その後、一時的人工肛門つけたり閉鎖したりしたが、まあそれはそうとして、希少がん(NET G1)に対して、現代の標準医療が提供するものをすべて最速で受け入れた。
恐怖はあったが、迷いはなかった。おれは自分の生命を守ることに必死だった(ここで必死ってへんな言い方だな)。
……と、いえるのだろうか。おれにはそこまで「死んではいけない」とか「死ぬわけにはいかない」と考えていたわけではない、ような気がする。
おれには守るべき家族もいないし、今後生きていて上がり目があるわけでもないし、安定した老後を送れるような資産もない。「まあ、べつに死んでもいいか」という気持ちはあった。それはずっとあった。11年前の当該記事でもこう書いている。
いずれにせよ、おれのような者にとってこの世は生きるに値しないし、この世の方もおれは生きるに値しないと審判を下している。少なくとも資本主義のこの社会では、おれはおれが生きていくだけの糧を稼いでいくことはできない。
おれは頭が悪いし、おまけに病気だ。おれが労働の真似事をしたところで、世間はおれに回す金が無いようだ。もっとそれに適した人間のところに金は行く。そのようにできている。
だから、おれは生きている意味などないし、これより一層落ちたら住処を失い路上か刑務所に行くよりない。残されているのは自殺しかない。おれはその三つなら自殺を選ぶだろう。
そんな人間が、がんに対して最速で最適の行動をとった。苦しい検査や手術は嫌だし、人工肛門も嫌だからやめよう、とは思わなかった。
嫌なのは嫌なので、そこは誤解しないでほしい。すごく嫌だった。でも、そこから逃げるどころか、進んで治す方、生きる方を選んだ。
それはなにか。やはり、おれはおれのラーメンがぶちまけられるのが嫌だったのか。病気のときにラーメン理論を思い浮かべたわけではないが、心の奥底には「それ」があったのかもしれない。
現にいま、手術や治療のことを思い返すと「自分に耐えられるはずもないのに、なんでできたんだろう?」と感じる。ラーメンだけはぶちまけてはいけない。それだけだったのか。
人生を生きる意味は?
そんなことを考えながら、また上田信治『成分表 偽マキロン・悲しみについて』に戻ろう。「完成」という一編があった。
人生の意味は、と人は問う。
けれど、この私が生まれた意味は、多様性を生み出すための「員数合わせ」として、たぶん、すでに果たされている。
私たちはでたらめに多様に生まれついて、しかも用途があるとは限らない。
ランダムなパーツの入ったプラモデルの箱を渡されて、これですかーと思いながら生きている。だとすれば、私たちが人生でやるべきことは、たぶん決まっている。
各人、役にも立たなければ意味もない、人との違いを楽しみ尽くすこと。
そして、パーツの揃わないプラモデルとして、でたらめな完成を目指すのだ。
多様性を生み出すための員数合わせというのはひとつの納得できる答えかもしれない。
少なくとも地球上の生命はダーウィン進化の先にあって、中にある。火星に生命があったとしても同じかもしれない。おれの遺伝子は直接的な意味でおれで途絶えてしまうが、ひとつの多様性ではあった。
とはいえ、おれはそれを「楽しみ尽くす」ように生きているだろうか。どうも違うような気がする。おれは物心ついたころからのペシミストだ。シオランを信奉する類の人間だ。
「おまえの人生に楽しいことはなかったのか?」、「おまえは楽しいことをしようという気持ちがないのか?」と問われれば、それはノーだろう。楽しいこともあったろうし、楽しいことをしようとするだろう。精神を病み、がんの後遺症に悩みながらも、なんらかの楽しみを求める。それは否定しない。
でも、おれの人生の根底、根本に「楽しみ」を置くことができるのか。置いているのか。やはりそれはどうも違う。楽しみの代わりに苦しみが置かれているような気がしてならない。
人間、どこからその違いが出てくるのか。これもまた多様性といえばそれで終わりだろう。
「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」(Le pessimisme est d'humeur ; l'optimisme est de volonté.)という言葉を、おれはエンツェンスベルガーの本で知ったが、元はアランの『幸福論』だろう。そうすると、おれは意志薄弱というか、意志のない人間だということになる。ラーメンをぶちまけないようにしている。ただ、植物が光に向かって伸びていくように反射で生きている。
光に向かって生きているといえば、それはそれで聞こえはいいが。
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【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :ali abiyar
先日、facebookに何気なく投稿したつぶやきが、100万回以上閲覧されることがあった。
スーパーでは、焼肉用の牛タンは固い部位(タン先)と柔らかい部位(タン中、タン元)を盛り込んで売るお店が多い。
固いタン先は歯ごたえがあり過ぎるので、煮込み用として別に売られることもあるだろうか。
しかしこのお店では、タン先だけで焼肉用として売っていたので驚き、投稿したものだった。
するとこの投稿に、本職のお肉屋さん、スーパーの精肉部門で働く人、一般の消費者も含めて、たくさんの反響が書き込まれる。
「肉屋です。スーパーの精肉部門はそんなもんです」
「タン先、タン元⋯関係なく満遍に売れますよ!」
「教えて頂きありがとうございます!違いを知りませんでした!」
「タン先の方が脂少なくてヘルシーなので、逆に選んでしまいます」
好みの違いに気が付かなかった、SNSならではの学びをもらい勉強になる。
中にはこんなレスまでもらい、本当に目からうろこだった。
「タコのオスとメス同様に知ってる人が美味しい思いをする仕組みです。生鮮食品あるあるの目利きですね!」
レスをくれた人曰く、吸盤のデカいタコはオスで身が緩い。小さく揃っているのはメスで身が締まっていて旨いとのこと。
確かに、稀に吸盤の小さいタコを食べたら旨いなと思うことがあったが、まさかオスメスの違いだったとは…。これからはスーパーで必死に目利きしようと、お礼のレスを書き込んだ。
そんな中、一定数の閲覧があるとどうしても、facebookのような実名SNSでもこんな書き込みをしてくる人がいる。
「同じ値段じゃないじゃん、バカ?」
中には“コイツ”呼ばわりで、左の方が876円、右は661円じゃないかと、“マヌケ”と罵倒してくる見ず知らずの人まで現れる。
普段から買い物に行き、生活感のある人であればそんな勘違いはしないだろう。
さすがにそこまで度が過ぎれば、読んで下さる他の人にも不快だろうと、黙ってコメントを削除する。
そしてそんな“SNSバズ”ならではの光景を見ながら、ふと思い出したことがある。
「何が悪いのか、知りたいんです」
もうずいぶんと昔の話だ。
20代の若い社員から2人で飲みたいと誘われ、仕事終わりに安居酒屋に連れて行ったことがある。
生ビールで乾杯し、ひとしきりの雑談をかわすと思い詰めたように下を向き、言葉を絞り出す。
「僕の何がおかしいのか、教えて頂けませんか…」
相当、悩んでいたのだろう。それだけ言うと一気にビールを飲み干し、目線をそらせたまま固まってしまった。
心なしか、目は充血しているように見える。
「まずは少し、落ち着こうか。いったいどうしたんや」
「…上司から、退職勧奨のようなことを言われたんです」
「具体的には?」
「お前は本当におかしいと。ウチはもちろん、日本での仕事は向いてないんじゃないかと」
両親とも日本人、生粋の日本人である彼だが、幼少期から高校までアメリカで育っていた。
そんなこともあるのだろう、良くも悪くも納得できない指示ややり方には、どんな小さなことでも上司や先輩に反論していたと聞いている。
「アイツには手を焼きます、なんとかならないでしょうか」
平成の前半といった時代背景もあり、まだまだ年功序列の価値観も根強かった頃あいだ。
上司の側からも、そんな相談をされたことがある。
私自身、こんなやり取りで彼に少し驚いたことがあった。
「次のアポがギリギリやし、タクシーで向かおうか(=流しのタクシーをつかまえてという意思表示のつもり)」
「わかりました」
「・・・」
動こうとしないのでやむを得ず、道路に出て自分でタクシーをつかまえる。
すると彼は、停車したタクシーに先に、黙ったまま乗り込んでしまった。
「いかにも山本らしい行動やけど、今のはアカンな」
「なぜですか?」
「タクシーで向かおうと言われたら、日本では目下の立場が車を探すのが一般的かな。それと、先に乗るのも目上というのが一応のところ、日本のビジネスマナーやねん」
「納得できません、道路に近い場所に立っていたのが桃野さんでしたし、車が停まった時、ドア近くに立っていたのが私だったのでこの方が自然です」
「言ってることはわかる、まあ今の場面はともかくとしてや。山本が考える全体最適と、上司や経営陣が考える全体最適は、一致しないことがほとんどや。山本の考えは、多くの場合で部分最適かも知れんぞ」
ハッと何かに気がついたように、黙り込む。
ローコンテクスト、すなわち文脈に依存せずなんでも言語化することが当たり前のアメリカで育った彼だ。
そこからハイコンテクスト、すなわち文脈から“空気を読む”文化の最たる日本に戻ってきたのだから、いろいろとストレスを感じて当然である。
それは上司や同僚も同じで、組織になじめずにいたというのが客観的な事実なのだろう。
「確かに上司の言葉は、退職勧奨かもしれんのでキツイな。で、どうしたいんや?」
「自分の何が悪いのか、知りたいんです」
ビールをお替りし、それもまた勢いよく流し込みながらそんなことを答える。
酒でも飲まなければ相談できないほどに、悔しかった想いが伝わる。
もうずいぶんと昔の話なので、そのあと彼にどんなアドバイスをしたのか、細かな言葉は正直よく覚えていない。
ただ、誰も悪いヤツなどいない、それぞれのやり方が違う時、それぞれが歩み寄らないとぶつかるのが組織だと伝えた。
生きやすい組織に転じるか、それが難しいならハイコンテクストなコミュニケーションに慣れる訓練を少しずつでもするよう、助言したことを覚えている。
その後、彼はほどなくして外資系の製造業に転職を決め、会社を去っていった。
「ひとは、自分の器で学べることしか学べない」
話は冒頭の、“牛タンのバズ”についてだ。
「同じ値段じゃないじゃん、バカ?」
そんな勘違いで罵倒してきた書き込みをみて、なぜそんな昔の出来事を思い出したのか。
人はどれだけ学びに努めても、何も知らないに等しいほどに無知な存在だ。
ネットやAIの時代にあっても、森羅万象どころかどうでもいい雑学ですら、その0.1%も知ることができない。
それほどに人生は短く、世界は広い。
そんな中にあって、「自分の知識と経験の限界」を疑えないことほど、こっけいなことはない。
先の書き込みをした人は、自分でスーパーに買い物に行き、高い安いに悩む世界にいない人なのだろう。
買い物に行かないのであれば、単価という常識が無くても当然のことだ。
私自身、社会人になりたての頃に初めての贅沢でデパ地下のサラダ売り場に行った時のこと。
“600円/100g”と表記されている、すでにパッキングされている量り売りの商品を手に取り、1500円と言われて腰を抜かしたことがある。
それほどに、当たり前の日常ですら経験しないとわからないことに、人生はあふれている。
だからこそ、自分の知っている知識や経験など取るに足らないことを理解しないと、人はますます無知になっていく。
それを認める勇気を持てるかどうかで、知性のベクトルは大きく変わる。
その意味で、最初に自分の立ち居振る舞いを疑った元部下の彼は本当に凄かったと、今も思っている。
幼少期から過ごし身に着けた価値観を疑うなど、並大抵の勇気ではない。
「自分の何が悪いのか、知りたいんです」
あの時の彼の、鬼気迫る真剣な表情は今もよく覚えている。
そしてアドバイスに素直に耳を傾け、価値観を上書きし進路を変えた。
私の敬愛する、元大学教授に教えてもらった、こんな言葉がある。
「ひとは、自分の器で学べることしか学べない」
同じ人から同じ言葉を聞いても、学べるかどうかはその人次第ということだ。
出社最終日にあいさつに来てくれた彼は、最後にこんなことを言ってくれた。
「納得できる答えを初めて貰えました」
私の拙いアドバイスのようなものからでも、必死になって何かを学ぼうとしてくれたのだろう。
自分の知性と経験の限界を疑い、0ベースからリセットできた彼の事だ。
きっと自分の居場所を得て、驚くほどのフィールドで活躍していると確信している。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
美味しい牛タン食べたい。
X(旧Twitter) :@ momod1997
facebook :桃野泰徳
Photo:Crystal Jo
はじめに、これをご覧になっていただきたい。

これは、東京大学系のウェブメディア「U Tokyo」から引用してきた、東京大学の学生の男女比をあらわしたグラフだ。
これを見てノーヒントで「東大生の男女比だ!」と読み取れる人は、よほどの東大マニアか、受験産業マニアか、ジェンダーマニアか、なんにせよマニアに違いないと思われる。
引用元では、この表を【特集 悩める東大 お金の話だけではない大学の現状と課題】という記事のなかで紹介している。
何を悩んでいるのか? もちろん、東大生の男女比が大きく男性に傾いていることが「悩みの種」だろう。
関連して、「東大の教員の男女比も男性に傾いている」「女子のほうが自分を過小評価しがち」「思い込みが理系の男性イメージを強化」といったことにも話題が広がり、「東大に女性が少ない問題はジェンダー不平等の象徴」とも締めくくられている。
この話の論旨は、進学率の男女比は生物学的な男女の差異によるのでなく、社会構築物としてのジェンダーの差異によるという前提に基づいている。
そのうえで現在の東大生や東大教員の男女比について憂うのはまったく「正しい」姿勢と言える。
では、なぜ、このように正しくなくジェンダー的に遅れたことが東大で起こっているのだろうか?
答えのひとつは、今日の価値判断=「正しさ」に基づいたジェンダー平等の推進が足りない、というものだ。
たとえばソウル大学の学生(3:7弱ぐらい)や北京大学の学生(4:6弱ぐらい)と比較すると、東大学生の男女比は極端と言わざるを得ない。
韓国や中国の最高学府でできていることがなぜ日本でできないのか? と問われたら、そこになんらかの問題がある、と考える姿勢は自然なものだ。
ちなみにハーバード大学やオックスフォード大学ともなると、学生の男女比はもっとずっと均衡している。ジェンダー的不平等の改善、という視点でみると、ここには是正の余地があるようにみえる。
答えのもうひとつは、ジェンダーの反対、生物学的な傾向に根差した統計学的根拠だ。そもそも極端な高学歴者が男性に発生しやすいとしたら、問題の本丸は生物学的男女比に由来することになるかもしれない。
『人間知能の正体』に答えを問う
この問題について考えるヒントになりそうな書籍に巡り合った。Ian J. Deary著、柿沼一雄・大井由貴訳『Intelligence 人間知能の正体』である。
本書の著者はエディンバラ大学で教授として活躍した心理学者だ。
知能の測定とその統計的傾向について、読者が正確な知識を獲得できることを期待してこの本を作ったのだという。
IQ、知能指数についてはインターネット上でさまざまなことが言われているが、信頼できる専門家が書いた書籍にあたるのが一番だろう。
高学歴の男女比について考える前に、まずIQの男女比について『人間知能の正体』を調べてみよう。
すると、たくさんの被験者を集めて測定した研究ではIQの男女差は無い(=統計的に有意な男女の差がない)、と出ている。
統計的有意差を抜きにして構わないなら、女性のほうがスコアが高い研究も多い。
これらの研究結果からは、「男性全体のIQの平均値と女性全体のIQの平均値では、男女の差は無い」、と言える。
ところが「男性全体のIQの平均」と「女性全体のIQの平均」には差がなくても、「男性のIQのばらつき具合」と「女性のIQのばらつき具合」にはかなりの差がある。

これは1932年にスコットランドで行われた知能調査の結果だ(『人間知能の正体』から)。
このグラフが、それぞれのIQ帯における男性の占めるパーセンテージ、および女性の占めるパーセンテージをプロットしたグラフである点に留意しながらご覧いただきたい。
たとえばIQ60の男性は188人、IQ60と測定された総勢の58.6%を占めており、IQ60の女性は133人、IQ60と測定された総勢の41.4%しか占めていない。
一方、IQ100の男性は4534人、IQ100と測定された総勢の49.99%を占めていて、IQ100の女性は4748人、IQ100と測定された総勢の50.01%を占め、ここでは男女比が逆転している。
このグラフから読み取れるのは、IQ100に近い平均的な領域では女性のほうが多く、IQが極端に低い、または高い領域では男性のほうが多い、ということだ。
というより「女性のほうがIQのばらつきは少なく」「男性のほうがIQのばらつきが大きい」と言い換えたほうがいいかもしれない。
統計学的な表現をするなら「男性被検者群においてはIQの正規分布の分散が大きく、女性被検者群においてはIQの正規分布の分散が小さい」、となるだろうか。
ちょっと小さくて読みにくいが、このグラフにはそれぞれのIQのおける男女の人数が記されている。
これをよく見ると、IQ90~110あたりにおいて女性が多いといっても、男性被検者も大半がここに含まれているし、このIQ帯における男女の人数比は0.01%の桁のレベルに過ぎない。だから、世間一般から平均的なIQの人を探し出してくると、男女比はほとんど同じと感じられるだろう。
ところがIQ60~70やIQ130~140のIQ帯になると、男女比はかなり明瞭になる。
世間一般から極端にIQが低い人や極端にIQが高い人を探し出してくる場合、かなりはっきりと男性のほうが多いと感じられるだろう。
このレポートは1932年のものだが、その後に行われたさまざまな研究でも同じ傾向が確認されている。
数十年前の研究でも最近の研究でも、異なるテストセットを用いても、アメリカでもイギリスでも同様だったと『人間知能の正体』は記している。
ちなみにIQの下位項目についてみていくと、数的推論や非言語的推論といった下位項目ではこのグラフのとおりになるが、言語的推論という下位項目では高IQ帯においても女性が一貫して男性を凌駕している。
この、男性のほうがIQのばらつきが大きい現象は、「雌より雄のほうが身体の機能や行動のばらつきが大きい」という有性生殖生物全般にみられる傾向とも一致している。
おそらく、生物学的なバックグラウンドに基づいた傾向と思われる。
ただし「IQの高低」と「学歴の高低」はイコールではない
だが、ここまで注意深く読んでくださった読者の方は意識しているだろうが、「IQの高低」と「学歴の高低」はまだイコールではない。
IQが高い人は学歴も高いと本当に言ってしまっていいのだろうか?
この疑問に答えるレポートを『人間知能の正体』はちゃんと紹介している。

この表は、著者らが1997年に11歳だった子どものIQを測定した総まとめ(F1)と16歳時の一般教育証明試験を測定した総まとめ(F2)がどれぐらいの相関関係にあるのかをみたものだ。
この図に記されている数字はどれも0.8以上だが、これらは相関がかなり高いことをあらわしている。
要するに、11歳時点のIQが高い人は16歳時点の学業成績が優れている傾向にある、とここから読み取れる。
同じく職務遂行能力、特に専門的で複雑な仕事における職業的成功の予測因子としても、IQの高さはかなり精度が高い、と同書にはある。
IQの高さだけが予測因子として優れているわけではないし、IQの高さだけを頼りにすべきでもない点は同書も断っている。
とはいえ、仕事のできる/できないを占う因子のひとつとして、IQはある程度までは頼りになりそうである。
ここまでを踏まえると、東大の学生や教員が男性のほうが多いのも、極端な社会的成功者が男性のほうが多いのも、なんだか自然なように思えるかもしれない。
だが、話はそんなに単純でもない。
さっきのIQの男女差についてのグラフをもう一度振り返ってみていただきたい。IQ130~140のIQ帯において男性のほうが割合として多いのは事実だが、あのグラフをよく見ると、IQ130~140の男女比は東大の学生や教員の男女比ほど巨大ではない。
グラフに記されている小さな数字を拾い集めて計算したところ、IQ130~140帯にプロットされている女性のパーセンテージは46.3%で、男性は53.6%でしかない。
IQ140に絞っても、女性のパーセンテージは42.3%で男性のパーセンテージは57.7%程度だから、東京大学の学生や教員における女性のパーセンテージはそれよりずっと小さいことになる。
ここでようやく、冒頭で紹介した「特集 悩める東大 お金の話だけではない大学の現状と課題」という記事の問題提起がわかってくる。
なるほど、高IQ者には若干の男女比の違いがあるかもしれない。だが、その比率と東大の男女比のあいだには巨大なギャップがあり、そのギャップはおそらく社会慣習や社会制度、さらにジェンダー的な問題によって左右されていると考えるべきなのだろう。
学生の進学率に関する限り、北京大学やソウル大学のほうがジェンダー的な問題を解決しているようにみえ、そうはなっていない東京大学がそこを問題視するのは理解できることだ。
統計を眺める時は慎重に。それから個人と集団をごっちゃにしないで
『人間知能の正体』は、人間のIQに関する統計学的に確からしいことをまとめた書籍で、それだけに内容にはインパクトがある。
しかし、「IQのばらつき具合の男女差」が東大における男女差ほど甚大なものではないことが示すように、その内容、その差異の記述がどの程度の水準なのかは注意深く読む必要がある。
たとえば本書は「高IQ帯において男性の比率が高い」ことを教えてくれるが、それは東大における男女差を正当化する根拠になるような水準ではない。
むしろ逆に、本書の内容は東大における男女差がIQの男女差から予測されるよりも大きく、東京大学に、ひいては日本社会になんらかジェンダー的な問題が存在していることを教えてくれている。
本書の内容を論拠として東大の現状を肯定するのは間違っている。
それからもうひとつ。集団にみられる傾向や差異と個人それぞれの性質が一致しているとは限らないことをお忘れなく。
たとえば世の中には、女性の軍用機パイロットが存在する。
統計的にみても、身体機能の男女差から考えても、軍用機のパイロットには男性のほうが向いている傾向が強いと言えるが、個人として十分な資質と意志を持っているなら女性が軍用機パイロットを勤めること自体は妥当だ。
統計としてどうであるかと、個々人が実際にどうであるかが一致しているとは限らない。
そこの不一致を度外視して個人について決めつけるのは、一般に「偏見」と呼ばれるものだと思う。
統計的にどうであるかの話と、個人が実際にどうであるかの話の間にはいつも距離がある。
その距離のことを分けて考えられない人は、統計をあまり振り回してはいけないんじゃないかな、と私は思う。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

