本当の「さようなら」がこの世界から消えた

「さようなら」がこの世界より消えてから随分と時間が経ったように思う。

もうどこを探しても「さようなら」はいないのだろう。本当の意味での「さようなら」など絶滅してしまったのだ。

あるのは偽りと芝居がかった「さよなら」だけ、そんな世界に僕らは生きている。

 

別れの挨拶、「さようなら」の消失は僕たち人間の在り方を大きく変えた。

時代の進み方に伴って人間の在りようが変わる様を「進化」と表現することもあるが、どうにもこの変化だけは「退化」であるような気がしてならない。

ネット社会の隆盛と、SNSの台頭は僕らを大きく退化させたのだ。単純に言うと、僕らの口から本当の意味での「さようなら」を奪ったのだ。

 

まだネットもスマホもSNSも存在しなかった時代、別れとは深刻なものだった。

あるコミュニティから離脱する場合、例えば学校のクラスという場所からの離脱、つまり卒業や転校といった場合、ほとんどが今生の別れだった。

携帯もスマホもない時代にとって、コミュニティから外れた人間と連絡を取ることは難しい。それこそ家の電話や住所などの連絡先を交換したとしても、よほど大切な相手でないかぎり、家の電話にかけて連絡を取ったり、文通をしたりしない。

やったとしても、その煩雑さから自然消滅していくことが目に見えている。

 

当時の僕らは心のどこかでそれを分かっていて、これが今生の別れになる、もしくは気が遠くなるほどの時間会うことはない、そう理解していた。

だから悲壮感があったし、喪失感があった。それらの感情を全部ひっくるめて僕らは「さようなら」と言っていたのだ。

 

ただ、現代は違う。ネットもあり、スマホもあり、SNSもある。

コミュニティから離脱したとしても気軽に、たいした障壁もなく相手と連絡を取ることができる。

何ならクラスというコミュニティで作っていたLINEグループは、別れの後もそのまま継続され、次の日以降もSNS上では何ら変わることなくコミュニティが維持されていく、そんなことがあるのだ。

 

どんなに遠くに行った相手でも、日常と変わることのない会話をSNS上で交わすことができる。

そんな状況で別れに悲壮感を持てという方が無理だ。結果、別れの場面で「さようなら」ということがなくなったのだ。覚悟のない別れたちによって「さようなら」が消えたのだ。

 

「ブロック」も「さようなら」を消した。

ただ、これらの事象は単純に便利になっただけなのである。確かにSNSは別れの覚悟を奪った。けれども、それだけで「さようなら」が消えたとは考えにくい。

なぜなら、どんなに便利で気軽になろうとも、最終的には人間と人間の関りである。連絡を取らないやつには連絡を取らない。そこにはやはりSNSがない時代と同じ別れがあるはずなのである。それらを意識しないとは考えにくい。

そう、「さようなら」が奪われた根本の原因はもうちょっと先の部分にある。

 

ほとんどのSNSには、嫌な相手を拒絶する「ブロック」「ミュート」「追い出し」といった、コミュニケーションを断絶する機能が搭載されている。「既読無視」だとか、機能でなくとも断絶行動を表わす用語まで飛び出すほどだ。

コミュニケーションのツールでありながら、コミュニケーションを拒否する機能がある。それがSNSの特徴だ。

 

この拒絶機能は、これまでの人類のコミュニケーションの歴史の中でほとんど登場してこなかったコミュニケーション手段だ。

例えば、目の前で話している人がいるのにブロックです、と二人の間に暗幕をはる人がいるだろうか。

目の前でミュートですと耳栓をしだす人がいるだろうか。ごく稀にいるかもしれないが、あからさまに一般的にやるかといったら、たぶんやらないと思う。

 

目の前で暗幕をはるのはちょっと頭おかしいけど、SNS上でブロックするのは簡単だ。

つまり、関係断絶の敷居が異常に低くなってしまっているのだ。

そしてそれは「いまからお前をブロックするから」と宣言して行われることは、たまにあるけど、まあほとんどない。秘密裏に、ひっそりと行われる。

 

前述の、明日からも簡単に連絡取れるから「さようなら」と言わない。というのは覚悟のない別れゆえに「さようなら」が出ない。ただ、この覚悟がない別れは最後まで覚悟がなく終わる。

そのうち連絡を取らなくなった、スマホを買えた時に登録が消えた、そんな簡単な理由で覚悟なく別れていく。

やはり最後まで「さようなら」はない。

 

断絶ツールによる別れは覚悟のある別れだ。

ただその別れも簡単になりすぎ、その特性ゆえに簡単だけど覚悟ある別れになってしまっている。

そしてそれはいつまでも宣言されることはない。いつの間にか断絶が起こっていて、「さようなら」は飛び出さない。

 

