かつて権力者というのは、富と名声を独占する皆の憧れの存在だった。
それが最も現れているのが、ジョージ・オーウェルが書いた小説、1984だろう。
かの小説に書かれた、ビッグブラザーという強靭な指導者が一庶民の人生を蹂躙していく様は、当時の権力者というものがいかに恐れられていたかを見事に描ききっている。
ジョージ・オーウェルがかの小説を書いたのは
「このままでは、権力者が全ての富と名声を独占し、庶民は奴隷のような存在になってしまうのではないか」
という未来を非常に恐れていたからだろう。
あの小説が売れたという事は、多くの識者は未来がそういう風になるかもしれないと思っていたことの裏返しとも言える。
壁と卵
僕が記憶する限り、権力を最後に公の場で大々的に風刺したのは村上春樹さんがエルサレムで行った「壁と卵」というスピーチである。
とても優れたスピーチなので、読んだことがない人は是非ともこの機会に一読してもらいたい。名文である
【全文版】卵と壁 ~村上春樹氏 エルサレム賞受賞式典スピーチ | 青山の昼と千駄木の夜 ~Indiana(インディアナ)暮らし編
私は今日小説家として、ここエルサレムの地に来ています。小説家とは、“嘘”を糸に紡いで作品にしていく人間です。
もちろん嘘をつくのは小説家だけではありません。
知っての通り、政治家だって嘘をつきます。
外交官だろうと、軍人であっても、あるいは車の販売員や大工であろうと、それぞれの場に応じた嘘をつくものです。しかし、小説家の嘘は他の職業と決定的に異なる点があります。
小説家の嘘が道義に欠けるといって批判する人は誰もいません。
むしろ小説家は、紡ぎだす嘘がより大きく巧妙であればあるほど、評論家や世間から賞賛されるものなのです。なぜでしょうか。
このスピーチの内容を簡単に説明するとこんな感じである
「世の中を支配しているのは巨大で屈強なシステムであり、それはそり立つ壁のように屈強なものである。」
「それに対して私達は弱々しい個人でしかなく、壁にぶつかってしまったら簡単に割れてしまう卵のような存在でしか無い。」
「このような社会において、高くて硬い壁と壁にぶつかって割れてしまう卵があるとき、私は常に卵の側に立つものでありたい」
「それが小説家が社会に存在する理由の一つであると考えるからである。壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、小説家という存在は、卵の為にあるべきだと考えるからである」
気がついた人もいるかもしれないけれど、このスピーチはイスラエルで行われているパレスチナ問題を風刺している。
イスラエルという巨大なシステムと、そこで蹂躙されるパレスチナの人々を「壁と卵」というわかりやすいイメージを用いて批判しているわけである。
このスピーチが行われたのは2009年だ。この頃はまだ、ギリギリ権力は大衆から恐れられるものの一つであったといえる。
権力の終焉
しかし未来というものはいつも軽々と私達の想像を裏切るものだ。
2018年現在、権力というものは、かつてジョージ・オーウェルが1984で恐れたようなものとは全く存在を異にしており、もはや恐怖の対象ですらなくなっている。
この事を様々なデータを元に見事に証明した本がある。
モイセス・ナイムの書いた「権力の終焉」である。
この本は日本ではさして話題にならなかったと記憶しているけど、フィナンシャル・タイムズ2014でベストブックにあげられていたり、マーク・ザッカーバーグ主催の読書会の第一回で取り上げられたりと、海外ではそこそこ話題になった本である。
この本でモイセス・ナイムは権力が以前と比較して、かなり力を失ってしまった事を書いている。
例えば、かつてなら人は飢餓と隣合わせであり、権力者は多くの農作物を手に入れられる事でその力を提示できたわけだけど、現代では食物はむしろ飽食気味であり、食べられないで失われる命よりも食べ過ぎで失われる命の方が多いとすら言われるようになってしまった。
また、人権意識がとても高まった現代では、いくら権力者といえども側室を侍らせる事などほぼ不可能になりつつある。
それに加え、ちょっとやそっと無礼な事を言われた所で「切腹せよ!」だなんて事は絶対に言えないようになってしまった。
今ではその辺にいる庶民が「アベ政治を許さない」だなんて平気な顔をしてのたまえる有様である。
戦国時代に織田信長の悪口をこんなに大々的に言えたかどうかを考えると、まさに隔世の感である。
このように、社会が技術革新により豊かになるにつれて、権力の力は以前と比較してどんどん弱まっていく事となった。
しかし、権力は空白を嫌うという言葉が示すとおり、権力と似たようなパワーが消失してしまう事はちょっと考えにく。この種の影響力は形を変えてどこかに存在しているはずである。
じゃあ現代では誰が力を振りまくようになったのだろうか?それは勝ち組と弱者である。
1Q84が指摘した「ビッグ・ブラザー」不在の時代の「リトル・ピープル」
冒頭で壁と卵のスピーチで紹介した村上春樹さんの作品に1Q84というものがある。
タイトルが発表された当初、ジョージ・オーウェルの1984のオマージュである事は誰でもわかった事もあり、僕も友達と「村上さんはまた壁と卵の話でもするのだろうか」と内容を予想しあっていたのだけど、そこには全てを支配する巨大な権力者であるビッグブラザーは登場しなかった。
代わりに登場したのがリトル・ピープルという概念だ。
ビッグブラザーがわかりやすい絶対権力者であるとすると、リトル・ピープルというのは卵の集合体みたいな概念だ。
例えばちょっと前、文春砲により数々の芸能関係者が不貞行為を暴露され、表舞台から姿を消すこととなったわけだけど、あれがわかりやすいリトル・ピープルの一亜系だろう。
かつては巨大な力を持っていたお金持ちや名声を持つ芸能関係者も、今では卵の集合体であるリトル・ピープルの考える風紀に反する事をすれば、簡単にその座からこき下ろされてしまうようになってしまった。