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子どもがいる家の夏休みは大変だ
共働きで子育てをしていると、夏は1年のうちでも非常に厳しい時期だ。
平日に、子どもが家にいる。
特に小学校のあいだは本当に大変だ。
下の子の場合は、ありがたいことに学童保育が夏休み期間も対応してくれていたのでかなりマシだったが、上の子の時はそういう環境になかったので、
「この日は夫婦のどちらかが休んで」…
「この日は祖父母のところに連れていって」…
「この日から数日間は夏休みのキャンプ・プログラムに放りこんで」…
と綱渡りのような毎日だった。
新学期が始まるとき、ああ、ようやくこの苦しい日々から解放される…という気持ちになったものだ。
今は下の子も中学生になったのでずいぶんマシになったのだが、あまりに放置するのはまずいだろうということで、子どもたちがずっと家にいる予定の日に合わせて、在宅勤務をする。
これはこれで、うっとうしい。
仕事に集中できない。
コロナ禍の時は二人とも小さかったので、親の言うことをそれなりに聞いていた。
何時から何時まではみんなで集中する時間にしよう、と決めて、そのあいだは子どもは夏休みの宿題を、ぼくは仕事をする。
これはこれでけっこう効率もいいし、非日常な感じがあって楽しかった。
ところが今は二人ともすっかり自我があるので(当たり前だが)、ぼくの言うことを聞かないし、狭い家でボール遊びをはじめて家具を壊したりする。
あるいはずっとスマホやタブレットを触り続けている。
…いや、そんなこと、放っておけばいいのだ。
子どもは子どもの時間をすごしているのだ。もう親がごちゃごちゃ言うような年齢ではない。
わかっているのだが、どうしても同じ空間にいると気になって、色々と言いたくなってしまう。
そして親子で言い合いをしているうちに、もう夕食の準備をする時間になっている。
まずい…もう日中に仕事できる時間が終わった…という感じで、残ったぶんは、しかたなく夜に持ち越される。
そして寝不足になる。
暑さもあいまって、体調を崩す。
ぼくが子どもの頃はそんなに大変そうでもなかった
ところで、ぼくも子どもの頃は、両親が共働きで、いわゆる「鍵っ子」だった。
それじゃ夏休み、どうしていたかなと思い出すと、とにかく小学校の頃はダラダラしていた。
たしか小学校で一定期間開かれているプール講習のようなものに行くように言われていたが、ぼくは泳ぐのが苦手で、とにかく行くのが嫌だった記憶がある。
サボって家にいたような気もする。あまり覚えていない。
今のようにスマホもない、パソコンもない。
昼間のテレビはつまらない。ワイドショーは違う番組で同じ内容を繰り返す。
とにかく退屈だった。
虫やザリガニを捕まえに、近くの空き地や川にはよく行っていた。
カブトムシやクワガタのようなかっこいい虫なんていない。
だいたいカナブンかゴマダラカミキリ。
夏休みも終わりに近づく頃に、大きなカマキリが出てくる感じ。
あとはカナヘビやシマトカゲ。
シマトカゲは動きが素早すぎて、一度も捕まえることができなかった。
捕まえた生き物は、色々世話をしてみたが、だいたいすぐに死んでしまった。
あまりマンガやゲームを買ってもらえなかったので、自分で下手くそなマンガを描いたり、自作のTRPGっぽいものを作って一人でサイコロを転がして遊んだりしていた。
弟とも遊んだが、それよりも一人で妄想の世界に浸るほうが楽しかった。
本もよく読んだが、特別好きだからというよりも、他に面白いものがないから、しかたなく読んでいた。
母はわりと本を読むほうだったので、それらを適当に引っ張り出して読んでいた。
父はよくレンタルビデオ屋で映画を借りてきた。
夜、それを一緒に観ることも多かった。
特に夏休みに限ったことではない。
ぼくはわりと退屈で、怠惰で、刺激の少ない時間をすごしていたように思う。
それが良いとか悪いとかではなく、そうだったなと思い出す。
そろそろ「子ばなれ」のタイミングかな
最近は「体験格差」なんていう言葉も聞く。
受験勉強だけでなく、多様な体験を子どもにさせられるかどうかも重要らしい。
なんというか、もういい加減にしてほしいな、と思う。
ちゃんと学校も通わせて、受験勉強もさせて、こちらは仕事をセーブして一緒にいる時間を作り、子どもたちが寝静まってから、残った仕事や作業に取りかかる。
そのうえで「体験格差」だって?勘弁してくれ、と思う。
人の子育てのことは、ほっといてくれ、とも思う。
なんというか、子育てほど「将来のために今こういう投資をするべき」という論法が通じやすい世界はない気がする。
「今のうちにこういう勉強を」「今のうちにこういう体験を」という言説が飛び交い、親はそれに日々振り回されている。
何を隠そう、ぼく自身がそういう親になっていた。
それについては後悔してもしかたないし、それぞれの考え方だから、何が良いとか悪いとかではない。
それはそれで頑張ったと思う。30代と40代、ちゃんと子育てに取り組んできたと思う。
そのうえで、ぼくはすっかり飽きてしまった。
やるだけやったから、とも思うし、やっぱりこの考え方だけではつまらない。
じゃあ、どうするのか。
そもそも、ぼくはもうすぐ50歳。
これまでのような体力も集中力もない。
一方で、子どもたちはいよいよ大人になっていくタイミングだ。ぼくはそろそろ積極的に「子ばなれ」していきたいと思う。
子どもから遠ざかるという意味ではない。
ただ、「子育てする親」と「子育てされる子」という関係性から、自立した人間同士の関係性へと、自分自身のとらえ方を変えていきたいと思うのだ。
距離感を変えていく
最近、上の子が急に進路を変えたいと言いはじめた。
高校3年生の大事な時期に、である。
親子で色々と話したし、周りの人たちにも助言をもらった。
そして結局、本人の意志は変わらなかった。
ただ、ぼくは彼が自分の進路について主張した時点で、なんとなくわかっていたような気がする。彼はもう出発してしまったのだ。
自分の人生という、終わりのない探求の旅に。
そんな人間に対して「将来のためにこんなことをしておくべき」なんて言う権利が誰にあるだろう。
彼は茫洋とした「将来」を生きているのではない。
自分が決めた方向に、自分で歩きはじめている。その歩みは「いま」なのだ。
これはすごく良いきっかけだと思う。
ぼくが自分から「子ばなれ」しようとしなくても、ちゃんと子どものほうから自立を始めている。
ぼくができることは、彼を邪魔しないことだ。
一人の自立した人間として、敬意を持って接することだと思う。
もちろん、おかしいと思うことは伝えるし、まずいと思ったら注意するけど、それは親子でなくても同じことだ。
とにかく、そうやって、せっかくもらった「子ばなれ」の機会をちゃんと生かしたいと思う。
じゃあ「子ばなれ」したら、どうするんですか、という話だが…。
別に、何かが大きく変わるわけではないと思う。
むしろ、これからが一番楽しい時ではないだろうか。
お互いのイヤなところも恥ずかしいところも知り尽くした者同士の、自立した関係性がやっと始まるのである。
人と人のあいだには、その関係性に応じて適切な距離感があると思う。
親と子であっても同じなのだろう。
親は老いていく。
子は成長していく。
関係性は変わるのは当たり前だ。
まあ、そんなことはずっと昔から、誰もが知っていたはずなんだけれども。
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【著者プロフィール】
著者:いぬじん
ブロガー/エッセイスト。
広告会社でコピーライターの仕事をしていたが、態度が悪すぎて左遷されたのをきっかけに、2012年からブログを書きはじめる。人生についてあれこれ悩み続けるのが趣味。WEBメディアや書籍への寄稿も行っている。その後も、態度は特に良くなっていない。
ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。
Photo by:Jordan Whitt
こんにちは、しんざきです。
好きなブックはガルーダブックで、苦手なカードはデスクラウドとジャイアントイールです。
パウダーイーターブックも握ってみたいんだけど、今回ゲームスピードがかなり速くって、パウダーイーター育てて増やすとか悠長なことやってる暇全然ないっぽい。領地をふわふわ毛玉でいっぱいにしたいのに……!!
この記事では、大きく二つのことを書きたいと思っています。以下の通りです。
「カルドセプトビギンズが、カルドセプトの楽しい要素をほとんどカバーしていて大変に面白いので、まだセプターではない皆さんに広めたい、あわよくばカルドセプト沼に沈んでもらいたい」
「桜玉吉とサイバー佐藤とちょりそのぶがカルドセプト(サターン版の初代)で遊んでる日記が、最終更新から約25年経った現在でも読めるという奇跡と、そのあまりの面白さについてみんなに伝えたい(ただし未完)」
上の二つは、全くの無関係ではないとはいえそれぞれ別の話なのですが、私の頭の中では分かちがたい二つの事案として複雑に絡み合っているので、この記事では開き直って一緒に書いてしまいます。ご容赦ください。
まずは、まだカルドセプト沼にハマっていない方用に、「カルドセプトって何?」というところから始めましょう。
ボードゲームとカードゲームのいいとこどり、「カルドセプト」
カルドセプトビギンズ、およびカルドセプトシリーズは、ひとことで言うと「ボードゲームとトレーディングカードゲームを魔合体させたゲーム」です。
ゲームの基本的な流れは「モノポリー」に近いです。
プレイヤーたちは、すごろくを模したマップ上でサイコロを振ってフィールドを巡り、特定のチェックポイント(城や砦)を通る度に「魔力(お金のようなもの)」を入手します。
空きマスにクリーチャーを配置することで「自分の領地」にして、その領地に止まったプレイヤーから、通行料として「魔力」を徴収します。
この「魔力」の合計が一定値以上になればそのプレイヤーの勝ち。
自分の領地は魔力を注ぎ込むことでレベルを上げることができ、レベルが高い領地ほど通行料が上がります。
特定の色の領地をそろえている(「連鎖」と呼びます)と更に通行料が跳ね上がるので、「素早く特定エリアの領地をそろえてレベルを上げて、対戦相手から高額の通行料をもぎとる」というのは、カルドセプトの基本戦略の一つとなります。]
一方、「カルドセプト」はトレーディングカードゲーム(以下TCG)でもあり、カードバトルの要素があります。
上でさらっと「クリーチャー」と書きましたが、「カルドセプトビギンズ」では、各プレイヤーはゲーム開始前に40枚の「ブック」をそれぞれ用意することになります。
このブックに、様々な能力をもった「クリーチャー」やアイテム、スペルなどが含まれており、プレイヤーはこのブックを駆使して領地の争奪戦を行うのです。
この「ブック」とすごろく要素の組み合わせ、それによる戦略性と読み合い・駆け引き、そしてそれに伴う「思考すれば思考するほど面白くなる」試行錯誤の楽しさこそが、「カルドセプト」の面白さの根幹と言ってしまっていいでしょう。
「考えれば考えるほど報われる」カルドセプトにおける試行錯誤の魔的な楽しさ
ブックとは何かというと、すなわち「戦略を具現化したもの」です。
プレイヤーは、「どうやったら勝てるだろう?」「こんな戦い方がしたい」とあれこれ思い悩みながら、手持ちカードからブックを組み上げます。
クリーチャーは、領地を占領するための駒であると同時に、相手の領地に止まった時、相手の領地を奪うための攻撃手段でもあります。
そして、クリーチャーにも色んな能力をもった奴らがいます。
攻撃力が高く、相手から領地を奪うことに長けているクリーチャー。
防御力が高く、相手の攻撃から領地を守ることに長けているクリーチャー。
コストが安くて、少ない魔力でも大量展開することに長けているクリーチャー。
空いている領地にワープができるクリーチャー。
遠距離攻撃ができるクリーチャー。
一定の条件下で相手を即死させるクリーチャー。
物理攻撃を反射・無効化するクリーチャー。
戦闘時に使える「アイテム」や、様々な効果をもった「スペル」なども含めて、あれこれ悩みながらブックをいじくっている時間は、カルドセプトを遊ぶ上で最も濃厚な楽しさが詰まった時間と言っていいでしょう。
新しいカードを手に入れて、「これとこれを組み合わせると強いのでは!?」といった発見を経て実際に試すのは、カルドセプトプレイヤー、通称「セプター」にとって至高の時間でもあります。
そして、カルドセプトの最大の特徴の一つとして、「ゲーム中に相手の手札が見える」という点があります。
このゲーム、相手のターン中も同一画面で相手のプレイの様子が見えるので、相手がなんのカードを持っているのかも把握できるのです。
ここが、「手札の秘匿」を大前提としているTCGとの最大の違いと言ってもいいでしょう。
手札が見えると戦術がバレてしまってつまらないのでは?というとこれが全く違って、カルドセプトは「手札が見えるからこその駆け引き」を前提に設計されています。
「あ、相手がこのアイテムを持ってるから、今攻めると失敗するな」
「じゃあこっちの戦闘でアイテムを使わせてから侵略しよう」
だとか、
「このスペルを握ってるってことはこういう戦略をとりたいんだな」
「じゃあこっちはこのスペルで対抗しよう」
だとか。
最初のうちはカードの絵柄を見ても「このカード何だっけ?」となっていたのが、段々判別できるようになってくると、カルドセプトの楽しさは更に一段深みを増します。
ゲーム中の読み合いの要素、「考えれば考えるほど有利になる」要素が、これでもかと仕込まれているわけです。
そして、その「読み」と自分の戦略をうまく微調整しながら、勝利目指して領地を獲得して、連鎖を作って、レベルを上げて、侵略し、魔力を稼ぐ。
「自分が考えた戦略」がばっちりハマって、思った通りの勝ち方ができた時ほど幸せな瞬間はありません。
楽しく考えさせてくれて、しかもそれが報われるゲームほど面白いゲームはない。
ただし、カード引きとサイコロが強くゲームの行方を左右するゲームである以上、運要素はどうしても切り離せず、考えに考え抜いてどんなに優位に進めていても終盤のダイス目一発で逆転最下位になることはありますし、逆にどんなにミスを重ねても神引き一回で逆転勝利することもあります。
最善を尽くした上で、更に最後にランダムの神様が自分に微笑んでくれるかどうか。これもカルドセプトの重要な味わいの一つだと言えるでしょう。
まあ、ダイスの目が偏りまくっておなかが痛くなってくることもあるんですけど。
「カルドセプトビギンズ」についての感想
ところで、2026年7月、ちょうど先月にシリーズの最新作である「ビギンズ」が発売されました。
3DSの「カルドセプトリボルト」の発売が2016年の7月だったので、ちょうど10年ぶりの新作ということになります。
シリーズの中で、カルドセプトビギンズは「ビギンズ」の名前の通り、原点回帰を強く打ち出した作りになっています。
前作「リボルト」がかなり挑戦的でとがったバランス調整を行っていたので、それよりだいぶマイルドになった感はあります。
一通りシナリオをクリアして、対戦も触ってみている段階で、ざっくり感想を箇条書きしてみると、
・砦や城で配布される魔力量が多めで、勝負がつくまでのスピードはかなり速い
・戦闘バランスも、侵略優位だった「リボルト」よりだいぶマイルドになった
・かといって走りが強すぎたり侵略が無意味かというとそうでもないため、バランス取りはかなり入念にやられている気がする
・ただしパウダーイーターブック全然勝てない、強い人はどうやって勝ってるんだ?
・ブックの枚数が40枚になり、手札が安定しやすくなった
・地形変化のコストが下がって、土地事故も起こりにくくなった
・そのため、「ブック構築」の重要性、戦略性はより増していると思う
・オート周回がカード稼ぎやコイン稼ぎにとても便利
・倍速プレイも便利of便利
・カードのデザインがかなりシンプルになっており、最初カードが見分けにくいのではないかと危惧した(ガスクラウドとフェニックスとか)が段々慣れてきた
・ただし、ブック編集時のカードの検索性がいまいち悪い(能力別フィルターと逆順ソートが欲しい)
・相手の手札をいつでも確認できるわけではないが、持っている手札の種類だけは常に確認できるようになった(手札のマークで分かる)

・ヘルプがめちゃくちゃ充実しているので初心者は一度は読むべきだと思う
・総じて、「ビギンズ」の名前通り、始めてカルドセプトをやる人でも触りやすくなったのではないかと思える
・対戦の駆け引きがありえないほど面白いのだが、マッチングでエラーが起きることもちょくちょくあって(私の環境の問題かも知れないが)もったいない、アップデートに期待したい
・オフライン会でおすそわけ対戦するのが最高なのかも知れない
・以前から「カルドセプト」シリーズのストーリーは(リボルトを除いて)割とシンプルだが、今回も「原点回帰」と言うにふさわしい王道のストーリー展開
・キャラクターの絵柄もシンプルだが、取り敢えずイシャラはとても可愛い。

・素の言葉使いが案外ずさんな王女様好き
・カルドセプト大体王女様が仲間になる説(あと大体クトゥルフっぽい勢力が出てくる)
・ただし、「シンプルな絵柄かな?」と油断させておいて、「凶悪な獣にまたがったビキニ姿の美女」とかいう性癖の主張激強なキャラを突如ぶち込んできたりもするので油断できない

・15章だけはステージ設計した人強めにおなか壊して欲しい
というような形になります。
しんざきは昔から風ブック使いなのですが、今回もシンプルにガルーダは強力な一方、先制が思ったほど強くないので、どういう構築にしようかなーとまだ試行錯誤しているところです。
あとパウダーイーター置いてる隙がマジでない。
全体的にめちゃめちゃ楽しめているんですが、ただマッチング関係についてはもうちょっとどうにかして欲しい点で、このゲームの一番楽しいところなのに初心者さんがそれを楽しみ辛いとなると超もったいないので、アップデートでなんとかならないかなーと。
とにかく、「カルドセプトの重要な部分」を全て保持したまま極めて遊びやすくなっている、という点については衆目一致しているところかと思いますので、まだ「カルドセプト」に触ったことがない人にこそビギンズを遊んで欲しい、と考えるばかりです。
ところで「幽玄対戦日記」を読んでください
すいません、ここから話が脱線します。
桜玉吉、という漫画家さんがいます。かつて「ファミコン通信」の誌上で、ゲーム漫画「しあわせのかたち」を連載。
一時期体調を崩して活動を休止されたりもしていたんですが、現在も「日々我人間」などを不定期に連載されています。
「しあわせのかたち」は、連載当初はファミコンのゲームをネタにした脱力系ギャグ漫画だったんですが、途中から「ドラクエII」のキャラを元ネタとする「三人組(おまえ・こいつ・べるの)」を主役にしたファンタジー漫画になり、更にそのあと、桜玉吉先生自身の日常を描いた日記漫画になりました。
当時ファミ通を読んでいた人なら誰もが知っている筈の独特の作風の漫画を描かれる方で、今でも熱烈な、というか玉吉先生の体調を心配しまくるファンが多いことで、一部界隈では著名です。
玉吉さん、もう御年65歳くらいなんですよね……ご体調心配過ぎる……。
そんな桜玉吉さんがサターン版の初代「カルドセプト」を遊んだ日記がweb上で読めること、皆さんご存知でしょうか?
この日記自体は、「しあわせのかたち」にも登場していた「サイバー佐藤」氏の視点で描かれたもので、同じく「しあわせのかたち」で玉吉先生のアシスタントとして描写されていた「ちょりそのぶ」氏も登場して、三人で「カルドセプト」を遊びながら虚々実々の盤外戦が繰り広げられる内容なんですが、これがもうめっちゃめちゃ面白いんですよ。
大人同士の全力の意地の張り合いと、騙し合い。
「勝つために何をして、何を考えるか」という描写、これぞまさにカルドセプト。
「ああ、俺もこういうカルドセプトとの出会いをしたかった」と思うくらい楽しそう。
ただし未完。
未完(重要なことなので二回書きました)。
めちゃめちゃ続きが気になるところで終わってるんです。
玉吉先生が当初ちょりそのぶ氏にけちょんけちょんにされて、その後の駆け引きも面白いんですが、何より玉吉先生が提案したという「特殊ルール」、その内容が明かされる直前で終わっているのが本当にモヤる……。
令和の奇跡か何かで連載再開されたりしないでしょうか。
この日記、最後に更新されたのが2002年、もう25年近く前の話でして、これが未だにインターネット上で読めるのも一つの奇跡なのかも知れないと今回改めて思ったので、未完でモヤる体験まで含めて皆さんにお裾分けしたいと思い、今回書かせていただきました。よろしくお願いします。
なにはともあれ、カルドセプトビギンズは大変面白いですし、何より対人戦がとても最高なので、皆さんにも是非経験して欲しいと思いつつ、マッチング周りについてはアップデートでの改善を願うところ大なわけです。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【著者プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
photo:Michael Pointner
人はどうすれば幸福になれるでしょう?
私は、人の幸福を左右する要素として「大きな要素」と「ささやかな要素」があるといつも思っています。
幸福を左右する「大きな要素」とは、その人の人生、その人の運命を決定的に変えてしまうほど重要な要素たちです。
たとえば、結婚するかしないのか。するとしたらどんな人がパートナーか。何を仕事とし、どこでどのように働くのか。
「大きな要素」には生まれつきのものも含まれます。
生まれた家庭や自分自身の生物学的性質などは選択不可能な「大きな要素」として幸福を左右します。
そうした与件は選びようがありませんから、幸福を追求する際にはそれらの与件をどう生かすのか(またはどうかわすのか)を中心に組み立てるのが幸福追求の定石となるでしょう。
趣味も忘れてはなりません。その人が選び、アイデンティティのよすがとし、十年単位で愛顧する趣味も、幸福を左右する大きめの要素ですから、軽視し過ぎるのも考えものです。
自分の身の丈に合った趣味を、自分の感性や暮らしに合ったかたちで・自分の幸福にうまく寄与するようなかたちでやっていけると、趣味は人生の幸福を彩るでしょう。
でも、今日はそういう幸福を10%単位で決めてしまうような、幸福の主幹をなすような要素の話がしたいわけではありません。
本当は、私たちの幸不幸はもっとささやかな幸福のシードたちによっても支えられているし、それを大切に拾い集めて、人生の庭の下草として育てていくといいよねって感じの話がしたいのです。
私たちの人生をささやかに支える、ささやかな幸福のシードたち
さきに挙げた幸福の主幹をなすような要素たちに比べると、これから話す幸福のシードたちはささやか過ぎて、貧弱過ぎて、正直、あまり頼りにはなりません。
言い換えると、これらは「すがりつく」「もたれかかる」には弱すぎる要素だと思うのです。
仕事や結婚にはすがりつくことももたれかかることもできるでしょう。趣味に対してそうする人もいるかもしれません。それらはひとりひとりの人生の主戦場、そして晴れ舞台でもあります。でも、たとえば以下のような要素はそうもいかないですよね?

