以前、精神疾患と言えそうにないが、周囲が困り果てている高齢者の“治療”を依頼された話をブログに書いたことがあった。

いじわる婆さんは、精神科で“治療”してしまって構わないのか

たとえばその日、精神科外来に“職員に付き添われて”やって来たのは、85歳の婆さんだった。

老人ホームに入所しているが、ケアに手を焼いて、精神科的に解決をして欲しい、という。

診察室に入るや、彼女は「なんだって、私がこんな“きちがい”病院で診察受けなきゃならないの!早く帰らせてちょうだい!」と不満をぶちまけた。

 

しかし、気のしっかりしている婆さんである。

物忘れについて質問をしたり、簡単なテストを行ったりしても、ことごとくパスする。テレビや新聞のニュースはだいたい把握しているし、老人ホームの職員それぞれの特徴もよく見抜いている。

頭部MRIの画像所見を見ると、むしろ年齢より若々しい脳にすらみえる。

 

ところが、この婆さん、口が悪くて意地が悪い。気に入らないことがあると「バカ」だの「アホ」だのすぐに口にする。診察中も、唾を飛ばしながら差別用語を大声で繰り返す。

 

老人ホームの職員によれば、嫌いな入所者の悪口を言うだけでなく、こっそりビンタをしたりしているそうだが、簡単には証拠を掴ませない。

施設長に詰問された挙句、「身体が当たっただけ」と答えたこともあったという。

世の中には、精神疾患には当てはまらないしそれまで世渡りできていたけれども、介護を受ける状態になって人間関係のトラブルを巻き起こし、介護職員や他の利用者が困り果ててしまうような高齢者も存在する。

 

そういう高齢者への“治療”を依頼された時、精神科医としてどう対処するべきかほとほと迷う。

 

だが、そういった高齢者が現に存在し、介護や福祉の現場が困り果てていて、医療の側でどうにかして欲しいと期待されているのは事実だ。

一人の精神科医としては、そういう場面で迷いなく“治療”を開始してしまえるよりは、迷うべきを迷っておいたほうが良いのではないか、という思いを今でも持っている。

 

「いつも不機嫌、口下手、嫌われがちな爺さん」の話

ここからが今日の本題、また別のタイプの高齢者の話だ。

 

介護施設や福祉施設には、いろいろな高齢者が集まってくる。

そのなかには大工一筋で働いてきた爺さんもいれば、高等女学校を卒業し、教育機関で活躍してきた婆さんだっている。

 

施設である以上、誰もが身体の病気や認知症などを患っているわけだが

「来歴も人柄もさまざまな人達が、ひとつのハコモノのなかで共同生活している」

という側面もぬぐいがたく存在している。

 

だから介護施設や福祉施設は、ひとつの世間だと言っても良い。

人が集まって暮らしが営まれる場所はみな世間である。

 

そこで私が出会った81歳の爺さんを、仮にGさんとでもしておこう。

Gさんは不機嫌になりやすい人だった。毎朝、新聞を誰よりも早く読みたがり、これができないと職員に罵詈雑言を浴びせる。

いの一番に新聞を届けさえすればGさんが荒れないことを職員は知っているので普段はあまり問題にならないが、月曜休刊を忘れているとトラブルになってしまうため、月曜休刊の前日は神経をつかう。

 

Gさんは食事の際にはホールに現れるけれども、食事が終わるとすぐに自室に引っ込んでしまう。

他の高齢者とのコミュニケーションには消極的……というより歓談のたぐいをはっきりと嫌っている。

 

Gさんが入所している施設はそれほど認知症が進んでいない、比較的心身の機能がたもたれている高齢者が集まっている施設なので、テレビの据え付けられたホールで穏やかに歓談する高齢者も少なくない。

 

施設側も高齢者のために色々なイベントを用意し、たとえば七夕の時期には七夕飾りを皆でつくったりする。

もちろんGさんはイベントも嫌うし、施設のスタッフもそれを知っているから参加を無理強いすることもない。

 

私と面接する時も、Gさんはだいたい不機嫌そうな顔をしていた。

軽度の睡眠障害と認知症の進行予防のために薬を飲まなければならず、このために医師の面接が避けられないのだけど、これをGさんはとても嫌っていた。

聴診や触診といった、言葉によらない診察は大好きで、血液検査も嫌がらないのだが……。

 

Gさんが施設に入所して間もない頃は、施設職員がGさんにコミュニケーションを促していた。

が、その結果は良くなかった。

Gさんと他の高齢者の接点をつくるたびにトラブルが起こり、Gさんの心無い言葉や威丈高な態度に、他の高齢者が怯えるような事態になった。

 

この頃のGさんは職員に暴力をふるうこともあり、担当医として、気持ちが落ち着く方向性の処方を余儀なくされることもあった。

Gさんもその周辺の高齢者も、ひいては施設全体もザワザワした雰囲気になってしまっていた。

 

結局、問題が解決したのはGさんにコミュニケーションを促さないこと、一人で過ごせる時間を多く確保することだった。

Gさんが一人でいたがり、他の高齢者もGさんと接点を持ちたがらない。だったらそれでいいじゃないか……ということだ。

 

