自業自得という言葉がある。

例えば、普段まったく努力をせずに怠けている人が、大きな転機で全く成果を出せず不幸になったとする。

勉強していない人がテストで点を取れず留年したとか、怠けてばかりいる人が大きなミスをしてクビになったとか、そういったパターンだ。

 

その場合、その人に対して「自業自得だからね」という言葉が出てくるだろう。

つまり、努力を怠った人が悪い、その結果は当然、という考え方だ。

もちろんまったくもってその通り、おっしゃる通りなのだが、僕自身、最近になってこの言葉に違和感を持つようになった。

 

この言葉は、「努力と成果」「勉強とテスト」のようにある程度は関連性のある事象で使われることもあるが、時には全く関係ないと思われる事象にも使われることがある。

 

粗暴で普段から人を人とも思わないような行動をとるいわゆるクズな人が事故にあって死んだとしよう。

その場合、普段からひどい人だったからね、自業自得だよ、と言われることがあるのだ。

 

これは努力と成果という観点ではなく、言うなれば神の視点からみたバランス的な考え方だ。

いいことをしていたらいいことがある。悪いことをしていたから不幸なことが起こる。普段の行いが……というやつだ。

 

もちろん、普段の行いが周囲からの態度を決め、その結果として起こってしまう不幸もある。

皆から疎まれた末に起こる悲劇などこの世に山ほどある。ただ、普段からクズだから不幸になってもいい、死んでもいい、そんな感情は本当に真っ当なものだろうか。

 

僕自身、別に聖人ではないので、そういった輩が不幸になっているとスカッとする面もある。

ざまあと思う気持ちがないといったら嘘になる。

ただ、それを“自業自得”と切って捨てるのはなんだか危うさが残る気がするのだ。

 

あの人は不幸になったけど普段から酷かったからね、自業自得だよ。

この考え方を裏返すと、普段からクズな人は不幸になって死んでもかまわない、となる。

なんだか一気に危険になった気がする。どんな人であろうとも、やはり不幸や死、というものは重いはずで、そうそう許容できるものではない。ましてや他人がジャッジすることではない。

 

何度も言うが、決して博愛的な考えではないということだ。クズな人も等しく救われるべきとは思わない。粗暴な人も、努力を怠った人も誰かを傷つけた人も、それ相応の結果があるべきだ。

ただ、それを第三者の視点で「自業自得」と切り捨てるのはやはり違和感がある。その不幸の理由を第三者が決める権利はどこにもないからだ。

 

 

大学時代に学生食堂である事件が起こった。

 

僕の通っていた大学は、山の中に佇む要塞みたいな大学だった。

周りにお店などはあまりない立地で、田舎から出てきて大学近くの家賃3万円のアパートで一人暮らしをしていた僕は、三食を学生食堂に頼り切るという生活をしていた。

いくら学生食堂が安いといってもやはり3食全てを外食に頼るのは不経済で、すぐに僕の経済事情を圧迫するようになった。

 

そこで生み出されたのが、「199円大作戦」というものだった。

これは単純に言ってしまうと「ごはんおかわり自由」の学食サービスを悪用した裏技だった。

 

そもそも学食には「ごはんおかわり自由」というサービスがあった。これが大人気だったが、そのうちご飯だけを注文し、何回もおかわりする「ライス大車輪」という技が開発されるに至ったのだ。

これだと100円で無限にご飯を食べることができる。この世には永久機関があったのだと学部でもちょっとした話題になったほどだった。

 

学食の対応は早かった。そもそもオカズを食べてもらいながらご飯をおかわり自由にして満腹になるまで食べてもらおうというサービスなのに、オカズを頼まず、あろうことかふりかけや梅干し、果てはボンカレーまで持参してライス大車輪を行う輩が続出したのだ。ぜんぜん採算が合わない。かなりの怒りだったと思う。

この学食には定食という概念はなく、自分で好みのオカズ、小鉢などを組み合わせるタイプのシステムだった。そこでこんな注意書きが張り出されたのだ。

 

「“ごはんおかわり自由サービス”は他にもう1品購入した方に限ります」

 

もちろんふりかけなどの持ち込みも厳しく制限された。

そうなると、貧乏な学生たちは次のステージ、ご飯と何を頼むのが得策なのか、という議論に移ることになる。

学食で最も安いのは「99円」の商品だった。そのラインナップは「ほうれん草のおひたし」「生卵」「フルーツヨーグルト」これだけだ。

時は、これのどれかとご飯を注文し合計199円で無限に米を食べるという大航海時代に突入したのだ。

 