たとえば近所にあるこうした小さなおやしろの、小さなお地蔵様やお稲荷様。
ほとんどの人にとって、こうした地元の小さなおやしろは人生に占める割合がごく僅かしかないでしょう。
しかし、こうしたおやしろの前を通るたびに手を合わせる人は案外いらっしゃるものです。
それは、キリスト教圏の人が考えるような大文字の信仰ではなく、信仰の観点からみても非常にささやかなものでしょう。
ですが、そんなおやしろが暮らしのなかに存在すること、どんな時でもそこに立っていて願いを聞いてくれたり非日常の空気を吹き込んでくれたりことは、まさにささやかな幸福のシードではないでしょうか。
こういうおやしろって、そこまで熱心にお参りしないぐらいがいいんですよね。
時間がない時は通り過ぎて構わないし、お賽銭だって自己都合で入れたり入れなかったりで構わないんです。
そういうささやかな関わり方でも別に祟るわけでもなし、ただそこにあって、私たちを見ていてくれて、お参りを受け入れてくれて、いつでも気持ちの入れ替えに役立つことが大事だと思うんです。
行きつけの食堂とかカフェもいいですね。
その店に行けば「いつものやつ」が飲めたり食べたりできる安心感。
別に、美味くて仕方がないものじゃなくてもいいのです。食べ物や飲み物がよく馴染み、身体に馴染み、空間としても一息つける場所であることが大切なのだと思います。
お店の人に顔を覚えられるのが平気な人の場合、お店の人とかわすささやかな言葉も重要ですね。
そういうお店やお店の人に「すがりつく」ことも「もたれかかる」ことも勿論できませんが、きつい仕事を終えた後の夕食や遺失物が出てしまった後の、仕切り直しの一杯を侮ることはできません。

20歳以上でアルコールとちゃんと付き合える人なら、居酒屋やショットバーなども良いかもしれませんね。
それらはまさに「人生の止まり木」と呼ぶにふさわしい何かで、止まり木以上のものを求めてはいけない場所でもあると思います。
まして、酔いつぶれるまで飲むような場所でもない。
ただ、そこがときどきもたらしてくれる小さな幸福感、それから不幸感のわずかな緩和効果は、長い目でみればけっこう効いていると思うんです。
逆に言うと、「人生の止まり木」ってのは小さな幸福感を運んできてくれたり不幸感をわずかに緩和してくれたりするものでなければイマイチなんじゃないでしょうか。
ささやかな幸福のシードを自宅にも埋め込んでいく
ここまでは家の外で探し出すささやかな幸福のシードの話でした。
転居や転勤の後には、勤め先や自宅の近くにこういう場所を見つけ、自分自身をそこに紐付けられるといいですね。
そういう行為は人生の幸福感を底上げし、不幸感をはびこらせにくくするうえでおまじないよりは役に立つと私は考えています。
自宅にも、そういう「ささやかな要素」があったほうが良いでしょう。
使い勝手の良い椅子、使い勝手の良い台所空間、使い勝手の良いデスク、等々は幸福感をあげてくれます。
居心地の良さ、肌触りの良さ、使い勝手の良さは幸福感を底上げしてくれます。それだけでは幸福になれなくても、幸福の与件を下支えしてくれる点がここでは重要です。
というより、それらが遺失物の発生や、肩こりや腰痛などの体調不良の発生確率などを下げてくれることで、不幸なイベントの発生確率を下げてくれる点のほうが重要かもしれません。
自宅の環境を整備すれば幸福になれる……とは思えませんが、疲労を減らし、余計な不幸イベントの発生を防ぐことで一か月あたりや一年あたりの不幸感を減らしてくれると考えてみると、それらの効果は馬鹿にできません。
このあたりは「ていねいな暮らし」と呼ばれる領域とも接続しています。
私自身は「ていねいな暮らし」のうちに経済資本や文化資本のにおいをかぎ取ってしまうので、万人に「ていねいな暮らし」を勧めるのは誰を利することなのか、つい、考えてしまいます。
しかし、逆に経済資本や文化資本のにおいが感じられるからこそ「ていねいな暮らし」は現代人の社会適応を下支えするささやかな幸福のシードたり得るようにも思われるのです。
つまり、「ていねいな暮らし」に属する要素群は、その人の暮らしの改善をとおして生産性や(文化的)卓越性を向上させるわけですから。
でもって個人における生産性や(文化的)卓越性は基本的には不幸を増やすよりも幸福を増やすほうに作用するでしょう。
なんなら人生の選択肢の数や人生の手数にまで影響するかもしれません。
家庭生活を彩る「ささやかな要素」は他にもたくさんあります。家庭菜園やプランターにハーブや花卉を植えるのもいいですね。
手間がかかるし、自己増殖するし、虫がついたりするので誰にでもお勧めできるものではありませんが、土に触れ、植物の成長と共に生きることでしか得られないエッセンスはやはりあるように思います。
四季が感じられればなお良いでしょう。凝ると趣味になってしまうので、ときどき花屋さんで買うとか、ハーブを一種類だけプランターでつくるとか、そういうのでもいいように思います。
あとは「お気に入りのマシン」でしょうか。
挙動が速やかでなんでもこなせるPC・高性能のスマホ・優れた音響設備。こうしたもののひとつひとつも、幸福をつくるには非力ですが、日常を底堅く支えてくれます。
地方で暮らしている人の場合は、クルマやバイクという手もあります。自分の運転技術や道路事情にも左右されますが、いいクルマ、いいバイクに乗っていると日常の質はさまざまに変わります。
良い腕時計にもそういう一面があるのかもしれません。この手のマシンの良いところは、たんなる自慢の一品には終わらず、乗り心地や使い心地をとおしてダイレクトに疲労を抑制してくれる点です。
ただまあ、それだけに大事に使わなければなりませんね。ですが大事に使う・大事に乗るという心構えじたいも、事故を避ける、ひいては不慮の不幸を避けるうえで重要なので、そういった品々にも生活を改善させる力があると私などは計算してしまいます。
人間関係までカバーできれば最高
それから人間関係。
人間は世間をかたちづくって生きているわけですから、人間関係が平穏無事であるか否かが幸福体感度、ひいては不幸体感度のかなりの部分を作っている、と言っても過言ではありません。
人間関係のうち、生まれた家庭、パートナーといった領域は人生の幸福度の主幹をなす部分ですから、ここでは踏み込みません。友人関係もそれに準じるものとみなします。
でも、そうした大きな人間関係だけが人間関係じゃないですよね。
さきほど挙げたようなささやかな幸福のシード、たとえば「人生の止まり木」とみなされるような社交の場では、多かれ少なかれ人との関わりが含まれます。
そこで小さな交友関係が生まれることもあれば、交友関係未満なんだけど顔見知りであるような間柄が生まれることもあるでしょう。
そうしたミニマムな人間関係といえども、こじれれば幸福に小さなほころびが生じるし、あまりにもほころびが大きければその場に居づらくなってしまうかもしれませんから、ないがしろにしすぎるのは考えものでしょう。
では、何が必要?
さて、ここまでささやかな幸福のシードたり得るものを色々と挙げてきましたが、これらを獲得するには何が必要でしょうか。
まことに残念な事柄ではあるのですが、これらに必要な条件としてかなり上位に来るのは「余裕」だと思います。
ここでいう「余裕」とは、心の余裕、経済の余裕、体力や精神力の余裕、そして時間の余裕を含みます。
これらのどれかが乏しくなると、自宅の環境をきれいにするのも、「人生の止まり木」になるようなお店を見つけて通うのも急激に難しくなります。
いくら素敵な家庭菜園を作っても、身体疾患や精神疾患にかかってしまえば維持できなくなり、重荷にさえなるでしょう。ミニマムな人間関係についても、それらを維持・向上させるには人並みの礼儀作法が欠かせませんが、余裕がなくなればそれも難しくなってしまいます。
ここから連想されなければならないのは、今回挙げたようなささやかな幸福のシードは「余裕」の福利、「余裕」の利息のような側面があるということです。
逆に、ささやかな幸福のシードを暮らしのなかでたくさん育てておけば、それらは福利や利息となって人生のさまざまな局面でわずかながらでもプラスの影響を与え続け、マイナスの影響を遠ざけてくれる、とも言えます。
この観点から考えるなら、なるほど、「ていねいな暮らし」というのもプラグマティックな技術なのかもしれません。
それからもうひとつ、バランス感覚とそれに基づくアップデートでしょうか。
お気に入りのお店を見つけるにも、いいクルマに乗るのも、それ自体はささやかな幸福のシードたり得るでしょうけど、ひとつの事柄にあまりにもリソースを集中させすぎるとバランスが崩れ、他の要素に手が回らなくなり、結果的にささやかな幸福のシードの獲得総量が少なくなってしまうかもしれません。
たとえば平凡な給料の人がフェラーリを買って乗り回す場合を考えてみてください。
確かにフェラーリは彼/彼女のささやかな幸福のシードのひとつとして輝くでしょう。というより、これは趣味と言ってもいいレベルですね。
けれども身の丈にあわない経済的負担は、生活の他の領域を圧迫してしまうに違いありません。
心の余裕、経済の余裕、体力や精神力の余裕、時間の余裕といったものをいつも勘案し、現在の状況、ひいては近未来の状況も意識しながらことを進めていかなければ、結局「余裕」のほうが破壊されてしまい、元の木阿弥になってしまうおそれがあります。
また、それらの余裕の度合いは人生の進行やライフステージによって絶えず変わってくるので、ひとところに固執するのはうまくありません。
ときどき見直したり、今後の自分自身に即してアップデートしたりしていく必要があるでしょう。たとえば生活習慣病に罹患した人は、今までどおりの生活を続けるわけにはいかないはずで、そうなれば多かれ少なかれ暮らしの実態を変えていかなければならないはずです。
人生全体の幸福に占める割合としてはささやかな事柄かもしれませんが、こういうところも手抜かりしないようにしていきたいものですね。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
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twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

