2月19日のbooks&appsの記事のなかに、人間の「適応」の素晴らしさを讃えるフレーズがあった。

大人はたいして成長しないし、多分必要なのは「成長」じゃなくて「適応」。

「スキルの獲得に受け身」だったり、消極的だったりするのは、その人達が生物だからです。

余計な力を使わず、万が一環境が変われば「適応」しようとする。そして、しんざきさんの周りの人たちは実際に「適応」している。

これこそまさに、「ああ、生き物ってすごい」と感心していい部分じゃないでしょうか。

受け身が実は、人間の本来の姿なんです。

生き物としての人間の適応はすごい。

地球上のあらゆる場所で生活し、繁殖できるほどだからだ。道具をつくる・群れをつくる・文化をつくるといった特質のおかげで、生き物としての人間は食物連鎖の頂点に君臨している。

 

個人としての人間の適応も、たいしたものだと思う。

高度な知識を理解し、複雑な作業をやってみせ、制度や習慣を守りながら日常生活を過ごしている。

 

社会が複雑になり、分業が進むにつれて社会適応のバリエーションも広がっていった。

たとえば東京に住む人々は多様性のある暮らしをしていて、それぞれが、肉体的にも心理的にもそれなり帳尻の合った生活をしている。

 

人はそれを「不適応」と呼ぶ

ところで、世の中には「不適応」という言葉もある。

 

「適応」がポジティブな意味合いで語られるのに対し、「不適応」は必ずといって良いほどネガティブな意味合いで語られる。コトバンクで意味を確かめてみると、

【不適応 maladjustment】

生体が多少とも永続的に環境に適応できないこと。

生体の身体的障害や心理的傾向に原因がある場合と,環境条件が不適当な場合とがあり,神経症,精神病,人格障害などを生じる。

社会的環境への適応異常が問題にされることが多く,精神分析では本能的衝動と社会的要請との葛藤が重視される。

(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

とある。

 

一行目の「多少とも永続的に環境に適応できないこと」の「多少とも」がちょっと曖昧だが、とにかく、環境に適応できないとみなされるものが不適応ということになる。

 

たとえば出社拒否や不登校などは不適応と呼ばれやすい。

職場環境や学校環境に適応できていない、とみなされるからだ。

 

趣味にかまけてばかりで学業や仕事が冴えない人や、身だしなみが整わずコミュニケーションも上手くない人に対しても、不適応という言葉を連想する人もいるかもしれない。

一般的な不適応のイメージとは、だいたいこのようなものだろう。

 

だが、これらは本当の本当に不適応でしかないのだろうか?

 

職場や学校に行けば三日とたたずに潰れてしまう状況の人が、出社拒否や不登校でギリギリ保っているとしたら、

それで本人の身体的・精神的・社会的ダメージがマシになっているとしたら、

それらは不適応であると同時に適応と呼べる側面を持ち合わせていると言えないだろうか。

 

趣味にかまけてばかりで学業や仕事が冴えない人も、それがその人にとってギリギリかつ最もマシな適応である可能性は否定できない。

苦もなく学業や仕事に打ち込める人には不適応にみえる生き方でも、学業や仕事の心理的負担を別の場所で埋め合わせずにはいられない人には最もマシな選択で、どうにか環境に適応するための処世術であることは珍しくない。

 

世間の大多数にとって不適応とみえる処世術が、本人にとって適応に不可欠の処世術だったり、環境と折り合いをつけるための方便だったりするとしたら、適応/不適応をわけるものはいったい何だろう?

 

「第三者からみて」

「多少とも永続的に環境に適応できないこと」

を不適応と呼んで構わないとしたら、長続きしそうにない適応をかたっぱしから不適応と呼ぶこともできよう。

たとえば高学歴志向な家庭の子どもが進学校に進むための勉強をしなくなり、遊んでばかりになったとしたら、親からみればいかにも「不適応」とうつる。

 

しかし、その子どもが遊んでばかりいる背景として、両親の不和や理不尽な勉強の押しつけがあって、それに耐えかねたり反抗したりしている背景のある子どもだった場合は……それは不適応というより、まず適応と呼ぶべきではないだろうか?

 

親の意のままになっては心身がもたない環境に直面した時、環境のなすがままになるのでなく、環境に逆らってでも自分のメンタルが破壊されない行動を選ぶのは、人間の柔軟さや強さを示すものであって、人間の至らなさを示すものではない。

控えめに言っても、こういった場合、子どもの行動を「不適応」という側面だけから眺めるのは危険だ。

 

ところがそういった背景を汲み取ることもないまま「おまえは不適応だ」「あいつは不適応だ」と名指しし、批判する人がいる。

案外、親や教師や上司といった人々がそうだったりすることもある。

まさにそのような親や教師や上司から身を守るために、第三者が「不適応」と呼びそうな行動を選ばなければならないことすらある。

 

「誰かが不適応と呼ぶ行動や状態が、しばしば別の誰かにとっての適応、それも切実な適応であり得る」ことは、読み筋としてときに必要なものだと思う。

 