そして自然とどれと組み合わせるかで派閥が分かれることになる。

「ほうれん草のおひたし派」、「生卵派」そして「フルーツヨーグルト派」の三つに分かれる三国志の世界、学食は乱世の時代へと突入していったのだった。

 

僕はこの中でも「生卵派」に属していた。

普通に考えて生卵がもっともコスパが良い。たまごかけごはんにできるし、醤油を濃厚に使えば何杯だっていける。完全に生卵という選択肢しかないと思っていた。

 

けれども、世間は違った。なんと、信じられないことに「ほうれん草のおひたし派」もいるのだ。

彼らに言わせると「生卵派」は行儀が悪いらしい。卵をグシャーとやってベターっとやって、完全に育ちが悪い人間の行動だ、というのだ。

その点、「ほうれん草派」は上品だ。醤油を大量にかけて濃厚にしたほうれん草をちょちょっとつまんでご飯をかっこむ。何杯でもいける、そう主張するのだ。

 

絶対にたまごかけごはんの方が何杯でも行けると思うが、それでもまあ、まだ理解はできる。

本当に理解できないのは「フルーツヨーグルト派」だ。

てっきり、何かと合わせてライス大車輪するのを諦め、ご飯だけをかっこみ、デザート的にフルーツヨーグルトを楽しむかと思ったが、そうではないらしい。

フルーツヨーグルトに醤油を大量にかけて濃厚にし、それをドバーっとしてご飯をかっこむらしい。

何杯でもいける、そう主張するのだ。

絶対に頭おかしい。完全に味覚が狂っている。何杯もいけない。

 

ただ、そういった三国志の様相を呈そうとも、フルーツヨーグルト派が確実に狂っていて味覚がぶっ壊れていようとも要は個人の好みの問題だ。好きな食べ方をすればいい。そう思っていた。

ただ、事態はそれを許さず、大きなうねりをもって我々を翻弄しだしたのだ。

 

突如として、学食がある提案を貼り出した。それは、コスト削減のためにメニューの見直しをするという予告だった。

多岐にわたるメニューを削減しようというものだ。

主に麺類関係のリストラだったが、「ほうれん草のおひたし」「生卵」「フルーツヨーグルト」の99円御三家も対象にあがった。

 

この中から1品を削減する。対象期間中にレジで渡される利用者アンケートの結果を見て残す2品を決める、というものだった。

今でいうところの、99円メニュー総選挙が開催されることになったのだ。たぶん199円大作戦でも採算が合わないから締め付ける目的もあったと思う。

 

ほうれん草のおひたし派の中心的人物であった河合の動きは早かった。すぐに票集めに奔走したのだ。

顔の広い彼は、別の学部の友人や普段は学食を使わないメンツ、外部の人間を引き連れて学食を利用し、アンケートを記入させた。

 

生卵派だった僕は主に何も知らない新入生をターゲットに、「たまごかけごはんおいしいよね」と学食で洗脳工作を行った。

ただ、そこまで焦りはなかった。なぜなら「生卵派」は最多の構成員を誇る最大派閥だったからだ。ほっといても総選挙には勝てる。

 

問題はフルーツヨーグルト派だった。醤油をかけてライス大車輪をするこの派閥は見たところ2人くらいしかいなかった。

誰が見てもフルーツヨーグルトに勝ち目がないことは明らかだった。

 

ただ事態は思わぬ方向に動く。総選挙の結果発表を待たずして、フルーツヨーグルトの廃止が決まったのだ。

ただ、廃止になったと掲示があっただけで多くは説明されなかったが、色々と詳しい河合の話によると、なんでもアンケートに不正があったようなのだ。

 

アンケート用紙なんて学食の事務の人がプリントアウトしたものをコピーしたものだ。偽造しようと思ったら簡単だ。受け取ってコピーすればいい。

そうしてフルーツヨーグルト派の2人はアンケート結果を偽造した。

さすがに河合がオーバーに言っているだけだと思うが、ほうれん草100票とかそういった戦いの中で偽造票は7000票近くあったらしい。

この大学の総学生数に迫る勢いだ。もし本当ならその労力が狂気だ。明確に狂気だ。加減というものを知らない。

 

結果、不正があったとは公表されはしなかったが、フルーツヨーグルトは廃止となった。

「不正なんかするからだ、ざまあみろだよ。自業自得だ」

 

