「他サイトおすすめ記事」とは?
このページは、Books&Apps編集部メンバーが特にお気に入りだという記事を、ピックアップしたリンク集です。このキュレーションには3つのルールがあります。

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どうか楽しんでいただければ幸いです。
Books&Apps編集部

武田砂鉄さんの『紋切型社会』に次の文章がある。

ネットのトレンド検索ワードには、時折「安部首相」「柴崎コウ」「森山直太郎」といった誤字がそのまま拡散されてエントリーしてくる。

このしばらくの間、安倍晋三は大量に安部晋三として褒められ罵られ、柴咲コウはみんなに柴崎コウとして美貌を称えられ妬まれ、森山良子の息子は一旦森山直太朗ではなくなる。

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誤字がそのまま拡散されるインターネット。

 

漢字だけではない。言葉の使い方も正しくないことはある。しかし意味は通じる。

みんな心の中で「あ、間違えている。正しくはこうなのに」と思う。それでも間違っているとは指摘しない。

この程度のことでわざわざ指摘するのは面倒だし、恥をかかせたくないという気持ちもブレーキの役割を果たす。こうして“ちょっとした誤り”は指摘されないまま、繰り返されていく。

 

ではその“ちょっとした誤り”は問題なのか。

間違った言葉を聞いて(あるいは間違った字を見て)、正しい言葉が頭に浮かぶということは、正しい言葉を聞いたのと結果的には同じだ。

ただ、ストレートに正しい言葉を言われたときと違うのは、心の中がモヤっとするかどうかだ。

間違いを見つけたとき、人は「正しいものは何か」と改めて考える。

 

 

これに似た構造は、他にもある。

 

たとえば、世の中にある様々なストーリー。

完璧なストーリー、わかりやすく筋が通ったストーリーも楽しいけれど、余白のある、多様な解釈が生まれるストーリーに妙に惹かれてしまうのは、そこに「自分が考えた何か」を加えることができるからだろう。

考えるきっかけは、完璧なものからは生じにくい。不完全な物語への違和感が、イマジネーションを刺激する。

 

先日『誰も語らなかったジブリを語ろう』という本を読んだ。

押井守監督がスタジオジブリの作品について語っている本だ。この本はジブリを絶賛する内容にはなっていない。押井監督が独自の視点でジブリ作品の抱える矛盾や破綻にツッコミを入れ、批判している。

[amazonjs asin="4198645027" locale="JP" tmpl="Small" title="誰も語らなかったジブリを語ろう (TOKYO NEWS BOOKS)"]

 

この本を読むと、「ジブリ作品にはこんな“欠陥”があったのか」と気づかされる。

私はジブリファンではなく、おそらく標準的な観客の1人だと思うのだが、本を読んでこれまで以上にジブリに魅力を感じ、「また観たい!」と思ってしまった。

そう思うと、“欠陥”もまた、ジブリの魅力のひとつなのかもしれない。ツッコミ所があるということ自体が、ジブリを一層楽しいものにする。

 

あるいはなんでもそつなくこなす部下より、手間がかかる部下の方がかわいく思えてしまう上司の心理にも、通じるものがあるのかもしれない。

「ダメなやつほどかわいい」のは、守ってあげたくなる、応援したくなるといった心理もあるのだろう。

けれどそれ以上に、ダメだからこそ部下としっかりと向き合う時間がある、というのが大きいのではないか。

しっかりと向き合うその姿勢から生まれる感情も、きっと存在していると思うのだ。

 

完璧主義な人でなくとも、人間は正しさを求めている。

正しさしか存在しない世界はきっと息苦しい。そう思っていてもなお、私たちは正しさを求めることをやめないだろう。

 

しかし正しさを求める過程には“誤り”が必ずある。誤りによりまた別の正しさが生まれるのならば、失敗は成功のもと、と言うけれど、「誤りは正しさのもと」と言えるのではないだろうか。

 

 

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【著者プロフィール】

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

【著書】

「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

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LGBTBです」(総合科学出版、2017710発売)

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Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

 

(Photo:Chris & Karen Highland

これを読んでいる人の中に、学校生活がなんか自分にあわないなと感じていた人はいないだろうか?

あるいは家族とかにそういう感情を抱いていた人もいるかもしれない。

その他のフィールドも含め、今所属している団体で自分が「何かうまくやれてない」という違和感を感じている人も多いんじゃないだろうか。

 

ちなみに僕は随分とそういう悩みに悩まされたタイプの人間だ。

幼少期の頃から、所属を強制された場所ではどうも周囲と馴染めず、自分はかなりマズイんじゃないかとずっと思っていた。

 

自分に問題があるのはマズイと思い、ちょっと頑張ってクラスメートにコミットしてみようとすると、やはり彼等も僕に違和感があるのだろうか

「やっぱお前は空気読めないなーw」と笑いの種にされたりしてしまったりしていた。

多分似たような事を感じた人は結構多いのではないかと思う。

 

こんな感じで、小さい頃は人生がとにかく苦痛だった。朝起きたら学校に行かなくてはいけないし、学校が終わったら家に帰らなければならない。世界はそれで完結していた。

幼心ながら 「この世界線が永遠に続くのか。この世は地獄だな」と感じ、人生に絶望感を抱いたのは懐かしい思い出だ。

 

 

その当時、よく読んでいた本に「辛かったら逃げてもいいんだよ」という文章が書いてあった。

けど、僕はその文章を読むたびに 

「逃げろって、いったいどこに逃げろっていうんだ。世界はキレイに閉じていて、どこにも自分の居場所はない。行き先もないのに逃げろって言われても・・・正直死ぬぐらいしか逃げ場所がないじゃないか」

としか感じなかった。暗く懐かしい青春の思い出である。

 

とまあ暗黒の幼少期を経由したわけだけど、じゃあ今はどうかというと人生はメチャクチャに楽しい。大人は最高だ。絶対に学生時代になんか戻りたくない。

これは1つには僕がそれなりに社会的に成功したという事もあるとは思うのだけど、最大の理由は幼少期は閉じた世界にしか所属できなかったのに対して、今現在は開いた世界に身を置き、自分の好きな場所を選べるという事が最も大きいと感じている。

 

というわけで今回は、VRの話と絡めて、大人の人生の楽しさについて話そうと思う。

 

現代のVR技術は既にリアルと区別がつかないレベルで進歩している

つい昨年度末、作家の橘玲さんの講演会に参列させていただいた。そこで橘さんがVR(ヴァーチャル・リアリティ)について大変興味深いお話をされた。

 

橘さんは編集の方にオススメされて、お台場で期間限定でやっていたVR体験コーナーに身を運び、そこで「超高層ビルの木の板の上に居るネコちゃんを救出」するVRレンズを使ったゲームをプレイされたようだ。

 

ゲームの概要を簡単にいうと、VRレンズを装着し、超高層ビルから伸び出る板の上を歩いて、その先にいる猫ちゃんを救出するという仮想現実を楽しむものだ。もちろん本当にビルの上なんて危険すぎて歩くわけにはいかないから、実際は床に置かれた板の上を歩くことになるわけだけど。

このゲーム、事前に「ビルでも何でもなく、板の上を歩くだけで身の危険は全く無い」という事を知らされた上で体験するようなのだけど、それを知った上でも「生命の危機を感じるレベルで恐怖」するのだという。 

 

更に言うと、この「超高層ビルの木の板の上に居るネコちゃんを救出」するゲーム、被験者がプレイしている最中、係員の方が常に隣に立つというのである。

なんでそうするかというと、もし仮にフラっとしてプレイしている人間が横に倒れてしまおうものなら、被験者は文字通り「失神」してしまうのだそうだ。

 

これは被験者が初めての経験だからそうなるというわけではなく、実際にゲームの制作者ですら、何度フラッと横に倒れても、絶対に「失神」するのだという。

つまり現代のVR技術は「頭でわかっていても、恐怖を拭い去れない」レベルで既に進歩しているのである。既に脳では分別がつかないレベルの、超リアルな仮想現実が実現されているのである。

 

この話を聞いて橘さんは「VRグラスをつけて感じている仮想現実ですら普通の現実と区別がつけられないのなら、学校とか会社が世の中の全てだと思っている人に”嫌なら逃げてもいい”といったって、逃げられるはずがないな」と思ったのだという。

その話を聞いて、僕は今まで感じていた疑念がもの凄い速度で氷解した。

 

閉じた世界に生きる人間に、「逃げろ」は酷

2013年頃、堀江貴文さんが「ブラック企業?嫌なら辞めろよ」といって大炎上していた。

それに対して「簡単に辞められるのなら苦労しない」という声が沢山あがっていた。

 

これについて僕はその当時

「嫌なら辞めればいいというのは凄く良くわかるけど、そう簡単に辞められないと言う人の気持も凄くよく分かる」

「この2つの感情の間にある違和感は一体何なんだろう」

 

そう事ある度に思っていたのだけど、先の橘さんのVRの話を伺ってようやく疑念が腑に落ちた。

ブラック企業を辞められないという人は、会社世の中という仮想現実に支配されていたのだ。丁度、小さかった頃の僕が、世界が学校と家庭で閉じていたと思っていたように。

 

そういう「世界が閉じている」と感じている人に「実は世界は開いていて、自分で居場所を決めることができる」と問いても多分理解できない。

頭では他の世界があるという事は認識できるかもしれないけど、実際にプレイしているゲームの世界はそこしななく、そこの外へ逃げるということなんて想像ができないのだ。

 

小さかった頃に「逃げてもいいんだよ」といわれても「いったいどこに逃げろっていうんだ。死ぬぐらいしか逃げ場所がないじゃないか」と感じた話を先に書いたけど、閉じた世界で生きる事しか知らない人間からすれば、閉じた世界の外にも世界があるだなんて事は想像できないのだ。

 

大人の世界は開いている

会社や学校、家庭という世界がこの世の全てだと思っている人に

「それ以外にも世界はあるから、逃げてもいいんだよ」

と言ってもその言葉は絶対に響かない。閉じた世界しか知らない人間に「世界は開いているんだよ。君の居場所はどこかにある」とか問いても、開いた世界を知らないから理解ができないのだ。

 

実の事を言うと、世界は閉じてない。それどころか最近の大人の世界は無限に開いている。

義務教育期間の世界は学校と家族でほぼ完結しているグロテスク以外のなにものでもない世界だけど、大人の世界は自由そのものだ。

 

仕事は好きなものを選べる。付き合う人間だって自分で選べる。ちょっと勇気を出して、一度自分の世界を開いてみると、そこにはビックリするぐらい広い世界が広がっている。

 

かつてはそんな世界は絶対にありえなかった。人は生まれた村で、生まれてから死ぬまで、同じような人間と付き合い、既定路線に沿った人生を歩むことが義務付けられていた。

けど時代は凄く進歩した。あなたが今この文章読んでいるように、インターネットというインフラは私達をいとも簡単に様々な世界へとつなげてくれる。

 

この世界は物凄く優しい。学校だったら誰も見向きもしてくれなかった死ぬほどマニアックな趣味でも、ネットでなら愛好家が群がる場所が簡単に見つける事が可能だ。

そうして同じ文化を愛する人と、同じ場所で同じ空気を吸ってみると、もうそこには「空気が読めない」だなんて言われる惨めな自分はそこにはいない。気の合う仲間と、好きなように好きなだけ楽しい事だけができる世界が、そこには広がっている。

 

もちろん義務教育期間中にこの開いた世界を心の底から楽しむのは難しい。

あなたを養う多くの親御さんは、「開かれた社会」での交流を胡散臭いモノととらえるだろう。

「そんなインターネットの顔も知らないような人と遊ぶのなんて危ないじゃないか。友達なんて学校にいけば山ほどいるのに、なんでわざわざそんな危ないことをするんだ?」

こういうだろう事は絶対に間違いない。

 

この事は仕事についても全く同じことがいえる。

仮にあなたが大手企業からよくわからない会社に転職しようと思い、親御さんや友達に相談したとしたら

「なんで転職なんてするんだ。今の会社にいればキチンとした仕事があるのに、外に行くだなんて危ないじゃないか」

というような事を絶対にいわれる。

 

これらの意見は、きっとあなたの事を心の底から心配するからこそ発せられたものである事は間違いがない。

閉じた世界に愛着がある人からすれば、安心安全な閉じた世界の外に、もっとよい世界があるだなんて絶対に理解ができない。

けど残念ながら私達のような人間は閉じた世界の中では幸せに生きてはゆけない人間だ。開かれた社会に向かって、勇気ある一歩を踏み出さなければ、本当に楽しい社会の存在を知る事なしに人生を終えてしまうだろう。

 

 開かれた社会へ勇気をもって踏み出そう

かつて宇宙飛行士のニール・アームストロングが月面に降り立った時

「人間にとっては小さな一歩だが, 人類にとっては大きな飛躍である」

という言葉を述べた。

 

それに則って私はあなたにこう言おう。

「開かれた社会にいくのは他人にとっては小さな一歩だが, あなたにとっては大きな飛躍である」

開かれた世界は本当に楽しい。一度体験してしまおうものなら、閉じた世界の息苦しさなんて、もう二度と戻りたいとは思わないだろう。

 

楽しい楽しい大人の世界へようこそ!

 

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:sese_87)

こんにちは。コワーキングスペース「Basispoint」の運営会社、AscentBusinessConsulting代表者の北村です。

コワーキングスペースを運営していると、数多くのコンサルタントや、フリーランスの技術者、起業家などにお会いします。

 

最近は働き方改革の影響もあり、そういった方々から「働き方」についての話を伺う機会も多いのですが、その中で、特筆すべき最近の動きは「マネジャーの外注化」です。

どういうことかというと、言葉そのままなのですが、「プロパーのマネジメントを、外注にやってもらう」という会社が増えているのです。

 

プロパーのマネジメントを、外注にやってもらう

これは、従来の常識から言えば、「ありえない」選択肢でしょう。

マネジャー、つまり管理職は社内で「出世」した結果、ありつけるポストとされているからです。

 

しかし、最近ではどうも様子が異なるようです。

 

例えば、成長途上のベンチャーや、老舗大企業の新規事業の立ち上げ部門は、大変に優秀な人を求めていますが、最近では採用難が著しいので、能力の高い人がなかなか取れないのです。

すると、「採用できないなら、外注を使おう」ということになります。

そこで、外に目を向けると、フリーランスや元コンサルタントの「とにかく仕事ができる人たち」が結構いる。

中には「副業」で土日だけなら手伝えます、という人も数多くいます。

 

じゃあ、一度使ってみようか、ということで外部を使うと、彼らはとにかく仕事が早い。

それこそ、プロパーの社員たちよりも何倍も優秀な人が結構いるわけです。

経営者は、仕事ができれば文句は言いません。

結局、「正社員」を雇うよりも、必要なときだけ外注したほうが実は割安なんじゃないか、という話になるのです。

 

さらに、プロパーの方々が「外部の人」に対して、敵意を持つかというと、全然そんなことはない。むしろ仕事はテキパキやってくれるし、彼らは経営者にも堂々とものが言える。

プロパーも彼らを立てておけば、仕事がやりやすいと感じる人が増えたんです。

 

そうした結果、「ならばプロパーのマネジメントも外部にやってもらえばいいんじゃない?」という考え方の会社が増えたことも、不思議ではありません。

 

そうして、「うちのプロパーを使って良い。成果を出してくれ」という条件で、つまり「マネジャー」として、外部の元コンサルタントや技術者を雇っている会社が増えていったのです。

 

「スキルの売り買い」から「能力の売り買い」へ

最初は結構驚きました。

今まではフリーランスや副業と言えば、「デザイン」や「コーディング」などの現場のスキルが求められていましたから。

 

でもいまは「スキル」というよりも、その人の「能力全般」が欲しいので、マネジャーを任せて、参加してもらう、という形に変わってきているようです。

フリーランス・副業市場は、徐々に「スキルの売り買い」、つまり「お願いしたことをやってくれる人」ではなく、「能力の売り買い」つまり「問題解決ができる人」が増えてきている、ということになります。

 

これ、地味ですが大きな変化だと、個人的には感じています。

おそらく、昔ながらの人は「マネジャーや管理職を外注するなんてとんでもない!」と感じる人も多いでしょう。

でも、米国ではすでに「経営者市場」が存在しており、高額な給与で経営者を雇う会社も少なくありません。

「プロのマネジャー」は、世界中で需要があるのです。

 

ただ、疑い深い人は「あなたの周りだけでしょう」と思うかもしれません。

でも、調べてみると世の中は広いもので、「マネジャー」を外注している会社があることがわかります。

エンジニア35才定年説に挑戦する

そこで出来上がったのが、逆転の発想で、「プロパー社員エンジニアはコードだけ書く。派遣/契約エンジニアが社員をマネジメントする」というものです。いいですねこの逆行しているかんじ。

これが本当にうまくいったなぁと思ってまして、プロパー社員エンジニアの技術レベルがどんどん上がっていくんですよね。

「なんだみんなマネジメントしたくなかったんだね、新しい技術へのチャレンジや、最前線に出たかったんだ」ということになったのです。

世の中やっぱり「マネジメントのプロ」っていらっしゃるんですよ。派遣エンジニアの方でもう「かゆいところに手が届く」くらいマネジメントが好き、という方もいらっしゃるんですよ。

この会社の話は、私の感覚ともピッタリ一致します。

 

そう言えば、初期のGoogleは「エリック・シュミット」という人物を外部から招きました。しかも「CEO」として。

創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは「コンピューター科学者」としては随一でしたが、当時の彼らには「プロの経営者」が必要だったからです。

その後のエリック・シュミットの活躍は、皆様がご存知のとおりです。

 

近い将来「マネジャーの外注化」は、日本においてもそう珍しいことではなくなるのかもしれません。

 

 

 

*もっと高収入を狙いたい人はコンサルポータル


コワーキングスペース「Basis Point」サービスサイト

コンサルポータル

Ascent Business Consulting 株式会社コーポレートサイト

 

(Photo:tokyoform)

 

当メディアに寄稿をしていただいている熊代亨氏から、最近また、本を贈っていただいたので読んでみた。

 

タイトルは『「若者」をやめて、「大人」を始める』

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この本には「若者」であるかのように振る舞い、その結果として痛い目にあう中年が数多く登場する。

実際、彼らは多くの人の目から見ても、大人げなく、イタい存在なのだ。

熊代氏は、本の中で

『「大人」が「若者」と同じように振る舞うと、破滅が待っている』と述べ、読者へ大人への成熟を促すメッセージを出す。

 

熊代氏は、書籍の中で「大人」になれない人が増えているのは、

・マスメディアが若者を礼賛する

・社会から大人を強制するような通過儀礼が失われている

・年長者と年少者の接点が少ない

と言った、昨今の社会事情を挙げている。

 

そして、熊代氏は一つの指摘をする。

「高学歴、かつ大都市圏で勤める人は「大人」を始める時期がどうしても遅れる」と。

それは、仕事を始めたり、結婚をしたりするのが遅く、アイデンティティの確立が遅れるからであると、氏は言う。

 

 

一方で、私はこの点に関しては「企業の責任」がかなり大きいと思っている。

率直に言えば、

「企業が若者ばかり欲しがる」から、都会の高学歴は「成熟」できないのだ。

 

中途採用市場を見てみると良い。年齢だけ考えても、殆どの企業が求めているのは、今でもせいぜい四〇歳前後までだ。

経験や成熟度を考えれば、別に五十代、六十代を採用しても良いはずなのに。

 

もちろん「年齢は関係ない」という企業もある。

でも、そういった会社であっても、殆どの経営者や採用担当者は言う。

「同じスキルなら、若い方がいい。だって、オッサンオバサンは、物覚えが悪く、頑固で、プライドが高いから。」

 

このように、企業は中途採用市場に

「チャレジングな人が欲しい」

「新しいことに意欲的に取り組める人が欲しい」

「守りに入ってはならない」

「フットワークが軽くなくてはならない」

というメッセージを発信し続けている。

 

そして、これらの活動は少し考えてみればわかるが、すべて「若者らしい」振る舞いだ。

 

対照的に「オッサン」的な発想は、面接ではNGだ。

・自分よりも若い人に頑張ってもらえるように振る舞います

・新しいことは苦手ですが、今まで作り上げたものには自信があります

・リスクを減らし、失敗を恐れます

・古き良きものを出来る限り残します

こういった「成熟した大人」を求める企業は殆どない。

 

でも、上のことは「親」や「コミュニティの長」としては、大切なことではないだろうか。

親は自分より子供に活躍してもらいたいと願うのが普通だし、家庭を「失敗しても良い」と、大きなリスクに晒すことはしない。

 

更に「若者的な振る舞い」が求められる最たる存在が、起業家たちだ。

いかに既存の枠にとらわれない発想ができるか。

いかに慣習にとらわれないで実行できるか。

いかに既得権を破壊するか。

起業家は、「大人」であるよりも、「若者」のように振る舞うことが良しとされる。

 

つまり「資本主義」そのものが、成熟した大人よりも遥かに、若者を求めている。

 

 

昔、「ちきりん」という著名ブロガーが下のようなツイートをしていた。

私はこれを見、「成熟」について考えさせられた。

 

この件に関して、元LINEの執行役員だった田端信太郎氏が、次のようにツイートした。

 

「教育に関心がある」と言うのは、つまり「大人」になったということにほかならない。

そして、企業の中では「終わった人」「アガった人」と呼ばれる。

そう。

「高度の資本主義にさらされる、高学歴、かつ大都市圏で勤める人は、企業の中で「大人」になってしまったら終わり」なのだ。都会の高学歴が「大人」への成熟を求められないことの本質は、ここにある。

 

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(Photo:tokyoform

ちょっと、壮絶にサイトの方向性からずれた話をさせてください。

 

昔、「人生の息抜きにゲーム」ではなく、ゲームの息抜きに人生を送っていた時期がありました。

1994年から1995年にかけてですから、私は高校生でした。当初はゲームセンターで。後々はセガサターンで。私は、とある一つのゲームタイトルに、時間から体力から気力からお金から、ありとあらゆるリソースを全力投入していました。

 

そのゲームの名前は、「ダライアス外伝」といいます。

当時色々と事情があり、バイトで稼いだお金もある程度自由に使え、また親からあまり行動制限を受けていなかった私は、学校が終わるとゲーセンにこもり、あるいは一日中セガサターンと向かい合い、呼吸をするようにダライアス外伝を遊んでいました。

学校がない休日など、本当に比喩抜きで「ずっと」ダライアス外伝を遊んでいたこともありました。

朝早く起きて夜中まで、飯も食わずに20時間くらいはぶっ通しでプレイしていたんじゃないでしょうか。いわゆる廃人と呼ばれるアレです。

ダライアス外伝はシューティングゲーム、その中でも「横スクロールSTG」に分類されるゲームです。「グラディウス」「R-TYPE」と並んで三大横STGシリーズと称される、「ダライアス」シリーズの3作目でもあります。

 

圧倒的に美しい画面演出の中で、次々と襲い掛かってくる敵機を撃ち落としていくゲーム。それがダラ外であり、敵はお魚の形をしていました。

敵の攻撃パターンを学習して、徐々に弾避けが上手くなっていく楽しさ。

押し寄せる雑魚敵を次から次へ撃墜していく爽快感。

多種多様、ありとあらゆる攻撃をこちらに向けてくる敵ボスたち。

激戦の末に敵ボスを下した時の、戦慄する程の達成感。

あと一歩でステージをクリア出来るという時に被弾した時の、目の前が真っ暗になる程の悔しさ。

何かの冗談としか思えない程に流麗で、テクノの形で心にしみわたってくるBGM。

Yゾーンのラストでジャングルから飛び立つ鳥たちと、美しく弧を描いて立ち上がる虹。

 

それら全てが集合したゲームがダライアス外伝であって、私は当時、どこまでもダライアス外伝に魅了されていました。今風に言えば、つま先から頭頂部まで、どっぷりとダラ外沼にはまっていたのです。

 

私、著者の自己紹介欄に「好きな敵ボスはシャコ」と書いておりまして、「シャコってなんじゃい」という人がいたので説明させて頂きますが、シャコというのはダライアス外伝のボスの名前です。

 

ダライアスシリーズのボス敵は伝統的に海産物をメカニカルにアレンジした滅茶苦茶かっこいい姿を取っておりまして、更にそのメカニカルなボスに凄絶なかっこよさのコードネームがついています。

「オニキンメ」をモチーフとした、「ゴールデンオーガ」。

「ホタルイカ」をモチーフとした「ネオンライトイリュージョン」。

「カガミダイ」をモチーフとした、「デッドリークレッセント」。

「マッコウクジラ」をモチーフとした、「グレートシング」。

そして、シャコをモチーフとした「クラスティハンマー」。

シャコは、ラスボスに次ぐ強さで数々のプレイヤーを沈めてきた、ダライアスシリーズ史上でも指折りの難敵でして、今でも色んなシューターの記憶に残っていると思います。

すいません、私実際にはシャコと戦う時大体被弾でブチ切れていたので、本来どっちかというと「タイタニックランス」ことベレムナイトの方が好きなんですけど。

 

そんな数々のボス敵が、自機である「シルバーホーク」と並んで、ダライアス外伝、あるいはダライアスシリーズのもう一方の主役であることは、今更言うまでもないでしょう。

ボスのコードネーム自体も物凄いハイセンスでして、特にホタルイカを「ネオンライトイリュージョン」って名付けた人、本当に天才以外のなんなの?と今でも思います。

 

すいません、ダライアス外伝について語っているとこの10倍書いても話が終わらないので、ちょっと話題を変えさせて頂きます。

 

これは純然たるただの自慢なのですが、私はダライアス外伝で、一度だけ全国一位のスコアをとったことがあります。

当時、ゲームセンターのゲームのハイスコアは、「ゲーメスト」と「マイコンBASICマガジン」の二誌が集計していました。

私が購読していたのは「ゲーメスト」の方でして、全国一位のスコアは併記される☆マークを指して「星」などと呼ばれていたのですが、私が獲得した一回っきりの星には、当時滅茶苦茶な達成感を感じました。私の30年以上のゲーマー生活の中で、最も濃い時間を送った数カ月だったと思います。

 

実際のところ、何故あそこまでダライアス外伝にハマっていたかというと、「ハイスコア狙い」というプレイに全身全霊をつぎ込んでいたからです。

ダラ外は「スコア狙い」という遊び方にも魔的な面白さを醸し出していまして、高得点を目指し始めるとどこまでも深くダラ外の世界にはまり込んでいくことになります。

 

ここからようやく本題なのですが。

今回の記事では、皆さんに、「「ハイスコアを狙う」という遊びはどんなものなのか」「具体的にはどんなことをするのか」というのを、一つの実例としてご紹介してみようと思います。

 

〇ハイスコア狙いって楽しいの?