何でもかんでもすぐに炎上する昨今のネット社会をみればわかるとおり、蠢く大衆の考える良識に反する事ほど現代では恐ろしいものもそうない。
ビッグブラザーが私達を監視する社会はありがたいことに到来する事はなかったが、代わりに現代では捉えどころのない、有象無象の大衆の逆鱗に触れないように気をつけなくてはいけないようになってしまった。
やはり権力は空白を嫌ったのだ。ビッグブラザーが終焉した現代で、その代りになったのが卵の集合体だというのだから、まったく歴史というのは面白いものである。
ちなみに先の壁と卵のスピーチが行われたのは2009年2月だけど、1Q84が発表されたのはなんと2009年の5月の事である。この相反する2つの事象を抱え込めるところに、村上春樹さんの凄みが詰まっているといえるだろう。
弱者が力を持つ時
このように有象無象のリトル・ピープルの良識が権力を持つようになった結果、面白い事に弱者もある種の力を持てるようになった。
元々古来より、批判や皮肉というのは弱者が強者に行うものだった。
例えば政治の風刺画というのは、権力者である政治家に一記者という弱いものが行うから許されるというお約束があった。
この逆はただの弱い者いじめであり、基本的には許さないというのがお約束だ。
「アベ政治を許さない」はアリでも、安倍さんがどこぞの個人を名指しで許さないとでも言おうものなら、待ってましたとばかりにリトル・ピープルが「弱い者いじめだ!」と湧き上がる事は想像に難くない。
権力というのは強い暴力性を秘めている。ではリトル・ピープルが権力を持った現代において、標的に”ならない”為にはどうすればいいかわかるだろうか?
強者が批判や皮肉の対象となるという事を裏返せばこの答えは簡単にわかるだろう。弱者になればいいのである。
昨今、発達障害やLGBTといった単語がかなり一般的に認知を得るようになってきたけど、このムーブメントの背景にはリトル・ピープルの権力の増大があるのは間違いない。
もちろん、社会が豊かになって、多様性を許容できるようになってきた事も、弱者が弱者として声をあげられるようになった大きな理由のひとつなのは間違いないのだけど、その裏でこれらの標語は強い権力性も帯び始めているのである。
ついこの間も新潮45がLGBTを批判し、その論調を再検証しようとしたしたところ大炎上し、雑誌が休刊に追い込まれるまでの顛末になったけど、あれは一つの時代の象徴といえるだろう。
現代では弱者はマスメディアや政治家というかつての強者を食い殺せるレベルにまで力を持つことに成功しているのである。
中間層が一番しんどい
このような時代になると、権力者や著名人になる事は全く割があわなくなるし、それどころか普通である事すら「弱いものではない」故に批判の対象となるリスクを孕む事となる。
こうなると、勝ち組にも少数派になれない”普通の人”がもっとも厳しい立場に追いやられる事となる。
慶応大学で財政学を専門とされている井手英策さん曰く、いわゆる弱者を排除しようとする言説、例えばヘイトクライムとか差別的な思想に一番熱心なのは”中間層のしかも比較的上の方”なのだという。
中間層の中でも、相対的に恵まれている人たちが排他主義を強めている理由として、井手さんは
「大金持ちの層がより恵まれた状況になっていっている中で、大金持ちに手が届きそうだけど手が届かない層が、社会の豊かさが自分からだんだんと離れていっている実感を一番感じるが故に苦しいのではないか」
と分析されている。
中間層であるが故に、弱者として強者を叩く自由はなく、かといって強者として社会を謳歌できるわけでもない。中途半端な存在である、中間層が実は現代では一番シンドイのである。
<参考>日本社会ではいま「多数派」が一番苦しい? 二極化の先にあるもの(小野 美由紀) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)
「弱者だから叩かれない」「強者であるから叩いていい」から卒業しよう
昨年あたりから時々話題にのぼるようになったポリコレムーブメントは、権力の終焉とリトル・ピープルの台頭とは無縁ではないだろう。
この多数派が一番シンドイ世の中で、私達はどのように生き抜けばいいのだろうか?
まずいちばん良くないスタンスは、弱者の皮をかぶった強者を目指すものだろう。
まるでファッションのように発達障害やLGBTを明言するのは、本当の当事者にとっては失礼以外の何物でもないし、それらの弱者に対する理解を誤ったものとしてしまう。
かといってリバタリアニズムをバリバリに適応させて、全員が勝ち組を目指す社会というのもまたちょっと苦しい。
もちろん、誰でも勝者を目指せるような社会設計ではあるべきだろうけど、全員が勝ち組になんてなれないのは言うまでもない。
ではどうすればいいのかだけど、属性で簡単に強い人と弱い人を区別しないように、私達一人ひとりが本質を見誤らないように努めていくしかないだろう。
当たり前だけど、マイノリティーや障がい者の中にも強者はいる。スティーブ・ジョブズは確かに発達障害者だったかもしれないけど、彼を弱者だという人は誰もいないだろう。
そしてもっと当たり前の事だけど、健常者の中にも弱者はいるのである。
レッテルで貼られた属性のみから、それらを判断してしまう私達のスタンスに問題があるのだ。
弱者だから叩かれない。強者であるから叩いていいから卒業できるよう、我々の意識を高めていくしか、解決方法はないだろう。
はっきりいって、これはとても難しいことではある。しかしビッグブラザーを超克できた私達に、リトル・ピープル問題を超克できないわけがないのである。
未来はいつだって明るい。私達の民度も、きっと明るいものである。そういう意識だけは捨てずに持っておきたいものである。
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(Photo:Elroy Serrao)