たまごかけごはんをかっこみながら僕がそう言うと、河合はほうれん草のおひたしを口に運びながら言った。

「果たしてそうだろうか? 自業自得って言葉、逃げじゃないか」

 

僕はその言葉の意味が分からず、また、たまごかけごはんを口にかっこんだ。

あの時の河合の言葉は何だったのだろうか。当時は分からなかったが、なんだか今ならちょっと分かるような気がする。

 

確かに、不正をしたフルーツヨーグルト派の連中は、愛すべきフルーツヨーグルトを失ったわけで完全に自業自得だ。

おまけに例え学食のアンケートでも不正は不正ということでちょっと問題も大きくなったらしい。その辺も完全に自業自得だ。

 

ただ、彼らが自業自得であっても、フルーツヨーグルトが消え去ったという事実は残り、それが自業自得で済まない人がいる。

醤油をかけないまでも、フルーツヨーグルトをデザートとして楽しんでいた人たちだ。

 

当人たちがそう思っているかは分からないが、不正をした連中は、そういった事実を含めて自業自得と思うことができる。

他人のフルーツヨーグルトをも奪った自分たちはその恨みをかっても仕方がない。自業自得だ。思うかどうかは別だが、そう思うことができる。

 

ただ、他人が「あいつらは自業自得」と切って捨てることは、その及んだ影響の部分を完全に無視しているのだ。

だって普通にフルーツヨーグルトを楽しんでいた人たちは何も悪いことをしていないのにそれを失っているのだ。自業自得では片づけられない。

 

 

世の中には多くの事件や事故がある。それに対して自業自得だ、自己責任だという声を聴くことがある。

確かに当事者に目を向けると、そういわれても仕方がない事象が多いことも確かだ。ただ、それは本当に自業自得で片づけても良いものなのだろうか。本当に、ただ当事者が悪いと切って捨てれば済む話なのだろうか。

 

違う気がする。

どんな事象でも、それが及ぼす影響は多くの場合、自業自得ではない。そこが大きな違和感の正体なのだ。

 

昨今の自己責任論、自業自得論はなんなのだろうか。

僕らロスジェネ世代は人生のあらゆる場面でずっとこれを言われてきたが、なんだかよく分からないままそれを受け入れてきた。

自分を取り巻く環境は自分の責任だから、ずっとそう言われてきた。

だが、この言葉、いったいなんだろうか。違和感しかない。

 

そもそも、なぜ「自業自得」は悪い意味でしか使われないのだろうか。もともと「自業自得」は仏教用語だ。

「業」は自分の行為であり、「得」は結果である。自分の行った行為が自分の運命を決める、という意味があるようだ。

本来、そこには良い意味も含まれていた。良いも悪いも自分の行為が原因、ということだ。

 

つまり、すごく努力をして頑張っていたから良い結果が得られた、これも自業自得なのである。

ただ、「よかったね、成功して、ずっと頑張ってたもんね、自業自得だよ」という言葉は今の日本語では違和感を覚える。

それだけ、“自業自得”という言葉はネガティブな方向に振り切れているのだ。

 

この成り立ちを考えると、なんだか違和感の正体が見えてきたような気がする。

そもそもこの言葉は内向きの言葉なのだ。

自分に言い聞かせ自戒する言葉であって、決して外側、他人に向ける言葉ではないのだ。それが外側に向きつつあるときに、どうしても嫉妬的な心の動きがあって良いほうの意味が使われなくなり、悪い意味だけ残ったのではないだろうか。

 

自己責任、自業自得、僕らが言われ続けたこれらの言葉は間違いだった。これは内側に向けて自問自答する言葉だ。自分が反省し、時に鼓舞する言葉だ。決して他者に向ける言葉ではない。

それが飛び交い、それであらゆる議論や思考が停止してしまうこの現代は、きっと何かが間違っているのだろう。

 

自業自得、自己責任と投げつけて思考停止していたらきっと何も進まない。そこに至った理由をもっと各々が考えるべきなのかもしれない。

 

ふいに思い出し、ヨーグルトにフルーツをドバドバ入れて醤油をかけてみる。思ったよりいける。

そこまで悪くはないかも。ごはん何杯かいける。そう思った。

 

ただ、ヨーグルトが古かったのか、食い合わせが悪かったのか、めちゃくちゃ下痢した。これは明確に自業自得である。

 

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著者名:pato

テキストサイト管理人。WinMXで流行った「お礼は三行以上」という文化と稲村亜美さんが好きなオッサン。

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Twitter pato_numeri

(Photo:Martijn van Exel