「お金にならない適応は不適応」という考え方

こうした問題とは別に

「お金にならない適応は不適応」

「自分自身の市場価値を高めない適応は不適応」

といった信念を持っている人たちもいる。

 

わからない話ではない。

なぜなら、現代社会ではありとあらゆるモノやサービスに値札がつけられ、売買ができるからだ。

お金を稼げる能力やお金になるかもしれない潜在力にも値札がつけられ、いわば、人間自身も商品となって久しい。

 

以前に私は、「自分の市場価値」がついてまわる社会という文章を書いたことがあった。

人間が、生産価値や消費価値といったもので測られることはそれまでにもあったけれども、新自由主義の浸透した社会ではもっと進んで、投資効果や費用対効果にもとづいて人間が値踏みされる。

人間の行動原理も新自由主義的になり、企業としての自分、法人としての自分のバリューを拡大することが現代人の関心のまとになる。

学校を選ぶのも、パートナーを選ぶのも、インスタグラムにアップロードする写真を選ぶのも、すべてこうしたバリューの拡大という関心に基づいたものとなる。

資本主義や新自由主義のロジックを内面化すればするほど、働き方も、人間関係も、SNSへの投稿も、自分の市場価値を高めるためのものとなり、投資効果や費用対効果を意識したものとなる。

 

そういう、資本主義が人間の言葉を囀(さえず)っているような人にとって、資本主義のロジックどおりに行動することこそが適応で、ロジックからはみ出した行動は軒並み不適応とうつるだろう。

自分自身のなかに厳格な行動原理がある人は、しばしば、自分の行動原理にもとづいて他人の適応や不適応を推し量ってしまいがちだ。

 

たとえばキリスト教会のロジックを行動原理にしていた15世紀の宗教家からみれば、キリスト教会のロジックからはみ出した行動はどれも不適応とうつったに違いない。

反対に、キリスト教会のロジックにかなった行動は、命を落とすようなものですら、適応とうつったに違いない。

 

2020年の日本には、キリスト教のロジックにもとづいて考え、行動している人はほとんどいない。

しかし資本主義や新自由主義のロジックにもとづいて考え、行動している人なら珍しくない。

控えめに言っても、たくさんの人がお金や市場価値を意識しながら考え、行動しているのは否定できないところで、そうしたロジックを無視して生きるのはなかなか難しい。

 

多くの人が「お金にならない適応は不適応」と考えるようになった社会では、お金にならないことをしている人々は不適応とみなされやすい。

お金を産まない活動、それでいて自分自身の市場価値を向上させることもない活動は、だいたい不適応とみなされてしまうだろう。

 

こうやってフレーズにしてみると、「お金にならない適応は不適応」という考えは、いかにも窮屈にみえるかもしれない。

ところが世の中には、お金になることをとにかく求め、趣味や遊びまでもが自分自身の市場価値に貢献しそうなものを選び、市場価値を低くしてしまいそうな趣味や遊びを避けていて、しかもそのことにほとんど無自覚な人も案外いたりするのだ。

 

「不適応」に「適応」をみて、「適応」に「不適応」をみる

このように、どこまでを適応と呼び、どこからを不適応と呼ぶのかの境界は、実はあいまいだ。

適応という名のゴールポストは、文化や社会の変化につられて簡単に動いてしまう。

だから私は、人々が適応と呼ぶもののなかにも不適応な側面があり、不適応と呼ぶもののなかにも適応的な側面はあると、なるべく考えるようにしている。

 

たとえば仕事も趣味も自分の市場価値を高めることにまっしぐらの人は、資本主義社会の適応のお手本のようにうつる。

しかしそのまま年を取り、もはや市場価値を高められなくない事態を迎えた時には、そのまっすぐさが不適応の源となり、中年期危機を迎えてしまうかもしれない。

 

その逆もありえる:世間の人々から不適応だとみなされていた行動や、回り道だと思われていた選択が、後々になって役に立ったり、自分自身の市場価値を高める一因になったりすることもある。

また、不適応と呼ばれていた人からその不適応を強引にやめさせたら、もっと凄惨な状態になってしまうこともよくある。

 

何が適応で、何が不適応かを考えるのは、だから本当は難しい。

それでも間違いなく言えるのは、人間の行動や選択にはたいてい適応的な側面があり、たくさんの人が不適応だとみなす行動や選択にもなんらかの理(ことわり)がある、ということだ。

 

ほとんどの不適応にはなんらかの理があり、そこにも人間が懸命に環境に適応していこうとする意志や力を見出せるなら、いよいよもって「ああ、生き物ってすごい」と感銘を受けるのではないかと思う。

少なくとも私は人間の適応の複雑さや奥深さに魅了されているので、生涯をかけてこれを追いかけていきたい。

 

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【プロフィール】

著者:熊代亨

精神科専門医。「診察室の内側の風景」とインターネットやオフ会で出会う「診察室の外側の風景」の整合性にこだわりながら、現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信中。

通称“シロクマ先生”。近著は『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(花伝社)『「若作りうつ」社会』(講談社)『認められたい』(ヴィレッジブックス)『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』(イースト・プレス)など。

twitter:@twit_shirokuma

ブログ:『シロクマの屑籠』

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Photo:Mike Maguire