最近、クライアントの注文で、私は「生産性向上」について、ドラッカーの文献を読みなおしていた。

そこで大変な驚きがあった。

 

世の中で一般的に認識、議論されている

「仕事を早くやって生産性をあげましょう、残業減らしましょう」

は、実は、肉体労働時代の生産性向上のやりかただったのだ。

 

ドラッカーが主張している知識労働時代の生産性向上は、それとかなり大きな隔たりがある。

すなわち、生産性向上は「個人の努力」より「経営判断」で成し遂げられる、という事実だ。

 

あまりにも驚いたので、それについて、書いてみたい。

 

「生産性を向上させよう」に反発する人々

Twitterで、中曽根さんの死去に伴い、「国鉄の民営化」の功罪について議論が紛糾しているのを見た。

そのなかでとくに目を引いたのが、東大の先生の「「生産性の向上」というスローガンを敵視していた人が結構いた」という発言だ。

言われてみれば、この「生産性向上への強い反発」には、私も覚えがある。

 

例えば昔、品質マネジメントのプロジェクトで行った、ある製造業では、部長から

「生産性とか効率とか言う言葉は、極力避けてください。」

と言われたのは、良い思い出だ。

 

「なぜですか?」と聞くと、

「労働強化と捉えられかねません」という。

 

私は不思議に思って尋ねた。

「生産性を向上させれば、労働時間が減って、賃金も上昇するはずですが、それがなぜ労働強化になるのでしょう?」

部長は言った。

「今までよりもたくさん仕事をこなさなければならない上に、余った人はクビになるという誤解があるようです。実際は、クビになんてできないんですが。」

 

加えて、つい最近の、経団連の会長の「生産性を上げる議論を」というのも、文面を読む限りでは、特に間違っているとは思えないが、

発言が頭にきた人がすくなからずいるのか、批判を集めている。

 

弱者のために生産性向上は必要

しかし、本質的には「生産性向上」と「弱者の切り捨て」全く別の話だ。

むしろ弱者のために、生産性向上は必ず行われなくてはならない

 

なぜなら、「生産性向上」が、多くの人を貧困から救い、圧倒的に生活水準を向上させたことは、厳然たる事実だからだ。

生産性の伸びの成果は医療や教育にも現れた。かつてGNP(国民総生産)のほとんど〇%だった医療費が、先進国では八%から一二%に増大した。GNPの二%だった教育費が一〇%以上に増大した。

事実、ピーター・ドラッカーは「生産性の向上が、生活水準の向上をもたらした。その殆どは、労働者の分け前になった」と述べる。

こうして生産性の伸びのほとんどは、テイラーが予言したように労働者、つまりマルクスのいうプロレタリアの分け前となった。

ハーバード大の経済学者、グレゴリー・マンキューは著書の中で、「一国の生活水準は、生産性による」と述べている。

アメリカ人がナイジェリア人よりもよい生活ができるのはアメリカの労働者がナイジェリアの労働者よりも生産性が高いからである。

日本人がアルゼンチン人よりも生活水準の急速な成長を享受したのは日本の労働者のほうが急速な生産性の成長を経験したからである。

政府が発行している世界経済白書においても

労働生産性は中長期的な生活水準を規定する要因

とあり、生産性の向上は生活水準の向上とほぼ同義である。

 

生産性向上に反発する人は何を考えているか。

それなのになぜ「生産性向上は、労働者の不利益となる」という理解になってしまうのか。

 

推測だが、これは生産性向上への取り組みが、労働者の技能を陳腐化させるという漠然とした恐れに基づくものだ。

これは「肉体労働時代の合理化」の概念とも言える。

 

例えば、今では信じられないが、アメリカには戦前まで「作業分析を禁止する法律」まで存在した。

仕事は研究され、分析され、一連の単純反復動作に分解されるというテイラーの考えは、まさにこの労働組合に対する正面攻撃だった。

彼らはテイラーを非難中傷するだけでなく、議会に働きかけ、兵器廠と造船所における作業分析の禁止を法制化させた。これは第二次世界大戦後まで続いた。

生産性向上への批判は、今でも同じように考える人が少なくないことを示す。

「生産性向上への取り組み」→「生産性の低い人をクビにする」→ 「切り捨て」

といった図式で理解する人が多く、それが反発を呼ぶのだろう。

 

だがもちろん、これは誤解だ。

作業分析によって労働者の職はなくなるどころか、より高度な生産ラインができ、物価は下がり、我々は誰もが「三種の神器」を手にした。

それは、奇跡的な復興を成し遂げた、日本の歴史が証明している。

 

あるいは、ごく一部の「非効率から便益を受けている既得権者」は強く反発するかもしれない。

 