めっちゃ楽しいです。

私が考える限り、ハイスコア狙いの楽しさの根源は「可視化」です。

自分の上達が、考えたやり方が、具体的な数値として可視化される。

更にそれが、色んなライバルとの「勝負」という形で評価される。

私が通っていたゲーセンには数人のダラ外プレイヤーがいまして、当時は全員のスコアネーム(ハンドルネームみたいなものです)を記憶していました。

実際には話したこともない相手ですが、「あ、今日は調子良さそうだな」「今日はダメだったみたいだな」「こんなスコア出してきやがった!!」というような動向は大体把握していましたし、抜いたり抜かれたりという勝負は本当に楽しかったものです。

 

更にそれが、「全国」という無茶苦茶広いフィールドに広がったのが、「ゲーメスト」「ベーマガ」の全国スコア集計でした。

全国の、見たこともない強敵たちとの競い合い。まあ燃えまくるわけです。

ちなみに、そういった可視化を抜きにしても、単純に「高得点の敵をたくさん倒すと脳汁が出る程度に気持ちいい」といった事情もあります。

特にダライアスシリーズは、例えばイカの足を根本撃破したり、クジラのドリルミサイルを撃ち落としまくったりと、難易度が高いことをすればどーんと点数が入る仕組みも豊富ですので、突き詰めがいがありまくります。

 

〇ハイスコアを狙うには具体的にどうするの?

人によって色々だと思うんですが、しんざきに関する限り、ハイスコア狙いというのはそのまんまPDCAサイクルでした。

おそらく、多くのスコアラーにとってそうなんじゃないでしょうか。

つまり、

・どんなプレイをすれば高得点が取れるか、ということを考え、計画する(Plan)

・実際にその通りプレイしてみる(Do)

・その通りプレイ出来たかどうか、あるいはもっといい計画がないかを検討する(Check)

・必要に応じて計画を修正する(Action)

勿論当時、PDCAという言葉を知っていたわけではないのですが、ハイスコア狙い中はひたすらこのサイクルをぐるぐる回していました。

結局、「目標に向かって何かを突き詰める」ということをする際には、PDCAサイクルが一番理にかなっているということなのでしょう。

というか、仕事を始めてPDCAサイクルについて知った時に、「あ、俺これダラ外の時に散々やったやん」って思いました。

 

私に関する限り、「全一を狙う」と決めた後のダラ外のハイスコア狙いは、こんな順番でやっていました。

・各面で出てくる敵の得点やボスのパーツの位置、登場パターンや狙える順番などをひたすら調べて全部記録する

・各面で最も高得点が出せる動き方を考える(敵を全部倒せたとしたら何点?打ち漏らしちゃいけない敵はどれ?ボスのパーツを破壊するならどういう順番?これとこれは同時には倒せないからこっちにいって、みたいな)

・動き方はノートにざっくりまとめて、各面に入る前にざっと見直す

・実際にその通りやってみる

・上手くいかないところがあったら、その原因を考える(単純に練習不足なのか、動き方の想定が足りなかったのか、ランクを上げ切れていなかったのか、オプションにした中ボスにとられてしまったのか、などなど)

・その原因を解決する方法を考えて実行する(何度も練習するのか、計画自体を変更するのか、など)

・銀勲章(ランダムな得点アイテム)で51200点がとれることを神に祈る

 

「理想のプレイを想定する」「それにだんだん自分のプレイを近づけていく」というのは、恐らくどんなスコアラーでもやっていることだと思います。

勿論ここまでやらなくてもシューティングは全然楽しいので怖がらないでください。

 

それでもハイスコアの壁は本当に厚く、時には自分のスコアと全一のスコアの間に数百万点の差があったこともありました。

色んなゲーセンをめぐって他の人のプレイを見てヒントを探したり、皆があまりやっていないゾーンを探してそこを集中的に練習1したり、なんてこともしていました。

 

ちなみに、これをやっている最中、「タイタニックランスの復活砲台をひたすら撃破しまくるとめっちゃ稼げる」ということに気付いて、「うおおおおお凄い稼ぎ方見つけた!!超すごいスコア出せるじゃん!!!やばい、他のスコアラーに知られないようにしないと!!」と思ったらその前の週くらいにもう皆やってた、みたいなこともありました。よくある話ですね。

 

私が当時通っていたゲーセンは、全国では殆ど無名のゲーセンでして、全一スコアが出ることも滅多にありませんでした。

ただ、ある時「完璧につながった」と思うスコアをゲーセンの親父に見せて、親父からスコアを送ってもらったところ、翌々週くらいに親父から声をかけられました。

「この前のダラ外、星ついたよ」

そんな一言だったと思います。

比喩ではなく、膝がガクンと折れました。親父が冗談を言っているのかと思いました。

 

いつもは発売日から2,3日経ってから店におかれるゲーメストを、その時親父は発売してすぐに買ってくれていました。

あまりないことだったので、「全一かまでは分からないがそこそこいい線いきそう」ということは、もしかすると分かっていたのかも知れません。

 

見慣れたスコア集計ページには、確かにそのゲーセンの名前と、私のスコアネームと、私のスコアが☆に並んで記載されていました。「うわあああ」だったか、「ぎゃあああ」だったか忘れましたが、とにかく何かを叫びました。

あの時が、私にとって、「唯一最大の山を登り切った瞬間」だったかも知れません。あの後も私はずっと、色んなゲームを遊び続けていますが、あの時程一つのゲームに全てをつぎ込んだことは、それ以降一度もありません。今後もないかも知れません。

 

大変残念なことに、あれから少し経ったある日、ダライアス外伝には「自機が無敵になるバグ」というものが発見されて、そこでスコア集計が打ち切りになってしまいました。

その時には結構ショックを受けたものですが、集計している内に全一がとれて良かった、と安どする気持ちの方が大きかったようにも思います。ということで、長々と書いてきましたが、私が言いたいことは

「シューティングゲームめっっっちゃ楽しいですよ!!!特にダライアス外伝!!今ならダライアスバーストCSも超お勧め!!!!」

ということと、あとは「自己紹介に書いてある「シャコ」はクラスティハンマーのことだよ」ということだけであって、他に言いたいことは特にない、ということを最後に申し添えておきます。

皆さんダラバーやってください。

 

下記は昔書いた記事ですので、よかったらご参照ください。

1コインクリアの為のダライアス外伝講座

http://mubou.seesaa.net/article/70395614.html

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Mokei Repo

お世話になっている経営者の方と食事をしていたところ、ひょんなことから「壱番屋」つまりココイチ、の創業者である宗次徳二氏の話になった。

 

正直に言う。

私はココイチが大好きで、体にそれほど良い食べ物ではない、とわかっていてもついつい入ってしまう。

そして、安くはない。私がいつも注文するのはビーフカツカレー(800円)で、トッピングやらなんやらを追加すると、1000円を超えてしまうこともある。

にも関わらず、あの蠱惑的な味に引き寄せられる。

他のカレーチェーンには殆ど入らないが、ココイチは別格だ。

 

なお、他のカレー屋でよく行くのは有楽町の「マーブル」という店で、あまりの中毒性に、ここのカレーには絶対に私の知らないクスリが入っていると確信している。

 

話がそれた。

そういうココイチへの「贔屓目」があるという前提で書くのだが、ココイチは他のカレーチェーンに比べて「何か良い雰囲気」を持っていると感じていた。

カレーの味だけではなく、何か良いものがある。だから、通っている。

 

もちろんそれは、何か客観的事実があるわけではない。しかし、それが何なのか私は知りたかった。

だが、冒頭の経営者から、宗次徳二氏のお話を聞き、なんとなく合点がいった。

 

経営者:

「ココイチはフランチャイズで展開をしていたので、宗次徳二さんのところには、フランチャイジーからクレームが寄せられるらしい。大抵は「売上が伸びない」だ。」

安達:

「まあ、自分がフランチャイズのオーナーだったら、悩みますよね。」

経営者:

「その時、宗次さんは、そのオーナーに「店舗の掃除から始めてください。」と言う。」

安達:

「……売上と関係があるのですか?」

経営者:

「直接は関係ない。」

安達:

「売上の話をしているのに、掃除の話をされたら、オーナーは怒りませんかね。」

経営者:

「つまらなくて、苦痛なことを地味に続けなさい、その一歩が掃除、ということなんだろう。でも、そういうオーナーはたいてい、掃除も続けられないそうだ。人生がかかっているのにね。」

 

私は帰宅し、宗次徳二氏の話を調べてみた。

すると確かに、失礼ながら一種の「狂気」とも呼ぶべき徹底ぶりを知ることができた。

経営の困難に比べれば、早起きして掃除なんて楽なこと

午前6時。名古屋・栄の広小路通りでは、毎朝ジャージー姿の男性が清掃活動と植え込みの花の管理に勤しむ。その人物がカレーチェーンCoCo壱番屋の創業者・宗次徳二氏であることは、道行く人のほとんどが知らない。

「毎朝平均して90分、台風が来ようが雪が降ろうが、微熱があろうが腰が痛かろうが、毎日やる。毎日続けないと意味がないですよ。やると決めたら100%毎日やる。それが長続きする秘訣です。こんなこと、打算や損得勘定、人から『やれ』と言われてできるものではないですよ(笑)」

(中略)

早起きして掃除をするなんて苦痛は、経営の困難に比べればたいしたものじゃない。

“意志”があれば誰でもできますが、誰にも続けられることじゃない。即効性がなく結果もなかなか出ないから続かないんです。

最初の考えをよそ見をせず貫き通せるのは1000人中1~2人。

(webGOETHE)

 

これを見て、「よくある精神論」だと思うだろうか?

そうは思わない。これはおそらく、本質である。

 

外食産業に於いて、お店の清潔さは究極的に重要である。

また、「経営」は即効性がなく、結果もなかなか出ないことを、辛抱しながら延々とやり続けないと、成功どころか、生き残ることすらおぼつかない。

毎日、店の掃除もできない人は、そもそも経営者にに向いていないのだ。

 

おそらくこの「愚直さ」に支えられているココイチに、私は安心感を持っていたのだろう。

 

 

もう一人その場に、経営者の元部下の方がいた。

今ではweb系のスタートアップに身を置いている、とのこと。

 

その方が、最後にこう言った。

「前の会社で、こちらの社長に「掃除は大事だ」と教えられました。」

「はい。」

「そこで、転職した後も毎日、10分から15分、ちょっと早く出社して、オフィスのゴミ捨てと、トイレの掃除をしていたんです。

「転職した後も、自主的にですか?」

「そうです。」

「どうなりましたか?」

「やっぱり、そういう「面倒で、皆がやりたがらないこと」を率先してやると、注目されるんですよ。良い仕事が集まってきて、結果、1年程度で給料も上がり、出世できました。今は大きなプロジェクトを任されています。」

「掃除のおかげですか?」

「「掃除すりゃいい」ということではないとおもいますが、「つまらないこと」を継続できる人は、絶対的に信用されます。そのアドバンテージは、会社の中ではかなり大きいのではないかと。」

 

 

私は基本的に「楽しいことをすればいい」と思っている。

だが、「つまらないこと、苦痛なこと」を選択することで、信用される道もある、ということについて、再考せねば、と感じたもの事実だ。

そして、とりあえず今日の昼は、ココイチに行こうと思う。

 

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(Photo:Hajime NAKANO

 

世の中で「生産性」の議論が活発である。

特に日本生産性本部が発表する、「OECD諸国との比較」において、日本が35カ国中21位と振るわないデータが発表されて依頼、「生産性を上げなければならない」という話題をメディアでよく見かけるようになった。

 

さらに、働き方改革に起因する「労働時間の短縮」がこれに拍車をかける。

「定時までに帰らなければならない」が、「個人が仕事を早く終わらさなければならない」と解釈され、効率よく、脇目も振らず一心不乱に仕事をすることが、「生産性向上」と曲解された。

 

しかし、本来の「生産性向上」とは、全くそのような話ではない。

なぜなら、上述したような施策はすべて「部分最適」に陥るからだ。

いくら個人が頑張っても、それは個人の成果はおろか、全体の成果には結びつくとも限らないし、場合によっては他部署を混乱に陥れるだけ、というケースもよくある。

 

世界的ベストセラー「ザ・ゴール」を執筆した物理学者、エリヤフ・ゴールドラットは「日本人は部分最適にかけては世界で超一級」と述べたが、裏を返せばそれは「全体最適については平凡」ということだろう。

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だから「生産性」と「働き方」を結びつけてはいけない。

生産性は企業全体や、チームの話であり、働き方は個人の話だ。

ここを混同すると

「生産性を上げろ!早く帰れ!」という、わけの分からないプレッシャーのかけ方が、社内でまかり通るようになる。

 

「チーム」の生産性を高めるには

したがって、「生産性」は本来、サービス開発、マーケティングに始まり、顧客へのアフターサービスに終わる、一連の業務プロセス改善と同義である。

 

ソウルドアウト社の代表、荻原氏は「生産性の向上は会社全体で取り組むもの」と強く主張する。

荻原氏:

弊社では、幾つかの「生産性向上」に関する原則を持っています。

その中でも特に重要な幾つかの原則についてご紹介したいと思います。

 

1.「答える価値のある問い」を時間をかけてでも探す。

ピーター・ドラッカーの著作に、こんな言葉があります。

戦略的な意思決定では、範囲、複雑さ、重要さがどうあろうとも、初めから答えを得ようとしてはならない。

重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。間違った問いに対する正しい答えほど、危険とはいえないまでも役に立たないものはない。

[amazonjs asin="4478307016" locale="JP" tmpl="Small" title="ドラッカー名著集3 現代の経営[下]"]

さすがドラッカー、と敬服するのですが、私の経験からも「生産性の低さ」は「答える価値のない問い」から生まれていることがほとんどです。

 

例えば、弊社は顧客へ定期的に広告のレポートを送っていますが、創業当時はこのレポートを書く作業に非常に時間がかかっていました。

一般的にはそこで問われるのは、「もっと早くレポートを書くためにはどうするか?」でしょう。

しかも、現場から意見を貰えば、「標準化しよう」や「教育する」や「事例を集める」など、数多くの生産性向上の施策が出てくると思います。

 

でも、残念ながらこの「どうしたらもっと早く書けるか?」という問いは完全な間違い、とは言わずとも間違った生産性向上をもたらす可能性があります。

本当に生産性を劇的にあげるならば、「どうしたらレポートを書かずに済ませられるか?」という問いのほうが、より効果的です。

レポートをコンサルタントが書かずに済ませられれば、その分は顧客のフォローや、効果的な施策の発案ができ、全く異なる次元で生産性が向上します。

 

結果的に、私達の会社では、「レポートの作成を自動化」することにしました。

このように「問い」を変えることで、生産性は大きく変わるのです。

 

2.「自前主義」を捨てる

弊社では出来うる限り、フリーランスの方々を活用することを是としています。

実際、自分たちで業務を行うより、フリーランスの方々のほうが上手に行くことも数多くありますし、弊社で行うには単価が見合わない作業も、フリーランスの方々にとっては「おいしい仕事」というケースは数多くあります。

 

かつて18世紀の経済学者、デヴィット・リカードは「お互いが得意なことに特化することで、全体の生産性を向上させることができる」という「比較優位」をときました。

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その理論の通り、我々は「最も付加価値の高い仕事」に集中することで、多くの顧客を満足させることができるばかりか、我々と取引のあるフリーランスの諸氏に対しても、「いい仕事」を発注することができる。

これが真の生産性の向上ではないでしょうか。

 

3.「時間」が最も貴重な経営資源である

もはや「当たり前だろう」と指摘されるレベルであるとはおもいますが、この考え方を会社の隅々まで浸透させることはそう簡単なことではありません。

特に「時間が貴重である」という意識は現場のレベルでも徹底されなければなりません。

 

例えば、私は月曜日には外出しないようにしています。私に用があれば、月曜日に設定すれば必ず会えるとわかっていれば、余計な日程調整も必要ありません。

私もミーティングを月曜日に固めることで、他の日にわざわざ帰社する必要がなくなり、効率的に物事を遂行できます。

 

また、弊社では重要な会議であっても「ビデオ会議」が当たり前のように行われています。

「対面で行うこと」を重視する人もいますが、本当に対面で行わなければならない会議はごく僅かです。

むしろ、ビデオ会議はアジェンダを決めておけばダラダラ行われることもなく、決め事のみで短く終わります。

 

 

以上のように「生産性」とは、社員一人ひとりの努力に頼る話ではありません。

繰り返しになりますが、むしろ生産性の話は、経営陣しか解決し得ない話が数多くあり、「働き方改革」とは全く別の解決を必要とするものであると、私は思います。

 

 

 

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(Photo:Kanban Tool)

かつて私は、老人ホームの嘱託医のような仕事を担当していた時期があった。

 

精神科病院で入院治療している高齢者に比べると、その老人ホームの入居者さんは心身ともに健康だった。ただし、彼らに処方されている薬をみれば、その健康が人工的につくられたものなのは一目瞭然ではあったが。

循環器系の薬。白内障や緑内障の点眼薬。抗認知症薬や向精神薬。たくさんの薬によって彼らの健康は守られていた。

年齢が年齢だけに、急性肺炎が命取りになることもあるし、骨折がきっかけで認知症が一気に進む人もいる。それでも彼らの日常は、平穏そのものだった。

 

そうやって、おおむね健康に過ごしている高齢者を頻繁に診察していて、ふと思ったことがあった。

診察を通して私がすべきことの第一は、「健康上の問題を発見し、治療すること」である。だが、第二にすべきことは「あなたは健康ですよと告げること」ではないか?

「大丈夫です。今日もいいコンディションです。」

「いつもの○○さんですね。お元気そうですね。」

「腎臓も血糖値も悪くなっていません。食事はいまのままでいいですよ。」

 

私がこうしたコメントをするたびに、入居者さんの顔はパッと明るくなる。

精神科の診療でもこういう体験が無かったわけではないが、老人ホームの嘱託業務のほうが頻繁に出会う。ルーチンな診察の「大丈夫ですよ」「問題ありません」といった言葉に彼らは敏感で、とても嬉しそうな表情を浮かべたのだ。

 

若い患者さんの場合、ルーチンの診察で、顔はそこまで明るくはならない。

うつ病が完治して投薬不要になったとか、そういった時には相応の明るさが出るのだけど、30代で高脂血症や高血糖が見つかった患者さんを内科的に治療し、異常データが改善したぐらいでは、喜んで貰えないことが多い。

「治って当然」という顔をしている人、関心の無い顔をしている人もいる。あの老人ホームで診ていた入居者さんに比べると、健康であること・無病息災であることに対する喜びが少ない。

 

だから老人ホームで働いていた時のキャリアは忘れがたいものになった。

「年齢が変わると、関心事が変わっていく」

「年を取り、立場が変わると、気持ちも変わっていく」典型例を見たように思えたからだ。

私も高齢者になったら、内科医から「大丈夫ですよ」「問題ありません」といわれるたびに破顔するようになるのだろう。

 

年を取ると、人間は心変わりしていく

年を取り、立場が変わると気持ちが変わっていくのは高齢者だけではない。

たとえば、自分自身のキャリアアップに無我夢中の20代の気持ちと、少し周りが見えるようになってきた30代の気持ちと、後進の育成や組織全体を意識する40代の気持ちは、同じではない。

年齢や立場の変化にあわせて、気持ちはどんどん変わっていく。

 

同じく、親に育てられる立場の子どもと、自分で稼いで自力で暮らすことを良しとしている若者と、子どもを育てる立場の親の気持ちも同じではない。

親になってみて、子どもとの心理的な距離が少しずつ離れていくにつれて初めて心に浮かんでくる気持ちもある。

「親の心子知らず」とはいうけれども、実際、子離れにまつわる気持ちなどは、自分自身の独立やキャリアアップで頭がいっぱいの若者時代には無縁のものである。

 

子育てしていなくても、20代と40代では心は大きく変わる。

20代の頃のような初々しい気持ちには戻れないし、人生が折り返し地点を迎えたという自覚も生まれよう。

若い頃、夢中になって追いかけていた流行が、だんだんわからなくなってくるかもしれない。そもそも、なぜ流行にあんなに夢中になっていたのか、不思議に思えることすらある。

 

「自分とは何か」という悩みに対する答えも、40代にはあらかた出揃っている──今、鏡に写っているその人物が自分自身なのである。40になったら自分の顔に責任を持たなければならない。

 

もし、年を取るにつれて自分の心や気持ちが変わっていくのだとしたら。

20代のあなたにとっての真実と、30代のあなたにとっての真実と、40代のあなたにとっての真実に違いがあるのだとしたら。

いつまでも若者の気持ちのままで年を取っていこうと想定するより、年を取るにつれて自分の心境が変わっていくことを想定したほうが現実的ではないだろうか。

 

近著『「若者」をやめて「大人」を始める。』は、そういう考えに基づいて、20-30代のかたを想定読者としてつくったものだ。

個人主義が浸透した現代社会では、ついつい「若者」に近い目線で人生のプランニングを考えたり、人生の"コスパ"について考えたくなるものでしょう。

つまり、自分自身の成長や欲求こそが重要であるという考え方です。

インターネット上で語られる幸福論や人生論にも、そういった「若者」としての内面や価値観を持ったまま歳を取っていく前提で人生を語ったものを多く見かけます。10代の私の考えも、概ねそのようなものでした。

しかし、「若者」を終えて「大人」が始まってみると、幸福とは何か、人生における価値とは何かといった、議論の土台の部分がひっくり返ってしまうのだと、私は知りました。

同世代を眺めている限りでは、生き生きと活躍している「大人」は、多かれ少なかれ、そのような価値観の転換を経験しているようにもみえます。

[amazonjs asin="4781616380" locale="JP" tmpl="Small" title="「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?"]

