何かと「格差」「貧困」が話題となる昨今だ。
先日多くの人に読まれていた記事も、「格差」や「貧困」に関連して評している人も多かったように感じる。
参考:人手不足なのに給料が上がらないのは、経営者の強欲のせいではなく、仕事に要求される能力が高くなったから。
だが、事実としては、世界的に貧困は解決しつつあり「中間層」も増えている。
アジアでは、極度の貧困の中で暮らす人々の割合は一九八〇年に人口の七七パーセントを占めていたが、一九九八年には一四パーセントまで激減した。(中略)
多くの貧困諸国の急激な経済成長と、その結果生じる貧困の減少は、「グローバル中間層」の増加も後押ししている。
世界銀行によれば、二〇〇六年以降、二八カ国のかつての「低所得国」が、いわゆる「中所得国」の仲間入りを果たしたという。
グローバル経済に参加することができ、豊かに暮らすことができる人が急激に増えているのは、誠に喜ばしい、と言えるだろう。
「ホモ・デウス」を著した歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、「殆どの国では過食のほうが、飢饉よりも深刻だ」と述べる。
今日ほとんどの国では、過食のほうが飢饉よりもはるかに深刻な問題となっている。(中略)
二〇一四年には、太り過ぎの人は二一億人を超え、それに引き換え、栄養不良の人は八億五〇〇〇万人にすぎない。二〇三〇年には成人の半数近くが太り過ぎになっているかもしれない。
この状況を見れば、「グローバル化万歳」と快哉を叫び、「人類は貧困に勝利した」と、この状況を諸手を挙げて歓迎すべきだと言ってよいはずだ。
だが、現実には現在においても「貧困」は問題となっている。
しかも、スマホを使え、電気が通い、水道から水が出る国であるはずの、先進国においてである。
事実、特権的地位を失った先進国の低所得層は、「グローバル化」を憎んでいるのだ。
参考:「グローバル化」で世界が繁栄する一方、一人負けする先進国の中間層。
だが、これは彼らが事実誤認をしているわけではない。
彼らが問題視する「貧困」は、世界がグローバル化によって解決した「貧困」とは意味が異なるためだ。
彼らが問題視しているのは「相対的な貧困」である。
端的に言えば「我々は飢えてはいないが、惨めである。これは解決すべきだ」と主張している。
だが、この主張は「絶対的な貧困」を解決するよりも遥かに難しい。
なぜならばこの貧困は、各自の中に存在する「主観的な貧困」だからだ。
当事者が「私は惨めである」と認識すれば、それは「貧困」なのである。
これについては、内田樹氏の論考が的を射ている。
「相対的貧困」とは私が「貧乏」と呼ぶものである。
それは数値的には表示できないし、何か決定的条件の欠如としても記述できない。
それは「隣の人はプール付き豪邸に住んでいるが、私は四畳半一間に住んでいる」
「隣の人はベンツに乗っているが、私はカローラに乗っている」
「隣の人はスコッチを飲んでいるが、私は焼酎を飲んでいる」
「隣の人はパテック・フィリップをはめているが、私はカシオをはめている」
というかたちで、どちらも同一カテゴリーの財を所有しているのだが、その格差を通じて欠落感を覚えるということである。
相対的貧困は、物資の絶対的な多寡とかかわりなく、隣人があるかぎり、つねに示差的に機能する。
だから、無人島に漂着した人々が隣人に感じる羨望と、ウォール街の金融マンが隣人に感じる羨望は、それが羨望である限り同質である。
そして、相対的貧困感は人間が複数で暮らす限り、決して消すことができない。
そもそも資本主義市場経済というのは「私が所有すべきはずのものを所有していない」という欠落感を動力にして作動しているものであるから、相対的貧困感を否定することは、市場活動そのものを否定することになる。
(内田樹の研究室: 相対的貧困は解決できるか)
相対的な貧困は、主観的な貧困であるがゆえに、本質的に人間であれば必ず持つものである。
だから、そこには絶対的な「貧困」を定義し得ない。
たしかにジニ係数などの「相対的な貧困の指標」を作ることはできる。
だが、ジニ係数などの指標を、何を持って正しいとするかは、政治的な判断以外の何物でもない。
*
だが「主観的な貧困」を軽視するのは間違っていると、私は思う。
なぜならば、人がパンではなく、尊厳で生きる時代が訪れているからだ。
数年前読んだ、「希望は、戦争」と銘打った下の記事を私は忘れることができない。
そこには偽らざる人の本音があった。
「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
前者が家庭を手に入れ、社会的にも自立し、人間としての尊厳をかつて十分に得たことのある人たちである一方、後者は社会人になった時点ですでにバブルが崩壊していて、最初から何も得ることができなかった人たちである。(中略)
それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。
彼が救ってほしいのは、「食えない私」ではない。
「家庭を手に入れ、社会的に自立し、人間としての存在を十分に得ること」なのである。
そして、それが手に入らない時、彼らは社会を恨み、「戦争」すら厭わない。
「最後通牒ゲーム」という、有名な実験がある。
その実験によると、人は、「不平等な提案を飲まざるを得ない時には、人は自分の利益を捨てても、相手に制裁を加えたい」と考える存在だという。
確かにピケティが「21世紀の資本」で明らかにしたように、格差が大きく縮まった時代は、戦時しかなかった。
国内の政治不安が高まれば、戦争のハードルが下がるのは間違いない。