覚悟のない別れ、覚悟のある別れ、どちらの場合も最後まで「さようなら」は飛び出さない。

飛び出すのは恋人同心の男女が別れる場合や、ドラマの中など、ちょっと芝居がかっていて言葉は悪いが自分に酔っているような場面でしか出ないのだ。

 

「ヘルスズキ」の話。

では、なぜ「さようなら」が失われたことが「退化」なのか。今日はそんな話をしたいと思う。

 

僕の昔の職場の同僚に、三度の飯より風俗が大好きなスズキという男がいた。

彼は年がら年中風俗というかヘルスのことを考えていて、給料を全部ヘルスにつぎ込んでいるどころか、学生だった頃から奨学金と仕送りの全てをヘルスにつぎ込んでいたという、奨学金団体と親御さんが聞いたら怒り狂いそうな行動をさも武勇伝のように語る男だった。

そんな地獄のようなヘルス好きのスズキのことを僕は畏敬の念を込めて「ヘルスズキ」と呼んでいた。

 

ヘルスズキは良く分からない哲学を持っていて、様々なヘルスに通って気に入った女の子がいたとしても、再度のその子に会いに行くということをしていなかった。

徹底して同じ女の子に会うことを避けているようだった。その理由を聞いてみたことがあったが「ヘルスとは一期一会、盛者必衰の理(ことわり)だからね」と訳の分からない供述をしていた。

 

そんなヘルスズキが、突如として同じ女の子ばかりに会いに行くという行動をとり始めた。

あれはまだ夏の残り香のように蝉の声が聞こえ、木々にも緑色の葉がついていた頃のことだったと思う。誰もが少しだけ寂しさを感じる、そんな季節の頃だった。

 

ヘルスズキは頭がおかしかったので、なぜかヘルスに行くときは退勤時に僕に宣言してから行き、どの店の誰を指名するか隠すことなく教えてくれていた。

たまにつけるオプションまで宣言することがあり、パンティ持ち帰りのオプションをつける日はかなり強気な日だった。あまりに律義に報告してくるものだから、途中から僕はその宣言をエクセルにまとめはじめた。

 

ずっといろいろな店のいろいろな女性を指名していて、すごい情報収集能力だと感嘆していたが、突然、それらは一人の女性に注ぎ込まれはじめた。

 

ヘルスズキはそれこそ週3くらいでヘルスに行く世紀末覇者みたいな強者だったが、その全てを「ズッコンラブ」というヘルス店の「みことちゃん」に注ぎ始めた。エクセルのセルに延々と「みことちゃん」が並び始めた。

 

「また、みことちゃん? 一期一会じゃなかったの?」

僕がそう尋ねると、ヘルスズキは得意げな顔で

「彼女だけは違うんだ」

と笑顔で言った。笑顔なのに笑顔じゃない、まるで死に行くことが分かっている人みたいな悲しい笑顔だった。

 

「たぶん、おれ、あいつのこと好きだわ」

ヘルスズキはもう、ただのスズキに戻っていた。

 

「あいつも俺のこと好きなんだと思う」 

スズキは騙されている。そう思った。

 

ただ、騙されている人の前でお前騙されているよ、とはなかなか言えない。

そのうち今以上に頻繁に店に行かされるようになって、店の外でも合うようになって、大金を貸してくれと言われる、そんな感じなんだろうかとボンヤリと感じていた。

 

エクセルファイルは空のセルが続いた。

スズキはもうヘルスに行っていないような感じだったが、そのかわり、「みことちゃん」と店の外で会っているようだった。

 

スズキがあからさまに言うわけではないが、動物園に行っただとか、水族館に行っただとか、温泉に行っただとかスズキのそういった話を聞くたびに、たぶん「みことちゃん」と行っているのだろうと思った。

社員旅行で紅葉狩りに行く時も宿の近くにヘルスがないか調べていた男とは思えない。彼はもう、変わってしまったのだ。

 

「みことちゃん」が消えた

もう用なしとなったエクセルファイルを削除しようと思った時、事件が起こった。単純に言ってしまうと、「みことちゃん」が消えたのだ。

スズキが訪ねていくと住んでいた家(お店の寮みたいな場所)はもぬけの殻だったらしいし、店に聞いても何も教えてくれなかったらしい。携帯のメールを送っても宛先不明で戻ってきたようだった。

 

落ち込むスズキに「そういうこともあるさ」と声をかけると、彼は追い詰められた表情でこう言った。

「みことが俺に何も言わずに逃げるわけがない。何かあったんだ」

 

