「なりたい」という気持ちと「やりたい」という気持ちはまるで別物。そこをわかってないと、養分にされるだけ。

思うに、ライティングやトレードというのは一種のアートだ。

故に、テクニックはあるにはあるのだが、人に教え、そしてそれを同じ様な形で使えるように教育する事が滅法難しいし、それを教えた所で、好きでない人に教えても猫に小判、豚に真珠である。

猫に小判を与えても、ガジガジするだけだ。

豚に真珠を与えても、バリバリ食べるだけだ。

適性がない人間にテクニックを与えても、何者にもなれず「いい勉強になりました」でおしまいになるだけなのだ。

冒頭リンク先の記事を読んでから、少し前にネットで見かけた、絶対にインフルエンサーになれそうにないインフルエンサー志望者のことをふと思い出した。

ブログもtwitterも零細な彼は、こんなことを書きこんでいた。

 

「twitterは1日30回、ブログは毎日投稿を目標に頑張っていきます!」

 

私は、こういう人はインフルエンサー適性がゼロだと思っているし、過去、こういう宣言をして“頑張った”人が有力なインフルエンサーになったケースを見たことがない。

1日30ツイートとか、毎日ブログを書くとかを“目標”にして“頑張らなければならない”時点で、その人はもう素質が足りない。

 

私が見知っている範囲だと、無名の状態からインフルエンサーになっていく人は、頑張らなくても30ツイートしてしまうし、努力するまでもなくブログを書いてしまうものだ。

むしろ、あまりにも投稿し過ぎてしまう自分自身を抑制せざるを得ないぐらいの時期がなければ、インフルエンサーにはなれないのではないだろうか。

 

ユーチューバーの世界でもそうだ。誰かにアドバイスされて“目標”を設定し、“努力”しなければ投稿もままならない人が、生き馬の目を抜くようなユーチューバー界隈で台頭できるとは思えない。

「手を動かさなければならない」のは当たり前のこととして、そこに、無尽蔵な「書きたい・表現したい・投稿したい」という気持ちや実行力が伴わなければ、インフルエンサーなんて午睡の夢である。

 

「癒し」という視点で「養分」を再考する

インターネットを長くやってきた人なら、ここまでの話はみんな知っているに違いない。

ここからが本題だ。

 

世の中には、「稼げるようになるための方法」を教える人間と、お金を払ってそれを教わろうとする人間がいる。

あるいは、「インフルエンサーになるための方法」を教える人間と、お金を払って教わろうとする人間がいる。

 

なかには、相当な金額を取っておいて何の役にも立たないことを教えている、褒められないインターネットサロンやセミナーも存在しているようである。

たとえばインフルエンサー志望者に「1日30ツイートしなさい」「毎日ブログを書くよう努めなさい」などと教え、それで対価を取っているものなどは、私からみればほとんど何も言っていないに等しい。そういうのは、一方的な搾取ではないか。

 

そうやってサロンやセミナーに大枚をはたいて参加する人々は、インターネットのスラングで「養分」と呼ばれることがある。

実際、どうでもいいことしか教えてくれないサロンやセミナーにたくさん払う人々は、それらの主宰者側からみて良い金ヅルであろう。

 

そして意外にも、インターネットには少なくない「養分」や「養分予備軍」が存在しているのである。

ブログがお金になりそうだと聞けばブログに飛び付き、仮想通貨が儲かりそうだと聞けば仮想通貨に飛び付く人々。

結果として「ブログや仮想通貨でお金が儲かる」のでなく、「ブログで儲ける方法や仮想通貨で儲ける方法でサロンやセミナーをやっている側のお金が儲かる」──まるで、ゴールドラッシュの寓話のようだ。

 

どうして「養分」たちは、あの手のサロンやセミナーの主宰者を潤わせてしまうのだろうか。

 

「資本主義による傷つきを、資本主義的な治療によって癒す」

これまで私は、「養分」になってしまう人々のことを、ただ搾取されるだけの人々、ただお金の使い道がわかっていない人々、といった具合に捉えていた。

もちろん、そういう側面もあるだろう。

 

ところが最近、ある書籍を読んで「案外、それだけでもないかもしれないな」と思うようになった。

東畑開人『野の医者は笑う』という本は、沖縄の民間セラピーを学術調査した、それでいて恐ろしくユーモラスな本である。この本の面白さを紹介するには最低3000字は必要なので詳細は省くが、この本には、以下のようなフレーズが登場する。

マインドブロックバスターに至っては、起業してお金を稼ぐことこそが癒しだと考えている。だからスクールを受けると、次のような考えを抱くようになる。

お金の話をするのは恥ずかしいことではない。深いことを言ってても、食べられなくてはどうしようもない。軽薄だっていい。マーケティングに成功することが何より大事。

マインドブロックバスターにはそういう哲学が深く染み込んでいる。(中略)

資本主義による傷つきは、資本主義的な治療によって癒される。これが面白い。傷つけるものは癒すものであると、ギリシアの神様が言ったではないか。

早い、安い、効果がある。そういう時代に傷ついた人が、そういう治療法に癒される。

そういう治療法は、そういう価値観の人間を生み出すから、そういう時代に生きることを支えるのだ。

“マインドブロックバスター”とは、ここでは民間セラピーの一種と考えていただいて構わない。このセラピーは単なるセラピーではなく、クライアント自身がやがてセラピストとなり、お金を稼げることまでがセットになっている点が興味深い。

セラピーそのものと同じかそれ以上に、セラピストとなってお金を稼ぐこと・セラピーの世界でマーケティングに成功することまでが癒しの範疇に含まれているわけだ。

 

