杉田議員の「生産性」発言や、テニスの大坂なおみ選手の活躍で、LGBTやハーフの人たちに注目が集まった。

マイノリティ側の人が取りざたされるとき、「いままでどれだけの理不尽を味わってきたか」「理解のない人に傷つけられてきたか」などが語られることが多い。

そして結論として、「理解を示して受け入れてるべき」となる。

 

もちろん、理解して受け入れる人が多ければ、それに越したことはないだろう。

でも人間、どうしても理解できない人というのはいるものだ。

 

だからわたしは、理解を強いるよりも、「理解できないなら攻撃せず首を突っ込まない」という無関心さが、多様化する社会には必要なんじゃないかと思う。

 

「理解しない人」が批判される現代

最近、『いままでの社会において想定外の人』への理解を求められることが増えてきた。

LGBTやハーフもそうだし、精神疾患をもつ人や不登校経験がある人もそうだし、収入が低く結婚ができない人や子どもを産みたくない女性などに対してもそうだ。

 

たしかに、世の中にはいろんな人がいるのだから、性自認や血筋、身体的特徴やライフスタイルにかかわらずどんな人でも認められ、幸せに生きられる社会のほうがいい。

でも残念ながら、人間には『理解できる範囲の限界』がある。わかりやすくいえば、『共感できる範囲』とでも言おうか。

 

この『理解の範囲』を超えたところにいる人に対して、人間は「相手の気持ちがまったく想像できない」という状態に陥る。

たとえば「子どもを産む機械」「子どもは3人以上」など、出産に関わる政治家の失言は多い。それは彼らが、子どもを産む人の気持ちをまったく想像できないからだと思う。

 

ゲイやレズビアンを不当に差別するのは、自分の恋愛対象が異性であり、同性を恋愛対象にする感覚がまったく想像できないのだろう。

 

こういった発言にわたしは違和感を覚えるし、マイノリティに対する差別や偏見は良くないことだとも思っている。

でも、じゃあ相手に「理解しろ」と言ったところで、状況は本当に改善されるのだろうか。

 

自分のこととして想像できない『理解の範囲外』

たとえば「精神性はこのままで肉体が男だったとしたら?」と考えると「心は女なんだから短髪にしたくないし、男子更衣室で男用の水着に着替えるなんて無理!」だと思う。

トランスジェンダーの人が抱くであろう生きづらさを、ほんのひとかけら、非常に浅いレベルではあるものの、想像することができる。

つまりそれは、『理解の範囲内』の存在だ。

 

一方で、ハーフの人は、わたしの『理解の外』にいる。これはネガティブな意味ではなく、わたしが「自分がハーフだったら?」と想像できないからだ。

わたしの両親は生まれも育ちも日本の日本人で、わたし自身も日本語を母語とする日本人。大学に入るまで外国人とまともに会話したことはなかったし、友人にもハーフの人はいなかった。

 

だから、家庭内に複数の文化や言語が混じっている環境で生まれ育った人の気持ちを、うまく想像できない。

「どっちの国に長く住んでるの?」「〇〇語は話せるの?」という質問が、相手にとってどれだけ不快なのか、または問題がないのか、判断がつかないのだ。

 

いくら「理解を示そう」「嫌な思いをさせたくない」と思っても、環境がちがいすぎて、「相手の気持ちになって考える」ができない。

そういう意味で、ハーフの人はわたしの『理解の外』にいる。

(念のためもう一度書くが、だからといってハーフが悪いとか、関わりたくないとか、そういうことではまったくない)

 

外国人をまるで宇宙人のように別の生き物として扱う人は「自分が外国人として暮らす」ことを想像できないのだろうし、まわりにキリスト教を強引に勧める人は「クリスチャンじゃない人生」を想像できないのだろう。

そういう人に「外国人の気持ちになって考えろ」「仏教徒の立場も尊重しろ」と言っても、たぶん、どうにもならない。だって、想像できないのだから。

 

わたしだって「ハーフの気持ちを考えろ」と言われたら、「いや、うん、ええっと……どんな感じなんだろう?」と困惑してしまう。

 

理解する人としない人の避けられない対立

もちろん、だれしもが持つべき共通の『理解の範囲』もある。たとえば、「人を殺してはいけません」「あいさつをしましょう」などだ。

そこには、「差別はいけません」「人が嫌がることはやめましょう」といったことも含まれる。不当な差別や理不尽が認められないのは、当然のことだ。

 

ただ、それでもやっぱり『理解の範囲』は人によってちがう。みんながみんな理解し合えればいいのだが、まぁぶっちゃけ、それは非現実的な話である。

「理解しろ」と言われても、そもそも『理解の範囲外』なんだから理解できない。

「相手の気持ちを考えろ」と言われても、相手の気持ちがわからないからこその『理解の範囲外』。話は平行線をたどる。

 

そしてここでの問題は、「理解する人vs.しない人」という対立構造になってしまうことだ。

『理解の範囲外』にいる人を無理やり自分の理解の枠に当てはめようとしたり、逆に「理解しなさい」と他人の『理解の範囲』に突っ込んだりすれば、必ず対立が生まれる。

どっちも自分の価値観に相手を押し込めようとすれば、溝は埋まらない。

 

だからわたしは、「『理解の外』にいる人を理解しなさい」とプレッシャーをかけるのではなく、「理解できないことを理由に攻撃せず首を突っ込むのはやめよう」というのも、ひとつの考え方じゃないかと思っている。

 

理解がベスト、それが無理なら無関心がベターかも

理解して相手の気持ちになって考えられることが、たぶんベスト。でもそれが無理な場合もある。そのときは、『無関心』というベターな方法をとることもありじゃないだろうか。

 

わたしは、ハーフの人の気持ちを想像することができない。だから、根掘り葉掘り聞かず、「へぇ~」で終わらせるようにしている。

関係性によっては「いつからここに住んでるの?」「どこの国?」くらいは聞くかもしれないが、初対面や見知らぬ人に対して「アイデンティティーはどっちですか」「どっちの国が好きですか」というように、相手を自分の『理解の範囲内』に収めようとすることはしないように気をつけている。

 

相手の気持ちを想像できないのだから、うっかり傷つけてしまうかもしれない。それなら無用に首を突っ込まず、「へぇ~」と無関心でいたほうが『平和』なのだ。

相手のことを理解できずとも、「日本語が苦手なのね。ゆっくり話すね」「恋人は男なんだ。じゃあ彼女じゃなくてパートナーって呼ぶね」「うつ病で具合悪かったらドタキャンしてもいいよ」と言うくらいの思いやりをもつことはできる。

 

相手のことを理解できないのに、「日本人と認めない」「ゲイなんて巨乳好きと同じ」「うつ病は言い訳」などと、相手を『評価』する必要性や正当性はない。

理解できないことを理由に攻撃したり、自分の『理解内』に引き込もうとしなければ、理解せずとも共存することはできるのだ。

 

世の中にはいろんな人がいる。自分のなかにある「こうあるべき」という価値観が及ばない人と出会ったら、無用に首を突っ込んでああだこうだ言わず、「へぇ~」くらいがちょうどいいんじゃないかと思う。

 

もちろん理解できるのならそれに越したことはないのだけど、それがむずかしいときは、『無関心でいる』こともひとつの寛容のかたちではないだろうか。

理解し合えるという前提をなくしてみたほうが、逆に多くの人が生きやすくなるかもしれないなぁ、と思う。

 

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名前:雨宮紫苑

91年生まれ、ドイツ在住のフリーライター。小説執筆&写真撮影もやってます。

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著書:『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)

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