ハッキリ言ってしまうと、そういった風俗関係で働く人が消えてしまうことはそう珍しいことではない。一期一会の精神と、盛者必衰の理(ことわり)がそこにあるのだ。

 

「それに64000円貸していたし」

そう言うスズキに、「それだけで済んで良かったじゃん、本当なら一桁違いもありうるよ」と言おうかとも思ったが、やめておいた。

 

「なんか元カレがしつこくて、金をせびってくるとか言っていたし、元カレに拉致された線もあると思う」

スズキの顔は真剣だった。ある程度特別な関係を過ごした「みこと」が自分に何も言わずいなくなることなんかありえない、ないかあったに違いない。彼の中にあるのはそれだけだった。

ここに「さようなら」不在の悲劇がある。

 

たぶん「みことちゃん」は面倒になったんだと思う。スズキは結構、粘着質なので面倒になったんだろうし、64000円も返したくなかったのだと思う。下手したらあまりに彼氏面していきてうざかったのかもしれない。

それと同時に店を辞めたいだとか変わりたいといった状況も重なり、このような別れを選んだのだと思う。推測の域を出ないけど、おそらくそんなことだ。たぶん、彼女にとっては非常に軽い別れだったのだろう。

 

ただ、一方的な断絶は、当事者は「終わったもの」と認識できるが、相手はそう認識できないことが多々ある。

いつまで経っても終わりを認識できない一人の人間がそこにいるのだ。

 

スズキもそんな男だった。彼は「みことちゃん」が進んで決意した別れではない、と思っていた。

なにかあったのだと。不本意に別れなければならない何かがあったのだと。絶対に彼女を見つけ出す。そう決意したようだった。

まるでロミオのようである。もはや何を言っても無駄だ。そして彼は動き出した。何をしたかというと、またヘルス通いを再開したのだ。

 

彼女はきっと別のヘルスで働いているはずだ、そう考えたヘルスズキは、当時はまだそんなに多くなかったが風俗店のホームページをくまなくチェックし、年齢や姿形が似ている女性に会いに行った。

また、エクセルファイルが充実し始めた。ただパンティ持ち帰りのオプションは見られなくなった。

 

それは、従前の楽しそうなヘルス通いと違い、悲壮感溢れるものだった。悲しき十字架を背負い、ヘルスに通う男の姿があった。

 

ヘルスズキ「手伝ってくれ」

ある日のこと。ついに限界に達したのか、ヘルスズキは「手伝ってくれ」と懇願してきた。

ホームページでそれっぽい女の子を見つけては行く、その日々だったが、田舎町のヘルスでは写真を公開していない女の子がほとんどだった。

公表されている年齢やスリーサイズや、お店の人からのコメントだけで「みことちゃん」らしさを判断しなければならなかった。

 

ただ、これらのプロフィールは結構適当に書かれているし、年齢など風俗業界ではサバを読むのが普通。結果としてかなり幅をもって判断せねばならず、ほとんどの子が「みことちゃん」らしさを有していた。

これらを全て調べていくことはいかにヘルスのために生まれ、ヘルスと共に死んでいくヘルスズキであっても困難だった。金が続かないのだ。

 

あまりに懇願するヘルスズキがかわいそうで、手伝うことにした。

といっても実際にお店に行ったりするのではなく、主に情報収集をすることになったのだ。具体的には「みことちゃんには首筋にほくろがあった」という情報に基づき、情報の絞り込みをする大役を仰せつかった。

 

まず、風俗店のホームページをチェックし、「みことちゃん」である可能性を捨てきれない女性を見つけたら、画像を見る。首筋のほくろの有無を調べる。

ただ前述したように当時はたとえ顔にモザイクをかけている状態であっても風俗店のページに写真を載せていること自体が少なかった。田舎だったのでさらにそれは少なかった。

そういった場合、その地の風俗店に通い詰める猛者どもが集う掲示板があったのでそこで情報収集をすることになっていた。

 

「〇〇ってお店のユミちゃんて首筋にほくろあったりします?」

 

獰猛な猛者どもが巣食う掲示板でそう質問したりもしたが、あまり情報は集まらなかった。

彼らはとにかく厳しく、

「自分で会いに行って調べろ」

「すぐに人に頼る態度が気に食わない」

「こういうお客さんはどこからやってくるんだか。やれやれ」

「とにかく死ね」

といった言葉を投げつけられ、教えてはくれなかった。それを毎日やるもんだからとにかくボコボコに叩かれまくった。精神的に疲弊する日々が続いた。

 