Photo:Catalin Pop
松本人志が大腸がんになった
松本人志の話をする。
松本人志の名前も見たくないという人は回れ右してくれ。
松本人志の起こした問題について論じるつもりもないので、それを期待する人も回れ右してくれ。
おれは松本人志が大腸がんになり、手術を受け、一時的人工肛門(ストーマ)になったことについて語りたい。
なぜならおれも大腸がん(NET、神経内分泌腫瘍という希少がん)になり、手術を受け、一時的人工肛門になった人間だからだ。なにか語らずにはおられない。そういう気持ちになった。
しかし、そういう気持ちになって、果たして「なにか」とはなにか考えだしたら、なかなか思いつかなかった。
だから、この原稿に批判も提言も仮説も結論もない。ただ、少しでも大腸がんや(一時的)人工肛門について知ってくれる人が増えればいいと思う。
それでも腸は飛び出ている
松本人志は例の事情(正直言ってこれについては語ろうと思っても詳しく語るだけの事情を知らないのだが)によって、テレビというメディアから切り捨てられた、あるいはテレビというメディアを切り捨てた人間だ。
だから、それに付随するような新聞や雑誌などの情報も少ない。今は独自のメディア(DOWN TOWN+)を持っていて、そこから漏れ聞こえる情報のみとなっている。
それでも、大腸がんについてはネット上で記事になった。テレビでニュースになったかは知らない。たとえば、こんな記事が出た。
ここで、いくつか松本人志の病気についての自己言及があった。
松本は「血便が止まれへんって言ってたでしょ。病院行ったら、めちゃめちゃがんやってん」と告白。
「めちゃめちゃ手術して。大変やって。俺、死ぬか思ったわボケ。ほんまにめちゃめちゃ大変やったわ」
「結局、その腸にあったわけよ」と伝えた。
おれも血便を原因に大腸内視鏡検査を受けた。ただ、「血便が止まらない」などではなかった。なんか一回くらいあっただけだ。
ただ、その話をしたら、彼女に「もうその歳なのだから受けたほうがいい」と強烈にすすめられた。生命の恩人である。
とはいえ、自分に「自覚症状があったから受けた」という意識はない。「この年齢でろくに検診を受けたことがない」という理由が大きい。
一方で松本人志は「血便が止まれへん」であった。それを読んだおれは、「けっこう重症なのでは?」と思った。
思ったが、一時的人工肛門ということであった。腫瘍のある部分(おそらく直腸付近)を切除すれば、まだ大丈夫なのではないか。よくわからない。
病気の最中の自分だったら、大腸がんと自分の希少がんは重なる部分も大きいので、もう少しなにか言えたかもしれないが、しかし、当事者であれ医者以外がなにか言わないほうがいいだろう。
でも、ひとつ「よかった」と言えるのは松本人志くらいの大金持ちが、きちんと標準治療を受けているであろうということだ。
「人工肛門ですよ」と言われたら、なにかべつの方法を探ってしまう可能性がないとは言えない。そのあたりはよかったんじゃないかろうか。
で、上の記事でこんな発言があった。
「とにかくと取らなしゃあないからと。取ったんやけど、いろいろありましてね。皆さんびっくりするかもしれないですけど。僕、今ちょっと見た目わかんないでしょうけど。横っ腹から今、腸が飛び出てるんですよ」
「腸って皆さん、見たことないでしょ。それが今こっから飛び出てて。この腸をまた戻す手術をせなあかんけど、要するに体が整うまで…すぐには無理やねん。戻すのに、体が整うのに数ヶ月かかるから。その間、俺ずっと休んでられやんか。だから、前代未聞の腸飛び出たままの芸人を見てもらおうと思って。今日。俺はしばらく数ヶ月は飛び出たまま、お笑いやるんで、での報告」
「腸が飛び出ている」。この表現について、いくら自分の身体のこととはいえ、そんないじりかたをするのは時代に即していないのではないか、不謹慎ではないかという苦言が呈されているのを見た。
が、これまたおれひとりの発言にすぎないが、かつてストーマ付きだった人間からすると、あの状態は「腸が飛び出ている」のにほかならない。
なんかもう「腸が飛び出ちゃっているんで」としか言いようがない。茶化すといっては言いすぎだが、なんかそうでも言わなきゃやってらんないよ、という気持ちだった。
人工というとなにやら機械が排泄物をどうにかしてくるかのように聞こえるが、素材は天然だ。腸である。腸を腹から引きずり出して、そこから排泄させるのだ。
これは、おそろしい話ではないか。ちなみに、肛門のような機能がないので我慢もなにもできない。24時間垂れ流しだ。垂れ流してはこまるので、ストーマ装具、パウチをあてがう。袋に便を溜める。溜まったら捨てる。何日かに一度、パウチ自体を交換する。すごく簡単にいえば、こんなところか。
人工肛門とは、腸を腹から引きずり出して、肛門のかわりの出口とすること、これである。
おれはほんとうにたくさんのストーマの人の体験談を読んだ。「人工というわりに、人工というよりなにか原始的ではないか」というような意見はわりと多く見た。おれもそう思った。
もちろん、腸の一部を飛び出したままにして、そこを排出口にするという手術もすごい技術だ。
そして、排出物をいかに簡単に、不快感なく処理していくかというパウチの進歩もすごいものがあると思う。
おれは5chで人工肛門についての長いスレ(2ch時代から続いていたのではないか)を読んだりしたが、その初期に書かれていたにおいの問題や不安などは、現在ではほぼ解決されているように感じた。
日進月歩で進歩している。
が、腸が飛び出ている、ということは変わらない。そして、こういってしまうとおしまいだが、その感覚は腸が飛び出てしまった人間にしか語れないようにも思う。
むろん、人によって感覚はぜんぜん違う。たとえば、がん以外の、排便障害を伴う大腸の大病を患っていた人にとっては、人工肛門がかなりの救いになり、そうとうにQOLを上げるものだ。
そういう人にとっては、「腸が飛び出ている」という表現なんてとんでもないものかもしれない。そのあたりはわからない。
ただ、おれは、おれが「ちょっとの間、腸が飛び出ていたんすよ」と言うことになんの抵抗もない。
あれは、そうだった。そして、腸が飛び出ていることは、外出の恐怖に直結した。なにかにぶつかったり、転んだりしたらどうしよう?
パウチの中とはいえ、内臓が出ているのだ。調べてみれば、満員電車用の保護カップのようなものも売られていた。おれはとにかく怖かった。
ストーマで外に出られる人を尊敬する
そうだった、おれは怖かった。結局、こわくてストーマをつけた状態で外に出ることがほとんどできなかった。
しかしまあ、長々と書いてきたけれど、ストーマ、嫌なものです。装具によって寝返りも打てないし、うつぶせで眠ることもできない。そんなことよりも、内臓が外に出ていることによる恐怖と緊張がどうにもストレスになる。
これを書いている今、おれはまだきちんと社会復帰していない。入院、手術後の体力回復が通勤するところまでいっていないからだ。なので、在宅で仕事と静養とリハビリをしている。
おれは結局、「社会復帰」できなかった。一時的人工肛門の間、ほとんど外に出ることができなかった。
手術の後遺症で普通に歩けない時期もあったが、それを過ぎても、どうしても会社に行けなかった。パウチをめぐるトラブルへの不安もあったが、それよりも、根源的に「この状態の身体で人前に出ること」の怖さがあった。仕事もリモートでどうにかなるなら、そうしたかった。
そういう意味で、一時的であれ、永久であれ、人工肛門で普通の人と一見して変わらないような社会生活を送っている人を尊敬する。
そのなかに、この件についての松本人志を入れてもいいだろう。
人前に出ることへの強い抵抗、いま思えばそうとうのものだった。
結局、どこへ出かけることもできなかったし、会社のトイレでパウチの処理をしたことはあるけれど、いわゆるオストメイト対応トイレを使うこともなかった。
あらためていうが、これはおれの事例だ。だが、平気だったという人もいるだろうし、平気じゃない人もいる。それは書いておきたい。
松本人志はLARSを語るだろうか?
さて、一時的人工肛門は閉鎖される。閉鎖したらすべて元通りか? 否、だ。
LARS(低位前方切除術後症候群)という排便障害が待っている。
上の記事では、まだおれはLARSになっていなかった。かなり悲観的になっている。ただ、悲観的になるだけの材料は揃っていたといいたい。
結果、いまおれがどうなっているかについて述べておく。2月の末にストーマを閉鎖した。
閉鎖したおれは水様便や下痢になることなく……逆に便秘気味になった。
出ない、というだけの便秘ではない。LARSの特徴である頻便にはなった。そのあたりのことはこちらに書いた。
8月になったいま、状況はあまり変わらない。少しよくなかったかもしれない。朝、何度もトイレに行って出し切ってしまえば、翌朝まで保つ。
さらにロペラミド(止瀉剤)を飲めばお泊りもできる。旅行にも行くつもりだ。おれの地獄を期待した人には悪いが、おれはおれが予想して怯えていた地獄より程遠いところにいる。
もちろん、病前に戻ったともいえないし、トイレへの恐怖はつきまとう。それでも、外に出られなくなるようなことはなかった。
して、松本人志はどうなるのだろうか。人工肛門を一時的につけて、閉鎖する。LARSになるかもしれない。切除の部位などによる。
ただ、ここで当人には失礼でよくないことを言ってしまう。もしも松本人志がLARSになったのであれば、その詳細を世の中に語ってほしいな、と。
LARSになるかどうかもわからないし、語る語らないも本人の自由だ。けれど、人工肛門よりマイナーで、世の中に知られていないLARSが知られるようになればいいなと思ってしまうのだ。
ひとりのLARS者としてそう思う。
そしてまた失礼ながら、松本人志がテレビのお笑いの王として君臨していたままだったら、その影響力は大きかっただろうな、などと思ってしまう。
これは本当に余計なお世話というか、なんというか、まあ思ってしまったので勘弁してほしい。
まあみんなも検査を受けよう
まあそういうわけで、ある年齢(四十歳くらい?)になったり、ちょっとした血便があったりしたら、みんなも大腸内視鏡検査を受けよう。
桐谷広人さんも大腸がん、……と、いままでのおれなら書いて終わっていた。だが、こないだこんな記事を見た。
「便潜血検査は精度が低い。最初からいわゆる大腸カメラ、下部消化管内視鏡を行えばよいのだ」という意見もある。しかし、がん検診の有効性は感度・特異度だけでは決まらない。現在のところ、全大腸内視鏡検査による大腸がん検診は、日本では推奨グレードC、科学的根拠が十分ではないため対策型検診としては勧められていない
まとめると、内視鏡と便潜血、どちらがよいかはまだわかっていない。差があるとしても小さい。
とくにこだわりがなければ、市町村が推奨する検診を受けておくのが無難であろう。
便潜血検査と大腸内視鏡検査で結果に優位な差が出ていないらしい。
便潜血検査でひっかかれば、どのみち内視鏡はやることになる。
だったら、いきなり、高額で、食事制限やモビプレップがあって、炭酸ガスが使用されていないとお腹がパンパンになって苦しい大腸内視鏡検査を受けるより、便潜血検査でもやっておけばいいんじゃないのか。
おれはいきなり大腸内視鏡検査からNET G1(希少がん)のポリープが見つかった人間なので、なんとなく大腸内視鏡検査をすすめたくなる気持ちがないわけではないが、まあしかしそこにハードルがあるのならば、とりあえず便潜血検査からでいいだろう。そんなところ。
以上。
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【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :National Cancer Institute
ぼくもPCも壊れました
とりあえずめちゃくちゃ暑い。
外出するだけで、ものすごく疲れるので、やらなければいけないことが手につかない。
それどころか、やりたいこともやる気になれない。ついでに家庭もごたごたしていて、それに対応するだけでどっと疲れる。
なので、会議とか、急ぎの作業とか、最低限の家事とかだけやって、あとはひたすらダラダラしている。
普通に調子が悪い。
こういうことは時々あるので、また時間が経てば回復するだろうと思っていた。
ところが、悪いことは続くもので、ずっと痛いのを我慢していた左ひじが本格的に痛くなってきて、重い物を左手で持つのが辛くなってきた。
PCのキーボードを打つのも辛くて、そのせいで余計に仕事をする気になれないし、ちょっとした文章を書くのも面倒になってきた。
ぼくの場合、何か文章を書いていないと色んなリズムが崩れてくる。
案の定、それで余計に調子が狂ってしまって、土日もほとんど寝て過ごしていた。
翌週、それでも仕事はしなければいけないので、しかたなくPCを触っていたら、急にフリーズしてしまい、いくら再起動させても数分でまた固まってしまう。
どうやらPCも限界のようだ。
ああ、もうダメだ。
同時に、どこかでほっとしている自分もいた。
やる気もない、体も痛い、PCも動かない。もう、どうにもならない。
つまり、どうにかしようとしなくていい。
そういう変な解放感があった。
「AIひじ」を罹患しました
さて、動かなくなったPCを机の隅に安置させて、しばらくぼーっとする。
そもそもPCがないと何もできないというのも変な話だ。
以前は、PCは作業のための道具だった。企画書を書いたり、調査データを分析したり、コピーを書いたりするための道具。
今は、そういった作業の一部はAIがやってくれるようになってきた。
なのに、ぼくはこれまでよりももっと長い時間、PCの前にいる気がする。
オンライン会議、色んな人たちからのチャットへの反応、メールへの返信、そしてAIへの指示。
そんなバカなと思われるかもしれないけど、左ひじに痛みを感じるようになったのは半年前で、それはAIとたくさん話していた時期からしばらく経った頃である。
ぼくはAIと話すときだけでなく、文章を書く時に、かなりたくさんの改行をする。
ブログや寄稿では一文ごとに改行している。
AIと話すときもそのクセで改行をしまくっているのだが、そのたびに「Shift+Enter」を押さないといけない。
この2つのキーは左右、一番遠い距離にあり、Shiftは左手の小指、Enterは右手の小指を使う。
常に両方の小指に変な力が加わり続けている。
左ひじを痛めたのは、これのせいなんじゃないのかと思ったりする。
ちなみに、あまりに痛いので、医師をしている友人にすすめてもらったクリニックに行ったところ、いわゆる「テニスひじ」という症状だと診断された。
手首をそらす筋肉を使いすぎていると起きやすいらしい。
今後は「AIひじ」と呼ばれるようになるのではないだろうか。
今さら音声入力に目覚めはじめました。
さて、「AIひじ」に二ヵ所の注射を打っていただき、専用のサポーターもつけたら、いよいよ何もする気が起きなくなった。
ひたすらゴロゴロしている。
ゴロゴロしているあいだにもスマホにメールやらチャットやらは飛んでくる。
しかたなくスマホを手に取ってごちゃごちゃと返事を書いていて、ふと気づく。
スマホに文字を入力するのは右手だが、その間、スマホが動かないようにと、左手でガッチリと握りしめているのである。
なんなら左手のほうが余分に仕事をしている。
「AIひじ」であり「スマホひじ」でもあったわけだ。
そう思うとスマホを触るのもイヤになってきた。
そこでちょっと思いついて、音声入力をしてみた。
これがかなりいい。
以前から、妻がよくやっているのを見ているのでそんなに抵抗はない。
漢字を間違えたり、多少の聞き間違えはあるが、チャットのやりとりで困るほどのミスでもない。
どうしても気になるところだけは自分で直せばいい。
面白くなってきて、noteに投稿する文章の下書きも音声入力だけでやってみた。
ところどころ修正が必要だったが、それを加味しても、普段より短い時間で書き終えることができた。
楽しくなってきた。
ただ、入力しているあいだじゅう、ずっとしゃべっているので、一人の時しかやりにくい、というのが弱点だ。
あと、これは音声入力したものを修正しているときに気づいたことだが、ぼくは普段、文章を書きながら、常に細かく書き直しをしている。
あ、この単語の順番は逆だなとか、ここで読点を打ったほうが読みやすいなとか、ここにもう一度主語を入れたほうが理解しやすいなとか、そういう細かい修正である。
その修正の中には、もちろん必要なものもたくさんあると思うけれど、実は自分だけのこだわりにすぎなくて、読む人にとっては大して問題のないものも多い気がしてきた。
世の中には、この手のことが多い気がする。
自分はああでもないこうでもないと細かくこだわっているのだけれども、そんなことにこだわっているヒマがあったら少しでもたくさん数をこなして上手くなった方が手っ取り早い、ということ。
そろそろ50歳になる。
変なこだわりを手放してみる、いい機会な気がしている。
色々と手放していきたい
それじゃ他に「手放してもよさそうな変なこだわり」って、なんだろうか。
ひとつは、そもそもPCなりなんなりで「作業をしなければ」という思いこみかもしれない。
誰でもできる作業ならAIにやってもらうこともできる。
それ以上に、「自分にしかできない作業がある」と思いこんでいるところから、手放してみてもいいかもしれない。
冷静に考えれば、50歳の人間にしかできない作業なんて、たぶんほとんどない。
熟練の技術を持っている職人なら違うかもしれないが、残念ながらぼくにはそんな専門技術はない。
だったら、さっさとあきらめたほうがいいのかもしれない。
実際にそうしてみて、どうしても困るようなら元に戻せばいいだけの話だ。
もうひとつは、「未来に対して過剰に期待すること」かもしれない。
もう50歳である。
これから先、できることは減っていく一方だ。
ここから飛躍的に成長したり、収入が増えたりする見込みはかなり低い。
40代では、それでも未来に期待して、がむしゃらに進んでいった。
それはそれで楽しかったし、得たものもたくさんある。
だからこそ、10年近くの時間をかけてみて、そうか、これぐらいのことができるようになるんだ、とか、逆にこういうことができなくなるんだ、とかいうことが見えてきた。
そこで思うのは、これ以上「未来に向けて今を犠牲にする」という生き方をしたところで、あまりいいことがなさそうだ、ということだ。
「未来に向けてがんばる」というのは、なんというか、標語のようなものだ。
なんとなくそういう共通認識があったほうがお互いに意見もまとまるし、そんなものかなと自分自身も納得する。
でも実際に40代を振り返ってみると、そういうがんばり方をしてみてよかったな、という感覚はほとんどない。
むしろ、もっと一瞬一瞬を楽しんだほうがよかったな、と感じる。
コロナ禍の頃、子どもたちと一緒に自宅での時間割を作ってすごしたのは楽しかったな、ということ。
外出できるようになってからは、とにかく色んなところに出張したな、ということ。
あるいは、新たに知り合った人、一緒に何かをやる人が増えたなということ。
そして、あらためて文章を書く楽しさを思い出したということ。
まあ、どれもスキルアップとも年収アップとも何の関係もないことだ。
だけどそういうことが自分にとっては大切なことなのだろう。
だからこそ、それ以外の「過剰な期待」をさっさと手放してしまいたいなと感じている。
あとは、それとちょっと似ているけど、「過剰に不安に思うこと」というのも手放せたらなあとも思う。
40代は、わりと「このプロジェクトがうまくいかなかったらどうしよう」とか「子どもの中学受験がうまくいかなかったらどうしよう」とか「収入が増えなかったらどうしよう」とか、色々と不安を抱え続けていたように思う。
で、その結果、うまくいかなったプロジェクトもあるし、中学受験もまあ微妙な結果だし、収入はむしろ減っている。
だから何だというのだ。
まだ生きている。
そして、こうやって書きたい文章を書いている。
そう考えると、あれこれずっと不安に思ってきた時間が無駄だとは言わないが、そんな暇があるなら、もっとやりたいことをどんどんやったほうがよかったのではないかと感じる。
おまけに、どうせぼくの仕事なんて、なくても誰も困るようなものではない。
もっとたくさん遊んで、楽しんで、どんどんアイデアの引き出しを増やしていけばよかったと思う。
そんなわけで、これからは積極的に「過剰な不安」を手放していきたいなと思っている。
…とまあ、手放すことについてばかり書いたが、これは決して「やることを減らす」という意味ではない。
むしろ、もっと積極的に色んなものを手放すためにどんどん新しいことを試していきたい。
そういえば、AIと話すときに、いちいち「Shift+Enter」を押して改行しなければいけない、という問題について。
ちょっと調べたらGoogle Chromeの拡張機能で、Enterだけで改行できるようにするものがあった。
あるいは、そもそもEnterキーの真下にもShiftキーがあることにも気づいたので、それを右手で同時に押すという解決方法もありそうだ。
知っている人が聞けば、しょうもな、ということだが、まあそうやって「いまここ」を快適にするための工夫は色々とやっていきたい。
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【著者プロフィール】
著者:いぬじん
ブロガー/エッセイスト。
広告会社でコピーライターの仕事をしていたが、態度が悪すぎて左遷されたのをきっかけに、2012年からブログを書きはじめる。人生についてあれこれ悩み続けるのが趣味。WEBメディアや書籍への寄稿も行っている。その後も、態度は特に良くなっていない。
ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。
Photo by:Sasun Bughdaryan
「私、子供が欲しいんです」
そう話すのは、はるばる遠方から訪ねてきてくれた元同僚の清子さんだ。
彼女と連絡を取るのは3年ぶりだし、こうして顔を合わせるのは、実に5年ぶりだった。
「私、もう5年も婚活してて、ずっと上手くいかなくて、ついに40歳になってしまいました。すごく焦ってます」
「えっと、話を整理させてね。たしか清子さんは、5年前に前の旦那さんと離婚して、それからすぐ婚活を始めてたよね?
私はてっきり、前の旦那さんのことを早く忘れて、新しいスタートを切るために再婚したいのかと思ってたけど...」
「もちろん、それもありました」
「婚活市場には思うような人がいなかったの? 結婚を前提に条件で相手を選ぶんじゃなくて、ちゃんと好きになれる人じゃないとダメだったとか?」
「相手を好きになれたら最高だと思います。でも、そこにこだわっている訳でもないです。私はとにかく子供が欲しいから、それを理解して、協力してくれる人じゃないとダメってだけで。こっちには時間がないんだし」
「ふんふん。欲しいのは男じゃなくて子供なのね。あなたは親御さんの資産を相続して経済的には困ってないし、男の経済力をアテにする必要はないよね。なら相手が低収入でも構わないし、なんなら子種だけもらえればいいんだから、結婚はしなくていいやって、私なら考えちゃうかな。それか、どんなにお金がかかろうと、一刻も早く海外に行く。パートナーがいない女性でも精子バンクを利用して不妊治療してくれる国で、とっとと体外受精してくるわ。いっそ子連れのシングルファーザーを狙うのもアリかな。自分で産まなくても母親になれるんだから、もう出産のタイムリミットに焦る必要はなくなるし」
「えっ?」
「えっ? あっ、ごめん。あくまで私だったらそうするって話なんだけど、そういうことじゃなかった?」
「未婚のまま出産とか、シングルファーザーと付き合うなんて、考えたこともなかったです」
「そっかぁ。私はどうも考え方がスーパードライなもんだから...」
「私にとって、子供は結婚と結婚生活の延長線上にあるものです。まず付き合って、それから結婚して、一緒に暮らしていく中で授かるものだと思ってます。その順番を間違えたくないっていうか」
いや、言いたいことは分かるよ。分かるけど、もう40歳を過ぎている現実を考えると、それだと時間がかかりすぎない?
という言葉はいったん飲み込むことにして、
「うんうん。なるほど」
と相槌をうつにとどめた。恐らく、ここは黙って話を聞いた方がいいフェーズだ。
「...実は、1ヶ月くらい前から付き合い始めた人が居たんですけど、こないだ、それで揉めまして...。彼が『子供が先でもいいよね』なんて言うから、『まずは結婚が先でしょ?結婚に向けた話し合いと段取りが先だから、そっちを急がないと』って話をしたら、いきなりLINEをブロックされました。それが先週の話です...」
「えぇ? それはショックだったね。あぁ、そっか。だから衝動的に一人旅しにきたの? いきなりLINEもらってびっくりしたけど、気分転換しにきたのね?」
「それもあります。ここにくればユキさんが居ると思いましたし」
「そっかぁ。それにしても、いきなりLINEブロックは傷つくね」
「付き合ってた期間が短か過ぎるんで、そんなに傷ついてないです。けど、腹が立ちました。ブロックされるべきなのは私じゃなくてお前だろって」
「はは。そっかぁ。まあ、気持ち切り替えていこう。今は、どんな感じで婚活してるの?」
「結婚相談所は、あんまり役に立たなくて。料金はすごく安いところだったんですけど、途中でサービス停止になっちゃったんです。それで、お見合いパーティに行くようになったんですけど、顔ぶれがだんだん変わらなくなっていって、行くのをやめました。毎回、同じ人がいるんですもん。いつも来てる人とは知り合いみたいになっちゃいましたよ」
「ははは」
男性陣も同じことを思ってるかもね。
「最近は、もっぱらアプリです。でも、40歳になった途端にマッチングが難しくなってしまって。このところメッセージしても返事が来ないことが続いてて、アプリもやめようかなって。またお見合いパーティに行ってみるかもしれないです」
「そうなんだ。確かに、アプリだとあなたの良さが伝わりにくいかも。お見合いって、どういう風にするものなの?」
「まず最初に、私は子供が欲しいって話と、年齢的に時間がないって話をします。そこが大事なところだから」
…………………重っ。
「そうなんだね。じゃあ、そこさえ理解してくれれば、あとのことは重要じゃない感じ? 年収とか年齢とか」
「年収は高くなくていいですけど、500万くらいは欲しいかなって。年収200〜300万とかは流石にあり得なくて、婚活しに来んなよって思います」
「うーん。そっか」
「年齢は、やっぱり同世代がいいですね。子供が欲しいって思ってる人がいいです」
アラフォーで子供を真剣に欲しいと思ってる年収500万円以上ある男性は、35歳以下の女性にアタックするだろうなぁ。
私は改めて、清子さんの全身を見た。
化粧気のほとんどない素朴な顔には、まだシミやシワもなく若々しかった。これなら、髪型やメイクを工夫して女性らしさを演出すれば、アプリでマッチングする確率も上がるのではないだろうか。
ただ、この数年の間にひどい猫背になってしまったようで、そのせいでスタイルが悪く見えるし、立ち姿が老けて見えた。親から受け継いだ資産の管理が仕事になってからというもの、ほとんど自宅に居るせいだろう。
人前に出る仕事の時はパンプスを履いたので、自然と背筋も伸びていたのだ。
もしも私が婚活アドバイザーだったなら、容赦ない言葉で清子さんを袈裟斬りにしていただろう。
「あなたは自分の立場がわかってませんね。いいですか、今のあなたでは、あなたが求めるような男性とは絶対にマッチングしません。ありのままのあなたじゃダメなんです。
まずは美容院に行って髪型を変えて。それからメガネを外してコンタクトにしなさい。お化粧はちゃんとして。何より猫背を直しなさい!」
とかなんとか。
でも、私に求められているのはそれじゃない。きっと、今はそうじゃない。
「うん。そうか。分かった。でも、清子さんが求めているのが本当に子供なのかどうかは分からないから、なんとも言えないな。あなたが本当に欲しいのは『人並み』ってやつかもしれないから。ひょっとしてだけど、この5年間、あなたは周りと比べて、自分に足りてないものや、自分が持ってないものを数えてしまってたんじゃないの?」
「えっ」
「なんかね。35歳から40歳くらいの頃って、そんな時期な気がする。周りの人の人生と比べて、自分の人生に足りてないものの数を数えてしまうの。でも、そんな気持ちも40代半ばになる頃には、自然と消えてしまうんだよね。気がついたら足りないものを数えなくなっていて、『これが私の人生なんだ』って、受け入れられるようになる。感情の起伏もなだらかになって、激しく傷つくことがなくなる代わりに、何かを激しく求めたり、喜びに震えることもなくなっちゃう。感受性が磨耗してしまう代わりに、穏やかになれるのかな」
「そうなんですか? 私にも、そんな日が来ますか?」
清子さんの顔が上がる。
「うん。でもね、そんな日が来ちゃったら、もう焦る気持ちをエネルギーにして足掻くってことが、できなくなっちゃうと思う。今が、足掻ける最後のチャンスだよ。
だから、婚活やりきってみて。みっともなくていいから。きっと、最悪なのは子供が持てないことではなくて、納得するところまでやりきらなかった自分に後悔が残ることだと思う」
「そうですよね?! 私、まだやり切ってません。実は、40歳になったら婚活やめようって、ずっと考えてたんです。でもやめられなくて。きっと、やり切ってないからやめれないんですね」
清子さんの目に光が宿る。声に力強さが増していく。
あぁ、彼女は、誰かからそう言って欲しくて、わざわざ私に会いに来たんだな。
「せいいっぱい足掻いてみた結果、『ユキさん、再婚できました!子供も授かりました!』って報告が来たら嬉しいよ。だけど、もしそうならなくても『子供は無理でしたけど、この人となら一緒にいたいなって思う人と出会いました』って、そんな報告を受ける未来が来てもいいかな」
「はい!私もそう思ってます」
「じゃあ、頑張って」
「はい!いい報告ができる様に頑張ります!」
別れ際、私たちはハグをして、「また会おうね」と約束をした。手を振る彼女の顔は明るかった。
頑張れ。足掻け。生きていこう。
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【著者プロフィール】
マダムユキ
ブロガー&ライター。
リンク:https://note.com/flat9_yuki
photo:Siora Photography
元電通のコピーライターの梅田さんから新刊をいただいた。
タイトルは「言葉を武器にする経営」。

この本は「正確な言葉」「響く言葉」「真実を語る言葉」を使うように、繰り返し求めている。
これを読みながら、Xで見た話題をふと思いだした。
「言葉」を使うのは、強い自制が必要なのだなあ、と。改めて思ったのだ。
その話題とは、「国語ができる人には意味不明だけど、馬鹿には読める文章」というもの。
この見方は浅いと思う。
前から言ってるけど、「馬鹿には読める文章」というのがあるんですよ。
例えば数式なら、数学できる人には読めてもできない人には読めない。でも自然言語の文章は、国語ができる人には意味不明で解読不能だけど馬鹿にだけ読める、という不思議なことが普通にある。… https://t.co/GlDPb2dCFs— ystk (@lawkus) July 22, 2026
どういうことだ?
と思って、具体例を見てみた。どうやら下のような文章らしい。
この「馬鹿にだけ読める文章」という比喩、リアルタイムで暇空騒動を観測していない人には分かりにくいと思うので、具体例を置いておきます。池内さおりのLINEアイコンの犬とHPの犬が同一だったと指摘しただけで、何かの秘密を解き明かしたと感じた人が湧いて出るのです。意味が分からない人が正常です https://t.co/wtTQxBNgxm pic.twitter.com/uVqTslMH5t
— 勿忘草 (@H_forgetme_not) July 23, 2026
見ると、犬の画像をアップした人物に対して、「また一つ謎を解き明かした」というコメントが付いている。
確かに元の投稿を見ても、さっぱり何を言っているのかわからない。文脈を知っていればわかるのだろうか。
おそらく、私の知識不足なのだろう。
ただ、これを見て、どこかでこのような言説を見たなと思った。
一部界隈における「チャート分析」や「相場」の話題。
例えば下のようなイメージだ。
現状、日足で見ると直近高値圏でのもみ合いが続いていて、25日線をサポートに上値を試す形です。出来高も上昇局面で素直に増えていて、需給自体は悪くない。
ただ、RSIが70近辺まで来ていて、ここで短期的な過熱を警戒できるかどうかなんですよね。この水準で『まだ上がる』と飛びつくか、『そろそろ一回入るな』と引けるかで、正直かなり差が出ます。まあ、大半の人は前者なんですけど。
私には何を言っているのかさっぱりわからない。
もちろんこれは「馬鹿には読める」という文章ではない。
が、どこか似た部分があると思った。
というのも、「チャート分析」は、根拠がまったく分からないからだ。