若いうちは健康に無頓着だった人でも、高齢者になると健康が喜びの対象になるのと同じように、20代にとっての「人生のベスト」と40代にとっての「人生のベスト」は違っている。

それに伴って、「人生のコスパ」を計算する方程式も年を取れば変わっていく。20代の頃の人生のコスパ方程式のままで40代に辿り着くと、計算の辻褄が合わなくなる。

そう、このツイートのとおりなのだ。若者にとっての勝利条件と中年にとっての勝利条件はイコールではない。若者にとっての敗北条件が、中年には勝利条件かもしれないのだ。

だから、自分がだんだん若者ではなくなってきたら、これから自分の勝利条件がどのように変わっていくのか、自分にとっての人生のベストやコスパがどのように変わりそうなのか、よくよく再検討したほうが人生の次のステージに馴染みやすい、と思う。

 

何歳になっても心が変わるから、年上はいつもお手本になる

人生のベストやコスパの移り変わりを再検討するうえで、避けて通れないのは年上の存在だ。

自分には未経験で、これから新たに経験していくことを、年上の人々は既に経験している。今は自分には無縁の悩みや喜びも、年上の人達ならば知っている。

ということは、年上の人々の生きざまから学べるなら、これから自分が直面するであろう未経験ゾーンについて、ヒントが得られるということでもある。このことを知っているのか知らないかで、人生の難易度はかなり変わるのではないだろうか。

 

もちろん、年上の生きざまが全部自分に当てはまるわけではない。世代や時代の違い、価値観の違いは考慮しなければならない。

それでも肉体的加齢や社会的加齢で共通する部分はあるはずだし、なかには、自分がいかにも進みそうなライフコースを進んでいる年上の先達も見つかるはずだ。

そういう、ロールモデルになりそうな年上を参考にすれば、何歳になっても未経験の絶えない人生を、ちょっとばかりは生きやすくできるかもしれない。

 

20代の頃に20代らしい心で生きるのは素晴らしいことだけど、私は、40代の頃に40代らしい心で生きるのも結構悪くないと思っているし、きっと60代の頃に60代らしい心で生きることにも喜びがあるのだろうと予想している。

年を取るにつれて心が変わっていくことは、恐れるようなものではない。人生というゲームに、新しいステージが追加されたような感覚で、もっと肯定的に受け止めて良いものではないだろうか。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。

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twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

 

(Photo:Alex The Shutter)

「そんな馬鹿な事やってないで、勉強しなさい」

幼少期にこう言われた事がない人はいないだろう。

あるいは今でも

「それ、何の意味あんの?一円にもならないじゃん」

と、自分のやっている事に色々とケチをつけられる人もいるだろう。

 

これを書いている筆者は、それこそ上のような事を山のように言われた。

言われてた当初は確かに

「漫画なんて読んでないで勉強してれば、偏差値がどれだけ上がったことだろう」とか

「ブログなんて書いてないで教科書の一冊でも読めば、仕事の力がもっと高まっただろうに」とか考えたものである。

 

しかし最近になって、この他人が無駄という事が驚くぐらいに自分の人生のクオリティを高めている事に気がついた。

というかむしろ自分の周りにいる人で幸せそうな人間は、ほとんどが全員、この無駄のプロフェッショナルではないかと思うようにすらなってきた。

というわけで今回は、この無駄な行為がどうして人生の幸福度を高めてくれるのかについて書いていこうかと思う。

 

人は文化で結びつく

文化資本という単語をご存知だろうか。

これはフランスの社会学者ピエール・ブルデューが提唱した概念で、親から子へと受け継がれる知識や言語能力、身の振る舞い方や思考様式のことをさす。

具体的にいえば、貴族の社会で生まれた子供は貴族っぽい立ち振る舞いや言葉遣いをし、平民の社会で生まれた子供は平民らしい立ち振る舞いや言葉遣いをするようになる事を考えてもらえばわかりやすいだろう。

 

このように社会的階層ごとにある種の文化が形成される傾向がある。

文化資本は金銭のみならず文化すらも格差の固定に強固にワークしてしまうという点を指摘した事が実に画期的だった。

 

かつて「低学歴と高学歴の世界の溝」という記事が書かれた事があったけど、あの記事は文化資本の問題点を実にうまく描出している。

とはいえ上流家庭に生まれた人が全員人生がうまくいくだなんて話でもなく、この問題の難しさは一言ではいいあわらせないのだけど(興味がある方は"社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた"を読むとよいだろう)

[amazonjs asin="4492223770" locale="JP" tmpl="Small" title="社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた"]

 

文化資本について書き始めると、それだけで話がえらい膨らんでしまうのでここらへんでやめておくけど、まあ大雑把に"人は自分と似た立ち振舞をする人と一緒につるむ傾向が高い"という事だけ認識してもらえれば今回はそれでよい。

 

さてこの文化だけど、何も形式張った貴族とか平民みたいな社会的階級にだけ存在するような高尚なものでは断じてない。

僕は中学生ぐらいの頃から随分と漫画に熱中していたのだけど、今でも好きな漫画が似通った人とは即意気投合できる。

あるいは僕はインターネットのフリーゲームがこれまた中学生ぐらいの頃から物凄く好きだったのだけど、これについて詳しい人とも即意気投合できる。

 

先程例にあげた貴族や平民にある文化資本は、どちらかというとそこの社会でいきるにおいて"常識"となるようなモノをさす事が多いけど、僕の漫画やフリーゲームのような文化は、どちらかというと脳がどういうものに面白みを見出すかという"趣味趣向"的なモノをさしている。

 

かつてはそういうマニアックな趣味を面白がる人達は雑誌の文通コーナーなんかで交流をかさねていたりしたようだけど、現代のインターネットをベースとする社会では、どんなマニアックな趣味をもっていようが人と人を結びつける事は非常に容易な事となった。

 

5chの話題が指定された界隈でそれらの話をする人もいれば、ブログでそれらに対する愛をぶちまける人もいる。

少し前ならば、mixiなんかはまさにそういう文化交流がよくおこっていた。今だとたぶん、フェイスブックやツイッターが主戦場なのだろう。

 

これら趣味の空間において、人は社会的な身分や地位、金銭的収入といったものの垣根を越えて真の意味で心と心を交わす事ができる。

もちろん仲良くなった後で、所属する社会についての情報を交換する事もあるだろうけど、それはメインではないだろう。

このように人は、文化を通じて気の合う人間を探す事ができるのだ。

 

無駄にこそ真理が詰まっている

ここまで書いて気がついた人もいるかもしれないけど、この文化、実に面白いことに冒頭で書いた

「そんな馬鹿な事やってないで、勉強しなさい」

「それ、何の意味あんの?一円にもならないじゃん」

という事をやることでしか身につかないのである。

 

いくら受験勉強に熱をいれて良い大学に入ろうが、頑張って福祉活動に取り組んでピカピカの履歴書を作成し一流企業に入ろうが、普通の人はその活動自体からは文化的な何かを得る事は難しい。

もちろんそれらを頑張ることで得られる良いことも沢山あるし、基本転機にはそれらも頑張るべきものの1つである事は間違いない。

 

しかし今になって身の回りで楽しそうにやってる連中をみわたすと、小さい頃から自分が楽しいと思える活動に、心の底から全力で取り組んでた奴が1番幸せそうな顔をしているな、と思うのである。

人生に無駄なことなんて本当に何一つない。自分が楽しいと心の底から思えるような活動に全力で取り組み続けた奴だけが、あとで本当の文化の良い面を享受できるのである。

よく学び、そしてもっともっとよく遊ぶ事こそが、あなたの人生を本当の意味で豊かにしてくれるのである。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:Ichut)

コンサルタントをやっていた頃、良いか悪いかは別として、採用に関して「地頭の良さ」を重視する風潮があった。

地頭の良い人間は一定の訓練でそれなりのコンサルタントになる。

だが、お世辞にも地頭の良いとはいえない人間は、いつまでたっても一人前になれなかったからだ。

 

実際、私が20代半ばで所属していた部署では、中途採用にあたって「学歴」をさほど重視していなかった。

重視していたのはとにかく「地頭」だ。

 

ある応募者は、「高卒」で「自動車整備工」になり、そして「先物取引の営業」に転職、そして最後に「漁師」という経歴を持っていたが、彼は採用された。

彼の言動は、地頭の良さを十分に感じるものであったからだ。

彼の業務経験の貧しさは訓練でなんとかなる、皆がそう思ったのである。

 

彼はその後、会社に大きな貢献を残し「支社長」まで努めたのだから、その時の判断は間違っていなかった。

 

 

この「地頭」の正体について、私はずっと気になっていた。

地頭の良さとは一体何なのか。

 

そんなことを考えていたところ、ある方から佐藤優氏の本を読むことを勧められた。

佐藤優氏は元外交官であり、いわゆる諜報活動(スパイ活動)を行っていたことで知られる。

 

著作の中で、佐藤優氏は、諜報活動を「インテリジェンス」と呼び、情報(インフォメーション)の入手と明確に区別をしている。

氏が言うには、インテリジェンスとは「ありふれた情報(インフォメーション)から、より深い意味や意図を読み取る行為」である。

 

例えば、彼が「インテリジェンスの氏」と仰ぐチェコ人のマストニークという人物がいる。

このマストニーク氏が佐藤氏に向かって言ったフレーズが、「インテリジェンス」の本質をよく示している。

「新聞を馬鹿にしないことだ。『プラウダ』(ソ連共産党中央委員会機関紙)と『イズベスチヤ(ニュース)』(ソ連政府機関紙)に掲載される共産党中央委員会や政府の決定、社説については、どんなに内容が退屈でも、必ず赤鉛筆で重要事項をチェックしながら読むことだ。

そうそう、モスクワではチェコスロバキア共産党機関紙『ルデー・プラーボ(赤い正義)』も購読できるので、同じように赤鉛筆を持ちながら読むことだ。半年もすれば新聞の行間から何が実際に起きているのかが読み取れるようになる」

マストニーク氏からこの晩に聞いた助言は、モスクワで私がロシア人と付き合い、ロシア人の内在的論理を理解する上でとても役に立った。

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マストニーク氏は「新聞の行間から、実際に何が起きているのか読み取れるようになる」と指摘している。

 

私は膝を打った。

これこそが、「インテリジェンス」の本質、ひいては「地頭」の本質ではないだろうか。

つまり「地頭の良い人」というのは、同じ情報に接していても、そうでない人に比べて、そこから読み取ることができる情報が桁違いに多いのだ。

 

他の例をあげよう。

イナダシュンスケという人物がいる。

イナダ氏は「外食産業」や「食べログ」について、ブログでとても鋭い考察をしており、非常に面白い。

その記事の中での白眉は、「食べログ100%☆活用術」だ。

食べログ100%☆活用術

総合点に頼らず個々のレビューを当たるにしても、総当たりはさすがに無駄が多い。

そんな時は低評価レビューから見るという手もある。

高評価レビューはだいたいどの店のどのレビューも似たような物になってしまいがちである。

むしろ低評価レビューにこそ店の個性が現れやすいのだ。

例えばこれは私個人の場合だが、フレンチやイタリアンの店で「何を食べても塩っぱい、クドい、脂っこい」みたいなレビューがあればそれはまず「当たり」と判断する。

「八角なんかの香料の匂いがキツい」とある台湾料理も即行だ。

「深みのないカレー」なんてのも狙い目である。

(食べるそして考える)

この「何を食べても塩っぱい、クドい、脂っこい」というレビューを「当たり」と判断するのが、「インテリジェンス」である。

文面をそのまま解釈するのではなく、「文脈」からそれ以上の情報を引き出しているのである。

この「インテリジェンスの発露」こそ、「地頭」の良い人物の特長なのだ。昔ながらの言葉で表現すれば「一を聞いて十を知る」である。

 

他にもある。

医師の知人から聞いた話だ。

その知人がまだ駆け出しの医者だった頃、小さい子供が「お腹が痛い」と病院に来た。だが、彼が腹部を診ても何も見つからない。なぜ子供が「お腹が痛い」とこれほど訴えるのか、彼はすっかり困ってしまい、上司に相談した。

「お腹がいたいと言っているんですが、何も見つかりません。胃腸炎か何かでしょうか?」

すると、その上司はいった。

「バカヤロウ、お前は何を診ているんだ。」

 

そして上司は子供に向かって言った。

「本当に痛いのは、お腹じゃなくて、おちんちんじゃない?」

子供は頷いた。

子供は恥ずかしくて、「お腹が痛い」と言ったのだ。

 

先輩の所見は「睾丸捻転症」。放置すれば危険なこともある。

知人は「僅かな情報から、多くの事象を読み取ること」の凄さを思い知ったそうだ。

 

 

こうしたことが、「経験を積めばだれでもできる」と思うのは間違いである。

経験を積んでも、知識を積み上げても、残念ながらこうした「インテリジェンス」に係る件は「気づかない人はいつまでも気づかない」のだ。

地頭を良くしようとするならば、「インテリジェンス」を意図的に働かせることが必要なのだ。

 

この細部に気づく、意図を読み取る、内部の法則性を読み取る、などの意識の働きが強い人を、おそらくは「地頭の良い人」と呼ぶのだろう。

 

 

むかし、タモリは坂道マニアであり、「日本坂道学会」を設立していることを知った時、軽い衝撃を憶えた。

「なぜそんなくだらないことに?」

と、誰でも思うだろう。

だが、彼は「坂道」に関するインテリジェンスを有しており、彼が考える「良い坂」は紛れもなく存在する。

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対象が坂道であっても、王冠であっても、切手であっても、ブリキのおもちゃなどであっても、そこには間違いなく、「インテリジェンス」が存在する。

 

そう考えると「自分の好きなものをつきつめること」に、「地頭を鍛える」ことの鍵が隠されているのかもしれない。

 

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(Photo:LeaESQUE

 

「できませんと言っちゃいけない」

そんなことを言われたことはないだろうか。

 

フリーランサーが「できません」と言ったら二度と仕事がこない。

新人社員が「できません」と言うのは生意気だ。

「できません」は逃げであって、「できる」ようにするのがプロだ。

 

わたしは実際こんなセリフを耳にしたことがあるのだが、そのたびに「本当にそうかなぁ?」と疑問を持っていた。
「できない」が許されないのなら、理不尽を言った者勝ちになってしまうじゃないか。

逆に、根拠もなくとりあえず「できます」と言う人間のほうが「やる気がある」と評価されるのも、なんだか納得いかない。

 

「できません」を言わせない、言わない人たち

仕事の場では、「できません」はもはやNGワードのような扱いになっている気がする。

「努力もせずに最初からできないと言うな」

「できないは甘えだ」

そんな都合の良い精神論で、「できない」という発言を封じる人がいる。

 

一方で、できるかわからないにも関わらず、とりあえず「できます!」という人もいる。

「まずはできると言っておいて、あとから勉強すればいい」という考えも、わたしはあまり誠実ではないと思っている。

「できない」を言わせない人と、「できない」を言わない人。仕事を任せる側と任される側の両側に「できる」信奉者がいるから、いつまでたっても過剰労働がなくならないんじゃないだろうか。

 

やればできる!には限界がある

とある飲み会で、友人がユウウツそうに「仕事を辞めないといけないかもしれない」とこぼした。

一体なにがあったのかと聞いてみると、どうやら上司から無茶なノルマをふっかけられたとのこと。「それは無理です」といっても、「やれ」の一言で終わり。

 

友人は怒られるのがイヤで、上司にノルマ達成率の経過を偽って報告していた。

月末にそれがバレてしまうから、退職を考えていたのだ。

 

これはさすがにパワハラの部類に入るだろうが、「できない」を認めない人は案外多い。

理由は「がんばればできる」「俺はできた」「みんなやっている」というよくわからないものが多く、結果的に「とりあえずやれ」という無茶振りになる。

精神論で「できない」を超越できると思い込んでいる人、「できない」を受け入れる度量を持っていない人には、人間は万能ではないという当たり前のことに気づいていただきたい。

 

根拠なしの「できます」は誠実なのか?

反対に、「できませんと言ってはいけない!」「見切り発車でもできると言うべき!」と主張する人もいる。

以前SNSでライブ配信をしたとき、「できる根拠がないのに仕事を受けるのはアリかナシか」という話をした。

 

わたしは「できると言ってできないのは最悪。自信を持てないのならちゃんと断るか、状況を説明して納期を延ばしてもらうなどの対応をしてもらうべき」という意見だった。(これはいまも変わっていない)

だがまわりには、「とりあえずできますって受けたけどできなかった」という経験を持った人が、意外にも結構いたのである。

「まぁなんとかなるだろう」「やってみたら案外イケるかも?」と思うのだろうか。

 

とりあえず仕事を受けて自分を追い込むことで成長したり、その経験を糧にする人がいるのは事実だが、「引き受けたけどやっぱり無理でした」ということも起こりうる。

「できます」と言った人ができなかったら、その人は信用を大きく損なってしまう。謝ってどうにかなるならいいが、大きな損失につながることだってありえるし、損害補償を請求される場合だってある。

 

どうしても自分で担当したい仕事に対して無根拠に「できます!」と言う気持ちもわかるし、時には多少誇張してでも「お任せください」と言うことも必要だが、「できる」と主張することだけが正義ではない。

やり遂げる根拠や自信がないのに安請け合いするのは、それはそれで問題だ。やり遂げられる場合もあるが、それはあくまで結果論である。

 

「できません」を問答無用に否定するより「できる」への変換を

わたしは、もう少し「できません」の許容範囲が広がってもいいんじゃないかと思っている。

「できない」と言われたら、まず理解を示す。理由を聞いて、「できない」が「できる」になる条件があるなら、譲歩を考える(納期や人手、作業環境など)。

 

「できる」自信がないのなら安請け合いをせず、「経験はないけどぜひやらせていただきたい」というふうに誠実に自分の能力と気持ちを伝える。

そうすれば、「できない」を受け入れない精神論者や、自分の実績や目先の利益のために根拠なく「できます」という無責任な人が減って、「できない理由を一緒になくしていこう」という流れになるかもしれない。

 

「できません」に対して「やれ」という人、できる保証がないのに「できる」と言い張る人と仕事をしても、経験上あんまりいい結果にはならない。

お互い誠実に「できるかできないか」を話し合える環境を整えたほうが、仕事はしやすくなるはずだ。

「『できない』がちゃんと受け入れられる社会になれば、理不尽な無茶振りが減るんじゃないかな」なんて思うのだが、いかがだろう。

 

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【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

(Photo:Shane Horan

先日、こんなまとめを読みました。

ゆうきまさみ先生「駆け出しの漫画家さんを応援したいなら激励だけ、叱咤はいりません」どのクリエイターにも当てはまりそう

これから駆け出しの漫画家さんを応援しようと思っている方にお願い。応援したいと思うなら激励だけしてあげてください。叱咤はいりません。

(Togetter)

ゆうきまさみ先生の漫画はとても面白いですよね。最近ちょくちょく、究極超人あ〜るの読み切りがスピリッツに載っていまして嬉しいわけですが、速く単行本が出るくらいの量にならないかなーと心待ちにしております。

あと「でぃす×こみ」面白かったです。

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それはそうと。

昔、某出版社で色々とお世話になっていた時期がありました。ちょこちょこ出入りしては、色々穴埋めの記事を書いたり、行ったことがない土地の旅行記をでっちあげたりしていました。すいません。

で、私自身は単なる有象無象ライターの一人だったので殆ど影響がなかったのですが、色んな編集さんとお話する内に、「ファンの声と創作者の間の距離感」というものについては随分と考えさせられました。

 

まず前提として、「ファンの声が、これだけ直接的に創作者に届く時代は、今まで存在しなかった」ということは間違いなく言えると思います。

twitter、facebook、5ch、批評サイト。

現在では、「創作物に関する感想」を好きに表明出来るルートが山のようにに存在します。1クリックで「自分の創作物に対するファンの感想」が見られる時代、ファンレターが完全に可視化された時代と言っていいでしょう。

今の時代、たとえ独り言のつもりだったとしても、「感想」は作者に届きます。そりゃもう凄い勢いで届きます。

 

で、当然のことながら、以前であれば「ファンレターの取捨選択」という形でコントロールできた、ファンと作家の間の距離感というものは、今の時代完全にコントロール不能になりました。

「この人は悪評に弱いから、罵倒や悪評はこっちで止めとこう」みたいな、編集さん側の管理はもはやできなくなった訳です。

 

これについては、7年くらい前に一度書きました。以下の記事です。

ソーシャルメディア時代の、創作者さんとファンの距離感。

・最近は作家さんもtwitterや他のソーシャルブログをやっていることが多く、以前と比べて「ファンとの直接のやり取り」の機会が飛躍的に増えた。

・その為、以前ならまだぎりぎり可能だった「ファンレターを見せる際の、ファンからの声のコントロール」のようなことは、ほぼ完全に不可能になったといえる。

・作家さんの中には「悪評を見るとへこんで悪影響が出るのに何故か自分から悪評を求める」というような困った習性がある人がいて、そういう人がファンと直接やり取りをするのはやはり編集としては結構心臓に悪い。

(不倒城)

こういう前提の上で、「もし応援したいのなら励ましの言葉だけを送ってあげてね」とゆうき先生はおっしゃっている訳ですね。

 

勿論、ファンの声というのは創作者にとってエネルギーの源泉です。そして、悪評というものも、時には創作の糧になり得ます。それは間違いないんです。

ただ、ゆうき先生の発言に対して、冒頭まとめで時折みられる

「世に作品を出すなら叱咤激励を受けるのは仕方ない。」とか、

「(褒め言葉ばかりでは)いい漫画家が育たない。」

といった反応には、正直なところ「うーーん」と思うところがありまして。

というのは、世の中には、思った以上に「激励のつもりで罵倒しか出来ていない人」が多いんじゃないか、と私は感じているんですよ。

 

出版会社でお世話になっていた時、私に対してではないですが、「ファンからの声」に触れる機会も結構ありました。

で、それを見ていると、やっぱひどい内容のものは結構ひどいんですよ。批評というか、単なる理不尽なダメ出し、思い込みに基づく罵倒としか思えないものもたくさん見ました。

そういうテキストは、別に出版社にいかなくても、今ではちょっと検索するだけで見ることができますよね。

 

ただその時、「こういうのって嫌がらせみたいなものなんですかねー?」と言ってみたら、「いや、これで応援のつもりの人も結構いるんだよね…」という言葉が編集さんから返ってきて、それは結構私の頭の中に残っているんです。

つまり、それこそ「悪評が漫画家を育てる」的な信念の元、いわば愛の鞭のようなつもりで罵倒を投げてきている人もいるんだ、と。

 

そして、そういう人たちは、自分の罵倒が「創作の参考になる批評」だと考えているんだ、と。

はー、と思いまして。

例えばブラック企業では、パワハラ上司の言葉がしばしばやり玉にあがります。徹底的に新人を追い詰めて、辞めさせたり鬱にしてしまったり。ああいう話、結構みますよね。

 

ただ、ああいうパワハラ上司的な人達も、多くの場合「自分が単に罵倒をしていて、相手を精神的に追い詰めている」とは思っていないんですよね。少なくとも本人の主観的には、あれ、「叱咤激励」のつもりなんです。

自分の言葉を糧にして、相手が強く成長することを願っていたりする。で、言われた方が耐えかねて辞めちゃったら、「なんであれくらい耐えられないんだ」と首をひねったりするわけです。

 

正直、webでしばしばみられる創作物に対する悪評には、結構こういう要素が含まれているんじゃないかと思うんですよ。「俺の批評が漫画家を育てている筈」と思っている人、相当数いる気がするんです。

 

そして、「本当に糧になる批評」と「単なる罵倒」を取捨選択するのは、創作者にとってかなりのエネルギーを必要とします。勿論性格的にそういうの苦にならない人もいますし、時を経て得意になった人もいるでしょうけどね。

叩いて叩いて、例えばその対象が創作をやめてしまったら、「創作をする以上、批評されるのは当然。耐えられないなら素質がなかったということ」みたいに嘯く案件、今まで凄い数見てきました。

 

ただそれ、本当に当然なのかなあ、と。

叩きまくって創作者さんのこれからの可能性を潰してしまうのは、ちょっとばかり勿体ないんじゃないかなあ、と。

その言い方は、ブラック企業におけるパワハラ上司と変わらないんじゃないかなあ、と。

 

そもそも、例えば漫画であれば、作家もプロだし編集さんもプロなわけで、その作品のダメ出し、悪いところの分析なんて当然やっているんですよ。

それを改めて素人から投げつけることで、どれくらい「漫画家を育てる」ことが出来るのか、私には正直かなり疑問です。

 

断っておきたいんですが、私は別に「批判をするべきではない」「罵倒もしてはならない」などと言っている訳ではないんです。

面白くないと感じたコンテンツに対して「面白くない」と発言するのは、その人の当然の権利です。気に入らないコンテンツに対して罵倒を投げるのだって自由でしょう。面白い批判はそれ単体でコンテンツになり得ますし、そういう悪評を受け取って糧にしてしまう創作者さんだって確かにいます。悪評自体が悪い、というわけではない。

 

ただ、もし「応援したい」と思っているのならば、特にその対象がまだ走り出したばかりの人であれば、「愛の鞭」的なことを指向するよりは単純に励ましてあげた方がいい場合が多いんじゃないか、とは強く思います。

その点で私は、冒頭のゆうき先生のご発言を全面的に支持します。

 

応援したかったら素直に褒めようよ、と。そういう話ですよね。

私自身は、どうせ作者さんに拾ってもらえるのであれば、褒め言葉を拾ってもらいたいなあ、と思っています。

私が好きな作品を、私が好きな作家さんに、より一層張り切って作って欲しいから。それは、ゲームでも、漫画でも、小説でも、音楽でも同じことです。

 

web時代におけるファンと作家の距離が、幸せなものでありますように。

そんな風に考えているわけです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Shawn Harquail

本当の「さようなら」がこの世界から消えた

「さようなら」がこの世界より消えてから随分と時間が経ったように思う。

もうどこを探しても「さようなら」はいないのだろう。本当の意味での「さようなら」など絶滅してしまったのだ。

あるのは偽りと芝居がかった「さよなら」だけ、そんな世界に僕らは生きている。

 

別れの挨拶、「さようなら」の消失は僕たち人間の在り方を大きく変えた。

時代の進み方に伴って人間の在りようが変わる様を「進化」と表現することもあるが、どうにもこの変化だけは「退化」であるような気がしてならない。

ネット社会の隆盛と、SNSの台頭は僕らを大きく退化させたのだ。単純に言うと、僕らの口から本当の意味での「さようなら」を奪ったのだ。

 

まだネットもスマホもSNSも存在しなかった時代、別れとは深刻なものだった。

あるコミュニティから離脱する場合、例えば学校のクラスという場所からの離脱、つまり卒業や転校といった場合、ほとんどが今生の別れだった。

携帯もスマホもない時代にとって、コミュニティから外れた人間と連絡を取ることは難しい。それこそ家の電話や住所などの連絡先を交換したとしても、よほど大切な相手でないかぎり、家の電話にかけて連絡を取ったり、文通をしたりしない。

やったとしても、その煩雑さから自然消滅していくことが目に見えている。

 

当時の僕らは心のどこかでそれを分かっていて、これが今生の別れになる、もしくは気が遠くなるほどの時間会うことはない、そう理解していた。

だから悲壮感があったし、喪失感があった。それらの感情を全部ひっくるめて僕らは「さようなら」と言っていたのだ。

 

ただ、現代は違う。ネットもあり、スマホもあり、SNSもある。

コミュニティから離脱したとしても気軽に、たいした障壁もなく相手と連絡を取ることができる。

何ならクラスというコミュニティで作っていたLINEグループは、別れの後もそのまま継続され、次の日以降もSNS上では何ら変わることなくコミュニティが維持されていく、そんなことがあるのだ。

 

どんなに遠くに行った相手でも、日常と変わることのない会話をSNS上で交わすことができる。

そんな状況で別れに悲壮感を持てという方が無理だ。結果、別れの場面で「さようなら」ということがなくなったのだ。覚悟のない別れたちによって「さようなら」が消えたのだ。

 