結局、「みことちゃん」は見つからなかった。というか、そもそも見つけることは不可能に近かった。

いつしか諦めのムードが蔓延し、僕とヘルスズキはあまり「みことちゃん」の会話をしなくなった。ただ、それでもヘルスズキは変わらずヘルスへと通い続けているようだった。

 

「みことちゃん」がいなくなった理由は分からない。

ただ、その時に一言でも「さようなら」とあったら違っていたんじゃないだろうか。ヘルスズキもこうなることなく、僕も悪魔どもが棲みつく掲示板でボコボコに叩かれなくても済んだんじゃないだろうか。

 

「さようなら」は「そうであるなら仕方ない」

「さようなら」とは元々は「さようであるならば」という言葉が変形した言葉であり、接続詞だ。

世界の言語では別れの挨拶には相手の祝福を願う類のものか、また会いましょうと再開を願うものが多い。

「さようなら」のように接続詞を別れの挨拶に用いる例はかなり珍しく、他に類を見ないとまで言える。

 

「さようであるならば」は「そうであるなら仕方ない」という意味を含み、別れに際してそこまでのあれこれを一旦終わりにし、潔く諦めるという意味合いがある。

つまり、「さようなら」という挨拶はそこまでの物事を一旦終わらせる意味があるのだ。

それは無意味と思われたそこまでのことを意味あるものに変えることもある。

終わらせるからこそ意味が生まれるという考え方もあるのだ。「さようなら」こそ人との関りが便利になることに反比例して希薄になったこの現代社会に必要なんじゃないだろうか。

 

さようならが消えたこの世界で、僕らは何を思うだろうか。

 

SNSに登録されている知人は、本当に知人だろうか。もう連絡を取らない人もいるのかもしれない。

ただ、その人との関係を宣言して終わらせることはなかなかしないはずだ。そうやってダラダラと延命されていく人間関係が主だったものになり、まるでプランクトンが増殖しすぎて池の生物が窒息するかのように息苦しくなってしまうことだってありうるのだ。

 

 

職場が変わってから会うことはなかったヘルスズキに十数年ぶりに会う機会があった。

職場のメールに突然彼からメールが来た。どうやらホームページで調べたらしい。彼が出張で地方から東京に出てくるというので会うことにした。

 

居酒屋で屈託なく笑う彼は少しだけ老けていたが、まあそこはお互い様だ。一通り近況報告や思い出話をすると、彼は笑顔でスマホの画面を見せてきてこう言った。

 

「このお店のさ、このアカネって子がみことっぽいんだよ。この後、確かめに行く。東京は風俗店が沢山あってすげえや。この新大久保って場所はここから近いの?」

 

戦慄した。恐怖すら覚えた。まだ「みことちゃん」を探してやがる。

その間に何人総理大臣が変わったと思っているんだ。彼の中ではまだ終わっていなかったのだ。

 

一方的に断絶された人は「さようなら」を言われないがゆえに、永遠に終わりがこないのである。

「ブロック」「ミュート」僕らが使う現代のコミュニケーションツールには手軽に断絶できる機能がついている。それらは断絶する側だけの機能であり、受ける側は断絶を意識できない。

 

あまり関りがないのに大上段から殴りかかってくる勘違いした人がSNSには多くいて、暴力的に絡んでくることがあるが、そんなのはガンガンとブロックしてミュートして、度が過ぎるなら訴訟してしまえばいい。

ただ、ある程度関係があった人を断絶するときは一言、それまでの関係を肯定する接続詞があってもいいんじゃないか、そう思うのだ。

 

個人主義の発達は、「嫌な人と関わらなければいい」「嫌なものは見なくていい」「何をしても個人の自由」という考えを生んだ。それは全くもってその通りなのだけど、あまりに簡単に、そして無為に、音のしない別れを生み出してはいないだろうか。

こんな時代だからこそ、さようならという接続詞をもって、新たな世界へと歩みだしていきたいのだ。

 

「よっしゃ、また手伝ってくれよな、LINE教えてくれよ、登録しとくから」 

そう言ってヘルスズキとLINE交換をしたが、また猛者どもが巣食う掲示板に行かされることを思うと本当にブルーなので、家に帰ってから、

 

「ごめんだけど、もう手伝えないよ。あんな思いをするのはまっぴらだ。だからLINEもブロックするね。さようなら」

そう言ってヘルスズキをブロックした。

 

接続詞をもって関係を終わりにする。接続詞の先には次の文章が必ずある。僕もヘルスズキも、「さようなら」をもって新たな世界へと歩いていけるのだ。

 

 

 

 

著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

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Twitter pato_numeri

 

(Photo:niko si 