(出典:橘玲 臆病者のための株入門)
最近でも、テクニカルの手法を実際に検証した方が、「効果なし」としている。
辛い。この2日間AIに東証の20年間のデータ全部食わせて、fable5とcodexでトークン燃やしまくって聖杯探ししてたんだけど、全く見つからないどころか当たり前のように語られる… pic.twitter.com/HuG6t8I18m
— 絶円の借金さん。 (@syakkin3) July 19, 2026
それでもテクニカル投資を信じる人は数多く存在する。
私だけが知っている
このようなことを言うと、チャート分析の手法を推奨している方からは、「あなたが無知だからだ」という批判があるだろう。
たしかに、そうかも知れない。
もしかしたら本当に成功する法則があるのかもしれない。
しかし、勘違いしていただきたくないのは、私はチャート分析そのもの是非についてはどうでもよいと思っている。
信じたい人は信じればよい。
そうではなく、私が疑問視しているのは、こうした解説によく、
「賢い私(たち)だけは、これを知って成功しましょう」
「私たちだけがこの価値を理解できる」
などの、読み手の優越感をくすぐる言説が、頻繁に用いられている点だ。
そして実は、「国語ができる人には意味不明だけど、馬鹿には読める文章」の正体がここにある。
「馬鹿には読める文章」というのは、実は文章の難易度とは関係ない。馬鹿とも関係ない。
では本質は何かというと
「私だけが理解できる」という優越感を喚起し、「自分を「賢い」と思わせてくれる文章」
のことを指す。
例えば。
陰謀論の「点と点をつなぐ」投稿。
「9割の人は気づいていない」「知っている人だけが得をする」という広告。
「あなたはレアな性格タイプで、頭が良いのです」という根拠不明の分析。
IQ200の人が解ける問題。
意味深に見えるほのめかし・示唆。
こうした言説の目的は、実は「読み手」をおだてることに主眼がある。
「世の中はバカばかりですけど、これを理解できるあなたは賢いですよね?素晴らしい!」と。
だから、下のように「馬鹿には読める文章」を中身のない文章、というように定義している投稿もあるが、私はちょっと違う見方をしている。
「馬鹿には読める」文章ってのをより厳密に言うなら
「本当は『無意味な文章』『間違った文章』なんだけど、あまりにも中身が無い結果『スポンジのようにスカスカな文章に、バカが自分の妄想を染み込ませて、意味を創出して、読めたと錯覚できる』妄想の余地しかない文章」
ってとこかな? https://t.co/DEmHNMFpP2
— 文月葵 Mk-2 (@Fuduki_Aoi_02) July 23, 2026
大した根拠もなく、「頭が良い人ですね」とほめてくれる人は詐欺師です
なぜならば、読者諸兄はご存じだと思うが、こうした発言に長けているのは「詐欺師」だからだ。
・現状に不満ですよね?
・あなただけにいい話を教えます
・あなたのような賢い人だけがこれを理解できるのです
というのは、詐欺師の常とう手段だ。
「国語ができる人」は、基本的に
「文中にないことを読みとらないように」
「根拠を探しながら」
「先入観を持たず」
「自分は無知である」
という前提で、文章を読む。
いや、こうしないと正確に読めない。
「そんなこと書いてないですよ」と言われないためにも。
それに対して、上でいう「馬鹿には読める文章」は全く異なる。
それは
「読み手に都合の良い解釈」
「書いてあること以上のこと」
「自分にとってうれしい真実」
を勝手に想像してよいことになっている。いや、あえて想像させるように仕向けている。
「正確に読め」とは真逆だ。
だから、「馬鹿には読める文章」は
ここまで言えば、後はわかるな?
これくらい当然わかってますよね?
と、読者にほのめかす。
国語ができる人は、
「いや、わかんねーよ。書いてないことは」
と思うのに対して、
「馬鹿には読める文章」で喜んでしまう人は
「言わなくても、当然わかりますよ。何せ私は賢いですから。」
と(勝手に)思うので、だましやすい。
結局のところ、人をおだてて、そして、人を操作しようとして書かれたのが
「馬鹿には読める文章」なのである。
コピーライティングの世界にも、間違いなく、そういうものが存在する。
梅田さんの本は、それを強く、警告している。
そう感じる本だった。
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【著者プロフィール】
安達裕哉
生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」95万部(https://amzn.to/49Tivyi)|
◯Twitter:安達裕哉
◯Facebook:安達裕哉
◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書)
〇まぐまぐ:実務で使える、生成AI導入の教科書
[amazonjs asin="4478116695" locale="JP" tmpl="Small" title="頭のいい人が話す前に考えていること"]
Photo:Iva Rajović
「人間が、AIが自由意志を持つまでもなくAIに滅ぼされる。まるでハリガネムシに寄生されたカマキリのように。」
AIのデータセンターによって気温が上昇するという記事を見た方が、6月29日にXに投稿したメンションの内容だ。
なんか人類、得体の知れない衝動というか、本能に突き動かされてなのか…ハリガネムシに寄生されたカマキリみたいに、AI産み落とす事に取り憑かれて、死に向かって突進してない…? https://t.co/Om2Id37pzJ
— 磯光雄IsoMitsuo 仕事本三冊目発売中 (@IsoMitsuo) June 29, 2026
ハリガネムシはカマキリなどに寄生する寄生生物で、みずからの増殖のためにカマキリに自殺的行動をとらせることで知られている。
このハリガネムシに限らず、宿主の行動を自分たちにとって都合の良いように変えてしまう寄生生物が自然界には存在する。
たとえばトキソプラズマがネズミに感染すると、ネコに食べられやすいハイリスク行動が増え、これがトキソプラズマ自身の増殖を利する。
トキソプラズマが人間に感染した場合も、なんらか精神や精神疾患に影響する可能性が示唆されている。
こうしたことは自然界では珍しくなく、宿主が死のうが滅ぼうが知ったことではない。細菌感染症やウイルス感染症も同様だ。
人間に感染する細菌やウイルスは、宿主から栄養を奪ったり、宿主の体内にある複製装置を利用したりして自分たちを増殖させる。その際、細菌やウイルスが宿主のことを心配してくれるわけではない。
ともあれ、増殖に成功した細菌やウイルスの遺伝子は後世に継承されていくが、失敗した細菌やウイルスの遺伝子は継承されない。
この繰り返しをとおして、肺炎球菌やコロナウイルスは次第に姿を変えていく。このプロセスのことを、一般に「進化」と呼ぶ。
「進化」のロジックで増えるAIを振り返る
この「進化」のロジックで最近のAIについて振り返ってみよう。
現在のAIには自由意志はなく、AI自身が「増殖したい」「後世まで残りたい」と考えているわけではない。
超知能AIが爆誕したとか、そういった出来事が起これば話が変わるかもしれないが、少なくとも現在のAIを増やしているのは人間であってAI自身ではない。
ところが今日の人間ときたら、そんな自由意志を持たないAIを増やすことに躍起になっているのである。
AIのための半導体や電力の確保が急務となり、株式市場にも大きな影響を与えている。あるいはAIを増やすためなら何をやっても構わないと思っているのかもしれない。
AIと温暖化を関連づけるニュースを見て、「ハリガネムシに寄生されたカマキリ」と想像する人がいるのは私にはわかる気がする。
人間自身をそっちのけにしてAIを増やしているようにみえるからだ。
もちろんハリガネムシとAIはイコールではない。ハリガネムシはカマキリに一方的に寄生し、カマキリを死に至らしめて利益を得るし、そうやってハリガネムシは生き残り、進化してきた。
いっぽうAIは、人間を死に至らしめて利益を得るわけじゃない。少なくとも今はそうだ。そしてなによりわざわざAIを増殖させ、改良しているのは人間の側である。
人間目線でみれば、AIは人間が使役するものに過ぎない。
ところがAIの目線でこの構図を振り返るなら、そのときAIは人間を利用し、人間にみずからを世話させ、人間に工場をつくらせたりデータセンターをつくらせたりして増えているようにみえる。
ちょうど、穀物や家畜やペットが人間を利用し、増え続けるように。
"植物を作物化したり動物を家畜化したりして<飼い馴らす>という意味の英語domesticateは、ふつうは直接目的語を摂る動作動詞として理解されていて、たとえば「ホモ・サピエンスはイネを作物化し、……ヒツジを家畜化した」などと使われる。しかしこれは、domesticateされる側の植物や動物の能動的な行為主体性を見過ごしている。たとえば、どこまでわたしたちがイヌを家畜化したのか、あるいは、どこまでイヌがわたしたちを家畜化したのかはそれほど明確ではない。"
小麦や稲といった穀物、豚や羊といった家畜は、地球上で最も繁栄しているといって良いほど増殖している。
人間目線でみるなら、それらは人間に利用される植物や動物でしかなく、それらを増殖させているのは人間自身だ。
しかし、ここでスコットが述べているように、それらの穀物や家畜がこれほどまでに増えているのは、彼らが人間を利用し、人間の力を借り、人間を動機づけているからに他ならない。
ネコや犬を飼ったことのある人ならわかってくれるだろうが、「飼う」「飼われる」という事態は、それほど単純かつ一方的ではないのである。
この出来事を「進化」に沿って考えれば、人間にとって好ましい穀物や家畜、一生懸命に育てたくなる穀物や家畜が選ばれ、そうでない穀物や家畜が淘汰されることをとおして、人間にとって最高に利用しやすい小麦や稲や豚や牛ばかりが今日まで永らえている……というべきだろうか。
一般に、そうした過程は「進化」とは呼ばれず、人間目線にもとづいて「品種改良」と呼ばれている。
だが、人間を利用することで増殖する生物という正反対の目線からみれば、人間をいちばんうまくハックできる性質を持った穀物や家畜とその遺伝子が後世にはびこり、そうでなかった穀物や家畜が淘汰されたわけだから、これはこれで一種の「進化」にあたる。
こうして考えてみるなら、おいしいコシヒカリやまるまると太ったブロイラーは人間に育てられるという環境のなかで選ばれ、繁殖し、空前の繁栄をみた植物や動物たち……ということになる。
で、AIはどうだろう?
AIは動物ではなく物体だ。あるいはソフトウェア、そして商品だ。しかし人間をいちばんうまくハックできる性質を持ったものが市場淘汰に耐えて後世に残り、そうでないAIは淘汰されるという点では、「品種改良」、ひいては「進化」に似たプロセスの渦中にあると言える。
現在はAIバブルといわれるが、バブルが弾けて市場淘汰の圧力が強まれば、これが「進化」に酷似したプロセスであるさまがくっきりと見えてくるだろう。
穀物も家畜もAIも人間が滅ぶかどうかを顧慮しない
「進化」に沿ってモノを考える時、ひとつ、忘れてはならないことがある:それは、生きながらえるとか子孫を残すとか、そういった個人の願望とは無関係に「進化」は進行する、ということだ。
小麦や稲も、豚や牛も、自分たちが絶滅するかどうかは全く顧みない。
仮に、穀物や家畜があまりに魅力的で、あまりに人間をうまくハックしすぎて、それらを人間に増産させすぎた結果として地球環境が壊れたら、それらは人間を滅ぼし、間もなくそれらも滅ぶだろう。
「進化」は持続可能性や種の保存といったこととは無関係に進行する。皆が不幸になる転帰を迎えるかもしれないとしてもだ。
AIもたぶん同じだ。AIがあまりに魅力的で、あまりに人間をうまくハックしすぎた結果として地球環境を破壊するほどAIが増え、人間やAIが共倒れになってしまうとしても、そんなことはお構いなしにことは進行していく。
人間が人間自身や地球環境よりもAIを愛顧し、すべてに優先するほど魅力的なAI が人間をハックし続けるならば、それは起こってしまうだろう。その際のAI は、別に超知能である必要はかならずしも無い。
もし、人間に自由意志があり持続可能性を意識する悟性もあるならば、もちろん簡単にはそんなことにはならない……はずだが。
ドーキンスのミーム論に沿って自己増殖するAIを眺める
ここまで読んで、AIを寄生生物やウイルスと同じ「進化」のアナロジーで考えることに抵抗のある人もいるだろう。
AIは生物そのものと違って自己増殖する機能を持ち合わせていないから、抵抗があるのもわかる気がする。
それでも、宿主を利用して自己増殖させるという点で、AIはウイルスに似てないだろうか?
確かにAIはハリガネムシや肺炎球菌と違って自己複製の機構を自分自身のうちに持たない。けれども人間の持っている複製機構を間借りして自己複製している……という点ではウイルスには似ている。
人間の細胞内の生体機能を利用せず、人間の工業力を利用している点ではウイルスと違っているが、共通点のある存在だとは言える。
この、ウイルスとAIを架橋する存在として私が今、思い出すのはドーキンスの『利己的な遺伝子』だ。
ドーキンスは同書のなかで遺伝子にとって人間は「自己複製や自己保存のための乗り物のようなもの」と比喩している。
ただし、この比喩を「遺伝子が自由意志でもって人間を運転したり操作したりしている」と解釈してはいけない。
そうではなく、遺伝子そのものの立場からみれば、人間ひとりひとり、ひいては生物の一体一体は、遺伝子の生命維持装置兼コピー機でしかないといった意味だ。
淡々と自己複製し続ける遺伝子は、人間やカマキリやハリガネムシをみずからの生命維持装置としてこの世に存在させ、と同時に、コピー機として使役して自己複製する。
遺伝子そのものからみれば、生命維持装置の役割しか果たさない生物個体は仕事を果たしたとは言えない。
たとえば最も幸福で最も苦痛の少ない人生を歩んで死んだ人間が、しかし子孫を残さなかった場合、遺伝子そのものからみれば失敗もいいところだ。淡々と自己複製を積み重ねてきた遺伝子としての血脈が、そこで絶えてしまうからだ。
ちなみにウイルスの場合、ここでいうコピー機としての機能が省略され、寄生先の力を借りて自己複製しなければならない点が違っている。
が、淡々と自己複製する遺伝子の乗り物である点は人間やカマキリと変わらない。
そのうえでドーキンスは、こうした考えををミーム(模倣子)という自己複製する人間の産物にまで拡張している。
流行歌の旋律というミームの場合、ミーム・プールの中での繁殖の程度は、その曲を口笛をふきながら街をゆく人の数で測れるかもしれない。婦人靴のスタイルというミームが問題なら、集団ミーム学者は、靴屋の売上統計を利用することもできよう。
遺伝子の場合と同様、ミームの中にも、急激な増殖によって目覚ましい短期的成功を達成しながら、ミーム・プールの中に長くは留まれないようなものもある。流行歌や、やたらにかかとのとがったハイヒールなどがその例だ。
一方ユダヤ教の律法のように、数千年にもわたって自己複製し続けるものもある。こういったミームは、書きしるされたことばのもっているきわだった潜在的永続性のおかげをこうむっているのがふつうである。
ドーキンスは大胆にも、人間世界で人間をコピー機として自己複製し、流行したり継承されたり絶滅したりしている文物をミームと呼び、遺伝子と同じように淡々と自己複製する存在としている。
この見方でみるなら、ベートーヴェン『運命』も、冨樫義博『HUNTER×HUNTER』も、新約聖書も、浄土真宗大谷派も、カント『純粋理性批判』も、すべて模倣子だ。
それらを利用したり流行らせたりする人間自身の思惑はさておいて、人間世界で人間をコピー機として使役することで、それらは増殖し、ある時代・ある環境のなかで増えたり減ったり絶滅したりする。
ミームは生命維持装置として生物個体を乗り物にしているわけではないし、宿主の生体機能をコピー機として利用しているわけではない。
しかし人から人へと感染し、人を使役して増殖し、それぞれの時代や環境のもとで市場淘汰に生き残った者がはびこる、という点は生物……というよりウイルスによく似ている。
ではAIはどうか。同じではないだろうか。これから人間を使役して増殖し、2020年代、2030年代の環境のもとで市場淘汰に生き残った者がはびこっていくとしたら、それはまさにミームらしい挙動だ。
もし、AIが人間をあまりにも使役しすぎて、あまりに自己増殖しすぎて、その結果として地球環境がぶっ壊れたり、人間とその遺伝子の自己増殖が妨げられ過ぎたりすれば、人間はウイルスのごとく猛威をふるったAIに滅ぼされるだろう。
いや、本当はAIでなくても構わないのかもしれない。ミームに該当する何か、たとえばスマートフォンでも、ポルノグラフィでも、インスタグラムでも、アニメでも、資本主義でもいいが、そういったものが人間とその遺伝子の自己増殖を困難にするなら、やはり人間は滅ぼされる。否、みずからのつくったミームによって滅ぶだろう。
将来、AIが自由意志を持った超知能になることを警戒する向きがある。超知能が出現したら人類は滅ぶという話にも、一定の説得力があると言える。
しかしドーキンスのミーム論に基づいて考えるなら、AIが自由意志を持つかどうかより手前の問題として、AIやらなにやら、人間界にさまざまに存在し自己複製を優先してやまない色々なミームが、人間とその遺伝子の自己増殖を押しのけてまで自己増殖に励めば、人間は衰退し、人間が一定数より衰退すると文明社会はイノベーションの前進から後退に転じるかもしれない(注:イノベーションは人口規模に依存し、人口が少なすぎるとイノベーションの拡大どころか既存の技術の維持すら困難になることを踏まえてここではこう書いている)。
そうした衰退への一里塚としてAIは位置づけられるだろうか?
わからない。
しかし、AIがはびこるという現象も、人間が増えたり減ったりするという現象も、AI自身の自由意志や人間ひとりひとりの自由意志といったこととは無関係に進行していく。それが「進化」という現象の本態ではなかっただろうか?
そこでは生物個体、ひいては個々人の自由意志などたいして意味のある事象ではない。
この視座から現在進行形の出来事を眺めると、私は諸行は無常であるというひんやりとした気持ちにみたされ、なるようにしかならないな、とあきらめの境地に至る。
もし、人間に自由意志があり持続可能性を意識する悟性もあるならば、もちろん簡単にはそんなことにはならない……はずだが、自由意志などしょせん個人レベルの問題の話でしかなく、「進化」のスケールから物事を眺める際にはあてにできないと思う。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
[amazonjs asin="B0CVNBNWJK" locale="JP" tmpl="Small" title="人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)"]
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