「ブロック」も「さようなら」を消した。

ただ、これらの事象は単純に便利になっただけなのである。確かにSNSは別れの覚悟を奪った。けれども、それだけで「さようなら」が消えたとは考えにくい。

なぜなら、どんなに便利で気軽になろうとも、最終的には人間と人間の関りである。連絡を取らないやつには連絡を取らない。そこにはやはりSNSがない時代と同じ別れがあるはずなのである。それらを意識しないとは考えにくい。

そう、「さようなら」が奪われた根本の原因はもうちょっと先の部分にある。

 

ほとんどのSNSには、嫌な相手を拒絶する「ブロック」「ミュート」「追い出し」といった、コミュニケーションを断絶する機能が搭載されている。「既読無視」だとか、機能でなくとも断絶行動を表わす用語まで飛び出すほどだ。

コミュニケーションのツールでありながら、コミュニケーションを拒否する機能がある。それがSNSの特徴だ。

 

この拒絶機能は、これまでの人類のコミュニケーションの歴史の中でほとんど登場してこなかったコミュニケーション手段だ。

例えば、目の前で話している人がいるのにブロックです、と二人の間に暗幕をはる人がいるだろうか。

目の前でミュートですと耳栓をしだす人がいるだろうか。ごく稀にいるかもしれないが、あからさまに一般的にやるかといったら、たぶんやらないと思う。

 

目の前で暗幕をはるのはちょっと頭おかしいけど、SNS上でブロックするのは簡単だ。

つまり、関係断絶の敷居が異常に低くなってしまっているのだ。

そしてそれは「いまからお前をブロックするから」と宣言して行われることは、たまにあるけど、まあほとんどない。秘密裏に、ひっそりと行われる。

 

前述の、明日からも簡単に連絡取れるから「さようなら」と言わない。というのは覚悟のない別れゆえに「さようなら」が出ない。ただ、この覚悟がない別れは最後まで覚悟がなく終わる。

そのうち連絡を取らなくなった、スマホを買えた時に登録が消えた、そんな簡単な理由で覚悟なく別れていく。

やはり最後まで「さようなら」はない。

 

断絶ツールによる別れは覚悟のある別れだ。

ただその別れも簡単になりすぎ、その特性ゆえに簡単だけど覚悟ある別れになってしまっている。

そしてそれはいつまでも宣言されることはない。いつの間にか断絶が起こっていて、「さようなら」は飛び出さない。

 

覚悟のない別れ、覚悟のある別れ、どちらの場合も最後まで「さようなら」は飛び出さない。

飛び出すのは恋人同心の男女が別れる場合や、ドラマの中など、ちょっと芝居がかっていて言葉は悪いが自分に酔っているような場面でしか出ないのだ。

 

「ヘルスズキ」の話。

では、なぜ「さようなら」が失われたことが「退化」なのか。今日はそんな話をしたいと思う。

 

僕の昔の職場の同僚に、三度の飯より風俗が大好きなスズキという男がいた。

彼は年がら年中風俗というかヘルスのことを考えていて、給料を全部ヘルスにつぎ込んでいるどころか、学生だった頃から奨学金と仕送りの全てをヘルスにつぎ込んでいたという、奨学金団体と親御さんが聞いたら怒り狂いそうな行動をさも武勇伝のように語る男だった。

そんな地獄のようなヘルス好きのスズキのことを僕は畏敬の念を込めて「ヘルスズキ」と呼んでいた。

 

ヘルスズキは良く分からない哲学を持っていて、様々なヘルスに通って気に入った女の子がいたとしても、再度のその子に会いに行くということをしていなかった。

徹底して同じ女の子に会うことを避けているようだった。その理由を聞いてみたことがあったが「ヘルスとは一期一会、盛者必衰の理(ことわり)だからね」と訳の分からない供述をしていた。

 

そんなヘルスズキが、突如として同じ女の子ばかりに会いに行くという行動をとり始めた。

あれはまだ夏の残り香のように蝉の声が聞こえ、木々にも緑色の葉がついていた頃のことだったと思う。誰もが少しだけ寂しさを感じる、そんな季節の頃だった。

 

ヘルスズキは頭がおかしかったので、なぜかヘルスに行くときは退勤時に僕に宣言してから行き、どの店の誰を指名するか隠すことなく教えてくれていた。

たまにつけるオプションまで宣言することがあり、パンティ持ち帰りのオプションをつける日はかなり強気な日だった。あまりに律義に報告してくるものだから、途中から僕はその宣言をエクセルにまとめはじめた。

 

ずっといろいろな店のいろいろな女性を指名していて、すごい情報収集能力だと感嘆していたが、突然、それらは一人の女性に注ぎ込まれはじめた。

 

ヘルスズキはそれこそ週3くらいでヘルスに行く世紀末覇者みたいな強者だったが、その全てを「ズッコンラブ」というヘルス店の「みことちゃん」に注ぎ始めた。エクセルのセルに延々と「みことちゃん」が並び始めた。

 

「また、みことちゃん? 一期一会じゃなかったの?」

僕がそう尋ねると、ヘルスズキは得意げな顔で

「彼女だけは違うんだ」

と笑顔で言った。笑顔なのに笑顔じゃない、まるで死に行くことが分かっている人みたいな悲しい笑顔だった。

 

「たぶん、おれ、あいつのこと好きだわ」

ヘルスズキはもう、ただのスズキに戻っていた。

 

「あいつも俺のこと好きなんだと思う」 

スズキは騙されている。そう思った。

 

ただ、騙されている人の前でお前騙されているよ、とはなかなか言えない。

そのうち今以上に頻繁に店に行かされるようになって、店の外でも合うようになって、大金を貸してくれと言われる、そんな感じなんだろうかとボンヤリと感じていた。

 

エクセルファイルは空のセルが続いた。

スズキはもうヘルスに行っていないような感じだったが、そのかわり、「みことちゃん」と店の外で会っているようだった。

 

スズキがあからさまに言うわけではないが、動物園に行っただとか、水族館に行っただとか、温泉に行っただとかスズキのそういった話を聞くたびに、たぶん「みことちゃん」と行っているのだろうと思った。

社員旅行で紅葉狩りに行く時も宿の近くにヘルスがないか調べていた男とは思えない。彼はもう、変わってしまったのだ。

 

「みことちゃん」が消えた

もう用なしとなったエクセルファイルを削除しようと思った時、事件が起こった。単純に言ってしまうと、「みことちゃん」が消えたのだ。

スズキが訪ねていくと住んでいた家(お店の寮みたいな場所)はもぬけの殻だったらしいし、店に聞いても何も教えてくれなかったらしい。携帯のメールを送っても宛先不明で戻ってきたようだった。

 

落ち込むスズキに「そういうこともあるさ」と声をかけると、彼は追い詰められた表情でこう言った。

「みことが俺に何も言わずに逃げるわけがない。何かあったんだ」

 

ハッキリ言ってしまうと、そういった風俗関係で働く人が消えてしまうことはそう珍しいことではない。一期一会の精神と、盛者必衰の理(ことわり)がそこにあるのだ。

 

「それに64000円貸していたし」

そう言うスズキに、「それだけで済んで良かったじゃん、本当なら一桁違いもありうるよ」と言おうかとも思ったが、やめておいた。

 

「なんか元カレがしつこくて、金をせびってくるとか言っていたし、元カレに拉致された線もあると思う」

スズキの顔は真剣だった。ある程度特別な関係を過ごした「みこと」が自分に何も言わずいなくなることなんかありえない、ないかあったに違いない。彼の中にあるのはそれだけだった。

ここに「さようなら」不在の悲劇がある。

 

たぶん「みことちゃん」は面倒になったんだと思う。スズキは結構、粘着質なので面倒になったんだろうし、64000円も返したくなかったのだと思う。下手したらあまりに彼氏面していきてうざかったのかもしれない。

それと同時に店を辞めたいだとか変わりたいといった状況も重なり、このような別れを選んだのだと思う。推測の域を出ないけど、おそらくそんなことだ。たぶん、彼女にとっては非常に軽い別れだったのだろう。

 

ただ、一方的な断絶は、当事者は「終わったもの」と認識できるが、相手はそう認識できないことが多々ある。

いつまで経っても終わりを認識できない一人の人間がそこにいるのだ。

 

スズキもそんな男だった。彼は「みことちゃん」が進んで決意した別れではない、と思っていた。

なにかあったのだと。不本意に別れなければならない何かがあったのだと。絶対に彼女を見つけ出す。そう決意したようだった。

まるでロミオのようである。もはや何を言っても無駄だ。そして彼は動き出した。何をしたかというと、またヘルス通いを再開したのだ。

 

彼女はきっと別のヘルスで働いているはずだ、そう考えたヘルスズキは、当時はまだそんなに多くなかったが風俗店のホームページをくまなくチェックし、年齢や姿形が似ている女性に会いに行った。

また、エクセルファイルが充実し始めた。ただパンティ持ち帰りのオプションは見られなくなった。

 

それは、従前の楽しそうなヘルス通いと違い、悲壮感溢れるものだった。悲しき十字架を背負い、ヘルスに通う男の姿があった。

 

ヘルスズキ「手伝ってくれ」

ある日のこと。ついに限界に達したのか、ヘルスズキは「手伝ってくれ」と懇願してきた。

ホームページでそれっぽい女の子を見つけては行く、その日々だったが、田舎町のヘルスでは写真を公開していない女の子がほとんどだった。

公表されている年齢やスリーサイズや、お店の人からのコメントだけで「みことちゃん」らしさを判断しなければならなかった。

 

ただ、これらのプロフィールは結構適当に書かれているし、年齢など風俗業界ではサバを読むのが普通。結果としてかなり幅をもって判断せねばならず、ほとんどの子が「みことちゃん」らしさを有していた。

これらを全て調べていくことはいかにヘルスのために生まれ、ヘルスと共に死んでいくヘルスズキであっても困難だった。金が続かないのだ。

 

あまりに懇願するヘルスズキがかわいそうで、手伝うことにした。

といっても実際にお店に行ったりするのではなく、主に情報収集をすることになったのだ。具体的には「みことちゃんには首筋にほくろがあった」という情報に基づき、情報の絞り込みをする大役を仰せつかった。

 

まず、風俗店のホームページをチェックし、「みことちゃん」である可能性を捨てきれない女性を見つけたら、画像を見る。首筋のほくろの有無を調べる。

ただ前述したように当時はたとえ顔にモザイクをかけている状態であっても風俗店のページに写真を載せていること自体が少なかった。田舎だったのでさらにそれは少なかった。

そういった場合、その地の風俗店に通い詰める猛者どもが集う掲示板があったのでそこで情報収集をすることになっていた。

 

「〇〇ってお店のユミちゃんて首筋にほくろあったりします?」

 

獰猛な猛者どもが巣食う掲示板でそう質問したりもしたが、あまり情報は集まらなかった。

彼らはとにかく厳しく、

「自分で会いに行って調べろ」

「すぐに人に頼る態度が気に食わない」

「こういうお客さんはどこからやってくるんだか。やれやれ」

「とにかく死ね」

といった言葉を投げつけられ、教えてはくれなかった。それを毎日やるもんだからとにかくボコボコに叩かれまくった。精神的に疲弊する日々が続いた。

 

結局、「みことちゃん」は見つからなかった。というか、そもそも見つけることは不可能に近かった。

いつしか諦めのムードが蔓延し、僕とヘルスズキはあまり「みことちゃん」の会話をしなくなった。ただ、それでもヘルスズキは変わらずヘルスへと通い続けているようだった。

 

「みことちゃん」がいなくなった理由は分からない。

ただ、その時に一言でも「さようなら」とあったら違っていたんじゃないだろうか。ヘルスズキもこうなることなく、僕も悪魔どもが棲みつく掲示板でボコボコに叩かれなくても済んだんじゃないだろうか。

 

「さようなら」は「そうであるなら仕方ない」

「さようなら」とは元々は「さようであるならば」という言葉が変形した言葉であり、接続詞だ。

世界の言語では別れの挨拶には相手の祝福を願う類のものか、また会いましょうと再開を願うものが多い。

「さようなら」のように接続詞を別れの挨拶に用いる例はかなり珍しく、他に類を見ないとまで言える。

 

「さようであるならば」は「そうであるなら仕方ない」という意味を含み、別れに際してそこまでのあれこれを一旦終わりにし、潔く諦めるという意味合いがある。

つまり、「さようなら」という挨拶はそこまでの物事を一旦終わらせる意味があるのだ。

それは無意味と思われたそこまでのことを意味あるものに変えることもある。

終わらせるからこそ意味が生まれるという考え方もあるのだ。「さようなら」こそ人との関りが便利になることに反比例して希薄になったこの現代社会に必要なんじゃないだろうか。

 

さようならが消えたこの世界で、僕らは何を思うだろうか。

 

SNSに登録されている知人は、本当に知人だろうか。もう連絡を取らない人もいるのかもしれない。

ただ、その人との関係を宣言して終わらせることはなかなかしないはずだ。そうやってダラダラと延命されていく人間関係が主だったものになり、まるでプランクトンが増殖しすぎて池の生物が窒息するかのように息苦しくなってしまうことだってありうるのだ。

 

 

職場が変わってから会うことはなかったヘルスズキに十数年ぶりに会う機会があった。

職場のメールに突然彼からメールが来た。どうやらホームページで調べたらしい。彼が出張で地方から東京に出てくるというので会うことにした。

 

居酒屋で屈託なく笑う彼は少しだけ老けていたが、まあそこはお互い様だ。一通り近況報告や思い出話をすると、彼は笑顔でスマホの画面を見せてきてこう言った。

 

「このお店のさ、このアカネって子がみことっぽいんだよ。この後、確かめに行く。東京は風俗店が沢山あってすげえや。この新大久保って場所はここから近いの?」

 

戦慄した。恐怖すら覚えた。まだ「みことちゃん」を探してやがる。

その間に何人総理大臣が変わったと思っているんだ。彼の中ではまだ終わっていなかったのだ。

 

一方的に断絶された人は「さようなら」を言われないがゆえに、永遠に終わりがこないのである。

「ブロック」「ミュート」僕らが使う現代のコミュニケーションツールには手軽に断絶できる機能がついている。それらは断絶する側だけの機能であり、受ける側は断絶を意識できない。

 

あまり関りがないのに大上段から殴りかかってくる勘違いした人がSNSには多くいて、暴力的に絡んでくることがあるが、そんなのはガンガンとブロックしてミュートして、度が過ぎるなら訴訟してしまえばいい。

ただ、ある程度関係があった人を断絶するときは一言、それまでの関係を肯定する接続詞があってもいいんじゃないか、そう思うのだ。

 

個人主義の発達は、「嫌な人と関わらなければいい」「嫌なものは見なくていい」「何をしても個人の自由」という考えを生んだ。それは全くもってその通りなのだけど、あまりに簡単に、そして無為に、音のしない別れを生み出してはいないだろうか。

こんな時代だからこそ、さようならという接続詞をもって、新たな世界へと歩みだしていきたいのだ。

 

「よっしゃ、また手伝ってくれよな、LINE教えてくれよ、登録しとくから」 

そう言ってヘルスズキとLINE交換をしたが、また猛者どもが巣食う掲示板に行かされることを思うと本当にブルーなので、家に帰ってから、

 

「ごめんだけど、もう手伝えないよ。あんな思いをするのはまっぴらだ。だからLINEもブロックするね。さようなら」

そう言ってヘルスズキをブロックした。

 

接続詞をもって関係を終わりにする。接続詞の先には次の文章が必ずある。僕もヘルスズキも、「さようなら」をもって新たな世界へと歩いていけるのだ。

 

 

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著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

Numeri/多目的トイレ 

Twitter pato_numeri

 

(Photo:niko si 

 

最近とある企業の採用担当者と会い、大変興味深い話をうかがった。その方の会社は中々に革新的で、昨今話題のAIによる採用判定を書類選考に絞って導入してみたのだという。

結果はなかなかに上々だったとの事だけど、最終的には採用におけるAIの導入は断念した。

 

AIの採用を見送った理由はAIの判断が悪かったからではない。結果だけみれば、AIの判断はプロの採用担当者と比較して、そう悪いものではなかったようだ。

問題となったのは、AIが「なぜこの人を選んだのか。なぜこの人を選ばなかったのか」を説明してくれなかったところにあったという。

 

これは実に大変興味深い指摘で、今後AIが導入される社会を生きる私達にとって非常に有益な知見が詰まっている。今日はこれを掘り下げて、僕なりのAIが導入された後の社会の行方についてみていく事にしよう。

 

AIの思考回路は人間と随分違う

AIは囲碁の世界チャンピオンを打ち倒したり、将棋の名人を打ち倒したりと、ある意味では人間の知能を既に超えているといわれる。

このことをもって、人間ほとんどの人間は用無しとなり、ホワイトカラー職は根絶するという人がいるが、この手の意見を言う人はAIについての理解がだいぶ足りていないといわざるをえない。

 

近年大ブレイクを遂げたAIだけど、その根幹となっている技術がディープラーニングといわれているものだ。

これは凄く大雑把に説明すると、AIが膨大な試行錯誤を行う中で、自ら法則性を見出し学習し、どんどん勝手に賢くなっていく工程を指す。

 

ムーアの法則により誕生当初よりも格段に発達したCPUを持つAIは、人間と比較して、とてつもない量の計算を短時間に行う事が可能となった。

アルファGOを始めとするAIに大量のデータ投げてガンガン経験をこなさせると、学習量が増大するにつれてどんどんと賢くなっていく。コンピュータはついに成長という能力を獲得したのである。

 

ディープラーニングの凄さは計算を計算で終わらせず、そこからプログラム自体に学びを蓄積させる手法を組み入れられたところにある。

例えばあなたがスマホを使って電卓アプリで複雑な計算を何回しても、あなたのスマホは賢くならない。けど特定の目的を設定した上で、ディープラーニングのプログラムが仕込まれたスマホに何度も演算をさせると、急速に成長を遂げてゆく。

 

今まで経験を蓄積する事ができるのは、生物にしかできなかった。機械にそれが導入されたというところに、ディープラーニングの強みがある。

今までのコンピュータは言われた事を反芻する事しかできなかったのが、今のコンピュータは計算を行うことで法則性を見出すという新しい機能を獲得するに至ったのだ。

 

「AI凄いじゃん。人間はそのうち不必要になるんじゃないの?」

ディープラーニングの話を聞いた当初、僕も人間は本当に不要な存在になると思った。

現実世界では、言われた事ができるだけでも相当優秀なのに、言われたことが出来て、その上学習すらできるAIなんて、どう考えても凡人には太刀打ちできないと思った。

 

AIは人の言葉で説明ができない

ところがAIには1つの弱点がある。AIは自らが導き出した答えに至る思考回路を人間の言葉で説明できないのだ。

 

これがあらわとなったのが、冒頭にあげた採用担当者の話だ。冒頭に書いた会社では書類のデータを打ち込んで、AIに採用・不採用を判断させた。

データを入力し終えたら、答え自体はパッと瞬時に出たようだ。

けど、部署内で「採用は非常に責任がある行為だから、AIが出した答えに本当に合理性があるのかを二重にチェックする必要がある」という事になったのだという。

 

そうして「なんでこの人が採用で、この人が不採用なのか」という事をチェックし、それに理由付けを行っていったところ、「結局これ、普段やってる業務とやってる事かわなくない?」という話になったのだという。

結局、かかった時間を計算してみたところ、少なくとも現時点においては採用にAIを使うメリットは全くないという結論に至ったようだ。

 

これは将棋や囲碁でも全く同じ事がいえる。アルファGOやボナンザといったプログラムは、確かに人間の世界チャンピオンよりも強い。

けどこれらのプログラムは、なんでその手を選んだのかについての説明が全くできない。これはAIがそもそも人間の言語を使って、人間と同じように思考を行っていないからに他ならない。

 

実際、アルファGOが囲碁の世界的な名手と指している時、アルファGOが指した手が人間に全く理解できないという事が何度かあった。

その手をみて解説者が「これは悪手だ」といったのだけど、その後にその手が絶妙な手である事が対局が進むと判明した。コンピュータの選択が、人類の選択よりも上だった瞬間である。

 

このようにコンピュータは容易に人間よりも上手い選択をやってのける。けどその手をなんでそこでさそうと思ったのかの理由については、AIは絶対に私たちには説明してくれない。

これはコンピュータと私達の思考回路が根本から異なるのだから当たり前だ。逆を考えればよりわかりやすい。

AIがどういう事を考えているのか、そこで使われたプログラムをみて、私達に理解できるだろうか?断言するけど、普通の人には絶対にできない。

 

AIと私達は思考に使用しているツールが根本から異なる。だから出てきた答えが例え一緒だとしても、、そこまで至る過程が全く異なるのである。

そしてここに人間が圧倒的にAIよりも強い部分がある。

例えば最強のAI同士に将棋を対局させると、どういう局面ができあがるかご存知だろうか?強い者同士が戦うのだから、さぞかし面白い対局になるかと思いきや、出来上がる棋譜は過激なだけで全く面白みに欠けた、学ぶべきものがないものになるのだという。

棋譜が過激になりがちなのは、コンピュータの読みが人間よりも圧倒的に深いから大きなリスクを取れるという事もあるのだろう。

 

けど、問題はそこではない。1番の問題点は人間がみて、その対局がつまらないと感じてしまう部分にある。

 

つまりコンピュータ同士の対局は、人間には共感できないのだ。何を考えているのかがわからないのだから、共感しようがない。その結果、人間にはコンピュータの対局がクソつまらなくなるのである。

その点、プロ棋士の対局は多くの人が内容を理解する事ができ、それに感動を覚える事ができる。だから人は囲碁や将棋に熱中するのだ。プロ棋士が職業としてなくならない最大の理由がここにある。

 

答えではなく、理由が大事

私達は様々なものに理由を求める。僕達医者は毎日のように患者さんに

「なぜあなたはこの病気になってしまったのか」

「どうすればよくなるのか」

を人間の言葉で感情に沿った形で説明している。

 

コンピュータがこれを行う事は少なくとも現時点では100%不可能だ。

病気という、非常に敏感な分野を扱う時に、患者さんが心の底から欲しているのは結果だけではない。理由や感情という部分にも相当な重きが置かれている。

 

これは医者の世界に限らないだろう。

さっき冒頭にあげた企業の採用だって、いずれ採用者の選別にAIを用いるようになるかもしれないけど、「なんでこの人が選ばれたのか、逆になんでこの人を選ばれなかったのか」の理由を推測し、上層部に採用試験の結果を「人間の理解できる形で」伝える人間は絶対に必要だろう。

 

恐らくだけど、AIが私達の社会に深く組み込まれる事で、私達の仕事は相当に性質が変わる。

医者は診断ミスを恐れる機会が相当数減る。それにより、ミスに怯える事からかなりの部分で解放されるだろう。その一方で、より人間の感情に配慮した部分に労働力を組み込む事ができるようになる。

 

採用担当者も、AIの出した答えについてのレポートの整合性をより深く考えて、社内でAIがなぜその判断を行ったのかの検討に相当時間が割かれるようになるだろう。

今までは採用していなかったタイプの人間がそれで多数採用されるような事案がでてきたとしたら、そこに今までは見逃していた会社の成長のヒントが隠されているのかもしれない。

 

結局、人が感情と言語というものを用いて思考を行っている限り、私達はそこからは絶対に逃れる事ができない。これからはAIの出した答えから的確な分析をする能力や、それをわかりやすく人間の言葉で説明する技能の需要が飛躍的に高まるだろう。

AIは私達から仕事を奪うのではない。AIは私達の仕事の質を変えるのだ。今後は人に共感してもらえる説明ができる人に、もっともっと価値がでてくるだろう。

 

なんでもそうだけど、結果よりも過程の方が100倍は大切だ。人が本当に欲しいものは、結果に至る過程にある目に見えない何かなのである。

いつだって「大切なものは、欲しいものより先に来る」のである。道草を、大いに楽しもうではないか

<参考 ハンターハンター32巻>

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:Ars Electronica)

電話で相手が何を言っているのか聞き取れないという経験を一度はしたことがあると思う。

知らない用語がたくさん使われていたり、周囲の音がうるさかったり、電波が悪かったりしない限りは、大抵の場合相手の滑舌が悪く、しかも早口だったケースではないだろうか。

 

そういう人は、あなたへの電話のときだけ滑舌が悪く早口になっているわけではなく、普段からそのような話し方をしている。

その人にとって、そのような発音の仕方も話すスピードも、“普通”なのだ。

 

私は自分が比較的早口で話すほうだからか、早口だと言われている人の話を聞くときは心地良く感じる。

一方でゆっくりとした話を聞くと、時間の流れがそこで変わってしまったような不思議な感覚になる。ゆっくりと話しているように感じた相手は、たぶん“普通に”話している。

でも、なんだか“わざと”ゆっくり話しているように感じてしまうときがある(ごめんなさい、もちろんそうではないことは理解しています)。とにかくそのスピード感が不思議なのだ。

 

しかしいくら違和感を抱いたとしても、相手の話すスピードをコントロールできるわけではない。

その人にはその人のペースがある。自分に合わせてもらおうという発想はおこがましい。それに、話すスピードについては多少不思議な感覚になったとしても大きな問題ではない。

 

ただ、仕事でもプライベートでも、どうしても理解できない他人の言動って結構たくさんあると思う。

その「理解しがたい他人の言動」を見たとき、どう対応しているだろうか。

 

☆★☆★☆

 

これはずっと忘れていた子どもの頃の妄想だ。(妄想なので馬鹿げた話に聞こえたとしても広い心で受け止めていただけると嬉しい。)