立ち返って、情報商材やインターネットサロンのことを思い出してみる。

インターネットサロンやセミナーのたぐいは、セラピーという看板は掲げていない(カウンセリング、という文言を含んでいるものはときどき見かける)。

 

だが、実のところ、それらに参加している人々は、癒されていたりしないだろうか。

かつて私は、インターネットサロンや儲け話セミナーに群がる人々のブログ記事を調べてまわっていた時期があった。

サロンやセミナーに参加した人々の書くブログ記事は、いつもハイな感じがして、しばしば多幸的で、テカテカしていた。

 

個人的には、あの、ハイで多幸的な効能を「治療」という言葉で呼ぶことには抵抗がある。

しかし「癒し」という曖昧な言葉ならどうだろう? 民間セラピーで癒される人々と同じように、インターネットサロンや儲け話セミナーに参加した人は、儲け話を教わることをとおして癒されているのではないだろうか──実際にお金を稼げるかどうかはさておいて。

 

断っておくと、『野の医者は笑う』の文中には、沖縄の民間セラピーがあこぎな金儲けをやっている、といった批判はみられない。

その点において、沖縄の民間セラピーと、インターネット上のとりわけ悪質なサロンやセミナーとを同列に扱うべきではないように思う。

 

だが、それはそれとして、さきほど紹介した

「資本主義による傷つきは、資本主義的な治療によって癒される。早い、安い、効果がある。そういう時代に傷ついた人が、そういう治療法に癒される。そういう治療法は、そういう価値観の人間を生み出すから、そういう時代に生きることを支えるのだ。」

というフレーズ自体は、サロンやセミナーに参加してテカテカしている人々にも当てはまるのではないだろうか。

 

資本主義的な癒しが本屋の一角を占拠している

インターネットの片隅から、今度はオフラインの世界に目を向けてみよう。

もっと人目につきやすい場所に、似たような構図の一大ジャンルが存在していることに気づく。

 

それは自己啓発書だ。

「これを読めばビジネスができるようになる」

「これを読めばマネジメントが上手くなる」

そのように謳う自己啓発書もまた玉石混交であり、忠実に実行すれば実益のあるものもあるだろう。

 

しかし内容がどうあれ、自己啓発書は忠実に実行されることの少ない、ただ読まれるためのものであるという。

牧野智和『日常に侵入する自己啓発』という本には、この分野について先行研究にまつわる、興味深いセンテンスが綴られている。

サイモンズはインタビューを重ねていくなかで、「自助本の影響を測定できると考えるのは非現実的だと思うようになり」、「自助本を読むことは、ある問題についての苦悩を取り除き、よりストレスが弱められた未来を指し示す一時的手段だといえるが、やがてすっかり忘れられてしまうようなもの」だと結論している。

幾人かのインタビュイーが述べていたように、それは「応急処置 quick-fix」なのだ、と(1992.32)。

このような先行研究を踏まえて、『日常に侵入する自己啓発』の筆者も2013年~2014年に国内調査を行ったそうだが、内容が思い出せない・タイトルが思い出せない・筆者の名前が思い出せないといった回答が多くみられたという。

 

では、そうやって忘れられてしまう自己啓発書が担っている機能とは何か?

同書では、「『応急処置的な機能』がまず期待されている」と書かれている。

自己啓発書を読んだ時の、何か少し利口になったような気分、これからビジネスやマネジメントが上手くいきそうな気分、これなら自分もやっていけそうだという気分。

 

もし、そういった気分の獲得という応急処置的な癒しが一義的な機能であり、実行できるかどうかは二の次だとしたら、自己啓発書を読むという行為は、不確かなサロンやセミナーに参加してテカテカすることと意外と近いのではないだろうか。

書店の一角をまるまる占拠し、平積みされている自己啓発書、とりわけビジネスやマネジメントにかかわる自己啓発書のたぐいを、サロンやセミナーほどお金のかからない癒しとみなすなら、あのコーナーこそ「早い、安い、効果がある」癒しの場で、そこで自己啓発書を買い求めるビジネスマンはまさに「資本主義による傷つきを、資本主義的な治療によって癒している」ようにもうつる。

 

沖縄の民間セラピーと、ネットサロンやセミナーと、自己啓発書の間には、もちろん相違点も多い。しかし、

・それが応急処置的な癒しを提供していること

・癒しの内実に、経済的メリットが含まれていること

・資本主義的な個人を再生産する志向があること

・資本主義的な傷つきに対する同毒療法ともとれること

といった点は共通している。

 

社会病理があらわれる場としての癒し

「養分」の話題からスタートして、なんだか遠い話になってしまった。

 

ネットサロンやセミナーに大枚をはたく人を軽蔑する人はインターネット上には少なくない。

しかし、そうやって「養分」を軽蔑している当人が自己啓発書を買い求め、読むことによって(本人も気付かぬうちに)癒されているとしたら、そのさまは一種の同族嫌悪のようにもみえる。

と同時に、資本主義のロジックがどこまでも追いかけてきて、そう簡単には逃れられない現状を象徴しているようにもみえる。

 

いずれにせよ、現代社会では「資本主義的な傷つきを資本主義的に癒す」という構図はそれほど珍しくないもののようだ。

こうした現代ならではの癒しを掘り下げていけば、私達自身とこの社会のことがもう少しみえてくるのではないだろうか。

 

やや曖昧なところがあるにせよ、この方面はウォッチしていて興味が尽きない。第一線の研究者の方々の、これからの研究に期待したい。

 

 

 

 

【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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(Photo:sayo ts