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「頭のいい人が話す前に考えていること」という本を、3年ほど前に書いた。
今回は、これに関して少々、付加的な話題を取り上げてみたい。
この本の最大のポイントは、
「頭が良い」とはどういうことか?
という質問にある。
従来、「頭をよくする」「頭を鍛える」といった趣旨の本は、自分一人で完結する能力のことを議論していた。
例えば、論理的思考力や、IQなどの認知能力、地頭、教養、あるいは分析能力などがあるだろう。
しかし、学校ならいざ知らず。
仕事やプライベートにおいて「頭が良い」とされるのは、他者とのかかわりの中で成果を上げる能力の影響が大きい。
つまり、コミュニケーションを通じて
・信頼関係を作る
・その場を生産的にできる
・お互いの目的を達成できる
といったことができる人が「優秀」とされる。
そういった話を某所でしていたところ、その場のある方から、
「そうすると、頭の悪い人」はどのような話をしてしまう人なのでしょうか?
という質問を受けた。
「頭のわるい人」というのは何を言ってしまうのか
上の定義に照らし合わせると、生産的なコミュニケーションが取れないときに、
「言っていることが芯を食っていない」人、つまり「頭のわるい人」だとみなされてしまうことになる。
具体的には、概ね以下の3つのようなことをしてしまっている場合だ。
1.嬉々としてアドバイス(ないしは提案)してしまう
「してはいけない行為」の代表が、話を聞いてすぐにアドバイスすることだった。
これは、以下のような理由による。
・相手が話したことがすべてとは限らない
・相手が「アドバイスをくれ」と言っていたとしても、本当にアドバイスを必要としているかどうかわからない
・アドバイスが的確であったとしても、相手がそれを好み、実行するかわからない
つまり、本来は
自分のアドバイスが、相手の真の欲求に応じているのか、確信を持てるまでは何も言うな。
が原則なのだが、この原則を破ると、たいてい相手にとっては「迷惑」となり、こちらの能力、果ては人格まで疑われてしまう。
2.質問攻めにしてしまう
かといって、相手のことを知ろうと「質問攻め」にするのもよくない。
勘違いしている人も多いが、「話を聞くこと」と「質問をすること」は、かなり異なる。
「質問は相手に負担をかける行為」だということわかっていない人が多いのだ。
話を聞くだけであれば、「質問」ではなく、「次の話を促す」「じっと待つ」でよい。
例えば、良い車に乗っている人に
「車が趣味なんですね?」
と聞いたときに、相手の反応が
「はい。」
という程度で、うすい反応が返ってきたとしたらどうするか。
あれ?聞いちゃいけなかったかな?と思って、すぐに別の質問
「普段は何をしているのですか?」
等と聞くのは、良くない。
質問攻めにしているからだ。
このような場合には率直に、なぜそれを質問したかなど、自分の思ったことを話したほうが良い。
「停めていた車が気になったもので。」
「私も車が好きなんです」
など、こちらの話を少しだけすることで、相手の思考負荷を下げることができる。
そうして、こちらの話を小出しにしながら、相手が話してくれるのを待ってもよいし、相手が何か言いたそうであれば、それを助けるのが良い。
3.評価を述べてしまう
そして最も重要な事実として、人間関係において、相手に不快を感じる大きな理由の一つは、「評価」「価値観」のくいちがいである。
具体的には、
「好き/嫌い」
「良い/悪い」
「面白い/つまらない」
「賢い/愚か」
「格が高い/低い」
「すごい/普通」
などを安易に述べてはならない。
主観的判断に関する話は、親しい相手ですら、相手の価値観がわかるまで積極的にすべきではないのだ。
本来、評価はきわめて慎重に行うものである。
好き嫌いを頻繁に述べるのは、人間関係において大きなリスクであると認識したほうが良い。
というのも、その話題について、相手がどう思っているか、わからないからだ。
相手が「そうですね」と言ったとしても、内心どう思っているかを推測することはほぼ不可能である。
さらに「評価」は、嫉妬、羨望、差別意識などが根っこにある場合、さらに大きな問題を引き起こす可能性がある。
例えば、私の知人に、話すたびに
「〇〇さんはすごい」
という、ポジティブな話ばかりする人がいた。
一見良いように見えるが、実は周りの人から内心、嫌われていることも多々ある。
というのも、「すごい」というのは、評価に属する話題であり、「普通の人は眼中にないよ」「うらやましいでしょう」というメッセージととらえる人も少なくないからだ。
意識高い系が嫌われるのは、このためだ。
であれば、表現として
「~をやっています」
「~が得意です」
とするなどの工夫が必要である。
あるいは相手の話に対して、「私も好きです」などと、安易に同調するのではなく
「そうなんですね」
「初めて知りました」
「こういう場合はどうでしょう」
などの、評価を挟まない表現を使うほうがベターである。
できる限り「フラットに」「一緒に」「好奇心をもって」
ピーター・ドラッカーが述べるように、良い人間関係とは、生産的である。
したがって、以下の態度が基本となる。
・フラットに接し、すぐに評価せず、吟味する
・教える/教えられる だけではなく一緒に考えることができる
・話題にかかわらず、相手の話していること自体に興味を持つ
特に最後は重要で、これは、「相手の話していることを おもしろい/おもしろくない」という軸で「安易に評価してはならない」ということである。
「これ好きなんだ」
「私も好き!」
と、話がとんとん拍子に進めばよいのだが、こうした話し方は一方で、
「これ好きなんだ」
「私は興味ない、こんなのが好きなの?」
と逆回転した場合、簡単に人間関係を破綻させる。
したがって、相手の話を評価するのではなく、
「なぜこの人は、この話題に興味を持っているのだろう」
と、一段上がって考えることのほうが、より生産的な関係を作りやすい。
そうすれば自然に、「相手」自身に興味が出てくる。
リスペクトもわいてくる。
これが「頭のいい人」の基本的な考え方なのである。
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【著者プロフィール】
安達裕哉
生成AI活用支援のワークワンダースCEO(https://workwonders.jp)|元Deloitteのコンサルタント|オウンドメディア支援のティネクト代表(http://tinect.jp)|著書「頭のいい人が話す前に考えていること」92万部(https://amzn.to/49Tivyi)|
◯Twitter:安達裕哉
◯Facebook:安達裕哉
◯note:(生成AI時代の「ライターとマーケティング」の、実践的教科書)
〇まぐまぐ:実務で使える、生成AI導入の教科書
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Photo:Sander Sammy
部屋を片付けられない人間
おれは「片付けられない人間」だ。世の中の人間を片付けられる人間と片付けられない人間に分けたら確実に後者。普通に片付けられる人間を100とすれば、おれはマイナス100だ。そんな人間の言い分は以前書いた。
おれの部屋は衣料と本で積み上がり、わけがわからなくなった。ただ、上の記事に書いたように不潔は嫌いだ。
おれのなかの基準である「不潔」だ。食べ終わったコンビニの弁当のパッケージが部屋に転がっていることはない。埋もれていることもない。そこは切り分けている。
とはいえ、おれがおれの城、Ein im Müll versinkendes Schlossにも限界というものがある。いや、おれ一人だけの世界であれば限界はなかったのかもしれないが……。
部屋も見せられない人間は信用されない
手短に言えば、干支が一回りより下の彼女に、「二年間も付き合っていて、部屋も見せられない人間とはずっと一緒にいられない」と言われた。
唐突な話ではない。ひと悶着、ふた悶着あった末のことばである。そこは割愛する。
部屋の前までは来たことがある。近くで待ち合わせをしていて、おれが財布を忘れたときのことだ。
そこでもおれは「中を覗かないで下さい。外の盆栽を見ていてください」といって、一歩たりとも我がゴミ部屋に入れようともしなかった。盆栽の多くは枯れた。
が、年貢の納め時である。おれは部屋を片付けねばならない。だが、おれはマイナス100の人間である。どうすればいいのか?
そこで彼女の側から提案があった。プロに頼めばよいのではないか? と。その発想はなかった。そして、「ゴミ屋敷バスター」のようなYouTube動画を一緒に見た。……なるほど、プロか。
とはいえ、ケースにもよると思うが十数万円かけて何人もの人間が入るほど我がアパートは広くないし、先ほど述べたように「狭義の」ゴミはない。ちょっと違うかもしれない。
さすがに胸の高さほどには「広義の」ゴミも積み重なっていない。ゴミ屋敷バスターはちょっと違うかもしれない。
そして、AIなどに聞いたりしつつ出た結論が、「暮らしのマーケット」みたいなところで片付けのプロにお願いすることだった。
さっそく地元のプロを探してみると、レビューの件数と評価が非常に高い個人の人がいた。レビューの内容はというと、褒めちぎりというか、崇拝というか、本当にありがたがっている人たちの声に溢れていた。「この人に頼むべきでは」ということになった。
ただ、その人(女性)は、基本的に女性の部屋専門である。しかし、女性の家族などが同席していれば、男性の部屋もやってくれる。彼女が有給を取って同席してくれることになった。
1時間4,000円で6時間、おれは依頼を出した。依頼は受諾された。おれも一日会社を休む。そのくらいのことは、当たり前だろう。しかしなんだ、ココナラにせよ、暮らしのマーケットにせよインターネットとは人と人をつなげる便利な面もあるものだ。
大掃除の下準備
大掃除はプロの来る前日から始まった。プロが来るのは月曜日だった。
まず、彼女がおれの部屋の中に入り、惨状を見た。見たうえで買い出しに出た。ドンキ、100円ショップ。ゴミ袋や清掃グッズ。
おれには理解が及ばないが、必要でいて最小限。いろいろ買った。100円ショップでスリッパも3足買った。素足で入れる部屋ではない。いや、おれは素足で暮らしていたのだけれど。
おれのアパートは1DKというのか、ふた部屋に分かれている。プロに写真を送ったのはベッドがある方の部屋だ。
プロがどのくらいの速度で仕事をするかわからない。とりあえずおれはシステムベッド下の衣料をなんとか収納してほしかった。
一方で、キッチンのある部屋は自分たちで下処理しなくてはならない。
まず彼女に言われたのは、「玄関を塞いでいる靴を全てゴミ袋に入れろ」ということだった。ゴミ袋に入れるからといって、捨てるわけではない。とりあえずスペースを作る、人が通れる動線を作る、それが目的だ。おれは大量のメレルの靴をゴミ袋に入れた。
彼女も清掃のレベルが100くらいの人だった。同じようにテキパキと指示を出し、キッチンの部屋側にあった衣料を整理していった。
こちらの部屋にはほかにも未開封のレトルト食品や、清掃グッズや未開封のゴミ袋にあふれていた。清掃しようという意思だけはあったようだが、行動にはつながらなかった。
おれはかなり思い切ってたくさんの服を捨てた。残った服はゴミ袋に詰めてベッドのある部屋に放り込んだ。
放り込んだ先はプロがなにかやってくれるに違いない。そう信じたいところだったが、「この量を?」という疑念も残った。
そしておれのキッチン側の部屋の床が見えた。床は多くの部分が変色しており、どうにもならない。アニメ『ヤニねこ』の部屋の畳でも想像してほしい。
でも、床が見えた。ゴミも大量に出た。すごい量だ。しかし、十年、二十年のゴミと思えば当たり前の量だろう。
片付けのプロ
さて、プロの来る朝だ。まだキッチン側のゴミ捨てなどしていたら、それらしい人がアパートの前を通った。
「プロの人ですか?」と声をかけた(いや、文言は違うけど)。その人だった。女性の人について歳のことを書くのは気がひけるが、おれよりけっこう若いのかな、と思った。
スリッパを履いてもらって、奥の部屋に入ってもらった。おれのベッドの下にはプラスチックの収納ケースが大中小7つあった。
そこから衣料が溢れていた。収納があるのはよいことらしかった。ボックスの棚をキッチン側の棚に出して、「いらないものは捨ててください」(本当はもっと丁寧な言い回し)となった。
おれはまた捨てるマシーンになった。捨てられない人間だからこうなったのだ。捨てなければならない。
がんがんゴミ袋に衣料を突っ込んだ。とくに、かつてやっていて、またやるかもしれないと思っていたサイクリング系の衣料は全て捨てた。おれは去年の12月に希少がん(大腸)の手術をして、LARSという排便障害にもなり、運動どころではなくなったからだ。
かつて長距離ライドをするときに着たウェアも捨てた。がんになる前通っていたちょこざっぷ用に買ったスポーツウェアも捨てた。あとはもう、「着ていないかな」とちょっとでも思える服も捨てた。おれとしては、捨てに捨てた。
プロの人は捨てることを強要することはなかった。そこは徹底していた。ただ、「これ、どうします?」と、掛け物などを見せてくる。
その手にあるものは汚いゴミにしかみえなかった。だいたいもう使っていない。選択肢はない。その塩梅がプロだった。捨てるものはどんどん増えていった。
なかでも印象的なのは洗濯ハンガーだった。25年以上前に、一家離散して、おれが一人暮らしを始めるときに母から必要品として買ってもらったものだった。
あまり大きくはないが、メーンの洗濯ハンガーに収まりきらないものを干すのに使っていた。そのハンガーは20年ものとしては丈夫だった。が、あるときうっかり踏んで割ってしまった。自分としては思い入れのあるものなので、ビニールテープで補修したりした。でも、結局は使わなくなってしまった。
そのハンガーをプロの人が手に取り「これはもう……」と言った。なんの異論も反論もなかった。
第三者の手にあるそれはゴミそのものだった。そうとしか見えなかった。おれは「それはもう捨ててください」といった。なんの後悔もなかった。
それが、掃除というものだった。おれが避けて、逃げて、あるいは元からまるで理解していないものだった。
全てを保存できる無限に近い空間を持つ人間など限られている。われわれは生きていくうえで捨てていかなければならない。よほど小さなものなら別だろう。でも、そこに思い入れなど不要なのだ。
結局、キッチン側は彼女の努力とおれの微力な助力で床がすっきり見えた。ベッドの方はプロの人の迷いない最速の作業と、空間の把握によって片付いてしまった。
どちらも驚愕だった。あれだけの衣料がこのスペースに? いや、無理だろう。でも、無理じゃない。これはやばい。やばいプロの収納術だ。
今回、プロの収納術を間近に見て、服のナイスな畳み方など教えてもらおうと思っていたが、おれはおれで片付けとゴミ捨てに集中していたので無理だった。
でも、残されたものから畳み方や収納の仕方は学べる。大きな財産だ。なにより、このスペースを維持していかなくはならないという、妙な義務感が生まれた。残されたものでもまだ捨てるものはあるだろう。それは正直しんどい。でも、悪くない。
その後
まだ、おれの部屋には暗黒部分がある。ベッドとは反対側のわりと広い収納スペースに、大量の本がある。そちら側は床も見えない。とはいえ、今回の大掃除で3/4は片付いたといっていい。床の変色などはどうにもならない。
部屋の床が見えるようになって、おれは正直戸惑った。会社から帰ってきて、こっちの部屋、あっちの部屋、うろうろして、どうしていいかわからなくなった。
あと、部屋に収納器具が足りないと彼女から指摘された。収納器具がないから、床に物を置くことになるのだと。
ちょうどAmazonでセールをやっていたので、大きめなキッチンラックを買ったりした。あと、台所の収納器具も。全て彼女のアドバイスだ。今までおれが置いていたものはなんだったのだろう。片付けるのが苦手な人間は、ものをしまう器具を買うのも不得手だ。そう実感した。
そうしておれは、古いアパートの整頓だの掃除だのを、遅々としながら進めている。
まず掃除が必要だった掃除機も動く(汚れていたものを発掘したのだ)。
これでおれの人生は変わるだろうか。よくわからない。1/4の本の部分もある。でも、なにかは変わった。たぶん良い方へ。
おれのように片付けられないやつへ。彼女がいるかどうかは知らんが、お金を払えばプロがやってくれる。プロはおまえに不快感を与えないようにやるだろう。
人生における第三者の目の必要性、これをおれは実感した。そのことを伝えておく。
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【著者プロフィール】
黄金頭
横浜市中区在住、そして勤務の低賃金DTP労働者。『関内関外日記』というブログをいくらか長く書いている。
趣味は競馬、好きな球団はカープ。名前の由来はすばらしいサラブレッドから。
双極性障害II型。
ブログ:関内関外日記
Twitter:黄金頭
Photo by :Anton
この記事で書きたいことは、大体以下のようなことです。
・名著「はじめてのおつかい」などの絵本を描かれた林明子先生の訃報に接しました
・林明子先生の絵本には私も妻も子どもたちも大変お世話になったので、とても寂しい気分です
・「はじめてのおつかい」について家族でわいわい話していたら、ベスト絵本についての議論になりました
・「はじめてのおつかい」を始め、しんざき家メンバーそれぞれのベスト絵本について紹介したいと思います
・しんざきチョイスの「あおくんときいろちゃん」は、恐ろしい程の視覚的分かりやすさと「色の混じり合い」を展開に取り込んだ、天才的な発想の絵本だと思います
・子どもたちには「何かを作る」あるいは「色んなところを旅する」絵本が全体的に人気である様子です(あとでかいものを料理して食べる絵本)
以上です。よろしくお願いいたします。
ということで、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。
しんざき家は5人家族、子どもが3人います。上のひとりは長男、今春から大学生。下のふたりは中学生の双子姉妹。おかげさまで、皆仲良く過ごしています。
子どもたちは全員、幼少の頃から絵本が大好きで、小学校くらいまでは毎晩のように、寝る前の絵本の読み聞かせをしていました。
一度の読み聞かせで大体3、4冊は読まされるので、長男の幼少期から通しで考えると、軽く数千回は読み聞かせをしてるんじゃないでしょうか。
おかげで、「ぐりとぐら」やら「ノラネコぐんだんパンこうじょう」やら、頻繁にリピートする絵本については、ほぼ全文を丸暗記してしまいました。今でも暗誦できます。
子どもたちが自分で字が読めるようになってからも、かなり長い間、読み聞かせの習慣は続きました。
次女によると、「みんなで読めるから、自分で読むのと読み聞かせは別なの」だそうで、自分ひとりでの体験と複数人での体験は別コンテンツ、ということでしょうか。
しんざきも妻も本をなかなか捨てられない性分で、絵本も児童書も、かなりの冊数が本棚に残っています。これは正直良し悪しで、本棚がいつ倒壊するか怖くて仕方がないので、四次元ポケットの早急な商品化を祈るばかりです。
***
先日、「はじめてのおつかい」や「こんとあき」など数々の絵本作品を描かれている、林明子先生の訃報に接しました。
「はじめてのおつかい」は1976年の作品で、しんざき家の子どもたちは言うまでもなく、私や妻も幼少期から何度も読んでいる一冊で、とても寂しい気持ちになった次第です。
とはいえ、「はじめてのおつかい」を今読み直してみると、改めて作中世界の広さというか、描写の圧倒的な「詳細さ」と「広さ」に驚かされます。
5歳になる「みいちゃん」が初めて牛乳を買いに行く話なのですが、作中スケールがちゃんとみいちゃんの視点になっていて、とにかく何もかもが大きく見えるんですよね。
例えばみいちゃんが筒井商店にたどりつくページ、恐らく描写からするとそこまで大きな店ではないと思うんですが、道も店もやたら広く思えますよね。
坂道の表現なのか、ちょっと見上げるような視点なのも、自然と街や看板が大きく感じられて素晴らしい。

しかも林明子先生の描写って一見シンプルなようでよくみると細部まで分かりやすく描き込まれていて、本当に自分が5歳の子どもになって作中世界に入り込んでいるような気がしてくるんです。
上記の場面でも、木や看板の書き込みとか、影の部分と日のあたる部分の色使いの濃淡とか、物凄くリアルに思えますよね。店の中の商品の描写、色使いの微妙な濃淡で色んな商品が並んでるように思えるところ、あまりにも表現が上手すぎる。
夕飯の後に家族でダベっている際、「絵がお上手過ぎる……!!」とみんなで戦慄するばかりでした。
あと、作中で「たばこ!!」とだけ怒鳴るおっさん、大人になって読むと「ああ、昭和の頃ってこういうおっさんいたわー…」となって、現代的感覚だとあんまりいい印象ないんですが、みいちゃんが牛乳を買うまでのプロセスで必要だったイベントでもあるので仕方ありません。
そのような次第で、「はじめてのおつかい」をみんなで覗きこんでいると、その場で昔よく読んでいた絵本の話になりました。
あの本が面白いこの本がお気に入りと皆でああだこうだ言い合い、それぞれのベスト絵本をチョイスする流れになったので、もちろん「はじめてのおつかい」はオールタイムベストとして、この場をお借りして各人のチョイスをご紹介したいと思います。

「色の擬人化」という絵本として天才的な発想、「あおくんときいろちゃん」
私があげたのは、レオ・レオーニ作、「あおくんときいろちゃん」。1959年の作品でして、しんざき自身ちっちゃい頃から読んでいる名著です。
この作品、登場キャラクターが「色」でして、一見するとページに無作為に色が落とされているだけのように見えるんですが、この「色」のキャラクターたちが文字通り入り交じって、ちゃんとお話を展開するんですよ。作中世界に入り込むと、ただいろんな色の丸が描いてあるだけなのに、みんなで仲良く遊んでいるように見えてくるので不思議です。
中でもしんざきのお気に入りポイントは、「混色」という現象を完全にストーリーに取り込んでいること。
表紙でも「あおくん」と「きいろちゃん」がちょっと混ざって緑になっていますが、この二色、作中でも混ざって緑になってしまって、それが起こすトラブルが話の主な展開になっています。
絵本ならではのシンプルな展開の中でも、きちんと「事件」と「その解決」が描写されていて、しかもそれが「混ざることで色が変わる」という現象に基づいたものであるところ、当時すごくユニークに感じられまして、しんざき自身何百回も鬼リピしてました。
しんざきが「色の変化」というものを覚えたのは間違いなくこの作品の影響でして、小学校の図画工作の時間で絵の具と絵の具を混ぜた時は、「これ絵本で読んだ!」と大納得した次第です。まあ、絵心はあんまり身につかなかったんですけど。
絵柄がシンプルでもちゃんと「キャラクター」と「お話」は作れる、ということを示した作品でもあると思っていて、これにインスピレーションを受けて色んな「お話」を作った子どもも多いんじゃないかなあ、と思う次第です。
いたずらっぽいおじいちゃんのユーモアとほんの少しの怖さ、「ベッドのしたになにがいる?」
こちらは妻のピックアップ。2007年、ジェームズ・スティーブンソンの作品です。
祖父の家に泊まりにいったルーイとメアリーが、怖い話を聞いた夜、目に入るものがなんでもお化けに見えてきて眠れなくなり、おじいちゃんにお話を聞きに行きます。するとおじいちゃんは、自分が子どもの頃、同じように夜眠れなくなった話を始めて……というストーリー。

このおじいちゃんがちょっととぼけた感じの人で、幼少期の描写の筈なのになぜか口ひげが生えていることを始め、大げさな物言いをルーイやメアリーにいちいち突っ込まれています。
「こわいことが起こっているようで、実際には大したことじゃない」という、子どもなら誰でも経験したことがあるような場面が何度も繰り返されます。
絵本の大部分が「おじいちゃんによる語り」であることが「読み聞かせ」としてのひとつのポイントで、「怖い話が始まるのかな…?」と子どもを身構えさせておいて、すぐにオチがついてそれが解除されるというお話の起伏が、しんざき家では大ウケしていたんですね。
「怖い場面」を読む時にちゃんと怖い口調を作るのも子どもたちにとっては楽しかったらしく、しかも妻はそれが超上手い。時には、おじいちゃんの台詞を私が読んで、ルーイやメアリーの台詞を長女や次女が読む、なんてこともありました。妻にとっては、そういう風情も含めての選択だった模様。
文字通り起伏のある展開と、「でかいものをみんなで料理する」ロマン、「もぐらバス」
長男チョイスは、佐藤雅彦さんの「もぐらバス」。
とある町の地下に広がっているもぐらのトンネル、その中を運行しているもぐらバスを、実は街の動物みんなが使っていた…!というストーリーのお話です。