孤立した生活は、一般に脳や身体の機能にあまり良くないとされているから、これが良い事ずくめのソリューションだとは誰も考えていなかった。

おそらくGさんは、このままマイペースに毎日を過ごし、他の高齢者よりも早く脳や身体の機能を衰えさせ、いつか死んでいくのだろう。

しかし不機嫌とはいえGさんの生活に平穏がもたらされ、施設のザワザワした雰囲気が解消されたのも事実だった。

 

ずっと一人で生きてきたGさんを、世間は手放してくれない

Gさんとは、いったいどういう人間なのか。

 

Gさんは日本海側で生まれた三男坊で、学校を出た後、上京して工員として働いていた。

見合いで結婚したこともあるが数年で離婚し、それからは一人で暮らしていた。

趣味らしい趣味はなく、休みの日はパチンコなどをして過ごしていたという。

 

定年退職した後も漫然と一人で暮らしを続けていたが、認知機能の低下とともに金銭にだんだん困るようになり、身なりも住まいも汚くなり果ててしまっていたところを福祉関係者が発見し、紆余曲折を経て介護施設の世話になることになった。

 

この点では、Gさんはかなり運の良い高齢者だった、と私は思う。

なぜなら、認知症が比較的軽度の段階のうちに福祉関係者が発見し、しかも介護施設への入所まですんなり決まるというのは、ときどき起こることではあっても、しょっちゅう起こることではないからだ。

 

しかしコミュニケーションの乏しい生活を続けていたGさんにとって、介護施設という環境は望んだものではなかった。

職員とのコミュニケーションも、他の高齢者とのコミュニケーションも、Gさんは上手くできているとは言えなかった。

それでもコミュニケーションを強いられた際には、Gさんはトラブルを起こさずにはいられなくなり、周囲もGさん自身も深く傷ついた。

 

サービスや制度の発展した現代社会では、人はおおよそ一人でも暮らしていける。

ところがそれは「健康な一個人である」という大前提に基づいている。

 

認知症が始まってしまうと、人は一人では生きていけなくなり、誰かの支援を受けなければならなくなる。

支援を受けるとは、とどのつまり他人と関わりを持つこと、接点を持つことに他ならない。

 

高齢者に関しては、孤独死という問題がしばしば話題になる。

もちろん孤独死は問題だろう。

孤独に死にたくない高齢者にとって問題であると同時に、住まいで人が勝手に死ぬことによっておこる社会的/経済的影響という意味でも。

 

他方で、本当は一人で死んでいきたい、死ぬまで一人で暮らしたいという願いも存在する。

それが社会の少数派だとしても、そういう願いが存在してもいいはずである。

Gさんも、おそらくそのような心もちだったのではなかったか。

 

ところが孤独死という問題系が暗に示しているように、社会は、高齢者が一人で暮らして一人で死んでいくことを良しとはしていない。

 

肉体的・精神的機能が衰えた高齢者を待っているのは介護サービスや介護施設だ。

それまでコミュケーションを避けるように生きてきた高齢者も、コミュニケーションに良い思い出のない高齢者も、コミュニケーションを避けられなくなる。

 

配偶者に頼ってどうにか世渡りをしてきた人達もだいたいそれに近い。

夫婦の間だけで通用する阿吽の呼吸は、介護の現場という名の世間では通用しない。

 

社会的地位の非常に高かった人が、実は配偶者の献身的な対応や夫婦間の非常識なコミュニケーションに支えられていた事実が、介護現場で露わになることもある。

甲斐甲斐しい配偶者のおかげで非常識なコミュニケーションを不問に付されていた高齢者が、配偶者を失って介護という世間に放り出された時、その非常識なプライベートが露わとなって本人と介護者に牙をむくのである。

 

最期までコミュニケーション能力は問われ続ける

人は、いつまでも五体満足ではいられない。

 

脳が先か、足腰が先か、内臓が先かはさておき、どこかが故障し、誰かの世話を受けなければならなくなる。

そうなった時、それまではコミュニケーションをできるだけ避けてきた人、コミュニケーションに苦手意識を持っていた人も否応なくコミュニケーション能力を問われる羽目になる。

リタイアの季節を迎え、やりたくもないコミュニケーションをやらざるを得ない立場になった高齢者の境地は、どのようなものだろうか。

 

だからといって

「介護される年頃に備えて、みなさんコミュニケーション能力を身に付けておきましょう」

などといった野暮なことをここで勧めたいわけではない。

 

むしろ逆だ。

Gさんのような高齢者が、生きたいとおりに天寿を全うすることができず、どうしたって介護という世間へ、コミュニケーションを強いられる構造のなかへ回収されずにはいられないことを、私は悲劇的だと感じてこの文章を書いている。

介護しない・そのまま放っておいて良いという道理も無いから、こうした悲劇に対する対応策も思いつかないのだが。

 

Gさんは数年前、不機嫌そうな表情のまま逝去された。

介護が必要な人ではあったけれども、介護される生活に最期まで馴染まなかったように思う。

 

それで良かったのか。あるいは。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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(Photo:Rad Pozniakov