それは、誰も望まない結末であろう。
*
では、「主観的な貧困」の問題をどのように解決したら良いだろう。
政府に委ねるべき問題なのだろうか。
だが、内田樹氏は、「本質的に再分配で解決はできない」と述べる。
人は飢えて死ぬばかりでなく、羨望でも死ぬのだ、というのは事実だろう。
けれども、「飢え死にしそうな人間」と「羨望で自殺しそうな人間」のどちらを先に救済すべきかと言えば、限りあるリソースは「救える方」に配分すべきだろう。
相対的貧困には原理的に「打つ手がない」からである。
というのは相対的貧困というのは「脳」が作り出したものだからだ。脳は「自分に欠けているもの」を無限に列挙することができる。(中略)
脳は、「相対的貧困の解消」のための「正解」だって、もちろん提示してくれる。
「すべての富をみんなが平等に分かち合えばいい」である。
論理的には文句なしの正解である。
でも、不可能である。
それは、「富の平等な分配」を策定するためのコストがすぐに「分配すべき富そのもの」を上回ってしまうからである。
これは全くそのとおりで、共産主義革命が失敗したのは、生産性を犠牲にすることが不可避であったためだ。
さらに「パレートの法則」を生み出した、イタリアの数理経済学者であるヴィルフレド・パレートは、生涯に渡る所得分配の研究の結果、「政府による所得再分配は不可能である」と、1900年代にすでに結論を出している。
ベーシック・インカムのような制度を主張する人々もいる。
が、ベーシック・インカムは「飢え」は満たせるかもしれないが、「尊厳」は満たせない。
人々の能力に大きな差がある以上、仮にベーシック・インカムを導入したとしても、本質的な解決にならないことは明白である。
つまり、ピーター・ドラッカーが「社会制度が、人々を救済する」という試みはすべて失敗した、と述べたとおり、主観的な貧困は、法制度や政府の設計に手に余る問題だ。
今日の政治家が、「主観的な貧困」に対して無力なのは、彼らが無能なのではなく、政府に解決できる種類の問題ではないからだ。
*
では、国家のあり方や法制度以外に、この状況を解決する手段はあるのか。
一つの方法は、生産性向上による解決である。
パレートは、政府が再分配をすることはできない、という結論を出した一方で、「社会全体の生産性が高ければ、所得分配が平等に近づく」という研究結果も残している。
つまり、一部の人間だけではなく、社会全体の生産性を高めることができれば、あらゆる人の能力をうまく活かすことができる産業が立ち上がれば、社会は平等に近づく。
だがこれには、現在多くの人的リソースを握っている、企業のマネジメント能力の向上が不可欠である。
もう一つは、「貧困」を感じている人々の持つ、世界の認識を変えてしまうこと。
例えば、中央大学教授の社会学者、山田昌弘氏は、「適切なカウンセリングによって、過度な夢を諦めさせることも重要な活動」と言う。
自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。
そのため、過大な期待をクールダウンさせる「職業カウンセリング」をシステム化する必要がある。
久木元氏が言うように、あまりに「やりたいこと」が強調されすぎているゆえに、フリーターは過大な期待を抱かざるを得ない状況に追い込まれている。
といって、「諦めろ」と直接言ったのでは、いままで行ってきた努力を無にしろ、というのに等しい。
それゆえ、カウンセリングなどを導入して、自分の能力といままでしてきた努力と期待との調整を行い、納得して諦めさせて転進させることが必要である。
これは、フリーターに対してだけでなく、学校教育での導入が望まれる。
アメリカでは、学校教育から職業レベルまで、カウンセリングやコンサルティング制度が充実しているので、「努力をなるべく無駄にしないように」過大な期待を諦め諦めさせ、能力にあった職に就くように誘導している。
その効果もあって、ニューエコノミーによる職の二極化が生じても、夢見るフリーターの大量発生といった問題が起きないのだ。
あるいは、受け入れがたい人も多いかもしれないが、薬物やテクノロジーにより「主観的貧困」の苦痛を和らげる、といった手段も取られるかもしれない。
すでに「幸福」とは、単なる脳内の電気信号であるというのが、脳科学の世界では一般的だ。
客観的、物理的な条件とは関係なく、主観的に幸福であれば、「主観的な貧困」は回避できる。
「サピエンス全史」の著者が書いた新刊「ホモ・デウス」は、幸福のうちに迎える人類の終末を想像させる。
たとえば、テクノロジーで制御可能な「幸福」の利用方法はいくらでも見つかる。
・「学習・仕事」に対して
・面倒な「作業」にも
・スポーツなどの辛い練習にも
これはSFの中の話ではない。
事実、すでに現在アメリカ軍は人間の脳にコンピューターチップを埋め込む実験を始めている、この方法を使ってPTSD(心的外傷後ストレス障害)の兵士の治療をするためだ。
エルサレムのハダサ病院では患者の脳に電極を埋め込み、うつ病を引き起こしている脳の領域を麻痺させることで、うつ業を治療しようとしている。
もちろん、こういった手段は20世紀末、21世紀初頭に生まれた人間には忌避すべきものとして映るかもしれないが、22世紀には常識となる可能性もある。
何れにせよ、我々が思う「貧困」は、かつて解決しなければならなかった「貧困」とは、別のものに変わった。
であれば、別の手法、新しい考え方、仕組みによって解決される公算が高い。
いつまでも「20世紀の常識」で貧困を語るべきではない。
そう感じる。
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