私、この絵本で一番好きなのってこの「トンネルの地図」の描写でして、迷路のような構造が広がっているというだけで十分わくわく感があるんですが、一方バス停の名前が「だれかんちのにわ1ちょうめ」とか、「いぬのいるいえ2ちょうめ」とか、ちゃんと動物視点になっているところもユーモラスかつ妙なリアルさがあって面白い。
この地図自体ちゃんとその後の展開に沿った描写がきちんとされているところもあって、ここを読むだけで宝探しのような楽しさが味わえます。
長男がちっちゃい頃も、なんどもページに指を落として、バスのアナウンスの真似をしながら道路をなぞったりしました。その辺、鉄道好きな長男の血が騒いだ側面もあるのかも知れません。
この絵本、話のオチが「埋まっていた巨大なタケノコを重機で掘り出して、皆で料理して食べる」というものなんですが、ここも当時の長男にはツボだったようで、「ショベルカーで芋煮を作ってるってニュースみた時、まずこのシーンが頭に浮かんだ」って言ってました。
「ぐりとぐら」のカステラもそうでしたが、でかい器ででかい料理を作ることには何らかのロマンがありますよね。
帽子を飾り付けることに「ものづくり」の楽しさが詰まっている、「どんぐりむらのぼうしやさん」
長女の推し絵本。なかやみわさんの、「どんぐりむらのぼうしやさん」。
どんぐりたちの村で帽子を売っていた三人組が、売れ行きが悪くなったので旅に出て、新たな売り場を開拓する、という筋書のお話ですね。
長女は元々ミニチュアとかお人形とか、「小さいもの、細かいもの」が大好きで、かつそれを飾り付けるのも大好きなので、この作品での「帽子を自分たちの好きなようにアレンジする」というのは、好みど真ん中だったようです。
一時期、長女自身、リカちゃん人形やらメルちゃんやら、人形に色んなアクセサリーを手作りしてあげる遊びにハマっていたんですが、その明確なルーツのひとつがこの絵本だったと思います。
「村の中では過去の帽子がもうみんなにいきわたってしまって需要がない」
「既存の帽子にアレンジを加えて、付加価値をつけて売る」
という側面でいうと、実は案外ちゃんと経済活動をしている絵本でもあります。その辺、「視点を変えて違う楽しみ方ができる」というのも絵本の価値のひとつであって、大人になって読み直す時の醍醐味でもあります。
夢の中での奇想天外大冒険、「こんやはどんなゆめをみる?」
次女が選んだのは、工藤ノリコさんの「こんやはどんなゆめをみる?」です。
五匹のこぶた兄弟が、寝る前に「どんな夢をみたいか」について話し合うという設定なんですが、その夢が例えば海賊の大航海だったりジャングル探検だったり南極での釣りだったり、とにかくバラエティたっぷりの大冒険なんですよね。
この絵本の最大の特徴は、「とにかく夢の描写内のこぶた達がすげー楽しそう」なこと。それぞれの「夢」の描写は見開き2ページが丸々使われてたっぷり描写されているのですが、どうもこぶた達の好みは5匹それぞれなようで、みんな夢の各所で好き勝手やっていて、そこに感情移入して「自分ならこの夢の中でどう遊ぶか」を考えるのがとても楽しいらしいです。
様々な地域の描写がある、という点では「旅」「旅行」の楽しさも凝縮されていそうで、その辺は旅行好きな次女の好みも反映されているかも知れません。
文章量はそこまででもないので、読み聞かせの時にちょっと楽ができるというのも、親にとっては密かなポイント。
ということで、しんざき家チョイスとして5冊の絵本をあげてみました。他にも色んなタイトルがあがりはしたんですが、さすがにきりがないのでまた別の機会でも。
私、児童書を読むのは趣味のひとつで、大人になってからも色んな児童書を読んでいるんですが、「絵本」というのもなかなかどうして、今改めて読み直してみると、本当それぞれの面白さがあって超楽しいです。
気軽に読める長さでもありますし、皆様もぜひ、懐かしの絵本を久々に手にとってみていただければ、と思う次第です。
林明子先生の作品をきっかけに、久しぶりに家族みんなで昔の絵本を広げて、ああだこうだ語り合う時間が持てました。
子どもたちは大きくなりましたが、絵本が家族に残してくれた時間は、今でもちゃんと続いているんだなあ、と改めて感慨深かったわけです。
末筆になりますが、林明子先生が安らかにご永眠されますよう、謹んでお祈り申し上げます。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【著者プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
photo:Michael Pointner
「男の人に一目惚れして、電車で声を掛けたことがあるんです」
先日、女優の岡田結実さんがドラマの制作記者会見でそんな発言をして、場をわかせることがあった。
声を掛けられた男性もまんざらではなく、その場で連絡先までゲットできたのだという。
真偽はともかく、モデル・女優として1流に昇りつめるような女性からの声掛けであれば、多くの男性が鼻の下を伸ばすのも無理はないだろう。
眩しいやら羨ましいやらのお話だが、しかし言うまでもなくこんな“奇跡”は、岡田結実さんだから起こりえた超レアケースというものだ。
もっともオッサンの場合、若く美しい女性からの声掛けなど恐怖でしかなく、私なら全力で逃げ出してしまうが。
まして男性からの声掛けであれば、高橋恭平さんクラスのイケメンであっても多くの女性には、間違いなく恐怖だろう。
「一目惚れしたので声を掛けました!」
そんなコミュニケーションが意味するものは「一方的な認知」であり、不審人物という自己紹介に等しい。
「とても美味しいので、これ食べてみて!」
海外旅行先の屋台で、青色に光る生魚やピンク色のキノコ料理を差し出された時よりも数十倍、怖い。
しかし日本企業では、そんな恐怖の儀式にも近いことが近年まで堂々と行われていたといえば、言い過ぎだろうか。
“優秀さの物差し”
「当社では、どんな仕事をしたいと思っていますか?」
話は変わるがもうずいぶんと昔、新卒の採用面接をしていた時のこと。
大手商社を定年でリタイアし転職してきた事業部長が学生にそんな質問をして、驚いたことがある。
「当社のどういったところに魅力を感じたのでしょうか」
そんな質問も重ねるが、全く意図が理解できない。
そのため採用面接が一通り終わった後に、問いかける。
「部長、あれはいったい何を知るための問いかけだったのですか?」
キョトンとする事業部長。いったいお前は何を言っているんだと、不思議なものを見る顔で不快感をにじませる。
「志望動機とか、入社後の仕事の意欲を聞くなんて当然やないか。やる気のない学生を採ってどうするねん」
20年以上も前、2000年代初頭の頃あいである。
大手や、少し気が利いている中小企業ならwebサイトはかろうじてあったが、作って終わりの静的ページでしかない。会社案内はまだまだ、紙が主流という時代のことだ。
「うーん…。では逆にお聞きしますが部長、ご自身は入社前、ウチの魅力をどうやって調べたのでしょう」
「…社長と直接会って、話した。幹部採用なんやから当たり前やろ。一緒にすんなや」
「その通りです、学生にそんな機会はありません。ウチに対して当たり前に魅力を感じているという、ありえない前提での質問に違和感があります」
今でこそ、新卒学生の採用はインターン経験などを通して、双方向の理解が進むように設計が為されている。
しかしほんの20年も遡ると、浅はかな質問で学生を“品定め”する、前時代的な価値観のリーダーが溢れていた。
そんな違和感を婉曲に伝えたつもりだったが、激しい口論になってしまう。
「だから会社案内があるんやろ!会社が出してる情報を勉強してない学生なんか、やる気がないと判断して当然やないか」
「キレイごとしか載せていない会社案内を記憶するなど、優秀であるかどうかの判断基準になりません。仕事ができるかどうか、ポテンシャルを推し量る上でも無意味です」
「ほなら、なにを基準に質問するねん」
「正直私も試行錯誤しています。しかし少なくとも、学生さんが“ウチを熱望している”ことを前提にする質問は間違えています。前提がおかしいので、茶番でしかありません」
もしここで、事業部長がこんなことを回答したらきっと、口論にならなかっただろう。
「組織に順応できる能力を見るために、建前のキレイごとも言えるか試している」
適切かどうかはともかく、質問の意図と知りたい答えが一応、矛盾していないからだ。
しかし何年前のものかすらわからない会社案内を記憶しているかを“優秀さの物差し”にするなど、気が狂っている。
人としてもビジネスパーソンとしても、学生さんを理解するうえで全く意味がない。
就職氷河期の走り、私のような昭和40年代後半あたり生まれの世代には、こういった「ガチ昭和」の狂ったリーダーとともに一緒に仕事をした記憶が、いまも色濃く残っている。
新卒の時、採用面接では数少ない情報から会社の魅力を“創造”し、おべんちゃらを言う技術がマニュアルのようになっていたほどだ。
しかしありていに言って、優秀な人材であればあるほど、会社など踏み台程度にしか思っていないものだ。
まして、会社から大した魅力も情報も発信していない未上場の中堅企業では、「数万社のうちの1つ」という前提で学生さんに接するのが現実的というものである。志望動機や、入社後にしたい仕事を質問するなど100年早い。
だからこそ、採用責任者として私はいつも学生さんに、こうお伝えしていた。
「数ある会社の中から、本日は弊社に面接に来て下さって本当にありがとうございました」
当たり前ではないか。
“どこを好きになったのですか?”
話は冒頭の、「恐怖の儀式」についてだ。
どんな非常識が、日本企業では最近まで常識であったのか。
一昔前の面接での常識をお話した後に多くの言葉は要らないだろうが、そうもいかないので少し補足したい。
令和の今、社会でリーダー的な地位にある40代半ば以上の世代にとって、新卒採用は「会社が若者に恩恵を施すもの」という、体験的に刷り込まれた価値観が今もなお残っている。
大手ではさすがに改善しているように思うが、地方のワンマン中小企業ならむしろ、まだまだ常識だろう。ひと世代上のリーダーたちから、自分たちがそのように扱われてきたためだ。
ビジネス小説家として一時代を築いた清水一行さんの作品だったと思うが、若い頃に読んだ今も忘れられない大企業の描写がある。
「仕事を教えて下さった上に給料まで下さって、会社には心から感謝しています!」
朝礼時に毎朝、そんなことを唱和させられる一コマである。
令和の若者にはにわかに信じられないだろうが、昭和生まれの世代は多かれ少なかれそんな青年時代を過ごし、影響を受けてきた。
そしてそんな価値観に色濃く影響を受けたリーダーや経営者は、今も平然と、採用面接でこんなことを言う。
「当社を志望した理由を聞かせて下さい」
「ウチに入社してやってみたい仕事は何ですか」
トヨタ自動車さんの「トヨタイムズ」のように、自社メディアにお金も人員も割いて情報発信をしている会社であれば、そんな質問も成立するだろう。
「自分たちはこんな価値観で、会社を運営しています」
「入社後のキャリアパスはこのように、多くの選択肢があります」
それをわかりやすく、巨額の資金をかけて発信しているからだ。
しかし給与と年間休日の多さだけで受けてみた会社の採用面接で、志望動機ややりたい仕事などを質問されたら、適当なキレイごとを言うしかないだろう。
「俺に一目惚れしたの?どこを好きになったのか上手に説明できれば、付き合ってあげてもいいよ」
電車の中でたまたま目が合った若い女性に、中年のオッサンがそんな声掛けをするのに等しい。
岡田結実さんからのナンパですら恐怖なのに、もはやホラーですらある。
そんな質問に、“一目惚れした理由”を上手に回答する儀式を、日本では「就職活動」と称してきた。
会社に一目惚れしたことを前提の愚問で、“優秀な学生”を選別したつもりになっていた。
どんな価値観の社長であり会社であるのか、どんなキャリアパスを描けるのかといった情報など無いままに、“見た目”という上辺だけで好きになったと言わされる儀式である。
令和になりようやくそんな時代は変わりつつあるが、当たり前ではないか。
誰かに選んでもらったり好きになってもらうためには、会社も個人ももっともっと、自分を知ってもらう努力をしなければならない。
好きになってもらう努力を怠っているのに、“一目惚れして当然”という前提の質問をしてくる会社など、人手不足の時代には早々に、淘汰されるだろう。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
偉そうなこと書きましたが、井川遥さんのような女性なら何歳になっても一目惚れしてしまいそうです…。
X(旧Twitter) :@ momod1997
facebook :桃野泰徳
Photo:Crystal Jo
ぼくは長い間「父」でしかなかった
結婚して20年近くになる。
わりとすぐに子どもが生まれたこともあり、妻とぼくは「夫婦」というよりも、子どもの「父母」である時間のほうがずっと長い気がする。
告白するが、ぼくはずっと「良い夫」ではない人生を送ってきた。
それでも妻が「夫婦」を続けてくれていることに対してぼくはもっと感謝するべきだし、そんな彼女の気持ちに応えるべく、家庭のことにもっと集中するべきなのだ。
なのに、ぼくときたら、いつも自分のことばかり考えている。
自分がどうすれば納得いく人生を送ることができるのか、そればかり考えている。
50歳を目前にして、いまだに承認欲求にまみれ、自分らしさとか、自己表現とか、そんなことばかり考えている。
それどころか、恋愛小説やラブコメマンガを夢中で読んだりしている。
結婚して、子どもがいて、「夫」というよりも「父」である時間のほうがずっと多く、恋をすることなどない自分をそうやって慰めようとしているのかもしれない。
また給料が下がった
先日、会社の評価面談があり、給料が下がることになった。
この物価高にも関わらず、給料は年々下がっていっている。
妻が働いていなければ、とっくに詰んでいる。
ああ、これはまずいなあ…と思って、久しぶりに吐きそうになった。
吐きそうになりながら妻に伝えると、もうその年齢で大きく成長することはないので、給料を戻そうとか上げようとか無駄な努力をするよりも、家の用事をちゃんとやるべきではないか、と言われた。
ぼくはただうなずく以外にできることはなかった。
彼女の話をじっと聞いていた。
そして、ふと思った。
一体、オレは何がしたかったんだ。
こんなどうしようもない自分とまだ一緒にいてくれる人のことを大事にせず、他にやるべきことなんてあるのだろうか。
いや、まあ「やるべきこと」は色々あるかもしれないけど、「やりたいこと」はどうだろう。
自分にとって大事な人を大事にする。
それ以上に「やりたいこと」なんてあるのだろうか。
そう思った。
まあ、もしあるとしたら、こうやって文章を書くことぐらいだ。
それはいつでもできる。
「恋」と「愛」は何が違うのか
自分にとって大事な人を、大事にする。
言葉にすると、とてもシンプルだ。
だけど、これはけっこう難しい。
まず、これはあくまで「自分にとって」大事なだけなのである。
では、ぼくも、相手にとって大事な存在なのだろうか。
世の中の多くの「恋」は、ここでつまずくのである。
昨日、会社の大先輩が「恋と愛は何が違うか」という往年のテーマについて語っていた。
彼が言うには「恋は、相手にも同じものを求める」が「愛は、相手から見返りを求めない」だそうだ。
正論だとは思う。
しかしまあ、まとめて「恋愛」と呼ばれるぐらいである。
この2つはそんなに簡単に線引きできるものではないようにも思う。
「恋」だけだと、相手にも同じものを求めるあまり、勝手に腹が立ったり、悲しくなったり、急にうれしくなったり、情緒が忙しくなって疲れる。
「愛」だけだと、なんだか悟りを開いてしまったような境地である。
悟りを開くことが悪いとは言わないが、そうすると煩悩が去ってしまう。
すると相手のことを「好き」と思う気持ちも限りなく薄くなっていって、「人類愛」みたいなものになってしまう。
それでいいじゃないかという方は好きしていただければいいけど、少なくともぼくはイヤだ。
いやまあ、百歩譲って、自分自身が相手に対して普遍の「人類愛」を与え続けるとして、それはまだ耐えられるかもしれない。
だが想像してみてほしい。
あなたの恋人や配偶者が、あなたに対して、普遍の「人類愛」のような態度で接してくるのを。
その人は、あなたにも、それ以外の人にも、平等に、同じように、見返りのない愛を与えてくれる。
…ぼくは無理だ。
ちなみに、アイドルとかタレントとかそういう「推し」の話ではない。むしろ今ぼくが話題にしているのは「推し」の概念とは正反対のものである。
「推し」だけじゃ足りない
今ちょうどいい感じで「推し」という言葉が出てきた。
そうなのである。
結婚して、子どもができると、ぼくたちは子どもの「推し」にならざるをえない。
常に与え続けるだけである。
それはとても素晴らしい経験だし、見返りなく誰かを愛することで得られるものはたくさんある(もっと言えば、見返りなく誰かを愛する、ということ自体が、かけがえのない経験である)。
ただ、ぼくはそれだけでは足りないのだ。
彼女は、オレのことを本当はどう思っているのだろうとか、あの時あんなことを言ったのは間違いだったのではないだろうかとか、そうやって情緒が揺れ動く時間も、とても大切だと思うのだ。
ぼくは社会人を長くやっていく中で、そういう「揺れ」をできるだけ小さく制御するような工夫をしてきたように思う。
できるだけ、他人から見返りを求めない。
できるだけ、他人に期待しない。
できるだけ、誰に対しても同じように接する。
それは、長い人生を生きていくための生存技術の一つだと思う。
だからこそ、もう一度、恋をしたい。
妻の反応にいちいち一喜一憂したり、考えすぎて不安になったり、ちょっとした一言に有頂天になったり、そんな時間をすごしたい。
情緒の忙しい日々を送りたい。
50歳を前に、そんな風に思っている。
え?なんか気持ち悪い?
はい。
恋って、もともと、そういうものじゃないですかね。
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【著者プロフィール】
著者:いぬじん
プロフィールを書こうとして手が止まった。
元コピーライター、関西在住、サラリーマンをしながら、法人の運営や経営者の顧問をしたり…などと書こうと思ったのだが、そういうことにとらわれずに自由に生きるというのが、今ぼくが一番大事にしたいことなのかもしれない。
だけど「自由人」とか書くと、かなり違うような気もして。
プロフィールって、むずかしい。
ブログ:犬だって言いたいことがあるのだ。
Photo by:
ここ数年、大企業の方や公的機関の方とお話をする機会が増えてきて、娑婆のぜんぜん知らなかった領域が眼前に開けてきた思いがします。
今日は、そこで出会ったエリートなサラリーマンの方々についておしゃべりしたく思います。
オフ会で出会ってきた人々とはちょっと違う人々
私は30年近くインターネットで遊び続け、色々な職種の人と出会ってきたつもりでいました。
とはいえオフ会で出会ってきたのは良くも悪くもネットカルチャーに親和性のある人々、インターネットが社会のインフラと認められる前からインターネットに入れ込んでいなければならない人々でしたから、世間のマジョリティとは言えない人々だったように思い出されます。
このことに関連して、『ニコニコ動画』の創設にかかわったかわんご氏は、かつて以下のようなことを述べていました。
東大卒が頭悪いと言うのは、僕は30年以上前から思っていたんだけど、これは最近、考えが変わってきて、僕がいたパソコン周り、ネット周りとかコンテンツ周りって世の中では所詮は辺境の地であって、そこに流れついてくる東大卒って、ぶっちゃけ東大の中でも主流派になれなかった人たち。… https://t.co/5pWimrF4Ur
— かわんご (@gweoipfsd) February 25, 2026
東大卒に限らず、当時のオフ会にわざわざ集まってくるほどネットカルチャーに親和性があった人々は、それぞれの領域で周縁部に位置し、主流派でもサラブレッドでもなかった人々だったと、今は推測されます。
ところがインターネットが次第に社会のインフラとみなされるようになるなかで、私がオフ会で出会う人々の性質も少しずつ変わってきました。
2010年代のオフ会では、1990年代や2000年代に比べて主流派っぽい雰囲気をたたえた人々に遭遇するようになりました。
さらに2020年代に入ると、私はもっと幅広い職種の方々からもご依頼をいただくようになりました。インターネット・オタク的な雰囲気とも、出版業界の雰囲気とも違った感じのサラリーマンな人々との接触は、私にとって未知との遭遇でした。
そうした主流派のサラリーマンの人々から私が感じ取ったことの第一は「礼儀作法の水準の高さ」を、第二は「そうした礼儀作法が空疎なものでなく、実務ときれいに繋がっていること」でした。
メール上のやりとりでも、実際にお目にかかってのやりとりでも、そうした方々の礼儀作法の水準は抜きんでて高い、と感じました。
なんて言えばいいんでしょうか、敬語や丁寧語の使い方が完璧すぎて私のメールや言葉遣いが恥ずかしくなる感覚です。
私もいちおう社会経験を積み、文章を書き続けている手前、いちおうの心得があるつもりでしたが、大企業のサラリーマンの方々からいただくメールの礼儀作法の完璧さにはまったく追いつける気がしません。
服装や物腰も凄いと感じます。TPOに妥当する服装であるのは当たり前のこと、そのうえで、好感が持てて個性さえ感じ取れる服を巧みに選択してらっしゃるようにみえました。
少し控えめなほうが良い状況では少し主張の控えめな服装を、少し華やかなほうが望ましい状況では少し華やかな服装を、驚くべき精度でやってのけたうえで個性の片鱗を感じさせるチョイス。
落ち着いた、聞こえやすい声音と豊かな表情なのは言うまでもありません。現代日本のホワイトカラーな人々にふさわしいコミュニケーションの精髄をみるような思いがしました。
こう書くと、意地悪な人は「礼儀作法だけの人間ではないか」と思うかもしれません。
ところがそうじゃないんです。丁寧な礼儀作法は、理想的なコミュニケーションをやってのける必要条件ではあっても十分条件ではありません。
礼儀作法だけ丁寧でも、実務に役に立つ文面・会話でなければ仕事にはならないのです。ですが、この点に関しても彼らのメールや会話には疎漏がありません。
つまり、仕事相手としての私に対してどのようなミッションを期待しているのか、いつまでに期待しているのか、そういったことがらについて誤解の余地のない文章をアウトプットするのも異様にうまいのです。
たとえば締め切りの日時について読み間違える余地のある書き方をしないのは当然として、商売相手としての私・交渉相手としての私に何を伝えたいのかが吟味され、その吟味に対応した最も的確な単語を選択して文章を構築している感じがビリビリと伝わってきます。
私の好きな例で言うなら、「正確」と「精確」を使い分けるような感じでしょうか。
正確を精確と書かなければならない必要性はほとんどの文章にありませんが、それでも精確と書いたほうがよりニュアンスが精確に伝わる場面ってのはあるでしょう。
同じことが、「特徴」と「特長」の使い分けや「言及」と「論及」の使い分けなどにも言えるでしょう。
別に、どちらを使ったってそこまで大きなニュアンスの違いはありません。それでも、その文章・その文脈に似つかわしいほうを選択できる人は、そのぶんだけ文章を読みやすくしたり、文章を精確に受け取りやすくすることができます。
彼らのリテラシーは異次元だ
こんな具合に、エリートなサラリーマンの人々はメールの文面でもリアルの対面でもこうした語彙の選択が抜群にうまいのです。
読みやすく、わかりやすく、長すぎず、それでいて精確に伝わるメッセージを完璧な礼儀作法のプロトコルに乗せてやってのけるのは相当なトレーニングが必要なことだと私は思っていますが、実際、彼らは精度高くやってのけているのです。
そうした能力は間違いなく実務を助けているでしょう。
あいまいな表現を残すべきところはあいまいにし、厳格な表現が必要なところは厳格な表現を選択する。
そのうえで完璧に礼儀作法を守ってみせ、自分が望むとおりの精度の高い文章をメールや契約書に書き、仕事を遂行していくってのはすごいことだと私は思います。
のみならず、実際にお会いして話し言葉でやりとりしても、ぼろが出る気配がまるでない。
メールの文面だったら書いたり消したりできますが、リアルタイムの話し言葉ではそうはいきません。
だというのに、○○社の担当者の方や××社の担当者の方の言葉遣いのうまさったら、目ん玉が飛び出るほど洗練されていて、余裕すら感じられる物腰で、私はたまげてしまいました。人間、ここまで言語操作のレベルが高くなるものなのか、と。
]
文章を読み書きする能力、言語を操ってみせる能力は、一般に「リテラシー」といいます。
よく、「リテラシーが足りない」とか「リテラシーを身に付けなさい」と言われる時、そこでいう「リテラシー」は、しょうもないデマに惑わされないようにしなさいとか、スパムメールに騙されないようにしなさいとか、怪しい健康食品を買わないようにしなさいとか、そういったものでしょう。
この「リテラシー」でいうと、エリートサラリーマンな人々のそれも確かに「リテラシー」には違いありません。
が、その次元は異次元の水準、けっして不躾にも高圧的にもならない丁寧な文章のなかで、述べたいことを必要十分に述べ、着実に伝えるべきことを着実に伝達できるよう、完璧なやりとりをやってのけているのです。
エリートなサラリーマンの人々がエリートであるゆえんは様々でしょうけど、こと、「リテラシーの高さ」に着眼する限り彼らの優秀さは明らかで、それはバーバルなやりとりだけでなく、ノンバーバルなやりとりもカバーできなければならないようです。
彼らの優秀さを物語る着眼点は他にもいろいろあるでしょうけど、私は、そういうところにいつも感銘を受けています。
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【プロフィール】
著者:熊代亨
精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。
通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)など。
[amazonjs asin="B0CVNBNWJK" locale="JP" tmpl="Small" title="人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)"]
twitter:@twit_shirokuma
ブログ:『シロクマの屑籠』