ある時、自分が生きている世界は他の人が生きている世界と同じなのだろうか、と考えたことがあった。

たとえば私は1分を1分の時間として捉えているけれど、私の世界での1秒と同じ時間で1分を捉えている人もいるのではないか、といった妄想をした。

 

それでも「カップラーメンがお湯を入れてから3分でできるなんて早いね」というように時間の感覚を共有できるのは、その人の世界は全てが60倍の速さで進んでいるからだ。

だから、私から見たら60倍の速さ、つまりカップラーメンが3秒でできるような世界だったとしても、その人はその3秒の間に(私の世界での)3分の歌を歌えるわけで、結局は同じ世界を生きているように見えてしまうのである。

 

あなたと私は違う世界を生きている。そんなことがあるかもしれない。

ただ、仮にそうだとしても、どう頑張っても証明することはできない。それがもどかしい。

もちろん、あくまで妄想だ。馬鹿げていると言えば馬鹿げている。だがそんな子どもの妄想に対して「そういう世界があってもおかしくないよね」と言ってくれた人がいる(私が都合良くそう捉えているだけだが、という補足はしておきたい)。

 

その人はかつて父親から借りた本に出てきた。

「この世界が5分前に始まったものだったとしても、それを反証することはできない。5分前の記憶も、植えつけられた偽の記憶なのだ」

こんな内容が書かれていた本で、興味深かったのでずっと心に残っていた。(といってもしばらく思い出すことはなく忘れていたのだが。)

 

随分前の記憶なのでどんな本だったのか全然思い出せず、Googleで調べてみたら「世界五分前仮説」というバートランド・ラッセルによって提唱された思考実験のひとつだということがわかった。

 

世界が5分前に始まったなんて「そんなことはありえない」と言いたいけれど、確かに反証はできない。

自分の妄想に偉大な人の考えを強引に当てはめるのは若干卑怯な感じもする。それでも「世界五分前仮説」と同様に、自分が生きている(捉えている)世界と他人が生きている(捉えている)世界が違ったとしても、それを否定することはできないと思うのだ。と、妄想を支えるために都合良く考えてみる。

 

私たちは普段気軽に「あの人はずれている」だとか「あの人のことは理解できない」などと言うけれど、みんなそれぞれの世界を生きているだけのことであって、その人だけが別世界を生きているわけではないのかもしれない。

相手のことを知ろう、理解しようとする姿勢は大切だが、一方でそもそも違う人間なのだ、というあたりまえのことを忘れないためにも、少し馬鹿げた話かもしれないけれど、こういう妄想をしてみるのも悪くない。

 

理解できないあの人の世界ではカップラーメンがお湯を注いでから3秒でできるのかもしれないし、別の誰かから見たあなたはカップラーメンを食べるまでに1時間もかかる世界にいるのかもしれないのだ。

 

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【著者プロフィール】

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

【著書】

「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

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LGBTBです」(総合科学出版、2017710発売)

[amazonjs asin="4881818619" locale="JP" tmpl="Small" title="LGBTのBです"]

Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

 

(Photo:James McLintock

昔のコマーシャルだっただろうか。

うろ覚えなのだが、

「「やらなかったこと」を後悔するよりも、「やって」後悔するほうがマシだ。」

というセリフを聞いたことがある。

 

言わんとしているのは

「だから挑戦することが大事だ」

だろう。

 

だが、挑戦すれば、本当に後悔せずに済むのだろうか。

 

プロスペクト理論でノーベル経済学賞を受賞した、プリンストン大学名誉教授のダニエル・カーネマンは、それとは異なる見方をしている。

行動して生み出された結果に対しては、行動せずに同じ結果になった場合よりも、強い感情反応が生まれるということである。この感情反応の中には後悔も含まれる。(中略)

じつはここで重要なのは、行動するかしないかのちがいではない。デフォルト(既定)の選択肢と、デフォルトから乖離した行動とのちがいである。

デフォルトから離れると、デフォルトが容易にイメージされる。そこでデフォルトから離れた行動をとって悪い結果が出た場合には、ひどく苦痛を味わうことになる。

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端的にいうと、「普段の自分がしないようなこと」をして、失敗すれば、後悔はより大きい。 

「普段の自分」が容易に想像できるからだ。

このような事実から、人は、無名の商品よりブランド品を選んだり、評価の時期が近づくと、大胆なことはしなくなる、といった「保守的なリスク回避選択」をしがちである。

 

それゆえ、カーネマンは

「長期的な結果を伴う決定を下す際には、徹底的に考え抜くか、でなければごくいい加減にざっくりと決めるか、どちらかにしている。中途半端が一番良くない」と述べている。

 

確かに、実際にやってみると「もっと早くやっておけばよかった」と、逆の後悔が生まれるものが数多くある。

要するに、物事はもっと、軽々しく始めるのが良いのだ。

 

物事を軽々しく始める人は得をする。

カーネマンの指摘を考慮すると、

実は、「物事を軽々しく始める人」は、ものすごく得をすることがわかる。

新しいことをして、チャンスに恵まれる上に、「新しいことを始める」のがデフォルトなので、後悔もほとんどすることがないからだ。

 

「あの人、かなり失敗してるのに、全く落ち込まないよね」

「リスクもあまり考えないで、とりあえずやってみる、っていうのは怖くないのかしら」

と言われることが多い人達は、実際、本当に「後悔」とは無縁なのだ。

 

冒頭の

「「やらなかったこと」を後悔するよりも、「やって」後悔するほうがマシだ。」

というセリフは、「後悔気質」の普通の人には、信じられないセリフだが、「とりあえずやってしまう気質」の人にとっては、

「え、何ってんの?あたりまえのことじゃない……」

と、呆れるくらいのことだろう。

 

私が「もっと軽々しくやっておけばよかった」と思うことのリスト

それ故に、自分が実際以上に「後悔するかもしれない」と恐れていたことが、初めて見ると「大したことなかった」というのが頻繁に起きる。

これは人間の気質なのだ。

 

だから、私が個人的に、「もっと軽々しくやっておけばよかった」と思うことのリストは、もしかしたら「始めようかどうか迷っている人」に役に立つかもしれない。

 

1.起業

起業は、学生時代や二十代でもっと軽々しくやっておけばよかった、と私が後悔していることの一つだ。

若いうちにやればやるほど失敗のダメージが小さくできるし、起業して働く1年は、サラリーマンで過ごす10年と同じくらいの価値がある。

また、「起業なんてやめておけ」という人も数多くいるが、「起業したの?なら助けるよ」という人もまた同じくらいいる。

 

2.投資

遅かれ早かれ、老後の資金を作るためには避けて通れない事の一つである上、時間をかければかけるほど成功する可能性の高いことの一つだと思う。

ローリスク・ローリターンを、ローリスク・ハイリターンに変えるのが「時間」だからだ。

別に「億り人」を目指す必要など無い。毎月数万円でも良いからきちんと節約し、それを「預金」ではなく「株式」や「投資信託」などに充てる。

そういったコツコツと積み上げる行為が、投資なのだ。なんで早くやっておかなかったのか、後悔している。

 

3.歯の治療

歯が悪い人は、早く歯医者に行ったほうがいい。

「時間が取れない…」とか「お金が……」とか言っている間にも、早く行っておけばよかったと後悔している。

永久歯は一度悪くなると、削らないといけなくなる。そして、歯は削ってしまうと基本的にはもとに戻らない。歯周病なども同じだ。歯周病にかかると、歯茎が溶けて、二度ともとには戻らない。

治療が遅れた歯が何本かあることを、私はとても後悔している。

 

4.子供を持つこと

もし子供を将来的に持ちたい、と思っているなら早い方がいいと、後悔している。

一つは体力的な問題、子育ては体力勝負の部分が大きく、体力がないと余裕が持てず、ついイライラしてしまいがちだ。

そしてもう一つは子供の将来の問題だ。

子供が成人する頃に、私は還暦を迎えてしまうことを想像すると、「子供の人生を見ることのできる時間の短さ」を痛感する。

 

5.読書の時間確保

働き始めて間もないころ、「読書」の時間を確保することを怠った時期が、数年間にわたってあった。

あの頃は家族もおらず、仕事も忙しいとは言え、工夫すればもっと自由になる時間がかなりあったはずなのに、なんで時間をきちんと確保しなかったのか、後悔している。

運動などと同じく、読書は基本的に面倒な行為なので、意図的に時間を確保しないと確実にやらなくなる行為だが、やらなければ長期的には知力の低下をもたらす。

そういうものこそ、もっと「軽々しく」やっておくべきだった。

 

6.デュアルモニタ

どこかの記事で、「仕事の生産性は、モニターの解像度と比例する」などという記事を見た。

本当に比例するかはともかく、PCを使って仕事をするなら、モニターの数は多ければ多いほどよいことは、使ってみたら一発で分る。

現在のデスクには27インチのモニタが2台。超快適だ。余談だが、デュアルモニタにするなら、モニターアーム↓

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を使うのがとても具合がいい。

なんで早くやっておかなかったのか、後悔している。

 

7.乾燥機・食洗機・ルンバ

現代版の3種の神器ではなかろうか。もっと早く買っておけばよかった。後悔している。

たぶんこれらのお陰で、休日の自由時間が倍以上に増えた気がする。

特にルンバ↓は、ヤバい。掃除の概念が変わるし、家具もルンバに合わせて選ぶようになる。

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昭和の人々は、洗濯機、テレビ、冷蔵庫を「3種の神器」と言い、あこがれの的としたそうだが、洗濯機や冷蔵庫も、家事の負担を激減したことだろう。

いつも時代も、「家事の負担を減らすもの」は歓迎されるのだ。

 

8.ブログ

ブログはいい。何がいいかというと、書くのが楽しい。だがそれ以上に、自分が考えていることをまとめることに非常に役立つ。

でも、私はつい5年前まではブログを書いていなかった。考えをまとめるときは、手帳やPCのファイルなどに、個人的にまとめていただけだった。

これはこれで役に立ったのだが、「人様にお見せする」となると、気合の入り方も違うし、きちんと調べてから書くくせがつく。

もう10年以上ブログを書いている人たちもちらほらいて、大変に上手な文章を書いていると「ああ、もっと早く始めておけばよかった」と後悔している。

 

 

とにかく「時間」が結果に大きくに関係することは早く始めるに限る。

人生は短いのだ。

 

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(Photo:x1klima

H先生の話をします。

 

H先生は、私が小学校3年から4年の時に担任を持ってもらった先生です。

男性で、眼鏡をかけていて、体格はそこそこ良くて。多分当時、30代後半から40代くらいだったのだと思います。気さくで、笑顔が多くて、授業中でもちょくちょく雑談をしては、クラス中を笑わせるような先生でした。

 

ちなみに、この記事で「巻物を触る仕事をしたい」という素っ頓狂な発言をした私に対して、「大学でなら触れるで」という適切な方向付けをしたのはそのH先生です。

私の人生において、ある意味かなり重大な影響を与えられた先生でもあります。

 

私が子どもの頃ですので、今の小学校とはまた色んな事情が随分違うとは思いますが、H先生がクラスで慕われていたことは間違いありません。

小3から小4くらいの小学生というのは本当に難しくて、面倒くさくて、一歩間違えると先生の言うことなど全く聞かなくなります。

その点、私のクラスは、先生の話を聞かないということもなく、かといってクラスがしーんとしているということもなく、休み時間には先生をグラウンドに引っ張り出そうとする生徒も多く、相当上手く運営されていました。恐らくH先生も、色んなところで細やかな配慮をされていたのでしょう。

 

なにせもう30年近く前のことですので、正直ディテールは曖昧なのですが、私がH先生について覚えていることの中で、こんなことがあります。

 

クラスの中に、とても忘れ物が多い子がいました。

「宿題をやったけど、そのノートを忘れる」というのはいつものこと。教科書を忘れることもあれば、定規を忘れることも、体育館履きを忘れることも、筆箱を丸ごと忘れることもありました。

 

ちょこちょこ忘れ物をするというのはよくある話ですが、「ちょっと常軌を逸しているな」とは、なんとなくクラスの他の生徒からも思われていたのでしょう。

その子自体、元々口数が少ない子だったこともあり、クラスの雰囲気はかなり微妙でした。いついじめが発生してもおかしくない、みたいな状況だったかも知れません。

 

そんな中、ある時先生がこんなことを言い出しました。

「悪い、先生出席簿忘れた。出席とれんわ今日」

ええーーー、とクラスが騒ぎました。先生なのに!と笑う子もいました。

 

「いや先生、忘れ物多いんだよなあ。みんなどうやって忘れもの気を付けてんの?」

先生も忘れものをするものなんだ!!ということは、小学生にとってそこそこ衝撃だったように思います。

当然のことながら、その時以降先生には「忘れんぼキャラ」という属性が付与され、例えば先生の「忘れものノート」を作ったり、忘れ物をした時の罰ゲームを考えたり、ホワイトボードにその日持っていくものを書いて渡したり、クラスは色々と盛り上がりました。

 

その一方で、件の「忘れ物が多い子」についての微妙な空気は、そのうちなくなっていました。よく覚えていませんが、その子の忘れ物自体、だんだん改善していったようにも思います。

今にして思えば、ほぼ間違いなく、先生の「忘れ物」は単なる「振り」だったのだと思います。そもそも出席簿なんて家に持ち帰るものなのか、という点も怪しい話でして、取りに戻れば済みそうな気もします。

 

その上で、先生は、「今のクラス状態なら、「忘れ物属性」を自分が引き受けても統率は取れる」ということを、その時計算されてその振りを行ったのだろう、と今では思います。

自分の弱点を生徒に提示するというのは結構なギャンブルであって、場合によってはそこで生徒が先生をなめてしまうこともありそうに感じます。

敢えて博打を打って、それできちんと成果を挙げてしまう辺り、タイミングやらなにやら、私が当時気づかなかった工夫も恐らく色々とされていたのでしょう。

 

以下は、ずっと後になってから知ったことです。

 

確か、私が高校くらいの頃、たまたま出身小学校に遊びに行く機会があって、その時まだ残っていた先生に聞いたのだったと思います。

 

H先生は、我々の担任を持つ何年か前、今でいう学級崩壊に近いことを経験されていたようなんです。

先生が何か言っても、皆話を聞かない。先生が発言する時に限って、狙ったように大騒ぎする。宿題をわざとやってこない。最近時折聞くような、授業中に立ち歩くというようなことがあったかどうかは知りませんが、まあかなり荒れた状態だった、ということは聞きました。

学級崩壊というのは90年代後半くらいから聞くようになった言葉のように記憶していますが、まあその前からそれに相似した状態はあったということなのでしょう。

 

当時は、今でいうサポートの先生やらが入ってなにやかや、収拾しようと尽力したけれど、結局その学年が終わるまで問題は収束しなかったらしく。当然ながらH先生も、その時散々ご苦労をされたし、挫折も味わったのだと思います。

生徒が自分の話を聞かない、という状況は、先生にとって地獄です。先生に対するクラス全体のいじめ、と言ってしまってもいいでしょう。

 

あの気さくで、笑顔が多くて、生徒からしょっちゅう遊んでとせがまれていた先生の姿は、先生なりの地獄を潜り抜けてきた後に醸成されたものだったのか。苦労の末に練磨されたものだったのか。

それを知った時、そこそこの衝撃を受けたことを覚えています。

つまり、挫折をしても人間は立ち直れるんだ、ということ。

 

地獄からレベルアップをして戻ってくることも出来るんだ、ということ。

小学校の先生というものも、本当に大変な苦労をしているんだ、ということ。

笑顔の裏に物凄い工夫と努力を隠しているものなんだ、ということ。

 

担任を持ってもらっていた時以上に、この時学べたことは多かったように思います。

 

だから今でも私は、小学校の先生に対して、結構精神的な肩入れをしてしまいます。

先生が何か授業運営で工夫をしていると嬉しくなってしまいますし、頑張った先生は報われて欲しいと強く思います。こんなに頑張っている先生もたくさんいるんだよ、ということを広めたいとも思います。

 

例えば、今長男が担当してもらっている担任の先生も、本当に色んな工夫をされる方で、その工夫についてはまた折に触れて書いていきたいと考えています。

ところで先日、こんな記事を拝読しました。

小学校の時、私のクラスは学級崩壊していた。先生に「優しく」できなかった。

結果、Y先生の療養は長びき、そのまま年度末に退職。

5年生と6年生になるときにクラス替えはないから、副担任がそのまま担任になり、彼女のクラスとして卒業文集が作成され、Y先生はいなかったことにされた。

「ずっと夢だった」と言っていたはじめての教師生活は、きっとY先生にとって、最悪の思い出として残っているだろう。

こちらで描かれているY先生が、あの時のH先生のように、地獄から復帰して、挫折の上に笑顔を乗せられていますように。生徒たちとの信頼関係を築けていますように。

私はそんな風に考えたのです。

 

残念ながら、その後私の人生は、H先生と交錯はしておりません。あの頃お世話になったお礼をすることも出来ておらず、クラス運営の工夫について聞くことも出来ていません。

年齢からすると、既に定年で退職なさっているようにも思います。

ただ、あの後もきっと、時には色々なトラブルを抱えながらも、いくつものクラスの生徒と信頼関係を結ばれ、笑顔の絶えないクラス運営をされていたのだろうと。

そう信じています。

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:scarletgreen

小林銅蟲氏の著作、「めしにしましょう」で、「見えるとは何か」について、話が綴られていた。

(引用:「めしにしましょう」第三巻 P64)

あたりまえだが、見えるとは、目から取り込まれた光を脳が「知覚すること」である。だから、「実際にあるもの」と、「脳が知覚しているもの」は必ずしも同じではない。

 

必然的に「見える」と「描ける」も異なる。

(引用:「めしにしましょう」第三巻 P64)

脳に写った像を、手がアウトプットすることは、更に誤差が大きく、「絵が下手くそ」なのは、そこに由来する。

「描ける」ようになるためには、ある程度の修練がどうしても必要になる。

 

他にも同じである。

例えば社会人になると、ゴルフをする人が増える。

やったことのある人ならわかると思うが、ゴルフは見たよりもスイングが遥かに難しく、プロのスイングを何度も見て同じようにやろうとしても、全くうまくいかない。

スイングを体の動きとしてアウトプットするには、イメージ通りに体を動かすための長い長い訓練が、必要だ。

 

まあ、ここまでで、ほとんど言いたいことはおわかりの方が多いと思うが、これは仕事も全く同じだ。

例えば「OJT」というシーン。

 

ベテラン営業マンが、「OJT」と称して、営業をやっているところを若手に見せ、「同じようにやってみろ」と言う。若手は「わかりました!」と元気よく答えて、同じようにやろうとするが、大抵は全くうまくいかない。

ベテランは「何やってんだ、同じようにやるだけだろ」というが、若手は決して同じようにできない。

 

もちろん、これは若手がよく先輩の営業を見ていなかったのではなく、脳の構造上、「知覚すること」と「知覚したことを事レースして行動すること」がイコールではないことに由来する。

 

「わかっているけど、できない」を克服するには

そこで考えてみる。

我々にはあいも変わらず、大量の「わかっているけど、できない」が存在する。

勉強したけどできない、体が動かないのでできない、面倒なのでできない、やる気にならないのでできない……

 

例えば、ダイエットである。

摂取カロリーが、消費カロリーよりも少なくなれば、理論的には痩せることができる。

ほら、簡単でしょう?やってみましょう。

 

そんなことは「わかっている。」

でも殆どの人が「わかっているけど、できない」のである。

営業やゴルフスイングと同じく。

 

そこで、どうしたら「わかる」が「できる」に変換されるのだろうか。

 

元東北大学医学系研究科教授の山鳥重氏は、著作「『わかる』とはどういうことか」において、次のように述べている。

ちゃんとわかったかどうかは、一度実際に自分で行為に移してみないとなかなかわからないものなのです。

筆者の考えでは、わかるとは運動化出来ることです。わかっていることは運動に変換出来ますが、わかっていないことは変換出来ません。

運動といわれるとピンと来ないかも知れませんが、話すのも、文を書くのも、絵を描くのも表現活動はすべて運動です。行為(発話行為、書字行為、構成行為など)という別の言葉を使いますが、要するに運動です。

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山鳥氏は、「わかる」とは「運動としてできる」ことであり、「運動としてできている」ことは、「手続きや判断を脳が記憶しているから」だと言う。

 

 

じつは「面倒でできない」というのも、根は同じである。

なぜ面倒か。

つまりそれは、脳がやり方を記憶していないから、いちいち考えなければならず、さらに脳の中のイメージをそのままアウトプットできないから、うまくできないのである。

要するに、「いちいち考えないとできない」という状態が、「わかっているけど、できない」である。

 

「考えなくてもいい」なら「できる」

一時期、「リンゴダイエット」という、りんごだけを食べるダイエットが大流行したことがあった。

効果や体への影響はともかく、「これならできる」という人が数多くいたのだ。

 

なぜ「できる」人が多かったのか、上の話を知っていれば、理解は容易い。

一般的に、ダイエットは面倒だ。

「これは食べていいか」「一日のカロリーはどの程度に抑えるべきか」「昼食はコンビニで買ってよいのか」

これらを考え続ける手間が、ダイエットを失敗させる。

「食べたくなる誘惑」もダイエットの失敗要因だが、むしろ「食べるものについて、考え続けないといけない」ことが、ストレスを貯めるのである。

 

その反面、リンゴダイエットは恐ろしく簡単だ。

りんごだけ食べていれば良い、という手軽さが、「リンゴダイエット」への参入者を増やしたのである。

 

仕事へ応用を考えてみよう。

 

「できる」と言うのは、考えなくても手が動く状態だ。

適切な反応が脳に回路として出来上がり、記憶が定着した状態が、「できるようになった」状態だ。

 

例えば、「タスク管理」。

たいていの人はタスク管理をやろうと思っても、自発的にやれる人はそう多くない。

「面倒」だからだ。

タスクを分解するのも、書き出すのも、チェックして消すのも、タスクを見直すのも、自分がやったことのないことばかりで、いちいち「判断」が必要になるから、できない。

 

さらに今はスマートフォンやら、webアプリケーションやらで、タスク管理ツールがあるが、それらの使い方も覚えなければならない。更に面倒だ。

だから、「わかっているけど、できない」になる。

 

ではどうするか。

 

こんな試みをしている課長がいた。

彼は、部下にタスク管理のやり方を教え、仕事を振るときは、手続きを分解して、付箋に書いて渡していた。

これだけで、一ヶ月〜二ヶ月後には、ほぼ全員が、苦もなくタスク管理をできるようになる。

 

なんでこんなことだけで?と不思議だったので、聞いてみたところ、

彼はこんなことを言った。

「最初からタスク管理ツールを使うと、負荷が大きい。ツールの使い方を覚えるだけで、皆疲れてしまう。」

「タスクの分解も、最初はこちらがやって手本を見せて、彼らが自然にできるようになるまでこちらが分解してあげる」

「少しずつ彼らにやらせると、無理なくできる。その時点でツールに移行する」

 

最初から自分でできる人には、こんなことは不要だということだったが、「最初の一ヶ月」を超えれば、後は皆自然にできるようになるという。

 

つまり我々が気にすべきは、「やりかたの理解」ではない。理解は往々にして、「わかったけど、できない」に至る。

 

本当に「やれる」ために必要なのは、「やり始めようとしていることの面倒さ乗り越える工夫」「脳に記憶が定着するまでの期間を耐え抜く工夫」である。

 

 

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(Photo:brett lohmeyer

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弊メディアBooks&Appsでは、それぞれの書き手が実体験に基づき「主張のある記事」を書くことで、いわばブログのようなスタイルで情報を発信することに拘ってきました。

 

「ブログ」の面白さは、個人の思い込みや主張、思想が剥き出しになるところにあります。文章に個性が発揮されやすいとも言え、それこそがブログが人を惹きつける大きな要因ではないかと思っています。

私たちも、そのようなブログが大好きなので、今もこうして続いています。

Books&Appsは2013年には開設し、現在では月間200万ページビュー、70万人のユニークユーザー、Facebookページいいね数1万フォロワーを越えるまでに成長し、おかげさまで多くのファンが熱心に読んでくださるメディアとなりました。

 

2016年からはBooks&Appsの記事広告「こちら広報部」をスタートしました。

個人の書き手が発信する「ブログ」のような形で、企業が持つその専門性や知見を発信すれば「読み物」として面白いのではないか?