例えば、タクシー配車アプリのあまりの効率の悪さ(なぜか、わざわざ遠くの車が来るとのこと)に、なかなかタクシーに乗れない知人は、こんなことをSNSに投稿していた。

「白タク」という表現を使って、シェアライドを禁止する妙な制度を早く辞めてほしい。

既存のタクシー業界という票田をベースとし、既得権益保護のために、世界で類を見ないシェアライド後進国状況をさっさと打破してほしい。世界のテクノロジーは、ここでまず社会を変えているのに。

だが、このように一部の既得権のために「全体の生産性が損なわれる」のは、不合理だし、国益に叶うものではないだろう。

 

だが企業も「生産性向上」を誤解している。

このように、「生産性向上」への反発は、多くが誤解とバイアスにより生じている。

 

だが、企業も悪い。

なぜなら企業も「生産性向上」を誤解しており、それが労働者との軋轢を生んでいることも多々あるからだ。

 

その代表が、「生産性向上」を「労働者の時間あたりのアウトプットを増やすこと」と解釈してしまっていることだ。

これは肉体労働時代の生産性向上の概念で、あきらかな間違いである。

 

現代では、個人の仕事をいくら急かせても、それによって増える成果は大したことはない。

また、「個人の成果」を強調している組織であっても、「提案書を早く仕上げた」ところで、

生産性の向上(=売上の向上、コスト減少)には結びつく活動はごく僅かだろう。

 

あたりまえだ。

売上は商品力、マーケティング力に大きく依存するし、事務部門の仕事をいくら急かせても、大部分を占める固定費を削減することはできない。

せいぜい、僅かな残業代を削減できるくらいだ。

そして、労働者は急かされるうえ、給料が減るので、腹が立つ。

当然「生産性向上は迷惑」というわけだ。

 

ピーター・ドラッカーが指摘する、知識労働時代の生産性向上は、そのようなものではない。

彼によれば「生産性向上」は「戦略の変更」である。

 

具体的にはどういうことか。

ピーター・ドラッカーはこれに対して、驚くべき洞察で、答えを用意している。

それは

「生産性向上のために、経営陣への昇進が望める仕事しか、社内においてはいけない。それ以外はすべて、アウトソースすべき」

というものだ。

しかし、さらにはるかに根本的あるいは革命的とさえいえるものは、サービス労働の生産性の向上に必要とされる条件である。

すなわち多くの場合、サービス労働はアウトソーシングされるようになる。(中略)

そして、生産性の向上に対するニーズの最も大きな領域が、トップマネジメントへの昇進が事実上不可能となっている領域である。

これを見て、私は自分の知識の浅さを思い知った。

 

そうだ。確かに生産性向上するためには「雑用」をしてはいけない。

なぜなら、社内で「雑用」と見られる仕事には、改善も付加価値も競争も出世も、ないからだ。

頑張っても、頑張らなくても一緒なら、携わる人々が「生産性向上など無意味」だと思うのも、当然だ。

 

逆に、雑用をアウトソースされた企業は、その仕事を極限まで効率よくやることが、そのまま自分たちの儲けになる。

一つの業務に特化することで、収益性も向上する。

だから「雑用」は、「それを本業とする人たち」に、アウトソースすべきなのだ。

 

では何が「雑用」なのか。

ドラッカーによれば、「雑用」の判断基準は、その仕事をすることで、社内で出世できるかどうかだ。

 

例えば、組織によって当然異なるが、

病院における清掃。

システム会社における経理。

製造業におけるシステム。

設計会社における広報。

ベンチャーキャピタルにおける電話応対。

などは、あまり「出世」とは関係がない仕事かもしれない。

 

 

今年の7月、損害保険ジャパン日本興亜が、大胆な改革案を打ち出した。

介護へ転籍上等!叩き上げ損保マンを舐めるべからず

損害保険ジャパン日本興亜が2020年度末までに、国内損保事業の従業員数を4000人減らし(17年度比で人員の2割弱)、

  • IT(情報技術)の活用で生産性を高める
  • 新卒採用を絞る
  • 介護やセキュリティー事業への配置転換も進める
  • 希望退職は募集しない

といった方針を取ることが分かった。これにより21年度に100億円規模の収益改善効果を見込むが、今後は主力の自動車保険も変化を迫られるため事業の効率化を急ぐ

これは要するに「本体の雑用をしていた人たちを別会社へ切り離し、独立採算化させる」という意思決定だ。

 

介護やセキュリティー事業は、彼らの中核業務ではない。

だから、外に出す。

ドラッカーの言う「生産性向上の施策」とは、本質的にはこのようなものだ。

 

生産性向上とは、結局、強みと儲けの源泉以外の仕事をしないこと。

それはまさに、「経営判断」の領域なのであり、個人の努力と何ら関係のない話なのだ。

 

 

*本記事は、月1万円から「付加価値の低い電話番をアウトソースできる」電話代行サービス【fondesk】のスポンサードによって制作されています。

 

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