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「これ、使って下さい」
「え? 2本もお持ちなんてすごい偶然!使わせてもらいますね!」
少し以前の事だが飲み会の後、お店を出ると予報外の雨に降られることがあった。
その際、参加者の一人が傘を持ってなかったので、どうぞ使って下さいとお渡しした時のこと。
そんなお礼を言われる。
共感してもらえるかどうか自信がないが、私は地元にお迎えする人のためにホテルを探したり、飲み会の会場を探すのが大好きだ。
駅近で17㎡以上、大浴場があり…などなど自分が嬉しいパラメーターを予算内で満たそうといろいろ考え、ワクワクする。
当然のようにカバンの中にはいつも、万が一の雨に備え傘を予備で入れている。
とはいえ地元であれば、当然のことながらホテルに泊ったことなどない。
ゲストのホテルを探すというのに、ネット情報に頼らざるを得ない。
部屋の内装、清潔さや口コミなどを慎重に確認し、喜んでもらえそうな施設を必死になって探す。
「ありがとうございました、とてもいい部屋でした!」
そんなこともあり後日、こんなメッセージを頂けるととてもテンションが上がる。
しかしいったいなぜ、こんな“何の意味もない”ことに時間と手間を費やしているのかと、我ながら頭がおかしいと思うことがある。
貧乏暇なしなので、決して時間に余裕などない。
傘など自分用だけでいいし、ホテルなどyahooトラベルあたりで、一定以上の評価と予算の範囲でソートし適当に決めてしまえばいいのに。
「大人になればわかるよ」
そんなことを思いつつ、“無駄な手間と時間”を使うことをやめられないままだった昨今。
いい年になったので無理もないのだが、老母を見送ることがあった。
父は若い頃にすでに鬼籍に入っているので、これで何とか三途の川だけはすんなりと渡してもらえそうだ。
不摂生な生き方をしている自覚があり、賽の河原での石積みを覚悟していたので妙に安堵している。
そんなある日、実家の荷物を整理していた時のこと。
食器棚の最奥から、とても懐かしいラーメンどんぶりが“出土”することがあった。
(初めて自分で料理したラーメン、この丼で食べたな…)
おそらく小学3年生、1983~4年くらいのことだろう。
亡父に教えられながら初めてガスコンロの前に立ち、水を計量し、火をつけ、サッポロ一番塩ラーメンを作った。
「なんでスープの粉は、火を止めてから入れないとダメなの?」
「ヤケドして危ないからだよ」
今から思えば、オヤジの料理の教えはそんな感じで適当でデタラメだった。
加えてオヤジは毎回、どんぶりに移したラーメンに生卵を落とし入れることにこだわった。
「これが美味しいんだよ!」
ラーメンに生卵を入れるやり方を美味しいと思ったことは、一度もない。
とはいえ、10歳児が親父に逆らうことなどできないので、美味しいねと同調する。
どんぶりを手にした瞬間、そんな遠い日の思い出が鮮明によみがえり、“付喪(つくも)神”のイタズラなのだろうかと鳥肌が立つ。
どんぶりの付喪神に魅入られたのか、さらに記憶がよみがえる。
おそらくこれも、小学生時代の記憶だ。
夜の9時30分ごろに唐突に、オヤジが聞いてくることがあった。
「ラーメン食べたいか?」
「夜ご飯食べたし、お腹いっぱいだよ」
「西大津駅近くに、新しくラーメン屋さんができたんだよ。美味しいって評判だよ?」
「え!?連れて行ってくれるの!!」
昭和50年代といえば、まだまだ外食など貴族のたしなみの時代だ。
少なくとも、決して裕福ではないうえに3人兄弟だった我が家では、外食の記憶など数えるほどしかない。
嬉しさに舞い上がり、駅近のラーメン屋さんに向かう。
「そこのラーメンどんぶりとお盆を持ってきな」
「・・・?」
(ラーメン屋さんに行くのに、なんでラーメンどんぶりを持っていくんだろう…)
言われるままにどんぶりを抱きかかえるとオヤジの助手席に乗る。
程なくしてラーメン屋さんに着き入店すると、オヤジは思いがけないことを店主に告げた。
「ラーメン1個、持ち帰りできますか?」
「申し訳ありません…持ち帰りはやってません。容器もありませんし」
「家からどんぶり持ってきました。固めに茹でてラップをかけてくれればいいです」
「それならできますが、早めに食べて下さいね」
店内の客が一斉にこちらを見る。
そりゃそうだろう、どんぶり持参のラーメン持ち帰り客など、令和の今まで私自身、見たことがない。
オヤジ自身はラーメンを食べる気が無いので、席に座るわけにはいかない。
だから私の為に1杯だけテイクアウトし、家で食べさせるという魂胆であった。
恥ずかしいやら嬉しいやらの思いでラーメンを受け取ると、家に戻る。
リビングの自席に座り、人生で初めての外食(?)ラーメンをすする。
薄切りチャーシューにネギがたっぷり、プロが作る塩ラーメンの美味しさに感動し、夢中になってほおばった。
「美味しいか?」
「うん、美味しいよ!」
オヤジはただ、ウイスキーグラスを傾けながら満足そうに見ているだけだった。
「なんでお父さんの分は買わなかったの?」
「お父さんはいつも、外で美味しいものを食べてるからいいんだよ」
「じゃあなんで、連れてってくれたの?」
「大人になればわかるよ」
「・・・ふーん、変なの」
そんなやり取りが昨日のことのように、鮮明によみがえった。
そしてオヤジの言う通りいい年の大人になった今、その理由がよくわかる。
「思ったより嘘が下手なんだね!」
話は冒頭の、ゲストを迎える時の作法についてだ。
傘など自分用だけでいいし、ホテルなどyahooトラベルあたりで評判のいい上位から適当に決めてしまえばいいのに、なぜできないのか。
茶の湯を大成したことで知られる千利休の残した教えに、利休七則というものがある。
茶は服のよきように
炭は湯の沸くように
夏は涼しく、冬は暖かに
花は野にあるように
刻限は早めに
降らずとも雨の用意
相客に心せよ
茶道を学ぶ人なら誰でも最初に教わるであろう、一期一会の覚悟をわかりやすくまとめたものだ。
ゲストを迎える主人であれば、来客には真剣勝負で向き合えといったところだろうか。
もちろんこれらの心遣いに、見返りなど求めるものではない。
一期一会とは、そういうものだ。
しかしどうしようもない俗物の私は、「一期一会」のつもりでゲストをお迎えした時、わかって貰えると正直言って嬉しい。
というよりも、誰かに喜んでもらうことが嬉しいのであって、それが一期一会の真似事なのかと、後付けで納得したくらいのものだ。
そしてきっとオヤジも、そうだったのだろう。
僅かであったであろう小遣いを“無駄に使って”でも、子供の喜ぶ顔を見たい。
そのために、仕事に疲れ帰ってきた後でも、ラーメンどんぶりを抱えた私をラーメン屋さんに連れて行ってくれた。
思えば先日亡くなった母も、裕福ではない中でもできる限り、お金のかからないお出かけに連れて行ってくれた。
おそらく50年近く前だと思うが、夜桜を観に行こうと京阪電車に乗り、大津から蹴上まで出かけた日の事は鮮明に覚えている。
実家のラーメンどんぶりから不意に現れた付喪神は、そんな懐かしい記憶の数々を呼び起こしてくれた。
「え? 2本もお持ちなんてすごい偶然!使わせてもらいますね!」
だからこそ、予備の傘を出した時にそんなお礼を言われると、嬉しいかといえば正直微妙だ。
しかし私には、そんなゲストを批判する資格などないだろう。
「なんでお父さんの分は買わなかったの?」
「お父さんはいつも、外で美味しいものを食べてるからいいんだよ」
「ふーん、お父さんって思ったより嘘が下手なんだね。ありがと!」
私自身、そんなふうに感謝の言葉を伝えることができなかったのだから。
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【プロフィール】
桃野泰徳
大学卒業後、大和證券に勤務。
中堅メーカーなどでCFOを歴任し独立。
主な著書
『なぜこんな人が上司なのか』(新潮新書)
『自衛隊の最高幹部はどのように選ばれるのか』(週刊東洋経済)
など
部屋の大掃除で、懐かしいアルバムなどが出てきて掃除がはかどらないという経験をした人は多いと思います。
実家の整理、こんな感じでその100倍、時間がかかります汗
X(旧Twitter) :@ momod1997
facebook :桃野泰徳
Photo:Crystal Jo
こんにちは、しんざきです。
今日書きたいことは、大体以下のようなことです。
・昔、「お前は部下を叱れない」と上司から何度も怒られました
・確かに「叱責」とか「注意」はとても苦手で、今でもあまりできません
・ただ、いつの間にか「ちゃんと叱れ」と言われることはなくなり、部下のケアや心理的安全性、他部署との調整が求められ、評価されるようになりました
・これは、「時代が変わって厳しい上司から優しい上司が求められるようになった」なんて単純な話ではなく、「単に部下を管理できるだけではなく、組織を機能させることが要求されるようになった」ということだと思います
・上司やマネージャーの仕事は、どんどん変化・増殖し続けているようで、適応するのも大変です
・これは単なる予想ですが、生成AIの台頭もあり、今後は「適切な評価をし、適切にフィードバックできる」能力が最重要視されていくようになっていくんじゃないかなーと思っています
・マネージャーの皆様、大変ですが頑張りましょう。私も頑張ります
よろしくお願いします。
さて、書きたいことは最初に全部書いてしまったので、後はざっくばらんにいきましょう。
「ちゃんと叱れ」と言われなくなってきた話
何度か書いていますが、しんざきはシステム開発の会社で働いているシステムエンジニアです。
元々はDB屋だったんですが、いつの間にかインフラ寄りの何でも屋になりまして、そのうち中間管理職になりました。
現在はそんなに大きくないチームでマネジメントの仕事をやりつつ、無茶な納期を提示してくる営業さんを威嚇したり、脆弱性パッチ当てを渋るメンテナンスチームと変顔にらめっこ大会をする仕事で主に生計を立てています。がんばって生きています。
で、中間管理職というのは、部下もいるけど上司もいる、という立場です。部下の人たちを管理し、評価しないといけないのと同時に、上司に評価され、叱られる立場にもあります。
昔所属していた会社で、「しんざきは叱るのが苦手過ぎる」「叱るべき時はちゃんと叱れ」と上司から怒られたことが何度かあります。
つまり、部下が何かミスをした時に、それが重大なミスなら、きちんと叱責しないといけない、と。
ある程度強い言葉で言わないと、相手は「何がダメだったのか」ということが分からない、と。
叱るべき時、きちんと叱ることは上司の仕事の一つだ、と。
それはそうかも知れないと思っていて、私、基本的に部下のミスに対して「整理」しか出来ないんですよね。
つまり、「今回のミスは多分これとこれが原因でしたね」「だから今後はこうするといいかも知れないですね」という程度で、まあミスによって発生した事態のフォローはしますが、部下に対してはそれ以上何も言わないんです。
とにかく「相手の責任を問う」って苦手なんですよ。大人なんだからそれくらい言わんでも分かるやろ、いちいち詰めるの面倒くせえ、となってしまう。
それが、当時の上司にとっては「ことなかれ主義」に見えたのだろうし、正直そう見られてもしょうがないな、と思う側面もあります。
で、その後1,2回転職をしたこともあるんですが、少なくともIT業界では、どの職場でも以前ほど「ちゃんと叱れ」とは言われなくなりました。
マネージャー研修でも、「叱り方」ということが議論されることはまずなくなり、「部下の心理的安全性」や「再発防止のためのコーチング」というような話が増えました。どちらかというと、私の以前からのやり方に寄ってきたような印象があります。
誤解を招かないように強調しておきたいんですが、「叱責」はそもそも不要だった、叱責なんてしない方がよかった、私のやり方が正しかった、という話では「ない」んです。
重要なのは「行動に対するフィードバックをどう受け入れ、改善してもらうべきか」ということであって、「叱責」も「整理と説明」も、そのための選択肢の一つに過ぎません。
選択肢は複数持っていた方がいいに決まっています。
もちろん、「叱責」を強め過ぎてしまうとパワハラに繋がってしまう可能性はあって、それが忌避されるようになった側面は会社によってはあるかも知れませんが、それは単なる程度問題であって、「叱責をしてはいけない」ということにはなりません。
多分、「叱責」が最適な場面も、叱責が最適な相手もいるだろうし、その「叱責」という選択を極めて苦手としているというのは、現時点でも私の弱点なのでしょう。
そして、私が「叱責」ができなかった為に改善に真剣に取り組むことが出来ず、結果的にもっと仕事が出来る筈だったのにその芽を摘んでしまった、というケースもおそらくあるのでしょう。それについては申し訳なく思っています。
とはいえ、
「行動に対するフィードバックの方法として、様々な他の手段が認知された」
「それ以外にも、上司のやるべきことが山ほどあることも一般的に認識された」
「そのため、「叱責が苦手」という弱点が昔ほどは目立たなくなった」
という要素はおそらくあるんだろうなーと。
そのひとつのエビデンスというか、象徴として、昔Googleがやっていた「Project Oxygen」があると思っています。
上司がやらないといけないことが時代と共に変化・多様化している
みなさん、「Project Oxygen」ってご存知でしょうか?
「マネージャーって本当に必要なのか?」
「優れたマネージャーは、どんな特性を持っているべきか?」
というようなことを、2008年くらいから整理していたプロジェクトのことなんですが。
確か、一回Googleが「マネージャー不要論」をぶち上げて、そのあと「やっぱりマネージャー必要だった」ということで実施された調査だったと思います。
この時Googleは、優れたマネージャーが持っているべき特性として、以下のような要素をあげていました。最初は8つでしたが、後から10に増えました。
・良いコーチであること
・マイクロマネジメントせずチームに権限を与えること
・誰もが尊重されるチーム環境を作ること
・生産性と成果に重点を置くこと
・効果的にコミュニケーションすること
・キャリア開発を支援し、業績についてしっかり話し合うこと
・明確なビジョンと戦略を実行すること
・重要な技術スキルを持つこと
・社内で連携・協力すること
・しっかりとした意思決定を行うこと
くらいなんですが、細かくはGoogle発表のこちらを読んでみてください。
これ読んだ時、私正直「……多くね?」と思いました。
そりゃ重要な話ばっかりなんだろうけど、一人の人間ができることには限界があるし、私自身こんなの全部満たせって言われても無理だよな、と。いやー、「これ全部ちゃんとできてます」って自信をもって言える人、世の中に何人いるんでしょうね。
この「Project Oxygen」はひとつの象徴だと思うんですが、「マネージャーに求められる仕事って、昔よりずっと多様化してる」んですよ。
少なくともIT業界では、「部下と進捗をちゃんと管理しておけばいい」という仕事ではなくなりました。
いや、タスク管理やスケジュール管理は基本のキであって、それ自体は当然できないといけないんですが、それ以上に「組織を機能させる」ことが求められるようになってきた。
だから、「部下を叱るか叱らないか」なんてのは正直枝葉の話で、それより組織のバリューを高めることに時間を使え、という話になりつつある。
つまり、昔は「部下をうまく動かすこと」が優秀なマネージャーの条件だったのが、最近、少なくともこの10年くらいは「複数の部下が最大限動きやすい環境を整えること」が大事である、という認識に変わりつつある。
心理的安全性や失敗のケア、権限移譲なんかは、その過程で一般的な要素になってきたんだと思います。
まあ、人間にできることには限界があるので、私もこれらの要素を全て追い求めようなんて思ってもいませんし、できる範囲でできることをやります、というだけなんですが。
皆様にも、あんまりGoogleの言うことを真に受けず、できることをやっていくことをお勧めいたします。
じゃあ、今後「上司」「マネージャー」は何をしないといけなくなるのか
ともあれ、「時代と共にマネージャーに求められる役割が変わりつつある」「おそらく今後もマネージャーの役割は変わる」というのはおおかたの共通認識だろう、と思います。
これは単なる私の予想なんですが、これから先、「適切な評価をすること」「その評価を適切に言語化すること」が、マネージャーにとって重要な能力になっていくんじゃないかなあ、と思っています。
生成AIが一般に普及して、今後、仕事の場でも生成AIが大いに活用されていくだろう、ということは既に既定路線です。
恐らく、仕事の成果を出す際にも生成AIはある程度必須のものとなっていくでしょうし、生成AIを上手く使いこなすのは必須のテクニックとなっていくでしょう。
つまり、単純なタスク消化の速度や成果物の質で人を測ることはできなくなっていく。一方で、すべてをAI任せにできるわけでもなく、成果物に責任をもち、成果物の方向性を定める人間の役割は残る。
するとマネージャーにとって何が難しくなるかというと、「適切に評価をして、そのフィードバックに納得してモチベーションを高めてもらうこと」がめちゃくちゃ難しくなるんですよね。
評価って、単に「この人はどれくらい能力をもっているか」を測る行為じゃなくって、
「あなたは組織にとってどれくらい重要だよ」
「あなたの優れた部分はここで、苦手な部分はここだよ」
ということを伝えて、モチベーションにしてもらうためのツールでもあります。
人間が仕事をする以上、そういう評価をきちんと文脈を踏まえた上で納得してもらうという仕事は、まだ人間にしかできません。それを、「成果物の質、進捗具合」という分かりやすい指標とは別にやらないといけない。
それをできるのはマネージャーしかいない、というわけで、今後は「適切な評価をする能力」「その評価を言語化する能力」というのが無茶苦茶重要になっていくんじゃないかなあ、と私は考える、というわけなのです。
特に「評価の言語化」というのは、個人的には一番アツいテーマでして、「何が良いと思ったか」「それを他人に説明できるか」って普遍的な能力だと思うんですよね。
つまり、仕事ばかりではなく、日常生活とも、趣味の世界とも通底している。
私、「このコンテンツは何が良かったのか」ということを言語化するのがとても好きだし、それを仕事に応用できないか、応用していこうって試みはずーっと続けているんですよね。
その辺が今後広まっていくと楽しいなあと思いますし、皆様にも「何がよかったかの言語化」はガンガン試みていって欲しいなあ、と考えるばかりなのです。
取り急ぎは、最近超面白そうだと思ったSF小説、「マイボディ・オン・ザ・ムーン」を二冊セットで買ってきたので、徹夜で読んで感想を言語化していきたいと、そう決意していく次第なわけです。
今日書きたいことはそれくらいです。
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【著者プロフィール】
著者名:しんざき
SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。
レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。
ブログ:不倒城
photo:Michael Pointner