それを形にしたのがBooks&Appsの記事広告「こちら広報部」です。

 

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ビジネスパーソン当事者の視点で、仕事に活かせるネタを中心に情報を発信する

 

Books&Appsの書き手の発信すると同様に、多くの読者に役に立つ情報をお送りすることができたのではないかと思います。

今年度も、引き続き皆様にお役に立つ情報を発信して行く予定です。

 

さいごに、企業の広報宣伝業務等ご担当の方へお願いです。

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参加ご希望の方は、上記リンク先peatixよりご都合に合わせてどちらかにお申込みください。

心よりお待ちしております。

 

今年も、さらに書き手を増やしBooks&Appsのコンテンツを充実させて参りますので、ぜひご期待ください。

今後とも何卒よろしくお願い致します。

 

ティネクト株式会社

取締役 楢原一雅

この前友だちとご飯を食べていたときに、「優しさとはなにか」という哲学的な話で盛り上がった。

 

他人のために努力できる人、他人を傷つけない人、他人の心を癒せる人……。

「優しさ」の定義は、ひとそれぞれだ。

そんな話をしているとき、わたしはふと、小学5年生のクラスの担任だったY先生のことを思い出していた。

 

ニキビ顔の新米教師、Y先生

小学5年生になる春休み、わたしは香川県へ引っ越した。

桜が満開になる数日前、人生ではじめてセーラー服に身を包んで、母と一緒に転校先の学校へ向かった。転校は何度か経験していたけど、やっぱり緊張するものだ。

 

担任の先生として紹介されたのは、大学か大学院を卒業したばかりの新米教師、Y先生。

Y先生は顔にたくさんのニキビ跡があるふつうの若者だったのだけど、10歳のわたしとってはとても頼もしく見えた。

 

教師という職業に情熱と夢を抱いていたであろうY先生は、「家族に聞いて方言を調べよう」という総合学習の課題に頭を悩ませていたわたしを助けてくれたし、新しい環境に馴染めているかを常に気にしてくれていた。

 

わたしは、若くて頼りになるY先生を、すぐに好きになった。

もしかしたら、若い大人の男の人に舞い上がってたのかもしれないけど。

 

クラスのみんなも、最初はそんな感じだった気がする。

女子は新しい髪型を先生に自慢して褒めてもらいたがったし、男子は「ドッジボールをやろう」と先生を囲っていた。

 

でもそんなほほえましい状況も、長くは続かなかった。

 

子どもというのは、力関係に敏感なイキモノである。

副担任であり、お目付け役である学年主任に怒られてばかりいるY先生を見て、子どもたちも先生のことを見下すようになったのだ。

 

一部の生徒は連絡網の日記欄に「死ね」「席替えやり直せ」「お前の授業はわかりづらいけん教師やめた方がええよ」と書いて提出するようになったし、怒られても「そんなに怒らんでもええやん」「彼女に嫌われるで」とまともに取り合わない。

 

学級崩壊なんて、そんなたいそうなものじゃない。

一生懸命なオニーサンをからかってやろう、ちょっと困らせてやろうという、子どもの無邪気なお遊びだった。

 

大人は強いから、きっと大丈夫。

それでもY先生は、生徒の日記に丁寧に返事を書いていたし、「宿題やっとん?」「雨が降りよるけん気を付けて」と、こまめに生徒に声をかけ続けていた。

 

でも夏休みが終わって少しするくらいになると、生徒たちは「Y先生イジリ」にすっかり飽きだした。

 

怒られたら適当に謝り、連絡網の日記は書かず、質問に対して答えない。「ロリコン」「キモい」という陰口。

(「キモい」という言葉がちょうど流行りだした頃だった)

そんな様子にY先生も諦めたのか、日記に「よくできました」のスタンプを機械的に押すだけになり、うるさい生徒を注意することもなくなった。

 

それでもわたしはY先生が好きで、休み時間に職員室に言っておしゃべりするのが好きだった。

 

だけど、それがリーダー格の女子の癇に障ったらしい。

「先生にゴマすりよん?」と言われて、わたしは先生のところに行くことをやめた。

それどころか、先生を慕っている自分が子どもっぽくてカッコ悪いとすら思った。

 

少ししてY先生に「最近来てくれんけんさみしいわ」と言われたけど、目も合わさずに「最初はだれも知らんから先生と話しよっただけで、いまは友だちがおるけん別にいらん」と言ってしまった。

 

ちょっと言い方悪かった気ぃするけど、先生は『友だちができてよかったやん』って返事してくれとったし、先生もたいして気にしとらんやろ。

大人は強いイキモノやし、先生ならこういうことも慣れているやろうし、大丈夫や。

そう思っていた。

 

Y先生が、不登校になってしまった

でも、大丈夫じゃなかった。

その知らせを聞いたとき冬服のセーラー服を着ていたから、たぶん冬休み明けだったと思う。

 

学年主任の副担任が、「Y先生は胃の病気になったから、療養中はわたしが担任を務める」と言ったのだ。

その副担任の先生は神妙な顔をしてはいたけど、担任を持てて喜んでいるのが伝わってきた。

 

結果、Y先生の療養は長びき、そのまま年度末に退職。

5年生と6年生になるときにクラス替えはないから、副担任がそのまま担任になり、彼女のクラスとして卒業文集が作成され、Y先生はいなかったことにされた。

 

「ずっと夢だった」と言っていたはじめての教師生活は、きっとY先生にとって、最悪の思い出として残っているだろう。

 

それでもわたしは「病気ってえらい(しんどい)んやろうなぁ。若いのに……」くらいにしか思っていなくて、間近に迫る中学校生活の方に気を取られていた。

 

ところが中学生になって、「退職したY先生がちがう学校でまた先生になったらしい」という風の噂を耳にしたのだ。

 

同じ学校に復帰しなかったことを考えると、やっぱりわたしたちのクラスが先生を追い詰めていたんだと思う。

自分より倍も年を取っている大人のY先生は、子どものすることなんてなんとも思ってないんだろう、全然大丈夫だろう、と勝手に思い込んでいた。

 

12歳になったわたしは、そこではじめて「ひとりの人間の心を深く傷つけていたこと」に気づいた。

 

本当の表情を想像するちから

わたしはこの前26歳になり、「頼りになる大人」だと思っていたY先生の当時の年齢をすでに追い越した。

 

Y先生はいま、幸せだろうか。

まだ先生をやっているんだろうか。

 

香川県に住んでいたのは2年と4か月だけだったけど、Y先生のことはいまでもわだかまりとして、心の中に残っている。

謝りたかったし、とても慕っていたこと、たくさん助けてもらったことのお礼も言いたかった。もちろん、それが自己満足だってわかっているけど。

 

わたしは、先生の背中しか見ていなかった。

 

後ろ姿が大きかったから、勝手に強い人だと思い込んでいた。

そんな人だって、本当は向かい風に顔をしかめているかもしれないし、泣いているかもしれない。わたしはそんなことを、少しも考えなかった。

 

他人に見せている部分なんて、そのひとのほんの一部にしか過ぎないのに。

 

もしかしたらわたしは、ほかの誰かのことも、背中しか見ていないのかもしれない。

 

「大丈夫」「がんばるよ」と背中を向けて一歩踏み出したあの人は、本当に大丈夫だったんだろうか。

「もう放っておいて」と背中を向けたあの人は、本当にひとりになりたかったんだろうか。

 

背中を見せている人が本当はどんな表情をしているのか、それを想像する気持ちを、「優しさ」と呼ぶのかもしれない。

 

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【プロフィール】

名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

ハロプロとアニメが好きだけど、オタクっぽい呟きをするとフォロワーが減るのが最近の悩みです。

ブログ:『雨宮の迷走ニュース』

Twitter:amamiya9901

 

(Photo:NARUMI)

世の中には、いろんな巡り合わせ、というものがあるようです。

 

仮想通貨取引所大手「コインチェック」から580億円相当の仮想通貨「NEM(ネム)」が不正流出したのが判明し、経営陣による記者会見が行われたのが2018126日の夜、もうすぐ日付が替わる、という時間帯でした。

 

仮想通貨をもっていない僕にとっては、正直、「興味深くて実害はないニュース」で、これまで「仮想通貨万歳!」と煽っていた拝金ブロガーたちの凋落を目の当たりにできるのではないかという黒い期待を呼び覚ます出来事ではあったのです。

それと同時に、僕は心底、ホッとしました。

自分は運が悪い人間だと思いながら、ずっと生きてきたけれど、今回に関しては、幸運だったとしか言いようがありません。

 

 最近、なんとなく生活に飽きてきたような気がする僕は、仮想通貨をやってみよう、と思い立っていたのです。

 

なにをいまさら、と思えるのは、ああいう出来事が起こってからであり、仮想通貨についてあれこれ学んでみると(主にビットコインの話なのですが)、ビットコイン(仮想通貨)が「未来の通貨」であり、さまざまな取引や海外送金のコストが劇的に安くなることや「ブロックチェーン」と呼ばれるセキュリティ技術が画期的なものであること、発行数に上限が定められていて、どんどん希少性が高まっていくことが紹介されていて、「うさんくさい人たちが薦めているのはひっかかるけれど、これはまだまだ値上がりするのではないか?」と思ったんですよ。

 

仮想通貨の代表格であるビットコインの相場をみていると、すごい右肩上がりのあと、昨年後半に大きく値を下げ、その後は一進一退、という情勢です。

とはいえ、時代は、現金からカード社会の次は、ブロックチェーン技術を使った通貨に流れていくのではないか、とも思われ、初期に買った人ほどの大儲けはできなくても、いまくらい下がっているときに買って、少しでも上がったタイミングで売れば、小金にはなるのでは……とか考えてもいたのです。

初期に買った人のように、1年間で20倍とかいうビッグドリームはつかめなくても、こまめに相場をチェックして、100万円で買って120万円くらいで売れば、それなりに「儲かる」のではないか、と。

 

 で、あの「コインチェック」のアプリをインストールしたのが124日のことで、なんだ、身元確認とかやらないと取引できないのか……と思いつつ、とりあえずチャートの変化を眺めていたら、いきなりこの事件。

 

仮想通貨を買っていた人たちを「金の亡者が金融知識もなしに参入するからだ、ざまーみろ!」と罵る気分にはなれませんでした。起こるのがあと1週間遅ければ、僕も当事者になっていたかもしれないのです。

 

あの事件が起こる直前に買ってしまった、という人も存在するはずで、そういうタイミングって、運とか巡り合わせだとしか言いようがない。

真面目な話、今の日本では、普通のやりかたで、劇的にお金を増やす、というのはけっこう難しいですよね。

宝くじを当てる、とか、万馬券に大きな金額を賭けて仕留める、というのは可能性としてゼロではないけれど、期待値が乏しすぎます。

 

 

少し前に、生活保護を受けていながらパチンコなどのギャンブルをしている人に取材した記事を読みました。

ただでさえお金がないのに、生活保護まで受けているのに、ギャンブルでさらにお金を失うリスクをおかすなんて言語道断!地道に働いて(働けないとしても節約して)、生活の基盤をつくって、少額ずつでも貯金して生きろよ、と僕は思っていたのです。

 

しかしながら、彼らは、「普通の方法では、いまのギリギリの生活からは抜け出させないし、自分には特別な技術も能力もない。このつまらない人生で一発逆転を狙うには、ギャンブルしかないんだ」と言うのです。

それは、わからなくもない。

いまの日本で「お金がない」というのは、「登っていくための梯子がない」というのに近いのだと思う。

 

ただし、ギャンブルの場合、(まず現実的にはありえないけれど)パチンコ台で100連チャンを成し遂げても、100万円にもなりません。パチスロでは「万枚(1万枚)」というのが「ものすごく出た」象徴になっているのですが、それでも20万円くらいです。

このくらいの金額というのは、とりあえず、ちょっとした贅沢はできるけれど、人生を変えるには少なすぎる。

 

「なぜ、貧乏なのにギャンブルなんかするんだ?」というのは、守るべきものを持っている人間の発想でしかなくて、彼らのなかには「少しくらい節約しても、どうせ貧乏なんだから、ギャンブルでもやるしかない」と考えている人がたくさんいる、ということなんですよね。

生活保護を受けるほど困窮していなくても、こういう将来への絶望感というのは、多くの人がもっているのではなかろうか。

 

 

長々と脱線してしまったのですが、仮想通貨の話に戻ります。

仮想通貨の代表格であるビットコインは、201712月中旬には1BTC210万円をこえていたのですが、2018129日のお昼の時点では、1BTC125万円になっています。

すごい下がり具合ではあるのですが、20171月の時点では、1BTC10万円くらいだったので、1年前に買った人は、現時点でもかなり儲かっている、ということになります。

 

ビットコインを薦める人たちの多くは「仮想通貨の先進性やコスト面での魅力」を語りたがるのだけれど、彼ら自身は、「通貨」として使ってみて、その便利さを実感しているわけではなく、それを「投資商品」にしているだけなのです。

今後どんどん値上がりすると思っていれば、そりゃ、誰も今、使おうとはしませんよね。

通貨として使われないのであれば「通貨としての現実的なメリット」はなく、期待感だけで今後の業績も未知数なのに値上がりしつづけている株の一銘柄と同じです。

 

 仮想通貨の思想とブロックチェーンという技術は画期的なのだけれど、この「どんどん値上がりしてしまうことによって、塩漬けになり、誰も実際に使わなくなっている」という状況は、「人間の生活を豊かにするための道具」としては、きわめて不都合なんですよね。

 

いま起こりつつあることは、「投資家」(というか「投機家」というべきかもしれません)にとっては、仮想通貨のバブル崩壊なのかもしれないけれど、実際は「仮想通貨の価値の適正化」ではないかと僕は考えているのです。

オランダのチューリップバブルで、人々が「これは、花の球根でしかない」、日本の土地バブルで、「誰も利用しない土地は、単なる空き地でしかない」ことに人々が気づいたように。

 

だからといって、チューリップの球根が絶滅したわけでもないし、土地は、それなりの資産として評価されつづけています。

 

歴史は、繰り返す。

 

僕はブロックチェーン等の技術を使った暗号通貨の時代が近い将来に来るであろう、と予想しているのですが、だからといって、現行の仮想通貨が覇権を握り続けるとも思えないのです。

暗号通貨の技術も日進月歩(いや、秒進分歩くらいか)でしょうし。

 

いまの暗号通貨を過信すると、「将来の娯楽の王様は家庭用テレビゲームになるはずだ!」と、ファミコンが出る前にカセットビジョンを買ってしまう可能性もあります。

カセットビジョンも、悪くはないんですけどね。『ギャラクシアン』は面白かった。

 

すでに仮想通貨をもっている人たち、自分で持つだけではなく、アフィリエイトなどで「とにかく儲けたい人」に売りつけてきた人たちの今回の「コインチェック騒動」への反応は、「ああ、いままで日本で行われてきた巨大詐欺事件って、こんな感じで多くの人からお金を集めてきたのだなあ」ということが可視化されていて、暗い笑いを禁じえません。

 

いわく、「『コインチェック』の事件は、『コインチェック』のセキュリティが甘かった、というだけで、暗号通貨のシステムの問題ではない(だから、暗号通貨そのものに問題はない)。仮想通貨は、まだまだこれからだよ!」

 

 ああ、原子力発電所の「安全神話」みたいだな。

 

事故が起こるたびに、「あれは古いタイプのもので、新型ならだいじょうぶ」「運用する人間の問題であって、原発そのものが悪かったわけではない」「危機管理が甘かった」

と言う人々が出てくるわけです。

それは、個々の事例については、事実でもあります。

 

でもね、忘れてはいけないのは、結局のところ、今の世のなかでは、いくら先進的で素晴らしいシステムがあっても、それを実際に動かしているのは「人間」なのだ、ということだと思うんですよ。

 

19999月に起こった東海村JCO臨界事故では、2名の死者が出ています。

以下、Wikipediaからの引用です。

この事故の原因は、本事故の原因は、JCOのずさんな作業工程管理にありました。

JCOは、燃料加工の工程において、臨界事故防止(臨界安全)を重視した正規のマニュアルではなく、「裏マニュアル」に沿って作業をしていたのです。

一例を挙げると、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では、正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用すると定められていたが、裏マニュアルではステンレス製のバケツを用いるという手順に改変されていた。

しかも事故前日の929日からは、作業の効率化をはかるため、この裏マニュアルとも異なる手順で作業がなされていた。具体的には、濃度の異なる硝酸ウラニル溶液を混合して均一濃度の製品に仕上げる均質化工程において、「貯塔」という容器を使用するべきところを「沈殿槽」という別の容器を使用していた。

貯塔は臨界に至りづらい形状(背が高く、内径が狭い)だったが、使用目的が異なる沈殿槽は非常に臨界に至りやすい構造(背が低く、内径が広く、冷却水ジャケットに包まれている)であった。

「そんなバカなこと」を、「めんどくさいから」と、やっちゃうのが人間なんですよ。

 

暗号通貨のシステムの問題ではなくて、取引所の問題だというけれど、現状、暗号通貨を一般の人が売買するためには、取引所を介さざるをえないわけです。

それを切り離して考えるのは、あまりにも御都合主義だと言わざるをえません。

 

どんなに安全性の高い、よくできたシステムでも、それを運用するのが人であるかぎり、ミスや手抜き、不正が起こってくる可能性はあるのです。

悪意の有無はあるにせよ、人のやることに、「絶対安全・安心」は存在しない。

もちろん、それは原発や仮想通貨に限った話ではなくて、火力発電所でもそうだし、既存の通貨や銀行にもあてはまります。

あとはもう、そのリスクとメリット・デメリットを総合して考えるしかない。

 

原発は、基本的にはかなり安全性が高いけれど、何か起こったときのリスクが極めて高いので、このまま運用していくのは不安だし、火力発電所については、絶対に安全ではないし、もしものときはかなりの被害が出ることも予想されるけれど、原発に比べると限定的であり、電気の必要性を考えるとなくすわけにはいかない、というところでしょう。

 

現在の仮想通貨に関しては、個人的には、あまりにも幻想が肥大化している状態で、高くなりすぎていると思っています。

「仮想通貨がこれから普及していく」ということと、「投資商品としての仮想通貨がどんどん値上がりしていく」ことは、イコールではない。

むしろ、投機的な商品として「終わって」しまうことが、実際に使いやすい状況を生み出すし、そうなれば、国や大手金融機関が保証した暗号通貨が、優位に立つことになるはずです。

 

相場を読んで、うまく売り抜けることが目的の「投機」なら、なくしても困らない金額で自己責任でやればいい。

でも、そういう割り切りもなく、いまさら「仮想通貨の理想」とか「便利さ・優位性」に賭けても、すでにもっている人たちの「養分」にされてしまうだけでしょう。

 

この状況で、リスクを語らずにポジティブな話ばかりしている「億り人」がこんなにあふれている時点で「ヤバい」としか言いようがないのです。

あんな事件が起こった直後に、既存の仮想通貨を薦め続けている人って、「何もわかっていない」か、「わざと他人を巻き添えにしようとしている」としか、僕には思えないのです。

 

それでも、「今の閉塞した状況から、なんとか逃れたい」という人は、これからも買ってしまうんだろうな、仮想通貨を。

 

ここから先は、地獄だよ。

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

 

(Photo:Antana

ちょっと、「子どもが触れるコンテンツに対する親の態度」というものについて、自分の考えを簡単にまとめてみたくなりました。

 

まず前提として、

「よほど偏っていない限り、視聴するコンテンツの違いによって、心配する程の影響が子どもに出ることはない」

「親が色々制御しようとしても、子どもはどうせ自力でコンテンツにたどり着く」

という二点は、ある程度一般的に言えるんじゃないかなあ、と思うんです。

 

そもそも皆さん、子どもの頃行儀良いコンテンツばっか見てました?

NHK教育とか、子どもに優しい絵本とか、児童文学とか、偉人の伝記とか、そういうのばっか読んでましたか?

 

勿論、中には厳しい家庭もあって、そういうコンテンツしか摂取させてもらえませんでした、綺麗な本や漫画しか読んでません、という人もいるかも知れません。

ただ、例えば私とか、あるいは私自身の周囲では、

「ろくなもの読んでねえ」

「ろくなもの見てねえ」

という子どもの方が圧倒的に多かったと思うんですよ。

 

親の留守中に低俗なテレビ番組を見たり、公園のゴミ箱の中からエロ本を拾って回し読みしたり、親が寝た後にこっそり起きてきて深夜ラジオ聴いたり。

親がどの程度干渉してきたか、という違いこそあれ、多かれ少なかれ、我々は「ろくでもないコンテンツ」を大量に摂取して育ってきたじゃないか、と。

 

私、あんまりテレビは見てませんでしたけど、それは何でってひたすらゲームばっかやってたからです。

当然のことながら、暴力的なゲームとか、お色気要素のあるゲームなんかも散々遊びました。

不良が殴り合う熱血硬派くにおくんとか、めぐみが脱ぐオホーツクに消ゆとか、煙草を吸うと頭がさえる探偵神宮寺三郎とか、銃で人を撃ちまくる戦場の狼とか。面白かったですよね。

 

子どもの好奇心のパワー、「楽しみたい」というパワーってのは凄いものですし、結局親がどうやっても、それを完全にコントロールすることなんて出来やしないんです。

で、当時の私たちの親だって、そんな私たちにきっと目いっぱいやきもきしたことだろうと思うんです。

 

子どもという生き物は、親にとっては最大の「ジェネレーションギャップ」の向こう側にいる存在です。

子どもなんか最新のコンテンツに喜んで飛びつくに決まっていますし、その最新のコンテンツは、大抵の場合親の既存守備範囲の遥か外宇宙からやってきます。

 

いつの時代も、新しい文化というのは大人に理解出来ないものですし、一度は否定されるものなんですよ。

アニメもそうでした。漫画もそうでした。時代を下れば、今では純文学に当たる小説だって、歌舞伎みたいな伝統芸能だって、最初は「訳が分からないもの」として迫害や排斥の対象になっていたんです。

 

子どもたちが、自分の手の届かない範囲で、よく分からないコンテンツを摂取している。

この子は将来大丈夫なんだろうか、バカにならないだろうか。

暴力的な子にならないだろうか。

もっと文学とか、勉強になる本とか、たくさん読ませた方がいいんじゃないだろうか。

いつの時代のどんな親も、きっと一度や二度はそう考えたろうと。

 

私の親は、私や兄が散々ゲームを遊び倒していても、最低限TPOの口出しはするくらいで、基本的には放置する方針をとりました。

勿論、仮にそういうコンテンツを制限したところで、結局私や兄は、何かと手管を見つけてろくでもないコンテンツを摂取し続けたろうと思いはしますが。

 

そして、曲りなりにも私は三十台後半となり、一応は普通の大人として、まあお蔭様でどうにかまともに日々を過ごしております。

そして、私の周辺の、やはりろくでもないコンテンツを摂取し続けた連中も、同じく大人として、それぞれの人生をちゃんと歩んでいます。

 

友達から借りたSM調教師瞳を親に隠れてこっそりプレイしていても、ちゃんと大人になれるもんなんですよ。

勿論家庭によって、子どもによって、色んなケースがあることはわかるんですが。

 

ただ、「ろくでもないコンテンツ」というものが、子どもに将来に渡って悪影響を及ぼすかというと、恐らくそれはかなり限定的なんじゃないかと思うんですよね。

そういう意味では、少なくとも「コンテンツの中身」については、そんなに親が気にする、心配することもないんじゃないかなあ、と。

 

ただそれは、「親は一切子どものコンテンツ摂取に介入するべきではない」という話でもありません。

これも同じく、大体の子どもに言えることだと思うんですが、「楽しいこと」に対してヤツらはブレーキをかけません。どこまでも突っ走ります。ソースは私。

コンテンツ摂取自体を止めはしないものの、やはり一日そればっかというのは不健康ですし、他の活動に悪影響を及ぼします。「勉強も大事だよ」ということを提示するのは親の仕事の一つですし、目が悪くならないように、ひどい運動不足にならないようにということも気にしないといけません。

 

そういう点で、やはり「やり過ぎてたら止める」ということはきちんとするべきだと思うんです。まあ当たり前の話ですよね。

で、それはテレビでもゲームでもアニメでも、昔からずっとそうなんですが、「いやそれは違うやろ」という、はっきり誤った知識とか、妥当じゃないスタンスみたいなものが前面に押し出されてしまうこともあるんですよね。

 

そういう時、「どちらが正しいのか」を判断するのは最終的に子どもであるとはいえ、親として「それはおかしいと思う」という意見を表明すること自体は、結構大事だと思うんです。

その為にも、出来ることなら、子どもが摂取するコンテンツは、親もある程度興味をもって摂取した方がいいんじゃないかなーと。

私、この年になるまでポケモンアニメ見たことなかったですけど、最近になってようやく見るようになりましたよ。スイレンは可愛いですよね。

 

で、自分も興味を持って子どものコンテンツを観測していると、結構面白い会話のフックにもなるし、子どもと色々盛り上がるネタにもなるなあと。

あいつは好きだあいつは嫌いだとか、これは面白いあんまりおもしろくないとか。大長編ドラえもんのどれが面白いとか藤子先生は天才だとか。

 

多分、そういう会話を通して、「親の物の見方」というものが子どもに入っていく、あるいはまた別の見方を作る為の踏み台になっていく側面もあるだろうと。顧みれば、自分もそうだったなあと。

 

勿論、理解出来ないものを無理に理解する必要はないものの、

「自分は、このコンテンツに対してこういうスタンスを取っている」

「こういう見方をしている」

ということを表明すること自体は大事なんじゃないかなーということでして、教育って一面そういうことでもあるよなーと思うんです。

 

つまり、親として子どものコンテンツ摂取についての妥当な態度というものは、大方

・コンテンツの中身については寛大に構える

・出来る範囲で関心は持つ

・「それは違う」「それはおかしい」あるいは「それは面白い」「これは好きだ」と思うことがあったらそう表明する

・やり過ぎ、時間の使い過ぎは止める

という4点にまとめられるんじゃないかと、少なくとも今の私は考えていて、そう行動しようと思っているわけなんです。

 

しんざき家の長男は10歳、下の双子女児は6歳になっています。

上の長男は、ぼちぼち親の目を盗んで色々ろくでもないコンテンツを摂取し始めている頃でしょうし、目を盗まなくても漫画やらアニメやらyoutubeやら、色々読みますし観ます。

 

時折お互い共通するコンテンツを摂取する時、長男とその話で盛り上がることは、私にとって大きな楽しみでもあります。

彼がこの先、どんなコンテンツを食べてどんな風に育っていくのか。時には「いやそろそろ切り上げて宿題しろ」と声をかけつつも、それを楽しみに見守ろうと、今の私は考えている次第なのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Pete Prodoehl

インターネットにはデマが実に多い。

これだけ嘘がはびこっているという事は、情報発信者にとって嘘とかデマはある種のメリットがあるのだろう。

 

かつて西村ひろゆき氏が「嘘を嘘と見抜けない人には(2ちゃんねるを使うのは)難しい」という名言を残した。

与えられた情報を鵜呑みにする事なく、キチンと自分で裏付けを取った上で利用する癖をつけないと実際にインターネットから有益な情報を得続ける事は難しい。

 

とまあこんな感じでこの世には嘘が一杯なわけだけど、では個人はどう生きるのが正解なのか考えたことがあるだろうか?

 

私達は嘘をついた方が得なのか?それとも正直者であった方が得なのか?

今日はそれについて実感を交えて書いていくことにしよう

 

嘘を積み重ねる事は難しい。嘘は始まりで終わりなのである

かつてインターネットでキラキラアカウントというものが流行った事がある。

<参考 あなたを忘れない。夜空に瞬くTwitter歴代キラキラアカウントたち 2016年版

ある女性が偽者のカルティエを販売し逮捕された。たいした事件ではないが、彼女のTwitterアカウントが判明してからは大騒ぎになった。

実は彼女「ばびろんまつこ」という名前で有名ホテルやブランド品の写真など、セレブツイートをしては憧れの的となる「キラキラアカウント」の代表格だったのだ。

セレブリティあふれる生活をSNS上で演出する事に腐心していたこれらのアカウントだけど、今になって振り返ってみると全くと行っていいほど活動を続けている人が存在していない。

 

実のところ、これらのキラキラアカウントのほとんどは虚像だろうといわれている。

インターネット上に転がっている写真を加工し、無断転用する事で虚像としての自分を演出していたのを暴露された人もいたし、実際はごく普通の田舎のOLの癖に、謎にイキリまくってたのを暴露された人もいた。

もちろん中には本物もいたとは思うのだけど、実際は本当にごく少数だっただろう。

 

ブームが終わった後で、彼女たちの今を振り返ってみると、実のところほとんどの人が活動を辞めてしまっている。

Instagramなど他のSNSに活動の場所を動かした人もいるとは思うのだけど、大半の人は嘘をつき続ける事の限界を迎えてしまったのではないかと予想している。

 

嘘はスタートダッシュは確かに早い。

ステキな彼に大事にされ、週末は外資系ホテルのバーでシャンパーニュを傾ける姿を演出することは、インターネットに多少熟知している人なら朝飯前だろう。

 

しかし残念な事に、嘘は想像力が働かなくなった時点で飽和点を迎えてしまう。

いくらキラキラ女子を演出し続けようとしても、毎週毎週ホテルのバーでシャンパーニュを傾けるわけにもいくまい。

 

そのうちネタが枯渇するであろう事は間違いなく、結局夜空の星となって嘘つきアカウントは消滅してゆくのは、初めからわかりきった既定路線なのだ。

 

いつの世も男は儲かった自慢、モテ自慢を繰り広げ、女性は美貌や凄い男性に愛されているという虚像を演出しがちである。

自分の経験上、本当にそういう人達はむしろそれらの情報を全くといっていいほど露出しない傾向があるのだけど、何故かインターネットにはそれらを自慢する人達で溢れている。

 

嘘松乙である。彼・彼女らは一生己の想像力の中で自分のない知恵を振り絞って精一杯虚像を貼り、虚しい承認欲求を補填するのだ。

たぶんこれからも延々と似たような事は続くだろう。人というのは全くもって学習しない生き物である。

 

真実は積み重ねていく事ができる

さてその一方で、ほとんど嘘をつかずにやってきた人間はどうだろうか?

これに該当するのは、長年活動を続けてきたブロガーが格好の良い例となるだろう。

彼等は調子に乗ることは多々あれど、基本的には自分を必要以上には飾り付けず、ずっと真実のみを語り続けてきたというネット上でも稀有の存在だ。

 

インターネットでは、誰だって初めは無名の小さな存在だ。

現在有名となった人達も、活動初期の話を伺うと「自分のブログに訪れるのは自分ひとりだけだったという期間が半年ぐらいは続いていた」という話が絶対にでてくる。

 

有名となった彼等ですらスタート地点はこのように慎ましいものだ。

しかし彼等は実直に真実を積み重ねていく事で、徐々に己の人格に厚みが増されている。すると驚くべきことに、始めの頃は想像もつかないような形でだんだんと成長を遂げていくのである。

 

こうしてみると実によくわかるけど、正直にやる事の最大のメリットは、真実は積み重ねが可能なのである。

その積み重なった真実は、下手な個人が考える嘘なんかより、よっぽどユニークで興味深いものとなる。

 

インターネットの海で、必要以上に飾る事なくコツコツと自分の真心に実直にやってった人は、そうして虚像とは比較にならないぐらい大きな存在となっていく。

これが正直にやってくことの最大のメリットであり、やはり長い目でみると正直者が最後には勝つのである。

 

現実社会も、結局正直者の方が強い

今回はインターネット上での嘘つきと正直者の比較を行ったけど、これは現実社会においても全く同じだ。

 

例えば、あなたの知り合いにも、嘘ばっかりつく人が1人ぐらいいたんじゃないだろうか?

そういう人は大抵において、人から信用を勝ち取ることができなかったり、嘘をつくためにまた別の嘘を積み重ねたりして嘘の重さに勝手に潰れていく傾向にある。実に愚かである。

 

冒頭にも書いたけど、世の中には実にデマや嘘が溢れている。彼等がなんでそこまでして嘘をつき続けるのかというと、結局のところ自分がちっぽけな存在であることや、何もわかっていないという事を認められない、心の弱さがその原因だろう。

 

嘘なんてつかずに誠実に生きていこうではありませんか。己の小ささを認めて、今日からコツコツ頑張っていけば、きっとあなたは将来大物になれますって。

知らない事は知らないといい、わからない事はわからないといい、己の無知を認めた上で今日から勉強していけばよいのですよ。

結局、最後は正直者しか勝ち残れないんですから。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:Craig Sunter)

先日、ソウルドアウトの荻原氏から「ノウハウを公開することの是非について」の話があった。

荻原:「先日、顧客満足についてのセミナーを、とある老舗の大手企業から依頼されましたが、セミナーの終了後「オープンであること」について、かなりの質問を受けました。」

安達:「具体的には?」

 

荻原:「今、弊社ではLISKULという、webメディアを運営しています。サイトには、webマーケティングのノウハウを詳細に載せてます。それが、どうやらとても不思議だったようで。「そんなことをして、競合に真似されたらマズイでしょ」って聞かれたわけです。」

安達:「はい。」

 

荻原:「面白いですよね、私個人は「情報をオープンにすること」が計り知れない恩恵があると思っているのですが、全くそう思っていない人がかなり居るんだなと。オープン化は現代の知識集約的な産業には必須だと思います。」

安達:「ノウハウを公開することは危険ではないのですか?」

 

荻原:「もちろん、公開に当たっては工夫が必要です。例えば、私の知っている会社に、大手メーカーと中小企業のマッチングをしているLinkers(リンカーズ)という会社があるんですが。ここがノウハウの公開について非常に面白い工夫をしています。」

安達:「どのあたりが面白いのでしょう?」

 

荻原:「例えば、展示会などでの、大手メーカーと中小企業のマッチング成約率がどの程度か、ご存知ですか?」

安達:「いえ、存じません。」

 

荻原:「たった、3%〜5%なんです。」

安達:「少ないですね。」

 

荻原:「そうです。理由は単純で、大企業メーカーも、中小企業も、情報をなかなかオープンにできないからです。なぜなら、まだ世に出ていない企画や、それに必要な技術が何であるか、一般的に公開するのが難しいからです。」

安達:「なるほど。」

 

荻原:「ところが、Linkersは出された案件に対するマッチング成約率がそれよりも遥かに大きい。何が違うかというと、情報をLinkersの中だけに限定公開できること、そして、「コーディネーター」を間に挟んでいることです。」

安達:「コーディネーターとは?」

 

荻原:「面白いんですが、中小企業の経営者は、自社の情報をオープンにすることに対して、結構消極的な人が多いんです。」

安達:「……商売なのにですか?」

 

荻原:「そうです。「競合が見ているかもしれない」というのもあるのかもしれないのですが、「ウチのやっていることなんて、特に優れているわけじゃない」って、勝手に思い込んでいる人が多いそうです。

そこで、「コーディネーター」の登場です。コーディネーターは第三者ですから、その中小企業の持っている技術を「他は持ってない」と、ある程度客観的に見ることができる。Linkersは、直接中小企業に情報を流すより、コーディネーターに情報を流すほうが、マッチングの精度が上がると気づいたんです。」

安達:「なるほど。」

 

荻原:「結局、情報公開というのは、単に情報をオープンにすればいい、と言うものではなく、適切なマーケットに、適切な情報を流す、その見極めが重要だ、ということになります。また、それを支援するサービスは今後伸びるでしょう。」

 

*****

 

そもそも、日本人は「オープンであること」をあまり得意としていないようだ。

 

例えば、日本には、「匿名でインターネットサービスを利用する人」が、欧米、アジアの諸外国に比べて高い割合で存在するという。

諸外国別に見るソーシャルメディアの実名・匿名の利用実態(2014年)

日本における匿名の利用性向の高さは、アジア共通……ではなく、日本独自の傾向と見て良さそうだ。

これが一時的な傾向なのか、一般的な傾向として言えるのかはよくわからないが、少なくとも「日本人はオープンである」とは、いいづらい状況だ。

 

「情報は隠しておくべき」

そういった日本人が、普通なのかもしれない。

 

同じように、日本企業も「オープン」であることを苦手とする傾向があるようだ。

例えば、スタンフォード大学の研究者によれば、日本企業は「クローズド」「既存事業の延長」型のイノベーションを得意とするとされている。

米スタンフォード大学US-Asia技術経営研究センター所長のRichard B. Dasher教授は、米アジア間のイノベーションモデルを比較分析し、縦軸をクローズド型×オープン型、横軸を拡散型×破壊型として四領域に分類した。

破壊的かつ起業家精神をもってイノベーションを創出する米シリコンバレーに対し、その対極にあたるクローズドかつ既存事業の拡散型モデルに日本を位置付けている。

(NEDO:オープンイノベーション白書

もちろん、オープンが良いのか、クローズドが良いのか、という議論はそう簡単なものではない。

Googleの元CEOであるエリック・シュミットは「オープンか否かというのは、戦略的選択だ」という。

オープンか否かというのは、倫理的選択ではない。初期設定をオープンにするのは、エコシステムにおいてイノベーションをうながし、コストを下げる最適な方法なので、むしろ戦略的選択と見たほうがいいだろう。

オープン化を実践すれば、スケールや収益性を実現するのに役立つだろうか、と自問してみよう。オープン化にただよう高潔なオーラに吸い寄せられ、スマート・クリエイティブは集まってくるだろう。

Googleが考えるように、「エコシステム」を作るための最適な方法として、「オープンであること」が選択される事が多い、というだけのことだ。

 

メディアを運営していると、「ノウハウは外部に公開すべきでしょうか?それとも隠したほうがいいのでしょうか?」という質問をよく受ける。

原則はYesだ。

情報は、それを発信する人の場所に集まる、というのは間違いなく真実だからだ。

だが、漫然と重要情報やノウハウを垂れ流すだけでは、他者にいいように利用されるだけだ。

 

Googleは、検索エンジンのロジックはブラックボックスにしている。

Linkersは、情報を届けたい人だけに情報を公開できるようになっている。

LISKULも、「個別のお客様の情報は掲載しない」という方針だ。

つまり、「秘匿すべきこと」と「公開すべきこと」の判断は、エリック・シュミットの言うように、戦略的な選択、それだけの話である。

 

 

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(Photo:Satoru Fujiwara)

「日本の雇用終了」という書籍がある。

タイトルだけを見ると、インターネット民は「日本の雇用はヤバい」とも読みそうなのだが、そのような本ではない。

 

この本を一言で言えば「クビにした会社と、クビにされた社員の紛争」の調停事例を扱った研究書籍である。

[amazonjs asin="4538500046" locale="JP" tmpl="Small" title="日本の雇用終了―労働局あっせん事例から (JILPT第2期プロジェクト研究シリーズ)"]

 

内容としては、国の出先機関である都道府県労働局が行った「あっせん」という紛争調停の事例を延々と紹介、考察している。

あっせんとは

当事者の間に学識経験者である第三者が入り、双方の主張の要点を確かめ、場合によっては、両者が採るべき具体的なあっせん案を提示するなど、紛争当事者間の調整を行い、話合いを促進することにより、紛争の円満な解決を図る制度です。

(埼玉労働局)

そして、一見退屈そうな本なのだが、これが読み出すと結構面白い。

なにせ、事例がリアルで豊富なのだ。

 

もちろん当事者同士は真剣であり、面白がっては良いものではないのだが、「経営者」と「労働者」の深い溝が、この書籍の事例からは見て取れるので、非常に興味深い。

そして、その中で最も興味深いのが「クビの原因」だ。

 

深く読んでいくと、日本企業では「能力不足」よりも「態度の悪さ」のほうが問題になりやすいという傾向がハッキリと指摘されている。

・労働条件変更といった中間形態をとることなく、直接「態度」を理由にした雇用終了に至っているケースが、168件(実質166件)と全雇用終了事案の中で実質的に最も多くなっている。(第一節)

・狭義の「能力」を理由とする雇用終了では、具体的な職務能力の欠如や勤務成績の不良性を理由とする事案はそれほど見られず、むしろ「態度」と区別し難いような「能力」概念が一般的に存在していることが大きな特徴である。(第二節)

これは未だに日本企業の多くで「メンバーシップ型の雇用」が行われていることの証左であろう。

 

例えば、こんな話が出てくる。

・面接時には土曜出勤とのことだったが、土曜出勤はほとんどなく、時間給のため、休日になるのならバイトをしていいかと工場長に尋ねたら、それが原因で解雇になった。社長にバイトはしないと申し出たが、それでも解雇と押し切られた。

会社側によれば、解雇理由は、職場の同僚との協調性の欠如と勤務態度の怠慢である。

・保育園に採用されたが、「新規採用者は採用前3週間以内で従業員研修をうけなければならない。なお、研修期間は無給とする」という就業規則に従い研修中に、申請人が無給研修に疑問を呈し、園との間に「不安な気持ちで働きたくない」「であれば、不安のない職場をさがされてはどうですか」というやり取りがあり、本採用を拒否された。

この無給研修は、8:30〜5:00勤務で、実質は試用期間中のOJTと見られるが、保育園側は「新規採用予定者の研修期間であり、正規職員としての雇用契約も結ばれていない」という認識である。

双方の見解にかなりの食い違いがあるケースもあるので、どちらか一方に肩入れすることはできない。

が、事例を見ていると明らかに企業は、態度が悪い人(または空気を読まない人)に対して制裁を加えるために強権発動をする時がある。

 

結局、今もなお日本企業において「仕事はする。だが、態度についてはあれこれ言われたくない」は、通用しないのである。

 

*****

 

思えば、私がコンサルタントをやっていた時代に見た、あるサービス業においても、「社員旅行への不参加」が業務成績を致命的に悪くするという会社があった。

 

もちろん、社員旅行は休日を使って行われるので、本来ならば、休みたい人は不参加を表明しても良いはずだった。

しかも、体裁は旅行なので、朝から晩まで会社に時間を拘束される。

だが、休日手当が出るわけではない。あくまで建てつけは「福利厚生」なのだ。

 

だが、この会社は「社員旅行は全員必須の参加」ということで、参加しない場合は懲罰的な評価が下されていた。

 

もちろん、何名かの社員は、これに対していくばくかの陳情を試みたようだが、社員旅行は社長の肝いりのイベントだったため、指摘を試みた社員たちは、遅かれ早かれ冷遇され、放逐されてしまった。

 

「仕事の出来」ではなく、「職場への適応度」によって評価が決まる。

そんな会社はまだまだ多いのかもしれない。

 

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(Photo:tokyoform

世界有数の大富豪でありながら、資産の大部分を寄付することを表明し、富裕層への課税増を主張するなど、「オマハの賢人」として尊敬を集めている投資家・ウォーレン・バフェットさん。

その言葉を集めた本、『ウォーレン・バフェット 成功の名語録』(桑原晃弥著/PHPビジネス新書)を読んでいたのですが、その中で、印象に残った2つを御紹介します。

・成功は、飛び越えられるであろう30センチのハードルを探すことに精を傾けたからであり、2メートルのハードルをクリアできる能力があったということではないのです。

・自分の能力の輪の中にめぼしいものがないからといって、むやみに輪を広げることはしません。じっと待ちます。

[amazonjs asin="B00976FACQ" locale="JP" tmpl="Small" title="ウォーレン・バフェット 成功の名語録 世界が尊敬する実業家、103の言葉 (PHPビジネス新書)"]

 

僕がまだ医者になりたてだった頃、朝の採血当番というのは、とても憂鬱な仕事でした。

未熟な研修医たちに何度も針を刺される患者さんたちほどではないでしょうけど、「まだ採血できないの?」というプレッシャーにさらされるのは、とてもつらかったのです。

 

ほとんどの患者さんは「しっかり練習して早く上手になってね」と仰ってくれたのですが、「もっと上手い人を連れてきて!」なんて言われることもあって。

こういうのって、自分で下手だとわかっていても、けっこうきついこともある。

 

どうしてもできないときには、出勤してきた先輩に頼むことになるのですが、多くの場合、先輩たちはけっこうあっさり採血をしてしまうのです。

 

あるとき、こう言われたのを覚えています。

「採血の手技の上手い下手よりも、採血しやすい血管を探すほうが大事なんだよ」

初心者というのは、「難しいことをうまくやってみせる」のが技術だと思い込みがちなのだけれど、それよりも「少し時間をかけてでも、やりやすいところを見つける」ほうが、負担が少なく、成功率が高いことが多いのです。

もちろん、最低限の技術は、どうしても必要になるのだけれど。

 

僕は長年乗り物酔いしやすい体質みたいで、ゲームで「3D 酔い」して、気分が悪くなってしまって、面白いはずの作品を楽しめないことが多々ありました。

具体的に言うと、『ドラゴンクエスト11』のPS4版で、慣れればなんとか耐えられる、というくらいです。

そんな自分の体質を知っていながら、僕は長年、評判の3Dゲームを買い続け、リタイアし続けてきたのです。

 

今度は大丈夫なんじゃないか、と試してみるのだけれど、やっぱりダメ、なんですよね。

『ラストオブアス』とかも、「面白いはずなんだけど、これ……」と思いつつも無理でした。

 

もう、こういうタイプのゲームは自分には向いていないから、どんなに評判が良くても、避けるようにしよう、という覚悟ができたのは、最近のことです。

 

子どもの頃から、「苦手なものがあるのは良くない」「努力して苦手を克服するようにしなさい」って言われますよね。

僕も自分の子どもには「苦手だからといって、避けてばかりじゃダメだよ」って言うんですよ。

 

でも、今の僕自身に関していえば、どうしても生活上問題があるような苦手は、最低限のレベルで克服するか誤魔化せるようにするべきだけれど、それ以外は、もうあきらめる、で良いのではないか、と思っています。

スポーツ一般は苦手なのだけれど、どんなに頑張っても、いまさら「スポーツで飯が食える」ようになれるわけないし。

 

そういう「悟り」というか、「切り替え」の時期が僕は遅すぎたのではないか、と後悔しているのです。

そして、「苦手を克服する」という美談にとらわれるあまり、自分が得意とすることを伸ばして活かすタイミングを逸してしまったのではないか、とも。

 

『いつやるか?今でしょ!』(林修著/宝島社)のなかで、林修先生が、こんな話をされています。

50年近く生きてきて思うのは、本当に得意な分野はそんなに多くはないということです。

逆に言えば、これは勝てるという場所を1つ見つけてしまえば、人生は大きく開けます。

今うまくいっている人とは、「僕はこれしかできません、でもこれだけは誰にも負けません」と、胸を張って言える人のことではないでしょうか?

勉強もダメ、運動もダメ、でも誰よりもすごい寿司を握る自信があって、実際に店がお客さんでいっぱいなら、それでいいのです。

また、僕が水商売でうまくいっている女性を尊敬するのも同じ理由です。みんな自分の走るべきレースを見定めて、そこで勝負をしているのです。そこにどうして貴賤があるのでしょうか? 罪を犯しているわけでもなく、他人がとやかく言う話ではありません。

僕自身の大学入試の現代文の解き方を教えるという仕事もまた、世の中に無限といっていいほど存在する仕事の種類のなかのたった1つにすぎません。

そもそも大学受験をしない人にはまったく無価値であり、その世界自体も実に狭いものです。そのことを自分でちゃんと認識しています。

しかし、大学入試がなくならない限り、この世界は存在し続けるのです。それもまた事実です。

競馬では1200mなら絶対に強いという馬がいます。

もっと範囲を狭めて、京都競馬場ではまるっきり走らないのに、中山競馬場1200mになると別馬のように強い、という馬もいます。

それでいいのです。なぜなら、中山競馬場の1200mのレースは、今後も確実に施行されるのですから。

[amazonjs asin="4796696717" locale="JP" tmpl="Small" title="いつやるか? 今でしょ!"]

ウォーレン・バフェットさんと林修さんは、若いころ競馬にハマっていて、予想で稼ごうとしていた、という共通点があるのです。

そして二人とも、「競馬で食べていくのは難しい」と見切りをつけて成功した人でもあります。

 

世の中で、うまくいっている(ようにみえる)人に対して、「でも、あいつはアレができないじゃないか」って言う人は、少なからずいますよね。

でも、なんでも満点がとれる人なんて、どこにもいない。

 

すべての苦手を克服するには、人の命は短すぎる。

だからこそ、本当に大事なのは、「自分にできることを知り、それを活かせる場所を選ぶこと」なのだと思います。

「向上心」や「苦手を克服する姿勢」というのは、たしかに素晴らしいものだけれど、大人になって、ずっとできなかった鉄棒の逆上がりができるようになったって、一円にもならないのだから。

 

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【著者プロフィール】

著者:fujipon

読書感想ブログ『琥珀色の戯言』、瞑想・迷走しつづけている雑記『いつか電池がきれるまで』を書きつづけている、「人生の折り返し点を過ぎたことにようやく気づいてしまった」ネット中毒の40代内科医です。

ブログ:琥珀色の戯言 / いつか電池がきれるまで

Twitter:@fujipon2

 

(Photo:clogsilk

先日、Books&Appsの安達さんが、幼稚園で子どもの朝のスケジュール管理の課題が出されている話を書いてらっしゃって、興味深く読んだ。

子供に「スケジュール管理」をさせる幼稚園の教育に、けっこう驚いた話。(Books&Apps)

 

そして、うちの子どもと似たり寄ったりだなぁ……とも思ったのだった。

 

幼稚園は子どもに色々なことを授ける。そのなかには、いわゆる「勉強」の萌芽とみなせるものもあれば、「道徳」の提供と考えられるものもある。

たとえばクリスチャン系や仏教系の幼稚園のなかには、宗教行事に関連したかたちで、「道徳」を子どもに授けようと意欲をみせているところもある。

子どものためにそのような幼稚園を選ぶ親御さんは、幼稚園に「道徳」を授ける機能をも期待しているのだろう。

 

と同時に、幼稚園や学校は「スケジュール管理」をも課題とみなし、教育の一環として授けようとする。

冒頭記事の幼稚園のように、朝のスケジュール管理に踏み込むところはまだ少ないかもしれないが、たとえば小学生の夏休みの宿題などは、この「スケジュール管理」に関連したものが多い。

 

たとえば、「ラジオ体操」などは子どもに自らスケジュールを管理させる典型だ。

夏休みという、先生が指導しない数十日間においても、子どもに自主的に同じ時間に起床するよう励行するのである。

ラジオ体操の存在意義のある部分は、「健康増進」にあるけれども、元来健康な子どもにとっては、「自分で自分のスケジュールを管理させる」ことのほうが意義として大きいように思う。

 

夏休み中の、鉢植え植物の水やりと観察、毎日の天候についての記録、絵日記なども、子どもに「スケジュール管理」のタスクを負わせている。

夏休みは自由気ままに過ごして構わないものではない。夏休みの宿題は「計画的に」進めなければならない。いつも時間を意識すること──それも、子ども自身が時間を意識して過ごすこと──が、暗に期待されている。

 

「現代人」にコンバートされていく子ども

冒頭リンク先で安達さんが書いていらっしゃるように、子どもに「スケジュール管理」のタスクを身に付けさせるのは簡単なことではない。

ただ、この課題を遂行するには、それ相応のコストが求められる。

つまり、子供が遊んでも、ぼんやりしても急かさずに待つと、朝の支度に一時間以上の忍耐が必要になる時がある。

正直に言えば、脅しつけて何かをさせるほうが遥かに簡単であるので、その誘惑と戦うのが大変だ。

 

ただ、これを続けると、子どもがグズグズしているときには、脅すのではなく「一緒にやろう」が最も効果的であることもわかった。

だから、一緒に課題をこなす。そこでまた、時間がかかる。

もちろん楽しくもある。だが、自分の子供の自主性、自律を促すため、と思わなければ、正直やってられない。

 

だから、つくづく思う。

教育とは本質的に、短期的な費用対効果は全く合わないものであると。

ここで安達さんが述べているように、子どもの自主性や自律性をうまく養っていくのは大変だ。

 

親の側が急いてしまって脅したり急かしたりすれば、ちゃんと身に付かない。

親御さんだけで取り組めば上手くいくものではなく、幼稚園や学校の雰囲気、先生の指導、ときには教材をも活用しながら身に付けさせなければならない。

それでいて、自主性や自律性がしっかりと根付くのは何年も先の話ときている。

子どもに「スケジュール管理」を身に付けさせるために、現代人は小さくないコストを支払っているのである。

 

さて、ここから逆のことを考えてみよう。

現代人は、大きなコストを強いるかたちで、子どもが幼い頃から「スケジュール管理」を身に付けさせている。

ということは、本来の子どもは──いや、大人も含めた人間全般は──「スケジュール管理」なるものを身に付けていなかったのではないか。

 

「スケジュール管理」について歴史を紐解いていくと、13~14世紀に普及していった時計の発明に辿り着く。

人間は、太古の昔から自分のスケジュールを管理していたわけではない。

ルイス・マンフォード『技術と文明』によれば、「時間」という概念は、機械的時計の発達と普及によるところが大きいのだという。

 

機械的時計が登場する以前の人間には、今日でいうところの「時間」という概念が浸透していなかった。

時計が普及する以前の人間は、太陽が昇るとともに働き始めて、日が沈むと働くのをやめていた。その日の気分に仕事が左右される人や、昼過ぎには仕事をあがってしまう人も珍しくなかった。

今日でも、途上国の田舎に行けば、時間に対する感覚のアバウトな人が少なくない。

 

ところが街に大時計が設置され、正確に時刻を刻むようになると、人は時間にあわせて働き、生活するようになった。

「時間」という概念にもとづいて暮らすようになった人々は、時間を節約したり効率的に用いたりするすべを身に付け、その生産性を増大させていった。近世~近代のブルジュワ階級の美徳も、ここに基づいている。

 

工業化社会に入ると、工場には始業や終業を告げるサイレンが鳴り響くようになり、たくさんの人が、決まった時間に出社/退社するようになった。

今日では当たり前の風景になっている通勤ラッシュも、「時間」の発明、つまり「スケジュール」の誕生に伴う副産物と言える。

 

さらに進んで、時代が現代に近づいてくると、もっと自主的にスケジュールを管理する働き方がクローズアップされるようになった。

第三次産業に従事するホワイトカラー層や、そのホワイトカラー層を束ねる管理者や経営者に求められたのは、始業や終業のサイレンによって受動的にスケジュールを管理されるのでなく、自分自身にとって最も効率的なスケジュールを、自主的にマネジメントする技能だった。

 

そうしたスケジュールの自己管理技能は、当初は上級ホワイトカラー層だけに求められていたが、時代が経つにつれて、より広い範囲の労働者にも期待されるようになっていった。

今日では、幅広い職種においてスケジュールの自己管理技能が求められている。

スケジュールの自己管理技能を欠いている人は、社会人として問題があるとみなされかねない。

 

現代人は「極めて訓練された存在」

このような歴史的経緯を振り返ると、私は、現代人とはつくづく訓練された存在であるなぁ……と思わずにはいられないし、その訓練の積み重ねに割かれたコストや負担にも、思いを馳せずにはいられないのである。

 

子どもにスケジュールの自己管理技能を身に付けさせるのは大変だが、その大変さは、人類が「時間」という概念を生活に導入して、それによって高度な社会生活を実現してきた代償なのだと私は思う。

子ども達が家庭や学校で苦労しながら身に付けていく自己管理技能は、数百年かけて達成してきた人類の進歩にキャッチアップするためのものだ。それは、確かに大変なことなのである。

 

そして幼稚園や学校のたぐいは、本来は時間に対してもっとアバウトであったはずの人間を、現代人として訓練し、現代人として完成させるための社会装置なのだと痛感せずにはいられない。

読み書き算盤を教えるだけでなく、人間を現代人として作り直すための社会装置としての幼稚園。学校。そして家庭。

 

私達は、そういうものにあまりにも慣れ親しんでいるけれども、本当は、驚嘆に値することではないだろうか。

しかも、そうした作り直しが上流階級やアッパーミドルの子弟だけに期待されているのでなく、国民のほとんど全員に期待されているのだ!

 

中世人からみれば未来技術としか言いようのないライフスタイルを、先進国の国民の大半が身に付けているのだから、現代は、やはり21世紀である。

 

我が家の子どもも、スケジュール管理を身に付けるのには四苦八苦しており、現代人の一人として、もどかしさを感じることもある。

けれども、子どもは最初から現代人として生まれてくるのではなく、教育や訓練を通して、現代人に「なる」のである。

数百年ぶんの人類の進歩を身に付けていく子どもを、むやみに急かすわけにはいくまい。

 

と同時に、スケジュールの自己管理技能を身に付けていく過程が、現代性の獲得であるとともに、本来の人間性の喪失かもしれないことに、私は少しだけ哀惜の念をも抱く。

 

時間やスケジュールという概念が当たり前になっている社会に生まれ落ちた子どもらは、そこに適応していくしかない。

「時間」に対して無頓着な生き方など、もはやあり得ないのである。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)など。

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twitter:@twit_shirokuma   ブログ:『シロクマの屑籠』

熊代亨のアイコン 3

(Photo:Alex The Shutter)

こちらの記事を拝読して、ちょっと思い出したことがあります。

「子供を持てばわかる」で話を終わらせるのヤメて。

友人は、子供には…、と言葉を途中で打ち切り、それから僕に「お前も子供を持てばわかるよ」と言った。僕はそれきり何も言えなくなってしまった。子供のいない僕にはわからないという宣告。反撃不能。

(Everything you've ever Dreamed)

 

以前、大人げない発言をしてしまいました。

何かの会議の前の、メンバーが揃うまでのちょっとした待ち時間でした。ほんの数分だったと思います。

 

Aさんという他部署の既婚子持ちの女性と、Bさんという同じく他部署の独身の女性と、あと私がいました。AさんとBさんが主に会話していて、私は時々話を振られて、なんということなく返す、みたいな感じの会話でした。

 

正確な話の経緯はちょっと曖昧なんですが、確かその時、「子どもに色々やらせて、それをinstagramにアップすることの是非」みたいな話になったんです。webではたまに見かけますよね、そういう話。

 

小さな子を顔出しでwebにアップすることの是非、というテーマは正直今更です。

私自身は、少なくとも本人の意思によらず顔出すのはあんまり良くないかなあと思って自分でも避けているんですが、顔出しで子ども写真挙げてる人、たくさんいますよね。それが悪いってわけじゃないんですが。

 

詳細はちょっとぼかさせて頂きたいんですが、会話を聞いているとAさんはどうも、「子どもと楽器シリーズ」みたいな写真を挙げているようで、子どもに色んな楽器を持たせて、演奏する真似をさせて、その写真をアップする、というようなことを頻繁にしているみたいなんです。

 

で、その時、子どもがやりたがってないのにそういうのはどうかなー、と、ちょっと苦言っぽいことをBさんがいったんですね。

私自身はAさんのインスタを見たこともないんで、背景がちょっと分からないんですが、もしかすると無理やり感のある写真だったのかも知れません。

 

Bさんも子ども持てば分かるよ。

その時、Aさんがそういう言い方をしたんです。Bさんは、答えに詰まったように見えました。

 

私、そこでつい、反射的に口出しをしちゃいまして。

「いや私も子持ちだけどそういう感覚ちょっと分かりませんね…」

って言っちゃったんです。

 

Aさんは、「ああ…」みたいな感じで言葉を濁して、そのままその話は終わりました。

当たり障りのない話に遷移して、そのちょっと後に会議の他メンバーが来たと思います。

 

正直、あんまり気持ちいい言い方じゃなかったなーとは思ってます。さらっと流してもいいところだったかも知れない。

Bさんだって、元々大した話ではなく、別に嫌な思いをしていなかったかも知れないのに、トゲトゲした言い方で空気を悪くしちゃったかも知れません。

 

私、「子どもを持てば分かる」みたいな言い方が嫌いなんで、ついちょっとブレーキの利きが悪くなってしまった、みたいなところはあると思います。反省しています。

ただ、少なくとも、「自分に対する反対意見に対して、「〇〇すればわかる(してないヤツには分からない)」みたいな言い方で議論を封じるのって、ちょっとそれは卑怯じゃないかなーと思うんですよ。

 

だってそれ、少なくともその場では、絶対に覆せない壁じゃないですか。無敵シールドじゃないですか。

もしかすると、議論を封じられる側には色んな事情があって、一生かかってもその壁を突破出来ないかも知れない。

 

言っていることの正しさ、論理と何の関係もなく、「その場での絶対的な優劣」みたいなものをどーーんと放り込んでくるのって、フェアじゃないと思うんですよ。

もうちょっとキツい言い方をしてしまうと、子どもはお前が誰かにマウントとるためにいるんじゃねえぞ、と。

 

子どもの頃、「大人にならないと分からん」と言われました。

独身の頃、「お前も結婚すればわかる」と言われました。

結婚したての頃、「子どもが出来れば分かる」と言われました。

 

その都度、「いやそれはおかしいんじゃないか」と思ったんです。

確かに、「そうなればわかる」というものはあるだろう、と。けれどそれと、今している議論に一体どんな関係があるんだ、と。

子どもがいようがいまいが、大人だろうが子どもだろうが、正しいことは正しいし、間違ってることは間違ってるんじゃないのか、と。

 

少なくとも、「自分はこう考える」という論理に、子どもがいるいない、大人か子どもかなんて経験的な属性は関係ない筈なんです。

しかも、そういう場で出てくる「〇〇になればわかる」って、大体の場合精神的なマウントつきなんですよね。

お前はまだ〇〇にもなっていない未熟者なんだ、でかい顔するな。

そんな言外のニュアンスを感じ取ったことも、一度や二度ではありません。まあ、これはもしかすると被害妄想かも知れませんが。

 

特に、私は聊か理屈っぽい子どもだったので、「大人になればわかる」という言葉に対する嫌悪感はかなりのものでした。

大人にしてみれば、ごちゃごちゃ理屈っぽい子どもの相手をするのが面倒だったのかも知れません。

ただ、「現時点では絶対に覆せない前提条件」で話を打ち切られてしまう理不尽さは、今でも結構心に残っています。

 

ちょっと断っておきたいんですが、私、経験論、経験主義を無条件で否定するつもりはないんですよ。

例えば、読んでいない本や漫画を、遊んでいないゲームを、聞きかじった知識だけでこき下ろしている人がいたら、私はそれはそれで「ちょっと違うんじゃないの」と思います。

批判するなら最低限、その対象について知っておくべきことはあるんじゃないの、と思います。それは一種の経験主義でしょう。

 

実際に「やってみないと分からない」ことがあるかないかというと、「そりゃある」としか言えません。

大人になって社会人経験を積まないと分からないことだって、子どもを持たないと分からないことだって、そりゃ間違いなくあるんです。

けれどそれは、マウントを取りつつ議論を打ち切る為の便利なツールとして使うべきものではない。

 

「何かを経験するべき」「経験することで分かることがある」ということと、「お前は〇〇を経験していないから、説明しても分からないし、説明する気もない」ということは全く違う。

経験によって得られるものがあるとしたら、少なくともそれが何なのか、きちんと説明することは出来ると思うんです。

 

例えば、やったことがないゲームをこき下ろしている人がいたとしたら、

「あなたはそのゲームをすることでこういう面白さを感じることが出来るよ」

「あなたの批判にはこういう前提が欠けているよ、それは知っておいた方がいいよ」ということを、私はきちんと説明することが出来ますし、大体そうしています。

 

その手間を取らずに経験シールドで議論を封じることを、私は不当だと考えます。

だから私は、少なくとも自分では、「大人になれば分かる」「子どもをもてば分かる」みたいな言葉は使わないでおこう、と思っているんです。

 

子どもが何か面倒な理屈をこねれば、時間が許す限り徹底的に付き合ってやる、と。

「大人になれば分かる」みたいな言い方で面倒な議論を打ち切るようなことはしない、と。

面倒な議論は大好物だ、面倒くさい大人の本気を、理屈っぽさの年季の違いを見せてやる、と。

 

かつての自分自身がそうして欲しかったことを、今、自分でやろうと思っているのです。

 

今日書きたいことはそれくらいです。

 

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【プロフィール】

著者名:しんざき

SE、ケーナ奏者、キャベツ太郎ソムリエ。三児の父。

レトロゲームブログ「不倒城」を2004年に開設。以下、レトロゲーム、漫画、駄菓子、育児、ダライアス外伝などについて書き綴る日々を送る。好きな敵ボスはシャコ。

ブログ:不倒城

 

(Photo:Gep Pascual

公私混同はしない方がいい。

と言いつつも、仕事とプライベートを完全に切り離すことは難しく、多くの人は常識の範囲内で公私を混同させながらうまくやっているというのが現状だろう。

 

ただ1つ、絶対に混同してはいけないことがある。それは、「言いにくいこと」への対処の仕方だ。

公私混同というと一般的には業務に私情を持ち込むことだが、ここでは文字通り「"公"と"私"で混同してはいけないこと」として話を進めたい。

 

言うまでもないことかもしれないが、仕事をする上で「言いにくいこと」が出てきても、それは報告しなければならない。

むしろ仕事で言いにくいと感じることこそ、会社がすぐに対処しなければならない重大なミスで、一番に報告しなければならないことだったりする。

 

『死ぬほど読書』という本の中で、丹羽宇一郎さんは「嘘のない清い生き方」を自身に課してきたという。そんな丹羽さんが、一度だけ上司に嘘をついたエピソードが書かれている。

当時の伊藤忠商事は、日本で一、二を争うほど、大量の大豆をアメリカから輸入していました。

あるとき、上司から「船会社への早出料、滞船料の精算は終わっているな?」と聞かれました。

本当は数カ月もほったらかしで手をつけていなかったのですが、叱られたくなかったので、とっさに「終わっています」といってしまった。

いった瞬間、「しまった」と思ったのですが、後の祭りです。

支払いには細かい取り決めがあり、それらを全て計算して請求書を出す必要があるため、面倒で後回しにしてしまったとのこと。

ところが、何日も徹夜で慌ててつくった請求書を送った後、船会社のうち、何社かが倒産しそうだという噂が聞こえてきました。

請求した金が振り込まれなければ、会社にとっては大損害です。本当に金が振り込まれるのか、気が気でなりませんでした。

いつも暗澹とした気分となり、酒を飲んでも美味しくない。幸いにも、倒産の噂があった会社は別の会社に吸収合併され、請求金額も無事振り込まれました。

 

この一件で、私は嘘をつくのは本当に心身に悪いことだと骨身に沁みました。嘘や隠し事は大きなトラブルになりかねない。それに嘘や隠し事がなければ、うしろめたいことは何もない。

常に等身大の自分でいることができ、正々堂々と自信をもって仕事に打ち込めます。

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仕事における隠し事が会社にとって良くないのはもちろんのこと、自分の精神にとってもあまりよろしくない。

 

自分の隠し事や嘘が原因でうしろめたい気持ちで働いたことがある人は、丹羽さんの

「嘘や隠し事がなければ、うしろめたいことは何もない。常に等身大の自分でいることができ、正々堂々と自信をもって仕事に打ち込めます」

という言葉に強く共感するのではないだろうか。

言いにくいことでもきちんと報告して、叱られるべきところでは叱られ、清清しい気持ちで働きたいものだ。

 

一方、プライベートとなると話は変わってくる。プライベートでは言いたくないことは言わなくていい。それは隠しごとや嘘とは違うし、うしろめたさを感じるようなことでもない。

小学生の頃、両親からこう言われたことがある。

「知りたいことがあったら何でも聞いていいんだよ」

 

おそらく子どもの好奇心を閉じ込めてしまわないようにという配慮と、興味・関心を持ったことを大事にしてほしいという教育方針から出た言葉なのだろう。

 

言葉通り、私は何でも質問した。知りたいこと、疑問に思ったことは何でも聞いた。

親は親なりに質問に対して何かしらの返答をしてくれた。ダイレクトに答えをくれることもあれば、回答へのヒントをくれることもあった。

 

ただ、2つだけ、絶対に教えてくれないことがあった。

それは、給料と選挙の投票内容だった。

 

今になれば、答えなかった親の気持ちはよくわかる。でも小学生の私には理解することができなかった。

「何でも聞いていいと言っていたのに、あれは嘘だったのか」と親を問い詰め、怒りをぶつけた。

 

「プライベートなことまで全て答えるわけではない。言いたくないことを無理やり言わせるのは良くないことだ」

親はいたって冷静だった。

 

決して聞き分けの良い子どもだったわけではない。

それでも小学生の私は小学生なりに「言いたくないことを無理やり問い詰めて聞き出そうとするのは良くなかったな」と少し反省したものだ。

 

大人になってみると、飲み会などで言いたくないことを無理やり言わせようとしている場面に出くわすことがある。

特に、社会的な立場として上下関係があると、下の立場の人は答えなければいけないような雰囲気に苦しむ。

 

でも、言いたくないことは言わなくていいのだ。だって、プライベートなんだから。

小学生の私が親に給料や投票内容を無理やり聞くのと同じことを、飲み会で部下にやってしまっていないだろうか。

 

親は科学の疑問に答えてくれるけれど、投票内容を教えてくれるわけではない。

同様に、部下は上司に対し、仕事の報告をする義務があったとしても、プライベートをさらけ出す義務はない。

 

立場的に親は子に「言いたくない」意思を伝えやすいが、部下は上司に伝えづらい。

だからこそ、問い詰めるようなことは絶対にしないでほしい。

 

仕事では言いにくいこともきちんと報告する(報告させる)。

プライベートでは、言いたくないことは言わなくていい(問い詰めない)。

 

シンプルなことだけど、行動で示すことは結構難しい。それでも、心の持ちようで、少しずつ変わっていけるものだと思っている。

 

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【著者プロフィール】

名前: きゅうり(矢野 友理)

2015年に東京大学を卒業後、不動産系ベンチャー企業に勤める。バイセクシュアルで性別問わず人を好きになる。

【著書】

「[STUDY HACKER]数学嫌いの東大生が実践していた「読むだけ数学勉強法」」(マイナビ、2015)

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LGBTBです」(総合科学出版、2017710発売)

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Twitter: 2uZlXCwI24 @Xkyuuri  ブログ:「微男微女

 

(Photo:Ann & Peter Macdonald

僕がTwitterを初めたのは2011年の事だ。

その時から毎日タイムラインを延々と追っている。

 

最近は仮想通貨が随分と話題となっているけど、ツイッターはその時その時で旬の話題というものがある。

僕が参入した時は英語学習が随分と話題になっていて、ちょうどそこにのっかるような形でオンライン英会話産業が急成長していた。

 

これまでに話題になったものを思い返すと、

オンライン英会話、

フィリピン留学、

外資系仕事術、

海外ニートさん関連の海外就職、

社畜、

反原発、

ナンパや恋愛工学関連の話題、

フェミニズムと男女平等、

発達障害、

そして仮想通貨だろうか。

各分野毎にその時、その時、著名人が現れ、そして様々な人々を扇動していった。

 

最近になって改めてツイッターの歴史を振り返ってみたのだけど、実のところブームが来た後もずっと第一線を貼り続けられている人はほとんどいない。

というかブームに乗ってみて有名になった人のその後はなんかあまりパッとしていない。

 

もちろん中には大成功をおさめて、もはやインフルエンサーなんてやる意義を見いだせなくなってしまった人もいるのかもしれないけど、あくまで僕がみている範囲では、なんかブームに載って突然現れた有名人のほとんどは"終わってしまった人"として忘れ去られているような印象がとても強い。

なぜ人はずっと第一線に居続ける事ができないのか。なぜ人は面白くあり続ける事ができないのか。

今回はこの問題が何故起きてしまうのかについての考察を展開していこう。

 

自己啓発では人は変われるのか?

自己啓発というジャンルがある。速読とか引き寄せの法則とか、まあそういう類のものだ。

よく電車の広告で「この本を読んだ事で人生が変わりました」とか宣伝されているこの種の本だけど、果たして自己啓発で人は本当に変われるのだろうか?

 

なんとこの答えを検証してくれている本がある。

書名は「自己啓発」は私を啓発しない」 。あまり有名な本ではないが、大変な名著である。

 

内容をごく簡素に説明すると、普通のサラリーマンであった著者が数々の自己啓発セミナーにハマっていった結果、いったいどういう人間に変わったのか、ということが非常に生き生きと書かれている。

 

著者はなんと600万円以上も自己啓発関連に突っ込んだようで、そんなに情熱と時間とお金を使った結果凄い人間になれたかというと……残念ながらそう事はうまく運ばなかったのだという。

 

よい影響も沢山受けたようだけど、結論だけをいうと自己啓発で自分という人間はほとんど変わらなかったようだ。

しかしこれは当然といえば当然の話でもある。

自己啓発で人が本当に優秀になるのなら、世の中に駄目な社員なんて根絶する。

 

人間の本質というのは産まれたときからずっと同じであり、人はそう簡単には変われない。

自己啓発の本質は「ひょっとして自分は変われるかもしれない」という夢を与えてくれる所にあり、あれは良くも悪くも人生のカンフル剤でしかない。

読み物としては面白いものが多いのも事実だけど、まあ効用についてはあまり期待しすぎないほうが無難だろう。

 

人は生きるにあたってエンタメと夢を求める傾向がある。ちなみに東北の震災の時に真っ先に書店から消えた本は週刊少年ジャンプと自己啓発本だったようである。

人は不安であれば不安であるほど、エンタメと夢を求める生き物なのだ。

 

インターネットの流行は私達に何を教えてくれるか

改めてインターネットで流行した話題を振り返ってみよう。

オンライン英会話、フィリピン留学、外資系仕事術、海外ニートさん関連の海外就職、社畜、反原発、ナンパや恋愛工学関連の話題、フェミニズムと男女平等、発達障害、仮想通貨。

 

自己啓発の流れを通した後にこれらを眺めてみると、実のところこれらのほとんどの話題には、夢が背景にある事に気がつくんじゃないだろうか。

 

オンライン英会話、フィリピン留学をすることで英語が喋れるようになった結果、道がひらけるかもしれない。

海外就職をすることで素晴らしい社会人人生が待っているかもしれない。

原発を批判する事で世の中がもっと安全になるかもしれない。

ナンパや恋愛工学を身につける事でもっともっとモテるようになるかもしれない。

 

これ以上は繰り返しになるのでもうやめるが、僕が思うに、これらの本質はかなりの部分で自己啓発に近いんじゃないかというのが僕の見立てである。

 

実際のところ、これらを利用して人生が良い方向に変わった人もいるだろう。

それはそれで大変素晴らしい事だと思うけど、たぶん僕が思うに、変われた人はそれらと出会う前に、変わるに値するだけの努力が終わっている人間だけである。

 

人の能力というものは、才能と丹念な努力でしか花開かない。

オンライン英会話やフィリピン留学で英語がメチャクチャにできるようになった人は、たぶんその前段階の時点で相当に英語が仕上がってた人ばかりだろうし、海外就職ができて成功した人は、それにキャッチアップできるだけの能力が既に備わっていたからに他ならない。

こうして既にあと一歩手前まで仕上がった人達が、ひょんな事からやってきたブームにうまいことのっかって、人生が良い方向に変わっていく。そこにあるのは夢と希望だ。

 

けど多くの人は、そんな段階まで仕上がっていない。その仕上がっていない人達が、インフルエンサー達がつぶやく夢の王国へと入園する方法にすがりつく。

 

インフルエンサーも初めは情熱的に夢の国への入園方法を説くのだけど、ある時から彼等は自分たちの言葉に夢を込めることができなくなってしまう。

これが多分「なぜ人は面白くあり続ける事ができないのか」に対する僕の答えだ。

 

かつて面白かったあの人達の言葉には、きっと夢成分が多分に含まれていた。

しかし人は永遠に夢を呟く事は許されないのだろう。やがて語り手からは夢を語る才能はなくなり、その能力は次の語り手に移りゆく。

そしてまた新しいブームがやってきて、そのブームは私達に夢と希望を与えてくれる。私達がインターネットのブームを通してみているものの正体は、夢と希望だったのだ。

 

結局、コツコツやるしかない

勘違いして欲しくないのだけど、僕は夢と希望は悪いものだとは思っていない。

同様に自己啓発本だって、全然悪いものだとは思ってない。

 

夢も希望も与えられないコンテンツの価値はゼロだ。そういう点では、僕はインターネットのブームは非常に素晴らしい流れだと思っている。

ただ繰り返しになるけども、夢を夢で終わらせずに夢の国に上がりを決め込むためには、あなたには前段階まで到達している必要があるという点だけは重々承知して置いて欲しい。

 

夢を追い続けて希望に圧殺されないためにも、日々のコツコツとした努力が凄く凄く大切なのだ。

あなたが成したい事に向かってずっと歩み続けていれば、きっとあなたの元にもよいブームが舞い込んでくる日が絶対にある。そこまで歩めば、あとはブームがくるのを待ってさえいれば、勝手に成功なんて転がってくる事は間違いない。

 

成功は、しっかり準備していた人だけに訪れるのだ。夢追い人にだけはなってはいけない。

夢は追うものではなく、仕込むものなのだ。今回の仮想通貨バブルで億れた人も、しっかり仕込んでいたからこそ億れたのである。

このことを決して忘れてはいけない。

 

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【プロフィール】

名称未設定1

高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます→ https://note.mu/takasuka_toki

 

(Photo:Thomas Hawk)